![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/b0/c76fe9e86341228a426c4e589f3a2a90.jpg)
「靖国に参るのはいやだ。おれは絶対に敵にやられないんだ」
兵学校同期生の安福五郎氏は、台南空再編で二五一空となり、内地でラバウルへの再進出を準備していたころの大野中尉に、期友二人とともに東京で再会しました。
途中で靖国神社に参拝しようとすると、皇居前では神妙に頭を下げた大野中尉が、こう言って靖国に参ることを拒んだというのです。
『その時の大野はいかにも戦闘機乗りらしい風貌で、文字通り敵を飲むの気迫にあふれていた』
その何ヶ月か後、大野中尉の戦死を知った安福氏は大きなショックを受け、
「大野はあんなことを言うから神様に見放されてしまったのではないか。
あのとき、無理に引っ張っていってでも大野に頭を下げさせていれば、死なずにすんだのではないか」
と、どうしてもあきらめる気持ちになれなかったそうです。
このとき、靖国神社を否定するような発言をした大野中尉ですが、彼のその後の言辞の中にはたびたび「靖国」という言葉が現れます。
作家の豊田穣氏がい号作戦のためにラバウルに進出したとき、大野中尉に出迎えを受けていますが、その時、
「一番危ないのは、初陣のときだ。
ほれ、我々は江田島で、なんでも突撃して死ねば神様で靖国神社に行けるという風に教育されとるやろう。
これがいかんのやな」
と言っています。
(金沢出身の大野中尉、関西弁だったんですね。素敵です)
ラバウルで書き始め、13日目でその戦死により終わってしまった日記には、大量に戦死者を出したルッセル島大空中戦のあと、部下を集めて
「死んだ者のことをくよくよ考えるのはよせ。
いずれは早いか遅いかの話だ。
我々より一足先に靖国神社に行った戦友を祝福しろ」
と訓示しつつ、
「それはそのまま、ともすれば沈みがちな私自身に対する言葉であった」
と記します。
前述の安福氏は、戦後大野中尉がラバウル進出前にしたためた有名な遺書に接し、感慨に打たれます。
『彼がかつて靖国行きを拒んだ心情は、単なる負けず嫌いの強がりではなく、この遺書に表れている尽忠無比、すでに死を決意していた彼の闘魂のほとばしりであったのである』
「人生何ぞ邯鄲一場春の夢、何を笑い、何を泣かんとするや」
に始まる、凄絶なまでの闘志と、諦念ともいえる静かな覚悟にあふれた美しい遺書。
それには明治神宮参拝記念の捺印があるそうです。
「余に可能なるは唯一死のみ。
嗤わば嗤え、憐れまば憐れめ、余は軍神を欲せず、提督を欲せず、唯戦いて死なん。
誰にも認められず、誰にも語らず、黙々として独り闘いて死なん」
67年前の今日、6月30日。大野竹好中尉は二十二歳という若い命を国に捧げました。
決死を覚悟すればこそ、靖国神社を否定した大野中尉。
今は静かにその魂をそこに休めていると私は信じています。
(参考:蒼空の遺書 長谷川敏行著 白金書房、紫電改の六機 碇善朗著 光人社NF文庫
零戦かく戦えり!より、大野竹好著 文春ネスコ)