ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

静浜基地航空祭~T-4(ドルフィン)とブルーインパルス

2013-05-31 | 自衛隊

塗装が違うとこんなに印象が違うものか、とつい思ってしまいますが、
皆さんご存知のように、ブルーインパルスの機体はT-4を使用しています。

ブルーは白と青の塗装にし、チームで独特の演技飛行をしますから、
何か特別な機体を使っているように思っていましたが、同じ機体だったんですね。

わたしがこのあたりのことを知らないのは、読者の方も周知の事実。

先日、ブルーインパルスの飛行についてのエントリで
「シートベルトをしていないと背面飛行のときに落ちるのか?」
と書いたところ、

余計な事ですが、座席の「シートベルト」は「ハーネス」と言った方が、
業界的には、「・・・関係者の方ですか?」かも知れませんよ。

「ハーネス」とは乗馬クラブで聞いた事があるのでは?
そちらの方が「より」らしいでしょ?

という、噛んで含めるようなご親切なメールをいただきました。
乗馬クラブに限らずハーネスという言葉は存じ上げているんですが、
そういう気の利いた?言葉がすっと出てこないんですよ。わたしの場合。

さらに見るに見かねて?このような、
「初心者向け講座」までしていただきました。

「ひこうきのおもなしくみ」

昇降舵
補助翼
フラップ
ドッグトゥース


・・・・・・そんなことくらい知っておるわ!

といいたいところですが、実のところこの中で自信を持って
「はい、ここです」といえるのはフラップと補助翼だけ。
あとはどれもこれも、聴いたことも意味も分かるけど、ではそれはどこですか、
と聞かれると「えーと」ってかんじだったので、役に立ちました。(役に立ったんかいっ)

特にドッグトゥース。
犬の歯ですね。これは初めて知りました。
装飾の形状に始まって、航空機で普通に使われているとは、目からうろこです。

というわけで、エリス中尉、またしても少し物知りになってしまうのだった。
どんな知識も毎日のように積み重ねていくうちに、『道』は形成されていくのだなあ。

どこに行く道かはわかりませんが。



T-4はいわゆる「サブソニック」、亜音速機にカテゴライズされます。

超音速、すなわちマッハ1以上のものを
「スーパーソニック」(超音速)といい、たいていのジェット戦闘機がこれに当ります。

スーパーソニックがマッハ1.2~5のスピードだとしたら、この「サブソニック」は0.75。

このことを息子に言うと、即座に「これを見たまえ」と言って、サウンドバリア、つまり
音速の壁を破る瞬間のyoutube映像を見せてくれました。

本当に「ドーン!」っていうんですよ。その瞬間。

・・・・え?

そんなことも知らんかったのか、って?(-_-)

超音速の参考映像として、わたしがサンフランシスコで見たブルーエンジェルスの機体が
例に挙げられていましたが、ブルーエンジェルスの機体はF/A-18ホーネットです。
この辺相変わらずあんまり詳しくないんですが、インパルスよりスペック的には
上位の機体、つまりスーパーソニックの機種を使っているってことでOK?

ちなみにエンジェルスのパイロットは、耐Gスーツも酸素マスクもつけないそうです。
それが「ブルーズ」の伝統だそうですが、いったい彼らは何に挑戦しているのか。




翼端と垂直水平尾翼の先端のオレンジは蛍光色に塗装されています。
練習機ですから、視認性を上げるためですね。
垂直尾翼の黄色と黒のチェッカー柄もその一環でしょうか。

そして皆さん、742機のパイロットたちの首の向きを見てください。
なんとなく相手の機を見ているらしいのがおわかりでしょうか。






そして、写真を拡大して初めて知ったのですが。

742番の機の後部座席搭乗員をご覧ください。
一人だけ手を振っていませんか?(-_-)/
誰か知り合いに約束でもしてたんでしょうかねえ。

それとも何か「キュー出し」している?



どうも調べたところによると、このT-4練習機、やたらと操縦しやすいそうです。
練習生が、昨日画像をお届けしたT-7、プロペラ機からジェット機に、
ストレスなく移行するには、この「亜音速」が非常に有効、すなわち、
「亜音速」と「超音速」のあいだには「遷音速」(トランソニック)という段階があるのですが、
このT-4は超音速機への移行を目的としているので、
「遷音速のための翼」が採用されているのです。

漂音速とは、

機体表面に超音速の気流が存在しない速度(亜音速)を超え、
全ての気流が超音速となるまでの、
亜音速の気流と超音速の気流が混在する領域、

即ち

「亜音速以上超音速以下」

のことですね。
マッハで言うと0.75~1.25、ジェット旅客機の巡航速度に相当します。

さらに、この機体、そのシェイプもまた練習用として配慮が行き届き、
全体的に丸みを帯びたその形態は、イルカに似ていることから、
「ドルフィン」というあだ名(正式名称ではない)がついています。

そういえば、ブルーインパルスの整備チームのことを
「ドルフィン・キーパー」というんですが、ドルフィンとはT-4のことだったんですね。

ここで、ブルーインパルスが背面飛行に移る連続コマ写真を少しだけ。














同じ機体を使ってはいますが、ブルーインパルスで使用されている機体は
正式には戦技研究仕様機という「特別あつらえ」です。

改変された点は以下の通り。

ウインドシールドなどの強化
HUD透明表示板の材質変更(バードストライク対策)、
ラダーリミッタの制限角度変更、
低高度警報装置の追加、
コックピット内の一部機器追加やレイアウト変更、

そしてこれがなければブルーインパルスではない!ということで

スモーク発生装置の追加



ラダーリミッターのラダーとは、読者の方も教えてくださった「方向舵」。
上にあるURLを見ていただければわかりますが、垂直尾翼の後縁についている可動翼で、
機首を左右方向に振る役割をします。

「ラダーリミッターの制限角度」とは、ノーマルT-4で5°の角度に対し、
ブルーの機体は10°まで取れるだけ制限を緩めています。
ラダーの制限を5°増やすことで、曲技のために必要な方向転換がより容易になるのです。

上で説明したハーフ・スローロールの動きですが、こういうのもすべて
微妙なフットワークでラダーを調整して行うのです。



このフォーメーションをフォーシップインバートというのですが、
この「全員で背面飛行」というのは非常に高度なテクニックが必要なのだとか。
なぜかというと、背面飛行そのものが難しいんですね。

背面飛行になると、操縦桿の操作に対して逆に機体が動くからで、
世界のどのアクロバット飛行チームにとっても、これが一番難しい技であるようです。
たとえば先ほどお話ししたブルーエンジェルスですが、「ダブルファーベル」
Double Favel、Fabulous (素晴らしい) と Marvelous (驚くべき) を組み合わせた造語)
という、「2機だけが背面飛行」を行っています。

これはもしかしたら、彼らの使っている機体が超音速戦闘機であることにも
関係しているかもしれませんね。想像ですが。


3機が背面飛行をするフォーメーションを3シップインバートといい、
ブルーはダブルファーベルから3シップインバートを経て、現在の4シップインバートに
その技術を進化させてきたのだそうですが、現在でもその日の状況
(風が強く、一番機がノーマルに飛ぶ必要があるなど)によっては、
フォーメーションを変えているそうです。

つまり、この日完璧な4シップインバートを観ることができた浜松基地の観客は
なかなかラッキーでもあったということです。

しかし、このフォーメーションのことだけ見ても、世界的に見てブルーインパルスの、
ひいては航空自衛隊のパイロットの操縦技術は、
非常に高いものだということができるのではないでしょうか。






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開設1000日記念時事漫画ギャラリー

2013-05-30 | 日本のこと

「TPPはビートルズのようなもの」



静浜基地航空祭のご報告並びに日本海大戦についてのエントリ掲載途中ですが、
0のつく日に「1000日記念シリーズ」を入れることに決めてしまったので、
無理やり挟みます。



さて、この「Let It Be」のパロディ。
イラスト自体は個人的に気に入っています(笑)。

「TPPはビートルズのようなもの。
アメリカがジョンなら日本はポールだ。
どちらが欠けても美しいハーモニーにはならない」

政治家はあまり妙なたとえをしない方がいいですね。
ジョンが殺されたとき「犯人はポールか?」っていうのが流行ったって、
野田さんはご存知だったのかしら。

野田さんは政権末期にもプロレスのたとえを出して妙なことを言っていましたが、
一部のファンにウケても、皆に怪訝な顔をされては意味がないと思うの。
どちらにしても、たとえのセンスがひどすぎる。

それにしても、安倍総理、TPPに関して自信満々ですね。
自分たちが押していたにもかかわらず、マスコミは
それが批判原因になるとなるとさっそく「反対の声」を強く押し出し、
政権の人気低下につなげようと画策しているようですが。

安倍総理が今回強気なのは、もしかしたら
アメリカの経済があまり良くないのであまり無茶も言ってくるまい、
という読みをしているのかな?と個人的には思いますが、
どうなっていくんでしょうね。

ただ、まだ「交渉参加」ですが、個人的には心配といえば心配。
アメリカって何しろ「真っ黒黒助」だから・・・・・。



「腹話術で歌え君が代」




「大声で歌え君が代」のパロディ。
日教組先生とマスゴミ批判です。
君が代を歌っているか「口元のチェック」という荒技に出た
橋下市長(当時)にマスコミが狂乱したのは記憶に新しいところ。

「もし口を開けずに腹話術で歌っていたらどうするのか」

小学生でも言いそうにないこの屁理屈が、
ほかでもない新聞記者の頭から出てきたということに絶望しました。

思うに、この国のガンは間違いなくこの国のマスゴミです。



国会劇場「田中くんと山本くん」



国会での田中防衛大臣と山本一太議員の息詰まる質疑応答(笑)。

その後入れ替わるように妻が文科大臣になりましたが、
これがまた何をやらかすか目が離せませんでしたね。

野党自民党議員に
「どさくさに変なこと(朝鮮学校無料化)決めるんじゃないでしょうね」と言われて
「どさくさってなんのことですか。わかりません」
としらばっくれておりましたっけ。

その後、選挙で落選、比例復活もならず無職となった田中真紀子。
「なぜ落選したのかわからない」という後援会の落選の弁にネットでは
「それがわからないから落選したんじゃね?」などと突っ込まれていましたが、
彼らがよくわかっているはずの「落ちた理由」を公表しようものなら
真紀子にいったいどんな目にあわされるか。
使用人を裸で真冬表で土下座させたり、カレーの鍋を頭からぶちまけて火傷させたり、
つまりそんな人間が「親父の義理」だけで当選し続けられるわけはない、ってことでしょう。
彼女にとっての人間は「家族か敵か使用人」であるとのこと。

うーん、人生がシンプルで実にうらやましい。
絶対にそんな人間にはなりたくありませんが、

しかしそれを考えると、真紀夫である田中氏って途轍もなく人間ができているんじゃあ・・・。

そういえば、この人に質問する野党議員も必ず
「人格は尊敬申し上げますが」なんて言ってたなあ。
きっと気のいい、いい人なんだろうなあ、と思っていたら!

晴れて野党になり、質疑台に立つことになった田中真紀夫。
わけのわからない揚げ足取りで「具体的に」
を100回繰り返しながら与党をねちねちといたぶっている(つもりの)
この馬鹿男のしつこいだけで中身のない低劣な弁論を見て

「どこがいい人なんだ!ふざけるな!
わたしの同情と憐憫を返せ!」

と画面に向かって叫んでしまいました。
何年後か知らんが、夫婦そろって無職になるのは確実。

その汚い首を洗って待っているがいいわ。




「理系総理 管直人」



野田総理が解散を宣言した後、うちにお掃除に来た方が

「やっと解散しましたね」

この人に、エリス中尉2009年の政権交代前

「民主党はまずいですよ」

とさりげなく啓蒙の意味で雑談したことがあります。(オルグ、いや拡散活動です)
ところが、この方、
「どこがやっても同じですよ」
などとエリス中尉に言わせると「もっともたちの悪い無関心発言」をするのです。

「誰がやっても同じ」とか、「政治に興味がない」とかいう奴は選挙に行くな!
そして、どんな社会になっても文句言うな!というのがわたしの持論ですので
そのときはそれ以上言わず黙っていましたが、
この三年の間、何か思うところがあったらしく、確実にかれは「民主嫌い」になっていました。

「やっと解散しましたね」と彼が言ったとき、
「どこがやっても同じなんかじゃなかったでしょ?」というと、
「いやいやーー。
しかしさっそくマスコミがねつ造印象操作しまくりですねえ」

なんか、しかも民主政権下でみなさんいろいろと目覚めてしまったようですね。
世論操作どころか、マスコミはこれからインターネットによって監視され、検証され、
そして批判される立場になってきているのではないでしょうか。

いろいろと時代が変わっていきつつあるという気がします。


『兄弟牆に鬩げども、外その務りを禦ぐ』




プーチン様に丹羽大使の批判をしていただきました。
オフレコ扱いで報道されていないけど、この財界人大使は

「尖閣問題で、日本は問題が存在しない立場をとっているが、
パンツを穿いていないのに穿いていると勘違いしているようなものだ」

というとんでもない発言で、「売国奴」認定の上「下品」という点でも烙印を押されました。
(ここに書けなかったとんでもない発言もあり)
しかしながら退任後。


ある中国人「丹羽大使への手紙」という中国語の文章が、
ネットで話題になっていました。いわく

「大使は大使の職にありながら、ビジネスの頭で問題に取り組んだ。
大使は、人と人は交流を通して理解できると信じ、どんな外交問題も
話し合いによって解決できると考えていた。

尖閣には主権争いが存在すると公言したあなたには大使の資格はなく、
さらに売国奴と呼ばれても仕方がなかったかもしれない。

『中国が日本に学ぶべき点はいまだにたくさんある。
工場を作って動かすだけが経済ではない』
最後のあなたの言葉を、我々は友人への忠告として受け止める。
また北京に戻ってきて両国民の友好のために知恵を出し続けてほしい」

中国人にとっては、非常にありがたい、評価されるべき「大使」であったというわけです。
中国人にとってはね。


「ハトヤマ・リスク」



やっとのことで引退した鳩山由紀夫。
残した迷言は数知れず、壊したものも数知れず、皆がムンクの叫びのような顔で
彼を見ているのに、それをあくまでも「自分への声援」だと受け取り、
「お気持ちをいただいた」などと心の底から言える男。
ある意味、最強です。
どんな罵詈雑言も、その脳内お花畑スイッチで「お気持ち」に変換する、
その超ポジティブな思考と、皆が止めているのにあちこちに出かけて余計なことをする、
無駄に積極的な行動は「もっとも厄介なのは無能な働き者である」
という言葉を体現するかれの姿はある種の感動すら巻き起こしました。

と言う意味では歴史に残る宰相であったと言えましょう。

「あの日の安倍晋三」



安倍首相のマスコミのネガキャン、あまり精彩ないですね(笑)

カツカレーに始まって、このあいだの「ブルーインパルス731機」問題も、
結局マスコミが火をつけようとしたんじゃないかと思いますが、
官房長官の菅さんがハッキリモノを言う人なので、
そういった問題を無難にガードしているのかもしれません。

とにかく、そんなマスゴミが担いだ民主党、
その民主党に積極的にむちゃくちゃにされた日本。
安倍政権発足当時、
「日本を取り戻す」
というキャッチフレーズに対し、いちゃもん半分で
「何を取り戻すのか」と批判していたキャスターがいましたが、
自分たちでここまでしておいて、そりゃないんじゃなーい?


「反橋下に正論なし」



橋下さんというのも何と言っていいのかわからない人です。

「誰かを全面的に応援する」というようなことは、こと政治家に関しては無理で
「方向性さえ同じであればある程度は妥協して選び、当選後はおかしなことには
遠慮なく声を上げ、目に余れば降ろす。
それが「政治に参加する」ということの限界なのではないか、というようなことを語ってみました。

橋下市長が「入れ墨をした公務員はクビ」としたことについて、ある方が
「あれは頭がいいと思いましたね」とおっしゃっていました。

ヤクザであったとか、どこの出身であるかを理由に辞めさせる、
などというと大変なことになるが、入れ墨をいれた者に対象を決めることは、
恐ろしいほど正確な、ある層を見分けるための「判断基準」となるからです。

先日、慰安婦問題に絡んで、在日アメリカ軍に対しとんでもない正論をぶつけた橋下市長。
アメリカさんは一度は橋下さんを非難にかかりましたが、さすがはアメリカ。
どこかの朝鮮半島の国とは違って
「この挑発に乗ってしまったら、藪蛇になる」
と自制心が働いたらしく、最近では
「地方自治体の長の発言に関してはコメントは出さない」
と、トーンダウンしてしまいました。

韓国からやってきた自称慰安婦も、最初は「橋下に土下座させるため」、
対決を申し込んできたのですが、結局直前の三時間前にドタキャン。

普通の日本人でもたいてい論破されてしまうようなこの人物に、
本人でさえも発言が二転三転している、年齢詐称の怪しげな「慰安婦」が
勝てるわけがない、ということを、
周りの支援団体が本人たちに言ってやめさせたんでしょうね。


橋下さんが政治家として発言することは、いつも
「だって本当じゃないか」
と、たとえば正義感に溢れた熱血中学生の言うことみたいです。

非の打ちようのない正論だからこそ、今まで誰も言わないことを平気で言い、
論難を恐れずむしろ挑発して騒ぎを大きくしたがっているようにも見える。

しかしわたしは個人的に、一人はこんな政治家が日本に居てもいいんじゃないか
という気が最近しているのです。

だって、慰安婦問題、いままでやりたいようにやられてきた日本が、
この騒動のおかげで「膿み出し」できそうな勢いですよ?

アメリカが日本に「敗戦国としての罪悪感」を押し付けたままにしておきたいことや、
慰安婦とやらを突っつくことでその嘘と担ぐ人たちの目論見も、
いわば明るみに引きずり出された感があります。




まあ、だからといってこんな人が総理大臣になっても、それはそれで困りますが・・。



時事漫画はあまりたくさん描いたわけではありませんが、なんというか
描くモチベーションと言うのがどうも「アイロニー」「批判」だし、
単なる挿絵として描いているので作品としてわりと「どーでもいい」のが多いです。
でも、先日の「ジミンガー」もそうだけど、アイデアだけで結構ノリノリなので、
描いているだけでストレス解消になるのも事実です。


ところで、昔、謎の削除に遭った「NHK訴訟問題」のエントリが、
自動的にバックアップされていたことがわかりました。

「JAPANデビュー」訴訟に見るNHKの問題点


エントリ復活です。
興味のある方はどうぞ。




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静浜基地航空祭~練習機T-7

2013-05-29 | 自衛隊

去年、生まれて初めて入間基地の航空祭というものに行ったわけですが、
今回、入間とここではずいぶん雰囲気が違うなと思ったものです。

ここ浜松は何と言っても入間より土地が広く、草地が相当あるので、
観客はエプロン前で行われるヘリの降下訓練(一回だけ)があまり見えない、
ということにさえ我慢すれば、ピクニック気分で草地にシートを広げたり、
あまり大きくなければ日傘を立てたりすることができるのです。


航空祭のいいところは、どこに場所をとっても、そう見え方に違いはないこと。
観艦式や降下訓練と違って、前のバズーカの砲列にさえぎられて全く見えない、
というような悲劇はあまり起こらず、したがってかなりのんびりしています。

ただ、そういうものなのだからこそものすごい数の人が基地に押し掛け、
別の意味での阿鼻叫喚は避けられません。
そんなこんなは今後お話しすることもあるかと思いますが、
それより入間との違いでもっとも重要な点は、この基地に配属されている部隊の関係で、
主流となる飛行機が、このT-7であることです。

1990年代から練習機として開発が始まったT-7は、ここ静浜基地の第11教育団に
配備されている、いわばここの「(-.-)顔」となる飛行機だったのです。

であるからして、ここにはT-7ジュニアというバイク軍団もこっそりと配備されています。
このT-7ジュニアの演技についてはまた別の日にお話しするとして、
まずは我が家の面々がツァーで前の日から浜松入りし、この日朝6時に起きて
7時出発のバスに乗り、基地に入ったところから始めます。



どうでもいい写真ですが、ここに泊まりましたってことで。
ビジネスホテルに毛が生えたような駅前ホテルで、
親子三人が一室ずつ、三つの部屋に分かれて宿泊しました。
息子とは隣同士の部屋でしたが、スカイプで連絡を取り合いました。
スカイプ、便利。


当日朝は6時半から朝食。7時にバス出発です。
自分だけで行動していたらきっとこんなに早く起きなかったでしょうから、
ツァーにしてよかった、とその点だけは思いました。
外来機の帰投が見られないのが残念だったので、
おそらく二度とツァーではいかないと思いますが。

ガイドさんが帰りのバスで言っていたのですが、
当日朝出発のツァー客は周辺の渋滞に巻き込まれたため、到着が11時近くになり、
午前中の展示はほとんどが終わる頃会場に入り、しかもツァー集合時間は2時40分。
この日ブルーインパルスの演技時間が押したので、それすら満足に見られなかったということです。

皆さん、基地見学ツァー申し込むなら一泊ですよ。



基地のすぐ近くにある水産工場の敷地でバスを降り、
歩いて正門から入ります。



歓迎されています。



正門の掲示板に貼ってあったいまいちよくわからないコンセプトのポスター。

●自衛官募集
●自衛官を採用することを企業におすすめ
●サンダーバードのブルーレイコレクターズボックスの宣伝

と、いろいろ盛りだくさんに詰め込んでおります。



手荷物検査はありませんでした。
身分証明書も必要だと言われていましたが、見せませんでした。
ここに立っている警備の方たちは、怪しそうな人物だけチェックしている模様。



さっそくT-7がお出迎え。




基地に入るとさっそく列ができています。
何かと思えば、C-1の中を見学するために並んでいる人たち。

 

まだ時間もあるので、入ってみることにしました。

 

入間基地から来ているC-1です。
人員は60名、武装した空挺隊員なら45名乗せることができます。
相撲取りなら20人ってところですね。



中にはちゃんとパネルで第二輸送航空隊の説明が展示してあります。

 

シートは折り畳み式。



にこやかに応対していた隊員さん。



C-1を降りたら、列はそのままチヌークの内部を見る流れに。
見たかったんですよ。チヌークさんの中。

このCH-47も、ここの配備ではありません。
入間か美保か。
いずれにしても外来機です。

ひとつの基地に配備されている航空機だけではいまいち盛り上がりに欠けるので、
きっとこうやって外来機が来るんでしょうね。
で、ブルーインパルスが「花を添える」と。

  

想像していたより中は大きくありませんでした。



陸自のヘリ軍団も展示されていました。

 

相変わらずいかつい武装ヘリである。
AH-64D、アパッチロングボウのチェーンガン。



ううっ・・・・・かっこいい。

迷彩柄はやっぱり陸自のものであるとこういう光景を見ると思います。



いたいた。OH-1。

じ・つ・は・ですね。
このOH-1、ずっとおとなしく(笑)展示されているだけのために
この日明野かどこかから外来していたわけですが、
ブルーの演技が終わって外来機が次々帰投していくわけですよ。
わたしたちはそれを見送ることができず、エプロンの格納庫の裏を
ひたすら集合場所に向かって歩いていたのですが、そのとき、
こいつが帰投のために上昇を始めたと思いなせえ。

この「ニンジャ」のパイロット、やってくれました。

ふわ~~っと浮き上がったかと思ったら、アヤシイ動きを始め、見ていた皆が

「えっ?えっ?宙返りする?」

と驚愕のままに息をのんで見つめていると、

「なーんちゃって。やりませんよ。だって今日は空自の基地祭だもんね」

って感じで、素知らぬ顔で元に戻ってしまいました。
あれは、絶対に狙ってやっている。(確信)

残念だったのは、帰るときだったのでカメラをバッグに入れてしまっていて、
撮る前に消えてしまったこと。
ああ、それにつけても一度この目で宙返りを見たいものである。

・・・・・・これは、明野基地の航空祭には行かねばなるまい。

さて、座る場所を求めてうろうろしていたら、9時になり、
基地司令の御挨拶とともにオープニングフライトが始まりました。


 

さあ、いよいよ始まるぞ!
と移動しながら空を眺めていると・・・・。



航空祭が晴れるように、隊員が巨大なてるてる坊主をつくったらしく、
それが飾ってありました。



こ・・・・・・っ。 これは!



そして始まるT-7の飛行。
青い空に白と赤が映えて実に美しい。



練習機ですので、なんとなく玩具っぽい。
このT-7、まだ運用が始まって10年なんですね。
製作は富士重工業です。





練習機と言いながら、乗っているパイロットが結構貫禄あるんですけど・・。
こういう時は教官が乗ったりするのかしら。

まあ、昔もそうだったけど、今も教官と言ってもそんなに年齢が違うわけではないらしいですが。



止まったら即座に整備員が整備点検。
彼の持っているものはなんでしょうか。

アナウンスではこの整備員の任務についても詳しく紹介していました。

整備小隊というのも整備補給群という名で第11飛行教育団に含まれます。
因みに先日「目が悪くてもパイロットになれる」というアナウンスがあった話をしましたが、
ここにはパイロット適性を検査する機関である「衛生隊」があるのです。
この隊も第11飛行教員団の一つです。

わたしが聞き漏らした部分ですが、パイロットになるのに昔は「裸眼でないとダメ」だったのが、
今では「眼鏡で矯正して見えればOK」となっているのだそうです。



手は後ろに組むのがどうやら基本姿勢らしい。



各飛行機の前とレフトウイングの後ろに立っています。



最初の演技が終わってエプロンを移動中。
観客が皆手を振るのに答えてパイロットも手を振ってタキシングします。



次の飛行のためにもう一度ラインナップ。








二機が時間差で飛び立つ瞬間。
921番の機体が邪魔だ~。
















赤い帽子は整備隊のトレードマーク。



この人はパイロットです。
背中にパラシュートを背負って、ヘルメットを持っています。

何度も飛行を行ったT-7ですが、どうやら演技終了となりました。



バスが到着。



カメの甲羅のようなパラシュートを背負ったパイロットが降りてきました。



観客の声援に応えて手を振りながら退場。
まるで千両役者のように注目を浴びています。
ところでふと疑問を感じたのですが、ここ「飛行教育団」は、
教育を施す教官が主なのか、生徒が主なのかどちらなんでしょうか。
この、歩いているパイロットたちはもしかして「先生」?



いずれにせよいい笑顔です。

そして、午前中の演技が終わった後、最後のダメ押し?大編隊飛行。





向こうからやってきた編隊は・・・・・





富士山の形での編隊飛行です。
ここは静浜基地、富士山のお膝元だからですね。

この航空祭は午前中、T-7に始まって、

T-4
RF-4
F-2
F-15
C-130
UH-60

とこれだけの空自所属の外来機が飛行しました。
静岡県警のヘリも特別参加していました。

これらの飛行についてはまた後日。







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静浜基地航空祭~ブルーインパルス

2013-05-28 | 自衛隊

行って参りました。

静浜基地、つまり静岡浜松基地航空祭。
カメラを買ったせいもあり、なんとなく家族で盛り上がった結果、
なんと家族で基地祭参加の一泊ツァーに申し込んで、
土曜の朝から日曜の夜いっぱい、「飛行機三昧」の終末を過ごしたというわけです。

行ったことがないので興味津々のTOと、相変わらずこういうことには出不精で、
嫌々参加の息子、(一般的な13歳の男子として、これかなりおかしくないですか?)
そして何より扇動者であるところのエリス中尉。
三者三様の航空祭となりました。
まあ、この二人のことはどうでもいいので置いておいて。

今回の航空祭では、昨日エントリーでもお話しした「ニコン1デビュー」が大きな目的。
まあ、それなりに撮れたような気もしますが、何しろ不慣れなもので、
画像の処理等時間がかかってしまい、今日は写真をアップするのが精いっぱいです。

・・・・・誰だ。別に本文はいらねえ、と言っているのは。

というわけで、今日は比較的淡々と、世間的にも注目度の高いブルーインパルスの演技だけ、
貼っていきたいと思います。

まずは編隊飛行から。



1番機には後部座席にも一年目のブルーが乗っているようですね。
肉眼では全く見えないけど、写真だと分かる。



一番機にはHPによると三名割り当てられていて、
飛行班長という「キャプテン」は現在二人いるそうです。
一人がもうすぐ卒業するパイロットということです。
どちらが搭乗しているのかはわかりませんでした。
アナウンスではちゃんと名前をコールするんですけどね。
一番機は全員が佐官以上です。

全員が一番機だけを見て飛ぶらしいので、これは当然かもしれません。

ところで今初めて気づいたのですが、この一番機の機体番号・・・・・・。

あれですね。

安倍首相が乗って写真を撮り、韓国が大騒ぎしたという「731」。

ついでだからこれ、J-castニュースの記事から抜粋しておきます。


日本は数字に意図はないと否定している。
菅義偉官房長官は15日午前の記者会見で
「あえてそんなことをするはずがない」と述べた。

航空自衛隊の広報によると、「731」に首相が乗った理由は
「単純に、731が隊長機だったからです」という。
12日、松島基地には他の番号の機体もあった。

731というのは、
練習機T-4のうち131番目に製造された
という順を表すに過ぎない。

それがたまたまブルーインパルスに配置され、隊長機として使用されていたため、
首相が乗って写真撮影することになったというわけだ。

なお、写真を見ると機体には「Leader S.ABE」と特別の標示が書き込まれていて、
首相の試乗に際してはかなり入念に準備をした様子。
番号について、引っかかる人はいなかったのかと水を向けると、

「ないです。あれば変えてますよね…」



・・・・もう・・・・・子供か。
いったい精神年齢何歳なのこの国。

「731」が森村誠一の小説通りの史実であったかどうかはともかく、
そもそも、なぜ中国でなく韓国が大騒ぎになるのかと。(呆)

「あれば変えてます」
とおっしゃいますが、お願いですからそんなアホなイチャモンを前もって想定し、
日本のすることを鵜の目鷹の目で揚げ足を取って非難することだけが目的の
特ア、特に韓国なんぞに「配慮」する必要は最初っからみじんもありませんから。

航空自衛隊、いや、全自衛隊の広報の皆さん、見ておられますか?
そういうことですので、今後も全く気になさらなくて結構ですからね。


ここでまたしても余談ですが(何が『比較的淡々と』でしょうか)
最近、海幕広報室において
「海上自衛隊に批判的、攻撃的なマスコミ、マスコミ人、ブロガー」に ついて
リスト化されているという話が、現役海上自衛官並びに海自OBから漏れたそうです。

ある現役自衛官は

「確かに書面化したり、フラッシュメモリーなどの電子媒体で、
明確にわかるようなリスト化はしていないだろう。しかし、
口頭で『こいつは好意的』『こいつは批判的』と申し継ぐ、
いわば暗黙の『リストとはいえないリスト』は明確にあるはずだ。
幹部はもちろん、当の海幕広報室だって、リストがありますかと聞かれれば、
ないと回答するのは当然。
しかし、防衛省情報本部や海幕広報室は、大型掲示板のほか、
自衛隊に関して書かれているブログ
や ウェブサイトは日常的にチェックしている。

恐らくデータ化、すなわちリスト化もしているだろう」

と述べた、ということなのですが、だとしたらこのブログ、
gooブログ総数19万弱の中で、上位0.002%のランクにも入っているこのブログが、
リスト入りしていてもおかしくない!

と希望半分で言ってみる。











定規で測ったような間隔をキープしながら、何百キロものスピードで空を駈ける。
これは・・・・・・五線ですね。
大空に描く五線。

そこにあなたの心に浮かんだメロディを記譜してください!(アオリ文句)








もしかして。ひっくり返ってますか?



もしかして、これも全員ひっくり返ってますか。
いつも思うのだけど、この間重力はどうなっているんだろう。
シートベルト?が無かったら、キャノピーに落ちるのかしら。




二機が高速で至近距離をすれ違う。
これは、ある方によると「ぶつかりそうだけど、観客からそう見えるだけで、
実際は結構な距離がある」ということでした。



こうしてみると、翼が接触しそうですが、実際は奥行きがかなりあるとのことです。

それでは、単機を撮ったものを。



これも背面飛行。

この五番機は「第一単独旗」といい、Lead Soloという役割です。
つまり、スタープレイヤー的な演技をする機ではないかしら。(適当)
因みにこの五番機搭乗員は「公報幹部」乃万剛一三佐。
「空飛ぶ広報室」というTV番組をつい思い出してしまいますね。(わたしは観てませんが(-_-))
公報幹部とはクルーとしてプレスの質問に答えたりする幹部と解釈したらいいでしょうか。
これが本当の「空飛ぶ公報幹部」。



単機急上昇。
どこまでいくんだあっ!



と思ったら急降下。
4Gくらいは余裕でかかっていそうな動きですね。
こういうのもどうやら5番機の演技?
耐圧スーツを着ていないと、おそらく失神すると思います。





 

またもや急上昇。



太陽に吸い込まれていく!
そして皆が見つめる中、機影は突然ふっと消えました。

ここで「逆タカ戦法」という言葉がふと浮かんだのは、
この何万人もの観客の中、エリス中尉だけではあるまい。

・・・・だけでないといいなあ。(願望)



もしかして、結構ニコン1、いいですか?



シャッタースピードをほとんど限界まで上げて撮りました。




それでは最後に、ブルーが青空に描いた「作品」をいくつか。













ここでお待ちかね・・・。





ハートに刺さっていく矢。
この後ハートの裏から矢が突き抜けて出てくるのですが、
間違って画像を削除してしまいました・・・・・・orz

今回のハートは、去年の入間で見たハートよりお上手でした。
風があまりなく、スモークが残りやすいせいもあったかもしれません。

そして・・・・・・





5機が一辺ずつ描くお星さま。
これも、入間よりお上手でした。



そして、去年の入間航空祭で、2番機のバードストライクによる事故のため、
演技中止となって見られなかった「コーク・スクリュー」。

なんですが・・・・・・・。

ここに至ってシャッタースピードの調整に失敗し(T_T)、
よりによってこの演技の最初の部分の写真が尽くボケてしまいました・・・。
(なので最小画像です)



二機はそのあとらせんを書くように上昇してゆき・・・・・



太陽に向かって消えていきました。





しかし、今回ハートの演技を見ていて思ったんですが・・・・・
ここに、ブルーインパルスのクルーとお付き合いしている恋人がちょうどいたとしましょう。
ある日、5番機の(かどうか知らないけど)彼から

「静浜基地の演技で、俺、ハートの矢になるんだ。
君のハートを射抜くつもりで演技するよ。
それを観てくれ。そして返事が欲しい」

なんてプロポーズされて、実際自分の恋人が青空に描かれた自分のハートに向かって
ブルーインパルスの機体で真っ直線に飛んでいくのを見せられたら・・・・・

どうですか~?

もうこんなの、OKの返事を出さない女子なんていませんよ?
成功率100パーセントのプロポーズですよ。

しかし、世界でこのプロポーズができるのはブルーインパルスの隊員、
しかも矢を射る5番機の(かどうか知らないけど)一人だけなのです。


実はこれ実話なのですが、当日会場では、ブルーの演技が終わってから、

「皆さんもパイロットになって大空を飛んでみたいと思いませんか?
でも、『目が悪いから』などと思ってあきらめているあなた、
今は目が悪くても道はあります!
なぜならどうたらこうたらなので大丈夫です。(ここは聴いていなかった)
興味をお持ちになったあなた、どこそこに自衛隊地方連絡会のテントがありますので、
入隊案内の説明を
ぜひそちらで・・・」

と、ここぞとばかり勧誘のアナウンスをしていた、空自広報でございます。

まあ、高嶺の花の彼女にプロポーズなんていう下心で勧誘するまでもなく、応募者は多いのでしょう。
宅のTOですら、冗談とは言え、ブルーインパルスの演技後、これを聞いて

「え、目が悪くてもなれるの!
もう今の仕事辞めてパイロットなろうかな」

とつぶやいていたくらいですから。


静浜基地航空祭ツァーのご報告、またもや(延々と)続きます。
あ、日本海海戦のログも実はまだ終わってませんので、
こちらも並行してお話ししていきたいと思います。







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「ミラーレスと呼ばないで」~ニコン1を買った

2013-05-27 | つれづれなるままに

おそらくコンパクトデジカメの中では結構いい線いっているのではないか、
と思われるソニーのRX100を購入し、それなりに楽しんでいましたが、
特にエリス中尉のように自衛隊関係のイベントにカメラを必要とする場合、
致命的ともいえる欠点があることに気付きました。

つまり、晴天下でモニターが全く見えなくなるという。

かといって、基地祭でバズーカみたいな一眼レフを担いで
人波をかき分けかきのけ、いつの間にか周りの顰蹙を買うような、
そんな「カメラマン」には死んでもなりたくありません。

そこそこいいカメラで、しかもそんなに重くない(気分的にも重量的にも)
ミラーレスカメラはどうかしら、そう思っていたある日、
日経ビジネスの特集「世界に誇るニッポンの商品100」という記事で、
浄水器、ヘルメット、地雷除去機、新幹線からカップヌードル、ハローキティ、
そういったものと並んで、ニコン、キヤノンの一眼レフが紹介されていました。

一眼レフは精緻な光学とメカの技術が必要で、長く他社の追随を許さなかった。
ところが、パナソニックが2008年、反射鏡を取り除いて構造をデジタル化し、
小さくした「ミラーレス」カメラを発売。
一眼レフのシェアを奪うようになってきた。
しかし、カメラの性能を決めるもう一つの要素としてレンズがある。
キヤノン、ニコンが特許とノウハウで大きく先行。
デジタル化しても簡単に二強の牙城は揺るがない。

という記事なのですが、(ちょっと意味不明な気もするけど)これを見て、

「うーん、しょせんミラーレスは『エンポリオ・アルマーニ』なのね」

と意味不明の納得をしてしまい、一眼レフでなければ買い替える意味なし、
と結論付けてしまっていたのです。

しかし反面、こうも思っていました。

「つまり、キヤノンかニコンのミラーレスならいいってことなんじゃ?」




そんなある日、キヤノンから「小さな一眼レフ」“EOS Kiss X7”が出た、
と言うニュースを知り、俄然欲しくなってしまいました(笑)

画質やAF性能などのデジタル一眼レフカメラに求められる基本性能を
高い水準で維持しながら、小型・軽量化を実現したというもの。
これにより、手軽に持ち歩いて本格的な撮影を楽しむことを可能にし、
撮影領域の拡大に貢献する、というのがキヤノンの謳い文句。

とりあえず見に行きましょう、ということで、連休の終わりごろ、
TOと銀座ショウルームに出かけました。

ところが行ってみると、キヤノンさん、お大尽商売というか余裕というか、

日曜祝日はショールームはお休みさせていただきます

というお断りが・・・・・・・・ORZ
あっそ、ならいいです。歩いて3分のところにあるニコンに行くもんね。

何とニコンは基本的に年中無休。お休みは盆暮れ正月のみ。
ちゃんとこの日も営業していました。

ショウルームの方にまず、キヤノンの軽い一眼レフを買おうとしていたこと、
今使っているコンデジから買い替えるだけの意味のあるものなら欲しい
と思っていることなどをお話しして、何か見繕ってください、と頼みました。

我ながら投げやりである。
お任せ刺身じゃないんだからさ。

というわけで詳細は省きますが(おいっ)、ニコン1の新製品V2をお勧めされ、
あっさりとこちらを買ってしまいました。

いい加減すぎ?



一般的にミラーレスはオートフォーカスが遅いのですが、
ニコン1はこれを払しょくしていて、さらに一眼レフ画像より画素が多い、
とお店の人は言っていましたが・・・・・

・・・・・まあ、なんだかんだ言っても要は撮り手の腕ですよね。

そういう向上心が無いからにはある程度すべてお任せ!
みたいな機能がある方がいい。(なんて結論だ)

ところで、このニコン1、ミラーレスなのにミラーレスとは呼ばないのです。
レンズ交換式アドバンストカメラ、これがニコンの呼び方。

「ミラーレスと呼ばないで」ってことですか。

呼ばれたくない、その理由は?
プライド?それとも
「レンズ交換システムでエンポリオアルマーニ臭を払しょくした」(意味不明)
という前向きな姿勢の表明?


わたくし、ニコンすなわち日本光學工業株式會社が、戦時中は
戦艦大和の15メートルある測距儀を作っていた、という話を知ってから、
結構思い入れを持っていたのです。

まあもっとも、

東京光学機械株式会社(現・トプコン)

高千穂光学工業(現・オリンパス)
東京芝浦電気(現・東芝)
富岡光学器械製作所(現・京セラオプテック)
榎本光学精機(現・富士フイルム)

これら皆日本軍の光学兵器を開発・製造していましたが。

しかし、軍需光学機器製造企業としては、陸軍系の東京光学に対して
海軍系の製造をしていたので

「陸のトーコー・海のニッコー」

とも謳われていた、というのがニコンひいきの大きな理由。
さらに、戦後あのマッカーサーが「日本人は12歳児」という暴言を吐いたとき、

「日本人は12歳などではない」

という反論を新聞に載せた企業である、と知ったときから、
特に思い入れを持っているのです。

だから買った、というわけでもありませんが、今回キヤノンを見に行って
(そこで買えないのにもかかわらず)休みだったのでニコンを買ってしまう、
まあ、こういういい加減なその場任せの消費をする人間も世の中にはいるってことです。

ご参考までに。



充電して最初に、ベランダに来たスズメを撮ってみました。
ガラス越しとはいえ、なかなかいいのではないかしら。
ちなみに、わたしは毎朝スズメに「コシヒカリ」を与えて手なずけています。

世界が終わるときにはスズメが助けに来てくれる予定。


前回、アメリカでカメラを買い、英語の説明書を読むのが面倒で、
「カン」だけで使ってきたわけですが、今回せっかく日本で買ったのだから、
と、ショールームで開催している無料の「使い方教室」に行ってみました。
参加者は前部で五、六人。
平日の昼間だったせいか、全員が女性です。

 

前のモニターに説明の女性がカメラをつないで、
ここにカメラ内部が写るようにしながら説明してくれます。
風景写真を撮ったり、前の花かごを撮ったりしながら説明終わり。

しかし、この説明を聞いたあと、今までのRX-100の使い方の疑問も
ほとんど氷解いたしました。

そして、あまりわからずに使ってたらしいということがわかりました。
こちらのカメラも公平に使ってあげることにします。

というわけで、使い方がわかったので次の乗馬のときに
さっそニコン1、持っていきました、

 

モーションピクチャーというのか、スポーツモードに調整してもらって
それで撮ったもの。
小さくてわからん、って?

画像処理のソフトがまだ使いこなせていないんですよ。

 

わたしが乗っているのを今度は先生に撮ってもらいました。
自分の姿勢を映像でチェックすることは大事だそうです。
右は新しく来たドイツ人(ザルツブルグ出身)の先生。

 

右側は前のカメラ(カール・ツァイスレンズ搭載コンデジ)で撮ったもの。
写真を小さくしすぎて、あまり違いが判りませんね。
というか、やっぱりRX100 、悪くないですよね。




最後に、先生の撮影した写真。
馬の表情がシュール・・・・。


というわけで、取り合えず昨日静浜基地でデビュー戦を飾るべくブルーインパルスを撮ってきました。
冒頭写真がそれです。
またこの航空祭のことを明日からお話ししますのでお楽しみに。






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記念艦三笠見学~日本海海戦百周年記念行事

2013-05-26 | 海軍

日本海海戦は1905年の5月27日に行われました。
それからちょうど100年経った2005年、この区切りを記念して、
日本海海戦100周年記念行事が行われました。

8年前の明日です。

8年前といいますと、エリス中尉、日本海海戦ってそれなんだっけ、
とまではいきませんが、ほぼそういう状態で、
海軍については全くと言っていいほど知識も関心も持っていなかった頃です。

勿論そんな頃のできごとですから、先日、記念艦三笠に二度目の見学に行った際、
前回は見落としていた(というか見ても全く関心を払わなかった)コーナーに、
この写真が掲示されているのを見て、
初めてそういった大々的な行事が行われていたことも知ったわけです。

うーん、残念すぎる。

100年記念、それは当たり前だけど、ただ一度きりの機会。
その記念行事を全く目にすることもなく、のうのうとしていたとは口惜しや。
自分の当時の無関心に臍を噛む思いです。



記念式典におけるおそらくVIPの皆様方。
この日舞台の前に1000脚もの椅子が用意されましたが、
瞬く間に満席となり、500名の観客は立って見学することとなりました。

いや、これ8年前だからこの程度で済んだんだと思います。
もしこの行事を今やったら、500どころか三笠公園に人が入りきらず、
仕方なく整理券配布という状態になってしまったかもしれません。

式典はまず、日本とロシアの国歌演奏、この海戦で亡くなった
日露将兵への黙祷をささげることから始まりました。

ロシアの国歌というのは、ソビエト連邦の頃からある、
「祖国は我らのために」。
我が「君が代」は当然この日本海海戦のころはありましたが、こちらは
1944年制定ですから、そのころには存在しなかったんですけどね。

でも、いい曲です(迫真)

ソ連崩壊後、すべてのソ連的なものを排除してきたロシアですが、
この名曲はやはりどうしても捨てられなかった模様。
2001年に、歌詞を変えてロシアの国歌に制定しました。

全く本筋から離れますが、このロシア国家のポップスバージョンで
面白いのを見つけたので貼っておきます。
一瞬ですがロシア空軍のスホーイだかフランカーだかが宙返りしているシーンあり。

ロシア国家「祖国は我らのために」ポップスバージョン

続いて来賓のあいさつ。



中曽根元総理が名誉会長。
やはり一応は海軍軍人であったという経歴からでしょう。
中曽根元総理は5月27日、日本海海戦の日、つまり戦前は
海軍記念日が誕生日なのだそうです。

このあいさつの概要は以下の通り。

日露戦争は、ロシアの場合には領土の拡張に過ぎなかったけれども
日本の場合は、生きるか死ぬか皇国の危機に臨んでの戦いで、
明治天皇を中心にして、国民が死に物狂いになって戦った結果であります。
この日本海海戦百年目にあたって日本を回復し、
平和国家として世界に貢献する、我々の努力を見てくださいと、
日本海海戦に努力した先輩に対して、心に誓いたいと思うのであります。

8年前において「日本を回復しよう」と、中曽根さんは言っているんですね。

だがしかし。(笑


そのころもし日本が回復すべき自信を失っていたとおっしゃるのだとしたら、
もしかしたら、その原因の一つは、自分が拗らせ、ついには

「公式参拝が近隣諸国民の日本に対する不信を招くため」

という理由で(実は親しかった胡耀邦の共産党内の政争に対する配慮と言われる)
靖国参拝をやめてしまったようなことにもあるのではないかしら。

先日、ある東大の保守論陣の方が「中曽根さんのやったことの罪は重い」
とさらっとおっしゃってましたし、客観的にもそうとしか言いようがないわけですが、
そういう自覚はご本人に全く無かったってことかしら。 



それはともかく、さすがはもと帝大卒海軍主計少佐、
言っていることそのものは全く間違っていないと思います。
(だからかえってタチが悪いとも言えますが)

なによりこれを、出席していたロシア代表がどう聞いたか興味がありますね。
そのロシア代表、ガルージン公使の挨拶。

丁度100年前にロシアと日本が激しい戦いを行ったのは
歴史の事実であります。
幸い現在は、その日本海を対決の海ではなく
友好、協力の海にしなければならないという
唯一の正しい選択を行ってまいりました。
現在の日露関係が100年前の時期に比べると抜本的に変わった
ことを特にロシアも喜んでおります



こういう式典では建前に終始するのが一部を除くまともな大人の国家というものですから、
ロシア公使のこのあいさつは至極当然のものです。

目の前で100年前のこととはいえ、

「お前らの覇権主義に我が国は勝利した」

と言われているわけですから、これが文明国家のロシア代表でなければ
最悪のケースですが、ひと悶着起こっていた可能性もあります。

しかも、現在の日露関係は決していいとは言えず、
いまだに北方領土の問題が解決していないのですから、
考えようによっては公使の言うところの

「100年前よりは日露関係はましになっている」

というのは皮肉にすら聞こえます。
まあ、戦争するしないの間には100万光年の差がありますから、
マシと言えばマシですし、何しろ日本にはそちらより
「関係が悪い」国が約三カ国ございますから・・・

ああ、そうそう、関係が悪い国といえば(笑)。

この式典には招待されてロシア海軍の駐在武官も出席していた、
ということですが、よくわからないのが韓国から海軍大佐が
呼ばれて出席したということ。

そのころ併合していたわけでもなく、そもそも影も形もなかった韓国ですが、
何か日露戦争に関係あるのかしら。
自分とこの領土を巡って両国が戦ったから、って理由でしょうか。

しかし、この韓国軍大佐とやらに聞いてみたかった。

この時に日本がロシアに負けて、朝鮮半島がロシアに占領されていたら、
今頃、韓国という国が、曲がりなりにも(笑)世界の中進国として
人間らしい国家を築いている可能性は全くなかったわけだけど、
それでも日本に併合されるよりはそっちの方がよかったとでも言うのかな?
千年恨むとか、そんなフザケたことをぬけぬけと言えるのも、
すべてはこの時日本が勝ったからなのよ?わかってる?って。




・・・・・・・・・さて。

次いで主要来賓や東郷家等日本海海戦に縁のある方々の紹介、
小泉内閣総理大臣や石原東京都知事から寄せられた電報の披露の後に
記念論文の表彰が行われました。




これは日本海海戦100周年を記念して全国から論文を募集し、
作家の三浦朱門氏が審査委員長となって審査が行われたもの。

賞状を授与されているのは最優秀作品に選ばれた京都女子大学大学院生。
「連合艦隊解散ノ辞に寄せて」というタイトルだそうです。

横に三人が控えていますが、これは佳作受賞者の皆さん。
見てお分かりのように一人海自幹部学校学生がいます。
この方の論文をぜひ読んでみたい。



なぜか日本海海戦100周年記念の柔道大会が開催されました。
これはどう考えても広瀬武夫中佐の関係でしょうね。

広瀬中佐は講道館の勝ち抜き戦で5人抜いて二段を獲得、
戦死後、講道館創始者加納治五郎の手で四段から六段に昇進しています。
講道館に殿堂入りもしているということです。





儀仗隊による弔銃の発射、ならびに海への花輪投入。
手前の二種軍装の海軍軍人は手に清酒を持っています。
まるで外洋に出たフネのようにみえますが、これ三笠艦上からでしょうか。



千宗室氏による献茶。




献茶の様子。
画像が小さかったので拡大してもボケてしまい、
良くわからないのですが、こちらを見ているほぼ全員が
着物を着た女性であるように思われます。
これは千宗室の裏千家の門徒であるということでしょうか。



千宗室は、前にも話題にしましたが
学徒出陣により第14期海軍予備学生として海軍少尉に任官。
そして1945年、特別攻撃隊に志願しています。

特攻作戦の実行が近づいたころ、千は自分達が乗る飛行機の機体の傍で
手持ちの道具と配給の羊羹で5人の隊員全員と茶会を催しました。
その中には、機体不良で引き返し、部隊の中でもう一人生き残った
俳優の西村晃がいました。

千宗室は靖国神社の献茶はじめ、戦没者や特攻隊員のための
慰霊の献茶を戦後、数多く行っています。





このような特別展も催されたんですね。

わーん、これ、見たかった!

河合太郎というのは、この不思議な帽子を見てもお分かりのように、
軍艦三笠で軍楽手(コルネット)だった河合太郎軍楽隊長。
聯合艦隊旗艦「三笠」の乗組員として日本海海戦に参加し、
戦闘中は前部主砲の伝令を務めていました。

映画「海ゆかば 日本海海戦」でも主人公のトランペット吹き始め、
軍楽隊員は伝令と救護、通信を担当していましたね。
一般に軍楽隊員は耳が良いので伝令を任されたということです。

河合太郎は日本海海戦を生き残り、その後三笠が沈没した火災の際も
無事で(この火災は楽団員の酒盛りが原因だったという噂あり)
戦後、軍楽長に進級して第一艦隊軍楽長、呉海兵団軍楽長を歴任。
昭和3年に現役を退いた後は広島県呉市に住み、
広島県の吹奏楽の発展に尽くしたということです。
昭和51(1976)年没。



なお、河合太郎の手記を読者の方からいただいており、そのうち上梓する予定です。



100年を記念して、靖国神社の遊就館でも特別展が行われました。



記念遺墨展。

この時に各地記念講演会も行われています。
阿川弘之、上坂冬子、渡部昇一、曽野綾子などのメンバーによるものです。




横須賀プリンスでのパーティで歓談する参加者。
右はロシア公使かな。



このときではありませんが、ロシアのワリヤーグが三笠を
表敬訪問した時の記念写真。
ロシア軍は皆若々しいですが、それもそのはず、皆士官候補生。

現代のロシア人、ことに海軍軍人であれば日本海海戦のことを
戦略研究の教材として徹底的に学ぶでしょうし、彼らが自国の艦隊を
打ち破った三笠に乗り込んでどんな感慨を持ったか、興味があります。

「意外と小さいフネだなあ」

と思ったことは確かでしょう。



交流の記念にワリヤーグが持ってきたメダル。
こういう時は互いにプレートを交換するのでしょうが、
残念ながら三笠のプレートは扱っておりません。
ご了承ください。




そしてなぜかでてくるアメリカ海軍。

日露戦争にアメリカも関係ないだろ?

などと心の狭いことは言いっこなし。
なぜならこのお方は、在日米海軍の司令官だ!

三笠のある横須賀は米海軍の庭みたいなものだし、
荒れ放題の三笠を復元するのに、ニミッツも協力しているし、
関係ないってことはなくもない・・・・ってことで。

しかし、さっきの韓国の話ではありませんが、もしこのとき日本が負けていたら、
おそらくアメリカは日本に脅威を感じることもなく、当然の帰結として
日米の間に戦争が起こる理由も無くなっていたんでしょうね。

そのかわり、現在、日本という国があったかどうかは謎ですが。

大東亜戦争の結果だけを考えた場合、
「日本はこのとき負けて、のちの戦争を回避した方がよかった」
と言う考えもあるのかもしれませんが、わたしはそうは思いません。

日露戦争に負けていたら、おそらく朝鮮は勿論下手すると北海道あたりも
ロシアに占領され、文句なく近代化は遅れたでしょう。
そして、「日本のような小国でも大国に勝てる」
という希望を支配されていた国々に与えることないまま、
世界の勢力地図は大国支配が長く続いたでしょう。

大東亜戦争に敗れたとき、曲がりなりにも小国や被支配国の
独立への動きが世界の潮流となっていたことは、
日本にとっても幸運なことだったと思います。

なぜなら同じ負けるとしても、この頃にはすでに大国が小国を支配する
という構図は過去のものとなっていたからで(善悪ではありません)
戦争に負けても日本が独立する道が用意されていたからです。

まあ、その独立とやらも占領憲法だの言いだすと話がこじれるので
今日はとりあえず戦後については触れませんが。

そういうことを考えても




「皇国の興廃この一戦に在り」

と言う言葉と「後が無い」という意味で挙げられたゼット旗は
決して大げさではなかったのです。



今年で、日本海海戦から108年め。
世に煩悩の数は108あると申します。
昨今日本を苛んできた煩悩の数々が、今年を境に少しでも払拭されて、
少なくとも司馬遼太郎の言うところの、
「あのころ坂の上の雲を目指していた日本人の高揚」
この気持ちの片鱗でもいいから、何とか取り戻すことができないものでしょうか。

「坂の上の雲」効果とはいえ、いま、日本海海戦に寄せる国民の関心の中に、
その微かな気配が見えるような気がして、若干の期待を持たないでもないわたしです。


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日本海海戦~「児玉ケーブル」と「光海底ケーブル」

2013-05-25 | 海軍



三六式無線のときにも少しお話ししましたが、日本海海戦において
情報の伝達が非常にうまくいったことの一つの要因として、
海底ケーブルがその一助を担ったということがあります。

「児玉ケーブル」とも言われたこの国産初の海底ケーブルは
以前にもお話ししたこの軍事、政治、経済、産業、全般にたいし
オールラウンドな才能を持っていた児玉源太郎によって敷設されました。

先日その「NHK史観」について少し苦言を呈した形の「坂の上の雲」
では高橋英樹がこの大物を演じています。


秋山好古が陸軍大学の学生である時に、校長職にあったのが児玉でした。

「坂の上の雲」では、ドイツ軍大モルトケの推薦により派遣された
クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐が陸軍大学校教官として、
秋山好古らを厳しく指導する様子を微笑みを浮かべて見守っていましたが、
メッケルを招聘してきたのも「臨時陸軍制度審査委員会」委員であった児玉です。

ちなみにメッケルの陸軍大学校での教育は徹底しており、1期生で卒業できたのは、
東条英教東条英機の父)や秋山好古などわずか半数の10人という厳しいものでした。

その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、
校長である児玉始めさまざまな階級の軍人が彼の講義を聴くことができたということです。


メッケルはその後、日露戦争開戦と同時に山縣有朋に対し「日本万歳」と打電してきています。

「児玉がいる限り日本は必ず勝つ」というのが参謀教育で来日し
陸軍大学長である児玉を教えたメッケルの確信するところでした。

今日は、ある意味秋山真之よりもプロデューサーとして日露戦争の勝利に貢献したというべき、
この児玉源太郎の功績についてお話しします。





児玉は日露戦争では満州軍総参謀として二〇三高地陥落させたように、
秋山好古に秋山支隊を編成させロシア軍右翼を脅かすなど、
満州における陸軍の作戦を主導しました。

そして、児玉は情報通信を徹底的に重視します。

冒頭の「海底ケーブル」とは、1851年に世界で初めてドーバー海峡に敷かれた
電力用または通信用の伝送路一般を言います。

20年後の1871年には大北電信会社によって日本も海底ケーブルを
長崎~上海および長崎~ウラジオストク間に敷設しました。
その後1883年には呼子~釜山間にも海底電信線が敷かれます。

しかし、日清戦争後、この状態に児玉は危機感を抱きます
すでに日露間で戦火を交えることを視野に入れてこその危惧でした。

児玉の抱いた危惧とは。

●呼子~釜山線は欧米人が使用しているので軍の独占ができず、
またここを切断されたら通信が途絶えて致命的であること。

●大北電信は名前こそ大北であるが、実はデンマークの電信会社。
後ろにロシアが控えていて、情報が筒抜けになる恐れがあること。

●長崎~ウラジオストック線も、当然日露戦争で使えるわけがない。


そこで児玉は、日本の手による海底ケーブルの敷設に乗り出すのです。
それは、本土と大陸(半島)をケーブルで結び、さらに台湾経由でイギリスの
ケーブル網につなぐ計画でした。


日本人だけの手で、日本の勝利のために海底にケーブルを敷く。

これが、児玉の壮大な計画であった。

(BGM 「地上の星」)



児玉は、まず、イギリスに海底ケーブル敷設船「沖縄丸」を発注し工事に着工しました。

「日本人にケーブル工事は無理だ。我々に任せておけ」

と大北電信が口を出してきますが、勿論児玉ははねつけます。
大北と無関係のケーブルを造るためにやっているのに何を言うやら。
ってところです。

さらに、日露戦争を見据えての事業ゆえ、情報の漏えいを防ぐために
お雇い外人技師もいっさい使いませんでした。

これを見て「日本人には無理」と欧米人は冷笑していましたが、
日本の技術陣は驚いたことに、明治30年には
九州~那覇~石垣島~台湾ルートのケーブルを完成させ、
その年中に支線を含め計画はすべて完了させてしまうのです。

日露戦争開戦に先立つこと8年前のことでした。

英米以外ではまだ難しい、といわれていた長距離のケーブル網を、
測量に始まって、すべての敷設まで有色人種が助けを借りずにやり遂げたのです。
日本と日本人の技術力に対して、欧米諸国が脅威を感じた最初の出来事でした。


そしてその後、この時に工事に携わったケーブル敷設船である「沖縄丸」の
八面六臂の活躍が始まるのです。

日露大戦開戦約1か月前の1903年(明治36年)末。
「沖縄丸」は、関門海峡の電信線修理などの名目で長崎港へ移動しました。
そして、すでに児玉の手によって用意されていた海底ケーブルを着々と敷設していきました。

この際、正体を偽装するため、沖縄丸はマストの位置を移動、
船首のシーブ(ケーブル用滑車)を隠す偽の設置、
船体や煙突を白色から黒色へ塗り替えるなどの工事を、佐世保海軍工廠で施されています。

さらに機密保持のため、乗員は誓約書を提出させられました。
船名も「富士丸」と偽装して、準備万端整えます。


そして開戦。
富士丸、いや沖縄丸は、陸軍の前進にともなって朝鮮半島西沿岸を北上し、
あの旅順近くまでこっそりレールをつないでいきました。


旅順はご存知のようにロシア艦隊が停泊している港でしたから、
沖縄丸の作業は、決死作戦のような緊張にいつもさらされていたことになります。

そして、日露戦争が日本の勝利に終わりました。

「沖縄丸」の為した功績は非常に大きなものとして、
「沖縄丸」の船尾には日本海軍軍艦と同じ菊花紋章の飾りが取り付けられました。
また、1905年の日露戦争勝利の凱旋観艦式にも海軍艦船以外で唯一参加しています。



菊の御紋を付けた沖縄丸。

沖縄丸はその後大東亜戦争中に海軍に徴用され、
グアムでの任務中に米軍潜水艦の攻撃により戦没しました。



ここでもう一度、ここで日本海海戦の情報伝達について記しておくと。

日本は望楼(見張り台)を持つ島々を海底ケーブルで結んだ警戒線を
対馬近海から日本海にかけて巡らせていました。
開発されたばかりの三六式無線の電信機も各艦船に突貫工事によって積載済みです。

信濃丸がバルチック艦隊を発見し、

「敵ノ第二艦隊見ユ 地点二〇三 信濃丸」

という電文が打電されると、これを「厳島」が中継して「三笠」に伝え、
「三笠」は直ちに聯合艦隊に出撃命令を発します。



電文は海底ケーブルと陸上線で本州の陸上線を通って、
下関から東京に達しました。

海底ケーブルがいかに日本海海戦の勝利に寄与したかは
「三六式無線」のエントリでお話ししましたのでここでは割愛します。


児玉がいかに慧眼であったかは、この計画の随所に表れていましたが、
たとえば、開戦になるとそれまで使用していたケーブルが切断されてしまうことを
最初から読んでいたこともその一つです。
児玉はそれを織り込んだうえで、日本製のケーブル敷設を強硬に推し進めたのでした。

その先を読む力は維新以降初めての国際戦争であり、
同時にインテリジェンス戦争であった日露戦争にとって、勝利への布石をなしえたのです。


ところで。

その後、昭和の時代に日本はその技術において
画期的なケーブルを生み出し、一時はそれが世界の基準とされていました。
この無装荷ケーブルを1932年に生み出したのも、松前重義という日本人です。

日本人って、本当に素晴らしいですね。

そして昭和50年代以降、海底ケーブルに光ケーブルを利用する
この技術で日本は世界一の地位に躍り出ます。

現在、世界中のインターネットを支えているのは光海底ケーブル通信です。
そして日本の光海底ケーブル技術は世界トップレベルなのですよ。

自らを誇らないのを美徳とする日本人と、我が国はもうだめだ、昔からダメだ、
と言い張りたい特定日本人たちのいる日本ではこれもまた周知の事実ではありませんが。


しかし、現在日本の技術がその地位を得ているのも、
このとき、児玉源太郎という巨人が先を見通して当時の日本の技術力を結集し、
「児玉ケーブル」を作ったこと、さらに技術者たちの辛酸とそれを克服する努力(沖縄丸含む)が
その計画を実現したことがあってこそなのだろうと思います。


ちなみに、児玉源太郎ですが、日露戦争終結の10ヵ月後、
54歳の若さで亡くなりました。
南満洲鉄道創立委員長に任命されてわずか十日後のことでした。


それにしても児玉源太郎・・・・・・54歳にしては老けすぎてません?






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日本海大戦~秋山参謀の「奇行」

2013-05-24 | 海軍人物伝



その1







その2














今日は、少し息抜きに(わたしは全然息抜きになってませんが)
久しぶりのコマ漫画をお届けします。

いずれも「こんな聯合艦隊は嫌だ」という言葉も虚しく、実話でございます。

主人公は、海軍一の秀才、のべつ頭が回転し続ける天才、
「天気晴朗なれど風高し」
この一文にすらたただものでないひらめきを感じさせる伝説の参謀、

秋山真之海軍中将(最終)です。


天才となんとかは紙一重、と申します。

天才参謀秋山真之も、実は本人を知る者たちにはどうも
そのきらいがあったようで、いくつかの逸話が残っています。

明治三十年、秋山はアメリカに留学していますが、その際
駐米大使であった星亨(ほしとおる)の執務室に勝手に出入りし、
いつも勝手に棚の本を手に取って見ていました。

星という人物は押しが強く、のちに国会議員になったとき
「ほしとおるではなく、押し通る」
と言われたくらいの人物ですが、このとき秋山の行為を見咎め、
一言文句を言ったにもかかわらず全く相手にされなかったそうです。

早いうちから戦術家として後進を指導する立場でありながら、
秋山には実に粗野なところがあって、のべつ幕なしに口にモノを入れていました。

ドラマで描かれていた「豆をいつでもポリポリしていた」というのもその一つですし、
本日の漫画「その2」における逸話のように、周りが緊張する中、
果物かごの林檎に手をだし、一人でシャクシャク言わせながら食べだしたので、
東郷司令長官はじめとする聯合艦隊の司令部将官は
あっけにとられて見つめていたということもありました。

人前で放屁することも平気なら、海大の教授になってからも立小便をしました。
学校の門を入ったところにある桜の木が、彼のお気に入りのスポットで、
必ずそこで用を足してから建物に入ったそうです。

・・・・・・・・・犬か。

大人物なのか、それともやはり「紙一重」だったのか。

アメリカでもその悪癖は一向に治らず(というか、悪いことだとも思っていなかったようで)
人の家を訪問したとき、その家の植木の根元で用を足し、
直後にその家の夫人とその手で握手し、そのまま何事もなかったように家に入ったそうです。

っていうか、これ、誰が見てたんでしょう。


いやー、奇行というより野生児のまま一生を突っ走ったって感じですね。
しかしそれもむしろ天才の名にふさわしいと思ってしまいました。





 

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天気晴朗ナレドモ浪高シ~「信濃丸」の殊勲

2013-05-23 | 海軍



1905年5月27日午前2時45分、

仮装巡洋艦「信濃丸」は、北航する艦船の灯火を発見。
「信濃丸」艦長の成川揆(なるかわ・はかる)大佐は、後方に接近し追尾を開始します。

丁度追尾を開始して2時間後の4時45分、空が明るくなってきたので、
「信濃丸」は300メートルまで接近して確認すると、

三本のマスト、二本の煙突

の艦艇であることがわかりました。
それは、第二太平洋艦隊、つまりバルチック艦隊の病因船、「アリヨール」だったのです。

いきな寄り道ですが、当時の聯合艦隊の皆さんは、
将官はともかく下士官兵は「外来語」というものに不慣れなので、
英語はもとよりロシア語の艦名を覚えるのに大変苦労しました。
そこで、「三笠」の阿保清種少佐が「記憶法」を編み出しました。

その傑作どころを少しご紹介すると・・・、

「クニャージ・スワロフ」→「国オヤジ座ろう」
「アレクサンドル三世」→「呆れ三太」
「ボロジノ」→「襤褸出ろ」
「アリヨール」→「蟻寄る」
「オスラビア」→「押すとピシャ」
「シソイ・ウェーリーキー」→「薄いブリキ」
「ドミトリー・ドンスコイ」→「ゴミ取り権助」
「イズムルード」→「水漏るぞ」
「アブラクシン」→「「油布巾」

いやー、どうですかこれ。
エリス中尉は個人的に「ゴミ取り権助」に傑作として一票投じますね。

単なるあだ名ではなく、聯合艦隊の将官は皆真面目にロシア艦隊を
こう呼んでいたといいますから、嬉しくなってしまいます。

決戦においても、真面目に

「目標!ゴミ取り権助ェー!」

ってやったんですからね。
誰なの。日本人はユーモアがわからないなんて言ったのは。

さて、閑話休題。

「蟻寄る」ことアリヨールを発見した「信濃丸」。

「これはアリヨールでありよる」(←)と成川艦長が言ったかどうかはわかりませんが、
それを確認すると同時に周りを見回すと、

こんな状況に…

バルチック艦隊…○
「信濃丸」…●

 ○ ○ 
 ○ ● 
  ○○
 ○ ○
 ○ ○


さすがに命の危険を感じました。
というのは「暴走族に囲まれた俺」コピペですが、まあそういう状況です。

そこで「信濃丸」は気付かれないように

○ ○ 
○ → → → → 
○ ○         
○ ○         
○ ○         
             (信濃丸)


その場を離れ、
4時45分「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」、
続けて4時50分「敵ノ第二艦隊見ユ」という歴史的な暗号電報を送信します。

「信濃丸」は排水量こそ約6500トンと大型ですが、
仮装巡洋艦ですから武装はほとんどしていません。
ここで周りの暴走族、じゃなくてバルチック艦隊に気づかれたら、
ひとたまりもなく海の藻屑になってしまうでしょう。

しかし、「信濃丸」はその後一時間あまり、敵方を監視して追尾を続けました。

○ ○ ○ ○ ○
○ ○ ○ ○ ○             ●(信濃丸)
進行方向

え?もうその図はええ、って?


この無線は戦艦「厳島」に中継され聯合艦隊司令部の旗艦「三笠」に届きました
その後、やはり無線を受信した巡洋艦「和泉」が6時45分にバルチック艦隊を発見。
蝕接を保って刻々とその動向を聯合艦隊司令部に打電し続けます。


海上は靄が立ち込め、視界は5海里という悪条件のもと、
「和泉」の石田一郎大佐は敵弾の届く至近距離まで近づき、
その範囲から出入りしつつ、危険を冒して監視を続けたのでした。



この時の功績に対して軍艦和泉の総員に送られた感状。

「和泉」の功績は、バルチック艦隊の動きを早くに把握できたという点で
聯合艦隊の勝利に貢献したということに対するものです。

それはいいんですが。ちゃんと「信濃丸」にも感状は出されたんでしょうね?
まさか、「久松五勇士」の「奥浜牛」さんみたいに
(これ、奥浜 牛じゃなくて奥 浜牛、つまりおく・はまぎゅうかも)
最初の発見者がそう評価されていない、ってこと、ありませんよね?



さて、これを受けて司令長官東郷平八郎大将が艦隊の出動を下命、
同艦より大本営あてに

「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、
コレヲ撃滅セントス
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

と打電し報告した事で、日本海海戦が開始されたのでした。




どうでもいいが電文を書いた人が達筆すぎて
読めない(笑)・・・・・でも・・・・

あれっ?

読めないなりに読んでみると、これ、変ですよ?

「(アテヨイカヌ)ミユトノケイホウニセツシ
(ノレツヲハイ)タダチニ(ヨシス)コレヲ(ワケフウメル)セントス
テンキセイロウナレドナミタカシ」

つまり暗号文で打たれた電文だったわけですが、
直接軍令とは関係のない

「天気晴朗なれど波高し」

だけが平文となっています。
あと、ところどころだけが「伏字」状態ですね。

しかし、この「平文」、解読されても単なる「時候の挨拶」と取られかねない
この一文に、重要な情報が詰め込まれていたわけです。

天気が良く、視界がはっきりしていて、しかも動揺が多い。
こうなると、射撃の練度が高い聯合艦隊に有利である、という意味なのです。

聯合艦隊、ことに阿保清種(あぼ・きよたね)砲術長率いる「三笠」では、
「砲身のらせんが擦り切れるのではないかと心配するほど」
訓練が重ねられました。

内筒砲訓練」と言われたこの訓練法は、砲身に小銃を据え付け、
その小銃を発射して的を狙うことによって精度をあげんとするものです。

因みにこの時の訓練の激しさをして海軍の
「月月火水木金金」の嚆矢であるとする説もあるそうです。





映画「海ゆかば 日本海大海戦」より。
打電する通信兵の横になぜかいる(笑)秋山参謀。

いくら原稿発案者でも、通信室でちゃんと打ってるかどうか
見張らなくてもいいと思うの。

 

何十年も前の映画の字幕に突っ込むのもなんですが、
これ、間違いがあるのにお気づきですか?

よく「敵艦見ゆ」とされるこの最初の一文ですが、
「敵艦」ではなくバルチック艦隊すなわち「敵艦隊」です。



昨日、聯合艦隊の勝因をいくつかあげたわけですが、
逆にバルチック艦隊の敗因の一つに、「日本の無線を妨害しなかった」
ということがあるそうです。
これは決して「正々堂々と戦おう」などという殊勝な意図などではありません。

聯合艦隊は、哨戒艦がバルチック艦隊を発見し、海戦に至るまで接触を続け
無電によって情報を送り続けましたが、バルチック艦隊は日本の無線を傍受しながら
探知されることを恐れて電波封止をしていたこともあって、

妨害しようにもできなかった

からなのです。

しかし、もしロシア側に秋山真之レベルの参謀がいたなら、
この無線をつかって陽動と妨害によって聯合艦隊をかく乱させるなどの作戦を取り、
案外結果が変わっていたってことはないでしょうか。

よって、わたしとしては「秋山参謀」と「三六式」が、
日本海海戦の勝因の最たるものと位置付けたいところです。


さて、六三式無線の威力と、その日本海海戦における働きは目覚ましいものでした。
日本海海戦は「インテリジェンス」の戦いであったとする説もあります。

ここで日本がインテリジェンス、つまり情報の重要さに目覚めて、
この技術を特化して研究していれば、大東亜戦争の結果はひっくり返らないまでも、
かなり違ったものになっていたはずだと思うのですが、
ご存知の通り、この戦争におけるレーダーの方面で日本は決定的に後塵を拝すことになり、
そのため手痛い敗北を喫する戦闘も多くあったわけです。

日本海海戦から、今後の戦争は情報戦であるという教訓を得たはずであるのに、
その教訓を生かすための長期的な展望を持ち、それを推し進めるだけの力を持った
秋山真之並みの参謀―保身に走りがちな「上層部」を跳ねのけてまで
その智謀を発揮する軍人が日本軍の組織に存在しえなかったことが、
その後の日本そのものの不幸だった、ともいえます。









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天気晴朗ナレドモ浪高シ~三六式無線と日本海海戦

2013-05-22 | 海軍

日本海海戦で日本がなぜ勝利したか。
その理由を説明なしで箇条書きにしてみましょう。

■ 指揮統率と艦隊としての練度

■ 参謀、各艦艦長の人材の優秀さ

■ 戦術の成功

■ 新技術の活用


戦術の成功とは、

● 徹底した哨戒作戦

● 七段構えの戦法

● 丁字戦法

● 高速近距離射法、速射、斉射(一斉射撃)などの砲術

● 編隊の組み合わせによる適材適所

そして、最後の新技術
今日はこの部分についてお話しします。

日本海海戦で採用された最新技術とは、次のようなものでした。

○ 信管・・・・砲弾に鋭敏に感知する新型「伊集院信管」を採用

○ 爆薬・・・・爆速が早く破壊力のある「下瀬火薬」を採用

○ 汽罐・・・・宮原二郎が開発した汽罐

○ 海底ケーブル・・・日英同盟の賜物。これを敷いたことで敵の動きを把握できた

○ 三六式無線


海底ケーブル以外は日本人が生み出したといってもいいでしょう。
ことに、宮原式汽罐は世界中がその完成度に衝撃を受けたと言われ、

高速、強力、省エネ、小型、メンテが楽、しかも丈夫

日本人の「お家芸」である「発明はしないが徹底的に改良する」
後年の技術立国としての萌芽がここにも表れていました。


このなかで、海底ケーブルだけはイギリスからの輸入です。
のちに台湾総統府長官となった児玉源太郎が、九州―台湾間に敷設し、
日英同盟の同盟国であったイギリスのインド―アフリカ回線に接続しました。
このため、これを「児玉ケーブル」と呼んでいたそうです。

これで聯合艦隊はバルチック艦隊の大西洋インド洋での動きを
情報として手に入れることができたのですが、
それもイギリスと同盟を結んでいたおかげでした。



冒頭に箇条書きにはなっていませんが、
相対的な観点で言うところの日本の勝因のひとつには、この「日英同盟」があります。

なぜなら、これら最新技術のほとんどはイギリスから供与されたものだったからで、
イギリスから輸入された技術を国産化したのは単純に経費の節約が目的でした。

しかしながら、国産化においては「極める」情熱を人一倍持っていた民族ゆえ、
ただのコピーに終わらずオリジナルを上回るものを作ってしまったいうあたりは
日本人として誇っていいかもしれません。

日英同盟の恩恵はそういった科学技術の輸入だけではありませんでした。
当時ロシアと同盟を結んでいたフランスにイギリスが干渉したせいで、
バルチック艦隊はフランスの植民地(アフリカ)に寄港することができず、
艦隊の動きがかなり封じられたということもありました。

そして「海底ケーブルでの敵艦隊補足」は、
同盟国であるイギリスの連携なくしてはありえなかったのです。


もっとも、同盟を結んではいてもイギリスの日本人に対する人種偏見は凄まじく、
当時イギリスにいた孫文によると、日本がが勝利したというニュースを聴いたとき、

「イギリス人は誰も喜んでいなかった。
ロンドンはそのニュースを受けて通夜のように静まりかえった。
彼らはむしろ白人の国が黄色人種に負けたことに激しくショックを受けていた」


って話ですが(笑)
これが、「白人の支配する世界の終焉の緒」を目の当たりにした
支配側の人種、イギリス人の不安と焦燥の表れであったことは間違いありません。

「坂の上の雲」でも、西田敏行扮する高橋是清が

「英国世論は黄色人種に肩入れすることを嫌っとる。
そもそも英国王室はロシア皇帝とは親戚だ」

などと言っていましたね。
卑近な譬えで言うと、現在朝鮮半島で北と南に分かれて戦争してますが、
敵対するはずの北に対してより、かつて統治された日本を「千年恨み」、
同盟国のはずの日本を北朝鮮への連携から締め出そうとし、
日本が独自に北朝鮮と会見を持てばあれこれ非難して、北朝鮮から
「何も知らないのに勝手に非難するな」なんて言われるようなもんですね。

え?何が言いたいのかわからない、って?
つまり、「血は水より濃し」ってことですよ。




さてこの海底ケーブルで得た情報を艦隊の動きに反映させたこと、
そして最後の三六式無線を開発し搭載したことが、
実は勝利に大きな貢献をしたという話をしましょう。

三六式無線は 三四式と言われる初代モデルの次期タイプで、
1903年(明治36年)つまり海戦に先立つこと二年前に制式になりました。

今までの三四式が70海里(約130メートル)の通信範囲だったのに対し、
最低でも80海里の距離は必要であるということで開発が検討されたのですが、
案の定(笑)先見の明をもつ秋山真之参謀が、これを採用するべく上伸を繰り返すも、
トップがなかなかその必要性を理解してくれなかったという経緯があります。

いつの時代も、偉い人たちというのは革新より保身なんですね。

この三六式無線の開発に当ったのは木村俊吉
東京予備門から東大を出て、ハーヴァード・イエール両大学に学びました。

木村は幕末に咸臨丸でアメリカに渡った木村摂津守の二男に当ります。




海軍に奉職し、海軍教授・無線電信調査委員になった木村は、
秋山真之の進言によって開発が決まった新型無線の研究を任されます。

「三年以内に、80海里の通信距離を持つ無線を開発せよ」

これが木村に与えられた指令でした。

(BGM 「地上の星」)

木村のチームは、それから間もなく80海里の距離をクリア。
さらなる限界を求めて、寝食をも犠牲にするほど改良に邁進し、
ついに200海里の通信を可能にしたのでした。



なんだか中学生が技術の時間にする工作みたいですが、
これが当時の最新鋭型無線。



三笠の見学をする人は、まずこの通信下士官の後ろ姿を見ることになります。
舷門を上がってすぐ右手にある通信室。

実はこの通信室、実物をそのまま忠実に再現しているのだそうですよ。
三笠に見学に行かれる方は、次から心してこれを見るように。

ところで、最初に見たとき、この通信人形は顔が造られておらず、
きっとのっぺらぼうに違いない、と思ったのですが・・・



かすかに唇がアクリルのケースに写っているこの写真を見て、
かれに顔があることが判明しました。
すみませんでした。(←人形に言ってる)

ツートントンしているのが送信用電盤。
向こうに三枚プレートがありますがその一つに

「インダクションコイル」

という字が見えますね。
このインダクションコイルは開発当初日本で量産できなかったのですが、
ここでも日本のモノつくりパワーが炸裂。
安中電機製作所が、この国産化に成功します。

安中電機製作所、現在のアンリツです。

それからもう一つ、「リレー」という字があります。
リレーとはその名の通り、継電気システムで、
有線電信において、伝送路の電気抵抗によって弱くなった信号を
「中継」(つまりリレーですね)するために発明されたものですが、
この機器をドイツのシーメンス社製を採用し、性能は安定しました。

もうひとつ「火花」という字も見えますね。

この三六式は、火花式(間隔を開けた電極間に高電圧を印加し
火花放電を起こすと電磁波が発生する事を応用した電磁波の発生装置)
で送信をし、そして



彼の左奥にある「コヒーラ検波器」と呼ばれる黎明期の電波探知機で
電波を受信していました。

コヒーラとはガラス瓶に金属粉と電極をいれたものと言われますが、
この写真によるとガラス瓶は見当たりません。


それにしても驚くではありませんか。

マルコーニが無線を発明したのは1894年のこと。
製品化されて間もないのに、日本海軍はこれらの採用によって、
当時通信設備に駈けてはトップレベルにあったということです。

それもこれも、天才参謀秋山真之の強力な提言があったからです。

さらに、その際必要になってくる電力ですが、ご安心ください。
島津源蔵が日本初の鉛蓄電池の開発に成功しています。

島津源蔵。
島津製作所の二代目社長で、日本の発明家です。


このころ日本の勝利に寄与した新技術を支えた企業はそのほとんどがその後
日本の技術力の推進役となって、今日にその命脈を伝えているのです。



それでは、後半でこの三六式無線の活躍についてお話ししましょう。



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記念艦三笠見学~測距儀《レンジファインダー》

2013-05-21 | 海軍

東条鉦太郎画「三笠艦橋の図」。
しかし、この東条鉦太郎画伯の画力はすごいですね。
この画家は、戦争画専門の絵描きとして活動しており、この
「三笠艦橋の図」も、海軍からの依頼で描かれました。

芸術としてどうか、ということとは全く無関係に、この絵は
日露戦争の、日本海海戦の勝利とともにシンボルとなり、
こうして画家の名前も後世に残ることになったのです。

勿論三笠艦橋の様子を見たわけでもない東条画伯ですから、
この、聯合艦隊がバルチック艦隊と接触した直後の様子は
想像の上に描いています。

実は、このときに海軍に依頼されて描いた最初の「三笠艦橋の図」、
関東大震災で焼失してしまっています。
現在残っているこの絵は、そのあと本人が描きなおしたもので、
オリジナルとは煙突の煙やハンモックの縛り方が違っているそうですが、
描かれている人物は元の通りだそうです。

もし画伯が焼失した後そのままにして世を去っていたら、この構図は
今のように日本海海戦の象徴となっていなかったでしょう。

それにしても、この絵を見るといつも思うのですが、
東郷長官が世界中で「三大提督」とまで称えられたのは、
もしかしたらそのイケてる容姿も手伝っていませんか?



イギリス留学時代の写真も、高陞号事件の艦長時代も、
そして晩年の姿ですら、かっこいい。
いまさらですけど。



ついでに東郷平八郎自筆。
日記のようですが、拡大しても何が書いてあるのかほとんどわかりません。

さて、この「三笠艦橋の図」から、東郷大将の双眼鏡について前回お話ししましたが、
今日はこの絵の艦橋上に見られる、他の光学機器についてです。



記念艦「三笠」の艦橋を下から撮ってみました。
測距儀が見えます。

この測距儀、レンジファインダーといい、書いてその通り、
距離を測るための機器です。

去年、護衛艦「さみだれ」で、この測距儀を持たせてもらいました。



これ、ラックみたいなのに置いてあって、持って使います。
その際、ベルトのようなものを首からかけて落とさないようにするのです。

なにしろあらためて驚くのは、明治時代の日露戦争で使っていた測距儀と、
今のがほとんど同じというこの事実。
どれだけ完成度が高かったのか、って話ですが、それでは測距儀って何?

とおっしゃるあなたのために少し説明しておきますと、
光学的測距儀の仕組みは、簡単に言うと、

「対象点の方向と基線とから三角法で対象までの距離を求める」

というもの。
もう少し詳しく言うと、

「左右に離れた2個の対物レンズで取り込んだ画像を、
距離計に連動して回転する鏡によって、合成プリズムに送る」

え?あまりよくわからない?

あなたの頭には目が離れてついていますね?
だからこそ距離を認知することができる、というのと同じ。
測距儀も1つの物体を左右2つの窓から見る時の角度差を測って、それを距離に換算するのです。
この仕組みゆえ、測距儀は今も昔も筒型をしているんですね。

この離れた二個のレンズの間の距離を「基線長」というのですが、
この基線長が長ければ長いほど、測定結果は正確であるということです。

戦艦「大和」には日本光学(現ニコン)製の、15mの測距儀が搭載されていました。


軍事において測距儀は、放物線を描いて飛ぶ砲弾の、
目標までの正確な距離を知るために必要とされました。

三笠に搭載された測距儀はF.A.2型で基線長1.5mあります。



絵の一部を切り取ってみました。
この測距儀が、三笠搭載のもの。
イギリスのバー&ストラウド社のものです。
測距儀を覗いているのは、残念ながら業務の性質上顔が見えませんが、
名前ははっきりしていて、測的係の長谷川清少尉候補生(後に海軍大将)。

長谷川候補生が覗いている測距儀を見ていただけると、両側のレンズ穴、
そして覗き込むプリズムの部分の穴がはっきり描かれているのがわかります。
右手は測距儀に添えられていますが、左は何か持っていますね。

これは、テレグラフの操作器具で、測定結果を同時に信号にし、
送っていたということらしいです。ハイテクですね。
まあ、風の強い艦橋で戦闘中に怒鳴っても何も聞こえませんしね。


この絵は、聯合艦隊がバルチック艦隊を発見してすぐ、という設定で、
このときバルチック艦隊は旗艦三笠から見て左舷側にありました。
東郷司令長官の視線の方向と、長谷川候補生が向けている測距儀のそれが
同じであることにご注目ください。

さらに、先ほどの写真と並べてみますと、

 

この測距儀が全く同じ形をしているのにお気づきでしょうか。
つまり、左の写真は、長谷川候補生の立って測距儀を覗き込んでいるのを
背中側(の上甲板側)から見ているということになるのです。

こんど三笠に行くことがあったら、ここに立って測距儀を覗き込んでみてください。
長谷川候補生の気分が味わえます。

さて、艦橋の上にはもうひとつ測距儀が見えていますね。



誰も使用していませんが、これは可動式の測距儀のようです。
もしかしたら秋山参謀が使うためかもしれません。

このとき長谷川候補生が覗いていたのと同じ時代のものを、
調査研究したという読者の方が、昔URLを下さっていたのでご紹介しておきます。

2011年5月ニコン研究会東京レポート



この測距儀は、館内に展示されていました。
三笠のものではないようですが、説明の写真を撮るのを忘れたので、
由来はわかりませんでした。



「三笠艦橋の図」左下部分。
まず、羅針儀を覆っているハンモックに注目。
ハンモックにはちゃんと番号が振られていて、
誰のものかわかるようになっています。
これが本当のハンモックナンバー。
でも、あれ?皆ここにあるのは二けたですね。
以前「ハンモックナンバー」というエントリで、「4ケタ」って書いたのに。


それは置いておいて、羅針儀左に置かれている普通の望遠鏡。
これは望遠鏡の下でかがみこんでいる、おなじみ(エリス中尉的に)、
ハンモックナンバー一番の男!

枝原百合一(えだはらゆりかず)航海士少尉

が使用するためのものではなかったでしょうか?
いや、全く適当に言ってますが。



実は、改装為った記念艦三笠、今回来てみたら、
このような大パネルが上甲板に設置されていましてね。

こりゃーあれだな。

観光地にあって、顔だけ出して写真を撮るパネルと同工異曲。
ここまでするなら加藤少将と伊地知艦長はともかく、
せめて東郷元帥と秋山真之くらいは顔をくり抜いて写真が撮れるようにしてほしかった。

さすがにそれはアイデアは出たものの不謹慎ということで
ボツになり(たぶん)、ただ前に立って写真を撮るコーナーになっていました。

それはともかく、この前に来たときにわたしがTOに

右が秋山真之で、左が加藤友三郎、その隣が伊地知艦長で、

しゃがんでいるのが枝原百合一という少尉

とすらすらと説明したところ、呆れかえった顔で

「今この三笠の中で、このしゃがんでる人の名前を知っているのは
断言してもいいけど一人しかいないと思う」

と宣言されました。
いや、少し日本海海戦に詳しければこの4人くらいは知ってるでしょうけど、
枝原少尉の場合、わたくしその名前があまりに衝撃的にファンシーだったので、
自然と脳髄に刻み込まれてしまったんですよ。



この左下部分の将官たちも等しく首から双眼鏡を下げていますね。
しかし、これは前もお話ししたように、東郷長官のツァイス製のとは違い、官給品。
いざ海戦の際、ペテロパブロフスクの爆沈を確認したのは東郷長官だけで、
性能が劣っている官給品を使っていた他の将官全員は、
作戦立案をした秋山参謀を含めて、この瞬間を捉えることができなかったというのです。


このときにもどかしい思いをした将官たち、もちろん秋山参謀を含む全員が
フネを降りるや否やツァイスの角型眼鏡を注文したのに違いありません。



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日本海大戦~船乗り将軍の汚名返上

2013-05-20 | 海軍

■その男は若いころから乱酔乱暴で、
戦艦の副長となっても酒癖の悪さは直りませんでした。

ある日上陸して大酒を飲んできたこの男は案の定艦内で暴れだします。
艦長の山本権兵衛が抱き抱えるようにして彼を甲板に連れて行きました。

心配して様子を見に行った少佐が甲板で見たものは、
胸ぐらをつかまれ艦長に殴られている副長の姿でした。


■日本海大戦の17年も前のこと。
横須賀のドックに入港したロシア戦艦の水兵は、日本海軍が用意した
宿泊所の水行社で調子こいていました。
その男はロシア水兵とビリヤードに興じていたのですが、名を尋ねられ

「大和艦副長、海軍大尉、上村彦之丞」

日本語が聞き取れないロシア兵はもう一度聞きなおします。

「大和艦副長、海軍大尉、上村彦之丞!」

こんどは大声で怒鳴ったのですが、その様子にロシア兵は
なぜかクスクスと笑いだしました。すると男は

「人の名前を聞いておきながら笑うとは、無礼千万!」

言うが早いか手にしていたキューで相手を殴り倒してしまいます。
このとき、ビリヤード用の丈夫なキューが折れたという話もあります。
激高した仲間が襲いかかってきましたが、彼はひらりと撞球台に飛び乗って
天井から下がっていたランプをちぎっては投げちぎっては投げ、
しまいには椅子を振り回して大暴れ。
ロシア兵はほうほうの態で逃げて行ったそうです。


■日本が英国の造船会社アームストロング社に「千代田」を注文したときのこと。
基本的に黄色人種の国の仕事など二の次三の次で甘く見ていたイギリス人、
千代田用のために発注した12センチ砲を、日本に無断で
南アフリカ戦争中のイギリス軍に流用してしまいます。

日本側はアームストロング社の責任者を呼びつけて文句を言います。
ところが基本的に黄色人種の抗議など痛くもかゆくもないこの大造船会社のトップ、
通訳の伝える怒りの言葉にも

「ダイジョブデース。コノアトモイッカイチュウモンスレバイインデショー」

などと人を食った態度。
おまけに基本的に白人に劣等感を感じている通訳までもが、
相手を怒らせるのを恐れてジャパニーズスマイルでへらへらしています。

男の怒りは爆発します(笑)

「君じゃ話にならん!」

と一喝して通訳を変えさせ、代わりにやってきた通訳にこういい渡します。

「通訳はただ訳せばいいんじゃない!
怒った時は怒っているように、叱った時は叱っているように、
すべて本人の態度と同じように通訳せよ!」

そして猛烈に文句をつけたのです。
言われた通り猛烈な態度で通訳する通訳(笑)

それからというもの、イギリス造船所の日本に対する態度は一変しました。



この男、帝国海軍軍人、海軍大将、人呼んで「船乗り将軍」
上村彦之丞。(かみむら・ひこのじょう)。

こういうタイプに優等生はあまりいないということを証明するように、
上村の海軍兵学寮の成績は芳しいものではなく、最下位でした。
もっとも最下位といっても上村の卒業した4期生はわずか13人。
学校で最下位であった上村がこの中でたった一人大将に出世したとしても
全くあり得ないことではありませんが。

さて、話は日露戦争開戦当時の話になります。
当時、ウラジオストックには一等巡洋艦三隻を主力とするウラジオ艦隊が停泊し、
対馬海域、津軽海峡を抜けて伊豆諸島海域にまで出没し、
わが国のみならず中立国の貨物船、輸送船などを拿捕、攻撃するなど
活発な破壊活動をしていました。

その三隻とは装甲巡洋艦ロシア、グロモボイ、リューリックです。


ウラジオ艦隊の暴れた様子と被害に遭ったフネ

日本海付近で跳梁跋扈するウラジオ艦隊に対し遊撃を命じられたのが
上村中将(当時)率いる第二艦隊でした。
しかし、日本海特有の濃霧やウラジオストク艦隊側の神出鬼没な攻撃に、
なかなかこれを補足することができず、ついに常陸丸事件では、
常陸丸、佐渡丸が撃沈され、須知源二郎中佐以下の近衛後備歩兵、
第1連隊等の兵員千名余りを戦死させてしまいます。

上村は、防衛責任者として糾弾されることになります。
国会では野党議員から

「濃霧濃霧、のうむは逆さに読むとむのう(無能)なり」

と批判され(誰がうまいこと言えと)また民衆からは

露探(ろたん)提督」(ロシアのスパイという意味)と誹謗中傷されたうえ、
自宅に投石されるという事件も起こります。

部下たちが憤慨するのに対し上村は

「家の女房は度胸が据わっているから大丈夫」

と笑って取り合わなかったということですが、このサイトの漫画によると

日露大戦外伝・上村彦之丞(天下御免丸)

こうなります(涙)

そんな世間の悪評の中、またもやウラジオストック艦隊が出港した、
という情報が入りました。
上村中将の第二艦隊は蔚山沖でウラジオ艦隊を補足します。

ここで会ったが百年目。

方やウラジオ艦隊は、相手が軍艦であることを悟ると尻に帆かけて逃げ出し
(この譬えは少し適切ではないかも)濃霧の中無茶苦茶に撃ってきます。

壮烈な砲撃戦の末、ついにウラジオストク艦隊の3つの巡洋艦のうちのひとつ、
リューリックを仕留めました。
ところがリューリックは半沈しながらも味方の船を逃がすため、砲撃し続けます。

残念ながら、こういうのに日本人は弱い(笑)

さんざん悪さの限りを尽くしてきた憎き敵艦にもすぐに
「敵ながらあっぱれ」
となってしまうのが、また日本人でもあります。

このときにリューリックを見て上村中将が言ったのもまさにこの
「敵ながらあっぱれ」だったと言われています。


そして、あの「敵兵を救助せよ!」がここ蔚山沖でも行われるのです。



当初上村は逃げた二隻を追撃することを下命したのですが、
弾が切れているということを部下に板書で知らされます。
上村はその板を奪い取って叩きつけ足で踏み壊して悔しがり、
その形相のすさまじさに周りの部下は震え上がりました。

誹謗を笑い飛ばしながらその実、無能の汚名を返上する機会を
上村は切歯扼腕しつつ待っていたのでしょう。

このとき弾が残っていたら第二艦隊は逃げた二隻を追跡することになり、
当然このような「救出劇」も起こらなかったことになりますが、
これは結果として上村自身と日本軍の武士道を世界に知らしめることとなります。



海上に漂う627名のロシア人将兵の救出が始まりました。
助け上げられ信じられない思いを隠せないロシア人たち。

それもそのはず、彼らはこれまで日本の、のみならず中立国の
非武装の船を襲ってきたのですし、常陸丸事件のときも
黄色人種の生き死にごときには何の痛痒も感じず放置していたからです。


そして、敵をみすみす逃すことを阿修羅の形相で悔しがった上村は、
その同じ口で部下が敵兵に復讐の念をもって虐待行為をしないよう、
「捕虜を厚遇せよ」と命じたのでした。
そしてその命令があまねく行き渡っていると言う報告を聴き

「それはよかった。これで安心だ」

とひとりごちたと言うことです。



上村司令長官の名は一躍上がり、
無能扱いしていた世間は手のひらを反して彼を褒め称えます。

「上村将軍」という歌までができました。
その三番をここに記しておきます。


蔚山沖の雲晴れて
勝ち誇りたる追撃に
艦隊勇み帰る時
身を沈め行くリューリック

恨みは深き敵なれど

捨てなば死せん彼等なり
英雄の腸ちぎれけん
「救助」と君は叫びけり

折しも起る軍楽の

響きと共に永久に
高きは君の功なり
匂ふは君の誉れなり


そんな世間に対して上村長官が感じたのは、まさに

「半年前、ワシを国賊と罵った者もこの中にいるじゃろうのう」

第8話 ウラジオ艦隊壊滅

というひとことであったと思われます。
ところで、記念艦三笠にこのようなパネルを見つけました。


理不尽な国民の声に憤慨した学生が、上村将軍を称える軍歌を作りました。

このキャプションを持つこの「軍歌」、何を隠そう先ほどの
「上村将軍」の一番なのです。

三番の歌詞を見る限り、この歌は上村司令長官が名誉挽回となる
勝利を手にしてから作られたものに違いないと思うのですが、
どうしてこのような情報となるのでしょうか。

史料館の情報には厳密に考証がなされていて欲しいと思いますが、
ときどきこのような不整合を発見します。


さて、最後に腐女子向けの話題を二つ。

■日露戦争の3年前のこと。
上村は練習艦隊司令官としてオーストラリアを訪問しました。
その歓迎会席上、上村が豪州軍総督夫人に挨拶をしていると、
突然音楽が鳴り響きダンスの時間となってしまいます。
上村は正面にいた総督夫人の手を取りダンスをしなければならない状況に!

部下たちが手に汗を握って見守る中、上村は皆の心配をよそに見事に夫人をリードし、
総督夫人からはお褒めに預かりました。

実は上村はオーストラリア入港後、艦上で部下と共にダンスの練習をしていました。
これが本当の豪に入れば豪に従え。誰がうまいこと言えと。
部下が「よく踊れましたねぇ」と感心してみせると上村は
「なにくそ!と思ってお国のために体を動かしたのだ」と答えたとの由。

■あの広瀬武夫が乗ることになる「朝日」の回航責任者だった時に、
ロシアに行った上村。
当地の留学士官だった広瀬に、別れ際列車の窓から体を乗り出し、
その首を抱き寄せて

「この国のことは頼んだぞ!」

というなり熱い接吻をしました。

ああっ!あの広瀬さまがこんなオヤジにっ!

ただ、腐女子の皆さんをがっかりさせるようですが、
上村がキスしたのは広瀬の頬っぺただったそうです。







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「手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ」~「戦艦大和ノ最後」

2013-05-19 | 海軍

日本海海戦シリーズの最中ですが。急遽内容を変更してお送りします。

先日、「三笠刀」について書いたところ、コメント欄に

「大和関係の本で溺者救助の時にバッタバッタと溺者を
その軍刀で斬るシーンがあったのを思い出しましたが」

という一文が寄せられました。
そのことそのものを話題にしたのではなく、あくまでも刀の切れ味についての感想でしたが、
これを掲載し、わたしが「そういえばそんな内容の小説もあった」と返答したところ、
それに対し、「待った」の声が一つならず寄せられました。

このコメント欄の「大和関係の本」が吉田満著「戦艦大和ノ最後」であることを前提として、
少しこの寄せられたコメントなどを紹介させていただくことにしました。


まず、問題の部分ですが、このような一文ですね。

「初霜」救助艇ニ拾(ひろ)ハレタル砲術士、洩(も)ラシテ言フ
救助艇忽(たちま)チニ漂流者を満載、ナオモ追加スル一方ニテ、
危険状態ニ陥ル 更ニ拾集セバ転覆避ケ難(がた)ク、
全員空(むな)シク海ノ藻屑
(もくず)トナラン、

シカモ船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、
艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル、

ココニ艇指揮オヨビ乗組下士
官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ、
犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、
マタハ足蹴(あしげ)ニカケテ突キ落トス、 

セメテ、スデニ救助
艇ニアル者ヲ救ハントノ苦肉ノ策ナルモ、
斬ラルルヤ敢(あ)ヘナクノケゾッテ堕(お)チユク、
ソノ顔、ソノ眼光、瞼(まぶた)ヨリ終生消エ難カラン、
剣ヲ
(ふる)フ身モ、顔面蒼白、脂汗滴(したた)リ、
(あえ)ギツツ船ベリヲ走リ廻ル 今生ノ地獄絵ナリ


この部分は、そのショッキングさからかなり後世の耳目を集めたようです。
まず、ある方のコメントからどうぞ。

「初めてこの本を読んだとき、わたしも愛する海軍で
そのような行為があったとは俄に は信じがたいと思った一方で、
戦時下に起きる生々しい事実なのかと思うところで した。

しかしこの件については第二艦隊関係者や大和生存者から
多くの反論が寄せられてい ることを指摘しておきます。
吉田も一連の著作はあくまで「小説」と述べていたようです。」


そして、そのうち二通のコメントが、この件を否定するサイトをご紹介くださっています。

吉田満著「戦艦大和の最後」の虚構と真実

この部分について書かれている部分はこのようなもの。
抜粋ですので、全文はぜひサイトでお確かめください。


士官は短剣を常用し、海軍下士官は軍規上軍刀を元々持てないし佩用出来ない。
「乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ・・・」は明白且つ重大な誤りである。

救助員に軍刀は邪魔物以外の何物でも無い。
冷静に考えればあり得ない話しである。

著者自身は学徒兵であり海軍そのものを良く理解していた訳では無い。
内火艇・橈艇とその構造をみれば、波や漂流者が掴まろうとして
動揺する内火艇・橈艇の「船ベリヲ走リ廻ル」とはサーカスの曲芸と云ってよい。                         
これが、救助された砲術士の発言であったとしたら余計に信じ難い事になる。
海軍を知る者としての発言とはとても思えない。
直ぐに虚構と判る供述を何故敢えてしたのか ?
  
戦後、意図的に日本を辱めようとした元軍人達
(俗に云う懺悔(ざんげ)組)の例は枚挙に暇(いとま)がない

また、別の方からはこのようなサイトのURLをいただいています。

三井田孝欧議員のブログ「納豆人生」

戦艦大和ノ最期』にはこうある。

「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、
手首ヨリ バッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」

「大和」沈没後、付近の海域の救助に向かったのは「冬月」「初霜」。
著者の故・吉田満氏によれば、
「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として紹介しており、
救助艇が生存者で満杯となったものの、乗り切れない生存者が船べりを掴んだので、
下士官が掴んだ手首を次々と切り落としたというのである。

著者の故・吉田満氏は、「大和」に電測士、いまでいうレーダー担当者として乗り込み、
沈没後は「冬月」に救助された。
『戦艦大和ノ最期』に書かれた指揮官に該当する人はまだご存命である。
「初霜」の通信士で、救助のための内火艇の指揮を務めた松井一彦氏その人。

松井氏によれば、

・「初霜」の内火艇は「矢矧(やはぎ)」の救助に向かったそうである。
また、「大和」を護衛して沖縄を目指したものの「大和」沈没により
帰投中であった「雪風」に救出された、「大和」乗組員の八杉康夫氏によれば、
・這い上がってくる仲間の手首を軍刀で切るなどありえないと証言する。

生き残った「大和」乗組員の重傷者は、佐世保の海軍病院、軽傷者は
浦頭の検疫所に運ばれたが、どこからもそのような話は聞いていないという。
前述の松井氏も「雪風」「冬月」関係者に聞いたが、そんな話はないとのこと。

そもそも、内火艇は、船べりが高く、海面から手を伸ばしても届かない。
ロープを投げ、引き寄せて救助するのである。
映画の救助シーンでもそうであったし、海軍の溺者救助、
漂流者救助のマニュアルにもロープを使う旨記載してある。

また、内火艇は羅針盤があり、軍刀は磁気に影響するので、持ち込まない。
しかも海軍の士官は、軍刀は常時携行しない。
ただ、沖縄決戦を想定していたので、
米軍との白兵戦に備えての軍刀が駆逐艦のなかにあったのは事実である。

では、救助に向かった船が違うものであったとしたらどうであろうか。
海面から手を伸ばして手首が見える高さの船べり、つまり簡易な救助艇を想定する。
軍刀も良く切れるものを持っていたとする。
すでに船のなかは生存者で満杯。
戦時下の沈没にともなう救助であり、生存者は当然、重油まみれである。
そんななか、軍刀を振り回し、次々と手首を切り落としていくことは可能であろうか。

この件については、松井氏のみならず、旧海軍の親睦団体「水交会」からも
「初霜」乗組員を中心に「訂正すべし」の声があがっている。

『戦艦大和ノ最期』のなかでは、その他のことについても「訂正」の声がある。
レーダー担当者であった故・吉田満氏の勤務場所は艦橋。
とてつもなく巨大な「戦艦 大和」のほかの部署のことも書いてあるが、
本人が直接体験したものではなく、伝聞によると考えるのが通常であろう。

故・吉田満氏が『戦艦大和ノ最期』を書いたのは1946年。
軍国主義の復古だとしてGHQの検閲により出版できず、
発表は1952年になったものの、書いたのは終戦直後。
電話もなく、生存者の住所も分からなくなっているなか、
取材をどう行ったのかは不明である。

また、当初のタイトルは「小説・軍艦大和」であり、ノンフィクションではないとしている。

著者の吉田満氏がすでに鬼籍(昭和54年9月17日、56歳で死去)に入っているので、
本人による訂正はできない以上、今後、出版社は
『戦艦大和ノ最期』をあくまで小説であると紹介してほしい。



なるほど。

実に論旨ののすっきりとした検証です。

「愛する海軍でそのようなことがあったとは俄かに信じがたい」

という情緒的とも言える疑問はもとより、わたしも
言われてみれば共に死のうと決めた同じ船の仲間を
そんな極限状況であってもこのような方法で殺めるなど、

果たして日本人にできるであろうか?

とこれまた情緒的にに思わずにはいられません。

このコメントを戴いたとき、最初に思い出したのが、吉村昭著
「海の棺」という戦記小説でした。


ある漁村で、その沖で戦没した艦艇の乗組員の死体が多量に流れ着く。
不思議なことに、その死体のいずれもが二の腕から先が無かった、
という導入で始まるものです。

「船艇に乗ったのは将校のみですね」
「おもにそうです。従兵と機関兵もいましたが・・・・・」

「切りましたか」
私は、たずねた。
「なにをですか」
かれは、いぶかしそうに私を見つめた。
「兵士の腕です」
男は一瞬放心したような目をした。
そして徐に視線を落としたが、あげた顔には妙な笑いが薄く漂っていた。
「私は、切りませんよ。
暗号書を抱いて船艇の真ん中に坐っていたのですから・・・・」
かれの微笑は、深まった。
「切った将校もいたのですね」
と、私。
「いました」
と、彼。
「船につかまってくるからですか」
と、私。
「船べりに手が重なってきました。
三角波に加えて周囲から手で押されるので、船艇は激しく揺れました。
乗ってくれば沈むということよりも、船べりを覆った手が恐ろしくてなりませんでした。
海面は兵の体でうずまり、その中に三隻の船艇がはさまっていました。
他の船艇で将校が一斉に軍刀を抜き、
私の乗っていたフネでも軍刀が抜かれました。
手に対する恐怖感が、軍刀をふるわせたのです。
切っても切っても、また新たな手がつかまってきました」
「あなたは、なにもなさらなかったのですか」
「靴で蹴っただけです」


「海の棺」からの抜粋です。
このとき撃沈した艦船というのは占守島から出発し沖縄に向かう輸送船でした。
根室沖合で護衛の海防艦が敵潜水艦に撃沈され、さらに
輸送船も次々と餌食になった、という設定です。

さらに、ここで長刀を振るい船艇に縋ってくる溺者を切るのは、
全て陸軍の軍人ということになっています。

戦後の人間がこれを読む限り、海軍と違って陸軍軍人であれば
海での非常時にすべきこと、助かるすべ知らない陸軍であれば
このような惨事になることもあったのかもしれないと思えますし、
いつも長刀を佩している陸軍将校がこのようなことをやりかねない、
というイメージを戦後の一般人にあらたに植え付けるに十分な記述です。

陸軍だからやりかねないというのか、このようなことをするから陸軍だと思うのか、
いずれにせよそこには戦後の

「絶対悪としての軍」

を上からあくどい色でなぞるような情報操作の匂いがします。


この話は、この吉田満氏の記述にインスピレーションを得て創作されたのではないか、
という気がしてならないのですが、いかにも「隠された真実の暴露」
といった調子で描かれているあたりに、タチの悪さを感じないでもありません。

今回、読者の方から戴いたコメントの中にも、貴重な証言があります。

この方が実際に「大和」に乗っていた生存者(矢矧航海長であった池田武邦氏
に直接このことを尋ねたところ、明確に否定されていた、というものです。


それでは、大和が沈没した後、海中に投げ出された乗員の証言をいくつか挙げて、
このときの空気の片鱗だけでも想像してみることにしましょう。

冒頭に写真を挙げた「戦艦大和の最後」
こちらは高角砲員であった坪井平次氏の著作です。

ここから、海中を漂流していたときの記述を抜粋してみます。

むろん、戦ったのは、なにも私一人ではない。
いま、この海面に浮いている戦友は、みんな、
それぞれ死中に活を得た者ばかりである。
なかには負傷し、その痛さや苦しさに耐え、
血を流しながら漂流している気の毒なものもあるかもわからないのだ。
それを思えば、さいわいに私の体は傷らしい傷は受けていないようである。
どこも痛まないし、関節も不自由なく動いている。
水中に漂流をはじめたのもみんな同じだ。
苦しいのはみんな一緒である。
今へこたれたらおしまいだ、と決意をあらたにしたそのとき、

「オーイ駆逐艦が来てくれたぞ」とだれかが叫んだ。
「『雪風』がきてくれるぞ」
「『冬月』も来てくれた!」
「オーイ、ありがとう。頼むぞ」
「オーイ、オーイ」
とたんに、いままでの不安感が消えて、ふつふつと気力が涌いてきた。


著者は『雪風』のロープに手をかけて引っ張り上げてもらい、一命を救われました。

また、「男たちの大和」(逸見じゅん著)から、いくつかのシーンをご覧ください。


■火薬缶に取りすがって見渡すと、大きなうねりと重油の漂う海ばかりだった。
「おれ一人か・・・」
ぼんやりとうねりのかなたを眺めながら、一人なら一人でよいと思った。
うねりに乗って見回すと、黒い頭がポツリ、ポツリと見えた。
「集まれ、集まれ」
海面をはうように声が聞こえた。

静かな、あきらめと言った気持が漂い始めた。
生きたくもなければ死にたくもない。
怖ろしくもなければ、一人でいるのが寂しくもない。
寒くもなく、痛くもない。
不思議な心持がひたひたと押し寄せた。

三笠は敵の機銃掃射を目撃していない。
不意に、東の水平線にマストが一本見えた。
その左にもまた、一本、見えた。
やがて艦橋が見え、甲板が姿をあらわした。
「駆逐艦だ・・・・・」
味方の駆逐艦が生き残っていたのだ。
熱いものがこみあげ、マストに翻る軍艦旗がぼやけた。

■「助けてくれッ・・・・」と思わず叫んでいた。
八杉は目の前に高射長を見つけ、なんということを叫んでしまったのだと
自己嫌悪にかられた。
「高射長・・・・・・」
八杉はひきつった声になった。叱られる。
しかし死にたくないという思いがこみあげた。

「落ち着いて、落ち着いて、そーら、大丈夫、これにつかまるんだよ」
高射長は脇に抱えていた円材を八杉のほうに押し流した。
「さあ、もう大丈夫。がんばるんだ。がんばって生きるんだよ」
「高射長・・・・」

ふたたび高射長を観たのは駆逐艦がカッターをおろし、
近くの漂流者を救助し始めてからだ。
我先にと駆逐艦にむらがる者たちの中で、高射長は一人漂っていた。
「高射長ッ・・・・」
八杉は幾度も声を挙げた。
その声に一度顔を向けたようだったが、急に体をめぐらすと
駆逐艦とは別の方向にむかうようにその姿は消えた。

■八杉もまた、駆逐艦のおろすロープを奪いあう人の群れを見た、
ロープを体に巻きつけようやく水面が離れた者の足を、
引き下ろすようにしてすがる。
戦闘のときではなく、この救助のときに、生まれて初めて地獄を見た。
死ぬとはもう思わなかった。殺されると思った。

■八杉の足は舷側にかかったまま滑った。
甲板上の兵は顔を真っ赤にして足をハンドレールにかけ、
弓なりになってロープをひく。
甲板の兵は八杉の体を抱きかかえ、後ろにのけぞった。
一瞬、八杉の体はハンドレールを超えた。
抱き合って二人とも甲板上に転がった。
「バカ野郎!」
兵は泣きながら、八杉の横面を殴った。
よろける八杉を引き起こし、「よかったな、おまえ、よかった・・・」
といって、また殴った。
八杉は目を涙でいっぱいにして、「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。
八杉が海軍に入り、殴られてうれしいと思ったのは、この時が初めてであった。



諦めと無気力、助かろうとする者の本能と、その本能の生み出す地獄。
その中でも他を思いやり莞爾と死んでいく者、誰かを助けようとする者。

およそ考えうる極限状況のあらゆる人間のさまがそこにあります。

であるゆえに、「小説」を書いた吉田満は、自分が目撃した事実ではないにせよ、
「バッサ、バッサと手首を軍刀で切る」
という話もまたそのような状況では当然あり得べきと判断したのでしょう。


たしかに「雪風」も「冬月」も、多くの将兵を海上から救出しましたが、
それでもかなりの人員を置き去りにしたままそこを去り、北上しています。

「いいかッ。『大和』の生き残りのものは、よく聞け。
戦闘はまだつづいているぞ。
『雪風』の戦死者にかわって配置につけッ!」
「まだこれからだぞ!沖縄に突撃するぞ!」
殺気を含んだ声が続けざまにとんできた。
まごまごしていたら、もう一度、海の底へ投げ込まれそうであった。


しかし、ここでは命の意味が違うのです。

兵員を救助するのも、NHKの「坂の上の雲」で全編に亘り貫かれていた、
「人間をひとりでも死なせないことが目的」(笑)などという意味ではなく、
あくまでも今後の戦いに投入せられるべき「兵力」の確保なのです。

これが人道的にどうかということもまたここでは問題になりません。
なぜならそれを決定する側もここでは「戦いに身を投じる者」であり、
いずれは戦いに死ぬという覚悟の上にその決定はなされているからです。

そこでもう一度「手首斬り」について考えてみると、
確かに我先に助かろうとする極限のエゴイズムは戦場で散見されるものだけれど、
上記2サイトの筆者が検証するような、物理的不可能もさることながら、
すなわち覚悟の上で大和に乗り込み、そこにあった海軍軍人が、果たして、
一人ならずそのような醜行に及んでまで自分だけが助かろうとするだろうか、
という根本的な疑問を持たずにはいられません。

この件について寄せられたコメントの中に

「吉田氏がそうだったのか、否か、良くは知りませんが、
この様な話を大げさに広めた人達の『匂い』を、
エリス中尉なら、感じられるのではないでしょうか?」

というものがありました。
匂いますね。確かに(笑)

ことに、「軍刀」と明言しながら何故それを振るうのが士官だとせず
「下士官」であるとこちらも明言したのかについてはある「匂い」を強く感じました。

 

いわゆる「懺悔組」が、戦後、元軍人としていかなる心理的変遷を経て、
このような「自虐色」で自らの組織であった海軍をこのように貶めるに至ったのか。
我々にはもはや考え及ぶべくもありませんが、唯一つ言えることは、
結果的に彼らの生み出すことになったこの歪な歴史観もまたおそらく
戦争というものの齎(もたら)した災禍であったのだろうということです。







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記念艦三笠見学~「敵艦隊見ユ」久松五勇士

2013-05-18 | 海軍

前回記念艦三笠に訪れたときには
ただ目にしただけで通り過ぎたこの一枚の額入り写真。

二度目の見学をするまでの二年間に得た知識に
この「久松五勇士」の話もあり、今回は写真を撮ってきました。


「久松五勇士」というのは、戦前には教科書に載っており、
死んでもラッパを離さなかった木口小平などのように、
庶民の英雄としてその名を知られていたそうです。

彼等は軍人ではなく、その命を捧げたわけでもありませんでしたが、
国が興廃を賭けて臨もうとしている一戦に対して、国民の一人としての
義務を果たすため最大限の努力を成した功労者であり、
市井の民でありながら国家の危急にわが身を呈した忠義者、つまり

「あらまほしき戦時下の国民」

として称えられていたのです。


1905年5月。

日露戦争において連合艦隊は、すでに1904年(明治37年)8月の黄海海戦
ロシアの旅順艦隊、続く蔚山沖海戦ウラジオストク艦隊にも勝利し、
極東海域の制海権を確保していました。
そして旅順艦隊を壊滅させた後も聯合艦隊は怠りなく準備と情報収集を続け、
バルチック艦隊の迎撃を今か今かと待っている状態でした。

日本としてはバルチック艦隊がロシア・太平洋艦隊と合流する前に、
なにがなんでもこれを叩かなければならなかったのです。
それを許してしまえば日本は制海権を失い、大陸の陸軍を孤立させることになり、
日本の勝利は無くなります。

つまり、この状況を鑑みると、アオリでも脅しでもなく、秋山参謀の言う

「皇国の興廃」

は、日本の存亡がバルチック艦隊を討てるかにかかっていたということです。
敵の動きを一瞬でも早く補足することがそれには必須でした。


5月14日、バルチック艦隊、フランス領であったベトナムのカムランを出港

5月19日、フィリピンのバシー海峡を通過したという情報あり


しかし、この後聯合艦隊はバルチック艦隊の行方を見失います。
血眼でその後の行方を追っている中、


5月23日、宮古島沖を通過するバルチック艦隊を地元民が目撃


この目撃者というのが奥浜牛(うし?ぎゅう?)という宮古島の漁師でした。
この牛さんがバルチック艦隊を発見すると同時に、バルチック艦隊の方も
たった一人で漁をしているこの東洋人を認めています。

これが日本人であれば、艦隊の通過を報告されるかもしれません。
しかしロシア側は彼を捕まえることをしませんでした。


なぜかというと、この牛さんの漁船が立てていた大漁旗が龍の図柄で、しかも
牛さん自身が島の風習から長髪にしていたため、

「あれは中国人でスカヤ。見逃しても大丈夫だビッチ」(ロシア語)

と、甘い判断をしてしまったのです。
この件においても、戦争している相手の文化風習に知悉することは、
大事な勝利への一歩であるということがいえると思います。

大漁旗を旭日にしていなかったのは牛さんにとって幸運でした。
恐らく生きた心地もしないままバルチック艦隊が通り過ぎるのを見た奥浜牛さん、


5月26日午前10時帰港し、巡査を伴い役場に駆け込み、それを伝える


ここですでに発見から3日たっていることにご注目。
牛さんの船はサバニと言われる丸木をくり抜いた手漕ぎだったのです。

とにかくその報せに役場は騒然となります。
どうやって本土に伝えるかが至急協議されました。

なぜなら、この島には、通信施設が全くなかったからです。



ここでまず驚くべきは、宮古島の小さな村の漁師が、当時の日本の戦況、
聯合艦隊がロシアを迎え撃たねばならず、それを血眼で探している、
という状況を知っていたということです。

♪ 電報無え 電話も無え 生まれてこの方見たこと無え
電気は無え ラジオも無え 天然色映画は何モノだ?

通信施設が無い、つまり電気が敷かれていなかったのでしょう。
世の中のニュースを彼らはおそらく一週間にせいぜい一度、
本土から来る新聞で知るのみであったと思われます。
艦隊を見るなり、「これは敵国のものだ」と判断し駐在所に駆け込み、
それを上に至急報告をしなければならない、という判断をしていたわけです。

明治時代の離島の、しかも一漁師がこれだけの見識を備えていたというこの事実。

日本の教育や徳育の普及というのは、当時からほとんど地域格差、
ある程度までは経済格差さえもなかったのではないか、と思わされます。


さて、役場は、この情報をどうやって海軍に伝えるかを村の長老たちとともに協議し、
郵便局を備えていてかつ無線電報が使える隣の石垣島まで船で人をやることにしました。

しかし、隣と言っても宮古島久松から石垣島までは170キロ。
その距離を、モーターも何もついていない手漕ぎの丸木舟、サバニ
手で漕いで行かねばなりません。

村からは屈強の若者ばかり5人が選抜されました。
松原村の垣花善、垣花清兄弟、与那覇松・与那覇蒲兄弟、久貝原村の与那覇蒲です。
与那覇蒲という名前の男が二人いますが、このあたりは同姓同名だらけだったのでしょう。





この時の様子が、1969年公開の映画「日本海大海戦」で取り上げられていました。

集まった村人の中から選ばれる屈強の若者たち。
皆、責任の重さとこれから訪れる決死の航海に顔をこわばらせている。
その中のひとりが、松(松山善二)。
松の身重の妻が群衆の中から転がるように出てきて、夫に縋る。
固い決意に身構え、妻に対して予防線を張る松。

「止めたって無駄だぞ」
「あんたが、わたしのことを気遣って断るような男なら、離縁してやる」(うろ覚え)


そうしてすぐさま5人の男は船に乗り込み、
そして荒海を15時間、休まずに漕ぎ続け、石垣に到着します。
さしもの強靭な体力を持つ精鋭たちも、疲労困憊していました。

しかも無慈悲なことに、郵便局は港の島反対側にありました。

しかし5人の若者はあきらめませんでした。
あたかも友セリヌンティウスの命を助けにディオニス王の元に戻るメロスのように、
五人は30キロの山道を5時間かかって(10分で1キロのペースです)走り続け、

5月27日午前4時、石垣島八重山郵便局に到着

牛さんが役場に発見を報告してからなんと16時間後です。
背骨も砕けんばかりに櫂を漕ぎ、さらに山道を走り続けて16時間。
この勇気と悲壮なまでの使命感はいったいどこからくるのでしょうか。

そして、彼らの報告を受けて海軍に送られた電報は以下のようなものです。

 


五月二十八日午前七時十分 八重山局発   

五月二十八日午前十時  本部着

発信者 宮古島司、同警察署長

受信者 海軍部

本月二十三日午前十時頃、
本島慶良間間中央ニテ軍艦四十余隻、柱、二、三、煙突二、三、
船色赤ニ余ハ桑色ニテ、三列の体系ヲナシ、
東北ニ進航シツツアリシガ、内一隻ハ南東ニ航行スルヲ認メシモアリ
但シ、船旗ハ不明  右、報告ス


この打電を海軍が受け取ったのは28日の午前10時のことでした。
しかしみなさん。
日本海海戦はいつ行われたかご存知ですね?

そう、5月27日の午前11時に両艦隊遭遇、そして午後4時には終了しているのです。


1905年(明治38年)5月27日(海戦1日目)午前2時45分、
連合艦隊特務艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊を確認
此を無線電信で通報

「敵艦隊見ユ」

5月27日の午前3時近く。
久松の五人が、洋上を石垣に向かっていたころです。
つまり、彼らの報告を受けとる約一日前に、
海軍はバルチック艦隊発見の報をすでに信濃から受けていたのでした。


聯合艦隊はやきもきしながら敵艦隊の行方を追っていましたが、
全く音沙汰がないので、北海道に艦隊を差し向けようとしていました。
5月26日に随伴船を上海で確認したので、バルチック艦隊の航路を特定し、
対馬海域での両艦隊遭遇を確信するに至ったのですが、
もしこれがなかったら聯合艦隊は北海道に向かい、バルチック艦隊の通過を許していました。

しかし、この海戦においてはあたかも天が何が何でも日本を勝たせようと
最初からその結論を決めてでもいたように、二重三重に運は日本に向いたのです。




海軍が彼らの通報を受け取ったのは、これによると丸一日遅れですが、
遅れは「4時間」であったとされる説も流布し、
教科書などには「遅かりし一時間」などとされていたそうです。

話をドラマチックにするため、創作にあたって時間がある程度操作されたのでしょう。

どちらにしても、彼等の情報は日本の勝利には何の寄与もしませんでした。
国の興廃をかけた海戦は勝利をおさめ、国民が喜びに沸く中で、
五人の行為は大きく報じられることもありませんでした。

しかし、宮古や石垣の地元の人々はこの英雄的な行為を語り継ぎました。
昭和の世に入ってから、あるきっかけで彼らの話が取り上げられ、教科書に載ります。
「戦時の国民の気構え」を説く話として。

それから、一躍「久松五勇士」の名は全国に広まったのです。



この写真は冒頭の記念艦内のものですが、
もともとの写真がボケていて、名前が全く読み取れません。

15時間船を漕ぎ、30キロの山道を6時間走破したにしては
みんな老けているなあと思われませんか?

それもそのはず、日本海海戦勝利のときには地元以外では
話題にもならなかったこの話が再びクローズアップされたのはなんと昭和に入ってから。
つまり20年後のことです。
かつての若者もすでに中年となり、白髪になった者もいれば、
なんと墓石しか写真がなかったものも・・・・・。

この墓は垣花善(かきのはなぜん)のものです。
善は大正13年10月26日、49歳で死去してしまったので、
久松五勇士が郷土の英雄として再びその名を称えられ、改めて
沖縄県知事から顕彰されたこのときには、もうすでにこの世にいなかったのです。

この写真は沖縄で行われた表彰式での晴れ姿のため、全員が同じ場所で、
しかも同じ紋付袴で写真に納まっています。
そんな賞状に墓石の写真とは実に異様な感じがしますが、
もしかしたら垣花善は、生涯に一度も写真を撮ったことが無く、
したがって墓石を載せるしか本人のよすががなかったのかもしれません。

こうしてその行為が後世に称揚された彼等ですが、
戦後になって軍事色が日本全土から追放されると、教科書から彼らの名前は消え、
またもやその存在は、少なくとも本土には知る者がいなくなりました。

しかし、地元の宮古島、そして石垣島では地元の英雄を今でも忘れていません。



彼らを顕彰するモニュメント。
サバニと呼ばれる、彼らが漕いだ船を支えている5本の柱。
これは五勇士を表しています。



ローマ字説明入りの久松五勇士の碑。

地元では今でも彼らを称える与那国小唄、「黒潮の闘魂」が歌い継がれていますし、
あの決死行から百年経った2005年には、
「久松五勇士百年記念」という式典も行われています。
地元出身のロックバンドは彼らをテーマにした歌を歌い、
地元には「久松五勇士」という銘菓もあります。

先日、あたかも沖縄が日本から独立することが県民の総意であるかのように
報道する左翼だらけの沖縄で、久松五勇士の報告を打電した郵便局の在った地と同じ名の
「八重山日報」は、このような社説を出しました。

平和憲法の理念は崇高だが、中国や北朝鮮など
「平和を愛する諸国民」など沖縄周辺には存在しない。
憲法の規定と現実の国際情勢は乖離している。

憲法論議を小難しいものにするべきではない。
憲法は不磨の大典ではなく、私達が幸福であるために存在するのだ。



前述の映画「日本海大海戦」ですが、わたしの記憶が正しければ、
この松山善二扮する与那覇松をはじめとする五人の決死行は無駄ではなく、
信濃の「敵艦見ユ」とほとんど同時に海軍はこの久松五勇士の
「敵艦見ユ」をもまた受け取った、というように描かれていました。

勿論これは映画上の創作なのですが、もしかしたら映画製作者は、
せめて映画の中だけでも彼らに成功の栄達を与えたかったのかもしれません。


ところで・・・・・。

皆さん、この五人を称えるのに、わたしもまたやぶさかではないのですが、
ひとつだけ引っかかっていることがあるんですよ。
最初にバルチック艦隊を発見して、その情報をほぼ正確に記憶し、
海軍に伝わることを期してその情報を伝えた、あの奥浜牛さんのこと。

ある意味この人がこの件の一番の功労者ですよね?
体格に問題があったのか、どういう理由かはもう誰も知る由はありませんが、
とにかく五人に選ばれなかったというだけで全くスルーされている気の毒な牛さん。

ぜひこの久松五勇士に番外メンバーとして追加してほしいところです。




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記念艦三笠見学~東郷長官と塚本中尉の「ツァイス」

2013-05-17 | 海軍

去年の夏、アメリカでカール・ツァイスレンズ搭載のカメラを購入し、
ここでご報告したところ、

「日本海海戦のときに東郷平八郎が使っていたのは、
ツァイスレンズ搭載の望遠鏡でしたよ」

と数名の読者の方から教えていただき、浅からぬ(浅いかな)縁に感動したエリス中尉です。
その一年前に三笠を訪れたときには、写真も撮らなかった東郷大将の望遠鏡。
今回は勿論のこと、ちゃんと画像を収めてきましたよ。
勿論、ツァイスレンズのカメラで。



きっと今でも昔のままに見えるんでしょうね。
東郷平八郎がその目でバルチック艦隊姿をこのレンズ認めたのと
変わりない鮮明さで・・・。

と、つい妄想にふけってしまいますが、この双眼鏡のスペックを
ざっとかき集めてきました。

明治36年に”小西六”(のちのコニカ)の杉浦氏がドイツ購入し、
その三台の一つが東郷大将に贈呈された
一台約350円 これは当時の月給の一年半分に相当する
「トウゴウ・モデル」はプリズム式、5倍/10倍、
接眼部はダブルの5×24、10×24のコンバーチブルタイプ
当時はこれを「角型眼鏡(つのがためがね)」と呼んでいた



ツァイスレンズ搭載の双眼鏡を構える東郷司令長官。
しかし、この絵によると、持っている双眼鏡、黒ですね。
今日全体的に赤っぽい赤銅色になっていますが、
当時のカタログと、資料として残されている現物の双眼鏡を見る限り、
手に持つ部分は黒皮で、レンズ周りもすべて黒の塗装がされていますから、
経年劣化で色が褪せたと考えるのがよさそうです。


前回も少し触れた日本海海戦ものの映画、「明治天皇と日本海大海戦」。
乃木、東郷両巨星が会いまみえるシーンで、乃木大将が東郷大将に

「その双眼鏡、少し覗かせてくれ」

とお願いして覗かせてもらい、東郷大将は無邪気に自慢していました。
これは乃木大将に限ったことではなく、当時の軍人はこぞってこのツァイス製を
皆こぞって覗かせてもらいたがったということです。

ちなみにその乃木大将の双眼鏡は天皇陛下からの御下賜品で
1000円だったということですが、その出自についてはわかりません。
ツァイスより高価な双眼鏡だったのに、こちらがあまり話題にならないのはなぜでしょうか。
この値段の違いは、関税の違いで、ほぼ同じ値だったという話もあります。

上の絵を見ていただくと、東郷長官の隣にいる加藤友三郎少将も、秋山参謀も、
海戦前ですから、皆双眼鏡を携えています。
秋山参謀は胸の前に掛けると筆記しにくいせいか、斜め掛けしていますね。
勿論彼らの双眼鏡は「普通の官給品」です。

ただし、東郷司令のツァイス製が、この海戦のある意味「勝利の決め手」とされてからは、
小西六には注文が殺到したということです。

さて本題。

なぜかこの時、聯合艦隊には中尉の分際でツァイスを持っていた者がいました(笑)
「漣」乗り組みの塚本克熊中尉は、なんとこの高価な同じ双眼鏡を、
東郷司令のを見て欲しくなり購入したというのです。
以下、司馬遼太郎「坂の上の雲」からの話になります。

塚本中尉はもともと海防艦で機雷掃海の任務に就いていました。
その海防艦が蝕雷して沈んでしまったときに、一時的に乗った三笠で、
かれは東郷元帥の双眼鏡を、他の軍人のようにせがんで覗かせてもらいました。

このあたりが、海軍らしいですね。
おそらく陸軍なら、一介の若い中尉が乃木大将に向かって、

「いい双眼鏡ですね!ちょっと覗かせてください」

などとは決して言えないのではないでしょうか。
おそらく東郷さんは快くこの中尉に双眼鏡を渡し、
その性能に興奮し頬を紅潮させる中尉に向かって

「どうじゃ、おはんも欲しゅうなったか。
なら買うがええ。値段だけのことはありもす」

と、微笑みながら言ったのではないかと想像、いや、妄想します。

よっぽど塚本中尉はこの双眼鏡に魅せられたのでしょう。
なんと、即座に銀座は「玉屋」(乃木大将のもここで購入された)に
同じものを注文し、送らせてしまいました。
お代金、こちらも350円也。

当時の中尉のお給料のほぼ一年分をあっさりはたいたというわけですが、
この投資?は彼自身と日本海軍にとっても大きな恩恵をもたらすことになります。

5月28日。
主力決戦の翌日のことです。
駆逐艦「漣」が、逃走するロシア海軍の駆逐艦を二隻発見しました。

そう、一隻は誰あろうバルチック艦隊司令長官、
ズィノーヴィイ・ペトローヴィチ・ロジェストベンスキー中将が移乗していた
駆逐艦ヴェドヴィだったのです。

自慢のツァイスで海面を見張っていた我らが塚本中尉が艦長に双眼鏡を渡し、

「あれを見てください」

それがロシアの駆逐艦であると認めた相羽恒三艦長は、
「合戦準備」と、ふりかえって叫び、追尾を開始します。
逃げるベドヴィの兵員は大砲に掛けられた覆いを取って応戦しようとしますが、
士官によってそれを止められます。
そしてベドヴィは機関を止め、信号機と、白旗を掲げました。


眼鏡を視いていた塚本克熊中尉が艦長の相羽恆三少佐に告げた。
「確認してみろ」相羽艦長は塚本中尉に命じた。
「重傷者があると言っています。
それに、あの白旗は食堂の白いテーブルかけのようですね。
機関も停止しています」
「ということは、降伏したのか」
(東郷平八郎と秋山真之 松田十刻著)

塚本中尉、大手柄です。
それのみならず、中尉は停止したベドヴィに乗り込んで、
武装解除を行う大役を任されました。

このときまで塚本中尉は勿論、相羽艦長も、そして連絡を受けた秋山真之も、
なぜこんなフネにロジェストベンスキー中将が乗っているのか訝ったそうです。


中将は旗艦のスワロフで重傷を負ったため、駆逐艦ブイヌイに移乗しましたが、
今度はそのブイヌイが機関部に故障を起こしたため小さなベドヴィに移っていました。

塚本中尉が最新式の双眼鏡を持って、漣に乗っていたこと、
そしてその漣は夜戦中にたまたま本隊と逸れていたため、ベドウィと遭遇したこと、
つまり、ロジェストベンスキーにとっては不運に不運が重なりました。

不運と言えば、ロジェストベンスキーはロシアでの軍事裁判で無罪となりますが、
この時の傷が元で、終戦三年後、60歳の若さでこの世を去っています。


しかしこのとき捕虜として日本の病院に収容され、
手厚く看護を受けた上に東郷司令本人の丁重な見舞いを受けた中将は、
敵将の誇りを尊重する日本海軍の扱いに感動して涙します。

ステッセルに佩刀を許した乃木将軍とともに、このとき東郷大将が敵にみせたのは
武士道でいうところの「惻隠の情」。
この「サムライ・スピリッツ」はその後世界に感銘を与えましたが、
塚本中尉が購入していたツァイスの双眼鏡は、
その大きな評価の陰の小さな立役者となったのでした。





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