ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

"彼らを飛ばすために": 整備士と爆撃指揮官〜国立アメリカ空軍博物艦

2024-03-30 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦時の爆撃機に焦点を絞って紹介しています。
今日は爆撃機の本領である爆撃についての色々です。

■ Keep Them Flying


爆撃機乗組員の生死は、地上作業員の技量と勤勉さに依存していました。

 彼らは大型で複雑な爆撃機を常に完璧に整備し、戦闘による損傷を修理し、
航空機をより効果的に飛ばすための改造を担いました。


兵器課の爆弾装填手は、爆撃機の致命的なペイロード(爆薬搭載)

爆弾を組み立て、運搬し、機体に搭載するという危険な任務を担いました。 



ダンプから1,000ポンドの薬莢を取り出す爆弾装填手。 



薬莢には尾翼を付け、機首と尾翼の信管を付けてから航空機に積み込みます。


B-17の爆弾倉に吊り上げる前に、
500ポンド爆弾の尾翼とアーミングワイヤーを装着する兵器兵たち。

下士官技術専門職のパッチ
左から:
気象、エンジニアリング、通信、兵器、写真

爆撃作戦の成功は、何万人もの高度な技術を持った専門職に依存しています。

 1943年から、航空兵は自分の専門を示すパッチをつけるようになりました。



イギリスの第8空軍基地で、雪の中でB-24のエンジンを交換する地上作業員。 

季節や天候に関係なく、ほとんどの整備は屋外で行われました。



足を泥から守るために缶の上に立ち、B-17エンジンの整備をする整備兵。
イタリアの第15空軍基地にて。


泥にめり込んでしまうんでしょうか



作業ではしばしば事故が起こり、大惨事となっています。

■メットフィールドの「デッドリー」(致命的)アクシデント

1944年7月15日、イギリスのメットフィールド飛行場で、

米軍兵器担当者が高火力爆弾を運搬車から下ろしていたとき、
爆弾が誤爆発し、それが1,200トンの爆弾を誘発させました。



この大爆発で5人が死亡し、20機以上のB-24が破壊され回収不可能になり、
数機が損傷するという大惨事になりました。

爆発音は40マイルにわたって聞こえたといい、
数マイル離れた村の窓ガラスを粉々にするほどの威力でした。



博物館に展示されている爆発の際出た金属片は、かつて薬莢だったものです。
1970年、歴史家のロジャー・フリーマンが、
メットフィールドを訪れた際にこのねじれた薬きょうを発見しました。

薬莢の端には、靴底らしきものが巻き込まれています。
それを履いていた人は、おそらく亡くなったでしょう。


一番下に、この「メットフィールド爆発事件」と書かれていますが、
この石碑、三つの全く違うものを記念してあります。
まず、

「第353戦闘機群」

メットフィールドに最初に駐留したアメリカ軍、第353戦闘機群は、

リパブリックP-47Dサンダーボルトを装備する部隊で、
1943年8月12日にヨーロッパで作戦を展開開始しました。

メットフィールドを根拠地として、対空任務、
西ヨーロッパに展開する爆撃機の護衛、
フランスと低地諸国上空での対空掃討作戦、
フランスの標的を急降下爆撃しました。

そして石碑中央は、

The Carpetbaggers
(カーペットバッガー)

Carpetbaggerとは、もともと南北戦争後に南部諸州にやってきた、
日和見主義的(お花畑ともいう)な北部の人々、と意味を持ちます。

カーペットでできたバッグを持った人たち、という意味があり、

「その土地に縁がないにもかかわらず、
純粋に経済的または政治的な理由で新しい地域に移り住む人々」

という意味の名称になっています。


南北戦争後の北部人でいうと、かわいそうな黒人たちに知識を授け、
貧しい南部を栄えさせ活性化できると信じてやってくる人々。

いずれにしても、褒め言葉としては使われていない感じです。

「The Carpetbaggers」というと、ハワード・ヒューズをモデルにした
邦題「大いなる野望」なる映画がありますが、
こちらは1964年作品なので、この時代には全く関係ありません。

この石碑で記念されているのは、

「Operation Carpetbagger」
カーペットバッガー作戦

に参加した人たち「The Carpetbaggers」ということになります。

コードネーム「Operation CARPETBAGGER」は、
パルチザンの戦闘員たちに夜間に物資を密かに空輸する作戦でした。

1944年8月に第492爆撃群と改称されたこの特殊部隊は、

The Carpetbaggers として知られるようになります。

彼らはB-24リベレーターに、"レベッカ "と名付けられた
指向性空地装置を受け、 "ユーレカ "と呼ばれる送信装置を使って
ナビゲーターを地上のオペレーターに誘導します。

射程距離に入ると、「Sフォン」と呼ばれる特殊な双方向無線機で

地上のパルチザンに連絡し、最終的な降下指示を受け、
地上部隊がドイツ軍ではなくパルチザンであることを確認します。

B-24のボール砲塔が本来設置されている場所をハッチにし、その通称
「ジョー・ホール」からパラシュート降下兵「ジョー」が効果していくのです。
(ジョーが出てくるからジョーホール、ってそのまんま)


サーチライトを避けるため、光沢のある黒に塗装されたB-24で、

カーペットバガーズはイギリスからフランスへの最初の任務を決行。

パルチザンへの物資調達は、間近に迫ったDデイ侵攻への準備でした。

彼らの最も多忙だった月は1944年7月で、少なくとも4,680個のコンテナ、
2,909個の小包、1,378束のビラ(真の目的を偽装するため)、
そして62名の「ジョー」を投下しています。

いうまでもありませんが、彼らの任務は常に危険に曝されていました。

ドイツ軍の夜間戦闘機や対空砲火による危険に加え、

カーペットバガーズは、低空からレジスタンス軍に降下する際、
常に丘の斜面に墜落する危険もありました。

1944年1月から1945年5月までに、最終的には
1,000人以上のジョーがB-24のジョー・ホールから敵地に降下しました。

損害は25機のB-24、さらに8機が修理不可能、
人員損失は当初、行方不明と死亡が208名、軽傷が1名とされましたが、
行方不明者の多くはレジスタンス部隊の助けを借りて帰還しています。





爆撃機が戻ってこないときの地上勤務員の心情を表現した戦時中の詩が

爆弾の写真の上に貼ってありました。


『帰還』
ベール・マイルズ

今朝、21機が出撃した
そして太陽は私の目の前にあった
私が見ていると彼らは弧を描いた
空の中に消えていく前に

今朝、21機が出撃した
陽光が彼らの翼をとらえ
彼らは小さな雑木林を横切っていった
ブラックバードがいつものように囀っているところを

鳥のように朝に向かって
彼らは飛んだ どこへかはわからない
でも私の心にはその日一日小さく
そして微かな祈りがあった

今朝は21機が飛び立った
空を華麗に駆け抜けた
でもまだ彼らの姿は見えない
もうすぐ日が暮れるのに

そして突然、時空を超えて
翼の上に陽の光がある
私の心臓の鼓動の上に
エンジンのうなりが聞こえる

太陽はまだ輝き続けている
しかし私の世界は恐れで暗くなっていく
今朝、21機が飛び立った
しかし帰ってきたのは17機だけ


続く。




マニューバリングルーム〜潜水艦「レクィン」

2024-03-27 | 軍艦

カーネギーサイエンスセンターで展示されている、
潜水艦「レクィン」の艦内ツァー、エンジンルームの隣は
マニューバリング(操縦)ルームです。


毎度出してくるこの図でいうと、5番のところにあります。


■ マニューバリングルーム


エンジンルームの隣のマニューバリングルームは
潜水艦全体の電力の供給を制御し、
コニングタワー、ブリッジ、コントロールルームからの命令に応じて
すべての速度変更が行われる場所です。



ロッカーのような扉にはE-6、E-7、E-8、と書かれています。
EはエレクトリックのE?



制御パネルと配電盤が並びます。
配電盤は潜水艦の後部半分にある補助モーターに電力を供給するもので、
補助モーターは、コンプレッサー、ポンプ、ヒーター、ブロワー、
その他の高出力機器を作動させます。

配電盤への電力は、艦尾のバッテリー、補助エンジン、
または前方のバッテリーからバスタイを通して供給されます。


手前の白い計器は、STBD(右舷)の潤滑油圧力、
右上の小さな計器は電圧計です。


「レバーは動かさないでください!」

という注意書きあり。(エクスクラメーション付き)

レバーは左から


リバース、スタート、ジェネレーター4、ジェネレーター2

発電機は全部で4基、前後エンジンルームに二つづつあります。
左舷側にあるのが2と4です。


これをポートコントロール(舷側制御盤)といいます。
上の通り、2号と4号発電機の発電機レバー、
舷側モーターの始動・逆転レバー、バスセレクター、
後方バッテリーレバーで構成されているものです。

 これにより各プロペラシャフトの速度と方向が指示されます。


今まで見てきたように、ここはエンジンルームの隣にあります。
エンジンはプロペラを直接駆動するのではなく、
まず、各エンジンに取り付けられた発電機(ジェネレータ)を回します。

発電機から送られた電力は、メイン蓄電池に充電され、
電気推進モーターに供給されます。

そしてその切り替えを行うのが、推進制御スタンドです。
潜航中は、主電池から電力を取り出し、浮上時には、
発電機から供給されるのと同じ電気モーターに供給していました。

第二次世界大戦中、米潜水艦はシュノーケルを装備していなかったため、
作動に大量の空気を必要とするディーゼルエンジンは
海面に浮上している間だけ使用されていました。

「レクィン」はレーダーピケット艦のための改装プログラム、
「ミグレーン」IとIIでシュノーケルを装備しています。

一般的にディーゼル艦のマニューバリングルームにあるのは、

【モーターオーダーテレグラフ】
各プロペラシャフトに命令された速度と方向を表示する


【エンジンガバナーコントロール】
各メインエンジンの回転数を遠隔操作する


【軸回転表示器】

各シャフトの回転数を表示する

【グランドディテクター】

潜水艦のウェットな環境は、保護絶縁を通して
電気エネルギーの損傷や漏れにつながる可能性があるため、
この計器で漏電や短絡を検出する

【測温抵抗体】

モーターや減速機の温度を遠隔で示す

金属の電気抵抗率が温度に比例して変わることを利用した温度センサーです。

【ダミーログトランスミッター(送信機)】

前部魚雷室に設置された本物のログ(水中センサーによる速度計)
が故障した場合、この装置を使用して、推定速度を
船速のデータが必要な航行や火器管制提供することができた


このような装備が搭載されています。


わたしの前の見学者の姿がついに見えなくなりました。
みなさん、もっとじっくりと細部も見学しようよ・・・。


■ レーダーピケット任務終了後の「レクィン」

ー1959年から1968年まで

多くの姉妹潜水艦がスクラップ、モスボール、

または他の海軍に売却されていく中、大々的に改装されていたこともあり、
状態が非常に良好だった「レクィン」は新たな命を得ることになりました。

「ミグレーン」プログラムの段階的廃止に伴い、
すべてのレーダー装置は「レクィン」から撤去されており、
オープンコニングタワーは、いわゆる高いプラスチックのセイル
(実際にはグラスファイバー製)に置き換えられていたのです。

これらの改造が彼女の余生を伸ばすことになり、

「レクィン」はその後9年間大西洋艦隊で活躍し続けました。

しかし、実際のところ「レクィン」の活動時間はなくなり始めていました。


1966年後半、「レクィン」は南米各国海軍との一連の演習である
UNITAS VIIに参加し、帰国したのですが、ちょうどその頃から
海軍は「レクィン」の有用性の有無を検討し始め、その結果、
彼女の寿命は尽きつつあるという判断に至ったのです。

そして海軍は1968年末に「レクィン」を退役させることを決定しました。

1968年5月に行われた「レクィン」の最後の任務期間は、わずか1週間。

その内容は主に行方不明になった
原子力攻撃潜水艦USS 「スコーピオン」
SCORPION (SSN 589)
の捜索にあたるというものでした。

「スコーピオン」は「スレッシャー」と並び、
アメリカ海軍が喪失した2隻の原子力潜水艦の一つとして有名です。

彼女はNATO演習参加後、母港への帰投中の消息を絶ち、捜索の結果、
アゾレス諸島南西沖海底で圧壊していたことがわかりました。

当初の原因は投棄したMk37魚雷の命中とされていましたが、命中ではなく、
魚雷の動力源の欠陥による不完全爆発が原因であるとの異論があります。

整備もままならないほどの過密な原潜運用スケジュールが背景にあり、
沈没の責任は海軍にある、とする説ですが、それもあってか、
いまだに沈没原因は曖昧なままとなっています。



「レクィン」が海軍を退役したのは1968年12月3日のことです。


その後フロリダ州タンパに曳航され、海軍予備役練習艦として使用され、
1971年12月20日、海軍リストから抹消されるまでこの任務に就きました。


続く。



アフターエンジンルーム〜潜水艦「レクィン」

2024-03-24 | 軍艦

前回、潜水艦「レクィン」がレーダーピケット潜水艦として、
戦闘艦たる任務に就いた、というところまでお話しし、
その後は艦内ツァーでフォワードエンジンルームまでをご紹介しました。


これはサンフランシスコの「パンパニート」の解説ですが、
エンジンの#1と#2、#3と#4の配置、
それが動力にどうつながっているか可視化できるので載せておきます。

今日は、#3と#4のあるアフターエンジンルームからです。

■ アフターエンジンルーム


フォワードとアフターエンジンルームの間には扉があります。
ところで、この扉の横に見えるもの、これはなんでしょうか。


後部エンジンルームにも同じものがあり、そこには
Lube Oil とペイントされていました。
おそらく、エンジンのための潤滑油を供給する機器だと思われます。

各メインエンジンには、潤滑用の圧油システムが装備されていて、
タンクから潤滑油圧送ポンプが逆止弁を通してオイルを吸い上げ、
オイル・ストレーナーとクーラーを通してオイルを圧送します。
その後潤滑油はエンジンに入ります

エンジン入口の接続部から流れたオイルは、
主軸受、ピストン軸受、コネクティングロッド軸受、
カムシャフトドライブギヤと軸受、バルブアセンブリに分配されます。

分岐によって分けられたオイルは、ブロアギア、
ベアリング、ローターに供給されます。


後部エンジンルームに移ったところ、前を歩いていた人が
ちょうどコンパートメントを出ていくところでした。

やばいどんどん離されている。

通路の両側にはエンジン#3と#4があり、こちらから見て
左が#3、右が#4となります。
今見ているエンジンは、通路の下の階に設置された本体の上部分です。

   ちなみに左舷の2基のエンジンは左回転用、右舷の2基は右回転用です。


こちらは右側の#4エンジン。
体を支えるためのバーが設置されています。
ベンチはおそらく物入れも兼ねているのでしょう。



#3エンジンの上にはここにも洗濯物が干してあります。
気温が高くなるのであっという間に乾いてしまいそうですね。



#4エンジンは一部カバーが切り取られ、中身を見ることができます。

各エンジン用の燃料は、燃料オイルポンプによってタンクから汲み上げられ、
フィルターを通して強制的にインジェクターに送られます。

エンジンは真水冷却システムで冷却されます。
エンジンルームに淡水化装置があるのもこれが理由です。
淡水は、遠心式の淡水ポンプによって循環させるしくみであり、
エンジンのブロワー・エンドに取り付けられています。



第2エンジンルームはここまでです。
コンパートメント扉の下には板が貼ってありますが、
これは配線を傷つけないように現役時代からあったものと思われます。


■ 「ミグレーンII」改装後の「レクィン」

さて、戦後初めてのレーダーピケット潜水艦として
無理くり改装を施された「レクィン」ですが、何しろ初めてのことで
いろいろ不具合が生じたため、アメリカ海軍は
「ミグレーン」(頭痛)プログラムで改良を試みました。

そしてミグレーンII型に改装された「レクィン」は、
レーダーピケットとして11年間運用され、その際、改装後に設置された
艦内の航空管制センター(air control center)は、
大型艦のCIC(戦闘情報センター)と同様に運営されました。

レーダーピケット艦として就役中のほとんどの期間、
「レクィン」は大西洋沿岸で活動していました。

北極で氷に対するレーダーの反応をテストすることがあれば、
まったく逆に地中海への巡航も多かったといいます。

よくあるオペレーションの展開時、
「レクィン」は管制センターに4人の有資格監視員が配置されます。

Aircraft controller(航空管制係)
Height finder operator(高度計オペレーター)
Plotter to plot all contacts reported(プロッター)
Phone-talker to the bridge(艦橋との電話連絡係)

「ハイト ファインダー」というのは直訳すると高度計で、
地上に設置された航空機の高度を測定する装置です。

第二次世界大戦の頃、ハイトファインダーは航空機の高度(実際には、
コンピュータで視角と組み合わされて高度を生成する配置からの傾斜距離)
を決定するために使用された光学測距儀であり、
高射砲を指示するために使用されていました。

ハイトファインダー・レーダーは、目標の高度を測定するレーダーです。
現代の3Dレーダー・セットは方位角と仰角の両方が探知できます。

プロッターは、報告された全てのコンタクトをプロットする任務です。

レーダーピケット艦としての「レクィン」は、
もう一隻のレーダー・ピケット潜水艦と組んで、
「脅威軸に沿って」“along the threat axis “
行動するのがその任務でした。

2隻の潜水艦が組むのは、メインのピケットが潜航しなければならない場合に
もう一隻の潜水艦がカバーできるようにという意図があります。


■ 忌避されがちだった「レクィン」

同じアメリカ海軍の潜水艦なのに、「レクィン」は他の潜水艦より
味方から信頼されないというか、不信感を持たれていたとい噂があります。

もしかしたら、大西洋で氷の下に行ったり地中海に行ったりする任務で
他の潜水艦よりも海上で過ごす時間が長く、
その分存在が非常に不透明に思われたからかもしれません。

地中海でのあるピケット・ミッションでは、
戦闘航空哨戒機(CAP)の司令官が当初、
「レクィン」のコントロールを拒否したというショックな話もあります。

いくら隠密行動が身上の潜水艦でも、同じ海軍の艦にそれはないだろう、
という気がしますが、もちろんこれは最終的な拒否ではありませんでした。

最終的にCAP司令官は「レクィン」参加を受け入れていますので、

「えー『レクィン』?何それ?怪しいからあまり一緒にやりたくねー」

程度の拒否に尾鰭がついた可能性もあります。
いずれにせよ、ミッションは滞りなく続行されたみたいですし。



その後も「レクィン」は、レーダーピケット艦として、
貴重なレーダー・ピケットのサービスを提供し続けました。

海軍はその後、水上および水中ベースのピケットそのものを
段階的に廃止しはじめたのですが、それらの動きの中、
最後のレーダーピケット潜水艦として彼女は粛々と任務を継続し続けました。

最終的にミグレーン・プログラムが終了し、
レーダー・ピケット潜水艦が正式に廃止にかかったのは1959年のことです。

続く。




「日系二世ヒーロー 」ベン・クロキの選択

2024-03-21 | 飛行家列伝

今回アメリカ陸軍航空隊が枢軸国の資源供給を断つべく、
ルーマニアのプロイェシュチ貯油所に対して行った爆撃、
タイダルウェーブ作戦についてお話ししてきましたが、資料を見るうち、

本作戦に日系アメリカ人の搭乗員が参加していたことを知りました。

国立アメリカ空軍博物館の展示には、このベン・クロキという
日系二世の存在については触れられていなかったので、
今日は少し寄り道ということで、日系アメリカ人として生まれ、

アメリカを祖国として戦ったこの人物についてお話ししたいと思います。

■ 陸軍入隊まで


ベン・クロキ(1917年5月16日 - 2015年9月1日)は、
第二次世界大戦の太平洋戦域での戦闘作戦に従軍した
アメリカ陸軍航空隊唯一の日系アメリカ人でした。



ベンは日本人移民の黒木庄助とナカ(旧姓横山)の間に生まれました。

黒木一家はネブラスカ州ハーシーで農場を経営しており、
地元のハーシー高校で成績優秀な彼は副委員長を務めています。

多分左から2番目がベン

1941年12月7日に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃した後、
ベンの父親は彼と弟のフレッドに米軍に入隊するよう勧めました。

日本との開戦後、日系人への反発と差別が起こるのを見据えた彼は、
たとえ自分の祖国に矛を向けることになっても、
息子たちは自分が骨を埋める国に忠誠を示すべきと考えたのです。

さっそく陸軍の募集事務所に赴いた兄弟二人。
日系人ということで門前払いになるかもという懸念もありましたが、
意外なことに、担当者は国籍は問題ないとあっさり採用許可を出しました。

担当者も、今アメリカ人が地球上で一番敵視している人種が軍隊に入ったら、
大変な目に遭うであろうことは想像がついていたはずですが、
なにしろリクルーターにはノルマもあるし、事務所の成績も上げたいわけ。

目の前の二人は日系人ですが、それでも志願者には違いありません。
まあ、はっきり言って入隊を許して彼らがどうなろうと、
彼個人にはどうでもいいことですから、問題ないZE!
(確かに彼らにとっては)として入隊者二人ゲット、という流れでしょう。

このとき担当者が「Kuroki」という名前をポーランド系だと勘違いした、
というまことしやかなエピソードもあるそうですが、
いくらなんでも彼らがポーランド系に見えるはずはありません。

彼には後二人弟がいましたが、そのビルとヘンリーも
従軍を許可されていることからも、その話は後日出たネタだと思います。

 爆撃隊に配属

彼はフロリダ州フォートマイヤーズの第93爆撃群に配属されますが、

そこで日系アメリカ人の海外勤務は許可されないと告げられます。

しかし彼は指揮官に嘆願し、とりあえず事務官として
イギリスの基地に転勤することを許されました。

そこで彼は当時需要のあった航空砲手に志願します。

航空隊の爆撃任務は消耗率も多かったので、彼の志願は聞き入れられ、
すぐさま砲術学校に送られてわずか2週間の研修を終えて、
B-24リベレーターの胴部砲塔砲手になりました。



ある日の任務で彼のB-24はスペイン領モロッコに不時着し、
スペイン当局に捕らえられて3ヶ月後に解放され、
再びイギリスに戻って所属していた飛行隊に復帰しています。


もしかして人気者?



1943年8月1日、

彼はルーマニアのプロイエシュチにある石油精製所破壊作戦、
「オペレーション・タイダルウェーブ」に参加。

健康診断の結果、クロキは入隊規定より5回多く飛ぶことが許されますが、
彼本人は、それを、国内にいる弟のフレッドのためだったと言っています。

30回目の任務で、彼は対空砲火による軽傷を一度負っただけでした。

■ 帰国後与えられた勧誘任務


米国での休養と回復の間、クロキは陸軍から、
健常な日系アメリカ人男性に米軍への入隊を奨励するため、
多くの日系人収容所を訪問するよう指示されました。

そこで彼は二世の志願者を募るリクルーターと共に、

日系人強制収容所、トパーズ、ハートマウンテン、ミニドカを訪問し、
講演活動をして入隊を啓蒙してまわりました。

強制収容所ができる前に入隊していたクロキは強制収容所の実態を知らず、
日系であるというだけで、同じアメリカ市民が、
武装警備と鉄条網に囲まれた収容生活をしているのを目の当たりにし、
一生忘れられない衝撃を受けることになります。

その活動は『タイム』誌を含むニュース記事によって取り上げられました。

■ 「二つの祖国」

帰国後の彼は、もう戦線に赴く義務も果たしていたので、
ベテランとして軍服を脱いで退役生活を設計し直しても良かったはずですが、
彼は自分の信念のため、それを選びませんでした。

クロキが選択したのは、父母の祖国、日本を敵として戦うため、
太平洋戦線に爆撃手として参加するという道だったのです。



このレターは、一旦却下されたクロキの転属願いを
陸軍長官ヘンリー・スチムソンの名の下に許可するものです。

クロキ軍曹については、その素晴らしい戦績を鑑み、
私が先に言及した方針の規定から除外することを決定し、

これを謹んでお知らせすることといたします。

という文章が読めます。


その後、クロキはテニアン島を拠点とする
第20アメリカ陸軍航空隊第505爆撃群第484飛行隊の
B-29スーパーフォートレス「サッド・サキ」の搭乗員となります。



「Sad Saki」(悲しいサキちゃん)とは、もちろん、
日系人であるクロキと攻撃先の日本に因んだ名前でした。

また、乗組員たちは彼のことを

「Most Honorable Son」

と呼びました。
彼はサッド・サキの尾部砲手として、
日本本土上空など28回の爆撃任務に参加します。


B-29から見た東京空襲

当然ですが、彼は太平洋作戦地域、それも日本本土攻撃において
空戦任務に参加した唯一の日系アメリカ人となりました。

終戦までに、彼は58回の戦闘任務を完了し、技術曹長に昇進しています。



ニューヨーク・タイムズ紙は、真珠湾攻撃から50周年にあたる

1991年12月7日の社説で、

「ジョージ・マーシャル元帥はクロキに会いたいと言った。
ブラッドリー、スパーツ、ウェインライト、
ジミー・ドーリトル各大将も彼に
会いたいと言った」

と書いています。



■ 従軍後の戦いとキャリア

彼は見た目こそ日本人でしたが、心は純粋にアメリカ国民でした。

有色人種ゆえに耐えなければならなかった偏見や差別、
不平等ゆえにより熱烈な愛国者になったのか、
愛国者ゆえにそのハンディに立ち向かえたのか、それはわかりません。

偏見を跳ね除けるために敢えて父母の国と直接戦うことを選び、
祖国への忠誠心を戦争という手段で証明しようとしたことが、
あるいはアメリカ人からも評価されない可能性もあったのです。

驚くべき強い意志でアメリカ人であることを証明した彼でしたが、
戦後も人種的平等の必要性と人種的偏見に対する反対を訴え続けるため、
これらの問題を論じる一連の講演ツアーを行いました。


その資金は彼自身の私財、ラルフ・G・マーティンが彼について書いた伝記
『ネブラスカから来た少年』
 The Story of Ben Kuroki』
からの収益金から捻出されました。

この講演で彼は、

「私は自分の国のために戦地に赴く権利を求めて

地獄のように戦わなければならなかった」

と述べたそうです。


戦後、彼はネブラスカ大学に進学し、

1950年に33歳でジャーナリズムの学士号を取得しました。

そして新聞社で記者や編集者を務め、1984年に退職しました。
2005年8月13日にはネブラスカ大学から名誉博士号を授与されています。

2015年9月1日、カリフォルニア州カマリロのホスピスケアにて死去。
98歳でした。



AVC Tribute Videos: Ben Kuroki

YouTubeの自動翻訳ができないので、ざっと日本語訳しておきました。
途中、省略している箇所がありますので念のため。


1941年12月、西ネブラスカのベントン。
「アメリカンドリーム」を求めて日本からの移住し、
農業に従事していた両親のもとにベンと兄フレッドは生まれた。

彼の両親は日の出から陽が沈むまで、1日の休みもなく
重労働をしながら彼らを育てた。

1941年12月7日の真珠湾攻撃が起こったとき、父親は息子たちに、
軍隊に志願して国への忠誠を証明するべきだと言った。

彼とフレッドは150マイル離れた航空隊の募集事務所に赴き、
おそらく日系アメリカ人として最初の志願兵となった。

彼とフレッドはテキサスのシェパードフィールドに送られ、
2週間の試用訓練を受けたが、実情は悲惨で、フレッドは
すぐさま航空隊から追い出されて塹壕掘り部隊へ移動させられ、
ベンは連日連夜KP(残飯処理などの厨房の下働き)をしていた。

彼はそんな仕事も文句一つ言わずに耐えた。

一歩間違えれば、あるいは一度でも疑わしいことがあれば、
忠誠を証明するチャンスが危うくなることを恐れて、
彼は卵の殻の上を歩いていた。

彼は祖国のために戦う権利を逃すまいと一人必死に戦っていた。

彼に初めての任務が与えられたのは1942年12月13日。
B-24の銃手の配置であった。
彼はのちに、最初に遭遇した高射砲は恐ろしかったが、

しかし、不思議なことに彼は、そこで
入隊以来初めて平和な気持ちを感じた、と言っている。

「誰もわたしの国籍を問わず、皆が家族として一緒に戦っていた」

B24搭乗員の平均寿命は10回だったヨーロッパで、
彼の24回目となるミッションは、
「ヒトラーのガスステーション」と呼ばれた、
ルーマニアのプロイェシュチ製油所への爆撃だった。

低空飛行によるプロイェシュチは、アメリカの軍史上でも、
最も多い5人の戦功賞受賞者を出している。

陸軍は、ベンに25回任務を達成したら帰国していいと言ったが、
ベンは彼の愛国心を証明するためにも留まることを望み、
さらに5回を加えた総計30回のミッションに志願した。

陸軍は彼に帰国命令を下し、その後、
日系人強制収容所で演説をさせている。

彼に命じられたのは、収容所の若者に、当時組織されたばかりだった
日系人部隊442部隊への入隊を説得することだった。

(そのことについて)彼は甚だ居心地悪く戸惑っているようだった。

自責の念に駆られる、といい、なぜなら、
このとき彼がおそらくそのうちの誰かに影響を与えたがゆえに、
彼らはリストに乗り、その後究極の犠牲を払うことになったからだった。


その後収容所から出た日系二世兵士たちは、アメリカ軍の中でも
最も過酷だと言われたヨーロッパの地域で陸戦に参加することになる。

ベンはコロラド州デンバーでタクシーを拾おうとしたことがある。

陸軍のフルドレスユニフォームを着ていたにも関わらず、
後ろのシートに乗っていた(乗合タクシー?)民間人がドアを閉め、

「最低のジャップと一緒なんてごめんだ!」

と彼に言った。

ベンは自らと彼の国の権利ために戦うべきだった。
そして30回のミッションを終えた今、彼はもう十分に

自分の愛国心をアメリカ合衆国に証明したと思っていたのだが、

(現実はそのようなものだった)。

彼は日本と戦うための任務に就きたいと志願した。

陸軍の規則で、日系アメリカ人は航空攻撃のために
日本上空に飛ぶことを禁じていた。

一旦断られた彼は、ヘンリー・スティムソンに直訴までして、
ついにはテニアンに飛ぶB-29「オナラブル・サッドサキII」の搭乗員として
彼の祖父母と叔父叔母、姪と従兄弟が住む国の上空を28回、

爆撃するミッションのために飛んだ。

彼のもっとも印象的だったミッションは、
200機のB-29の編隊で東京上空から焼夷弾を落としたときのものだ。

ベンは尾部砲手としてB-29に乗っており、
目的地上空から離れた後、空は1時間は炎で真っ赤だったと言った。

その夜、8万人の日本人が死んだ。

いうまでもないが、彼は女子供も残虐に絶滅させる作戦に疑問を抱いていた。
しかし彼はアメリカ人であり、アメリカは彼の父親の祖国と戦争をしていた。

結局彼は58回の任務をほとんどかすり傷一つ負わずに達成し、

戦後、差別と偏見との戦いという59番目のミッションに着手した。

彼がどこで語ろうと、人々は今や耳を傾ける。


ある年、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙が主催する
年次フォーラムでスピーチするため、ジョージ・マーシャル、
ジョナサン・ウェインライト、クレア・シェンノート将軍が出席した。

そのときウェインライトとマーシャルの間に誰が座っていたか。
技術軍曹、ベン・クロキだった。



■ 叙勲



【二等軍曹として】

殊勲飛行十字章(×3)

オークリーフ・クラスター付航空勲章(×5)
第二次世界大戦従軍記章

【技術曹長として】

殊勲飛行十字章

オークリーフ・クラスター(×5)付航空勲章
第二次世界大戦従軍記章


続く。



プロイェシュチ爆撃の殊勲者たち〜国立アメリカ空軍博物館

2024-03-18 | 航空機

タイダルウェーブ(潮流)作戦を報じるフィルムです。

The Ploiesti Raid 1943 [Operation Tidal Wave]

画像悪すぎ。


■ タイダルウェーブ作戦における名誉勲章受賞者


左上から時計回りに:
ベイカー、ケイン、ジョンソン、ヒューズ、ジャースタッド

1943年に行われたプロイェシュチ製油所への大々的な爆撃は、
アメリカ側に多大な犠牲をもたらしました。

その時わかっているだけで500名もの乗員が未帰還になり、
死者は310名に上ったこともお伝えしましたが、
今日はその作戦遂行において名誉勲章を叙勲された人々を紹介します。

まずは生還した指揮官から。

第44爆撃群司令官 
レオン・ジョンソン大佐
Col Leon Johnson



ジョンソン大佐は、警戒態勢にある敵の防衛線と灼熱の火災、
遅発爆弾の爆発をくぐり抜け、第2波を指揮した堅実さと勇気が評価され、
名誉勲章を受章しました。



博物館に展示されている飛行服とゴーグルは、
ジョンソン大佐が8月1日のプロイェシュチ空襲で着用したもの。
パッチは戦前の第3攻撃群のものがそのまま付いています。

ジョンソンは最終的には将軍として1965年に退役しました。

第98爆撃群司令官
ジョン・"キラー"・ケイン大佐
Col John ”Killer'”Kane


この日、山岳地帯の密雲状態を回避している間に、
彼の部隊は集団編隊の先頭部分とはぐれてしまいましたが、
遅れても目標に向かうことを選択しました。

完全な警戒防御、集中的な対空砲火、敵戦闘機、
先の部隊が投下した遅延爆弾による危険、油火災、
目標地域上空の濃い煙にもかかわらず、
彼は石油精製所に対して編隊を率いて攻撃を続行。

ケインの爆撃機「コロンビア万歳」は、エンジンを失い、
対空砲火を20回以上受け、予備燃料を使い果たし、
北アフリカの基地に到着する前にキプロスに不時着しています。

後3人は作戦で戦死した人たちです。

ロイド・ヒューズ中尉(死後)
2nd Lt. Lloyd Herbert "Pete" Hugues



編隊の最後尾を飛ぶB-24のパイロットだった彼は、
激しく正確な対空砲火と密集して配置された弾幕風船をかいくぐり、
低い高度で目標に接近させましたが、爆撃前に機体は高射砲を受けます。

彼は機長として損傷した機体を不時着させるより
作戦の続行を選択して爆撃を完了させました。

その後川に機体を着陸させようと試みますが、
被弾して燃えていた左翼が飛び、機体は地面に落ちて
彼を含む5人が死亡、2人は重傷で死亡、残りは捕虜になりました。

戦死時彼は少尉任官してまだ半年目の21歳で、
前年には結婚したばかりでした。



遺体は現地の人々の手で埋葬されていましたが、
1950年には身元が判明して故郷に帰されています。

アディソン・ベイカー中佐(死後)
Lt. Col. Addison Baker




アディソン・ベイカー陸軍中佐は、当作戦で
「地獄のレンチ」(Hell's Wrench)と名付けられたB-24に搭乗し、
5つのうちの2番目の編隊の先頭機として飛びました。

彼の機を含む何機かは、先頭機が間違った地点で旋回したため、
目的地ではなくブカレストに向かっていることに気づき、
通信を試みましたが、先頭機が警告する電話にも応じなかったため、
ベイカーは編隊を崩し、残りを率いて正しいコースに復帰しました。 

ベイカーの機は最初にプロイエシュチに到着し、
敵のレーダーを避けるため低空飛行をしていましたが、
対空砲に被弾し、火災を含む深刻な損害を受けます。

しかし彼もまた、機を不時着させるより任務を完遂させるため、
爆弾を目標に投下することを優先しました。



爆弾投下後、ベイカーは低空を飛行していた「地獄のレンチ」を、
乗員がパラシュートで降下可能な高度まで上昇させようとしましたが、
被弾していた機体はその途中で炎上し、乗員全員が死亡しました。


空軍博物館展示:ベイカー中佐に授与された勲功賞等

ベイカー中佐の遺体はその後行方不明のままでしたが、
作戦から80年後の2017年、関係機関が遺骨を掘り起こし、人類学的分析、
状況証拠、ミトコンドリアDNAとY染色体DNA分析により、
遺骨を正確に特定し、あらためてアーリントン墓地に埋葬されました。

彼は当時36歳で、作戦に参加したメンバーの中では最年長だったため、
特定が比較的早くできたということがあるそうです。

ちなみに、最新の鑑定法を使った今回の特定作業で、
今まで身元のわからなかった80名の乗員のうち、36名が特定されました。

 ジョン・ジャースタッド陸軍少佐(死後)
Maj. John Jerstad



シカゴの名門大学ノースウェスタンを卒業後任官した彼は、
ヨーロッパで出撃を重ね、1943年には25歳で少佐に昇進していました。

当時彼は93爆撃群とは関係がなかったにも関わらず、
プロイェシュチ爆撃の潮流作戦に自ら志願し参加しています。

彼はベイカー機長操縦の「ヘルズ・ウィンチ」の副機長を務め、
爆撃終了後、低空飛行から炎上しつつある機体の高度を上げ、
乗員がパラシュートで脱出できるように機長と共に試みましたが、
前述の通り、機体は墜落し、乗員全員と運命を共にしました。

ジェルスタッド少佐は作戦後行方不明とされていましたが、
死後7年目に発見され、死亡が確定しました。


冒頭写真左から
ベイカー、ジャースタッド、ジョンソン、ヒューズ
(ケインは写っていないと思う)


博物館には、ナビゲーターだった
レイモンド・ポール ・"ジャック"・ワーナー中尉が、
8月1日の空襲で着用していたシャツも展示されています。

ワーナー中尉は対空砲火で左腕を切断されそうになりながら、
被災した機体からパラシュートで脱出し、
パラシュートが開いた瞬間に地面に激突し、死を免れました。

彼は1944年の秋に釈放されるまでルーマニアで捕虜になっていましたが、
現地の病院の看護婦が彼の破れたシャツを修理してくれたので、
ずっとこれを着ていたということです。

このワーナー中尉についての経歴はあまりありませんが、
死亡を伝えるサイトのHPに、陸軍少佐として紹介されていました。

帰国してからは軍役から引退していますが、
捕虜になっていたことを考慮されて昇進したようです。

死後2階級特進というのは日本で耳にしますが、
アメリカではむしろ引退後の年金補償の点などを考慮して、
慰労の意味でこういう特進があるのかなと思いました。

余談ですが、ワーナーの本名は「レイモンド・ポール」であり、
あだ名の「ジャック」の要素がどこにもありません。
これは、姓が「ワーナー」であったことから、当時の有名人、
ジャック・ワーナーの名前で周りからも呼ばれていたのだと思われます。


Operation Tidal Wave - 178 B-24 Bombers vs. Hitler's Gas Station

こちらは非常にわかりやすいタイダルウェーブ作戦の説明です。
編隊離陸直後から1機が墜落、低空飛行に入った途端、
グループが分かれて進路を間違え、混乱したと言っています。

そして、このやりとりをドイツ軍が傍受し接近に気がついたと。

そして、結論としてアメリカの爆撃作戦は失敗で、
製油所は、結局終戦まで
「ヒットラーのガソリンスタンド」
として機能し続けたことを強調しています。

次回は、当作戦に参加した唯一の日系アメリカ人、
ベン・クロキについてお話しします。


続く。






「血の日曜日」プロイェシュチ油田爆破作戦〜国立アメリカ空軍博物館

2024-03-15 | 歴史

前回、1943年にドイツの生産工場に対して行われた
アメリカ軍のB-17による2回、3箇所への爆撃作戦についてお話ししました。

その犠牲の多さと費用対効果の悪さから、
「暗黒の木曜日」とまで言われてしまった作戦ですね。

今日は、同じ年に東ヨーロッパの油田を破壊することを目的にした
爆撃作戦「オペレーション・タイダルウェーブ」について取り上げます。

当作戦はB-24ミッチェル爆撃機の部隊によって実行されました。

結論から言うと、アメリカ軍はこの作戦においても
「暗黒の木曜日」の失敗を活かすことができませんでした。

現在進行形のスピルバーグのドラマ、
「マスターズ・オブ・ザ・エアー」の中では、
捕虜になった爆撃機搭乗員に向かって、ドイツ軍の情報将校が、

「レーゲンスブルグもプロイェシュチもダメだったねえ」(笑)

みたいにいうシーンがあります。

■ オペレーション・タイダルウェーブ:
@プロイェシュチ




1943年8月1日。

アメリカ陸軍航空隊は、枢軸国の重要な燃料源である、
ルーマニアのプロイェシュチ油田に対し、
低空B-24の奇襲作戦「タイダルウェーブ作戦」を展開しました。

上の写真を見てお分かりの通り、B-24はほとんど木の高さレベルの
低空を飛んで爆撃を行っています。

178機のB-24リベレーターからなるアメリカ陸軍航空艦隊は、
アフリカ-リビアのベンガジから1200マイルの旅を経て、
正午過ぎには目的地に到達していました。



今ならジェット機で9時間25分(航空運賃¥123.309より)。

だけどちょっと待って?爆撃機だときっともっと時間かかるよね?
正午過ぎに着くには一体何時に出発したんだろう。

ちょっと計算がめんどいのでやりませんが、それにしても
こんな遠方から任務を果たして帰るだけの余裕がB-17にあったんですね。


というわけで爆撃隊はコルフ島とピンドゥス山脈を経由するルートを、
厳密に無線を維持しながら進んでいきました。

目標は、プロイェシュチにある巨大な石油精製施設です。 

当時のルーマニアの指導者、イオン・アントネスク元帥は、
ナチスドイツへの経済支援として、最終的に
プロスティ油田から第三帝国の原油の約60%を供給しました。



アントネスク

戦後、アントネスクと政府要人は戦犯裁判にかけられ、
ルーマニア軍が占領したウクライナなどの地域における
28万〜38万人のユダヤ人絶滅等の責任を問われて銃殺刑に処されました。

処刑の瞬間は今日でもyoutubeで見ることができます。


石油貯蔵所爆撃作戦のコードネーム、タイダルウェーブでは、
第8空軍と第9空軍の5つの爆弾群が合わせて参加しました。


General Jacob E. Smart USAF(最終)

ジェイコブ・スマート陸軍大佐によって考案された本作戦は、
既成の米陸軍航空隊の方針を完全に打ち破るものでした。

陸軍航空隊伝統の高高度精密爆撃という手法ではなく、
B-24に200〜800フィートという低空から爆弾を投下させるのです。

低空からの爆撃機侵入は、奇襲の要素も兼ね備え、
油田に大火災を引き起こすことができるはず、とスマートは考えました。

■ 予測されていた作戦

しかし、ドイツ軍は彼らが来ることを十分に予想していました。

アメリカ軍の暗号を解読したドイツ空軍司令官、
アルフレッド・ゲルシュテンベルク大佐は、罠を仕掛けました。

Gen. Alfred Gerstenberg(最終)

ゲルシュテンベルグ大佐は、戦闘機パイロット出身。

第一次世界大戦ではリヒトホーフェン飛行隊のメンバーでしたが、
戦闘中撃墜され重傷を負って飛行機を降り、陸上勤務をしていました。


その後退役していたところを第二次世界大戦開戦と共に復帰し、
1942年からルーマニアのドイツ軍総司令官となっていました。

ナチス・ドイツ最大の単一石油供給源であった
プロイエシュティの石油精製所周辺に防衛圏を設定することは、

ゲルシュテンベルグに与えられた最も重要な責務だったのです。

防衛圏の構築段階で、ゲルシュテンベルグ司令は
すでに対空砲
(8.8cmFlaK高射砲)を街の周囲に張り巡らせており、さらに、
発煙装置と、最も重要な施設の近くに弾幕気球を設置していました。

「罠」というのは主にこの阻塞気球とも呼ばれる気球のことです。

かわいい

阻塞気球(barrage balloon)

は、金属のケーブルで係留された気球で、シンプルな装置ながら、
低空から進入してきた飛行機をケーブルに衝突させ、
あるいは攻撃を甚だしく困難にするすぐれものです。

B-24リベレーターの軽いアルミニウムの翼は、
気球の鋼鉄のケーブルによって易々と引きちぎられてしまいます。

そして、ドイツはもちろん、ルーマニア、ブルガリア軍の戦闘機が
大佐の迎撃命令一下、いつでも出撃する態勢を整えていました。

このときゲレシュテンベルグの配下には、プロイェシュチだけで
約25,000人の兵士が控え、その命令を待っていたと言われます。



■ アメリカ爆撃隊のミス

リベレーター爆撃隊の不運は、根拠地から目標が遠方だったことです。

アフリカのリビアからの1,000マイルの無警戒飛行中、
雲によって編隊は2つのグループに分断され、
間違った方向転換が、さらに混乱を引き起こしました。

さらにいくつかの編隊が航法ミスを犯し、無秩序のまま、
厳重に防衛された目標地域に到着してしまいました。

しかも、無線の傍受によって、襲来は前もって読まれていました。
これでは企画段階で期待された奇襲にはなりません。



戦闘の混乱の中、一部のB-24は、煙幕装置の激しい煙の中を爆撃し、
前の波から遅れてきた爆弾の炸裂に巻き込まれることになります。


爆弾を落としたところに次の一波が到達してきている

■ 生存者の語る「暗黒の日曜日」

次回に詳しく紹介しようと思いますが、この攻撃の時、
B-24リベレーターの砲手に、のちに「二世ヒーロー」と呼ばれた
日系アメリカ人2世のベン・黒木がいました。


ベン・黒木(Ben Kuroki)

彼は陸軍での現役中58回の任務を遂行していますが、
「タイダルウェーブ」作戦はその24回目となるものでした。

歴史家トム・ギブスのインタビューの中で、プロイェシュチへの攻撃が
いかに「恐ろしい」ものであったかを、彼はこのように回想しています。

「眼下で貯蔵タンクが爆発したとき、
我々の飛行機の高度よりも50フィートも高く炎が上空に舞い上がりました。
私はその時、自分のこの後の運命をはっきりと悟った気がしまし
た。


そのときわれわれの機は低空で目標上空を飛行していましたが、

爆破に巻き込まれなかったのは奇跡だったと思っています」


マック・フィッツジェラルド(前列サングラスの人物)

プロイェシュチ爆撃に参加したリベレーター「ホンキートンク」で
やはり上部砲塔が持ち場だったマック・フィッツジェラルドは、
僚機が3階建てのレンガ造りのビルに激突するのをなすすべもなく見ながら、
「これで今、10人が死んだ」と自分に言い聞かせていました。

次は自分の番だと確信した彼は、心の中で両親に別れを告げていたので、
結果的に自分が死ななかったことには「誰よりも驚いた」と語っています。

二人が語ったコンビナートへの攻撃はわずか30分ほどでしたが、
この間の人命と物資の犠牲は凄まじいものでした。

アメリカ軍の爆撃機は合計で52機が撃墜されました。

マック・フィッツジェラルドはそのうちの1機に搭乗していました。
ベン・クロキが語ったところの炎の高い柱を避けた後、
彼の機は被弾し、墜落して彼と数人の仲間は捕虜になりました。

歴史家のドナルド・L・ミラーは前述の

『マスターズ・オブ・ザ・エアー』原作の中で、
この空襲で310人のアメリカ軍飛行士が死亡
130人が負傷し、100人以上が捕虜になったと主張しています。

また別の報告では、178機の爆撃機と1,726人の兵士のうち、
54機と500人近くが未帰還、捕虜は186名に上るとされています。

ミラーはまた、プロイェシュチ空襲は
「民間人よりも多くの空軍兵士が死亡した、この戦争で唯一の空爆の一つ」
であったとも指摘しています。

ちなみに、現地ルーマニアの民間人と軍人で死亡したのは116名でした。

この戦闘におけるアメリカ人兵士の死亡者は
ルーマニアの民間人と政府関係者によって
ボロバン墓地の英雄区画にある集団墓地に埋葬されました。


2023年になって、MIAの活動により身元が判明し、
故郷のオハイオに戻ってきたアメリカ陸軍中尉の遺骨埋葬式の様子です。

このロイター中尉はプロイェシュチ攻撃の際戦死し、その遺体は
ルーマニア市民によってプロイエシのボロバン墓地に埋葬されていました。

米国墓地登録司令部は、多くの身元不明遺骨を掘り起こし、
このたびロイター中尉が特定される運びとなりましたが、
同団体は最終的に、特定できなかった遺骨を再び埋葬しなおしています。

たとえ特定できなくても、アメリカ人であることがわかっているなら、
とりあえず?持って帰ることはできなかったのでしょうか。




■タイダルウェーブ作戦の影響

プロイェシュチ方面司令のゲルシュテンベルク将軍(最終)の紹介に、

彼の指揮した防衛作戦の結果、1943年8月1日に行われた

最初の空襲、タイダルウェーブ作戦で、
米軍は油田を破壊することができず、大きな損害を被った。

とあります。

この空襲で石油貯蔵施設は確かに爆撃による損害を受けたものの、
ドイツ軍はすぐに数千人の強制労働者を動員し、
コンビナートの甚大な被害を修復してすぐさま生産を再開しました。

数週間のうちに、施設の石油生産量は襲撃前よりも増えたほどです。


それ以来、「血の日曜日」として記憶されている当作戦の損失を鑑み、
アメリカの指導部は、ルーマニアの石油産業に対して、
8ヶ月間、大規模な攻撃を試みることはありませんでした。


続く。



「暗黒の木曜日」初期爆撃戦略の欠陥 〜国立アメリカ空軍博物館

2024-03-12 | 航空機

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の重爆撃機は、

フォーメーションを組んで飛行しました。

フォーメーションは戦闘機の攻撃から重爆撃機を守り、
爆弾パターンを目標に集中させるために設計されています。

これらのフォーメーションは、敵の戦術に対抗するため、
また重爆撃機の数の増加に対応するため、時代とともに進化していきました。

■ コンバット・ボックス Combat Box

アメリカ空軍のフォーメーションタクティクスには、
「コンバット・ボックス」(戦闘箱)なる言葉があります。

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の重爆撃機(戦略爆撃機)が使用した
戦術編隊のことを「コンバット・ボックス」と称しました。

まずなぜこれが「ボックス」なのかというと、


このような図式にあてはめて編隊を組織したからです。

集中編隊を「ボックス」と呼ぶ習慣は、平面図、側面図、
正面仰角図で編隊を図式化し、個々の爆撃機を
目に見えない箱状の領域に配置したことから生まれました。

別名として、「時間をずらす」という意味の
「スタッガード・フォーメーション」とも呼ばれたこの思想の目的は、
まず、防御の点からいうと爆撃機の火砲の火力を集中させることであり、
攻撃的には目標に爆弾の放出を集中させることにありました。

■ ドイツ軍の防御システム

映画「メンフィス・ベル」では、爆撃目標に近づいた頃、
それまで護衛についていたアメリカ軍の戦闘機が、
翼を振って別れを告げ、帰っていくのを見て、乗組員が
ため息混じりにそれを皮肉るシーンがありました。

ギリギリまで掩護してドイツ機と交戦するまでいるのかと思ったら、
相手が出てくる前に帰ってくるのですから、皮肉も言いたくなるでしょう。


日中の精密爆撃にこだわったアメリカ空軍を迎え撃つドイツ軍は、
地上のレーダーで迎撃機を誘導する強力な統合防空システムを構築しました。

占領下のヨーロッパ上空に侵入した連合軍機を
ME-109、FW-190、ME-110、JU-88戦闘機が迎え撃ち、
さらに、通称「フルークfluk(高射砲)」と呼ばれる
「フルガブヴェールカノン(flugabwehrkanone)」
が地上から連合軍の爆撃機を標的にしました。


ボフォース40ミリ

双方の衝突が重なるにつれ、空戦は回復力を試す試練となり、
両陣営の乗組員たちは高高度の消耗戦に閉じ込められていきます。

この空中戦の熾烈さを象徴するのが、通称

「暗黒の木曜日」
として知られる1943年10月14日の爆撃ミッションでした。

この任務は、アメリカ陸軍第8空軍の第1航空師団と第3航空師団が
イースト・アングリアの基地から飛び立ち、
ドイツのボールベアリング工場を攻撃するものでした、

ドイツの戦闘機械の多くは低摩擦ボール ベアリングに依存していたため、
アメリカ軍は、ボール・ベアリングの生産を破壊すれば、
ナチスの戦争遂行能力に連鎖的な影響を与えると考えたのです。

■ 1943年8月17日の同時2箇所空襲




この作戦は実は二度目で、最初8月に行われた、第8空軍による
レーゲンスブルクのメッサーシュミット戦闘機工場
シュバインフルトのボールベアリング工場への空襲がありました。



同時二箇所の攻撃は、敵の防衛力を分断させることが目的でしたが、
シュバインフルト攻撃隊の離陸が遅れてしまうという、
起こってはいけないアクシデントのせいで、ドイツ軍に、

第一波隊を余裕で迎撃してから着陸し、
再武装してタプーリ給油し、
ついでにコーヒーを飲んでから出撃しても(嘘)
まだシュバインフルト迎撃に間に合う


という余裕を与えてしまいます。

しかもアメリカ爆撃隊は前述の事情で終始全くの援護なしだったため、
単独で次から次へとドイツ戦闘機の波と戦うことになりました。

アメリカ軍が採用していた爆撃機編隊間の相互支援による防御射撃は、
ルフトバッフェの、「コンバットボックス」単位に攻撃をかけ、

編隊を撹乱するという作戦でまず無力化され、編隊を離れた落伍機は
ドイツ機の集中攻撃を受けて1機ずつ確実に仕留められていきました。



それでもこの時の空襲はそれでも両工場に甚大な被害をもたらしました。


最初から損失を計算して大編隊が組織されたこと、
そして爆撃手が優秀だったせいです。


左:爆撃中 右:爆撃後の偵察機による撮影(穴だらけ)

しかしながらこの時アメリカ軍は、攻撃兵力の20パーセントに相当する
60機の爆撃機を失い、600人以が死傷、行方不明、捕虜となりました。


攻撃後満身創痍で北アフリカに向かうレーゲンスブルク攻撃隊

そして、その後ドイツがボールベアリングの生産量を回復したため、
連合軍側は再び同じところを叩こうと考えたのです。



■ 1943年10月14日、暗黒の木曜日

さあ、もうおわかりですね。
「暗黒」とは誰にとってのものだったのか。

爆弾を落とされる工場の人々にとってもそうだったでしょうが、
それ以上に困難に直面したのは、実はアメリカ爆撃隊だったのです。


アメリカ軍の戦前の航空隊のドクトリンでは、

「航空編隊は、爆撃機を集団化することで、
戦闘機の護衛なしに
昼間でも目標を攻撃し破壊することができる」

とされ、爆撃機自身が装備する防御機銃
「軽砲身」ブローニングAN/M2 .50口径(12.7mm)砲
の連動射撃さえあれば、
先頭機の護衛なしで爆撃機を敵領土に飛ばすことができる、
と信じていました。

「メンフィス・ベル」の1942年ごろはまさにその通りで、
護衛してきた戦闘機がある地点で翼を振って帰っていくと、
とたんにルフトバッフェの戦闘機が湧いて出てくるという状態でした。

当時の爆撃機は最大10門の機関銃を備えていたにもかかわらず、
損害は増大し始めていました。

「メンフィス・ベル」が25回のミッションを終えたとき、
アメリカは国をあげてこれを讃え宣伝しましたが、それは逆にいうと
ほとんどが25回の任務を生き延びることができなかったということです。

しかし戦闘機が途中で帰ってしまうのは、仕方ないことでした。
当時の戦闘機の航続距離では、海岸線を越えることもできなかったのです。

「暗黒の木曜日」のミッションで、291機のB-17爆撃機は
掩護を伴った「コンバットボックス」編隊を組んでアーヘンに接近すると、

作戦範囲の限界に達したUSAAFのP-47戦闘機は、
翼を振って爆撃隊に別れを告げ、離脱していきました。

結局全行程のうち護衛が付いていたのはアーヘンまでの300マイル、
残りの200マイルの間、爆撃機は戦闘機の掩護なしということになります。


掩護機が離脱すると、すぐにルフトバッフェの戦闘機がやってきましたが、
このタイミングは決して偶然ではありませんでした。

ドイツ軍は、レーダー管制がP-47が編隊を離脱する瞬間を把握しており、
戦闘機をレーダー誘導して向かわせていました。

ルフトバッフェの単発戦闘機は、まず第一波攻撃として
3×4のフォーメーションを組み、アメリカ軍爆撃編隊に正面から接近し、
至近距離で20mm砲を発射してきました。

続いて双発戦闘機 JU-88 からなる第二波が続きます。
大型戦闘機は重口径砲に加え、翼の下から21cmロケット弾を撃ってきます。

ロケット弾はかなりの爆発力を備えているため、
たった 1 回の一斉射撃で爆撃機を簡単に破壊できました。


しかも彼らは 爆撃機の防御砲の有効射程、

1,000 ヤードから決してこちらに近づくことはありませんでした。


JU-88はまず先頭の爆撃機にロケット弾を撃ち込み、
各B-17が回避行動を始めると、撹乱して編隊をバラバラにしてしまいます。



迎撃機の攻撃をかわし、なんとか爆撃目標上空に到達できたとしましょう。
次に爆撃隊は激しい対空砲火に直面します。

爆撃機の砲手は追撃してくる戦闘機に撃ち返すことはできても、
高射砲に対しては何もすることができず、それを逃れるには
ただ弾幕を何事もなく通過することを祈ることしかできません。


さらに撃墜されずミッションを終えても、中央ヨーロッパを横断する帰路で
待ち受けている敵と戦わなければなりませんでした。

シュヴァインフルトに接近するまでに、爆撃隊はすでに28機を失いました。

「暗黒の木曜日」で出撃した全291機の爆撃機のうち、60機が撃墜され、
約600人の飛行士が敵地上空で命を落としました。

帰還した爆撃機のうち17機は英国で墜落または廃棄され、
121機が修理しなければもう飛べない状態で、
その多くが負傷したり、死んだ搭乗員を乗せていました。

10月14日爆撃の最初の一投が地上で炸裂する

打撃を受けながら爆撃隊が投下した爆弾は、
このときもボールベアリング複合体に正確に命中しました。

第40爆撃群の生き残った飛行機は、驚くべき正確さで
目標地点から1,000フィート以内に爆弾の53%を投下しています。

内訳は高性能榴弾1122発のうち、143発が工場地帯に着弾、
さらにそのうちの88発が直撃弾となりました。

煙の上がるシュバインフルトを離脱し帰投する爆撃機



この日、搭乗員は出撃前に最後になるかもしれない写真を撮りました。
笑ったりおどけた様子の者は一人もいません。

303爆撃群のこのクルーは、生還することに成功しています。


冒頭のボマージャケットと手袋は、第91爆撃グループの
「Chennaults Pappy」(シェンノートの子犬)の胴部銃撃手、

フィリップ・R・テイラー軍曹
SSgt Phillip R. Taylor

が「ブラック・サーズデー」任務で着用していたものです。


ケースの足元には、軍曹がフォッケウルフ190を撃墜した
50口径機関銃のファイアリング・ピン(撃針)と、
「ダルトンの悪魔たち」と刺繍された布のケースが展示されています。

■ブラック・サーズデイの教訓

アメリカ空軍の指導者たちは一連の爆撃作戦の戦果を賞賛し、
高い損失率にも関わらず勝利を主張していました。


第8空軍司令官アイラ・イーカー中将は
「我々は今やフン空軍(でたフン族笑)の首に牙をむいている!」

といいましたが、これは実情を知っているものには虚しいハッタリでした。

公的には成功を宣言したものの、非公式には(というか実際は)
第8空軍の士気の低下に伴う損失に深い懸念を覚えていたのです。

「暗黒の木曜日」を含む一連のミッションに対する現実的な評価は、
戦闘機の護衛なしでは費用対効果が悪すぎるということでした。

これ以降、第8空軍は攻撃をフランス、ヨーロッパの海岸線、
戦闘機の護衛が可能なルール渓谷に限定しています。

そしてこの後、航続距離が長く、優れた機動性と十分な武装を備えた
 P-51「マスタング」戦闘機が導入されるまで、
ドイツ深部への同様の襲撃を行うことはありませんでした。

米軍はこれ以降、昼間戦略爆撃の理論を再考することになります。
航空戦に勝つには新しいドクトリンと装備が必要であると知ったのです。

さらに、多大な犠牲を払って「成功させた」と上層部が自賛したところの
一連のミッションでしたが、爆撃隊の正確な爆撃にもかかわらず、
その後の分析により、最終的にドイツのボールベアリングの生産は
わずか10パーセント減少しただけだったことが判明しています。


続く。


映画「海兵隊魂とともに」Salute to the Marines 後編

2024-03-09 | 映画

第二次世界大戦中のプロパガンダ反日映画、
「海兵隊魂とともに」=「海兵隊に敬礼」最終日です。

フィリピンで日本軍の攻撃が始まるところからですが、その前に
映画のオリジナルポスターを見つけたので見てください。


ポスター上部の「Rough! Romantic! Rarin' to go!」ですが、
標語風に訳すなら、
「痛快!ロマンチック!やる気満々!」
って感じでしょうか。

raring to goは「やる気と熱意に満ちている」という意味です。
一言でやる気と言っても、元々ハイテンションの馬を表す言葉なので、
今にも駆け出しそうな「やる気」の時に用いられます。


さて、実際は違いますが、この映画による時間軸では、
真珠湾攻撃と全く同時刻、日本軍はフィリピン爆撃を開始しました。

引退したばかりの海兵隊曹長、ウォレス・ベイリーが
日曜日、現地の教会にいるところにも、爆撃は行われたという設定です。

真珠湾攻撃より先にフィリピン攻撃があったことになりますが、
そこは映画だから言いっこなしだ。

航空機から爆弾を落とされ、教会の屋根が崩落します。
このシーン、本当に役者の上から砂埃などが容赦なく降り注いでいます。

どうやって撮影したんでしょうか。


日本軍による容赦ない爆撃が始まりました。

しかし、軍事基地もない村に爆弾を落として一般人を殺害するなんて、
この世界の日本軍はなんと無駄で無益な攻撃をするのでしょうか。

ちなみに、この教会のあるとされるバリガンという地域ですが、
実際に日本軍が到達したのは12月の12日以降であり、

それも陸軍による上陸作戦であり、航空攻撃はありませんでした。

そもそもアメリカ領フィリピンには日本軍の航空基地もありませんでしたし。


ここで映画は驚くべきストーリーをぶち込んできます。

村に日本軍の爆撃が起こった途端、ドイツ人キャスパーの薬屋の倉庫に
日系人のヒラタなど何人かがやってきて、隠してあった鉤十字と
旭日旗の腕章(そこは鉢巻だろう)をいそいそと付け、

「ついにこの日が来た!」

「ハイル・ヒットラー!」

(敬礼してお辞儀しながら)

「ニッポン!ボンザーイ!」

などと内輪で盛り上がり、武器を取って上陸部隊を支援しようとするのです。

ごめん。悪いけどここ笑ったわ。


キャスパーは地元の薬屋店主、ヒラタは放送局会社のオーナー。
どちらも何世かはしりませんが、立派な外国系アメリカ市民です。
そんな彼らが、ハズバンド・キンメル司令ですら知らなかった

日本軍の奇襲攻撃を前もって知っていて、今か今かと待っていたとでも?

アメリカ国民として地元に溶け込み、そこで生活しながら、
いつか日本軍がアメリカ人をやっつけてくれるのを待っていたとでも?

執拗に繰り返される「猿」という言葉、相手を人間以下に貶める表現、
そして、善意のアメリカ人たちを裏切る悪魔として描かれる敵国人。


こういう表現による刷り込みこそが、同じアメリカ国民であるはずの
日系アメリカ人や独系アメリカ人に対する排斥と排除の空気を醸成し、煽り、
それが日系人強制収容所の悲劇を生んだことは間違いありません。


ベイリーらが瓦礫から外に生きている人を運び出していると、
外で誰かの演説が始まりました。


フィリピン人に向かって、アメリカの支配から解き放たれろ!
とヒットラー風(もうこういうのうんざり)アジ演説を行うキャスパー。


一部のフィリピン人は、彼の「我々は友人だ」と言う言葉に
んだんだ、と頷きますが、(多分アメリカの支配をよく思っていない層)



ベイリーは怪我した子供の身体を抱いて見せつけながら、キャスパー、いや、
ハインリッヒ・カスパールをお前は薄汚いネズミだと罵ります。


いやそこは子供の手当が先だろう。




その後、拳銃を取り出した彼を瞬時に制圧。

さすがは腐っても元海兵隊員だ。


泥の中に叩き込み、ここは俺が守る!と今度は自分が演説。


民兵を率いて駆けつけてきたアンダーソン伍長と合流。
ジェームズとはヘレンを取り合って負けた海兵隊上陸部隊の士官です。

はて、引退した元曹長が若いとは言え士官に命令を下せるのか?



そこにルーファス・クリーブランド中尉がヘレンを探しにやってきます。
あんたついさっきまで哨戒任務で飛行機に乗ってたん違うんかい。



案の定、ベイリーに基地に戻ってここのことを伝えろ!と怒鳴られたので、
その辺に駐機していたコルセアに飛び乗って行ってしまいました。

ちょっと待って?
このコルセアの後部座席って、さっき死んだ部下がまだ乗ってるよね?



同時刻、先日入港した日本の民間船からは、士官の命令のもと、
続々と日本兵部隊が上陸していました。


形は似ていないでもないけど、色が全然違ってるんだが。
当時、白黒写真を参考にしたせいかしら。



司令は海軍軍人、兵隊は陸軍、揚げている旗は海軍旗。

もうカオスです。



お辞儀をしながら同時に敬礼をし、理解不明な言語を叫んでおります。



「マスタードイエローのサル」を待ち伏せしていたベイリーのもとに、
子供が海兵隊のブルードレスを持ってきたので、早速着込んでいます。

「贅肉の塊がテントサイズの制服を着ようとするのを見たら、
誰も海兵隊に入ろうとは思わなかっただろう」

と、元海兵隊員に言われていたあのシーンね。



そこに謎の軍旗(白地に黒の山線)を持った並行世界の日本軍が!
彼らはフィリピン人民兵の狙撃の前にほぼ無抵抗に薙ぎ倒されます。



バリガンの橋では、村人の避難が始まっていました。



ベイリーらがジェームズ隊と合流し、橋の袂で待ち構えていると、
日本軍がやってきました。

彼らはしきりに日本語らしい言葉で色々と喋っていますが、
日本人のわたしにもまっっったく理解できませんでした。



彼らはジャングルの中に潜む現地人の「蛮刀」によって、
木の上から襲われ、声もなく惨殺されていきます。

この映画から20年後、今度は自分たちが、ベトナムのジャングルで
ベトコン相手に全く同じ恐怖を味わうことになるとは

映画を観ている誰も想像だにしていなかったことでしょう。



両軍間に銃撃戦が始まりました。


陸軍は航空機に救援を要請、たちまち日本軍のヴィンディケーター()
が駆けつけ、敵味方入り乱れる戦場に無分別な爆撃を開始。



今や全軍を率いるベイリー隊は橋のたもとに到着。
彼はここを死守し、一歩も村に敵を入れさせない覚悟です。



ところがその前線となるべきポイントになんと妻ジェニーがいました。
彼女は怪我人の救護をしていてここにきてしまったそうです。

そこであらためて夫の軍服を素敵だと褒める妻、微笑む夫。



こちら、どちらが突撃するかで即席のくじ引きで決める兵隊二人。
どんなときにも米海兵隊は余裕を忘れません。


日本軍はこの珍妙な戦車を大量に投入してきました。
真珠湾攻撃当日にいったいフィリピンのどこから上陸させたのか。

しかし、目も眩むような急斜面を難なく高速で降り、走行できる、
見かけよりはずっと性能のいい戦車のようです。

そして戦車は逃げもしないで地面に寝そべったままの

無抵抗なフィリピン兵を、つぎつぎと容赦なく押し潰していくのでした。

なんて冷酷非道で残酷な連中なのでしょうか。



その頃ようやく海兵隊本部から大佐が到着していました。
もちろん背後には一個師団の上陸隊を率いています。


海兵隊の砲撃がおもちゃのような日本軍の戦車を撃破。



その間工作部隊は橋を爆破するための準備にかかりました。



しかし、次々と狙撃されてしまいます。
その中にはヘレンのボーイフレンドだったジェームズ中尉もいました。


そこでベイリーは単身狙撃ポイント近くまで近づき、
相手を無事殲滅しました。



ベイリーには橋を渡って撤退するよう本隊から命令が出されましたが、
時すでに遅く、彼らはこのとき四方を囲まれていました。

「ここから動けなくなったな」

すると奥さんは怪我人に包帯を巻きながら、軽ーく

「命令違反よ」

それを聞いて、ベイリー、

「こんなときにもユーモアを忘れないんだな」

肝の座った嫁に賞賛を送るのでした。



大佐はベイリーからの最後の通信を受け取ります。

「撤退不可能 命令には従えない」



やむなく大佐は橋の爆破を命じました。



上空からはコルセアの編隊が援護に駆けつけ、
日本軍は撤退を始めました。


ようやく戦いを終えたフィリピン人たちを前に、ベイリーは、
次の戦いに備えよと訓示をして彼らを解散させました。

そして、呆然としているジェニーの手を取り、見つめあった途端、
またもや飛来したヴィンディケーターが、爆雷を落としていったのです。

二人の上に。

爆弾は周囲を巻き込んで黒い煙で全てを覆い隠しました。


■ エピローグ



その日、海兵隊基地では、基地司令たる大佐によって、
不在のウィリアム・ベイリー元曹長に対する勲章の授与式が行われました。

受け取るのは、娘である合衆国海兵隊軍曹、ヘレン・ベイリー。
なぜ最近まで一般人だった彼女がこんなすぐに軍曹になれたのかが謎ですが。


壇上の彼女の手にキスをして、クリーブランド大尉は、

「またいつか会う日のために、このキスを持っててくれる?」

といい、ジープに乗っていってしまいます。
帰らないかもしれない戦いのために。



彼女はそれを逃すまいとするかのように手を握りました。


彼女の偉大な父の叙勲を讃えるための行進が、
「海兵隊讃歌」の中、進んでいきます。

「モンテズマの部屋からトリポリの岸辺へ
我らの祖国のための戦いに挑む 空で、陸で、海で
正義と自由のため 最初に戦う
我らが誇りとするその名は 合衆国海兵隊」




終わり。


映画「海兵隊魂とともに」Salute to the Marines 中編

2024-03-06 | 映画

第二次世界大戦中の反日プロパガンダ映画、
「海兵隊に敬礼」の二日目です。

30年間戦地に出ず、ただ新兵の訓練任務専門にやってきて、
無事にその現役生活を終えた曹長、ウィリアム・ベイリー。

2度と軍事には関わらないことを妻と約束し、家庭に戻り、
これからは悠々自適のリタイア生活、となるはずでしたが、
どうにもこの男、そんな生活に馴染めそうにありません。


暇な時間、こっそり近所の子供を集めてボクシング教室を開催。
なぜか奥さんに取り上げられた海兵隊のブルードレスを着込んでいます。
この際制服を着て号令をかけられたら相手はなんでもいいって感じ。

どうも彼的には海兵隊の英才教育をしているつもりです。



子供相手にドイツ兵と戦った華々しい戦歴(大嘘)を披露していると、



見張りが合図の口笛を吹くと同時にご近所の奥様方がやってきました。
慌てて上着を脱ぎ、話題を聖書に切り替えて誤魔化しますが、
子供たちが怪我をしていたり泥だらけなのを見れば何をしていたか歴然。

怒った母親たちは子供たちを連れていってしまいました。


ジェニーもそんな夫にほとほと呆れ顔です。
海兵隊を辞めさせて連れ帰ったことを後悔している、とまで・・。

■ 日本船の入港



村の港に日本からの定期船が入港しました。
フィリピンとの通商を行っている会社の民間船です。



日本と聞いて、露骨に「ジャップは嫌いだ」と嫌な顔をするフラッシー、

ジャップスと仲良くなんてできるかと苦虫を噛み潰したようなベイリーに、
この、ドイツ人の薬屋店主キャスパーは、
人類皆兄弟、仲良くせねばとリベラルを解きますが、

「奴らの顔を見るだけで鳥肌が立つ!」

とベイリー節全開。



港では日本人船員たちが本格的な剣道を始めました。
(しかしそう見せているだけで、全くのインチキ剣法)

彼らの様子といい、乗ってきた船が見るからに丈夫そうなことといい、
ベイリーはわずかに不信感を抱きます。



子供たちにせがまれたベイリーは、
「オロセ!オロセ!」と怪しい日本語で号令をかけている船員に
船の中を子供たちに見せてやりたいんだが、と頼むのですが、



「ソー・ソーリー」

と断られます。
ムカついたベイリー、よせばいいのに、

「ここはアメリカの港で俺はアメリカ人だ!
止められるなら止めてみろ!」
(ちなみにここはアメリカの港じゃないよね)

と無茶を言って強行突破しようとし、一突きで転がされて、



船上の日本人船員たちに笑われてしまいました。
ベイリー、日本人船員に、いい攻撃だな、というと、



「日本の得意技だ。奇襲だよ」

これが真珠湾後のアメリカでどういう意味を持つかお分かりですね。



ベイリーは握手するふりをして日本人を海に叩き込みました。
これがアメリカの奇襲だ、と勝ち誇って。

「止められるなら止めてみろ」という言葉を受けて、
日本人船員は強行突破しようとするベイリーを止めた。
それは公平に見て、「奇襲」とはいいません。


逆に握手するふりをして投げ飛ばした彼のやり方こそが
本当の「卑怯な奇襲」だと思うんですが・・・。

さて、港からその後何事もなかったかのように無事に帰ってきたベイリー。


「サルどもに笑われたくない!」

などと悪態をつきながらフラッシーに腰を揉ませていると、
街で噂をすでに聞きつけた妻がおかんむりで帰宅してきました。


しかし相変わらず娘はニヤニヤして父を庇うばかりです。

ここでも相変わらず「サルのジャップス」を連呼し、
自分の行動を正当化するベイリー。


そこに運良く?ヘレンを狙う取り巻き二人が乱入してきて、
家族の前で陸空で相手の貶し合いが始まりました。

相変わらずヘレンはヘラヘラととっても楽しそう。


その夜も、二人の男の腕にぶら下がってデートに出かけました。

それにしてもこの女、いつまで男二人を引っ張るのかと思ったら、
この日、初めて意思表示をしました。

ジェイムズの目の前でルーファスにキスしようとするという最悪の方法で。


流石にそれを黙って見ているわけにはいかないジェイムズ、
すんでのところで二人のファーストキスを阻止しました。

「明らかに劣勢で戦況が悪い時には退却すべし」

この勝負、歩兵の負けです。



プライドをズタズタにされたジェイムズがその場を去ると、
二人はゆっくりと愛を確かめ合います。
あー胸糞悪い。


ウッキウキで帰ってきた娘に、母は本心を打ち明けました。
軍人との結婚はできればしてほしくないと。

しかし、そういいながらももう一度娘の歳に戻ったら、
やはり自分はあの人(ベイリー)と結婚する、ともいうのでした。


そして12月7日がやってきました。

この日はアメリカ人にとって真珠湾攻撃として記憶されていますが、
フィリピンの1941年12月7日は、まだ「その日」ではありません。

映画関係者がうっかり揃いだったのか?
それとも時差も知らないバカ揃いだったのか?

と思いがちですが、まず、一般大衆向けのこの映画では、
正確な日付を示すより、皆が記憶する屈辱の日として
これから起こることを表す方が大事だと判断されたのかもしれません。

そして何より、たとえ事実と符合しない表現になっても、
フィリピンで12月7日が「その日」でなければならなかった理由があります。
それは、その日が暦の上では日曜日であったからでした。

真珠湾攻撃が起こったハワイではアメリカ時間12月7日は日曜日で、
多くのアメリカ人は教会に向かったり、教会にいました。

ちばてつやの戦争漫画「紫電改のタカ」で、
主人公の強敵となった
ウォーホーク乗りジョージとトーマス・モスキトン兄弟も、
一家揃って教会に向かう途中の車を日本軍機に掃射され、
両親と妹、弟、赤ん坊を失ったというストーリーだったと記憶します。

彼らにとっては「教会にいるところを襲われた」という事実が
敵の残虐さをより一層際立たせるファクターだったのだと思わせます。

■ 日本軍の奇襲

さて、12月7日の日曜日、ベイリー家は教会に行こうとしていました。



そこにベイリーが「ワシントンの塔にサルが登ろうとしている」と、
ハル-来栖大使の会談を報じる新聞を振り回しながらやってきます。



野村・来栖大使とハル国務長官の会談が行われたのは
12月7日ではなく11月27日であり、そのときに手交された
「ハルノート」は、実質日本を追い詰める「最後通牒」でした。

これを飲むことすなわち「座して飢え死にを待つ」ことになるほど
一方的なものであったことは後世の検証により明らかになっています。

しかし、映画ではとにかく日本が表向き握手を仕掛けながら
同日一方的に奇襲をかけてきたということにしています。

港でベイリーが日本人船員にやったように。

ただ、この映画が公開された頃、大衆にとって政治的公平性の有無など
全く無意味で必要とされていなかったことも知る必要がありましょう。


同時刻、ヘレンを恋敵から奪うことに成功したクリーブランド中尉は、
機嫌良く鼻歌を歌いながらフィリピン上空の哨戒任務についていました。



そこに真珠湾攻撃を知らせる衝撃の打電が入ります。



同時に日本機の編隊発見!
って、デジャブかしら。このヘンな日本軍機、見覚えがあるんですが。

んーとこれは確か「ファイナルカウントダウン?」

今、過去ログ「ファイナル・カウントダウン」を検索して読んでみたら、
この珍妙な日本機に対してわたしはこんなふうに突っ込んでました。

(映画制作の)1980年当時、零戦の写真を手に入れることくらい、
その気になれば、いやその気にならずともいくらでもできたと思うのですが、
なんなのこのどこの国のものでもない不可思議な模様の飛行機は。
やる気がなかったのかそれとも故意か。


この映画を選んだ、おそらく最大と思われる収穫は、

映画「ファイナルカウントダウン」が、よりによって、
1942年の戦争中に製作されたインチキ映画からフィルムを流用していた、
というとんでもない手抜きが判明したことでした。

この日本機は、当時ですら旧式だったアメリカの急降下爆撃機、

ヴォート・ヴィンディケーター
 Vought SB2U Vindicator

を、きったねえ色に塗装した代物です。


ちなみにこの「ヴィンディケーター(擁護者の意)」
ドーントレスができるまでのつなぎ的存在で、パイロットからは
「バイブレーター」とか「ウィンド・インディケーター」
(風向指示器)とかいわれて馬鹿にされていました。

1943年当時では、日本軍がどんな戦闘機に乗っていたか、
要するに誰も知らなかったと言うことでもあります。

しかし1980年作品の『ファイナル〜』がなぜこれを使ったかは未だ謎。


さて、クリーブランド機は日本機を撃墜しましたが、
後席の射手はやられてしまいました。(ここ覚えておいてね)

仕返しとばかりにもう一機を撃墜したクリーブランド、
ジャングルに落ちていく日本機を見ながら、

「祖先がいる森に帰っていくぞ!」

まあ、当時白人が黒人に対してどんな扱いをしていたのかを知っていれば、
黄色人種に対するこんな表現も至極当然かもしれませんが。




その時、日本軍の編隊は村の上空に差し掛かっていました。



上空から聞こえる爆音に皆不安そうな目を向けます。



何かを察している風のベイリー。

さあ、これから何が起こるか?
もちろん皆さんはご存知ですね。


続く。



映画「海兵隊魂とともに」Salute to The Marines 前編

2024-03-03 | 映画

原題は「Salute to the marines」なので、「海兵隊に敬礼」のはずですが、
なぜか日本でのDVDでのタイトルは「海兵隊魂とともに」になっています。

「海兵隊に敬礼」でなにがいかんかったのか。


当ブログでは連続して白黒の映画ばかり取り上げてきたので、
久しぶりにカラーで絵を描いてみたい気分になり、
「Uボート:235強奪作戦」を取り上げようと観てみたら、
あまりにくだらなくて悪食を自認するわたしですらその気を無くし、
次に見つかったカラー作品なら何でも、と適当に選んでしまいました。

しかし、この作品も観はじめてすぐに、不快感を感じました。

まず、この主役の不細工さです。
デブデブしたしまりのない体型、たるんだ顎、
現役の海兵隊員がこんな酒太りなわけあるか!

■ ウォレス・ビーリーという俳優

映画サイトで、元海兵隊員という人がこんなコメントを残しています。

「ウォレス・ビーリーは海兵隊員ではない。なんてだらしないんだ。
まるで贅肉に贅肉を重ねたような身体、一等軍曹役とはとても信じられない」


「ウィリアム・マンチェスター(『ジョン・F・ケネディ』の伝記作家)は、
映画『トリポリ魂に乾杯』”To the shore of Tolipoli ”の洒落た軍服を見て、
そのあまりのかっこよさに魅せられ、海兵隊に入隊した。
彼が観たのがウォレス・ビーリーがテントサイズの制服を着ようとして
格闘しているこの映画だったら、やめて沿岸警備隊に入隊していただろう」



ウォレス・ビーリー(Wallace Beery)は、1913年のデビュー後、
コメディ映画、歴史映画に出演して悪役、性格俳優として人気を博し、
1930年ごろには世界で最も高給取りといわれるほどでしたが、
おそらくはその人間性のせいでこの映画の頃の人気は低迷していました。

「人間嫌いで周りからも一緒に仕事をしたくないと嫌われており、
彼のことを『Shitty Person』と呼ぶ俳優もいた。
セリフを研究することなく代わりに他の俳優の真似をして、
それを指摘されると逆ギレすることは日常茶飯。

別の俳優がクローズアップになるとき、彼はセリフを間違えて
その俳優の演技を邪魔したりした。
『誰からも嫌われていたが、幸いなことに無視されていた』」


17歳のグロリア・スワンソンと結婚して妊娠中に騙して中絶薬を飲ませ、
3年後に愛想を尽かされて離婚されていますし、
死の間際まで彼の子供だと自称する人との裁判が続いていたそうです。

俳優テッド・ヒーリー(三馬鹿大将の一人)を喧嘩で殴って死なせ、
それをもみ消したという黒い噂もあります、

その他彼をクズ認定する証言は、スタジオセットから小道具を盗む、
子役を執拗につねったり演技の邪魔をして嫌がらせし、怖がらせる、
チップを払わない、サインを求めた子供を罵り、唾を吐きかける・・・。
(それを証言したのはあのSF作家レイ・ブラッドベリ)

彼はその功績から1960年にハリウッドの映画の殿堂入りしましたが、
功労者須く人格者ならずの典型だったようですね。

■ 反日プロパガンダ

そして今回、映画をブログのために何度も観るのはわたしにとって
大変な不快感と苦痛を乗り越えなくてはならなかったことを告白します。

その不細工で観るからに人品骨柄卑しそうなおっさんが、
数分おきに口汚く日本人への人種差別発言を繰り返すのですから。

これが戦時中に制作されたプロパガンダ目的であることを差し置いても、
その表現は下品で何のユーモアもなく、従来の戦争映画ヒーローならば、
脚本家はまず主人公のセリフとして選ぶまいという種類のものです。

どうして海兵隊の宣伝映画にこんな主役を選んだのか、
わたしは海兵隊宣伝部の意図を図りかねますが、
それでも考えてみると、この時期、アメリカはかなり焦っていたんですね。

まず、映画で描かれた日本軍のフィリピン侵攻ですが、ご存知のように
アメリカ軍はダグラス・マッカーサーの失策で負けているわけです。

戦前からアメリカの植民地だったのに、ダバオ、マニラ、
バターン、コレヒドール、ミンダナオとアメリカは次々降伏し、
マッカーサーはアイシャルリターン逃走。

フィリピン戦での兵力の損害は日本側戦死行方不明4,417名に対し、
アメリカ側は約2万5000人が戦死、2万1000人負傷、捕虜8万3631人でした。

というところで、先に説明しておくと、この映画は、真珠湾攻撃に続き、
フィリピンに侵攻してきた日本軍を、この元海兵隊の太ったおじさんが
退役後にもかかわらず、民兵を率いて食い止めて死ぬというストーリーです。

もうおわかりですね。

この映画は、真珠湾、フィリピン陥落に沈む国民を鼓舞するのが目的で、
たとえいっとき負けてもアメリカにはこんな海兵隊魂を持つ人物がいる限り
決してくじけはしない、という強いメッセージが込められているのです。

主人公のベイリーが、劇中なん度も言い放つ「黄色い猿」などの表現に、
この映画は当時ですら米国内から品格の点からの批判があったそうです。

しかし、この種の発言は、おそらく当時のアメリカ人にとって、
閉じた場やその人の「品性」によっては日々聞くものだったでしょうし、
(そして今でさえ、アメリカに住んでいると同種の”声”を見聞きする)
自分は立場上決して口にできない「内心の声」が言い放たれるのは
一定の数の民衆にとってはさぞ快感だったでしょう。

そして、当時の「良識派」が眉を顰めるようなこうした発言も、
クラーク・ゲーブルやケリー・グラントには決して似合いませんが、
このおっさんなら遠慮なく言わせられるし、事実いかにも言いそうです。

ところで数えたわけではありませんが、作品中彼がサルと口にするのは
両手で数えられるほどの回数にのぼります。
しかし、その本人は、彼が唯一頭の上がらなかったおばちゃん喜劇俳優、
マリー・ドレスラーMarie Dressler を調子に乗ってイジり、

「あのヒヒ(baboonからナンセンスな侮辱をされた。
あいつの頭を大皿に乗せて(MGMのトップに)突きつけてやる」

と激怒されたことがあり、この時の彼はこの女優に対し、
イタズラを見つかった小さな子供のように何も言い返さず沈黙したそうです。

人は自分が気にしていることを言ってしまうものだそうですが、
もしかしたら、この耳に余る「猿」も実は・・・?


で、当ブログがなぜ結局そんな映画を取り上げることにしたかですが、
最初に選んだ「Uボート:235」のラストに見られる
「政治的無自覚・無神経」に対する不快さと、この作品の人種差別表現では、
こちらの方が悪意があるだけマシというか、我慢できると判断したからです。

(その詳細については各映画評などでお確かめください)


■ 海兵隊讃歌

それでは始めます。
オープニングから早速流れるのは「海兵隊讃歌」。



地球の隅々に赴き、名誉ある戦いを行ったアメリカ合衆国海兵隊に対し、
文字通り「敬礼」を捧げるところから映画は始まります。


1943年、ここはアメリカサンディエゴの海兵隊基地。



合衆国国旗が掲揚されました。
今日はこれから上陸を模した演習が行われる予定です。



視察をする高官たちがビューポイントに到着するとまず歩兵の上陸。



戦車も舟艇から下ろされます。



水陸両用車が現在のものとほとんど同じ形なのにびっくり。



そして空中からは空挺部隊が落下傘で降下。



成功裡に終わった演習後、司令官が訓示で一人の軍人の紹介を始めました。
それが本作主人公のウィリアム・ベイリー軍曹です。



「諸君と同じ訓練を受け、同じ闘志に燃え、不屈の精神を持った男だった」

そしてここから、彼の物語が始まります。



1940年、フィリピン。
海兵隊勤務29年のベイリー軍曹が新兵訓練を終えて帰隊してきました。


ベイリーは帰ってくると、ボクシングの選手である
フィリピン人部隊のフラッシーと挨拶を交わします。

当時、アメリカ軍は、陸軍の軍事組織としてフィリピン人部隊、
「フィリピン・スカウト」を組織していました。
1901年にはすでに現地で編成された軍として機能を始め、
優秀な人物はウェストポイントに送られて、士官に任官しています。

この駐屯地で曹長はボクシングのマネージャーも兼任していました。



そこに大佐からお呼びがかかり、泥だらけで司令室に飛んでいく曹長。


大佐と共に彼に面会を求めてきたのは、
フィリピン軍の「陸軍長官」でした。

フィリピン師団は全てマッカーサー元帥の指揮下にありましたので、
陸軍長官という役職名が正しいかどうかはわかりません。
アメリカ陸軍隷下の軍組織を総称して「陸軍」と言ったのかもしれません。

長官の用事というのは「フィリピン独立法」によって間近にせまった独立後、
国防を強化するために、市民を軍事訓練してほしいという依頼でした。


映画ですから仕方ありませんが、この依頼がそもそも少し変です。

アメリカは前述の通りフィリピン・スカウトなる軍隊を組織し、
支援してきたわけですから、今更海兵隊に一部の市民を軍事訓練せずとも、
と思いますし、そもそも自警団みたいなのって普通にあったんじゃないの?

フィリピンはただアメリカ軍に守られているだけで
独立後はただ脆弱なもの、という印象を観るものに与えますが、
独立しても映画で言っているように海兵隊がいなくなるなんてことないよね?

現にアメリカは1946年のフィリピン独立後も軍の駐留を継続し、
東南アジア全域での軍事プレゼンスを維持し続けるために
軍事基地協定で99年間の基地提供を約束させています。

フィリピンはその99年が過ぎたとき、協定を破棄し、
アメリカ軍はフィリピンに軍隊を派遣できないとしましたが、
その辺に言及していると話が長くなるので割愛します。



ベイリー軍曹は、これまで新兵の訓練を専門にやってきたそうですが、
今回自分が訓練するのがフィリピンの一般人と聞いて激おこ。

「フィリピン人は小さすぎて(Little fellers)戦闘なんかできませんよ」

いやいや、だからフィリピンスカウトの立場は?
しかもこのメイソン少佐までが、

「神は彼らに良い心を与えたが体には気を配らなかった」

だから当時すでにフィリピンスカウトは米軍の一部として連隊に編成され、
4つの歩兵連隊、2つの野戦砲兵連隊、騎兵連隊、
沿岸砲兵連隊を組織し、支援部隊もすでにあったんですってば。

まあその辺は映画だからどうでもよろしい。

ここでベイリー軍曹は、彼の本音をぶちまけます。
彼はもうすぐ海兵隊を退役するのですが、新兵教育ばかりさせられて、
彼らが戦場に赴くのをただ見送るだけ、ついには全くの勲章もなく、
扁平足と大声になっただけで終わるのが口惜しいのです。

というわけで、

「今訓練している第一大隊を戦地で率いさせてください!」



いや、それは・・・無理だよね。指揮系統的にも。
だいたい、曹長が自分の配属を司令官に願い出るなんてありえなす。
少佐は目を泳がせながら、

「・・それではわたしが任務を命じられたら君も一緒に」


■ 民間兵訓練



命令は命令なので、ベイリー軍曹、スービックで早速訓練開始。

しかしフィリピン人、行進もできなければ命令も聞きゃしねえ。
そもそも軍隊が何かさえも全く理解していないわけです。

そのくせ自己主張だけは皆一人前。



「銃剣なんかより俺たちのナタの方がよっぽどいい」

「何?試してやる・・・おお、確かに悪くないな」



こちら若いアンダーソン伍長が銃の扱い方を説明しています。
どうせ一回言ったくらいではわからず、結局手取り足取り時間をかけて、
と思うとうんざりしているのか、やる気なし。

「左手でラッチ、右手で開いて左手でエキストラクタ、
左で照準を合わせて右手でボルトを閉じ、
左手で引き金を引き弾倉確認!わかったか」


むっちゃ早口。
皆うんうんうんと頷きますが、伍長、ため息をついて

「どうせこいつを扱えるようになるまで長くかかるがな。なが〜〜く」

ふう、とタバコを吸うために銃前を離れた途端、



左右左左右左、と皆で確認するなりマシンガン発射。



というか乱射。

なんか映画「二世部隊」の訓練シーンを思い出してしまいました。
教官がすっかり馬鹿にしていた日系人たちは実は一枚も二枚も上手で、
上手に訓練をサボったり、背負い投げで逆に教官を投げ飛ばしたりっていう。

アメリカ人って、一般的に英語を喋らない&上手ではない人たちを
頭から自分より劣っている、と思い込む傾向にありますよね。

ちなみに2022年度の平均知能指数で言うと、上位6位まで全部アジアの国
(一位から日本、韓国、中国、イラン、シンガポール、モンゴル、
アメリカは17位)であることは世界的に周知の事実。
あくまでも「平均値」ということになるわけですが。



そして何週間かの訓練後、何とかフィリピン人部隊はサマになってきました。



そのとき、訓練してきた第一大隊が中国に移動するという噂を聞きつけ、
ベイリー軍曹、大急ぎで隊舎に駆けつけました。

夜だと言うのに兵隊の解けた靴紐や錆びた刀などの粗探しをして
延々と気持ちよくお説教、自分が隊を率いるつもり満々ですが・・。



そんな軍曹を見かねて?急遽大佐が呼びつけました。
いつになく葉巻を勧められ、喜んで吸っていたら、

「君をスービックに送ったのは家族に会わせるためだったんだ」

そして、



「私は中国行きの船には乗らない。君もだ」

「冗談ですよね?」

「冗談ではない。指揮官はバーンズ中佐だ」

これはもちろん「自分ではなく」と言う意味です。

「バーンズ?まだ青二才じゃないですか」

Lieutenant colonel」って中佐で間違いないよね?
中佐が青二才って・・・まあ退役寸前の軍曹と比べれば若いですが。

「そこを何とか!
勲章をもらえるかもしれない最後のチャンスなんです!」

普通軍曹が司令官にこんな口聞けないと思うのですが厚かましいやつだな。
もちろん大佐はそれを拒否し命令に従うようにと軍曹に厳しく命じます。

■ 収監



第一大隊の出航は夜になりました。
酔客で賑わう繁華街を通って港まで行進が行われ、
市民がそれを手を振って見送ります。



鳴り響く海兵隊讃歌を酒場のテーブルで不貞腐れながら聞くベイリー。

「海兵隊はトリポリにも行ったしあらゆる戦場に行った。
でもこのビル・ベイリーは、海兵隊史上、

一度も戦場に行ったことがない唯一の海兵隊員だああ」



酔っ払いの戯言を同じ酒場にいたセイラーが揶揄ったところ、さあ大変。
キレたベイリーが一人を殴り飛ばし、そこから大乱闘が起こってしまいます。



ボクシングの選手であるフラッシーも加勢して・・・これはダメだよね。
彼らは、帽子からマーチャント・マリーンの水夫であるとわかります。


MPが到着した時にはすでにこの有様。


フラッシーと仲良く収監されることになりました。



そのとき自分を捕まえた憲兵がやってきました。
片目にアザを作った憲兵は陽気に、

「ピーカブー、ハンサム!」

「無理に笑わせなくていいぞ、あんたエリザベス・アーデンの化粧部員か」

この部分、字幕で企業名が省略されていたので、ちゃんと翻訳しておきました。
ピーカブーは「いないいないばあ」のことです。

「俺の罪状は?」

「たいしたことないさ。
器物破損、憲兵への威力業務妨害と13人の船乗りへの暴力行為」

「なあ、大佐にはこの件黙っててくれないか」

「だめだ。そんな目で見るな。飼ってた犬を思い出す」

「ちっ・・・何の用だ」

「面会だ」



美人の奥さんジェニーはこんなところで会うなんてとプンスカ。
全く父に似ていない娘ヘレンは一生懸命父をかばいます。

妻ジェニーは夫が海兵隊にいるのが嫌。
というか、軍隊そのものが嫌いな平和主義者で、彼と結婚して以来、
彼がずっと戦地に行かないように「祈って」いたと公言するほどです。

現在も平和運動に身を投じる根っからのリベラル無抵抗主義なのですが、
それならどうして海兵隊で煮染めたようなこの男と結婚し、
何十年間も一緒にやってこれたのか・・・夫婦ってわからないものです。

「第一大隊のニュースを聞いた時から祈ってたわ。
あなたが一緒に行きませんようにって」

「ひどいぞ・・・でも決めた。退役する。
こんなことをしたらどうせクビだ。
君はもう海兵隊員の妻ではなくなるんだ」



娘のヘレンはその足で大佐の部屋に押しかけました。

「ヘレン!」「ジョンおじさん」

なんと、この二人が叔父姪の関係であるってことは、
ベイリー軍曹の嫁というのはこの大佐の妹ってことなんですね?
(大佐はベイリーと同じ歳なので)
どうりでベイリーが軍曹の分際で大佐に妙になれなれしいわけだ。

しかしいや・・・・これも実際はあり得ませんよ。

アメリカというのは、特にこの頃のアメリカは完全な階級社会で、
経済的背景が異なる人々の間には厳然とした階級差が横たわっていました。

特に軍隊では、ある時期まで将校のほとんどは上流階級や、
裕福な家庭の出身者でなければならず、
(ドイツで士官に貴族が多かったのも同じ理由)
下士官や下士官の子供が将校と個人的関係を持つのもほとんど不可能でした。

つまり、ジェニーの兄がアナポリス出身の海兵隊士官である時点で、
最初から彼女と下士官のベイリーとは接点すらなかったはずだし、
万が一何かのご縁で出会ってお互い好ましく思ったとしても、結婚となると
互いの家庭から反対されて諦めるか駆け落ちするしかなかったでしょう。

なんなら、現在のアメリカ軍でも、士官、下士官、兵の間に、
特に彼らの子供たちの間には軍務以外での接触はまずないはずです。
(在日米軍内の子供のための幼稚園学校のことまでは知りませんが)

ですから、いかにも将校の娘然としたこの美人のヘレンが
実は軍曹(しかも見るからに叩き上げ)の娘で、なぜかその叔父が大佐、
という設定には、当時のアメリカ人も首を傾げていたことでしょう。


それはともかく、ヘレンがここにきた理由は、父親が喧嘩で収監されたので
彼が不名誉除隊にならないようにという叔父へのお願いでした。

美人の姪に大佐も目尻を下げて応対していますが、つまり、
娘が地位のある叔父を利用して父の不始末を揉み消そうとしてるって図よね。

父が父なら娘も娘。
これ、厚かましいどころか、とんでもなくない?


そこにルーファス・クリーブランド、ランドール・ジェイムズという
海兵隊士官二人が「ミス・ベイリー」が来たと聞いて飛び込んできます。

この娘、自分に夢中の二人を手玉に取っていて、
どっちにもいい顔をしてここまで引っ張ってきたようですが、これもまた
従来ではあり得ない士官と下士官の娘との取り合わせ(しかもダブル)。

またこのヘレンという女、天性のやり手とでもいうのか、
二人の士官が飛び込んできて大佐が不機嫌になるや、

「あら、あたし、ジョンおじさんに会いにきたのよ〜」

と叔父の腰に手をまわし身体を押し付けるというあざとさ。
こういうのを清楚系●ッチっていうんでしょうか。


そして「ボーイズ」を両脇に抱き抱えて外を闊歩します。
上陸隊とパイロットの二人は互いを貶しながら牽制し合いますが、
彼女はどちらを選ぶとは決して言明しません。

「どっちか選んで」



と二人に迫られてはぐらかすのもお手のもの。
これは根っからの魔性の女だわ。


■ 軍曹の退役



ベイリー軍曹は無事に退役の日を迎えました。
大佐の力が及んだのかどうか、不名誉除隊などではなく、普通に退役です。

しかし、早口で感謝状を読み上げられて終わりといった形式的な流れに、
ベイリーはわずかに不満の様子を見せます。



ベイリー軍曹のために、軍隊は行進を始めました。

この敬礼シーンでも、俳優が全く軍人らしくないのがわかってしまいますね。
敬礼も下手だし、こんなだらしない立ち姿のベテランがいるかあ!


航空士官のクリーブランドは、恋敵がヘレンのそばにいるのが邪魔で、
ジェイムズになぜ陸なのにあっちで行進しないんだと文句を言いますが、
ジェイムズは涼しい顔で「俺はご家族と親しいから免除さ」



そして彼の30年にわたる海兵隊生活は終わりを迎えた・・・に思えました。


そしてヘレンの運転する車がバリガン川の橋にさしかかったとき、
そこでは彼の鍛えた民兵たちが捧げ銃で退官した彼を迎えました。



本来ならこの見送りに一緒に感激するであろう妻ですが、
何しろこの妻、一刻も早く夫に「足を洗わせたかった」人なので、
まるでまだ現役であるかのようなこの見送りに機嫌を損ねるという有様。


村に着くと、地域の人々(もちろん全員白人)が集まって、
「ハッピーバースデイ」の替え歌で出迎える熱烈歓迎ぶり。


この人々、妻の所属する平和運動サークル?なので、
彼に向かって軍隊不要論をやんわりと説いてくるのでした。
中には軍と軍需産業との癒着を糾弾し始める過激なご婦人もいます。


このサークルにはラジオ局を運営しているという高学歴の日系人もいました。
(ハリントン・ヒラタと紹介されているが字幕には出ない)
コーネル大学で電子工学の学位を取ったという彼に、ベイリーは

「アメリカで賢くなったってわけですか、外国人なのによくやるね」

と精一杯馬鹿にして見せますが、彼から

「多くを学びましたよ。アメリカ人の多くはとても賢いですからね」

と皮肉混じりに返されております。



ともすればそういうリベラルな雰囲気にイライラするベイリーに、夫人は
子供をあやすようにあなたはもう退役したのよと言い聞かせるのでした。


そしてベイリーのリタイア生活が始まりました。
居間のカウチでガウンを着てパイプを燻らせる退役後の夫。
夫人は長年夢見ていたそんな光景に幸せいっぱいで、うっとりと、

「あなた・・・新婚旅行の時のことを覚えてる?」

「忘れようったって忘れられないさ・・・(急に思い出し)
あのときは3ドルの部屋なのに5ドルも取られたんだ!」

「もう、なんて人なの!」

怒って夫人が行ってしまったのをいいことに、
パイプに詰める葉を直接口に放り込んで、ついでに
なんだか窮屈なガウンも脱ぎ捨ててしまいました。

パイプより噛みタバコが性に合ってる根っからの兵隊ってわけですね。
しかし噛みタバコは吐き捨てないといけないわけで。



吐き捨てる場所を探してうろうろしているうちに妻が戻ってきました。
手にはマットレスの下に隠したはずの海兵隊の制服を持っています。
処分しろと言われたのに、捨てずにいたのを見つかってしまったのでした。

ベイリーはあわてて口の中の噛みタバコを飲み込み(えええ〜)、

「は、ハロウィーン用に・・・」

と言い訳を。

「わたしを騙してたのね!」

「いや、せめて死ぬ時には身につけたくて・・・。
だって普通の服を着ていたら天使には俺だとわからないだろ?」

「大丈夫よ。わたしからガブリエル(大天使)に話しておくから」


ジェニーは軍服をどこかに持って行ってしまいました。



「しょせん女には男が軍服に抱くロマンがわからんか」

「わたしにはわかるわ」

しかし、そのとき、飲み込んだタバコの葉のせいで、
ベイリーは急いでトイレに駆け込むはめになりました。

余談ですが、もし葉巻の葉を飲み込んでしまった場合、14%が
急性ニコチン中毒で彼のように吐き気を催し嘔吐するといわれています。

これが原因で死亡にまで至ることはたぶんありませんが、まともな人間なら
どんなことがあってもタバコの葉など飲み込もうとは思わないものです。



続く。