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海軍兵学校同期会@江田島~「米軍機搭乗員の飛行靴」

2015-01-08 | 海軍

江田島の海上自衛隊第一術科学校で行われた海軍兵学校同期会の
「解散式」江田島ツァー、続きです。

この期生は終戦時兵学校生徒として在学していましたが、
この江田島ツァーの前夜行われた懇親会でもわかったように、
大所帯の学年で、江田島だけでなく分校に分かれていました。

兵学校生徒の学年数が時節の影響を受けて増え出すのは、
昭和10(1935)年以降のことです。
一学年が1000人を突破するのは昭和17年、昭和20年度の入学者は
4000人を超えていました。
 
このため分校を開校する運びとなったわけですが、
最初の分校は、現在海上自衛隊及び米軍海兵隊の基地となっている
岩国航空隊が、まずその場所として選ばれました。

それまで江田島にいた1号生徒73期の160名、2号生徒230名が
このときに岩国に移されたのです。
このときに入校した75期3480名の入校式は、大講堂に
全員が入らないため、校庭の「千代田艦橋」前で行われました。

今は撤去されてありませんが、昔は「いそなみ」の主錨があった場所に
「千代田」の艦橋が号令台として置かれていたのです。

入校式を終えたうち300名の生徒はそのまま岩国に移動しました。

そして、76期と77期、この学年の試験は昭和19年7月、
同時に行われて一挙に7,300名が採用されました。

7,300名!

つまり、一挙に採用して、生年月日を昭和3年4月以前と以後で分け、
76期、77期に振り分けたというわけです。


この学年は昭和17年以降の大量採用の真っ只中の在校生で、
だからわたしなど、

「この時期の兵学校生徒といっても玉石混合なのではないか」

などと失礼なことを今まで思っていたのだけど、実際に会に参加し、
その生ける証拠を目の当たりにして思わず

「すみませんでした!」

と土下座してしまうくらい彼らの戦後は錚々たるもので、
もちろんご本人たちの苦労や努力あってのことだったとはいえ、
戦後日本を牽引して繁栄を作り上げてきたトップ集団にいた、

という話を一度ここでしたかと思います。



とはいえ、急激に、千人単位で増えた生徒に対応ができるはずもなく、
折からの戦局の悪化もあって、物資面であまりにも困窮したことで、
指揮官を育てるための「ジェントルマン教育」は実質行き渡りませんでした。

戦局の悪化は、実務重視、即戦力にのみ目標を置くがごときとなり、 
江田島の誇りとも言える指揮官育成のための精神教育は二の次となり、
さらに三学年制となり、一号生徒の卒業時期は繰り上げられ、

十分な教育も訓練もされないまま、最後の頃の兵学校とは
ただ戦場に送り出すための人材即成機関のようになっていたことは否めません。

そんな時勢の中、少年たちは海軍兵学校への憧れを持って入校してきました。
憧れの遠洋航海、憧れの短剣、憧れの赤煉瓦。 

海外への遠洋航海は67期のハワイ航路で最後となっていましたが、
せめて腰に短剣を吊り、赤煉瓦の校舎で学ぶ自分を夢見ていた生徒の
多くが、分校勤務を命じられ落胆したと言われています。

しかも最後の77期生徒は、海軍士官の象徴の
短剣すら支給されず、
上級生のを借りて大講堂にすし詰め(雨だったので)の入校式を行う、

といった有様だったのです。


そして、終戦と同時に学業半ばで兵学校から去ることになったのでした。 



「大量採用・中断組」は
本当の江田島教育を受けていない、
と戦後「レッテル貼り」されて、
唇を噛んだ元生徒も
今回江田島を訪れた中には、もしかしたらいたのかもしれません。


しかし、戦局厳しく、呉上空にも米軍機が飛来するようになっても、
ここでは海軍軍人の基礎訓練として、入校と同時に短艇(カッター)
訓練は何をおいても行われていました。


戦艦「陸奥」の砲塔、「梨」の高角砲や魚雷発射管が展示されている
江田島湾を望む埠頭の並びに、短艇の吊るされたボートダビッドがあります。



こうやって見ると、張られたロープは完璧に並行線を描き、
その先できっちりと撓みなく巻き取られ結び付けられており、
現在の幹部候補生学校での短艇訓練も、海軍の頃からのやり方通り、
整然と行われているのが伺い知れます。



ボートダビッドの下で江田島湾を眺める元生徒のご令室。
(お一人なので未亡人かも)

彼女の足元に白い楕円が描いてありますが、これはおそらく
ボートを上げ下ろしする際にこのサークルの中に立つ、
みたいに決まっているのかと思われます。



学校時の短艇訓練は、号令により生徒はまず短艇に乗り込み、
それからボートは海面に降ろされます。
そして教官か一号生徒・最上級生の号令で櫂をを構え、
一斉に漕ぎ始めます。

最初にこの訓練が始まると、臀部の皮膚は座席との摩擦で皮膚が裂け、
白い作業着が血まみれになるという話を読んだことがあります。
海軍ならではの厳しさだろうと思っていたのですが、某大卒業生の口から

「皮がむけたお尻に互いに夜赤チンを(という時代の人)塗りあった」
「剥けてベロベロになったところがまた訓練でまた剥けて」

というホラーな話を聞いて以来、その伝統は連綿と現在の海上自衛隊に
受け継がれているらしいと知りました。



兵学校を撮ったことで有名な写真家、真継不二夫氏の作品には、
夕靄に煙るこの表桟橋付近を歩く作業着の学生たちの姿と共に、
沖を航行する当時の船舶が映し出されているものがあります。

明らかに現代のとは違う形とはいえ、同じ江田島湾を
一般の船が行き交い、やはりその湾内に若々しい生徒の
短艇を漕ぐ掛け声が溌剌と飛び交っていたのであろう瞬間が、
ここにこうやって立つと、ありありと想像されます。



その真継氏の写真に残る短艇訓練において皆が操るオールは

普通の木製に見えますが、どうもこの写真によると
現代のオールは素材がファイバー入りとかになっているのか、
細くて軽そうです。
海中に落としても見つけやすいようにか、赤い色がつけられています。

当時のカッターは長さ9メートル、幅2.5メートル、深さ0.8メートル、
重量は1.5トンとされました。
重量は随分軽くなっていそうですが、大きさは同じではないでしょうか。

毎年5月には三週間の「短艇週間」という集中時期があり、
この期間はたとえ雨天でも中止されない猛訓練が課されました。

そして、宮島遠漕というレースは、ここから宮島まで(!)
だいたい1時間半漕ぎ続けるという猛烈過酷なものでした。

短艇を繰ることは海を仕事場とする海軍軍人の基本。
力任せではうまく進まず、同乗者との息をぴったりにしないと
いい結果は残せない、つまり集団でことに当たる、
「船乗り精神」も学ぶことができます。

今でも防衛大学、そしてここ幹部学校ではカッターが必須ですが、
実際に現在の自衛隊で手漕ぎボートが実際に投入されることなど
まずありません。

なのになぜカッターなのか。
それは、何人かで一つの船を操ることで知る真の意味での
共同作業と、生身の人間では海の上で思うようにならない、
太刀打ちできない、ということを体に叩き込むためという説があります。

昔とは違って、今は海面に降ろしてから乗り込むようですね。


さて、この兵学校クラス会の後、わたしたちは縁あって、
ある元生徒にご交友を頂く僥倖に恵まれました。


ちなみに後日お宅に遊びにいったあと伺ったのですが、この方は、
実はこの大量採用の大人数クラスで、3号が終わった時
ハンモックナンバーが
5位だったということです。
それはどうしてわかったかというと、全てが序列で決まる兵学校、

3号が終わって2号になったとき、この方は

「501分隊の先任」

つまり、上から5番目であったことがこれに歴然と現れていたからで。

「ぼくは人生で後にも先にもあの一年ほど勉強したことはない。
皆が週末に倶楽部(民間の下宿)に行っているときにも
一人で自習室に残って勉強していたんです。
平日はどんなに頑張っても皆と同じだけの時間しか取れないから」

だから一目そのハンモックナンバーの書かれた資料をこの目で見たい、
と「わたしに」おっしゃったのですが、この話はまた別の機会にして、
その優秀な生徒さんが、この岸壁にいるときにある話をしてくれました。

それを書く前に、また例の「兵学校の七不思議」に戻ります(笑)



あれはいちいち話のツメが甘くて怪談話としてもイマイチだったろ?

とおっしゃる方、わたしもそう思いますが、話の構成上仕方無く。
 
七不思議最後はこういうものです。

7.砲術科講堂(「陸奥」主砲塔の並びにある建物)沖の海面 
 帝国海軍の煙管服を着た人影が多数浮かぶ。 
 兵学校沖で大破横転した艦の戦死者の霊が彷徨っているのかも知れない。


江田島湾が空襲に遭ったのは昭和20年、複数次にわたります。
この江田島近辺で「大破横転」した軍艦は全部で5隻。
まず「榛名」「 出雲」そして標的艦だった「摂津」。

いずれも多くの乗組員が戦死しているのですが、
「兵学校沖で大破着底した船」とは重巡「利根」と「大淀」です。


それにしても文中の「煙管服」、七不思議にしょっちゅう出てくるのですが、

そもそも煙管服というのは、炭をボイラーに放り込むための、
主に日露戦争当時の缶焚き(機関室)勤務の「つなぎ」です。
動力が重油に変わっても「掃除の時に」着用されていたそうですが、 
どうしてことごとく機関室の掃除の格好の幽霊ばかりが出るのかとまず疑問。
しかも日露戦争・・・。




ところで、元兵学校生徒の重大な歴史的証言を聞いてみましょう。
この方が戦後あるところに書かれたエッセイからです。

「自ら江田湾に座礁し砲台と化した巡洋艦、利根、
大淀と敵機の戦闘だった。
しばらく続いた戦いが終わってふっと静かになった時、
大勢の血みどろの負傷兵が運ばれてきた。
翌日、何事もなかったように晴れ渡って穏やかなポンツーン
の傍に、遙か太平洋を越えて渡ってきた高級な飛行服が
一つ半長靴を履いて浮いていた。」




「利根」と「大淀」は、兵学校の対岸である能見島側に、
3月の空襲で損傷を受けてから移動してあったのですが、7月24日、
そして7月28日の空襲の時には「浮砲台」となって米軍機動部隊と
激しく戦闘を行いました。

空母からやってくる艦載機は、目標地点上空に飛来すると、
空戦そのものはたった「4~5分」しか行わず、爆撃機は一度投下したら、
銃撃は行わず空中で待機して、全機揃って帰っていきます。
そしてそのあと「第二波」がやってくる、といった具合だったそうです。

兵学校の岸壁に挙げられた遺体は、その時に艦砲射撃によって
撃墜されて飛行機ごと江田島湾に墜ちた飛行士のものだったようです。


帰りのバス車中、後ろの席に座った同期生同士でまたその話が始まりました。

「あ、それ俺も見た」

ほとんどすべての兵学校の生徒たちにとって初めて見る敵国兵の戦死体でした。
片方だけの半長靴は新品らしくピカピカで、大変上等に見えたということです。
水揚げされた米兵を、皆が遠巻きに見るようにしていた中、
(兵学校生徒は立ち止まるどころか、視線を落とすことすらを許されず、
行進しながら目の端でで見ていたらしい) 兵学校の内勤をしていた女性が
ためらわずに屍体に触れ、運搬の用意を始めたのを見て、 

「女の人は強いなあとそれを見て思った」

と、先ほどとは違う生徒が、まるで昨日のことのように話していました。



ちなみにこの空襲で大破した「榛名」は、迎撃の際、B24「タロア」と
同じく「ロンサムレディ」を撃墜しており、この時に捕虜になった
「ロンサムレディ」の乗員は機長以外、全員広島の収容所に移されて、
10日後の原爆投下で全員死亡した、という話を当ブログで扱ったことがあります。

Bー24リベレーター ロンサムレディの乗員」 



さて、所詮面白おかしく(怪談だからちょっと違うかな)語り伝えられる
「七不思議」とはいえ、整合性がないと「真実味」とか、何より
(幽霊話に真実味もへったくれもないだろ、って?まあまあ) 
怪談としての精彩を欠き、あまり怖がる気にもなれないわけですが、
今後、もし、

「飛行靴を片方だけ履いたアメリカ兵の幽霊が岸壁に立つ」

という「不思議」が加わるようなら、
これだけはわたしが出処を保証しましょう。



元生徒はこの飛行士について話し終えた後こう言いました。

「アメリカに生まれた若者が、わざわざこんなところで
撃墜されて
屍体になって・・。
この男にも家族がいるんだろうにと考えましたね。
ちゃんと見られなかったので顔は覚えていませんが、
あの上等の飛行靴だけはは今でもありありと思い浮かびます」





続く。