ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

始まりからへり火力まで〜平成29年度富士総合火力演習

2017-08-30 | 軍艦

平成29年度富士総合火力演習が始まりました。

この総火演、実は8月いっぱい、ほぼ一ヶ月行われていて、皆が見ることのできる
公開展示演習は、その締めくくりという位置付けとなっています。

つまり、同じ公開は公開でも、平日に行われるのは富士学校主催の
名目上一般非公開の演習(団予行、学校予行、教育演習)。

一般非公開とは「隊員家族や防衛団体、その他招待客のための公開」という意味で、
ハガキで申し込む日曜日のいわゆる本番が、陸上幕僚監部主催による「公開演習」です。

日曜の公開演習は陸上自衛隊の広報活動の一環でもあるので、
どんなに人が大勢詰め掛けて会場が大変なことになったとしても、
陸幕がこのチケット数を減らすことはおそらくないだろうという話です。

もう一度装備展示からになりますが、前回は予行、今日は本番です。

まずは中遠距離火力、つまり特化火力と迫撃砲などの展示です。

最初に203ミリ自走榴弾砲が迷彩メイクを施した砲手を乗せて入って来ると
キタキタ!と心が沸き立つのはわたしだけではありますまい。

せっかくなので車上のみなさんをアップにしちゃう。
右目だけメイクしていない人は、スコープを覗く役目があると思われます。

155ミリ自走榴弾砲もすでに到着しています。

発砲による後ろへの反動を受け止めるためスペード(駐鋤)を地面に固定します。
実際の映像を見ると、射撃の瞬間激しく後方に全体が揺さぶられますが、
固定された足元はびくともしていません。

着弾の瞬間。

弾丸威力の違いを見せるため、続いて155ミリ砲が発砲します。

わたしの席からはちょうどFH70が弾薬車に遮られていて準備が見えませんが、
装填し終わると弾薬車は移動していきました。

それにしても弾薬車の助手席ドアって高くて乗り込みにくそう・・・。

射手(射手席に座って後ろを振り返っている人)は、手前の合図係が
赤い旗を持った手を振り上げると、それを合図に射撃を行います。

FH70の射撃時の写真に炎が写っているのを撮ったことがありません。
いつもこのように三方向から真っ白な煙が噴き出します。

20榴と同じところに着弾しますが、少し控えめな爆破力です。

 

さて、曳火射撃で横一列に並べたり、富士山を描いたりする同時弾着射撃を
自衛隊ではTime On Target、TOTといいます。

「こちらFSC、対TOT 富士、発動!」(と聞こえた)

そして冒頭写真の通り、本番は完璧な形を決めてきました。

リハーサルの時には頂上が見えているだけだった富士山が、
この時には風に雲が吹き払われ、ほぼ全容を現していただけに感動もひときわです。

初めて見る人はもちろん、周りの常連さんたちも思わず嘆声をあげ、
会場は一瞬そのどよめきに包まれました。

一人一人の声は小さくても、全員が同じタイミングで声をあげると
本当に「どよめき」になるのを、わたしは総火演で初めて知った気がします。

会心の富士を描くことができ、おそらく達成感に包まれての陣地変換準備。
FHの砲身の向きは人力で変えることを知りました。

車に乗り込むのにも、周りの警戒を怠りません。
陣地変換を行うのは、敵からレーダーなどで標的となるのを避けるためです。

続いては迫撃砲と対戦車誘導弾の装備展示に移ります。
120ミリ迫撃砲を牽引したトラックを運輸してきました。

ヘリ後部から降りてくるとき、皆頭をぶつけないように姿勢を低くして、
乗員のうち二人が地面に降りて周りを警戒します。

後ろ向きの隊員はヘリ乗員で、背中に垂れているのは安全ベルトだと思われます。

銃を構えながら狙撃地点に移動。

こちらでも車に牽引された120ミリ迫撃砲の準備が始まりました。

今回の場所は会場のほぼ中央ですが、迫撃砲に関しては前回より遠くなり、
あまりちゃんとした写真が撮れませんでした。

迫撃砲は砲弾を上に向けて撃つことで、弾道が山なりになるため、
山や建物の裏側に隠れている敵を制圧することができます。

射撃が終わり、陣地変換のための撤収準備を速やかに行います。
装填する砲手が砲を車両で牽引するための先端の装具をつけています。

続いて対戦車部隊の対戦車誘導弾の展示があります。

通称「チュウタ」の紹介では、連続して3発弾を発射しますが、事前に

「短時間に3発発射いたしますので見逃さないようご注意ください」

とアナウンスされます。

弾体が発射される筒の後部から装填されたところを覗くと「シーカー」という
目標を捜索、発見、そして識別する索敵装置が見えます。

赤外線誘導方式を持つチュウタのミサイルは本体にシーカーが搭載されています。
3発の弾は、同時に撃ちながら全く違うところにそれぞれ着弾させることができます。

 

続いて近接戦闘の射撃です。

指向性散弾のリモコンスイッチ発動。
風船係の隊員さんたちが苦労して設置したバルーンが一瞬で破裂。

続いて対人狙撃銃によるの狙撃です。
ギリースーツを身につけた二人の狙撃手が赤いヘルメットと二人一組で狙撃を行います。

いつも標的は車の中に書かれた人ですが、前回これが倒れなかった気がして

「木曜日これ命中しましたっけ?」

と横の人に尋ねて見ると、やっぱり当たらなかったという答えでした。
今まで外したのを見たことがなかったので少し驚きましたが、
今日は本番なのできっちり当てて来るはずです。

二人の狙撃手が同じ目標を狙うので、命中の確率は高くなるとはいえ
・・・お見事です。

狙撃地点から目標までの距離は800mです。

軽装甲機動車、愛称「ラヴ」がA道に入って行きました。

フィールドから黄色い風船を狙うのは96式装輪装甲車、通称WAPCです。
擲弾銃だけでなく、ブローニング重機関銃を搭載しています。

ちなみに今この時、車内には6名の男性が乗っています。
この気温で重装備、膝がくっつかんばかりの狭い車内・・・。
考えただけで汗が噴き出しそうですが、車内には最大8名乗せることができます。

コンバットタイヤを8輪装着していて、たとえ全部パンクしても
走り続けることができます。

まず96式40ミリ自動擲弾銃が敵歩兵に見立てた黄色い風船を狙います。

擲弾は目標そのものというより、目標付近で破裂して、相手を殲滅します。

続いて同じWAPCが12.7mm重機関銃を撃ちます。
三箇所に銃弾の曳光が写っているのがお分かりでしょうか。

小銃小隊は下車戦闘に移行し、徒歩部隊が06式小銃擲弾で青い風船を撃破します。
擲弾ですので、これも山なりに撃って破裂させそこにいる敵を制圧するものです。

撃ってから着弾するまでだいたい10秒くらいかかります。

手前にある黄色い風船は、小銃の的となってこのあと破砕される運命。

 WAPCの車上から84ミリ無反動砲、カールグスタフで射撃。
個人携帯無反動砲は、対戦車、対人、夜間照明、発煙など多機能に使用できます。

今回は対戦車擲弾を撃ちます。

擲弾が空中で破裂した瞬間。
この火玉の形、とにかく破壊力がありそう。

ドウン!と音がして、周りが凄まじい爆風で土を巻き上げているのが見えます。
対戦車榴弾は、コンクリートなどの構築物に対しても使用されるというのがわかりますね。

このあと無反動砲は同じ地点に発煙弾、そしてマルヒトATM、
(01式軽対戦車誘導弾)つまり追尾式の打ちっ放しミサイルの展示を行いました。

89式装甲戦闘車、通称FVです。

これがドンドコと撃ってる時、隣の人が

「破壊力あるんですよね。35ミリ機関砲だから」

というので、ふと思いついて

「ストライカー師団の装甲車とかが積んでなかったですか」

と適当なことを言うと、

「エリコンなのでアメリカは使ってなかったと思いますね。
ドイツのゲパルト自走対空砲が積んでたかと」

「ゲバルト・・・学生運動ですかね」

節子それゲバルト(Gewalt=暴力)ちゃうゲパルト(Gepard=チーター)や。
欲望という名の電車ならぬ暴力という名の戦車(じゃないけど)などない。

草葉の陰からコブラが顔を出しました。
ヘリ火力展示の始まりです。

本番ではTOW(対戦車ミサイル)の発射の写真を撮り損ねました。

戦闘ヘリコプターAH-64D アパッチが30ミリ機関砲を撃ちます。
砲口から炎が噴き出す一瞬が撮れました。

薬莢も盛大にばらまかれています。

ランプの点灯している部分はわたしのカンに間違いがなければ
エンジンとその排気口なのですが、ランプがなんなのかはわかりません。

赤外線?(赤いから)

 

装備展示は続いて対空火力、戦車火力に入り、会場はいよいよ盛り上がってまいります。

 

続く。

 

 

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防衛大臣来臨〜平成29年度富士総合火力演習

2017-08-29 | 軍艦

平成29年度総火演本番の予行が続いています。
前回も少し書きましたが、この日の御殿場は爽やかな風が吹く過ごしやすい日でした。
地元に帰っても同じだったので、どうもこの日は関東一円涼しい一日だったようです。

ジリジリと強い太陽に炙られ、不快な湿気のある空気に全身を包まれて
自分が塩漬けのように感じられるほどに汗をかきかき過ごすのが総火演である、
と覚悟していただけに、この日の御殿場での快適さはまるで奇跡のように思われました。

おそらく今後何回行っても、こんな総火演は2度とないのではという気がします。

さて、特科火砲が終わり、ヘリ火力の中でもアパッチが試射を行うと、
本番前のリハーサルは終了です。

C席の上段から見て初めて知ったのですが、アパッチの射撃点の真下には
地面にバラバラと落ちる薬莢を受け止めるため、ネットが貼ってあります。

薬莢もリサイクルするために収集するんでしょうか。それとも産廃?

駆動の軽快性を見せつけるように飛ぶアパッチ。
こういう角度からのヘリを見ることができるのも東富士演習場ならではです。

今回は、去年米海兵隊が装備展示の時に乗って来た水陸両用車、
AAVのお披露目が一つのハイライトでもあります。

リハの時からフィールドを走り回っていたのですが、

「なんか妙に速くね?」

と皆がざわざわするくらい体の大きさの割に速くて軽快でした。

去年展示されていた海兵隊のものとはカラーが全く違います。
側面の鎧のようなギザギザと穿たれた鋲が斬新。

防衛省は、去年ここで公開された海兵隊の水陸両用車AAV7、通称アムトラックを
25年度予算以降調達してきたのですが、速度がイマイチなため、
より高性能の車両が必要と判断し、研究開発費50億を投じて開発したのが本装備です。

なるほど、どうりで速いわけだ。

高速度を得たというと、素人に思いつくのは装甲を軽くしたんではないか?
ということですが、零戦トラウマ的にいうとこのアンフィビアン、
(陸自の人にアンフィビアン、とぽろっと言ったところはい?と聞き返されました。
あんまり一般的な単語じゃないみたいですね)防御は大丈夫なんだろうか。

2回にわたるアメリカ海軍イージス艦の事故で、現代の武器は想定範囲外の攻撃に
案外脆いものだということがわかったような気がするのですが、
例えば諸島での実践に投入されたとして、敵の対戦車攻撃ということまで
想定されているのかが普通に気になります。

というところでリハーサルは終わりました。
フィールドの整備が始まり、まず施設科の整備隊が金属探知機を持って歩いてくるのですが、
まるでミュージカルかブラスバンドのドリルのように()皆歩調を合わせ同じポーズ。

この後全員が金属探知機を振り回し「俺たちがいなきゃ(総火演は始まらない)」という
曲に合わせて踊りまくるところまで軽く想像できました。

この可愛いキャタピラトラックの正体がわかりました。
金属探知チームが拾った金属片を後ろの荷台に集め運搬します。

会場では、あちこちで射撃目標の設置が始まっていました。
何もないところにいきなり指向性散弾の的である風船がポッと現れたので
写真を撮りアップにして見ると、車の中から隊員が風船を運び出しています。

風船は、ちょうどジムのバランスボールと同じくらいの大きさです。

車の荷台の中で膨らませて、その都度取り付けていきます。

こちらは黄色い風船の設置班。
作業しているのは二人とも女性に見えるけど気のせいかな?

風船を荷台から引いてきたエアーポンプの管で膨らませているようです。
施設科でこの係をしているお父さんが、この夏休み、海水浴に家族を連れていって、
子供の浮き輪ビニールプールを膨らませたことを思い出し、

「あーなんかついこの間同じことしたばっかりだなぁ」

としみじみしたりするんだろうか。

こちらは青いバルーン(狙撃手の目標)を設置する人たち。
っているバルーンの破片を片付けています。

迫撃砲などの目標地点でも整備が行われています。
遠目に白い線に見えている目標地点のラインですが、白い土嚢なんですね。

「+」の書かれたボード設置中。
作業中の人がボードと一体化していてワロタ。

地面の整備を行うグレーダ(向こう)とロードローラー

これを見ながら、同行者に「激闘の地平線」のストーリーを
事細かく最初から最後まで話してしまったわたしでした。

後にも先にも、施設科の隊員が主人公という映画は
(後からレンジャー隊員になるとはいえ)これだけだと思われます。

「映画的には地味な職場ですが、実際は地味でもなんでもないですよね」

「今の陸自では、最も実践的に活躍しているのが施設科ですからね」

東日本大震災でも、その日頃のスキルを生かした活躍ぶりは凄まじく、
寸断された道路などの応急的な復旧なしでは、救助も物資も届くことはありませんでした。

ところで、AAV7ですが、30年度までに52両調達。
同年度末までに新設される陸上自衛隊の「水陸機動団」のために配備されます。

ただ、AAV7は水上でも速度が遅く、ぷかぷか浮いているうちに
あっさり撃沈されてしまう可能性があるため、その問題を解決するための
新型開発というわけです。

戦車は陸自のシンボルではありますが、日本という国で保有していても
海外にPKOで持っていく以外は実際の使い道がなく、
訓練では諸島防衛とかいっていても実際に尖閣に持っていくことはできず、
というか、実際に日本で戦車が出ていかなければならなくなったら
おそらくその時には攻め込まれて終わってるということでもあります。

というわけで、水陸両用車を保有する新部隊設立は、ある意味陸自の存在意義を
実戦によりフォーカスした、「生き残り作戦」という面もあるような気がします。

その頃、音楽隊の演奏が始まりました。
前回と同じく「士官候補生」に始まり「ゴジラ組曲」、
先日呉音楽隊の演奏で聴いた「平和への行列」など。

「ゴジラ」については、周りの人が

「これ聞くとテンション上がっちゃうんだよなー」

とつぶやいていました。

指揮は第一音楽隊の一等陸尉が務めました。

モニターでは自衛隊紹介の映像を流していました。
陸自の普通科に配属された女性のインタビューなどです。

会場の左前列の一角は報道席です。
報道陣カメラマンの中に不肖宮嶋茂樹氏発見!

ホームページで自慢しておられる、

カメラバッグとカメラベストの「いいとこ取り」だ。
両手が完全に自由になり、重さを両肩と腰に分散させる独特の構造で、
機材の重さが気にならない。
かつ、常にバッグが体に密着しているので、盗難の心配も解消される。

というnewswearのカメラバッグを装着されてます。
この商品ページを見てたら、レディースのが欲しくなっちゃった。

いや、実は今一眼レフを安く譲ってもらえるという話がありましてね・・。

この頃から会場に来賓が到着し始めました。
この方は、あの、「官邸のラスプーチン」と言われたこともあるらしい、
飯島勲内閣官房参与じゃございませんか。
奥方らしき女性は白の上下に夏らしいカゴバッグで参加です。

富士学校長が陸幕長に演習を報告。

国分良成防衛大学校長が海自迷彩の自衛官に誘導されて到着しました。

「国分校長だ」

「わたしこの人嫌いなんですよね。
李登輝氏の来日と慶應での講演会を妨害した張本人だし」

「少し前日本に来てませんでしたっけ」

「来ましたね。
わたしはご挨拶できませんでしたが、夫がお目にかかりました。
あの時はもう防大校長だったので運動できなかったんじゃないですか」

国分氏の専門は現代中国政治です。

開始10分前に、例の無線傍受おじさんが、

「小野寺防衛大臣ただいま出発」

とアナウンスしてくれました。でっていう。
招待された来賓は、富士学校で待機し、時間ギリギリに車でやってくるようです。

黒塗りの車の窓を開けて中から小野寺防衛大臣が観衆に答え、
穏やかな微笑みを浮かべて手を振っているのが見えました。

防衛大臣になってマスコミが早速粗探しをしていますが、堅実すぎて隙がなく、
(加計問題での前川元事務次官への追求はすごかったですね)
つい最近は、

防衛相、イージス艦を「隠密視察」 都内で政務のはずが(朝日新聞)

とかどうでもいいことをほじくってネチネチと難癖をつけております。

稲田前防衛大臣を政権の弱点とばかり執拗に攻め続けたマスコミが、
この防衛大臣2度目の小野寺氏を、今からなんとか引きずり落とすきっかけを
虎視眈々と狙っている様子がうかがえますね。

車は防衛大臣旗を立てたジープに先導されて来ます。

お立ち台の上で富士学校長の敬礼を受ける小野寺防衛大臣。

この次の瞬間、平成29年度富士総合火力演習の幕が切って落とされます。

 

続く。

 

 

 

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偵察隊のアヒルと曳火富士の特練〜平成29年度富士総合火力演習 本番予行 

2017-08-28 | 自衛隊

 

というわけで、昨日富士総合火力演習見学のために御殿場におられた方、
お疲れさまでした。

老人が行方不明になったり戦車の破片が飛んでくるなどの事故は全くなく、
その上午前中からありえないくらい涼しい風が吹き渡る総火演会場で
あの演習を見る幸運を分かち合えたことを心から嬉しく思います。

木曜日に続き、日曜本番にも(というかこちらがメイン)参加し、
改めてやはり本番はいいなあと余韻を噛み締めているわたしですが、
予行の報告を途中でやめて(やめるのかい)今日は本番の予行からお話しします。

駐車場は前回と同じ高塚でした。
前回と同じ時間に着いたのですが、すでにその時数十台の先客が・・・!

仮眠を取っていると5時過ぎに自衛官に窓を叩かれて起こされました。
前回より早く、駐車場に車を入れることにしたようです。

車を動かしていると、道路右に「鶏魂碑」がありました。
昔この周辺に養鶏場か食肉工場があったのでしょうか。
今は演習の時に駐車場になるような広大な空き地です。


駐車場の入り口で誘導の自衛官が行き先整理をしていました。

「あの手を振っている自衛官のところに行ってください」

そちらを見た途端、後ろ向きにこちらを誘導していた自衛官が派手に後ろに転びました。

もちろん日頃鍛えている自衛官ですので、何事もなくすぐに立ち上がりましたが、
わたしが思わず息を飲んでいるのに、最初の自衛官は思いっきり大笑い。
転んだ自衛官も照れ笑いしています。

迷彩服にヘルメットの下の「普通の若い男の子」の素顔を見た気がしました。

 

車を駐めた人は駐車場に待機している大型バスにどんどん乗せていきますが、
0600の出発予定時間になるまでバスを動かしてはいけないらしく、
4台がきっかり満員になるまで皆は車中で出発を待ちました。

前にはバス二台、つまりわたしより早く来た人は100人くらいいたことになります。

し か し (笑)

バスが会場に近づいた時、E席前に人垣が分厚くできているのをみて、
E席チケットを持っている人たちがざわめきました。

「おい、もうあんなに並んでるぞ」

そして、現地に着くと、自衛官が

「Eスタンド席はもう満員で座れません」

そう、朝3時から駐車場前に並んだとしても、バスが6時にならないと発車しないので、
会場に着くのはどう頑張っても6時20分。(他の駐車場はもっと時間がかかる)

その頃にはもうE席スタンドは前夜徹夜組によっておさえられている、
これが総火演本番なのです。

この過熱傾向は年々酷くなる一方で、わたしの前述の知人など、本番前日は

「夜間演習の時(つまり7時ごろ)にはすでに並んでいた」

らしいのですが、それでも朝メールが来たところによると
ゲットしたのは最上階ではなく、上から2段目だったとか・・・・・。

このまま酷くなって何か問題が起こると、自衛隊側としても
何らかの措置を取らざるをえなくなってしまうかもしれません。

入場すると、すでにまず戦車がリハを始める状態で待機していました。
この写真は戦車隊のリハが6時半に始まって20分後の撮影です。
この時点ですでにこれだけシート席前4列が埋まってしまっています。

わたしは今回C席最上段付近から高みの見物(文字通り)です。

席についてほどなく、フィールドに待機していた戦車隊が
試射を始めたので、周りが途端に戦闘モードになりました。
戦闘モード、つまり高級機種カメラでの写真撮影です。

昨日家に帰ってから現地の熱心な人たち(冒頭の人とか)の話をしていて
TOに、

「その人たちって、そんなにしてまでなぜ、つまり何が目的なの」

と聞かれてわたしもふと考えたのですが、それはつまるところ、

「砲弾を発射し、爆発炎に包まれる一瞬の戦車を撮ること」

つまり、本日冒頭写真のようなのをたくさん撮ること、
ではないかと思うのです。

それを確信したのは、この戦車リハーサルの時の周りの様子でした。
リハーサルなので、フィールドに並んだ戦車のどれが次に撃つのか
というのは普通に見ているだけでは全くわかりません。

本番なら射撃命令が下され、それがアナウンスされるのですが、それでも特に
74式戦車の射撃のタイミングはわかりにくく、

このイベントに死ぬほど来ている人たちでも百発百中などないらしいのです。

ましてや、リハーサルになると・・。

しかも前回近くにいた「無線傍受おじさん」が今回もなぜか近くにいて(笑)
その方が大きな声で
聞き取った部隊内の通信(総火演の時には公開しているらしい)
を逐一、

「次3号車!」「射撃用意!」

などと周りにずっとアナウンスし続けておられました。
みんなが次に撃つ戦車を狙えるように、おそらくは善意でやってくれていたのですが、
自衛隊の命令や通信もそんなに単純ではないため、予想通りにならないことがほとんど。

あっちが撃てば次にこれだと思っても、全く違う戦車が撃ったり、
つまり傍受おじさんの情報は往往にして役に立たないわけです。

周りの人たちが聞きたくなくても聞こえてくる傍受無線情報に
良くも悪くも翻弄されて、カメラを右往左往させては予想を外し、
落胆しているらしい様子を肌身に感じながら、わたしはふと

「モグラ叩き」という言葉を思い出したりしておりました。

というわけで、リハの最初で少なくとも近辺のカメラ持ちは
必要以上に精神を疲弊しまくったはずです(笑)

まあただ、予想によると皆このために来てるんだし、以て瞑すべしでしょう。
え、別に誰も死んどらんって?

ちなみにわたしは轟音から耳を守るため、早くから耳栓をしていました。

さて、戦車隊の試射が波乱のうちに()終わり、続いて偵察隊オート部隊のリハです。
偵察バイクで入場して来た隊員たちが、ジャンプ台のところに集合しました。

車でやってきた(多分)偉い人を迎えるために整列。

お、おおおおお!

右から二番目の隊員さんが去年も話題になったアヒルを持ってる!
皆が微笑みを浮かべてアヒルさんを見つめています。

ジャンプのために皆マスクを手早くつけながら、待機。

アヒルさんを両手で恭しく受け渡し。

このアヒルはお風呂に浮かべて遊ぶおもちゃではなく、
お酒(お神酒)が入っているらしいという噂を聞きました。

受け取った隊員はそれをジャンプ台にお供えしている模様。

しかるのち、全員が目を閉じて一礼を行いました。
つまりアヒルがはオート隊の安全祈願のマスコットだったんですね。

去年はジャンプ台の横に立っている人が腰につけていましたが、今年は
ジャンプ台の下から見守ってもらうことにしたようです。

装備展示を見た人の写真を検索していただければどこかに出て来ますが、
実はジャンプ台の下には祠状の窪みがあって、アヒルがいっぱい奉納?されています。
各アヒルには皆の安全祈願の一言が書き込まれているんだとか。

ジャンプのたびに安全を祈願してアヒルをお供えするという慣習でもあるのでしょうか。

全員で集まり、円陣を組んで掛け声。

「頑張ろう!」「おう!」

みたいな?
普通の国民が知ることのないこういう自衛隊の日常訓練の様子を
垣間見ることができるのも、総火演ならではです。

オート隊の見せ場は、全員が次々に行うジャンプです。
簡単そうに見えても、高い技量が必要だと思われます。

このオート隊は正確には富士教導団偵察協働隊に属します。

こちらの攻撃中の偵察車も同じ偵察教導団所属。

青ヘルの人何してるのかなー。

87式偵察警戒車、通称RCVが目標の25mm機関砲で白いボード攻撃中。
面白いくらい命中します。

写真班ではなく、偵察隊の人が宣材用?の撮影をしているようですね。
一番向こうはアヒルをお供えしていた隊長でしょうか。

続いて特科火砲のリハーサルに移りました。
当ブログ的にはもうおなじみ?203ミリ自走榴弾砲です。

横一文字の後の曳火射撃による富士山、富士が頭を出している絶好のチャンスですが

・・・・ん〜?

「あまり綺麗じゃないですねー、形が」

特に右半分が前回もそうですが、ガタガタです。

「まあリハだから、本番にはきっちり修正してくるんじゃないですか」

などと言っていたら、フィールドのリハーサルが終わってから
後方からの射撃で富士山がいきなり空中に浮かび上がりました。

「あ、練習してる!」

しかも間を空けて三度、練習は行われていました。
やっぱり今日は本番で防衛大臣観閲なので、念には念を入れたのでしょう。

ところで、フィールドには一台も曳火射撃を行う特科火砲はいないのに、
なぜ普通に富士山がなんども描かれていたのか全くわかりません。

もしかしたら、フィールドの火砲は空砲を撃ってるだけなのでは?
あの富士山は実は別のところにいる火砲だけで描いてるのでは?

という密かな疑惑がわたしの中で生まれた瞬間です。


とにかく、リハーサルで(おそらく)ダメ出しされ、3度に渡って行われた特訓。
この成果がどう表れたのかは、昨日御殿場にいた方ならご存知ですよね?


続く。



 

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89式装甲戦闘車のオレンジ旗〜平成29年度富士総合火力演習

2017-08-27 | 自衛隊

  

今年の総火演、チケット応募数は150,361通。
なんと当選倍率は29倍だったそうです。

自衛隊となんのゆかりもなく、防大に通う身内もおらず、
防衛団体とも縁がないという人たちにとっては応募するしかありませんが、
なぜかどこからともなくチケットを手に入れて、木土日と
三回全部参加したという人もいました。

なんでもその人は土曜日明け方前から駐車場に車を停め、
タクシーで現場に行って4時ごろから並び、イベントが終わったら車で仮眠。

(お風呂はどうするんですか、と聞いたら聞かないでくださいと言われました。
本当に聞かなきゃよかった)

日曜日のイベントのためには前日の晩0時くらいから現地で夜を明かすのだそうです。
そんなにしてまで・・・・。

 

さて、総火演予行、特化火力の前半のハイライト、曳火富士が終わり、
続いては近距離火力の装備展示です。

全員が赤いヘルメットをつけて車から降りてきました。

スコップで足元の土を掘り返しています。
遠くてわからなかったのですが、狙撃の際のお立ち台となる
何か特殊なシートを敷くようです。

衝撃吸収のためとか色々あるのでしょう。

狙撃手と判定官?を乗せたジープが到着。
整備の時に豪勢に水を撒きすぎて、水たまりができてしまいました。

まあこういうのも効果としては陸自っぽくていいんじゃないかと思ったり。
トラックの後ろには120ミリ迫撃砲を牽引しています。

高機動車から通称120迫(ひゃくにじゅっぱく)を取り外します。

ほぼ数十秒後には迫撃の用意は終了していました。仕事早い。

120mm迫撃砲の発砲は、銃弾を落とし込んで行います。
砲手が銃撃を行うというより、筒の中に砲弾が落ちると自動的に発射されるのです。

モード切り替えによって、落とし込んで発射するモードにしたり、
砲手が任意のタイミングで撃発用のロープを引っ張って発射するモードに変えたりできます。

砲身後部の撃針を突出させておけば墜発式(砲口から装填された砲弾がすぐに発射される)、
逆に後退させておけば拉縄式(装填された砲弾は砲身後端にとどまり、砲手が発射させる)
と使い分けができます。

発射は、上げた旗を下ろすのではなく、旗を上げた時が合図です。
FH70とは逆なのですが、何か理由があるのでしょうか。

砲手は砲弾を支えていた手を離すと同時に体を沈めて爆風を避けます。

一人だけ耳を押さえている人がいますが、他の皆さんは大丈夫なんでしょうか。 

方向の先から銃弾が顔を出した瞬間、砲下方から白煙が立ち昇ります。

写真を見るとところどころに火花が散っていて、周りにいるのは
かなり危険なことに思われます。
砲弾の初速はそう速いものではないらしく、連写で撮れば失敗はまずありません。 

むしろ連写だと、こういう感じで弾がはっきり写ってしまい、今ひとつ迫力に欠けます。

今回唯一の成功例はこれ。

去年もこの形の炎を撮りましたが、『?』の形まで同じです。

次に中距離多目的誘導弾。


英語ではMMPM、通称「チュウタ」で、防衛省技研と川崎の開発によるものです。
対戦車・対舟艇ミサイルを車上の発射機から投弾する瞬間です。

これも発射時の速度が遅く、大きなミサイルが肉眼ではっきり見え、
何より写真が撮りやすいので好きです。

照準は「赤外線映像」、または「ミリ波レーダー」で行い、
誘導方式は光波ホーミング誘導方式です。

発射機の上に監視カメラのように立っているのがミリ波レーダーです。

総火演の射撃は赤外線画像による誘導方式で行われます。

ミサイルがはっきり写っているので、後部に翼がある形状がよくわかりますね。
一つの射撃機に砲弾は六発搭載することができます。

弾着した時、目標があまりにも遠いので、周りの人たちが

「あそこかー!」

「あんな遠くに飛ぶのか!」

とちょっとざわめいていました。

お次は指向性散弾の装備紹介です。

指向性散弾とは、要するに一定方向に対して仕掛けられた地雷みたいなもの。
地雷のようにその上を踏まなくとも、やってきた歩兵を全滅させることができます。

指向性散弾という武器そのものを知らない会場の人たちの多くは、風船が皆割れるので

「すげーゴルゴみたいー」

と感心しているわけですが、なんのことはない、ある場所に設置して
誰か通りかかったらスイッチオンで中に仕込まれた1センチの鉄球が飛び散る、
という仕組みなので、目をつぶっていても外しようがないわけです。

 

皆さんは「クレイモア地雷」って聞いたことがありますかね。
有名な対人地雷ですが、実は自衛隊の装備である指向性散弾は、
クレイモア地雷より大型で殺傷力、いや、威力が大きいのです。

日本は対人地雷の使用を禁ずる対人地雷禁止条約を批准していますが、
どうしてこんな地雷を持っているかというと、これがリモコン式で

「人がその上を踏んだら爆発する

という仕組みではないからです。

残存する対人地雷で一般人が被害に遭うことを人道的見地からなくすため、
結ばれることになった対人地雷禁止条約ですが、リモコン式で

「スイッチを押す」つまり攻撃の意図が介在しなければ使用できない

という条件が加われば、条約の対象外となるというわけです。

76式戦車が砲撃を行う坂の上の使用例。

ギリースーツを着た狙撃手が会場の車の中の人物を狙撃します。

しかしこの時車の窓の中の人物はいつものように倒れなかったような・・・。

違ってたらごめんなさい。
陸自のゴルゴに限ってそんなことありませんよね。

ちなみに目標までの距離は800mあるそうです。

軽装甲機動車、通称ラヴ (Light Armoured Viecleから)が入場してきました。
歩兵車としてジープと同じ使われ方をしているのですが、窓がご覧の通りだったりして
日常使いには向かないというか、

「目立ちすぎてコンビニに寄れない」

という切実なクレームが部隊からは上がっていたそうです。
高速道路のパーキンギエリアなんかでは時々見ますけどね

96式装輪装甲車が入場してきます。

操縦席は射手席の側の前部にあります。
上半身を出して立っていますが、これは車長か分隊長が必ずここに立ち、
周囲の安全確認をしながらでないと走行できないからです。

装輪装甲車備え付けの銃で目標を狙います。
青いヘルメットの人は安全確認を行う係だそうです。

総火演ではこのように隊員が赤ヘル(射撃補助関係)青ヘル(安全確認係)を
かぶって登場するのですが、もちろんこれは皆にわかりやすくするためで、
実際の訓練やましてや実戦では色分けは使用されません。

装輪装甲車の銃弾が目標の白いマーク真ん前に弾着。

狙撃手が目標に対し銃を構えました。
狙撃は狙撃手と観測手が二人一組で行います。

目標はこれも敵歩兵に見立てた青い風船。
敵歩兵ならきっとこんなにじっとしてませんが、そこはそれ。

ほぼ第1射で全部が割れてしまうのはさすが。

この射手の左側の人が撃った銃弾が赤く燃えた状態で飛来しています。

続いて84ミリ無反動砲。
自衛隊では使っていないかもですが、カールグスタフという名称がかっこいい。

無反動砲というくらいで本人は反動を感じませんが、その代わり筒の後方から
猛烈な爆風が発生するので、後ろに誰もいないことを確かめて撃ちましょう。

携帯用とはいえ対戦車砲ですから、威力はこの通り。
こりゃー撃ってて気持ちいいだろうな。

89式装甲戦闘車、通称FVの装備展示が始まりました。
全部で四台が目標に正対して35ミリ機関砲を撃ちます。

わたしは一番こちら側のFVの発砲の瞬間を撮ろうと狙っていたのですが・・・

周りの人たちが

「あれ?」「撃ってないよね」「故障か?」
「一番右側撮ろうと思って狙ってたのに撃たなかった」

などとざわめき始めました。

するとこちら側2台のFVが同時にオレンジの旗を揚げました。
総火演でオレンジの旗を目撃するのは初めてと記憶します。

何かトラブルがあって、どちらも発射ができなかったようです。

「よくあることなんですか?初めて見ますが」

「まあ今日は予行ですからね」

 総火演はショーではなく「演習」なので、さしもの精鋭部隊であっても
小さいミスが全日程通して一度も起こらないなどということはありません。
毎年来ていると、たまに戦車の履帯が外れたり、破片が飛んできたり、
そういう派手な事故に出会う確率も増えてくるわけです。

もしかしたら、そういうアクシデントが起こることを、常連さんたちは
実のところ楽しみにしているのではないか?
と、周りの人たちがオレンジの旗を立てたFVを見ながら、結構ウキウキと
盛り上がっているのを見て思ったわたしでした。

 

続く。


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曳火射撃〜平成29年度富士総合火力演習

2017-08-26 | 自衛隊

前回もお話しした通り、車の中にカメラ(しかもカメラバッグごと)
忘れて、バックパックと三脚だけを持って身軽にバスに乗り込んだところ、
出発した瞬間そうと気がつき、駐車場と会場の間を往復したわたしです。

前回思いっきり「判断力の低下した老人は総火演に来るな」と言っておきながら、
ちょっと寝不足だっただけでこの判断力の低下。
説得力も何もあったもんじゃありませんが、とにかくこれで往復に1時間かかったので
会場に戻った時には、リハーサルはほとんど終わりかけでした。

わたしが席についてカメラを取り出した時には、96式装輪装甲車が退場するところでした。
で、これが第1写なのですが、車上の隊員・・・

これどう見ても女性に思えません?
写真をアップにして

「これ女性ですよね?」

すると同行の人は同じく自分の写真を見せて

「でもこれ、ヒゲがあるようにも見えますよ」

「うーん・・・どっちだろう」

「どっちだったとしても失礼な会話ですね」

検索してみたところ、今年の6月付で

普通科中隊に全国初の女性(御殿場、陸自滝ヶ原基地)

というのが出て来たので、もしかしたらこの人かとも思うのですが、
彼女の配属は第2中隊(軽装甲機動車)で96式の第4中隊とは違うし・・・。

せっかくの総火演なので顔見せできるように特別に96式に乗せたとか。

AH-64D、アパッチロングボウの射撃練習でリハは終わりみたいです。

アパッチのメザシ状態。

攻撃ヘリアパッチの射撃は、鼻からフンガー!と煙を出す人のように
(例えが悪い?)二股に分かれた白煙が出ます。

先日、同演習場でヘリが不時着して脚が折れたという事故がありましたが、
これがアパッチだったのか?と教えてくれた人に聞いてみると

「アパッチじゃないです。これ日本に13機しかないんで折ったら大変です

ほー。たった13機のうちの2機が今ここにあるわけか。

脚を折ったのはコブラで、こちらは今年の3月時点で59機が現役。
今後順次退役して行く運命なんだそうですが、だからって脚を折っていいわけもなく、

「あー、もう正座で反省会ですね」

「反省会どころじゃないです。もしかしたらパイロット降格かも

なんでも夜間演習のことで、暗くて着地地点が見えなかったせいだとかなんとか。
人身事故に繋がらなかったのは不幸中の幸いだったというしかありません。

・・というところで本番前の演習場整備の時間です。
金属探知機を持った施設隊の隊員たちが歩いて入場。

こちら偽装網とOD色のカメラカバーで完璧に現場と一体化しているカメラ隊。

何これ可愛い(笑)

クレーン付きのキャタピラ車。

次々とトラックが土をフィールドに落としていきます。


そして落とされた土をあっという間に均していきます。

映画「激闘の地平線」では諸事情により戦車やヘリが使えなかったので、
(前作で自衛隊に協力させておきながら反軍備のメッセージに利用したので防衛庁激怒)
主人公は施設科に入隊するということになっていましたが、施設科の仕事、
映画的には確かに地味かもしれませんが、実のところ大変重要で陸自の基本でもあります。

災害時の活躍はもちろん、いざ実戦となっても実は一番頼りにされる部隊が施設科です。

その徽章が「お城が三つ、それぞれ橋で繋がれている」というのがなんとも深い。


大型特殊免許があれば一度運転してみたいと思うのはわたしだけ?
車輪が前に二つ、後ろに一つでこれは大きな三輪車。

マカダム式ローラーという装備だそうです。

わたしたちの席からはほぼ肉眼で確認できないような遠くで演奏していた音楽隊。
いつものように富士学校音楽隊と第一音楽隊の合同演奏です。

スーザの「士官候補生」に始まり、「ゴジラ組曲」などで聴衆を楽しませます。

そういえば去年の総火演の頃には「シン・ゴジラ」の上映中でした。
まさにアパッチやコブラの攻撃を経て、ここ東富士演習場から撃った
M270 MLRSのロケット砲が、70キロ先の(ちなロケット砲の射程距離は30キロ)
新丸子橋にいるゴジラを攻撃するという設定だったため、
映画を見たばかりの人は、必要以上に装備に対する親近感が湧いたはずです。

76式戦車が砲撃を行う坂道で水撒きをしているタンク車。

小さな散水車もくまなく走り回って水を撒きます。
今回撒きすぎて?フィールドの右手に小さな池くらいの水たまりができていました。

本番が始まる前には、E席前のシート席以外はまだガラガラで、
やんちゃ兄弟が追いかけっこ&ふざけて取っ組み合いをする余地あり。

彼らのパパは陸自隊員かな?

さて、フィールド右手には最初の演習部隊がスタンバっています。

全員顔を迷彩にメイクした203ミリ自走榴弾砲のみなさん。
本人たちが意識せずとも、総火演は彼らの晴れ舞台です。

さていよいよ前段演習、装備紹介編の始まりです。

まず開始に先立ち、わざわざ山腹にカラースモークを焚いて、

「黄色い煙が上がっているのが”二段山”、緑の煙が”三段山”」

などと演習場の紹介から入ります。

最初に入場してくるのは96式装輪装甲車。

兵員輸送車である通称96Wの後ろ扉から数名の隊員が走り出ます。

そして203ミリ榴弾砲の入場。

上に乗って移動してくるのがなんともものものしくてかっこいい装備ですが、
榴弾砲の稼働に必要な13名全員が上に乗るスペースはありません(涙)

榴弾砲の砲員の残り8名は、実はこれに乗ってきます。
87式砲側弾薬車。

砲弾と要員を運搬して榴弾砲にくっついてくるのです。
「砲弾側弾薬車」の「側」は随伴してくるという意味だと思われます。

99式自走155mm榴弾砲。

車体前の右側に頭が見えますが、ここが操縦席です。

こちらではFH70、155ミリ榴弾砲の準備が始まっています。
砲員たちの躍動感、半端なし。

砲の先に巻かれた移動のためのロープの先をみんなで掴んで
せーの!と砲口の方向を(一応シャレ)動かします。

砲口が目標地点に向けられました。
大の男四人がかりでやっと動かせるということなんですね。

砲口のロープを二人が外している間に、二人が後ろに向かってダッシュ!
今から後方で装填が行います。

こちら弾薬車の後ろ扉。
中から何か運び出しているようです。
203ミリの砲弾って手で運べるってことですね。

右が203ミリ自走榴弾砲、真ん中FH、左弾薬車。

203ミリの後部には「鋤」のようなその名も「駐鋤」(ちゅうじょ)
が反動を受け止めるためあります。
英語でも「鋤」を意味する「SPADE」(トランプのスペードと同じ)です。

FH70の準備ほぼ完了。

こちらは弾薬装填中。

FHの弾薬が4本ほど地面に並べられています。

砲撃開始。まずは155ミリ榴弾砲から。
飛び出した砲弾が飛んでいくのが写っています。

これにも飛翔する砲弾がとらえられています。

203ミリ榴弾砲が第一射。

手をふりおろす合図で射撃が行われます。

この写真には砲手が手を挙げている人を振り返って見ているのが写っています。
射撃が終わった瞬間、下に座っている三人が立ち上がり装填を行います。

FH70の砲弾が目標地点に着弾した瞬間。

「ちゃくだ〜〜〜ん、イマッ!」

手で抱えられる砲弾なのにその破壊力の範囲の広さには驚かされます。

さて、そこでみなさんお待ちかね、曳火射撃の時間です。

曳火というのは英語でいうと「エアーバースト」、空気の破裂です。

地面に当たって炸裂する一般的な砲撃と違い、空中で炸裂するため、
大量の破片が地面に吸収されることなく敵の頭上から降り注ぎます。
つまり、姿勢を低くしたり塹壕に潜っている敵を殺傷することが可能で、

対人武器として大変有効な(残酷ともいう)方法と言われています。


が、わが自衛隊では異なる火砲でタイミングを合わせ、空中で同時爆発させて
それで線を描いたり富士山を描いたり・・・、
職人技を磨く装備であるという位置付けになっております。

遠距離、中距離火力砲で、しかも我々に見えないところからも参加して
(という噂)まずは一列に線を描いて見せてくれます。

お見事。
とはいうものの、少しいつもより間隔がまちまちなのは気のせい?

続いて富士山。
午前中は曇っていて見えにくいですが、後ろにも富士山です。

「うーん・・・今年は形がイマイチですね」

いや、でも実際の富士山もこんな風に裾が段になって見える場所ありますよね?
もしかしてそれをリアリズムで追求したのかも・・・ってことはないか。


ところで、最近は当然のようにこのシャッターチャンスを逃さなくなりましたが、
周りの人たちの気配と、聞けばなんでも教えてくれるイベント仲間と、
そして何回か参加してタイミングがわかってきたのと、
さすがにカメラの扱い方が最近は少しはましになってきたということでもあります。

曳火射撃の富士山で満場を沸かせたら、すぐに中・遠距離火力部隊は撤収です。
片付け終わったら全員が96Wに乗りこんでいきました。

跳ね上げ式の扉は運転席で操作するようです。
随分中は狭そうですが、もちろんクーラーなど効いていないでしょう。

155ミリ自走榴弾砲が離脱。

FH70、155ミリ自走榴弾砲も離脱。
これが自分の力で走っていく姿はいつ見てもシュールです。

 

というわけで中遠距離火力の装備紹介が終わりました。

 

続く。

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平成29年度富士総合火力演習 予告「来てはいけない人」

2017-08-25 | 自衛隊

今年も富士総合火力演習、通称総火演にいってまいりました。

前日2時半にうちを出て帰って来たのが夕方の6時半、ということで
昨夜は夢も見ずに爆睡したのですが、今日起きて写真を整理していたら
今回同行したイベント仲間からメッセージが来てこんなニュースを知りました。


【東富士演習場で男性が一時、行方不明 演習中止に】

24日、静岡県御殿場市の東富士演習場で男性が一時、行方不明になる騒ぎがあり、
夜間に予定されていた陸上自衛隊の演習が中止となりました。

東富士演習場では24日、陸上自衛隊による国内最大規模の実弾射撃訓練、
「富士総合火力演習」の予行演習が行われていて、地元の住民などに公開されていました。
このなかで、静岡県浜松市に住む90歳の男性が行方不明になったと
一緒に訪れていた人から自衛隊に通報がありました。
そのため、陸上自衛隊は男性が演習場内に入った可能性もあるとして、
午後7時半から予定していた夜間の予行演習を中止しました。

その後、男性は自宅に戻っているのが見つかり、25日から演習は予定通り行われます。

 

こんなとほほな事情で中止になるとは、夜間演習を楽しみにしていた人たちも
怒りを通り越してがっくりでしょう。

わたしは去年夜間演習のチケットをいただき参加しました。
昼間の演習を見学終了後、御殿場市内で夜まで時間を潰し、
早めに列に並んだおかげで最上段に座ることができたのですが、
(例によってお仲間の無謀とも言える作戦立案の成果)もしあの苦労が
今年のようなことがあって無駄になっていたらと思うと・・・。

暴動を起こさなかったこの日の観客の民度を賞賛せずにはいられません(笑)

 

要はおじいちゃん(かなりの確率でボケていると思われ)が勝手に会場を離脱して
勝手に帰宅していたのに、携帯など持っていないので連絡が取れなかったと。

心配した同行者が自衛隊に連絡したところ、それが90歳の老人であることから、
どこに徘徊しているかわからない(つまり演習所にフラフラ入り込む可能性あり)
と自衛隊も判断したため、当人が見つかるまで演習を中止にしたと。

自衛隊の判断としては、当然のことだったといえます。

しかもこれ、

その後男性は自宅に帰っているのが見つかり

って、家族が家に帰ったらいたってことですよね?
お風呂に入ってさっぱりした(かどうかは知りませんが)じいちゃんが。

「あー!おじいちゃん帰ってたの!何で黙って帰っちゃうの!」

と驚き呆れながらもホッとした家族は慌てて自衛隊に連絡し、平身低頭
(かどうかは知りませんが)で謝ったということが想像されるのですが、
おそらくその連絡を受けるまで、東富士演習場では何十人(もっとかな)
単位の自衛官を導入して必死の捜索活動をしていたと思われるのですよ。

本人生存(笑)の報を受け、その後陸自では状況終わりとなり、
何事もなく終わったわけですが、自衛隊側から見るとこんな迷惑な話はありません。

そもそもこんな騒ぎの責任は、皆さん誰にあると思いますか?

おじいちゃん?

ではありません。
90歳の老人を総火演に連れて来たという同行者です。

本人がたとえ今生の思い出に総火演を見たいと言い張ったとしても、
(かどうかは知りませんが)

「いや、あそこは90歳の人にはきつすぎるからやめといたほうがいい」

と諌めてでも参加を阻止するべきだった、周りの人たちです。

きついというのは体力的なことだけをいうのではありません。
要するにこの老人は大混雑の現場ではぐれて、とっとと帰ってしまっていたのでしょ?

そこで同行者に連絡を取ることもできないような判断力のない老人を、
そもそもこんな場所に連れてくるなって話です。

・・・こんな場所。そう、こんな場所です。

総火演が「どんな場所」だか全くわからないで来ている人というのを
わたしは過去何回かの総火演体験で見て来ました。

自衛隊広報は、総火演がどんなに過酷で老人子供に不適切な場所かを
もう少し広報すべきだと思いますが、ここでわたしが心を鬼にしていいます。

1、老人は来るな

2、乳幼児を連れて来るな

3、ハイヒールで来るな

4、マナーを守れない者は来るな

 

1、老人は来るな

老人というのは本人に自分が衰えているという自覚がありません。
体力はもちろん判断力も加齢によって若い頃より低下しているのに、
本人は自分だけは大丈夫だと過信して、安易な気持ちでやってくる。

そして、今回のようなことをやらかすのです。

観艦式の時に、艦上で倒れた年配の方がいましたね。
すぐさまヘリから病院に救急搬送され、自衛隊の危機管理能力の高さに
現場にいた人は拍手を送ったということですが、結局その方は亡くなったと聞きます。

亡くなった方には失礼を承知で言いますが、そういう可能性が少しでもあるなら
そもそも観艦式などのイベントへの参加は自重するべきではなかったでしょうか。

 

3、ハイヒールで来るな

上の写真は演習場となっている正面の会場に駐車場から歩いていく道です。
黄色いロープの仕切りは、各駐車場に向かうバス待ちの列ごとに分かれているからで、
ここを歩かねば、全ての人は入場も退場もできません。

もちろん政府関係者や特別招待客などで、駐車場に迎えが来ていたり、
車で会場の真ん前まで連れて来てもらえる人は別ですが。

で、この道が、5センチ台の大きさの砂利がゴロゴロしている坂道で、
急いで歩いても15分はかかる距離です。

 

今回杖をついて歩いている人が、途中で立ち止まってゼイゼイ言ってるのを見ましたが、
会場に着きさえすればもう大丈夫、というわけには行きません。

冒頭の写真は朝7時半の画像。
シート席の人たちは自衛官に誘導されて順番に前列から座っていきますが、
ここでは携帯椅子も使えませんし、足も伸ばせず、炎天下で全く影がありません。
雨が降って来ても傘をさすことはできませんし、一旦座ってしまったら
席を立ってトイレに行くのも人混みで一苦労という環境です。

わたしは今回、駐車場の開門を4時過ぎから待っていました。
もちろん同行者はこの前の時間からスタンド席の列に並んでいます。

2、乳幼児を連れて来るな 

6時に駐車場からのバスが発車し始めました。
しかし、このバスで会場に着いた時にはスタンド席待ちの列はいっぱいでした。

ところで、お恥ずかしい話ですが、この時わたしはバスに乗ってから

カメラを車の中に忘れているのに気づき、

同行者にチケットを渡して入場し、席を確保してからもう一度
駐車場にバスで取りに戻りました。

朝なのでわたししかいないと思ったら、同じバスに、

「来てみたけれどやっぱり帰ることにした」

という乳幼児連れのお母さんが乗っていました。

英断です。

どんなところか全くわからず家族で来てみたものの、
喃語でうにゃうにゃいうだけの歩けない人間と一緒にこの環境では、
親子共々とても1日保たないと判断したのでしょう。

バスの中で、女児がパパー、というと、母親はスタンドを指して

「パパあそこにいるよ」

と言っていたので、おそらく父親は現地に残ることにしたようです。
これ、多分お父さんが来たかっただけなんだろうな。
どんなところか知っていたら最初から一人で来てたんでしょうけど。

もちろんベビーカーなど使えないので、(物理的にも規則的にも)
お母さんは会場から足元の悪い砂利の坂道を子供を抱いてよたよたと降りて来て、
まず自分がトイレに行っている間バス会社の社員に子供を抱っこしてもらい、
バスに乗ったら今度は子供を座席(しかも最前席)に置いたまま、

・・・なんと携帯でメールを始めました。

バスの運転手は横目で赤ちゃんがシートの上でウゴウゴしているのを見ながら、
ビクビクという感じで時速10キロで這うように運転しています。

見かねて、

「お母さん、お子さんそこで大丈夫ですか?抱かないと危ないですよ

と声をかけると、彼女はすみません、と言って赤ん坊を膝に抱きました。
会場から離脱するだけでも女手一つではあまりに大変だったので、
バスに乗ってホッとして、少しだけでも手を離したくなったのでしょう。

そこで携帯というのは常識的にどうかとは思うものの、わたしも
子育て経験者として、彼女のこの時の気持ちは痛いほどわかりました。

 

しかしだからこそいいます。乳幼児は連れて来るな。
いや、乳幼児がいるなら参加はもうその時点で諦めていただきたい。

子供を空気も振動するような戦車発砲の轟音に晒したり、火砲の煙火を見せたり、
炎天下で日よけもない直射日光の下に長時間居させるなど言語道断です。

 

去年、ミニスカートで12センチのストームヒールのサンダルを生足で履き、
しかも3歳児の手をひいて歩いていた母親を目撃しましたが、
これなどここに来てはいけない人の標本みたいなもんです。

本人だけが辛い思いをするならそれは自業自得ですが、
判断力のない子供を親のエゴで虐待するな!と言っておきます。

 

これはわたしが忘れ物を取って帰って来た時、8時半の様子です。
シート席に座るつもりなら、この時間でも10時ギリギリでも同じです。

むしろ、早くから来てずっと地べたに座っているのがしんどいのなら、
9時ぐらいに来てシートの後ろの方に座った方がましかもしれません。

しかし、こういうイベントでいつも思うことですが、老人(男)の
マナーの悪さ、これは眼に余るものがあります。

4、マナーのない者(老害)は来るな

これも、自分がマナーがないということを自覚している人はいないからねえ(笑)

観艦式でも不愉快なマナー違反をするのは必ず団塊の世代のカメラ持ち男性でしたが、
こういう過酷なイベントで、自分だけが少しでも楽をするため、
自分勝手な振る舞いをして恥じないのはこれもなぜか必ず団塊老人です。

会場は最終的にはこんな状態になります。

これは後段演習の一番最後のシーンですが、シート席に空きがあるのは
前半終了後混雑を嫌って帰ってしまう人が結構いるからです。
しかし、フェンスの向こう、通路は立ち見している人がぎっしりいる状況。

シート席は、始まる前にも予行演習中も、自衛官が誘導して順に座らせていくのですが、
誘導を待たず、勝手に自分の好きな場所に座ってしまう人が必ずいるのです。

今回も二人の男性を目撃しました。

誘導の自衛官がやってきて、ちゃんと順番に並んでください、と注意するのですが、
見ているとなんやかんやと寄ってたかって言い返し、根気よく説得する自衛官に
逆に食ってかかり、果ては無視を決め込んで居座り続ける構え。

「あれ、どうなるんでしょうね

上から見ていたわたしたちですが、結局自衛官は根負けしてしまいました。

「あーあ、ごね得だ」

「自衛官もそれ以上強くいうことができませんからね」

「故意犯ですね


独自のルールで、勝手に階段の通路に座り込む輩も全員が団塊です。

前段演習が終了した頃、入り口で立っていたその世代のおっさんたちが、
わたしたちの一角のスタンド席通路に上がってきてちゃっかり座りこみました。

警備の自衛官が『通路ですので』と注意しても例によって知らん顔。
わたしたちの周りに座っているのは全員が早くて前日の夜、遅くとも朝4時に現地入りして
ずっと座って並び、この高さのシート席を確保した人たちです。
皆が内心ムカムカしていたと思うのですが、一人の男性がついに声を荒げました。

「通路に座ってんじゃないよ!そこどけよ」

すると、最上段近く、前日徹夜組の横の通路階段に座っていた団塊夫婦の夫の方が

「みんな座ってるじゃないか」

と下3段くらいに座り込んでいる人たちを指して言い返したのです。
ちょっと信じられない図太さですが、自衛官と違って遠慮しない男性はそれに対し、

「みんなやってるって子供かよ!
あんたは誰かがやってたらって理由で人殺すのか!

と怒鳴りつけました。

「だいたいみんな何時から並んでここ座っていると思ってんだよ!

この決め台詞に、わたしを含め周りの人たちが一斉に頷く空気になり、
冷たい目で周りから見られるのに、さしもの団塊も堪り兼ねたらしく、
(というか奥さんがきっと我慢できなくなったんだと思う)
去って行きましたが、男性は容赦無く彼らを睨みつけ、

「あいつら、立ち見(つまりギリギリにきた)だったんじゃないか

といかにも厚かましい、といった様子で吐き捨てました。

「こんな場所」であることを知らず、始まる直前に来て見たら座る場所もない、
立って人垣越しに見るのは辛い、ということで我慢できず暴挙に及んだのでしょうが、
少しでもいいところで見たい人はそれなりの苦労をしているのだから、
ちょっとこういうのは遠慮して欲しかったですね。

周りも不快だし、皆の冷たい視線を浴びて観戦しても楽しくないでしょうし。
それに、前日徹夜組を怒らせたら、怖いよ(笑)

 

というわけで、もしこのブログを目にした方で、土、日の参加を考えている人、
少しでも自分を振り返って思い当たる節があるなら、悪いことは言いません。
総火演の参加はやめた方がいいです。

というかぜひやめていただきたい。

イベントが終わっても車で来たが最後、夕方まで御殿場市内は渋滞し、
高速に乗るだけで2時間はかかり(特に日曜日)ます。

行きの駐車場で、今や陸自にも出現したらしいトーキング系自衛官が

「本日はディズニーランド以上の大混雑が予測されます。
これは嘘ではありません。わたしは嘘をついたことはありません」

と何回も繰り返してみんなの笑いを誘っていましたが、
わたしも嘘は言いません。(嘘をついたことがないとまでは言いませんが)
幼児と老人と体力のない人には徹底的に優しくない過酷な現場、
甘い考えで行けばそれだけ痛い目を見る、それが富士総合火力演習の実態です。

 

さて、蛇足ですが、冒頭のテレビ朝日の案の定なニュースについて。

今回の演習中止は全く自衛隊に責任も落ち度もありません。
しかし、なんとなくこのニュースに自衛隊を非難する調子が含まれており、
しかも、最後にこんな一行をつけ加えずにはいられないテレビ朝日に、
わたしは「やっぱりマスゴミだわ」と嫌な意味で感心し、納得しました。

曰く。

「演習が行われている東富士演習場では先週、
訓練中のヘリコプターが不時着する事故が起きています

いや、この事故も知ってたけどさ。
ボケ老人が世間を騒がしたこととなんか関係あるのっていう。
今回迷惑かけられたのは自衛隊ですよ?

 

というわけで、参加報告の前にちょっとした苦言と提言を呈させていただきました。
それでは上記対象「以外」のみなさん、ルールを守って楽しい総火演見学にしましょう。

Have  A Nice SOUKAEN!

 

 



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アメリカの大学・西海岸編

2017-08-24 | アメリカ

 

 

東海岸で二校、計三学部の見学をしたというご報告をしましたが、
西海岸移動後にも二つの大学のツァーに参加したので今日はそのお話を。

今回も今まで見た&行ったことがない大学です。

まず、ロスアンゼルス郊外にある、リベラルアーツカレッジ。

リベラルアーツとは、人文科学・自然科学・社会科学及び学際分野にわたる
学術の基礎的な教育研究を行う四年制大学のことです。

卒業者はロースクールやメディカルスクールに進学することもあり、
いずれの分野についてもここで基礎を学ぶことができるという仕組み。

リベラルアーツカレッジの多くは、学業に専念できるように
キャンパスを郊外や小都市にに持っているところが多く、また、
全寮制で学生生活は学内で完結するため、大抵は少人数で
ファミリー的な雰囲気であると言われています。

この日見学した大学も、ロス郊外の住宅地に突如現れました。

 

わたしたちはこの前日までサンディエゴにおり、10時のツァーに間に合うように
6時30分にホテルを出発したのですが、フロントの人に

「これからロスアンゼルス?それは大変ですよ

と真顔で忠告されて大いに不安でした。

後から知ったのですが、ロスを中心とした周辺のフリーウェイは
ほぼ毎日、通勤帰宅時に大渋滞となるのだそうです。

案の定5車線も7車線もある道路がギチギチに混む地獄のような渋滞に巻き込まれ、
目的地に着いた時には10時15分。
わたしが車を停めている間に二人は走って集合場所まで行き、
かろうじてツァースタートの前に滑り込むことができました。

「将来何があってもロスには住みたくないね」

グランドピアノが二台向かい合わせにおいてある談話&娯楽室。
ここからツァーは開始しました。

実は恥ずかしながらわたしはこの日までこのカレッジの名前すら知りませんでした。
アメリカ在住の友人も知らなかったので、そんなものかとも思うのですが、
カリフォルニアでは最も歴史のあるリベラルアーツカレッジだそうです。

キャンパスには手入れの行き届いた緑が広がります。
「アメリカで最も美しいカレッジキャンパス」の6位に入賞したこともあるとか。

東海岸以上にカリフォルニアの昼間の日差しは強烈なので、
ツァーが室内に案内されるとホッとします。

このソファや椅子のたくさんあるスペースには、どう見ても学生でない人たちが
明らかに涼むためにきて座り込んでいました。

入り口に門衛がいるわけではないので、アメリカの大学はその気になれば
誰でも入って来ることができるのです。

侵入者が「ペルソナ・ノン・グラータ」かどうかは、どこの大学にも設営されている
「スクールポリス」が判断し対処します。

 

学校がある時にはラボらしいこの部屋では、小学生対象のキャンプが行われていました。

この後、全寮制のこの大学の学生寄宿舎を見学。
TOは「こんなところに3人なんて狭い」と文句を言っていました。
学生のドミトリーなんてどこでも似たようなもんだと思うんですが。

建物は「古きカリフォルニア」というか、南欧風。
東海岸の古い大学とは全く違う方向ですが趣があります。

「ドクターOの庭」というプレートがはめ込まれた石が置かれた一角。

1986年から2012年までここで化学を教えていた大槻哲夫先生を偲んで。
この名前でぐぐると、有機化学の本などが出てきます。

少人数制で一人一人の生徒に手厚い教育を行うという体制であるため、
リベラルアーツカレッジの学費は大変高額なものになります。
そのためアメリカにおける上流階級やアッパーミドル階級の価値観を大きく反映しており、
実際に上流階級やアッパーミドルクラス出身の学生が多いのも現実です。

「いかにも白人の子弟のための学校って感じ」

わたしたちは見学が終わってから感想を言い合いましたが、ただ昨今は
ダイバーシティの観点からマイノリティと言われる層の取り入れにも熱心で、
学生の42%がいわゆる非白人だそうです。

このサイエンスセンターのロビーにはこんなモニュメントが。
吹き抜けの天井から下がっている振り子、実は時計だったりします。

次は図書館。
返却された本を一時的に置くコーナーで日本語の本発見。

「はぶぁないすでい」という、実にイラっとくるタイトルです。

この学校が有名になったのは、オバマ前大統領が在籍したことがあったからでしょう。

 3年が終了した時、このカレッジはコロンビア大学ロースクールに転学するという
プログラムがあるのですが、オバマはそれを利用したようです。

アメリカ人は最初から最後までその大学でしか勉強しなかった、というより
(たとえハーバードのような名門校でも)、オバマのようにこの大学から始めて
最終的にハーバードやカルテックなどの総合大学で自分の専攻を極めるという方が
イケてる、と捉える傾向にあることは、何人かのアメリカ人と話して気づいたことです。

噂によるとバラク・オバマはここの学生時代決して優秀ではなかったそうですが、
学校の方は今や「オバマ大統領の出身校」を売り物?にしている様子。

今調べたら、ベン・アフレックもこの大学出身で、大学時代から映画を作っていたとか。

このガラスケースは、大統領始め当大学出身の有名人コーナーであるようです。

ロス近郊の丘陵地にあるため、キャンパスは緩やかな傾斜に沿って建物があります。
昔の写真を見たら、1900年代初頭でほとんど今と変わっていませんでした。

この建物はダイニングとカフェ。
スタンフォード大学もこのような地中海風の建物が多く見られます。
これはカリフォルニアの古い大学の傾向なのかもしれません。

有名な建築家が1939年に校内の多くの建物を設計しましたが、
このホール始めその全てが現在も使用されています。

最後に説明が行われた教会のようなホール。
入るなりムッとした古い匂いが鼻をつき、明らかにこれは創立当時からあると思われました。

ここでアドミッションの人の説明がありましたが、その最中、中国本土からの参加女子が
袋菓子を取り出し、大きな音をさせて食べていました。

白人の価値観が色濃く残るこの大学では、留学生は全体のわずか3パーセント。
いかにお行儀の悪いアメリカ人であっても、こういうのは嫌がるだろうなと思いました。


さて、続いてはやはりロスアンジェルス近郊にある総合大学。
歴史もあり西海岸の工科系大学の雄ともされる有名大学です。

例によって指定された駐車場は集合場所までとてつもなく遠いところに・・・・。
昔からのキャンパスの道を隔てたところにはこのような超前衛的なビルがあります。

見ているだけでなんか不安になってくる建物です。

こちらが創学当時から存在するキャンパス。
設立は1891年、アメリカの大学ですから決して小さくはありませんが、
そのスペースに学生数は2200人。

集合場所となっているアドミッションオフィスに行く途中に、
日本企業の名前を見つけてびっくり。

この後ツァーで歩いていたら、明らかに日本人であろうと思われるグループが
白人の教授っぽい人と英語で話しながら歩くのとすれ違いました。

こういう建築様式をチューダー調というんでしたっけ。
庭園に囲まれたホテルといった趣ですが、これも学校の一部。

この中で参加者は集合し、この後グループに分かれてツァー開始です。
ギリシャ神殿のような装飾の柱ですが、アメリカでこの手の柱は大抵が木製。

中は冷房が効いていてホッとしましたが、狭いので、全員が集まった時には立錐の余地もありませんでした。

工科大学らしく、元素周期表を利用して大学案内をしています。

V23(バナジウム)

最終試験の週、ワグナーの「ワルキューレの騎行」が毎朝7時、
「耳もつんざけんばかりの音量で」鳴り渡る

卒業生がその後ワグナーが嫌いになること間違いなし。

遠くてわかりませんが、パティオの下には白と青のクロスのかかったテーブルがあり、
今夜ここでディナーが行われるようなかんじでした。

この時間はフライパンで煎られるように暑いですが、夕方からは寒くなります。

校舎は回廊式というか、このような渡り廊下で繋がれています。

柱の上部に彫り込まれたのはフットボールの選手・・・
じゃなくておそらく戦の神ヘルメス。

学生寮の内部も見学しました。
これまで見てきた大学の中で最も寮内部は雑然としており、
変な落書き(ここにとても出せないような)があちらこちらにされていました。

みんな半端なく頭のいい学生のはずですが、もしかしたらこのレベルになると
実質「紙一重」みたいなのが多いんだろうか、とふと思ったり。

この後ツァー参加者が一堂に集められ、例によってアドミッションの説明を聞きました。

本学出身のノーベル賞受賞者は34名、ノーベル賞は35回!
(つまり一人が2回取ってるってことです)

これまでの全ての受賞者の総数がそれ以下の国の人として、軽くビビります。

なぜか構内に本物のキャノンがありました。
普仏戦争で活躍した本物で、現在はランドマークとしてここにあるのですが、
このツァーで面白い話を聞きました。

この大砲、卒業などのイベントで空砲を撃つこともでき「生きている」のですが、
2006年に東部の某有名工科大学の学生が、メンテナンスのフリをして運び出し、
盗んでボストンに持って帰ってしまったことがあったそうです。

普通に窃盗な訳ですが、こちらの有志も負けておらず、わざわざ相手校に乗り込んで取り返し、
大砲のあった場所にミニチュアを置いて帰りました。

両校のライバル意識を表す話として結構微笑ましく語られているようですが、
実は結構当事者には笑い事ではなく、こちらでは、胸に「CALTECH」のロゴ、
背中には
『MIT=CALTECHに入れなかった人の入る大学』
とプリントされたTシャツが堂々と売られているんだとか。

おお、ここにも日本人教授のお姿が!

Toshi Kubotaと学生証にはあります。
調べてみると、1957年に元海軍士官だったゴトウタケイチ
オグロハルオさんと一緒に撮った卒業写真が出てきました。

海兵卒でここを卒業した人がいたんですね。

というわけで、世界の最高レベルである工科大学の見学を終わり、
駐車場に帰ってきました。

実はこの球技場全面の地下は、地下三階の駐車場になっています。

アメリカの大学おそるべし。

って何に感心してるんだか(笑)

 

 

 

 

 

 

 

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アメリカの大学・東海岸編

2017-08-22 | アメリカ

今回のアメリカ滞在中、いくつかの大学を見て周りました。

TOの留学先、息子のキャンプ先などでよく知っている学校は除き、
学校のアドミッションが主催するツァーにスケジュールが合ったものに限ります。

アメリカの大学の内部を見る機会など滅多にないので、実は観光気分です。

最初はボストンの中心部に近いとあるユニバーシティ。
勝手に規模が小さいと勘違いしていましたが、とんでもない。

そもそも「ユニバーシティ」というからには、いくつもの学部の集合体で、
国土の広いアメリカではそれだけで一つの街というくらい規模が大きいのが普通です。

案の定この大学も集合場所近くのパーキングはすでに満車。
指示されて停めたタワーからは気の遠くなるような距離がありました。

おまけにボストンはこの季節、昼間は焼け付くような日差しです。
集合場所であるオフィスにたどり着いた時にはホッとしました。

アメリカの大学の規模と設備に改めて驚きます。
下手するとこんなクラスルームがいくつも学内にあったりするのがアメリカ。

ここで学校についての概要のレクチャーが行われるようです。

この日のツァーは、当大学工学部の見学でした。

「エンジニアリングとは何か?」

やたら壮大なテーマですが、結局答えはなんだったのかと尋ねられると困ります(笑)

 

アメリカの大学にはこういう場合に『マイクを握って半世紀!』
みたいな学校案内専門のスタッフがいて、
その喋り方や質問の受け答えなど、まさにプロといった喋りをします。

アメリカ人はこういう場で質問をしないということはほとんどなく、
説明の時間半分が質疑応答になってしまったりします。
 

バイオ工学、化学、コンピュータ、機械工学、環境、産業などの単体のの学問を、
「コンピュータ工学とコンピュータ科学」「機械工学と物理学」などのように
融合させたフレキシブルな専攻があります、らしいです。

内容はフレキシブルな選択というところで適当に理解してください。
右側に転々と足跡がありますが、大学のマスコットのものです。

大抵の大学には、犬やクマ、狼、鳥類、爬虫類、時々虫など、
オリジナルマスコットがいます。
大抵はアイドル化しやすい哺乳類ですが、ナメクジ(サンタクルーズ大学)とか、
「木」(スタンフォード大)なんてのもあります。

木・・・なんかいろいろと盛り上がらなさそう。

当大学の学生数は2万5千人。
3年連続で、全米大学トップ50校以内に選出されており、最も革新的な大学のカテゴリーでも
上位にランクインする東海岸の名門トップ大学(wikiによる)
です。

本日の説明会にhほとんどの学生は親と一緒に参加していました。
夏休みなので、家族旅行かたがた大学を見に来たという家庭
(我々もそうですが)も多そうです。

この後、見学者はグループに分けられ、現役の学生に案内され学内を廻ります。
このパターンはどこの大学に行っても同じでした。

案内役は夏休み帰郷しない学生のアルバイトです。

広大なキャンパスを歩き、改めてアメリカの大学の規模の大きさを思い知ります。
工学部のある研究棟には、浮世絵コレクション(本物)が何枚も壁にかかっていました。

彼らのツァーには必ず学生が生活するゾーンが含まれます。
こちらは学生寮に近いカフェテリアですが、左側の「オー・ボン・パン」
(ボストン近辺で展開しているベーカリーチェーン。日本でいうと神戸屋?)
は、一般道に面しており、誰でも利用することができます。

図書館にもほとんど個人名がついています。
成功した卒業生が自分の出身大学に建物を寄贈して名前を残すのです。

このブロンズ像は「シルマンの猫」というそうです。
ロバート・シルマンは当校で『も』学位を取り、「コグネックス社」の創立者となりました。

シルマン氏はまだ存命ですが、この銅像の詳細(なぜ猫なのかとか)
については実のところはっきりしていないようです。

当たり前ですが、アメリカの大学にはどこも中心となるところに
国旗が掲揚されています。

学舎を寄付するほどの富豪になれずとも、自分が在籍していた証を残すことはできます。
卒業生の名前が刻まれたロータリーの敷石。

また別の日。

わたしたちはまたしても同じ大学のツァーに参加しました。
今回は建築専攻科の見学をするためです。
前回と打って変わって、この日の天気は一日中雨でした。

ただしアドミッションオフィスの近くに車を止めることはできました。

当大学は1916年に開学しました。
ちょうど第一次世界大戦(1914−8)の真っ只中に創立されたということになります。

ということは、このベテランズメモリアルは、それ以降の戦争の犠牲者のものでしょう。
慰霊碑には第二次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争の写真があしらってあります。

さて、今回わたしたちは建築科の説明を聞くために参加したのですが、
建築は工学部ではなく「アーツ・メディア・デザインカレッジ」に含まれます。

デザインのほか、「メディア」はコミュニケーション学科、
メディア・スクリーン研究、
音楽学科、映画、ジャーナリズムなど。

ということで、前回の参加者とは明らかに参加者の雰囲気が違いました。

一口で言うと、女子、しかも明らかにあわよくばキャスターになったる!的な
気合の入った化粧バッチリ系が全体の雰囲気を支配していたといいますか。

卒業後の就職先にはテレビ局もあり、どの局のなんとか言うキャスターは
うちの出身ですよ、みたいな説明もありました。

説明を聞いていた中から、志望学部ごとにツァーが出発していき、
最後に残ったのはメディア専攻とは全く雰囲気の違う、
よく言えば理系、悪く言えば地味系の見学者が建築科見学者でした。

説明をしていたデザインカレッジのディレクターは建築科の主任で、
わたしたちは彼に連れられて、建築専攻の建物に向かいました。

建築の建物はキャンパスが接している線路の高架下を利用しています。
時折大きな音を立てる作業なので、高架下はちょうどいい場所なのでしょう。

高架下なので、細長く延々と続く作業室は全て建築科の領域です。

天井にはむき出しで電気と温水のパイプが張り巡らされ、
長いソケットが天井からブラブラとぶら下がっています。

一応その辺のポスターも写真に撮っておきました。
いわゆる絶叫マシンのデザイン、などと言うカテゴリもあるんですね。

集合住宅のデザイン。
アメリカのように土地のあるところにはいくらでも家が建てられるので、
集合住宅の需要はあまりないと思われがちですが、都市部では決してそうではありません。

昔の公衆電話のように生徒なら誰でも使えるコンピュータがあります。

合格率の低さに反比例して学費は大変お高い大学でしたが、
アメリカの大学は名門になるほどこの傾向が強くなります。

さて、東海岸ではもう一つ大学のキャンパスを見学しました。

ボストン郊外の緑の多い高級住宅街の中に忽然と現れる工学系カレッジ。
2000年以降に生まれた新しい大学ですが、工学系大学関係者や、
企業からはその先端的な教育で大変注目されています。

創業者の肖像。
アドミッションツァーに参加する学生の数は前回の総合大学とは全く違い、
全部で10人くらいで、全員がツァー前に自己紹介しあいました。

学校の規模も一学年が80名と大変少なく、生徒3人に教授が一人、という割合です。

しかしアメリカのカレッジなので、キャンパスは日本規模なら「広大」と言っていいでしょう。
何しろ、グラウンドとスポーツコート、学生宿舎をもつキャンパスが、
それまでただの森であったところに突如現れるのがアメリカなのです。

アドミッションの説明は、当大学の特殊で革新的な教育がいかに注目されているか、
その創立の意義などから始まりました。

古い映画のポスター風の「大学ができます」というお知らせがユニークです。

専攻は電気・コンピュータ工学、機械、工学一般の三種類。
工学一般はバイオエンジニアリング、コンピューティング、デザイン、
材料科学、システムなどに分かれます。

工学教育におけるコミニュケーションやチームワークを重視しているのも特徴です。

工学、といっても、アーツ、ヒューマニティ、社会科学、起業の要素の融合させ、
学生がここで学んだことが社会に即役に立つことを目標としています。

オーケストラも「クラブ活動」の域ではなく、授業の一環として重視されています。

「スポンサー」というのは、この大学に1年あたり5万ドルを供出する企業です。

そのお金は学生のプロジェクトに充てられ、学生はスポンサー企業と連絡を取り合って
企業の求める研究や商品の開発を行うのです。

面白いのはそこで終わるのではなく、それらの市場におけるニーズ、
ビジネスとして成立するかについても分析を行います。

そんな大学ですから、卒業後の進路はよりどりみどり。
109の会社がリクルートに訪れた、とありますが、卒業生はせいぜい80名。

いかにこの新設大学卒業者が企業側からも嘱望されているかがわかります。

そんな大学ですから、学費が高くて当たり前。
というか、高いので有名なんだとか。

しかしこれは額面で、奨学金で半分は賄えるそうです。

説明の後は他の大学のように現役学生が案内するツァー開始です。

合格する学生の学力は大変高く、SATスコアはMITやカルテックレベルとか。
右側の男子生徒はジョージア工科大学にも合格したそうですがこちらを選んだそうです。

女子の方は『家から近かったから』。

学内どこに行ってもこのような、雑然としながら秩序のあるクリエイティブ雰囲気があります。

彼らの説明によると、ビリヤードは彼らに取って非常に意味のあるホビーなんだとか。

ラーメンを食べているプシーン猫のイラストを目敏くを見つけて写真を撮るわたし(笑)

椅子や机はあちらこちらに配置され、ソファーがあったりして実に自由な空間。
どの机の上も何かの途中で席を立ったようにモノが放置され、
潔癖症なら気が狂いそうになるかもしれません。

ここはなんと「ライブラリー」ということになっている部屋。

吹き抜けの空間を臨む腰高の仕切りにはコンピュータデスクがありますが、
そこに向かっている男子生徒は裸足で、右足を左脚の膝にかけ、
一本足の姿勢で立ったまま、ずっとコンピュータに向かっていました。

なんかとにかく凡人じゃないって感じ。

というわけで大変印象的な大学見学は終わりました。

この周辺には東部の名門カレッジが多くあり、当大学は大学間の
相互乗り入れや共同講義を行っているということです。

住んでいた時代からお気に入りだったベーカリーの支店がここに。


西海岸でも大学見学を行いましたので、後半はそのご報告です。

 

 

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ロニー、ウィニー、ロージー・ザ・リベッター〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-21 | アメリカ

戦艦「マサチューセッツ」内の展示、ミリタリー・ウーメンシリーズ最終回です。

航空、事務、医療、通信、暗号などの仕事で軍に直接関わった女性だけではなく、
戦地に出た男手が足りないのを補うため、軍事産業に携わる民間人女性がいました。

 

日本では世界大戦が始まってから、国家総動員法が制定され、
「国民皆兵」をスローガンに徴用が始まり、勤労動員として
軍需工場などに女性も働きに出ることになります。

余談ですが、朝鮮人徴用について少し触れておきますと、
国民徴用令が出されてもしばらく彼らは適用外とされていました。
しかし戦争が激化し、1944年8月に徴用決定後は終戦まで継続されます。
ちなみに日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月で終了しています。

徴用は宿舎を用意され、正当な報酬が支払われたため朝鮮人の間で人気があり、
三菱鉱業が朝鮮人対象に求人したところ倍率は7倍になったそうです。

戦後、賃金の一部が未払いであったことが問題になりましたが、
それも戦後、両国間の協定によって未払い賃金を含めた経済支援が韓国に行われ、
完全かつ最終的に解決された・・・・・はずなんですが、
今頃になって韓国が徴用を「強制」とし、大企業を訴えたりしてますね。

つまり「協定で解決済み」で終わる話なんですが、とにかく相手は
日本からの謝罪と賠償のネタを失いたくないばかりに、
ゴールポストを動かし続ける国ときていますから、最近も
「徴用工の像」なるものを作って嫌がらせにかかっています。


さて、国家総動員法が布告されたわけではありませんが、アメリカでも
同じように出征した男性の穴を埋めるために、それまでの男の職場に
女性が働き手として進出することになりました。

主婦を対象に働き手を募集することになったある企業のポスターには

「ミキサーは使えますか?それならあなたはドリルを操作することもできます」

という誘い文句が書かれていました。
家事がおろそかになるとそれに文句を言う(戦争に行かない)夫たちに対しても、
当の女性たちにも、彼女たちの労働が兵士たちを支援することになることに
誇りを覚えるようなプロパガンダが政府主導でなされたのです。

「ロージー・ザ・リベッター」はそのアイコンとなりました。

女性の働き手が国策によって男性の職場に進出しだしたのは真珠湾攻撃以降ですが、
彼女らを象徴的に表す「ロージー」の出現は、1942年になってからです。

この「ロージー・ザ・リベッター」と言う歌は、ナットキングコールやドリス・デイのために
作詞したこともあると言うレッド・エバンスとジョン・ロエブによって作曲され、
ビッグバンドなどがカバーして有名になり、流行しました。

歌詞で「ヒストリー」と「ビクトリー」の韻を踏んだり、

「彼女のボーイフレンド、チャーリーは海兵隊にいる
彼女は工場で働き、彼を守ることに誇りを持っている」

などといういかにも官製プロパガンダといった内容とはいえ、
そんな歌詞を流行りのスタイルに乗せた、ノリのいい曲です。

リベッターの『R』で「Rrrrrrrr」と舌を巻くのは個人的にいまいちですが。

最後には

「またキッチンに私たちを戻してね」=「早く戦争を終わらせてね」

とエプロンをした女性が呼びかけています。

 

戦時中の軍需産業勤労女性の象徴となった「ロージー」のモデルと言われる人物は
何人か名前が挙がっており、
サンディエゴのコンベア社(現在はジェネラルダイナミクス社に吸収)で
働いていた、ロージー・ボナヴィータであったとする説、
ケンタッキーのウィロー・ラン航空会社でBー24、Bー29を作っていた
ローズ・モンローだと言う説、

ローズ・モンロー

コルセアでガルウィングのF4U戦闘機のリベットを打っていた
ロザリンド・P・ウォルターであったとする説。

実際のところ、本物のロージーはなく、歌ができてから
「それらしいロージー」を仕掛け人たちが探し歩き、
見栄えのいい(モンローは映画出演も依頼されている)
ロージーを何人かでっち上げ?たというのが本当のところのようです。

日本ではあまり有名ではありませんが、アメリカではこのポスターを
例えば軍事博物館の売店などで見ないことはありません。

わたしもいろんなところでこれを頻繁にみるうちに、いつのまにか
これが「ロージー・ザ・リベッター」であると思い込んでいたのですが、
こちらはウェスティングハウス・エレクトリック社が依頼したポスターで、
よく見ると右襟には同社の身分証明バッジがつけられています。

つまり、これはロージーとは何の関係もなく、WE社が二週間使っただけで
ほとんどのアメリカ人は第二次世界大戦中このポスターを見たこともなかったのです。

ロージー・ザ・リベッターを広めるためにポスターを依頼されたのは、
実はあのノーマン・ロックウェルでした。

しかしこちらは、ロックウェルの著作権がガッチリと生きていたため、
戦後もそれほど有名になることはなかったということです。

”WE CAN DO IT! ”のポスターは長らく埋もれていましたが、1982年に再発見され、
当時はいわゆるウォーマンリブ、フェミニズム運動のシンボルとして使われ、
それ以降全米で有名になりました。

撮影年、場所は不明ながら、当時の”ロージー”たち。
頭につけた防具から、溶接の担当であったらしいことがわかりますね。

女性が、となるとどうしてもこういう、こんな美人がこんなことしてますよ、
というギャップで注目を集めようとする傾向が生まれるのはこれはもう
人の世の常というか、致し方ないことかもしれません。

モノクロ写真でもはっきりと彼女が当時の流行りの口紅
(パールハーバーでヒロインがつけていたような真っ赤)
をつけて溶接作業を行おうとしているのがセクシー。

ここで実際に「その他大勢のロージーの一人」に、当時のことを語ってもらいましょう。

ヘレン・マーフィ・オコネル・マーチェッティさんはこう語ります。

”金属加工の第二シートに配属されたの。
プレスをする仕事だけど、男の仕事をわたしができるか最初は不安だったわ。
でも、数週間経つと完璧に仕事をマスターしたの。

そう、わたしはやったのよ。

最初の日にボスのマクドナルドさんが私たちにやり方を見せてくれて、
そのあと実際に誰かやってみろ、って言ったのね。
エセルが14人いた女性の一番前にわたしを押し出したので、
そのおかげでわたしは、

「最初にここで仕事をした女性」

となったってわけ。
マクドナルドさんは

「あー、君はこのマシーンに興味があるみたいだね?

なんていうのでガックリ来ちゃったけど。
でも結局私たち全員、この仕事をちゃんとマスターできたのよ。

この機械はとにかく騒音がものすごくって、そうね、
最初に働き出した時には巨大なコーヒーミルの中にいるみたいだった。
全ての機械が「ガーッ!」「ガーッ!」「ガーッ!」これが一日中。
そして戦争が続いている間、これがずっと続いたのよ。”

また、エレノア・へガーティ・ウィリアムスさんは、当時の工場勤務の女性が
男性から受けた仕打ちについてこう語っております。

”男たちの私たちに対する扱いはいいとは言えなかったわ。
彼らは私たちを野次ったり、口笛を吹いたり、仕事ができなくて
困っている時にも助けるどころかあざ笑ったりしていたの。

誰一人として私たちが困難な目にあっても助けようとしなかった。
だから頼れるものは自分だけ。
造船所の旋盤の前でも、船の上でも、野外であってもよ。

わたしたちは重たい索をバルクヘッドから引いて来て手で引っ張ったわ。
死ぬほど辛かったけど、でも誰も男の手を借りにいこうとはしなかった。
彼らにそれを知らせることすらしなかったわ。

労働環境は最悪、だってもともと男が働くための施設なんですからね。
労働者にはサボタージュする者もいたし、強姦や窃盗すらあったわ。
だからそこにいる時には全身に神経を張り巡らせ、自分を守るの。
一人では行動せず、いつもパートナーと動かねばならなかった。

それはともかく、わたしがここで働いていてもっとも誇らしかったのは、
何と言っても重巡洋艦「ピッツバーグ」が進水した時だったかしら。
彼女の巨大な船体が水の中に進んでいくのを見ながら

「ああ、あのターレットやバルクヘッドの一部はわたしが作ったのよ!」

って・・・感無量だったわ。
わたしには兄弟が3人いて、一人は海兵隊、一人は海軍、
もう一人は沿岸警備隊にいたの。
彼らの乗る船も、わたしのような女性が精魂込めて作ったものだったのよ。”

さて、ここ「マサチューセッツ」が展示艦となっているフォーリバーには
造船所があったことを前にも「キルロイワズゼア」の落書きについて説明するついでに
お話ししたかと思いますが、この「ロージーさん」は、フォーリバーに関する蘊蓄を

「Ten Fast Facts」

として10項目教えてくれる係。

ざっとご紹介しますと、

1、クィンシーは、ジョン・アダムスが最初に海軍を結成した地です。
 議会は彼の提案を承認し、米国海軍がここに誕生しました。
 アダムスは生涯自分が海軍の父の一人であることを誇りにしていました。

2、米西戦争が起こった後、アメリカは鋼鉄製の船を必要とするようになり、 
 それまでの木製から鋼鉄製に船を造り変えていくために造船所を作りました。
 グラハム・ベルの電話の発明に関わって財を成したトーマス・ワトソンが、
 ここにフォーリバー造船所を造り、歴史に名を残しました。

3、フォーリバー造船所はあらゆるタイプの造船が可能な設計で、
 空母から戦艦、巡洋艦、そして潜水艦を全て作ることができました。
 民間船でもフルーツボートから豪華客船まで、作れないものはないというくらい。

4、海軍の船の艦名はどうやってつけているか?というよくある疑問について。
 戦艦(今は潜水艦)は州名、巡洋艦は都市名、駆逐艦は人名、そして
空母は大統領名か、戦争の時の提督の名前です。

5、「キルロイ・ワズ・ヒア」というのは、第二次世界大戦時に流行った落書きです。
 ジェームズ・キルロイはここクィンシーの検査官で、検査済みの箇所に
「キルロイ」のサインをチョークで入れたことから、海軍軍人を通じて広まりました。

(この写真の説明下部に”キルロイ”の例の顔が見える)

6、ガダルカナルの戦いでヒーローとなったレオナルド・ロイ・ハーモンの名前をつけた
 駆逐艦「ハーモン」はここクィンシーで建造されました。
 これは史上初めてアフリカ系軍人の名前がつけられた軍艦になりました。

 彼は同じ薬剤師の同僚を庇って「サンフランシスコ」艦上で敵の銃弾を受け死亡しました。

7、最初の原子力搭載艦はクィンシー造船所で建造されました。
 原子力ミサイル巡洋艦「ロングビーチ」とミサイル巡洋艦「ヴィンセンス」です。

8、第二次世界大戦の間、史上初めて女性が工廠の仕事をすることになりました。
 彼女ら※「ウィニー・ザ・ウェルダー」たちは偉大な労働者であることを証明し、
 戦時非常態勢において、その造船数は記録的なものになりました。

9、第二次世界大戦中にクィンシーで建造された船には、
日本側が三度も撃沈したと発表するもその度に生き返って姿を現したことから
「ブルー・ゴースト」とあだ名されていた空母「レキシントン」、

そして35回の戦闘において一人の人命をも失わなかった
戦艦「マサチューセッツ」などがありました。

「マサチューセッツ」の16インチ砲は、第二次世界大戦の最初と、一番最後に発砲されました。

巡洋艦「クィンシー」はDーデイの時に最初に砲弾を撃ちました。
彼女は現在もクィンシーセンター駅に残されている鐘を残し、解体されました。

JFKの兄であるジョセフ・P・ケネディJr.の名前をつけた駆逐艦も
ここで建造されました。
彼は爆撃機のパイロットでしたが、任務途中で戦死しました。

10、 USS「セーラム」も第二次世界大戦中にここクィンシーで建造が始められました。
しかし彼女が運用されたのは戦後で、一度の戦闘も行わずに引退しました。

彼女の名前「セーラム」には「平和」という意味があります。

 

 

また当時「ウィニー・ザ・ウェルダー」というロージーの別バージョンもあり、
カリフォルニアのカイザーリッチモンドリバティー造船所の労働者である
ジャネット・ドイルをモデルにしていたといわれています。

このほかにも、

ロニー・ザ・ブレンガン・ガール(Ronnie, the Bren Gun Girl)

と言って、カナダでブレン軽機関銃を組み立てていた女性を
カナダ系軍需労働女性のシンボルにするというムーブメントもありました。

彼女はジョン・イングリスという兵器工場の労働者で、名前は

ヴェロニカ・フォスター

組み立てたばかりのブレン軽機関銃を前に、タバコを一服やっているフォスター。
外は真っ暗。
夜遅くまで仕事して、しかもまだ帰れないらしいことがわかります。

ブレンガンガールのロニー、ウェルダーのウィニー、そしてリベッターのロージー。

国策でもてはやされた勤労女性の象徴の戦後はどのようなものだったのでしょうか。
先ほど体験談を語ってもらったエレノア・ハガーティはこんなことも言っています。


「戦争が終わって女性が解雇された時、複雑な感情だったわ。
男の人が戦争から帰って来て元の職場に戻るのは確かに喜ばしいことだけど、
わたしは途方に暮れてしまった。
『じゃあわたしはこの後ここからどこに行けばいいの?』って・・。


彼女らのアイコンであった「ウィ・キャン・ドゥー・イット」が、80年代に発掘され、
女性の人権を訴える運動のシンボルに担ぎ上げられたのは、何かの因縁でしょうか。

 


ミリタリー・ウーメンシリーズ終わり



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ナイチンゲールとドーナツ・ドリー〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-20 | アメリカ

 女性が軍と関わることになった原初的な理由は、看護師の必要性でした。
戦闘によって必ず出る負傷者の手当は女性にもできるからです。

南北戦争の時も、例えば彼女、メアリー・ウォーカーズ博士は医師の資格がありながら、
軍医ではなく、看護婦として従軍することを余儀なくされましたが、それは
看護婦以外の女性の従軍が許されていなかったからです。

南北戦争時、「民間人によるボランティア」という形で活動していた看護隊ですが、
その後1908年になって、アメリカ海軍は初めての看護部隊を編成しました。

それが彼女ら、「聖なる二十人」といわれた看護師たちの部隊です。

説明がなかったので詳細は不明ですが、ヘルメットの形とガスマスクから、
第一次世界大戦時に撮られた写真であることは間違い無いでしょう。

前線にいるわけでは無いのですが、ガスマスクを支給されたので
ちょっとつけてみました的な・・・?

この戦争では看護衛生以外、例えば彼女たちのように
メッセンジャーの役割で従軍していた女性たちがいたようです。

これも艦内の壁をくり抜き、ガラスをはめて展示してあった割には説明がなく、
どこで使用されていた鐘かは不明なのですが、装飾してある木製の台を見ると、
アスクレピオスの杖かな?と思われる紋章が入っているように見えます。

このマークはアメリカ陸軍医療部隊のものです。

蛇足(文字通り!)ですが、医療のシンボルとされるアスクレピオスの杖は、
蛇が一匹だけ杖に絡みついているものを指します。

こちらはアスクレピオスの杖ではなく、蛇が二匹で上に翼がついており、

ヘルメスの杖である「ケリュケイオン」(カドゥケウス)

であるというのが正解です。
ケリュケイオンの杖は、医療ではなく「商売や職業や事業」を表すもので、
これを医療部隊が使うのは「誤った認識によるものである」(wiki)のですが、
ケリュケイオンの効能?の中に

「眠っている人を目覚めさせ、目覚めている人を眠りにいざなう
死にゆく人に用いれば穏やかになり、死せる人に用いれば生き返る

というものもあるので、あながち間違いと言い切れないような気もします。

赤十字の看護師を募集するポスターには、まるで映画の一シーンのように、
傷つく兵士を抱きかかえる美人の看護師が描かれ、

「戦う男たちには看護師が必要だ」

という直裁な誘い文句が書かれています。

ここに展示されているのは、いずれも医療関係の女性軍人の制服ばかり。
左から解説していきますと、

(黄色のシャツドレス)第二次世界大戦時

コットンのシャツドレスはアメリカ赤十字の女性たちが製作したもの。
ドレスにはプリンセスシームとダーツがあしらわれ、
女性らしいラインを強調するデザインになっています。
ポケットは飾りではなく実際に使用することができ、カフス、襟と
看護帽の前を白くしてデザインのポイントと看護着らしさを表現。


(グレイのシャツドレス)第二次世界大戦後

このコットンドレスも、病院のメンバーと赤十字のメンバーが
レクリエーションとして縫ったものと言われています。
このタイプはのちに「グレイ・レディス」と呼ばれていました。

白のカフスとエポーレット、そして看護帽前部が白というもので、
これがナーススタイルの典型とされたスタイルです。
結局このタイプは十五年間くらい使用されていました。


(黒のケープ)第二次世界大戦中

グレイ・レディスの上に着用している黒のライトウールのマント、
これは非常にレアなものだそうです。
マンメイド、つまりカスタムメイドではなく特注となり、
値段もお高かったので、
誰でも持っているというものではなかったのです。

言われてみると、スタンドカラーといい、裏地にグレイという
凝った作りといい、いかにも手がかかっているような感じ。

ケープそのものもスリーパネルのはぎ合わせで、裁断も素人には無理そうです。
赤十字の人が余暇に作ることはできないでしょうから、
おそらくテーラーに注文して手に入れるものだったのでしょう。

それでもどうしても着たい!ってことで作っちゃう
おしゃれな(そしてリッチな)看護師さんもいたんだろうな。


(グレイ・ドレスジャケット)第二次世界大戦中

チャコールグレイの上着はウールで、裏地はダクロン・ポリエステル製。
バックにはダーツが入っています。

ラペルのブルー刺繍がポイントのこのジャケット、左袖には
二つのパッチが縫い付けられ、非常に珍しいものだそうです。
右袖にはこれを寄付した人物が所属したところの、
陸軍第7大隊のマークがついています。


(グレイ・ベルト付きコート)第二次世界大戦時

エポーレットには緑のパイピングが施されています。
シングル打ち合わせのコートはこれも裏地がダクロン製。
ウィングチップのカラー、ショルダーパッド入り、
背中はハイキックプリーツのベント。
エポーレットとマッチするように、カフスにも緑があしらわれています。 

アメリカ赤十字社は1881年、南北戦争に従軍し、

「戦場の天使」「アメリカのナイチンゲール」

と言われたクララ・バートンによって設立されました。

戦時、赤十字はアメリカ軍のために様々なサービスを行うわけですが、
最も重要と思われるのは、家族と戦地を結ぶ緊急連絡をとりもつことです。
また退役軍人の団体などと緊密に協力し、彼らにきめ細やかなサービスを提供しています。

ただし、戦争捕虜は国際機関である国際赤十字委員会の所掌となっています。

赤十字の活動の中に、前線の後方で女性がコーヒーとペストリーを兵士に配る、
(彼女らはボランティアで志願)というものがありましたが、彼女らは

「Doughnut Dollies」(ドーナツ・ドリー)

という愛称で兵士たちに親しまれていました。

こちら、赤十字社の創立者、クララ・バートン女史でございます。

南北戦争が起こった時、志願して従軍した彼女は、負傷者の手当だけでなく、
物資の配給や、患者の精神的ケアも行い、いくつもの前線を体験しました。

彼女はこの戦争で前線の病院の責任者に軍から任命されています。

 

4分くらいから彼女が登場し、妙にロマンティックなストリングスのBGMの中、
天使と言われた彼女の活動が描かれます。(おヒマな方用)

 

南北戦争後、彼女は多くの家族や親戚から戦争省あてに
兵士の行方を問い合わせる手紙が来ていることを知り、
無名兵士の墓などに埋葬されてしまって行方が分からなくなっている兵士の
身元調査を行う活動の許可を、リンカーン大統領直々に願い出ました。

その後起こった普仏戦争にも従軍した彼女は、帰国してから
アメリカに赤十字を設立する運動を開始し、その8年後の1881年、
設立が成った赤十字会長に自らが就任しました。

時にバートン、60歳。

普通なら男性でも仕事を引退してそろそろ楽隠居という年齢です。
しかもそれから23年もの間、実際に被災地に赴くなど精力的に活動を行い、

会長の座に君臨し続けたのでした。

しかしさすがに83歳になったとき、

「公私混同を非難され」

引退を余儀なくされた、となっています。
自分で作った組織という意識が老いの頑迷さも手伝って、
専横な振る舞いに繋がってしまったということかもしれませんが、
まあ・・・83歳ですからね。

それまで無事にやってこられたってのが逆に不思議なくらいです。

 

こちらのアーミー・フィールズコートは、女性用外套です。
バスローブのような打ち合わせの、裏地のついたコートですが、
目を引くのは全面に縫い付けられた無数のパッチ。

負傷などで入院していた兵士たちが全快して退院するとき、自分がここにいた記念と
お礼を兼ねて、置いていった
自分の所属部隊のパッチを縫い付けたものです。

このコートはマーガレット・クリスト大尉(写真)の所有で、
彼女はイギリスの第155陸軍病院に勤務していました。

公式に陸軍に看護部隊ができたのは1901年のことになります。
第二次世界大戦時、2万人以上の女性が看護師として海外に赴き、
後方にあった1000もの病院の勤務に就いていました。

多くの戦場で、彼女たちは最前線にごく近いフィールドテントにも詰め、
そこで傷ついた男性の治療に当たることもありました。

これは「モア・ナース・ニーデッド」(もっと看護師が必要です)
と書かれた陸軍看護師募集のポスターですが、
こちらを見ながら渋く語っているらしいイケメンの

「The Touch Of The Woman Hand...」

という言葉にグッとくる女性を狙ってのことでしょうか。
そもそもこの男性が医者なのか患者なのかもわからないわけですが。

白い肩パッドの入ったテーラードスーツ、タイトスカート。
海軍のナースの制服のなんと凛々しく美しいこと。

南北戦争時代、「レッドローバー」という病院船があり、
それに看護師が乗っていたという記録はありますが、

冒頭写真の「聖なる二十人」の誕生する1908年まで、
海軍には正規の看護部隊はありませんでした。

彼女らが先鞭をつけることで、第一次世界大戦の頃には看護師の数は拡大し、
海外、フィリピン、サモア、グアムなどの海軍病院や訓練学校に配属されていきました。


そうと聞いても驚きませんが、彼女らにとってもっとも困難だった仕事の一つは、

海軍病院の部隊で教官となったとき、女性から命令されることに反発する
男性の訓練生の指導であったということです。


第一次世界大戦時、海軍の看護師部隊は、基本的にイギリス、フランス、
アイルランド、スコットランドなどに派遣され、前線近くの
陸軍基地に、一時的に陸軍のために仕事を行うこともありました。

1918年から1919年の間に12万人の水兵や海兵隊員が犠牲になったといわれる
スペイン風邪のパンデミックのときには、彼女らの中に数名の殉職者を出しています。

真珠湾攻撃の時、海軍の看護師たちは、海軍病院で何百人もの負傷兵の治療にあたりました。

そういえば、映画「パールハーバー」のヒロインは海軍のナースでしたね。
トリアージをするのに、自分の真っ赤な口紅をバッグから出して、
負傷兵のひたいに「緊急」「後回し」「死ぬ」など印をしてましたっけ。(悪意あり)

そして、

「あんたの破れた血管を手でつかんで血を止めてやったのは誰?」

とかいって入院していた兵隊を脅迫し、自分の恋人の居所を聞き出すとかね。

・・・・・ろくなもんじゃねえこの看護師(笑)


さて、そのような戦後の映画が作り上げた架空の人物のことはどうでもよろしい。
最後に、看護師の職に準じたある若い女性をご紹介しましょう。

 

フランシス・スレンジャー Frances Slanger(1913-1944)

彼女はヨーロッパ戦線で最初に亡くなったアメリカの看護師でした。

彼女はポーランド生まれのユダヤ人として生まれましたが、
迫害を逃れ、家族とともにマサチューセッツ州ボストンに移住していました。

その後ボストン市立病院の看護学校に通い、1943年には陸軍看護師団に入隊。
ヨーロッパに派遣され、D-Day侵攻後、ノルマンディーフランスで医療活動にあたりました。

そして任務の済んだある夜、宿舎となったテントでこんな文を含む一通の手紙を書きました。

「銃の背後にいる人、タンクを運転する人、飛行機を操縦する人、
船を動かす人、橋を建てる人 ・・・・・。
アメリカ軍の制服を着ているすべてのGIに、私たちは最高の賞賛と敬意を払います」

これを書き終わって一時間後、彼女はドイツ軍の狙撃兵に撃たれ、戦死。
わずか33年の生涯でした。

その後、彼女の名前は、陸軍の病院船” Lt Frances Y. Slanger "に遺されました。

 

 

続く。

 

 

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空で、海で、陸で〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-18 | 軍艦

 戦艦「マサチューセッツ」内展示の「ミリタリーウーメン」から、続きです。

 

「我らの眼は空にある」

というこのポスターはC・A・P、シビル・エア・パトロールのもの、
アメリカ空軍の補助組織として真珠湾攻撃以降の1941年に組織されました。

ハワイを襲撃に続き本土が攻撃されるかもしれないという警戒を深めたアメリカは、
民間のボランティアを組織し、ローカルエリアでの空の守りを固めんとします。

空からの監視を任されることになったアマチュア飛行家たちは、
まず機影を見分けるための訓練を受け、非常用装置も軍によって供出を受け、
航空攻撃の訓練もレギュラーに受けていたということです。

CAPは民間パイロットの軍補助組織として、国境や沿岸の監視のほか、
軍の訓練補助、空輸業務、その他の任務をこなしました。

戦争中、 CAPは57隻ものUボートを攻撃し、そのうち2隻を撃沈しています。
これらの実績が認められ、戦後CAPはそれまでの陸軍から
新しく編成されたエアフォースに編入されることになりましたが、
それはあくまでもボランティアの非営利団体としてであって、
かつ慈善的な性質を帯びたものであるとされ、
直接の戦闘の活動に決して関与することは二度とありませんでした。

 

ちなみに、女性搭乗員による補助空輸部隊、WAFS、そして女性飛行部隊
WASPの発足は、男性パイロットの負担を大きく軽減することになりましたが、
軍のために史上初めて空を飛んだ女性パイロットたちは、戦争中
そのうち38名が軍務遂行中に亡くなっています。

 

物資の不足にあえぐ戦争末期の日本では「ガソリンは血の一滴」と言われ、
官民一体となって大変な節約を余儀なくされたものですが、
金持ち国アメリカもほぼ同じような呼びかけをしていたらしいですね。

当時のアメリカのリサイクル事情については、以前戦艦「マサチューセッツ」について
お話しするついでに述べたことがありますが、なんとこのポスター、

「廃油を爆弾のためにとっておきましょう」

として、リサイクル油の節約を呼びかけています。

アメリカの一般家庭は、当然ですが、開戦に対し衝撃を感じました。
今までとは違う、という意識が各家庭に節約の意識を持たせ、
台所から無駄を出さないような意識が浸透し、国からの呼びかけもあって、

「贅沢は敵だ」

というムードになったということです。

そして可能なかぎり、戦争に必要な武器の原料のために
市民はあらゆる消費者製品をリサイクルしました。

例えばナイロン、合成繊維のストッキング、布切れ、スクラップのタイヤや金属、
ビニール製のレコード盤、そして死んだ動物など。
(死んだ動物とは具体的に何かわかりませんでした)

この写真は当時偏在した、典型的なリサイクルを呼びかけるポスターで、
マニキュアをした手が持つフライパンが廃油をリサイクルし、それが
武器に必要な燃料の生産に繋がっているというイメージを強調しています。

 

マーサ・レイ Martha Raye (1916-94)

チャップリンの「殺人狂時代」にも出ていたコメディエンヌで女優。
この写真を見れば、まるで軍籍にあった女性のようですが、そのあだ名も

「マギー大佐」(Colonel Maggie)

もしかしたら、これは「ボギー大佐」のもじりかもしれませんね。
蛇足ながら、「ボギー大佐」のボギーとは人名ではなくゴルフの「ボギー」のこと。

作曲者アルファードの友人にいつもゴルフでボギーを叩き、
「カーネル・ボギー」というあだ名を奉られた人物がいたということです。

ついでに超蛇足ながら、「ボギー大佐」には英語圏で有名なこんな替え歌が・・

Hitler has only got one ball

 

それはともかく(笑)、彼女がなぜ大佐になったかというと、
第二次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争を通じ、
精力的に前線の慰問を行ったことからです。

ベトナム戦争の時、彼女は米国陸軍特別部隊を訪問することによって
「名誉グリーンベレー」となるなど、その真摯で誠実な軍への協力は
いつしかグリーンベレーの兵士たちに彼女をこう呼ばせました。

マギー大佐。


1994年に彼女が亡くなったとき、アメリカ政府は彼女の戦時中の
功績をたたえて、アーリントンの国立墓地に埋葬することを提案しますが、
生前の彼女の遺志により、ノースカロライナ州フォートブラッグ内の墓地に、
アメリカ軍全体の名誉中佐、並びにアメリカ海兵隊名誉大佐の待遇で埋葬されました。

彼女はこの場所に葬られることになった唯一の民間人です。

わたしはこのことを知った時、ベット・ミドラーが主演した映画、

「フォー・ザ・ボーイズ」

を思い出し、主人公はマーサがモデルではないかと思ったのですが、
実は映画公開後、マーサ・レイ本人が、

「映画の内容は自分の経験談を無断引用したものだ」

として、ミドラーと映画プロデューサーを告訴し、結局
マーサ側の敗訴に終わったということがあったと知りました。

なんか、どっちもどっちというか、色々と全体的に残念すぎるというか・・・。

 

さて、陸軍がWAACを組織した2ヶ月後、エレノア・ルーズベルトが
推し進める形で、女性の海軍組織、WAVESが作られました。
WAVESについてはなんども言及していますが、

Woman's Volunteer Emergency Service

の頭文字を合わせたもの。
戦時ゆえ「ボランティア」「イマージェンシー」
という言葉が入っていることにご注意ください。
 
アメリカ海軍で現在も女性海軍軍人を WAVESというのはこの流れですが、
「ボランティア」(志願)はともかく、「イマージェンシー」という言葉が
組み込まれたこの名称が海上自衛隊の女性隊員に使われていることには
はっきり言って、かなーり違和感というか疑問を持っているわたしです。

 

ミルドレッド・ヘレン・マカフィー Mildred Helen McAfee(1900-1994)

のことは以前一度女性軍人を取り扱った項で話したことがあります。
彼女は第2次世界大戦中に米国海軍のWAVES初代司令官となった学者で、
また海軍功労賞を受賞した最初の女性でした。

学者であった彼女は、錚々たる軍歴の他に、ボストンの名門女子大学
ウェルズリーカレッジの第7代学長、ユネスコの米国代表団、
ジョンF.ケネディ大統領の民間人権委員会の共同議長などを歴任しています。

 

1944年の10月になって、WAVEに最初に入隊したアフリカ系女性の中から
二人が海軍士官に任官しました。

マサチューセッツのノーザンプトンにあった海軍予備士官学校を出た
ハリエット・アイダ・ピッケンズとフランシス・ウィルズ(写真)です。

また、陸軍のWACに所属していた6500名のアフリカ系女性のうち、
146名が士官でした。

今日のアメリカ軍では全体数の15パーセントが女性士官であり、
女性全体の33パーセントがアフリカ系であるという統計があり、
今や彼女らの中から大将、代将、そして中将も誕生しています。

 

さて、次は陸軍です。

女性部隊の発足が一番早かったのは陸軍で、当初は

WAAC( Woman's Army Auxiliary Corps 女性の陸軍補助部隊

と言いました。
戦場に行くことで不足する男性の代わりに補助業務をするのが目的でしたが、
翌年には「補助」のAuxiliaryが外されて現在の WACになりました。

オベータ・カルプ・ホビー Oveta Culp Hobby(1905-1995)

は、女性で初めて陸軍の女性隊 WACの初代司令となった人物です。
残された写真を見てもかなりの美人とお見受けしましたが、
彼女はテキサス州知事夫人という身分でありながら、最終的に
大佐というランクにまで昇進し、女性初の戦中功労賞を受けています。

戦後にはアイゼンハワー大統領のもとで保健福祉省の最初の事務官となって
その分野で活躍をしました。

Trendsetting Texan(テキサスの流行仕掛け人)

というのが彼女のキャッチフレーズです。


ルース・チーニー・ストリーター Ruth Cheney Streeter(1895-1990)

ストリーター大佐は海兵隊における女性司令官第一号です。
1943年に発足した女性の予備海兵隊は最終的には831人の士官、
17714人の下士官兵という規模になりました。

海兵隊における女性部隊の役割も、男性の負担軽減というのは他軍と同じです。
海兵隊の女性部隊が行ったのはパラシュートの調整、地図の作成、
そして無線通信分野など、多岐にわたりました。

また、コーストガード、沿岸警備隊の女性部隊SPARSは、なんども書いていますが
「センパー・パラタス」というラテン語とその英語の「オールウェイズ・レディ」、
つまり「即応」という意味を表す言葉の頭文字4つからできた名称です。

戦時中、書記官から掌帆兵曹までが沿岸警備隊の女性軍人が受け持ちました。

さて、ここで彼女らの制服をご覧いただきましょう。
左から順番に、

●WACジャケット 100%ウール 
 帽子は金のパイピング入り 陸軍航空部隊のパッチ付き

●海兵隊予備部隊制服 当時の女性軍人の制服で最も人気があったデザイン。

●WAVES ドレスブルー パラシュート整備の女性たちの製作による

●WAFS ジャケット 袖刺繍、ボタンはシルバー、襟に「US」のピン    

(左)海軍 ディナードレスユニフォーム、1980年台
     
公式なフォーマルイブニング、民間人なども出席する夜会の時に着用するドレス。
「フラッグ・オフィサー」つまり海軍将官、勤務中の海軍士官には
プロトコルとしてこのドレスの着用が要求されましたが、基本はオプションでした。

(右)カデット・ナース ジャケット 綿サッカー製

カデットナースというのは見習い看護師のことで、高校を出てすぐ、   
看護学校で訓練及び準備中の看護学生を意味します。

1943年から48年まで、14万人もの若い女性が給料をもらって訓練を受けました。

 

どれも素敵ですが、海兵隊の制服が女性に人気があったのはよくわかりますし、
海軍のドレスは「オプションであった」としても、皆が着たがっただろうなと思います。

当時のアメリカ軍が女性を軍に徴用したのは男性が戦地に取られ、
本来なら男性がしていた仕事を女性が埋める必要性あってのことですが、
そういう切羽詰まった事情であっても、イメージ戦略を怠りなくし、
特に制服についてはかなり女心をくすぐるおしゃれなものを
各軍が競って採用したらしいことが、これを見てもよくわかりますね。

 

続く。 

 

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Vメール〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-17 | アメリカ

戦艦「マサチューセッツ」艦内における展示「女性と軍」シリーズ、
独立戦争から近代までの戦争と女性、そして20世紀になって現れた
飛行機という兵器と関わるなど、軍隊におけるパイオニアとなった女性。
昨日は暗号解読や発明など、頭脳で軍とか変わった女性についてお話ししました。

展示場にあったビデオ映像では、軍と関わった経歴を持つおばあちゃまが、
かつての自分の思い出を語っておりました。
時間がなかったので彼女が何をしていたかはわかりませんでしたが、
彼女の後ろにある写真を見ると、実際に軍籍があったようです。

今日もそんな女性を紹介していきましょう。

まずは政治家の立場から軍隊に関与した女性。

エディス・ヌース・ロジャース。(1981-1960)

なかなか可愛らしいおばあちゃまですが、女性として初めて
マサチューセッツ州議会議員になった女性で、晩年は議会の最長老議員でした。

真珠湾攻撃以降、軍に女性の補助的マンパワーが必要となったことを見通し、
正式な軍人としての女性登用を法制化する原動力になった政治家です。

 

ルーズベルト大統領の承認によってWAACと呼ばれる女性補助部隊が発足したのは
1942年の5月のことです。

この補助部隊は、あくまでも後方勤務に限られた活動をすることが厳重に規定され、
死の危険のある任務や任地に女性は配属せざるべし、ということになっていました。

なお、同年7月にはWAVES(ちなVはボランティア-志願-のV)、海軍の女性部隊、
沿岸警備隊の SPARS、海兵隊の女性予備部隊も44年には議会承認されました。

WAACはその後「補助」を意味するAがなくなった「WAC」となります。

例えば前々回話した沿岸警備隊の「ヨーマネッツ」や海兵隊の女性事務は、
男性の同ランクと同じ給料をもらい、退役後の扱いも同等でした。

しかし部隊に所属した看護師たちは軍服こそ着ていましたが、給料の点でも
退役後も、あくまで補助的な扱いしか受けていませんでした。  

WACはこの点でも完全に男性と対等の給与体系を取っていました。


また、彼女は、男女を問わず退役後の軍人の再就職やローンの面倒を見る

G.I.BILL

という名前の法律を作るのに大きな働きかけをしています。


軍が募集した女性の人材は、看護や事務、そして新たに必要となった
航空業務関連の仕事に就いたわけですが、そのための特別な訓練をするキャンプは、
マサチューセッツのスミス大学、マウントホリヨーク大学などの女子大に設けられました。

おそらく、東部の「セブンシスターズ」と呼ばれる、憧れの名門女子大で
訓練が受けられる、
ということで人が集まるという効果も見据えてのことでしょう。

さらに、軍に何らかの関わりを持った女性政治家というと、この人。

「今どこかで誰かがわたしのために死んでいることを忘れてはいけない」

戦争の陰にある個人の生死と彼の残された家族について、
常に深い関心を寄せていたエレノア・ルーズベルトさんの図。

彼女はリベラル思想を死ぬまで貫き、

「戦争が最高の解決策なんてとんでもない。
この前の戦争で勝った者はだれもいないしこの次の戦争でも誰も勝たない」

という言葉も残していますが、左翼・共産思想は徹底的に批判しました。

その彼女の夫は「戦争しない」ということで大統領になったのに、
日本軍の真珠湾攻撃が起こり、否応無く開戦を決めてしまいましたが。

一旦そうなってからは、彼女は戦争遂行を決定した大統領の妻として、

「わたしは今死んでいく人たちのために何ができるのか?」

をモットーに、精力的に兵士たちの訪問を行なったということです。 

さて、前回、アフリカ系女性だけの「郵便大隊」があったという話をしましたが、
今日は戦時中の軍隊と郵便について少しお話しします。

このポスターは、

「心を込めて書いた手紙が戦地にいる彼の元に届くことで
あなたは彼と一緒に居られるのです

つまり

「戦地の恋人に手紙を書きませうキャンペーン

このポスターの下部には

「Vメールは確実で個人情報も守られます」

書かれていて、これが戦時中に戦地に届けるための手紙システム、

ビクトリーメール=Vメール

の宣伝であったことがわかります。

Vメールとは、第二次世界大戦中、アメリカが海外に駐留する兵士に
対応するための
主要かつ安全な方法として使用された、いわば
「ハイブリッドメールプロセス」でした。

軍事郵便システムを通じて、元の手紙を転送するコストを削減するために、
V-mailとして投函された手紙は検閲され、フィルムにコピーされ、
目的地に到着すると、紙に印刷されだものが宛先人に配達されるという仕組みです。

なぜこんなことをしなければならなかったかというと、本来の手紙によって
占められる
何千トンもの貨物搭載スペースを、少しでも節約するためでした。

例えば1,600字の普通紙の重さは23kgですが、フィルムの1,600字はわずか140g。
今では電子メールによって解決している問題ですが、当時は切実だったのです。

 

Vメールはマイクロフィルムでサムネイルサイズの画像として撮影され、
運ばれる前に、メールセンサーを通過させます。

目的地に到着すると、ネガは印刷され、元の原稿サイズの60%となる
10.7cm×13.2cmのシートが作成され、受取人に渡されました。

Vメールに使われた封筒。
もともとマイクロフィルムの画像で手紙を撮影して送るシステムは、イギリス発祥で、
イーストマンコダック社が開発し、軍用ハトに運ばせたりしていたものです。

 

ところで上のポスターには「あなたの個人情報は保全される」と書いてありますが、
マイクロフィルムで撮影する段階で検閲され、第三者の目に触れることになるわけで、
その時点で個人情報は漏れる可能性が出てきますね。

Vメールを運営する軍としても、この問題については色々と対策をしており、
Vメールで送る情報をスパイから守るために、

●インビジブル・インク(目に見えず何らかの手法でしか再現されないインク)

●マイクロドッツ(機器を通して長い文章をピリオド一つ分にまで圧縮)

●マイクロプリンティング(小さな文字を専門のプリンタで打つ)

などという手法を用いたということですが、それにしても
見えないインクで書かれたVメールって、どうやって再現したんだろう・・。

こちら、1944年のクリスマスのためにデザインされたVメールカード。
C.B.Iとは「CHINA-BURMA-INDIA」THEATERの略。

Theater には戦場という意味もあり、これは中国、ビルマ、インド戦線のことです。

第二次世界大戦時代、戦地に届くメールは何よりも兵士たちの心の支えとなり、
生きて帰ることの希望の糧となり、そして士気にも大きく影響するものだったので、
郵便物に関わることを専門にした部隊が、女性を中心に編成されました。

写真はフランスのどこかの病院で1944年に撮られたもので、
メアリー・ファーレイ中尉が看護部隊の女性兵士に手紙を配っているところ。

 


 

従軍記者も本来は男の仕事ですが、女性の従軍記者もいました。

マーサ・ゲルホーン Martha Ellis_Gellhorn(1908−1998)

記者として一流であったという彼女ですが、ヘミングウェイの三番目の妻として有名です。

「私が愛したヘミングウェイ」(原題は”ヘミングウェイとゲルホーン)というタイトルで
ニコール・キッドマンがゲルホーンを演じた
テレビドラマがあったようですね。

Hemingway & Gellhorn: Tease

 

このドラマのwikipediaを見ると、そのストーリーは・・・

 

1940年、(ヘミングウェイは)ゲルホーンと再婚する。
しかし、時は第2次世界大戦下。
戦時特派員のキャリアを重視して海外に向かいがちなゲルホーンから
ヘミングウェイの心は次第に離れていき、2人はついに正面から衝突するように・・。

というものらしいです。

つまりゲルホーン女史は結婚生活を第一にするよりも、
従軍記者としての仕事を優先していたので、男の心は離れてしまったと・・・。
まあよくある話ですが、女史にとって不運だったのは、その男が
文学史に名を残す大文豪であったことかもしれません。

彼女の仕事を見ると、第一次世界大戦、第二次世界大戦共に従軍記者をつとめ、
フィンランド、香港、ビルマ、シンガポール、イングランド、
そしてノルマンディー上陸作戦も病院のトイレに隠れていたとはいえ、
現地から報道を行ってきた剛の者です。

当然ですが、自分の仕事にプライドを持っていた彼女としては、後々まで自分が

ヘミングウェイの付属品のように扱われることがよっぽど頭にきていたようで、

"I do not see myself as a footnote in someone else's life."
(私の人生は、誰かの人生の”脚注”ではありません!)

 という至極ごもっともな怒りのお言葉を残しておられるのでした。

合掌。

 

続く。

 

Comments (2)

アメリカで、食べる。

2017-08-16 | アメリカ

今日は今回アメリカで食べたいろんなものの写真を淡々と貼っていきます。
その前にコミックショップで見たネタ画像を。

トランプのトランプ。それだけです。

海軍の「私を踏みつけるな」のガズデンフラッグがあったので見ていたら、
その周りにはトランプをバカにする系のステッカーが・・・。

鼻の下にバーコードはまたしてもヒトラーになぞらえてるんですかね。

「WTF?」というのは「What The Fxxk」のことで、なんだこれ?みたいな。

さて、ボストンではあまり外食をしなかったのですが、
いつも滞在中に一度は行くことにしている

「リーガル・シーフード」

に今回も一度だけ行ってきました。
アメリカでクラムチャウダーの有名なのはボストンとサンフランシスコ。
奇しくもわたしのアメリカでの滞在地ですが、特に夏はあまり食べたいと思わないので、
ここのオススメのロブスターも実は食べたことがありません。

どーん!と大皿に守られてくる見た目にこだわらないシーフード。
この日はシュリンプを頼みましたが、いつも半分しか食べられません。

残ったものは紙パックに入れてもたせてくれるので、持ち帰り、
次の日再加工して美味しくいただきました。

もしかしたらお店で食べるより次の日の方が美味しかったかもしれません。

ボストンで見学に行った大学のキャンパスで。
ベンチでランチを食べてる学生さん?を見てキアヌを思い出すわたし。

そしてあっという間に異動の時期になり、ボストンからサンフランシスコまでユナイテッドで異動。
とてもファーストクラスの食事には見えませんが、そもそもエコノミーは食事なし。
食器がプラスチックでないだけましというものです。

パン用に一つ付いていたバルサミコ酢入りオリーブオイルの小瓶は大変便利で、
持って帰ってホテルで使いました。

確か魚を選んだ記憶が・・・。
しかし、味は仕方がないとしても(仕方なくないけど)、せめて
盛り付けくらいもう少し人間らしく、と思うのはわたしだけでしょうか。

ちなみに、色の変わった緑の野菜ですが、一口食べた途端、
ジャリっと砂を噛むような、というか実際に砂の味わいだったので、
その後を食べるのは断念しました。

そしてデザート・・・・・何も言いますまい。

サンフランシスコの中心、ユニオンスクエアには一度だけ行きました。
息子がここにある靴のアウトレット「DSW」で買い物がしたいと言ったため。

ユニオンスクエアの周辺はここ数年間ずっと道路工事中です。

買い物が終わり、ニーマン・マーカスでお茶を飲むことにしました。

レストランはいつ作ったのかと不思議になるくらい風格のある吹き抜けがありますが、
これは実は1906年の地震で生き残った「シティオブパリス」で、
ニーマンマーカスがこれを買い、元の部分をできるだけ残して、
周りの外壁は最新式のガラス張りにするという画期的な方法で改装したのでした。

お金のある企業が歴史的な建築を保存するために出資をする、
これがアメリカでは普通に行われるので羨ましくなります。

シリコンバレーでのお気に入りの店、メイフィールド・カフェにも行きました。
隣はまるでパリにあるようなベーカリーが隣に併設されています。
中は朝食にしてはお値段が高いので、サンドウィッチを買い、
外のテーブルで食べる人もたくさん。

まるでパリのカフェのよう。カフェオレはどんぶりに入って出てきます。

目の高さに鏡が貼ってあるのも店内を明るく広く感じさせます。
スタンフォード大の近くにあるせいか、ここで朝ごはんを食べているのは
いかにも学者っぽい知的な雰囲気の人ばかり。

朝ごはんには大きすぎるくらいボリュームのあるオムレツ。
もちろん家族3人でシェアします。

「ブラックティー」を頼むと、四角い小さな鉄瓶にお湯を入れて持ってきてくれます。

スタンフォード・ショッピングモールの一角にある中華料理にも一度は足を運びます。
P.F.Chan's は一応全国チェーンのレストランですが、お手軽で、
個人経営のチャイニーズにありがちな匂いや暗さがないのがありがたいところ。

揚げ豆腐のあんかけ、焼きそば、春巻きなど。

アメリカにある日本食レストランは、ジャパニーズと言いながら
得てしてコリアンかチャイニーズ経営の”インチキジャパニーズ”です。

今回ボストンで「アオイ」という名前に騙されて入ってしまった店は、
入るなり嘘くさい日本風壁画と変な匂いにまずドン引き。
ひと組だけいる先客が店主と中国語で大声で喋り、まるで人んちに来たようで、
きわめつけは箸が金属で、メニューにキムチがあったことでしたが、
ここは紛れもなく日本人の経営で、店主が板前をしている”本物”。

いつでも現地の日系人中心に客で賑わっています。

「ヒグマ」、という店名は、おそらくオーナーが北海道出身だから。

インチキジャパニーズの店内にある胡散臭い飾りと違って、
ここのは日本人ならこれはありだなあと思われるノリのものばかり。
壁には干支のカレンダーと熊の毛皮(状のもの)。

北海道の熊は鮭を咥えているのが普通ですが、ここの熊さんはなでなでしています。
お店の人もこちらが日本人だとわかると、普通に日本語で接してくれました。

TOとMKはラーメンが大好きで、たまに無性に食べたくなるようです。
わたしは寿司の盛り合わせを食べ、二人はラーメンの違う種類を頼みました。
日本国内の普通に美味しいラーメン屋と全く変わりない味だったそうです。

もう一つ西海岸で評価している日本食の店は・・・やよい軒。

そう、日本で普通に見るあのやよい軒です。

シリコンバレーの中でも、もっともおしゃれで活気があり、
住民の経済レベルが高い地域のアーケードにあります。

親子丼が16ドル、とろろ鍋定食23ドル、納豆、味噌汁が2ドルと、
こうして書き出すと結構な高級路線ですが、12%のチップを払う必要はありません。
オーダーは全てテーブルに置かれたiPadで行い、「調理済み」
「キッチンをでました」「配膳済み」など刻一刻と状況を知ることができる
 ITシステムを採用し、人件費を安くあげているからです。

つまりチップも必要ない、とお店の方でこれを断っているのですが、

「どうしても払いたい方はそのお金を寄付させていただきます」

とのことです。

白米はアメリカで食べるどこの店のものよりも美味しく、味噌汁も本物。
今の所全米でもっとも美味しい日本食、日本の日常食が食べられるのは
もしかしたらこのパロアルトの「やよい軒」ではないかと思っています。

さて、最後の一週間、事情があってわたしたちはロスアンジェルスに飛びました。

そこで息子とわたしが欲しかった「ROLI」のキーボードを売っている楽器屋に。
カード会社に調べてもらったら、西海岸ではここしか現物がなかったのです。


後から、ここが「サンセット・ブルーバード」であることがわかりました。
ビリー・ワイルダー監督、グロリア・スワンソン、ウィリアム・ホールデン主演の
映画「サンセット大通り」がここ
であったことに気がつき、少し感激しました。

楽器屋の向かいにあったレストランで、レタス包みなどを夕食に。

これはオニオンスープ(パイ包み)。
全く期待していませんでした
が、なかなかでした。

ロスにも暴走族がおります。
サンセットブルーバードで大音響を出して走り、ウィリーをする珍走団。

ロスアンジェルス近郊で見かけたドライブ大好き犬。
窓から顔を出して風を感じるのが好きらしく(笑)耳がバタバタとあおられていました。

ロングビーチを通りがかった時ピンと来て入ってみたピッツェリア。

これが大当たりでした。
お昼が終わって店内が空いていたのもグッド。

お店はザガットサーベイでアワードを取っています。

面白いのは、隣に同じオーナーのオーセンティックなレストランがあったこと。
マイケルさんは、レストランをいくつも持っているシェフなのに、この時も
ピザ屋の厨房でピザを焼いていました。

おそらくこの人の原点はピザを焼くことにあるので、二店舗のオーナーになり、
夜は高級レストランのキッチンでおされーな料理を作る今も、
昼間はピザを焼くということをやめていないのだと思われます。

たっぷりの野菜にオリーブオイルをかけ、オーブンで焼いたシンプルな料理。

そしてメインの「カルボナーラ」というピザですが、絶品でした。
残さずに耳を全部食べたいと思うピザは、ありそうでなかなかありません。

マイケルズの横にあった(おそらく)インチキジャパニーズ。
その名も「キホン」・・・・・・基本?

さて、その後サンディエゴに移動。

ある夜、街を探検していて「Under Belly」(お腹の下)というお店を見つけました。
とても流行っていて、若い人たちがバーのように集っているのが外からわかります。

なんとここ、ラーメンを主体としたジャパニーズレストランでした。
地元の知人に聞くと、経営はアメリカ人だそうです。
しかし、インチキジャパニーズのように「日本らしさ」を演出することなく、
あくまでもアメリカのイケてるなバーの外見に、メニューだけが和風というコンセプト。

窓際のカウンターに腰をかけましたが、座って気がついたのは、
完璧に水平になる窓ガラスを倒してカウンターテーブルにしていたことです。
店の外から中を向いて座る椅子も並べられていました。

夜は涼しくてクーラーのいらないサンディエゴだからこそできることです。

ホールフーズでもみた「スパ系」水。キュウリが浮いてます。

アメリカで枝豆を頼むと、なぜか塩なしで出てきます。

オーダーは完璧に前払い制で、その時にトッピングも選びます。
チキンとベーコン(チャーシューのつもり)そしてプルドビーフ入りのボリュームタップリ。
アメリカ人向けではありますが、麺とスープがまともすぎるくらいまともで、
これなら日本国内であってもかなりの人気店となると思われました。

みなさま、サンディエゴをご訪問の際にはぜひ。

サンディエゴで泊まったホテルに帰ってきました。
みなさん、この電飾が何かご存知ですね?そう、「ミッドウェイ」です。

サンディエゴに泊まることが決まったので、わたしは独断で
ミッドウェイに歩いていけるマリオットに部屋を取りました。

まだできて年数が浅く、大変モダンで快適なホテル。
テラスが5階にあり、ここからミッドウェイの艦飾をみながら夜景が楽しめます。

フロントの売店でアイスクリームを買ってきて、夜景を見ながらみんなで食べました。

食べ物に関してアメリカは西高東低であることを再認識した今回の滞米です。

 

 

 

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”マダムX”〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-14 | アメリカ

昨日に続き、「マサチューセッツ」内の展示
「ミリタリー・ウーメン」から、抜粋してお送りしています。

「ハローガールズ」というのをご存知でしょうか。

通信業務、電話交換などの仕事は軍の計画と調整に不可欠です。

第一次世界大戦では、陸軍は電話線を前線に沿って建設しましたが、
オペレーターは不足していました。
同盟国同士で通信を行うためにはプロフェッショナルな交換手が必要で、
軍隊は国内の民間交換手を登用することにしました。

彼女らは経験豊富であることはもちろん、フランスの回線に接続するために
英語とフランス語の両方を話す必要がありました。

彼女ら「ハローガール」たちは、アメリカ軍に特殊能力で参与した最初の女性となります。
その勇敢さと卓越性は、軍隊における女性の境界を広げ、
その後、戦地への参加を増やす道を開いたと言えましょう。

当時軍人を志望した女性の前職で圧倒的に多かったのが秘書だったそうですが、
彼女は何と海洋学者でした。

写真だけ見ると、カウンターに座っている店主のおばちゃんみたいですが、

メアリー・シアーズ Mary Sears (1905-1997)

はネイビー・リザーブのコマンダーであります。

1943年にWAVESに中尉として入隊した彼女は、海軍水路局に海洋研究ユニットを作り、
そこで海軍に戦略的優位性を与えるために潮、波の高さ、
および海洋指標などのデータを集め、分析することによって
海軍の戦略・作戦立案に多大な貢献をしました。

最初は「ユニット」だった彼女の部隊は、じきに「ディビジョン」となり、
彼女は最終的に400人もの部下を統率する司令官までになります。

戦後も海洋学の研究によって多くの論文を著わし、
各界から名誉賞を与えられた彼女は、現在海軍の

海洋調査船USNS Mary Sears

にその名前を遺しています。


さて、真珠湾に先んじること6ヶ月前、「なぜか」戦争情報局は政府、
そして軍のどちらにも情報局を設置して、諜報、破壊工作、
プロパガンダやその関連を取り扱う

戦略諜報局( OSS)

を統合しました。
その設立者となったのが、「アメリカ情報機関の父」「 CIAの父」と呼ばれる
弁護士出身のウィリアム・ドノバンという人物です。

OSSには時節柄多くの女性が勤務することになり、郵便物整理やファイリング、
電話応対だけでなく、暗号解読や記録などの任務を行いました。

  

また、アメリカはまたスパイに女性を登用しています。

 ヴァージニア・ホール・ギヨ Vaginia Hall Gillot(1906-1982)

 はドイツ側から

 「連合国スパイの中で最も恐ろしい人物」

という評価を得ていました。

彼女は当初イギリス、のちにアメリカの戦略諜報局の特殊作戦部に加わり、
身分を偽って高速魚雷艇でブルターニュからフランスに潜入、
ゲシュタポの捜査から逃れ、フランス中央部の抵抗組織と接触し、
連合軍の補給物資と部隊の降下地点の指定を行い、セーフハウスを築き、
ノルマンディーで上陸した連合軍と現地部隊の連絡を取り持ったほか、
ドイツ軍に抵抗する3つの大隊へのゲリラ戦術訓練を支援し、
9月に連合軍が彼女の部隊と合流するまで重要な報告を続け、そして・・・

勲章をもらいました。
彼女に勲章をつけているのは、 CIAの父、ウィリアム・ドノバンです。

若い時に狩猟で間違って自分の足を撃ってしまい、切断して
義足だった彼女のことが、ドイツ側の手配書には

 「足を引きずる女」

 と書かれていたということです。

 パトリシア・フォウラー Patricia Fowler

USS「ダンカン」に乗組の海軍軍人であった彼女の新婚の夫は、
彼女が妊娠中の1942年の10月、「サボ沖海戦」で戦死してしまいました。

息子を出産してから軍に職を求めた彼女は、新しく設置されたOSSに採用され、
なぜかいきなり諜報員の訓練を受けることになりました。

おそらくですが、その怜悧さ、特に記憶力と語学力を買われたのでしょう。

トレーニング終了後、彼女はスペインに派遣され、
解読された暗号翻訳とそれをタイプする任務を行いました。

情報活動を行うにあたり、彼女はボヘミアンのようなライフスタイルで、
フラメンコなどを始めることを()組織に奨励されていたということです。

 

米国海軍暗号解読Bombeを操作するWAVE

第二次世界大戦中、海軍の女性部隊 WAVESが600人、
ドイツのエニグマ暗号を解読するために働いていたことをご存知でしょうか。

彼女らは1943年から米海軍暗号解読機「ボム」の建設とその操作を支援しました。
プロジェクトは秘密のベールに包まれ、多くが携わっていながら
2トン半のマシンの正確な機能を誰も知りませんでした。
そして任務に関わるWAVESは、割り当てられた部屋に入る時、
海兵隊の警備員に必ず身分証明書を提示することが求められ、
自分が関わった仕事について徹底した守秘義務を求められました。

大勢のWAVESが携わったプロジェクトによって、
大戦中にエニグマは解読されたわけですが、
その成果は徹底的に秘密にされ、
終戦までドイツ軍はエニグマを使い続けました。

 

アグネス・メイヤー・ドリスコール Agnes Meyer Driscoll(1889-1971) 

は「ナチュラル・ジーニアス」な(天賦の才能を持った)

「クリプタナリスト」(Cryptanalyst 暗号解読者)

でした。
人呼んで、「ミス・アギー」または「マダムX」。


統計学と音楽を大学で勉強した彼女は、また語学に非常な才を発揮し、
英語の他に独仏語、ラテン語、および日本語まで流暢に話したといいます。

第一次世界大戦が始まってから海軍に入隊し、書記事務をしていた彼女は
その仕事をこなすうちにその図抜けた優秀さを認められることになりました。

そしてコードと信号の部門の事務に割り当てられ、暗号解読に携わったのです。


そこでまず彼女は暗号の作成、デコード(解読)を行う器械の開発に、
その後米海軍の標準装備となる
CM(コミニュケーション・マシン)という暗号器械を
共同で発明しています。

また日本軍のM-1暗号機(米軍にオレンジマシンとも呼ばれていた)を破り、
帝国海軍の暗号を解読するための暗号解読機を開発したのも彼女でした。

また、1926年に日本の外務省が採用していたの手動コード、通称レッド暗号
「 Red Book Code」を三年かかって解読しています。

 

「暗号解読者の一覧」

 というウィキのページを見ると、彼女については

「エニグマや日本軍の暗号を沢山解読した」

 となっています。
ミッドウェイ海戦における日本の大敗の理由を、単純に

「日本側の暗号が解読されていたから」

と評価するなら、米海軍勝利の立役者は「マダムX」だったということもできます。

アメリカの女性暗号解読者には他にも、

エリザベス・スミス・フリードマン夫人(1892−1980)、

ジェヌビエーヴ・ヤング・ヒット(1885-1963)

などがいます。

フリードマン夫人は夫も同業でしたが、常に単独で解読を行いました。
ジェヌビエーブ・ヒットはアメリカ初の女性暗号学者で、陸軍のために
暗号解読の解説書を書き、コーディングとデコードに携わった先駆です。

彼女は生涯を通じて誰にも師事せず、その知識を独学で得ていました。

さて、本項冒頭の「映画女優」が誰なのか知りたいという方、お待たせしました。

みなさんが今日普通に使用しているBluetoothやGPS、そしてWi-Fi、
これらの理論の基礎となる技術を開発したのが
この付けまつげバッサバサの美女だと言ったら驚かれるでしょうか。

へディー・ラマー Hedy Lamarr(1914-2000)

女優のような、ではなく彼女は本当に女優です。
1930年母国オーストリアでデビュー後、1933年の『春の調べ』で全裸シーンを披露し、
それで有名になった彼女は、その後アメリカに移住、1930年代から1950年代までの間は
ハリウッドスターとして活動し、シャルル・ボワイエ、スペンサー・トレイシー、
クラーク・ゲーブル、ジェームズ・ステュアートなど錚々たる面々と共演しています。 

で、なぜこの人を取り上げるかと言いますと、彼女は女優でありながら
発明家、科学者というもう一つの顔を持っていたのです。

 

時は第二次世界大戦真っ最中。

彼女は海軍の魚雷無線誘導システムが頻繁に枢軸国側の通信妨害を受け、
目標を攻撃することに失敗していることを知り、日頃お世話になっているアメリカのために
妨害の影響を受けないような無線誘導システムを開発しようと思い立ちました。

彼女と共同研究者のジョージ・アンタイルは、魚雷に送る電波の周波数を頻繁に変えれば
妨害されにくいと考え、周波数ホッピングシステムの基礎設計案を作成します。

ちなみにアンタイルも、科学者でありながら音楽家でした。


彼らはこの基礎理論で特許も取るのですが、実装が困難であったことに加え、
肝心のアメリカ海軍が
軍隊の外(しかも外国人女性)の発明を受け入れることをせず、
案は長い間棚上げにされていたということです。

改良された彼女の理論が軍艦に採用されたのは、キューバ危機になってからのことでした。

 

これだけの天才で美貌も兼ね備えた、側から見ると天から二物を与えられた
誰でも羨むような女性であるのに、彼女の晩年は決して幸せではなかったようです。

生涯に六人もの夫を取り替え、死んだ時には天涯孤独の独身。
全ての夫との生活は長くて7年、短くて1年と短期間で終わっているだけでなく、
二回万引きで(しかも万引きしたのは目薬と下剤)逮捕されています。

また、若い時の美人が陥りがちな加齢による醜形への異常な恐怖から
整形手術ジャンキーになってしまい、なんども手術を受けたそうですが、
その結果は決してよくなかったという話も残されていますし、
亡くなった時には薬物中毒であったという息子の証言もあります。

 

85歳で心不全のため亡くなった彼女は、遺言によって、
故郷のウィーンの森に散骨され、
そこで永遠の眠りについています。

彼女のなした発明は、現代における

「周波数ホッピングスペクトラム拡散技術」

の前身の一つです。
その原理はこんにち全てのワイヤレス技術の基礎となって、
後世の我々の日常に大きな恩恵をもたらしています。

 

 

続く。 


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”トレイルブレザー”たち〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-13 | アメリカ

フォールリバーで展示艦となっている戦艦「マサチューセッツ」には
広いスペースを利用してたくさんの戦時に関する展示があり、
セカンドデッキの艦首側のスペースには、これからお話しする

「アメリカ軍に参加した女性の歴史コーナー」

がありました。
冒頭ポスターの写真では、

「あなたは心に星条旗を持った女性ですか?」

という決め文句でワック、つまり陸軍への入隊を勧誘しています。
陸軍では何千もの職種があなたを必要としている、とありますね。

 


海軍ではもう少しプラクティカルに、

「 WAVEがもらえるお給料って?」

という感じで、入隊から下士官になるまでの給与体系をズバリ
このような表にしてリクルートに繋げようとしております。

この表はシーマン・リクルートと呼ばれる二等水兵のあと、Seaman Apprentice (SA)
(一等水兵)からPetty Officers(下士官)までが記されています。

ちなみにシーマン・ファーストクラス(上等水兵?)を例にとると、

基本給 66ドル

食事手当 54ドル

住居手当 37.50ドル

合計月額 157.50ドル

となっており、月額は現在の円で換算すると約25万円の高給取りです。
しかも軍では階級に即して給与が決まっていて、性差はなかったので、
単に就職先として考えても大変人気のある職場だったかもしれません。

下士官は169.50ドル(29万円)から217ドル(35万円)と
幅がありますが、これは三等兵曹から先任伍長までを表しますから
開きがあって当然です。

このように書くことこそ、女性が昇進していずれは先任伍長になることも
制度として可能であった、ということに他なりません。

1930年代初頭から旧陸軍省は女性搭乗員を軍に採用することを検討していましたが、
陸軍の方ではこの案を「全く実現不可能なもの」、なぜなら

「女性は感情的すぎて非常事態にも冷静になれず飛行機の操縦には向いていない」

とにべもなく却下したことから、第二次世界大戦が始まり、輸送路線が海外に拡大して
国内輸送を行う搭乗員の数が足りなくなるまで、女性の登用はありませんでした。

その後二つの女性搭乗員部隊が結成されることになり、千人以上の女性が
軍人パイロットとしてその活躍の場を空に求めていきます。

ジェラルディン・プラット・メイ大佐(1895−1997)

彼女はアメリカ軍で初めて大佐となり、司令官となった女性です。
カリフォルニア大学バークレイ校を卒業して1942年に結成された
女性の輸送補助部隊に入隊した彼女は、陸軍で初めての女性士官となり、
六千名の女性士官、下士官兵からなる空輸部隊の司令官になりました。

そして、アメリカ全土と海外の任地での女性兵士の状況について
視察を行い、その向上のために提言を行うなどしました。

戦争において必要とされた女性部隊が、戦後も廃止されず、そのまま残されたのにも、
彼女がその時に司令官であったことが大きく関与しています。

WAFS (Women's Auxiliary Ferrying Squadron)女性空輸補助部隊と
クィーン・ビーと書かれた機体、とくればこれは、

WAFS女性部隊の司令官となったナンシー・ラブを思い出してください。
(以前のエントリのために描いたイラストを引っ張り出してきました)

陸軍上層部の「万が一敵の捕虜になるようなことがあっては大変」という考えから
彼女らの任務遂行範囲は北米大陸を出ることはありませんでしたが、
もともと陸軍航空士官を夫にもち、自分の会社を持って操縦を行なっていた彼女は、
WAFSのコマンダーとして

ノースアメリカン P51マスタング 戦闘機

ダグラス Cー54 スカイマスター輸送機

ノースアメリカン Bー25 ミッチェル中型爆撃機

の空輸のための操縦資格を取った最初の女性でした。

ナンシー・ラブ〜クィーン・ビー

もしハップ・アーノルドという偉い人に止められなければ、
彼女はBー17フライングフォートレスを操縦して大西洋を渡った
史上初めての女性となっていたはずです。

このほかにも陸軍航空にはのちに「レディ・マッハ・バスター」とあだ名された
「女版チャック・イェーガー」が、女性パイロットの訓練学校の司令をつとめ、
彼女ら民間パイロットを戦時に招集する道筋をつけました。

WAFSとこのWFTD( Woman's Flying Training Detachment)は統合され、
WASP(Woman's Airforce Service Pilots)となりました。

 

 

さて、陸空海とくれば(正確には陸軍航空ですがそこはひとつ)海兵隊です。

ロレイン・ターンブル一等整備兵は、千人もいる海兵隊の一人にすぎませんが、
特筆すべきは彼女が女性であったということで、さらには
特に選抜されて本土以外での任務にあたったという優秀なメカニックでした。

彼女はハワイのエバにあった海兵隊航空基地に配属になり、
航空整備士として男性と全く同等の仕事をこなしました。

 

そして「第4の軍」である沿岸警備隊です。

”スペア(余り物)にならないで・・・SPARになりましょう”

まあダジャレの域ですが、SPARとは

Semper Paratus

=Always Ready

「センパー・パラタス」という歌を以前ご紹介しましたが、
そのラテン語の頭文字と「オールウェイズ・レディ」の計四文字で「SPAR」。

SUPAR、沿岸警備隊に入りましょうとお誘いしている女性は、
アメリカを擬人化したアンクル・サムとまるで花嫁の父のように腕を組んでいます。

しかしもしこの「スペア」が「結婚できない人」という意味だとしたら、
アンクルサムとともに彼女が歩いていくのは未来の花婿のもと・・・、
つまりこの場合はお相手は「沿岸警備隊」ということになりますね。

「売れ残りになるくらいなら沿岸警備隊にこない?」

という意味がかくされている、に1ドル50セント。

コーストガードの素敵なネイビーカラーのコートが展示されていました。
やはり女性を集めるには制服がお洒落できてみたいと思われなくてはね。

さて、最初に沿岸警備隊の女性用制服を着ることになったのは、
双子の姉妹でした。

ジェヌビエーブとルシール・ベイカー姉妹は海兵隊の予備部隊から1918年に転籍し、
書記下士官を意味する「ヨーマン」の女性複数形である

「ヨーマネッツ(Yeomanettes)」

の愛称で知られる存在でした。
まあ、それだけ女性が軍籍にあるのが珍しかったということでもあります。

1939年、個人所有のボートなどを使って沿岸のパトロールを行う
民間人で構成された沿岸警備予備隊が編成されました。

それには女性も含まれていましたが、彼女らは自分たちでヨットや船を所有する
典型的な富裕層であったことは興味深い事実です。

第二次世界大戦が始まり、大々的にマンパワーを戦争に導入されることになった時、
沿岸警備隊は「SPARS」という名称の女性部隊を編成しました。

彼女らの多くが海軍の WAVESからの転籍で、初代司令には

ドロシー・コンスタンス・ストラットン大尉

が任命され、 SPARSの名称も彼女が考案したということです。

フロリダのパームビーチにあったホテルを改装して作られた
通称「ザ・ピンクパレス」という施設で彼女らは訓練を行い、
1944年にはアフリカ系アメリカ人女性が初めてこの部隊に加わりました。

その後、ニューロンドンにコースとガードアカデミー(わたしが見学したあれ)
ができた時、ここに入ってきた女性たちは、

史上初めて軍学校に入校した女性

というタイトルを得ることになりました。

ほとんどのSPARSはオフィス勤務でしたが、1944年にはアラスカやハワイに派遣され、
そこで募集窓口や勧誘、店舗などの経営などに携わり、
少数ですが、パラシュート整備や航空管制、無線通信任務やメカニックなどもいました。

厳選されたごく少人数は、東海岸のLORAN ステーションと言って、
ボストンのチャタム灯台の監視業務に当たることもありました。

男性も第二次世界大戦時にはアフリカ系からなる航空隊、そして陸軍部隊があり、
いずれも優秀であったことで有名でしたが、このころは要するに、
人種隔離政策というか、黒人は黒人部隊、日系人は日系人部隊、と
人種ごとに部隊を分けていたということになります。

つまり人種差別や偏見というものがベースにあったことは否めませんが、
それでもアフリカ系女性は率先して陸軍に志願しました。

アリゾナ州の陸軍駐屯地フォート・フアチュカには第二次世界大戦中
アフリカ系女性だけの軍用郵便物の配布業務を行う部隊がありました。

「シックス・トリプル・エイト」と呼ばれた黒人女性だけの部隊、
6888郵便大隊を観閲する

チャリティー・アダムス・アーレイ中佐(1918−2002)

1942年にWAACに入隊後、黒人女性として初めて士官に昇進しました。
彼女らの郵便大隊もまた後方支援業務として、前線での任務を行いました。

先ほども書いたように、当時のアメリカ陸軍では民族ごとの分離部隊があり、
アダムス中佐も南部に生まれ差別されてきたアフリカ系として、この

「セグレゲーション」(Segregation)

に苦しめられてきた者として、軍での民族分離には反発し、
それを言明することを彼女は決して恐れませんでした。

それは彼女の一生をかけた民族闘争でもあったのです。

 

例えば、黒人女性だけの新しい訓練部隊を編成する計画ができた時、
その司令官に打診された彼女はこの昇進を断っています。

赤十字が分離部隊用のレクリエーション施設を寄付すると申し出てきたのに対しても、
彼女は「白人用を一緒に使うから全く必要ない」とこれを拒否し、
またある時は、上層部から白人の中尉を監督のために司令にすることを告げられ、

「わたしの屍を越えて行ってください(Over my dead body, sir.)」

と言い放ったこともあるそうです。

前線においても、戦地から帰ってきた白人男性と彼女の部隊の女性兵士たちが
交流し、民族的な対立や緊張が起こらないような雰囲気を作るのも、
戦地の住民との融和を図るのも、彼女が積極的に取り組んだテーマでした。

 

彼女は戦後、ペンタゴンのオファーを受けて勤務し、さらにそれから
大学で心理学の学位を取って、余生を教育に捧げました。

 

ラブやコクラン、メイらの軍における最初の女性とともに、
アフリカ系女性の軍における地位獲得にその一生をかけたアダムス中佐も、
また、偉大なる「トレイルブレザー」(Trailblazer・先駆者)であったのです。

 

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