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沿岸警備隊「マクレーン」が撃沈した呂32〜USS「シルバーサイズ」潜水艦博物館

2022-07-31 | 軍艦

ざっと駆け足で五大湖沿いの海軍施設巡りについて概要をお話ししました。
新しい住処での生活も落ち着いたので、さっそく詳しい解説に入ります。

事情があって、2番目に訪れたミシガン州マスキーゴンの
潜水艦「シルバーサイズ」に併設されていた博物館の展示から始めます。

■ 「シルバーサイズ」潜水艦博物館



USS「 シルバーサイズ」 サブマリンニュージアムは、
ミシガン州のマスキーゴンにあります。



マスキーゴンは赤い印の部分で、ミシガン湖の東岸となります。

博物館は2階建てのミュージアムビルと常設展示室、
そして岸壁にはガトー級潜水艦USS「シルバーサイズ」
その隣に禁酒法時代の沿岸警備隊のカッター、USCGC「マクレーン」
大きくこれらのの3つの施設から構成されています。



USS「シルバーサイズ」Silversides(SS-236)
は、第二次世界大戦時の「ガトー」級潜水艦です。

「シルバーサイズ」はアメリカの当時の潜水艦の命名機基準に倣った魚名で、
別名「スメルト」(smelt)、「ホワイトベイト」(whitebait)ともいい、
これは日本語だと「ワカサギ」となります。

等級の名前になっている「ガトー」gatoはトラザメの意味です。
トラザメ基準だとワカサギは体が小さすぎることから、
潜水艦の等級は魚の大きさ別というわけではないことがわかりました。

潜水艦「シルバーサイズ」は4回の哨戒活動で12の戦功を挙げ、
大統領単位勲章を授与されています。

その戦歴において23隻、90,080トンを沈めたとされ、これは、
現存するアメリカの潜水艦の中で最も多い記録とされています。

USS「シルバーサイズ」は内部と外部を全て公開されており、
砲から食堂に至るまで、見学箇所は「慎重に復元した」とのことです。

また、団体で予約すれば、キャンプで一泊することも可能です。
艦長や士官の個室はもちろん、魚雷横のバンクで寝る体験ができるわけです。
(ということはトイレやシャワーも使えるようになってるんだろうか)

ちなみにHPでは(一体どういう効果を狙っているのかわかりませんが)
ライブカメラで四六時中潜水艦の映像が流れています。

「シルバーサイズ」ライブカメラ

5分ほど流しっぱなしにしていると自動的にストップします。

このページの下の方を見ていただくと、通過する船の現在状況がわかる
「チャンネル・シッピング・マップ」も見られます。



わたしがこれを見て初めて気がついたのは、マスキーゴンというところが、
「ミシガン湖沿岸の(さらに)内陸のマスキーゴン湖」沿いにあり、



この博物館はその二つを繋ぐ運河沿いにあったということでした。

うーん、アメリカってやっぱり広い。

■潜水艦「ドラム」艦橋


それでは博物館の前庭部分の展示から順にご紹介していきましょう。
USS「ドラム」の艦橋部分だけが展示されています。

USSドラムDrum (SS-228) 

はアメリカ海軍のガトー級12番艦ですが、最初に完成し、
第二次世界大戦で最初に戦闘に参加したため、
「ガトー級の実質1番艦」であり、現存する同級の中では最も古い艦です。

ただ、ちょっと不思議なことに、「ドラム」の本体は
1969年から戦艦アラバマ記念公園に展示されているはずなのです。

現地は2005年のハリケーン・カトリーナで被害を受けたものの、
その後ベテランのコミュニティなどの寄附によって修復されたとか。

その艦橋だけここにある理由がなんなのか、それは分かりませんでした。



沿岸警備隊カッター、USCGC「マクレーン」



冒頭写真は、沿岸警備隊のカッター「マクレーン」です。

実はこの内部も公開されていたのですが、我々は
潜水艦と博物館を隈なく見た後、気力が尽きてしまっていて、
「マクレーン」に乗艦することなく次の場所に移動してしまいました。



現地にある説明を後から読んで、わたしは、しまった、見ておけばよかった、
と後悔したのですが、もちろんそれは先に立たず。

残念ですがこれはもう仕方がありません。

それではその現地の看板の説明です。

US Coast Guard Cutter
McLane W-146

アメリカ合衆国沿岸警備隊のカッター、「マクレーン」へようこそ!

この船は1927年4月8日ニュージャージー州カムデンで就役しました。
「マクレーン」は当初、禁酒令を施行するために建造されましたが、
第二次世界大戦が始まると、アラスカ沖チャタム海峡の警備に就きました。

現役当時の「マクレーン」

1942年7月9日、海軍の哨戒艇を伴って航行しているとき、
「マクレーンは」日本海軍の潜水艦呂32を撃沈しています。

ここを読んで、わたしは乗船をパスしたのを後悔したわけですが、
調べてみると、現地の看板に書いてある情報は、正確ではなさそうです。

この撃沈時の状況が、別のサイトで詳しく述べられています。



1942年6月7日、アラスカとブリティッシュ・コロンビア間で哨戒中、
日本海軍の潜水艦が目撃されたとの報告を受けた「マクレーン」は、
その海域での継続的な捜索を開始しました。

1ヶ月後の7月8日、「マクレーン」はカナダ空軍の哨戒機が、
潜水艦を爆撃し損傷させたという報告を受けます。

そこで、海軍哨戒艦USS YP-251、カナダ海軍掃海艦HMCS「Quatsino」
とともに本格的な潜水艦の探索を開始しました。
「マクレーン」の報告が詳しく残されているので箇条書きにしていきます。

0800 潜水艦の音信を得たが、その後失う

水深91mにセットした深度爆薬は不発

「潜水艦がジグザグに走り、回避しようとした」

1540 音信を探知

1553 46mと76mにセットした2つの深爆を投下

1556 61mと91mにセットした2つの深爆を追加

「泡が表面に上がってきた」と報告

1735 潜水艦が発射したらしい魚雷が「マクレーン」の前方を通過

YP-251、潜望鏡を視認 その地点に深爆を投下

「マクレーン」続けて2つの深爆を投下

両艦は油膜が浮上したことを確認

1935 YP-251は潜望鏡を視認、深爆を投下

「マクレーン」は2つの爆雷を投下

油と泡とロックウール(潜水艦の消音に使用)らしきものが浮上したと報告

7月10日早朝まで早朝まで潜水艦の痕跡がないか捜索を続けたが、
何も発見できなかった

潜水艦を撃沈したという確たる証拠は得られなかったと、
こういうわけですね。

にも関わらず「マクレーン」、YP-251、哨戒機の指揮官たちは
潜水艦を撃沈した功績でレジオン・オブ・メリットを受賞し、
陸海軍合同評価委員会は、潜水艦を日本の潜水艦呂32と特定したのでした。

ところが、です。

日本側の記録によると、呂号32はその時期そこにはいませんでした。

♩そこに〜わたしは〜いません〜沈んでなんか〜いません〜〜♪

いられるわけがありません。
なぜなら呂32は1942年の4月1日付で(この日付がいかにも日本ですね)
退役しているのです。

彼らが呂号潜水艦らしき敵と格闘したのは、
本物の呂32が退役してから3ヶ月も後のことになります。

まあ、敵の軍艦について何も分からないのは戦時中のあるあるですが、
1967年になって、戦闘記録と呂号の情報「を照合したアメリカ海軍は、
「マクレーン」が撃沈したのは、呂32ではなかったことを知りました。


というわけで、1942年7月9日に沈没したとされる潜水艦の身元は
いまだに未確定のままになっています。

これって、日本の潜水艦だったかどうかもわかっていないってことですね。
まさかとは思うけど実は敵ではなかったとか・・いや何でもない。



現地の解説の続きです。

さらに、「マクレーン」は、1943年、アラスカへの航行中に、
墜落したロッキードエレクトラ10B航空機の乗員二人を救助しました。



「マクレーン」は1960年代にはカリフォルニア州アラメダ、
そしてテキサス州ブラウンズビルでも勤務を行なっています。

1970年代にはシカゴ地域に移動して、沿岸警備隊カデット隊の
若い隊員のトレーニングプログラムに使用されていましたが、
それを最後に、1993年、シルバーサイズ潜水艦博物館に買収されました。



というわけで、これが現地にあった看板の説明となりますが、
「マクレーン」が撃沈したのが呂32でないことが明らかになって、
もう半世紀は有に経過しているのだから、
いくら何でもこの情報は書き換えておくべきだと思うんだな。

というか、「マクレーン」が撃沈したと思ったのが呂32でなかったどころか、
実は逃げられていたっていう可能性はないですか?

油膜だって防音材だって、映画でよくあるあの話みたいに、
「潜水艦死んだフリ作戦」で放出してたかもしれないじゃないの。

それに、潜水艦が沈没した痕跡は結局何も見つからなかったんでしょう?


なんて疑うのは、ここアメリカではベテラン様に対して失礼!
ってことになってしまうのでタブーなんでしょうか。



■ 触雷沈没した潜水艦「フライアー」


さて、その次は本当に沈んだ潜水艦についてです。

博物館に入館すると窓口がこの展示の右側にあり、
入館料は大人は17ドル50、支払うと手首にバンドを巻いてくれます。
ここでも売り場の人に、「あなたはミリタリー関係者か」と聞かれました。

現役の軍人なら入場料が無料になるからですが、
どこにも「アメリカ軍」という規定が書かれていないので、
もし自衛官だったら、タダで見学できるのだろうと思います。

自衛官の方、こんな機会があればぜひお試しください。
おそらくベテランでも何らかの割引があると思います。



入り口にあったこの稲妻と潜水艦の艦首の描かれたバナー。
大変ドラマチックですが、何が書かれているかというと。

1944年8月13日日曜日の午後10時近く、曇天の暗い空。
西に稲妻が点滅しました。

USS「フライアー」は、フィリピンのバラバク海峡に向かって
南南西に17ノットの速度で航行しています。

潜水艦は目立たないように静かに航走を行います。
暖かく、穏やかなうねりがデッキ全体を洗い流していきます。

9人の乗員がスピードを上げる潜水艦のブリッジと見張り台に立っています。

彼らが目標とするのは、南シナ海における日本の護送船団です。
海面を航走しながら「フライアー」は「絶好調」でした。
(makes good time.)

夜間でも発見されるリスクはあるので、さらなる見張りが
敵の哨戒に備えて海と空をどちらも警戒するのです。

ここで終わりです。
「フライアー」がこの後どうなったのか、
輸送船団を沈めることができたのかについては書かれていません。

これだけ見た人にはこの後の「フライアー」の運命はわかりませんが、
実は「フライアー」は、2回目の哨戒でバラバク海峡を浮上して航行中、
つまりこの後、

日本軍の機雷に触雷して2〜30秒ほどで沈没しているのです。


在りし日の「フライアー」

艦橋で見張りを行っていたジョン・クローリー艦長を含む数名は、
触雷の衝撃で艦体から海中に放り出されました。
また、別の資料によるとこのように書かれています。

「艦長はブリッジの後部に投げ出されたが、しばらくして正気を取り戻した。
油と水と瓦礫がブリッジに溢れかえっている。

燃料の強烈な臭いがし、コニングタワーのハッチから
ものすごい勢いで空気が抜け、下からは浸水音と男たちの悲鳴が聞こえた。」


USS「レッドフィン」(SS-272)に収容された生存者8名のうち7名
後列真ん中がおそらくクローリー艦長

燃料油の臭いが立ち込める暗闇の海で立ち泳ぎをしながら、
艦長は点呼を取り生存者を集めました。
その結果、艦橋にいたクローリー艦長以下14名が生き残り、
その他72名の士官と兵員は、艦と運命を共にしたことがわかりました。

沈没地点は陸地からわずか3マイルでしたが、空が暗く曇っていたため、
艦長は明るくなるまでその場で立ち泳ぎをすることを命令しました。


「この間、ケイシー中尉は油で目が見えなくなり、目が見えなくなっていた。
4時頃、彼は疲れ果て、他の隊員は彼のもとを去らざるを得なくなった。
クローリー中佐は、最速で泳ぐことが唯一の希望であることを悟り、
全員に対して、見えてきた陸地に向かって最善を尽くすように指示した。
マデオは遅れをとり始め、5時過ぎには見えなくなった。」


その後何人かが脱落していき、海岸にたどり着いたのは艦長以下8名でした。

その後、生存者たちは、たどり着いた島での壮絶なサバイバルの末、
現地にいたフィリピン人ゲリラと接触し、なんとか生還を果たしました。

「フライアー」が触雷したのは、日本の伊123
1941年12月7日、つまり開戦の日に敷設したものでした。

その後、アメリカ海軍内で、これに触雷した責任問題をめぐって
諮問委員会で送り込まれた上層部の間に対立が引き起こされ、
ちょっとした内輪揉めの騒動になったという後日譚が残されています。
(でも割としょうもない話なので割愛します)


海底の「フライアー」

2009年2月1日、「フライアー」は北緯7度58分43.21秒、
東経117度15分23.79秒の地点に眠っていることが確認されました。

この調査はフライアーの生存者が残した情報に基づいて行われ、
Naval History and Heritage Command の調査の結果、
この潜水艦の身元が特定されるに至ったものです。

水中で撮影された映像によれば、艦体の位置は海深100m地点。
砲架とレーダーアンテナからガトー級であることが確認されました。



その隣にあるのが、USS「レッドフィン」の時鐘です。

潜水艦「レッドフィン」は第二次世界大戦中、第4回目の哨戒で、
特別任務として「フライアー」の生存者の収容を命じられました。

「レッドフィン」による生存者救出作戦は慎重に行われました。

敵の目に止まらないように、まず無線でクローリー少佐らと連絡を取り、
予定日に会合予定地点で浮上して、そこに停泊していた
200トン級海上トラックを砲撃で撃破してから人員収容を行っています。

その後「レッドフィン」は現地のフィリピン人ゲリラに対し、
「フライアー」生存者を保護してくれたお礼として、食物、潤滑油、
医療用品、携帯兵器、弾薬および予備の靴、衣料を与えたということです。

その後オーストラリアのダーウィンに到着して
「フライアー」乗員を上陸させたあと、本来の任務の哨戒を再開しました。



続く。





ピッツバーグ・グルメ〜怒涛の悪評価ジャパニーズレストラン

2022-07-29 | 歴史

ピッツバーグに到着してからあっという間に二週間が経ちました。
Airbnbの部屋を住みやすくするための立ち上げもすみ、
唯一の心配だった、ガレージがないという問題についても、
駐車禁止の時間と場所を把握することによって、路上駐車に慣れてきました。

さて、今日は到着以来ここピッツバーグで訪れたレストランの中から、
アジア系と日本料理をご紹介しようと思います。


バッファローからピッツバーグに到着した夜は、
前回ピッツバーグで最後の夜に行って感激した高級タイ料理、
「プサディーズ・ガーデン」でMKとの再会を祝いました。


ここのタイカレーはいつ食べても感動的に美味です。
そしてこのパパイヤとスティッキーライスのココナッツ和えは最高。


去年はCOVID19のせいでオープンしていなかったお店です。
カジュアルなベトナム料理の「ツーシスターズ」。

お店の名前通り、二人の姉妹が経営しているレストランで、
オーナーらしい姉妹はキッチンでなくフロアとレジで頑張っています。

今回行ってみると、お店は大変繁盛しているように見えましたが、
壁には「人手不足でサービスが十分にできずすみません」
みたいなことを書いた張り紙があり、実際にもオーナー姉妹が
一人で運んで片付けてレジもしてオーダーも取るとキリキリ舞いしていました。


そんな中でも以前から品質を落とすことなく、
美味しいベトナム料理が提供されていたのは嬉しいことです。

前菜がわりにまず生春巻きをひとつ。



ここでは3人が3人ともいつも同じものを注文します。
それがこのチキンフォー。
自由にトッピングする野菜もたっぷりで、見かけより量が多く、
わたしなど全部食べ切ることができないほどです。

味は少し物足りないかなくらいのあっさりで、
その透明なスープもその気になれば全部完飲できるレベル。

コストパフォーマンスの点でも高評価を差し上げたい良店です。


今住んでいる通り沿いにあるジャパニーズレストラン「UMAMI」。

「旨味」という日本語がアメリカで市民権を得たのは、
ネットの発達によるところが大きいのではないかと思います。

西海岸、シリコンバレーに「UMAMIバーガー」が登場し、
その言葉選びに驚いたのが4〜5年前だったでしょうか。

わたしたちがアメリカに住んでいた頃には、日本食を謳うストランでも、
出汁を取っていない(つまりお湯に味噌を溶かしただけの)味噌汁を
平気で出してくることがあり、もしかしたら日本人以外には
昆布だしの旨味は味として認知されていないのか?と思ったものですが、
今では、たとえ日本人など見たことがないような地域の人でも、
ネットで本物の日本食の調理について簡単に知ることができます。

まあ問題はいくら知識があっても味わうことはできない、つまり
本物の味を知ることができないという点については
ネット以前と何も変わっていないということですが。

「UMAMI」という店の名前から受ける印象は悪くありません。
なまじ日本人がやっているというだけで、別に美味しくもない日本食を
これぞ本物、とばかりに海外で広めている微妙な店よりは、
ずっと日本の食について理解が深そうな予感を抱かせます。

そんな「UMAMI」については、MKがすでに友人と行った事があり、
評価については「まあまあ」という事だったので、
特に大きな期待もせず軽い気持ちで一度食べに行ってみました。



お水のグラスがパンダなのはいかがなものかと少し思いますが、
枝豆にはちゃんと塩が振ってあるし、味噌汁も出汁は取れています。
具も豆腐にわかめにネギと実にオーソドックス。


鉄火丼。
悲しいのは、ちゃんと紫蘇を使ってくれているのはいいとして、
それがほとんど黄色い色をしていた(つまり枯れかけ)ていたことです。

それから、アメリカのきゅうりは日本のと種が違うため、
日本の胡瓜の1.5倍太く、胴体にくびれもイボイボも全くありません。


これはわたしが頼んだ海鮮丼。
問題のシソは刻まれていて、生のうずら卵、トビコがあしらわれています。
ご飯はちゃんとすし飯の味がしました。

これ以外に、ここではお好み焼きも食べる事ができ、
MKいわく「まあまあ」ということです。

アメリカ人にも美味しく手頃なジャパニーズと認識されているようで、
この二日後、MKが友達と夕ご飯に行ったらまたここになったそうです。


日本料理、特に寿司レストランは、アメリカ人には少し高級で、
たとえばデートに選ぶ店みたいな位置づけの店が多い気がします。

値段が高いのは、生魚を扱うことから仕方がない部分がありますが、
いわゆるインチキジャパニーズの経営者は、
高い値段を取るためにろくに寿司のことを知らないで、
聞き齧り、見かじりの偽寿司を提供しているところがほとんどです。

もちろん前述のように日本人が経営しているからといって
必ず美味しいとは限りません。
日本にある店が全て美味しいわけでないのと同じです。

しかし今回遭遇したジャパニーズレストランほど、値段だけは一流で
中身はとてもじゃないけど日本からは味も中身も、程遠い、
残念なレストランはありません。

しかし、ブログのネタとしてはもう最高の逸材だったので、
早速ここで、ネットの低評価(太字)と共にご紹介していきます。ネタだけに。


昨年の夏に行った、SOBAというレストランに併設されているUMI。
UMIはピッツバーグでも数少ない高級和食の店と自称しています。

SOBAは決して悪くなかった(特に良くもなかったけど)ので、
高いのは分かっていましたが、家族で一度は行ってみようとなり、
MKになかなか予約が取れない中取ってもらい、出撃しました。

このレストランに入るのはとても難しい。
いつも予約でいっぱいで、一流レストランのような錯覚を覚えるからだ。
しかし、金曜日の夜、私たちがいた2時間の間、
多くの空きテーブルがあり、決して忙しいわけではありませんでした!!
要約すると、この経験はすべて気取った見せかけのように感じられました。


この人は「忙しく見せかけて高級なふりをしている」としていますが、
わたしが実際に行ってみたところ、要するにテーブルはあっても、
作る人がいないのだと思われました。

延々と続く階段を三階まで上っていくと、ドアを開けた途端、そこに
寿司カウンター(決して誰も座らない)が出現します。

あれっと思ったのは、そこにいた職人からなんの挨拶もないことでした。
見かけだけは日本人風のアジア系職人は、日本語が喋れないらしく、
「イラッシャイマセ」(ニューヨークの一風堂では金髪の店員にも言わせる)
どころか、助手らしい黒人女性と無言でこちらを眺めるのみ。

実はわたしはこの時点でかなり失望していました。



写真の右手は掘り炬燵風のテーブルですが、土足で利用します。
「掘り」の部分の掃除はどうしているんだろうとか、
土足で出入りするその座る部分はつまり地面に座っていることになるのでは、
とか、掘り炬燵ゾーンにサービスする従業員は、日本仕草のつもりか、
床に指や膝をついているけど、ここは(略)とか、色々と考えさせられました。

「書」のつもりで壁に貼られた「花鳥風月」は、日本なら
小学生高学年の部なら学校で優等賞をもらえる程度のレベルの達筆です。
っていうか、額にするのに、こんな練習用の半紙選ばないっつの。

心あるアメリカ人もこんなことをおっしゃっておられる。

私たちは日本のミニマリズムが大好きなのですが、
このスペースは完全に的外れで、アップデートが必要です。
照明が貧弱で、頭上のスポットライトは何も強調していません。



照明が当たっていないしょぼい滝、
(画面の右側にある水が流れる石段のようなもののこと)



効果のない照明に紛れてしまっている二つの壁画、



テーブルはあまり目立たない蛍光灯のある勝手口を向いていて、
(わたしが座ったのはまさにその席)
拭いたばかりでびしょびしょに濡れたテーブルに座らされたため、
さらにずさんな第一印象になりました。


日本のミニマリズムが好きな人にとってはインチキ以外の何物でもない、
これは確かにその通りですが、まあ日本人に言わせると、
この程度のインチキさはまだ許容範囲というものでしょう。

ここが料金の高い高級レストランを謳っていなければの話ですが。

ウェイトレスはなぜか全員がアフリカ系の女性でした。
カウンター内の助手もアフリカ系でしたが、ここは西海岸と違って
日本人風味のアジア系のウェイトレスは調達しにくいのかもしれません。

しかし、彼女のサービスはフレンドリーで丁寧で、
説明もちゃんとしており、悪いものではありませんでした。

問題は料理の内容そのものです。
って、レストランでこれに問題があればその時点でもうダメなんですが。

ここはピッツバーグで最高の日本食レストランとして宣伝されています。
しかし、先週の金曜日の夜、私たちの体験はひどいものでした。

料理は最悪で、満足感がなく、値段も高く、せいぜい平均的なものでした!!!

このレストランはおまかせの7コースか11コースしかなく、
ニューヨークのNobuより高いし、とてもがっかりしました。


ふざけたことに、ここは夕食しかやっておらず、
しかもチョイスできるのは「OMAKASE」のみ。
オーダーを聞いてその都度一皿作る、ということをできる料理人が
おそらくはいないのだと後からわたしは確信しました。

この人が言っている「7コース」「11コース」は皿数のことです。



こんなこともあろうかと、わたしはいつになく熱心に
皿の写真を全部撮ってきました。
写真がどう加工しても暗いのは、店内の異様な暗さのせいです。

これがその一皿目なのですが、まず、上に載っているものはともかく、
それが白くて丸い洋皿に乗ってきたのに猛烈な違和感を覚えました。

高級日本料理を自称するなら、器にもう少し気を使わないか?
こんな皿で出された日には、海原雄山でなくとも味見前にブチギレ確実だ。

皿の上は、なんか忘れましたが魚の身をツミレにしたものに、
甘いソースがかかっているもので、特に感銘も受けず。

いや、でも、最初の一皿くらいはね?前菜だし。



ところが2皿目、魚の切り身に同じようなソースをかけたものが
全く同じお皿で出てきて、あれっと思いました。

ま、まあ、これもまだ前菜ということなのかも。

写真は拡大していますが、切り身の大きさは寿司に乗っているのと同じくらい。



三皿目、今度はサワラの味噌焼き的なものが出てきましたが、
これにかかっているソースもほとんど同じもの。

ここで嫌な予感が萌してきました。

まさかとは思うけど、ずっとこんな感じなの?
お皿も白い丸皿のままだし・・・。

さて、この辺でアメリカ人の意見を聞いてみましょう。

「7品とも魚が同じに見えました。
真っ白な皿に紙のように薄い切り身、野菜は一つもありません。
海草のサラダ、緑の野菜のスチーム、野菜の天ぷらはどうでしょうか?」

客にメニューの提案をされてるし。

「シェフはベストを尽くしていますが、味はお互いを引き立たせておらず、
すべてのソースは嫌な甘さです。

11品のコースのうち7品が2ピースの小さな刺身でしたが、
どれも同じような味で、独自性、味、創造性が欠けています」


全くその通り。
日本料理に砂糖を使うという噂を間に受けて、
どのソースにも甘みをつけてしまったって感じです。

わたしたちは行く前に次の中国系らしい人の感想を読んでいたのですが、
店を出てから、その人の意見に100%賛同していました。

「11品のおまかせコースが進むにつれ、
失望という言葉では言い表せないような感覚に陥りました。


コースのほとんどが魚の薄切りで
甘すぎる醤油ソースは魚の味を消してしまっている」

提供されたわさびは本物の生わさびではない。
本物のわさびは、まろやかな味とほのかな甘みがあるが、
偽物のわさびは非常に強く、甘みはない。
135ドルのおまかせコース(11品コース)で、
新鮮な食材を提供すると言っているのに、これは全く納得がいかない」

「ウニもない」

全くその通り。もはやこの意見はわたしのものではないかみたいな。
わたしたちは後からこう言い合いました。

「あの中国人の意見そのまんまだったね」

「きっとあの人は孔子様の生まれ変わりだったに違いないだ」

そしてこの「孔子の生まれ変わり」の意見のうちで、
一番参考になったのがこの情報でした。

「白マグロ(エスカラール)が出てきた。
油分が多く、たくさん食べると下痢になるため、日本では違法な魚である」



英語ではホワイトツナなので、なんの問題もなさそうですが、
日本語の「アブラソコムツ」のことです。

アブラソコムツの恐怖

日本では幼稚園での集団食中毒?が起きたこともあり、
法律的に売ってはいけない魚として指定されているものが、堂々と。

脂が多いため、危険とされているこのアブラソコムツですが、
毒というわけではないので大量に食べなければ大丈夫。

というわけで、アメリカでは禁じられていません。
しかし、ロスアンゼルスの多数の韓国系寿司屋でこれを偽装して出し、
弁護士事務所から巨額の賠償を請求されたという事件もあったそうです。

孔子様のおっしゃった通り、前菜の最後にこれが出てきたので、
わたしは一切れだけ食べてパスしました。

問題は、この「外道魚」を出す店がいやしくも一流店を気取っていることです。

あーだんだん腹たってきた。

そして、6皿目までがこの白い洋皿の連続だったことで、
呆れ返ったわたしたちは、

「まさかこのまま最後まで行かないよね」

「最後にお寿司が出るよね」

「大丈夫、カウンターでおじさんがお寿司作ってるのが見える」

「11品コースだけ寿司が出ますだったらどうする?」

「もうその時にはテーブルひっくり返して帰る」

とヒソヒソ言い合っていました。


そして初めて白い丸皿以外で出てきた最後の希望、いや最後の一皿。
寿司の上にトマトのトッピング(笑)

寿司の大きさだけは一流っぽく小さくまとまっていましたが、
これは単に材料をケチるための握り方でしょう。

すし飯はいつ炊いたのか冷たくて硬く、粒が感じられる舌触りで、
日本では決してやらないトッピングは、味を誤魔化すため。

「トッピングに溺れ、魚の味をほとんど感じることができませんでした。
魚の寿司でないことを事前に言ってほしかった」


しかもサーモンの握りにはクリームチーズが。

「この夜一番がっかりしたのは、クリームチーズ入りサーモンの握りだろう。
立派な「おまかせ」料理でありながら

クリームチーズの入った握りを出したところは初めて見た気がします」

「握りにクリームチーズ?がっかりです :( 」

それより何より、お高いコースなのにたったこれだけで終了!というのに、
わたしたちはもうほぼ茫然としてしまいました。

おそらく出された全品は全部かき集めても一皿に軽く乗るくらいしかなく、
最後の寿司以外は全部白い丸皿に乗ったカルパッチョ的前菜。

まさにふざけんなでございます。



かろうじてマシだったのはこの偽寿司風デザートでした。
巻き寿司のようなピスタチオをかけたチョコファッジ、
醤油のようなチョコソース、そしてワサビのようなクリーム、
ガリそっくりのマスクメロンの薄切り。

これはアイデアとして面白いし、楽しい話題にもなります。


このコースが一人100ドルでなければ、もう少し寛容になれたでしょうけど。

それでは最後に、この店に対するアメリカ人たちの罵詈雑言をどうぞ。

「シェフは、美味しくない魚や料理の失敗作でこの値段を取る前に、
ロサンゼルスやニューヨーク、デンバーなどの
素晴らしい日本食レストランを経験するべきだ」

「ピッツバーグには選べる日本食レストランが限られているので、
非常に高価で質の悪い寿司と日本食しか知らない客は
こんなところでも満足してしまうのでしょう」

「しかし、本当にがっかりしたのはその量です。
3コースとデザートをいただきましたが、お腹が空いたまま帰りました。
夕食後、そのままブリトーを食べに行きました。
前菜が全部で2オンスの生魚で構成されていたので笑ってしまった」

「お金を貯めて、もっといいところで本物の寿司を食べましょう」

「Gi-jinの方が断然価値があるし、美味しいです」


最後の「GI-JIN」とは、ピッツバーグのもう一つの有名高級寿司店です。

この意見は、孔子の生まれ変わりさんのものだったので、
わたしたちはピッツバーグを去る前に、この店(Gi-jinは漢字で外人と書く。
日本人にとっての外人がやっている寿司屋であると標榜しているらしい)
に予約を入れ、行ってみることにしました。

美味しくてもそうでなくても、またとんでもなら尚のこと、
ここで紹介するネタとなってくれることを祈りつつ。






ピッツバーグ到着〜ペットフレンドリーなAirbnbとK-9

2022-07-27 | アメリカ


ナイアガラ観光の後ピッツバーグに到着したというところまで来ましたが、
その前に、バッファローで起こったあるLGBTQ案件についてです。


■ボブ・アップリンジャー逮捕の地


それは、バッファローウィングスの店を探し求めて、
バッファロー周辺を彷徨っていた時のことでした。

検討していた中に、バッファローの古いホテル、
ホテル・レノックスのレストランがあったのですが、
ホテルのロビーに入ってみたら人がおらず、レストランも
どう見ても営業しているように見えなかったので諦めました。



ホテルの向かいに、歴史的遺跡を表す立て札があったので、
とりあえず写真を撮って車に乗りました。



ボブ・アップリンジャー逮捕の地、とだけ読めたので、
そういえばデリンジャーという有名な銀行強盗がいたなーと思い出し、
「アップ」と「デ」が違うだけのリンジャー系強盗か?
などと考えながら車を走らせ、それっきり忘れていたのですが、
写真を整理していて、これを読んだところ、


ボブ・アップリンジャーなる人は強盗でも泥棒でもなく、
今の基準では犯罪すら犯していなかったことが判明しました。

とりあえず翻訳しておきます。

「1981年8月7日、(最近じゃないですか)この近くで、
ボブ・アップリンジャー(1951−1988)は、
ゲイの男性を装った覆面警察官に逮捕され、
逸脱した性的活動に従事したという罪『浮浪罪』で起訴され、
有罪判決を受けました。

1980年にニューヨーク州で同性パートナー間の合意に基づく
性行為が合法化された後、警察はLGBTQの人々を迫害するために、
この『浮浪罪』(loitering)と『勧誘法』(Solicitation laws)を
使用し始めました。

1983年、バッファローの弁護士、ウィリアム・ガードナーを弁護人とする
原告の訴えによって、ニューヨーク州控訴裁判所が

『浮浪法』の適用を違憲であるという判決を下し、
アップリンジャーは有罪判決の却下を勝ち取ることができました。

1984年、アメリカ最高裁判所はエリー郡地方検事による上告を却下し、
その判決は支持されることになります。

これは、ゲイの人々を逮捕するためのニューヨーク州法を
(それは成人間の合意に基づく性行為そのものを利用するものだった)
効果的に打ち破る結果になった最後のケースとなり、これによって
国内法の基礎が築かれ、将来の『自由』が確保される結果となりました」


ロバート・アップリンジャーが逮捕された時の指紋付き調書

それで向かいのレノックスホテルの旗掲揚竿に、
いわゆる6色レインボーフラッグ(LGBTQを表す)が揚がってたのね・・。

彼が最初にゲイ捜査官に逮捕されたのは18歳の高校生の時。
この写真は、30歳になったときで、彼は相手の男性に警官かどうか尋ね、
違うと言ったので誘いをかけた途端、手錠をかけられたということです。

まあ、おとり捜査官に警官かどうか聞いても本当のことは言わんだろうな。
(というか、この警官がどんな容姿だったのか興味あるな)

彼とその弁護士がこの逮捕に対する無罪を勝ち取ったのは、
LGBTQのコミュニティにとって、大きな第一歩になったということから、
そのコミュニティの主導によって、看板が立つことになったようです。

ところで、アップリンジャー(アップリン”ガー”かも)氏、
わずか37歳で亡くなっていて、これはもしや・・・?と思って調べたら、
やはりその死因はエイズだったということです。
しかも彼は死ぬ二週間前まで自分がエイズであることを知らなかったとか。




■ Airbnbにチェックイン

そもそもわたしがこの夏アメリカに来たメインの理由というのは、
MKの引っ越しの荷造りなどを手伝うことにあります。

9月から西海岸の大学院に進学が決まっている彼ですが、
8月20日までの間、地元のIT系企業でインターンシップをしているため、
この夏は帰国せず、直接引っ越しをすることになりました。

今のアパートは7月末で全員が追い出されるというシステムなので、
(入居を継続しない人は全員同じ日に退去する)
わたしたちが借りたAirbnbにしばらく同居する予定です。

そこからU-HAUL(ユーホール)という引っ越し&トラックレンタル会社の
コンテナに何日かかけて荷物を積み込み、(その間預かってもらえる)
一家全員で西海岸に移動してから向こうで荷物を受け取るというわけ。

ピッツバーグのIT系のベンチャー企業は、多くが
ローレンスヴィルという川沿いの地域に集中しているらしいのですが、
彼のインターンシップ先もそこの一つであることから、
その会社から歩いて5分くらいのところのAirbnbの部屋を決めました。

条件は、ベッドが三つあること、部屋が階下と階上に分かれていること、
洗濯機と乾燥機があってもちろんフルキッチン完備、バスタブ付き、
(案外アメリカの家にはシャワーしかない家が多い)
そして夏の暑い時期なのでエアコンが付いていること、
そして一番大事なのは、料金が高くない(ホテルより安い)こと。



そして決まった部屋は、バトラー・ストリートという、
ピッツバーグでも屈指の賑やかな飲食店街のど真ん中にあります。

ドアを開けるといきなり二階に登る階段があって、そこには
リビングルーム、ダイニングルーム、キッチン、バスルームがあり、
テレビはもちろんYouTubeやNetflix、Huluなど、ネットTVが見られます。
手前のソファは大きなベッドになる仕組み。



洗濯乾燥機が無料で毎日使いたいだけ使え、しかも
こんな便利なところにあるのはありがたいです。

ホテルだとクォーターで一回あたり洗濯乾燥に20枚くらい使ってしまうし、
待ち時間はどこにも行けないので地味にストレスなのです。



キッチンには食器も鍋釜も揃っていましたが、残念ながら
テフロンが剥げた状態のものがほとんどだったので、
ちょっとした安い食器や扇風機(29ドル)と共に買い足しました。

こんな時にありがたいのが、「ターゲット」などの大型スーパーです。
家電、食器、文具、衣類(これが馬鹿にできない品質)
小物に食品、ドラッグストアにあるもの全て、とにかくなんでも
広いワンフロアーで揃うので、新生活を始める大学生の家族が
8月の終わりにもなるとレジに長蛇の列を作ることになります。


オーナーはアメコミ好き。
さりげなく文字を隠しているあたりが版権対策か。

「これSPIDERMON、HIINK、GREAT AMECA、IRON MOONですけど?」


バスルームは一つしかありませんが、広いので満足です。
奥のドアを開けると・・・・



外に出られる階段でした。

一度だけ降りてみましたが、階段は埃だらけで床材が軋み、
「デスパレートな妻たち」の、怪しい黒人一家の地下室に行こうとして
階段を踏み抜いてそのまま胸まで落ちて死んでしまった人を思い出し、
(ニッチな感想です)怖くなったので、一度でやめました。

ちなみに外と言っても隣のカフェがバルコニー席として使っていて、
もし客がいるときにここから人が現れたら、
確実に「誰?」みたいな目で見られるであろうことが予想されました。

アメリカの家って、境界線が時々よくわからない部分があります。
(たいていの家には庭に塀もつけてなかったりするし)



階段の右手のドアはルーフトップになっています。
ここで星空を見ながらビールでも飲んでください、みたいな場所でしょう。

そして案の定、緑の偽芝生の向こうは、他人の家の屋上なんですよね。
これって、屋根から人のうちに侵入できるってことでもあり、
逆もまた真なりで誰か入ってくる可能性もあるってことです。

戸締まりはしっかりと。



寝室は階段を上っていった三階に二つあります。



一番広い部屋にはクローゼットがあるので、当然のように
わたしがここを使っています。
ベッドの上にかかっている絵は、女の人の目が怖いので、
外してタンスの後ろに隠してやりました。



ちなみにここはペットフレンドリーを謳っていて、
二つの寝室の裏側に、天井の低い(けれどやたら広い)スペースがあります。



そこにはペット用のベッドと水飲みボウルが置いてありました。
愛犬の就寝場所として使ってくださいというわけです。



元々は屋根裏の物置部屋としてシーズンオフのものを収納する場所でしょう。
右の廊下の境には、ペット用のラッチ付き簡易ドアが設置されています。

■犬用アイスクリームとK-9



そして、バトラーストリートの向かいにペットトリマーの店があります。
お店の名前はSalty Paws(塩辛い肉球)。
ペット連れがこのAirbnbに泊まると、綺麗にするのも簡単というわけ。

ちなみに窓の横の犬は犬用アイスクリームを食べています。
この店はペンシルバニアで初めて「ドギーアイスクリーム」を扱った店です。

ちなみに、ドギー・アイスクリームって何?と思ったので、
ちょっと調べてみました。

たとえば、

「ピーナッツバター・バナナアイスクリーム」の作り方と説明

市販の犬用アイスクリーム「フロスティポーズ」に匹敵するおいしさで、
難しい名前の原材料は一切使用していません。
冷凍バナナにピーナッツバターと少量のヨーグルトをブレンドし、
クリーミーでタンパク質が豊富なおやつを作りました。
完熟バナナは甘く、ピーナッツバターはたんぱく質をたっぷり含んでいます。

乳糖不耐症の愛犬には、ヨーグルトをココナッツバターに変えてみましょう。

ヨーグルトの代わりに、ココナッツヨーグルトや
ココナッツミルクを加えてもよいでしょう。

夏休みのお祝いに、暑さを乗り切るために、
あるいはただ愛犬を甘やかすために、
ピーナッツバターバナナアイスクリームは
これ以上ないほど簡単でおいしいアイスクリームです。

このヘルシーなお菓子は、人が食べても同じようにおいしいです。
倍の量を作って、家族みんなで食べてみてください。

犬用ピーナッツバターバナナアイスクリーム

このアイスクリームを食べると、愛犬はバナナに夢中になります。

作者 キキ・ケイン
準備時間: 5分
調理時間: 4時間
合計時間: 4時間5分
収量:1カップ1倍

スケール
材料

バナナ1本
ピーナッツバター 大さじ2
プレーンヨーグルト 大さじ2
(お好みで無脂肪またはココナッツミルクなどの乳製品をお使いください)

材料

ブレンダーまたはフードプロセッサー

作り方

熟したバナナをさいの目に切り、4時間以上冷凍する。
フードプロセッサーに冷凍バナナ、ピーナッツバター、ヨーグルトを入れ、
なめらかになるまで撹拌する。
固まるまで再び凍らせてスクープにするか、犬用のクッキーを散らしたり、
フルーツをたっぷり添えてすぐにお召し上がりください。

愛犬はきっとあなたに感謝するでしょう。


いや、あの・・・これって、
人間用のアイスクリームと何が違うんですか?

市販のアイスだと添加物とかが入っていて犬に良くないから?
アメリカ人って、自分のためアイスの手作りなんかしたことなくても、
犬のためなら頑張ってやってしまう人がいるのか・・・。



ここに来て最初の週末のことです。
朝早くからこの通りにパトカーが現れ、路駐していました。



「塩からい肉球」トリマーショップの前に停まった車には
バックウィンドウに『K-9』と書いてあるではないですか。

なんと、この日、K-9がトリムしてもらいに来ていたのです。
もしかしたら犯人逮捕のご褒美にドギーアイスも食べさせてもらった?

人だかりがしてその中心に犬が見えたので、わたしが道の反対側から
上の写真を撮りながら見ていたら、お巡りさんの一人がそれに気づいて、

「そんなところから撮ってないで、ほら、こっちで撮りな!」

みたいに手招きするではありませんか。

えー、と思って通過する車を待とうとしていたら、お巡りさんったら、
車をまるで歌舞伎の役者のような仕草で止め、渡らせてくれました。
(どうみても職権濫用です本当にありがとうございます)



Port Authority Policeと書かれたハーネスをしていますが、これは、
「港湾局警察」の意味で、ペンシルバニア州アレゲニー郡の法執行機関、
かつ交通警察機関(つまり警察)の正式な名称となります。

軍用犬について書いたとき、軍用犬はそのように訓練されているので、
下手に撫でようとしたらハンドラーの敵だと認識して襲ってくることもある、
とどこかで読んだのですが、少なくとも警察組織のK-9に関しては
全くそのようなことはなく、市民になでられて尻尾を振っております。


こちらのレトリーバー?のZANE(ゼイン)君はトリムしてもらったかも。
彼も皆に頭を撫でられてじっとしています。
嬉しくもないが別に迷惑でもない、といった様子。



リーシュを持っているのがハンドラーで、そのよこは
K-9のシャンプーを先導してきた警察官のように見えました。


港湾警察の皆さんも、K-9が市民に親しまれることは
大変ウェルカムの様子で、しばらく「Kー9展示会」みたいになってます。

そこに一般市民がシェパードを散歩させて通りかかりました。
見ていると、K-9くんの方はシェパードと彼の咥えているぬいぐるみに
どうやら興味津々で、尻尾をブンブン振りながら近づこうとします。



次の瞬間ハンドラーのお兄さんが眉間のところを指で指す動作をすると、
ぴたりと立ち止まってその場から動きませんでした。

シェパードの方はちょっとK-9が怖いらしく、尻尾を垂らして、
反対側に行きたそうにしているという犬模様が展開されていました。

それから、今回ポートオーソリティのK-9で検索していて、
このような記事が見つかったので挙げておきます。

     Local News                      

Port Authority Police Mourning The Loss Of K9 Officer Arko
ローカルニュース
港湾警察はK9アルコ巡査の逝去を悼む


「このような事態を受け、港湾局はディピッパ中尉とその家族に対し、
アルコが亡くなったことに哀悼の意を表しています。」

アルコ巡査(Officer Arco)というのがK9のことです。
2歳の時に職務に就き、10年間勤務して12歳で亡くなりました。
殉職とかではないようですが、現役での逝去ということで、
ニュースにもなったということでしょう。(-人-)

オフィサー・アルコの在りし日の姿



そうかと思えばソルティパウの並びには、
「ファットキャット・チョコレート」なる店が入った「マーケット」があり、
その中にはLGBTQな彼女的彼がウェイトレス?をやっている
「オリバーズ・ドーナツ」という猫的な店もあります。

ウェイトレスの彼に聞いてみたところ、オリバーはオーナーの猫だそうで、
三毛猫のほとんどは雌なのに、なぜ男性の名前なのか、
これは従業員たちのLGBTQと何か関係あるトリッキーなネーミングなのか、
とどうでもいいことをつい考えさせられてしまいました。

バトラーストリート沿いは、ITのベンチャー企業が多く集うところですが、
昔から芸術家が居住する地域であることでも知られているそうです。

芸術家とLGBTQと犬猫、なんだか親和性がある気がします。
ついでに、猫とリベラル思想の親和性も高いというか。
冒頭の、いつも朝通ると窓ガラスに取り付けたベッドで寝ている
ロシアンブルーの横には、今アメリカで話題となっている堕胎禁止令について

「アボーションは女性の権利」

と書いた張り紙が内側から貼られているのでした。




霧の乙女「ニコラ・テスラ」号〜ナイアガラフォールズ

2022-07-25 | アメリカ


この日は最終目的地のピッツバーグに到着して、
夏の前半の住処となるAirbnbにチェックインする予定があり、
ナイアガラ観光は前回MKと来た時のように、展望台から滝を眺めて
それでおしまいにしようと思っていました。

前回は冬、さらにコロナ禍のため展望台はオープンしていましたが
無料で、人もまばらでしたが、今回は観光客が帰ってきて、
ここでのメインイベントとしてほとんど皆が観光船に乗っています。



展望台だけの料金と乗船料込みの二種類のチケットがありましたが、
TOが省略して「ツーアダルト、デッキオンリー」と言ったのを、
窓口の人は、皆が乗船券を買うのが当たり前すぎて後半聞き逃したのか、
大人二人分の乗船券が来てしまいました。

「あ・・・乗船券買ったことになっちゃった」

しかしわたしはこういう時にはこれも何かのお導き、
と考えることにしているので、観光船に乗ることを主張しました。


アメリカ側から乗る滝巡り観光船は、この「青い船」。

青いてるてる坊主の集団の中に紅一点が見えますが、
これは船のクルーで、おそらく非常時のための配置だと思われます。



チケット売り場の後は、展望台デッキに順番の列を作って並びます。
ここからは今から船で巡るアメリカ滝とカナダ滝が上から見渡せます。



最近のiPhoneの写真は普通によく撮れるので、
ブログの写真くらいならこれで十分ですが、さすがに
これほどの望遠機能は一眼レフにしか望めません。


下手したら誰かわかるレベル。



展望デッキは、このエレベーター塔に突き刺さったような
なかなか斬新なデザインの建造物です。
20年前来た時にはなかったような気がします。

乗船客は順番に3基のエレベーターに乗って下に降り、
さらにそこから通路で階段を降りて行って乗船します。



進んでいくと、途中のテント内を通過する時、
飛沫避けのブルーのフード付きコートを渡されます。

大きさはフリーサイズなので、アメリカ人の巨漢のおじさんも、
小柄な女性も、皆が等しく同じコートに身を包むことになります。



わたしたちの前は、インド人の家族連れでしたが、
お婆ちゃんはギリギリまで車椅子で、そこから先は
手すりにつかまりながらやっとのことで歩行していました。

こんな状態でも遊覧船に乗るんだ、とちょっと感動しました。

見ていると、足腰が不自由なお年寄りが結構たくさん乗っているのです。
前の家族は、お婆ちゃんを気遣いながら、列に並んでいる間も
何枚も何枚もお婆ちゃんと一緒の記念写真を撮っていましたが、
息子さんはこれが最後の親孝行のつもりだったかもしれません。

そういえばTOも、義母がまだ元気な頃、母息子二人で
母が兼ねてから一度行きたいと言っていたスイス旅行を敢行したことがあり、
義母は帰ってきてから、写真を知り合いに見せまくって

「よくお嫁さんが許したねと周りの同年代に羨ましがられた」

と嬉しそうに言っていたのを思い出しました。

ちなみにこの観光船ですが、アメリカは、ハンディキャップの人に対応する
施設の設備が法律で厳しく定められているため、
全く歩行ができない状態の人でも乗船が可能となっているはずです。


観光船「Maid of the Mist」(霧の乙女)は
夏のシーズンには15分ごとに出発して滝の下を回遊します。

乗客は白いテントの部分で飛沫よけコートをもらいます。



なにしろ15分に一回の出発ですから、乗船が行われている時に
次の船がもう後ろに来てUターンして向きを変えて待機しています。



乗船が始まると、「砂被り」ならぬ「飛沫被り席」を取るために、
デッキを走っていく人たちもいました。

どっちのどの場所にいても、滝の景色はそれなりに同じように見えるし、
どこにいてもびしょびしょに濡れるのは避けられないので、
決して場所取りの必要はないと乗ってみればわかるのですが。



チケットを買ってから約20分ほどで乗船したでしょうか。

その時アナウンスが、この船は「ニコラ・テスラ号」であると言いました。

その時、恥ずかしながらナイアガラの滝とニコラ・テスラの関係を
全く知らなかったわたしは、なぜテスラ?と思ったものです。

しかし、後から周りに聞いてみると、この事実を知らない人は多いのです。
ナイアガラに3回行っているMKですら、わたしがこのことを話すと
初めて聞いたらしく、えらく驚いていたくらいですから。

ちなみに、もう一隻の船は「ジェームズ・V・グリン」(James V. Glynn)
(ジョージ・ウェスティングハウスじゃないんだ・・)。

調べてみると、この観光船が登場したのはごく最近のことでした。

そういえば20年前に来た時も確か滝巡りの船に乗りましたが、
その時に乗ったのは、ごく普通の仕様のボートだった気がします。


この最新式の全電動式遊覧船を作ったのは、ツァーボート会社
「メイド・オブ・ザ・ミスト」社長のクリストファー・グリンという人物で、
グリン社長は、ナイアガラとニコラ・テスラの関係に
完全な電気式フェリーにこだわり、アメリカ初の新造電気旅客船を
2018年の10月に二隻就航させました。

その一隻がわたしが今回乗った「ニコラ・テスラ」、
そしてもう一隻が「ジェームス・V・グリン」。

「ジェームズ・V」はおそらくグリン社長の関係者でしょう。

注目すべきは、この船がハイブリッドではなく全電気式であること。
つまり、ディーゼルエンジンにつきものの排気ガスや
エンジン音、振動なしで最大600人の乗客を乗せることができるのです。
環境への配慮に加え、その製造方法も非常にユニークです。

アルミニウム製双胴船、全長は90.5フィート。
 Propulsion Data Services社が設計し、
ウィスコンシン州マニトウォックのBurger Boat Company
モジュールに組み立てられました。

各セクションはトラックで運ばれ、クレーンで峡谷に降ろされた後、
「メイド・オブ・ザ・ミスト」社の施設内で組み立てられ、艤装されました。

グリン社長によると、

「峡谷でボートを組み立てるのが、いかに困難であったかは、
いくら強調してもしすぎることはありません」



そして「ニコラ・テスラ」号は乗船が終わると
乗客を全く待たせることなく、いつの間にか静かに出港していました。


まずアメリカンフォールの前を通過していきます。
落下した滝水は滝壺ではなく岩場に打ち付けられるので、
噴き上がる水煙はまるで霧のようになって一面に噴霧されます。



その水量は猛烈で、船で通過しただけでびしょびしょになるくらいですが、
その中を悠々とカモメが飛んでいました。



カナダの遊覧船も「霧の乙女」とシェイプがそっくりなので、
もしかしたら同じ機構を持つ「姉妹船」かもしれません。



カナダ船とすれ違う時、互いの乗客が手を振り合って挨拶を交わします。



その時にはこれがニコラ・テスラの作った発電所だとは知りもせず、
「ニコラ・テスラ」という名前の船に乗っていたわたしでした。


「ニコラ・テスラ」号は、カナディアン・フォールの霧の中に突入。
15分間のクルーズの、これがメインイベントとなります。

と、ふと湖面を見ると、結構水鳥がたくさんいたりしてびっくりです。



赤いジャケットの監視員は、万が一、乗客が水に落ちたりしたら
すぐさま対処するために乗っているのだと思われます。
まさか飛び込んで助けることはないでしょうが、浮き輪を投げたり、
ボートに連絡を取ったりするマニュアルがあるに違いありません。

乗客がはしゃぐ中、船内を監視しているのか不動の監視員。
いくら夏の暑い時とはいえ、一日水を浴び続けてれば、
その心中は水行を行う修行僧のように「無」の境地かもしれません。


カ、カメラのレンズに水滴がああ〜〜〜〜



この乗船ツァーに参加すると、自動的に膝から下はびしょびしょです。
それを見越してか、誰一人長いズボンなどを履いていません。

船のデッキには飛沫の作り出す虹が・・・。



しかし、皆、キャーキャー言いながら水に濡れるのを楽しんでいます。
この画面に写っている客の中からは、日本語が聞こえていました。



ちゃんとスマホを防水のパウチに入れてきた用意周到な人たち。


友達のカメラで友達を撮ってやる人。
左の人はこんな船の上で誰と電話しているのでしょうか。



カナダ滝の真前に来ると、「ニコラ・テスラ号」は、
その場所でぐるぐると回転を始めました。
どこに乗っていても見える光景は同じとはこういうわけです。


カナダ滝の前でのぐるぐる回転が終わると、
船は一目散という感じで帰路に着きます。



ここで初めて、カナダ側の乗船場の列は、斜面の上から始まっており、
ケーブルカーで乗り場まで移動させられることがわかりました。


15分のマーヴェラスな体験を終えて船着場に戻った時には、
「なんとか・グリン号」が既に出港しておりました。


着岸する船に白い手のひらを見せてお迎えしてくれるのが、
このアフリカ系のいかにも陽気そうなお兄ちゃんです。
出航の時も浮き輪を振ってお見送りしてくれました。


船を降りてもほとんどの人はコートを脱がず、そのまま
滝の真横から飛沫を浴びる体験をするために階段を上がっていきます。



ろくに整備されていない(でも手すりはついている)
びしょびしょの石段を黙々と登る人々。



左の突き当たりが一番高いところなので、皆真っ直ぐここまでのぼり、
写真を撮って降りてくるのです。



上のスペースはご覧の通り狭く、20人くらいしか立てませんが、
誰も長居せず、写真を撮ったらとっとと降りるので無問題。


わたしも途中まで登ってみたのですが、いかんせんカメラが重く、
そしてまさかこんなことになると思っていなかったので、
(ビーサン主流の周りのアメリカ人とは違い)足首までのパンツと
革製のスニーカーという装備があまりに場違いというか、とにかく
色々と濡れすぎて途中で嫌になったのでやめて帰ってきました。


この通路を「Crow's Nest(カラスの巣)」と言います。
もちろんオープンするのは夏のシーズンだけです。


というわけで、ナイアガラ観光は終わりました。
ここからは帰り道で見つけた昔のナイアガラの写真を挙げます。



上空から見た昔のナイアガラの姿ですが、カナダ滝もアメリカ滝も、
ゴート島によって分たれた、元は一つの流れであるのがわかります。

「あなたは今『アッパーラピッズ』に立っています。
ここでは約1万2千年前、氷河が北に後退し、現在と違う姿でした。
時間の経過とともに地形は何度も姿を変え、現在は五大湖を形成しています。

ナイアガラはエリー湖からオンタリオ湖に流れ、
その後セントローレンス川を通って大西洋に流れていきます。

ナイアガラという名前の由来は先住民族の言語からきています。
『水の雷』を意味するという説、『首』『真っ直ぐな』を意味する
イロコイ族の言葉などからきているという説が混在します」



アッパーラピッズの土手に並ぶ普通の建造物の姿。1878年頃。


これも同じ頃。
写真の左手がゴートアイランドで、アメリカ滝のすぐ横、
今テラスのようになっているところは、当時こんなのんびりした場所でした。



今ではどうだかわかりませんが、流れが凍る時もあったそうです。
1909年、凍った流れの上を人が歩ける状態になっています。



おそらく同じ場所。


さて、この後我々はバッファローウィングスのリベンジを果たし、
3時間以上運転してピッツバーグに到着しました。

シカゴから始まった艦艇見学の5州(ウェストバージニアも入れると6州)
駆け足の旅は、こうして無事に終了したのでした。


続く。






ナイアガラフォールズとニコラ・テスラの関係

2022-07-23 | 歴史

gooブログの〇〇機能のせいで、せっかく仕上げた記事が
ほとんど全て記憶されておらず、ゼロからやり直す羽目になりました。
こういう時には本当にやる気がなくなるのですが、頑張ります。
(独り言です)

さて、空前絶後に不味かったバッファローウィングスの夜から一晩空け、
次の日、後述するナイアガラフォールズ観光を済ませてから、
わたしたちは懲りずに美味しいバッファローウィングスを求めて
ナイアガラからもう一度ホテルのあった市街に戻ってきました。

昨日のあれをバッファローでの最後のウィングスにしてしまったら、
もうバッファローウィングスの存在そのものを嫌いになりかねない、
とTOが言うもので、(わたしはそうは思いませんでしたが)
今一度、バッファローにチャンスを与えることにしたのです。

って何様だよ。
というか、どれだけバッファローウィングス好きなのわたしたち。



ナイアガラの滝近くから、ピッツバーグに戻る道ぞいにある
目ぼしいウィングの店の情報を片っ端から検討して行った結果、
市街の飲食店が立ち並ぶ通りにあるレストランなら堅いだろう、
と店を決め行ってみたところ、何やら良さげな雰囲気の店。



ピンときて入ってみると、専門はハンバーガーで、しかもこの店は
エイジドビーフを使ったバーガーもあるというのです。

そんな店ならバッファローウィングスも普通に美味しいんじゃないかな。

店内はオールドアメリカンな感じで、壁には至るところに
LPレコードのジャケットが飾ってあって、店主の趣味がうかがえます。

ビリー・ジョエル、ジョーン・バエズ、ビートルズ、スティング、
ロッド・スチュアートにモンキーズ・・・。

写真右側に写っている3人の初老の男性たちは、ドンピシャの世代なのか
顔を巡らせてジャケットの曲について話題にしていました。

ここもオリジナルのTシャツなどを扱っているようですが、
少なくともオバマ来店の写真や新聞記事などを飾ってはいません。

日本でも有名人の色紙を壁に貼っているところって、
碌なもんじゃねえ、とまでは言いませんが、有名人が来ることと、
美味しいことは全く関係ないことだと思うんだな。



ウィングとバーガー、サラダを頼むことにしました。
サラダは果物やナッツ、ドライフルーツがたっぷりです。

このサラダもゴートチーズが当たり前のように入っていましたが、
わたしはヤギも羊も苦手なので、抜いてもらいました。



これがバッファローウィングス(本物)ですよ。
テリのある表面、食べるとチリパウダーとカイエンの刺激がピリッとして、
淡白なチキンの身を楽しく美味しいものにしてくれます。

辛くなった口を人参とセロリで少し宥め、なんならほんの少し
ドレッシングを香る程度につけると「味変」にもなります。

これですっかりわたしたちのリベンジは成立しました。

左は、おそらくアメリカで初めて食べるアヒツナバーガー。
マグロの身は「たたき風」でシアーという半生状態です。

ビーフバーガーがメインですが、ビーフが食べられない人のために、
チキンはもちろん、ダック、ひよこ豆のパテ、そして
なんとマグロのたたきのバーガーも提供しているお店でした。

その意気や良し。



さて、時間を戻して、その日の朝、我々はナイアガラフォールズの
手前にある公園の入り口の駐車場に車を停めていました。

これが今回借りているホンダのCR-Vなる4WDです。

シカゴのレンタカーでは、大都市の空港ハーツということで
膨大な数が展示されたVIP会員専用サークルから車を選べたのですが、
わたしは、こういう時には迷わずドアを片っ端から開け、
車内に首を突っ込んで、匂いを嗅いで車を選びます。

車内の匂いで車の経年が瞬時にしてわかるからです。

臭いのチェックをしながらも、車内に置かれた鍵を視認して、
インテリジェントキーかどうかを確かめるのも怠りません。

そういういわばプリミティブな方法で、今回は
走行距離1000キロも行かないほぼ新車をゲットすることができました。

HPを調べたら、WLTCモード14.2km/L(今は10モードじゃないんだ)
ということで、燃費もなかなか悪くありません。

実際、五大湖沿いを走り回っていた頃は毎日給油が必要でしたが、
街中を走るようになってからは給油は一週間に一度で済んでいます。

ただし、皆様もご存知かと思いますが、今アメリカでは物価高、
特にガソリン代が急騰していて、昨日一番安いunleadedを満タンにしたら、
なんと53ドル(日本円で7,000円くらい)かかってしまいました。

今の車の二代前、ハイオク車に乗っていたことがありますが、
円高のせいもあってそれ以上なのにちょっとびっくりです。



このナイアガラ公園の駐車場には、前回MKときた時にも停めています。

もし万が一、今後ナイアガラ観光を車で行うという方のために
何度も書いていますが、くれぐれも車は滝の近くに停めず、
地元の人が散歩に来て停めるこの無料の駐車場をご利用ください。
このロットが満車でも、もう一つ奥に無料の場所があります。

ここに車を停めるメリットは、無料であることの他に、
滝に向かって流れていくドラマチックな流れを見ながら歩いて行けること、
そして夏は鳥たちの姿が川の近くに見られることです。



さっそく変わった鳥が姿を現しました。

黒に羽の付け根だけが赤と黄色のナイキマークというこの鳥は、
Red-winged Blackbird、和名を ハゴロモガラス (羽衣烏)といい、
オスだけがこの模様でメスは茶色だそうです。



サンドパイパー=イソシギではないかと思います。

スタンダードナンバーになっている「The Shadow of Your Smile」
という曲がありまして、この曲の題は日本語で「いそしぎ」です。

Andy Williams ~ The Shadow Of Your Smile (Live)


「いそしぎ」というのは原題「Sandpiper」という、
エリザベス・テイラー主演の映画で、ヒロインのテイラーが
翼の折れたいそしぎを保護して連れて帰るというシーケンスがあります。

もっと大きな鳥だと思っていましたが、こんなに小さかったのね。



川面にコロニーを作って生活しているらしいいそしぎの集団。
この辺りはまだ流れがそう激しくないので、水鳥が多く見られます。



右側のイソシギ、首を傾げていてかわいい。



隣の草地はグースの縄張りでした。
皆しめしあわせたように川面に体を向け、くちばしは後ろに向けて。

何かあったら水に逃げるための習性でしょうか。



その横手に、なんとガチョウの保育所がありました。
本日の預かり児童は三羽、保育士さんはちゃんと子供たちを見守っています。

そういえば、イルカもペンギンもコロニーを作る動物の中には
子供だけを集めた保育所があり、面倒を見る保育士がいるらしいですね。



マザーグースが雛鳥を引率中。
雛鳥歩いてないし。



これがグースの赤ちゃん。
身体の大きさに比べて脚の比率が大きい。



しばらく(と言っても数分)歩くと川面も水鳥の姿も無くなりました。
そして川の流れがご覧のような激流になります。

しかし、人がここに落ちれば確実に命はないような場所でも、
護岸工事や柵は必要最小限しか行われていません。

日本ならガチガチにコンクリで岸を固めて柵をつけ、ご丁寧に
川の横には「危険!」「水遊び禁止」と立て札を立てるでしょう。

そんなこと言われなくてもわかっとる、と誰でも思うことを
あえて呼びかけて憚らないのが、日本の行政というものなのです。

もっとも、景観を重んじて行政の手を入れるのを住民が拒み、
その結果災害の規模が大きくなるということも実際にはあるので、
一概にそれが悪だとはいいませんが、まあ少なくとも観光資源に対しては
極力手をつけないで自然のままに残す方向でお願いしたいものです。





ただし、夜になるとこの激流をライトアップするために
実にたくさんの投光器が岸に取り付けられています。



ライトアップといえば、これはMKが冬友達とカナダに行った時の写真。



時間ごとに色が変わっていくそうです。



絶対カナダ側から見る方がいいですよね。



というわけでアメリカ滝の横にたどり着きました。
いつ見てもこの凄まじい眺めには心を掴まれるような気がします。

ここからは向こうにカナディアンフォールというカナダ側の滝が見えます。



滝つぼから巻き上がる水滴が虹のアーチをかけ、
そのアーチの下を滝巡りの遊覧船が通過していきます。



赤い遊覧船は、向こう岸のカナダから出ています。
カナダの国旗の色から赤い船に赤い水滴よけコートというわけです。

見たところ観光客は圧倒的にアメリカ側の方が多く、
遊覧船の待ち時間もカナダはアメリカの5分の1くらいのようでした。

滝の眺めもカナダ側からの方がいいらしいし、
一度はカナダからナイアガラを見ておくべきだったかな・・。


前回はコロナ禍下でしたし、真冬だったので、
人影がなかったアメリカン・フォールの向こう側に人の姿が見えます。


アップしてみました。
あれ?この写真の上の方に何か銅像がありませんか?



これは、公園の入り口にあった案内図ですが、TOが指差しているところの
左側は、アメリカの「ゴート・アイランド」といいます。

さらに調べたところ、アメリカンフォールの横手には、

ニコラ・テスラのモニュメント

があるということがわかりました。
はて、なぜナイアガラの滝にテスラの像が・・・・?



そこでこれですよ。

前回人気のないナイアガラで、この写真を撮った時、当ブログでは
昔ホテルでもあったんだろうか、などと適当なことを書いたのですが、
これは廃墟などではなかったのです。


「ナイアガラパークスの発電所のトンネル体験。
100年以上前に建設され、復元された水力発電所を探検してみてください。
インタラクティブな展示、魅力的なモデルなどを発見してください」

などという言葉があり、特にこの「トンネル」から
ナイアガラを眺めるというのは、ぜひ体験してみたくなります。



今回発電所の存在に気づいたのは、この写真を拡大したら
デッキの上に黄色い制服らしきものを着た人がいて、
さらにエレベーターの装置らしきものがあることを確認したからでした。


HPによると、発電所の中にはいつでも入れ、中にはかつての
発電所の遺構がそのままの形で保存展示されて見学することができるとか。

で、この発電所なんですが、ここにニコラ・テスラが関わっていました。

かつてナイアガラフォールズにあった世界初の大規模水力発電所は、
他ならないニコラ・テスラの残した業績の一つでした。

ニコラ・テスラはジョージ・ウェスティングハウスと共に、
ナイアガラの滝に世界初の水力発電所を建設し、
世界を「電化」の第一歩に導くという偉業を成し遂げています。

この旧ナイアガラフォールズ発電所の唯一の遺構である
アダムズパワーステーション(パワーハウスNo.3)が、
そのとき建造された水力発電所の一つでした。

人類が電気というものを生活になくてはならないものとして
使い始めてからの歴史の中で大きなターニングストーンである
このアダムズパワーステーションは、国定歴史建造物に登録されており、
さらに今後、ここには科学博物館を作るという話もあるそうです。

ナイアガラの滝のアメリカ側を訪れる観光客は年間約800万人。
カナダ側には年間約2,000万人が訪れます。
(あれ?ということはカナダ側の方が多いんだ)

よく、人はナイアガラフォールズのことを、

「死ぬまでに一度は見ておくべき場所」

と呼びますが、ここにあるのは、自然が作り出した造形美のみにとどまらず、
世界を今日の「電化」に導いた歴史的遺跡でもあったのです。

ナイアガラ・フォールズの「電気的な意味」は、
テスラの生み出した多相交流電流(AC)の最終的な勝利であり、
今日、地球全体を照らし続けているのはそのシステムです。


こちらがアメリカ側のニコラ・テスラ像。
上の写真に写っているのがこちらです。



こちらは2006年に除幕された、カナダ側、
クイーン・ヴィクトリア・パークにあるテスラモニュメント。

テスラが特許を取得した700の発明の一つである、交流モーター
(交流誘導電動機、多相交流を用いて回転磁界を作る原理を元にした装置)
の上に立っています。

アメリカとカナダ、どちらにも一つづつテスラ像があるというのも、
彼の成した偉大な功績を思えば、もっともなことかと思われます。


続く。




アメリカ5州博物艦巡りの旅③〜ニューヨーク州バッファロー

2022-07-21 | アメリカ

クリーブランドはほぼエリー湖沿いにある街です。
ここで一泊したあとはエリー湖に沿うような道を北に向かって進みました。

途中で一瞬ペンシルバニア州を通過しますが、これはアメリカの州あるあるで、
ペンシルバニア州が水路(つまりこの場合エリー湖岸使用の権利)
を確保するためにほっそーく伸ばした触手の部分となります。

さらに北上したところはニューヨーク州ですが、これも同じ理論で、
つまりニューヨーク州がエリー湖岸の地権を獲得した結果です。

知らない人は、なぜこんなところにまでニューヨーク州が、と驚きますが、
州境を決定するとき、各州がそれぞれ利益を主張しあった結果、
このような一見不思議な州の形が決まっていったということなのでしょう。

■ バッファロー・ネイバル・パーク到着


エリー湖沿いのニューヨーク州の街、バッファロー。
ここのウォーターフロントにはこの地域最大のネイバルパーク、

バッファロー・アンド・エリー郡海軍・軍事公園

があります。

もしかしたら覚えておられる方もいるかもしれませんが、当ブログでは
去年の冬、お正月明けにナイアガラ参りをしてその帰りに、
ここの存在を知り、車を停めて立ち寄った時のことをお話ししています。

その時にはアメリカもCOVID19の自粛規制真っ最中だったため、
艦艇の中を見学することはできずに外側の写真だけをアップしました。

その後夏に訪れた時にもまだ自粛が続いているっぽい雰囲気だったので、
様子を見ているうちに滞在期間が過ぎてしまったのですが、
今年はMKも大学院進学で西海岸に文字通り河岸を移すことになり、
最後のチャンスなので、なんとしてもここは制覇するつもりだったのです。


アメリカのパーキング事情は年々進化していっており、最近では
アプリをダウンロードすれば携帯で支払いができ、もし出先で
追加が必要になった場合も現地に戻ることなく支払いができます。

ただし、それはアメリカに住んでいる人には便利なシステムですが、
我々のように海外から来ている旅行者は、いきなりQRコードを出されて
ダウンロードしてここで支払ってください、と言われても、
ダウンロードがうまくいかなかったりするわけです。

この時も、ダウンロードの段階で先に進めず、諦めて
駐車管理係が回ってきた時、ウィンドウに挟んでいく紙に従い、
ペナルティ付きの(といっても銀座と比べればタダのような値段)
駐車料金をネットで支払うことにしました。

アメリカの交通違反は、日本のように免許の点数制などは付随せず、
違反を切られたら料金を払いさえすれば刑事罰にもならないので、
堂々と日頃メーターにお金を入れず停め続け、運悪く違反を切られたら
それを駐車場代として支払うという主義の人もいます。

MKの友達の一人がそうらしいのですが、日本人であるわたしには
どうも気持ちが悪くてどうしてもできないことの一つです。



前回は閉店していたチケット売り場併設のシーフードレストランで
見学の前にお昼ご飯をいただくことにしました。

この日は快晴の夏日で、日差しが平気なアメリカ人たちは
外のテーブルに座るために順番待ちをしていましたが、
わたしたちは迷わず中に席を取りました。



ここバッファローは言わずと知れたバッファローウィングスの発祥の地です。

ただしウィング(アメリカ人はこう呼ぶ)の歴史は新しく、
80年代にテレビを通じて有名になったという程度のものだそうです。

赤い色はカイエンペッパーで、たいていピリリと辛く、
それをセロリと白いランチドレッシングで中和していただきます。

バッファローに着いたので、早速これを注文しました。


わたしは「ブッダボウル」なるミックスサラダ的ボウルを頼みました。
どの辺がブッダかというと、豆腐ステーキや枝豆、
アメリカ人が和風と考えるところの、スパゲティ状のメカブを
ごま油で和えたもの、生姜のガリが入っているあたりでしょう。

TOは何かのタコス風ロールを頼んでいます。


レストランの建物は、戦跡や戦争記憶を後世に残すための
各種団体や組織の活動拠点になっていると思われます。

艦艇の管理やメインテナンスもここで請け負うのでしょう。


レストランの反対側にある売店のカウンターでチケットを買うと、
手首に支払い済みの印として紙テープを巻いてくれます。

カウンターの中年の女性は、わたしが時計をしている手を差し出すと、

「反対側の手につけさせてちょうだい。
潜水艦に乗るときにバランスが取れていないといけないから」


と言って片頬で笑わせてくれました。



そしてネイバルパークの見学開始。


前回は誰もおらず、凍った雪で歩くのが大変だったこの通路も、
週末だったこともあり、全く違う顔を見せています。

右側の一角は陸軍の戦車や戦闘機などを展示していて、
中には入れませんが外から間近で機体を眺めることができます。

ネイバルパークは、全部で三隻の軍艦を「品」という漢字の形状でつなぎ、
岸壁の駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」の右舷から入って、
奥の軽巡洋艦「リトルロック」の後甲板から入って行き、それがすんだら
右舷前方から潜水艦「クローカー」に下りる、というコースで見学します。

■ 沈没した「ザ・サリヴァンズ」



「セルフガイドで見学してください」

と聞いていたので、「ザ・サリヴァンズ」に乗艦すると、そこには
ヴォランティアの解説が待っていて、見学にあたっての説明、
黄色い見学用の線に沿って進むこととか、
展示されている三隻の艦の大まかな説明をしてくれました。

「ザ・サリヴァンズ」の艦名は第三次ソロモン海戦で沈んだ
軽巡洋艦「ジュノー」に全員が乗っていたため、
全員が戦死した悲劇で知られるサリヴァン兄弟に因んでいます。

わたしはこの話を以前ここで紹介したこともあり知っていたのですが、
解説の方が次に続けた言葉に驚きました。

「実はサリヴァンズは4月に沈没してしまったのです」

沈没して全員戦死した兄弟の名前の記念艦が沈没って、なんの悪い冗談?

USS The Sullivans navy ship sinking


解説の人によると、COVID19の自粛は2月には解け、
平常に公開し始めて2ヶ月後の4月、「ザ・サリバンズ」が夜のうちに沈み、
右舷に大きく傾き、着底しているのが翌朝発見されたそうです。

すぐさま緊急修理クルーと水中ダイビングチームが
現場で破損の原因究明と救出を行った結果、裂け目は右舷の中船尾にあり、
船が後方に傾き、右に傾く原因になっていたことがわかりました。

関係者は、艦を平衡に戻すためポンプで一晩かけて水を排出し、
現在の状態に戻して「ポンツーン」としての役目を取り戻しました。

水深が浅く、沈没しても着底だけだったことで
復元がなんとか可能だったということです。

しかし、流石にまだ内部を公開するという状態には至っておらず、
従ってわたしは今回も内部を観られませんでした。


■ 軽巡「リトルロック」と潜水艦「クローカー」


軽巡洋艦USS「リトル・ロック」の展示の目玉は、なんといっても
この艦が備えていた「タロス・ミサイル」のシステムでしょう。

ミサイル発射室は、この右側の黄色い線に沿って入って見学します。

その後は甲板下の設備を下に向かって順に進み、
もう一度同じ甲板の後方に出てくるのですが、さすがネイバルパーク、
内部の展示はとても機能的でわかりやすく、充実の見学となりました。


「リトル・ロック」の舷側からは、エリー湖に続く港口を臨みます。

この日は週末ということでたくさんの人々が
湖上にボートなどで繰り出して楽しんでいました。


自家用ボートのオーナーはここぞとばかりに。



拡大してみると、ポーズをとるお子様と、
操縦しながら彼女の写真を撮るお母さんの姿がありました。



この手前の二人の立ち漕ぎボートも楽しそうです。



波がない湖上をこんなサイクルボートで散策するのもいいですね。



「リトルロック」の見学をすべて終えて甲板に上がると、
(ちなみに艦橋の公開はしていない様子だった)
眼下には潜水艦「クローカー」の甲板が見渡せます。



「リトルロック」から「クローカー」までは、
ご覧のラッタルを降りて移動します。



「クローカー」は前部発射管から後部発射館室まで隈無く見られました。
説明も多く、大変満足の見学となりました。


「リトルロック」から見える巨大国旗竿。
この時は安倍元首相に対する半旗の期間は終了していました。



前回、氷と雪で真っ白に覆われた同じ場所を、足元を取られながら歩き、
記念碑の写真を撮りながら歩いたのと同じ場所とは思えません。

今回は逆にあまりの日差しの強さに、日陰を選って歩いたほどでした。

ただ、この地域は冬寒いだけあって、日陰に入りさえすれば
凌ぎやすいというか、むしろ暑さが心地よく感じるほどです。

逆に日本の湿度の高い暑さが身体に堪えるものなのか実感しました。



前回人っ子一人いなかった通路には、アイスクリームや
氷の屋台が軒を並べていました。

それにしても、ディープフライ(油揚げ)オレオのインパクトがすごい。
フライした上にフロストシュガーまでかけてあるんですがこれは。



■ バッファロー



というわけで怒涛のネイバルパーク見学を終え、まだ夕方にならないうちに
以前もナイアガラに来た時に泊まったレジデンス・インに到着。



前回も窓から見えていたこの彫像付きの建物ですが、
今回門柱の文字を撮影してみたら、ここは
セオドア・ルーズベルトが大統領に就任した場所だとわかりました。

セオドア・ルーズベルトは、副大統領であった1901年、
ウィリアム・マッキンリー大統領が一般市民の前に姿を見せた際、
狙撃されて死亡したため急遽大統領に就任しています。

大統領射殺の報受け、ルーズベルトは休暇先から急いで戻ってきました。
(当時、”急いで”移動することは並大抵のことではありませんでした)。

ここは元々学者で弁護士の私邸だったのですが、どういういきさつか、
急遽ルーズベルトの就任式が行われることになったということです。



バッファローの歴史的に最も価値のある建造物とされており、
就任式が行われた重厚な図書館は、大勢の人々が詰めかけ、
ルーズベルトが借りたスーツで宣誓を行った時のまま保存されています。

また、就任式の混乱の最中、カメラマン同士が諍いで揉み合った末、
一人が誤ってカメラを地面に叩きつけ、レンズを粉々にしたのですが、
その場所もそのまま残されているということです。

ちなみに当のルーズベルトが騒ぎに激怒して二人を追い出したので、
この出来事を記録した写真は存在していません。



部屋は前回と同じツインで、これもダイニングテーブル付き。

このホテルの気に入っている部分は、一階のロビーと
スターバックスがつながっていて、宿泊客は10%引きしてもらえることです。


その日の晩御飯は、ホールフーズのデリでバッファローウィングスを取って
部屋で食べようということになったのですが、
行ってみるとなぜかデリのコーナーが終了していました。

アメリカでは日曜の夕食くらい従業員に家でご飯を食べさせてあげよう、
という親心?なのか、店やモールが早々に閉まってしまうことがありますが、
どうやらこの日のホールフーズもそれだったようです。

仕方がないので車で走りながらレストランを探します。
しばらくいくつかのお店をパスしながら走っていると、
バッファローウィングス専門店の看板を見つけました。

いかにも昔のダイナーのような建物で、あまりいい予感はしませんでしたが、
駐車場に異常なくらいの車が停まっているので、もしかして?
と思い、入ってみることにしました。



20分くらい待たされている間、そのウィングスの店が
オリジナルのTシャツやグッズまで作っており、しかも壁には
いろんな賞を受けた「名店」に選ばれているという記事がずらり。

もしかして、これは当たりを引いたか?



だってねー、オバマも来てるんですよ。
多分遊説のついでにルーズベルト就任の家に寄ったりして、
何かの弾みで来てしまったんじゃないかと思うんですが。



なぜか宇宙飛行士も4人来ていましたし、このほかにも
ロックバンドの「The Guess Who」(ゲスフー)が来ていたようです。

「The Who」なら知ってるけど・・。

ということで、この日曜日の夕刻、
アメリカ人が喜んでかぶりついているバッファローウィングスとは。



元々夜は二人ともあまり量を食べないので、とりあえず
ウィングとこの部分を5ピースずつ頼んでみました。

「フライはどうしますか?」

と聞かれて、いらない、と答えると、フレンチフライなしで食べるなんて
なんて変わった人なのみたいな顔をして驚かれました。

確かに周りをみると、まるで洗面器のようなボウルに山盛り入ったフライを、
(ウェイトレスがテーブルにばんと置くと3〜4本転がり落ちる)
皆当たり前のように標準装備してむしゃむしゃやっています。

しかし、要らんものは要らんのだ。

そして運ばれてきた件のバッファローウィングはというと、
はい、不味かったです。

あんまり、とか微妙、とかいうラインを突き抜けて、
はっきり言ってこんなまずいチキンは食べたことがないというレベル。

まずこの見た目ですが、バッファローウィングスじゃなくて、
ほぼ唐揚げですよね?

この唐揚げの外側が、とにかく猛烈に硬い。そして辛い。
その辛いというのも、バッファローウィングス特有のチリの辛さではなく、
とにかく塩っ辛い。精魂込めて極限まで塩を叩き込んだ味がします。

一応我慢して一つ完食しましたが、チキンの身に辿り着くまでに、
まるでゲンコツ揚げのような外側の岩塩をそのまま塗ったような
揚げ粉の部分を、あたかも「恩讐の彼方に」の洞窟掘った人みたいに
根気よく少しずつ噛み砕いて行かねばなりません。

一口食べるなり二人ともむっと押し黙り、
セロリとニンジンをポリポリポリと齧り、申し合わせたように
もう一種類のウィングスも一口トライして、同時にやめました。

そして言葉少なに感想を述べ合いました。

「辛い」

「硬い」

「不味い」


人は不味いものを食べた時、どうして惨めな気持ちになるのでしょう。

チェックを頼んだら、ウェイトレスはほとんど手付かずのウィングを見て、
何かを察したはずなのに何も言いませんでした。

それにしても不思議なのが周りのアメリカ人たちです。

確かにサンフランシスコやピッツバーグにいる人たちのような
インテリっぽい人はあまりいないようでしたし、
皆が皆判で押したように太っていましたが、
本当に皆こんなダダ辛い代物を美味しいと感じて食べているのか。
オバマも本当にここのチキンを美味しいと思ったのか。


バッファローウィングスのリベンジは翌日に持ち越されることになります。


続く。



アメリカ5州博物艦巡りの旅②〜ミシガン州ベイシティ、オハイオ州クリーブランド

2022-07-19 | アメリカ

潜水艦「シルバーサイズ」と揚陸艦LST393のあるマスキーゴンから
ミシガン州を少しずつ南下しながら東に進むと、
半島の真ん中あたりに、ミシガン州都であるランシングがあり、
(大都市は州都に在らずの法則はここにも)
さらに南に下るとミシガン州最大の都市デトロイトがあります。

デトロイトから横V字に折り返して少し南西に行くと、
次の宿泊地、アナーバー、Ann Arborに到着しました。

アナーバーは都市を設立した二人の男性の妻の名前がどちらもアンで、
さらにこの地にに自生するオークの森の木陰が作り出す光と影から、
「あずまや」(Arbor)にちなんで Ann Arbor と命名されたそうです。

今回いろんな都市を駆け足で巡りましたが、その中では
この街が一番住みやすそうであると二人の意見が一致しました。

実は昔、TOがここにある全米10位以内という大学の日本人関係者から
大学院への留学を勧められたということがあったそうで、
そのときアナーバーは日本人にとってとても住みやすくていいですよ、
と聞いていたらしいのですが、結局彼は別の大学を選びました。

冬に氷のトンネルができるくらい寒いミシガンに決まらなくてよかった、
くらいの認識しか当時のわたしにはなかったので、
アナーバーなる都市の名前も今回の計画立案の段階で初めて知ったのですが、
よりによって偶然そんな若干の因縁のある街を選んでいたとは。

まあ、夏に訪れたからこそ住みやすそうなどと思ったのであって、
零下20℃の冬に来ていたら違う感想だったことは想像に難くありません。

札幌出身の人が、昔、

「夏の北海道に観光で来ただけで住みやすそうなどというのを見ると腹立つ」

と言っていたのをふと思い出しました。




アナーバー宿泊は週末だったせいか、リクエストしたアップグレードを
一度ホテルからメールでお断りされていたのですが、
チェックインの時、とても感じのいいフロントの女性が、
お部屋が空いたのでスイートにさせていただきました、
とにこやかにいうので、アナーバーの印象もアップグレードしました。

今回、時差ボケと戦いながらの旅なので、一部屋を占領して
寝られないなりに一晩自由に過ごせるのはありがたかったです。



まだ新築らしく、同じ名前のホテルでも、
間取りや内装が洗練されていてこれもまた気に入りました。



ダイニングテーブルとソファの両側に部屋が一つづつある作りです。


夕食は何も考えず調べておいた近隣のホールフーズに行ってデリを買い、
部屋で食べるか、イートインで食べて済ませていました。

ホールフーズというオーガニックスーパーマーケットは、
価格帯がお高めなので、富裕層とまでは行かないまでも、
少なくとも意識高い系やオーガニック派やサステイナブル族などの住む、
ある程度以上の生活レベルの層が住む地域にしか出店しません。

ですから、現地のことを全く知らない旅行者であったとしても、
ホールフーズがあるだけで安全な地域であるという一つの目安になります。
(サンフランシスコやニューヨークなどの大都市は少し事情が違いますが)

それから、アメリカのブランディングシステムのありがたいところで、
広い全米どこに行っても、似たような商品を扱っているので、
慣れていると買い物が簡単で楽というメリットがあります。


さて、アナーバーは心惹かれる街で、もう少し滞在したいくらいでしたが、
わたしには行くべき次の場所がありました。

アナーバーから3時間ほど車で北上すると、サギノー(Saginaw)という、
どこかで聞いたような街があります。

わたしが「聞いたことがある」というのは、たいがいその都市名が
海軍艦艇につけられているパターンが多いのですが、
「サギノー」も、まずSloop-of-warという種類の南北戦争時代の軍艦、
(甲板上に大砲を有する蒸気又は帆走式の軍艦)

USS Saginaw 

と、近代のタンク・ランディング・シップ=戦車揚陸艦、

USS Saginow (LST−1188)

が何となく記憶の底にあってその名前を見覚えていたようです。

LST「サギノー」の方は、湾岸戦争にも出撃したという艦で、
アメリカ海軍を退役した後は、オーストラリア海軍に売却されて、
2011年まで現役で活躍していたということです。

今回訪問したのはそのサギノーから少し北に行った、ベイシティという街。

写真はこの日昼ごはんを食べた、
ヒューロン湖から流れるサギノー川沿いにある大型ホテル、
「ダブルツリー」のレストランからの眺めです。



そしてサギノー川の上を飛翔するサギ。



アメリカのレストランでお馴染みの「アヒ・ツナ」をいただきました。

ここのはふんだんに胡麻を塗したもので、なかなか悪くありません。
マグロの身がフニャッとしてどうにも締まりがないですが、そこは我慢。

昨今は味のグローバル化で、どんな都市に行っても、このような
日本人の口に合う料理が食べられるようになったのはありがたいことです。



お昼を食べてから、いざ艦艇見学に出発・・・・と思ったら、
街中なのに、ものすごい鉄屑の山を発見。

これ、そのままデトロイトの自動車の原料になったりするのかな。


■ 駆逐艦「エドソン」@ベイシティ



ベイシティのヒューロン湖沿いには、

駆逐艦 USS Edson 「エドソン」DD-946

が係留展示されています。

記念品グッズ売り場を兼ねた建物で観覧料(確か18ドルくらい)を買ったら、
ボランティアらしいカウンターの男性が、

「わたしのワイフは日本人なんですよ」

と言って奥さんを呼んできてくれました。
こんなところで日本人に会うとは、さても奇遇です。

トモコさんとおっしゃるこの女性は、週に一回ボランティアで
「エドソン」に夫婦で来ておられるということでした。

アメリカ人男性(ベテランかも)と結婚して、
ミシガン州の五大湖沿いの小さな町で共に人生を重ねるとは、
昔どんな素敵なご縁があったのでしょうか。

彼女によると、この街に日本人は二人だけしかおらず、
しかも向こうとは関わりがないので日本語を喋るのは久しぶりだとか。

「喋らないと本当に日本語出てこないんですよね」

そんなもんなんですね。

それから、トモコさんから伺ってもっと驚いたことがありました。
わたしたちが訪れたこの前日、「エドソン」には、

日本人女性がたった一人で見学に来ていた

というのです。

「日本女性が」「アメリカの小さな街の展示艦を」「一人で見学」?
わたしは思わず、それはわたしではないのかと思いました。

同時に、わたしが今までやってきたことは、わたしの目から見てさえ、
かなり風変わりで奇異なことに思えたのが不思議でした。

この女性がアメリカ在住なのか、日本からの旅行者かはわかりませんが、
こういった展示軍艦の見学というのは、一般的に
あまり女性の興味を惹かないものだと、他ならぬわたし自身が
持っていた偏見めいた目に、あらためて気付かされた次第です。


2022年7月上旬に、駆逐艦「エドソン」を一人で見学したという方、
もし万が一このブログをお目に留められることがあったら、
一体どんな方で、どんな目的のもとに来られていたのか、
差し支えなければご一報くださると大変幸いに存じます。




「エドソン」がこの街にやってきて展示されるようになったのは、
トモコさんによると10年前のことだそうです。


そのうち内部についてこのブログでも細かくご紹介しますが、
とにかく感心したのは、展示が見学者にとって懇切丁寧なこと。

どんな部分にも必ず説明が添えられていて、
軍艦初心者にも自分の見ているものが何か分かりやすくなっています。

いろんな街の展示艦を見てきましたが、その親切なことにおいて
「エドソン」は間違いなくトップクラスでした。

もっともこれは、「ミッドウェイ」のような大規模な展示のように
インターネットで調べれば細かい部分も全て情報が上がっている、
というような記念艦ではなく、その分ボランティアの熱意や
展示の仕方の工夫に全てが委ねられている小さな艦ならではかもしれません。


かつての乗員を記念艦に招いてイベントを行うなど、
ボランティアによる活動も活発に行われているようです。

写真のご夫婦は、「エドソン」のかつての艦長夫妻だと思います。

「エドソン」は主にベトナム戦争時代に活動のピークだった艦艇で、
1960年には極東での配備のために台湾海峡をパトロールし、
沖縄沖で水陸両用作戦に参加し、そして
日本近海ででさまざまな種類の演習を行っています。

■ クリーブランド

この日は午前中にアナーバーからベイシティまで2時間弱、
ベイシティからその日の宿泊地であるオハイオ州クリーブランドまで
4時間強、合計6時間一人で運転をすることになっていました。

時差ボケの治り切らない体調では不安でしたが、幸い、
この前日くらいから一旦夜中に目が覚めることはあっても、
その後6時くらいまで寝ることができるようになっていました。

結果として、この4時間のドライブ中眠くなることは一度もなく、
快調にアナーバー、トリード(Toredo)と通過して、
クリーブランドという名前だけはよく知っている
(クリーブランド交響楽団という超有名オケがある)
オハイオ州第2の都市に到着しました。



途中でちょうど走行メーターがちょうど1000マイル(1609km)
になったので、別に深い意味はないですが、記念写真を撮っておきました。

ちなみにこの時の時速67マイルは107kmで、アメリカの高速道路は
だいたい60〜70マイルが制限速度となっています。

日本の高速のように、みんなが100キロで走るような高速で
制限時速を80キロにしておいて、パトカーに捕まった時には
自動的に?20キロオーバーになっているというような
不合理な制限時速設定はしていません。

この頃にはオートクルーズ機能を使いこなしていたので、
制限時速に設定して走行していました。

モードによって写真のようにiPhoneの曲の題名を
パネルに表示することもできます。

パネルに「イントルーダー」という字が写っていますが、
これはあの戦闘機のことではなく、MKがダウンロードした

「Fight Songs: The Music of Team Fortress」

というアルバムの「Intruder Alert」(侵入警報)という曲です。



クリーブランドのレジデンス・イン・バイ・マリオットは、
まだ新築らしく、内装はとても近代的でとてもいい感じでしたが、
アフリカ系フロント係が、ホテルマンのくせに気が利かなさすぎでした。

都市部のホテルなので、駐車場代に一晩15ドル取られるのはいいとして、
それを説明しておきながら、駐車場の入り方を教えない。
こちらが困って聞きに行くまで、どうやってゲートを入るか、
どうやって駐車場を出るかを前もって教えないという不親切ぶり。

次の日、わたしたちは別の宿泊客が何やらフロントで
クレームをつけているのを見ましたが、彼女に向かって、
フロントのアフリカ系女性は、

「2時になるまで責任者が出勤してこないので、
あなたの部屋をそれまで延長しておくから待っていてください」

と言い放っていました。

その客に飛行機に乗る予定があってそれまで待てなかったら、
どうする気だったんだろう。


旅の印象というのはこんなところでも決まってしまうもので、
残念ながらわたしたちにとって、一泊しかしなかったクリーブランドは、

「アフリカ系の従業員が悉くやる気なく働いているところ」

になってしまいました。

観光業の人たちには、くれぐれも自分の言動が、その場所、
ひいてはその国を印象付けることもあるということを
重々意識して接客していただきたいものだと思いました。

大抵の日本の観光業に携わる方々には釈迦に説法だと思いますが。





クリーブランドの部屋は、もともとツインが取れていたので
アップグレードはしませんでしたが、十分な広さでした。


ここには大きなコンピュータデスクがありましたが、
なにしろ着いたら荷物を整理してお風呂に入って寝るのが精一杯で、
せっかくのデスクも、PCを充電する台としてしか機能せずじまい。



窓の外には少し離れたところにクリーブランドの中心部が望めます。
クリーブランドのさらに向こう側には、「アクロン」という都市があります。

アクロンと日本語で検索すると、洗剤の情報しか出てきませんが、
わたしにとっては「アクロン」は悲劇の海軍飛行船の名前に他なりません。


ところで、クリーブランドに行く少し前、このアクロンで、
またしても警官によるアフリカ系男性への銃撃があり、
それがオーバーキルであり黒人に対する差別であるとして、
BLMな人たちがデモをする騒ぎになっていました。

警官が黒人男性射殺、約60発の銃弾 米オハイオ州で

しかしいつも思うのですが、こういうことに抗議する人たちは、

「同氏は軽微な交通違反で車を止めるよう促され、車に乗ったまま逃げた」

「数分間追跡された後、車を捨てて逃走」

「警官の方を向いており、その際に銃を所持していると考えられた」
(銃は車の中から発見された)

このとき警官は8人がかりで男性に60発を撃ち込んだ、というのですが、
男性が銃を持っているかどうか確かめていたら先に撃たれるから、
そして撃たれてからではもう遅いからこそ、アメリカの警官は
条件反射で発砲するようにと訓練されているんじゃないんでしょうか。

車で逃げて逃走するような男性でも「あやしきは罰せず」というのは、
つまり、向こうが撃ってくるまでこちらから何もするなということ?

それって、警官の命は被疑者より軽いということにならないのかな。

まあ、歴史的にも色々と不条理な目にあってきた黒人さん側には、
こういうことがあるたびにそりゃ言いたいこともあろうかと思いますが、
この手の事件(そして必ずしも黒人男性は『真っ白』ではない)が起こると、
必ず人種差別問題に火がついて抗議デモが起こるというこの流れ、
対岸の火事的立場からは何だかなーと割り切れない想いに見舞われます。


さて、クリーブランドで一泊したら、あとはエリー湖に沿って
ひたすら北に進んでいくのみ。

そこには、以前外から見るだけで終わった、この地域最大の
バッファローネイバルパークがあるのです。

ついでにナイアガラの滝参りももう一度するぞ〜!


続く。



アメリカ5州博物艦巡りの旅①〜出国、シカゴ、ミシガン州マスキーゴン

2022-07-17 | アメリカ

今回のアメリカ行きは、MKの卒業式旅行があったため、
例年よりも出発が後ろにずれ込んでしまったのですが、
そんな年に限ってこのお元気ですか日本列島は異常な暑さに見舞われ、
日本の湿度のある暑さに慣れていない体には堪えました。

しかしようやくアメリカに到着してホッとしたのは、日本にはない
からりと湿気の低い心地よい暑さのせいだけではありません。

とにかく今回は特典航空券で便を抑えるのが大変だったそうです。
(この辺りの手続きは皆TOに任せているので伝聞)

というのは、我々の最近の移動は全てクレジットカードの特典航空券、
つまり言うたらおまけのチケットに準拠しているので、
疫病がひと段落して旅行が可能になった国内外の移動は、
リベンジツァーの影響下、都合のいい便がうまく取れなくなっていたのです。

何度も(TOが)カードデスクと丁々発止やり合ったにも関わらず、
どうしてもピッツバーグまでうまく繋がる便が取れず、
最終的にシカゴから車で移動ということになってしまったのです。


しかし、これは実はわたしにとっては猫にまたたびのような天の配剤でした。

実は5月もそのパターンになりかけ、そこで、

「シカゴからなら潜水艦『シルバーサイズ』を見に行こう」

とひらめいて、すっかりその気になっていたところ、その後、
乗り継ぎ便が取れてしまい、無念にも計画は水泡に帰したのでした。

しかし今度は本当にシカゴまでしか飛行機は飛ばない。
これをリベンジツァーと言わずなんと言う。
そして、今後の人生でアメリカ中北部をうろうろできる機会が
(時間的にも体力的にも)またとあろうか、いや、ない。


と考えたわたしは、さらに欲張って計画を練りました。

シカゴからピッツバーグまで車でノンストップなら8時間。
この行程を5日間に引き伸ばし、五大湖に係留されている海軍艦艇を
片っ端から見て歩くという、当ブログ的豪華特別企画です。

早速、キッチン付きのホテルと近くにホールフーズがある場所に
点々と泊まり歩くような予定をガッチリと組み、渡米に備えました。

■出発



今回の航空便予約がいかに難しかったか。

それは、わたしとTOが、羽田と成田からほぼ同時刻に飛行機に乗り、
シカゴ空港で再会するという当初の予約にも表れていました。

これをTOは、

「われても末に逢はむとぞ思ふ作戦」

と名付け、それなりにうまい作戦だと悦に入っていたのですが、
当日の朝、アクシデントが発生。
わたしの乗る羽田発のユナイテッド便が欠航になったのです。

なんでも出発地のシカゴが雷雨で離陸が3時間遅れ、
羽田に着いてみれば機体不良が見つかりもう飛ばせなくなったとのこと。

そこでTOが、自分と同じ飛行機に無理やり頼み込み捻じ込んで、
(元々その便には特典航空券の席はなかったのですが)
奇跡的に同じ便でシカゴまで行けることになりました。

何という禍転じて福とナス。
今回の旅行は何だか幸先がよろしいようです。

■ 機内


今回の出国は、PCR検査が必要なくなっていたため、
過去2年の困難がまるで夢のように思われるほど簡単でした。
(つまり以前の通りに戻っただけなのですが)

航空会社もようやく底を脱してホッとしていることでしょう。

ただ、PCR検査一人一回2万円也のフィーバー状態が終わった
空港などの検査機関は、ちょっと残念に思っているかもしれません。

知らんけど。



結局ユナイテッドでなくANAになったので、
機内での夕食は迷わず和食にしました。

今回もどこかの料亭とのコラボによる献立で、普通に美味しかったです。



メインが豚の角煮というのは初めてです。



今回は後半ぐっすり寝過ぎて、目を覚ましたら朝ご飯が終わっていました。

「寝ておられたのでお声をかけませんでしたが
何かお召し上がりになりますか」

とFAさんに言われて初めてそのことに気づき、
軽食メニューの「ヘルシーカツ丼」なるものを頼んでみました。

このメニューは3月から始まった代替食材料理で、
豚カツに替わるカツ部分をおからとこんにゃくで形成したもの。

国際線ビジネスクラスの軽食でのみ提供されていて、
世界的な流れである「サステイナブル」に配慮した形です。

開発した会社「ディーツ」の名前をつけた代替肉ディーツは、
おからとこんにゃく由来で、通常の「カツ丼」1000キロカロリーを4割、
脂質は5割カット、逆に食物繊維5倍というものだそうです。

何も考えずに頼んでみたのですが、代替肉としてはよくできていて、
見た目もさることながら、肉質、食感もいい線いっていました。

しかもご飯は、こんにゃく米と白米を半々で使用したものでしたが、
食べている時には全く気付かず、今ANAのHPで初めてそうと知ったほどです。

研究の結果、「究極の配合」白飯と半々なのだそうです。

■ シカゴ・オヘア空港着



いつも何の気なしに飛行機の窓から景色を撮っていますが、
いつの頃からか、撮った景色の地名が明記されるようになりました。

これはイリノイ州のDu Page Countyの「フォレストプリザーブ」という
緑地帯で、オヘア空港の地図では左下に位置します。

さて、というわけで無事オヘア空港に降り立ったわけですが、
入国審査が空前絶後というくらいの人大杉でびっくりしました。

COVID19の頃もハブ空港のオヘアはそれなりに人がいましたが、
今回はリベンジツァー真っ最中というだけあって、
いつも並ぶ通路に人が収まりきらず、臨時にコンコースに作った通路で
地の果てまで行って帰ってきてから本来の通路に並ぶという具合。

わたしたちはシカゴが最終目的地だから関係ありませんが、
これでは乗り継ぎ便に遅れる人続出だろうと思われました。


シカゴにはもう何回も来ていますが、降りたのは初めてです。

そのため、レンタカーの乗り場がどこなのかわからず、
とりあえず表示を頼りに歩いて行ったら、斜め上の矢印を最後に
表示が消えてしまい、仕方がないのでその辺の空港の職員に聞いたら、
こいつが全くの出鱈目を教えるものだから、カートの荷物を押しながら
あっちにに行ったりこっちに行ったりを繰り返すハメになりました。

最後に聞いた人がちゃんと「トレインで最終駅まで行くんですよ」
と教えてくれて何とかレンタカーセンターにたどり着き、
ホンダの4WD、しかも走行距離600マイルのピカピカの新車を選んで、
(何を隠そうわたしはゴールドメンバーなので好きな車を選べるのである)
やっとのことでホテルに到着したのでした。


ホテルはいつもキッチン付きのレジデンスインバイマリオットを選択します。



今回はこれまで貯めていたアップグレードのプレゼントを使い、
1ベッド+ソファベッドの安い部屋から2ルームにアップグレードしました。

さすがシカゴ、極寒の地だけあって、部屋に暖炉があります。

その日は車で15分ほどのところにあるホールフーズで
ホットデリを取ってきて、部屋で食べ、明日に備えて寝ました。

■ U-505



今回、シカゴ近辺の海事遺跡を調べていて、
シカゴの博物館にU-505の実物が展示されていると知った時は、
思わず胸が高鳴ったものです。

この捕獲Uボートの実物を見ることほど今回楽しみだったことはありません。

Uボートの展示がされているのは、

Museum of Science+industry Chicago
(シカゴ科学産業博物館)

大都市シカゴの中でも特に充実した博物館で知られており、
そのほかの展示も、



航空機群あり、



テスラコイルの実演ありとすごかったです。(小並感)


このあと、博物館を出て、車の機能を確かめながら次の場所に向かいました。


駄菓子菓子、困ったことに、今回の時差ボケもかなりキツく、
前夜は明日のために眠るぞー!とメラトニンを飲んで寝たのに、
3時に目が覚めてしまい、そのあとはどんなに頑張っても眠れません。

早起きしてしまった睡眠不足のツケは翌日の昼過ぎに払うことになり、
車を運転していていきなり悪夢のような眠気が襲ってくるたびに、
PAに停めて仮眠をとりながら移動していました。

この時差ボケは最終日のバッファローまで全く解消することはなく、
それまでは途中の仮眠とスタバのオーツラテ(グランデ)が頼りでした。

■ ミシガン州マスキーゴン

Muskegon。

当初何と読むのかさえわからなかったミシガン州の、
ミシガン湖に面した港町であります。

ここに、先日当ブログでご紹介した映画「BELOW」で使われた
潜水艦「シルバーサイズ」があります。



前日はミシガン湖を地図上で見ると左岸に近いシカゴから、
車で湖に沿って走った内陸にあるグランドラピッズに宿泊しました。

もちろん初めて知る地名ですが、ミシガン州ではデトロイトに次ぐ都市で、
言うたらミシガン州の大阪という位置づけです。

到着した時から感じていましたが、さすが北の方にあるだけあって、
この辺の気候は日差しは強くとも風がひんやりして、
北海道の夏を思わせる心地よいものでした。



なぜか駐車場のコンクリの上にいたカメさん。



グランドラピッズからミシガン湖沿いの街、マスキーゴンまで40分ほど。


ここでまず昼ごはんを食べることになりました。
車で通りかかってピンときた、ヨガ教室に併設されたデリ&カフェです。

地元の野菜を使ったロールやサラダ、アサイーボウルなどを、
自分の好みでトッピングを注文することができるお店で、
カウンターの中も外も女性でいっぱいでした。



潜水艦「シルバーサイズ」は、港に係留されており、
そこに地元渾身の潜水艦博物館も併設されています。



内部も自由に見学することができました。

改めて中を見て、実際にあの中にカメラを持ち込むのは無理、
潜水艦内の映像はセットによるものだと確信しました。



併設された潜水艦博物館は、戦争博物館、そして
地元のベテランを顕彰する役割を持った、お馴染みのタイプです。

改装したばかりらしく、パネル展示が新しかったのですが、
展示室に入った途端、これにお迎えされてしまいました。



そして、そのマスキーゴンを湖沿いにほんの何分か北上すると、
揚陸艦USS.LST393が展示されています。

五大湖沿いはアメリカ、カナダ共に記念艦の展示が多いのですが、
海沿いより潮による劣化が少なく管理しやすいからかもしれません。

他にもミシガン州ヒューロン湖沿いカナダ国境のマッキノーには
その名も砕氷艦「マッキノー」が展示されています。

今回わたしは無謀にもこれを見学するつもりでいました。

机の上で地図を見ながら計画を立てているときには、
マッキノーから舌のように突き出したミシガン州の舌の先まで行って、
砕氷艦を見学したらそのまま同距離をその日のうちに
マッキノーとほぼ同じ緯度上にある宿泊地に戻れると思っていたのですが、
如何せんアメリカは広かった。

ミシガン州だけで実は日本の本州より1割大きいというくらいですから、
それは例えるなら、大阪から車で東京に行って、
その日のうちに京都に帰ってくるというような無茶苦茶なプランでした。

現地で走りながらそれを改めて実感し、砕氷艦は諦めて、
おとなしく次の街、アナーバーに向かうことにしたわたしです。


続く。





「ハンドシェイク・イン・スペース」アポロ-ソユーズ実験プロジェクト

2022-07-15 | 歴史

スミソニアン博物館の宇宙事業関連展示を見ていて、
かなり驚いたのは、米ソが共同で行っていた宇宙開発事業があったことです。

アポロ-ソユーズは、1975年7月に米ソ共同で実施された
初の有人国際宇宙ミッションです。

アメリカのアポロ宇宙船とソビエト連邦のソユーズカプセルが
ドッキングする様子を、世界中の何百万人もの人々がテレビで見守りました。

このプロジェクトと宇宙での印象的な握手は、
冷戦下の2つの超大国のデタント(緊張緩和)の象徴であり、
1957年にソビエト連邦がスプートニク1号を打ち上げたことで始まった
宇宙開発競争の終わりを告げるものと一般には考えられています。




それは、見学に来た人が疲れたら座り込むのにおあつらえむきの場所、
高さといい広さといいちょうどいい設置台の上に見ることができます。





■アポロ-ソユーズ実験プロジェクトASTP

ちょうど今日、7月15日から24日は、"宇宙での握手 "で有名な
アポロ・ソユーズ テストプロジェクトから47年目にあたります。

このミッションは正式にはアポロ・ソユーズ テストプロジェクト(ASTP)
ソ連ではもちろんソユーズ・アポロと呼ばれています。
Экспериментальный полёт "Союз" - "Аполлон"(ЭПАС)
Eksperimentalniy polyot Soyuz-Apollon (EPAS)

また、ソ連は公式にこのミッションをソユーズ19と命名しています。

アメリカはすでにアポロ計画を中止しており、使っていない機体を
番号をつけずに「最後のアポロ」として飛ばすことにしました。



ASTPは、アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船をドッキングさせる試みでした。

この世界の2大プレーヤーが共同作業に至った理由、それは
1972年に締結された二国間協定に基づくものでした。

間接的には、米ソの間で締結された、核兵器の保有数、運搬手段の制限、
複数弾頭化の制限が盛り込まれた

「第二次戦略兵器制限交渉」

の流れからきていたと思われます。

目的は、将来の米ソ宇宙船のドッキングシステムの研究で、
宇宙空間の平和利用のための協力に関する覚書に基づいて計画されました。

■緊張期

アポロ・ソユーズの目的は、ズバリ、
冷戦時代の超大国である米ソのデタント政策でした。

つまり政治目的事業というやつです。

アメリカが「赤化から世界を救う」ためのベトナム戦争に参戦している間、
当然ですがこの2つの超大国の間には緊張が走っていました。

ソ連の報道機関は一貫してアメリカのアポロ宇宙計画を強く批判し、
例えば1971年のアポロ14号打ち上げの写真には、

「アメリカとサイゴンの傀儡によるラオスへの武力侵入は、
国際法を足元から踏みにじる恥ずべき行為」

というキャプションをつけたくらいです。

一応ソ連のニキータ・フルシチョフは1956年のソ連共産党20回大会で
「平和共存理念」としてソ連のデタント政策を公式化してはいますが、
両国の緊張緩和はなかなかそのきっかけを掴めないでいました。

それは1962年、ジョン・グレンが地球周回軌道に乗った
初めてのアメリカ人となった後のことです。

ジョン・F・ケネディ大統領とフルシチョフ首相との間に交わされた
手紙をきっかけに、NASAのライデン副長官とソ連の科学者、
アナトリー・ブラゴンラヴォフが中心となって
ある計画について一連の話し合いが行われるようになりました。

驚くべきことに、科学者同士の話し合いは、
キューバ・ミサイル危機の真っ只中にあった1962年10月に、
ドライデン-ブラゴンラヴォフ協定として正式に結ばれることになります。

その内容は、気象衛星のデータ交換、地球磁場の研究、
NASAの気球衛星Echo IIの共同追跡などの協力などです。

この時、トップがケネディとフルシチョフであったことは大きく、
雰囲気としては、もう少しでケネディはフルシチョフに
有人月面着陸の共同計画を持ちかける可能性すらあったと言われていますが、
1963年11月ケネディが暗殺され、その一年後フルシチョフが罷免されたため、
それぞれの指導者がいかなる個人的な希望を持っていたとしても、
もう物理的かつ永久にそれは無理となってしまったわけです。

ご存知のように、この後両国の有人宇宙計画間の競争は過熱していき、
この時点でさらなる協力への努力は終わりを告げることになりました。

■宇宙競争と更なる緊張

その後は極度に両国の関係は緊張し、さらに軍事的な意味合いから、
米ソ間の宇宙協力は1970年代初頭にはあり得ませんでした。

1971年6月、ソ連は初の有人軌道宇宙ステーション
「サリュート1号」の打ち上げに成功しており、一方、アメリカは
その数ヶ月前にアポロ14号を打ち上げ、人類を月に着陸させるための
3度目の宇宙ミッションを行っていました。

月競争は終わりを告げたと言っても、そこで両国の関係が変わるはずもなく、
この計画が立ち上がってからも、米ソ両国は
お互い相手の工学技術に対して厳しい批判をし合っていました。

まずソ連ですが、アポロ宇宙船を「極めて複雑で危険」と批判。

ソ連の宇宙船は、ルノホド1号とルナ16号が無人探査機、
ソユーズ宇宙船は、飛行中に必要な手動制御部分を極力少な口することで
ヒューマンエラーによるリスクを最小限に抑えるように設計されていました。

一方、アポロ宇宙船は人間が操作することを前提に設計されており、
操作するためには高度な訓練を受けた宇宙飛行士を必要とする、
というのがソ連の考える「ダメな理由」です。

しかしアメリカはアメリカで、ソ連の宇宙船はダメだと盛んに批判しました。
例えば、ジョンソン宇宙センター所長のクリストファー・C・クラフトは
ソユーズの設計についてこんなことを言っています。

「私たちNASAは冗長構成に頼っている。
たとえば飛行中に機器が故障した場合、クルーは別の機器に切り替えて
ミッションを継続しようとするが、
ソユーズの部品はそれぞれ特定の機能に特化して設計されており、
一つが故障すると、宇宙飛行士は一刻も早く着陸しなければならなくなる」


ソユーズ宇宙船は地上からの制御を前提としていたため
アメリカソユーズ宇宙船を非常に低く評価していたということですが、
自動制御で特別に訓練された宇宙飛行士がいなくても遂行できるのと、
インシデントを予測して人間に対応させるのと、
さて、どちらが安全でしょうという命題となります。

という風に互いのやり方を否定し合っている同士が、
政治的案件で一緒にプロジェクトを成功させなくてはなりません。

しかも今回の計画は、これまでのアポロ計画とは全く違い、
カプセルから飛行することを前提とした実験となるわけです。

結局、アポロ・ソユーズ試験計画のマネージャーであるグリン・ルニーは、
ソビエトを怒らせるようなことを(たとえそう思っていたとしても)
マスコミに話すな!と関係者に注意をしたと言われます。

ルニー「ソ連様を怒らせちゃいけねえだ」

NASAは、アメリカ流の軽口がソ連に理解されにくいことを知っており、
ちょっとした言動や批判が原因でソビエトが手を引き、
ミッションが廃棄されることを心から恐れていたのです。

1971年の6月から半年にわたり、ヒューストンとモスクワで
米ソのエンジニアは会議を行い、宇宙船のドッキングの可能性について
相違点を解決してすり合わせを行いました。

その中には、ドッキング中にどちらかが能動的にも受動的にもなれるという、
2隻間のアンドロジナス周辺アタッチシステム(APAS)設計も含まれます。


そしてベトナム戦争が終結すると、アメリカとソ連の関係は改善され始め、
宇宙協力ミッションの実現性も高まってきました。

アポロ・ソユーズは両国の緊張の融解によって可能となると同時に、
プロジェクト自体にアメリカとソ連の関係を改善する働きが期待されました。

フルシチョフの後任となったソ連の指導者レオニード・ブレジネフは、


いいこと言ってみた

「ソ連とアメリカの宇宙飛行士は、
人類史上初の大規模な共同科学実験のために宇宙へ行くことになる。
彼らは、宇宙から見ると我々の惑星がより美しく見えることを知っている。
私たちが平和に暮らすには十分な大きさだが、
核戦争の脅威にさらされるには小さすぎる」


と述べました。

1971年、ニクソン大統領の外交顧問であったヘンリー・キッシンジャーは、
このミッションの計画を熱心に支持し、NASA長官に対して、

「宇宙にこだわる限り、やりたいことは何でもやってくれ」

と激しくゴーサインを出しています。

そして1972年4月までに、米ソ両国は

「平和目的の宇宙空間の探査及び利用に関する協力に関する協定」

に署名し、1975年のアポロ・ソユーズ試験計画の実行を取り決めました。



ASTP実験の画期的だったところは、初めて外国人飛行士が
ソ連の宇宙船にアクセスすることができるようになったということです。

ソ連の宇宙計画はソ連国民に対してすら情報が秘匿されていたのに、
アポロの乗組員はその宇宙船、乗組員の訓練場を視察することが許され、
ソ連の宇宙開発について情報を共有することになったのですから。

もちろん逆も真なりで、ソ連の関係者は
決してアメリカの宇宙事業に関わることは許されませんでしたが。

まあ、なんというか非常に融和的なおめでたいニュースなのは事実ですが、
ASTPに対する反応がすべて肯定的だったわけではありません。

多くのアメリカ人は、ASTPがソ連の宇宙開発計画に過大な評価を与え、
あるいはNASAの高度な宇宙開発努力を譲り渡すことになると危惧しました。

一方ソ連ではそういうアメリカ側の懸念について、

「ソ連との科学協力に反対するデマゴーグ」

と批判する人もいました。

とはいえ、この事業によってアメリカとソ連の間の緊張は軟化し、
このプロジェクトは将来の宇宙における協力プロジェクト、
シャトル-ミール計画や国際宇宙ステーションなど、
共同作業の前例となったのは動かし難い事実でもあります。

■ 乗組員



アポロ乗組員

司令官:トーマス・スタッフォード(後ろ)
ヴァンス・ブランド(前列真ん中)
ディーク・スレイトン(前列左)


覚えておられる方もいるかもしれませんが、
スレイトンはマーキュリーセブンの一員でした。

彼は心臓に疾患が認められたため、打ち上げをずっと見送って
NASAのディレクターとして宇宙船を「見送る側」でしたが、
ついにこのプロジェクトで宇宙に行く唯一の機会を得ました。

ソユーズ18号乗組員

司令官:アレクセイ・レオーノフ(後ろ右)
フライトエンジニア:ワレリー・クバソフ


レオーノフといえば、人類最初に宇宙遊泳をした男。
絵を描くのが得意で、宇宙でスケッチをしたあの人です。

■打ち上げ



1975年7月15日、2人乗りのソ連のソユーズ宇宙船19号が打ち上げられ、
その7時間半後に3人の飛行士を乗せたアポロ宇宙船が打ち上げられました。





両宇宙船は、7月17日に地球を周回する軌道上でドッキングしました。

その3時間後、ミッション指揮官のスタッフォードとレオーノフは
ソユーズの開いたハッチから宇宙で初めて握手を交わしたのです。


国際握手会開催中

この歴史的な握手により、軌道上での約47時間に及ぶ
ドッキング作業が開始されました。
写真は16ミリ映画フィルムの1コマを複製したものです。


2隻の船が停泊している間、3人のアメリカ人と2人のソビエト人は、
共同で科学実験を行い、旗や贈り物(後に両国に植えられた木の種など)
を交換し、音楽を聴かせ合いました。

ちなみに、ソ連側からは
Maya Kristalinskaya - Tenderness

アメリカ側からは
WAR - Why Can't We Be Friends? (Official Video) [Remastered in 4K]

こんな選曲だったそうです。

「どうして僕たち仲良くなれないんだろうね?
調和して暮らしていけるなら肌の色なんて関係ないのに」




そして彼らは証明書に署名し、お互いの船を訪問して一緒に食事をしました。


スレイトンとレオーノフ

彼らはお互いの言語で会話をしました。
つまり、お互い相手の言葉を勉強していったということです。

この時、オクラホマ出身のスタッフォードのロシア語がソ連側にウケました。
レオーノフは後に、こんなことを言っています。

「ミッションでは3つの言語が話されていました。
ロシア語、英語、そして『オクラホマスキー』です」


ドッキングや再ドッキングの際には、2つの宇宙船の役割が逆転し、
ソユーズが「活動的」な側となることもありました。



そしてその一つがこの「プラーク合体」です。
アストロノー(アメリカの宇宙飛行士)とコスモノー(ソ連の宇宙飛行士)
は、国際協力のシンボルとして、軌道上で記念プレートを持ち寄り、
合体させて完成させました。

■アポロ-ソユーズテストの科学的成果

このミッションで行われた実験のうち4つは、
アメリカの科学者が開発したものです。
発生学者のジェーン・オッペンハイマーは、
無重力が様々な発達段階にある魚の卵に与える影響を分析しました。


あのオッペンハイマーとは関係ありません

44時間一緒にいた後、2つの船は分離し、
ソユーズの乗組員は太陽コロナの写真を撮り、
アポロは人工日食を作るために操縦を行い、短いドッキングの後、
二つの船は分かれてそれぞれの航路をたどりました。

ソ連はさらに2日間、アメリカは5日間宇宙に滞在し、
その間、アポロのクルーは地球観測の実験も行っています。

ASTPで、アメリカは宇宙から地球を体系的に観察・撮影し、
軌道上から地球を探査・研究するための新しいデータを取得しました。

このミッションで、スミソニアン国立航空宇宙博物館が
重要な役割を果たしたことはあまり知られていません。

ファルク・エルバズ博士は、博物館の地球惑星研究センターの創設者であり、
ASTPの地球観測・写真撮影実験の主任研究員でした。
この光地質学実験がミッションに含まれるようになったのも、博士の功績です。

エルバズ博士は、アポロの宇宙飛行士が月を周回する際の
目視観測を訓練した経験があり、今回は地球がターゲットとなりました。

博士は、宇宙飛行士がT-38飛行機で上空から地質を観察し、
写真に撮る練習をするための飛行計画を立てました。

宇宙飛行士は宇宙空間で約2,000枚の写真を撮影し、
そのうち約750枚は雲に隠れていないなど、質の高い写真でした。



地球観測・写真撮影実験 アンゴラ
アフリカ南西部のアンゴラを撮影したもの。(出典:NASA)

エルバズ博士は、地質学、海洋学、水文学、気象学などの分野で
画像を分析する科学者チームを結成しました。
軌道写真は上空を広くカバーしているため、大きな構造物や広い分布、
従来の現地調査が困難な地球上の遠隔地やアクセスしにくい場所などを
直接調査することが可能です。

地図の更新や修正、地球資源のモニタリング
動的な地質学的プロセスの研究、海洋地形の調査など、
これらの写真の用途は広範囲にわたります。


博物館の宇宙戦争ギャラリーでは、ドッキングした状態の
アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船を見ることができます。

展示されているアポロのコマンドモジュールとサービスモジュールは試験機で
2つの宇宙船をつなぐドッキングモジュールは
バックアップフライト用のハードウェアとなっています。

ソユーズ宇宙船は、ソユーズを最初に製造した
エネルギア設計局によって作られた実物大模型です。



最後に、スミソニアン所蔵のソ連の国旗を。

この旗は、米ソ共同のアポロ計画で、アポロ司令船に搭載された
特別な「ギフトバッグ」に含まれていた10枚のソ連国旗のうちの1枚です。

また、アメリカの国旗10枚、白トウヒの種の特別な箱、
宇宙船がドッキングしたことを証明するASTP証明書も含まれていました。

1975年7月、アポロとソユーズが地球周回軌道上でドッキングしている間に
宇宙飛行士の間で贈呈され、交換されたものです。


続く。




アメリカで見た半旗

2022-07-13 | 日本のこと

しばらくブログを制作するどころかPCも開けられない状態だったのは、
アメリカに来ているからです。

しかも、いつもと違って、今回はシカゴに到着後、
車でまるまる5日かけて5つの州を跨ぎ、そこを走破し、
片っ端からネイバルミュージアムを訪れるという
とんでもない計画をたててしまいました。

その道中についてはこれからお伝えしていくつもりですが、
ミシガン州のグランドラピッズにいるとき、安倍元首相の訃報を聞きました。



陸自の観閲式の姿がわたしにとって
実際に見た安倍首相となってしまいました。

その後、シカゴのあるイリノイからインディアナ、ミシガン、
オハイオ、ペンシルバニア、ニューヨークと州を跨いで走っている間、
そう、訃報を聞いて翌日だったと思いますが、
訪れたパーキングエリアの国旗が反旗になっていました。



ここは確かニューヨーク州だったと思います。
POW .MIAの旗と共に反旗に掲げられたアメリカ国旗。

JFKを暗殺したとされるオズワルドが元海兵隊員だったことと、
今回の犯人が元自衛官だったことに言及するメディアもありました。

たまに旗を見上げながら何か話し合っている一団もいて、
アメリカ人にとってもこの事件は
衝撃のニュースとして受け止められているようです。








チャールズ・リンドバーグはナチスシンパだったのか〜スミソニアン航空博物館

2022-07-10 | 飛行家列伝

リンドバーグという人物にたとえ全くの興味がないひとはいても、
その名前を聞いたことがないという人はまずいないのではないでしょうか。

わたし自身もそれほど多くを知っていたわけではありませんし、
今回スミソニアンの資料を点検して初めて
彼らが日本を訪れ、靖国神社参拝まで行っていたことも、
航空会社の依頼を受けて航路を開拓したことも知ったくらいですが、
それでも、かなり昔から知っていたことがあります。

それは、彼が愛児を誘拐され殺された悲劇の父親となったこと、
ナチスの親衛隊の服装をした恐ろしい形相のリンドバーグを
戯画化したことに表される、彼とナチスドイツとの関係、
そしてアメリカとヨーロッパで二つの家庭を持ち、
どちらでも父親と呼ばれていたことなどです。

それまで誰もしたことがなかった単独による大西洋横断飛行。
この偉業を成し遂げたがゆえに、後世の人々は彼にあらまほしき英雄像を重ね
のみならずその行動から彼を理解しようとします。

しかし、特にこの人物を完全に理解することは、
飛行から数十年経った今でも、どんな識者にも容易ではないと言われます。

伝記作家A.スコット・バーグは、この有名な飛行家について

「事実上孤立の中に育った人物」

と述べています。

「深い私的な性質を備えて生まれ、自立と不適合の原則に従って育てられ、
そして、偉大な行いは必然的に誤解を生むという代償がつきものだと
本能的にリンドバーグは理解していた」

【チャールズ・リンドバーグJr.誘拐事件】

CRIME OF THE CENTURY: Lindbergh Kidnapper Brought to Justice | History's Greatest Mysteries: Solved

Huluでシリーズ化されているわたしの好きな番組で、リンドバーグの息子、
チャールズ・リンドバーグJr.の誘拐を取り上げています。

以下、このビデオからの情報です。

犯人は梯子で赤ん坊の寝ている部屋に侵入し、わずかな隙に誘拐して
15000ドルを身代金として要求しました。

乳母がそれを発見してから30分で世間は大騒ぎになったといいますから、
それだけでもリンドバーグの有名ぶりがわかります。

息子の遺体はその後、家の近所に埋められて発見されました。

ビデオによると、犯行を疑われていたハウスキーパーの女性は、
尋問に耐えられずに精神を壊し、公聴会の前日に自殺していますが、
FBIの捜査では彼女は関与していないと結論づけられました。

ここで後に大統領にまでなるJ・エドガー・フーバーが登場し、
間違いだらけの脅迫状から犯人が教養のないドイツ系であると判断します。
そして現場に残されたノミなどの証拠から、
犯人は木工を行う職場で働いている、という情報が上がってきます。

ここでコンドンという訳のわからない怪しげなおっさんが出てきて、
仲介役を引き受け、身代金を渡した際に犯人の顔を目撃。

そして身代金のナンバーに相当する札をガソリンスタンドで使ったとして
ドイツ系の大工、ブルーノ・リチャード・ハウプトマンに容疑がかかります。

自宅からは札と、脅迫状そっくりの筆跡が見つかり、
彼は第一級殺人の疑いで逮捕され、裁判の結果有罪となって
電気椅子で処刑されました。

ただ、
このハウプトマンも冤罪ではないのか?
国民的英雄の関連する事件だけに警察やFBIが結果を逸り、
それらしい犯人をでっち上げたのでは?という説もあるそうです。

ブルーノ・ハウプトマン〜殺人博物館
(閲覧注意)

【ナチスとリンドバーグ】



リンドバーグは1936年から1938年にかけて数回ドイツを訪れ、
ドイツの航空を評価していますが、これはアメリカが依頼した任務です。

このときアメリカ人として初めて、ドイツの最新爆撃機ユンカースJu 88
戦闘機メッサーシュミットBf 109を調べ、操縦することを許された彼は、
特にメッサーシュミットBf109について、

「構造の単純さとこれほど優れた性能特性を併せ持つ追撃機は他にない」

と激賞しています。

ここまでの情報から鑑みるに、ドイツにリンドバーグを派遣したのは
アメリカであり、当時のドイツが彼を歓迎したとしても当然です。

この時のことを、あのハップ・アーノルド将軍も、

「リンドバーグが帰国するまでヒトラーの空軍について
我々に有益な情報を与えてくれた者はいなかった」

とそれが至極普通のことであったと表明しています。


アドルフ・ヒトラーに代わって
リンドバーグに勲章を贈呈するゲーリング

この時にナチスの高官にメダルをもらって機嫌良くしていたことが、
数週間後「水晶の夜」と後に呼ばれるようになるユダヤ人排斥が起きると
彼への大非難となって炎上していくのです。

いやしかし、そもそもこの夕食会も、駐独アメリカ大使が企画し、
ゲーリングやドイツ航空界の中心人物を招いたのもその大使なんですが。

リンドバーグがこの時ゲーリングから受け取った勲章を突き返していれば、
もしかしたらアメリカ国民はそこまでヒステリックに
彼を非難することはなかったのかもしれません。

しかしリンドバーグは勲章の返還を断りました。

「平和な時代に友情の証として与えられた勲章を返還しても、
何の建設的効果もないようだ」

「もし、私がドイツの勲章を返上するとしたら、
それは不必要な侮辱になると思う」

「このような状況下で贈られた勲章を拒否すれば、
良識に反する行為であると感じていた。
(夕食会は大使公邸で行われたため)そこでは
大使の客人に対して不快な行為であったろう」

ここまでは至極真っ当に思われますし、これだけなら
その後もそれほど非難されることはなかったのかもしれませんが。


■不干渉主義とアメリカ第一主義

1938年以降、リンドバーグは各国の航空機の現場を視察することで
政治的な事情に深く関わらざるを得ない立場に入り込んでいきます。

彼の私見は一貫して不干渉主義とアメリカ第一主義でした。

具体的には、ヒトラーのチェコスロバキアとポーランドへの侵攻の後、
リンドバーグは脅威にさらされている国々に援助を送ることに反対し、
次のように発言しています。

「武器禁輸を廃止することがヨーロッパの民主主義を援助するとは思わない」

「戦争をしている一方を援助するという考えのもとに武器輸出をするなら、
なぜ中立という言葉で我々を惑わすのか」

「海外で武器を売ることで自国の産業を発展させようとする人々に応える。
我が国はまだ戦争の破壊と死から利益を得たいと思う段階には至っていない」

今なら、ウクライナ軍に武器を売る国を非難するようなものでしょうか。
これも、中立のふりをして武器を売って儲ける企業の思惑に乗るな、
ということを言っているだけのような気がします。

しかし、リンドバーグがヒステリックなまでに叩かれるようになったのは、
それだけでなく、彼が「アメリカ第一主義」を唱える中で
国内のメディアをユダヤ系が牛耳っていることに疑問を呈したからでしょう。

世界のヒーローとなったリンドバーグの発言が影響力を持ち始めた時、
必ずしも彼の考えを歓迎しない巨大な勢力もまた存在し、
彼を存在ごと潰そうというキャンペーンが繰り広げられた。
彼の発言の内容からはこんな仮定が自然と導き出されます。

1940年後半、リンドバーグは非干渉主義をモットーとする
アメリカ第一委員会のスポークスマンとなっていました。

マディソン・スクエア・ガーデンなどで行われた演説で、彼は
アメリカにはドイツを攻撃する筋合いはないということを力説しています。

演説するリンドバーグ

「私は深く懸念していました。
アメリカという潜在的な巨大権力が、無知で非現実的な理想主義に導かれて、
ヒトラーを滅ぼすためにヨーロッパの“聖戦”に参加するかもしれないことを。

そしてその結果、ヒトラーが滅亡すれば、今度はヨーロッパが
ソビエト・ロシア軍の強姦、略奪、野蛮にさらされ、
西洋文明が致命的な傷を負わせられるであろうことを理解せずに」

結論としてはアメリカは参戦し、ヒトラーは滅亡して
その後アメリカはソビエトとの冷戦に突入することになりましたから、
ある意味リンドバーグは慧眼だったことになります。

アメリカが参戦しなかった世界が現実のそれより良きものになったか?
という仮定にはもちろん誰も答えを出すことはできませんが。



■ルーズベルトとの確執

フランクリン・ルーズベルト大統領は、リンドバーグの意見を
「敗北主義者、宥和主義者」と断じました。

リンドバーグは直ちにアメリカ陸軍航空隊の大佐を辞職し、
アメリカ・ファーストの集会でこのように述べています。

「この国を戦争に向かわせる3つのグループ、それは
イギリス人、ユダヤ人、そしてルーズベルト政権だ」

「アメリカ・ファースト」を掲げたドナルド・トランプが、
民主党的リベラルやユダヤ系のメディア、GAFAに嫌われたように、
ルーズベルトの「アメリカ・ファースト」も、それは排他主義、
そして民族主義だと非難の謗りを受ける運命でした。

今にして見れば勇気のいる発言だったと思われる、
当時のリンドバーグのユダヤ系に対する意見をご覧ください。
今ならその地位がなんであっても社会的抹殺されそうな種類のものです。

「ユダヤ人がなぜナチス・ドイツの打倒を望むのかを理解するのは
難しいことではありません。
彼らがドイツで受けた迫害は、どのような人種であれ、
激しい敵を作るに十分だと思います。

人類の尊厳の感覚を持つ者は、誰であっても
ドイツにおけるユダヤ人に対する迫害を容認することはできません。

しかし、誠実で先見の明のある人なら、彼らの戦争推進政策を見て、
そのような政策が我々にとっても彼ら自身にとっても
危険であることを見抜かないわけにはいかないでしょう。

この国のユダヤ人グループは、戦争を煽るのではなく、
あらゆる手段で戦争に反対すべきです。

寛容は、平和と強さに依存する美徳です。
歴史は、それが戦争と荒廃に耐えられないことを示しています。
少数の先見の明のあるユダヤ人はこのことを理解し、
介入に反対する立場をとっています。
しかし、大多数はまだそうではありません。

この国にとっての彼らの最大の危険は、映画、報道、ラジオ、
そして政府における彼らの大きな所有権と影響力にあるのです。

私は、ユダヤ人とイギリス人のどちらを攻撃しているのでもありません。
どちらの民族も、私は賞賛しています。

しかし、私が言いたいのは、イギリスとユダヤの両人種の指導者たちは、
我々から見て好ましくないのと同様に彼らの視点からも理解できる理由、
つまり「アメリカ的ではない」理由で、
我々を戦争に巻き込みたいと考えているということなのです。

彼らが利益と信じるものに注意を払うことを責めることはできませんが、
私たちもまた、我々の利益に注意を払わなければなりません。

私たちは、他国民に備わった感情や偏見が、
我が国を破壊に導くことを許すことはできないのです。」


長いので3行でまとめると、アメリカはアメリカファーストであるべきで、
ユダヤ人が主導する組織が、ドイツでのユダヤ人のために
アメリカを戦争に巻き込もうとするのは間違っていると。

ユダヤ人の苦境は十分に理解した上で、それでも
アメリカは不干渉を貫くべきだと言っているわけですね。



そしてこうなる

アン・モロー・リンドバーグ夫人は、彼の演説に対する批判に対して、
リンドバーグの評判が不当に汚されることを懸念しました。

「リンドバーグの誠実さ、勇気、そして本質的な善良さ、公平さ、優しさ、
その気高さ・・私は一人の人間としてリンドバーグを最も信頼している。

それなのに、彼がしていることについて
私が深い悲しみを感じているのは、どういうわけだろう?

もし彼が言ったことが真実なら(そして私はそう思いたい)、
なぜそれを述べることがいけなかったのだろう?

彼は戦争を支持するグループを名指ししたのだ。
彼が英国や政権を名指ししても誰も気にしない。

しかし、『ユダヤ人』と名指しすることは、
それが憎しみや批判なしに行われたとしても、非米国的である。
なぜなのだろうか。」

アンは、リンドバーグが敵に回した勢力の巨大さと
その力に、底しれぬ恐怖を感じているように見えます。


しかし彼はユダヤ人の迫害までを容認していたわけではありません。

1938年11月「クリスタル・ナハト(水晶の夜)」が起こりました。
これに対しリンドバーグは不快感を示しています。

「(こんなことは)ドイツ人の秩序と知性に反しているように思える。
彼らは間違いなく困難な "ユダヤ人問題 "を抱えていたのに、
なぜこれほど理不尽に処理する必要があるのか」

彼は、全人口に対するユダヤ人の割合が高くなりすぎると、
必ず反動が起きるおで、適切な割合に調整するべきだとして、

「適切なタイプの少数のユダヤ人は、どの国にとっても
財産であると思うので、残念なことである」

と述べ、この考えは多くのアメリカ人に深く共鳴され、
彼の優生学と北欧主義は社会的に受け入れられていきますが、
ナチスの優生学とリンクしており、肝心のナチスが彼を称賛したため、
ナチスのシンパであると疑われていました。

ルーズベルトはリンドバーグの政権の介入政策への率直な反対を嫌い、
財務長官ヘンリー・モーゲンソー(ユダヤ系)に

「もし私が明日死ぬとしたら、これだけは知っておいてほしい、
私はリンドバーグがナチだと絶対に確信している」


といい、陸軍長官ヘンリー・スティムソンにも

「リンドバーグの演説を読んだとき、これは
ゲッペルス自身が書いたとすればこれ以上ない表現だと感じた」

繰り返しますが、リンドバーグはユダヤ人の迫害に
一度たりとも賛同したことはありません。
実は白人の優位性を信じ、ユダヤ嫌いであったかもしれませんが、
それはそれ、これはこれという態度です。

終戦後まもなく、ナチスの強制収容所を見学した彼は、

「人間、生と死が最低の品位にまで達している場所であった」

と激しい不快感を示しました。

優生学といえば、彼はヨーロッパ系の血の継承を尊重、つまり
外国の軍隊による攻撃と外国の人種による希釈から自分たちを守る限り、
アメリカは平和と安全を得ることができるという考えでした。

「科学と組織に関するドイツの天才、
政府と商業に関するイギリスの天才、
生活と人生に対する理解に関するフランスの天才」

「アメリカではそれらが混ざり合って、
最も偉大な天才を形成することができる」

と信じていたといいます。

ホロコースト研究家(つまりユダヤ系側の人間)にとって彼は、

「善意はあるが、偏見に満ちた誤ったナチスのシンパであり、
その孤立主義運動のリーダーとしてのキャリアは
ユダヤ人に破壊的な影響を与えた」


リンドバーグのピューリッツァー賞受賞の伝記作家A・スコット・バーグは、

「リンドバーグはナチス政権の支持者というよりも、
自分の信念に頑固で、政治工作の経験が比較的浅かったため、
ライバルが自分をそう描くことを簡単に許してしまったのだ」


と主張していて、わたしはこちらが公平な視点かと思われます。

時代がそういうことにしてしまったからこそ
ナチスシンパなどという色に染められたリンドバーグでしたが、
ナチスから勲章をもらったのも当時のアメリカ政府の手引きでしたし、
その考え方は戦間期のアメリカでは一般的なものであり
多くのアメリカ人の意見でもあったということを忘れてはなりません。


■ スピリット・オブ・セントルイスの卍


真ん中にハーケンクロイツが書かれたスピナーキャップ。
これは外されてしまいましたが、オリジナルのリンドバーグの愛機、
「スピリット・オブ・セントルイス」に装着していたものです。

1927年5月12日、リンドバーグがロングアイランドに到着した後、
スピナーシュラウドに亀裂が発見されたのでノーズコーンが交換されました。

この時航空機の仕事をした男女は、皆でノーズコーンにサインをしました。

その名前の中には、ライアン航空の社長だったB・F・マホニー、
ライアンの工場長で有名な飛行機設計者ホーレー・ボウラスがあります。

スピナーの真ん中にある鉤十字にギョッとしてしまったのですが、
よく見てください。
日本の神社の印と同じで、鉤の向きが反対です。
これはスミソニアンによると、

「ネイティブアメリカンのグッドラックシンボルです」

なのだそうです。

SWASTICA(卍)がなぜスピナーの真ん中に描かれたか、
そこまでスミソニアンの説明にないのですが、
おそらく卍の周りにあるマホニー、ボウラスと後二人が
何か意図してこれを書いたのかもしれません。

ただ、マホニーもボウラスも、およそネイティブアメリカンとは
血縁的にも全く関係なさそうなのが何やら不気味ですが・・・。


続く。










靖国神社のチャールズ・リンドバーグ夫妻〜スミソニアン博物館

2022-07-08 | 歴史

前回に引き続き、スミソニアン博物館のリンドバーグ展示をご紹介します。



「ヒストリカル・エアプレーン」の一つとして、それは
ここスミソニアン航空博物館に展示されています。

ロッキード・シリウス ティングミサートゥク
Lockeed Sirius Tingmissartoq

この水上機はセレブリティ夫婦、チャールズ・リンドバーグ夫妻を乗せ、
霞ヶ浦に着水して民衆に熱狂的に歓迎されたことがあります。

680馬力のライト・サイクロンを搭載したロッキード低翼単葉機
シリウスは1929年にジョン・ノースロップらによって設計された新型で、
このモデルは、着水用のポンツーンフロートと地上用の車輪、
いずれかを装着して飛行するよう、特別に設計されています。

チャールズとアン・モロー・リンドバーグ夫妻は、
このロッキード・シリウスで2回の長く危険な飛行旅行を行い、
航空会社の海外ルートを開発するという調査を行なっています。

【1931年、アジア航路の開拓】

一度目、1931年に彼らを乗せたシリウスは東洋へ飛びました。
これが「大圏航路」によって極東へ到達した最初の航空機となります。

のちにリンドバーグは、この旅のことをこう表現しています。

「始まりも終わりもなく、
外交上も商業上の意味も持たず、
求めるべき記録もない休暇」

航空会社の調査とはいえ、この飛行がいかに自由気ままで冒険に富み、
彼らにとっての「心の飛翔」でもあったことがわかる気がします。



グリーンランドのゴダブに訪れたとき、いかなる経緯かはわかりませんが、
エスキモーの少年がこの機体に、現地の言葉で
「ティンミサートク」(『鳥のように飛ぶ者』『大鷲』)と名付けました。

機体の側面には、その少年の手によってこの名前が描かれています。



リンドバーグがパンアメリカン航空の技術顧問を務めていた1933年、
リンドバーグ夫妻はこのシリウス号を使って大西洋を横断し、
パンアメリカン航空の飛行経路を開拓する2回目の任務を行いました。

いずれの飛行も、広大な水域と未知の人口の少ない地域を巡る旅で、
商業飛行という概念を芽生えさせるきっかけを作ったリンドバーグが、
今度は国際的な空の旅のルートを航空会社の要求に応じて探索したのです。

全く商業的な意味が絡まないわけではありませんでしたが、
彼らが心からこの飛行を楽しんだ大きな理由の一つは、
1927年に国民的英雄となって以降、リンドバーグに常に付き纏っていた
世間の目からしばし解放されたことが大きかったかもしれません。

写真は、ロングビーチに到着し、陸揚げされたシリウスと夫妻の姿。


アラスカのエスキモー部落で、犬ぞりに座るアンと後ろに立つチャールズ。



赤線が1931年、破線が1935年の航路を記したものです。
1931年の航路は以下の通り。

ニューヨーク→オタワ→チャーチル→ポイントバロー(アラスカ)
→シスマレフ(アラスカ)→ノーム(アラスカ)
→ペトロパブロフスク(カムチャッカ半島)→ケトイ島(千島列島)
→紗那村(択捉島)→国後→根室→東京→大阪→福岡
→南京→漢口

霞ヶ浦に到着したリンドバーグ夫妻の乗った車を取り囲む人々 

リンドバーグ夫妻が来日した時の詳細は次のとおり。

8月23日、アラスカから千島列島を伝って北海道へ到達

根室に2日間滞在後、26日霞ケ浦へ飛来

フォーブス駐日米国大使、安保清種海軍大臣、杉山元陸軍次官、
小泉又次郎逓信大臣(小泉純一郎の祖父)
ら、
日米の政府高官や海軍関係者など約1000人が出迎える

同日列車で東京へ向かい、
聖路加病院トイスラー院長邸に滞在、
トイスラー邸が東京での根拠地となる

27日から31日まで多数の歓迎式典や表敬訪問

9月1日から4日までフォーブス大使の軽井沢別荘で休養

5日は日光を周遊し
金谷ホテルで1泊、6日に東京に戻る

チャールズが逓信省航空局で飛行計画の打ち合わせや、
霞ケ浦で愛機の点検と試運転など出航準備を進ている間、
アン夫人は博物館の見学や茶道・華道の体験

13日大阪へ飛来後、自動車で京都に入洛し、都ホテルに宿泊

奈良から大阪を経て、福岡へ向かう

9月17日福岡を離陸

冒頭の靖国神社の写真はこのときのもので、
案内をしている陸軍軍人は杉山元陸軍大臣であろうと思われます。

アン・モローはこの時の記録として『NORTH TO THE ORIENT 』を著し、
その中に、関西滞在中、京都の少年がリンドバーグ夫妻の飛行機に潜入し、
密航を企てる事件
が発生したことが書かれているそうです。


ところでこのときリンドバーグがなぜアラスカを経由したかですが、
地球の形状から、アメリカ本土とアジアを最短距離で結ぶには
アラスカに北上する必要があると考えられたからでした。

このとき初めてリンドバーグが飛行機で飛んだことで、
新しく北極圏の航空路が開拓されたわけですが、皆様もご存知の通り、
現在でもアジアとアメリカを結ぶ旅客機のほとんどは
アラスカを経由するルートを飛行します。


前回アラスカ上空で撮ったiPhone写真

アメリカへの行き来の際、アラスカ上空をいつも飛行しているわけですが、
これがリンドバーグが「パス・ファインダー」として成した開拓の賜物で、
後世の我々にあまねく齎した恩恵だったをいうことを今回初めて知りました。

今更ですが、ありがとうリンドバーグ夫妻。



で、このアン・モローの写真ですが、彼女がが着用しているのは、

「パーソナル・フライングエキップメント」

彼女以前に飛行機に乗って極寒の地に飛んだ女性はなかったので、
全ての装備装具は彼女が自前で開発することになりました。

彼女が着用しているのは「ハドソンベイパーカ」「ハドソンベイキャップ」
そしてハンドメイドのストッキング型ブーツ、ミトン。

リンドバーグ夫妻がソ連のレニングラードに到着した時の装いです。
彼女が着ているからオシャレに見えますが、フライト用の実用スーツです。

何しろ飛行機には重量物を積むのはご法度、というわけで、
彼らは自分がフライトで着るアウターウェア以外に
それぞれたった18ポンド(8kg)の服しか持っていませんでした。

靖国神社での彼らの装いを見ると、夏服ですが、
フライトには完全防寒と風避けのため
大使館でのパーティ用の服もあったに違いありません。

今と違って軽い合成繊維の衣類などありませんから、
背の高いリンドバーグのスーツは重く、きっと一着を着回していたでしょう。



スミソニアンはこの「ハドソンベイ・シリーズ」現物を展示しています。

パーカは白のウールで胴のラインは黒。ポケットは二つ。
パーカには取り外しできるフード(左上)が付いています。

ブーツもウールで、これで歩くのはなかなか大変そうですが、
赤と緑の刺繍がなかなかかわいいですね。

ミトンもウールで、赤と青のメランジ風の編み込みがされており、
アン・モローがお洒落にこだわりを持っていたことが窺えます。



アン・モローが驚嘆したアラスカ山脈を越える瞬間を
後世の人が絵にしたものだと思われます。


アウチ。

リンドバーグ夫妻の飛行は最後まで順調でしたが、
中国の漢口で事故が起こります。

イギリスのエアクラフトキャリア「ハーミス」号から
シリウスを揚子江に降ろす際、片方の翼が船のケーブルに当たって
横転したまま川に転落してしまったのです。

ひっくりがえった愛機の上に半裸で乗って、点検しているのは
他でもないリンドバーグ本人です。

破損した飛行機はアメリカに戻さざるを得なくなり、
1931年のリンドバーグの飛行はここで終了となりました。

もしここで飛行機が破損しなければ、リンドバーグ夫妻は
もしかしたらこの後中国国内を何箇所か巡っていたかもしれません。

【1933年の飛行〜大西洋航路開拓】



パンアメリカン航空と他の四つの大手航空会社は、
商業用航空路の開発にビッグビジネスの活路を見出していたため、
リンドバーグに今度は可能な大西洋ルートの調査を依頼しました。

リンドバーグはパンアメリカンのテクニカルアドバイザーとして
ニューファンドランドからヨーロッパへのルートの開発を目的とした
調査飛行に派遣されました。

この時の航路は大体以下の通り。

ニューヨーク→ニューファンドランド→ラブラドール
→グリーンランド→アイスランド
→コペンハーゲン→ストックホルム→ヘルシンキ
→レニングラード→モスクワ→オスロ
→サウザンプトン→パリ→アムステルダム→ジェノバ
→リスボン→バサースト(ガンビア)
→ナタール(ブラジル)→マナウス→サンフアン(プエルトリコ)
→マイアミ→チャールズタウン→ニューヨーク

ニューヨーク出発は7月9日、到着は12月19日でした。
総飛行距離は3万マイル(4万8000キロ強)、
訪れた国は合計で21カ国にのぼりました。

この時彼らの調査で分かった気象条件と地形についての報告は、
航空会社が商業航空路を計画する上で大変貴重な資料となりました。

つまりこの時の調査飛行も、現在の航空会社の航路として生かされています。
ありがとうリンドバーグ夫妻。


【ティングミサートクに積まれた装備と必要品】


リンドバーグ夫妻は、自分たちが歴史に名を残す存在であることを自覚し、
旅行のために用意した品々の大半を大切に保存していました。

スミソニアンではこれらを近年初めて公開し、展示について、

「リンドバーグの素晴らしい計画への洞察力を認識すると同時に、
旅行の時に持って行く荷物に頭を痛めたことのある来館者なら、
長旅のために彼が何を選んだかに共感することでしょう。 」

と自画自賛しています。
そのグッズとは。


当時のグラノーラバー的な麦芽乳のタブレット
グリーンランドの氷冠に不時着したとき用、全長約11フィートの木製ソリ、
スノーシュー、アイスアイゼン
海に不時着したときのためのマストと帆をつけたゴムボート
虫除けや牛タンなどの食料缶色々


また、スミソニアンにはこんな展示もあります。


「これはなんでしょう?」と興味を引くように書かれた水筒のようなもの。



アームブラスト・カップといいます。

顔に装着することで、呼気の結露を飲み水に変えるという不思議なもので、
海に不時着するような非常時を想定したサバイバルグッズです。

飛行機には重量制限があるため、限られた量の水しか積めません。
リンドバーグは、大西洋単独横断飛行の前にこの新発明について読み、
1つ手に入れて持って行ったのです。

彼はこれをシリウス号での旅行にも持参していました。
シリウスでの飛行は順調だったので使われることはありませんでしたが、
いざという時のため、 重さに見合うだけの価値があると考えたのでしょう。

スミソニアンではこの物体の名称がいくつも表記があって、
どれが正しいのかわからなかったそうです。

アンの著書には"armburst "カップと書かれていましたが、学芸員が
この商品の特許を取った人物チャールズ・W・アームブラストの名前から
”Armbrust”が正しいことを突き止めたそうです。

でっていう話ですが。



リンドバーグがシリウスに搭載したものの中には、ソリ、
ピスヘルメット(イギリスの防暑用のヘルメット兼帽子、サファリ帽とも)
蚊除けネット・・と並べると奇妙な取り合わせがありました。

彼らは最も寒い気候の国を通り抜け、最も暑い国に移動したため、
(北極圏に近いところからアフリカ、ブラジルのアマゾンまで)
グリーンランドで氷冠に緊急着陸する場合に備えて組み立て式のソリ、
そしてアフリカやブラジル、南半球ではピスヘルメットで頭部を守り、
さらには虫から顔を守るためのネットも必要だったのです。



スミソニアンには、このロッキード・シリウスが陸上機だった時の
ホイールタイヤが展示されています。
タイヤはグッドリッチ・シルバーストーンというメーカーによるものです。

現在はミシュランのブランドの一つ、「グッドリッチ」となっています。



同じくホイールカバー(英語ではホイールパンツというらしい)。

【チーム・リンドバーグ】



二人の後ろに船員らしき男性の姿が見えていますが、これは
1933年の飛行旅行の際、チャーターされたデンマークの蒸気船、
SS「ジェリング」Jellingの船長ではないかと思われます。



リンドバーグ夫妻の調査旅行に随伴した「ジェリング」は、
調査を依頼したパンナムがチャーターしたもので、リンドバーグの飛行を
燃料などの補給やサポートすることを目的に、カナダの探検飛行家で、
パンナムの社員だったロバート・ローガン指揮するチームが乗っていました。

「ジェリング」は地図で緑色の線で記されている航路を航行して
その間シリウスの後を置い、同時に海上で調査プロジェクトを行い、
気象条件の観察、空港候補地の地図作成、海の深さと潮流の科学測定、
港の地図作成なども行っていました。

このことはパンアメリカン航空の社史のページに、
次の動画とともに掲載されています。

With Charles and Anne LIndbergh in Greenland, 1933


写真でアンが抱えているのは無線機器です。

1931年と1933年のフライトで、彼女は無線手順、モールス信号、
そして天体航法までを完全にマスターしていました。

このフライトで妻に遭遇させるかもしれない「潜在的危険」について
記者に尋ねられたリンドバーグは、このように答えています。

「しかし、覚えておく必要があります。
彼女は乗員であるということです」


すでに彼女は同伴者ではなく、フライトチームの一員である、
ということを言いたかったのでしょう。


続く。




「ラッキーリンディー」〜スミソニアン博物館のチャールズ・リンドバーグ

2022-07-06 | 飛行家列伝

前回に続き、スミソニアン航空博物館プレゼンツ、
チャールズ・リンドバーグ特集です。

冒頭イラストは、スミソニアン博物館おなじみの飛行家紹介コーナーのもの。
「The Lone Eagle」というキャッチフレーズは、
彼が成し遂げた大西洋横断飛行の際、
機体を改造したこともあって一人しか乗れず、
バックアップのパイロットなしで飛行したことを指しているかもしれません。

【”ラッキーリンディ”ブーム】



大西洋単独飛行ののち、彼は一躍ヒーローになりました。
まさに、バイロンの言うところの「目覚めてみたら有名になっていた」です。


リンドバーグの大西洋横断を報じるニューヨークタイムズ。
ヘッドラインは

リンドバーグがやった!
33時間30分でパリへ;

雪とみぞれの中1000マイル飛行ののち;
彼を讃えるフランスの人々がフィールドから彼を運ぶ」

そのほか、めぼしい文章を書き出してみますと、

「聴衆の歓迎の声は雷鳴の如く鳴り響いた」

「兵士と警察のラインを突破してコックピットから
疲労し切った飛行士をコクピットから飛行機の上に押し上げた」

「彼が食べたのはサンドイッチ一つと半分だけ」

「大使館で行われたインタビューで彼は冒険を語った」

セントルイスのパイロット仲間やビジネス界の後援者の間で
「スリム・リンドバーグ」と呼ばれていた彼は、見るからに内向的で
有名になってからもどこか陰気さが拭えない目立たぬ青年でしたが、
英雄となってから世間に巻き起こった「リンディ・ブーム」で、
名前に便乗して儲けようと、あらゆる商人が彼を利用しました。

彼の飛行機にちなんだ「スピリット・オブ・セントルイス」レターオープナー、
「ラッキーリンディ・リッド」と呼ばれる婦人用帽子。

いくら流行りでも、これは後で被ってたのが黒歴史になるレベル


彼の写真が上部に挿入されたパテントレザーの靴、少年用半ズボン
そして「ラッキーリンディ・ブレッド」までもを生み出しました。

「太陽🌞ビタミンD増量」と謎の謳い文句のあるパンの包み紙

ひ、日の丸?

当然、そのものズバリ「ラッキー・リンディ」という歌もありました。


「西海岸から東海岸まで、その名を響かせた人に乾杯しよう」
(1番)

「子供のように微笑むこのヤンキー野郎のせいで世界は大騒ぎ」
(2番)

一応読める方のために楽譜を載せておきます。

Lucky Lindy


なんと手巻きの蓄音機で音源をアップしている人が・・・。
(わたしが発見した段階で再生回数26回)
我慢して聞いていると、国歌と「ヤンキードゥードル」、
続いて飛行機のプロペラの音が聴こえてくるという凝った?構成。

曲が終わったと思ったらエンジン音が去っていく、という具合です。



リンドバーグは、塗り絵からゲーム、おもちゃなどの子供向け商品でも
一種のマーケティング現象を起こしたため、
全米で彼の名を知らない子供はいないというくらいになりました。


なぜか飛行機が描かれたトラックまで


そして航空業界で空前の「リンドバーグ・ブーム」が巻き起こりました。
彼の快挙で航空機業界の株が跳ね上がり、飛行への関心は高まりました。

この子供たちの中からは、のちに何人もの有名な飛行家が出ました。
それだけでも大した影響力だったと言えます。

そして、彼がその後行ったアメリカ全土への飛行行脚は、
飛行機がいかに安全で信頼できる輸送手段であるかの可能性を
国民に宣伝するのに大いに役立ったのです。

そしてリンドバーグは自分の名声を、惜しみなく
商用航空の拡大を促進させようとする航空業界に提供しました。


【ザ・リンドバーグ・ライン】

トランスコンチネンタル・エア・トランスポート、
(大陸横断航空輸送)TAT
社幹部とリンドバーグ

TATは現在トランスワールド航空(TWA)となっていますが、
この頃は「エアライン」という会社名は存在しませんでした。
民衆の移動手段として航空という概念がなかったからです。



1929年に始まったTATの「大陸横断旅行」では、汽車と飛行機を乗り継いで
48時間で大陸を横断ができるというのがキャッチフレーズでした。

TATはリンドバーグをアドバイザーに雇い、
彼のアドバイスでこの大陸横断プランを開発し発売します。



ちなみにこの時売り出された移動方法は、
ポスターの地図に示されていますが、具体的には以下の通り。

🚃夜行列車でニューヨークからオハイオ(中西部)まで行く

🛫翌日日中、オハイオ州コロンバスからオクラホマ(南中部)まで飛行機移動

🚃その夜サンタフェ鉄道でニューメキシコ(南西部)まで寝台車で移動

🛫次の朝飛行機に乗ってロスアンゼルスに到着

ニューヨークからロスまで48時間、338ドルで行けるのがウリでした。

今のおいくら万円かと言いますと、当時の最新モデル新車、
シェボレー・コーチが525ドルだったことから、現在の日本円では
片道300万円強くらいだったのではないかと考えられます。

上のポスターは、ニューヨークからオハイオまでの陸路を担当?する
ペンシルバニア鉄道の宣伝です。


この方法だと、エアラインという割に汽車移動が多いので、
TAT社は「Take the A Train」社などと揶揄されていたと言いますが、
それでも、この乗り継ぎ方式は画期的な新基軸でした。

それから100年後の今では、NYからロスまで6時間半で移動できます。
まさに文字通りの隔世ですが、その最初の一歩のきっかけとなったのが
他でもないリンドバーグの成功だったことは言うまでもありません。



TAT社はその後TWA社と名前を変えました。
この頃にはリンドバーグの開発した路線は「リンドバーグ・ライン」として
普通に有名になっていたということです。

この企業への協力でリンドバーグが成し遂げたのは、
空路の開拓と、全米に数多くの空港を設立したことでした。

もっと端的にいうと、「リンドバーグ以前」には、
世界のどこにも商業航空という概念は存在していなかったのです。


リンドバーグがたった一人で小さな飛行機に乗って海を渡ったとき、
人類は安全に空を飛び、予定通りに正確に目的地に行くことができる、
という現在ではごく当たり前のことが可能であることを
当時の人々は初めて知ることになったのでした。

この瞬間から航空はビッグビジネスとなっていくのです。

【アン・スペンサー・モロー】


リンドバーグを語って彼の妻、アン・モローを語らないわけにはいきません。



大西洋横断を成功させた後、彼が凱旋飛行としてメキシコを訪れたとき、
アテンドした当時のメキシコ大使、銀行家のドワイト・モローとその娘、
アン・スペンサー・モロー嬢。

恥ずかしくなるほどわかりやすい経緯を経て、リンドバーグは
モロー大使の令嬢に引き合わせられ、そして結婚しました。

「わかりやすい経緯」と書きましたが、そのいきさつは実はわかりません。
わかりませんが、安易に想像がつくではありませんか。

モロー大使はその後JPモルガン商会のパートナーとして
リンドバーグのファイナンシャルアドバイザーを務めた人物です。

まあいわばリンディの後援者でありタニマチという位置付けですね。

メキシコへの訪問の際、彼は21歳の名門スミス大学在学中のアンと出逢い、
そしてアンはその時のことをこう書いています。

「彼は他の誰よりも背が高かった。
群衆の中でも頭一つ高く、目立つ彼の視線は誰よりも鋭く、
しかし澄んでいて明るく、より強い炎で照らされているようで、
それがどこを向いているのかすぐに気づくのだ。

わたしはこの青年に対して何を言えただろう?
何を言ってもそれは凡庸で表面的な言葉にしかならない。
まるでピンクのフロスティングシュガーをまぶした花のように。

わたしはそれ以前の世界を、軽薄で、表面的で、刹那的なものと感じた」

この文章を見てお気づきの方もおられると思いますが、
アン・スペンサー・モローは大変文学的な女性でした。

彼女の父親は大使、そして母親は詩人で教師。

彼女は毎晩母親の読み聞かせを1時間聴いて育ち、詩を書き、
大学で文学士号を取得し、のちにはエッセイや小説を残しています。

ところで、夫となったチャールズ・リンドバーグですが、前にも書いたように
大西洋横断成功後に、出版業者の大物パットナムとの契約にのっとり、
グッゲンハイムの豪邸に缶詰になって、3週間で書き上げた自伝は
実に単純な、悪くいえば稚拙なものだったとされていましたね。

書くものは時代を経るごとに良くなっていったそうですが、彼は
その自伝の中で、バーンストーマー時代の同僚の「女好き」を揶揄し、
陸軍で見た士官候補生たちの「安易な」恋愛観を批判したりしています。

国民的英雄に、その著書中、ほとんど名指しで書かれた当事者たちが
どう思い、また彼らが周りからどう言われるか、
その辺をちょっとでも考えたことはなかったのでしょうか。

そして彼の理想的な恋愛とは、

「鋭い知性、健康、強い遺伝子を持つ女性との安定した長期的なもの」

であり、

「農場で動物を飼育した経験から、優良な遺伝子の重要性を学んだ」

とも述べています。

彼は有名になるとほとんど同時にアンと知り合い、結婚しましたから、
これらの考えは、彼女との関係性の中で生まれてきたものと思われます。

が、それにしても、アン・モローの文学的内省的表現に対し、
リンドバーグのこの考えは、いかにも即物的で、

それは恋愛観ではなく生殖観だろうが!

と思わず突っ込んでしまいたくなるほど愛がありません。
何やら違和感とこの二人の性質の齟齬すら感じてしまいますね。

もし彼女が夫の影響で自らも飛行家に転身しなければ、
おそらく二人の破局は避けられなかったのではないかという気がします。



アン・モロー・リンドバーグは、スミソニアン博物館において
リンドバーグの妻ではなく、一人の女流飛行家として紹介されています。

恥ずかしがり屋で学究肌の銀行家の娘、アン・スペンサー・モローは
1906年、ニュージャージー州イングルウッドで育ちました。

彼女はスミス大学を優等で卒業し、執筆で賞を受賞しました。

アンは、父親が在メキシコアメリカ大使を務めていたメキシコシティで
有名な飛行士、チャールズ・リンドバーグに出逢いました。

リンドバーグがアンに操縦のレッスンを行うと同時に二人は恋に落ち、
1929年5月27日(リンディが大西洋横断を成功させたちょうど2年後)、
結婚しました。

1933年に彼女はナショナル・ジオグラフィック協会の
ハバード金メダルを受賞した最初の女性になり、
1934年には飛行家に与えられるハーモントロフィーを受賞しました。

1934年まで、アンは「航空のファーストレディ」(First Lady of Aviation)
と呼ばれており、それから作家としても評価されるようになりました。

また、彼女は3000マイルの長距離無線通信記録を樹立し、
ベテラン無線事業者協会の金メダルを受賞した最初の女性となりました。


1931年、彼女は夫リンドバーグと一緒にパンアメリカン航空から依頼されて
北太平洋航路調査のため、ニューヨークからカナダ・アラスカを経て
日本と中華民国まで水上機「ティンミサトーク」で飛行しています。


これは先日の帰国時のアラスカ

この飛行でアラスカを超え、着地する瞬間について、
彼女が自著で書いている言葉がこの写真に添えられています。


”四方に高い雪が縞模様に積もった山がある。
わたしたちはついに氷山の間に着陸するのだ。”


アン・モロー・リンドバーグ 1933年8月6日


リンドバーグ夫妻が日本に到着するシーンが見られる
一連のニュースフィルムが残っています。

ジングル?というかニュースの始まりには、先ほどの
「ラッキー・リンディ」のイントロがそのまま使われていて、
この曲が彼のテーマソングとして扱われていたのがよくわかります。

霞ヶ浦に着水するのは3:40から。
リンディの飛行機を海中で抑えて?いるのは、その事業服から見て
霞ヶ浦航空隊の兵隊さんたちであろうと思われます。

到着に対し、全員で万歳していることも、アナウンサーは報じています。

Lindbergh With His Wife Aka Lindburgh With His Wife (1931)

飛行機から降りてきたリンドバーグがスーツにネクタイというのがすごい。

次回はリンドバーグ夫妻についてのスミソニアンの記述をご紹介します。

続く。





スミソニアンのチャールズ・リンドバーグ展示〜「翼よあれが巴里の灯だ」

2022-07-04 | 飛行家列伝

スミソニアン航空宇宙博物館には、この飛行界のパイオニアにして英雄、
あるときは非難の対象となったチャールズ・リンドバーグについて、
大変なボリュームの資料と展示があちらこちらにあります。

その最も大きく、彼の存在意義が一目でわかる展示が、
このスピリット・オブ・セントルイス号、1927年5月21日、
リンドバーグが史上初めてノンストップでの大西洋横断単独飛行に成功した
ライアン NYP-1 であることは言うまでもありません。

今回はスミソニアン博物館のリンドバーグ関連展示を紹介していきます。


歴代の有名飛行家コーナーはミリタリーとシビリアンに分けられており、
リンドバーグはその筆頭に紹介されています。

「チャールズ・リンドバーグとライアンNYPスピリットオブセントルイス」

というパネルには、見るからに仕立てのいいスーツに長身を包み、
飛行帽を被ったリンドバーグの等身大の写真が添えられています。

「1927年5月27日、チャールズ・A・リンドバーグは、史上初めて
単独かつノンストップで、愛機スピリットオブセントルイスによる
ニューヨークのロングアイランドからパリまでの飛行をおこなった」

チャールズ・オーガスタス・リンドバーグとは?

⚫︎バーンストーマー。航空郵便パイロット

⚫︎大西洋を単独横断した最初の人間

⚫︎飛行機が安全で信頼できる輸送手段であることを証明するため
スピリットを48州全てに飛ばした

⚫︎航空会社のアドバイザーとして航空界の発展を助けた


barnstormerというのは元々旅芸人とかの意味がありますが、
飛行機が登場してからは、アクロバット飛行やパラシュート降下を見せて
全国を巡業する職業パイロットのことを言うようになりました。

1922年、リンドバーグはウィスコンシン大学で1年半学んだ後、
ネブラスカ・エアクラフト社で航空学を学びはじめます。

名門ウィスコンシン大学のマディソン校で工学を少し学んでいますが、
1年半で中退し、彼は本格的に飛行機人生を歩むようになります。

【陸軍とリンドバーグ】


チャールズ・リンドバーグ陸軍少尉、23歳ごろ

すでにこの頃彼はバーンストーマーとして活動していましたが、
何を思ったか陸軍で軍事飛行訓練を受け、卒業しています。

最初104人いた同期の訓練生は卒業時には18人しか残っていませんでした。

その中で首席だったリンドバーグは陸軍予備少尉に任官しますが、
当時陸軍は現役のパイロットを必要としていなかったため、
彼は予備役に席を置きながら民間でバーンストーマーや教官をしていました。

そしてセントルイスのミズーリ州兵第35師団第110観測飛行隊に所属し、
軍の飛行も部分的に続けて1926年には少尉から大尉になっています。

予備役となってから、彼はセントルイスとシカゴを結ぶ
民間航空便のパイロットを務めていました。

その後彼は飛行家としての栄誉に伴い、軍における階級は
最終的に1954年准将にまで昇進しています。


【翼よあれが巴里の灯だ】



そもそもどうしてリンドバーグは大西洋横断飛行をすることになったか。

それは彼がトランス・アトランティック航空が企画したコンテスト、
成功すれば賞金25,000ドルがもらえる
「ニューヨーク・パリ間横断飛行」に自ら応募したからでした。

1919年、フランス生まれのホテルオーナー、レイモンド・オルテイグは、
ニューヨークからパリまでノンストップで飛行した最初の飛行家に
2万5千ドルの賞金を出すことを提案しました。

スミソニアンには、この時のエントリーシートが展示されています。
1927年当時の2万5千ドルは2022年現在で5千万円ちょっとの価値です。

誓約書の条件を見ると、全米飛行協会に定められた規則の遵守、
気象条件やその他アクシデントによって不利益を被った場合も
主催者にその責任を問うことを放棄するということが書かれています。

また、サインされた日付は、コンテストの約3ヶ月前となっています。

後年、リンドバーグは

「賞金よりも飛行に挑戦することにずっと興味があった。
(賞金にも興味がないわけではなかったけど)」

と書いています。


"平和と親善の使者は、時間と空間の壁をまた一つ打ち破った"

1927年、チャールズ・A・リンドバーグの大西洋単独横断飛行について、
カルヴィン・クーリッジ大統領はそう語りました。

その後、1969年にアポロ11号が月面着陸したというニュースまで、
リンドバーグが小さなライアン単葉機をパリに着陸させたときほど、
全世界が航空イベントに熱狂することはなかったと言えます。

1927年初頭、彼はわずか数人の知人の支援を得て、1919年、
2万5千ドルの賞金を賭け、史上初となるニューヨーク-パリ間、
初の無着陸飛行に挑戦することになり、サンディエゴのライアン航空に、
そのために必要な仕様の航空機を発注しました。

設計開発は、飛行の目的を考慮して慎重に行われました。
主翼幅の10フィート拡大、胴体と主翼の構造部材は
より大きな燃料負荷に対応できるよう設計し直され、
主翼の前縁には合板を貼るという工夫がされましたが、
胴体は、2フィート長くなった以外は標準的なM-2の設計を踏襲しました。

コックピットは安全のため後方へ、そしてエンジンはバランスのため
前方へ移動し、燃料タンクが重心になるように据えたことで、
パイロットは前方をペリスコープか、あるいは機体を回転させて
側面の窓からしか見ることができなくなりました。


これは地味に精神的ストレスになったのではないかと想像されます。

エンジンはライト社のワールウインドJ-5Cを使用。
1927年4月下旬に機体の整備が完了しました。

機体は銀色で、垂直尾翼上部に登録番号N-X-21 1が記され、
他の文字もすべて黒でペイントされました。


リンドバーグは本番まで何度かテスト飛行を行っています。

写真は、テスト飛行でサンディエゴからニューヨークまで飛行した後のもの。
セントルイスへの着地を含め飛行時間は21時間40分でした。



ニューヨークで数日間天候に恵まれるのを待った後、
5月20日の朝、ガーデンシティホテルで前夜眠れなかったリンドバーグは、
スピリットオブセントルイス号を、現在ショッピングモールとなっている
カーティスフィールドの格納庫から、長い滑走路に牽引させました。

明るいうちから大勢の人が集まり、リンドバーグを見送りました。
この時のことを彼は後に、

「パリへのフライトの始まりというより、葬儀の行列のようだった」

と語ったそうですが、彼の目から見て、見送りの人々は
ことごとく不安からくる暗い表情をしていたのでしょうか。

そしてリンドバーグはたった一人でパリに向けて飛び立ちました。

その後彼は17時間飛び続け、40時間近く起きていた時のことを
自らの言葉で痛々しく表現しています。

「背中はこわばり、肩は痛み、顔は火照り、目はしょぼしょぼした。
これ以上飛び続けるのは到底不可能に思えた。
そのとき私がこの人生で望むことはたった一つ、
体を横たえて伸びをし、眠ることだけだった・・・」

数十年後、リンドバーグは、24時間飛行した後、
このような幻覚を見ていたことを認めています。

「ぼんやりとした輪郭で、透明で、動いていて、
飛行機の中で私と一緒に無重力で移動している誰かの姿」

それら(複数だったらしい)は善良な人間のような形をしていて、
エンジンの轟音の中で彼に話しかけてきたのみならず、
「普通の生活では得られない重要なメッセージ」を与えてくれたと。

やがて彼らは彼を置いて消えてしまい、彼は別の幻影を見ました。

機体を旋回させ、波の上約15mを飛行しながら窓から身を乗り出して、
漁師に「アイルランドはどっちだ」と尋ねるというシュールなものです。
もちろんそれは幻覚なので答えはありませんでした。
(これは日本語のwikiでは実際に起こったこととして書かれている)

ちなみに後年彼をモデルにしたビリー・ワイルダーの映画の日本語タイトル、
「翼よ、あれが巴里の灯だ」ですが、原題も原作となった
リンドバーグの自伝も、タイトルは彼の愛機である

「Spirits of St.Louis」

であり、さらにはこの感動的な言葉はリンドバーグ自伝の抄訳を手がけた
翻訳家の佐藤亮一が良かれと思ってつけたオリジナルです。

リンドバーグ本人も全く預かり知らぬ言葉であり、
言ってみれば余計なお世話なのですが、ことこれに関しては
あまりにキャッチーでイケているため、どこからも文句が出ていません。

流石のわたしも、良しとせざるを得ないほどの?名作です。

Spirit of St Louis -- landfall at Ireland
アイルランドディングル湾で陸地を発見するシーン。眠そう

彼が実際にパリに着いてから発した言葉は、

「誰か英語を話せる人はいませんか」

(その人に)「ここはパリですか」

だったという説、また、

「トイレはどこですか」

という説がありますが、いくら何でもいきなりトイレはないだろうから、
この三言は流れるようにこの順番で発せられたとわたしは想像します。




これがリンドバーグが大西洋横断の時機内に積んでいたグッズだ!

1、陸軍航空隊謹製、非常用レーション

2、釣り糸と釣り針(いざという時用)

3、何かに使える糸を丸めた球




4、非常用発光装置(ハンドフレア)

5、弓のこ

6、針


7、(口紅ケースのようなもの)マッチ入りマッチホルダー



「スピリットオブセントルイス」が積んでいたバログラフ

バログラフはバロメーター値を記録できるデバイスです。
リンドバーグが大西洋ノンストップ飛行を行った時の飛行機の高度、
そして飛行時間が正確に記録されました。

5000万円という賞金の出るレースですから、規則によって
飛行機が正しくノンストップで直行したかを証明する必要がありました。

このドラムには、リンドバーグの離陸と上昇、それに続き、
適切な風を求めて硬度を変えつつ上昇した様子、そして
嵐や霧に遭遇した時の操作のあれこれ、乱気流によるエアポケット、
アイルランド近くでしばし降下したこと(あれ?あの話本当だったの?)
そしてイギリス南西部を通過しフランス北西部からパリに着陸したこと、
全てが明瞭に記録されていました。



ロングアイランドを離陸してから33時間30分後、
パリ近郊のル・ブルジェ飛行場に無事着陸したリンドバーグの機を迎える
10万人の熱狂的な観衆。



その熱狂ぶりがいかにすごかったかがわかる一枚。
ところでこの写真はどこからどうやって撮ったのか。
他の飛行機からかな。

【凱旋帰国と栄光】



リンドバーグとスピリット・オブ・セントルイス号は、
6月11日にU.S.S.「メンフィス」で米国に帰国しました。
写真は「メンフィス」に載せられたSOS号。


埠頭に出迎える人に挨拶するために「メンフィス」デッキに立つリンディ。
世紀の英雄と歴史的飛行機を運ぶ大役を担った「メンフィス」乗員も
全員がビシッと第二種軍服でキメて舷側に立つ姿はいかにも誇らしげです。

USS「メンフィス」は現在では原子力潜水艦になっていますが、
この時は軽巡洋艦で、艦種はCL-13でした。

帰国したリンディはワシントンD.C.とニューヨークで、
熱狂的とも言える歓迎を受けました。

その後7月から3ヶ月かけて、彼はこの名機で全米を巡業して回りました。

そして12月、スピリット・オブ・セントルイス号とともに
ワシントンからメキシコシティまで直行便で飛びます。



メキシコシティで学校の生徒たちに歓迎されるリンディ。
右横を歩いているのはアメリカ大使ドワイト・モローです。

皆様、ぜひこの「モロー」(Morrow)という名前を
記憶の片隅に留めておいてください。
試験に出ます。

そして中米コロンビア、ベネズエラ、プエルトリコを経由して、ハバナへ。



キューバのハバナで演説するリンドバーグ。
右端はヘラルド・マチャド・イ・モラレス大統領、周りは政府高官です。

そしてこの後、セントルイスに戻り、巡業は終わりました。



この時に訪問した国の国旗はカウリングの両側に描かれました。

実はリンドバーグは、後にアメリア・イアハートの夫となる
出版社社長のジョージ・パットナムと、もし大西洋横断に成功したら
その感動的な体験を綴った本を書くことを約束していました。

帰国してすぐ、彼は父親の知り合いグッゲンハイムの豪邸で缶詰になり、
3週間で「We」という陳腐な冒険譚を書き上げ、
スピリット・オブ・セントルイスによる3ヶ月の全米順行に出かけました。

パットナムはこの本がヒットすることが出版前からわかっていました。

リンドバーグの本は、大西洋横断の2ヶ月後、1927年の7月末に発売され、
1928年6月にはすでに31刷りになっていました。
ベストセラーといっても過言ではありません。

しかし、その文章は、ほとんど子供のような単純なものでした。

彼はその後も自伝を多くの出版社から求められては書きましたが、
年月を経るごとによくなっていき、50年代に書いた
『スピリッツ・オブ・セントルイス』は、ピューリッツァー賞を受賞しました。

これが日本で「翼よ、あれが巴里の灯だ」と訳された本です。
ワイルダーは、この本をジェームズ・スチュワート主演の映画に使い、
48歳のスチュワートは25歳のリンディを好演し、映画は大ヒットしました。


1928年4月30日、スピリット・オブ・セントルイス号は
セントルイスからワシントンDCへ最後の飛行を行いました。

その後、リンドバーグはこの機体をスミソニアン博物館に寄贈し、
それ以来それはここにあります。

続く。






ソユーズの悲劇とウクライナ侵攻後の宇宙計画〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-07-02 | 博物館・資料館・テーマパーク

今日はソ連のソユーズについてお話しするわけですが、
積み残した宇宙開発関係の画像をちょっとその前にご紹介します。


■バズ・オルドリン


スミソニアンの外側にあった巨大なバナーには、
アポロ11号の乗組員三人と、宇宙船の写真があしらわれています。

この3人についてはいろんな形でお話ししてきましたが、
最近一番驚いたのが、バズ・オルドリン(右)がまだ生きていて、
いや、生きているどころか元気にツィッターをやっていることでした。

2022年5月現在92歳ですがまだまだご健在のようです。
ちなみにフォロワーは155万9千人いるようですね。


ほとんどが宇宙関係の話題でほぼ毎日ツィートしておられますが、
わたしが見た時には5月4日のツィートで、星条旗を立てたR2D2に

MAY THE FOURTH BE WITH YOU.

というキャプション。
意味は・・・わかるね?

いや、わからん、という人はこれで嫌というほど聞くが良い。
フォースと共にあらんことを。

May the Force be with you 


5月4日が「スター・ウォーズの日」であることを知っている92歳。
まあ、この5月4日=May The Forth からこの日がSWDになったことは
アメリカ人ならほぼ全員知ってるかもですが。

https://twitter.com/i/status/1515214281096245249

今も自転車漕いで鍛えてるみたいだし。

前にちょっと予告していましたが、オルドリンについては
色々と逸話があって、その最も有名な話を書いておきます。

それは相手の名前をとってバート・シブレル事件と呼ばれています。

2002年、バズ・オルドリンが72歳の時、宇宙をテーマとした
日本の子供向け番組のインタビューを受けるため、
(この番組がなんだったのかどこにも書かれていない)
ビバリーヒルズのホテルに赴いたところ、そこで待ち構えていた
月陰謀論者のバート・シブレル(Bart Sibrel)が、バズに詰め寄り、
月の着陸がインチキで捏造されたものでないことを
聖書に手を置いて誓うようにと詰め寄ったのでした。

バズは敬虔な信者であり、またこれゆえ
「人類で初めて月面上で宗教儀式を行った人物」です。
月面上で聖体拝領をとり、新約聖書を読んでいます。

シブレルという人物はこのことを知っていて、聖書を使い、
自分の信じるところの「月着陸捏造」を暴こうとしたのです。

バズは彼を無視して去ろうとしましたが、シブレルは後を追い、
「臆病者、嘘つき、泥棒」(最後意味不明)
と罵ったため、キレたバズは彼の顎を殴り、
それはシブレルのスタッフにより無事撮影されてフィルムに残されました。

目撃者によると、シブレルは聖書でバズを小突くようにしたそうで、
バズは自分自身と一緒にいた継娘を守るための行動だと証言しました。

この件で警察はバズ・オルドリンに対する告発を受け付けませんでしたし、
それは誰が見てもシブレルに対する当局の非難の意と思われました。

バズ・オルドリン。

アームストロング以降何人かが月を歩きましたが、
アームストロング以外でおそらく最も有名なアストロノーに違いありません。

いくつになっても世間から忘れられない人物で、
その言動は事件も含め常に世間の耳目を集めてきました。
2007年には自らフェイスリフト手術を行ったことを発表しています。

フェイスリフトってことは、顔の皮膚を一旦剥がして、
下の筋肉を一緒に引っ張り上げる若返り手術ですよね。

これについて彼は、宇宙で受けたGのせいで
(つまりGフォースと共にあったことで)顎が弛んだから、
それを改善しようと思った、と堂々と言い訳をしたそうです。

やるな。77歳になってからの今さらフェイスリフト。

ちなみに、ディズニーのトイストーリーのキャラクター、
宇宙服を着ている「バズ・ライトイヤー」の名前は
彼の愛称から来ているってご存じだったでしょうか。



■ ソユーズ:ムーンレースののち



ソユーズ宇宙船は、世界で最も長い間使用されている有人宇宙船です。

1960年代に月探査のために設計され、
1967年4月、初めて宇宙飛行士を宇宙に送り出しました。

それ以来、ソユーズとその後継機であるソユーズT、ソユーズTMは、
地球周回軌道上で数多くの有人飛行を実現してきました。

その後、ソユーズは、ソ連・ロシアの宇宙開発において、
主力となるミッションであり続けました。

1967年以来、100人以上の宇宙飛行士が
ソユーズでさまざまな地球周回ミッションに参加してきました。

改良を重ね、より効率的で信頼性の高い宇宙船となった今も、
基本的な構造は当初とあまり変わっていません。

【ソユーズの設計とミッション】

ソユーズ宇宙船は、主に3つの部分から構成されています。

前方の大きな球状の部分が軌道モジュール
中央の鐘のような部分が着陸モジュール
そして後部の円筒形の部分は、観測機器モジュールです。

上の写真は軌道上のソユーズです。



:軌道上モジュール(オービタル)

打ち上げ時の保管場所、飛行中の宇宙飛行士の作業場兼居住区として使用。

長さ:2.5m(8フィート2インチ)
直径:2.2m(7フィート2インチ)
重量:1,200kg(2,700ポンド)


:着陸モジュール(ランディング)

打ち上げ・再突入時に使用される客室で、
ソユーズの中で唯一地球に帰還する部分。

長さ:2.2m(7フィート2インチ)
直径:2.2m(7フィート2インチ)
重量:2,800kg(6,200ポンド)


:観測機器モジュール(インストゥルメント)

推進、加熱、冷却、通信など、宇宙船の主要なシステムが搭載されている。

長さ:2.3 m(7フィート6インチ)
直径:2.2m(7フィート2インチ)
重量:2,650kg(5,850ポンド)


:太陽電池(ソーラー)パネル

ソユーズに電力を供給する

:ドッキングデバイス(装置)


宇宙船をより大きな構造物に連結し、
クルーがシャトルから宇宙ステーションに移動するための準備として、
ソビエトは複数機のソユーズミッションにおけるランデブー、
およびドッキングに取り組み、自動および手動制御の両方をテストした。

1967年以降、5つの主要なドッキングシステムの設計が行われた。
エンジニアは効率性を高め、各宇宙船の特定のミッションに適合するように、
長年にわたってソユーズのドッキング装置を修正した。


■ソユーズ宇宙船



スミソニアン博物館に展示されているのは、
ソユーズ宇宙船の生みの親であるエネルギア社が製作した
実物大のソユーズ宇宙船の模型です。

この模型には、通常、打ち上げ時や飛行中に機体を包む
サーマルブランケットが付属していません。

ソユーズの改良版はいくつかのバージョンが製造されています。

●オリジナルのソユーズ

1966年、宇宙服なしの宇宙飛行士を3人乗せることができました。

●ソユーズ・フェリー

1972年 宇宙服を着た2人の宇宙飛行士と機器を
サリュート宇宙ステーションに送受信するためのもの。

●ソユーズT(輸送機)

 1979年、宇宙服を着た宇宙飛行士3名を乗せ、
宇宙ステーションとの間を往復する長時間の輸送機。

●ソユーズTM(modified transport)

1986年、ミール宇宙ステーションへの輸送を目的に改良されました。

ソユーズはより効率的な電子機器やナビゲーションシステムを追加し、
着陸モジュール内部をより広く使えるように配置を変更するなど、
基本設計から大きく進化を遂げてきました。

ソユーズ宇宙船は、国際宇宙ステーションの乗員救助機として
使用される予定となっていましたが・・・(後半に続く)


■ ソユーズロケット



有人宇宙船ソユーズを打ち上げるロケットも、ソユーズと呼ばれます。

3段式のソユーズロケットは1963年登場以来何度も改良されてきました。
最初の人工衛星であるスプートニクを打ち上げたロケットでもあります。



ソユーズロケットは、最大7,500kgのペイロードを
地球低軌道に投入することができます。
また、科学衛星や軍事衛星の打ち上げにも使用されています。

【軌道上からの離脱】


地球に帰還する準備をするソユーズの模式図

ミッション終了後、観測機器と軌道モジュールを分離し、地球に帰還します。

【着陸のためのブレーキ】


着陸時に展開されるソユーズパラシュート

地球の大気との摩擦により、宇宙船は減速されますが、
それでも衝突に耐えるには速すぎます。
パラシュートでさらに降下速度を落とさなくてはなりません。

写真提供:RSCエネルギア

【着陸とレスキュー】

パラシュートは、着陸直前まで機体の速度を落とします。
地上2メートルの地点で、宇宙船の底部にある
4つの小型レトロロケットでさらに減速し、よりソフトに着陸させます。

【ソユーズをなぜ地上に着陸させるのか?】



アメリカのマーキュリー、ジェミニ、アポロが海に着陸したのとは対照的に、
ソ連はすべての有人宇宙船を地上(カザフスタン南部)に着陸させました。

この人口の少ない地域に着陸した宇宙船には、
救助隊が容易に到着することができました。

また、ソ連はアメリカとは異なり、海難救助のための大規模な海軍を
海上に置いていなかったのが地上に着陸させた大きな理由です。


アメリカはなんなら自衛隊が回収を手伝ったりしてましたものね。
映画(緯度ゼロ大作戦)の中の話ですが。


【ソユーズ・レトロ・ロケット】

ミッション終了後、熱シールドが解除され、地上2mの高さで、
着陸船の基部にある4基の小型エンジンが点火されます。


エンジンのうちの一つ

ソユーズに乗った宇宙飛行士は、皆、飛行の最後の瞬間、
突然の衝撃を受けたと表現しますがこれは着陸を和らげるものです。

【ソユーズ天球儀】



1969年、ソユーズ4号に搭載された天球儀。

宇宙飛行士はこのような装置を使って、
舷窓から見える星に合わせて地球儀の星座を調整し、
宇宙船の位置を割り出していました。

ウラジーミル・シャタロフ宇宙飛行士は、この地球儀を
ソユーズの軌道モジュールに残しておくのはもったいないと考え、
着陸モジュールに持ち込んで、再突入時の位置を確認しました。

【ソユーズ飛行の有用性】

ソユーズ宇宙船は、30年の運用期間を経て、
宇宙ステーションに人や貨物を輸送するための
信頼性の高い宇宙船となりました。

ソビエト政府は、この宇宙船を政治的な目的にも使用しました。

■宇宙ステーションへの「フェリー」


ソユーズとドッキングする宇宙ステーション

1971年以来、宇宙飛行士を宇宙ステーションに送迎してきたソユーズ。

ソユーズ宇宙船が使用され始めた最初の10年間は、
宇宙飛行士の軌道上での滞在予定が、
ソユーズ宇宙船のバッテリーの寿命を超えてしまうことがありました。

そのため、食料、水、空気の補給と同じように、
ソユーズ宇宙船は常にアップデートをする必要がありました。

ソユーズ宇宙船は宇宙ステーションへの誘導にクルーを必要としません。
しかし、定期的な訪問者やクルーの交換は、
軌道上の日常生活に変化をもたらすため、
通常は宇宙飛行士が宇宙船をフェリーに載せて運ぶことになっています。

このような社交的な伝統は、ロシアの宇宙開発にも受け継がれ、
つい最近まではその伝統は守られてきました。



メンデス

ソユーズの補給ミッションは、いくつかの宇宙での
"初 "を実現する機会を提供しました。
いわゆる有色人種初の宇宙飛行士である

アルナルド・タマヨ・メンデス(キューバ)
Arnaldo Tamayo Mendez

と、女性初の宇宙遊泳を行った、



スベトラーナ・サヴィツカヤ
Svetlana Savitskaya


は、サリュート宇宙ステーションへの訪問ミッションで飛行しました。

■ ディプロマシー・イン・スペース




1978年3月、ソ連は、チェコスロバキアのパイロット、
ウラジミール・レメックを宇宙ステーション「サリュート6」に運ぶ
ソユーズ28号の打ち上げで「ゲスト宇宙飛行士プログラム」を開始しました。

ゲスト宇宙飛行士プログラムは、ソ連当局が
他の社会主義国との友好関係を促進する方法を提供したと言えます。

このプログラムは急速に拡大し、
ソ連の同盟国や他の国々も参加するようになりました。

1996年まで26回のフライトに19カ国の代表者が参加しました。
1995年、アメリカ人宇宙飛行士ノーマン・サガードが、
ソユーズで打ち上げられた最初のアメリカ人宇宙飛行士となります。


Norman Thagard



このプログラムに参加した国が国旗で表されています。

チェコスロバキア  ポーランド  東ドイツ  ブルガリア
ハンガリー  ベトナム  キューバ  モンゴル
ルーマニア  フランス  インド シリア
アフガニスタン  日本  英国  オーストリア
ドイツ  カザフスタン  アメリカ合衆国


【費用対効果】

1986年、ソビエトの有人宇宙飛行計画は、
より進化したモジュール式の宇宙ステーション「ミール」が打ち上げられ、
新しい時代に突入しました。

しかしながら、諸事情のため宇宙計画の費用を正当化するために、
ソ連はもはや外国の宇宙飛行士に
無料で宇宙旅行を提供することはできなくなりました。


そこでソ連政府は、ソユーズTM宇宙船とミール宇宙ステーションへの搭乗を
有料ということにします。

言い方は悪いですが、お金さえ払えば誰でも乗せるお、
ということになったので、早速日本のマスコミ界が手を上げ、
1990年には、日本人ジャーナリスト(秋山豊寛)
宇宙で初めてお金を払った乗客となりました。

ちなみにミール宇宙ステーションへの往復航空券は
1200万ドル(約12億円)相当だったと言われております。

そうだったのか・・・・・。
日本はその時バブルでお金があったってことだったんですね。

この時秋山氏が乗ったのは、ソユーズTM−10宇宙船でした。



宇宙船は再突入時の熱で大きく黒焦げになっています。
帰還した宇宙飛行士は、回収に成功した宇宙船に
サインをするのが慣例となっていて、この機体にも
チョークで書かれた乗客のサインとお礼の言葉が残っています。

■ ソユーズの悲劇



冒頭写真の右側ケースの中には、この人形が展示されています。

人形には、1971年、ソユーズ11号の飛行直前に、
宇宙飛行士ヴィクトル・パツァイエフが書いたサインが残っています。



パツァエフと同僚のゲオルギー・ドブロボルスキー
ウラジスラフ・ボルコフの3名は、サリュート1号に3週間滞在した後、
降下中のカプセルが減圧する事故で死亡しました。

人形は彼が宇宙船に持ち込んでいたものです。

映画化の際には配役ニコラス・ケイジで

彼ら3名の名前は小惑星に付けられて残ることになりました。

■ウクライナ侵攻後のソユーズ計画

欧州のロケット運用会社アリアンスペースは2022年3月4日、
ロシアと共同で運用していた「ソユーズ」打ち上げ中断を発表しました。

欧州はこれまで、ロシアと協力し、ソユーズを使って
欧州の衛星などを打ち上げてきました。
しかし、ロシアのウクライナ侵攻にともなう制裁措置に反発し、
ロシア側が打ち上げの中断を一方的に決定。

つまり、ご想像通り運用ができなくなったのです。

アリアンスペースは今回の事態を「大きな危機」とし、

「現在の状況が引き起こす影響をできる限り正確に評価するとともに、
必要な解決案を見いだす」


としています。


ソユーズ・ロケットは、小型・中型衛星のほか、
国際宇宙ステーション(ISS)へ向けた有人宇宙船「ソユーズ」や、
物資を補給する無人補給船「プログレス」などの打ち上げに使われています。

その原型は、世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)であり、
そして初の人工衛星「スプートニク」や有人宇宙船
「ヴォストーク(ボストーク)」を打ち上げた「R-7」にまでさかのぼります。

以来、改良を重ねつつ、その姿かたちはほぼそのまま、
半世紀以上にわたり使用。世界でもトップレベルの実績、信頼性を誇り、
現行の「ソユーズ2」ロケットは、より効率的な衛星打ち上げを実現。

ソユーズは、ロシアの主力ロケットであると同時に、
欧州へ輸出され、欧州が運用するロケットとしても活躍していました。

欧州におけるソユーズは、欧州のロケット打ち上げ基地である
ギアナ宇宙センター(仏領ギアナ)から、また
バイコヌール宇宙基地(カザフスタン共和国)
ヴォストーチュヌィ宇宙基地(ロシア)からも打ち上げられていました。


2月下旬の時点で、ギアナ宇宙センターでは4月6日の打ち上げを目指し、
ガリレオ測位衛星を積んだソユーズの打ち上げ準備が進行中でした。

またバイコヌール宇宙基地でも、3月5日の打ち上げを目指し、
衛星ブロードバンドインターネットを構築を目指す
「ワンウェブ(OneWeb)」を積んだソユーズ打ち上げ準備が進んでいました。

しかし2月24日、ロシアはウクライナに対する軍事侵攻を開始。
これを受け、EUや英国はロシアに対する制裁措置を決議したのです。

それに反発する形で、ロスコスモスは2月26日、

「EUによるロスコスモスへの制裁措置に対抗し、ギアナ宇宙センターからの
ロケット打ち上げにおける欧州との協力を停止する」

と発表し、打ち上げは無期限延期となってしまいました。

アリアンスペースによると、ソユーズは打ち上げ可能な状態で保管され、
搭載されるガリレオ測位衛星はいずれも安全な状態に保たれているそうです。

アリアンスペースは、

「ロシアによるウクライナ侵攻に対して国際社会
(欧州連合、米国ならびに英国)が決議した制裁措置を尊重する」

としつつも、

「ロシアがギアナ宇宙センターから引き揚げ、
ソユーズの打ち上げを中断することを

一方的に決定したことによって、大きな危機に直面している」

との声明を発表しました。

一方、バイコヌール宇宙基地からのワンウェブ衛星を積んだ
ソユーズの打ち上げについても、無期限延期となりました。

これに前後してロスコスモスは、
ロケットに描かれたワンウェブに関連する各国の国旗のうち、
制裁措置を取った国の国旗にシールを貼って削除。


また、ロケットを運搬する車輌に、
ウクライナに侵攻したロシア軍の兵器にならって
「Z」、「V」といった文字を書く
など、前代未聞の行動をとっているとか。

アリアンスペースが運用するソユーズは、
欧州の安全保障にかかわる衛星の打ち上げから商業打ち上げまで、
なくてはならない存在であり、これまでに64機が打ち上げられるなど、
打ち上げ数も実績も高かったと言われています。

そのため、今回の事態は欧州の宇宙開発にとって大きな打撃となりました。

一方、欧州製のアリアン5とヴェガの、2022年の打ち上げについては、
予定どおり順調に準備が勧められており、また、
開発中の次世代ロケット「アリアン6」と「ヴェガC」に関しても、
2022年中の初打ち上げを目指す方針に変わりはないということですが・・。



続く。