ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

大野竹好中尉の遺書

2010-06-30 | 海軍人物伝

「靖国に参るのはいやだ。おれは絶対に敵にやられないんだ」

兵学校同期生の安福五郎氏は、台南空再編で二五一空となり、内地でラバウルへの再進出を準備していたころの大野中尉に、期友二人とともに東京で再会しました。
途中で靖国神社に参拝しようとすると、皇居前では神妙に頭を下げた大野中尉が、こう言って靖国に参ることを拒んだというのです。

『その時の大野はいかにも戦闘機乗りらしい風貌で、文字通り敵を飲むの気迫にあふれていた』

その何ヶ月か後、大野中尉の戦死を知った安福氏は大きなショックを受け、
「大野はあんなことを言うから神様に見放されてしまったのではないか。
あのとき、無理に引っ張っていってでも大野に頭を下げさせていれば、死なずにすんだのではないか」
と、どうしてもあきらめる気持ちになれなかったそうです。

このとき、靖国神社を否定するような発言をした大野中尉ですが、彼のその後の言辞の中にはたびたび「靖国」という言葉が現れます。

作家の豊田穣氏がい号作戦のためにラバウルに進出したとき、大野中尉に出迎えを受けていますが、その時、
「一番危ないのは、初陣のときだ。
ほれ、我々は江田島で、なんでも突撃して死ねば神様で靖国神社に行けるという風に教育されとるやろう。
これがいかんのやな」
と言っています。
(金沢出身の大野中尉、関西弁だったんですね。素敵です)

ラバウルで書き始め、13日目でその戦死により終わってしまった日記には、大量に戦死者を出したルッセル島大空中戦のあと、部下を集めて
「死んだ者のことをくよくよ考えるのはよせ。
いずれは早いか遅いかの話だ。
我々より一足先に靖国神社に行った戦友を祝福しろ」
と訓示しつつ、
「それはそのまま、ともすれば沈みがちな私自身に対する言葉であった」
と記します。

前述の安福氏は、戦後大野中尉がラバウル進出前にしたためた有名な遺書に接し、感慨に打たれます。
『彼がかつて靖国行きを拒んだ心情は、単なる負けず嫌いの強がりではなく、この遺書に表れている尽忠無比、すでに死を決意していた彼の闘魂のほとばしりであったのである』

「人生何ぞ邯鄲一場春の夢、何を笑い、何を泣かんとするや」
に始まる、凄絶なまでの闘志と、諦念ともいえる静かな覚悟にあふれた美しい遺書。
それには明治神宮参拝記念の捺印があるそうです。

「余に可能なるは唯一死のみ。
嗤わば嗤え、憐れまば憐れめ、余は軍神を欲せず、提督を欲せず、唯戦いて死なん。
誰にも認められず、誰にも語らず、黙々として独り闘いて死なん」

67年前の今日、6月30日。大野竹好中尉は二十二歳という若い命を国に捧げました。

決死を覚悟すればこそ、靖国神社を否定した大野中尉。
今は静かにその魂をそこに休めていると私は信じています。





(参考:蒼空の遺書 長谷川敏行著 白金書房、紫電改の六機 碇善朗著 光人社NF文庫
零戦かく戦えり!より、大野竹好著 文春ネスコ)

だだだだ~んとだだんだんだだん

2010-06-29 | 音楽



サンフランシスコ空港で買ったおみやげTシャツです。
このGOVENATORという単語を辞書で引いた人はまさかいませんね?
これは

GOVERNOR (知事)+TERMINATOR(アレ)=GOVENATOR

ですので念のため。

サンフランシスコにいると、州の広報番組で知事の演説なんかもよく目にしたのですが、
映画の場面でもないのにこの人が映ると「まじですか?」という目で見てしまったものです。
だって、お肌なんか異常ににつやつやぴかぴかで、ちょっと作り物めいてるんですよ。
やっぱりターミネーターなんじゃないかってくらい。
なんか、途轍もなく不自然なホルモン療法やらなんやらをやってるのかも・・。

さて。

だだだだ~ん


この曲はなんでしょう。
そう、ベートーベン作曲、第五交響曲「運命」第一楽章の第一主題ですね。
運命はかくのごとく戸をたたく、という
知らない人はいないテーマです。

いきなり余談ですが、あるオケ関係者から聞いた話。
そして、クラシック音楽関係者なら誰もが知っている話です。
もう亡くなられたある指揮者が、あるオケでこの曲を振る(指揮をする、という意味)ことになりました。
この指揮者、一般にとても有名な方だったのですが、音楽関係者の中ではその音楽的能力についていろいろな(よくない方の)伝説がございました。

中でも、「絶対音感がないのではないか」という噂が。

 音楽家にとって絶対音感が必ず必要なものか、については諸説あるのですが、少なくても指揮者という商売には、曲の解釈やその音楽運びそのものに加え、オーケストラという大所帯を一本の棒で引っ張っていくための「将器」、カリスマ性というものもまた要求されます。
絶対音感がない、ということは、ひとりひとりが独奏者でもある、うるさい音楽家集団であるオーケストラと渡り合うのには、ともすればかなり不利なポイントでした。

そして、意地の悪さでもかなりの楽団員たち、この指揮者の絶対音感を試そうとして、みんなでこんな打ち合わせをしました。

この指揮者のゲネプロ(総練習)のとき、あまりに有名なあの一楽章を嬰ハ短調、つまり本来のハ短調から半音だけ上げて演奏しよう、というのです。
絶対音感どころか、この曲を聞きなれている程度の人でも、もしかしたらすぐに気がつくのではないかという悪戯です。

はたして、この指揮者は、指揮者であれば当然最初の一音で気づくはずの音の違いに全く気付きませんでした・・・(T_T)
指揮者以外が笑いを噛み殺しながら、第五交響曲は嬰ハ短調のまま進んでいったそうです。嗚呼。

結局どうなったのかというと・・・
「オーケストラのメンバーの移調能力(この場合音を半音上げて演奏すること)にバラツキがあり、
しばらくたったら音楽が崩壊した」
ということでした。
「運命が崩壊」した後、全員が爆笑したそうです。
そのときの指揮者氏の様子までは伝わっていません。


この、あまりに有名な運命のテーマ、だだだだ~ん、の4音です。

それでは

だだんだんだだん

これは何でしょう。
そう、「ターミネーター」のテーマですね。

このたった5音の、それも音程もないリズムだけのテーマ。

この5音を聴くと、瞬時にシュワルツェネッガーが「あいーるびーばああーく」とドイツなまりで言いながら溶鉱炉に沈んでいくお姿が浮かんできます。
この5音の持つパフォーマンスの力はものすごいものだと思います。

わずかの構成音で多くを表現している、ということも、その音楽の持つ能力を左右する一つの要素であるならば、このターミネーターのテーマには、運命のだだだだ~んに通じる偉大さを感じます。

この記事を書くために調べたのですが、このだだんだんだだんの作曲をしたのがエリック・フィーデルということしかわかりませんでした。
この人は他にも映画音楽を作曲しているものの、たいした実績をターミネーター以外にあげていず、そのターミネーターもシリーズ3以降は別の作曲家に変わっています。

しかし、これが(曲と呼べるとして)近代における映画音楽の傑作だと思うのはエリス中尉だけでしょうか。

・・だけでないといいなあ。
(いつになく弱気)





州立公園をウォーキング

2010-06-28 | アメリカ



昨日ワールドカップの放送を観ていたら、早くも「今までのベストプレイ10」をやっていて、そのなかにサムライブルー本田のゴールが!ベスト5だったかな。
「スズキ~!ホンダ~!ワオ、トレメンダス・ゴール!」(恐るべき、という感じ?)
・・・・スズキって誰よ(-_-)
それにしても、日本チームのフェアプレイぶりは群を抜いているそうですね。
ラフプレー無し、退場者なし。さすがサムライ、と。
強くなった、ということもですが、こういう評価こそ誇らしいです。


今、ボストンにいる、とお伝えしました。
ボストン、といっても、チャールズリバーのほとり、ハーバードやボストン大学のある都市部ではありません。
そこから内地に向かって車で20分ほど高速で走っていったフラミンガム市の「ウェストボロー」と言う街にいます。
近くにはサウスボロー、マルボローなどがある「ボロー地域」で、ボストンのベッドタウンなのですが、古い町でありながら、そのところどころには「ボーズ」などの本社や、テック関係の本社を多く持つ「ボストンのシリコンバレー」とも言える地域。
ホテルの住所は「コンピュータ・ドライブ」。
近くには「コネクター・ドライブ」や「リサーチ・ドライブ」があり、いかにも最近そのために作られた道、という名前です。

と言っても、それもありあまる森をごくごく一部切り開いてつくったようなもの。
まだまだ自然の中に建物や道が点在している、といった感があります。

さて、ホテルからわずか6分走ったところにホプキントン州立公園というのがあり毎日そこを散歩しています。
公園には大きな湖があり、ボートを借りたり、泳いだりすることができます。
でも、平日はご覧のとおりがらガラガラ。
犬を散歩させる人が写っていますが、延々とこんな道が続きます。
あまりの静かさに、歩いていると怖いくらい。
必ずパトカーが朝一回りしています。

犬と言えば、アメリカのわんちゃんは幸せだなあと思う瞬間が、こういう光景を見るとき。
5、6匹の大型犬が物凄い勢いで水に飛び込み、泳ぎまわり、水中でレスリングしています。(車の中からの画像です。)2枚目はちょうど一匹飛び込んだところ。
傍目にも分かるほどみんなコーフンしてました。
無茶苦茶楽しそうです。

この画像に小さく見えている人物、実は小型犬を抱いて散歩しています。
あまり広すぎて、犬、歩けないんですね。

近所にこんなところがあって、フラッと来て、泳いだりバーベキューしたりできる。
全くお金は要りません。9時以降はパーキングに5ドル払いますが、それだけです。

レジャーというと、お金と時間をふんだんに使う覚悟がいる日本人には、全く羨ましい話です。
一にも二にも、国土の広さなんですねえ。
国の豊かさ、というのは実はこういうことなのかもしれないと思ったりします。

パンツ一枚で初撃墜

2010-06-27 | 海軍



敵機を撃墜するとは、なんだかんだいっても
飛行機乗りとして冥利に尽きることだったようです。
その戦果についていろいろと深く考えれば、戦争の悲惨さとか、
それによって失われる人命とか、特に戦後は大きな声では言えないのですが、
それでも、男として産まれて戦闘機乗りになったなら
撃墜を成し遂げることは大きな憧れであり、目標です。


坂井三郎著「大空のサムライ」には、坂井三郎先任
の手引きと指導で初撃墜を果たした若い戦闘員のことが何度か出てきます。
いずれも自分の初戦果に興奮し、夢中で成し遂げたものの
その後坂井機を敵と思いこんだり、あらぬ方へ飛んで行ったり・・。


彼らの誰もが

「こんな嬉しいことはない」「今まで生きてきて一番嬉しかった」

と後で坂井先任に語るのです。
若い彼らの素直な興奮と喜びには、読者も思わず微笑まざるを得ません。

さて、今日の主人公、元海軍上飛曹の小高登貫氏は、昭和18年3月、
赤道直下のセレベス島での邀撃戦で初陣での初撃墜を喫しました。
その微笑ましくも可笑しい(笑ってばかりか?)邀撃戦の推移です。

小高兵曹が昼寝中、偵察機とおぼしき敵機の来襲を受けました。
いったん退避したものの、撃ってこないので
写真撮影が目的だと確信した兵曹は、愛機に飛び乗り、邀撃に上がります。

このとき兵曹は昼寝中で飛行服を着る時間がなく
パンツ一枚のままでした。

スロットル全開。高度4千、5千。ぐんぐん高度を取ります。
左下方に敵機を捕えました。
それはコンソリデーテッドB24。シルバーの機体に、
赤、白、青の米軍のマークが浮き出ています。
兵曹は思わずつぶやきました。

「美しい・・・」

ちなみに兵曹はこのときパンツ1枚です。

こんなきれいな機体に機銃掃射をしていいものかどうか、
と躊躇ったのも一瞬のことでした。

『次の瞬間、操縦桿をぐっと引き、
背面に近い失速反転から前上方攻撃にはいった。(中略)
むかって右側のエンジンがOPL照準器にピタリと入った。
そこで二〇ミリおよび七・七ミリ機銃を一撃すると
敵機の外側のエンジンがボッと火をふいた。
自分の腕に感心する間もなく、敵の機銃射撃から逃げるため
機体を右下方いっぱいに滑らせた。
B24は真っ青な海面に白いしぶきを上げて墜落した』

戦後何年もたってからの手記ですが、
小高兵曹はまるで昨日のことのようにその撃墜の様子を嬉々として語り、
さらにこう記します。

『私は座席の中で身体をバタバタするほど嬉しかった』

・・・本当に嬉しかったんですねえ(T_T)

そしてみんなが歓声を上げ、手を振って迎えてくれる飛行場に無事着陸。
誇らしげに小高上飛曹は愛機から飛び降りました。

しつこいようですが、小高兵曹はパンツ1枚でした。

初陣でB24を墜とした思い出。
パンツ1枚で零戦から降り立ち、皆に爆笑された思い出とともに、
小高海軍上飛曹は、この日の興奮と喜びが
戦後いつまでも脳裏を離れないのだそうです。



ハリウッド映画「桃太郎」配役決定!

2010-06-26 | アメリカ

言うまでもなく、アメリカ人はスーパーヒーローを生んだ国。
スーパーマンやスパイダーマン、キャプテン・アメリカ、日本ではそう有名でないヒーローは数知れず。
「大人も好きなのだから、子供は当然好きなはず」という前提で、息子の行っている学校も、画像のようなたわけた企画をしてくれます。
読みにくいのですが、キャンプセッションの最初の週が「スーパーヒーロー・ウィーク」と書いてあります。
水曜日に「君の好きなスーパーヒーローの衣装を着て来よう」
金曜日は「バトル・オブ・ザ・スーパーヒーローズ」
みんなで戦いましょうってことですね。
誤解のないように言っておきますが、息子の行っている学校はアメリカでもっとも歴史の古いボーディング・スクールで、地域では「とてもいい学校」と評判の学校です。

しかし、これ、困るんですよ。
みんなと違ってうちはホテル住まい、ヒーローの衣装なんて持ってきていないし、このために購入するのもはばかられます。
(過去、ついバットマンスーツを買ってホテルに置いてきた過去あり)

「しょうがないね・・今年はパス。なんか言われたら『スーパーヒーローは俺だ』って言ってね」
「いいよ。別に好きなヒーローいないし」(ヒーローものが好きなわりにクールな息子)

ということになりました。

さて、話は変わりますが、息子はこちらで学校に行く前に「公文」問題集をしています。
今朝、国語の課題は「ももたろう」でした。
(ちなみに昨日の課題は「イソノ家におけるサザエさんの呼ばれ方~立場によって色々な呼び方があります」ということを理解させるための文章題。なんだか不思議な問題でした)

「ももたろう、嫌い。なんかかっこ悪いし」問題をしながら息子がぶつぶつ言うので
「桃太郎は日本のスーパーヒーローだよ。
そのうちハリウッドで映画化されるんじゃない?今ハリウッド、ネタに困ってるみたいだし・・・・。
まあ、G.Iジョーもドラゴンボールも大失敗だったけど」と言うと、
「あ、それね、僕、配役考える。えーとぉ」
「公文終わってからにしような~(-"-)」

息子はテレビを見ない分、映画に物凄く詳しいです。
レッドバロンもそうでしたが、マックのトレーラーで、上映される映画の予告編をほとんど見ており、「今度これ観に行こう」と親を誘います。
大抵はアニメやスーパーヒーローものやアクションなんですが・・・。
その、息子の偏った映画の知識による配役決定。

「Peach Boy」日本題「桃太郎」

監督=ジェームス・キャメロン
プロデューサー=うちの息子
音楽=ジョン・ウィリアムス

ももたろう・・・ジョニー・デップ
おじいさん・・・ハリソン・フォード
おばあさん・・・キーラ・ナイトリー

さる・・・・・・エディー・マーフィー
きじ・・・・・・ロバート・ダウニー・jr.
いぬ・・・・・・トム・クルーズ

おひめさま・・・アンジェリーナ・ジョリー

おに1・・・・・ジェフ・ブリッジス
おに2・・・・・ミッキー・ローク
おに3・・・・・ケン・ワタナベ


どうやら、おじいさんは若い後妻をもらったようです。
なんだか、おばあさんと、ももたろうの嫁に来たおひめさまの間で、ひと悶着ありそうですね。
・・・・いやあ、親バカですが、この配役、なんか良くないですか?
さすがは何の役にも立たないことにばっかり秀でている我が息子。


それにしても、これ、出演料の天文学的高さだけでギネスに載りそうな配役ですね。


第二種軍装の持つ力

2010-06-25 | 海軍

                
先日、わざわざ着せ替えまでして笹井中尉の二種軍装姿をでっちあげたわけですが、というのも、
各種軍装の中でこれが一番好きなのです。

ガンルームで撮られた菅野大尉の二種姿、というの、見たことありますか?
この菅野大尉、髪をびしっと撫で付け、なかなかの男前ぶりです。
最初は誰だか分らなかったくらい・・・。

神立尚紀氏の「零戦隊長」(光人社)には、主人公の宮野大尉を始めとする写真が
それはもうふんだんに載っているのですが、エリス中尉が喰いついてしまったのは、
大分空での海兵65期の面々が、妙にでれっとしどけなく二種を着たり着なかったりの状態で
写っている一葉の写真。
これだけで小一時間妄想できるくらい好きなんですよ~。
その隣には「きちんと二種を着たバージョン」もありまして、なおのこと・・・。

(この本、読み始めて何日にもなりますが、なかなか進みません。
ほんの一節にひっかかって小一時間妄想、写真と見比べてまた妄想、という調子。
例えば、本文には65期の何人かのハンモックナンバーがちゃんと書いてあるんですが、
これをこの二種姿の写真と見比べてしばし思いにふけっておりました)

さて、その二種軍服です。
土方敏夫大尉の著書には、合い服(上着が白、ズボンは紺)の写真があり、
この制服に変わったとき
「娑婆っ気の多い」予備士官連中は「格好がいいので皆喜んでいた」ということですが、
さらに何日間かの休暇が出たその理由について
「二種軍装を家族に見せろという(上の)計らいだったのかもしれない」と書いています。

ちなみに、土方大尉はこの二種軍装での記念写真を戦友と撮っています。
このとき、戦友の須崎少尉は最初からそのつもりでクリーニングに出していたため、
皺ひとつない軍装姿ですが、「無精者の」土方少尉は、自分で洗濯をしたのでしわくちゃです。
画像は実はそのときの土方大尉の二種軍装姿ですが、
今日はちゃんとエリス中尉ががアイロンをおかけしておきました。


盛夏の上下白、靴まで真っ白のこの二種軍装、今のセンスで見ても非の打ちどころのないくらい
美しく、凛々しく、ネイビーの心意気を感じさせるに十分なものです。

現在の海上自衛隊の制服ですが、第一種礼装の第二種夏服ほとんどデザインに変更無く
この旧軍の二種軍装にそっくりです。
制服として完璧だからでしょうね。
しかし!
無理やり細部を変えようとしてか、ポケットを両胸につけているのはいただけないわ。
だって、肩章のすぐ近くですよ?バランス悪いわよ?

次に変更するときはさりげなく旧軍のデザインに戻して腰の高さに変えちゃってはいかが?


海軍の士官たちは、たとえばラバウルのような酷暑の戦地にもこの軍装を携えていきました。
従軍カメラマン吉田一氏の「サムライ零戦記者」には、海に突っ込んで戦死した台南空の
若いパイロット菊地二飛曹の遺体が基地に帰ってきたとき、
士官室一同が純白の二種軍装に着替えて告別式に向かった、という記述があります。

婚礼衣装や白装束を出すまでもなく、人は白を装うとき、そこに意志の表明や、決死の思いなど、
特別の意味を込めることがあります。
この、白い軍装というものは、人の心に清廉さと大事に臨む決意の確かさ、真実を曲げない海軍魂、
というようなものをネイビーブルーとともに与える力をもっていました。

山本五十六長官は、トラック基地にいたとき、時と場所を問わず、出陣する艦船があればいつでも
この二種軍装で大和の上甲板に立ち、双眼鏡を手に見送ったのだそうです。
皆さんも、山本長官の写真を注意してみれば分かると思いますが、周りの参謀たちが全員
三種軍装(カーキの酷暑地用)を着ている中、唯一人長官は白い二種軍装姿です。

見送られる艦船の船長は、この姿を乗員に見せるため、わざわざ大和に近寄り通り過ぎました。
この山本長官の見送る姿を見て、兵は手に帽子を取って振りながら皆泣き、
国家に捧げた命を惜しまず死を誓うところまでも兵たちの士気は高まった、といいます。

参謀は何度も長官に、みながカーキの第三種軍装や防暑服を着ている中での、目立つ白い軍装は
危険であることを進言したといいます。
「白い服をお一人だけ着ていると、いつ敵機に狙われないとも限りません。
何とかおやめいただきたい」

しかし、山本長官は微笑みを返すだけでそれをやめることはありませんでした。
純白の第二種軍装がが持つ力をよく知っていたのでしょう。

1943年4月18日、ブーゲンビルで戦死したそのときに限って嫌っていた第三種軍装を着ていた、
というのは、長官にとって実に無念なことであったに違いありません。


 参考:日本海軍のこころ 吉田俊雄著 文春文庫
   サムライ零戦記者 吉田一著 光人社NF文庫
   海軍予備学生 零戦空戦記 土方敏夫著 光人社


アメリカの最低お下劣番組

2010-06-24 | アメリカ
我が家にはテレビがありません。
相当変わり者扱いされるのですが、多分今後も持たないと思います。
その理由についてはまたいつかお話しすることもあるかと思いますが、今日は、アメリカのテレビについて。
アメリカに来ると、英語の聞き取り練習という大義名分のために普段は見ないテレビを観ます。
勿論、子供がいるときはそれなりの番組ですが、学校に送り出した後、よく「子供には見せないように」とテロップの入るアブナイ番組を観ます。
いや、観る、というより「ネタ収集」かな。
過去、さんざん笑わせてもらった、エリス中尉が「アメリカの最低お下劣番組」ナンバーワンと認定する、「ジェリー・スプリンガー・ショー」は今年も健在でした。

おお、相変わらずやってるやってる、と月曜になってウォーキングから戻って観てみました。
この上品で格調高いブログにこのような記事を載せると、エリス中尉の人格まで疑われてしまいかねないのですが、そこはそれ、みんなでアメリカ人を笑いましょう、ってことで。
これが司会者のジェリー・スプリンガー。
番組は最低ですが、この司会者は決して下品ではありません。
み○も○たのように説教じみたことも言わず、淡々と出演者に質問をし、ショーを進行させるだけ。


今日の出演者、この女性は実は「中身は男」。
今、本格的な性転換手術を「リサーチして」いるところだそうです。
字幕は、エリス中尉の「勉強用」。
しかし、ろくなこと言ってませんなこのヒトは。


彼女は子供欲しさに自分の性癖を隠してストレートの男性と関係を持ちますが、番組に出てきたのは「彼がいい人なので良心の呵責に耐えられず、告白したい」と思ったためだと言います。
そしてジェリーがその相手の男性を呼びいれると


こういう人でした。
「ごめんなさい。アタシアナタに嘘ついていたの」彼は告白します。
一瞬驚く彼的彼女。しかし、立ち上がると
「僕は男になりたい、そして君は女になりたい・・・・完璧じゃないか!」


といって熱い抱擁を・・・・
やめろおおおっ!


お見苦しいものをついアップしてしまったことを心からお詫び申し上げます。

<(_ _)>

あ、でも、信じられないかもしれませんが、これ、いつものよりマシなほうですよ。





AKINATORに笹井中尉を覚えさせた

2010-06-22 | つれづれなるままに

AKINATOR、知ってますか?
ハンズなんかで売っているIQ200のオンライン版のようなもので「心に思い浮かべたキャラクターを20の質問で当てる」というゲームです。

オバマ大統領やスパイダーマンなどはお手のもの、一番驚いたのは「サザエさんのタマ」を当てられたときです。
アメリカに来て、時差ボケ三日目(メラトニン買い忘れた)の今朝、ある野望を以てこのゲームをしてみました。

まずアメリカ人にも有名な「坂井三郎」を当てさせてみました。
彼がした質問を以下に記します。

芸術家か
アフリカ人か
触手があるか
謀略を解決したか
実在の人物か
有名バンドにいたか
あなたの家族か
有名人か
成人男性か
まだ生きているか
20世紀の人物か
政治家か
英国人か
人を殺したか
禿げているか
ロシア人か
ドイツ語をしゃべるか
ヨーロッパ人か

答:クリス・ブノワ(レスラー)

なわけないだろっ!
次!

アジア人か
中国人か
第二次世界大戦に参加したか(よしよし)
天皇か
政治に介入したか
手袋をしているか(これはときどき、と回答した)
自然死だったか
組織の長か
俳優か
悲劇的な死に方をしたか

これで「サブロー・サカイ」と当てられました。

いいこと思いついたっと。
んっふっふっ。

笹井中尉をこいつに覚えさせてやる・・・

3回やって彼が当てられなかったとき、名前を書き込むシステムがあります。
これで「サザエさんのタマ」も彼はいつの間にか学習したわけですね。
で、彼に学習させるべく、何回も質問に答え「ZUN」(誰だよ)「ヒロヒト」「栗林中将」「レイフェン」(誰だこれも)「大山倍達」(T_T)などの誤答を経て、奴はやっと覚えました!

Junichi Sasai  World war 2 ace pilot

とね。うわっはっは。
本日画像は、奴が笹井中尉を覚えた瞬間です。
見えにくいですが下に名前が出ています。
ついでに実におせっかいながら写真も送っておきましたので、もし著作権なんかの問題がなければ、写真付きで笹井中尉、出てくる予定です。

途轍もなく暇になったとき、このゲームをやってみてください。
Akinator.comで検索したらでてくると思います。
それで、もし笹井中尉が当てられたとしたら、それは私の調教によるものでございます。

って、どんだけ暇なんだエリス中尉!


追記:今、試しに笹井中尉でやってみたら、ちゃんと写真付きで出てきました!
ブラボー私。












私の好きなネイビー5 大野竹好中尉~江田島時代

2010-06-21 | 海軍人物伝

           

大野竹好中尉、海兵68期卒。
昭和18年6月30日、ソロモン諸島レンドバ上空で戦死。


大野中尉の兵学校時代の写真を発見!したわけではありません。
豊田穣氏の「同期の桜」は、氏と同じ兵学校68期の同級生について、
当時の思い出、戦争をいかに戦ったか、生存者については今日の様子を、
全国津々浦々までゆかりの人や土地を訪ね歩きインタビューした労作です。
豊田氏をクラスメートに持っていた68期生徒は、氏の「レクイエム」というべきこの一冊によって
その名前を人々の記憶に留められたわけです。

 豊田氏の作品にはまた「蒼空の器」という鴛渕孝大尉が主人公の小説もあります。

 「何故自分は死なず彼らが散っていったのか」
「あの時自分も死ぬべきではなかったのか」

終生つきまとったという豊田氏のこの思いが、氏をしてこれらの
「紙碑」とも言えるこれらの著書の創作へと向かわせたのでしょうか。

この本は写真ではなく、兵学校のアルバムを元に描いたイラストが、挿絵として使われており、
今日画像はその挿絵をさらにスケッチしたもの。
したがって本当の大野生徒に似ているかどうかは分かりません。
というわけで、今日は海軍兵学校時代の大野竹好大尉(死後昇進)のつもりです。


タケヨシという読み方と、チクコウという読み方があって、本名はどちらだったのかわかりません。
仲間は「チクコウ」と呼んでいたようです。
「平和への誓約」の日に話したシドニー湾突入の松尾敬宇中佐
「公的にはけいう、だが、本名はよしたか」
関行男大尉も実は「つらお」だったようですね。

大野中尉には何故か心惹かれるものを感じます。
記録に残る大野中尉はごくごく彼の一部しか表わしておらず、
あらゆることに秀でながら、
きっと人間的にも非常に魅力ある男性であったに違いないと思っています。

 失っていい命などこの世にありませんが、大野中尉についてはどうしても
「こんな人物が生きて日本のためにしてくれたであろうこと」を考えてしまい、
その損失の大きさに歯噛みしたいくらいなのです。


海兵71期の江尻慎少尉の短い人生を描いた本、「蒼空の遺書」を読んでいると、
この大野中尉のことが語られていました。
江尻少尉は実に筆まめに実家に手紙を書く人で、兵学校の生活についても
細やかにしたためられており、それがこの本の骨子をなすのですが、その手紙の中で、
彼の分隊伍長である一号生徒、大野竹好を尊敬し私淑していた様子が分かります。

「掛け値なしに優秀な男」(豊田穣さんの言)であった大野生徒は、
兵学校の入学を4年(高校2年)で果たしています。
ほぼ自分より2歳(大野生徒は早生まれなので)年上の同級生の中で、
26分隊の伍長を務めるほどの(つまり288人中26番)俊才でした。

江尻少尉の言によると
「頭脳明晰、誠実、几帳面、寡黙、時に臨んでは敢闘的で、
何事も器用にこなすその性格が魅力この上もなかった」


後年、ラバウルに進出した大野中尉が書きつづったわずか13日分の日記には、
部下に対する、そして仲間に対し温かい目を注ぐ大野中尉の優しさがあふれています。
戦地でも、江尻生徒のように、大野中尉を心から慕う部下や仲間は多かったでしょう。

豊田さんの「同期の桜」(文春文庫)では、大野生徒を表現するのに
「行き脚のある」という表現が使われていましたが、この行き脚のある、
という表現は海軍独特のもののようです。
積極的に率先行動をする実行派、といった感じでしょうか。

秀才であるだけでなく、運動神経も抜群で、「たくさんのメダルをぶら下げていた」という、
非の打ちどころのないスーパーマンだった大野生徒。
おまけに
「居眠りと漫画の達人だった」
と、実に抜け感というか、余裕たっぷりのキャパシティの持ち主でもあったこともわかります。日記にもその片鱗が伺えるように、きっとユーモアもあったのでしょう。

完璧じゃないですか?
「天草四郎的美少年」だった、と眉目秀麗を裏付ける証言もありますし。

大野中尉についてはまた書きます。

わずか22歳で散ってしまった大野中尉について、なにか言うとすれば
「生きていてほしかった」
の一言です。







アメリカのクルマ事情

2010-06-20 | アメリカ
アメリカ、特に東海岸に行くと、帰ってきたときには決して起こらない「時差ボケ」が、起こります。規則正しく体内時計で目覚めてしまう生活をしている人ほどこれに苦しめられるのです。
そして、今アメリカ、夜中の3時。
起きてしまう時間もなぜかぴったり同じです。
夜中3時は日本時間お昼2時なのですが、なぜかいつもこの時間。
寝られないからには明日メラトニンを買ってくるしかありません。

ボストン・ローガン空港に、飛行機の遅延で夜中の12時に降り立ったところまでお話ししました。
しかし、機内で寝たせいか、全く眠くない私たち、空港ホテルで映画を観ました。

「レッドバロンって観る?」
え!レッドバロンって、あれですか?
本家の(?)リヒトホーフェンですか?
「見る見る!やだこれ、こんなのやってたの?」
「マックのトレーラーで『こんなのやってるよ』って見せたのに、全然見てくれなかったじゃない」(-_-メ)
いや、それは、すみませんでしたね。
皆さん知ってました?
そして、日本では公開されるんですか?
しかし息子の
「あ、やっぱりパーシー・ジャクソン観ようよ。本で読んだし」
という一言でリヒトホーフェンは却下(T_T)
・・・・何ですかパーシー・ジャクソンって。ハリー・ポッターの友達?

というわけで、リヒトホーフェンを観そこない、パーシージャクソンを観ました。
ギリシャの神々が現代に姿を現わして活躍する話。
ちなみに主人公はトリトン(ポセイドンかも)らしいです。

一晩寝て、ホテルから歩いていける隣のハーツにレンタカーを借りに行きました。
ハーツナンバーワンクラブというのに入っていて、日本であらかじめオンラインで予約しておけば、後は当日その時間に車が「エリス中尉33番ロット」という電光掲示板のサイン通り、そこにあるので、黙って乗っていけばOK、のはず。

ところが、予約の時間なのに私の名前がない。
「名前ないんですけど」
「ああ、今後ろでペーパーワークしているので」

・・・まただよ(=_=)

20分待って
「何が起こってるの」
「車が帰ってくるのが遅くて・・・」
ペーパーワークじゃないじゃん。

エリス中尉、アメリカでは超国粋主義者。
借りる車は必ず日本車と決めています。
だって何かと安心なんだもの。
そして、ここ何年かはレンタカー屋もプリウスを導入し始めたので、ボストンでもサンフランシスコでも、プリウスを予約しています。
一か月乗ってガソリンを入れるのは1回か2回、それも満タンにしても20ドルくらいなんて車、他にありません。

アメリカで車を走らせたことのない方のために少しお話すると、ここ10年アメリカの道路は、ほぼ日本軍に制圧されていると言っても過言ではありません。
前後左右日本車しか走っていない状況なんて、珍しくないくらいです。
サンフランシスコなどの道のせまい都市はとくに「プリウスだらけ」。

オフロード車や、トラックみたいなクルマはシェビーが多いようですが、小型車は圧倒的にトヨタ。
欧州車で一番多いのはBMWです。
日本人はメルセデスが好きですが、こちらではヤングリッチの象徴はBMWのオープンです。
「ファーム」という映画でトム・クルーズが乗っていましたね。

日本車のスポーツタイプで多いのがマツダ・インフィニティ。
ファミリーカーとしてはトヨタのカムリ。
(CAMRY→MY CARというコマーシャルがありました)
プリウスは二台目のパーソナルカー。
一台目は大きな車で、お父さんの通勤はこれ、という感じで乗られているようです。

先ほど、プリウスのリコール騒ぎがあったじゃないですか。
あれ、人気を追い落とそうとした某H社(日本の会社に非ず)の壮大な自作自演だったと言う気がしているんですが。
H社といえば、おととしやはりこのレンタカーでトヨタの代わりにここの「ソ○タ」が停まってましてね。
「ソ○タは困ります」
と言いに行きました。
「せっかくアップグレードだったのに・・・」
いや、車体の大きさがアップグレードしても、中身はダウングレードだから。

日本からも撤退したこの会社、アメリカではレンタカー専門、「お金がない人の乗る車」と言われていて、苦し紛れに「一台買ったらもう一台おまけでプレゼント」なんて無茶苦茶な商売をしています。
昔一度押しつけられて、仕方なく一日乗ったら、そのあまりの酷さ(燃費が悪い、取り回しが悪いetc.)に一日で交換したことあり。
リコール騒ぎのとき、この会社がハイブリッドがどうしても作れないという話とあいまって、陰謀説が浮かんだのですがどう思われます?

そして、そんな騒ぎは無かったかのように、レンタカーでもプリウスは人気。
車が時間になっても調達できないくらい(=_=)

「ホテルに戻ってもう一度20分後に来ます」
と言って、出直しました。
戻ってきたら、やはりプリウスは用意できなかったと見え、代わりに停まっていたのはニッサンの「アルティマ」。
これは、日本名ティアナでおなじみの車です。
用意できなくてアップグレードしてくれたんですね。
日本車だし、まあこれなら勘弁してやるか。

というわけで、本日画像の車に乗っています。
いやあ、ハイブリッドで静かだし、実に乗り心地いいですよ。









ダラスの熱い日

2010-06-19 | アメリカ


っていう映画がありましたね。

今日は映画のことではありません。
「愚痴」です。
熱いのはわたしのア・タ・マ。

エリス中尉が息子と二人、成田を飛び立って今フライト中、というのはお伝えしたかと思います。今年はワシントンDCダラス空港でトランジットでした。
「飛行機を降りたらパスポートとスマイルを忘れないでね!」という相変わらずのユナイテッドのアナウンスに送られてイミグレーションに着いたらば!
列に並ぶてんこ盛りの人、人、人。
どこの国やらさっぱりわからない言葉を話すヨーロッパ線の到着の直後になってしまったもののよう。
「これ、トランジット間に合わなかったりして」
と笑ってたんですよこのときまでは。

イミグレの順番がきたときにはボストン行きの搭乗が始まる時間。
向こうは全く急いでないので、お役所仕事に輪をかけてのんびりと
「なんであんたのと息子のではパスポートの色が違うんだい?」と聞いてみたり、息子に
「ゲーム好き?ウィー?プレステ?おお、レゴゲームか。俺もだよ。俺バットマンが好きなんだよね」
なんて会話しつつの作業。
「いいから早くしてくれえ!」と言えない、美しい日本の気の弱い私。
ニコニコしながらイミグレを抜けようとしたら、
「ちょっと、あなた日本人?全く英語できない人がいるんで通訳してあげて!」
「あいはぶのーたいーむ!」「ちょっとだから!」
って連れていかれたら、若い男性が
「ここに」「何のために」「どのくらいいる予定か」
ということさえ言えず(聞き取れず)困っていて、「一週間ビジネスで滞在するって言ってますよ」と一言通訳して、ダッシュ。

それにしてもなあ、そんなことで仕事できるのかい?お若いの。

永遠に待つかと思われたセキュリティを通って、荷物を預け、さて、搭乗口は、と掲示板を見たらば搭乗口はD。
おお、ここはCゲートか。
なんだ、隣じゃん、というのはアメリカのハブ空港の地獄のような広さを知らない人のセリフ。
ひいいい。シャトルは!シャトルはどこおお!
見つからん!走った方が早い!
キャリー、バッグ、チェロを担いでの全力疾走です。
いや、疾走するには人が多すぎてまっすぐ歩くことすらままならず。
Dゲートゾーンに差しかかったとき、掲示板が目に入りました。

CLOSED・・・。(T_T)乗り遅れてるし。

しおしおとゲートに行くと「なんで遅かったの」
「イミグレーション」
「6時45分のは満席だけどスタンドバイかける?」
「それ、ファーストじゃないですよね」
「勿論」
「一応かけようかな」

とりあえず、旅行アレンジをしたカードデスクに電話しました。

「あの、あまり言いたくありませんが、トランジットの時間短すぎません?」
「誠に申し訳ありません<(_ _)>」
「これもし最終も乗れなかったら、ホテルとかどうしたらいいんですかね?それから、ファーストとの差額って返していただけるんでしたっけ」
「私では判断しかねますので・・・」

なんて会話の後、デスクにもう一度善後策をお願いしたらば、なんと実は日本からのフライトはディレイ(遅延)していたって言うのです。
おい!スマイルとか言ってる場合じゃなかったんじゃ?
日本だったら、これ出口にアテンド来てるんじゃないですか?

で、実は、ディレイになった途端、ユナイテッドの方で同じプライオリティの座席を最終便で押さえてくれていたらしいのです。

でも、何故それを私に言わない(-_-メ)
言って下さい。頼むから。
アメリカの航空会社カウンターの人って、もう最初からケンカ腰で、態度悪いんだもん。
そういう過程でチケットが振替になってるなんて、一言も言ってくれてないし。

ああ、また、このわけのわからないアメリカ人相手の戦いが始まるのね・・。
毎年のこととはいえ、うんざりします。
皆さん、日本って、本当にいい国ですよ。
こういうことがあるたび実感する・・・。

画像は「今見ている景色」
ここはユナイテッドのクラブラウンジ。
ここで数時間を過ごす羽目になって、幸先悪すぎ。

ま、ブログのネタにはなりましたが。






パイロット適性検査における人相学

2010-06-18 | 海軍

搭乗員の話を読んでいると、そこここで
「搭乗員の適性検査に、骨相を見るそうだ」
「人相を見ると言うが、どんな人相が向いているのかみんなで話し合ったが分からなかった」
という記述を目にします。

今日は、適性検査に人相学が導入されていた(らしい)というお話。

1941年、海軍省の支援で制作された映画「空の少年兵」には、
パイロットの適性検査の様子が最初に出てきます。
それにしても少し驚くのが、父兄が心配そうに廊下や外から窓越しに見ていること。
見学可だったんですね。

「さまざまな科学的方法で適性が検査される」。
回転いすに座ってぐるぐる回された後、立ってまっすぐ歩かされるのも科学的方法だったようです。
映画に写っている受験生、一瞬ふらふらっとよろめいています。
p(・∩・)qガンバレ!
この映画は、霞ヶ浦航空飛行隊の飛行予科練習生を描いたドキュメンタリーですが、
ちなみに予科練の適性検査について少し書くと・・

年齢は15歳から17歳。
高等小学校終了を乙種、中学三年修了を甲種といいました。
検査は、学力に加え、視力、聴力、肺活量、
背筋力(この映像もあります。操縦桿のようなバーを引っ張らされていました)
などの身体検査のほかに、回転いすぐるぐるのような平衡感覚のテストもありました。

さて、冒頭の「人相」についてです。
なぜこのような風評があったかについて、これが元ではないかと思われる記事を発見しました。

海兵51期の豊田隈雄大佐の回想です。

豊田大佐がパイロット養成の仕事で海軍省の人事局にいたときのことです。
山本五十六長官が、パイロットの適性を見るという人相見を連れてきたことがあったそうです。
豊田大佐たちは「近代科学の先端を行くパイロットを選ぶのに人相見とは・・・」
とあきれました。

しかし、この水野義人という人相見の観相、無茶苦茶当たるのです。
豊田大佐が人事秘密で持っている書類の判断とほとんど変わらないようなことを、
ズバズバ言い当てるのだそうです。

水野氏は、当時あまりに航空事故が多いので、適性の無い人間を採用しすぎているのではないか、
と思った大西瀧治郎中将が連れてきた人物でした。
 しかし、あまりの胡散臭さに、みんな半信半疑。
山本五十六長官、証明するため海軍省に士官を集めて実験をします。

「この中にパイロットがいるが、誰がそうかわかるかね」
水野氏、端からびしばしと当てていきます。
ほぼ正解。
すげええ(@_@;)

皆が心の中で唸ったとき、
「私も飛行機乗りなんだがね(-_-メ)」
とたった一人指名されなかった士官が言いました。

しみじみとその顔を見た水野氏

「あなた、お上手ではないですね」
        「あなた、お上手ではないですね」                     
                      「あなた、お上手ではないですね」
                                                「あなた、お上手ではないですね」        (エコー)

と言いました。
一同爆笑。アヒャヒャ(´∀`(´∀`(´∀`(´∀`)アヒャヒャ

その一人は操縦が下手で、よく飛行機を壊す人だったのです。
これで、水野氏の海軍省嘱託がめでたく決定しました。

嘱託が決まった、と言う割に、それがどのように実務に反映されたかということについては
さっぱり記録がありません。
あくまでも部外秘の情報で「これこれこういう人相の者はパイロットに向かず」みたいな資料
(人相手配書付き)をもとに面接官の判断で決めてたんでしょうか。

・・と思ったら、こんな方の回想を見つけました。

第十四期予備学生出身の荒井敏夫元海軍上飛曹はこの骨相学で適性を見られたという方。
土浦で基礎教程を終了し、適性検査のとき、実際に骨相見が登場したそうです。
これが水野氏その人だったのかどうかは書かれていません。
やはりこの方もその「旧態依然に呆れた」と言いながらも、◎印を貰ったことについて
「なんと数少ない最適の栄誉を受けたものである」
と、誇らしげに語っておられます。
当時の荒井上飛曹の写真、どこかで見られませんか?



(参考:聞き書き 日本海軍史 戸高一成著 PHP研究所、零戦よもやま物語 光人社NF文庫)


追記:今気づいたのですが、今週末の零戦の会は、なんとこの
荒井上飛曹のお話を聴く会ではないですか!
アメリカ出発の直後なので、今回は行けないのを残念に思っていましたが、
荒井上飛曹のご尊顔を拝見するためだけにも、行きたかった・・・・。


四つ葉のクローバー~海兵67期の花物語

2010-06-16 | 海軍

おそらく練習艦隊の甲板で撮られたのではないかと思われる笹井少尉(候補生?)の画像からです。
今朝の段階ではこの画像、マンガでした。
この笹井中尉があまり似ていないので思い余ってマンガにしたのですが、アップされたのを見てなんだかなあ、と考え直し、あえてこちらを載せました。
だいたい、言い訳するつもりは全くありませんが「この画像が笹井中尉に似ていない」と言っても、笹井中尉ってそもそも川真田中尉(この方については別の日にお話しします)なんかと違って写真写りが一定していないので、実はどんな顔をしていたのか分からないと思いませんか?
本当に、笹井中尉って実はどんな人だったんだろう。

でも、最近あるところで見た「未公開写真の笹井中尉」が、実はエリス中尉、本当の笹井中尉の感じが一番でているのではないかと思っているのです。
「え、何その話?」って?
うふふ、な・い・しょ。

つ´∀`)=つ)`Д゜):、:´.・


先日国会図書館で閲覧した海軍67期史のことについて、もう少し続けます。
画像を挙げたのですが、笹井生徒の話は前回でおしまいです。
(笹井中尉ブログを標榜するわりには笹井中尉についてあまり書いてないじゃないか、いつも掴みや画像だけで、と思われた方、すみません<(_ _)>なんか悪徳商法みたいですね)


67期を「お嬢さんクラス」と名付けたのは、何度も書いているように作家の豊田穣さんです。
「お嬢さん」と言われて、当の67期の皆さんは、怒らなかったのでしょうか。
68期にも「土方とはなんだ」と怒った生徒がいたということですから。

しかし、どうやらこのネーミングはあたらずとも遠からずだったようで、本人たちも「少なくとも『ネーモー』ではなかった」と言っている手記にも自覚が表れています


そして、もしかしたら、そのお嬢さん的気質をあらわしているのでは思われる逸話を、67期史の回顧録中に発見しました。


ある日のことです。
物理の授業中、筆者も名前を忘れてしまったひとりの生徒が教科書に

四つ葉のクローバーをはさんでいた

のが教官に見つかってしまいました。

一般教科の教員なら、民間人だったのでは?と思うのですが、どうやらこの教官は軍人精神の教育にも熱心だったらしく、「江田島の将校生徒たるものがまるで女学生のようなふるまい」をしたことに対して、授業そっちのけでお説教を炸裂させたそうです。

「まだ娑婆っ気の多い時期だったから」
とその方は書くのですが、その一人のために全員が怒られたのに、同情するような書きぶりは、「お嬢さんクラス」らしい気質をなんとなくその方も持っていたのかなと思えます。

67期が入学したとき、校長は次のような訓話をしました。

「諸君は色々な花としてここに集まってきた。
すみれもいれば、菜の花も、薔薇もいよう。
しかし、卒業するときは全員山桜となって出て行って欲しい」

この校長の言葉は、「太平洋の藻屑となることを覚悟せよ」
という先日の訓示と、同じことを伝えようとしています。

どうやら、入学してきたときは、とびきり可憐なひなげしであったらしいこのロマンチックな生徒は、はたして江田島を出るとき立派な山桜となれたのでしょうか。
思わず噴き出したあと、ほろりとしつつ心配にもなったエリス中尉です。


参考:海軍六十七期史
  

小園安名大佐~若葉の頃

2010-06-14 | 海軍人物伝



本日の画像、誰かのと間違えてないかい?と思ったあなた。
間違えていませんよ~。
誰が見てもイケメンのこの中尉、「使用前」の小園安名大佐です。
飛行学生卒業直後の初々しい小園中尉。
「使用後」はだるまさん化してしまう小園大佐にも、こんな日があったんですね((T_T)

海軍大佐、小園安名。海兵51期卒。
台南空の飛行長、斜め銃の考案者、終戦時の徹底抗戦のあと、帝国海軍最後の軍法会議にかけられた人物として、その名はひときわ大きく太平洋戦史にしっかりと留められています。

こう言う人物ですから、さぞ若き日には色々やらかしてくれたのではないかと期待したのですが、真面目で一途なだけで、特にぶっ飛んだことはしていません。

そんな小園中尉の、やる気だけが逸って危機一髪、という初戦のお話。

小園大佐は若き日、中支戦線に参加しています。
1938年(昭和13年)4月29日に漢口で中華民国軍と行われた空戦においては、十二空戦闘機隊(九六式艦上戦闘機30機)を率いて90機近い敵戦闘機と交戦しています。

この出撃については、こんな話があります。
小園中尉は九六艦戦に乗ったばかりの初心者マーク。
司令の三木守彦大佐が「君は、九六戦に乗ったばかりではないのか?」と言うと、
初心者だけどやる気満々の小園中尉、
「大丈夫です。こんな大作戦に隊長が出て行かんのはおかしい!是非、自分にやらせてください」
と言い張ります。
「いや、いかん。君は残って指揮をとれ」
「いやです!」

てこでも引かない小園アンナ中尉。
「仕方ないわねえ・・。どうなっても知らないわよ」
三木モリー大佐が折れ、結局中隊9機を率いて出撃することになりました。

(上記「軍人を萌えキャラでとか」より引用)

「やめてくださいよ~」
部下の相生高秀中佐(最終位)は空戦経験のない隊長に対し苦笑したそうです。
(相生中佐も実はこの日が初陣で、この空戦では2機撃墜しています。が、ともあれこの飛行機には乗り慣れていました)
というのも、小園中尉は、九六艦戦に初めて試乗した際に、燃料コックの切り替えを間違えて不時着しそうになった前科があったからだそうで・・・・(^_^;)

三木司令は相生中佐に声をひそめて
「相生君、列機にはベテラン搭乗員をつけてやってくれ」

そんなことは夢にも知らず、勇躍出撃した小園中尉です。
いよいよ敵発見!
「よおしっ、空戦だ!」
切り替えでチョンボをした苦い経験から、増槽の燃料切り替えを慎重に行うつもりで、小園中尉、操縦席の中に頭を突っ込んで計器の具合を確かめながらそれに集中します。

しかし、集中し過ぎて機体がグルグルと回りだしました(@_@;)

(-"-(-"-(-"-(-"-)「何やってんだ隊長は・・・」(-"-)-"-)-"-)-"-)←列機の皆さん

この日の空戦は被撃墜2機。敵戦闘機90機の半分以上を撃墜するという大戦果となりました。
しかし、帰投してみれば、小園機の機体には被弾6、そのうち2発は操縦室を貫通し、体のすれすれを通り風防を貫いていたということです。
 
相生中佐始めベテラン列機の皆さんは、このような隊長を守りつつの空戦、さぞ大変だったこととお察しします。

小園大佐は、後に台南空の飛行長時代、坂井三郎中尉に「士官であっても遠慮は無用、実戦で使えるように厳しく鍛えてやってくれ」と士官搭乗員の訓練を命じ、それが笹井中尉や大野中尉などの実力ある士官パイロットを生む好結果を生んでいます。名門と言われた二五一空の礎を小園大佐が築いたことは疑うべくもありません。
転んでもただでは起きない小園大佐、自らの初戦経験から何かを学んでいたと思われます。

それにしても、若葉マークの小園中尉、ご無事で何よりでした。



註:訂正になりますが、この話は、筆者が時系列を勘違いしています。
話の骨子はそのままですが、小園安名の1938年時点での年齢を勘違いしていたもので、訂正記事「小園安名~若葉の頃訂正」という9月3日の記事をお読みください。

マリア・マンデル~アウシュビッツの女子親衛隊長

2010-06-13 | 音楽

 

ドイツは名だたる音楽大国です。
「ピアノを弾く親衛隊将校」の日にもそう書きましたが、さすがドイツ人、
ユダヤ人強制収容所にもオーケストラがありました。
男性棟のそれは、名だたる音楽家がいたため、かなりのレベルであったといいます。
女性棟のオーケストラが、今日の話の舞台です。

原題"Playing for time"と言う、アウシュビッツの女性オーケストラにいた生存者、
ファニア・フェヌロンの回想記を読んだのは、大学生のときでした。
 
ファニアは、パリ音楽院で作曲を勉強し、モンマルトルで歌を歌っていたという、
まるで若き日のエリス中尉のような人生を送っていた人ですが、
ユダヤ人ゆえ捕えられてアウシュビッツに送られます。
収容所にあるオーケストラに入って、ごく限られた編成
(バイオリン12、マンドリン6、リコーダー3、ギター3、チェロ、フルート、
コントラバス、アコーデオン各1、ドラムとシンバル、歌手)
のためにオーケストレーションをします。

この編成でベートーベンの第五をやったというのですから、大変だったと思います。
当時、作曲を勉強していたエリス中尉、
「もし日本がドイツに占領されても、ちゃんと編曲の勉強ををやっておけば生き残れるかもしれない」
と思いました。

オーケストラのメンバーは、ダンスパーティや、親衛隊慰労のコンサート、
あるいは囚人がガス室に進む時のBGM(!)のために演奏をします。
時にはヒムラーの前での「御前演奏」も。
与えられた特権と、仲間を裏切っているという思いの中で、
メンバーは大なり小なり苦しみを味わいながら収容所生活を生き抜くのですが、
ファニアたちに与えられた特権の多くは、親衛隊女子隊長のマリア・マンデルの庇護の賜物でした。

ファニアがオーケストラに入るきっかけを得たのは、
彼女が「マダム・バタフライ」を持ち歌にしていたからです。
隊長マンデルは、「マダム・バタフライ」を歌う歌手を命じて探させたのでした。

女子親衛隊長マンデルは、悠々と入ってきた。
三十歳にはならないだろう。すごい美人で背もすらりとし、軍服には一点の汚れもなかった。
エレガントに、腰に手を当てている。
白く長くしなやかな指が、軍服のグレーに映えて美しかった。
陶器のようなブルーの瞳で、彼女はじっとわたしを見据えた。
完全な、あまりにも完全な女だった。
世界に冠たるドイツ民族の最高のサンプルといった女性。
民族再生産に従事せず、こんなところで何してるのだろう。

彼女は「自分のオーケストラ」のために特配を与え、暖かい住居と清潔な環境を与えます。
そして、ファニアには自分のために「マダム・バタフライ」をいつも所望しました。

ある夜、軍服の上にマントを羽織ったマンデルが入ってきてマダムバタフライの二重唱を所望した。
異常なほど青ざめ、目の下に隈を作った彼女は、何かほかのことを考えているようだった。

その頃マンデルは、母親から引き離されたユダヤ人収容者の2歳の男の子を可愛がり、
どこにでも連れて歩いていました。
「可愛い子でしょ」
マンデルはその子に毎日のように新しい服を―それはいつもブルーの服だったそうです―着せ、
手を引いて連れて歩き、母親のようにチョコレートを与えました。
しかし、ファニアが愛の二重唱を歌った夜、
彼女は自分で子供の手を引いてガス室に連れて行った後だったということが分かり、
一同は衝撃を受けます・・・。

さて、このストーリーが映画になっていたと知ったとき、私が何より楽しみにしていたのが、
マリア・マンデルをどんな女優が演じているか、ということした。

(つд⊂)ゴシゴシ (;゜д゜)

おそらく、何か・・・、しがらみとか、スポンサーの横槍とか、あるいはお金がなかったとか、
どちらにしてもどうしようもない事情でキャスティングされたとおぼしきその女優は、
どう見ても四十前後、太って顔のラインのたるんだ、名前も聞いたことのないおばはん女優した。

あのなあっ!
三十前の、すらりと完璧なドイツ女はどこに行ったよ?
(今気づいたのですが、ファニアと会った頃、マンデルは三十二くらいです。若く見えたようですね)
おまけに、誰が見ても美人とも言えない女優をフォローするつもりか、他の出演者に
「そうよ、彼女は美人だわ!」なんて言わせてるんですね。
「美人じゃねえよっ!」
思わず画面に突っ込んでしまったエリス中尉です。

このマリア・マンデル、戦後、連合国の裁判で絞首刑になるのですが、
写真が一枚も残っていないようです。
同じ収容所にいた「死の天使」こと、イルマ・グレーゼは何枚か残っています。
「最終解決」と言われた収容所で多くの人を死に追いやってきた彼女の最後の人相には、
親衛隊看守独特の異常なサディスティックさが深く刻まれ、
「エンゲル」と収容者にあだ名されていたという美貌の片鱗も覗えません。

マンデル隊長も実はファニアが言うほどの美人だったかどうかはもう分からないのですが、
とりあえず美人であってほしいという願望的妄想のうえお絵かきしてみました。




(『ファニア 歌いなさい』ファニア・フェヌロン 徳岡孝夫訳 文藝春秋)