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バーキン片手に靖國神社

平成25年度防衛大学校卒業式~帽子投げ

2014-03-31 | 自衛隊

防大生のご子息をお持ちの読者の方から、
「ニコニコ動画で防大の卒業式が放送されます」
という「親ばか情報」をいただきました。
何でも、式の当日夜にほとんどノーカットで流されるとのこと。
ちょうどうちにいてパソコンに向かっていることもできたので、

最初から最後まで時々写真を撮りながら見ました。



その方の当初のお話によると、去年起こった防大生の不祥事のため、
卒業式の帽子投げは自粛されるのではないかという噂もあったようです。

防大の恒例となっているこの帽子無げ(hat toss)、元はと言えば1912年、

アメリカの海軍兵学校の卒業式で始まった慣習です。
もちろん「もうこの帽子は必要ない」という意味が込められているわけですが、
わたしが思うに、最初は数人のお調子者がつい開放感から帽子を投げたところ、

乗りのいいアメリカ人の習性で全員がいえーい!と追随し、それからというもの
それを見ていた在校生が自分のときにもやるようになり・・、
という流れでいつの間にか定着した行事ではないでしょうか。

(あくまでも状況証拠による推理ですので本当のところを知っている方、
ぜひ教えていただきたく存じます)

一見お行儀の悪いこの慣習、勿論のこと戦前の海軍兵学校では行われませんでしたが、
この、それまでの厳粛な式典から一転してブレイクする、
いわば「ハレ」と「ケ」の対比を見るような演出がある意味日本人の感性にマッチしたのか、
防衛大学校のみならず一般の大学においても行われています。


わたしがこの一般の大学で帽子投げが行われているのを知ったのは最近で、
親族がとある学校での卒業式で帽子投げを目撃したという話を聞いたのです。

この一般大学で卒業生が投げるのは学帽、つまり卒業式のときにガウンとともに着用する、
いわゆる「アカデミックドレス」の四角い帽子です。

話が寄り道しますが、このアカデミックドレスでの卒業を行っているのは
日本ではキリスト教系の大学からはじまり、現在は国立私立問わず何校かあります。

最も早かったのが早稲田大学。
早稲田では1913年(大正2年)に制定され、大隈重信がそれを着て行進をしています。
面白いのは、アナポリスで帽子投げが始まったのとほとんど同じ年であることで、
勿論この頃の早稲田には帽子を投げるなどという文化はありません。

現在アカデミックドレスを着用するのはこの早稲田を始め、最近導入した
東大、阪大、東工大、千葉大などの国立大と、いくつかの私大です。

わたしの親族のひとりは卒業生ではありませんがアカデミックドレスを着る立場で、
式典の最後に皆が帽子投げをするのを眺めていたそうですが、わたしが

「どうして角帽投げないの?」

と聞くと、

「学生と違って、もし投げたら自分で拾いにいかないといけないから」

という返事でした。

それにしてもいつから学帽まで投げることになったのでしょうか。
アナポリスや防衛大の帽子投げは

「もうこの帽子とはお別れだ」

という象徴的な意味があります。
実際、防大生は帽子を投げてそこから走り去ったあと、各自が任官する陸海空の
新しい制服に身を包み、あらためて受閲をおこなうわけですから、
ストーリーとして?非常に理にかなっています。


しかし、この「学帽投げ」は・・・。

まず間違いなく防大の帽子投げから波及したものだと思いますが、
何らかの意味があるとしたらそれは「開放感」というくらいのものでしょうか。

決して非難するわけではありませんが、大隈重信が知ったらきっと怒ると思います。


さて、話を防大に戻します。
この象徴的な行事である帽子投げの実地が危ぶまれるとまで噂になったのは
防衛大学校で去年起きた不祥事が原因でした。
この不祥事とは・・・・・、


2013年9月、防衛大学校の学生5名が、実際はけがをしていないのに入院したなどと偽り

保険会社から保険金を騙し取ったとして詐欺容疑で書類送検された事件。

書類送検された5名は調べに対し「任官した先輩から教えてもらった」と述べたところから
組織的かつ継続的な犯行が行われているものとみて事件の徹底究明に乗り出した。
書類送検された5名は9月27日付で退校処分となったが、
学校側は学生の将来性を考慮するとして、氏名を公表しなかった

先述の発言を受けて同校では卒業を控えた4学年を優先的に調査してきたが、
部内の治安維持を任務とする警務隊が2014年3月、新たに4年生5名を書類送検したことを
防衛省が発表したことから、同校はこの5名全員を退校処分とし、退校者は10名となった。

この5名の中に、先に退校処分された学生と同部屋で起居していた学生がいたことから
手口を共有していたと見られる。
なお、同校では今回の事件発覚以前にも同様の手口で退校処分を受けている者がいることから
長期間にわたりこの手法が継続しているものと見て再発防止のための調査委員会を設置、
調査を継続するとともに今後は刑法上の公訴時効(7年)に満たない卒業生に対しても
捜査を拡大することを検討している。

その一方で事案を部内で短期に終息させようとする制服組と、
部外警察への引き渡しを含め徹底的な究明を図る背広組との対立が明らかとなっている。(wiki)


ご存じない方のためにwikiから引用するとこのような事件です。
事件が報じられたとき、案の定「心ある市民団体」(という名の左翼)らしき人たちが

「防大生を見れば詐欺師と思え」


などという酷い言葉で防大生全員が事件にかかわっていたかのようにこの事件を論じ、
野党もそれみたことかと鬼の首を取ったように国会でこのことを糾弾したそうですが、
ただでさえ鵜の目鷹の目で揚げ足を取ろうとする「反対派」に萎縮しがちな防衛省が、
こんな事件を起こした防大に対して、真意はともかく、当事者ならずとも
綱紀粛正を戒めているというポーズを世間に対して示そうとするのは当然で、
「帽子投げ禁止」
などという噂もそこから出て来たのかと思われます。


今年たまたま放映があることを教えていただいたのですが、このようなことがあった年度の卒業式、

防衛大臣、総理大臣、そして防大校長がどのように今年の式に臨むのか、
それらに対する興味もあってこの放送を見てみることにしました。



儀仗隊入場。



暗い講堂内の映像を、さらにニコニコ動画で放映されているものを
普通のカメラで撮った写真なので画像は無茶苦茶です。
ご存知のようにニコニコ動画はコメントが出るのですが、
今回はそれも写しておきました。

総理大臣臨席、栄誉礼に続いて国歌斉唱。
ちなみに国歌斉唱では、コメント欄でも皆が歌っていました(笑)

この後、卒業証書授与があったのですが、昔の「恩賜の短剣」はなくなり、
どうやら最初に呼ばれる「代表」が主席なのかなと思われました。

見ているといきなり画面にはラヴェルの「ボレロ」がかぶせられました。

「なぜボレロ」

とコメント欄では皆が不思議がっていましたが、実際はヘンデルの
「見よ勇者は帰る」(勝利を讃える歌)がずっと演奏されていたはずです。

ここのところはかつての海軍兵学校と全く変わっていないということですね。



そして卒業生の答辞。
この学生が「クラスヘッド」でしょうか。 

「我々の在学中、一部の心無い学生の振る舞いにより、
防衛大学校の威信が傷つけられる事案が生起しました。

我々58期生はこの状況を踏まえ、今一度原点に立ち返り、
防衛大学校学生としての理想像追求に努力して参りました」

と、いう一文が入り、やはりその問題についての姿勢を明らかにしていました。

「帽子投げ禁止」

などという懲罰などではなく、学生の自主的な反省と自戒を見せることで
事件への姿勢を表に示したもの、とわたしは解釈しました。

しかしながら、後にも述べますが、この日の模様を報道したメディアの関心は
全くそんなことには無く、朝日新聞を筆頭とした新聞は、ただひたすら
安倍首相の訓示の中に集団的自衛権の改正につながる「核心的な」言辞を
それこそ砂金を探し出すような熱心さで抜き書きすることに腐心しており、
はっきりいって「不祥事」などどうでもよかったのではないかと思われました。

こういった防大側の「反省の姿勢」は、わたしのように最初から最後まで
この式典を意図的に注視している人間にしか伝わらなかったということになります。
(新聞が全く触れないのですからね)


つまり、「防大生を見れば詐欺師と思え」などと言っている人たちは
おそらく防大の卒業式を最初から最後まで見ることなどまずないでしょうし、
帽子投げをしている映像だけをどこかで見つけては

「全く反省の色がない」

などと憎々しげに決めつけるのが関の山なのではないでしょうか。
こういう持論の人たちにとって、自分に都合の悪い事実は存在しないのです。

因みに、ちょうどこれを書いていた28日、
横浜地検が、詐欺容疑で書類送検されていた21歳~23歳の元学生の男性10人を
起訴猶予処分としたというニュースが入ってきました。
地検は理由を明らかにしていないということで、またしても左な人たちがこれに噛み付き
大騒ぎしないかが注目されますね。





さて、このあと、陸海空要員の代表が幹部候補生として宣誓し、

一人ずつ安倍総理と握手を交わしました。
このときに、幹部候補生は任官するということでしょうか。

このときに宣誓されたのは勿論
「自衛隊の服務の宣誓」です。


私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、
日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、
人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、
強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、
身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。


服務の宣誓は自衛隊法で

次の宣誓文を記載した宣誓書に署名押印して服務の宣誓を行わなければならない


と第39条ー第42条に決められています。



陸空海幕僚長からそれぞれの要員に賞状が与えられます。



そして、学生の代表が何事かを宣誓した後、



いきなり帽子無げ。
映像ではなく字幕をお楽しみ下さい。

















とにかく帽子投げが廃止にならなくて良かったです。

わたしは事前に、廃止にするしないはあえて発表せず、その場の「のり」で

当然のようにやってしまうのではないかと予想していましたが、やはりその通りでした。
「一部の心ない学生のために」一生に一度の行事に水を差せば、
命じた方も命じられた方も後味が悪いだけですからね。

さんざん挨拶でもそのことについて言及したので、
それ以上の責任を罪も無い学生たちに押し付けるのはいかがなものかと思います。 



帽子はどうなるのかとコメント欄では騒然となっていましたが、
どうやら後輩が拾って回収するようです。
あとでそれぞれの持ち主のところに返還されますのでご安心下さい。

明日は、この日の安倍総理始め各来賓の挨拶を中心にお送りします。





自衛隊儀礼歌「海のさきもり」と元海軍大尉「江島鷹夫」

2014-03-30 | 音楽

つい先日。
わたしはまたもや「オで始まってマで終わる県」に行っておりました。
天候、またも雨。

全国でも三番目に降水量の少ないはずのこの県にしてこの高確率。
特に雨女というわけでもないのにこうもタイミングよく雨が降ると、
この県とわたしとの相性の問題かと思ってしまうわけですが、
だからといって雨が降って運が悪かった、とはわたしは思っておりません。

今回の訪岡でお会いした一人、Hさんはわたしを「ふゆづき」の引渡式、および
自衛艦旗授与式に参加させてくれた恩人というべき方です。
別の場所(わたしが本来いるべきだった三階級下の席)で式を観覧していたのですが、
この日の会合で式典のことを熱く語りだしました。

「あの、雨の中ねえ、自衛官たちが式の始まるまでの間の1時間半、
身動きもせずにじっと立ってねえ。
あれだけ濡れて気の毒は気の毒やったけど、実に感動しましたなあ」

この方はこういう感性といい、日本の国防や政治、国際関係、そして
教育のあり方や自衛隊に対する考え方、全てをわたしとほとんど同じ座標に身を置く方で、
一旦こんな二人が話しだすと、話が盛り上がって留まるところを知らないという仲なのですが、
やはり豪雨がドラマティックな演出ともなったあの出航には、同じような感動を持たれたようでした。

この話がでたのは、わたしたちが岡山市内のある小料理屋の一室で、
元陸上幕僚長と栄転する元幕僚長副官を少人数で囲む宴席を持っているときでした。

「ほら、この写真見てください。この濡れ方!」

H氏が自分のスマートフォンで皆に見せたのは式典の間起立する自衛隊員たち。
そのときに出席していなかった人々はそれを見て口々に驚きの声を上げます。
さらにH氏は続けて熱く語りました。

「それでね、自衛艦旗を受け取るときに、演奏されるのがね、
『海のさきもり』ちう曲なんですよ。
もう僕はあの曲が流れて来たとたん涙が出てきましてねえ」

わたしが「ふゆづき」の写真を用いた「海のさきもり」のYouTube投稿をして
三日後のことです。

「Mさん、このCD、よかったらどうぞお持ち下さい。
『海のさきもり』が収録されています」

Hさんが元陸幕長に鞄から出して献呈したそのCDを見ると・・・

わたしが持っているのと同じものでした。

コメント欄でcoralさまが教えてくれた、あれです。
そして、そのときそれを見たとたんわたしは全てを思い出したのです。
このCDはH社の社歌をブラスバンドのために編曲する仕事をした頃、
他ならぬHさんに貰ったものだったのでした。
そういえば・・・・・。


わたしがいろんな意味で変な汗をかきつつ、記憶をまさぐっていると、
H氏、わたしの方を振り向いて、

「このCD、差し上げましたよね?」
「は、はあ、戴きました。
実は今回の引渡式の写真をYouTubeに投稿したんですが、
『海のさきもり』を戴いたCDから使わせていただきまして・・・」


あれ、でもなんだか変だぞ。
なんでHさんにわたしこのCDを貰ったんだっけ。
Hさんは元陸幕長に説明していわく、


「実はこの曲を作詞したのが、うちの(H社の)亡くなった番頭さんでしてね」


そ・・・・・そうだったっ・・・・!!


「うちの番頭さんの作詞した曲が入っているので聴いてください」


と言って、Hさんはこの舞鶴音楽隊のCD、

歴史的日本海軍軍歌集」~海軍軍歌から海上自衛隊隊歌まで~

を下さったのでした。
実は帰ってから一度だけ聴いたけど、全体的に流して聴いただけで、
どれが番頭さんの作品かはほとんど意識しないまま、ちゃんと聴かねばと思いながらも
エントリ制作やそのための資料収集の忙しさに紛れて、すっかり忘れてたんだった。 


そしてその約2ヶ月後のことになりますが、
わたしは、ちょうどH社の仕事をしていた頃ご縁ができた海上自衛隊幹部氏から、
まさに偶然なのですが、「海のさきもり」の楽譜を添付ファイルで戴いたのです。

そのときの説明で

「自衛艦旗の授与と返納の際使われる曲で、歌詞もあるが、
海自の隊員でもそれを知るものは少ない」

と知り、このこととこの歌についてをいつか記事にしたいなどと考えたのです。

その曲が、Hさんの言っていた「番頭さんの曲」であるとは夢にも気づかずに。



そもそも3月13日の「ふゆづき」引渡式および自衛艦旗授与式への参加は、
わたしが三井造船に関連する企業のある経営者(複数)との付き合いがあったことで、
そのご好意から可能になったことでした。


その中でも「海軍が取り持った」とでも言うべきがH氏とのお付き合いです。
H氏が筋金入りの「海軍好き」であることをきっかけに知り合い、
そのご縁でH氏の会社の社歌を録音する仕事をさせていただいたのでした。

そもそもどうしてHさんが海軍好きであったかというと、
それが他でもないこの「番頭さん」の存在があったからです。



タートルネックの上にダックスのトレンチコートをさらりと羽織り、
日活の任侠スターのような粋さと、ある種の凄みを持つこの人物、
これがHさんのいう「番頭さん」であり、ほかでもない「海のさきもり」の作詞者、
江島鷹夫です。



「江島鷹夫」とは、わたしがこの重大な事実に気づかないまま
エントリで「海のさきもり」扱ったときに多分そうであろうと書いたように、
「江田島」と「古鷹山」から取ったペンネームです。


終戦後、海上自衛隊の前身である海上警備隊が昭和27年の4月26日に創設され、

その儀式歌と行進歌が同年11月13日付けの東京日日新聞紙上で募集されました。

応募総数8,500余編の中から選ばれたのは、「海のさきもり」。
江島鷹夫というペンネームの元海軍大尉の手による作品です。

「海のさきもり」は山田耕筰によって作曲され、警備隊一周年記念行事として
翌年の昭和28年4月28日、日比谷公会堂において盛大に発表されたのでした。




江島鷹夫は兵学校73期。


第42期飛行学生として昭和19年8月練習課程を終え、実用機教程に進みました。
冒頭写真は江島鷹夫が兵学校三年のときの飛行訓練の合間に撮られたもので、
確信は持てませんが、前列真ん中が江島であろうと思われます。

全員が子供子供した幼さを残していますが、彼らは卒業と同時に実戦に赴き、
特攻隊長として散華した者もたくさんいました。
昭和19年10月25日、組織された特攻の第一号として戦死した70期の関行男大尉は、
直前の夏頃まで彼らの教官をしていました。
関大尉が教え子に残した歌は次のようなものです。

教え子へ

教え子よ 散れ山桜 此の如くに




江島が教練を受け配置されたのは偵察でした。
乗っていたのは「彩雲」。
偵察任務でフィリピンに飛び、敵戦闘機に追われて九死に一生を得たこともあったそうです。



わたしがH社を最初に訪ねたときに、明るく近代的なH社のオフィスに
大きな彩雲の模型があるのに気づきました。

「これは?」

よく聴いてくれた、とばかりに二代目社長が話してくれたのが「番頭さん」の話。
昭和38年(1963年)、創立して一年目のH社に入社した江島は、 同社が開発し、
今や誰もが日常生活で使用する、ある「独自製品」を開発する中心を担い、
同社の取締役を務めました。

わたしも当初驚いたのですが、このH社の独自製品は、皆さんの生活に普通に登場するものです。
工事現場、災害現場、そして勿論自衛隊でも使われている「あれ」です。
あんなポピュラーなものが一社によって作られているということにわたしは驚きましたが、
その成功の陰には江島鷹夫なる(ペンネームですが)一人の元海軍軍人がいて、
二代目の社長であるH氏を導き鍛えて一人前にし、現在のH社の隆盛の基を作っていたのでした。


それにしても・・・・・。

わたしが今回自衛艦旗授与式で「海のさきもり」について書いたこと、
現役自衛官の某氏から楽譜を戴いていたこと、そして何よりこの儀礼歌を
「大切に歌い継いでいきたい」という自衛官氏の言葉を受けてYouTube投稿をしたこと、
そして何より江島鷹夫なる人物が後半生を賭けて大きくしたH会社の社歌を、
縁あってこのわたしが手がけたこと。


これらが一度に明らかになったことで、全てが糸で繋がっていたことがわかったのです。

まあ、H氏からCDを戴いていながらちゃんとそのときに聴いておらず、
従って自衛官幹部氏が楽譜を送って下さったときにすぐに気づかなかった、
というあたりがちょっと、というかかなりかっこわるい、というか
H氏のご好意に対しても失礼でいずれにしても恥ずかしい話でもありますが。


「海のさきもり」は警察予備隊の創設に際して作られましたが、
このとき東京日日新聞によって同時に募集され、行進曲として採用されたのが
この間もお話しした「海をゆく」です。

「海のさきもり」が山田耕筰によって作曲されたのに対し、「海をゆく」は
こちらも大家である古関裕而が曲をつけています。


つまり、江島鷹夫のように一般応募で選ばれた歌詞が採用されたのですが、
ご存知のようにこの歌は冒頭の「男と生まれ海をゆく」の一文が
その後「時代に合わない」とされ、ここだけではなく全編が、50年記念の際
まるまる変えられてしまった、という話もすでにしたかと思います。

そもそも最後の「ああ堂々の自衛隊」の部分ですが、このとき制定されたため
当初は「ああ堂々の警備隊」となっていたのを、自衛隊発足時に「自衛隊」に変えたようです。
(ここは状況推理ですのでどなたか真相をご存知の方は教えて下さい)


新しくなった「みんなのうた」的生ぬるい新しい歌詞について、散々クサしたわたしですが、
そのときにも書いたように、江島鷹夫作詞のこの歌詞は、変更はされていません。


これは、「海をゆく」のように歌われることがあまり無く、あくまでも儀礼歌として
式典のときに演奏が行われるだけなので、チェックに引っかからなかったとも言えますが、
この歌詞の見事なくらいの普遍性と極限まで修飾を省いた言葉選びの巧みさに、
たとえ戦後軍色パージのやり玉に挙げられるようなことになったとしても、
「なにも変える部分はない」
ということになったのではないかと想像されます。

まるで軍艦旗をそのまま何も変えずに自衛艦旗とするしかなかったように。



H氏から断片的に聴いただけなので、江島鷹夫がどんな海軍軍人であったかとか、
どのような状況で戦争を生き抜くことができたのかはわかりませんが、
この歌の歌詞には、元海軍に身を置いた人間だからこそわかる
「防人の心」が簡潔なしかも格調高い言葉で言い尽くされているように思えます。

戦後、海軍が「海上警備隊」として蘇るということを知ったとき、
元海軍大尉江島鷹夫は、次なる世代の護り手に対し、海軍軍人であった自らの気概と
同胞(とも)と国土を守る意気軒昂あれかしという激励の気持ちを、
一語一語に全霊で込めることによって国を護る人の心を伝えようとしたに違いありません。




「海のさきもり」 江島鷹夫作詞

1 あらたなる光ぞ
  雲朱き日本(ひのもと)の
  空を 富嶽(ふがく)を
  仰ぎて進む
  われらこそ海のさきもり

2 くろがねの力ぞ
  揺るぎなき心もて
  起(た)ちて 鍛えて
  たゆまず往かん
  われらこそ海のさきもり

3 とこしえの平和ぞ
  風清き旗のもと
  同胞(とも)を 国土を
  守らでやまじ
  われらこそ海のさきもり





エリス中尉、パープルハート勲章を授かる

2014-03-29 | つれづれなるままに

ちょっと息抜きの雑談です。
息抜きの雑談ついでにお礼を言うというのも失礼な話なんですが、
このエントリは読者の皆様へのお礼も兼ねております。

先日 負傷、もとい不肖エリス中尉が落馬して手首を骨折した際には、
常連の皆様には暖かいお見舞い、激励のコメントないし裏米(越前屋御主も悪よのう、ではない)
をいただき、まことにありがとうございました。

人の世の、うたかたもうたかた、所詮インターネッツの世界に仮の姿で
あれこれと愚にもつかぬエントリをほぼ毎日書き散らし続けているだけの存在に対し
このようにお気にかけていただけるとは、まことひとの情けが身に沁みまする。

というわけで、その読者のお一人でおられるある方から、エリス中尉、
このたび名誉の負傷に対してパープルハート勲章を叙勲せられたのであります。

当方に叙勲するからには相手はやんごとなき身分のお方であらせられると拝察しますが、
冒頭写真のいただいた勲章に刻印されたその神々しいお姿は、

・・・・・・ん?どこかで見たことあるぞ、と思った当ブログ読者の方、あなたは正しい。






しかも、この勲章は「海軍軍人」に対して授与されたものなので、ちゃんと錨のマークが。
これ、拡大してますが凄い小さいんですよ。
ちゃんと糸で縫い付けたのは彼の奥さん、じゃなくて皇后陛下でしょうか。

しかも勲章だけでなく、一緒に副賞として



ピアノを象ったのとかハートとか、



ペコちゃんのチョコとか、送っていただきました。
本当にありがとうございます。
この場をお借りしてお礼を申し述べさせていただく次第です。


ところで、わざわざこのこのやり取りをエントリにしたのにはわけがあります。
わたしは今回、お互いアドレスさえ分かっていればこのように
ものを送ったりできるサービスがあることを知り、心から驚いたのでした。

つまり、このブログを通じて知り合った方と、本名を知らせずに、たとえば、
「エリス中尉」「婆沙羅大将」のままでやりとりができるってことなんですよ。


メルアド宅配便



つまり、こういうことです。
「婆沙羅大将」が業者にインターネットで宅配を申し込む。
そのときに、婆沙羅大将は自分の住所と本名を登録する。
インターネット宅配業者が、エリス中尉のメールに連絡をしてくる。

「婆沙羅大将から品物が送られますが、受け取りますか?」

はい、と返事をしたら、業者に自分の住所、名前を教える。
業者はあくまでも婆沙羅大将から、ということで荷物を預かり、
エリス中尉を名乗る人間の住所に配達をする。

そんなことをしてくれる業者があるというのです。
お互いの名前を隠し合った状態でもののやり取りをする、というのは
一昔前では考えられなかったことなのですが、今ではインターネット上の名無し同士で
現実的なもののやり取りを行うというような場面も多く、このような需要が生まれ、
それに答える業者も出て来たということなのでしょう。

「HNファビアン三世こと山田恒男と申します」というような種明かしをせず、
ファビアン三世のまま相手に深紅の薔薇を贈るということが(どんなシチュエーションだ)
可能になったというわけですね。

何気にこれは人類が初めて得た通信の形で、わたしたちはその画期的な
歴史の転換点を見ることになった記念すべき世代といえるのではないかしら。

仮面舞踏会とか匿名の手紙とか、そういう限られた、あるいは一方向の匿名性ではなく
今や皆が普通に「本当の自分の名を名乗らずに生きる世界」に生きることができる時代です。
そのバーチャルな社会は実社会とは別に、しかしながら微妙に重なりながら存在し、
そこに仮の名を持つうたかたの存在同士が会話し、楽しみ、ときには憎み合ったりしているのです。

そこに生じているのは現実社会と全く同じ数だけの仮想の関係です。







ところで話は変わります。
怪我した当初は車の運転もできなかったのですが、先日久しぶりに運転することになりました。
注文していた新しい車が到着したのです。

これが・・・・・賢い。





初乗りの日、運転席から写真を撮ってみました。




これ、今度の車に搭載されているヘッドアップディスプレイです。
平常左の速度表示だけなのですが、このときはナビゲーションを試しています。
運転席左のパネルには地図が出ていますが、このように窓ガラスにも道順が映るのです。

このときは家族を乗せて走ったのですが

「すごーい」「かしこーい」「頭いい~!」

皆の口から出てくる言葉は順番にこればかり。

だって、たとえばハンドルについているボタンをピッと押して

「電話をします」

と言えば

「誰に電話をしますか」

相手の名前を言えば、Bluetoothでベアリングした電話をかけてくれ、
全く運転を中断することなく会話ができます。
相手の音声は室内のスピーカーから流れ、音楽を聴いていれば
その音はしばしストップして通話を妨げないというのもすごい。
去年の冬、外で待っている息子に電話をしていて見張っていた警官に捕まり、
罰金を取られましたが、もうこんな悲劇とはお別れです。


まあ要するに車がコンピュータを搭載することができるようになったので、
パソコンでできることは車で何でもできるようになったというわけですね。

駐車するときはノーマルなリアビュー、つまり後ろの映像と切り替えて、
車を真上から見た画像(タイヤの上のカメラで撮った画像を合成してある)で障害物を検知できます。
変なところに思わぬ障害物のある某タイムズパーキングで、左車体をこする悲劇とはもうお別れです。

インテリジェントキーで鍵を出さなくてもエンジンがかかる仕様はもちろんのこと、
今までと違い鍵をバッグから出さずしてただドアに手をかけるだけで鍵が開き、
指で取っ手にちょんと触れればロックしてしまいます。
車から出るたびにいちいちバッグの中をかき回す面倒とはもうお別れです。




前の車を購入してから5年が経ちますが、この5年で、車の世界は
やはりコンピュータが人々の生活に普通に入り込んで来たのと同じく、
当たり前のようにコンピュータで全てが指示できるようになっていました。

「この5年は『走る停まる』以外の車のシステムが激変しました」

ディーラーのナカガワさんは言っていましたが、
中でもそれをひしひしと感じたのは、オートクルーズとセンサー機能です。

今までのオートクルーズは、夏にアメリカで乗ったメルセデスもそうでしたが、
一定のスピードを継続して出してくれるだけで、ブレーキを踏めばそのつど解除されるし、
問題は遅い車にすぐ追いついてしまうことで、前との車間距離をいつも注意しなくてはいけません。
よって渋滞の多い都市部の高速でこれを使うことはまずありませんでした。

しかし、今度のオートクルーズ機能は、前を走行している車をセンサーで感知し、
たとえば90キロで走っていても、70キロで走る前の車に追近づくと
前との距離を詰めないようにスピードを落とし、速度をぴったり70キロに落とします。
渋滞でうっかり前の車に追突してしまう、などという悲劇とはもうお別れです。
さすがにわたしもこれはやったことないですけど。




先日岡山で車に乗せていただいた会社社長は、実に慎重な運転をする方でしたが、
車間距離の空け方は、まるで最新式のセンサーでも搭載しているかのように広めでした。
(全国的にその業界では有名な会社の社長ですが車は10年落ちのホンダでした)
しかも、新車の機能に着いているリミッターでも使っているかのように、
どんな空いた道路でも90キロ以上は決して出しません。
その方に我が新車のオートクルーズ機能について話したところ、

「いや、たとえ車がなんでもやってくれたとしても過信しちゃいけません。
いきなりその機能が効かなくならないという保証はどこにもありませんよ」


たしかにクルーズ機能についてはわたしも心のどこかではそういう不安があるので、
いつも前方を凝視し、右足はブレーキの上に待機させている状態で走っています。

逆に自分で運転するよりもさらに注意深く慎重になっているのです。


さらに、わたしの車は声をかければこまめに返事はしますが、
少し自分のデータに無いことを聞かれると

「それをWikipediaでお調べしますか?」

挙げ句の果てには

「おっしゃることがわかりません」

と逃げられます(笑)
どんなにぼーっとした人でも、言葉が通じる人間なら理解できるような簡単なことなんですが。



実際の世界とバーチャルの世界が重なったり離れたりしながら存在し、
そのどちらもに自分が存在することがもはや当たり前のようになってしまった世界。
しかし、今のところ、コンピュータにできることにははっきりと限界がありますし、
その機能に全幅の信頼を置くことも憚られます。


ところで先ほどの話に戻りますが、くだんのパープルハート勲章は、
わたしにとってインターネットの中だけに存在する相手から、
エリス中尉というわたしのアバターに向けて送られてきました。

しかし今までバーチャル世界上で交流してきた実在の人物からのプレゼントである、
という前提あらばこそわたしはこれを安心して受け取ることができたのです。

バーチャルを泳ぐ存在もつまりは個々の実在の人間であり、だから我々は
その文章からその人間性を確かめ、好意を持ち、心を許すのです。
実際の世界で会話や行動からそれを計ろうとするのと全く同じように。


信じられないようで信じられるインターネット上のバーチャルな関係。
信じられるようで信じられないコンピュータ主導の世界。
逆もまた真なり、でしょうか。









 


護衛艦「ふゆづき」出航~「海のさきもり」

2014-03-28 | 自衛隊



何日もかけて3月13日に行われた護衛艦「ふゆづき」引渡式、ならび自衛艦旗授与式、
そして出航の様子をお伝えしてきましたが、今日で最後となります。 



さて、「帽ふれ」も済み、「ふゆづき」は滑るように岸壁を離れていきます。
三井造船の社員が持つ激励の幟は、この何分間かのためだけに準備されたもの。
たかがそれだけのために、ではない社員の熱い気持ちがこめられていると見た。

昨日今日、たまたままた用事で岡山に行っていたのですが、そのとき事情を知る方が

「商売だけでいうと造船工場自体は護衛艦の建造はあまり大きな利益ではない」

というようなことをおっしゃっていました。
フネそのものがいろいろな近代装備を搭載するための「入れ物」であり、
ステルス性やらなんやらでボリュームを減らすことが命題みたいになっているから?
とわたしは考えてみたのですが、それが正しいかどうかはともかく、
簡単にいうと、「時代が変わった」ということのようです。



しかしそんなうら寂しい事情とは全く関係なく、護衛艦が旅立つ儀式は
おそらく明治以降海外から取り入れたり国内で制定したりして、
大鑑巨砲の時代には形となったものを踏襲し続けて今日に至るのでしょう。

このような行事ひとつとっても、それは海軍創立の昔から積み上げられて来た
長く重い伝統のうえに成り立っているのです。
あらためて、海上自衛隊がその末裔であることの証左を目の当たりにした気がしました。


ところで、また思いついたので護衛艦のディティール紹介を。

見送りをしている社員たちのあいだに「ふゆづき」の艦尾部分が見えていますが、
左の方に見えている四角く切られた部分は、

TASS(Towed Array Sonar System)

と呼ばれる曳航式のアレイソナーがここに装備されています。
何を曳航するかというと、多数の聴音器を並べた長いケーブル。
潜水艦の音を探査し、位置や方角をそれで特定します。
なぜ多数なのかというと、水中での潜水艦からの音の伝わり方。
これが同心円状に伝播するため、その拾い方に差異が生じます。

そこで、長さの違うソナーを多数曳航し、おのおのの結果を処理することで
音源までの距離や方向を算出することができるというわけです。

100mから500m の深さを、4000~5000mに亘って曳航されるそうです。





帽ふれも終わり、全員が起立したまま静かに「ふゆづき」は出航していきます。

ところで、今日やはりこのとき出席していた方とお話をしたのですが、
その方の近くにはリタイアした元海自自衛官がおられたそうで、その方によると
雨の中に2時間立っていて全身びしょぬれになった自衛官たちは、
乗艦から出航行事までの1時間の間に着替えをしているはず、とのことです。
ただし、

「下着まで変えるかどうかはわからない」

とのこと。
でも、あれで下のものを変えなかったら、せっかく乾いた上着もすぐに濡れてくる、
というレベルだったですからね。
ちゃんと全身着替えをしたのではないでしょうか。
したと言ってくれ。



ところで皆様、この「ふゆづき」に揚げられていた信号旗に注目された方はおられますか?

エリス中尉、一番上のは回答旗であろうと予想する、という程度しか知識がありませんが、
この下三種の組み合わせはわかります。

これは、UWIで、その意味は

「あなたの協力を感謝する」

何に対する回答かというと・・・やはり直接は造船社員の激励ではないでしょうか。
慣例的に出航のときに揚げられる信号旗であるとわかっていても、
どうしてもそういう風に考えたくなります。





さて、じつはこのとき、今日お会いした方はわたしとI氏を埠頭で探していたのだそうです。
しかしなぜかわたしは帰りを急ぐI氏に急かされるように(というか急かされて)
「ふゆづき」が岸壁を離れるなり埠頭を後にし、なぜか

「バスを待つより歩いた方が早い」

といいつつすたすたと歩き出したI氏のあとを小走りに(すごい早足の人だったので)
出口に向かって歩いていたのです。(号泣)

「だから最後まで見たいと言うておろうがあ~~!」

などとここまでつきあってくださった上、身分を三階級偽装していただいた
恩人であるI氏にこんなこと、わたしの性格上言えることではありません。
性格関係ないですか。常識の問題ですね。

とにかく仕方なく歩き出したものの、未練がましく立ち止まってはシャッターを切り、
また立ち止まってはシャッターを切りの繰り返し。
おかげでろくな写真が撮れませんでした。

Iさんのばかー!

写真は、歩きながら仕方なく撮った海保のフネ。
しかし、こうして見ると海保の白い船というのもかっこいいですよね。
コーストガードと描かれた青のペインティングも美しい。

三井造船ではこのとき海保艦艇を二隻ドック入りさせていました。




「ふゆづき」は艦首をいつのまにか岸壁から垂直に向けていました。
ここでもう一度、こんどは右舷に立っていた乗組員が「帽ふれ」をした模様。
左舷側はもう誰もいません。



初めて右舷側を見たわけだが。

こちらから見ると、ボートダビットに設置されている作業艇が見えます。
「あきづき」型はこの作業艇が一隻だけの搭載となります。



飛行甲板。



彼らが立っているのは第2煙突の前。
「あきづき」型はガスタービン4基を主機としているため、
煙突の壁面にはそのために換気口がたくさん設けられています。
画面左上の巨大な換気口がそれ。

6個の俵状のものは自動膨張式いかだ。
どのように膨張するのか見てみたいけど、乗組員はしょっちゅう訓練で展開させているんでしょうか。



格納庫の上にあたる部分に立っています。
後部にもCIWS(前々回直訳してみましたが、正しくは近接防御システムですよ皆さん)
が一基あり、それがここに見えていますが、こちらを22番砲と呼びます。
20mmの2番砲だからだそうです。
ということはこの勢いで行くと、前のCIWSは21番砲と呼ばれていることになります。

「ひゅうが」もたしかそうだったと記憶しますが、「むらさめ」「たかなみ」型は、
これは左舷寄りに設置されていました。

「あきづき」型は、艦の中心線上にあります。



歩きながらだったのでカメラを交換することができず(泣)、
どんなに引いても艦全体が写りませんでした。





なので、ここで初めてタグボートが「ふゆづき」を押していたことを知りました。
岸壁の前方からこれを撮りたかったのに・・・・・・(怨)

「ひゅうが」「くにさき」の出航・帰港は確か二隻のタグボートが出動していましたが、
今回は一隻でやっていました。





あれ?
全員が岸壁ではなく艦首を向いている。
誰に帽ふれしているんだろう。


向こうに艦船の陰が見えるので、もしかしたらタグボートにお礼を言っている?




この期に及んで最後に説明しておくと、「ふゆづき」と描かれた右側に
喇叭のような穴が二つありますが、これは

デコイランチャー

デコイ、つまりおとりのことです。
ホーミング魚雷の攻撃を受けたとき、艦艇の推進音そっくりの音を出し、
魚雷にターゲットを誤認させて目標を外させるためのものです。

ここから魚雷によく似た自走式デコイを発射、デコイは迫り来る敵の魚雷に対して
音響的欺瞞を実施しながら自走することで誘引、誤爆を誘います。


ところで皆さん、この発射孔が喇叭型をしているのを見て、

「なるほど、ここから音を出すかららっぱの形をしているのか」


と当初一瞬でも考えたエリス中尉のことを思う存分笑ってくれたまえ。
ここから音を出してたらそもそも偽装にならないっつの。




ところで、当ブログと同じ写真が使われていることからお気づきかと思いますが、
冒頭のYouTubeは何を隠そう、わたくしことエリス中尉ことグーグルネームRaffaella Santiが
(画家のラファエッロの本名を女性形にしてみました) 初めてアップしたものでございます。

なぜ今までしたことのないYouTubeアップロードをいきなり思いついたか。
それは自衛隊儀礼歌「海のさきもり」がインターネット上どこを探してもなかったからです。


当初「海のさきもり」の譜面を製作してアップするにあたり、わたしも自分なりに
インターネットでこの曲がどこかで聴けないか検索してみました。
たとえ譜面が読めても、あの楽譜だけではこの曲の良さが全く伝わらないからです。


その後、coralさんが自衛艦旗授与式でこの曲が流れているYouTubeと、
またこの曲が収録されているCDを教えてくださったのですが、
それを見て、なんとわたし自身、それを所持していたことが判明しました。
そこで


「せっかくCDを持っているのだから、今回の画像を使ってYouTubeに投稿してみよう」

と考え、今までの写真の中から隊員の表情を捉えたものを中心に制作してみました。
いかがなものでしょうか。
(といいながら悪評価がつくのが怖いのでコメントも評価もできないようにした小心者である)



この曲は元々、ご縁を得て交流を戴いている現役海上自衛官から教えていただきました。

その方は、儀礼歌として自衛艦旗の授与並びに返納にも必ず演奏される曲でありながら、
歌詞があることを自衛隊員すら知る者が少ない、とそのときに書いておられました。

そして、

「行進曲『軍艦』と並ぶ海上自衛隊の歌として歌い継いでいかなければならないと思う」

と、いかにこの曲が海自の、とくに船乗りに取って象徴的な曲であるかが窺い知れる、
こんな一行が添えられていたのです。

しかしながら世間の関心はあまりこの曲に無いらしく、インターネット上では
ほぼ資料は皆無という状況。

「ならばそれをわたしがやる」

と、エリス中尉恒例の無駄な侠気を起こした結果が、この投稿となりました。

ところでこの話には後日談があります。

それは、今回の式典参加にご尽力下さった方とわたしを取り持った海軍の縁、
そして、その方にとって人生の師とも言える存在であった一人の元海軍士官が
この曲の作詞者である「江島鷹夫」そのひとであった、という少し不思議な話です。



次回「ふゆづき」のお話の締めくくりとして、そのことを書いてみたいと思います。




続く





護衛艦「ふゆづき」出航~「帽振れ」

2014-03-26 | 自衛隊

2014年3月13日、岡山県玉野市の三井造船で行われた護衛艦「ふゆづき」の
引渡式および自衛艦旗授与式、ついに出航となりました。
出航の「帽ふれ」を見るのは勿論初めてです。
わたしがこのイベントに参加したのも、この一瞬を見んがため。

大げさですが海軍海自に興味を持ってからというもの、
それくらいこの「帽ふれ」には多大なる憧れを持って来たのです。






係留していたロープを引き上げ、いよいよ甲板も準備完了。
皆に出航に際して打ち振るための日の丸と自衛艦旗が配られました。



先ほどまでここに固まって立っていた隊員が一列に並びました。
女性隊員は三等海曹です。
最近、海自を会社に例えればこの三等海曹から「正社員」であるという文を読み目から鱗でした。

ちなみに海幕長が社長、海将が取締役としたら・・・・防衛省が株主で国民は監査役?



「帽ふれ」するのはこちら側の乗組員だけではありません。
反対の舷側にも人が立っています。
出航すれば右舷がこちらを向くからですね。

皆が左舷に立っていて、出航後岸壁に右舷が向いたとたん、皆が走って
反対側の舷に移動し、今度はそちらで「帽ふれ」をする様子を想像してしまいましたが、
そんなスマートでないことは帝国海軍の末裔たる海上自衛隊には絶対に起こりません。




艦橋のデッキウィングには艦長と航海長が出ています。
このウィングの構造は、風が吹き付けても吹き込みにくい仕掛けがしてあります。
左の方、つまり艦の進行方向側のオーバーハングして二重になっている部分がそれで、
前面に吹き付ける風の方向を変え、上に逃がしてエアスクリーンのようにし、
結果ウィングへの風の吹き込みを低減するのです。

また、艦橋ウィング下部のスリット状の切り欠きのような部分には舷灯が装備してあります。

舷灯は夜間の航行中に進行方向を他船に伝える重大な役割を持ち、
右舷は緑灯、左舷は赤灯となっています。
今見えているのは赤の側ですね。

舷灯の右側にもライトがありますが、これは作業灯です。




艦橋デッキの艦長。
二佐の印である赤と青の双眼鏡ストラップをつけています。
青のストラップも目立ちますが、これはかなり遠くからでもすぐわかります。
艦長の右にあるのは探照灯。

艦長の立っているちょうど前が台形の形の切り欠きになっていますが、
これは探照灯の光をジャマしないためです。



チャフ・フレア・ランチャーの前に整列する下士官。
レベル1にある舷窓が下にちょうど見えています。




さて、「ふゆづき」の前には資材置き場なのか、紅白の天幕をかけた部分が艦首付近にあり。
これは最後までそのままだったのですが、その陰で三井造船の造船工たちが・・・・ 



「ふゆづき」の乗組員へのサプライズで横断幕を用意しています。









恒例の行事なのかもしれませんが、舷に立っている乗組員たちにとって
きっと感激の一瞬でもあったのではないかと想像されます。

 

祝 勇猛無比 護衛艦「ふゆづき」の活躍をお祈りいたします!

                三井造船 玉野造船工場 一同




三年の間自分たちが手にかけ、今出航して行こうとする護衛艦。
彼ら工員たちの感激はいかばかりでしょうか。

横断幕を持ちながら、片方の手を振る工員もいました。

一つの艦を作った者、そしてそれに命を吹き込む者、両者の交歓は尊くすらあり、
この光景には思わず鼻の奥がつんとするほど感動してしまったわたしです。




激励の横断幕を前に、いよいよ出航の儀式がクライマックスを迎えます。




全員起立して微動だにしませんが、何人かの視線は明らかに横断幕に注がれていました。





そのとき。

「帽ふれー!」

掛け声がかけられました。
「帽ふれ」は出航となったときに自動的に始まるものだと思っていましたが、
号令による指示で一斉に行われるのだということを初めて知りました。




正帽を振る渋い海曹。
ところで前々回からわたしが帽子のことを「正帽」と書いているのを見て、

「制帽と間違えているのではないか」

と思い、訂正のコメントを入れようかどうしようか迷っていた方があれば、
どうぞご安心下さい。
これは「正帽」が正しいのです。
どういう理由かは知りませんが、海上自衛隊では「正帽」と表記することになっています。 


ちなみにこの帽子の持ち方、振り方にも正しいやり方があり、

鍔の上部を人差し指、中指、薬指で押さえ、親指と小指で鍔の裏側を押さえる

のが正規の持ち方だと言うことになっています。
しかし、この海曹もとなりも、どっちもその持ち方ではありません。
左の海曹は人差し指と親指だけ使っているように見えます。

もしかしたら古参なので、ベテランなりのアレンジをしているのかもしれません。 



しかしこの、実に初々しい二人の海士(かわいいですね)を見てください。
水兵帽なので、鍔ではなく本体を持っているのですが、 

 人差し指、中指、薬指で上部を押さえ、親指と小指で裏側を押さえる

という、まるで絵に描いたような持ち方のお手本をやっています。
おそらく彼らは入隊したばかりで、もしかしたら帽ふれも初めてかもしれません。
教わった通りに きちんと帽子を持ち、真面目に振っている様子は思わず微笑んでしまいます。

ところで、彼はレインコートをステンカラーではなく海曹がよくやるように開けています。
ということは着方は特に決められておらず、自分の好きなように襟を開けたり閉めたりしても
まったくかまわないのかもしれません。 



対してこちらは海曹ですが上まで留めてしまっている例。


映画の「帽ふれ」を見ると、大きく円を書くようにゆっくりとまわしています。
とくに将官を演じる俳優はそれをゆったりとするように指導されているようです。
敬礼も答礼の場合はかなりスピードが遅いですし、たとえば行進曲が、
「戴冠行進曲」や「威風堂々」など、王のために書かれたものはゆっくりであるように、
偉い人ほど「悠揚迫らざる」とでもいうべき佇まいが要求されてくるのかもしれません。


さて、この帽ふれですが、肘を曲げずに基本三回腕をまわして帽子を振ります。
このとき「ふゆづき」の乗員が何回回していたか、わたしは写真を撮るのに忙しかったので数えていませんが、
とりあえず観覧側にいる実施者の三木海将の「答礼」が済むまでは続いていたのではないでしょうか。



もうこのクラスになってくると、「肘をまっすぐ」などという決まりはどこかにいってしまっています。
改めて先ほどの海士君を見ると、一生懸命腕をのばしていて健気です。
しかし、このベテラン海曹たちの「こなれた」帽振れ、これはこれで粋ですね。
坊主頭の新米海士も15年後、潮気がつけばこうなってくる、と・・・。



まず艦橋上にご注目。
艦長はすでに姿を消しています。
出航に向けて航海艦橋に戻り、赤と青のカバーのかけられた艦長席にいるのかもしれません。

そして、航海長はまったく「帽ふれ」をしておりません。
隣にいる海士は振っていますが、航海長の視線は忙しく舷を右に左に動いているようです。
それも尤もで、このとき「ふゆづき」はちょうど岸壁を離れ、滑るように動き出しています。

この写真はちょうど全員が敬礼しているかのように見えますが、敬礼ではなく、

「帽—元へ」

の号令があったため、一斉に着用しているところなのです。




出航を見送る呉地方音楽隊の演奏は、もちろん「蛍の光」
海軍兵学校では「ロングサイン」と呼んでいました。
海上自衛隊で何といっているかはわかりません。

ロングサイン、とはこの曲がもともとスコットランド民謡の

Auld Lang Syne」old long since、意訳ではtimes gone by)

という意味で、さらにこれを日本語にすると「過ぎ行きし昔」となりましょうか。
ジャズのスタンダードで

「As Time Goes By」

というのがありますが、これは「時の過ぎ行くままに」と文学的に意訳されています。
しかし、歌詞の内容は

「たとえどれほど時が過ぎゆきても人の世には不変のものがある」

それはたとえば男女の愛()というものなので、意訳題とは若干意味合いが違います。

ところで、出航に際してこの曲が演奏されるのは世界的な傾向ですが、自衛隊で、
というより
海軍時代からこの曲が出航の際に使われていたわけは、
やはりその歌詞で歌われるこの歌の「真意」にあったからでしょう。

ただしそれは現在歌われることがなくなった部分です。

以前も「我は海の子」のエントリのコメント欄でお話ししたことがありますが、
戦後の「軍事色パージ」で、あらゆる歌の歌詞がカットされ、
都合の悪い部分は省略されたときに、「蛍の光」の3番と4番もまた歌われなくなりました。

しかし、新しく生まれ、海上自衛隊のフネとして今母港に向かう護衛艦を見送るのに

この幻の歌詞ほど相応しい内容がまたとありましょうか。


三、


筑紫の極み 陸の奥   つくしのきわみ みちのおく

海山遠く 隔つとも   うみやまとおく へだつとも

その真心は 隔て無く   そのまごころは へだてなく

一つに尽くせ 国の為   ひとつにつくせ くにのため


四、


千島の奥も 沖縄も   ちしまのおくも おきなわも

八洲の内の  護りなり  やしまのうちの まもりなり

至らん國に 勲しく   いたらんくにに いさおしく

努めよ我が背  恙無く  つとめよわがせ つつがなく





つづきます。



 


護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式~出航準備

2014-03-25 | 自衛隊

祝賀会場からいっこうにやまぬ雨の中、皆は岸壁に戻りました。
外に向かいながらテーブルの上を見ると、料理はほとんどが大量に手つかずのまま。
これはこのあと三井造船の社員が 総出で食べても片付かないのではないかというくらいでした。

わたしもそうでしたが、こんな祝賀会で本当にお腹をいっぱいにしようとすることは
皆さんあまり考えられないみたいですね。

  

バスに乗って先ほどの天幕まで戻ってみると、椅子が全て片付けられ、
全員が立って見送るようになっていました。
午前中の式典は前から三番目で、ここぞというシーンを撮り損なったので、
午後からは前列でおじさんの頭が写り込む心配もなく思う存分シャッターを押すことができました。

旗旒信号が曇り空と護衛艦のグレイをバックにとても美しいのですが、
このマスト基部のかなり大型の構造物は何かというと、

NOLQ-3D 電子戦装置

の一要素を構成する

ECM装置(電波妨害装置)

で、「あきづき」型には最新型が搭載されています。
探知した電波の分析、識別、記録を行い、
メモリーされた脅威電波に特徴が一致すると自動的に妨害を始めます。



マスト上部のこの部分には電子戦装置の

ESM装置
(無指向性空中線、固定型方位空中線×2種、通信波帯空中線)

といい、初期の探知と周波数、方向、発信地点を特定します。

NOLQ-3は三菱電機製で、平成3年度計画以降で建造された汎用護衛艦(DD)
およびヘリコプター護衛艦(DDH)に搭載されています。




長旗(指揮官旗)を揚げていたシーンですが、自衛官の左上にある
赤いバスケットゴールのようなものを見てください。



これは速力標といい「速力マーク」とも呼ばれるもので、
艦隊の航行や運動時において艦の速力を表示・指示するためのものです。

高さの組み合わせにより速力の基準値を表示し、回転信号標
(籠の下に少し見えている旗のようなもの)との組み合わせで細かい速力表示を行います。
上下位置の組み合わせで現在の速力を僚艦に伝えるので、速度ゼロの状態である今、
この速力標は下方にあるのではないかと想像します。

この速力信号標は海上自衛隊独自のものだといいますが、ということは
海軍時代から引き継がれた仕掛けであるということですね。





艦上にはすでに要所要所乗組員が起立しています。
乗艦してから着替え(着替えずに拭くだけ?)、ちゃんと雨着を着ています。




こちらは海曹。
海士のレインコートは襟元を見せないためにステンカラーですが、
曹以上はダブルカラーのダブル打ち合わせ。
いかなるときも着崩さず、きっちりとベルトをしめる着方が凛々しいですね。

この日は雨の少ないこの玉野市には珍しいくらいの大雨で、
確かに晴天の青空の下での式典を見れずに残念だったのですが、その代わり
こんな天気だからこそ見ることのできたシーンもあったのです。

激しい雨に全身滝に打たれたように濡れながらも、不動の姿勢で眉一つ動かさず立ち続け、
このような海の男の(女もいますがそこはそれ、そういうことで)儀式を粛々と行う
自衛官たちを見ることができたのはわたしにとって幸運であり、
さらにこの雨着で船縁に直立する彼らの姿には理屈抜きで胸に来るものがありました。

独断と偏見ですが、雨に濡れた女は「悲劇のヒロイン」めくけれど、
雨に濡れた男はひたすら絵になります。(女子隊員はそこはそれ、この場合男と同格ってことで)
まこと、「いいもの見せてもらいました」の一言です。



海艦橋の脇にあるウィングに立つ航海長。
右側に見えているのは探照灯です。

航海長は三等海佐。
三佐は旧軍の少佐で船務長や砲雷長・機関長・飛行長といった配置に就きます。
また、指揮形態では分隊長として乗員のまとめ役としての役割も担っています。 

ちなみに防衛大学と一般大学を卒業した幹部は自動的に二佐まで昇進し、
二佐からは制帽の鍔にスクランブルエッグ(スクランブルド、じゃないのね)といわれる 
飾りが付くようになります。

「海自に入ったら皆憧れる」艦長職は一般的に二佐から回ってきますが、
三佐からは掃海艇の艦長、ミサイル艇艦長になることができます。 

ちなみに音楽隊長も三佐からの役職です。

航海長の双眼鏡の下にブルーのものが見えますが、これは役職によって色が違い、
当艦艦長である北御門二佐は、を用います。
青は個艦の幹部、曹士は白を使います。

ただし掃海艇やミサイル艇艦長であれば三佐でも赤青を用います。

旧海軍では尉官は、佐官は、将官は色と決められており、
つまり旧軍時代からだいたいは受け継がれて来たもののようです。
(特に将官の黄色)

この色分けといい速度標といい、普通に受け継がれているものばかり。
探せばもっとあるでしょうし、先日からコメント欄で話題になったように
「士官室」「当直士官」などという言葉は普通に生きていますから 、
海自の「伝統墨守」は精神的なものばかりをいうのではないということがわかりますね。

さて、わたしたちが見学の位置に着いたときには、そこここに乗組員が立ち、
出航の用意が着々と進められているところでした。



甲板艦首後ろ少し寄りの5インチ速射砲の前では海曹たちが整列済み。
砲雷科ではないかと思うのですが、気のせいか先任たちはコワモテな風貌。
しかし女性海曹もいるようです。





こういうのが撮れると望遠レンズがあって本当に良かったと思います。

護衛艦の出航に際して象徴的なシーンが撮れたと自画自賛しているのですが、
艦首部分に佇むこの集団、どうも全員の役割がはっきり決まっている様子。
ただ立って見張りをしているだけでなく、視線の先が全方向を向いていますね。

インカムをしている海曹と艦首旗を見守っている海士以外は、
四方を「見張り」しているのだと解釈しましたがいかがなものでしょうか。

ところで、この一番右の海曹はコートの襟はステンカラーです。
・・・・ということは。

デザインは皆同じなのだけど、セーラー服の海士は全部ボタンを留めステンカラーに、
海士以上はネクタイを見せるためにテーラードカラーに、と決まっているのかもしれません。

決まりはともかく、実に合理的なデザインでよく考えられているのに感心しました。



さて、出航行事として、艦長以下女子隊員二名、海曹一名に花束贈呈。
この段階で公式行事は皆終了しています。
花束は艦長以外が受け取り、ここで初めて艦長が感謝の辞を述べました。



花束はやはり女性隊員が受け取った方が「華になる」ということでしょうか。



先ほどまでのラッタルは一時間の間に取り外されていますから、
彼らは舷梯から乗艦します。

 

花束の三人が乗艦した後、



一番最後に乗艦するのもやはり艦長です。
三人もそうでしたが、艦長は小走りと言ってもいいくらいの早足でした。



思わず見ほれてしまったほどの身のこなしのスマートさ。
もしかしたら日常的にそうなのかもしれませんが、
階段は一段抜かしで駆け上がって行かれました。


ちょうどこのときに「あゝ海軍」について書いたばかりで、
兵学校の階段を二段ずつ駆け上がることになっている生徒が、上級生に
呼び止められ、何度もやり直しをさせられていたシーンを思い出しました。

江田島の幹部学校では、今でも階段はそうやって上るように指導されるのでしょうか。



瞬く間に駆け上って三人に追いついてしまいました。(かっこよかった///)

さて、この後は出航のため、最後にこのハッチを閉めます。



というわけで、まずは
ここから降ろされている舷梯を今から収納いたします。
左側に立っているのは一尉で、腕章をつけています。

 

このハッチ以外ではみなもう起立して出航の用意は完了している模様。
ここから連続写真を撮ってみました。



黄色いメガホンがここの責任者の一等海曹。

護衛艦に乗ると、入り口に艦長と副長、そして海曹長の写真が掲げてあります。
海曹長とは艦艇や部隊ではCPOとして規律維持の役割を担う曹士の最高位で、
それに次ぐのがこの一等海曹となります。

勿論叩き上げの古参で、海曹長と共にCPOとして艦艇の規律維持に務めます。


ラッタルの手すりには丁寧にも紅白のテープが巻かれています。
いまからこの手すりを倒してフラットにしますよ。



下では三井造船の社員が通路と階段を片付け、降りて来た乗員が手すりを倒す準備。



「そこをつかんで倒すんだ!」

とベテラン海曹の御指導中。



倒して階段にぴったりとくっつけてしまいます。
こういうのもオートマチックではなく手作業でしてしまうんですね。

この舷梯、写真を見ると非常にわかりやすいのですが、舷梯は船体との接続部分で旋回し、
設置するときは引き出すときは皆が(6~7人)下からロープで引っ張ります。

うーん。なかなか・・・・・原始的。

至れり尽くせりではなく、海自隊員が運用するからこそ「手抜き」の部分もあると見た。



一曹が「回せ回せ」と指示しているのは、
舷梯を引き上げるワイヤを巻き取る部分の操作。
下の二人はワイヤの設置を行っているわけですね。



設置完了し、二人も艦に乗り込みます。
後ろの隊員はワイヤをつかみ、その上を乗り越えて階段を上りました。



ワイヤの巻き上げはさすがに機械がやっております。
作動している間、一曹はピッピッピと笛を吹いてます。



惚れ惚れするほど美しく収納されて行きます。
完全に舷梯がフラットになったら同時にハッチが閉まって行くわけです。

ちなみに、ハッチの上に丸いものが二つ見えていますが、これは舷窓。
現代の護衛艦には舷窓はほとんどないのですが、艦橋構造物の下部、
01甲板のレベルであるここにはご覧のように舷窓が二つだけあります。

白い縁取りがなかなか可愛らしいですね。
舷窓を目とすると、今から口を閉じて行くわけです。



というわけであっという間に(本当に早かった)ハッチは閉まりました。
扉が閉じた後はステルス性の保持のために全くのフラットとなり、
遠目にはもはやどこがハッチだったかわからなくなってしまうくらいです。


いよいよ準備が整い、「ふゆづき」は舞鶴に向けて出航して行くことになりました。
これから待ちに待っていた「帽ふれ」が始まるのです。


(続く) 


 


 


護衛艦「ふゆづき」自衛艦機授与式~祝賀会と ”敬礼アプリ”

2014-03-24 | 自衛隊

岡山県玉野市にある三井造船で行われた護衛艦「ふゆづき」引き渡し式
および自衛艦旗授与式は広報によると

12:00~12:05 引き渡し式
12:05~12:37 自衛艦旗授与式
12:45~13:45 祝賀会
14:00~14:10 出航見送り

という予定になっております。
この「12:05~12:37」という数字がやたら細かく、しかしながらきっと
時間厳守の自衛隊(これは海自に限らないらしい)の行事であるからには
その通り行われたのに違いないと思います。一度も時計を見て確かめてませんが。


さて、前回は祝賀会で出されていた料理のことを(ついでに海自カレーのレシピを)
お伝えしたわけですが、今日は主賓挨拶から参りましょう。




防衛省代表として自衛艦旗授与を行った

防衛大臣政務官 若宮健嗣氏

ご本人のHPを見たところ、実物より10歳くらい若くみえる写真でした。
政治家って、言動で年齢よりも老けてみられますよね。

内容は・・・・授与式で言っていたことをもう少し砕いて言った感じ。
まあ、普通でした。



ちなみに上座金屏風前で挨拶に来る人たちに挨拶をする若宮氏。
お辞儀の速度が自衛官の敬礼なみに早いので画像がブレております。
こういうシチュエーションで、己の一挙一動が一票につながると骨身に沁みているため
どんな相手にも全力でお辞儀をする、それが代議士の習い性というものかもしれません。



続いては三井造船株式会社取締役社長、田中孝雄氏。

何というか、目が全く笑っていない人でした(笑)
何を観察しているのか、と言われそうですけど。

田中氏の挨拶でわたしが心に残った一言は、

「海上自衛隊の皆様、ふゆづきをどうか可愛がってやってください」

というものでした。
手塩にかけて大事に育てた娘を嫁にやる父親のようなせりふですが、
これは艦娘を(と言ってもいい?)建造した製造者が、彼女を海自に嫁がせるわけで、
夫である海自には
「可愛がってやってください」、そして娘の「ふゆづき」には、

「しっかりやるんだぞ。ちゃんと旦那様にお仕えするんだぞ」

と激励して送り出す父親と全く同じ感傷が込められた一言です。

この後の出航見送りのシーンで、「ふゆづき」を作り上げた三井造船の社員たちが
その船出を見送るシーンにこの言葉を重ねあわせ、感動してしまったのですがその話はまた次回。



三番目は玉野市の市長黒田晋氏。
2005年の初当選から玉野市長を務め、三期目です。

「全国でも雨が少ない市として有名な玉野市の市長です」

と自己紹介し、会場はどっと湧きました。
岡山県の年間降水量は全国でもベスト3に入るくらい少なく、
日本全国の平均が1300mmのところ1000mm前後。
瀬戸内気候で温暖、さらには地震も少ないことから、震災後は

「岡山市に首都を移転すればいいのではないか」

という話があったとかなかったとか。
とにかく、「晴れの国」と言われる岡山であればこそ造船所もできたわけですが、
この日は繰り返しますがほぼ一日土砂降りの続くあいにくのお天気。
まあ、こんな日もあるよね、ってことで皆大笑い。

黒田氏は

「ふゆづきの活躍とここにおられる皆様方のご健勝を祈って」

万歳三唱をされました。



万歳三唱の瞬間、カメラを会場に向けるエリス中尉。
写真撮ってないでちゃんと皆と一緒に万歳しろと(笑)

もしかしたら海自制服組の「海軍式万歳」が見られるかも、と思ってのことですが、
わたしの横にいたのは海自隊員ではなくテントで前に座っていた陸将補どのでした。

ところで先般、海軍式陸軍式の敬礼が自衛隊に踏襲されているか、という話題で
当ブログはちょっとだけ盛り上がったりしていますが、万歳にも海軍式があります。

巷に言うところの「海軍式万歳」、つまり手を挙げない声だけの万歳
当時からかなり特殊な状況(フネの上)でのみ行われて来たようなので、
わたしも海自の人たちが特殊な万歳をしていることを期待していたわけではありません。


実は今回この敬礼についても現役自衛官から

「現在の自衛隊においては規則上陸海空を問わず全く同じに定められている」

ということを教えていただいております。
規則は確かにそうですが、やはりそこに微妙な違いというものはあり、海自のそれは

やや肘を引き気味で敬礼する傾向にある

ということです。
ちなみにわたしがコメント欄で教えていただいた

海上自衛隊iPhoneアプリ「SALUTE TRAINER~敬礼訓練プログラム」

によると(ダウンロード?勿論しましたとも)、

「肩と肘は水平を保ち、肘と掌は水平から45度を保つ」

となっています。
ここまでは陸自と変わらない(というか統合されたので同じ)なのですが、
「制式」で決められない部分に実は「海軍式」が残っているらしいことが
このアプリによって判明しました。

つまりどういうことかというと、正面から見るとほとんど同じ敬礼も
違いが出るのは横から見たとき。
つまり海自の敬礼は陸自、空自の(陸空は同じらしい)より

手を挙げたときの右ひじがやや前方に出る独特の形

となっているのだそうです。
そういえばこのアプリの広告、実際に観ていただければわかりますが、
海士の敬礼を海曹が修正するシーンで、肘を前方に直しています。

前述の自衛官も「肘を引き気味で敬礼することが多い」理由を

「狭い艦内で整列する場合など、肘を張ることができなかったことに由来する」

と言っておられます。
さらにアプリによると

「狭い艦艇にて敬礼するたびに自分の肘が壁にぶつからないように
右ひじ上腕部を右斜め前45度に出した形になった」

と懇切丁寧な説明。

なるほど。
以前正面から見た「海軍と陸軍の敬礼の違い」を絵にしたことがありますが、
陸空と海自の敬礼の違いはこれから横から見た図を描かないといけないのね。

というわけでタイムリーに目からウロコの情報を得ることができたわけですが、
このアプリ、いろいろとしかけがあり、敬礼プログラムの優秀者
(階級が上がる)には、なんと、

海上自衛隊からの入隊案内メールが届く

という、ありがたいのかそうでないのかわからないおまけ付き。
とにかくこの無料アプリ、大人気で、ダウンロード数はすぐに10万回を突破、
(三年近く前の情報なので今はもっと増えているかと)2011年の

カンヌ国際広告賞PR部門で銀賞を獲得

したという、海上自衛隊の「本気」を感じるコンテンツとなっています。
きっと審査した外国人の感覚としても、

「本物の軍人が真面目にやってる」

というところになんともくすぐられるものがあったんだと思います。



実はこの右にエリス中尉、左にI氏がいます。
呉地方総監の三木伸介海将。

三木海将は呉地方総監としてこの自衛艦旗授与式の執行者を務めました。
引渡式の執行者は三井造船の社長である田中氏、となっています。

ご挨拶のとき海将は

「わたし潜水艦に乗ってたんですよ」

とおっしゃっていたので後で調べたら、防大時代から熱烈な海自志望で
(防大では一年から年になるときに陸海空の要員に分かれる)
当初は陸自行きを言い渡されたのに「だだをこね」、
要望かなって最終的に潜水艦に配置されたときはうれしかった、とおっしゃっていました。

三木海将は呉の「てつのくじら館」の設立に関わったということですが、やはりあの
潜水艦をそのまま展示するということに関しては

「潜水艦の秘匿性」

やその他いろいろ問題にならなかったわけではなかったものの、
呉の発展につながることならと完成にこぎつけたという経緯があったそうです。

うーん、わたし「てつのくじら館」にいってその報告をここでしたこともありますが、
確かに潜水艦をあんな形で公開するというのは大丈夫だったんだろうか、と思ったし、
そう昔のものでもない潜水艦(あきしお)を公開しても大丈夫なのだろうか、
ということも確か書いた覚えがあります。

実際にあの公開にいたるまでは結構な困難があったようですね。
今度観に行ったら前回とは別のものが見えてくるかもしれません。
掃海艇についての展示ももう一度見たいし、また呉に行こうかな。



手前は河野克俊海幕長。



名刺いただきました。
なんとなく裏側の英語面をアップ。
こういうことをすると単なるミーハーがばれてしまうのだった。

ふむふむ、海幕長を英語で説明するとこうなるのか・・・。

CHIEF OF STAFF, MARITIME SELF-DIFENCE FORCE
MINISTRY OF DEFENCE

「チーフオブスタッフ」の「スタッフ」って、もしかしてこれ
・・・・・海将のことですよね?



手前は玉野市長。
若宮氏の向こうもずらっと制服。



三人並んだ制服は手前から海将、海将補・・二佐・・・

二佐・・・・?

おおお、この見覚えのある顔は

「ふゆづき」艦長 北御門裕二佐ではないですか!

こんなところにおられたんですか。
写真を撮っていながら全く気づきませんでした。
そうとわかっていたら制服が乾いているかどうか近くで確かめたかったのに~。(しつこい)
サインももらいにいったのに~。(わりと本気)

実は、祝賀会がおひらきになる少し前、 

「『ふゆづき』艦長の北御門二佐が、出航準備のため、
皆様より一足はやく退出いたします。
北御門艦長に暖かい激励の拍手をお送り下さい!」

というアナウンスがあり、皆さんでお送りしたのですが、



人垣に阻まれてお姿を拝見することすらままならず、
(というかこの祝宴に出席していることもこのとき初めて知った)
 非常に残念な思いをしたのでした。

さて、こういった面々の中にわたしはなんとまさかの知り合い
(というほどのものではありませんが)を見つけてしまいました。
何代か前の海幕長で、地獄に仏とばかり(ちょっと違う?)ご挨拶させていただきましたが、
先方が覚えてくださっていたのがうれしかったです。

さて、あっという間に一時間がすぎ、宴会はお開きとなりました。
そのとき、連れのI氏が、

「出航も見ていかれますか」

と尋ねてこられたのでわたしは思わず

「は?」

と目が点になってしまいました。

「あの・・・・会長はこのあとご予定がおありになるんですか?」

「いや、私は全然大丈夫ですが、雨も酷いしもう十分、ということでしたらと思って」

どうやらI氏なりのお気遣いだったようです。

そういえば知覧で特攻記念博物館に連れて行ってくださった方も、
とりあえず知覧に来た他府県からの人間を観光の目玉に一応案内する、
といった「とりあえず感」ありありで、

「観光だから3~40分もあれば十分だろう」

などと軽く考えていたらしいのですが、運悪く連れて行ったのがエリス中尉だったため、
たっぷりその4倍の時間、館内のロビーでで待たされてとても気の毒でした。

好きだとは聴いていたがそこまで好きだとは、ときっと呆れられたと思います。


しかし、今回の式典、命を吹き込まれた護衛艦が海軍伝統の帽ふれの合図とともに
出航していく様子を見なければそれは何も見なかったのと同じではないですか。

「もちろん見ます」

当然きっぱりと答えたエリス中尉でした。


(続く)
 



 

 


護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式~海軍祝賀会料理

2014-03-23 | 自衛隊

祝賀会の様子をお伝えしようと思ったところ、いきなり入り口の
正帽置き場で「自衛官の制服」の話になってしまいました。
相変わらずの進捗状態ですが、このブログの特性と思ってあきらめておつきあい下さい。



まず、テントから祝賀会場に移動するためもう一度バス乗り場に向かいます。



音楽隊員の皆さんは客がぞろぞろと移動している間ずっと立ったまま。
楽器や楽譜は濡らせないので自衛隊といえども音楽隊は屋根付きテントの下です。




そのとき振り向いて「ふゆづき」を見ると、このような状況でした。
飛行甲板と格納庫です。
飛行甲板はヘリの転落防止のためにネットで柵が設けられています。

甲板全体は「オランダ坂」仕様で後ろ下がりの緩やかな傾斜があるのですが、
(柵の手すりを見ると後ろ下がりがわかる)ヘリの発着スペースだけは海面と平行なので、
この角度から見ると1メートルほど甲板と段差があります。

格納庫の中央に柱が立っていますが、これは「むらさめ」「たかなみ」型と同じく
折り畳んで跳ね上げ、開口部を広くすることができるのだそうです。
なぜ仕切りをわざわざ設けるのかわかりませんが、強度補強のためかもしれません。



格納庫の右舷側にあるこのガラス張りの構造物は、

LSD(発着艦指揮所)

ここから着艦するヘリの管制を行います。



お見送りの間、手隙の乗組員は整列しています。
乗艦してすぐに雨着を着たんですね。
マストにはいつの間にか旗旒信号が揚げられていて実に美しい。


ところで格納庫の上にあるCIWSですが、何の略かというと

Closed In Weapon System  (武器ブロックシステム)。

うーん、案外略称って単純というかしょうもないというか。
敵味方判別装置のIFFアンテナが実は

Identification Friend or Foe(友達か敵か認識するの意)

であったのを知ったときには思わずかっくり(がっくりじゃなく)きましたが、
案外こういう名称って適当につけてるのね。 

 


どうもこれは報道陣のカメラ足場として専用に作られたようです。
式典が行われていたときには最上段にぎっちりと全員が登っていましたが、
今では全員下の段に降りて雨を避けています。

それにしても護衛艦の乗組員は艦内の美味しいと噂の「海自めし」を、
そしてわたしたちはゴーヂャスな祝賀料理を
お昼に戴いたのですが、
この方達は果たしてお昼ご飯を食べることができたのでしょうか。

三井造船の手配で幕の内弁当くらいは出たのかもしれません。
あまり無下に扱ってるとろくなこと書かれませんからね。
まあ、この日の報道で自衛艦旗授与式の模様を仔細に伝えた媒体は
ほとんどなかったわけですが(笑)
 




と報道陣のお昼の心配までしながら、やっとのことで祝賀会場に入ることができました。
ちなみに写真は会場の方ではなく、向いの控え室のあった建物です。

この控え室で招待客の中でも「特別」に属する今回の同行者I氏が「その他おおぜい」組の
(といっても一応招待客だけど)わたしを無理矢理?自分の控え室に連れ込み、
バスを強引に一緒にし、あまつさえ見学の天幕の場所も三階級特進させてくださった、
という話をしましたが、この祝賀会場でもまた。

中は部屋が上座と下座の二つに区切られていて、特別室には本日の主賓が
挨拶をする壇があり(おそらく)料理も少しグレードが上です。

「え、わたしこんなところに入ってもいいんですか」

とうろたえるわたしを尻目にI氏は案の定いいのいいのとすたすた歩き、

「あ、この人わたしの連れですから」

の一言で関所の三井造船社員をあっさり撃破。
小さくなりながら部屋に入り回りを見渡すと・・



こんな感じ。
眼鏡の男性は玉野市長で、御入来を皆さん拍手でお迎えしているところです。
VIPおじさんと二佐以上の自衛官しかいないこの会場で、
はっきりいってわたし一人が完璧に「だれかにくっついて来た人」でした。


ところでこの会場ですが、ご覧の通り、まるで志摩観光ホテルの旧館のような趣のある建築。
I氏によるとここは大々的な空襲には遭っていないはず、ということなので、
もしかしたら三井造船が三井物産から分離独立し、株式会社玉造船所
この地に設立した昭和12年からある建物かもしれません。

昭和12年と言えば7月に盧溝橋事件勃発後、三国同盟締結、
そして渡洋爆撃に続き南京攻略作戦が行われた年です。

産業界ではトヨタ自動車、日本通運が設立され、玉造船所は通州事件の二日後、
日本軍による天津爆撃の翌日である7月31日に開業しています。




こういう寄せ木の床などを見ても、東京裁判の行われた旧陸軍士官学校校舎
全く同じ造りであることから、この時代の建物である可能性は大変高いと思われます。

5年後の昭和17年12月26日に玉造船所は三井造船株式会社と改称しました。
開戦一年目でミッドウェー大敗があったとはいえまだまだ日本はイケイケたっだので
造船会社にとってはかき入れ時ともいえ、そのときに建てた可能性もあります。

この翌年の昭和18年、三井造船は海中4型小型潜水艇呂号とともに、小型水雷艇、
掃海艇、水雷艇、駆潜艇などの小型艦艇を相次いで製造しています。

中でも、呂号44は当時の技術の粋を集めて作った三井造船の潜水艦第一号でした。



・・・・ということはですよ。

三井造船はこのころ、艦艇が完工相成るたびに、まさに

ここでこうやって海軍旗を掲げた祝賀会をおこなっていた

ということではないのでしょうか。



この「正帽置きシステム」はその頃からのしきたりだったりして・・・。
うーん、おらワクワクしてきたぞ。



美は細部に宿る。
こういうアールデコ風の装飾にも時代を感じますね。
花弁をかたどったランプが実にエレガント。



むむ、この丸窓は・・・。

やはり昭和初期のもので手作業による切り出しらしく、
わずかに丸窓の桟の継ぎ目がひずんでいます。
はめ込みガラスも当時のもののようですが、それにしてもこの形。
これは間違いなく船舶の窓をかたどっていますね。

磨りガラスに刻まれた意匠は真ん中に太陽の塔のような顔がキッチュです。



テーブルの上には完工記念の写真が置かれて自由に取るようになっていました。
わたしはもちろんここでアップするという大事な使命があるので、
ひとついただいたのですが、このあとここから直接ドックに戻ったので
持ち歩くのは結構大変でした。
見たところ周りの誰一人としてこれを手に取る人はなく、大量に余ったまま。

今にして思えば全部持って帰って当ブログの読者プレゼントにすればよかったかもしれませぬ。




この各テーブルに置かれた旗立ても、わたしはホテルでの宴会では見たことありません。
二本の旗をクロスさせて飾るというのは、外国からの賓客がある迎賓館でもない限り
ただの宴会場に用意はない(小さい旗だってそのたびにつくるわけにいかないし)
と思うのですが、この旗立ても拡大すると非常に年期がはいったものに見えます。

これももしかしたら旧軍時代からのものってことは・・・・。


さらにこのテーブルには美味しそうな唐揚げがレモンを乗せて置いてあります。
しかし、今にして悔やまれるのは出されたお料理を全てチェックしなかったこと。
わたしは何しろ目の前で行われていることを見逃すまいとそちらに全神経を集中し、
人々を観察するので手一杯だったのです。

そのうちまわりの方が話しかけてきて雑談していたのですが、その内容や
カメラを一時も離さない様子から当方の魂胆がわかったのか(わかるだろうなあ)
政務次官でも市長でもなく、おじさんたちは自衛隊の制服組のところに連れていってくれ、
そして一緒に写真を撮ったげるから並びなさい!とお節介焼いてくれたりしました。

だから料理のお皿を見てあるくどころじゃなかったの。



とりあえずここの料理についてお話ししておくと、
まず、

寿司!

よくあるネタは勿論、こんなところの寿司なのにシャコなんかがありました。
ご飯は少し固かったもののさすがに港町、ネタは新鮮で、
わたしはもっぱらこの寿司をせっせと補給しておりました。
同じテーブルにはローストビーフが乗っていて、これも一枚戴きましたが、
ちゃんとホースラディッシュが好きなだけ取れるようにつけ合わせてあり、
もしかしたら岡山市内の一流ホテルのケータリングかもしれないと思いました。

もちろん食べませんでしたが、部屋の向こうにはパーティ屋台が出ていて、
今写真で確認したら、天ぷらとうどんをサービスしていたようです。

うーん・・・・・天ぷら食べたかったかも。

帰るときに隣の部屋の料理を見たら、美味しそうなフルーツの盛り合わせ発見。
こんなものもあったのか。
というか、各テーブルごとに全然違う料理を出していたのね。
隅っこでじっとしていたのが悔やまれました。

地元経済界の大物であるI氏が挨拶回りにわたしを置いて出かけてしまったあと、
わたしは近くのおぢさま方と雑談をしていたのですが、そのうちお一人が

「陸自関係のこういうパーティにでるとね、だいたい弁当なんですよ」

とおっしゃいました。
おそらく陸海空自衛隊全てに関連する企業のトップの方なのでしょう。

「海自は弁当なんか出さないね。食べ物にはやたらこだわるからね」

「それはもしかしたら『伝統』というやつですか」


とわたし。

「海軍がからむと大抵飯は旨い、といういうことに昔からなってたみたいね」

しかし、この自衛艦旗授与式というもの、海軍もとい海自は三井造船から
フネを買った、つまり「お客様」です。
これらの御馳走はすべて三井造船の用意によるもののはずなのですが、
相手が海上自衛隊ということで接待する側もはりきって奮発したのかもしれません。

実際海自の「飯へのこだわり」は「伝統墨守・唯我独尊」のキャッチフレーズに違わず、
カレー一つとってもたとえば陸自が野外炊事機で屈強の男が汗の隠し味など加えながら
ひたすらガテンな作り方をしている(最後にコーヒー牛乳どばー)のに対し、海自というのは

ホールトマトタマネギ人参をワインやニンニクで4時間煮詰め一晩寝かせ
豚肉のブロックを赤ワインオリーブオイル塩胡椒カレーパウダーニンニクしょうが香辛料で

味つけし一晩味をなじませスープストックは鶏ガラひき肉ニンニクタマネギ人参そして
人参の皮しょうがリンゴセロリの葉パセリの葉ローリエを8時間煮込みそれを漉し

鰹と椎茸煮干しから出しただしを30分煮込み人参タマネギセロリニンニクローリエを
オリーブオイルで炒め軽く煮たソフリットというものを作っておきバナナとヨーグルトを
ミキサーにかけたものと
コーンクリーム缶イチゴジャムブルーベリージャムはちみつ
パイナップル桃の缶詰を
ミキサーにかけたものを甘味として二種類用意しミルクを混ぜ
タマネギ人参ジャガイモかれーぱうだーガラムマサラ
ナツメグオールスパイスシナモンを炒め
から煎りし鍋にガーリックオイルを入れ豚肉を炒め
風味付けにブランデーを入れて
タマネギ人参を炒め和風だしをいれてさらに煮込み
あくをとりのぞいてソフリットをいれ
バターとから煎りしたカレー粉をいれ
あらかじめ砕いておいた市販のカレールー三種類を入れて
ジャガイモ甘味料しめじの順に入れ
ニンニクとしょうがをすりおろして入れ仕上げに
インスタントコーヒーを牛乳で溶き
入れて最後に味を整えグリーンピースを奇数入れて供する。
(護衛艦の頃の『しらゆき』レシピより)


といった、美味しいことはまず疑いようはないけれど

家庭で作っていたら家計を逼迫すること必至

と思われるレシピのカレーを、しかも週に一回は食っているという

特殊な軍隊

なのです。

実に17年ぶりにそんな海自から護衛艦の建造を受注した三井造船が、その海自相手に
あだやおろそかなクイモノなど出すことなどがあるでしょうか。(いやない)

 


 
この向こうにあるお皿には何が乗っているのか、今元画像を拡大して
確認したところ、左の方には一人ずつ手に取ることができるような紙の船に
天盛りされた卵豆腐が二切れずつ乗っており、右はゆでたブロッコリーと一緒に
口に入れられるように一口大にした肉がやはり船にのっております。

これも改めて見るとやたらおいしそうです。
しかし、一人分の食べ物をこうやってに乗せて供する宴会料理、
初めて見たような気がしますが、気が利いていますね。

船・・・・・・・やっぱり造船会社と海自だから?

 

(続く) 




 


護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式~海自幹部の制服事情

2014-03-22 | 自衛隊

午前中の引き渡し式と自衛艦旗授与式が恙無く終了しました。
わたしたちはまたバスに乗って工場の門まで向かい、

門の向かいにある三井造船の迎賓館に相当する二つの建物のうち
控え室とは反対側の祝賀会会場に向かいました。

建物に入っていくなり、三井造船の女子社員がトレイに多量のタオルを乗せて持ち、
入ってくる人たちに配りまくっています。

「確かに凄い雨ではあったけど、またえらく用意のいいことだなあ。
ずっとテントの下で観覧していたのでタオルがいるほどではないのに」

その気配りに少し驚いたのですが、これにはわけがあったのです。
つまり、この祝賀会には、冒頭写真を見てもお分かりのように


大量の自衛官たちが出席していたから

だったんですね~。

さて、昔々、海上自衛隊が帝国海軍だった頃、このような祝賀会場には
帽子掛けがあって一緒に短剣も吊ったのか、それともこの日と同じように
帽子をきちんと置くテーブルを作っていたのかは知りませんが、
さすがは三井造船、傘をささない彼らのために大量のタオルを用意し、帽子置きを設置し、
海軍の頃からの付き合いの深さをこんな形で見せてくれました。


と、こういう出だして始めたからには、最近コメント欄を賑わしている
「自衛隊制服問題」
について、現役幹部自衛官からいただいた情報を出さねばなりますまい。



今回お話を伺った自衛官によると、現在海上自衛隊では幹部自衛官の制服は
支給となっているのですが、少なくとも

1993年(平成5年)ごろまでは
制服は支給されていなかった

そうです。
その頃は、幹部学校を卒業し任官したら、各自が注文して個々に購入することになっており、
その入手方法は決められていなかったので、こだわる人は好みの洋服屋に来てもらい、
誂えていたということらしいですね。

(こういう話になると俄然盛り上がってしまうエリス中尉です)

旧軍の昔、陸軍では、特に皇族軍人の若様たちが率先して

「軍服界の最新流行モード」

を作り上げたものですが、海軍にはそういった「ファッションアイコン」は見当たりません。
これは「海軍軍人はお洒落で当たり前」という風潮のせいではないかと思われます。

当時は洋服と言えば仕立て屋が誂えるのが当たり前の時代。

身だしなみをスマートに整えるのがモットーの海軍軍人のために、
横須賀、呉、佐世保といった旧軍時代鎮守府があり軍港だった町には、
軍服を仕立てる専門の洋服屋が複数ありました。

戦後それらの店は数こそ減ったもののいくつかは現在も存続し、
いまだに自衛官のオーダーメイド制服を作りつづけています。


先ほど「好み」と書きましたが、これらの軍港にあるいくつかの洋服屋は、
生地も、階級章の金モールも、金ボタンもシルエットも店によって違うので、
今でもこだわり派の自衛官は自分の好みに合う店で仕立てるのだそうです。

勿論同じ店でも値段によってピンキリで、ちなみにもし


「金に厭目はつけませんから全て最高級で」

というご要望があれば、

「生地は英国製のタキシードクロスにフランス製の金モール、
金ボタンの錨は立体的に組み合わせたものに金メッキを施したもの」 

という最高級仕様によるお仕立てで何とお値段はズバリ支給品の三倍! 
だそうです。

うーん、でもね。
これわたし、安いと思いますよ。

先日coralさまに教えていただいたところによると陸自の制服で2万5千704円。
海自の制服はダブルでもう少し高いのではないかということなので、
たとえば多めに見積もって3万5千円だったとしても、その三倍なら10万円少し。
下で紹介している宮地洋服店ではイージーオーダーで9万円だそうですから、

最上級テーラーメイドであれば20万円は行くかもしれません。

しかし今時まともなスーツを誂えたら、何十万とかかるのが当たり前で、
しかもブランド料が付加されたものや、一流企業の重役や政治家が銀座などで誂えるスーツは
100万以上ですから(by『部長 島耕作』)それだけの材料を使ってしかも誂えて、
20万くらい(かどうか知りませんが)で済むというのはリーズナブルでしょう。

そういった昔ながらの洋服屋さんと海自とに、
海軍時代からのお付き合いがあらばこその良心価格だという気がします。


とはいえ一流企業の重役や政治家と違い、自衛官は公務員ですし、
制服だけでなく靴やらベルトやら雨着やらの周辺グッズも買わなくてはいけません。
佐官以上ならともかく「若い少尉さんにゃ金がない」と歌にもあるように

今や幹部学校出たてで制服を誂えるのは、よほどのこだわりがある自衛官に限られそうです。


そして秋冬の制服もさることながら、こだわり派自衛官がさらにこだわるのは
夏の第二種制服の「白」。
黒も実は生地の善し悪しが怖いくらいわかりますが、白は色そのものの違いが目立ちます。


わたしがかつて呉の阪急ホテルで海軍士官コスプレ体験をしたとき、

第二種となぜか第三種軍服を着たわけですが、その第二種というのが何というか、
キャンバス地のような生成りの白で、そのせいか撮影の間暑くてたまらず、

「こんなテント地みたいなしかも詰め襟の服を、日本で夏に着てたなんて絶対嘘」

と確信したものですが、これは中田商店が製作した映画用の衣装だったからでしょう。
本物の海軍軍人は白麻やキャラコなどで仕立てたりしたのではないか、と思います。

現在海上自衛隊で使われている夏の第二種は奇跡的に旧軍時代とほとんど同じで、
違いと言えば胸ポケットの有る無しなのですが(無い方がいいと思いますけどねわたしは)
やはりこの色、というのも店によって全く違ってくるのだとか。

たとえばA店はわたしが呉で着た軍服のような黄ばんだような白、
B店は「青みがかった、まるで氷河のように冴え渡る」白と・・・。

ところで色とはまことに不思議なもので、一言で「白」といっても人によって
はっきりと「似合う白」「似合わない白」があるものです。

わたしは昔パーソナルカラー診断をしてもらったことがあり、今でも

インターネットの簡単なカラー診断をしたらそのときと全く同じ結果になりますし、
経験上思い当たる節があるので信頼できる結果だと思っているのですが、
それによるとわたしのタイプは「春」で、白はアイボリーが似合います。


もしわたしが自衛官になって夏服を仕立てることになったら、
氷河のように冴え渡る白は似合わない、という判断を踏まえてA店に行くでしょう。



話が横道にそれましたが、(めり軍曹殿、本稿はファッションタグでお願いします) 
その自衛官によりますと、平成5年以降は官給品が支給されるようになったということですから、
そのせいで軍港で商売をしていたほとんどのテーラーは店をたたんでしまったのではないでしょうか。


 ところで皆さん、冒頭の写真をもう一度見てください。

 

帽子が一つ無くなっていますが、これは祝賀会から一足先にに出航のために退出した
「ふゆづき」艦長の北御門二佐の正帽があった場所だと思われます。

この祝賀行事に参加した自衛官は少なくとも二佐以上なので、
ここにあるのは全て同じような通称スクランブルエッグといわれる正帽です。

左上の、他のと違い葉っぱの生い茂り方が密な()帽子がありますね。
これは将官用で、あとは一佐か二佐のものですが、見比べると、皆少しずつ
エンブレムの色や茗荷の形とか錨の部分の黒の割合が違うと思いませんか?

皆同じデザインなのに、こういう状況で取り違えが起こることがなさそうなのは、
自分の帽子ならばわかる程度に「個体差」があるからだと思われます。



自衛官氏によると、その支給されるようになった官品制服というのが当初酷いもので、
モールなどとても”金色”とは言えない粗悪品、おまけに
制服のモールの上の桜も
とても桜には見えない、まるでタンポポのような刺繍(どんなんだ)だったため、

どうしてもそういうのに我慢できないその方は、

「 一度たりとも官給品の制服に袖を通したことはありません。
 タンスの肥やしにしています」∠(`・ω・´)

ということです。

しかしこれ・・・・・もったいないですね。
「自分で仕立てますから官品いりません」
って支給を断るわけにはいかないんでしょうか。
タンスの肥やしにするくらいなら、外では着ないからぜひ譲って欲しい。(割と本気) 


とにかく帽子はこの写真を見ても少しずつ差があるくらいですから、
さぞかしそのころの官品は安かろう悪かろうで刺繍など雑だったんだろうと思います。
でも、いくら安く上げたくても、

「中国で自衛官の制服の縫製をさせる」(by れんほー)

これだけは、これだけはやめてくださいね。
悪用されないとも限りませんから。というか確実に悪用されますから。


帽子についても書いておくと、昔は呉と横須賀に軍帽を作る帽子屋が数件あったそうですが、
現在では、山本五十六の帽子を作ったことで有名な呉の高田帽子店だけが残っているそうです。

山本長官が中将時代に

「帽子を一つ作ってもらいたいが・・・」

と自ら来店したという話が語り継がれているようです。
ツッコむわけではありませんが、普通帽子は本人が行かないと作りようがないんじゃないかな。

官品の帽子は、黒いモールで覆われた黒の縁取り部分の内側の素材はプラスチックですが、
高田ではいまだに籐で編んだ手作りをしているそうです。

今度呉に行くことがあったらここでミニチュアの士官帽(中尉用)でも買ってきますかね。
また、

宮地洋服店という店

ではかつて呉で軍帽を作っていた「呉帽子店」の帽子を注文することができるそうですが、
帽子店そのものはもうすでに存在していません。
宮地洋服店のために職人さんが商品を提供しているようです。

今や軍帽を作る専門の帽子屋さんは高田帽子店だけになってしまったんですね。



ところで、この手前は河野海幕長でいらっしゃいますが、
パーティ会場でまじまじと近くで見ても、

全く制服が濡れた痕跡がなかった

のは不思議でした。
河野海幕長はこの向こうの若林政務次官とともに、
結構な時間外を傘なしで歩かねばならなかったはず。

約二時間豪雨の中で立ち尽くしていた北御門艦長ほどではないにせよ、
あれだけ雨に当たれば全身から水がしたたっていても不思議ではないのに。

きっと誂えるときに完璧に水を弾くような特別な加工をしたに違いありません。
・・・・それともアメダスしゅーしゅーが完璧?


ところで、宮地洋服店のサイトに通販ページがあったので、
もしかしたら、と期待してみましたが、やはり制服は自衛官でないと買えないそうです。
わかってはいましたが少々がっかりしました。

「タンスの肥やし」を欲しがってみたり、自衛隊の制服を手に入れてどうするつもりかと
あらためて聴かれると困るんですが。


 
(続く)




 


護衛艦「ふゆづき」自衛艦授与式~儀仗隊

2014-03-20 | 自衛隊

手首骨折後、そのためできなくなったことはたくさんありますが、
かえって時間にゆとりが出来たのに加え、万一のことを考えて家でじっとしているという、
活動的だったわたしにはありえないくらいの引きこもり生活。

事故後、タイプのスピードが落ち、集中力がなくなったため、ブログ更新は
二日に一本くらいががやはり無理が無くていいかもしれない、と実感していたのですが、
「自衛艦の引き渡し式」などというこのブログのテーマど真ん中のようなイベントに参加したことで、
思わず我を忘れてエントリ制作にのめり込んでいるエリス中尉です。

このイベントが終了したらまた二日に一度ペースにすると思いますが。


さて、艦内での式典が終わり関係者が退場する前に、
自衛艦旗を掲揚するため
後甲板にいた儀仗隊が下艦してきました。



賓を迎えるときのために日本には第302保安中隊という専門の儀仗隊がありますが、
こういう場合の儀仗隊は各艦の乗組員によってこのために編成された部隊です。

「頭脳明晰、思想堅個、体力優秀そして容姿端麗」

という厳しい条件で第302保安中隊は選び抜かれるそうですが、
式典のつど編成される臨時編成の儀仗隊は当該部隊の手の空いている隊員となります。

栄誉礼というのは、防大儀仗隊が音楽まつりで披露するようなドリルをするわけではなく、
「捧げ銃」をしているところを巡閲者が巡閲するという儀式なので、
日常自衛隊で訓練をしている隊員であれば即製できるのです。



儀仗隊の1個分隊の編成は、分隊海曹1名および分隊員8名となります。
この写真でも8人(先頭に分隊海曹)が1グループとして歩いていますね。



士を8人率いる分隊海曹が二人先頭に立っています。
右側が三曹、左側が二曹ですね。
左にもう一人海曹がいますから、これで三個分隊が揃ったことになります。



儀仗隊の整列場所には、儀仗隊長が待っています。

この儀仗隊指揮官は原則として2等海尉か3等海尉と決められています。
この隊長は2尉ですね。

自衛隊の礼式に関する訓令第83条第2項には、「甲武装着用品」として
こういうとき正式に着用する制服がちゃんと決められています。

それによると、指揮官は

白色の拳銃帯(専用ベルト)、白色の拳銃嚢(ホルスター)、
または儀礼刀および刀帯

を着用となります。
本日は儀礼刀ではなく拳銃の方を着用しています。
もしかしたら、ホルスターは何も入ってなくても(つまり空でも)いいので、
こういう天気の日には指揮刀は使わない、とかいう事情によるものでしょうか。

海自はたとえ雨でも大事な儀式に「拳銃持っているフリ」なんかしません!
ってことだったらごめんなさい。



この式典には一個小隊が儀仗のため参加していたということで、
一個小隊の編制は、4個分隊となります。

なお、指揮官以外の着用品は

◎ 常装冬服(第一種夏服)の着用品(冬略帽を除く)
◎ きゃはん
◎ 白色の手袋

とこれだけが決められています。
ただし、脚絆(ゲートルともいいますね。乗馬用語では”チャップス”といい、
わたしは黒と茶色違いで2本持っています。今度いつ使うかわかりませんがw)
は、部隊の長が着用を命じた場合に限るそうです。


 
なぜここで儀仗隊だけが移動したのかというと、今から護衛艦旗授与者が退艦し、
今一度栄誉礼の最後の「送迎」の儀式をして退席出するからです。




若宮政務次官が降りてきました。

 

前から三番目は、三井造船の取締役社長、田中孝雄氏
前は社長秘書?・・・・よくわからないけど三井造船の出世頭に違いない。
一番後ろはプロレス上がりの政務次官SP。(違ったら本当にごめんなさい)


ここでする「送迎」とは


1、立会者は、受礼者を送迎者の隊列に誘導し、随(同)行する

2、送迎者のうち、幹部自衛官及び准海尉は各個に挙手の敬礼、海曹及び海士は
  指揮官の号令により頭右(左)の敬礼を行い、目迎(送)する

3、受礼者が遠ざかった適宜の時機に、らつぱにより「別れ」を令する (wiki)

という儀式です。
これもわたしのいるところからはほとんど見えませんでしたが。

 

これから「送迎」が行われるところだったかと思います。

列の一番左端は「曹」で、4人いるのがお分かりでしょうか。



さて、この儀式の間、護衛艦には全く人影がありませんが、
見えないだけで実はこの間、乗組員は濡れた服を拭き(当然)昼ご飯をかき込み(多分)
午後の出航に向けての用意で艦内を走り回っていたはずです。



この間を利用して?少しまた装備の説明をしましょうかね。

「ふゆづき」艦首部分。

甲板の上に見えている糸巻きのようなのは、以前読者から教えていただいたので
忘れもしない

キャプスタンのドラム(巻銅)

といい、揚錨機を構成するものです。
錨は既に上がっている状態。
ここからはよく見えませんが、錨はアドミラルティー型といわれるもので、
これは「こんごう」などと同じです。
錨の形も何種類かあり、このタイプは非常にシャープで現代的なデザインです。

 
現在艦首には「艦首旗」として国旗が掲揚されていますが、これは日没時と航行中は降ろします。



艦首から下がったところには「搭載武器三兄弟」(エリス中尉勝手に命名)が。
 
前から

Mk.45 Mod4 62口径5インチ単装速射砲=(次男)

Mk.41VLS 垂直発射機=(長男)

高性能20mm多銃身機関砲(CIWS)=(末っ子)

でございます。
VLSは「ヴァーチカル・ランチャー・システム」ですよ。
何の頭文字か何気なく聴いたら答えられなかった「ひゅうが」の海士さん。

勿論これだけでなく、わが「あきづき」型には、

4連装SSM発射筒

だの

3連装短魚雷発射管

なんていう百発百中という噂の武器を搭載しております。




こういうタイプのマストを「ステルスマスト」といいます。
「たかなみ」型まではトラス構造のラティスマストといいますが、
このラティスマストに対してステルスマストとは、四角柱で構成され、
そのためにレーダー反射角度がやや小さくなりました。



これは、この左側の8角形のアンテナを持つ

FCS-3A

「ひゅうが」艦上のこの多機能レーダーについて説明したことがありますが、
「あきづき」型はこのレーダーを搭載することによって、大型で重量のある
対空レーダーをマストに装備しなくてもよくなったため、マストが細いのです。



マストの各張り出しはすべて直線で構成され、
角を外に向けるような作りになっており、さらに
マスト全体が後方に傾斜するような形になっています。

これもステルスマストの特徴なのだとか。



右側の上部構造物から突き出た二本の釣り竿のようなものは、

ホイップアンテナ

といい、先端に向かって細くなる形状をしています。
ホイップって・・・whip、鞭みたいだからでしょうか。

アメリカで博物館となっている空母「ホーネット」にも
この手のアンテナがたくさんありましたが、この新鋭艦もそれこそ
いたるところにこの「釣り竿」が立っています。

根元が赤いアンテナは高圧用。
艦尾のホイップアンテナはヘリが発着艦するときには邪魔にならないよう
ちゃんと倒しておくことができます。



この縦長の構造物は

洋上補給装置

柱状のものを「スライディングパッドアイ」といい、
補給時に補給艦からのハイラインを連結するために使用します。
わずかに内側に向かって傾斜していますが、これはステルス性のため。

右のラッタルを上がっていった上部構造物上にあるのは、

魚雷防御策(TCM−Torpedo Counter Measures)

投射型静止式ジャマー(FAJ)のランチャー、




FMJ(Floating Acoustic Jammer) と呼ばれます。

このランチャーで打ち出され、1キロ先で落下傘によって着水し、
着水したら海面をぷかぷかと(かどうか知りませんが)漂い、
そこで艦が発するエンジン音やスクリュー音を発生させることによって
音響ホーミング式の魚雷を誘引するのです。

つまり、魚雷の「ジャマー」をするわけですね。(スルー推奨)


 
さて、エロい人じゃなくて(前回エントリ参照)偉い人が黒塗りの車で行ってしまい、
午前中の式典は終了したので、われわれは祝賀会の会場に移動します。



誰もいない・・・・と思ったら



ラッタルを自衛官が一人降りてきました。
すでにレインコート着用です。
ちゃんと制服は着替えたんでしょうか。
あれだけ濡れたら、かえってレインコートを上に着るのは気持ち悪いと思うけど。

右手のおじさんは同じテントだった人で、物珍しそうにガン見されました。
まあ、300mm望遠レンズのニコンなんか持っているのは招待客ではわたしくらいだったし、
きっと「なんなのこの人」とか思われてたんだろうなあ・・・。 




バスの泊まっているところまで歩いて行きながら降リ向くと、
すでに旗旒信号のかかった「ふゆづき」のこんな角度が見えました。



式典の行われていたところを通り過ぎたら、足元にこんなカードが。
なるほど、合理的である。



調子に乗って海上幕僚長の場所でも記念写真(笑)

さて。


次はいよいよお待ちかねの祝賀パーティに潜入だ!


(続く)






 


護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式~「海をゆく」と「海のさきもり」

2014-03-19 | 自衛隊

YouTubeで探しても音源はなく、楽譜もある現役自衛官から戴いたものだけで、
ここに公開する方法が無いので、思いあまって(意味不明)フィナーレで譜面制作しました。

「海のさきもり」

でネット検索すると、出てくる音楽はさだまさしの「防人の詩」だったりします。
次いで個人ブログが自衛隊員を防人になぞらえている文章が続き、
さらには「ちゅら海の防人カレー」なんかが出てきます。(-_-)

つまり、全く世間に知られていない楽曲なのですが、もしかしたら
「海をゆく」は自衛隊の音楽に詳しい方ならご存知かもしれません。

この二つの曲を本日タイトルで並べたのには訳があります。

この日の護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式においてどちらも演奏された曲であり、
この2曲が海上自衛隊における正式に制定された

自衛隊隊歌

であるからです。



艦長が自衛艦旗を受け取っていますが、この間音楽隊が演奏していた曲、
それがこの「海のさきもり」なのです。

今日は、この曲と、もう一つの海自隊歌「海をゆく」についてお話しします。


まず、この作詞作曲者を見てください。
作曲は言わずと知れた山田耕筰
そして作詞は・・・・・。

江島鷹夫

どなたにとってもおそらく見たことの無い名前でありながら、
「何か知っている気がする」と海軍好きなら思ってしまうこの字面。
これは間違いなく江田島、古鷹山にかけたペンネームで、作詞者は
自分の姓名を表に出すことなくこの格調高い詩を書き上げた「江田島出身者」でしょう。

データを探そうにも、山田耕筰の作品データベースにすら掲載が無く、
(山田はJASRACの社歌とやらまで作っているというのに)海自の隊歌の一つでありながら、
当の隊員たちさえも歌詞があることをほとんど知らないのだそうです。

そこで、少し今回のイベント内容から少し外れますが、この歌詞をここに掲載します。

 
1 あらたなる光ぞ
  雲朱き日本(ひのもと)の
  空を 富嶽(ふがく)を
  仰ぎて進む
  われらこそ海のさきもり

2 くろがねの力ぞ
  揺るぎなき心もて
  起(た)ちて 鍛えて
  たゆまず往かん
  われらこそ海のさきもり

3 とこしえの平和ぞ
  風清き旗のもと
  同胞(とも)を 国土を
  守らでやまじ
  われらこそ海のさきもり


譜面を読める方はぜひ歌ってみてください。
短いながら荘厳で「耕筰節」とでもいうべきどこで区切れるかわからないフレーズ(笑)、
さり気なく5度上5度をアクセントに混ぜ込んだ和音進行を含むメロディは、
さすが日本音楽界の巨人である山田耕筰の作品に相応しい品位と格調を備えています。
わたしにこの歌の存在を教えてくれた自衛官は、

”特に(歌っていて)「同胞を 国土を 守らでやまじ」のところになると、
ペルシャ湾や3.11の現場にいた隊員たちの笑顔が浮かび、咽がつまりそうになります。”

との思い入れとともに

海自は「軍艦」のみならずこの曲も伝統として
もっと大切にしてゆかねばならないと思います。


という言葉を楽譜に添えて送ってくださっています。


確かに後でお話しする「海をゆく」の「戦後民主主義的配慮で改悪された」歌詞と比べると、
その揺るぎない格調の高さといい、簡潔にして完璧な言葉選びといい、はっきり言って
「格が違う」とすら思えます。
こちらが志ある成熟した大人の作品なら「海をゆく」は児戯にも等しいとでもいいますか。

(あくまでも比較の問題ですので念のため)





さて、それでは3月13日の「ふゆづき」自衛艦旗授与式の様子に戻ります。

自衛官授与者である防衛大臣政務次官の若宮氏が乗艦後、
訓示の用意ができるまでの約20分ほどの間、
観客が退屈しないようにだと思いますが、呉地方音楽隊の演奏がありました。

こういうときにはいったいどんな曲をセレクトするのだろうと、
わたしなどはまわりのおじさんたちと雑談をしながら興味津々。
おそらくこういうのも音楽隊長が選んだりするのかもしれません。

まずその第一曲目は

「錨をあげて」” Anchors Aweigh” チャールズ・ツィマーマン作曲

1906年にアメリカの海軍兵学校で音楽隊長だった若い士官候補生によって作曲され、
非公認ながら米海軍の公式歌となっています。

 ”Anchors Aweigh”とは船の出航の際に、それまで降ろしていた錨を
船の上にあげる作業が完了したことを指揮官が承認するときに用いる言葉で、
たとえばわたしが観艦式で乗艦した「ひゅうが」でも、出航前に演奏されていました。

そして第二曲目。

「宇宙戦艦ヤマト」すぎやまこういち作曲

・・・・何も申しますまい。

わたしの周りのおじさま方は、誰一人この曲にぴくりとも反応しませんでした。
といっても黙っていただけなので、もしかしたら知らなかったのかもしれませんし、
知っていても仮にも会社なり団体なりの代表として招待されてここに来ている以上、
アニメソングに反応するなどということは彼ら「偉い人」の立場としては
女子供のようでちょっと恥ずかしい、という意識が働いたのかもしれません。

わたしは、なぜこの曲がここで今演奏されたのか、少し考えていました。

すぐにはたと思い当たったのが、初代「冬月」の戦歴です。
最初にも書いたように、駆逐艦「冬月」は昭和20年5月の坊ノ岬沖での海戦

戦艦大和とともに

戦艦大和とともに

戦艦大和とともに

出撃しました。
このとき帰還した駆逐艦は出撃した8隻のうち半分の4隻。
幸運艦といわれた「雪風」「初霜」、そして「涼月」「冬月」です。


ご存知かもしれませんが、今回の「あきづき」型汎用 護衛艦はこれで

「あきづき」「てるづき」「すずつき」「ふゆづき」

の4隻が揃ったということで「ふゆづき」の一日前に三菱重工で竣工開始し、
この前日長崎の三菱重工造船所でやはり引き渡し式が行われた
「すずつき」もまた、天一号作戦の生存艦の末裔ということになります。

呉地方音楽隊の隊長がこの史実を踏まえて選んだのかどうかは知るべくもありませんが、
この日こんな音楽が流れていたことを話題にする媒体もおそらく無いだろうと思い、
あえてここでこだわってご報告しておきます。

そして問題の(?)三曲目。

「海をゆく」古関裕而 作曲

右隣の方が小さな声でこの歌詞を歌いだしました。
あれ、これなんだっけ。
一瞬思いましたが、最後の4小節で完璧に思い出し、わたしも小さな声で


「わーれーらー」

というところだけ唱和させていただきました(笑)

この曲は海上警備隊発足に際し隊歌として作られたもので、
御大古関裕而が作曲し、松瀬節夫という人が作曲しましたが
その後「世情にあわない」として歌詞が変更されました。

わたしの左隣のおじさまが今度は

「男と生まれ、って歌詞だったんですが女性隊員も入るようになったので
一般公募して歌詞を一部変更してしまったんですよ」

と教えてくれました。
一般公募で歌詞を変更・・・・・。
もしこの作詞者が西条八十だったら、自衛隊もきっとこんな無体なことはしなかったでしょう。


というわけで今回どこがどう変わったのか調べてみたのですが、驚きました。
一部、ではなく、「海を守る我ら」以外、全部だったんですね。全部。
たとえば、

「男と生まれ海を行く」→「明け空告げる海を行く」

はまあ、左の方のおっしゃったように「女性隊員もいるから」という理由ですから
これはまあいいとして、(よくないけど)

「若い命の血は燃える」→「歓喜沸き立つ朝ぼらけ」 

ってなんなのこれは。(呆)

もしかして往年の軍歌の軍靴の響きが聞こえそうだからって理由?
だいたい「歓喜沸き立つ朝ぼらけ」ってどういう意味ですか?
国防の任につく者が朝っぱらから歓喜に沸きたってるってどういう状況?

そして最も許せないのが

香れ桜よ黒潮に 備え揺るがぬ旗印」→
「備え堅めて高らかに 今ぞ新たな日は昇る」


備えを堅めれば高らかに日が昇るってかおい?
(怖くてすみません)

だいたい「朝ぼらけ」とか「日は昇る」とか、なんだってこう無意味に太陽にこだわるのか。
「防人の意気」が高らかではなぜいけないのか。
「桜」という言葉の何がいけないのか。
旧軍調だからか?好戦的だってか?

無難な自然現象描写をしておけばいいってなテキトーさがありありで、
「何かから逃げてる」「何かに遠慮している」って感じ。
つまりつまらないんですよ。
腑抜けた、なんというか言霊の無い耳障りのいいだけの言葉を並べただけで。




というわけでここにはNHK の「みんなのうた」みたいな改悪新バージョンではない、
昔の歌詞で歌われているものを貼っておきます。 

「男と生まれ」が良くないというならそこだけを代えて、
あとは全部そのままでよかったのではないかとわたしは個人的に思うのですが。 



さて、文句はともかく、この曲が演奏されているときときわたしが


「去年武道館で行われた音楽まつりでこの曲をあの方が歌っていたんです。
ほら、今話題の

と話をふったとたん、右と左が同時に

「三宅さんね」「三宅由佳莉さんね」

と我が意を得たりとばかりに反応し、ついでに前の陸将補殿までが振り返って(笑)

「三宅三曹ですね」

と周りが盛り上がったので可笑しかったです。

「彼女岡山出身なんですよね。岡山にだけ特別なメッセージをいれてくれたんですよ」

など、おじさまたち三宅さんにメロメロのご様子。
今や日本国自衛隊で幕僚長より有名な自衛官、それが三宅三曹だとわたしは確信しました。

曲は全部で4曲演奏され、最後の曲は・・・・・・えー・・・・・。

「ナショナル・エンブレム・マーチ」かスーザの

「Hands Across The Sea (海を越える握手)」

か・・・。
三宅さんの話が盛り上がっていて聴いていませんでした。
それにしても、(文句ばかりつけてすみません)これがスーザだったとして、
4曲のうち半分が敵国アメリカの曲というのはいったいどういうことか。
こんなときこそ、すべて日本人の手で作られた曲が相応しいのではないか。

海国日本を周辺国の脅威から守る、防人たる海上自衛隊の意気軒昂を謳いあげる曲が。 

・・・・え?

そこまでいうなら、どんな曲がこういう場にふさわしいんだ、って?
それでは最後に

”エリス中尉がもし呉音楽隊の隊長だったらこんなとき選ぶ行進曲”


1、太平洋行進曲

2、愛国行進曲

3、元寇

4、海を行く(旧バージョン三宅三曹の歌付き)



・・・・・・・駄目?



(続く)




 


護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式~「サイドパイパーの憂鬱」

2014-03-18 | 自衛隊

2014年3月13日に行われた護衛艦「ふゆづき」の引き渡し式、並びに
護衛艦授与式への参加記をお送りしております。

この連載が始まってからコメント欄にもいろんな読者のお話が寄せられ、
楽しく会話しながらいろいろと初めて知ることもあり、
まさに値千金のイベント参加であったと幸運にしみじみ感謝しております。

そして、まさにありがたいことに、外部の者が少し調べたくらいではわからない
様々な「中の人情報」によってご教示いただいていることもありますので、
コメント欄では紹介しきれなかったそれらをまとめてみました。

まず、わたしが当初インターネットで調べて「わからない」と匙を投げた
「小さな旭日旗」について。



全部写すことができなかったのですが、実は大変尻尾の長い旗です。
一応旭日様なので「小さな旭日旗」(笑)などと書いたのですが、
これは「旭日旗」ではなく指揮官旗のひとつで、「長旗」といいます。

指揮官旗とは、連隊旗含む部隊旗と違い、部隊でなく指揮官に授与されたもので、
離着任式の際含む指揮官の移動時には、必ず同行することになっています。

つまりこれが揚げられた=艦の最先任指揮艦が艦長であること、そして
艦長が艦を指揮していることを示します。

わたしは最初自衛艦旗のwikiページを検索して見つけることができなかったのですが。
ご教授者から同じページを送っていただいたので再び見たところ

ちゃんとありました。orz

「海上自衛隊の旗」という項の各種旗写真のなかに。
でも、見ていただければわかりますが、これじゃわからんだろーWikipedia 。


旗つながりで艦首の国旗に付いても少し。

冒頭の二士水兵さん、かっこいいでしょう。
護衛艦旗掲揚は天幕に阻まれて撮ることができず残念でしたが、
この写真が撮れたのでいいとするか、というところです。

この艦首に揚げる旗は「国旗」と呼ばず「艦首旗」というそうです。
「艦首旗」について詳しい説明はこちら

このページの最後の質問に君は(笑わずに)答えられるか?!


質問・停泊中の自衛艦が艦首に揚げる旗は?

1、自衛艦旗 2、国旗 3、Z旗 4、何でもいい




もう一つ。

艦長乗艦の際吹鳴される「サイドパイプ」についてもお話ししておきます。

モノ知らずのわたしは「ぴーぴー」とか「ホイッスル」とか、
当事者からは噴飯ものの(本来の意味で)書き方をしたわけですが、
実際に聴いてもこの笛の音は「ぴー」というより「ほー」という感じです。
ホイッスルにある音の立ち上がりがない、「アクセントの無い音色」で、
これはなぜかというとこのサイドパイプという笛、ホイッスルとは機構が違い、
振動させるための「玉」が入っていないのです。



音の高低も音量も、すべて自分の口先三寸でやってしまわねばならず、
こう見えて、というか簡単な機構だからこそなかなか難しいもののようです。


送迎パイプは、1佐たる艦長、指揮系統上の1佐以上の司令(隊司令、群司令、艦隊司令
官)
の他、将官の場合は指揮系統上になくても吹鳴されます。

このパイプが吹鳴されるのを聞くと、周囲にいる者は作業を中断し、
被送迎者に向かって敬礼を行うのだそうですが、今回、海上幕僚長や呉地方総監が乗艦した際、
サイドパイプが吹鳴されていたかどうかは残念ながら確かめることはできませんでした。

このパイプの起源は、帆船時代に作業を指揮するために吹鳴された様々な奏法であり、
帆船時代、外出から戻った酔いどれ船長を畚に乗せ、それを滑車で引き揚げる
作業指揮のために吹鳴されたパイプの名残だとも言われています。

送迎パイプは

ホー……ヒー……ホー……

と間を空けて吹かれ、それゆえ他の雑令などと比べると息が続かなくて大変だそうです。


海上自衛隊 サイドパイプ舷門送迎 掃海艇


ちなみにこの映像はコメント欄で「サイドパイパー下手」とかいわれていますが(泣)
 実際難しいので、舌や息の使い方のセンスによっては、全く使いこなせないまま
退官してしまう
海上自衛官もいるとアンサイクロペディアにはあります。

出所が出所なので真偽は不明ですが、このYouTubeを見たらそんな気がしました。
このときのサイドパイパーさん、正直でごめんなさい。 

ちなみにアンサイクロペディアの「舷門送迎」の項には

” ホー……ヒー……ホー……(舷門送迎)

隊司令以上(要するにエロいエライ人)の乗退艦時に吹奏する。
なかなか息が続かなくて大変である。
ちなみに号令はなく、吹奏者以外は挙手の敬礼あるいは
「気をつけ」の姿勢で
厄介者が過ぎ去るのを待つばかりである。”


とあります。
アンサイクロペディアの「号笛(甲)」のページ、お時間がありましたらどうぞ。




 

さらに、ご指摘の中でわたしが目から鱗だったのが

「自衛艦」「護衛艦」の使い分け。

インターネット検索しても「自衛艦旗」より「護衛艦旗」の方が検索数が多く、
かつて自分で「自衛艦旗授与式」とタイトルにつけたエントリが少数派であることから
どちらでもいいのかと思っていたのですが、あの「軍艦旗」は「護衛艦旗」ではなく
「自衛艦旗」と称します。

よく考えたら潜水艦にも掃海艇にも、タグボートやゴムボートにも(!)
揚げるものですから、「護衛艦」に揚げるときも「護衛艦旗」とはならないのだそうです。



さて、式次第に戻りましょう。
自衛艦旗授与者の訓示からです。



これは内部カメラでモニターに写し出されたリアルタイム映像。
場所は後甲板に繋がるヘリ格納庫です。

「あきづき」型は格納庫内に2機のSH-60を収納することができます。
床面にいろいろあって「足元がお悪い」感じがしますが、この部分には
ヘリの拘束装置が設置してあり、溝があったりするからです。

ついでに書くと、甲板はゆるやかに傾斜がついており、昔はこのことを
「オランダ坂」と称しました。
オランダ坂のように「なんとなく」傾斜があるのが護衛艦の特徴でもあるそうです。 



若宮政務次官の訓示は映像とともに流されました。
内容には最近の中国の動きを指して「尖閣」という言葉、
そして「竹島」という言葉がはっきりと
盛り込まれていました。

つまり日本の国防の現状を述べるにごく当たり前の訓示だったと思いますが、
これ、民主政権だったらどんな内容だったんでしょう。
「竹島」はもちろん「尖閣」という言葉は出たでしょうか。


初代首相は自衛隊の観閲を拒否し(これ、今考えたら凄いことですよね。
自衛隊関係者はどんな気持ちだったかと思うと、胸が痛くすらなります)
第二代首相は一応形だけ観閲したものの、官僚作成の文章の丸読みで観客からの拍手なし。

官房長官は「日本は中国の属国だ」と公言し、歴代大臣の誰ひとりとして国会質疑で
「竹島は不法占拠されている」
という言葉を頑として口にしようとしない政権だったわけですが、
あの間、現場の自衛官たちはどのように感じていたのでしょうか。

さすがの民主党もそれまでの流れを無理筋で廃止することは出来なかったらしく、
たとえば「いずも」に国会で予算がつけられたのは福島みずほが内閣にいたとき
(ありましたねえそんな瞬間が)だと言いますが、
もし護衛艦の引き渡し式があの時期行われていたとしたら、民主党の政務次官は
果たしてそこでいったいどんな訓示をしたことやら・・・。

ちなみに本日の授与訓示者である若宮健嗣代議士ですが、
外国人参政権については

誰の為に日本国民の貴重な税金を使っているのか、
もしも、とある地方自治体で外国人が多数を占めてしまったら、
そこはもう日本国内であっても日本ではなくなってしまいます。
外国人に参政権を付与するなんて全く有り得ません。

という、日本の政治家としてごくごく当たり前の考えをお持ちのようです。
そして、ソーシャルネットワークの発言を追ってみるかぎり、自衛隊に対しては
理解だけでなく大変思い入れをお持ちのようでした。

本日そんな政治家の訓示を受けたことは「ふゆづき」にとって
たいへん幸先の良い出だしとなったのではないでしょうか。

民主党政権が終わり、あちこちから「観閲が安倍首相でよかった」みたいな
「中の人」からの心の声を聞いたこともあって(笑)よけいにそう思うのですが。



「ふゆづき」の左舷側から見て右手に設えられた「撮影用足場」。
黄色い旗を持った2曹をご覧ください。
この日、自衛官たちはレインコートなしで全員が雨の中立ち続けていたわけですが、
自衛隊といえども濡れることを必要以上に強制しているわけではないので、
写真員や誘導係などの任務に就く隊員はちゃんとコートを着て仕事していました。

黄色い腕章は「報道」とありますので、ほぼ全員がマスコミのカメラマンだと思われます。

しかし、カメラマンだけは腐る程来ていても、めったに自衛隊イベントは報道されません。
今回のこの式典の様子はちなみにどこのメディアが実際に伝えたんだろうと思って調べたら、
産經新聞は勿論、朝日も報じていたんですね。

朝日はまあ、国民にではなく中国に日本の国防についての実情を報告するという
大事な使命がありますから(もちろんイヤミです)当然かもしれませんが。



舷門近くで艦長始め式執行者を迎えていた面々。
先頭女性尉官(三尉)、士、曹、一尉と上甲板を歩いていきます。
このまるで「各階級一人ずつ選抜」みたいな顔ぶれは何だったんでしょうか。
前から三番目の曹は、艦長乗艦のときのサイドパイパーであることから、
彼らは「舷門当番」グループではないかと予想してみる。


ついでにここに写っている装備について触れておくと、
画面右側の黒い巨大なホース状のもの。
これはプローブレシーバーといい、海上給油用のホースです。
全く同じものが右舷にもあり、やはり同じように周囲の壁面には
目立つように白く塗装されたリングプレートやクリートがあります。

ちょっとだけ上部に写っているのは作業灯で、これは蓋がしめられるそうです。
彼らの足元の赤いものは消火ホースで、ホースは消火栓につながっています。



装備説明ついでにもう少し。
これは

N-AS-299空中線

といい、短波受信のためのアンテナです。
上部構造物には
二本ついています。



こちらは艦橋両舷にある同じ空中線。
赤い「浮き輪」は救急浮標といい、各壁面ごとに備えられています。
グレーの護衛艦に赤いアクセントが映えて美しいですね。

三脚のように見えているのが

12.7ミリ機銃

の銃架で、架台は固定式で備え付けてありますが、
銃身は通常艦内に保管されているのだそうです。
ただしこれは「搭載武器」としてはスペックに上がってきません。
その理由は、海上自衛隊の場合、これは個艦設備ではなく拳銃や小銃のように
『搭載品』扱いになるためだとか。




アンテナつながりでもう一つ。
これは艦橋の前面(艦首側)なのですが、このR2D2の頭みたいな丸いのは
だいたいどこにあっても「通信関係」の装備だと思っていただければ
まず間違いは無いと思います。
(CIWSだけはこれと酷似していますが武器ですので念のため)

ここにあるのはヘリコプター用のデータリンク装置で

ORQ-1C-2 ヘリコプター用データリンク装置

といいます。
「あきづき」型に搭載されているヘリ用データリンクは最新のもので、
中身は極秘扱いのため?公開されていないそうです。

丸いのの上に槍のように見えているのはただいまぐるぐる回転中。

OPS-20C 航海用レーダー

です。



航して右舷が見えてから初めて見えてきたものもあります。

これは後部甲板のヘリ格納庫の上部構造物ですが、右側の小さくて丸い「きのこ」。
これも衛星通信アンテナで、

NORC-4B インマルサット衛生通信アンテナ

と言います。
赤道上空の軌道上に静止している4機の静止衛星から、
電話、テレックス、データ通信サービスを受け取るアンテナです。

赤道上にある衛星なので、北極と南極に近づくとサービス圏外(!)になるそうです。

左がファランクスCIWS
高性能20ミリ多銃身機関砲です。





この「あきづき」型の大きな特徴の一つは、まるでイージス艦のような
四角い(正確には8角形ですが)「多機能レーダー」、

FCS−3A 多機能レーダー

を搭載していることです。
「ひゅうが」にもおなじ四角いのがついていたのを説明したことがありますが、
汎用DDとしてはこの「あきづき」型に初めて搭載されることになりました。

イージス艦がミサイル防衛の任務で手一杯になったとき
このシステムを備えた「あきづき」型は「僚艦防空」をすることができます。

これまで「個別防空」であった防衛システムですがこのレーダーシステムによって
ローカル・エリア・ディフェンス、つまり艦隊全体を防御できるようになったのです。

たとえばイージス艦は、ミサイル防衛作戦中には通常の航空脅威、たとえば
低空でやってくる低空ミサイルなどに対しては防衛がお留守になってしまいます。
「あきづき」型は、そのイージス艦を守ることができ、イージス艦が防空任務で
抜けてしまった後の艦隊も守ってくれる頼もしい奴なのですね。



ところで、本文中の「サイドパイプ」のYouTube画面ですが、
二人の青虫ジャージ着用の男性が舷門送迎のときに起立しています。
そのことから彼らはおそらく自衛官であろうと思われますが、
それにしてもどうしてこんな格好でここにいたのでしょうか。


自衛隊 外から見ると謎多く げに探求のネタは尽きまじ



(続く)


 


護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式~艦長乗艦

2014-03-17 | 自衛隊

この当日、もし雨が降らなかったとしても、テントの中で行われる
防衛省の代表たる政務次官から初代艦長への自衛艦旗授与は
全くわたしのいる並びのテントから見ることは出来ませんでした。

しかしそれが終わり、自衛艦旗を受け取った艦長が、ラッタル付近の
こちらからよく見えるところに出て来てくれたので、写真を撮りまくりました。

私のテントでちゃんとしたカメラを持っていたのは只一人。
他は携帯で撮っている方が一人いただけででした。

一般に護衛艦の引き渡し式は公開しないようです。
ゆえにあまりそれについて書かれたものもないらしく、たとえば

「自衛艦旗授与式」

で検索すると、昨日アップした当ブログが最初のページに出てくるくらいです(笑)




それにつけても、艦船に命を吹き込み、自衛艦として船出するための儀式。

海軍海自ファンにとって、それが目の前で行われるのを見るのは冥利に尽きるというものです。

特に、自衛艦旗を受け取ったあとのこのような礼式は、
これこそ、当ブログがそのタイトルで標榜するところの

「ネイビーブルーに恋をする」瞬間でもあります。



艦長は受け取った自衛艦旗を高々と抱え上げ、それを副長に渡します。
副長というのは、護衛艦の上級指揮命令系統で言うと艦長の直下です。

副長、という官職名は明治時代から変わっていません。
「勇敢なる水兵」の一節にも、

副長の眼はうるおえり されども声は勇ましく 心やすかれ定遠は 戦い難く為し果てき

とありますね。



副長は一旦それを左で受け取り、



右手を一瞬添えて、



再び左手で抱え上げ、敬礼を交わします。

しかし、この日一日で敬礼を数えきれないほど見ましたが、

現在の海上自衛隊の敬礼は、昔の海軍軍人の写真に見る敬礼より遥かに
「陸軍寄り」になっている気がします。


というか、わたしの前に座っていた陸将補の敬礼と海自隊員のそれは全く同じに見えました。
つまり陸自の敬礼も昔の陸軍式よりは「海軍寄り」になっているということです。



く考えたら幹部は同じ防大で学び、同じ敬礼をしているわけですから、
陸海に入ったからといって急に敬礼の仕方が変わるというのも変な話です。

自衛隊トリビアなどの本などを見ると、相変わらず

「陸自と海自では旧軍の名残で敬礼の方法が少し違う。
陸自は肘を横にまっすぐ、海自は肘をたたんで」

そしてご丁寧にも

「空自は陸自と同じやり方でする」

などと書いてあったりするのですが、
今までの観察によると
陸式も海式も実際はあまり変わらない、というのが当ブログの結論です。


まあ、陸海でいがみ合っていた昔ならいざ知らず、現代の自衛隊では
そんな些細な違いはどうでもよくなったってことかもしれません。

旧軍時代、うっかり「海式敬礼」をしたため叱責され左遷までされた陸軍軍人がいましたが、

(註・陸軍潜水艦「まるゆ」の乗員)良い時代になったものです。



艦長から自衛艦旗を受け取った副長は左手で高々と持ち上げます。
なぜ艦長が持っていかないかというと、艦長が乗艦するのはいちばん最後。
全員が乗り込んだ後「艦長乗艦」という儀式があるからです。

このとき、音楽隊が行進曲「軍艦」を演奏し始めました。



副長を先頭に乗組員乗艦です。



手前は三井造船のカメラマンだと思われます。
このころ、雨脚はいっそう強くなり、ほとんど滝のように降っていました。



副長の後ろに続くのは航海長、次いで砲雷長だと思われます。



手の上げ方が角度までおそろしいくらいシンクロしています。
海自隊員にとっても自衛艦授与式はそう何度も経験することではないでしょう。
もしかしたらこれが初めて、という隊員の方が多いかもしれません。



「軍艦」に乗ってその場足踏みをしていた下士官、じゃなくて曹の行進が始まりました。

ご存知のこととは思いますが一応説明しておくと、
袖と制帽に金筋があるのが幹部、ないのが曹です。
昔は制服の形態からして違いましたが、今はそれ以外一緒です。

「下士官の軍服は士官のに比べてカッコワルすぎる」

という不満は戦前からあったといいますから、この「士官の下」を意味する
「下士官」という言葉をなくしたついでに制服も一緒にして、
自衛隊としては「軍隊の民主化」をはかったってことなんでしょうか。

あ、「士官」が廃止になったのは「下士官」の「下」に問題があったからか!




副長はラッタルを上がり、艦橋の右通路から姿を消しました。



多分この隊員だと思うのですが、この写真で先頭にいる女性の曹は、
姿が見えなくなってから号令をかけていました。

前席の陸将補どのの説明によると、隊列ごとに掛け声をかけることになっていて、
この女性が「一番偉いから」というわけではなさそうでした。




儀杖隊は乗組員が乗艦後、艦尾に向かって乗艦。
右手奥に自衛艦旗を揚げるポールが見えています。



「ふゆづき」はヘリコプターを一機搭載しますが、ここに飛行甲板があります。
飛行甲板に整列し、艦尾に自衛艦旗を揚げるための儀杖を行うのです。



乗艦した副長はすぐに自衛艦旗を渡し、同時にこの一士は
(彼の袖の階級まではっきりとわかりました。300ミリ望遠レンズすげー)
国旗を左脇の下に抱えて艦首にある掲揚ポールに向かっています。



そして国旗掲揚の準備。
まさか本人もここまで注目されていたとは思うまい。

艦尾では自衛艦旗も同じように用意されていたのだと思いますが、
わたしのいるところからは残念ながら見えませんでした。



そして、総員乗艦後、一番最後に艦長が乗艦します。
これは式次第のその2、「乗組員乗艦」の最後「艦長乗艦」です。

正確にはこの乗艦を以てそれまでの「艤装員長」は「艦長」となります。




艦長は乗組員が起立敬礼する中、ラッタルを上がり、敬礼をしつつ颯爽と進んでいきます。

前半の儀式でわたしが最も心が痺れた瞬間、それはこの「艦長乗艦」でした。
この新生艦の全責任を担う一人の男の背中は、決して気のせいではなく、
その重さを負う覚悟と誇りで輝くように見えました。

そのように感じたのは、海軍海自の比較的ミーハーに属するファンであるところの
わたしのみならず、周りの男性陣も一様にそうであったらしく、

「・・・・かっこいいですね」

とわたしが思わずつぶやくと、右隣と左隣が同時に

「いや、本当に」

と相鎚を打ち、気のせいか前の席の陸将補どのも賛同してくれているように感じました。
軍艦の艦長は男として生まれて一度はやってみたい仕事、と以前も書いたことがありますが、
この「艦長乗艦」の瞬間、北御門裕(ひろしではなくゆう、だそうです)二佐は
男としても自衛官としても船乗りとしても「冥利に尽き」たに違いありません。




わたしはそれまで間断なくシャッターを切り続けていたのですが、
北御門艦長が敬礼をしながら皆の間を過ぎる瞬間、
それを食い入るように見ていたため、ここから後の写真は撮れませんでした。

しかし、偶然ですが大事なシーンがこの写真には捉えられています。
この写真の画面右に写っている曹を見てください。
ホイッスルを鳴らしているのがお分かりでしょうか。

これは、艦長乗艦の儀式のときに鳴らされる笛を吹いているところで、
この間音楽は無く、ただ笛の「ピー、ピー」という音が響いています。



艦長乗艦が終わると、式次第は

「自衛艦旗授与者乗艦」

です。
先ほど偽装院長に自衛艦旗を授与した防衛省代表の若宮防衛大臣政務官
乗艦し、自衛艦旗並びに国旗を掲揚、その後訓示を行います。

そういう決まりでもあるのか、ラッタルと護衛艦内では政務官も傘なしでした。



先ほどまで三井造船の社旗が揚がっていた掲揚ポールにも乗員が待機しています。

ついでに今回得た知識をちょっと披露しておくと(笑)、画面左側にある
たくさんの筒状のものですが、これは

チャフ・フレアランチャー

チャフとフレアは全く別ものではないのか?
という質問を某知恵袋で見ましたが、これはそのどちらもが搭載されており
この名称はユナイテッド・ディフェンス社の商品名です。

制式名称はMk.137 Mod2

わかりやすく言うと、これは自艦が攻撃された際、誘導されたミサイルの
命中を回避するための「デコイ」です。

「チャフ」は偽装のための金属で、旧日本軍ではアルミ箔を模造紙に貼ったものですが、
今でも原理は一緒で、アルミ箔を詰めたコンテナを空中に散布するものです。
これでレーダー誘導型ミサイルの目標を撹乱するわけですね。

ミサイルも当節は様々で、赤外線誘導型のものもありますから、そちらには
高熱源体であるフレアの出番です。
ただし、敵がどちらのタイプを撃ってくるかは来るまでわからないので、
チャフとフレアを併用して発射するわけです。

たとえミサイルを回避しても、どちらが効いたのかは最後までわからないままだってことですかね。



というわけで、そのとき国歌演奏のため全員が起立しました。
わたしはとりあえずこの小さな旭日旗を揚げるところだけ写真に撮り、
あとは国旗と自衛艦旗に敬意を表して大人しくしておりました。



この小さな「ミニ護衛艦旗」の正体はわかりませんでした。




全くわかりませんが艦尾の自衛艦旗も掲揚された模様(笑)



艦首のニ士水兵さんも恙無く掲揚し終わりました。

きりりと結んだ口元が凛々しいですね。
この隊員のご家族がこの姿を見たら、さぞかし誇らしく思ったのではないでしょうか。



ところで前々回挙げたこの写真。
この狭いところから見ている一団を「一般人ではないか」と書いたのですが、
過去の引き渡し式の報告をいくつか見るに、この人たちはどうやら

「造船会社の社員の家族」

であるらしいことがわかりました。
護衛艦乗員の家族、特に艦首に国旗を揚げる係の隊員の家族は、
息子のそんな姿をぜひ見たいと思うのでしょうが、式典の形式上
見物人を増やすわけにはいかず、どこで線引きをするのか難しいところでしょう。

というわけで「身内」である社員の家族に限り、このように
狭いところから顔を覗かせ合う形であっても立ち会うことが許可されたようです。


我が子が、我が夫が、三年の間心血を注ぎ、ときには困難を乗り越えて作り上げた船。
その船が今命を吹き込まれて旅立っていくのです。
その瞬間を目にするために豪雨の中傘をさして長時間佇んだ彼らの心の中には
夫への、息子への誇りが、この日の乗組員たちに負けないくらい強く刻まれたに違いありません。




(続く)




 










護衛艦「ふゆづき」~引渡式

2014-03-16 | 自衛隊

この日は少し小降りになったと思ったらまた再び篠突くような雨、
といった具合に一日中傘をささねばならない天気で、
人々はざあっとくるたびに

「うわ・・・酷いですね」
「せっかくの日なのに散々ですね」

と顔を見合わせては繰り返していました。
しかし、前項でもお話ししたように、決して傘をささない軍人たる自衛官たちは
こんな日でも(一部を除いて)微動だにせず、式典の間直立しています。

彼らの雨水を弾いている制服と染み込んでいる制服の違いは、実は
防水スプレーをどれだけふったかによるそうで、それでいうと
本日最も丹念にスプレーを制服にかけていたのは艦長の北御門二佐らしい、
というところまでお話ししました。・・・・違ったっけ。


彼らが直立不動で待機する間、我々招待された観覧者はバスでドックまで運ばれ、

それぞれ割り当てられた天幕の下の椅子に座り、約40分待ちました。

(その遥か前から隊員たちは整列していたことに注意)


そして1200(ヒトフタマルマル)、引き渡し式開始です。
式に先立ち、本日の引き渡し式ならびに自衛艦旗授与式の執行者、
そして主要出席予定者が黒塗りの車で入場してきます、

執行者は三井造船の社長(引き渡し式)、呉地方総監(護衛艦旗授与式)



防衛省の代表として防衛大臣政務官の若宮健嗣氏。
若宮政務官は一般人なので傘を差し掛けられての登場です。



海上幕僚監部代表として海上幕僚長河野克俊海将

この後の祝賀会でご挨拶し名刺を戴いたのですが、
河野は「こうの」ではなく「かわの」とお読みすることがわかりました。



防衛事務官で装備施設本部代表の鎌田氏(だと思う)。



ふと護衛艦上に背広の二人がいるのに気づきました。
はて、なぜ一般の社員がここに乗っているのか。

そうこうするうちに式典開始。
まずは防衛省事務次官による巡閲が始まりました。



わたしの席は丁度この写真の右にあり、何が起こっているのかは
左手の大きなスクリーンでないとわかりません。

もうすっかり(わたし的に)おなじみの「巡閲の譜」を呉地方音楽隊が奏でる中、
政務次官が巡閲を行っているわけですが、この栄誉礼、こういう場合は
「ふゆづき」の乗員ではなく、儀杖隊に対して行われるらしいですね。


わたしの隣に座っていたやたら詳しい方の弁によると

「どうも私、この巡閲に納得いかないんですよ。
だって、実行部隊で実際にフネにのる乗員じゃなくて儀杖隊を観閲するんですよ。
儀杖隊というのは、いろんなところから少しずつ集めて来たわけで、
この護衛艦の専属というわけではないのに、意味が無いんじゃないかと」

まあ、おっしゃることはよーくわかりますが、「儀式」ですから・・・。



その間ずっと敬礼を続けている「ふゆづき」艦長以下幹部。
この間、観閲官たる栄誉礼樹齢資格者に敬意を表するため、栄誉礼、

または頭中(右・左)の敬礼で答えているのです。

護衛艦の指揮形態は、艦長以下副長、分隊の長となります。
艦長の後ろが副長、その後ろが砲雷長、船務長、航海長、機関長、
補給、衛生、整備長。(順不同)

この敬礼している袖を見て思ったのですが、指揮系統の上から4人が二佐。

護衛艦は戦闘艦であるため、そのなかでも砲雷長と船務長が、
航海長と機関長よりも指揮系統は上になります。

航海長の後ろ(前から4番目)は雰囲気から言って衛生長かな?



ところで。

皆さんが巡閲を受けている間、その他起立を要求されていないときも、
こんな風に自衛官幹部と同じことをしていた陸自幹部あり。
わたしの前に座っておられました。

全員が企業関係省庁関係のこのテントに(エリス中尉除く)、
只一人だけどうして陸上自衛官がおられたのかわかりませぬが、
後から写真に写った階級章を見たところ、なんと陸将補殿でした。

陸将補殿はお一人でわたしたちの前に黙って座っておられましたが、
わたしとI氏、そして右側の方の雑談を聴いておられたようで、
何度か話に反応し(笑)、自衛隊の中の人しかわからないことが話題に出ると
振り返って気さくに教えてくださいました。

退場してバスに乗り込むとき、同じテントにいた人がこの方に傘を差し掛けて

「どうぞお入り下さい」

というのを滅相も無い!という感じで断っておられました。
案外世間の人って、自衛隊員がどんなときにも傘をささない、
ということを知らないみたいですね。



そしてその巡閲というもの、何をしているのかわからなかったのですが、
こうやって後からスクリーンを見ると、
儀杖隊員の間を若林氏とおそらく呉地方総監が歩いていますね。

巡閲が終わり、続いて護衛艦の引き渡し式に入ります。

今このとき、まだ「ふゆづき」は建造した三井造船の所有であるという印に



まだ社旗を掲げてあります。



それが降納されていきます。
本来ならばここで旗が翩翻と翻る予定なのですが、本日は雨天のため
旗が全くなびきません。
いったい何の旗を降ろしているのか、さっぱりわかりません。

このとき、音楽隊は聴きなれない曲を演奏し始めました。

「この曲なんですかね」

周りの誰かがささやいたのですが、わたしがふと

「三井造船の社歌じゃないでしょうか」

というと、みんな、ああ・・と納得していました。
たぶん正解だと思います。



この社旗を降納していたのが、先ほどから乗り込んでいたこの二人。
なるほど、誰かと思えば、旗下し係の社員だったのか。
わざわざ白手袋着用の上、自衛隊員でもないのに傘もささずご苦労様です。

ただし、ここには国旗も自衛艦旗も上げないので、そのかわり、
画面に見えている小さな8条旭日旗を揚げるようです。




そして、正確にはここからが自衛艦旗授与式の始まりとなります。


かつて自分でアップしたエントリに

「自衛艦引き渡し式は、造船所と防衛省の間で行われる儀式であり、
船を建造した造船所の社長から防衛省代表に引き渡される」

とも書いてあります。(笑)

この画像では、防衛省代表から艤装員長に護衛艦旗が授与されている瞬間です。



今この瞬間、艤装員長は護衛艦旗を受けて「初代艦長」となります。

ところで。

今回、望遠レンズでは護衛艦は写しにくかった、と書いたのですが、
望遠レンズならではのこんな瞬間も撮れました。



まだ観覧客がそろっていない頃、航海艦橋にちらちらと人影が見えていたので
思いっきりズームしてみました。



携帯で写真を撮っている人、あり。
なんか楽しそうでいいですね。

艦内帽も何も被っていないので、自衛官ではない可能性は高いと思いますが。



(続く) 





 


護衛艦「ふゆづき」引渡式及び自衛艦旗授与式に行ってきた

2014-03-14 | 自衛隊

落馬事故によって右手首を骨折し、一時は再起不能かと思われたエリス中尉ですが、
悪運が強かったと見え、今のところ順調に回復しています。

見た目は普通の人ですし、箸が持てないとか、ペットボトルが開けられないとか、
お釣りを受け取るときに手のひらが上に向けられないとか、
自分でもそういうことが起こるたびに不便さを感じる毎日ですが、
のど元過ぎればで、最近は怪我をしていることをときどき忘れてしまうくらいです。

しかし、実は、救急車で運ばれたERの外科医が当初

「私の奥さんなら手術は受けさせない」(!)

と言ったくらい、手の外科というのは、特に対象が音楽家の手術は難しく、
また誰にでもできるというものではないそうです。
今回は幸いにも手の外専門の名医という先生をご紹介いただいたおかげで、
一か月ギプス生活、という考えただけで気の狂いそうな日々を過ごさずにすんだのですが。


前置きが長くなりましたが、もし今回の事故での「不幸中の幸い」ランキングで
ベストをつけるなら、それはこの先生の手術を受けられたことかもしれません。
なぜなら、そのおかげで今回の

「ふゆづき」引渡式および自衛艦旗授与式

への出席をあきらめずに済んだからです。
(じつは時期的にぎりぎりで実に危なかったんですけどね)


しかしたとえ温存療法でギプスをしていたとしても、皆の制止を振り切って
わたしはこの式典だけには参加していたことでしょう。

以前、自衛官旗授与式の模様をほかならぬ自衛隊の中の方から教えていただき、
その様子をエントリにアップしたこともあるくらい、この一連の儀式には憧れており、
チャンスがあればぜひ一度はこの目で見たいと思っていたからです。

そしてそのチャンスがとうとうやって来たのです。

今までの自衛隊イベントには、自力で、あるいは自衛隊の方からの
篤志によるご招待で参加してきたエリス中尉ですが、今回はこの竣工式典に

正式招待客待遇

で参加する予定だったのですから、これは何が何でも行かねばなりません。


今回、東京音楽隊のコンサート(とついでにクラプトンのコンサート)を
怪我のため断腸の思いで断念し涙をのんだわたしにとって、この式典に参加する程度にまで
怪我が回復していたことは、まさに天佑神助というべき僥倖でした。



さて、この日完工した護衛艦「ふゆづき」は「あきづき型護衛艦」の4番艦で、
平成23年起工、24年8月22日に進水式を行っています。
その模様。



建造は三井造船。

今回は、三井造船からの関係協力企業団体に対しての枠でご招待です。
しかもご同行くださったのが、地元経済同友会並びに民間防衛協会の偉い方であったため、
またお話ししますが、その御威光の御相伴にお預かりすることになったのでした。


それにしても、この進水式の様子ですが、美しいですね。

・・・・天気が。

青々と抜けるような空、白い雲、翻る日の丸に極彩色のテープ、
そしてその空に放たれた無数の風船が、「ふゆづき」の前途を祝すかのように・・・。

だがしかし、その完工を記念すべき式典の行われた2014年3月13日、
三井造船艦船工場のある岡山県玉野市は、いや玉野市に限らずその日は、
全国的に本格的な雨と強風に見舞われることとなってしまったのです。

何日か前に週間予報を見たら、その日だけが早々に雨の予報。

「どうせ一週間先の予報なんて当たらないから」

と軽く考えつつ降水確率を見ると・・・・90%・・・?
気象庁のこのいつにもなく断固として確信に満ちた数字。
ということは「実は降水確率100パーセント」という意味でしょう。

足元以前に当方は手許がおぼつかないのに何たることか。


しかし前日、三井造船に直接電話をし現地の様子を聴いて安心しました。
なぜなら、招待客は控室からドックまでバスで送迎、
バスから降りて数歩歩けばテントのなかで式典見学、という楽々モード。

思い出せば去年の朝霞、観閲式予行で数時間冷たい豪雨の中傘もささずに座り込み、
終わってみれば手の皮が白くフヤけていて何時間も乾かず、さらには
バッグの中に溜まった水で携帯が水死したあの日のことを思えば、
たとえ手の怪我というハンディがあったとしても天国と地獄くらいの違いです。

いや、人間、いちどでも底を見ると強くなりますね。
その程度が「底」なんて甘い、と思われるかもしれませんが。





この日配られた記念写真(冒頭)のケースですが、
雪の結晶に三日月、で冬月。
気持ちはわかるがあまりにもベタではないか。

しかしそんなことはどうでもよろしい。
これを手にしたわたしは猛烈に感動していました。

まあもっともこの日一日中感激しっぱなしだったのですが、どういうことかというと、
かつてこの三井造船所で、そして他のドックで建造された幾多の戦艦、
その完工のたびに、造船会社はこうやって「完工記念祝賀」を行って来た訳で、つまり、
その数だけ(戦争末期に駆逐艦を急造していたときはどうだか知りませんが)
こういった記念のよすがが関係者に配られて来たのです。

それを今、こうやってわたしが受け取っている、という感動。


艦船の起工から完工までは3年かかるのが通常で、例えばこの三井造船では、
戦後から数えてこの「ふゆづき」が30隻目の建造にあたるそうです。
つまりそうそうしょっちゅう立ち会えるというわけではない行事。
「ふゆづき」の起工が決まったころにはこの世界に何の興味もなかったこのわたしが、
何のご縁かこうやってその行事に参加しているのですから。

「ふゆづき」は初代から数えて三番目に当たります。
初代「冬月」、あの坊ノ岬沖海戦で戦艦「大和」とともに出撃した駆逐艦が完工したときも、
やはり同じような儀式が行われたのでしょう。

そのとき見守った人々とまったく同じように、一つの駆逐艦の誕生の瞬間、
フネに命が吹き込まれる瞬間にわたしもまた立ち会っているという感慨に耽りました。



さて、というわけで、今日から何日かかけてこの日一日のことをお話ししていこうと思います。

進水式のときにはおそらくたくさんの人がつめかけ、一般にも公開していたので、
多くの方がこういったブログにそのときの様子を挙げていたのだと思われますが、
今回はこのお天気。
一般の見学者も艦首付近に傘をさして少しいたようですが、



少なくとも天幕の中にいた人々の顔ぶれには、このようなブログ媒体で
写真をアップしようとしているような雰囲気の方は一人もおられませんでした。

本稿はもしかしたらテント内幕から見た唯一の報告になるかもしれません。



前日夜から一人で岡山入りしました。
今回の造船会社、「三井」の名が入るホテルです。
まだ新しいホテルらしくきれいで、朝食もとても結構でした。

朝、待ち合わせの時間にロビーにいたら、制服姿の自衛官が
何人もチェックアウトしていきました。
後からわかったのですが、市ヶ谷からは制服組も私服もたくさん来ていたようです。

その日ご一緒させていただく方とロビーで会い、運転手付きの黒塗り車で
岡山市中心から40分ほど離れた玉野市まで山を越えていきました。

玉野は呉軍港からは離れているところですが、軍港から離れていて内海にある、
というこころが造船に最適であったようです。
軍港が空襲に遭うことがあっても、ここは離れていて被災しにくいという理由です。

当初、この造船所のある玉野には、昔男爵位を持っていた「塩田王」所有の塩田がありました。
遠浅地形と、山が迫っていてドックを作るだけの海深が両立しているという
希有な条件を備えていたため、この地が選ばれたそうです。

ご一緒下さったI氏は地元生まれの地元育ち。
某地場産業の会長で、また地元の経済同友会の要職にある方ですから、
こういった話始め、興味深い話題は尽きません。
夢中で話をしている間に、いつの間にか現地に到着していました。




三井造船前に到着。
車の窓ガラス越しに撮りました。




車から降りて、テントで受付をしました。
ところがここで問題が。
わたしの乗るバス、控え室、そして観覧席、そのことごとくが
当然ですがご同行のI氏とは全く別になってしまうことが判明したのです。

「僕たち別々になると困るんだけど、これ何とかしてくれない?」

恐縮するわたしを尻目に、I氏、まず受付の人たちに交渉。
しかし、現場の人間ほどそんな融通は利かせることができません。
わたしなどよりそういったことをよくよくご存知のI氏、
とっとと自分の待合室のある建物に行って、そこの一番偉そうな人に
何が何でもわたしの場所を作るように、有無を言わせず認めさせ(笑)
わたしは恐縮しながらおじさまばかりの応接室で小さくなっていました。



待機のための部屋に割り当てられたのは実にクラシックな雰囲気の社屋。
築数十年経っていそうな、木造の雰囲気のあるレトロな建物です。
ちなみに写真に写っているのはその隣のパーティ会場です。

部屋にはいるとソファが置かれ、人数分のお茶と会社資料が用意されていました。
わたしはここでデジカメに加え、望遠レンズを装着したニコン1をスタンバイ。

怪我の前になりますが、ここで「広角レンズが欲しいと思った」と書いたら、
読者のmizukiさんに一眼レフ並びに白レンズを勧められました。
あのコメントはわたしのような初心者にとって結構なカルチャーショックでした。

そしてニコン1と広角の相性の問題についてしばし考えこみ、やはりこれはボディ買い替えか?
と長考に入ったところで怪我をしてしまい、そこで話が終わってしまったのですが、
じつはそのとき広角レンズが欲しくなったのは、この引き渡し式に参加することになり、
岸壁にある護衛艦は望遠だけでは撮れない、と考えたからでした。

結局それどころではなくなってしまったので今回はソニーのRX−100を併用したのですが、
やはり遠いようで護衛艦は近すぎ、案の定あまりまともな写真は撮れませんでした。
艦上の自衛官たちの表情などはこのレンズでないと無理、というくらい寄せて撮れたのですが。


現地案内まで訳40分ほどあり、その間ここで準備をしたり、
二階にある三井造船の資料室を見学したりしました。
資料室についてはまた別の日にお話しします。


その後移動の時間となったとき、バスの人数に制限があるのにも関わらず、

「いや断じてこの人はわたしと一緒のバスでないと困る」

と三井造船の社員にI氏がだだをこねていたら(笑)同室のおじさんが、
(といってもおそらくI氏と同じ部屋だからかなり偉い人) 
「何だったらわたしが代わりにそちらのバスに乗りますよ」
と言ってくださったので、八方丸く収まり、
わたしは安心してI氏と同じバスに乗り込みました。

じつは歩いたって岸壁までは10分もない距離ですが、
今日は天気が悪いため皆おとなしくバスに乗って行きます。




向こうに海保の艦船も停泊しています。

当たり前ですが見渡す限りそこは三井造船の岸壁。
ここで働く社員だけで何万人もいて、玉野という町はそのほとんどが
就職先にここを選ぶという地元密着型企業です。

しかし、近年機械化とオートメーション化、さらにIT化が進み、
昔と違って社員の数は激減し、玉野市内の社宅はほとんどがガラガラだそうです。




バスが「ふゆづき」が係留してある岸壁に到着しました。
それにしてもこの窓ガラスの雨をご覧ください。



わたしが座ったのは(というかIさんの席は)ここ。
立っている人がいるところから向こうが式典の行われる中央ですから、
じつは特等席だったのです。



はい、ここですね。
テントの下には呉音楽隊、その手前が儀杖隊、
そして紅白の幕がかけられたラッタルの手前に艦長始め幹部、
士官の皆さんの順番で立っています。



左手には下士官と水兵さん、じゃなく曹士。
何となく右から左に行くにつれて立ち姿勢に緊張感が無くなっていくような・・。
というか、こうやって写真に撮ると、顔を動かしたりしている人は
圧倒的に若い曹が多かったのが不思議です。


ずっと緊張し続けていられるというのもすべて訓練の賜物だとは思いますし、
実際に見ている分には「だれている」とは全く思わなかったのですが。




いかに激しい雨の中、彼らが全身濡れそぼっているかがよくわかる画像。
しかしこうして見ると各人の制服の水のはじき方に大きな違いがあります。
一番右の隊員と一番左のでは、素材が全く違うように見えるのですが気のせいかしら。



わたしのいるテントからはこんなかんじです。
広角レンズが必要だと思ったわけがお分かりでしょう。


 
とりあえず望遠レンズで撮りやすかったウェポン(笑)

同じテントにいたおじさま方は、職種も様々ですから、
それこそこういう武装について関わっている会社の代表だったりして、
仕事の関係上護衛艦のことは隅から隅まで知っていたりする方もいたでしょう。

おそらく知識の幅はわたしを基準にしたとすれば(なんでわたしが基準かわかりませんが)
わたしより上とわたしより下は半々ではないかと何の根拠も無く思ったのですが、 
I氏は明らかにわたしより知らない方で、

「護衛艦っていうからもっと武器を搭載しているのかと思っていたけど、
あんな細細い大砲がひとつあるだけなんだねえ」

などとおっしゃいます。
するとわたしの右側の方が明らかにわたしより詳しい方で、

「護衛艦は昔と違ってああいう形の武器は搭載してないんですよ。
あそこの前にあるところから垂直にミサイルが出ます」

と、わかりやすくわたしの頭越しに説明してあげていました。
この「大砲」はMk. 45 Mod4 62口径5インチ単装速射砲

5インチとは127ミリで、アメリカ製。
「あたご」型と同型で、DDとしては初めて搭載となります。

「長細い大砲」

というのは見た目の通りで、そのため最大射程は3万8千メートル以上、
さらに長距離誘導砲弾であるロケット推進のERGMを使えば、
その最大射程は110kmを超えるそうです。

そのかわり?発射速度は毎分20発で、オートメラーラ製の5インチの半分くらいだとか。


行きがかり上いきなり装備の説明をしてしまいましたが、
このときの隊員の様子をもう少し。



儀杖隊。
儀杖隊長はなぜか白のホルスターの短銃を装備しているようです。

儀杖隊の向こうには自衛隊のカメラマン、写真員と呼ばれる隊員がいます。
雨でも決して傘をささない彼らはこれしきの雨には慣れているのでしょうが、
やっぱり雨が降ってほしくないと一番願うのは写真員でしょう。
近くを通ったときにカメラを観察したら、レンズの上にテープで紙を貼付けたりして、
雨が少しでもかからないような工夫を凝らしていました。
彼らにとってカメラは武器のようなものですから、扱いも慎重なんでしょうね。

ちなみに彼らは写真を撮るのも「任務」で、

「誇りを胸にシャッターを切れ!」

がモットーだそうです。



女性の幹部がいますね。
この一団は士官、と今は言わず、幹部といいます

昔の「士官候補生」が今の「幹部候補生」であるということに
うかつながら割と最近気づいたエリス中尉ですが、なんかねえ・・。

幹部候補生。

一般企業みたいであまりかっこよくないと思ってしまうのはわたしだけ?

「水兵」という言葉が使えなくなり、この階級を「士」として一士二士士長などと、
えらいのかそうでないのか自衛隊以外の人にはさっぱりわからない名称にしたので、
自動的に「士官」が使えなくなった、ってことなんですね。

わたしのような旧軍好きから見ると、

「青年士官」

という言葉だけで三割増くらい期待してしまうというか浪漫を感じるというか、
陸軍だろうが海軍だろうが、その響きに胸にアツいものを感じるのに(笑)

「青年幹部」

って・・・わけわかんないし。

「スマートな士官」

というとあるイメージがわくけど

「スマートな幹部」

ってまったくイメージすらわかないんですけど。

戦後になって失われた旧軍の用語で最も復活してほしいのがこの「士官」。

「鎮守府」「水兵」「駆逐艦」「戦艦」「攻撃戦闘機」が

「地方総監」「士」「護衛艦たるDD」「支援戦闘機」とは、

だんだん変わっていったとかいうのではなく、ある日突然使えなくなったので
仕方なくあれこれ相談して言葉を決めた無理矢理感が否めません。

まあもっともどんな言葉も60年以上使い続けていれば、
それなりの「言霊」というものが宿ってきているのかもしれないとは思いますが。




ちなみに、すばらしい姿勢の良さでしかも微動だにせず、最も衆目を集めていたのは
列の一番右にいた幹部、というかスマートな士官でした。

「ふゆづき」艦長北御門裕2等海佐です。

 

(続く)