ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

オーストリア軍の武器装備〜ウィーン軍事博物館

2019-11-30 | 軍艦

 

ウィーン軍事史博物館の不思議なところは、第一共和国の成立(1919)
からアンシュルス、オーストリア併合、そして第二次世界大戦の終わりと
これだけの期間が一つの展示室に収まっていることです。

ただでさえドイツ語中心の説明でパッと見区別がつかないのに、
こんな微妙な期間を一緒くたにしてしまうのは如何なものか、
とわたしは写真の整理上思ったりしているわけですが、武器装備的には
それほどの変化はなかったということだったんだと思います。

というわけで今日はこの部分に展示してあった装備品をご紹介していきます。

Fieseler Fi 156 Storch(シュトルヒ)

ナチスドイツ軍の連絡機、フィーゼラーの「ストーク」(コウノトリ)です。

フィーゼラーはドイツのパイロット、ゲルハルト・フィーゼラーが創始した
航空機会社で、彼自身がナチス党員だったため、ナチスが政権を握ると
この「ストーク」を生産し、会社は発展しました。

フィーゼラー(左)と美人パイロット。

フィーゼラーは第一次世界大戦では19機撃墜の記録を持つエースでしたが、
戦後は曲芸飛行のパイロットとしてショーで活躍していました。

Fieseler and the F2 Tiger - 1st World Aerobatic Champion
h

1912年に行われた飛行大会で優勝したときの、フィーゼラーの
華麗なる曲技が動画に残されています。

この時に乗ったF2タイガーもまたフィーゼラーの最初の製品でした。

カモフラージュ塗装されたバイクはやはりBMW製で、

BMW R 12 motorcycle

と説明があります。

バイクの横にあるのはカバンですが、毛皮があしらってあります。
お洒落でやっているのではないと思うのですが・・・。 

これらの兵器の前には

rüstungsgüter aus der Zeit des"totalen Kriegs"
「完全戦争の時代の兵器」

とあり、この「トータレン・クリーグス」の意味がわからなかったのですが、
立てかけられた大きな看板に書いてあるのは

「Fristenstelle Rampobau」

でさらに意味がわかりません。
「Fristenstelle」は締め切り、「Rampsbau」は船体建設という意味です。 

左のほうに、ユダヤ人絶滅収容所の囚人の制服があります。

アンシュルス後、オーストリアではユダヤ人指導者の逮捕、シナゴーグの破壊、
商店へのボイコットなどの弾圧が政策に沿って行われました。

オーストリア在住のユダヤ人たちは、1938年8月にアドルフ・アイヒマンが
指揮をとりユダヤ人の追放を大々的に行ったため、亡命を余儀なくされました。

しかし、ヨーロッパの他の国に亡命したユダヤ人たちは、
そこに侵攻してきたナチスの手で強制収用所で命を落とすことになります。

アンシュルス前には17万人強いたウィーンのユダヤ人は、終戦となった
1945年の5月には5512人しか残っていなかったそうです。

こちらはメッサーシュミットMe262のエンジン
JUMO004という型番だそうです。

メッサーシュミットの「シュバルヴェ」(燕)については、
同じコンセプトで制作を企画された「橘花」と一緒に、
スミソニアン博物館の展示を元にお話しさせてもらったことがあります。

橘花と燕」

なんかすごく綺麗で劣化が見られないんですが、これはもしかして
終戦直前に作られ、全く使われたことのないエンジンだったのでしょうか。

それでこちらです。
家族と一緒だとどうしても写真を丁寧に撮ることができず、展示室の写真の多くが
細部、特に肝心の説明のところがブレてしまい、このシリーズのエントリ制作は
もうとてつもなく大変な作業をしているわけですが、この蓮の実みたいなのも
当初諦めかけた難物です。

しかし、軍事博物館の英語版wikiに、ここには

「V-2ロケットのエンジンの破片」

があると知り、画像検索してみて、これがそうではないかと思いました。

 

V-2ロケットについては、特に戦後、アメリカとソ連が、この技術を獲得するために、
ドイツ人技術者の囲い込みを「ペーパークリップ作戦」などで行った、
という話を何度かここでしてきましたが、今回初めて知ったことは、
このV-2ロケット、ミッテルバウ=ドーラ強制収用所で作られていたということです。

この収容所はユダヤ人絶滅収容所とされるものではなく、収容者は
フランスとソ連の捕虜、つまり軍人がほとんどだったということですが、
敵国の軍人に武器を作らせたということに不思議な感覚を抱きます。

ミッテルバウ=ドーラ収容所の日本語wikiの説明にはわざわざ
「ミッテルバウにガス室はなかった」と書いてあるのですが、
強制労働が目的の収容所に普通ガス室はないだろうっていう。

ZiS-3 76mm野砲
ソビエト連邦の野戦砲です。第二次世界大戦には対戦車砲として運用されていました。

なんたる感激、ゴリアテの実物をこの目で見ることができました。
感激のあまり画像がブレてしまいましたが、あの!ゴリアテ。

ライヒター・ラドング・ストレガー・ゴリアテ
(Goliath Light Charge Carrier)

でございます。

Image

戦後これをドイツで見つけたアメリカ軍兵士が喜んで遊んでいるの図。
本当はこんな風に乗って移動するものではありません。

ゴリアテはドイツ国防軍が使用した遠隔操作式の軽爆薬運搬車輌で、
高性能爆薬を内蔵し、有線で遠隔操作され無限軌道で走行・自爆する自走地雷です。

地雷原の啓開や敵の陣地軍用、車両の破壊を目的に運用されました。

つまり使い捨てってことなんですが、これ、コストパフォーマンスの点で
どうなんだろう、って誰でも思いますよね。

案の定一台が高すぎたのと、時速9.5 kmと移動速度が遅かったこと、
段差が11.4 cm(細かい・・)以上あると決して乗り越えられないという
使い勝手の悪さに加え、ケーブルを切断されるとコントロールできなくなるとか、
装甲が弱くて銃で撃破されてしまうとか、まあそういった理由で(涙)
武器としてはけっして成功したとはいえません。

にもかかわらず有名なのは可愛いからじゃないでしょうか。(私見です)

山岳地用トラクターです。

1942年冬、東部戦線での馬の不足がますます顕著になり、
ドイツ軍の自動車でさえも割り当てられた任務をこなすことが難しくなりました。

Steyr-Daimler-Puch AGが開発したのがこのトラクターです。
寒冷地である東ドイツの国防軍のニーズに対応しキャタピラー仕様になりました。

ここに示されているRSGは、ウィーン美術館の所蔵品を疎開させるため
アルタウッセの塩鉱山まで輸送るのに使用されたものだそうです。

プロトタイプはわずかしか生産されておらず、貴重なものです。

クーゲルブンカー(Kugelbunker)

クーゲルとはドイツ語で「ボール」のことです。
見ての通りボール型の壕のことで、空襲の多い工場の敷地内に
小さな避難用シェルターとして設置されていました。

この壕は、ナチスドイツが世界大戦中に築いたいわゆる
「南東の壁」の東地域で1人の避難所として建てられました。

ボルグヴァルトIV

ヘビーロードキャリアバージョン です。

当初は弾薬運搬用として1942年から使用されていましたが、
そのうち、ゴリアテのように遠隔操作で爆弾を爆発させるために運用されました。
見ればわかりますが、ボルグヴァルトはゴリアテよりはるかに重く、
その分ペイロードも大きくなりました。

ちなみに、ボルグヴァルトは会社名で、ゴリアテを作ったのもこいつです。
ゴリアテは有線だったのでそれが切れたらおしまいでしたが、
ボルグワードIVは無線で操作されます。

車体前面に傾斜したスロープ様の爆薬搭載部があり、
ここに収められた台形の箱に入った450kgの爆薬を搭載して目標に接近し、
接地地点で充電の電気を切り、爆薬をスロープから前方斜め下に投下し、
運転手は本体を安全圏まで後退した後に起爆させるという仕組みです。

目標まである程度の距離までは人間が搭乗して操縦し、
離脱も行うので運転手は大きな危険にさらされました。

車両は装甲されていましたが、1942-43年までにその装甲は不十分であり、
しかもゴリアテよりもサイズが大きかったため、発見されやすかったそうです。
の車両は、2010年3月31日、ウィーンの市街地での解体、
および土工作業中に他の戦争遺物とともに発見されました。

 

進駐軍が残していったジープも展示してあります。

最後に印象に残ったこの絵をご紹介しておきましょう。

Die Befreiten「解放された」

という題の、ハンス・ヴルツ(1909−1988)の作品です。
ヴルツは第二次世界大戦中、1940年から1944年まで戦線にいて、
そこでイギリス軍の捕虜になっていたという経験を持ちます。

彼が解放されたのは35歳の頃ということになりますが、前列の
皆がこうべを垂れている中で一人面を上げて空を見ているのは
ヴルツ本人でしょうか。

 

続く。

 

 


フランク・ロイド・ライト「フォーリングウォーター」

2019-11-28 | 歴史

うちの玄関ホールには、MKがレゴで作った世界の建築シリーズの
「帝国ホテル」を中心に「グッゲンハイム美術館」そしてライトの
「フォーリングウォーター」が飾ってあります。

ピッツバーグ滞在の時、知人に車で2時間ほど郊外に行けば
この有名な歴史的建築が見られると知人に教えてもらい、
最初の週末に早速家族で行くことにしました。

しばらく郊外に向かって走ると、農村地帯が現れました。

何だろうこのロールは・・・。

草のないところに転がっているのが何か意味があるんだと思いますが。

ピッツバーグを出てフリーウェイを約1時間半。
フォーリング・ウォーターに続く道は山の中の一本道になりました。

見学は前もってインターネットで申し込むことができます。
HPには見学ツァーの空き情報が公開されていますから、そこから予約し、
ゲートにあるセキュリティでその予約番号を照合してもらって入場し、
駐車スペースに車を停めて現地まで歩いていきます。

たくさんの人が見学に訪れるため、観光客用の受付&待機場所が設置されています。

見たところごく最近リニューアルされたのではないかと思われました。
受付にチェックインすると、ツァーの出発時間までここで待ちます。

奥に立っているグループのいるところが、ツァー出発場所です。
ここからグループは現地まで約5分間の距離を歩き、現地に待っている
ボランティアのガイドの案内で見学を行うというわけです。

早く着いてしまいツァー開始まで時間を潰す人のためにショップも用意されています。
こんなところで買う人がいるのかどうかわかりませんが、ライトの照明器具、
有名なタリアセンも売っていました。

ライトのぼんやりとしたファンであるところの(笑)我が家は、このランプを
カード会社のポイントを貯めて手に入れ、常夜灯として愛用しています。

流石に建築を見に来る人に向けてのショップなので、センスのいいものが多く、
旅行先でなければ目の色を変えて見てしまいそうなお洒落なグッズであふれています。

今回アメリカのこの手のお土産物屋で、幾度となく目撃したのがこの
フリーダ・カーロの人形。
画家として有名というよりキャラクターみたいになっていて、
一目でフリーダだとわかる人形がいろんな趣向で販売されていました。

アメリカ人にとってのフリーダ・カーロって一体・・・。

 

わたしはちょうどマウスパッドが欲しかったのを思い出し、
記念にフォーリングウォーターのプリントされたのを買いました。

時間になり、集合場所に行くと、そこにいるボランティアが、

「ここを歩いていくとガイドが待っています」

といって送り出します。
この同じグループの人たちとは1時間余りずっと一緒にいるので、
終わる頃にはすっかりお互い見知った仲になっていて、
ちょっとお互い話をしたりすることもあります。

前を歩いている三人のうちとてもよく喋る左の女性は、MKに

「中国人?」

と聞いてノー、と一言ぴしゃりと返されていました。

どこの観光地にも中国人が溢れかえっている昨今ですが、流石に
ピッツバーグから1時間半離れたここでは、爽やかなくらい?
中国人団体観光客の姿を見ることはありませんでした。

たまに東洋人を見ても、それは現地に住んでいる人たちです。

今回インターネットで調べたところ、日本ではいつの間にか
フォーリングウォーターを「落水荘」とまるで鬼怒川温泉の宿みたいな名前で
呼ぶのが正式(wikiもそうなっている)であるらしいことがわかりました。

いちいちタイプするのが面倒というわけではありませんが、
当ブログもそれに倣って落水荘とします。

さて、落水荘前に到着すると、番頭が・・じゃなくてガイドが現れ、
ツァーの前に外観の説明から始めました。

この屋敷は「ベア・ラン」(熊走り)という名前の川に続く
名前のない小川と滝の上にまたがるように建築されています。

家の中から画像左手の階段を降りると水面に降りることができるのですが、
さて、果たして住人がこの階段を水辺に行くために降りたことが
何回あったんだろう、と思うほどの非実用的な建築です。

もっとも、この家はピッツバーグで財を成した百貨店経営の
エドガー・カウフマンが、当時工業が盛んで、工場の出す肺炎などで汚れた
ピッツバーグの空気にうんざりし、週末だけでも自然の中で過ごしたい、
という希望のもとに依頼されたものだったので、
実用的かどうかなどということは最初から度外視されていました。

建築されたのは1935年、それから今日までの間に、
ライトの手によって新しく切り開かれ、構造物が構築された場所には
自然がそれを包み込むように木々の枝や緑が覆って一体となっています。

このあとわたしたちは内部を見学したのですが、最初に見たのがこの写真の
下の階にあったダイニング&リビングルームです。

大きな鍋を仕込むファイアプレースを中心とした広い空間ですが、
アメリカの家にしては天井は低めでした。

そして、思ったのが夏はともかく冬は相当寒かっただろうなということ。
ガイドの話によると、やはり住んでいる人たちは冬の間、
皆出来るだけ上階の(水面から離れた)狭い部屋しか使わなかったとか。

歴史的かつ革新的なデザインの建築であり、スミソニアン曰く

「死ぬ前に訪れるべき28の場所のライフリストの一つ」

また、タイム誌曰く

「フランク・ロイド・ライトのもっとも美しい仕事の一つ」

である代わりに住んで心地の良い住まいではなかっただろうと
わたしは予想できていたことながら実物を見て確信しました。

フォーリングウォーターが建設される前の現地の写真です。
少年が抱えている「ベア・ラン」というのはこの地方に流れる川の名前で、
現在はこの一帯に広がる自然保護区の名称ともなっています。

カウフマン家の夫妻とその息子が、新築の家で撮った記念写真。
真ん中の建物の写真がカウフマン家が経営した百貨店、カウフマンズです。

名前からもお分かりのようにドイツから移民してきたユダヤ人の息子で、
イエール大学を出て叔父が創業したカウフマンズの経営に参加し、
実業家として財を成してから芸術に惜しげも無く援助を行いパトロンとなりました。

右側は彼の最初の妻であったリリアン。
彼らはいとこ同士(リリアンはカウフマンズ創業者の娘)だったので、
ペンシルバニア州では結婚できず、わざわざニューヨークに行って
そこで結婚をしたということです。

左側のイケメンは、彼らの息子エドガーです。
居間には息子のエドガー・カウフマン・ジュニアの若い頃の肖像画がありました。

https://fallingwater.org/wp-content/uploads/2017/09/Collections-FW-198973-FallingwaterLivingRoom-500x500-1.jpg

長身のイケメンで富豪の一人息子、さぞかしモテただろうなどと思いますが、
彼は生涯独身で、1989年に亡くなったときにはパートナーのポール・マイエンの手で
遺灰をフォーリングウォーター敷地内に散骨されました。

ちなみに、このマイエンという人は、先ほどわたしたちが通過してきたカフェ、
ギフトショップ、受付のあるパビリオンの建設を監督したという人物で、
死後は彼もここで散骨されてパートナーと共に眠っているということです。

 

ところでこのジュニア、わたしたちがピッツバーグに来る前滞在したウィーンで
宿泊していたホテルの近くにあり、いつも通り過ぎるときに見ていた
ウィーン応用美術学校で若き日に留学して勉強していたことを知りました。

モノンガヒラに沈んだ爆撃機の話に続いて、この二都市間に関係のあるちょっとした
エピソードを知り、またしても不思議な気がしたものです。

それはともかく、この美大出のジュニアがライトの自伝を読んでファンになり、
彼の工房で少しインターンをしたのが、落水荘誕生のきっかけとなります。

エドガーとリリアン夫妻は、息子の職場を訪ねて工房に立ち寄り、そこで
初めて彼らはこの世界的な建築家と出会うことになります。

大気の汚れた当時のピッツバーグから週末「ハイドアウェイ」するための
別荘の建築を、フランク・ロイド・ライトに任せたいという希望は
もともとカウフマンの思いつきでしたが、ジュニアはそれをつよく支持しました。

ライトがこの地に建築を任されたとき、志したのが「自然との調和」でした。
その思想の一端をここに典型的な例として見ることができます。

元からある自然構造物を出来るだけそのままに、そこに調和させるように
建築物を付け足していく。
この部分など、大きな岩の強度なども考慮した上でそこに楔のように基礎を打ち込み、
建物と繋げてあります。

 

こうして見ると、よくぞここまで設計を、と驚愕します。

そもそも、滝に跨るように家を作る、というライトの思いつきは、
滝に面した川の南岸に位置する家を静かな求めていたカウフマンの想像を遥かに超え、
当初彼はそのアイデアをとんでもないと激怒したとまで言われています。

経年劣化による剥落などの修復をいつも行う必要があるらしく、
見学コースの最後には専用の部屋に集められ、是非ともご寄付を・・、
というようなお願いがありました。


劣化が激しいのは湿度と日光への露出の大部分が原因で、雪解け水のため
外壁は頻繁な塗り替えが要求されます。

また、バスルームに使われたコルクタイルは、水がしみて破損するため、
コルクを取り替えて修復し続ける必要があります。

この写真にも見られる片持ち式の梁は経年とともに激しくたわみ、 
一時は支える部分が破損限界に達したため、重量を支えるための支えを設置しました。

これらの崩壊を防ぐため、高強度のスチールケーブルが
ブロックとコンクリートの外壁に通され、恒久的な強度を保っているそうです。

家を支える構造物は、切り開かれた岩の壁に刺さるように取り付けられています。

ライトが石を積み重ねた柱のデザインの着想を得たのは右側の岩層からです。

彼はこの依頼を受けた時もう67歳、建築家としての評価はもう終わっていました。
しかし、この、芸術に対しては鷹揚すぎるほどのパトロンからの依頼は、
天井知らずに経費がかかる彼の芸術魂に火をつけ(笑)、結果として
それが70歳になったライトの代表的な作品となったばかりか、これ以降彼には
依頼が殺到して、それはとても本人が生きている間には終わらないだろう、
というくらい売れっ子になってしまったというから人生わかりません。

ライトの年表を見てみると、帝国ホテルから10年間の間、全く作品がなく、
それと対照的にフォーリングウォーター完成から1年の間に
有名な作品だけでも13にも上る量をこなしています。

ライトはフォーリングウォーター設計の最中、
かかるコストも天井知らずになり、流石にそこまでは、ということで
アイデアを諦める場面もあったそうですが、芸術家にとって
そのインスピレーションを形にするのにはパトロンが必要である、
という事実を、これほど具体的に表した例はないのではないでしょうか。

室内は完璧に撮影禁止でしたが、外観からは撮り放題。
フォーリングウォーターを望むベストポジションから。

内部の見学では、いくつかの部屋に日本の版画が飾ってあるのに、
日本人であるわたしは大変誇らしい気分になりました。

フランク・ロイド・ライトは日本滞在中浮世絵などをたくさん買い求め、
持って帰って依頼主に家ごと売っていたようです。

ボランティアも彼の自然との調和する作品のコンセプトは
日本と深く結びついている、というようなことをいっていましたし、
この地を訪ねた安藤忠雄氏もこういっています。

「ライトは日本の建築から建築の最も重要な側面、空間の扱いを学んだと思います。
フォーリングウォーターを訪れたとき、わたしは両者に通じる共通の感性を見出しました。
しかし、ここにはさらに魅力的な自然の音が加わっています」

先ほども書きましたが、極寒のペンシルヴァニアの山中にあるこの家は、
特に冬の間寒く、人々は上の階に固まっていたそうです。

わたしはモルジブで海の上に立つコテージに宿泊したとき、夜、
波の音がうるさくて寝られなかったことを思い出しました。
波の音でああなのに、勢いよく流れる滝の水音が夜どうだったか(笑)

週末の隠れ家だからこそ我慢?できたということかもしれません。

カウフマン家は、その人脈からあらゆる有名人を招待し、
ゲストハウスとしてここに宿泊させました。 

カウフマンの妻、リリアン。

馬術と自然を愛し、ベアランではそれらを存分に満喫しました。
美術愛好家としては、メキシコの画家ディエゴ・リベラの作品を蒐集し、
邸内にはいたるところでそれをみることができます。

ディエゴ・リベラはフリーダ・カーロの夫でもありました。
(なるほど、それでフリーダ人形が売店に)

しかし、傍目から見て何の不自由もないこのセレブリティ夫人は、1952年、
セコナール(不眠症治療薬)の過剰摂取で亡くなっています。

夫人の死後、カウフマンもまた、

「長年の愛人であった秘書と結婚し、7ヶ月後に骨がんで死亡した」

とあるのですが、これらの淡々とした事実から、決して彼らの夫婦生活が
上手くいっていなかったような匂いを嗅ぎとるのはわたしだけでしょうか。

しかしながら、カウフマンは死後、リリアンとともに
フォーリングウォーター敷地内の霊廟に眠っています。

カウフマン家の三人は、死してなおフォーリングウォーターに
魂を留めることを選んだということになります。

それにしても、カウフマンの後妻はここに眠ることを許されなかったのに、
息子のパートナーという男性が、ちゃっかりここに
遺灰を撒いてもらったというのは、便乗しすぎ?と思いました。

絶景ポイントには人だかりができていました。

皆順番にいい場所で自撮りをしたりしています。

多額の寄付をしたドナーでしょうか。
ベンチに刻まれた名前を検索してみたら、ピッツバーグの篤志家のデータが出てきました。

タイムズ紙の言うところの「人生で一度は訪れるべき場所」の一つ、
といえるのかどうかまではわかりませんが、今回ここに来られたのは
大変ラッキーなことだったと思います。

だって、わざわざこれを見るためにピッツバーグに行くことなんて
アメリカ人か安藤忠雄でもない限り普通思いつきませんよね。

 

 


ナチス党の軍服と国防軍無罪論〜ウィーン軍事史博物館

2019-11-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

アドルフ・ヒトラーが最高権力者に上り詰めて最初に何をしたかというと、
ナチス党の制服のデザインを熱意を込めて制定することでした。

そのミッションに直接関わり指揮したのが宣伝相だったゲッベルスです。

ゲッベルスは貧相な小男で、外見の魅力に恵まれていなかったこともあってか、
自分を包む服装については執念とも言える完璧さを求め、なんでも1日として
同じスーツを着ないというくらいのお洒落さんだったそうですが、その彼が

みすぼらしい軍服では人々に畏怖を感じさせることはできない。
完璧な美を誇る制服なら、着るだけで長身で堂々とした体躯に見せることができ、
強い軍隊であるというイメージを植え付けることができるのだ

という考えで選びに選んだナチスの制服は、その完成度の高さと、
人の心を掴んで離さない魅力で、のちのファッション史にまで影響を与えました。

その制服を作っていたのが今もある紳士服ブランド「ヒューゴ・ボス」の創始者、
フーゴ・フェルディナンド・ボスであることもここでお話ししたことがありますが、
巷間言われるように全てをボスがデザインしたわけではありませんので念のため。

今日は主にウィーン軍事博物館に展示されていた併合時代の、
オーストリアナチス軍の制服を中心にご紹介していいきます。

まず、アンシュルス以降、第二次世界大戦が終わるまでのオーストリア軍の制服が
このように並べて鉄兜や鞄などの装備とともに紹介されています。

その前に、ガラスケースの上部にみえる

「OPFER DER AGGECION」(侵略の犠牲者)

の下には、わざわざ赤い文字で

ソ連
北アフリカ

ギリシャ
ユーゴスラビア
フランス
オランダ
ベルギー
ルクセンブルク

とドイツ語の国名が書かれています。
侵略とはもちろんナチスドイツが行ったことでしょう。

制服の展示の上の部分にスペースが余ったからといって
わざわざこういうことを書くというのはどうかと思いますが、
これが当博物館の姿勢の表れかもしれません。

右側のプロペラは戦闘機

メッサーシュミット Me 109

のものです。

Messerschmitt Me 109 engine start (original sound)

このプロペラが回っているだけの映像を見つけました。
この次のバージョンではきっと本当に飛ぶんだと思います。

画像左側の制服は、国防軍の将校(士官より将校という言葉がぴったり)
のものですが、ちょうど先日、作業をしながら流していたyoutubeの映画、

「フランス組曲」

で、フランス系ユダヤ人の主人公と恋に落ちるナチス将校が
まさにこの制服で(当たり前か)出てくるのを見たばかりです。

映画『フランス組曲』予告編

前に一度「なぜ戦争映画にはピアノを弾く将校が出てくるのか」というテーマで
その「事始め」となった映画と「シンドラーのリスト」を紹介したことがありますが、
この映画でも、ナチス将校は娑婆では作曲家だったというありがち設定。

進駐し接収した女性の自宅で自作の美しいピアノ曲を奏で、
女性は人妻でありながら彼に惹かれていく、という、

もうこれだけでなんというかお腹いっぱいのシチュエーションでした。

ナチス将校を演じるマティアス・スーナールツという俳優が、
背の高いモッくんに見えてしょうがなかったのですが(笑)
とにかくこの軍服が似合うタイプを抜擢したと見た。

ところで、余談ついでに、あらためて「シンドラーのリスト」
の将校ピアノシーンをYouTubeで見つけたので貼っておきます。

Schindler's List (4/9) Movie CLIP - Bach or Mozart? (1993) HD

きっとスピルバーグ監督は金髪でドイツ風イケメンの音大生かなんかを
エキストラで呼んできたんじゃないかと思います。

というのは、彼の指の動きを見る限り本当に弾いています。
吹き替えでないことは、ちょうど彼が映った瞬間、(1:45)
左手をミスることでも明らかです。(鬼の首とったように)

ちなみにこの曲(バッハのイギリス組曲前奏曲)最後まで音が止まることがなく、
それだけにミスなしで弾き切ったときの達成感が半端ありません。
おそらくこのナチス将校も、ちょうど任務中にピアノを見つけたので
練習中のこの曲を弾きたくてたまらなくなったのではないかと想像できます。

もちろん監督のシーン挿入意図は全く別だと思いますが。

前から空軍のいわゆるトゥーフロックというわれるジャケット、同じく空軍、
海軍水兵、海軍士官で一番向こうは海軍のカーキの制服のようです。

赤いラインが入った制服は、国防軍士官用でしょう。
この辺、だいたいの予想で言っていますので、もし間違っていたら教えてください。

国防軍の制服各種とその装備のいろいろ。
迷彩服がとっても今風でびっくりです。

ドイツ国防軍は昔から鉄十字を使用しており、それは
ナチスの鉤十字とは違うものとして現在もドイツ軍のシンボルです。

国防軍とナチスについて、ちょっと整理するために書いておきますが、
ドイツ軍にはいわゆる「国防軍無罪論」が存在します。

これは、

「ドイツ国防軍は国家元首であるヒトラーの命令に従っただけで、
戦争に関する責任はない」

と国防軍の軍人がニュールンベルグ裁判で主張したことに端を発します。

ドイツ国防軍は非政治的なヒトラーの道具に過ぎず、あくまでも
国家元首に服従しただけであり、またユダヤ人やスラブ人に対する残虐行為は
ナチ親衛隊によって行われたもので、ドイツ国防軍は通常の戦争を行ったに過ぎない、
として、ナチズム体制と国防軍を明確に分離するのがその主張です。

「クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐」の画像検索結果

「ワルキューレ」でトム・クルーズが演じたヒトラー暗殺計画の首謀者、
クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らも国防軍でした。

国防軍はプロフェッショナル集団であり、政治に関与していなかったとされたのです。

 

しかし、だからといっていわゆる戦争犯罪を糾弾されなかったわけもなく、
東部戦線で国防軍がユダヤ人の組織虐殺を行っていたことも戦後明らかになりましたが、
これを

「純粋に組織的な犯罪とするか」

「国防軍もまたナチスの犠牲者か」

については、今でも議論がなされている状態なのだそうです。

 

ソ連軍兵士の制服も紹介されています。
兵士の制服一つとってもやはり洗練度においてイマイチな気がします。

言わずと知れたSS、親衛隊の黒い制服です。
ちょうど光ってしまって見えませんが、軍帽の真ん中には
トーテンコップ(髑髏)帽章があしらわれています。

SSに黒いスーツが採用されたのは1932年からで、黒という色はドイツにとって、
神聖ローマ帝国やプロイセン王国の旗の一部を構成する色でもあり、
象徴的な色であることから、「高貴な部隊」を意味していました。

圧倒的にデザインの評価が高いのがこの黒に褐色のシャツの取り合わせですね。 

アメリカ軍の装備やフライトスーツ一式も展示されています。
曲がった機銃やB-17の部品など、これらは撃墜された機体のものでしょうか。


前面にあるものは、

1945年5月7日「Ostmark」の降伏証明書

ドイツ語と英語による

と書かれています。
「オストマルク」ってどこの地方のこと?と思われるでしょう。

オーストリアという国は、ドイツに併合された後、ドイツという帝国の
「一つの州」ということになったのですが、1940年からプロパガンダ的に
地域名称も「 Land Österreich」から「Ostmark」に変更されていました。

ヒトラーが地下室で自決したのが4月30日、その一週間後には
オーストリアは降伏したということになります。


続く。

 

 

 


ナチスドイツの降下猟兵と野戦憲兵〜ウィーン軍事史博物館

2019-11-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

20世紀初頭、ハプスブルグ家の最後の皇帝が執政の場を去り、
革命によって共和国が誕生するも、第一次世界大戦後の混乱の中で
国民はドイツ帝国の一員となることを自ら選び、併合が行われた。

 

今なら今北産業で説明できることを、なんとなく関心と知る機会がなかったため
これまでぼんやりとした認識しか持たなかったことを猛烈に反省しています。

しかし、ウィーンに旅行に行き、軍事博物館を訪問したことで、一気に
オーストリア併合についての知識を整理することができました。

人生でまたひとつわからなかったことが減って、嬉しい限りです。

 

その上であらためて疑問が湧いてきました。

ドイツと日本が敗戦した時、やはり日本の一地方であった大韓民国は、
戦後すぐに戦勝国の立場に立ち、日本に賠償させようとしましたが、
英米ら連合国に、お前ら日本と戦ってねーだろーが、あん?と一蹴されています。

そこで韓国は日本と直接補償交渉を始め、賠償を迫ってきたわけですが、その際、

「日本による朝鮮統治は強制的占領であったし、
日本は貪慾と暴力で侵略し自然資源を破壊し、朝鮮人は奴隷状態になった」

と激しく主張し、この時交渉に当たった外交官久保田貫一郎参与の、

「韓国で掠奪や破壊をした事実がないので賠償することはない」

「日本は植林し鉄道を敷設し水田を増やし、韓国人に多くの利益を与えた。

日本が進出しなければロシアか中国に占領されていただろう」

という言葉に対して「妄言だ」と猛反発し、その報復として
李承晩ラインを設定し、竹島を占領して現在に至ります。

しかも、その後締結された日韓補償交渉で解決済みとされた問題を、
自国の裁判で覆して補償のお代わりをさせようとしているのは周知の通り。

 

 

さて、疑問というのは、韓国と似た状況でドイツに併合されていたオーストリアは
一体どのように補償問題に合意したのかということです。 

よく韓国人は日本を歴史問題で非難するのに、

「ドイツは賠償した」「ドイツは罪を認めた」「ドイツを見習え」

とドイツを引き合いに出すようですが、それでは当初からドイツは
オーストリアに対しすべての条件を飲んで補償を行なったのでしょうか。

 

調べてみたところ、そもそもオーストリアは戦後すぐに連合国によって
こんな風に分割統治されていました。

ザルツブルグを舞台にした「サウンド・オブ・ミュージック」が
ハリウッドによって制作されたのは、かつてこの地方が
アメリカによって統治されていたことと無関係ではなさそうですね。

それはともかく、この分割統治が終わったのは1955年。
日本は1952年ですから、さらにそれより長かったことになります。

なぜこれほどに独立が遅かったかと言うと、小さな国の悲しさで、
連合国側がドイツとの平和条約を優先したことに加え、そうこうするうちに
冷戦が始まってしまったからだといわれています。


そして、この1955年に締結された「オーストリア国家条約」で、
オーストリアはドイツ政府及びドイツ国民に対する請求権を放棄しているのです。

プロパガンダがあったとはいえ、国民投票で圧倒的な支持を得た上での
オーストリア併合だったので、さすがに国家賠償を求めることは
誇り高いオーストリアにはできなかった・・・と言うわけではなくて
実は、オーストリアは、

「ドイツのオーストリアに併合に対する賠償は必要ない。
しかし、我々は当時ドイツ国民であったわけだから、ナチスの人道上の犯罪については

ドイツ国民と同じように補償を受ける権利がある

つまり同じナチスの被害者として賠償せよ、と主張したのです。

うーんそうきたか。

これはドイツ政府の「意図」とも合致する請求でした。
というのは、当時のドイツ政府は、基本的に

「ナチス犯罪はヒトラーとナチスによって行われたもので、
ドイツ国民に支持されたものではなく、したがってドイツに責任はない」

というのを各種補償問題の落としどころにしようとしていたからです。

つまり、ドイツ政府の補償はあくまでも「ナチス不正」に対する補償であって
直接の「人道に対する罪」や「戦争責任」に基づくものではなかったのです。

「ドイツ民族の名において行われたナチスの不法については謝罪するが、
一般のドイツ人にはこれは関係ない。
補償は法的責任に基づくものではなく、道義的な義務に基づくものである」

とドイツは戦後一貫してこの態度を貫いています。

その結果、1961年に結ばれた条約で、オーストリアに対する補償は

「オーストリア政府がナチスの被害者に対して国内で補償する

この資金はドイツ連邦共和国政府が(9600万マルク)提供する」

という形に決まりました。 
ひらたく言うと、

「オーストリア政府の名前でお見舞金を出すから、そのお金はドイツが払え」

ってことです。

というわけで、韓国人のいうところの

「ドイツは罪を認めた。さらにこれに対し賠償した」

というのは、全く見当違いだということですね。

どうしてドイツがあくまでもこれらを認めないかについては、おそらくですが、
一旦認めてしまったら、そこで終わりにはならないのが世界の常識だからでしょう。

現に、かつての統治国が何度謝罪してもこの問題を終わらせようとせず、
飽くなき執念深さでこれを政治問題に絡め、あの手この手で
賠償を永劫させ続けようとする国が地球上には存在するわけですから。

さて、ということが改めて理解できたところで、展示にまいります。
こちらは「共和国と独裁」というテーマの、つまりハプスブルグ崩壊から
アンシュルス成立までのコーナーにあった兵器です。

右側:2cmFlak 38 

「 Flak」というのは対空砲のことで、

Flugabwehrkanone(対航空機砲)

の略称です。
ルフトバッフェで1939年に使用されていたものです。

左は探照灯だと思います。
その左の半月形の物体はわかりません<(_ _)>

冒頭画像のこれも対空砲で(って見たらわかりますが)
クルップ社の「8.8cm Flak 36 in Feuerstellung」です。

口径が88ミリで、これをドイツ語では

「Acht-Acht アハト・アハト」(88)

と称していました。
ドイツ語の武器装備の名前のかっこよさは異常。
ちなみに「フォイアシュテルン」と読むようです。

あまりにでかいので操作が難しく目標に当たらないんじゃないかと思いましたが、

旋回角 360度
発射速度 15-20発/分
有効射程 14,810m(対地目標)
7,620m(対空目標)
最大射程 11,900m(対空目標)

 

というスペックで、対戦車砲としても有用であったため、1930年台から
ヨーロッパの戦場では活躍したということです。

順不同に写真を紹介していきましょう。
ドイツ軍の空挺部隊は、陸軍ではなく空軍が擁していました。
ドイツ語では、降下兵のことは

Fallschirmjäger

おそらく「ファルシムイエーガー」と読むんだと思います。

Fallschirm=落下傘、Jäger=猟兵(軽歩兵)なので、
ドイツでは空挺兵と言わず、「降下猟兵」(こうかりょうへい)

という名称を充てるようです。

空挺作戦というと、わたしなぞ「遠すぎた橋」で描かれた
マーケット・ガーデン作戦くらいしか思いつかないのですが、
実は、このマーケット・ガーデン作戦で、Dデイ以来負けなしだった
快進撃の連合軍が勝てなかったのは、そのたくさんある原因の一つに、

連合軍の効果予定地にドイツ軍の降下猟兵軍が駐留していたから

と言われているらしいんですね。

ルフトバッフェの降下猟兵は第二次世界大戦において初めて、
大規模な降下作戦を行った部隊であり、降下作戦が行われなくなってからは
精鋭無比の歩兵部隊として活躍したということです。

挺スーツの胸右側には鷲がハーケンクロイツを運んでいる
降下猟兵のマークが刺繍されています。


鉄兜を被った兵隊が胸から下げているタグには、

Feldgendarmerie(野戦憲兵)

と書かれています。
現物はこれです。

Feldgendarmerie.JPG

これは「フェルドゲンダルメリー」と読めばいいんでしょうかね。

その名の通り、ドイツ陸軍の憲兵組織で、警察権を有する部隊です。
優秀な人材を選抜するため試験は大変厳しいものだったそうですが、
写真の憲兵は、憧れの野戦憲兵になり、母親に晴れ姿を見せているのかもしれません。

野戦憲兵隊の任務は国防軍に同行し、前線占領地の治安を維持することです。

警邏、交通管制、市民の統制、パルチザンおよび敵敗残兵の捜索・逮捕、
そして処刑も彼らの任務とされていました。

日本の憲兵もそうでしたが、警察権力を行使する憲兵は一般兵から嫌われ、
煙たがられ、軍紀維持のために脱走兵を銃殺するようなことが増えてきた
終戦直前は、写真の金属プレート(ゴルゲットという)をいつも首にかけているため

「ケッテンフンテ」(Kettenhunde、「鎖付きの犬」)

などと軽蔑を込めて一般兵から呼ばれていたそうです。

国防軍以上に恐れられたのが親衛隊野戦憲兵隊(SS-Feldgendarmerie)で、
彼らは命令違反者や脱走兵など「敗北主義者」を逮捕、処刑する権限を持ち、
その冷酷なことから、こちらは

「コップイエーガー」(Kopf Jäger, 「首狩り族」)

という異名を奉られていました。

 

日本の憲兵がその「悪名」を戦後再生産されてきた、と言う件について
以前映画「憲兵とバラバラ死美人」のついでに語った経験からいうと(笑)
こういう話には必ず伝聞やその誇張が悪評を作り上げた部分があるはず。


・・・なのですが、そんなわたしも、こと相手が外でもないナチスの憲兵となると、
これらの風評を
無条件に信じてしまっているらしいのは困ったものです。

 

 

続く。


フォクスル再び〜空母「ミッドウェイ」博物館(おまけ 「スレッシャー」沈没事故)

2019-11-23 | 軍艦

 

一度ミッドウェイ博物館のフォクスルなる区画について説明していますが、
もう一度、前回よりマシな写真をご紹介させていただくことにします。

フォクスル(FOCS'LE )は船首楼のことで、立派な日本語があるため
この言葉を日本人がそのまま使うことはまずありません。

船首楼、文字通り船首にある区画のことで、大型の船は「ミッドウェイ」のように
アンカー関係の装具が備えてあり、帆船時代は船員の居住区になっている部分です。

「forecastle」=前方のお城

が元々のこの部分を指す名称ですが、なんでも短縮する海の上では、
これを縮めて「フォクスル」(英語だとフォクソー的な)と称するわけです。

これは、右舷側を後方から歩いてきて、フォクスルのある区画にきた時、
最初に目にするプレートで、「ミッドウェイ」現役の頃から設置されていました。

「艦首楼 関係者以外の立ち入りを禁ず」

として、

「錨と係留具(Mooring )が放出されている時には厳守せよ
エクササイズは2000から0600までの間のみ許可される
その際部署および部隊は大尉に必ず使用許可を得ること」

となっています。

ここでいう「エクササイズ」というのが文字通りこの場所を使った
体力錬成のことなのか、不思議だったのでちょっと検索してみると、

Sergeant William Schultz, engineer squad leader with 2nd Combat Engineer Battalion, Battalion Landing Team 3/8, 26th Marine Expeditionary Unit, performs exercises during a cardio class in the ships foc'sle while in the U.S. Navy 5th Fleet Area of Responsibility, Oct. 1, 2010. 26th MEU is currently embarked aboard the ships of Kearsarge Amphibious Ready Group operating in the U.S. Navy 5th Fleet Area of Responsibility.

出てくるわ出てくるわこの手の写真が。
これはキアサージュに乗り組んでいる海兵隊のエクササイズ風景ですが、
全天候型で広いフォクスルは昔から運動に利用されてきたんですね。

皆が同じ艦首方向を見ながら体を動かしているようですが、
やはり感覚的に皆そうしてしまうのかなと思いました。

さて、冒頭のフォクスルの写真は、展示用にペイントされたキャプスタンに
周りに展示物を配した現在の「ミッドウェイ」博物館の様子で、
とても現役当時の現場の雰囲気ではないと思いますが、それでは
実際の錨の揚げ降ろしはどんなふうに行われていたのでしょうか。

Aircraft Carrier Anchor Drop – Forecastle Anchor Room

これはやはり空母の錨揚げ降ろしシーンなので、ほぼこんな感じだったと思われます。
土煙のようなものが上がり、(巻き上げられていた錨鎖に付いていた海底の泥か)
火花が上がるのも見えます。
引き揚げのときには比較的周りに人が近づいて作業を見守っていますが、
投げ下ろしのときには距離を置いて離れて見ているらしいのがわかります。

フォクスルのある部分は艦首の突き出た部分なので、下階がなく、
下は海で、その床には、錨鎖を海面に落とすための穴が空いています。

人一人ならすっぽりと抜け落ちる(鎖があるので簡単ではないですが)
大きさなので、展示のためにアクリルガラスで覆われています。

ここからかつて投げ落とされた鎖は、「ミッドウェイ」が日本勤務中の
約18年間というもの、その錨で横須賀の海に彼女を係留していたと考えると、
我々日本人にはなかなか感慨深いものがあります。

最後にここから錨鎖が落とされたのは、2004年のことです。
それまで係留されていたブレマートン海軍基地から自力ではなく、
曳航されてやってきて、サンディエゴの海に錨を打ち、それから
半年後には博物館としてオープンしてしまったそうです。

最初から、博物館として完成するのは10年後、としながらも、
とりあえずオープンさせて、それから色々とやっていく(資金集めとか)
というイージーゴーイングなやり方は、アメリカならではで、
軍事遺産に対して官民共にその保存に協力的であることを表しています。

オープンした当初は、ほとんど現役のままの姿をしていて、
公開される場所も非常に限定的であったということですから、おそらく
フォクスルが一般人に見せられる状態になったのも随分後のことでしょう。

ここは艦首右舷部分で、繋留する為の舫のリールと投げ落とす為の穴が、
ハッチを開けた状態で下を覗き込むことができるようになっています。

舫を出す穴の横にはそれを確認する為の舷窓と、その下部にも窓があります。

かつてこの窓の外にあったのは横須賀の港でした。
今はその向こうにサンディエゴの海軍基地を臨みます。

写真を撮っていたら向こうからやってきた漁船には、数え切れないほどのカモメが
おこぼれをもらうために、周りを取り囲んでいるのが見えました。

この写真は、フォクスルに最初に足を踏み入れたときに現れる部分です。
今わたしが立っているのは艦首で、艦尾側を見るとこのようになっているわけです。

艦首側を見ながら後ろに向かって進んでいくと、こんな通路が現れます。
ドアのない通路には、保護のため分厚い補強がされているのにご注目。

この部分には、かつてここで使われていた装具がこのように展示されています。

「デタッチャブル・リンクス」(取り外し可能な連結器)

としてここにある説明をそのまま翻訳しておきます。

船の錨に繋がれている錨鎖の長さは「ショット」と呼ばれる道具で連結されます。
標準的なショットは「15ファソムズ(90フィート)」の長さです。

海軍で使われている連結具のタイプはここにある「Cシェイプリンク」を
二つの連結プレートで挟み込むようにして使われるものです。

「テーパード・ピン」で各部を固定し、「リードプラグ」で固定します。

知っていたからどうなるというわけではありませんが、
連結するときにこれを手作業で行うというのがすごいですね。

最初にサンドレットを投げて岸壁に細いもやいを渡すと、それを引っ張るうちに
細い舫には艦体を岸壁の舫杭と結ぶための太い舫が繋がってきますが、
「ミッドウェイ」ほどの艦体の大きな船にもなると、こんな太いものになります。

今ふと思ったのですが、今のところ全く一般に公開されていない
「いずも」「かが」などのフォクスル、艦首楼部分にもやはり、
「ミッドウェイ」とほぼ変わらないようなシステムが設置されているのでしょうか。

ところで、これ、何かに似ていると思ったら、あれですよあれ。
ケバブに入れるお肉を焼く、なんていうの?あのスタンド。
ぐるぐる回して肉を削ぎ取って・・・。

特別な垂直の串に肉をどんどん積み重ねて塊を作り、
あぶり焼きにしてから外側を削ぎ落としていくという仕組みで、
昔は珍しかったのですが、
最近では日本にもトルコ人が結構いるのか、
どこの夜店にも
一つはケバブスタンドが見られるようになりました。

横須賀の年越しでも見たし、富山のスキー場のランタン祭り会場にさえも(笑)

これは壁に直接描かれた絵です。

1963年4月10日に起こった原子力潜水艦「スレッシャー」の乗員全員を悼み、
当時の「ミッドウェイ」乗員の手によって制作された「メモリアル」で、
ここが改装された後にも手をつけず、上部をアクリルで保護して残しています。

先日映画「原子力潜水艦浮上せず」をご紹介したばかりなので、
この映画でテーマになっていた当時最新鋭のDSRV誕生のきっかけになった
この痛ましい潜水艦沈没事故についてちょっとお話ししておきます。


事故当時の艦長は、ノーチラス号の北極点通過航海にも参加した経験も持つ
ベテラン海軍軍人である
ハーヴェイ少佐でした。

事故直前、海中救助船スカイラーク(USS Skylark, ASR-20)は、
マサチューセッツ州コッド岬付近でスレッシャーからの通信を受けました。

「・・・小さな問題が発生、上昇角をとり、ブローを試みる」

スカイラークはその後、隔壁が壊れる不吉な音を聞き取りました。
乗組員と軍及び民間の技術者、合計129名全員の命が失われた瞬間でした。

その後、バチスカーフトリエステ、海洋調査船ミザール (USNS Mizar, AGOR-11)
および他の艦船を使用して行われた大規模な水中探索の結果、スレッシャーの残骸は
2,560mの深海で大きく6つの部分に分かれて発見されました。

「スレッシャー」急激に沈没した時の状況がwikiにありました。

機関室への浸水により原子炉が停止した

→緊急浮上を試みた

→ジュール=トムソン効果により
バラストタンクの弁が氷で詰まってしまい排水不能に陥る

→浮上できず機体は艦尾を下にして沈没していった

という経過がGIFで表されています。

「スレッシャー」は急激に沈没する過程、おそらく海深400~600mの間で
艦のコンパートメントが内側に向かって潰れ、全乗員はほぼ即死、
どんなに長くとも1~2秒以内には死亡したと考えられています。

わずかに慰めがあるとすれば、「小さな問題」から全員の死亡まで
あっという間で、全員が恐怖を感じる時間が短かったということでしょうか。

前回には気づかなかったものに目が行くこともあります。
これらはここの住人が使っていたらしいツールで、下は

「Turnbuckle Wrenches」(回転レンチ)

これはなんとなくわかりますが、上は

「Rousting Hook」

ラウスティングというのは人を寝床から追い出すという意味ですが、
起きてこない水兵をベッドから追い立てるための・・・まさかね。

 

続く。





映画「原子力潜水艦浮上せず」〜That Other May Live

2019-11-21 | 映画

「ピッツバーグでであった動物たち」で、わたしがネコ語で猫と会話して、
と書いたところ、そのネコ語に対して質問がありましたので、
その時の会話をYouTubeにアップしておきました。

コメント欄で告知しましたが、そんなところまで読まんという人のために
ここに貼っておきます。

アメリカのネコにネコ語で話しかけてみた


さて、気を取り直して、 映画「原子力潜水艦浮上せず」、後半です。

 

とっさに二人は自分を犠牲に他の者の命を救う選択をしたのでした。
しかし、衝突に責任を感じていたマーフィーはわからないではありませんが、
最初から艦長に反抗的で沈没のの責任は艦長にあるとして責めていた
この副長が、そういう行動に出るに至る心情などが全く表されていません。

副長はマーフィーにも脱出を促しますが、彼はレバーを握った手を放しません。

そして副長は、

「ドアは重くて外(艦長のいる方)から閉められません!」

そういって副長は艦長の差し出した手を払いのけ、
下からドアを持ち上げて自分とマーフィーを浸水する側に締め出そうとしました。

「ヘルプミー、サノバビッチ!」(手伝え、こん畜生!!)

躊躇っていた艦長は、副長のこの言葉に思わず手を差し伸べ、
ドアを閉めて彼らを永久に艦から締め出しました。

 

 

「何が何でも生きて帰りたい」

と公言し、事故の責任を艦長に押し付けて非難していた副長を。

自分が海中に没してもレバーを引き続けるマーフィ(´;ω;`)

途端に艦体は復元し始めました。

深海でハッチ一つで水をせき止めているだけだというのに、これで
まだ隔壁がビクともしないなんてさすがはゼネラルダイナミクス製です。

しかし、一難去ってまた一難、復元しようとした艦体の軌道に
大きな岩が挟まっていて、角度はまだ60度に傾いたまま。
当然DSRVの装着はこのままでは不可能です。

さて、こちら閉鎖したドアの前の艦長。
ドアの向こうはもう海水で満たされています。

ここでよせばいいのに艦長、丸窓をのぞいてしまいました。

そして見てしまったのです。

艦長は艦と運命をともにする、という海の男の不文律がありますが、
ブランチャードはとっさにそれを選択することができず、その結果
部下である副長を死の任務に就かせることを余儀なくされました。

しかし、自分が犠牲になるべきところを部下にその役目を替わられ、
しかも目の前で彼が死んでいくのですから、海軍指揮官ならば
むしろしっかり最後を見届けてやるのが筋ではないかと思うのですが、
ここで描かれたブランチャード艦長の一連の反応は、はっきりいって
ど素人のそれです。

まず、次の瞬間窓から目を背け、転がるようにドアを離れ、
顔面蒼白になって縺れる足で艦長室に逃げ込みます。

「キャプテン、何があったんですか?」

「どうしたんですか?」

皆が心配するのを振り切って艦長室に入り、ドアを閉め、

そのまま座り込んで膝を抱え震えながら涙ぐむのでした。

”艦長だけど涙が出ちゃう。人間だもん”

ってか。

一般に、潜水艦映画に出てくる艦長というのは、意志が強く精強で
人間的な弱さを決して部下に見せない理想の軍人というのがテンプレですが、
本作における、
結構キレやすく(反抗する副長に食ってかかったりする)
感情的で
(『どうしていいか俺だってわからん!とか部下の前で叫んだりする)
そして副長の最後を見てしまったことに恐れおののくという弱さを持つ艦長像は
等身大の一人の人間であることをあえて描いているのかと思われるシーンです。

というかですね。

製作者は軍人がぎりぎりの場面で選択するであろう徹底した職業的自己放棄、
そのためにこそ彼らには長年にわたって訓練が繰り返されてくるのだということを、
全く知らないのか、あるいはあまりにも甘くみておらんかね?

ましてやブランチャードのような司令官クラスでこれはない。(断言)
内心いかに動揺していようと、決して表に見せないのが軍人というものです。

もはや救出の打つ手なし、と思われたとき、ベネット大佐が思いつきました。
「スナーク」で指向性爆薬を岩にセットし、岩を爆破するという作戦です。

もはや無茶苦茶ですが、ここまできたらやらないで死なすより
何かやって死なせたほうがまし、と考えるのがアメリカン。(たぶん)

海軍の爆破チームがすぐさま呼ばれました。
航空機からパラシュートで
海面に着水するという派手な着任です。
爆破のスペシャリストである大尉がミッキーの代わりに乗り込むことになりますが、
流石のゲイツ大佐もこの専門家を拒むことはできません。

こんな状態でもチクチクやりあう二人。

ベネット「ゲイツ、落ち着け」

ゲイツ「うるさいやつだ」

マニュピュレータで爆薬設置完了。

スイッチを押せるのは潜行艇に乗った大尉だけです。
爆破1分後にはDSRV出動という流れ。

こでゲイツ大佐、一人で「スナーク」を操縦し、
現場に戻って爆破を見届けると言い出します。

「わたしが先ですよ」

ミッキーが必死にいうのをかるーくあしらって、ゲイツはハッチを閉めてしまいます。

「テイク・ハー・ダウン」(潜行させろ)

そしてあの指を立てて左右に振る挨拶をして行ってしまいました。

(´・ω・`)とするミッキー。

 

流石の専門家、爆破は成功し、艦体から岩だけを取り除くことに成功しました。

こちら唯一顔が映るDSRV乗員。
ほとんどが「ピジョン」の乗員のエキストラだったということですが、
もしかしたらこの人だけが俳優だったのかもしれません。

前にも説明したことがありますが、艦体の中央に設置してあるDSRVは、
センターウェル(井戸)という部分から海面に降ろされます。

DSRVを搭載している潜水艦救難艦は中央がこのようにくり抜かれた状態で、
ここからDERVが発進し、また揚収されます。

海中の潜航中DSRV。海軍大サービスです。
真ん中か下部に見えるのが潜水艦とドッキングするスカートとなります。

DSRVが接触する衝撃を感じた艦長は、早速与圧された外の音を聞き、
ハッチを開けました。

「サラダとコールスローとチキンをお届けにあがりました」

こういう時にこういうジョークをいうのがアメリカ映画の定石ですが、
海軍でもやはりこういうノリなんでしょうか。
これに答えて艦長は、

「コールドターキーもな」(”Cold turkey, too.”)

なんて答えています。

字幕ではこれを意訳して、

「遅かったじゃないか」

となっていますが、コールドターキーにはちょい否定的な意味があり、
(日本語だと『冷飯』に相当する)艦長はジョークに対して
ちょっとした皮肉まじりのジョークをかまして応酬したということです。

そして、救難艇は怪我をした者を優先して乗り込ませ、無事出発しました。


しかし、両者を至近距離で見ている潜航艇のゲイツは気が気ではありません。
再び潜水艦が擱座している地盤では地崩れが始まっていたのです。

ベネット大佐は「ピジョン」に移乗しました。
DSRVが帰投するのを迎えるためです。

センターウェルにDSRVが浮上。

この作業をしているのはおそらく間違いなく本物の乗員。
ペグのようなものを差し込んで艇を固定しているようです。

早速負傷者のためのストレッチャーが運び込まれました。
後ろの人たちもまず間違いなく「ピジョン」乗員だと思われます。

乗員がDSRV上部で補助を行うために駆け上って行きました。

生還第一号は副長にサプライズを企画したカルーソです。

拍手で迎える本物の「ピジョン」乗員たち。
給養の人までいますね。

重症の乗員も無事救助されました。

しかしすぐさま現場に戻ったDSRVが残りの乗員を救出し始めたとき、
ついに「ネプチューン」艦体が
地滑りを起こし始めたのです。

そこでゲイツのとった驚くべき行動とは。
「スナーク」を艦体の下に潜り込ませ、
その動きを止めることでした。

DSRVが救出を終え、潜水艦から離脱するのを待っていたかのように
すぐに「スナーク」は潜水艦に押しつぶされ、

潜水艦とともに地滑りを起こして海底に沈んでいきました。

それはゲイツ大佐の命が絶たれた瞬間でもありました。

画面を見守っていた人々は無言でミッキーの周りを離れて行きます。

ゲイツ大佐、我が身を呈して艦を守った副長と若き士官マーフィー。
彼らはThat others may live”を体現したのでした。

彼らの犠牲のうえに第二弾のDSRVも無事に帰投しました。

最初に乗艦したのは「ネプチューン」艦長ベネット大佐です。
「ピジョン」には鐘が2回ずつ鳴らされ、艦長がハシゴを降りるとともに
「ネプチューン・アライビング」というアナウンスが流されました。

「ポール」

ベネット大佐は旧知のブランチャードをまずファーストネームで呼びますが、
次の瞬間敬礼をして、

「ウェルカム・アボード・キャプテン」

「ピジョン」の乗員が皆集まってきて握手を求め、その中の一人は
早速艦長に熱いコーヒーを手渡しました。

命からがら死地から脱出してきた人にいきなりコーヒーを渡し、
もらった方も美味そうにそれを飲むというのが、いかにもアメリカです。
一口コーヒーを口にした艦長の表情は、しかし悲痛なものでした。

エンディングには、こんな字幕が流れます。

米海軍のDSRVは今日実在している。
世界中どこの海であろうと、アメリカ海軍の潜水艦から
乗員を救出することが可能である。


米国のDSRVは原子力潜水艦「スレッシャー」の沈没事故(1963)
をきっかけに開発されました。

「ミスティック」級DSRVが完成したのは1970年、
運用が正式に始まったのは
その7年後となります。

この映画が制作された1978年は、運用が始まってすぐの頃で、
アメリカ海軍としては「スレッシャー」のトラウマから立ち直り、
深海でも潜水艦救助ができるということを世に広く膾炙させるために
全面的な本作への映画制作協力を行ったのではないかと思われます。

 

 

終わり。

 


映画「原子力潜水艦浮上せず」〜”Roger, Mother Hen. This is Baby Chick!"

2019-11-20 | 映画

映画「原子力潜水艦浮上せず」二日目です。

冒頭画像は三日目のために製作した二つのバージョンのうちの一つですが、
DSRVがバックに入っているので捨てがたく、当初の二日目の挿絵を引退させて
採用しました。

しかし、二日目もせっかく製作したので、無理やり載せてしまいます。

ミニサブに乗り込む際、「眼」となりマニュピュレータの操作をする
「相棒」は、床に腹ばいになって、ずっとそのままの姿勢でいなくてはなりません。

バチスカーフ「トリエステ」でもこんな無体な体勢を強いられることはなく、
これは映画ならではの演出かもしれませんが、本当にこんなのもあったんでしょうか。

霧の多い海上に浮上した際、貨物線と衝突し、沈没した原子力潜水艦
「ネプチューン」は、苦労の末地上と連絡を取ることに成功しました。

潜水艦救出チームが結成され、出動を始めたということは、彼らにとって
助かるかもしれないという大きな希望となったのです。

助かることがわかった乗員たちは娯楽室で「ジョーズ」なんかを観ております。

海底で鎮座しており動力がすでに失われたこの状況で、映画とはいえ
電気を使うのはちょっと自殺行為という気がするんですがどうなの。

案の定すぐに音声が聴こえなくなり、皆は面白がって無声の画面に
てんでにアテレコしたりしていますが、誰もこれが

電力に問題が起きたせいだと考えないのがちょっと呑気すぎです。

 その時、またしても崖崩れが起こり、艦の上部に岩が落ちてきてしまいました。

それにしても、艦大の一部が裂けているのに、大きな岩がのしかかっても
ビクともしない艦体、さすがは
ゼネラルダイナミックス社製です。

ベネット大佐の指示で艦長が艦体を内側から叩いて調べたところ、
ハッチを含む艦体上部を、まんべんなく岩石が覆っていることが判明。
これではDSRVを艦体に接続することができません。

潜水艦隊司令など海軍の上層部が海軍長官との会談を行っております。

長官の関心事はただ一点。
もし限界を超えて潜水艦が沈み、圧壊した時の各自この危険性です。

「核は漏れないように設計されています」

それを聞くと、長官は思わずニッコリと微笑んでしまっています。

あ、前回ご紹介した映画「地球防衛軍」で原子力を動力とした
β号が撃墜されたのに、核事故を全く考慮していない、と突っ込んだのですが、
もしかしてα、β号共に核は漏れないように設計されていたのか!

本多猪四郎監督、すみません<(_ _)>

 

そこで、30時間以内に艦体上部から岩を取り除くために

小型潜水艦の出動が許可されることになりました。

「シューバジェット」(低予算)で作った実験段階の小型潜水艇「スナーク」。
それは開発した若い海軍士官だけが操縦することができるというものです。

それがこのゲイツ大佐。(デビッド・キャラダイン)
潜水艇の乗組で開発時からコンビを組んできた相棒の下士官、
ミッキーが走っているゲイツ大佐を迎えにきました。

「原潜事故で海軍長官からスナーク出動の要請です!」

「ナッソー」にゲイツ大佐とミッキーのコンビが着任しました。
このヘリコプターはシーナイトとかかな?

本人に続いて、彼らの乗る「スナーク」がやってきました。

これは、バチスカーフ「トリエステ」のノリですね。

スナークを甲板に降ろす時に乱暴に扱われたので気を悪くしている
ゲイツ大佐ですが、いきなりベネット大佐に

「指揮はわたしに任せてもらいたい」

と上から目線で言われてさらに(−_−#)

どうしてこんな時にマウンティング取りたがるかね。
このベネットとゲイツの二人も、海底の二人のように「ウマが合わない」ようで
いきなり空気は険悪に。

「わたしとミッキー↑が乗ります」

なのにベネット大佐、

「ブルーム大尉と潜ってくれ。
彼は潜水艇の専門家で我々のチームの一員だ」

自分の部下を無理やり小型潜水艇に乗せようとします。
操作はベネットですが、もう一人は潜水艇の「眼」となるので、
息の合ったチームであることがこの際重要なのですが・・。

ゲイツはスナークが特殊で、ミッキーと二人で建造したものであること、
他の人間とは乗れないことを訴えるのですが、ベネット聞く耳持たず。

この非常時に、潜水艇の乗り方からマニュピュレータの動かし方まで
説明しないといけないというね。

海上にスナーク投入と同時にダイバーが三人飛び込み、装着した
索を取り外して潜水の準備を行うという仕組み。

スナークの潜水の深度が報告されるのを皆で聴き入る乗員。

息を飲むように・・・・皆無言です。

「みんなリラックスしろ」

「リラックスね」「してますしてます」「みんなしてます」

「見つけました!」

しかし、彼が見つけたのは前回ソナーテストのために投下した廃車でした。
ゲイツ大佐はものも言わずに帰投することを決めました。
やっぱりミッキーと一緒でないとダメだってことですねわかります。

「ブルーム大尉はこの辺の海層や地形を知っている。それに、
彼の体型からしてふさわしいと思えん!」

超失礼なベネット大佐ですが、ちょうどそのとき、DSRV を搭載した
「ピジョン」が海面に到着しました。

もう言い争っている場合ではありません。

スナークに乗り込むゲイツ大佐に、ベネットはニッコリと笑って
親指を立てて見せますが・・・、

ゲイツはそれに対し、親指を横に振る挨拶。
意味はわかりませんが、バカにしているのはほぼ確実なような。

「むかーっ」(−_−#)

あんたらさあ・・。

さあ、ゲイツ大佐とミッキーのゴールデンコンビは、
「ネプチューン」を発見することができるのか?

ゲイツ大佐の開発したミニサブ、「スナーク」は、沈没した原潜を捜索するため、
もう一度、今度はゲイツの相棒ミッキーを乗せて潜行を始めました。

「スナーク、聞こえるか」

ベネット大佐の呼びかけに対し、普通に答えればいいものをこいつは、

「了解、ニワトリお母さん、こちらヒヨコ。
トランスミッションの準備はできてるよ」

やれやれ、という顔をするミッキー。

「・・・・・・・・💢」

左の少尉役はこの映画が初出演、同年の「スーパーマン」でその後
スーパーマン俳優となるクリストファー・リーブです。

こちら「ネプチューン」。
衝突前にワッチを行なっていたマーフィーは同僚に尋ねます。

「なあ、もし君だったらどうしてた?
衝突コースに船舶を見つけて・・・」

この事態についての責任をひどく感じているようですね。

艦内の不安な乗員たちの耳に異音が聴こえてきました。
ミニサブの優秀な「眼」であるミッキーが沈没した「ネプチューン」を発見し、
潜水艦甲板に「着艦」して潜水艇の床を金属棒で叩き信号を送っていたのです。

「DSRVが助けに来るぞ」

DSRVの装着を容易にするため、「スナーク」はマニュピュレータで
艦体上部の岩や泥などを取り除こうとします。

ベネット大佐は「ピジョン」に連絡を取るのですが、この
携帯型無線機、今ではこんなの使いませんよね。

「合図をしたらDSRVを潜行させろ」

「了解」

「ピジョン」は実在の艦なので、もしかしたらこの艦長も本物かもしれません。

そのとき、地滑りが起こり、潜水艦左舷側に土砂が流されて、
艦体は右に向かって70度度傾いてしまいました。

ハッチも岩に塞がれ、DSRVの連結は不可能になっているようです。

もうだめぽ、と全員が絶望感に打ちのめされそうになったとき、艦長が
「高校の物理の応用で」艦体を元に戻すアイデアを思いつきます。

緊急バイパス弁を引いて下のバラストタンクの水を排出すれば、
上の水の重みで艦体が回転し戻るのではないだろうか、というのです。

「それをすれば空気を全て消耗します」

しかし、他に代案はないのでやるしかありません。

ところで副長はこの直前、いきなり艦長に

「すみませんでした」

とさっきの態度を謝っていますが、一体何があったんだろう。

さて、艦長がいよいよ「科学の実験」を実行しようとしたそのときです。
それまでハッチから水が漏れていた区画についに異変が起こりました。


ハッチから急激に海水が浸入してきました。
この区画を閉めないと全員の命がありませんが、かといって、
バイパス弁はここにあるのです。

「わたしがやります!」

一旦避難しかけていたマーフィーが踵を返し弁に駆け寄りました。 

「デイブ!(副長)出るんだ」


さあ、副長とマーフィーの運命は・・・?

 

続く。




映画「原子力潜水艦浮上せず」〜"Congratulations, Skipper!"

2019-11-18 | 映画

気がつけば潜水艦ものを選んでいる当ブログ映画部ですが、
今回もチャールトン・ヘストン主演の原潜ものを取り上げます。

「原子力潜水艦浮上せず」。

原題は

Gray Lady Down 

灰色の淑女沈没す、ってなところでしょうか。
一口で潜水艦ものといっても、これは今までお話ししてきたのと
少し毛色が違っていて、潜水艦救難をメインに描いたものです。

当時最新装備だったDSRVと潜水艦救難をアピールしたかったらしい
米海軍と国防総省、ついでに撮影に協力してもらった
「カユーガ」と「ピジョン」の乗員に深く感謝する、という
字幕から映画は始まります。

アメリカ軍の原子力潜水艦「ネプチューン」は潜水艦の故郷てある
ニューロンドンに帰投しようとしていました。

潜行状態から浮上の命令を下してから、艦長のブランチャード(ヘストン)は
この任務が終わったら自分が艦長の座を渡す副長のサミュエルソンに

「艦長にコーヒーを」

と軽ーく注文します。
1度目は見流してしまったシーンですが、一度観終わった後は、
この「コーヒー」にちょっとした意味があったことに気がつきました。

てか副長にコーヒー淹れさせるなよっていう。(これも伏線)

艦を降りるのは艦長ですが、この度は副長にサプライズをするようです。
乗員同士が偽の喧嘩をして慌てて止めに入った副長に、

「サプラーイズ!」

「あっ・・・・騙された」

員一同からのプレゼントはサイドパイプでした。
艦長になる人にサイドパイプとはこれいかに。

「月曜日に新しい艦隊司令が着任するときに使いますよ」

そう、ブランチャード大佐は月曜から艦隊司令に昇任するのです。
でもやっぱり艦長はサイドパイプ吹いて貰う立場で、吹く人じゃないけどな。

このセンスのないプレゼント考えた人は誰?

そのとき、ちょうど運悪く霧の中レーダーが故障したノルウェーの船が、
(なぜかブリッジでは全員がなまった英語で会話)接近していました。
艦長も甲板に上がり回避行動を支持するのですが、
ワッチの士官マーフィーの初期の判断が霧のため甘かったせいもあって、
船は「ネプチューン」の艦体に激突してしまいます。

衝突したのはちょうど機関室のある部分の艦腹でした。
なんの予兆もなくいきなり浸水していくエンジンルーム。

パイプが裂け、蒸気をかぶって叫び声をあげる機関室の乗員と壮絶です。

この映画の不思議なシーンの一つですが、潜水艦なのに乗員のバンクが
寝ている人で上から下までぎっしり詰まっているところです。

潜水艦って交代制で寝るからこんな普通の軍艦みたいなことはないよね?

それはともかく、事故は深夜起こったため、バンクの乗員たちは慌てて飛び起き、
浸水していない前方に必死で移動を行います。

艦長は、まだ亀裂箇所に人が残っているのがわかっていましたが、
浸水を止めるため苦渋の決断でドアを締めさせました。

悲惨なのがドアを閉められた機関室。
海水とパイプの水が同時に彼らを襲います。
こんな状態なのに同僚を助けようとする人もいますが、彼らの顔は
見る間に熱で焼けただれていくのでした。

機関室、完全に水没。

「ネプチューン」は機関室と制御室を失いました。
これは全く自力で動くことができなくなったということであり、
海底に向かって速やかに沈没していくのを手を拱いて見ているだけです。

「ジーザスジーザスジーサス!1200フィートで潰れます!」

若いだけにテンパるのも早いハリスくん。

目盛りがものすごい速さで深度の変化を告げています。

800フィート、250m付近まできてしまいました。

海底の岩礁が迫ってきていました。

「衝撃に備え!」

衝撃の瞬間、あちこちで叫び声が上がりました。

1450フィートの海底に鎮座しても一部が破れた潜水艦が無事であるというのは
ちょっと奇跡のような状態かもしれません。

「頑丈に作ってくれたな」

ここでさり気なく艦長、

「ジェネラル・ダイナミクスに感謝しよう」

と製造会社(スポンサー?)の宣伝をするのですが、日本語字幕ではただ

「製造者に感謝しよう」

となっています。

とりあえず損傷個所を調べ、負傷者の手当てをすることを命じますが、
軍医は艦尾にいたため殉職してしまっています。
傷の手当は看護士資格のある衛生兵ペイジ一人の手にかかってきました。

そのとき上の階からふらふらと降りてきた副長。

「デイブ、俺はてっきり・・・」

生きていたことを喜んだ艦長に向かっていきなり、

「コングラチュレーションズ、スキッパー」

これが言葉通りの意味ではないことは誰だってわかるでしょう。
副長、なんかすごい怒ってます。

(なんなんだこいつ・・・・)

艦長は返事をせず顔をこわばらせるのでした。

さて、こちら大西洋連合軍司令部。
ノルウェーの船から通報を受けた当直士官は、沈んだ原潜が
「ネプチューン」らしいという見当をつけ、対策に入りました。

早速主要な司令官などに電話連絡をするのですが、これが面白い。
「バーンズ提督」と書かれたカードにパンチ穴が打ってあり、
それを差し込むと自動的にダイヤルをするという仕組みです。
短縮ナンバーなどがない時代の最先端テクノロジーです。

バーンズ提督のゴーヂャスなお部屋に連絡が入りました。

初期の段階で乗員の約半数、52名が失われたことがわかりました。
生き残った乗員にも怪我人多数、一人は脳挫傷で意識不明の重体です。

原子炉は失われ、機関室も浸水しましたが、隔壁はほとんどが無事。
空気清浄器が一台故障しただけという奇跡的な状態であることがわかりました。

しかしこれで艦内の空気が汚れる1日半の間に脱出しなければならなくなりました。

司令部には早速「ネプチューン」を救出する対策チームがおかれました。

救出はできるが、「ネプチューン」のいる場所は狭い大陸棚の斜面なので、
一度地滑りが起きたら海底まで落ちてしまい助からないだろう、
という結構悲観的な結論が出たので、救出チーム司令のベネット大佐
まず自分の妻のリズに電話で事故を知らせます。

「ブランチャードの細君に言ってくれ。
何が起ころうとも必ず彼を助け出すと」

潜水艦救難隊ユニットの格納庫からDSRVが運び出されました。

「緊急事態だ。原子力潜水艦が大西洋で沈没」

艦長がペイジに呼ばれてバンクに行くと、脳挫傷を起こした乗員が
もう死にかけていました。

「(死んだら)どうします?」

「布をかけておけ」(あっさり)

士官寝室の前を通りかかると、フルートが聴こえてきました。

開けてみると、見張り士官だったマーフィ。
フルートは故郷のナッシュビルで習ったといい、皆素朴な人たちで
海軍兵学校に入った自分を誇りにしている、と彼はいいます。

「また帰れるでしょうか」(;_;)

「帰れるさ」(´・ω・`)

( ;  ; )

映画的にいうと、こういうの(楽器をする、動物を飼うetc.)
は「フラグ」ということを皆さんももうお分かりですね。

それに、なんとも縁起悪いことに、彼の名前はマーフィ。
世に「マーフィーズ・ロウ」というものがあってだな(略)

こちらニューロンドン。
テニスをしていた艦長の妻ですが、ベネットの妻の顔を見るなり呟きます。

「He's down, isn't he?」 (沈んだのね)

さすがはサブマリナーの妻。察しがよろしい。

DSRVの積み込みが開始されました。

なんとアメリカではDSRVを輸送機でフネまで運ぶようです。

輸送機内部。海軍大サービスですね。

艦長は先ほどの副長の態度が気になっていました。
早速艦長室に呼びつけ、艦内に落ちていたというサイドパイプをわたしますが、
副長は冷たく、

「これは本来クルーの持つものでしょう」

と突き返してきました。

ほらー、プレゼント、やっぱり気に入ってなかったんだ。

字幕ではこの部分、「艦長のものです」という日本語訳になっていますが、
これはおそらく翻訳した人が、サイドパイプというものが
軍の船でどんな位置付けのものなのか理解していなかったのだと思われます。

案の定これに続く艦長のセリフも、おそらく苦し紛れに意訳してあります。
(DVDの翻訳って、案外いい加減なものだとこの作業を通じて実感します)
お節介ながらここを英語で言っている通りに訳しておくと、

副長「これは本来クルーの持つものでしょう」

艦長「そうさ、だから皆が君に贈ったんだ」

副長「彼らは全部”あなたの部下”だからね」

となります。

つまりどういうことかというと、「ネプチューン」乗員にとっては
尊敬する艦長はブランチャード大佐だけであり、新しく着任する自分は、
せいぜい大佐をサイドパイプで「お見送り」するのがお似合い、という
彼らの皮肉が込められたプレゼントなんだろう、と言っているわけですな。

被害妄想もいいところですが、それも平時であれば内心抑え込むところ、
こういう事態になったので爆発してしまったということなんでしょう。

さらに副長、ブチ切れついでにさらに言いつのるのでした。

「あの時浮上しなかったらあんなことにならなかった!
あなたは自分の勇姿をひけらかすために浮上したんだ!
”みんな見ろ、艦長が最後にブリッジに上がるぞ!”ってね。

もう終わりだ!」

艦長は流石に平静ではいられず、

「そのクソみたいな暴言を今すぐやめないとシックベイに放り込むぞ」

その時、轟音が聴こえてきました。
鎮座している場所の上部が雪崩を起こし土砂が降り注いできたのです。



ようやく無線が上部に到着した「ナッソー」とつながりました。
「ナッソー」には救難隊司令のベネット大尉が乗り込み指揮を執ります。

艦長はベネット大佐に現状を報告。
DSRVが1400には到着するという知らせに乗員は喜びに湧きます。

「夕飯までに帰れるぞ!」

その後、要員以外は司令室から出すことを命じた艦長は、
司令室から統率の邪魔になると判断して追い出した副長が
自分を見て嘲笑しているのに気がつきました。

こーんな感じ。

ウマが合わないというのか、内心なんとなく気にくわない間柄でも、
平常時にはなんの問題もなく付き合うのが社会人というものですが、
不幸にして、非常事態がその亀裂を表面化し悪化させることがあり、
この艦長と次期艦長は、実はそういう関係だったというわけです。

しかし、軍隊、特に潜水艦などという職種の軍人たちは、いわば
常にその「非常事態」を想定すべき環境に生きているわけですし、
特に艦長クラスになればいざという時、自分の精神状態をまず
制御するための訓練を若い時からやってるはずなんですけどね。

原潜の艦長になるほどの軍人がこの非常時にメンブレ起こすなど、
実際にはまずあり得ないと思いますが、まあ映画だから仕方ないか。


 

続く。

 

 


ピッツバーグで出会った動物たち

2019-11-17 | すずめ食堂

アメリカに来ると、野生の動物が多いのに最初は驚きます。

ピッツバーグのように、いわゆるダウンタウンから車で数分で
ちょっとした森林地帯でもある巨大な公園があるところならなおさら。

ただし、このことは、アメリカならではの問題も引き起こしていて、
車の犠牲になる野生動物の数は半端ではありません。

特に東部でフリーウェイを野生動物が轢かれて死んでいるのを見る頻度は
毎日走っていて3回に1回くらいの割合になるでしょうか。

わたしなど、何度遭遇してもこれには慣れず、道路の脇に
それらしいものを遠目に発見したが最後心臓がバクバクして
できるだけ見ないように目を背けるのですが、
しばらく気分は落ち込みます。

今回ピッツバーグに着いてすぐ、フリーウェイ合流点で轢かれた鹿を見ました。
カーブを曲がったところに迷い込んだ鹿を避けようがなかったのでしょう。

同じくわたしもカーブを曲がった途端、遺骸をもろに見てしまい、
思わず小さく悲鳴をあげて家族を驚かせてしまいました。

しかも、衛生局が出動するのにまる三日はかかり、やっと片付いたと思っても
その後いつまでたっても道路に夥しい血が生々しく残っていて見るのも辛く、
そこを通る時にはいつも心の準備をしたものです。

さて、初っ端から気分の滅入る話をしてしまいすみません。

ここからはピッツバーグで遭遇した動物たちをご紹介します。
アメリカには日本の野良猫並みにあちこちにいる野うさぎ。
このウサギは大学のキャンパス内をウロウロしていました。

そして散歩していると3回に一度は遭遇するのが鹿。
これは斑点があるので子鹿ですが、その割にひねた顔をしています。

斑点のある子鹿は、大抵親に連れられて子供二匹という組み合わせで
行動していますが、子鹿だけで歩いているのも何度か見ました。

ピッツバーグ市内にあるシェンリーパークには天敵がいないらしく、
人にもある程度慣れていて、あまり近づかない限り逃げません。

子鹿二匹連れてきて、子供は掘ったらしで食べるのに夢中だった母さん鹿。

夜の8時くらいにMKが大学の研究室にお茶のボトルを忘れたというので取りに行き、
ついでに研究室の中を見せてもらって出てきたら、公園に鹿の群れがいました。

右側席のMKにカメラを渡して撮ってもらいました。

アメリカにはどこにでもリスがいます。
特に都会ではほとんどドブネズミの扱いなんだそうで、
SATCでも
自称シティガールの(といってもあの四人全員30〜40なんですけど)
キャリーが「田舎大好き男」のショボい山の中のロッジに連れて行かれて
窓にリスが来るたびにギャーギャー騒ぐというシーンがありましたっけ。

 

この辺りのリスは小さくてシマシマで、しっぽがネズミのように細く、
地面を忙しく横切る姿をなんども目撃しました。

こういうリスを英語では「チップモンク」と呼び、尻尾のふさふさした
「スクヮレル」とは別の種類に区別しているようです。

地面にはこんな蜘蛛も走り回っていました。
日本の「イエユウレイグモ」に似ていますが・・。

アメリカに着いて二日目の散歩に出た日、家に帰ってきたら隣の芝生に
大きくて物静かな犬が座っていました。

彼の写真を撮りまくっていると、バックヤードから飼い主が戻ってきました。
1ヶ月だけお隣さんになりますのでよろしくね、とあいさつすると、
おじさんは
自分がジョンだと名乗り、

「2週間くらい前にこのうちを買って引っ越してきたばかりなんだ」

と嬉しそうに言いました。

ジョンはちょうど「ウォーミングホーム」のための作業の真っ最中で、
毎日新しい家を住みやすくするため忙しく立ち働いていました。

アメリカでは家を買うときお仕着せのリフォームを好まず、
修理からペンキ塗りから全部自分でやってしまう人が多いのです。

その後、ジョンがポーチに飾り付けをしたり、クーラーを付けたり、
周りの土を耕して花を植えたりと毎日忙しく働いているのを目撃しましたが、
この物静かな犬にはこの時だけでその後二度と遭遇することはありませんでした。

このときも吠えもせず、かといって尻尾もピクリとも動かさず、
じっとわたしたちを見送っていました。

なんだか悟りきったような、賢人のような趣を讃える犬でした。

別の日のこと、家のまえの芝生でやはり憩っているネコ発見。

ネコだネコだとわたしたちが騒ぎ出すと、うるさいなあと言わんばかりに
立ち上がって行ってしまいました。

が、あくまでも追いかけて行って後ろから写真を撮るわたし。

「野良猫がいるのかな、この辺」

後日判明したところ彼女は野良ではありませんでした。

ある日キッチンで夕食の支度をしていると、外から猫の声が聞こえたので、
それっとばかりカメラを持って窓辺に近寄ると、この灰色の猫が
別の黒猫を威嚇して追っ払っている最中でした。

威嚇の態勢なので尻尾を巻き込み、後脚は爪先立ち?しています。
黒猫は身体は大きいのにすごすごと逃げて行き、彼女は満足して
このあとここに座り込み、しばらく天下?を満喫していました。

冬の寒さが半端ではないここピッツバーグでは
おそらく猫どもも外で越冬することはできないと思われますので、
彼らもどこかの飼い猫だったりするのかもしれません。

また別のある日、二軒隣の家の窓にサビ猫がいるのを発見。
ネコだネコだとまたしても近寄っていくと、伸び伸びポーズをしてくれました。

この日、この家の住人が若い男性で、白黒の犬とこの白黒猫、そして
窓際のサビ猫、合計犬猫三匹を飼っていることを知りました。

この白黒の「ソックス」は(多分そういう名前だと思う)、飼い主が
犬の散歩に行っている間、外に出してもらえて、
彼らが帰ってくる頃、家の前をうろうろして待っているのです。

このあと、白黒の犬と主人が帰ってくると、ソックス猫は、
おかえり〜、とばかりに尻尾をピンと立てて二人をお迎えし、
一緒に家に入って行きました。

犬も白黒、猫も白黒で柄が一緒。

偶然なのか意図的に犬猫の柄を揃えたのか、ぜひ聞いてみたかったのですが、
飼い主の若い男性とはそれっきり会うことはありませんでした。

ところでこのソックス猫ですが、ある日わたしが猫語で話しかけると、
確信的にずんずんと近寄ってきました。

この時のわたしとソックス猫の会話?は現在でも動画に残してあります。

わたしが呼びかけると彼女が明らかに反応し、返事をする、わたしよびかける、
猫返事、とちゃんと双方向の会話になっていて意思疎通できているみたいです。

ネコも人間の呼びかけにちゃんと返事してくれることを実証してくれた感じです。

猫といえば、シェンリー公園でこんな張り紙を見ました。
彼女がいなくなったらしい、ウェスティングハウスの銅像の近くの
トレイルを中心に、飼い主は何枚もポスターを貼っていました。
マイクロチップを埋め込んでいるというのに見つからないのでしょうか。

別の張り紙には、

「多分お腹をすかせています」

「見つけてくれた人には謝礼の用意あり」

などと書かれていて、飼い主の心配ぶりに心が痛みました。

ピッツバーグは冬になると五大湖に近いだけに猛烈な寒さなので、
まだ夏場でよかったというものの、何日に一度かは
猛烈な雷雨が降る天気が続いたので、飼い主も気が気ではないでしょう。

キャットフードしか食べたことがないネコは、そうなった時
一体何を食べたらいいのか自分でなんとかできるまで時間がかかりそうです。

1日も早く飼い主のもとに帰るか、そうでなければリビーくんに野生の本能がめばえ、
バリバリ狩をして新鮮な獲物を口にし、そのおいしさに

「今までむさぼっていたのは食べ物ではない。
あれは家畜の安寧にすぎなかったのだ」

と気づくか・・・いずれかの結末を祈るばかりです。



さて、そのうちAirbnbで借りた家をチェックアウトする日がやってきました。

MKの入寮まで三日ありますが、オーナーが次の予約を入れていたので、
取り敢えず地元のホテルで待機することになったのです。

Airbnbのチェックアウト時間は10時ということだったので、
前の夜から用意しておいて、朝に最後のゴミ出しをし、リネンを
オーナーに言われたように全部剥がして袋に入れるなど忙しく動きまわり、
それも済んだので車にトランクを積むために外に出たところ・・・・・、

ソックス猫の同居猫が、また窓側にいて外を見ていました。

このネコにもソックス猫にしたようにネコ語で話しかけてみると、
やはりいちいち返事をしてくれます。

そして、会話の最後に猫伸びポーズをしました。
どうも彼女にとって、このポーズは

「暇だから付き合ってあげたけど飽きたからもう終わりにゃ」

という意思を意味しているようでした。

そして横になったままこちらをじっと見つめていたので、わたしは
彼女に丁重なお別れの言葉を述べ、ピッツバーグを後にしました。


そして月日が経ち、ニューヨークでいつも通りわたしが現地のトレイルを探し、
日課の散歩をしていたある日のこと。

トレイルの脇から猫の影が現れたので呼び止めてみました。
もしやあなたはピッツバーグで行方不明だったアビーさん・・・なわけないか。 

 

終わり。

 

おまけ:

その後「猫と何語で会話したのか」というおたずねがありましたので、
YouTubeに会話をアップしておきました。
音声が悪くて聴き取りにくいですが、最初に声をかけているのがわたしです。

アメリカのネコにネコ語で話しかけてみた




「革命」〜アンシュルスと民族主義の行方〜ウィーン軍事博物館

2019-11-15 | 歴史

ウィーン軍事史博物館の展示を元にヨーロッパの戦史について学ぶシリーズ、
(そうだったのか)第一次世界戦の勃発とともにオーストリアが巻き込まれた
帝政の終焉と、そのあと革命を経て彼らがなぜナチスと同化し、
アンシュルスの道を選んだかというテーマでお話ししております。


さて、ここで少し時をドルフス暗殺前に巻き戻しましょう。

ドルフスは、政権を握ると、1933年に議会を廃止しました。
自分の独裁体制確立のために、社会民主党の声を封じる手段を取ったのです。

前回も言いましたが、このことを現在の価値観で論じるべきではないでしょう。

ドルフスが世界恐慌のあおりで起こった経済危機をなんとか乗り切ろうとしたとき、
独裁体制が一番手っ取り早かったということであって、オーストリアの覇権を、
とか、世界征服を目指していたとかいう話ではないのです。

「歴史には善悪はない」

と当ブログ主はよく言いますが、帝国主義の時代の植民地支配が
悪ではなかったように、この時代、激動のヨーロッパで人々が
強い独裁者を求めたのはある意味当然でした。

石坂洋次郎だったか、昭和20年代の学校を舞台にした青春小説に、
主人公の女先生が、冗長な職員会議の間あくびを噛み殺しながら、

「夏の帽子のリボンの色を決めるのに何時間も会議する。
こんなときはついヒトラーは偉いなと思ってしまう」

と、今ならポリコレで問題視されそうな感想を持つシーンがありました。
独裁主義の良さというのは、何と言っても「話が早い」ことです。

夏の帽子のリボンの色だって、ヒットラー総統が一言、
「ピンク」といえばピンクになり、誰からも異論は出ません。

戦後の世界では、民主主義が善、ということになってしまっていますが、
当然ながら民主主義にもおのずと欠陥と限界があります。

衆愚政治

多数決が良くて、皆が選挙で選んだ一人が決めるのがなぜダメなのか、
納得できる理屈をご存知の方、ぜひ教えて欲しいと思います。


さて、写真をご覧ください。

第一共和国下の軍服の向こうに見えるポスターには、

HEUTE ROT-MORGEN TOT
(今日の赤は明日の死)

として、赤い人の後ろに骸骨が影となって同じポーズをしています。
社会民主党の政治活動の場を奪ったドルフスは、続いて
自分の独裁体制を脅かしかねない、
オーストリア・ナチスの活動を停止しました。


さて、ここまでやると、当然ながら反動というのが予想されます。
ドルフス首相の運命やいかに。

って、暗殺されるんですけどね。

こちらは共和党の軍事組織、「防衛同盟」の制服です。

ナチスの鉤十字と骸骨の組み合わせのポスターが見えます。
革命前夜、両陣営のプロパガンダ合戦も熾烈だったのでしょう。
ナチスと組むことは死に通じる、反対派はこう気勢を上げました。

もちろんオーストロ・ファシズムの旗手であるドルフス大統領も
こちらの側です。

ドルフスは、社会民主党と社会主義者たちの団体「防衛同盟」に対して
活動を停止したり解散命令を出すなど圧力をかけ続けたため、その結果、
1934年、
社会主義者たちはついに武装蜂起を行いました。

Gemälde von Maximilian Florian: ”Die Revolution”

オーストリアの画家、マキシミリアン・フローリアンが描いた「革命」原画が
ここウィーン軍事史博物館には展示されています。
画家マキシミリアンは1934年の2月、この武装蜂起の目撃者となりました。

赤いドレスを着た女性は赤い人たち、つまり「革命」を表していますが、
彼女は死にかけている人によって後ろから抱きつかれています。
そしてこれから、死者と負傷者が重なる部屋の奥に引きずり込まれるのです。

このことから想像するに、マキシミリアンが立っていたのは現政権側、
つまり「社会主義者ではない方」ということになりますが、だからといって
この革命を起こす側がナチス支持派かというとそうとも言えなかったのです。

なんでもそこに落とし込むなと言われそうですが、オーストリア含め
欧州情勢はとにかく複雑怪奇(by平沼騏一郎)だったのです。

 

その後、この絵の示唆するように、防衛同盟・社会民主党のの武装蜂起は鎮圧され、
蜂起を指導していたバウアー外相ら社会民主党の指導者は亡命を余儀なくされます。

この暴動の結果、1,000人以上の市民が死傷し、1,500人が逮捕されました。
防衛同盟のうち9名が裁判にかけられその後処刑されています。

革命によって雨降って地固まるというのか、社会民主党やその系列の労働組合は壊滅し、
ドルフスの権威主義的独裁体制はこの瞬間確立されたのです。

しかし、その政権は短命に終わりました。

4月30日に、イタリアファシズムに倣った憲法を制定し、国号を

「オーストリア連邦国」

とした3ヶ月後の7月25日、ドルフスはナチスの一派によって暗殺されます。

後ろの布告は全くフラクトゥールが読めず、ほとんどお手上げだったのですが、
なんとか大きな文字だけ読んでみると、

宣言 憲法の優位性について

という声明が暗殺事件後、一種の戒厳令状態となったウィーンで
市長の名前で出されていたことがわかります。

 

ドルフスが暗殺されたのが直接の原因ではありませんが、
結果としてこの後オーストリアは併合に大きく傾いていくことになります。


アルバムで軍隊の視察をしているのは、クルト・シュシュニックです。

ドルフス内閣で法相を務めていた彼は、ドルフスが暗殺されると、すぐさま
後任として首相に就任し、ドルフスの路線を引き継いで、
オーストロ・ファシズム=独裁体制を維持しようとしました。

そのやり方とは、ドルフスが実施した国民議会の停止や社会主義者への弾圧、
大量の(1万3,338人)政治犯を逮捕し、さらには

「オーストリアの評判の保護のための連邦法」

を制定して海外メディアの報道を統制するといったドルフス路線の強化です。
その上で経済統制も行なっています。

 

ヒトラーはシュシュニックに、露骨に圧力を加えて併合を迫ってきますが、
ドルフスと同じくナチス嫌いだったシュシュニックは、まず、
オーストリアの独立を訴える演説を行った上で、

24歳以上の国民に対し併合の是非を問う国民投票

を行うということを決めます。
なぜ24歳かというと、当時ナチスはオーストリアの10代、20代前半に
絶大な人気があり、支持されていたため、その層をカットしたのでした。

(投票を呼びかけるシュシュニック)

その下にあるのが国民投票前に行われたプロパガンダのポスターだと思われますが、
ここで下の写真の帽子を被った青年は

「首相、あなたは自分自身を信頼することができます。
あなたの若者たちはあなたのためにはいと言います」

この時シュシュニックが提唱した国民投票は、

「自主独立」か「ドイツとの併合か」

という二択でした。

隣のデスマスク(つまり死んだ人)も、

Auf dass er lebe,
stimmen mir mit "Ja!"

「彼は生きていれば私と共に”はい”と投票する」

なんかよくわからんコンセプトのポスターですが、まあそういうことです。

ヒトラーはこの国民投票に激怒し、カイテルに軍隊を出動させ、
やめなければ武力を振るうと脅迫を行いました。

シュシュニックは脅しに屈して辞任、その後、ドイツ軍はオーストリアに無血入城。
その上で行われたのが、新たな国民投票だったのです。

そう、アンシュルスはこのような形で「合法的に」成立しているのです。

これが国民投票のときに使われた用紙です。

「あなたは1938年3月13日に制定されたオーストリアと
ドイツ国の再統一に賛成し、
我々の指導者、
アドルフ・ヒトラーの党へ賛成の票を投ずるか」

併合に誘導する質問に対し、「ヤー」か「ナイン」に印をつけるのですが、
実に露骨に「はい」は大きな丸、「いいえ」は小さな丸であることに注意。

オーストリアとドイツで同時に行われたこの投票で、
99パーセント強の両国民がアンシュルスに合意しました。

無記名とは言えナインに票を投じた勇気ある人々も1パーセントはいたわけですが。

アドルフ・ヒトラー総統の横顔の下には、ナチス党の有名なスローガン、

Ein Volk Ein Reich Ein Führer
(1つの民族、1つの国、1人の総統)

が記されています。
このスローガンはどなたも一度は見るか聞くかしたことがあるでしょう。

しかし、ここまでの経緯を振り返ると、このスローガンが、
オーストリア併合によってオーストリアがドイツの州となり、
ゲルマン民族(一つの民族)による一つの国が生まれたことを
明確に述べていたのにあらためて気づきます。 

繰り返しますが、この時、国民の99パーセントが併合に賛成しました。
しかしこの時、ドイツ人はともかく、オーストリア国民の99パーセントが
本当に自分の心に嘘をつくことなく「ヤー」に丸をつけたと思いますか?

 

合併直後から、多くのユダヤ人や社会民主主義者、自由主義者や、そして
反ナチス的愛国主義者、知識人などへの弾圧と粛清が始まりました。

もし正直に「ナイン」に印をつければ、そのことで自分たちの命が脅かされるとして
心ならずも「ヤー」に投票した人も多かったと思われます。

オーストリア軍への粛清は特に厳しく、合併に反対した将軍が暗殺され、
そんなことからナチスに忠誠を誓うことを嫌って亡命する軍人もいました。

ゲオルク・フォン・トラップ少佐もその一人でした。

ナチス・ドイツのオーストリア統治は、従属を強要するものであり、
オーストリア人は「二流市民」として扱われて、汚れ仕事、典型的なのが
ユダヤ人迫害に関する仕事に動員されたりしたという話もあります。
(この部分証拠資料に基づいて書いているわけではないので念のため)

 

「サウンド・オブ・ミュージック」でも語られていたように、
オーストリアは戦後一貫して「ドイツによる侵略の犠牲者」という立場で
国家再建を行ってきました。

粛清をちらつかせた国民投票など、我々の意思ではなかった、あれは
あくまでも強制されたものだった、という立場を取ったのです。

それは、そうすることによって分断されたドイツの巻き添えを避けるという
現実的な保身からきたことではありましたが、これなど、国家経営とは情緒ではなく、
筋を通したり自分の過去に誠実である必要もなく、ある時にはなりふり構わず
国益を優先することもありうる、と教えてくれる一つの例ではないかと思います。


しかしながら、喉元過ぎればとでもいうのか、移民問題に揺れる現在のヨーロッパで
本家のドイツにこれらを排斥しようとする動きが起こるのと呼応するように、
オーストリア国内でも、昨今はドイツ的民族主義が台頭する動きがあるのだそうです。

例えば、2013年にオーストリア国民を対象として行われた世論調査では、
4割がナチス政権下の生活はそこまで悪くなかったとし、
6割が強い人が政府を動かすべきであり、
5割以上がナチス党が再び認められれば非常に高い確率で議席獲得する
と信じているという結果が出たそうです。

 

歴史に善悪はない。
この結果を見てあらためて確信するのは決してわたしだけではないでしょう。

 

続く。

 

 


第一共和国の崩壊とアンシュルス(併合)〜ウィーン軍事博物館

2019-11-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、一連の自衛隊記念日行事のご報告も終わりましたので、
もう一度ウィーン軍事博物館展示の紹介に戻ります。

 

「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台であるザルツブルグ滞在をきっかけに、
あの映画でモデルにされていたフォン・トラップ少佐(映画では大佐)が
K.u.K海軍の潜水艦乗りであったことをお話しするついでに、
作品の背景であるアンシュルスについても少し触れてみました。

ここからは、ウィーン軍事史博物館の第一次世界大戦後の世界からで、
ドイツと合邦となるアンシュルス成立まで存在していた

第一共和国とアンシュルス

について関係資料とともにお話しします。

ちなみに「アンシュルス」とは「接続」という普通名詞で、
同時にこの時代行われたオーストリア併合を指す固有名詞です。

第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国は大きく変わりました。
68年間の長きにわたって帝国を統べてきたハプスブルグ家の皇帝、
フランツ・ヨーゼフ1世が戦争中の1916年死去したのです。

元はといえばサラエボ事件を受けてセルビアに宣戦を決めた当人が
まだ戦争が継続しているうちに亡くなったことになりますね。


当初3ヶ月で終わると信じて政府を支持して戦ってきた帝国内の諸国民も、
多民族国家で言葉の統一さえできていないKuK軍が案外弱っちくて、
いきなり初戦でセルビアに負け、あとはドイツに頼るのみ、みたいな
情けない状態に陥ったこともあり、すっかり倦厭のムードが蔓延していました。

そのムードを決定的にしたのは、1917年のアメリカ参戦でしょう。

なぜ、アメリカは第1次世界大戦に参戦したのか?

超イケイケの新興国、歴史はないが基礎体力は余りまくりの
アメリカが参戦したことで、戦争は大きく終焉に向かいました。

アメリカの参戦についての建前は、自らを民主国家と位置づけたうえでの

「封建主義との戦い」

でしたが、封建主義と名指しされたKuK諸国民自身も、アメリカの快進撃を前に、
帝国主義ってもうダメじゃね?な自虐とともに厭戦気分が高まり、
国家は民主的連邦制に向けて大きく舵を切らざるを得なくなったのです。

カール・ヨーゼフ亡き後、最後の皇帝となったカール1世
彼は、サラエボ事件で暗殺された兄の代わりに、望まぬことながら
皇太子に指名されていましたが、皇帝の崩御に伴い皇帝の座につきました。

 

当時、オーストリア=ハンガリー帝国は、戦時中特例として議会を廃止し、
皇帝が大権を発動する体制になっていたのですが、戦時下の国内では
これを不満として、あるいは直接的には生活の困窮により、
労働者の大々的なデモが発生することとなります。

そのことが不承不承皇帝の座についた(と思われる)カール1世を
決定的にメンタルダウンさせ、戦後まもない1918年には、
彼は皇帝としての権利を放棄し亡命してしまうのです。

その瞬間、何世紀にもわたって続いてきたハプスブルグ帝国は崩壊します。

そして生まれたのがオーストリア第一共和国でした。

ウィーン軍事史博物館の次のコーナーは、このオーストリア革命後の
共和国時代の展示です。

この一番下のポスターをご覧ください。
新しく生まれた赤ちゃんを夫と子供に見守られながら抱く女性。

良い子には平和とパンが必要です

だからこそ女性たちよ、選択してください!

 

国内で厭戦気分が蔓延していた頃、ロシアではボリシェビキ革命が起きました。
別名十月革命のそのモットーが「パンと平和」でした。

共和国となったばかりのオーストリアには、このような
十月革命をお手本にしたようなメッセージが溢れていたのです。

右上の社会労働党のポスターも、実にソ連っぽいですね。
いわゆるオーストリア革命後、国政の主導権を握ったのがこの社会労働党です。

ここでわたしのこれまでの浅薄な知識では予想外の?ことが起こるのです。

この政権下では、かつて帝国下にあった諸国が独立してしまい、
これではオーストリアだけで一国を更生するのは難しいとして、
指導者たちはやはり敗戦したドイツとの合邦(アンシュルス)を目指したことです。

これって、併合を目指すのは右左でいうと左派だったということですよね。
民族主義と労働党というのはなんとなく無関係のような気がしていたので、
しばらくこの関係を把握するのに時間がかかってしまいました。

それはともかく、案の定国内は一枚岩ではなかったので、ナチス政権が誕生すると、
オーストリアは合邦の是非で真っ二つに割れることになります。

 

当時の二大政党は、左派の社会民主党と保守系のキリスト教労働党で、
大統領はキリスト教労働党出身のエンゲルベルト・ドルフスでした。

くどいようですがもう一度書いておくと、社会民主党が併合賛成派、そして
ドルフスのキリスト教労働党は反対派ですので念のため。

こちらは博物館所蔵の肖像画。
肖像画なのでちょっと割増しに描かれているようです。


写真だとこんな人物でした。

・・・・もしかしたらこの人ものすごく背が低いんじゃね?

と思ったら、要求される最低身長に2センチも足りずに、
軍隊に志願するも入隊できなかった悲しい過去があることがわかりました。

この写真はのちに別の手で入隊を果たし、堂々と誇らしげに軍服を着る
ドルフスの姿です。


さて、一足飛びに結論からいうと、彼はドイツとの合邦に反対だったため、
その後オーストリア・ナチスの手によって暗殺されています。

それがきっかけでオーストリアはアンシュルスに向けて舵を切ることになります。

ここになぜかドルフスの暗殺された日を記した石碑があり、
そこには、

連邦首相 博士

エンゲルベルト・ドルフス

+1934年7月25日

新しいオーストリアの憲法を正義の精神において制定す

と書かれています。

この憲法というのは実はイタリアファシズムに倣ったものなのですが、
この碑文からはそのようなことは読み取れません。

 

ナチスに暗殺され、その後オーストリアがアンシュルスに傾いたことから、
ドルフスは独裁と戦った民主主義者
と勘違いする人も多いようですが、決してそうではなく、彼もまた、

オーストロ・ファシズム

と呼ばれる独裁体制で共和国を統一しようとしていたのに過ぎません。

戦後のハリウッドが、あのフォン・トラップ少佐を自由陣営側に祀り上げ、
悪のナチスの独裁と対峙したかのように、いかにもアメリカ人らしい
善悪二元論で描いた映画「サウンド・オブ・ミュージック」について
わたしは、

「フォン・トラップ少佐はオーストロ・ファシズム支持の側であり、
ナチスとの合邦に反対した理由は、ナチスと共和連邦政府、
この間で行われた独裁者同士の『てっぺんの取り合い』に負けた方、
つまりやはりファシズムを支持する同じ穴の狢」

とツッコんだのを覚えておられるでしょうか。

ドルフス政権の思想は、やはり独裁体制のムッソリーニのファシスト党と
大変近かったわけですから何をか言わんやです。

 

ただし、ここでお断りしておきたいのは、「独裁」という言葉の定義です。

現在の価値観ではヒトラーとムッソリーニ、スターリンのせいで独裁が悪となっていますが、
NHKの映像の世紀でも言っているように、帝国主義が崩壊したこの時代、

「世界的に人々は強い指導者=独裁者を求めていた」

という背景を念頭におく必要があるでしょう。

現にドイツの経済をV字回復させたヒトラーを、国民は強く支持していたのです。

 

 

 

 

続く。

 


秋の花火〜海上自衛隊オータムフェスタ

2019-11-12 | 自衛隊

オータムフェスタのためこの日江田島の第一術科学校を訪れた一般人は、
国旗掲揚台に国旗降下のために整列し静止している科員に注目しています。

自衛隊においては太陽の出入りに伴って毎日行われるルーチンワークですが、
一般人にとっては非日常的なアトラクションみたいなものです。

わたしを含め、その場の人々は今か今かと発動の瞬間を待っていますが、
待っているものにとっては大変長く感じる時間となります。

掲揚された旗の索を掲揚台から外し、立っている海曹のもとに、
もう一人、違う腕章をつけた海曹が木箱を捧げ持って近づきました。

これは降下した国旗を明日の朝まで収納しておく収納箱です。
今まで気がつきませんでしたが、竿の根元にはこれを設置する専門の台があります。

掲揚台足元に二人がそれぞれ索を手に立ちました。
江田島の国旗掲揚竿は長いので、護衛艦などの自衛艦旗掲揚降下とちがい、
揚げ下げのペースを思いっきり早くしてやっと間に合うという感じです。

自衛隊の旗掲揚降下は何度もみていますが、ラストサウンドがきたときに
ぴたりと上に揚っている状態にするために、索を繰る速度については
あれでなかなか遣うものではないかといつも思います。

自衛隊のことだから、早すぎても遅すぎても厳しく指導が入るでしょう。

右側の海曹が索を引き、左がその補助と言う形です。
これも海自のことなので右側が先任だったりするのかもしれません。

左の海曹は索が地面を擦らないように、まとめて持っています。
細部の細部までその行動に意味のないことは全くない、それが海上自衛隊。


ところで、わたしはこのオータムフェスタがすんでから、わけあって再び
江田島第一術科学校に訪れ、朝の国旗掲揚を見る機会がありましたが、
そのときの掲揚は喇叭隊なし、君が代は放送、旗を降ろすのも一人でした。

毎日この形で行われているわけではないことを改めて知った次第です。

緊張感の漂っているのは隊員のいるところだけで、
人々は完全にリラックスムードでこの様子をみています。

別にどんな格好でも構わないと思いますが、国旗掲揚台のすぐ脇で、
シートを広げて座って国旗にお尻を向けたままというのは、
いくらなんでも、と言う気がしないでもありません。

「時間」

この号令で国旗降下発動です。
航海科からなる喇叭隊がラッパを構えました。
左端の自衛官は敬礼のためにちょうど右手を挙げたところです。

索を取るために大きくクロールのように手を動かす自衛隊独特の動き。

海軍兵学校の時代から国旗掲揚台は変わらずこの場所にありました。

このときふと思ったのですが、戦後役10年間、つまり昭和31年に
術科学校がここに帰ってくるまで、この掲揚台に日本国旗ではなく、
占領軍の国旗が揚がったことがあったのだろうかと。

終戦後、広島・呉地方にはアメリカ軍ではなく、イギリス連邦軍が
アメリカの補助という形で(というかソ連などの介入を防ぐため)
駐留しており、その本部があったことは前にもお話ししました。

このイギリス連邦軍とは、

オーストラリア・ニュージーランド・イギリス・カナダ

の四カ国からなります。
その場合、軍隊駐留地での国旗掲揚はどうであったかというと、

こうなるわけですね。

これは呉からイギリス連邦軍が撤退する日の写真です。

呉鎮守府庁舎を接収した連合軍が、自衛隊音楽隊が演奏する
イギリス国歌に合わせて四カ国の国旗を降下しているシーンですが、
これによると、占領期間、庁舎前
には国旗掲揚台が5竿あったようなのです。

4カ国なのに竿が一本多いのは親玉であるアメリカのためだろうと思われます。

というわけで、おそらく兵学校跡においても、イギリス連邦軍のために
掲揚竿が5本あったと想像されるのですが、それらしい写真はありません。

実際のところ、連邦軍は昭和23年以降はほとんど兵力を減らし、
実質この地方に進駐していたのは
オーストラリア軍だけだったといいますから、
もしかしたらここ江田島の象徴的な国旗掲揚竿には、

31年まで豪州旗が揚げられていたという可能性もあります。

 

話を戻しましょう。

索を引いている右側の海曹が国旗を手にします。

ラストサウンドのあと、行動の終わりを意味する

「ドッミド〜」

まで、国旗を胸に抱えるような位置で保持し、そのあとは
丁寧に旗を畳んで箱に収納し、その場を引き上げます。

じつにいいものを近くで見せてもらいました。

さて、続いてはいよいよ江田島名物秋の花火です。

赤煉瓦の前の芝生にもシートを敷いて花火大会の場所をとっている人多数。
手前では子供が地面に転がってるし。

いつもの江田島しか知らないみなさん、この光景にびっくりでしょ?

花火大会は夕刻6時30分から開始されます。
なにしろグラウンドは広いし、どこに座っても確実に見えるので、
よくある有名な花火大会前の殺伐とした雰囲気は皆無。

訪れた人々はのびのびと芝生の上でくつろぎながら始まるのを待ちます。

招待客のためにパイプ椅子が並べられています。
この席も例の席次表によってきっちりとどこに座るか決められています。

花火大会の頃には帰ってしまう来賓もけっこういたので、
かなりの空席が見られました。

序列を大事にする海自の決めた席次ですので、花火の見物席も
最前列は学校長と政治家だったりしますが、

はっきりいってどこに座っても見え方はまったく同じです。

ところで、この日花火があるとわかっていながら、二泊三日の旅行で
間に慰霊式をはさみ荷物が多い移動とあって、わたしは
花火撮影には必須である三脚を持ってくることを全く考えませんでした。

しかたがないので、設定をバルブにし、あとはできるだけ
カメラを動かさないように、脇を閉めて胸の前に持ち、
ファインダーも全く覗かないでMEKURA撃ちすることにしました。

そして撮れたのが案の定こんな写真です。
手ブレは防げていても端っこが欠けているというね。

まあそういう次第ですので、真剣に撮った写真だと思わず見てください。
花火は江田の沖に浮かべた船の上からあげられ、どこにいても
江田島名物の真っ直ぐ伸びた松の木がこのようにシルエットに入ってきます。

会場には、小さい女の子が花火が上がるたびに

「たまやー」

(かぎやはなし)

と叫んで、周囲の暖かい笑いを誘っていました。 

夜には風が強くなるので、花火の煙がすぐに消えて空がきれいになるのも
この季節に花火を行うメリットの一つかと思われました。

しかし、去年は海側から強風が吹いてきて、花火の煤や殻が、
皆グラウンドの方に流れてきて、次の日掃除がたいへんだったとか・・。

今年はその点でもベストな状態だったのではないでしょうか。

小花の開く花火は、打ち上げられてからいっぺん沈黙?して、
忘れた頃ぱっと花開くので、わたしの前の第一術科学校校長は

「失敗したのかと思った」

と幹部候補生学校長に話していました。

赤一色の小花。
こういうのを「千輪菊」というそうです。

ところで、なぜここではオータムフェスタに花火が行われるのでしょうか。

その理由は、昨年夏西日本を襲った水害でした。
例年江田島ではサマーフェスタで江田内の花火を売り物にしてきたのですが、
豪雨災害の復旧作業に呉の自衛隊が全出動し、さらに被害の大きさに
イベントは全て自粛され見送られて花火大会もなくなりました。

しかしご存知のように、花火というのは賞味期限?があるので、
夏にやるつもりで調達していた花火は早く使い切る必要があるから
オータムフェスタにそれを上げてしまおうということになり、
昨年初めて「秋の花火大会」が行われたのでした。

ところが実際にやってみると、夏場より参加者は快適だし、
陽が落ちるのが早く、そのため早く開始でき早く終わるので、
参加できる人も増え、おまけにもう花火などどこでもやっていないので
オリジナリティという意味でも名物になりそう、といいことだらけ。

というわけで、今年から江田島ではオータムフェスタに花火大会を行う、
ということに決まったということでした。

花弁がひらひらと散っていくところが表現されています。

吹いてくる風の冷たさのせいでしょうか。
秋の花火は夏とはまた違う切なさをはらんでなかなかの風情でした。

というわけで花火大会は無事に終了。
皆が一斉に外に向かいます。

夜の第一術科学校の中は、関係者でもないと
まず立ち入ることはできないのではないかと今まで思っていたのですが、
江田島市民にはその特別な景色をみる特別な場が提供されていました。

ただし、この後現場から帰り着くまでが長かった。

まず、一つしかない出口からたくさんの車が出るのに、
歩いている人優先で車が堰き止められ、校内から出るのにたっぷり30分かかり、
さらにはフェリーが終わっているので、皆が同じ道を
同じ方向に進むしかなく、一本しかない道が大渋滞。
呉のホテルに帰るのにたっぷり1時間半かかってしまいました。

しかし、さすがは自衛隊だけあって、人と車を捌くのも非常に慎重ながら
手際がいいせいか、現地での混乱のようなものは全く起こりませんでした。

当たり前のことのようですが、事故もなくこれだけのイベントを
無事円滑に運営できるのも、自衛隊という組織ならではです。

というわけで今年も自衛隊記念日一連の行事に無事参加できました。
ご招待をいただきました海上自衛隊の皆様には心よりお礼を申し上げます。

 

自衛隊記念日シリーズおわり。

 

 


懇親会〜海上自衛隊オータムフェスタ

2019-11-10 | 自衛隊

さて、「とうりゅう」命名・進水式のご報告も終わりましたので
江田島のオータムフェスタの続きと参ります。

観覧席に座っていた招待客は、術科学校学生館へと案内されました。
中でなにかあるというのではなく、懇親会会場が行われる食堂には
この中を通り抜けるのが近道なのです。

わたしもこの中に入るのは初めての経験です。

この学生館は、平成17年にそれまでの旧西生徒館と呼ばれていたものを
全面的に建て替えたものですが、やはり旧兵学校の関係者から
自分たちの思い出の西生徒館を壊して作り変えることに対しては
かなりの反発があったと言われています。

それらの意見と、歴史的な価値などを勘案した結果、建て替えられたものは
一見以前の建物と変わらないそっくりなものとなりました。

生徒館の廊下には、術科学校開校時の歴史的な写真が展示されていて、
かつての術科学校の様子をしのぶことができますが、この、
昭和31年5月16日に行われた術科学校開校式の写真には、
昭和13年に竣工した西生徒館が写っています。

現在の写真と細部を是非見比べてみてください。

窓枠は木製、建物の屋上はかつて洗濯物干場があったそうですが、
そこから人がひとり式典の様子を眺めているのが確認できます。

術科学校は昭和31年江田島に移転してくるまで横須賀にあり、
正式に「第一術科学校」と言う名称になったのは1958年(昭和33年)
のことなので、この写真のキャプションは「第一」のない

「術科学校開校式」

となっているのに注意です。

訓示を行っているのは第二代海上幕僚長・長澤浩海将
海軍兵学校49期卒の長澤海将にとって、術科学校が自分の赴任中に
古巣である江田島に帰ってくることは望外の喜びだったのではないでしょうか。

ついでに、後ろに写っているアメリカ海軍の軍人ですが、
おそらく当時第7艦隊司令であった、

スチュアート・H・インガーソル中将(1898〜1983)

ではないかと思われます。

インガーソル中将はここでも散々お話ししたことがある、
ハルゼー&マケインコンビが指揮して無謀にも台風に二度も突っ込んだ
あのハルゼー艦隊の軽空母「モントレー」の艦長だった人物です。

このときインガーソル中将は、台風で大破した「モントレー」艦長として
総員退艦の指揮官命令に背いた上で必死の修復作業を指示し、
結果、艦と貴重な人命を救うという英雄的行為を成し遂げ、
その功績に対して十字勲章を授与されています。

同じ日の術科学校にて、国旗掲揚の様子。
台上はおそらく術科学校校長だと思われます。

このときの術科学校長、小國寛之輔海将補は海軍機関学校卒でした。
術科学校なので適任として任命されたのだとおもいますが、
機関卒士官が校長になるなど、兵学校時代には考えられなかったことです。

同じ日の祝宴では、なんとびっくり、大講堂で飲食をしています。
当時はこれだけの人数が一挙に集まることができる場所が
ここしかなかったということなのかもしれません。

席についている招待客はここに写っている限りでは全員男性。
立食ではなくテーブルに配膳される形式の食事のようですが、
ところどころにいるスカートを履いた女性はウェイトレスでしょうか。

それから、皆が座っている長椅子は、海軍兵学校の食堂で
学生たちが食事をしていたのと同じものだと思われます。

昔の大講堂の照明はいまのようなものではなく、
吊り下げ式のボールランプであったこともわかりますね。

この日は江田島の商店街を音楽隊を先頭に行進したようです。
長らく占領軍が駐留していた江田島ですが、これをみて
現地の人々は、

「兵学校が帰ってきた」

と歓迎したのでしょうか。
当時は道路がまだ舗装されていなかったらしいのもわかります。

この写真に写っているのはここかなと思ったのですがどうでしょう。

さて、誘導されるままに第一術科学校の中を歩いていきます。

先ほど喇叭行進をしていた航海科の女子隊員たちが
二列に隊列を組んで引き揚げていく後ろ姿です。

この右側は四方を囲まれた中庭テラスになっていて、
どこかでみたことがあると思ったら、防衛大学校でした。

防大ではここで棒倒しの最後の練習をしていましたっけ。

会場はいつもの食堂です。
前回は観桜会のときにここで宴会が行われました。

ここでも自衛隊記念行事に伴う懇親会となっています。
そしてこの横断幕なんですけど、どうみても毛筆の手書きに見えます。

観桜会の時にも

「得意分野は洋菓子です」

という女性の給養員が平成最後の桜をモチーフにした
四角いケーキをひろうしてくれたのですが、今回は
なぜかダンボをプリントしたケーキとブルーのケーキ。

なぜダンボか、なぜブルーかについての説明は特になく、
最後までどう言う意味が込められていたのかわかりませんでした。

もしアナウンスされていたのにわたしが聞いていないだけなら
どうもすみません<(_ _)>

まず第一術科学校長丸澤海将補がご挨拶。

「先ほどの観閲行進をみながら、三十?年前を思い出しておりました。
その時指揮隊長だったのが渡邊剛次郎という男でした」

おお、丸澤海将補は横須賀地方総監と同期でいらっしゃいましたか。

続いて恒例の給養員紹介コーナー。

宴会の料理にも基地柄がでるといいますか、江田島は
呉とは全く違う路線で、海に囲まれた地ならではの刺身舟盛りは基本として、
焼きそばとかコロッケパン?みたいな庶民的なお料理も顔を見せます。

ちなみに、舟盛りのこちらにあるお盆の上の白いものは、
大根のツマというのか、網大根といわれる飾り切りしたもので、
それがなぜかラップがかかったままごろんと置いてあるので、
まわりの人たちが

「これ、なんなんですかねー」

「大根ですか」

(大根なのかどうかもわからない形状だった)

「なんでこんなところにあるんでしょう」

「きっと刺身の乾きどめにするつもりがかけ忘れたんでは?」

などと話題にし、すっかり会話のきっかけと成り果てていました。

刺身のツマなので刺身と一緒に食するためのものであるはずですが、
どうもこの網大根、一切れが大きくて、誰も食べるものと思わず、
最後までラップのかかったまま放置されておりました。

お話ししていた自衛官が屋台からカレーをとってきてくれました。
第一術科学校カレーは、大豆とジャコが入っているのが特色です。

味というより主に食感に歯応えを与えるために混入しているようですが、
これがまたいけるんだ。

会場入り口に展示してあったケーキもいつの間にか切り分けられ、
これも持ってきていただいたのでいただいてみました。

ホームメイド風で(ってホームメイドなんですけど)おいしかったです。

会の締めの挨拶をされたのは幹部候補生学校長大判海将補
前第一術科学校長だった中畑海将とは防大の同期だそうです。

この間政治家の挨拶が行われたのですが、その中に
河合克之法務大臣の妻、河合案里氏がおられました。
河合氏が出席できなかったので代理で挨拶をしたようですが、
皆さんもごぞんじのように、その直後、河合氏は他ならぬこの
案里氏の公職選挙法違反に責任を取る形で法相を辞任しています。

「政権への打撃か?」

などとマスコミと野党が任命責任ガーで大騒ぎしていますが、
その理由はというと、ウグイス嬢に二倍の日当を払っていたというもの。

規則を破ったからといわれればそれまでですが、現実問題として
今時既定の何千円かで1日いいウグイス嬢が雇えるんでしょうか。

現政権が安倍一強で崩す手立てがないので、牙城を案里ならぬアリの一穴から
(だれうま)法務大臣を辞任させ、その調子でとにかく閣僚を三人刺して
「政権に打撃を与えたい」といういずこからの悪意のある意図を感じさせませんか。

まあ、その辺りの政治的な裏読みはともかく、少なくともこの日、
壇上で挨拶をしていた案里氏の様子からは、自分が原因で
夫が危機に陥っていることにたいする動揺のようなものは微塵も感じられず、
つまり公職選挙法の話が出たのはこの後だったのだろうと思われます。

ちなみに週刊文春がこの問題を報じたのは10月30日、
河井克行氏が法相を辞任したのが10月31日、オータムフェスタは11月27日でした。

さて、懇親会も終わり、6時半から始まる花火大会までには
まだ間があるということで、わたしはまた外を散策してみました。

懇親会の出席者の一人から、江田島は海からの風が吹くので
昼間は暑くても花火大会の時は寒いかもしれない、と伺い、
車の中に置いてあったコートを取りに行こうと思いつき歩き出すと、
国旗掲揚台の下に自衛官が整列していました。

国旗降下の日没時間が近づいていたのです。

最前列には先ほど喇叭行進を行ったのかもしれない
航海科の海士君たちが喇叭譜「君が代」を吹鳴するために控えます。

しかし、今更ですがやはり若い人たちのセーラー服姿はいいものですね。

幹部・海曹の制服は時代とともに変化していっていますが、
海士のセーラー服だけはそれこそ海軍時代からほとんど変化しておらず、
それなのにいつ見ても時代から取り残された古臭い印象が全くありません。

服飾のデザインとしても完璧ということなんだと思います。

掲揚台の下には当直の海曹が国旗を降ろすために索を持って控えています。

この日、令和元年11月27日の日没時刻は1723。
それまでの、待っている我々にはとてつもなく長く感じられる何分間か、
彼らは微動だにせず発動の時刻を待っています。

 

続く。

 

 

 


潜水艦「とうりゅう」進水祝賀会 於 川崎重工業株式会社

2019-11-09 | 自衛隊

川崎重工業における新型潜水艦「とうりゅう」の進水式が終わりました。
進水式が行われたドックから引き込み線沿いに、
クレーンを見上げながらバス乗り場に戻ると、バスはそのまま
神戸駅前にそびえ立つ川重のビル向かい空き地まで行ってくれます。

この日写真を撮ったのはいつもバッグに入れているコンデジなので、
ビルのてっぺんまでフレームインしているか眩しくてわかりませんでした。

この日の神戸は、船出を行った「とうりゅう」の行手を祝福するような
雲ひとつない青空で、後で祝賀会席上、呉地方総監杉本海将が、

「わたしは晴れ男ですからね!」

と自信たっぷりに自慢しておられたくらいです。
そういえば、幹部候補生学校卒業式の前日夜半まで降っていた雨を
てるてる坊主の力で見事晴天にした実績がおありでした。

「あんまり(晴れ男)言うと、降ってしまうのでやめときます。
あちらには今年の観艦式を雨にした張本人がいますが」

👉→→→山村海幕長

「しかし『雨男』は今禁句ですから(いいません)」

現体制の海上自衛隊も、この杉本海将といい山村海幕長といい、
海軍伝統のユーモア受け継ぎまくりとお見受けします。

川崎重工での祝賀会は、いつも本社ビルの三階ホールで行われます。

自衛隊主催の祝賀会と違うところは、会費が要らないことと、
会場に入ると、夜会巻きにロングスカートのコンパニオンが
おしぼりを渡したり飲み物を注いでサービスしてくれることです。

時計はすでに祝賀会開始時間の1330になっていますが、
おそらくこの頃まだ海幕長が工場見学をしておられたのでしょう。

会場を出たところには正帽置き場が設置してあります。
潜水艦の祝賀会ではあまり見たことがない女性幹部の帽子もあり。

陸自はおそらく伊丹駐屯地から招待されて来ていたようですが、
副官らしき自衛官がなんといまだにOD色の旧型制服を着ていました。

ここでは帽子置き場のスペースは十分にあるらしく、副官の帽子の上に
ボスのが重ねて置いてあるというおなじみの光景は見ることはできませんでした。

前回来た時と少し内容が変わっていて、まず、中華チマキがなくなり、
そのかわりに大きな魚(タイ?)の揚げ煮つけ料理がどーんと登場。

このお料理、味見してみたい気持ちは山々だったのですが、
微妙に取りにくそうだし、汁が滴れそうなので手が出せず、
どのテーブルでもほとんど減っている様子がありませんでした。

そして今回ちょっと残念だったのは、いつもの
潜水艦の名前をラベルにしたお酒の瓶がなかったことです。

微妙に緊縮財政気味なのかな、と感じたのはこれだけでなく、
本日と前回冒頭画像に使った
絵葉書入りパンフレットも、
いつもはテーブルに無造作に置かれ、その気になれば
いくつでも持って帰れたのですが、今回は会場に入る時
欲しい人だけに一枚ずつ渡していたことからもでした。

小さなことにすぎませんが、これは実に氷山の一角であって、
お節介船屋さんがコメントでも書いておられるような、
造船業、特に防衛計画を請け負う業界の置かれた苦しい状況を
わたしのような部外者ですら嗅ぎ取らずにはいられません。

そしてさらにその根本原因をたどっていくと、どうしても
自衛隊が憲法で保障されていないということにたどり着くのですが、
そういう考察はまたの機会に譲ります。

 

 

さて、開式にあたり、まず川崎重工業社長よりご挨拶がありました。
少し長いですが書き出しておきます。

「本艦は平成29年1月27日に起工して以来、防衛省関係諸官の
ご指導とご支援のもと、建造を行い、本日めでたく
海上幕僚長、山村浩様により「とうりゅう」と命名されました。

上幕僚長の見事な支鋼ご切断により、(なぜか笑いが起きる)
多くの関係者の見守る中無事進水し、神戸の海に其の勇姿を浮かべました。

命名ならびに支鋼切断の大役を賜りました山村海上幕僚長、ならびに
海上幕僚監部代表、藤装備計画部長、防衛省庁代表、佐藤装備官、
そして本式典を執行されました杉本呉地方総監に厚く御礼申し上げます。

ご臨席賜りました高島潜水艦隊司令官、牛尾近畿中部防衛局次長をはじめとする
防衛省防衛省関係の諸官、吉田国土交通省運輸管理部長、
ならびにご来賓の皆様方にこころより御礼申しあげます。」

 

「本艦は昭和35年6月にお引き渡ししました戦後初の国産潜水艦、
「おやしお」の建造から数えて当社29隻目の潜水艦となります。

これまでの「そうりゅう」型潜水艦とことなり、新たに水中動力源として
大容量リチウムイオン電池が搭載されました。
さらなる水中潜航能力の向上が図られております。
当社は現在本艦を含む2隻の潜水艦の建造を進めております。

また、修理の分野では年次検査、定期検査の工事にくわえ、
潜水艦増勢に向けた延命工事を施工してきております。

日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増す中、
潜水艦の建造修理に携わる者として国防の一翼を担うと言う責務の元、
「とうりゅう」建造におきましても、当社の建造技術を結集して
基礎工事を進め、防衛省どののご期待にお答えし得る潜水艦として、
令和3年3月には慣行のお引き渡しをする所存でございます。

なお、当社は潜水艦以外にも航空機、ガスタービンエンジン、
各種推進機関など数多くの製品分野にご用命いただいております。

この新たなご要求にお答えし得るように、
さらなる研鑽を積んで参る所存でございますので関係各位殿より
一層のご指導ご支援を賜りますようよろしくお願い申し上げます」


「見事なご切断」で一部から笑いが起きたのは、おそらくですが
近くにおられた山村海幕長がそれに反応されたのでしょう。

じつは、この後海幕長とお話しさせていただいたとき、
支鋼切断のとき緊張されませんでしたか、と伺ってみたのです。

即答でした。

「無茶苦茶緊張しました!」

「進水式といっても自分が何かするわけでないので
こーんな( ̄σ・ ̄*) ←感じで横にいればいいのかと思ったら、
副大臣が出られなくなって自分がやらなくてはいけないって・・。
もう心臓バクバクでした」

海幕長のような方でもいまだに心臓をドキドキさせる場面があるとは、
海上自衛隊ってなんて刺激の絶えない活気のある職場なのかしら。

ちなみにこの前にお話しした杉本海将は、今回、
潜水艦の進水というものを自衛官になって初めてご覧になったそうです。

「初めてですか!」

思わず驚いてしまったのですが、よく考えたら固定翼機出身の自衛官は
海幕長か地方総監、しかも川崎三菱のある神戸がお膝元である
呉地方総監部にならない限り、潜水艦進水式には縁がないものなのですね。

このとき総監に指摘されたように、自衛官は自分の分野以外は
同じ海自のことでも未知の世界のまま終わるもので、
わたしのような物好きな一般人のほうが、よっぽど自衛隊について
外から見える部分に関しては詳しいものなのかもしれません。


また、山村海幕長はそのご挨拶の中で、「とうりゅう」は、
幕末の詩人梁川星巖(やながわせいげん)の七言絶句によって、

「白波雲の如く立ち水声夥(おびただ)し」

とうたわれ、巨龍の躍動に似たところから名づけられた
兵庫県加古川にある名勝、闘竜灘から取られていると説明されました。

闘竜灘は、川底いっぱいに起伏する奇岩、怪石に阻まれた激流で、
この新型潜水艦の荒々しく闘う姿にその名を被せたのです。

「とうりゅう」の配備先はまだ決まっていないそうですが、
この命名由来からいうと阪神基地隊がいいのでは?

宴たけなわ、会場ではあちこちで挨拶が行われております。

そうそう、この日祝賀会会場でわたしがお話しした自衛官が、たまたま
当ブログを読んでくださっていたのですが、この方が例の

「自衛官の旅費問題」

に中の人としての証言をしてくださったので触れておかなくてはなりません。

ちなみにこの自衛官が遠洋航海に行ったのは10年前。

「そのときは任地までの旅費は出ました」

そのときも遠洋航海から帰り即日赴任だったそうですが、もしかしたら
それまで海自では、遠洋航海の後すぐに任務ではかわいそうだから?
着任までの間休暇を挟むこともあったのではないか、という推測でした。

その方の任地は青森(ってことは大湊ですかね)だったということで、
艦を降りてから同じところに着任する何人かで一緒に移動されたとか。

ちょっと遠洋航海の延長みたいな感じで楽しかったかもですね。

 

それから、最後に河野元統幕長とお話しすることもできました。

「虎ノ門ニュースに出られた時のは全部聞かせていただいてます」

河野さんといえば、有本香さんの関係で何度か同番組に出演され、
憲法改正についても韓国との関係についても、気持ちの良いくらい
本音で語り、現役の自衛官もこう言う風に考えるんだ、とある意味
瞠目させていただいていたこともあってぜひそれをお伝えしたかったのです。

「もうやめたので、好きなこと言ってやろうと思って」(笑)

統幕長の立場だった方がこうおっしゃるのですから嬉しいではありませんか。

「是非お願いします。これからも期待しております」

お愛想でもなんでもなく、心からこのような言葉が出ました。

もうすぐお開きというとき、先ほど支鋼切断に使われた斧が
川崎重工株式会社より山村海幕長にプレゼントされました。
通例この斧は切断を行った本人に贈呈されます。

アリガトゴザイマシタ┏o  o┓ドウイタシマシテ

山村海幕長、満面の笑顔です。
きっと内心「うれぴー」と思っておられるに違いありません。

・・・・・いえ、単なる空想ですよ?

斧と切断した支鋼(右の木製のものは何?)は
しばらく会場に飾ってありました。
支鋼がまず「鋼」ではなかったことがこれでわかりました。

海幕長は、

「ほら、斧って先がこんな風に丸いじゃないですか。
その先端がうまく当たるかどうか心配で」

とおっしゃってましたが、確かに。
でもこんな洗濯ロープみたいなのなら、難なく切れるような気しません?

ところが、このとき伺ったところによると、過去、
名前は秘しますが、一回で切れなかった方もいたとか・・。

わたしが、

「外国の艦艇だとシャンパンを艦体に叩きつけて割りますが、
これが失敗すると船にとって縁起が悪いとまでいいますよね」

というと、海幕長、

「先にそのお話を伺わなくてよかったです。
聞いてたらもっと緊張したでしょう!」

またまたー、そんなことくらいよくご存知でしょうに。

 

この斧は「とうりゅう」の進水のためだけにつくられたものです。

進水式でこのような形の斧をつかうのは日本だけで、外国では
切断を行うのは槌とのみを使っていたそうです。

日本で初めて古くからの縁起物である斧を使って進水したのは
1907年、佐世保海軍工廠における防護巡洋艦「利根」でした。

なんでも、軍艦の進水式なのだから西洋式の槌とのみではなく、
日本古来の長柄武器であるまさかり状の器具を支綱切断に用いるべき、
として考案されたのがこの形の斧だったということです。

というわけで「とうりゅう」進水を祝う祝賀会も終了です。

実は現在の安全保障分野における最前線にいるのが
潜水艦であり、原子力を使わない潜水艦分野ではその技術と
海上自衛隊潜水艦隊の実力は世界のトップクラスと言われています。

その評価をさらに高めるであろう「とうりゅう」の完成が心から待たれます。

 

終わり。



潜水艦「とうりゅう」進水式 於 川崎重工業株式会社

2019-11-07 | 自衛隊

江田島のオータムフェスタ参加レポートの途中ですが、
神戸の川崎重工で行われた新型潜水艦の進水式に行って参りました。

潜水艦の行事は造船所内で撮影が厳しく禁じられているので、
いつものように写真を元にということはできませんが、
この貴重な行事を目撃するという特権に預からせていただいた以上、
そのときの様子を微力ながらご報告させていただこうと思います。

 

前回潜水艦関連の行事にご招待いただいたのは、今年3月、
やはり同じ川崎重工で行われた「しょうりゅう」の引き渡し式です。

潜水艦の艤装は進水式を行ってから1年半で完成するので、
だいたい今の季節に進水式を行い、3月に引き渡し式となります。

この日進水を行った平成28年度計画により建造された8127艦は、
(この数字は自衛隊が建造した艦艇の通算数でしょうか)
令和3年の3月に引き渡しが行われる予定です。

潜水艦行事の招待者は、構内で受付を済ませると、自衛官が
待機するための社屋の前まで連れて行ってくれます。

無言で歩くのもなんなので、

「良いお天気でよかったですね」

と話しかけると、

「本当です。三菱の進水で雨が降ってあの時は大変でした」

川崎重工では、潜水艦の艦首の部分に向かい支鋼切断する
命名者はじめ、立ち会っている者全てが屋内にいるので
雨が降っても大丈夫ですが、三菱では潜水艦の右舷側に
艦体と並行に観覧席があるので、屋根がないのです。


受付ではパスカードをもらい、それを建物の入り口で
駅の改札のようにピッとゲートにかざして入室します。
さすがは軍需産業、セキュリティは大変厳しいものなのです。

通常この部屋でお呼びがかかるまで待つのですが、
この日わたしは時間を潰してぎりぎりを見計って到着し、
待合室に入ることなくバスに案内されました。

バスから降りて結構長い距離を歩き進水ドックまで到着すると、
スロープを上って組み立てられた観覧台です。

絶望するくらいひどい図面ですが、macにカタリナを入れたら
途端にいろんなものが今まで通り使えなくなり、スキャンはできないわ、
ワコムインストールは
ペンタブレットのクッキー調整で行き詰まるわで、
恥を忍んで超やっつけ仕事の手書きの図で失礼いたします。

わたしが観覧したのは左側の招待客ゾーンでした。
観覧席はすべて自衛隊旗の意匠で覆われた艦首と向き合う形です。

わたしたちのいる席の一階には川崎重工の社員たちが、
音楽隊のこちら側には自衛官が並んでいたようです。

 

到着してしばらくすると、呉音楽隊が演奏を始めました。
これが一曲目かどうかは最初に入場したわけではないのでわかりませんが、
それが「君が代行進曲」だったのにわたしはいたく満足しました。

川崎でも三菱でも、旧海軍時代から変わらぬこの伝統の進水式において、
演奏されていたにちがいないこの曲が流れるのは、海軍時代から受け継がれる
潜水艦魂を受け継ぐ海上自衛隊潜水艦にとって大変良いことだと思えたのです。

演奏のおよそ半分は「国民の象徴」などのアメリカ製マーチでしたが、
そのあと、これも海軍時代の進水式で必ず演奏されていたであろう曲、

/ "Patriotic March" by Tokyo Band chor
 

「愛国行進曲」が演奏され、わたしは内心快哉をさけびました。

演奏の合間に、場内には待ち時間を利用して潜水艦の説明などや
撮影をしないこと、携帯の電源を切るかマナーモードにするようにという
諸注意がアナウンスされました。

アナウンスはまず今日進水する潜水艦のスペックからです。

「潜水艦の全長は84メートル、幅9.1メートル、深さ10.3メートル、
基準排水量は2,950トンでございます」

なんでも本型は、戦後我が国によって建造された潜水艦の中で
最大級の大きさなのだそうです。

「主機関は川崎12V25・25型ディーゼル機関、2基、
および推進電動機、1基1軸を搭載しております」

「ソナーなどに最新の設備が施されているほか、船体には
強度を高めるための高張力鋼を使用しています」

マンガンを添加したり、熱を加えたりして引っ張りに対して
強い鋼材のことを高張力鋼、ハイテン鋼といいます。
強度が高いのに薄いので船体の軽量化にとっても欠かせません。

とにかくこの最新鋭艦は安全性にも万全の対策が施されている、
というようなことが説明されました。

ところでわたしの描いた図で、潜水艦の脇にある「浮き」と書いた
四角いものは、現地で見ると黒い箱状の羽のように取り付けられていて、
進水後の揺れを抑える役目をするものだそうです。

ただ、この名称をいうときアナウンサーが言葉に詰まり、
正確になんといっているかわかりませんでした。
たしか「バル・・ジなんとか」と聞こえた気がします。

 

わたしの立っていた左の招待席(といっても全員立っている)
の横が、命名者である海幕長始め、本日の進水式の「当事者」となる
自衛隊と川崎重工関係者(偉い人)の立つ席です。

わたしたちのところにも隣にも、床は赤い毛氈が敷かれていましたが、
隣の席にはこれもまたきっちりと、立ち位置に名札が貼ってありました。

両脇の観客が全部位置についてから、真ん中の人たちが入ってきました。
その中には河野元統幕長はじめ、元自衛官がおり、その中の何人か、
現役時代潜水艦だった将官は、川重の顧問という肩書きで参加しておられます。

解説を挟み、音楽隊は長時間立って潜水艦の頭とお見合いしているだけの
人のために、最後まで心躍るようなマーチを聴かせてくれましたが、
一番最後に演奏されたのは「宇宙戦艦ヤマト」でした。

潜水艦の式典のために作曲された委嘱作品、「てつのくじら」は
この日聴けなかったのですが、もしかしたらわたしが到着する前に
すでに演奏が終わっていたのでしょうか。

 

 

さて、いよいよ命名者である海上幕僚長が入場し、式典の始まりです。

まずは命名者たる海幕長が

「本艦を『とうりゅう』と名付ける」

と力強く宣言すると、同時に艦体上部にある幕が取れて

「とうりゅう」

という文字が皆の前に現れます。

わたしは潜水艦の命名式に呼ばれるたびに、次は何になるだろう、
いつも遊び半分に名前の想像をして楽しむのですが、この
「とうりゅう」も一応は今回の想像の範囲内にありました。

ただし、どういう漢字を当てるのかは祝賀会までわかりません。

 

さて、国歌演奏により国旗が掲揚されてから進水式にうつります。

進水の準備、つまり支鋼一本だけで船体を支えている状態になるまで
その支えを「排除」していく作業が始まるわけです。

これが始まる時、最前列台の上には工場長(かどうか知りませんが)
が立ち、
ホイッスルによる「始め」の合図を送ります。

そこから先は、残念ながらわたしたちのいる観覧台からは
潜水艦の影で行われているため、全く見えません。

ですので、「ちよだ」のときに三井造船でもらった資料を出してきます。
艦体を支えている盤木は、ピンの隙間から砂をおとすことで離れます。

そのことで船の重量は盤木から離れ、今や滑走台にかかりました。

進水する船は生身?で台を転がるのではなく、水際までは
滑走台というものに乗って進水台を転がり落ちていきます。

準備段階ではこの滑走台を止めているつっかえ棒の土台、
「ジャッキ」をおろし、つっかえ棒を外します。

そして、最後の最後に「トリガー」から安全ピンを外します。
このとき支鋼切断の数十秒前。

上の図に支鋼が見えていますが、今船体が動くのを止めているのは
この鋼一本なのです。(実際は違いますが一応こう言っておきなす)

そこまで作業を終えると、台の上で笛を吹き、手を上げたり下げたり
指差しポーズをしていた人(1)は、台の右手にいる人に

「進水準備作業完了しました!」

すると、その人(2)は、自分の後ろにいた人に

「進水準備作業完了しました!」

すると、その人(3)は、山村海幕長に

「進水準備作業完了しました!」

皆おなじところにいるんだから最初の人が海幕長に直接
完了しましたといえば済むことじゃね?という気がしますが、
そこはそれ、進水は「儀式」なのですから、こういうことも
昔から伝わる慣例通りにやらなくては意味がないのです。

すると、それを受けた海幕長が台に進みでて、このために作られた
銀色のまさかり状のオノで、自分の前に張られている支鋼を
一刀両断に?叩くと、支鋼はまず、上部で支えられていたシャンパンの
紅白の布で包まれたビンを艦体に叩きつけ、次の瞬間、
自重で艦は滑走台ごと進水台を転がり落ちていくというわけです。

 

ところで「支鋼一本で支えられている状態」といいましたが、
さすがに重量が全部一本の鋼にかかっているわけではありません。

最後の瞬間滑走台を止めているのは、実はこの図の三色のトリガーです。
支鋼は青いトリガーの下にあって、これが重力で下に落ちるのを止めているのです。

支鋼を切断すると、まず青のトリガーが下に落ち、続いて赤が落ち、
最後に黄色が外れて滑走台を止めていたものが全てなくなるというわけです。

 

この後の祝賀会で支鋼切断を行った海幕長とお話ししていると、

「自分でやっておきながらどういう仕組みであれが(支鋼を切ると)
ああなるのか(船体が転がり落ちていく)全くわかりませんでした」

とおっしゃっていたのですが、つまりこういうことなんですよ。

艦体がほとんど音もなく滑り出すと同時に、音楽隊の
行進曲「軍艦」の演奏が始まり、
どこから放たれたのか
色とりどりの風船が舞い、
薬玉が割れて中からリボンが翻りました。

(あとから映像を見たら、風船を放す係の人がいた)

何回見ても心躍る瞬間です。

サンテレビのニュース映像が非常に簡潔にこの日の式典とともに
「とうりゅう」のスペックについても簡潔に報じています。

リチウムイオン電池搭載 川崎重工で新潜水艦の進水式
 

潜水艦が台を滑り降りていってからしばらくしても、周囲には
シャンパンの放つ香りが強烈に漂っていたのが印象的でした。

 

このあと、バスに乗り込んだわたしは、神戸駅前の川崎重工ビルで
関係者を招き華やかに催された祝賀会に参加しました。

 

続く。