ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

工作船とリコッタチーズのパンケーキの日 

2012-04-30 | つれづれなるままに

   
昨日は全くいいお天気でしたね!
大型連休に入って、どこも混んでいると分かっていても、ついお出かけしたくなるような。
エリス中尉は、横浜の赤レンガ倉庫に行ってきました。

ここに、ディカプリオも常連というニューヨークのグリル、billsがあると聞き、
(と言っても今日初めて知った名前でしたがw)行ってみることになったのです。



赤レンガ倉庫の敷地は、緑のふんだんにある公園になっており、そこからはいかにも横浜!
って感じの、こんな景色が見えます。
今日は、ドイツビールのフェアをやっており、もの凄い人出。
芝生の上でピクニックとしゃれこむグループもたくさんいました。
最近、こうやって皆が幸せそうにしている光景を見ると、心から嬉しくなるわたし。
だって、ねえ・・。



向こうに見えるのは、ベイブリッジです。
早めのお昼を食べるつもりで11時に到着したところ(予約不可)、
「今からですと2時45分以降の予約が取れます」

・・・三時間待ちってことですか。

なんと、あまりに人気なので、人数制限しているんですね。
ここは、リコッタチーズのパンケーキと、スクランブルドエッグが名物なのです。
3時間待つということになってしまいましたが、そのために来たんだし、お天気もいいから
その辺を散歩しながら待ちましょう、ということになりました。

ところで、「リコッタチーズのパンケーキ」と、全くこの世の対極にあるような「北朝鮮工作船」が、
なぜタイトルになっているか、ですが・・・・・。
3時間近くの時間つぶしを余儀なくされた我々が、埠頭に歩いていくと、そこには、
おお、まるで絵に描いたようにおあつらえ向きのブログネタが。

冒頭の写真、海上保安庁の巡視船、6500トン(くらい)の、「しきしま」です。
因みに、船体に書かれたPLH31のHですが、ヘリを搭載できるというクラスを意味するそうです。

うーん、それにしても、フネというのはどうしてこのように美しい完璧なフォルムをしているのか。
写真を撮りながらふと眼を転じると、そこに格納庫のような建物が。

「工作船展示館」

ほお、これは、子供の工作した船のモデルかなんか?
工作船って、北朝鮮の?なわけないか。
と、何気なく中に足を踏み入れてみたところ。

orz  まじでした

皆さん!ここにね、展示してあるの。
北朝鮮の工作船が!
善男善女が、美しい気候を楽しむ、この観光地の一角に。
海上保安庁の巡視船とバトルを繰り広げた結果、自爆沈没した実物の工作船がぁっ!

 

こんな感じです。
右画像は、ここに小型ボートが収納されていた、船腹内。

2001年12月22日、鹿児島沖で、海保の巡視船「いなさ」は、不審な船を発見。
追跡することなんと7時間、停船命令、威嚇射撃にも応じず、海面に証拠物らしきものの
投機を始めたため、「いなさ」は予告の上、船尾に向けて射撃。



そのときの弾痕です。
場内では一部始終を映像で観ることができるのですが、人命に影響の無いように、船尾に
向かって射撃することを告知してから行いました。

巡視船二隻で挟み撃ちにしようとしたところ、船橋後部で毛布のようなものに隠れていた数名が
いきなり巡視船に対し自動小銃により攻撃をしてきました。

この攻撃により、巡視船「あまみ」の乗組員三名が負傷し、船橋内のレーダーも破壊されたため、
巡視船は正当防衛射撃を行い、三分としないうちに工作船は自爆と思われる大爆発を起こし、
沈没したということです。



そのとき銃撃に使われたと思われる、ロシア製の銃。

後日引き揚げられた遺体は金日成の顔バッジをつけており、これが北朝鮮の工作船で、
麻薬などを在日韓国人の男の手引きで暴力団に輸送してきたものだということが分かっています。
(乗組員は死亡、手引きの男と暴力団組長は検挙済み)

館内には、やはり公園内を散策していてぶらっと入ってきた散歩の客が、
いきなり水を浴びせられた面もちで展示に見入っていました。
ニュースでこのようなことをいくら見聞きしても、それは遠い世界の出来事に過ぎませんが、
こうして銃痕も生々しい工作船そのものを目の当たりにすると、日本の海の守りが、いかに
重要な国防であるかが、いやというほど分かる仕組みです。

というより何より、怖い!



その時の工作船と巡視船の戦い。

ちょうど今、尖閣の問題で、海防という事柄に関心が集まっている中、実にタイムリーに、
海保の活動について知ることができたこの日の見学者は、ラッキーだったと言えるかもしれません。

出口で一人500円ばかりの寄付をさせていただいたとき、
「ここにこういうものがあることを、知らない人の方が多いよね。もっと皆見るべきかもね」
「啓蒙という意味でもね」
などと話していると、横にいた職員の方が、わたしたちに、

「よろしかったら、皆に宣伝して下さい・・・。
海保は、宣伝にかけるお金がないんですよ」


宣伝しましょう!わたしのこのブログで!
と後半は心の中だけでお約束して、ついでに少しインタビューさせていただきました。
えー、現在、尖閣付近には、常時巡視船が二そうずつ海域をパトロールしているそうです。
こういう任務は、交代で行われ、一度出撃?したら、二週間帰って来られないそうです。

今尖閣付近はああいう状態だし、保安官達も緊張の連続であるのは当然ですが、
海保職員の家族も、毎回彼らが無事で帰ってくるまで気が気じゃないだろうなあ。

何しろ、こういう方々が、命をかけて日本の海を守ってくれているわけです。感謝。

なのに、全く民主党のバカどもときたら!(怒)



いい時間つぶしどころか、全く有益な時間だったわ、と満足しながら、それでも、お茶を飲み、
さらにウィンドショッピングなどして、ようやく2時半になったので、billsに行きました。
それでもしばらく外で待ちましたが、その時に店に来た人たちが
「次のお席は6時からの御案内になります」
と入り口で言われて、すごすごと帰って行くのを多数目撃しました。



期待が募るなあ・・・。
このbillsのオーナーは、オージーで、ニューヨークに店を出し人気となった
「アメリカンドリーム」の実現者です。
ニューヨークのセレブリティをとりこにしてきたそのお味とは・・・・。





綺麗な形のときに写真を撮るのを例の如く忘れて、お見苦しい画像で失礼します。
これがリコッタチーズのパンケーキなんですが、驚き!
アメリカのパンケーキなのに、全く甘くないの!
うっすらとかかったメイプルシロップと、上のバターに甘味がついているだけ。
アメリカ人なら「味が無い!」って暴れ出すレベルのあっさり味なのだけど、
やはりニューヨーカーというのは先端を先取りする者の自負があるから、
これが最先端の味!と言われれば「クール!」と砂糖なしの味を取り入れてしまうのでしょうなあ。

甘味が欲しければ、着いてくるメイプルシロップをどばっとかければいいのですが、
それをすると「ただのパンケーキになってしまうから、かけない方がいい」(TO談)そうです。

もう、サラダを加えたこの二皿で、お腹はいっぱいになっていたのですが、やはりデザートは
別腹!ってことで、無理やり二品頼んでみました。


苺のパンナコッタ。
これも、アメリカ人の嗜好を知っているものから見ると、薄気味悪いくらい甘さ控えめ。
苺の酸っぱさの方が甘さより勝っているくらいです。



運んで来られた途端、周りの人々の注目を集めまくっていたデザート、「パブロワ」。
パブロワ、って、あれかしら。
踊り終わるなり倒れて、医師が診察したら「もう三〇分は前にこと切れていた」って、
伝説になった、あのバレリーナかしら。
瀕死の白鳥を模しているのかしら。
メレンゲはいいとして、このカエルの卵みたいなパッションフルーツは少し見た目が、
などと様々な思いを巡らせつつ一口・・・・・・わたしは一口でギブアップでした。

まあ・・、メレンゲ、ってそもそもお砂糖の塊り(+白身)ですから・・・。

「これはアメリカっぽいよね。甘くてやたら大きくて」
「うん、日本人なら四人で一個で十分」

それにしても、雰囲気といい、お味といい、ニューヨークとほとんど同時に、同じ味が、
何の苦労もなく味わえる素敵な国、日本。

この豊かさを、日本人に生まれたがゆえに、何の疑問の無く享受することのできるわたしたち。
しかしこのような豊かな国であらばこそ、そのおこぼれにあずかろうして侵入してくる
周辺国の面々もいるわけで。

この同日に見た北朝鮮の工作船。それに乗っていた(全員遺体で発見された)工作員。
そして、同じ世紀を生きながら、ハリウッドスターの好物を同じように口に運ぶ日本人たち。
両者を分ける運命のあまりに残酷な差異に、つい

「日本に生まれてきてよかった・・・」

と、ただそうとしか思えない自分が、わずかに後ろめたく感じた日でした。







短気なご先祖さま

2012-04-29 | つれづれなるままに







皆さんは、自分の家系についてご存知ですか?
わたしの実家にも父方の家系図というものが存在していました。
まだ中学生くらいのときですが、それを見る機会があり、興味深く眺めていたとき、
妹が「あっ!この名前」というので指さすのを見ると、「千次郎」という名前が。
その何カ月か前、妹は横向きにうとうとしていたのですが、背後から大人の男の声で
「センジロウ・・・・・」と言うのを聞いたのだそうで・・・・。
そこにいた全員、つのだじろうの漫画のひとのような顔になってしまいました。
千次郎さんにもっとも近い時代生きていた祖母を除いては・・・。

千次郎さんが妹に何をアピールしたかったのかはわかりませんが、
我々がこうしてこの世に今現在存えるには、太古の昔から繋がってきた命があるわけで、
この「千次郎事件」は、みたことのないご先祖さまの存在を、なぜか実感することとなりました。


先日、インターネットで見た情報によると、士農工商の時代、
武士の割合は全体のわずか五パーセントだったそうです。
私の父方は士族の家系でした。
小さい時からその話を何となく聞いて育っていたので、自分が少数派だとは全く思っていず、
その割合を見てあらためてびっくりしました。

父の家はどこやらの何とか藩(これはぼかしているのではなく、本当に忘れた)の
武芸指南役だったそうで、殿様や若様に剣道を指導する係の家筋だったそうです。
そういう家なので、女性といえども武芸は嗜み、曾々祖母くらいまではナギナタは基本。
何とか言う武芸の流派を継承し、鎖鎌の名手であったという話を聞きましたが、
こういうことって、伝聞ですので、それを裏付ける資料でもないと、全く実感がありません。
先祖代々伝わる銘刀や鎖鎌でも残っていたら「ああそうなのか」って思うんでしょうけれども。


そこで、もう一度冒頭のマンガなのですが、これは実話なのです。
しかも、わたしの連れ合いであるTOの母方のご先祖様の話です。
TOの祖先には、「お酒が大好きで墓石を屠蘇とっくりの形にした人」あるいは、
高山彦九郎のように土下座している自分の像を作った人、
(皇居ではなく、遠くの地に離れて住んでいた奥さんの方を拝んでいるらしい)
など、なんだか一筋縄ではいかないタイプが多いように思うのですが、
もっと一筋縄でいかなかったこの漫画の主人公。

その医者は、加島隆元(仮名)と言います。
村では評判の名医とその呼び名が高く、あるとき、地元の大名がその評判を聴いて、
持病の治療をさせるため、隆元をお城に呼びました。

その当時、身分の高い大名などの診察をするとき、医師は糸脈と言って手首に糸を結びつけ、
その先を隣の部屋で握った医師が脈を見るという、随分まどろっこしいことをやっていました。
これが、隆元が御典医ではなく、一介の町医者であったからなのか、
どんな医者でもそうしていたのかはわかりません。

この殿さま、自分で呼んでおいてなぜか悪戯っ気を出したとみえ、
隆元が自室に下がっているのをいいことに、糸の先を猫に結びつけて脈を取らせました。

「して診たては?」
それに答えて隆元、
「かつおぶしでもやりなされ」

ここで終わればマンガのネタだけで(あまり面白くはありませんが)すんだのですが、
ここからが問題。
「侮辱された!」と怒り狂った隆元は、自分の屋敷に火を放ったうえ、自決してしまいます。

後味の悪いのは隆元をからかった殿様。
しかも、その後次々と災難が降りかかるように起こるに至って、
「隆元の霊のたたり」ではないかとまわりも噂するようになり、
殿様は、隆元の霊を慰めるために墓のそばに神社をたて、鎮魂に努めたと言うことです。

それにしても、この話を知ったとき、
いつも穏やかで怒ったことのないTOのご先祖にしては短気なご先祖様だなあと思いました。
いくらなんでも、からかわれたくらいで自殺して、おまけに祟らなくたって・・。

しかしこの話は、隆元が御典医ではなく、村の名医であったことにポイントがあると思います。
この糸脈にしても、こんなよくわからない方法を大名の侍医が恒常的に使うわけでなく、
「下々の」村医者であるから、この方法を取らざるを得なかったのであったとすれば、
隆元にとってもそれは不本意な治療であったと言えないでしょうか。

わざわざそういう冗談をするために呼びつけたのだとしたら悪質ですし、
わざわざ城に出向いていってこけにされたとあっては、
誇り高い人物ならば、この屈辱に対し死をもって抗議するのも当然かもしれません。


それにしても、殿様には当然かかりつけの医師がいたでしょうし、名医であったとはいえ、
わざわざ野にある医者を呼び寄せるにはそれなりの切羽詰まった事情があったはず。
にもかかわらず「殿さまジョーク」をかましたこの殿さまも、一体何を考えてたんだか、
ってことになります。

ついそういうことをせずにはいられない「いちびり」だったのか、あるいは、
平民の医師なので、侮っていたのか、それとも御典医のからんだいやがらせか・・。

とにかく、ご先祖様はこういう理由で神様になってしまいました。


地元には今でも、その墓と共に小さな祠が現存しています。








海軍兵学校名簿

2012-04-28 | 海軍




苦労の末、海軍兵学校名簿を手に入れました。
兵学校を卒業した全生徒の氏名出身地がクラス別に書かれているのものなのですが、
なんと、恐るべきことに!

氏名がハンモックナンバー順に掲載されているのです。

これを編纂にあたった元海軍出身者は「完全な名簿である」とあとがきで語っています。
いわく、

「しかしてこの名簿の特徴は、卒業序列名簿であることである。
クラス・ヘッドという言葉が通用した海軍では当然のことかもしれぬ」

海兵で成績がいいからといって出世したわけではないのは、勿論、
いろんな軍人のストーリーに照らしても皆さん御承知のこととは思いますが、
だからと言って、一番最後に名前が書かれている名簿が未来永劫人の眼にふれ続ける、
というのも、元海兵生徒にとってあまりこころ楽しからんことに違いありません。

歴史に名を残す人間であれば「成績は何人中何番、決して良くは無かった」
しかし、と続けてもらえるのでしょうが、ただそのとき兵学校にいたというだけで、成績表が
皆に回覧され続ける海軍士官には、この点全く「予想外の落とし穴」であったと言えましょう。

だって、もし戦争に負けず(仮の話ですよ、仮の)海軍が消滅しなかったら、兵学校の成績は
「歴史資料」ではなく、いまだに学校内に保管されたままだったんでしょうし。

軍神広瀬中佐だって、
「兵学校じゃ80人中64番だった」(49番説もあるそうですが、これはまた別の日に)
と日本国民全員が知ったら、その神話に当時水を差した可能性さえあります。


これが全国からもの凄い倍率の試験を潜り抜けてきた秀才集団で、たとえその中の
最下位であってもたいしたものあるということを念頭においても、かれも人の子、そしてわれも。
ついつい興味半分でこういうのを見てしまう、という俗はやはり人の子であるゆえに。



まあ、そんな風にこの名簿をつらつらと見て考えていたところ、ふと、
以前どこかで読んだ、在る海軍軍人のハンモックナンバーが、
この「完全バージョン」とは違う数字であるのに気がつきました。
はて。
もしかしたら、年度途中のものも出回っていて、こういう間違いが起こるのかな?

というわけで、もし、気になる軍人の「真実の」ハンモックナンバー、是非知りたい!という方。
こんなわたしにしか聴くところがなければ、お教えしましょうとも。
ただし、返事は非公開にしてgooメールで送りますのでご安心ください。


ところで、この名簿、兵学寮時代から74期までの全卒業生の名簿なのですが、最後の
卒業生である74期の総人数、何と1024人。

これが当然のことながらきっちり成績順に名前が並んでいます。
本当だろうか?
もしかしたら、同率同位が何十人単位でいるのではないだろうか?
この名簿で30番目に書いてある人と、42番目に名前のある人は、実は同じ点数ではないのか?

そんな不安に胸を掻き立てられる想いすらします。(←嘘)

そして、これだけの人数のクラスの首席ともなると、
真のクラスヘッド!最強のクラスヘッド!って感じで、ラスボス感満載なのですが、

逆に、この1024人の明らかに一番最後に名前を書かれた人って・・・・・。

(T人T)ナムー


注*本日画像は、74期のものではありません。


あゝ江田島羊羹

2012-04-27 | 海軍




羊羹、という漢字に何故「羊」という字が使われているのか、不思議に思ったことはありませんか?
もともと、羊羹とは、中国の羊料理。
羊のスープのようなものですが、冷めると煮こごりができる、そういう料理です。
日本に伝わって、よくある話ですがお坊さんがこれをアレンジし、アズキを使った「煮こごり状の菓子」
にこの名前を拝借したのだという説があります。

海軍関係の読み物や映画には、この羊羹がよく登場します。
甘いもの、といえば羊羹、ぜんざい、蜜豆和菓子の餡子ものであったころ、持ち運びができてお土産にもなる、
この羊羹は今よりずっと人気があったようです。
一度話題にした「給糧艦間宮」では名物「間宮羊羹」というものがありまして、これは
「虎屋にも匹敵するくらい美味い」と評判であったとの由。
ここでお菓子を作っていたのは海軍の軍属職人たちなのですが、なんだか
「その辺の菓子屋なんぞに負けてたまるか!」みたいな渾身の羊羹作りをしてたみたいですね。

本日タイトルを一部拝借した「あゝ江田島」と言う映画では、主人公だかそうでないんだかわからない
(この映画についてもまた書きます)村瀬生徒が、東京の実家へのお土産に買っていました。
「海兵4号生徒」では、ボーイをしながら兵学校に入った秀才生徒が、
(クラスヘッドの山岸計夫生徒がモデル)夏季休暇に小用の港に向かう途中で
「おまえ羊羹買ってこい」とパシリをさせられる、というエピソードにも登場。

この江田島羊羹、前回(2月末)旧兵学校跡見学のとき、お土産に買ってきました。

 

塩羊羹の方は人に差し上げて、この包み紙が欲しかったので、左の小さい方を家で頂きましたが、
甘いもの、餡子のカナーリ苦手なエリス中尉に、この羊羹を食べるのははっきり言って「苦行」でした。
家族はわたし以上にアンコ嫌いときているし・・・。

兵学校でお土産にされていた当時は、砂糖が潤沢でないというのもあって、
現在のものよりもかなり甘さ控えめのあっさり味だったそうです。

この羊羹を製造している会社扇屋は、創業明治33年。
当然のことながら、兵学校内で売られていたのと同じ製法で作られています。勿論添加物なし。
虚心坦懐に味わえば、美味しい羊羹なのでしょう。
羊羹の味を論評する資格はわたしにはないので、一応そのように言っておきます。

昔は今のようにスイーツなんぞと言ってバラエティに富んだ甘いものが溢れていませんから、
甘党が選ぶお菓子と言えば餡子一択。
甘いもの好きの生徒さんなどは、酒保で何本も羊羹を購入し、毎日のように一本喰いするのでしょうが、
そこで本日冒頭の漫画です。

はたして、羊羹の喰いすぎは、兵学校生徒として、否海軍軍人として、咎められるべきか?


「海軍兵学校の平賀源内先生」と言う稿でご紹介した兵学校の英語担当教授、
平賀春二先生は、教材用として江田内に停泊していた軍艦「平戸」の艦長室に居住していました。
ある日曜の朝九時。
甲板掃除も済み、上陸する者たちも全て巷へと散った閑散とした空気の中、
平戸の艦長室を訪ねてくる生徒が一人ありました。

かれ、山田生徒(仮名)は、学業成績こそ地味ではありましたが、豪放磊落、天衣無縫、
教官からも上級生からも親しまれる、いわば兵学校の「名物男」であったそうです。

その山田生徒、礼儀正しく室外で手袋、帽子、外套を取り入室。
氏名を名乗ったのち正しく挨拶をして、それらを帯剣と共に帽子掛けにかけ、ソファーに座ると

「わたしは本日から向こう三週間、上陸止め、酒保止め、官舎止めになりました」

官舎止め、とは、週末教官のお宅を訪問してご馳走になることを言います。
つまり、酒保で好きなものを買ったり、外で美味しいものを食べたり、これが一切禁止されたというのです。
こんな重い罰を科せられた山田生徒、いったい何をやらかしたというのでしょうか。

「実はわたしの分隊のうち、イヤ、全二号生徒のうち、イヤ、全校生徒のうち、
酒保の伝票でわたしの羊羹代が先月末最高で、しかも!
第二位をグウーーーーンと引き離していたからです」

羊羹を食べて何が悪いのだろう、とおそらく、本人どころか、周りの生徒、それを糾弾する上級生すら、
全員が心のどこかで思っていたに違いないのですが、
何しろ、海軍軍人たるものが女子供のように甘いものを喜ぶ、という構図そのものがいただけないと、
まあそういう判断であろうと思われます。
そう、そういう時代であった、ということです。

今でこそ男であろうがおじさんであろうが、甘いものが好きで何が悪い、というのが常識ですし、
一流のパティシエは皆男。
しかし、昔は「男が甘いものが好きだなんて恥ずかしい」という風潮がマジで色濃くあったのです。
エリス中尉がまだ幼いころにもその傾向はあり「甘いものが好き」と公言する男の人が出てきた頃、
「へえー」
と周りが軽く驚くような風土がまだ日本にはあったと記憶します。

そのあたりがわからないと、もしかしたらこの「羊羹喰いすぎて罰直」も、理解できないかもしれません。
しかし、男が甘いもの好きで何が悪いのか?
というと現代の我々には「かっこ悪いから」くらいしか理由が見つかりません。

そして、誰にも「何が悪いのか」ということに明確な答えが出せないわけですから、
上級生としては教官官舎やクラブや酒保でのエチケットについて長々と、歯切れも悪くお達示するしかない。
あげくに「判決」の言い渡しには伍長は笑いをこらえきれず(画像)、一度は後ろを向いて気を取り直し、
再度回れ右をして言い渡しにかかったのですが、


となってしまい、伍長補に「言い渡しは貴様に頼む」
ところが、もう全員(笑)をずっとこらえていたので

ブ─(;゜;ж(;゜;ж;゜;)ж;゜;)─!!

ともあれ、上記山田生徒が言うところの厳しい罰をニヤニヤしながら言い渡すという仕儀になり申し候。

クラブや官舎のの美味しいご馳走まで禁じられてしまい、ただでさえ甘いものジャンキーの傾向のある山田、
さぞわが身の不運を嘆き、羊羹喰いを反省したのか?
いや、追い詰められたものは窮鼠猫を噛まんばかりの知恵をひねり出すものです。

山田生徒が思いついたのが源内先生の居住している軍艦平戸艦長室。
「官舎でも(一応官舎ですが)クラブでもなく、ここで先生に頼めば酒保からの調達もOK」
おまけに源内先生は、有名な生徒好きです。

「一号生徒は集まってみんなで知恵を絞って、あらゆる手を打ったつもりでしょうが、
まさか軍艦平戸の艦長室と言う抜け穴があろうとは、さすがの一号も気づかなかったと」


愉快愉快、わっはっはー!!と山田一人で盛り上がり、先生はあわてて水兵さんを酒保に走らせ、
艦長室で大いに喰らい大いに語り、挙句は二人で昼寝三昧。
このひそかな宴席が三週間にわたって繰り返されたのかどうかまでは源内先生も書いてはいません。


ところで、我が家の冷蔵庫の片隅には、いまだに手を付けられていない江田島羊羹の残りが、
カビも生えずにひっそりと今も息づいております。
あまりにも見た目に変化が無いので、捨てられもせず、ずっとそこに存在しているのです。
砂糖には防腐作用がありますが、羊羹も一種の砂糖漬けだったのだとあらためて認識しました。

このブログのネタのため、今(2011年12月)おそるおそる端っこを食べてみたら、少し固いだけで
全く大丈夫でした。
買って10カ月経ってるんですけど。
なにこれ、こわい・・・・。








鈴木貫太郎と安藤大尉

2012-04-25 | 陸軍



二・二六事件の一年後、その時に反乱の青年将校の襲撃を受け、重傷を負った侍従長、
予備役海軍大将の鈴木貫太郎が、海軍士官の会合で、事件を語りました。
そのとき語った内容は、当事者の事件への証言として、あらゆる書物に引用されています。

鈴木大将は当時侍従長。
尊王討奸を掲げる反乱将校たちが、天皇の大御心の発現を妨げる根源と考えていた
枢密顧問官の地位にいたことから襲撃対象にされました。
鈴木邸を襲った部隊の隊長は安藤輝三陸軍大尉
穏やかで静かなその人柄は部下に慕われ、事件に関しては最後まで慎重だったと言われます。


今日は、鈴木大将自ら証言した事件当夜の様子と、大将から見た安藤輝三大尉についてです。


二月二十六日の夜、鈴木邸の女中が
「兵隊さんがたくさん来ました」
と鈴木に将兵の来訪を取り次ぎます。
鈴木はもうそれだけで、五・一五事件を想起しただならぬ事態であることを直感しました。

床の間の白鞘の短刀を取って抜き、中をあらためるも、役に立ちそうにないと判じ、
鈴木は、納戸にダンビラを取りにいきます。
しかし、いくら探してもそれは見つかりません。
泥棒でも入ったときに物騒だと言うので、鈴木の妻が、事件の数日前に風呂敷に包んで、
別の場所に移してしまったところだったのです。

刀を探しているうちに、兵隊がたくさん入ってきた様子を察知した鈴木は、
八畳間に再び戻り、明かりをつけました。
これは、納戸などでごそごそやっているときにもしやられてしまったら、
まるで吉良上野介のようで、まことに具合が悪い(かっこ悪い?)と考えたためだそうです。

八畳間に佇む鈴木を侵入してきた兵が三方取り囲み、銃剣を構えました。
最早これまで、と無抵抗にじっと立ち尽くす鈴木の周りで、全員がしばらく無言のままでした。

「静かになさい。理由を話したまえ」
下士官らしい男が
「閣下でありますか」
と言いました。
「そうだ。まあ静かに・・。何か理由があるだろう。話したまえ」

しかし相手は何も言わず、
「簡単でよいから話したらどうか」
と三度聞いたところで、
「時間がありませんから撃ちます」
と言うや、ピストルを構えました。

「撃ってみろ―アアお撃ちなさい」
鈴木がこう言うや、

一弾  外れて唐紙を貫く
二弾  腰にあたる
三弾  胸にあたる

四、五弾は一つは肩をかすめ、一つは頭にあたりました。

至近距離でありながら命中率が低いのは、撃った下士官の極度の緊張のせいでしょうか。
鈴木が倒れると、緊張したその体は、しっかりとたたみに手を押しつけていたのですが、
下士官は自分の掌をたたみと体の間に無理やりこじ入れて脈を見ました。

「まだ脈があるからとどめを刺しましょうか」
下士官がこう尋ねると、一間(1、8メートル)離れて端坐し、全てを見ていた妻のたかが、
「とどめだけはやめてください」
と嘆願しましたが、これに返事する兵はいませんでした。
誰もこれに対してどうなすべきかを決めることのできない者たちだったのです。

映画では、鈴木襲撃のシーンで、斃れた鈴木にたかが覆いかぶさって命乞いをする様子が
多々描かれていますが、実際はたかは端坐していたその場所から動かず、
「とどめうんぬん」と周囲が言いだしたのでそれに対し声だけをかけたようです。

誰も答えられないので一人の兵が女中部屋に走って行くと、士官が来て
「とどめは残酷だからやめよ」
と言いました。
これが安藤輝三大尉であったと考えられます。

実は、鈴木の証言と、それを聞書きした人物の表現が実に曖昧で、
ここの前後関係が、この文書からはよくわからないのです。
鈴木が倒れてからすぐに「とどめはやめよ」と言った人物が安藤なのか、そして、
安藤はなぜ鈴木を撃ったときにそこにいなかったのか。
なぜ兵が女中部屋に安藤を呼びに行ったのか。安藤はそこで何をしていたのか。


ともかく、中隊長の安藤大尉の意向により、鈴木はとどめをされませんでした。
そして安藤大尉は
「閣下に敬礼!」
と号令をかけました。

二、三十人の兵隊が折り敷きの姿勢(右を立て左足を折る銃撃用の姿勢)で捧げ銃をしました。
鈴木は朦朧とした意識の中で、安藤が、妻のところへ行き、
何かを話していたのを認め、記憶にとどめています。

このときに安藤大尉はたかに向かってこう言ったのでした。

「我々は閣下に対し毫も恨みを持つものではありませんが、
躍進日本に対して意見を異に
するため余儀ない次第であります」
「それはまことに残念に存じます。なにとぞお名前を伺わしてください」

士官は容(かたち)を改めて
「安藤輝三」
と名前だけを称し、整列して引き揚げて行きました。


鈴木貫太郎は安藤大尉と面識がありました。
「政治の革新について御意見を伺いたい」
そういって鈴木に面談を求めてきた安藤に対し、鈴木は自分の意見を率直に語りました。

軍人は政治に関与してはならぬ。
軍人は専心国防に任ずべきものである。
国防は敵国に対してなされるものである。
つまり、鈴木は今日でいうところの「シビリアン・コントロール」、政治と武力の分離を、
安藤に語ったと思われます。

「ヒトラー、ムッソリーニですら国防軍を私に政治に用いていないではないか」

このときに安藤が鈴木に語った主張と言うのは
「現下の日本は、荒木大将を総理大臣にせねば国はダメになる」。そして
「兵隊を多く出している農村であるが、これは今疲弊している。
兵が後顧の憂いを持たないように、軍隊の力で改良せねばならぬ」

これらの安藤大尉の主張に対して、鈴木の意見は
「後顧の憂いなどと言うことを考えるのは、民族として愧ずべきことではないか。
ましてや農村を軍隊の手で救わねばならぬという考えにおいておや」

鈴木は、フランス革命の際、列国は兵を以てこれを干渉しようとしたが、
フランスの軍隊は敢然と起って国境を防ぎ、敵を防いだことを引用しながら、
彼らが革命をあくまで国内の危急であり、国を滅ぼさんとするものではないと考え、
これゆえ外からの干渉を断固排除し、まずフランスを守ったことを安藤に話しました。

農村が疲弊しているから後顧の憂いがある、戦争に臨めないというのならば、
そういう民族は滅亡するのが当然である、日本はそんなものじゃない。
フランスにできて日本にできないことはない。

二時間を超す打ち解けた会話が終わり、安藤が家を辞するとき、
「非常に有益なことを伺いありがとうございました。
時々お伺いしてお話を承りとうございます」
「いつでもよろしい」
二人はこう言って別れました。

安藤大尉は鈴木の家を出てから、同行した二人(民間人)に、

「鈴木閣下は、話に聞いたのと会って見たのとでは、大変な違いだ。
今日は実に愉快に、頭がサッパリした。ちょうど風呂に入って出たときのようだ」
と話したとのことです。

安藤大尉はこの日の会話を通じて、鈴木大将に相当の尊敬の念を抱いていたのでしょう。
面会の数日後、人を通じて記念に何か字を書いてくれ、と頼んできたので、鈴木が
書を贈呈したところ、安藤はそれを事件の時まで自室に掛けていたそうです。

しかし、その話を仲間に語って、ある者からは裏切り者の如く言われたという話が示すように、
安藤大尉の置かれていた抜き差しならぬ立場では、いくら鈴木の話に共鳴したとしても、
皆を説得することは無論のこと、自分が転向することもすでに不可能だったのです。


侵入してきた兵に取り囲まれたとき、鈴木は旧知の安藤大尉を認めていません。
鈴木邸に侵入しながら、なぜ安藤大尉は鈴木と対峙することを避けたのでしょうか。
なぜ鈴木銃撃の瞬間その場にいず、女中部屋にいたのでしょうか。


襲撃した要人にとどめをさすことは、将校たちの間で規約として決まっていたそうです。
かつてその人柄に触れ、今なお親愛の情を持つ鈴木と、殺人者という立場で向き合い、
そして、鈴木がその目に自分を認め、何かを語りかけてくるであろうことが、
安藤大尉は怖かったのでしょうか。

鈴木に自ら手を下さず、下士官である部下に任せて、自分は別室でその銃声を聞いていた。
そう考えるのは、あまりに安藤大尉に甘い幻想を持ち過ぎているでしょうか。


この事件で襲撃された海軍軍人が三名(岡田啓介総理、斎藤實内大臣、鈴木)いたことから、
海軍は、すぐさま反乱軍への徹底抗戦を決めます。
陸戦隊を配備し、第一艦隊を出動、戦艦「長門」以下各艦の砲は、
全て陸上の反乱軍に向けられました。

「もしクーデターが成功したとしても、陸海軍間に深刻な対立の段階を迎えたことは必然である」
とウィキペディアは記します。


安藤大尉は鈴木邸を襲撃後去るとき、女中に向かって
「閣下を殺した以上は自分も自決する」と言い残しましたが、自ら喉元を撃ったにもかかわらず、
搬送された陸軍病院で、――裁判と処刑を受けるためだけの一命を取りとめました。

その後、7月26日、安藤照三大尉は他の反乱将校と共に刑死します。
刑までの数カ月の間に、かれは獄中で自分が止めを刺さなかった鈴木貫太郎が
命を存えたことを聞き知ったでしょう。


これも想像ですが―そのとき、安藤大尉は、ひそかに安堵したのではなかったでしょうか。







映画「バトル・シップ」

2012-04-24 | 映画

 

先週末は「The Iron Lady」に続き、この「Battleship」を観てきました。
ところが、バトルシップ鑑賞後、エリス中尉は毎年恒例の「春の高熱祭り」に突入してしまい、
風邪でもないのに40℃の熱が出て、一応病に伏しており、インターネットも見られない状態。
それでもこの稿だけは、なんとか一日も早くアップしたい!という執念で書いております。
しかし、やはり高熱というのは人の判断力とか、注意力を散漫とさせるのか、
絵をアップしてから見直すと、誤字脱字が三か所も見つかりました。
この調子で果たして文章がまともに書けるのか、我ながら危ぶまれるのですが、それでも書く。
一日でも早くこの映画について皆さんにお知らせするために。
なぜなら、このブログに来て下さる方なら、この映画、無茶苦茶楽しめると思うからです。

このバトルシップ、ユニバーサル映画100周年記念作品だそうです。
その記念すべき作品に、こういうテーマを選ぶとは。
「ネタばらし」にもなるのですが、もしかしたら
「それなら観にいってみようかな」と思う方がいると信じてあえてここで言うと。

かつてガチで戦い合ったアメリカと日本が、今、その同じ真珠湾で外敵と戦う。


エイリアン襲撃のシーンのCGは、いかにも「ああ、トランスフォーマーと同じ製作者だからね」
と言うものではありましたが、そっちは全くこの映画にとって見どころではないのよ。
わたし的には。
でも、一言だけ言わせてもらうと、トランスフォーマーの時も思ったけど、このCG、
いまいち「重力感」が感じられないのはなんとかならんものか。
なんで、こんなに巨大なモノがこんなに素早く動けるんだ?みたいな。


さて、「バトルシップ」。
事件は、環太平洋海軍合同演習真っ最中に起こります。
いきなり日米艦隊の眼前、太平洋上に現れる謎の物体。
襲いくるエイリアンの軍隊。
それになすすべもなくやられてしまう「サンプソン」と「みょうこう」(T_T)

余談ですが、このイージス艦の英語訳は
Guided Missle Destroyer
で、つまりデストロイヤー=駆逐艦なのですが、(菅野大尉のことではなくってよ)
我が自衛艦だけが英語ではデストロイヤーを名乗りながら日本語では「護衛艦」なのです。
「駆逐」はだめで「護衛」ならいいと・・・。
なんだかなあ。
駆逐せずに護衛することができるのかと。

主人公は、米海軍イージス駆逐艦ジョン・ポール・ジョーンズ乗り組み、ダメ士官のアレックス。
そのダメぶりは、なぜか恋人のパパである司令長官シェーン提督の耳にも入っており、
アレックスはこの非常事態が無ければ「上陸後ただちにクビ」確定。

ところがJPJの上官は全員戦死。アレックスが最上位で指揮官になってしまいます。
絶望する下士官たち。(わかる)

下士官に具申されて初めて海上の「みょうこう」の乗員を救出することに気づくほど、
当初からまったくいいところなしのアレックスは、海上から救出した自衛隊イージス艦
「みょうこう」艦長の永田(これがまた無茶苦茶優秀)に指揮を譲ります。

ところがこのアレックス、戦ううちにだんだんと覚醒して、最後には永田もびっくりの大決断。
エイリアンを撃退、地球は救われ、めでたしめでたし。

という内容なのですが、いたるところに、「キーワード」がはめ込まれているのです。
それは、かつて同じ真珠湾で起こった、あの出来事に全てがまつわっています。

アレックスと永田との個人的関係が、日米のそれを暗示しているのも見ものです。
サッカーの試合でわざと顔を蹴った蹴らないの大騒ぎをし、次にばったり会ったトイレで殴り合い。
そんな二人が、いつの間にか手を取り合い、共に闘い、相手を認めあうに至る。

それはいいとして、専守防衛が骨の髄まで沁み込んでいる我が国の自衛官が、
他国の軍人相手に殴りかかりますか?
「みょうこう」の艦長(階級は一佐、つまり大佐)ともなると、さらにありえん。
さらに少尉のアレックスが先に手を出したというのも考えにくい。

それに、アレックスは、プーな生活を兄にどやされ海軍入りをした、という設定なのですが、
シーンが変わったらもう士官になっていて、おまけに意中の女性まで恋人にしている。
ダメ士官という設定の割には、ここまで順調過ぎませんか?
こんな早く士官になれるのなら、そんなにダメじゃないんじゃない?

と、まあ、映画的御都合的な突っ込みどころ満載の設定には、この際眼をつぶりましょう。


ところでこの映画の題、「バトルシップ」って、何のことだと思います?
「バトルシップ」というゲームをしたことのある方は、勿論、ここで実際に描かれる戦闘シーン、
「G-4攻撃!」「外れ」「I-2攻撃!」「命中!」
というゲームのようなノリのイージス艦の戦闘シーンにワクワクされるでしょう。

しかし、この映画におけるバトルシップ、その主役は?
「みょうこう」?「ジョン・ポール・ジョーンズ」?「サンプソン」?

いずれも違うんですね。

それは・・・、戦艦ミズーリのことなのです。

ミズーリと言えば、あれですよ。
かつて日本と戦い、そして日本の降伏調印式がその艦上で行われた、あの戦艦。
エイリアンとの戦いに、この記念艦ミズーリを引っ張り出してくる。
これが、実はこの映画一番の見どころなのです。

そしてそのとき、合同演習の開会式に招待されていた退役軍人のじいさんたちが
「おう、若えの、そいつは俺たちでないと動かせんぜ」
とばかりに、スローモーションでばーん!とあらわれるシーン。

あれ・・・なぜか涙が・・・・。


この映画と(あまりに業腹なのでいまだに観ていない)映画「パールハーバー」との違いは
「昔のことは昔のこと、これからは、日米こうでなくちゃ!」
「俺たちはもう気にしてないよ。未来志向で仲良くやろうぜ」的なメッセージを
(特に)日本に向けていることでしょう。
どこかで震災後の日本に対して、「日本には俺らがついてるぜ!元気出せよ」
みたいなサービスだという映画評を見ましたが、そういう面もあるかもしれません。

対して、映画の中で、謎の兵器が街を破壊したそのとき、
「中国政府に確かめたところ、我が国のものではないと表明している」とか
「北朝鮮のものではない」ということをニュースの形で言わせています。

北朝鮮はともかく、中国という国の野心を、アメリカがかなり警戒するレベルに来ている、
というニュースを最近も南沙諸島の件で見ましたし、この映画にも見られるように、
アメリカが中国を敵対する国と位置付けているというのはかなり真実かもしれません。
そこで、

「万が一、中国と戦争することになったら、日本はアメリカの味方だからよろしく」

ってメッセージが、日本と中国に向けて込められてたりして・・・。
常識的に見て経済大国同士が戦争なんて、クラウゼヴィッツに聴いてもあり得ない話なんですが、
今後はジャイアン同志の「盟主争い」「覇権争い」っていうのがあるからなあ。

しかしながら、現実はさておき、このたびはハリウッドムービーにありがちな

「U.S.A! U.S.A!」(トモダチ作戦、ありがとう。助かったわ)
「ニッポン(ちゃちゃちゃ)!ニッポン(ちゃちゃちゃ)!」(ガチンコ勝負したからこそ、俺達わかりあえるんだよな)

みたいな単純明快な快感に身を任せるのも、また一つの楽しみ方でありましょう。


最後に、我がイージス艦「みょうこう」が大破沈没してしまう件。
これまで自衛隊は「国民の税金を投入して作った自衛艦が破壊されるなどというシーンは困る」
という姿勢であったとどこぞで聴きましたが、このたびの破壊許可の陰には、なにが?

「そのかわりナガタ艦長を活躍させるから」って口説かれたのかなあ。





 


映画「大日本帝国」~ウヨサヨ判定映画

2012-04-23 | 映画




大日本帝国、なんて大上段から構えたようなタイトルをつけている割には、内容が小粒です。
つまり、簡単に言うと、このタイトル自体が皮肉としか思えない内容なんですねこれが。

大量の写真をアップしながら説明した「戦争と人間」が、あれだけの長時間かけて、
つまりは「日本の謀略と悪辣ぶり」を描くことに終始していたように、この映画は
やはり長時間かけて結局何が言いたいかというと、

「大日本帝国なんて偉そうにしてたけどさ、戦争負けてるし(笑)

天皇がさっさと戦争やめさせときゃ、皆こんな酷い目に遭わずにすんだんじゃないの」

だと思うんですけど、観たことある方、いかがなもんでしょう。


勿論、開戦に始まり、東条陸将(丹波哲郎)を主人公のようにして、いかにも
「激動の昭和史、日本はいかにその時を迎え、人々はどう生き、どう死んだのか?」
みたいな煽り文句をつけているこの映画ですが、
歴史を動かした人々のあれこれは、要するにこの映画にとって「傍論」に過ぎません。

御前会議の内容やアメリカが「日本に先に拳銃を抜かせる」などと画策していたことは、
全く説明として字幕やほんの一シーンで触れられているだけで、ストーリーは、

正義感あふれる陸軍士官(三浦友和)
徴兵されてきた床屋(あおい輝彦)とその妻(高橋恵子)
京大出の予備士官(篠田三郎)とその恋人と、彼女によく似たフィリピン娘(夏目雅子)

がいかに酷い目に遭うか、ということを中心に進み、それに終始します。

この時期、こういう「日本が戦争したので皆酷い目に遭いました」という
日本戦争映画の傾向が、より一層遠慮なしになってきた感があるのですが、
今日の眼であらためてこの映画を観直してみると、「戦争責任者としての天皇」を
はっきりと糾弾していることが、おそらく中学生にも分かる内容です。

これは、戦後戦争の責任を誰かに求め続けた日本人が、敗戦当初の日本軍部に始まり
「日本の政治指導者」、ここに至ってついに「天皇陛下への戦争責任を問う」
という、ある意味思いきった表現を採用した、最初の映画とも言えるのではないでしょうか。
この流れがNHKはじめ新聞各社のあからさまな「反皇室」への布石になっていったこととも
無関係ではありますまい。

いや、それはたかが映画に、考え過ぎだろうって?

そう思われるなら、一度この映画、観直してみてください。
いたるところで天皇という台詞が入りますが、それは必ず天皇の否定か、
天皇の責任を問うことがらか・・・いずれにしても、露骨なのに気付くことでしょう。

床屋の家族がラジオを聴きながら床屋の妻が、
「天皇陛下も戦争に行くのかしら」
「天子様は宮城だよ」
(いかにも不服そうな顔をして見せる)

出征する篠田三郎が恋人夏目雅子に
「僕が死ぬときは天皇陛下万歳だけは言わない」

玉音放送の後、聴いていたおじさんが
「天子様のお言葉で戦争済むんだったら、なしてもっと早くやめられんかったんだべか」


戦犯収容所から脱走を持ちかける搭乗員(西郷輝彦)が篠田に
「大元帥陛下が我々を見殺しにされるはずがなかでしょう!
我々は天皇陛下の御盾になれと命じられて戦うてきたとです。
そう命じられた方が我々を見捨ててアメリカと手を結ぶなんちゅうことは絶対にありません!
日本政府がポツダム宣言を受諾したとしても、天皇陛下はたとえお一人になられても、
必ず私らを助けにきて下さる筈です!」

ね?すごいでしょう。
たかが海軍の一搭乗員が、しかも今までジャングルの中でずっと死ぬか生きるかの
サバイバル生活をしてきて、すっかり国に見捨てられた状態だった軍人が、戦犯になって
ジャングルに逃げようとしているときにもこんなことを言うというのも信じがたいのですが、
この、西郷輝彦扮する真珠湾攻撃にも参加した海軍パイロットは、この映画にとって
「典型的な狂信的皇国思想の持ち主で、どんな非人間的、残虐なこともやってのける軍人代表」。
何かにつけて、「天皇陛下」を強調するのですが、実際その名の下で

  • 真珠湾攻撃に赴く前、部下の千人針を殴って取りあげる 部下は戦死
  • 海中を漂う敵兵を、何航過もして一人残らず機銃掃射で殺す
  • 山中で日本軍に協力したフィリピン人を情報が漏れないようにと殺す
  • 篠田の恋人に似たフィリピン娘さえも殺す
  • 機体不良で特攻を引き返した篠田を殴る

それもこれも、彼が「天皇陛下に忠誠をつくす軍人であるなら当然」と、いう設定です。
本人の説明で、これらのことはすべて
「天皇陛下をお守りする軍人としての務め」
と言わせているわけです。

その他の軍人、特に幹部は軒並み酷い人間ばかりに描かれています。
軍旗を守るためにボートにしがみついてくる兵の手首を切る軍人。
(これが、陸軍軍人なのに押し立てているのがなぜか海軍旗)
敗走しようとする民間人を銃で押し戻し死ねと命じる軍人。
沖縄を描きながら、「沖縄県民かく戦えり  県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」
と自決した大田中将のような人物は決してこの映画には出てきません。



それもこれも、実際にあったとされることには違いないのですが、あらゆる戦争の惨事の中から、
わざわざ悪辣な上層部、虐げられる国民と下級士官、兵ばかりを描き、かつ
「天皇が命令しなければこんなことにはならなかった」という色付けをして見せるわけです。

「海ゆかば」
を全員が合唱しながら、あたかも幽鬼かはたまたゾンビのようにサイパンにいた日本人たちが
敵弾の中を撃たれるために進んでいく場面は、気分が悪くなること請け合いです。
このあたりのこと、わたしは詳しく調べていないのですが、これは史実ですか?

丹波哲郎演じる東条英機の一連の行動も、天皇に対し忠であろうとする部分が強調され、
東京裁判のシーンでは、ただひたすら「天皇陛下の戦争責任は無い」ということを証明した
東条の姿だけを描きます。
つまり、天皇との関係性においてしか、東条の存在を語っていないのです。

そもそも、この映画は他の映画で後姿だけとか、遠景だけでぼかされていた昭和天皇の姿が
実際に役者に演じられている点が画期的。
このあたりも彼らの天皇糾弾というテーマを明確にするための手法だと思われます。


まあ、良くも悪くも、つまりそういう映画なのね、とわたしは判断したわけですが、
これが、調べてみたら結構面白いことが判ったんですね。

この映画について、わたしのように
「分かりやすい天皇批判の左翼映画」だと観た人間の中には黛敏郎がいます。
学生当時、
「知ってる?黛敏郎って、右翼なんだって」
「へー、そういえば、マーチとかそれっぽいもんねえ~国粋主義っぽいっていうか」
などと学生特有のスーダラな会話をしたことがありますが、右翼であったかどうかはともかく、
彼が左翼でなかったことは確かなようで、この映画を
「非常に巧みに作られた左翼映画」と評したそうです。

篠田三郎が戦犯として銃殺される寸前、
「天皇陛下、お先に参ります」
と言います。

「僕は死ぬときに絶対に天皇陛下万歳とは言わない。君の名を呼ぶ」
と恋人に言った篠田にこう言わせているのは、
「天皇陛下に続いて死ぬことを求めている」という意味だと黛は言い、
逆に左派の映画監督山本薩夫「非常に巧みに作られた右翼映画」と評しています。
山本は、篠田の台詞が「天皇礼賛」に聴こえたようなのです。

さらに、赤旗お抱えの映画評論家は「戦争賛美の右翼映画」と評し、別の映画評論家によると、
「指導者に同情的であり、戦争責任をぼかしている。
また戦死者を無駄死にと描いており、日本人の自己憐憫の映画だ」ということです。

結構大量の映画評を当たってみましたが、思想的にどこに立っているかによって、例えば
「戦争に対するノスタルジーや、あの戦争を肯定したいという気分を、この映画は後押しした」
なんてことを言う人もいるんですね。

ここで個人ではありませんが、極めつけは中国の新華社通信
「東條英機を主人公にした映画が製作されるほど、日本の風潮は右傾化している」
と報じています。


つまり、この映画は、映画を観る人の立つ位置によって
右翼映画に見えたり、左翼映画に見えたりする、いわば
ウヨサヨ・リトマス紙のような映画なのです。

種明かしをしてしまうと、この映画の脚本家、笠原和男氏も、監督升田利雄も、
自分たちではっきり「天皇批判の意図を持つ左派思想の映画だ」
って言っちゃってるんですよね。
うーむ、さすがは煮しめたような団塊の世代。悪びれてもおらん。

しかもこの世代、「観客サービス」のつもりで女優さんに脱ぐことを要請する傾向にあります。

先日まで死体がごろごろしていたところに泳ぎに来た米人のカップルが、
日本兵の骸骨でラグビーしていて、怒りの小田島中尉(三浦友和)に射殺されるシーン。
この全裸になる白人女性は、脱いでナンボ(つまり顔が)なのでそれでもいいんでしょうが、
その形状に思わず眼をそむけずにはいられない、高橋恵子のバストのアップって、一体誰得?

というわけで、作った本人たちが「左だよ」って言ってしまっていることから、
この映画のリトマス反応のチャートは、

「右翼映画だと思った人」=左翼思想
「左翼映画だと思った人」=右翼思想あるいは保守思想


犬が西向きゃ尾は東。
左翼が右見りゃ保守も右。ってことで。

ただ、 この製作者にひとこと言わせてもらうなら、
日本は天皇個人のために戦争したんじゃないよ。

仕掛けられた戦争であることを断りながら、何でこうなるかな。






「海戦」~作家の見た士官たち

2012-04-22 | 海軍

 

報道班の一人として海戦に赴く鳥海に乗ることが決まってから、
作家、丹羽文雄はまず自分が自ら望んで死に近づいていくという事実と、
みずからの死に対する覚悟を直視せざるを得なくなります。
周りにいる鳥海乗り組みの海軍軍人のそれを目の当たりにする度に、
それは波のように恒常的に、否応もなく繰り返し訪れる想念となったのでした。

「どこにいますか、江田大尉?」
「山の飛行場です。逢わなかったのですね。今頃は死んでるかも知れません」
死の衝動よりも、死と無造作にいってしまう飛行長の口調にびっくりした。
(中略)
飛行長の断定は慰めとか、否定とか、それに類した答えを求めてはいなかった。
それに応じる答えはすでに自分の内にこもっているのである。
私はこの二十六歳の青年大尉をほんとうに理解していなかった。


死に対する覚悟は、一応付いているつもりだ。(中略)
私はすでに自己放棄をやっている。然し、死に関しては現実的に軍人にかなわないのだ。
軍人の示す完全な、おそろしいほどな自己放棄には、時間がかかっていた。偉大な訓練の結果であった。


報道班員は、士官待遇で士官と行動を共にするので、彼らの言動を間近で見聞きすることによって、
軍人という特殊な職業の者と、自分のような「娑婆の人」との認識の違いをあらためて知るのです。
そして一般人とは全く対極にある完全な死の覚悟を持つ軍人の、「ある部分」を発見します。


日本機が堂々とゆっくりと飛んでいく。
無声映画のように爆音が聞こえないので、もどかしいが、見ていると胸が熱くなった。(中略)

「こんなのを見ていると、泪が出てくる」
水雷長の率直さに私はうたれた。水雷長は私の名を呼んだ。
「書いてくださいよ。この気持ちを是非書いてくださいよ」
水雷長は泪をためていた。


戦いの合間にもかかわらず、一口ずつゆっくりと味噌汁を味わう副長。
参謀長は、非軍人であればきっとこのようなものもありがたいであろうとばかり、
クジラを見つけたことを教えてくれます。
「思いがけない珍客です」

全てが彼らのうちには「平常に」行われることなのでした。
さらに夜戦を間近に控えているにもかかわらず、ぐっすり眠る乗員たちの大胆さに、
「もっとも素直にふるまっているにすぎず、あらためて指摘すればきっと照れるに違いない」
と、感嘆するのです。

作家がさらに感銘を受けたのが、軍人としての厳しい訓練を受ける段階で、
かれらが青春の日々を共にした「クラス」に対する思いの特別さでした。

「この艦隊には僕の同期生が五人ものりこんでいるんですよ。心丈夫です」
同期生が五人もいるといった時の副官の顔は、子供のようにうれしそうであった。


「青葉の飛行長はわしのクラスです」
クラスの一人がほめられていることが、うれしくて耐らないというきれいな表情であった。
私はためらいながら、飛行長の真実に近着こうとした。
どのような青春のすごし方をすれば、このような美しい共鳴が持てるのか。
私たちのもった青春の日は、いたずらにくだらなく、僭越で過ぎてしまったようである。

「補丁されることもなく、接触もない」、友情に若い彼らが浮身しているのが非常に良く似合う。
丹羽氏はその傍から見て一見理解しがたい、面映ゆいまでに純粋な結びつきを羨みます。


丹羽氏はその後の海戦で、右上膊部に砲弾の破片を受けたものの、
「これだけのことか。これだけの傷ですんだのか」という命長らえた奇妙な安堵を感じます。


苛烈な海軍の階級社会の中では、問答無用で鍛え上げられる下士官、兵は、
いつも絶対的な権力の上に立つ士官に対して不満を持っていた、といった記述が
戦後の本では百出しています。
それも真実の一面でありましょう。

しかし、士官の側に立った第三者の眼で海軍を見つめる作家は、
決してその歪んだ、暗い部分を見ることはありませんでした。
むしろ、海戦という特殊な事態を総員で受け止め、外敵に向かっていくための、
悲しいほどに美しくすらある結束と団結だけをその目に留めることになったのです。


自らがそこへ這っていくこともできないくらいの重傷を負いながらも、
ピクリとも動かない戦死した分隊長の名を何度も呼び続ける兵。
戦いの後に兵たちに噛んで含めるように応急員の心得を説く、母親のような若い甲板士官。
それを兵たちが「素直な子供たちのように任せきって」聞く姿。
お互いの非常時におけるふかい共鳴に、丹羽氏は、
「偶然に日本海軍の力をなす主要な特質の一端にふれた思い」を持ちます。

海戦後に丹羽氏が見た副官とその従兵の姿を、最後に記しましょう。


「従兵、篠崎はどこだ、篠崎?」
負傷者の顔を一つずつ見て歩いた。
「副官、自分はここにいます」声だけがあった。割合元気が良かった。
「どこだ、篠崎?」

「どうだ、具合は?」

 

返事はなかった。あたりはしいんとした。やがて
「申訳ありません」
と言った。副官は微笑をうかべた。右手を失った篠崎は絶対安静が必要であった。
「しかし、自分には左手が残っています。長官のお給仕は左手で立派にやれると思います」
「うん、やってくれ。自分もそう思っているんだ」

副官は何かを抑えるようにして、朗らかに応えた。顔から微笑が消えそうになった。
副官は黙った。高いところから見下ろしていた。従兵も無言であった。
副官はわざわざ篠崎を見舞いに来たのであったが、そんな気配は示さなかった。

どれだけか副官は見下ろしていたが、
「何も考えずに、くよくよしないで、十分養生しろよ」
「はい」
副官が枕許をはなれた。五六歩歩いた時であった。
「わあっ」
叫びともつかず、よびかけともつかない奇声を従兵があげた。

「何だ。篠崎?」
「魔法瓶がみんなこわれました。申訳ありません」
副官は引き返そうとしてためらった。そのままの姿勢で、
「なに、代りはあるぞ」
副官はそう言うと、大股に部屋を出ていった。


(「海戦」丹羽文雄 中公文庫)




冒頭画像:重巡洋艦鳥海 ウィキペディアより
原典 海軍雑誌「空と海」第二巻第六号
作者 海と空社:The Air and Sea Co.




映画「The Iron Lady」~サッチャー物語

2012-04-21 | 映画

なかなかいいという評判なので、

「マーガレット・サッチャー」鉄の女の涙

を鑑賞してきました。

それにしても、このタイトル・・・・。
酷いというわけではないにせよ、この「タイトルだで説明しなくてもできるだけ内容がわかるように」
という、なんというか、あさましいタイトルをつけるの、本当にやめてください。
最近、この確信犯的所業の数々を目にするにつけ、つまりは
「宣伝にかけるあれこれの諸費用の節約対策」
かな?と思っているのですがいかがなもんでしょう。

The Iron Lady、あるいは日本でも有名だった「鉄の女」でいいじゃないですか。

愚痴はともかく、この映画、意外なヒットとなっているようです。
そろそろ封切も終わりかけなのでしょうけど、この週末もし映画でも、
と思われる方がいたら、お薦めです。



サッチャー政権時代、何しろ「かっこいい女性だなあ」と思って彼女を見てきました。
誰かが、サッチャー引退に際して
「首脳国会議の際、彼女が必ずまん中に立ち、紅一点となっている、
あの絵になる構図がもう二度と見られないのは、実に残念だ」
と書いていたのを読んだことがありますが、わたしも激しく同感でした。

現在、首脳国の紅一点はメルケル首相ですが、彼女がどう、ということではなく、
なにしろサッチャー首相には「まん中に立つべき華」がありました。

全く女性、という「第二の性」を押し出すことなく、しかしすらりとした脚と大きく膨らませた金髪、
いかにもイギリス人女性らしい硬質な美しさ。
理屈抜きで絵になる首相ではなかったでしょうか。


この映画は、サッチャーがデニス・サッチャーというビジネスマンという伴侶を得て、
初選挙に問い当選し、党代表選挙に勝ち、そして「鉄の女」とソ連に呼ばれた11年間を
回想しながら、亡き夫の幻影と語り続ける「現在のサッチャー」の物語。


娘の手記で、現在彼女が認知症にかかっていることも世間をびっくりさせ、この映画を
サッチャーそのものに見える憑依型の女優、メリル・ストリープの好演が、
より一層映画のヒットに寄与しているようです。

政治家、しかも国の首長は決断するのが仕事。
そして、その結果は全て自分が引き受けるのです。
当たり前のことですが、この映画で野党労働党と激しく論戦するサッチャーを観て、
どんな鉄の意志と強さを持っていたら、10年以上もトップで居続けることができるのか
そのカリスマ性に感嘆すると同時に、当時から「月替わり」と揶揄されていた
日本の首相の在任期間の短さを思うと、
我が国の政治の未熟さに情けなささえ感じてしまったりするのですが。


今回わたしがこの映画を観に行った大きな理由の一つに、
1982年の、フォークランド戦争に踏み切ったサッチャーが描かれているということがあります。

フォークランドはご存じのようにアルゼンチン沖にあるイギリス領の島。
ここに侵攻したアルゼンチン軍に対し、イギリスは派兵を決定します。

ここで、武力を行使することについて、野党は勿論のこと、アメリカまでもが
「まあまあ、事を荒立てずに、話し合いで何とかするって手もありなんですから」
としゃしゃり出て、仲介を申し出ます。
(それにしても、自分は好き勝手やっておいて、人のもめごとにまで首突っ込むのね、
アメリカって)

その時のサッチャーの台詞がこうです。(記憶)

「あなた方は、1941年、日本がパールハーバーに攻め込んだとき、どうしましたか?
話し合いで何とかするため、トウジョウに講和を申し入れましたか?
ハワイにアメリカ人がいたから、軍隊を出したのでしょう。
私たちも同じです。
フォークランドにはイギリスの国民がいる」

そして、軍司令部で海図をにらみながら決定を下すシーン。

ああ、やっぱりカッコイイひとだったんだ!
しびれました。

引退後、夫の幻影との会話の中で「男たち」のことを、
「カワード、カワード、カワード」(臆病)
と激して叫ぶシーンがありますが、現在の日本政府はじめ、政治のトップが「カワード」
になってしまうのは、それに続くリスクを請け負う覚悟が無いこと、そして保身でしょう。

アルゼンチンがフォークランド諸島に侵攻した時、日本の旧海軍軍人がこう言ったそうです。

「イギリスは派兵しますよ」

領土を盗られてそれでも話し合いで何とかしようという国ではない、
なぜなら、領土は彼ら英国民の連綿と続く誇りの象徴でもあるからだ。

「ルール・ブリタニア」という有名な「イギリス第二の国歌」があります。
以前も一度「イギリスならではの曲」として紹介したことがあるのですが、その歌詞は

「我々は、決して、決して、決して奴隷にはなるまじ」

というものです。

しかしながら、派兵すれば、いかに正義が我が方にあっても「戦争を起こした」というそしりを
どこかから必ず受けることは免れません。
全ての者に公平な政治の決定など、ありえないのです。
そして、必ず兵隊が、つまり国民がそれによって死ぬ。

彼女は、戦死した兵一人一人に自筆で手紙を書きます。

「私も一人の妻として、そして二人の子供の母親として、心からご子息の死を悼みます」

開戦決定の時、ごねる閣僚を前に、彼女はドレスの襟を公邸のメイドに立ったまま縫わせ、
そのまま彼らに激しい言葉を投げつけます。
ロイヤルブルーの胸の大きく空いたロングドレス、その胸元を直させながらのシーンは、
「開戦を決めたのは女性の首相であったこと」を象徴するものでした。


イメージ戦略というものがあのカッコ良さの後ろにあったということが分かったのも、
特に女性にとっては興味深い点です。

イギリス人女性がよく被っている帽子に、垢ぬけないパーマヘアだったマーガレットを、
あの「マダーム」なヘアスタイルに変え、スーツを選び、スピーチの練習、
そして声のトーンすら、トレーニングによって変える。
演出家、というかブレーンがいたということも描かれています。

本日画像は、この映画で一番メリルが綺麗に見えた晩さん会のロングドレス。
開いた襟につけられたシルクのフリル、地模様にシルバーのラメ入りの黒の衣装は、
まるでビクトリア王朝のクィーンのようです。

このほか、実際にサッチャー首相が着用していた(ようなイメージの)スーツの数々。

映画が終わるころにはサッチャーにしか見えなくなっていたメリルの演技とともに、このヘアメイク、
そして衣装が「サッチャーらしさ」をより迫真のものにしています。


ところで、現在の彼女の様子があまりに老いさらばえて、ということを映画が強調しているため、
「昔ああだった人がいまや・・・・・」
と悲痛な想いでこの映画を観る向きもあるかと思いますが、いやいや。

人間、80にもなると、こうなって当然。
現在の「食料品やでミルクを買っていても誰もサッチャーだと思わない老婆」は、誰しも
いつかは訪れる人生の終盤に差し掛かった姿です。

それを嘆くのではなく「世界を動かす人間も、また一人の平凡な人間」に過ぎないと観れば、
それは、一人一人に秘められた可能性の物語、と言えるのではないでしょうか。

と  こ  ろ  で  。

ふと考えてしまったのですが、この映画がヒットしていることの理由は、
日本の現在おかれている領土問題がありませんか?

先日、石原都知事が「尖閣諸島を所有者から買う」というニュースが日本を、そして中国をも
(ついでに韓国も)揺るがしました。
国民の大半は大かたこれに肯定的です。
都庁には激励の電話が殺到、中には「そのために寄付をしたい」という意見も多数なのだとか。

どこかで中国は、このたびの問題において、
「この問題に関して、中国政府は、日本政府を侮ってやりたいようにやってきたが、
日本人の愛国心がいまだに健在であるということまで読めなかったようだ」
という説を眼にしました。

船長釈放問題に始まり、民主党の足元外交を歯ぎしりしながら観ていた人々は、
「日本にサッチャーがいたら・・・・」
とこの映画を観て一様に感じたのではないでしょうか。


それにしても、サヨクメディアの皆さんは一様にこの購入に反対のようですね。
日本政府が何もしないから、外敵から守るために自治体が日本人から土地を買う。

このことのどこが問題なんです?

否定的な意見のインタビューばかり流し、「税金をこんなことに使うとは」とか、
「中国を刺激してどうする」とかいう論調でこのニュースを報じるのは、なぜ?


というわけで、ついでにいつものメディア批判になってしまいましたが、この「鉄の女の物語」
政治家であることは決断することなのだ、とあらためて知ることのできるお薦め映画です。

特に野田総理には、是非観ていただきたい。




上海海軍特別陸戦隊

2012-04-19 | 海軍

1939年(昭和14年)東宝作品、上海陸戦隊を鑑賞しました。
上海海軍特別陸戦隊とは、海軍が上海に権益保護のために駐留させていた陸戦隊のことです。
通称「しゃんりく」。
何でも二音節に縮めて言うのが我われ日本人の伝統と習性ですが、
この通称はあまりセンスが良くないというか、強そうに思えないのはわたしだけでしょうか。

それはともかく皆さん!あまり歴史に詳しくない方は、ここで勘違いしないように。
上海陸戦隊は、「南京侵攻」で言われているように侵攻して占領して、悪の限りを尽くしたことも、
村を焼き払ったり、訳もなく無辜のあわれな中国市民を何万人も殺戮したこともありません。


そもそも、戦況がどうあれ兵力もお金もそんなに無いのに、何のために日本が全軍力を結集して
女子供を殺さねばならんのかと、機会があれば南京肯定派の皆さんとひざを突き合わせて
聞いてみたい気もしますが、その話はともかく。

20世紀前半、日本は他の列強と同じく、上海にある共同租界に居留民を住まわせていました。
住民の権益の保護が目的で最初の頃は簡単な警備隊を派遣していましたが、
1920年ごろから上海周辺の情勢悪化が目立ち始め、1927年には国民党軍の北伐
(一言で言うと中国国内のごたごた)が始まると、1400人の五個大隊が海軍から派遣され、
上海クーデター(しつこいようですがこれも国民党vs共産党ね)の間、租界を防衛しました。

このクーデターのあと、警備強化目的で派遣された陸戦隊の一部は上海陸戦隊の名で、
この地に駐留することになります。
その後第一次上海事変で日中の衝突が起こり、しゃんりくは租界防衛を果たしますが、
この際に鎮守府から独立した常設の部隊となり、その名を
上海海軍特別陸戦隊とあらためることになりました。

前置きが長くなりましたが、この映画「上海陸戦隊」は、この昇格した後の特別陸戦隊、特陸
(勝手に縮めてるし)が、第一次上海事変を戦う様子をセミドキュメンタリータッチで描いたもの。

言っておきますが、全く面白くありません

おそらく、レンタルショップにも置いていないでしょうし、購入するにも密林では3600円。
この、貴重は貴重だが、果たして買うほどのものか、とつい思ってしまうであろう映画を、
今日はそんな皆さんのためにアップします。



ちゃんとサブタイトルには正式名が書いてありますね。
どうして面白くないかというと、これは海軍省によって作られた「戦況報告映画」だからです。
第二次上海事変が終息した約一年後、「あの時我かく戦へり」を、
国民の皆様にちょいとドラマチックにお伝えする、国策映画とでも言いましょうか。



おお!指揮内藤清五、演奏海軍軍楽隊
ただしこの映画、挿入BGMは一切なく、映画の始まりに「紀元二六〇〇年」(多分)、
この海軍葬のシーンでなんだか妙な葬送ファンファーレを演奏する軍楽隊が出るシーン、
あとは喇叭とラストしか音楽が入りません。
あざとい音楽演出されるよりは、すっきりしていていいんですけどね。
儀仗兵の向こうに見える小さいほうのおじさんが内藤軍楽少佐です。



映画は、中国側保安隊によって殺害された陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉
斎藤興蔵三等兵曹の葬儀から始まります。
この事件がきっかけで第二次上海事変がはじまるのですが、これ以前にも日本兵の
拉致殺害事件は起きており、映画では
「我々日本はあくまでも平和的解決を求め紳士的に対応を迫ったが、
中国側の態度は不誠実で・・・なんたる屈辱!」
とナレーションが入っていました。



大山中尉の海軍兵学校同期という設定の中隊長、主人公岸中尉(大日方傳)
おびなた・でんと読むんですが、おびなたと入力したら一発で出てきたのでびっくりしました。
昔のスターさんなので、当時長身のイケメンと言われていても、
今の感覚で言うと若干、いやかなりの「舞台顔」。
全身像を見ると何かしらバランスが、という感じは否めません。
時代劇には映えるタイプですね。



剣呑な空気に、市民は避難を始め、中国人なのに租界に保護を求めてきます。←注目
租界の日本人は、取りあえず学校に避難。
わんちゃんは哀れおいてけぼり。
というか、中国においてこの状況、この犬にとって大変残酷なのではと思うがどうか。
知り合いの上海出身男性は
「犬や猫なんて、上海の人間は絶対食べないよ!」
と息巻いていましたが・・・・・どうだか。



包囲され、ドンパチ撃たれているのに上からの許可が出ないため、反撃できない部隊。
悔しいからせめて石投げてやるぅー!(右)



ここで事件発生。
ひとりの女性が制止する兵を振り切って、バリケードの外に出ていきます。
そして、命からがら帰ってくるのですが、なんと彼女の取りに行ったのは「哺乳瓶」。
いや・・・、これ美談じゃないでしょ?
どうしてそんなもののために危険を冒してみんなに迷惑と心配かけるかね。
そもそも赤ちゃんに授乳するなら自前でしろと。

このお母さんは手を怪我して、避難先の学校で新聞記者のインタビューを受けるのですが、
マスコミがこういう人を持ちあげるから、危機の際行動を誤って犠牲になる人がでてくるのでは?
実話かどうかは知りませんが。
盛り上がりが無いとは言え一応映画なので、演出だと信じたいですがね。



やらせ発見。がれきの中を駆け抜ける猫。



監督のキュー待ちをしてこちらを覗っている証拠映像。



戦闘ではさっそく犠牲者が出ます。
死者に日本の国旗を掛け、自らも後に続くことを誓う中隊長。



部隊に保護を求めてきた中国人たちに、自分たちの糧食を分ける日本兵。
「怪しくないよ~!美味しいから、ほら」とおにぎりをかじってみせます。
皆、喜んで空腹を満たすのですが、ここで反抗分子が登場。



仲間のもらったおにぎりを「日本人なんかからそんなものもらっちゃいけない!」
と叩き落とす反日娘。
これ、誰だと思います?
あまりうまくない中国語でお芝居しているのですが、なんと原節子(当時一九歳)。
一緒に日本の陣地に逃げて来ながら、なぜここまで反抗する?
この中国娘のエピソードが、戦闘シーン以外での唯一のこの映画の見せ場となっています。



膠着し、兵数の多い相手に苦戦する海軍は、四人の決死隊を送り込みます。
決死隊の編成にあたって訓示をする大山傳七少将(実在の人物)。
このときあらためて気づいたのですが、海軍兵なので、陸戦隊なのに「水兵」と呼ぶんですね。
この様子も全く淡々としていて、決死隊が自分の戒名を胸に抱いているのを見て、
小隊長が「そんな下手な字では冥土に行けんぞ」「はい、へたですみません」などという
会話をします。

盛り上がるシーンの筈なのに、ここに限らず全編、いかんせん音声と俳優の発声が悪すぎて、


何を言っているのか全く分からない。

これが、この映画を全く面白くなくしている大きな原因の一つです。
集音マイクなんてまず使っていないので、機銃の音声や爆音が響き渡り、
戦闘中の会話などもう壊滅的に意味不明。



戦闘で傷つくも、後方に下がることを拒否し、尊敬する中隊長と運命を共にせんとする部下。
その覚悟を知り、目を潤ませる隊長。
優勢な敵勢力に、次々日本軍は人員を失っていきます。
弾薬を運ぶ途中で狙撃されるも、命が尽きるまで任を果たさんとする者。
最後の一人になっても基地を守り抜こうと奮戦する者。



日本人が避難している学校では、戦線に不足している食料を送るため、
租界民が必死でおにぎりを握ります。
日頃そんなことを全くしたことのないダンサーまでもが、いてもたってもいられず参加。
「あつー!」と叫びながらも、隣のおじさんにやり方を教わりながら奮闘。

自らは必死で戦いながらも、保護している中国人の生命すら気遣う日本軍。
「良民につき日本軍が保護する」と避難所に貼られた紙を見て、皆感激します。



日本兵って、なんて親切なの!
皆のそんな声を聞くうち、だんだん彼女の心に変化が訪れます。



どうしてこの人たちは戦っているの?
中国人と戦っているのに、わたしたちにはなぜこんなに優しくしてくれるの?
彼女にはわからないことだらけです。
救いを求めるように、仏の姿を仰ぎ見る娘。



最後まで死を覚悟して戦い続けた岸隊長も、遂に敵弾に斃れます。
しかし、そのとき、戦線からの一報が。



海軍航空隊が南京を大爆撃したぞ!
それまで銃を持っていた在郷軍人と一般人、報道記者は、皆でバンザイをします。
軍艦旗が高々とあがります。



自らを犠牲にしていった日本の兵隊の姿を見、何を思うのか。
思わず仏に祈りをささげる娘。

映画の最後のナレーションは次のようなものです。

かくて上海陸戦隊の勇士たちは、陸軍部隊がこう何の敵を掃討しつつ
南下してくるまでの二ヶ月間、以然数十倍の敵を相手にして、
断固虹口(ホンキュウ)を守り通したのでありました。
この二ヶ月間、いかに激しい戦いが行われ、いかに尊い犠牲が払われたか、
この戦跡を見ただけでも生々しく想像することができます。
海陸両軍相呼応して敵をザホクのポケット地帯に追い込んで、これをせん滅し、
上海を全く陥落させたのは一〇月二七日でありました。
爾来一年有三、上海には復興の気漲り、いまや新東亜建設の黎明は、
大陸の空に仄々と明け初(そ)めています。
わたしたち(?)は無限の感謝を(?)て、
我が上海陸戦隊の不滅の偉業を(?)に伝えたいと思います。

はてなの部分は、不自然に音が飛んでしまって、聞き取れませんでした。


さて、今、川村市長の南京発言をめぐって色々ありますね。
もともと証拠として非常に不明かつ怪しい点のある南京大虐殺について、
ここ何年か、正面切って「ここがおかしい」とする本が多数出だしたのは、いい流れだと思います。

しかし、やはりその流れを必死で元に戻そうとする人々もいるようで、私が最近見たサイトは
「南京の証拠写真の捏造を検証する意見に、悉く反論する」というものでした。
たとえば「人口二十万の南京でどうやって三十万虐殺するのか」
という疑問に対しては
「当時の南京が人口二十万であったという証拠がそもそもないので、
その仮説は成り立たない」

・・・・・・・・・・・。

いや、これ本気で言ってます?
そんなこと言いだしたらどんな議論も無に帰してしまうではないですか。
世の中には何とかして日本がアメリカの落とした原子爆弾による総犠牲数を超える
一般人大殺戮をしたことにしないと、具合が悪い人がいるみたいですね。

そのサイトにはなんと「中国に便衣兵などいない」という文言さえありましたが、
この映画でも「シナの便衣兵によって我が上海陸戦隊の宮崎一等水兵が拉致され」
って言ってるんですよね。
便衣兵はいたんですよ。

こういうことを言っている人は(何国人か知りませんが)取りあえず南京に行ってみれば?
三十万殺されたのがもし本当なら日本人など八つ裂きにされてしまうはず。

わたしは行ったことがありますが、南京大学には日本語専攻科があり、市内には
孫文の遺体がある中山寺もあります。中山は孫文の日本名です。
三十万殺されたのが本当なら、南京に日本名の寺を造るでしょうか。
地元のインテリは「南京虐殺記念館」など知らないし興味もなく、わたしが行こうとしたら
「あんなもの見なくていい(どうせ嘘っぱちだから)」なんて言われましたよ。

この映画は、南京大虐殺はあった!と言い張る人たちに是非観ていただきたい。
上海における日本軍の戦闘のきっかけはあくまでも海軍軍人の拉致、殺害であり、
中国人を抹殺する必要など全く無かったことが、まずわかるでしょう。
南京においてだけ日本軍が凶暴化しなくてはならなかった理由も、全く読み取れません。

この映画が日本のプロパガンダであることを否定するものではありませんが、
この映画に流れるテーマの真意ですら理解できず捏造であると決めつける人がいたら、
それはおそらく日本人ではないとわたしは断言してもいいくらいです。

そして、敵国民であっても無益な殺生はしない、という、日本人特有のメンタリティは、
映画の中で中国人たちを保護するシーンや、彼らに食料を与えるシーンに現れています。
この同じ軍隊が、三十万もの無実の人間をどうやって殺したのか、何のために殺したのか、
主張していることが不合理で整合性が取れないことに、よほど馬鹿でなければ気づくでしょう。

川村市長は「南京について不審な点を日中両国で話し合いたい」と言っただけだそうです。

これ自体は決して面白くも、映像作品としてよくできているとも思えない映画ですが、
対話が実現したあかつきには、日本軍の当時の精神的アリバイ証拠としてこれを共に鑑賞し、
さらに中国側には、証拠を耳を揃えて出していただいたうえ、
この状況から同じ軍隊が三十万人殺戮するに至った経緯などを
じっくり解き明かしていただきたいものです。










菅野直伝説6~黒皮の財布

2012-04-17 | 海軍人物伝









皆さん。
もし、あなたが熱烈な菅野直ファンであるなら、ぜひ靖国神社の遊就館にいっていただきたい。
そこには、菅野大尉が最後まで使っていた黒い皮の財布が展示されているからです。

靖国神社に寄贈したのは菅野家の人々であるらしく、寄贈者の名字は「菅野」。
全く型崩れしていず、まだ使えそうなその財布は、当時は買ったばかりだったのでしょうか。
残っていたお金と、財布のポケットに入れてあった大分航空隊の身分証が並べられ、
他の軍人の軍服軍帽、軍刀などの遺品とは違って、
これが菅野直という個人の遺品であることがあらためて意識されます。

菅野大尉が戦闘機専攻学生となったのは昭和18年2月。
この財布に遺された身分証は、菅野大尉がまさに「デストロイヤー」であったときのものなのです。

本日エピソードは、碇義朗氏の「最後の撃墜王」に載っていたもので、
部下の笠井智一上飛曹の回想によるもの(のアレンジ)。

菅野大尉の部隊が、中島飛行機小泉製作所に、新しく造られた飛行機のテストをしたうえで、
フィリピンに完備機を移送する直前のこと。
横須賀の産業報国会の別館に泊っていたかれらは、夜になると
25、6歳の綺麗な寮母さんを囲んでウィスキーを飲んだそうですが、
菅野大尉は部下が邪魔だったので、「遊びに行こう」といって全員を引き連れて花街に行き、
自分一人だけ帰ってきた、というものです。

クレジットカードなど全く無い時代ですから、
菅野大尉は全ての支払いをこの財布から行ったでしょう。
このときの「みんなのお遊び代」も、この黒革の財布から出されたのに違いありません。

菅野大尉は、他の戦闘機搭乗員と同じく、自分の貴重品をいつも小さな箱に入れて、
肌身離さず持ち歩いていました。
基地移動のときも一緒に携えていたその箱の表には、
「故海軍少佐菅野直の遺品」と書かれていました。
菅野大尉は、自分が死後二階級特進することまでは予想できなかったようです。

この黒皮の財布も、この手箱にあったのでしょうか。


なお、破天荒でやたら元気に遊んでいたという菅野大尉ですがナイーブな部分を持っていて
「粗にして野だが卑ではない」という言葉があてはまる青年であったことが特に妹さんの証言
(妹の前で下品な歌を歌った者に激怒した)などから窺い知れます。
最後の日々、どんなに荒んだ風に悪所通いをしたりしても、
菅野青年の本質は文学に傾倒するロマンチストだった、と思えるのですが・・・。

今日は、そんな「二人きりになると見せたかもしれない菅野大尉のシャイな部分」
を漫画にしてみました。










黒船を作ってしまった日本

2012-04-15 | 日本のこと

画像は、明治27年ごろ海軍省が編纂した写真集からのコピーです。
軍艦「清輝」
初めて訪欧を果たしたメイド・イン・ジャパンの国産軍艦です。

この軍艦についてお話する前に、鎖国を解き放った海国日本が歩んできた軍艦の歴史を
実際の軍艦を挙げながら説明します。

まずは軍艦建造に乗り出した当初の日本政府の動きをさくっと。


嘉永6年(1853)、幕府は大船建造の禁を説くと同時に、軍艦建造をオランダに依頼、
文久2年(1862)、諸藩に対して艦船を購入することを禁止。一方、
安政元年(1854)、海軍技術の伝習を受け、
安政2年(1855)、海軍伝習所創設、海軍教育開始。
文久元年(1861)、わが国最初の造船所が建設された。

これはなんとも凄いですね。
海外に門戸を開いた途端、わずか8年で自分たちで軍艦を造る体制を整えてしまいました。

明治維新当初、ご存じのように幕府各藩の間に対立や紛争のごたごたがあったわけですが、
日本が外に向かって開かれたからには、海防のためにそれはさておいて一致協力せねば、
というのが当時の日本の中枢にいる者たちの偽らざる気持ちであったようです。


昌平丸(1853)
我が国で建造した最初の帆走式洋風軍艦。
各種砲16門。

鳳凰丸(1854起工)
幕府が建造した最初の帆走式洋風軍艦。
備砲8門。

雲行丸(1849)
我が国で最初に作られた蒸気船。

千代田形(1866)
幕府の建造した最初の艦。
60馬力、備砲8門。

清輝(1875)
明治政府になって官立の造船所で建造した最初の軍艦。
443馬力、15センチクルップ砲一門、ほか。



幕末期に、幕府および各藩は、購入艦を中心にして海軍艦船を整備しました。
1854年から15年間にカウントされるその所有隻数は次の通りです。


幕府軍艦   9隻
幕府諸船舶 36隻
諸藩所有艦船 98隻

このうち25隻は国内で製造されたもの、外国製113隻の国別内訳は次の通り。
イギリス・74 アメリカ・30 オランダ・6 プロシャ・2 フランス・1


今日画像の清輝は、明治9年、横須賀造船所で竣工しました。
この軍艦は、明治政府の肝いりで建造された国産一号艦であり、日本の国威宣揚のため、
ヨーロッパに初めて訪問したことで特に歴史にその名をとどめています。

横須賀に後に海軍工廠になる造船所ができたのは明治6年のことですが、
この造船所の建設に当たっては、政府はフランスに技術者のあっせんと借款を頼みました。
その時あっせんされたフランス海軍の技師であったウェルニーがそのまま所長となり、
その元で、30名のフランス人技師、2500名の日本人職工が作業に取り組み、
3年後の明治9年に完成させたのがこの清輝丸です。

当時国内にあった、外国から買い付けてきた艦と、この清輝丸では、
技術の差はすでに15年ほどのものであったといわれています。
いわばあてがいぶちのような艦船を買わされていた日本にとって、大きな一歩でした。

清輝丸の渡欧時の乗組員内訳は以下の通り。

初代艦長 井上良馨中佐以下、士官 20名、
下士官   20名
下士官兵 119名
傭人    19名       計 158名

目的は、明治政府の国力示威。
欧州先進諸国の一般軍事視察と、デモンストレーションです。

清輝の、この欧州訪問の航跡を、明治11年の海軍省年報に見ると

2月10日 香港
  21日  シンガポール
3月21日 アデン(アラビア半島、現在のイエメン共和国)
4月6日  ポートサイド(エジプト)
  11日 マルタ島(イギリス地中海艦隊の根拠地)
5月4日  バレッタ出向(マルタ首都)
 
この後、イタリア、フランス、スペインの地中海諸国を訪問し、
その後イギリスのポーツマスに投錨しました。

このとき、イギリスの新聞が清輝の訪問にこのような報道をしています。

「清輝を見るだけで日本国の開化の状況が推察されるに十分である。
日本が、国産の軍艦で、然もひとりのヨーロッパ人の手も借りることなく
航海したという事実は誠に感嘆のほかはない。

艦長井上中佐は有為熟練の士官であり、
また甲板上の索具などの清潔な状態を一見すれば
兵員も全て敏捷で、十分にその職に適していることを立証している。
英国の軍艦と比較してみても、清輝艦に遜色はいささかもないだろう」

これを手放しで褒め称えたのか、それとも「開国したばかりの後進国にしてはよくやった」
というお世辞半分だったのかは、これに同行した我が方の造船技師が、
冷静な目で眺めたうえ、このように看破して苦言を呈しています。

「我が新鋭艦清輝は世界一流国の前に出れば、
新造にして早くもすでに老朽艦というも可なり。
すべからく軍艦を外国に注文して兵備を固めながら術を学ぶとともに、
国内に広く各種技術の学問を興し、
官民一致して将来の良艦建造を計らねばならぬ。

こんにちの我が海軍は世界の劣等に伍す。
ゆめゆめおごるべからず」

この賢明で先見の明をもった技術士官の名前は残っていません。
しかし、先進国でお世辞半分の賞賛を受けたからと言って真に受けず、
常に現状に危機感を持ってものごとを冷徹に判断する知が、
このような日本人個々にに備わっていたことが、
この後日本が「奇跡」と言われるほどの発展を遂げたことのもといとなっていると思えます。


上に挙げた艦船のうち、鳳凰丸の建造には、こんなエピソードがあります。

この鳳凰丸の建造年を見てください。
1853年。これはペリーが初めて来航した年です。

「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」

と、皆が狼狽しているような様子が狂歌に詠まれている一方で、実は日本人はしたたかでした。

浦賀に乗りつけられた4隻の黒船。
アメリカは、欧米列強がこれまでやってきたのと同じ手口で、文明の力を見せつけ、
アラブやアジア諸国にしたように日本を黒船で恫喝したつもりでした。

ところが日本人は、彼らのこれまで支配してきたどこの民族とも違っていました。
見分のため黒船に乗り込んできた幕府の役人たちは、船の隅々まで鋭い目で観察し、
あらゆることを質問し、それを書きとめました。
何のために?

そう、自分たちが黒船を作るためです。


日本人恐るべし。
そしてその二カ月後。
幕府は洋式大型艦船の建造に着手し、翌年には本当に黒船を作ってしまいました

それが鳳凰丸なのです。

実は、黒船の来るずっと前から、浦賀奉行は洋式軍艦の建造を目論んでいたと言われています。
しかし、ときは鎖国時代、なんといっても情報も資料も入ってきません。
そこで、たまたま来航していたイギリス帆船マリーナ号に、こちらも「見分」と称して乗り込み、
目につくものをおよそくわしく観察して、資料を作り上げていたのです。

喉から手が出るほど欲しがっていた情報を持ってわざわざ来てくれた黒船と、
そうやって既にに手に入れていたこのマリーナ号の資料が鳳凰丸の建造に使われました。

その後、日本の艦船の国産化努力は弛みなく続けられました。
日清・日露戦争において黄海、日本海で勝利をおさめたとき、艦隊の主力は
ほとんどまだ外国製の艦でしたが、大正3年には、我が国最初の国産艦船隊が編成されます。

摂津、河内、安芸、薩摩

その後、国内外の注目を集めた「長門」が大正9年に竣工。
昭和7年に、重巡戦隊(妙高・足柄・羽黒・那智・高雄・愛宕・摩耶・鳥海)が誕生。

開国と同時に黒船を見よう見まねで作ってから85年後、
そして「今日の海軍は世界の劣等に伍す」と嘆いた清輝丸の欧州遠征から60年後。

1940年昭和15年、日本はついに、その技術の粋を集め、当時どこも持ち得なかった
46サンチ砲三基を搭載した史上最大排水量を持つ巨大戦艦、大和を生み出すに至ったのです。











母のロマンス

2012-04-14 | つれづれなるままに

     

間黒男ことブラックジャックならずとも、
「私は母が世界で一番美しかったと信じていますのでね」
と言える人はたくさんいると思います。

わたしの母も、子供の頃のわたしにとっては世界で一番美しい母でした。
中学の時、父兄参観に訪れた母を同級生が
「美しい人よ~!」と見ていない友人に向かって説明してくれたのも、子供心に誇らしい思い出です。
客観的にどの程度美人だったかについては、よくわかりません。

「女優のマール・オベロンに似ていると言われたことがある」との証言(本人による)もあります。
一度、
「若い時に、なんかの宣伝ポスターの写真に使いたいと言って来た人がいて、モデルになったことがある」
というので、それが何のポスターだったのかかなりしつこく聞いたのですが、
「なんかよくわからないけど、窓から手を伸ばしてるポーズを取った」
と要領を得ない返事。さらに
「あんまり(ポスターの出来が)良くなかったから、貰ったけどすぐ捨てた」
などと、あまり触れてほしくなさそうだったので、後にも先にもその一度しか話したことはありませんが、
世間的に見ても少しはイケていたのかもしれません。


母は日赤出の看護婦でした。
準看で終わってしまったのはひとえに「血を見るのが怖かったから」なのだそうです。
そもそも血を見るのも怖い人が看護婦になろうとするか?
とも思いますが、どうやら彼女は祖母の愛唱歌であった戦時歌謡の

「言(こと)も通わぬ敵(あだ)までも
いと懇ろに看護する
心の色は赤十字」


という婦人従軍歌の歌詞と、さらに、というかこっちがメインだとわたしは踏んでいるのですが、
「愛染かつら」の世界に憧れ、白衣の天使を目指した模様。

(余談ですが、この歌を母が歌うと、
こーころのいーろはーせきじゅーうじー、むーかしーむかしーうらしーまがー」
と続けたくてたまりませんでした。
ついでに「広瀬中佐」にも
すーぎのーはいずーこー、すぎのーはいずーやー、さーんじーのあーなーたー」
と・・・もうその話はええ、って?)


日赤出と言えば、看護婦界のエリート。
(これは母が言っていたのをそのまま言っています。もし違ったらすみません)
同期のやり手は今頃ばりばり婦長さんよ、などと言っていたこともあります。

そんな、血が怖い準看の母が、神戸の元町付近にあった小さな診療所に手伝いに行きました。
そこを経営していた9歳年上の医者を一目見たとき、
「あ、わたし、この人と結婚する」と思ったそうです。

そう、その後エリス中尉の父と母になる二人が出遭った瞬間でした。

父の方も同じように思ったものらしく、あっという間に二人はお付き合いをはじめました。
母によると
「お父さんは前の女性と切れてもいないのに、お母さんと付き合いだしたのよ」ということで、
父~!モテていたのはいいが、二股はいかんぞー!
とそれを聞いたとき、すでに亡くなった父に向かって激しく突っ込みました。

まあ、そんなこんなで二人はその後結婚し、娘が誕生。

娘たちが結婚どころか学校を卒業するのも待たず、冥界に旅立ってしまった父ですが、
亡くなった当初はやはりがっくりと落ち込んでいた母も、
いつまでも結婚せず家にいる妹と海外旅行をしたり、ダンスや華道(師範の腕前)を楽しんだり、
まことに充実した「メリー・ウィドウ」ライフを送ってきました。

存命中は、娘たちにはわからないいろいろな夫婦の事情もあったようで、一度それを思い出したのか、
「あなたたちも、気をつけて選ばないと、お父さんみたいなハズレを掴むわよ」
などというので
「ハズレを掴むのもまたハズレなんじゃない?」
と言ってやると、黙ってしまったことがあります。

母が父との結婚を後悔していたかどうかはともかく、父は最後の日、母に向かって
「ありがとう、楽しかったよ」
と言ったそうですから、きっと母と出会えてよかったと思っていたのでしょう。


それから月日は流れ、わたしの結婚が決まったある日のこと、
実家で古い写真をあらためて見る機会がありました。
色あせた写真に収まる若き日の父は、なかなか白衣の似合う「イケメン先生」で、
まあ、これならモテても仕方なかろうなあ、と第三者の眼で見ても思ったのですが、
ほどなく娘どもは診療所の集団写真に写っている、超イケメンを発見。(画像)

「ちょちょちょっとー、お母さん、これ誰よ、これー!凄い男前なんですけどー!」
「あ、本当だ、ひゃー、かっこいい!誰?これ誰?」

父をイケメンと呼ぶならこっちをどう呼べばいいのか、くらいのレベルの違いは娘の眼にも明らか。
まるで映画スターが医者の役をしているかの如き水際立ったハンサムです。

「あ、これ?H先生。お父さんの手伝いに来てた先生」

それからというもの、娘たち、言いたい放題。
「お母さん、こんな男前がいたのになんでお父さんと結婚したのよ」
「そうよ、こっちにすればよかったのに」
「お父さんは、不細工ってことはないけど、まず美青年ではないもんねえ」
「H先生って、○○大学?・・・・じゃあねえ」
「選ぶならこっちよねー」

(T_T)すまん

「そんなこといって・・・H先生と結婚してたらあんたたち生まれてないじゃないの」
妹、「そのときはそのときよ!」
わたし「ちょっと、お母さん、結婚してたら、ってなに?その言い方。
まさか何かあった・・・・・?」

「一度映画連れて行ってやる、って言われた」
「そっ・・・それでっ?」
「えー、そんなんいいわ、って断った」

妹、わたし同時に
「なんでっ!!」

「だって、もうお母さん、そのときお父さんと付き合ってたもの」

この頃の女の人は、みんなうぶで純情だったのよ、どっちがいいか秤にかけてなんて、
そんなこと考えるようなふしだらな人なんていなかったわよ。

とよく聞かされた母の話が「いや、全員そうだったわけでもないだろう」と思えてきたのは、
いろんな話を見聞きして世間のなんたるかが分かってきた後年のことで、
昔の女の人は全て母のように純情で貞淑なものだと、わたしはずっと信じていました。

とにかく、世間平均レベルよりずっと純でウブだった若き日の母が、
ここで映画俳優レベルの美男子のお誘いにフラフラしなかったおかげで、
エリス中尉が現在、存在しているわけです。

「それなら仕方ないけど・・・・・・惜しい」
「うん、惜しい」

母「あんたたち・・・・・・・(-_-;)


H先生は母を誘ったものの、にべもなく断られたので
「なんや、せっかく誘ったったのになぁ。つれないなあ」
と冗談のようにしていたけど、残念そうだった(母談)とのこと。

H先生はわたしが結婚間近だったTOと卒業大学が一緒でした。
「Tさんのつてで大学の卒業生の名簿調べたら、H先生が今どうしてるかわかるかも」というと
妹「向こうも奥さん亡くしてたりしたら、お母さん、もしかしてーーーー!」
「きゃー」「きゃー」

「いい加減にしなさいっ!お母さんはお父さんだけでいいの!」

それはあのころ青春を送った純情な母の偽らざる気持ちでしょう。
しかし彼女の顔がなぜか少し紅潮しているのを見て、「お?」と思ってしまった娘です。
何十年前の知り合いのH先生の名前を咄嗟にフルネームで言えたんですよ。
母もまんざらでもなかった、ってことなのかも・・・・。






「リメンバーエイプリル」~帝国海軍軍人とアメリカ少年

2012-04-12 | 映画

       

皆さんは、ハリウッドのスターと話をし、飲食をともにしたという経験がありますか?
わたしは、一度だけ、あります。
世界的大指揮者にカツサンドをおごらせたことと、このことが数少ないわたしのこの手の自慢?
なのですが、その相手と言うのが、パット・モリタ氏でした。

カラテ・キッズの「ミスター・ミヤギ」役で、アカデミー助演賞を取り、この役を断った三船敏郎が
大変残念がった、という逸話がありますが、この映画以降も、日系アメリカ人の「尊師」的な役を
多く演じてきた、ハリウッドスターです。

詳細は省きますが、モリタ氏が来日中、ある場所で、
声をかけてきた氏としばしお話しをするという、
わずかの間のご縁。
それ以来(約15年前)
モリタ氏の名前を見るたび、そのことを思い出していました。

昔のことで、さらには氏の英語は、ネイティブではないわたしには甚だ理解しにくく、

そのとき何を話したかほとんど記憶にないのですが、一つ印象的だったのは、
モリタ氏が
「わたしは日本語がしゃべれないのです」と言っていたこと。

失礼ながら、英語もネイティブには程遠いのに、日本語がしゃべれないということは、
小さいときは二重言語で育ち、次第に、生活の必要上日本語を切り捨てた結果かなあと、
しゃべりながらいろんなことを考えた覚えがあります。

そのパット・モリタが、日本と戦争中のアメリカで、迫害された日系人を演じているのがこの映画
I'll remember April」です。
日本では公開されておらず、DVDだけの配給で、なぜか「リメンバー・エイプリル」となっています。
どうしてI’llだけ省略するのか、いまいち納得がいかないタイトルではあります。
そして駄目押しとして「遠い空の向こうに」と、全く筋とは関係なさそうなサブタイトルが・・・。

日本の映画配給会社のこのセンスについてはいくどか糾弾しているのですが、
このタイトルも、なぞと言えば謎です。
音楽関係者にとってこのI'll remember Aprilというと、スタンダードジャズの名曲。
「あなたとすごしたあの四月を忘れない」というロマンチックな内容ですが、
これは一般的な失恋の歌のようで、実は戦地に行った恋人を思う、戦時歌謡なのです。

しかし、この映画を最後まで観ても、なぜこのタイトルを映画のタイトルに採用したのか、
全くわかりませんでした。
主人公の両親が話し合うシーンの後ろでラジオから聴こえてくる曲がもしかしたらこれ?
という雰囲気ではありますが、だとしてもストーリー全般、この曲の内容や四月と関係しそうな部分は全く見つかりません。
この出来事が四月に起こった、ということかとも思ってみましたが、
いずれにしても詰めの甘いタイトルで、内容を想起させ観たいという興味を惹くことがなく、
随分損をしているように思います。

このあたりの「やる気のなさ」も日本で公開されなかった理由ではないかと思いますが、
観終わってからは逆に
「どうしてこの映画、日本でやらなかったんだろう」
と実に不思議に思いました。


第二次世界大戦中の西海岸にある街。この街に住む少年たちが、ある日、
海軍の潜水艦に取り残され、海岸に泳ぎ着いた日本兵と知り合う。
彼らと潜水艦乗員のふれあい、彼らの家族、戦地にいる兄。
映画はそれらを縦糸に、日系アメリカ人のおかれた当時の苦境を横糸に進む。

子供たちは皆で画策し、日本兵マツオをメキシコに逃がすことにするが・・・・・。

どうです?
面白そうでしょう。
日本人なら観たい、と思う人も多いと思うんだがなあ。



場面は、帝国海軍の伊潜(たぶん)艦内から始まります。
艦長が周波数を捉え、皆でアメリカのラジオ放送を興味深そうに聴くシーン。
一番右が、この映画の主人公?マツオ(ユウジ・オクモト)
アメリカの映画、テレビ界でそこそこ活躍している二世俳優です。

ここでいきなり間違い探しブザーがブー


アメリカ近海にいる潜水艦の、潜航何日めかの艦内で、何故士官が二種軍装を着ているのか?
そして艦長なら、潜望鏡を見るのに邪魔にならない艦内帽を着用していただきたい。



伊潜の全体像が映り、ブザー二回目がすぐさまブッブー
通常アメリカ近海の敵制海権下では、日本艦は国旗を塗りつぶして潜航しているはずです。
潜水艦は日本の制海権に戻ってきて、初めて日章旗を塗りなおしたものだそうです。
因みに、戦艦、軍艦には菊の紋を掲げるのが普通ですが、潜水艦は「紋無し」です。

その理由は、水中で隠密行動を取り、交戦する潜水艦は消耗することを位置づけられており、
あくまで「補助艦」として扱われていたためです。

この潜水艦乗りたちについてはまた稿を別にして書きたいことがたくさんあります。

この映画、スタッフに日本人や日系人が見たところ一人もいませんでした。
軍事指導やら検証やらもまったくされなかったようです。



この乗員、名前を「山 松夫」といいます。
あだ名ならともかく、「山」っていう苗字・・・・そんなのあるかなあ。
どうしてもう一息頑張って「山田」「山本」にならなかったのか。
日本人スタッフがいないので、事業服に書ける漢字がこれしかなかった、とかかしら。

と言う具合に、教育的指導ブザーが鳴りっぱなしなんですが、
まあ、この映画は戦争映画ではないので、そんなことはどうでもいいのです。

点検にデッキに山さんが出ているとき、伊潜は敵艦に発見されます。
このとき艦長が「潜航!潜航!」(英語字幕Dive!Dive!)と言うんですが、ここはやっぱり、
「急速潜行!ベント開け!」くらいのことは付け足してほしかった。
え?・・・全然どうでもいいように見えない、って?
はい、潜水艦には最近かなり入れ込んでいるもので、つい。

さて、この「シアトルっぽいアメリカ西海岸のとある街」に住むやんちゃ盛りのお子たち。
戦時下の小市民であるところの彼らは「少年警備隊」を結成し、沿岸の警備にあたる毎日。
遊びと言うと、海岸にある廃坑の建物を陣地にして、戦争ごっこ。



ハートマン軍曹ごっこですね。
ハートマンになっているのが主人公デューク
デュークのお兄さんはフィリピンに出兵しています。
歯をへし折りのどに突っ込んで歯磨きできなくされそうになっているのがピーウィ
映画「A.I」でアンドロイドだかロボットの少年を演じたと言えばおわかりでしょうか。



ウィリー・タナカ
お分かりのように彼は日系人で、彼のおじいちゃんが、パット・モリタ演ずるエイブ
この町で生まれ、この町で育ち、この町でレストランを営んでいます。



家の壁に「JAP GET OUT」と落書きされ、それを消していたら、ドイツ系の悪徳不動産屋が
「どうせ収容所に行かされるんだから、今のうちに家を売れ」
とやってきます。
怒りまくる隣人、正義感あふれる男前なデュークのお母さん。



子供たちは根城にしている廃坑になった鉱山の建物で、潜水艦の乗員を発見。
怪我をして意識を失っている様子。


棒で追いたてて牢?に閉じ込め、皆で会議。
「大人に言ってFBIに通報したほうがいいんじゃないか」と、おデブのタイラー。
「きっとこれは捕虜第一号だよ。手柄を横取りされたくない」とデューク。

捕虜のことは僕たちだけの秘密にしておこう!と言うことになって次の日。



一人で基地を訪れたデュークは、捕虜が牢から逃げているのを発見。
鉢合わせして慌てたとたん、足を滑らせて海に落ちてしまいます。



手と足を怪我しているのにもかかわらず助けに飛び込む山さん。
さすがは海軍軍人やー!
事業服の胸に「1206山松夫」と、しかも横書きで書いてありますね。
あの・・・・囚人じゃないんですから、番号はつけんでしょう普通。



山松夫さんことユウジ・オクモトご尊顔。
サイバーショットが映り込んでいるのは気にしないでね。
しかし、この山さん、日本語が無茶苦茶アヤシイ。なまってます。
二世とはいえ、アメリカで育つとこうなってしまうのね・・・・。



ピーナツバターのサンドイッチをデュークに差し入れてもらった山さん、
「食べ物かこれ?」
と不審そうに中身を点検。

ブッブーー。(大音響)

海軍軍人が、パンを見たことがないなどと、誤解もはなはだしい。
「パンじゃ腹ふくれねえ、米の飯よこせ」と乗員がストライキを起こした事件もあったくらい、
パンは海軍にはなじみの深いものでした。
飛行機の搭乗員と同じく、潜水艦も非常に体力の消耗するハードな配置とされていたので、
食べ物に関しては彼らの口は当時の日本人平均よりかなり超えていたはず、です。

とにかく二人はすっかり仲良し。
しかし、なんだかなあ、と思ったのが、この日本人のマツオの描き方。
まだ足の傷も治っていないのに、事業服を着たまま朝水泳していて、デュークに
「一緒に泳ごうよ」なんて言って水に引っ張り込むんですが、
いくら海軍の軍人でも、こんなときに泳ぎますかね?
だいたい沐浴のつもりなら服くらい脱げと。

何となくですが、「原住民的な、野蛮な感じ」に描かれている気がするんですよね。
未開の国の人を見るような。
文化の違いと言ってしまえばそれまでですが・・・。
なんとなく、このあたりにアメリカ人の日本に対する「見くびり」が見えます。
アメリカの映画サイトでこの映画の感想を見ると、
The Japanese sailor acts all goofy and is not convincing at all!!!!!
(日本の水兵は振る舞いが全く間抜けで田舎者のようで、これもまた全く説得力がない!!)
というアメリカ人のお怒りの声もありました。
もっと言ってやれ。



デス・カー、「死の車」が街にやってきました。
出征している兵士の戦死を報せる軍の広報車です。
おびえる子供たち。
しかし、ある日、その車はついにデュークのうちの前で停まるのです。
ショックを受けたデュークは、マツオのところに行くと・・・



自分もデュークのために泣きながらかれを抱きしめるマツオ。
しかし、この広報車が告げに来たのは兄の戦死ではなく、名誉の負傷で帰還するという報せでした。


それを知って誰よりも喜びバンザイするマツオ・・・。
いいやつっていう表現なんでしょうけど、これもなんだか馬鹿みたいです。



日系である仲間のウィリーの一家は、遂に収容所に送られることになります。
ウィリーが行ってしまう前に、マツオを汽車でメキシコに逃がしてやろうと計画する子供たち。



その過程で、ウィリーは秘密を持つことが耐えきれなくなり、おじいちゃんに相談します。
このことが大きくお話の結末に関わってきますよ。



マツオを電車に乗せ、送り出さんとするとき、裏切り者が現れます。
仲間のタイラーが、口げんかをした腹いせに、マツオのことや、汽車に彼を乗せる計画を、
親に話してしまい、日本兵を捕まえるためにFBIがやってくるのです。
汽車は途中で止められ、捜索が始まります。

さあ、どうなる?



タイラーは、仲間はずれの仕返しのつもりが思っていたよりおおごとになってしまい、
さらにこのせいで仲間は少年院行きかもしれないと言われ、ビビってこう言います。

嘘をついて大人を騒がせたという罰をたっぷり受けることを考えると、タイラーの勇気に拍手。
大人たちは捜索を中止します。

マツオは逃げることができるのでしょうか。
しかしそれを言ってしまうと、この映画を観る楽しみを奪うので、これは観てのお楽しみ。


全体的に子供が主人公であることから、悲惨な結末や、不条理な筋立てや、勿論、
残酷な描写も一切なく、全体的に少し甘すぎるかな、と思わないでもありませんが、
子供たちの、子供なりの仁義や友情、父親との男同士の話、
当時のアメリカの人々が日本、日本人、そして日系人をどう見ていたか、そういったことが、
こののんびりとした海沿いの町に焦点を当てて、あくまでも優しい語り口で語られます。





アメリカ映画黄金のパターン、階段に腰掛けて話し合う父と息子。
どうでもいいことなんですが、左画像のデュークの肩のところに、上から階段を下りてきた猫が
見えているのに、デュークが立ちあがった瞬間、何もいなくなるんですよ。
え?これなに?猫どこ行ったの?
と何度も見てしまいました。




タナカ一家を町の外れまで見送る二人。
この嬉しそうな顔を観てください。

もし、デュークの兄が本当に戦死していたら、彼らのマツオに対する行動はどう変わっていたか、
ということをつい考えてしまいます。
「デュークは兄を殺したのと同じ日本の兵隊であるマツオをどうしても許せず、
目を覆うような復讐を企てる」
「FBIに通報するのは兄を失ったデュークで、追手に追い詰められたマツオは、
子供たちを道連れに悲惨な最期を遂げる」
「追手の過ちで、子供たちが危ない状況になり、それを守ろうとしてマツオは一人死ぬ」

監督の傾向と趣味によっては、こんなストーリーの結末が考えられるのですが、
少なくとも、この映画は、全てが上手くいきすぎるくらい上手くいき、
ハッピーエンドを迎えます。
しかし、やたら悲劇的な内容で泣かせることに腐心している風の数多のあざとい映画に比べれば、
爽やかで、心が救われ、ずっと後味がよろしいかと思われます。

これは、小学校高学年くらいの子供と一緒に観て、感想を語り合うのにも向いている作りで、
もしかしたら目的の第一は「子供たちにこんなこともあったよと教えること」
かもしれないと思いました。
観終わった後、お子様と一緒ににっこりとほほ笑んで、しかし少し涙ぐみつつ「よかったね」
と呟きたい方には、お薦めの映画です。


そうそう、パット・モリタ氏は2005年に亡くなったんですね。
この映画を観た後調べていてあらためて気づきました。
間近で見ると笑った眼の可愛らしい、声の暖かいおじいちゃんでした。

合掌。










散る桜 残る桜も散る桜

2012-04-11 | 日本のこと

今年も桜の季節になりました。
街に桜の花の色をあしらった装いをした女性がたくさん現れるのもこのころです。
かくいう私も、気づいたらクローゼットの中からパウダー・ピンクやコーラルのジャケットやスカーフを、
何となく手に取ってしまっています。

去年、桜の季節に、震災で閉鎖していたブログを再開したとき、
「来年の桜が同じ所で観られるかどうかを案じたりしたのは初めてだ」
というようなことを書きました。

寝室の真横に在る桜が、今年も夜でも明るく感じるくらいに咲き誇っています。
去年の懸念が取りあえず杞憂に終わったことにほっとするとともに、
一年を無事に過ごせたことを感謝する想いです。



今日はお天気もいいのでたくさんの人がカメラを持って公園で写真を撮っていました。
しかしいつも思うのですが、桜って、感動するほど素晴らしく咲いているのに、
それを素人がコンパクトデジカメで撮ると、どうしてこんなにつまんないんでしょう。
(例:本日画像)

実際の美しさに対する感動が大きいだけ、画像のしょぼさが余計強調されるんでしょうか。


それはともかく。
先日、中国のサイトが「日本人の桜好き」について語ったものの翻訳を読みました。
それによると、「アンケートによると85%の日本人は桜がとても好き、14,5%が普通に好き」
というものだったんですが・・・・

これ、どこで、どうやって、どんな方法で日本人にアンケートしたの?

そして皆さん。
あなたが日本人なら、自分が桜が好きかどうかを改めて考えたことなどあります?

0,5%の好きではない、という日本人がいたってことは、最低200人に聞いたのよね?
どこかで日本人オンリー対象のネットアンケートでもあったのでしょうか。

そしてどうでもいいことですが、その200人のうちの一人は、なぜ桜が嫌いなのでしょうか?
小さいとき桜の木を斬り倒して、パパにこっぴどく叱られたトラウマでもあるのかしら。


どちらにしても全く意味のわからない、つまり本当に行われたかどうかわからないという点において、
何もしてないどころか失策続きの野田内閣の支持率がなぜか高いままの世論調査と同じくらい、
真偽を怪しまれるレベルのアンケートではあります。

まあこの結果から、
「中国人は、トラウマのある人を除いて日本人は全員桜が好きだと思っているらしい」
ということだけはよくわかりました(笑)


しかしそれにしても、こんなことを日本人に対して聞く(聞いたことにする?)ということ自体、
中国人には、日本人というものが全く分かっていないと言わざるを得ない。


なぜなら日本人にとって、桜は好き嫌いで語る対象ではないのですから。


何かのきっかけで生死の境をさまよった人々、例えば大手術で命を取りとめた人。
奇跡のような出来事で死の淵から生還した人。

必ず彼らはそのとき桜を観て思うのです。
「生きて今年の桜を観ることができた」

わたしがなぜそれを断言するかというと、これが身内の証言だからです。
母が命も危ぶまれるような大手術を経て帰って来たとき、実家の隣の公園は満開の桜でした。
それを観て、彼女は生きて帰ってきたことをあらためて思ったそうです。
しかし、その次の年から、彼女にとって満開の公園の桜は、その時の、
快気の喜びをも上回る辛く苦しかった日々への感慨のため、
必ずしもこころ穏やかに眺められるものでは無くなってしまった、というのです。

そして、代わりに
「あと何回私はこの桜を観ることができるのだろう」というぼんやりとした不安、
まるで自分の残された時間をこれによってカウントされているような重苦しさを感じずには
公園を通り抜けることができなくなってしまったのだそうです。

何かの特集で、ガンに侵された人々が、
やはり桜を見ると全く同じような感慨を持つという映像を見たことがあります。
「次の桜」とはきっかり一年後。
次の桜が咲くとき自分は果たしてこの世に存在しているのか。
そして「火垂るの墓」清太のように、そんなときに思い起こす幸せの記憶には、
必ず桜の花が舞っているのです。
わたしたちは桜を命の長さを見る時計のように感じているのかもしれません。


大東亜戦争期、特別攻撃隊として出撃していった若者たちは、
「咲いた花なら散るのは覚悟」
と吟じては、覚悟、或いは諦念、そしてやりきれぬ想いを、自らを桜花になぞらえることで、
慰撫し、あるいは奮いたち、せめてその記憶の中に永遠に生きることを願いました。


「散る桜 残る桜も散る桜」

この句は、映画「男たちの大和」でも使われていました。
大和の出撃は4月6日。ちょうど桜の季節です。
病院の窓から満開の桜を見た森脇主計曹が呟きます。

もしかしたらこの句が、特攻隊のことを詠ったものだと思っている方もおられるかもしれませんが、
実は、良寛和尚(1758~1831)の作なのです。


この時代、いやおそらくもっと昔から、日本人は、無の摂理と、人間の儚さ、そして
自分もまた、そのうちうたかたとなる運命の絶対を、散る桜のうえに見てきたのでしょう。

我々が桜を見るとき、それは好きかどうかなどという次元のものではなく、
今年もまた自分が生かされていることの確認をしているのかもしれません。




ところで、ワシントンの桜は、日本とアメリカの間の友情を象徴するものとして有名ですが、
この桜は最初に贈られたものではありません。
最初に贈られた桜には、ちゃんと駆除しなかったため虫がついており、
米国側は、送られた木を全部廃棄しなければならないことを日本側に伝えました。

日本側がこのことでメンツを失い、関係が悪くなるのではと危惧する米国側に日本が言ったのが
「貴国では大統領自らが桜を処分する伝統がありますからね」

このユーモアで、両関係者は和んだそうです。


実は私事ですが、この桜を送った日本側に、わたしの連れ合いの先祖がいるそうです。
しかしどこで何をしたかまでは、まだ全く聞き出せていません。

この時期になると思いだすのですが、毎年聞きそびれて現在に至ります。
今年は桜の咲いているうちに忘れないよう聞いてみます。