ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

アメリカの"レジェンド"〜エンパイアステート航空科学博物館

2020-03-31 | 航空機

ESAM、ニューヨーク州の北部にある小さな空港、
スケネクタディ空港に併設された航空科学博物館の
外庭に展示されている軍用機をご紹介しています。

グラマン S-2トラッカー(Tracker)

現地にある説明を読んで一番驚いたことが、
このトラッカーを導入したことのある国のなかに
我がじゃぱ〜んが入っていたことでございます。

そうなんだっけ、と日本での運用の歴史を見てみると、
日本では「あおたか」と呼ばれていたあれですってね。

それならわたしは鹿屋で実物を見たことがあるんだったわ。
全くアメリカで見ているのと結びつかなかったけど。

S-2は海上自衛隊に米海軍から軍事無償援により60機、
昭和32年から供与されていたそうです。

その前に海自は訓練を受けるための派遣隊を編成し、
対潜空母「プリンストン (CV-37)」で発着艦とや整備作業の研修を行い、
到着したノースアイランド海軍航空基地において訓練を受けています。

受領した航空機はアラメダから最終的に鹿屋航空基地に届き、
まず鹿屋基地に航空隊が編成されました。 

米国に派遣されたパイロットには、空母への離着艦の訓練も行われました。
これは、艦載機の訓練のマニュアル上そうなっているから、
アメリカ海軍としてもその通りに実施しただけだと思われますが、
このため、海自の中の人たちは

「S-2と一緒に空母が供与されるかも?」(((o(*゚▽゚*)o))ワクワク

と期待半分で噂していたそうです。
今にして思えばありえない話だったんですけどね。

というかいくらなんでも空母をおまけにくれるほど
アメリカさんだって気前良くないだろうて。

このトラッカー、アメリカではあちこちで見てきましたが、
いつ見てもこの翼の畳み方が無理やりだなあと感じます。
もう少し翼がなんとかきれいにたためなかったんですかね。

歴史的なS-2トラッカーの位置付けとしては、これが
最初に生まれた対潜戦の機能を持つ軍用機だったということです。

トラッカー以前の「ハンターキラー」=対潜水艦掃討作戦といえば、
それはグラマンの「ガーディアン」とか「アベンジャー」の役でした。

トラッカーは冷戦における対ソ連潜水艦戦のアイコンとなったのです。

そのためにソノブイと捜索のためのブーム、サーチライトを持っており、
サーチアンドデストロイ のための魚雷と爆、ミサイルを搭載していました。

その中には時節柄原子力のものも含みます。

ロッキードがジェット機S-3「バイキング」を開発後、
置き換えられて引退していきましたが、2008年になって
カリフォルニアで大規模な火災が発生した時、なんと
まだ動ける何機かのトラッカーが、老骨に鞭打って800ガロンの水と
化学消化剤を運ぶという活躍をしています。

ここにあるトラッカーを横から撮ってみて気がつきました。
「イントレピッド」と書いてあります。

 

この機体は最後の頃練習機になっていたそうですが、
ニューヨークの博物館「イントレピッド」に展示されるために
名前が入っているのだそうです。
おそらくイントレピッド航空博物館から借りているのでしょう。

ダグラス A-4 スカイホーク(Skyhawk)

皆さんは「brainchild」という英語表現をご存知ですか。

頭脳の子供=人の頭から生み出されたもの

という言い回しで、新機軸だったり新発明だったり、
とにかく頭抜けた才能の持ち主によって生み出された、
というものをあらわす時にこの言葉が使われます。

This variation of rice omelet was the brainchild of
Juzo ITAMI and was developed by Taimeiken,
the old establishment of yoshokuya
(restaurants serving Western food) in Nihonbashi, Tokyo.

などという文章に使われたりする言葉ですね。
(しかしあの、ナイフでカットして卵を広げるオムライスが
伊丹十三のアイデアだったとはしらなんだ)

とにかく、何が言いたかったかというと、このスカイホークは
鬼才エド・ハイネマンの「ブレインチャイルド」といわれていた、
ということです。

いうまでもなくハイネマンはアメリカの航空デザインの世界で
最も有名で最も成功した設計者でした。

「スクーター」というあだ名もあったというこのA-4は、
種別記号はAでありながら、爆撃機よりも戦闘機に似ています。

おそらくこの小さな入れ物に、これだけ盛り沢山に
機能を詰め込んだ攻撃機はかつて存在しなかったでしょう。

まずその堅牢な構造により、戦闘ダメージを吸収する能力。
これはまさにレジェンド級といわれました。

A-4のオペレーションは1956年に開始され、生産は
1979年まで、生産台数は約3,000機、派生型は
17種類に及び、アメリカ海軍、海兵隊、そして
いくつかの外国海軍に配備されました。

もっとも活躍したのがベトナム戦争時代です。

戦争中は全天候型機として飛び、海軍が1970年になって
レンジが大きく、より重量の爆弾をロードでき、さらに
洗練されたアビオニクスを搭載したA-7コルセアに
次第に置き換えて行ったのですが、特に海兵隊は最後まで
この「スクーター」を気に入ってギリギリまで使い続け、
そんなこんなで一番最後のA-4が引退したのは2003年でした。

A-3は亜音速で、最高速度670 mphを達成することができましたが、
爆弾を搭載し、低空で密な待機状態で飛行している場合、
まるで止まっているかのように見えました。

典型的な搭載武器は5000発の爆弾で、あとは内蔵された
2基の20 mm砲と、1つか2つの外部燃料タンクがありました。

ESAMにあるスカイホークは、海軍所有だったもので、
ベトナム戦争時にはUSS「ハンコック」の艦載機でした。

最後の配置はバージニア州の海軍基地で、
アグレッサー(敵の役)をしていたのだそうです。

A-4は非常に駆動性に優れた機体であるため、
ブルーエンジェルスに採用されていたことがありますし、
F-14戦闘機は空戦の技術を軽快なスカイホークに学びました。

ノースアメリカン RAー5C ビジランティ(Vigilante)

「ミッドウェイ」のハンガーデッキ展示でも見ることができるので、
このビジランティについては以前もお話ししたことがあります。

1958年に初飛行を行った、当時の戦略爆撃機で、最初は
核爆弾を積んで飛び回っていた、というあれですね。

当時ヴィジランティは超先進的な技術をこれでもかと取り入れた
イノヴェーティブな近未来の代名詞のような存在でした。

揚力コントロール機能として、たとえばエルロンの代わりに
ウィングスポイラーを搭載するとか、ヒンジ付きの方向舵の代わりに
一体成型の垂直尾翼が使用されているとか言った具合です。

「ミッドウェイ」艦上で実際に見た時も、その平べったく
うっすーい機体はただものでないといったたたずまいでしたが、
高度なパフォーマンス能力を持つその滑らかでかつ壮大な機体。
ヴィジランティは、空母艦載機として史上最大の大きさでした。

しかし、こうやって真正面から見ると後退翼のせいで
いうほど大きく見えません。

動力はGEのJ-79を搭載し、トップスピードはマッハ2.1です。

1963年のことです。

アメリカ海軍は突然航空機での核爆弾の運用を取りやめました。
このことによって、その日から

A-5は仕事がなくなってしまいました。

しかし捨てる神あれば拾う神あり、折しも当時
ベトナム戦争が激化していたため、戦況に必要とされていたのが
空母艦載型のハイパフォーマンス型偵察機です。

結果として、すでに配備されていたA-5と、48機の
新しく作っられたばかりのA-5は、急遽偵察機使用に改装され、
その名前もRA-5Cと変えました。

可変的なスピード、そして長い航続距離、最先端のレーダー。
もともと持っていたこれらの強みが、RA-5Cを
偵察機として比類のない存在に変えたのです。

いやー、こういうのを「至る処青山あり」というんでしょうか。
ちょっと違うかな。

爆弾を搭載するためにあった胴体下のカヌーと呼ばれるポッドには
横向き空中レーダー(SLAR)、赤外線センサー、そして
カメラが搭載されることになりました。

写真は「カヌー」の一部、カメラ搭載部分だったところ。

 

これはカヌーの下に潜り込んで後脚を撮ったもの。
なぜこんなところにベンチがある(笑)

ベトナム戦争の間、RA-5Cは、爆弾の効果を評価するミッションを
行っていましたが、 そのうち対空防御が専門になりました。

生産された130機のビジランティのうち18機は
全てそのときの任務遂行中に喪失しています。

ESAMの偵察型RA-5Cは海軍の偵察部隊第5偵察隊のもので、
USS「レンジャー」艦載部隊としてトンキン湾の
「ヤンキーステーション」にいたことがあります。

その後退役して「イントレピッド」航空博物館が所蔵していました。

リパブリック F-105G サンダーチーフ(Thunderchief)

「サンダー」(雷)の「チーフ」なので、雷の親玉。
そんな名前がついたサンダーチーフ先輩。

アメリカ人の作成した説明は、どうもなんでもかんでも
「レジェンド」にしてしまう傾向があるわけですが、
このサンダーチーフパイセンも、

「ベトナム戦争の最も伝説的(レジェンダリー)な飛行機」

と高らかに称賛されております。

ここにあるサンダーチーフは滑らかな機体にシャークマウスの
マーキングを施された印象的な一つの見本です。

 

アメリカ空軍が運用していた単発エンジンの軍用機の中で
最も大きな機体をもち、また最もパワフルでした。

小さな翼のエリアに強力プラットアンドホイットニーJ-75
ターボジェットエンジンを内蔵し、低空でのミッションにも
最適化されただけでなく、会場でマッハ1、
3万フィート上空ではマッハ2を出すことができました。

F-105 は1958年に運用が開始され、わずか6年後の
1964年には800機を製造し空軍に配備して生産終了します。

機種指定としては「F」がついていますが、デザインは
どちらかというと爆撃機よりで、特に原子力ミサイルを搭載し、
対ソ戦略でヨーロッパの基地から音速で飛ぶことを目的としていました。

ベトナム戦争が起こると、それらは急いで従来の爆弾を
搭載できるようにモディファイされ、タイの基地に配備されました。

F-105は北ベトナムにおいて非常に危険なミッションの
ほとんど矢面に立っていたため、生産された400機のうち
およそ半数が戦没しています。

ESAMのF-105は1964年に空軍に配備され、長い間
その任務を全うしていたラッキーな機体の一つです。

ベトナム戦争の時には第355戦闘機群の一員として
嘉手納基地をベースに飛び、戦争が終わってからは
ジョージア州のエアーナショナルガードに所属していました。

 

 

続きます。

 

 


不死身のイボイノシシ(A-10)〜エンパイアステート航空科学博物館

2020-03-29 | 航空機

個人的な事情で少し更新が滞ってしまったことをお許しください。
しかも、前回の冒頭写真に本題に出てこないF-101を挙げてしまったのは
全くのミステイクで、F-101についての記述は今日になります。
お節介船屋さんが見事名前をお当てになったのは本当に驚きました。

さて、ニューヨークの通称ESAM、エンパイアステート航空科学博物館の
アグネタ・エアパークに展示してある軍用機をご紹介しています。

入り口からずっと艦載機が続いています。

リパブリック F-84F サンダーストリーク( Thunderstreak)

たしかこれもサンフランシスコの「ホーネット」博物館で
見た覚えがあるのですが、F-84は直線翼のバージョンもあり、
これが「サンダージェット」、偵察型は「サンダーフラッシュ」といいます。

アメリカ海軍はこの研究をなんと1944年から始めていたそうですが、
戦争中なのに(戦争中だから?)次世代のジェットエンジン搭載機の計画を
着々と進めていたなんて、つくづくとてつもない国力ですよね。

 

ともあれ、この「サンダー」シリーズは、アメリカの最初のジェット機で、
空軍に次配備された丈夫で多彩な機能を持つ戦闘機です。

 直線翼の「サンダージェット」のデビューは戦後の1947年でした。
リパブリック社は、1949年に後退翼機の開発に乗り出し、
ノースアメリカンのF-86セイバーに匹敵するような
ハイパフォーマンスの戦闘機を産み出そうとしたのですが、それが
このF-84Fサンダーストリークだったと言うわけです。

1950年の完成を目的とされましたが、デザインそのものをはじめ
エンジン、生産ツールとあちらこちらに問題が続出し、
早々に配備は1955年からと先延ばしされることになりました。

そうこうしているうちに1960年代になって、もうそのころには
次世代の超音速機が次々と現れ、置き換わられることに(涙)

というわけでアメリカでは空軍が200機ほど運用したにとどまりましたが、
決して性能が悪い飛行機ではなかったらしく、製造された
2,711機のサンダースリークは、アメリカ以外、ベルギー、フランス、
デンマーク、ギリシャ、イタリアなど13か国に普及することになりました。

ここにあるサンダーストリークは最初空軍に配備され、
最終的にはオハイオのナショナルガードで引退したものです。

マクドネル F-101B/F  ヴードゥー(Voodoo)

この名前は知りませんでした。
ヴードゥーったら中米とかアメリカ南部で信仰されていた
呪術のあのヴードゥー教ですよね。

同時代の戦闘機としては最も大きな機体をもつF-101は、
小さな翼と排気量の大きなエンジンを搭載し、
一発の銃弾を撃つことがなかったにもかかわらず、
その名前は対ソ戦でアメリカをソ連の爆撃機から防衛し、
冷戦の象徴ともなった戦闘機です。

当初は、1940年代後半に、戦略的な空軍司令部爆撃機用の
単座 護衛戦闘機として考案されました。

このミッションが実現することはありませんでしたが、
F-101の最終生産バージョンである2人乗りの「B2」は、
アメリカ空軍の防空司令部(ADC)で長寿命を享受し、
北米の空域を守る任務を負うことになったのです。

1959年から62年まで、ヴードゥーは最も数多く普及した
戦闘機で、70もの航空隊が編成されたといわれます。

ヴードゥーは速力に優れ、トップスピードはマッハ1.8。
最大速度1,825 km/h になり、4基の空対空ミサイル、
AIR-2ジニー(Genie)ミサイルなどを搭載することができました。

このジニーミサイルは核弾頭付き無誘導空対空ロケット弾で、
北米空域に侵入しようとするソ連の爆撃機を破壊する
背水の陣というか、最後の手段として開発配備されたものです。

しかし、ヴードゥー将、要撃機として大変重用されていながら、
実他の戦闘機と効果的に交戦できるタイプではありませんでした。

後退翼で機体が重く、マニューバリングに優れているわけではなく、
操作そのものもメインテナンスも大変気難しいため
操縦をパイロットの操作性に頼る部分が多く、上手い人でないと
乗りこなせない的な機体で有名になってしまったとか。

そのせいで、普及したのはアメリカとロイヤルカナダ空軍だけでした。

このF-101は1959年にアメリカ空軍に配備され、
ナイアガラフォールズ空港にある、
ニューヨークエアナショナルガード・第107戦闘要撃グループ
最終の奉公先として引退したものだということです。

さて次は、と行手を眺めやると、そこには迷彩の機が。
せっかく真横から全体像をみることができる展示がしてあるので、
近づいていく前にちゃんと撮っておきます。

というか、超馴染みがあるんですがこの機体。

マクドネル-ダグラス F-4 ファントム(Phantom)

なんだー、日本ではつい最近までバリバリ現役だった
ファントムさんではありませんか。

しかし、ここにある説明をみると軽く驚きます。

「F-4ファントムは海軍の空母で運用する要撃機として
1950年台に設計が行われた」

これが70年近く前のことだったという事実もさながら、
元々の目的は艦載機だったというのですから。

ファントムは第二次世界大戦当時からのアメリカの戦闘機の中で
もっともたくさん生産され、改良を重ねられてきた機体で、
海軍のみならず空軍、そして海兵隊でも運用されていました。

F-4が最初に海軍のサービスを始めたのは1961年で、
翌年には空軍も導入を行いました。
そして生産が終了したのは1979年。

この間5,000機が生まれ、アメリカのみならず、
10か国もの外国の軍隊で採用されました。

エンジンはジェネラルエレクトリック社製の
J-79ターボジェット

このおかげでF-4は当時最もパワフルで、かつ
重量の大きな戦闘機として、

AIMー7スパローミサイル

AIM-9サイドワインダー空対空ミサイル

を各4基搭載することができ、地上攻撃任務には
1万5千ポンドの爆弾を運ぶこともできました。

ほとんどのF-4は内部に銃は装備されていませんでした。
近接でのドッグファイトの際不利になるからです。

F-4は、その運用経歴中、ベトナム戦争と密接に関連しており、
「Jack-of -All Trades」戦闘機として、制空権奪取、
地上攻撃、敵防空網制圧、および偵察任務を遂行しました。

この「ジャック・オブ・オール・トレード」というのは、おそらく
「なんでもやる奴」という言い方の俗語なんだと思います。

アメリカでは1996年になって、F-15 イーグルF-16
ファイティングファルコンに置き換えられる形で引退が始まりました。

空軍では何機かが空軍で無人機仕様にされています。

我が日本では最終的に引退は2019年となったわけですが、
当博物館の説明には

「ドイツ空軍はこの偉大なる戦闘機の最後のユーザー国の一つ」

つまりまだ使っていると書いてあります。
同盟国なんだから、うちらの名前も書いて欲しかった。

こちらにあるF-4は、”D"タイプで、最初に空軍に配備されたものです。
ベトナム戦争時はニューメキシコの空軍基地に展開しており、
1972年からは、スティーブン・ケイン大尉の愛機となりますが、
このケイン大尉は、退役してからESAMのボランティアとなって、
展示の際のF-4の修復作業に多大なる協力を惜しまなかったということです。

これは今まで行ったことのあるアメリカの博物館の
どこでも見おぼえのない機体です。

フェアチャイルド・リパブリック A-10 サンダーボルトII

機体種別番号がAということは攻撃機だと思うのですが、
それにしても明らかにグラマンとかマクドネルと違う、
異様な機体のラインをしております。

この形状から、人をしてウォートホッグ(イボいのしし)とか
簡単にホッグ(ブタ)とか呼ばせていたというんですが、
それも納得の独特なずんぐり感がありますね。

というわけでこのイボイノシシさんは、ベトナム戦争の後、
近航空支援 close air support role (火力支援目的の作戦)に
必要とされて生まれたということになっております。

この任務は、友軍にごく近接して地上の標的を攻撃することを含み、
ジェット戦闘機によって行われてほんの少し成功を見ました。

戦闘機には速度という強みはあるものの、戦場での耐久力の欠如、
地対空攻撃に対する脆弱性、および重弾薬の負荷に耐えないことは
弱みと言ってもいいでしょう。

したがって、1976年、A-10は米国で運用サービスを開始しました。
空軍が近接航空支援任務のために特別に開発された唯一の飛行機です。

見かけの通りA-10は高速でも流線型でもありませんが、
非常に機動性があり、任務を確実に遂行する能力はもはや伝説的です。

1990年になると、スピードもないA-10は、そろそろ引退?
みたいな雰囲気になっていたのですが、そこに湾岸戦争が起こります。

A−10はさいごにブリリアントすぎる活躍で一花咲かせるのですが、
そこで新しい「やりがい」を得たイボイノシシさんたちは、
空軍の歴史においても最も価値のある遺産を遺すことになりました。

生産された800機のうち350機現役および予備部隊で
未来に向けてサービスを継続を決定されたのです。

近くによってみましょう。
この機体の特徴はノーズに咥えたように突き刺さっている
30mmGAU-8 ガトリング砲です。

とにかく頑丈でタフな機体を持ち、湾岸戦争においては
参加機のうち半数にあたる約70機が被弾しながら、被撃墜は6機。
喪失率は10%という驚異の生還率を誇りました。

「384箇所の破孔を生じながら生還、
数日後には修理を完了し任務に復帰」

とか、

「イラク戦争でSAMによって右エンジンカウルを
吹き飛ばされながら生還」

など、それどこの舩坂弘、みたいな不死身伝説をもっているのです。

湾岸戦争におけるアメリカ空軍のパイロットの死者は約120人でしたが、
その多くはF-16搭乗者であり、A-10パイロットはわずか1名でした。

しかもその死因は食中毒だった

という(とほほ)

湾岸戦争ではこのいかにも凶悪そうな30mmガトリング砲で
イラク軍Mi-17ヘリコプターの撃墜も記録しているのですが、
これはたまたまそういう機会があったというだけらしく、
基本的にAー10には近接戦闘は求められていませんでした。

 

 

続きます。

 

 

 


アメリカ軍機の略称規則〜エンパイアステート航空科学博物館

2020-03-26 | 航空機

ニューヨーク州グレンヴィルのスケネクタディにある
エンパイアステート航空科学博物館は、二棟からなる展示室、
公開されているハンガー、そしてエアフィールドの航空機展示から成ります。

本館の外に軍用機が展示されているところは
アグネタ・エアパークと名前が付けられています。

看板が掲げられたこの構造物は、昔監視タワーか何かで、
上を切り取ってしまったものではないかと思われます。

上って行けないように階段に板が貼り付けてあります。

それでは、何回かに分けて展示機をご紹介していきます。

ベルエアクラフト UH-1 イロコイ Iroquois (Huey) 

日本でもこのタイプのヘリのあだ名は同じく「ヒューイ」です。
アメリカで運用された初期の偉大なヘリコプターで、
最初に陸軍に導入されたのは1959年のことでした。

生産は1976年に終了しましたが、それまでの間、
アメリカでは陸軍、海兵隊、空軍、海軍で採用され、
生産された1万6千機は、他国のエアフォースでも使われています。

多用途ヘリとしてありとあらゆる任務に投入され、
それだけに多種の使用目的に応じたバージョンが生まれました。

搭載エンジンはライカミングT53ターボエンジン
これは歴史的にも最初に製造されたターボエンジンの一つです。

ヒューイといえば、そのイメージは「ベトナム戦争」です。

ニュース映像や数知れないくらい多くの映画の画面、そして写真。
ベトナム戦争を描いたものでヒューイの姿を見ないことはなく、
それは名実ともに一つのベトナム戦争のアイコンになったと言えるでしょう。

戦争中、ヒューイは輸送機として(あだ名は”Slick”。巧みとかいう意味)、
攻撃ヘリとして(あだなは”Hog”、豚という意味)、そして
救難機として(あだ名は”Dustoff”負傷兵搬送というそのものの意味)
フルに活躍し、投入されたうち2,500機が戦闘や事故で失われました。

1980年代になってより大型で速くパワーのあるシコルスキーの
UH-60ブラックホークが現れるまで、UH-1は
真に航空機のレジェンドとして第一線で活躍を続けました。

アメリカでは近年(2008年)になって、残っていたバージョンのヒューイが、

空軍宇宙軍団 Air Force Space Command:AFSPC

で採用されることになってファンを喜ばせたそうです。
AFSPCは軍用機として戦闘機の類は保有せず、人員輸送のためだけに
ヘリを運用しているので、復活が実現したのでしょう。

窓の外からコクピットを撮っておきました。
シートは破れて中身が露出しています。

後部には一人用の小さな椅子がありました。

そうそう、宇宙軍団といえば、我が空自が

航空宇宙自衛隊

に名前を変えるとかなんとか、先日ニュースで見ましたが、
なんだかワクワクしますね。

ここにあるUH-1は、Hモデルで、1964年に生産され、
ベトナム戦争にも陸軍機として参加したものです。

「ミッドウェイ」の飛行甲板に展示されていた同機について、
「イントルーダーのツノ」としてその給油プローブについて
熱く語ってみた(熱く語るな)ところの、

グラマンA-6E イントルーダー

基本的に艦載機は翼を畳んだ状態で展示されています。
イントルーダーは当時最も効果的な攻撃ヘリとして、長期にわたり
海軍で使用されてきた名機です。

1950年代の甲板からA-1スカイライダーと置き換えられる形で普及しました。

ツインエンジン、二人乗りで艦上爆撃機として海軍と海兵隊が
空母で運用するのに多用されています。

イントルーダーを最も特徴付けるのは、重量の大きな爆弾を搭載でき、
かつ航続距離が大変長いうえ、夜間もオッケーで全天候型、という
使い勝手の良さだったといえましょう。

製作はロングアイランドにあったグラマンの「アイアンワークス」が行い、
700機が1963年から海兵隊に配備され始めました。

船舶用語で、船の造波抵抗を打ち消すために、喫水線下の船首に
設けた球状の突起のことを

「バルバス・バウ」

という、という話を以前ここでもしたことがありますが、
このイントルーダーのインテイクを備えたノーズのようなのも、

「バルバス・ノーズ」

といい、この場合は空気抵抗を打ち消すためのものです。

タフなだけでなく、トラッキングレーダーと、レーダー高度計、
ナビケーション内蔵、ジャミング装置と盛り沢山に搭載し、
A-6は当時運用されていた航空機の中で最も高価だったといわれます。

機体は改良を重ねられ、1970年にグラマンが導入したA-6Eになると、
その信頼性は一層増し、整備にかかる時間も縮小されるようになりました。

 

ところで、この空の色と雲を見ていただければおわかりでしょうが、
この日のスケネクタディはとにかく猛烈に暑かったです。
日差しが強いというわけではなかったのですが、
外で写真を撮って歩く時間はまるで我慢大会さながらでした。

見学者もいないわけではありませんでしたが、少なくとも
わたしたちが外にいる時間、他の人は一人も見ていません。

 

A-6は誕生するなりベトナム戦争に導入され、戦争中ずっと
特に北ベトナムでは夜間の要所攻撃に出撃しました。
1968年にF-111が登場するまで、世界唯一の全天候型攻撃機、
という地位にあったのです。

最後の頃は1991年から始まった湾岸戦争にも参加しています。

プラットアンドホイットニーのJ52ターボジェットという
パワフルな動力を備えたA-6は、典型的な攻撃ミッションでは
二つの増槽をフルにして、さらに6,000ー12,000lbsの楽団を搭載し、
何度となく空母艦上から空対地爆撃に出撃するのがデフォでした。

やっとのことで引退したのは1997年。
F/A−18ホーネットの誕生で後を譲ることになったのです。

このA-6hは1967年製造、Eタイプのスタンダードバージョンで、
92年に退役するまでずっと空母勤務を「エンジョイして」いました。

その空母とはUSS「アメリカ」「ニミッツ」「サラトガ」、そして
あの火災で有名な「フォレスタル」だそうです。

機体のマークは、最後のサービスを行った「フォレスタル」の
第176攻撃中隊のものがそのまま残されています。

あと、給油プローブに鳥が止まらないように、
これでもかと針が仕込んであるのには個人的にウケました。

ノースアメリカンT-2 バックアイ(Buckeye )

当たり前の話なんですが、航空機の名称で最初に「T」がついていれば
それは「トレーニング」なので、当然練習機です。

航空機に詳しい方なら当たり前の知識ですが、当ブログは
そうでない人に向けてお話しすることも重視しているので
(何しろブログ主の知識があやふやなことが多いため)
ここでアメリカ軍用機の記号規則の表をあげておきます。

AAttack - 攻撃

CCargo - 輸送

DDirector - 指揮(無人航空機管制)

E:Special Electronic Installation - 特殊電子装備

FFighter - 戦闘

H:Search and Rescue/Medevac - 捜索・救難 / MEDEVAC
       Help aircraft

K:Tanker - 空中給油

L:Cold Weather - 寒冷地仕様

MMultimission - 多用途

OObservation - 観測

PPatrol - 哨戒

Q:Drone - ドローン(無人)

RReconnaissance - 偵察

S:Antisubmarine - 対潜 Surface warfare

TTrainer - 練習

UUtility - 汎用

VVIP transport - 要人輸送

WWeather - 気象観測

タンカーがKなのは、Tが練習機と重なるので、
Tanker のKなのだと思われます。

バックアイは中間ー高等練習機で、ジェット機の操縦訓練、
とくに艦載機として航空母艦の離発艦の練習に使われました。

航空自衛隊の練習機T-4はその機体の丸みから
「ドルフィン」というあだ名がありますが、シェイプから言うと
こちらのバックアイの方が丸っこくてイルカ感満載です。

 

 

続きます。

 


映画「1941」はスピルバーグの’黒歴史’か〜その3

2020-03-24 | 映画

スピルバーグの「1941」を考察する企画、三日目です。

この映画の製作費は3,500万ドル、ざっと39億6千万ですから、
当時の貨幣価値からみても結構なお金がかかっています。

ジョン・べルーシが乗り回すウォーホークを始め、駐機してあるB-18は本物。
その他、登場してくる第二次世界大戦時の飛行機などのレプリカを作るだけで
巨額の予算が必要となったでしょう。

で、これに対し興行収入は9,490万ドル、約4分の1くらいです。
つまり興行的には失敗だったということになるわけですが、
それは決して「flop」(映画・興業の失敗)ではないという意見もあります。

 

この映画のエピソードは決して無自覚に盛り込まれたものではなく、
そのほとんどが歴史的なトリビアに精通している人に限り
ニヤリと笑うことができる、(逆に無知な人にはわからない)というものですが、
そんな「選ばれた民」から(のみ?)擁護されているのかもしれません。

まあでも、そんな「選民」だけに受け入れられる映画が
人気のあるエンターテイメントになるわけがありませんよね(笑)

さて、それではもう1日頑張って続けます。

ところでみなさんはもう忘れてしまったかもしれませんが、前半で
クリスマスツリーに変装し上陸した伊潜乗員に拉致られた、
ホリー・ウッド氏のその後についてどうなったか書いておきます。

→お菓子のおまけに磁石が見つかる

→これでハリウッドに行けると皆大喜び

→そうはさせじとウッド、それを飲み込む

→無理やり下剤を飲まされる

→皆が見ていたら出るものも出ないと言って一人になり、脱出を図る

→潜航中のハッチから無理やり外に出てしまい海の中←いまここ

こちら演説の後、なぜか「あかりを消す」ことがミッションだと思い込み、
戦車で電線を切ろうとして巨大なサンタを倒し、それが頭にあたって
昏睡状態になったトゥリー軍曹。

さっきまでセーラー服だったダンサーのウォーリーは、
どさくさに紛れてかっぱらった軍曹の上着を着ていたため、
周りに代わりに指揮を執るように要請されます。

「軍曹、どうしましょう?」

「よし、灯りを消すんだ!」

すっかりやる気になったウォーリー、ベティともハッピーエンドに。

こちら飛行機フェチのドナと彼女をなんとかしたいために
飛行機に乗せて飛び立ったバークヘッド大尉。
操縦中についそちらに夢中になっているうちに・・・

ビル・ケルソー大尉に敵機と思われ撃墜されてしまいました。
墜落する機内で、決死の不時着を試みる大尉。

「ウィ・キャン・ドゥー・イーーット!」

「ユー・キャン・ドゥー・イット!」の画像検索結果

不時着したところがなぜか恐竜の模型がある化石発掘地。
恐竜の出現に怯える二人の姿に、現代のわれわれはスピルバーグの

「ジュラシック・パーク」

を思いださずにいられない訳ですが、同映画が公開されたのは
この映画の14年も後のことになります。

 

こちら、庭先が迫撃砲基地にされてしまったダグラス家。
当家の奥方がバスを使っていると何やら外が騒がしく・・・。

大喜びでそれを見物している艦長以下伊潜の皆さん。

「敵襲だ!」

慌ててウォード・ダグラスが銃を構えるのを見る艦上では、乗員が

「あれはウィンチェスターの散弾だけですよ」

などとしゃべっております。

そこで、陸軍から「触らないように」といわれていた庭の対空砲を
引っ張り出してきて、砲撃を行おうとするウォードですが・・。

どうみても無理ゲー。

さて、民間防衛の一翼を担うため、この有志二人(と腹話術人形一体)は、
ずっと観覧車に乗って武装し敵の来るのを待ち構えていました。

そこにやってきたのがジョン・べルーシのケルソー大尉のウォーホーク。

「わかったわかったわかった!あれは中島の97型だ!」

いや、ウォーホークと97式、これっぽっちも似た要素はありませんが。
おそらくわたしでもこれは間違えないと思う。

彼らは果敢にも攻撃を行い、ウォーホークを撃墜してしまいました。

 

ミタムラ艦長「よくやった!」

乗員「(あれ?俺撃ってないけど)・・・・どもありがとございます」

USOの前の路上にウォーホークを不時着させたケルソー大尉は
潜水艦に仇を打つため盗んだバイクで走り出し、方やど素人の
ウォーリーが引きいる戦車は、恋人の家が戦闘中ときいて海岸に急行。

ペンキ工場に突入し、派手にペンキを撒き散らします。

ものすごいシーンですが、当時ですからもちろんスタジオで撮影されたものです。
このセットだけできっと1千万はかかってるな・・・。

伊潜の上では、フォン・クラインシュミットが、ミタムラ艦長に
潜航させるべきだと強弁し、銃を突きつけて脅します。

「やっぱり総統は正しかった!
第三帝国には黄色い豚のための場所などない!」(ドイツ語で)

しかし、

「大日本国海軍は、貴様の命令など聴けん!」

ミタムラ艦長、クラインシュミットを海に投げ落としてしまいました。

「ザッツオールライ!」∠( ̄^ ̄)∠( ̄^ ̄)∠( ̄^ ̄)

そのときになって、ダグラス家の庭から渾身の対空砲が着弾しました。

「戦闘用意!左15度!」

「発射ヨーイ!・・・・・・ん?」

その時、観覧車の二人を助けにきたつもりのウォード家のガキが、
適当にスイッチを押してしまって、灯火管制で真っ暗だった遊園地が
赤々と照らされてしまいました。

それをみて感極まった航海長イトウ大尉、

「は〜りう〜っど〜〜〜」(ToT)

全裸美女目撃の最初から最後まで彼の台詞はこれだけ(笑)

クリスマスツリーに変装して上陸作戦を行った時には
最先任として一人だけツリーに飾りをつけております。

この俳優さんは清水宏といい、今でも芸能活動されている様子。
それにしても三船敏郎にビンタを張られる役なんて、役者冥利すよね(笑)

「右35度軍需工場!」

目標の「ハリウッド」に向かって行われた伊潜の全力攻撃で
民間防衛の二人(プラス人形)が乗っていた観覧車が
外れて転がり出し、海に落ちてしまうという大スペクタクル!

このシーンはミニチュアを使って特殊撮影が行われ、
実際の車輪を転がして合成したそうです。

「やったやった!」

艦体をバンバン叩いて喜ぶミタムラ艦長。

「バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!」\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )/

「ハリウッド〜お・・・・」

こちら陥落する映画の都「ハリウッド」に落涙してしまうアシモト中尉。
ミタムラ・アキオという俳優さんが演じています。

そのとき桟橋に駆けつけた?ダンサーのウォーリー率いる戦車を、
桟橋を魚雷で破壊することで撃破した帝国海軍伊17潜、意気揚々と、

「帝国海軍はアメリカ合衆国軍隊と交戦し、
敵に大損害を与え、多大なる戦果を収む。
只今より、基地に帰投する!」

そして潜航を始めたところ・・・・・・。

盗んだバイクで桟橋を疾走し海に飛び込んできたケルソー大尉が!

「待て!まだ潜るんじゃない!」

潜水艦に乗り込もうとしているではありませんか。
そんなケルソーに海上にぷかぷか浮きながら敬礼を送るトゥリー軍曹。

やはり海上で偽軍人のウォーリーは、

「おい、やっつけたのか?」

と聞かれて、

「と思う。沈んでいく」

潜水艦だからそら沈むがな。

潜航していく潜水艦のハッチをいとも簡単に外から開け(笑)
突入していくケルソー大尉。

「俺はワイルド・ビル・ケルソー様だ!!!

・・・・おっと・・・・」

「オーライ、もしついでがあったら東京まで連れてってくれない?」

スピルバーグのファンにとっても、べルーシのファンにとっても、
見てはいけないものを見せられたような気まずい気持ちになるシーンです。

これを演じさせられたジョン・べルーシは、映画出演後のある日、

「スティーブン・スピルバーグ1946〜1941」

とプリントしたTシャツを着ているのがハリウッドで目撃されました。
これが稀代のコメディアン、べルーシのこの映画に対する評価の全てでしょう。 

まあただ、べルーシが黒沢と三船敏郎をパロディにした

「サタデーナイトライブ・サムライ」シリーズ

のいくつかは、このときのオチレベルにスベってるようですが・・。

Samurai Hotel - SNL

パワーワードは「ユア・ママさん」(笑)

サムライ離婚法廷

これもなかなか。
子供の手を引っ張り合うところで大岡裁きがくると思ったらまさかの・・。

こちらのパワーワードは「ガッジラ」。
彼らのインチキ日本語を聞くと、フランソワーズ・モレシャンに

「フランス語みたい」(だけど意味がわからない)

と言わせたタモリの4カ国語麻雀芸はすごかったんだなと思います。

 

明けて翌日。

戦いの最前線となったダグラス家の庭。
朝のニュースではいまだに、

「アメリカ本土に初めて敵機が来襲、爆撃はありませんでした」

などと報じています。
そこにスティルウェル少将がやってきました。

「損害は?」

「戦車一台と観覧車です」

「敵の船は沈みました。この目で見ました!」←ウォーリー

 

そこで少将の前にリースを持って進み出るウォード氏。

「サー、我々は昨夜敵発見後奮闘しました。
我々は団結し、アメリカ魂を見せてやった!」

「今から平和のシンボルとしてリースを玄関にかけます。
誰にも平和を、そしてクリスマスを我々から奪うことはできない!」

トントン (リースを釘で打ち付ける音)

ゴロゴロ〜(家が転がり出す音)

がらがら〜〜(崖から転がり落ちる音)

CGなどない当時、この撮影には本当に海沿いの斜面に
最後に落とすことのできる家を作りました。
レールを転がって落ちる仕組みになっていたそうですが、
莫大な制作時間(費用はもちろんですが)がかかりました。

待たされてキャストとスタッフは、撮影開始がいつになるか賭けをし、
その結果、ダン・エイクロイドがピッタリ賞で勝利を収めたということです。

ちなみにエイクロイドはカナダ人で、今回がアメリカ映画初出演でした。

初出演といえば、子供の後ろの戦車隊の兵隊はミッキー・ロークが演じています。
ご紹介した航空博物館のあるスケネクタディ出身で、これがデビュー作となりました。
一言も台詞はありません。

 

公開当時、映画館でこれを見たというアメリカ人の感想を見つけました。

映画が終わった時、不気味な沈黙が満員の会場を支配した。
一人が

『一体何だったんだ?』(What a hell WAS that?)

と叫ぶと、一同がどっと笑い転げた。

 

上質なエンターテイメントを求めて映画館に足を向けた観客の多くは
このように、がっかりさせられたということなのでしょう。

しかし、最初にも書いたように、ごく一部の「物知りな」人たちには、
この映画はたまらないネタの宝庫であることも事実です。

とくに、ロスアンゼルスの土地と歴史をよく知る出身の人々にとっては、
この映画に映るハリウッドブルーバード、サンタモニカの観覧車など、
ノスタルジアを掻き立てる懐かしいものが満載なのだといいます。

つまり、ねじれたユーモアを持つロサンゼルス出身の歴史愛好家、
という限りなくニッチな層にとってのお宝作品といえましょう。

 

敵として登場していた潜水艦の国の人にとってもしかり。

わたしもまた、この映画における伊潜と三船敏郎の描き方には
細部にまで見入ってしまったわけですが、「ロス愛好家」がそうであるように、
「海軍愛好家」にとっても、この映画は非常に好感が持てるものでした。

もちろん結果的に彼らが全力で攻撃し打撃を与えたと思ったのは、
無人の遊園地であり、アメリカにとってはなんの軍事的損失にもなっていない、
という壮大な「オチ」はありますが、敵であった日本を卑しめたりせず、
彼らを「愛すべきおばかさん」として描きながらも、なんといっても

伊潜攻撃のシーンは実に真面目です。(軍事的に正確かどうかはともかく)

特に三船のカットには特に彼の「名声」を傷つけないようにか、
細心の注意が払われていると感じます。

 

さらにアメリカ人のコメントを読むと、
好きか嫌いか、評価は真っ二つに分かれているようです。
嫌いな人はくだらないといい、好きな人はわかる人にはわかるといい・・。

わたしも好きか嫌いかでいうと、「好き」のほうですが、
じゃあ面白いか?というと(ブログ冒頭に戻る)

いろいろあった評価の中で、わたしが一番自分の感想に近いと思ったのが、
スタンレー・キューブリックがスピルバーグに直接言ったといわれる、

「Great, but not funny.」

でしょうか。

そして、特筆すべきは音楽をあのジョン・ウィリアムスが担当していること。
テンポが良くキャッチーなフレーズは、もし映画がヒットさえしていれば
もっと有名になっていたに違いないと思わせるものがあり、

スピルバーグ本人は

「全ての自分の映画音楽の中で一番好きだ」

と言っていたそうです(が、これはちょっと意地になって言っているような気が)

1941 March Soundtrack (John Williams)

 

というわけで、今回当ブログを読んで映画を観ようと思った方は、
事前にわたしがブログで書いたような、当時の歴史的背景や事件などを
ちょっと頭に入れてからご覧になることをお勧めします。

エンディングは、崩れ落ちたダグラス家上空を空撮したシーン。
ここに心温まる?オチが隠されていました。

ちょうどJOHNのOの字の下に黒い部分があるのですが、
これは、捕獲されたナチス将校、
ヴォルフガング・フォン・クラインシュミット少佐
を連行している一団らしいのです。


伊潜から突き落とされたあと、岸に泳ぎついたんですね。
よかったよかった。

それではこの映画では死んだ人はいなかったんだ。

 

・・・・え〜と。

ちょっと待てよ?

ホリー・ウッドさん・・・この後どうなった?

 

終わり。

 

 

 


映画「1941」はスピルバーグの’黒歴史’か その2

2020-03-22 | 映画

映画史にその名を残さなかった(笑)スピルバーグの「1941」。

その世間的な評価は決して高くないものの、前回から検証するように
この映画には「わかる人にはわかる」隠しネタが散りばめられています。

特にアメリカ人であれば、わたしが今回検証して知ったことだけでなく、
いたるシーンからそれらを簡単に見つけることができるのでしょう。

しかし、1975年当時、この映画を映画館で見た日本人のほとんどは
そういうギミックについて知る術もなく、したがって、
単におふざけと悪ノリのすぎる駄作と評価したとしても仕方ありません。

ただでさえ、英語字幕では、ネイティブならわかるツボが
(笑いに限らず)全く伝わらないのが翻訳物の常なのです。

 

というわけで、前半検証してきて、すっかり映画に好意的になったわたしですが、
それでもアメリカ人にすらそれほどウケなかったという理由について
何度も繰り返して観るうちに(いやこれがなかなか大変で)確信を持ちました。


その一つが、盛り沢山すぎる人間関係と、これなんのために出てたの?的な
キャラクターのあまりに多いことです。

とくに、白人の娘と、彼女の恋人であるダンサー、娘に惚れて
しつこく追いかける戦車中隊の伍長、さらにそれを追いかけ回す女性、
という恋模様は、文字通り物理的に追いかけあうドタバタですが、

見ていて5分で飽きてくること請け合いです。

 

さて、続きと参りましょう。

西海岸ではおりしも、太平洋戦線に投入される兵士たちが
壮行会を兼ねたダンスパーティが開かれることになり、
地元の若い女性がUSOに集められて、彼らの慰安を命じられます。

「ミスなんとか」と呼ばれるマナー講師みたいなおばちゃんが、
女性たちに居丈高に言うには、

「パーティに民間人男性の入場は禁止、女性は全て、
彼らの士気を高めるために貞操観念は捨てること

「好みのタイプじゃない兵隊さんにも優しく微笑むこと」

「下品な人とも上品に会話すること」

「体にタッチされても我慢して踊ること」

文字通りの「女子挺身隊」です。
ヒロイン、ベティは、父親からも遠回しに

「彼らを楽しませてやれ」

と因果を含められて嫌な顔をしたばかり。
彼女には軍人ではない彼氏がいるのですから当然ですね。

 

そこに目を血走らせた兵隊たちが雪崩れ込んできました。
しかし、逆に彼らに目の色を変える女の子もいます。

「あいつら、ウォーキーカーキーだ」

ウォーキーカーキーとは、軍服フェチの女性のこと。
当時、時節柄軍服を着ていれば女の子にモテモテでしたが、
逆に軍人に嫌われるファッションというのがありました。

ベティの彼氏、ウォーリーはめかしたズートスーツ
会場に乗りこむものの、
軍服の群に摘み出されます。

そして喧嘩が始まってしまうのですが、これは、実は

「ズートスーツ騒乱」という歴史的な事件を元にしています。

ズートスーツというのは、ハイウエストで裾の広いカフ付きのペグパンツ、
幅広のラペルと肩幅の広いロングコート、帽子の組み合わせで、1940年ごろ、
アフリカ系、ラテン系、フィリピン系、ヒスパニック系アメリカ人の間で流行りました。

つまり、これを着ているイコールマイノリティということでもあったのですが、
白人系と軍人は、彼らへの差別もあって、非常時に多くの布を使う
この手のスーツを着るのは非国民だと非難し、小競り合いが頻発していました。

そんな1943年6月、事件は勃発しました。

その直前に起こったズートスーツ族(パチュコ)が起こした殺人事件がもとで
ヒスパニック系移民への反感が高まりつつある中、一部の水兵が
パチュコを「制裁」したのがきっかけになりました。

兵士、水兵、便乗した白人がズートスーツを着ている若者を
かたっぱしから引きずり出して暴行を加え始めたのです。

ところが、当時の地元マスコミは、この暴行を非難するどころか、

「クレンジング(洗浄)効果」

と呼び、

「ロサンゼルスから悪党と愚か者を排除するためだ」

と称賛しました。
議員ですら、

ズートスーツは今や愚か者の目印になった」

などといい、ズートスーツの着用も禁止されたのです。

しかし、当時敵国人である日系を収容所に放り込んでいたため、
労働力の多くを安価なヒスパニック系に頼っていたカリフォルニアでは
たちまちメキシコとの関係に困り、さらにはエレノア・ルーズベルトが
事件1週間後に非難声明を出したこともあって、政府は
事態の早急なる収束を余儀なくされます。

中には、どさくさに紛れて、

「これは米国とラテン系の不破を煽るナチスの機関の工作だ!」

という「人のせい」で治めようとした専門委員会もあったとか。

なんでもかんでもナチスのせいにしてんじゃねー(笑)

というわけで、この騒乱が男女の追っかけっこを交えて延々と
続くわけですが、冒頭イラストにも書いたように、
はっきりいってこの人たち、映画そのものにまるっといらなくね?と
わたしなどは思ったりするのです。

 

また、当時は人種差別ネタも今からは想像もできないくらい露骨で、
差別を描くためだけにキャストされたらしい黒人兵は、
白人から顔に白いペンキを塗られたりしております。

今これをやったらどんなことになるのか((((;゚Д゚)))))))
っていうかこれも全然笑えないんですが。

ところで、ジョン・ウェインとチャールトン・ヘストンから断られたという
ジョセフ・スティルウェル少将の役ですが、アメリカ人から見ても
これは似ていると言われているようです。

「ジョセフ・スティルウェル少将」の画像検索結果

いうほどかね、と思ったりしますが、ジョン・ウェインよりは似てるかな。

で、今宵スティルウェルがやってきたのは映画館。
大好きなディズニーのアニメ「ダンボ」を観ようっていうのです。

丘の上からの伝令が、

「山上のマッドックス大佐が(イラストの少佐は間違い)
敵らしい怪しい動きを発見したというのですが」

と伝えても、

「大佐は『マッド』だからな」

の一言でスルー。
いそいそと映画館に入っていきました。

「ダンボ」については全てのセリフを暗記しているほどです。

そして涙を・・・・。

スピルバーグはこのシーケンスをスティルウェルの
回顧録からヒントを得たと語っているそうですが、その映画が
本当に「ダンボ」だったのかどうかは謎です。

しかし、ジョン・ウェインが断るはずだわこの役(笑)

 

さてさて、ズートスーツ騒乱と並んでこの映画の核を成しているのが、
実際に起こった、

「ロスアンゼルスの戦い」

です。
映画館に入る前に、伝令がスティルウェルに伝えたのは

「上空に飛行物体が多数出現した」(かもしれない)

という情報でした。

海戦直後の日本軍潜水艦による通商破壊作戦も功を奏し、
西海岸一帯が、この映画でも随所に語られているように
「第二の真珠湾」に戦々恐々としていた、1942年2月のことです。

ルーズベルト大統領は、もし日本軍が空襲を行なってきたら
大規模な上陸は避けられないとして、ロッキー山脈で、
もしそれに失敗したらシカゴ中西部で阻止することを計画していました。

潜水艦の進入に備え、防潜網や機雷を敷設し、防空壕を作り、
ガスマスクを配布するなどということがなされました。

こうして書いてみると、どう見ても日本の戦力を買いかぶっていた、
としか言いようがないのですが、それだけ真珠湾攻撃とは

アメリカ人に驚天動地の大衝撃を与えたということでもあります。

何しろ西海岸では、遊園地、映画館、ナイトクラブの夜間営業を停止し、
灯火管制まで行なっていたのです。

本作で、最後に子供が照明のスイッチを入れてしまい、
観覧車を含むその辺一帯があかあかと照らされるシーンがありますが、
これは、当時遊園地が営業停止になっていたということを表します。

しかし、そんな厳戒態勢下にもかかわらず、日本の潜水艦による
サンタバーバラ石油施設への十三発の砲撃は実際に行われました。
このとき、アメリカ軍は潜水艦に対してなんらの反撃もできず、
やすやすと施設の破壊を許してしまったといいます。

それが2月23日の夜のことです。

 

翌2月24日夜、未確認飛行物体がカリフォルニア南部で確認され、
連続して警戒警報が発令されました。

海軍のインテリジェンス機関は、10時間以内に攻撃が始まると予想し、
警戒態勢に入りましたが、攻撃はなく、アラートは解除されます。

しかし、翌25日の早朝、陸軍のレーダーは、ロスアンゼルス沖
西120マイル地点に機影を認めた「気」がしました。

0215、対空砲は発射大破準備完了、迎撃機を地上に待機させ、
レーダーは近くターゲットを追跡し、灯火管制を行います。

その後、忽然となぞの物体はレーダーから消失します。
なのになんということでしょう、情報センターには

「敵機来襲」

の報告があちこちから殺到するのです。
例えば、この映画で取り上げられたのは、沿岸砲兵部隊の大佐が

「ロスアンゼルス上空1万2千フィートに敵機約25機」

を発見したというこの時の事実に基づいています。
映画でのスティルウェルは

「ああ、マッドなマドックス大佐か」

と情報を一蹴しましたが実際には迎撃が行われ、

「サンタモニカに気球が襲来し、四連の対空砲が発砲した」

「その際、ロサンゼルスの空気はまるで火山のように熱かった」

という報告がなされています。


しかし、実際にはそれらは全て誤報でした。

戦後になって日本側から、そのころ航空作戦は行われていなかった、
という証言が得られたので、空襲が勘違いだったと実証できたという有様。
今では、サーチライトに捕らえられた対空砲の破裂そのものが
敵機と間違えられたのではないか、ということになっているようです。

全て壮大な疑心暗鬼が作り出した幻影だったということになりますね。
後日、ロスアンゼルスタイムズは写真に「未確認飛行物体が写っている」
として、

「地球外生物、UFOが襲来していたのではないか」

という説を挙げたのですが、これはタチの悪いいたずらで、
素人にもわかる修正が加えられていたのだそうです。

いいのか(笑)

しかし、残念ながらこの騒ぎの渦中、興奮して心不全を起こし、
少なくとも一人が亡くなり、一人が投下管制された暗い道で
交通事故を起こすという悲劇があったそうです。

リメンバーパールハーバー(笑)

さて、ズートスーツ関係の喧嘩はいったん収まりました。

ウィリーは友人のハービーが海兵隊の貸衣装を身に付け、
女の子にモテモテなので、一人の水兵のセーラー服を強奪し、
自分も偽軍人になって堂々とベティとダンスを。

もともとダンサー志望ですから、彼らは注目の的。
そこで天敵シタルスキ軍曹に殴られ、さらに軍服を盗んだ相手に殴られ、

それがなぜか陸軍対海軍の戦いに発展してしまいます。
海兵隊はどっちだったの?海?

さて、こちらは敵機を発見したという山頂の防衛軍基地です。

飛行機に乗ると欲情する元カノ、ドナをその気にさせようと、
スティルウェルの副官は、山頂にあったリベレーターをうまいこといって
ろくに操縦もできないのに借り出すことにせいこう、いや成功。

まさかと思っていたのに本当に飛んでしまいます。

一方戦車隊のダン・エイクロイド演じるトゥリー軍曹は、
USOで起きている喧嘩を止めるために戦車を出動させました。

争乱の最中、トゥリー軍曹はいきなり無反動砲をぶっ放します。
ここのところ、字幕に翻訳されていないセリフを翻訳しておきます。


「なにをやってるんだ!?
トージョーの群れみたいに騒ぐんじゃない!
貴様ら、ヤマモトをホワイトハウスに招待するつもりか?
枢軸の連中はスライムみたいにヨーロッパを這い回ってるぞ!
信じられない、アメリカ人同士が戦ってどうする!
まるでフン族の集まりじゃねーか!」

「勘違いするな!ジャップは決して降伏しない。
彼らの考えがわかるか?
諸君や諸君の家族、母親を、恋人を、ペットを殺し、
世界征服まで殺し続ける!」

「みんな、サンタクロースが好きか?」

「いえ〜」\(^o^)/

「日本人はサンタを信じてない!」

「の〜!」👎

「クリスマスケーキの代わりに生魚の頭や米なんて食えるか?」

「の〜!」👎

「ドイツ野郎(クラウト)はディズニーを信じてると思うか?」

「いえ〜!」\(^o^)/

「え〜と、じゃフランスのブリッツクリークはミッキーマウスがやったのか?」

「の〜!」👎

「ポーランドはプルートがやったか?」「の〜!」👎

「パールハーバーはドナルドダックか?」「の〜!」👎

訳がわかりませんが、演説大ウケ。

何を言っているか全く意味不明だけど説得力だけはある。
こういうのが「カリスマ性」というんでしょうか(棒)

 

ちなみに、実際の撮影の際、これらの騒乱シーンはあまりにも煩くて、
スピルバーグ監督の「カット」が皆に全く聞こえなかったので、
監督はアクションを止めるため、このときの軍曹が手にしていた
プロップ機関銃を、ダン・エイクロイドのようにぶっ放したそうです。

 

続く。

 


映画「1941」はスピルバーグの”黒歴史”か その1

2020-03-20 | 映画

真珠湾攻撃直後、西海岸の住民は一様に、太平洋の向こうから
日本軍が本土に攻めてくるかもしれないと色めきたちました。

ここでもご紹介したことがありますが、サンフランシスコでも
太平洋側に向けて砲台をハリネズミのように設け、

「第二の真珠湾」に備えたものです。

 

本作は、真珠湾攻撃後西海岸に現れ、ハリウッドを攻撃目標にする
帝国海軍の潜水艦、
それを迎え撃つ「ごく一部の」アメリカ陸軍、
たった一人の戦闘機パイロット、
民間防衛に巻き込まれた人々が
上を下へのてんやわんやになるという、
「スクリューボール・コメディ」
(スピンがかかってどこに飛ぶかわからない)
です。

 

 

 

さて、とにかく始めましょう。

映画は「北カリフォルニア」とありますが、一眼で
サンフランシスコとわかる海岸から始まります。
この砂浜に、

「ポーラーベア(シロクマ)スイミングクラブ」

と背中に描かれたガウンを着て車で乗り付ける美女。
ガウンを脱ぎ捨て一矢纏わぬ姿で夏でも冷たい海に飛び込み、
泳いでいると、真下から浮上するのが帝国海軍の潜水艦。

 

泳ぐ美女、海底から現れる怪しい何か。スピルバーグ。

このセットで、あなたはあの映画を思い浮かべるでしょう。
そう、「ジョーズ」です。

美女は海中から持ち上がってきた伊19の潜望鏡につかまったまま
宙に押し上げられてしまいました。

「きゃああ〜〜〜!」

この美女を演じているのはスーザン・バックリニー
何を隠そう、この4年前に大ヒットした「ジョーズ」の冒頭、
最初にサメの犠牲になる女性、クリシー・ワトキンスだった人です。

動物のトレーナーの資格も持っていたという彼女は、
現在はスタント業は引退して、会計士として働いているそうです。

しかし、もう最初っから、自分の作品のパロディを入れ込んでくるなど、
スピルバーグ監督、ノリノリです。

浮上して砲撃の準備までしておきながら、すぐに潜航する潜水艦。
配置についた砲術員たちは口々に、

「なんだ砲撃しないのか」「砲撃しないのか」

兵隊がこんなこと普通いわねーよ。

潜航間際にハッチを閉めようとした航海長は、潜望鏡に抱きついている、
全裸の美女の姿を束の間とはいえしっかり拝んでしまいます。

「ハリウッドー!バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!」

ハッチから引き摺り下ろされ、艦長に頬を殴られても目の焦点が合いません。
なぜハリウッドかというと、艦長の思いつきで、当潜水艦の攻撃目標は、

「攻撃すればアメリカ人の戦闘意欲を削ぐ効果はある」

ハリウッドに決まったばかりだから。

艦長以外の潜水艦乗員役は、何人かを除いて南カリフォルニア在住のアジア系で
ノートによると

「彼らはlaid-back(のんきな、怠け者)で、演技訓練を受けた者は一人もおらず、
軍隊経験のある三船は、とても軍人に見えない彼らの態度に腹を立て、
スピルバーグ監督になんとかしてくれとたのんだ。

そしてその後、かれらは一列に並ばせ、一人を平手打ちにして、
『これが日本人の訓練のやり方だ!』といい、そのあとは問題がなくなった」


今だったら大問題になりそうですが、このとき三船に殴られた人は
結構そのあと自慢できたんではなかろうかと。

 

さて。

これら最初の部分だけ見て、今まで知らなかったけどこりゃ面白そうじゃないか、
と思ったあなた、
わたしも確かに導入部の段階ではそう思っていました。

この後の登場人物も、

ガソリンスタンドにウォーホークで乗り付けてきて、
気に入らないことを言われると銃をぶっ放す飛行機乗り(べルーシ)とか。

飛行機に乗ると激しく欲情する女性ジャーナリストとか。

それを利用して彼女とどうにかなりたい元彼とか。

本物そっくりのスティルウェルとか、どう見ても期待できそうです。

 

しかし、皆さん、そもそもこの映画ご存知でした?

わたしは全く知りませんでした。
監督がスティーブン・スピルバーグ、伊号潜水艦の艦長に三船敏郎、

ダン・エイクロイドにジョン・べルーシが出演、それなのに
この映画の無名なことったら・・・・。

なぜなのでしょうか。


綺羅星のような監督とキャスト、権威に弱いわたしは
何も考えずにこれだけでDVDを購入してしまったわけですが、
一度観て、どうしてこの作品が世間的に無名なのか、

よーくわかりました。

最初に言ってしまいますが、まずギャグを盛り込みすぎ。
さらには、エピソードを盛り込みすぎ。モブシーン長すぎ。

全てがツーマッチで、うんざりしてくる、というのが正直な感想です。

 

しかし、純粋なエンターテイメント作品としての評価を抜きにして
細部をじっくりと眺めれば、そこには、スピルバーグの
荒削りな実験や、冒頭の「ジョーズ」のような自作へのパロディを発見し、
彼のそれまでの作品、その後の作品を知るものにとっては、
宝探しのような面白さが見えてくることもわかりました。

つまり「スピルバーグのネタ帳」という位置付けで観るべき映画なのです。
 

まず、はちゃめちゃな展開に見えて、この映画に挿入されているイベントの多くは、
実際に起こった、歴史に基づく事件から採用されています。

たとえばこれ。

サンタモニカの海岸沿いの一軒家に、突然ダン・エイクロイド扮する
陸軍軍曹と彼の率いる戦車師団が現れて、家主に淡々と申し渡します。

「敵を迎撃するのにあなたの所有地を有利地点と認め、
敵機に対する高射砲を設置して陣地にすることになりました」

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍は実際に一般住民の庭を接収して
対空砲を設置したことがあります。
実際は西海岸ではなく、メイン州だったらしいので、日本軍ではなく
ドイツ軍が空からくることを想定したのかも知れません。

そして、話の核となっている伊号潜水艦の本土攻撃。

真珠湾以降連戦連勝だった日本軍は、1941年12月から翌年春にかけて、
太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた潜水艦による通商破壊戦で、
タンカーや貨物船を10隻以上撃沈しています。

中にはカリフォルニア州沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、
日中多くの市民が見ている目前で貨物船を撃沈したこともあったそうです。

この映画は、真珠湾攻撃後の12月14日から15日までの1日を描いていますが、
同じ頃、日本軍は実際に複数の潜水艦で一斉砲撃作戦を計画していました。

ただし、この作戦は、上層部の

「クリスマスくらい静かに過ごさせてやれ」

との意見で中止されたそうです。

翌年、1942年2月23日午後7時、「伊号第一七潜水艦」が、
サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃作戦を行いました。

これはアメリカにとって、1812年戦争以来、30年ぶりに本土に受けた攻撃であり、
住民の受けた衝撃と恐怖は大変なものであったといいます。

高射砲を置かれた家の子供がこんなマスクでスープをすすっていますが、
真珠湾直後のアメリカ人は、子供やペット用のガスマスクまで登場し、
有事に備えたという記録があります。

この頃はまだ第一次世界大戦の記憶が新ただったということでしょう。

それから、前半のデパートのシーンで、警報のような音(何かのモーター音)
が鳴っただけで、一人が

「ジャップス・・・ジャアアアアアアーップッス!」

とパニックを起こすと、デパートの客が騒乱状態になりますが、
これも実際に起こった騒ぎを元にしているということです。

さて、帝国海軍の潜水艦には、なぜかナチスドイツの将校が
見学のために乗り込んでおり、なにかというと口を挟んでくるので、
艦長以下日本人乗員たちに煙たがられております。

この役をしているのがクリストファー・リー。
ドラキュラ伯爵の役で有名になったイギリス出身の俳優ですが、
この映画では全編を通じてドイツ語を喋りまくっています。

90歳まで現役で俳優を続けたリーですが、語学に関しては
ドイツ語、フランス語、スペイン語は非常に堪能、
そのほかにもスェーデン後、ロシア語、ギリシャ語ができたそうです。

字幕ではリーのドイツ語はほとんど翻訳されないのですが、
ミタムラ艦長が「ハリウッドを攻撃する」といったとき、

「ハリウッドは海から遠い」

とドイツ語で言ったあと(ここだけ翻訳される)

「ワカリマシタカ?」

と日本語で付け足しております。

三船とリーの会話はドイツ語と日本語で、三船も同じように
語尾に時々ドイツ語を加えていますが、その会話が
普通に通じているらしいのが実にシュールです。
これは設定として、

「互いの言語を使うと、互いに『面子を失う』から」

ということにしてあったようです。

 

さて、帝国海軍潜水艦、ハリウッド攻撃を決めた途端に
折り悪しくも航法装置が壊れてしまい、水も漏れてきました。

ミタムラ艦長は激昂し、

「キャプテン・クラインシュミット!
貴官の国は一体なんという潜水艦を我々に売りつけたんだ!」

するとクラインシュミット、

「本艦の計器は全部スイス製である。問題は乗組員だ。
ドイツではヒトラーユーゲントでも10歳までに簡単な羅針盤くらい扱える。
諸君は本国に帰って、あとは第三帝国に任せろ」

ミタムラ「アメリカ本土を攻撃するまでは断じて本国へは戻らん!
航海長!上陸班を編成してハリウッドの現在位置を確認せよ!」

クラインシュミット「艦長、頭は大丈夫か?」

「わたしの部下はいずれもサムライとニンジャの子孫だ。
捕まるようなヘマはせん!」(キリッ)

変装して上陸記念に写真撮影。

「チーズ!」「ちいいいいいいーず」

 

アメリカにはクリスマス用にツリーをファームで育て、
シーズンに売る
専門のファームがあります。

夏の間通りかかると、30センチくらいの小さいものから
年代物の大きな木まで、各種育てているのを見ることができます。
11月終わりから1ヶ月間の商いで業者が1年食べていけるというくらい、
アメリカでは生木を飾るのが普通の習慣になっています。

 

今回潜水艦乗員が扮したのはツリーファームのもみの木でした。

そこにやってきたのがツリー農場のオーナー、ホリス・’ホリー’・ウッド。
斧で切り倒そうとしたツリーに逆襲され、助手席のラジオもろとも
潜水艦に拉致られてしまいます。

Pine Woodも「ハリウッド」と読んでしまう英語力の日本人乗員は、
Hollis ’Hollie' Woodというトラックの名前を見て

「ハリ・・・・ウッド。ハリウーーーーッド!」

「バンザーイ!バンザーイ!」\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )/

とっつかまったホリー・ウッド氏、一人のアメリカ国民として
敵に情報を一言ももらさじとがんばります。

「ソーシャルセキュリティナンバーなら教える!106・・・」

SSNは事実上の国民総背番号で、身分証明にもなります。
外国人にも与えられるので、うちも滞在中は持っていました。
そんな番号を日本軍が知っても何の意味もないわけですが。

そこでミタムラ艦長がおもむろに英語で、

「Where Hollywood?」

三船はここで簡単な英語をしゃべっていますが、実際には
話すことはまったくできなかったようで、自伝によると
後年、自分が英語を勉強しなかったことを後悔していたそうです。

それに答えて、ウッドが

「 Right here. ここだよ」

「What? 何?」

「You're looking at him. だから俺がそうだ」

「Who? 誰が」

「I'm right here.だからここにいるって。
Shoot, can't ya understand plain English?
チッ、簡単な英語もわからないのかよ」

中略

「Look.  Where Hollywood? South? North?
見ろ。ハリウッドはどこか?北か、南か」

「あーハリウッドか。ハリウッドの場所を知りたいのか。
そりゃ簡単だ、ハリウッドは・・・・いや、教えねえよ!
また真珠湾みたいにやるんだろ?
ジョン・ウェインの家を爆破するつもりか?」


ちなみにジョン・ウェインには最初スティルウェルの役がオファーされ、
特別出演を引き受けていましたが、台本を見せると病気を口実に断ってきました。
そして断りの電話でついでのように、

「この映画はやめておいた方がいいんじゃないか」

と進言したそうです。
そのときスピルバーグは、

「こんなものはアメリカ映画じゃない、作るだけ時間の無駄だ。
真珠湾では何千人も死んでいるのに不謹慎だ」

とまでいわれた、と述懐しています。

ここでセリフに「ジョン・ウェインの家」がでてきたのは、
ちょっとしたスピルバーグの意趣返しだったかもしれません。

 

さて、ヒーロー、ホリー・ウッドが

「拷問するならムチでもローソクでももってこい!」

見栄を切ったそのとき、タワーのラッタルを降りてきたのは
ナチス将校、ヴォルフガング・フォン・クラインシュミットでした。

拷問・ナチス・スピルバーグ。

これらから連想される、ある映画のシーンに思い当たる方はいませんか?
そう、「インディアナ・ジョーンズ・失われたアーク」で、
こんなシーンがありましたでしょ?

「indhiana jhones Nazis  toture」の画像検索結果

シャキーン。

実はこのアイデアの初出は、このときでした。
フォン・クラインシュミットが冷酷な顔つきで取り出した杖。
皆が息を飲むと、彼はそれを引き伸ばしてハンガーにし、
自分の上着をかける・・・・。
こんなシーケンスが撮影されていたのです。

結局ボツになったのですが、スピルバーグはこのギャグを捨て難く、
後年、インディアナ・ジョーンズでお蔵から出してきたというわけです。

 

「ジーザス・パロミノ!ナチだ!わかったぞ!お前らグルだな?」

いや、グルも何も、わたしら同盟国だったりするんですが。
「パロミノ」(Palomino)というのは栗毛の馬のことですが、
よく聞くと何度も言ってますので、このおっさんの口癖なんでしょう。

「ミスター・ハイニ・クラウト!(ドイツ野郎)
前の戦争ではお前らをさんざん痛い目にあわせたった!ざまーみろ」

「ハイニ」はアメリカ人の思うところの典型的なドイツ人の名前、
「クラウト」は「U-571」でも出てきたように「ザウワークラウト」です。

 

続いて行われたウッドの身体検査で、キャラメル味のポッパージャックの箱から
オマケの小さなボタン型磁石がでてきました。

「うむ・・・十分使用に耐えるな」

「これでハリウッドに行けるぞ!」

「バンザーイ!バンザーイ!」

ところが、これはいかん!とウッドさん、隙をついてそれを
飲み込んでしまいました。

乗員はウッドに無理やり下剤を飲ませて強制排除させようとするのですが、
そのとき彼に、

「もしもしかめよ〜かめさんよ〜」

と歌いながら下剤をかける士官が、俳優の六平直政そっくりです。

ね?

でもこの映画のとき六平直政はまだ15歳なのでそんなわけはないか・・。

それからもう一つ。
ホリー・ウッドの車から奪ってきた大きなこのラジオ、
どう頑張っても潜水艦のハッチから中に入りません。

そこでこの乗員が日本語では

「図体もでかいがラジオもでかいなあ。
誰が作ったんだこんなラジオ・・」

といいますが、英語の字幕ではこうなっていたそうです。

”We've got to figure out how to make these things smaller! "
「こういうのを小さくする方法を考えないといかん!」


日本が戦後、世界の市場を席巻することになる、
トランジスタラジオのアイデアが生まれた瞬間であった。

てか?

 

続きます。

 

 


サンフランシスコ 海洋哺乳類保護センター〜プラウシェアの剣

2020-03-18 | アメリカ

今日はアメリカの話なのでついでにご報告しておきますと、アメリカ人が
コービッド(COVID)-19と呼ぶところの新型コロナ肺炎の広がりに伴い、
非常事態宣言が出されると同時に、息子の大学でも学校閉鎖となり、
即刻寮から退出して23日から始まるインターネット授業に備えること、
というお達しが出ました。

家族でスカイプ会議した結果、カリフォルニア在住の彼の友人が
家に来るように誘ってくれたので、お言葉に甘えることになりました。

5月までの2ヶ月、試験もオンラインで行うそうですが、どうなることやら。

 

さて、今日はサンフランシスコで訪れた隠れた観光名所?をご紹介します。

その日わたしはアメリカ在住の友人とサンマテオで待ち合わせし、
まずお昼を食べることにしました。
中国系がやっているインチキジャパニーズの類ですが、ちょっと珍しい
しゃぶしゃぶの専門店です。

お店の名前は「SHABU-WAY(シャブウェイ)」

この日は私の車でゴールデンゲートまでいくことになりました。
途中でわたしが昔住んでいたタウンハウスが見えてきます。

広大な敷地に町一つが全部業者の管轄なので、
いつも絶え間なく入居者募集をしているのですが、
今回はまた一段と広告が派手になっていました。

わたしが住んでいた頃でも家族用が二千ドルだったのだから、
今はもっと値上がりしているだろうし、きっと入り手ないんだろうなあ。

今日の目的は、ゴールデンゲート国立保養地です。
以前ナイキサイトというナイキミサイルの基地跡をご紹介しましたが、
ナイキミサイルサイトはちょうど画面の上側に位置します。

この写真で橋のように見える部分は砂州で、ロデオビーチといいます。
ロデオ・ラグーンを望む山の上にやってきました。

今日の目的はここ、「マリーン・ママル・センター」。
海洋動物センターです。
インターネットで見て一度来てみたいと思っていたのです。

海洋動物センターは、ナイキミサイルサイトと違い、
基本的に休みなしで営業しています。
民間の非営利団体ですが、会員からの寄付とボランティアで成り立っており、
内部のツァーで得られるお金は運営のために不可欠なのです。

センター創立は1973年。
海洋哺乳類、およびその環境についての研究を行っていますが、
メインは負傷、病気、放棄された海洋哺乳類を保護し、手当てして
リハビリ、そしてリリースすることが大きな目的です。

入り口でお迎えしてくれるのは巨大なゾウあざらしの実物大模型。

寄贈される作品も海洋哺乳類の姿を象って。

鯨の背骨や、頭蓋骨、首の骨がさりげなく転がっています。

 

ツァーの案内をしてくれれるボランティアはローラさん。

案内ツァーが始まりました。
ここは水族館ではないので、入館する、イコールツァーなのです。

当センターの使命の一つに「教育」があり、海洋哺乳類と人間の関わりや
彼らの命を脅かすもの、そしてどのように傷ついた生物を確保し、
自然に返すかということについてのレクチャーを行うのです。

まずボランティアの解説員が皆を連れて行ったのが、漁網で作った
「ゴースト」でした。

ベイエリアのアーティストが作ったという「ゴーストネットモンスター」。
驚くなかれ、これらのネットやロープは、全てクジラが飲み込んでいたものです。

プロジェクト・カイセイ(Project KAISEI)=海星

という日本語を取った、海洋ゴミ対策をおこなう組織が、
鯨の体内から回収しました。

ボランティアは、アザラシの毛皮を持ち出しました。

子供を選んで持たせ、手触りや重さなどについて感想を言わせます。

ついで、通報を受けて海洋センターがかけつけ、
浜辺にいる傷ついた海洋哺乳類をどうやって確保するか、
ぬいぐるみを使って実演してくれました。

「レスキュー中」と書いたシールドのようなものをもって取り囲み、
何人かで追い詰め、ケージの中に逃げ込むようにするのだそうです。

その際、できるだけ人の姿を後ろに隠すのがポイントです。

捕獲すると、病棟に入院させるわけですが、
かならず彼らには識別のために名前がつけられます。

このイルカ「ベーカーB」は、回復後衛星トランスミッターを
装着されてリリースされました。
彼はその後ロスアンゼルス沖のチャンネル島付近で、
100頭以上のイルカの群れに混じって泳いでいるところを
確認されているのだそうです。(´;ω;`)

患者になった動物にはタグが装着されるのですが、
どの動物にはどんなタグをつけるのか、
ゲーム形式で学べるコーナーです。

単三電池そのものに見えますが、こんなの付けてだいじょぶなの?

4種類のタグをそれぞれベルクロで正しく写真にくっつけましょう、というゲームです。
冗談のようですが、アザラシには頭の上につけます。
どうやってつけるんだろう・・・。

カリフォルニアアシカのフェアリーさん♂。
カメラ目線です。

サンタクルーズのヨットクラブで釣り針を口に引っ掛けているところを
見つかり、さらに肝臓にレプトスピラ菌が感染していました。

そこで捕獲され、入院となったそうです。

レプロスピラ菌にかかった動物は抗生剤を投与して治します。

また、水分補給と電解質の補充を助けるために
皮下注射なども行われます。
いちばん下は感染たアシカに新鮮な水を与えているところ。

また、このバクテリアは人にも感染するので、スタッフは
防護服を着たり、接触の前後に入念な消毒を行なっています。

頭の上に認識タグをつけられたアザラシが可愛すぎる。
彼らがここにくることになるきっかけは

「育児放棄された」「栄養失調」「いじめ」「犬に噛まれる」

などです。
カリフォルニアのハーバーシールだけが斑点を有しているとか。

また、育児放棄された子アザラシを見つけたら、決して触らずに
距離を保って24時間いつでもホットラインに電話してください、
と電話番号も書いてあります。

この向こうに「病棟」があるので、静かにしてください、という看板。

周りに、入院している患者の写真と、「VICTEM」(犠牲者)という文字、
そして「叫び声に対するトラウマ」「飢え」「迷った」「孤児」「怪我」など、
収容されるにいたった直接の原因とともに、

「アダプト・チッピー!」「アダプト・レオ!」「アダブト・ポピー!」

「アダプト」は普通に養子にすることですが、この場合は
指名制で寄付を募っているわけです。

病気の哺乳類を捕獲することもあります。
レプロスピラ菌の感染は治せますが、ガン(左から二番目)はどうでしょうか。
当センターの研究によると、動物のガンも遺伝からくるものや
あるいは環境汚染からくるものがあると考えられ、
カリフォルニアアシカの17%がこれで減少したと考えているそうです。

そしてヘルペスですが、ストレスがきっかけになることが多いので、
人との接触やその他のストレス要因をへらすことで、
ウイルスが健康に与える影響を減らすことができます。

そしていちばん右はドモイン酸中毒
海藻によって発生する中毒で、それを食べた魚を食べると
アシカの脳にダメージが起きるのだそうです。

「ヒューマンインパクト」も彼らの脅威です。
赤丸で囲まれたのはゴミが首に巻きついてしまったアザラシ。
紐やロープ、ネットなどが絡みついたら彼らは自分で取り外すことはできません。

また、真ん中のレントゲン写真は、散弾銃で撃たれたアシカです。
そんなひどいこと、とお思いになるでしょうが、かなりの頻度で起こっています。

また、排水から海に流される不法投棄の薬品やオイルなども
生態系に大きな悪影響を与えています。

 

ツァーは室内に案内されました。
ここは清潔な状態で患者のための餌を調合する「キッチン」です。

ときには自分で魚を捕まえることもできないくらい弱っている
患者のために、流動食を導入する方法も取られます。

人間と同じですね。

そして病棟を見学・・・なのですが、ここは動物園ではないので、
入院患者を近くで見ることはできません。

黄色くペイントされたプールのある病室一つにつき患者一頭。
空いている病室もたくさんあります。

たまたまいちばん手前に入院している患者がいましたが、
ご覧の通り、ネットのフェンスが邪魔で写真の撮りにくいこと。

もしかしたら顎の下を怪我しているのかもしれません。

寝ているだけかもしれませんが、病人?と思ってみれば
元気がなさそうにぐったりしているように思えてきます。

早く元気になれよ〜。

この展示は当センター管轄の手術室を再現したものです。

この展示で初めて知ったのですが、この手術室は、
「サラ・ハート・キンボールサージェリーセンター」といって、
以前ご紹介したナイキミサイルサイトのあった陸軍用地の
使われていないかつての兵舎の一角を利用しているのだそうです。

海洋生物に対する専門のスタッフは、ここで小型大型の
アザラシやオットセイなどの手術を臨機応変に行います。

右下の写真はアザラシが脳波測定をしていますが、しばしば
彼らに対する治療には人間のメソッドが使われます。

土産物ショップもあります。
ショップにラッコのぬいぐるみが、と思ったら剥製でした。

これらの剥製は、自然死した動物のものです、と断っています。

当センターのボランティアがどんなことをするのか、
それを知ってぜひ参加してください、という募集を兼ねています。

右側は、海洋哺乳類を捕獲する方法を実習で学んでいるところ。
病院に搬送したり、世話をしたりといった方法も教えてもらえます。
今日のガイドのように、解説をするという仕事もあります。

ボランティアにとっていちばん嬉しい瞬間は、快癒した動物を
リリースするときでしょう。
その瞬間を見ることができるだけでも、ボランティアに参加する
意義を感じる人は多くいるに違いありません。

現在ボランティアは800人が登録しているそうです。

出口にあった寄付金箱。

出口で手を振ってお見送りしてくれているポスター。
実物が可愛いの下手なイラストなんか必要ありませんよね。

さて、建物を出たところにあっと驚く情報がありました。
ここ海洋哺乳類センターの敷地は、かつてナイキミサイルサイトだったのです!

対岸に今でも一つ残されているナイキミサイルサイトのご紹介をしたことがありますが、
ナイキミサイルは冷戦のために約20年間ここに設置されていました。

冷戦終了後の1972年、ミサイルサイトは稼働を終了し、
3年後に跡地にこのセンターを開設したというわけです。

本日タイトルにした、

「プラウシェアの剣」

という言葉は、ここから取りました。

「剣を叩いて鋤(プラウシェア)に変えよ」

という預言者イザヤの命令 (イザヤ書第2章4節)の言葉で、
兵器・技術の軍需が平和的な民間の用途に変換される軍民転換のことです。

ミサイル基地の跡地を転用して動物たちの命を守る、
究極の平和的な施設にしたということが言いたいようですね。

何度も訪れていながら、わたしも友人もこの存在を知りませんでした。
すっかり満足して、ポイント・ボニータをドライブして帰ろうとしたら、
週末ということでこの混雑です。
前の車は全く列が動かないのをいいことに外に出ています。

やっと渋滞を抜けると、サンフランシスコと反対方向はガラガラ。
夕暮れの道を走り、かつての戦跡に友人を連れて行って見せました。
日米間が緊張していた頃に作られた防空壕です。

誰もいないピクニックエリアを通り過ぎようとしたら、
みたことがないけだものが二匹遊んでいるのを見つけました。 

「なにあれ?」

「コヨーテかジャッカルかな・・・」

「イヌ科には違いなさそうだけど・・・・」

なんとなくコヨーテに違いない、ということになったのですが、
わたしと友人はその姿にうっとりとしてしまいました。

「綺麗だねえ・・・・」

わたしたちが車を止めて車窓から見ているのを知っているのに、
彼らは悠然として毛繕いなどしています。

後から、北アメリカにはジャッカルはいないことを知り、
これがコヨーテであることが確定しました。

彼らは肉食で、ネズミやウサギ、プレーリードッグ、そして
時々は魚も獲って食べ、雑食でもあります。

ピクニックエリアをうろうろしていたのは、もしかしたら
人間の残した食べ物を狙ってやってきたのかもしれません。

コヨーテは犬のように遠吠えするそうです。

海洋哺乳類センターのあとコヨーテとの遭遇。
野生動物についてなにかと縁があった一日でした。

 

この日の夕日が太平洋の水平線に沈んでいきます。

 


「ヨークタウン」に描かれた「赤城」の航空標識〜エンパイアステート航空科学博物館

2020-03-16 | 軍艦

いよいよESAMの「赤城」模型シリーズ最終回です。

「赤城」ルームのガラスケース展示をまずご紹介していきます。
これは状況的にどうみても真珠湾攻撃真っ最中ではないでしょうか。

こういうシーンを第二次世界大戦50周年記念のポスターにする、
というセンスはいかがなものかという気もしますが、
まあ要するにリメンバーパールハーバーってことなんだと思います。

右側にチラッと見える解説によると、炎上しているのは
「ウェストバージニア」と「テネシー」ということです。

ということはその前に展示してある模型はそのどちらかだと思うのですが、
わたしには見分けがつかないので鑑定はあきらめます<(_ _)>

絵の両側に祀られている砲弾形状のものは、

エアクラフト・フロートライトMk.4

第二次世界大戦中に使われていた水上用の信号ミサイルです。
軍用機などから投下され、位置を知らせるための
フレア&スモークシグナルです。

この写真ではわかりにくいですが、素材は先端がメタル、ボディは木製です。

説明がないのでわからないのですが、迷彩塗装の日本機があることから
どこか南方の日本軍基地(小屋の前には国旗が揚っている)でしょう。

なかなか力作ですが、なんのために作られたのでしょうか。

ボーイングB-29スーパーフォートレスです。

「太平洋戦にはテニアン、サイパン、グアムから出撃し、
低空から焼夷弾を落とすなどの戦略に用いられた。
B-29は広島と長崎に原子爆弾を落とすことで
都市と産業に壊滅的な打撃を与え、そのことが
1945年8月に
戦争を終わらせることになった」

その夜間攻撃と2都市への原爆投下で失われた民間人の命については
全くなかったかのようなこのシラの切り方、いや淡々とした記述。

スミソニアン博物館で起こったB-29「エノラ・ゲイ」の展示をめぐる騒動で、
こと原子爆弾についてはどこの博物館も異様なくらいディフェンシブになり、
このような態度に終始するしかないのも、またアメリカという国の一面です。

そしてなぜか唐突に現れる日本降伏調印の後の記事。
1945年9月2日付けサンフランシスコエグザミナーという新聞のものでもので、
まずヘッドラインは

「日本降伏調印;
マッカーサー指揮を執り完全なる応諾を要求」

その下に、

「裕仁正式に我が国のルールに屈する」

左の写真は、捕虜になっていた痩せさらばえたアメリカ軍人を
カメラの前で抱擁して見せるマッカーサー。

捕虜の名前はジョナサン・ウェインライト中将
タイトルに「リユニオン」(同窓会)とありますが、
彼はウェストポイント出の将官でフィリピンにおけるマッカーサー将軍の
補佐を行っていた人物です。

1941年12月に始まった日本のフィリピン侵攻に対し、連合軍は、
バターン半島とコレヒドール島に撤退することになりました。

その後マッカーサーが敵前逃亡し、 オーストラリアで

"I shall return." 私は必ず帰ってくる

という有名な負け惜しみを言ったわけですが、マッカーサーの後を
引き継いでフィリピンの連合軍司令官になったのがこの人でした。

 5月5日、バターンに続き日本軍はコレヒドールを攻撃したため、
ウェインライトは人員の損失を防ぐため日本軍に降伏します。

このときの彼の選択は、もしマッカーサーが敵前逃亡しなければ
彼に委ねられていたはずのものだったってことですわね。(ここ注意)
もしかして、その後のウェインライトの運命もまた、
マッカーサーが負うものであったかもしれないと言うことでもあります。

 

コレヒドールで降伏後、ウェインライトは日本軍の捕虜となります。

アメリカ人は彼の痩せ細った姿から、日本軍が将軍すら(中将)
ちゃんとした扱いをしなかったということで、もう怒り心頭でした。
この新聞の記事でも、

「ジャップはアメリカ軍の将軍を拷問した」

という見出しになっています。
トーチャーといっても、「憲兵とバラバラ死美人」の憲兵隊みたいに、
逆さ吊りにして水責めというようなものではなかったはずですが、

アメリカ人はウェンライトがこれだけ痩せてしまったことをもって

「拷問されたも同じだ!将軍なのにろくに食べ物も与えずに」

と怒っている訳です。

しかし、わたしがここで言い訳してもしょうがないのですが、
ただでさえ食料がなかった太平洋の基地で、日本軍の捕虜になっていた人が、
これだけ痩せていたってなんの不思議があろうか、って思いません?

だいたいウェンライトの元々のあだ名って「スキニー」ですよ?
もちろん中将ともあろう人に、ろくな食料も(出したとしても日本食なので
あまり太れなかったと思うけど)与えなかったことはお詫びするしかないですが、
この人、もともとこんなあだ名がつくくらい痩せていたってことですよね。

 

さて、「ミズーリ」における降伏調印式では、誰が仕組んだのか
(わたしはアメリカのマスコミだと思う)ウェインライトを連れてきて

わざわざマッカーサーと対面させたわけですが、これだって、
両者の因縁関係を考えればどうなのよという気がしないでもありません。

だいたいがマッカーサー自身、敵前逃亡についてはウェンライトに対して
かなり疚しく思っていたはずなのです。
「アイシャルリターン」も結局口だけ番長になってしまったわけですし。
ましてやウェインライト中将の方が、内心

「おめーがオーストラリアに逃げたおかげで俺は酷い目に」

と恨み骨髄であったとしてもなんの不思議がありましょうか。

周りの人間が何を期待してこの二人を会わせたのかわかりませんが、
(おそらくヘッドラインの写真を撮るためだけだったと思う)

それでも記事に残されているこのときの二人の会話からは、
これらの邪推が
当たらずとも遠からずではないかと思えてきます。

”Hello, Jim, I'm grad to see you."

”Good to see you,too."

なんですかこの英語教科書の最初のページみたいな会話は。

 

ウェインライト中将は自分が降伏したことをずっと恥じていたそうです。
(ね?こんな人がマッカーサーの敵前逃亡をよく思う訳ないですよ)

そして「国民を失望させた」と、捕虜生活中忸怩としていたのに、
ここにきて、あなたはアメリカの英雄だと言われてもうびっくりですよ。

マッカーサーもまたそんなウェインライトを英雄として称えるかのように
彼を抱き抱えているわけですが、こういう事情を踏まえたうえでもう一度見ると、
ウェインライトはどちらかというとマッカーサーの態度に戸惑っているようです。

古狸の彼はおくびにも出さなかったでしょうが、マッカーサー、
実はウェインライトが捕虜になった1942年、

彼に捕虜のまま叙勲するという案に、激しく反対

しているのです。

なぜか。

反対の理由は、コレヒドール降伏は失敗であり、その責任は
全て指揮官が負わねばならないのだから、叙勲などとんでもないというわけです。

こうして叙勲案はマッカーサーその人の拒否が理由で中止になりました。

 

おそらく救出された後、ろくに栄養状態も回復しないまま
「ミズーリ」艦上の調印式にに引っ張り出されていたウェインライトは、

マッカーサーが自分の失敗を詰り、叙勲を握り潰したことも知っていたはずです。

それならば、そもそも早々に敵前逃亡したくせに、とか、
フィリピンの責任を押し付けてきた張本人が
どの面下げて、
ぐらいのことは目の前の男に対して思ったに違いありません。

終戦後、ウェインライト中将にもう一度叙勲の案が持ち上がります。
マッカーサーは当然ながらこれに反対せず、
何食わぬ顔でウェインライトを祝福しました。

 

真珠湾関係の展示が中心のはずのこの部屋に、なぜか
朝鮮戦争で名誉の戦死を遂げたアフリカ系航空士官、

Jesse Leroy Brown (ジェシー・リロイ・ブラウン)
1926-1950 

を顕彰するケースがあったりします。
ブラウンはアフリカ系とチカソー、チョクトーを祖先に持つ、
紛れもないマイノリティであり、そんな中から初めて誕生した
近代プログラムによる訓練を受けたパイロットでした。

苦学しながらオハイオ州立大学で優秀な成績を収めたかれは、
米海軍航空隊に入隊し、訓練を受けて航空士官の道を掴みます。

朝鮮戦争開始後、コルセアのパイロットであった彼は、
中国軍に捕虜になっていた米海兵隊を救出する作戦に投入され、
6機編隊でチョシン貯水池に出撃しました。

任務は3時間にわたるサーチ・アンド・デストロイです。

任務中、彼のコルセアは地上からの小火器の攻撃を受け、
機を制御できなくなった彼の機は谷に激突しました。
機体は衝撃で破壊され、彼は脚を機体の一部に挟まれて動けなくなりました。

上空を旋回してその様子を見ていた彼の列機のうち、
トーマス・ハドナー・Jr.は、自分の機をあえて激突地点に墜落させ、
戦友の体を機体から引き出そうと試みました。

そのうち連絡を受けた救助ヘリが到着し、痛みで意識の朦朧とした
ブラウンの「脚を切ってくれ」という頼みを実行しようとさえしましたが、
ハドナーとヘリパイが45分にわたって行った救助活動も虚しく、
日没になり、現地に彼を置いていくしか方法はありませんでした。

意識を失う前に彼が最後に言った言葉は、

「デイジー(妻)に愛していると伝えてくれ」

だったそうです。

現地を引きあげたハドナーは、ブラウンの救出の継続を
上司に頼みますが、ヘリの不安定さを理由に許可されませんでした。

零下9度の山頂では生存している可能性もなかったからです。

彼が確実に死んだとされる二日後、米軍は機体が敵の手に渡ることを
防ぐために、彼の体ごと上空からヘリをナパーム弾で焼却しました。

パイロットは上空からブラウンの身体が炎に包まれるのを報告し、
主の祈りを無線で唱えたといわれています。

その後、彼の遺体も、機体も、回収されないまま現地に残されました。

仲間を救うために現場にコルセアで勇気ある着陸を行った
列機のハドナーは、ブラウンの遺骨を墜落現場から回収するために
2013年になって平壌を訪問しています。

(交渉中のハドナー:右)

驚いたことに、北朝鮮当局はこれを許したそうです。
その際彼は、天気が予測可能な9月に行うようにと言われています。

 

さて、それでは「赤城」模型の残りの写真をご紹介していきましょう。
展示は「真珠湾攻撃に向かう途中」という設定なので、
艦尾には深夜につける赤灯と、グリーンのライトも見えています。

プールを実際に航行させて撮影をしているので、これは模型でありながら
実際の船と同じ機能を持っているのがすごいところです。

小さな船を糸で引っ張って特撮するなんてのと訳が違います。
言うてみれば10mのフルハルバージョンですな。

流石に喫水線の下までは映らないので、
微妙に(というかコメント欄によるとだいぶ)
本物とは違うようですが、結構いい線いってますよね。

ちなみに黄色いのは電気コードです。

はえ〜こんなところまで。
艦尾下甲板の銃マウントはもちろん、舫杭など
細部まで抜かりなく再現されています。

これは艦尾側に立って航空甲板の高さから撮ってみました。
「赤城」航空甲板は後部で下に向かってカーブを描いています。

そのままカメラを下に向けるとこのような眺めが広がっています。
一番左のボートがデリックにかけられているんでしょうか。

小さな階段まで再現されています。

この写真を点検し、以前いただいたコメント欄での御指南により、
あらためて空母の作業艇の運用についてわかりました。

制作には当時のお金で1000万円かかったということですが、
総製作費が25億円のなかでまあなんてことはないかなと(笑)

ちなみに興行収入は14億5千万くらいだったそうで、完全に赤字です。

そしてさすが、視覚効果賞でアカデミー賞を獲得しています。
完全に模型と特撮チームの獅子奮迅の努力に対する評価です。

ところで、映画劇中でもアップになっていたこの艦橋ですが、
最初の段階で何かおかしいと思ったあなた、あなたは素晴らしい。

実は模型ファンであればとっくにお気づきだと思いますが、
「赤城」の艦橋は左舷側にあるはずなのに、この模型では
堂々と右舷側に存在しているのです。

その理由は、聯合艦隊の航空母艦『赤城』艦上のシーンの撮影を
なんと退役直前の本物の空母「ヨークタウン」上で行ったからです。
(ついでに『エンタープライズ』のシーンも使い回しした)

「ヨークタウン」の艦橋が右舷にあったため、模型も
同じようにするしかない、とフォックス制作部では考えたのでしょう。

しかしそんなところで整合性を取る必要って果たしてあったのかな。

世の中に、果たして「赤城」甲板でのシーンでは右に艦橋があるけど、
聯合艦隊航行のシーンでは左に変わっている!と気づく人って
どれくらいいると思います?(多分わたしも初見では気づかないと思う)

そもそも映画のこのレベルの矛盾シーンなんていくらでもあるんだから、
それなら模型を史実通りに作った方が良かったんじゃないかって気がします。

ちなみにこちらが映画出演時「赤城」に扮した「ヨークタウン」。
みなさん、甲板に描かれた「線」をよく見てください。

飛行甲板の前部に、日本海軍空母の特徴の一つである風向標識が
映画撮影のために同じように描かれたときにとられた写真です。

しかし、実際の空母と比べるとなんだか飛行機のアス比が随分違うような・・・。

模型展示でも探照灯が点いています。
これは艦橋のシーンで探照灯をつける瞬間があったからで、
映画では艦橋にちゃんと人が並んでいました。

ここでは誰もいないのに探照灯だけが点いているという
怖い状態になっています。((((;゚Д゚)))))))

というわけで、お話ししてきた模型「赤城」のシリーズは終わりです。
熱烈な模型ファンの方、ニューヨーク北部にいくことがあれば、
ぜひこの航空博物館に脚を伸ばして実物を見てください。

オルバニー国際空港からなら車で20分くらい、
ニューヨークJFK、ボストンからはどちらも3時間くらいです。

ちょっと現地まで大変ですが、実際に行ってみる価値は大いにあると思います。

 

続く。

 


「汚名として残る日」〜空母「赤城」模型・エンパイアステート航空科学博物館

2020-03-15 | 歴史

エンパイアステート航空科学博物館、ESAMに展示されていた
空母「赤城」の模型が、あのフォックス映画「トラ・トラ・トラ!」で
真珠湾に向かう聯合艦隊のシーンを撮るために制作されていたこと、
そして、当時の映画会社の特撮にかける情熱について、初めて
現地にあったミリタリー雑誌の記事を通して知ることができました。

ここであらためて聯合艦隊航行シーンを観てみましょう。

Tora!Tora!Tora! model boat scene compilation

CGのない時代、模型と特撮でこれだけやってしまえるのはすごい。
流石にアメリカ、国力がありすぎです。

それと、とにかく聯合艦隊がかっこよすぎで、アメリカでは議会で

「日本軍の卑劣な攻撃を賛美しているように見える」

という文句が出て関係者が言い訳したなんて後日譚にも納得してしまいますね。

というわけで、アメリカではお金をかけた割には収益が上がらなかったので、
その徹を踏まないように、後日制作された「ミッドウェイ」では、
アメリカ人のプライドに水を差さないような配慮がなされました。

「トラ」では日本軍人の描き方もかっこよすぎで不愉快だったらしく(笑)
「パールハーバー」などでは彼らが醜悪に見えるように、そして
日本軍が滑稽に、前近代的に見えるようなおかしな演出が相次ぎ、
それは当ブログ映画部に大いなるツッコミどころを与えてくれたものです。

しかし、このアメリカ映画なんだからアメリカ人に受ければいいのよ、
という媚びた態度は歴史的なリアリティを歪めることになってしまい、
作品価値そのものはかなり失われたという面もあるのではないでしょうか。

日本軍を矮小化して描くことで、劇場に脚を運ぶ大部分のアメリカ人の
カタルシスは得られても、作品として後世に評価されないと
それは製作者にとって本末転倒というか、黒歴史になりませんかね。

さて、動画を観ていただくと、ここESAMにある「赤城」も
実に迫力ある姿で登場しています。

模型っぽさが出てしまったシーンがあるとすれば、
旗艦に揚がる信号旗のなびき方が、大きな旗ではあり得ない
ちゃちい感じが隠せなかったことでしょうか。

お時間のある方は、冒頭のブリッジの写真と、動画の
1:04からの映像を比べてみてください。

ここにある「赤城」にはちゃんとZ旗が揚っていますが、
映画では戦闘旗として海軍旗をマストに揚げているものの、
Z旗はどこを探してもありません。

それから、このシーンで探照灯が点く直前に、その前にいる
水兵の人形の腕あたりが操作をしているように動いているのをみて
思わずその芸の細かさにうなってしまいました。

どうやって動かしたんだろう。紐で引っ張ったのかな。

さて、今日はこの部屋の展示と「赤城」の細部について
もう少しご紹介していきましょう。
まず、甲板が高い位置から展望できるプラットフォームには
こんな資料が飾ってありました。

右側は12月7日の真珠湾の図。
左の滑走路のある部分がヒッカム基地です。

フォード島だけをアップにしてみました。
赤で表された「SUNK」は沈んだ艦、そして
白はほとんど壊滅的な被害を受けた艦。

名前がないのでお節介にも説明しておくと、手前の
「一部損壊」だった「ネバダ」の左側が、
最初に轟沈した「アリゾナ」です。

あとの赤いのは「テネシー」「ウェストバージニア」で、
白が「メリーランド」「ヴェスタル」であろうと思われます。

地図の横には「アリゾナ」のポスターがあります。
この艦体が「アリゾナ・メモリアル」として、今でも
沈んだままの状態で艦の慰霊碑になっているのはご存知の通り。

左下には、ルーズベルト大統領の「パールハーバー演説」に有名な

"A day that will live in infamy "(汚名として残る日)

という言葉の下に、こう書かれています。

1941年12月7日0600、オワフ島北230マイルから、日本の
聯合艦隊の五隻の空母などから第一波として183機の航空攻撃を行った。

雲の上を飛び、第一陣の戦闘機と爆撃機が攻撃を開始した0705、
第二陣の167機は空母から飛び立った。

15分で全ては終了していた。
戦艦「アリゾナ」「カリフォルニア」「ネバダ」「オクラホマ」
そして「ウェストバージニア」は沈没。
「メリーランド」「ペンシルバニア「テネシー」も壊滅的な打撃を受けた。

2,400名のアメリカ人がこの攻撃で死亡、1,178名が負傷した。

直後に制作されたジョン・フォード監督の映画では、
ほとんど軍艦の被害はなかったということになっていたようですが、
真珠湾攻撃が軍事的に「大成功」だったことは
これらの数字が示すところです。

「アリゾナ」といえば淵田美津雄自伝によると、攻撃の様子は以下の通り。

フォード島東側の戦艦群に一大爆発を認めた。
メラメラっと真っ赤な焔が、どす黒い煙とともに500米の高さにまで立ち昇る。
(略)
「松崎大尉、右を見ろ、敵艦の火薬庫が誘爆したらしい」

松崎大尉が、風防を開いて、これを眺めたとき、口をついて出た言葉は

「バカヤロ、ザマミロ」

であった。
この轟沈は戦艦アリゾナであった。
加賀爆撃第二中隊が投下した八百キロ徹甲爆弾二発が命中して、
その一弾が二番砲塔の横に命中したと見る間に、大爆発が起こったと
加賀第二中隊長の牧野秀雄大尉は確認している。

 

この後、淵田機は、まだ無事だった「メリーランド」に狙いをつけ、
「ゾクゾクするスリルを感じながら」命中を見届けています。

しかし、現代に生きるアメリカ人にとっても、いまだに真珠湾攻撃は
「汚名として残る日」に違いないのかな、とわたしは思いました。

現在の日本との仲がどんなにうまくいっているとしても、
それはそれ、これはこれ、でとにかく面白くないできごとなのでしょう。

映画「トラ・トラ・トラ!」がアメリカ人にあまり受けなかったのも、
その失敗を踏まえて作られた「パールハーバー」「ミッドウェイ」が、
とにかくアメリカ=正義、日本=悪として描くことに異様に拘っているのも、
彼らの負けず嫌いと、この「面白くない」感情に忖度しているのです。

ルーズベルトはそれまで国民から「戦争屋」と呼ばれて、

「あなた方の息子を戦地に送ることだけはしない」

などとと言い訳していたのに、この「卑怯な攻撃」を
「汚辱の日」と位置付けた「パールハーバー・スピーチ」で、
アメリカ世論を一気に味方につけ、無事戦争へと舵を切ることができました。

わたしは、そうせざるを得なかった当時の国際社会における日本の
諸々の切羽詰まった事情を抜きにしても、
こちらから
戦争を始めてしまったことは、単純にいって

「アメリカ人の負けず嫌いを甘くみすぎた失敗」

と残念に思っていたりするわけですが、アメリカが近年になって
常にといっていいくらい間断なく戦争をしているのは、
交戦的というより、「やられたらやりかえす」という負けず嫌い、
そして勧善懲悪的なヒロイズムに動かされやすい国民性を
上から下まで等しく持っているからではないでしょうか。

ついでにその対極にあるのが、自国の領土を実効支配されても取り返しに行けず、
領海侵犯されても武力攻撃できないどこかの国かもしれません。


真珠湾の敵をミッドウェイで取る。
そう、こういうヒーロー的行為にアメリカ人は熱狂しちゃうんですよね。

この絵画のタイトルは

 "WE WON'T TURN BACK"

2機のダグラス・ドーントレスSBD-3Sが「赤城」を攻撃した図で、
どちらの機も翼の下の弾薬ラック並びにボムベイは空になっています。

このセリフは、VT-8「ホーネット」の艦上攻撃機TBC隊の隊長、
ジョン・ウォルドロン少佐が沈黙を破って発した命令です。

「行くぞ。我々は後戻りはしない。
従来の戦術はもう使えない。
攻撃あるのみ!幸運を祈る(good luck)」

同じく「ホーネット」から飛び立ったドーントレスが
「赤城」を攻撃しているの図。

ちなみにこの下命を行い出撃したウォルドロン少佐は、
ミッドウェイ海戦で15機のデバステーターを率いて
零戦の哨戒機と交戦し、戦死しました。

この日出撃したデバステーターは全機が撃墜され、
30名の搭乗員は、海上に不時着した1機のパイロットを除き、
全員が戦死しています。

 

「赤城」に負けじと?展示されているアメリカ軍の航空機と爆弾。

左からグラマン・ワイルドキャット、ヘルキャット、
そして右がヴォートのコルセアです。

「赤城」甲板には零戦の姿あり。
滑走路の端のランプが点灯しているのがお分かりでしょうか。
艦体も、溶接した鉄板の筋がリアルな大きさだったり、
ものすごく細部に拘っている様子がわかります。

艦内に灯が灯っているのがわかるように、
展示室は全体的に明かりを落として暗くしてあります。
聯合艦隊が真珠湾攻撃に向かうときを設定して作ってあるので、
ここでも同じ時刻ということにしてあるんですね。

艦首甲板の舫がきれいに巻いてあるのは日本海軍らしいですが、
実際にこんな巻き方をしていたのかどうかは謎です。

出撃を待つ九七式艦上攻撃機は迷彩塗装。
制作したフォックス映画では、これを「ケイト」と呼びましたが、
同機は制作を三菱と中島飛行機どちらにも依頼しており、
コードネーム「ケイト」は中島飛行機製。
三菱重工の機体は「メイベル」という名前になっていました。

(この外見の違いが相変わらず全く見分けられないわたしである)

真珠湾攻撃の頃には全てが中島製になっていたようです。

数えてみたら、甲板にいる零戦は10機、九七式艦攻は6機。
艦爆がどこを探しても見つからなかったのですが、
例のフォックス映画主催のオークションの時、「赤城」は
艦載機込みで売られていたわけではないらしいので、
他の何機かは個人が競り落としているのだと思われます。

飛行甲板下のデッキには、ボートが何隻も並んでいて、
ここまでやるかと呆れてしまいましした。
天井部分には夜間の赤灯がともっています。

いっときますけど「赤城」登場シーンでこんなところ絶対映らないんですよ?

このディティールをもってすれば、特殊撮影の「マジック」をかけて
必ずやリアリティのある映像になることは間違いありません。

帝国海軍が舫をこんな状態で置いておくかなという部分がありますが。

「赤城」はもともと巡洋戦艦として起工されましたが、
途中で三段式空母として就役し、その後近代化改装を施されて
一段全通式空母に生まれ変わりました。

実際に搭載できる航空機数は66機だったそうです。

続きます。

 

 


「トラ・トラ・トラ!」 の空母「赤城」模型〜エンパイアステート航空科学博物館

2020-03-13 | 歴史

アメリカから帰ってすぐにこのESAMこと
エンパイアステート航空科学博物館についてお話ししたとき、
なぜかここに鎮座している空母「赤城」の巨大モデルについて
写真で少しご紹介したことがありますが覚えておいででしょうか。

 

「赤城」模型を展示してある部屋を、ESAMは
「TORA !TORA! TORA!」コーナーとして、真珠湾攻撃について
取り上げていたので、今日はその周辺の展示についても
触れながら模型の細部を紹介していこうと思います。

わたしはこの博物館についてなんの予備知識もなかったため、
展示室2に入った途端、場を圧して存在する「赤城」モデルに
思わず息を飲み、声を上げて驚いてしまいました。

部屋の壁一面に海原と朝焼け(これから真珠湾攻撃に出撃する、
という設定らしく)を描き、ライティングもそのような色をしています。

飛行甲板の向こう側に雲に隠された太陽の光が見えますが、
旭日旗と同じ光が描かれているのがおわかりでしょうか。

映画「トラ・トラ・トラ!」で、九七指揮艦爆に乗った指揮官、
淵田美津雄中佐(田村高廣)が、真珠湾に向かう途中、

「見てみい、旭日旗や」

というシーンがありましたよね。
あのシーンはもちろんアメリカ映画ですからちゃんと翻訳されて、
真珠湾攻撃の指揮官がそう言ったことになっているため、
ここでもリスペクトされているのでしょう。

そう、なぜならこの「赤城」模型は、まさにその映画、
「トラ・トラ・トラ!」の撮影に使われた本物の模型なのです。

 

この映画制作については、アメリカ側のかける意気込みはすごいもので、
国防省、国務省の大乗り気、真珠湾フォード島の全面ロケ許可、
実際に格納庫爆破もおk、艦隊や航空機も貸しまっせ、という具合。
とにかくお金に糸目はつけませんということでしたので、
映画の最後に数分映るだけの「赤城」全景を撮るために、
この豪勢な模型を作らせてしまったというわけなのです。

ところでこの模型について、

「日本の業者が、実際の『赤城』の設計図を参考にし
100万ドルかけて制作された、とESAMの係の人は言っていた」

と記述しているサイトがあったのですが、それは間違いです。

 

そもそも、どうしてこの模型が、失礼ながらニューヨークの田舎の
あまり人に知られていない航空博物館にあるのかというと、
映画が終了した後、セットに使用した模型の類は全てオークションで
売却され、「赤城」は人手を経て最終的にここにやってきたようなのです。

The Ships Of TORA!TORA!TORA!

映画で使われた模型とオークションの様子が見られるサイト。
阿武隈が「AKUBUMA」となっているのはご愛嬌です。

オークションでは「阿武隈」はたった800ドルだったようですので、
「赤城」も比較的安価で手に入れることが出来たのではないでしょうか。

ちなみにこのサイト中央にはこの「赤城」の写真があり、
「30フィート」と紹介されていますが、実際は32フィート(約10m)、
1/27モデルということになります。

しかし、わずか数分の撮影のためにこんなものを作ってしまう、
ハリウッドのお金の使い方ってすごくない?

 

我が日本の映画界は、ご予算の関係で決して大きくない模型を使って、
「ハワイ・マレー沖海戦」を撮影し、それがあまりに本当っぽかったので、
てっきり本物のフィルムだと勘違いした
戦後進駐軍に没収されてしまった、
というくらいの
特撮の腕を持っていました。

仮定ですが、もし日本がこんなものがいくらでも作れるような国だったら、
円谷英二のような特撮の天才は現れなかったかもしれません。

この「赤城」ルームは、模型の反対側に階段で登るデッキを作り、
このように高い場所から全体を眺められるようになっています。

模型は巨大な上車付きの台に乗ったままであり、
普通の高さからはこのように飛行甲板を見ることができません。

甲板の上には正確な縮尺による零戦と97式爆撃機、そして
99式艦爆がかなり正確な位置に並んでいるので、
これを見るだけでも価値があります。

映画「トラ・トラ・トラ!」についての説明のパネルがありました。
まずこの記事の左側の写真は、日本軍の攻撃によって甲板が焼け、
ボロボロになった状態のアメリカ海軍「ネバダ」の模型です。

もちろんその状態のままでオークションにかけられたわけですが、
手に入れた人は熱烈な「ネバダ」ファンでもあったのか、
自分の手で新造艦の状態に改装しなおして所持しているのだとか。

そして右側写真はもうお分かりのように当博物館にある「赤城」の艦尾です。

ここではハリウッドが「トラ・トラ・トラ!」のために必要とした
巨大なこれらの模型についてが語られています。

これらの模型は巨大に作られたからこそ映画でより本物らしく見える上、
その後オークションで買い取られて
余生を過ごしている博物館においても、
そのディティールの細かさで
十分に展示として価値のあるものとなっています。

 

映画を制作するにあたり、フォックス社の技術陣から協力を要請されたのは、
アメリカのミリタリーマガジン、チャレンジ出版でした。
この写真入りの記事はチャレンジ出版の雑誌に掲載されたページです。

「エアクラシックマガジン」「シー・クラシックマガジン」

という雑誌にこれまで掲載された膨大なファイルは
艦船や航空機の模型の構築をする際に参考にされました。

 

当時、映画における戦闘場面を徹底したリアリズムで生き生きと見せるには、
模型を最高の品質とディテールにする必要ありきでした。
この点でフォックス社は費用を惜しみませんでした。

この模型制作に携わったスタジオの模型チームは80名、
6ヶ月というもの、休みなしで仕事をしたといいます。
彼らはボルトやナットに至るまで詳細に、正確なミニチュア艦隊を作り上げました。

先ほども、どこかのサイトが「日本で作られた」という誤った情報を
流していたという話をしましたが、このような状況で「赤城」だけを
日本に任せるはずがありませんよね。

 


さて、模型制作は、まず、残された写真とブループリント(青設計図)から
軍艦の外型を起こすことから始まりました。

最初のステップは、足場と外殻のモックアップを作ることです。
フォックス社の「石膏部」が、下型(メス型)の制作を手掛けました。

安定した操作で樹脂とガラス繊維を絞り出すための道具、「ガン」が、
わざわざこのためだけに開発され、優れた船体強度を提供することができました。

そしてガラス布素材の布を使うことによって、モーター装置など
電気器具を実際に配置できる強力な中空の船体をまず作り上げました。

デッキと上部構造物の木材やメタルは、手作業で細心の注意をもって接着されます。

航空基地のシーンのためには、梯子、通風口、アンテナ、レールなど、
気の遠くなるほどの鋳型を作り、それを
根気よく取り付けていきました。

ミニチュアの細部は、星の数のリベットを再現するに及びました。

 

そして完成。
塗装の後、模型艦隊の軍艦たちは、浮力と、モーターを動力とする

推進プロペラが実際に稼働するかのテストが行われました。

ここからは特殊効果技術者、別名「魔法使い」の出番です。

アメリカ側の艦船はフットスケール3/4"、日本軍は
この「赤城」もそうですが、すべて1/2"で作られています。

模型艦隊はマリブにあるフォックス所有のの船着場に運ばれ、
撮影の準備が行われました。

まず、「艦隊」が撮影されるスケールの分数が決定されました。
重要なのは、フォックスのタンクを航行する連合艦隊のすべてが、
いかに高速で海原を進んでいるように見せることができるか、です。

特殊効果技術者たちはここで巧みの技というべき技術力を発揮し、
その結果、
聯合艦隊がパールハーバーに向かって進んでいくシーンは
映画の中でも特に優れた出来栄えのシーンのひとつとなったのです。

 

劇中の攻撃シーンは、模型を使用して撮影したシーンに、
実写のインターカットを交えて作り上げられました。

真珠湾が攻撃されるシーンでは、撮影カメラは、日本軍のパイロットが
浮かぶ戦艦の列に急降下したときに見たものを再現しています。

このために、真珠湾の大部分を模型で完全に作り上げました。

監督の命令で、突然「破滅」に見舞われたアメリカ艦隊の模型は、
爆弾や魚雷の爆発で転覆する様を忠実に再現するため、
特別なジンバルを備えたマウントにわざわざ設置されました。

攻撃は容赦無く?行われたため、その破壊的な影響は、
多くの精巧で繊細な模型に、実際と同様の損傷を齎すことになりました。

たとえば吹き飛ばされた戦艦「アリゾナ」は本物と同じく損壊し、
「ネバダ」は実際に炎の酷いダメージを受けることになり、そして
戦艦「カリフォルニア」、「メリーランド」も、お察しの通りです。

プロパンに包まれて炎と油煙が発生した「フォックス真珠湾」は、
まるで実際の空襲を受けたようで、目を覆うほど悲惨な状態でした。

 

もうひとつ特筆すべきは、フォックスはは実際に映画用に
31体の正確な
航空機レプリカを作成したことでしょう。

ここではジーク(零戦)ケイト(97式艦攻)ヴァル(99式艦爆)
とコードネームでそれらが紹介されています。

これら日本機の製作については「エアークラシックマガジン」と
「スポーツフライングマガジン」の膨大なデータが助けとなりました。

 

そしてついに模型シーンの撮影は終了。

映画制作の過程がフィルムカッターと編集の手に移ったころ、
模型艦隊は引退して、フォックスのマリブランチに保存されました。

彼女らの「カウンターパート」である実際の軍艦たちと
同じ悲惨な姿になってしまった米国艦と、
彼らをそんな姿にした
無傷な聯合艦隊の軍艦たちは、「呉越同舟」ならぬ日米同港状態で、
肩を寄せ合ってマリブの港に浮かんでいたのです。

これはすごい。連合艦隊の「霧島」。
船殻は金属、上部構造物は木材で作られています。

大きさはこれも大体全長10mくらいで、450kgの重さがあります。
なんと、デリックは実際に動かせるらしいのですが、それにしても

「一体何のためにそこまで」

とつい呟いてしまいますね。

 

1971年の初頭、フォックス社はスタジオの小道具大道具など
装備品を一斉にオークションにかけるということを発表しました。

「トラ・トラ・トラ!」の模型もその中に含まれていたのです。

酷い目にあったアメリカ艦隊と違い、聯合艦隊は
綺麗な形のままオークションにかけられました。

 

2分の1スケールのアメリカ海軍タグ(左)。
実際に動力を備えていて動かすことができるそうです。

 

右側は映画使用モデルのオークション会場です。
実際に競り落としたい人や冷やかしがたくさん詰めかけました。

記録によると、この時何千人ものファンや愛好家が、
実際にあの「トラ!」艦隊を一眼見ようと来場したそうです。

そして巨大なサイズの艦船模型が評価されるために水から揚げられました。

一体誰が、10mの大きさで重さは何トンになるかわからないような
日米の軍艦模型などを買うんだろうか?

競売が始まると、見ていた人たちはすぐにその答えを知りました。
最も巨大な模型、空母と戦艦は、大手ショッピングセンターの
デベロッパーが競り落としました。
彼は模型を改装して綺麗にし、ディスプレイに使うと語りました。

小型船の大部分は個人の手に落ちました。
彼女らが受けるに値する注意と関心が与えられることを願いましょう。

左:USS「ワード」。

真珠湾攻撃において、最初に戦闘を行い沈んだ船というのは、
実は特殊潜航艇だったのですが、
それを沈めたのが「ワード」です。

でもこのシーン、確か映画では出てきませんでしたよね?

ところが現場の誰かが(監督?)このシーンを急に撮影したくなったらしく、
聯合艦隊の駆逐艦(つまり日本の船)になる予定の艦体を改造して、
「ワード」が急遽作られることになりました。

ところが、せっかく作ったのに、土台が聯合艦隊用だったせいか、
スケールが小さくて(十分大きく見えますが)どうも画面映りが悪いよね、
という理由で、
そのシーンの撮影そのものがボツになってしまったそうです。

つまり、「ワード」の出番もなし。
なんとも豪気というか、もったいないことをするものです。


この詳しい報告を掲載したチャレンジ出版は、幸運にも「ワード」と、
それから、3機の「ジーク」と「ヴァル」を手に入れたそうです。

 

ところで、日本人のわたしとしてはどうしても気になるのが、
淵田美津雄が真珠湾攻撃のとき、

「観てみい、旭日旗や」

と本当に言ったのかどうかですが、ご本人の自伝をあらためて見てみると、

午前6時半となった。日出である。

脚下は真綿を敷き詰めたような、ばくばくたる白一色の雲海であった。
東の空がコバルト色に光り始めたと見る間に、
大きな太陽がのぞけてきた。
燃えるような真紅であった。

やがて陽光が燦々として、あたりに輝き渡る。
ちょうど軍艦旗が空いっぱいに広がったようであった。
私はこれを日本の夜明けだと受け取った。

この太平洋の旭日を見て、私は思わず、

「グロリアス・ドーン」

とうなった。
英語であった。

当時、日本では敵性語として、英語は追放であったが、
私はアメリカと戦う以上、英語は必要だと、
内々勉強していたので、つい出た次第であった。

 

もし「トラ・トラ・トラ!」で淵田司令のセリフを史実通り

「グロリアスドーン!」

にしていたら、これを観たアメリカ人はどう思ったことでしょうか。

 

続く。

 

幻の垂直離着陸機・ XV-5A~エンパイア・ステート航空科学博物館

2020-03-12 | 航空機

 ESAMの名物といえば「飛行機といっしょに朝ごはん」=
”ESAM Fly In Breakfast ”という企画ですが、
昔から堅実に続けられて地元の人たちの楽しみになっているようです。

月一回、日曜日の8時半にこの航空博物館を訪れると、
コーヒーとマフィンといったいわゆるアメリカンな朝食が用意されており、
それを楽しんだ後はその日の企画に参加し、見学を行うという趣向。

たとえば2月15日の企画は、戦史に詳しいDonna Espositoさんを囲んで
「第二次世界大戦時のアメリカ海軍の秘密のドローン」とか
「大戦前の名前のない飛行機たち」とか、
「南太平洋で対日戦に投入する予定だったドローン秘密部隊」とか、
(これ聴いてみたい)「海軍士官の家族にドッグタグを返した話」とか、
「戦闘で失われた3人のパイロットに共通する三つの偶然のミステリー」
などという話を聞かせてもらうそうです。

第二次大戦に投入されそうになっていたドローンの話、聞いてみたいですね。

で、このエスポジートさんが何者かというと、どうも
「航空&戦史マニア」で本も1冊書いたというアマチュアのようです。

さて、ギャラリー1の展示とそれに併設されたハンガーの中を
見学し終わると、次はギャラリー2の展示です。

ここはかつてGEのエンジンなどのテストを行うための設備を持っていました。
ギャラリー2の入り口には、ここで実験されたプロジェクトなどの写真と
その歴史がパネルにされて展示してあります。

真ん中の写真は、1953-1954 の「プロジェクト・サーチ・アロー」
付属レーダーを使用して戦闘機のレーダーの捜索範囲の
可能性を広げるために行われた空軍のプロジェクトです。

下左は1955-1963のアトラスICBM誘導装置」の実験。
CGM/HGM-16 アトラス (Atlas) は、アメリカ空軍で開発され、
ジェネラル・ダイナミクス社のコンベア部門で生産された
大陸間弾道ミサイル (ICBM) のことです。

アメリカ合衆国で初めて開発に成功したICBMであり、
1959年から1968年にかけて冷戦中実戦配備されました。

左側の写真はアトラス計画中滑走路を移動するコンベアC-131

一番上の写真は1956ー1963のT58エンジンのテストプログラムです。
先ほど内部見学してきたハンガーが写っていますが、ここで
シコルスキーのHSS-2ヘリに標準的なラジアルエンジンから
T58デュアルエンジンを付け替えるという作業ののち、ここで
フライトテストが行われました。

中左:F106超音速インターセプターに新型コントロールシステム、
GESACが搭載されたとき。1960年。

中右:1951−1958行われていた初期の自動操縦のテストです。

 

当時GEは、民間航空機製品の事業から外れて(外されて?)いました。
会社としても軍需の仕事を航空機のためにも確保したかったのですが、
結果としてそれは成功せず、このシステムは最終的に
一般に販売されることになりました。

下:ボーイングKC135改装。1961-1963。

上段はジェットエンジンの航空機、中段電子関係、
下段はミサイル関係の製品とジャンル分けされています。

下段左、1957年から行われたのは、デコイミサイルの実験でした。

ここからはXV-5Aプロジェクトのコーナーです。

当時、多くの国が様々な構想で垂直離着陸機を実験していましたが、
この幻の機体XV-5Aもその一つでした。
GのジェットエンジンをTF39を搭載していました。

同機は、15名のテストパイロット(通称『XV-5Aファンクラブ』)
によって試験飛行が行われましたが、まず1965年4月27日、
初試験飛行で墜落し、テストパイロットルー・ライアンが殉職します。

彼は機体からの射出を試みましたが、システムが故障しており、
パラシュートがテールに引っかかり、機体とともに地面に激突したものです。

墜落の原因は、パイロットがリフトジェットのドアを開ける際
高度がありすぎたことだったといわれていますが、
続く2番目の試験飛行でも墜落を起こし、今回もイジェクトシートが
地面に激突後に作動したため、この時のテストパイロット、
デイビッド・ティトル少佐は重傷を負いその後助かりませんでした。

このときは救難機としての実験のため、マネキンを負傷者に見立て、
スリングで吊り上げるという操作をしていたのですが、
そのスリングがファンに巻き込まれてしまったのです。

F 2032 Ryan XV-5A Vertifan VTOL Accident/Crash Footage Pilot Bob Tittle

 

XV-5A実験の際に起こった事故の映像が見つかりました。

着陸と同時に機体から何かが放出されていますが、
不思議なことに駆け寄った人たちがそちらに見向きもしていません。

さらに、この事故のパイロットはボブ・ライアンだと記載されているので、
上記の2件以外にも事故が起こっていたということになります。

写真のモニターで喋っている男性は、おそらく当時
『ファンクラブ』のメンバーだった元テストパイロットでしょう。
諦めずにライアン社が次に作ったのがXV-5Bだったわけですが、
陸軍にも空軍にも相手にされず?結局買い手がつかなかったため、
この垂直離着陸機は幻のままで終わったのです。

右上に、

「チームメンバーはハリアーを競争相手としてみていた」

と書いてありますが、その後アメリカ海軍と海兵隊は、
ホーカーシドレーとともにそのハリアーを完成させ、
海兵隊用に導入を行いました。

 

MALTA TEST STATION 

と書かれた看板。

あの地中海のかと思ったら、ニューヨークのマルタでした。

1945年に設立された旧米軍の燃料および爆発物のテスト施設で、
米国陸軍の「 プロジェクトヘルメス 」用ロケットエンジン
燃料、爆発物のテスト、原子力研究にも使用されています。 

 GEがここで実験を行っていたのは1972年までのことになります。

GEが制作したらしい1955年のカレンダー。
この博物館でまだ使われているハンガーの中です。
かつてフライトテストセンターとしてGEが使用していた頃で、
絵のタイトルは

「空の実験室」(Laboratories in the sky)

となっています。

X-405エンジン、ショックレスノズル搭載

ヴァンガード・ロケットの一段目の動力に使用されたロケットエンジンです。

このロケットが最初のアメリカの人工衛星の打上げに選択された時、
マーティン社が主契約社として契約を結んだのですが、
最初に提案したタイプは必要な水準の推力が不十分と判断され、
GEの提案の方がリスクが少ない選択であると考えられたため、
マーティンはGEと推力構造体、ジンバルリング、エンジン部品、
エンジン始動器具を含む自己完結型のX-405エンジンの契約を交わしました。

この結果、12基のX-405が生産され、そのうち11基が
ヴァンガードに搭載されて飛行したとあるので、ここにあるのは残る1基?

ここからはいきなり第二次世界大戦の航空機についての展示になります。
スミソニアン博物館にも展示されていた、カーティスのウォーホークですね。

第二次大戦に参加したこの地元出身のパイロットたち。

左上の人相の悪い人は、(すみませんなんていうもんかい)

ジャック・ニューカーク  ”Scarsdale Jack" Newkirk
(1913-1942)

「スカースデール(彼の出身地)ジャック」とあだ名された
フライング・タイガースのリーダーです。

彼は、前回ご紹介したニューヨークのレンセラー工科大学に、
航空工学を学ぶため入学するも、恐慌のため学費が払えず退学。
しかし、その期間に飛ぶことを学び、苦労して海軍搭乗員になります。

ウォーホークP-40は彼がフライング・タイガースで乗っていた愛機で、
彼のフライング・タイガース入隊は、

「日本人の中国人に対する残虐行為への怒り」

が動機だったということになっております。
まあ、そういうことでいいですけどね(なげやり)

彼の写真の下にある旭日旗から推察するに、
彼は日本機を7機撃墜したようですが、彼の最後は
ビルマで間違って木に激突し、投げ出されたというものでした。

しかし、アメリカのメディアはいち早く彼を英雄として祀り揚げ、
ディズニーがフライングタイガースの徽章をデザインするなどして、
大いに戦意高揚に彼の死は利用されたようです。

ちなみに彼の遺体は、日本人によって埋葬されたということです。

その下は、バトル・オブ・ブリテンでアメリカ人として
RAFに参加し、(じつはそれ、非合法だったわけですが)
ホーカー・ハリケーンでルフトバッフェの戦闘機と交戦、
戦死した、

ビリー・フィスク ’Billy ' Fiske 1911-1940

彼は撃墜王とかではなく、冬季オリンピックにも出場した
ボブスレーの選手でした。

Funeral Of Fiske (1940)

イギリス軍が行った彼の葬儀の様子が映像に残っています。
棺はアメリカ国旗で包まれています。

左上はミッドウェイー海戦のヒーローとして

クラレンス・ウェード・マクラスキー・ジュニア
(Clarence Wade McClusky,Jr.,)1902-1976

「エンタープライズ」の艦載機パイロットだったマクラスキーは、
ミッドウェイ海戦の際、このとき参加した日本海軍の空母のうち
「赤城」「加賀」「蒼龍」の攻撃を指揮し、結果的に沈没せしめたため、
この功績に対し海軍十字賞を与えられています。

左:P38の偵察型で偵察中行方不明になり戦死認定された
ジョン・マンチーニさん。

右:最初にニューヨーク出身で第二次大戦の戦闘機パイロットになった
ジョン・オニールさんは、ニューギアナで日本機を6機撃墜しました。

左:「ポップコーンが弾ける音を聞くたび、機銃に狙われたことを思い出す」
と語るのは以前ESAMでボランティアをしていたというパイロット。
「遠すぎた橋」で描かれたマーケットガーデン作戦に参加したそうです。

右:空戦で乗っていたB-17からベイルアウトしたという人。
「空中に投げ出されたときには、ドイツ人の履いている靴に
触れるかと思ったよ」
彼はフランス軍に救出されて生き延びました。

ここに書かれているところによると、勝利は油の生産と
「パイロット」(の質量)によるところが多いそうです。

「ドイツと日本はアメリカや同盟国と比べて
航空機の生産と燃料、そして搭乗員の育成の点で劣っていた」

はい、その通りです。
どっちもお金がなかったのでね。

航空機動隊の輪切りには旭日マーク(つまり撃墜数)が5つ。

これはB-25に搭載されていた機銃のターレットです。
ここに貼られている旭日旗のデカールは、実際にも
もしガナーが敵機を5機以上撃墜した場合には、このように
ターレットの部分にマークを貼ることが許されました。

爆撃機の機銃手も「エース」が名乗れたのです。

こちらは同じくB-25の爆撃手が狙いをつけるために覗き込むサイト。
爆撃機のノーズにあって、爆撃手は腹這うように覗き込みます。

このコーナーにはまるで実際の航空機の座席にいるような
振動を味わえるシミュレーターがあって、ボランティアのおじさんが
「ヘイ、乗って行かないかいキッド」とかいいつつ誘っていたのですが、
この子供にはつれなく断られていました。ドンマイ

 

続く。

 

 


帰還パイロットのための自家用飛行機〜エンパイア・ステート航空科学博物館

2020-03-10 | 航空機

今朝、アメリカの息子からスカイプが入りました。
大学では春休みに入り、国内の学生は地元に帰っているのですが、
今教員レベルに出回っている情報によると、国家発令の非常事態を受け、
国内海外を問わず、帰省している学生には

「大学に戻ってこないように」

という告知が出されるかもしれないと。

「授業はどうなるの」

「オンラインでするんだって」

今時のアメリカの大学なのでそのあたりは全く問題なさそうです。

ただ息子のルームメイトは西海岸出身なのですが、オンライン授業になると
時差があるので帰校禁止令が出ても帰ってくると言っているとか。

感覚として、このアメリカでの動きは、きっちり日本の2週間遅れ。
日本だけでなく世界を出先の見えない巨大な不安が
しだいに覆い尽くしていく様子を目の当たりにしている気がします。

 

 

さて、それではテーマに戻りましょう。

ニューヨーク州の北部、グレンヴィル、スケネクタディにある
エンパイア・ステート航空科学博物館。

アメリア・イアハートのロッキードから始まった展示室は、
航空黎明期の気球や空中自転車に始まり、第一次世界大戦の戦闘機
カーティス・プッシャーなど、そして女性飛行家たちの紹介でした。

部屋は隣のハンガーにつながっています。

最初にも触れましたが、この格納庫は1945年の夏頃から
GEがテスト滑走路にするために建造したものです。
ざっとその時から75年経過していますが、格納庫というのは
躯体さえしっかりしていればとりあえず古くても使用に差し支えないので
今日ではESAMのレストア中の航空機を仮置きしたり、
一部で展示するなどといった活用をしているというわけです。

見学者がなぜか翼に超接近しているこの真っ赤な飛行機は

Folland Gnat F.Mk 1 (フォーランド ナット)

イギリスのフォーランド・エアクラフト社が1955年、
制作した戦闘機・練習機のひとつがなぜかここにあります。

この戦闘機の名前があまり知られていないのは、本家のイギリス空軍が
8機だけ試作させておいて結局実戦機では採用しなかったからです。

フォーランドという名前もわたしは今回初めて知ったのですが、
のちにホーカー・シドレーになったと聞いて納得しました。

受注段階ではとにかく小型の戦闘機、というのが目標だったようで、
どれくらいかというと、極限まで軽さを追求した
日本海軍の零式艦上戦闘機が目的だったとかなんとか・・・(噂です)

実際に機体のサイズはほぼ零戦と同じらしいですね。

ちなみに零戦の全幅は後期型で11m、重量は54型で2,150kg、
こちらは翼幅: 6.73 m、重量: 2,175 kg ということなので
同じといってもそれでも少し大きいことになります。

零戦とは違ってジェット世代ですが、音速を超えることはできなかったようです。

現地の説明に書いてあったのですが、イギリス空軍では
重量が不足しすぎて練習機にしか採用しなかったこの機体は
他の国、ことにインド空軍に滅法気に入られ、
インド国内の「ヒンドゥスタン・エアロノティックス」という会社に
ライセンス生産までさせて調達したということです。

どうしてインド軍がやっきになってこれを取得したかというと、
ちょうどこの頃インドはパキスタンとの間で
第一次印パ戦争(1947−1949)に続く紛争、

中印戦争(1959ー1962)

に突入していたからです。

我々日本人にはピンときませんが、実は
インドとパキスタンというのはとにかく仲が悪いらしいですね。

隣り合った国同士で仲の良い例はない、といいますが、
両国はイギリスから分離独立した途端、カシミール地方の領有を巡り
武力衝突を繰り返しているのです。

で、この中国との戦争ですが、インドがソ連を支援しており、
印パ戦争では中共がパキスタンを支援したために起こりました。
まあ、いわばパキスタンの代理という感じです。

両者の緊張は全く解決の糸口を見せず、去年もパキスタン軍が
自国領内でインド空軍機2機を撃墜したりしています。


ところで、日本国内にあるインド料理店って、ほとんどが
パキスタン人がやっているって聞いたことがあります。
日本はインドとは大変有効な関係だと思うのですが、
日本国内でインド人とパキスタン人ってどうやって付き合ってるのかな。

ここにある赤いフォーランド・ナットは、おそらく練習機として
ホーカー・シドレーが制作、イギリス空軍が採用し、戦技チームである

「レッドアロー」

が13年使用していたバージョンではないかと思われます。

Folland Gnat

ちょっとノーズがT-4のドルフィンに似ている気がします。

 

モノプレーン(単葉)の飛行機です。
この由来についてはここESAMにこれがやってきたときの
航空マガジンの記事のようなものが現地にありました。

「The Huntington Chum」(ザ・ハンティントン・チャム)

と名付けられた飛行機は、1995年、ESAMに到着しました。
たった2機だけ制作されたうちの1機で、

なんでも1931年のある航空ダイジェストには、一面記事で
この飛行機が1750ドルで売られていたそうです。

このタイプの飛行機はすぐに市場から姿を消しましたが、
これだけは残って、1980年に持ち主が整備をして
49年ぶりに空を飛ぶことができたということですが、
その持ち主は、自分の死ぬ前に機体をESAMに寄付しました。

こちらも個人使用型の飛行機で、

Mooney M-18 Mite

"mite" というのはダニという意味もあるのですが、そちらではなく、
「小さい子供」とか「小さなもの」という意味だと思います。

格納式の三輪着陸装置を備えた、低翼の単葉機です。
製造会社は「ムーニー・エアクラフトカンパニー」、
デザイナーは同社オーナーのアル・ムーニー。
初飛行は1947年で、1954年まで283機生産されました。

生産が始まったのが第二次世界大戦終戦2年後からですが、
ムーニーは、戦地から帰ってきた戦闘機パイロットが乗るために
これを企画したといわれています。

同じ戦後でも日本との違いに改めてしみじみとしてしまうのですが、
敗戦した日本が、戦闘機に乗っていたという帰還兵に対して、
「特攻崩れ」とか死に損ないとか戦犯とか、とにかく負けた鬱憤を
戦争に行った人たちにぶつけていた頃、アメリカでは、
戦闘機に乗ってバリバリ戦って戦争が終わり生きて帰ってきて、
かつての空を飛ぶ快感を平和な世に味わってみたい、と懐かしむ人向けに
個人飛行機が販売されていたってんですからね。

そういう立場になったことがないので想像するだけですが、
自分が操縦して空を飛ぶという経験をしたもののほとんどは
そこから「足が洗えない」くらい魅入られてしまうようです。

もう一度軍に入る気はないが、空を飛んでみたい、自分の操縦で、
という一般人のために、コストはできるだけ押さえて販売されました。

この機体には「Holland Farms」とマークが入っていますが、
これはおそらくここのことじゃないかと思うんだ。

Histry of Holland Farms

操縦席の下に入っている

「ジョン・ピアスマ パイオニアパイロット
オリスカニー・ニューヨーク」

という名前を検索したところ、ホランドファームは彼の家業で、
飛行機のインストラクター、検査官でもあったそうです。

ちなみにHPをのぞいてみましたが、砂糖の塊のようなジェリーバンズ、
白黒のとにかく甘そうなクッキー、従業員全てが糖分とり過ぎ体型、
これぞアメリカのベーカリー!という感じでした。

ちなみに縦に吊られている青と黄色の飛行機は、

 Fisher FP-303

というカナダ製のキット飛行機(ホームビルト)。
1980年代に200機ほど生産されて民間に流通していました。

Kantor Strat M-21 (NX74106)カントー・ストラト

「ロシア生まれのエンジニア、ミーシャ・ストラトが設計制作した
モノプレーンで、1949年に初飛行をしました」

「彼がメッサーシュミットでの訓練の影響を受けたのは明らか」

とある見学者が書いているのですが「ストラトエアクラフト社」は
コネチカットのストラトフォードにあるからこの名前になったと考えられ、
さらにミーシャ何某の名前も出てきませんでした。

というか、ストラトフォードを通り過ぎたとき、航空会社を見ましたが
それは「シコルスキー」という名前だった記憶が・・・。

この情報で正しいのは名前と初飛行年月日だけかもしれません。

  Aeronca 65 TC

これを特定するのに結構時間がかかってしまったのですが、
もっとも似た機体があったので

アーロンカL-3 (Glasshopper )

の派生型の「Chief 」だと判断しました。
1941年ごろからアメリカ陸軍が連絡用として開発していたもので、
日米開戦後は、第一次世界大戦における観測気球の役割を負いました。

それにしてもこの独特なノーズの形。
「グラスホッパー(バッタ)」とはよく名付けたものだと思います。

軍での使用以外にも民間で練習機として大変人気があったそうです。

現在修復中でどこにも名前が見つからなかった機体。
小型旅客機のようですが、正体は分からず。

この上にある白いグライダーは、

Rensselear RP-1(レンセラー)

といいます。
レンセラー工科大学は日本では有名ではありませんが、ニューヨーク州にある
全米最古の工科大学で、アメリカ人にはRPIといえば通る名門です。

STEMに教育に特化しており、卒業生の企業への就職率の高さ、
またそこで得る卒業生の平均年収の高さでは全米でもトップ10に入るとか。

ここにあるのは低翼、一人乗りの足で起動するグライダーですが、
NASAが一部資金を提供し、同大学が制作したモデルです。

航空機の重量はわずか53キロ、着陸装置はメインのスキッド、
テールにあるスキッド(車が見える)によって構成されています。

 

近くに寄ってみることもできたようですが、

航空エンジンを展示しているコーナー。
手前のエンジンは、

Ranger 6-440 C-2

といいニューヨーク州のフェアチャイルドエンジン、
エアプレーンコーポレーションのレンジャーエアクラフトエンジン事業部
が生産した6気筒直列反転空冷航空エンジンです。


主に1930年代半ばにフェアチャイルドの訓練機向けに製造されました。

ハンガーの中はこんな状態。
手前にバリケードのようにものが積んであって、
その向こうには立ち入ることができないようにしてあります。

それにしても、この汚さにはびっくりです。
仮にも航空博物館と名乗って一部に人を入れているのに、
こんな恥ずかしい状態を人目に晒すというのは
どうも我々日本人には理解し難い感覚といえましょう。

掃除する人手もないのだと思いますが、それにしても・・・・。

あー、一番向こうにある飛行機、なんだろう。
近くまで行って見てみたい・・・。

 

続く。

 

 


自粛直前!K氏の木更津駐屯地見学

2020-03-08 | 自衛隊

新型コロナウィルス対策で今世界がちょっとした戒厳令状態になっています。
今日、息子が留学しているアメリカの大学からこんなメールが来ました。

コロナウィルス(COVID-19)の二つのケースの確認に続いて、
コミュニティ内でのウィルスの拡散を防ぐために、
私たちはすぐに隔離プロトコルを制定しました。
現時点ではキャンパスで確認または疑われる症例はありません。

・外部の個人の参加を含む50人以上のイベントはキャンセルします

・外部スピーカーによる全ての内部セミナーは、産業医及び
学生戦隊からの意見を取り入れ、ケースバイケースで検討します

・学内の全てのコミュニティメンバーは、地域の
大規模な外部イベントに出席しないように求められます

・これらのプロトコルは、研究所によって取り消されるまで継続します
全ての授業は通常のスケジュールでおこなわれます

学生と地域社会のメンバーの健康と安全は最優先事項です。
当大学は、米国国務省、疾病管理予防センター(CDC)、州保健省、
及び世界保健機関(WHO)と引き続き協力し、ガイダンスに従います。

コロナウィルスの状況は流動的であり、公衆衛生勧告と健康予防措置は
ほとんど予告なく変更される可能性があります。
旅行を計画している人は、目的地の勧告を頻繁に確認する必要があります。

大学の全てのコミュニティメンバーは、研究所のポリシー、プロトコル、
及び旅行制限に関する最新情報について、
 COVID-19
Outbreak Communication Webサイト
を確認することをお勧めします。

全ての個人は警戒を続け、以下を含むCOVID-19の拡散を防ぐため
必要な予防措置を講じる必要があります。

●咳やくしゃみをするときには鼻と口をティシュで覆う

●使用済みのティッシュは直接ゴミ箱に捨てる

●咳とくしゃみをする時にティッシュがなければ肘で口と鼻を覆う

●石やくしゃみをしたあと食事の準備、食事をする前に
石鹸と水で少なくとも20秒間手を洗う
アルコールベースのハンドクレンザーが効果的

 
 

息子の大学では先日大学院の学生がインフルエンザで死亡するという
ショックな事件があり、しかもその学生が中国人だったことから

地域のニュースにまでなったそうです。

彼は瀕死で911を呼んだのですが、自分の住所を伝えることもできず
意識を失ってしまい、消防が出動し付近までいったものの、
部屋が分からなく救出できず、結局、部屋で死んでいるのを
帰ってきたルームメイトに発見されたということでした。

「実はアメリカではコロナよりインフルの方がたくさん死んでるんだよね」

と息子は言っていましたが、その学生もその一人になってしまいました。

アメリカ人はマスクをめったにしません。
学校のアナウンスを見ていただいても、マスク着用については何の言及もないように、
彼らははマスクでウィルスを防ぐことはできないと考えているようです。

基本マスクは自分がかかった風邪を人にうつさないためにするだけ、
と考えているので、こんなことになってもマスクをして歩いているのは
ごくわずか、いても必ず東洋系だということでした。

ニューヨークで中国系が殴られたという事件があったそうですが、
(殴ったらうつるのでは?)今東洋系というだけで警戒されるので、
悪意から身を守るという意味で装着しているのかもしれません。

 

 

さて、今日は、いつも写真を提供してくださるKさんが、
イベント自粛の嵐が吹き荒れ始めた頃、かろうじて決行された
木更津駐屯地のヘリ体験搭乗に参加してこられたので、それをご紹介していきます。

ヘリ体験搭乗が行われるという話はうかがっていましたが、
次々と催しものが中止になっていきかけたころだったので、
ご本人も決行されるかどうかは心配しておられました。

ちょうどわたしが陸自中央音楽隊のジャズコンサートに行った後くらい?
まだ政府が自粛を呼びかける前に、かろうじてそれは決行されましたが、
残念なことに天候は雨。

この隊員さんがKさんの乗ったチヌークの乗員でしょうか。
通信機を背負ってヘリに歩み寄る姿が無駄にドラマチック!

CHの横に控えている隊員さんもマスク着用です。

今から乗り込んでいくCH-47内部。
座る席は奥の方ですね。

おお?あちらこちらでヘリが飛び立っておる。
チヌーク2機に、こちら側はAH-1かしら。

状況について全く伺っていないので想像するだけですが、
もしかしたらこれ全部体験搭乗中・・・・?

いくらなんでもコブラには乗せてもらえない気はしますが。

そして、りりーく!

Googleアースで確かめると、木更津駐屯地の滑走路は、
海側から斜めに南北を走っているわけですが、ここに写っている
「02」は滑走路エンドの印なので、この写真は
離陸後すぐに撮られたものだということがわかります。

滑走路脇にある旧軍の掩体壕跡らしい構造物も、
Googleアースで確認することができますが、
横から見るとこんな風になってたのか・・・。

もともとここは帝国海軍の木更津基地のために埋め立てられた土地で、
東日本の防衛を担う木更津海軍航空隊が駐留していました。
開隊は昭和11年で、横須賀鎮守府の隷下にありました。

中国大陸の渡洋攻撃はここから出発したことでも有名です。

戦後は米軍の駐留を経て、昭和36年に航空自衛隊が、
その後空自が入間に移ったため、陸自が転入して現在に至ります。

つまり、海ー米ー空ー陸と住人を変えてきた飛行場なんですね。

この掩体壕は先ほどのものの近くにあります。
草木が前面を覆い隠してしまっていますね。

駐屯地は羽田空港の対岸、アクアラインの根本に
近いところに位置しています。

なんと羨ましい、お昼ご飯も駐屯地で出された模様。
とてつもなく具沢山に見えますが、カレーかハヤシライスどちらでしょう?

午後からは格納庫の中の整備中のヘリを見学だったようです。

そういえば、ある民間の航空製造会社を見学に行った時、
請け負っている自衛隊の飛行機の写真は一切撮らせてもらえませんでした。

スケルトン状態のAH-1。
ちなみにノーズの頭の上にトゲのようなツノが出ていますが、
これなんだか知ってます?
電線とかが絡まる前にこれで切ってしまうためのものらしいんですが、
わかっていても、これを見るたび

「その前にローターに巻き込まれるんじゃ」

といつも思ってしまいます。

展示用のAH-1に隊員さんが乗って見せてくれています。
冒頭の写真を見ていただければおわかりのように本当にこのヘリ薄い。
内部は幅90センチしかないとか聞いたことがあります。

戦闘ヘリですが、確か2年ほど前、女性パイロットが搭乗することが
決まったというニュースを読んだことがありました。
戦闘ヘリに女性パイロットが乗るのはこの時が初めてだったはずです。

えっと、こちらもしかしたら第4隊戦車ヘリコプター隊所属の
OH-1でしょうか。

こんな風にカバーがかけられているヘリを見るのは初めてです。
カバーもちゃんと迷彩になっているんですね。

OH-1の現時点での総台数は34機ですが、機体が高価なので
調達は今後も行われることはないということです。

コクピットの写真ですが、説明がないとわたしにはどのヘリのものかわかりません。
これは大きいからCHかな?

白いヘリの写真を見て、海自か?と一瞬勘違いしてしまいました。

よく見ると一部が青いこのヘリ、少し前の空挺団降下始めで
要人を運んできたVIP専用機じゃありませんか。

ユーロコプター EC 225 シュペルピューマMk II

皇室、首相、国賓などの輸送任務向けに3機保有し、
陸上総隊第一ヘリコプター団
特別輸送ヘリコプター隊において
運用されています。

ウィキには

東日本大震災の津波により仙台にて整備中の1機が損失

とあるのですが、先ほど「写真を撮らせてもらえなかった」
と書いた整備会社は、まさにここのことだったことに、たった今気がつきました。

見学の時に震災の被害について会社の方から詳しく伺いましたが、
そのときに修理ハンガーにあった飛行機のほとんどは
海水に浸かり流されて破損したということでした。

これは狭いのでAH-1のコクピット?

二人横並びなのでこちらがチヌークかな?

さて、この日は天気が悪かったため、体験搭乗は基地の上を
ぶーんと一周するくらいで終わってしまったそうですが、
Kさん、去年の十二月には入間でも体験搭乗に参加されてます。

こちらがその日Kさんが乗った空自チヌーク。

こんなところを撮っても良かったんでしょうか。

わたしがP3-Cの体験搭乗をしたときには、カメラどころか
携帯までボッシューされた記憶があるのですが、
あれはP-3が偵察機だからで、基本輸送がメインのチヌークは
コクピットくらいたいしたことないっすってことなのかな。

心配なのでKさんに伺ったら大丈夫とのことでした。

チヌークではバブルウィンドウから外の写真を撮るのが正しい。

東京タワーだ!と思ってよく見たら三つありました。
ただの鉄塔のようです。

東京の街がまるでミニチュアのように・・・・。

そして、さらに素晴らしい写真をいただきました。
もし今回晴れだったら、こんなところを飛んでいたはず・・だとか。

一昨年の同じ木更津体験搭乗の時の写真。
木更津航空隊の皆さんは「富士山ヨーソロー」とか言ってたんだろうな。

海ほたるよーそろー。

こんな角度から撮れるのはヘリコプターだけ。

いやー、今年は本当に残念!ってことだったんですね。

そして、もう一つうらやましついでに、木更津のお土産は
迷彩柄のマスク(三枚セット)だったそうです。

 

この体験搭乗も、もし今頃に予定されていたら中止になったかもしれません。
いずれにせよ、またもとの日本に一日も早く戻って欲しいものです。

 

 


気球からF-16まで・アメリカの女性飛行家たち〜エンパイア・ステート航空科学博物館

2020-03-07 | 航空機

エンパイアステート航空科学博物館の展示をご紹介しています。

航空黎明期の気球の資料を案内するコーナーには
「コントロールイズエブリシング」(制御が全て)
としてこのような展示がありました。

まず一番左のロープについては「ドラッグロープ」(引綱)として
以下の説明があります。

引綱は初期において気球の自動操縦の一つの形態と見做されることがあります。
長時間の飛行で低空の場合、安全な高さをキープしていることを
確かめながらバラストやガスの排出が行われているか確かめるため、
航空士の訓練にしばしば長いロープが使用されていた時代がありました。

気球から垂らしたロープの一部が地面にあるときは普通にこのシステムは働き、
気球が浮きすぎても空中のロープの重量によりうまく沈んでくれます。

これはなかなか良いシステムで水上ではうまく機能しましたが、
陸上ではご想像の通りロープが何かしら物体に巻き込まれることもありました。

その右は「錨」(The Anchhor)です。

気球の着陸は飛行で最も危険な瞬間です。
無風、微風では難なく気球を着陸させることができましたが、
風速20mphもあると、気球と籠はその影響をもろに受けることになります。
着地の瞬間籠の前方への動きは一時的に停止しますが、
ガスバッグは放り出され続け、バルーンが収縮するまで引きずられます。

これを解決するにはどうしたらいいでしょうか。

前進を止めるには牽引したフックが引っかかればいいのですが、
その際フックは籠ではなくガスバッグを囲むネットに
結び付けられていると有効であるとされました。

そしてその横のゴンドラに乗ったロングスカートの女性です。

彼女の名はメアリー・ブリード・マイヤーズ(1849ー1932)
プロの気球乗りで、

「レディ・エアロノー・カルロッタ」

として知られていました。

気球そのものが珍しかった時代、女性の航空のパイオニアとして
気球で単独飛行を行い、多くの記録を樹立しました。

写真には彼女が当時のメディアに

「The Intrepid Lady 」(勇敢な淑女)

と讃えられたということが書かれています。

彼女は夫と共に旅客用の気球を製造販売するビジネスを営んでいました。
彼らは自社製品に搭載した空中ナビゲーションでいくつかの特許を取り、
各地で展示デモを行うことで宣伝を行っていたのです。

日本でもどこぞのホテルチェーンでは嫁が宣伝をして有名ですが、
実はこの「女流バルーニスト」はあの女社長のように、いわば
イメージガールの役割を演じていただけで、彼女の栄光のほとんどは、
この夫のカール・エドガー・マイヤース(1842−1925)
の実力のおかげといってもよかったようです。

ドイツ系のマイヤースは小さい頃から発明に没頭し、独学で
科学的原理を学び、趣味の発明でベンチャー企業家となりました。

配達代理店、請求書収集家、銀行員、大工、化学者、電気技師、
ガスフィッター、整備士、写真家、配管工、プリンター、電信士、
そして作家と、名乗った肩書は数知れず。

銀行で働いていた時には偽札に興味を持ち、研究して偽造技術を学び、
偽造貨幣の鑑定の専門家になったりしています(笑)
この鑑定方法は現在の鑑定手法の基礎になっていると言いますからすごいですね。

写真ギャラリーを経営していた25歳の時にメアリーと出会い、
結婚してから、彼は水素ガスと気球に俄然興味を持ち、
嫁を助手にして研究、製造そして販売を一気に開始しました。

気球に水素ガスを用いることを最初に実施したのは何を隠そう彼らです。
気球の布素材の研究、水素ガス製造装置の開発によって、
マイヤーズは

「フライング・ダッチマン」

というあだ名で呼ばれていたそうです。
彼はドイツ系でありダッチとは何の関係もなかったのですが。

そのうち彼は空中散歩のできる飛行船『スカイサイクル』を開発し、
それを嫁に操縦させて、一気に有名になりました。

嫁、空中散歩中。

彼女は操縦可能な飛行船に乗った最初の女性となり、
「カルロッタ」の名前で有名になりました。

ところで、当ブログとしてはマイヤースと軍の関係にも触れておこうと思います。

マイヤーズはヨーロッパの気球技術が米国よりもはるかに進んでいて、
欧州のいずれかの国がもしその気になれば、ニューヨーク、
または米国北東部の主要都市を全滅させることができると主張していました。

彼は次の戦争は空が舞台になると予言していたのです。
(予言は当たることになりますが、主役は気球ではありませんでした)

マイヤーズは、欧州の主要国が全て秘密裏に航空機器を
兵器に用いるために研究をしているとした上で、政府にこれを認識し、
この潜在的な脅威に対して適切に準備するよう奨励していました。 

そして、これを迎え撃つための発明に取り組んでいることを強調したのですが、
メディアは彼を「ジンゴイスト」(自国の国益を保護するためには
他国に対し高圧的・強圧的態度を採り脅迫や武力行使を行なうこと(=戦争)
も厭わないとする極端なナショナリスト)だと非難の論調だったということです。

1902年、彼は海軍の軍事演習のため11個の水素気球を作りました。
10個は偵察目的、 111番目の大型気球は乗員2名、観測機器を搭載し、
敵軍艦を監視する高高度観測プラットフォームとして信号隊によって使用されました。

この気球は、海軍船につながれて持ち運ばれ、これを用いて
敵の情報を収集し、これを陸軍に伝えることができました。 

のみならずマイヤーズは、敵艦隊、要塞、または軍隊を破壊するための
「戦争船」を作ることできると主張していました。
彼は、もし国家からその資金が提供されるなら、それが地球を支配すると予測しました。 

つまりこういうものですね。
飛行船が魚雷を投下しているの想像図。

マイヤーズの予想は、1903年にライト兄弟が発明した動力付きの
飛行機によって、空想のままに終わることになりました。

気球そのものを武器として敵の爆破を曲がりなりにも行ったのは
彼の国ではなく、東洋の敵国日本だったというのは
彼にとって何とも笑えない皮肉という気がしますが、
幸い彼も妻のカルロッタも、それを知らずに亡くなりました。

さて、次のコーナーにあったこの女性は、
映画脚本作家でもあった女性パイロット、

ハリエット・クインビー(Harriet Quimby)1875−1912

で、彼女はドーバー海峡を横断した最初の女性となりました。

ちょっとこの絵では彼女の魅力が伝わりにくいので(失礼)
写真を挙げておきますと、

おお、なかなかの別嬪さんでいらっしゃる。

彼女は企業のイメージガールをしたこともありますし、
サンフランシスコでジャーナリストをしていたり、
劇評家であり映画脚本も書くなどの才女でしたが、
その映画に自分も女優として出演しています。

彼女の飛行家としてのスタイルは、常に女性らしさを強調したもので、
そのため、大衆からは大変人気があったということです。

カナダのフランス系飛行家ジョン・モアザン(モアソン?)
親しくなったことから、彼の飛行クラブでライセンスを取り、
最初にパイロットライセンスを得たアメリカ女性となりました。

わたしは、過去このシリーズを当ブログで取り上げてきて、
『最初に免許を取ったアメリカ人女性』について何回も書いた気がするのですが、
免許を最初にとった女性は何人もいても(笑)
最初にドーバー海峡を横断したのは彼女だとはっきりしています。

ただ、彼女にとって不幸だったのは、
挑戦が
1912年の4月16日だったことでした。

その前日の4月15日、世界最大の客船タイタニック号が沈没したため、
彼女の快挙は誰にも顧みられることはなかったのです。

そして、そのわずか2ヶ月半後の7月1日、彼女はボストンで行われた
航空大会で
300m上空を飛行中、機体がピッチングを起こし、
240mの高さから同乗者と共に空中に投げ出され、死亡しています。

享年37歳。合掌。

この写真、見覚えありませんか?
そう、当ブログでも「お転婆令嬢」として紹介した

ブランシュ・スチュアート・スコット(1885-1970)

じゃーありませんか。
自分の記事を探し出して読んでみたら面白かったので、
これも再掲しておきます。

女流パイロット列伝〜空飛ぶトムボーイ

なんてこった、この人も当ブログで取り上げたことがありますよ。

おそらくその日この博物館を訪れた客で、彼女らの名前を知っていたのは
米人外国人含め、わたしだけだったんじゃないかって気がします。

エリノア・スミス(1911−2010)

展示ではまだ生きていることになっていますが、彼女は
99歳没と長生きだったので、同年代の彼女のライバル、

ボビ・トラウト(1906-2003 )

と、「まるでこの世の滞空時間を競っているようだ」
ということを締めに、彼女らの関係性を語ってみました。

ボビとエリノア「プレーンクレイジーとフライングフラッパー」

サンビームガールズ

このときにもお話しした、エリノア・スミスの

「ブルックリンブリッジ始めニューヨークの4つの橋の下を飛ぶ」

というチャレンジの絵が描かれていますね。

ノーマ・パーソンズ 州兵中佐

1956年8月1日、空軍第106戦術病院で看護師の資格を取った彼女は、
エア・ナショナルガードに加わりました。

ニューヨーク議会が、看護その他の医療分野で働く場合にのみ、
女性が士官として州兵軍に参加することを認める公法845を制定したのは
その二日前のことで、彼女は初めての女性州兵士官となったのです。

空軍に入隊する前、パーソンズ中佐は、中国-ビルマ-インドで
陸軍と空軍に勤務し、また朝鮮戦争が始まると、
韓国空軍の看護師として勤務していたということです。

で、どうして航空科学博物館でパイロットでもない彼女が
紹介されているのかといいますと、若干こじつけっぽいのですが、
空軍の看護師として、彼女の「飛行時間」が3,000時間を超えたからだとか。

彼女との関連でこれも航空博物館とは関係ありませんが、
1941年から終戦まで存在した

 United States Women's Army Corps 

のポスターが貼ってありました。
この行進は、USWAC創設3周年記念に、パリのシャンゼリゼで
1945年5月14日、無名兵士の墓に敬意を表して行われたものです。

「無名兵士の墓」は、第一次世界大戦で死んだ身元不明のひとりの兵士を
戦死した全ての兵士の象徴として凱旋門の直下に葬り、
祖国フランスのために命を捧げた人々の共通の記念碑としています。

その流れで、ここには「女流飛行家紹介コーナー」がありました。
言わずもがなのアメリア・イアハート、そして、
ここで何度もご紹介している

ジャクリーン・コクラン(1906-1980)

彼女の履歴は、ここにあるような上っ面だけのものではなく、
自分で言うのも何ですが、その出自から語った当ブログの方が
よくお分かりになると思います。

ジャクリーン・コクラン「レディ・マッハ・バスター」

 

3人とも当ブログで取上げ済みです。

キャサリン・チャン「Great Expectations」

ベッシー・コールマン「ブラック・ウィングス」

ルイーズ・セイデン「タイトル・コレクター」

こちらは宇宙飛行士の女性3人。

サリー・クリステン・ライド(1951−2012)

1983年女性としては初のスペースシャトル乗組員に、そして
テレシコワ、サビツカヤに次ぐ3人目の女性宇宙飛行士になりました。
米国人女性としても初の宇宙飛行士であります。

シャノン・マチルダ・ウェルズ・ルシッド (1943ー)

アメリカの生化学者であり、NASAの 宇宙飛行士。
アメリカ人だけでなく女性による宇宙での最長滞在期間の記録保持者です。

1996年のミール宇宙ステーションでの長期ミッションを含め、
彼女は5回宇宙飛行を行っています。
科学者としても実績を持ち、2002年、 Discover誌は
彼女を科学分野で最も重要な50人の女性の1人として認めました。 

ニコール・マーガレット・エリングウッド・マラホフスキ(1974ー)

 元アメリカ空軍将校であり、「サンダーバーズ」として知られている
USAF航空デモ隊のメンバーに選ばれた最初の女性パイロットです。

彼女のコールサインは「FiFi」
デビューは2006年、彼女はダイヤモンドフォーメーションの
第3ウィングを機を務めました。

CNN - Nicole Malachowski

航空自衛隊のブルー・インパルスに女性飛行士が加わる日は
来るのだろうか、とふと考えました。

オフィスの壁には第二次世界大戦時の「公債を書いましょう」
とか、戦意高揚ポスターが貼ってあります。

ここスケネクタディ空港が戦争中稼働していた頃、
男性が戦地に出てしまって、女性がかつての男性の仕事、
航空管制や見張りなどを行うようになりました。

 

この事務所の屋根から顔だけ出して見張りを行っていたようです。

 

続く。

 

 

 


軍艦香取征戦記念写真集〜楽しき哉、征戦!

2020-03-06 | 海軍

第一次世界大戦に派遣された軍艦「香取」が、任務を終え、
帰国してから制作された記念アルバムである

「軍艦香取征戦記念写真集」

を、新橋駅前の古本市で手に入れたわたしは、その前半部分を
参加士官などをご紹介するかたちで、ついでに
当時の日本がどうして第一次世界大戦に参戦したのかについて、
紐解いてみました。

さて、今日はいよいよアルバムの後半です。
参加メンバー全員の集団写真が続いた後、「香取」が
「征戦」で訪れた地で撮った写真が紹介されています。

ところで、ウィキペディアによる「香取」の艦歴によると第一次世界大戦で

1914年(大正3年)10月14日、第一次世界大戦において香取は中部太平洋に進出、
マリアナ諸島サイパン島を占領した。
この時に艦内神社から分祀をおこない、同島ガラパン町に香取神社を創建した。

ということが書かれているだけです。

しかしアルバムを見る限り、寄港したのはサイパンだけではありません。

まず出航準備(中央)そして出航(右)

「満々たる大洋を航して征途に向かう」

とあります。
おそらく横須賀港を出ていくところでしょう。

左には

「南鳥島の鳥」

と、洒落なのかなんだかわからないカラスの写真がありますが、
「香取」が最初に寄港したのは南鳥島でした。

■ 南鳥島

アルバムの記事には、各寄港地についてのデータが、
大正3年10月現在の情報をもとに記載されています。

まず、上陸場のコンディションについて。

「島の南方どこそことあそこに二箇所あるも、東北のは使用されていない」

「桟橋は長さ30メートル、甚だ粗造なり。
上陸する船はまず浮標に達し、索をたどり着陸すること」

「水深は小艇には十分である」

にはじまって、潮流、天候、地質、水について述べられています。

「井戸二個あれども塩味を帯び雑用にも適せず。
住民は天水を使用している。
簡単な蒸留器を旱魃の際に使用しているという」

えーっと、つまり当時南鳥島には人が住んでたんですね。

そこであらためて南鳥島の歴史を調べてみると、

1864年(元治元年) - アメリカ人が来訪し、マーカス島と命名

1879年(明治12年) - 日本人斉藤清左衛門が初めて訪れる

1896年(明治29年)-水谷新六ら46人が移住し、集落に「水谷」と命名

1898年(明治31年) -「南鳥島」と命名され、東京府小笠原支庁に編入される

1902年(明治35年) - アメリカ人A・A・ローズヒルがアメリカの領有権を主張
               それに対し大日本帝国も軍艦「笠置」を配置し、牽制した(南鳥島事件)

 

という経緯で、大正3年当時は日本の領土となっていたわけです。

さらにアルバムによると、大正3年現在の島の人口は

42〜3人(うち女性9名、子供3人)だが、4月から8月までは80人になる

で、家屋は15軒。
季節労働者が東京で雇われて滞在していたようです。

というのは、東京に本社を持つ

「南鳥島合資会社」

というのが

「鳥糞を採掘し、余力を以て鳥類鰹を捕獲」

していたからだそうですが、それにしても不思議な会社ですね。
鳥の糞を集めるのが主事業・・・肥料にでもしてたのかな。

この「鳥糞」についても記述があって、

「鳥糞は島の中央部一面にあり、地下五尺まで採掘する。
レールを海岸倉庫まで通し、これを運搬する。
一年で役3000トン、時価15〜20円分が産出される」

だそうで、結構な産業だったらしいことがわかります。

軍艦ファンにはちょっと興味深いカットかもしれません。
太平洋を航行している「香取」の甲板を、艦橋から撮ったものです。

「香取」は前にも述べましたがイギリスのヴィッカー製で、
動力は当時のものならば当然ですが石炭。

航行中のスタックからは黒煙が立ち昇っています。

左上は、サイパンに到着した後、香取が出した作業艇と、
サイパンの「土人」のボートが並ぶ様子。

右は登江丸という補給船が煉炭を補給しているところです。

■ サイパン


ガラパン地区というのは今でもサイパンの繁華街となっているところですが、
この頃から島の中心として建物がそれなりに立ち並んでいた様子がわかります。

さて、戦艦「香取」はこのときサイパンを「占領した」となっていますが、
それまで領有権を持っていたドイツと交戦したなどの記録はありません。

これはどういうことかというと、ドイツは、領有権を有していながら
本国から遠く離れたこの島の開拓、および先住民への教育政策を一切せず、
同島を罪人の流刑地にしていただけだったので、
チャモロ人とスペイン入植者が少数いるだけの荒廃した島となっており、
留守宅に入るが如き無血占領だったのではないかと推察されます。

冒頭写真は「マリアナ群島占領地『香取』守備隊員」とありますが、
これってつまり「香取」の乗員の選抜メンバーですよね。

ということはこの写真の花型の写真の真ん中は、「香取」艦長、
ということになろうかと思います。

守備隊は、サイパン上陸後、なぜか病院で記念写真を撮っています。
士官3名、軍医1名、下士官2名、水兵4名。

写真に写っている誰一人としてにこりともしていないので
彼らがどんな心境で占領軍?幹部と一緒にいるのかは謎です。

ちなみにここはガラパンにあった病院で、占領軍は
ここを長官舎にしていました。

サイパンにはチャモロ人(画像はチャロム土人とある)、
カナカ土人という先住民族が在住していました。

右下はガラパンにあったドイツ語学校です。
ウィキの情報の通りであれば、これは原住民のためではなかった、
ということになりますが、ドイツ人の子供がいたとは思えないので
やはりこれは原住民にドイツ語を教えるための学校だったのではないでしょうか。

 

不思議に思ったわたしは、ドイツ語でサイパン島がどう書かれているのか
検索してみようとして驚きました。
ドイツ語ウィキペディアがないのです。

ドイツ人、自分とこの領土だったことそのものを全く忘れてないか?

 

そこでアルバムの資料をみると、当時の住民内訳がありました。

日本人 27

ドイツ人 13

スペイン人 8

カナカ族 1362

チャモロ族 1310

サモア族 67

オレアイ族 40

ドイツ領のはずなのに、ドイツ人が13人て・・・・。
その内訳はといいますと、

島司令 ドイツ人(ベーメー、測量士出身)

副司令 ドイツ人(フワッケル、所掌は警察、軍、税務、土木)

病院長、教師二人、郵便局長もドイツ人です。
そして、収監されていた囚人が15人。

おそらく住民の13人は純粋な居留者で、囚人は含まれないのでしょう。

そのほかにもサイパンにはサモア人が住んでいたようです。
日本人の目から見ても当時のサモア人は「美人」に見えたのでしょうか。

ちなみに後年、トラック島の原住民の娘と結婚した実在の男の話が

「私のラバさん酋長の娘 色は黒いが南洋じゃ美人」

という歌に歌われました。

 

そして商人「アントニー」の家、と説明のある豪邸。
おそらくチャモロ人の実力者で島一の富豪の家でしょうか。

瀟洒な仕立ての背広を着てドレスを着た娘たち、そして
息子と写真に収まる「アントニー」に、占領軍幹部が
皆で表敬訪問に行ったらしい様子がうかがえます。

ちなみにアルバムの解説には「土人生活状態」として次のようにあります。

 

「チャムロ」族は土人中の優等族にして皆上着及び袴を穿ち
多く帽子を戴けり
婦人中には白粉を用いるものさえあり

性質従順にてまた勤勉なりという

朝は早く起き洗面し朝食としてコーヒーとパン(豪州より輸入)を取り
正午ごろ昼食をなし3時ごろ茶を喫し6、7時ごろ
夕食をなす 
食べ物は支那米及びトウキビを粉にしたパン魚獣の肉にて
野菜は多く食せず

酒は麦酒1日一本はチャムロ族に限り許可せられ居れり

結婚期は女子は18歳より20歳を最多とす
この種族の処女は結婚するまで頗る品行厳格なるも
一度結婚後は宗教上離婚すること能わざる

「カナカ」等の種族は男は褌一本のみ女は腰に布を巻く他
全く裸体にして(略)

耳の下部に穴を穿ち貝殻・ビンロウズ・鼈甲の輪を嵌めおれり

女子は12歳より結婚し14歳より子を産するも児童の発育悪しく
夭死する者多きを以て結婚期の遅きチャムロ族の方が
却って繁殖力大なりという

右下はサイパンのラウラウ湾に停泊する「香取」から上陸する小艇上。

真ん中は上の「アルペン」の家族と記念写真を撮る士官たち。
バン・アルペンはラウラウ湾付近に住んでいたドイツ人で、

年齢四十六従順なる男なり

6年前この地に移住し開墾に従事する

とわざわざ記述されています。

占領したといっても、現地のドイツ人とは友好的で
なんのトラブルもなかったらしいことがわかります。

 

右下に、かつてドイツ守備隊がガラパンに上陸したとき、
という写真があります。
どうしてこんな写真が手に入ったかというと、実は
米西戦争でサイパンを占領したアメリカがドイツに売却したのは
1899年、つまりドイツ領だったのはたった15年だったのです。

その間、ドイツがほとんど開発や定住を行わなかったので
日本は無血占領することができたということなんですね。

■ ロタ・グアム・パラオ・トラック

マリアナ群島守備隊、征戦をそれなりにエンジョイしております。
無血占領で一発も使わずにすんだため余った銃弾を消費すべく、
ロタ島に鹿狩り隊を編成して上陸し、戦果をあげました。

グアムにも寄港したようです。
下の写真は

「椰子の浜辺に涼風薫として苦熱を忘る」

トラック、ボナペ、パラオの島々。

「香取」は寄港したのではなく、通過しただけだったと思われます。

■パガン島

マリアナ諸島守護隊として、「香取」はパガン島という
北マリアナ諸島の面積48㎢の島にも寄港しています。

 

マリアナ諸島を「香取」が出航したのはいつかわかりませんが、
帰国したのは12月5日とはっきりしています。
つまりこの征戦とは9月19日出航から3ヶ月のことであり、
マリアナ諸島を占領したのは10月14日、滞在期間は
およそ1ヶ月しかなかったということになります。

■ 小笠原諸島

「香取」は帰国途中、小笠原諸島に立ち寄りました。

大将時代の練習艦隊の遠洋航海アルバムをご紹介したとき、
やはり小笠原諸島の「正覚坊」という亀園の写真がありましたが、
当時すでに東京都となって長かった小笠原には日本社会が根付いていました。

アルバムでは当時の人口を、群島全て合わせて4,000人ほど、としています。

当時はパパイヤもバナナも国内では手に入らない珍しい果物でした。

そして左の写真。

「内地に帰着し久しぶりの上陸
累々として前に置かれたるは征戦中の記念品」

とあります。

この書き振りから推察するに、「香取」のマリアナ諸島占領には
全く戦争に往ったという悲壮感はありません。

何もせずに敵地を占領、現地では住民との親交を深め、
珍しい土地で見たことのないものを見て、狩をしたり
ボートレースをしたり、ドイツ人家庭で歓談したり(多分)
乗員一同にとって、実に楽しい「征戦」だったのではないでしょうか。

 

ところで、この6年後、パリ講和条約の結果を受けて、マリアナ諸島が
日本の正式な委任統治領となるわけですが、この歴史的事実に対し、
第二次世界大戦後、
戦勝国の側はもちろん日本国内のメディアが

「日本は権益目的で第一次世界大戦に参加し、
ヨーロッパで皆が戦っている隙に青島始め
マリアナ諸島を盗んだ」

なんて鬼の首とったように断罪しているのは、前にも説明したように
日本の第一次世界大戦参戦の経緯からみても、
なんだか日本に対してのみ悪意ありすぎじゃない?と思います。

本当に日本のメディアって、日本嫌いだなあ・・・。

「映像の世紀」、おめーのことだ。

 

軍艦香取征戦記念写真集シリーズ 終わり