ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

江田島を去るとき

2011-02-28 | 海軍

エリス中尉IN江田島海軍兵学校シリーズの第三回です。
いつまでやるつもりやねん。
と、かすかにうんざりされた方、もうそろそろネタもなくなってくるだろうと思いきや。
まだまだ参ります。覚悟して付き合われよ。


画像は、ご存知教育参考館。
向こうに見えているのはアメリカに捕獲されてのち帰ってきた特殊潜航艇です。

ここは東郷元帥の遺髪を始め、兵学校出身者の遺品などを展示しており、
勿論兵学校時代から生徒が礼拝していた「聖堂」ともいえる場所です。
昔は皆靴を脱いで階段を上がっていましたが、今は赤い絨毯が敷かれ、
訪れる見学者はまず階段を上って遺髪を収めた部分と対面、それから回廊のように続く展示を見て回ります。

当然なのですが・・・彼らがその昔遺品と対面し、自らも国家にに命を預けることを誓ったその場所には、
その後自分たちの遺品が、そして特攻死した全員の氏名が刻まれて水が供えられた壁が、
戦後新たに加えられました。
このように自分の名が死後ここに刻まれることを、若い純真なかれらは夢見たのでしょうか。

飯田大尉の靴。六十期学生の寄せ書き。松尾大尉の手袋。遺書。軍帽。短剣。
そしてなぜか特殊潜航艇内に残されていた小さな小さなキューピーの人形・・。


まだ幼さのかすかに残るその頬に、微笑みすら浮かべながら死して護国の鬼となっていった彼らの魂の平安を、
わたしは彼らの母親の気持ちになって祈らずにはいられませんでした。

 


教育参考館をもって見学コースは終わります。
わたしが一つ一つの遺品に見いって外に出たときには、ツアーの人たちはもう一人もいず、
案内のおじさんは「時間だから」と迎えに来ていました。

ここはやはり特殊な場所なので、ツアーのコース以外に入りこんだり、勝手に海に出たり、
グラウンドの土(あ、その手があったか)や桜の枝を持って帰ったりしないように、
ツアーガイドはちゃんと最後まで見届けなくてはいけないようです。

しかしツアー後は入口近くのレストランや売店、コンビニ、さらに自衛官の制服を扱っているお店など、
そのあたりなら何時間いても大丈夫です。
ここで売られている自衛官の服、特に黒のセーターなど、普段にも着られそうで、ちょっと欲しかったんですが、
「自衛官専用ですのでご理解ください」
つまり、一般には売れないってことね。

でもせっかくなので一般人が買えるグッズの中から、桜に錨のペンダントと携帯ストラップを発見。
記念に何か欲しかったので、どちらも購入。

そしてお腹がすいたという息子とお待ちかね、敷地内のレストランに行きました。
お昼にはそれこそ売るほどの士官候補生の皆さんがよりどりみどりで?ご飯を食べているのでしょうが、
もうこんな時間だったので、さすがに誰もいません。
ここでいただいたのが海軍カレーと、ラーメン、フライドポテト。
息子は私が頼んだカレーが気にいって、ほとんど食べてしまいました。さすが美味しかったですよ。

カレーといえば以前「金曜日はカレー曜日・・・・なのか?」と書いたところ、
「そんなことは常識です」というコメントをいただきました。

そうですね。漫画「ジパング」では最初の頃のシーンで護衛艦「みらい」のみんなもカレー食べてました。
しかし、その理由については初耳だったのですが、
「フネのなかで過ごすものには、この日は金曜日、とはっきりわかる『カレー曜日』は、
生活にリズムをつけるため必要だから」ということで、思わずなるほどねえ、と納得。
月月火水木金金な毎日にカレーで区切りをつけるわけですね。

その後、お土産ショップに突撃。
「たくさん買ってくれたから」と、紙袋をサービスでいただいてしまうくらい、それこそ山のように買い込んで、
桜に錨マークのエコバッグに詰め込み、江田島を後にしたのでございます。 



それにしてもこんなに買い込んで、そもそも誰も甘いもの、特にアンコものに手をつけない我が家で、
江田島羊羹二本も買い込んで、いったいどうやって消費するつもりなのだろうか。
もしかしたら、わたしはブログにアップするためだけにこういうものを買い込んだのではないだろうか。
これをホテルのベッドに並べているとき、ふと冷静になってこのように自問してみました。
(それにしても、兵学校のカレーって名前、そそりません?たまには混ぜ召しライスカレー、っていうあれですね)

と言うことなので、これからしばらくの間に、エリス中尉と面談の予定のはいっている方、
羊羹やらせんべいを押しつけられる覚悟で来てくださいね。

名残惜しくも、帰る時間が来てしまい、バス停まで戻ると、そこには・・・・
                     (T_T)
    


いや、別に泣かなくたっていいんですが、兵学校見学して、時おり遭遇する未来の士官の姿なんか見て、
感銘を受けつつバスに乗ろうとしたら「君が創る!!」と熱く誘われて、思わずふらふらと電話をしてしまう、
などというパターンを想定してのことですね。
これで、かつて何人か応募があったのでしょうか。
一応、こんな電話番号もありますよ、とここでも掲載しておきますね。
どこで番号をお知りになりましたか?ってアンケートには、ぜひ、このブログの名前を答えてね。

と、相変わらず真面目なんだかふまじめなんだか分からない潜入記ですが、こうやって茶化さなくては
とてももたないくらい、もうずっとそこにいることで身体がしびれるような、胸が潰されそうな、
わあっと叫び出したいような、何とも言えない気持ちに苛まれっぱなしだったのです。

階段の踊り場に、桜の木の下に、グラウンドの光の中に、そして生徒館の窓辺に、
写真でしか知らない、兵学校のころの彼らの姿がありありと見え、歓声や笑い声が聞こえるような気がして。


そんな思いを胸にしたままついに江田島を後にして振り返ると、フェリーの船尾からそこはこんな風に見えました。
               

 

 

 

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給糧艦「間宮」

2011-02-27 | 海軍



いつも気の毒ないかつい水兵さんの帽子ですが、ペンネントに書いてある文字が正確ではありません。
1943年から水兵帽に「大日本帝国海軍」と書いたものが支給され、
例えば「男たちの大和」にでてきた水兵たちは皆このタイプをかぶっていますが、それまでは
「軍海國帝本日大」と、たとえば
「島霧艦軍本日大」「隊逐駆七第本日大」「校学術砲軍海」と言った具合に、
所属が印字されたものが二種類貸与されました。
ですのでこの場合は正しくは「宮間艦軍本日大」です。
が、あえて説明のために特務艦をつけてみました。わかりやすいですね。

決して、画像を描いてから、本当はどうだったのか調べて間違いに気付き「しまったああ」と思ったものの、
描き直すのが面倒なのでわざとそうしたことにしているわけではありません。

(と、書いて半年。
ある日、「間宮」は軍艦ではないことに気付いてしまいました。
だから、「大日本帝國海軍」以外のバージョンは、「特務艦間宮」で正しいのかもしれません。
しかし、特務艦のペンネントの資料が無いので、断言はしません。
もしそうなら、面倒で描き直さなかったのが功を奏したということでしょうか?)


さて、前置きが長くなりましたが、間宮という艦船(ふね)をご存知でしょうか。
帝国海軍の「給糧艦」(きゅうりょうかん)です。

給糧艦とは、食料貯蔵設備を持ち平時には艦隊への補給をする「賄い配給係」のフネでした。
当時帝国海軍唯一の給糧艦が間宮だったのです。
戦時には、戦地に食糧を補給する役目をも担っていました。

フネは女性に喩えられますが、間宮はまさに「お母さん」だったのです。

大和は3000人が乗船していましたから、それなりに食糧を貯蔵し、
「海軍おやつ」の日に少し話したように、アイスクリームを作ることもできるくらい
食料に関しては充実した設備を持っていましたが、やはりそれは本業ではありません。



間宮の艦内には冷蔵庫や冷凍庫のスペースが多く、
肉、魚、野菜など1万8千人の三週間分の食料を貯蔵できたということです。
アイスクリームはもちろんのこと、最中、饅頭などの嗜好品からこんにゃく、豆腐などの日本固有の食品まで
多くの加工食品が製造でき、そのために専門の職人が軍属として働いていました。


本艦が入港すると新鮮な食料が各艦に補給され、あるいは士官将官の「クラス会」「宴会」も
艦内で行うことができたので、勿論のこと人気のフネでした。


そういうフネですから、水もふんだんに使えました。
艦船における水の使用量の厳しさは、洗濯や入浴さえ碌にさせてもらえないのが普通なので、
間宮の乗員はそれだけでも羨ましがられたことでしょう。

そして!当然のことながら、食べ物を運ぶフネ、まるで米櫃に住んでいるねずみのようなものです。
ギンバイもここのは肉を取ってきてこっそり焼いたり(匂いでばれないのか?)と
下士官以下役得を思いっきりエンジョイしていたようです。


しかし、給糧艦といえど敵に狙われないわけではなく、というか、
給糧艦と分かればさらに狙われることになったのでしょう。
その損失は食糧補給の生命線を断つことであり、おまけに相手は軍備もほとんど無いので
ろくに反撃もしてこないからです。

1943年(昭和18年)10月、父島沖でアメリカ潜水艦「セロ」(SS-225)
翌年5月には東シナ海でアメリカ潜水艦「スピアフィッシュ」 (SS-190) の雷撃を受け損傷しています。

給糧艦がたった一隻、というのはさすがにまずいと思った海軍は、1941年、
伊良湖という給糧艦を開戦直前に建造します。

伊良湖はおもにルオット、トラックへの補給を行いますが、1944年9月に艦載機の攻撃により大破着底。
わずか3年の寿命でした。

間宮もその三カ月後の昭和19年12月20日、サイゴンからマニラ方面へ糧食輸送に従事中に
海南島東方の南シナ海でアメリカ潜水艦「シーライオン」 (SS-315) の雷撃を受けて戦没しました。


ところでこの間宮はもう一つの顔を持っていました。


艦内のスペースに余裕があったので、そこに最新式の受信機や測波機を装備しており、
艦隊同士の通信状況、規定を守っているかとか、周波数を守っているかとかをチェックする、
お目付というか、お耳付け役だったのです。
お母さんは、子供たちの電話やメールに行きすぎがないように目を光らせなくてはいけないものなのです。

「マアウレシイ ハナコ」

以前書いたこの話がこの通信軍紀にふれなかったのか、
それともそのとき艦隊に間宮がいなかっただけなのか、
手旗だけは間宮の管轄外なので皆やりたい放題だったのかは知りませんが、ともかく、
あまりフザけたことをやっていると、いかに海軍といえども怖い間宮に注意されてしまうのだそうです。

その方法は電報で注意、あるいは印刷物にして配布。
これが来ると、当然下への罰直、あるいは上陸止めなどのお仕置きが待っているというわけです。


給糧艦で、ギンバイをやりたい放題、俺たちろくに風呂も入れなくて洗濯もできなくて
お互いの匂いにうんざりしてるってのに、あいつらは洗濯もできるし
おまけに、ちょっとしたミスやらなんやらを通信不良と抜かして説教してきやがる。

これは・・・嫌われますわなあ。



ということで、間宮の、特に若い通信兵は、気を付けないと
上陸地でうっかり通信不良として通達をしたフネの電信の下士官あたりに
やつあたりの「けんつくを喰わされる」危険があったそうです。
(本日画像)





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「女人禁制の兵学校に・・・」

2011-02-26 | 海軍

「エリス中尉IN江田島海軍兵学校」、続編です。
前回は主に建物を中心にお送りしましたが、今日は細部と参りましょう。

画像は、煉瓦の生徒館を横ウイングから覗き込んだところにある「ハットラック」。
いくつか色の明るい、後になって追加されたものがありますが、手前のを始め色の黒々としたものは
当時から使われていたものです。
そして、実際に今軍帽が架けられているのがお分かりでしょうか。ハットラックも現役です。

ここで実際に学んでいる士官候補生たちは、いやでも毎日このような海軍の歴史に身をもって触れながら
「海軍精神」を身体に沁み込ませていくというわけです。

また後日海上自衛隊の成立についてお話しするつもりですが、旧軍の伝統を最も色濃く、というか、
そのまま受け継いでいると言われる海上自衛隊には、発足当初、終戦時現役だった海軍士官がそのまま
教官として教鞭を取り、そのネイビースピリットを叩きこみました。

「海軍では・・・・」

彼らの指導には二言目にはこのセリフが入ったと言います。
勿論この「海軍では」に反発を覚える候補生や若手士官もいたようですが、そういった話はまた別の日に。

この校舎に備え付ける設備には、いたるところに「海軍特別仕様」の印が見られます。



例えばこの照明器具。
これは皆の入学、卒業を見守ってきた大講堂の天井のものです。
一目みれば分かりますが、艦の舵輪を模していますね。
海軍兵学校のものであるということで、このように意匠をこらしたデザイナーがいたということです。
これは、生徒館の冒頭ハットラック手前にある階段下のもの。
当初、こういった機器類にはさほどこだわっていなかったらしい兵学校も、
世界の三大兵学校のうちの一つとして、いろんな国から訪問を受けるようになると、
「これではいかん、と細部にも凝りだします」
(解説のおじさんのいっていたことを一部脚色してお送りしています)
これも、錨のマークがついています。
行燈のような形で、和風ですが、モダンでもあります。こういうの売ってないかな。
   

そして「階段」。
兵学校のことを語っているもので「階段」に触れていないものはない、という階段。
いろんな修正や、ドラマが?あり、生徒の血と汗と涙を吸いこんできた階段です。

二段ずつ駆け上がり、踊り場では「直角に向きを変え」なくてはいけません。
背中や指先が丸まっているのも勿論ダメ。
そして、一号生徒は、階段の下でなく、上で見張っているのです。
一旦停止ゾーンで、手前で見張っていれば皆違反をしないと分かっていながら
あえて見えないところで見張って、わざわざ違反をさせてから切符を切る警察のパトカー
(あれは姑息ですよね)みたいなものでしょうか。

上級生に咎められれば、何度も下まで降りて「階段の上り直し」。
井上校長などは眉をひそめて
「何でもかんでも規則を作って自分たちで息苦しくさせすぎだ。階段の上り下りにまで」
と嘆いたそうです。


今でこそ女性自衛官が学び、こうやって女性であっても潜入して見学することができますが、
当時はもちろんのこと、女人禁制。
要らぬ煩悩と雑念を振り払い、海軍軍人としての基礎を学ぶために、厳しくそれは律され、
例えば休暇の際でも「悪所」に足を踏み入れたと分かれば即放校。
このとき校長が説明するために使った、
「止むにやまれぬ衝動にかられ」という言葉は当時の生徒の流行り言葉になったそうです。

・・・と言うくらいの純粋培養の地、海軍兵学校。

毎日厳しい訓練で校内にこだまする号令。
そして背筋を伸ばし、指先を伸ばし、常にきりっとした表情で歩かなければならなかったその敷地では、
松の木でさえも背筋を伸ばし、松なのに皆まっすぐ空に向かって伸びているのです。
それだけでも不思議なことだと思うのですが、
このまっすぐな松の中に、一本、種類の違う松があります。

号令台の右のアカマツがそうです。
まっすぐに生えている松はクロマツで、つまりここの植林した植木屋が種類を間違えて、よりによって
台の後ろに「女の松」を植えてしまったのです。

業者は驚き慌てて植え替えを申し出ましたが、さすがシャレの分かる粋な海軍さん、
学校側は「まア、折角育っているんだからいいぢゃないか」と不問にし、今でも紅一点のアカマツ嬢は、
それでもきりっと背筋を伸ばしたクロマツに囲まれて、その種類にしては不思議なくらい
まっすぐに伸びているのです。

この松を見て、ある生徒の詠める

「女人禁制の兵学校に誰が植えたか姫小松」

 

まだまだ(!)続きます。

 

 

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嶋田大将の最後の戦い その2

2011-02-25 | 海軍

嶋田大将は、この裁判において共同謀議、対米、対中、対英、対蘭全ての訴追に対し有罪で、
当初から極刑になるのは間違いないと言われていました。

開戦に至るまで、単純に言うと暴走する陸軍に拮抗する意味での海軍の存在は、
政治への干渉を良しとしない「沈黙の海軍」としての立場が逆手に取られたとも言え、
平時は美徳であったこれらの体質が、陸軍の暴走が始まったとき、歯止めになり得ませんでした。

嶋田海相は海軍の不戦論を資源調達のため撤回し、東条陸将の陸軍に
「(東條陸将の)嶋田副官」とか「東條のの男妾」とまで言われるほどの協調をみせ、
開戦に同意したということになっています。
 
つまりこの裁判における訴追原因の1、「共同謀議」です。

しかしながら実態は当時の日本上層部に、訴追側のいうように「世界侵略を共謀した」
と言えるほどの意見の統一があったのでしょうか。
良くも悪くも日本はドイツやイタリアのように独裁政権ではなかったのです。

ナチと一緒に挙国一致。超党派的に侵略計画を立てたという。
そんなことはない。
軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ南だと国内はガタガタで、
おかげでロクな計画もできず戦争になってしまった。
それを「共同謀議」などとはお恥ずかしいかぎりである。



この賀屋興宣元大蔵大臣の証言が、そもそも戦犯として国家指導者を裁くことの矛盾を物語っています。


さて、この軍事裁判には、開戦時軍令部総長で、真珠湾攻撃の最高責任者であった永野修身海軍大将も
いわゆるA級戦犯として出廷しています。


居眠りの名人と言われ、「目から出血するほど」眠ったという永野元帥が審判の最中獄中で病死して以降、
嶋田大将は、海軍の名誉は自分の発言に、さらに言えば自分の一人の双肩にかかっているということを
強く感じていたもののようです。


真珠湾攻撃の通告が一時間前の予定であった(が事後通告になってしまった)ことについての
真偽を問う個人反証段階で、この嶋田大将と当時の外相であった東郷茂徳が
法廷で激しくぶつかり合いました。

この東郷被告の供述書は軍人はもとより文官被告の間でさえ
「自分の立場だけを主張し過ぎ」として眉を顰める者さえいました。
鈴木企画院総裁のごときは
「自己の責任を他人に転化するの心事、実に劣等なり。
彼は元来朝鮮人の帰化人の種とて・・・」
と、口をきわめて東郷をこき下ろしています。


まず、奇襲を最初から予定していたのではないかという検事の質問に対し、
嶋田大将はこのように強く述べています。

「帝国海軍は伝統として国際法を順守することを日露戦争以来の誇りとしております。
我々は国際法を破って敵の裏をかくようなケチな考えは毛頭持たない。
永野、伊藤(軍令部総長)はもとより、その他の誰からも、海軍の誰からも、
そんな汚い考え方を持ったのを聞いたことがありません」

これに対して東郷は
「海軍は真珠湾を最初から奇襲しようとしていた、
自分の責任を逃れるつもりはないが、効果をあげるためにぎりぎりまで日米交渉を続けることを要求され、
しかも、永野、嶋田の両人が裁判開廷中奇襲について口外するなと脅迫をした」
と証言しました。
これを聞いたときの嶋田大将の怒りはすさまじいものでした。

「私どもは奇襲を口外するなと言ったことはなく、
間違った点を正すという意味で注意したのであって、
脅迫などというバカげたことを言い出すのは
よほど彼自身にやましい点があるからでしょう」


ここで、嶋田大将、海軍ならではの皮肉を繰り出します。
東郷は自分が助からんがために法廷で虚偽の申し立てをしたのか、という検察の問いに答えて
「彼は、外交的手段、つまりイカが墨を吐いて逃げる手段を使ったのです」


嶋田大将は東郷元外相の「脅迫」発言の後、しばらくこれについて熟慮するようでしたが、
ことは海軍の名誉にかかわることと判断し、個人反証終了後になって特別に発言を求めたということです。

個人弁護といえば、冒頭にも書いたとおり嶋田大将の極刑は、早い段階から東條英機と並んで
想像されていました。
訴追原因も最初から一つも除外されませんでした。
しかし各国判事による投票結果は5対6。
わずか一票差です。

死刑賛成国は英、中、フィリピン、ニュージーランド、オランダ。
反対国は米、カナダ、オーストリア、ソ連、フランス、インド。
このうち豪、ソ、仏、印4カ国は全員に死刑反対を唱えていたので、
アメリカの死刑反対が彼の運命を決したということです。
真珠湾攻撃が奇襲でなかった、と嶋田大将が表明したこととこの結果は無関係でしょうか。


東條のように最初から結果が決まっていた被告は別として、
裁判の流れによって命を「拾った」被告もいました。
それが嶋田大将で、嶋田大将が極刑を逃れた原因の一つが、
反証段階のこの対東郷を含む弁論の論理の明快さにあったからと言われています。


その供述は裁判長のウェッブ卿を感心させ、それを人づてに聞いた嶋田大将は
嬉しかったと素直に語っています。


海軍内で「ズべ」(ズべる、というのは海軍隠語で「サボる」と同意)とあだ名され、
形式主義者で、情報収集力に問題アリと、なにかと人物評価の低い嶋田大将ですが、
よく言えば質素で生真面目、悪く言うと融通の利かない面白みの無さのせいでしょうか。

この裁判での大将を見ていると、勲章を付けた肖像写真の頃よりすっきりとスマートで、
どうやら背広も超一流の仕立てであるらしく、軍服の陸軍グループより文官に近い雰囲気を放っています。
阿川弘之の「井上成美」に

「海相兼軍令部総長時代、海軍兵学校の生徒に訓示をする機会があって、
参謀飾緒なしで海相訓示をした後いったん引っ込んで、
参謀飾緒を付けて出直してきて軍令部総長訓示を行なった」
というものがあり、これが大将の形式主義を表わすエピソードとなっています。

なんだか「お洒落」とか「お茶目」とか「TPO」なんて言葉が浮かんできて微笑ましい気がするんですが。
こういうヒト、個人的には嫌いじゃないんですが、ダメですかね。


祖国の戦争突入のときに海軍大臣でそれを決断する立場にあったというのは、
この頭抜けた人望を持つともいえない大将にとって、
ある意味星の巡りあわせの悪さ以外の何物でもない、という不運を感じます。

さればこそ嶋田大将にとって、東京裁判で「帝国海軍の名誉」のために証言した、というのは
まだしも海軍軍人として以て瞑すべしというものだったのかもしれません。
真珠湾攻撃の通告の遅れが大使館の不手際によるもので、それが意図した奇襲ではなかったことが
この裁判を通じて証明されることになったからです。



大将は、海軍軍人として、自分の生命と海軍の名誉をどちらも守る最後の戦いに、
つまり勝利したのだと言ってもいいのではないでしょうか。





参考:東京裁判 児島譲 中公新書
   秘録 東京裁判 清瀬一郎 中公文庫
   井上成美 阿川弘之 講談社











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エリス中尉IN江田島海軍兵学校 

2011-02-24 | 海軍

前回のあらすじ:結婚記念日に連れ合いとは全く別行動でにここ約一年にわたる憧憬と渇望の終着駅、
海軍兵学校に潜入を果たしたエリス中尉。
はたして、その聖地でエリス中尉は何を見るのか。


というわけで、兵学校にやってまいりました。
どこで降りるかは制服の自衛官に続いて降り、後をついていけばよし、ということで、
バス停から徒歩2分、そこはすでに海軍兵学校。高鳴る胸。

ああ・・・・あのままだ。

実にすごいと思うのですが、写真の講堂といい、赤煉瓦の建物といい、100年は経っているはずなのに
どうしてこんなに美しいまま威容を保っているのでしょうか。
アメリカやヨーロッパでは、100年以上の建物をいつまでも使い続けますが、
日本ではそういう建物自体が稀です。
ご存知のように、現在でも海上自衛隊の士官候補生によってこの場所は現役で使われているのです。
そこに立つと、まさに海軍兵学校として使われていたそのままの姿が。
これだけでもう、胸がいたくなるほどの感激でした。

ここである者は「恩賜の短剣」を授与され、そうでない皆もヘンデルの「勝利を讃える歌」の奏楽に送られて
卒業していったのです。
昔は菊の御紋章をくりぬいたところに皇族方のお座りになる玉座があったそうです。
そして、菊の上部にあるモチーフは「フクロウ」。
ギリシャ神話で知恵の女神ミネルヴァのペットだったことから、知恵を与える象徴とされているためです。
この石造りの床も、勿論当時のまま。
このブログで語ってきた兵学校卒士官たちが実際その脚で踏みしめた、そのままのものです。
誰もいない講堂は非常に反響がいいのですが、音響を調節するため、壁の内部には
「和紙」が塗り込まれているのだそうです。
卒業式のとき、父兄が観覧するバルコニーは、とても高いところにありました。
ここには、本日冒頭画像の方の入口から入り、階段を上るようです。

     

ところで、校内を案内してもらう見学ツアーは一日三回、現地に行けば参加できます。
昔自衛官でここを卒業したというリタイア組のおじさんが、おやぢギャグ満載の楽しい解説をしてくれます。
たとえば・・・・えー・・・
忘れてしまったのでそのギャグについては書きませんが、とにかく、ちょっと
「江田内に軍艦『平戸』がありましたね」などとひとこと言おうものなら、
即座に資料専門らしい自衛官のところに連れていってくれ、
「眞継さん(カメラマン)の写真に平戸から生徒が(訓練で)飛び込んでいる写真がありましたよ」
と教えてくれたり、本当に色々として下さいました。
平日の昼間でも、結構コンスタントに見学者はあるようです。

なので別にこのおじさんの解説に何も不満があったわけではないのですが、先発隊に、
団体で見学を申し込んだ女性ばかりのツアーがいて、彼女らを率いるのが配慮なんだかどうかわかりませんが
黒い制服白い軍帽の若いぴちぴちの現役士官で
決して「陸奥なのに主砲が四つとはこれいかに」(思い出しちゃった)
みたいな解説が嫌なわけではありませんが、こっちの解説もぜひ聞いてみたかったなあ、と・・・。

現役のポスト。しかしこれは戦後できたそうです。
松の木が邪魔ですが、これが古鷹山。
弥山とは兵学校を挟んで逆の方向に見えています。標高394m。
兵学校出身者は、必ずこの登山の後に映した全員の写真を持っています。
写真だけではいかにもハイキングの後っぽい雰囲気だったんですが、この山の急峻さを見て、思わず
「これは、すごすぎる・・・」

この山は、昔兵学校、今自衛隊の訓練以外にはまったく使用されていないそうで、つまり
「あのいかにも心臓破れそうな山に登ることを我が兵学校の行事としよう!」
と誰かあえて訓練に艱難辛苦を求めるマゾヒストが、いや
辛苦によって自らを珠に磨かんとする求道者があるときこのようなことを思いついてから
伝統的に行われているようです。

弥山(標高500m)ではさらに駆け上がりタイムを競うというさらにサディスティックな、
いや究極の自己鍛錬であるところの登山が行われ、
あの大野竹好生徒はこの弥山競技のメダル保持者だったそうですが、全く、
頭脳といい、体力といい、元々優秀なところに持ってきてこの鍛えっぷり。
この「楽な方の」古鷹山を見ただけで、その凄さが実感できます。

現在、士官候補生は、登頂後この山の山頂で必ず「同期の桜」を大合唱するそうです。
すると、山から見下ろす兵学校の、いや自衛隊術科学校のグラウンドでは、彼らに見えるように
日本の旗を押し立てて駆け回り、彼らの健闘を讃えるメンバーがいるのだとか。

  

ところで、この煉瓦の話を少し。
説明の方が「煉瓦を触ってみてください」とおっしゃるので触れてみるとなんと、
表面は「つるっつる」なのです。

たまたまひび割れを見つけたので、画像に撮ってみましたが、実に100年経過しているとは
とても思えない美しさだと思いませんか?
これは、イギリスで一つ一つ手で焼かれたものを、これも一つ一つ包まれて送られてきた
特注の煉瓦であることは皆さんすでにご存知かもしれません。

この一つ一つ微妙に形の違う、いかにも手作りの肌目の細かい表面が、雨水の沁み込みを防ぎ、
このようにカビは勿論雨の跡さえ附かず、今日までの美しさを維持しているというわけです。
このアップ画像を見ても、何世紀か後でもこのままではないかと思わされますね。



士官がママチャリで移動していたので思わずシャッターを切ってしまいましたが、
この後ろに見えている校舎は、大講堂の「イタリア風」生徒館の「イギリス風」教育参考館の
「ギリシャ風」に対し、「アメリカ風」の生徒館(新館)です。

何日か前、笹井醇一生徒の記事の日に、窓際に並ぶ同分隊のメンバーの画像をアップしましたが、
あの写真はこの窓の(画像とは別の向きの)もの。
昭和13年にできたそうですから、昭和11年入学の67期は、できたばかりの校舎に
最初に入った生徒たちだったということになります。

窓をアルミサッシに変えていますが、これも70年経つとは思えないですね。


それにしても、この光あふれる校内には、何とも言えない清浄な気が満ち満ちています。
神社仏閣でもないのに、思わず背筋を伸ばしたくなるような、しかし峻厳なだけではない
明るさに包まれているのです。
訪れたこの日が2月なのにうららかな、4月を思わせる陽気で、美しい空の色をしていたからだけでもなく、
100年の昔から防人の志を受け継ぐものたちが、ここで青春の意気も溌剌と互いを磨き合ってきた
そのパワーが、この地をしてその空気さえも特別なものにしているのでしょうか。

そこに立つだけで何か自分自身が高められるような、何とも言えない不思議な力を感じたのは、
あながちわたしが特に海軍兵学校に思い入れを持っているせいだけでもなさそうです。

 

というわけで、テンションの高さのわりに意外と冷静にお伝えしてきましたが、やっとこれで三分の一です。
      ↑やっぱり

 

 

Comment (1)

ヒッカム空軍基地の星条旗

2011-02-23 | 海軍

25年前に放映されたテレビ番組で、当時存命していた海軍と陸軍の搭乗員が往時を語っている貴重な映像を見ました。
志賀淑雄氏、藤田怡与蔵氏、岡島清熊氏がそれぞれ自分の参加した真珠湾攻撃について語っています。

この中の藤田氏は、真珠湾攻撃のとき、カネオヘ飛行場に自爆した飯田房太大尉の中隊におり、その最後の突入の合図を受けています。
飯田大尉の機は、燃料が漏れており、藤田氏に手信号で送られた合図は
「燃料が無くなったので自爆する」
そして、敬礼をするや機を翻し煙の中へと姿を消したのです。

真珠湾はアメリカ軍にとって驚天動地のショックでしたが、それ以上に猛威をふるった零戦の指揮官機が
眼の前でみごとな自爆を遂げたことは彼らにとって強い衝撃でした。


先日「自分なりの慰霊とは」の日に「観光を一日慰霊に当てる」という形もある、というような話をしましたが、
今度ハワイに行ったら、ぜひ訪れてみたいところがあります。
カネオヘ飛行場の「飯田大尉自爆の地」です。

彼らは、ショックも冷めやらぬ中、自爆した飯田大尉の遺体を丁重に葬りました。
昨日、海軍兵学校で参考館を見学しましたが、アメリカから帰ってきた飯田大尉の片方の靴が展示されていました。
パイロット用のブーツではなく、編み上げ式の短靴でしたが、これは、飯田大尉が履いていたのでしょうか。
それとも、機に積まれていたのでしょうか。
今日、激突した地点には碑が作られ、案内の兵士はそのときの様子を今も語り継いでいます。
碑にはこう記されています。

JAPANESE AIRCRAFT IMPACT SITE
PILOT-LIEUTENANT IIDA, I.J.N
CMDER. THIRD AIR CONTROL GROUP
DEC.7.1941

I.J.Nとはインペリアル・ジャパン・ネイビー、つまり帝国海軍の略です。


例えばレッドバロン、第一次世界大戦の撃墜王リヒトホーフェンは、そのあだ名通り貴族でした。
この頃のヨーロッパの戦闘機には男爵はじめ、社会のトップクラスの出自の人間しか乗れなかったようです。
ノブレス・オブリージュ(高貴なるものの義務)としての戦線参加義務、そして「騎士」として一対一で戦う空戦。
そこにはスポーツのような、そして文字通り騎士道精神に則った腕の競い合いがあり、
敵を尊重し正々堂々を重んじる空戦が尊ばれました。

映画「レッドバロン」の冒頭シーンは、レッドバロンとの空戦で敗れ亡くなったパイロットの葬式の最中、
上空に飛来した真っ赤なフォッカーが花輪を棺に落として行くというものです。
彼は撃墜した相手が生存していた場合は丁重に扱い、また撃墜した機の部品をコレクションし、
そして己の撃墜数を誇りました。

ヨーロッパの騎士道精神と精神土壌を同じくするアメリカにおいて、
第二次世界大戦になってもこのような考えは継承されたのでしょう。
「エース」を尊敬し、戦後も相手国の「エース」に対しては非常な敬意をもって遇する、という
彼らの「やり方」は、ここからくるものです。
日本の、特に海軍のそれとは精神的な支柱もバックグラウンドも全く違った流れの産物と言えます。

そして、騎士道精神はこのような公正さにおいても発揮されます。

画像は1942年5月、シドニー湾に突入、自沈し自決した松尾敬宇大尉ら、特殊潜航艇の乗員四名を、
礼を尽くした最高の海軍葬で弔うオーストラリア海軍の儀仗隊の様子。
アニメーション「平和への誓約」の一シーンです。

このときシドニー湾には松尾大尉、都竹二曹他、5組の特殊潜航艇が突入します。
(伊二八潜はトラック入港の際米機に撃沈された)
このうち、引きあげられたのは二艇。

海軍司令官グードル少将はこの海軍葬に際し次のような声明を出しています。

「シドニー攻撃で戦死した日本の特潜の勇士をこのように弔うことについて批判がある。
しかし自分はあえてこれを行う。
なぜなら、我が国の兵士が戦死した際に、敵国が同様に、このような名誉を与えることを望むからである。

また、自分は、彼らがこの名誉を受けるに十分な資格があるものと思う。
あのような特潜を操縦するには、最大の勇気を必要とする。
自分は時が来れば自国のために喜んで死ぬ覚悟があるが、しかし、自分は、平時においてさえも、
あのような特潜に乗ってシドニー湾を横断することは好まないということを正直に申し上げる。

勇気というものは、いずれの国の独占物でもない。
それは敵と同様に、われわれの国の人々にも分かち与えられるものである。

かかる勇気は一般に認められている決死的な目的のために、
われわれの命を投げ出さねばならない時が来た場合、
我々の中の幾人が、これら日本の勇士たちが払った犠牲の千分の一を払う覚悟を持っているであろうか。
このような遠征に出発することは、最大級の愛国心である」

戦争そのものが理性を失った最大の愚行であっても、せめてその中であくまでも崇高な精神を尊重するだけの人類としての矜持を持ちたい、そのような行為が「騎士道」からであろうが「武士道」からであろうが―。
そうあろうとした人間は、数多くいました。

ヒッカム空軍基地の中央司令部の壁には、今日もすさまじい数の零戦の弾痕が残されています。
彼らは決してその跡を埋めようとも、建物を壊そうともせず、今日も建物を使い続けています。

起こってしまった戦争を、その爪痕を、忌むべきものとして取り去ってしまうことを彼らは決してしません。
国対国の恩讐を超えて敵国の勇士を讃えるように、アメリカという国はこういう時限りなく公正で曇りがないのです。
世の中には、決して価値観で相いれない民族同士が存在し、その間に衝突が起きるのですが、
少なくともあの当時から、そして現在このような公正さにおいて理解しあえる国同士の間に、
今後決して戦争は起こるはずがない、と私は信じたい。

もう戦争は一対一の騎士道精神的対決の上に行われるようなものではなくなったのですから。

1941年12月7日、ヒッカム基地には一条の星条旗がずっと翻っていました。
今日、この星条旗は、この日の日本軍の攻撃による激しい弾痕の痕を誇らしげに刻み、
永久にアメリカ海軍によって保存されています。

 

参考:「日本海軍潜水艦史」

 

 

 

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エリス中尉IN軍港呉

2011-02-22 | 海軍

求めよ、さらば与えられん。

そんな言葉が脳裏をよぎったのは、画像、赤煉瓦の生徒館前に立ってシャッターを押した時でございます。

江田島に行ってまいりました。

週末になって、息子の学校が火曜日までお休み(真冬休み)であることに気づき、どこかに行こうか、とTОに相談。
一度行った熱海の小洒落た温泉宿はどうだろうか、と聞いてみたけどさすがに土曜日に思いついて、
当日の部屋を取れというのが無理。

「うーん、オレ週明け朝イチで岡山出張だし・・・」
(キラリッ)「何っ?岡山?」
「うん、岡山一緒に来る?何もなさそうだけど」
「いや・・・・。岡山といえば、となりは広島」
「ま、まさか」
「呉に行こう!TОは呉から仕事に行けばよろし」
「岡山まで二時間はかかりそうなんだけど」
「月曜朝6時の新幹線に乗るのと、呉を朝7時半に出るのと、どっちがいい?」
「・・・・呉かな」

てなわけで、その日のうちに新幹線、その日のうちに広島着。
その日の朝には思いもつかなかった海軍の街、呉探訪が実現してしまいました。
それにしても、4時間で来てしまえるんですね。
昔、例えば東北出身の学生さんは短期の休みだと学校に残るしかなかった、と言いますが、
例えば東京出身者でも、新幹線など影も形もないあの頃、大変でしたでしょう。

ご存知広島お好み焼き。
広島駅に着いたのが6時半だったので、駅ビルで名物お好み焼きを夕飯としていただきました。
京阪神出身のエリス中尉は、何故ここにそばが入っているのか全くふに落ちない、
この広島風お好みが正直あまり好きではありません。
神戸に「そば飯」という、神戸出身者には噴飯ものの(しゃれ?)でっち上げ名物が存在するのですが、
「粉もご飯も何でもかんでもソースで一緒くたに食べさせる」というこの下品さがイヤ。
このお店で「このメニューにあるそばの無いのをプリーズ」というと、お店のおばちゃんが
「ここでそばの無いもんを食べても全く意味がない!」と厳かに断言するではないですか。
じゃーなんでメニューにあるのよ。
しかし、そこまでいわれて「いや、そば抜きで」と言えるような勇気のある人間はおそらくいますまい。
郷に入れば郷に従え。長い物には巻かれよ。触らぬ神にたたりなし。頂いてみました。

美味しいといえば美味しかったように思います。
この甘ーいソースで、なんでも「まずくはないが美味しいかどうかはよくわからない」
って感じになってしまうんだと思います。

そして、ホテルにチェックイン。
すると


なぜかウェルカムフラワーが。
カードがついていて「我々の結婚記念日に」
おお!そう言えば今日はそういう日でした。ちゃんとTОは覚えていたんですね。
そして、こっそり(TОはこういうサプライズを仕組むのが大好き)お花を手配してくれていたんですね。

そうか、12年目の結婚記念日。
あっちこっちでパーティしたり結婚式したりした結果一体いつが結婚記念日なのかわからなくなったので、
「覚えやすい2月20日にしよう」ってことにしたんだった。

「感無量だ・・結婚記念日に私の人生の究極の欲望と最終にして最高の願望を実現できるとは・・・」
「んなアンタ、おーげさな」

次の日、朝6時に起きて、TОは岡山に仕事に行きました。
そのまま東京に戻らなければならないということなので、息子と二人で呉観光し、もう一泊することにしました。
呉といえば海軍の街。大和ミュージアム、てつのくじら館、そして海軍兵学校跡。
やっぱりここは、
笹井中尉の、大野中尉の、野中少佐の、そしてああ、多くの兵学校出身の方々の実際に学んだその学び舎に
行かねば!いや行くのだ!と、

傍から見ると異常なテンションの上がりまくった状態で

息子は「よっぽど行きたかったんだね・・・。よかったね」
と、なんだか棒読みみたいに気のせいか比較的冷たい目で言うんですが、
でも、このブログに来られる皆さんならわかってくれますよね?

さて、江田島というのは、実際に島なので、呉から行くのにはフェリーに乗ります。
小用港というところから、20分くらいかな。
そういえば、この小用という地名は、兵学校関係の本で何度か目にしたことがあります。
昔ははしけのようなものだったのでしょうか。
今は、普通に通勤に使われているらしく、バイクや車が結構のりこんでいました。


このフェリー、その名を古鷹といいます。
港に着き接岸数秒後に「がっちゃん」と黄色と黒の部分が降りて、そのまま車がそこをすいすいと乗り降りします。
島民の足、って感じですね。
ちょっとウケた船内の注意書き。
悪影響・・・・。
心臓のペースメーカーかなんかのことなんでしょうか。
勿論、会話の内容が不愉快だったり、物々しかったり、物騒だったりで
「悪影響」を及ぼす、ということではない、と信じたい。

このフェリーには、行きも帰りも制服の自衛官が何人か乗りこんでいました。
黒ジャケットの士官、セーラー服の水兵さんもいましたが、女性自衛官も。
女性自衛官は、制服でしたが、バッグはシャネルをお持ちだったり。
別に官製のものでなくてもいいんですね。

現在、海自に女性自衛官は今1500名いるそうです。
最高位は旧軍でいうところの「少佐」で、そう大きくはないものの、一国のいや一艦の艦長だそうです。
ああ、いいなあ、女性の艦長。
「おもかーじ、よーそろー」
って、かけ声かけてみたい!
ついでに、高角砲なんかちょっと命令して撃たせてみたい!←おい

それにしても、当たり前ですが女性自衛官も制服を脱げば一人の若い女性、
やっぱりシャネルのバッグなんか持ったりするんですね。
(*^_^*)

小用を出てすぐ見える島。
これが噂の軍艦島ってやつでしょうか。
なんだか、見るからに秘密基地のような施設で、格納庫らしきものが見えたりしました。
呉の昭和13年ころの地図を見ると、港の部分が「軍機により割愛」されています。
当時こういう島には何やら重要な秘密があっても不思議ありません。

大和は全くの極秘で作られていて、上から見えないようにむしろで覆われていたそうです。
(兵学校出身者談)

 

さて、江田島の港に着いたら、バスに乗り、わずか数分で兵学校に着きます。
しかし、この道は結構な山の坂道で、バスで数分でも歩くのは大変そう。
兵学校ではバスに乗っていいのは一号生徒だけだったそうですから、
休暇の際はお土産の入った重い荷物を下げて、この道を歩いたわけです。
行きは嬉しくてそんなこと全く苦にはならなかったでしょうが、休暇が終わって、兵学校に戻るとき、
皆何とも言えない
「ああ、また今日から訓練と修正の日々が・・・」
という、サザエさん症候群のどんよりとした気持ちで、この道を辿ったものでしょう。

行きはよいよい、帰りは怖い。
兵学校出身者にとっては、学校と港までの坂道が行きと帰りでは全く違う景色に見えていたに違いありません。

さて、いよいよエリス中尉、その人生の欲望の最終地、海軍兵学校へ・・・・。
待て次号!

 

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第35期飛行学生戦闘機班

2011-02-21 | 海軍
「大野中尉の画像発見」に続く
「文句があるなら俺に言え!」シリーズその2です。タイトルはたった今作りました。

光人社刊の「写真 大空のサムライ」には、この笹井中尉を含む戦闘機班の集団写真が掲載されています。
しかし、笹井少尉と林谷忠少尉を除いて名前が書いてありません。


そこで!
「わかったからそれがどうしたシリーズその2」でもあるのですが、全員の名前を特定することにいたしました。
結果は・・・写真を載せられないのがつらいところですが、もしお持ちの方は見比べて
エリス中尉のこの人物特定が正しいかどうかチェックしてみてください。

いや、興味がある方だけで結構です。

しかし、この写真を見ながら一人一人の絵を描いているとき、マフラーの巻き方、飛行服の襟の開け方、
軍帽のかぶり方、そして同階級の集団写真で「どこで写真を撮られるか」・・・
一人一人の性格が断片的に伝わる人物像とあいまって、色々と妄想をたくましくしていたのですが。

このなかで貫禄たっぷりの荒木少尉(少尉の階級章が似合っていない・・・)、
ど真ん中でまるで教官を囲む学生のような構図に見えてしまっていますが、この荒木少尉は、おそらく
この中でハンモックナンバーは一番上の秀才でした。(15分隊の伍長だった)
頼もしいリーダー格だったのかもしれませんね。

この荒木少尉が南太平洋の空戦で不時着し海中を漂流していたとき、見張りが
「敵搭乗員が漂流している」と報告するのをたまたま67期の駆逐艦の時津風水雷長が双眼鏡で見ると
それはクラスメートの荒木中尉で、慌てて救出した、ということがあったのですが、見張り員には
その彫りの深い顔立ちと長髪がアメリカ人に見えたのだそうです。

そして、思ったことをぽんぽん言ってしまう多芸多才の川真田少尉も、ちゃんと前列真ん中に。
控えめで穏やかな性格だったと云われる林谷、川添、
そして自分がハンサムでMMであることを「全く自覚していなかった」山口(定夫)、
この辺りの学生の占める位置も、妥当な気がします。

飛行服の着こなし一つでも見えてくる雰囲気はあって、
きっちりボタン全部止め・・・川添、林谷、荒木、山口(馨)
さりげなく第一ボタンをはずしマフラーを目立たせる・・・川真田、渋谷、岩崎
ボタンをはずしなおかつ襟を立てる・・・・笹井

と・・・まあ、これをどう性格に結び付けるかは皆さんの判断に任せるとして。




以前川真田中尉を確定した後、どなたからも異論が出なかったので、おそらくこれは正しいものと断定。

あとは、何枚か残る、台南空や兵学校時代の写真と見比べて確定しました。
航空隊所属と戦死の状況も掲載しました。

右端から順に参ります。

馬場政義   3空→22空→鹿屋空
       昭和17年10月23日
       ガダルカナル攻撃の際敵戦闘機と交戦、戦死

渋谷清治   台南空→元山空→252空→築城空→204空
       昭和18年1月23日
       ソロモン諸島コロンバンガラ島北東10マイルの海上上空にて敵機と交戦、戦死

川真田勝敏  台南空→6空→204空
       昭和17年11月3日
       ガダルカナル島よりショートランド島に向かう輸送船団上空哨戒中、
       チョイセル島北東30マイルにおいて悪天候のため雲中に入り行方不明、戦死認定

山口馨   呉空→台南空
       昭和17年5月17日
       ポートモレスビー攻撃の際、同地上空の戦闘中戦死

笹井醇一   台南空
       昭和17年8月26日
       ガダルカナル攻撃中、攻撃掩護のためラボウル発ガダルカナル上空にて空戦戦死

荒木茂   大分空教官→春日丸乗組→瑞鶴乗組
       昭和18年11月11日
       ラボウル航空基地上空にて邀撃(ようげき)戦に参加、戦死

栗原克美   横須賀空→千歳空
       昭和17年7月20日
       ポートモレスビー攻撃後ラボウル帰還中天候不良のためクレチン岬附近にて行方不明、戦死認定

川添利忠   3空→582空→大村空分隊長兼教官→第三艦隊司令部附→601空
       昭和19年6月19日 
       中部太平洋にてア号作戦第一機動部隊第一攻撃隊として大鳳発進、
       全員突撃せよと下命後消息不明、戦死認定

岩崎信寛   大分空附兼教官→24空司令部附→4空
       昭和17年3月14日
       ニューギニア ホーン島空襲の際、敵戦闘機と交戦、戦死

山口定夫   3空→202空→204空→横須賀空分隊長兼教官
       昭和19年7月4日       
       硫黄島基地来襲の敵グラマン戦闘機と交戦、戦死

林谷忠    佐世保空→4空→1空→台南空
       昭和17年8月8日
       ツラギ在泊敵船団雷撃陸攻隊掩護中敵と交戦、戦死
 


かれら兵学校67期は、戦闘機専修生がそれまでの数人から11人に枠が広げられたクラスでした。
その11人に選ばれた彼らは、飛行専修学生のなかでも、特に戦闘機を熱望していたメンバーです。

遠洋航海後霞ヶ浦航空隊附発令後、土浦で約一か月、67期飛行学生は航空実習に励むのですが、
この間「なぜか行われた」(学生談)希望調査で、戦闘機志望に対し
「否」中には「大熱否」を書いたものがありました。
これに怒った先輩の大尉、中尉クラスに卒業後初めて全員が鉄拳を食らった、という話があります。

しかしその中で彼ら11人は(そして受け入れられなかった何人かは)そのなかでも
「熱望」であったわけです。
(でも彼らも殴られたんですね(T_T)
専修が決定した瞬間、中でもおそらく「大熱望」と書いたに違いない笹井少尉が小躍りして喜んでいた様子を
ある級友が書き遺しています。
(そんな笹井少尉も殴られたんですね(T_T)

あ号作戦で戦死した川添少尉はどちらかというと闘志満々の精悍なタイプの多い戦闘機よりのんびりした雰囲気で
「中攻向きに思われ」、戦闘機にきまったときは皆が以外に思ったそうです。
しかし、熱烈な戦闘機志望とまではいかないものの専修発表のときは「にやにやと嬉しそうだった」。
内心は密かに期していた様子だったということです。



67期は卒業後わずか一年三カ月で中尉に進級。
このスピード進級を彼らは「蒋介石進級」と称していました。
(スピード出世に引っ掛けたものでしょう)
飛行学生になったものは、二手に分かれ、その先発隊がこの35期です。
艦載機操縦専修が慎重を期すためと思われますが訓練中にもかかわらず、かれらは前線に赴きます。

67期で航空関係最初の戦死者になったのが左より三人目前列の岩崎中尉(昭和17年3月14日)です。
父上が「名もなき死にざまでは浮かばれませぬ」と嘆くのを、同級生が
「ネイビーであることを誇りにしていた岩崎君はクラスのホープだった」と慰めたそうです。

山口馨中尉の最後は「大空のサムライ」にも描かれています。
空戦中被弾した機でオーエンスタンレー山脈を越えることができず、山中に不時着したのですが、
公式の戦死状況は「戦闘中戦死」となっています。
「空戦中戦死」の扱いの方が本人と遺族にとって良であるという配慮から、
台南空の司令部がそのように戦死の公報を作成したものだったかもしれません。


そして、19年7月4日の山口定夫大尉を最後に、終戦まで一年を待たずクラス全員が戦死しました。












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絶対に笑ってはいけない行進曲軍艦その2

2011-02-19 | 海軍
さて、前回に続いて「笑ってはいけない軍艦マーチ」です。
譜面どおりに演奏されているが、演奏する人が一味違う、というバージョンがあります。

本日画像は、文字通り絶対笑ってはいけない気がするこの企画CDの中の一曲、
「行進曲軍艦 読売日本交響楽団」を指揮する三島由紀夫。



團伊久麿の番組に出たときに指揮台に上がったものなのですが、もう、表情が恍惚としています。
きっとこの人にとって軍艦を指揮すると云うのは至福の一瞬であったのでしょう。

指揮なんて、指揮者でもなけりゃ誰が前に立っていても同じ、と思われますか?
いえいえ、たとえばこのような人物がオーケストラを率いたとき、明らかに産まれる空気は変わります。
楽団員の気持ちが変われば音も全く別のものになるからです。

この三島バージョン、他の、内藤清吾や瀬戸口藤吉などのオリジナルバージョンと比べて
「やたら速い」。
プロがテンポを「押さえる」ところを、己が情熱の赴くままの、つまり
「三島の頭の中にある軍艦」の速さがそこにはあります。

三島の「行進曲 軍艦」はどこまでも疾走しています。


これも畏れ多くて笑うつもりはなかったのですが、やっぱり笑ってしまった

エレキギターの神様 寺内タケシ&ブルージーンズ・バージョン 

神様と言うとクラプトンという向きもありますが、エレキギターの神様と言うとこの寺内タケシ。
自称エレキギターの発明者。
実際発明したのはレス・ポールということになっていますので、あくまでもこれは自称ですが、
驚くことにこのひとはわずか5歳のときアンプの代わりに空襲警報のスピーカーを使って演奏し、
皆が空襲と間違えて避難したためえらく怒られたという逸話を持つ「アンファン・テリブル」です。
このお方は、「運命」ですらテケテケとエレキでやってしまうのです。
御年七十二、生涯現役ロッカー。

かっこええぞ。





ピアノ用に編曲されているものが二曲。
このうち「超絶技巧」和田肇氏のソロバージョンは、中間部がどう考えても
「手が三本ないと弾けない」編曲になっており、解説では「ここは連弾」と言いきられてしまっています。
どうも、ここだけ手が一本参加してきていますね。

中田喜直は「雪の降る街を」「小さい秋見つけた」などの作曲者ですが、この
「軍艦マーチの主題によるパラフレーズ」は、二台のピアノのための編曲で、
まるで「音楽劇軍艦マーチ」を見ているかのようなストーリー性があります。

軍艦のメロディーの後、「雪の進軍」「ショパンのソナタ『葬送』」が重なり、
起床ラッパが鳴って、また軍艦が出てきて終わります。

一寸待て。何故海軍で雪の進軍?
おまけにその後葬送?ふーむ、これは八甲田山の陸軍青森第五連隊死の彷徨?
・・・・だからなんで軍艦なのよ。


さて、決して笑っていはいけない軍艦マーチ、これで笑わない人がいたら心から尊敬する極めつけのバージョン。
それはミャンマー国軍の「ミャンマー・ドゥー・イェ・タッマドゥ」


ここで真面目な話をしますが、インドネシアのシロフォンバージョン「日本海軍の歌」もに見るように、
もし帝国がその地でサヨクのいうように「侵略と殺戮の支配」をしていたのなら、
その歌が今日まで現地の人々に、それも国軍に歌い継がれるはずもないと思うのです。

とにかくこの国軍の軍歌であり、国営放送開始のときに必ず流されるという軍艦、さぞかし勇壮な、意気高い歌詞で、
ミャンマーの人たちはこれを聴くと胸が熱くなったりするのに違いありません・・・・



最初のメロディがこれ。
つづきが

「いまぴにゃ とぅにゅたる なれでぃれなー

いまでぃにゃ てぃじゃじゃぶ(以下聴き取り不可能)」


この「いまやま ひまぼま」でうちの家族

∵:.(:.´艸`:.).:∵ぶっ(マリアージュフレール紅茶) 

(;゜;ж;゜; )ブッ (りんごジュース)

 ∵ゞ(≧ε≦o)ぶ(ほうじ茶)



さて、このCDは岩手県立盛岡第一高等学校のバンカラ風応援歌(歌詞は全く別)太鼓つき

に始まります。
戦後GHQにこの校歌を廃止せよと命令された学校側は断固反対し、この校歌を守り抜きました。
名門盛岡一中の出身者には米内光政、及川古志郎、板垣征四郎、宮沢賢治、石川啄木がいます。

そして〆は・・・そう、

チンドン屋「菊乃屋」の軍艦マーチ。
でも、ミャンマー国軍のやベルリンフィルのに比べるとあまりに真っ当で面白くもおかしくも無く
このエンディングではまったく笑えなくなっていたからあなふしぎ。


とにかく百読は一聴にしかず、お薦めです。
愛聴版にはならないかもしれませんが少なくとも「笑ったら負け」ゲームのネタにはなります。
ゲームの際笑ったらお尻を叩く道具には
「海軍精神注入棒」と書いたバッターを用意すると盛り上がること請け合い。






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三番じゃダメなんですか

2011-02-18 | 日本のこと

先日読者の方からこのような貴重な映像を送っていただきました。

画像説明が
これぞ、「我が海軍」の良き伝統であります!
おお、我が海軍伝統のカレーを用いたカレーパン!
そういえば、このヤマザキという会社は本社が横浜にあったような気がするなあ。
カレーといえば海軍、海軍といえばカレー。
「金曜日はカレー曜日」というCM、昔ありませんでした?
今でも自衛隊は金曜日を旧軍伝統に則りカレー曜日にしていると聞いたことがありますが、本当なんだろうか。

いや本当にありがとうございました。美味しそうですね!って

・・・・・中   身   は  ?

・・・そうですか。食べちゃってから撮ったんですね。いや本当に、わざわざありがとうございました。
あ、了承なしでアップしてしまいましたが、著作権とか大丈夫ですか?


さて、先日いつの間にやら開設300日を迎えた当ブログです。
書きたいことがあるうちは続けますので、「生暖かく」から「いい湯加減」「沸騰するくらい熱く」などなど
見る方によって色々おありでしょうが、その温度については問いませんので、
とりあえず暖かく見守って下さいませ。
では「冷たく」は?
・・・・見なければすむことだと思います。そういう方は。

と、閲覧御礼かたがた、当ブログの基本理念をこの場をお借りして述べますと、

「愛国精神にのっとる」
「自分で言ったことに責任を持つ」
「個人の中傷は決してしない」

という三本柱で「海軍始め戦争を戦った人たちに思いを馳せる」

というテーマを支えております。

んじゃ先日のクレッチマー体型は何なんだ、という声が聞こえてきましたが、あれは、中傷ではありません。
クレッチマーはこう言っている、という事実を述べたわけです。
あれを見て
「ああ、こういう体型の人はこういう傾向がある、とクレッチマーは言っているんだな」
と知りそれが田中氏や自分の知り合いのそういう体型の人に当てはまっているかどうか検証していただくのは、
各自の自由でございます。
田中氏については一言で言うと「人の悪口はやめた方がいいよ」
と言う趣旨のもとに思ったことを言わせてもらっているわけで、これも中傷には当たりません。

後、政治家に関しては、中傷に聞こえても仕方がないくらいの批判を繰り返しますが、
政治家の仕事は批判されることです(by 石破茂)。
それから海軍を語る便宜上陸軍の悪口に聞こえることを言うこともあるかもしれませんが、
エリス中尉には陸士卒の知人(←偉い人)もいるわけで、決して感情的な個人批判にならないように心がけます。

というわけで、基本的に先日の「悪口は言う方が負け」とモットーに参りたいと思います。


といいながら(タイトルを見て)R4の悪口を言おうとしているなこいつ、と思った方。
あなたは間違ってはいない。が、今日のは少し違います。

国会を視聴していると、何かにつけてこのR4氏の
「二番じゃダメなんですか」
という世紀の失言が野党議員によって皮肉られているのに失笑してしまいます。

もうすでに「R4の玩具」と化した有名無実の仕分けに対してもそうですが、何かにつけてその
底の浅さを、海千山千の野党議員は明るみに出してしまう、その際に
「いや、れんほー大臣、これは2番じゃダメなんでしょうかねwww」
みたいに、皮肉るわけです。

一度皮肉にキレたR4「私の言ったことを一部取り出して違った解釈をしている」
と言い訳をしていましたが、うーん、間違ってないと思うよ。少なくともあの件に関しては。

科学技術は一番を目指す気概が無いと二番にだってなれない、
最初から二番を目指すものは二番にすらなれない、
ということで、ノーベル賞受賞者や、ついには鳩山由紀夫にまで(大爆笑)その言を非難されたわけですが、
その結果予算を削られた宇宙関係事業。
はやぶさの大成功でさらにいっそうこの発言の浅はかさは皆の嘲笑するところとなり、立場を悪くしました。

それにしても、日本の技術って、そして技術者たちって、なんてけなげで素晴らしいんでしょう。
先日のニュース、はやぶさに次ぐ快挙です。
若田光一さんが日本人で初めて、国際宇宙ステーション(ISS)の船長を務めることが決まりました。
本当に、日本の科学力と、優秀なマンパワーには、我が国ながら頭が下がります。
比べるのも酷な話ではありますが、宇宙飛行士がロシアから機密を盗んでクビになったどこかの韓国とは
えらい違いです。
そして医学部門では山中教授がips細胞の研究でウルフ賞を受賞!ヽ(^o^)丿


話は変わりますが、去年のこと、防衛庁でハーバードの国際政治学者が講演をしたのを聴きに行きました。
テーマは「日米関係から見る安全保障」。

これがねえ。つまり、日本人は最近内向きになって、留学もしないし、レーガン時代のアメリカ人のように
ダイバーシティ(民族多様性)を排斥しようとしている、TPPでも、私は分からないが(わからないなら言うなと)
これからはダイバーシティを受け入れた結果、そのような方向に向いていくのではないか、とまあ、

「こんなお題とは全く無関係の政治的な煽動を防衛庁の自衛官相手にしていいのか?」

と、例の通達前だったとはいえ、今でも疑問に思える内容だったんですね。
え?何故そんな講演を聴いていたんだ、って?

な ・ い ・ しょ。

そのときにその学者の「中国人韓国人は、質は大したことないが、数が多く、熱意もあり」
「それに比べて日本人は・・・・」
みたいな言い方を聴いて「たくさんいても質が悪けりゃねえ」と思うと同時に
このヒト「アラーミスト」だなあ、とふと思ったのですよ。

TPPを推進する政府は「バスに乗り遅れるな」という言葉を使ったといいます。
それではそのバスに乗らなければ、我々はどうなってしまうのか?
慌てて乗ったバスが映画「スピード」のように「ブレーキかけたら爆発するバス」だったらどうするのか?

「お急ぎください!好評につき残席あと少し!」

みたいな「アラーム」を鳴らして、さて、どこへ連れていくかというとそれは全く安全性すら明らかでない、
というではないですか。TPPに関しては。

そして一方、中国にGDPを追い越されて、マスコミはあたかも
「経済大国日本の栄光ももはやこれまで」
とでも言わんばかりの詠嘆調で、国力の低下と「中国様にはもうかなわねえだ」みたいな卑屈な報道をしています。

しかしね。

GDPが、人口比にして10倍の中国と日本で、解放改革の中国の方針決定以来、
そうなるのは全く時間の問題だったわけです。
しかしながらGDPを一人割にしてみると、いまだに日本は中国の10倍。人口比からいって当然ですね。
しかし、そういった数字の上のことでなく、やはりここは
「(そんなもの)三番じゃダメなんですか」と問いたい。

イギリス、フランスなどは、先進国の中でこのGDPを上位で競っているわけではありません。
特にイギリスはかつての大英帝国の面影もなく、経済的には尾羽うち枯らせたの観さえあります。
しかし、彼らがGDPの低下をやっきになって上げようとしているか。
その経済的地位を恥じ、卑屈になって発言を控えているか。

このような国は、今でも国際的に発言権を持ち、大国としてその地位は揺るぎありません。
そして、その発言に世界は耳を傾けます。
それは、経済的に上手くいっているということではなく、歴史上文化を蓄積してきた国だからです。

今日、中国からの富裕層は、小金を儲けて日本に「凱旋」気分で訪れ、打ちのめされて帰ると云われます。
何に?

その経済力の国民への浸透に。
文化に。
全てに行きとどいたシステムと、人々の親切なことに。街のきれいなことに。
豊かにモノがあふれ、自国では考えられないような選択肢が国民にひとしく許されており、
それを日本人皆が享受していることに。

ゴミ処理施設に見学に訪れた中国人が
「ゴミを洗って出せといわれると素直に皆がそれに従う」
日本人に心底恐怖を覚えたということを何処かに書いていました。

かたや自国の民度は?
香港にあるディズニーランドに押しかける客が、塀の外から子供を入れて入場料をケチったり、
そのへんで大小便をしたり、あるいはディズニーそのものをパクった遊園地が堂々と営業していたり、
巨大なお台場ガンダムの偽物(超劣化版)をあっという間に作ったり。

中国という国が商道徳や知的財産に対する未開の地であることは皆さんもよくご存知でしょうが、
いまだにこのような民度である国に対して、GDPが抜かれたくらいで焦りを煽るのは全く
「アラーミスト」の所業以外の何物でもないと思います。

ノーベル科学賞受賞。
今も受賞は順番待ちと言われる山中教授を始めとする医学者たちの功績。
はやぶさの成功。
世界一のオーケストラへのコンサートマスター就任。
そして、今回の若田さんの快挙。


ことこういうことに関して正しい数字が即座に出てくるような社会システムであるはずのない中国から出てくる
GDPの結果に何の疑いも持たず、ましてやそれが抜かれたなんてことにがっかりするよりも、
このようなことを、素晴らしい自国の業績を誇りましょうよ。
そんなものを膨らませて2位を奪還することを目指すより、こういう快挙がもっと産まれてくるような
明日の文化、科学技術への投資をするべきです。
これこそが本当の先進大国のあり方であると思うのですが。

さて、カレーパン(の包装)画像に対するお礼です。
遅めのバレンタイン、マルコリーニのチョコレートをどうぞ。

            

 

 

 

 

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絶対に笑ってはいけない行進曲軍艦その1

2011-02-17 | 海軍

先日CD「旧海軍軍楽隊行進曲集」を注文しようとしてこんなものを見つけました。
永久保存版「軍艦マーチのすべて 瀬戸口藤吉生誕130年記念」
何の気なしに注文し、週末にパソコンで聴いていたのですが、一曲おきくらいに

∵:.(:.´艸`:.).:∵ぶっ 

(;゜;ж;゜; )ブッ 


とやっているので家族に不審がられ、結局みんなで聴くことに。
これ、家族だんらんにお薦めです。
家族の会話が最近なくてお困りの方、これさえあればお茶の間がたちまち笑いに包まれます。

ご存知、名曲行進曲軍艦の色々なバージョンばかりを集めたもので、もうなんというか、
これは海軍ファンの方には、そしてこの曲を聞くと血沸き肉躍るタイプのあなたには、
ぜひ聴いていただきたい!

というわけで、今日はこのCDを、楽曲解説いたします。


あらためて言うまでもありませんが、この曲は軍楽隊員瀬戸口藤吉の手によりなる
帝国海軍軍楽隊の最大の遺産です。
「星条旗よ永遠なれ」「旧友」と並ぶ世界三大行進曲と言われることもあります。
シュトラウスの「ラデツキー行進曲」がなぜない?という個人的な疑問がないでもないのですが、
その話はさておき、名曲であるがゆえこの軍艦マーチ、あらゆる場所で、あらゆる形態での
レコーディングが残されているのです。
この企画はその「あらゆる軍艦マーチ」を一堂に集めて聴き比べをしましょう、というもの。

軍艦行進曲そのものについてはまたいつか書く日もあると思いますが、今日はこのCDです。
同じ曲ばかりなんと26種類が集められております。

もちろん、なにがオリジナルかその辺をきちっとするために、まず海上自衛隊の基本演奏があります。

しかし、元々のオリジナルたる「海軍軍楽隊初録音」を聴いてみると・・・

笑ってはいけません。
笑ってはいけませんが、とてつもなくヘタです。
オーケストラと言ってもおそらくせいぜい10人程度の編曲で行われたと思われるこの録音、
明らかに演奏レベルが基準に達していない楽団員が何人か混じっており、うちの息子でさえ
「あ、間違えた」
と気づくほどのミスを残してしまっています。

それもそのはずで、当時の日本には録音をする機材もなければスタッフも無く、
レコーディングは海外の会社から技術者が出張レコーディングに来ていたのです。
当然音源は一発取り。
スタジオ機材使用料人件費は海軍軍楽隊の年間予算を超えたのではないでしょうか。
とにかく録音などおそらく生まれて初めての楽団員ばかりだったに違いありません。
皆さんきっとカチンカチンにアガって録音したのでしょう。

それと、当時は現在のものとオーケストレーションはもちろん構成もだいぶ違います。
主旋律に戻らないで終わってしまうのです。

そして、これにコーラスが附いたものもあるのですが、この歌がまた
聴くからにカチンカチンの凍らす、じゃなくてコーラス。

なんというのでしょうか、明らかに西洋音楽の発声とか、今の歌の歌い方とも全く違う、
なにしろ歌の基本というものが全く分かっていないヒトのそれなのです。
そのなぜかとてつもなく投げやりでやる気の無さそうに聞こえる唄い方は、
今の感覚で判断すると物凄く奇異なものに思えるほどです。
当時の日本人は今と全く違う発音や言語リズムに生きていたのであろうか、
と考えさせられる貴重な録音です。

歌といえば、朗々とした美声を聞かせてくれる独唱バージョンが三曲。
そのうち一曲はあの東海林太郎唄、指揮は作曲した瀬戸口藤吉。
後二人はオペラ歌手らしいのですが、正直言ってこちらの二人の方が明らかに上手です。
しかし、この東海林太郎さんは一世を風靡したほどの歌手ですから、
当代一の人気歌手が歌う、というところに企画目的を置いたものでしょう。


海軍軍楽隊の最高位まで登りつめた内藤清吾軍楽少佐指揮のものも遺されています。
この内藤軍楽少佐によって行進曲軍艦は磨き抜かれたといってもよく、海軍軍楽隊を指揮する当時の録音は、
現在のバージョンとほとんど変わりありません。

唄といえば、最初の方に
「ただのおじさんたちの歌アカペラバージョン」
「ただのおじさんたちの歌オーケストラ伴奏つきバージョン」
というものがあり、何かと思いきや、それぞれ
「海軍兵学校出身者」「海軍機関学校出身者」の合唱です。
やはり当事者の歌と思って聴くと特別に感慨深いものがありますね。


さて、同じ曲なのに、演奏する人たちが変わると曲のイメージが、そして曲そのものが
オリジナルとは一億光年のかなたに離れてしまうという例があります。

パリ・ムーラン・ルージュのバンドによる演奏

この勇ましい軍艦マーチが、パリの、おフランスのエスプリを漂わせ、
バンジョーとアコーディオンの入ったアンニュイでボング―でトレビアンな響きになってしまいました。
中間部なんて、ジプシーバイオリンのすすり泣くビブラート附きざんすよ。

我が海軍の潜水艦隊がパリに行ったとき、ムーランルージュでは日本軍人が入って来ると
この曲で歓迎したという話がありましたが、これだったんだー。
伊潜のみなさんが「ここで絶対に笑ってはいけない」と我慢したかどうかは記録にありません。

そして、これは、全く笑っては失礼というか畏れ多いのですが、
エリス中尉的にもっとも笑ったオーケストラバージョンはなんとあの
ベルリン・フィルのゴーヂャスなフルオーケストラバージョン

もう、ストリングス効かせまくりのイントロからして
「ぶーっ」(AA省略)
だったのですが、一言で言うと
「良かれと思ってアレンジてんこ盛りにして全く違うものになってしまった」

イントロに続いて、まるでウィンナー・ポルカのような軽やかなメロディ・・・
もう、あっちこっち和声変更してるし。
こちらの方が和声的には完成度が高い、ってか?いや確かにそうかもしれませんが。
・・・おお!そこでオブリガート入れる?それも低音楽器で。
わあああ、なんでそこコード進行変えるかな。
なんだか中間部分に、勝手にヘンなハーモニー入れてる金管楽器の人が一人いるんですけど。
人数がいっぱいいるからって、余った人員用に対旋律作曲しないでほしいんですけど。
みんな上手いのは分かった。あんたらは上手い。
しかし指揮者がトスカニーニでもフルトヴェングラーでもないのはなぜ?
聞いたことのない指揮者の指揮でやっつけ仕事ワンテイクOK?
へ?そこ繰り返しますか。そこは原曲では付け足しなんですよ。

・・・・終わっちゃったよ。元のメロディに帰らずに。

一言で言うと
「極上の三田牛の赤身だけを使って作ったハンバーグ」



てな感じでした。
この、上等で高額だけど美味しいとは言えないハンバーグ風味のものは、
フランスのオケのもの、ドイツポリドールオケのもの、そして、ハッセルマン編曲のもの、
と全部で4曲あります。

実はこのやたらヨーロッパ風味の軍艦アレンジについては、こんな話があるのだそうです。

明治44年(1911年)イギリス国王ジョージ5世の戴冠式に我が海軍の
「鞍馬」と「利根」が派遣されました。
このとき軍楽隊を率いていたのがご存知瀬戸口藤吉。
滞欧中、ドイツ海軍軍楽隊長のハッセルマンに行進曲「軍艦」の楽譜を見せたのです。

これは、西洋音楽の後進国と君たちのいう日本にも、こんな素晴らしい曲がある!
そしてそれを作ったのはこの私である!
と、瀬戸口一世一代の自信作として、鼻高々の自慢であったのと思うのですが、なんと
キールから次の滞在地マルセイユにいた瀬戸口の元に
「ハッセルマン編曲、ドイツ風軍艦」
の楽譜が届いたのです。

それは、このCDで聴くことはできますが、ベルリンフィルのものと同じく
「和声はこちらの方がより複雑である意味音楽的には優れている」
という、言わばメロディを全く変えないで作り直された「別の曲」でした。


当然瀬戸口は気分を害します。


ハッセルマンにすれば
「うん、日本の作曲者にしてはよくできたが、こっちの方がいいだろう。
我々ドイツ人ならこうするがね。はっはっは」
みたいな、相手を下に見る気持ちがあったのでしょう。
同じ音楽関係者として、ハッセルマンのこの行為は必ずしも好意からでなく、 
音楽国に生まれた者の持つ、新興国作曲家に対する優越感であったことはまず間違いないと思います。


というわけで、ハッセルマンの楽譜は、さすがに丸めて捨てられはしませんでしたが、
ながきにわたって瀬戸口家の書庫に眠っていたそうです。
ハッセルマン版「軍艦」が日の目を見たのは、瀬戸口が亡くなって83年後の平成6年のこと。
発掘者の手によって初演されました。

しかし、聞き慣れているから、というだけでもなく、ハッセルマン版よりも、
ましてやベルリンフィル版よりも、オリジナルの軍艦の方がすっきりしてよくできていると思います。

なにより中間部の和旋律を元にしたメロディには、あまりに複雑な代理和音を駆使した欧州版は
「小野小町の顔にマリリンモンローのバディ」
(現代で言うなら小雪の顔に小雪の躰・・・・あれ?)
という感じですらあります。
決して身贔屓でなく、瀬戸口版が最初にして最後の、そして最高のバージョンと言っていいでしょう。

あとは

雅びな琴と尺八バージョン(海軍関係者の新年会のBGMに最適)

ハーモニカバンドバージョン(学校教材用)

インドネシアの竹でで来たシロフォンバージョン(バリ風エステサロンのヒーリングBGMに最適)

バッキー白方のハワイアン・ギターバージョン(夏向き)


この辺りは、もうご想像のとおりでございます。

というわけで、まだまだ続きます。
後半をお楽しみに。










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STUPID IS AS STUPID AS DOES

2011-02-16 | つれづれなるままに

「対象に対して多少なりとも愛が無いと私は描かん!」
などと榊原莫山の言いそうな(言わないか)啖呵を切った直後でありながら、
見るからに対象に愛のない画像をアップしているエリス中尉です。

ふふーん、こんな画像、2分で下書きして3分で塗りつぶして、ちゃちゃっと仕上げたんだもんね。
と、別に威張らなくたっていいのですが、いやー、便宜上挙げたとはいえ、あからさまな手抜き画像ですな。

まあ、いいんですよ。これがこの顎の無さで田中康夫氏だと云うことさえ分かれば。

というわけで今日の話題なのですが、エリス中尉、小説というものをあまり読みません。
高校生大学生の時、いわゆる話題作とか、古今東西名作と言われるものはそれなりにがっつりと読みましたが、
当時からどちらかというとノンフィクション、特に歴史モノ好きでした。
なので、この田中康夫氏の小説というものを一冊しか読んだことがありません。

それが「何となくクリスタル」だったんですが、驚くべきことに読み終わって本を閉じた瞬間、
内容をきれいさっぱり忘れてしまったんですねー。
まるでクリスタルのように、透明で、何も読後感が残らなかったんですねー。

爾来、この方のことは「多少小説らしきものもかけるスッチーおたく雑文家」という位置づけで見ていたのですが、
阪神大震災のとき、被災地に乗り込んでバイクであちらこちらを周り、ボランティア、じゃなくて取材活動を始めたとき
「気持ちは分かるが、なんだかヘンな方向に行っているなあ」って思いました。

(特に、活動拠点の大阪の某一流ホテルのスタッフから、エリス中尉いろいろと聞きましたのでね。
まあ、ここでそれを言うのもフェアではないので書きませんが)

さて、その後、政治家になってみたり、さらに混迷の度合いを強めて
「いったいあなたは何がしたいのだ」と思っていた頃、ある彼の雑文を読んで「フ―ム」と唸ってしまいました。

「何となくクリスタル」なみに、その内容はさっぱり忘れてしまったのですが内容はつまり
「人の悪口」。
御存じ、彼の天敵、村上春樹氏に対する罵詈雑言です。

今回、ふとそのことを思い出して、検索してみたら、しっかり
「田中康夫の村上批判」というジャンルで検索出来てしまったのですが、不思議だったのは、
今現在田中氏が村上氏を非難している内容は、その当時私が読んだものとは全く違う内容なんですね。

田中氏は、村上氏が「エルサレム賞」を貰って、その受賞式で述べた
「対象は壁、作家は卵だとしたら、潰れてしまうと分かっていても卵の立場を選ぶ」
みたいな(間違ってたらすみません。この際、その内容については言及しないのでいい加減)言葉、
そして、「ノーベル文学賞欲しさの営業活動」であるところの授賞式参加、などを、浅田某氏との対談で
口をきわめて?非難しています。

遡ればサリン事件の後、村上氏が被害者のその後を「アンダーグラウンド」というノンフィクションに著したことも
「ノーベル賞はノンフィクションも書いている作家に与えられることが多いから(そうなんですか?)つまり、
ノーベル賞狙いの営業活動だ」
とこの著作をしたことそのものを批判しています。

ネット界では、この色々について、やはりいろんな意見が戦わされており、村上ファンの中でも
「村上小説のファンから見ると、異様なテーマなので賞狙いの営業活動だるという田中の非難は正しい」
などという人もおり、
それこそ百家百論の様相を呈しているのですが(←おおげさ)、
村上春樹氏の小説を読んだことがない(エッセイは好きでしたが)わたしとしては、今やこの村上氏が
世界中で読まれ、現代日本文学の旗手と言われ、ノーベル文学賞の候補にまでなっている、ということに、
小説家としてデビューしていながら全く芽が出ずいろんなことに手を出して、ついには政治家にまで
落ちぶれて?しまった田中氏が、単純に嫉妬しているだけにしか見えないんですよね。

わたしが以前読んだのは、確か、小説の内容に対する批判に始り、人格批判であったように思います。

しかし、それを読んだからといって
「ああ、村上はそういう才能のない作家で、どうしようもない奴なんだな」
とは、誰も思わないでしょう。ただ
「田中康夫がこうやって公器を使って人の悪口をいっている」
という事実だけが残って、オシマイ、です。

百歩譲って、いや、もしかしたら、田中氏のいうことは、ある論陣にとっては正論なのかもしれません。
わたしはそれが卑しいこととは決して思いませんが、村上氏が田中氏のいうように
「ノーベル賞が欲しくてたまらない」というのも本当かもしれません。

しかしね。
同じ土俵に立っていうのならともかく、田中氏はなんとこれらのことを、今の自分の主な仕事である「政治家」の立場で、それも政治家として与えられた場所で言った(り書いたりした)というのですよ。

これは卑怯ではないですか?

まあ、つまり、ネットの討論で何人かがいうように
「田中康夫は自分がなりたくてもなれない村上の文学者としての位置に嫉妬している」
「お金のないジャズ喫茶の主人だった男がいまや世界のムラカミと言われているのが面白くない」
ということは、間違いないように思えます。

どんな自分に正当性があっても、どんなに相手が不当に過大評価を得て、それは間違っている、と思ったとしても、
「悪口を言う方が負け」
と、世間の大半は思ってしまう、ということに、田中氏は一刻も早く気付くべきです。

村上氏は、おそらく田中氏の激しい非難を御存じでしょう。
田中氏がもし村上氏のような人間なら、激しい応酬をしてそれこそ泥沼状態になっていた可能性もありますが、
村上氏が田中氏を逆に非難した、ということは寡聞にして知りません。

これだけで、この戦いは村上氏の勝利なのだと思います。

そこで、冒頭のフォレスト・ガンプの名セリフを、田中氏に贈りたいと思います。
Stupid is as stupid as does.(馬鹿と言うものが馬鹿)

それにしても、画像書いていて思ったんですが、田中氏のこういう体型をクレッチマー分類すると
まさに「H型」なんですよね。

顕示質タイプ(H型)

このタイプはわがままで勝気。嫉妬深く、見栄っぱりで我慢するより外側に発散することを好む。
華やかで賑やかな雰囲気を持ち、常に人々の中心にあり続ける。
(社交的)話題も豊富で広い知識を持っている。
流行に敏感で全体的に知的で利口そうな雰囲気である。
常に自分が話題の中心にあることを好み、自慢話が多い。
他人に好かれ、尊敬されることに価値を持っていることから、自分が無視されることを嫌い、
常に自分の方に話を持っていこうとする。(会話の主語に”私”を多用する)
対人関係では人の好き嫌いが激しい。
社交的で一見、 他人に親切であるようにみえるが打算的であることが多く
日が経つにつれ他人が離れて行くことが多い。
良く言えば、子供っぽい性格。悪く言えば大人になりきれない未成熟なタイプ。
(*参考-小太りで赤ら顔が多い)

ウィキペディア(クレッチマー分類より)

おおおおー。

田中氏には何の恨みもないし、好きでも嫌いでもない人ですが、要らないことを大きな声で言うと、
要らない批判もされるのだがなあ、とふと思いました。

 

 

 

 

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陸戦の(神様)中村虎彦

2011-02-15 | 海軍



中村虎彦中佐。海軍兵学校59期。鹿児島一中出身。

昭和16年蒋介石政府への援助物資の流入を阻止するために日本軍は東、南シナ海沿岸の要所を占領する作戦に出ました。
陸軍第五師団は鎮海など四カ所に同時上陸し作戦決行する計画でしたが、その鎮海上陸部隊の中にこの中村虎彦大尉(当時)の率いる海外特別陸戦隊が加わっていました。


なぜ陸軍部隊に海軍部隊が?


そのあたりの事情についてはお上の決めることゆえ色々あったのだろうとしか言えませんでしたが、海軍的にこれは「気の進まない仕事」であったようです。
何かと気の合わない、やり方の違う陸軍と行動を共にするだけでなく、その指揮に従う立場だったからです。
こう言う嫌な仕事はノーの言えない若い者に押し付けるのが海軍の悪いところ。


陸戦隊の古参参謀や部隊長からこれを押し付けられたのが当時大尉であった中村虎彦でした。
「行ってもいいが、連れて行くのは(元気のいい)現役兵のみ。
そして司令部公室に飾ってある菊一文字の刀を貸していただきたい」

中村大尉は腰に軍刀、背中にこの大刀を背負い、大隊を率いて上海上陸の陸戦隊に参加。
しかし、泥地に上陸した陸戦隊は正面の堤防陣地から猛烈な集中砲火を浴び、泥まみれになって這いつくばり、弾をやり過ごすのが精いっぱい。


そのとき、腹這ったままの中村隊長の耳に飛行機の爆音が聞こえてきました。
沖合の舟山列島から掩護に来ることになっていた水上機が到着したのです。

「松島、軍艦旗出せ」

上空から日本軍が認識できるように軍艦旗を広げて目印にしようとしたのですが、横にいた旗手の松島兵曹はあまりの敵弾の激しさに身動きもせずじっとしています。

「コラ松島、出さんと斬るぞ」

泥に這いつくばっているので背中の菊一文字を引き抜き一喝しました。
それを見て飛び上がった松島兵曹、軍艦旗を押し立てるやいなや、猛然と敵に向かって突進していきました。
仰天したのは中村隊長です。

「危ないッ!待てッ!松島待てッ」

捕まえて「伏せ」させねば・・・敵弾の中を必死の追いかけっこが始まりました。
ところがひょいとふりかえると、軍艦旗が突進し、隊長が大刀を振りかざして走っていくものだから当然「突撃命令」を受けたと思った部下が必死の形相で突撃してくるではありませんか。

こうなればもう後には引けぬ。
「突っ込めえ―!」

疾風迅雷の勢いで敵陣に向かって突進していく一個大隊。
たまたま運よくその進路は敵弾の死角になっており、不意を突かれた敵兵はあっという間に退却してしまいました。

無人の野を行くように朝日に翩翻と翻る軍艦旗と菊一文字。
中村隊はあっという間に城頭に軍艦旗を押し立ててしまったのです。


陸軍の四個部隊はその様子を見ているだけで身動きもできませんでした。
動けなくなっていた泥地にだんだん潮が満ちて陸地は海に。
突撃どころの騒ぎではなく、パニック寸前の危機に陥っていたのです。
そして泥にまみれながら中村大隊の突撃をあっけにとられて見ていたようです。

この陸戦の武功をもって中村大尉は「陸戦の中村」「陸軍に一目置かれた陸戦の神様」
などと奉られることになったというのですが、神様と呼ばれたきっかけも実はこのような慌て者の?部下のおかげ。
なので、カッコ付きの神様扱いをさせていただきました。
まあ、起こってしまったハプニングを好機に変えたという意味では判断が優れていたと言えるのかもしれません。

この中村中佐(終戦時)は、中級指揮官でありながら実に優れた大人物であったようです。
その後の鎮海駐屯中は敵であったはずの民衆にも信頼され、そして終戦時に在任していた南鳥島守備隊を見事に取りまとめて降伏を受け入れに来た米軍司令官と堂々と渡り合いました。
その至誠は敵味方を越えたということです。




クラスメートの吉田俊雄中佐が呼ぶところの「トラさん」の振り回した何かと大活躍のこの黄金作りの菊一文字の太刀、現在は上野の博物館で見ることができます。
・・・で、エリス中尉はこのお正月に遊就館の催しで、真剣(柄無し)を持たせてもらってそのあまりの重さに驚き、
同時にこの話を思い出して思わず呟いたわけです。

「嘘だ・・・・・」



参考:日本海軍のこころ 吉田俊雄 文春文庫
   なにわ会HPより
   ウィキペディア フリー辞書











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たとえあなたが○○でなくても

2011-02-14 | つれづれなるままに

今日はバレンタインなので、少しそれらしい話をしますね。

 

一流会社の社員、官公庁務め、会社のオーナーの息子、医師弁護士会計士、
いわゆる「独身女性が眼の色を変える職業」というのがあります。
「医師専門お見合いパーティ」なんかがあるように、いわゆるこういう「エグゼクティブ」の夫を捕まえて
あわよくば一生安泰、という目的の下に、ターゲットを絞る女性がいます。

さて、さりげなく私事を言いますと、エリス中尉の連れ合いであるところのTОは、
世間的に言ってこの範疇に入ると云われる職業です。
その職場には勿論のこと女性が事務員として、あるいは受付として応募してくるのですが、あきらかに
「あわよくば」な野心を抱いて就職してくるのが大半なのだそうです。

何年か前まで、TОの職場は「職場恋愛禁止」だったのです。
しかし、現実的に忙しい職場で働き外の世界といえば水商売の女性くらいしか接する機会のない彼らは、
やはり手近の女性に目が行き手が行き、ハッと気づいたら結婚していた、という実例があるうえ、
職場恋愛禁止を謳うと、明らかに事務員の応募が減るのだそうです。
採用面接で「ウチは恋愛禁止ですがいいですか?」って聞いたら即答で「やめます」って言った人もいるそうですよ。

で、それを解禁したとたん、応募激増。

ある年、某航空会社のフライトアテンダントからの転職で応募してきた女性がいたそうです。
「フライトアテンダントを辞めてまでする仕事なの?」
「うーん、所詮雑用と受付だからねえ、比べ物にならないと思うよ、やりがいは。お婿さん探しでしょうやっぱり」

なんだか、この女性が何故FAになったのか、という動機すら、不純に思えてきますよね。

少し前、担当の秘書が全く仕事ができない、おまけに残業が多いと陰口を言われて頭を抱えているTОにさりげなく
「女性社員の心をつかむには」という本をプレゼントしました。

でもこれ、多分無駄でしょう。
独身のハンサムな男性のためならたとえ徹夜の残業でもやっちゃう、って人でも、
妻帯者で、おまけに定期入れに妻(わたしだ)の写真を入れていて、何かというと
「妻との出会いと結婚に至るまでの僕のストーカーぶり」を話したがる有名な愛妻家相手に、
あほらしくて残業なんてしてられっかての。

でやっと本題ですが、そういう職場であるゆえに、ときおり同僚若手のこんな愚痴を聴くのだそうです。
「近づいてくる女性が本当に自分が好きなのか、僕の職業が好きなのか、つい疑っちゃうんですよね」

うんうん、わかるよ。
某銀行破たん時、「あなたはかつてあんなに輝いていたのに、今のあなたは・・・」
って三行半を叩きつけられた男性がいたそうですし(そんなこと言われてもねえ)
リーマンショックの時も、それなりにお気の毒な話はあったとも聞きます。

さかのぼれば戦前、憧れの目で海軍士官を見つめていた当時のおぜうさんたちは、敗戦後、
軍人でなくなり、軍服を脱ぎ、公職追放などで不本意な仕事に甘んじるかつての士官に
実に冷ややかな視線を投げるようになったということです。
そしてそういった理由での家庭崩壊、夫婦不和は日本中で数多く起こったものでしょう。

つまり「あなたが海軍士官でなかったら、私は好きになっていなかった」ってことですね。


さて、本日画像は、ジョン・ウー監督、士郎正宗原作「エクスマキナ」の登場人物、テレウス。
実はこのテレウス、遺伝子操作されたクローンです。
そして、その元遺伝子の主はブリアレオス・ヘカトンケイレスという特殊急襲部隊の隊員で、
瀕死の事故を起こしてからその体はサイボーグに変えられ、現在は左上のマシンボディです。

このブリアレオスには事故前からデュナンという部隊の同僚である恋人がいて、
彼がマシンボディになってしまっても変わらぬ愛を注ぐのですが、
ある日、かつてのブリアレオスの容姿をそっくりそのまま持ったテレウスが
なんと、デュナンのパートナーに割り当てられます。

動揺するデュナン。

デュナンの動揺は、この「もしあなたが○○でなかったら」の、どんな人間にもある
「決定へと自分が導かれた数多くの理由」の一つに対しての密かな「後ろめたさ」からと言えるかもしれません。

つまり、今、デュナンが愛しているブリアレオスは、たとえマシンボディであっても、
元のブリアレオスに変わりはないのであり、この、ウサギのような耳を付けたサイボーグであろうが何であろうが、
彼女の気持ちに変わりはないのです。

しかし、遡れば昔、もし目の前に、このウサギ耳サイボーグと、画像の超男前が現れて、
中身はほとんど一緒、しかも同時に求愛、という条件なら、彼女はどちらを選んだか。

彼女の動揺は、辿ればそういったことからきているのです。


人生の連れ合いや、恋人を選ぶとき「○○でなかったら好きになったかどうか」は、
とくに結婚などというものが絡むと、一筋縄で答は出ないものでしょう。
男性の場合は例えば「もし彼女が美人でなかったら好きになったかどうか」と胸に手を当ててみると、
その条件、というべきものが最初から対象の特徴や魅力となり一体化してしまっている、
と感じるのではないでしょうか。

「僕がお金持ちだから好きになったの?」という男の問いに
「お金持ちのあなたが好きなの」
と答える小説(だったかな)がありましたが、この女性の言葉は、ある意味至言と言えますまいか。

たとえあなたが○○でなくても、の○○に相当する職業の人は、もしかしたら○○でない人たちより
真実の愛に恵まれにくいというハンディを背負っているのかもしれません。
本当に「○○でなくなったときも愛してくれるかどうか」は、簡単に試してみるわけにもいきませんからね。

 

んじゃ自分はどうなんだ、という声がちらっと聞こえたので、さて、自分のことについていうと・・・・・・

「ストーキング婚だったので何とも言えない」

それに、そのときはまだTО、職業決まって無かったしね。

 

 

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笹井醇一学生

2011-02-13 | 海軍


今日二月一三日は笹井醇一中尉の九三回目の誕生日です。


海軍兵学校の卒業写真に収まる事業服姿の笹井中尉の写真を見つけました。
エリス中尉の中指お絵かき画像であっても、どれが笹井生徒かお分かりですよね?


そう、右から三番目が笹井生徒です。
こんなことを言うと怒られてしまうかもしれませんが・・・なんてかわいいんでしょう。
このメンバーは同分隊の、右から

中村克己
大井隆三
笹井醇一
北川貞夫
田中一郎
上田淳二
中尾犬次


で、中村生徒、田中生徒以外は全員が戦死しています。
田中生徒は笹井生徒のあだ名「シャモ」の名付け親です。
笹井生徒に限らず、「例によって口の悪い田中」(肥田真幸大尉談)によってあだ名を付けられた学生は
たくさんいたそうです。

いますよね、そういうひと。あだ名つけの名人。

笹井生徒がシャモのあだ名を賜り、坂井三郎氏がそのことを知ったとき
「うまい!まさにその通りだ」
と膝を叩き、海軍の仲間は親より本人の特徴をつかむのが上手い、と感嘆したように、
このあだ名は的を射ていたようです。

というのも、皆が口を揃えて笹井生徒は気性が強かったと証言しているからで、
たとえば口論になるとその徹底的な負けず嫌いゆえに身近な友人は「甚大なる被害」を被った模様。
特に霞空で同室だった命名者田中少尉(当時)は「ハートナイス」といいながらも
「時おりケンカになると大変だった」と述壊しています。

しかし、この屈託のない笑顔を見ていても十分に想像できるのですが、
率直で純情、全ての人に好かれ可愛がられ、また尊敬された、と
同期の入谷清宏少佐(昭和一九年七月ペリリューで戦死)が書き遺しています。


笹井生徒の兵学校時代については、一期下で同分隊であったこともある作家の豊田穣氏が
いろんな作品に書いていますが、鴛渕大尉について書いた「蒼空の器」の中で、
角力の大会で何人も勝ち抜いて注目を集めた、という部分があります。

それを裏付けるのが同期の星出隆臣生徒の追想記です。

「東京の都会育ちに似合わず頑張り屋でファイトがあり、角力で細い体で土俵際で頑張り
うっちゃっては勝星をあげていたのを思い出す」


柔道も巧者だったといいますから、きっと瞬発力のある柔軟な筋肉の持ち主だったのでしょう。

学生時代から飛行機の操縦は上手く、同級生は「天性の勘の良さ」と一目も二目も置いていたようですが、
ここで学業成績についてひとつ。
笹井生徒がハンモックナンバーをおおいに落とすことになったらしい科目があります。

通信のトンツーでした。

「海の男の通信勤務」の日に、この件について少しお話ししましたが、そのときに
「ああ言うとこう言う」「乃木東郷」「路上歩行」「ネーモーだろう」「んめえうめえな」
などと言いつつ覚えるトンツーの話をしました。
これは兵学校での必須科目なので、海兵合格の通知を受けたとたん前もって練習し、
入校に備える生徒がほとんどだったそうです。
というわけで入校時にはほとんどの生徒ができるようになっていたというのですが・・・。

とにかく彼は「不思議と」(同級生談)このトンツーだけは大の苦手であったそうです。
しかし、ここが「シャモ」のシャモたるゆえんの負けず嫌い、
田中一郎氏言うところの「妙な言い訳」によると、

「俺は勘が良すぎてトンツーのスピードが合わないのだ」


やっぱり、この言い訳を見ても、いちいち「敵編隊捕捉」と打つのに

「手数な方法聞いてへんめえんめえなタール伊藤方法相当高価苦しそう」
なんてやってられっかよ!敵編隊捕捉したらすぐさま出撃だ!


ってひとではなかったか、という想像、当たってる気がします。










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