ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「陸軍中野学校」

2011-09-30 | 映画

               


この画像を見て「和製スパイ映画の主人公みたい」と思った方。
あなたは正しい。

イアン・フレミングのスパイ映画007シリーズは、この映画公開時の1966年、
すで12作目の「黄金銃を持つ男」の公開を終えていました。
この映画が、このシリーズの人気にあやかって作られたのかも、
となんとなくこの写真から推測しているのですが・・・・・。

この「和製ジェームズ・ボンド」(と呼ばれていたのかどうかは知りませんが)、
映画「陸軍中野学校」で、主人公椎名(三好)次郎を演じる市川雷蔵
時代劇で大人気だった役者が現代ものに挑戦した異色作です。


フィリピンのルバング島で密林に暮らし、終戦を知りつつ30年日本兵として戦っていた
小野田寛郎氏が陸軍中野学校出身の情報将校であったことはご存知でしょうか。
小野田氏は「諜報諜略の科学化」を目的に陸軍省が1938年設立した軍学校
「陸軍中野学校二俣分校」の「退校命令」(卒業とは言わない)を受けています。

この大映映画「陸軍中野学校」は、
その創設時、第一期生徒となり「軍のスパイ」となった青年の成長と苦悩を描きます。


主人公三好次郎は、東京帝大を出た陸軍少尉。
ある日草薙中佐と名乗る男(加東大介)に風変りな質問を浴びせかけられる。
机の上にいきなり地図を広げ
「チモール島はどこにある?」
「この地図にはチモール島は書いてありません」
「地図の下、机の上には何と何があった」
「軍帽、カバン、万年筆、湯呑茶碗、煙草」
「煙草はなんだ?」
「チェリーです。・・・・マッチ、灰皿」
「灰皿の中には?」
「吸殻が二本ありました」


この試験に合格した三好は、やはり有名校を卒業した選ばれし陸軍士官18人と共に
国家のスパイとなるために中野学校の訓練を受ける。
名前を捨て、過去を捨て、母も、恋人も、将来の夢さえも捨てて。


と、映画の予告風に説明してみましたが、この陸軍中野学校出身の元軍人は、
「功を語らず、語られず」
「サイレント・ネイビー」に相当する理念をまず教育されました。
中野学校について語る出身者がほとんど現れず、秘められた歴史のようになっているのも、
彼らが戦後口を閉ざし続けた所為であるといわれています。

「名誉や地位を求めず、日本の捨て石となって朽ち果てること」
が信条であったというのは戦時の軍人としてごく自然なことであったと思われますが、
その一方で一般の陸軍的な常識とは一線を画した
「生きて虜囚の辱めを受けても生き残り、二重スパイとなっても敵を混乱させるなど、
あくまでも任務を遂行するように」

という教育をされていました。

ルバング島で小野田少尉が終戦を知っていながら30年を投降せず生き抜いたその精神力の源には、
この「生き続けてそのうち任務を遂行せよ」という命令に対する忠誠があったと言われています。
日本に帰国せよという説得に肯んじなかった小野田少尉がそれを承諾するのには、
かつての上官であった谷口義美元少佐の任務解除、帰国命令の下命を待たねばなりませんでした。


この映画では、この中野学校の「スパイ訓練」が描かれます。
武道はもちろんのこと、思想学、統計学、戦争論、兵器学などの一般教養、
飛行機や自動車操縦、射撃に始まり、諜報に必要な海外情勢、
語学、心理学や薬物学(毒殺法含む)など。

おっと、スパイには変装術や手紙の偽装などの通信術、手品の手法や金庫破りも必須。
身をやつすためにコックや仕立て屋などの特殊技能を身につける授業も。

ダンスを巧みにこなし、女性をたぶらかすためのジゴロのようなテクニックも伝授されます。
一般世間に紛れ込むために生徒は髪を伸ばし、背広がユニフォーム。
彼らが主に一般大学の出身者から選ばれたというのも「世間慣れしているかどうか」が重視されたためです。
映画では「六大学勢ぞろいだな」と笑いあうシーンがありましたが、東大出身が一番多かったそうです。

実際は、士官姿に憧れて任官した一部の訓練生などが、軍服が着られないことに不満を持ったり、
この映画の主人公のように知人の前から全く姿を消すというわけでもなかった若い諜報将校たちは、
何故髪を伸ばすかとか、背広を着るかなどという説明が家族にできないので大変困ったという話です。

(浦安にある某鼠施設では、そこで働いていることを友人知人は勿論、家族にも言わないように
というマニュアルがあると聞いたことがありますが、これをふと思い出してしまった・・・)

この映画は、秘められた陸軍史の奔流に身を投じられた一青年が、
愛する人をも犠牲にしながらその使命に向かって突き進む姿をサスペンス風に描いて、
非常に質の高いエンターテイメント作品となっています。
タイトルから「戦争もの」だと思って観た人は、おそらくかなり驚くのではないでしょうか。
(例えばわたしとかですね)
この第一作は好評だったと見え、「陸軍中野学校シリーズ」は、この後続編が四つ製作されています。
拾い物といっては失礼ですが、思いもよらず面白い映画を見つけた、という軽い興奮を感じました。
なので、この後もこのシリーズ、ウォッチングを続けてみます。


その時にまた、市川雷蔵に対するコメントなども織り込んでいくつもりですが、
今日はこの映画の予告編をシナリオ風に掲載しますので、
もし興味をお持ちになった方は観てみてくださいね。

 

草薙少佐「戦争においてスパイがいかに重要な働きをするか諸君も知っているはずだ。
日本のため、身を捨ててスパイになってくれ。この草薙と一緒に働いてくれ!」


ナレーター  教科は、殺人、誘拐、盗み、女の・・・・あらゆる実地訓練!

生徒「手塚!中野学校の名誉のために死んでくれ!」
手塚「よし、みんながそんなに俺を殺したいなら、見事に死んでやる!」
みんな「よし、行け!」
手塚「うわああああ
(級友の持つ刀に自ら突っ込んでいく手塚)

ナレーター  スパイには失敗は許されない

草薙中佐「じゃ俺の中野学校で盗んでやろうか。英国のコードブックを」

仕立て屋に変装した椎名「この間の情報、いかがでした?」
E・H・エリック「領事に相談したら、買うと言っていた」

中野学校に敵意を持つ陸軍少佐
「暗号本部から漏れた?貴様ぁ、参謀本部を侮辱すると許さんぞ!
ここは日本陸軍最高の機関だ」

ナレーター  親を捨て戸籍を消し 今また 最愛の女を毒殺する

      陸軍スパイ学校の全貌を、初めて描いた
      衝撃の異色大作!


陸軍中野学校!  (クラシック風の重厚なBGM)



・・・・ところで、この映画に描かれていること、元陸軍中野学校の方のお話によると
80パーセントが実話
だそうですよ。 

・・・。(絶句)







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ティムさんの涙

2011-09-27 | 日本のこと

この夏中国で起きた列車衝突事故で、世界はあらためて中国と言う国が
「グロテスクなまでに巨大な身体を持つ赤ん坊」
のようなものであると感じたのではないでしょうか。

6億の人口を有する大国でありながら「遅れてきた覇権主義」と呼ばれる中華思想により、
あくまでも外へ外へその権力を拡大していくさま、
近代国家として体をなし得ていない未成熟さ。

中央が情報を隠蔽し操作して民衆の統率を図るという構図はこの国に限ったことではなく、
原発事故に見られる政府民主党の迷走ぶりは、それが日本にも起こりうることの証左となったわけですが、
日本と中国の大きく違う点が、この「赤ん坊のようなエゴ」が社会全体に蔓延しているかどうかです。

欲望のままにふるまって決して省みないという未発達な部分が、
中央だけでなく一人一人の中国人に多々見られるということにあります。
一般社会がマチュアでない(成熟していない)のです。

技術を盗んでおいて「独自技術だ」と言い張り「なんだったら技術指導してやる」とうそぶく。
日本の懸念を「嫉妬」とせせら笑う。
事故が起きたら負傷者の救出、遺体の搬送もろくにしないうちから、車両を粉砕して埋める。
国際社会にそれが暴露されていることに気づき体裁だけ事故調査をすると表明する。
遺族に圧力をかけて証言させないようにする。
二日も経たないうちに運行を再開する。
補償金問題を終息させるために「早期報奨制度」で金額を4倍に吊りあげる。
(一般は160万元だが早期に補償に応じれば650万)

一連の震災、原発事故対応においては日本政府も酷いものでしたが、
事故調査もしないで遺体ごと車両を粉砕して埋めてしまった、というのは
「レベルが違いすぎる」とあらためて震撼する思いです。
そして、さらに「引いた」のは、事故現場が解放されたとたん、
金属探知機まで持ち出して現場を掘り返し金属片や遺品を漁り始める中国人の姿でした。
何よりも民度に差がありすぎると感じました。

こういうことを書くと必ず
「震災の時に泥棒もあったし被災者差別もあった、日本人だって酷いものだ」
と言う人が出てきます。
その時の火事場泥棒が全員日本人であったかは差し置いても、そう言う事実はあったでしょう。

日本に限らず犯罪率が0パーセントの聖人君子ばかりの国などありません。
民度とは、ある一定の人数の中で、どれくらいの人間がたとえ非常時にも欲望のままに行動せず、
人としての尊厳を守れるか、という割合の多寡ではかるものではないでしょうか。
つまり、個人の行いの積み重ねであると思うのです。



今回、日本のこの惨状がどのようにアメリカで報じられ、一般の人々がどう受け止めているかは、
日本人である私にとって非常に気になるところでした。

ところが拍子抜けすることに、災害当時はともか数か月以上経ったアメリカでは、
ジャパン・チャンネル以外で日本のことが報じられることは全くありませんでした。
一度「フクシマ」という言葉が聴こえたのでびっくりして画面を注視したら、
アメリカ国内の原発施設に何らかのトラブルが起こったらしく、
関係者が、全く心配ないということを説明するのに
「第二のフクシマではない」
という言い方をしたのがそれらしい言葉を聞いた唯一の機会でした。

ここでは日本人が災害の後遺症に苦しみ放射能の危険を心配しつつ生きていることなどより、
子供を殺した美人母の裁判のニュースの方がよっぽど人々の関心を集めていたのです。
(ケーシー・アンソニー事件)
因みにこの被疑者は証拠不十分で無罪になり、識者の討論が連日行われていました。


しかし、日本人とかかわりのある人々は、その災害を覚えており、
日本人がどう振る舞ったかもちゃんと記憶に留めておいてくれていました。
冒頭画像は今住んでいるアパートのロビーに貼られていたポスター。
近くにあるジャパンタウンの日系アメリカ人のコミュニティが音頭を取ったイベントのお知らせです。

サンフランシスコのアパートに着いて二日目、
バスタブの水の流れが悪いので管理会社に配管工を頼んでくれるように電話しました。
電話に出たのは社長のティムさん。
もう10年近い付き合いですが、毎年メールのやり取りだけで契約しているので、
本人に会ったことは一度しかありません。
私が律儀にミスターをつけてメールしていたところ2年前に
「ティムと呼んでください」
という返事が来たほど事務的な付き合いです。

しかし、今回の契約時メールにティムさんは個人として
「地震のお見舞いとともに、私たちが日本人の気高い態度に感嘆している」
というような言葉を送ってきてくれたのです。
「残念ながらここでで同じような災害が起こったとしても、
我々が日本人と同じように振る舞えるとは思えない」
という印象的な言葉をつけて。

電話で名前を告げると
「ああ!あなたでしたか」と一気に親しげな声音に。
用件を済ませたあと、私が

「ところで、ティムさん、地震の後の契約メールで励ましの言葉をくれたでしょう。
本当にありがとう。
あのメールがわたしをどんなに力づけたことか。
あのメールは私をして泣かせました(直訳)」といったところ、ティムさん、
「OH・・・・」と絶句。

ティム「大変だったですね。それにしてもあなたにそう言ってもらえるなんて・・。
あなたのその言葉こそ私をして今泣かせます(直訳)」
わたし「大変な災害でしたが、またこうしてあなたと話せたことは私にとって大いなる喜びです(直訳)」
ティム「そう言っていただけると・・・・私も嬉しい」
驚いたことに、ここでティムさんは声を詰まらせました。

何だかとても温かい気持ちになりました。

この会社との付き合いにおいては、常にずっと歓迎される客であるために気を遣ってきました。
ルールを守るのは勿論、部屋をきれいに使い(絨毯に息子がジュースをこぼしたときは絨毯掃除セットを買ってきてシミを取ったことも)滞在中に生活のために買ったドライヤーや、DVDプレイヤーなどを(安い物ですが)部屋に残して寄付したり、週一回来るお掃除の人たち(クリーニング代は税・サ別25ドル)にはちゃんとチップを渡したり・・・。
つまり、日本人なら普通にするように

民度への評価を上げるも下げるも、個人の小さな行動の積み重ねからはじまること。
微々たるものであっても日本人の評価を上げる一助をこれからも積み重ねていこうと
僭越ながら密かに誓うのです。

日本人の民度に感嘆しつつニュースを見る人たちが
「だから日本人は信用できるんだ」
と一人でも思ってくれるように。





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母艦パイロットの着艦訓練~日高盛康少佐

2011-09-25 | 海軍

日高盛康少佐。海軍兵学校六十六期。
瑞鳳、瑞鶴、隼鷹、652空などの飛行隊長として
ミッドウェー、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。
戦闘304飛行隊長で終戦を迎える。


兵学校66期の戦闘機専修は5名。ほとんどの飛行学生と同じく、
熱烈な戦闘機志望であった日高少佐が晴れて大分航空隊の戦闘機操縦課程を卒業した日。
その日は同時に「任海軍中尉」と「補軍艦飛龍乗組」辞令を手にした日でもありました。

この日を「生涯忘れられない思い出深い日の一つ」として心に刻むほどに、
そのときの日高少佐は喜びに充ち溢れていたのです。

「66期の33期飛行学生」
このキリのいい数字も、日高少佐のこころを弾ませるものでしたが、
なんといっても飛龍といえば後にミッドウェーで最後まで奮戦して有名を馳せたように、
当時から第二航空戦隊に所属する最新鋭の中型空母。
血気盛んな若いほやほやの海軍中尉の胸が高鳴ったのも当然と言えましょう。
練習航空隊を卒業したばかりのパイロットが中尉任官と同時に母艦に直接配置されたのは、
実はこの時が最初と言われています。

ご存知のように母艦パイロットは着艦ができなければならないので、学生、練習生は卒業後、
少なくとも一年くらいはみっちり陸上航空隊で訓練を積んでから配属するというのが、従来の慣例でした。
戦雲急を告げていたこの頃、将来を慮ってこの33期を「テストケース」にしよう、
という中央の思惑がここにあったもののようです。

学生卒業直後のパイロットでも母艦乗りとして使い物になるかどうか?

一人の殉職(原正少尉)で4人となった卒業生のうち、クラスヘッドだった坂井知行中尉と、
この日高中尉の二名がテストケースとしての最初の配属をされました。
「モルモットならモルモットでいい、
後に続く後輩のためにも立派な成績をあげて道を開いてやろう」
と意気込んで、日高中尉は九州の大村基地の猛訓練に参加します。


ところで、飛行機を動いている母艦に着艦させるということは、
全く飛行機の操縦の経験がないものにとってもとてつもなく難行であることは想像されます。
実際、空から見ると、巨大なはずの母艦はあたかも「大海に浮く木の葉」にしか見えないのだそうです。
そして、あんな小さな場所に着艦できるのかと、最初は脚が震えるほどなのだそうです。

訓練の第一段階はまず地上で行う「定着訓練」と呼ばれるものです。
飛行場の着陸地帯に白い布板で母艦の飛行甲板を形どった接地点を表示し、
毎回ぴたりと定点に着陸できるようになるまで、明けても暮れても訓練が繰り返されるのです。

接地点の左側には、赤ランプと青ランプをそれぞれ一列に4個くらい並べて取り付けた、
高さの若干違う木製の台が前後に配置されています。
パイロットは、母艦の艦尾左舷に設置された着陸誘導灯を頼りに着艦します。

つまり、着陸時に
「赤ランプと青ランプが一線に見える高さが、ちょうど該当機種のグライドパス(降下角)と合致するように」
機をコントロールすることによって着艦体制を取っていました。

つまりこれは着艦シミュレーターなのです。
日本の自動車教習所はよく
「後ろの窓のこの辺りにバーが見えたらハンドルを何も考えずに切りなさい」
などという教え方をしますが、まさにそのノリです。
自動車は状況が色々なので、卒業後このテクニックは何の役にも立たなくなりますが、
飛行機の場合は、このシチュエーションが変わることはあり得ないので、シミュレーターを頼りに訓練する、
というのは実に合理的で時間の節約にもなるやり方であると思えます。

さて、日高少佐は戦後航空自衛隊で一等空佐まで務めた根っからの「飛行機野郎」でした。
緻密な頭脳をお持ちであったに違いない日高少佐、
この着艦訓練についても微に入り細に入り緻密な筆致で書き記して下さっています。
この訓練と着艦の方法が興味深いので、何回かに分けてお話ししたいと思います。


皆さんも聴きたくありませんか?母艦に着艦するテクニック。


日高少佐は残念ながら去年の7月、お亡くなりになったそうです。
この稀有な強運の持ち主であり名母艦搭乗員、名隊長の足跡を次回から少し辿ることにしましょう。

この日高少佐の発言に
「元軍人は、戦後(特にアメリカの)戦争映画をどう見ているのか」
ということについて大変興味深いものがあります。

「母艦の艦尾で両手にしゃもじのようなものを持った人間が、それを上下させながら
上手に飛行機を誘導して着艦させている場面によく出会うが」

おおー。そこに目をつけますか。
言われてみればそんなシーンが何となく記憶にありますね。
これが普通の人の見方でしょう。
あのしゃもじ、あれはアメリカ特有だったんですね。調べてないけどイギリスもかな。
アメリカがこういうところで人間の手による誘導方法を取っている半面、
日本は人手を借りないで、マニュアルを定め自力で着艦させるという方法を取っているのです。

日高少佐に言わせると
「これを見るたびに私は、こればかりは日本海軍の方が科学的だったのではないかと
ひそかにほほえんでいるのである」

平和の世に、戦争映画を観ながら「ひそかに微笑む」老いたる元海軍少佐。
これこそなんだか映画のようですね。

それでは次回は訓練の第二段階からお話しします。

 

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山陰温泉旅行に行った

2011-09-21 | つれづれなるままに

アメリカから帰ってきてすぐ、所用で関西に行ったとき、去年オープン時から何かと利用させていただいているセントレジスに宿泊したところ、ディナーのデザートにこのようなプレートが付けられておりました。

「帰国されてすぐとお聞きしまして」
2か月滞在して帰ってきたくらいでそないに大仰な、と思わないでもなかったのですが、顧客一人一人のそういったイベントに深く関心を持って想い出つくりのお手伝いをしようという姿勢と気持ち、大変嬉しく受け取りました。

さて、この連休は台風に見舞われ、レジャーどころではない、といった方も多かったのではないかと思いますが、いかがお過ごしでしたか?
我が家はちょっと用事も兼ねて今回は山陰の温泉に行ってまいりました。
初日は皆生温泉。

飛行機でわずか1時間、到着してびっくり、その名も
米子鬼太郎空港

  

 

いきなり目玉おやじのお迎えだあ。
かねがね、レオナルド・ダビンチ空港、ドゴール空港、JFK空港、ジョン・ウェイン空港、
人名の空港が世界にはたくさんあるのに日本にはないのはなぜか。
葛飾北斎空港とか。葛飾国際空港と間違われるから駄目?
などと考えていたことがあるのですが、名古屋のセントレア空港以降、何かが日本の空港名界(そんなものがあるとして)からふっきれたらしいですね。

水木しげるさんの生誕地ということで「ゲゲゲの女房」以降全面的に鬼太郎を文字通りというかなんていうか、観光の
目玉
としているようです。
さすが漫画国家日本。
世界のどこを探しても漫画の主人公が空港名になっているところはありますまい。

   

このような、どこにでもありがちな温泉旅館でしたが、このありがちが、いいのよ~。
お風呂から日本海が一望できるのが売りのお部屋でした。
仲居さんに
「隠岐の島は見えませんね~」というと
「80キロ沖ですから、地元の者でも見たことないですね」

後鳥羽上皇って、そんなところに流されてしまったわけかー。
天皇であるから殺さなかっただけ、って感じの究極の刑だよね、きっと死んだ方がましってくらい退屈だっただろうね、
などといまさらながらTOと上皇の身の上を気の毒がっていたのです。
その会話中わたしが「承久の変」と言うとTO「承久の乱でしょ」
「”変”じゃなかったっけ」「”乱”って習ったぞ」

すぐさまアメリカで買ってきたフリーSIMのドコモ回線使用iphoneで(説明っぽいな)ウィキを検索。
便利な世の中になったものです。
「わ、天皇が乱を起こす、という考えは皇国思想のもとでは不敬とすることから承久の変と称することもある、だって。
あんた皇国思想の持ち主だったのね」
ふっ。ばれてしまったか・・・って、そうだったのか。

それにしても、この3日間、WiFiが全く存在しないところにいて、持って行ったipadも音楽を聴くことしかできない状態。
部屋にはフリーWiFiもハイスピードインターネット回線も当たり前のようにありません。
つい「不便だなあ」などと当初愚痴ってしまいました。
後鳥羽上皇が聞いたら「インターネットができないくらいでなんだ!」と怒るかもしれません。
しかしこれも単なる習慣で、必要なことさえiphoneでチェックしたら、別にインターネットなんて何日間か無くても「死にゃあせん」ことがすぐにわかってきます。
というわけで、一日何度もお風呂に入って、あとは頭をカラにしてぼーっとしていました。
強制的にインターネット生活から解き放たれたわけです。

 

この日のお料理ですが、なんと蠢く(と漢字で書くと余計に感じがでる)活アワビの網焼き。
仲居さんが火を付けると、悶え苦しんでましたよ・・・。正視に堪えん。
これ、外人客にも出すの?日本人残酷、って言われない?
パリの市場で鴨をさばいているのを見て以来ショックで食べられなくなった息子にとって、これは非情なイベントでした。
バターと醤油でいただくアワビに親が舌鼓を打っているのを気味悪そうに眺めて「いらない」
かれが「これが一番おいしい」と言ったのは、自分で制作した「ご飯の醤油バター炒め」。
まあ、そんなもんでしょう。
わたしですら、最初にこれ食べた人ってすごいなあってあらためて思ったくらいですから。


食後ロビーで行われたライブ。
「22歳の別れ」「花びらの色は恋人の色」「白いブランコ」
懐かしのフォークソングを歌う歌手はこの旅館の社長さん。趣味と実益というやつでしょうか。
ピアノ伴奏は若女将である社長の娘さんです。彼女の弾き方はプロとお見受けしました。
高い年齢層の温泉客に大受けのライブでした。
なんだか、一昔前のペンションを思い出しました。
  

次の日、米子駅を出発、ごとごとと、自分でドアを開けて乗る電車に乗って、玉造温泉に移動。
玉造温泉駅に着いたとき、切符が出て来なくてあせっていたら、改札口に誰もいない。
駅員さんカーテン閉めておひるごはん中でした。
もしかしたら駅長さん一人の駅かしら。
  

シジミで有名な宍道湖の近くにある山間の温泉郷です。
ここでのお食事は島根牛のとろけるようなステーキがメインでした。
アメリカ人が初めて和牛を食べて
「我々が今までステーキだと思って食べていたのはサンダルの底だった」
と言った、という伝説を思い出しました。

次の日、この旅行のメインイベント、出雲大社にお参りに行く途中、島根ワインのワイナリーを発見。
ワイナリーにはバーベキューがつきもの、ここでも島根牛を頂きました。


ベジタリアンってほどではありませんが、日頃ほとんど牛馬豚四本足の類を口にしないわたしには、
なんというか非常に胃にも心にも重たい旅でした。
その直後出雲大社にお参りと言うのもなんとなく後ろめたかったです。

 

「かめはめ波ー!」
ではなく、大国主命だそうです。
大国主命は、実に多くの女神との間にたくさんの子をなしたため、そのことから出雲大社は
「縁結び神社」ともなっています。
そういう理由でか・・・・・。

 

神殿の後ろの白い覆い屋根が飛んでしまって見えないのですが、
出雲大社は現在平成の大遷宮といわれるリニューアル工事中。
60年に一度の屋根の葺き替えだそうです。
神様は仮住まいをしておられ、平成23年、つまり二年後にそれが出来上がるときに
そちらにお移り頂くための行事が予定されているそうです。

帰りはANAの鬼太郎空港ではなく、出雲空港からJALで帰ることになったのですが、
この空港がまたすごいことになっていました。
去年オープンしたばかりで、その名も出雲縁結び空港と言うそうです。
こちらもふっきれていますね。



空港の至るところにはこのようにちゃらい心温まる仕掛けが。
この空港を恋する二人のラブスポットにしよう、ってことでコンセプトは合ってますでしょうか。
たとえば絵馬を書いて掛けるコーナーが設けてあり(お代は500円募金箱に入れる善意方式)その絵馬は「必ず出雲大社にお納めいたします」とのこと。
昔から人々が心を清めるためにしていた「お参り」という行為。
今更のように「パワースポット」「スピリチュアル」などとブームであるかのように喧伝する向きがあることを、笹幸恵さんなども講演で「何をいまさら」と言う感じでおっしゃっていましたっけ。
いや、ふと思い出しただけですが。

まあ、後世がどう判断するかはわかりませんが、これもまた今の日本。
いいんじゃないでしょうか、縁結び空港。



ファンレター受け付けてます。空港のアイドル、ゆるキャラ「しまねっこ」
神殿被ってるし。


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「オカアサン」~松尾敬宇大尉の母

2011-09-17 | 海軍

何度もこのブログで語ってきた「平和への誓約」のなかの「松尾敬宇とその母」です。
シドニー湾を一望に見下ろす高みに立ち、

「よくこんな狭いところを通り抜けたものだ・・・母は褒めてあげますよ」

と言うまつ枝さんに、ロバーツ准将が「後悔していないのか」と聞きます。
「後悔しておりません」
と毅然と言う母に対し、思わず准将が敬礼するシーンです。


最初にこのアニメーションを取り上げたとき、
「戦争は悪いことですから二度と起きてはいけませんね」
というマスコミの質問に、まつ枝さんさんは答えなかった、と書きました。

今日はこの部分を再考してみたいと思います。

当時のオーストラリア軍が、松尾大尉らシドニー湾に突入し自軍を攻撃した敵国の潜航艇搭乗員を
最高の海軍葬で葬ったことは、両国民にとって戦後の友情のかけ橋となった出来事でした。

オーストラリア軍の目的には、勿論日本に対して
「オーストラリア軍の捕虜に対する処遇への考慮」を促するという意味もあったと考えられます。

この後、捕獲された潜航艇は、あたかも戦利品のごとく、国内を「巡業」し展示されました。
その目的は国民への危機意識の啓蒙と、戦時募金を募るための「見世物」だったと言われます。
ものごとには、ましてや戦時中の国家がらみの行動、そして外交の多くには一筋縄ではいかない
側面があり、一概に気高い意図だけであのような異例の葬儀が行われたわけではない、
というのも現実でしょう。

しかし、これをもってオーストラリアの二面性を非難するには当たりますまい。
実際には国民は、それにより日本に対する敵意を募らせたのではなく、松尾大尉らの勇気を
素直に称賛したのですから。

戦後、この潜航艇はオーストラリア連邦戦争記念館に展示されましたが、それにより一層その熱は高まり、
館長のマッグレース夫妻はわざわざ日本に来て、松尾まつ枝さんにそのことを伝え、
「御子息に会いに来てほしい」と、まつ枝さんを招待します。

そして、彼女は自分の息子の最終の地を訪問しました。
オーストラリア国民は熱狂してまつ枝さんを歓迎し、「オカアサン」と呼びました。
オカアサンは、かつての敵国の、しかし最高の勇気を持った戦士の母の代名詞となったのです。

このアニメーションで語られるいくつかの思い出、例えば出陣前に大尉が家族を呉に呼び、
旅館で最後の一夜を過ごしたときの様子などは、
まつ枝さんが戦後海軍兵学校の追悼録に寄せたものが元にされています。

「菊地千本槍」の短刀を父から受け取ったとき、大尉は
「これこれ」と低く呟きながらじっと刃に見入りました。
そして皆が床についてから
「久しぶりお母さんと寝るかな」
と言い、まつ枝さんの懐に入ってきたのです。

双方語るすべもなく手はいつしか肩にかかり彼も五体をひしとすり寄せてきました。
私はあまりのことにこみあげてくるものを奥歯でかみしめ息を凝らしていましたが、
これが最後の親孝行だったと思うと、今にして胸がつまる思いがします。


松尾大尉には婚約者がいました。
婚約を果たせず逝くことを詫び、後のことを頼み、そして最愛の部下都竹(つづく)正雄兵曹のことを
「最も信頼せる部下にて、真に優秀なる人物に御座候」といいながら、彼の故郷を訪ねて申し訳ないと伝えてくれ、
と遺書には遺されているのです。

最後に敏子(婚約者)の身につきては全く忍びざる次第にて
直接申し残し置き候も宜しくお願い申上候。
尚木下の御両親様にはよくよく不孝をお詫び下されたく候。


兵学校時代の松尾敬宇は、級友から見ても実に真面目な、いわゆる将校生徒の見本のような生徒だったようです。
「個性的な言動」とわずかに一人が記すのみで、どう個性的だったかについては述べられていません。
他の生徒にあるような愉快な逸話や、思わず笑ってしまうような失敗談には
ほとんど無縁の青年であったように思われます。
中学時代からの級友が語る松尾像も「背が高く、颯爽とした非の打ちどころのない優等生」です。

卒業の分隊写真では、階段に行儀よく並ぶ分隊員の中でたった一人、皆とは逆の方向を向き、
手を腰にして長い膝を(本当に脚が長く、長身のスタイル良しです)曲げたポーズが、
何ともいえず決まっていて洒脱ですらあり、真面目なだけではなかった様子が伺えるのですが。


さて、わたしが以前このアニメーションについて当ブログに書いたときの最後の文章はこうです。


しかし、まつ枝さんは「戦争は悲惨ですから二度とすべきではありませんね」
というメディアの問いかけに一言も答えなかったと言います。

「また戦わなければならないときは、私がそうだったように、息子のような勇士を送り出す。
それが日本という国なのだ」
まつ枝さんはそう言いたかったのだということです。

実はこの部分は、勿論アニメーションにはなく、巷間伝わる話にもなく、
保守政治家の西村眞吾氏のブログ(!)からの情報だったのです。

しかし、その後、まつ枝さんが本当に言ったことを、海軍兵学校の同期生が書きのこしているのを見つけました。

それによると、

メディアの問いかけにまつ枝さんは「答えなかった」というのはどうやら「捏造」であるようなのです。
まつ枝さんははっきりとこういったのだそうです。

「私は戦争は嫌いです。
しかし、皆さんが日本に無理押しをし、非道なことをなさるときは私たちはまたやりますよ」

この言が、何故か・・・いや、何故かではなく、当然のように日本では報道されませんでした。
居並ぶ報道陣が唖然としたというこの激しい言葉は、戦争に行った息子の死が「犠牲の死」ではなく、
国を守るための礎となるのに本懐を遂げたのだと心から信じている肉親のそれでした。
そして、この言葉が広く報道されることが無かったのにもかかわらず、
まつ枝さんと交流のあった海軍兵学校の同級生の間にはちゃんと伝わっていたもののようです。

「問題は向こうから攻めてくるときはどうするかである。
奴隷となるか戦うかの二者択一を迫られるばかりであることは確かである。
非核論争が盛んに行われている。
しかし、ただ一つ確かなことは、日本が核を持とうと持つまいと、そういうことにお構いなく、
日本列島が欲しい国はいつでも攻めてくるであろうということである。
従って私の直載な論理は、今のような平和論争も非核論争もうわっ滑りで
すべてナンセンスであるということである」

その同級生は、松尾大尉の母親の発言にこのような思いをかけてこのように語っています。
現在の日本の陥っている状況を考えると、この発言が昨日なされたものではないかと思うほどです。

オーストラリアのマスコミがこのまつ枝さんの言葉をそのまま報道したのかどうか、すでに資料はなく、
分かっているのはこの「平和」を訴える美談に水を差すこの言葉を当時の日本のマスコミが扱いかねて
「なかったことに」したという事実です。

松尾敬宇の母が真に偉大だったのは、戦後も息子の死の意味を語るにおいて時流に阿ることを決してせず、
その遺志を守り、つまり息子の尊厳を守り抜いたというその一事にあるのだとわたしは思います。

 

 

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テレビメディア側反論の矛盾

2011-09-15 | 日本のこと

フジテレビ=8、ということで8の字にバツ?
なんとタイムリーなポスターがここアメリカにもあるものだと思いきや。
よく見ていただければわかりますが、これはproposition8に反対する住人のアピールです。

カリフォルニア州では、2000年に定められたproposition22という州法によって、同性愛者同士の婚姻は違法とされてきました。
しかし、とくにゲイの多くが住むサンフランシスコ市では、市長が推進派となって、2004年、同性婚には証明書を発行しようということになりました。
それに待ったをかけたのがご存じシュワルツネッガー知事。

このプロップ8は、その市の決定を無効にする州法で、最高裁判決がこれを違法であるとした後も、推進派によって制定を進められているのだそうです。
これが制定されれば、同性の婚姻は法律的に全く無効になってしまうというわけです。

ここの住民は(絶対とは言いませんが)ゲイであろうと思われます。


先日、そのアメリカで、オバマ大統領の全ての政策に反対する2万人強のデモがありました。
実際、オバマ政権は経済を始め失点が多く、このデモも当然のことのように思われますが、問題はマスコミです。
このデモを全く報じず、それどころか問題はデモをする彼らの人種差別意識であるというように問題を矮小化し、識者にもそのようにあちらこちらで発言させ、さらに反発は高まっています。
黙殺のみならずプロップ8のような人権問題にすり替え、その刃で反駁しようとしているわけです。


さて、規模こそ違え、日本でもフジテレビの偏向放送を巡って、同じような問題が起きているのをご存知でしょうか。
以前「エリス中尉vs韓流おばさん」というタイトルの記事で、ひとことで言うと
「半島系企業の後押しによる韓流のごり押しは気持ちが悪いのでなんとかならないか」
という主張をしたのですが、その後分かってきたことによると、問題はもう少し複雑だったのです。
そのごり押しに絡むスポンサーというのが、一般企業だけでなく、韓国政府そのもので、韓流ねつ造は国家ブランドの底上げ、敷衍を目的とした国家事業ということが明らかになってきているのです。

韓国という国が日本に友好的で、その目的が日韓友好という平和なものならばいいでしょう。
しかし、反日が国是で、日本の国際的な地位を貶めるために、世界各地、特に北米で「ディスカウント・ジャパン」という反日運動を陰に陽に公に私に裏に表に繰り広げ、なおかつ、国際裁判所にも出て来ないまま、日本の領土を不法に占拠している国です。

その目的が「仲良くなるため」でないことくらいどんなお人よしでも気付こうというものです。

そして、それを受けて、マスコミ、テレビ内部の特に非日本人スタッフが事あるごとに韓流を押し、韓国を持ちあげ、それだけならまだしも何かにつけて日本を貶め、日本人から自信を失わせるような悪意のある報道をし、あるいは優勝したスポーツ大会で表彰式をカットするなどの「報道しない権利」を振りかざすたびに、視聴者の不満は膨れ上がったものと思われます。

そんな折、俳優の高岡蒼甫氏が「フジテレビはいつも韓流ばかりで面白くない」と一言ツィッターで言ったところ、正式な言論でもないその意見によって高岡氏は事務所を解雇され、それだけでなくマスコミ側と、その意を受けた何人かによる異常なバッシングさえ始まりました。

これによって、もともと違和感を感じていた層のみならず、それまで無関心であった視聴者ですら、事の異常性に気付きだし、その声はネットを通じてデモの呼びかけへとなったと思われます。
そしてデモ対象は「犬に文句を言っても聞く耳を持たないなら飼い主に」という流れにより、最も「反日度」の高いとされる番組のスポンサーである花王にまで及んでいるようです。

なぜデモ対象がフジなのかということですが、高岡氏の非難した相手がフジで、その解雇におそらく関与したであろうことと、これまでのスポーツ番組で日本を侮辱するような番組作りが最も目に余ったということ、そして何といっても外国人の持ち株比率が法で定められた20パーセントを超えており、全局中一番高いことにあるようです。

韓流プッシュはNHKはもちろん、電通の関係するメディア全てですから、現在フジが対象になっていても、他局もまた他人事ではなく、おそらく全局がこの騒ぎを注視しているものと思われます。
思われます・・・・というのはアメリカのマスコミと同じく、日本のマスコミはこれを報じなかったからです。
そしてまともに報じなかったのにもかかわらず、いくつかの媒体によって何人かの「識者」にデモの目的は反韓で、人種差別を基に発生するものであるとして非難させました。

アメリカは多民族国家で、社会全体が人種問題には非常に神経質です。
であるからこそ、問題を「レイシズム」というところに落とすことによって、無条件で非難ができるということにもなります。
日本でも、特に朝鮮半島出身者に対する腫れものを扱うようなこれまでの社会状況は、問題を人種差別にシフトし、メディアに対する批判をすり替え、またそれを非難することを容易にしているとも言えます。

フジテレビ擁護側の何人かの意見です。

脳科学者の茂木健一郎氏
「視野が狭い。グローバリズムの時代だぜ。人種差別よくない」

作家(でしたっけ?)の中村うさぎ氏
「なぜ東電にデモしない。この流れは関東大震災の時の朝鮮人虐殺を思い出す。ヤな感じ」

朝日新聞の記事(デモを報じないが批判だけは載せるアサヒ・・・)中川純一氏(誰?)。
「韓流は儲かるのだから経済行為としては当然の選択。騒いでいる人は韓国嫌いなだけ。
どっちが偏向なんだか考えろ」


そして全員、判で押したように「嫌なら観るな」

アメリカのマスコミが、デモの原因について明確な批判材料を持たないままにその行動を黒人であるオバマ氏への批判=人種差別、という図式にすり替えているのと全く同じような構図になっているのは、どうしたわけでしょう。

仮にも文章でご飯を食べている人たちなのに、この論理では誰も説得できないし、納得もされません。
そして、彼らのもう一つの共通点はフジテレビを批判する人=「ネット民」であり、ネット民、という特殊な言論の団体がいる、という立場で語っていることです。

茂木氏「ネットを捨てて外を見ろ」
中村氏「ネトウヨ」(ネットのなかで右翼的発言をする人たち)
中川氏「ネット民=暇人」

おかしいと思いませんか?
彼らマスコミの人間が、ネットから情報を得て、ネットに向かって発信し、堂々とネタを拾い、酷い時には成りすまし工作までして都合の悪い意見を潰そうとまでしているのは周知の事実です。
こんなマスコミは、ネット民に含まれないのですか?

どっぷりとその中で活動しておきながら「ネットと報道は相反するもの」などという立場でネット言論をひとくくりにして非難するのはダブルスタンダードというものではありませんか?
もう今や「ネットの中の人」はマイノリティではなく、ネットの中だけの言論というのも存在しなくなっていることをそろそろ認めなくてはいけないのではないでしょうか。

無償で提供された無数の情報から取捨選択できるインターネット。
営利団体であり、それゆえ言論の中立が確保できない新聞、テレビ。
どちらにより真実があるかは自明の理でしょう。

営利団体でありながら立場上公正中立な報道を義務付けられる、という矛盾の解決のために電波法や放送法が事細かに制定されていて、さらにそれは何故なのかを少しでも理解していれば
「経済活動であるから儲かることをするのは当然」「嫌なら観なければよい」
という理論は全く成立しないことくらい分かりそうなものですが。

上記の3人は「マスコミ擁護側」であるわけですが、そもそもいずれもが当のマスコミから
金銭を受け取ってその代価に意見を主張をしています。
(茂木氏の発言はツィッターであるが、氏はテレビに使ってもらって収入を得る立場)
もうこの時点で3人は「経済行為」としてスポンサーの代弁をしているのだと言えませんか?

この中でも中村氏の意見は、関東大震災の際の朝鮮人虐殺という、いまだ歴史的に精査を要する(直接の原因は混乱の際に起きた朝鮮人の略奪、殺人強姦であることが伏せられてきた)微妙な事柄を安易に引き合いに出してきており、印象操作を誘っているという意味で二重に悪質だと思われます。

「観なければいい」、それしか言いようのないことを言わされている有象無象の芸人たちも然り。
テレビ、マスコミでご飯を食べていない、つまり利害関係の発生していない立場から、
納得のいく、論理的な、論点外しのないデモ反対の意見が全く出て来ないのは、いったい
何故なんでしょうね?




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GO FOR BROKE!~陸軍第442連隊戦闘団

2011-09-12 | アメリカ



前項でアメリカ陸軍史上最強と言われた第442連隊、通称日系人部隊の活躍について書きました。
今日は日米のはざまに翻弄された彼らの国家と民族意識について考えてみます。

本日画像は左からキヨシ・K・ムラナガ上等兵
フランス戦線で不利な敵の射点に一人残り、恐るべき正確な砲撃で反撃をするも被弾し戦死。
享年22。

中央はジョージ・T・サカト一等兵
仏戦線で敵の砲弾の中を単身突撃、
不利であった戦況を一気に逆転させたその勇気ある行動に対し叙勲せらるる。
2011年9月現在、健在。

右はバーニー・フシミ・ハジロ一等兵
ブリュイエール、ラフォンテーヌ、そして失われた大隊の解放に参加し、
自らがおとりとなって砲撃を向けさせ友軍の砲火を助けるなどという、
大胆で勇敢な幾多の行動により、戦時中から勲章を授かり、2011年、没。
享年94。

そして前回説明のなかった画像中央のフランク・H・オノ上等兵は、
イタリア戦線にて、やはり自らをおとりにして仲間の前進を助け、
また傷ついた仲間の手当のために火の海を臆することなく走り抜け、戦中に叙勲されています。

戦中に叙勲された者、そうでない者、亡くなった者、生存していた者。
全ての元442部隊の隊員に対し、戦後新たに叙勲がなされています。
最近では2010年、オバマ大統領によって、
議会名誉黄金勲章(アメリカ合衆国で民間人に与えられる最高位の勲章)が
第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団の功績に対し授与されていますし、
2000年にはクリントン大統領のもとで戦時中に与えられた殊勲勲章を名誉勲章に格上げし、
新たに個人が叙勲されています。


ここで、我が国の戦争従事者に対する仕打ちと対応を鑑みて暗澹たる気分になってしまったのですが、
これについて書くのはまたいずれ。

何故、アメリカ政府が戦後何度もこのように叙勲を精査し格上げなどの措置を図るかというと、
一言で言って社会構造や意識、価値観の変化に伴うものがあるようです。

アメリカ軍のヒーローであり、称賛の的であった日系人部隊でしたが、
終戦後、彼らがアメリカ社会に同じように迎え入れられたかというと、
決してそうではなかったのです。
終戦直後も日本は「敵国」であり、日系人に向けられる眼は「ジャップ」であり、
一般人にとって彼らは敵の仲間でしかなかったということです。

日系人たちが「模範的マイノリティ」として、
そして日系部隊が2次大戦の戦功者として評価されるのは、もう少し先、
1960年代の公民権運動の勃発を待たなければなりませんでした。


社会の意識が変化すると、軍関係者だけでなく、民衆が
「最強のマイノリティ部隊」であった442部隊を再評価する動きになり、
また戦後の何度にもわたる叙勲という措置につながったわけですが、
この再評価が日系人全体全体を見る目に与えた影響は、とても大きなものでした。



第100大隊所属の522野砲部隊は、正確極まりない砲撃力を持つ屈指の部隊でしたが、
この部隊がドイツに侵攻した際、偶然ダッハウのユダヤ人強制収容所を発見し、解放しました。
ユダヤ人の最終処理場として機能していた殺人工場である収容所の酸鼻を極める惨状に
日系人たちは、暗澹とします。
皮肉なことに彼らのほとんどが日系強制収容所から志願した兵でした。

ユダヤ人たちはアメリカ軍であるはずの彼らが何故東洋系なのかいぶかしみながらも
「まるで天から降りてきた天使の顔に見えた」と当時の感激を語っています。
このとき解放した者とされた者、お互いは相手のことを知りたがり、意気投合し、
戦後ずっと強い結びつきを持ち続けているそうです。

彼らを解放するとともに、惨劇の告発者にもなった522部隊ですが、
戦後、日系人が収容所を解放したことは当局によって語ることを禁じられていました。


日系人による部隊結成当初、ハワイ出身者と本土出身者の間には激しい相克がありました。
憎み合うといってもいいくらいのもので、それに手を焼いた上層部は、
ある日ハワイ出身者を本土の強制収容所に連れて行き、見学をさせました。
「(日系人の)女の子に会えるな」
などと浮かれていたハワイ組の顔がこわばり、青ざめました。
鉄条網に囲まれたキャンプ。外ではなく敷地内に向けられた銃口。
これが我々が忠誠を誓うアメリカの答えか・・・・・。

そして、その時以来両者の対立は無くなったのです。
「日系人同士で争っている場合ではない。敵は人種差別だ」
誰もがこのように悟った瞬間だったのでしょう。
そして、その偏見をはねのけるには、日系部隊の価値を彼らに認めさせるしかないことも。


二世である彼らは、父母の本国と戦うことをどのように受け止めていたか。
やはりそれについては考え方はさまざまであったようです。

国家から忠誠をあらためて問われ、ノーと答えた者、そして徴兵には決して行かないと
言明した者もいました。
それは収容所から刑務所に入るということでもあり、考えようによっては
「志願するより勇気のいること」(ダニエル・イノウエ)と言えます。
当時日系社会では毎日のように自らの血と国家への忠誠のあり方について話し合いが持たれました。


そんなある日、ある日系人は、所属する学校に宛てて東条英機が送ってきた手紙に衝撃を受けます。

「これは君たち二世への手紙である
 君たちはアメリカ人である
 したがって、君たちの国に忠誠を尽くさなければならない」


また外務大臣であった松岡洋右も、日系人の忠誠を尽くすべきはアメリカである、
という意味の発言をしています。



つまり、日本人は、侍なのである。
武士道に則り、君主と国家に忠誠を尽くすものである。



これが東条英機が在米の日系アメリカ人に向けて言いたかったことであり、
彼らもまたそのように理解したのでしょう。
たとえ祖国に刃を向けることになっても、己の帰属する社会に殉じるのは
サムライの末裔である日本人として当然のこと。
そしてそれがその社会に対する恩返しであり、
これからもそこで生きていくための当然の義務であると。

そして日系部隊の編成を許可する文書で、ルーズベルト大統領はこのように書いています。
「我が国建国の原則は米国精神(アメリカニズム)である。
それは内面の問題であり、人種や祖先の問題ではない」



彼ら日系人の部隊が何故優秀であったか。
それはひとえに彼ら自身の「日本人としてのプライド」が、
そしてアメリカという国にそれを認めさせるという強い意志が、
そのモチベーションと勇気を高めたのだと思われます。
そしてその誇りの源となっていたのが、日本人の価値観でしょう。

移民であった一世の両親から、彼らへと日本の価値観は受け継がれました。

Gimu、 Meiyo、 Gayoku 、Haji 、GamanそしてDoryoku。 

Shikata-ga-nai 。Shinjiru。Seisei-doudou。

このような日本語が、日本人であることの尊厳とともに、血となり肉となって
二世であるかれらの精神を形作っていったのではないでしょうか。

そして、そんな彼らの合言葉は、隊のモットーにもなった

Go For Broke!(当たって砕けろ)

でした。
この一見文法のおかしな英語は、もともと日系人独特の、いわゆる「ピジンpidgin言語」
(シンガポールのシングリッシュや、中国人の『わたし中国人あるよ』のような接触言語)で、
ブローク、つまり破産するまで賭け金を突っ込め、という賭場でのスラングです。
彼らの隊旗にはこの言葉が誇り高く記されているのです。

かつての442部隊の戦士は言います。
「アメリカはいい国です。チャンスを与えてくれる。何にでもなれる」
しかし、この国では自ら血を流してつかみ取った者だけにしか本当の自由は与えられないのです。

今日の日系人に対するアメリカ社会の尊敬は、文字通り彼らが体当たりで手に入れた、
自由の国アメリカからの最高の贈り物なのかもしれません。

 

 

 

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アメリカ陸軍第442戦闘部隊

2011-09-09 | アメリカ



先日、陸軍グリーンベレーの入団試験について書きました。
あのような厳しい試験を経て晴れてアメリカ軍人となった彼らが、その研修課程で必ず
その輝かしい実績と共に教えられる部隊名があります。
アメリカ史上最強の部隊と言われた陸軍第442戦闘部隊、通称日系部隊です。
現在のアメリカ陸軍では、彼らの歴史を学ぶ授業は必修課程となっているのです。

1941年、真珠湾攻撃に始まる日米開戦後、
アメリカ政府は西海岸在住の日系移民およそ12万人を、各地の強制収容所に収容しました。
三か国の敵国の中で、イタリア系、ドイツ系の移民に対して行われなかったこのような仕打ちを、
日本政府は「白人の人種差別かつ横暴な所業」として喧伝し、開戦の理由の一つに加えます。

それに反駁する必要に迫られたアメリカ政府は、日系人からなる戦闘部隊を編成するという
手段を取りました。
あえて「問題児に手伝いをさせる」方法に出たのです。
そして「強制収容所に追いやった日系人に国への忠誠を誓わせる」というダブルスタンダードとしか言えない
「踏み絵」を経て、志願者による日系人ばかりの陸軍部隊が誕生します。
ハワイにもともと存在した第100連隊との合併により、第442連隊と名づけられました。

1943年のことです。

日系人部隊編成の理由は、当時ハワイの日系人によって半分が占められていた部隊を
解散するわけにもいかなかったためで、苦肉の策でとしか言えないスタートであったわけですが、
その訓練段階で彼らは異常な優秀さを発揮します。

1943年9月、第100大隊はイタリアに上陸。
サレルノでのドイツ軍落下傘部隊での戦いを手始めに、連合軍が苦戦していたドイツ軍との戦線で
「死傷者勲章大隊」と言われるほどの犠牲を出しながら戦線を制圧します。
このモンテ・カッシーノの戦いでの勝利が大きく報道され、
彼ら日系部隊の精強ぶりがアメリカ国内に知れ渡ることになります。

しかし、彼らは勝利者として解放されたローマに入ることを許されませんでした。
足止めされた彼らの横を白人の戦車部隊が追い抜いていきます。
それどころかその場でまわれ右させられた442部隊は、北方への戦線に移動させられます。
勇敢な彼らはこの時点ですでに数度に及ぶ感状を与えられていましたが、それでも
カラード(色つき)の日系人である彼らに、ローマを解放した英雄として民衆の歓迎を受ける栄誉は
与えられなかったのです。

それにもかかわらず、彼らの士気は一向に衰えることはありませんでした。
この期間、いくつかの戦線を制圧、フランスのブリュイエールでは
激しい戦闘の末勝利をおさめ、この村を解放しました。
作家、ピエール・ムーラン氏は著書「ブリュイエールのU.S.サムライ」でその戦いを記しています。
そして、この村の人々は今日も日系兵士たちの慰霊と彼らへの感謝の式典を続けているそうです。



今日、アメリカの戦闘史を語るうえで必ず挙げられるのが「10大戦闘」の一つであり、442部隊の行った
「テキサス大隊救出作戦」です。

フランスのボージュの森でドイツ軍に包囲されていた200名のテキサス大隊(第141連隊第一連隊)
は、テキサス州兵が多かったためこのように呼ばれていました。
既に二つの連隊が救出に失敗し、彼らはロスト・バタリオン(失われた大隊)とされていたのです。
ルーズベルト大統領の勅命により、疲労困憊していた442部隊がその地に向かいました。

この作戦の参加者で戦後ハワイ選出の上院議員となった
ダニエル・イノウエ氏(本日画像右)はこのときの日系戦士の気持ちをこう代弁します。

「いわば使い捨てでしょう。しかし、私たちはそれを歓迎したのです。
なぜなら、それこそ(日系人の)価値とアメリカへの忠誠をを証明するチャンスでしたから」


硬直した戦線を打破するため、彼らは「バンザイ攻撃」を決行します。
今日、アメリカでドラマなどを見ていると、何かに飛び込んだりするとき
「バンザイ!」
と普通に叫んでいるシーンにしょっちゅうお目にかかります。
これはこの時のバンザイ攻撃がが由来なのでしょう。

そして本日画像左は、この戦闘中、眼前に落下した手榴弾に覆いかぶさって、
わが身を犠牲にして仲間の命を救ったサダオ(スパッド)ムネモリ上等兵
かれは日系部隊初の名誉勲章を与えられています。

この捨て身の肉弾攻撃により、442部隊は待ちうけていたドイツ軍の戦線を突破。
テキサス大隊を救出することに成功します。
抱き合い、煙草を分け合って喜んだ両隊でしたが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで
「ジャップ部隊なのか」と言ったため、442部隊の一少尉が
「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と掴みかかりました。
少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されています。

この時の作戦参加者の一人、エドワード・ヤマサキが
And Then There Were Eight(『そして八人が残った』)という本を書いています。
この193人の小隊は戦闘後、五体無事だったのは8人だけでした。

この労をねぎらうために、司令ダルキスト少将が閲兵した際、集合した戦闘団を見て、
「部隊全員を整列させろといったはずだ。」と不機嫌に言ったのに対し、側近が
「目の前に並ぶ兵が全員です。」と答えます。
第36師団編入時には約2800名いた兵員は1400名ほどになっていました。
少将はショックのあまり何も訓示ができなかったということです。
211人を救出するために800人の犠牲を出したこの作戦を指示したダルキスト少将は、
後日「理不尽な作戦を下した愚かな指導者」と非難を受けました。

余談ですが、アメリカにとって象徴的なたった一人を救うために多くの犠牲を出す映画
「プライベート・ライアン」(ライアン一等兵)は、
この作戦にインスパイアされたのではないかと言う気がします。

しかし、彼らの犠牲を怖れぬ戦いと大戦果により、日系部隊の評価は確固たるものになりました。
彼らはイタリアで膠着していた戦線に期待され送り込まれることになります。
「問題児」としてスタートした442部隊は、今や「問題解決のエース」とまで呼ばれていたのです。

この、その期待を裏切ることなく、2万人に及ぶ二つの師団が攻略できず手をこまねいていた
ゴシック・ラインの戦いにおいて、総員2,500人の442部隊は
「一週間でも、一日でもない、たった32分で」
敵地を突破してしまいました。

ムネモリ上等兵の叙勲した軍人として最高の栄誉である名誉勲章をはじめ、
殊勲十字章、陸軍勲章・・・授けられた勲章の総数、1万8千143個(全米最高数)
名誉負傷勲章獲得総数、6700(全米最高数)
累積死傷率31・4%(全米最高率)
そして全陸軍軍隊最高数である7枚の大統領感状受賞

アメリカ軍人にとって彼らがいまだにスーパーヒーローであり、
また陸軍史上最強部隊であると賞賛されるゆえんです。

彼らに対する差別的な眼はこれを以て決定的に変わることになります。
終戦後、トルーマン大統領は、雨で周りが中止を進言するのを押し切って
帰国してきた442部隊を直接迎える行事を決行しました。

この式典で大統領はこうスピーチしました。

「諸君は敵と戦っただけでなく、偏見とも戦い、そして勝ったのだ」

かつてローマで賞賛を与えられず悔し涙を飲んだアメリカ陸軍第442戦闘部隊は、
このときアメリカ合衆国大統領が直々に迎えた、米国史上唯一の戦闘部隊になったのです。



続きます。


 

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ブリス(口福)~アメリカ・アイスクリーム事情2

2011-09-06 | アメリカ

管理者でありながら、自分のブログのアクセス解析、特に検索ワードのページをある時期以降、
というかある事件以来全く見ていません。
(これを読んでいる方で事情をご存じの方、あれですよあれ)
しかし「いつの記事が読まれている」「どの記事が人気がある」ということは時折チェックします。

渾身の作が全く顧みられていなかったり、埋め草のつもりだった記事が毎日のようにヒットしていたり、
実に興味深い現象に遭遇するのもブログをする面白さだなどと実感することしきり。

その「埋め草のつもり」だった、去年の夏にアップした
「神への愛と悪魔の餌~アメリカアイスクリーム事情」
なのですが、不思議なことにほとんど毎日上位閲覧数に挙がってくる「数字のとれる記事」。
アイスクリームの情報を探す人が世の中にはいかに多いか、ってことなんでしょうか。
それともアメリカのアイスクリームについて、関心を寄せる人が多いとか。
そういえば、日本のアイスクリームにアメリカのような「乳製品、砂糖不使用」ってありませんね。

そこで!

今年はあえて「記事を書くために」アメリカ滞在中、積極的にアイスクリームを購入し、逐一写真を取り、
本日まとめて淡々とご紹介していくことにいたしました。
ただし、ハーゲンダッツやら、ベンアンドジェリーズなどの「普通のアイス」は一つもありません。

全て「砂糖を使わない」あるいは「乳製品を使わない」人用のサブスティチュート・アイスクリーム。
それではどうぞお楽しみ下さいませ。

 

などと言いながら、最初に「基本」であるところの「アメリカの普通のアイスクリーム」を。
去年紹介したボストンの「ウルマンズ」。
今年も盛況で、なんでも地域のテレビではしょっちゅう紹介されている「地元の名店」なんだとか。
一番小さい「キディ・サイズ」。これで4ドル99ですから、アメリカにしては高いのですが、
アメリカ人はこれの2スクープを基本としています。

 

右はケフィアのアイス
ヨーグルトアイスはよく見ますが、こちらはボストンのホールフーズでしか買えませんでした。
実は今回トライした中で一番美味しかったのですが。
息子は「アイスなのに口に入れてもなんか温かい気がする」
と面白い感想を言っていました。
確かに、粉雪のように口の中でほろりととろけ、かき氷のように頭がキーンとするようなことは全くなし。
実に不思議なお味でした。

左は、凍らせて食べる「フルーツシャーベット」。
端っこをハサミで切って押し出しながら頂きます。
これ、なんと日本で買えるんですよ。
ミッドタウンの中に入っているスーパーマーケットに行けば、アメリカより少量単位で箱売りしています。
名前は「スムージー」。
ヘルシーなので、ぜひ見かけたら試してみてね。
  

二つともミルクの代わりにココナッツミルクを使用しています。
「アニマルフード」つまり動物の体から出るものを食べない、というベジタリアン(ビーガン)も、
これなら安心して食べられるというわけ。
とろみ、なめらかな舌触りは、代用と思えない美味しさ。
「ココナッツ・ブリス」の方は、バニラはもちろん、このジンジャー・クッキー・キャラメル、
アメリカ人大好物のミントチョコレート、シナモン、変わったところではラベンダーなど。
実にバラエティも豊富です。
素材としてほとんどアイスクリームと同じ扱いができるからでしょう。
ただ、これココナッツの脂肪があるのでカロリーは高そうですよね。

  

ミルクの飲めない人が日本でも自然食品店で手に入れる「ライスドリーム」のシリーズ。
左はアーモンドミルク、右はお米からできています。
このほかに「ソイ・ドリーム」(豆乳)もありますが、息子がアレルギーなので買いませんでした。
今回食べたうちでもっともコクがあり、ねっとりとした舌触りだったのがこのライス・ドリームでした。

  

さて、このへんで「意欲は分かるが、残念なお味」だったものを。
ヘンプってご存知ですか?
麻とか、大麻とかの植物のことなんですが・・・・どう思います?この色。
どう見ても粘土じゃありませんこと?
そう、このヘンプで作った、新聞紙束ねる紐、あるでしょう?
あの色ですよ。・・・・って、原材料は一緒なんですが。
この「何が何でもアイスクリームと呼ばせたい」という意欲は買うけど、そして、
甘味を何が何でも身体に良い「アガベ」(サボテン)にして、文句のつけようもない健康的なアイスだけど、

まずい

これは致命的でした。
本体の味よりバニラエッセンスの味しかしない。
というか、何が本体の味なのか、全く分からない、それもアイスクリームと謳っておきながら、
シャーベットをネチョっとさせたような、何とも言えない糊のような舌触りが決定的。
今回、食べたいというよりこのブログに載せたいがためだけに、粛々と代替アイスクリームを
買い続けたわけですが、食べられなかったのはこれだけでした。
こんなもの食べなきゃいけないんだったら何も食べない方がまし、ってどういう商品よ。
冒頭写真のものは、やはりこのヘンプと同じノリのものだった記憶があるのですが、なんと

原材料が何だったか忘れてしまいました <(_ _)>

パッケージ写真を拡大してみたのですが、どこにも何でできているか書いてないし。
ハートのマークやI am deserving(私にはその価値がある、みたいな)とか、
What are you grateful for?(あなたは何に感謝しますか)とか、
そう言う胡散臭い文言はじめ、ヘルシー、ナチュラル、サブスティチュート、

そんなことはこれでもかと書いていあるんですが、肝心の「何でできているか」がわからない。実に

怪しいアイスクリームさんです。

今回、わたしも息子も「これは美味しい!」と継続買いを決めたのが、
前述のフルーツシャーベットと、これ。
うふふ、日本人であることが誇らしいわ。大げさか。

  

トウフッティ。そう、豆腐アイスクリームです!
これ、言われなければミルクじゃないって全然わからないシリーズ。
クッキーサンドで、まあカロリーはそれなりですが、一口サイズ(商品名もキューティズ)で、
「分かっているぢゃないか」と思いました。
でも、さすがアメリカの商品、どのパックもこの写真のようにクリームがはみ出していました。
日本なら「汚らしい」なんてクレーム来そうですね。

このメーカーは、これ以外にも豆腐でクリームチーズ、ホイップクリームなんかを意欲的に作っています。

ところで、怪しいアイスクリームさんのパッケージ文句ではありませんが、
アメリカのアイスクリーム(代替含めて)は、やたら「ハート」「幸せ」とか「ドリーム」など、
抽象的なイメージを持ってくる傾向にあります。
去年の記事で書いた「アガベ・アイスクリーム」のパッケージが、ラファエロの天使だったり、
(今年はどこにももう売っていませんでした。美味しかったのに残念)
そう、上記の「ココナッツ・ブリス」のブリス(無上の幸福)なんて言葉ですね。
日本のアイスクリーム、シャーベットなどの商品名が「宝石箱」や「爽」「ガリガリくん」などのように
それそのものの形態を譬えて味を想像させようとするのに対し、アメリカでは
「それを食べることによって期待される精神的満足」が謳われている傾向にあるようです。
(今気づいた)

このblissですが、同じ幸福という意味でも「我を忘れるほどの喜び」といった意味のecstasyとは違い、
心の平静を保つ精神的な喜び、というニュアンスの幸福を指します。
まさに美味しいアイスクリームはこのしみじみとした精神的な幸福をもたらす作用がある、
というアメリカ人の主張には大賛成。

色々な事情で普通のアイスクリームを食べられない、あるいは健康のため控えている、
という人のためにも、ブリス(口福)アイスクリームはここアメリカではふんだんに用意されています。

はずれもふんだんにあるけど。

 

 

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クラスヘッド「モグ」

2011-09-03 | 海軍人物伝

坂井知行海軍少佐。海軍兵学校六十六期卒。
加賀乗組、横須賀空分隊長兼教官を経て昭和17年11月15日、五八二海軍航空隊分隊長。
昭和17年11月30日、ラバウル上空にて戦死。


同級生の薬師寺一男氏が初めて坂井知行生徒を入校前江田島のクラブで見たときに受けた印象です。
「こいつ頭のいいような顔をしている」

その印象の通り、秀才ぞろいの江田島でこの坂井生徒は「何の勉強もしないのにいつもトップ」
のハンモックナンバーでした。
「クラス・ヘッド」という項で七十期のクラス・ヘッドについて話しましたが、
天下粒よりの兵学校生徒ともなると、普通の秀才などではなく「何となく何でもわかってしまう」
天才タイプの生徒がその中でもトップを占めたようです。

しゃべるとき何となくもぐもぐと言った調子であることから飛行学生の時に拝命したあだ名は
「モグ」
クラスヘッド・モグの勉強時間は誰よりも少ないので有名でした。
正規の勉強時間以外はもっぱら級や分隊のことをやり、休日には真っ先に倶楽部にでかけました。

なのにかれは難解な天文数字とか熱力学理論の問題も、またたくまに算式を解いてしまうのです。
「貴様、なぜ勉強をあまりしないのに試験がよくできるのだ」
級友のこの質問に対する坂井生徒の答えは
「教官が熱心に講義するところを、教室で覚えてしまうのだ」


『先生のの口調や身ぶりを見て、その力の入ったところを中心に試験のヤマを当てましょう』

と、その昔エリス中尉が読んだ学習雑誌に書いてあったことそのままではないですか。
そのとおり実行してみましたが、ヤマであろうが冗談であろうが、同じ調子で講義する
「敵もさるもの」や、一貫してぼそぼそと同じ調子で眠い講義をする先生の授業には
全く通用しなかった記憶があります。

そういう失敗談はともかく、この坂井生徒の四号時代、それを真に受けたのか、同分隊の生徒たちは
どうもこの「あまり勉強しない」というところだけを見習ったらしく、分隊監事から
「お前たちは坂井生徒とは頭の出来が違うから、刻苦精励の要が大である。
鵜のまねをする鳥(カラス)の結果となるのは当たり前だ云々」

とのお叱りを蒙ってしまったそうです。


この坂井生徒、クラスヘッドでありながら航空、しかも戦闘機を志望し、三〇名の飛行学生の中から
ほぼ全員が志望しながらわずか五人しか選ばれなかった戦闘機専修に選ばれ、
意気揚々と訓練に励みます。

しかし、ある日五人のうちの一人、原正少尉が訓練中で事故を起こし、殉職しました。
この事件で級友の、特にこの四人の戦闘機専修学生の受けたショックは大きかったようで、
何十年後になっても日高盛康少佐、藤田怡与蔵少佐が懐古録でそのときの思い出を語っています。
この坂井生徒は戦後を生きることがなかったのですが、遺稿となった家族への手紙に、
明らかに原少尉のことに衝撃を受けて書かれたと思しき一句が綴られています。


海荒れて夕闇は濃し一機帰らで              山人


山人とは、坂井少尉の句名でしょうか。
この句には「太平洋の真中に不時着行方不明となれる機を思ふて」と添え書きがあります。

原機は訓練中上昇の際両翼が飛び、機体ごと海中に一直線に突っ込み、
さらにその遺体は一週間の捜索を待たねば見つかりませんでした。

この句は、明らかにその一週間の間に書かれています。



さて、飛行機の操縦にも「スランプ」というものは訪れました。
おそらくどんな搭乗員も、そんな波を繰り返しつつ一人前になり、一人前になった後も
調子の波というものは戦況などとは全く関係なくその技術に影響を与えたのでしょう。

クラスヘッドで、操縦技術にも長けていたモグも、飛行学生時代スランプに見舞われました。
同じようにスランプだった薬師寺学生と連れだって水戸連隊に馬術訓練に行っています。
何とかしてそれから脱したいという思いでしたが、効果なし。

そこで悪友のアドバイスがあり、二人は・・・・・
ここは薬師寺氏ご本人の言にお任せしましょう。

「紀元二千六百年の記念作業も兼ねて、思い切ってバージンを捨て
スッキリするに如かずと二議一決」

ちょっと待て。いや、お二人、ちょっと待って下さい。
この「紀元二千六百年の記念」というのは一体何ですか?
何とかスランプを打破するついでにちゃっかり記念作業も、ということですか?

その辺は秀才といえども実に若者らしくて、思わず微笑んでしまいます。
教官に紹介状を書いてもらった(さすが海軍!)お二人、柳橋のさる一流料亭に勇躍乗り込みます。

ところがこの料亭の女将、たった一言、
「勿体ないことしなさんなっ!」
「・・・・・・・・・・・」(._.)(._.)

海軍軍人も、海千山千の女将にかかっては子供扱い。
でも、わたしがこの女将ならやっぱりこう言う。

とにかく二人はこの神の、じゃなくてゴッド(おかみ)の一言で雄図空しく帰隊しました。
その後二人がどのようにスランプを解消したのか、また「記念作業」はその年のうちに行えたのか、
それは薬師寺氏も書きのこしてくれていません。


昭和十七年十二月。
兵学校六十六期同級生の外山三郎氏は、トラック島に出店していた料亭、パイン(小松)に立ち寄りました。
そこで外山氏は他のパイロットから
「坂井知行さんが立ち寄りましたよ。自信満々、米機など鎧袖一触(がいゆういっしょく)、
ものの数ではなさそうな口ぶりでしたよ」

という報告を受けます。

頭脳だけでなく、運動神経もよく、敏捷でパイロットとしてはピカ一の存在である坂井大尉の存在は
関係者の中では有名だったのです。
しかし、同席した一人が「心配だなあ。相手もしたたかだぞ」と言いだし、
しばし座は坂井大尉をめぐって論争になりました。
外山氏は坂井大尉の腕を信じる気持ちと、不安に交互に見舞われつつ、武運を祈って宴を終えましたが、
実はこのときすでに坂井大尉は戦死しており、この世からいなくなっていたのです。
後からそれを知り、外山氏は暗然と打ちのめされたそうです。


着いて早々、地形も敵情も戦闘法も、何も知らない若い士官をいきなり隊長として実戦に出し、
緒戦で未熟な彼らを失ってしまう、ということがこの時期多くありましたが、
飛行学生時代腕のいいパイロットと言われた坂井大尉もこの例にもれなかったのです。

せめて、しばらくの間、状況を把握する時間があったら。
明晰な頭脳に技術を備え、何よりも人望のあった坂井大尉ですから、武運さえあれば指揮官として
腕を奮う逸材に育ったことは間違いないでしょう。
この頃のラバウルでは実に多くの若い士官搭乗員が着任早々亡くなっています。
毎日のようにいなくなる士官パイロットの補充要員として次々に実戦に出されたためです。
すでに「馴らし」を行わせてもらえるほど余裕のある戦場ではなかったということなのですが、
それにしても、この戦場にとってだけではなく、戦後の日本にとっても必要だった
優秀な人材を失わないためにも、あとせめて暫時の猶予が与えられなかったのでしょうか。


坂井大尉は生前家族への手紙に
「人生わずか五十年、軍人半額二十五年」と冗談めかして書いています。

その言葉はそのまま悲しい予言となり、クラスヘッド「モグ」こと坂井知行大尉の人生は、
わずか二十五年で終わりました。

 

 

 

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アメリカ人と泳ぐ犬

2011-09-01 | アメリカ

アメリカに住むのなら、犬を飼うのはさぞ楽しいことだろうなあ、とずっと思っていました。
広い家は原則土足ですから(日本人でなくても土足厳禁の家は多いですが)犬も当然室内飼い。
大型車に乗せて10分も走れば大抵の都市には海岸や公園、池があって
散歩する場所に事欠きません。
ドッグランなどとわざわざ行かなくても愛犬を解き放って思う存分遊ばせられるのです。

 

サンフランシスコではゴールデンゲートブリッジのクリッシーフィールドでウォーキングしましたが、
ここでは犬の品評会のようにいろんな犬と飼い主の散歩風景が鑑賞できました。
二匹飼って彼らが転がりまくってじゃれるのを見て楽しむ人も多いようです。
かと思えば、余世を一緒に過ごしている、と言った感のある落ち着いたペアも。

 

右写真はミッション・ドロレスの一角にある公園。
日本でも見られる「犬ともだちの集会」。
全く一緒の光景ですね。
飼い主同士で「ジョンのお父さん」「プーチのママ」とは呼び合うことはないとは思われますが。

「アメリカの犬は幸せかもしれない」と以前書いたことがあります。
家も広く、遊び場には事欠かないアメリカの犬は、確かにマンションの一室で買われていたり
ろくに自然もないような所で繋がれっ放しの日本の犬よりは恵まれているように思っていました。


 

何と言ってもこうですから。
水辺に行って犬を泳がせる。
ボールを投げたら喜んで犬は飛び込み、一生懸命泳いで取りに行く。
犬好きにはたまらない「遊び」に違いありません。

犬を飼ってこういうことをしてみたい、という人は実に多いものらしく、サンフランシスコの夏でも誰も足さえつけようとしない冷たい海であろうが、緑色で底がどうなっているのか分からないような池であろうが、こうやって「犬を泳がせるアメリカ人」がどこの水辺にもいます。
 

このなんだかひょうきんな感じの犬の飼い主の持っているオレンジのものは「ボール投げ器」。
散歩に来る人がよく持っていて、これで時には海の中にボールを放り、犬に取りに行かせます。
若い活発な犬なら喜んで冷たい海に飛び込むのです。

  
この白い犬と鍛えた筋肉のおねえさんのペアは、この夏、ボストンでウォーキングしていた
ホプキントン・ステートパークで毎日見かけました。
土手の上からおねえさん、走りながら湖面にボールを投げ、何度も何度も取りに行かすのですが、

UTェTU 「ハアハアまだやるんすか」
(ノ・_・)・・・━━━━━━━○

UTェTU 「ああっそれをされると身体が勝手に・・・・!」どぼーん
 


厳しい飼い主のため、この犬、毎日毎日異様なくらい泳がされていました。

でも、上の写真を見てわかると思いますが、トレーニング?の後はこうやって声をかけ、
「よくやったわジョン!」
などと労をねぎらう愛情あふれる飼い主さんです。
それに、この湖は水深があり、底がどうなっているのかちょっと怖いくらいなのですが、
まだしも水はそんなに汚くありません。

アメリカ人がこうも犬を泳がせたがるのは、シーズーを飼っていた友人のダイアンが言うように
「犬の匂いが我慢できないの!だから毎日洗うのよ」という理由、つまり
犬を遊ばせてついでに洗濯もしてしまうという意図あってのことなのかと思っていたのですが、

少なくともこの湖(サンフランシスコのマーセド湖)を泳いできれいになるとも思えない・・・。
その疑問はロスアンジェルス在住の友人と今回その話をしたときに氷解しました。
彼女いわく
「浜辺を犬と散歩して犬のためにボールを投げてやる。
そういうことをしている自分が好きなのよ結局



つまり、このような美しい映像を自分でイメージして、それを実現しているオレ、に酔うために
犬を飼うんでしょうか。
余裕のある暮らし、それを楽しむ生活、そういうライフスタイルを実践する自分。
そういったものをわかりやすく形作るために、彼らは犬を飼い、車で水辺に出かけ、
ボールを投げて犬に拾わせるのでしょうか。

いつか犬が老いてボールを取りに行くどころか、寝たきりの要介護犬になっても
同じように家族の一員として愛し続けることは、
そういうイメージだけで犬を手に入れるような人には荷が重いのではないかしら。

まさにそれに気づくと同時に、どこの犬の散歩場所にも業者の車が止まっているのに気付きました。


そう、日本でもあるようですが、犬を散歩させる業者です。
忙しくて散歩させられない、という人はこんなにもいるのか、と驚くほどです。
飼い主はリードをつけないことが多いですが(場所にもよります。街の一角のスクエアと言われる公園はリードを義務付けられているところもありますが、やっぱりみんなリード無しでフリスビーなど投げている)業者は必ずこうやって何匹かはつないだまま散歩させているのですぐにわかります。

水辺を犬とする散歩も、毎日のこととなると単なる日常。
お金を出して散歩させてやろうという人に飼われている犬はまだ幸せで、
飽きられて放置されている犬もおり、そういう動物をパトロールで見つけて飼い主に勧告したり、
あるいは助け出してシェルターに保護する専門の係もいるそうです。
そういう「アニマル・ポリス」がTV番組にもなっているのです。

クリスマスプレゼントに子供に犬を買ってやり、すぐに面倒をみるのにも飽きてしまったとか、
水辺で犬を泳がせることにも飽きて、つまり「個人の事情」で犬を飼えなくなった。

そう言う人が「不要犬」を持ちこむのがこのシェルターです。
この団体はテレビの宣伝によって寄付を大々的に募り、経営を成り立たせています。
ですから日本のように数週間で殺処分、などという非情なシステムにはなっていないと信じているのですが、
実際はどうなのでしょうか。

その一つ、PETAの大きな看板。
イメージガールの女優さんを大きな羽の天使に扮させ、小さな犬を抱かせています。

「動物たちの天使になりなさい」
(ペットは)アダプトしましょう 決して買わないで


アダプトとは養子を貰う時に使う言葉。
つまり、シェルターから貰って下さい、と訴えているのです。


TOが杉本彩さんのペット虐待を訴える講演が某クラブであったのを聞いてきたことがあります。
彼女の話によるとペット業者の動物の扱いは実に酷いもので、売れ残った動物を生ごみ
(ゴミ回収車の中で完全に圧死する)として出してしまうことすらあるのだそうです。
業者から買わないとなると、買われなかった犬や猫はこのように処分されてしまうのですから、
そうならないように業者の犬猫を買ってあげるという考えも成り立ちますが、
それより飽きたり飼えなくなって飼い主の都合で捨てられる動物の数はそれを大いに上回るのだそうです。
アメリカでもこれは社会問題となっており、せめてそういう施設から貰って下さい、
とこの看板は訴えているわけです。

 

勿論、いなくなった犬をこうやって必死に探す飼い主もいるわけで、
このように本当の家族として愛してくれる飼い主に恵まれた犬は幸せなのですが、
「犬を泳がせる」イメージのために犬を買う多くのアメリカ人は、いまやあのような
巨大な看板で訴えなくてはいけないほどのたくさんの「不要犬」を世の中に生んでしまっているのです。
 


深く考えずに私が持っていた「アメリカの犬は幸せだ」などという単純な考えはまさにこの
「泳ぐ犬」のイメージに憧れる単純さに通じているように思います。
狭いマンションの一室に寝起きして、水辺どころか近所の道を歩くだけの散歩をしている日本の犬でも、
自分を愛してくれて一生を伴にし最後を看取ってくれる飼い主に恵まれるのなら、
たとえ飼い主の投げたボールを追う心躍る日々をいっとき過ごしても、その後飽きられて
シェルターに持ちこまれるアメリカの犬よりはるかに幸せだからです。




おまけ*シールズの軍用犬。
これから高高度からのスカイダイビングするところです。

泳ぐどころか飛んでるし。


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