ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

戦場のメリークリスマス

2011-06-28 | 映画

いつもと違うタッチで、ヨノイ大尉にジャック・セリアズがキスをするシーンを描いてみました。
実は最初いつものようにカラーで、4割仕上げたとき、突然画面が機能停止で消えてしまいましてね。
こういうときはゼロから同じことを繰り返す気にならないものです(よね)。
そこでいっそ全く趣向を変えてスケッチ風で仕上げることにしました。
手作業で斜線をかけて画面を覆い、色ヌキとシャドウで陰影をつけています。

何だって27年前のこの映画を今頃取り上げているのかというと、
今ボストンにいるのですが、たまたまこのDVDを見つけたのでちょっと嬉しくなって買ってみたのです。

何年かぶりに今回「字幕無し、日本語部分のみ英語字幕」で観たわけですが、
昔一度観たとき感じたことを思い出しました。
「日本語にも字幕が欲しい・・・・」
そう、今回思ったことは
「英語にも字幕が欲しい・・・・」

それにしても凄い映画です。
だって、主役級に演技の上手い役者が一人もいないんですよ。
そもそも演技どころか、主役陣のうち上から三人が俳優じゃないんですから。

辛うじてローレンス役のトム・コンティが演技らしきことをしていますが、ただしこの人の日本語(通訳の役)
何を言っているのか全く分からない。
のみならず、坂本龍一の日本語が何を言っているのか分からない。
昔観たときも「こんなにぼそぼそしゃべる帝国軍人がいるか!」と突っ込んでしまいました。
今回日本語に英語字幕がついていたので、初めてこの二人の不可解な日本語が聞き取れたようなものですが、
今度は、字幕の無い坂本教授の英語は何を言っているのか全く分からなかったという・・・。

どちらで観るにしても全編字幕が必要な映画です。

こういった点でこの映画を名作と呼ぶのには若干躊躇われるにもかかわらず、
この映画の予告を見たとき、「この映画、観たい!」とときめきにも似た興奮を感じたものです。
その大きな理由はこの、今から思うとキワモノとも言える力技キャスティングの効果だったように思います。

そしてあえて褒め称えるならば極限に近い大根役者を使ってここまで魅力的な題材をまとめ上げることができたのはひとえに監督大島渚の力量と言えるのかもしれません。

先日「紙谷悦子の青春」という映画について
「戦闘シーンの無い戦争映画」と言われていることを書いたのですが、
この映画は
「戦場を舞台にし、出演人物が将兵であるが戦争映画ではない」ということができるかと思います。

ではどういったジャンルの映画なのか。

ウィキペディアでは武士道や階級意識、信仰心、友情、軍やイギリスの学校生活における苛め、
そして

後期の大島作品に底流する「異常状況のなかで形作られる高雅な性愛」というテーマも、
日英の登場人物らのホモセクシュアルな感情として(婉曲的ながら)描写されている。


などと、そのテーマについて語っているのですが、

そうですか~?

この映画、婉曲も何も、ずばりそのものでホモセクシャルがテーマでしょう?
昔観たときここまでとは思っていなかったのですが、今回観てこれは紛れもなく今の言葉で言う
「ボーイズ・ラブ」ジャンルだと確信しました。

日本では「ラストシーンのたけしの表情の素晴らしさ」「音楽の素晴らしさ」などが映画の付加価値に、
やたら高尚かつ芸術的な深い意味を持たせて評価されていた向きがありますが、
イギリスで日本公開の3カ月後この映画が公開されたとき、英国のその筋の方々は騒然となったそうです。

彼らの目には「ミシマ風味の耽美的ホモセクシャル映画」と解釈されたようで、
まあ、さっくり言うとこちらの評価の方が核心をついていたといっても良いのではないでしょうか。
夏目漱石の「こころ」が海外ではホモセクシャル小説としてカテゴライズされる、という話を思い出しますね。
ヨノイ大尉が部下と真剣での稽古をし、事後言葉少なにいたわり合う、などというサービスシーン?もあり。
(余談ですが、このDVDと一緒に三島由紀夫の『憂国』も買いました。感想はまた別の日に)


映画冒頭のエピソードというのが、朝鮮人軍属のカネモトの起こした事件。
カネモトはオランダ人捕虜の独房に忍び込んで彼を犯し、その罪で切腹斬首に処されます。
かれが「アイゴー!」と叫んで首を刎ねられる瞬間、
なんとその被害者であるはずの捕虜、デ・ヨンは舌を噛み切って後を追い「心中」します。

これが映画全体のテーマに対する伏線と言わずして何と言うのでしょうか。

次のシーンがジャック・セリアズ(デビッド・ボウイ)の裁判で、セリアズの美貌に心奪われるヨノイ大尉。
デビッド・ボウイが美貌であることに異論をはさむものではないのですが、この人、何と言いましょうか、
「口元が惜しい」と思います。
歯並びのせいでしょうか、妙にここだけ崩れていて、失礼ながらそこはかとない下流の匂いがし、
回想シーンの名門校の制服姿が何かの冗談のように見えてしまっています。
高校生を演じるには年齢的にも少し無理があったようですし。

まあしかしこれも、ストイックな日本軍人のヨノイ大尉がセリアズに堕天使のような妖しいフェロモンを感じた、
という解釈ができるので、このキャスティングは大いに成功していると言えましょう。
そして、ウィキには「反抗的な態度に悩ませられながらも次第に魅かれていく」なんてありますが、

そうですか~?

「次第に」どころか、一目観たとたんヨノイ大尉、激しく動揺していますよ。

この後の彼の主に武道によって自分を律しようとする不自然な努力は
「帝国軍人でありながら敵捕虜の美貌に魅かれてしまったことを認めたくないがためのもの」で、
ヨノイ大尉の部下(三上寛)が「あいつが大尉の心をかき乱すのを見ていられない」
という理由でセリアズを殺そうとし、失敗して自決するのも、
この部下が実はヨノイを愛していたということでしょう?

そして、セリアズが公衆の面前でヨノイを抱きしめキスをしたのは(本日画像)、
かれがヨノイ大尉の自分に対する気持ちを知っていたが故の行動。
ヨノイは「セリアズに自分の気持ちを見抜かれていた」ことに逆上して一瞬気絶したということでしょう?

原作、ロレンス・ヴァン・デル・ポストMerry Christmas Mr. Lawrenceを読んだことがあります。
作者のジャワにある日本軍捕虜収容所での体験がベースにされている内容だということです。

戦犯裁判でひと束の金髪を懐に持っていたヨノイはそれを
「私が会った、最も尊敬する英国軍人の遺髪である」と言ったと書かれています。
そして、ヨノイがセリアズの処刑に踏み切ったのも、
(映画ではヨノイは更迭され後任将校が処刑する)
「日本人は軍人でなくても人前でキスされるなどということは恥と考えているから」と解釈しています。
大島監督はこのどこまで真実であったか分からないエピソードをヨノイ大尉の心情に踏み込んで創作し、
この映画の重要なテーマの一つに大胆に肉付けして絡めたのではないでしょうか。


試写会の時にたけしと坂本龍一の二人は自分たちの演技の酷さに唖然とし、
映画がこけることを願い隙があったらフィルムを盗んで焼いてしまおうとさえ言いあったということですが、
元々この二人は最初からキャスティングされていたわけではありませんでした。

なんと、当初ヨノイ大尉役には沢田研二
そしてなんと、ハラ兵曹役には勝新太郎

オファーされていたというのです。
どちらもがスケジュールを合わせることができなかったため決まらなかったというのですが、
想像してみてください。

デビッド・ボウイにキスされる沢田研二。
「メリークリスマス、ミスターローレンス」とニコニコする勝新太郎。

どうですか?
まず上は全く違和感ありませんね。
この「沢田研二に旧軍軍人をやらせるつもり」だった、という当初の計画から考えても、
ヨノイ大尉にはいわゆる軍人らしさや演技力など全く要求されていなかったらしいということが分かります。
しかし見るからにストイックな坂本龍一の方が沢田―ボウイのいかにも『危険な二人』より対比を際立たせ、
結果としては良かったのではないでしょうか。

そして(勝新太郎のアップのエンディングも、これはこれで観てみたかったとは思いますが)
映画史に残る、あまりに印象的なたけしのアップを生むことになった、という意味で、
この大抜擢はその後映画の道に進んだたけしにとって、
そしてキタノ作品を得た映画史にとって、僥倖ともいえる分水嶺だったわけです。

坂本教授は懲りもせず、この後ベルトルッチの「ラストエンペラー」にまたもや軍人役で出ちゃっています。
満映の経営にも当たり、実質上の満州の支配をしていたに等しいとされる甘粕正彦という役どころ。
(ここでの甘粕の描き方はあまりに一面的だと思いますがその話はまたいずれ)
演技はともかくこのひと、陸軍軍人役が妙に似合うんですよねー。
あのストイックなのにどこか隠微な感じが。
因みに海軍軍人姿を想像してみましたが、全くできませんでした。

これは世界の共通認識らしく、ましてや日本語の上手下手などわからない外人監督から見れば、
稚拙な演技も何のそのということで、この抜擢となったようです。
しかし、いずれの映画も演技は全く評価されず、
その代わりに音楽がまるで嫌がらせのように?評価が高く、
これも「世界の坂本龍一」の人生にとって
「あなたは余計なことに色気出さず音楽に邁進しなさい」という、
ある意味ありがたい啓示となったのではないでしょうか。(←失礼?)


というわけで総評としては、名作ではないが決して凡作にあらず、
不思議に魅力のある映画であると言えましょう。

・・・・・が、それにしても、ヨノイ大尉のあの妙なメイク。
沢田研二ならともかく坂本龍一のあの顔にどうしても必要だったのでしょうか?

 



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林谷忠中尉の恋人

2011-06-25 | 海軍

林谷忠海軍大尉。海軍兵学校67期。
昭和17年8月8日 ツラギ在泊敵船団雷撃陸攻隊掩護中敵と交戦、戦死。


ラバウルの台南空の写真には、笹井中尉とともにこの林谷中尉が
大きな体をいつも右に傾けるようにして写っています。
昭和17年6月30日、台南空の分隊長になり、同じ日に分隊長になった笹井中尉に先駆けて
ガダルカナルで散華しました。


「大空のサムライ」には、抜擢されて分隊長になり、自信がないとうなだれる笹井中尉を
坂井三郎氏が手を取り励ました、というドラマティックなエピソードがあります。
桟橋で脚を夜光虫の光る海につけて語り合うシーンが実に感動的なのですが・・・・
最近、このエピソードの真偽も眉唾に思えてきました。

・・というのは、この林谷中尉も同日付で台南空の分隊長に昇進しているわけですね。
これは実際には、中島大佐や小園飛行長が機械的に
「上の者がいなくなったから67期分隊士が分隊長に昇進」
と割り振っただけ、という気配が濃厚。

昭和17年の初頭に、台南空は若尾晃大尉(1月)、浅井正雄大尉(2月)を相次いで失っています。

小園大佐が坂井さんに
「まだ役不足だが仕方ない。手を貸してやってくれ」
というのであれば、当然この林谷中尉のことも話に出ないと不自然だからです。
特に笹井坂井のコンビが仲良しだったので、
「貴様は特に仲がいいんだからひとつ頼むよ」
という話くらいはあったのかもしれませんが。


あくまでもドラマティックに仕立てられた話と知っていても、
本当であってほしいと願う気持ちが次々とこうやって打ち砕かれていくと、
知るということはある意味失望とセットになっていると思わざるを得ません。



さて、その坂井さんの存在故に何かと有名になってしまった笹井中尉の陰に隠れて、
ほとんど話題にならない台南空分隊長の林谷中尉。

写真を見ると学生時代は相撲では模範に抜擢されていたという大きな体で、
また剣道の達人でもあったという文武両道派ですが、
ひっそりと控えめで穏やかな空気を湛えています。

あだ名は「トンちゃん」。


このトンちゃんは、気は優しくて力持ちの典型のような海軍士官でした。


最初の艦隊乗組は「榛名」。
休養地に入ると、「どこかへまっしぐら」というようなクラスメートも多い中、
トンちゃんの上陸は皆と少し趣を異にしていました。
そのへんの子供たちを数人集めて遊んだり、艦に連れてきて中を案内してやったりするのです。
そして、次の泊地についてしばらくすると遊んでやった子供やその親などからお礼の手紙が来るのですが
「こんな可愛らしいことが書いてあると」
と、細い眼を余計に細めてニコニコしながら級友に読んで聞かせるのです。


そして、ただ優しいだけではないこんな一面もありました。
兄の武司さんと映画に行ったとき、やくざ風の水兵と武司さんがトラブルになりました。
林谷少尉は「ガンを付けてきた」水兵に対しその
「人一倍細い象のような目で」静かにしかしじっと見返しました。
その気迫に負けた水兵は棄て台詞を残してその場を去っていったのでした。

当時水兵より上官である少尉であった林谷中尉が一言、
背広こそ着ているが実は士官であることを言えばたちまち形勢は逆転したであろうに、
それをしなかったというのがその人格を物語っています。



トンちゃんには恋人がいました。

この時代の青年にとって、戦争に行くから結婚するのか、それともそれだから結婚しないのかは、
それぞれの人生観を問われる大問題だったと思われます。
戦地に赴くのにわざわざ婚約を破棄するものがいれば、
短い日々と知りつつも結婚生活を送るものもいました。

笹井中尉に婚約者がいたという話を聞いたことがあります。
その姉妹がともに海軍士官に嫁いでいる軍人の家の長男であれば、
家を継ぐために両親によって決められた婚談が早々にあったとしても全く不思議ではありません。
ほとんど顔も見ずに、親の決めた相手と結婚するのが普通であった時代です。

そして当然のことながらその「婚約」は果たされなかったわけですが、
笹井中尉がラバウル赴任前にそれは破棄されたのか、
それともその死で終わってしまったものかはわかりません。
しかし、一般的に家督の相続と軍人としての覚悟の板挟みになりつつも、
結局結婚しないことを選ぶ若者は多かったのでしょう。

林谷中尉もそうでした。

養父母から勧められた美しい令嬢との見合い話を
「俺は死亡率の高い空軍に奉職する身、長生きはできないし又考えたことも無い。
結婚して前途有望な娘さんを後家にはしたくない」
という理由で断っています。


林谷中尉は戦争に今から突入する前夜、兄武司さんにこう語りました。

「大和魂が日本にあるように、彼らには冒険精神に富んだヤンキー魂がある。
大変困難な戦争になるだろう」

さらに
「最初の最後の孝行として、老父母の将来のため生命保険の大きい奴を私から進んで契約した。
今まで頂いている俸給は全部使うことに決めているが、わがままを許して欲しい」


そのとき、武司さんは
「結婚が駄目なら恋愛だけはチャンスがあれば大いにやった方がいい」
と弟に力説しました。
その後兄の愛情あふれるアドバイスに従ったのであろう林谷中尉が
「恋人からの手紙を楽しむように出しては読みだしては眺めていた」
のを、同期の今泉三郎氏が記憶しています。


林谷中尉のおそらくこの世で最後の写真になったと思われるのが、
ラバウルで8月4日に撮られた台南空搭乗員の集合写真です。
林谷中尉は笹井中尉の左で相変わらず少し右に身体を傾けた姿勢で写真に収まっています。

この四日後の台南空の行動調書には、林谷中尉が
「列機の鈴木正之助二飛曹、荒井正美三飛曹と共同で水偵二機と交戦中行方不明になった」
と記されています。



呉にある林谷中尉の実家で葬儀が営まれてまもなく、一人の美しい女性が九州から弔問に訪れました。
「林谷様に生前懇意にしていただいた者ですが、せめて焼香をさせてください」
彼女はそういい、仏壇の遺影と対坐し、しみじみと静かに冥福を祈り、
名も告げず去っていったそうです。


林谷中尉が眺めていた写真の女性であったのでしょう。
九州から訪れたというのは、彼女が林谷中尉の大分の航空隊時代の知り合いだったからでしょうか。
もしかしたら結ばれないという悲しい覚悟の上でその最後の日々に恋に落ちた、
美しい芸妓だったのでしょうか。


ともあれ林谷中尉のその短い人生に、一輪の花が添えられていたことを、
遺族は今でも慰めにしているのだそうです。












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新国立劇場オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」

2011-06-22 | 音楽

震災が起こった直後、新国立劇場公演オペラ「マノン・レスコオ」は中止を余儀なくされました。

その後の公演はいずれも何人かの歌手がキャンセル、全て代役を立てて行われました。
わたしは通しセット券を持っていたのですが、特例で払い戻しをし、これらの公演には行っていません。

しかし、先日メトロポリタンオペラの歌手が「日本は安全だ」と宣言する為にキャンペーンを行い、
来日をキャンセルするアーティストたちに呼びかけたなどという動きを受けて、
この「コジ・ファン・トゥッテ」「蝶々夫人」は、キャンセル払い戻し不可になりました。
というわけで渡米寸前、この「コジ」を鑑賞してきましたので、ご報告。

え?挿絵がヘンだぞ、って?

ときどき、古典オペラの演出には現代的な服装をさせる演出が行われます。
ダニエル・クレイグの「007慰めの報酬」では、劇中劇「トスカ」が上演されますが、この演出も
「現代の服装で巨大な人の眼球を模したセットの前でピストルによる殺人が行われる」
というものでした。

トスカの場合、音楽的にも現代的な演出に違和感はあまりないのですが、
この公演のように音楽は古典、しかし、舞台は現代アメリカのキャンプ場、という
あまりに突飛な組み合わせだと、しばらくは違和感に苛まれっ放しで
慣れるまで時間がかかるのはいかんともし難く、当初落ち着かない気持ちで聴いておりました。

ところで夏場アメリカに行ったことのある方。
アメリカ女性ってほとんど真ん中の女性みたいな恰好をしていると思われませんか。
今現在アメリカにいる私ですが、一歩外に出れば若い女性はまさにこんな人ばかり。
ビーチサンダルを履けばさらに完璧。
そう、かなりふくよかな方でもタンクトップ、キャミソールにショートパンツかジーンズ、日本女性のように
「私二の腕が太くて恥ずかしいから袖のあるものを」などとは夢にも考えないお国柄。

左は小間使い役のデスピーナですが、この世界では
コーヒーショップ・アルフォンソのしがないウェイトレス。
しかしこの格好はどう見てもここだけ50年代ですね。

さて、このオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」ですが、いわゆる「取り違えもの」です。
この言葉はたった今私が作りました。

つまり、相手を別の誰かと勘違いして巻き起こる騒動を描いたものですが、
これには少し説明がいるでしょう。
昔、電気の無かった時代、夜、それも月の無い夜は我々の想像以上に世の中は暗く、そして
「暗くて相手が誰だかわからない」という今ではあまりないような間違い、あるいは
「夜陰に乗じて」というような色々なコトが得てして起きたのだと思われます。

同じモーツァルトの「フィガロの結婚」にも相手を勘違いして延々と口説くシーンがあるのですが、
「いや、いくら暗くても自分の連れ合いと口説く相手を間違えたりしないだろう」
とつい思ってしまいます。
で、このコジですが、題名の意味は
「女はみんなこうしたもの」

愛する婚約者とアツアツで幸せいっぱいの二人の士官に、哲学者がある日賭けを持ちかけます。

「彼女たちの貞操を試してみないか?」

恋人が眼の前からいなくなり、少し毛色の違う男に熱烈に口説かれれば、どんな女だって落ちるものさ、
という哲学者ドン・アルフォンソ(この演出ではキャンプ場のコーヒーハウスのオヤジ)の挑発に乗り、
自分たちの恋人を試すことにします。

原作では二人は戦争に行ってしまったと見せかけ、エキゾチックな異邦人に扮して二人の前に現れます。
さて、アメリカのキャンプ場、いかに夜は暗いといえどもこれをどうやって演出するか?

            

そう、真面目でダサい二人がカツラと皮ジャン、サングラスで「チョイ悪」風に。
二人は颯爽とバイクでキャンプ場に乗りつけ、相手を取り変えて猛烈アタック。

うーん、この「取り違え」の元々の設定に「それはない」とこれまで思ってきましたが、
これなら騙されるかも。
キャンプ場の夜、という設定も、そう考えるとなかなか説得力があるではないですか。

皆さんも覚えがありませんか?
キャンプファイヤーの炎に何故か気持ちを掻き立てられ危険な恋の予感に心ときめかせたあの日・・・。
ありませんかそうですか。


つまらない生活の退屈しのぎとばかり、このアルフォンソの企みに「いっちょかみ」し、
二人の姉妹に「気晴らしが必要だわ」とかなんとか、浮気をけしかけるデスピーナ。(冒頭画像)
古典のオペラではこの「小間使い」は、こういう悪だくみや悪戯を仕掛ける役回りです。

すっかりその気になって比較的あっさり黒髪のグリエルモに陥落するドラベッラ。
罪悪感にさいなまれながらもついにはフェルランドの軍門に下るフィオルデリージ。
何と、イケイケの男性陣の押しに負け、二人は何とキャンプ場での結婚式を承諾してしまいます。

そこに兵士たちの歌声が響き、婚約者たちが戻ってきたと知らされる姉妹。

狼狽する彼女らのもとに変装を解いたフェルランドとグリエルモが現れ、結婚証書を見つけて激怒し、
限りなく気まずい空気が流れるのですが、ここからが問題です。

原作ではこの後どうなるかというと

「姉妹は平謝りする。そこですべてが種明かしされ、一同和解して幕となる」

というほろ苦いがとりあえずハッピーエンドを迎えるのですが、この日は、何とこの後、
この恋人たちはお互いの不実に絶望し、コーラの缶を蹴ったりふてくされたりして、
どう見てもこの後仲直りなどしそうにもない不穏な空気のままエンディングを迎えてしまったのです。

現代に舞台を移したがゆえに、
「一度でも他の男(それも自分の親友)に心を許してしまった恋人とはもうやっていけない」
という方が現代の世相心情にぴったりするという考えあっての演出でしょうか。

何かとコミカルな演出が目立っただけに、この終わり方には
「いや、そこまで現実路線で行かなくても」
と何か後味の悪さのようなものを覚えました。

原作通りでよかったんじゃないでしょうか?

あえてこの重い結末を意識してのことでしょうか。
指揮はこの本来テンポの良いオペラを比較的じっくり振っていたように思います。
出演者は非常事態を反映して主役のうち一人を除いて全員が代役。
その一人であったドラベッラ役の歌手が、カーテンコールの時にマジ泣きしていたのが印象的でした。

その他大勢の合唱は当然のことながら他のキャンパーという設定。
全員カジュアルなショートパンツやらジャージやら(前半水着もあり)、
何やら折角お洒落して行っても舞台がこれではなあ、と少し「損した感じ」がないでもないというか。
この衣装が自前で、彼らが公演終了後そのままの格好で帰宅した、に100ユーロ。


あ、もしかしてオペラも省エネ化?

 

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小津風戦争映画「紙谷悦子の青春」

2011-06-19 | 映画

ほとんど話題にもならず、勿論商業ベースにも乗らない。小さな映画館でひっそり上映され、それっきり・・。
そんな映画の中にこそ、時として強い印象を残す佳作というものが産まれることがあります。

わたしにとってのそういった「小さな名作」、それは「外科室」(坂東玉三郎監督)、
あるいは「めぐり逢う朝」「赤い風船」。
この映画もそのリストに入るかもしれません。

「戦争シーンの無い反戦映画」

このような映画評を目にしました。
この「反戦映画」というカテゴリについてこだわってみます。

およそ戦後に作られた戦争映画に少なくとも反戦的メッセージを含まないものはありえません。
「ハンバーガーヒル」や「地獄の黙示録」あるいは「コンバット」でさえ、戦争の現実に迫ることによって、
自動的にその無残さを訴えるという構図に変わりはなく、いわゆる市民団体が「旧軍を賛美するもの」
として目くじらを立てる「男たちの大和」や「連合艦隊」にしても、必ずその中に戦後の価値観を盛り込んで
「平和への願い」というところに落とし所を持ってきているのが普通です。

いまどき「反戦映画」も何もなかろう、もし好戦的な戦争映画というものがあるのなら教えていただきたい、
と言いたくなる今日この頃、
この映画をあえて「反戦映画」ということに非常な違和感を覚えたわけで、
まあ、細かいことですがここでは不思議なこの戦争映画を「小津風」と評させていただいた次第です。

さて、この映画は2006年作品、黒木和雄監督の遺作になりました。
戦争映画ですが、舞台は一軒の民家に始まり、そこで終わります。
登場人物もわずか5人。
老年夫婦が病院の屋上で小津監督作品風の淡々とした会話を始めるところから映画は始まります。

この二人は特攻で戦死した明石少尉の戦友と、彼がひそかに思いを寄せていた女性の現在の姿。
明石は航空隊所属であるがゆえに自分の好きな紙谷悦子(原田知世)に思いを打ち明けることなく、
ただ自分の戦友、長与少尉と結婚させるために紹介します。

女性が両親を亡くし身を寄せている兄夫婦の家で、兄の高校の後輩という関係から知り合った二人ですが、
ある日明石少尉は戦友の長与少尉(長瀬正敏)を伴って家に現れます。

そこでおはぎを食べながら緊張と照れから実に微笑ましい「お見合い」をする二人。
明石少尉は気を利かせて早々に姿を消しますが、桜が満開になった夜、その家を訪います。

「沖縄奪回の作戦に晴れて参加することになりました」

この一言で、何も説明せずとも明石少尉は特攻に参加するのだとそこにいる三人は察します。

「敵艦をば・・敵の空母をば・・沈めなさることを祈っております」

密かに愛していたはずの明石少尉に、このようなことしか言えない悦子。
「明石さん、行っておしまいになるんよ。追いかけんと」
しかし彼女はその義姉の言葉に従わず、ただ土間にかけ込み嗚咽します。


この映画のこの訥々とした場面運びは、この作品が元々舞台用に書かれた脚本であるからです。
確かに映画らしい演出は何一つなく、ただ一軒の民家で桜が満開になるまでの十二日間にあった出来事が、
ただ淡々と語られるだけなのです。

明石少尉が別れを告げに来た夜、号泣した悦子ですが、その四日後結婚を決めた長与少尉が
死んだ明石の遺書を渡すまでは、微笑みさえ浮かべ彼と世間話に興じる。

当時「普通」であった彼女のこのふるまいは、今の価値観で観ると胸が締め付けられるほどけなげで痛ましく、
こうやって日常の続きのように愛する人を死地へと送り出さざるを得なかった、当時の日本人の置かれた
「銃後の生活」を思うと何とも言えないやりきれなさを感じずにはいられません。

出撃した明石少尉の遺書を懐から出しながら長与少尉がこう言います。

「明石大尉(だいい)から・・・預かったとです」

この四日の間に少尉であった明石が特攻死し、二階級特進した、ということがこの言葉によって明らかになります。
この映画には「特攻」や「戦死」という言葉は一切使われません。
兄夫婦も含め、「作戦に参加」するということは「特攻で戦死すること」と理解をしており、
そして、その言葉を誰もが決して口に出そうとしないのです。

「特攻」という言葉を語らないがゆえに、より一層彼らの心の中心に動かしがたくそれがあることを感じさせます。
当時を生きておらない我々にもこの心情が理解できるのは、我々もまた日本人であるからでしょう。

そして、名優たちの演技は控え目ながら、彼らの躊躇いや、恥じらい、胸に秘めた気持ち、
思わず吹き出してしまうユーモアさえ湛えて秀逸です。
この映画を「小さな名作」と呼ぶことに賛同してくださる方は多いのではないでしょうか。

劇中BGMは流れず、その代わりに朴訥な鹿児島弁がまるで音楽のようなリズムを奏でます。
タイトルとエンドロールのためだけに流される印象的な音楽を作曲したのは松村禎三。
現代音楽の大家であり、名作「海と毒薬」の音楽も手掛ける巨匠の最後の映画音楽にもなりました。


本日画像は、夜桜の下、最後に悦子や兄夫婦に向かい別れの敬礼をする明石少尉(松岡俊介)。
この海軍式の敬礼を始め、玄関で軍刀を外す所作や、彼らの立ち居振る舞い、
あるいは航空士官である明石少尉と整備士官である長与少尉の靴が違うこと(明石少尉は航空靴)
実に細部までリアリティを持たせた映画の軍事指導に携わったのは、この物語の二人の少尉と同じ、
13期海軍予備学生で、飛行専修であった土方敏夫大尉です。


この方の名が刻まれたエンドロールを見たとき、この映画に対する切ない思いが一層深くなるのを感じました。

 

 

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ダラスの暑い日・再び

2011-06-16 | アメリカ

今、ボストンにいます。
昨日の長いフライトでようやくたどり着きました。
例年アメリカで夏を過ごしている私と息子ですが、今年は原発のこともあって早めに日本を出国。

到着してまず思ったことは、
「思いっきり外で深呼吸して、かつ運動できる」
「食べ物が(比較的)安心して食べられる」

3月11日まで当たり前だったことがこんなに解放感を感じることだったとは。
やはり今関東、東北地域というのは「非常時」なのだなあとあらためて実感しました。

そして、荷物をトランクから出して驚いたのが、全てのものがまるで濡れているかのように湿気を含んでいたこと。
出国した日は蒸し暑かったのですが、これほど酷いとは思いませんでした。
ここは今のところ朝晩寒く、昼はからりと暑い気候です。

 

さて、まさかこれを読んでいる方で、エリス中尉が去年の夏アメリカ滞在し、その往路、トランジットのワシントンD・Cダラス空港で乗り継ぎ便に乗り遅れえらい目にあった、という話を覚えておられる方はいないと思いますが、アメリカ国内の乗り継ぎをこの夏控えている方は、ぜひ参考になさってください。


去年、利用したユナイテッド便のダラス着が遅れ、ボストン行きの国内便に乗り遅れました。
今年のフライトを決めるとき、乗り継ぎ時間が1時間半とデスクの方がおっしゃるので
「それは少し心配ですね」
「しかし、この便の後は6時間後しかなくて」
「うーん・・・。去年のように遅れないことを祈るしかないですね」

などという、いかにもドラマ的には伏線としか思えない不吉な会話をしたのです。
今年はなぜか15分搭乗時間が早くなり、機内アナウンスでも
「10分早い到着になります」
ということだったので少し安心しつつ、それでも飛行機を真っ先に飛び降りて小走りで入国審査へ。
しかしそこでわたしの見たものは・・・・・・!

そう、入国審査ブース前に群れをなす
「どこの国やらわからん東欧系の便から降りたばかりの乗客の群れ」。
こ、この光景は・・・・・・・・!!!

そう、まさか覚えている方はおられますまいが、去年のトランジットで観た光景そのまま。
要するに、去年と全く同じフライトだったわけですね。
限りなく嫌な予感を覚えつつも、入国審査の後ああ行ってこう行って、と頭の中でイメージトレーニングをし、
できるだけその後の展開をスムーズにしようと心の準備をします。


山のような前フライト客がようやく捌けて審査ブースが近づいたとき、前にいたのは
「アラブ系の顔をして山のようにビザ書類を抱えた一人の男性」。
隣りは我々と同じくESTAで入国申請を済ませずみ、パスポートしか持っていない日本人。
ご存知でしょうか。
ESTA導入以降、我々日本人入国者は審査書類を書かなくてもよくなったのです。
今は一分を争う事態、我々は迷わずその後ろに列を変えました。

ご存知の方は多いと思いますが、国際的に我々日本人の信用度の高さは確固たるもので、
それを実感するのがこのようなときに審査官のかける時間の異常な少なさ。
あの「菊の御紋」を見せたとたん、さくさくと手続きを進めゲートを通してくれるのですから
(話好きの係官にあたったらその限りにあらず)まさに「日本人でよかった」と感じる瞬間です。

審査ブースを出たときはすでにゲートを降りてから一時間経過。
出発時間30分前。もう搭乗は始まっています。しかし、

「何とか間に合いそう!」


喜び勇んで税関を抜けようとしたそのとき、
女性の係官が呼びとめ、抜き打ち無作為で行う荷物審査を受けろというではありませんか。

ちょちょちょっと、私にはそんな時間ないんです。
これでも今ぎりぎりなんです。
「5時2分の便に乗らないといけないんですけど!」
必死に抵抗してみました。
しかし、御存じでしょうか。
こういうチンケな権力をかさにきた、大義名分によって自分の力を誇示する立場の人間が、
時としていかに意地悪で融通が効かないか。

日本にもいますよね。
駐車場の係なんかで、やたら意味も無くえらそうにしているおじさんが。
あるいは、少し前の羽田の国内線荷物検査の
「荷物はベルトの先で受け取ってください!」
とか叫んで手近の荷物を取ろうとしたらさっと取り上げてわざわざ遠くに置く係の女の子とかね。
あまりにクレーム続出だったようで、最近はしなくなりましたが。

アメリカでも、女性の係官はほとんどまず間違いなくこのタイプに属します。

案の定
「そんなことは我々には関係ありません」ときた。
「もし乗り遅れたらどうしてくれるんですか」
「次の便に乗ればよろしい」
よろしい、って次の便に乗れるかどうか、保証してくれるんですか。
カウンターにいるのもまた女性係官。ここでも
「乗り遅れたら(以下略)」
と言ってみました。
さすがに少しはすまぬと思ったのかどうか、書類を書くだけで免除してくれたものの、
その部屋の出口のデスクに座っていたのがまたも女性。
「タックスフォーム出して」
「さっきの人が持っています」
「そんなはずはない。それ出さなきゃ出れません」

(-_-メ)ムカ

そこにさっきのデスクの係員が
「ごめーん、返すの忘れてたー」とフォームを持って走ってきました。

・・・ざけんなよ。

さて、それからというもの、浮気がばれて殺そうとする奥さんから逃げるワンジルのような勢いで、
CゲートからDゲートまで全力疾走するエリス中尉と息子。
距離にして約一キロ。(アメリカの空港って、広いんです(T_T)

そしてD2ゲートに辿りついたそのとき目に映ったのはまさに今ドアを閉めようとする係員の姿。
「うぇーーーーーーーーーーいとぉっ!」
必死で叫ぶエリス中尉。
ぜいぜいと肩で息をしながら、こんなに全力疾走したのって一年ぶり(つまり去年のトランジット以来)かも、
と思い起こしつつ、震える手でチケットを見せました。
「ご安心ください、乗れますよ」

間にあった・・・・・・。

もう皆すでに席に着いており、当然のことのように我々の上部物入れには周りの客がトランクを入れていて、
ここで息子の2分の一チェロをどこに収納するかでFA総出の大騒ぎを演じてやっと席に着いた時には、
安堵と疲労感のためぐったりしていたわたしです。


というわけで、今年は何とかなったわけですが、何かとセキュリティが厳しくなっているその理由は、
ご存知のようにアメリカによるビンラディン殺害に関係しています。


アルカイダによる「アメリカへの報復テロ宣言」以降、
当然のこととして入国審査、手荷物検査、ゲートでの身体検査も大変厳重になっています。
セキュリティ強化は勿論、空港内の撮影は勿論、携帯電話の使用すら禁止されたそうです。
これは、もし乗り継ぎに遅れても、対処のためにどこかに電話することすらできない、ということです。

実は私はこのビンラディン殺害そのものが本当にあったことなのか疑っているのです。
そのうち何かしらの自演テロをやらかして、それを口実に「正義の戦争」を始めるための布石ではないかと勘ぐっているというくらい、アメリカという国を信用していません。

まあ、いずれそうなのかどうかわかるような事件が起こるのかもしれませんが、
とりあえず我々にとって当面の現実的な問題は、
アメリカ及びその同盟国訪問の際は時間を十分考慮しないといけない、ということ。


トランジットにかける時間は最低二時間半見ておいてもいいかと思いますのでご参考までに。




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旧海軍諸団体連絡会 その2

2011-06-13 | 海軍

前回、1997年現在存在していた海軍関係の諸団体についてご紹介しました。
やっとのこと半分強紹介することができたわけですが、今日は後半と参ります。


前回、海軍予備学生の兵科の会が一期ごとにあり、その人数も多数に上るというところまで説明しました。
予備学生が「飛行、整備」という区分分けから、さらに
「兵科、飛行科、整備科、機関科」
という4区分に分けられたわけですが、

潮会(400名)
は、この飛行予備学生の1~16期、1~3期生徒の会です。
「生徒」と「学生」、これは全く別のものです。
海軍予備員たる海軍予備少尉(昭和18年以降は海軍予備員たる海軍少尉)を予備学生、
予備少尉となるための教育を一定期間受けるものを予備生徒、と称します。
過去何度かお話ししたことのある土方敏夫海軍大尉は、この予備学生13期の卒業です。

翼友会(140名)
海軍航空技術廠関係者の会。
のちに空技廠と呼ばれるこの機関は、日本海軍航空機に関する設計・実験、航空機及びその材料の研究・調査・審査を担当する機関でした。

軍直属の機関なので、当然研究と開発が主眼と思いきや、実際に飛行機の設計や生産もやってしまっていた、
というのが何か日本戦後の「技術屋魂」のスパークの導火線を感じさせるこの機関の実態ですが、
生産効率を度外視した「理想追求路線」に走るきらいが(彗星とか)あったようです。
しかし、当時の技術者達は陸海何れも俊英揃いで、後に公職追放等で国鉄また民間企業に散らばった後も
各方面で活躍して日本の産業界の復興、発展に尽力しました。
新幹線の開発、自動車産業の発展、電子産業の発展には彼等の功績が大です。

ちなみに先般「はやぶさ」が探査した小惑星「イトカワ」。
その星の名、糸川博士その人がかつて開発に携わったのがあの一式戦闘機「隼」でした。
これはご存知のように陸軍機ですが。



海交会全国連合会1万6千名
物凄い人数ですが、これは特務士官”等”の会です。
鎮守府関係ということなのですが、この”等”が何を含むのかまでは分かりませんでした。

海原会(8千名)
ご存知予科練全体の連合会です。
予科練というのは海軍飛行予科練習生の略。
まるで成績表のような分け方をしたため、非常に当事者たちの心証が悪く、
昇進の早さの違いから対立まで生んだというというこの甲乙丙ですが、
制服と言い、軍歌と言い、スマートなセンスと合理性の横溢する海軍で、
この辺りは確かにデリカシーがないとしか部外者にも言いようがありません。

実はABCにしようとしていたが、英語はさすがにいまどきまずかろうというので、急遽甲乙丙にしたのでは?
と勘ぐってみる。

この甲乙丙ですが、甲飛が一番古いのではありません。
新制度での練習生募集の際、何故か元からいた予科練習生を乙、新しい募集者の方を甲、と称したのです。
これがまず(甲飛以外から)評判が悪かった理由でしょう。
何しろ当初からいた乙飛は全国からの志望者5807名中のわずか79名の合格者たる超エリートだったのです。
さらに、最も古い操練は丙飛と改名されました。


甲飛ならそれでは問題はなかったのかというとそうでもなく、
この甲飛募集の際、海軍は飛行兵欲しさに、誰でも海兵並みの出世ができる、
と勘違いさせるような美辞麗句を連ねたため、入ってから彼らはかなり不満をもったようです。
なかでも、飛行兵として入った海軍でジョンベラの恰好をさせられるのには皆不満たらたら。
そう言えば丙飛卒の方に写真を見せていただいたことがありますが、セーラー服に飛行帽、というお姿でした。

七つボタンの凛々しい予科練専用の制服は、そんな彼らの不満を抑えるために制定され、
この制服に憧れて予科練志願者は増えたということです。
その丙飛は操縦練習生、偵察練習生にの制度に代わるものとして昭和一五年発足しました。

余談ですが、戦争末期、飛行機不足で訓練どころではなく、
ツルハシやモッコを担いでの基地や防空壕建設が主な仕事になり、
彼らは自らを「どかれん」と嘆いたそうです。

さて、この予科練関係者の団体は全部で五つ。

甲飛会全国連合会(1万2千名)
予科練雄飛会乙種出身者(7千名)
丙飛会(632名)

この丙飛も、名称ができたのは昭和15年ですが、遡ると大正9年にすでに
「操縦練習生」 「偵察練習生」 という名称で発足していたものが予科練に組み入れられ
名称変更したものです。
因みにこの丙飛会の説明は
「部内選抜パイロットの会」
となっており、会長は航空ファンにも有名な零戦パイロットである大原亮治氏です。

特飛会(2千名)
特乙飛、というのが一番最後に発足した制度です。
乙種予科練志願者の中から選抜し乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成をはかったもの。
飛行機が足りなくなって少数精鋭に移行せざるを得なくなったからでしょうか。


さて、後半はほとんど予科練の説明になってしまいましたが、この旧海軍関係の団体は勿論のこと

楽水会海軍軍楽隊関係者(500名)
もあります。出身者にシャープス・アンド・フラッツの原信夫氏がいます。

海軍特年会(4千名)
これは海軍特別年少兵の関係者。
「男たちの大和」の神尾君や西くんらジョンベラの軍団ですね。
「昭和の白虎隊」と呼ばれていたりします。
こういうふうに冠を被せることにお怒りの向きもあろうかと思いますが、
わずか14、15歳で戦いに身を投じていった少年兵はまさに白虎隊の紅顔の戦士たちに重なります。

財団法人海軍歴史保存会
財団法人水交会


いずれも海軍の歴史、そして海軍の伝統精神の継承を目的とする団体です。
海軍精神の守り手というところでしょうか。

そして最後に

海軍軍装会
これはですね。
海軍の軍装を着用、戦没者の慰霊、顕彰を行う会、

という説明なのですが、着用するのが戦争に行った当事者なのか、
それとも慰霊顕彰の際若い人たちが軍装で並んで敬礼してくれるのか、
その辺はこの一行からは全く分かりません。

8月15日の靖国神社に軍装をした一団(でも、決してウヨクっぽくない雰囲気の)がいましたが、
全員陸軍だったし。
この会がどういうことをしているのかぜひ知りたいのですが。


ところで、この団体名簿には協賛団体、つまりスポンサーの広告があるのですが、
横須賀の和風スナック(隊友会推薦のお店)などと並んで

小松


という宣伝が。
もしかして、これって・・・・・あの

パイン「小松」?











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旧海軍諸団体連絡会 

2011-06-07 | 海軍

あらためてこの海軍の「桜に錨」のマークをこうやって見ますと、実にすっきりして、
日本海軍の精神をあますことなく表現していると思うのですが、誰の手によるデザインだったのでしょう。
軍艦旗が旧軍のままであるように、この意匠もまた寸分変えることなく海上自衛隊のシンボルマークとして、
現在も使われていることは皆さんもご存知でしょう。
わたしは先日江田島訪問をしたときにこのマークの携帯ストラップを買い、まさに今使用中。



さて本題。
ある日ごく限られた記念誌の巻末に、旧海軍諸団体連絡会の一覧表を見つけました。
この本が発行されたのは1997年のことですから、もう14年前の情報です。

この諸団体が今現在も存在しているかは確かめようがないのですが、このようなものがあり、その会員である旧海軍の方たちの連絡を取りあるいは声を遺すために活動している団体だと理解します。

勿論のことその連絡先まで書くわけにはいかないのですが、どのようなものがあるか一覧で見ることで感じてもらえるものがあるかと思い、ここに団体名を紹介することにしました。
 
たくさんあるので二部に分けます。

海軍兵学校連合クラス会
当たり前というか、冒頭に書かれている団体です。
この時点では1万7千300名の会員がおられたようです。

海軍機関学校、海軍兵学校舞鶴分校同窓会(2千9百名)
これは海軍機関学校の出身者の団体です。

浴恩会(9千名)
これは先日も書きましたが、短期現役士官を含む海軍経理学校主計科、経理学校の出身者団体です。

桜医会(3千名)
軍医科、薬剤科、歯科医科出身者団体。

造船会(360名)
造船関係の高等官、同待遇者。

造機会(360名)
造機、つまり機械技術制作に携わった部門でしょうか。

艦一会(130名)
この艦本一部職員の会、というのには説明がいるかもしれません。
艦政本部(かんせいほんぶ)とは、海軍大臣に隷属し造艦に関係する事務を掌った帝国海軍の重要な官衙であり、
海軍省の外局の一つでした。
7部門に分かれており

第一部:砲熕部(大砲)
第二部:水雷部
第三部:電気部(無線、電探)
第四部:造船部
第五部:造機部(機関)
第六部:航海部
第七部:潜水艦部

ですから、この艦一会は大砲部門を担当していた人たちの団体であるということです。
先ほどの造機会は、この艦本五部、造船会は艦本四部の関係者と言うことになります。

二水会(250名)
そして、これは艦本二部の水雷部で技術を担当していた関係者の団体。

電子会(450名)
これは艦本三部、電気部で無線、電探技術に携わっていた人たちです。
この団体は旧海軍だけでなく、海自等つまり海保関係も含んでいるようです。
戦後の旧海軍の機雷掃海の任務にはおそらくこういう団体の方が携わったのでしょう。

海化会(250名)
上の部門のどこにあたるのかはわかりませんが、艦本の化学、つまりケミカル関係者の団体。

海軍音響会(250名)
見て字のごとく音響に関係する部門です。軍楽隊とはまた別ですので、スピーカーとか再生、無線、電探に関する一部門でしょうか。

海燃会(570名)
燃料専攻の技術科士官の会。機関学校卒の士官の中の部門です。
しかしたくさんおられたのですね。

霞会、金城会(700名)
これは、海軍施設の本部系職員の団体です。ソフト管理部門ということですね。

海法会(100名)
海軍で法律部門に携わっていた関係者団体。
当然のことながらこの団体の会長はおそらく弁護士であられるらしく、団体の連絡本部はこの方の弁護士事務所に置かれています。

一期会(278名)
予備学生制度は、当初航空予備学生として採用され始めましたが、
昭和13年4月、飛行科と整備科の二種に区分されることになります。
(この整備科出身が、あの鶴田浩二ですね)
そしてその後昭和16年、さらにそれは兵科、飛行科、整備科、機関科の四種に区分されます。
この一期会は兵科の一期生の団体であるということです。
兵科予備学生は砲術を学ぶため館山砲術に入校し、6カ月の訓練を受けたあと配置されました。
戦局の悪化に伴い次々と短い訓練の後戦地に投入され命を散らしていったのです。

この兵科予備学生は6期までありました。一期ごとにその同窓会があり、

東港会
二期(300名)
海軍第三期兵科予備学生会(1700名)
海軍兵科第四期予備学生会(1500名)
第五期海軍兵科予備学生五武会(150名)
合同旅魂会    旅順教育部出身の5、6期予備学生、2、3期予備生徒(1300名)
海軍一誠会    旅順教育部出身兵科予備生徒(542名)

以上がこの関係者です。

この三期の会が建立した慰霊碑の文言が、彼らの声を何より代弁していると思われますので、
HPより引用して下に記します。


碑文

過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた

第三期兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参じ 
選抜されて入校した学徒である

昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 

翌昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る
術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を受けた 

同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 

戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ 
あるいは諸艦艇等へ赴任し熾烈な戦列に身を投じた 

既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総数は
陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である

しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った 
あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 
祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである

われらはこのことを永久に忘れることはできない

ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 
由緒あるこの神社に一碑を建立するものである







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海軍軍楽隊かく戦へり

2011-06-01 | 海軍

画像は軍楽隊下士官の夏衣袴です。
ななめがけのショルダーバンドは右腰につけるバッグに繋がっています。
この下士官はどうやら喇叭手らしく、このバッグはビューグル喇叭を収納するケースです。
バッグのふたにはお洒落で素敵な桜に錨マークが入っておりまして、
靖國境内の骨董市なんぞでもし見つけたらふらふらと買ってしまいそうです。


この骨董市で、先日
「帝国海軍仕様、発光信号灯、携帯型、錨マーク付き」
を全く使用できないものであるにもかかわらず2万円で買うかどうか真剣に検討したエリス中尉でした。
(今では買わなくて良かったと心から思っています)

この骨董市はいろんな「旧軍もの」が売られているので有名ですが、
このほか、陸軍にいてなぜかその後海軍にもいたという飛行兵曹の写真、寄せ書きのある国旗、書類、戦歴、
(銃弾だらけの機に乗ってニッコリ笑っている写真も)があって、これもまた2万で売っていました。
こちらも、この方の人生をブログに挙げるだけのために買い取ろうかと真剣に考えたのですが、
わたしなんぞより、だれかノンフィクションライターや月刊誌○の編集部の方なんかが手に入れた方が、
ずっと有効に活用される気がして涙を飲みました。

この名も無い軍人さん、なんだかちょっとした戦記もの小説の主人公になりそうな、すごい経歴でした。
陸軍から海軍に「コンバート」できる、というのも驚きでしたが。
こういうものが一切合財売りに出されているというのは何なんでしょうね。
遺品整理でしょうか。

それにしても、ある戦士の生きた証、一切合財が2万円。
安いのか高いのか。


さて本日の話題。軍楽兵のお仕事は勿論のこと音楽です。

自分にできるのは音楽による御奉公しかない!と熱く志望した人ももちろんいましたし、
「軍楽隊なら銃も持たなくていいし、楽器吹いていればいいんだし」
という消極的な選択で少しばかり歌がうまいくらいの人が応募してくることもあったようです。
実際には練習と罰直で死ぬほどつらい目に合い、ある者は艦と運命を共にし、
ついには陸戦隊として楽器を捨て銃を持って戦い・・・・。

どんな人も海軍軍楽隊に楽な配置など無い、と、すぐに知ることになったでありましょうが。


今日は軍楽兵の本来の仕事「演奏」についてです。
銃を手に取って戦うのではありませんが、軍楽隊の音楽が軍の意気を鼓舞させるという意味においても、
軍楽隊は必要欠くべからざるものでした。

たとえば戦後、機雷の掃海作戦に従事し、海自の幕僚幹部も務めた兵学校67期卒の市来俊男氏は
1997年の軍艦行進曲の碑完成記念にこのような言葉をのこしています。


「(67期が)海軍兵学校に入校した直後の4月3日は、神武天皇祭の祭日で休日であった。
入校したばかりで外出のできない新入生のために、呉海軍音楽隊の演奏が行われた。
生徒館の中庭の満開の桜の木の下で演奏する隊員の肩に、軍楽の音に合わせ、
ひらひらと桜の花びらが降りかかっていた。

曲目も「青きドナウの流れ」「双頭の鷲の旗の下に」「敷島艦行進曲」と続き、
甘美な、あるいは勇壮な音楽に、若い生徒たちはこれから始まる海軍の生活に思いを馳せ
心を躍らせて和やかなひとときを楽しんだ。
最後は「軍艦マーチ」で、万雷の拍手のうちに演奏会は終わった」


想像するだけで美しく、何か胸にしんと響くような光景ではありませんか。
それにしても、「双頭の・・・」は紛れもなく当時の仮想敵国アメリカの行進曲。
しかしこの頃はまだ音楽に国境はまだ存在しなかったようです。


軍楽隊は海軍のイメージアップにも大きな寄与をしました。
5月27日は海軍記念日です。
この日には横須賀海兵団から派遣された海軍陸戦隊のパレードが銀座通りで行われました。

大編成の海軍軍楽隊はこのネイビーブルーの軍服に白の脚絆をきりりと巻いた陸戦隊の行進を吹奏楽でリードし、
そのマーチのはなやかな響きと陸戦隊のスマートさは皆の憧れを誘ったと云います。
戦前はこの「海軍銀座行進」は、これが来ると夏の衣替え、という時期のいわば
「季節の風物詩」のようになっていたそうです。

この銀座行進についてはまた書きますが、この海軍の「モテモテぶり」に、陸軍も負けじと
3月10日の陸軍記念日にパレードを始めたということです。

パレードをリードする演奏は、当然ですが楽器を持って歩きながら行います。
大太鼓やチューバなど、大きな楽器は当然重量だけで大変ですが、
楽器が小さいからと言って楽かといえばさにあらず、
この行進で主になる金管、木管など吹奏楽器は、演奏経験があれば御存知かもしれませんが、
演奏そのものにかなりのエネルギーを要するものです。

この銀座行進もずっと演奏し続けるのは実に大変なことです。
しかし、沿道の熱い視線や歓声を受けたりすると、
その晴れがましさで苦労を苦労とも思わなかったりするのでしょうね。


昭和12年、重巡「足柄」が英国国王ジョージ6世の戴冠式記念観艦式のため欧行しました。
帰りに盟邦ドイツを訪問し、このときも市民の大歓迎を受けて陸戦隊が(パレードは陸戦隊の専門だったようです)軍楽隊に率いられ、4キロの行進を行いました。

このとき指揮をしたのは軍楽隊で最高位だった内藤清吾少佐。曲は勿論「軍艦」です。
ベルリン市民は右手をあげてこの行進を歓迎しましたが、群衆が全く切れ目なく迎えてくれるので
生真面目な日本の軍楽隊は音楽をやめることができず、延々とエンドレスで1時間もの間軍艦は繰り返されました。

内藤隊長率いるこの軍楽隊「甲隊」は、当時の精鋭ばかりを選り抜いて作った45名の大編隊でした。
当時の内藤隊長の部下でこの行進に参加した人の話によると、
かれらは全員1時間20分くらいまでは連続演奏に耐えうるだけの技量を持っていたそうです。


軍楽隊の特訓の一環、富士山頂での演奏、という写真を見てのけぞったことがあります。
「山頂まで大きな楽器をどうやって運んでいったのか」
「空気の薄い山頂で金管楽器など吹けるのか」
などといった疑問が次々に湧きあがる光景でした。

今でもブラスバンドの世界は演奏がうまいチームのことを「強い」と称します。
その体育会的体質が昔から不思議でならなかったのですが、今は何のためらいもなく、
「それが軍楽隊の流れを引くものであるから」と言いきってしまいます。


このベルリン大行進のとき、内藤隊長選り抜きで信頼のさしもの精鋭たちも、行進が終わったときは
ほとんどの楽員が唇を腫れあがらせていたということです。


さて、行進は桜のひらひら散るような情緒のある季節にばかり行われるわけではありません。
海軍は毎年一月十五日を「海軍始め」と称していました。
この日に観兵式が行われるわけですが、御存じのとおりこのころの寒さは半端ではありません。
(当時は現在より確実に平均気温も低かったわけですからね)
こんなときにもわが海軍軍楽隊は1時間余にわたって軍艦行進曲をエンドレスで演奏し続けなくてはなりません。
これを戦いと言わずして何と言うのでしょうか。

銀座大行進のときのように憧れのまなざしで見つめてくれる女子学生もいませんし、
ベルリン行進のように熱狂的にハイルしてくれる同盟国国民もいやしません。


こんなものは、ちょっとでも早く終わっちまうにこしたことはありません・・・・よね?


ちなみに行進曲「軍艦」のテンポを御存じですか?
1分間に114、つまり百十四歩の行進です。
このテンポを軍楽隊はどう取っていたかというと、大太鼓奏者が所持するスイス製の懐中時計型メトロノームを
114に合わせ、テンポを大太鼓がリードしていたのです。
(指揮者はじゃ何をしていたんだ、って?まあまあ)

これはどういうことかというと、行進を早く終わるも遅く終わるも
大太鼓奏者の胸先三寸にあったと言うことでもあります。


さて、木枯らし吹きすさぶ寒い海軍始めの日、行進前に下士官が
「大太鼓いいか」
と声をかけます。
これは
「今日は寒いから早く終わらすようにテンポ上げろ」
という暗号です。
何しろ観兵式と一言で言っても一万名余の大行進、テンポを114から118に上げるだけで
かなりのスピードアップです。


ある年の海軍始め、行進が終わってから副官がやってきました。

「今日は少しテンポが速かったのではないか?」
「ぎくーーーっ」(下士官以下全員)

しかし、そこは歴戦の戦士大太鼓奏者、その頃にはメトロノームを114にきっちりと戻しており、
副官にみせつつ、しれっと

「いいえ、指定速度です」



その後彼は皆からその労を大いにねぎらわれたということです。










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