ESAM、ニューヨーク州の北部にある小さな空港、
スケネクタディ空港に併設された航空科学博物館の
外庭に展示されている軍用機をご紹介しています。
グラマン S-2トラッカー(Tracker)
現地にある説明を読んで一番驚いたことが、
このトラッカーを導入したことのある国のなかに
我がじゃぱ〜んが入っていたことでございます。
そうなんだっけ、と日本での運用の歴史を見てみると、
日本では「あおたか」と呼ばれていたあれですってね。
それならわたしは鹿屋で実物を見たことがあるんだったわ。
全くアメリカで見ているのと結びつかなかったけど。
S-2は海上自衛隊に米海軍から軍事無償援により60機、
昭和32年から供与されていたそうです。
その前に海自は訓練を受けるための派遣隊を編成し、
対潜空母「プリンストン (CV-37)」で発着艦とや整備作業の研修を行い、
到着したノースアイランド海軍航空基地において訓練を受けています。
受領した航空機はアラメダから最終的に鹿屋航空基地に届き、
まず鹿屋基地に航空隊が編成されました。
米国に派遣されたパイロットには、空母への離着艦の訓練も行われました。
これは、艦載機の訓練のマニュアル上そうなっているから、
アメリカ海軍としてもその通りに実施しただけだと思われますが、
このため、海自の中の人たちは
「S-2と一緒に空母が供与されるかも?」(((o(*゚▽゚*)o))ワクワク
と期待半分で噂していたそうです。
今にして思えばありえない話だったんですけどね。
というかいくらなんでも空母をおまけにくれるほど
アメリカさんだって気前良くないだろうて。
このトラッカー、アメリカではあちこちで見てきましたが、
いつ見てもこの翼の畳み方が無理やりだなあと感じます。
もう少し翼がなんとかきれいにたためなかったんですかね。
歴史的なS-2トラッカーの位置付けとしては、これが
最初に生まれた対潜戦の機能を持つ軍用機だったということです。
トラッカー以前の「ハンターキラー」=対潜水艦掃討作戦といえば、
それはグラマンの「ガーディアン」とか「アベンジャー」の役でした。
トラッカーは冷戦における対ソ連潜水艦戦のアイコンとなったのです。
そのためにソノブイと捜索のためのブーム、サーチライトを持っており、
サーチアンドデストロイ のための魚雷と爆、ミサイルを搭載していました。
その中には時節柄原子力のものも含みます。
ロッキードがジェット機S-3「バイキング」を開発後、
置き換えられて引退していきましたが、2008年になって
カリフォルニアで大規模な火災が発生した時、なんと
まだ動ける何機かのトラッカーが、老骨に鞭打って800ガロンの水と
化学消化剤を運ぶという活躍をしています。
ここにあるトラッカーを横から撮ってみて気がつきました。
「イントレピッド」と書いてあります。
この機体は最後の頃練習機になっていたそうですが、
ニューヨークの博物館「イントレピッド」に展示されるために
名前が入っているのだそうです。
おそらくイントレピッド航空博物館から借りているのでしょう。
ダグラス A-4 スカイホーク(Skyhawk)
皆さんは「brainchild」という英語表現をご存知ですか。
頭脳の子供=人の頭から生み出されたもの
という言い回しで、新機軸だったり新発明だったり、
とにかく頭抜けた才能の持ち主によって生み出された、
というものをあらわす時にこの言葉が使われます。
This variation of rice omelet was the brainchild of
Juzo ITAMI and was developed by Taimeiken,
the old establishment of yoshokuya
(restaurants serving Western food) in Nihonbashi, Tokyo.
などという文章に使われたりする言葉ですね。
(しかしあの、ナイフでカットして卵を広げるオムライスが
伊丹十三のアイデアだったとはしらなんだ)
とにかく、何が言いたかったかというと、このスカイホークは
鬼才エド・ハイネマンの「ブレインチャイルド」といわれていた、
ということです。
いうまでもなくハイネマンはアメリカの航空デザインの世界で
最も有名で最も成功した設計者でした。
「スクーター」というあだ名もあったというこのA-4は、
種別記号はAでありながら、爆撃機よりも戦闘機に似ています。
おそらくこの小さな入れ物に、これだけ盛り沢山に
機能を詰め込んだ攻撃機はかつて存在しなかったでしょう。
まずその堅牢な構造により、戦闘ダメージを吸収する能力。
これはまさにレジェンド級といわれました。
A-4のオペレーションは1956年に開始され、生産は
1979年まで、生産台数は約3,000機、派生型は
17種類に及び、アメリカ海軍、海兵隊、そして
いくつかの外国海軍に配備されました。
もっとも活躍したのがベトナム戦争時代です。
戦争中は全天候型機として飛び、海軍が1970年になって
レンジが大きく、より重量の爆弾をロードでき、さらに
洗練されたアビオニクスを搭載したA-7コルセアに
次第に置き換えて行ったのですが、特に海兵隊は最後まで
この「スクーター」を気に入ってギリギリまで使い続け、
そんなこんなで一番最後のA-4が引退したのは2003年でした。
A-3は亜音速で、最高速度670 mphを達成することができましたが、
爆弾を搭載し、低空で密な待機状態で飛行している場合、
まるで止まっているかのように見えました。
典型的な搭載武器は5000発の爆弾で、あとは内蔵された
2基の20 mm砲と、1つか2つの外部燃料タンクがありました。
ESAMにあるスカイホークは、海軍所有だったもので、
ベトナム戦争時にはUSS「ハンコック」の艦載機でした。
最後の配置はバージニア州の海軍基地で、
アグレッサー(敵の役)をしていたのだそうです。
A-4は非常に駆動性に優れた機体であるため、
ブルーエンジェルスに採用されていたことがありますし、
F-14戦闘機は空戦の技術を軽快なスカイホークに学びました。
ノースアメリカン RAー5C ビジランティ(Vigilante)
「ミッドウェイ」のハンガーデッキ展示でも見ることができるので、
このビジランティについては以前もお話ししたことがあります。
1958年に初飛行を行った、当時の戦略爆撃機で、最初は
核爆弾を積んで飛び回っていた、というあれですね。
当時ヴィジランティは超先進的な技術をこれでもかと取り入れた
イノヴェーティブな近未来の代名詞のような存在でした。
揚力コントロール機能として、たとえばエルロンの代わりに
ウィングスポイラーを搭載するとか、ヒンジ付きの方向舵の代わりに
一体成型の垂直尾翼が使用されているとか言った具合です。
「ミッドウェイ」艦上で実際に見た時も、その平べったく
うっすーい機体はただものでないといったたたずまいでしたが、
高度なパフォーマンス能力を持つその滑らかでかつ壮大な機体。
ヴィジランティは、空母艦載機として史上最大の大きさでした。
しかし、こうやって真正面から見ると後退翼のせいで
いうほど大きく見えません。
動力はGEのJ-79を搭載し、トップスピードはマッハ2.1です。
1963年のことです。
アメリカ海軍は突然航空機での核爆弾の運用を取りやめました。
このことによって、その日から
A-5は仕事がなくなってしまいました。
しかし捨てる神あれば拾う神あり、折しも当時
ベトナム戦争が激化していたため、戦況に必要とされていたのが
空母艦載型のハイパフォーマンス型偵察機です。
結果として、すでに配備されていたA-5と、48機の
新しく作っられたばかりのA-5は、急遽偵察機使用に改装され、
その名前もRA-5Cと変えました。
可変的なスピード、そして長い航続距離、最先端のレーダー。
もともと持っていたこれらの強みが、RA-5Cを
偵察機として比類のない存在に変えたのです。
いやー、こういうのを「至る処青山あり」というんでしょうか。
ちょっと違うかな。
爆弾を搭載するためにあった胴体下のカヌーと呼ばれるポッドには
横向き空中レーダー(SLAR)、赤外線センサー、そして
カメラが搭載されることになりました。
写真は「カヌー」の一部、カメラ搭載部分だったところ。
これはカヌーの下に潜り込んで後脚を撮ったもの。
なぜこんなところにベンチがある(笑)
ベトナム戦争の間、RA-5Cは、爆弾の効果を評価するミッションを
行っていましたが、 そのうち対空防御が専門になりました。
生産された130機のビジランティのうち18機は
全てそのときの任務遂行中に喪失しています。
ESAMの偵察型RA-5Cは海軍の偵察部隊第5偵察隊のもので、
USS「レンジャー」艦載部隊としてトンキン湾の
「ヤンキーステーション」にいたことがあります。
その後退役して「イントレピッド」航空博物館が所蔵していました。
リパブリック F-105G サンダーチーフ(Thunderchief)
「サンダー」(雷)の「チーフ」なので、雷の親玉。
そんな名前がついたサンダーチーフ先輩。
アメリカ人の作成した説明は、どうもなんでもかんでも
「レジェンド」にしてしまう傾向があるわけですが、
このサンダーチーフパイセンも、
「ベトナム戦争の最も伝説的(レジェンダリー)な飛行機」
と高らかに称賛されております。
ここにあるサンダーチーフは滑らかな機体にシャークマウスの
マーキングを施された印象的な一つの見本です。
アメリカ空軍が運用していた単発エンジンの軍用機の中で
最も大きな機体をもち、また最もパワフルでした。
小さな翼のエリアに強力プラットアンドホイットニーJ-75
ターボジェットエンジンを内蔵し、低空でのミッションにも
最適化されただけでなく、会場でマッハ1、
3万フィート上空ではマッハ2を出すことができました。
F-105 は1958年に運用が開始され、わずか6年後の
1964年には800機を製造し空軍に配備して生産終了します。
機種指定としては「F」がついていますが、デザインは
どちらかというと爆撃機よりで、特に原子力ミサイルを搭載し、
対ソ戦略でヨーロッパの基地から音速で飛ぶことを目的としていました。
ベトナム戦争が起こると、それらは急いで従来の爆弾を
搭載できるようにモディファイされ、タイの基地に配備されました。
F-105は北ベトナムにおいて非常に危険なミッションの
ほとんど矢面に立っていたため、生産された400機のうち
およそ半数が戦没しています。
ESAMのF-105は1964年に空軍に配備され、長い間
その任務を全うしていたラッキーな機体の一つです。
ベトナム戦争の時には第355戦闘機群の一員として
嘉手納基地をベースに飛び、戦争が終わってからは
ジョージア州のエアーナショナルガードに所属していました。
続きます。