ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

各国海軍はなぜ日本に集結したのか〜K氏提供写真その1

2024-08-30 | 軍艦

MKの卒業式が終わってすぐ帰国していましたが、最近アメリカにおります。

こちらにいる間、Kさんが来日した外国艦の写真を送ってくださっていたので、
今日はこれを皆様とシェアさせていただくことにしました。


撮影場所は横須賀、7月4日のアメリカ建国記念日のために満艦飾にしている

🇺🇸USS「ミリアス」Milius DDG-69

「アーレイ・バーク」級ミサイル駆逐艦で、ベトナム戦争で戦死した
ポール・ミリアス大尉の名前を戴いています。
2018年から横須賀をベースにしています。

■ メキシコ海軍の帆船



以前晴海埠頭に来た時に見学したことがあるメキシコ海軍の練習船、
🇲🇽「クアウテモック」号が横須賀入港したそうです。

マストに日本国旗を掲揚してくれていますね。
白い船体に帆、息を呑むような美しさです。



日墨友好415年周年記念の友好行事のための来日だとか。
415年前にすでに友好を結んでいたなんて、と調べてみると、

それはあの徳川家康が実権を握っていた時代に当たることがわかりました。

1609年、フィリピンからメキシコに向かう船が房総半島で座礁し、
付近村民の助力によって乗員の多くが助かるという事件がありましたが、
この出来事が日本とメキシコの友好関係元年とされているそうです。



マストなどに見える黄色いふわふわしたものは飾り?



練習用の帆船で地球の裏側からここまでやってきたんですね。
日墨友好。

■ トルコ海軍



日土外交関係100周年を記念して入港したトルコ海軍のコルベット、

🇹🇷TGC 「クナルアダ」Kinaliada Escapade-514



一般公開も行われたそうです。
メキシコとの友好関係成立きっかけと同じく、トルコは

日本近郊の海であのエルトゥールル号が難破し、それを付近住民が助けた、
というきっかけで日本に親しみを感じてくれている国です。

その「お返し」として、トルコはイラン・イラク戦争の時、
在イランの邦人を脱出させるために飛行機を2機も出してくれました。

■8月19日、横須賀


🇯🇵「まや」後甲板で乗組員総員集合中。


何をしているか分かる方おられますか。


ここにはいつも原子力空母が係留されていたのですが、この日は

🇺🇸強襲揚陸艦「ボクサー」Boxer LHD-4

が、オスプレイを満載して着岸していました。
艦名は米英戦争時に拿捕したイギリス軍艦「ボクサー」に因みます。



パナマ運河を通過できるように建造されたはずが、
いざ通ってみたら、あちこち引っかかったので出っ張りをなくした、
というなかなか愉快なエピソードを持っています。


Kさん、「軍港めぐり」の遊覧船に乗って撮影されたんですね。
この当時、気象庁発表の気温は35℃、しかし外気温は52℃だったとか。
この過酷な時期になんたる行動力。頭が下がります。

ちなみにコロナ以降カメラを一眼レフから
SONY RX100Ⅶに換装?されたということですが、
画質は全くと言っていいほど以前と遜色ないのに驚きました。



上部構造物から上の作りで、第一次世界大戦の時の
ドイツ軍のヘルメットの角を連想したのはわたしだけでしょうか。

ドイツ海軍のフリゲート、

🇩🇪「バーデン=ヴュルテンベルク」
(Baden-Württemberg, F 222)

ネームシップで、同級は州名を艦名にしているのですが、二番艦以降も、

「ノルトライン=ヴァストファーレン」F222
Nordrhein-Westfalen

「ザクセン=アンハルト」F224
Sachsen-Anhalt

「ラインハルト=プファルツ」F225
Rheinland-Pfalz

とやたら長くて、ニックネームでもないとやってられない艦名ばかりです。

さて、この「バーデン」(略)ですが、8月21日、
東京国際クルーズターミナルに来ていたようです。


内部の公開もされたのでしょうか。


ドイツ海軍のヘリコプター、初めて見ました。
アグスタウェストランドのMk.88A「シーリンクス」かな?

うーん・・・なんかやたらかっこいいなあ。鉄十字のせいかしら。

本型では、遠隔地において長期間に渡る任務を
少人数で安定的に遂行できることが設計目的に盛り込まれ、
それは具体的に以下の通りだそうで、驚かされます。

母港を離れての連続展開期間: 2年(24ヶ月)
海上での作戦時間: 5,000時間/年
大規模オーバーホール実施間隔: 約60ヶ月
乗員交代: 4ヶ月ごと(交代は48時間以内に完了)
母港を離れての連続展開期間: 2年(24ヶ月)
海上での作戦時間: 5,000時間/年
大規模オーバーホール実施間隔: 約60ヶ月
乗員交代: 4ヶ月ごと(交代は48時間以内に完了)

例えば原子力潜水艦は永久に潜航活動が可能ですが、
それがなぜできないかというと、「人間が保たない」からに尽きます。
同級は以上の条件で運用されているそうですが、本当にこの通りなら、
乗員に求められるのは何より健全な人格と心身のタフさとなるでしょう。

こういう職場に志願する若い人って、今ドイツにはいるんだろうか。



ちなみに東京国際クルーズターミナルは今こうなっています。
いつの間にかオープンしていたことに驚きました。


こちらは取り壊し中の旧ターミナル?

正面からのシェイプは独特です。

ドイツ海軍は今回自衛隊との共同訓練を行なっていますが、
もう1カ国はどこだと思いますか?

そう、あなたが想像したに違いないあの国です。

続く。



ミサイル レディルーム@ミサイルハウス〜USS「リトルロック」

2024-08-27 | 軍艦

タロスミサイル搭載巡洋艦、「リトルロック」のミサイルハウスに潜入し、
中の様子を発射シークェンスの説明とともにお送りしております。

取り合えず前回は、甲板からミサイル、ブースター、弾頭が積み込まれ、
それがどこに、どのような手順で格納されるかについて説明しました。


今日は、この図の緑部分、レディサービスエリアについて。
レディサービス、つまりミサイル発射準備室です。

ミサイルハウス全体は、大きく二つの独立したコンポーネントにわけられ、
そこでミサイルの保管、移動、準備、装填、発射までが行われます。

今日はストレージから移動して発射準備室に行くところからです。

Talos Missile Handling • Cruiser Installation

海軍作成のタロスミサイル説明ビデオ、今日は6:43〜からご覧ください。

ビデオの文言は青字で示してあります。

さて、マガジン(弾倉)から準備室までどうやってミサイルを動かすか。



まず弾倉からこのレールのカートにミサイルを載せます。



準備ができたミサイルはサービストレイに保管され、装填されるが、
その際ハンドリングバンドは取り除かれる。

そしてミサイルはストライクダウンエレベーターで
動力移動カートによって移動させられる。

パワーカートはブースターを準備サービスエリアまで運び、


それを嵌合スタンドに配置する。
ブースターの「シューズ」を用いて、
準備サービスのクレーンが組み合わされたものを吊り上げる。



右手のパワーカートにマガジンから出されたミサイルが載せられています。
この状態から、ミサイルは左のクレードルに移されるのです。


これは反対側(左舷側)のもう一つのパワーカートのレールです。
持ち上げるためのフックとクレーンは黄色く塗色されています。


ミサイルの乗ったカート部分を反対から見るとこうなります。
(艦内展示の写真)



天井のクレーン(F)は、武装したミサイルを持ち上げて、
(G)のクレードルと呼ばれるラックに移します。

どうやって持ち上げるかというと「C」と書かれたカートが、
ミサイルの「シューズ」を引っ掛けて持ち上げ、それをクレーンが運ぶのです


これがクレードルの端。
電池のマイナス受け部分みたいな丸いストッパーが付いています。

ストッパーは、ミサイルの後端をホールドし、
船が激しく動揺するようなことがあってもクレードルに保持します。

クレードルはここの説明によると「回転する」そうです。
メリーゴーランドのようにミサイルを乗せて回転し、持ち上げるのでしょう。


クレードルにミサイルが載せられた状態です。

ミサイルに93とありますが、これは何を表すのかわかりません。
撮影されているのはUSS「オクラホマシティ」CLG-5のミサイルです。
タロスミサイルの通算番号があったりするのかな。

もう一つついでに、英語ではTALOSを「テイロス」と発音しています。


ミサイルを載せたクレードルは、ミサイルが
トラック(H)の下に来るまで回転します。

トラックの下部は吊り下げ式のモノレールのレール部分のようになっていて、
これでミサイルを発射口方向に運んでいきます。


左舷側のクレードル。
トラックに結合したミサイルは移動していって・・、


写真の黒いドアを通過して前方に運ばれていきます。

この先でミサイルは制御フィンを追加され、

アーミングプライマープラグを取り付けられるための
「ウィング&フィン組み立てエリア」に入っていくのです。

続く。


ストレージエリア@ミサイルハウス〜タロス巡洋艦「リトルロック」

2024-08-23 | 軍艦

タロスミサイル巡洋艦USS「リトルロック」。

乗艦するといきなりタロスのミサイルハウスの中に入っていくという
今までアメリカで遭遇したどの軍艦にもなかった体験です。



前回使った図(キャプチャした映像を元に制作)でいうと、
見学通路はピンクの線となっていました。

つまり見学順で言うと、最初に最終工程を行うエリアを見るわけですが、
それだとわかりにくいので、見学していない皆様のために、
ミサイル発射過程に沿った順で、ストレージ部分から写真を挙げていきます。


その前にまずタロスミサイルの図をご覧ください。
ミサイルは大きく三つのセクションに分けられます。

1)ブースター
2)誘導装置(ミサイルアッセンブリーガイダンス)とエンジン
3)弾頭

ミサイルが飛ぶ仕組みは、先端のインテイクから空気が入り、
それが圧縮され、中央部の燃料で点火されて、
ブースター部分から排気ノズルを熱い排気ガスが噴出するという、
まさに3行で無理やり説明すればそう言うことになるわけです。


そして、艦に搭載されるとき、2)の誘導装置と3)の弾頭は
接続されない状態で別々にストレージのラックに格納されます。

Talos Missile Handling • Cruiser Installation

ビデオの5:17からは、まず梱包された状態のブースターが
デッキからストレージに格納されるまでの様子です。
青字はビデオの解説を翻訳した文章です。

■ ミサイル&ブースターのマガジン収納



ドックからの典型的なローディングシーケンスについて。

まず、このストライクダウンエレベーターに乗っているブースターは
ミサイルハウスのマガジンまでエレベーターで降ろされ、
エレベーターに乗せたまま、ミサイルマガジンに到達させる。



するとこのクレーンがブースターを上から持ち上げる。



黄色いクレーンがブースターを持ち上げ、支柱が外されると、
上の写真のグレーの部分がマガジンを横断し、
黒いラックの収納場所までブースターが運ばれ、設置される。





ストレージのこちら側には操作ボタンのついたバーがありますね。
ここからストレージ内でクレーンを操作しました。

おそらく「クレーンゲーム」はこの操作が基本になっていると思われます。
こちらはターゲットを掴み取るだけではなく収納する動きもするわけですが。



ミサイルも同じくストライクダウンエレベーターで下ろされ、
ブースターと同じ方法で、同じストレージラックに収められます。

なお、取り扱いのために、ミサイルとブースターには
特別なバンド(ハンドリングバンド)が取り付けてあります。



ハンドリングバンドには周囲に「シューズ」と呼ばれるフックがあり、
ユニットをマガジンラックに収納する際上部シューズを使って吊り下げる。

バンド側面のシューズは、ユニットをマガジンの支柱に固定するために使う。

■マガジンからの取り出し方

通常平時作戦中、タロス巡洋艦は30発のミサイルをマガジンに搭載した。

そのうち15発はそれぞれのランチャーアームに7発ずつ、
予備として14発が準備サービスエリアに収納されていた。
(あれ?計算が合わない・・・)



そのラックとは、この写真でいうところの「A」(下の黄色い丸)のこと。

そしてここに水平に格納されている1)と2)は、
写真で黄色い丸Bと記されているクレーンによって持ち上げられ、



その後この「C」のストライクダウンカートに乗せられ、
二つのセクションは嵌合(連結)させられます。

■ 弾頭セクション


それでは弾頭部分はどこにいくかというと・・。

予備の弾頭セクションは巡洋艦の特別なマガジンに保管される。

天井に設置されたバイ(二重)レールホイストを使って、

奥の天井に見えているグレーがレールホイスト片側

弾頭セクションをデッキチョックchock(動き止めの楔のこと)から
マガジンを横切ってエレベーターまで運ぶ。

エレベーターはホイストに取り付けられた弾頭部分を
セカンドデッキまで上昇させて運ぶ。

そこには弾頭セクションが弾頭ポジショナー(位置決め装置)があり、
弾頭部分を垂直に立てるようにに動かされる。


起立した弾頭

弾頭部にはホイストが取り付けられており、

チェックアウトエリアまで釣り上げられ、そこでミサイルに嵌合される。

■ 電気安全上の注意



ここで現役時代からあったらしい安全上の注意掲示板がありました。

一般的注意事項

1、電気機器の修理およびメンテナンスは、
許可された担当者または指定された担当者のみが行うものとする

2. すべての電気リード線は、メーターまたはテストランプでテストされ、
良好な状態であることが確認されるまで、
生きている( ALIVE )とみなされるものとする

3. 活線回路の周囲で作業する者は、特定の使命を達成する場合を除き、
電圧に関係なく、1フィート以内に近づいてはならない

4. 回路が通電しているかどうかを判断するために素手を使用することは、
低電圧であっても致命的となる可能性があり、固く禁じられている

5. ヒューズボックス、ジャンクション・ボックス、レバー式ボックス、
および配線付属品のカバーは、いつも閉じていること

6. 機械的傷害を受けやすいゾーンにあるケーブルはすべて、
金属製のケーシングで保護すること

7. 携帯用ケーブルはすべて、スプライス(継いだ部分)がなく、
適切な長さで、電流要件に十分な断面積を有すること

8. 開いている電気機器の上に、金属製の緩い物品
 を持ち込んではならない (ポケットなどに入れることも不可)

9. 配電盤、制御機器、皿盤、またはその近傍に、
異物を収納したり、挿入したりしてはならない
配電盤、制御機器、パネルなどに異物を収納したり、
その近くに挿入したりすることは、固く禁じられている

10. 電気機械(特に増幅器)を固定したときに帯電する電荷は、
場合によっては激しい感電を引き起こすので、作業前には必ず接地すること
通電していない回路に接続されたコンデンサーや、
完全に切り離されたコンデンサーに触れる前に、端子を短絡させること


電気関係を取り扱う職場では至極当たり前な注意です。
あとは略して、最後の「もし火災が起きた時」の部分だけ翻訳します。

電気火災の場合

(a) 回路の通電を遮断する

(b) OODにメッセンジャーまたは電話で状況を報告する


(c) 周辺の換気を確保する


(d) 炎の根元に向けてCO消火器を使用して消火する


(e) 他の消火剤を使用する前に、場所、空間の広さ、
発生するガスなどを考慮すること


これも軍艦だからという特例はなさそうな一般的な対処ですが、ただ、
(b)の「OOD」とはオフィサーオブザデック甲板士官のことですね。

そして(d)のCO消火器とは、二酸化炭素消火器のことです。
電気絶縁性に優れているため、電気設備関係の火災に使われます。

消火剤として不活性ガスが用いられています。

続く。



ミサイルハウス〜タロス巡洋艦「リトルロック」

2024-08-20 | 軍艦

さて、タロスミサイル搭載巡洋艦として展示されている、
バッファローエリー郡開示軍事公園のUSS「リトルロック」、
ファンテイルから、いきなり核心のミサイルハウスに入っていきます。



ドアから中に入ると最初に見える景色がこれ。
上の階には戦闘ヘルメット着用の乗組員の姿が見え、
その手前のはどう見てもミサイルのクレイドル。

下方の窓には、運用当時からのプレートがあり、それには

I -126-1
MISSILE WINGS-FINS&BSTER STOW
C-108 M

ミサイルウィングとフィンは、ミサイルに取り付ける翼とフィン、
これは知ってびっくりしたのですが手動で取り付けます。

そして後半はブースターストレージ、ブースター倉庫です。

各ウィンドウには公園の所有を示すシール付きのアクリルが貼られています。


せっかくなので上の人をアップにしてみました。
横にあるのは人工呼吸の方法です。
そういう状態がいつ起きても不思議ではない持ち場ってことか?

で、ここはなんなのという話ですが、ここにあった説明は
ディシジョンポイントを意味する赤い看板に書かれています。

ミサイルハウス

艦内で最大の区画であるこの部屋は、
50発のミサイルを格納し、テストし、整備した。

飛距離約65マイルのこれらのミサイルは、

冷戦中に敵のジェット戦闘機の脅威が高まっていたことを受け、
地対空ミサイルとして設計されたものである。

これらのミサイルと格納庫の追加は、

1957年から1960年にかけて行われた改装における
最もダイナミックな変化であった。


入ってすぐのこの一帯を

ファイナル・アッセンブリー・エリア
(最終組み立てエリア)

といい、このビデオの放映されているガラスの向こうは
ミサイルを組み立てるための最終準備が行われた場所です。


ところで、放映されているビデオですが、
現地ではもちろん先を急ぐ身であるため見ておりません。

ループされているのは、タロスミサイルの弾頭、ミサイルブースター、
そして艦内のミサイルハウスの基本的な操作に関するもので、
かつては機密扱いだった13分間の海軍制作による軍事訓練フィルムです。

ちょうど私が通りかかったとき、エンディングで
製作者の氏名がテロップに出ていたため、それを元に検索したら
YouTubeに上がっていたので、上げておきます。

教育ビデオなのでまさに誰にでもわかる内容となっていますが、
自動翻訳機能がなかったので、全編翻訳して青字で記します。

Talos Missile Handling • Cruiser Installation


本映画で概説されている手順は、
あくまでも目安であり、ガイドにすぎない。
具体的な内容については、最新の技術資料をご参照ください。

タロスランチャーを装備したUSSオクラホマシティのような艦は、いずれ、
切れ目ない警戒と準備万端な艦隊の長距離防御として海を席巻するだろう。

タロス、それはビームを搭載したラムジェット推進ミサイルであり、
艦対空、


あるいは艦対艦

のためにデザインされていて、
基地でミサイル搭載のために準備された
通常弾頭または核弾頭のいずれかを装備可能である。

この弾頭はMk.30mod0 の核弾頭で特別にタロスミサイル用に設計された。
備蓄コンテナ内の弾頭は、導通試験機で検査される。


弾頭は、適応キットのコンポーネント組み立てのために
弾頭メンテナンススタンドに設置される。


本体内部セクションは弾頭取り付け部分に固定されており、


内部本体はミサイルのラムジェットエンジンの空気拡散器として機能する。
これから弾頭部分が適切にミサイルと嵌合されているかを試験する。


予備の弾頭セクションはコンテナに梱包され、
緊急予備として巡洋艦に運び込まれたものである。

ミサイルには巡洋艦に輸送する前に燃料が充填されている。


ミサイルはドックからは通常の操作によって積載され、
ミサイル格納庫の
”ストライクダウンエレベーター”に積み込まれる。


巡洋艦のミサイル格納庫には2基のエレベーターが、
両舷に一つずつ装備されている。
エレベーターはミサイル、あるいはブースターを乗せて、
それらをマガジンまで降ろし、そこに収納する。


マガジンからは4本半の移送レールが出ており、
動力カートがミサイルを載せ、
準備サービスエリアを通って
最終的に二つの
チェックアウトエリアまで運ぶのである。




準備サービスエリアに保管されているミサイルは、
まず
メイティング(嵌合)エリアの最初の位置に配置される。

動力カートはブースターをこの嵌合ステーションに運び、
ミサイルとブースターは嵌合され、組み合わさったものは
準備サービストレイに収納される。

続いてセンタートレイホイストがミサイルを
ローダーレールまで持ち上げ、さらにそれは
「ウィング&フィンエリア」まで運ばれ、ここで
ミサイルとブースターは発射されるため
ランチャーアームにセットされる。

見学者は、上の図の左下角の「最終工程」を行うところから入り、
エリア2の準備サービスエリアを抜け、マガジンまでいき、
ミサイルハウスを時計と逆回りに歩いていくことになります。


続く。






マイナスDデイ、プラスDデイ〜国立アメリカ空軍博物館

2024-08-17 | 航空機

■ノルマンディ侵攻のための「軟化作戦」

Dデイを前に、第9空軍の中型爆撃機と戦闘爆撃機は、
ノルマンディー地方のドイツ空軍飛行場、V-1発射場、
海岸砲台、主要な橋、鉄道操車場を攻撃しました。



アメリカ軍爆撃機搭乗員の記録に爆撃地「パリ」とあって、
どこにどんな攻撃をしたのか気になっていましたが、これでした。

ドイル軍のノルマンディーへの進軍を阻止するため、
破壊して使用不可能になったパリの鉄道操車場。



第9空軍爆撃機隊の12階にわたる攻撃で周辺まで穴だらけになった

フランスのボーボワ(Beauvoir)のV-1ロケットの発射場並びに倉庫。

しかし、こうしてみると弾着はずれの多いこと多いこと。
一発も有効なところに落とせなかった爆撃機もかなり多そうですが、
とりあえずそのクルーは機体の爆弾マークを書き加えたんだろな。



第9空軍指令であるホイト・ヴァーデンバーグ少将が
1944年の8月から戦争が終わるまで用意されたスクラップブックの挿絵。

イングランドから飛んできた「刃」が、
「上陸予定地」からセーヌ川沿いに大地を真っ二つに切っており、
その途中にはパリがあります。

右側の吹き出しには

「敵にはこの地域に侵攻すると思わせる」

とあります。

第9空軍は、ダミーの陽動作戦として、
「連合国はパ・ド・カレーに上陸する」
とドイツ側に思わせるための作戦を実行しました。

右下には、

橋梁阻止プログラム 第1部:

ノルマンディーの戦闘区域を孤立させることを目的とした

プログラムの第一段階は、「Dマイナス90」から「Dデイ」までである。

パリから海峡に向かうセーヌ川に架けられた

すべての鉄道橋と道路橋を破壊し、機能不全とする。

これは、ビーチヘッド地域を含む最終阻的な足止め地域を円で記す場合、

この円の北側の弧部分を形成することになる。

さらに北のミューズ川とアルベール運河の橋も攻撃し、

これによって敵の動きを妨げると同時に、
実際の侵攻作戦範囲を敵に勘違いさせる。

次のページでは、この計画がどのように実行されたかを図解で示す。


Dデイを「ゼロ」として、その準備段階をマイナスとし、
90日前から準備&予備攻撃を重ねて敵を翻弄させようとしています。



Dデイの「プレ侵攻」として、ポワント・デュ・オック(岬)に
爆撃を行った第9空軍のダグラス軽爆撃機A-20ハボックの編隊。

爆弾が落とされたのはまさにこの先端部分です。



ラ・ポワント・デュ・ホックは、ノルマンディー北西海岸にあり、
イギリス海峡を見下ろす35メートルの断崖絶壁の岬です。

ここにはドイツ軍の掩体壕と機関銃陣地があり、
Dデイには、アメリカ陸軍レンジャー部隊が崖を乗り越えて占領しました。


爆撃機にとっての最大の脅威であったのは戦闘機と対空砲でした。
戦闘機が弱体化した頃、連合軍は対空砲を「元から断つ」作戦として、
第8空軍のリパブリックP-47に「フラックタワー」、つまり
対空砲タワー(おそらく司令塔)を攻撃させました。

この時、同時に戦略空軍はヨーロッパのドイツ空軍基地を叩いていました。



敵の砲火を受けながら、航空技術者たちはノルマンディーに
このような前線滑走路を迅速に建設していきました。

第9軍の戦闘爆撃機18機と中型爆撃機4機によって
8月末までに大陸を拠点とすることができました。




■ オーバーロード作戦:Dデイ侵攻



1944年6月6日、ノルマンディ侵攻当日の各国連合軍の侵入経路です。
米軍はポン・デュ・オックとメール・エグリースから、
空挺部隊2個師団(第101&第82空挺団)を上陸させ、
イギリスも空挺部隊をその反対側に上陸させます。

わかりやすい侵攻作戦図

同日、米第9、第8空軍はRAFの航空機とともに敵の陣地を攻撃しました。
侵攻前のコツコツ積み上げた前準備のおかげで、
Dデイにドイツ空軍機はほとんど姿を見せませんでした。

そしてノルマンディーに通じる橋のほとんどが破壊されたため、
ドイツ軍は増援部隊を送り込むことが非常に困難となり、
救援部隊は前進を試みても絶え間なく空襲を受けることになりました。

Dデイ後の数週間、連合軍はビーチヘッドをかろうじて守りながら、

敵よりも早く兵力と物資を運び込み続けました。

このとき第9空軍が敵兵力、戦車、物資の阻止に貢献したことが
連合軍の戦況を有利にしたのは明らかでした。


第9空軍副司令官ラルフ・ロイス少将(右から2人目)。
ノルマンディーのビーチヘッドで工兵たちと。


1944年6月15日、サン・メール・エグリーズ近く、
荒地の滑走路でのP-47戦闘爆撃機パイロットたち。

8月末までに、第9空軍の戦闘爆撃機18機と中型爆撃機4機は
大陸側を拠点としていました。

■ 打開とフランス縦断レース〜プラスDデイ

第9空軍の空爆で破壊されたドイツ軍戦車、1944年7月26日

かつて、ドイツ軍の第二パンツァー師団長だった
ハインリッヒ・フォン・リュトヴィッツ元帥(男爵)は、
7月25日、ザンクト・ローに連合軍が降らせてドイツ戦線に穴を開けた
「爆弾の雨」を評してこう言いました。

「敵機はあらゆる動きに対し空爆を加えてきた。
それは相手に無力感を引き起こ酢ようなものだった。
経験の浅い部隊に与える影響は、文字通り "魂を打ち砕く "かに思えた」

これほどに、連合軍のドイツ軍に対する空爆は執拗でした。

汽車ごと空爆を受けたモーゼル川の鉄橋

このとき、第9空軍の戦闘爆撃機は敵陣の背後についてまわり、
ドイツ軍の援軍を寄せ付けないだけでなく、
連合軍の攻撃に巻き込まれた兵士の逃亡を阻止さえしました。

ドイツ軍は日中の移動ができず、分散して夜間に移動しましたが、

道路は退却する軍団で渋滞し、標的となって空から狙われました。

空爆を受けるくらいならと、9月10日、フランスのボーガンシーの近くで
約20,000人のドイツ軍が第9空軍に投降してきたこともありました。


1944年、破壊されたブレストのドイツ軍要塞
穴しか見えねー

■ 連合軍搭乗員の墓


ヴァンデンバーグ少将のために用意されたスクラップブックの続きです。

この図はセント・ローでの絨毯爆撃後、
空と地上での連携のパターンがどう動くかを示しています。

真ん中の矢印は、
「断崖ポケットに囚われている敵軍を空爆」

上の戦車の上に見える矢印は、
「空は前進する機甲部隊を援護する」

左側の矢印は、
「ロワール川沿いの陸軍第三師団の右脇を航空がカバー」

陸軍第1と第3師団の隊列は航空機と協力してドイツ軍退却を妨害しました。
空地が協力して行った戦術として最も効果的だったとしています。

熾烈な攻撃は当然連合軍側にも多数の犠牲を生みました。



C-47に牽引されて空挺部隊の乗り込んだグライダーの残骸。
着地の時に衝突して何機かが乗員を道連れにクラッシュしました。


火薬工場の倉庫を空爆した際、爆発に巻き込まれたP-47サンダーボルト。
パイロットは機体と共に墜落し死亡しました。

この機体の前の十字架と50径弾薬で囲んだパイロットのお墓は、
空爆後付近に住んでいたフランス人夫婦が作ったものだそうです。

よく見ると、花が植えられ、彼が生前付けていたらしい
航空手袋が片方だけ供えられています。


続く。

フライトジャケットのファッション黒歴史〜国立アメリカ空軍博物館

2024-08-14 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の爆撃機関連展示をご紹介していますが、
今日は彼ら爆撃機搭乗員が着用したボマージャケット、
「A-2」についてのお話からはじめたいと思います。

■ A-2ジャケット



「ボマージャケット」というのはファッション用語として
一般名詞になっているわけですが、正式にはフライトジャケットといいます。

最初にフライトジャケットが生まれたのは第一次世界大戦時でした。

当時の飛行機はモノコックのコクピットはなかったため、
パイロットは皮革でできていて、襟が高く、裏にファーがついていて
袖口とウェストがぴったりした、つなぎタイプのものを着用しました。

第二次世界大戦が始まる頃、航空機が飛行する高度はより高くなり、
ヨーロッパでの爆撃は高度7,600m以上から行われるようになります。

前にも一度お話ししましたが、このとき気温はゆうにマイナス50℃となり、
しかも機内は断熱されていなかったので、彼らにとって
暖かい毛皮のついたフライトジャケットは必須装備だったのです。

国立アメリカ空軍の爆撃機コーナーには、
この写真のような陸軍航空隊のA-2ジャケットが多数展示されています。

「ジャケット・アート」の素晴らしい一例であるこのA-2ジャケットは、
B-26「シューティン・イン」の爆撃手・ナビゲーターが着用したものです。

ジャケット前面のパッチは、オリジナル機が配属されていた
第556爆撃飛行隊の記章です。


アメリカ軍基準フライングジャケットの通販広告です。
9ドル98ってやっすー。
今の円なら3万6千円くらいでしょうか。

申し込みは現金かチェックを手数料45セントプラスして送ってね。

素材:アメリカ陸軍航空隊指定の、航空士に支給されているのと同じです。
しなやかな茶色のホースハイドレザー製。
革製の襟と肩章(エポーレット)。
腰部分と袖口にはダブルニットがあしらわれています。
ジッパーはコンシール(隠し)とフラップポケット付き。丈夫な裏地。
サイズは胸囲36~46までとなっております。

ご注文の際は身長と体重を明記してください。


なぜ一般人がこんなものを買えたかというと、
民間の業者がそっくりなものを勝手に作って売っていたからです。

つまりこの広告のジャケットは本物そっくりのコピー商品なのです。

実際は、軍用ジャケットを正規ルートで購入することができるのは、
陸軍航空隊に所属する現役の航空搭乗員だけでした。

マッカーサー将軍やパットン将軍、ついでにグレン・ミラー少佐
普通にこのA-2ジャケットを着用していましたが、
非航空士官は「普通のルート」では買えないというのが建前だったので、
おそらくそういった人たちは何らかのコネクションを使って
非正規に純正品を手に入れていたのではないかと言われています。

このA-2ジャケット、まずなぜ「A」かというと、
単にAIRから来ているのではないかと思われます。

そして「A-2」という名称からおわかりのように、
このタイプには旧モデルであるA-1が従前に存在しました。
A-2は、A-1の前ボタンをファスナーに、
スタンドタイプのニット襟を皮に変え、さらに喉元にカギホック、
エポーレットをつけるという変更が加えられました。

■ A-2ジャケット〜誇りと共に



それでは航空士たちにA-2ジャケットはどの時点で渡されたかですが、
彼らが基礎飛行訓練を終え、高度な飛行訓練を卒業する時、
ジャケットは卒業証書のような意味合いで授与されることになっていました。

とはいえ、一人一人が壇上で授与されるようなセレモニーではなく、
サイズ別に並べられた箱の前に並んで受け取るだけです。

最初は士官専用でしたが、いちいちデザインを変えるのもなんなので、
そのうち下士官たちにも同じものが配られるようになりました。

とはいえ、ウィングマーク同様、これを受け取る感激はひとしおで
搭乗員たちはウィングマンの誇りを持ってジャケットを着用しました。
(だからこそ、これを受け取ることができるのは搭乗員だけとされたのです)

そして、思い入れの大きさは、愛着のあるジャケットに自らが
独自のアートワークを施すという形で表されるようになります。

自らの愛機の姿や部隊マークだったり、流行りのピンナップガールだったり。
爆撃機搭乗員がよくやったのが、上着の右前に爆弾の形を描くことです。
ミッションの数に応じてそれは描き足されていきました。


陸軍搭乗員のジャケットは、持ち主がさまざまな勤務地を経るたびに、
飛行隊のパッチやランクマークが付け替えられるのが慣習だったため、
大抵のものはその部分が針穴だらけになっています。



■ 海軍搭乗員のG-1ジャケット



皆さんが一度はごらんになったことがあるこの写真。


いやー、若い頃のトム・クルーズってマジイケメンだったんですね。
昔は何とも思わなかったけど、今になって感動するわ。

じゃなくて、注目していただきたいのは彼のフライトジャケットです。
そう、ところせましと所属した部隊のパッチがはってあるでしょ?

実はこれ、同じ搭乗員でも海軍だけの慣習ってご存知でした?

海軍搭乗員のジャケットのことをG-1ジャケットと呼びます。

先ほども述べたように、陸軍航空隊のA-2ジャケットは、
陸軍の慣習で現在の任務先のパッチしかつけてはいけなかったのに対し、
海軍のG-1ジャケットには、第二次世界大戦のころから、
これまでに所属したことのあるすべての飛行隊のパッチを、
G-1ジャケットの余白を埋めるようにして貼ることが許されていました。

陸軍搭乗員は飛行隊を変わるたびにパッチを付け替えねばならず、
AAFののジャケット左胸は穴だらけというのが相場でした。

ちなみにこのG-1ジャケットですが、現在でも海軍、海兵隊、
沿岸警備隊と水のつく軍の航空搭乗員が着用しているものを指します。

なんでGなのかはわかりません。

アメリカ兵のことを「Government Issue」(官給品)の頭文字で
「GI」と称しますが、ここから来ているのかな。
ご存知の方おられましたら教えて下さい。

ところで、ためしにG-1ジャケット、と検索してみてください。

「G-1ジャケット ださい」

が、かなりの確率で出てくるかと思います。
そのダサいジャケットとは、このことです。



右端の三人と真ん中、左下の人が着ているのは、VB-3型といわれる
ムートンファーの襟の、まあよく映画で見るやつです。

これはライバル陸軍に張り合って作られたので、かなりいけてます。

しかしながら、この写真で左上の一団及び足組んでる人たちが着ているのが、
戦争経済対策とサービスカットを目的として普及された、
M-422Aジャケットという、
海軍服飾の黒歴史です。

高高度から爆撃を落とすのが仕事だった陸軍爆撃隊とちがって、
海軍の、特に艦載機搭乗員はそんなに高いところを飛ばないだろうってか?

いや、甲板上で潮風に吹き曝される環境でこれってどうなの。
パイロットというよりどこのガス点検の係員ですかみたいな格好です。

これはあまりのかっこ悪さに(たぶん)意識高い系搭乗員は着用せず、
よほどの海軍事情通の記憶にしか残らずに消えていきました。

世間では戦時中A-1ジャケットが人気だったこともあり、
これではいかんとやおら負けん気を出した海軍は、
戦争が終わってから改めて気合を入れたG1ジャケットを発表しました。
トム・クルーズが着ているのとほぼ同じ仕様のものです。

しかし、1979年から2年間にわたって、海軍はまたやらかします。

時期的におそらく第二次オイルショックの頃だと思いますが、
定期的に節約病に襲われるアメリカ海軍が、またもや予算節約のため、

人気のG-1を支給するのを中止して、こんなものを押しつけたのでした。

たしかキムさんのダディがこんなの着てたわね。

しかも、搭乗員間でのG1ジャケットの交換も禁止、と要らんお達しを出し、
つまり、古着も着るな!ということにしてしまったのです。

きっと現場の不満はすごかったことでしょう。

結局、海軍長官は1981年には措置撤回を決定し、海軍、海兵隊、
そして沿岸警備隊の飛行乗務員には遡ってG-1が配られることになります。

その5年後、映画「トップ・ガン」が空前のヒット作となった時、
彼らはG-1を復活させておいて良かった、と胸を撫で下ろしたことでしょう。

映画の爆発的ヒットに伴って、トム・クルーズが着たG-1が人気になり、
ファッションとして爆発的に一般に普及するようになったのですから。


現在はいくつかのメーカーから、マーヴェリック風のもの、
マックイーン風のもの、シンプル、大まかにこの3種類が発売されています。

■ 陸軍航空隊の「節約」タイプ

ところが陸軍も、海軍のような「節約」をやらかしていました。

A-2 がアメリカのパイロットの象徴となったにもかかわらず、
1943 年にHH "ハップ" アーノルド将軍は、何を思ったか、

レザージャケットの契約をキャンセルして、その代わり
B-10やB-15 のような布のシェル・ジャケットを推しました。


海軍よりはまし

言うまでもなく、航空隊員にこのジャケットは全く受けませんでした。

布製に移行した後でも、誰もがお達しを無視して交換用のA-2を注文し続け、
それを受けて生産もこっそり?1944 年まで続けられていました。

陸軍は1943年半ばに革製ジャケットを購入するのを禁じましたが、
禁止令が出ても現場はほとんどがその通達を無視していました。

示されている多数の写真を見ればわかるように、
搭乗員にA-2の着用をやめさせることは不可能だったのです。

■爆撃機パイロットたちの遺品


上:第8空軍の無線オペレーター、ウィリアム・ニクソンSSgtが
1945年に着用していたフライトジャケット。

下:第15空軍の技術軍曹、フィリップ・ジョーンズが
1944年のプロイェシュチ爆撃のときに着用していた飛行帽。


同じくジョーンズ軍曹の当日のヘルメット。
彼がこれを着用している時に対空砲の破片が飛んできて
ヘルメットに凹みの傷をあたえましたが、
軍曹は奇跡的にも全く無傷で帰還することができました。



第8空軍のパイロット、デルバート・ケール大尉着用のA-2ジャケット。

ORDNANCE EXPRESS

は、「兵器超特急」と言う感じでしょうか。

爆弾を数えると35個ありますが、これは、
ケール大尉(当時)が1944年から1945年3月にかけて、25回どころか、
35回のミッションに機長として参加したことを指します。

ケールは22年間アメリカ空軍に勤務し、
最終的には中佐として退役しています。



こちらのA-2ジャケットも、やはり35回のミッションを
1944年の7月から10月までの3ヶ月間に達成した
S・M・アレン大尉が着用していたものです。



「ベルリン・ボム」
「アンクル・シールSHIRL」

その下の三つの爆弾には、爆撃をした35の都市名が書かれています。
真ん中の爆弾には「パリ」と言う文字も見えるのですが、
こいつらパリに爆弾落としてたのか?

SHIRLはSHILLと同義で、文字通り「シュルシュル言う」とか、
「叫ぶ」「けたたましい」「鋭い光を発する」と言う意味があります。

あえて訳すなら「シュルシュルおじさん」ってとこかな。



第8空軍の航法士、チャールズ・セトルメイヤー大尉が使用していた道具。
セトルメイヤー大尉は1943年9月から翌3月までの間に
26回のコンバットミッションを達成しました。



1944年10月から1945年5月まで任務を遂行した第8空軍のナビゲーター、
ジム・ライトが着用していたジャケット。 

左胸の爆撃手バッジの下にある青いフィールドマークは、
彼が戦闘で飛行したことを示すものです。



これは墜落したあるB-17爆撃機の酸素タンクです。


ルーマニアのプロイエシュティ上空を空襲中、
第15空軍のB-17は敵戦闘機からの攻撃で大破し、爆撃手、

デイビッド・リチャード・キングズレー中尉ら数名の乗員が負傷しました。

機長は全員にベイルアウトを命じましたが、キングズレー中尉は

パラシュートを失ったマイケル・サリバン曹長に自分のものを譲り、
本人は墜落する機体から脱出することなく死亡しました。

死後彼に贈られた名誉勲章には当時の様子がこう記されています。

「彼は負傷者に応急手当を施し、ベイルアウトの命令が下ると、
負傷者がハーネスを装着するのを手伝った。

そんな混乱の中、負傷しハーネスを見つけることができない尾部銃手に、
キングズレー中尉は、自分のハーネスを惜しげもなく外し、装着させた。

ベイルアウトする乗組員が最後に見たとき、
彼は爆弾倉のキャットウォークに立っていたという。

機体は自動操縦でしばらく飛行を続けた後、墜落し炎上した。
キングズレー中尉の遺体は後に残骸の中から発見された。」

彼は死後10ヵ月後の1945年4月9日に名誉勲章を授与され、
バージニア州のアーリントン国立墓地に埋葬されました。


続く。


USS「リトルロック」ファンテイル〜バッファローエリー郡海事軍事公園

2024-08-11 | 軍艦

バッファロー・エリー郡海事軍事公園に展示されている、
軽巡洋艦あらためミサイル巡洋艦「リトルロック」、
そのラッタルを上り切らないうちに第一回目が終わりました。

「リトルロック」構造物に装備されている、
タロスミサイルのシステム関連装備をご紹介したわけですが、

いよいよ甲板に到達します。



どおおお〜ん。
ラッタルを上がったらそこはトイレの入り口だった。
この木製の構造物は階下のトイレにつながる階段の上にあります。

なんか色々と書いてあるので一応見ておきましょう。

あなたの安全のためにやってはいけません
バリアを超えないこと、スィッチを動かすこと、
バルブを回すこと、ハンドルを引いたり、垂直ラッタルを上らないこと


軍艦見学の基本です。
そして早速この場所についての説明がありました。

ファンテイル(扇状艦尾)


USS「リトルロック」が就役したとき、
第二次世界大戦は終わりに近づいていましたので、
彼女は4年間、南米沿岸、米国東部、地中海を巡航していました。

戦後1949年に退役し、予備役を経て1960年に現在の姿となりました。

かつてファンテイルにはヘリコプターのプラットフォームがあり、
要人訪問の際にはここが集まる場所となっていました。

ヘリコプターというからには再就役後の話だと思うのですが、
このトイレへの入口のところがプラットフォームだったんでしょうか。


で、その下、わたしは全く艦内でこの色分けに気づいておらず、
今になってこんなことをしてくれていたのかと思ったわけですが、
つまり展示パートごとに四つのカテゴリが一目でわかるように

🟦 乗組員スペース
⬜︎士官スペース
🟧 枢要部(Vital Operations)
🟥意思決定機関(Decision Points)


バイタルオペレーションズを枢要部、
ディシジョンポイントを意思決定機関と訳したのは
正式な日本語の軍事用語が思いつかなかったからですが、
何をもってそういうのかは、見学していけばわかるかもしれません。

CICが意思決定機関の一つであることは確かだと思うのですが。


ミサイルの下にタロスミサイルとレーダーシステムの説明あり。




前にも書きましたが「リトルロック」の上部構造はデュアル式です。
その後部がこれで、構造物の右側に繋がっている黄色い線が見学通路。

黄色い線は構造物右手のドアに繋がっています。

TALOS MISSILE
タロスミサイル



RIM-8と名付けられたタロスは、1959年から1979年まで

最も印象的な米艦載ミサイルだった。

USS「リトルロック」には48発のミサイルが搭載されていた。
タロスは空中、地表、陸上の標的に対して使用することができた。

タロスミサイルの後期バージョンは、8万フィートまで飛ばすことができ、
時速1,400マイル以上で100マイルの範囲を持っていた。

タロスミサイルは通常弾頭または核弾頭を搭載する能力を持ち、
地対空バージョンはベトナムでも活躍し、合計3機のミグが
巡洋艦「シカゴ」と「ロングビーチ」によって撃墜されている。

タロスは2段式ミサイルであり、後部は固体ロケットブースターで、

ミサイルを空中に押し上げ、速度まで上昇させる。
この時、十分な空気圧が内部のタービンを回転させ、
ラムジェットエンジン(ミサイルの中央部)に点火する。

SPG-49
TALOS GUIDANCE RADAR SYSTEM
タロス誘導レーダーシステム

「オクラホマシティ」のSPG-49

SPG-49は1947年に設計され、1979年末に
タロスミサイルシステムと共に廃止された。

SPG-49は初期の設計で洗練されていなかったため、
豪雨時の航続距離は29海里に短縮され、
平均故障間隔はわずか30時間だった。
後継機として提案されていた「AN/SPG-51E」のキャンセルにより、
タロスの運用は終了した。

外部システムは2つの大型ドームで構成され、
ドームの上下にある2つの小型レーダー・ディッシュから送信された、
目標から跳ね返ったリターン信号を受信した。


さて、ファンテイルから構造物内、ミサイルハウスに入っていきます。


壁に貼られている赤い目標、それはディシジョンポイントの印。

ミサイルハウスへ

大きな青いタロスミサイルが、
どのようにしてランチャーに搭載されるのか見たい?
右前方に向かい、ハッチを通ってください。
それが最初の目的地だ!

って何気にクェスト風だ!
ミサイルハウスがディシジョンポイント?
ってことは「意思決定」とはちがうような気が・・・。

まあいいや、それは後々解明するでしょう。

中に入っていきます。

続く。

軽巡洋艦 USS「リトル・ロック」に乗艦〜バッファローエリー郡海事軍事公園

2024-08-08 | 軍艦

バッファロー海事軍事公園がCOVID-19の閉鎖から復活し、
内部公開を始めたので満を持して見学してきたシリーズです。

まだ中が公開されていなかった「ザ・サリヴァンズ」の甲板を通り、
そこから隣に係留されているUSS「リトル・ロック」にいよいよ乗艦します。


「リトル・ロック」へのラッタルは、「ザ・サリヴァンズ」甲板から
まるまる2階分くらいの高低差を隔ててかけられています。

リトルロック=小岩。

この「クリーブランド」級軽巡の艦名は、
命名基準である、都市名からもたらされたものです。

小岩が東京にあることは知っている人も多いと思いますが、
リトルロックがアーカンソーの都市であると知っている人は
偏見ですが日本人にはあまりいない気がします。

「リトルロックはアーカンソーの小岩」

とか誰うまなことを以前書いた記憶がありますが、都市の立ち位置はともかく
小岩とリトルロックの大きな違いは、治安かもしれません。

リトルロックは現在「全米の危険な都市トップ25」に名前を連ねており、
南部であることから、残念ながらヘイト事件も起こりがちな土地柄。

1957年には有名なヘイト騒動「リトルロック高校事件」が起こり、
それでアメリカ人の間では都市名が認知されています。


リトルロック高校の九人の初代黒人学生のうち一人
後ろの女生徒はその後の人生かなりハードモードだった模様

まあ、それは歴史の一面にすぎませんし、治安問題はともかく、
南部の自然豊かな地域の一都市であると認識すればいいかと思います。

USS「クリーブランド」

ネームシップの「クリーブランド」CL-55は就役1942年。
2番艦以降のUSS「コロンビア」「モントリピア」などと共に、
ガダルカナル、ブーゲンビルの攻略のために投入されました。

「リトル・ロック」は「クリーブランド」級の30番艦(全40隻)でした。


進水こそ1943年でしたが、1945年6月に就役して

慣熟訓練中に終戦になってしまったので、申し訳程度に訓練した後、
1949年には早々と予備役艦隊入りして出番を待っていました。

彼女がミサイル巡洋艦という新しい役目を得て復帰したのは
1957年5月23日のことです。

奇しくもこの5月23日は、リトルロック高校事件の遠因となる
「分離教育撤廃」が宣言された日でもあります。
(これを受けて九人の黒人学生が選ばれ、9月入学の後ヘイト騒動になった)


際就役後、艦番号は、それまでのCL-92から
Guided Missile Light Cruiserを意味するCLG-4に変わりました。


互いの甲板同士を繋ぐ吊り下げ型のラッタル。
この高低差が駆逐艦と軽巡洋艦の艦体の違いを表します。


「ザ・サリヴァンズ」と「リトル・ロック」の間には、
おそらく浮き桟橋ではない構造物がガッツリとかまされております。

「ザ・サリヴァンズ」が着底した事故でもわかるように、
当海事軍事公園では、船は浮いた状態で展示されていますので、
杭には両艦からの舫がかけられています。

「リトル・ロック」と桟橋の間には、接触してもいいように
硬化ゴムのようなクッションが咬ませてあるのがわかります。

事故の時の写真と見比べると、構造物の左側の手すり、
このクッションは「ザ・サリヴァンズ」修復工事の後付け足されたようです。

(アップしてみるとステージ様の部分は素材が新しい)


着底事故の時「ザ・サリヴァンズ」は岸壁に向かって倒れたため、
間の構造物と「リトル・ロック」は無傷ですみました。

余談ですが、この事故の後、公園側は船を救うための寄付を募り、
多くの市民や地元企業が名乗りを上げ、
チャリティイベントなどが行われて資金が調達されたそうです。


後少しで甲板に到達、というところで
いやでも目に入ってくるブルーのミサイル。
そう、これが「リトル・ロック」に後から搭載された重要な装備です。


前回来た時に撮った写真。
こういうのは岸壁からの方が全体像がよくわかります。

ミサイル巡洋艦に換装されて以降、「リトルロック」は、
「ガルベストン」級の2番艦となりました。
同級は

CLG-3「ガルベストン」USS Galveston
CLG-4「リトルロック」USS Little Rock
CLG-5「オクラホマシティ」USS Oklahoma City

の3隻で、いずれも「クリーブランド」級からの改装です。
ガルベストンはテキサス州の都市です。



ここでもう一度「ザ・サリヴァンズ」甲板から
「リトル・ロック」の艦体を見上げてみます。

外付けされているミサイルシステムを確認していきましょう。


「リトルロック」ら「ガルベストン」級に搭載されたのは、

Bendix RIM-8 Talos
ベンディックス タロス長距離艦対空ミサイル

で、これは以前にも散々?紹介しております。

過去ログ:ガルベストン級ミサイル巡洋艦「リトル・ロック」


そしてこの部分、前回は名称が分からずそのまま放置したのですが、
今回はちゃんと調べがつきましたのでご報告。

AN/SPG-49 Target Tracking Radar
ターゲットトラッキングレーダー

つまり誘導レーダーであることが判明しました。



上面 正面 左側面 右側面

上から順に、

外部モーターによる取り付け、デッキ取り付け
ポールマウント、外部モーター付き
外部モーターなし、デッキ取り付け
外部モーターなし、ポール設置


の設置状態です。
画像が小さいので4種類と言っても何が違うのと思われるかもしれませんが、
要は取り付ける場所とかマウントの違いで、本体は同じものです。

写真の2基のSPG-49ミサイル追跡レーダー・アンテナは、
海抜約77フィートと92フィートの後上部構造に取り付けられています。


トラッキングレーダーの左にあるのは、

AN/SPW-2

ミサイル誘導送信トランスミッター(アンテナ)です。
一つは前方に、もう一つがここ後方に設置されています。

これ自体がぐーるぐーると回転するもので、
さらにアンテナディッシュの中心についているコーンそのものは
1分間に30回転してビームを生成していました。

ここからは見えませんが、後部にはアンテナの位置合わせをするための
小型の光学望遠鏡が設置されていて、ディッシュの穴から覗きます。



星形の穴、この後ろに望遠鏡があり、覗きながら位置合わせを行います。



トラッキングレーダーに描かれた「ミサイルにまたがるドワーフ」。
これはミサイルセクションだけのマークで、
「リトルロック」の部隊章とは全く違うものです。



もう一つのレーダー(下側)のマークはミサイルそのまんま。



手前に写っていてお皿が向こうを向いているアンテナは

AN/SPS-30

3-D航空機捜索レーダーです。

このシステムで目標の範囲、方位、高さの情報を検知します。



前回の写真をアンテナ部分だけ切り取ったもの。

楕円形のパラボラ反射鏡の横に長いアーム状のものが見えますが、
先端にあるのが「オルガンパイプ」スキャナアセンブリで、
これを上昇させることで幅広い角度でターゲットを追尾することができます。


AN/SPS-10A

ついでと言ってはなんですが、水上捜索レーダーです。
このメッシュ?の部分を、英語では「スパイダー」というようです。


スパイダーウェブじゃないんだ・・。



レーダーやアンテナの下方、ミサイル飛翔体の後ろには、
8の字のような形のハッチがあります。


これはブラストドア。

ミサイルが内部システムで旅をして、最後に
甲板のランチャーに装填されるわけですが、
この「ブラストドアセクション」がその時開くというわけです。

今回興奮ものだったのは、その内部システムを実際に
中に入って見ることができるという体験でした。

さあ、それでは次回、いよいよその部分に突入します。


続く。





勝利への戦略爆撃〜国立アメリカ空軍航空博物館

2024-08-05 | 航空機

さて、メンフィスベルの紹介から始まって、第二次世界大戦における
アメリカ空軍のヨーロッパ爆撃についてお話ししてきました。

紆余曲折あって、1944年には連合軍は空爆作戦を
なんとか勝利の見えるところまで持ち込めそうになっている、
というところからの続きです。

冒頭写真は、1945年4月、ドイツのドナウヴェルト(Donauwörth)
線路に爆弾を落とす第8空軍のB-17編隊。
下方に見えているスモークは爆弾投下を知らせる目標です。

1機のB-17からは爆弾が二個ずつ12個投下されているのがよくわかります。

1944年秋までに、アメリカ空軍は
数千機の重爆撃機と長距離戦闘機の活躍によって、
敵の重要な輸送と石油部門に打撃を与える態勢を整えていました。

1,000機以上の重爆撃機を擁する編隊は、目標を意のままに攻撃し、
ドイツ全土の石油精製所、合成油プラント、橋、
鉄道操車場を徹底的に破壊しつくしたのです。



貨車によって運搬中、線路を狙い撃ちした爆撃により、
被害を受けたフォッケウルフFw 190戦闘機(カバー付き)。

オーストリアに行ったことのある人には馴染み深い、
チロル地方特有の冠雪した山脈が後ろに見えていますね。

ここはチロルのハル(Hall)の操車場(marshalling yards)。
この戦闘機は使用不可能になりました。


第8空軍の攻撃で炎上するドイツのモーンハイム製油所。

モンハイム製油所の攻撃は、第二次世界大戦中の、いわゆる
「石油キャンペーン」
の一つとしてそのリストに名前が上がっています。

ドイツの製油所はおもにハンブルグとハノーバーに集中しており、
周辺国はあの「プロイェシュティ攻撃」(黒い日曜日)で有名になった
ルーマニア、ハンガリー、ポーランド、オーストリア、
チェコスロバキアなどに点在していました。


ドイツのヴァルネムンデにあるハインケル工場。
2回目の爆撃の跡が無数に残されています。


戦略爆撃作戦は、数ヵ月にわたる執拗な攻撃の末、

1945年初頭までにドイツの輸送システムを破壊し、
石油生産量を劇的に減少させるに至りました。

この破壊によって、ドイツ国防軍(ドイツ軍)は
物資と燃料の不足から著しく弱体化していくことになります。

空軍が敗北し、インフラが完全に破壊されたナチス・ドイツは、
1945年5月、東西からの連合軍の地上進攻についに屈しました。

「私の意見では、戦争は航空攻撃によって決着したと思う。
それは、わが国の合成油プラントに対する大規模な攻撃と同時に、
通信に対する攻撃が同時に始まることによって起こった」


ドイツ空軍軍需部長だったエアハルト・ミルヒ将軍の言葉です。

ミルヒー(牛乳)という名前の人が本当にいたとは

ミルヒは飛行学校出のパイロットで、第一次世界大戦後、
ルフトバッフェがヴェルサイユ条約で飛行禁止になっていた間、
ドイチェ・ルフト・ハンザの設立にも関与しています。

その後ゲーリングにスカウトされてドイツ空軍の発展に携わり、
戦争が始まると軍需生産と航空軍備の中心にあったので、
空軍の戦争における趨勢というものをよく知る立場でした。

余談ですが、彼は半分ユダヤ系の血を引いていたため、
ドイツ軍に彼を引っ張ったゲーリングは、出自を誤魔化すため、
登記所に彼の出生届を改竄する命令を出したものの、
戸籍局が改竄指示に従わなかったという噂があります。


爆撃前の1944年(左)
米空軍と空軍の重爆撃機による数回の攻撃後の1945年1月(右)

ドイツのジーツ(Zietz)にあるブラバグ(BRABAG)合成油工場は、
工場の建物とともにシステムが破壊されました。
この工場は通算5回も空爆に遭っています。

BRABAG は正確には「Braunkohle Benzin AG」といい、
BRABAGは亜炭とベンゼンの頭文字から取られた名称です。

1934年から1945年まで創業していたドイツの会社で、
買ったんから合成航空燃料、ディーゼル燃料、ガソリン、潤滑油、
パラフィンワックスなどの蒸留を行っていた会社です。

戦争遂行のためにナチス政権によって綿密に運営された産業カルテル企業で
第二次世界大戦前と戦時中、ドイツ軍に不可欠な製品生産を行いました。

それだけに連合軍の石油キャンペーンの標的となり、
終戦までには工場の施設の破壊によって生産は困難になり、
会社も終戦と同時に破綻しています。



ズタズタになったBRABAG工場のパイプライン。


1944年8月から12月にかけて35回の戦闘任務に就いた
第91爆撃群爆撃手ポール・クリスト中尉が所有していた地図。
 任務それぞれの飛行ルートが地図に描きこまれています。


とんでもなく几帳面だったらしいクリスト中尉が書き残した
ミッションごとの記録。(公式なものではない)

左下には、18回目の任務で

「1944 !HALF WAY THRU- AMEN !」
(半分過ぎた-アーメン!)

35回任務終了のあと、

THAT'S ALL, BROTHER-"HAPPY WARRIOR"-
(終わったぜ! ”ハッピーウォリアー”兄弟)
AUGUST 3rd TO DECEMBER 25th 1944
35 MISSIONS-187,350 lbs. BOMBS DROPPWE-93½TONS」


任務中のクライスト中尉

彼は戦後このように語っています。

12週間の爆撃と、6週間のDRナビゲーションを終えて帰国した。
飛行中一番恐れていたのは、ナビゲーターの隣の小さなハッチから
 ベイルアウトしたとき左の
昇降舵の前縁にぶつかって死ぬことだった。

万が一生きて地上にたどり着いたとしても、

次の心配はドイツ民間人に殺されることだった。

たとえ殺されずに収容所に入ったとしても、
当時僕の体重は125ポンド(約56キロ)しかなかったので、
わずかな配給では決して生き延びられなかっただろう。


クライスト中尉(おそらく56キロになる前)


1944年12月12日、ドイツ、ハナウ(Hanau)上空で
対空砲の直撃を受けた第8空軍のB-24。

石油キャンペーンの頃、戦闘機の脅威は低減していたとはいえ、
依然として敵の対空砲火は危険でした。

このB-24「パッツィー(Patsy)」は、ハナウの操車場爆撃任務で
フリーガーホルスト・カゼルネ上空を飛行中攻撃によって墜落、
マイロン・H・キーガン大尉以下10名の乗員は全員死亡しました。


以前も掲載したことのあるMe262の野外最終組み立てラインの写真です。

ここはオベルトラウブリング近郊の森林地帯。
連合軍の集中攻撃を逃れるため、ドイツはこのように
生産工場を地下や森林地帯に分散させていました。



野外のMe262に肘を置いて何かを考えている連合軍兵士


時計がちょうど5時を指している


続く。




カミカゼ特攻との対決〜USS「ザ・サリヴァンズ」

2024-08-02 | 軍艦

前回、「ザ・サリヴァンズ」の第二次世界大戦中の対空戦闘について、
太平洋戦線の途中までの戦歴を追ってみました。

「ザ・サリヴァンズ」シリーズ最終回の今日は、彼女の対空戦闘、
主に日本の特攻機との交戦について、実際の特攻出撃記録を見ながら
辿っていきたいと思います。

【1944年10月〜悪夢の台湾沖】



台湾と沖縄を空襲する空母を護衛していた「ザ・サリヴァンズ」は
ここで初めてというべき熾烈な航空戦を経験します。


レーダーが最初の日本軍機1機を発見したのを皮切りに、6時間、
約50〜60機が米機動部隊に絶え間ない航空攻撃を浴びせ続けました。

日没になってからも一式陸攻「ベティ」がやってきてこれを撃墜。
その後5機を撃墜。
この日は1日中対空射撃を続けていたことになります。

12日の2105から日を跨いで13日0235まで、
日本軍の航空隊は、アメリカのレーダー通信を妨害するために
「チャフ」を用い、照明弾で暗闇を照らして攻撃してきました。

これに対抗して「ザ・サリヴァンズ」らは煙幕を張り、
靄を作って敵パイロットの目を欺こうとします。

一連の戦闘で巡洋艦「キャンベラ」(CA-70)「ヒューストン」(CL-81)
が損傷し、彼女はこれを護衛してウルシーに撤退をしています。

撤退中、攻撃してきた「フランシス」(銀河)
「ヒューストン」にダメおしの損害を与え、修理不可能にしました。

このとき、「ザ・サリヴァンズ」は「ヒューストン」を攻撃した
銀河を2機共同で撃墜しています。

【1945年3月20日 九州沖 特攻】

「エンタープライズ」と並んで給油作業をしていた「ザ・サリヴァンズ」は
神風特攻隊の警報を受け色めき立ちます。

この日公式に出撃した特攻は、調べたところ、

坂口昌三大尉(海軍機関学校47)
大川軍平飛曹長(乙飛8)
柳本拓郎飛曹長(操練42)
竹園良光飛曹長(偵練?)
清水松四郎上飛曹(偵練14)
梅木留治飛長(普電練66)

この6名を乗員とする鹿屋基地から出撃した銀河1機のみとなっているので、
彼らが2機撃墜した、と言い張るのには疑問が生じます。
(陸軍からも4月20、21日の特攻出撃はない)

それにしても、特攻機隊長が海軍機関学校卒というのは驚きです。
そして「普電練」とは、普通科整備術練習生のことです。
電信員として乗り組んでいたのでしょう。

このとき彼らは駆逐艦「ハルゼー・パウエル」に突入を果たし、
その結果発生した火災は消火されたものの、
12名が死亡、29名が負傷、操舵不可能という状態にしました。

「ハルゼー・パウエル」はウルシー環礁まで後退し、修理を行いました。


続いて3月21日には、鹿屋基地から第一神雷「桜花」隊、
桜花を載せた陸攻隊、神雷攻撃隊など
あの野中五郎少佐を含む特攻の大編隊が出撃しており、
「ザ・サリヴァンズ」が遭遇したのはその中の銀河1機と思われます。

■ 沖縄

「ザ・サリヴァンズ」は沖縄上陸作戦を支援する空母を護衛しました。
それはまさに、あの
世紀の超駄作「オキナワ」に描かれた世界です。

15日のレーダーピケット任務中、特攻機1機を撃墜。
4月29日には「ヘーゼルウッド」(DD-531)
「ハガード」(DD-555)が特攻を受けました。

この日の特攻は菊水六号作戦鹿屋出撃の第9建武隊など爆戦の部隊でした。


指揮官は慶応、関西大学、東京農大、中央、立教、明治、
東京帝大、名高工(現名古屋工大)横浜商専(現横浜市大)
北海道大学、早稲田大学出身の、つまり学徒士官ばかりでした。

名前を挙げてみると、およそ日本の一流あるいは有名校を網羅しています。


神風特攻はアメリカ海軍の水上艦乗員を最後まで苦しめました。

全ての舟艇が特攻パイロットの標的となり、いつ来るかわからない攻撃は
アメリカ軍の将兵たちの神経を極限まで追い込んだと言われます。

そして5月11日の朝、早稲田大学出身の小川清大尉(死後二階級特進)
が操縦する爆戦(零戦)がUSS「バンカーヒル」に激突しました。

爆戦、とは、水面に対し水平に低く石を投げると
何回か水面状を跳ねる原理を応用して、
250kgの爆弾を積んで超低空、かつ最高速度で敵艦に近づき、
爆弾を投下する攻撃法を用いる零戦をこう呼んでいたものです。


小川機突入後の「バンカーヒル」

「ザ・サリヴァンズ」は直ちに空母の救援に向かい、
一時艦内を焼き尽くした火災を逃れて海に飛び込んだ166名を救助し、
彼らを他の艦船に移送する任務を行いました。

そして5月14日朝の空襲で、勇敢な老戦士USS「エンタープライズ」
菊水六号作戦の別隊である第6筑波隊と第2魁隊、
第8七生隊、第6神剣隊の爆戦隊が襲いかかりました。

この日の部隊はそのほとんどが学徒士官で、上記大学以外では
京都帝大、九州帝大、日本大学、同志社大学、拓殖大学、専修大学、
國學院大学、大分師範(現大分大学学芸学部)法政大学、
宇都宮高等農林学校(現国立宇都宮大学)京都師範(現京都教育大)出身と、
予科練出身は全体のうちわずか6名しかいないという
陣容でした。

この乱戦で4機の敵機が撃墜されましたが、そのうちの1機は
「ザ・サリヴァンズ」の攻撃によるものでした。

そしてこれが第二次世界大戦中の最後の戦闘行動となったのでした。


■ 1951年〜朝鮮戦争

戦後働きすぎた艦体を休めるべく予備役に入った「ザ・サリヴァンズ」ですが、
1951年、朝鮮戦争の勃発を受けて再活性化し、今まで戦っていた国、
日本に初めて向かうことになります。

10月10日に佐世保に到着し、第77機動部隊に加わった後は、
MiG15と戦うF9Fパンサーの支援を行いました。

流石にこの時代には対空砲で敵機を撃墜することはないので
対空砲の出番はありませんが、艦砲射撃の威力は健在でした。

主に国連の地上部隊を支援するために列車、トンネル、
鉄道車両や車両基地を砲撃し、北朝鮮軍の地上砲を破壊したこともあります。

■ その後退役まで

朝鮮戦争終了後「ザ・サリヴァンズ」は東海岸と地中海で活動しました。

レバノン紛争に介入する海兵隊の支援を行ったり、
海軍兵学校生徒の訓練航海を行ったり、
アスロックミサイルの評価試験を行ったり、
その間事故航空機の海上生存者救出を行ったり、
外国海軍との国際合同演習に参加したり、
「マーキュリー計画」を想定した訓練を行ったり、
「キューバ危機」が起こると海上封鎖に駆け付けたり
「スレッシャー」事故の調査活動に加わったり、

と、ほとんど休息の間もなく働き続けた結果、
1965年にフィラデルディア海軍造船所で退役しました。

■ 博物館展示


1970年代まで予備役、1974年に正式に除籍されてから3年後、
「ザ・サリヴァンズ」はエリー郡海事軍事公園に展示されることになりました。

「ザ・サリヴァンズ」は、ここでもご紹介したことがある
「カッシン・ヤング」「キッド」(バトンルージュ)
「ヴェロス」(ギリシャ)らと同様、世界に現存している4隻の
「フレッチャー」級駆逐艦の1隻です。

その後1995年に「アーレイ・バーク」級ミサイル駆逐艦、
「ザ・サリヴァンズ」が進水しました。

命名を行ったのは、サリヴァン五兄弟の末っ子であるアルバートの孫、
ケリー・アン・サリヴァン・ローレンでした。



「ザ・サリヴァンズ」シリーズ終わり