ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ナイキ・ミサイル・サイトSF-88〜ゴールデンゲートブリッジ その1

2018-09-30 | アメリカ

ネット時代のありがたいところで、昔はツーリスト本、
「地球の歩き方」が知りうる情報の全てであったのが、
最近ではどんな変わった?嗜好の持ち主の興味に応える観光も
目の前の箱が至れり尽くせりで教えてくれるようになりました。

サンフランシスコで再会したアメリカ在住の友人に、2年前に行った
ファイロリ(FILOLI)ガーデンの話をするとひどく驚いて、
もうこの辺で観光するところなんてないね、と言い合っていたのに、
そんな面白そうなところがあったなんて!と感謝されましたし、
何十年もカリフォルニアに住んでいるのに、今回わたしがネットで探し出し、
見学して来たナイキ・ミサイルサイトに至っては

「聞いたこともなかった」

と驚かれたものです。

今年も何か新しい発見はないかと、「military museum」で検索をかけ、
サンフランシスコ滞在中に見学できる施設を探し出した結果です。

ナイキ・ミサイルが設置されていた場所。
今でもミサイルが見られるとあってはもう行くしかありません。
ただし、ボランティアの数不足か、週二回、金土しか開けていないので、
わたしは慎重に滞在中の見学プログラムを組み、金曜日を待ちかねて
ゴールデンゲートパークに向かいました。

しかし、ナビで「ナイキミサイルサイト」と入れても
該当する場所が出て来ません。

仕方なく、ブリッジを渡ったら左の太平洋側を目指せばいいのよ!
と直感を信じてゴールデンゲートブリッジを渡ることにしました。

ところが、ブリッジを渡ってからこれだ!と進んだ道はもう一度
ブリッジに戻る道で、気がついたらまたサンフランシスコにいるではないですか。

そうだ、近くにある海洋生物保護センターの住所を入れれば、
少なくとも近くにいけるに違いない!

ともう一度ナビを入れ直して事なきを得たわけです。

 

HISTORIC NIKE MISSILE SITE。

この看板の前に立ったとき、なぜナビに出て来なかったのかわかりました。
ミサイルサイトの「サイト」はわたしが入力していた、

sight(光景、眺め)ではなくsite(要地)

だったのですorz

 

それにしても昔は人が来ないこんな山の中に、ミサイル発射場を作っていたのね。

このゴールデンゲート自然公園の一帯には、こちらで「バッテリー」と呼ぶ、
古くは南北戦争のための砲台がそれこそ針山のようにたくさん作られ、
今でもその遺跡が残っていたりするわけですが、時は下り、冷戦時代にも、
アメリカさんはここにナイキミサイルの発射場を針山レベルで作っていたのです。

ミサイルサイトは今でもアメリカ国内のあちらこちらに見られるそうです。

なぜなら1953年から冷戦の終わる1979年までの間に、アメリカは
全部で300基のミサイル発射台を国内に設置していたからです。

このサンフランシスコにも遺跡が残っているだけで三箇所、
そのほかにもわたしがナビを入れた海洋生物センターも
元々はミサイルサイトの跡地に作られたものなのだそうです。

ところで、当たり前の話ですが、アメリカがここまでしたのは、
冷戦時代に対峙していたソ連の上空からの攻撃に備えるためでした。

この遺跡の説明にもあります。

「核戦争に生き残るためにこれらの装備は必須であったのです」

 

ファーイーストの何処かの国には、上空を敵国のミサイルが通過してもなお、
それを迎撃するための地上イージスを設置することに対して反対する
自治体の長というのがいるそうですが、わたしこの記事を読んで
ちょっと笑ってしまいましたよ。

「イージス・アショアが配備されることは町民の安全や安心、
平穏を著しく損なうことにつながり、まちづくりにも逆行する」。
20日の町議会で花田町長が反対理由を力説すると、
傍聴席を埋めた配備反対派の住民約20人はうなずいた。

中略

住民の間では高性能レーダーが出す電磁波による人体などへの影響や、
ミサイルを発射した際の落下物に対する懸念は根強く残ったままだ。

はあああ〜〜〜?

って感じ・・ははっ・・(力ない笑い)

「ミサイルを発射した際の落下物」ってあんた。
落下物が落ちる事態ということは、その時別のミサイルが
朝鮮半島から飛んで来ているってことなんですけど?

北朝鮮のミサイルよりそれを迎え撃つミサイルの破片が心配ってか?
ミサイルが本土を直撃するより電磁波が人体に及ぼす影響が怖いってか?

本当にミサイルが飛んで来たこともある国の自治体の長として、
そのまちづくり(どうしてパヨクって、自分たちの主張は平仮名で、
反対事案はカタカナで主張するんだろう)とやらと、
敵ミサイルのどちらを優先事項とするべきか判断もつかないのね。

 

というような茹でガエル的お花畑的な人はアメリカにはいなかったので、
(日本の現状を質すと源流はGHQの占領政策に行き当たるのですが今はさておき)
冷戦に入るなり、アメリカは国家存亡の危機とばかりに戦略爆撃機を飛ばし、
原潜を海に潜らせ、地上ミサイルを問答無用で作りまくっていました。

全米に300基設置されたミサイルサイトがアメリカの本気をものがたっています。



A Battery 2nd BN (HERC) 51st ARTILLERY

LAUNTING AREA

と手描きの字も拙い感じの看板があります。
第51砲兵部隊で第二歩兵中隊であることはわかった。
HERCがどうしてもわかりませんが、細かいことはよろしい。

金網に、オープン時間が毎週金土の1230から4000まで、
しかも天候が悪い時にはやりません、と書いてあります。

思うのですが、雨が激しい時だとランチングシステムに
水が入ってしまうからですね。

サンフランシスコは冬(クリスマスの頃から春まで)
雨季と言っていいほど雨が降りますが、どうしてたんだろう。

もちろん今ではミサイルを発射することはできませんが、
システムがまだ電気で稼働できるので、立ち入りは制限されています。

これはここがまだ陸軍の運用下にあった時の注意書きで、
許可を得た人物しか立ち入りを許されませんでしたし、
写真はもちろん、メモを取ったり地図を書いたり(時代ですね)
といった諜報活動につながるような行為も厳に禁止され、
必ず司令官の許可のもとに意図を明らかにしてなされなければなりませんでした。

許可を得ずにこれらの私物を持ち込んだりすると問答無用で
没収します、と最後に書いてあります。

入り口にまず第一の警衛ボックスがありました。
雰囲気を出すために?マネキンを置いてますが、
これがのっぺらぼうで結構怖い(笑)

ダイヤル式電話はアーミーカラーでオシャレに統一。

直通ダイヤルの一覧表にはファイア・アラームとかイマージェンシーとか、
プリズン/ジェイルブレイク(脱走)とか、ボム・スレートとか、
マン・ウイズ・ガンとか、ありがちな(陸軍的にはですよ)ダイヤルもありますが、

「ヒットエンドラン」「ドッグ・ケース」

とか

「メンタルサブジェクト」「バンク・アラーム・アトなんとか」

など、なぜ軍が?と思うような部門もあります。
誰かが鬱になったり、銀行強盗が入った時も出動しちゃうわけですかい。


こと細かすぎて、たとえどんな事態になっても大丈夫。って感じ。
ただしピザのデリバリーの電話番号とかはありません。

門の周りは崖なのに全く柵とかがなく、放置されています。
それにしてもすごいながめ。
海と内陸の間にあるダムのようなものは「ロデオ・ビーチ」といい、
その外側がロデオ湾、ビーチのこちら側はロデオ・ラグーンと言います。

自然にできたダムなんですね。

こちらのラグーンには、サンフランシスコを飛び回っている
あのペリカンさんたちのコロニーなどがあります。

対岸にある赤い屋根の建物は昔は陸軍のものだったと思いますが、
現在は政府機関の所有になっているということです。

湾から左側に目を転じると、ポツンとピンク色の可愛らしい小屋が。

色は可愛らしいですが、ガチンコに金網で囲まれているところを見ると
これも陸軍の所有で何かを貯蔵していたところだと思われます。

門の中には車で入っていくことができます。
中のベンチに、テンガロンハットみたいなのを被ったボランティアが
近づいてきて、ガイドツァーに参加しますか?と聞きます。

いつもならお願いするところですが、前の組が始まったばかりのようだったので、
様子を見ようと思い、ツァーを断ってしまいました。

まあ、また来年くればいいし。

「ご自分で見学するのなら自由に中を歩いて結構ですよ」

そう言われてミサイル発射場に進んでいきました。

発射場の周りにも金網が張り巡らされ、入り口には警衛ボックスがあります。
遠目に見たとき、本当に人がいるのかと思いました。

その時、ミサイルの発射台がグイーンと音をさせて動き出しました。

これを見逃してはなんのためにここにきたのかわからん。
急いで中に入ります。

 

 

続く。

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ゴールデンゲートブリッジ公園を歩く

2018-09-28 | アメリカ

今年もサンフランシスコにやってきて、次の日の朝、
ゴールデンゲートブリッジを臨むサンフランシスコ湾沿いの公園、
クリッシーフィールドにやってきました。

州道280と101、どちらで来ても途中から地道に降りなければいけません。
いつも選択する海側の道を通っていると、去年なかったこんな店が。

「SUSHIRAW」・・・・スシ・ロウ(生)→スシロー?

この辺りは以前から中国人の移民が多い場所で、ここ左に曲がったところにある
客家料理の店などはわたしたちが住んでいた時からあり、
一度気まぐれを起こして入って見ましたが、店内の水槽に苔が生えているし、
なんか変な匂いはするし、中国人しかいないしで、当時2歳だった息子は
完璧にトラウマを植え付けられ、その後10年くらい中華料理はダメになりました。

きっとこの店もチャイナがやっているインチキ寿司だと思われます。

ホテルのあるサン・マテオからは渋滞もあるので小一時間かかりますが、
息子の送り迎えのない今となれば、むしろそれも楽しんでしまいます。

この日のサンフランシスコ湾はほとんど霧のない晴天でした。
冷たい風と強烈な日差しが同時に体を直撃し暑いのか寒いのかわからない、
そんな天気もこの一帯特有のものです。

海水が回り込んで池のようになっているところにペリカンの親子がいました。

お母さんが頭を突っ込むと子供も真似して(笑)

漁の仕方を子供に教えているのだと思いますが、
さすがにお母さんも獲ったものは自分で食べてしまいました。

見たところほとんどが観光客で、ブリッジをバックに写真を撮っています。

ブリッジに向かって歩いていくと、左はこんな草だけのフィールドですが、
ここは昔陸軍の飛行場でした。

もちろん、複葉機の時代、1919年から1936年の間です。
このころの飛行機の離着陸に大変適していたため選ばれたようですね。

なんども書いていますが、写真に写っている建物は全部当時からのものです。

航空時代の黎明期、ここは飛行機の発展のステージのようなものでした。
横に離着水に御誂え向きのサンフランシスコ湾があったことは
水上機の発展にも寄与することになりました。

「この傾斜が休憩するのにちょうどいいんです」てか?

自転車の人はほとんどがレンタル。

船も頻繁に行き交います。
これはおそらくタグボートだと思うのですがどうでしょうか。

 

ヒッチコックの映画「めまい」で有名になったブリッジのたもとに近づきました。
この鎖もその時代にはもうあったと思われます。

ボードに乗ってただあちこちをフラフラ漂っている男性がいました。
確かに運動にはなりそうだけど・・・。

マリオカートのようなゴーカートを借りてこの辺を走ることもできます。
ちらっと見たら、助手席にはナビのためにiPadが装備してありました。

一眼レフにカメラを替えて初めてブリッジを撮るわけですが、感心したのは
ブリッジの赤が「見た通りの色」に写っていること。

ズームもできて、結構広角にも写り、さすがはオールインワンだと思いました。
旅行にはこれ一本で十分です。

去年はオープンしていて見学できたフォートは今年は閉鎖されています。

去年なかったこんな看板を発見。
なんと、自殺者が多いという汚名を少しでも返上するべく、サンフランシスコ市は
自殺防止ネットを設置することにいたしました!

なんでも橋の上から6メートル下に人体を受けるスチールのネットを張り、
人が落ちないようにするというのですが、うーん・・・・・。

どうしても自殺したい人はそのネットからとびおりてしまうのでは?
もしかしたら、6メートルというのが微妙な数字で、そこに落ちたら
スチールで怪我をして動けなくなってそれ以上飛び降りられないとか?

何かと謎ですが、とにかく来年来た時にはネットは完成しているでしょう。

それがいかほどの効果があるか、ぜひ知りたいものです。

コンクリートで塞がれた向こうに鎖があるのが見えるでしょうか。
それが「ヴァーティゴ」(めまい)にも登場した同じ場所です。

Vertigo (1958) Golden Gate Bridge scene # HD*

映画のおかげでここでキム・ノバクとジェームス・スチュアートごっこ?
をする人が後を絶たないため仕方なく閉鎖したとかかしら。

しかし、映画ではスチュアートが飛び込むシーンだけセットに変わってますね。

それでも柵を乗り越える人が後を絶たないらしく、この警告である。

「警告を破ってここに立ち入った人は1年の収監、
または罰金1万ドル(今日現在 1,128,160.00 円)が科せられます」

とにかく、ものすごく厳しく禁じられていることはわかった。
さすがにこれを見てまで柵を超えようとする強者はおるまい。
きっと監視カメラもバッチリ装備されてるんだろうしね

初めてここに錨を下ろした船は『サン・カルロス』(アヤラ艦長)、
1775年8月5日のことであった

からはじまって、

ドン・フワン・バチスタ・デ・アンサ少佐は1776年、
ここカンティル・ブランコ(ホワイトクリフ)に入植する

などと書いてあり、途中に

1853年、アメリカ合衆国陸軍の技術者たちがクリフを切り拓き、
ここにフォート・ポイントを建造した

最後には

海側の外壁は100年にわたって全く損傷を受けていない

と書かれています。

アルカトラズ島をバックに自撮りして画面を確認する二人。
新婚旅行でここに来る人も多いようです。(ex.わたしの姉)

カモメと鵜が仲良く同居しています。
左の二羽も新婚さんらしくずっといちゃいちゃしていました。

東映のオープニングみたいに波が砕けるのを撮ろうと待っていたのですが、
これが限界でした。

フェリーの横をおそらく沿岸警備隊のボートが急行していくのを目撃。
もしかしたら誰かブリッジから飛び込んだのか?
それともさっきのボードのおじさんが海に落ちたのか?

と思って目で追っていくと・・・、

波をボンボン跳ねながらブリッジの下をくぐっていきます。

なんだ、おじさんが落ちたんじゃなかったのか。

ブリッジ下から車の場所まで戻ることにしました。
パレス・オブ・ファイン・アーツの建物は実はR2D2のモデルです。

・・って言われていますが本当かしら。

一人で5匹くらい犬を連れているのは「散歩屋さん」。

忙しい飼い主に変わってウィークデイに愛犬を散歩させる仕事です。
聞いたところによると、犬を預ける人というのは裕福なので、
結構この商売、いい稼ぎになるのだとか。

クリッシーフィールドは犬にとっても楽しい散歩場です。
聞いたわけではありませんが、ここに来て彼らの様子を見ているとわかります。

ここでは日本の公園のように犬を必ず繋がなくてもいいので
勝手気ままにあちらこちら走り回ることができます。

この白黒の犬は体は大きいですがまだ子供らしく走り回っていました。
犬にも性格があるのは愛犬家の皆さんはよくご存知だと思いますが、
彼はアメリカ人の言うところのスパンキーなタイプです。

勢い余って他所の犬のところに突撃。
そういう犬は、えてしてよその犬にちょっかいをかけたがるものです。

彼が目をつけた?のはこの黒い犬。

「よお」

「な、なんだよお」

「遊ぼうぜい!」

「やだよ!僕今ご主人様に遊んでもらってるんだもの」

「そんなこと言わずによお」

「もううるさいなあ。ご主人様、早くフリスビー投げて」

「くっつくなよお」

「いいじゃん、俺もフリスビー取る遊びしていい?」

女の人「そーれ!」

「これは僕のだ!あんなやつに渡さないぞ」

「それいいなあ、俺にもくわえさせて」

「やだよ!」

「ご主人様に持っていかなきゃ!邪魔すんなよ」

「そんなこと言わずに俺と取り合いっこしようぜ!

バシャバシャバシャ

「あ・・・・・くわえていたの落としちゃった」

「でへへ、俺が拾ってやるよ」

「やめろよー」

ご主人「すみませんけど、オタクの犬がうちの子を怖がらせてるので、
なんか言ってやってくださらないかしら」

黒「ほーら、怒られろ(笑)」

「なにい?うちのご主人は俺のこと怒ったりしないぞ?」

「キャイ〜ン」

「こら、いい加減にしないか」

「ほら怒られた」

「・・・ちっ。今日はこのくらいにしといたらあ」

「お前やなやつだな。もうどっかいっちまえ」

と、いう感じに見えましたが、多分実際もこんなものだと思います。

サンフランシスコ湾にはよくペリカンが飛来して、このように
列を作って飛んでいるのですが・・、

このペリカンの群れが飛ぶのは本当に綺麗なものです。

一列になっていたかと思ったらこうやって全員で一斉に着水したり。

長い首を折りたたんで、実に優雅に飛びます。
あんな大きな鳥が飛んでいるときはとてもスマートに見えるのです。

 

今回のサンフランシスコ滞在で、わたしはこの時を入れて
三回はゴールデン・ゲートエリアに通い、今まで見たことがなかった場所や
軍事遺跡などを観たのですが、それはまた後日お話しします。

 

続く。

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ソルジャー・スカラー〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント

2018-09-27 | アメリカ

前回、ウェストポイントの学年を

1年 プリーブ

2年 イヤーリング

3年 カウ

4年 ファースティ

と呼ぶことを説明しましたが、次のコーナーでは、プリーブから
ファースティになり学校を巣立つまでの47ヶ月の間でも、
特に印象的なイベントが紹介されていました。

白の欄がプリーブ、右の紺色の部分がイヤーリングです。

プリーブは左上の「レセプション・デイ」(入学式)に始まり、
基礎的な候補生教育と学問の合間に彼らは自分の専攻を決定します。

ウェストポイントに到着した日から、新候補生たちは
体力的にも精神的にもチャレンジが始まります。
すぐさま、彼らは「軍隊生活」の中に放り込まれ、敬礼の仕方や
行進の仕方、命令を遵守することやライフルの使い方、そして
バラックでの生活についてを一から叩き込まれることになります。

海軍兵学校では「娑婆っ気を抜く」と称して、最初にバスを使い、
今まで着ていた服を故郷に送り返す、という儀式がありましたが、
ウェストポイントでは、ある意味アメリカ人には最も強烈な儀式があります。

列を作っている男性の頭を見てください。
全員坊主刈りどころかほとんどツルツルにされていますね。

なんとウェストポイント、入学当日に髪の毛を剃ってしまうのです。

これには驚きです。
防衛大学だって今時こんなことやりませんよね?

防大でもしこんなことをやったら、頭剃られるなら受けねえ、
みたいな人もいて、受験の人数が減ってしまうかもしれません。

でも、ここではやるのです。

流石に入学式の時だけで、最初のダンスパーティの時には
十分毛は生え揃っているので問題はないと思いますが。

敬礼の仕方を教えられるのは初日から。
「セカンドネイチャー」として素早くできるまで繰り返し練習。

彼らは「カデット・オナー・コード」(規則)と「カデット・クレド」を
通じて、陸軍士官学校の慣習と伝統を学んでいきます。

これは皆の髪の毛の生え方に個人差はあるけれど、だいたい入学してから
2〜3ヶ月といった感じでしょうか。

アメリカの士官学校ではいずれも学業を非常に重視します。
そもそも高校の成績がトップクラスでないと願書を受け付けてもくれませんし、
身元を証明するために、国会議員などの推薦人が必要になります。

「クリティカル・シンキングとクリエイティビティ」

批判的思考と創造性、これが士官候補生にとって必須のキーワードです。
学問を通して論理的思考をすること、引いては統率の際に必要な
判断力を培っていくことを目標としています。

歴史はもちろん、文化芸術、例えばシェイクスピアを演じたり(右上丸中)
社会科学などを深く学ぶことによって、人間というものを多角的に考察し、
高度でプロフェッショナルな
意思決定ができるようになることも
指揮官としての必須条件です。

士官学校の達成目標は全て「軍の統率」に帰結するといっても過言ではありません。

だからこそ彼らはSTEM(科学、技術、工学、数学)の基礎を叩き込まれます。
特にこれらの知識と解決のための思考は、高度な問題解決を可能とするからです。

しかし、学問は任官したらそこで終わり、というわけではありません。

ウエストポイントの厳しいアカデミックプログラムは、
卒業生が変化する世界の不確実性を効果的に予測し、
それに対応していくことができるように準備されています。

候補生たちは、数学、科学、英語、歴史、心理学、哲学など、
幅広い教育を受けることができ、知識とスキルの幅広い統合によって、
問題を理解し、
分析し、解決し、効果的に対応することができます。

ウェストポイントの卒業生は理学の学士号を取得することができ、
今日の陸軍指揮官に必要な教養を満たすための完璧な準備ができます。

 

ちなみにスカラシップは、よく知られたフルブライトの他に、

ローズ(RHODES)奨学金

マーシャル(MARSHALL)奨学金

トルーマン(TRUMAN)奨学金

などが、学業成績やリーダーシップの秀でた学生に与えられます。


ところで、余談ですが、先日読者の方に我が自衛隊をこのように
誹謗中傷しているタイトルの記事を教えていただきました。

「自衛隊幹部が異常な低学歴集団である理由」

これ、読んだ方は首をかしげると思うのですが、この筆者は「幹部」、
その中には士、曹を経て任官した人と士官学校に当たる防衛大学校、
一般大を卒業して幹部となった人たちがいることを意図的に混同してますよね。

もっともらしく本当のことを書いているように見せかけてはいますが。

自衛隊というシステムに、その成立と憲法的な存在意義上、
組織として不備がないとはわたしは決して思いませんが、それはともかく、
海外と比べて、というなら、アメリカでも志願入隊してくる軍人は
中学、高校を卒業してこの人の言うところの「低学歴」のまま昇進し、
士官に任官してくるというのが常道です。

ゆえにアメリカ軍は低学歴集団ではない、というこの人の持論は間違っています。


ところで「低学歴」などという言葉で自衛隊を侮辱しているこの人は何者?
タイトルは慶應大学の教授ですが、ご自身の出身大学は成蹊ね。ふむふむ。

この教授とやらはおそらく何かの理由でとんでもない学歴至上主義なんでしょう。
いや、それよりも、とにかく自衛隊を貶めることが目的で、
後付けの不可思議な理論をこねくってこのような記事を書いたのだと思われます。

何よりタイトルのつけ方に悪意が感じられ、あまりにも品がなさすぎて、
これを書いた人の人格や教養すら疑われます。

こんな理論的思考のできない人は、もし何かの間違いで自衛隊に入ったとしても
絶対に幹部になどなれないと、ここでわたしが勝手に断言しておきます。


さて、プリーブの一年が無事に終わる時、彼らに取って遠い存在だった
ファースティの4年が卒業し任官していきます。

「レコグニション・デイ」では、上級生が彼らを激励し、
1年間の健闘を讃える儀式が行われます。

左側のでかい上級生は、まるで

「これがあと3年続くんだぞ」

と言いたそうな顔をしてますね。

2年、イヤーリングは野戦実習やランバックと呼ばれるマラソン大会、
もちろん学問も自分の専攻を追求していきます。

でも21ヶ月目には、イヤーリングは初めてフォーマルな軍服に身を包み、
正式なダンスパーティを開いてもらえます。

もちろんこの時にはダンスの相手に彼氏彼女を呼んだりするわけですが、
士官候補生の恋人たちに取ってもこれは晴れがましいひと時でしょう。

候補生同士でお付き合いしている場合は軍服同士で踊るのかな。

また、イヤーリングの年の最後には、皆で

ウェストポイント・セメタリー(West point cemetery)

での慰霊を行います。
なんとウェストポイント、学内に陸軍軍人の墓があるのです。

墓地に葬られているいくつかの名前を上げておくと、


ジョージ・アームストロング・カスター将軍

シルバヌス・セイヤー(陸軍士官学校の父)

ジョージ・ワシントン・ゲーソルズ(パナマ運河建築総監督)

エドワード・ホワイト(宇宙飛行士、アポロ1号の事故で殉職)

マギー・ディクソン(陸軍士官学校バスケットボールコーチ)

エミリー・ペレス(イラク戦争で戦死、戦死した史上初の黒人女性士官)

 

基本的にこの墓地は陸軍の高官のためのものですが、28歳の若さで
心臓病で急死した民間人のマギー・ディクソンと、
少尉で戦死したエミリー・ペレスは特別措置によるものだと思われます。

カウはしかしどうしてこう記すべきイベントが少ないのか。
海軍兵学校でも「むっつり2号」とかいわれて、つまりあまり
存在感がなかったという記憶があります。

「カウ・サマー」(”牛の夏”って牧歌ですか?)、夏休みには
一般の大学生が自分の専攻に関係する職業体験をすることができるといわれる
「インターンシップ」で、陸士のカウたちは陸戦訓練をすることになります。

あ、それが将来の職業になるわけですから当然ですが。
学問も大事ですが、陸軍士官としてはやっぱりこちらがメインですよ。

学生が実習で使う装備一式を全部紹介してくれています。
写真の右上、入学の日に頭をバリカンで剃られている人がいますね。

実は、彼らが銃を持たされるのは入学して二、三日以内なのだそうです。
坊主刈りとともに、精神をたたき込むという儀式的な意味もあるのかもしれません。

陸軍毛布には「U.S.」とだけマーク入り。
寝袋からマスクから、これら一式は入学した学生にすぐに全部支給されます。

フットパウダー、日焼け止め、虫除けスプレー、非常食のバー。
こんなものもちゃんと配ってもらえます。
日焼け止めは3段階くらいで日差しの強さに対応するという気配り。

 

さて、「カウ」は新学期が始まればすぐにaffirm、意思表明の宣誓を行い、
「500th ナイト」といって、ウェストポイントの500日を乗り切ったお祝いに
これまた正装のダンスパーティを開いてもらえます。


右側の「ファースティ」、4年生はイベントが盛りだくさんですね。

まず特筆すべきは「リング・ウィークエンド」でしょうか。

ウェストポイントでは1835年から行われている儀式で、
「インディア・ホワイトユニフォーム」(白い軍服のことをアメリカではこういう)
に身を包んだ彼らは、
陸軍士官学校のリングを贈られます。

アメリカの特に私学大学はオリジナルの「カレッジリング」を毎年作りますが、
TOはアメリカの大学卒業時オーダーしなかったそうです。
その理由は、

「指輪なんて生涯すると思わなかったから」

いや、そういうもんじゃないでしょうよ。そういうもんじゃ。

これは士官候補生にとって何よりもエキサイティングな夜、

「ブランチ・ナイト」

なぜ夜にするのかはわかりませんが、とにかく、
歩兵か?情報部隊か?それとも軍医か?
自分が最初の実習先が発表される晩です。

 

ちなみに、アメリカには「医学大学」というのはなく、
4年間メディカルコースに必要な単位を履修して、そのあと
メディカルスクールに進学して医者の勉強をするのです。

ですから防衛医大に当たるものもなく、軍医になりたい者は、
陸士を卒業してから陸軍のメディカルスクールで初めて医学を学びます。

そして3週間後の44週目、

「ポスト・ナイト」(これも夜か・・)

で、全員の正式な配置先が決まることになります。
全員が志望通りに行かないであろうことは、陸海ともに同じ。

悲喜こもごもの夜になるというわけです。

そして卒業まであと100日、という夜にまたまた正式な夜会が開かれます。

この「卒業まで100日ダンスパーティ」は、大変歴史のあるもので、
1871年から今日まで毎年行われている慣習です。

これはこのパーティの出し物のポスターですが、面白いですね。
おそらく演劇部のお芝居だと思われますが、題を見てください。
先日、元帥が二人出たクラスのことを

「星が降りかかったクラス」(The class the stars fell on)

という、という話をしたばかりですが、このお芝居はそれに

「・・literally」(文字通り)

をつけて、本当に星が降りかかって、というより人を直撃してます。

そして47ヶ月目。

帽子を投げるセレモニーで有名な卒業式が終わると、卒業生は
セカンド・ルテナント、少尉に任官し、ウェストポイントを旅立っていきます。

 


続く。

 

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X-35Bの「ミッションX」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2018-09-25 | 航空機

スミソニアン航空宇宙博物館別館の「ウドバー・ヘイジー・センター」に
展示されている航空機のご紹介をしています。

まず冒頭写真の

グラマン F14 D (R) トムキャット

艦載機仕様(deck-launchedと紹介されている)で、超音速。
可変後退翼を備えた戦闘機です。

前にもお話ししたようにグラマンは猫的名前を連続して
戦闘機につけていましたが、この戦闘機には

シーキャット

とつけようとしていたと言われています。
シーキャットって猫じゃなくて魚(ナマズ)だし。

しかし、この戦闘機の採用を推していたのが

トム・コノリー大将

で、そのことからトムの猫(Tom's cat)→トムキャット、
となって、そのほうがこれまでの猫戦闘機と釣り合いがとれるよね、
ということになったのではないかと推察されます。

英語のwikiにははっきりと、

「コノリー大将に敬意を払うために名前がつけられた」

とも書いてあります。

可変翼の動きが猫の耳のようだというのでつけられた、
という話は、わたしに言わせると、どうも後付けっぽいんですよね。

これももちろん後付け(笑)
機体にペイントされていたフィリックス猫。

搭乗するのはパイロットとRIO(Radar Intercept Officer)

このレーダー・インターセプト・オフィサーというのは
普通のナビゲーター・オフィサーとは違う職種で、

武器兵器の現状をモニター
BVR(beyond visual range視覚範囲外)への攻撃
レーダーによる他飛行体や異常のチェック
他飛行機の戦術分析
無線通信の取り扱い
ナビゲーション機器の取り扱い
電子戦および関連装置の取り扱い
周囲の観察と敵の発見
ミッションの実行と統制

などを任務とする士官です。

万が一パイロットに異常があった場合に限り、
RIOは操縦の装置にアクセスすることができ、
飛行機を無事に着陸させる訓練だけは受けていますが、
パイロットのように操縦することはできません。

ところでこんなものもありました。
「リアル・トップガン」のフライトスーツとヘルメット。

「トップガン」は正式には

The Fighter Weapons School(海軍戦闘機兵器学校)

といい、1969年、ミラマー基地に創設されました。
アグレッサーを演じることでより進んだ戦闘機と戦略攻撃を
海軍のパイロット達に戦闘メソッドを通して叩き込む、
というのがトップガンの使命であり、
4週間のコースを受けると受講者は艦隊に戻り、彼らの部隊に
学んだことを伝えていくのです。

ここにある私物は海軍のトップパイロットのうちの一人、
クリストファー・”ブーマー”(Boomer)・ウィルソン大尉のものです。

彼は現役時代に VF-211に所属し、ベトナム、ラオスなどで
少なくとも150回に及ぶ戦闘に参加し、6個のメダルを授与されました。

戦後はF-14が登場したときの最初のパイロットとして
この機体を艦隊運用に紹介するために大きな働きをしたという人物です。

ウィルソン大尉がトップガンだったのは1982年から1984年まで。
F-14の最初の操縦者全てが彼の薫陶を受けています。

その後も彼はトップガンのテクニカルアドバイザーとして現場に残りました。
28年間のパイロット人生でその飛行時間は5400時間を超え、
三十種類もの航空機を甲板から離発着させるレジェンドだったのです。

真ん中のインシグニア、徽章は「兵器学校」つまりトップガンのマークです。
写真の上が彼が実際に使っていたフライトバッグとマニュアル、地図など。

このマニュアルは、F-14に彼が乗っていた時のものです。

前方の車のナンバープレート(アメリカではライセンスプレート)は
ウィルソン大尉のオリジナル?ナンバーで、

 XTOPGUN1

となっています。

これを許可したアイダホの免許局もさすがアメリカ、話がわかるというか。
ただ、アイダホに生まれたからには、どこまでも

「FAMOUS POTATOES」

という言葉がまつわってくる運命が・・。

「トップガン」と「ポテト」って、ある意味反対語みたいなものかも(笑)

 

カーチス SB2C-5 ヘルダイバー

展示は一応年代を追うように並べてあるので、実は前回の
ボロボロの水上機の横にあったのはこの「ヘルダイバー」ですが、
ブログエントリの構成上後先になったのをお許しください。

 

第二次世界大戦の間、期間としては1943年から終戦まで、
海軍は対日本戦にこの航空爆撃機ヘルダイバーを投入し、
普及後は、海軍の30の部隊、13隻の空母で運用されていました。

しかし、 艦隊戦術、技術、そして急降下爆撃のための爆弾の製造、
それらの変化に伴って急降下爆撃の方法そのものが廃れていったため、
結局ヘルダイバーはカーティス製では最後の急降下爆撃機となったのです。

ところで、このヘルダイバーは躯体にほとんど凹みや傷がなく、
修復したといっても綺麗すぎるのですが、それもそのはず、完成後、
2〜3ヶ月で終戦になってしまったため、戦闘を経験していません。

1945年の12月から空母「レキシントン」の爆撃部隊に組み入れられ、
占領下の日本で初めてまともに飛行することができたようです。

このノーズのおちょぼ口を見ただけでセイバーだとわかってしまう(笑)

ノースアメリカン F-100D スーパーセイバー

セイバーというと、われわれ日本人にはブルーインパルス、
東京オリンピック開会式、というイメージがありますね。

航空自衛隊が採用していたのはF-86戦闘機ですが、
後継型のこれも、同じようなノーズインテイクをしています。

こうして真正面から撮るとすごく大きな口に見えますね。
空中給油口がその口の前に突き出しています。

F-100は空軍にとって初めての実用超音速機でしたが、
機体に何か余計なもの(例えば爆弾とか?)がついているだけで
超音速にならない、など性能的にはいまいちだったせいか、
後発に押されてあっという間に陳腐化してしまいました。

この機体は1957年の使用開始以来21年任務を果たし、
飛行時間は6,159時間、という記録を持っています。

その現役中にはキューバ危機に出動し、のちに日本に配置され、
そこから南ベトナムで任務に当たっていましたが、ベトナムでは
対空砲を数回受けています。

どうして対空砲を数回「ヒットされ」ても無事だったのかは謎ですが。

機体中央にサイコロのマークがペイントされていますが、これは
あのテト攻勢の時に当機が所属していた、第90戦略戦闘部隊のものです。

我が自衛隊のF-86の次期戦闘機候補にF-100が挙げられたことがあります。

これをライセンス生産するという案は一度は具体化されそうだったのですが、
岸信介首相に対する説明で「戦闘爆撃機」という単語を使ったところ、

「日本に爆撃機は要らない!」

と一喝され、沙汰止みとなったという話があります。

なるほどねえ。
あまり考えたことはありませんでしたが、爆撃するというのは
「相手の国に行って領土を攻撃する」とイコールなので、
専守防衛を旨とする我が自衛隊には必要ないと。

じゃあミサイルならいいのか?

って話ですが・・これはいいんだな、きっと。

とにかく「爆撃」というのは言葉だけの問題で、F-100は
制空戦闘機として採用します、といえば良かったんじゃないかと思いますが、
先ほど述べたようにF-100の出来は決して良くなかったということなので、
自衛隊としてはこのとき岸首相の一喝に救われたのかもしれません。

ロッキード・マーチン X-35B STOVL 

形も見たことないし、名前も初めて聞くわけだが?と思ったら、
ロッキード・マーチンが開発した試作機なんだそうです。

直にこの目で見ていた時にはなんの感慨もなかったのですが、
この試作機が史上初めて一度のフライトにおける垂直着陸、
水平飛行での音速突破、そしてショート・テイクオフ、これらの
「ミッションX」を成功させた歴史的な功労機であることを知りました。

他の機体は他の航空博物館でも見られるものが多いですが、
これだけはここでしか見ることはできません。当たり前か。

ところでこの「STOVL」とは、

Short Take-Off and Vertical Landing aircraft、
短距離離陸垂直着陸機

のことであり、垂直離着陸機のVTOLとは、離陸時に短距離を滑走し、
着陸時に垂直着陸する、という違いがあります。

X-35Bの試験プログラムは2001年6月23日から2001年8月6日までと
歴史的に最も短い運用期間でしたが、そのわずかな期間に挙げた功績は
その後の航空史に貢献する最も偉大なものだった、といわれています。

X-35Bに搭載されていたエンジンも、ピカピカの状態でここにあります。

このエンジンは「リフトファン方式」を採用していました。
垂直機に使われてきたリフトエンジンの代わりに開発されたものです。

リフトファンから噴出される空気は熱を持たないので、
エアインテークからエンジンに熱い空気が入り込むのを防ぎます。

この時の「ミッションX」の飛行ではホバリング試験時、
エアインテークの温度は周囲の外気よりも3℃高かっただけでした。

X-35の機体には、採用されているエンジンF-119の

「プラット&ホイットニー」

のマークとロールスロイスのマークがありました。
このX-35で得た実験結果から生み出されたのが、あのF-35です。

 

続く。


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スキッパー(艦長)は眠らない〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-09-24 | 軍艦

前回、伝説の艦長ラリー・チェンバースについて話をしましたが、
今日はその艦長室からご案内します。


ブルーを基調というのは全世界の海軍の標準仕様。
ベッドの枠が真鍮なのと、サイズがクィーンという豪華なものです。
(微妙に艦隊司令室のより小さいところが海軍的年功序列)

足元のマットには燦然とマークがありますが、
自衛隊でも隊のマークをあしらったマットを見たことがあるので、
海軍的にはマークを踏むことはあまり問題にはならないようです。

壁には艦長とその家族の写真がいまだに飾られています。
どの艦長の写真かはわかりませんが、女性の服装と髪型から
1980年代ではないかと想像されます。

 

艦長のベッド、いかにも寝心地が良さそうですが、
実は空母にはこんな伝説?というか神話があるのです。

「艦長は寝ない」

いつ寝ているかわからない、ではなく艦長は本当に寝ないのだそうです。

我が海上自衛隊潜水艦の現役艦長とお話しした時、この
「艦長は寝ない」
という噂について伺ってみたところ、

「寝ないというより寝ていられません」

とおっしゃっていました。
一つの艦、総員の命を預かる責任者ともなると、
乗艦中は
気が張って一瞬たりとも緊張が解けないのに違いありません。

たとえ仮眠を取っても夢の中で艦を指揮しているのかもしれません。


ちなみに、空母におけるフライト・オペレーションの責任者で、
艦長と同位の
エアボスも、「寝ない」そうです。

特権階級の艦長室といえどもシャワー室しかないのがアメリカ式。
かろうじて洗面台はデコラの大理石風だったりしますが、
あとはパイプむき出しで艦位を示すペイントがあって何だか殺伐としています。

黄色いペイントはここが艦のどこに当たるのかを示す「地図」ですが、
これについてはまた後ほど詳しくお話しするとして、注目して欲しいのは
この最後に「HEAD104」とあることです。

なんども申し上げているようにヘッドとは海軍用語のトイレ。
このトイレの番号は104番です、と書いてあるのです。

えたことはなかったですが、空母にトイレはいくつくらいあるんでしょうね。


ところで、これもなんども書いていますが、日本人ほどお風呂フリークで
かつ「お湯に浸かる」ことを重視する国民はいないでしょう。

アメリカのバスはお湯を溜めてもほとんど真横に寝なければ全身が浸からず、
非常にフラストレーションのたまるものなのですが、そもそも
アメリカ人はお湯に浸かるということを基本しない民族なので、
一流ホテルでも普通にシャワーブースしかなかったり、
バスタブの栓がなくお湯が貯められなかったりはしょっちゅうです。

ちなみに今サンディエゴに滞在していますが、今の部屋
(去年来たと言ったらフロントの人がアップグレードしてくれた)
にも当たり前のようにシャワーしかありません。

ただ、こちらのお風呂には洗い場というものがないので、
結局お湯を落としてしまわなければ体を洗うことができず、
そんなのなら別に無くてもいいや、とわたしは割り切っています。


我が海上自衛隊自衛艦の特権階級である艦長室にも、特権として
艦長だけが使える一人用のバスタブが備えられているのですが、

「ゆっくり湯船につかったことなど一度もない」

と現役護衛艦艦長が証言しておられました。

世界で最も民主的な海軍である海上自衛隊には、従兵などいないので、
艦長もお風呂に入りたければ自分でお湯を入れるようですね。

艦長の「ポートキャビン」と書かれ、その説明として、

「ミッドウェイの艦長は、艦内でも
最も居心地のいい
艦上生活をエンジョイしていました。
独立したバス、書斎、そして特別応接室での食事は、
彼自身のためだけのギャレーで専用シェフが調理しました」

とあります。

まあ、その「エンジョイ」と差し引きしても決してお釣りが来ないほど
重い責任と重圧が、艦長一人の肩にのしかかっているわけですが。

ところでこの部分、ドアがまんま和風の引き戸なんですよ。

温泉旅館によくある外側の引き戸とか、うどん屋ののれんの内側とか・・・。
まさにあれと同じものがなぜか「ミッドウェイ」の艦長室の入り口に!

なんかここだけが人んちの玄関ぽくて、和むわー。

日本に配備されていた時代に現地施工者にやってもらったのかもしれません。

革張りのソファーに高い腰板をあしらったオーセンティックな応接室。
ソファの後ろの絵は・・・えーと、えふはちえふ?(小声で)

ホワイトドレスがガラスケース入りで飾ってありました。
おそらく大佐職である艦長かXO(副長)のものだと思われます。

XOはもちろん、空母艦長は航空出身なのでウィングマークをつけています。

ソファを挟んで反対側には対のようにブルードレスも飾ってありました。
おや、カウンターの向こうに誰か偉そうな人がいるぞ。

テーブルの向こうまで行くと急におじさん、喋り始めました。
どうも人が近づくとスイッチが入るセンサーが仕掛けてあるようです。

このカウンターの中にいる偉そうな人はラリー・エルンスト艦長。

若き日はトップガンで、なぜかハーバード大学にも行っており、
92年から3年の4月まで「ミッドウェイ」艦長を務めた・・・
ということは「ミッドウェイ」の最後の艦長ということになります。

Captain Larry L. Ernst of The USS Midway - The USS Midway Museum sits proudly in San Diego Bay

右向きに何か書いていたかと思うといきなりこちらを振り向いて「ミッドウェイ」の
艦長職について一言で言うと過酷な仕事である、というようなことを言っております。

これがなんかものすごくリアル。
どれくらいリアルかというと・・・、

シワとか産毛とか、首のイボまで再現されているんです。(襟の上)
これは本人的にどうなんだろうという気がしないでもありません。

とはいえラリー、若い時はなかなかかっこいいので、ぜひ見てあげてください。
その割にあだ名が「パピー」(子犬)って、可愛らしいじゃないですか。

Captain Larry L. Ernst 

このページの奥さんと娘たちの写真から、寝室の家族写真はエルンスト艦長のだとわかりました。

毎日の艦長の食事を作るギャレー。
たった一人のためのキッチンって、いくら空母でもすごいですね。

もちろん艦長がゲストを呼ぶときにはその分もここで賄うのでしょう。


ただし、艦長という職は決して「孤高の人」でばかりいるわけにいきません。
たまに天上界から下界、つまり兵員のギャレーにふらっと降りていき、
下々の連中と一緒に食事を取ることがあるのも前に書いた通り。

これは、シーマンの士気を高めるため、相互理解を深めるため、
そして彼らの食事の状況を自ら体験して把握するという目的で行われます。

もちろん前もって予告などないので(多分艦長がその気になれば行われる)
ふと見たら隣に艦長が!
みたいなことになるのですね。

しかしそこはアメリカ、こういうときにはどちらも弁えていて、
基本無礼講で話に花が咲いたりするそうです。

この「下々の連中との交流タイム」は初級士官にも半ば強制されていて、
時々彼らは報告も兼ねて水兵たちの食堂で食事を取るのですが、
若い士官はあくまでも「ノルマ」としてしろと言われているからしているので、
水兵たちと会話をするでもなく、報告のシートにあれこれとコメントを書いて
はい終わり、という事務的に終わらせることが多いそうです。

士官の方も、自分よりベテランの下士官に話しかけるのは気が重いでしょうし、
話しかけられた方の水兵の煩わしさを思うと遠慮してしまうのでしょう。

アメリカ海軍の(心理的)階級差というのは、もしかしたら
我が海上自衛隊より大きいものなのかもしれません。

食器棚の扉がガラスのスライド式で、お皿を留めるための
ストッパーらしいものもありませんが、こんなのであの
伝説の傾斜角(Tシャツができたという)を体験したとき
一枚も割れることはなかったのでしょうか。

お皿にはミックズベジタブルとポテトが乗せられ、今
調理員が料理しているメインを乗せれば出来上がりです。

ステーキソースが載っているので、多分お肉ですね。

と思ったらその近くにいきなり艦内監獄?のような扉が。

独房に収監されるための条件?は

脱柵」「上官への不敬罪」「窃盗」「暴行」(体罰含む)
そして

「AWOL」(Absent Without Official Leave )
公的な理由のない欠席、つまり船に乗り遅れる

となります。
収監されたらもれなく階級はBUST(バスト)、降格となります。

士官はブリッグスに入れられることはありませんが、その代わり監督者の元、
一挙一投足を監視されて区画から出られないという罰を受けます。

しかし、「ミッドウェイ」の本当のブリッグスはもっと下の方にありましたし、
これはもしかしたら高官待遇の収監者ってことは・・・。ないか(笑)

この写真があったのは、赤で矢印がある部分の甲板下になります。

実は「ミッドウェイ」の艦体は黄色い線の部分で連結されているのです。
この繋げている部分は「エクスパンション・ジョイント」というのですが、
このボードの左右には、ジョイントが走っているのが確認できます。

右側。床のラインがそのジョイント部分です。

左にも。
万が一の時にはここで艦体がポッキリと・・・となるわけですかい。


最後に余談ですが、「ミッドウェイ」艦長の仕事でもっとも粋だと思ったのは、
ペルシャ湾への任務で度々、

「今日は気象条件がいいからGreen Flashが見えるぞ。
手の空いているものはフライトデッキから観察することを勧める」

などと艦長自らアナウンスしたという話です。

Green Flashとは、太陽が水平線に沈む瞬間、ほんの一瞬
ピカーっと緑色を放つ現象で、よく見ていないとわかりませんが、
この時の航海では合計38回、これが観測できたそうです。

我が自衛隊の艦乗りの皆さんはGreen Flash、ご覧になったことはありますか?



続く。

 

 

 

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チェンバース艦長の決断〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-09-23 | 軍艦

 

空母「ミッドウェイ」の艦橋の真下に当たるデッキには、
「フラッグオフィサー」、つまり自分自身の指揮官旗を持つ
偉い人たちの居住区があります。

この指揮官旗というもの、海軍に入って艦隊勤務になれば、
自分一人のために揚げてもらえる訳で、最初にその配置になり、
自分のためにはためく旗を見ることは、軍人として

「俺もついにここまで来たか・・・」

としみじみするものらしいですね。
自衛隊でも同じことで、配置が変わり、旗が揚がったのを見て
感激した、という話をわたしは当の自衛官から聞いたことがあります。


あと「俺もついに」の感慨を起こさせるイベントというのは何でしょう。

自分のためにサイドパイプが「ホヒーホ〜〜」と吹かれたとき?

自分のために副官が配置されることになったとき?

艦内で一人部屋がもらえ、自分のためのお風呂があるのを見たとき?

色々ありましょうが、何と言っても海軍軍人がもっとも感慨深いのは
「艦長」(発音は艦↑長↓ではなく、艦→長→で)と呼ばれた日ではないでしょうか。

アメリカではご存知のように艦長は「キャプテン」あるいは「スキッパー」です。
いうまでもなくその船で絶対の最高権力者であり、
航海で起こり得るすべての責任者となります。

アメリカ海軍では「コマンディング・オフィサー」とかCOと言われることもあります。

艦長室も近いこの一角には、海兵隊員に守られるように、
歴代艦長の実に立派な写真コーナーが設置されています。

上段中央には、ここでもお話しした、ベトナムからの脱出劇、
歴史的に言うところの

「頻繁な風作戦」(オペレーション・フリークェント・ウィンド)

で「ミッドウェイ」上空に飛来したセスナに着艦許可を出した

「ローレンス・”ラリー”・チェンバース」艦長

がいます。

今回サンディエゴに行って「ミッドウェイ」を再訪し、
前回見残したところと、疑問だった部分などを
現地の説明も聞いて確認して来ましたので、今日はもう一度、
このベトナム戦争時に行われた民間人脱出作戦について、お話ししておきます。

脱出までの経緯については、当ブログですでにお話ししておりますので、
ご存知ない方はぜひそちらをお読みください。

四月のホワイトクリスマス〜空母ミッドウェイと「頻繁な風」作戦


当時「ミッドウェイ」にサイゴンから往復40分のフライトで
ヘリが次々に難民を輸送していました。
定員12名のヘリコプターから80名の難民が降りて来たこともあったそうです。

そのうち「ミッドウェイ」甲板には、ベトナム軍の飛行機が無許可で降り始めました。
救出劇が始まって、収容された難民の数は3000名を超えたそうです。

「ミッドウェイ」の艦長が救出の命令を受けたのは、
脱出が始まった4月29日の2:30のことでした。
空軍の飛行機はすでにサイゴンと「ミッドウェイ」を往復して、
脱出するアメリカ人とベトナム人をシャトル飛行で運んでいました。

もちろん「ミッドウェイ」の艦載機もこの搬送に加わり、
1000人以上の脱出者たちを運んで来ています。
不眠不休で働いていながら、水兵たちは自分の寝床を子供達に提供しましたし、
6000食が脱出して来た人たちに振舞われ、その時には
「ミッドウェイ」の医療施設は難民のためにフル稼働しました。

最初の日に甲板に降り立った人々に対し、乗員たちは簡単な審査を行い、
「ミッドウェイ」のゲストとしてできるだけ心地よくいられるよう心を砕きました。

特に、同じ年頃の子供を祖国に残しているクルーは、
ベトナム難民の子供たちに大変シンパシーを感じ、
心を動かされた様子だったといいます。

翌日4月30日。

難民たちを他の艦に移す前に、「ミッドウェイ」は新たな任務のために
その航路を西に向けました。

タイの沿岸沖に52名のベトナム人兵士を乗せたジェット機が
サイゴンから脱出する途中で海面に不時着していると知らせを受けたのです。

この任務に向かう途中にも、「ミッドウェイ」は漁船から84名を
救出してもう人員はオーバーもいいところでした。

しかし、「ミッドウェイ」はベトナム人たちを全員を掬い上げたのみならず、
彼らをグアムまで送り届けています。

こんな「思わぬ和解」もありました。

脱出が始まる前、左上の写真のように、
空母に着艦したことがない空軍のヘリパイロットなどは、
前もって着艦の練習をしてそれに備えました。

右下の写真は「ミッドウェイ」艦上でかつての呉越同舟、しかし
同じ困難に立ち向かう仲間として和気藹々の空軍&海軍のパイロットたち。

いうまでもありませんが、空軍と海軍航空隊は平和な時には犬猿の仲です。

 

かくのごとく難民とアメリカ国民が「ミッドウェイ」に運ばれ、
アメリカ大使館を守っていた海兵隊員が最後に「ミッドウェイ」に着艦した
その1時間後、大使館は北ベトナム軍によって占拠されました。

そこに現れたのがベトナム軍人ブワン軍曹と妻、六人の子供を乗せたセスナだったのです。

上空に飛来したセスナからは

「着陸許可をくれ。飛行機のガソリンはもう少ししか持たない」

と書かれた紙が落とされました。

南ベトナム空軍の士官は、ブワン軍曹のように自分の家族を
航空機で脱出させようとしましたが、侵攻してきた北ベトナム陸軍兵士に
殺害されるということもあったのです。

直ちにこれを許可した「ミッドウェイ」ではセスナを着陸させるための準備に入りました。
飛行機の進路に対し艦体を順行させ、艦上のヘリなどを海に投棄する大決断が行われたのです。

WestPac 1975 with Operation Frequent Wind

17:30くらいから、ヒューイを投棄するためにパイロットが海に飛び込み、
その直後機体がその真横に墜落するシーンが見られます。

パイロットですから自分の落下水面にヘリが落ちてこないように
ある程度コントロールしてから飛び込んだのだと思いますが、
ローターの長さもありますし、見ているだけで背筋が寒くなります。

 

セスナに着艦許可をためらいなく出し、甲板から何機ものヘリを捨てることを命じ、
そしてテールフックのついていない機体のために、艦首を風上に向けて
全速力で「ミッドウェイ」を航行させることを選んだのが、
チェンバース艦長と当時のエア・ボスでした。

歴史的な脱出作戦について語るチェンバース元艦長。

この容姿からは日本人にはあまりわかりませんが、チェンバースは
アフリカ系アメリカ人です。
海軍兵学校を卒業したアフリカ系アメリカ人は彼が二番目で、
のみならず、アフリカ系としては

● 初めて海軍空母部隊(VA-67)を指揮

● 初めて空母の艦長となる(ミッドウェイ)

● 初めて搭乗員出身の中将となる

● 初めて艦隊指揮官となる(第三艦隊)

という初めてづくしのレジェンド軍人でした。

そして当時の「ミッドウェイ」エアボス、ヴェーン・ジャンパー氏。

ビデオでは、二日目の脱出作戦の日に起きたセスナの着陸について
「ミッドウェイ」艦上で語っている映像が流れていました。

着艦を成功させた「ミッドウェイ」乗員の何人かは涙ぐんでいたそうです。

「アメリカン・ドリームが叶う」

というタイトルで、こう書いてあります。

避難民はその後グアムに移送され、それからカリフォルニア、アーカンサス、
ペンシルバニア、フロリダに設置されたキャンプにまず移住しました。

そこで彼らは英語を学習し、仕事ができるように技術を学び、
アメリカ合衆国の国民になるための準備を行いました。

最終的には13万人以上のベトナム人がアメリカ人となっています。

この写真は、難民としてアメリカに来たある大家族の現在。
白黒の写真は、アメリカに来てすぐ、キャンプで撮られた写真です。

今は全員がアメリカ市民となっています。

ちなみにこの家族の孫は、アメリカ空軍士官になりました。


最後にこの写真をご覧ください。

VIETNAM WAR HERO’S FLIGHT TO FREEDOM REMEMBERED

後ろのアロハがチェンバース、飛行機のコクピットにいるのが

家族を乗せてセスナを操縦していたブワン・リー軍曹、
二人の間にいるのはリーの妻で、あとは娘、息子と孫という写真。

リー氏ももちろんのこと、「フリークェント・ウィンド」のあと
アメリカに移住し、その家族はアメリカで根を生やしているのです。


「ミッドウェイ」の「オペレーション・フリークェント・ウィンド」の
展示コーナーでオーディオによる解説を聞くと、音声では
この時にセスナで「ミッドウェイ」に降り立った六人の子供のうちの一人、
アメリカ名「ステファニー」さんが、このセスナと再会した時のことを
こう語っています。

「わたしは飛行機の前から4時間、動くことができませんでした」

彼女は今、「ミッドウェイ」のボランティアとして、自分の経験を
見学者に語ることもあるそうです。


歴史的な決断が守った命、そして未来に繋がっていく命。

ブワンの子孫に囲まれたチェンバースは実に満足そうです。

チェンバースは英雄ですが、エアボスのジャンパー中佐や、エアクルーたち、
身を粉にして難民たちのために働いた水兵たち・・・。

「ミッドウェイ」乗員全員の力と意思があってこそ、あの歴史的な偉業を
成し遂げることができたことは、チェンバース自身が一番よく知っていたでしょう。


続く。


 

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海軍の街・サンディエゴを歩く その2

2018-09-21 | 軍艦

東海岸から西に移動し、サンディエゴの街を一人で楽しんでいます。

このホテルを選んだのは、ホテルグループのメンバーであるからけでなく
ウォーターフロントにあって「ミッドウェイ」まで歩いて行ける距離にあるから。

向かいの敷地は去年工事中でしたが、今年はもうホテルが完成して営業しています。

去年家族で夜、「ミッドウェイ」の電飾を眺めながらアイスクリームを食べた場所には
大きなソファと、炎のでるテーブルが新しく設置されていました。

table fire で検索すると、いろんな商品が出てきます。
前のホテルにもあったし、この一年で流行しているようですね。

さて、沿岸警備隊基地で折り返し、帰り道でこんなものを見てしまいました。

サンディエゴの海沿いには、携帯を持っていればスキャンして使える方式の
自転車や脚蹴り式スクーターが普通に置いてあります。
使用していないのでわかりませんが、時間が決まっていて、
それを過ぎたら動かなくなるとか言う仕組みなのでしょう。

まあ、自分のものにできないので盗っても意味がないのです。

ただ、押して動かすことだけはできるらしく、一度自分の荷物を載せて
自転車を押しているホームレスを見ましたし、こんな風に
重たいのをわざわざ持ち上げて使えなくしてしまう人も存在します。

こんな風に、ステーションでないところに放置する人もいるし・・。

ところで、控えめに写真を撮ったのでわかりにくいですが、
赤いシャツの人はベンチに座ったホームレスになにやらお説教してます。
横を通りかかったとき、

「That's the reason I told you so.」

と聴こえてきたのでそう思ったのですが、もう少し歩くと、
別のホームレスとこの人の連れらしい人が話しているのを見ました。

おそらく彼らはボランティア団体で、ホームレスの人たちに
シェルターに戻るように説得しにきたのではないかと思われました。

ところで、わたしがサンディエゴに滞在することにした理由は
「ミッドウェイ」だけでなく、ここから1時間ほど行ったところに
アメリカに住んでいた時代からの友人と会うためです。

彼女とその夫がサンクレメンテに2年前買ったという、
「海の見える丘の家」に始めてお邪魔してきました。

眺めを遮らないようにベランダの柵は透明です。

リタイアメントした人がこういうところに住みたがるらしく、
隣人のほとんどは老人で、前の住人も奥さんに先立たれ、
ホームに入ったため空きになったということでした。

「近所に、若いときNASAにいて、アポロ13の打ち上げに関わった、
っていうお爺さんがいるんだけど、とてもそんな風に見えない」

羨ましいと思うのはこういう家が普通の人にも買えること。

彼女とは夏アメリカに行くたびに会い、お互いの娘息子の話に始まって、
アメリカや日本の現状や政治問題にも話がおよび、いつも話題がつきませんが、
今回先ほどのホームレスが話題になりました。

「いくらシェルターを用意しても、出てきてしまう人が多いんだって」

「ドロップアウトした人には人間関係がわずらわしかったりするのかな」

彼女によるとサンフランシスコではホームレスが激増していて、
学校の通学路でドラッグをしていたりするそうです。
とはいえわたしも、そういう光景を17年前に都市部で見ましたけどね。

どうやって充電しているのか、携帯を持っている人もいるし、
彼女の妹はホームレスにコーヒーを買ってやったところ、

「人工甘味料じゃなくて砂糖にしてくれ、不味いから」

と言われて呆れた、という話をしていました。

ホームレスを「好きでやっている」人が増えたという感じです。

帰ろうとしたら、彼女の夫が会社から帰ってきました。

「すごい!ポルシェ買ったの?」

「うん・・休みの日は4時間くらいかけて洗車してる」

彼女の夫は日本でも有名なゲームを出している会社の
ビジュアルアーティストをしています。

理想の家に念願の車、22歳の時に移民してきたという彼の
夢(ドリーム)が今にして叶った、というところでしょうか。

さて、サンディエゴの散歩に戻ります。
前には気づかなかったフィギュアヘッドに注目してみました。
さすが映画でイギリス海軍の軍艦を演じただけあって、
女神は剣を持ち兜を身につけています。

こちら「スター・オブ・インディア」のフィギュアヘッド。
この女神もアラスカに行ったのでしょうか。

さて、埠頭の散歩はもう一日、今度は前回と逆に行くことにしました。

ホテルを出て左側、「ミッドウェイ」の方向に歩いていくと、
なんといきなり陸軍の迷彩服姿を目撃!

風景を撮るふりして写真を撮っていると、なおも二人登場。
これは・・・この辺りに軍施設があって出勤してきたんだな。

と思って彼らが歩いて行った方向を探してみると、ありました。
しかし陸軍じゃなくて海軍のオフィスが。

やっぱり海軍で連絡係をしたりする陸軍の人かしら。

「ミッドウェイ」を右手に見ながら歩いていきます。
向こうに見えているのは「セオドア・ルーズベルト」。

「ミッドウェイ」を通り過ぎてすぐ、左手にモニュメントが現れました。

十万にも及ぶ水兵たちが第二次世界大戦で海での戦いに赴いた

おそらくアメリカ合衆国がもっとも一丸となった出来事だったといえよう

これらの若きアメリカ国民は、それぞれの希望や願望を顧みず
家族も、故郷も、仕事も全て投げ捨てて彼らの祖国を守り、
彼らの信じるもののために自らを犠牲として戦った

USS「サンディエゴ」(CL53)の乗員は 
歴史的な困難において勝利を納めるために戦った
全ての人々をここに記憶する

モニュメントそのものは「サンディエゴ」の碑、となっています。

何枚かのパネルのように建てられた石碑には、そのうち1枚に
軽巡「サンディエゴ」のスペックと艦歴が記されています。

壁の4面には戦いに斃れた若い水兵たちの名前が刻まれていました。

地面には第二次世界大戦で戦場となった太平洋の戦場名が記されています。

コロナド側の対岸の眺め。
一番右は「カール・ヴィンソン」で、これはホテルからも見えましたが・・、

こちらまで歩いてきて初めて見えてきた給油艦は、
「ヘンリー・J・カイザー」級の14番艦、「グアタルーペ」

給油専門艦というのがさすがアメリカ海軍です。

あまり見たことがない給油パイプの配列なので拡大してみました。
なんでこんなにたくさんホースがあるんだろう。

「グアタルーペ」に艦尾を向けて繋留してあるのも給油艦で、
T-AO-202の「ユーコン」です。

ロック・バランシングというのはそれだけでアートになっています。
ここにあるのは素人のお遊びですが、プロになると
ものすごいバランスで石を積んでしまいます。

マイケル・グラブのロック・バランシング

海で亡くなった民間船船員たちの慰霊のために建てられた碑。

・・・・なんですが、なぜ部分的に濡れているのか。

「セオドア」の艦首がこんなに見えてくるところまで歩いてきました。

前方には朝もやでかすかに曇るコロナド・ブリッジが。
到着時飛行機から見た工廠はここをまっすぐ行ったところにあります。

 

遠目からもそのクリーム色の艦体で民間船だとわかります。
Dole atlantic という名前の通り、
バナナやパイナップルを作って売っている会社の所有コンテナ船ですね。

写真を撮ってから三日後の今、船の位置を調べてみると、
サンディエゴを出航してメキシコ沖を南下していました。

ドール・アトランティックはバハマ船籍です。

C-Tractor というのはタグボートだそうです。
日本の民間や海自のタグより大きいので調べるまでタグだと思いませんでした。

わーい!海軍の哨戒ヘリだ!
全く朝早くから(7時すぎ)ご苦労様なことであるのう。

我が海上自衛隊でも運用しているSH-60の米軍型「シーホーク」だと思われます。

今度は海軍の哨戒艇が現れました。
沿岸のパトロールは一人で行うようです。
どうでもいいけどものすごくラフな格好で任務を行うものですね。

沿岸でダイバー二人を使って何かしている船に近づいて
臨検・・・までいきませんが、チェックをしているようです。

特に問題はなかったようで、哨戒艇はすぐに離れていきました。
この後も観察していると、哨戒艇の乗員は時々虫網みたいなので
海面からしょっちゅう何かを拾い上げているのが見えました。

ゴミ拾いしているんじゃないとしたら、不審物検査かな。

ドールの船の手前で折り返し、帰ってくると
「ミッドウェイ」がこんな風に見えます。

水兵さんの頭に鳩が止まっていてなんかお間抜け(笑)
タイムズスクエアのキスの像は、正確には

「UNCONDITIONAL SURRENDER STATUE」(無条件降伏の像)

っていうんですよ。
誰か知らんがセンスのない名前をつけるものだと思いました。

「ミッドウェイ」の艦尾側は、できるだけ近くから見られるように
木製のデッキを後から増設したようです。
ここを歩いていて、朝日に照らされた「ミッドウェイ」の艦体が
激しくデコボコしているのに気がつきました。

まるで障子みたいですね。
補修していない部分は経年劣化でこうなってしまっているのでしょう。

さて、というわけでサンディエゴの海沿いを二日にわたって歩き、
海軍の街の眺めを堪能しました。

部屋に帰ってテレビを見ていたら、なんとあのトニー・ベネット大先生が、
ダイアナ・クラールと「Nice Work If You Can Get It」(上手くやれたら)を歌っていました。

トニー・ベネットってそういえばまだ生きてたのね。

最近はレディ・ガガやマイケル・ブーブレなど、実力派とデュエットすることで
いうてはなんですが年齢による声の衰えをカバーしてきた感があるベネット御大、
今回もダイアナとアルバムを出したのでテレビ出演となったようです。

正直この時のスタジオ生演奏も、声の質の残念な感じはぬぐえませんでした。
もちろん92歳と思えば立って歌ってるだけですごいんですけどね。

最後に。

「ジャパニーズ・ビリオネアが付き旅行を計画」というニュース。

ジャパニーズビリオネア、Maezawaとしか言わないので、
あとでネットのニュースを見るまでZOZOタウンの社長だとわかりませんでした。
実はZOZOタウンが何かもわたしはこの時まで知らなかったんですが。

スタジオでは

「どうですか?この話」

「いやー、夢があっていいですねー」

などと話し合っていましたが、かすかに呆れているような、
揶揄するような・・・・、何で稼いだか知らんがなんで今月旅行なのよ?
みたいな調子がが含まれているような気がしたのは
きっとわたしだけではないと思います。

 

 

 

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海軍の街・サンディエゴを歩く

2018-09-20 | アメリカ

東海岸での滞在を終わり、西海岸に移動しました。
息子の入学をアシストする仕事が終わったら実はもう用事はないのですが、
そこはそれ、せっかく行くのだから色々見学もしてきたいわたしとしては、
サンフランシスコの前に無理くりサンディエゴ訪問の予定を入れました。

アメリカ国内の移動、特に大陸横断は飛行機代が高いのですが、
幸い今回はユナイテッドのポイントだけで

ボストンーサンディエゴーサンフランシスコ

の移動代が皆まかなえてしまう上、カードのポイントが溜まって
去年泊まったミッドウェイ近くのホテルがそれもポイントで泊まれます。

今回も窓際の席を取ったので、これを見ることができました。
ネバダ砂漠の真ん中に作られた人口ファーム、センターピボットです。

なぜ丸いかというと、中心からスプリンクラーが時計の針のように回って
全体に散水しているからです。

地下水をくみ上げて砂漠に農地を作ってしまう、というのは、
誰が考えたかは知らないけど、さすがアメリカ人、という感じです。

一つの円が大きいもので直径1kmはあるらしいのですが、
おそらくこれらを管理しているのは一つの会社かまたは一つの農家。

拡大してよく見ると、円の外側に家があります。

日本の農家とは同じ農業とは思えないほどの違い。
たとえて言えば家内制手工業とプラントという感じでしょうか。

前に移動した時と同じフィヨルド?みたいな地域が見えました。

グランドキャニオンの少し北、ユタとアリゾナ州の州境にある
パウエル湖から出ている河の支線です。


全体的に赤いですが、「赤い河の谷間」という歌にも歌われた
「メサ」が連なっている地域だからです。

メサがあるこの地域に溜まった水はこのような湖の形を作り上げるのです。

ローガン空港を飛び立って6時間、西海岸に到着です。
サンフランシスコ空港近くの塩田が見えてきました。

夏場雨が少ないこの地域では長年この古来からの方法で塩を作っていますが、
蒸発の過程で、海水の塩分の濃度がだんだんと高くなってくると、
この手前のように緑からだんだん赤くなってくるのだそうです。

というわけでサンフランシスコに到着。
時間の関係で、サンディエゴに行くのにサンフランシスコで
乗り換えをしなければいけない便しかなかったのです。

窓から外を見ていると、脱出シュートみたいなものが
飛行機に乗り込むための移動しきゲートから出ているのに気がつきました。

まさか本当に非常時脱出用?

と思ったら、飛行機に載せる荷物をここに放り投げて滑り落としていました。
まじかよ。

アメリカの国内便は小さいので、手荷物でも乗り込む寸前に預けたりしますが、
まさか、パソコンの入ったトランクも、こんなことして積み込んでたの?

軽くショックを受けつつ、それでも投げ落としていたのが
(比喩表現ではなく本当に投げていた)数個だったので、
もしかしたらギリギリにきた人の荷物かもしれないと思い直しました。

そうであってくれ。

というわけでサンフランシスコを離陸。
本当の?雲の下に、サンフランシスコ名物にもなっている
霧を降らせる冷たい雲が二重に出ているところが見られました。

この雲の向こう側は太平洋となりますが、この地域はいつも
このようなクリームのような雲がかかっています。

サンフランシスコからサンディエゴまでは1時間半くらいで到着です。
海軍基地が見えてきました!

飛行機は空港を通り過ぎてから海軍基地を常に左に見るように旋回します。

画面上方に見えているのは、本土から海軍基地のある
コロナドに伸びている長い砂州で、これを右側に行くと基地です。

思いっきりズームしてみました。
自衛隊のヘリ搭載型護衛艦のようなのが2隻見えます。

苦労してアイランドの文字を読み取ってみたところ、
これらは強襲揚陸艦で、向こうから

LHA-6 「アメリカ」USS America

LHD-4 「ボクサー」USS Boxer

であることがかろうじてわかりました。
「アメリカ」は「アメリカ」型のネームシップ、
「ボクサー」は「ワスプ」級強襲揚陸艦の4番艦となります。

うおおおおこれは・・・・!
真ん中辺に見えるのって、これ、

サン・アントニオ級ドック型揚陸艦

なんじゃないですか?

こちらはドックで新造艦建造中と思われ。
一番右など、完璧に覆いで形をわからないようにしてあります。
確かに上空からは丸見えですので。

右から4隻目も「サン・アントニオ」級かな?
サンディエゴ基地には「サンディエゴ」以外に4隻も同級がいます。

飛行機は左に旋回し、滑走路へのアプローチを始めました。
最近までお話ししてきたサンディエゴ海事博物館の帆船や、
「ミッドウェイ」がこんな角度で見えます。

今回前半はヒルトン系のキッチン付きホテル、「ホームスイート」。
地名を「ホテルサークル」といって、今まで何もなかったところを
切り開いて各社ホテルを建て「ホテル村」となっている一角にあります。

ここもほぼ新築で、インテリアもセンスがいいし、ロビーラウンジには
ご覧のような中庭が繋がっていて、今流行りの「テーブルファイヤー」が楽しめます。

この大きなチェス盤は、たまーに真剣に勝負している人がいましたが、
ほとんどは子供の遊び場になっていました。

週2回くらいは「ソーシャルナイト」といって、ロビーラウンジで
ちょっとした食べ物屋飲み物が出されるのも共通。

こんなにお得感がありながら、5つ星の半額くらいのお値段で泊まれるのが
キッチン付きスイートのありがたいところです。

朝食付きも売り物ですが、どこに行っても所詮アメリカなので、
卵料理にポテト・ベーコン、パンケーキなどにフルーツ、ヨーグルトだけ。
野菜はなぜか絶対に出てきません。

三日後、去年泊まった「ミッドウェイ」近くのホテルに移動しました。
チェックインの時に、

「実は去年もこのホテルに泊まったんです」

と言うと、ウェルカムバック!といってアップグレードしてくれました。
カードのポイント利用で取ったホテルなのに、なんか申し訳ない。

「高層階と低いところとどっちがいい?」

と聞かれたので、

「ハイヤー・イズ・ベター!」

と言って15階にアサインしてもらいました。
窓からは「スター・オブ・インディア」と空港が見えます。

そして・・・・。

また逢いに来たよ、ミッドウェイ。

コロナドの岸壁には去年と同じ「カール・ヴィンソン」が。

その隣に「セオドア・ルーズベルト」がいるのも同じ。
艦体のあちらこちらに白い「バンデージ」をつけて修理中です。

次の朝。
6時に起きて外を見てみたら、埠頭沿いの道はたくさん人が歩いたり
自転車で通ったりするトレイルになっていたので、わたしも歩くことにしました。

アメリカについてから、毎日1万歩から多い時で2万歩歩いています。
航空博物館や買い物、モールに行くだけでもたくさん歩くことになるので、
アメリカに行くとわたしは体の調子がとてもよくなるのです。

景色のいい道が近くにないホテルでは、ジムのトレッドミルを利用します。

さすがサンディエゴは海軍の街だけあって、
GIフィルムフェスティバルなどと言うものを街ぐるみでやってしまう。

「スター・オブ・インディア」の帆が朝日を受けて。

こちらは映画「マスター・アンド・コマンダー」で使われた帆船。
後ろにはソ連の潜水艦もいます。

海事博物館の展示の中心となっている蒸気船「バークレー」で
弦楽四重奏の奏でるハイドンを聴きましょう、という企画。

カクテルも出るようです。
特等席は50ドルで、日本の感覚だとこれでも安いですが、
学生と軍人はなんと10ドル。

アメリカでは普通にミリタリーサービスに就いている人は優遇されていて、
例えば飛行機などでもプライオリティシートの前に搭乗することができます。

ここでもお話しした実験潜水艦「ドルフィン」には、

WORLD'S MOST DEEPEST SUBMARINE
(世界で最も深く潜水した潜水艦)

と看板がありました。

あれ?こんなのあったっけ・・・?
去年も一昨年も気づきませんでした。

PCF 816

PCFとは「パトロール・クラフト・ファースト」のことで、
ベトナム戦争で哨戒を行った時には「スウィフト・ボート」と呼ばれていました。

このボートは一度アメリカ海軍からマルタ海軍に貸与されていたのですが、
マルタからサンディエゴの博物館に寄贈されて今日に至ります。

PCF-816, Vietnam Riverine boat passes USS Ronald Reagan, Oiler, and pleasure craft on San Diego Bay.

かつてメコン川を哨戒していたボートが元気にサンディエゴ湾を航行しています。

 

さらに海沿いを歩いていきます。
この辺りには個人がヨットを繋留するヨットハーバーがあります。

ここは向かいのコロナドが防波堤の役目をするため、
全く波がない、ハーバーには最適の場所となっているのです。

ヨット越しに空母が見える、これがサンディエゴ。

歩いていくと、沿岸警備隊の飛行隊基地が現れます。
ゴミが散らかり放題ですが、この辺にはホームレスも多く、
彼らの生活の残渣がそこここに散乱しているのです。

気候が穏やかで街が豊かだと、当然のようにホームレスが集まってきて
観光地でも御構い無しに、いやだからこそ住み着いてしまうんですね。

緑のボックスに落書きをしたのも彼らだと思うのですが、

”UFCK”

ってなんだよ・・・(笑)
結構文盲の人も多いっていうからなあ・・・。

U.S. COAST GUARD SECTO SAN DIEGO

セクトって新左翼か?と思ったら、単にSECTORの「R」が
白く塗られていて見えなくなっているだけでした。

コーストガードは、所在地の前に「セクター」をつけて、
陸上のオペレーション基地を、

「コーストガード・セクター・サンフランシスコ」

などと称します。

何か有名なカッター(コーストガードの艦船)のスクリューかと思ったら、
横のプレートには非常にわかりにくい亀の甲文字で

「 SEMPER PARATUS ALWAYS READY」(常に備えあり)

という沿岸警備隊のモットーに挟まれて、
1790年に始まった歴史が200年目を迎えた1990年、
この間に沿岸警備隊で任務に就いた人々を讃えるために、
このモニュメントが作られた、と言うことが書いてありました。

 

わたしはこの日ここでちょうど30分歩いたので、折り返すことにして、
ホテルに帰り、この日は3度目になる「ミッドウェイ」見学に出かけました。

続く。



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陸軍指揮官の条件〜合衆国陸軍士官学校 ウェストポイント

2018-09-19 | アメリカ

アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントにはミュージアムがあって、
誰でも見学できるらしいということで見学を決めたわたしですが、
例によってそれ以外のことを全く調べずに現地に着いてみれば、
バスに乗って学内を見学するツァーがあるらしいとわかりました。

『合衆国ミリタリーアカデミーはあなたを歓迎します』という言葉が、
大々的に壁に刻まれているのが、このビジター・コントロールセンター。
立派なロビーにカウンターがあり、そこでは左のバナーにもある
「ウェストポイント・ツァー」を受け付けています。

「参加してみようか」「時間が合えばいいけど」

カウンターで聞いたところ、ツァーには一時間コースと一時間半コースがあり、
なんと15分後に一時間コースのツァーが出発するとのこと。

なんてラッキーなんでしょう。

一人12ドルくらいの(正確には忘れた)フィーを払って、出発まで
「The long gray line」 のエントランスから入るミュージアム
(これはいわゆるウェストポイントミュージアムとは違い最近できたもの)
の見学をして待ったというわけです。

ウェストポイントの歴史、士官候補生たちがどんな訓練を行なっているのか、
というようなことを体験的に知ってもらいましょう、というのがここの目的です。

創立から今日に至るまで、国防の軍を率いる指揮官を育成してきた
陸軍士官学校は「国の宝です」と言い切っています。

当たり前ですよね。

防人と彼らを育てる教育機関が国にとって宝であるのは当然です。

それが普通の国の考え方であることを、普通の国でない日本に住むものとして
こんな表現からもつい思わずにいられないのですが、それはともかく。


上段左から二番目の、

シルヴァナス・セイヤー(Sylvanus Thayer )1875-1872

は、陸軍士官学校の父というべき人です。
彼自身も陸士を出ていますが、ジェファーソン大統領の命により、
セイヤーが取り入れた教育方針や軍人になるための躾などが
彼の監督時代に体系化して現在もそれが受け継がれています。

防衛大学校もそうですが、士官学校では工学を重んじ、
教育のコアにエンジニアリング(土木含む)を据えています。

左から三番目の写真は建造途中のワシントン記念碑ですが、
これにも多くの陸軍士官学校卒業生が加わった、と書いてあります。


最初に起こった大きな戦争、南北戦争への参加をはじめとして、
世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、卒業生のステージは
常にアメリカが行なってきた戦争とともにありました。

ウェストポイントを訪れた内外からの賓客のサイン。
上から主な人物を書き出すと、

1842 チャールズ・ディケンズ

1860 イギリス国王エドワード七世 ウェールズ公

1872 日本使節団

1862 アブラハム・リンカーン

1863 ラルフ・エマーソン

1881 マーク・トゥエイン

1895 ウィンストン・チャーチル

1902 セオドア・ルーズベルト

1916 ウッドロー・ウィルソン

1872年の日本使節団は咸臨丸を連れて行ったあの全権団です。

 Japanese Embassy Delegation

の文字(上から五番目)は几帳面で美しく、
いかにも日本人の書いた文字だなと思わせます。

ところで冒頭にもあげたこの4本の柱は、ウェストポイントの
指揮官に必要なものが刻まれています。

まず「リーダーの資質」と上にあり、柱には左から

Academic (学術)

Military (軍事)

Physical(身体)

Character(人格)

それを土台で支えるのが、

Duty(義務)Honor(名誉)Country(祖国)

なるほど。

しかし言うては何ですが、これだけのことを言うのに、
こんな大掛かりな舞台装置みたいなのをわざわざ作るって・・・。

士官候補生を教育し、訓練し、啓発することで、ここを卒業した者が
Duty、Honor、Countryの価値を踏まえた指揮官の資質を備えること。
そして秀でた専門知識を備えたキャリアを育て、国家に奉仕する
アメリカ陸軍の将校となるための準備を行うこと。

下手な訳ですみませんが、これが陸軍士官学校の「ミッション」です。

右手を上げる仕草は、士官候補生が晴れて任官する際の誓い、
自衛隊でいうところの服務の宣誓とともに行います。

 

「私、〇〇は、米国憲法を支持し、国内外ののすべての敵から
米国憲法を守ることを誓い、それをここに厳粛に宣言(または肯定)します。

同じくそれに真摯であり忠誠を負い、なんらの心裡留保も
忌避の目的もなく、また対価を求めずその義務を果たし、
誠実かつ十分に、自らに与えられた任務を果たすことを誓います。

神よご加護を。」


これもなかなか下手な翻訳で失礼いたします。
陸軍士官学校のOath (宣誓)には、

「any mental reservation 」

「purpose of evasion」

という、自衛隊の宣誓でいうところの

「事に臨んでは危険を顧みず」「身を以て責務の完遂に努め」

に当たるところに、英語圏の者でないと少し理解しにくい、
この二つの言葉が使われています。

メンタル・リザーヴァションを「心裡留保」と訳してみましたが、
これは、

はっきりした疑いではないが、心の底から信じることを妨げる何か

というときに使われます。

芥川龍之介の自殺の理由みたいですね。

日本語で「一点の曇りもなく」とよく心情説明のときなどに言いますが、
この場合も"without" を伴って同じように翻訳するのが良かもしれません。


これを読んで思ったのは、自衛隊の宣誓はその対象が「国民」ですが、
こちらは「米国憲法」となっていることです。

かの国では国民と憲法は一義であり、日本のように乖離した存在ではないことを、
こんなことからも感じ取ってしまうのですが、それはともかく。

指揮官養成のためのシステムについての紹介です。

学術的にも肉体的にも、鍛錬され、錬成されてこそ指揮官、
ということで、徹底的に厳しい47ヶ月のプログラムが組まれています。

特に軍事演習については、状況判断と意思決定の能力と、
的確で私心のない命令を下せることに訓練はフォーカスされます。

「個の集まりは個より偉大である」

切磋琢磨と言いますが、共に学び刺激し合い、協力することで
より一層そのリーダーシップを強固に培うことができるのです。

どう行動し、どう振る舞い、どう真実を撰び取るか。
指揮官は部下と言葉と行動で意思疎通をはかり、
モラルと尊厳ある立ち居振る舞いで任務を果たさなくてはいけません。

指揮官の人格は陸軍の価値に直結し、部隊の士気に直結します。
そのため指揮官はしなやかで強靭な肉体を備えていなければなりません。

そして、柔軟性のある精神が的確な判断力と独創を生むのです。

「責任の重みを感じること」

いやー、なんというか、軍隊指揮官の養成というのは、
おそらく世界どこに行っても同じような言葉を使うものですね。
「指揮官の条件」というのは古今東西共通なのに違いありません。

学生は「学生隊」(Corps Of Catdets)を組織し、そして
シニア(最高学年)の優秀な生徒から隊長が選ばれます。

夏の野外訓練では小隊が組まれ、上級生が下級生を指導します。

そして指揮官としてのステージが上がると同時に責任も大きくなります。

陸軍士官学校の学生隊の階級について説明しています。

下から

1年 カデット・プライベート

2年 カデット・コーポラル

3年 カデット・サージャント

4年 カデット・オフィサー

どうも乱暴な進級ですね(笑)
各学年の呼ばれ方とその目標は、

1年 (プリーブ pliebe)チームメンバー ついていくことを学ぶ

2年 (イヤーリング yearling)リームリーダーになる 下級生の指導

3年 (カウ cow )リーダーシップスキルの向上とスタイルの洗練

4年 (ファースティ Firstie)士官として学生隊を指揮する 常に考え、創造せよ


「プリーブ」はそのものが陸士の1年生のことを指します。
「イヤーリング」は一般的に動物の1歳児のことです。

「カウ」は文字通り牛ですが、「イヤーリング」の牛が、
3年になってやっと大人になったということなのかもしれません。

まあ、大人になったと言っても牛なんですけどね。

「ファースティ」は「ファースト」から来ています。

海軍兵学校でも4年生が「1号生徒」だったでしょ?

卒業生の紹介コーナーです。

まず左、2006年に卒業した、ルカズ・デーダ君。

ニューヨークはクィーンズの出身で、ポーランドから10歳の時やって来た
移民の息子さんです。
彼はやはりウェストポイントに在学していた長兄を訪ねて
ここにやって来たとき、

「この場所に恋してしまった」

ということです。
なんか当ブログ的に親近感が湧きます。

専攻はドイツ語。
はてポーランドの人ってドイツを死ぬほど嫌ってると思ってたけど・・。
かつての敵を知る、という意味があるのかな。

彼は今航空士官として活躍しています。

 

右は女性、2007年卒のレネー・ファラーさん。

インディアナ州出身の彼女がウェストポイントに入ったのは、
9・11同時多発テロ事件がきっかけでした。

「世界にある悪くなっていく物事を自分の力で変えることができ、
その変える力の一部になりたいと思ったんです」

在学中は英語専攻、フェンシングをし、弦楽合奏団にも参加していたという彼女、
今では
陸軍の武器科にいるということです。

 

さて、次回はこの展示から、ウェストポイントの毎日についてお話しします。

 

 

 

 

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「長き灰色 (グレイ)の列」〜陸軍士官学校 ウェストポイント

2018-09-17 | アメリカ

予告編でもお伝えした通り、今回ウェストポイントに行ってきました。

ニューヨーク州の田舎にある航空博物館と、州都にあった駆逐艦
「スレーター」に行った勢いで、この際ウェストポイントにも行こう!
と我が家で唯一の免許保持者であるわたしが強く主張し実現したものです。

前にも言ったかと思いますが、日本はもちろんアメリカで
一家を乗せてハンドルを握るのはわたし。

運転が苦にならないタイプなので、代わってくれる人がいればなあ、
と思ったことは
全くありませんが、こういう体制でよかったと思うのは、
自分の行きたいところに人にお願いすることなく行けるということです。

もちろんうちのTOという人は、妻の行動を制限したり咎めたりはせず、
むしろわたしが探し出してくるミリ系観光に喜んで同行してくれるので、
一人の時も家族といる時もわたしの乗る車の行き先はわたしの意のままですが。

そんなわたしの家庭事情はどうでもよろしい。
というわけでこの日、車はニューヨーク州のハドソン川沿い、広大な敷地をもつ
U.S. ミリタリーアカデミー、通称ウェストポイントに向かいました。

ナビの通りにフリーウェイを降りたら、そこはなぜかこんな街。
街全体がゴミゴミしていて薄汚く、看板の半分以上がスペイン語。
どうもヒスパニック系のエリアのようです。

言いたくないけど、移民街というのはどこもどうしてこう、
荒れ放題のシャビーで汚らしい雰囲気になってしまうのでしょうか。

他人の国に来てその経済の恩恵にあずかろうとしているだけの移民は、
そのほとんどが、移民先の国家の文化へのなんの敬意も遠慮もなく、
住んでいるところに自国の貧しさからくる混沌を持ち込む。

もともとの住民は眉をひそめてそこから逃げ出し、より一層
「外国化」が彼らの住み着いた地域を蝕んでいく・・・・。

これはアメリカに限ったことではありません。
わたしは最近、
17年前に2年連続で訪れ、いずれもアパートを借りて
月単位で住んだパリの街が、路上生活をする移民のせいで
目を覆うばかりの惨状になっているのを見て心から悲しく思っています。

日本でもそういう地域がそろそろ出て来ているようですね。


それにしても、軍施設、特に士官学校のある地域というのがこれ?
と違和感を感じながら進んでいくと、ある瞬間から急にそこは
上品な雰囲気の漂う落ち着いた、しかし質実な街並みに変わりました。

そうそう、陸軍士官学校の近隣はこうでなければ、と頷きながらなおも進むと、
「ウェストポイント・ゴルフコース」という案内が山間部の道路に現れました。

地図で見るとわかりますが、ウェストポイントが所有している地域は
総面積64.9 ㎢ で、千代田区、港区、新宿区、渋谷区を足したより広いのです。
その中にはハドソン川や山林を含むとはいえ、これだけ面積があれば
そりゃゴルフコースが一つや二つあっても不思議ではありませんね。

というわけでウェストポイント正門に到着。
エイブラムス・ゲートと名前がついています。

ここに来る手前にそれらしい門があったので、入っていこうとしたら、
そこは陸軍の関係者の住居区か何からしく、警衛ボックスにいた一人の軍人さんが、
すわ!という感じでこちらを睨み据えているので、慌ててバックしました。

その表情から見て、おそらくウェストポイント見学に来た人が皆同じ間違いをして、
車で入って来るのに結構うんざりしているんではないかと思われました(笑)

そこからすぐ先に戦車がある正門を見つけたというわけです。

このゲートの「エイブラムス」というのは、

クレイトン・W・エイブラムス・ジュニア将軍(1914-1974)

の名前から取られています。
エイブラムス将軍は1936年陸士卒業、戦車大隊の指揮官を経て
最終的には陸軍参謀総長を務めた軍人でした。

わざわざ台座に「戦車に登ってはいけません」という注意書き。
いたんだろうなー、過去若気の至りでやらかした士官候補生が(笑)

エイブラムスの名誉は、第二次世界大戦の時のヨーロッパ戦線で
パットン将軍を刮目せしめるほどの優れた戦車隊の指揮によるものです。

彼は装甲と攻撃力に優れたドイツ軍の戦車隊を破り、

「バルジの英雄」

と讃えられました。

サンダーボルト、Thunderbolt VII、 M4 A3E8 シャーマン

第二次世界大戦中、エイブラムスが搭乗した最後の戦車だったそうです。

エイブラムス・ゲートから足を踏み入れると、ウェストポイント博物館が
このように威風堂々の佇まいをたたえ現れます。

一般人の見学はオールウェイズ・ウェルカム。
エイブラムス・ゲートは、むしろ広報のために解放されているという感じ。
「本当の」ウェストポイントへの入り口はこの先にあり、そこから先は
一般人は指定の見学バスに乗ってでないと入ることはできません。

しかしここもよく見ると「ビジターセンター」ではなく、

「ビジター・コントロール・センター」

であるのが、観光地ではなく軍の施設であることを物語っています。

ビジターコントロールセンターは入るとすぐロビーになっていて、
そこからは全面ガラス張りの窓を通してハドソン川が臨めます。

窓に近づいて下方を撮影してみました。
こんな小道も舗装して傾斜には階段と手すりをつける至れり尽くせりな感じ。

とにかくアメリカの教育機関の中で最高にお金がかかっているのが
各種士官学校であることは間違いありません。

ハドソン川を眺める窓際には歴史的経緯の説明が設置してあります。

ウェストポイントはかつてイギリス軍に対する防衛の拠点(ポイント)でした。
1780年に、ジョージ・ワシントンがここに設置した要塞が

「フォート・アーノルド」(のちのフォート・クリントン)

です。

そして1778年、完成したもっとも広い要塞、

「フォート・パットナム」(Fort Putnum)

の跡地が、現在の陸軍士官学校となります。

ここには、訪れた人々に陸軍士官学校の歴史と現在を紹介するための
ミュージアムがスクール・ショップと併設されています。

そのミュージアムのエントランスが、これ。

士官学校卒の五人の将軍の候補生時代の肖像が掲げられています。
左から、

ユリシーズ・グラント(1843年卒)

ここにいる人たちは全員元帥位まで昇進した陸士卒の軍人です。

グラントは南北戦争で北軍に勝利をもたらした司令官で、
アメリカ人なら「グラント将軍」を知らない者はいません。

面白いのが、グラントの元々のファーストネームは「ハイラム」なのですが、
陸士に提出するときに間違ってミドルネームがファーストネームで記載され、
本人はそれを気に入ってこちらで通したという話です。

確かに「ユリシーズ」の方がかっこいいよね。

我が日本の西郷従道が、明治政府の太政官記録係に名前を聞き間違えられ、
本名の

「隆興」=「りゅうこう」を「じゅうどう」=「従道」

にされてしまったのを気に入り、
それを本名にしてしまった話を思い出します。

グラントはのちに合衆国大統領となりましたが、政治家としては評価されておらず、
それどころか彼を「史上最低の大統領」に推す人も結構いるようです。

 

ジョン・ジョセフ・パーシング(1886年卒)

もっと正確にそのAKAを加えた名前を書くと、

ジョン・ジョゼフ・“ブラック・ジャック”・パーシング
(John Joseph "Black Jack" Pershing)

ブラック・ジャックとは手塚治虫の漫画の医師のことではなく、
法執行官が持っている棒のことです。

彼は「バッファロー大隊」の起源となった黒人ばかりの部隊を率い、
戦果を挙げていますが、士官学校で教鞭を取ったとき、
あまりにも学生に厳しいので、怖れられ嫌われると同時に、

「ニガー・ジャック」

と黒人部隊の指揮官だったことを揶揄するあだ名で呼ばれていました。
(人種差別が当たり前だった時代ですからこれは致し方なし)

その後、パーシングを取材した記者が、「ニガー」という言葉はあんまりだ、
と考えたのか、一応公的にはそう書くのが憚られたからか、あだ名を勝手に

「ブラック・ジャック」

に変えて報道し、こちらが歴史に残っているというわけです。


ダグラス・マッカーサー(1903年卒)

説明はいりませんね。
マッカーサーが若い時って、こんなにイケメンだったんだー!
とちょっとびっくりしてしまいました。

奇跡の一枚かもしれないと思い、他の写真も調べてみました。
やっぱり男前・・・だけでなく実にノーブルな面持ちの青年ですね。

これなんかもヘアスタイルが今風でいいじゃないですか?

ちなみにマッカーサーの陸士での成績はレジェンドともなっていて、
首席で入学し、全学年首席で通し首席で卒業という凄まじいものでした。
彼以上の成績を取った生徒は史上まだ二人しかいないそうです。

元帥になったからといってクラスヘッドばかりではなく、グラントなどは
どちらかというと後ろの方(人数も少なかったけど)だったそうですが。

ところで昭和天皇陛下と並んで撮った写真のあの人って、
本当にこの美青年の成れの果て?

うーむ、時の流れというのは人を変えるものだのう。

マッカーサーの母はいわゆる「ボミング・マザー」で、彼を溺愛し、
小さいときには女の子の格好をさせ、
ウェストポイントに入学したら
息子心配のあまり学校の中にある
(今でもある)ホテルに、
彼の卒業まで住んで彼を監視、じゃなくて見守っていたそうで、
このため、
彼は

「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」

とからかわれることになったということです。
すごいなこのカーチャン。


ドワイト・デイビッド・アイゼンハワー(1915年卒)

昔「将軍アイク」というテレビドラマがあったそうです。

平時に16年も少佐のままだったパッとしないアイゼンハワーの軍歴は、
第二次世界大戦がはじまり、連合国の最高司令官になったことから、
わずか5年3ヶ月の間に大佐、准将、少将(同じ年に)中将、そして
大将に続いて元帥にまで昇進するという、アメリカ陸軍史上、
空前のスピード昇進記録を打ち立ててこちらもレジェンドとなっています。

その後彼が合衆国大統領になったのもご存知の通り。

ちなみにアイゼンハワーは原爆の使用には絶対反対の立場で、
トルーマンにも強硬に反対を進言していたそうです。


オマール・ネルソン・ブラッドレー(1915年卒)

この人誰だっけ?とわたしが思った唯一の一人。
卒業年がアイゼンハワーと同じで、つまりこのクラスは二人元帥を出しており、

「星が降りかかったクラス」”the class the stars fell on"

とまで言われたそうです。

歩兵出身の彼はヨーロッパ戦線で野戦部隊を率いて「マーケット・ガーデン作戦」
「バルジ作戦」などを戦いました。


さて、エントランスの写真をもう一度見てください。
五人の元帥の上部に、士官学校の帽子が見えますね?

そう、卒業式のこの瞬間の白い帽子を表現しているのです。
そして、肖像の下の

「THE LONG GRAY LINE」

は、ウェストポイント・アカデミーの変わることないグレイの制服に
身を包んだ、過去から現在に連なる卒業生たちの列を表します。

 

というか、この制服、ブルーじゃなくてグレーだったのか・・・。


次回はこのセンターのなかにあった展示についてご紹介します。

 

続く。

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真珠湾攻撃を見た水上機〜スミソニアン航空宇宙博物館

2018-09-16 | 航空機

SR-71、ブラックバードを観てから、わたしは正面から見て右手の
緩やかな傾斜になっているデッキを歩いていきました。

手前から紹介していきます。

リパブリック F-105D サンダーチーフ

どこかで見たような気がするのですが、初めてかもしれません。
F-105は超音速の爆撃戦闘機としてデザインされたもので、
核あるいはそれ以外の爆弾を搭載することができました。

いわゆる全天候型の機体で、モノパルスとドップラーの両方のレーダーを
夜間、または悪天候の時のオペレーションのために装備していました。

ウェポンベイは基本核爆弾を運ぶために密封され、
密着型の燃料タンクを装備していました。

(通常の飛行機は空中給油を想定した燃料タンクを持っている)
爆弾は機体にマウントされたウェポンラックや翼のパイロンに牽引されます。

F-105が初飛行したのは1959年で、610機が製作されました。

ここにある機体は、1967年のベトナム戦争時代に製作され、
タイのコラットに配備されていた空軍基地第388戦略戦闘機隊、
第42戦略戦闘部隊の所属でした。

サンダーチーフ、Thunderchiefはその最初の綴りから、『Thud』
(サッド、ドスンと落ちるという意味。擬音)と呼ばれました。

「ローリングサンダー」作戦

「スティール・タイガー」作戦

「バレル・ロール」作戦

などの「コンバット・ツァー」に参加し、その後は
コロンビア地区のナショナルガード空軍に所属していましたが、
1981年に当博物館に譲渡されたものです。

SA-2 ガイドラインミサイル

てっきりサンダーチーフが運んだことがあったのかと思ったら、
なぜかソ連のミサイルなんだそうです。

ソ連ではこれをDvina (ドヴィナー)と呼んでおり、SA−2は
NATOのコードネームで、SAは”surface-to-air”のことです。

ちなみに、ドヴィナーは1960年、アメリカの

U-2 ドラゴンレディ

というスパイ偵察用の飛行機を撃墜したことがあります。
その時U-2のパイロットだった

フランシス・ゲイリー・パワーズ大尉

はソ連に拘束され、その後人質交換で帰国しています。

この記事を読んで驚いたのは、スパイとして拘束された時、

「パワーズ大尉は自決するべきだった」

(CIAから自決用の薬も渡されていた)という世論が
アメリカ社会に起こり、それはいまだにあるらしいということです。

アメリカ人って人命尊重が第一なので、そういう精神論はないと思ってました。
いや、精神論というより、機密を漏らしたことがいかんかったんでしょうけど。

ちなみにU-2は今でもバリバリの現役で、ISILの掃討作戦にも参加してます。

ベル AH-1F コブラ

とってもよく見慣れた機体を見てつい懐かしさを覚えるのだった。
というか、日本では富士重工業がライセンス生産しているので、
コブラの製造元がベル・エアクラフトだと改めて知ると新鮮です。

これがあのヒューイからの派生形であることもここで初めて知りました。

コブラは、初めてガンシップを目的に生産されたヘリコプターで、
1967年、南ベトナムでデビューして以来、AH-64アパッチに置き換えられる
80、90年代まで陸軍の攻撃機として君臨しました。

今でも海兵隊ではコブラの発展バージョンを運用している他、
世界の様々な国で使われています。

ええ、そこはよく存じ上げておりますですよ。

コブラは1993−4年、ソマリアに展開した陸軍第10山岳部隊、
タスクフォース・レイブンでも使用されました。

これも陸自でおなじみ、

ベル UH-1H イロコイ

ヒューイの愛称で知られるイロコイがデビューしたのは1956年、
H-13メディバックに置き換えられることが決まってからのことです。

20世紀が終わるまでに、ベルは他の軍用機を圧倒する数
(1万6千機以上)のヒューイを生産しています。

現地の説明には

「ただしB-24コンソリデーテッドのぞく」

と書いてありました。
派生型も含めてB-24は1万8千機以上作られていますから。


ヒューイは空中機動力にたいへん優れ、救難任務に活躍し、
ベトナム戦争といえばヒューイ、ヒューイといえばベトナム戦争、
という具合に、ある意味ベトナムのシンボルでもありました。

特に1966年から1970年までの間におけるベトナム戦争で
傑出した働きを挙げた出動はそれこそ数え切れないほどでした。

本体に書かれている『スモーク・シップ』の字は、強襲作戦の煙幕の中でも
このイロコイが難なくミッションを果たしたことを意味しています。

ツインローターの海兵隊のヘリコプターは

ボーイング -バートル CH-46E シーナイト

型番から想像するに、CH-47の前の形ですね。(←得意げ)
これを主要攻撃ヘリとして運用していた海兵隊では
『Phrog』(プローグ?)と呼ばれていたそうです。

運用が開始されたのは1966年。
海兵隊の「殴り込み」的任務に最高に適したヘリと言われ、
その後も、ほぼすべての主要な米軍の任務、災害救援に始まって
大きなミッションとしては大使館人員の避難などにも使われました。

ここに展示されているヘリの独特な緑色は、(カーキではない)
引退する前年度に参加したベトナムでの特別任務の際施されたのと
同じ歴史的なペイントをそのまま再現しています。

このミッションで、ヘリ部隊はネイビークロスを授与される働きをしました。

またプローグは、2004年にアフガニスタン、2007年から2009年にかけては
イラクでの最も激しい戦闘の時期にも参戦しています。

ところで、この列の端に、一際目を引くボロボロの水上機がありました。
ほぼ全ての航空機が、歴史的な意味を持つバージョンに塗装されている
このスミソニアン航空博物館で、一種異様な空気を放っています。

シコルスキーJRS-1

写真ではこれでもそうでもないですが、実際に目にすると、
おどろおどろしいその姿からは「呪いの飛行機」という言葉さえ
ふと脳裏をかすめるような・・・。

それにしても、どうしてスミソニアンはこの飛行機を全くレストアせず
そのままの姿で展示しているのでしょうか。

スミソニアンのHPを検索すると、一応スミソニアンではこの飛行機を
2014年現在で将来修復させるつもりをしていることがわかりました。

Museum technician Patrick Robinson talks about restoration plans
for the Sikorsky JRS-1 in the Mary Baker Engen Restoration Hangar
during the Udvar-Hazy Center's 10th Anniversary Open House on January 25, 2014.

なので、今はあくまでも「仮の姿」なのだと思われます。
しかしもう4年も経っているのに、作業が始まっている様子もないなあ・・。

まるで障子紙のようにベラベラに破れまくっています。

「呪いの飛行機」という言葉が浮かんだのですが、
この飛行機には
因縁らしいものがあるといえばあります。

実はこの水上機、あの1941年12月7日にハワイ州パールハーバーにいました。

スミソニアン博物館のあまたの航空機の中で、JRS-1は、
真珠湾を「目撃」した唯一の存在なのです。

真珠湾攻撃が始まったとき、このJRS-1は海軍基地にいました。
未曾有の攻撃を受けた海軍は、直ちに無事だった非武装の飛行機に
敵の艦隊を捜索するために出動を命じています。
その一機が、このJRS-1(1937-1944年使用)だったのです。

民間機にシコルスキーS-43「ベイビー・クリッパー」がありますが、
これはその軍用バージョンです。

真珠湾当時、当機は非常にカラフルな塗装を施されていました。

機体のほとんどはシルバー、底部は黒、尾部の表面はグリーン、
そして胴体後方には周りに赤い帯が巻かれており、そして
操縦席の側にダイヤモンド形の飛行隊の記章が描かれていたそうです。

真珠湾攻撃の数日後、「非常時」に突入したということで、
地上員はカラフルな塗装を青で塗りつぶして目立たなくしました。

しかし、ここにある機体をよく見ると、表面の青が風化して
元の塗料が透けて見えます。 

JRS-1がこのようになってしまったのは、長年、
外部に放置しておいたことによる劣化だそうです。

先ほども書いたように、スミソニアン博物館は飛行機の保全と復旧を
今後予定しているようですが、飛行機というのは放置しておくとこうなります、
ということがある意味ものすごくよくわかるので、
これはこのままで置いておいたほうが展示としてよろしいのでは・・・。
いかんいかん、廃墟好きの血が騒いでしまった(笑)

ちなみに、上に貼り付けたwikiには、ここのJRS-1の写真とともに

「スティーブン・F・ウドバー・ハジー・センターでの復興中のシコルスキーJRS-1」

として、こんな写真が載っていますが、

このわたしが、2018年9月現在、全く作業に取り掛かる様子もなく
ボロボロのまま展示されていたことを力強く宣言しておきます。

・・・もしかしたらご予算の関係かなあ。

 

続く。

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ラジオ受信解析センター〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-09-15 | 軍艦

 

それまでのCICに、防空を目的にコンピュータによる情報処理能力を
搭載したのが、この頃「ミッドウェイ」に導入された

「ネイビー・タクティカル・データ・システム」

でした。

艦隊司令部が配置されていた艦橋真下のハンガーデッキ階には、
このNTDSを始め、(艦ではなく)艦隊の頭脳部分となる施設が
集まっているというわけです。

冒頭写真にも赤で「制限区域」という札が見えますが、
乗員であっても関係者以外立ち入りを禁止されているのがこの区域。

まずこの画面右側の前面にインストールされているのは

NAVMACS 
Naval Modular Automated Communications System

海軍モジュール式自動通信システムです。

船舶同士、または船舶と陸の間の通信を処理します。
また、船舶内のさまざまな場所にあるターミナルやワークステーションと
やりとりすることができます。

最初にNTDSが導入されることになった時、試作品として、あの
シーモア・クレイが発明したコンピュータの使用が検討されました。

最初に搭載されたコンピュータシステム、

AN/USQ-20(UNIVAC CP-642)

は、「たかつき」「たちかぜ」型、「しらね」型にも搭載されています。

ここに搭載されているのはその何世代か後になる

AN/UYK-20 Data Processor

で、1970年代に普及した小型タイプとなります。
技術者たちはこれを「Yuck=ヤック20」と呼んでいたとか。

気持ち悪いものなどを見たとき、アメリカ人は頻繁に

” Yuck! "(おえー、とかゲー、とかうえー、とか)

と言いますが、UYKを無理やりそう読ませる何かがあったのでしょうか。

部屋のこちら側にあった非常ベルのようなもの。
各ベルからパイプがあちらこちらに伸びていて、伝声管のようになっているのかな。

右側から

AN/USQ-60 データ中継セット

AN/USH-26 録音再生セット

AN/USQ-61 データ中継セット

といったコンソールの並びとなっています。

今となってはレトロな当時の最新鋭コンピュータ機器の数々。

ひな壇のようなコンソールからは紙に印刷されたデータが
随時プリントアウトされて出てくる仕組みになっています。

ロール紙が黄ばんでまだ残っている部分もありますが、
最後にここから情報が取られたのはいつのことだったのでしょうか。

各ロールをちぎる部分には、

CLEANED UP TO AND INCLUDING TOP SECRET

トップシークレットを含め、情報を残さないように、
としつこくしつこく何枚もテプラが貼ってあります。

一番右のコンソールは

TT-192C/UG

で、(こんな型番日本にいながら瞬時に調べられる時代・・・)
アメリカン・テレフォン・アンド・カンパニー(今のAT&T)製の

Reperforator, Teletypewriter

「レペーフォネーター」というのはテレタイプ伝送のための
受信穿孔(せんこう)機のことです。

と言われても何のことですか?という人が(わたし含め)多いと思いますが
この頃コンピュータの情報を記録するためには、自動パンチ機で

テープに穴をあけて情報を打ち込んでいたのです。

ここには「テレタイプライター」とあるので、コンピュータ以前の
テレタイプ受信穿孔機のことだと思われます。

1970年代のSFアニメなどでコンピュータが作動している場面には
オープンリールデータレコーダと共にテープが描かれていたものです。

ちなみに、穴あきのテープを見るだけで当時のコンピュータ技師は
だいたい何が書かれているかわかったそうです。

現在紙テープは規格のものが販売されていますが、記録媒体としては
使われませんし、これからも使われることもないでしょう。

テレタイプでしゃオペレータがタイプしたメッセージは
紙テープに格納され、その紙テープを使って送信されます。

通信速度は75WPMで、一般に1つの75WPMの回線に対して、
3人かそれ以上のオペレータがオフラインで作業していたと言います。

また、受信局で受信したメッセージも紙テープに鑽孔されるので、
それを使って別の局に中継することも可能。

読み取るのもコンピュータで、コンピュータは最高で
毎秒1000文字の速度で紙テープを読み取ることができました。

ただし、この媒体が「紙」であるということは結構な問題で、
テープの巻き戻しの際引き裂いてしまう危険がありましたし、
データが大きすぎると物理的にテープには記録が不可能です。

紙なのでちぎれたり擦り切れたりすれば全て、
あるいは一部が読み取れなくなる可能性もありました。

ただし、同時期の磁気テープは磁気に影響を受けやすく、
確実に経年劣化し、そうなるとデータは取り出せなくなるので、
紙の質によっては紙テープの方が耐久性はあったのです。

逆に紙は廃棄しやすいことも、暗号などに使われた理由でした。

先ほどの向かい側の壁にはほぼ同じコンソールが並びます。
一番左にある

TT-333A/UG

もテレタイプの機器でした。

ちなみに、当時の乗員の証言によれば、これらの機器のある部屋は
人間様より機械を大事にする観点から、夏場に冷房が入っていて、
そうでないところで働く者たちの羨望の的だったそうです。

CY-4516 A/S CABINET ELECTRONIC EQUIPMENT

が壁のように立ち並んでおります。
ここ全体を

「ラジオ・メッセージング・プロセッシング・センター」と言います。

海軍は大変広範囲の通信を無線ネットワークに頼って行います。
この部屋ではそのメッセージを受け取り、処理して各部署に伝達します。

メッセージの派出はラジオ・テレタイプを使って行われ、
受け取る方はそれを穿孔機で記録していました。

 ところで、MARS (Military Auxiliary Radio System)
補助軍用無線システム、というものがアメリカにはあります。

軍の活動に理解のあるアマチュア無線の資格を保持する民間人が
艦船や沿岸などで非常時、緊急時に通信を協力して行うシステムで、
ここミッドウェイには現在も MARSのステーションがあるのだそうです。

ミッドウェイのモールス信号デモンストレーターです。

ここには「MORSE CODE」とあるので、一瞬それが
「モールス」ということに気づかず『?』となってしまいました。

サミュエル・フェンレイ・ブリース・モールスはアメリカ人なので、
「モース」と英語圏では発音しているわけですが、当時の日本人が
律儀に「R」を発音することにしたので、こうなってしまったのです。

ここでは体験型展示として、コンポーネントを解放し、実際に
モールス信号を打たせてくれる企画なども
あるようですが、
この時は人手がないせいか、ケースで覆われたままでした。

皆が勝手に触ると壊してしまうからかもしれません。

ある通信士の思い出から。

「しばらく航海していると、通信を傍受しただけで、
誰が打電しているかわかってくるんだよ。
なぜかって、通信士には打電の癖みたいなのがあって、
コードを送るのにも一人一人違うスタイルだからさ」

こちらはテレタイプのオペレーター。

「現役時代、僕はモールス信号は覚えなかったね。
なぜって、テレタイプライターはモールス信号のトンツー
(dits and dahs)
をテキストに替えて
プリントアウトされたものを受け取っていたから」

トンツーのことを英語でdits and dahsというんですね。

モールス信号は "dots=・" と "dashes=ー"を使うのですが、
ドッツよりディッツアンダースの方が言い易いのでこうなったのかな。

日本で「ドッツ」がトン、「ダッシュ」がツーで「トンツー」です。

 「私たちはまるで電話会社のそれのようなスィッチボードを使って、
メッセージの送受信を行っていました」

「1日に何百ものメッセージを受け取るために、我々は
艦の周波数がその時々に応じて正しくチューニンングされているかどうかを
いつも確かめることが必要でした」

テレタイプライターを打っている皆さん。

「コードをタイプするより早く読むことが僕は得意だったんだ。
ただし時々夢の中でもコードが出てきたよ」

今では全く必要のなくなった技術であり、彼らの努力も今では
コンピュータの発展によって過去のものになりました。

しかし、この時にはこれが確かに「最先端の通信技術」であり
これ以上ない最善の方法でもあったのです。

 

 

続く。


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東海岸の軍事博物館見学予告編

2018-09-13 | アメリカ

さて、息子が大学に残って夫婦二人になってから、東海岸近辺の
めぼしいミリタリー系博物館に行きまくりました。

それらについては、今後時間をかけて観たものをじっくりと
ここでお話ししていくわけですが、今日は東海岸でどんなところに行き、
何を観てきたか、予告編を兼ねてざっとご紹介します。

まず、ニューヨーク州北部にあるエンパイアステート航空博物館
地元の空港に併設された航空博物館で、全く期待していなかったのですが、
屋内の博物館展示も、外側の飛行機展示もなかなかの充実でした。

なんとびっくり、博物館内にはこんなものもありました。
巨大な「赤城」の模型です。

これについてもまた詳しくお話ししますので、乞うご期待。

実は・・・こんなところにも行ってしまったのだった。
当ブログ的には先にアナポリスに行きたかったのですが(笑)

というわけで、アメリカ合衆国陸軍士官学校、ウェストポイントです。

ちょうど学内ツァーの時間に間に合い、バスで学内を観ることができました。

ツァーではかつてイギリスの艦隊を防ぐため、ハドソン川に渡した
いわゆる「チェーン」と、そのチェーンを渡したポイントを見ながら
解説を受けることができます。

この鎖の一部はコーストガード・アカデミーにもあったので、
そちらを見学した時に書いたことがありましたよね。

未来の陸軍士官たちのピチピチした生の姿を垣間見ることもできました。

学内ツァーが終わってからウェストポイントミュージアムも見学。

日本軍の武器や制服、降伏調印式のサイン入り実物もここにあります。

昼ごはんを食べ損なったので、士官候補生御用達のマクドナルドへ。
ここの大きな星条旗も半旗になっていました。

とにかくこの地方は日差しが厳しくて蒸し暑かったです。
こんなところで候補生たちは大変だなあ・・と心から同情しました。

まあ、それをいうなら我が自衛隊の士官養成のための厳しい訓練も、
日本というとんでもない暑い国で行われているわけですがね。

おそらく日本では全く知られていないと思われる軍事遺産、
駆逐艦「スレーター」の見学にも行きました。

ニューヨークの州都アルバニーのハドソン川沿いに係留展示されています。

TOが帰ることになり、出発前ローガンのヒルトンに一泊しました。
ヒルトンにはフィギュアヘッドがロビーに飾ってあります。

最後の夜を懐かしのオールドボストンで過ごすことにしました。

ハーヴァード・スクエアは、夜になって一層人が集まってくるようです。
いつ来てもストリートミュージシャンの演奏がありますが、
ここで演奏するにはオーディションを受けないといけないそうです。

ここ出身で有名になったミュージシャンも多数。

TOが本を買いたいというのでザ・クープに来ました。
ここも懐かしいなあ。
実店舗の本屋がAmazonに押されて姿を消しているアメリカですが、
ここだけは今後も決して無くならないでしょう。

階段を上ったところにはティールームになっています。

ブランソープ・スクウェアには人がいっぱい。
ボストンはこの頃昼間暑いですが、夜になると爽やかです。

わたしたちがこの日夕ご飯を食べたのは、画面左の二階にある、
インド料理「マハラジャ」。

ボストンに住んでいた時、TOの同級生だったインド出身の
ラマナンドさん夫妻に初めて連れて来てもらいました。
あれからもう17年経つのに、変わらず盛況です。

サラダとチキンコルマ一つを二人で食べてちょうどでした。

マハラジャからの眺め。
アメリカの古い街並が夜になってクリーム色の街灯に照らされる様子は
胸が締め付けられるくらい美しく、懐かしい感じがします。

向かいにはジェラート屋さんができていて、アイス好きのアメリカ人が
夜にも関わらず詰め掛けていました。
この日は日曜だったせいで、夜ですが子供も結構います。

お父さんがコーンを食べているのを見ている子供の顔が・・・(笑)

わたしたちより先にこの近くのメディカルスクールに留学した友人が、
色々とボストンでの学生生活をレクチャーしてくれたことがあります。
その彼が

「あそこはいかにもニューイングランド、って感じで好きだった」

と言っていたスターバックスが、ここ。
ちょっとエドワード・ホッパーみたいです。

TOを空港で見送り、わたしは一人になって、
毎年来ているいつものホテルに投宿し、いつもの公園に歩きに来ました。

この日はレイバーデイの次の日で、レイバーデイに休めなかった人が、
休みが取れたのでバーベキューをしようと支度をしていました。

レイバーデイは「勤労感謝の日」ですが、そんな日にも
働かないといけないサービス業の人たちはいるわけで・・。

わたしが朝歩きにくる時間にはほぼ人はいません。
たまにすれ違う人とは必ず挨拶をします。

ここアメリカで挨拶をすることは、相手にとって自分が危険ではない、
と知らせる意味もあるのだと聞いたことがあります。
特にこんな人の少ないところでは必要かもしれません。

車を停めたところから約一時間歩いて、この堤防の上の
一本道を通って帰ってくるという、もう何年も歩いている同じコースです。

一人になってすぐ、ふらっとバトルシップコーブにやって来ました。

中には入らず、外から眺めるだけ。
どれも、皆さんに詳しくお話しして来た艦船です。

USS「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」。

戦艦「マサチューセッツ」と「ライオンフィッシュ」。

「ライオンフィッシュ」の横にはソ連で建造された「ヒデンゼー」
その流転の人生についてはぜひ当ブログ記事をお読みください。

「ケネディ」が一番かっこよく見える場所から。

そういえば一眼レフでバトルシップコーブを撮るのは初めてだった・・。
「マサチューセッツ」をハリネズミのように守る砲の列。

こんな遠くからでも「ライオンフィッシュ」にペイントされた
日の丸と旭日旗がくっきり写ります。

ところで、インターネット時代になって?改めて検索してみたら、
今まで毎夏来ていた所にミリタリーミュージアムがあるのを知りました。

ここが結構今回の目玉というか、面白いものを見ることができました。

第二次世界大戦博物館、という名前の通り、その時代のアメリカ、日本、
ソ連、ドイツのものを集めて展示してあります。

これらについてもそのうちお話しさせていただきますので、
どうかよろしくお付き合いください。


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リメンバリング9/ 11〜ボストンニュース雑感

2018-09-12 | アメリカ

息子の入寮を無事に見届けた後も、わたしは元気で東海岸にいます。

いるついでに調べておいたミリタリー系の博物館に行ったり、
いつもの場所で散歩したり、買い物したりしています。

今いるボストン郊外は、3日前まで昼間は日差しが強く、
日向にいると苦痛なくらい暑かったのですが、2日前の夕方、
こちらの言い方で言う「猫やら犬やらが降ってくる」ほど強い雨が
雷を伴って振って以来、いきなり秋になってしまいました。

昨日は昼前から1日雨が振っていて、気温は14度。
二日までの服がもう着られなくなるのでは?と思うくらい寒かったのに、
今日は日差しが復活して途端にまた蒸し暑い天気が復活。

寒い時にはコートを着ている人もいますが、次の日はノースリーブ。
アメリカ人に「衣替え」の習慣はないのに違いありません。


さて、こちらではネタ探し(笑)とニュースがどう報じられているのか
チェックするために、部屋にいるときにはテレビを流しっぱなしにして、
画面を写真に撮ったりしているのですが、今日はそれをご紹介します。

まず、大坂なおみ選手の全米オープン優勝での事件。
日本ではどう報じられてますか?

画像は、無敵の女王の自分が小娘に歯が立たなかったのでヒステリーを起こし、
それを審判のせいにしただけでなく、後から「セクシズムへの抗議」にすり替えて
殊勝な顔でコメントするセリーナ・ウィリアムズ選手。(だってそうでしょー?)

感情を爆発させてやりすぎ、聴衆を味方につけて場を無茶苦茶にしておいて、
後から尤もらしい言い訳をするなんて、傲慢以外のなにものでもありません。

この人が誰かチェックするのを忘れましたが、

「このオーサカと言う若い女性は、彼女の研鑽の結果を発揮した瞬間を
いわば盗まれたのと同じようなことになってしまったんです」

としてセリーナを激しく非難していました。
(これはセリーナが審判を『泥棒』と罵ったこととかけている)
審判への非難を性差別にすり替えたのも、ダブルスタンダードだ、
ともいっていました。

CBSはセリーナを擁護している、と言う日本のネットの噂も見ましたが、
少なくともわたしが見た限り、コメントを言う立場の人は
なべてセリーナに厳しく、試合当日の夜これを報じたキャスターは

「彼女も、ナオミにブーイングした彼女のファンも、
テニスというスポーツにもっと敬意を払うべきだ」

ときっぱり言い切っておりました。

後から知ったのですが、大会主催者も、これは我々が望む結果ではなかった、
みたいなことを言ったらしいです・・・これ酷すぎない?

夢叶って憧れの選手と決勝戦、四大大会の一つで優勝し夢を果たしたのに、
誰も自分の勝利を讃えてくれないどころか四面楚歌。
これじゃ二十歳の彼女が泣いてしまっても仕方ないと思います。

ところで、表彰式でナオミに観客がブーイングすると、いきなりいい人ぶって(笑)
皆にブーイングをやめるようにと叫ぶセリーナってなんなの一体。

こんなことになったのはそもそも誰のせいなんでしょうか。

「彼女は悪くない」

と言ったらしいですが、そもそもあなたの苛立ちは当初若い選手に向けられてたでしょ?

この言い訳くさいセクシズムへの抗議へのすり替えについては、大坂選手が
もしハイチ人と日本人とのハーフでなかったから、もっと強力な、

「人種差別」カードが使えたのに残念だったね、という辛辣な意見さえあります。

違和感があったのは、どこの局も、セリーナのラケットを折った映像ばかりを流し、
大坂なおみ選手の圧倒的だった試合運びについては全く触れずにいることです。

ペナルティがなくてもおそらく彼女の勝利は動かなかっただろうということも言及なし。

聞いていた限り、大阪選手が日本人であることに特に言及した局もゼロでした。
日本だと、おそらくお愛想でも勝者の健闘を讃えるような言辞が
誰かから出るものだと思いますが、なんだか不思議な感じです。

まあ、あれだな、アメリカ人としては本心ではセリーナに勝ってほしかったのね。


わたしがアメリカに行く直前、ジョン・マケイン議員が亡くなりました。

アメリカに到着すると、街のそこここの国旗が全て半旗になっており、
しかも約1ヶ月くらいはそのままになっていたと記憶します。
アメリカにとってのマケイン議員がいかに大きな存在だったかを知りました。

CNNなどは民主党寄りをほぼ公言していて、トランプを親の仇のように報じますが、
流石にマケイン議員に対しては丁重な扱いだったように思います。

ベトナム戦争で捕虜になり、自殺を試みるほど酷い拷問から生還した
マケインは右左関係なくアメリカの英雄なのです。

全ての海軍艦艇が艦尾の国籍旗を半旗にしていたそうです。
横須賀の第七艦隊でも同じようにしてマケインに弔意を表していたはず。

この時に番組に出てマケイン氏の思い出を語っていた政治家は、
海軍兵学校でマケイン氏と同期だったということです。
話しているうちに、目に光るものがあったのが印象的でした。

 

海軍といえばですね。

昨日、ついに?「ラストシップ」の最終シーズンが始まりました。

作業をしながら横目で観ていたところによると、米海軍艦隊、
フリート・ウィークつまり一般公開の時に敵機来襲があり、
チャンドラー艦長の艦もズタズタにやられてしまっていました。

散々だった1日が済んで鎮魂の喇叭が演奏されています。
喇叭手の軍服もボロボロです。

Huluで早く続きが観たい・・。

ところでこれを制作しているのは9月11日、そう、セプテンバーイレブンです。
テレビでは、事故の時間に行われているトレードセンタービル跡での
慰霊式での様子を中継しながら、当日の映像を流し続けています。

実はわたしは明日西海岸に移動することになっており、当初
カード会社は9月11日のフライトを提案してくれていたのですが、
事故当日、ボストンからサンフランシスコへの便がハイジャックされた、
ということを思い出してなんとなく一日ずらしてもらいました。

縁起が悪いとかそういうことではなく、空港もその日は
何となくいつも通りではないのではないかと思われたからです。

映像を司会するスタジオの女性アナウンサーが、

「わたしの祖父もパールハーバーで亡くなっている」

と言い出したときにはあんた何言い出すの?と思いましたが。
言っとくがなあ、真珠湾攻撃は「テロリズム」じゃないんだぜ!

昔WTCの跡地グラウンドゼロに瓦礫が残っている状態の時
見に行ったことがありますが、ご存知の通りその跡地は
現在慰霊のモニュメントがあるだけになっています。

国旗の先頭に立つ音楽隊はバグパイプ。

音楽隊はニューヨークのファイアデパートメントと、
ニューヨーク警察の合同メンバーで構成されていました。

事故の後、現場に飛び込んでいった多くの消防士と警察官が
ビルの倒壊に巻き込まれて殉職しています。

国旗を敬礼で見送るのは警察と消防士たち。

左の女性警察官は、911で父親を亡くしています。
この若さから見て、幼いときに殉職した父と同じ道を目指したのだと思われます。

遺族が自分の家族と、その他の犠牲者の名前を読み上げています。
右側の少女はおそらく事故当時赤ちゃんだったのではないでしょうか。

ペンタゴンでもシャンクスビル(飛行機の墜落したところ)でも、
同じような慰霊式が行われています。

ところで、遺族が読み上げた犠牲者に日本人の名前があったのですが、
同時に字幕をタイプする人には聴き取れなかったらしく、
どこの国の人だよ?みたいな妙な綴りになってしまっていました。

ペンタゴンでは海軍の喇叭手が「ラストシップ」と同じく鎮魂の譜を奏で、
純白の軍服に身を包んだ海軍のコーラス隊が、「ゴッド・ブレス・アメリカ」を
ハーモニーも荘重にアカペラで歌い上げました。


今日一日、アメリカの全国民が一つの事件を想い、こうべを垂れ、
17年前の今日失われた三千人以上の犠牲者(いまだに正確な犠牲者数は
特定できていない)の魂のために祈りを捧げます。

おそらく今日、アメリカは星条旗を半旗にしてその弔意を表すでしょう。




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X線機械と非破壊検査機器〜メア・アイランド海軍博物館

2018-09-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

メア・アイランド海軍工廠跡にある博物館には、工廠にあった器具や
そこで扱った艦艇などの装備品などが、アトランダムに展示されています。

見ていてあまり面白いとは思えないのですが、それが案外たくさんあって、
かなりの展示室のスペースを占めていたりするので、ここはひとつ
全く説明できないのを顧みずご紹介しておこうと思います。

 

Statifuxというのは、非破壊検査を行うための溶剤で、
原子炉や付属品などのピンホールを発見するためのものです。

表面にガラス加工を施したものは、機械的または熱的ストレスを受けた場合、
目視検査またはスパーク試験では検出できない小さな破損が生じることがあります。

Statifluxは、目に見えないほど小さな欠損部分を、表面にスプレーすると
それだけで見つけ出すことができます。

これが吹き付けるためのガンで、後ろに見えている筋の入った物質は、
目に見えない傷がスプレーした粉によって浮き上がったところです、

原子炉の様な、少しの傷も許されない容器に対し、訓練を受けた技術者は、
現場に行ってStatifluxのテストと分析を行っていました。

訓練用、とありますが、この機器はオシロスコープと思われます。(説明なし)

オシロスコープとはオシレーションという電気の振動を視覚化させ、
画像で見ることができ、その用途は主に電気系統の故障を解析したり、
回路の解析を行って誤動作の原因を探ることです。

このタイプはアナログで、ストアージという拡張機能を備えていて、
通常のオシロスコープでは1秒以内に減衰するトレースパターンを、
数分以上スクリーンに残すことができたと思われます。

左側に並んでいるのは、チューブでカバーされたコイルです。

X線のユニットです。
奥のブルーのケースは鉛の線、手前は鉛の数字。
おそらくX線を撮影するときに認識のために一緒に撮影する
数字の形をした鉛なのだと思われます。

手前は撮影フィルムのカセット、その向こうは鉛の脚台で、
いずれもレントゲン撮影に必要な道具です。

FAXITRONというのは現在キャビネット型のX線機器製造を専門とする会社で、
会社設立は1960年となっていますが、HPによると、
「FAXITRON」という会社名の起源は物理学者のジョセフ・ヘンダーソン博士が
それ以前に発明したこのキャビネット型X線から取られています。

現在同社は乳癌を対象にした医療機器メーカーとして
デジタルX線システムや生検のツールなどを開発しています。

このシステムの画期的だったのは、フィルムに現像することなく、
検査箇所の画像をリアルタイムで見ることができたところでした。

昔の医療機器というのは(当時のステレオもそうですが)どうしてこう、
木目にこだわるのか、と思いませんか。

これは

 KODAK  FILM PROSESSOR "B"

X線のフィルムの現像は手でやると50分はかかりますが、
この機械だと15分前後しかかりません。
ちなみに机の下にあるブルーと白の機械も現像器です。

フィリップスの

NORELCO 

というX線機器です。
フィリップスはオランダの企業ですが、舶来ものの好きだったうちの父が
ドイツ製品とこのフィリップスの信奉者だったため、
なぜかうちにあるアイロンはこのフィリップス製です。

独立したときに家にあるのを持ってきたのですが、
不気味なくらい頑丈でいまだに一度も故障したことがありません。

それはともかく、このX線の機器は150キロボルトの高圧で、
狭いスペースでも使用できるようになっています。

ちなみに今フィリップスのノレルコ、で検索すると、
男性髭剃り器が出てきます。

こちらもオシロスコープだとおもいます。
BRANSONの縦長型は、デスクの上において使える設計。

ブランソン社は現在エマーソン・ブランソンと名前を変え、
測定機器の幅を腐食や圧力、ガスなどの測定、
ワイヤレスインフラに広げています。

ドイツのKRAUTKRAMER社の超音波ユニット。
(バッテリー駆動なので)延長コードをプラグに繋がなくても良くなりました。

これがアメリカで生産された初めてのバッテリー超音波ユニットで、
スペリー社(現在ユニシスの一部)とブランソン社がが製作しました。

これも超音波機器です。
病気(シックネス)の診断ではなくThickness、つまり
壁や艦体などの検査を行う専用の超音波検査器です。誰うま。

いずれも小型で、検査する人が現場に持ち運びできる大きさです。

こちらもブランソン製品。
超音波の瑕疵検査器です。

メア・アイランド海軍工廠では手持ちの材料でフレームを作って
簡単に持ち運びできるように工夫していました。

ブランソン社の関係者がメア・アイランドに視察にきて、
この工夫を自社製品に取り入れたという話があります。

この土管のようなものも超音波検査器です。

Blacklight inspectionといって、これで材料表面の開口欠陥(クラック)と
表面直下の欠陥を探し出す非破壊検査を行うことができます。

磁粉探傷検査といい、磁化させた材料に蛍光磁粉を含んだ検査液を掛け、
ブラックライト(紫外線灯)を当てると、もしクラックがあれば
磁粉模様が形成されるのでわかる、というわけです。

ちなみにこれが現代の磁粉探傷検査機械。
輪っかのところで材料を磁化させます。
ここにある機械との共通点が全くないのですが・・・。

軽量型のX線検査器です。

ここはドライドック。
まさにこの検査器で艦船(多分潜水艦)の外殻の検査をしているところです。

機械からのばした延長コードで検査チューブの先端を外殻に設置しています。

雰囲気を出すために額を飾っているのではなく、これは
X線で撮影した花です。

花びらが透き通って写るので実に幻想的な写真になります。
日本では「レントゲンフォト」などという呼び方があるようで、
X線フォト専門のアーティスト、なんていうのもいるようです。

部屋全体が写るように写真を撮ってみました。
昔の海軍工廠は、煉瓦造りで窓もフランス窓だったりします。

床はコンクリート。
よく見るとドアの下には隙間があるし、寒さの厳しい地方なら
いくら工場でも労働者には大変辛い環境ですが、
ここメア・アイランドはサンフランシスコの北にあり、
霧の出ないサンフランシスコのような感じで、夏は寒く冬は少し寒い、
といった1年間の気温変化があまりない気候です。
労働者はおそらく一年中同じような格好をして働いていたと思われます。

そう、この写真に写っているおじさんのような・・・・。

 

ところで、ここにこれだけの各種破壊検査、
超音波検査機器がある理由は、ここが海軍工廠だったからで、
例えばこのおじさんがやっているように、艦艇の外殻などに対し、
非破壊検査の必要が日常的にあったからです。

ちなみにこのおじさんは潜水艦の船殻に使用される
I-ビーム(I型鋼)の検査をしているところです。

 

さて、一応検査機器関係のご紹介は全部すみましたが、
個人的にあまり興味のない分野なので不承不承?始めたところ、
案外面白くて調べるうちに少しは検査なるものの概要がわかりました。

この頃に製品を作っていた会社は、そのほとんどが現在も健在で、
今はその発展した形の機器を扱っているというのもちょっと感動しました。

やっぱり技術を扱う企業というのは息が長いものですね。

 

 

続く。

 

 

 

 

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