ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

日本は ”自衛官の「戦死」を受け入れる覚悟があるか”

2016-09-30 | 日本のこと

先日、映画「シン・ゴジラ」を観て、わたしはあることを考えました。

主人公の官房副長官が、今から「ヤシオリ作戦」という名の
ゴジラ殲滅作戦に向かう陸自の部隊を前に、言葉を述べるシーンです。

「この中の何人かは生きて帰れないかもしれませんが・・」

正確なセリフではありませんが、つまり昔の司令官のように
出撃する隊員たちに、激励を行いました。

これは、言葉を換えれば自衛隊員たちに

「たとえ死ぬことがあっても戦ってほしい」=「死んでこい」

とあらためて念を押したということです。

わたしがこのとき感じたのは、巨大生物襲来という国難が起きるという設定の
この劇中の日本においても、ゴジラと戦って殉職するであろう隊員の
「弔われ方」というものは、おそらく今と寸分変わりないにちがいない、
という歯痒さと割り切れない思いとでもいうべきものでした。

この場合の「今」というのは、要するに、自衛隊員の殉職への慰霊が
防衛省と自衛隊が内々で行う年次行事にとどまっていて、国民には
それがいつどこでどのように行われたか全く告知されない、という状態です。

その慰霊碑も、一般国民の目の届かないところに、旧軍関係の慰霊碑と
まとめて(例 市ヶ谷防衛省敷地内)「隔離」されているという実情。
殉職隊員の慰霊には、例年自衛隊最高指揮官である総理大臣が出席しますが、

「日本列島は日本人だけのものじゃない」

とかつて言い放った某党首は、式典に外遊を当ててそれを理由に出席せず。
(こいつはその年の自衛隊の観閲式にも出席を拒否した)
左派、というより非日本人に政権を執られていたあの3年間は当然だったとしても、
その訓示において必ず自衛官の殉職に対する慰霊を盛り込む安倍首相の政権下でも、
自衛官の殉職に対する扱いは決して十分なものとは思えません。

そも、自衛官が殉職することの「意味」すら、全くあやふやなままなのです。

「自衛隊が憲法上違憲のまま」、つまり自衛隊の存在意義を曖昧にしたままでは、
彼らが何のために存在しているのかに始まって、彼らは何のために命を賭けるのか、
何のために危険を冒すのか、という問いにすら、明確な答えがでないのです。

彼らは自ら国民の負託に応えることを宣誓します。
それはすなわち「国」のために奉仕することでもある「はず」です。


しかし、その公務において、万が一尊い命が奪われたとき、
国のために犠牲になったはずの命なのに、その国から顕彰されず、
慰霊行事も日本国の名前で行われない、というのが現実です。

「シン・ゴジラ」で犠牲になった自衛官は、
果たして国を守るために殉職したとして特別に慰霊されるのか。
それともやっぱりこれまでのような国民不在の慰霊のままで済まされるのか。


ゴジラではなく、法案の改正によって自衛隊員の活動範囲が拡大したとき、
可能性として「殉職」という名の戦死が起こりうる可能性があります。
こういったことについて、新潮45の「死ぬための生き方」という特集に
海上自衛隊の福本出元海将が寄稿しておられます。

今日はこれをご紹介をさせていただこうと思います。




自衛官の「戦死」を受け入れる覚悟があるか


「湾岸戦争症候群」という言葉がある。

1991年1月、クウェートに侵攻したイラクに対し、
米国を中心とする多国籍軍が空爆を開始、のちに
「砂漠の嵐」作戦と呼ばれた戦車戦など激しい戦闘を展開した。
終結後、帰国した米兵達には、精神に異常を来すものや自殺を図る者が続出したという。
「湾岸戦争症候群」、いわゆる戦争ノイローゼである。

いずれ、日本もこうした症状に対処しなくてはならない日が来るだろう。

こう書くと、多くの人ばギョッとするかもしれない。
それほどまでに今の日本は平和で、戦争ノイローゼとはどこか遠い国の出来事だ。
自衛隊とて例外ではない。
目下、海外派遣はPKO(国連平和維持活動)がほとんど、
大規模な災害派遣の時もメンタルダウンする隊員がいないわけではなかったが
少数派で、世間の耳目を集めるほどではなかった。
しかし今後はどうだろうか。


平和安全法制が成立した今、前線か後方かはともかく、
自衛隊が「戦う舞台」として海外に派遣される可能性は飛躍的に高まった。
PKOや災害派遣とは異なる過酷な現場に向かうことになるかもしれない。
この時求められるのは、何より「死」を受け入れる覚悟ではないかと私は思っている。

かつての自衛隊は、存在するだけで意味があった。
しかし東西冷戦終結後は実際に運用できる組織や編成が求められ、
現在では「真に戦える自衛隊」としての訓練をおこない、
多国籍軍とともに任務に就いている部隊もある。

だが、強靭な刃を持つだけでは、本当の意味で強い武人にはなり得ない。
実力を培うことは言うまでもないが、同時に、
生と死について真剣に考える必要があるだろう。
海外派遣のたびに多くの隊員が「湾岸戦争症候群」のような症状に悩まされていては、
「真に戦える自衛隊」などとは言えないからだ。


人は「死」に向き合うと強くなる。
東日本大震災の災害派遣で、私は部下の姿にそれを痛感した。
当時、私は海上自衛隊の掃海隊群司令だった。

掃海隊群は三陸の沿岸部で行方不明者の捜索にあたっていた。
多くのご遺体を発見・収容した軍司令部の水中処分班に、ある一人の海士長がいた。
仮にA士長と呼ぶ。ついこの間まで高校生だった若者である。

彼は出勤する一ヶ月ほど前に、江田島にある第一術科学校の水中処分過程を修業していた。
彼が着任した水中処分班とは、海に潜って機雷の識別や処分を行う
特殊技能を持った隊員たちで構成されている。
A士長は、先輩たちと共に三陸の海に潜った。
しかし一週間後、潜水指揮官から船上作業員に指定された。
潜ることを禁止されたのだ。

彼はボートの上で、先輩たちに指示されながら、
発見されたご遺体をボディバッグに収容していた。

それまで彼が死んだ人に接した経験は、幼い頃に葬式で見た祖父の姿だけだった。
それも眠っているかのような、穏やかな姿だったそうだ。
だが水死体で発見されるご遺体は、それとは全く違っていた。

A士長が捜索現場で初めてご遺体を発見したとき───。
人間ではなく、布団が海に浮かんでいるのだと思ったという。
着衣も毛髪もなかった。
肌色は失われ、まるで漂白したかのように真っ白である。
体内に発生したガスで、異常に膨張していた。
眼窩はえぐられ、よく見ればところどころ白骨化している。
ボートに引き上げた途端に崩れ、腐敗した肉片や内臓が飛び散った。
A士長は思わず嘔吐してしまった。
異臭が鼻にこびりつき、船に戻ってシャワーを浴びても取れた気がしない。
ベッドに入って目を閉じても、昼間の水死体が瞼に浮かんだ。
眠れない日々。

夜が明ければ、再び捜索現場に出る。
沖合から沿岸部に近づいていくには、漂流するパドル(櫂)で
かきわけていかなければならない。
倒壊した家屋や漁船、筏などが水面を漂う中、先輩たちは
湾の奥へと処分艇(ゴムボート)を進めていく。
全く怯む様子はなかった。

A士長は、行かなければならないことは頭ではわかっていても、
怖くて足がすくむばかりだった。

水中の視界はほぼゼロ。
汚濁した海中に潜っても、バディと呼ばれる相方の先輩はおろか、
自分の手先すら見えない。

そんな中での捜索は、まさに手探りだった。
何かが指先にあたるたび、どきりとして呼吸が荒くなる。
ボートに揚がると、ボンベの残空気が先輩よりずっと少なかった。
潜水指揮官は、これ以上A士長が潜ることに危険を感じたのだ。

強さと優しさと

そのA士長が変わったのは、ある夜、
先輩のマスターダイバーから話を聞いたときだった。

「俺たちは、これまでも不時着水した機体の捜索、『なだしお』事故や
奥尻島の津波被災者の捜索に行くたびに、何人ものご遺体に接してきた。


俺も最初は怖いと思ったよ。
目の前に突然ご遺体が現れたときは、その瞬間、
海中でパニックになりそうになったこともある。
でも、ある日、気が付いたんだ。
どんなに変わり果てようが、この仏さんは誰かの親父やおふくろ、息子や娘なのだと。
家族が探したくても、それは俺らにしかできないんだと。


それ以来、おれはご遺体を見つけたら、
触れる前にまず手をあわせることにしている。

そして
『お待たせしました。寒かったでしょう。怖かったでしょう。もうすぐ帰れますよ』
と、心の中で唱えるようになった・・・・・」

A士長は、先輩の言葉で、ご遺体を怖いと思った自分が情けなくなった。
そして冷たくなった祖父に涙した自分を思い出した。
夜が明けたら、一刻も早く現場に向かおう。


先輩たちも、A士長の顔つきが変わったことに気付いていた。
彼は再び水中に潜り、捜索の任務に当たったのである。
津波によって破壊し尽くされた捜索現場は、大けがや感染症の罹患など
多くのリスクが伴う。
しかし隊員たちは疲れも見せず、危険をものともせず、
黙々と現場に立ち向かった。

一方で、船に戻り、機材の整備をしながら涙を浮かべていた隊員の姿も私は知っている。
それは何より、犠牲者とその家族を思っていたからにほかならない。
同時に「死」と真正面から向き合っていたからにほかならない。

A士長もまた、死者と向き合う先輩の姿を知り、残された家族に思いを馳せ、
恐怖を克服した。そして真の勇気を持ったのである。

私が海上自衛隊幹部学校長の職にあるとき、
菅野覚明先生(東京大学教授・当時)の講義を拝聴する機会があった。
菅野先生には長年、幹部学校で武士道についての講義をお願いしている。
先生は

「武士道の真髄は強さと優しさが表裏一体になっている姿である」

と説かれた。

守るべきものがある者は強い。

たとえば自分の家族や恋人、あるいは彼らが住む故郷、
これを守りたいと言う気持ちは、損得勘定抜きの愛情である。
我が身を顧みず困難に立ち向かおうとする勇気は、他者への優しさがあるからこそだ。

掃海隊群の中でも、当初、行方不明者の捜索に怯む隊員はいた。
A士長ばかりではなかった。
しかし被災地の人々から「ありがとう」という言葉を聞くたび、
彼らは強くなっていった。
この人たちのためにがんばろうと奮起したのだ。
私は未曾有の災害に立ち向かった隊員たちに、
真の強さを秘めた「武士道精神」を見たように思っている。
自衛官の勇気は、まさに国民の負託によって支えられているのだ。



今後、「真に戦える自衛隊」として、
日本も国際社会のなかで役割を果たしていかなければならない。
またそれを求められるようになっていくだろう。

自衛隊OBとして、後輩についてはあまり心配していないが、
一方で政府は、国民はどうだろうか。

これまでも自衛隊には職務中の事故で亡くなる者がいたが、
彼らは「殉職」であり「戦死」ではない。
しかし今後、自衛官の戦死者が出ることを想定しておく必要がある。
これを私達は真剣に考えなくてはならない。

自衛隊を戦場に送り出す政府は、国民は、
果たして「戦死」を受け入れる覚悟が本当にできているだろうか。
もし戦死者が出たことで時の政府がひっくり返るようなことにでもなれば、
自衛隊は戦うことなどできないのだ。

最悪の事態を想定することを、「言霊」を理由に忌み嫌い、その結果、
原子力災害を拡大させてしまったような愚を繰り返してはならない。

40年ほど前、「人の命は地球より重い」と言った首相がいた。
命の尊さという意味では、これは正しいのかもしれない。
しかしそれは、「事に臨んでは危険を顧みず」と服務の宣誓をした
自衛官の任務遂行を否定するものではないはずだ。

世界のどの国も、国家のためにその尊い命を捧げた者は永遠に顕彰され、
そのための施設が整っている。そこには他国の元首も訪れる。

翻って日本はどうか。

国民は死ぬことを従容として受け入れた自衛官を忘れずにいるだろうか。
また彼らを弔うに相応しい場所があるだろうか。

防衛省(市ヶ谷)には殉職者慰霊碑が建立されているが、
一般の人が気軽に訪れるような場所にはない。
国家元首が訪れる場所として想定されているわけでもない。
さりとて靖国神社は政争の具になってしまって久しい。

自衛官が戦死する。
そのときどう弔うのか。

「死」を意識しない国家の基盤は脆弱であると言わざるを得ない。 



著者  福本出 ふくもといずる

(株)石川製作所東京研究所長
元海上自衛隊幹部学校長(海将)

79年防衛大学校卒(23期)
在トルコ防衛駐在官、呉地方総監部幕僚長を経て、
2010年12月に掃海隊群司令。
14年8月退官。

 

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小さき者の視点〜第56回全日本模型ビッグショー@東京ビックサイト

2016-09-28 | 博物館・資料館・テーマパーク

話し出したら案外面白くて3日目になってしまいました。
東京ビックサイトで行われた全日本模型ビックショーの模様です。

全日本、というだけあって、当日パーキングでは多くの他府県ナンバーを見ました。
浜松ナンバーが多かったのはまあわかるとして、京都府や大阪からというのも・・。
それほどまでに模型の世界に魅せられるたくさんの人々がいるということですね。 

 




青島のコーナーで見たウォーターラインシリーズです。
潜水艦にウォーターラインの需要があるとは知らなんだ。



まず右上の英海軍航空母艦「イラストリアス」
「イラストリアス」というのは傑出した、とか高名なという意味で、
イギリス海軍に代々受け継がれてきた艦名です。

なんと初代「イラストリアス」は戦列艦、てことは帆船時代の船ですね。
このモデルは初代の空母であろうかと思われます。



こちらは帝国陸軍の誇る上陸舟艇母船(強襲揚陸艦)の「あきつ丸」

ななんと飛行甲板を持ち、上陸用舟艇も多数搭載できる船を陸軍が・・。
陸自が強襲揚陸用にアンフィビアンを持ってるみたいなもんですか。

この「あきつ丸」、艦上に搭載するのは九七式戦闘機と三式指揮連絡機。
兵士約1000名、1個大隊の上陸が可能とされていました。
また、カ号観測機というオートジャイロを搭載し、
偵察や対潜哨戒が行うことも陸軍的には可能でした。

ヘリ搭載艦の先駆けだったということも一応できそうですね。 

「あきつ丸」は戦時徴用船という身分なので本来の所属は日本海運です。
もちろん軍「艦」ではないので、指揮官は「船長」と呼ばれていました。

1944年11月、五島列島航行中に米潜水艦の攻撃に没しています。



どこの会社か忘れました。「いずも」。



空母「ジョージ・ワシントン」
原子力空母としては最初に日本に派遣されました。

ところで、「ジョージ・ワシントン」が第7艦隊に派遣されることになり、
横須賀入港したとき、「市民」の反対派が現地に詰めかけ毎日
「原潜は帰れ」とデモしていたそうですが、きっちり2週間目を境に
さっぱり消え失せたのだそうです。

なぜなら彼らは日当1万円で2週間雇われたバイトだったからですとさ。

そういえば他府県から沖縄に基地反対運動にいく人には飛行機代が5万もらえるそうですね。
いったいどこからお金が出てるんだろう(棒)



ジャンプ台式の空母、「アドミラル・クズネツォフ」
一目見てなんと古めかしい、などと思ってしまいましたが、さにあらず。
1990年に就役し、バリバリの(かどうか知りませんが)現役です。
左舷側にカタパルトもあるのでこちらも併用しているようですね。



静岡模型教材協同組合(御三家始め静岡の模型会社の組合)
によるウォーターラインシリーズ各種。



病院船がありますが、これ氷川丸でしょうか。

ところで「 静岡模型教材共同組合」で調べていたところ、なんと、

静岡模型教材共同組合が「艦船ファン創出」「艦船模型の社会的認知度の拡大・発展」
に寄与したということで、感謝状を艦これ運営に授与した

というニュースを見つけました。
やっぱり模型業界は艦これのご利益がかなりあったってことみたいですね。



93式陸上中韓練習機、「赤とんぼ」
練習機ゆえ生産台数が多く、そのためかつて赤とんぼにお世話になった、
という人が戦後たくさんいて、同期会などの活動は盛んだったそうです。


終戦間近には飛行機がなくなって特攻機にも借り出されましたが
これは ガソリンがない時代、アルコール燃料でも稼動できたからなんですね。
機体全体を濃緑色で塗装し(この時点でもう”赤とんぼ特攻”ではないのですが)
後席に増槽としてドラム缶を装着し、250 kg爆弾を積み込んでの出撃でした。

しかし、練習機というだけあってたいへん性能はよかったようです。

レーダーピケット艦でもあった駆逐艦「キャラハン」は、この赤とんぼ
(じゃないか)特攻で撃沈されていますが、これは、本機が木造製で
近接信管(目標に直接当たらなくとも一定の近傍範囲内に達すれば起爆する)
が作動しなかったためだったといわれています。



さて、船飛行機のモデルはこの辺にして。
会場にはエアガンを製造している会社の試弾場まであります。
初めて知ったのですが、エアガンなのに弾丸には薬莢があるんですね。



アニメのヤマト2が来年公開されるようです。
宇宙戦艦ヤマトのモデルもそれに合わせて出る模様。



そうかと思えばこのような世界も展開しておりました。
「蒼き鋼のアルペジオ」という漫画とのコラボ商品。

旧軍艦が「ヤマト」「ムサシ」とカタカナであるのは、
この世界の基準で、彼女たちは

2039年、突如現れた第二次世界大戦時の軍艦を模した正体不明の大艦隊。
現代の科学力をはるかに超える超兵器と、独自の意思を持ち乗員なくして動く、
“霧の艦隊”と名づけられたその勢力により、人類は海上から駆逐された。

という設定のキャラだからなんだそうです。なんだこれ。

つまり、この「艦むす」たちは人類の敵ってことですか。
その後、人類は「霧の艦隊」から潜水艦を仲間につけて彼女らと戦うのですが、
味方についたのがイ401などの潜水艦・・・・。


モデルは形は一緒でも塗装が全くオリジナルというのがポイント。

 

全体をくまなく見て回ったわけではありませんが、
今年はなぜかジオラマをあまり多く見つけることができませんでした。

しかし、ジオラマの世界には胸をときめかせずにはいられない魅力があります。
盆栽の鑑賞の仕方というものを聞いたことがありますが、
その世界の縮尺によって小さくなった自分を想像し、
その目線から木を眺めることを思い浮かべる、というものでした。
ジオラマの楽しみ方も実はそれに近いのではないかと思っています。



さて、そろそろ帰ろう、と思って出口に向かったところ、
そこは入り口であったことに気づきました。
とって返そうとしたところ、わきのブースにジオラマ作品を集めた
作家のコーナーがあることに気がついたので入ってみました。

ジオラマ作家の荒木智氏のコーナーでした。

何か混沌とした情景であるのが普通のジオラマと違う雰囲気です。
荒木氏の本職は家電メーカーで製粉のプロダクトを手がけるサラリーマンで、
ジオラマの世界は完璧に趣味なのですが、その作品はコンクールで賞を総なめ。
いまや世界にもその名を知られる作家だそうです。

この作品は「トタン屋根の造船所」
リンク先を開いていただければ、ライトアップした本物そっくりの写真がみられます。



イカ釣り船の部分をアップしてみました。
上のリンク先を見ていただければ、工場内のディティールも半端でないのがお分かりでしょう。

 

「混沌の街」
大地震の起きた直後?
御本人によると、この車の飛散防止窓ガラスのヒビは、
カッターの歯を鋭角にナナメに切り込んで割れを描いているのだとか。



「オール・イン・ザ・BOX」というシリーズで、タミヤのパンサーG型をつかったもの。
このタイトルの意味は、

「プラモデルの箱の中のものだけで作る(文字通り)」

という意味だそうです。
つまりそれを逆手にとって

「箱の中のもの全てを使ってどれだけすごいものができるか」

に挑戦したという作品。
どういう意味かというと、このジオラマ全て、箱の中のもの、
紙の箱はもちろんのこと、プラモ製品が最初の状態の時についてくる
部品を支えるためのプラスチックを火で炙って引き延ばすなどして、
ウインチや電線までを作っている、ってことなのです。

土は説明書などの紙を細かくちぎり水と木工ボンドを混ぜた粘土で。
石垣から生えている植物も説明書の紙を薄く削って作ってあります。



こちらのシャーマンもオールインザBOXシリーズ。
この人間は、ランナーを溶かしたもので成形してあります。
シャーマンのドーザ部分はもともとキットには含まれていませんが、
この部分は模型の外箱を利用して作ってあります。

ちなみにこのアメリカ兵は、シャーマンが道を作る時に、道端に咲いていたひまわりを
自分のヘルメットに入れて助けてあげているんだそうです。



赤灯台の防波堤」

荒木氏のお父さんの故郷、五島列島の小さな漁港がモデルだそうです。



会場に飾ってあった写真。Photoshopかな?



ミゼットの焼き芋屋さんと呼び止める女の人。

「やきいも ミゼット」

ホームページのジオラマに写り込んでいる空は本物だとわかりました。
Photoshopじゃなかったんですね・・。



息子がこれを見せたら「行けばよかった」とつぶやきました。
(ちなみに彼はバットマンシリーズが大好き)

この製作についてはぜひアラーキーさんのHPをみてください。

ゴッサムシティー


いやー、美は細部に宿ると言いますが、もう宿りすぎ。
しかもそれがゴミだったり落書きだったりするというね・・。

ちなみに冒頭写真の東京タワーとビル群も荒木氏の作品です。



というわけで、3日間にわたってお話ししてきましたが、
わずか1時間少し、「小さな人になったつもり」で、全ての模型と
その世界を心ゆくまで堪能した「ビッグショー」でした。

ご招待いただいたハセガワさんにこの場をお借りしてお礼を申し上げます。

どうもありがとうございました!


終わり。
 

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とある模型会社の戦後〜第56回全日本模型ビッグショー@東京ビックサイト

2016-09-27 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、ビックサイトで行われた模型の展示会。
ハセガワさんの展示のご紹介の続きから参りましょう。

昨日真珠湾攻撃仕様の97式艦攻ってレッドテイルだったのー?
と書いたところ、裏米で、

「何を朝から寝ぼけておるかこのうつけ者!」(意訳)

と叱責されてしまいました。
いや、朝ではなくこれを作成したのは夜でして、というのはともかく、
あれは指揮官、つまり淵田少佐搭乗機だけの塗装だったそうで、
そう言われてみれば指揮官機のマークを巻いておりますね。




ふむ・・・・これは、米軍で言うところのCAG機、つまり
「Commander Air Group」仕様だったといっていいのかしら。
 淵田少佐は単なる隊長だからこれとは違う?



こちらお馴染み「大和」「信濃」のコーナー。




F-15の周りには、「科学シリーズ」というんでしょうか、
「F-2の科学」「ドッグファイトの科学」「ミサイルの科学」
などの本があります。

これは「サイエンスアイ新書」(Si新書)のシリーズで、
ハセガワの模型とコラボ販売しているのだとか。



ブルーインパルスの科学なんて、ファンならずとも読んでみたくなりますね。



こちら「雷電」。
基地防衛用の局地戦闘機には「◯電」という命名基準があった、
というのをコメント欄で知ったばかりです。




これは大きかったですよ。ソッピース・キャメル。
なぜフランスのマーク?と思ったのですが、これは
イギリス国旗の三色を使っているというだけでした。



ハセガワさん(仮名)によると、この模型は

「昨年夏亡くなった前社長の肝いりで作られたものなんですよ」

この前社長とは長谷川勝重氏のことでありましょう。
ハセガワさん(仮名)に頂いたハセガワのムック本にはまだお元気に
ハセガワの歴史について語っている姿が掲載されていますが・・。


何でも長谷川氏の父上は菓子店を経営していたそうで、1940年に
静岡の大火で店を失い、それがきっかけで模型店を始めたのだとか。

静岡というのは昔から木工産業が盛んで、家具屋や建具屋が多いのですが、
障子の桟に使われる檜の棒をライトプレーンに転用しました。

当時は軍国の小国民、特に男子に早いうちから飛行機に対して
興味を持たせるためにも、ライトプレーンは欠かせない教材として
小学校の正規教科にも組み込まれていたのだそうです。

戦後は案の定、GHQからの規制がかかり、模型飛行機はもちろん、
船の模型を作ることも禁じられてしまったので、その間長谷川商店では
木製のジープを作ってしのいだそうです。
ちなみにこれは玩具に飢えていた当時の子供に大変人気だったということです。



その後、木の模型がプラスチックに移行する時代がやってきました。
当初、

「プラスチックの模型なんて模型じゃない」


というくらいの抵抗から始まったプラモ製作だったといいますが、
最初のプラスティック製品としてまずグライダーを手がけました。

当時は「零戦ブーム」で、東京のメーカーは零戦や隼を作っていました。
なのになぜこれがグライダーだったのかというと、ブームに追随するのに
抵抗があったからだということですが、これは長谷川氏によると
こだわりすぎて機を見なかったということで、戦略的には失敗に終わりました。


しかしその後ハセガワは、ジェット機モデル、F-104-Jスターファイターを
他社に先駆けて制作し、これが爆発的な売れ行きを記録します。
これはジェット機モデルそのものの嚆矢となって、これが結果的に
「飛行機のハセガワ」の評価につながっていくのです。

で、ここまでの話を知ってから、ハセガワさん(仮名)の
「社長の肝いりでできたソッピースキャメル」という言葉をもう一度思い返すと、
その思い入れの理由とは、グライダーから出発した小さな模型会社の頃の
原点に立ち返って、ということではなかったのかという気がします。


もちろんわたしごときに世界のブランドの創業者である人物の

思い入れなどが慮れるものではないとじゅうじゅう承知しておりますが、
これはあくまでも、なんとなく、ということで読み流してください。



タイタニック号もありました。
以前このブログで、我が家にタイタニックの艤装設計図があることを
お話ししたことがありますが、船の設計図並びにこうやって展示するとき
かならず船首が右に向きますね。

ところで、今話題の村田蓮舫が、右にお頭を向けて置いた写真をよせばいいのに
わざわざツィッターであげて皆に指摘され、恥をかいたことがありましたが、
焼き魚は左が頭が常識なんですよね。

じゃあ船が船首が右であるように、海外で魚を出すときには頭は右・・・?
・・おっと、欧米では魚料理のとき頭は絶対残さないんだった。
彼ら、特に魚の目が怖いんですってね。




漫画とコラボした製品の販売というのも行われ(前回はキャプテンハーロック)
今回は新谷かおる先生の「エリア88」でした。

 

F8- Eクルセイダー、「風間真」モデル。



同じシリーズでFー14Aトムキャット「ミッキー・サイモン」モデル。
垂直尾翼の先端に A-88と書かれています。



スーパーディティールシリーズの「龍田」と「天龍」(たぶん)。
スーパーディティールとは、ここにもある、エッチングパーツを付け、
より本物に近づいたモデルのことをいいます。

ちなみにエッチングパーツですが、金属板に光硬化樹脂を塗布し、
露光させてマスキングすることにより、不要な部分を薬液
(塩化第二鉄水溶液)によって溶かし、必要な形状の部分を残しています。

すごいですよね。
こんなもの一体どうやって作っているのかと思っていました。



基本中の基本、「三笠」の新金型版。
「フルハルシリーズ」となっていますが、FULL HULL(外殻)、
すなわち「ウォーターライン」に対して船体全部のモデルのことです。



今ブログトップにしている写真を加工するために一週間お試しで使っていた
Photoshopの機能を使って、上の画像の解説部分を加工してみました。
斜めから撮った写真がほらこのとおり。

いやー、人間ってすごいものを考え出すよね。 って全く関係ないし。




同じ「三笠」の、こちらがウォーターライン。
どちらも「日本海海戦時」となっておりますが、なぜか
二隻のシェイプがまっっっっったく違って見える不思議。



こちらはアパッチのイギリス陸軍仕様。
うーむ、そんなものをわざわざ作りたがる人がいるのか・・・。



「想像上の武器」をプロモデラーが手がけた作品です。
作者の横山宏(よこやまこう)氏はモデラーでありイラストレーター。

現場の説明をちゃんと写真に撮らなかったので想像ですが、
このシリーズは横山氏が手がけたモデルに後から細かい設定やストーリーを
付加するという雑誌の企画、「マシーネンクリーガーZbV3000」でしょう。
 
なんでも国内外の熱心なファンの活動によって長年支えられているとのことです。




さて、見学を終え、ハセガワさん(仮名)にお礼を言って
他の会社を見て回ることにしました。
あまりにたくさんありすぎるので、目を引いたものだけです。

青島のコーナーで陸自シリーズを見つけてつい食いつくわたし(笑)

「本製品は陸上自衛隊のご協力により開発されています」

とわざわざ断ってあるのが良いではないですかー。
そういえば「模型の聖地」静岡で行われる模型ショーには、
陸自の装備が民間の催しとしては初めて展示されました。

2005年にはブルーインパルスの展示飛行が行われましたし、
2014年にはなんと10式戦車も来たそうですよ。

先ほどの戦時下の飛行機模型の話ではありませんが、
自衛隊が模型業界にここまで協力的な理由は、
模型に夢中になる男子(女子でも)を潜在的な入隊予定者として
がっつりハートを掴みたいという下心?からってことかも。(ゲス顔)




ピットロードのコーナー。
87式自走高射機関砲と155mm榴弾砲の後ろには、
帝国陸軍時代の榴弾砲(G44 28糎)が。



ちょっと笑ってしまったのがこのコーナー。

ゲゲゲの鬼太郎シリーズと一緒に並んでいる
空気を入れて膨らませるシャーマンやティーガーの砲弾。
って、誰がこんなもの買うんだ、と思ったのですが、これはどうも
例の「ガールズ・パンツァー」のシリーズみたいですね。

でも後ろにどう見ても戦車関係ない海軍の91式徹甲弾があるでー。




れより問題は「やまと」と書かれた浮き輪ですよ。
これ、浮き輪として実用に耐えるものなんでしょうか。

これを持って海水浴に行き、
救助ごっこをする不届き者はいないと信じたい。


続く。

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「隼鷹」と「二式大艇」第56回 全日本模型ホビーショー@東京ビックサイト

2016-09-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

日本プラモデル工業協同組合が主催する模型ホビーショー。
東京ビックサイトで行われた催しに招待券をいただき、
今年も行ってまいりました。

9月23日から3日間行われ、23日は業者招待日です。
この日は平日だったし、チケットは業者用だったので
この日に行けばよかったのですが、当日は朝からお天気がぐずついて、
全く行く気をなくしてしまいました。

結局中日の土曜日に行くことにしたのですが、この日も結局
雨が降ったり止んだりであることに変わりなく、
しかも人多すぎで遠い駐車場に停めざるを得なかったという・・。

会場は西館、車を停めた東館駐車場から東館の中を歩いて
ようやく会場にたどり着きました。

まずは、敬意を表してご招待くださったハセガワさんの見学から。



写真を撮っているとハセガワさん(仮名)が声をかけてきてくださいました。
まずは今回の目玉というか、イチオシをお聞きしてみたところ、
そのひとつが11月に発売予定の航空母艦「隼鷹」だそうです。

「隼鷹」が人気があるのはこの説明にもあるように第二次世界大戦
(この場合大東亜戦争と言ってほしい)を戦い抜いた主力中型空母で、
実にいろんなところに参戦しているからでもあります。

ちなみに当ブログでも何回かこの空母について、

●海軍甲事件の後古賀大将を乗せた旗艦「武蔵」を護衛してトラックへ

●駆逐艦「秋風」が「隼鷹」を守って戦没したかどうかという件

●空母「ホーネット」にとどめを刺した艦載機を乗せていた

●艦載機パイロットに菊地哲生飛曹長という凄腕がいた

という内容で取り上げています。

ハセガワではこの「隼鷹」を最新の金型でキット化したのですが、
今回の売りは、これまであった航空母艦モデルで初めて

「甲板のキャンバー(凸湾曲)を再現した」

ことと、さらに艦橋や煙突も段違いに精密に再現してることだとか。



「隼鷹」がマリアナ沖海戦に参加した時の姿だそうです。
このイラストはデジタル絵画ではなく、なんと水彩だそうで、
ハセガワがその腕に惚れ込んでパッケージデザインを任せている
加藤単駆郎氏というまだ若いイラストレーターの作品です。

ちなみにこのかたのパッケージイラスト展が10月1日、
長野県上田市で行われるそうです。



さらにもうひとつの目玉商品は(目玉だから二つですね)
なんとっ!
わたしが渾身のエントリをあげまくった、エミリーこと二式大艇だ!
このイラストももちろん加藤氏の作品です。

この写真にも黒焼きの設計図が写っていますが、こういった模型を製品化するには
元々の設計図というものが必要になってきます。
ハセガワさんによると、そういった設計図は

「どこかから、出て来る」(笑)

のだそうです。あら不思議。
ちなみに当社では二式の前回の発売は30年前なのですが、
30年の歳月は模型の製品化にあまりにも大きな変化をもたらし、
精密度や再現力は30年前の「比ではない」ということです。
ただし、

「昔のものにはその頃にしかない良さがあります。
未だにアナログのレコードを聴く人がいるのと同じようなものですね」



「3Dプリンターで模型パーツを作るというのはまだ無理ですか」

「まだちょっと無理ですね」

そういえば、今年の夏うちの愚息がITキャンプで
3Dプリンターの作品を作ってました。

 

たとえばこういう設計図をコンピュータで作成します。



これを3Dプリンタにインプットすると、白い糸のような樹脂が
形通りにおよそ一晩かけて少しずつ成型を行います。



で、できたのがこれ。ピンボケですみません。



カリキュラムは月曜から金曜日までの5日間で、
金曜日は午後からショウケースといって発表ですから、
実質4日に二つの模型を製作するというわけ。



3Dプリンタの模型を見るのは初めてですが、ものが小さい
(どちらもだいたい4センチ四方以内)ので全体的には
おお、とその精密さに驚いてしまいました。

ただ、ハセガワさんがおっしゃるように、この模型の世界における
パーツの気の狂いそうな精密さは再現できないかもしれません。



他の模型会社の展示にも二式大艇がありました。

ハセガワではやはり鹿屋に展示されている現物を見に行った、
というだけあってこういう普通のとはちょっと違い、

●コクピットなど、外から見える内部構造を再現

●したがってセットには搭乗員が「多数」ついてくる

●艇体下部の波おさえ装置、通称「カツオブシ」は別部品で再現

というこだわりがポイントなのだそうです。
模型は好きだけど自分が作る気は全くないわたしですが、
これだけは万が一気が向いたら作ってみたいと思いました。
まあ、出来上がったのが買えればそれに越したことはありませんが。



特別マーキングを施した97式艦攻。
写真を撮るのをうっかり忘れましたが、向こうにある21型零戦、そして
99式艦爆とともに真珠湾攻撃時の塗装を再現しているみたいです。
まじですか。
真珠湾攻撃のとき、97式艦攻は「レッドテイルズ」だったのね・・・。

「何々攻撃時仕様」というふうに機体の塗装で史実を再現することも
モデラーと呼ばれる人の盛り上がりポイントである模様。



三菱 局地戦闘機「雷電」。
「雷電」とか「紫電」とか「烈風」とか「疾風」とか、
もう昔の戦闘機の名前かっこよすぎ。 



海軍のまるで中二病のようなネーミングの嵐に対し、
陸軍の爆撃機はキとか100式とかあまり名前にこだわってないのかと
思いきや、やっぱり愛称はあります。
こちら100式爆撃機、愛称「吞竜」。 




52型の零戦ですが、「撃墜王モデル」とネーミングされております。
岩本徹三の撃墜マーク入り搭乗機。



こういった模型の塗装は当たり前ですが、モデラーが自分で行います。
組み立てるだけでもめまいがしそうなのに、その上自分で塗装まで・・・。
ということでその道に踏み込めないわたしのような人もたくさんいるわけですが、
先ほどの「真珠湾モデル」のように、本当に凝る人は塗装こそが命。

このときに質問したところによると、塗料は別の専門会社で皆買うわけですが、
モデルの制作会社は色指定するのだそうです。

「グレーに何色を何パーセント混ぜて」

みたいな指示なんでしょうか。
というわけで、同じモデルといっても各社微妙に色が違ってくるわけですね。

たとえば零戦21型の実物はもうすでにこの世に存在せず、
実際に乗っていた人や見たことのある人の記憶の中にしか
その色というのは存在しないわけです。
ところが色を言葉で再現することは容易ではありません。

21型を「飴色」なんぞと称する人がいたという話を聞きますが、
そんな漠然とした、はっきりいっていい加減な表現ってありませんよね。
それこそ「飴」って何飴だよ、というところから話をしなくてはいけないわけで。

ということなので、

「零戦の色一つとっても各社で違ってくるものなんです」

現物が戦後残っていた52型にしたところで、

「経年劣化がありますのでできたときには全く違っていた可能性もあります。
つや消し塗装みたいに解釈されていますが、出来たばかりのときには
ピカピカしていたという話もあったりします」

模型というのはそういう「想像」「空想」の入り込む余地が
あるからこそ、そこに楽しみを求める人もいるってことなんでしょう。



色だけではありません。
わたしが今回一番驚いたのは、

「模型は、実物の飛行機や船をそのまま縮小したものではない」

というのを聞いたことでした。
なんでも、そのままの縮小では「かっこよくならない」らしいんですね。
設計図が「どこからか手に入った」としても、それをそのまま
律儀に縮小して模型の設計図を仕上げるのではなく、

「微妙にデフォルメを加えてモデルとして見栄えがいいようにしてある」

らしいのです。

「たとえばどこをどんな風にデフォルメしてあるんですか」

という質問には、明確なお答えはいただけませんでしたが、
それが企業秘密だとかそういうことではなく、そのあたりも
設計図を引く段階での口には表せない微妙な「さじ加減」なのでしょう。



さて、デフォルメといえば(笑)忘れちゃいけないたまごヒコーキ!
今年も愛しのたまごヒコーキたちに萌えました。

手前のヘリははっきりいってあまり面白くないですが、
ハリアー(中央)やファントム(左奥)がこれって・・・笑えます。
スプリットベーンがなければたぶんこれ何かわかんないぞ。



「ブルーインパルス」の新旧使用機とブルーエンジェルス、サンダーバーズ、
つまりアクロバットチーム機ばかりを集めたコーナー。



しかし、なんだろうこのオスプレイの違和感のなさ・・・。

たまごヒコーキシリーズには一応萌えキャラがいて、

パッケージには萌え搭乗員が描かれているのですが、

「たまごヒコーキそのものがキャラクターなのに、キャラ必要ですかね」

「まあ、それがきっかけで買う人だっていますから」




フォッケウルフまでがこのような姿に(T_T)

さっきのデフォルメの話ではありませんが、このシリーズ、
「たまご型に極限まで近づける」という制限がありながらも
各航空機の特色を実にうまく取り込んでいるのがいいんですよね。
たとえばこのフォッケも、バランスとしてやたら足長の印象がありますが、
それがこの小さなたまご型でちゃんと表現されています。

一番ウケたのに写真を撮るのを忘れたP-38ライトニングだけは
特色も何もそれしかない形をしておりましたが。



パッケージが英語だけのものがあったので聞いてみたら、
「輸出用」だということでした。
これは国内用、と説明されているところです。

写真を見て気がついたのですが、このF-2の模型、

21SQ  松島基地帰還記念」

とありました。

・・・・・・そうだったんですね。 しみじみ。



続く。 

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コンバット・インフォメーション・センター〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-09-24 | 軍艦

海自の護衛艦を見学すると単に「CIC」と紹介されて、
この最初のCが「コンバット=戦闘」のCであることをつい忘れるのですが、
戦闘艦だけに存在するセクション、それが
「コンバット・インフォメーション・センター」、通称CICです。

CICの日本語は「戦闘指揮所」。
直訳すれば「戦闘情報所」ですから、「戦闘指揮所」は明らかに
旧海軍から受け継いだ呼称であることになるのですが、
こんなところまでチェックされることはないだろうということか、
米軍と同じ「CIC」という呼称をそのまま使っています。



CICはフネのどういう位置にあるのか。
やはり戦闘指揮所でもある艦橋はもちろん構造物の上階にあるわけですが、
ほとんどのCICはこれまで見た限りで言えば甲板より下の階にあったりします。

さらにわたしの見た限り、ほとんどは食堂の近くが多いです。
さらに、食堂の出口にはほぼ間違いなく艦内神社があったりしますが、
それはアメリカの鑑には関係ありません。

「マサチューセッツ」のCIC再現ルームは、上甲板から2階下の第3甲板(サードデッキ)にあります。
ゲダンクや准士官の居住区のあった第2甲板(セカンドデッキ)からこの階段で降りていきます。 



当時からそうだったのか、CIC内部の壁は真っ黒に塗装されていました。

ところで、この「マサチューセッツ」シリーズが始まって、
すぐに「コニング・ステーション」という分厚い金庫みたいな操舵室を
ご紹介したと思いますが、艦長は戦闘時にCICか艦橋にいるのが普通で、
いくら金庫みたいになっていても操舵室にいることはなかったよなあ、
と今になって気がついたわたしです。

それはともかく、「マサチューセッツ」の場合、このCICの本来の場所は
04レベル、つまり艦橋と同じ階にあったらしいんですね。
そういえば、海自の掃海母艦「ぶんご」のCICも艦橋レベルにあって、その理由は

「上甲板より下は機雷の爆発の影響を受けやすいから」 


と説明された記憶があります。


博物鑑にするにあたって、わざわざ第3甲板階にCICを再現したのは、
ほとんどの戦闘艦は慣例的に

「セカンドデッキの武装で守られるから」

という理由で、CICを鑑の深内部に持っていたからということです。


現在CICが窓のない甲板下の暗い部屋にあるのは、
明るいとレーダー指示器が読みにくいからという理由です。




ここに入るときにおおっ、と思ったのはこの入り口の高さ。
足を思いっきり高く上げてハッチをくぐり抜ける感じで入ります。
皆が同じところに足を置くのですっかりそこだけ塗装が剥げてしまっています。
もちろんドアも水密扉であると思われるのですが、その前段階で万が一
浸水してきたときにもかなりの時間区画に水が入ることを防ぐためでしょう。



「ドッグ」と呼ばれるレバーが8つもついたドア。



CICに入ってすぐ電話が設置されていました。
なぜかヘッドセット(イヤフォーン)用のジャックがあります。



ここがCICの中心で、艦長なり司令なりはこういう丸椅子に座ったのかもしれません。
丸テーブルは作戦に応じてペンで地図を書き込んだのでしょうか。
奥にあるモニターでは、CICに勤務していた乗組員がかつての任務の思い出を語っています。

CICとは、端的に言うと

「艦に集まってきた戦略的情報を収集・分類・伝達する中心機関」

ということになるでしょうか。
艦橋に窓があり外が見られるのに対し、CICに一切窓が必要ないのは、
集まってくるのがレーダー等のデータ化された情報であるためです。


そしてまたCICとは、戦闘中には

「自艦の現在状況のステイタスを監視する機関」

でもあります。
CICが艦の頭脳といわれる所以です。

このブラックボードには、文字通りその「タクティカル・ステイタス」を
その都度記載するようになっていました。



「コース2-5」「ジグザグプラン 6」「スターボード・スピード225°」

ジグザグプランというのはは帝国海軍も之字運動と称して
行っていた、潜水艦攻撃を回避するための航行です。

「艦隊速度」「隊形配列:ABLE」

「OUR T.G'S STATION」が0なのは、「マサチューセッツ」が旗艦で
艦隊の中心にいるからでしょうか。 

ちなみにボードはクリアですが、これは裏からも書いたり読んだりできるからです。 

 



当初はイギリスがリードしていたレーダー技術を昇華させたのは
やっぱりアメリカの工業力でした。

レーダーといえばこの丸い形を誰もが思い浮かべますが、
この形でのレーダーを最初に開発したのはアメリカです。

日本にも(八木アンテナなる発明があったくらいですから)
もちろんレーダーはありましたが、このようなものではなく、

「画面に現れる波形の位置や大きさから方向や高度を読み取る」

熟練の技を必要とするものだったため、戦場では使い物にならない、

と現場からの拒否に遭ったとか。

まあこれが平常時であれば、その解読技術が追求され、
いかなる波形からも敵艦の位置を読み取る「匠」が現れる、
というのが日本人の集団というものですが、それをするにはあまりにも
事態は切迫していてそれどころではなかったともいえます。

情けないのはそれだけでなく、当時の(当時も、か)縦割り行政と、
陸海軍の仲の悪さが祟って、その結果、無駄に近いところに
陸海がそれぞれレーダーのアンテナを建てたりしていたそうです。とほほ。



部屋の天井近くにあったダイヤルには横に電話が付いており、
目盛りには「JB」「JC」「JV」「JL」などが表示されています。
高圧受配線ダイヤルではないかと思いますが自信ありませんん。



各電信員が仕事をしていたデスクには、ダイヤル式の電話や
旧式のタイプライターなどが置かれています。
デスクの中央にはタイプライターを埋め込むことができる特別仕様。



気になったのは各受信機の前にシンバルのようなお皿があること。
画像検索しても実際にシンバルしか出てこないしorz
どなたかこのお皿の正体がわかる方おられますか。



左側にある無線受信機は「ナショナル」製。
われわれ日本人にとってナショナルは日立でしたが、
アメリカにもナショナル電気というのがあったんですね。

驚異的なパフォーマンスを誇ったHROコミュニケーションズレシーバー
などを生産した会社です。



"Hallicrafters"とは、シカゴにあった無線設備専門の販売会社で、
この画像の扇型のゲージも、同社の典型的なチューニングダイヤルのデザインです。
おそらくS-27というタイプではないかと思われます。
だとすればですが、

28MHzから143MHzくらいまでを3バンドでカバーし、
FM、AM、CWが受信可能な本格的なVHF受信機」

だそうです。


無駄に大きな画像ですみません。
「E アワード」というのはいまでもアメリカの通商に関する優良企業に与えられる
賞ですが、この会社、ハリクラフターズ、戦時中にこれを受賞しています。

「アメリカの敵を叩くために大きな働きをしたことを
誇りに思いつつも
謙虚にこれを受け止めたい」

などと書いてあるのがいかにも戦時中ですね。
日本なら戦後こういう会社が「戦犯企業」と言われてしまうわけですが、
アメリカは勝ったので無問題。

ただし、ハリクラフターズ株式会社は戦後の業績悪化後、
ノースロップに吸収されたのちも日本製の電気機器との競争に勝てず、
つまりかつて「叩いた敵国」に叩かれて(笑)業績に伸び悩み、
グラマンとの合併後、
ノースロップ・グラマンとなって現在に至ります。


しかし今現在、ハリクラフターズの名前の付いた機器は、ビンテージとして

無線機器収集家の垂涎の的となっているそうです。



CICの機器に選定されるくらいですから、当時の最先端である
企業が競うように参入していたのは間違いないところでしょう。



端のデスクにはタイプした書類などをためておくファイルカゴがあります。
デスク正面は電話交換のジャックパネルのようなものが。

CICには艦橋や機関室、射撃管制室などと無電池電話の回線で
繋がっていたと言いますから、これがその交換所でしょうか。



CICというものが設けられるようになったのは1940年代になってからです。
ドイツの航空部隊を迎撃するためにイギリス海軍は
通信機器を一部屋に集めたことがその始まりだと言われています。

アメリカ海軍は日本軍の航空攻撃に悩まされていたため、
駆逐艦から実験的にそれを取り入れ、珊瑚海海戦(1943)で成果を上げたとして
全艦艇に搭載されるようになりました。

「マサチューセッツ」就役の1942年にはまだ実験段階で、
そのためまだ通信機器は艦橋近くにまとめてあるだけだったのです。



ここには帽子の上からヘッドフォンをかけた水兵さんがいました。
1943年以前、軍艦の艦長は艦橋で戦闘指揮を執ったのですが、
戦闘中のすべての情報が集約されるCICの導入以降、艦長はここから
指揮を執るという形態になりました。

艦長以外はレーダー員と砲術士(そして航空管制員)が配置されていたので、
この水兵さんはレーダー員ということになります。

現代の戦闘では、まずCICが攻撃目標の指示を出し、艦長がそれを許可、
砲雷長が復唱の上攻撃開始となります。
艦長がCICにいるか艦橋にいるかは必ずしも決まっていないようです。

ただし、戦闘時にはリスク分散で艦橋とCICに分かれるんじゃないかな。


アメリカ海軍を扱った映画といえば「バトルシップ」、

最近ではテレビドラマの「ザ・ラストシップ」(監督がどちらもM・ベイ)
などがありますが、今にして思えばこれ、どちらも艦橋に
艦長も副官も主要幹部が全員いるときにどかーん、というシーンありましたよね?

こういう場合、艦長か副長のどちらかはCICにいるんじゃないの?

とあらためて突っ込みたいのですが、艦橋にいてドコーンとやられる方が
映画的に「絵になる」からなんだろうな。きっと。



この無線室は、一人の電惻員のメモリアルとなっています。

"YEOMAN"という書記下士官だったジョセフ・ライリー2等兵曹は、
戦後、消防士となり地域に尽くしましたが、同時にビッグマミーの
乗員を組織する組合の副会長として、当博物館の設立にあたって
大いに貢献したため、このようにここに名前を残すことになりました。




おそらく、この水兵はかつてのライリー二等兵曹の姿を再現しているに違いありません。




続く。


 

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ビナクルと「ケルビンのボール」〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-09-23 | 軍艦

ボストンのウォーターフォール市にある「バトルシップ・コーブ」。
自称世界一の充実した戦艦博物館ですが、その中でもメイン展示であり、
ここの目玉でもある戦艦「マサチューセッツ」の見学もようやく
艦内の主要施設に到達しました。

戦艦の心臓部が機関室だとすれば、頭脳に当たる、
CIC、コンバットインフォメーションセンターです。




しかしその前に、CIC周辺にあった施設を見ることにしましょう。
ここは「キャプテンズ・オフィス」です。
戦艦という社会単位における行政の中心となります。

というわりになんだかスカスカした間取りのような気がしますが、
いわばここは艦長の秘書室みたいなところですから、広々とした部屋で執務を行うべし、
ということかもしれません。
それとも、体重120キロだった最後の艦長シャフロス中将のための特別仕様?




部屋には執務机がいくつかあるのですが、これは艦長以外では
副官とか事務官なんかのオフィスワーカー専用であろうと思われます。

この入り口にあった説明には、

「フネが一つの市だとすれば艦長は市長、そして乗組員は市民。
ただしこの市民は全て市長のために雇われていて、衣食住、
給料から教育、交通や娯楽、訓練などのために働くことを求められます。

乗員にはキャプテンズ・オフィスに対して敬意を払うことが常に求められ、
艦長はこのオフィスに対して幾つかの権限を委任するのが一般的でした」

と書いてありました。



壁にはルーズベルト大統領の写真がありますね。

ところで権限が与えられていたわりに、彼らはこんなベッドで寝ていたようです。
まるで収納棚のような高いところにあるベッド、どうやって登るのでしょう。
仕事が終わったら机の上から靴のままよっこらせ、ってか?

この事務所の役割は、無線、下達された命令の全て、補給に関すること、
告知や通達の全てを記録(スコア)することでした。
海軍の活動についての広報も全てこのオフィスを通して行われました。



「Warrant Officer's Stateroom」

ベテランの専門職集団である准士官は下士官の特権階級です。
彼らの居住区(カントリーという)はセカンドデッキの一隅を占めており、
各々が個室を与えられていました。

英語では士官を「コミッションド」、下士官を「ノン・コミッションド」オフィサー、
といいますが、この「ウォーラント・オフィサー」というのは、いわば
「コミッションドとノンコミッションドの間」の地位にあたります。

現代の自衛隊では「准尉」がこれにあたります。
去年の観艦式で朝開場を待って並んでいたら、出てきた自衛官の一団が
そのうちの一人に「◯◯准尉」と呼びかけていたので、
海自にも准尉っているんだなあと思った覚えがあります。

海自では、准尉とは

掌船務士等(艦艇において副直士官として当直士官を補佐)

海上訓練指導隊指導官(艦艇乗組み幹部等の術科指導を実施)

司令部の班長等、特技に関する専門的事項について幹部を補佐する職

となっており、

「特技職における熟練者としての高度の知識及び技能並びに
海曹士としての長年の経験を背景に幹部を補佐する職」

「分隊
士及び係士官として特技職に係る専門業務及び業務全般について
幹部を補佐する職」

やはりこちらも専門職であることを限定されています。 
ここでふと気付いたのは、自衛隊の規範には「幹部(士官)の補佐」
とあるのに対し、アメリカの准士官はそれだけで5階級に分かれており、 
非常に独立性が高い専門職であると明言されていることです。

このためアメリカでは、ベテラン准士官が将校よりも高給であることも
珍しくないそうですが、自衛隊がこの点どうなのかはわかりません。 



その准士官の居室の机の上を見てみましょう。
コーヒーにオレンジジュース、そして灰皿にはパイプ。
パイプを嗜むというのは結構手間のかかることのように聞きますが、
准士官とパイプ、というのはというのはイメージが合うのかもしれません。
机の上に置かれた木箱の「ダッチマスター」というのは、
今でも手に入れることのできるアメリカ製の葉巻のメーカーです。

読みかけの本はベテラン船乗りらしく、艦船のグラフ雑誌ですね。



部屋には二つのバンク、(あれ、二人部屋?)洗面所、
机、電話も備えてあり、これが典型的な当艦の准士官室の仕様でした。

手前の陸軍ちっくな軍服はおそらく「タン・ドレス・ユニフォーム」でしょう。



軍服といえば、廊下にいきなりガラスケースがあってそこに展示されていた
刺繍入りの下士官用軍服。
全貌はよく見えないのですが、裏地に縫い取られた刺繍の意匠は
どうみても、ドラゴン。

裏地に龍を刺繍で入れるなんて、まるで日本の堅気でない人みたいですが、
これには

Chief Carpenter's Mate Uniform Jacket

と説明がありました。
カーペンターズ・メイト、とは19世紀から1948年まで存在した海軍の所属です。
大工仕事をする小隊でCMと略称がありました。

所掌する任務は、艦内の換気、水蜜制御、塗装、そして排水に関わる全て。
戦闘時には砲撃の補助を行い、いざどこかが破損したとなると、
木材などで破口を塞ぐなどのダメージコントロールを行いました。

1948年にはこの名称は、「ダメージ・コントロールマン」と変わりました。


このジャケットはカーペンターズメイトのチーフであった
ジョン・フランシス・ドネリーが着用していたもので、彼は第二次世界大戦の
終わり頃、上海にいて船舶の修理に携わっていた人物です。

彼はタバコを吸いませんでしたが、配給品を必ず受け取り、
上海の路地にあった刺繍屋で煙草と引き換えにこの龍の刺繍をしてもらいました。
軍の規則があるのでジャケットの裏地にしてもらうしかなかったのですが、
戦争が終わり、帰ってきた彼を抱擁した彼の妻は、その刺繍の手触りを
制服の下にコルセットと包帯をしているのだと勘違いして動揺したそうです。



そのドネリー兵曹の職場であった「カーペンターズ・ショップ」

平削りかんな、糸鋸盤、テーブル鋸など、木工に必要な道具があります。
また、ここは同時に「シップフィッター・ショップ」 でもありました。
シップフィッターとは、配管やダクト、溶接に関する仕事のことです。 

これらの作業のためのツール・ショップは艦尾にだけありました。



GEやシルバニアなど各社の電球のスペアが棚に並んでいます。



木工する際に必要な大きなテーブル。
こうには電動糸鋸も見えます。



戦艦の中は一つの社会。
というわけで、乗組員は「ワーカー」ですから、当然お給料が出ます。
ここは「ペイ・オフィス」、給金を配布する事務所です。

このオフィスの責任者は”distributing officer”というのですが、
自衛隊で言うところの「会計隊長」といった感じでしょうか。
その下には、会計課の隊員がいて、業務をこなします。

どうでもいいですが、このオフィスのドアの前のパイプ、
どうしてこんなところに突き出しているのか・・・。



大きな金庫が右側に見えています。
この金庫には100万ドルの現金が常備されていました。

「ペイデイ」というお菓子がこの頃あったという話をしましたが、
この給料日は海軍の艦船の場合、半月に一度となっていました。
月二回ペイデイがあるというのも、なんだか得した気分ですね。
あったらあるだけ使ってしまう人にはありがたいシステムと言えます。
給料はチェックか現金で支払われました。

余談ですが、アメリカはチェックでしか払えないという場面があるので
(家賃などは必ずチェックを封筒に入れて支払ったりする)
わたしも口座を開設したときにパーソナルチェックを作りましたが、
数字は改ざんの恐れがあるので必ず、

eleven hundred forty five 50/100 dollars
(1145ドル50セント)

という書式で書かないといけないのです。もちろんその場でね。
よく映画で、金持ちがさらさらっと一瞬で書いて、
ピリッとチェックを切ってますが、
あんな早く書けるわけないじゃん、
といつも思います。


ところが、ネイティブが切っても結構時間がかかるこれを
スーパーマーケットのレジでやおら書きだす人がいるんですわ。

今まで見たそういう人たちはまず間違いなくご老人(おばあちゃん)
なのだけど、そのせいで余計に時間がかかってしまうのが常で、
レジの前の老人がチェックブックを広げ出したら、わたしは
ああ・・・と絶望したものですよ。

と、全く関係ないですが、そういうチェックで給料を払う事務所。
全員の家族手当の記録や口座などの記録もここで保管されていました。



奥にあるグレーのスチール棚などにその記録が保管されていたのでしょう。
万が一、乗組員が危急の場合には、エグゼクティブ・オフィサーの許可のもとに
特別にお金が支払われるということもありました。

危急といえば、この「マサチューセッツ」のペイオフィスの金庫が
一度壊れて開かなくなったと言うことがあったそうです。
中には100万ドルが入っているというのに、押しても引いてもドアが開かない。
あらゆる手を使って開けることを試みたものの、結局ダメだったので、
仕方なく金庫を取り外して外で壊す羽目になったということです。



飾り付け?はしていませんが、これは士官の居室(ステートルーム)
であろうかと思われます。
ベッドの下に引き出しがたくさんあって収納は便利そうですね。



通りがかりに見たこの辺りのトイレ。
以外と広々しています。
機材が新しいところを見ると、今でも使っているのかもしれません。



ビナクル BINNACLEとはなんぞや。
たとえばヨット用語によると

「ラットを保持する円柱状のポスト。ステアリングペデスタルと同じ」

となっていて、さらに意味がわかりません。

ここの説明によると、ビナクルは艦橋の、舵輪の正面に据え付けられており、
一つかそれ以上のコンパスとそれを夜間視認するための小さなライトでできています。
海事用語では「羅針儀架台」となっています。

ビナクルはナビゲーションを素早く見るためのもので、かつ繊細な機器を

保護する役目を持っています。
それは内部にジンバルを備え、これによって波の動揺などの干渉を受けず
磁石を保持する仕組みになっています。

速度を推定する砂時計(サンドタイマー)が格納されていることもあります。


左右にボールを支えて持っているようなデザインですが、このボールのことを
イギリスでは「ケルビンのボール」といいます。

木造の船の時には普通に使えていた磁石ですが、鉄でできた船の出現によって

狂ってしまうという問題が生じてきました。

そこで、この二つのボールの中に

compensating magnets、補償磁石?というものを入れて問題を解消した
ロード・ケルビンという人が特許を取り、こう呼ばれていました。

アメリカではシンプルに「ナビゲーターズ・ボール」と呼んでいます。


ビナクル、という言葉を探しても不思議なくらい日本語では出てこなかったのですが、
日本では単にこれを「磁気コンパス」と称しているからみたいですね。

ちなみに現在、日本の企業によって売られている磁気コンパスは
このようなものですが、昔のビナクルとほぼ変わりのないシェイプをしています。

それもそのはず、この磁気コンパスとケルビンのボールのシステムは
現在でも船舶用のコンパスに使われているからなのです。



続く。


 

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女流飛行家列伝~マリーズ・イルツ「恋に生き、空に生き」

2016-09-22 | 飛行家列伝

彼女の生まれた年1903、という文字をタイプしながら、
黎明期の女流飛行家と言われる人にこの年の生まれが非常に多い、
ということにあっと気がつきました。

というのは、この1903年の12月17日、他でもないライト兄弟が、
固定翼機による動力飛行を行っているのです。


人類はおそらく人類としての歴史が始まるとともに

「なんとかして鳥のように空を飛べないものか」

という探求を続けてきたのではないでしょうか。
紀元前4世紀には、蒸気式の飛行体をギリシアの学者が飛ばしたらしい、
という話もありますし、3世紀には諸葛孔明が天灯という熱気球を飛ばした、
という話も伝わっています。

ですから、ライト兄弟が「人類として初めて空を飛んだ」ということは全くないのですが、
それまでの飛行方法から一気に今日の「飛行機」に躍進するきっかけが、
ライト兄弟の「ライトフライヤー号」だったわけです。

そしてこの年、1903年にこの世に生を受けた女性の少なくない人数が、
空を飛ぶということに人生を賭けたのは、決して偶然でも因縁でもなく、
それは空に乗り出す最初の女性になるべしとの「啓示」のごとく思われ、
進路を空に向けたのではないかという気がしてなりません。

まあ、簡単に言うとちょっとした世代の「ブーム」という説もありますが(笑)



操縦桿を使う最初の操縦者が出現するのが1907年。

1908年には次々とライト(弟)が飛行実験を成功させ、アメリカ陸軍が飛行機を採用し、
初めての「航空機事故で死んだ人間」の栄誉?を獲得しています。

1910年になると、この流れはビッグウェーブとなり、世界中で飛行機開発が
こぞって行われ、世界最速記録(時速106キロ!)も生まれるのですが、
なんと、この年には女性パイロットだけによるレースも行われているのです。

レースが行われた、ということは、それまでにも何人かの女性が
飛行機にチャレンジしていたということで、つまり女性パイロットというのは、
殆ど男性のそれと時を同じくして出現していたということにもなります。

「女たちは飛ぼうと思わなかったのだろうか」

と、以前作成した朝鮮人飛行家の朴敬元の伝記を書いたフェミニストは、
しょっぱなでこのように嘆いてみせましたが、もちろん飛ぼうとしたんですよ。
ただ、その絶対数が語るに足るほど多くなかった、ということです。

現在でもパイロットという職業はほとんどが男性で占められている、というのと、
実質的にその理由に変わりはなかったという気がしますがね。(嫌味)


ところで、この「世界初の女性パイロット」が生まれたのはどこだと思います?
意外とそれは飛行機王国となったアメリカではなく、フランスなのです。



この、レイモンド・ド・ラロシュという女性は、元々気球を操縦していました。
女優であったため(たぶん)男性の飛行士からの申し出で、
ヴォアザンという飛行機の操縦を
習うことにしたのですが、
最初のタキシングのあと、制止されるのを振り切って
いきなりスロットルを全開にし、
勝手にテイクオフしてしまいました。


というわけで、彼女が「最初に飛んだ女性」となったわけです。

1910年のことでした。

「今飛べば、わたしが世界初の女性だわ」

と内心彼女は「狙っていた」疑いが濃いですね。



ヒラー航空博物館で紹介されているのはほとんどがアメリカ人女性飛行家でしたが、
ライト兄弟の国にしかこういった女性は生まれなかったわけではもちろんありません。
黎明期の「初記録」には、アメリカと並んでフランスとベルギーのパイロットが
多くの名前を残しており、裾野も広かったということがわかります。

フェミニスト作家が「飛ぼうと思わなかったのだろうか」と嘆いた日本ですら、
1913年には初の女性飛行士(南地よね)が出現しているのです。


さて、本日の画像に描いたフランス美人、マリーズ・イルズ

彼女の持っている「初」記録は、わたしたちにも関係があって、

「パリ—東京—パリを飛んだ最初の女性」

というものです。
この他、


「パリーサイゴン間の最速到達(4日)」
「パリ—北京間を飛んだ最初の女性」
「プロペラ機で1万4千310mの高高度到達した最初の女性」

という記録も持っていました。

マリーズ・イルズ、本名マリ−アントワネット・イルズは、
飛行士の免許を取るために、スカイダイビングで資金を稼いだという「ますらめ」です。
21歳の彼女は航空ショーで落下傘降下を何度も行い、その際、
しばらく翼の上に立つなどして聴衆を沸かせました。

この経歴は、後の1936年、女性最速記録に挑戦しているときに機が失速し、
パラシュートで脱出したときに生かされました。

彼女はまたメカニックを使わず、機の点検はすべて自分一人で行いました。


写真に残るマリーズは、ご覧のように大変エレガントな雰囲気の美人です。



物陰で着替えをする彼女の姿が残されています。
今から飛行服を着ようとしているのか脱いでいるのか、
それはわかりませんが、スーツの下はどうみてもワンピース。

このころは「モガ」ファッション全盛で、女性用のズボンなど、

ディートリヒやキャサリンヘップバーンなどが穿きだしたばかり。
ですから彼女のこのいでたちも不思議ではないのですが、
どちらかというとこれは、彼女がこの後、すぐに男性と会うため、
あえてこのようなものを着込んでいる気がします。

白い襟に腰にはベルト。
とても飛行服の下に切るのにふさわしいスタイルには見えません。

このようにわたしが勘ぐるのも、彼女について書かれたフランス語のサイトで、
日本のWikipediaには載っていない、彼女の恋についての記載を見たからです。

「1930年の初頭、彼女はパイロット仲間である
アンドレ・サレルとの情熱的な不倫に落ちた」


いやー、さすがはアムールの国フランスのwiki。
飛行士の経歴に不倫の恋なんて書いてしまうんですから。

フランスは偉大な哲学者を生んだこともあり、国民総哲学家みたいなところがあります。
何でも哲学してしまうあまり、サルトルとボーボワールのような関係、
つまりお互い自由意志に基づいて事実婚をしながら第三者との恋愛はOK、というような
すかした恋愛を偏重するきらいがあるようですが、また法律に捕われない恋愛、というのは
彼らにとってごく普通のことと捉えられているように思えます。

驚くほど事実婚、結婚前の同棲をするカップルが多く、気軽に結婚して気軽に離婚する
アメリカと比べると、離婚率も故に少ないのではないかと思われます。

マリーズは独身だったので不倫、ということは、相手の男性には妻がいたということなのですが、
wikiに残るくらい公然とした仲ではあっても、彼らは全く結婚を考えなかったらしい。
そして、どちらもが危険のない平穏な生活のためにキャリアを捨てることはもちろん、
法的に結ばれることすら全く望んでいなかったようです。

この恋愛関係はきっちり三年続きましたが、テストパイロットだった男性の事故死で
終止符が打たれることになります。
サレルは、1933年、フランスのファルマン航空機という会社のF420というタイプをテストしていて、
メカニックとともに墜落、殉職したのでした。
このタイプはそのせいなのかどうか、製品化されずに終わっています。

1941年から彼女はレジスタンスに加わり、レジスタンス空軍のパイロットとなります。
そのミッションの一つにはトルコのあるアルスーズに強行着陸するというものもありました。

戦後、シャルル・ド・ゴール政権で、第二次世界大戦中マリナ・ラスコヴァが作ったような
女性飛行隊を作ることが決まり、国内一流の女性パイロットが集められました。
このときにメンバーには、カンボジア方面司令となったマリーズ・バスティ
初めてフランスで戦闘機パイロットとなったエリザベト・ボセリなどがいます。

この空軍は「試作」として、訓練が続けられていましたが、1946年、
軍備大臣が反対派だったため、あっさりと廃止されてしまいました。
しかしながら、空軍はこのときのリストから「使えるパイロット」を何人かリストアップ、
マリーズ・イルズとエリザベト・ボセリが選ばれ、特にボセリはA24ドーントレスから、
戦闘機パイロットに配置されます。

しかし、すぐに女性パイロットを空軍で活用するという試みは頓挫することになります。
もちろん予算の問題もあったようですが、原因は他でもない、マリーズ・イルズの墜落死でした。


1946年1月、悪天候のため彼女の乗ったSiebel24は地表に激突、
マリーズは中尉として、43歳で殉職します。

彼女の鎮魂のために、ル・ヴァロア・ペレのある公園には、
翼の形を象ったモニュメントが建てられています。




不倫の恋に身を焦がしてから死までの23年の間に、彼女が一度も恋をしなかった、
などということはその情熱的なことから考えてもありえないでしょう。

しかし、彼女は生涯結婚をしないままでした。

フランス人らしく恋愛至上主義であればこそ結婚という制約に縛られない愛の形を
常に選んだ結果だったでしょうか。

いつも空を飛びながら命の限界を見てきた彼女は、恋というものが命以上に儚い、
しょせんこの世のうたかたであることを達観していたのかもしれません。


 


 

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スタンフォード・ディッシュ〜シリコンバレーリス模様

2016-09-21 | すずめ食堂

 シリコンバレーのディッシュトレイルに生息する
海軍リス戦隊ことカリフォルニアジリスたちについてです。 

散歩コースは二通りありますが、右回りすると最後に
素晴らしい眺めを見ながらただひたすら降りていくことになり、
こちらがわたしのお気に入りです。 



前回自然界の厳しい掟を体現してくれたサギが、今日も来ています。
それにしてもどうして今までいなかったサギが今年はこんなに
ここにやってきて餌を漁っているのか、しばし考え、そして
このことに思い当たりました。

2015年から言われているカリフォルニアの深刻な水不足です。
どこのホテルでも、水不足なのでご協力くださいという告知が貼られ、
わたしもいつもペリカンを取りに行くショアライン公園で、
池の形が全く変わってしまったのを見てそれを実感していましたが、
もしかしたが彼らは水場が少なくなり、魚が取れなくなった地域から
こんな山の中に仕方なく餌を求めて出張してきているのかもしれません。



もちろん聞くわけにいかないので正解はわかりませんが、これは
かなりの確率で当たっているのではないかと思われました。
今までいた水場が干上がってしまったとしても、縄張りのこともあるし
他の水場に行けないといったサギなりの事情があるのに違いありません。

「だとしたらかわいそうにねえ」

「きっとサギだってトカゲなんて食べたくて食べてるんじゃないと思うよ」

「だよね。トカゲってほら、なんか苦そうだし」


「そういう問題じゃない」



超望遠レンズで撮った小さなトカゲさんはお昼寝中。
これで体長3センチくらいです。



坂を下りていくと、スタンフォード大学のシンボルであるフーバータワーが現れます。
このフーバータワー(フーバー大統領の名前だと思ってるけど実は知りません)は
飛行機でサンフランシスコに着陸する寸前にもはっきり見えます。



リスが食べるのはたいてい枯れたようなこの辺の茶色い草。
必ず両手でしっかり持ってお行儀よく食べます。



リスが一番可愛いのはこの手の使い方であると断言。



ときどき草以外のものを食べていることがあります。
このリスはなにかわかりませんが黄色いものをかじっていました。



黄色い花かもしれません。



食べているといえば、こんかい非常にショックな光景を見てしまいました。
一匹の小さいリスが、なにかを見つけたところ、他のリスも興味を示し、
最初のリスはそれを持って逃げ、誰もいないところで・・・、



ぱく。

「何食べてるんだろうね」

肉眼では確認できなかったので、わたしは何枚も望遠で写真を撮り、
そしてそれがなんだったかを知り、戦慄しました。(大げさ)



け、毛が・・・。
毛が生えているうう!



「んん?なんか文句ある?」



これって、リス以外の、野ネズミかモグラの赤ん坊の死骸なんじゃ・・。



知らんかった。
リスって肉食もするのか?
それとも、このリスは子供なので、食べられると勘違いしている?

いずれにしても、私たちの視線に気づいて、このリスは
獲物をくわえたまま逃げて行ってしまいました。
この子がその後ネズミの死骸を食べたたのかどうか気になります。



そこで出てくるネズミ画像。
リスとは動きがちがうのですぐにわかります。
体が小さいのでサギに捕まって食べられてしまっていました。

しかし、この一帯で動物の死骸というものを見たことがありません。
その理由は、死んだ途端、誰かが食べて片付けてしまうんですね。



ラズリくんも地面に降りて虫を探しています。
みんなみんな生きていくためには他の命を奪うしかないのです。



気づいたのですが、リスは青い草もときどき食べています。
リスなりにバランスというかビタミンの摂取に気を使うのでしょうか。



立って両手で草の先を食べる姿もよく見ます。






サギがいるところ、空をタカなどが飛んでいる時には、
地面には影も形も見せないリスですが、どういうわけか、
こういう手すりの上だと保護色になって狙われないのか、
彼らがいても平気な様子で外にいる時があります。



動かなければ上空からは視認されないのでしょう。



彼らは必ずお腹を陽に当てなければいけないようです。
お風呂に入るようなものかな。
じっと手を組んで、まるでお祈りをしているような姿のリスも。



物思う風。



いつも柵の上にリスがいる一帯があります。



そこではこんな光景もよく見られるのですが、このとき、
このうちの一匹がまた「空襲警報」を始めました。



警報を発令するリス、というのは決まっているのか、
それとも気づいたものが行うのか、ぜひ知りたいものです。



このときは空を天敵である鳶が飛んでいました。



この柵の上にいると鳥は来ないと信じているようです。
リスはここからずっと鳴き続けました。



柵の下段も、鳥に襲われない安全なゾーンらしく、このように
寝そべってくつろいでいます。



枝が邪魔で平たくなっているリス。



なんか柵を噛んでいるようなリスもいました。



アップにしてみましたが、マジで噛んでます。
歯の手入れ?で何かをかむこともあるのでしょうか。



リスはあまり団体で行動しませんが、たまに二匹の単位でいることがあります。



しかしほとんどのリスは餌場でバッティングするとすぐに喧嘩を始め、
強い方がそうでない方を自分の周りから追い払ってしまいます。



負けた方は文字通り尻尾を丸めて逃げていくのでした。



さて、今回は喧嘩ではなく、おそらくオスとメスの触れ合いを目撃しました。
おそらく、この後ろがわがオスです。



メスに近づいてきて、先に尻尾の下の匂い確認。



メスはすっかりその気・・・かもしれません。



ところがオスはひょいっと前に移動。



どうやらメスの顔を確認したいみたいです。
後ろ姿で、お、いい女!と思ったら、顔も当然見るでしょ、みたいな?



♂「うーん・・・・・・これは・・・」
♀「?」



♂「・・・もう一度確認させてもらえますか」
♀「このひと(男)何をぐずぐずしてんのかしら」



♂「あ、すみませんけど、ちょっと・・」
♀「え?なに?なんなのよいったい」



♂「ちょっと携帯が鳴ってるみたいなんで・・」
♀「はあ?」




♂「思ってたのと違うっていうか・・・ごめんねー!」
♀「はああああ?!」



♀「ちょっとなにあれ、ムカつく!信じられないんですけど!」


というわけで、例によって見ているときにはなにもわからなかったのですが、
写真を解析してみると、1秒そこらの間にこんなドラマがあったのがわかりました。
リスの世界にもいろいろあるんだなあ(涙)



というわけで、今年のリス戦隊レポートを終わります。
また来年(があるかどうかわかりませんが)をお楽しみに。


 

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駆逐艦「長波」慰霊碑〜京都霊山護国神社

2016-09-19 | 日本のこと

夏前に京都護国神社に参拝した時のご報告です。
この広い境内に建立されている顕彰・慰霊碑を紹介していきましょう。



馬に乗った兵士の帽子から、明治時代のものだとわかります。

騎兵第20聯隊
騎兵第120大隊
捜索第16聯隊
捜索第53聯隊

の慰霊碑。

騎兵第20連隊は姫路で結成されましたが、錬成の地が京都の深草だったことから
京都の護国神社に慰霊碑が建てられることになりました。

車での移動中偶然見つけた「陸軍用地」の石柱をきっかけに
伏見が「陸軍の街」であることを知ったのですが、そのせいか、
この護国神社にも陸軍の部隊の顕彰碑が多くあります。

捜索第16連隊は大東亜戦争においてはすでに騎兵ではなく、
軽装甲車2中隊、自動車2中隊としてルソンで方面本部と共に戦い、
そこで終戦を迎えています。

ブロンズ像は結成時の、まだ騎兵だった頃の兵士の姿です。



馬と言えば、ここには愛馬の碑という、軍馬慰霊碑がありました。
「めんこい仔馬」という歌を思い出しますね。



野砲兵第122聯隊の顕彰碑。 

連隊は昭和13年伏見で編成され、直ちに大陸に渡り終戦をそこで迎え、
昭和21年復員してきました。
顕彰碑は生きて帰還を果たした元将兵たちの手によって建立されました。



ひときわ大きく人目を引いた「陸軍特別操縦見習士官之碑」。
揮毫したのは佐藤栄作首相(当時)です。(達筆!)
特別操縦見習士官とは大東亜戦争終盤、高等教育機関の卒業生・在学生中の志願者を
予備役将校操縦者として登用した制度あるいは登用された者を指していいます。
特操と略し、学鷲(がくわし)と呼ばれることもあったようです。

4期生までが養成されましたが、そのうち特攻に動員されたのは1期生と2期生です。
あとは末期になって飛行機と燃料がなくなったため、大部分が生き残りました。

慰霊碑の横にある碑文には、

「二千五百余の若人は学業をなげうち陸軍特別操縦見習士官として
祖国の危機に立ち上った。二期、三期、四期と続く。
ペンを操縦桿にかえた学鷲は懐疑思索を超え、肉親、友への愛情を断ち、
ひたすら民族の栄光と世界の平和をめざして、死中に生を求めようとした。


悪条件のもと夜を日についだ猛訓練を行ない学鷲は
遠く大陸、赤道をこえて雄飛し、あまたの戦友は空中戦に斃れ、
また特攻の主力となって自爆、沖縄、本土の護りに殉じたのであった。」

とあります。
これも建立は「特操会」となっており、生存者らしいとわかります。 

慰霊碑には「隼」「飛燕」など陸軍の飛行機が描かれ、軍刀を手に
立つ彼の座っていた椅子には、書が開かれたたまま伏せて置かれており、
学業半ばにして彼らが戦いに身を投じたことを表しています。




さらに、碑文の脇にはラバウルから採取してきた石が展示されています。



こちらは海軍飛行予備士官の霊を祀る「白鴎顕彰之碑」
上の区域にありました。


舞鶴に海軍基地はありましたが、京都で編成された部隊がなかったらしく、
海軍学徒士官の慰霊碑は密やかなものでした。




後ろの階段から先は一人300円の拝観料を自動改札機に入れて入場します。
理由はわかりませんが、国からの補助がなくなったことと、上には特に
坂本龍馬の墓(慰霊碑ではなく本当の墓所)があるので、誰でも入れるようにすると
何かと面倒なことが起こるからに違いありません。

ゲート手前の境内には並べられたいくつもの慰霊碑が。
左から

歩兵第百二十八聯隊顕彰之碑
  
   ビルマ方面軍の指揮下で戦い当地で終戦を迎える



第128連隊が転戦した戦地が地図で示されています。




その戦地をめぐり集めてきた現地の石と共に、現地に遺されていたらしい
鉄兜と銃が据えてあります。

息子がこれを見て、継ぎ目などが消滅し銃口も塞がっているため

「これ、本物じゃないよね」

と勘違いしたくらい、経年の錆びと腐食が層になって銃身を覆っていました。



◯御宸筆 歩兵第百九聯隊軍旗 奉納の地

◯歩兵第百九聯隊顕彰之碑 
   
   日中戦争から大陸にあり、最終地は湖南省



神社を抱く山の斜面には境内に慰霊碑のある部隊についての
編成から終戦に至るまでの戦歴を記したものがあり、



全員の名前が記されている巨大な石碑がありました。
戦死した者だけでなく、戦後亡くなった人も名を刻むことができるようです。

◯石部隊独立歩兵第十一大隊 北支沖縄戦歿勇士慰霊碑

   天津で編成され、北支から最終的には沖縄戦に参加
   昭和十九年沖縄に転戦米軍上陸と共にこれを迎え撃ち激戦の末
   部隊は突撃を敢行全員玉砕す、と碑文にある

◯第二十三野戦防疫給水部 戦歿者慰霊碑

   ニューギニアで戦死 野上軍医少佐以下138名
   パラオで戦死 河原軍医中尉以下26名
   内地帰還後戦没 高渕軍医少尉以下26名

防疫給水部とは陸軍にあった、疫病対策を目的とした医務、ならびに
浄水を代表するライフライン確保を目的とした部隊を指します。
軍医が隊長を務めていたことから、衛生部隊をも兼ねていたようです。



右から、

鎮魂  前述・歩兵128連隊の慰霊碑


         
ビルマ方面派遣安 工兵第五十三聯隊顕彰碑

足元にはビルマの石で作った狛犬のような像あり

    
   「ビルマの各地に勇戦奮闘 工兵の本領を発揮して輝しい戦歴を残した

    然しながら 雨季の泥濘と乾季の灼熱に加え悪疫瘴癘の戦場に於て 
    長期激戦の為620余名の戦友が護國の神と化した」とある

    補給線を軽視した作戦のため多くの犠牲を出したインパール作戦に参加

◯嵐第六二二七部隊 輜重兵第百十六聯隊顕彰之碑
 
日中戦争後京都で編成された第116師団の輸送・需品科。
慰霊碑には
    
   「もの言わぬ軍馬の献身に支えられて七年間の悲惨な戦いに耐えた 

    長江の流れ アラカンの山 はるか遠い異境の地で 
    血と泥の戦場に散ったわが友よ 再び帰らぬ愛馬よ」
    
とあります。



第百十六師団衛生隊顕彰碑

     病兵の救出収容、警備、医療を任務とする衛生隊
     終戦を迎えた中国・安慶の石とともに



第116師団衛生隊の生存者によって書かれた大陸での戦歴。
5年の間に収容した患者数は13,000以上であることや、戦後生存者が
編成地の滋賀県と安慶市の間に友好を結ぶべく、桜を寄贈するなど
活動と努力を続けてきたことが記されています。



ほとんどがで編成された師団・部隊の慰霊碑となりますが、滋賀も含まれるようです。



ここで有料ゲートから奥の墓所・慰霊碑のある区域に入ってみました。
周りも荘重に設えられたこの一角はおそらく昭和14年からあるものでしょう。



碑の正面、裏面、どこを見ても全く文字が解読できないわけですがorz
これは、墓所の頂上に木戸孝允の墓があることと関係していると見え、

「木戸公神道碑」

と名付けられています。



碑の両脇に左右対称に植えられた樹木には

「明治維新百年記念植樹」

とあります。
明治維新元年がいつかという定義は難しいと思うのですが、仮にこれを
大政奉還の行われた慶応3年(1867年)だとすると、この植樹が行われたのは
1967年(昭和42年)ということになります。



水が淀んでしまっていますが、できた当時は人工滝となる予定だった池。
ここは「昭和の杜」という広場で、大東亜戦争参加者の慰霊のために整備されました。



乃木大将の母の慰霊顕彰碑がありました。

明治29年、乃木将軍は台湾総督となり、母親の壽子と夫人静子を伴いました。
赴任地の台湾で母親は亡くなってしまったのですが、遺言によって亡骸は
台北の共同墓地に葬られ、最初に台湾の土となった日本人移住者となります。

明治天皇大葬の日、乃木将軍夫妻が殉死したのち、
夫妻の遺髪だけが台北に送られ、母堂の墓側に葬られることになりました。

昭和35年中華民国政府は、北投にある中和禅寺に日本人無縁公墓を創建し、
それ以来乃木家の遺骨遺髪を、霊位とともに祀ってくれていましたが、
昭和43年、明治百年記念事業として日本の団体が、乃木家遺骨遺髪及び霊位を
故国に奉還し、ここに合祀して碑を建てたという経緯です。




京都という地勢上、当護国神社には海軍、ことに軍艦の碑は
ないものと思っていたのですが、たった一つあったのが駆逐艦「長波」の碑

昭和十九年十一月十二日
レイテ島オルモック湾に於いて
戦没乗組員二百四十七柱

最近供えられたらしいかすみ草の花束がありました。

長波は1942年6月30日、大阪藤永田造船所で竣工
同年8月北方キスカ島へ船団護衛 
九月南方トラック島へ向う第二水雷戦隊の一艦としてショートランド基地として、
ガナルカナル島の陸軍部隊を支援10数回にわたる輸送を遂行
同年10月南太平洋海戦、11月にはルンガ沖夜戦にニ水戦旗艦として参加、
1943年再度北方艦隊に編入アッツ島支援及びキスカ島の撤収作戦に従事す

この作戦で船体を損傷し、修理のため母港舞鶴に帰港
修理後九月に南下ラバウルを基地として、ブーゲンビル島沖海戦その他の各海戦に参加

11月11日ラバウル港における対空戦闘で被弾し航行不能となり、
巡洋艦「夕張」及び「長良」の両艦に延々5,000海里を曳航され、呉軍港に入港修理後、
翌年七月連合艦隊と共にシンガポール港に入港
10月ブルネイ港を経由レイテ島沖海戦に参加
11月マニラとレイテ島間の物資輸送護「エ」作戦行動中、オルモック湾において
米空母艦載桟350余機と交戦 激烈な対空戦闘の末ついにオルモック湾に戦没する


戦没者 247柱
時刻12時45分
東経124度31分
北緯10度50分



長波の名とともに何人かの記名がありましたが、人数の少なさからみて
これは碑の創建に携わった生存者ではないかと推察されます。



どこかで見た名前だなあと思ったら、このかた自民党の議員ですよね。
林田悠紀夫氏は舞鶴出身で、京都府知事を務めたこともありました。


林田氏は東京帝國大学法学部卒業後、海軍短期現役士官となり、

第三一航空隊主計長としてマニラ、ジョグジャカルタで勤務
1945年4月、ボルネオ海軍民政部経済課長を命ぜられパンジェルマシンに転属
7月連合軍のバリクパパン上陸によりボルネオのジャングルで戦闘に当たった
敗戦後1年間の捕虜生活を送り復員

とWikipediaの経歴にはありますが、「大鯨」勤務だったという記録はどこにもありません。
可能性としては「大鯨」で南方に向かった経歴があるといったところでしょうか。







 

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リッツ・カールトンホテル ラグナニゲール

2016-09-18 | アメリカ

新婚旅行で泊まって以来のリッツカールトンのファンです。

アメリカではハーフムーンベイ、フロリダのキー・ビスケーン、
そしてロスアンジェルス近郊のラグナ・ニゲールのリッツが好きで、
機会があると食事や宿泊に訪れたものですが、この夏、
たまたまアーバイン在住の知人家族に会うことになったので、
そのついでにラグナニゲールリッツに一泊しました。

いつもなら1日いくらでホテルに泊まっているので、
外泊はもったいないという気になってしまうのですが、
今年は月単位でアパートを借りているのでその点気が楽です。

たまたまマリオットホテルのリワード(会員ポイント)が
もうすぐ期限切れというメールが来ていたので、
リッツの宿泊費に充てることを思いつきました。

少し金額を追加するだけで憧れのリッツ、しかもベイビューの部屋に一泊です。



友人と遅い昼をアーバインで食べ、さらには海水客でごった返す
海岸沿いの道路をナビが選択したため、ホテルに着いたのは日没前でした。



部屋は4階のベイサイド。
なんと、ポイントで部屋を予約したというのに、リワード会員だったので
ホテル側がアップグレードしてくれたらしく、クラブフロアでした。

部屋のベランダからは素晴らしい眺め。



ホテルの部屋は大きなベッドが一つだけだったので、予備ベッドを頼みました。
ただ、この日は忙しかったらしく、なかなか届けに来ませんでしたし、
スリッパも常備しておらず、これも注文して届いたのは翌朝。

「あの」リッツのちょっとした凋落を感じてしまったできごとでした。



と、いきなりネガティブ入ってしまいましたが、それは些細なこと。
夕日を見ながら部屋を楽しみます。



アメニティのブランドがアスプレイに変わっていたのも嬉しい。
アパート用にと、シャンプーと石鹸は皆持って帰りました。(貧乏性)

相変わらずゴージャスな洗面所ですが、大理石のシンクや床は、
どうも日本人には「冷たすぎる」と(特に床)感じます。
しかもそんなところで使ううがい用のコップがうっすーいガラス。
案の定、手が滑ってシンクに落とし、割ってしまいましたorz

お詫びのつもりでチップは多めに置きました。



一人部屋になりそうな広いクローゼット。



最初にラグナニゲールのリッツを知ったのは、この椅子の後ろから
広がる海を撮ったホームページの
美しい写真でした。

念願叶って1階の、この椅子の後ろ側の部屋に泊まった時には、
はしゃいでその写真と同じ構図の椅子を撮ったりしたものです。



今日は結婚式がここで行われたようです。

パーティは一応終了したようですが、招待客がまだ語らっています。
やはりリッツで結婚式をあげる家とその知人ですので、
見た目もみなさんゴージャスでいらっしゃる。

アメリカ人は普段超がつくほどカジュアルですが、
いざパーティとなると男女ともにビシッと決めます。



両親がガゼボの下で写真を撮っているので、子供達は
横ではしゃいでいます。



男の子はネクタイにスーツ(ポケットチーフまで!)
女の子はお姫様のような裾の広がったドレス。

こうやって幼い時から「ふだん」とちがった「よそいき」の装いの基本を学ぶんですね。



子供たちが親に呼ばれて走って行くと、すぐにホテルの人が来て
あっという間にガゼボは片付けられてしまいました。



7時過ぎでも陽が沈まないのでサーフィンをしています。



望遠レンズで撮ると彼らの表情まで手に取るように写っていました。

「おらおら、そっちいくぜー!」

「おい、マジでこっちくんじゃねー!」



そしてその後日没を部屋から楽しみました。



開けて翌日。
クラブフロアは朝、昼、夕、夜と食べ物が出されるのでレストランいらずです。



早朝はパロアルト付近のように曇っていました。
しかしカリフォルニアはこのまま1日が終わることは決してありません。
早いと7時には太陽が雲を吹き払い、1日強烈な暑さとなります。

サーフィンをする人たちは夜明けとともにもう海に出るようでした。



またしても望遠レンズの威力を試すわたし。
このサーファーは肉眼では女性であることはわかりませんでした。



昨日結婚式会場になっていたところには椅子が戻され、
1階の部屋の人が朝の新聞を楽しんでいます。



わたしたちはクラブの隣の部屋だったので、せっせと朝食を運び、
テラスで海を見ながら食べることにしました。

アメリカ人は朝ごはんに決して葉っぱを食べないらしく、
どんなホテルでもビュッフェにサラダが出ていたことがありません。



わたしたちがテーブルに着くと、すぐにギャラリーが現れました。



食べ物を残したまま席を立つのを鳥視眈々と待ってます。

 

なんとなく望遠レンズで写真を撮って、あとから確認したら
目玉がしっかりこちらを凝視していました。



怖い。



向かいの椰子の木にもカラスが止まってこちらを見ています。
こちらは黒い目なのでそんなに怖くありませんが。



下の庭(結婚式をやっていたところ)に野うさぎ発見。



ホテルの4階から地面を撮ってこのズーム。
Nikon1の望遠レンズ、優秀です。



植え込みのところからおずおずといった感じででてきました。



なんかここの芝が食べてみたかった、みたいな?
うさぎの白目部分までちゃんと写っているのにびっくり



のうさぎを真剣にiPhoneで撮ってるおじさん(笑)
この写真、一応目にマスクをかけているのですが、あまり効果ありませんね。



野うさぎは白兎よりふたまわりくらい小さいのが普通です。
おそらくこれで体長20cm少しといったところでしょうか。

アメリカではうさぎはどちらかというと「食べるもの」「害獣」で、
日本人みたいにペットにするという感覚は全くないそうです。



見ていたらもう1羽出てきました。
捕まってリッツのディナーテーブルに乗らないようにねー。



チェックアウトを1時に延ばしてもらい、午前中を思い切り楽しむために
わたしたちはホテルから海岸に降りることにしました。



ホテルの周りには「塀」というものがなく、砂浜と行き来できます。



半円形のガラスのあるところはホテルのジムです。



一番端のコーナーまで来てみたところ、ここでヨガ教室をしていました。
驚いたのは、ヨガの先生がものすごく太っていたことです(推定体重1t)

「あんなに太っていてヨガの先生ってなんか説得力なくない?」

「っていうか、あれでいろんなポーズ取れるんだろうか」

実はかなりその点興味津々だったのですが、ジロジロ見るわけにも
さらには写真を撮るわけにもいかず、わたしたちはその場を去りました。



この脇の階段から海岸に降りていくことにしました。



ここにもサーフィンを楽しむ人々がたくさん。
みていると、プロ並みの人もいるのではないかと思われました。



どう見ても中学生。いや、小学生かな。



パンツが脱げそうで見ていてハラハラした人。



年齢も様々です。



男性と女性サーファー。



この人はプロ(確信)



サーフィンは激しいスポーツらしく、太った人はまずいません。



TOは砂浜を歩きに行き、わたしとMKはジムに行くことにしました。
運良く真ん中のマシンが空いていたのでここで海を見ながら運動。

わたしに言わせるとここは「世界で一番いい眺めのジム」です。



たっぷり汗をかいて部屋に戻り、シャワーを浴びて一休みです。
日曜日なので浜辺には海水浴客がこんなに。



サーファーもイモ洗い状態。(アメリカにしては)



水上バイクで競争している人たち。



クルーズかドルフィンウォッチ?ジェットボートで運ばれる人たち。



もう一度部屋からサーファーウォッチングを楽しみました。







チェックアウトしてからメインダイニングに昼食を食べに行きました。
十分昼ですが「ブランチコース」だそうです。



アイスティー(日本のよりあっさりしている)を頼むと
サトウキビのスティックが刺してありました。
飲み物が甘くなるほどではありませんが、噛むとほんのり甘みがあります。



ペット用のメニュー(どこで食べるの?)があったのには驚き。

挽いたサーロインをソテーしニンジン、セロリ、ポテト、ブロッコリ、
カリフラワーと混ぜて焼いた「ドッグボーンミートローフ」18ドル。

鶏胸肉と米とヨーグルトをミックスした「パピーラブ」18ドル。

生、あるいはグリルした鮭「キティーズ・サーモンシュプリーム」20ドル。

うーん・・・・・(絶句)。



デザートですか?いえ違います。
サンデー『ブランチ』なので最初にヨーグルトが出てきました。



幾つかのメニューから選べるので怖いもの見たさでスシを取りました。
ちゃんと海苔巻きのスシがでてきたのには感動しました。
(アメリカ人はノリの黒が嫌いなので外に巻かないことがある)



TOが頼んだホタテとマグロ。



わたしのはポーチドエッグの下にカニだったかな。



さらにデザートが一人一つ出てきたりするのだった。
家族で外食するとき、デザートはたいてい三人でシェアしますが、
ここではもう覚悟を決めるしかありません。
息子はチュロスは喜んで食べてしまいましたが・・・、



さすがにチーズケーキ(しかも大きい)は多すぎました。



なんでもリッツがここオレンジカウンティの「海以外何もない土地」にホテルを建て、
観光地にしてしまったというのがこのラグナニゲール・リッツ。

またこの大好きな場所で海を見ることができて幸せなひとときでした。





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「ゲダンク」の鉄則とリサイクル事情〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-09-17 | 軍艦


「マサチューセッツ」の艦内探訪、続きです。

先に艦内を最後までご紹介して、展示品については後日、
他の艦艇などをご紹介し終わってから(いつになるかわかりませんが)
取り上げていこうと思っていたのですが、PTボートとケネディの話に
食いついてしまい、中断してしまったのを<(_ _)>します。

さて、今日は調理場からです。
1日目の見学で、広い艦内の半分しか見られなかったため潔く撤退し、
次の日にまた続きとして見始めたのがここからでした。

ちょうどメインデッキの 一階下にメモリアルルームがあります。
わたしはアップルのキャップを昨日脱帽してベンチに置き忘れたのを思い出し、
真っ先にメモリアルルームに駆け込んでみたら、ビデオのプロジェクタの前に
昨日置いたままの状態で見つかりました。
思わず「あったー」と独り言。
ありがたく回収して昨日の続きから始めました。

メインギャレーと呼ばれる兵員食堂です。



ここの展示でマネキンに出会ったのはこれが初めてでした。
不自然に首が長いけど男前の水兵が一人でぼーっと
シンクに手を突っ込んでおります。
調理係であれば帽子やエプロンを身につけるはずなのですが。

彼が立っているのは大量にシチューなどを煮込む道具か、
上部で食べ物を温めておくテーブルではないかと思われます。

本日のメニューは、ハンバーガー、マッシュドポテト、そしてトマトスープ。



向こうの方にある金属トレイは、自衛隊でもおなじみ。
懇切丁寧な自衛隊の食堂では、「盛り付け例」を写真で解説し、
さらにはどこを指で持つといい、などと教えてくれますが。

にんじんのグラッセとグレービーソースらしきものも出ています。
食堂のキッチンは夜昼なく稼働しているものなので、調理係たちは、
時として天井から吊ったハンモックで寝なければならなかったそうです。

帝国海軍の兵員は基本ハンモックを吊って寝ていましたが、米海軍では
「よっぽどの場合」しか使われることがありませんでしたから、
厨房の仕事とは「よっぽど」が多かったということなのでしょう。




左手奥には大きなバスタブのような釜がずらりと並んでいます。


あえてクラムを散らして「いかにも今誰かがとっていった風」。
デザートはチョコレートブラウニー。

ここでは「マサチューセッツ」の2000人の男たちの胃袋が賄われます。
食事時になると「チャウ・ライン」(Chow line)という列がカウンターにでき、
それは右舷と左舷の通路まで延々と伸びて、食べ物を取った後も、
「バーベット」の周りのカウンターの椅子やベンチ、艦尾にある共同部屋まで続きます。



これがバーベット。
バーカウンターみたいだから”バー”ベット?とオモタのですが、
バーベット(Barbette)というのは旋回砲塔下部の装甲円塔をいいます。

16インチ砲の砲塔に弾薬装填を行うための鋼鉄で装甲された巨大なシリンダーは
砲塔からセカンドデッキまで、そしてその先甲板の下5階まで繋がっています。

ターレットはバーベットの上部に当たる部分にあるベアリングにそって動きます。
バーベットの内部には、発射体、トレイ、マガジンから弾薬を持ち上げる
ホイスト(巻上機)などがあります。

16インチ砲を稼働させるのには125名の人間が必要であり、
バーベットそのものの重量だけで駆逐艦1隻分に相当するそうです。
バーベットの壁面の厚さは12インチ(約30cm)。
この分厚い装甲が敵の砲弾や航空機の爆撃から砲を守ります。


で、そのバーベットのカーブ、またカウンターにぴったりなんだこれが。
というわけで、ここにも備え付けのチェアをつけてしまいました。
ついでに、このカウンター部分も「バーベット」と呼んでいたようです。



さて、それではここはなんでしょうか。



「米軍アイスクリーム事情 ハルゼー提督とアイスクリーム艦」という
項のためにマンガを描いたわたしとしては、あれを描く前にここに来ていたら、
と大変残念に思ったものです。

「アイスクリームによってアメリカ軍人は士気を鼓舞された」

という驚くべき事実について(笑)語るついでに、

「アイスクリームの元には階級なく皆平等」

という不文律にしたがいアイスの列に並んでいたハルゼー提督が
順番抜かしした若い士官を一喝したというあのお話を漫画化してみましたが、
いまいちどんなところに彼らが並んでいたのかがわからなかったのです。
まあ実際に見て、描いたものと差はない気がしましたが。

艦の「ソーダファウンテン」(ソーダファウンテンから出る清涼飲料水を
アイスクリームや軽食などと共に提供する店のこと)を

 GEDUNK(ゲダンク)

といいました。
アメリカ海軍内の「俗語」で語源はよくわかっていないのですが、
ベンディングマシーンの操作音が「GEE-DANK」と聞こえるという説、
もう一つは当時のマンガ「ハロルド・ティーン」の主人公ハロルドが、
地元のパーラーで「ゲダンク・サンデー」を食べていたからという説、
さらには、中国語で ”Place of Idleness" (怠惰の場所?)という言葉を
そう発音するからという説まであるということです。

艦内のソーダファウンテンは、兵士たちに故郷のグロッサリーストアや
薬局などを思い出させる懐かしい場所でもありました。
当時はそんなところにソーダファウンテンのカウンターがあったのです。

ゲダンクバーは1日に数回だけしか開けませんでした。
ハルゼーの座乗した艦でアイスクリームに行列ができた理由は
おそらくこれだったのでしょう。



ゲダンクのメニュはソーダファウンテンから出るソーダ、アイスクリーム、
そしてソーダアイスクリーム(案外ゲダンクが発祥だったりして)、
コークにグリルドサンドウィッチなどといったものが定番でした。

後ろのモニターではかつてゲダンクで働いた人が思い出を語っています。

後方に二酸化炭素のボンベがありますが、これはもちろんのこと、
ソーダファウンテンで炭酸飲料を作るためのでしょう。

アイスクリームのバーにはディッシャーを水につけておく部分があって
現代のものと全く変わりません。





ハルゼーのエピソードですっかり有名になってしまった話ですが、
ゲダンクにおいては階級にかかわりなく全員が平等でした。
これは絶対で、どんな艦においても存在した黄金のルールでした。

なぜならば、ゲダンクはどんなに大きな戦艦でも空母でも、
艦内に一つしかなかったからです。



C.P.O.チーフ・ペティ・オフィサーつまり上等兵曹のための調理場。
上等兵曹は「E-7」、シニア・エンリステッド・マン、下士官の一番上位です。
彼らには専用の食堂や専用のベッドコーナーでの居住が許されていました。

ところで、その他の下士官兵の食事の列を「チャウライン」といいましたが、
この「チャウ」と言う言葉、東京裁判で裁判の間収監されていた巣鴨拘置所で、
戦犯とされた元軍人らは食事のたびに


「チャウ」「チャウ」

と言いながら米軍兵が食べ物のトレイをおいて行ったことを皆が覚えています。

「”めし”という意味で、なんでもあまり上等な言葉ではないらしい」

と誰かが書き残していたそうですが、そんなに下賎な意味はなく、
兵隊のランクが食事のことを普通にこう言っていたにすぎません。

もっとも拘置所で出される食事は、囚人用をわざわざ分けて調理しなかったため、
ひもじい思いをしている国民に「申し訳ないくらい」豪華なもので、
海軍の嶋田大将などぷくぷくと太り始めたぐらいだったそうです。 




おしゃれなイラストで「ボタンを押す」とあります。
もうすでにそのボタンは無くなってしまっていますが、
中の人に用事があるときにはボタンを押したのかもしれません。



その他大勢の下士官兵だと、「チャウライン」を作らなければならないのですが、
上等兵曹になると、専用キッチンで作られた食事を、
自分の寝床から薄い壁で仕切られた「メス・コーナー」で食べることができました。

ギャレーで用意されたスナックなども「mess man」という専用の係に
運んできてもらうことができたといいます。



こうしてみるとその他大勢とあまり代わり映えしないメニューって気もしますが、
長い列を作るのと運んできてもらえるのは大きな違いだったでしょう。

ところで巣鴨拘置所で収監されている戦犯容疑者たちに食事を配る係が
もう少し上のランクならば、普通にミール、とか

ブレックファーストなどと言ったのかもしれません。
少なくともオフィサーの食事は「チャウ」ではなかったはずです。


それでは違うキッチンで専用の係が調理を行っていた
上等兵曹たちは
食事のことを何と呼んでいたのでしょうか。
答えは

1、「ちゃう」

2、「ちゃうとちゃう」

さあどっち?






たしか「フードプリパレーションスペース」となっていました。
野菜の下ごしらえなどをする部屋のようです。
野菜、といってもとくにじゃがいもを大量に剥いたり洗ったりは大変。
というわけで、ちゃんと専用の機械を作ってしまったのです。

奥の機械はおそらくじゃがいもや果菜の洗浄機。
右はじゃがいもの・・・皮むき器だったりしたらすごいけど多分違う。



とにかく皮むきが必要なものがあるようです。



レモンのブランドがなぜか「カッター」。
沿岸警備隊向け商品だったのかな。



さて、そんな風にして人はゴミを出しながら生きていくわけですが、
そのゴミをいかに処理するかも船では結構な問題になってくるのです。

食品準備室と同じ階に巨大なゴミ捨て場がありました。
グラインダーと呼ばれる大きな桶でいわゆる生ゴミを粉砕し、
そのあとポンプで艦外ににどばーっと排出してしまいます。
この作業は通常日没以降に行われました。

また、ビルジ(淦水、船内に溜まる汚水や垢)が排出されると同時に
取り込まれる空気がススを煙突から吹き出す役目をしました。

これらの作業は夜明け前に行うことによって漂流物から
敵に艦隊の位置を特定されることを防止していました。



ゴミといえば(笑)本当に人間ってゴミを出しながら生きているものですよね。

アメリカではリサイクルとそれ以外、という大まかな分け方で捨てるだけです。
「ダーティジョブ」でやってましたが、業者が処理場で仕分けするんですね。
ところが日本はゴミを出す人が全ての仕分けを済ませる仕組み。
日本に帰ってきた途端牛乳パックや納豆のプラスティックを洗いながら、

♪ ぼくらはみんな生きている 生きているからゴミを出す
僕らはみんな生きている 生きているからゴミが出る
ゴミ袋を太陽に透かしてみれば 自治体・推奨・半透明
資源だって 普通だって 生ゴミだって
みんなみんな 捨てていくんだゴミの日なんだ ♪

とついつい自作の替歌を口ずさんでしまうわたしです。

それではビッグマミーが現役だった戦時中、リサイクルという概念はあったのか。

我が帝国では残念ながら金属が不足していたので、仏像や銅像も溶かして
リサイクルして砲弾なんかを作っていましたし、ガソリンも「血の一滴」として
大事に使ったり、代用燃料のために松の根を乾溜したりしておりました。

ネカチモ国アメリカはそんな必要なかっただろうと思いきや、
やはりリサイクルの概念はあまねく国民に行き渡っていたようです。

鉄、金属、アルミニウム、銅、金銀などの金属類。

廃油、ゴム、絹、石油製品、そして布類。

これらは全て戦時下でのリサイクル対象でした。
まず金属、これはもうリサイクルの基本です。

そもそも、現在アメリカの博物館や公園などで見られる
第二次大戦中の銃や大砲のほとんどが、南北戦争、米西戦争、
そして第一次世界大戦の時の武器をリサイクルして使ったものです。

廃油は爆発物に使うためのグリセリンに加工され、絹はパラシュート、
兵士たちのスカーフ、あるいは天幕に利用されました。

ゴムは車両や航空機のタイヤ、救命筏などや医療器具の部品、雨具に。
古新聞古雑誌は製紙業者に回収され、リサイクル。(基本ですね)


リサイクルといえばまたしても余談ですが、
蓄音機時代のSPレコードが何でできているか知ってますか?

実はshellacといってカイガラムシの分泌する天然樹脂で、
酸化アルミニウムや硫酸バリウムなどの微粉末を固めて作りました。

アメリカはこのカイガラムシを東南アジアで採取していたのですが、
日本が仏印進駐でベトナムに、そしてビルマ攻略の時にタイにも侵攻したため、
このカイガラムシが取れなくなって国内に少なくなってしまったのです。

この結果カイガラムシの樹脂を使ったSPレコードは廃れましたが、
コーティングにプラスティックが使われたのは軍関係の装備だけで、
相変わらずコーティング剤としては必要とされていたそうです。

カイガラムシくらいあの広いアメリカのどこかにいなかったのか。




覗き込んで落ちないように、ちゃんとプラスチックの蓋をしてある気配り。
焼却炉を赤くするというのはちょっとイケてるセンスだと思います。



焼却炉前のスペースは以外と小さく、膝の高さの通路のある壁で区切られています。
扉のドッグ(レバーのことですよ。ここ試験に出ます)は赤く塗装され、
いざ!という時にはここを閉めてしまいなさい的な雰囲気が漂っております。



この日は週末でバトルシップ・コーブ全体でみるとそこそこの
観光客がいましたが、わたしのように隅から隅まで見逃すまいと、
あちらにもぐりこんだり登っていったり降りたりと言うような見学を
している見学者は皆無でした。

というわけで、ここから先、さらにディープな部分へを
一人っきりで進んでいきます。

続く。


 

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PTボート艇長JFKと「天霧」艦長の手紙

2016-09-15 | アメリカ

戦艦「マサチューセッツ」艦内には、コンパートメントを利用して
博物館のようにテーマを決め関連する展示を行っています。
これはカリフォルニアの「ホーネット」と同じ方式です。

今思い出せるだけでも、慰霊のための「メモリアル・ルーム」の他は
「ウーマン・プロテクティング・ US」(女性がアメリカを守る)という
「アメリカ軍と女性」に焦点を当てた企画、Dデイ、真珠湾攻撃コーナー、
それからPTボートと呼ばれる高速魚雷艇のコーナーなどがありました。



Patrol Torpedo boat、哨戒魚雷艇。
全長20m、排水量50t程度の木製の船体に航空機用エンジンをデチューンして搭載し、

40ノット(約70km/h)以上の高速で航行することができました。

「魚雷艇」ですので、中央部分にはMk13魚雷を積んでいます。
初期は魚雷落射器とのセットを4組搭載することが多かったようですが、
この艇は後期のものらしく、2組だけです。





魚雷や機銃や機関砲、さらには対戦車砲をも搭載する型もありました。
排水量あたりではかなりの重武装といえます。
これは40mm機関銃。




乗員のネズミがかわいいぞー。てかなぜネズミ?
艇首の茶色いネズミが撃っているのは、アス比が正確でないので
確かなことはわかりませんが、エリコン20mmのような気がします。



艇長(白ネズミ)と副長(茶ネズミ)はちゃんと軍帽着用。
テッパチにカポックの乗員もおります。



なぜかセーラー帽に青いシャツの水兵もいますが。
右側のテッパチ白ネズミさんの武器はブローニングM2機銃のつもりかと思われます。



なにやら記録しているエンジニアらしきネズミ。



戦争中には768隻(アメリカ向け511隻、ソ連向け166隻、イギリス向け91隻)と
量産され、1隻ずつが「スコードロン」だったので、いちいちこうやって
各艇のメモリアルコーナーをブースごとに並べているわけです。

一つ一つ見て歩きたいのは山々でしたが、いかんせん限られた時間、
写真を撮るにもあまりにもブースが多すぎて断念しました




代表して一つだけ、スコードロン20のPTボートのコーナーの写真を撮りました。
正式な艇名は、「U.S.S. PT-252」というふうに呼称されていたものです。


中央のプレートが全艇員の名なのだとしたら、42名分あるわけですが、
定員は2〜3名の士官を含む11〜7名だったといいますから、
この勤務もせいぜい1〜2年で移動となったのかもしれません。

スコードロンマーク。

ついでに?となりのスコードロンマーク。


PTボートは予備役士官と応召兵で運用が行われました。
一般の大学に設置された予備役将校訓練課程( ROTC)を経た士官を
予備役将校といったわけですが、若き日のJFKもハーバードでこの課程を受け、
PT-109の艇長をやっていたことがあります。



右端がケネディ中尉だそうですが、なんというか同じ目線というか、
すっかりナカーマという感じのフレンドリーな雰囲気ですね。
写真を撮っている人を入れて11名が乗り組んでいたようです。

ケネディ艇長指揮のPT-109は、1943年8月2日、ニュージョージア島西方で
輸送任務に就いていた日本海軍の駆逐艦「天霧」に衝突され炎上・沈没しました。


これは戦闘行為ではなく、「天霧」の操艦ミスでした。
「天霧」に座乗していた司令官(艦長ではない)が、PTボートの接近を見て
魚雷艇に衝突してしまうと魚雷の誘爆に巻き込まれるかもしれないと判断し、
回避のために「取舵」をまず指令しました。
ところが艦長が次の瞬間「面舵」と号令してしまったのです。

なんでやねん。

と思うわけですが、実はこれは艦長に理がありました。
緊急回避の際は面舵いっぱいというのが艦船の通例であり常識だったので、
艦長はおそらく自分の「常識」から脊髄反射で「面舵」を口に出し、
次の瞬間司令の号令とは逆であることに気がついたのでしょう。

先日どこかに書いたように、海軍の慣例では、座乗している司令官が
たとえ階級的に上位であったとしても、艦の操艦権限は艦長にあります。
この場合、最初に司令が回避命令を出したのは越権行為というべきものでした。

しかし、そこで性格によるものか、空気を読んでしまったのか、それとも
出世とかあとあとの気まずさとかを日本人らしく考えてしまったのか、
次の瞬間艦長は「艦長絶対」と「操艦のセオリー」より、上官命令を優先し、
とっさに命令の言い直しをしてしまったのです。


つまりいったん出した「面舵」を「取舵」と修正して号令し、
その結果駆逐艦はPTボートに激突してしまったというわけです。

艦長が自分の出した命令を言い直しさえしなければ、衝突は回避できたかもしれません。
つまり、この衝突の最大の責任は、分をわきまえずに最初に命令を出した司令ではなく
艦長にあったことになります。




PTボートが木でできていたということを示すための展示。
このパーツはPT-139の「サイドセクション」だそうです。

普通のPTボートはマホガニーの2層のレイヤーでできていました。
レイヤーには水漏れを防ぐため、防水を施した航空機用のキャラコ布を挟んであり、
まさに板切れを鋼鉄のパーツでつなぎ合わせたという感じの代物です。



この下の木片は船底部分だそうです。
とにかくスピードを確保するために、軽い船体に航空機用のエンジンを
デチューンして搭載しているというのが売りだったのです。

さらに艇体の軟弱さは、航空機エンジン搭載のスピードでカバーできる、
という思想で、このケースでも本来なら衝突を避けるためにPTボートの方も
全速で逃げればよかったのですが、不運なことにこのとき、

日本軍の航空機による攻撃を避けるため、騒音および航跡を残さないように、
三基の内二基を使用しない、減軸運転を行っていた。
ゆえに速度が遅いまま航行していたので魚雷艇側も舵の効きが鈍く、
回避が困難であった。(wiki)


というわけで駆逐艦「天霧」とぶつかったPT-109はひとたまりもなく、
胴体が真っ二つに割れ、海の藻屑になってしまいました。 


ケネディ艇長とその乗組員は近くの小島に漂着し、
数日後に救助されたのですが、このときのことが映画になってます。



1963年作品。監督レスリー・マーティンソン。(誰?)
きっと「天霧」の艦長が極悪人みたいに描かれてるんだろうなー(鬱)
見たいような見たくないような。

それにしてもこんな題材で2時間20分の超大作って。
まあ、おそらくこんな光景が展開されたのでありましょう。

この映画はケネディ暗殺の5ヶ月前に日本でも封切られているそうです。



ケネディのボートは、もともと日本軍と対峙していたツラギに配属され、
日本軍の輸送業務を妨害する任務でソロモン諸島に向かったのでした。
会敵できず帰投する航行中、不意に「天霧」に遭遇、いきなり衝突、
このときにすでに2名が戦死しました。

ケネディと残りの乗員たちは海の中で「天霧」が去るまでじっと待ち、
その後大破した船体の木にしがみついて、近くの島まで泳ぐことにしました。


このときケネディは負傷した部下の命綱を咥えて6キロ泳ぎ、さらには
島に着いた後、救助を求めて5キロ以上を泳いだということです。
ケネディはハーバード時代、水泳部だったのでした。
これを見る限り背泳はあまり上手ではありませんが。

7 Photos of JFK's Harvard Swim Team Days

ハーバードのプールは、タイタニック沈没でハーバード卒業生だった
息子を亡くした
富豪ワイドナー未亡人の寄付でできた(ワイドナー図書館も)
といいますが、ということは、
ケネディがこのとき命存えたのも、
間接的にワイドナーの寄付のおかげだったといえないこともありません。


しかしそれでなくても、鱶がうようよしている海でよくまあ無事だったものです。


彼らがたどり着いた島には水も食料もなかったため、ヤシの実がある島へ移り、
ココナッツにメッセージを刻んで、そこの島民に連合軍に届けるよう託しました。
それはうまくオーストラリア軍の手に渡り、6日後にケネディたちは救出されました。

ちなみにこのメッセージ入りのココナツは、その後彼が大統領になったとき、
執務室にずっと飾ってあったそうです。


艇沈没後の行動はともかく、海軍的には、このときのケネディ艇長の資質を
疑問視する声もあったと言いますが、ケネディの父ジョセフは、
海軍・海兵隊勲章を受け取れるよう手をまわして息子をヒーローに仕立てました。
彼は政治家になる前にすでにこの件で十分に有名人だったのです。
後に下院に立候補した際には、宣伝材料としてこれを報じた記事が配られました。
(もちろん配ったのは父親) 

さて、ここで注目したいのが元「天霧」の艦長始め乗員たちです。

彼が上院議員に立候補したときそのニュースは日本に伝わりました。
「天霧」乗員一同は、自分たちが沈めたボートの艇長が
生きていて政治家になったことに驚き感銘を受けたのでしょう。
1952年の上院選と1960年の大統領選の際には元乗員一同の名で
ケネディに激励の色紙を贈ったりしたそうです。

天霧乗員たち(海自隊員の姿あり)

そして、そのケネディが訪日したとき、「天霧」の艦長は
こんな手紙を送りました。


1952年9月15日 


親愛なるミスターケネディ、

わたしはホソノグンジ医師から、1943年ソロモン海域での戦闘で
日本海軍の駆逐艦に沈められた戦闘艦があなたの指揮下にあったのを聞きました。

その駆逐艦の艦長であったわたしにはそれは大いなる衝撃でした。
1952年8月18日付のタイムマガジンにそのことが書かれており、
読んだ途端にわたしの記憶は新たに蘇り、まざまざとあのときのことが浮かびました。

(中略)

今こそわたしにあのときのことをお話しさせてください。
わたしは1940年10月以来「天霧」艦長を務めていました。

日米両国の最終的な外交努力の成功に最後の望みをかけつつも、
当時日本が置かれた経済状況を鑑みて、日本海軍は最悪の準備を行いました。

わたしたち若い士官にも、海軍力で劣るアメリカと英国を相手にすることが
いかに無謀なことかはわかっていましたが、極秘のうちに計画された
真珠湾攻撃を知ったときにはまさに動揺を禁じ得ませんでした。

ほとんどの海軍軍人はこの戦争の成り行きに普通に悲観しておりましたが、
東条大将の内閣の巧みな開戦時の宣伝によって
勝利への希望的観測を
持たされていたといえましょう。

ミッドウェイ海戦以降、状況は変わり、日本とは違って
米国は政治的にも、国民の戦意も、全てが有利になっていきました。

わたしはソロモン諸島での戦いに従事しておりましたが、
ガダルカナルでの連続した敗北に対し、憂慮を感じていました。

1942年から3年5月までの間、わたしはトラック諸島での海上勤務で、
その後駆逐艦「天霧」の艦長を拝命しラバウルに移ったのは6月です。
その頃からアメリカ軍の反撃はますます激しくなりました。

制空権も取られ、昼間動けなくなった我々は、駆逐艦で夜になると
アメリカの人員と弾薬を輸送する任務を妨害しなければなりませんでした。

我々の旗艦はあなたがたの艦隊にいとも簡単に沈められました。
我々は知る由もありませんでしたが、レーダーの力です。
この後の連続的な敗北の後、我々はラバウルに後退しました。


1943年8月初頭、わたしは、駆逐艦としては大型のわたしの艦に

向かってくる小さな敵の艇を見ました。
銃に装填する間もなく両者は接近し、我が駆逐艦は
ボートにまず激突し、
これを真っ二つにしました。

このPTボートがあなたの指揮する艇であったことは衝撃でした。

わたしは、あなたがこの戦いで見せた大胆かつ勇気ある行動に
心から敬意を表するとともに、また、あなたがこのような状況下から
奇跡の生還を遂げられたことを祝福するものです。

タイム誌の記事によるとあなたは次の選挙で上院議員に立候補されるとか。
あなたのようにかつての敵にも寛容である方が高位についてくださったら、
間違いなく日米両国の真の友好が、のみならず世界平和の秩序もまた
促進されていくものとわたしは固く信じています。


あまり丁寧に訳していませんがおおまかな意図は間違っていないと思います。

正直、とくに前半の部分は、読んでなんだかなあ、と思いました。

戦争の経緯ををことさら解説せずともケネディには周知のことだっただろうし、
全体的にも、なんだか自分たちを卑下しすぎやしないか、と感じたのも事実です。


ケネディもそのときは日本の輸送船を沈めるために出撃していた訳で、
お互い自国のために戦う軍人として相見えたというだけなのですからね。

ただ、衝突事件についてどっちが悪いとか、沈めてごめんなさいとかではなく、
健闘と勇気を讃えて、さらに政治家としての成功を祈るという、
非常に清々しい、ネイビーらしい手紙であるとも思いました。


あるケネディ研究者によると、この事件は、
ケネディのその後の人格形成に大きく影響しているそうです。

なかんずくそれは、大義のために死んでいくことへの疑問や
全面戦争とか総力戦といった言葉への嫌悪となって表れました。

”政治が我が子を戦場に送り出すことに留意するとき、
その目的には明確な信念と理由ががなければならない”としている。
そして大統領に就任後は、大国同士の誤算を懸念し、
意図せずして戦争に巻き込まれていく危険を常に意識していた。
(wiki・一部変更)


ケネディが手紙をどのように読んだのか、もはや想像するしかありません。

実際に彼がこの衝突事件で生死の境をさまよったことが

彼のリベラルな思想を形成した、という分析はほぼ間違っていないでしょう。

ゆえに未来の大統領は、かつての敵から送られてきた手紙の、とりわけ

「東條内閣の宣伝によって我々は勝てる気がしていた」

というところに、
あくまでも「他山の石」的な意味で
小さく共感を覚えたのではなかったか、
と想像してみます。

+おまけ+
 


ケネディのメッセージ入りココナツをオーストラリア兵に届けた
島の住民、ビウク・ガサおじいちゃん。

「J.F.K. はわしが助けた」のTシャツを着ています(笑)

 

 

 

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廃材記念グッズ〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

2016-09-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

ボストンの偉大な歴史遺産であり、観光資源であり、
またアメリカの象徴でもある
帆船「コンスティチューション」。

1度目の訪問時には甲板下は公開されていなかったのですが、

わたしは「改修中なのでそんなものだろう」と思い、
来年の夏にでもまた来てみよう、と考えていました。



明日はボストンを離れるという日、息子をキャンプからピックアップし、
ルイーズランチで記念すべきお昼を食べてから、まっすぐボストンに向かいました。
フリーウェイは渋滞もなくスムーズで、3時にはボストン着。
レンタカーを返すまで時間があったのでどこかに行こうという話になったとき

「コンスティチューションっていう帆船がチャールズタウンにあるんだけど」

とわたしが家族に提案して2度目の見学が実現しました。



前回は曇っていて肌寒く、長袖を着ていても震え上がりましたが、
この日は晴天の、しかも湿度の高い1日。
観光客も皆半ズボンにサングラス、女性はノースリーブ、男性は
野球帽にサンダルや運動靴といった、

「夏のアメリカ人観光客・スターターパック」

に身を固めております。

参考画像

わたしたちもこのセキュリティチェックの列に並びました。
この写真で左側に見えている「コンスティチューション」の乗員に
並んでいる観光客が話しかけていたのを横で聞いていたのですが、
彼はなんと

「ここに配属される2週間前までブートキャンプにいた」

と言っているではないですか。
つまり、新兵さんとして海軍で言うところのリクルートトレーニングを受けた、
ということなのですが、口語的に彼はそれを「ブートキャンプ」と説明したわけです。

新兵訓練というとわたしたちは「ハートマン軍曹」を思い出すわけですが、
海軍だって兵隊を育てるわけだからそれは似たり寄ったりのはず。
その「地獄のブートキャンプ」を終わった彼が、

「はい君、初の任地はコンスティチューションね」

と言われて、は?と目が点になってしまったことが想像できます。

「コンスティチューション」の使命は海軍の歴史と象徴としてのこの船を
後世に伝えるスポークスマンです。
ですから、海軍のセーラー服ではなく、上下白に胸元バンダナ、といった
1812年当時の水兵コスプレ(プレイじゃないか)をするわけです。

「コンスティチューション」乗員

司令官を始め幹部3人は当時の士官のいでたち。
新兵さんの赴任地としては「は?」かもしれませんが、艦長にとっては少し違うようです。

当艦、America's Ship of State といわれる特別な船で、
艦長の名前はこの未来永劫アメリカに残す予定の艦内の金のプレートに刻まれ、

これも未来永劫残っていくのですから、やはり名誉職という位置付けなのでしょう。


「アメリカの艦艇にしては手入れが行き届いている」というご指摘がありましたが、
乗員たちの主な仕事が「艦内掃除」であるならそれも当然でしょう。
機械を一切用いない「軍艦」なので、それらのメンテナンスにかかる時間は全て
もやいをさばいたり、帆を張ったり降ろしたりの訓練、そして掃除に費やされるのです。

それに艦長の任期はせいぜい2年、他の乗員も頻繁に転勤しますから、
長い海軍人生の少しの時間でもこの歴史的帆船で過ごすことは
彼らにとっても貴重な経験ともいえるのではないでしょうか。
(決してずっとだったら嫌だろう、と言っているわけではありません)



この間より修復工事が進捗しておりました。
甲板に乗り込むためのラッタルと並行して、黄色い何かが
甲板から岸壁に渡してかけられています。



なんと荷物を滑り落とすための滑り台でした。
いや、まさか人が降りるためではないですよね?



見れば見るほどがっつりと足場を組んで、かなり大掛かりな修復であるのがわかります。
「コンスティチューション」がこの前に修理されたのは1996年で、これが44年ぶり。
今回は22年ぶりで、かなり修復の間隔を狭めてきているようです。

22年前とは修復技術にもかなり進歩の点で違いがあるのに違いありません。



塗装も腐食を抑える塗料が日進月歩で開発されているとか。



クレーンも、今ではクレーン車で岸壁ぎりぎりに設置することができます。
これは足場を組む機材を下ろすためのクレーンだと思われます。
そういえば、前回来てから約10日経っていましたが、足場が前より増えている気がしました。



向こうに見えているガントリークレーン、かなりの年代物に見えます。

この写真、結構貴重な修理過程ですよね。

主にウォーターラインより下の舳先部分の木材を取り替えているわけです。



破損した部分なども思い切りよく廃材にして作り直してしまうようですね。
「ミスティック・シーポート」もそうですが、こういう国の補助がある限り、
帆船の修復・造船技術は決して絶えることなく残っていくことができるわけで、
本当にその点アメリカという国は先進国であると羨ましく思います。 

見れば見るほど横須賀のドックに似ている、ここチャールズタウンシップヤードの
第1ドライドック。(できた時期はこちらが80年ほど早い)

地図を見るとたくさんドックがあるような形をしていますが、実際に
ドライドックとなっていたのは、第1とその後できた第2だけだったそうです。  



ここはアメリカ最古のドライドックですが、それでは世界最古はどこかというと、
やはり海洋王国イングランドのポーツマスに1495年にできたものだそうです。



チャールズタウン・ネイビーシップヤードは1800年に開設されましたが、
その12年後、アメリカにとって歴史的に重要な戦いが起こりました。

アメリカ人もだいたいのことは学校で習うのでしょうが、
やはりよく実際はよく知らない人が多いらしく、
コンスティチューション博物館には
展示入り口にこんなことが書かれていました。

「誰が何のために戦ったのか、もしあまり詳しく知らないのだとしたら、
ここはまさにそういうあなたのためにある場所です。

さあ、それではこの忘れられた1812年の戦争と
コンスティチューションを
知る旅のために、
帆を張る準備をしましょう」


アメリカ人でもこんなものですから、おそらく日本人は米英戦争といわれても
まったく知識がないか名前だけ知っている程度でしょう。(わたし含め)

そこでさくっと説明しておくと、この戦争は、
新天地を巡って
アメリカとイギリスがアメリカ大陸各地の取り合いをしたんですな。


といってもそこはそれ、頭のいい白人様同士ですから、
米英はお互い先住民族(インディアン)
を使って代理戦争をさせたりしたわけです。

戦争したり独立した割に米英の仲がそんなに悪くないのは、そのせいかな?(嫌味)



なんてリアリティのある海戦中の情景でしょうか。
ここにはこんなことが書かれています。

ここは1812年です。
あなたは戦うことを約束されたコンスティチューションの水兵です。
あなたの船は咆哮する大砲に激しく震え、煙の輪が目にしみて視界を奪い、
恐怖の涙は喉を伝い・・・しかしあなたは戦い続けねばなりません。

そして「皆は一人のために、一人は皆のために」という標語。
 





この二枚の「コンスティチューション」は、いずれも英国海軍との戦いで
勝利を収めて凱旋してきた彼女の姿を描いたものです。

当時の英国海軍は、世界で最も強大な力を持っていました。
500もの軍艦を保有しており、たった16隻の船しか持たない
まだ出来たばかりのアメリカ海軍とは桁違いです。

その駆け出しの海軍が世界最強の英国軍艦に勝つなど、誰も予想できなかった快挙でした。



1812年の海戦で、コンスティチューションは星条旗を揚げていました。
このシンボルはアメリカ人に

"Feel And Act For One Nation"(一つの国家のために感じ行動する)

の気概を象徴するものとして受け入れられていきます。



前回説明しましたが、なぜ彼女のあだ名が
「オールド・アイアンサイズ」になったかが書かれています。

1812年、HMS「ゲリエール」との海戦で、
その堅牢なオークの船腹が敵の弾を跳ね返したため、

”Huzza,her sides are made of iron!"
(やった!彼女の腹はまるで鉄で出来てるぜ!)

と言われたことがそのあだ名の起源です。 
 





コンスティチューションの船体設計図断面です。
コンスティチューション博物館には、

「昔の人はどうやってこういう帆船を設計していたのか?」


ということをレクチャーするコーナーがありました。




船のカーブをフリーハンズで描くのはまず無理です。

というわけで、18世紀から船体のデザインには、
まずカーブを木で作り、
それで図面を描くという方法が取られました。
作図している手が当時の衣装を着ているというのが凝ってます。

右側の木片はジョサイア・フォックスという設計士が実際に使用した
定規で、これを「ドラウティング・カーブス」と呼びます。



「コンスティチューション」の設計をしたジョシュア・ハンプレイズの使った
ドラウティング・カーブスいろいろ。

手前のカーブが白黒なのは、パーツがバラバラにできるようになっていて、
各断面を図に描くことができるような工夫だそうです。

このコーナーには画面上で船が設計できるモニターもありました。



さて、現在修復中の「コンスティチューション」。
木造の帆船なので、修復するには船体を部分的に取り替えていきます。

それでは新しい木材に取り替えて出た廃材というのはどうするのかというと、



はい、「コンスティチューション・グッズ」の出来上がり。
宝石箱や飾り物、わけのわからないもの(8番)などなど。

実は何を隠そう、わたくしこの廃材で作ったボールペンを記念に買いました。
(冒頭写真)
おそらく前回の修復の時に出た廃材なので、少なくともその前の80年間は
コンスティチューションの一部であったことは間違いないのだろうと思います。



木造船の修復は、つまりそのたびに記念グッズを作ることができるわけで、
それが維持費を生むというメリットもあるのです。


ある意味「永久機関」ですが、いつの間にかその船体は
当時とは全く別の材質(もの)に変わっていくということでもあります。



こうして改めてみると、結構広範囲を取り替えてしまうんですね。
この部分だけでどれくらいのペンができるんだろう(棒)

ちなみにペンは1本60ドルくらいで、持ってみるとズシリと重みがあります。
歴史のとか比喩的な意味ではなく、純粋に重量的な意味で。

彼女が「アイアンサイズ」(鋼鉄の船腹)と呼ばれたわけがよくわかります。



続く。


 

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アメリカ合衆国商船アカデミー跡〜サンマテオ・コヨーテポイント

2016-09-13 | アメリカ

1年前の滞在の写真になりますが、サンフランシスコ空港近くの
サンマテオに「コヨーテポイント」というレクリエーションエリアがあり、
息子をキャンプに送り届けたあと、カメラを持って歩きにいきました。 



公園は対岸にサンフランシスコ空港を望む海沿いにあり、長い砂浜を持ちます。
夏なのでビーチで遊ぶ人はいるかもしれませんが、立て札には
ライフガードはいないのであとはわかるな?と書いてあります。 



砂浜を散歩する人。



海沿いにトレイル(小道)が整備されているので歩いて行くことにしました。



向かいに見えているのはオークランドです。 




サンフランシスコは朝方厚い霧で覆われているのが普通ですが、
空港近くになると途端に霧が晴れてきます。
昔国際空港をどこに作るかが協議されたとき、人々が
霧のかからない都心から最も近い場所としてサンマテオを選んだのだろう、
と空港に向かう高速で急に霧が晴れるのをいつも見て思います。

この日朝、サンマテオは薄曇りでしたが、この天気が1日続くことはまずありません。



ここはちょうど空港滑走路の対岸にあたり、国際便が
最終着陸態勢を取って次々と着陸していくのが見えるポイントです。
今年は三脚持参で望遠レンズ投入して撮ってみようかな。



早速散歩開始。
アメリカでこういうところを歩くと、時々誰もいなくて怖いときがあります。
ここは州立公園なので、入り口で料金を支払う仕組み。
決して浮浪者などが入り込んでくることはないのですが、それでも
心のどこかで軽く緊張しながら歩いています。



まあここにはこんなものもあるので犯罪の発生する率は低いでしょう。
もし変な人がいても、大きな声で叫べば飛んできて、
訓練を兼ねてみんなで寄ってたかって犯人をやっつけてくれそうです。




文字通り根こそぎ倒れてしまった木もそのまま。



トレイルに沿って歩いて行ったとき、わたしの「ネイビーセンサー」が
いきなり激しく鳴り渡りました。
なぜこんなところに船の錨がっ・・・・?!



黒曜石でできているらしいベンチに書かれた文句をドキドキしながら読むと、
1775年に創立された「U.S Marchant Marine」とそのマリナーに捧ぐ、とあります。
寄付した人々の名前には「キャプテン」の冠を持つ人も。



マーチャント・マリーンというのは直訳すると「商船」。
商業船として米国内の海域・水域で運輸に携わっているものの総称ですが、
商船のほかタグボート、曳船、フェリー、遊覧船、ボートなど全てを指します。

しかし、アメリカ合衆国がいったん戦争となった場合、軍事に
その機動力始め要員を提供する、という任務を帯びる組織です。



モニュメントがあるここには、かつてその乗組員を養成する
「マーチャントマリーン・アカデミー」がありました。
この石碑には「カデットーミシップマン」(cadet-midshipman)とあり、
当校に学ぶ学生をそう称していたらしいことがわかるのですが、
「カデット」は普通陸軍、「ミシップマン」は海軍における士官候補生を指します。
ちなみに先日行ったコーストガード・アカデミーでは「カデット」でした。

この理由は、第1次世界大戦を経て1936年、議会が商船法(多分戦時法を踏まえたもの)
を承認した時、付随して創立され教育組織が

「Marchant marine cade corps」

という名称だったことからだと思われます。
商船アカデミーというのは日本だと「商船大学」となってしまいますが、
日本の商船大学に相当するのは、アメリカでは強いて言えば
「海事大学」(Maritime Academy)
ではないかと思われます。
その海事大学も、卒業すれば海軍や海兵隊に少尉として入隊することが可能ですが。

商船アカデミーは航海士か機関士の免許を取って卒業後、
マーチャントマリーン(米国保有商船隊)に任官する学校です。




錨を足元に置いたワシは「Salty the sea eagle」というマスコット。
この場合「ソルティ」が愛称となります。
学校のモットーは

「 DEEDS NOT WORDS」(言葉より行動を=不言実行)
 



卒業生によって作られたメモリアルゾーンのプレートの最後には

「HEAVE HO!」

フネ関係の方なら、もしかしたらこれが錨を巻くときの海の男の掛け声だとご存知でしょうか。
この碑は全ての戦争で失われたアカデミーの卒業生の魂を悼んでいます。



Bearingsというのは、おそらく「方位法」をもじっているのでしょう。


現在商船アカデミーはニューヨークのキングスポイントにあり、
通常キングスポイントというと、この学校を指します。
戦争が始まって、戦地への軍艦以外の多数投入が急がれることになった時、
アメリカ政府は、船員を大量に養成する必要にかられ、西海岸にも
学校を作ることにし、1942年、サンマテオ商船アカデミーが創立されました。

日本では民間船を船員ごと徴用し、商船学校出身の学徒士官を
船長にしたのですが、さすがにアメリカはやることが違います。
彼らを「ミシップマン」と呼び、かっこいい制服も制定しました。

若者の士気が服装に影響されるということをよく知っていますね。



アカデミーの訓練風景。
海事トレーニングだけでなく、自分たちの駐在する施設を自分たちで作ったそうです。



夜、真っ暗な海にボートで漕ぎ出すのもトレーニングの一環でした。
短い歴史のあいだにはこの海域に出没するサメを捕まえたこともあり、いまなら
夏の恒例番組、
ディスカバリーチャンネルの「シャーク・ウィーク」で放映されて
大いに住民に感謝されるところですが、地元民の感謝を彼らが知ることはありませんでした。




そして一晩中ボートを漕ぎ続けるという訓練も・・・。



マーチャントアカデミー通常兵装。
例えば、特殊潜航艇「回天」が撃沈した油槽艦「ミシシネワ」などのように、
彼らが乗り組んだ輸送艦もまた、南洋にその多くが戦没していきました。
ここに写っている彼らのうち、サインのない候補生の多くは船と運命をともにしています。



アカデミーがここに発足したことを封じる当時のニュース。
いまモニュメントがあるところにはこんな地球儀があったようです。



バーリンゲームというのはコヨーテポイントのある隣町です。
船を買ための資金調達のために、ここで彼らがかっこよく行進を行い、
国民に国債を買ってもらうというデモンストレーションのお知らせ。



かつての学校の配置図。
港としてこの時整備されていた部分は、いまヨットハーバーです。
警察学校以外には自然科学館があり、子供たちの夏のキャンプ場となっています。



学校ができるまでは放置されていたコヨーテポイントは、学校ができて以来
整備されて美しいポイントに変わったということを自慢しております。 



自艦が撃沈された時に海に飛び込む訓練(たぶん)。
みなさん鼻を押さえております。



どこの団体にも一人はいる、絵の上手い人による漫画。
いくら「微笑みを絶やさず」といわれても、こういう場合は嫌だよね。
(交換してもらう方は)



無事トレーニングを終了して、サンマテオを去る候補生。
マーチャントマリーンに任官することも、海軍や海兵隊に任官することも、

もちろん民間に就職することも彼らには可能です。



かつて彼が海へと続く未来に向かって歩いていった道は、今ではわたしのように
自然を楽しみにやってくる
来園者や、バイカーのためのトレイルとなっています。

コヨーテポイントのアメリカ合衆国マーチャント・マリーン・アカデミーが
終戦を受けて
ここでの役割を永遠に終えたのは、1946年のことでした。




 

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平成28年度富士総合火力夜間演習〜弾幕−破砕射撃

2016-09-11 | 自衛隊

平成28年度自衛隊総火演、夜間演習の続きです。
夜間演習の予行演習の間は、まだ日が落ちていませんでした。



前回74式搭載の暗視装置をご紹介しましたが、まだ明るいこの時点で
リハーサルに暗視装置は使われていなかったと思われます。



90式戦車しかり。
このときには普通に目標を射撃していたのではなかったでしょうか。



ちょうどこの頃日が沈みました。



フィールドを歩いている隊員たちがシルエットになっています。



暗視装置について前回紹介しましたが、夜間演習で活躍する装備には
標定装置というものもあります。

射弾の判定、観測などをし、修正を行う装置のことですが、

対迫レーダー装置(迫撃砲)

対砲レーダー装置(特科部隊)

そのほか、小型の火光標程器などがこれに使われます。
暗視装置で撃っても別に当たったかどうかを確認する必要があるからですね。



真っ暗な中暗視装置で射撃を行って、わたしたちに見えるのは
ただこのような弾道だけということになります。
決して花火大会のような派手な見せものを期待してはいけません。
(というのもわたしは終わってから知ったことなのですが)



これは演習の一番最後に行われる攻撃のリハーサルだと思われます。

というわけで、この後7時30分の開始まで、わたしたちは現場で
何をするでもなく冷えていく空気を楽しみながら待ちました。
同じ待つのでも炎天下や雨の中と違って、快適なので苦になりません。

わたしはこのとき周りの人にどんな風に写真を撮ったらいいのか
相談をしていたのですが、わたし程度のカメラ知識では
設定をバルブにしたところで、きれいに撮ることなど到底望めないことが
なんとなくわかってきたので、いさぎよく周りに

「写真は諦めて全編動画で行きます!」

と宣言しました。
動画を撮りながらでもシャッターを押すことができるし、
それが失敗でもあとからキャプチャすればいいと開き直ったのです。

そうと決まれば三脚を立てっぱなしで演習は肉眼で見ることができ、
おかげで鑑賞は大変気が楽で楽しいものでした(笑)



完全に暗くなる前の会場はこのような感じ。
暗くなると、並んでいる核装備についている緑のランプだけが
手前に一列に並んでいて、そこが射線だなあとわかるくらいです。



いよいよ始まりました。
装備の説明などはすべてここに映し出されます。



今朝夜明けを見た富士山の同じ日の日没後の姿を見ることになるとは・・・。
フィールドには左右から探照灯が照らされ、交差したところが
なんという目標かを説明してくれます。



つまんない写真ですみません。
緑のランプが装備の列。
演習最初に小銃と機関銃の射撃が行われた時の弾道です。

このあとは74式戦車、87式装甲戦闘車、01式携帯戦車誘導弾が
暗視装置を使って射撃されました。



マルヒト式携帯戦車誘導弾の命中の瞬間。

このあとの陣地侵入もすべて暗視装置を使って行われたので、

「カメラのフラッシュは危険ですので決して使用しないでください」

と警告がなされました。
しかし、本人は使っている意識がなくてもそういう設定に
なってしまっていることに気づかずカメラが光る人がいて(笑)
30分の間に何度も何度もアナウンスで注意されていました。

ひどい人には自衛官が直接やめるように言いに来るそうです。

なぜ危険かというと、暗視装置を使用していると昼間に比べ視界が狭くなるのです。
ただでさえ難しく操縦技術が必要なのに、フラッシュが光ると
暗視装置を通して見ることができなくなるらしいんですね。



89式装甲戦闘車の射撃。

このあたりまで、暗視装置を使う射撃の展示で、次からは
戦場照明下での射撃が実演されました。



ここからの「第2部」は、まず照明弾が撃たれ、その後
射撃が行われます。



80mm迫撃砲で撃たれ開傘した照明弾。
この照明弾の明るさは100万カンデラという単位で表されます。
1カンデラは1本のローソクの灯火の明るさですから、100万本のローソクに相当すると。

この照明下、迫撃砲が射撃を行いますが、着弾して光を放つのは
一瞬ですので、はっきりいって写真に撮って面白いことはありません。



照明弾の明るさは微妙に射撃する装備によって違います。
例えば特科火砲の目標になる照明弾は160万カンデラです。

特科火砲は照明弾のもと、昼間と同じような同時弾着を試みます。



84ミリ無反動砲も照明弾を撃ち、その後射撃を照らされたところに行います。
65万カンデラの明かりなのでそんなに暗くて大丈夫か、と思ったのですが、
目標が大変近いところだったので、射撃した後の煙までがはっきり見えました。 



照明弾には IR照明弾というものもあります。
周囲を照らしつつ、赤外線を発して暗視装置での観察を可能にするものです。
照明は大変弱い明かりでも、赤外線で確認することができるのです。


ついでプログラムは第3部へ。
第3部では、夜間の防御戦闘がシミュレーションされます。
山の方向から敵部隊が前進中、という想定で行います。

これらの状況をレーダーや標定装置で観察したのち、 
特科火砲が前進を防ぐための警戒射撃、「攻撃準備破砕射撃」を行います。



しかしさらに前進を試みる敵・・・・。
照明弾が81mm迫撃砲によって発射されます。



照明弾のもと、81mm迫撃砲が弾幕を発射。

そしてあっという間に終盤となり、最後は「対機甲突撃破砕射撃」。
弾幕の中、90式戦車、74式戦車、89式装甲戦闘車が敵戦車の破砕を行います。 



さらには突撃してきた敵に向けて破砕射撃を一斉に行います。 



ほんの一瞬でしたが、これで敵部隊は殲滅することができました。

「状況終わり」

この声を聞いて、わたしは思わず

「え、終わりですか」

と言ってしまったのですが、例年このようなものらしいです。
それにしても、明かりの全くない山間地でもハイテクを駆使するとこうやって
戦闘ができてしまう時代になっていたのですね。

しかし、今まで見たことのない夜間演習が見られて貴重な勉強をさせてもらいました。


と こ ろ で 。

わたしたちはこの夜間演習に際して、乗ってきた車を
駐車場となった空き地に縦横にずらっと駐車させられており、
その時からすでに

「前の車が出るまで動けませんのでご注意ください」

と注意されていました。
わたしはこれを聞いて、終わってから帰る時にもし前の車の人が
帰ってこなかったら、とふと不吉なことを考えたのですが、
案の定嫌なカンだけはよく当たるもので、わたしの前の軽の中の人が
いつまでたっても駐車場に帰ってこないのよ。

わたしたちのグループはこのあと足柄インターで集合、となっていて、
周りの車はどんどん出て行くのに、その軽のおかげで、
わたしとその後ろの車だけがいつまでも駐車場から出ることができないわけ。


   (空き地)

   軽 わたし  他の車
  ↓ ↓  


  □ ■  □  □  □  □  □  □  □  □

    (空き地)



右も左も出て行ってガラガラになったので、脇から出ようとしたら
整理係の自衛官が『出ないでください』と静止。

「あのー、連れが皆行ってしまったので早く出たいんですが」

と訴えると、今度は上官がやってきて

「前の車が出ないと出られないんです」

の一点張り。
自衛官は上からの命令を自分の判断で変更できないのですね。
よーくわかります。
が、周りを見てくれ。もう車が1台もいなくなっているんだから、
横に誘導してくれさえすれば、わたしと後ろの車全部がすぐに出られるでしょ?

と心の中で言いながら辛抱強く待っていました。
しかしその後いつまでたっても軽のドライバーが帰ってこないので
自衛隊側もこれは仕方がない、と判断したのか、超法規的措置で(笑)
軽の左側から出ることをようやく許してくれました。

「おそかったですね」

足柄インターで最後に合流した時にこの話をしたところ、

「気が利かないねえ」

「いや、自衛官ですから自分の判断で勝手にできないですよ」

と日頃自衛隊に理解のある皆さんなので同情的でしたが。



とにかく、駐車場の整理係の隊員だけでなく、この日
事故の無いように気を使って運営をしてくれた陸上自衛隊の
すべての皆さんにはただ感謝です。

それから、チケット関係でお世話になった陸上自衛隊の方、
富士学校普通科の方にも心からお礼を申し上げる次第です。
ありがとうございました。



総火演シリーズ終わり



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