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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

スカイラブの軌道上ワークショップと3人の地上実験クルー〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-30 | 博物館・資料館・テーマパーク


今、スミソニアン博物館の、マイルストーンコーナーという
歴史的な機体の数々を順次ご紹介しているわけですが、
その中には、月着陸船やジェミニ計画のカプセルなど、
歴史的でありかつアメリカの宇宙開発を物語る展示もあります。

そして同じ空間に、1950年代の米ソの宇宙開発競争から、
近年の国際協力に至るまで、米ソの宇宙開発競争の歴史をたどる
大規模な展示のほとんどは、そのテーマのどちらにも属するというわけです。

■マイルストーンとしての米ソ宇宙開発競争関連展示

今日のテーマに入る前に、このコーナーの展示を
ざっと網羅しておこうと思います。
当ブログではこれからこのテーマについてしばらくお話しするつもりです。

「宇宙開発競争の軍事的起源」
Military Origins of the Space Race

宇宙開発競争の根底にあるのは、文字通り「核」でした。
ロケットは、イコール熱核弾頭を地球全域に飛ばすことができるツールです。

このコーナーでは、米ソの二大大国が、最終的な核攻撃の手法を
互いに相手より早く開発しようと競争に突入していった事情が説明されます。

軍事的起源の実例としてドイツのV-1「バズボム」
そしてV2ミサイルが展示されています。

「宇宙を見つめる目」
Secret Eyes in Space


長い間秘密にされてきた偵察プロジェクトや、
最近機密解除されたスパイ衛星カメラ「コロナ」などが紹介されています。
最初の偵察衛星「ディスカバラーVIII」の実物も展示されています。

「月への競争」
Racing to the Moon


ソビエトの月面宇宙服「クレチェット」アポロの宇宙服など、
アメリカとソ連両国の公的な成果を紹介します。

「月探索」
Exploring the Moon


アポロ11号の月着陸以降、月面の写真を地球に送信したり、
土壌の化学分析を行ったり、その他、科学実験を行うために開発された
さまざまな機器、そしてアポロ月着陸船(Lander)も含まれています。

「宇宙における恒久的プレゼンス」
A Permanent Presence in Space


科学的発見の継続と宇宙協力の時代の幕開けのために、
恒久的な宇宙ステーションを設置しようとする
米ソ両国の取り組みについて紹介しています。

アメリカの宇宙ステーション、スカイラブ軌道上のワークショップ
(これは今日のテーマですが)その内部などが展示されています。

「有人宇宙飛行の50年」
Fifty Years of Human Spaceflight


では、冷戦時代のあの1961年、ソ連と米国が
どのように競争して人類を初めて宇宙に送り出したかを検証しています。

ここではアポロ1号やソユーズ11号などの悲劇についても語られます。

ソユーズTM-10宇宙船、コスモス1443「メルクール」宇宙船
ロシア人を月に着陸させるという「未完成のミッション」のために作られた
宇宙服などが展示されています。
ところで、ソ連とアメリカ両国の宇宙船があるのは当然として、
ガガーリンの宇宙服までがここにあるのはなぜなんでしょうか。

「ハッブル宇宙望遠鏡の修理」
Repairing the Hubble Space Telescope 


広視野惑星カメラ2(WFPC2)と、1993年に望遠鏡の光学系を修正した
補正光学宇宙望遠鏡軸方向交換(COSTAR)を特集しています。

ここにはハッブル宇宙望遠鏡の実物大試験機が展示されています。



正直なところ、わたしはスミソニアン博物館の中にあって、
この構造物が、あまりに建物の壁と同化していたので、
歴史的な何かとは全く思わず、前まで行ってみることもしませんでした。

写真を見たところ、どうも内部を覗き込むことができるような
通路が設けられていて、わたしの撮った冒頭写真では、
人が中に入っていっているではありませんか。

今後いつワシントンDCなんぞに行けるのかもわからないのに、
その時はどうしてこれほどぼーっとしていたのか、自分で自分を叱ってやりたい。

で、わたしが宇宙ステーションを模した建物の一部だと思い込んだこれは、

「軌道上ワークショップ」The Orbital Workshop

という、これだけ聞いたら何のことやらという展示でした。
これを説明するには、まずスカイラブから理解していただく必要があります。

■スカイラブ計画


日本語だと同じ表記になってしまいますが、Loveではありません。
スカイラブはSky Lab、つまり空の実験室の意味があります。

スカイラブは、NASAが打ち上げたアメリカ初の宇宙ステーションです。
1973年5月から1974年までの約24週間にわたって滞在し、その間
3人の宇宙飛行士による3つの別々のクルーによって運用されました。

運用されたのはスカイラブ2、スカイラブ3、スカイラブ4の3基。
軌道上ワークショップを含み、太陽観測、地球観測、数百の実験を行いました。

2022年現在、スカイラブは米国が独占的に運用する唯一の宇宙ステーションです。

スカイラブの構成要素

スカイラブは、ワークショップ、太陽観測所、そして
数百種類の生命科学と物理科学のラボなどで構成されています。



地球低軌道へはサターンVロケットを改造し無人で打ち上げられました。
サターンVロケットは、スプートニクショックの後のアメリカが
ソ連に追いつけ追い越せで作り上げ、アポロ月面着陸に使用されたことで有名です。

第1段がボーイング、第2段がノースアメリカン、第3段がダグラスと、
アメリカのビッグ3に配慮しまくって製造されております。

アポロ計画の余剰品のロケットや宇宙船を使用して
科学的探査を行うことを検討する、アポロ応用計画として
宇宙ステーション建設が立ち上がり、それはスカイラブ計画となりました。

スカイラブを打ち上げたのがサターンVにとっては最終飛行となります。

スカイラブには、アポロ望遠鏡マウント(マルチスペクトル太陽観測所)
2つのドッキングポートを持つマルチドッキングアダプタ
船外活動(EVA)ハッチを持つエアロックモジュール
スカイラブ内の主要な居住空間である軌道ワークショップが含まれます。

電力は、巨大なソーラーパネルを見ればお分かりのように、
ドッキングされたアポロCSMの太陽電池と燃料電池から供給されました。

ステーションの後部には、大きな廃棄物タンク、操縦噴射用の推進剤タンク、
そして放熱器なおが設置されています。

スカイラブでは、運用期間中、宇宙飛行士がさまざまな実験を行いました。


■ 軌道上ワークショップ

軌道上ワークショップは、アメリカ初の宇宙ステーションである
スカイラブの最大の構成要素です。

そこには、居住空間、作業・保管場所、研究機器が設置され、
3人の宇宙飛行士であるクルーをサポートするために
必要とされる物資のほとんどが収容されているのです。

スカイラブは2基製造されています。
1973年5月にはそのうち1基が地球軌道に打ち上げられました。

そして地球からの飛行が到着するのを待っていたのですが、スカイラブ計画は
それからスペースシャトル開発への取り組みに移行したため中止されました。

スカイラブ計画が中止された後、NASAは1975年に
バックアップのためのスカイラブを国立航空宇宙博物館に移管しました。

というわけで、軌道上ワークショップは1976年から
当博物館のスペース・ホールに展示され、
若干の改装を施されて居住区は歩けるようになっています。

居住区を歩ける
居住区を歩ける?

うわあああああ(血の涙)

この一文ほど最近自分自身を打ちのめしたものはありません。
ぼーっとして気づかなかった自分が改めて憎い。

このバックアップの宇宙船についても書いておきます。

もし軌道上での救出ミッションが必要となった場合、そして
ステーションが何らかの深刻な損傷を負った際に備えて、
NASAはバックアップのアポロCSM/サターンIBに2名の飛行士を乗せて打ち上げ、
救出に向かわせるというプランを立てていました。

幸い、この車両は一度も飛行することなく終わり、スミソニアンにあるわけです。


居住性・食糧・寝室

製造にあたっては工業デザイナーが関わり、居住性を重視する提言を行いました。
食事や休憩のためのワードルームや窓の設置、色使いなどについてですが、
肝心の宇宙飛行士たちはその類の配慮に疑問を持っていたようです。

ただ、持ち込む本や音楽については各自のこだわりがあり、
当然のことながら、食糧については大変な関心事でした。

宇宙開発の黎明期には食事は「実験のため」の意味合いが強く、
一に栄養二に機能性だったため、味は二の次三の次で、
ほとんど飛行士にとって苦痛でしかなかったようです。

その伝統は初期のアポロ計画まで受け継がれました。
NASAのボランティアが実験的に宇宙食で過ごしたところ、
4日間でもアポロ食で暮らすことはほぼ拷問に近いと結論を下しました。
相も変わらずキューブやチューブの形のそれは、悲惨なものでした。

そこで、スカイラブの食事は、栄養学的な必要性よりも
食べやすさを優先させることで、以前のものより大幅に改善されたのです。
(当社比)


各宇宙飛行士には、プライベートな空間も一応用意されました。
カーテン、寝袋、各自のロッカーを備えた、
小さなウォークインクローゼットサイズのプライベートな寝室です。

設計者はまた、飛行士の快適さと地球での検査結果を得るために、
正確な排泄物が取れるシャワーとトイレの設置にこだわりました。
人体からの廃棄物のサンプルは研究のために非常に重要な資料なので、
万が一救助ミッションが行われる事態になってもこの確保が優先されたはずです。

スカイラブでは、尿を飲料水に変えるなどのリサイクルシステムはなく、
廃棄物を宇宙に捨てるという処理も行いませんでした。

軌道上ワークショップの下には液体酸素タンクがありますが、
エアロックを通過したゴミや廃水を保管するために使用されたのみでした。


■ 運用の歴史 完成と打ち上げ



1969年8月8日、マクドネル・ダグラス社との契約を受注し、
オービタルワークショップは1970年2月にNASAのコンテストの結果
「スカイラブ」と改名されました。

スカイラブは1973年5月14日に改良型サターンVによって打ち上げられます。

打ち上げと展開の際に、サンシェードと太陽電池パネルの1つを失い、
ステーションの電力は大幅に不足するという事故に見舞われました。

有人ミッションは、スカイラブ2、スカイラブ3、スカイラブ4が行われ、
スカイラブ5はスタンバイしていましたが中止になっています。


スカイラブ2司令 ピート・コンラッド


スカイラブ3司令 アラン・ビーン

スカイラブ4司令 ジェラルド・カー

3人ともなんか同じようなタイプに見えるのはわたしだけでしょうか。
ヘアスタイルのせいかしら。


ちなみにこれがスカイラブのシャワー施設。
起源よく入っているのはコンラッドですが、
この人はすきっ歯で有名?でした。

今なら「信頼できない」とか言われて宇宙飛行士になれなかったかもですね。

入浴は、温水の入った加圧ボトルをシャワーの配管に連結し、
中に入ってカーテンを固定した後行います。

シャワーの上部にプッシュボタン式のノズルが硬質ホースで接続されていて、
1回のシャワーで約2.8リットルの水が使用できます。
水は個人衛生水タンクから汲み上げる仕組みで、計算量しか搭載していないので、
液体石鹸と水の使用は慎重に計画され、入浴は週に1回と決まっていました。

宇宙シャワーを最初に使用した宇宙飛行士の感想は、

「予想以上に使用するのにかなりの時間がかかったが、いい匂いで出てくる」

シャワーを設置し使用済みの水を放散する時間を含めて、
全行程でなんと約2時間半かかるのだとか。
苦行か。

シャワー操作手順は以下の通り。

1、加圧水筒にお湯を入れ、天井に取り付ける
2、ホースを接続し、シャワーカーテンを引き上げる
3、水を吹きかける
4、液体石鹸を塗布し、さらに水を噴射してすすぐ
5、液体をすべて掃除機で吸い取り、アイテムをお片付け


宇宙で入浴する際の大きな懸念事項の1つは、
水滴が間違った場所に浮かんで電気ショートを起こすことです。
したがって、真空水システムはシャワーに不可欠なものでした。

排水は廃棄袋に注入され、そのまま廃棄タンクに入れられます。

また、スカイラブでは、クルーごとに色分けされた
縫い目のあるレーヨン製のタオルが420枚搭載されていました。

使い捨てか・・まあどっちにしろ洗濯できないしな。



最初の有人ミッションであるスカイラブ2は、
悲惨な状態のままであったステーションの修理がミッションとなりました。
乗組員は日除けを展開してステーションの温度を許容レベルまで下げ、
オーバーヒートを防ぐことに成功しました。

クルーは2回の宇宙遊泳(船外活動:EVA)を行い、
スカイラブとともに28日間軌道上に滞在しました。

スカイラブ3の打ち上げ日は1973年7月28日、続いて
1973年11月16日にはスカイラブ4がほとんど立て続けに打ち上げられ、
ミッション期間は段々伸びて59日間と84日間となりました。

宇宙空間で2ヶ月半っていうのもなかなかの拷問のような気がします。

また、中止となったスカイラブ5以外にも、
レスキューのためのスカイラブが待機していたそうです。


5名乗りのレスキュー用モジュール これはひどい。
アフリカから奴隷を運んでくる船か。

宇宙空間に出てしまえば、何というか覚悟も決まるのですが、
1972年には奇特なことに、56日間、地球上の低圧で過ごした
スカイラブ医療実験高度試験(SMEAT)の3人のクルーがいました。

SMERTクルーのエンブレム
 
クルーのクリッペン、ボブコ、ソーントン

医療実験装置の評価、そしてスカイラブのハードウェアのテストのために
完全重力下での宇宙飛行アナログ試験として行われたものです。

医療知識は得られた、と穏便な?書き方をしていますが、
SMEATの主な目的は、スカイラブミッションで使用するために提案された
機器と手順を評価することの他に、
試験室に閉じ込められたクルーの生理学的データの基準値を取得し、
ゼロGで生活するスカイラブの軌道上のクルーと比較することでした。

その結果、スカイラブの尿処理システムの欠陥が明らかになりました。

彼らの尊い犠牲のおかげで、(死んでませんが)
スカイラブのトイレは、軌道上でのミッションの後、
宇宙飛行士から広く賞賛されることになったのでした。

宇宙にいけないのに、宇宙並みの苦労をしたクルーですが、
そんな彼らの様子は報道陣によってカメラに収められたりしました。

宇宙でもないのに酸素マスクを着用していたため、
入場時に報道陣と話すことはできませんでしたが、
報道陣の一人にサイン入り写真を渡すなどして大いに楽しんだようです。

サインをもらった中には、NASAの関係者も多数いたということですが、
なぜ彼らが地上クルーのサインを欲しがったのかは謎です。

そして、宇宙ほど危険でないとはいえ、クルーは1/3バールの圧力、
そして70%の酸素濃度にさらされ、
閉回路テレビに逐一チャンバー内の行動を映像に撮られていました。

これはある意味宇宙にいるよりストレスかもしれません。

56日間のSMEATシミュレーションでは、スカイラブの模擬シャワーも使用され、
クルーは「良い経験になった」(棒)と述べています。

■実験成果

これで終わるのも何なので、実験成果について書いておきます。
実験は大きく6つのカテゴリーに分けられました。


1、生命科学 - 人間の生理学、生物医学の研究、概日リズム(マウス、ブヨ)

2、太陽物理学と天文学 - 太陽の観測(8台の望遠鏡と個別の装置)
コホーテック彗星(スカイラブ4)、恒星の観測、宇宙物理学

3、地球資源-鉱物資源、地質、ハリケーン、土地と植生のパターン

4、材料科学 - 溶接、ろう付け、金属溶解、結晶成長、水・流体力学

5、学生が提案した19種類の研究
器用さの実験や、低重力下でのクモによる網紡ぎの実験など

6、その他 - 人間の適応性、作業能力、器用さ、生息地の設計・運営


スカイラブ2は、ステーションの修理があったため、
実験に費やせる時間が予定より少なくなりましたが、
スカイラブ3号とスカイラブ4号は、クルーが環境に慣れ、
地上管制官との快適な作業関係を確立し、当初の計画を上回る成果を上げました。

ジョン・ホプキンス大学のリカルド・ジャッコーニは、
スカイラブに搭載された太陽からの放射の研究な度によって、
X線天文学という分野の誕生に寄与した功績を讃えられ、
2002年のノーベル物理学賞を共同受賞しています。

どう考えてもこの件で一番ご苦労様だったのは地上クルーの3人ですね。
彼らには決して各種勲章は与えられませんが。


続く。


ユンカース・ユモ004BとホイットルW.1X〜スミソニアン航空博物館

2022-04-27 | 航空機

スミソニアン博物館の「マイルストーン」機体シリーズには
この二つのエンジンも歴史的な意味から展示されています。

Junkers Jumo(ユンカース・ユモ)004B
Whittle(ホイットル)W.1X

ジェットエンジンの開発の歴史について、当ブログでは
同じスミソニアンのジェット推進シリーズをご紹介してきたのですが、
そのときこの展示を覚えていれば取り上げたものを、
今になって気づいたので、また改めて焦点を当てることにしました。

ピストンエンジンからジェットエンジンへの転換は、
航空史におけるまごうかたなきマイルストーンでした。

この発明以降、従来より遠くへ、速く、
かつ低コストでの移動が可能となったのです。

ユンカース・ユモはドイツ、ホイットルはイギリスのエンジンです。
この頃アメリカは技術的に後進国で、ジェットエンジンについては
蚊帳の外技術だったのですが、なぜか21世紀の今日では、
そのどちらもがアメリカの国立博物館に展示されているのが歴史の妙ですね。



この二つのエンジンを開発した二人の技術者は
ドクトル・フォン・オハインとサー・フランク・ホイットル
この二人は全く別々の場所にありながら、それぞれが独自に
ジェットエンジンという発明を通して新しい時代を切り拓きました。

■ ホイットル W.1Xエンジン

Whittle W.1Engine

世界最初の遠心流たーボジェットエンジンの一つです。
イギリスの軍人でありエンジニアであったフランク・ホイットル卿は、
1932年にこの設計の特許を取得し、
1936年にはPower Jets Ltd.を設立しました。

当ブログでは以前、フォン・オハインとサー・ホイットルについて、
(そのときはWhittleをウィットルと表記していますが、今回はこちらで)
特にホイットルの不遇ぶりと晩年の二人の出会に至るまでを
”フォン・オハインとウィットル 二人のジェット機開発者”という項で
これでもかと書き連ねたことがあるので、今日はその時に書かなかったことを
何とか探し出して書いてみたいと思います。

【パワージェッツWUの”将来性”】

ホィットルが最初に開発したのは、1930年代の終わる頃でした。
パワージェッツWU(WUはホイットル・ユニットの意味)と名付けられた
この実験用ジェットエンジンについてはイギリス政府は無関心でした。


ホイットル中尉(当時)

これは、前段でも書いた、遠心式ターボジェットについての
ウィットル論文に対する軍需省の評価が低く、
ほぼほぼ無視されていたということが祟ったと思われます。

しかし、ウィットルが画期的なアイデアであるところの
ジェットエンジンに関する論文をどういうわけか気前良く公開していたため、
各国の目端の効く技術者たちが、このアイデアを後追いし始めていることに、
お役所はようやく気づいたというところかもしれません。
(全く想像で言っているだけですので悪しからず)

ともあれ、突如興味を示した航空省が、科学研究部長のパイ博士(Pye)ら
視察団を送り、パワージェッツWUのデモンストレーションが行われました。

この実験結果については、ある資料は失敗だったといい、
ある資料は非常に成功したとされていて、実際どうだっかは不明なのですが、
WUは飛行に用いるには非力で重かったというのは事実でしょう。

開発中に圧縮機の弱さや燃焼の不安定などのアクシデントもあって、
ホイットルらは苦労したというのも事実だと思いますが、
航空省はこのターボジェットに可能性を感じたのだと思います。

これまでにイギリスが装備してきたレシプロエンジンと併用して
軍備においてそれどころか競合する存在になることを見抜いた研究部は、
実験そのものではなく将来性を買い、エンジンを購入すること、
そしてホイットルのパワージェッツ社の運転資金として
そのエンジンを貸し出す、という形で資金提供をすることを申し出ました。


そして、英国航空省は、1939年にこのエンジンを発展させたものを
グロスターE.28/39テスト機で評価することを決めたのです。

W.1の開発が進むと同時に、グロスターは地上試験用に
プロトタイプのW.1Xを搭載しました。
このときエンジンは開発者の名前をとって
「ホイットルスーパーチャージャー式W1」
と命名されていたそうです。



【W.1ジェットエンジン空を飛ぶ】

1937年にベンチテストされたホイットルWUとは異なり、
W.1は航空機への搭載を容易にするために左右対称に設計されました。

W.1の新基軸的なところは、

ヒドゥミニウムRR.59合金製(高強度、高耐食性、高耐熱性)の両面遠心圧縮機
逆流式ラボック(Lubbock)社製燃焼室(燃料が燃焼する空間)
「もみの木の根」形状で固定された72枚のブレードによる

水冷式軸流タービン部
ファース・ビッカース・レックス78(ステンレス)を使ったタービンブレード

などが採用されていたことです。
水冷式は後に空冷式に変更されています。

W.1型では、その後コンプレッサーの関係で2Gに制限されることになります。
ジェットパイプの最高温度は597℃になりました。


あら飛んじゃった

しかし、新しい設計の開発が超長引いてしまったため、
この際飛行不能と判断された部品と試験品などを使って、
テストユニット「アーリー(初期)エンジン」を作ることになりました。

これを組み立てたのが、ワンオフ(一回しか使わないつもり)の「W.1X」

1941年4月に行われたタキシング試験で、公式には飛行不可能なエンジンが
グロスターE.28/39の動力源として短い「ホップ」を行い、
1ヵ月後に正式なW.1エンジンとなって飛行試験にこぎつけたのです。

誰かは知りませんが、飛行機の前で写真を撮っている人たち
(多分メガネの人がサー・ウィットル)はさぞ嬉しかったことでしょう。

この後、飛行可能なエンジンを取り付けられたE.28/39が
史上最初の公式飛行を行ったのは1ヶ月後でした。

1942年2月、E.28はW.1Aエンジンで飛行試験を行い、
このとき高度4,600mで時速430マイル(690km)にまで到達しています。



さて、ここで登場するのが、あわよくばこの新技術を
ノーリスクで手に入れたい、と虎視眈々と狙っていたアメリカ
でした。

1941年に英国を訪問したヘンリー・ハップ・アーノルド将軍(でたー)は、
アメリカで飛行させるためにW.1Xの機体現物と、
より強力なW.2B量産型エンジンの図面、ついでに
パワージェッツ社の技術チーム一抱えを、
アメリカにまるっと空輸するよう手配しました。

さすがは技術はないが、やる気と金だけはたんまりあるアメリカ。(当時)
スケールが違う。

そうやって空輸されたW.1は、まずゼネラル・エレクトリックI-A、
次いでゼネラル・エレクトリックI-16の原型となり、
W. 2Bはというと、1943年には推力750kgfを発生するまで開発されました。

(イギリスから連れてこられた技術陣がその後どうなったかは不明)

GE社の改良型であるIA型は、1942年10月2日に、ここでも紹介した
米国初のジェット機であるベルXP-59Aエアラコメットに搭載されています。


その後W.1Xは耐用年数を終えると英国に返還されましたが、
1949年11月8日、パワージェット社からスミソニアン博物館に寄贈され、
再び大西洋を渡ってアメリカにやってきてここにあるというわけです。


タイプ ターボジェット 
推力:5,516 N(1,240 lb)/17,750 rpm、
3,781 N(850 lb)/16,500 rpm(初飛行のため減衰) 圧縮機。
圧縮機:単段、ダブルエントリー、遠心式 燃焼器:10個の逆流室 
タービン:単段、ダブルエントリー、遠心式 単段軸流式 
重量:254kg(560ポンド)


■ ユンカース・ユモ004Bエンジン

Junkers Jumo 004B Engine

スミソニアンの説明はいきなりこんな言葉から始まります。

「フォン・オハインのエンジンの最初の成功にもかかわらず、ドイツ当局は
ユンカースから、より有望なターボジェットを開発することを支持しました」


ハンス・ヨアヒム・パブスト・フォン・オハインが発明した
ジェット推進システムに最初に興味を示したのは、
これも前述の通り、ハインケル社でした。


エルンスト・ハインケル(左)とオハイン(当時23歳にしては老けてない?)

オハインはハインケルでターボジェットを搭載した初の航空機、
He 178V1を開発したのですが、残念なことに(ラッキーだったという説も)
ハインケル社がナチスとドイツ空軍に冷遇されており、
初のジェットエンジン搭載についても全く日の目を見ませんでした。

ハインケルHe178 V1

冷遇されていたハインケルとオハインでしたが、英国科学省のように、
やはりこの技術の可能性を見出した人物が現れたのです。


左から:シュエルプ、ホイットル、オハイン、
1978年オハイオ・デイトンの国立空軍博物館にて

この一番左の人物、
ドイツの技術者ヘルムート・シェルプ(Helmut Schelp)、
そして、

ハンス・マウヒ(Hans Mauch)
の二人は、ドイツの航空エンジンメーカー各社に声をかけて
独自の開発プログラムを開始するように促しましたが、
どの会社も新技術に懐疑的だったため、なかなか軌道に乗りませんでした。

1939年、シェルプとマウヒが各社を訪れ、進捗状況を確認したところ、
ユンカース・モトーレン・ヴェルケ(Jumo)部門の責任者が言うには、

「コンセプトが有用であっても、それを手がける者がいない」

そこでシェルプは、ユンカース社のターボ/スーパーチャージャーの
開発担当、アンセルム・フランツ博士に白羽の矢をたて、
開発チームを立ち上げさせました。


アンセルム・フランツ博士(Dr. Anselm Franz)

プロジェクト名はRLMの109-004

この109-は、第二次世界大戦中のドイツのエンジンプロジェクトに共通で、
有人飛行機用ロケットエンジン設計の識別にも使われています。

フランツは、保守的でありながら革新的な設計を選択しました。

「軸流」と言って、エンジン内に連続的でまっすぐを空気の流すという
新しいタイプのコンプレッサー(軸流コンプレッサー)を利用する点で、
フォン・オハインと異なるアプローチを採用したのです。

この軸流圧縮機は、効率にして約78%という優れた性能を持つだけでなく、
高速の航空機にとって重要な、より小さな断面でできていました。

開発においては、実に戦略的というのか実質的というのか保守的というのか、
生産の迅速化と簡素化のために、理論上のポテンシャルを追求せず、
それどころか大きく下回るエンジンの生産を目指しています。

そのため、より効率的な1個の環状燃焼器ではなく、
6個の「フレーム缶」を使ったシンプルな燃焼エリアを選択しました。

タービンの開発においても、開発用エンジンではなく、
すぐに生産に移れるエンジンの試作に取り掛かったのも同じ理由からです。

フランツの堅実すぎるアプローチはRLMから疑問視されていたそうですが、
004は生産と使用を開始する運びとなりました。

【テスト飛行】


Me262戦闘機のナセルに搭載されたJumo 004エンジンの正面図


1940年10月、ディーゼル燃料式004A試作1号機の初試験が行われました。
RLMとの契約では最低推力が600kgfに設定されていたのですが、
最高推力は430kgfに留まりました。

その後航空省のコンサルタントの協力を仰ぎ、問題解決して
8月には5.9 kN、12月には9.8 kNで10時間耐久飛行に成功しました。


1942年7月18日、試作機のメッサーシュミットMe262
004エンジンを搭載して初飛行し、
その後RLMは80基の生産を請け負う運びになります。

Me262試作機の動力源として最初に作られた004A型エンジンは、
材料の制約がなかったので、ニッケル、コバルト、モリブデンなど、
希少な原材料を使っていたのですが、よく考えたらこれでは
大量生産することができません。

そこでフランツは、燃焼室を含むすべての高温金属部品を、
アルミニウムのコーティング軟鋼に変更。
タービンブレードはクロマジュール合金(クロム、マンガン、鉄70%)、
という風に仕様を変えて構造を簡略化しました。

こだわりすぎると良くないってことですね。

【欠陥調査と本格的な生産】

その後、1943年に004B型はタービンブレードの故障を起こしますが、
ユンカースチームはこの原因を特定することができませんでした。

材料の欠陥、粒径、表面の粗さといった点もチェックしまくった結果、
ブレードの固有振動数が故障の原因であることを突き止めたのです。
ブレードの周波数を上げることによって、
エンジンの運転回転数を下げて解決しました。

なんだかんだで大変だったため、
ようやく本格的な生産が開始できたのは、1944年初頭のことです。

そしてこのジェットエンジン設計における工学的な細部の課題は、
結論としてMe262の戦線への投入を遅らせる原因になりました。

それではMe 262が早く投入できていたら戦況は変わったのか?

と言われると歴史にイフはないとはいえ、
これくらいでは勝敗が覆ることは決してなかっただろうとしか言えませんが。


アンセルム・フランツ博士は、多くのドイツ技術者の例に漏れず、
戦後アメリカに渡ってアメリカ空軍のために研究を行い、
その結果ライカミングT53ターボシャフトエンジン
ハネウェルAGT-1500タービンを開発しています。

T-53はベル社のUH-1ヘリコプターに、
AGT-1500はM1エイブラムス戦車に搭載されました。


ちなみに、1932年の段階で、ハンス・フォン・オハインはこう言っています。

”The airplane rattled because it had piston engines...
It was not as romantic as I thought it would be...
I thought flying should be elegant.”

ピストンエンジンのせいで飛行機はガラガラとウザい・・
これって僕基準ではロマンチックじゃないんだ・・
飛行ってのはエレガントじゃなくちゃ)

日本のあの飛行機設計者もそうだったようですが、
技術者というのは時としてスタイリストでロマンティストですね。

しかしこれが彼がジェットエンジンを作るモチベーションとなりました。
そして奇しくも同じ時期に、ジェットエンジンの着想を得ていた
サー・フランク・ホイットルは1929年、こう言っているそうです。

”Why not increase the compressor compression ratio
and substitute a turbine for the piston engine?”

(コンプレッサーの圧縮比を上げて、ピストンエンジンの代わりに
タービンを使ってはどうかな?)

二人が戦後アメリカで出会ってソウルメイトになったという話は
以前ここでもしていますが、同時期の技術者として
二人には元々前世からの因縁めいたものがあったのかと思わされます。



最後に、スミソニアン博物館におけるものすごい写真を。

左から

「ボーイング727の父」ジョン・スタイナー、
ハンス・フォン・オハイン、
アンセルム・フランツ、
チャールズ’チャック’イェーガー准将、
サー・フランク・ホイットル


わかる人にしかわからない、絢爛豪華なメンバーです。



続く。



偵察衛星の「隠れみの」だったディスカバラー計画〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

当ブログのスミソニアン博物館の空中軍事偵察の歴史を扱った
「ザ・スカイ・スパイズ」 シリーズが終わって久しいわけですが、今回
このディスカバラーXIIIなるなにやら装置満載のお釜について調べていて、
これがかつては「スカイ・スパイズ」シリーズの一環だったことがわかりました。

昔のスミソニアンの資料を見ると、明らかにこれは偵察機器としての扱いで、
しかも他でもないスカイスパイズのコーナーにあったんですから間違いありません。


ところが今現在は、グラマンの「マイルストーン」展示の、
宇宙開発的なコーナーにあるわけです。
隣のモニターではX-15のテスト飛行の映像などを繰り返し放映し、
後ろには「パイオニア」と「パーシングII」ミサイルが聳え立っております。

理由はわかりませんが、このお釜がいつのことなのか、グラマンに
「マイルストーン」認定されて展示方法が変わったのだとしか理解できません。

■ ディスカバラー(Discoverer)XIII

ディスカバリーではなく、DISCOVERERです。
皆さんもあまり聞き覚えがないかもしれません。

ディスカバラー衛星計画は、実は今日に至る
「宇宙からのスパイ(偵察)」時代の嚆矢となった軍事作戦でした。

なるほど、この展示が「スカイスパイズ」にあった訳がわかりましたね。

「ディスカバラー」。

それは高度に分類されたアメリカ空軍とアメリカ中央情報局、CIAが計画した
「コロナ偵察衛星プログラム」の初期に使用された「カバーネーム」でした。

そして、ここにあるDiscoverer XIIIカプセルは、
「打ち上げ軌道から回収されたアメリカ最初の人工物」
として、ここマイルストーン展示にふさわしいとされたのでありましょう。

多分ですけど。


 1960年8月11日。
アメリカ海軍は、ハワイ北部の太平洋上から、カプセルカバー、パラシュート、
そしてディスカバラーXIII再突入カプセルを回収しました。

再突入カプセル(Reentry Capsule・リエントリーカプセル)とは、
宇宙飛行後に地球に帰還する宇宙カプセルの部分のことを言います。

カプセルの形状は空気抵抗が少ないため、最終的にはパラシュートで降下し、
陸上や海上に着地するか、航空機に捕獲されます。

「ディスカバラー」とは、極秘プロジェクトだったコロナ光偵察衛星の愛称でした。
ディスカバラーXIIIには、カメラやフィルムは搭載されておらず、
カプセルの中には診断用の機器しか入っていません。

しかし、1週間後の「ディスカバラーXIV」からは、カメラとフィルムを搭載し、
なんとその後、1972年5月のコロナ計画終了までに、
120機以上のコロナ衛星が、ソ連や中国などの撮影に成功しているのです。


この前日、バンデンバーグ基地から打ち上げられた
人工衛星「ディスカバラーXIII」は、空軍のC-119によって空中で回収されました。

航空機の後ろに見える空中ブランコのような装置には、
カプセルのパラシュート索を引っ掛けるためのフックがいくつも付いています。

C-119の愛称は「フライング・ボックスカー」
「ボックスカー」という名前に日本人ならピンときてしまうわけですが、
あちらは爆撃機で、こちらはフェアチャイルド社製造の輸送機です。

双銅の、P-38を思わせるような独特の機体で、ボックスカーの意味は
有蓋の貨車なので、あまり深い意味はなかったのだと思います。


■冷戦と偵察

1950年代、アメリカとソビエト連邦の冷戦が深まるにつれ、
アメリカ人のソ連に対する警戒感はますますひどくなっていきました。

海の向こうから伝わってくる共産主義国家特有のプロパガンダもさることながら、
この秘密主義の巨大国家の軍事力に対して実質的な情報が全くなかったことも、
この恐怖を増大させたと言っていいでしょう。

そこでアイゼンハワーは、鉄のカーテンの向こう側の有益な情報を提供するため、
ソ連領上空の写真を撮影する新しいシステムの開発を許可したのです。

アメリカ初の人工衛星計画

この命令によって開発されることになったシステムのひとつが
コードネーム「アクアトーン」Aquatoneでした。
当ブログでもお話ししましたが、防空システムの届かない上空に
高高度偵察機U-2を飛ばして、偵察撮影するという計画です。


犠牲者も出た

これは確かに多くの成果を得ましたが、国際法違反であった上、
当初からソ連のレーダーとミグ戦闘機に追尾されていたので、
結局1960年までソ連領内での20数回のミッションしか行えませんでした。

そこで次の新しい計画として、偵察衛星を飛ばすことを考えました。
軌道上からソ連の詳細な画像を送ることができる衛星の開発です。



1956年7月までに、秘密の高度偵察システムの開発計画が承認されました。
これは、あの失敗計画、バンガード計画が緒につく2ヶ月前だったといいます。

これは偶然でしょうか。
そんなわけありませんよね。

この計画は、秘密だったとはいえ、国家初の衛星計画だったってことです。

というわけで、U-2を製造したロッキード社が開発を受注したのですが、
予算はというとたった300万ドル(現在の金額で約2800万円)。
まあ、やる気がないというわけではないが優先順位は低かったってことですね。

その後企画開発は粛々と進められ、フィルムを露光し、軌道上で現像し、
その後スキャンして地球に送信するシステムを開発しました。🎉

信号情報パッケージ、後にミサイル発射を探知するための赤外線センサー、
スピン安定化写真システム(これってもしかしてジンバル的な?)も研究されます。
小型の帰還カプセルの中に露出したフィルムを戻すという方法も開発されました。


打ち上げはソーThor)中距離弾道ミサイル(IRBM)を使います。

IRBM「ソー」は、ダグラス・エアクラフトの製造です。
核弾頭を2,600kmの範囲に飛ばすことができる兵器システムで、
全長約18.6メートル、底面の直径2.4メートルの大きさです。

エンジンはロケットダイン社のMB-3パワープラントを搭載。
ケロシンのロケット推進剤と液体酸素(LOX)を燃焼させて推力を発生させます。

ロケットは3段式で、ソーの上に、バンガードロケットの2段目を改造して搭載。
第3段はスピン安定化型X-248ロケットモーター、エイブルで、
これも海軍がヴァンガードロケット用に開発したものでした。

この仕組みは1958年に最初のパイオニア探査機を月に打ち上げるために採用され、
後にNASAのデルタロケットの基礎となっています。

しかしながら、計画が遅々として進んでいないらしいことが明らかになりました。
というのも、あの「スプートニク・ショック」による不安と、
秘密であるはずのこのプロジェクトをどこでかぎつけたのか、マスコミがこれを
「空のスパイ」(Spy in the Sky)
などと呼び始め、プロジェクトの安全性が懸念されるようになったのです。

そこでアイゼンハワー政権は、思い切った行動を取らざるを得なくなります。

偵察衛星の開発を加速させると同時に、上空からの偵察という
微妙なテーマに関する世論の議論を避けつつ計画を軌道に乗せるために。

コロナ計画誕生

「プロジェクト・コロナ」と名付けられたこの計画で、
ロッキード社は、この小規模で集中的な取り組みの契約を継続し、
カメラの下請けにはフェアチャイルド・カメラ&インスツルメント社
帰還カプセルやSRV(衛星再突入車)の開発には
ゼネラル・エレクトリック社が選ばれました。

この後の開発についての詳細は省きますが、注意したいのは
この時に開発された推進システムなどは、のちの宇宙開発プログラムに
そのまま採用されたりすることになります。
「アジェナA」と呼ばれる推進システムもその一つでした。

フェアチャイルド社の開発したカメラは、近地点約190kmの軌道から
衛星の地上軌道に対して、垂直方向に70°の範囲を
最大12mの解像度で撮影することができるものでした。

70mm判のアセテートフィルムが露光されると、
スタック最上段のSRVに送り込まれ、地球に戻されるという仕組みです。


SRVの大きさは直径83cm、高さ69cm、質量約135kg。
お椀の外側は、再突入時の熱シールドとして、アブレーション材で覆われています。



内部には金メッキを施した「バケツ」があり、
積荷のフィルムから熱を反射させる効果があります。

大気圏に再突入すると、パラシュートが開き、最後の降下が行われます。
有人カプセルと同様、機器の安全を考えた場合、水中で回収したいのは山々ですが、
懸念される可能性もありました。

アメリカ海軍よりもソ連の潜水艦の方が先に
ペイロードを拾ってしまうことです。

そこでこれを避けるために、空輸による回収が提案されたのでした。
フェアチャイルド社のC-119「フライング・ボックスカー」貨物機に
特殊なブランコ状の装置をつけて、降下するSRVのパラシュートを引っかけ、
内部にウィンチで運ぶという方法です。


問われるパイロットの操縦技術

コロナ計画は(アメリカがコロナをCOVID-19としか呼ばないわけがわかりますね)
アメリカ政府の最高機密とされ、1960年代を通じて、
冷戦における二大国のパワーバランスを維持するのに役立つ、
最重要の情報をアメリカの政策立案者に提供し続けていました。

それにしても、どうしていまだにその名前に認知度がないのか、
ほとんどの人がこれまで一般のニュースや印刷物で見たことがないのかというと、
それは、事柄上、国家最重要機密として長年その存在は秘匿されていたからです。

計画に投入された費用は、こちらは広く広報されたアメリカの宇宙計画に
匹敵するだけの額だったと言いますが、にもかかわらず、
1995年に当時の大統領ビル・クリントン政権がその機密を解除するまで、
アメリカ国民はその事実を知りませんでした。



1960年、アイゼンハワー大統領と二人の空軍将校が、
ホワイトハウスで行われた式典で回収されたカプセルを見学しています。

一般に向けては、カプセルは科学衛星ディスカバラーシリーズの計画の一部、
という報道がなされ、その真の使命については知らせていない、
ということをおそらく大統領はこの時報告されたと思われます。

それにしても、何も知らないでこの写真を見たら、
まるで大きな金だらいかカレーを作る鍋みたいですな。


金メッキが施された再突入カプセルは、宇宙の軌道から戻ってきて回収されます。
この段階で、上部ロケットステージと熱シールドはどちらも投棄されています。

その後パラシュートを開いたディスカバラーXIIIは海に落下し、
ヘリコプターによって引き揚げられました。

これ以降のモデルは海に落ちる前に空中でキャッチされるようになっています。



スミソニアンのカプセルはゼネラルエレクトリック社製。
カプセルが用済みとなった1960年に米空軍からNASMに寄贈されました。

もしソ連がそれをおこなっていなければ、史上初めて
軌道上から回収された人工物として、このマイルストーンコーナーにあるわけです。
本コーナーでのキャッチフレーズは、

"ディスカバラー衛星計画は、今日まで続く
宇宙からのスパイ時代の幕開けとなった"


初期の偵察衛星に搭載された写真システムは、いちいち地球に戻し、
実験室で電子的に現像しなけれなならないフィルムを使用していました。
現代の衛星では画像を送信することができるので、
衛星はその分長く軌道に留まって多くの画像を取得できます。



この写真は、ソ連のチュラタム発射基地をアメリカの偵察衛星が撮影したものです。
これはディスカバラーXIIIの成功以降に開発された衛星でした。

赤い線が付けられている部分には2本の避雷針と、
ロケットは発射台の上に白い形で確認することができます。
それに挟まれた巨大なN-1が写っています。

早朝なので長い影が地面に写っており、その存在がよくわかります。



■初めて宇宙に打ち上げられた星条旗

実は、ディスカバラーXIIIカプセルの中にはアメリカ国旗が搭載されており、
この軌道上から回収された人類初の物体に密かに格納されていた米国旗は、
1960年8月15日にホワイトハウスで行われた式典で公開されています。



「大統領、このカプセルの中には、多くの遠隔測定装置や科学機器、
そしてもう一つパッケージがあります」

右から2番目のアメリカ空軍参謀長、トーマス・ホワイト元帥は、
アイゼンハワー大統領に今こう言っているところです。

「アメリカ国旗です」

ディスカバーXIII再突入カプセルに入るように慎重に折られた
幅90、高さ61センチのアメリカ国旗は、
こうして軌道上から戻った最初の宇宙記念品となりました。


アイゼンハワーは、広げた旗を手に取りながら、礼と共に

「この旗がすべてのアメリカ人の目に触れて、この偉大な業績を
思い起こすことができるような場所に置かれるよう努力するつもりです」

と約束しましたが、残念ながら事柄上公にしにくい任務だったこともあってか、
1961年のアラン・シェパードの弾道飛行の時の星条旗が「宇宙初」となり、
すっかり忘れられていました。

この旗は確かに、史上初めて軌道上から回収されたものですが、
「初めて飛行したもの」ではありません。

その理由を説明します。

先ほども申し上げたように、ディスカバラー計画は、CIAと米空軍による
一連のコロナ偵察衛星(軍機密任務)の公的な隠れ蓑でした。

そもそも再突入カプセル「ディスカバラーXIII」は、次の打ち上げから始まる
宇宙からのフィルムリール返還のために開発されたものだったのです。


ロッキード社の先行開発部門「スカンクワークス」で働く人々にとっては、
いくつかのカプセルのうちどのフライトが最初に成功するか知る由もありません。

つまり、ディスカバーXIII以前、太平洋から回収されるまでに打ち上げられ、
失われたいくつかのカプセルにも、実は国旗が仕込まれていたのでした。

これは単なる偶然なのですが、、ディスカバラーXIIIのミッションは、
ハワイがアメリカ合衆国50番目の州になったことを記念して
50星の米国旗が初めて公式に掲げられた直後に行われました。

そして、ディスカバラーXIIIが初めて地球を周回して無事に戻ってきたので、
その内部に収められた米国旗が「最初に軌道から帰還した国旗」となったのです。

あくまでも偶然だったのですが。

五十個の星がついたばかりの国旗がこのような快挙となったことを
アメリカ上層部はラッキーな偶然と考えました。
ホワイト元帥はアイゼンハワーに向かって、

「この旗が49番目の州(メリーランド)上空宇宙空間の軌道から放出され、
50番目の州であるハワイの近辺で回収されたことは、重要なことです」

と胸を張りました。

この後、アメリカの宇宙ミッションでは、カプセルに記念品を入れて
飛行させるという公式・非公式な伝統が生まれました。

その後のディスカバラー(コロナ)の飛行では、いつの間にか
打ち上げチームのメンバーが無許可でコインやらニッケルやらを勝手に乗せ、
それが後から発見されるという由々しき事態が相次いだため、
ワシントンは現場に、記念品打ち上げの習慣を止めさせる責任を課す
厳しい言葉のメッセージを送った、と記録には記されているのだとか。


スミソニアン博物館には、マーキュリー7の一人であるアラン・シェパードが、
自分でも知らないうちに、マーキュリーカプセルに混入していた?
(というかすっかり忘れていたらしい)アメリカ国旗が所蔵されています。

シェパードは何の気なしに星条旗を丸めて船内の配線の束に貼り付けていて、
それは着水した後のカプセルから発見されました。

「1961年5月5日、米国初の有人宇宙飛行としてNASAの宇宙飛行士
アラン・B・シェパードが15分間の軌道下飛行に同行したこの旗は、
米国で初めて宇宙に飛び立った旗らしい


と、スミソニアンは記述しています。
これは間違いで、つまり初めて宇宙に飛び立った旗というのが、
ディスカバラーXIIIの国旗であることは皆さんもうお分かりですね。

でっていう話ですが。


続く。


映画「緯度0大作戦」〜護衛艦「いそなみ」の海軍軍人たち

2022-04-23 | 映画
  
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映画「緯度0大作戦」〜海底2万マイルの国

2022-04-21 | 映画
はてなブログに移転しました

リフティングボディM 2-F3〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-19 | 航空機

スミソニアン博物館の宇宙開発コーナーの隅には、
全く目立っていないのですがこんな奇妙な形の航空機があります。

これはちゃんと飛行機としての機能を持つのだろうか?
などと考えずにはいられないスリム感のないシェイプですが、
別の角度から見てみると、


予想とは(どんな予想だ)全く違う上部の佇まい。
これはあれかな、特殊な用途のための実験機かしら。

現地に説明のパネルもなかったので(あったのかもしれませんが見つからず)
NASA 803  FLIGHT RESEARCH CENTER
という機体に書かれた文字だけを頼りに調べてみたところ、
これは、「リフティングボディ ノースロップM2-F3」
という機体であることがわかりました。

リフティングボディ?バーベル持ち上げるアレかな。
それウェイトリフティングや。


■リフティングボディとは

バーベルならずとも、何かのボディを持ち上げるもの。
この名前からはそういう雰囲気が漂ってくるわけですが、
何なのか、リフティングボディ。

wikiによると、

「極超音速での巡航を前提とした航空機、ないしはスペースプレーン等のような
大気中を飛行することがある一部の宇宙機に使われる、
機体を支える揚力を生み出すように空気力学的に工夫された形状を有する胴体」

んん?それって普通の宇宙船やロケットと何が違うの?
正直ちょっとこの日本語は分かりにくいですね(分かりますが)。
この英語の方が説明としては分かりやすいかと思います。

「リフティングボディとは、固定翼機や宇宙船において、
本体そのものが揚力を発生する構造のことである」

分かりやすくて短く収まっています。英語の人有能。
本体そのものが揚力を持つように空気力学的に工夫するのは当たり前ですから、
リフティングボディが何かの説明にこの部分はいらんってことですわ。

それにしても、この機体の形状を特に下から見て、
皆様何か思うことはありませんか?

そう、翼らしい翼がないのです。

人が鳥のように空を飛ぼうと思った時、その機械には鳥のような翼をつけましたが、
こちらは全く鳥の翼的なものはなく、厚みのある紙飛行機、という感じです。

リフティングボディは従来の翼を持たない胴体であり、
胴体そのものが揚力を発生する固定翼機や宇宙船の形状をしています。

翼がない、というのはイコール「揚力面をなくす」ことであり、
これは亜音速での巡航効率を最大にするということを期待してのことです。

皆様は、音速を超えることを目的にしたX−1、そして
スカイロケットなどがどうやって発進したか覚えておられますよね。
大型爆撃機のペイロードとして離陸し、空中からドロップされたその形状は、
やはりほとんどミサイルのような、翼の小さなものでした。

これは、亜音速、超音速、極超音速飛行、あるいは宇宙船の再突入のためには、
翼の抵抗と構造を最小にする必要があるからです。

そうして翼の抵抗と構造をミニマムにした結果、リフティングボディは、
機体全体で揚力を得ることができるような構造となっています。

(という説明を読めば読むほど、紙飛行機のことだよね、と思ってしまったわたし)


■リフティングボディ前史と開発史

最古のリフティングボディは、アメリカのロイ・スクロッグス(Roy Scroggs)
という仕立て屋さんが考案した「The Last Laugh」かもしれません。


スクロッグスと「最後に笑う者」

無尾翼のダート型をしたリフティングボディ。
スクロッグスは1917年にデルタ翼の特許を取っています。

安全性、経済性、STOL性能をもたらす飛行機を作りたいという彼の執念は、
多くの人から嘲笑され、奇抜なアイデアは航空専門家に否定されました。

スクロッグスがこの実験機に付けた名前「最後に笑う者」は、
そんな世間に対する挑戦的な意味で付けられました。

機体は90馬力のカーチスOX-5エンジンが2枚羽根のプロペラを駆動するもので、
テストでは3mの高さまで上昇しましたが、特許出願後、
空港で飛行試験を試みたところ、誘導路に乗り上げて転倒し、破損。

失意のうちに彼は開発を諦めたわけですが、後年、
コンコルドの翼型実験で低速を試すために設計されたハンドリーページHP.115は、
「The Last Laugh」と非常に似たデルタ前縁角のスイープを持っていました。

そして、スペースシャトルは最終的にデルタ翼が採用されました。

つまり、スクロッグスが最後に笑うためには、リフティングボディは
低速では効率が悪く、その研究が盛んになるのは、
あと50年、エンジンの進化を待たねばなりませんでした。


リフティングボディの研究最盛期は1960年代から70年代にかけてです。

ソ連との宇宙開発競争真っ最中の時期から、アポロ11号によって
勝ちを手にし、ノリに乗っていた頃にかけてということになります。

アメリカは小型・軽量の有人宇宙船を作るための研究として、
リフティングボディのロケット飛行機を何機も製造し、
ロケットで打ち上げられた再突入機は何機か太平洋上でテストされました。


左から;X-24A,、M2-F3 、HL-10リフティングボディ
冒頭写真の機体は真ん中のM2-F3 どれもいわゆる「翼」がない

航空宇宙関連のリフティングボディの研究は、宇宙船が地球の大気圏に再突入し、
通常の航空機と同じように着陸するというアイデアから生まれたものでした。

大気圏再突入後、マーキュリー、ジェミニ、アポロなど、
従来のカプセル型宇宙船は、着陸する場所をほとんど制御できませんでした。

中には、地球の自転と移動の関係を勘違いしてコンピュータに打ち込み、
ただでさえピンポイントで場所を選べないのに、
えらく離れたところにカプセルが落下して苦労した回もあったくらいです。

その点、翼を持つ操縦可能な宇宙船は、着陸範囲を広げることができます。

しかしそのためには、宇宙船の翼が再突入と極超音速飛行という
動的および熱的ストレスに耐えられるような翼が必要となってきます。

そんな翼、作れるのでしょうか。

そこで、ストレスに耐えられないなら翼をなくせばいいじゃない、となって、
翼がなければ胴体そのものに揚力を持たせればいいじゃない、となり、
翼をなくすという案に辿り着いたというわけです。


NASAによるリフティングボディのコンセプトの改良は、
1962年にNASAアームストロング飛行研究所から始まりました。

最初のフルサイズモデルが、木製の無動力機であるNASA M2-F1でした。

カリフォルニア州エドワーズ空軍基地で行われた最初の実験では、
まず、ポンティアックが機体を運ぶところが見ものです。


なんか楽しそう

そしてC-47の後ろに牽引されたM2-F1が放出されました。
M2-F1はグライダーなので、着陸範囲を広げるために
小型のロケットモーターを搭載していました。


ふざけてんのか

M2-F1はすぐに「空飛ぶバスタブ」と呼ばれるようになったそうです。


■「600万ドルの男」オープニングタイトル


スミソニアン博物館に展示されているノースロップM2-F3は、
1967年ドライデン飛行研究センターで墜落したノースロップM2-F2をもとに
再建された重量物運搬用機体とされています。

墜落した機体を元に、って何なんでしょうか。


 1967年5月10日、NASAの研究用航空機である無翼機、
M2-F2リフティングボディがカリフォルニアの砂漠に墜落しました。

この映像がそのまま使われたテレビ番組のオープニングがあります。

The Six Million Dollar Man Opening and Closing Theme (With Intro)

まさかと思いますが、どなたかこのテレビ番組をご覧になったでしょうか。
主人公のスティーブ・オースティンなる人物は、この事故で重傷を負い、
バイオニックインプラントのおかげで、超人的な強さ、スピード、
視力を持つサイボーグとなって、悪と戦うというヒーローものです。

映像を見ていただくと分かりますが、 M2-F2は、
飛行機というよりボートのような外見をしています。

前述のように、NASAは、宇宙からの再突入をより制御し、耐熱性を持たせる
リフティングボディ、無翼飛行の実験を行っていました。

わたしが撮影した下からの写真を見ていただくと、リフティングボディは、
機体の下部がとにかくぽってりと丸く、上部を見ると驚くほど平らです。
これは、揚力を得るために設計された形状で、
翼の代わりに機体の姿勢を制御するための垂直尾翼を持っています。

ボディはアルミ製、エンジンはXLR-11ロケットが搭載されていました。

オープニング映像でもわかるように、B-52爆撃機の翼の下に搭載され、
高度13,716mまで上昇後、エンジンを点火、その後滑空降下し着陸します。

これらの飛行により、パイロットが無翼機を宇宙から飛ばし、
飛行機のように着陸させることができることが実証されたのでした。



12年間のリフティングボディ飛行のうち、重大な事故が1回だけ起きました。
それが「600万ドルの男」のタイトルになった映像のときです。

16回目のテスト飛行で、ブルース・ピーターソンの操縦するM2-F2は、
機体が制御不能になり、時速250マイルで地面に突っ込み、
何度も転がりながら静止したため、ほぼ壊滅状態に陥りました。

墜落の原因は、フロー・セパレーション(境界層剥離)によって引き起こされた
制御の不安定さからくるダッチロールの発生とされています。




ピーターソンは何度か手術を受けましたが、顔の怪我、頭蓋骨の骨折、
片目を修復する「バイオニックインプラント」は当時ありませんでした。

事故で破損したM2-F2をベースに、先端フィンの間に第3垂直尾翼を追加し、
制御特性を向上させる改造が施されたM2-F3が製造されました。


つまり、「600万ドルの男」オープニングで飛び、墜落するのは、
他でもないスミソニアンに展示されているのと同じ機体ということになります。

このリフティングボディシリーズは、
NASAとノースロップ社の共同プログラムによって建造されました。
機体名の「M」は「manned」「F」は「flight」バージョンを意味します。

まず、最初のバージョン、M2-F1およびM2-F2の初期飛行試験により、
有人による宇宙からのリフティングボディ再突入のコンセプトが検証されました。

1967年5月10日にM2-F2が墜落したときには、すでに貴重な情報が得られており、
新しい設計に寄与していたため、この墜落は計画の失敗という意味ではありません。

ただ、M2-F2は横方向の制御性に問題があったため、ノースロップ社で
3年にわたる設計・改修の末、M2-F2を再建しました。

1967年5月の墜落事故では、左翼と着陸装置が引きちぎられ、
外板や内部構造にも損傷があったため、飛行研究所のエンジニアは、
エイムズ研究所や空軍と協力して、より安定性を高めるために
中央のフィンを持つ機体の再設計を行いました。

当初、機体は修復不可能なほど損傷していると思われましたが、
オリジナルの製造元であるノースロップ社が修理を行い、M2-F3と改名する際に、
第3垂直尾翼を追加して、先端尾翼の間の中央に配置し、
制御特性を改善するように改造されたというわけです。

M2-F3は依然としてパイロットにとって厳しい機体でしたが、
センターフィンの採用によって、M2-F2の特徴であった
パイロット誘起振動(PIO)の高い危険性を排除することができました。

■運用

M2-F3は1970年6月2日、NASAのパイロット、ビル・ダナが初飛行を行いました。


繋がれてる人がDana

改良された機体は、以前よりもはるかに優れた安定性と制御特性を示しました。
ダナはM2-F3で高度20,200m、マッハ数1.370を記録しました。

その後27回のミッションでM2-F3は最高速度マッハ1.6を達成。
最高到達高度は、20,790mでした。

このM2-F3は、1967年から1972年にかけて27回の飛行を行っています。

その実験の全てを成功させ、多くはスペースシャトルの実施に生かされました。
このリフティングボディの研究により、無動力着陸が安全であることが実証され、
シャトルには着陸エンジンが不要ということがわかったのです。

■ スミソニアン国立航空宇宙博物館のM2-F3

軌道上の宇宙船に搭載されているような
RCT(リアクション・コントロール・スラスター)システムを搭載し、
機体制御の有効性に関する研究データを取得しました。

M2-F3は、リフティングボディプログラムの終了に伴い、
現在の多くの航空機に使用されているサイドスティック型コントローラと
同様のサイドコントロールスティックの評価実験も行っています。


1973年12月、NASAはM2-F3をスミソニアン協会に寄贈しました。
現在は、1965年から1969年までドライデンのハンガーでパートナーだった
X-15 1号機とともに、国立航空宇宙博物館に展示されています。


■リフティングボディ実験のレガシー

1990年代から2000年代にかけての先進的なスペースプレーン構想では、
まさにこのリフティングボディ設計が採用されています。


HL-20実物大模型

例えば、HL-20人乗り打ち上げシステム(1990年)、
プロメテウス(2010年、中止)などがそうです。



HL-20の技術を発展させたドリームチェイサーは、現在のところ、
無人の補給船としての運用が想定されています。
ヴァルカンロケットに搭載して垂直状態で打ち上げられ、
滑空帰還して通常の滑走路へ着陸するのです。



2015年、ESA(欧州宇宙機関)のIntermediate eXperimental Vehicle(IXV)
がヴェガロケットで打ち上げられ、弾道飛行によって
低軌道からの地球帰還実験をシミュレートする飛行実験を実施。
史上初めてリフティングボディ宇宙船の再突入を成功させました。

IXVは、FLPPプログラムの枠組みで評価されうる、
ヨーロッパの再使用型ロケットを検証することを目的とした、
欧州宇宙機関の揚力体実験再突入機です。

このM2-F3は、これらの重量級無翼リフティングボディの第1号です。

無翼機の形状だけで空力的な揚力を得るというコンセプトは、
スペースシャトルの設計そのものに生かされることになりました。


リフティングボディのコンセプトは、NASAのX-38、X-33、
BACのMulti Unit Space Transport And Recovery Device、
欧州のEADS Phoenix、ロシアと欧州の共同宇宙船Kliperなど、
多くの航空宇宙計画で実施されてきました。

リフティングボディは、SpaceX社のファルコン 9ロケットにも採用され、
その設計原理は、ハイブリッド飛行船の建造にも利用されています。

続く。


マッハ2の偉業 ダグラスD-558-IIスカイロケット〜スミソニアン航空博物館

2022-04-17 | 航空機

スミソニアンの歴史的航空機シリーズの一つだと思うのですが、
ちょっとメインとは外れたところ(エスカレーターの横)に
こんなロケット機が展示されています。


ダグラスD-558-2スカイロケット(D-558-II)


いかにも近未来的なシェイプの航空機。
これはダグラス・エアクラフト社がアメリカ海軍のために製造した
ロケットおよびジェットエンジン搭載の研究用超音速機です。

■クロスフィールドの最速記録マッハ2



1953年11月20日朝、奇しくもライト兄弟が人類による動力飛行をおこなってから
50年目の1ヶ月前に当たるこの日、A・スコット・クロスフィールドは、
音速の2倍であるマッハ2で飛行した史上初のパイロットになりました。

この偉業を可能にしたのが、ロケット推進による空中発射の実験機、
ダグラスD-558-2号機「スカイロケット」です。

このテスト飛行で、スカイロケットは高度6万2千フィートから急降下中に
マッハ2.005(時速1291マイル)を達成しました。

その数秒後、XLR-8ロケットエンジンは燃料を使い果たして停止したため、
クロスフィールドはすぐさま地上に滑走し、
エドワーズ空軍基地のムロック・ドライレイクに着陸しました。

同じスミソニアン博物館のマイルストーンシリーズで、
音速を破ったX-1「グラマラス・グレニス」を紹介したばかりですが、
ダグラスD-558-II「スカイロケット」もまた、このX-1はじめ、
X-4、X-5、X-92Aといった初期の遷音速研究用航空機の一つです。

D-558-IIの初飛行は、1948年2月4日、
ダグラス社のテストパイロット、ジョン・マーティンが行いました。

この日から1956年までの間に、NACA(NASAの前身)、海軍・海兵隊、
そしてダグラス・エアクラフト社の共同プログラムにより、
単座・双翼の3機が飛行しましたが、初飛行から5年目にスカイロケットは、
世界で初めて音速の2倍の速さで飛行し、航空史にその名を刻んだのです。


「D-558-II」という機体名の「II」は何かと言いますと、
当初3期で計画されていて、第1期の機体は直線翼、
そして後退翼(swept wing)の第2期機が最終的に選ばれたからという説、
単にフェーズIIだったから、という説もあります。

ちなみに第3期は、第1期、第2期の試験結果を具体化した戦闘機で
モックアップを製作する計画でしたが、実現には至っていません。



後退翼が特徴

主翼の掃角は35度、水平尾翼の掃角は40度です。
主翼と尾翼はアルミニウム製で、胴体は非常に大型、
主にマグネシウム製でできています。

マリオン・カール中佐の最高度記録(非公式)


X-1と同じく、D -558-IIも、発射は大型機の翼の下から行いました。

これは、1953年8月21日、ボーイングP2B-1S「スーパーフォートレス」から
ドロップされる瞬間のスカイロケットテスト機です。

母機の「P2B-1S」は改称で、ダグラス・エアクラフト社は、
降下艇としての役割を果たすためにこの爆撃機を改良しました。

この日、この超音速研究用ロケットプレーンは、
エドワーズ空軍基地上空3万フィート(9,144m)で投下され、
この飛行中、マッハ1.728に達しました。

この日の出来事は、ワシントンAPはこのように打電しています。

海軍は月曜日、海兵隊のパイロット、マリオン・E・カール中佐
8月21日にダグラス・スカイロケット調査機で
83,235フィートの高度新記録を打ち立てたと発表した。


この名前を当ブログは何度となく必要に応じて記しているわけですが、
第二次世界大戦の戦闘機エースで、ラバウル航空隊と死闘を演じた
あのマリオン・カール中佐が、戦後は
テストパイロットとして活躍していたことを書くのは初めてかもしれません。



「スーパーフォートレス」機内で飛行服(耐圧スーツ)を身につけている
マリオン・カール中佐(左)。

海軍によると、この非公式な世界記録は、
新しく開発された高高度飛行服のテスト中に樹立されたものでした。

飛行服のテストのつもりで高度を上げて行ったら、
機体がいつの間にか記録を更新するくらい高く上がっていたので、
この際記録としてカウントしておこうということになったのでしょうか。

それまでの高度非公式記録は、2年前にダグラス社のテストパイロット、
ビル・ブリッジマンが同じ飛行機で打ち立てた79,494フィートだったので、
カールはこれを4000フィートも更新したことになります。

しかしながら、全米航空協会の規則では、高度記録への挑戦は
地上から離陸した飛行機でないとダメとされていたため、
この空中発射による記録はニュースにはなったものの、
公式記録としては認められることはありませんでした。

ちなみにブリッジマンの記録も空中発射された飛行機で作ったもので、
同じ条件だったので非公式記録となります。


■D -558-I スカイストリーク(ジェットエンジン)


左:マリオン・カール

「スカイロケット」の先代のD-558-Iは「スカイストリーク」Skystreak
何かに似てますよね・・・F-86?

第1期のD-558-1は、ジェットエンジンと直立翼を採用した機体です。
テストパイロットとしてのマリオン・カールは、このバージョンで
時速650.8マイル(1048km)の世界最高速度を記録したのです。

この機体は、真っ赤な色だったことから、
「クリムゾン・テストチューブ」とあだ名をつけられていました。

建造されたのは全部で3機、カール中佐が記録を立てたのは2号機でしたが、
その後のテスト飛行で圧縮機の分解により発射に失敗し墜落、
パイロットは死亡し、機体も失われることになりました。

あくまでも一般人の印象ですが、X-1があまりにも有名なのと、
せいぜいスカイロケットを知る人がいるのみで、
スカイストリークはほぼ無名と言っていいかと思います。

それはX-1がロケットエンジンで、スカイストリークが
普通にターボジェットエンジンだったから、と思い切って言ってしまいます。

D-558-Iは降下中だけとはいえ、ジェットエンジンでありながら
長時間の遷音速飛行を一応達成しているのですが・・・・。

X-1の超音速飛行はこれと比べると短時間であり、
航空工学的な実績は、ある意味こちらの方が評価されているらしいです。

さて、そこでD558-1を何とか改造して、ロケット動力とジェット動力、
両方に対応できるようにしようとしたのですが、不可能とわかったので、
全く別の機体であるD558-IIが誕生することになりました。

1947年に契約が変更されてD558-1の代わりに
3機の新しいD558-2を代用することが決定します。

この3機のテスト飛行の結果、多くの貴重なデータが得られました。
例えば、遷音速と超音速における翼と尾翼の荷重、揚力、抗力、
そして緩衝特性の関係などについてです。

■なぜ遷音速か

遷音速の研究機はなぜ必要だったのでしょうか。

その理由の1つは、マッハ0.8から1.2までの速度範囲について、
それ以前の正確な風洞データがなかったこと。

もうひとつは、従来のP-38「ライトニング」のような戦闘機は
音速に近づくと、密度の増加や気流の乱れによる衝撃波の発生で急降下し、
機体がバラバラになってしまうというリスクがあったからです。

遷音速の限界に耐えられる機体を作ることによって、
危険を回避し、衝撃波にも十分耐えられる安全性の確保ができますね。

NACA、陸軍航空隊、海軍を中心とする航空関係者は、特に現場で
遷音速域での圧縮効果に耐える構造強度持った機体を切望していました。


このとき陸軍は最初から「ロケットエンジン派」でX-1にも出資しましたが、
海軍はより保守的な設計を好み、D-558-Iを推しています。
NACAは保守的でしたが、X-1の研究も支援しています。

各団体の傾向がちょっとずつ違うのが興味深いですね。

ダグラスD-558-IIは結局米海軍とダグラス・エアクラフト社、
全米航空諮問委員会(NACA)の共同研究プロジェクトとなりました。

そして海軍は結局1945年6月22日、ダグラス社に対して、

翼と尾翼が直線的で薄く、ターボジェット推進を持つD-558型機6機

の製造に関する注文書を発注しています。

開発責任者は、エドワード・H・ハイネマン主席技師でした。

海軍はジェット機推しだったと先ほど書きましたが、
DC -558のダグラス社との契約の際、第1期が直翼ターボジェット機、
第2期がターボジェット推進とロケット推進による掃射翼機、
と2つのフェーズに分けることが決まりました。

ダグラスと海軍は、その後、戦時中のドイツの後退翼機の捕獲データ
(これってもしかしてコメート以下略)を分析し、
アメリカの科学者ロバート・T・ジョーンズの研究と合わせて、
D-558の契約を変更し、予定していた3機を削除して、
ターボジェットとロケット・エンジン、両方を搭載した後退翼機
3機に置き換えることに決定しました。

そこでさしもの保守的な海軍も、
旋回翼機がマッハ1越えの推進力を得るためには
ロケット推進が必要としてこれを付加することに合意したというわけです。

さらに、第2期機にの製作で、ターボジェットとロケットエンジン、
この両方を搭載するためには、新しい胴体が必要ということもわかりました。

そこで、主翼よりも薄く、可動する水平安定板を採用し、
主翼と水平尾翼が音速越えの際に受ける衝撃波の影響を受けないようにし、
衝撃波の際も、ピッチ(機首上げ下げ)制御ができるようにしました。

ダグラス社がD-558-IIを製造している間、NACAは以前ここでも紹介した
ラングレー風洞でのテストや、無人機による実験のデータを提供しました。



リアクションモーターズのLR8-RM-6 4室ロケットエンジン1基を搭載し、
旋回翼機で燃料はアルコールと液体酸素でした。

ただし、フェーズIIの3機には元々、ウェスティングハウス社の
J34-W-40ターボジェットエンジンも搭載されていました。



全長12.80メートル、翼幅27.62メートル、
主翼の前縁は35°、尾翼は40°に後退しています。

空虚重量は4,273キログラム、最大離陸重量は7,161キログラム。
1,431ℓの水/エチルアルコールと1,306ℓの液体酸素を搭載しました。

制作された1948年2月4日から6年半の間に、
3機のロケットプレーンは合計313回の飛行を行っています。



ターボエンジンは胴体前部のサイドインテークから供給されますが、
これが使われるのは離陸、着陸の時で、高速飛行用には、
4室構造のリアクションモーターズ製LR8-RM-6エンジンが使われます。

機体はコクピットからの視界が悪かったため、従来の角度のついた窓を持つ
盛り上がったコクピットに再設計されています。

D558-1型と同様、緊急時にはコックピットを含む前部胴体が分離され、
前部胴体が十分に減速した後、パイロットはパラシュートで
コックピットから脱出することができるようになっていました。


■運用の歴史

スカイロケット3機の飛行回数は、
1番機123回、2番機103回、3番機87回の合計313回でした。

スミソニアンに展示されているD-558-2 #2は、
アメリカ海軍が、遷音速および超音速での空力情報を得るために
ダグラス・エアクラフトに発注した6種類の研究機のうちの1つに過ぎません。



D-558-1とD-558-2は細部の設計が大きく異なりました。

D-558-1は、音速のマッハ1程度が限界でしたが、D-558-2は、
ロケットエンジンによりマッハ1を軽く超えることができたそうです。

高負荷のロケット推進機は地上から発射させることは
安全性にも問題があるため、ダグラス社はスーパーフォートレスを改造し、
爆弾倉から空中発射できるようにD-558-2#2、#3を改造しました。

同時にD-558-2#2を全機ロケット推進に変更しています。

そして、ターボジェットエンジンがあったスペースを燃料の増槽にするとか、
機体にワックスを塗って抵抗を減らすなどの工夫、
そして約72,000フィートまで飛行してわずかに急降下する飛行計画により、
クロスフィールドはスカイロケット唯一のこのフライトで、
マッハ2.005(時速1291マイル)に達し、
航空史にその名を刻む快挙を達成したというわけです。



スカイロケットのパイロットたちは、記録を打ち立てただけでなく、
遷音速および超音速飛行領域で旋回翼機を安定的に制御して飛行させるために
何が有効で何が有効でないかを理解し、重要なデータを収集しました。

また、風洞試験の結果と実際の飛行値との相関関係をより明確にすることで、
設計者の能力を高め、軍用機、特に掃射翼の航空機を
より高性能にすることにも貢献したのです。

その後、X-1やセンチュリーシリーズの戦闘機は、この初期の研究機から
安定性や操縦性などのデータを得て世に生まれることになりました。


続く。

世界初!民間有人宇宙飛行 スペースシップ・ワン〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

何度も書いていますが、スミソニアン航空宇宙博物館に足を踏み入れると、
歴史的なマイルストーンとなる航空機が最初に現れます。


リンドバーグが大陸間横断の偉業を打ち立てた、
「スピリット・オブ・セントルイス」号とわずかな空間を隔てたところに
スペースシップ・ワンはあります。

この民間の有人航空機は、宇宙に飛び立ち、到達し、
そして無事に帰還して商用宇宙飛行の未来の嚆矢となりました。


したから見ただけでは全く全体像の掴めないこの機体には、
いかにもお役所仕様ではない遊び心が溢れすぎてダダ漏れのデザイン。

アナログなおっさん二人がグーグルのインターンシップに紛れ込み、
最後に入社の栄光を勝ち取るという映画「インターンシップ」で、
グーグル本社の映像にこれが映っていたのにはちょっと驚きましたが。


わたしがスミソニアン博物館を訪れたのは2018年でしたが、
その前に撮られた写真に撮られた写真では、こんな展示となっています。

定期的に展示の態勢を変えていろんなポーズを見せる心配りかもしれません。


で結局どんな形なのかというとこれなんです。
いやこれは新しいわ。

従来の航空機のどれにも似ていない斬新なシェイプをしております。

■ 初めての民間宇宙船

2004年、スペースシップ・ワンは、3人を乗せて軌道下で宇宙飛行を行い、
最初の民間開発宇宙船アンサリXプライズで1000万ドルを得ました。

アンサリXプライズというのは、Xプライズ財団によって運営され、
そのものズバリの有人弾道宇宙飛行を競うコンテストのことです。

スペースシップ・ワンはその受賞対象である、

     1、宇宙空間(高度100 km以上)に到達する
2、乗員3名(操縦者1名と乗員2名分のバラスト)相当を打ち上げる
3、2週間以内に同一機体を再使用し、宇宙空間に再度到達する

という三つの受賞条件を満たしたというわけで、
言わば鳥人間コンテストの大規模なものみたいな感じだと思います。

ところで、この三つの条件の3番目の意味がよくわからんのですが、
1回成功してもまぐれかもしれないから、ってことなんでしょうか。

スペースシップ・ワンは、2週間以内に見事おなじ弾道飛行に成功し、
受賞対象になって賞金を獲得したということになります。

ところで、このスペースシップ・ワンの出資者、誰だと思います?


ポール・アレン

言わずと知れたマイクロソフトの共同創業者ですね。
2018年10月といいますから、わたしがスミソニアンで
スペースシップワンを見た2ヶ月後にリンパ腫で亡くなっておられます。

マイクロソフトを退社してからは慈善事業に参入し、
このスペースシップ・ワンへの出資もその一環だったそうです。

余談ですが、彼は第二次世界大戦時の兵器に造詣が深く、マスタングや
シャーマン戦車、なんなら一式戦闘機「隼」までコレクションしていました。

深海調査船で「武蔵」「インディアナポリス」などの
軍艦の沈没地点を明らかにしていたのも記憶に新しいところです。

アンサリXプライズについても話しておきます。



アメリカの起業家、ピーター・ディアマンディス(Peter Diamandhis)は、
1995年Xプライズ財団を設立しました。

スミソニアンでスペースシップワンの隣に展示されていた
「スピリット・オブ・セントルイス」で大西洋横断を行ったリンドバーグが
1927年に受賞したオルティーグ・プライズの、

「ニューヨーク市からパリまで、またはその逆のコースを
無着陸で飛んだ最初の連合国側の飛行士に対して与えられる」

という条件を満たすためにその壮挙を成功させた例に倣い、
この目的ありきの賞が、リンドバーグの時航空業界に拍車をかけたように、
アンサリXプライズによって宇宙開発に刺激を与えることが目的でした。

賞のアンサリという名前は、イラン系アメリカ人であるビジネスパートナー、
アヌーシャ(Anousheh)とアミール(Amir)・アンサリから取られています。


左から:ハミッド・アンサリ、パイロットのブライアン・ビニー
プライズ出資者アヌーシャ・アンサリ、設立者ピーター・ディアマンディス
そして出資者のアミール・アンサリ

アンサリ何人いるんだよっていう。

出資者のアンサリーズは賞金の1000万ドルを出資しています。

このアヌーシャは2006年に、スペースアドベンチャーズ社が仲介して、
ロシアのソユーズ宇宙船でのプライベートトリップに加わり、
国際宇宙ステーションに宇宙飛行士として飛びました。



彼女は宇宙旅行者としては女性初めて、そして
イラン系初のイスラム教徒の女性として宇宙へ行った人物となりました。

ちなみに彼女は10代でイランから米国に移住したイラン系アメリカ人で、
先ほどの写真のうち夫はハミド、アミールは義弟だそうです。

事業で成功した彼らは、宇宙事業に出資して
念願のアンサリX賞を設立したというわけです。

宇宙に対して早くから関心を持っていた彼女は、ロシアで訓練を開始し、
当初は、日本の実業家、榎本大輔氏のバックアップとして参加しましたが、
榎本が健康上の理由で宇宙飛行を断念したため、
彼の代わりにソユーズTMA-9のフライトクルーとなり、
打ち上げ後、国際宇宙ステーションで8日間を過ごしました。


左から:
バージン・ギャラクティックのオーナー、サー・リチャード・ブランソン
スペースシップ・ワンの設計デザイナー、バート・ルータン
スポンサー、ポール・アレン

まさに今飛び立つスペースシップ・ワンを見ています。
全員が指差し確認している状態って、なんなんだ。
やっぱりついついこのポーズをやっちゃうのでしょうかね。

バージン・ギャラクティックというのはご想像の通り、
バージン・アトランティックのバージングループの傘下にあり、
会長のリチャード・ブランソンが設立した宇宙旅行ビジネスを行う会社です。
(ちなみに今現在従業員は30名)


スケールド・コンポジッツ社より技術提供を受け、
宇宙船「スペースシップツー」を開発した会社で、
米国ニューメキシコ州とスウェーデンに「スペースポート」を持っています。

昨年12月、日本の実業家、前澤友作氏が100億だかなんだか払って
ソユーズで宇宙に行きましたが(一応話題になってましたかね)
今後もヴァージン・ギャラクティック社は、
年500人の観光客を一人当たり25万ドル(2885万円くらい)の料金で
宇宙へ送る計画を立てています。

ただし前澤氏のような宇宙ステーションまでというプランではなく、
弾道飛行で、大気圏と宇宙のおおよその境界とされる
地上100kmを若干超える高さに到達するだけということになります。

それでも完全な無重力になる時間はおよそ6分間あるそうなので、
それくらいなら一度くらい経験してみたいと思う人もいるかもしれません。

同社はその後、「スペースシップツー」を開発し、
(その間事故などにも見舞われたようですが)2021年7月11日、
創業者のリチャード・ブランソンら6人が搭乗して
高度80kmに到達し、3分間の無重力体験を行ったのち、
1時間後に無事帰還することに成功しました。

■” あなたもスペースシップ・ワンで宇宙へ”

The story behind Virgin Galactic - SpaceShipOne to ... 

動画の最初で大きな飛行機が宇宙船を運んでいるのがわかりますが、
これが「ホワイトナイト」(White Knight)と名付けられた母船です。

宇宙船がホワイトナイトからリリースされると、
スペースシップ・ワンのロケットエンジンが点火されます。

その接合された翼は「feathered 」ポジションに回転し、
大気圏への飛行を安定させるのです。

人々は、宇宙旅行のチケットを購入するような日がやって来ることを
長い間夢見てきました。

1964年、パンアメリカンワールド・エアウェイズは、2000年から
軌道宇宙ステーションへの定期便飛行を開始するとして、

「ファーストムーンフライト」クラブ

の受付を開始しており、1964年以降、9万3000人が、
その順番待ちリストに名前を連ねました。

その会員証・会員ナンバー1043、ジェームズ・モンゴメリー様

これは1968年から1971年にかけて行われたパンナムの
まあ言えばマーケティング・キャンペーンに過ぎません。

ふざけていると考える人もいましたが、パンナムは大真面目だったようです。

この企画は、1964年、オーストリアの一人のジャーナリストが、
ウィーンの旅行代理店に月への飛行を依頼したのが始まりでした。

旅行代理店がパンナム航空とアエロフロート航空に依頼を出したところ、
パンナムは企画を立て、最初のフライトは2000年だと回答したのです。

このとき、SF映画「2001年宇宙の旅」が公開されたこと、
1968年にアポロ8号が成功したことで一層関心が高まりました。

パンナムがウェイトリストを保存していることがメディアに漏れると、
会社には問い合わせが殺到しました。
さらにはアポロ11号による人類初の月面着陸が成功し、
この夢のようなプランにお金を出す人は増加していきます。

このカードに記載されている名前のジェームズ・モンゴメリーとは
当時のパンナムの販売担当副社長でした。

カードの裏面には「スペースクリッパー」が描かれ、
順番待ちリストを示すシリアルナンバーが印刷されていました。


最終的には90カ国から93000人が申し込みをし、そのリストには
ロナルド・レーガン、バリー・ゴールドウォーター、
ウォルター・クロンカイト、ジョージ・シャピロ
など、
(中にはシャレで申し込んだ人もいたかも)多くの公人が含まれました。

パンナムはもし計画が実行されたら何年後でもリストの順番は維持される、
と最後まで言っていたようですが、その後財政危機に陥ってしまい、
2000年までに破産して影も形も無くなってしまったのは皆様の知るとおり。

そして、リストに名前を連ねた人々のほとんどは、自動的に、そして確実に、
月ではない別のところに行ってしまったということになります。



ところで、その2001年宇宙の旅のプロモーションアートを手掛けた
「スペースアーティスト」のロバート・マッコールが描いた絵が、
ここボーイング・マイルストーンオブ・フライトホールに展示されています。

人々が宇宙旅行をすることのできる未来は案外近いのかもしれません。


ところで、さっきちらっと話が出た「日本人実業家榎本氏」ですが、
皆様この人のことご存知でした?

失礼ながらわたしは全く名前にも聞き覚えがなかったのですが。


氏は、前述の宇宙飛行士不適格事件で、料金の返還を求めて、
仲介を行ったSpace Adventures社を訴えた末和解しています、

医学上の問題で不適格と見做された場合は、代金の払い戻しは行なわれない、
という契約条項を氏は知った上で契約した、というのがSA社の主張ですが、
ご本人によると、それは法を盾に取った「言い訳」だそうです。

つまり、このとき、Space Adventures社は
氏の代わりに搭乗した富裕な実業家女性アヌーシャ・アンサリ氏から
「別の投資」を受け取るために氏を追いやったのだと。

「医学的な問題」というのがどの程度交代に足る理由だったか、
ということが争点になったんだと思いますが、
どちらにしてもなんだかドロドロした話になっていたんですね。


ところで、前述の前澤氏が宇宙に行くことが決まった時、
わたしはメディア発表をアメリカにいるときに見ましたが、
現地報道の様子は「ふーん、で?」というような冷たいものでした。
前澤氏のプロフィールもその事業についてもほとんど触れられず、
肩書きも「日本のミリオネア」だけだった記憶があります。

前澤氏がアメリカ人だったら反応は違っていたのでしょうか。

一部の億万長者だけが宇宙旅行を経験できる現代ですが、
すでに利権やお金の絡んだ美しくない話も裏では起こりつつあるのでしょう。

これも人の世の常といったところです。

因みにリチャード・ブランソン氏は2005年にこんなことを言っています。

「手頃な価格のプライベート宇宙旅行は、
類の歴史に新しい時代を開きます。
軌道に乗る、月にいく。
このビジネスには限界というものはないのです」

一般市民がその恩恵に与ることができるようになるのは何年後でしょうか。


続く。

バイキング・ランダー(着陸船)とカール・セーガン〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空博物館のマイルストーン航空機展示場には、
アメリカが打ち上げた二つの歴史的なカプセルと並んで、
火星探査機バイキング Viking Lander
が展示されています。

バイキング計画(Viking Program)
は、NASA、アメリカ航空宇宙局が1976年に行った火星探査計画です。

それは一対の宇宙探査機、バイキング1号とバイキング2号で構成されおり、
結論として火星の着陸に成功しました。

この二部構成からなる宇宙船は、火星の秘密を解き明かす端緒となり、
その成果は、惑星探査に対する国民の熱意を刺激することにつながりました。

それにしても、凄いものです。

スミソニアン博物館に足を踏み入れると、ゲートを入った瞬間、
あなたはアメリカ初のジェット機、最初の音速機X S-1、
月着陸ロケット、ジェミニ計画のフレンドシップ7、
そして火星探査着陸機を同じ空間の中に一望できるのですから。

これらはどれ一つとっても、特別展を開いて展示する価値のある
歴史的な航空機ですが、アメリカ合衆国というところは、
それら全部を一つの博物館どころか、その一つの部屋に集めて
さっくりとひとまとめにして見せているのです。

20世紀は文字通り「アメリカの世紀」だったと言っても、
少なくともこの空間に立ってこれらを眺めたことのある人なら、
賛同していただけるのではないかと思います。

■ スミソニアンのバイキング・ランダー

宇宙船バイキングは、母船であるオービターと、着陸船ランダーの
2つの主要部分から成っています。

オービターは軌道から火星の表面を撮影するため設計され、
着陸したランダーのために通信中継ポイントとして機能しました。
ランダーは表面から火星の調査をするために設計されたものです。

ランダーは、火星表面と大気の生物学、化学組成(有機物と無機物)、
気象学、地震学、磁気特性、外観、物理特性を研究するという
ミッションの主要科学目的を達成するための機器を搭載していました。

360度円筒形のスキャンカメラ2台が搭載され、
中央部からは、先端にコレクターヘッド、温度センサー、
マグネットを搭載したサンプラーアームが伸びています。

脚の上部からは、温度、風向、風速のセンサーを搭載した気象観測ブームが伸び、
地震計、磁石、カメラのテストターゲット、拡大鏡も搭載。

内部区画には、生物学実験とガスクロマトグラフ質量分析計、
また、蛍光X線分析装置もこの中に設置されています。

着陸機本体の下には、圧力センサーが取り付けられています。
科学実験装置の総質量は、約91kgでした。



説明板にあった略図

実物を見ても目に止まるのが長いブームです。

これは掘削ブームであり、調査のために火星の土を集めることができました。
ブームで集められた土は、宇宙船の上にある3つのキャニスターに収められました。


「あなたはそれらを見つけることができますか?
ヒント:一つには上にじょうごがついています」

と説明板に書いてあったので、わたしも探してみました。
ここには二つのキャニスターが写っています。

それにしても、地面の土をすくって缶に入れている探査機、
なかなか遊んでいるようで可愛らしいものです。

そういえば、火星の石をひっくり返してばかりいる探査機が、

「あいつもしかしたら、石の裏のダンゴ虫でも探してるんじゃないか」

とNASAの人が疑う、という漫画があったのを思い出します。
(いしいひさいちだったかな)

ここに展示されているのは、1976年に火星の表面に到達した最初の
アメリカの宇宙船となった二つの宇宙船と全く同じ機能を持つものです。



ミッションの計画中、そして着陸船が火星で活動している間、
科学者とエンジニアはこの複製を使用し、着陸船がさまざまなコマンドに対し
どのように反応するかをモデル化していました。

宇宙船が火星にランディングし、データを取集する機能がもたらしたものは、
それまで科学者たちが火星について知っていたことにとって
革命とも言える新しい事実でした。

火星が何でできているのか。

火星がどのように形成されてきたのか。

そして太陽系の進化について。



■バイキング計画

松任谷由美が「ボイジャー〜日付のない墓標」という歌を歌っていたのは、
ボイジャー計画が実行されてしばらくたった頃だったでしょうか。

小松左京のSF「さよならジュピター」と言う映画の挿入歌だったそうですが、
あの「妖星ゴラス」のように、ブラックホールを避けるために
木星を爆発させて軌道変更させるというこの話も、
「ボイジャー」と言う題そのものも、元はと言えば
このボイジャー計画にインスパイアされたのに違いありません。

さて、そのボイジャー計画ですが、1970年後半、
NASAが宇宙空間での探査のために打ち上げた「深宇宙探査機計画」です。

ボイジャー計画では、無人惑星探査機ボイジャー1号と2号を打ち上げられ、
撮影された画像は多くの新しい科学的発見をもたらしました。

それらは電池がきれるとされる2025年ごろ(あ、もうじきだ)まで
宇宙空間で漂いながら稼働する予定です。

ボイジャー1号と2号(イメージ図)

しかし、このバイキング計画は、NASA創設の初期から、
「より野心的なボイジャー火星計画」として発展したものです。
つまり、宇宙を漂いながら撮影を続けるボイジャーと違い、実際に
火星という目標を決めてそこに降り立ち、探査を行うというのです。

バイキング1号は1975年8月20日に、2号機は1975年9月9日に打ち上げられ、
いずれもケンタウルス上段のタイタンIIIEロケットに搭載されました。

バイキング1号は1976年6月19日に火星周回軌道に入り、
バイキング2号は8月7日に火星周回軌道に入ります。

これは、わかりやすくいうと、降りるべき場所を探していたんですね。

火星を1ヶ月以上周回し、着陸地点の選定に必要な画像を返した後、
軌道船と着陸船は分離し、着陸船は火星大気圏に突入し、
さらに選定された場所に軟着陸することに成功しました。

まずバイキング1号が1976年7月20日に火星表面に着陸。
その頃火星軌道上に到着したバイキング2号は、9月3日軟着陸に成功します。

そして着陸機が火星表面に観測機器を設置する間、
軌道上から軌道周回衛星が撮影やその他の科学的作業を行なっていました。


■生命体の探索〜火星人はいたか

昔、火星人といえば、誰がか考えたか、タコのような生物とされていて、
漫画でもそのような認識が随分と浸透していたような気がします。
なぜタコだったのか今となっては謎ですが、このバイキング計画では、
三つの目標のうちの一つが、火星に生命体が存在した証拠を探すことでした。

ちなみにあと二つは、

「火星表面の高解像度画像を獲得する」

「待機と地表の構造並びに素性を明らかにする」

ことです。

火星にタコのような火星人はいるのか。いたのか。
このことを、化学物質を採取し、
それを分析することによって探ろうとしたのです。


各々のバイキングランダーは、地表から土をすくい取り、
分析のためにそれを小型のロボット化学実験室に回しました。


バイキングは、火星の土から生命の構成要素の多くを検出しましたが、
しかしながら、火星に生命が存在したと言う証拠は見つかりませんでした。

それこそ、石の裏のダンゴムシでもいいから、何かその痕跡があれば、
人類はそこにいたかもしれないタコ(かどうか知りませんが)星人について
あれこれと思いを巡らすこともできたのですが。

とはいえ、ご安心ください。
科学の進歩は、少し前にわからなかったことも明らかにしているのです。

確かに、ミッション期間中、NASAは

「バイキングランダーの結果は、2つの着陸地点の土壌に
決定的なバイオシグネチャーを示すものではなかった」

と発表して世界をガッカリさせましたが、
試験結果とその限界についてはまだ評価が終わっていない状態なのです。

後年送られたフェニックス着陸船が採取した土からは、
過塩素酸塩が発見されました。

過塩素酸塩は加熱されると有機物を破壊する性質があるので、
バイキング1号2号の両方で分析した土壌に含まれた有機化合物を
過塩素酸塩が壊した可能性も捨てきれない
と言うのが現段階の見解です。

つまり、火星に微生物が生息しているかどうかは、
まだ未解決の問題ということなのです。

さらに2012年4月12日、科学者の国際チームが、
1976年のバイキング・ミッションの解析による数学的推測に基づき、
「火星に現存する微生物生命」
の検出を示唆する可能性のある研究を報告しました。

さらに2018年にはガスクロマトグラフ質量分析器(GCMS)を使い、
結果の再検討をおこなってそこで新しい知見が発表されています。




バイキングが送ってきた劇的なカラー写真の多くは、
火星の空の色をはっきりと捉えていました。

火星の空、それは予想していたような青ではなく、
サーモンピンクだったことは人々を驚かせました。

着陸船はまた、土壌を分析し、風を測定し、大気をサンプリングしました。


そして火星の「地理」です。

この明瞭な写真は、バイキング1号と2号の撮影したものを合成してあります。

真ん中を横切る亀裂のような線は、
バリス・マリネリス(Vallis Marineris)峡谷
左側に二つ見えている点はタルシス火山(Tharsis)
そして白く雪か氷を頂くのは北極と名付けられました。

大量の水から形成される典型的な地形を数多く発見したことで、
オービターからの画像は、火星の水に関する考えに革命をもたらしました。

巨大な河川、渓谷の存在そして洪水の跡。
水は深い谷を作り、岩盤を侵食し、何千キロも移動していました。

かつては雨が降っていたと言う証拠です。

また、ハワイの火山のようにクレーターがあり、
また、泥の中の氷が溶けて地表に流れ込んだと考えられました。
地下水の存在も明らかになったのです。



■カール・セーガン


火星探査機バイキングってこんなに小さかったの?

と驚く人もいるかもしれません。
これはモックアップですが実物大で、ランダーは
1.09mと0.56mの長辺を交互に持つ6面のアルミニウム製ベースからなり、
短辺に取り付けられた3本の伸ばした脚で支えられていました。

脚部のフットパッドは、上から見ると2.21mの正三角形の頂点を形成します。




横に立っている人物はカール・セーガン。
場所はカリフォルニアのデスバレーです。

コーネル大学の天文学者であった
カール・セーガン(Carl Sagan)
は、着陸地点の選択とバイキング計画全体を支援した人物です。

彼は、1970年から1990年代にかけて、宇宙探査の興奮を
同世代のアメリカ人(とここには書いています)に明確に伝えました。

彼は、自身のPBSテレビシリーズ「コスモス」(1980)、
ジョニー・カーソンとの「トゥナイト・ショー」などの番組に出演し、
雑誌、本などでの魅力的な執筆を通じて、
科学者と一般市民との間に知識の架け橋を作り、
その魅力を広く世に伝えました。


壇ノ浦の合戦、安徳天皇の入水、平家ガニという掴みから
DNAについて語るカール・セーガン。

■スミソニアン航空宇宙博物館のオープン


バイキング1が着陸に成功したのは、おりしもアメリカ建国200年の節目で、
その祝賀の雰囲気の中でした。(それに間に合わせたんでしょうけど)

1976年7月1日のその時、建国200周年の祝祭イベントの一つとして、
ここスミソニアン航空宇宙博物館がオープンしたのです。

リボンカットを行ったあと手を叩いているのは
現職の大統領だったジェラルド・フォードで、リボンカットは
バイキングのオービターが送ってきたシグナルと同時に行われたのだとか。

ここスミソニアン航空宇宙博物館が、いかにアメリカの科学、文化、
そして国力の象徴であったかを物語る写真です。



バイキング計画プロジェクト費用は打ち上げ時におよそ10億ドルで、
2019年のドル換算で約50億ドル(約5,761億323万7,700円)相当します。

このミッションは成功とみなされ、1990年代後半から2000年代にかけて、
火星に関する知識の大部分を形成するのに貢献したと評価されました。


続く。


”スペースウォーカー”ジェミニVI〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館に一歩足を踏み入れた途端、
その歴史的価値においてはどれも一級の航空機が並んでいて、
大国アメリカのこの世紀における底力に誰もが圧倒されますが、
特に、ソ連とその科学力を持って世界一を争った
航空宇宙開発の足跡であるところの宇宙船などは壮観の一語につきます。

今日はそんな宇宙開発展示の一つについてお話しします。

◆ジェミニ計画

ジェミニ計画(Project Gemini)は、アメリカ合衆国航空宇宙局、
NASAの、二度目の有人宇宙飛行計画です。

1958年から始まったマーキュリー計画と、有人宇宙飛行が目的だった
アポロ計画の間に当たる、1961年から1966年にかけて行われました。

ジェミニ計画の目標は「スペースウォーク」。
ジェミニ4号は、宇宙で活動することに向けた大きな一歩である、
宇宙船外における人類の活動を初めて可能にしました。


宇宙飛行士、エドワード・H・ホワイトは、ジェミニ4号の活動中、
このスミソニアンにあるカプセルの右側にあるハッチをあけて
宇宙空間に21分浮いたとき、初めて宇宙を歩いたアメリカ人となりました。


このとき、窓から出ていった予備の耐熱グローブは回収することができず、
しばらくスペースデブリとなって宇宙を漂っていたとか(回収済み)

ホワイト飛行士

残念なことに、アメリカ人で初めて宇宙を歩いたホワイトは、
この成功からわずか1年半後、アポロ1号訓練中の火災によって
ガス・グリソム、ロジャー・チャフィと共に殉職してしまいました。

アポロ1号の火災事故については、映画「アポロ13号」でも取り上げられ、
「ライト・スタッフ」では、ラストシーンで映るガス・グリソムの映像に
彼が事故で亡くなるという字幕が重ねられています。

話を元に戻します。

ジェミニ計画で最初のジェミニ1号が打ち上げられたのは1964年、
2号は翌年の1965年で、いずれも実験的な無人飛行でした。

ジェミニ初めての有人飛行となったのは3号で、このときは軌道を3周し、
その次の4号が初めて船外活動に成功したというわけです。

この時ジェミニ4号の機長ジェームズ・A・マクディビットとホワイトは
4日間にわたる宇宙飛行を記録し、アメリカ国内の滞在期間を更新しました。

以降ジェミニ宇宙船は1965年から1966年までの間に
2名ずつ10名の宇宙飛行士を宇宙に送り出しました。

その中にはアポロ11号乗員ニール・ームストロング、バズ・オルドリン
アポロ13号船長だったジム・ラヴェル
「マーキュリー・セブン」だったウォルター・シラー
そしてガス・グリソムの名前がありました。

宇宙開発競争の主要部分とも言えるジェミニ計画は、
いわば「基礎」となったマーキュリー計画によるカプセル打ち上げと、
より洗練されたアポロ計画との重要な架け橋だったと位置付けられています。

ジェミニ計画の飛行士は、順次打ち上げられた12号までのカプセルにおいて、
軌道を変更する方法、ランデブーして他の宇宙船とドッキングする方法、
そして宇宙を歩く方法などを学ぶことができました。

ジェミニは実用的な宇宙飛行の先駆けとなったのです。

そして対外的なことを言えば、この計画により、アメリカは
東西冷戦時代にソビエト連邦との間でくり広げられた宇宙開発競争において
決定的に優位に立つこととなったとされています。


◆人類初の宇宙遊泳者 アレクセイ・レオーノフ


先ほど、ホワイトについて「アメリカ人最初の宇宙遊泳者となった」と書きました。
それは、彼が「世界初」ではなかったからです。

世界で初めて宇宙を歩いた男。

それは、アメリカと開発競争を争っていたソビエト連邦の宇宙飛行士、

アレクセイ・レオーノフ
(Alexey Arkhipovich Leonov, 1934- 2019)

でした。

レオーノフは、世界で初めて宇宙に飛んだ男ユーリイ・ガガーリン、
ソユーズ1号で事故死したウラジーミル・コマロフらとともに
選抜されたソ連最初の宇宙飛行士の一人です。

レオーノフが世界で最初に宇宙遊泳を行ったのは1965年3月18日。
ボスホート(Voskhod)2号で打ち上げられ、約10分間、遊泳を行いました。

ジェミニ4号でのホワイトの宇宙遊泳は22分間で、これは、
彼がなかなか帰ってこなかったせいと言われていますが、
アメリカは先を越されてしまった分、せめてソ連より
1分でも長く滞在しようとしたという可能性もあるかもしれません。

当時の米ソの宇宙開発競争が、国家の威信と覇権をかけた、
それはそれは熾烈なものだったことを考えると、
これはあながち間違っていないのではとわたしは思います。


アレクセイ・レオーノフについてもう少し書いておきます。

この人はソユーズ11号に乗り込む予定でした。
しかし予定の三人のメンバーのうち一人に結核の陽性反応が出たため、
(これは後から誤診だったとわかる)
全員交代を命令されて彼も任務を降りざるを得なくなりました。

ところが、代わりにソユーズ11号に乗ったのが予備メンバー。
経験と訓練不足もあって、帰還時空気漏れ事故を回避することができず、
カプセルの中で全員が窒息死するという惨事に見舞われました。

殉職した飛行士たちの国葬

乗員交代の命令が降ったとき、レオーノフはこの措置に反発し、
結核の疑いのある者だけを交代させ、自分ともう一人を残すように、と
かなり強く要請したのですが、叶いませんでした。

しかしこのとき彼が予定通り乗り組んでいたら、
おそらく事故は回避されていたと考えられており、その理由は二つあります。

まず、酸素漏れの原因となった自動制御のノズルを、
レオーノフは手動に変えておくべきだと忠告しようとしていました。

つまりこの時点で空気漏れの事故は防げたはずというのが一つ。

それからカプセルの酸素が抜けていく音に気づいた乗員は、
ノズルがどこにあるのかわからず、探すために音声を切っています。

空気漏れの音が座席の下からしていることに気づいた時には手遅れでしたが、
レオーノフであれば、万が一そうなってもすぐに対処できたはずでした。

こうなると、諸悪の根源は、ラボの健康診断での誤診ということになります。
ここさえ間違わなければ、そもそもメンバーが交代もなかったのですから。


さて、このアレクセイ・レオーノフさんですが、
この写真を見てもなんとなくうかがえるように、大変気さくな人柄でした。

絵を描くのが大好きで、ご本人が持っている絵は自分で描いたもの。
宇宙開発の任務に携わっていた時期から、
趣味として宇宙などを題材とした絵画を描いていたそうです。

また数度の来日経験があり、気さくな人柄でテレビ出演や
トークショーなどを何度も行い、日本ではサインも日本語で書いていたとか。

2019年10月に85歳で亡くなりましたが、原因はコロナではありません。


◆コールサインは”ヒューストン”



ジェミニ4号に話を戻します。

これはジェミニ4号内部のホワイト飛行士(右)と
船長マクディヴィット飛行士で、リフトオフを待っているところです。

スミソニアンにはこれが反転した写真が展示されています。
ホワイトの肩の🇺🇸を見れば、こちらが間違っていたことがわかりますね。


さて、この両国の快挙で初めて人類が宇宙船の外に出ました。

それは宇宙飛行士が月面を歩くこと、そして宇宙ステーションの建設、
人工衛星の修理、化学機器の整備など、あらゆる可能性につながりました。

この宇宙遊泳は、人類が宇宙に踏み出すための偉大な一歩だったのです。

うわーみんな頭良さそう。あたりまえか。

ヒューストンコントロールセンターに最初に指名された
NASAの航空ディレクターたち。
彼らはジェミニIVのミッションディレクターとして働きました。

左上から時計回りに:

グリン・ラニー(Glyinn Stephen Lunney)
ジョン・ホッジ(John Dennis Hodge)
クリス・クラフト(Christopher Columbus Kraft Jr.)
ユージーン・クランツ(Eugene Francis "Gene" Kranz )

全ての宇宙飛行の実行のためには、多くを地上支援に頼ります。
ジェミニ4号以降、地上管制システムは、それまでの
フロリダ州ケープカナベラルからテキサス州ヒューストンの
ミッションコントロールセンターに移転しました。

コールサイン「ヒューストン」で知られるこのセンターは、
何十年にもわたる宇宙飛行のミッションを通じて、
冷静で科学的な管理と問題解決の象徴となりました。

ちょっとこの写真の面々を紹介しておきます。

【グリン・ラニー】

ジェミニ計画・アポロ計画のフライトディレクターです。

アポロ11号の月面上昇やアポロ13号の危機などの歴史的な出来事に立ち会い、
アメリカの有人宇宙飛行計画における中心人物と言われています。

「アポロ13」ではジーン・クランツ(エド・ハリス)が目立ちましたが、

「世界は、宇宙飛行士を破滅させる可能性のある大惨事を回避しながら、
宇宙飛行士を安全に月のモジュールに移動させる即興の傑作を組織したのが
グリン・ラニーだったことを記憶するべきである」

と述べる作家もいます。

【ジョン・ホッジ】

イギリスの航空宇宙技術者だったホッジは、カナダに渡って
戦闘機の研究をしていましたが、それが中止されるとNASAに入り、
フライトディレクターとして活躍しました。

【クリス・クラフト】

クリストファー・コロンブスというファースト&ミドルネームがすごい(笑)
彼はこの名前もあって、宇宙開発時代は大変な時代の寵児だったようです。

ところで、この4人のうち、いわゆるトップ工学系大学を出ているのは
バージニア工科大学を卒業したこのクラフトだけです。
アメリカって特に科学系は学歴ではなく実力主義だなあと思います。

それと、白人系であれば、他国籍でも軍事産業参加OKなんだなあと。


1957年、いわゆる「スプートニク・ショック」の後、アメリカは
始まったばかりの宇宙開発計画を加速させますが、
「人間を軌道に乗せる」問題の研究に誘われた彼は、有人宇宙計画、
マーキュリー計画の最初の35名のエンジニアの一人となりました。

「アメリカの有人宇宙飛行計画の始まりからスペースシャトル時代まで、
その推進力であり、功績が伝説となった人物」

と言われています。

【ジーン・クランツ】

映画「アポロ13号」でエド・ハリスが演じたジーンとはこの人です。

Gene Kranz: other famous quotes

うーんかっこよすぎでないかい。

実物もよし。
例のあのベスト(奥さんお手製)が似合ってます。


奥さんはミッションのたびにベストを手作りしていたため、
何種類もあったらしく、赤や黒のバージョンもあります。

クローズカット&フラットトップのヘアスタイルと共に、
妻のマルタがフライトディレクターの任務のために作った、これらの
さまざまなスタイルと素材の「ミッション」ベストはあまりにも有名で、
彼は今でもアメリカの有人宇宙開発の歴史のレジェンドです。

「タフで有能」の権化だった彼の語録は「クランツ・ディクタム」として、
映画やドキュメンタリー映画、書籍や定期刊行物の題材になりました。

2010年の宇宙財団の調査では、クランツは
「最も人気のある宇宙ヒーロー」の第2位にランクインしています。

空軍のテストパイロット出身で、マクドネル社を経てNASA入局。
ジェミニ4号の時にはまだマクドネルに所属していました。

アポロ13号打ち上げの時にフライトディレクターだった彼は、
彼らを地球に帰すNASA一丸となったミッションの指揮を執りました。
映画では、

「Failure Is Not An Option」
(失敗は選択肢にない=許されない)

というクランツのセリフが有名になりましたが、これは彼の発言ではなく、
管制クルーの一人がインタビューでなんとなく言った言葉を
脚本家がドラマチックに取り上げてクランツに言わせたと言われています。

ただ、クランツは、のちにこの言葉を自伝のタイトルにしています。


ジェミニ4号のミッション・コントローラーと話をする
NASAのディレクター、デーク・スレイトンDake Slayton(左)。

第二次世界大戦中はB-25ミッチェルの操縦士だったスレイトンは
戦後は空軍で戦闘機のテストパイロットをしていたところ、マーキュリー計画で
7名の宇宙飛行士の一人に選ばれますが、心臓に疾患があったため、
療養している間、ディレクターとしてNASAの宇宙開発事業に携わりました。




最後にちょっといい写真を。

スレイトンと、先ほどのアレクセイ・レオーノフのツーショットです。

後のシリーズで実物の展示写真と共にお話しする予定ですが、
スレイトンは1973年2月、ドッキングモジュール・パイロットとして
アポロ・ソユーズ テストプロジェクト(ASTP)
に参加することになりました。

アメリカ人クルーはロシア語を学び、ソ連に渡ったのち、
ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センターで
2年間の訓練プログラムを開始することになりました。

彼はスカイラブ計画中も管理職の役割を担っていましたが、
来るべきフライトに備えて1974年2月にディレクターを辞任しました。

そして、1975年7月15日、アメリカからアポロ宇宙船、
ソ連からソユーズ宇宙船が打ち上げられます。

7月17日に2機の宇宙船は軌道上でランデブーし、アメリカ人宇宙飛行士は
宇宙飛行士のアレクセイ・レオーノフ、ヴァレリ・クバソフ
クルー・トランスファー(乗員交換)を行いました。

この時スレイトンは51歳。
当時宇宙飛行を行った宇宙飛行士としては最高齢でした。


アポロ1号、そしてソユーズ11号と、宇宙飛行士が犠牲となった
宇宙開発戦争における悲惨な事故のうち二つを紹介しましたが、
それでもなお、人類にとって、当時、宇宙は
命をかけてチャレンジする価値のある未知の領域でした。

アメリカで最初に宇宙を歩き、その後アポロ1号の事故で殉職した
エド・ホワイトは、宇宙飛行からカプセルに戻る時、
ミッションコントローラーだったクリストファー・クラフトに、
このように通信しています。

”I'm coming back in…
And it’s the saddest moment of my life.”
(帰還する・・これは僕の人生で最も悲しい瞬間だ)

よっぽど宇宙が楽しかったんですね。

続く。


「月に触れてください」アポロ17号の月の石〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館のマイルストーンコーナーには、
文字通りのマイルストーンとして月の石が展示されています。

わたしが写真を撮ったとき、意識したわけではありませんが、
たまたま横にいて月の石を触ろうとしていたのは、
「NASA」の文字が書かれたTシャツを着た少年でした。



アポロ計画でアポロ11号が月面着陸させたのと同タイプである
LM-2と同じコーナーに、それはあります。


月面上で撮られた写真には、宇宙飛行士たちが持ち帰る前の、
地面(っていうか月面ですが)に転がった岩が写っています。

「あなたが触るのはこの岩の一部分です」

左に書かれているのは、

「アポロ計画の最後のミッションとなったアポロ17号のクルーは、
1972年の12月、この石のサンプルを地球に持ち帰りました」

そして、石は航空宇宙局から貸与されているものであるという説明です。


斜めに丸くくり抜かれたウィンドウは、
中央におそらく盗難防止のための分厚いアクリルガラスが嵌め込まれ、
その下の部分に手を差し入れるようになっています。

誰も見ていない隙に大掛かりな機材を使って
台座ごと根こそぎ掘っていくことができないようにかもしれません。


元々宇宙飛行士が持ち帰ったという「月の岩」はこれ。
写真に写っているのが結構大きなものであったことがわかります。

ここで展示されている岩があったのは、
「タウルス・リットロウの谷」と名付けられた場所で、
鉄分が豊富な火山岩であり、緻密で暗灰色または黒い玄武岩です。


アポロ17号の持ち帰ったサンプルは111キロあったそうですが、
それが一つの塊だったかどうかはわかりませんでした。

わかっているのは、主にアポロ15, 16, 17号によって採取されたのが
2415サンプル、総重量382キログラムであったということです。

アポロ計画において、月の石はハンマー、レーキ(熊手)、スコップ、
トング、コアチューブといった様々な道具を使って採集され、
ほとんどはここに展示してあるような採集前の状態が写真で記録されています。

石は採集時にサンプル袋にいったん入れられ、それから汚染を防ぐため、
特別環境試料容器に格納されて地球へ持ち帰られました。


月の上にあったというその岩は、一体幾つに刻まれたのか、
こんな小さなピースになり、それが埋め込まれています。


スライスされたばかりの月の岩。
ここに展示されているのは、星印の部分となります。


そしてその部分を触っている、見知らぬアメリカ人の手。



違うところに展示されている月の石らしいですが、
微妙に形が歪んでいますね。
なぜこの形にカットしたんだろう・・・。

◆月の一部にタッチしよう!

展示の横の説明にはこんな言葉があります。

月の実際の部分に手を触れること。
それはあなたを人類の宇宙への冒険に誘います。

最後のアポロ月面ミッションであるアポロ17号の乗組員は、
このサンプルを1972年12月に地球に持ち帰りました。

1969年7月から1972年12月の間に月に着陸した6回のアポロ計画は、
合計約382kgの岩と土のサンプルを地球に持ち帰りました。

これは月の歴史と構成について知るデータを地質学者に提供しました。



1960年代までは、月は文字通り「到達できない場所」でした。
しかし1969年以降、人々は月に到達することができるようになり、
それ以降人類の視野は根本的かつ大々的に変えられることになります。


プエルトリコのアレシボとバージニア州グリーンバーグには
巨大な電波望遠鏡が設置されています。

Arecibo Telescope

これらを使用して収集されたこの月のレーダー画像は、
北極(中央下)、岩の多いクレーターからの反射、
古代の溶岩流からの暗い反射がはっきり確認できます。

画像に「ブルース・キャンベル」と書かれていますが、
アメリカの俳優くらいしかヒットしませんでした。

◆月の一部を持ち帰るために

月に到達するまで、アポロ計画で乗組員に課された訓練の一つに
月のさまざまな、かつてないほど困難な場所に着陸し、
地球に持ち帰るためのサンプル標本を選択するためのものがありました。

特に最後のアポロ計画のために、NASAは、乗組員に
地質学者を加えたというくらいです。



アポロ17号のメンバー、左から月面着陸操縦士ハリソン・シュミット
船長(ミッション・コマンダー)ユージン・サーナン
司令船操縦士ロナルド・エヴァンス



この左のシュミットが学者代表で送り込まれた?地質学者です。

当初クルーにはサーナン、エバンスと別の飛行士が指名されるはずで、
シュミットは18号に搭乗する予定でしたが、
アポロ計画そのものが17号で打ち切りということが決定したため、
この決定を受け、科学者らの協会が

「17号では宇宙飛行士に訓練で地質学を学ばせるのではなく、
地質学者そのものを月面に赴かせるべきである」


とNASAに圧力をかけたと言われています。
それほど月の物質を持って帰ることが重視されていたということでしょう。

アポロ宇宙飛行士たちが持ち帰った月の石から貴重なデータを得ることは
研究者たちのアポロ計画の一つの大きな目的でした。

そしてこの科学者からの要望を考慮して、着陸船操縦士に指名されたのが、
地質学の専門学者であるシュミットだったというわけです。


地質学者ハリソン・シュミット、大きな岩を調査中。



シュミット、石採集中。

ちなみに、船長のサーナン、操縦士エヴァンスはどちらも海軍軍人でした。

サーナンはF -J-4フューリー、A-4スカイホークの艦載機パイロット、
エヴァンスは宇宙飛行士のテストの合格を受けたとき、
「タイコンデロガ」の艦載機であるクルセーダーのパイロットでした。


月周回軌道が2011年に撮影した、アポロ17号の月着陸地点の写真です。
この写真には、月面探査機の軌跡、宇宙飛行士たちの足跡が作った道、
そして月面探査機が降下した後がはっきりと写っています。

◆ ルナ・ディプロマシー(月外交)

アポロ17号のハリソン・シュミットは、月から採取した一つの岩を分割して、
親交国の政府、アメリカ50州、そして領地に配布することを選択しました。

それはまだ彼らが「月の上」にいるときに、司令官ジーン・サーナンは、
アポロが将来の世代のために挑戦の扉を開いた、と声明を発表しました。

「確かに今は、そのドアにはヒビが入っているかもしれません。
しかし、アメリカだけでなく、世界中の若者たちが共に手を取り、
学び、働くことができる、そんな将来が確実に訪れるはずです」


確かにその後、宇宙においてそれは理想に近づいたかもしれませんが、
また最近、ロシアという宇宙大国の一つが戦争を起こすことで
そこにも亀裂が入っているというのが現実です。

◆月の石の所在場所

アポロ計画によって持ち帰られた月の石はそのほとんどが
テキサス州ヒューストンの宇宙センター内にあります。

市場に出て売買されたものもあり、2002年には月試料実験室施設から
火星の岩石資料が入った保管庫が盗まれたこともあります。(回収済み)

日本では、1970年の大阪万博においてアメリカ館で実物が展示され、
連日長蛇の見学者が訪れたのが有名です。

2005年の愛知万博でも大阪万博のものとは別の月の石が展示され、
国立科学博物館には常設展示されています。


◆月の石捏造説


アポロ月着陸陰謀説を紹介したので、ついでにこちらも挙げておきます。

「アポロの回収した月の石は偽物で、アメリカの砂漠で拾ってきたもの」

アポロ着陸が陰謀なら、当然石もありえないということになるわけで、
こういうことを言う人が出てきてもさもありなんです。

実際には地質学者の研究により、月の石は年代的にも成分も、
地球の石とは全く異なる特徴を示していることや、
地球には存在しない組成を持っていることが発表されています。

そもそもこの捏造論者は、アメリカを始めとする地質学者、物理学者が
これまでに発表した論文をちゃんと調べず発言しており、
そのことも各方面から指摘されているようです。

しかも、現在進行形で世界各地の機関が、しかも分析機器の進歩を見込んで
少しずつ小出しにして研究が進められており、
過去にも多数研究論文が発表されているのですが、この名誉教授は
自分の専門外の研究についてそういったことについて確認せず、
捏造を学術的に反論しようともしていないことから、
トンデモ扱いされているようです。



1969年9月15日、アポロ11号の宇宙飛行士、

月着陸船パイロット エドウィン・E・オルドリン・ジュニア、
司令船パイロット マイケル・コリンズ、
船長 ニール・A・アームストロング

が、ワシントンDCのスミソニアン博物館の当時の博物館長
フランク・テイラーに2ポンドの月の石を見せています。



彼らは1969年7月、月面にこのように書かれた碑を遺してきました。

We came in peace for all mankind.
「我々は平和裡に月にやってきた 全人類のために」

冒頭の写真の男の子が成人する頃には、
人類が「手を取りあって」「平和に」宇宙に行く未来が来るといいのですが。


続く。





X-15とニール・アームストロングと『ファースト・マン』〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-04-07 | 航空機

スミソニアン博物館にはグラマンが提供した
「マイルストーン」(歴史的)機の展示コーナーがあり、
そこに並ぶ古今の航空系展示物を見ているだけで圧倒されます。

ソユーズやアポロ11号の月面着陸機などに目を奪われますが、
とにかく歴史的に「初めて」と冠のつく機体ばかりなので、
気がつけばノースアメリカンのX-15のような、
「航空機の究極の完成形」とまで言われる機体も、
どちらかといえばひっそりとそこにあったりします。

X-15。

それは将来のハイパーソニック航空機を可能にする、
重要な飛行データを収集した歴史的な機体であり、
大気圏内有人飛行と大気圏外宇宙有人飛行との間の
ギャップを埋め、橋渡しをしたといわれています。
これらのロケットパワーの研究用航空機は、マッハ5、
つまり音速の5倍である「極超音速領域」を調査しました。

驚くべきことに、X-15は、今現在でも、依然として
世界史上最も速く、そして高く飛んだ航空機です。

1959年に行われた最初のテスト飛行以来、X−15は
マッハ4、マッハ5、そして6に達し、飛行中に
高度100,000フィート(30,500m)を遥かに超えて
190回以上の飛行を行った最初の航空機となりました。

スミソニアンのX-15、機体番号66670
製造された3機のうち一番最初のものです。
現存するのはこの機体とあともう一機です。

この66670は記録を樹立した機体ではありませんが、
82回のミッションの過程でマッハ6に達しました。


■X-15の機体


わたしがこのホールに立ってこの写真を撮りながら思ったのは、
なんて翼の小さな飛行機なんだろう、ということです。
翼というものがほとんど意味を持たないような・・・、それは
ロケットに申し訳程度に翼をつけてみただけ、というように見えました。



スピードが目的で建造された飛行機に、飛行を安定させるための
大きな翼は全く必要がないのです。


なぜなら、X-15は自分で離陸せず、ボーイングB -52で
高度12,000メートルまで運ばれ、翼の下からドロップ発射されるシステムでした。


一階のフロアからは下腹しか見えません。


2階からはほぼ真横から見ることができます。
この時は、10代の少年が食い入るように説明を読んでいました。

ここに訪れる青少年の中から将来のパイロットが生まれる確率は高いでしょう。

彼が見ているX-15機体図


スペースの関係で90度傾けました

胴体は長く円筒形で、後部フェアリングにより外観が平らな感じ。
背中と腹部の厚いウェッジフィン・スタビライザーが付けられました。

引き込み式着陸装置は、機首車輪の台車と2つの後部スキッドなので、
着陸の動画を見ると、只事でない感じの土煙が上がっています。

パイロットは着陸直前に下部フィンを切り離してパラシュートで落とします。
なぜなら下部フィンがスキッドの邪魔になるからです。

また、時速4,480km、高度37kmで作動する射出座席がありましたが、
計画中には一度も使用されたことはありません。
パイロットが着用したのは、窒素ガスで加圧できる与圧服でしたが、
高度11km以上では、コックピットも窒素ガスで0.24気圧に加圧され、
呼吸用の酸素はパイロットに別途供給される仕組みでした。

■ X -15のテスト飛行

「大気圏内有人飛行と大気圏外宇宙有人飛行との間の橋渡しをした」

と先ほど書きましたが、X-15プログラムの199回に渡るフライトで得られた
貴重なデータは、全てマーキュリー、ジェミニ、アポロ、そして
スペースシャトルプログラムに生かされました。

特に、新しい耐熱素材、そして空中と宇宙の間を移動するための
飛行制御システムの開拓はこれがなければ生まれていなかったでしょう。


カリフォルニアのエドワーズ航空基地のランウェイ上にあるX-15.
上空に飛んできているのは牽引をするB-52です。





X -15のノーズには
BEWARE OF BLAST「爆風注意」とラベルされています。
同じ注意書きがエンジン部分にもあります。


X-15のテールは厚いくさび形で、極超音速でも安定するためのデザインです。
また、推力はリアクションモーターXLR11液体推進ロケットエンジン2基。

X-15の特徴である黒い塗装が施された機体の素材は「インコネルX」
ALLOYXともいうニッケル—クロム—鉄合金で、
チタン、ニオブ、アルミニウムを含有し、高温および低温下で耐腐食性を持ちます。

その特徴は、高温下で強度、耐酸化性が高く、極低温でも耐性を持ち、
耐腐食性が良好ということです。

前方を示す黄色い矢印のペイントの上には、

U.S AIR FORCE X-15
A.F. SERIAL NO. 56-6670

その後ろの黄色いRESCUEの下には、

EMERGENCY ENTRANCE
 CONTROL ON OTHER SIDE


とあります。

■X -15のパイロット

実は、その上の部分には、歴代パイロットの名前が記されています。

スコット・クロスフィールド NAR
ジョー・ウォーカー NASA
ピーターセン大佐 USN
J.B. マッケイ NASA
ラッシュウォース少佐 USAF
ニール・アームストロング NASA
エングル大尉 USAF
ミルトン・トンプソン NASA
ナイト少佐 USAF
ビル・ダナ NASA
アダムス少佐 USAF

機体にはスペースに限りがあるので、軍人はタイトルだけで、
一般人(NASA)はファーストネームあるいはイニシャルが付けられています。

アルバート・スコット・クロスフィールド(ライトスタッフに出てましたね)
のNARは、彼がノースアメリカン所属のテストパイロットだったことを表します。

クロスフィールドはアカデミックなメソッドで訓練された
「エンジニア/テストパイロット」第一世代の一人で、
1959年、最初にX -15を操縦しました。


X-15実験前のクロスフィールド

クロスフィールドが操縦するX-15 機体番号は66671


2番目に名前があるジョー(Josepf)・ウォーカー
X-15を初めて高度108キロメートルまで飛ばしました。


ウィリアム・J・ナイト(Knight)少佐は、1967年に
実験機のX-15A-2で有翼機の速度記録、7,274 km/hを樹立しました。

有翼機で宇宙空間に達した5人のパイロットのうちの1人でもあります。

■X-15フライト3-65-97事故

テスト飛行は一度悲惨なクラッシュ事故を起こしており、
X-15フライト3-65-97、あるいはX-15フライト191とも呼ばれています。

享年37

1967年11月15日、マイケル・J・アダムスが操縦したX-15は、
発射後数分で機体がバラバラになり、パイロットが死亡、
機体が破壊されるという悲劇に終わりました。

この日、X-15の上昇に伴い、アダムスは、搭載されたカメラが
地平線をスキャンできるように、計画された回転マヌーバを開始。
高度7万m23万フィートで、急速に密度を増す大気圏に降下中のX-15は、
マッハ5(5,300km/h)のスピンに突入します。
機体そのものにスピン回復技術が備わっていなかったにもかかわらず、
アダムスは技術を駆使してX-15のコントロールを維持することに成功しました。

しかし、その後機体は急速なピッチング運動が激しくなり、
ほぼ垂直に急降下して機体は分離、地面に墜落したのです。




X-15という歴史的機体の実験に関わったテストパイロットは12名。
8名のパイロットが地球から80キロ上空の飛行を体験し、
このうち2名がのちに宇宙飛行士になりました。

一人はアポロ11号で人類初めて月に降り立ったニール・アームストロング
もう一人はスペースシャトルに乗り組んだジョー・イーグルです。

ちなみにチャック・イェーガーが優秀なテストパイロットでありながら
宇宙飛行士のテストも受けられなかったのは、学位を持っていなかったからです。

宇宙でのアクシデントに対処するのに、科学技術のアカデミックな下地が必要、
とされたのですが、国家的規模の事業のフロントに立つ宇宙飛行士に
NASAは結構「イメージ」を重視していたんだろうとは思います。

時代的に当然ですが、選ばれた宇宙飛行士は後のアポロ計画に至るまで
全員が見事に白人男性ですし、選考の際には、夫婦仲がうまく行っているか、
などということも一つのポイントになったといいますから。

ニール・アームストロングと映画「ファースト・マン」



ライアン・ゴズリングがアームストロングを演じたこの映画の最初は、
X-15、66672の機体でテスト飛行を行うアームストロングが、
機首を下げるタイミングを遅らせて、予定された着陸地点を通り過ぎ、
エドワーズ空軍基地から72kmも離れた場所まで行ってしまって、
教官のチャック・イェーガーにダメ出しされるシーンから始まります。

イェーガーはニールを「注意散漫だ」と決めつけるのですが、
映画を最後まで見た人は、彼がなぜ上空で機首を下げなかったのかを、
彼の娘の死と重ね合わせて納得するという仕掛けです。

ここスミソニアンの解説には、ただ、

「ニール・アームストロングは、X -15のリサーチパイロットという任務に
大変誇りを持っていました」

とだけ書いてあります。

アームストロングのX -15での飛行は通算7回、総飛行時間は2,450時間、
高度63.2kmに到達し、マッハ5.74を出すという成績でした。

映画「ファースト・マン」では、彼がX-15の臨界点で見た世界も、
そしてジェミニ8号で見た宇宙も、そして月面もが、ニールにとっては
幼くして死んだ愛娘のいるところに繋がっているとして描かれます。


シー宇宙飛行士(享年38)

そして、宇宙飛行士の訓練の一環として行われるT-38の操縦訓練中、
事故死する宇宙飛行士エリオット・シー(See)の葬儀や、
アポロ1号のメンバーが全員死亡した火災事故なども描かれ、
(カプセルのハッチがその瞬間ガコン!と歪むのが怖かった・・)
宇宙と「死」の近さが映画を通じて強調されます。

ただ、アームストロングが宇宙飛行士に転職したのは、
娘の後を追うことを望んでいたからというのは、少し穿ち過ぎの気がします。

なぜなら、彼が宇宙飛行士応募に願書を出したのは、
ジョン・グレンの地球軌道周回が成功したことを受けてのことであり、
これは、彼が、宇宙飛行士の任務における安全性(つまり生存の可能性)
が高まったと判断したからと考えられないでしょうか。

彼は「死」に魅入られていたというより、ただ、死を恐れなかった。
なぜならそこに愛する娘が待っていると信じていたから。
という方が納得がいくのですが。



続く。


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