ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

潮目が変わるとき〜ドイツ軍航空機史〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-07-31 | 博物館・資料館・テーマパーク

ドイツ国防軍空軍司令だったエルハルト・ミルヒです。

「のだめカンタービレ」ミルヒー・ホルスタインと言う仮名を使う
(本名フランツ・フォン・シュトレーゼマン)指揮者がいましたが、
ドイツの地名のホルスタインはともかく、ミルヒー(ミルク)なんて名前あるか!
と思っていたら、本当にいました。すみません。

 しかもミルクのドイツ語Milchそのまんまの綴りです。

 んでこのミルヒーですが、ヒトラーお気にのアルベルト・シュペーアとともに
軍需生産で中心的な役割を果たした人物です。

「アルベルト・シュペーア」の画像検索結果ヒトラーお気に入りのシュペーア

戦後はニュールンベルグ裁判で終身刑に処せられましたが、
刑期途中で恩赦となり、出所後は経営コンサルタントをしていました。

ちなみにシュペーアは建築家で、そのためヒトラーの寵愛を受けました。
ミルヒーはヒトラーから、

「私が愛しているとシュペーアに伝えてくれ」

というメッセージをことづかったという関係です。




さて、前回技術力を背景に優秀な搭乗員達が経験を積み、
ルフトバッフェ最良の時を迎えたというところまでお話ししました。

しかし、あるきっかけが、この世界最強航空隊をV字失墜させていきます。

ヒトラーは、対ソ侵攻開始直前の1941〜42年の冬の期間に、
陸軍の師団をロシアに駐留させるとの計画を立て、
その際必要となる冬季用装備についても陸軍側で手配を完了させていました。

ところが、冬に入る前にソ連国内で鉄道輸送網が過密状態に陥っており、
用意された冬季用装備は、ポーランドのワルシャワで山積みになったまま、
物資を輸送することができなくなったのです。

それにもかかわらずドイツ軍は広大なソ連を東に移動する計画を遂行し、
あのナポレオン・ボナパルトをも倒したロシアの冬将軍のせい
たちまち補給が滞ってしまったのです。

ヒトラーも、ナポレオンに挑戦するようなマネをせず、他の季節に
攻め込めばなんとかなったと思うんですが、これはつまりひとえに
彼の作戦が拙速だったということなんではないでしょうか。

 

この空軍大臣ミルヒーについて、スミソニアンの説明では、
スターリングラードの敗戦の後ゲーリングが失脚し、
それに取って代わったように書かれていますが、wikiには、

「ミルヒーがスターリングラードの補給に失敗し、ゲーリングの信頼を失った」

とあります。

あまりドイツ軍の歴史に詳しくないわたしですが、ロジスティックスの失敗で
失脚した責任を問われた、というwikiの説明の方が正しいような気がします。


とにかく、終戦時にはすっかり凋落していたのに、ニュールンベルグでは戦犯となり、
外国人を労働させたという罪で有罪判決を受けた不運な人、それがミルヒーです。

この人の写真の上にあったコーナーがこれでした。

航空機生産危機(The Aircraft Productin Cricis)

1943年にルフトバッフェが被った多大な損失を受け、ドイツ空軍省は
航空機生産企業により先進的なデザインの航空機のさらなる補給を要求した。

ミルヒー将軍が注文したのは、連合軍の爆撃に対応することにフォーカスした
戦闘機の集中的かつ継続的な補充であった。

彼はより多くの労働時間に加え、残業のシフトを増やすよう現場に要求して
救出用の航空機を除く全ての航空機の再生産力を強化しようとした。

ミルヒーはまた、連合国の爆撃を偵察し、それを防ぐためのジェット機生産を
特に最重要とし、急がせていた。

彼は労働省と掛け合って、生産に従事する労働者の数を増やし、さらに
占領している外国から労働者を集めることができるようにした。

なるほど、ミルヒーはこれが戦後戦犯として訴追される理由になったわけですね。

は航空機生産について対策したが、燃料不足、戦略的材料、そして
適切に訓練された航空機搭乗員の不足に対処することができず、失敗に終わった。

フライングフォートレスの翼ごしに見えるメッサーシュミットMe410戦闘機

連合国の戦略爆撃に対し、ルフトバッフェは防御を行った。
ドイツ人は迅速に反応し、イギリス軍を夜間攻撃するための夜間戦闘機を開発
そして別の戦線でアメリカ軍の日中細密攻撃と戦っていた部隊を呼び戻したのである。

ドイツ戦闘機隊は1943年、その出撃によって国土の防衛に寄与したが、
そのために熟練の搭乗員を数多く失うという重い犠牲を払うことになった。

 

恥ずかしながら今知ったところによると、これはドイツがまさに
日本の戦闘機隊と
同じ道を歩んだということではないのでしょうか。

ドイツ戦闘機隊が、大戦前に経験値を上げたスペイン内乱に当たるのが
日中戦争であり、その時から飛行機に乗っていたベテラン搭乗員が
戦争初期には活躍し、相手を圧倒したものの、戦況が長引き、
本土防衛(日本の場合は南方戦線)で次々とベテランが失われていった。

示し合わせたように両国は同じ経過を辿ったということになります。


The Tude Turns 

潮目が変わった、という言い方が英語でもあるのにちょっと驚きです。

1941年の末にはソ連侵攻はその速度を落とし、ドイツは新しい、
そして恐るべき敵の出現に直面することになった。
アメリカ合衆国🇺🇸である。

自分で言うか、と言う気もしますが、事実だから仕方ありません。
ミルヒーが失脚したスターリングラードの記述が重なりますが、
ここでもう一度スミソニアンの解説です。

戦線は地中海沿岸と北アフリカに拡大し、連合国の爆撃作戦は
1942年1月にはルフトバッフェを追い詰めることになる。

ヒトラー総統はどんどん少なくなる労働人口と、原材料の不足を鑑み、
ついに航空機生産の減少を命ずるに至った。


夏に行われた南ロシアへのドイツの攻撃は、
ドイツ軍の物資調達システムの限界まで広げ、
その限界点が1943年のスターリングラードの戦いで、
ドイツ軍は包囲され、降参を余儀なくされた。

補給の不足の問題は地中海戦線でのルフトバッフェの空戦での喪失率を上げ、
さらには南アフリカとシシリアでの陸軍の敗北を生んだといえる。

ドイツの空軍力は連合軍がイタリアのサレルモに上陸した時に予測されており、
それは実際にイタリアの降伏を早めた。

ここでこの戦争の潮目は完全に変わったといえよう。

帝国日本軍も、補給線を考えずに兵站を伸ばしてしまい、それで
負けた部分が大きいかと思いますが、つまり

戦争の勝敗は、ロジスティックスが握る

ということが両国の敗因で実際に証明されたといえますね。

 

続く。

 


最強のルフトバッフェ〜ドイツ軍航空機史・スミソニアン航空宇宙博物館別館

2019-07-30 | 航空機

ここからは、スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンタープレゼンツ、

「World War II German Aviation」

というパネルのご紹介をしていこうと思います。
これでわたしも第二次世界大戦時のドイツ空軍について詳しくなれるはず。


それでは、現地展示パネルの翻訳から参りましょう。


1939年の9月1日にナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まった。
ルフトバッフェは戦争が始まった頃の航空攻撃の主導を握り、それによって
翌年まではドイツの「ブリッツクリーグ」(電撃戦、機甲部隊を使った攻撃)は
西ヨーロッパのほとんどを征服するに至った。

これら初期の成功は、ルフトバッフェを含むドイツ製造の武器兵器の優秀さに
負うところが多く、ほぼ無敵といっても良い状態であった。

 

うーん・・・日本もね。最初は強かったんですよね。

日本の場合は兵器の技術力というよりも、人間、特に
下士官兵がとにかく優秀だったって説もありますよね。

「世界最強の軍隊とは」

なんてお題でも、

アメリカ人の将軍、ドイツ人の将校、日本人の下士官兵で構成された軍隊

逆に世界最弱の軍隊は、

中国人の将軍、日本人の将校、イタリア人の下士官兵

なんて民族ジョークになっているくらいなので。

 

しかしながら、6年も経たぬうちに特別に開発された航空機や武器をもってしても、
ドイツは総合的に負けを喫し、空軍も敗色が濃くなってきた。

ルフトバッフェの勃興と凋落のストーリーは決して航空力を効果的に用いたり、
工業力による生産が困難な状況だっただけでなく、軍の戦略の失敗、
航空機調達のプログラムの管理に失敗したことによって決定づけられた。

それはまた、圧倒的な連合国の数と物量の優位性に直面しても

高度な技術が敗北を防ぐことができるというドイツの信念の敗北

でもあった。

 

まあ、敵だったアメリカの言うことなので話10分の9くらいで聞くとしても、
ドイツが後半から敗北の坂を転げ落ちたのは、自国の技術力への過信だった、
そういう解析は非常に正しいのではないかと思われます。

三国同盟を締結した頃、一般の日本国民は、技術国を標榜するドイツと
いかにも精強そうなナチスドイツ軍が実に頼もしく見え、
これで日本は絶対に勝てる、くらいに思っていたといいますが、冷静に考えると
同じドイツはその少し前、第一次世界大戦でぼろ負けしていたわけですから、
(しかも日本は対独戦争での戦勝国という位置付けだった)
もう少し疑ってかかってもよかったかもですね。

日本もドイツと同じく「国民総過信」のせいで負けが込んでも軌道修正できなかった、
とはよく言われることですが、ドイツが過信していたのが「技術」と言うのに対し、
日本の場合これが
「軍人精神」とか「神風」と言った精神論だったのが少し辛いところです。

ドイッチュ・ルフトポストって、「空飛ぶ郵便局」みたいな煽りでしょうか。

1930年代には、ルフトバッフェは大きな航空的進歩の変革を行いました。
複葉機に乗っていたパイロットはすぐさまそれらを捨てて最新の飛行機、
例えばメッサーシュミットBf109などに乗り換えました。

ドイツエアメールサービスが制作したこのポスターでは、ヘインケルHe IIIが
高速郵便物運搬を行なっているように描いているばかりか、
機体がまるで中型の爆撃機であるかのような表現をしています。

もちろん、戦時体制に協力する郵政省のイメージポスターだと思うのですが、
本当にこんなもので郵便物を運んでいたのならすみません<(_ _)>

「ルフトバッフェの創立」

1933年に政権を握ったアドルフ・ヒトラーの優先事項は、
ドイツが空軍を持つことを禁じる
ヴェルサイユ条約の規定を回避することでした。

そして、彼の主任補佐官、航空大臣ヘルマン・ゲーリングの元で、
軍用機の開発と生産、パイロット訓練、
および航空研究の秘密のプログラムが開始されます。

1935年にルフトバッフェの存在が明らかにされるまでに、
ドイツは技術的に進歩した空軍の基礎を拡大し、また、
ナチスドイツ軍の教義を発展させ始めました。

1930年代後半に起こったスペイン南北戦争へのルフトバッフェの関与は、
独空軍が第二次大戦の前夜に前例のない攻撃能力を開発するのを助け、
豊富な運用体験を得る絶好の機会となったのです。

写真はルフトバッフェの創成に寄与したヘルマン・ゲーリングとヒトラー。

ゲーリングは戦争期を通じて指令を行い、ドイツの航空産業に
航空大臣命令の順守を強要し、また、ユンカースやアラドのような会社を
国の管理下に置くよう強制しました。

この「強要」「強制」は、スミソニアンの解説によるものですが、
どうもアメリカ側から見た感情論みたいなものが混入しているようです。

戦時体制に入れば企業、特に航空機製造業などは国の管理下に入ることは
なにもドイツに限ったことではないし、ことさら企業側が
意思に反して政府に協力させられた、と強調することはないと思うのですが。


スペイン市民戦争で戦闘を行うルフトバッフェ、コンドル軍団の
ヘインケルHe 111
この戦争はルフトバッフェの搭乗員たちに貴重な空戦の経験を与えました。

バトル・オブ・ブリテンで墜落したA JUA JU88爆撃機

ユンカースJUA JU88は中型双発爆撃機で、第二次世界大戦中のドイツにおける主力爆撃機です。

ところで、ちょっと気になったのですが、次の解説を読んでいただけます?

グレート・ブリテンの侵略の前に、英空軍打倒を任務としたドイツ戦闘機は、
500以上の防御航空機を撃墜したものの、航空優位性を確立することはできなかった。

ドイツの爆撃機は航空基地を攻撃し、それから
ロンドンや都市部の日中攻撃へとシフトしていったのである。

莫大な被害がヒトラーに突きつけられ、侵攻を諦めざるを得なくなっても、
イギリス市街地への爆撃は夜も続けられた。

「ブリッツ」部隊はロンドンの市街を破壊し、5万人もの市民に被害が出たが、
イギリス人の「モラル」までを破壊することはできなかった。

ちょっといいですかー?

まるでドイツ軍だけが都市攻撃をしたみたいな言い方ですね。
そして特に最後の一節、これ何が言いたいのでしょうか。

連合国が壊滅させたドレスデンと、アメリカ軍が広範囲を焼き払った
東京の人々がモラルの破壊以前にどんな目にあったか知っているか、
とこれを書いたアメリカ人にぜひ聞いてみたいです。

 

シュトゥーカ乗員たち

Ju 87シュトゥーカは、ユンカース社が建造した急降下爆撃機です。
隊長を囲んでたくさんの搭乗員達の姿がありますが、爆撃機は二人乗りなので、
おそらく電撃戦で編隊飛行に出撃する前のブリーフィングかと思われます。 

愛称の「シュトゥーカ」は、なんとなく女子っぽくて可愛らしいですが、実は
急降下爆撃を意味する 

「Sturz KampfFlugzeug」(シュトゥルツ カンプ フルクツォイク)

を縮めたもので、日本では「スツーカ」と呼ぶ人もいるようです。

急降下爆撃を行うシュトゥーカの翼が立てる音がまるでサイレンのように響き、

「悪魔のサイレン」

などと恐れられると、彼らは調子こいて本当に機体にサイレンを取り付け、

「ジェリコのラッパ」

と自称して文字通りブイブイ言わせ、敵を怖がらせて喜んでいました。 

そして、ドイツ軍はロシアとウクライナに侵攻する際、1,000機以上の
ルフトバッフェの航空機を投入して圧倒的な勝利を収めたのです。

 

この時、彼らは事実上、無防備なソ連空軍を全滅させたといっても過言ではありません。
あらゆる意味でこの時がルフトバッフェ最強の頂点でした。

  

 

続く。

 


皇女エリーザベトの憂鬱〜ウィーンの街を歩く

2019-07-28 | お出かけ

さて、ウィーン街歩きシリーズ、最終回です。

午前中で終わる予定が、カフェ・ツェントラルの昼食を挟んで
まだ延々と続いており、これは昔の日本人らしく義理堅いガイドさんが
昼食をご馳走したことに対するお礼のつもりだったのでしょう。

 

70歳のガイドさんは、外地にあっても、いや、多くの在住外国日本人が
そうなるように、ある意味日本国内に住んでいる人より強烈に
自分のアイデンティティを意識して来られた方のようで、
この日、一緒に歩いていて、こんな出来事がありました。

路上に店舗の立ち並ぶ混雑したところで、観光客か現地人かわかりませんが、
親に放置されて走り回っていた子供が、ガイドさんを見るや、

「チャン・チョン・チン!」

と笑いながら叫んだのです。

何年か前の夏、サンフランシスコ空港でアシアナ航空機が墜落した時、
どこかのテレビ局のインターンシップが、機長の名前として

Sum Ting Wong=Something wrong (なんか変だぞ)
Wi Tu Lo=We're too low (俺ら低過ぎね?)
Ho Lee Fuk=Holy F○○○(説明なし)
Bang Ding Ow(バン!ドン!ワー!)

とテロップを出し、騒ぎになったことがあります。
アメリカ人ちうのは、コリアンもチャイニーズも一緒くたなんだなあと
変なところで感心したものですが、とにかくエイジアンを見ると
非アジア人の程度の悪いのがやるのが、「チャンリンシャン」とか、
(あのシャンプーの宣伝、今なら絶対に問題になってると思う)
目を横に引っ張ってつり目にして見せるとか、
\ /←こんなマークをスタバのカップに書くとかいうイタズラ。

わたしの同級生もドイツ留学中、子供に吊り目ポーズをされたそうですが、
その人は普通のヨーロッパ人より目の大きな人でした。

とにかく、それを聞いたガイドさんは、通り過ぎずにくるりと後ろを向き、
二、三歩子供の方に戻って、わたしのドイツ語の能力でも聞き取れるくらい、
はっきりと子供に向かって、

「今、チャン・チョン・チンって言ったけど、それはとても失礼だよ。
それに、わたしは日本人(ヤパーナー)だ。中国人ではない。
君たちはアジア人を見れば
皆中国人のようにいうが、それも失礼なことだ」

と言ったのです。
悪ガキどもは、(男女合わせて三人いた)気まずそうに黙り込みました。

もしかしたらドイツ語がわからない旅行者の子供だったかもしれませんが、
少なくとも自分が叱られたことだけははっきりと自覚したでしょう。

彼らが今後そういう悪ふざけを慎むかどうかはわかりませんが、
子供相手に正面からそれは間違っている、と叱るガイドさんに、
わたしは海外で生きる日本人の気概のようなものを見た気がしました。

都市開発で地面を掘ったらローマ時代の遺跡が出てきた模様。
わたしたちにはピンときませんが、ウィーンというのは
古代ローマの時代に都市国家として誕生した地なので、
街全体が遺跡の上に立っているようなものなのだそうです。

街のところどころに、レンタルのキックスケーターが設置してあります。
どういうシステムかは知りませんが、ネットとカードで予約する模様。

ガイドさんは音楽家なので、楽譜屋さんにも連れていってくれました。
店先にはグレゴリオ聖歌っぽい(適当)アンティークの楽譜が
実に無造作に飾られています。

ホテルの入り口にワーグナーの彫像を見つけました。

1875年の終わり、ワグナーと彼の家族は、オペラ「タンホイザー」と、
「ローエングリン」の公演の準備のために、ほぼ2ヶ月間、
このホテルに滞在しました。

ワグナー死後50周年記念に当たる1933年に制作されました。

ところで、この時ガイドさんから聞いた音楽家ネタを一つ。

ウィーンの歌劇場の近くで、辻音楽師がロッシーニの曲を演奏していたところ、
自分のオペラが演奏されるので当地にきていたロッシーニ本人が通りかかりました。
黙って通り過ぎることができない彼、辻音楽師に

「その曲はもっとゆっくりやったほうがいいよ」

「なんでそんなことを言うんですか」

「私が作った曲だからさ」

次の日、同じところをロッシーニが通りかかると、昨日の音楽師、
早速こんな看板を掲げておりました。

「私はロッシーニの弟子です」

ロッシーニという人は、自分の像が広場に建つという運びになった時、
その製作費用を聞いて、

「それだけのお金をくれるなら私がずっと立ってるのに」

とぼやいたという、なかなかユーモアのある人物だったそうですが、
この時は商魂たくましい音楽師にしてやられたというところです。

パリでもそうだった気がしますが、花屋というのはヨーロッパでは
街角に花を所狭しと並べているものです。

冬の間はどうなっているのか気になります。

わたしたちはどんどんと歩いて、インペリアルホテルまでやってきました。
ツァーの途中で日本人にはザッハトルテは甘すぎて不評だ、という話になり、
それならばインペリアルに行けば甘さ控えめのが買えるので行きましょう、と
てくてくここまで歩いてやってきたわけです。

ウィーンの帝国ホテルは非常に由緒正しい歴史を持ち、畏れながら
我が日本国の天皇陛下はもちろん皇族の皆様方は、当地にお越しになった際、
必ずここにお泊りになるそうで、インペリアルホテルの英語版ウィキペディアには
わざわざ日本の天皇陛下、皇后陛下がお泊りになった・・と書かれています。

ガイドさんはロビーを通り抜け、二階を案内してくれました。
元々は大公夫人の宮殿だったそうですが、1873年、売却された建物を
万国博覧会のためにホテルにしたのが当ホテルの始まりです。

大理石の円柱の立つ吹き抜けの階段の正面にはライトアップされた女神像。
天井の装飾も、シャンデリアも豪華すぎて息を呑むほどです。

シェーンブルン宮殿も、ザルツブルグのザッハホテルもそうでしたが、
宮殿仕様の階段というのは段差が異常に小さく、上り下りがが楽です。

お年寄りや、裾の長いドレスのご婦人が毎日行き来するので、
まだエレベーターのない時代に建てられたこれらの宮殿は
ストレスフリーの設計としてこの手法が好まれたのでしょう。

ちなみに、世界で初めて電動式のエレベーターを開発したのは、
ドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンス(シーメンスの創業者)で、
このホテル開業7年後の1880年のことです。

二階にあったオーストリア皇后エリーザベト(愛称シシィ)の像。

彼女もシェーンブルン宮殿の住人で、かつての居室には、
彼女が膝まで伸ばしていたという髪の毛を解いて立っている
マネキンが後ろ向きに置いてありました。

髪の毛は一ヶ月に一度しか洗えなかったそうです。

エリーザベトの正気の沙汰ではない美容法の数々

一ヶ月に一度の洗髪、庭で用を足していたフランス貴族並みの不潔さです。
そして浪費という点でも、彼女はフランス貴族並みだったそうです。

エリーザベトの贅沢ぶりは凄まじく、宝石・ドレス・名馬の購入、
若さと美しさを保つための桁外れの美容への出費、ギリシアの島に絢爛豪華な城
「アキレイオン」の建設、あらゆる宮殿・城・別荘の増改築、
彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行などを税金で行っていた。
だが、生来の気まぐれな性質から一箇所にとどまることができず、
乗馬や巨費を投じて建てたアキレイオンなどにもすぐに飽きてしまった。(wiki)

尊大、傲慢、狭量つ権威主義的であるのみならず、
皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみ
ほしいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によって
ヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり法外な額の買い物をしたりするなど、
自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かったとされる。
当時のベルギー大使夫人は、
「この女性は本当に狂っています。
こんな皇后がいるのにオーストリアが共和国にならないのは、
この国の国民がまだ寛大だからです」と書いている。(wiki)

それでもやっぱり美化されて宝塚のお芝居になったりするのは
彼女が美しかったから・・・なんでしょうねきっと。
もちろん彼女が慕われる理由はそれなりにあった説もありますが、
興味があれば調べてみてください(投げやり)

ガイドから聞いた話で面白かったのは、彼女が姑から

「歯並びが悪くて歯の色が黄色くて汚い」

と言われた瞬間、鬱っぽくなって人前で話さなくなったという話。
彼女があと100年遅く生まれていたら、なんとでもなった悩みでした。

あと、最初は彼女の夫ヨーゼフ一世は姉の見合い相手だったのに、
エリーザベトを見初めたため彼女が皇后になったという話を聞いて

「じゃ予定通りお姉さんが皇后になっていたら彼女は暗殺されなかったのかも」

というと、ガイドは

「殺した方も無政府主義者で誰でも良かったみたいだからどうでしょうか」

確かにこの場合のイフはあまり意味がないかもしれません。

 

ところで、肖像画が若くて美しい頃のしか残っていないので、わたしは
てっきり彼女は若いうちに暗殺されたのだと思っていたのですが、この時聞くと、
レマン湖で死んだ時、もう60歳になっていたそうですね。

年を取るにつれて皺とシミだらけになった顔を分厚い黒のベールと
革製の高価な扇や日傘で隠すようになり、
それが彼女の晩年の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっている。
(wiki)

「エリーザベト 晩年」の画像検索結果

(写真を撮られそうになって必死で顔を隠しているエリーザベト)

若い時に美人と称えられた人ほど、歳をとって容姿が衰えることを
受け入れられないという話はよく聞きますが、彼女もまたそうだったのでしょう。

しかもこんなことまで書かれてしまうなんて・・・これも美人税ってやつでしょうか。
(しかしこれも、今の美容技術なら彼女の悩みはほとんど解消されたと思われます)

かつてヨーロッパ皇室一の美貌を謳われたがゆえに、
老いた姿を人目にさらすことが耐え難かったらしい彼女にとって、
永遠に若いイメージだけを後世に残して亡くなったのは、
望むところだったというべきかもしれませんし、
亡くなった年齢の60歳というのは、それ以上歳を重ね、いやでも
人前に老いた姿を晒す場面が永遠に訪れなくなったという意味で
変な言い方ですが、ぎりぎりのタイミングだったように思います。

 

ちなみに、彼女は傲慢で横暴、感情を爆発させ激怒するタイプで、
お付きの者は皆、彼女の機嫌を損ねるのを畏れてビクビクしていたそうです。

やっぱり綺麗でなければここまで持ち上げられてないよなあ。

 

 その日の夕食は、家族で相談してスイス人が経営している
フォンデュの店に行ってみました。

店内はこれでもかとスイスの旗の模様があしらわれております。

サラダとチーズフォンデュ二人前を頼んだら、店主らしいおじさんが、

「もうそれくらいで十分だよ」

とオーダーを止めてくれました。

チーズフォンデュの右側に見えているパン籠が一人分で、
同じ大きさの籠がもう一つこちらにあります。

「こりゃ確かに多いわ」

三人でせっせと食べても、一つの籠すら空にすることができませんでした。

アメリカではいつも超少なめにしても食べきれないほどでてきますが、
ウィーンでも日本人には一人前は多すぎることが多かったです。

でも、オーストリアの人、太ってないんだよなあ。
それどころか、初めてドイツ語圏の国に来て思ったのですが、
若い男に美形が多いんですよ。

移民らしいなに人か分からない人はともかく、いわゆる
ゲルマン系の男性に限り、金髪碧眼、背が高く肌の色は明るく、
神様は本当にうまいこと彼らを造形されたものだと感心せずにはいられません。

そしてそういう見栄えのいいのがザッハとかインペリアルとかのフロントに
惜しげもなく配置されているわけですが、中年以降の男性を見る限り、
オーストリア男性というのは、若い頃はいかに美しくとも、
歳をとると普通に皆世界基準値のおじさんになってしまうようです(笑)

 

さて、ウィーン二日の観光の後、わたしたちは車でザルツブルグに移動しました。

 

続く。

 

 


グラーベンの三位一体像(ペスト記念柱)〜ウィーンの街を歩く

2019-07-27 | お出かけ

契約の時間はとっくに過ぎているのに、一向にツァーを終わらない
ガイドさんの案内で、ウィーンの街を延々と歩いております。

「サウンド・オブ・ミュージック」などを見ていても出てくるのが、独特な形の
教会の尖塔ですが、これらも、屋根の瓦も、全てハンドメイド。
最初からこうなっていたのか、経年の影響でこうなったのかわかりませんが、
写真に撮ってみると、屋根の瓦が波打っているように見えます。

石塔の内部はこのように壮麗な装飾が施されているものが多いですが、
ここでは鳩除けに、ネットが張られていました。

丈夫で軽い素材が開発されるまでは鳥の団地と化していたに違いありません。

「ウィーン建築」という言葉があるくらい、この地には独特の建築文化が、
オットー・ワーグナーアドルフ・ロースなどによって花開きました。

この花模様のビルは、オットー・ワーグナーのマジョリカハウス、右側は
同じくメダイヨン・ハウスと称する1800年代後期の作品です。

マジョリカハウスの花の彩色は、マジョリカ焼といって、
スズ酸化物を釉薬に加えて焼いたものなので、120年近くたっても
その鮮やかさが全く変質していないのです。

この歴史的建造物にも普通に人が住んでいます。

ウィーンのコールマルクトは、宝石店などが並ぶリッチな商店街です。
ここにある「ガードナー」宝飾店は、現代建築の巨匠だった
ハンス・ホラインによって、1982年設計されました。

こちらもホライン設計。
ガイドさんはなぜか、

「私はこの人とはあまり合わなかったです」

と謎の一言をつぶやいていました。
どういう知り合いだったんでしょうか。

ユリウス・マインルはウィーンの高級スーパーです。

「ユリウス・マインル二世は62歳の時に22歳の田中路子と結婚したんです」

ガイドさんの一言で、わたしはオーストリアで活躍した日本のオペラ歌手、
田中路子の最初の夫の名前を思い出しました。
昔、田中路子の伝記を読んだことがあって、かなり鮮明に覚えていたのです。
そこで、

「で、二度目に結婚したのがデ・コーヴァだったんですよね」

(ヴィクトル・デ・コーヴァはオーストリアの俳優。
彼女は夫のことを『デコちゃん』と呼んでいた)

とつぶやくと、えらく驚かれました。

「ええっ、よくご存知ですね!」

東京音大で齋藤秀雄と不倫の噂が立って、逃げるようにウィーンに留学、
そこで社交界にデビューし、40歳年上の富豪の妻になり、
その財力で歌手デビュー、数々の男性と浮名を流し、カラヤンやベーム、
超大物政治家にもタメで付き合いがあったという伝説の女性で、
有名指揮者がステージから客席の彼女にわざわざ挨拶したり、
死ぬ直前まで年齢不詳の若さを保っていたりと、とにかくすごい。

今でもウィーンで最も有名な日本人女性かもしれません。

田中路子

「田中路子」の画像検索結果

レッスンをする田中路子、45歳。

わたしもガイドさんに本で読んだネタを教えてあげました。

「付き合っていた男たちの中で最低だったのは早川雪洲って言ってたそうです」

「へえ、知りませんでした」

ガイドさんのウィーン音大の友人だか知り合いは、亡くなる直前、
田中路子の「かばん持ち」をしていたそうですが、きっと
下の者にはすごい気難しい人だったんじゃないかという気がします。


1670年代、ヨーロッパでペストが流行しました。

ペストは元々ネズミなど齧歯類の罹る病気で、ノミがネズミの血を吸い、
そのノミが人間の血を吸うと、その刺し口から菌が侵入して感染します。

かつては高い致死性を持っていて、大流行した14世紀にはペストのせいで
地球の人口が1億5千万人減ったというくらい猛威をふるいました。

罹患すると皮膚が黒くなることから黒死病と呼ばれていたそうです。

ペストはだいたい100年に一度くらいの割合で流行を繰り返していますが、
この時ウィーンでは死者10万人が亡くなっています。

なんとかその流行も過ぎ去った時、時の施政者レオポルド1世は、

「ペストを終わらせてくれて神様ありがとう」

という意味を込めてこの賑やかな像を建造しました。

ごちゃごちゃしていてわかりにくいですが、ここに
「父と子と精霊」、つまり神(玉を持っている)とイエスキリスト
(十字架を持っている)、そして精霊(多分周りにいっぱいいる人たち)がいて、
この部分が

「三位一体」

を表しているのだということでした。

マリア・テレジアのお祖父さんというレオポルド1世が、
ペストを終わらせてくれてありがとう、とお礼を言っております。

レオポルド1世の下の部分には、天使によって、突き落とされている
醜い老婆の姿があって目を引きますが、これがペストを擬人化したものです。

なぜペスト=老婆なのか、現代の感覚ではちょっと考えてしまいますね。
疫病=老いた醜い女、ってどういう偏見なのっていう。

何でもかんでもポリティカル・コレクトネスの洗礼を受けずに済まされない
昨今なら、たちまち人権活動家の槍玉に上がること間違いなし(笑)

 

続く。

 

 




プリンツ・オイゲンの像〜ウィーンの街を歩く

2019-07-26 | お出かけ

ガイドをチャーターしてウィーンの街を歩くツァーが続いています。
シェーンブルン宮殿はホテルから離れているので、車の送迎がありました。
ウィーン中心部に向かう途中は車窓からの観光です。

この壮麗なギリシャ神殿風の建築物はオーストリア国会議事堂
現在大々的にリノベーション工事中で、完成は2021年。

工事の囲いからにょっきりと女神像が突き出していますが、
本来ならこうなっているところです。

像の足元は広場になっていて市民の憩いのスペースだったんですね。
改装が完成するまでは議事堂見学ツァーもお休みです。

そのあと、車から降りて町歩きに突入したというわけです。

最初はブルクガルテン、ブルク公園です。
あちこちに銅像や石像がある庭園で、フランツ1世が1819年に建造させました。

これはもちろんマリア・テレジア女帝。
何がすごいって、20歳から39歳までの19年間の間に、
16人の子供を産んだという、「子供製造機」でありながら、
君主の座について施政を行なっていたということです。

驚くべきことに、数字を見る限り、妊娠していなかったのはわずか3年間だけ。
まあ、産みさえすれば、あとは周りが育ててくれたわけですけど。

彼女の夫、フランツ1世は生涯あちこちで浮名を流していたと言います。
奥さんが妊娠中に夫が浮気、というのは決して許される話ではありませんが、
結婚生活のほとんど妻のお腹が大きければ、それも致し方ないのかな。

決して共感はしませんが、理解できない気もしないでもありません。

それでも合間合間に出来るだけ子供をたくさん産みたいという女帝の希望に
ちゃんと付き合って任務を果たしたのだから、それはそれで大したものです。


 

子供の名簿を見ていて気がついたのですが、16人の子供のうち、
死産または幼少期で死んでしまったのは女の子三人だけで、
不思議なことにそのうち二人の名前は「マリア・カロリーナ」です。

よりによってその名前をつけた女の子だけが早逝したなら、
普通の感覚ではこの名前は縁起が悪いからもうやめよう、ってなりません?

ところが、マリア・テレジアはチャレンジ精神旺盛な人物だったので、
二人目のマリア・カロリーナ死去から3人目に生まれた女の子に、
またしてもマリア・カロリーナと名付けているのです。

三度目の正直、彼女は成長してナポリ王に嫁ぎ、しかも
50歳とまあまあ長生きしたようで、ジンクスは破られたのでした。

こちらカール大公像。

カール大公といいましてもいろいろいるわけで、確か
ガイドはカール2世と言っていたような気もします。

この彫刻のポイントは、何と言っても造形の素晴らしさで、
馬の後足二本だけで立っているのがバランスの妙だそうです。

カール大公が右手で持っている旗で絶妙なバランスを取っているとか。

「それに比べてこちらは今ひとつ躍動感に欠けるでしょう」

そうガイドが言ったこちらの像は、プリンツ・オイゲン
プリンツ・オイゲンという名前は、海軍とか艦これとかに興味があれば、
誰でも知っているわけですが、意外と当人がどんな人だったかまでは
知られていないのではないでしょうか。

ちなみに、「プリンツ・オイゲン」で検索すると、真っ先に出てくるのが
重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」で、ナチス風味のミニスカ軍服を来た
「プリンツ・オイゲンちゃん」の絵だったりします。

かくいうわたしは、以前、模型展見学の報告のため検索していて、

オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン

プリンツ・オイゲン

というかっこいい響きからルードヴィッヒ二世みたいなのを想像していたら、

Prinz Eugene of Savoy.PNG

こうだったことがわかり、勝手にがっかりしたものです。(すんません)

像の説明を受けている間、ゴミ捨て場のサンドウィッチの袋に
ウルトラC技で挑戦していたウィーンのカラス。

日本のと羽の色は違いますが、やっていることは全く同じです。

ウィーンの町は、建物が通り抜けできるため、通りに対して横に
なんなと近道ができるので大変便利です。
このファサードにお店が並んでいることも少なくありません。

入り口にお餅のような丸い石が設置してありますが、これは
かつて馬車もここを通行したため、車輪が建物にぶつかることを
防ぐためのガードの役目を果たしています。

寺院や普通の建物の上部には、彫像などとにかく人の姿があしらわれています。
この少年は誰だか知りませんが、錨を持っているので撮っておきました。

そういえば、ウィーン少年合唱団の制服ってセーラー服ですよね。

海無し国なのになんで?と思われるかもしれませんが、昔調べたところ、
ウィーン少年合唱団再建のとき、ヴィクトリア女王が気に入って
子供に着せることでヨーロッパ中にセーラー服が流行していたからなのです。

この少年がなぜ錨を持っているのかはわかりませんでした。

たぶん・・・・ライオン。
でも、顔が微妙に猿っぽくて変です。王冠かぶってるし。

「EINBAHN」=アイン・バーンが一方通行であるのはすぐにわかりました。
そういえばわたし少しだけドイツ語勉強したことがあるんだよな。

昔からの建物と、最新式の建築が混在する街。

「これでツァーはおしまいです」

ガイドさんは最後にウィーンでも有名なカフェ、
「ツェントラル」(セントラル)に入っていき、内部を紹介しながら言いました。
時間を見ると、少し遅めのお昼の時間です。

日本人であれば、ここで如何あっても儀礼的に

「よかったらお昼ご飯をご一緒しませんか」

と誘わざるを得ない雰囲気です。
後から考えると、あれはガイドさんの作戦で、ほとんどの観光客は、
そこではいさようなら、とならないのを経験上知っている感じでした。

まあ、カフェで頼むべきものを教えてもらったり、音楽について
雑談したり、楽しく過ごせたので、こちらはむしろありがたかったです。

入り口で案内してもらうまでちょっとだけ待ちました。

それにしても、最近は日本人より中国人の方がいわゆるブランド好きで、
この写真に写っている女の子二人もおそらく20歳そこそこですが、
二人ともグッチにサンローランという、学生には変えないような
ブランドバッグ(しかもこちらで買ったらしく新しい)を持っています。

バブルの頃の日本人みたいです。

ガイドさんが「ニワトコのジュースが美味しいですよ」と教えてくれたので、
頼んでみました。
少し甘いですが、スッキリしたジュースですっかり気に入りました。
後日、別のカフェで同じものを頼もうとして、

「はて、ニワトコってドイツ語でなんていうんだろう」

すぐさまネットで調べたところ(便利な世の中です)、
エルダーフラワーのことだと判明しました。

ちなみにオーストリアではサービス業は間違いなく全員が
完璧な英語を喋るので、ドイツ語は全くわからなくても大丈夫です。


この時食事をしながらガイドさんの身の上話?を聞きましたが、
お父さんが劇団S季の創立者だったとか、お祖母さんの出自を辿ると
やんごとない某所で止まってしまうとか、なんかすごい人でした。

息子さんはウィーンに育ち、オーストリアで一番有名な大学の医学部を出て
今大学病院で勤務しておられるという話で、本当に世の中には
いろんな人がいるんだなあと感慨深くそんな話を伺っておりました。


ついでにこのとき思ったのは、世の中には自分の話をする人としない人がいて、
自分の話をする人は、必ずと言っていいほど相手に質問をしない、つまり
相手のことを知ろうとしない傾向にあるということです。

わたしは自分のことは聞かれるまで喋らないタチで、会話はほとんど
相手に向けての質問ばかり、つまりタイプで言うと「自分の話をしない人」です。


ウィンナシュニッツェル(MK)ソーセージ(TO)サラダ(わたし)
というメインのあとは、3人で二つデザートを注文しました。

こちらがアプフェル・シュトゥルーデル。
ドイツ語のアップルにはなぜかFが入るので「アプフェル」です。

ケーキ本体が甘いので、甘くないクリームで中和して食べるというノリ。
アメリカ人ほどではありませんが、ウィーンの人も甘いものを好むように思われました。

カフェ裏にある中庭のようなところを案内してもらいました。
このバルコニーでウィーン少年合唱団が演奏することもあったそうです。

元々はお城だったので、お城の偉い人がここから演説するために作られたとか。

お昼をご馳走したせいか、「ここで終わり」と言いながらガイドさんは
午後も延々と観光案内を続けてくれました。

街角の教会に差し掛かると、ひょいとドアを開けて(教会というところは
基本どこでも出入り時自由という開かれた祈りの場なので)
スタスタと中に入っていきます。

ミノリーテン教会のなかで彼がわたしたちに指し示したのは
なぜかレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」でした。

本物の「最後の晩餐」も、わたしたちは息子がまだ2歳の頃、
ミラノで実際に見学していますが、こちらはレプリカなので、
あそこのように厳重なセキュリティの下、時間を制限されて
なんとか網膜に焼き付けようとする的な鑑賞ではなく、心ゆくまで
前に佇んでキリストと使徒の姿を眺めることができます。

そして本物の「最後の晩餐」とこれを比べて決定的に違うところ、それは

「食堂のドアを作るために消してしまった」

キリストの足が、この絵にはあると言うことです(笑)

このレプリカは、ナポレオンが依頼して制作させたもので、
気に入ったのでレプリカを手元に置いておきたかったのか、
パリに持ち帰るつもりをしていたようですが、
なんらかの理由でここに留め置かれたままになっているのです。

わたしたちはやりませんでしたが、絵の横にあるお賽銭箱に
硬貨を入れると、絵にライトが当たる仕組みになっていたそうです。

まあ、この絵ならモザイクだし、ライトを当てようがシャッターを当てようが
全く劣化する心配はないのでやりたい放題ってところです。

ガイドさんは奥様と時々電話で話をしていましたが、彼女が

「女性が(わたしのこと)いるのならプチポワンにお連れすれば」

といったとかで、ウィーン宮殿の女性たちが気の遠くなるような暇な時間を
利用して技術を昇華させたという
刺繍の店に案内してくれました。

わたしはフェイラーとかキルトとかにも、刺繍にも全く興味はないし、
そもそも身に付けるものに過剰な飾りがあると落ち着かないタチなのですが、
この刺繍が、

拡大鏡を使用して手刺繍で 1 平方センチあたり
121-225 目の
ステッチ施したもの

と聞いて、それはそれで大したものだと感心しました。
スマホのない時代、宮廷の女性たちの考え出した究極の暇つぶしです。

wikiには、

「近年では、安価な韓国製機械刺繍のものが多く出回っている」

と書いてありますが、ガイドがここのお店のは皆本物だと太鼓判を押すので、
ちょっと遠目にはエルメスのエマイユにも見えるバングルと、
ト音記号を刺繍したキーホルダーをお土産に購入しました。


それにしてもガイドさん、午前中でツァーの時間は終了しているはずなのに、
この後もずっと案内する気満々です。

「スワロフスキーも行ってみますか?割引券ありますよ」

うーん・・・・一体このツァー、いつ終了するのでしょうか。

 

続く。

 

 


べートーヴェンハウスと「第三の男」のドア〜ウィーンの街を歩く

2019-07-24 | お出かけ

シェーンブルン宮殿でなぜかヒートアップし(笑)解説が長すぎて
大幅に時間を食ってしまったとガイドさんは恐縮しています。

幸い、次の予定のスタッドパークはすでに見学を独自に終えていたので、
そこを飛ばして本格的な街歩きに突入しました。

「ベートーヴェンの住んでいたアパート、見たいですか?」

個人ツァーなので、ガイドさんはこんな風に意向を聞きながら
案内先を即興で決めていきます。

途中で見せてくれた10年前のコンサートのパンフレットによると、
もうお歳は70歳くらいになっておられるはずですが、
案内に半日歩き回るなど、大変お元気です。
むしろ、ガイド業で歩くから元気なのかもしれません。

「この階段を上ったところなんですが、階段脇のこれなんだと思いますか?」

「非常脱出用の滑り台」

(無視して)「これは、上に住んでいる人が汚穢を捨てたんです」

つまりあれですか、家の中で用足しをツボかなんかにしておいて、
溜まったら一気にドバーッと流してああスッキリ、って、
そんなことをしたら町中が大変な匂いになるやないかい!

とツッコむも虚し、昔のヨーロッパちうのは基本それがスタンダードだったのです。

あまりにショッキングなヨーロッパのトイレ史

これを見る限り、我が先祖の日本人って衛生観念においては当時から
世界の最先端だったようですね。

ベートーヴェンがここに住んでいた1804〜1815年ごろというのは、
ペストの流行(1830年)より前なので、当然のことながら、
のちの楽聖も窓からブツを捨てていたということになります。

階段を上っていくと、ハウスの前でランチを食べている人がいました。
昔のヨーロッパだったらとてもこんなところで物を食べられません。
ロンドンでの話ですが、

「夜10時以降に窓から捨てちゃダメ」

という法律があったそうです。
ということは昼間なら普通に上からバンバン降ってきますわね
シェーンブルン宮殿で傘をさしていた中国人のおばちゃんの話をしましたが、
そもそもヨーロッパでパラソルを持つようになったのも、元はと言えば
上から降ってくるものを避けるためだったと言いますから笑えません。

という話はさておき、これがベートーヴェンの住んでいたパスクァラティハウスです。
ウィーンでは史跡となる建物には赤と白の旗が飾ってあります。

パスクなんたらというのは大家さんでありベートーヴェンのパトロンだった人です。

4階にベートーヴェンの部屋があるのでご自由にどうぞ、とあります。
 ヨーロッパでは日本の一階はグランドフロアで二階から一階、と数えますから
ベートーヴェンは5階に住んでいたことになります。

入り口の脇にあるこれは馬車を繋いでおくための杭だそうです。
無人で停めておくこともよくあったということでしょうか。

ここでベートーヴェンは34歳から45歳までの間住んでいた、とあります。
この時期彼が作曲した作品は交響曲第三番(エロイカ)に始まって、
ロマン・ロランいうところの「傑作の森」の樹々を成します。

ただし、ベートーヴェンは引っ越し魔で、生涯に70回住居を変え、
大家兼パトロンがこの家をキープしてくれている間も、
いろんなところを転々としていたということですので、
この家で何が作曲された、とかはわかっていないかもしれません。

「どうしてそんなに引越しばっかりしてたんですかね」

「家賃が払えなかったみたいですよ」

それって食い逃げならぬ住み逃げってやつなのか。
後世に名を残すような人物はもう少し自覚を持つべきだと思うがどうか。

一階には案内所とちょっとしたグッズを売っているスペースがありました。
案の定ベートーヴェンのシルエット入りのマグとかそんなものです。

中庭から建物全体を見上げてみました。
他の部屋には普通に人が住んでいます。

こういう中庭付きのヨーロッパの建物を見ると、

中村紘子著「ピアニストという蛮族がいる」

で紹介されていた大正期の女流ピアニスト、久野久が、ウィーンの
ホテルの中庭に身を投げたという悲しい逸話を思い出します。

当時日本で最高のピアニストと煽てられ、ウィーンに乗り込むも、
当地でレッスンを受けたエミール・ザウワーに技術を根本から否定され、
彼女は絶望して滞在先のホテルで38歳の命を絶ってしまったのでした。

「これ、何をするものかわかりますか?」

アパートのドアの前の馬蹄形のものは、靴の裏を擦り付け、
家の中に泥や雪、何より道に落ちている色んなモノを、
持ち込まないようにする工夫です。

主に一番最後のモノのためにわざわざ作られたと見た( ̄▽ ̄)

なぜか奥にレッドブルの空き缶が捨て置かれていますが、実は
レッドブルってオーストリアの企業だってご存知でした?

オーナーが航空機収集を会社ぐるみでやっていて、ウィーン空港の近くに
「ハンガー・ジーブン」という航空博物館を持っています。

今回はそれも見てきましたので、またここでご紹介します。

ベートーヴェンの部屋はこの螺旋階段を上っていった最上階です。
健脚とはいえ70歳のガイドには5階まで階段を登るのは辛いらしく、

「上ってみられますか?わたしはちょっと下で待ってます」

それでは、と階段を上りだして、この同じ景色を、
あのベートーヴェンが見ていたんだなあという感慨に浸る間もなく、
下から呼ばれました。

「すみません、今日は休館日で営業してないそうです」

わたしはすぐに踵を返しましたが、NKは一応ドアの前まで行って
そこから中庭の窓ぎわで寝ていた猫の写真を撮ってきていました。

内部にはベートーヴェンのピアノなどもあったそうですが、
これはまたいつかのお楽しみ。

ヨーロッパ人は建物に人間をあしらうのが好き。
INLIBLIという何かを持っている人(女性)の像がシュールです。

ベートーヴェンの部屋のある建物を左に見ながら石畳を下っていくと、
ガイドさんが、

「第三の男、って映画観ましたか」

「観ましたが・・・」

「オーソン・ウェルズが演じるハリー・ライムが、暗闇の中
このドアに佇んでいるシーン、覚えていますか」

「いえ、さっぱり・・・」

「とにかくそのシーンでオーソン・ウェルズが立っていたのがここです」

全く覚えていなかったので、このシーンだけ動画で探してみました。
石畳の形や様式も違いますが、映画が撮影された1949年から
70年の間に少しずつ整備されたのかもしれません。

暗闇の中佇むハリー・ライムの足元に、猫が近づいてきます。
この猫がどういう由来で映画に出演したのかわかりませんが、彼女は
歴史的な名画の、重要なシーンに登場する映画史上最も有名な猫になりました。

猫はオーソン・ウェルズのピカピカの靴を熱心に舐めだします。
どうも靴に何か猫の喜ぶものが塗ってある模様。

靴の大きさとの比較で、まだ小さな猫とわかります。

ハリーは恋人のアンナ(アリダ・ヴァリ)の部屋を見張っています。

実際には、オーソン・ウェルズの立った場所の向かいにはアパートはありません。
これは全く別の場所で撮られたシーンだと思います。

ピカレスク映画の印象的な悪役として名を馳せたウェルズの、
世紀のキメ顔。歴史に残る名シーンの一つです。

当時の映画ポスターはこのシーンを採用していたようですね。

わたしはこの映画のハリー・ライムのセリフを昔から、
というかここしか記憶にないくらいはっきり覚えています。

Remember what the fellow said…

覚えておくといい。こんなことを言ってたやつがいるんだ。

…in Italy, for thirty years under the Borgias, they had warfare,
terror, murder, bloodshed, but they produced Michaelangelo –
Leonardo Da Vinci, and the Renaissance…

イタリアでは三十年間のボルジア家の時代、戦火、恐怖、殺人、
流血に見舞われたが、一方彼らはミケランジェロやダ・ヴィンチなど
ルネサンス文化を生み出した。

In Switzerland, they had brotherly love.
They had five hundred years of democracy and peace,
and what did that produce?…The cuckoo clock.

スイス国民は同胞愛ってのを持っていてな。
彼らは五百年間というもの民主主義と平和を謳歌してきたが、
その結果何を生み出した?・・・鳩時計だよ。

 

ボルジア家はルネサンス文化のプロデュースをしたか?
というとそうでもない気がしますが、その根拠のない断言も
おそらくはハリー・ライムという悪人の独善性を表す演出だったのでしょう。 

後ろに見えている「KUDAS」という字の書かれた家が、冒頭写真の
女性が出てきている扉部分に当たります。

TOは、オーソン・ウェルズの立ったドアの前に立ち、
写真を撮るといいと言われて本当にやっていました(笑)

あの映画のシーンに登場する場所に実際に行って以来、
「第三の男」をもう一度みてみたいと思っています。

ウィーンは観光都市なので、特に今の時期、暑い中市街を歩いているのは
ほとんどがお上りさんばかりです。
市内観光の方法として、わたしたちのようにとにかく歩き回るか、
さもなければこんなオープンカーで回るという手があります。

冬はとんでもなく寒いそうですが、冬の観光客もこれに乗るんでしょうか。

馬車に乗って街をガイド付きで回るというのも楽しそうです。

馬車は普通に車道を闊歩するので、ただでさえ狭い道は塞がれて
車が渋滞する原因になっていますが、ウィーンっ子は慣れているのか、
こんなものだと思って諦めているのか、粛々と馬車と同じ速さで
車をのんびりと走らせていました。

 

続く。

 


シェーンブルン宮殿のパンダ〜ウィーンの街を歩く

2019-07-23 | お出かけ

ウィーンに到着した次の日、ガイドをチャーターして観光をしました。
初めての土地に来たときによくやる方法で、最初にツァーで見所を抑え、
ガイドに残りの日に自分たちだけで行くべきところを教えてもらうのです。

朝10時にホテルからチャーターした車で待ち合わせ場所の
シェーンブルン宮殿前に行くと、そこで待っていたのは
日本の音大を出て若い頃ウィーンに留学し、それ以来ここに住んで
音楽活動の傍らガイド業をしているという男性でした。

ヨーロッパ留学組で現地に骨を埋める音楽家のうち多くが、
ガイドを兼業して生計を立てているというのはよく聞く話ですが、
まさか実際に観光地で遭遇するとは思いませんでした。

ハプスブルグ家の夏の離宮として建造されたというこの宮殿には、

御前演奏をした神童モーツァルトが、マリー・アントワネットに求婚した

●ヨーゼフ一世が宮殿の一室で息を引き取った

●マリア・テレジアがウィーン少年合唱団の団員だったシューベルトの
声変わりした声を聴いて、アレは辞めさせろと言った

●「会議は踊る」で有名なウィーン会議の会場。座長はメッテルニヒ。

と、有名な逸話がそれこそ星の数ほどあります。

ハプスブルグ家の紋章である鷲があしらわれた門柱。
現在のオーストリアの旗は赤白二色のシンプルなものですが、
1945年、ナチス・ドイツによる併合が終わってから
再び国章は鷲の意匠になりました。

ヨーロッパの建造物には、やたらと人間があしらわれています。
これは天使のようですが、普通の子供ですね。

庭園のランプ越しにグロリエッテという戦勝記念碑を臨む、
ガイドオススメの撮影スポットだそうです。

どんなスポットにも中国人観光客が写り込んでくるのは
もう世界中どこの観光地でも逃れようがありません。

階段を上り、かつて宮殿の住人たちが姿を現したバルコニーから
庭園と戦勝碑が左右対称の完璧な姿で見えます。

庭には惜しげも無く大理石を使った彫刻が規則的に配されています。
ちなみに、ウィーンはこの時期日中の日差しの強さはかなりのものなので、
外を歩く人は帽子が欠かせませんが、なぜか中国人の中老年女性は、
折りたたみの雨傘を日除けにしてどこでも闊歩しています。 

シェーンブルン宮殿は、それ自体がオーストリアの「観光のドル箱」
(ユーロ箱?)で、稼ぎ頭です。
観光用に公開されている40室を全部歩いただけで、その広さに驚きますが、
実はシェーンブルン宮殿には部屋が1441室あって、かつては侍従や使用人が住んでいた
「普通の部屋」は、貸し出されて一般人が住んでいるのだそうです。

シェーンブルン宮殿が住処というのは話のタネとしては洒落ていますが、
何しろ昔の建物なので、不便すぎてウィーンっ子にはあまり人気はないそうです。

かくいうわたしも現在、アメリカはペンシルヴァニア州の、おそらく
100年くらいは経っているに違いない家を借りていますが、空調や水回り、
細かいところの経年劣化など、外見がたとえ趣があって美しくとも、
実際に住むとなるとなかなか辛いものがあります。

今世紀に建った普通の家でもこうなのですから、築269年の元使用人の部屋は、
いくら歴史的建築物の一隅でも住みたいと思う人は少ないでしょう。

ウィーンの街は観光用の馬車が現役です。
広大なシェーンブルン宮殿の庭を全部見て回るのは、歩くより
馬車に乗るのがいいかもしれません。

オーストリアは乗馬が盛んで、オリンピックでもいつも
上位入賞をするのですが、歴史も裾野も広く、ウィーンには

「ウィーン・スペイン式宮廷乗馬学校」

という、貴族階級のために作られた乗馬学校があります。
訓練された白い馬だけがいる特別の乗馬学校ですが、同じ白馬でも

「出来の良くない馬」

は、馬車に売られてしまうのだそうです。
それでも、白馬というだけで馬車界に行くと大事にされるようです。

手前の白馬仕立ての馬車が他の馬より高いのかどうかは聞きそびれました。

宮廷の一階エントランス部分にあったブロンズ像。
殴られているかわいそうな怪獣の口は「手洗い場」だったとか。

床の材質は木です。
六角形の杭を縦に埋め込んでいって、まるで敷石のように見せています。
なぜここまでするかというと、ウィーンの冬は大変厳しく、
大理石の床では人間が耐えられないからなんだそうです。

宮殿の内部は撮影は一切禁じられています。
海外の展示にしては珍しく、大抵はフラッシュ不可でも撮影は可ですが、
絹の調度品や洋服など、光が当たらないように細心の注意を払って
管理しているものが多い関係で、そのようになったようです。

最初にハプスブルグ家の家計を示すパネルがあったので、わたしが
ガイドにふと、

「ハプスブルグ家の唇っていいますけど、こういうのですか」

と一人の写真を指差して聞きますと、特に醜かったとして、
カルロス2世の肖像を指し示し、

「血族を維持するために近親婚を繰り返したせいだと言われています」

こちら、ウィーン市内の三位一体像の中に登場する、レオポルド1世。

「ハプスブルグ家の唇じゃなくてこれは顎ですね」

「皇帝レオポルト1世」の画像検索結果

同一人物です。肖像画補正が入っていてもこれ。

しかし、ガイドによるとハプスブルグ家はフランスの王家のように
贅を貪ることもなく、市民に宮殿を公開し、国民とふれあい、
革命どころかたいへん慕われた王家だったということです。

そんなハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアは、娘マリー・アントワネットが
フランス王室に嫁いだあと、国民の困窮をかえりみず贅沢をしているらしいと

肖像画や周りの報告によって聞き及び、大変心配していたそうですが、
彼女の心配は杞憂に終わらず、その贅沢が娘を死に追いやることになります。

女帝にとって幸せだったのは、娘が自分の心配通り、革命によって
断頭台の露と消えてしまったことを知る前に死んだことでしょう。

丘の上にある「グロリエッテ」の近くにももちろん行けますが、
ツァーの内容には含まれていません。
個人ツァーなので、ガイドの采配で時間配分が自由に変わるのですが、
宮殿の内部見学でそれはそれは熱心に話をしてくださったので、
外に出た時には大変な時間オーバーとなっていました。

現在のオーストリアの国章は普通の鷲ですが、かつて
ハプスブルグ家のオーストリア=ハンガリー帝国の紋章は
双頭の鷲で、頭が二つありました。

それにしても思うのは、若い人は国籍を問わず自撮りに命かけてますね。

この写真に写っている二人は、まるでモデル撮影のように気合をいれて、
日本人なら人目があるところでは恥ずかしくてとてもできない
恥ずかしいポーズ(腰に手を当てて片方の手を高く上げ、斜めモデル立ちをして
ウィンクするというような)を次々と決め、相手にシャッターを押させて
それを熱心に確認し、またもう一度、と飽きることなく繰り返していました。

シェーンブルン宮殿も庭園も、素敵なわたしを引き立てる背景に過ぎないのでしょう。
きっと自撮りが許されない宮殿な内部の見学はさぞ辛かったことと思います。

 

彼女らがポーズを研究しているこの街路樹の間をまっすぐ歩いていくと
シェーンブルン動物園があります。

昔、メナジェリーという「宮廷の小動物園」として設立したものが
今でもシェーンブルン動物園として営業しているのだそうです。

神聖ローマ帝国のヨーゼフ二世(マリー・アントワネットのお兄ちゃん)
の時代には、動物を捕まえるためにアフリカとアメリカに遠征隊を派遣し、
その結果連れて帰ってきたキリンが、当時ウィーンに「キリンブーム」を起こしました。

皆が挙ってキリンのデザインのファッションを身につけ、戯曲家パウエルは
「ウィーンのキリン」というお芝居まで作ったそうです(笑)


その後、当動物園が話題になったのは、パンダの飼育かもしれません。
当動物園では、ヨーロッパでは初めて、自分たちで生まれた仔を育てることに成功。

ジャイアントパンダの飼育にかけては世界でも貴重な技術を持っているそうです。

おかげで最初のパンダは中国に返してしまい、中国共産党の「パンダ外交」に
乗っかる必要もまったくなくなった訳で、これはめでたい(嫌味です)

しかし、その反面、当動物園は、

● 2002年、ジャガーが給仕中に飼育員を襲い、入園客の目の前で彼女を殺害
園長は救助を試みたが、腕に重傷を負った

● 2005年2月20日、若いゾウのアブが飼育員を圧死させた

などという(これだけではないらしい)悲劇に見舞われています。
どんなところか今回は見ていないのですが、飼育するケージの広さとか、
動物にストレスを与える環境が何かあるのでしょうか。


続く。

 

 


ハインケルHe219「ウーフー」とルッサーの法則〜スミソニアン航空宇宙博物館別館

2019-07-21 | 航空機

スミソニアン航空宇宙博物館別館、スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンター。
この世界最高峰の航空博物館展示から、第二次世界大戦時のドイツ機について
お話ししてきましたが、最終回です。 

 


ハインケル He 219 A ウーフー(Uhu )

ウーフーって可愛いですが、ワシミミズクのことなんだそうです。
夜間戦闘機だったため、こんなあだ名がつけられたというわけですね。

わたしが訪れた時には、まだ組み立て前で、バラバラにした状態で置いてありました。

設計したロベルト・ルッサーは自身もパイロットで、第二次世界大戦中
ハインケル、そしてメッサーシュミットで数種類の名作戦闘機を生み出しました。

 
「robert Lusser」の画像検索結果
 
ルッサーは最初ハインケル社に入社、メッサーシュミットに移り、
またハインケルにはいんける、といった具合に航空製造会社を
行ったり来たりしています。
 
He219は先進的な夜間戦闘機でしたが、あまりにも革新的な機構なので
量産は難しいという理由で、また、He280はメッサーシュミットMe262と
競合して負けたため、どちらもドイツ空軍省からは却下されてしまいました。
 
エルンスト・ハインケルはこのためルッサーをすぐさまクビにしてしまい、
彼はその足でフィーぜラー社にいって、無人飛行機Fi103を設計しています。

戦後は多くのドイツ人科学者とともにアメリカに渡り、アメリカ海軍の
ジェット推進研究所で6年間働きました。
 
その間に得た経験から、

各部品段階での信頼性の向上はシステム全体の信頼性の向上に寄与する

ということに着目した信頼性に関する法則を数式化し、これは現在
 
 
として知られています。

 
さて、「機構がややこしすぎて量産できない」と言われたHe219ですが、
夜間戦闘機なので、追尾レーダーを二基、射出のためのイジェクトシートも
搭載していたとか、武器の搭載が凝っていたとか、そんな感じです(適当)
 
機体は例の「ワトソンの魔法使いたち」が行なった「ラスティ作戦」により
ドイツ国内で接収され、アメリカに運ばれてテストを受け、その後
SFUHセンターに展示されて今日に至ります。
 
ドイツでは大変信頼が高かったそうですが、アメリカ軍の試験では
エンジンの出力不足が指摘されあまり高評価ではなかったとされます。
当初の設計に対し色々後からお道具を積みすぎたといったところでしょうか。
 
ちなみに「ラスティ作戦」のラスティですが、わたしは昔、
サイパンだったのホテルで、出稼ぎに来ていたフィリピン人のホテルマンと
雑談をしていて、ガールフレンド関係の話になり、彼が
 
「僕この間あなたはラスティね、って女の子に言われたんですよ(´・ω・`)」
 
と言ったのが唯一耳にした機会で、その言い方から、
あまりいい意味じゃないんだなと思っていたわけで、この作戦名を
とりあえず無理やり「元気作戦?」と訳して書いておいたのですが、
今回この機体のことを調べていて、LUSTYが
 
 LUftwaffe Secret TechnologY(ルフトバッフェ秘密の技術)
 
の略であることがわかりました。
多分「Lu」を頭につけることを前提に単語を考え、
こじつけでこんな作戦名にしたんだろうと思います。
 
 
 
 
どうもこの展示は組み立て途中というのではなく、これが完成形のようです。
ダイムラー・ベンツDB603の二基のエンジンを見せるための。
 
現地の説明を翻訳しておきます。
 
8基の砲という重武装とそれを誘導するレーダーを持つ
ハインケルHe 219「ウーフー」(イーグルオウル)は、ルフトバッフェの
最強の夜間戦闘機でした。
 
ドイツの航空機としては最初にノーズホイールを搭載した機体で、
イジェクトシートを備えていたという意味でも画期的です。
 
最初のミッションは1943年、一機のH219が、少なくとも
5機のロイヤルエアフォースの爆撃機を撃墜したといわれます。
 
博物館に展示されている機体は正確にはそのA-2型で、
1944年の後半に作られた現存する唯一のタイプです。
 
戦争中の運用に関しては現在もあまり知られていません。
 
1945年5月イギリス軍がデンマークでこの機体を捕獲し、
ワトソン大佐のチームを通じてアメリカに渡りテストを受けました。
 
機体について分かっていることは、スミソニアンに来るまでに
飛行時間は13時間にも満たないということだけです。
 
 

第二次世界大戦中のドイツ機コーナーの隅にこんな小さな飛行機を見つけました。
まだ展示前なので(天井から吊るつもりかな)説明も何もなく、
模型か実機かもわかりませんでした。


ということで、第二次世界大戦時のドイツの航空機についてお話ししてきましたが、
初戦では相手を圧倒し、有利かに思われた戦況が、時を経るに従い、
物量のアメリカと作戦立案の巧妙なイギリスにじわじわと押されて敗戦、
という経過が、ある意味日本の敗戦までに酷似していることに改めて驚きました。

もちろん、後年ドイツの敗因としていわれるところの

「技術力を過信しすぎて負けた」

と同じかというと、日本の技術はまだまだで、過信したものがあったとすれば
それは精神的なものだった、という決定的な違いはありますが。

この点、もし「ヘタリア」や「ポーランドボール」ならば、両国は

「だからもしお金があったら絶対負けてなかった」

などいうセリフを言わされるところで、ある程度それは正しいかもしれません。
 
もっとも、お金があればどちらも戦争なんて始めてないんですけどね(笑)
 

スミソニアン博物館のドイツ航空機については、このあともう少し、
ルフトバッフェの栄枯盛衰について展示をご紹介するつもりです。


続く。
 
 



ウィーン到着〜出国前の大騒動とスタッドパーク

2019-07-20 | お出かけ

みなさま、長らくコメントに対する返事等全くできずに申し訳ありませんでした。

色々あって、現在日本から遠く離れたウィーンにおります。
今年の出国は7月半ばになり、そのおかげで散々日本ならではの
蒸し暑い梅雨を味わうことになったわけですが、今、
日差しは適度にあれど湿度の少ないオーストリアに身を置いて、
出国までのスリルとサスペンスに満ちた日々を思い出しております。

出発は7月某日の羽田空港、25時発。
ラウンジに着いたとき、深夜発のせいか人の少なさにまず驚きます。

そして、同時にここに辿り着けたことに心からホッとしたわたしたちでした。

今回、MKが

「パスポートがない」

と言い出したのは、出国予定日の11日前のことです。

まず、家の中どこを探してもないことを確認したのち、警察に電話。
遺失物の届け物のなかにないことを確かめると同時に。翌日の朝一番で
戸籍のある文京区に車を飛ばしてパスポート発行のための戸籍謄本を取りに行き、
そのまま住居地のパスポートセンターで再発行の手続きを怒涛のように行いました。

出国まで時間がないので、もう探している余裕はありません。

彼の場合、パスポートだけでなく、アメリカ大使館からビザを受け取り
パスポートに添付しないとアメリカ入国できないのですから、
探すことを放棄して、一日も早く再発行することを選んだわけです。

パスポートセンターの窓口の係員(仕事できそうな感じ)は、

「どんなに急いでも4日が最短です」

と恐縮しておられましたが、待っている間にすることはあります。
まず、大使館への面接の申し込みを優先してもらうための色々。
学生ビザを貰うには、大使館で面接を行うことになっているのですが、
普通に申し込むと、面接をしてくれるのは17日後、完全にアウトです。

そこで、HPに入ってからイマージェンシーを選択し、面接を早めるために
知人二人にレター(これこれこういう理由で彼は何日までにMKは
アメリカに行かねばならないのでよしなに、という内容)をお願いしました。

一人はMKがインターンシップをしていた日本の会社の社長、もう一人は
アメリカの大学の研究室の教授で、このお願いは皆TOがしてくれました。

そして、4日後。
朝一でパスポートを受け取ったらすぐに家に戻り、パソコンで
大使館に申込み、その後出発の5日前に面接が決まりました。

そして面接当日、6時半に家を出て、ホテルオークラに車を停め、
朝食を食べて時間を待ち、面接に突入。(わたしはずっとカメリアで待機)

面接の時、MKは、一応ダメもとで

「パスポートを出来るだけ早く送ってもらえないだろうか」

と言ってみたそうですが、返事は、

「我々には面接を早くすることしかできない」

そして、ビザの添付されたパスポートは通常通りなら
5日以内に届くであろう、というものでした。

5日で届いたとしても、それは出発の日の朝ということになります。
もうギリギリもいいところです。

その日から週末まで家を空けないようにし、トラッキングで
今どこまでパスポートが来ているか1時間おきにチェックさせました。

そもそも、パスポートが来なかったら、大変なことになるのです。

と言いますのは、今回我が家は、三大陸周遊チケットといいまして、
地球を同じ向きに移動しながら、たとえばわたしたちのように

日本ーヨーロッパーアメリカー日本

と各地24時間以上滞在すれば要件を満たし、二都市間往復の
ほぼ半額くらいの値段で世界一周ができるという航空券を取っており、
秋学期のためにアメリカに戻るMKも、

アメリカー日本ーヨーロッパーアメリカ

というアメリカ起点での同じ周遊システムで移動する予定だったのですが、
もし予定の便に乗れなければ、最悪、彼だけが米国までの片道を
ほぼ正規料金で買って、1週間後に単身渡米、アメリカで落ち合うことになるのです。


そして、パスポートが今日本郵便の手に渡った、というトラッキングにより、
どうやらなんとか間に合いそうだ、と安心しかけたその朝のことでした。

出入りのクリーニング屋さんが、仕上がった服と一緒に、

「これ、入ってたんですけど・・・」

と半笑いで渡してきたのが、MKのパスポート。

なぜ?

彼の着ていたコートの内ポケットをチェックせずに
(まさか内ポケットがあるなどと思ってもいなかったため)
クリーニングに出したのは他ならぬこのわたしですが、もし業者が
洗濯がすんだ彼のコートと一緒に2週間前に届けていてくれさえすれば、
MKが紛失したと気づく前にことは終わっていたのです。

どうしてコートの配達を終えてからさらに2週間の間、パスポートという
誰が考えても大切なものを取得しておきながら、届けてくれるどころか

一言の連絡もくれなかったのか。

わたしは自分の過失を棚に上げて
クリーニング屋の気の利かなさに呆れました。
そして、

「クリーニングに入れたまま出してた・・・」

平謝りしながら家族にそのことを話したのでした。


今回の事件で、今になって本当に良かったと思ったのは、パスポート紛失が
確実となったとき、わたしもTOも、MKに向かってそれを
一言も責めたり、怒ったりするようなことを言わなかったことです。

モノを紛失した人間に対して、不注意を咎めても出てくるわけでもなく、
もちろん自分自身も山ほどそんな経験をしてきているわけだし、
なんといっても、人を責めている間に、再発行に向けて、家族一丸で
ことに当たらなければならない時に、そんなことで互いを傷つけても、
なんの生産性もない、とそんな時我が家では全員が考えるのです。

果たして、パスポート紛失はわたしのミスだったことがわかっても、
TOもMKも、わたしを一言も責めませんでした。

わたしたち以上に人間ができているところがあるMKなど、

「いいこともあるよ。
今回更新したから大学在学中にパスポート作り直さなくて良くなった」

と超前向きな発言をしていたほどで、全くいい家族を持ったなあと感謝した次第です。

今回の便でもらえる機内セット、提供はグローブトロッター社です。

今回、もし彼のパスポートが一日遅れていたら、家族三人とも便を遅らせる、
という案もありました。
我が家ではMKが高校生になってから、親とは別に彼だけエコノミーですが、
どうしても一緒に行くならわたしたちのビジネスクラスが確保できなくなるのです。

しかも、その際、ビジネスクラスの料金を払っていながら、
差額返却なしでエコノミーと聞いた途端、わたしは非情にも、

「やっぱりそれは辛いからそうなったらMK一人で飛行機乗ってね」

と言い放ちました。
わたしがMKだったら、てめーが失くしたんだろうがてめーが!
とキレていたかもしれません。
しかしMKは人間ができているので、
母親に向かって
そんな暴言は決して吐いたりしませんでした。(-人-)

とにかく、結果良ければで無事に予定した便に同じクラスで乗れたため、
わたしは非情な(しかも勝手な)母親にならずにすみ、しかも
このオリジナルポーチを手に入れることができたというわけです。

今回は25時発なので、機内に入ってからの食事はありません。
到着3時間前に朝ごはんが出てきました。

出発したとたんすぐに眠りについて、起きたら時間は
朝の9時半、という理想的なフライトで、体はとても楽です。

みなさん、ヨーロッパ行きの深夜発はおすすめですよ。

機内では映画を一本だけ観ました。
クリント・イーストウッドの「運び屋」。
イーストウッドに仕事をやらせる麻薬の売人のレベルが、
次々とレベルアップしてきて、ラスボスが出て来る頃には
最初に出てきた(それでも最初は怖かった)売人たちが
可愛く見えて来る、という興味深い演出あり。

エンディングに少し不満はありますが、いい作品だと思います。

年老いてゆく全ての人々に送る応援歌みたいなエンドロールも👍。

到着寸前に窓の外を見るとこんな景色が。

この辺の畑全てを所有しているハンスさん(仮名)の豪邸です。

ヨーロッパに来るのは本当に久しぶり。
しかも、これまでの渡欧は全てアメリカ経由だったので、
日本から直接飛んだのはこの人生で初めての経験になります。

空港のドイツ語表示も、駐機している機体も珍しいものばかり。

空港からは、荷物が多いのでタクシーに乗りましたが、
前もって調べておいた(TOが)定額タクシーのブースにいき、
大型車を手配してもらいました。
ウィーン空港から市内のホテルまで43ユーロです。

ウィーン市街も、いたるところこのような落書きにあふれています。

ホテルは「スタッドパーク」という彫刻のある公園の前です。
「キャノン」という彫像があるので、

「もしかしてキャノン砲と関係ある?」

と色めき立ったのですが、こちらは画家でした。
スタッドパークの彫像は芸術家ばかりのようです。

ウィーン空港に着いたのは朝の6時でした。
街角を歩く人影はまばらです。

ホテルはヒルトン。
予約を決めたTOによると、便利で割と安かったそうです。

ロビーに、ヒルトンを訪れたセレブリティの写真がありました。
ダライ・ラマの左の男性は、ロジャー・ムーアだそうです。

ヒルトン家のご令嬢パリス・ヒルトン。
左はオーストリア出身の俳優シュワルツネッガーが、
最初の映画に出た後、ホテルで記念パーティをした時に
シェフがザッハトルテ風チョコレートケーキを焼いたとか。

ホテルを一歩出たとたん、オーストリア出身のレハールのオペラ、
「微笑みの国」のポスターがありました。
この衣装を見てもわかりますが、オペラの舞台は中国です。

さすがはウィーン、しょっちゅうレハールなど、典型的な
ウィーンオペレッタの公演が行われているんですね。

ホテルのチェックインまで時間があったので、荷物を預け
前のスタッドパークを散歩することになりました。

池を泳いでいた母艦と駆逐艦のカモ艦隊。

ウィーンのカラスは首が灰色です。

ものすごく変な彫像発見。
近くのモダンアートスクールの生徒の仕業か?

シュレティンガーといえば猫、猫といえばシュレディンガー。
その理論物理学者、

エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー

がオーストリア出身だということは今回初めて知りました。

アントン・ブルックナー。
第四番交響曲「ロマンティック」がわたしは特に好きです。

シュレディンガーもそうですが、なんとなくドイツ人だと思っていたのが
実はオーストリア出身だった、ということがよくあります。
アドルフ・ヒトラーも実はオーストリア出身ってご存知ですよね。

顔だけ黒いシャネルズみたいな鳥さん。

有名人の像ばかりではなく、ペンギンもいます。

花時計?葉時計?の向こうにはレストランがあります。

ここにあったんだー!

のヨハン・シュトラウス像。
「名曲アルバム」の画像で何度これを見たことか。

本当にこんな顔をしていたんでしょうか。

ものすごく楽しそうな周りにあしらわれた人たち。

この後、歩いていくと、女性がヨハンシュトラウス像はどこですか、
と英語で話しかけてきました。

わたしが後から、今の人イギリス人の英語だったね、というと、MKが

「アイリッシュだったよ」

「あれだけの会話でそこまでわかるんだ・・・」

「まあ日本人も関西人かどうかすぐにわかるもんね」

公演は市民の憩いの場となっており、木陰には
大学生のサークルが語らいを楽しんでいました。

フランツ・シューベルトもウィーン出身です。
今回、ウィーンでお願いした個人ツァーのガイドさんから、
シューベルトの身長がわずか157センチしかなかったことを聞きました。

魚に当たって腸チフスとか、梅毒の薬の水銀のせいとか
言われていますが、それにしても低身長な上、31歳で死んでしまうとは。

モーツァルトも35歳で若死に、身長も163センチだったとか、
いや150センチしかなかったとかいわれていますがとにかく低身長。

栄養状態というよりはモーツァルトの場合、物心ついた頃から
ほとんど一生涯馬車で旅をしていたので、つまり成長ホルモンが
潤滑に分泌されていなかったせいであるともいわれていますね。

ウィーン市内を走る「はとバス」的二階建て観光バス。

午前中にホテルの部屋にいれてくれそうにもないので、
近くの近代美術館の中にあるカフェでウィーン名物、
ウィンナシュニッツェルを食べてみました。

ポークに衣をつけて薄く焼いたもので、レモンをかけ、
クランベリーソースを乗っけていただきます。
美味しかったですが、案の定量が多すぎでした。

この美術館、窓をガラス張りのドアに変えた時にくり抜いた部分を
作品としてその前に展示してあります。

これからウィーンとザルツブルグに計一週間滞在します。
このブログ的にお話しすべきところも見学してくるつもりですので、
またよろしくおつきあいください。

 

 


映画「U-571」〜" I'm U571, Destroy me ”(我U571 我を撃沈せよ)

2019-07-18 | 映画

映画「U-571」最終日です。

冒頭挿絵は、本編に登場する四人の士官を書いたのですが、
並べてみてから上から階級順になっているのに気がつきました。

ハーシュ、タイラー、エメットはいずれも大尉ですが、
話の内容から考えてこれが名簿順であると思われます。


さて、ナチス軍の駆逐艦と対峙しているU-571。

乗っているのはUボートでも、中身はアメリカ人であることが
すっかりバレてしまったので、相手は遠慮なく攻撃してきます。

 
「水しぶき聞こえました〜」(囁き声)
 
これから爆雷攻撃の始まりです。
 
わたしはこの人をずっとボン・ジョビだと勘違いしていたのですが、
どうもドイツ語が話せるウェンツのようですね。
 
ボン・ジョビ、いつの間に死んでしまったの。
 
 
敵のZ49もU571が浅いところにいることを知っていて、
爆発深度を25mにし、きっちりと爆雷を撒いてきます。
 
ちなみにZ49という駆逐艦は計画はされましたが、実際に存在はしていません。
 
 
「壁から離れてろ、ハーシュ大尉。
爆発の衝撃で背骨が折れるぞ」(小声で)
 
このとき、緊張を高めるようにソナーのピンガーが聞こえますが、
残念ながら当時Uボートには
 
ASDIC(Anti-Submarine Detection Information Comittiee)

は搭載されていませんでした。
 
 
ここからがもう無茶苦茶。
 
 
キャプチャした写真が皆こうなってしまいます(笑)
 
 
そこでタイラー、ピコーンと💡ひらめきました。
 
「魚雷発射孔から色々捨てて沈没したと見せかける作戦」
 
を。

あの、コメディ戦争映画「ペチコート作戦」は、艦体がピンクであることから
敵だと思って攻撃してくるアメリカ駆逐艦に、こちらが味方であると知らせるため、

発射孔から、乗り込んでいた女性軍人の下着を排出するというオチでしたが、
今回は、相手がそれを本物かどうか確認しているすきにに浮かび上がり、

一発しかない後部魚雷を海上の至近距離から撃ち込むという作戦です。
 
このときタイラーは浮上した艦がどこに浮かび上がるかの説明で、
 
「Principle of ascent velocity」(上昇速度の原理)
 
という言葉を使って科学的アピールをしています。
 
 
その発射する「色々」には、先ほど亡くなったマッツォーラの遺体を含みます。
 
「彼をゴミみたいに捨てるんですか」
 
悲しい目をしてそう言ったラビットに、タイラーはその作業をすることを命じます。
 
「彼の身体は我々を助けてくれるだろう」

しかし、情報将校のハーシュは、もし魚雷を外した場合、
ドイツ軍の捕虜になる前に全員を殺せ、とタイラーに囁きます。
 
もちろんそれは、そのあと自決せよ、という意味でもあります。
 
 
「さよなら、マッツォーラ」
 
 
 
爆発深度を浅くして完全に仕留めにかかってくる駆逐艦。
激しい爆雷で電球は割れ、食器は全て床に、水漏れ、火災・・・・。
 
 
「たくさん来ます。数えられません!」(小声で)
 
「チーフ、200まで潜れ」
 
この200はおそらくフィートではなくメートルでしょう。
(フィートだとたった60mということになります)
でも、これって変ですよね。
 
「深く静かに潜行せよ」でも、日本の潜水艦の深度計がフィート表示でしたね。
この辺が映画ならではで、普通に考えてフィートでしかモノを考えられないアメリカ人が
ドイツの艦に(しかも予想に反して)乗った途端、メートル法の深度計に即順応し、
200mの指示を出すというのはあり得ません。
 
乗員も200と聞いて、それだけで一様に恐怖の入り混じった様子を見せます。

それはともかく、彼らはどうもUボートの最大深度は230 m、圧壊深度になると
計算上では250 - 295 mまで行けたということを知らなかったようです。
 
これまで乗っていたSボートがはっきり言って大したことなかったせいか、
Uボートの性能がここまでとは思っていなかったのでしょう。
深度200を目盛りが指したとき、先任伍長は思わず呟くのでした。

"Mary, mother of God.
Those Kraut sure know how to built a boat."

DVDでは全く訳されていませんが、この「クラウト」とはザウワークラウトのことで、
つまり「ドイツ野郎」を意味しますので、
 
「驚いた。ドイツ野郎ってのは潜水艦の作り方をよく知ってるんだな」
 
ということになろうかと思います。
 

ところが褒めた途端、故障した潜水艦は最大深度を超えて沈み出し、
ビスは飛び、バルブは割れてさらにタンクの水が減って大パニック。

全員で必死にバルブを閉めまくり、なんとか浮上に転じさせましたが、
今度はタンクが制御不能で、浮上を止める事ができません。

浮上して敵に視認されるまでに、艦尾の魚雷を撃てるように
圧搾空気管の穴をなんとかしなければならないのですが・・・。
 
 
圧搾空気管のバルブのある船艙は今や水没してしまっていました。
修理作業には体の小さな者しか当たることはできないので、

タイラーはラビットとトリガーの二人から、トリガーを指名します。
 
ところでこのラビットとトリガーが双子ってくらいクリソツで、
わたしには最後まで二人を見分けることができませんでした。
 
 
トリガーは海水の満たされた船艙に入り、作業を始めますが、
酸素ボンベの届かないところでの長時間の作業ができず、
めげて一つ直したところで出てきてしまいました。
 
 
「ダメです。できません(;_;)」
 
しかし、浮上する前に直せないと、トリガーどころか全員が死ぬことになります。

心を鬼にして、戻って遣り遂げろと命令するタイラー。
部下を死なせることになってもためらわず命令することができるか、
と艦長に問われたタイラーですが、ちゃんとやってるじゃないですかー(棒)
 
 
 
そのとき、艦内で不審な異音が発生。
ハーシュ大尉が
顔色を変えて拘束した捕虜を見に行くと・・・、
 
 
この期に及んで敵に情けをかけ、生かしておいたことが仇になったのです。
残骸と死体を放出して、沈没したと思わせることに成功しそうなとき、
捕虜は手錠でパイプを叩いて駆逐艦に信号を送っていたのでした。
 
「我U-571  我を破壊せよ」

この後ハーシュ大尉は顔に血糊をべったり付けて
無言で皆の前に姿を現します。
 
 
そうこうしているうちにU-571は浮かび上がってしまい、駆逐艦に距離を計られて
魚雷を撃ち込まれ出します。
 
「艦を捨てる指示を!」
 
「まだだ!」
 
その瞬間、トリガーが瀕死でバルブのレバーに手を伸ばし、魚雷復活。
駆逐艦にまっすぐ向かっていく魚雷。
最後の、そして唯一の攻撃が失敗すれば、その後は
相手の攻撃で死ぬか、
それとも味方の手にかかって死ぬか、何れにしても死一択です。
 
 
向かってくる魚雷を回避するため必死で転舵する駆逐艦の操舵手。
 
 
早くも退避行動に移る水兵たち。
 
 
魚雷はみごと駆逐艦の左舷に命中しました。
 
 
まるで雑コラのように仕事が甘い合成の爆発シーンです。
 
 
「ミスタータイラー、もしあなたがチーフを必要なら、
わたしはいつでも馳せ参じますよ」
 
アンディは大ベテランのクラウ先任伍長に、艦長として認められたのです。
きっとダーグレン艦長も草葉の陰じゃなくて海の下で喜んでいることでしょう。
 
 
しかし、トリガーは・・・・・。
彼は自らの命で全員を救ったのでした。
 
 
生き残ったメンバーは、たった7人。
ここでいつまでたっても救出されず、「インディアナポリス」生存者の悲劇再び!
ということになる可能性は大いにあったはずですが、
この辺りにはサメはいないので多分大丈夫。

 
ラッキーなことに、たった一晩海の上で過ごしただけで、彼らは哨戒機、
しかも
味方の水上機に発見されてあっさり生還することができました。
 
 
というわけで、最後のクレジットですが、
 
この映画は、第二次世界大戦時、エニグマ暗号機をUボートから奪うため、
命を懸けて戦った勇敢な連合軍兵士たちに捧げる
 
1941年5月9日
英海軍大3駆逐艦隊HMS「オーブレティア」がU-110から
エニグマ暗号機と暗号表を奪取
 
1942年10月30日
HMS「ピータード」がU-559から暗号天気図を奪取
 
1944年6月4日
米海軍機動部隊22・3がU-505から暗号機と暗号表を奪取
 
 
これだけ?
 
というか、最後のはDデイの2日前ですよね?
この頃はすでにドイツは暗号機を役立たせるような状態ではなく、
暗号も解読されていてなんの意味もなかった気がするんですが、
とにかくアメリカも映画みたいなことやったよ?といいたかったのね。
 
まあいいや。

ちなみに、この映画を、かつてUボートに乗っていたドイツの元軍人に見せ、
ヒストリーチャンネルが感想を聞いたところ、こう答えたそうな。
 
「この映画には本当だったことがたった一つだけある。
それはUボートが大西洋にいたということだ」
 
言い方を変えると、
 
「Uボートが大西洋にいたということ以外全部嘘」
 
 
終わり。
 
 

映画「U-571」〜"Take Her Down!"(潜行せよ)

2019-07-16 | 映画

 

映画「U-571」二日目です。

冒頭画像は、この映画でもたっぷりと見ることができた、
潜水艦の乗員が対戦中上を見ている様子ばかりを集めてみました。

およそ世にある潜水艦映画で、海上の敵と対峙するとき、潜水艦の乗員が
上を見る表現がない映画は見たことがないというくらいで、
わたしも何度かそれを指摘してきました。

例えば、天井裏で何か物音がしたら、誰でも上を見ます。
音の正体を突き止めようとするからですが、潜水艦での戦闘中は
上を見ても天井しかないのがわかっているのに、それでも見てしまう。

おそらくその目は何かを見ようとしているのではなく、
潜水艦(と自分の身)に起きていることを把握しようとするとき、
情報を収集せんとして人間の体の持てる感覚全てが総動員されるため、
視覚もまたその一端として不随意に機能してしまうのだろうと思います。

さて、工作隊を乗せたボートがUボートに近づいていきます。

Uボートからは乗員が盛んに話しかけてきますが、情報将校ハーシュ大尉、
周りがせっつくのに、固まってしまって一言も声を発することができません。

これ以上黙っていると怪しまれる、という状況を救ったのはウェンツでした。

これは、ウェンツがドイツ人とのハーフだったのに対し、
ハーシュ大尉のドイツ語は、情報学校で学習したものだったため、
彼は緊張のあまり声が出なかった、と解釈することができます。

その後挙動不審を見破られた艦上のUボート乗員と撃ち合いになり、
これを全て掃討した工作隊は、
艦内に潜入することに成功しました。

影に潜んで撃ってくる乗員に死ぬほど怯えながら艦内を進んでいくと・・・

 ありました。エニグマ通信機が。

艦首に集まっていた水兵たちは抵抗することもなく投降。

次に行われたのは、Uボートの乗員を全員捕虜にしてS33に乗せる作業です。

常識的に考えてU-571がそうだったと思われるVII型の生き残り約40名を
全員捕虜にするなどあり得ないことで、もしこんなことがあったとすれば、
エニグマを奪取したあとは、Uボートもろとも爆破するしかなかったでしょう。

しかし、米海軍はそのような非道は決してしない正義の軍隊なので、
ここでも粛々と捕虜を艦内にご案内しております。
これ全員をどこに押し込めてどこに連れて帰るつもりなの。

「ウェルカムアボード、黒人見るの初めてか?」

ところがそのとき艦上の艦長が振り向くとこちらに向かってくる魚雷!

避けようもなく、なんと、その一発の魚雷でS33は轟沈してしまいました。

ここで大いなる疑問なんですが、ドイツのUボートに偽装しているはずのS33を
攻撃したのは、一体アメリカ軍?ドイツ軍?どちらですか?

もちろんタイラー大尉にもそれはわかりません。
Uボート艦上からそれを呆然と眺め、

「敵襲だ!」

だから、敵ってアメリカ?ドイツ?
この場合の敵とはアメリカ軍ということになりませんか?

ここにいる二隻の潜水艦はどちらも見た目Uボートなんだから。

新婚のラーソン少尉はこの衝撃で海に落ちてしまいました。

そのときタイラーは海に落ちたダーグレン艦長の声を聴きます。

"Andy! Andy Go! Take her down! Take her down! Dive! "

ここでお話しした「グラウラー」のギルモア艦長を覚えておられるでしょうか。

ここでは艦橋から乗員の命を救うため、自分を置いて潜行せよと叫んだ
実在の艦長と全く同じセリフを言わせ、トリビュートしています。

とにかく工作隊が帰るべき潜水艦は沈んでしまったのです。
爆破するつもりでUボート艦内にしかけたダイナマイトを慌てて消す”タンク”。

敵(だからアメリカ軍だよね)は、しかもまだこちらを狙っています。
Uボートのアンディら工作隊御一行様は、潜行による脱出を試みました。

しかし、こんな非常時に装備の表示がドイツ語で読めません。

 ハーシュ大尉とウェンツが走り回って指示を行い、なんとか潜行に成功。
駆逐艦からは逃れましたが、今度はUボートがやってきました。
どうも、U-571の艦長がすぐに無電を打って助けを求めたようです。

というわけで今度は相手も潜水艦、攻撃をしなくてはならなくなったのですが、
案の定魚雷発射の手順でで大騒ぎ。

「魚雷発射管の均一バルブが見つかりませ〜ん」(涙)

「ジャイロ?」「ドレナージ?」

「バルブはどれなーじ?」

「圧搾空気(インパルス)?」

「圧力示差?」

「それを回せ!」

なんでこれでうまくいくのかが不思議ですが、魚雷発射成功。
向こうから二発、こちらから四発、魚雷が海中で交差しました。

向こうの魚雷は僅差で艦体をすり抜けていき、こちらが放った魚雷は・・・。

二発を外し思わず一人が十字を切った次の瞬間、爆発音が聞こえました。

難を逃れS-33の生存者を救出しに現場に浮上したU-571。
なんとか救出できたのはスチュワードと敵の電気技師二人だけでした。

タイラーはそのとき海面に漂う艦長の遺体を発見します。

生き残ったメンバーは今後についてミーティングを行います。
打電して救出を求めてはどうか、という意見に対し、ハーシュ大尉は

「だめだ。
Uボートが奪われたことを知られたらエニグマの暗号を変えられる恐れがある」

せっかくのハーシュ大尉のご意見ですが、実際にはそれくらいで
コードシステムを今更ドイツが変える必要はなかった
と思われます。

エニグマは「ダブルステッピング」と呼ばれるプロセスを使用していたため、
通常でも16,000回以上のコード変更が常に可能といわれていました。
だからこそ
連合国は解読にあれだけ苦労したのですから。

電気関係は、タンクの手で見事に復活。
海から救い、捕虜にしたUボートの電気技師は戸惑ったような顔をします。
鹵獲される直前まで、彼は電気が修復できなくて困り果てていたのですから。

しかし、この男を助けたことが、U571に今後危機を招じる結果に。


さて、U571からエニグマ通信機を奪取したものの、色々あって()自艦は沈み、
なし崩しにUボートで生きていくことを余儀なくされたタイラー以下強襲メンバー。

この段階でS33の乗員は黒人コックのテレンスを除き全滅。
強襲メンバーからは海兵隊のクーナン少佐、ラーソン少尉などが失われ、
9人になってしまいました。

今や副長のタイラーが先任ですが、どうも彼が艦長になることを
正式に却下されたという噂は下々にも広まっていたらしく、
水兵マッツォーラがCPOクラウにこんなことを。

「なぜチーフが指揮を執らないんですか。
艦長が副長をクビにする気だったって噂もあります」

しかし流石は先任伍長、

「タイラー大尉はお前の上官だ!敬意を払え!」

途端に胸ぐらを掴んで叱責してくれるのですが、
影でそれを聞いていたタイラーは(´・ω・`)ショボーンとなります。

乗っ取ったUボートの食堂には写真が残されていました。

本物のUボート乗員の写真かと思いましたが、この写真の真ん中は
トーマス・クレッチマン演じるワスナー艦長なので、加工したものです。

これは本物かもしれません。

サンディエゴで見たソ連の潜水艦の士官食堂にもこんな感じで写真が飾られていました。

Uボートの写真に囲まれて、タイラーが先任伍長に
「艦長心得」的なアドバイスを受けていると、敵機来襲。

タイラーは迷わず叫びます。

「相手はこちらを味方だと思ってる。手をふるんだ!」

うわ、これって前にわたしが漫画にしたあれそのまんま。

敵機に帽を振れ

もちろんこの場合はUボートなので、相手がドイツ機なら誰でもこうするよね。



ところが、さっき先任伍長にシメられたばかりのマッツォーラ、テンパって、

「撃ち落としましょう!来る!キタキタ〜!」

「ラビット、撃て!撃ってくるぞ!早く!殺されるぞ!やれ!」

と騒ぐので、タイラーは飛行機が行ってしまってから、

マッツォーラを今度は自分できっちりシメます。
自分を尊敬どころか信用もしていないとわかって、怒りはなおさら。

ところでこの哨戒機、メッサーシュミット109のつもりらしいですが、
噂によると翼の形が全く違ってるようです。

そもそも、当時ドイツは空母を持っていなかったのに、大西洋のど真ん中で
どうやってメッサーシュミットを飛ばせたんでしょうか。

 
それにそもそも駆逐艦がなぜ単身ここにいるのかとか、疑問は次々と湧きますが、
いちいちツッコンでいると今日中に終わらないので次行きます。


とりあえず向こうはU571を今のところ味方だと認識しているという状況。

 
ところが、こんな大変な時に、捕虜にしていたUボートの兵士がいきなり暴れ出し、
マッツォーラは彼と乱闘になって殺害されてしまいました。(-人-)ナムー
 
 
こちらを普通のUボートと認識している駆逐艦からは内火艇が寄越されます。
 

来るだけ来させて時間を稼ぎ、相手の通信室を狙ってテー!
これでとりあえず救援を呼ばれる心配はなくなりました。


しかし艦体不具合で急速潜行できないので、とりあえず相手の真下を潜る作戦。
水深20mで艦底スレスレを通り抜けるとき、全員がびっしょり汗をかきながら
やはり上を見ています。
 
ところでふと思ったのですが、現代の潜水艦では
皆が上を息を飲んで見るようなシチュエーションはあるんでしょうか。

続く。


 

映画「U-571」〜"He torpeded me ! "(撃沈された気分だよ)

2019-07-15 | 映画

「U-571」というタイトルを見て、「Uボート」以来のドイツ潜水艦映画かと
ワクワクしながらクリックしてみたら、そうではなく
アメリカ映画で、しかも
エニグマ暗号機が絡んでいるらしいと知り、全く別の興味が湧いて、
結局観てみることにしました。

わたしはアメリカで第二次世界大戦時の軍艦を見学していたとき、どこかに
(戦艦『マサチューセッツ』だったと記憶)ぞんざいに展示してあった
このエニグマ暗号機を実際に目にしたことがあります。

当時まだ予備知識がなかったわたしには、現在進行形で見ている
「タイプライター」が
あのエニグマだとは信じられませんでした。

ただ、ドイツではエニグマは3万台以上発売しされ、軍のみならず
政府や国営鉄道などにも普及していましたから、そのうち一つが
戦後アメリカの軍艦内に展示されていても、不思議ではないのかもしれません。


エニグマを題材にした有名な映画は、

『エニグマ奇襲指令/ベルリン暗殺データバンクを強奪せよ!』(1982年英仏)

エニグマ』(2001年ドイツ/イギリス)

イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(2014年、英=米)

などがありますが、これらがエニグマの解読を主題としているのに対し、
本作「U-571」は、暗号機本体を強奪する作戦を描いた異色作です。

ただ、しょっぱなからなんですが、エニグマの解読は、運用が始まってすぐ
イギリスを中心に試みが始まり、主にスパイ活動によって鍵と暗号が盗まれて、
各国がしのぎを削ってきたのであり、Uボートから本体を盗みだすことで
解読が捗った、というような単純なことではないのです。

そもそも、1941年5月に暗号機を手に入れたのはイギリス軍であり、
アメリカ海軍の潜水艦がUボートから捕獲した史実もありません。

残念ながら、物語の核となるエニグマ強奪は架空の作戦であり、
アメリカの潜水艦をヒーローとして描くための創作である、
という冷徹な事実(笑)を最初にお断りした上で始めましょう。

1942年の春、ドイツのU-571艦長が潜望鏡を覗き込む
👁こんな眼球のアップから映画は始まります。

開始から何分かは、まるで「Uボート」をみているかのような、
ドイツ海軍の潜水艦の描写をお楽しみいただけるというサービスシーン。

イギリスの貨物船を撃沈して、声を殺しながら喜ぶUボート乗員たち。

勝利を喜んだ次の瞬間、U-571にロイヤルネイビーの駆逐艦が迫ってきました。
ここからのカメラアングル、錘になる乗員たちが、全員でだだーっと
艦首に向かって突進していく様子、まさに「Uボート」そのままです。

Uー571のギュンター・バスナー艦長を演じているのは、トーマス・クレッチマン。
「ヒトラー最後の十二日間」や「ワルキューレ」「戦場のピアニスト」で
ナチの軍人を演じています。

雨あられと景気よく落とされる爆雷でU-571はもうぐちゃぐちゃに。
機関室は全滅、エンジン一部故障、電気系統故障・・・。

そこで、艦長はベルリンにエニグマで救援を要請することにしました。

雰囲気は一転、白い軍服に身を包んだパーティ会場に場面が変わります。
場面設定は5月ですが、全員が夏の白い軍服を着ています。

これは、潜水艦内のシーンばかりが続くこの映画の中で、唯一、
白い軍服の軍人さんたちやドレスアップした女性が出てくる華やかな画面で、
S-33の水雷長ラーソン少尉のウェディングパーティも兼ねています。

(少尉がウェップス?というのには突っ込まないように)

美しい花嫁とダンスするイケメンのラーソン少尉を見ながら場を持て余す、
あまり女に縁のなさそうな水兵くんたち。

左から”タンク”、マッツォーラ、”ラビット”。

S-33の副長、アンドリュー・タイラー大尉はクサっていました。

副長就任後、艦長のダーグレン少佐の下で頑張ったつもりなのに、
艦長は彼を艦長に昇任するための推薦状を書いてくれなかったのです。

パーティ中にも関わらず艦長に文句を言いにいく、空気読まないタイラー。
(マシュー・マコノヒー。艦長は”アポロ13”に出ていたビル・パクストン)


米海軍の昇進システムについて知らないのでなんとも言えませんが、
艦長に昇任するのに別の艦長の推薦状がいちいち必要なんでしょうか。

まあ、英語のサイトでも、これについては誰もツッコんでいなかったので、
そういうこともあるのかもしれません。

ただ、これだとひとりの上司に嫌われたらもう出世はできないってことよね。

艦長に食い下がるも、(っていうか、今更撤回させることができると
本気で思っていたとしたらかなり認識が甘いのでは・・)

「話は終わりだ(It's done.)」

とまで言われてしまったタイラー、やけくそで飲んでると、
年功章を洗濯板のようにつけたCPOのクラウ伍長(ハーヴェイ・カイテル)

「どうしました」

「撃沈された気分(He torpedoed me, chief.)

「また他にチャンスはありますよ」

「え・・知ってたのか?」(動揺)

スチュワードのカーソン(演じるのもテレンス・カーソン)にも、

「次は艦長になれますって」

「え・・知ってたのか?」

あー、なんなんだこの状態。なんで皆オレが艦長なれなかったって知ってるの。
もしかしたらオレ、みんなに同情されてる?

そこにいきなりMPが乱入してきて、パーティズオーバー。
出撃を命じられ、岸壁にいくと、S-33はなにやら改装工事の途中です。

まるでナチの潜水艦みたいだ」

正解ですエメット大尉。
ナチの潜水艦に見えるように工事してるんですよ。

右側のピート・エメット大尉はアンディのアナポリス同期。
ジョン・ボン・ジョビが演じています。

艦長はこの任務が特殊であることだけを総員に告げます。

ちなみに、艦長の訓示が終わると、副長が「気を付け」と号令をかけますが、
この時英語では、

「アテーーーンション!」

といっています。

艦長命令でタイラーがウェンツという水兵を資材室に連れて行くと、
そこには海軍情報部から来たというハーシュ大尉が控えていました。
そこにいた潜水艦隊司令に、いきなり

「He's the boss.」(彼に従え)

とかいわれて、またしてもムカッとする(多分)タイラー。

ハーシュ大尉は、いきなりウェンツにドイツ語で話しかけてきました。
ウェンツもそれにペラペラとドイツ語で答えてタイラー大尉唖然。

これは今回の任務に必要なドイツ語が話せるかどうかのテストだったのです。

ちなみにハーシュ役のジャック・ウェーバーはロンドン生まれ、ウェンツの
ジャック・ノーズワージーはボストン生まれのボストン育ちで、二人とも
ドイツとはなんの関係もありません。

ウェーバーはジュリアード音楽院、ノーズワージーはボストン音楽院卒で、
「ジャック」以外にも音楽共という共通点があるようですが。

この時、ウェンツは自分がブラウン大学(超名門校!)を出ている、といいます。

作戦のために、海兵隊からクーナン少佐なる偉そうな人も乗り込んできます。
そしていよいよ出航。
潜水艦初体験の彼らは珍しそうに潜行作業を見守っています。

出港後早速潜行することになり、ここで先任伍長が

「ダイブ・ダイブ・ダイブ!」

と三回いいますが、普通は二回だけだそうです。

沖に出てから乗員に作戦の全容が明かされました。

「昨夜エニグマを使って信号を打ったU−571を確認した。
我々はドイツの補給潜水艦のふりをして内部に乗り込み、
制圧後、エニグマ暗号機を奪う」


ここで、Uボートの乗員が、昨日撃沈したイギリス船のボートを
銃撃して殺すというシーンがあります。

しかし、基本Uボートの乗員は条約を遵守し敵を殺しませんでした。
大戦中におけるUボート行動記録の数千時間中、海上で撃沈した
敵を殺したという記録はわずか一件のみだったそうです。

わたしのアメリカ人知人(GEの偉い人)の父親は、海軍予備士官として
乗っていた船がUボートに撃沈され、漂流したのち、命からがら
生還した、
という壮絶な経験を持っていたそうですが、父親の話によると、
総員退艦後乗り込んだ救命ボートの近くに船を沈めたUボートが浮上し、
艦長が艦橋から、

「君たちの船を沈めてすまなかった」

と英語で丁寧に謝っていったということです。

Uボートの艦長は、救命艇に水は持っているのかと聞いたものの、
くれるわけでもなく行ってしまったそうですが、Uボートにしても水は貴重だし、
ましてや潜水艦に捕虜を収容するスペースなどあるわけがありません。

洋上の救命ボートの上ではこれから壮絶な生きるための戦いが始まるのです。

このシーンでバスナー艦長は救命艇の敵を射殺する命令を下しますが、
考えようによっては彼らに対する慈悲だったということもできるでしょう。

そして、このシーンは、のちの展開に対する伏線にもなっています。

バンク(兵員用ベッド)では、水兵たちが女の子の話をしたりしていますが、
中には潜水艦事故の話をして仲間を怖がらせるヤツも。

「ノーフォークのテストでS26は400フィート沈んでこうさ」(卵グシャ)

あー、いるよねこんなヤツ。

これは史実ではなく、実際のS26はパナマ沖で駆逐艇と衝突し沈没しています。

それはともかく、当時の潜水艦における食糧事情を考えた場合、もしこんな風に
卵を握りつぶしたりしたら、その途端周りからえらい目に遭うと思うのはわたしだけ?

しかし、周りの連中をビビらせるには十分で、

「ゴクリ・・・・・」

艦長はタイラーが艦長になれない理由を今更説明します。

「同期のエメットを例えばいざという時犠牲にできるか?下士官たちは?
君はきっと迷うだろうが、艦長は迷ってはいけない」

まあそうなんですけどね。

それが艦長になれない理由なら、今後タイラーが艦長になれる可能性は
ほぼゼロということになりませんかね。
だいたいダーグレン艦長、実戦に出たこともないのに、(ですよね)
アンディがいざという時ダメダメだって何を根拠に決めつけるのか。
副長として優秀、と実際にも認めているならもっと事務的に昇進させてやれよ。

実際には、アメリカ海軍ではこういうことが起こらないように、
XOを艦長にするときには必ず新しい艦に割り当て、今までの部下との
人間関係はほぼ消滅する環境で指揮を執れるように配慮したそうです。

だから、この映画のプロットにも前提から大きな穴があるってことなんですね。
しかし、言われたアンディは深刻にこれを受け止め、

「そうなんかな。オレ、迷ったりするかな」

考えながら通りかかった部屋では、ラーソン少尉が新妻に手紙を書いていました。

海上航走で揺れまくる中での食事にも平然としている潜水艦野郎に対し、
どうにも調子が出ない海兵隊と情報将校のおふたり。

そこに目標のUボートらしき艦影を発見したという知らせが入りました。

襲撃班に選ばれたタイラーは、自室でスクールリングを外しました。
鏡に貼ってある写真が犬であることに注意(笑)

パーティの時も一人だったし、もしかしてタイラー、もてない君?

この襲撃班なんですが、海兵隊、情報将校、ドイツ語が喋れる水兵はわかるとして、
XOのタイラー、エメット、ソナーマン、先任伍長、通信士まで含まれています。

常識的に考えて、こういうメンバーはフネに残しておくべきなのではないか、
とわたしが艦長なら思いますが、映画のストーリー的にはそれでは困るのです。

何故なら・・・・・おっと。

 続く。




ホルテン兄弟の夢ードイツ軍の全翼機〜スミソニアン航空宇宙博物館別館

2019-07-13 | 航空機

 スミソニアン航空宇宙博物館別館にある、

「第二次世界大戦中のドイツの軍用機」

別名勝ったアメリカが、戦後ドイツでで嬉々として集めまくった
戦利品シリーズの一角には、大変目を引くこのような飛行体の残骸、
とでもいうべきものが展示されています。

スミソニアンでこれを見たアメリカ人の多くは、
こんな時代からこんなものを研究しておったのかドイツは、と、
今更のように技術立国ドイツにそこはかとない畏怖を抱くことでしょう。
知らんけど。

特に下のこれなんかもすごいですよ。

リピッシュ Lipish DM1
アカフリーク・ダルムシュタット&アカフリーク・ミュンヘン

 

この、第二次世界大戦中にしては近未来的な飛翔体の話をする前に、
まず、ドイツのホルテン兄弟の話をしなくてはなりません。

ヴァルター・ホルテン(1913ー1998)ライマール・ホルテン(1915ー1994)
はドイツの航空エンジニアで、全翼機、無尾翼機を開発したことで知られています。

二人の名前には「ドクター」とありますが、どちらも正式な航空工学などの正式な
学問を修めたというわけではありません。
四人兄妹の二番目と三番目だったヴァルターとライマールは、ヒトラーユーゲントだった
少年期からグライダーや全翼機に興味をもち、10代から自分で設計をし
それを飛ばして競うグライダー競技会の常連優勝者でした。

非行少年ならぬ飛行少年だった頃のヴァルター。なかなか美少年です。

 

長兄のヴォルフラムと共にルフトヴァッフェに入隊した二人は、パイロット、
そして飛行教官として勤務しながら、当時無尾翼機の研究を行なっていた

アレクサンダー・リピッシュ博士

の指導を受け、全翼機の設計と製作を続けました。

リピッシュとという名前に聞き覚えがありませんか?
あのロケット推進ジェット機、

メッサーシュミットMe163、コメート

の原型をデザインした人です。

ルフトバッフェの肝いりで、十人の科学者を率いてメッサーシュミットに乗り込み、
画期的な機体を開発したリピッシュですが、ただし、このデザインを巡っては、
メッサーシュミットとの間に埋められない亀裂が生まれたということです。

メッサーシュミット自身はあまり認めていなかったってことなんですかね。

彼らの師匠のリピッシュ博士が作ったDM1は、グライダー実験機です。

グライダーと言いつつもラムジェットエンジンを動力とした
局地防衛戦闘機を目標としていました。

鋼管。合板。ベークライト含浸合板を機体に用いた機体は
母機に背負われるか、曳航された状態から射出する仕組みです。

1944年から制作が始まりましたが、作っている間に敗戦に。
現地に侵攻したアメリカ軍は、この工場を接収するやいなや、これが
アメリカ空軍に重大な利益をもたらすと確信し、その後も
現地の工場に建造を継続させ、完成させてからアメリカに移送しました。

ドイツでの製作中、チャールズ・リンドバーグが一度工場見学をしています。

戦後、コンベア社とアメリカ空軍は、この機構にアイデアを得て、
最初のジェット推進デルタ翼機、

コンベアXF-92AB-58 ハスラー

を開発しました。

ホルテン Horten H III H

さて、ホルテン兄弟は、リピッシュの薫陶を受けながら、
全翼機を精力的に生み出していきました。
HIから始まって、三番目に作ったのがこのH III Hです。

一人乗りのモーターグライダーで、実験では20回にわたる飛行で、
飛行総時間14時間17分を記録し、パイロットによればその操作性は
大変優れているというものでした。

 

ホルテン Horten Ho III f

二階のテラスからは、ほぼ完璧な形のホルテンHoIIIFが飛翔しているように
天井から吊られて展示されているのを見ることができます。

基本的な疑問なんですが、これ、着陸する時どうやって降りたんだろう。
と思ったら、動画が結構たくさん見つかりました。

Horten Ho-2 Flying Wing Test Flight 1935

Ho-2のものですが、まあだいたい同じような感じじゃないでしょうか。

リピッシュもそうですが、ホルテン兄弟は大学を出ていません。

 1933年、HIを作り始めた時、ヴァルターは20歳、ライマールは18歳で、
このH III Hのときには25歳と23歳です。

彼らは、グライダー競技会の成績を知った現地の司令官に引き立てられて、
航空機の設計に加わるようになったと言いますが、普通に考えて
なんの学問的ステイタスもないのに、研究現場に押し上げたドイツ空軍というのは
実に懐が深いというか、才能を育てるだけの鷹揚さがあったといえます。

 

うちのMKは現在アメリカの大学でエンジニアリングを専攻していますが、
高校時代と違って、自分のやりたいことに必要なことしかやっていないので、
大学では勉強が楽しくて仕方がない、といっています。

自分のやりたい勉強をするために大学に入るのに、嫌いな科目の点も
取れなければいけないというのが学制の辛いところでもありますが、

ホルテン兄弟の場合は一貫して、もうただただ少年時代から好きなことだけやって、
名を成し、それを突き詰めた幸せな人生だったと断言してもいいでしょう。

おそらく彼らは終戦まで、ナチスは自分たちの夢を叶えてくれる
物分かりのいいスポンサーであり、絶対的な庇護者と思っていただけで、
言い方は悪いですが、ドイツ軍にいながら象牙の塔の住人だったようなものです。

 

ただ、ヴァルターはパイロットとして若き日にはバトルオブブリテンに参戦、
7機撃墜の実績もあったということで、終戦後、ドイツ連邦空軍の将校となり、
ライマールはアルゼンチンに渡って生涯全翼・無尾翼機を創り続けました。 

ホルテン Horten Ho 229V3

ホルテン兄弟が開発した全翼機の中でもっとも先進的で、革命的だった
全翼機が、このホルテンHo229だったでしょう。

何が革命的だったといって、当時にしてジェットエンジン推進、しかも
塗料に炭素粉を使用するなどして世界初のステルス機だったのです。

兄のヴァルターが30歳、弟のライマールが28歳の脂の乗り切った時期、
(といっても彼らの場合は人よりだいぶ早いですが)防衛大臣だったゲーリングが

「時速1,000キロで
1,000kgの爆弾を搭載して
1,000km飛ぶ爆撃機」

を作るという「プロジェクト3×1000」(Projekt 3000) を提唱しました。
いかにも派手なことが好きなゲーリングらしいぶち上げ方ですが、
面白いのが、この計画をドイツ政府はコンペで決めようとしたところです。

早速ホルテン兄弟は、グライダー競技会のノリで(かどうか知りませんが)
「ホルテンIX計画」を作り上げ、コンペに応募し、見事採用されました。

Horten 229 worldwartwo.Filminspector.com

お偉方に229V3の説明をしているライマール。
ドイツ人としてもかなり長身だったようですね。

左に写っているのはゲーリングっぽいですが、わかりません。

The Horten Ho 229: Secret German Jet-Powered Flying Wing Aircraft of WWII

だいたい2分くらいから、3000キロ計画の説明があります。

ビデオ内では三つのクエスチョンが前半で問いかけられ、

1、H0229の機体にステルス性は本当にあったか?

2、B-2爆撃機はHo229の影響を受けていたか?

3、もしHo229が完成していたらドイツは戦争に勝てたか?

後半で答えがあります。
面白いのでぜひ最後まで見てみてください。
おそらくどの答えも皆さんの想像通りです(笑)

尾翼に鉤十字が描かれていますが、これは捕獲した時にはなかったそうです。
つまり、戦後にわざわざアメリカ側が描き込んだということで、そもそも
ホルテン兄弟の飛行機は鉤十字は「垂直尾翼に」描かれていたという

ってか垂直尾翼を持っていた全翼機ってあったっけ、って話ですが。

ゲーリングが構想した3000計画の飛行機の目的はそれではなんだったかというと、
ズバリアメリカ本土に原子爆弾を落とすことでした。

結局制作途中でドイツは敗戦したので、ビデオではありませんが、もしドイツが
Ho239を大量生産できたとして、まるで戦争末期の日本のように、アメリカが
市民が灯火統制を行い、防空壕を掘り、空襲警報に怯えることになったかどうかは
永遠の謎になってしまいました。

(ちなみにビデオではその可能性は明確に否定されています)

説明はありませんが、これ、ホルテン兄弟ですよね。

ノースロップN1M「ジープ」

ドイツ機と日本機の展示してある区画のすぐ近くに、
黄色いノースロップのグライダー的飛行体が展示してあります。

てっきり近年のものかと思ったら、実はこれ、ジャック・ノースロップが
1940年に作った全翼機だったのでした。
ホルテン兄弟が全翼機を作るようになってから7年経っていますが、
これがアメリカで初めて作られた全翼機で、偵察用として開発されました。

この初代全翼機そのものは、重量が重くパワー不足で、
ダッチロールを起こすこともあり、成功とは言えませんでしたが、
あのハップ・アーノルド准将は、歴史的に価値がある発明だと絶賛しました。

そして、N-1Mの思想は、その後

Northrop YB-35

YB-49

へと受け継がれていくことになります。

このノースロップN−1Mを制作する時、ジャック・ノースロップに
ホルテン兄弟の一連の全翼機を参考にする意図があったかどうかは
どこにも語られていませんが、わたしは先ほどのビデオ風に言えば、

"Yes, most likely. "

という答えを選択したいと思います。

 

 

続く。


残念兵器ドルニエ ・プファイルとバッハ・シュテルツェ〜スミソニアン博物館

2019-07-12 | 航空機

ドルニエDo335A-0プファイル(Dornier Do Pfeil)

今日タイトルの「残念兵器」というのは、「アラド」のように、機体は
優秀な部類だったが、時期的に残念な存在だった、ということではなく、
失礼ながら性能その他も残念だったし、製造時期も残念だった、という
文字通りの意味です。


さて、残念兵器その1、ドルニエDo335はその速さから
「プファイル=矢」という愛称を与えられました。

レシプロエンジン機としては、時速770kmを誇る「最速のプロペラ機」でした。

これができた頃のプロペラ機の最高時速は755kmでしたが、プフィルは
水平飛行で846km/hを記録した、といわれています。

「アマイゼンベア」(オオアリクイ)という別のあだ名が表すこのユニークな機体は、
コクピットを挟んで前後にエンジンを積むという機構を持っていました。

設計者のクラウディアス・ドルニエはこの画期的なレイアウトで特許を取っています。
採用されたのはダイムラー・ベンツ社のシリンダーエンジンで、二つのうち
どちらかが動かなくなっても、一つだけで航行が可能でした。

当時超ハイテク技術だった脱出用のイジェクトシートが装備されたのは、
後ろにあるエンジンのプロペラに搭乗員が巻き込まれる可能性があったからです。

着陸用の三輪車を最初から装備しているという形です。
冒頭の写真を見ていただいてもわかりますが、脚は大変長く、その下を
ドイツ人男性が頭をかがめずに歩いて通り抜けられるほどでした。
車輪も大きく、脚はいかにも頑丈そうですが、折りたたむことができます。

当時、ドイツの要求していたのは制空権のないところに高速で侵入して
爆撃する機体でしたが、「高速性能」に加えて運動性能が良かったので、
設計を変えないまま多用途重戦闘機にジョブチェンジしています。

「重」と付いているのは機体が大きく、重量があったからです。

 

プファイルは、確かに高速でしたが、実験してみたら案外欠点が多く、
その重量のせいで、飛んでいるときはともかく、着陸に頻繁に失敗しました。
こんなに丈夫な脚をつけていても、耐えられないくらい重かったってことです。

加えて、後ろ側のエンジンがなぜかしょっちゅう加熱したことも不安材料でした。

しかしジリ貧のドイツにとっては高速爆撃機は頼みの綱的存在だったらしく、
最重要量産機の指定を受けて大量発注され、がっつり量産体制に入ったところ、
連合国の爆撃で生産していた工場が壊滅し、生産は中断を余儀なくされました。

青息吐息で工場再建し、なんとか35機を生産した時点で終戦に(-人-)

終戦間際に、ロイヤル・エアフォースの飛行隊が、プファイルが飛んでいるのを
目撃した、という記録がありますが、それがそのうちの一機だったのでしょう。

 

戦後、連合国は二機のDo335を取得しています。
どちらも3年間にわたって飛行試験を受けたあと、そのうち一機は
飛行機の保存と補修を行っていたドイツのドルニエ工場に戻されました。

工場で働いていた人々のほとんどが、戦中からの労働者でしたが、
彼らはDo335プファイルの尾翼と後部プロペラに、パイロット脱出時に
爆破によってそれらを吹き飛ばす爆発性のボルトがまだ付いているのに
驚いた、とスミソニアンのHPには書いてあります。

爆発物をつけたままにしてその技術に敬意を払うアメリカに
ドイツ人びっくり、みたいな話ってことでOK?

これらはパイロットが後部プロペラと尾翼にぶつかることを避けるため、
イジェクトの時にキャノピーが外れるのと同時に作動する仕組みでした。

このため、ドルニエはプファイルをレストアして2年後のエアーショーで
空を飛ばせてお披露目をしてから、ミュンヘンの博物館に展示されたそうです。


それでは、最後にもう一つのドイツ「残念兵器」を紹介しましょう。 

フォッケ・アハゲリス Focke-Achgelis FA 330A
バッハ・シュテルツェ(Bachstelze)

後ろの航空機ではなく、手前のカゲロウちっくな飛翔体に注目してください。
これはヘリコプターの前身ともいうべき回転翼凧で、
フォッケ・アハゲリス社が開発したバッハシュテルツェ(セキレイの尾)、
というあだ名がついており、Uボートの艦載偵察機として使用されていました。


昔、海上すれすれを潜望鏡を出して航行する潜水艦の悩みは洋上での視界の狭さでした。

見つかったが最後、爆弾を落としてくる駆逐艦に出会わないためには、
向こうより先に相手を確認して対処する必要があったのです。

これを解決するために組み立て式の飛行機を載せてしまったのが帝国海軍ですが、
ドイツ海軍はそこまで変態ではなかったので、偵察用の小さな飛翔体を開発しました。

帝国海軍が潜水艦に積んでいた水上機をその場で組み立てていたように、
こちらも、甲板で二人掛かりでその都度組み立てて使っていました。
帝国海軍の元潜水艦乗りは、「ネジ一本無くしてもおおごとだった」
その組み立て作業に極度の緊張を強いられたことをのちに述懐していますが、
こんな細かい作業を潜水艦の上でやろうなどと考えるのは、世界広しといえど
日本人とドイツ人しかいなかったということでもありますね。

だいたい不器用なアメリカ人や大雑把なラテン系の国なら、まず
そんなことをしようなどとハナっから考えたりしません(断言)

 

ところで、そもそもこれはどんな風に使用されていたと思います?

Uボートの甲板で組み立てが終わったところのようですが、
これ、実は「凧」だったと先ほど言ったのを思い出してください。

そう、バッハシュテルツェは150mのケーブルでUボートに係留され、
Uボートが航走すると、ローターが回転して空を飛ぶ凧だったのです。

German submarine launched Autogyro Fa330 

凧には一人だけ操縦員兼偵察員が乗っていて、偵察を行います。
偵察員は、牽引ケーブルに沿わせた電線で潜水艦と通信を行い状況報告しました。

約120mの上空からなので、かなりの視界が確保でき、ナイスアイデアでしたが、
かわいそうに、もし敵に見つかったあかつきには、艦長判断で
索は躊躇なく切られ、偵察員は機体とともに見捨てられることになっていました。

その後、ちゃんと敵の船が捕虜として海から助け上げてくれればいいですが、
おそらくはそのほとんどのケースが海上に残され、時間の問題で沈んでいく運命です。

せっかくUボートの乗員になったのに、何が悲しくてこんなものに乗って
海に置き去りにされ、艦長を恨みながら海のもずくとならねばならないのか。

きっとくじ引きで負けた操縦員兼偵察員は苦悩したことでしょう。知らんけど。



さて、我が帝国海軍の伊号に搭載された水上機は、立派に敵地攻撃をしていますが、
それでは盟友ドイツのバッハシュテルツェの戦果はどんなものだったでしょうか。

悲しいことに、1943年8月6日、U-177に搭載されていたFa330がギリシャの蒸気船
「エイサリア マリ」を発見し、撃沈した、というただ一回の戦果があるのみです。

民間船でしかも蒸気の船というあたりがもの悲しいですね。

 

これ、なんでだと思います?ほとんど戦果がなかった理由。

wikiは「その優位性にも関わらず」とすっとぼけておりますが、理由は歴然としています。
まず、揚収に時間がかかりすぎたんですよ。

組み立ては4人がかりなら3分くらいでできたらしいのですが、
使い終わった後の収容・分解・収納には急いでも20分はかかったといいます。

これ、その間、確実に海の上に浮いていなければならないってことですよね。

こんなのなら、多少早く敵を見つけたとしても、それから駆けつけることになり、
20分も経てば潜水艦では追いつけないところに行ってしまってませんか?

本来の目的であった天敵駆逐艦を上空からいち早く発見するということに成功しても、
凧を揚収しているこの20分間に向こうに存在を察知されれば、
つまりお片づけの時間で相殺されて全く意味がなかったんじゃ?

とつい真顔でツッコミを入れてしまいたくなります。

スミソニアンの説明によると、これを使っている間は他の潜水艦を
(レーダーでも、視覚的にも)見つけることができないという理由から、
Uボートの艦長たちもこの兵器を嫌っていた、とあります。

水上の敵を探していて敵潜水艦が真下にいてもわからなかった、じゃ
シャレにならんのです。戦場はそんなに甘くないのです。

思うに、バッハシュテルツェの戦果がほぼ皆無だった一番大きな原因は、
実戦でこれを使おうとしたUボートの艦長がいなかったから
なんじゃないでしょうか。

 

 

続く。

 

 


できる子フォッケウルフと残念兵器アラド〜スミソニアン博物館

2019-07-10 | 航空機

ワシントン・ダレス空港近くにあるスミソニアン博物館別館、
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターの航空機展示で、
おそらく多くのアメリカ人は、第二次世界大戦中の帝国日本軍と、
ナチスドイツの軍用機に大いに興味を持つことと思われます。

ドイツ軍機は、通路を挟んで日本軍機と並べて展示されています。

スミソニアンを訪れる日本人は、誰しも大なり小なり、ここに来て
自国には現存していない自分の国のかつての軍機を生まれて初めて見ることに
非常に複雑な思いを抱くものだと思うのですが、ドイツ人はどうなのでしょう。

そんなことを考えながら、ここからはドイツ軍の航空機を紹介していきます。

フォッケウルフ190Focke-Wulf Fw 190 F-8/R1

テストパイロットでもあった設計者クルト・タンクによってデザインされた、
ビュルガーWürger(百舌)と呼ばれるFw 190は1941年に就役し、
第二次世界大戦中はスピットファイアや米軍機を実戦で圧倒する名機でした。

 

ラジアルエンジンを搭載したドイツで唯一のシングルシート戦闘機で、
電動ランディングギアとフラップを装備していたことでも唯一です。
低高度で高性能を発揮することができ、さらには機体が頑丈だったため、
爆撃任務に向かうとき同機の掩護につけられたF型、G型フォッケウルフの搭乗員は

「あっちのが性能いいし掩護の意味なくね?」

とぼやいていたとかなんとか。

連合国側の戦後の調査による評価も、

「第二次世界大戦時におけるドイツ最良の戦闘機」

とべた褒めというようなものでした。
イギリス空軍では、このとてつもなく強い戦闘機の秘密解明のため、
「オペレーション・エアシーフ(空の泥棒作戦)」を計画、なんとかして
190を盗みだしたる!とまで思いつめていたのですが、なんたる棚ボタ、
飛んで火に入る夏の虫。

ある日、ルフトバッフェのファーベル大尉という、ドイツ人にしては緊張感のない
パイロットが(個人の印象です)間違えて英空軍基地に降りてしまいました。
ご丁寧に、ピカピカの出来立てほやほや工場直送の機体で。

喜び勇んで鹵獲した190を操縦したロイヤルエアフォース、驚いたね。

内部が広く、コクピットの配列はドイツ人らしく機能的で完璧、
上昇性能、効果性能、速度、横転速度、全てにおいてスピットファイアに勝り、
特に速度と上昇性能は連合国の戦闘機で勝てるものなし。

当時においてすでに、パイロット脱出の際にキャノピーを火薬で爆発させ
脱落させるという仕組みを搭載していたと言いますから凄い。

クルト・タンクがもし「トップガン」を観ていたら、グースの死に方に
激しくツッコミを入れていたことだろうと思われます。

「1940年代ですでに我がドイツ軍ではこんな事故は起こり得なかった!」

ってね。

さて、盗んででもフォッケウルフFw190が欲しい!と思いつめた英空軍に対し、
日本では、同盟国のよしみで普通にこの機体を輸入して、
あの黒江保彦少佐
テスト飛行を行なっています。

ただし、旋回性能はあまり良くなかったため、「飛燕」「疾風」と
旋回戦を行なったところ、その点だけでは「勝負にならなかった」とか。

現地の説明によると、Fw 190は連合国の日中爆撃に対する防御で
最もよく知られている、とあります。

B-17やB-24を迎え撃つために設立されたのが、Fw190の

突撃飛行隊(Sturmgruppen・シュトルムグルッペン)

でした。
彼らは可能な限り敵編隊に肉薄し、必要とあらば体当たり攻撃も辞さずに
敵重爆撃機を撃墜することを宣誓させられていましたが、強制ではなく、
多分に士気高揚のための儀式的な面もあったようです。

体当たりも、日本のような自死を伴うものではなく、
大きな爆撃機の主翼に軟着陸して翼を切断したり、尾翼にプロペラやエンジンを
衝突させるというもので、丈夫なFw190でこれを行なった場合、
搭乗員はパラシュートで脱出することは十分可能でした。

技量的に優れた搭乗員も多く、「大空のサムライ」ではありませんが、
一航過で12機を屠った部隊もあったと報告されています。

このFw 190 F-8はもともとFw 190 A-7戦闘機として製造されました。

ドイツの降伏後、インディアナ州フリーマンフィールドに出荷され、
その後1949年にスミソニアンに移送されました。 。
1944年にSG 2で部隊で任務を行っていたときと全く同じ仕様です。

アラド ARADO Ar 234B2 Blitz(ブリッツ・雷)

アラドなどという名前は生まれて初めて知りました。

ジェット推進戦闘機の開発は他でもありましたが、こちらは
世界初のジェット推進爆撃機です。
本当にこのころのドイツというのは技術立国だったんですね。
もちろん今でもそうですが。

搭載していたのは2基のユンカースJumo004ターボジェットエンジン
最高速度は時速780km、そのスピードのおかげで、ブリッツは
同盟国の戦闘機の攻撃から容易に逃れることができました。

同時代のメッサーシュミットの名声のせいで目立ちませんでしたが、
ブリッツは特に偵察機として優れた働きを提供したということです。

ちょっと奇妙な写真ですが、360度パノラマで撮ったコクピットです。

1 爆撃照準器 2床の銃 3酸素システム 

4 角度コントロール 5爆弾投下ボタン 

6 自動操縦設定ノブ 7非常消火ポンプ 8爆撃スコープ

アラド・ブリッツは偵察機として大変高い能力を備えていました。
敵地上空に難なく入り込み写真偵察を行い、敵戦闘機からは悠々と逃れて生還し、
ドイツ軍に貴重な情報を幾度かもたらしたのですが、ここで皆さんに
大変残念なお知らせがあります。

ブリッツがいくら頑張って敵をやっつけることができる情報を取ってきても、
その頃のドイツには、それを活用するだけの戦力は
残されていなかったのです。

こういうのをなんていうのかしら。絵に描いた餅?猫に小判?違うな。
骨折り損のくたびれもうけ?

タイトルの「残念兵器」というのは、アラド・ブリッツの名誉のためにいうと、
機体そのものが残念だったのではなく、せっかく優秀だったのに残念だったね、
という意味です。念の為。

ここにあるブリッツは、世界で現存する同型機の唯一の機体です。

ノルウェーでイギリス軍が鹵獲したもので、戦後はアメリカに運ばれ、
オハイオのライトフィールドで試験飛行を行っています。

機体の修復はスミソニアンに到着した1984年に始まり、1989年2月に完了。

スミソニアンへの航空機の移送の前にドイツ軍仕様の塗装は全て取り除かれたので、
修復の専門家は8./KG 76の典型的な航空機のマーキングを再現し
ました。

KG76とはブリッツが所属していた最初の爆撃機ユニットです。 
1993年にダウンタウンのスミソニアン博物館で、

「Wonder Weapon?The Arado Ar 234」

という展示が行われた時にはそちらにありましたが、 現在は、
ウドバーヘイジーセンターで展示されています。

 

 

続く。