ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

コロナ自粛中の大学キャンパス〜アメリカ滞在記

2020-08-30 | アメリカ

というわけで現在アメリカにいます。

少し前、MKの大学は全授業の最初の1週間をオンラインで行うことを決定しました。
それまではとりあえず一部授業のみ対面ですることになっていたのですが。

MKは日本からオンラインで授業を受けるのは時差の関係であまりに辛い、
(夜の8時ごろから朝10時まで起きていなければならない)ということで、
渡米して現地でオンライン授業を受けることにし、
わたしも手伝いのためと称して着いてきたというわけです。

 

ところで、どんなアメリカの大学も学生のために住居を確保していますが、
一般に大学寮はセメスター(学期)ごとに住居の契約が切れるので、
学生は夏休み(下手したらクリスマス休みも)に入るたびにいちいち退去して、
新学期が始まるとまた新たに住むところを探さなくてはなりません。

今回、大学のドーム(寮、ドミトリー)からの返事がコロナのせいか遅く、
しかたなく保険のつもりで徒歩圏内のAirbnbを一旦契約したのですが、
その後ぎりぎりになって空きが出たという連絡が来ました。

おそらくかなりの学生が地元にとどまって授業を受けるため辞退したのだと思われます。

新学期からの住居が確保できたので、あとは引越すだけなのですが、問題は、
「部屋の鍵を受け取る日に引っ越し荷物を受け取る」という日本なら当たり前のことが、
ここでは奇跡に近いミッションインポッシブルなことです。

「ムーブイン」と称するところの部屋の鍵を受け取る日は決まりましたが、
荷物の到着日をどうしても指定することができず、ドームムーバーという名の業者は
「28日から31日の間のどこか」というふざけた返事をしてきているとのこと。


コロナに関してアメリカは州毎に対策が違っていて、ここペンシルバニア州は

カリフォルニアなどほど厳しくないので、たとえば入国に関しては到着したら
「2週間は自粛を要請する」といった程度です。

 

街の様子で前回と大きく変わったことといえば、日本と同じく外にあまり人がいないこと。

マスクの着用がなければ出入りできない施設がほとんどなので、
さすがのアメリカ人もこの暑さの中、不要不急の外出を控えているのでしょう。

アメリカ人は外食が好きですが、一部の飲食店を除きほとんどは
営業をテイクアウトだけにしているのもその原因となっているようです。

ちょっとありがたいことのひとつは、日本の首都圏と同じく、
全体的な車の量が減ったせいで名物の渋滞がかなり緩和されていることです。

建物の窓全体を使ってマスク着用を呼びかけています。

いつもなら店の前にずらっと順番待ちの人が並んでいた人気のヌードル店ですが、
ドアを開けたところで(マスク着用必須)注文だけして、外でテイクアウトを待つ仕組み。

外のテーブルのみ予約すればダインインできるようです。

宿泊しているホテルは前にも書きましたが、ナ・リーグ所属である
ピッツバーグ・パイレーツの
ホームグラウンド、
NPC球技場の隣にあります。

試合はすべて無観客なので、シーズン中は賑わう周辺地域もこの通り。

「ピープルズ・ゲート(人民の門)」の前にいるのはきっと有名な選手。

と思って調べてみたら「フライング・ダッチマン」(!)と異名をとった
史上最高の遊撃手、ホーナス・ワグナーHonus Wagner(1874-1955)でした。

ワグナーは「ペンシルバニア・ダッチ」=ペンシルバニアのドイツ系だったということで
この渾名となったようですが、もともとあの幽霊船としての
「フライングダッチマン」ってオランダ人のことですよねー?

アメリカ人は「ダッチ」をドイツ人という意味で使うのか・・・_φ(・_・

ドイツ人といえば、ピッツバーグにはヨーロッパ、特に独仏からの移民が多く、
このインクラインも入植したドイツ系があっという間に作ってしまったとか。

現在も稼働しているらしく、ケーブルカーが行き来していました。

球場の搬入口近くの銅像です。
ジム・マゼロスキーBill Mazeroski (1936〜)という往年の名選手が、
伝説のホームランを打って
ホームインしようとしているところなんだそうです。

The Greatest Homerun Ever: Bill Mazeroski 1960 Walkoff Homerun

ちゃんとベース踏んでる?ってくらいもみくちゃにされてます。
どこかでホームベース踏むまで他の人がランナーに触っちゃいけない、
というルールがあるとか読んだことがある気がするんですが、違うのかな。

 

遊歩道のある河原にはこの球場の搬入口の横を降りていくのですが、
ある日の無観客試合の後、ここから選手の車が次々と出ていくのを見ました。

ナ・リーグの選手というのがどれくらい年棒を取っているのか知りませんが、
皆RAMなどアメリカの若い男性がよく乗っているトラック型の車で、
ポルシェやフェラーリ、ましてやメルセデスやBMWに乗っている人はいませんでした。

コロナ対策でホテルのジムとプールは予約制しかも1時間、1グループのみ使用可。
使用後は消毒して30分時間を空けるという決まりになりました。

いちいちフロントの人に鍵を開けてもらわなくてはならないので
エクササイズは外を歩くのが中心になりました。
幸いホテルから歩いてすぐ川沿いの遊歩道がありますし、
車で10分走れば去年歩いた公園にもいけます。

早速遊歩道にでてみたところ、川向こう岸にブラックライブズマターの落書き発見。
やたら凝った似顔絵付き・・・これはプロの犯行とみた。

ところで、今回の旅行にわたしはいつものニコンを持ってきているのですが、
ついてすぐにナビ用にiPhone11を買うと、こちらばかり使うようになりました。

カメラが特によくなったという噂の11ですが、ソフトに落としてみると
やっぱり限界があるようで、これを息子にボヤいたところ、

「ちゃんとフォーカス決めて撮ってる?」

画面のフォーカスしたい部分をタッチしないと全体的にボケるそうです。
知らんかった。


「リバーボート」と呼ばれる川下りの遊覧船は週末だけ営業しているようでした。
遊覧船のうしろに変な形の船がいますが・・・・、

丸くて屋根がついていて中央がカウンターになっているティキという遊覧ボート。
バーでいっぱいやりながら流れていく気分を楽しめます。

Tiki Boat Tours Bring Tropics To The 'Burgh

現在は食べ物は提供しておらず、クルーズだけのようです。

パイレーツの本拠地PCパークから川沿いを数分歩いていくと、
今度は地元フットボールチーム、スティーラーズの本拠地である
ハインツフィールドがあります。

昔は同じフィールドを兼用にしていて互いに不満があったため、
思い切って近場にどちらのフィールドも作ってしまった模様。

ちなみにスティーラーズのチームカラーも、パイレーツも、
ついでにピッツバーグのホッケーチームペンギンズのカラーも黄色です。

ハインツといえば、ハインツフィールドやサイエンスセンターと反対に遊歩道を
ちょうど30分歩いたところにハインツの旧本社敷地があります。

煉瓦造りの大変立派な建物ですが、現在は使われておらず、このビルの中央に
でかでかと「入居者募集中」と書いてあるので驚きました。

ハインツHEINZはやはりドイツ系アメリカ人のヘンリー・ハインツが興し、
1890年以来この大規模な工場と会社で操業していました。

ケチャップを主力製品にした世界最初の会社で、現在のアメリカ人を
世界でも無類の「ケチャップ好き」にした張本人といってもいいでしょう。

ただし、我が日本ではカゴメとデルモンテ(キッコーマン)という二大企業が
あまりにも強くて
「ケチャップの本家」もこの牙城を崩すことができないそうな。

新しく整備された遊歩道にありがちな傾向として
やたら大きな慰霊碑ができています。

まず朝鮮戦争ヴェテランのための慰霊碑。

こちらはヴェトナム戦争の慰霊碑。
左に立っている人と右の女性はアフリカ系で、帰還してきて
お互い顔を合わせた瞬間のようです。

殉職警察官(Law enforcement officers)の慰霊碑もあります。
ちなみに今専門のHPを調べてみたところ、

2020年殉職警察官リスト

事故で圧倒的に多いのが銃による犠牲です。
3月24日に最初の死亡者が出てからは、その後の警察官の殉職理由のほとんどが
COVID19です。

また、「911関連の癌」で亡くなった警官も多いですね。

下からこの笑い顔の部分だけ見てそうではないかとおもったら、
やっぱりフレッド・ロジャースの像でした。

カーネギーサイエンスセンターの前にある潜水艦USS「レクィン」
この夏は中を見学できるんでしょうか・・・。

カーネギーサイエンスセンターは予約制で限定的に入場を受け付けているそうですが。

着いてからしばらくして、MKの学校の売店がオープンしたと知り、
偵察を兼ねてキャンパスに行ってみました。

キャンパスには塀がなく、道路のどこからでも自由に入ってくることができます。
んが、一歩敷地に足を踏み入れた途端、

FACE COVERINGS ARE  MANDATORY(顔を覆うことは義務です)

という立て札がお出迎え。
Mandatoryは強制を強いる義務という強いニュアンスです。

バンダナやヒジャブという選択肢もあるため、こういうときには
「マスク」といわずフェイスカバーという言葉がよく使われます。

建物を撮って人が一人も写り込まない状態は初めてです。
去年はこの同じ場所に新入生のオリエンテーションのための巨大なテントと、
内部の冷房の機材が芝生をほとんど覆っていたものですが・・・。

90年代に重さで倒壊するまで、ギネスブックに
「最も塗り替えられた回数の多いフェンス」として記録されていた
大学名物のフェンスは、現在ご時世を反映して

「BLACK LIVES MATTER」

が表裏白黒で書かれていました。
コロナ騒ぎになってからも粛々と塗り替えている人がいるようです。

通路にも人影なし。

わたしはたまたまこのときYouTubeでグレゴリー・ペック主演の
終末ものの名作、「渚にて」(On The Beach)を観たあとだったのですが、
潜水艦「スコーピオン」の乗員が、オーストラリアから北上して
核戦争で人々が死に絶えたサンフランシスコの街を海上から目撃するシーンを
思い出してしまいました。

北半球ではすでに人々が死に絶えているという設定です。

どうしてどこにも荒廃の後や人々の遺骸がひとつもないんだ、とか、
人間って死を前にしてみんなこんなに高潔すぎですか?とか、
科学的な検証以前にいろいろとつっこみどころ多すぎの映画でしたが、
心に刺さる、感動的といってもいいラストシーンですよね。

わたしったら原潜が最後に艦を自沈させるために海を航走するシーン、
あれだけで全てをよしとしまった模様(笑)

創立時からあったオリジナルの建物に右の部分を増設してあります。
左側に見えている壁はかつての外壁だった部分です。
窓ガラスはそのまま残してあります。

椅子と椅子の間がソーシャルディスタンスによって大きく空けられています。

このビルではオー・ボン・パンという東海岸のチェーンベーカリーが
いつもならカフェを営業していますが、もちろんまだやっておらず無人です。

このあと、新学期開始に伴うオリエンテーションや新入生のためのセレモニーは
全てオンラインで行われることになっています。

 

続く(のか?)

 

 


映画「Uボート」〜帰港 (大公アルブレヒト行進曲)

2020-08-28 | 歴史

映画「Uボート」について細々と書いてきましたが、
1980年台に公開され、すでに40年近く経っている作品なので、
いろんなところで語られており、たとえば感想や蘊蓄を交換し合う
専用のスレッドなども百出しています。

そして、どんな評価を見ても、大勢の意見は、この映画が
過去製作された潜水艦映画で最高の部類に属するというところに
落ち着いていると思われました。

潜水艦作品の名作に「深く静かに潜航せよ」が上がることはありますが、
これは当ブログにおいて掲載するにあたり細密にアナライズしたところの
わたしに言わせていただくと、主人公である潜水艦艦長の個人的な
「復讐」を物語の核に据えてしまったあたりで、決して深く静かに共感できません。

また「U-571」は、あるスレッドの投稿者によると「超えられない壁」の
はるか下に属し、全般的にもあまり高い評価とはなっていません。

いきなり敵の潜水艦に乗り移ってあんなにスムーズに動かせるはずはない、
という誰でも気づく矛盾点以前に、わたしが最も萎えたのは
「エニグマ通信機を略奪する」という設定でした。
(作戦の目的として実に非現実的かつ非効率的すぎってことで)

そして潜水艦沈没&レスキューものである「グレイ・レディ・ダウン」は
主人公である原潜の艦長があまりにもいいところなしで、こちらも
共感できないまま終わってしまいましたし、評価の高い「眼下の敵」も
全体としてみるとハリウッド的御都合主義が所々目につきます。

というわけで、

「潜水艦映画にハズレなし」

とはいうものの、この「Das Boot 」ほど良くできた映画は
決して多くはない、というのが今のところわたしの出した結論です。

しかしながら映画のベースとなった「Das Boot」の作者
ロタール・ギュンター・ブーフハイム
この映画に対して
非常に否定的な見方をしていたことを書いておかなくてはなりません。

彼は「大変失望した」理由として、自分の反戦的なメッセージを監督は

"cheap, shallow American action flick"
(安っぽくて浅薄なアメリカンアクションもの)

"contemporary German propaganda newsreel from World War II".
(第二次世界大戦の現代版ドイツプロパガンダニュースリール)

にしてしまった、と断言しています。

そして、特に登場人物の行動が押しなべてヒステリックで過剰であり、
かつ非現実的であるとも言っています。
(これが非現実的であるとすれば、そのほかの全ての潜水艦映画は
もうSFの範疇に数えられるようなことになりそうですが)

当初この映画化についてはハリウッドのドン・シーゲルが監督を、
そしてロバート・レッドフォード(第二案ではポール・ニューマン)が
艦長を演じる、という案(どんな映画になるかお察し)
があったそうですが、もちろんブーフハイムはこれに拒否感を示し、
ペーターゼンが監督に選ばれて初めて原作の提供を許可しています。

なのに、できてみれば、というわけですね。
ブーフハイムの期待通りならどんな映画になっていたのか
大変興味はありますが、もしそうなっていたら、この作品が
ここまで評価されていたかというと限りなく謎です。

 

そしてここでお断りですが、この映画については語られ尽くされているので、
有名なラストシーン、映画のキャッチコピー風に言うならば

「衝撃のラスト3分半」

についてもネタバレ御免でご紹介することにいたします。

まさかとは思いますが、まだこの映画をご覧になっておらず、
ラストどうなるのか知らないし見るまで知りたくない、
と言う方がおられたら、この先は決して読まないでください。

といいながら本編紹介前に余談です。

「 Das Boot」で検索していてこんな画像を見つけました。
なんとロシア語の映画紹介サイトなんですが、なぜかこれが
「Das Boot」の画像として掲載されています。

ロシア語を翻訳機にかけたところ、全く勘違いして
これが「Uボート」の一シーンとして掲載されたことが明らかになりました。

「Uボート」に日本人出てこないっつの。

そこでUボート艦上の大日本帝国海軍軍人二人、これはどうみても
ドイツに技術武官として派遣されており、ドイツから技術貸与された
図面などを持ち帰る遣独潜水艦作戦でU234に乗り込んだ

友永英夫技術中佐

庄司源三技術中佐

としか考えられません。

日本で彼らのことを描いた映画やドラマがあったというのは
寡聞にして知りませんが、もしこの画像が
外国制作の映画などであったとすれば、ぜひ突き止めたいものです。

どなたかこの画像に関する情報をお持ちの方、
教えていただければ幸いに存じます。

さて、ジブラルタルの海底から蘇ったUボート、
撃沈したと相手が思い込んでくれたことから、無警戒で
不可能と思われたジブラルタル海峡を通過することに成功し、
満身創痍で出向したラ・ロレーヌに凱旋を果たすことになりました。

出航のシーンもこのときもロケはフランスのラ・ロレーヌで行われたので、
エキストラはほとんど全員がフランス人でまかなわれたそうです。

岸壁の出迎えの人々からは「ウラ!ウラ!ウラ!」という声が聞こえます。

艦内と比べれば別人レベルのちゃんとした格好で艦上に立つ乗員たち。

機関室の「幽霊」ヨハンがいます。

真ん中、掌帆長ランプレヒト。

ちなみに彼の贔屓のチームはシャルケ04です。
サッカーファンならご存知、ブンデスリーガ所属の名門で創設は1904年でした。

うしろにいるのは乗員唯一スキンヘッドの魚雷室勤務。
長い艦内生活でもまっったく髪が伸びてません。

ディーゼル機関兵のシュバレ。
艦内の宴会でドラムを披露していた人です。

艦長に渡すためのものか、チューリップの花束を(包んでない)
抱えた毛皮のご婦人や、海軍の偉い人、その副官などが見えます。

迎えの列には子供もいて、到着した潜水艦に花が投げられます。

相変わらず艦長は軍服を着ておりません。

Uボートの乗員は軍服を一切着ないでセーターで過ごすような人が多かった、
という証言がありますが、艦長だって一応出航時は
軍服に鉄十字の勲章をつけ、帽子だって(なぜか夏用ですが)
もっと白かったんだから、やればできる子だと思うんですけど・・。

一般的に海軍、特にUボート乗りはナチスに無関心もしくは嫌いな人が
多かったといい、この艦長もそうであるという表現でしょう。

艦内からは負傷した操舵長を運び出す作業が行われています。
体を袋に入れて上から引っ張ってハッチから出すのです。

作業を行うのは聴音員のヒンリッヒ。

「ダンケ」

「いいさ。太陽が眩しいぞ」

後ろの壁に描かれている、

Wir hauen fur den sieg!

は「我々は勝利を得る」と言う意味です。

操舵長が救急車に乗せられると、基地司令らしき人が
挨拶をするためにやってきました。

司令の向こうにいるのは軍楽隊の指揮者で、彼らが演奏しているのは

「アルブレヒト大公行進曲」

オーストリア=ハンガリーのテシェン公アルブレヒトのために
作曲された行進曲で、第一次・第二次世界大戦を通して
ドイツ軍が多用していた行進曲の一つです。

Erzherzog Albrecht Marsch

司令がラッタルに足をかけるとどこからかサイドパイプが聞こえます。
誰が吹いているのか謎ですが、慣例で言うとUボートの乗員のはず。

そしてスピーチを始めようとした瞬間。
不気味な空襲警報が鳴り出しました。

警報が鳴り出して同時というくらいすぐ、連合軍の飛行機が
爆撃を行います。
観衆は悲鳴を上げて避難を始めました。

腕に腕章をした女性軍人、楽器を抱えた軍楽隊員、
そしてもちろんUボートの乗員はラッタル伝いに岸に上がります。

艦橋から一人、下から二人、計三名が海に飛び込んでいます。

岸壁を走る人たちの中にヒンリッヒ、次席士官(手前)機関長がいます。

すでに地面に倒れている人もいます。

ところでDVDを持っていたら是非確かめて欲しいのですが、
このシーンで死人役のエキストラは、撮影が始まった時思わず目を開けてしまい、
慌てて目を閉じて、次に爆発の衝撃で思わずビクッとしているところが
バッチリ写っています。

監督がボツにしなかったのは、実際に爆破装置を使ったので
やり直しができなかったからではないかと思われます。



空襲シーンでは、200名のフランス軍エキストラと100万発の爆薬が使用されました。

土嚢のところで警備をしていたヘルメットの兵隊が銃撃にやられます。

空中で散開する連合軍機。

イギリス軍はこの頃本国からここまで飛んで帰れるような
爆撃機を持っていなかったらしいので、これらは空母ベースのはずです。

 

撮影では時代考証的に正しいこの頃の英軍の爆撃機は見つからなかったので、
代わりに、フランスにある民間飛行クラブ
が所有するヴィンテージ機が使われ、
フランスのパイロットが操縦を行っているということです。

ところでわたしはこのシーンを何度も見返してしまいました。
これ艦長とヒンリッヒ、どちらだと思います?
顔面に怪我をしてヴェルナー少尉らしき人に引っ張られています。

艦長だと思う人〜\( ˆoˆ )

後ろから掌帆長が駆け寄っています。

でも、艦長ならさっき艦上でジャケットを着ていたはずだし、
爆撃開始から今までぬいだりする余裕も時間もないですよね。

派手な爆撃シーンも今と違い実際に火薬を使っています。
何でもこの映画、制作費がドイツで製作された映画史上最高額だったとか。

瓦礫の中倒れ込む乗員たちの中に次席士官もいます。
後ろはヨハンでしょうか。

機関長、シュバレ、先任士官の3人は列車の下に逃げ込み爆撃を避けています。
(後でこの3人は助かったことがわかる)

ここでヴェルナー少尉、一人で駆けてきて列車の下に避難しているんですが。
あのー、
さっきまで救助していた人はどうなったんですか?

途中で自分の身が危なくなったのでどこかに置いてきてしまったんでしょうか。

怪我した人を二人がかりで運んでいます。
どの人も一瞬しか映らない上皆髭が伸びているので誰だか見分けがつきません。

ていうかこんな人いたっけ?

炎の中負傷した戦友を肩に担いで走るのはおそらくアーリオ。
ある分析サイトによると、ヴェルナー少尉にウェスを投げたのはこいつだとか。

彼が担いでいるのは間違いなくヒンリッヒです。
そのまま後ろに向かって転倒しますが、ヒンリッヒ役の俳優は
地面に叩きつけられます。

大声で叫んでますが、マジで激痛だった可能性あり。

容赦無く繰り返される爆撃。

潜水艦基地の中に何とか逃げ込むことができたヴェルナー少尉。

なぜか逃げ込んできた乗員全員が、壁でなく
鎖にもたれ掛かっているというこの不自然な構図。

バックに潜水艦を入れるためと思われます。

怪我の激痛で叫び声を上げているのはフレンセン。
コンビのピルグリムが彼を支えて抱いてやっています。

怪我をしないものも虚脱状態で肩で息をしています。

一番奥、重傷者を抱えてやっているのはシュバレ、その後ろは
シュバレと一緒に避難していたヒトラーユーゲント出身の先任士官です。
先任士官は重傷者のためにメディックを呼び、力づけています。

わたしはしつこいですが先任士官贔屓なので発見した時嬉しかったです。

ということは・・・・。
先任士官と一緒に逃げた機関長もご無事だったんですね。

最後に落としていった爆弾がドックの天井一部を崩落させました。
ヴェルナー少尉は外に飛び出します。

フレンセンの苦痛はひどく、彼は獣のようにうめき続けます。
トリアージ的に彼がメディックのケアを受けられるのは
しかしかなり先のことになると思われます。

そこここに炎が燃え盛る中、走り出たヴェルナー少尉は見ました。

機関兵曹ヨハン。

陽気だった次席士官。

恋人に手紙を預かってやれないままになってしまった
少尉候補生ウルマン。

ベンジャミン、潜水オペレーター担当。

決して親しくはなかったけれど、共に生還してきた乗員、
数分前まで生きていた男たちが骸と化しているのを。

ちなみにこの最後のシーンで誰を「殺すか」決めたのは、
ペーターゼン監督のだったそうです。

そしてさらに。先ほど帰還したばかりのUボートが係留している埠頭で
彼が見たものは・・

わたしの特定が間違っていなければですが、ヴェルナー少尉が先ほど
途中で救助を放棄した艦長が、埠頭でボートを凝視していました。

艦長の額には傷が見えますが、先ほどヴェルナーが引っ張っていたときには
全く血が付いているところが違います(だからさっきのは艦長ではないという説も)

沈んでいくU-96。

この沈没は、一度実際に壊れて沈んだモックアップを引き上げて修理し、
水中ケーブルを引っ張ると沈んでいくように改装して撮影しています。

ボートが海面から姿を消すと同時に艦長の目から光が失われ、
同時に彼の命の火も消えていきました。

倒れ込む艦長のセーターに銃痕が数カ所見えます。

革のジャケットを着ていたらこの効果を出すのが難しいので、
ジャケットをいつの間にか脱いでいることにしたのかも、
などということを考えるのはおそらくこの世でわたしくらいでしょう。

これが映画のエンディングシーンです。

 

決して英雄として描かれない艦長、このひたすら虚しい結末。

映画のラストのわずか3分間で、あなたはそうでなかった場合とは
おそらく
正反対の感情、観賞後の感想を植え付けられることでしょう。

そしてこの衝撃の3分あればこそ、我々は戦争というものの報われない現実を
片鱗とはいえ、垣間見ることになるのです。

 

原作者は映画がアメリカの戦争アクションに堕したと非難したそうですが、
彼の原作のテーマである「反戦」の意図は、少なくとも
このエンディングがある限り全く損なわれるものではないでしょう。

少なくともわたしを含めたほとんどの鑑賞者がそう感じているからこそ、
この映画は制作後40年の時代(とき)を経ていまだ高く評価されているのです。

映画「Uボート」は、プロデューサーでありライターである
スティーブン・シュナイダーが編集している
「死ぬまでに見たい1001の映画」に最初から改訂版(2015年)を通して
常にランク入りしています。

 

終わり

 


映画「Uボート」〜"It's a long way to Tipperari"(ティペラリ・ソング)再び

2020-08-26 | 歴史

映画「Uボート」、五日目になります。

航空機の爆撃によって機関を破損し、沈み続けたUボート。
深度が計器のリミットを超えて祈りを唱える者が現れたころ、
艦体に大きな衝撃が走りました。

そして死のような静けさが・・・。

「海底だ」

海峡なので深度が浅かったことが幸いし、艦は着底しました。
艦体は深海280mの圧力にも耐えたということになります。

さっそく機関室のチェックを始めたヨハン、浸水箇所を発見しました。

下士官バンクにも浸水が始まっています。

圧力に耐えられなくなったビスが次々と飛び始めました。
魚雷発射管、制御盤、聴音室からも次々と浸水してきます。

総員一丸となってのダメコンの始まりです。
とにかく充填材を破損箇所に入れて浸水を食い止めること。

しかし次々と機関が破損していきます。

「祈っとらんと仕事せんかーい!」

こんな時にもお祈りを唱えていた「聖書屋」は、例によって
フレンセンに殴られております。

機関長は艦長に破損箇所を逐一報告しますが、
それはいずれも絶望的な情報でしかありません。

バッテリーも24個が破損しているので、機関長が下に潜って
つなげる機関を導線で繋ぐという措置が取られることになりました。

お客様として乗っていたヴェルナー少尉ももちろん参加です。

このとき、ヨハンが水没した箇所を修復するために水に潜り、
ヴェルナーに一緒に潜って懐中電灯で手元を照らすことを要求しますが、
この箇所を見て、わたしは映画「U571」を思い出しました。

あの映画では水没箇所を修理するために潜って作業した乗員が犠牲になりましたが、
明らかにこちらの場面から着想を得ていると思われます。

この映画は、のちの潜水艦映画、ことにUボートが登場する映画に
多大な影響を与えたといわれていますが、同時に何をやっても
二番煎じになるという意味での「足かせ」
になったということは否定できません。

バッテリーを点検していた機関長。

「繋ぐための針金が必要だ」

すると艦長、焦って、

「高い魚雷はいくらでもあるのにタダ同然の針金が一本もない!」

しかしながらその直後、部下がワイヤをきっちり探し出してくるのでした。
あまり性急に結論を出してうかつなことを言わないないほうがいいですね。

この映画はとにかく艦長を英雄やスーパーマンとして描いていないのがリアルです。

「水圧装置破損、手動でも動きません」

そこに幽霊のように虚脱した風のヨハンがやってきました。

「浸水停止です」

「・・・・・・・でかした」

考えようによってはこの人、早めに?キレておいてよかったかもしれません。
この非常時に覚醒し、こうやって見事役目を果たしたのですから。

「・・・よくやった」

そしてヨハンの肩を叩き、

「服を着替えろ」

このときヨハンと一緒に機関室の兵(助手?)がいるのですが、
彼は一切声をかけてもらえません。

浸水が止まったので次は床に溜まった水をバケツで集めて排水することになりました。
ヴェルナー少尉もバケツリレーに加わります。

導線を持ってバッテリー室に潜っていた機関長から朗報です。
バッテリーは3個修復できたので稼働が可能とのこと。

艦長は報告をパンをかじりながら聞いています。

しかしその一方、先任士官が各所の被害報告を行います。

「コンパス破損。速度計と探深計、無線機も」

「ふっ・・・被害甚大だな」

先任「浮上の・・・可能性は?」

「注気したときの空気をありったけ集めて使う」

細部細部ではいろんなことを言いますが、決定的なところでは
けっして絶望するようなことを言わないのが艦長です。

そうと決まったら浮上のためには艦体を少しでも軽くしなくてはいけません。

機関長の考えたプランによると、手作業で水を中央に集め、
まだ使える動力ポンプで排出し、その勢いでついでに浮上するというもの。
チャンスは一回だけです。

それに失敗したらその時は・・・。

作業を終えるには8時間かかりますが、すでに酸素が減っており
呼吸が困難になる傾向があるため、

手の開いた乗員はマスクを着用して寝ることになりました。
ノーカット版でヴェルナー少尉が乗艦した時、次席士官がマスクを渡しながら

「形だけだよ」

というようなことを言うらしいのですが、これは伏線で、
マスクは実際に彼らの命を救うことになります。

多くの乗員がマスクをして熟睡している中、ヨハンフラフラ歩いてきて、
真っ黒に汚れた手でオレンジを一つ手にして貪りだしました。

彼が事故発生以来何も口にしていなかったことを物語ります。

聴音員のヒンリッヒは負傷した操舵長の看護にかかりきりです。

全てが絶望的な中、かといって艦長に今できることは何もありません。
修理は機関長が全てを請け負っています。

することがないので、懐中電灯を持って艦内を回る艦長、
ウルマンの外れた酸素マスクを直してやったり。

こちら水の中に潜ってライトを照らしていたはずのヴェルナー少尉ですが、
セーターが全く濡れていません。

交換したのかな?

座ったまま寝ている機関長に飲み物がいるかどうか聞くと
いらない、といったのに、瓶を渡すと奪い取るようにしてこの通り。

「艦長は海峡突破の命令を受けたときから生還は無理だとわかってたんだ」

だからこそこの二人を降ろそうとした、というのです。
そして、一か八か潮流に乗って地中海に出るという賭けにでたものの、
それには失敗したと絶望的に語るのでした。

そしてついに艦長の口からももう15時間になるから修理は無理かも、
という
言葉を聞いたヴェルナー少尉、思わず詩を口ずさみます。

「わたしは望んだ 一度極限状態に身をおこう
母親が我らを探し回らず 女が我らの前に現れず
現実のみが残酷に支配するところに」

「これが現実です」

このシーンは英語版だと、

They made us all train for this day.
To be fearless and proud and alone.
To need no one, just sacrifice.
All for the Fatherland.

Oh God, all just empty words.
It's not the way they said it was, is it?
I just want someone to be with.
The only thing I feel is afraid.

彼らは私たち全員をこの日のために訓練させました
恐れず、誇りをもち、孤高であること。
誰をも求めず、ただ我が身を犠牲にすること。
すべては祖国のためであると。

ああ、神様、すべての言葉は空虚です。
これは彼らが言ったところのやりかた
ではありませんね?
私は誰かと共にいたい。
私が今感じるたった一つのことは恐れだけ。

となっています。
日本版はドイツ語バージョンに忠実に訳されています。

そのときです。

機関長が懐中電灯を手によろめきながらやってきて、
これ以上何の悪い知らせだ、とばかりに振り向く艦長に向かい
息を整えてから

「報告します」

「機関修理、完了」

「排水管も」

「排水し終わりました」

「コンパス類、探深計修理完了」

驚きに思わず目を見張る艦長に向かって機関長は微かに微笑み、
艦長は

「よくやった」

と一言・・。

意識朦朧としている様子の機関長に向かって艦長は

「休んでくれ」

といいますが、よろめきながらも機関長は

「まだやることがあります」

機関長をビゴで降ろさなくてほんとうによかったですね。

安堵と感嘆に思わず輝くヴェルナー少尉の顔でした。

何度も苦しげに呼吸を繰り返してから、
やっとのことで絞り出すように艦長は呟くのでした。

「・・・優秀な部下だ」

「俺は幸せ者だ」

そしていよいよ浮上を試みる瞬間がきました。
皆酸素の薄さに肩で息をしています。

「帰港するぞ。成功したらビールをふるまってやる」

全員に笑いが戻りました。
昨夜海峡を突破しようとした時以来の笑いです。

敵はUボートを撃沈したと思っているのでおそらく無警戒だろうから、
その隙に全速力で逃げる、と艦長は言い切ります。

「ナー、メナー、アレス・クラー?」(皆、いいか)

「ヤボール・ヘアカーロイ!」(はい、艦長どの)

出航の時と全く同じやりとりであることにご注意ください。

ちなみにわたしはこのドイツ語がなんといっているのか分からずに、
あちこち調べたのですが手がかりを得られず、最後の手段で
その手のことに詳しそうなウェップスさんに聞いたところ、
2時間くらいで正解を教えていただきました。

この場をお借りしてお礼を申し上げます。

赤色灯に切り替え、操舵手二人が席に着くと、機関長は
いつもの配置に立ちました。

「注気だ」「注気!」

祈るように皆が探深計の針を見つめます。
艦体が海底から離れる振動に続いて、ピクッと針が震え、

「浮いた!」

「ヤーーーー!」

10メートルずつ上がっていく深度をカウントする機関長の声が
喜びに震え、ついに浮上を果たしたUボート。

艦長がハッチを開けた瞬間入り込んできた空気を、
乗員たちはハッチの下に集まって思いっきり吸い込もうとします。

ここからが正念場です。
機関がちゃんと動くかどうか。

「動かせ」

「機関長どの、動きました」

「地獄から脱出だ!ヒャハハッハ〜!」

「いえええい!」

思わず機関にうっとりとほおずりするヨハン(笑)

そして「Uボートのテーマ」アップバージョンに乗って軽快に波を切るUボート。
開いたままのハッチの下では空気を求めて
乗員たちがいつまでも集まって立ちすくんでいます。

時折潮水が入ってくるも嬉しそうに

「しょっぺえな!」

ダメコンで穴を塞いだ角材に持たれながら可愛い機関に

「がんばれよな!頼むぞ!」

と声をかけるヨハンでした。

「敵は撃沈したと思って祝杯をあげているだろう」

おかげでノーマークのままジブラルタル海峡を突破できるというわけです。

いつも髭を剃り完璧すぎる身仕舞いをしていた先任士官、
さすがにすこし髭が伸びています。

ちなみにこのとき、大波が来るたびに先任は波を避けてかがみますが、
艦長はしぶきを避けもせずむしろ大喜びで潮を浴び続けています。

そして・・・・

「♫ティペラリへの道は遠い〜」

調子良く波を切って進むUボートの中では、再び
「ティペラリソング」の大合唱が行われていました。

ちなみにこの映画で使用される「ティペラリソング」の録音はなぜか
ロシア陸軍合唱隊による演奏で、「Uボート」サウンドトラックにも挿入されています。

「故郷に乾杯!」

手前の掌帆長は相変わらずにこりともせず、怖い顔で
『ティペラリソング』をちゃんと歌い(笑)
あいかわらず苦虫を噛みつぶしたような顔で乾杯にも唱和しています。

そういう顔の人なんですねきっと。

大音響にも関わらず、機関にもたれて死んだように熟睡している機関長に
フレンセンが「MARINE」と書いたドイツ版海軍毛布をかけてやるのでした。

艦が海底から生還できた功労賞があれば、それを与えられるのは
文句なしにこの機関長でしょう。(次点はヨハン)

聴音員のヒンリッヒは艦長のためにいつもの
「J’attenderai(待ちましょう)」をかけてあげています。

穏やかな時間。

「まだ陸は遠い・・・・・・」

甘い女性ヴォーカルが流れる中、艦長はベッドに身を横たえ、
独り言のように呟くのでした。

「なんとかなるさ・・・いままでのように」

果たしてなんとかなるんでしょうか。


続く。

 

 


映画「Uボート」〜”La Paloma"(押し寄せる波のように)

2020-08-24 | 映画

  映画「Uボート」四日目になってしまいました。
艦長、トムゼン大尉、次席士官ときて今日のタイトル画は機関長です。
登場人物を全員描ききるまで終わらないんではないかという不安が(笑)

さて、散々駆逐艦に翻弄されてそれでも持ち堪えてきたUボートですが、
攻撃の治ったとき、機関室の奥から幽鬼のように彷徨い出てきた影あり。

文字通り「幽霊」という渾名の機関兵曹長ヨハンでした。
機関と暮らし、機関を愛して機関室から外に出てこず現場の主と化し、
スペシャリストとして信頼されていたはずなのに。

 

流石に動揺して「戻れ!」と叱りつける艦長。

ヨハンは9回目の出撃ですが、今回はリミットを超えてキレてしまったようです。

「持ち場に戻れ!」

と艦長が叱りつけてもヨハン、震えながらハッチを上ろうと手をかけます。

しかしヨハンの錯乱よりも乗員がぎょっとしたのは、艦長が
士官室に走って行き、ピストルを手にして戻ってきたことだったかもしれません。

思わず目を伏せる機関長たち。
万が一にでも艦長がヨハンを撃つようなことがあったら、
そのときはどうなっていたのでしょうか。

歴戦の指揮官とて無謬ではないわけですが、このときの艦長は
銃を取りに行くより、説得を続けるべきだったとわたしは思います。

手前にピストル

ショックを受けて静まり返る乗員の視線の中、艦長が呟きます。

「信頼してたのに・・腰抜けめ・・恥を知れ」

そして、聴音員のヒンリッヒが悲痛な顔で
次の攻撃が迫ったことを告げようとすると、静かな声で、

「聴音はいい。聴こえてるよ」

周りの士官たちはその声から艦長の諦めを悟り目を伏せるのでした。

ベテランの潜水艦乗りだからこそ、艦長は今の状況の先に
絶望的な最後しかないことを知っていたということもありますが、
考えようによっては乗員の錯乱に対し思わず銃を持ち出したことで、
潜水艦指揮官として皆を率いる闘志をこの瞬間失ったともいえます。

駆逐艦の不気味なスクリュー音に続き、爆雷が降ってきました。
今までのどの攻撃より激しくUボートを翻弄し、誰もが立っていられないくらいに・・。
このとき激しい振動の中、ヒンリッヒがウルマンと抱き合っているのが見えます。

ヴェルナー少尉は床を這いながら進み、散乱している物の山から写真を
一枚手にしてバンクにもぐりこみました。

機関長が見ていた雪山の写真です。
どうせなら祖国の写真を見ながら永遠の眠りにつきたい・・。

と思ったら・・・・あれ?(BGMペールギュント組曲より『朝』)
俺生きてんじゃん。

周りを見るとちゃんと片付いていて(さすがドイツ人?)
士官たちは食事をした後寝てしまったようです。

あの爆撃の衝撃でも割れなかったらしいワインの瓶は空。
次席士官のかたわらにはなぜか犬のおもちゃが(笑)

茫然と寝床を這い出て音のする方を見てみると・・。

何事もなかったかのように仕事をしている操舵長その他。
ここも昨日は物が散乱していたはずなのに床には何も落ちてません。

艦長の声が操舵長に記録を命じています。

「潜航6時間後に敵駆逐艦は追撃を断念した」

それを聞いて、ヴェルナー少尉は生きて朝を迎えられたわけがわかりました。

「右210度に火災を確認」

「当艦が攻撃を加えたタンカーと推測」

「もう一隻の船」は駆逐艦ではなかったのです。

浮上のため赤色灯を命じた艦長は少尉が起きているのを見て

「よかったな・・・生き延びて」

潜水艦を浮上させ、乗員が目の当たりにしたのは先ほど魚雷を撃ち込んだ船です。
激しく火災を起こしながらいまだに沈んでいません。

ここで艦長はすぐさま止めを刺すための魚雷発射を命じます。

しかしそのうち沈むことがはっきりしている民間船に
とどめを刺すという艦長の判断はあまり実際的だといえません。

そもそも敵国船と一緒にこんな明るいところに浮上していたら
すぐに敵の対潜護衛艦に見つかってしまいます。
本物のごかくにボート艦長なら余計な危険に自艦をさらす愚は決して犯さなかったはずです。

 

「距離650m、深度4、魚雷速度30 照準後部マストの前」

その時です。

「人がいる!」

なんと、甲板から人が次々飛び降りています。

「救助しなかったのか!」

というか、最初に攻撃されてからずいぶん時間が経ってるわけですが、
どうしてこんなに燃えているのに誰も脱出しなかったのか。

「時間は十分あったのに!」

ねえ?

いくら民間船でも救命ボートくらい積んでいるでしょうに。

炎の海に浮かんだイギリス人たちは口々にヘルプミー!と叫びながら
Uボートに向かって手を振って近づいて来ようとして力尽きていきます。

思わず泣き伏してしまうウルマン候補生。

「半速後進」

というような光景を目の当たりにして会話が弾むわけもなく。

なのにこんなときに別の船団発見の知らせが入ると、
すでに戦闘モードを取り返した艦長は行く気満々。

「いやそれは・・・」

2隻撃沈し、死地を潜り抜けたのにすぐさま飛び込んでいこうとする艦長。
機関長と操舵長がどちらも及び腰なのに怒りを爆発させます。

「帰港はいつですか」

すると艦長は長い時間操舵長の顔を睨みつけ、

「俺がそう命令した時だ。ヘア・オーバーシュテウアマン」

ちなみに第三帝国の操舵長は下士官職だったので、これに
「Herr」をつけるのはあきらかに「嫌味」というやつです。

ここで乗員のささやかな期待を踏みにじってみせるのは
艦長が戦時の指揮官としてあえて冷酷に振る舞っていると考えられます。

艦長が行動報告書を書いていると、ヨハンがやってきました。
ちゃんと上着を着て帽子までつけているのが健気です。

「自分は軍法会議に?」

トムゼン大尉のモデル(かどうかわかりませんが)という軍人も
攻撃をせずそれが敵前逃亡とみなされて軍法会議で死刑判決を受けています。

「自分は・・キレちまったんです・・神経が」

「もういい」

「軍法会議は・・?」

つまりヨハンにとって1番の心配事は軍法会議であると。

「寝ろ」

ほっとして引き上げるヨハン。

聴音員ヒンリッヒのデスクには球根(ヒヤシンス?)の水栽培が飾ってあります。
よくあの振動でこわれなかったな。

彼は「極秘電報」を受け取りました。

電報はすぐさま次席士官に渡され、エニグマで解読されます。

「艦長宛です」

それを聞いた途端、艦長はデスクにあった蜜蝋で封印された封書を取り出します。
つまり、前もって指示のあった時に初めて開封する封書が渡されていたのです。

 

このときバックに流れている音楽はドイツのポピュラーソング「ラ・パロマ」。

航海に出て行った男に送る最後のメッセージを白い鳩(パロマ)に託す
残された女性の歌で、その歌詞の一節にこのような言葉があります。

押し寄せる海のように人生はやって来ては去ってしまうもの
けれども誰がそれを知り得ただろう

 

こちら、この後は帰港するものと信じて、帰ってからのプランを語り合い
あれこれと盛り上がるボーイズですが、艦長から悲しいお知らせが。

「イタリアのラ・スペチアに回航する。その前にスペインのビゴで補給」

あからさまに意気消沈するベテラン下士官に

「マカロニ娘も悪くないよ」

「そういう話と違うわー!」

フレンセンはいきなり「聖書屋」の頭を殴りつけ、

「ジブラルタル海峡だぞ!」

狭くておまけに敵がうじゃうじゃいる、というわけです。

静かな凪の夕暮れを航走するUボート。
舳先で語らっているのは艦長と機関長のようです。

操舵長は六分儀を使って天測していますが、知っている人によると
このときの俳優の六分儀の使い方は「たいへん正確である」そうです。

操舵長が天測ついでにジブラルタル海峡を通過することについて

「死にに行くのか」

などというもので、すっかりビビるヴェルナー少尉ですが、
そこに艦長がやってきて、ビゴで機関長と一緒に艦を降りろといいます。

ヴェルナー少尉はゲストなのでそれはわかりますが、重責の機関長をなぜ?

「機関長は限界だ。降ろしたい」

見たところ限界なのはヨハンだと思うんですが。
艦長には長い付き合いである機関長の限界が見えていたということでしょうか。

下艦することが決まったので、ヴェルナー少尉はふと思いついて
ウルマン候補生が彼女に書いていた手紙を預かってやることにしました。

その後ビゴに到着し、夜間静かに浮上した我らがUボート。
ドイツの商船に偽装した補給船と合流する手筈が整えられていました。

艦体を接舷させるシーンは模型の製作手間の関係で音声のみの表現です。

士官のみ要求されて補給船に乗船していくと、そこは先ほどまでとは別の、
真っ白な世界。

彼らの姿を見るなり全員で整列して右手を挙げ、

船長「ジーク!」乗員「ハイル!」
船長「ジーク!」乗員「ハイル!」
船長「ジーク!」乗員「ハイル!」

(ドンビキー)

ところがここで元ヒトラーユーゲントの血がつい騒いだのか、
先任士官がマジモードで前にずいっと出てきたのものだから、

すっかり艦長だと思いこんだ補給船の船長、
ためらいなく握手を求めるので、次席士官は噴き出し、
艦長は憮然として腕組みを・・

「いや、艦長はこちらです」

「これは飛んだ失礼を・・・。
ヴェーザー号へようこそ!ヘア・カピテンロイテナント」

このおっさんがまた、艦長の神経を逆撫でするかのようにはしゃぐんだ。

「武勇伝を話してください。楽しみにしてたんです」

「何隻沈めたんですか?当ててみましょうか」

乾杯の時には、ついつい「我らが総統」とか言いかけると、
なぜか空気読んだ主席士官が咳払いし、それをやめさせると言った具合。

「艦長どの、話を聞かせてくださいよー」(くどい)

艦長は「初めてだ」といいながらイチジクを食べ、ただ一言、

「もてなしに感謝する」

すると船長、

「驚いた・・・諸君、これが英雄の言葉だ!」

でもお話を聞かせていただきたい」

好き嫌いも聞かず食べ物を皿によそって艦長に渡し、

「どんな感じです?潜航中に上に敵がいるって」

そレでも答えない艦長に代わって機関長と次席士官が返事を混ぜっ返し、
先任士官がそれをうまく取り繕ってはぐらかします。

なかなかいいチームプレイです。

そのとき海軍部から代表がやってきました。
船長もこの海軍部(軍令部のことかな)の代表も、
普通に「ハイルヒトラー!」と挨拶を交わしています。

彼がもたらしたのは海峡を突破するための資料ですが、
ついでにビゴで人員を降ろす件については拒否してきました。

「悪いが二人とも残ることになった」

しかし、彼の後任の機関長に気心の知れない相手がくることを考えると、
ジブラルタルの難局を乗り越えるのにその方が心強いのも確かです。

そしてビゴを出航したUボート。

ジブラルタル海峡は狭く、しかもイギリス軍の港があります。
実際にもここではUボートが少なくとも二隻撃沈されて沈んでいるそうです。

水上艇だけでなく哨戒機も飛んでいる、と艦長は説明します。

「そこを突破する」

ギリギリまで闇に紛れて海上を航走し、それから沈んで
潮流に乗って静かに流れていこうというのです。

「これだと燃料が要らん。どうだ」

艦長はまたしても操舵長に意見を求めました。

「名案です」

先ほどいつ帰港するのかと聞いて叱責され、
意気消沈していた操舵長ですが、不敵にも微笑んでいます。

そしてジブラルタル海峡突入の時がやってきました。

海峡の様子をうかがいながら時は過ぎていきます。

ビゴで補給した食料のバナナをかじっている次席士官。
「ピルグリム」はこんなときなのに「臭いポマード」で髪を撫で付けています。

そのときです。

「アラ〜〜〜〜〜〜ム!」

艦長に指名されて艦橋に出て監視をしていた操舵長が
艦内に向かって叫びました。

「注水!」

なんと敵はマークしていた駆逐艦ではなく哨戒機でした。

哨戒機の銃弾に艦橋にいた操舵長負傷!

ほぼ初めて登場する烹炊担当。

ここで先任士官が「メディックはどこだ!」と叫びます。

負傷兵の手当て担当は通信員のヒンリッヒです。

Uボートは艦橋に艦長を乗せたまま全力で航走を続け、
再び艦長の「アラ〜〜〜ム!」を合図に潜航を開始。

「90mまで潜航」

しかしこんな時に舵輪が動かせず、操舵ができない状態に。

結果として自動的にどんどん沈んでいく潜水艦。
潜航開始の時に例によって前部に向かって駆けて行った「人間バラスト」は
機関長の指示によって今度は全員後ろに移動です。

右往左往する乗員の側では、痛みで暴れる操舵長を二人がかりで押さえ込む
ヒンリッヒと先任士官が・・・・。

「止まらない・・・沈み続けている」

「排水管破損!」

「止まれ!」

震度計の針はレッドゾーンへと・・・

痙攣するように震えながら深度計を見つめますが、
圧壊の恐れのある200米をすでに突破。

喘ぐように呼吸をする次席士官。
深度計の針は全く止まる気配を見せません。


計測できる最大震度の260mを超えてもまだ進み続ける針に
艦内を沈黙と絶望が支配していくのでした。

「マインガッド」(My God)

艦長が呟くと同時にどこかでビスが飛ぶ音が聞こえます。

発令所付きのメルケルが神への祈りの言葉を唱え始めたとき、
艦全体に異音が響き渡りました。

次の瞬間、衝撃がUボートを襲います。
圧壊か、それとも・・・?



続く。


映画「Uボート」〜”J'attendrai”(待ちましょう)

2020-08-22 | 映画

            

 

映画「Uボート」三日目です。

爆雷攻撃を仕掛けてきた駆逐艦が去っていったとおもいきや、
また別の艦が現場にやってきたらしいという調音長の報告に
絶望が走った我らがUボートですが、息を殺して待っていると、

なんと遠ざかっていくではないですか。
そして遠くで爆雷の音が聴こえました。

「22発目」

なんと爆雷の数をこの状況下でチェックしている人がいました。
いつも冷静な操舵長です。

浮上して暗視モード(赤灯に黒メガネ)で潜望鏡から捜索した結果、
とりあえずは近くにいないということが確認できましたが、
待ち伏せされている可能性を勘案し、潜航して時間を稼ぐことに。

とはいえ皆の様子にはわずかにほっとした空気が漂います。
音楽が流され、次席士官がめずらしく無邪気そうに

「好きな曲だ♫」

このとき士官たちが食べているのは
プディングにラズベリーを乗せたようなものです。
潜水艦の中なのにちょっとおしゃれなカフェデザート風。


その中でショックが解けずただひとり固まっているヴェルナー少尉でした。

緊張が解かれた艦内は早速下士官主催の
どんちゃん騒ぎで思いっきりハジけております。

どこにメイクの道具があったのかって話ですが、
このダンサーは、当時パリで絶大な人気があったダンサー、
「黒いビーナス」ことジョセフィン・ベイカーをオマージュ(笑)しています。

ちょっと見にくいですが、ちゃんとベイカーのお得意ダンスも取り入れて。
どうやって調達したのかミラーボール風照明まであってムード満点です。

ジョセフィン・ベーカー(1906ー1975) - 空の鳥これですわ

しかし水を指すようですが、「Uボート」原作者のブーフハイムは、
この映画を観たときに、

「本当のUボート乗員はあんな騒ぎ方はしないし、
後ろでそれを囃し立てて喜んだりしない」

と言い切ったそうです。

方や調音室に入り込み、深刻な顔の掌帆長。

イライラしながら帽子をかぶると、下士官バンクに向かって

「おい静かにしやがれ!」

警戒態勢でもないのになんなんだ?と兵たちが黙り込むと、

「5対0で負けた。準決勝は無理だ」

贔屓のサッカーチームが負けて八つ当たりかよ。

こちら医務室(というか医務官のいるところ)。
ゲラゲラ笑われながらパンツを脱いで診察を受けているのは
さっきまで頑張っていた操舵員(左)くんです。

戦闘中はずっとイヤフォンを聴き続けた調音長、
メディックを兼ねているので平時だというのにこのハードモード。
何が悲しくてシラミの発生した人の秘所を見なくてはいけないのか。

そこでなぜかシーンが切り替わり士官の食事がアップになるのでした。
なんなのこの肉・・・。

 

ここでまたしてもハイになったヴェルナー少尉、艦橋で大はしゃぎ。
感情がエスカレーターのようにアップダウンしております。

「あーっはっははは」「少尉、見張りを」「ナニー聞こえないー」

すぐにこうなるんですけどね。

大しけで艦内はこのとおりですが、

仲間の婚約者の写真を盗んでみんなでからかったりして皆元気です。

艦長など、この揺れでもコンパスを使える超人。
船団を追うのが不可能だと航海長に言われると途端に不機嫌に。

潜航して揺れが収まると皆床の上で
ごんずい玉みたいになって安らかにおやすみに・・。

そんな状態でも寝ないのが艦長と調音長。

そこで艦長は「音楽係」でもある調音長に「いつものやつ」
をかけさせるのでした

Rina Ketty - J'attendrai

艦長お気に入りというこの曲はシャンソンの「J'attendrai」、
待ちましょうというリタ・ケリーのヒット曲です。

潜水艦にとって「待つ」という言葉は特別の意味がありますが、
待つのが商売の歴戦の潜水艦乗りがこの曲を愛聴している、というのは
監督の洒落というか皮肉が効いた設定だと思われます。

そういえばこの曲は、ドイツ占領下のフランスで
「自由になる日を待ちましょう」という隠された意味を持って歌われ、
レジスタンスのテーマのようになっていたと聞いたことがあります。

アウシュビッツ収容所の音楽隊のために編曲していた囚人の女性は、
マスネの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の最初の部分がこの
「待ちましょう」に似ていることから、これをナチスのために
演奏するたびに
内心快哉を叫んでいたと戦後告白しています。

このシーンにはナチスの海軍である艦長がレジスタンスの愛唱歌を愛している、
という二重の裏の意味が込められているのです。

一方「待ちすぎた」潜水艦乗員たちは夢の中・・。

事件発生。
悪天候下でワッチを行っていた乗員(艦長、次席、毛ジラミ、ピルグリム)
の一人が波にさらわれました。

落ちたのはワイ談コンビの片割れピルグリムです。

幸い海にではなく銃座に落ちたのですが、負傷です。

このシーン、実は元々の台本にありませんでした。
水の中にセットされた艦橋で撮影しているとき、ピルグリムを演じていた俳優、
ヤン・フェダーが手摺りを掴み損ねてが本当にセットから落ちたのです。
一緒に演じていた俳優がすぐさま「人が落ちた!」と叫ぶと、
監督は

「ヤン、それいただき!もう一回やってくれ」

しかしヤン・フェダーは脳震盪を起こし肋骨を骨折していたので、
落ちたシーンをそのまま維持し、脚本を書き直して
ピルグリムがベッドで寝ているシーンを付け加えたそうです。
フェダーは毎日病院から撮影所に通うはめになったとか・・。

おそるべし非情な監督魂(笑)

無茶しやがって・・・。

「ひどいもんだ」

ええ、映画監督ってだいたい酷いもんですよ。
スタントを使わせず俳優を怖い目に合わせたり酷い目に合わせたり、
実際に怪我させたりした監督なんて星の数ほどいますから。
負傷した俳優を病院から担ぎ出すくらいは良心的な部類です。

ってそういう話じゃない?

このあと次席が肉のカビを取る作業をしながら

「肋骨三本骨折、裂傷一箇所」

とピルグリムの怪我についていうのですが、これは
実際のフェダーの怪我について語っています。
レントゲンもないのに肋骨が何本折れているかなんて、さすがに調音長でも
音を聞いたくらいでそこまで診断はできないはずです。

機関長は写真を眺めて物思いにふけっています。

髭面のヨレヨレである現在からは別人のように男前の機関長と
それにふさわしい金髪美人の奥さん。

「何年も雪を見ていない」

メンバーは雪の故郷に思いを馳せるのでした。

次のワッチでなんと別の潜水艦発見。

物凄いドルフィン運動です。

この撮影は実写プラススクリーンかな。

艦長が出てきて興奮気味に「トムゼンの艦だ!」
なんと、涙ぐんでU 96を見送っていたトムゼン大尉のUボートと
大西洋で遭遇するということに。

「どうなってんだ!」

発見したときには大喜びして(かのように見え)発光信号で
「健闘を祈る」などと通信していたのに、
艦橋から降りてきた艦長、むっちゃ不機嫌に。

「だだっ広い大西洋にUボートが1ダースいて
なんでそのうち2隻がこんな近くにいるんだ!」

まあね。
それってつまりどこかが手薄になってるってことですから。

「位置は確かか」

「だいたいは」

「だいたいってなんだ!(激怒)」

「2週間嵐で計測不可能です。カーロイ」

「ぐぬぬ:( •ᾥ•):」

静かな夜はいつまでも続きません。
夜中、気配に起こされたヴェルナー少尉が艦橋に上がってみると、

気色満面の次席士官が5隻の船団を見つけたと報告します。
民間船団は潜水艦にとっていいカモってところです。

ただし護衛の艦がいなければの話ですが。

「護衛艦も駆逐艦も見えません」

「妙だな・・・後ろにいるのかな」

しかし艦長は攻撃を決断しました。
この決断に際しては、操舵長に意見を尋ねています。
寡黙な操舵長を艦長は誰より信頼していると分かるシーンです。

月が雲に隠れるのを見て、攻撃準備命令が下されました。
距離2200の位置まで全速で接近です。

「照準よし」「右舷15微速前進」「発射口開け」

「1番、2番用意」「位置変更63」「目標追尾」

次々と出される命令にワクワクしている風のヴェルナー少尉。

艦内で糸巻きしてるんですけど・・・これ何しているんでしょう。

「発射!」

発射命令を出すのは主席士官です。

1隻目、2隻目、3隻目に次々と魚雷を放ち、4隻目に行こうとしたら

駆逐艦出えたああああ!

手の空いているものはおなじみの「人間バラスト」となって
艦首にぶっ飛び、急速潜航です。

しかし今の総員はそれより撃った魚雷の行方が気になる・・。

着弾予想時間からストップウォッチを作動させ始める
航海長の手元を息を飲んで見つめます。

そのとき衝撃音が響きました。
喉の奥から声にならない声を上げる次席士官。

2発目の魚雷も命中です。

三発目は・・・

三発目は?

爆発音の代わりに聴こえてくるのは駆逐艦のレーダー音のみ。


何人かはあからさまにがっかりしますが、艦長はニヤリと笑って

「2隻撃沈だ」

指揮官たるもの常にプラス思考です。
コップに水が半分残っているのを見て、ある人は半分しかないと考えますが(略)

この頃からすでに挙動不審な幽霊ヨハン(予告)

「奴らはお陀仏だな」

このときそれを聴いた機関長がゆっくりと彼の顔を凝視します。

軍人であるからには敵国の船を撃沈するのは任務ですが、
そのさい失われるはずの「人の命」については考えたくない、
あるいは考えないようにしている、という者もいるでしょう。

この映画の機関長はそういう人間だとわかる描写です。

「お返しが来るぞ」

顔面神経痛のように顔をひきつらすヨハン。

そして第一波の攻撃が襲いました。

「両機関 全速前進!」

第一波が去り、不気味な沈黙の中に駆逐艦のソナー音が響きます。
実戦を経験した潜水艦乗りは生涯この音に夢でうなされるに違いありません。

次席がこれを「ASDICだな」と呟きますが、アスディックとは

Anti-Submarine Division"の略語に 接尾辞-icsをつけたもの

または

Anti-Submarine Detection Information Comittiee

Anti-Submorine Detection Investigation Commitee

などといわれており、つまり潜水艦探査装置のことです。
1910年代イギリスが開発した頃はこの名称で、「ソナー」は」
第二次世界大戦の時のころアメリカが「発明した呼び名」です。

1941年代のドイツではイギリス式の名称で呼んでいたのかもしれません。

蛇足ですが我が帝国海軍はアメリカ式からきた「ソーナー」が正式名称であり、
さりげに海上自衛隊にもこの呼び名が継承されています。

 

ソナー音の中、操舵員の一人が豚野郎、の意味で

「シュバイネン」

と呟きます。
そういえば、アメリカ映画「ペチコート作戦」で、さらってきた豚さんを
酔っぱらった水兵ということにして浴室に閉じ込め、MPに

「彼は飲むと手がつけられない野郎 (スワインSwine)でね」

というシーンがあったのを思い出しました。

潜水艦のことは「ピッグボート」と呼ぶなんて超どうでもいいことを、
わたしはみんなこの映画で知りましたが、「Uボート」監督だって
ハリウッドの潜水艦映画の名作「ペチコート作戦」を観ていないはずはないので、
この一言も無自覚に選ばれたものではないと思います。


息を殺すUボートに降り注ぐソナーの音が大きくなり、
だんだん音の感覚が短くなってきてついにはひっきりなしに・・。

と思ったら第二波攻撃がきて、浸水と火災が発生。
機関長がそれを消し止め、全員にマスク着用が義務付けられます。

艦長は「しつこい奴らだ」と言った後、操舵長に笑いながら

「魚雷は命中した。2隻も仕留めたんだぞ」

流石の操舵長も呆れたように顔を逸らします。

深度を深く取ったUボートにまたしても近くソナー音。

「・・・・・さあ来い」

「機関長、もっと深く潜れ」

そして不敵な笑みを浮かべながらいうのでした。

「逃げてやる」

沈黙の時間が破られる瞬間をいち早く知った調音長、
目の前の装置を慌ただしく動かしていたかと思うと、

「(シャイセ!!!!)」

(ドイツ人の生シャイセもう一ついただきました〜)

「援軍か・・・あいつらめ」

字幕ではあいつらですが、艦長ここでも「シュバイン」と言ってます。

「もっと潜れ」

演習で行った深度を遥かに超えてきました。

「190m」

「200・・・210・・220」

ヨハンにはこの後何が起こるかがよくわかっています。

「ボルトが飛んだ!」

「10m浮上!」

そのとき・・・・

ダメ押しの攻撃にパイプは破れパッキンが破損、機関室浸水。
魚雷発射管ハッチからも浸水。

艦長自ら機関室に突入してダメコンを行い、なんとか浸水を食い止めました。
動揺する皆に向かって

「そのうち奴らも爆雷を使い果たすさ」

そのときです。

機関室の奥から這い出してくる影が・・・。
人か?幽霊か?それとも?

 

続く。

 

 


映画「Uボート」〜リスト作曲 交響詩「レ・プレリュード」

2020-08-20 | 映画

映画「Uボート」、二日目です。

今更ですが、当ブログでは解説とツッコミと主目的として
映画をご紹介しているので、基本「ネタバレ上等」という態度です。

特にこの映画に関しては文字通りの微に入り細に入りになりそうなので、
映画をまだご覧になっておられない方は、その点ご了解を賜り、
あくまでも自己責任でお読みいただくことをお願いします。

 

さて、Uボートがラ・ロシェルを出航して一日が終わりました。

初めての夜、寝苦しくて目を覚ました報道班員ヴェルナー少尉は、
向かいのベッドのウルマンが手紙を書いているのに気がつきます。

ウルマンは駐留していた町の花屋のフランス娘と婚約しており、
彼女はすでに自分の子を妊娠している、と告白しました。

オリジナルの小説「ダス・ブート」では、ヴェルナー少尉について
もっと詳しく言及されていて、フランス人の恋人がいるのは
実はこのヴェルナーであり、レジスタンスだったとか・・。

ヴェルナーを演じたヘルベルト・グレーネマイヤーは、ドイツでは俳優より
歌手、作曲家として有名(誰でも知っているレベル)な人なんだとかで、
日本で言えば「戦メリ」のころの坂本龍一みたいなポジションでしょうか。

食事の時も相変わらずネクタイをビシッと締めている先任士官。

まるで解剖のように魚の骨をナイフとフォークで切り分ける先任に
当て付けるように、わざと行儀悪く食べる次席でした。

チャーチルをディスるドイツ本国のラジオ放送を聞きながら、

そんな男に攻撃されてるんだ」

と艦長。
ところがそれに対し先任士官が生真面目に

「でも我々はやつを屈服させると確信します」

言い返すものだから、ただでさえイラついていた艦長、
彼に当て付けるようにさんざんナチ上層部の悪口を吐いた末、
「お前ティペラリーソングをかけろ!」と命じるのでした。

"It's a long way to Tipperari"(ティペラリへの遥かな道)

はイギリスで1917年作曲され、イギリス軍の愛唱歌になったことから
軍歌のような扱いをされており、現在でも人気があります。

間奏部に「ルール・ブリタニア」(ブリテンは世界を統べる)
が挿入されていますが、
歌詞は極めて単純で、

♫ It's a long way to Tipperary, It's a long way to go.
It's a long way to Tipperary To the sweetest girl I know!
Goodbye, Piccadilly, Farewell, Leicester Square!
It's a long long way to Tipperary, But my heart's right there.

♫ティペラリへの道のりは遠い そこには素敵な彼女がいる
ピカデリーよ、ライチェスター広場よさらば!
ティペラリへの道は遠いが 私の心はそこにある♫

「俺たちイギリス兵かよ!」

もちろん節操のない兵隊たちはこれに大喜び。
コーラス部分の英語は簡単なので誰でも歌えます。

「ヒトラーユーゲント青年隊長」に敵国軍のの愛唱歌をかけさせる艦長って一体。
というかなんでそんな曲がUボートにあるんだって話ですが。

なんかわかんないけど僕も歌っちゃう〜♫

おっと一人だけ歌ってない人が(笑)

そこで思い出すのが先日ご紹介したアメリカの潜水艦映画「眼下の敵」。
あの時はアメリカ軍に聞かせるためにUボート艦長がかけたのは
「デッサウアー」というドイツ軍歌でした。

「眼下の敵」は1954年作品ですから、「Uボート」が
「ドイツ軍がみんなで歌って元気になるシリーズ」の元祖として
このシーンを
参考にしなかったはずはありません。

睨み合っている敵に聞こえるように大音量で音楽を鳴らす、
というサプライズがあの映画にはありましたが、こちらは
敵の曲を歌って盛り上がるという(観客への)サプライズです。

そういえばあの映画もナチス嫌いの艦長に、部下には一人
コチコチのヒトラーユーゲント上がりがいましたっけ。

ヴェルナー少尉にとって、艦内生活のもっとも辛いことは
もしかしたら下士官と寝室が一緒であることかもしれません。

寝ているものがいてもお構いなしに大声で騒ぎ、節操なく盛り上がる。
しかも、インテリで育ちの良い彼には何が面白いのかわからん下品なネタばかり。

もうこんな生活イヤ・・・・。

そんな艦内の穢雑さを象徴するかのようにデーニッツの写真を徘徊するハエ。
(とそれを眺めるヴェルナー少尉)

澱んだ空気が人の思考能力も奪っていくようです。
新聞のクロスワードをしている機関長が

「体を洗う場所・・・三文字」

「BAD」

「・・・ダンケ」

風呂場という言葉すらすぐ出てこなくなるのか、やる気がないのか。

「くだらない遊びです」

いやまあそうなんですけどね。
相変わらず空気読まんやつだな。

しかし原作ではヴェルナー少尉が皆から嫌われる先任士官の日記を読んで、
彼の「真実」を知り尊敬するに至るというサイドストーリーがあるそうです。

あー、それ映画でもやって欲しかったな。
ノーカット版ではあったりするのかしら。
(実はわたし先任士官の隠れファン///

エニグマで送られてきた暗号をデコードし艦長に渡す。
次席士官、ちゃんと仕事してるじゃん。
この人のドイツ語はパリッパリのベルリンなまりなんだそうですよ。


ちなみにこのシーンで出てくるエニグマにはローターが4つ見えますが、

このころ(1941年)には海軍はまだ3ローターを使用していました。

エニグマ受信機についての蘊蓄にかけてはこのわたし、
ボストンの第二次世界大戦博物館で実物を見てるのでちょっとうるさいよ?

電文を受け取るなりチャートに向かいコンパスを使いだす艦長。

敵の護衛船団を発見したというU37からの電文ですが、
現在艦位からは遠すぎです。

「くそ(Scheiße)!」

はい、ドイツ人の生(なま)シャイセいただきました〜!
機関長イライラしすぎ。

これってあれかしら、出航の日に奥さんが出産で入院したのに
子供がどうも無事でなかったらしいことと関係あるかしら。

こちらそろそろ仕事でもすっか、と気力を振り絞り、というか
妙なハイテンションで写真を撮り始めるヴェルナー少尉。

魚雷にワセリン?を塗りたくっている魚雷発射室に突入し、
皆の迷惑そうな顔もものともせず写真を撮りまくり。

こんな鉄火場みたいな現場、入るのも憚られそうですが、
ヴェルナー少尉はそれが自分の任務と思っているのでお構いなし。

うわー、迷惑そうな顔^^と思ったら・・

本作ショッキングな場面ベスト3に入るべき名シーン。

「どこからともなく飛んできて顔に命中するウェス」

「あああああああ〜」

ああ・・あれ?さっきのコマと汚れてる場所が違う・・。

「誰だ」「誰がやった!」

ミナシランプリー

右側で顔を逸らしてる奴が怪しい。

というわけでヴェルナー少尉にとってはさんざんな一日が暮れました。
まあ、暮れようが明けようが、潜水艦の中なんで関係ないですけどね。

いざとなる瞬間までは暇なのが潜水艦生活です。
艦内で筋肉を鍛えるのが趣味の下士官、フレンセン。

彼と下品なジョークを言い合うコンビの片割れ「ピルグリム」。

花屋のフランス娘を妊娠させてしまったウルマン君は少尉候補生です。

「Liebe Françoise, ma chère amie!」
(愛するフランソワーズ、僕の親愛なる恋人)

ドイツ語とフランス語の混じった出だしで手紙を書いています。

こちらは日記を書きながら寝てしまったヴェルナー少尉。

「出航して二十日目。(中略)悪臭の中で発狂寸前だ」

臭いはつらいよね・・・お察しします。

翌朝、見張りが艦影を発見し今度こそマジの警報が鳴り響きました。
ただちに潜望鏡の深さまで潜航する命令が下されます。

「スクリュー音・・・遠ざかりました」

しかし艦長は大事をとって潜航を続けることを決定。

「兵士は内面もしっかりと磨かねばならない!」

真面目士官先任がウルマン候補生に「士官心得」を伝授している横で、
次席士官はヘラヘラしながら、レモンを絞って
そこに缶のミルクを入れるという
不味そうなカクテルを作り、

「Uボートカクテル・・飲みます?」

ミルクとレモンで凝固しているんですがそれは。

先任の空気読まない堅物さもさることながら、次席の
この無神経な脳天気もそれはそれで苛立たせられるもの。

つくづく潜水艦って人との調和が必要な職場です。

しかし機関長はまたしてもそこにいない先任士官の悪口を・・。

「あいつは出世間違いなしだ。いい気分で講釈たれやがって」

そしてニュースのテーマソングらしきリストの交響詩「前奏曲」が流れてくると、

「消せ!」

とやつあたり。

「物静かで穏やか」なんてキャラ説明と全然違うじゃないですかー。

「(なんなんだよ・・・)」

しかし次の瞬間、艦内が一転急に活気付きました。

「U32から連絡があった!イギリス船団を発見したとな!」

これから前進全速で現地に急行すると聞いて、艦内に歓声が湧きあがりました。
まさに水を得た魚、暇なときとは皆別人のようです。

「30隻以上いるそうだ!俺たちが着くまで待ってろよ!」

まるで魚群を見つけた漁師のようにはしゃぐ艦長。
艦橋で潮水をシャワーのように浴びながらも興奮して、

「俺はUボートが本当に好きだ」

そして、ついでに自分がかつて帆船に乗っていたこと、
帆船は美しく中は教会みたいに広い、などと
意気揚々といった感じでヴェルナーに語るのでした。



しかし、予定時刻となっても船団の影は見えず、
天候は荒れ模様でU32からの連絡もありません。

調音して海中から相手を探すために潜航することにしました。

頼みは調音長の耳だけです。

「艦長、弱い反応が」

「爆雷だ・・・・砲撃している」

艦長は浮上して対船団戦を行うことにしました。

機関室はフル稼働。
「幽霊」のヨハンはエンジンに直接「調音」して調子を確かめます。

海上には船団はおらず、よりによって駆逐艦の艦影が認められました。
こちらに向かってやってきます。

急速潜航して潜望鏡で駆逐艦を捕らえようとする艦長。

機関長は二人の操舵員の肩に両手を置いて、
あたかも合図を与えようとするように待機の姿勢。

「戦闘用意!」

「駆逐艦と戦う気だ・・どうかしてるよ」

「(えーそうなのー?)」

魚雷を発射するために艦の角度を慎重に設定します。

「発射口開け!」

二人の発射員以外はすることがないので皆ベッドに座って見ています。
魚雷の発射準備がなされると艦内の電気が消えてブルーのライトだけになりました。

この沈黙の時間何故か無駄にアップになるフレンセン。

「見失った」

艦長が駆逐艦の艦影を求めて潜望鏡を回していくと・・・

でえたあああ〜!

爆雷クル〜!

(それにしても模型丸出しなどと言わないように。1982年作品です)

最初の爆雷の洗礼を受けたヴェルナー少尉をごらんください。

しかし百戦錬磨の艦長はうっすらと微笑みさえ浮かべて

「潜望鏡を見つけたんだな。この天気なのに」

「ここからが心理戦だ」

小声で送られる情報に間髪入れず艦長は指示を出していきます。

「潜航する。艦首15下げ艦尾10上げ」

「これくらいで慌てるな。落ち着け」

頭をぶつけて血を流しながら泣いているこの人、
「Bibelforscher(聖書研究家?)」というあだ名です。

「高速で敵艦が近づいてきています」

「急接近!」

そこで艦長はもっと深く深度をとることを命令。
160mを超えて目盛りが赤のゾーン180mに突入し艦体は軋み始めます。

そのとき爆雷が降ってきて、艦のあちこちから浸水してきました。

深度を150に戻し浸水をなんとか止めたところで、

なんと別の艦が接近という情報がもたらされました。

どうなるUボート!

続く。

 


映画「Uボート」〜"Mußi denn (別れ)”

2020-08-18 | 映画

ついにこの映画を取り上げるときがやってきました。

「Uボート」。

なんと公開されたのは1981年、もう40年近く前のことになります。

わたしは当時そんな映画が公開されていたことすら知らなかったのですが、
当時は世界中で大ヒット(といってもハリウッド的なヒットではなく)し、
外国映画が流行るのが稀といわれるアメリカでも、場所によっては
映画終了時に観客が立ち上がって拍手したというくらい評価されました。

戦争映画の枠を超えて、「一度は観るべき映画」として名前が上がることもあります。

わたしもこの世界に足を突っ込んでから初めて観た映画ですが、
まず40年前の映画だというのに古さやチャチさを全く感じません。
そして戦争映画なのに何度も観たくなる作品の一つです。

それでは先も長いことですし、さっさと始めましょう。
映画は第二次世界大戦中のUボートが大西洋に次々と出撃し、
4万人のUボート要員のうち3万人が帰らなかった、という
英語の字幕から始まります。

本作はもともとドイツ製作のドイツ映画ですが、日本で配布されているのは
コロンビアピクチャーズのタイトルとなっています。

日本人はドイツ語を字幕で観ることになんの抵抗もないのですが、
アメリカ人には字幕を読む習慣がないため、ドイツ語の他に
アメリカ配給向けに英語バージョンがわざわざ制作されているのだそうです。

撮影は同じシーンをドイツ語と英語で繰り返して撮っていくという
なんとも手間のかかる方法で行われたのですが、出演者は全員が
英語が堪能だったため、吹き替えなしで行われました。


映画の原作は、実際にU-96に乗り組んで取材を行った小説家、
ロータル=ギュンター・ブーフハイムの小説がもとになっています。

ブーフハイムは映画で海軍報道班員のヴェルナー少尉がやっていたように
写真を大量に撮りまくって記録を残したそうですが、映画化にあたっては
それらの五千枚におよぶ写真をもとに模型が作られ、撮影に使用されました。

 

さて、そこで映画が始まるわけですが、字幕の後、画面が緑色になって
いつまでも変わらないので、CDに不具合があるのかと思ってチェックした途端、
前に観た時も同じ勘違いをしたことを思い出しました。

延々と続く緑の画面から微かに潜水艦のソナー音が聞こえてきて
鯨のような艦体が海中を横切り
「Das Boot」というタイトルが現れて映画は始まります。

Uボートがラ・ロシェールから出撃する前夜、壮行パーティが開かれました。
画面手前が本作の主人公でありUボート艦長(役名)です。

演じたユルゲン・プロホノフ(ロシア系?)は、自主映画に出ていた俳優で、
この映画をきっかけに有名になりその後はハリウッド作品にも出ています。

映画のヒットにより監督のヴォルフガング・ペーターセン
その後ハリウッド映画に進出を果たしました。

士官クラブへの道中、車の前に水兵が立ち塞がり、
すっかり泥酔状態でメルセデスのボンネットをバンバン。

「ボーツマン(掌帆長)だ」

艦長は全く動じず、道端に並んだ後水兵たちの「水の放列」に見舞われても
平然とメルセデスのワイパーを動かして進みます。

ちなみにこのシーンでは背後から仕込まれたホースが使用されました。

右は艦長と付き合いの長い機関長。
役名は L.I. (Leitende Ingenieur)。
”Leitende”は「主任」 Ingenieurは「エンジニア」で機関長です。


艦長は劇中「ヘア・カーロイ」と呼ばれていますが、
「カーロイ」は「カピタン・ロイテナント」の略でドイツ海軍の慣習です。

艦長はドイツ語のwikiによると、「Der Alte」が役名となっています。
意味は「老人」ですが、ドイツ軍でも艦長を「オヤジ」と呼ぶ慣習があるのでしょう。

左はこの映画の「観察者」であり、原作者がモデルと思われる、
報道班員のヴェルナー少尉

(わたしの予想によると予備士官で大学は文系、専攻はドイツ文学)

世界中から突っ込まれていた映画「ミッドウェイ」のオフィサーズクラブと違い、
ここは士官ばかりで下士官兵はおりません。
士官なのに(いや、士官だけだからか)皆だらしなくベロンベロンです。

ここに来ている潜水艦野郎たちの多くが明日出港を控えています。

テーブルクロスを引っ張り卓上のものをぶちまける狼藉を働いていたのは
U96の次席士官、 Wachoffizier (II. WO)

んー?ワッチって英語ですよね。
帝国海軍で当直は「ワッチ」はそのまま使われていたけれど、ドイツもなのか・・。

艦長を見ると慌てて敬礼をして(帽子かぶってないのにいいのか)

「ヘア・カーロイ!」

そうかと思えば踵をカチーン!と合わせる挨拶をしたこの士官は、
クラブだというのに仕事モード全開で

「報告します。燃料弾薬食料補給を終わりました」

「ご苦労」

「まだあります。
ここに来る途中、ひどい目に遭いまして・・
つまり・・あの・・ある者が」

それは酔っ払い水兵たちの『散水車』ですねわかります。

全く冗談の通じなさそうなコチコチのヒトラーユーゲント上がり、
先任当直士官の役名はI WO(Erster Wachoffizier)。

ここで、場内に古株のサブマリナー、トムゼン艦長(大尉)が紹介されます。
トムゼンのUボートは昨日哨戒から帰ってきたばかりで、
彼はその哨戒実績に対し騎士十字章を授与されたのでした。

しかし、煮しめたような汚らしい帽子を被って咥えタバコ、
泥酔状態でスピーチとは名ばかりのクダを巻き、

トイレの床(自分の吐瀉物のうえ)に撃沈。きったねえええ!

ちなみにこの撮影の時、トムゼン役の
オットー・ザンダーは本当に酔っ払っていたそうです。

「ブンカー」とドイツ語でいうところの潜水艦基地のあったのは
フランスのラ・ロシェルで、この歌手もフランス人です。

明日出撃で荒れ放題の男たちがスカートをめくったり水をかけたり、
無茶苦茶するので、多少のことは馴れている彼女もかなりキレ気味・・・。

トムゼン大尉にもモデルらしき実在の人物はいるそうですが、
実際のU-572の指揮官であるハインツ・ヒルザッカーは勲章を授与されたことはなく、
それどころか敵の船を繰り返し避け、敵前逃亡の罪で有罪判決を受け、
死刑が執行される前に自殺しちゃった人なんだとか・・。

それってつまりモデルっていわないんじゃないかって気がしますが。

場面はいきなり変わって翌朝。
ラ・ロシェールのUボートブンカーでは出港準備がはじまっています。

この潜水艦基地はフランスを占領したドイツ軍が建造した本物のブンカーで、
ノルマンディ上陸作戦後、他の都市が開放されていく中、ラ・ロシェルは
最後までドイツ軍が保持した場所の一つでした。

最後に連合軍による包囲作戦が行われています。

昨夜と同じ並び方でやってきた艦長、機関長とヴェルナー中尉。

本物の潜水艦基地に浮かんでいるのは実物大の模型?
トリビアによると、これも小型模型である可能性はあります。

艦長乗艦・・・・ですが、サイドパイプは鳴りません。

潜水艦の艦橋には笑うノコギリザメのマークがペイントされています。
これと同じ実物のマークやバッジをわたしはボストンの博物館で目撃しました。

このマークもU96のものですが、実際のU96の行動と映画で描かれた
この潜水艦の行動とは全く違っているそうです。

U96は、11回の戦闘行動の間も撃沈されず帰還した強運艦でした。

わたしがこの映画の好きなシーンベスト3を挙げるなら
必ず入れたいのが出港前の艦長と乗員の無言の対面です。

あまりに好きすぎて今日の冒頭イラストに艦長のその時の表情を描きました。

ノーカット版ではこのときヴェルナー少尉が隣の(多分)機関長に
大演説が始まるぞ、と耳打ちされるんだとか。

乗員たちの表情からは昨日の自暴自棄な様子はすっかり消えています。

艦長は乗艦してくると整列している乗員の前を歩いて
一人ひとりの目を見るその口元には微笑みの影すら・・・。

その自信に満ちた表情を見るうち、体の中から湧き上がってくるように
表情に昂揚が滲んでくる次席士官・・。

「Na Männer」(では諸君)「Alles Klar」(いいか)

Jawohl!  Herr Kaleun!」(はい、艦長どの!)

そこであらためて従軍記者としてヴェルナー中尉が紹介されます。

「ドイツ中に報告されるぞ」(字幕では逐一報告されるぞとだけ)

ブンカー跡はそのまま使えますが、映画撮影当時はCGなどという魔法はまだないので、
映っては都合の悪いものは隠すしかなかったそうです。
その手段の一つが「煙」だったそうで、おそらく手前の砂利の下にも
1940年代には存在しなかった「何か」があったのに違いありません。

「アウフヴィーダーゼーン!」

という言葉が飛ぶ中、軍楽隊が演奏しているという設定の曲は、
ドイツ民謡の「別れ」という曲で、日本では学校で歌うこともあります。

♫さらば さらば わが友

しばしの別れぞ 今は


さらば さらば わが友

しばしの別れぞ 今は♫

ドイツ語の歌詞の最初が"Muß i denn"なので、
「ムシデン」とも呼ばれるこの歌がドイツ海軍の「蛍の光」に当たるんですね。

敬礼をしている軍人もいますが、ほとんど皆手を振っています。
日本軍なら「帽振れ」をし、アメリカ軍なら敬礼をして整列しそうですが、
ドイツ海軍、こういう時には案外ラフなんだなと思ったり。

そういえば、艦内での格好もセーターを着たりして結構いい加減です。

ところでこのシーンで艦橋の艦長の隣に結構いい歳のおじさんが見えますが、
この後のシーンには二度と出てきません。

もしやどうしてもどこかに出演したいとごねたスポンサー?

出航の引きのシーンを見ていると、一台の黒塗りの車が埠頭をやってきて、
その右側のドアが開き、一人の人物転がり出てくるのがわかります。

昨日泥酔していたトムゼン大尉でした。
一晩寝て復活したんだね。
寝坊したけどシャツは新品を着込んでいます。

まず両手バイバイで

「無事に帰還するんだぞ!」

そして敬礼を送るのですが、一つため息をつき、

こーんな表情に・・・。(´・ω・`)

乗艦したお客様であるヴェルナー中尉にボーツマン(Bootsman掌帆長、
wikiでは「兵曹長」となっていますが、ここは海軍なので)が
艦内ツァーを行い、ついでに観客にもUボートの案内をしてくれます。

「食料格納庫だ」

と説明しているような字幕になっていますが、ドイツ語では

「魚雷発射管の近くに食料を貯蔵する」

というようなことを言っているように聞こえます。

五十人の艦内にトイレは一つ。
士官も同じところを使ったのでしょうか。

掌帆長である彼には「部屋」があると説明されますが、士官と同じく
部屋といっても独立したものではなくせいぜい「コーナー」です。

潜水艦の「司令室」、英語のコニング・タワーでは
掌帆長の記念写真を。

巨大な肉の塊を吊るしているのにヴェルナーは目を見張ります。

ソーセージの暖簾をくぐれば下士官室。
わたしが「ウンターオフィツィーレ」という言葉を理解できたのも、
オーストリアの軍事博物館について調べたおかげです。

というか、ベッドの上に何も敷かないでパン並べてるんですが・・・。
きったねえええ!

ここで十二人の下士官がベッドを二人で一台使う、という
一部世界の潜水艦業界では常識となっている「ホットベッド」システムが
紹介されて、映画公開以降一般に膾炙していくことになります。

「非番のものがベッドを温めておくってわけさ」

と説明されている間、ヴェルナー少尉はいかにも嫌そうな顔をしていますが、
自分だけは一人でベッドを使わせてもらうことがわかり、ホッとした表情に。

しかし、下士官の寝室でこの温室育ちっぽいヴェルナー、耐えられるのか?

下士官室の後ろが厨房、そしてその奥には・・・

「幽霊のヨハンがいる」

いつも機関室にいて外に出ないので幽霊のように色が白い機関兵曹長。
ちなみに映画の撮影においては、潜水艦員らしさを出すため、俳優は
撮影期間中できるだけ陽に当たらないよう室内に閉じ込められていたそうです。

だからこの海上での撮影は彼らにとって嬉しかったんじゃないかな。
ワッチする隊員の写真を撮りまくるヴェルナー少尉。

まだこの頃は気力も体力もあるので張り切っています。
そんなヴェルナーを皮肉な表情で眺め、艦長が一言。

「降りる時の隊員のために残して起きたまえ。
その頃には全員髭面だ」

映画の撮影は、俳優の髭の成長に合わせるため、時系列順に行われました。
これは普通の映画撮影にはあまりないことです。

しかし、どうしても後から撮り直しをしなければならなくなったとき、
制作は苦肉の策で髭をカットしたり元に戻して付け足したり、
この髭問題は結構なストレスを生むことになったとか・・・。

続いて艦長は、新聞に彼らの写真が載ったら全員子供で驚くから、
といい、こう付け加えるのでした。

「わたしは老人になった気分だ・・・。
皆母親の乳を飲んでるような子供十字軍だからな」

「少年十字軍」が、フランスでは奴隷として売り飛ばされた史実や
「ハーメルンの笛吹き」のイメージの意味で言ったのでしょうか。

この映画に描かれている士官はヴェルナーを入れて5人ですが、
本当はもう一人は士官が乗艦しているはずだそうです。

彼らの食事は決まったところで行われますが、通路にあたる
手前の二人は、人が来ると席を立って道を空けなければなりません。

この食事風景では先任当直士官の几帳面すぎるナイフとフォーク使いが
艦長始め士官連中すらも苛立たせている様子が描かれています。
(ただし、育ちの良さそうなヴェルナー少尉はそれに気づかず、
自分もフォークとナイフを使って食事をしている)

メキシコのドイツ人農園主の養子として育てられたことを
聞かれて答えたあと彼がワッチの任務のため席を立つと、
艦長は

「生真面目な男だ。愚直で・・凝り固まっている」

と居ない者を評論してみせますが、そのくせ次席が
下品な言葉で追従すると、

「それは言い過ぎだ」

食事を終えたヴェルナーが艦橋に上がろうとした途端、

「アラ〜〜〜〜〜〜ム!」

ドイツ語でも警報はアラームなんですね。
警報イコール潜水艦では注水、潜航です。

トイレに入っていたものはズボンも履かずに転がり出て配置につきます。

「全員前へ!」

Uボート名物「人間バラスト」になるべく前部に突入していく水兵たち。
掌帆長に怒鳴られながら狭い管内を転がっていき、前部で団子になります。

特にこれなどそれまでの潜水艦映画では描かれたことのない「潜水艦の真実」でした。

どうみても空母かせいぜい巡洋艦の広さの艦内で皆が天井を見上げている、
それがわりと多い映画での潜水艦内の描写だったのです。

ペーターゼン監督は、閉所によるストレスで精神をやられる潜水艦隊員が
実際にいたことから、撮影の際も俳優に同じストレスを与えるため、
あえてセットも極限まで狭くしたそうですが・・・性格わりー。

潜航していく艦内を緊張が支配します。
流石にお調子者の次席の顔もこわばっています。

そしてこれも潜水艦名物「何も見えないのについ上を見てしまう」

その様子にニヤリと笑い、

「訓練だ」

汗びっしょりになっていたヴェルナー少尉は思わず安堵のため息をつきます。

しかし、せっかくここまで来たのだからとついでに
耐圧テストを命じる艦長。

発令をする艦長の背後では、自分もビビっていたくせに、
シロートのヴェルナー少尉の怯える様子を見て楽しむ次席士官。

銀行員上がりだそうですが、なかなか性格が悪い。

限界を超えたら艦がぺちゃんこになるなどと手振り付きで
ヴェルナーをさらに脅かし、先ほど汗びっしょりで天井を見ていた乗員も
ヴェルナーが脅かされているのを見てニヤニヤしています。

ギシッと艦体の歪む音がすると

「水圧さ」(ニヤニヤ)

「わかってる」

こんどはゴゴーンと大きな音がして、ヴェルナーが次席を振り向くと
なぜか慌てて目を逸らし、思わず目を瞑ったヴェルナーを見てまたニヤニヤ。

 

ようやく艦長が命じた浮上命令にまたしても大きく息をつくヴェルナーを
こんどは掌帆長が向こうからニヤつきながら見ているのでした。

 

続く。

 


第三次閉塞隊員慰霊碑〜旅順港閉塞戦記念帖

2020-08-16 | 海軍

お話ししてきた昭和2年発行の「旅順閉塞作戦記念帖」シリーズ、
全部隊について説明を終えたところで、最終回の今日は
記念帖に掲載された
その他の写真についてあますところなくご紹介していきます。

まず、冒頭の絵画ですが、当時の白黒写真で撮られているのは、
忘れもしない、舞鶴地方総監部の見学の際、大講堂で見たあの絵です。

これが今現在の同じ絵画。

第二次閉塞作戦で閉塞船「福井丸」を自沈させる直前、姿の見えない
杉野孫七兵曹を探して船内に戻ったものの、ついに捜索を断念した
廣瀬武夫海軍少佐が今から端艇に乗り移ろうとしているシーンを描いたものです。

この絵に緊迫感を与えているのは、この直後に爆死する
廣瀬少佐は舷で部下が先に端艇に乗り移るのを見守っており、
その姿は闇に溶け込んではっきりとしていないことでしょう。

誰もが知る物語だからこそ決定的な表現をあえて避け、
見るものの空想にその後を任せたという表現方法は、
別の言い方をすると、戦後の進駐軍を含む軍事色追放の中でも
「見逃され」、後世にその姿を残すことができた理由かもしれません。

そのことは、かつて省線万世橋駅のたもとにあった廣瀬中佐と
杉野兵曹の像が昭和22年には撤去されたという事実を思うと
あながち間違っていないのではないかという気がします。

昭和2年の記念帖の解説には、

旅順閉塞大油絵額

海軍機関学校所蔵のものにして額縁は蠣殻の附したる
閉塞船船材を以て造られあり。

(原版 海軍機関学校寄贈)

とあります。

わたしが見学した時、案内してくれた自衛官は、この牡蠣の付着した木材が
廣瀬中佐の「福井丸」のものであると断言していたのですが、
この記念帖ではただ「閉塞船」とだけ言及しています。

額縁の一部には、当時船体に使われていた金属の留め金も残されています。

わたしが見学に行った舞鶴地方総監部にはむかし機関学校があり、
大講堂は機関学校のものであったということから、これはずっと
ここにあったと思われます。

「原版海軍機関学校寄贈」

所蔵、ではなく寄贈なので、ちょっと意味がわからないのですが、
原版は機関学校が持っていて写真を寄贈してくれた、
という解釈でよろしいのでしょうか。

もう一つ当時の写真と現在のを比べてみると、黒い金属が
記念帖の写真では絵の上部に見えるのに、今のは下にあるとか、
蠣殻の付着状態が両者で全然違っているとか、相違点があります。

現在は昔の額を額ごと新しい木材で装丁しているので、
もしかしたらその作業の段階で修復が施されたのかもしれません。

第三艦隊下士官兵第三次閉塞参加志願書綴

伊集院第三艦隊参謀の集めたるものにして
大正14年5月27日 皇太子殿下水交社に行啓の際
天覧に供し尚還啓(行啓先から帰ること)の際
特別の思し召しに依り東宮仮御所に御持ち帰られ
皇太子妃殿下の尊覧にに供せられたるものなり。

写真の左半に示せるものは血書なり。

(伊集院海軍少将未亡人寄託
本校参考館所蔵)

第三次閉塞には募集人員に対して多くの志願者が
血書をもって参加を希望してきたことは、
以前当ブログでも書いたことがあります。

志願のため血書をしたためる水兵さんを描いたものですが、
意気込みのあまり椅子から立ち上がって中腰になっています。

当ブログが以前調べたところによると、応募者二千人の中から選ばれたのは77人。
そういえば帝国海軍が生まれてから終戦で終了するまでのあいだに
「海軍大将」は全部で77人でしたよね。
海軍兵学校も77期まででしたし・・・。

でっていう話ですが。

写真の志願書は、まず右側に

平遠艦長 海軍中佐 浅羽金三郎殿

とあります。
志願書を軍艦の艦長に直筆で送ってなんとかなったんでしょうか。

「平遠」は名前からもわかるように、日清戦争で降伏し、
日本海軍に接収後編入されていた装甲巡洋艦です。

「平遠」は旅順港閉塞作戦にも参加し、その後、
旅順攻略戦において哨戒からの帰投中触雷し、沈没しました。

Kinsaburo Asaba.jpg

艦長であった浅羽金三郎中佐はこの沈没で戦死し、大佐となりました。

左のページは血書で認められているということですが、
血書にしては線が妙に安定?しているので、もしかしたら
上の図の水兵さんのように指を切って直接書くのではなく、
ザックリと思いっきりよく切ってどこかに貯めたものを
筆で書いたのではないかと思われます。いたたた・・・。

右者?隻決死隊募集之有候ニ付テハ
決死心ヲ以テ志願仕(つかまつ)リ度候間??
許可相成度??奉祈願上候也

決死者 (住所)高澤善太郎

時々全く解読不明な文字があるのですが、とにかく、
「決死者」として参加を熱望していることはわかります。

高澤善太郎さん、果たして77名の閉塞メンバーになれたのでしょうか。

閉塞後上陸して人事不省のうちに捕虜となるも
延命を拒否して亡くなった「相模丸」の指揮官、
湯浅竹次郎海軍大尉の出発前の遺書です。

湯浅少佐

閉塞決行の前日にしたため、家族に送られた遺墨には
こうあります。

古人曰ヘルアリ従容ト義ニ就クハ難シト
今ヤ廿有余ノ勇士ト此難事ヲ決行ス 武士ノ面目之ニ過ギズ

願エレバ最早人事ニ於テ缺クル事なし 
天佑を確信し笑を含んで死地に投ず 愉快極まりなし

三十七年五月一日 

相模丸指揮官 海軍大尉湯浅竹次郎

前半がカタカナ送りで後半が平仮名になっていますが、
これには何か意味があったのでしょうか。

湯浅少佐が使用していた双眼鏡です。
買ったばかりであったのか、本体はまだ光沢を放っており、
ケースも全く経年劣化は見られません。

旅順開城となってから、さっそく閉塞作戦の痕跡の検証が始まりました。
この写真は旅順鎮守府の機関長」が撮影したと説明があります。

右上に見えている水路が旅順港口で、

1 報国丸

2 米山丸

3 弥彦丸

4 福井丸

「弥彦丸」と「福井丸」の間には

5 露国船舶

が沈んでいる、ということです。

なお、不鮮明ですが、福井丸の左に見えているのは
史実によると「千代丸」のはず。

同じ場所を少し角度を変えて撮ったもの。
弥彦丸の右側に小さな船がいますが、煙突から煙が出ているので
航行中の日本船であろうと思われます。

 

ほぼ海抜0地点から撮られた閉塞の状況写真。
こうしてみると、「米山丸」が最も閉塞に成功しているように思えます。

旅順開城当時、現地を見聞して行われた報告をもとに制作された
旅順港閉塞状況の模型です。

構内の軍艦は敗残の敵艦隊にして
港口付近に沈没せる多数の汽船は
壮烈なる我が閉塞船並びに

我が閉塞を妨害するの目的を以て
敵自ら沈置せる船舶なり。

この模型は開城後早速設置されたらしい旅順水交社が制作し、
その後海軍兵学校に寄贈されたということです。

実際の閉塞作戦においてもしこれだけの船が港口を塞いでいたら
旅順艦隊はしばらくの間外に出ることはできなかったでしょう。
しかし説明のように湾内にはロシア艦隊の艦が結構な数放置されていました。

開城後、旅順にはこの模型と同じ閉塞隊の記念碑が建てられました。

旅順に於ける第三回閉塞隊記念碑

第三回閉塞隊戦死者の遺骸を露軍が埋葬せし跡に
久保田金平氏の設置したる記念碑にして
同氏は多年旅順に在りて我が戦死将卒の忠魂を
慰籍するに心力を盡(つく)し毎年祭典を行えり。

「慰籍」という言葉から、詳細はわかりませんが、
この久保田という人は、現地にロシア軍が埋葬していた遺骸を荼毘に附して
内地の故郷に送るというような事業をしていたのかもしれません。

模型は旅順水交社から海軍兵学校に寄贈され、
教育参考館に所蔵されていたそうです。

模型右側の木札にはこのように記されています。

此の記念碑は我が旅順閉塞舩隊員の
壮烈無比の行動に対し 露軍が潔く感動し
その戦死者を厚く葬りたる跡に建てられたるものにして
碑は閉塞舩朝顔丸のプロペラーの一般を用い
その礎石は閉塞舩に搭載しありたるバラスト用石塊なり

説明はありませんが、記念碑の周りに立てられた砲弾も
実物であろうかと推察されます。

ロシア軍が廣瀬武夫海軍中佐の遺体を収容し
立派な葬礼で葬っていたということは、
この記念帖が発行された昭和2年ごろにはわかっていなかった事実です。

 

旅順港閉塞船記念帖シリーズおわり

 

 


匝瑳胤次と水野広徳 二人の軍事ジャーナリスト〜旅順閉塞戦記念帖

2020-08-14 | 歴史

アジ暦公開の当時の資料を見ると、第三次作戦における戦死者は

相模丸 13

朝顔丸 18

佐倉丸 19

愛國丸  8

となっていて、参加全12隻のうち、全滅したのは「朝顔丸」「佐倉丸」。

戦死した指揮官は

向(朝顔丸)、白石(佐倉丸)、
高柳(江戸丸)、
野村(小樽丸)、湯浅(相模丸)

の5名となります。

大尉であった5名は戦死後いずれも少佐に昇進しました。

このうち、乗員は帰還したが指揮官が死亡したのが「小樽丸」
そして、総指揮官の帰還命令を受けて反転したのが

「新発田丸」「釜山丸」「長門丸」「小倉丸」

の4隻で、このシリーズが始まってから再三お伝えしているように、
わたしがオークションで手に入れた海軍兵学校発行の

「旅順閉塞戦記念帖」

という写真集には、これらの閉塞船の乗員の集合写真はあっても、
各指揮官の顔写真は無慈悲にも割愛されているのです。

まだご紹介していない「小倉丸」の乗員写真です。

「小倉丸」は総勢22名と他の閉塞船より「大世帯」でした。
そのうち士官が3名、下士官が2名というのは他船と同じです。

第三次閉塞 小倉丸指揮官 

海軍少佐 福田昌輝 (中央)

は兵学校17期。
大尉が多い閉塞船指揮官の中で少佐でした。
それまでの閉塞作戦について見ていると、総指揮官を中佐とし、
指揮官船に続く2番船の指揮官は、必ず少佐が充てられています。

第一閉塞ならびに第二閉塞における廣瀬少佐が其のポジションで、
参加数が一挙に多くなった第三次作戦では、全体を三つの小隊に分け、
各小隊の1番船に少佐を配置しているのです。

福田少佐は第1小隊の指揮官船に続く2番船の指揮官でした。

そして、何度もここで申し上げているように、第三次作戦では
天候が悪化したため、総指揮官林三千雄中佐は中止を決定。

この理由は、作戦が達成しにくいという理由以前に、
閉塞船自沈後、端艇で海上に逃れた乗員を収容するのが困難になる、
というものだったということです。

人員を死なせないことを第一義にしたこの決定は、総指揮官として
当然であり至極真っ当な決断であったと思うのですが、
実際其の命令に反して命令を無視し、反転した指揮官は
その勇敢な戦闘行動と死を恐れない敢闘精神を讃えられ、
命令を遵守した4隻の指揮官は記念アルバムから省かれるという
屈辱に甘んじることになったということも何度も申し上げる通りです。

「小倉丸」は幸か不幸か、指揮官船の後ろを航行していたため、
指揮官命令が手旗によって即座に伝わりやすい船位にいました。

おそらくは一番最初、発令された20時ごろには伝達を受け、
命令に従って帰還したものと思われます。

 

 

それでは、各閉塞船の最後に「三河丸」と指揮官を紹介しましょう。
閉塞をとりあえず成功させ、失った乗員もただ1人という
閉塞作戦の中ではもっとも無難に?こなした1人ですが、
彼の場合はその後の生き方についてご注目いただきたいのです。

 

第三次閉塞三河丸指揮官

海軍大尉 匝瑳胤次

「三河丸」も林司令の中止命令が伝わらず、突入してしまった船です。

この司令官の名前をなんと読むのか検索するのに苦労したのですが、
「匝瑳」は千葉県にある地名で「そうさ」、胤次は「たねひろ」とする説と、
どういうわけか「ひさ・たねじ」と読むという説があるらしく、
Wikipediaにはどちらの読み方も書いてあります。(名前なのに・・・)

結論から言うと「三河丸」はラッキーな船で、「朝顔丸」と同じく、
単身突入し狙い撃ちされるも敵弾を掻い潜り、匝瑳はここぞと言う場所で
「三河丸」船体を自沈させ、さらに脱出、収容されて乗員は帰還に成功しています。

第三次閉塞三河丸指揮官附

海軍中尉 大西良輔

旅順港に突入し閉塞作戦を成功させて生きて帰ってきた割に、
その後あまり出世せず、最終階級が少佐、航海長で終わっています。

「三河丸」乗員18名、匝瑳大尉は中列中央、大西中尉は右から2番目です。
このうち一人、四等機関兵姥谷常次郎が戦死し、負傷者は6名でした

匝瑳が指揮官を務めた「三河丸」は第1小隊として「新発田丸」、
「小倉丸」、「朝顔丸」の次の4番船でした。

風が激しくなり、林中佐が中止命令を発し反転したとき、「三河丸」には
命令が伝わらず直進しましたが、汽罐が不調だったため他船に遅れをとり、
置いていかれる形になってしまいました。

しばらく他船と合流するのを待っていると砲声が聞こえたので
匝瑳は突入が始まったと判断し、単独での突入の指令を下しました。

匝瑳胤次は予備役となってから著作家となりました。

そして本作戦についてもいくつかの著書を残しているのですが、それによると、
「三河丸」がロシア軍に発見され銃砲撃を一身に受けたのは5月3日の午前2時。

「煌々タル光ニ眼ハ眩ミ、轟々タル響ニ耳ハ聾シ」(匝瑳の回顧文)

探照灯に照らされ、集中攻撃を受けながらも「三河丸」は防材を突破して進撃し、
周囲の地形を十分確認できないままに好位置に達したと判断し「三河丸」を爆沈させ、
端舟(短艇)で脱出を試みました。

ロシア軍は短艇を狙って追撃してきましたがなんとか脱出に成功。
作戦開始から2時間半後の午前4時30分、「三河丸」乗員を乗せた端舟は
第41号水雷艇に発見され、同艇に救出され、帰還したというわけです。

「三河丸」の乗員からはこのような記念品が兵学校に寄贈されました。
説明によるとこれが「船体の外鈑」だということですが、
縦に「三河丸」と書かれている部分がどこなのかわかりません。

匝瑳胤次大尉の号笛(ホイッスル)も教育参考館に寄贈されました。
本人の説明も付されていたそうです。

写真をよく見ていただくと、吹き口の一部が欠けているのがわかります。

「この笛は閉塞当時使用せるものなり

船湾口に近づくや之を右手の拇指(おやゆび)と食指との間に挿み
『メガホン』を持ち予の右側に佇立せる伝令の肩を軽打して
最後の用意を促しつつありし瞬間
敵の弾片は突如艦橋の『スクリーン』を突破してこの笛を掠り
伝令の咽喉を貫き肺部に入り同人を即死せしめ
この笛亦(また)用をなさざるに至らしめたり

後病院船にて死体検察の際伝令の背部より摘出せる弾片
(片鐵榴弾にして最大幅約一寸五分長約二寸)の一端には
此の笛の真鍮片付着しあり
其の部分亦此の破口と同じく一致するを発見したり」

匝瑳が船橋で伝令に確認を取っていたところ、
飛来した弾片が匝瑳の手にあった笛をもぎ取って、それが
目の前にいた伝令の喉に突き刺さり、彼を死亡させたというのです。

その後、彼の遺体を検視したところ、背中から摘出された弾丸には、
写真で確認できる吹き口の金属の
「欠けた三角形の部分」が
張り付くように付着していたのが見つかりました。

「三河丸」の戦死者は1人ということなので、この伝令が
四等機関兵姥谷常次郎であることは間違いないと思われます。

 

さてここで、匝瑳胤次という海軍軍人についてわかったことを書いておきます。

大阪の堺市に士族の次男として生まれた匝瑳は、海軍兵学校26期で
野村吉三郎(大将)小林躋造(大将)清川純一(中将)の同期でした。
ただし野村(2番)や小林(3番)と違い、彼の成績はかなり下位
(59人中56番)だったそうです。

それでも閉塞作戦を当時基準で「成功」させ乗員を連れて帰ってきた、
という実績は、その後の出世に大いにプラスになったと見え、
主に艦長職畑を歩き、最終階級少将にまでなっています。

予備役となってから著作家として活発に活動を行い始めましたが、
ちょうどそのころ、世論を二分したロンドン軍縮条約に対する見解で
彼は軍縮反対の立場をとり、昭和7年には

「深まりゆく日米の危機」

という著書で世間にその持論を訴えました。

時流に乗った匝瑳の軍縮反対論は大衆に受け入れられ、彼の著書は
1ヶ月で18版を重ねる大ベストセラーとなったといいます。

 

しかしこのとき、軍縮を受け入れ軍備撤廃すべきであると訴えた
「条約派」のなかに、
偶然にも匝瑳の海軍兵学校のクラスメートがいました。

それが水野広徳(卒業時ハンモックナンバー24番)という人物でした。

偶然といえば、この人もやはり海軍軍人をやめた後文筆家になったのですが、
そのきっかけというのが、旅順閉塞作戦に参加した記録をまとめ、それが
全国紙に掲載されたことから文才を認められたことだそうですから、
匝瑳と同じく旅順港が彼の人生を変えたといってもいいでしょう。

その後彼は軍令部の軍史編纂室で日清・日露戦争の部分を担当し、
このこともその後文筆業に進みたいという動機となりました。

そして、偶然というのが歴史の皮肉とでも言うのか。

閉塞を成功させ「三河丸」から短艇で脱出した匝瑳らを救出したのは、
当時水雷艇長として
作戦に参加していたこの水野だったのです。

海軍時代の水野広徳

彼はなかなか興味深い人物(とその著作)なので大いに寄り道します。
水野は第一次世界大戦参戦帰国後、加藤友三郎海軍大臣

「日本は如何にして戦争に勝つよりも如何にして
戦争を避くべきかを考えることが緊要です」

と報告するなど、平和主義者として反戦論を説きました。

その後、軍人に参政権を与えよと書いたことが海軍刑法に触れ、
謹慎処分となってしまったので、執筆活動にはいることを前提に退役し、
評論家としての道を歩み始めたのでした。

そして、仮想の日米戦争を分析し、日本の敗北を断言した
『新国防方針の解剖』を発表します。

また、リアルな日米仮想戦記『海と空』(昭和5年)では
東京空襲が行われた場合の惨状を、

「逃げ惑ふ百万の残留市民父子夫婦 乱離混交 悲鳴の声」
「跡はただ灰の町 焦土の町 死骸の町」

とみごとに「予言」しているのです。

当然彼は情報局から睨まれ、執筆禁止者リストに入れられるわけですが、
アメリカは早くからこの人物の著書を手に入れ、研究していたらしく、
終戦間近の昭和20年、米軍機より撒かれたビラの内容は、驚くべきことに
水野の著作の一部をまるまるコピーしたものだったと言われています。


つまり偶然、閉塞作戦で助け助けられる側になったこの二人が、
軍縮という一点においては敵味方の陣営に別れることになったわけです。


反戦・平和主義で当局から睨まれた水野は、
不遇のうちに世を去りました。
しかしながら戦後平和主義者として一部からとはいえ
偉人化され、
その反骨精神と思想を讃えられています。


キャッチフレーズは「戦争に反対した帝国軍人」

一方匝瑳胤次の方は、大東亜戦争遂行のための言論統制を担当していた
情報局の指導のもとに設立された大日本言論報国会という、戦時下唯一の
評論家団体に属し、軍部の庇護のもとで戦争遂行キャンペーンを行いました。

知名度を利して東京市議会議員なども務めるなど、大いに時流に乗り
終戦までは「我が世の春」を謳歌したと思われます。

しかし終戦の昭和20年を最後にぱったりと彼の著書発行暦は途絶え、
その後逝去する昭和35年まで、彼がどういう人生を歩んだのかは
少なくとも調べた限りではどこにも見つけることはできませんでした。

 


ここで、まとめとして、のちの世間的な評価でいうところの
第三次閉塞船における
指揮官の「ヒエラルキー」、つまり
「偉い順番」を表にしてみました。

ーーーーー軍神(別枠)ーーーーーーーーーーー

廣瀬武夫

ーーーーー英雄ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「朝顔丸」向少佐   中止命令を知っていたが再反転して戦死、全滅

「江戸丸」高柳少佐 中止命令を知っていたが再反転 指揮官のみ戦死

「相良丸」湯浅少佐 中止命令を知っていたが再反転して指揮官戦死(捕虜になり自死)

ーーーーー普通の英雄ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「小樽丸」野村少佐 中止命令が届かず突入して指揮官戦死

「佐倉丸」白石少佐 中止命令届かず、突入し閉塞後陸で交戦、捕虜になり病死

ーーーーー普通ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「愛國丸」犬塚大尉 再反転、作戦後端艇から投げ出されるが生還

「遠江丸」本田少佐 命令を知っていたが再反転 作戦後生還

「三河丸」匝瑳大尉 命令知らずに突入 作戦遂行後生還

ーーーー超えられない壁ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「新発田丸」遠矢大尉 反転しようとするも発動機故障で帰還

「釜山丸」大角大尉 発動機の故障 隊員を説得して帰還

 

「小倉丸」福田少佐 指揮官命令を遵守 帰還

「長門丸」田中少佐 指揮官命令を遵守 帰還

 

続く。

 

 


第三次閉塞作戦 削除された「捕虜」の情報〜旅順港閉塞船記念帖

2020-08-13 | 海軍

オークションで手に入れた海軍兵学校昭和2年発行の写真集、
「旅順港閉塞戦記念帖」の写真を挙げながらこのことを調べていますが

調べれば調べるほど、部下を探しに行って戦死した廣瀬武夫以外
他の死亡した軍人の名前が残されていないことが異様なことに思えてきます。

廣瀬少佐を閉塞作戦の象徴としたのであとは省略、ということなのでしょうか。

しかし、わたしに言わせれば、そもそも廣瀬の行動って
軍隊の指揮官なら普通というか当たり前のことをしただけですよね?

勿論わたしも、その指揮官としての責任感の強さを称賛することに
やぶさかではありませんが、それをいうなら本閉塞作戦中、
行方不明になった人員を探すために必死で船内を駆け回った、
という指揮官や指揮官附はほかに何人もいたわけです。

 

この際だから言ってしまいますが、実を言うと、わたしは昔から
軍神廣瀬について、モヤモヤするものを感じていましてね。

廣瀬は指揮官の当然の義務として足りない人員を探しに戻りましたが、
結局最後は捜索するのをやめて端艇に乗り込もうとしています。

決して自分の生を引き換えにしてまで部下を救おうとしたわけではありません。
端艇乗艇後、たまたま直撃弾を受けなければ、第二次作戦の経緯を見る限り、
無事に生還し、杉野曹長だけが行方不明のうちに戦死認定されて終わったでしょう。

つまり、わたしがかねがね思っていたのは、偶然爆死しただけなのに、
「軍神扱いまでするのはやりすぎではないか」ということなんですが、
今回、こうして作戦全体についての実相を知るにつけ、
その思いはよりはっきりとし、そこに「官製の美談」の匂いすら感じます。

指揮官として当然の行動をとって、その結果偶然死んだ廣瀬が軍神で、
反転命令を受けながらも、他の船が突入していくのを見て後を追い、
その結果戦死した第三次作戦の何人もの指揮官が名前も残されていないのは
あまりにも不公平としかいいようがないではありませんか。

しかし、(変な言い方ですが)死んだ者はまだ良かったのです。

日露戦争全体で見る限り、閉塞作戦は序盤の戦いでありました。
この効果がないことが決定したからこそ、陸軍は地上からの作戦、
最終的には二百三高地へと駒を進めることになったわけですから、
長い目で見ればそれもまた勝利への布石の一つではあったといえます。

ですから、閉塞作戦は失敗であったことをよくわかっていた彼らも、
終わり良ければ全てよしで、自分自身を納得させてきたのに違いありません。

 


さて、今日ご紹介する冒頭写真の軍人は

第三次閉塞 愛國丸指揮官

海軍大尉 犬塚太郎

階級が大尉であるのを見て、この人は戦死しなかったのだな、
とちょっとほっとしてしまったわたしです。

Taro Inuduka.jpg

犬塚大尉は兵学校25期。

旅順作戦に参加していた時には「笠置」分隊長という配置にいました。
25期で大将になったのは山梨勝之進だけで、
最終的に中将にまでなったのはこの人を入れて三人だけでした。
そのうちの一人は、閉塞作戦記念帖の発行された昭和2年当時、
海軍兵学校の校長だった鳥巣玉樹です。

犬塚の兵学校でのハンモックナンバーは32名中18位だったそうなので、
中将までいったのは結構な出世であると言えます。

閉塞作戦で生還したあと、日露戦争で皇族武官に任命されたことから
要所で東宮武官、秩父宮別当など皇室関係の役職に就いていたことが
そのキャリアを出世コースに乗せたのではないかと思われます。


さて、閉塞作戦において殿(しんがり)の12番船「愛國丸」指揮官に任命され、
犬塚は五月二日の午後6時、出航を行いました。

天候が不順になり、風浪が激しくなってからの状況から
「愛國丸」について言及している当時の文書を書き出しながら進めます。
極力現代文に翻訳します。

「遠江丸」は前続船が反転して転針したらしいと思い、
西微北に向かって進んだが、ついに僚船に会わなかった
偶(たまたま)前方遥かに二個の灯光を発見したので
速力を増してこれを追跡したところ、敵探海灯の照映により
其の一隻は十一番船「相模丸」であることを知り、
他の一隻は十二番船「愛國丸」であろうと推定した

 

又、海軍大尉犬塚太郎の指揮した十二番船「愛國丸」は
午後十時三十分頃若干の前続船が針路を反転したらしいと認め
かつ、駆逐艦、水雷艇らしきものが頻繁にと汽笛を鳴らし
発光信号を行いながら高声に叫ぶを聞いたがそのなんたるかを解せず。

この文章から新たな情報がわかりました。

作戦総指揮官から発せられた中止命令は、護衛と作戦後の人員収容のために
現場海域にいた駆逐艦、そして水雷艇にも伝えられたということ。

そして彼らは閉塞船に対して、発光信号だけでなく叫ぶなど、
あらゆる手段で
命令変更を伝えようとしていたことです。

しかし、そんな状況でも信号が読み取れないだけでなく、
ましてや声など全く聞き取れず、
何かを伝えようとしているようだが
さっぱりわからない、という焦燥の状態だったようです。

よってしばらく前続船の行動を窺い、反航するもの多きを見、
又、一旦回頭したのに更に旅順口に向進した船があるのを認め
反転していたのをもう一度元に戻してその航跡を追った。

これによると、互いが全く見えなくなったわけではなく、
通信を受け取って反転する船、直進する船を見て後を追うため
再反転する船の様子を、犬塚大尉の船は全部見ていたことになります。

犬塚大尉はそこで「愛國丸」もまた旅順口に向かうことを決断しました。

そしてその後、「遠江丸」「相模丸」「小樽丸」「江戸丸」と一団を形成し、
旅順口に向かっていったという話は何度かしてきました。

その後敵に発見され、流弾雨飛の中、

又港口の中央線を直進していた愛國丸は
港口の距る約七鍵の位置に至るや

俄然敵の敷設水雷に羅りて運転の自由を失う。

よって犬塚指揮官は其の位置に爆沈せしと欲し
投錨を命ずるや
浸水急激にして忽ち沈没せり。

敷設水雷に「羅った」というのは、一部が爆破された状態で
身動きできなくなったということでしょうか。

この時の「愛國丸」の近くにいたのは「江戸丸」でした。
「江戸丸」は港口に向けて転針しようとしたとき、前方に
「愛國丸」らしき一船を認めた、と証言しています。

そしてこれを追い越ししようとしたのですが、それができず、
後方に付いていこうとしたところ、「愛國丸」は

「俄然沈没する」

に及んだところでした。
この後「江戸丸」の船橋に命中した敵の一弾は指揮官高柳大尉の命を奪います。

高柳大尉に代わって指揮を引き継いだ永田中尉は、その後
「愛國丸」と並ぶ位置に船首を港口に向けて船を爆沈させました。

「愛國丸」が港口に向かうところから、もう一度記述を抜粋します。

愛國丸は突進中敵の敷設水雷に掛かり忽ち進退の自由を失いしが
犬塚指揮官は之を以って砲弾の命中せるなりと思惟し
擱岸せしめんよりは寧ろ其の位置に爆沈するに若かずとなして
投錨の命せり。

船が動かなくなったので、犬塚大尉はそこで爆沈させることを決定しました。
しかし、投錨が終わるか終わらないうちに船尾はすでに沈没し始め、
其の時に初めて敷設水雷に船体がやられていることに気が付いたのです。

犬塚指揮官は直ちに総員退去を命じ、人員点呼を行おうとしましたが、
すでに其の時には海水が上甲板まで迫っていました。

かろうじて一隻の端艇を卸すために「ボートホール」を切断しようとしたところ、
急速に沈没が始まり、わずか1分にも満たない時間で沈んでしまいました。

海に投げ出された乗員を収容したところ、24名のうち8名が欠員していました。

「愛國丸」乗員全24名の写真です。
ほとんどの乗員が長刀、短刀、超銃、短銃いずれかの武器を持っています。
最前列で銃を撃つポーズを決めている水兵さんは助かったのでしょうか。

さて、すぐさま行方不明の8名の捜索が始まりましたが、

「波高くして形影を認めず」

全く行方はわからないままでした。

第三次閉塞 愛國丸指揮官附

海軍大尉 内田弘

 

この8名は指揮官附海軍中尉内田弘と同乗すべき配置なりしを以て
或いは同官と共に退去したるものなるべきかを想い
午前四時十分沖合に向かいしが 内田中尉を始め
海軍中機関士 青木好次以下下士卒六名は竟に
全く其の行衛(ゆくえ)を失えり

「愛國丸」指揮官附の内田中尉は海軍兵学校27期卒。
中尉任官後初の配置であった「笠置」から今回
指揮官附として第三次作戦に指名されてきました。

内田中尉の行方はこの時を境にわからなくなり、
行方不明者のまま戦死認定され、死後大尉に昇進しました。

 

資料には、収容人数についてはこのように記しています。

第三回閉塞は天候の険悪と端舟の破壊とのため
最も悲惨の結果を生じ(この部分削除対象)惨烈をを極め
八隻の乗員百五十八名(内戦死四名負傷二十名)
翌朝敵に収容せられしもの十七名(内一名死亡)に過ぎず。

捕虜になって死亡したのは湯浅少佐と野村少佐の二名ですが、
このときには湯浅少佐が捕虜になったという情報は伝わっていません。

爾餘七十四名は遂に其の失踪を明らかにせざりしが
海軍にその後開城の機会ありし明治三十八年十一月 旅順口白玉山の麓なる
旧露国墓地を発掘し 第三回閉塞隊員の遺骸を検ずるに及び
朝顔丸指揮官向大尉を始め指揮官附海軍中尉糸山真次 
機関長 海軍大機関士 清水雄菟以下
十四名の相接して埋葬せられたるを発見し

この外 白石大尉以下佐倉丸の乗員九名 
湯浅少佐以下相模丸の乗員三名 笠原中尉以下小樽丸の乗員六名
及び氏名不詳の海軍軍人七名(内中尉一名大機関士一名)を発見せしが
五躰の腐乱して其の容貌を識別すべからざる 其の屍体の状況により
奮闘の状を想見せしむ。

ちなみに「五体の腐乱」という部分は削除線で消されています。

そしてこの後の記述に驚かされました。

又敵に収容せられし小樽丸機関長岩瀬大機関士
及び同船乗組
下士卒七名、相模丸乗員下士卒九名
岩瀬機関士
閉塞の当夜頭部を負傷し終に
三十七年十月十九日旅順海軍病院にて没
他の十六名は旅順開城の際我が軍にて収容せり。

この文章からはごっそりと捕虜になった下士卒たちの情報は削除されました。
棒線がかけられているのは削除部分であり、ご丁寧にも検閲を行った人が、
上の欄に

「注意!!!(!三つ付け)」

と叱責するように殴り書きで読めないコメントをつけています。

ここで閉塞後の各隊の状況に関する記述は終わり、次からは
収容の状況が始まります。

ともすれば閉塞船の戦いと被害ばかりが語られますが、
この作戦で収容のために出撃していた駆逐艦や水雷艇などにも
敵の攻撃で多くの犠牲が出ているのです。

例えば水雷67号艇は「三河丸」の掩護の際被弾した砲弾が
舵機室で炸裂し、機関兵曹と下士官一名に重傷を負わせ、
機雷敷設艦「蒼鷹」では一等水兵が被弾して死亡しました。
他の収容艦も、ほとんどが敵の弾丸の中任務に従容と当たっています。

「愛國丸」の9名の乗員は、「遠江丸」31名の乗員とともに
水雷艇「隼」に収容されて帰還しました。

 

続く。

 

 


「従容と義に就く境地」 湯浅竹二郎少佐〜旅順港閉塞戦記念帖

2020-08-11 | 歴史

今日もオークションで手に入れた旅順口閉塞戦記念帖より、
第三次閉塞作戦参加船とその指揮官についてお話ししていきます。

まず冒頭写真は、

第三次閉塞相模丸指揮官

海軍少佐 湯浅竹二郎

湯浅少佐(最終)の名前が現代の資料では「竹次郎」となっていますが、
当時の資料は全て「竹二郎」であることをお断りしておきます。

海軍兵学校は19期、本作戦の指揮官クラスでは最も最弱年が
匝瑳胤次、高柳直夫の26期、最年長が総司令の林三子雄と有馬良橘の12期、
(廣瀬武夫は15期)なので、ちょうど(なにがちょうどかわかりませんが)
作戦メンバーのど真ん中の年代で、参加時は大尉でした。

指揮官として乗り組んだ「相模丸」は第三次作戦の第4小隊の一番船、
二番船がこの後お話しする狄塚太郎大尉指揮の「愛國丸」です。

ネットで公開されている当時の資料を見ていると、こんなのを見つけました。
なぜ第4船隊の船のだけが図面化されているのかわかりませんが、
「相模丸」「愛國丸」が搭載していた水雷落下装置の図面です。

投下のためにはずす掛け金のような装置には「グリース」を塗り、
滑りやすくすること、などと添書きがされています。

それにしても自沈させるのが目的の閉塞船が、なんのために
水雷を積んでいたのかという疑問が湧いてくるわけですが、
これは敵に対する攻撃のためのものではなく「自沈の手段」だったのでは、
と想像されます。

どこの部分にこの落下台が仕掛けられていたかにもよりますが、
爆薬を仕掛けるのではなく、水雷を船上で爆発させて船が沈むように
特別の「落下台」が考案されていたのだと考えれば、辻褄があいます。

でもまあこれもわたしの想像に過ぎませんので、もし違っていれば
ご指摘いただけますと幸いです。

 

さて、第三次作戦に出撃した「相模丸」については、国会図書館所蔵の
当時の報告書の第三次作戦の経緯を踏まえて説明していきましょう。

海軍少佐湯浅竹二郎の指揮せる11番舩相模丸は天候悪にして
各舩相失したるを以て或いは行動中止の命令あるべきかを
注意を加えて続舷せしも終に命令に接せさりしと云う。

報告書では「船」と書かず全て「舩」という漢字を使っています。
出航して四時間後、天候が悪化して波が高くなり、指揮官林中佐は
その時点で作戦の成否より収容が困難になるとの理由で
中止命令を出したのですが、何度もここでいうように、
後続の船に命令は伝わりませんでした。

天候が悪くなって周りに船列が認めにくくなったため、各指揮官、
湯浅大尉ももしかしたら行動中止になるかもしれないと予測し、
注意深く状況を監視しながら航行を続けていましたが、
11番船であった「相模丸」には通信は伝わりませんでした。

閉塞船はこの如く全く混乱の状態に陥り
各船始め任意の行動を取るに至りしが
遠江丸、小樽丸、相模丸、江戸丸、愛國丸の五船は
期せずして次第に不規則なる一段(団)を作成し
互いに前後して旅順口に進み五月三日午後二時三十分頃
黄金山探海灯を正北に見るの地点に達し是より港口に向かいて変針せり。

風と高い波のせいで閉塞船の船列は乱れ、命令を受けて引き返す船、
船の装置の不備で引き返す船、命令を知っても突入する船と、それこそ
各指揮官の判断によって全体がてんでにいろんな行動をとり始めました。

「遠江丸」「小樽丸」「江戸丸」そして「相模丸」「愛國丸」は
偶然合流し、五隻で一団をなして旅順港に進んで行きました。

「探海灯」という言葉がありますが、これは「探照灯」と同じ意味で、
巨大な反射鏡を用いて海上を照らすサーチライトのことです。
探照灯を海上で使用するときはこういう呼び名をするそうですが、
ここでは陸に備えてある探照灯の意味でいいかと思います。

「黄金山の探照灯が真北に見える位置に来たので、
港口に向かうために変針した」

ということになります。

このとき遠江丸、小樽丸、相模丸は殆ど単縦陣となり
江戸丸は少しく其の右方に、愛國丸は其の左方に位置し相並びて
相模丸に続きしが尚他の一船左方より港口に直進するものありしかごとし。

←←←進行方向   

                <江戸丸〕
                <愛國丸〕
<遠江丸〕<小樽丸〕<相模丸〕

←←←←←←←<他の船〕?

無理やり図にするとこういう状態だったようです。

このごとく五隻の閉塞船は江戸丸を先頭として齋しく港口に驀進せしが
城頭山探海灯を左舷正横に臨むの時始めて敵に発見せられ
各所の砲弾一時に轟きて 砲弾雨飛し或いは水面に炸裂し
あるいは頭上に爆発するものあり

ここまで順調に進んできた五隻ですが、先頭の船が悉く作戦を中止して
帰ったり、あるいは後から駆けつけてくる途中にあったということで、
彼らが一番先に敵地に到着し、発見されて一斉砲撃を受けることになりました。

ここで「江戸丸」は敵の砲撃で全損し、行き足もとまったため、
本田指揮官はその場で自沈を行います。

小樽丸、相模丸もまた防材を衝破し 小樽丸は三河丸の直前に出て
船首を約北西に向け老虎尾半島に近く投錨爆沈し

相模丸は佐倉丸に近く船首を約北東に向け爆沈せり。

「小樽丸」「相模丸」も爆沈作業を行いました。

第三次閉塞相良丸指揮官附

海軍大尉 山本親之

中尉職である指揮官附が大尉になっているということは、
戦死認定され死後昇進したということでもあります。

「相良丸」は閉塞船を爆沈させた後、どうなったのでしょうか。

当時の記録には各船の引き揚げ状況の項にこうあります。

朝顔丸、小樽丸、佐倉丸、相模丸の四船に至りては
一員として我が艦艇に収容されたるものなく全滅もしくは
(全滅という言葉を削除してある)行方不明の恐運に陥りしか

旅順開城の際 小樽丸相模丸の一部乗員は俘虜となりて生存せるを発見し
其の陳述により略両船の行動を知ることを得たり。

此の資料は戦後に記録のため作成されたものらしく、
旅順開城まで「行方不明」となっていた両船の乗員が
実はロシア軍の捕虜になって一部は生存したことがわかり、
その捕虜から亡くなった乗員の最後についてもわかりました。

また相模丸は防材を破りて港口に突進せしが湯浅指揮官は
すでに水道の中央に闖入せるものと認め投錨を令して
爆発の用意をなし一同万歳を連呼して端艇を卸すこと半に及とし時
一弾飛来して「ボートホール」を切断し艇首より破壊したるに持って
更に第二の端舟を卸して之に乗りしが亦須叟にして敵弾に破らる。

どんな切迫した時でも万歳するんですね・・・。

「ボートホール」が何かはわかりませんでした。
脱出用の端艇は一隻だけでなく予備も用意していましたが、
それが次々と敵弾に破壊されていったようです。

此の時指揮官湯浅大尉および指揮官附山本中尉等は
尚相模丸に止まりて爆発に従事し 今其の作業を終えたる時
端舟に乗し本船を離れんとす。
然るに風浪艇を横座して容易に離るること能わず。

哨艇及び砲台よりの機砲小銃等一斉射撃を受け
総員し力を尽くして脱出を図りしも 海水己に艇に満ちて
如何ともし難く 遂に本船の沈没と共に両覆り
煙突と通風筒との間に挟まれて動かず。

爆沈作業まではうまくいっていましたが、閉塞船から
端艇で離れることができず、そうこうしているうちに
閉塞船の爆薬が爆発して巻き込まれてしまったのです。

衆皆之に縋りしが敵弾に傷つくものあり
湯浅指揮官以下多くは戦死し 翌朝敵に収容せられしもの
海軍二等兵曹河野精蔵以下九名に過ぎず。

この中から9名だけが捕虜になることで生還しました。

さて、「相模丸」指揮官の湯浅竹次郎少佐は、当時の海軍発表では
端艇に乗り移ってからその間戦死したことになっていますが、
これには異説があって、「ロシア陸軍少尉だった人物が
日本の知人に送った書簡の内容」という甚だ真偽の怪しい情報によると、
湯浅は他の乗員と同じく旅順にたどり着いたものの、
人事不省となって
ロシア軍の捕虜になっていたというのです。

捕虜になった九名がそのことをおそらく解放後伝えたはずなのですが、
指揮官が自分の意思ではないとはいえ一時でも捕虜になったなどとは
当時公にすべきでないとされ、秘匿されたのかもしれません。

書簡の情報によると、湯浅大尉は意識回復後に捕虜になったことを知り、
時計の紐で縊死しようとしましたが、
それが不可能となると
隙を見て高所から飛び降りて再び自決を図りました。

死ぬことはできず重傷の状態で病院に収容されることになりましたが、
治療を拒否し、食べ物も取らず、ロシア側が注射で栄養の補給を行うなど
延命の措置をとったものの結局そのまま亡くなったということです。

 

また、湯浅竹次郎という名前で検索すると、講道館の歴史記念館に
有段者として其の名前が刻まれていることがわかります。

少年時代に柔道を始め、やはり講道館の有段者だった廣瀬武夫より
柔道については「先輩」だったようです。

34歳で閉塞戦で戦死した際、講道館は戦死時五段だった湯浅少佐に
名誉六段の段位を授けました。

 

湯浅少佐は閉塞戦に出陣前、次のような遺書を残して往きました。

「古人曰ヘルアリ従容ト義ニ就クハ難シト。
 今ヤ廿有余ノ勇士ト此難事ヲ決行ス。
 武士ノ面目之ニ過ギズ」

これは、その後の海軍兵学校において

「従容ト義ニ就ク境地ニ到達センコト」

という精神的な教義となって後世に遺されたといいます。

兵学校時代の有馬正文もこれに感激した一人でした。

 

続く。

 

 


アメリカ滞在〜アメリカ人絶賛マスク着用中

2020-08-10 | アメリカ

毎年渡米を恒例としている我が家ですが、今年の渡米がどうなるか
まったくわからない状態を経たものの、結局今
東部アメリカのホテルに到着してこれを作成する運びとなりました。

出発から到着、そして一日目の街の様子すべてにおいて、
これまで見たことのない光景が展開していたので、ご報告です。

まず成田空港に到着したとき、駐車場がガラガラで、ターミナルの中には
不気味なくらい人がいないのにさっそく驚愕します。
電光掲示板に延々と続く「欠航」の文字。

少ない乗客数で便を調整しているため、わたしの乗る飛行機も
何度も変更され、当初の予定の羽田出発が成田になりました。

夏休みに入った土曜日の昼間の成田コンコースがこの有様。
ブランドのブティックは全部営業していないので、廊下が真っ暗。

飲食店もほぼ閉店で、スターバックスはかろうじて営業していましたが、
わたしたちが入ったときには他に客がいないという異様な状態でした。

空港のフリーWi-Fiがとんでもなく早かったのはありがたかったです。

空港会社のラウンジは、ビジネスクラス用を閉鎖していたため、
おかげで初めてファースト用ラウンジを体験できました。
ラウンジを統合していても人はまばらで、ソーシャルディスタンス取れまくりです。

窓から見えるのはミガメペイントの飛行機ははハワイ行き専用の
新型エアバス A380型機「FLYING HONU」(空飛ぶウミガメ)。
新型コロナウイルスの影響で全く飛ぶ機会がなくなってしまったので、
今は成田から約90分間の遊覧飛行という企画に使われているのだとか。

FLYNG HONUによる遊覧飛行企画

真っ昼間にこんなにたくさんの駐機している飛行機を見るのは初めてかも・・。

ラウンジでは麺類をオーダーできるカウンターがあって、
MKはカレーうどんを頼んでいました。

そして搭乗が始まりました。
これまでと違うのは、シートのクラス順ではなく、
後ろの席から搭乗していくことです。

機内での人の密集を防ぐためですが、どちらにしても
人数が少ないのであっという間に登場は完了しました。

食事を機内で配膳するのを控えているせいか、食器は陶器でなく
プラスチックの蓋つきで出てきました。
かなりの時間冷蔵されていたと見えて前菜は味がわからないくらい冷えていました。

MKがステーキの洋食を頼んだところ、数が足りないかもしれないといわれてびっくり。
こんなに人数が少ないのに足りないかも、ってどれだけ搭載数が少ないのか。

メインは流石に暖かいものが陶器で出されました。

アメニティは品質落とさず、リップクリームと保湿剤は「SHIRO」のもの。
最近SHIROの洗剤を愛用しているのでうれしかったです。

ただしスリッパはロゴすら入っておらず、明らかに品質が落ちていました。

航空会社も色々と苦しいのだろうと思われます。

映画は普通にやっていましたが、テレビガイドや本は全て撤去されていました。
以前にここでもご紹介したことのある「世界一いい人」フレッド・ロジャースを
トム・ハンクスが演じた

『幸せへのまわり道』(A Beautiful Day in the Neighborhood)

を観ました。

「聖人」ロジャースのいい人エピソードで感動させるようなありがちな展開とは
ちょっと違った(特にラストシーン)捻りのある、妙に心に残る作品でした。

とにかくトム・ハンクスが演じるミスター・ロジャースは一見の価値ありです。
造形が全然似ていないのに、しぐさや声がそっくりでだんだん本人に見えてくるという。

機内で寝て起きてテレビをつけたら「1917」をやっていたのに気づきました。
しまったー!と慌てて観はじめましたが、途中で到着してしまいました。

ちょうど出発の日からレンタルが開始される予定でしたが、アメリカでは
HuluもAmazonプライムも日本のアカウントでは視聴できない仕組みなので、
帰るまでお預けです。

そして予定より早くシカゴオヘア空港に到着。
通路にこんなたくさんの車椅子があるのを見るのも初めてです。

オヘア空港ではターミナル間の移動の電車すらストップしていました。
どうするかというと、乗客全員バスで移動です。
レンタカー送迎用の椅子のない、やたら運転の荒っぽいバスに乗せられ、
カーブごとに必死で体を支えながら目的のターミナルに移動。

コンコースの人影もまばらです。(冒頭写真もオヘア空港)



ポラリスラウンジはもちろん、すべての航空ラウンジは閉鎖中です。
そういうところで働いていた人はどうなってしまったんだろう・・・。

ベートーヴェンの生誕記念周年だったようですが、演奏会も無観客で行うのでしょうか。

ところがトランジット機が出発してから離陸まで、これが長かった。
エプロンで何機も他の飛行機が行き来するのを観ながら1時間は待たされました。

便数が減っているのにどうしてこんなことになるのか・・・。
そのせいで飛行時間がきっちり2倍になり到着は1時間遅れました。

前回雪で欠航になったオヘア行きですが、この日の気温は28度。

目的地ピッツバーグに到着したのは夜の9時でした。

到着するなりびっくりしたのは道ゆくアメリカ人がちゃんとマスクをしていることです。

冬ごろはまだマスク着用が義務付けられていなかったので、
MKによると東洋人以外は誰もしていなかったそうですが、今となっては
どの州でも建物に入る際、そして搭乗の際、マスクをしていなくては
入場入館搭乗を拒否されるという強い態度を取っているので仕方ありません。

予約したホテルもマスクしていない人は入館禁止になっていました。

たとえばANAでは「お願い」という形でマスク着用を要請しています。
日本人はお願いされれば普通に従うので、強要の必要がありませんが、
アメリカ人にはもともとマスクの慣習がないせいか、そこまでしないと
色々理由をつけて守らないからなのだと思われます。

今回、ANAの機内で食事の後マスクをしないでうとうとしてしまったのですが、
FAさんに起こされて着用を要請されました。

なんと、ホテルの横は野球場でした。
MLBの慣例として7回終了後に流される
♫Take me out to the ball game〜
という歌が通常であれば聞こえてくるほどの近さです。

Covidが蔓延していなければわたしもここには泊まっていませんが、
(前回のところが隣が養老院であるせいで閉鎖になった)
もし通常の状態ならここは絶対に選んでいません。

ゲームがあるたびに周りは人と車で溢れるような場所だからです。

PNCパークはピッツバーグ・パイレーツの本拠地です。
野球音痴のわたしは今回初めてその名前を知ったわけですが。

この日(土曜日)球場では無観客試合が行われていたようで、
その夜テレビを観ていたら、打球をキャッチしようとした選手二人が
激突して一人が意識不明になったというニュースをやっていました。

超濃厚接触です。

選手はさすがにノーマスクですが、審判や監督はマスクをしており、
昼間部屋にいても試合が行われていることなど窺えない静けさでした。

しかし、画像を見ていると、球場内では観客の歓声だけを大音量で流しているようでした。
選手のモチベーションが静かすぎるとダダ落ちするからだと思われます。

ミスターロジャースの映画は彼の番組と同じく模型の街が登場しますが、
その中で欠かせないのがこのケーブルカーでした。
ミスターロジャースはピッツバーグで人生の大半を過ごし、ここで亡くなっています。

部屋からはこのケーブルカーがよく見えます。

着いた翌日アップルにiPhoneを買いに行きました。
借りた車に付いてきたAndroidのGPS(カーナビ)が度々クラッシュし、
怖くてとても使えないので、SIMフリーを買って短期縛りのSIMを買い、
帰るまで使って帰国してから入れ替えることにしたのです。

行って並べばいいだろうと思ったら、予約してくれと言われたので
その場で予約を入れて待ち時間にお昼を食べに行きました。

人気のお店なので予約しなくていいのかな、などと言いながらいくと
なんと、土曜日のお昼なのにこの通り。
アメリカでも飲食業はまだ以前の状態には程遠いようです。

奥では女性ばかりの団体がティーパーティーをしていましたが、
それ以外の客はわたし達ともう1組だけでした。

ブランチサービスがあったので、野菜たっぷりのオムレツを頼みました。
MKのプルドポークのライス乗せも美味しかったようです。

モール入るにもマスク着用が義務つけられています。
モール内では早速マスク専門店があちこちにお店を出していました。

こうなると皆マスクでのお洒落を楽しむのがアメリカ人。
女性はほとんどが医療用ではなくとりどりの柄物をつけており、
男性は拘らない人も多く普通のブルーマスクが多いですが、
アフリカ系の若いお洒落な男性はほとんどが黒いマスクで、
それがまた精悍でワイルドな彼らの雰囲気に良く似合っています。

スターバックスではスマイルマークもマスク着用。

少し前までアメリカ人はマスクをしないのが常識だったのに、
わずか半年で変われば変わるものです。
彼らにとってマスク着用は大きな問題らしく、夜のローカル番組では
あるモールで入り口に立って調査したところ、着用率は93%だが、
まだどうしてもしない人がいる、というようなニュースをやっていました。

マスクをしていない人を捕まえて、

「なぜマスクしないんですか?」

「私マスクが嫌いなのよ」

という馬鹿馬鹿しいやりとりを報じています。
しかし、マスク嫌いでもしないとどこにも入れないので、仕方なく
皆お店の中ではマスクをしているのだとか。

彼らにとって社会からマスクを強要されるという今回の事態は
ある意味大きなカルチャーショックとなっているようです。

日本でもいまだにマスクでコロナは防げないとかいう理由を掲げて
マスク不要論を叫んでいる人たちも一定数いるようですが、
そんな人はとにかくアメリカに来てみるとよろしい。

確かにするしないは個人の自由ですから誰からもとがめられませんし、
マスク警察(民間)もいませんが、そのかわりまず交通機関利用はできず、
店では入り口で入場お断りされ、買い物すらまともにできません。

スーパーマーケットでも入り口で入場制限をしており、
一定数の人が入るとあとは1組出ていくごとに1組入れるシステムで、
入り口にはソーシャルディスタンスを考慮した「停止線」が引かれ、
そこで待つようになっており、皆静かに並んでいました。
場内で使ったカートは出口で係が受け取り、消毒して戻しています。

いったんこうと決めると徹底的にやるのがアメリカ社会です。

 

 

 


第三次閉塞作戦 反転命令に従った指揮官、従わなかった指揮官〜旅順港閉塞戦記念帖

2020-08-08 | 歴史

昭和2年発行の旅順行閉塞作戦アルバムを見ていて、ふと
軍服ではない肖像写真に目が止まりました。

第三次閉塞作戦 小樽丸指揮官

海軍少佐 野村勉

 

「小樽丸」は、12隻の船団のうち第3小隊を構成する閉塞船で、
野村はその指揮官として17名の乗員を率いていました。

ここであらためて、国会図書館の資料から、当時の記録、
「第三回封鎖」の部分を書き出してみたいと思います。
現代文に直しておきました。

二回にわたる旅順港口封鎖の壮挙は敵の士気を挫き心胆を奪った。
しかしなお閉塞の効果は十分とは言えない。
この間我が陸軍の作戦は刻々進捗して遼東半島に上陸の機は熟し、
海上輸送の保安上制海権の獲得を切要するに至った。

ここにおいて前二回の壮挙に比べ、さらに大規模計画を以て
三度港口の封鎖を行うことに決した。

乃ち(すなわち)林海軍中佐を総指揮官率いる

新発田丸、小倉丸、朝顔丸、佐倉丸、相模丸、愛國丸、
長門丸、三河丸、遠江丸、釜山丸、江戸丸、小樽丸

十二隻より成る閉塞船隊を編成し、実行日を五月二日に選んだ。

閉塞隊は例の如く多数の駆逐隊に掩護せられ一路旅順港に向かって直航した。
この夜天極めて暗く海大に荒れて頗る難航であった。

各船は遂に互いの連携を失い、総指揮官は閉塞決行の不利を認め、
行動中止の命令を発したが、荒天のためにその命令も全隊に通ぜず、
閉塞船中朝日丸、三河丸、遠江丸、江戸丸、小樽丸佐倉丸、相模丸、
愛國丸の八隻は三日午前二時三十分頃三河丸を先頭とし、払暁までに
相前後して港口に驀進した。

敵の防備は前二回に比し倍加したばかりか、探照、砲撃共熟練の度を加え、
大小の砲弾は雨霰の如く船隊に集注し無数の敷設機雷は轟然として
周囲に爆発し、忽ち船舷を裂き、加うるに空には電光煌々として闇を破り、
海には激浪淘涌(げきろうとうゆう)奔馬の如く、その凄さ壮烈さは
名伏することが出来ない。

しかし我が諸船は、強射を犯し降雨を潜り衝天の意気を以て驀進し、
何れも港口附近に達して爆沈した。

かくて各船の乗組員は帰途に就こうとしたが、ある隊は敵弾のために
ボートを砕かれ、或は纔(わずか)に破船を艤(ぎ)したものも
澎湃(ほうはい)たる怒涛のために沈没する等壮烈悲愴を極め、
小樽丸、相模丸、朝顔丸の如きは全員還らなかった。

しかし封鎖の効果は前二回に比べて頗る良好であった。


最後の取ってつけたような一文は確かに嘘ではありません。
十二隻も投入し、そのうち八隻が自沈を成功させているのですから、
前と比べて「頗る良好」であることに間違いはないわけです。

 

さて、野村少佐(作戦時大尉)の指揮する「小樽丸」には
中止命令も全く届くことなく、荒天の中旅順港口に向かって行きました。

 

ところで、今回参照した旅順港閉塞の資料の中には、閉塞隊の中に6人いた
岡山県出身者の戦功を称えるために編纂された

岡山県六勇士」

という教育読本がありました。
六勇士とは、白石 葭江少佐、人見仲造上等兵曹、影山鹿之助三等機関、

監谷巳資上等兵曹、羽原久右衛門一等水兵、そしてこの野村勉少佐の6人です。


そのバイオグラフィによると、野村勉少佐は明治2年3月18日岡山市野田屋町の生まれ。
頭脳明晰にして風姿純朴、全てに飾らない人柄で親孝行、
何事も謹直励行、友人とも穏やか誠実に付き合い、軽薄に流れず、
一旦心に決めたら中途にして挫折しない粘り強さを持っていました。

19歳で海軍機関学生に命じられるも、すぐさま「海軍兵学校生徒を命じられ」ています。
機関学校で優秀なものは兵学校に編入させるという決まりでもあったのでしょうか。
(こういうことからも機関科問題の根の深さが読み取れますね)

卒業後「比叡」で遠洋実習にはトルコへの航海を行い、
日清戦争が起こると「吉野」分隊士として豊島沖海戦に参加、
清国の軍艦「広内」の捕獲に際して戦功賞を与えられました。

第三次閉塞戦では第三小隊の二番船「小樽」指揮官となり、
5月1日午後6時、根拠地を抜錨。
2日午後7時、「小樽丸」は護衛隊と別れて前進を続行。

しかしながら午後10ごろから海が荒れ出し、

怪雲月を呑んで海上暗く怒涛愈々高く
狂乱怒涛と化し、
船の操縦意の如くならず

各隊の序列は乱れ脱落するものも多く、閉塞船隊総指揮官林三子雄中佐は
中止の命令を降し、深夜2時に至るまで
通信の努力を続けましたが、
その間に八隻の閉塞船は
前後して旅順港に突入していきました。

しかしながら、

又海軍大尉野村勉の指揮せる九番船小樽丸は
二、三僚船の反転するを認めしも
尚二隻の前進しつつあるを見て之に隋し

野村指揮官は、帰還する船があるのも目撃しましたが、
命令が伝わらずに直進していく船があるのを見て
彼らを追い、作戦を遂行することを決断したのでした。

そして完全に混乱状態に陥った結果、
「小樽丸」「遠江丸」「相良丸」「江戸丸」「愛國丸」の五隻が
期せずして「不規則なる一団を作成し、互いに前後して旅順口を」
目指していくことになります。

その後については現代文に翻訳します。

野村大尉の指揮する九番船「小樽丸」は
港口の適当と思われた地点に達して
爆沈を用意した。

指揮官が総員を上甲板に集めて人員を点検したところ、

影山一等機関兵が負傷しているだけで其の他は無事なのを確認し、
爆発を命じ、総員万歳を三唱して退去しようとした。

そのとき散弾が爆発し、一番短艇が奪い去られてしまったので
代わりに三番艇に乗り、
指揮官附笠原平治(三郎)中尉が再点呼を行ったところ、
野村指揮官及び兵員二名がいなくなっているのに気づく。

そこで大声で「野村大尉!」などと連呼したが応答はなく、
そのうち浸水はすでに上甲板に及び、
狂浪奔騰のため
遺骸を捜索することもできなかった。

爆沈した「小樽丸」の船上からはすでに少佐の姿は失われていたといいます。
あるいは巨弾が飛んできて海中に身体を掠め去ったものでしょうか。

「小樽丸」指揮官附 

海軍大尉 笠原三郎

笠原中尉ら何人かの乗員は「小樽丸」爆沈後、
海中にしばらく浮沈し、寒威凄まじい海中では次第に身体は自由を失い、
虚しく
海底に沈んでいった、と「岡山六勇士」には書かれていますが、
これは教育用の資料なので、彼らの一部が捕虜になったことは書かれていません。

しかも、乗艇の浸水がひどく、毛布等を以て破孔を填塞し
総員全力に務めたが効果はなかった。

近くに端艇が浮遊していたので、笠原中尉等は波に逆らって泳進し
これを点検したが、損傷が甚だしく使用不可能だった。

此の間も弾丸が雨のように降り注ぎ負傷するものも少なくなかったが、
破艇を操縦して1時間ほど撓漕していたところ、一瀾(いちらん、波)
が横から破艇に襲いかかり艇体は転覆して十五名の乗員は波間に漂った。
大機関士岩瀬正以下下士卒七名は人事不省のままに翌朝
敵の収容するところとなった。

笠原中尉が発見されることはなく、戦死として大尉に昇進しました。
27歳でした。


「小樽丸」の乗員。
捕虜になった以外は生還せず、当時は「全滅」とされていました。

中列右から三番目が指揮官野村大尉、その左が笠原中尉です。

第三次閉塞佐倉丸指揮官

海軍少佐 白石 葭江(しらいし よしえ)

第3小隊の三番船であったのが「佐倉丸」です。

偶然第3小隊の3人のうち2人が岡山出身だったということで、
白石少佐について国会図書館の「旅順口閉塞岡山六勇士」には
以下のように書かれています。

「佐倉丸」率いた白石大尉の名前「葭江」は、7歳の時に
白石少佐が東京の白石という人に養子にもらわれるまでの苗字で、
彼はもともと「葭江良智」という名前でした。

明治23年海軍兵学校に入学、21期を32名中7番で卒業し、
日露戦争開戦時は大尉として「浅間」分隊長を務めていました。

閉塞隊の隊員は志願者から選ばれましたが、指揮官は
上から選抜され、命令を受けてその任に就いています。

白石も閉塞隊第3小隊佐倉丸指揮官に選ばれ、6時に根拠地を出発、
午後10時に下された中止命令を受け取ることなく、旅順港に突入し、
敵の集中砲撃の中、全速力で港口を目指しました。

ここで少し驚いたのが、白石少佐(とおそらく乗員たち)は
防材を衝破して水道に侵入し、目的地附近で投錨し、閉塞船を
自沈させる作業を終えると、

(上陸後)黄金山砲台に突撃して孤軍奮闘壮烈な戦死

を遂げた、と当時の美文調報告書で書かれていることです。
ところが、実は

その後「佐倉丸」乗員は上陸して露軍と交戦したが、
白石ら重傷者は捕虜となり、白石は旅順開城前に戦病死

していたのです。

白石少佐らが捕虜になり旅順のロシア軍収容病院で死亡していたことは、
日露戦争終結後の1905年に判明しました。

ということはこの本は旅順開城前に発行されたのか、と考え、
念のため「岡山六勇士」の発行年月日を調べてみると、
なんと昭和18年、旅順閉塞戦からほぼ40年後じゃーありませんか。

発行元は岡山県教育会、現代の教育委員会のようなもので、
非売品とあるからにはこれは学校の生徒に向けて教育目的で製作された
「戦意高揚のための教科書」であることは間違いありません。

「生きて虜囚の辱めを受けず」

戦陣訓(昭和16年発行)との齟齬を生まないようにとの忖度から、
白石少佐らが重症を負っていたとはいえ虜囚の身で死んだことを
糊塗する文章となったのであろうと思われます。

ただし、ロシア軍が白石少佐始め「朝顔丸」指揮官向菊太郎、
「相模丸」指揮官湯浅竹次郎少佐ら36名を白玉山麓に埋葬していたことまでは
隠さずにここでも言及しています。

「佐倉丸」で指揮官附だった

海軍大尉 高橋静

は兵学校27期。
指揮官とともに戦死したときには27歳でした。

 

 

さて、ここで第二小隊の一番船であった「長門丸」指揮官の写真が来るところですが、
またしても「旅順港閉塞戦記念帖」にはそれが割愛されているのでした。

中止命令に素直に従って引き返した、つまり成果を挙げられなかった指揮官か?
とまず疑い、調べてみたところ、やはり「長門丸」は「作戦中止」となっていました。

作戦前の「長門丸」乗員全21名。
刀がなかったのか、出刃包丁を握りしめている人もいますね。(右前)

この撮影日も晴天で、後列の人たちの顔がハレーションのため見えません。

真ん中が

第三次閉塞戦長門丸指揮官

田中銃郎海軍少佐(当時)

左、

長門丸指揮官附

山口毅一中尉

であろうと思われます。
田中大佐(最終)のデータを調べたところ、

04年5月1日 長門丸を指揮して第三次旅順閉塞に使用

   5月2日 作戦中止

とありました。
この示す意味は、作戦当日中止を受けて帰還したということです。

総指揮官の反転命令を、たまたま近くにいたらしい「長門丸」は
受け取ることができ、
命令に従って反転し素直に帰投しました。

実はこの「素直に帰投した」船は、今まで語ってきた中では
「長門丸」だけだったことになります。

その結果、田中銃郎少佐の写真は閉塞作戦記念帖には掲載されず、
ついでに?指揮官附きだった山口毅一中尉も、写真はもちろん、
名前すら「毅市」と誤植されたままであるという(涙)。


田中銃郎少佐はその後中佐まで昇進していますが、最終任務地が
「佐世保測器庫主管」・・・・・・・どう考えても閑職であり、
山口中尉に至っては履歴にすら閉塞作戦参加が書かれていません。
最終階級はやはり中佐、「浅間」の副長が最終任務でした。

作戦中止を決断して帰ってきても、本人の才覚とずば抜けた頭脳、
(兵学校での恩賜の短剣組であったこと)

そしてもしかしたら世渡りのうまさで海軍大将にまでなってしまった
大角岑生のような例は、特殊の類に属すると思われる彼らの「その後」です。

 

もし、反転命令を受けても「朝顔丸」「小樽丸」のように仲間を見捨てず
旅順に向かっていれば、命はそこで尽きたかもしれませんが、その代わり
「勇士」として死後その人格経歴の素晴らしさを讃えられ、
さらに運が良ければ?
廣瀬のように軍神として「芳名」を歴史に残すことができたでしょう。

そういう時代であり、軍隊とはそういう組織であるとわかっていても、
閉塞作戦以降の長い長い(そして退屈で屈辱的な)海軍での生活を、
あのとき素直に反転したことを一生心のどこかで悔いながら過ごしたかもしれない
田中少佐のことを思うと、なんともやるせないような思いが過ぎります。

 

続く。

 

 

 


第3次閉塞作戦 指揮官大角岑生の決断〜旅順閉塞戦記念帖

2020-08-06 | 歴史

                

さて、今日もオークションで手に入れた「旅順港閉塞戦記念帖」より
中身を紹介していこうと思います。

まず冒頭写真は、

第三次閉塞遠江丸指揮官

海軍少佐 本田親民

本田は海軍兵学校17期。
17期といえば海軍きっての超秀才、秋山真之の同期です。

「秋津州」「比叡」「須磨」「千代田」「橋立」「愛宕」
など艦艇乗組を経て、「富士」分隊長であった少佐時代、
指揮官として「遠江丸」を率い、第三次閉塞作戦に参加しました。

閉塞作戦後、一貫して艦艇任務を続け、少将昇進と同時に待命となり、
その後予備役に入っています。

中央双眼鏡着用が本田少佐、第三次作戦の「遠江丸」乗員全員です。
日差しが眩しいのか顔をしかめている人ばかりの記念写真になってしまいました。

本田少佐の右側は指揮官附の森永尹中尉、左は機関長・大機関士竹内三千雄です。

第三次閉塞遠江丸指揮官附
森永尹海軍中尉(兵学校27期)

 

森永中尉は当閉塞作戦では生還することができましたが、帰還後、
大尉任官して乗組となった巡洋艦「高砂」は、その年の12月12日、
奇しくも閉塞作戦と同じ旅順港外で哨戒中、左舷前部に触雷し約1時間後沈没。

分隊長であった森永大尉も273名の乗員とともに戦死しています。
享年25歳でした。

閉塞戦において、彼らが乗り組んだ「遠江丸」は「江戸丸」「釜山丸」とともに
第2小隊(第1小隊は『新発田丸』『小倉丸』『朝顔丸』『三河丸』)を構成しており、
当初の作戦は、この小隊をもって中央左側を閉塞させることになっていました。

指揮官林三子雄大佐の作戦中止命令を受け、船を反転させましたが、
後述する「江戸丸」、そしておそらく(はっきりした記述がないので類推による)
この「遠江丸」もまた、命令が伝わらず突入してしまった僚船を追って
再び船首を旅順港に向けて進んでいったものと思われます。

「朝顔丸」と向菊太郎大佐について書いたときには、再反転したのは
「朝顔丸」だけと思っていたのですが、少なくとも「江戸丸」「遠江丸」
どちらもがそうであったらしいことがその後の行動から読み取れます。

国会図書館蔵の「旅順口第三回閉塞」という当時の記録によると、
五隻で旅順口に突入してから、敵の砲撃が始まりました。

又敷設水雷は諸所に爆発して潮水を奔騰し
敵の全砲火は今や肉薄しつつある五隻の閉塞船に集中し
隊員の死傷するもの甚だ多し。

然れども各船は弾雨を冒して邁進し
江戸丸の如きは其の機砲未だ発射するに及ばずして己に破壊せられ
船橋に爆裂せる一弾は按針手海軍二等信号兵曹田中太郎吉を傷つけり。

日本軍の二次に渡る閉塞作戦を受けて、旅順艦隊とロシア軍は
当然三度目があるとし見張りを厳となして機雷を敷設し、
閉塞には閉塞をと、予想される進入路にあらかじめ船を沈めるなど、
怠りなく防御すると同時に、火砲も集中させていました。

「江戸丸」の田中太郎吉二等兵曹の「按針手」ですが、「按針」とは
天測や磁石などで船の航行の方向をコントロールする人、となり、
操舵手と同じ意味で良いのではないかと思います。

なぜなら、

是に於いて本多指揮官は自ら代わりて操舵の任に当たり
今や全速港口に闖入(ちんにゅう)せんとする。

「江戸丸」指揮官本多少佐は、負傷した田中兵曹に代わり、
「操舵を行った」とあります。

一刹那敵弾汽罐部を破りて蒸気噴出し前檣を折り舵機を損し
羅針儀を粉砕し大災を起こし同船は宛(あたか)も
座礁したるが如く突然行進を停止せり。

「江戸丸」は敵の攻撃でほぼ全損状態になり、
船そのものが全く動かない状態になりました。

指揮官はすでに充分港口内に達せるものなりと判断し
爆発を命じ船は瞬時にして沈没す。

そこで本多少佐は船の自沈を命じ、これが実行されたのです。

第三次閉塞 江戸丸指揮官

海軍少佐(戦死後昇進)高柳直夫

は兵学校26期、ハンモックナンバー11番で卒業しているので、生きていれば
閉塞作戦に参加したこともあり、将官に出世できたものと思われます。

 

「江戸丸」は中止命令を受けて一旦反転しますが、命令が伝わらず
進んでしまった船があることを知り、高柳もまた再反転を命じました。

旅順港に近づくとロシア軍は陸の砲台と海上の駆逐艦から
雨霰のように攻撃を仕掛けてきました。

日本側も総勢12隻と大幅に陣容を拡大させていましたが、
ロシア側にすればそれは想定内のことであったのです。

敵の砲弾が激しく飛来する中、高柳大尉は船橋で指揮を執り、
目標地点に到達したとして投錨用意を命じました。
そして羅針盤で現在船位を確認しようとした瞬間、敵弾が飛来し
高柳大尉の腹部を貫きました。

第三次閉塞江戸丸指揮官附

永田武次郎中尉

そのとき前甲板にいた指揮官附永田中尉は、投錨作業を行いつつ
命令を待っていましたが、船橋に一弾爆裂後、

「指揮官負傷!」

との声を聞くや、一刻の猶予もならないと両舷の錨を投下し終わり、
指揮を引き継いで端艇を準備させました。

そののち初めて船橋に駆け込んで指揮官が戦死しているのを発見し、
その遺体を端艇に乗せて全員が乗艇するのを待ち、装薬を爆発して

皆で祝声を挙げ(万歳ではなかった模様)

退去に成功しました。

指揮官が死亡していても、作戦さえ成功すれば良しとするのが軍人。
さすが当時の日本人であるとこういう記述を見ると思います。

「江戸丸」指揮官と乗員たち。

中央刀を肩のところで持っているのが高柳大尉、その左が永田中尉です。
高柳大尉の右側は機関長・中機関士興倉守之助

「江戸丸」の戦死者は高柳少佐と一等機関兵武藤弥七の2名でした。

 なお、高柳少佐の墓所は佐世保東山海軍墓地にあるということです。

 

さて、ここで気がついたのですが、「江戸丸」「遠江丸」にも
指揮官の作戦命令は伝わっていたということですよね。

実は命令が伝わらずに突撃してしまったのはどこからなのか、
当ブログでは個々の船について残されている資料を総合し、
特定する試みをしているのですが、今のところ連絡が切れたのは
「釜山丸」のせい?で、第3小隊以降から後ろが
突入してしまったのではないかと仮定を立てています。

その理由を説明しましょう。

第2小隊の3番船、「釜山丸」の指揮官と乗員17名です。
閉塞作戦の隊員記念写真はどれを見ても皆の士気が凄まじく、
殺気さえ帯びているのですが、特にこの人、



水兵さんなので若いと思うのですが、髭のせいで
ベテランというか牢名主みたいな雰囲気です。

この人も凄いですね。
記念写真の時にどんなポーズを取っても良かったようですが、
精一杯自分の閉塞船に対する意気盛んなところを見せようと、
刀を抜身で持っています。

硬く食いしばった口元、眉間の皺、そして炯々としたまなざし。

 

このアルバムを作戦参加船ごとにまとめていて、ここで
わたしはまた「新発田丸」と同じことに気がつきました。

「釜山丸」指揮官と指揮官附の写真がないのです。

もしかしてキャプチャし忘れたのか?とわたしは
劣化した紙がボロボロ落ちてくるのでもう2度と触らなくても済むように
紙袋に丁寧に保存したアルバム現物を取り出し、崩れてくるページを
そーっと全部めくって探したのですが、やはりありません。

海軍兵学校が旅順作戦記念に制作したアルバムですから、
指揮官の写真を載せ忘れるなどあの組織に限ってあり得ないことですし、
指揮官だけでなく指揮官附まで無いということは、明らかに意図的です。

 

この3人が「釜山丸」幹部です。

左 指揮官附 海軍中尉 井出光輝

右 機関長 中機関士 徳永斌

中機関士とはのちの機関中尉のことです。
そして中央は、皆さんよくご存知(かもしれない)

海軍大尉 大角岑生

だったのです。

大角岑生(おおすみ・みねお)というと、後の海軍大将であり、
わたしなど、海軍大臣時代、伏見宮軍令部長を後ろ盾に
条約派といわれる軍縮条約賛成派、山梨勝之進谷口尚真左近司政三
寺島健堀悌吉、坂野常善ら将官を次々に予備役に追いやるという
粛清人事、「大角人事を思い出さずにはいられません。

アルバムが作成された昭和2年はそんな大角もまだ?海軍次官で、
閉塞作戦については何か思い出の品を所望されてもいいはずなのに、
なぜ彼とついでに副官の写真までがないことになったのか。

今回のシリーズ中、ある意味海軍の「成果主義」を感じたのはこの一件でした。

どういうことかというと、「釜山丸」はいつの段階かは定かではありませんが、
エンジンの故障のため船団から脱落し、作戦を諦めて帰投しているのです。

理由はどうあれ血書まで書いて作戦に志願した下士官兵については
一応団体写真を掲載していますが・・・。



そこで先程の仮定に戻りますが、林指揮官の戦闘船から発せられた命令が
第2船団まではなんとか伝わったのに、第3船団から後ろに伝わらなかったのは
「釜山丸」が脱落し、船列がここで途切れたからではないかと思われます。

もちろんそれは偶然だったかもしれませんし、その頃すでに折からの風で
互いを見失う状態になっていたのかもしれません。

もちろんこれらはあくまで「推理」ですので念のため。


エンジンが不調になったのちの「釜山丸」についてわかっていることは、
乗員が口々に初志貫徹し旅順港に突入させてくれと懇願するのに対し、
指揮官である大角は彼らを説得し、帰投を決めたということです。

おそらく上の写真の血気盛んな兵たちは泣いて悔しがったでしょう。

 

第三次閉塞作戦の結果、多くの閉塞隊員が旅順に向かい犠牲となりました。

後世はこの作戦を冷徹に「失敗であった」と記しますが、戦争遂行当時、
国民の戦意を削ぐことと、なにより犠牲者を「無駄死に」扱いすることを
なんとしてでも避けたかった海軍は、作戦は成功だったということにして、
東郷司令長官自らが

「第三次閉塞作戦ハ’概ネ’成功セリ」

と「本当ではないが嘘でもない」という玉虫色の発表をし、
真実を確認しようのない国民をメディアごと、あえて言えば騙したのでした。

廣瀬中佐と杉野兵曹長の時のように、このニュースが伝えられるや、
「閉塞隊」「決死隊」などという歌が早速作られ、レコードが発売されました。

「釜山丸」の乗員たちは決してこれらの栄達には与ることができず、
口惜しい思いでこの熱狂を見ていたに違いありません。

調子の悪いエンジンで突入して何の効果が得られるのか、という
大角の冷静な判断はこの熱狂の中では必ずしも歓迎されず、むしろ
無謀と分かって突入して全員が戦死していた方がましだった、
という考えの乗員や海軍関係者もいたかも、いや、いたはずです。


しかしいつの頃からかは知りませんが、大角のこのときの判断は
「適切だった」と再評価されることになりました。

いつ、どのように、誰がそのような評価を下し始めたのでしょうか。
意地悪い言い方をすれば、その後大角が海軍の実力者として出世したから
過去のこともいわば下駄を履かせてもらったという可能性もあります。

しかし、そういうしがらみと忖度の絡んだ経緯はともかく、
海軍という組織を始めとして、ともすれば科学的なデータに頼って下された
冷静な判断より、
滅ぶことを厭わず邁進する姿を重んじるような世の中にあって、
突入中止は大変勇気がいる決断であったことに間違いはありません。


 

続く。

 


第三次閉塞作戦 「悲劇の朝顔丸と新発田丸」〜旅順港閉塞戦記念帖

2020-08-04 | 海軍

ごぞんじのように閉塞作戦は三次にわたって行われ、
後に行くほどロシア側の警戒と反撃も大きくなったため、
日本側の規模を拡大しただけ犠牲も大きくなっていったわけですが、
wikiなどを見ても、第三次作戦の扱いは廣瀬中佐の戦死があった
第二次作戦に比べると記述の量が圧倒的に少なく、簡単です。

「第三次閉塞作戦は、5月2日夜に実施された。
12隻もの閉塞船を用いた最大規模の作戦であったが、
天候不順により
総指揮官の林三子雄中佐は作戦の中止を決断する。
しかし、中止命令が後続艦に行き渡らず閉塞船8隻及び収容隊がそのまま突入した。
結局それらの閉塞船も沿岸砲台によって阻まれ、湾の手前で沈められた」

wikiでも作戦の推移についてはこれだけ。

しかし、わたしがオークションで手に入れた昭和2年発行の
海軍兵学校発行「旅順閉塞作戦記念帖」には、やはり一番多く
そのページを割いて写真などが掲載されています。

まず、第三次作戦のパート最初に現れるのが、冒頭の

第三次閉塞総指揮官 

海軍中佐 林三子雄(はやしみねお)

で、林中佐は第一次・第二次を務めた有馬良橘中佐の後任として参加しました。

まず、第三次作戦の失敗の原因は、総指揮官であった林中佐が悪天候のため
決定した「行動中止」の命令が全軍に伝わらなかったということです。

しかしどの記述を見ても「後続艦に命令が伝わらず」
としか書かれていないので、当ブログではもう少し深堀りして、
この時の状況を細かく推理してみることにします。

まず、閉塞船間の通信は手旗と発光信号に頼っていたはずです。

後年日露戦争の勝因のひとつ、とまでいわれる36式無線が完成したのは
1903年、本作戦の一年前で、その気になれば搭載できたのかもしれませんが、
そもそも閉塞目的で自沈させる予定の船に
最新秘密機器を搭載することは
現実として不可能だったと考えられます。

余談になりますが、欧州発祥の海事手旗信号を日本に最初に取り入れたのは
島村速雄であり、アルファベットだったそれを現在の形にしたのは
なんと第一次・第二次閉塞作戦の指揮官だった
有馬良橘その人だそうです。

有馬は、手旗信号に使用する文字は直線で表現できるカタカナが適当と考え、
「セマホア式手旗信号」を基本に、いかに片仮名に適用できるか
種々研究を重ね、
実験を繰り返したといわれています。
(wikiの手旗信号の欄に記載されている釜谷忠通はこの後の制定を行った)

 

しかし手旗信号、発光信号の欠点は、天候や波などの条件に成否が左右されることです。

 

そこで三次作戦において指揮官船から後続の船に送られた
「行動中止命令」が順番に4番船まで伝わったところから想像してみましょう。

おそらく指揮官が行動中止を決意するくらいの荒天下であったことが災いして、
後続の船は手旗を受け取れるような船位におらず、そこで連絡網が途切れ、
通信ができなかった5番船以降の閉塞船8隻は、予定通り旅順湾口に進んでいったのです。

不幸だったのは、後続部隊が反転した指揮官船隊すら発見できなかったことで、
これも波風が高く互いの航路が離れてしまった結果でしょう。

そしてこの後です。

前にもこの経緯については当ブログで解説していますが、再び触れておくと、
林中佐は反転したのち後続船が少ないのに気付き、再び反転して後を追いました。
しかし「新発田丸」の舵機の故障で、追いつかないまま全てが終わってしまったのです。

全てが終わった5月3日の午前5時30分、旅順口外で漂泊していた
「新発田丸」が発見され、すぐに乗員が収容されました。

作戦後、上層部は「高砂」に

「新発田丸の舵機を検査し、もし修理の見込みがなければ曳航するように」

と指令を出していますが、「高砂」だけでなく「赤城」も、
「新発田丸」が作戦に参加できなかった理由を報告しているものの、
同船の「曳航の要無きを観て直に帰隊せり」としています。

作戦には参加できないが、取り敢えず曳航はしなくても自航走できる、
という程度の故障であったということでよろしかったでしょうか。

 

ところで突然ではありますが、過去当ブログ記事の訂正とお詫びをしておきます。

前回当ブログで林中佐について書いた時、わたくし、実は
「三笠」艦内の資料を参考に
(←この部分大事)

「林中佐は新発田丸で閉塞作戦中戦死した」

と書いてしまったのですが、これは間違いであることがたった今わかりました。
林中佐は閉塞作戦では亡くなっておりませんでした。


林中佐はこの作戦の直後、本来の配置であった「鳥海」の艦長に戻っています。
そして南山攻撃援護戦でロシア軍の砲撃を受けて戦死したことが、
アジ暦で検索できる当時の死亡報告書に記載されていたのです。

何を言ってもちゃんと調べなかったわたしが悪いので言い訳にしかなりませんが、
「三笠」に展示してあったこの林中佐のブロンズ像の説明に、
「新発田丸」の乗員が戦死した中佐を偲んで贈ったとだけ書いてあったので、
てっきり「新発田丸」の帰路戦死したのかと勘違いしてしまったのです。

実際は閉塞作戦直後、自分たちを無事に作戦から連れ帰った指揮官が
戦艦の艦長に戻ってすぐ戦死してしまったので、隊員たちは
林中佐に対する感謝を込めて像を作り、遺族に贈ることにしたというわけです。

うーん、「三笠」の解説はちょっといやかなり説明不足であるような気が・・。

此の写真は指揮官船であった「新発田丸」の乗員一同です。
こういうときの海軍の慣習として、指揮官と幹部は中央に位置します。

つまり、中央の幹部は

「新発田丸」
指揮官 遠矢勇之助海軍大尉

指揮官附 中村良三海軍大尉

機関長 河井義次郎機関少監

ということになります。

ところでこの記念帖、全閉塞船12隻の指揮官、そして指揮官付きのうち、
大アップで写真が掲載されているのは8隻だけで、
「新発田丸」の指揮官ならびに指揮官附の写真はありません。

これだけの危険な大作戦に参加したのであるから、
指揮官の写真くらい全員載せてしかるべきだと思うのですが、
どうしてこのような恣意的な選抜が行われているのでしょうか。

このことを推理する前に、第1小隊の3番船だった
「朝顔丸」についてお話ししましょう。

第三次閉塞朝顔丸指揮官

海軍少佐 向菊太郎

わたしが三次作戦について初めて知った当時、最もその悲劇性に胸打たれたのが
「朝顔丸」とこの向菊太郎少佐についての運命でした。

向少佐率いる「朝顔丸」は、指揮官から作戦中止の命令を受け取りました。

そして一旦は帰投に向かいましたが、間違って突入した僚船がいることを知ると、
彼らを置いていくことはできぬと再び反転し、仲間の後を追ったのです。

「海軍少佐向菊太郎の指揮せる二番船朝顔丸は
一旦新発田丸に続航せしも  僚船の依然進行するを見て
再針路を展示単独前進せるものの如く 午前四時過ぐる頃
忽然として鮮生角の南方に現れ港口に向かいて奮進せり。

時に三河丸以下六隻は悉く爆沈し敵砲は専ら隊員の帰路を背撃し
其の勢稍弛まんとするのを観ありしか 

今や朝顔丸の単独突入せんとするや砲火再激甚となり
全要塞の砲弾忽ちこの一舟に集中す。

隊員は猛烈なる十字砲火と強度なる探海灯光とを冒して
港口に驀進せしが終に舵機を破られ 午前四時三十分頃
黄金山低砲台の海岸に擱座して爆発せり。

之の閉塞船最後の爆沈とす」

 

第三次閉塞朝顔丸指揮官附

海軍大尉 糸山貞次

向大佐(作戦時中佐)附きであった糸山中尉(作戦時)は、
このとき25歳という若さでした。

全員が熱烈志願した「朝顔丸」の乗員と向少佐(中央左)。

向少佐の左がおそらく糸山中尉、向少佐の右横が機関長である
大機関士、清水雄莬 同列左端は

二等兵曹、伊藤周助であろうと思われます。

向少佐以率いる18名の乗員は、果敢にも先陣の後を追い、
単身旅順港に突入を試みるも、陸上からの集中砲撃を浴び、
黄金山付近で船は撃沈され乗員全員が戦死しました。

沈没したとされる黄金山下の「朝顔丸」の写真が掲載されていました。

これは閉塞作戦後、ロシア海軍の将校が撮影したもので、その後、
旅順攻撃により「旅順開城」(降伏して敵に陣地を明け渡すこと)成った際、
日本軍が入手に成功した貴重なものです。

岩の向こうに見えている船が「朝顔丸」ですが、その船首部分を
よく見ていただくと、うっすらと「3」が描かれているのがわかります。
これは、閉塞作戦の「三番船」を意味します。

そしてこの部分をさらによくご覧ください。

写真の解説によって初めてわかったのですが、手前の岩には
「朝顔丸」の乗員の遺体が少なくとも2体確認できます。

救命胴衣とともに岩の上に仰臥して倒れている遺体は、
この記念帖の解説によると向指揮官であると「伝えられている」
(おそらく士官の制服と背格好から判断)ということです。

手前の遺体はうつ伏せになっているようですが、この二人は
沈没後脱出してここまで泳ぎ付き、息絶えたのでしょうか。

5月の旅順は決して温暖な気候ではないので、岩にたどり着き
収容を待っているうちに低体温症で力尽きた可能性もあります。

兵学校にこのとき寄贈された向菊太郎司令官の「勤務日誌」です
もし戦後逸失していなければ、今でも教育参考館に所蔵されているはずです。

数冊の勤務日誌は、この不鮮明な写真からも窺い知れるように、
精緻な筆致で実に丁寧に記載されており、特に旅順港外の地図は
砲台、そして探照灯がどこにあるかという所在まで精細に記入され、
わかりやすいように色が付けられている(開きページ上)そうです。

向少佐の几帳面で周到な性格の一端が現れています。

 

なお、上野の谷中霊園の一角には向家の墓所があり、
「朝顔丸」の手すりの一部が残されて今も見ることができます。
100年以上前の鎖は錆びてしまっていますが、まだかつての形を保っているようです。

谷中霊園 向家の墓

 

さて、もうお分かりいただいたでしょう。

記念帖には名前すら掲載されなかった指揮官船の「新発田丸」指揮官、
遠矢勇之助大尉と「朝顔丸」の向菊太郎大尉(戦死認定、死後少佐)の違いを。

反転命令を下した総指揮官が乗っていたばっかりに(?)、
作戦中止に伴い、戦いもせずに生きて帰ってきた者と、
あえて命令に従わず
死地に飛び込んでその結果散華した者。

遠矢大尉にも「新発田丸」にもなんの落ち度もなく、彼らもまた
作戦遂行のためには命を失うことなど厭わぬ覚悟のもとに参じていたはずなのに、
本人には如何ともし難い成り行きの結果、方や国難に殉じた英雄として、
方や生還してきたことを忸怩として恥じずにいられないような
ある意味屈辱的な扱い(なかったことにされるという)を受けたのでした。

そして、此の閉塞作戦の記念帖において、「新発田丸」の遠矢大尉と
同じ扱いを受けた指揮官は何人もいたのです。

 

続く。