ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「非情城市」~台湾・228と白色テロ

2013-02-28 | 映画


今日は2月28日ですので、228事件を描いた映画「非情城市」についてお話しします。


ところでいきなり(笑)余談です。

韓国の新大統領が、就任式のため来訪した麻生財務大臣に
「二国間の関係改善のため歴史を直視して云々」と言ったそうです。
改善するも何も、今まで何度も日本が謝罪してきたわけだけど、
二国間の関係が一度でも良くなったことがあったのか?
統治の実態や戦後の保障について歴史を直視するべきはそちらでは?
比較的親日派だった父を持つ新大統領は特にそれを知っているはずだが?
と突っ込んでしまったのはわたしだけではありますまい。

しかし、ここで言いたいのは相変わらずのこの国のことではありません。
BSでこの女性大統領就任式の様子を80分に亘って生放送し、
まるでアイドルか何かのように彼女を持ち上げて紹介し、
さらに余った時間でK-POPとやら言うジャンク音楽の映像を流して宣伝した、

NHK(日本・放送・協会)

について、この場をお借りして少し言わせていただきます。


あなた方は本当に日本の放送局ですか?
日本の公共放送ならば、生放送するべきは「竹島の日式典」の方だったのでは?

ただでさえいろいろとその反日ぶりが糾弾されているにもかかわらず、
最近開き直っておられるのか、その出自を隠そうともしない様子、
今度という今度はその暴挙、目に余りましてよ?
それとも、開き直って日本人を挑発しているつもりでしょうか?
少なくとも日本国民は自分の払った視聴料で「こんなもん」を生放送する
御局の姿勢とその存続に疑問を感じ、いくら御局があちらこちらで訴訟を起こして
恫喝しようとも、今後ますます解約が進捗することはもはや避けられますまい。
しかも、放送倫理や公平性などを審査する御局の内部部門に、よりによって

「なぜか朝鮮語が堪能なヘイトスピーカー」

がいることまで今回さらされてしまったようですね。
良識ある日本人がNHKの闇を明るみに出し、解体へと向かう動きが
今回の事件でさらにいっそう加速してしまうのではないかと心配です。(棒読み)


さて、歴史を直視する、ということからいきなり話題がそれましたが、
台湾という国に関してもまた、50年も統治していながら、
なんだかんだとややこしい勢力に要らない色眼鏡を押し付けられ、
直視するもなにも、まず是非論から乗り越えなくてはいけないという現実があります。

しかも終戦後の民主化に至るまでについて、我々はあまりにも知らない。
いや、知らない、というよりあまり関心を持たされなかったというべきでしょうか。



この年末年始に台湾を訪れ、旧日本統治時代の史跡を観て、
また金美麗さんや蔡焜燦さんと出会い、台湾と日本のつながり、
日本がそのときどうあったか、そして、われわれ日本人が
あまりにも台湾のことを知らないことを思い知らされました。

台南の高雄で起こった228に付随する虐殺事件の記念館について
ここのジオラマをご紹介するログをアップしたところ、読者の方から

「知識としては知っていたけどこんなものだったとは・・・」

と、その凄惨さに衝撃を受けたとするコメントをいただきました。
それはわたしにとって、いやほとんどの日本人にとっても同様でしょう。

その理由はわたしは大きく二つあると思いますが、ひとつ目は、
日本が敗戦後、復興と自らの独立で他国の国情どころではなかったこと。
二つ目は大陸からきて台湾人となった「外省人」(ワイショウレン)、つまり
弾圧した方が戒厳令下においてそれを語ることを許さなかったこと。

現在においてすら外省人はマスコミなどを掌握して、むしろ
それより日本統治の方が酷かった、などと広報する向きすらあるのです。

そしてこの外省人と内省人の対立の構図は、
第三者によるこの国の理解を著しく困難にしているとも言えましょう。


今回、228事件、それに続く白色テロの時代が「惨事」「悲劇」として世界に
伝わっていない事実にわたしは衝撃を受け、それを知るために、
台湾でお会いした蔡さん、金さん、そして李登輝元総統の本などを読み、
そしてこの映画「非情城市」を観ました。


「非情城市」、1989年度作品
英語では「A city of sadness」です。
公開からもうすでに24年、4半世紀近く経っているのにあらためて驚きます。
台湾が戒厳令(白色テロの時代)から解放されてわずか2年後の制作です。

台湾の戒厳令は、1987年、内外の批判を受けてとりあえず終止しました。
この映画もその期間に制作が始まり、公開に至ったのですが、実際のところ、
この期間は蒋経国(蒋介石の息子)が死亡し(1988年)李登輝が総統となり、
刑法を改正することで完全に民主化が成る1992年までのいわば過渡期にあたります。
蒋経国の死後は権力闘争の混乱にあったため、言論規制が緩和され、

「さもなければ228事件を題材に映画を撮ることはできなかった」

監督の侯隆賢は、このようにこの時代を説明しています。
この映画を撮ろうと思った頃には、まだ228について語ることすら許されておらず、
出版物も皆無に等しかったので、監督はこっそりと関係者を辿り話を聞きました。

日本でこの事件が全く知られていないのも当然だと言えましょう。

この「白色テロ」という言葉ですが、台湾だけの専売特許ではもちろんなく、
「革命を起こす側ではなく為政者側が敵対勢力に対して行う弾圧」をさし、
ナチスドイツの一連のユダヤ人迫害、アイルランドの「血の日曜日」、
韓国の「済州島事件」「光州事件」、日本では「甘粕事件」などがそれに含まれます。

なぜ「白色」なのかというと、それはフランス復古王政下における王党派の
「白ユリ」の色、白から来た名称であるからです。
由来がフランスなので、日本では「白色テロル」とも言います。

ついでに、「赤色テロ」とは、左翼、共産主義側による敵対勢力への弾圧を指し、
中国の文化大革命、カンボジアのクメールルージュの殺戮行為などです。



1945年、8月15日。
玉音放送がラジオで流れる、キュウフン(フンはにんべんに分)の、
あるやくざの家から映画は始まります。
その中、一心に仏に祈りを捧げるやくざの林文雄
泣かんばかりの風情ですが、それは日本の敗戦を悲しんでのことではありません。
これから妾が出産するので、その無事を祈っているのです。

この映画に描かれる台湾人は、歴史の記す通り、日本が去った後、
中国本土からやってきた国民党政府によって皆が凄惨な目に遭う運命ですが、
彼らは日本の支配が終わることについて、何の痛痒も持っていません。

それもそのはずで、このころほとんどの台湾人は日本の支配が終わり、
とにもかくにも同民族政府がやって来ることを歓迎していました。
日本は「所詮はほかの民族である」という認識だったのです。


しかし、51年にわたる支配は、良くも悪くも、彼らが意識しようとしまいと、
「日本」の痕跡を彼らの中に残していました。
この映画ではそれが随所に語られます。

この冒頭の絵は、写真館を営む林家の四男、聾唖の文青とその妻である寛美
文青を演じたトニー・レオンは香港のスターですが、台湾語がしゃべれないため、
役が聾唖であるという設定になったそうです。
この「寛美」は、「ひろみ」と読み、彼女の兄である呉寛榮(ひろえい、やはり日本風)は、
台湾生まれの校長の娘、日本人の小川静子と愛し合っています。

教師であった静子がオルガンで「赤とんぼ」を歌うのを、
恋に落ちた寛栄が憧れのまなざしで見つめる様子、そして、
静子が和服で生け花を活けたり、
静子の兄と寛榮がともに書道をする学生時代の回想が
美しい映像でしみじみと語られます。

日本人に帰国命令が出ました。
静子は自分の戦死した兄の遺品として、竹刀、着物、
兄がしたためた書を寛美に渡し、台湾を去ります。

その書にはこう書かれています。

「君は思うままに 飛び立って行け
俺もすぐ行くから 皆 一緒だ」

「ふるさと」「赤とんぼ」などの日本の音楽が流れ、
静子も寛美も日本語で歌うように会話します。
そして寛榮が

「日本人は桜の花を愛でる。
花咲き、最も美しいときに枝を離れ地に落ちるからだ。
人生とはそうあるべきだと言うのだ」

と日本人の死生観について語ります。
このときかれは「桜」を「サクラ」と発音しています。


この後「売国罪」という刑法によって次々と密告が行われ、
国民党の「共産党員狩り」「売国奴狩り」が始まり、台湾人もそれに対抗するという
暗黒の時代に突入していくのです。

戦地から帰ってきたものの精神に異常をきたしていた林家の三男は、
「日本軍の手先になった」という理由で投獄され、
やくざの長男が大金を積んで身柄を取り戻しますが手酷く拷問されていました。

そして文青が逮捕されます。

牢の中の二人が処刑のためその名を呼ばれ、黙って身支度を整える間、
文青と残された一人は、それをただ黙って見守ります。

この監督の特異なカメラワークと言うか演出なのですが、
この映画は全般的にカメラを決して対象に近づけず、
どんなイモーショナルな場面でも表情をアップすることはしません。
この場面も、カメラは牢獄の外側から見える部分だけを映し、
これから処刑になる二人の男がどんな表情をしているのか、
どんな様子で身支度を整えているのかも明らかにしないのです。

一人の男が立ち上がってこれから殺される男のワイシャツの襟を直してやる、
どちらの顔も、格子にさえぎられて我々は見ることができません。

あくまでも淡々としたこの表現によって、
文雄が賭場で上海やくざの銃弾に命を落とす場面、
山にこもっていた寛栄とその家族が国民党兵士にこれから殺されるという場面ですら、
まるで他人事のような無関心さで映し出されるのです。


この後、文青は口がきけないということで帰され、寛美と文青は結婚し男児をもうけます。
(この子供がむちゃくちゃ可愛い)
それなりに穏やかで寛美の言う「わたしには幸せな」日々が続いているある日、
文青についに政府からの召喚状が来ます。

連行されていった文青は、二度と戻りませんでした。


侯監督は東京で行われたインタビューでこのように語っています。


「人々の気持ちが希望から失望へと変わってしまった時代でした」

「国共内戦に敗れ、金も物も持っていない国民党の軍隊が
中国から押し寄せたため、夢に描いていた新時代とはかけ離れた現実を
目の当たりにすることになったのです」

「日本の植民地だったころの台湾はある意味で平穏無事な時代でした」

「国民党の兵士や政治家が内戦の騒乱を台湾に持ち込み、
言葉を始め問題が噴出し抑圧、緊張の生活を強いられました」


この映画が公開されたとき、台湾は騒然となりましたが、
そのなかでも、もっとも敏感に反応したのは台湾独立派と中国統一派の人々で、
しかも、このどちらの陣営からもこの映画に対して不満が出たのだそうです。

しかし監督は

「わたしはこういう時代に生きた人間を描写したかっただけで、
政治的な意識で映画を撮っているわけではなかった」

とそれらの批判を全く意に介さなかった理由についてこう語っています。

この映画は金獅子賞をとるなど国際的にも評価され、台湾では物凄いヒットをしました。
そして、この映画以降、228について人々が呪縛が説かれたように
語ることを始めたと言われています。

抑圧された人々の悲惨な過去に対する気持ちが、この映画以降、
実際に口にすることができるようになり、整理することができたという意味でも、
この映画の果たした役割は偉大だったと言えましょう。


ところで、わたしはDVDの特典に付いていた日本語の予告編を見て、
またもや、ここにもいつものNHKを思わせるマスコミにありがちな

「勝手に都合よく解釈して自分たちの主張したい風に持っていく」

と言ったナレーションが当てられているのにちょっとうんざりしました。
だって、こうですもの。

「ロマンと理想が燃える非情城市、台湾、一九四五年。
日本の支配から中国復帰へ自由と解放の夢にかけて
激しく美しく生きる林一族の人々」


なんだかピントが外れてます。
国民党の弾圧より、日本の支配から解放されたことの方が、
なんだかこの人たちには要問題だったみたいですね。
というか、このラインを書いた人、ちゃんと映画観た?


画像は、写真館を営む文青がセルフタイマーで撮った最初で最後の家族写真。
丹念すぎるほど丹念に身なりを整え、書き割りの絵の前で妻と息子と共に
自分の姿をカメラに納めた文青は、この後、静かに逮捕されていきます。


映画には全編不思議な静寂が漂います。

爆竹や台湾式読経の音、やくざ同士のけんかですら、この映画では
すりガラスの向こうで行われているような印象がありますが、
わけても口のきけない文青の静けさはなぜか「日本的なもの」を
その佇まいから想起せずにはいられません。

そして、彼らが苦悩しながらも従容と死に就くそのさまは、かつて彼らが
「桜のように散ることを尊ぶ日本人」でもあったことと無関係ではないと思うのは、
わたしが日本人だからでしょうか。








旅淡シリーズ~昼下がりの倉敷を歩く

2013-02-27 | お出かけ

夜の倉敷もいいですが、昼下がりもね。

というわけで、何度も来ている倉敷美観地区、
もう別に良く知ってるから行かなくていいわ、と言う気も
ちらっとしないでもなかったのですが、
何が何でも出かけなくてはいけない理由ができました。
それは

大原美術館を解説員の案内付きで観賞

という、地元企業の社長である知人の篤いご手配により、
ありがたいようなありがたくないような(これっ)スケジュールが
この日の朝から入っていたのです。

「大原美術館、何度も観ているんだけどな・・・」

しかし、これも秋田に行ったときに慨嘆したように、
「接待する方もされる方もとりあえずは仕事」というモードですから、
これを「いや、もう観たことあるので結構です」
なんてとても言えるものではありません。

社会人の皆さん、そうでしょう?

案の定ぶーぶー文句をいう息子を無理やり引っ張り出し、ホテルを出ました。



部屋からの眺め。
屋根瓦が昔のままです。



倉敷国際ホテルは実は庭で大原美術館とつながっています。
なので、入口を出て角を曲がればそこは美術館と言うロケーション。



疎水を見ながら30秒も行かないうちに着いてしまいます。
ここには白鳥のカップルがいて、優雅な姿を見せてくれるのですが、
なんだか一羽の様子がおかしい。


その長い首を上下に激しく振っています。

夫の(勝手に決めているけど根拠なし)様子がおかしいので、
妻も少し心配そう。
「あなたどうなさったの?」
「さっきなんかうまそうじゃ思うて口にしたもん、食べ物ちゃう!
でも、半分喉に詰まって取れへんのじゃ~」(うろ覚えの岡山弁)

まあ、こんな状態では喋るどころではないので、
鳥同士のテレパシーでこのような会話が行われていると想像しました。

うーん、水の中に小さなプラスティック袋が落ちていたんですね。
よく、ウミガメなどは、プラスティックバッグをクラゲだと思って食べてしまい、
詰まらせて死んでしまうという話を聞いたことがありますが、
そんな感じでしょうか。
何しろ苦しそうです。



「優雅に見える白鳥も水の中では必死で水を掻いている」
by花形満

白鳥は尾から出る脂分を羽に付けて楽に浮くことができるので、
上記は梶原一騎の勘違いであったことが最近明らかになったわけですが、
この白鳥は皆にもしっかりわかるように必死で水上で首を振っています。

「これ、誰かに言った方がいいんじゃない」
と見ていると、どこかのお店の制服を着た女の子が立ち止まり、
じっと見てから立ち去ったので、わたしたちは彼女が
しかるべき部署にこのことを報告するものと安心してそこを去りました。

しかし白鳥にとって不幸中の幸いだったのは、
このように口から垂れ下がっているから異常に気付いてもらえたことです。
プラスティックが小さくて口に入ってしまっていたら、ウミガメと同じ運命でした。



大原美術館到着。
ここで副館長とご挨拶。
虫明さんとおっしゃるかたでした。
この名前は岡山県の地名でもあり、ここの出身者に見られるものです。
ちなみにわたしの名字も岡山にその地名があり、岡山に多い名字です。
TOのルーツは岡山ではなく、そのお向かいの四国らしいのですが。

副館長が用意してくださった解説員はここのキュレーター。
ところがTOったらこの方に挨拶するなり
「何度も観ているので簡単にお願いします」

な、何を言う~!それでも社会人か。
向こうだってスポンサーの命令で仕方なく来ているのに、
こんなことを言われて気を悪くしない美術館員がいようか。

後で文句を言うと、
「だって、気乗りのしないようなこと言っていたからきみのことを思って」
「それは嬉しいけどあの方は頼まれて来てるのだけなのに失礼じゃない」

そう、たとえ陰でどれだけ「めんどくさい」などと言っていても、こういう状況になれば
解説員の言うことを真剣に聞き、熱心に質問などしてしまうのがエリス中尉。
それになんだかんだ言って解説がついていると居ないでは全く面白さも違います。
この方の説明に周りの客も「ほおー」などと言って質問してくるのもまた一興。

ところで、この日、この方と二人で館内を巡っていてこんなことがありました。

現代絵画のコーナーに、アメリカ人のリトグラフの作品で
「ローザ・パークス」と言うタイトルのものがあったのです。

「公民権運動のローザ・パークスですね」

わたしが言うと、解説の方は

「知りません」

とおっしゃるので、バスの白人専用席に座って、運転手が「どけ」というのを
断固無視してすわり続けた黒人女性で、この事件が公民権運動の
ひとつのきっかけになったことを話しました。
エリス中尉、このローザ・パークスが「レジスタンスとして」というよりは
中年のおばちゃんが仕事の後疲れていて座り込んだところ文句を言われたので、
そこで断固抵抗しただけというのが真相ではないかと疑っているのですが、
それはともかく、この絵は、画面のほとんどが黒で、右上の部分に白く切り抜かれたように
白が配置されている、というそれだけのもの。
「ローザ・パークス」と題名がついていなければ、ただの包み紙です。

この圧倒的な黒が公民権運動の高まりっていう意味なんでしょうか

これは思い付きで言ってみましたが、

「ははあ・・・。勉強になりました」

とまで言われてしまい、それまででした。
ちなみに息子に後で聴くと「それくらい学校で習うぜ」

習うかなあ。



説明してくれたのは本館だけで、ここは家族で適当に見学。
地下に現代美術展示があり、これがかなりおもしろかったです。



屋外の作品群。
このつるつるした石が埋め込まれている様子がなぜか快感を感じる作品。



快感と言えば、こんな風に舗道に半分はみ出している石。
これも、なんだかわからないけど、快感です。

そう、知識はともかく、わたしが美術作品を評価するのは
「目に快であるか、不快であるか」
理屈ではない、この一点に尽きます。


さて、予定されていた「仕事」が終わり、お茶でも飲もうと言う話になりました。



一度は行ってみたかったエル・グレコに。



ツタは大昔からこの建物を覆い続けているようで、
ほとんどが樹木化しています。
ここの夏季に撮られた写真を見るとツタの葉が深々と覆い、
全く壁が見えません。



窓が極限まで高くとってあり、室内はとても明るい。





大原美術館と同じ敷地内にあり、ミュージアムカフェの役を担うこの喫茶店、
最初はなんと大原孫三郎の事務所だったのだそうです。

この建物ができたのは大正の末期。
最後の年だったとすると大原美術館の建設に先駆けてこの建物が
事務所のために建てられていたということになります。

美術を鑑賞した後の余韻をお茶を飲みつつ味わう場所を、ということで
ここを大原總一郎の御母堂が「息子の願いを聞き届け」、
昭和34年に喫茶店としてオープンさせたということです。



すりガラスのドアに和風の紋。
これは大原家の家紋です。

お茶を飲んでホテルに帰るまでの道を歩きました。



細い小路。



なぜか近頃観光地に欠かせない「猫グッズの店」。
犬好きも取り込もうと、犬グッズも扱っています。
店内には猫の声がサンプリングされたクリスマスの曲のCDが、
2月と言うのに流れていました。
実はこの「キワモノCD」、妹が買ってきてうちにあるんです。

何を買うでもなく中をぶらっとしたのですが、ガラスのウィンドーの中で
巨大猫がお昼寝していました。



この招き猫が思いっきり手を挙げているのと、犬のコンボにウケて。

この後いくつかお土産物屋を冷やかしたのですが、
そこで今回の旅行中見た唯一の不愉快な出来事が。
岡山空港は国際線、といっても中国と韓国だけが開設されていて、
昔来たときからは考えられないくらい、特に韓国人旅行客がいました。

その土産物屋にも大学生らしい韓国人がうろうろしていたのですが、
一人が何かを買ってビニール袋を持ったままもう一度店内で、
800円くらいの小物入れを手にし、そのまま店の入り口付近で待っている
仲間のところに行きます。
レジに立ち寄るのかな、と思ったら、次の瞬間彼らは出て行ってしまったのです。

あっという間の出来事でした。
しかも、盗った本人は笑いながら仲間に何事か報告しているのが最後に見え、
念のため店の外まで出てみたら人ごみにまぎれてしまっていました。

日本のお店の、ろくに店員もおかず自由に品物を手に取ってみる形態は
基本客が万引きしないことを前提にしているのですが、
彼らはこれをすっかり味を占め悪用したということのようです。

わざわざ海外に来て平気でこんなことをするとは・・・。
これも愛国無罪ってやつですか。


さて、そういういやな話はともかく、もう一度河畔に来てみると・・・。



プラスティックバッグを飲み込みそうになった白鳥はどうなったのでしょうか。



どうやらあの後誰かがレスキューしたようです。
よかったよかった。



なんと、高橋大輔選手は倉敷出身だったのか。



アメリカによくあるタイプの建物ですが、ここでは希少です。



チャペル発見。
こんなところで結婚式を挙げたい!というカップルは多そうですね。



これも夏になるとツタの緑で覆われるのでしょう。
もとクラボウ(倉敷貿易)の工場だったこの建物は、
冷房のない時代、夏の暑さを少しでも和らげるためツタが植えられました。



桜の木の下のお地蔵様。
ちゃんと水仙の花が供えられていました。


どこをとっても絵になる街、それが倉敷です。








「秋水」の青春~犬塚豊彦大尉

2013-02-26 | 海軍

      

犬塚豊彦大尉
海軍兵学校七十期 佐賀中学出身
第38期飛行学生 
ロケット戦闘機「秋水隊」隊長として昭和19年10月着任
昭和20年7月7日、秋水テスト飛行にて殉職


少し前に、名古屋の三菱航空博物館で、黄緑色の、
実にかわいらしい機体を持つ有人ロケット戦闘機秋水に魅せられ、
「秋水くんとコメートくん」という漫画まで描いてしまったわけですが、
そのときには秋水にかかわった、テストパイロットとなったこの
犬塚豊彦大尉や、秋水隊の面々についてほとんど触れませんでした。

そのときに秋水に関する資料を一通り集めたのですが、
計画と実験の段階で終戦を迎えてしまった武器ですので、
それほどたくさんの文献があるわけではありません。
しかし、その中で、
「有人ロケット戦闘機 秋水―海軍第312航空隊写真史」という、
大日本絵画出版、柴田一哉著の本は、圧巻でした。

秋水、特呂エンジン、訓練用の減圧装置の図面は勿論のこと、
隊員が懲罰覚悟でこっそり撮影した、テスト飛行で滑空する秋水の写真、
そしてなんと付属のDVD。
CGによるリアルなテスト飛行の再現、そして、
「もし秋水が運用されていたら?」という仮定もののムービーは、

上空の重爆撃機に向かって凄まじいスピードで上がってきた秋水が、
瞬く間に下からの攻撃によって敵機を墜とし、そのあと、
グライダー滑空になりグラマンに追われるも、零戦に救われ、
隊員は蜂の巣のようになった秋水から零戦に手を上げて挨拶する。

という、秋水の健気さについ涙ぐんでしまう出来映えです。
(↑実話)

この本には、未公開の写真、ことに隊員たちの素顔を語るものや、
テスト飛行で殉職した犬塚大尉の葬儀(神式)の写真など、
秋水の開発とそれに関わった人々を知るための、一級の資料が
多数掲載されていて、秋水を知りたい方必携と言っても良いでしょう。

値段を抑えるためか(それでも高額)版が小さくそのため字が小さくて、
ことに写真のキャプションは翻訳者まで雇ったらしい英訳文が見にくいのが、
惜しいと言えば惜しいですが。



秋水隊には十六人の予備学生が採用されました。
いずれも師範学校、理科系の大学卒。
13期予備学生の戦闘機専修者ばかりです。

秋水という名は、犬塚大尉の前隊長、海兵64期の小野次郎大尉と、
犬塚大尉が、名刀の名から取って付けたと言われています。

よく、兵学校卒士官と予備学生士官の間には確執とも言える軋轢があり、
それは主に兵学校出士官の予備学生に対する虐めのようになって現れた、
という話を見聞きしますが、この隊ではそんな対立は全くありませんでした。

「とにかく紳士でした」
予備学生が口をそろえて言う小野次郎大尉。
「十六人もの大学を卒業した偉い人たちの隊長になるのは少し恐ろしかった」
当の小野大尉はこのように戦後語ったそうです。
兵科士官にしては控えめで、予備学生に近いものを持っていたのかもしれません。

そして、皆の兄のように慕われた「ワンちゃん」こと犬塚大尉。
部下もこの隊長を「ワンちゃん」と(面と向かってではないでしょうか)呼びました。
宴席でも、飲めない隊員には徳利にお茶を入れて注いでやるような隊長で、
「白面の好青年、優しくて穏やか、しかし武人の剛胆さは備えた」士官でした。


こんな彼らが仲間同士で収まる写真からは「共に死のうと誓った血より濃い繋がり」
と言うより、まるで学生同士のような和気藹々とした雰囲気が見て取れます。
一人一人を写真と共に紹介する文章は、たとえば

「おとなしく(ウソツケ)ハンサムだが、気が短い男」
「まじめで勉強家、風流人タイプ」
「ダンディで怖いもの知らず、気っ風のいい男」

士官は基本的に長髪が許されており、この隊の雰囲気も「気を引き締めるために皆坊主」
というようなものからはほど遠かったのか、さすが予備学生、娑婆っ気満点、ロン毛の隊員多し。

「えむいーひゃくろくじゅうさんにあつ」
という奇妙な命令の書かれた電文で、何をするのかわからないまま集められた彼らの、
見たこともないロケット戦闘機に乗るための訓練がはじまりました。

自分たちの任務が、初めて採用される新兵器の開発と初運用であり、
それが成功すれば本土空襲にやってくる敵爆撃機を制することができる、
そう知ったとき、彼らは一様に喜びに包まれたと言います。

まず行われたのは耐低圧訓練。
秋水は短時間で一万メートルを上昇するのですから、
気圧の急激な変化に身体を慣らさなくてはなりません。
激しい頭痛始め鼻血を出したり、耳痛のあまり、ついには
「鼓膜に穴を開けてくれ!」と叫ぶ隊員もいたそうです。

この本には、この耐圧訓練に使われた低圧タンクの図、
高高度用与圧服、与圧帽、与圧胴衣なども図解で示されています。
滑空訓練には「光六・二型」グライダーが使われました。

かれら隊員が気持ちを一つに訓練に邁進する間も、
三菱重工名古屋航空機製作所の秋水製作チームは、
わずか四ヶ月で試作機を仕上げ、さらにそれから七ヶ月で試験飛行にこぎ着けます。
この開発については一度書きましたのでそれを見ていただくとして、
いよいよ、彼らにとって運命の昭和二十年七月七日がやってきました。


このとき、整備は、実験開始予定時間に終わりませんでした。
直前にエンジンがかからず、再整備が行われたためです。
皆が不安と、悪い予感に包まれ、翌日へ延期も検討されたのですが、
犬塚大尉が強行に決行を主張し、二時間遅れのの実験開始となりました。

人間魚雷「回天」の訓練段階で悪天候にもかかわらず、それを押して
「敵は待ってくれないぞ」
と訓練に出かけ、殉職した黒木博司大尉の話をなぞるような同じ構図です。

実験開始後も、犬塚大尉は任務の遂行と成功のために、
結果的には自分の生命をみすみす危険にさらすような操作をしたらしい、
ということが、今日検証されています。

たとえば「いざとなったら船を待機させているから海に機を墜落させろ」
と言われていたのにもかかわらず、機が「パンパンパン」という異常音を発生させ、
発火、エンジン停止となった後、大尉は機を直進させず、右旋回を始めました。
海に向かわなかったのは、なんとしてでも機を失うことはできない、
そう言う判断の取らせた行動であったと思われます。

さらに犬塚大尉は、皆のいる滑走路ではなく、脇の埋め立て地に向かいます。
これも、甲液(酸化剤)の非常投棄後であったにもかかわらず、
残存の液が被害を及ぼすことを避けたためであろうと言われています。

このため秋水は失速し、滑走路前の建物を飛び越すために機首を上げ、
その後右翼先端が監視塔に接触したのち、不時着大破しました。

甲液漏洩の危険も顧みず整備隊の隊員が犬塚大尉を引きずり出しました。
軍医たちの必死の治療が施されましたが、犬塚大尉は頭蓋底骨折しており、
手の打ちようはもう残されていませんでした。

「なにか欲しいものはないか」
瀕死の床に横たわる犬塚大尉に司令が尋ねると、かれは
「カルピスが飲みたい」
と言いました。
もう自力で飲む力の残されていない大尉の唇を脱脂綿に浸した
カルピスで湿すと、犬塚大尉は
「ああ、うまい」
と言い、しばらくしてから静かに息を引き取りました。


このとき、大尉を兄のように慕う隊員たちがいかにその死に打ちのめされたか。
そして彼らの間に起こった犬塚大尉に関する不思議な話。
ほどなく彼らが迎えた終戦と秋水隊の解散。
それら、秋水隊員が直々に語ったことの数々は、是非この本で読んでいただきたいと思います。


かれら秋水隊員は、戦後も「秋水会」を作り、
毎年七月の犬塚大尉の命日に慰霊を行ってきました。
病気で隊長を犬塚大尉に変わった小野二郎大尉始め、皆の交流は途絶えることなく、
小野氏が平成3年に亡き後もそれは続いているそうです。

秋水は未知の機でした。
そのため、飛行性能の訓練は「秋草」という滑空機が特別に作られて行われました。
昭和19年12月26日。
犬塚大尉がこの「秋草」の滑空を成功させた日のことを、
隊員の一人は今もはっきり覚えています。

「ワンちゃんの見事な飛行を見て、みんなうれしくて、
手を振りながら機を追いかけました」

走りながら、皆いつの間にか泣いていました。

冬暮れの空に、鳥のように美しく弧を描く、軽滑空機。
その絵のような情景は、青春を共に秋水に傾けた隊員たちのまぶたに、
戦後も鮮明に焼き付いているのだそうです。














中国海軍の挑発行為~レーダー照射事件を海自関係者が語る

2013-02-24 | 日本のこと

ここぞと観艦式のときに撮った「ゆうだち」の写真を出してきました(笑)。

今日は先般の中国船レーダー照射事件について。

この事件を日本政府が明らかにした後の中国報道官の態度は
明らかに挙動不審、というか「目が泳ぐ」感じで、いかにも
「こう言えと言われたから言っている」
のが手に取るようにわかりましたね。

中国さんともあろう国がこんなポーカーフェイスのできない報道官を
使っちゃダメでしょうが。

彼女がきょどるのも無理はない話で、中国側は最初
「日本の捏造だ」
などと言わせていたんですね。
これを受けて日本政府が「データを証拠のために開示する用意がある」
というと、笑ってしまうことに
「今まで何度もやってきたのに何をいまさら」
なんてことを言い出しました。
発言が数日でコロコロ変わるのですが、彼女もさぞ気まずかったでしょう。

しかし、

「今まで何度も同じことをしている」

この爆弾発言にビビったのはなんといっても前政府与党だった民主党の連中でしょう。
だって、政権発足以来(どの段階でかはわかりませんが)中国の明らかな攻撃意志を
国民に秘匿し続けていたことがばれてしまったのですからね。

なるほど、尖閣の船長逮捕案件にあんな対応をするからには、
明らかにされていない「中国の横暴案件」はあっただろうと思うのが自然です。

その後、テレビで元海幕長(赤☆さんに非ず)がペロッと
『民主党政権のときにも何度かこんなことがあった』
なんて言って「やっぱり」という話になったわけです。

しかし不思議なのはそれらの発言をマスコミは一切突っ込んで報じないこと。
まあマスコミの最近の姿勢を見る限り、中国に都合の悪い事実は
決して表に出さないようですから、不思議と言うほどでもありませんが。

それでは、どれほどのこういった「挑発行為」があったのか。
週刊ポスト2013年3月1日号によると、三年間に8件それがあったということです。


【2010年】

4月 8日:中国艦艇の艦載ヘリが護衛艦「すずなみ」に接近飛行
4月13日:P-3C哨戒機が中国艦艇から速射砲の照準を向けられる
4月21日:中国艦艇の艦載ヘリが護衛艦「あさゆき」の周囲を2度旋回

【2012年】

4月 :P-3C哨戒機が中国艦艇からFCレーダー照射を受ける
8月下旬:海自護衛艦が中国艦艇からFCレーダー照射を受ける
9月 :海自護衛艦がFCレーダー照射を受けた可能性あり

【2013年】

1月19日:海自ヘリ「SH‐60」が中国フリゲート艦からFCレーダー照射を受ける
1月30日:海自護衛艦「ゆうだち」が中国フリゲート艦からFCレーダー照射を受ける


ちなみに中国船の衝突事件は2010年の9月でした。

赤字の2012年9月のレーダー照射案件をご覧ください。
当時の首相であった野田元総理はじめ与党であった民主党が沈黙していますが、
この直前の2012年8月、自民党の山谷えり子議員らが尖閣諸島付近に眠る
戦没者のための「尖閣慰霊祭」に出席するため、政府に上陸許可を求めました。
当時の野田内閣は当然のようにこれを拒否。
「もう日本は中国の属国になっている」と言い切ったのは民主党の仙谷議員でしたが、
終始異常なくらいの配慮を中韓に対してしていた政府ですから当然の対処です。

ちなみに、この「土下座外交」「売国外交」のシンボルともいえるのが、
伊藤忠の経済人丹羽宇一郎を中国大使に据えるという人事でした。

この赤字の護衛艦に対するレーダー照射案件は、
山谷委員らの上陸許可を求める動きに対する制裁、というかこれを受けて過敏に
反応したものと考えられます。

それにしても、これだけ思いっきり卑屈に配慮しても、安倍政権になって
きちんと抗議主張することをしても向こうが同じような反応しかしないのなら、
世界に中国の非道さを訴え相手にやんわりと牽制をし続けたほうが、
国民の支持も得られるんじゃないでしょうかね。

この時の照射に対して防衛省の幹部がこのように言っています。

「レーダー照射を受けた護衛艦は、ECM(Electronic Counter Measures)
と呼ばれるレーダー妨害装置を発動させたと報告を受けている。
これはレーダー照射を受けたP-3Cが行なったチャフ
(Chaff:レーダー攪乱用の金属片)
の放出とは比較にならないほど緊急的な措置だ。
いかに危険が迫っていたかを物語っている」


ちなみに、このレーダーに付いて少し調べてみました。

FCレーダーの射程は水上であれば約20キロメートル、
上空なら約60キロメートル。
ターゲットとの距離にもよりますが、発射されたミサイルや砲弾照射の
命中率は非常に高くなります。
照射されたまま発射ボタンを押されるというのは、
いわば眉間に銃口を突きつけられて引き金を引かれるようなものである、
というのは皆さんもニュース解説でご存知かもしれません。

つまりこのことはもし照射されたのが米軍だったら、ロシア軍だったら、いや、
自衛隊以外のどこの軍であっても現在の世界基準では、
いつ戦闘状態になってもおかしくない事態だったということなのです。

さらに別の防衛省幹部によると、詳細までは把握できていないものの、
「2012年9月に中国漁船が大挙して尖閣に押し寄せようとした際にも、
警戒にあたっていた護衛艦がレーダー照射を受けた」ということです。

それではこの危険なレーダー照射をなぜ人民解放軍は繰り返すのでしょうか。
参謀本部は一月にも「全軍戦闘準備をせよ」と布告するなど、
実に挑発的な動きをさらに推し進めているようにも見えます。

中国の最高意思決定機関である中国共産党の新指導者、
習金平は、人民解放軍の党中央委員会の最高権威者でもあります。
では、これらの軍事挑発が新リーダーの命令で行われているのかというと、

「そうともいえない」

というのが消息筋の見方であるようです。
翻って、赤☆元海幕長が中国軍との交流のため面会したこともある
呉勝利海軍上将ですが、この人物はかつて米海軍高官との会談において

「太平洋を二分割して米中で管理しよう」

と発言してアメリカ側を驚かせたほど、いわば野心的な人物です。
どういうことかと言うと、最近の一連の照射事件始め挑発行為は、人民軍が
この新指導者を試すために起こしているのではないか、と言うことです。

なんとなれば、レーダーのスペック、データは各国軍隊の極秘情報です。
この、データ解析のチャンスを敵国に与えるも同然の照射を行うというのは
「よっぽどの場合」というのが現場の常識です。

つまり挑発そのものを目的として繰り返される行為は、
日本に対してと言うより中国国内での示威行為であり、
これを習金平がどの程度黙認するのか、あるいは抑えにかかるか、
その度量や意向、意思決定の様を推し測っているというのです。

しかも相手が自衛隊なら応戦されることもないという読みもあるでしょう。

中国軍は総体的に国際感覚に乏しく、しかも軍の力で国民を守る、
という使命感や任務に対する忠誠がが非常に希薄であると言われます。
少し前にコメント欄である護憲派の読者と討論したことがありますが、この方が

「シナは日本の10倍の人口で、人命が安い。
日本人一人に対し10人の命がある、と言われている。
だからシナとの有事の際は覚悟が必要だ」

と書いてこられましたが、わたしはこれは
「中国人が日本人と同じメンタリティを持っていた場合」に限ると思います。

もし日中の間に有事が起こった場合、
果たしてそんなにたくさんの中国人が国を護るために立ち上がるでしょうか。
現在の「超自己功利主義の帝国」であるこの国を見る限り、
その可能性は限りなく低いように思われるのです。
軍人ですら、その任務の目的は「私」の功利であり、
それがために国民解放軍の規律は非常に緩いと言う現状、
ましてや国民解放軍には国防のための士気などは無いに等しい
とまで言われているからです。
つまり軍幹部が気にしているのは自分のポジションだけらしいのです。

つまりこの一連の示威行為は内部の権力闘争の一端であり、
すでに習金平は軍を掌握することができなくなってきているのではないか、
というのが中国専門家の見方なのです。

つまりそういった一連の行為が国際的にどう見られているかを
国際感覚に乏しい中国海軍は考慮せず、
「尖閣のためにしたことなのに何が問題なのか」
と開き直っている可能性もある(ジャーナリスト、福島香織氏)
ということです。

「日本は20年後には無くなっているだろう」

これは中国の李鵬首相がオーストラリアの高官に語ったという言葉です。
これを「日本は中国の省になる」と解釈して、
中国の覇権主義への脅威を煽るが如くに喧伝されましたが、
実はこれは1995年のバブル崩壊後に、

「あんたたちオーストラリアは日本を当てにしているが、
この(バブル崩壊の)調子では日本に先は無いんじゃないか」

と言ったということらしいんですね。
発言の前後の状況を確かめずにこういう情報をうのみにし、
中国への敵意を滾らせてしまうなどという挙動は慎むべきだとは思いますが、
問題は上から目線で「日本は無くなる」と言っていた中国自身のことです。

この発言の20年後、つまり2015年には中国がどうなっていることやら。

軍の暴走、世界中から疎まれる民度の低い国民、
国際社会の一員として全く信頼のおけない傲岸さ、
そしてなにより、何の対策もせず今や死活問題にまでなった環境汚染。
数年内には、首都を北京から新京に移すことを共産党は考えているようです。
根本的な解決よりなにより、自分たちだけは安全なところに、と言うわけです。


小さい脳みそで体ばかり巨大に進化した恐竜が、
自分の身を自然から守ることができず斃れていく姿を、
まさに今の中国に見るような気がします。





旅淡シリーズ~陶芸家の窯元探訪

2013-02-23 | つれづれなるままに

今回の旅行は仕事をメインにいろんなイベントが目白押し。
いろんなところに行った、というよりいろんな人々に会ってきました。

その中でも、感動を残したのが備前焼の陶芸家のお宅に伺ったこと。
この方は父上が人間国宝、重要無形文化財であった方です。

市内から車で40分ほど行った里に、その陶芸家の窯元がありました。
おりしもこの日は朝から冷たい雨が降る日でしたが、
このような風情がこの歴史のある陶芸家の邸にふさわしく思われます。



わたしたちをここにご案内くださったのは先日茶室でお茶をごちそうになった
某銀行の会長さん。
29年落ちの国産車をプライベートで運転するこの方も、
公務となれば運転手つきの黒塗り車で移動です。



応接室でお抹茶とお菓子をいただきました。
勿論この茶器も菓子皿も先生の作品です。

そこに先生がいくつかの作品を持ってきました。


会長さんがわたしに「どちらがいいと思います?」
何の気なしに
「左ですね。形がシュッとして、色の変化が面白いから」
というと
「じゃそれにしよう」

・・・・って、そんな簡単に意見を採用されても困るんですけど。
選んで、それをどうなさるおつもりですか。

「S堂の会長さんに差し上げるんだけど」

い、いいんですか?わたし全然何も考えて発言してませんよ?



これも最初に「どちらがいい?」と聞かれたので、
「左は面白いので飾っておきたいですが、使うなら右です」
とわりと当たり前の返事をしたら、
「ふむ・・・」

後で陶芸家に同じ質問をしたら、先生が
「左は面白いけどねえ・・。右がいいと思いますよ」
と全く同じことをおっしゃったので、これも意見は採用されました。

先生はわたしに会うなり「音楽をされているというので楽しみにしていたんですよ」
と、それからは「すぐ消えてしまう空間芸術である音楽」がいかに素晴らしいか、
という話になったのですが、その中で「形が残るっていうのはね、考えもんです」
とおっしゃったのが印象的でした。
無から形を作り出す芸術に携わる人間の業と言うか葛藤を垣間見る気がしました。



先生には息子さんが二人いて、どちらも同じ時期に結婚し、
今はその二家族と、数年前に奥様を亡くされた先生が同居しています。

息子さんに窯を見せていただきました。
窯は年に数回、どちらの窯も現役で稼働します。
空気の抜け方とか、気温とか、なにしろ少しのことが
焼き物の出来上がりに大きな影響を与えるのだそうです。
まさに、土に火の神様が命を吹き込む現場は、人智を超えた力が働くのです。



窯の奥に電気をつけて見えるようにしていただきました。
焼き物を置く場所はたくさんありますが。「いい場所」は中央で、
窯入り口近くは「あまりよくは無い」と言うことです。
この入口は写真ではわかりにくいですが、とても狭く、
焼き物を持って入っていくのは大変なことに思われます。
思わず先日の茶室のにじり口を思い出しました。

にじり口は「茶室に入るものはすべて同じ身分」、つまり
何者でもない個人となってその茶室に入っていくという意味があるそうですが、
この窯の中にも火の神のもとに平等な宇宙が展開していそうです。

ちなみに先生が何年か前に大きな壺を作ったとき、
土は形にしてから少し縮むのだそうですが、縮んだ後もここから入らず、
なんと入口を壊して入れたということです。
芸術家の執念恐るべし。



まるで発掘現場のような窯の中。
奥の窓のような部分から空気が抜けます。
写真だと広く見えますが、もちろんそんなことはありません。

私事ですが、実はわたしの愚妹は某芸大の陶芸科を卒業しております。
窯に火が入ると、その場から離れられないので、徹夜も度々、
年がら年中土の塊を自宅に持ち帰っては倉庫や居室を土だらけにして
母親に悲鳴を上げさせていたので、この世界について少々知らないわけでもありません。

そういえば母親はわけの分からないオブジェばかり作っている妹に
「もう少し食器とか花器とか(母は生け花をするので)、
役に立つものを作ってくれたらいいのに」と愚痴をこぼしてもおりましたっけ。



窯に火が入ったときはずっとつききりで見ていなくてはいけません。
勿論妹もそれでよく家に帰ってこなかったりしたものですが、
その間、何をしているのでしょうか?

「インターネットなんてなさらないですよね?(確信)」
「しませんね」
「本は」
「本も滅多に読みませんね。音楽をかけることはありますが、
火が入っているのがどんな空間であるかにわたしたちはこだわるので」

ああ。わかります。

インターネットは無数の世界に開けられたのぞき穴みたいなものですから、
逆にいろんな世界の空気が良きも悪しきも流れてきてしまう。
そんな雑駁な空気に支配された空間で火との真剣勝負などとんでもない、
と言うことなんでしょう。



陶芸とは、土との対話、そして火との勝負。
しかし、そこにあるのは小賢しい技術ではなく、
自然のなかに生かされていることへの感謝です。

ちなみに、この方は一晩窯についている間、
「ずっと炎を見つめている」のだとか。

わたしも昔、増上寺の護摩を焚く炎の前で、
その渦巻く火の中に自然への惧れ、それを人智の及ばぬ神の知恵
と呼ぶしかない「何か」への感動のあまり、何時間も立ち尽くしたことがあります。



この日、陶芸家はわたしたちに自身の持つ作品作りの、
芸術への、そして自然や神や祈りについて語りました。
何の衒いもなく。

人間国宝になるのを何度も打診されているのに断り続けている、
というこの芸術家は、微塵も傲岸さを感じさせないいい意味の
「青さ」「純粋さ」と「熱さ」を60歳過ぎた今も持っていました。



一日にこの方は六度、神への祈りを捧げるのだそうです。

これもわたくし事ですが、TOは朝晩、必ずお祈りをします。
どんな急いでいるときも、どんな危急のときも、
嬉しいことがあっても悲しいときも、たとえ人を待たせていても(-_-)

ちなみにわたしはいまさらですが靖国への定期的な参拝を欠かしておりません。

陶芸家が祈りの話をしたとき、わたしが(本人は決して言わないから)
TOの「祈り体質」の話をすると、彼はことのほか感激しました。
「そんな方ならお分かりだと思いますが」

そう頭に付け加えながら、彼は無から有を作り出すことへの
「畏れ」と、だからこそものを造る者は真摯に祈るのだということを語りました。



工房の隅で丸くなっていた老犬。
わたしが写真を撮ると急に起き上がり伸びをしました。
この土と水と火の創造の場にとても似合う、
実にしみじみとした風情の老犬でした。

わたしはなぜかかれに非常に気に入られたのですが、
そんなお話をまた後編でさせていただきます。


 


旅淡シリーズ~夜の倉敷

2013-02-22 | お出かけ

関西出身の人間であれば、一度は倉敷の美観地区に行ったことがある、
というくらい、ここは観光地として有名です。
明治村のような、かつて現役であった建築物を集めてきたというのではなく、
ここは街そのものが昔のままに保存された博物館のようなもの。

わたしも何を隠そう関西出身の人間の常としてここ倉敷には
家族や友人と何度か訪れてきました。
しかし、今回はここが目的ではなく、仕事です。

仕事先がここ倉敷の企業、ということで地元ならではの情報をいただき、
ほとんど初めて「倉敷の倉敷らしいところ」を教えていただきました。

そもそも、今まで知っていた倉敷は「観光客がたくさんいる昼間」だったのですが、
夜の倉敷を堪能しました。
そんな旅の写真を淡々と貼っていきます。



先日お伝えした茶室のあるお宅から倉敷国際ホテルに向かう途中に見つけた
「源平藤戸合戦800年記念碑」。
水軍を持たない源氏が船の上から扇を持った平家の女官に
「やーいやーい」とからかわれて屈辱を受けたというこの戦は1184年のことですから、
1984年、つまり昭和59年にこの800年記念の碑を建てたと見えます。
(なぜ800年経ったら記念碑を建てるのか?などと言わないように)



日が暮れてホテルに到着。
なんとホテルまで某銀行会長自らの運転で送っていただきました。
会長の車は今年で29年目になるという古い古い国産車。
これを毎年車検を受け、大事に手入れして乗っておられます。

「いったんタダ同然に値打ちが下がり、また上がってきて今や骨董品扱い」
いっそう愛着が湧いてますます手放せなくなってしまったのだそうです。



岡山国際ホテルは非常に古く、美観地区の端にあります。
ここも「大原美術館」の大原孫三郎の息子、總一郎が作ったホテルです。



なんとホテルのロビーを見上げればそこには棟方志功の版画が。
志功の作品の中でも最も巨大なもので、「大世界の柵<坤>人類より神々へ」。

ホテルオープンに際して大原總一郎が志功に依頼し、1963年に製作されました。



写真に撮ると趣があると言えないことはありませんが、いかんせん1963年開業。
やはり部屋はかなり古びていて、暗い感じがしました。
洋室なのにまるで「下駄箱」のような作りのクローゼットです。



しかしこの古い感じが落ち着ける部屋でもありました。
PCや充電のためのコンセントが少ないのには困りましたが。

部屋に荷物を置いて予約してくださっていたお店に出かけました。

 

日のすっかり落ちた美観地区を歩いていきます。



大原美術館の横にある有名な喫茶店「エル・グレコ」。
ツタが絡まる洋館風の建物はまるでヨーロッパにいるような錯覚を起こさせます。



風致地区の建物は10時くらいまでライトアップしています。
ここは玩具博物館だったかな。



今日は2月22日。
なぜかわかりませんが今日は「猫の日」らしいので猫画像を。

小道に入るとどこからともなく聞こえてきた猫の鳴き声。
どこにいるのかと探せば暗がりに黒い猫が潜んでいました。
フラッシュなしでは全く写っていなかったので、もう一度フラッシュ撮影。
この超寒いのに地面でくつろいでおられます。



お酒の看板もむかしのままのもの。
紹介していただいたのはカウンター割烹というか小料理屋と言うか。

おでんという提灯があるのでおでん屋さん?



なかなかいい感じのお店でしょう。
カウンターにはお惣菜が並べられ、包丁を握るのは頑固そうな親爺。
無口で「親爺、燗で一つ付けてくれ」「へえ」
みたいな雰囲気を醸し出していましたが、紹介してくれた方によると
「なかなかズケズケいうおやっさんでねえ」

わたしたちには全く話しかけては来ませんでした。
「常連の紹介できた他所からの客」だったからでしょうか。



ぐい飲みが所狭しと、鴨居の上にまで飾ってあります。



しかも見えやすいようにこんな端ぎりぎりに。

「地震が来たら絶対頭に落ちてきてこれで死ぬな」
「いや、だから岡山はあまり地震が無いんだってば」
「いい?もし今地震が来たらカウンターの下でお猪口を避けて、
揺れが収まったらとにかく外に飛び出るように」

地震頻発地域在住の人間って何かと無粋でいやねえ。



ここの名物、おでん。
いわゆる関東炊きとは全く違った風合いのおでんです。
一番奥のは豚バラと白菜のロールキャベツ状のもので、
これが「メインの具」。
だしは透明ですが、大根にはたっぷり味が沁みていました。



ここのもう一つの名物は、なんとクリームコロッケ。
クリームコロッケの嫌いな息子が「美味しい」と言ったほどの激ウマ。

カウンターには何組かのカップルと、
「俺はママに惚れてる。ママも俺に惚れてるんや」
とどうやらそのママの店のホステスさんらしい二人を連れてきてブッてるおじさんが
(ちなみにそのセリフの後女性二人無反応)いましたが、
全員がこのコロッケを注文していました。
ここにくると、皆おでんとクリームコロッケを頼むもののようです。



美観地区で営業するからには、内装にも手を抜きません、
ってことでここのランプもアンティーク。



食事が終わって外に出たら物販店が店仕舞いにかかっていました。

黒井健の絵本の挿絵に出てきそうな情景です。



この建物は昔倉敷の役所でした。
今はここの象徴的な建物として、観光案内所になっています。
煌々と電燈の明るいこの建物の、緑の屋根のついた出入り口の右の窓には
観光案内のための係員がぽつんと所在なさげに佇んでいて、
これがまた妙に現実感のない、絵本の中の一シーンのように見えました。



美観地区を流れる疎水は鏡のように静かな流れです。



この地区の保存を決めたのは後のクラボウの創始者、大原孫三郎。
ここに見えているお屋敷はまさにその「大原邸」です。
さすがは景観地区の提唱者(の父)、こんなところを占領して住んでいたのか・・・・。

大原の息子の總一郎はここから歩いて1分の土地に大原美術館を開館させました。
その後渡欧した際ドイツの街並みに啓示を受け、
実家があり美術館のあるこの地ををそのまま保存することを思いついたのだそうです。
戦後すぐの昭和23年にはここは観光協会によって風致地区となっています。

その後、この街並みを見学するため、バウハウス創始者の建築家グロピウスも訪れています。
ちなみに近代建築の四天王(エリス中尉命名)をご存知ですか?
グロピウス、ル・コルビジェ、フランク・ロイド・ライト、ファン・デル・ローエです。



なんたる威容。
昼より夜の方が堂々と見える、これが大原美術館。
開館は1930年です。
西洋型美術館の珍しかったころで、もちろんこの地方には初めて。
当初の注目度は低く、一日に一人も来館者がいない日すらあったとか。

しかし、こんな頃から芸術においては最先端を行っていた倉敷、
現在でも「文化的な街」のイメージをほしいままにしているのは、
大原總一郎の文化事業と大原美術館の存在の影響が大でしょう。



倉敷川河畔。
100年前からほとんど変わらない街並みのなんと美しいこと。
明治村の見学のときも痛感しましたが、
日本人の都市景観に対する美的感覚ってここ100年で異常に劣化してませんか?
どうしてこの街並みがわが国には残せないのだろう・・・。



橋の欄干には菊のしるしが。
昭和天皇が皇太子時代にここにご行幸あらせられた時に設えたものでしょうか。


さて、翌日の晩、われわれは某地元企業の某社長に接待を受けました。
なんと、この美観地区にあるもっとも有名な旅館「くらしき」の御座敷でお食事です。



時代劇に出てきそうな建物。
ここは旅館ですので、もちろん宿泊もできます。



旅館くらしきと書かれた石の看板。
それはいいけど、後ろの貼り紙が邪魔・・・。

われわれが大原邸の前の「今橋」という太鼓橋を渡ると、
なんと女将がわたしたちの到着を待って外に立っていました。



彼女のお辞儀がプロすぎて画像がぶれるほどでございます。
左奥が旅館なのですが、お運びの女中さんも店の前で待機。
凄い。これがおもてなしの心。
さすがは美観地区の中でも最も有名で格式のある旅館です。



入ってすぐの何にも使われていなさそうな空間。
昔は土間というか、旅人が足を洗ったりする場所だったのかもしれません。



階段を上がったところにお座敷を用意していただいています。



階段上の空間はこのように「大正モダン」風の設え。
ランプ、ストーブ、そして並べられた文学全集が雰囲気です。



ここは旅館の一室にもなり、かつて皇族(高松宮さま?)が
お泊りになったこともあるということです。



実はこの日の「正客」は他ならぬエリス中尉。
床の間を背負う場所に座ることになってしまいました。



というか、この場所からは座ったまま倉敷川とあの旧役所が見えるのです。
「眺めがいいからぜひお座り下さい」ということで座らせていただきました。



美人女将をてっきりここの跡取りの若奥さんだろうと思っていたのですが、
社長の説明によると、なんと前職はマンション販売。
詳しくはわかりませんが、このマンション販売会社とこの「くらしき」の経営に
何か関係する人事であったようです。
いずれにせよこんな有名どころの女将ですから、聡明で気が利かないととても通用しません。
女将は今年でここにきて8年目、と言うことでした。

社長は先代に連れられて相当若いころから来ているので、
「女将より僕の方がここは古いんですよ」と、ちょっとした自慢をしておられました。



本日の御献立でございます。



食前酒はミカンのお酒。
お酒のダメなはずのエリス中尉が美味しいのでついつい全部飲んでしまいましたが、
ブラックアウトどころか顔色も変わらなかったのできっと度数は低いのでしょう。

先付には生ガキが出て、
「生ガキに昔あたったことがあるので怖いけど牡蠣大好き」
なエリス中尉、これも美味しそうな誘惑には勝てずぺろりと食べてしまいました。

この旅館の横の倉敷川では、昔は「牡蠣売り船」が出ていたというくらい、
このあたりは牡蠣と縁の深い地域だと聞いたので、おそらく大丈夫だろうと思って。
今にして思えばあまり根拠のない安心ですが。

でも、一日たっても何ともないので今回はセーフだったようです。
牡蠣に中ったことのある方はご存知かもしれませんが、あれ苦しいですよね。
七転八倒して丸一日廃人状態です。・・・死んだ方がマシってくらい。





シマアジとイカとスジ鰹。
カツオのお刺身は脂が乗っていてしかもコリコリした食感が大変結構でした。



煮物は寒ブリ。
慈姑は実はあまり好きじゃないんですがこれは柔らかくて美味しく調理されていました。



鰆の西京焼き。
手前のは生麩の田楽です。



そして本日のメインは、みそ牡蠣鍋!

もうこうなったら毒を食らわば皿まで、いや、
どうせ生ガキを食らってしまったのなら牡蠣鍋まで、というわけで、
お食事をした5人中3人が「牛すき鍋にチェンジ」したのにもかかわらず、
果敢にもまたもや大ぶりの牡蠣をいただきました。

牡蠣はミネラルを豊富に含んで、栄養豊富。
水銀などの汚染を貯めこみやすいのが心配ですが、
ここで出る牡蠣に限ってそんなことはないでしょう。(と信じたい)




お食事、つまりご飯の後水菓子がでてお食事はおしまい。

女将との会話を楽しみ、やはりわたしと同様「海軍ファン」である社長と
「どうでもいい海軍知識」を披露しあったり、仕事の打ち合わせもちょこっとして、
(ちなみにこの社長とは去年の観艦式に一緒に参加した仲です)
あっという間に一期一会の晩餐は終わりました。

旅館の前で写真を撮り、惜しみながら別れを告げたのですが、



女将、女中さん、そして下足番の三人が店先にずっと佇んで、
こちらを見送っています。
太鼓橋を渡るときに写真撮影していても、そのあとも、
振り返っても振り返っても、こちらが向こうを見ることができるうちは、
三人ともずっと同じ姿勢で・・・。

こういうことがとても嬉しく、心に沁みるようになったのは、
わたしのなかの「自分が日本人として日本に生かされていることを尊ぶ気持ち」
がより一層最近目覚めてきたせいもあるかもしれません。

よくぞ日本人に生まれけり。

そんな気持ちにさせてくれた夜の倉敷でした。








開設1020日記念漫画ギャラリー 第一弾

2013-02-21 | つれづれなるままに

開設1000日記念企画として、ジャンルを細分化して、漫画も振り返ってみます。
ここでいきなりお断りです。

エリス中尉、普通のPCでブログをアップしています。
ですから、ipodなどのモニターによっては
コマとコマが離れて表示されることに長らく気づきませんでした。
コマの上の線がないのはそれを知らなかった頃のアップです。
修正しようと思ったら、画像が粗くなることが分かったのでそのまま掲載します。

「大空のサムライ」その1








大空のサムライシリーズ。
(といっても二つだけですが)
「がんばれ笹井中尉シリーズ」もこの後制作しようかと心が動いたのですが、
なんだか各方面から顰蹙を買いそうなので自重しました。

キスカ脱出作戦「アメリカ軍が戦った敵」






キスカ救出作戦の映画「キスカ」の稿のために描いたもの。
ちなみに、この稿も人気ページです。
まんがのおかげだと思います。

「短気なご先祖さま」







TOのご先祖様の実話。
「短気なご先祖さま」というタイトルです。
このあとこの医者は自殺して殿様がその慰霊のために神社をつくり、
このご先祖は神様に爆上げされてしまいました。
つまり、TOのご先祖は「神様」なのです。
今でもその小さな神社には「合格祈願」の受験生が訪れるそうです。

キャプラ監督の映画「真珠湾攻撃」の中で、インチキ神主に
「日本人は宗教の自由がなく、天皇の祖先を神とあがめそれは絶対である」
みたいな与太話をさせていましたが、TOの先祖すら神様になっているというのに、
全くの話何を言うやら、でございます。

大空のサムライシリーズ2









大空のサムライシリーズ。
この戦記小説を改めて読んでみると、
「これ絶対ないわ―」
と思える描写が、特に坂井三郎と笹井中尉が描かれた部分に多々あります。

たとえば坂井が命令に反して勝手にモレスビーを単機銃撃してきた後、
「貴様は横着ものだぞ」と言って笹井中尉が
愛情込めた目でわたしをにらんだ」とかー。
これ、本当に坂井氏本人ならしない表現ですよね。

それから、小隊が戦果を挙げたとき、「やりましたな!」と言って
坂井が笹井中尉の手を握ったり
戦中の男が、いや戦後でもそうですが、上司と部下でそういう関係でもないのに
何かあるたびに手を握り合うみたいなことがそうそう行われていいものだろうか、と・・・。

この「ラエ桟橋の誓い」にしても、中隊長に昇進したくらいでこんな大仰な、
なんたって、このときは笹井中尉同期の林谷中尉も昇進してるんだからさ、
と、きっと当時を知る人々は顔を赤らめたのに違いありません。
ただこの、「疑似ボーイズラブ的部分」が、日本の読者にしかしこの小説の魅力として
おおいに受け入れられたという意味では、戦略は成功したと思います。

ちなみに、この「坂井笹井」のアツアツぶりですが、アメリカで出版された
マーティン・ケイディンの「samurai!」には隅から隅まで目を皿のようにして探しても
そのようなことは全く触れられていません。
そのかわり(そのうち書きますが)坂井と女性との関係に大きく紙幅が割かれ、
あくまでも笹井中尉は愛情あふれる上司、という位置づけで書かれているのみ。
アメリカ人の読者には女性との関係を描いたほうが方がウケると判断されたのでしょう。

こういう違いを見るだけでも、伝記などと言うものがいかに「著者の書きたいように書く」
ことによって描かれた本人の実態と乖離していくものか良くわかるような気がします。


嗚呼陸軍潜水艦「マル秘のまるゆ」







「嗚呼陸軍潜水艦」シリーズで描いた陸軍潜水艦「まるゆ」物語。
エリス中尉、かなりこの「まるゆ」には思い入れがあります。
ちなみにこれは実話です。
勿論、軽巡木曾の艦橋の皆さんの反応は、エリス中尉の想像ってことで。


「海軍士官の妻」





「いかつい水兵さん」シリーズ。
いつもかわいそうな目にあういかつい水兵さん。
またいつか登場するかもしれません。(未定)

「秋水くんとコメートくん」










ロケット飛行機「秋水」。
愛が高じてついにこんなくだらんネタマンガまで描いてしまいました。
関係者の方々すみません。反省してます。


「菅野直伝説 黒革の財布」










ご存知菅野直伝説シリーズ。
そろそろ次の伝説が描きたいなあ。(願望)

意外と長くなってしまったので三回に分けます。
後半はまた後日。






茶室のある家

2013-02-20 | お出かけ

今回の旅の目的の一つであったのが、
この「あるお宅の自宅お茶室でお点前をいただく」
ということでした。


ところで皆さん「婦人画報」と言う雑誌を見たことがありますか?
わたしは美容院などで前に置かれるとぱらぱらと中を見る程度です。

しかし、正直なところわたしはこの雑誌が好きではありません。
家柄とか伝統とか、決してお金では手に入らない世界を欲する
いわば「庶民の背伸びを応援する雑誌」の綾なす完璧な世界に、
うっすらとした作り物感すら覚えずにはいられないのです。

ちなみに「婦人画報」のコンセプトとは、本誌HPによると

日本文化と衣食住、
伝統、芸術、旅行、生活、料理、ガーデニング、美容など、
豊かなライフスタイルの情報
きものサロンの情報も掲載

でございます。
特にご注目戴きたいのがこの一行目の「日本文化」。
この伝統を守るという「ノブリスオブリージュ」(苦笑)を提唱するのもまた、
はっきりとこの雑誌の使命であるように、その紙面には
歌舞伎座で瞬時にしてすれ違う人の着物の格を見抜くことに始まり、
香道や華道書道、能などの「日本文化」を深く知るための情報が満載。

特に茶道は人気らしく必ず「茶室のあるお宅訪問」と言うページがあります。

茶室と言うからにはいくら床の間に有名な書がかかっていても
マンションの四畳半の一室をそのように言うのではありません。
ちゃんと、敷石を渡って外に「待合」があり、手を洗って、
上り框から身をこごめて入る、「独立した茶室」のことです。

お茶の先生の家ならともかく、そんな家がいったいどれくらい存在するのか?
と思っていたのですが、あったんですねー。
しかも、それが知り合いの御宅で、しかも

「ぜひ家内が茶室にご招待して一服差し上げたいと申しております」

そのようなご招待を受けることになったのです。



新幹線の駅から車で40分行ったところにそのお宅はありました。
裏山は岩で、タヌキやキツネも時折現れるという里です。
ここの当主は130年は経つこの家に生まれ、ここで育ち、
この古い家を改装しながら暮らしています。

 

職人の手がしょっちゅう入れられている庭。
庭木は10年前から奥方が茶道を始めてから、
「季節の花を飾るために植え替えた」とのことです。

庭石を渡っていくと、待合があります。
ここで座って「白湯」をいただきました。
心の準備をするとともに、口を清めるのでしょう。

 

茶室に行くには綴れ折りの坂を三回曲がって上ります。
裏が岩山なので、茶室は一段高いところに。



途中に岩をくりぬいて水を貯めた「手洗い」が設けてありここで手を清めます。
まだ現役で、そこから水道も引いて飲んでいるという井戸水を貯めておくそうです。
手を洗うと、後ろで畏れ多くもご主人がタオルを持って待っていてくださってました。

ちなみに、このご主人は某銀行の会長という方です。




これが三年前に造ったという茶室。
裏に続く道は、正客ではなく、招く側、
つまりホステス側がここから入り準備をするのです。
わたしたちは小さいところから入りました。

 

準備室から出てきた奥方。
とても美しい、しかし地味目のお着物をお召しでした。

 

菓子鉢が回されます。
この日のお茶菓子は、梅をかたどったものでした。

 

茶室にいて不思議なのは、狭いのになんというか「無限の広がり」を感じること。
いわば、その瞬間この狭い茶室は小さな宇宙を形成するのです。
暗い茶室は窓も開けませんから景色も見えません。
しかし、季節の移ろいを、書と、活けられた花と、そしてお茶をふるまう人の所作に感じる、
この遊びが成立するためには、振る舞われる方もそれを感じる力が問われます。
いわば「高等」な遊びであり、「何もない人間」にとってはきっと面白くもおかしくもないでしょう。

 

「大変アガっております」
とおっしゃる、しかし堂々とした奥方のお点前。
濃茶の回し飲みに続いてお薄が点てられ、いただきましたが、
お世辞抜きに大変結構でした。

もしかしたらこのお宅の使う清水の味が
お茶を引き立てていたかもしれません。



ご主人はお茶碗が出されるその都度「にじるの?」
「普通でいいのよ」「普通でいいんだってば」
など言われています。

お茶というと難しく考える人もいるけど、楽しく飲めればいいのだから、
勉強する者ならともかく、「不調法」などと謙遜する必要はない、
と奥様はおっしゃいました。

「いつまで仕事をできるかどうかはわからないが、
やめた後の人生についてそろそろ考えている」
とおっしゃるこの家の主は、もしそうなったら積極的に
夫婦二人で共通の楽しみを持とうと今いろいろ計画中だとか。

お茶は今のところ全く門外漢のようでしたが、
奥様がこうやって客をもてなすのを相好崩して眺め、
そして「全然進歩が無いんだから」などと言われながらその手伝いをしているのでした。

世間的には大した地位の経済人であるご当主が、
まるで子供のように奥様にあしらわれている様子はなんというか、
実に微笑ましいものでした。



お茶で思い出しましたが、裏千家の千宋室氏は、戦争末期に
21歳で特攻隊に配属され、特攻隊員となっています。

隊の一人の戦友は
「千な、俺が生きて帰ったらおまえのところの茶室でお茶を飲ませてくれるか」
と言った一週間後に出撃して帰らなかったそうです。

宋室氏はこう語ります。

彼らは自分たちが死ぬことによって、
国が救われるのだ、という気持ちで飛び立っていった。
そういう連中がいまの日本の状態を見たらどう思うでしょうか。
それを思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

私は毎年靖国神社に献茶をする際、
658柱の亡くなった我われの戦友の顔がワーッと出てきます。
したがって私はいま、争い事を地球からなくし、
真の平和というものを少しでも早く打ち立てられるように、
一わんのお茶を持って最後のご奉公をしているのです。

茶道は亭主と客との間の人間的なぬくもりを重視し、
それを「和敬清寂」(わけいせいじゃく)の精神と呼んでいます。

茶を点てること、それは主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬うことで、
そうすればおのずと茶室の空気はを清浄になるという考えなのです。



お茶碗を愛でるのも茶の湯の楽しみ。
京焼のそのすべすべした手触りを楽しみました。

 

このお庭にはいたるところに干支の動物の置物があります。
鶴にイノシシ。

 

背中に仔ガエルを乗せたカエルに、馬。



見ざる言わざる聞かざる。



実際に長い歴史の中で使われてきた生活の道具がこんなところにも。
石臼の名残りです。



この後母屋に戻ってキッチンでお茶(紅茶のほう)をいただきました。
ちなみにお花は我が家が贈ったものです。

ここでいろんな話に花が咲いたのですが、ご夫婦がたとえば



ウィーンフィルのニューイヤーコンサートに行った話など。

これだけ書くと、まさにスノッブな、婦人画報的な世界に思われるでしょうか。
しかし、実際に気さくな奥様と、セーター姿のご主人を目の前にしていると、
とても「銀行家と茶室でお点前を振る舞うその妻」と言う言葉から受ける印象とは
若干違ったものを感じずにはいられません。


ところで、わたしの長年の知人に、知り合ったときにはお茶の修行をしていた
茶道の家元の孫娘がいます。
大変な美女で、一緒にいるとそのご威光の恩恵を受けるとでも言いましょうか、
二人でタクシーに乗ったりするとわたしまで実力が底上げされて、運転手さんが
「お二人は、いったい何をしてる人達ですか」と真顔で聞くほどでした。

お茶の先生をしながら祖父の創立した会社でOLをしていた彼女は、
会ったとたん「この人と結婚する」と直感したそこの社員と結婚しました。

結婚後二人の子供に恵まれ、異常なくらい教育にも熱心で、
PTAでは重鎮として長らく奔走し、それなりに充実の人生を送ってきてはいるようですが、
夫がサラリーマンで、自宅はマンションでは、お茶室どころか
お茶をたしなむことすらもしかしたら全くなくなったと思われます。

先日連絡が取れた彼女は、ある販売店でパートから社員になっていました。


彼女ほどの美貌とその家の格を以てすれば、たとえ都心の一等地であっても
茶室のある一軒家を持つような相手に嫁ぐことは、その気になれば
全く難しいことではなかったような気がしますが、
そういう生き方を「当然」と思える女性と、プライドにかけてもそういう選択を
決してしない女性、世の中には二通りの女性がいて、彼女は後者です。

家元の家の娘として、凛とした佇まいで修業をし、その世界について
熱く語ってくれたその人が、全くその世界を手放し、生活のために働いているのを、
なんとなく他人としては勝手にもったいない、とつい思ってしまいます。

しかし、『お茶室のある家でお茶を教えさせてくれる人なら誰でも』
などという観点で結婚相手を決めず、しかも
自分の満足のいく環境でなければ茶道にかかわるべきではない、と
その道を潔くあきらめてしまった彼女は
ある意味あっぱれな女性であったということなのでしょう。

我々が今回訪ねたお茶室のある家の主はこうも言っていました。

「若いときはお金がなかったんです」
「妻には苦労させたんです」

「お茶室のある家」といっても「婦人画報」が当たり前とするような
「純粋に『血筋』のみによって贖われているもの」などめったにないのかもしれません。


ついでに言えば、婦人画報のグラビアに登場する「茶室のある家の主」は
千宗室氏が毎年靖国で点てるお茶に込められる全身全霊の奉仕の心などとは
遠く離れた「俗」と「欲」がその茶に塗れていると言うのは少々言いすぎでしょうか。

いずれにしてもこの雑誌の世界にまるで絵空事のような虚構を感じるゆえんです。







「頭右、コクピットに敬礼!」~自衛隊派遣部隊の帰還

2013-02-19 | 自衛隊

               

五百籏頭真前防衛大学学長の講演を聴きに行き、この人物の口から

「当時の学者の世界は左翼が多かったので」とか、
「あの悪名高い民主党の仕分けで」とか、

とても本人がその思想信条立ち居振る舞いゆえ防大OB有志の会から
罷免を要求されているとは思えない他人事感満載のセリフをききました。

なぜ罷免を要求されていたかと言うとその理由はその左翼的言動で、なかでも

「侵略戦争を行ったうえ敗北した日本に対する不信は、
世界に、とりわけアジアに根深かった」

と堂々と在任中に表明したと言いますから何をかいわんやです。
この人物を自衛隊幹部を養成する防大の校長に据えたのは
親中で民主党政権ができるまでは「売国奴」扱いされていた福田政権でした。
(そののち鳩山―菅―野田の黄金反日トリオの出現で、国民の大半は
こんなレベルを売国奴などと呼ぶのは失礼、という認識に至ったわけですが)

五百籏頭氏はまた、在任中に日本で行われた世界華僑大会
(正式名は失念)の開催に際し、華僑組織の戦略委員を務めたり、
学生に堂々と「国の首長を守るというような意義では広い視野を失う」
などといって「天皇と国体を守る」=「戦前の軍国主義」という刷り込みをしたり、
つまり典型的な団塊お花畑左翼がよりによって防大校長になったというわけです。

これもそのとき書きましたが一般出席者が「クレマンソーの文民統制について」などと、
最もこの手の人物が喜びそうなおべんちゃら質疑をし、またその通り
嬉々としてこの「軍事の素人」が
「戦争は軍人がするにはあまりにも困難である」という言葉を繰り返すのを、
わたしは思わず冷やかな目で見てしまったのですけど、それより
この日の五百籏頭発言の中でわたしが個人的に「そりゃ違うだろ」と言いたかったのが、

「昔は諸君の先輩が駅で唾を掛けられたというようなこともあったが、
東日本大震災で自衛隊は実によくやったので、国民の見る目が初めて変わった」

と言ったことでした。

「初めて」?

東日本大震災が、

自衛隊が国民に認められた

最初の災害活動?

いったい何を言っているんだこのオヤジは。
災害があるたびにあるときは命をすり減らしてまで現場で活動していた
これまでの自衛隊に国民が感謝していなかったとでも言うのか。

阪神大震災で駐留を終え撤退する自衛隊の部隊長と現地住民代表が、
抱き合って泣いていたのを知らないのか。
戦後日本の周りに散らばる魚雷を掃海した海自のことを、
ときとして彼らが「特攻作戦」まで取ってそれを完遂したことを。

紛争地に海外派遣され、その地でどこの国の軍隊よりも頼りにされ、
現地の住民に「帰らないでくれ」とデモされたことがあるのを。

日航機墜落のあとは?北海道の津波のときは?


五百籏頭氏がおそらくそうであるように、
「自衛隊を蔑む」人々には、「穢れを嫌う」というある独特の深層心理が働いている、
という説を最近どこかで目にしました。

一般人が尻込みするような修羅場に任務とはいえ淡々と分け入り、
土と汗にまみれて生きているかどうかもわからない人間を捜索し、遺体を収容する。
これらの尊い任務を「穢れ」と言い捨てることからしてわたしには全く理解できませんが、
とくに官僚や政治、五百籏頭氏のような学者の世界には、
この「自衛隊蔑視」の傾向はこの心理を基として実に根深いものなのかもしれません。

しかし、彼らがどう思おうと、声の大きなものがそれを肯定しようと、
大多数の普通の日本人は、自衛隊に感謝の気持ちを持っているとわたしは信じます。

以下は、元産経新聞記者、ジャーナリストの高山正之氏が、
昨年週刊新潮のコラム「変幻自在」で上梓した記事の抜粋です。



90年代半ば、ルワンダ内戦で難民が出ると外務省は
その救済に自衛隊員派遣を言い立てた。
難民キャンプにも武装ゲリラが出没する。エイズは流行る。
危険千万で、内戦に責任のある西欧諸国も尻込みしていた。
で、米国が安保理常任理事国入りを餌に日本に派遣を要請してきた。


外務省は喜び、派遣部隊に被害が出ればより外交効果があると読んで、
装備は小銃のほか機関銃一丁とほとんど丸腰で放り出した。
自衛隊はそんな悪条件下でも任期を無事務め上げたうえ、
武装ゲリラに襲われたNGOの日本人医師の救出もやってのけた。

外務省には期待外れだった。

お前らだけが死ねばいいのに、なにを勝手をやるのか。
共同も朝日新聞も自国民救出など自衛隊の越権行為だと非難した。
期待に背いたことへの報復は陰険だった。

任務終了後、帰国には民間機を利用し、
その際は制服の着用は仰々しいので認めない。

各自私服で帰れと。
お前らは目立つことはないという意味だ。
誰しもましな着替えなど持っていない。

年の押し詰まった12月27日、
ロンドンから日航機に搭乗したとき
周囲の乗客はひどい身なりの集団にちょっと驚いた。 

それが異郷の地で頑張り抜いた自衛隊員と知るのは
機が公海上に出てからの機長アナウンスでだった。

「このたびは任務を終え帰国される自衛隊員の皆さま、
お国のために誠に有難うございました。
国民になり代わり機長より厚く御礼申し上げます。
当機は一路日本に向かっております。
皆さま故国でよいお年を迎えられますよう」

異形の集団を包むように客席から拍手が沸き、
その輪がやがて機内一杯に広がって行った。

機長は乗客リストを見て自衛隊員の帰国を知り
「日本人として当然のことをしただけ」と語る。


成田に着いたあと65人の隊員はコックピットの見える通路に整列し
機長に向かって敬礼した。

 

文中「被害が出ればより効果的だと考え」という部分ですが、
この「効果」とは何かと言うと、つまり
「危険な任務によってこれだけの被害が出た。やはり派遣は違憲である」
と言う護憲派の論拠を提供できるということではないかと思われます。

要するに、国際世論に迎合し米国の命令に違わず自衛隊を派遣すれば
国連安保理常任理事国というご褒美もいただけ、おまけに万が一、
自衛隊員が亡くなるか負傷でもすればそれを理由に予算を思いっきり削れる。
このような一石二鳥の意図を持っていたというのが高山氏の意見です。

ちなみに、外務省は安保理の常任理事国入りを(今も)悲願としています。
湾岸戦争の時「日本は金を出すが血を流さない」と非難されたので、
このような機会に「血を流させることも厭わない」ということを
アピールしようとしたのかもしれない、というのはわたしの考えですが、
実際は結局チャイナスクール(現防大校長もその一人ですが)の働きによって、
中国が常任理事国入りしてさらに日本はその座から遠のいてしまいましたね。
いやー、残念残念。(棒)


わたしはシカゴからボストンに向かう飛行機の中で、機長が
「本日の機には、イラクから帰国したどこどこ所属の何とか大尉たちが乗っています」
とアナウンスして、機内の全員がその数名に対し拍手した瞬間に立ち会ったことがあります。
アメリカでは、この機長のような行動はごくごく当たり前に見られるのです。

この日航機の機長は、おそらくこのような「自国を守るために戦う人々への敬意」
を普通に表す世界の基準というものに精通していたものと思われます。
翻って、危険な任務地に派遣しておきながら自衛隊員を民間機に乗せたうえ、
制服を着ることも許さない屈辱的な扱いをして恥じない日本政府に対し、
自分の権限でささやかな、しかし自衛隊員たちにとっては大きな意味を持つ
レジスタンスを行ったのでしょう。

「私たち国民の大半はそう思っていない」

彼らを貶め、その存在を疎むものがこの国の中枢にいてそう彼らを扱う限り、
この機長のように思う人間が黙っていないで声を上げるべきでしょう。

そしてささやかな力ながら、わたしもその一人になりたいと願っています。




DON'T CRY OUT LOUD~あの日泣いていたあなたに

2013-02-18 | つれづれなるままに

またまた今週は岡山にいます。
今宿泊しているのは倉敷の風致地区にある「倉敷国際ホテル」。
週末なので外は観光客でごった返していますが、
われわれは昼までの用事を済ませてホテルに引き上げました。

昨日あったことをご報告します。

昨日、朝一番の新幹線で岡山へ。
4時間の列車旅は少々きついですが、岡山空港から目的地までは
非常に不便と言うことなので新幹線にしました。



車窓からの富士山。
寒い割に雪が少ない気がするのですが、こんなものですか?

この新幹線の車内でちょっとした事件がありました。
新神戸停車後、洗面所にいくためにデッキにいったところ、
若い女性が身も世もあらぬ様子で号泣しているのです。
傍らにはおばちゃんが立って、彼女の訴えを聞いている模様。

こんなときに黙って見過ごすことのできないエリス中尉、
何事かと立ち止まった瞬間、彼女はわたしが理由を尋ねる前に

「あの、この新幹線次いつ降りられるんですかっ」
「11時55分に岡山ですけど・・・・」

「新神戸で降りられなかったんです!」

彼女はそういうと、また泣き叫び始めました。
どうやらお手洗いに行っているあいだに新神戸を過ぎて、
出てきたらもう降りられなくなっていたというっところでしょうか。

「新幹線に乗ったの初めてだったんです!」

おばちゃんもわたしもつい彼女の訴えに耳を貸してしまった、
というか立ち止まったとたん彼女に縋られたようになってしまい、

「あ、そうですか。じゃ岡山で降りて乗り換えるしかないですね」

とすたすた行ってしまうことなどとてもできないような気がしました。
文章で書けば、「泣いていた」「号泣」「パニック」そんな感じですが、
実際には彼女の様子はとてもそんな生易しいものではなく、
「見も世もなく」というのが最もぴったりしていました。

「おぅおぅお駅員さん呼んでくれますかああああでも、きっと呼んでも
うぇうぇだめですよねえええおんおおんおお~~ふげっふげっ」

と音をそのまま描写したらこれが一番正確です。
駅員じゃなくて車掌だろ、と突っ込むのを控えて数秒観察すると、
彼女は携帯を握りしめているのですが、新神戸で会うはずだった、
あるいは予定先に連絡をすることより、まわりの人間に窮状を訴えるのに必死。

わたしは生まれてこの方こんなに人が逆上している様子を初めて見た気がします。
さっきから彼女に捕まっていた気のよさそうなおばちゃんも、
最初こそ同情していたのでしょうが、あまりにも彼女の錯乱ぶりが激しいので
どん引きというか閉口してしまった様子で、薄笑いを浮かべて
「仕方ないわねえ」などと言い出している始末。

その時のおばちゃんの頭上には
「そんなことくらいでこんなに泣き叫ぶか?」
というフキダシがありありと見て取れました。

わたしが、
「車掌さんがもし来たら、まず、岡山発新神戸の一番早い下りを調べてもらいなさい。
到着してから一番早い下りにすぐ乗り換えるんです。
新神戸に着く時間がわかれば先方にそれを連絡して対処してはどうですか」

というと、彼女はうなずいて、一瞬納得したかに思われました。
泣いてもどうにもならないことで泣くな、とこれが自分の娘なら言うところですが、
(わたしは息子にもよく『文句を言ってもどうにもならないなら言うな』と注意する)
「落ち着きなさい」
などと言われていきなり落ち着けるような娘なら、そもそもこんな大騒ぎしないだろう、
と思い、それ以上要らないことを言って彼女がこれ以上「泣きモード」に突入しないよう、
その場を可及的速やかに立ち去りました。

すると彼女のそばに立っていたおばちゃんが解放されたような顔でトイレに入りました。
おばちゃんはどうやら彼女につかまってトイレも行かせてもらえなかった模様。
もちろん、これはおばちゃんが善人であるということを意味しています。

席に戻って、わたしの少し前にデッキに行って戻っていた息子に
「デッキで泣いてる女の人がいたけど知ってる?」と聞くと
「ああ、さっきからいたよ」

そのとき誰かが通ったのでデッキの自動ドアが開き、
彼女の咆哮がデッキ内に響き渡りました。
何人かは後ろに首をめぐらせ「なんだなんだ」と言う顔をしています。
わたしもちらっと振り向くと、デッキの床に彼女がなんと脚を八の字にぺたりと座り込んで
泣き叫びながら電話をしている様子が目に入りました。

わたしのアドバイスは彼女を冷静にすることはできなかったようです。

「うーん・・・少しパニクりすぎかな」
「俺ああいう女の人嫌い」
「そんなこと言うんじゃないの」
「映画でもきゃあきゃあ泣く女の人いるじゃん、ああいうのうざい」
「うん・・・まあねえ・・・」

息子は、昔映画に登場するそういう「泣き女」のような女の人でなく、
ターミネーターの「サラ・コナー」みたいなお母さんがいいんだ、
と言ったことがあります。そのとき

「強い女の人でないといやだ。サラコナーとか、ママとか」

・・・・orz

わたしは彼の目から見るとサラコナーと同列か。
どのような意味合いにおいてサラコナーと同類に認定されたのかは、
しょせん彼が子供だったので深く追求しないまま終わりましたが。

その後戸が開くたびに「えっえっえっ」とか「おおおおおーん」とか、
彼女の一向に衰えぬ泣き声が聞こえていましたが、
しばらくたつとそれは消え、岡山でわれわれが降りるときには、
デッキにもホームにもその姿は見られませんでした。

車掌さんが適切な指示をして、一番エスカレーターに近い降り口まで
移動したのかもしれません。

それにしても、彼女の大騒ぎに立ち止まり、事情を聞いてあげていたのは
わたしとそのおばちゃんだけで、騒ぎの間通りかかった何人もの男性は
「なんだろう」と目を向けはするものの、決して干渉しようとしませんでした。

その一部始終を見て思ったのは、彼女が自分の困難を自分で解決することを
今までのその人生で―子供のころから―全くしてこなかったのだろうな、
ということと、たとえば電車に乗り遅れたり大事なものを失くしたり、といった
「命にかかわることでもなんでもない」ことでこんな大騒ぎする人間は、
いざ本当に大事に直面した時どうなってしまうんだろう、と言うことでした。

「新幹線に乗ったのが初めてだった」
という言葉からもその見かけからも彼女の人生経験が浅いことを抜きにしても、
ここまで錯乱するというのは間違いなく彼女の「資質」でしかありません。

車内の男性が一様に彼女にかかわることを避けていたのも
「あまり近づいたり、妙に頼られたりしない方が無難な女性だな」
と本能的に(?)察知していたからでしょうか。
彼女は小柄で可愛らしいタイプで、おそらく男性の多くは平時であれば
「守ってあげたい」
というような保護本能を刺激されて近づき、お付き合いに至るのでしょう。
(今回ももしかしたら待ち合わせの相手は男性だったのかもしれませんが)

しかしもしその付き合いの過程で何か事が起こったとき、今回のような
感情の爆発をほかでもない自分一人にぶつけられた相手の男性が
「いちいちこんなに大騒ぎするような女とはとてもやっていけない」
などと引いてしまうようなことになりはしないか、などと思ってしまいました。

息子のような嗜好の男性ならずとも、結婚してその人生の過程上、
何かあるたびに彼女のように「錯乱する人」が母親であり妻では
とても一緒にその困難を乗り切れない、と冷静に考える男性は多いでしょう。


今現在、それらがすべて済んだことになり、もし、もしもですよ。
昨日のことを彼女がけろっとして笑って語っているとしたら、わたしは彼女に言いたい。

「泣いてもどうにもならないことで泣くな。明日になれば笑えるのなら泣くな」

BGMには・・・この曲を。
「あなたしか見えない」という全く関係のない歌詞がついて、
日本でもかなり流行った曲ですが、この原題は
「声を出して泣くな」です。
サビからどうぞ。

Don't cry cut loud 
Just keep it inside
And learn how to hide your feelings
Fly high and proud and if you should fall
Remember you almost had it all

大きな声で泣かないで
自分の中に抑えて つらい気持ちを隠すことを学びなさい
誇りを持って高く飛翔しなさい
もし落ち込んでしまったとしても
覚えておいて あなたはもうほとんど全てを手に入れているんだから







台湾を行く~「日本」を守ってくれた台湾人

2013-02-17 | 日本のこと

いま一度、台湾で訪れた飛虎将軍廟での話をします。
ここを訪ねると、廟守の方が迎えてくれます。
わたしたちが訪れたとき、おじさんはお昼ご飯をお堂の机に広げていました。



ここでお湯を沸かし、お茶も入れるのでしょう。
中国式のお茶がいれられる台があります。
どうもこれは折り畳み式で、こちらの将棋盤と、向こうのダイヤモンドゲームの部分が
コンロとお茶台の蓋となって収納できる仕組みのようです。
・・・・・アイデア商品?

コンロにやかんがかかっている状態でダイヤモンドゲームをした場合、
とくに赤の人などはやかんに手が当たって火傷するおそれはないのかといった
うっすらとした不安を感じさせずにはいられない、
なんというか、いまひとつよくわからないコンセプトのコンロなのですが、
それはともかく、毎日使っているのに手入れが行き届いてピカピカです。
このせまい廟は、どこもきちんと掃除がされていて整頓も行き届いていました。



このおじさんが廟守りさん。
この方が毎日お掃除もされるのでしょう。
毎日日本人が尋ねてくる場所で働いているのですが、日本語がわかりません。
日本人が来たら身振り手振りでお線香の上げ方を教えてくれます。

叔父さんの執務デスクも、きちんと整理されていることに注意。
そしておじさんの背後のカレンダーを見てください。



おおお、天皇皇后両陛下の「皇室カレンダー」。
このようなものをいったいどうやって。

天皇陛下御製の句が書かれた靖国神社カレンダーまで。
もしかしたらこれらのカレンダーは、ゼロ戦の模型や士官帽のように、
日本からしょっちゅう送られてくるのかもしれません。





元日本軍人がまだみな壮年であったころには、このように軍帽を被って、
ここに慰霊に訪れたのでしょう。
戦争従事者が皆80代以上になっている昨今では、このような慰霊訪問も
激減しつつあるのであろうと思われますが・・。



ちなみに、蔡焜燦さんは日本に来るたびに靖国参拝を欠かさないそうです。
日本語で説明してくれた同じ名前の蔡さんに、蔡焜燦さんの話をすると、
「知っていますよ。この人は台湾で有名です」と言っていました。



お線香をあげると、廟守さんはお守りをくれました。



日本の旗と台湾の旗が、神像の両脇に掲げられています。
中華圏のお寺でお祈りをするときは、日本と違ってひざまづくため、
御神体正面にはそれ用のクッションが置いてあります。



実にきらびやかなのが台湾式。
よく見ると実に凝った彫刻がなされています。



中国のお寺でこのような太鼓が使われるのかどうかはわかりませんが、
どうやらこれは朝夕「君が代」と「海ゆかば」が鳴らされるとき、
お寺の鐘を突くように叩かれるのではないかと思いました。
どういう仕組みかわかりませんが、(おそらく電気ではない)
狭いので床ではなく天井に太鼓を吊って、下から叩けるようにしてあります。



飛虎将軍の前に置いてあるホンダの車は、廟守さんが呼んでくれた
日本語のわかる解説員の蔡さんの車。
奥に立っているのが蔡さんご本人です。

廟守さんは
「時間があるので日本語の説明が必要です」
「時間が無いので説明はいりません」
と書いてある紙を見せ、どちらか指を指すと、
必要なときには蔡さんを電話で呼ぶという仕組みなのです。
電話をして5分以内に蔡さんは到着しましたので、おそらくこの人は
この近所に住んでお店か何かをやっているのではないかと思われました。

この蔡さんから日本語で説明を聞き、杉浦少尉の好きな煙草に火を点け、
質問などさせていただいたのですが、その中でわたしが
「こういう説明はボランティアでなさっているのですか」
と聞くと、「いえ、ちゃんとお金をいただいています」
なんと、ここに来た人々の「お布施」が、その謝礼なのだそうです。



なるほど、それでこんな金庫があるんですね。
それを聞いて、わたしたちはお賽銭を思いっきり(笑)はずみました。
きっと、ここに来る日本人は、皆そうするのだと思います。

ところで、この金庫の横に、



こんな焼け焦げがありました。
これは非常に残念なことですが、おそらく「反日」であるところの外省人が・・、
蔡さんいわく「基地外が」、ある日放火したのだそうです。

先日お話ししたように、戦後国民党は徹底した反日教育を台湾人に施しました。

統治前の「抗日運動」の実態は、夜盗もどきの「シマを荒らされちゃおまんま食い上げだ」
という生活上の理由でなされた抵抗運動でもあったわけですが、戦後の反日教育では、
この蜂起で日本政府に制圧された犠牲者は「英雄」とされました。

彼ら暴徒が小学校の運動会を襲い、子供を中心に和服を着ている者だけを選んで殺し、
その時着物を着ていた台湾人も二人犠牲になった、などと言う話は秘匿されました。

今日、日本のガイドブックなどにも、この部分に触れてあるものは非常に少なく、
書かれている「台湾人が日本政府によって多数殺戮された」という部分だけを読んで、
「日本はやっぱり一方的に酷いことをしたのだ」と目を伏せる人を増やす結果になっています。
(何を隠そう、TOも当初そのクチでした)

そして、現在台湾では大陸中国から来た人間も元々の台湾人と同じ国に暮らしているのですから、
一口で「台湾人」といっても、この、日本人が神様になっている廟を
「面白くない」「消してしまいたい」と思う人間は中にはいるでしょう。
そもそも出自が違えば家族から聞いてきた話も人によりさまざまでしょうし。


台湾全土で、蒋介石像のある場所はピーク時で150か所近くであったそうです。
蒋介石がそんなに台湾人に慕われているはずはないんだけどなあ、と、
大小様々の蒋介石像(故宮博物院にもあった)を見るにつけ不思議だったのですが、
これで謎が解けました。
蒋介石はまるで犬のマーキングのように、とにかく自分の像を作らせたのです。
それもこれも自分の徹底した神格化が目的でした。

かつて台北に先日お話しした台湾総督の児玉源太郎の威風堂々とした
騎馬姿の銅像があったのだそうです。
蒋介石はその像がすっかり気に入ったので、なんと首から上だけを取って、
自分の首に付け替えさせました。
児玉源太郎の銅像が着ていたのは陸軍の制服だったので、
その変えようのない首から下は日本に留学して陸軍の予備校に行っていたころ
そのままの蒋介石だったのですが、本人は恥じる様子もなかったようです。


それはともかく、蔡さんは、台湾の民主化前は何度もこの廟が、
当局から文句を付けられて潰されそうになったということを淡々と語りました。
しかし、この地域の人たちはその圧力に負けなかった、とも。

日本軍人だろうがなんだろうが、われわれの住む地を守ってくれた神様だ。
国民党に潰せと言われる筋合いなどない。
そのように住民は団結して、この廟を守ってくれたのだそうです。



守ると言えば、この八田與一の銅像もそうです。
この銅像は、まだ八田が生存しているとき、ダムの完成記念に造られました。
本人は当初自分の像を建てることに抵抗したそうですが(笑)、
「フロックを着て立っているようなものではなく、作業着を着た像を造るなら」
という条件で承諾したのだそうです。

この像が何から守られたかと言うと、実は最初は日本政府でした。
戦争に突入し金属不足になったとき、国内はもとよりここ台湾でも金属は供出させられました。
お寺の鐘までがその対象になったのですから、銅像もまたそれを逃れられなかったのです。

しかし、その動きがでたとき、関係者はこの「華南の父」の像を隠しました。
隆田という、このダムの最寄駅の駅舎に隠されたのです。



戦後はそして蒋介石の「日本パージ」から隠され・・・、つまり、
ずっとこの像は隆田駅の駅舎の中にひっそりと守られていたのでした。

この銅像が前の場所とは少し違う、丘を見下ろす現在の場所に設置されたのは、
1981年、蒋介石が亡くなり、その息子の蒋経国が政治的求心力を失い、
陳水扁の台湾内での民主化運動(党外運動)が高まりを見せていたころのことです。

飛虎将軍、杉浦海軍少尉、そして八田與一。
どちらの日本人もその命を台湾に捧げ、台湾人から敬愛されました。
それだからこそ、台湾の人々は、その絆を守り続けてくれたのです。

台湾にはこのような「日本人との精神的絆」である場所がいまだに遺されており、
頭蓋骨となって漁網にかかった日本軍人を祀るため、軍艦の模型が飾られている神社や、
「教育をするものは寸鉄も帯びてはならぬ」と言う意思のもとに、何の守りもなく
原住民の襲撃の元に命を絶たれた日本人教育者を顕彰する神社もあります。

台湾総督府の明石元二郎は
「余は死して台湾の護国の鬼となり、台湾の鎮護たらざるべからず」と、
自分の体を台湾に埋葬させるように言い遺しました。
実際明石は郷里の福岡で亡くなったのですが、その遺志は重んじられ、
明石の遺体はわざわざ台湾に運ばれ、埋葬されたのです。

その後、大東亜戦争後の国共内戦に敗れて台湾に逃げてきた国民党の中国兵、
そして難民がこともあろうにこの日本人墓地にバラックを建てて住み始めました。
明石総督の墓も、付属していた鳥居はバラック家屋の柱として利用され、
さらに墓の近くにわざわざ公衆便所まで作るという念の入れようです。

しかし、1994年になって陳水扁台湾市長はそこに住んでいた人々を退去させ、
台北市役所の手によって明石総督の墓が掘り起こされました。

このときも、「日本人を弔うとはなにごとか」と外省人たちはいきりたち、
依然明石総督の偉業をたたえる本省人との間に激しい争いが起こりました。


大陸から来た外省人にとっては「憎い敵国人」である日本人も、
台湾人、つまり本省人にとっては尊敬してやまない恩人であり、
なんといっても同じ国民だったのです。

彼らが「日本人の痕跡」を守ってくれたのも、彼らの心情を思えば当然なのでしょうが、
我々日本人としてはただそのことに「ありがとう」と首を垂れずにはいられません。








「明日地球が滅びようとも今日君は林檎の木を植える」

2013-02-16 | つれづれなるままに




先日に引き続き、国会に18年ぶりに帰ってきた石原慎太郎議員の質疑から、
少しだけお話しします。

石原議員のいわゆる「爺放談」は話題も多岐に渡り、最後に環境問題へと
その議題を移しました。

その部分を聞き書きしましたのでご覧ください。


最後に首相に政治家の哲学としてご記憶いただきたいんですが、
私は代議士のころ、40年近く前、東京のよみうりホールでね、
ブラックホール見つけたホーキングという天才的な宇宙科学者の講演を聴きました。
彼は筋ジストロフフィーにかかってね、声も出なくてね、
コンピュータを腕で打って人造語で話してましたけど。
彼、この間のロンドンオリンピックでも、パラリンピックでそうやってメッセージを出して、
喝さいを浴びたそうですけど。

その時に、質問を許されて、ある宇宙物理学専門の学者の1人が、
「この宇宙に地球並みの文明をもった星がいくつぐらいあと思うか」と言ったら、
ホーキングは『2ミリオン』と言ったんです。
私は吃驚したんです。
太陽系宇宙だけじゃないですよ。全宇宙でね。
ある人が、手を挙げて
これだけたくさん星があるのに、我々はなぜ
宇宙船とか宇宙人に地球で出会うことがないのか」と聴くと、ホーキングは

『地球並みの文明をもった惑星は非常に自然の循環が悪くなって、
宇宙時間で言う瞬間的に生命が消滅する』と言った。

私は挙手しましてね。
「あなたの言う宇宙時間の瞬間的とは地球時間でどれぐらいか」と言ったらね、
「100年」と言いましたな。

あれからね、40年経っちゃった。
まあ彼の予言が正しければ、あと60年しか地球はね、あなた方は持たないんだ。

人間の欲望は経済で経済の目的は金ですからね。皆かね金かねだけどね。
ヨーロッパの経済がどうとかアメリカがどうとか、言ってますけどね。

過去のG8で環境問題があんまり深刻に討論されたことがないんですね。
G8があった後スポークスマンにメディアが
『環境問題について討論しましたか、進歩がありましたか』と聞いて
「あまりしなかったけど半歩は進みました」というのが三年続きました。
三年で半歩っていうのは、いかにも遅すぎるんですよ。

ある学者によると、北極圏の氷は後何年かで溶けるっていう。
ヒマラヤの氷もどんどん解けてね。
氷河なんかも全部溶けて、わたしがローヌに行った時も見られなかった。
その水はどんどん太平洋に流れてね、赤道直下の島の方に行くんですよ。
ツバルというアメリカが作った人口の飛行場は標高5メートルしかなくて、半分水没している。
田んぼが作れないから彼らは何してるかと言うと、半分腐ったような脂だらけの魚を採ってる。
どんどん健康を害して、年寄りはその日暮らしで朗らかにってのか、皆マリファナ吸ってました。
本当にあれは明るい地獄だとわたしは思った。

こういう事態がどんどん進んで今、あちこちに異常気象がある。
ニューヨークでもハリケーンが来たり豪雪が来たり、ワシントンで雪が降ったり。
日本でもそうですよね。
当然のことながら異常気象ではなく、通常気象だが、
これを阻止するために日本はいろんなことをすべきです。

あなたもこれからG8に行ってどんな主張をされるか知らないけどね、
せめて日本の最高指導者は、世界全体に新しい、正当な危機感を抱かせるために
スピーチしてもらいたいの。

東京は各都市に先んじてC4ってのに入りました。
企業にも責任を持って条例を作ってやらせてますけどね、
こんなものは本当に爪に火を灯すようなものですよ。

昔飲み屋に行ったらね、友人の開高健が書いた色紙があったんですよ。
いい文句でね。

『たとえ明日地球が滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える』。

開高にしてはいい言葉だなと思って調べると、ポーランドの詩人、ゲオルグのね、
この人もマルチン・ルターに非常に影響を受けた詩人ですけどね。

これは私たちの愛する子孫に対する責任のささやかな履行だと思うんですがね。
ぜひ、総理ね、G8でそういう哲学を披露しながらね。
まあ、経済も復興も結構だが、やっぱり私たちの子孫の生命を担保するために、
もうちょっと違う意識をもってね、全体が動かないとダメだぞ、という警告を発してください。


これに対する安倍総理の答弁は以下の通り。

「2007年のハイリゲンダムサミットは私が出席したが、
CO2削減が大きなテーマになりました。
その際、2050年までに排出量を半減をするという大きな目標で一致することができました。
今年開かれるサミットでも当然環境は大きなテーマになると思います。
その際、日本はCO2削減あるいは省エネについては、
高い技術力を持っているから、日本こそリードしていくべきだろうと思っています。
安倍政権としても環境問題極めて重視しています。
だからこそ、石原伸晃議員を環境相に任命したところでありますが、(場内、笑い)
この問題には政府一丸となって取り組むつもりでおります。

(引用終り)



人生を肯定する、というのはわたしのとても好きな言葉です。
この言葉は、以前野中五郎少佐を書いた稿で紹介した、
戦の中、長路野宿の旅の路上で茶を点てた武士がそのわけを問われて曰く

「これもまたそれがしの一日(いちじつ)でござれば」

と答えた話に通じるものがあります。
ホーキング博士は

「今後百年を生きるために我々は慎重に協議しなければならない」
「しかしながら、わたしは楽観的にとらえている。
これからの二世紀に起こる危機を乗り越えることができれば、
我々は宇宙に栄華を拡大することになるだろう」

と語っています。
もしかしたら理論上の滅亡が近いことを知ったうえで、博士は我々に
「それでも今日を肯定する」ことを提言したにすぎないのかもしれませんが、
だとすればこの言葉は「林檎の木を植える」と同義ということになるのでしょうか。

「我欲を捨てて」というのは石原氏が好んで使う言い回しで、
この証言によるとホーキング博士はすでに40年前から
「人類はすでに明日の生存を担保するために我欲を捨てるときに来ている」
と提言していたことになります。

林檎の木を植えるという行為を「明日のために」する。

逆説のようですがその行為を虚しいものにしないために人類が知恵を絞る。
それを主導していける国はほかでもない、日本であると思います。


まあ、そのためには林檎の木より先に、
「あの国」をまず何とかしなければいけない気もしますが。





 


台湾を行く~台湾総督府総監・後藤新平

2013-02-15 | 日本のこと

日本が統治時代、台湾でしたことについて、戦後の日本人がなぜか
「植民地化したことは許されるものではないが」
というような言い訳をする傾向について、先日、

「それはアメリカから戦後刷り込まれた自虐史観の賜物である」
そして
「歴史に許すも許さないもない。善も悪もない」

「しかも、蒋介石のしたことを冷静に見る限り、
われわれがこの人物のの対日政策に恩義を感じる必要はさらに無い」

ということを述べました。
しかしこの言だけでは、
「歴史にいい悪いもないと言うなら、戦後国民党が台湾でしたことも
蒋介石が日本から没収した財産で私腹を肥やしたことも善悪では語れない」
ということにもなってしまいますね。
うーん、困った困った(棒)

それでは、日本支配とそれに続く国民党支配を台湾人がどう捉えたか、
当の台湾人の総意とされている資料を見てみましょうか。

「犬去りて豚来る」

これが国民党を迎えた台湾人がため息とともに吐いた言葉です。
日本が台湾を統治し始めたとき、もちろんですが台湾人の間にも抵抗が起こりました。
清から送られていた政府は日本人が上陸するや住民に殺戮を加えながら逃走、
むしろ台北では日本軍に早く進駐するように要請する声もあったくらいですが、
島の南部の住民は激しい抵抗を示し、抗日ゲリラは1902年に収束するまでの間に、
2万4千人もの台湾人が死亡しました。

そして、この抵抗運動を「日台戦争」という造語で「日本悪玉」の根拠にして、
台湾人たちから訴えられたのが、NHKの「ジャパン・デビュー」スタッフです。
これを書いた稿は残念ながら消されてしまいましたが。

国民党の戦後敷いた「反日史観」では、この死者は「英雄」として、
先日お伝えした「忠烈祠」に祀られているわけですが、

ちょっと待った(笑)

台湾の実業家許文龍氏によると、

「そんな立派なことではない。
彼らは国家意識や民族意識から抵抗をしたのではないのだから」


どういうことかと言うと、日本軍上陸とともに逃げた清政府は、
もともと台北の都市部に限られ、南部地方は無政府状態でした。
「化外の地」という名前はだてではなかったのです。

そういった地方は地元のやくざが牛耳って庶民から搾取しており、
そこに日本人が来るとその権利が脅かされるため、
その既得権益のためだけにかれらは日本人と戦ったわけです。

普通の台湾人にしてみれば、ヤクザの搾取に貢ぐのであれば、
日本人に統治してもらった方が治安も衛生状態も良くなるし、
税金もそんなに高くないのならそちらの方を歓迎するのは当然です。

「日本人の悪行」として国民党政府に喧伝された「霧社事件」にしても、
もともとはセデック族の集団が小学校の運動会に乱入して、
子供をはじめとする日本人だけを140人を惨殺したことに端を欲しており、
今日虐殺とされている日本政府のセデック族制圧はそれに対する「討伐」であった、
という構図についてはあまり公にされていないのが現実です。

それにしても、当の台湾人自身ががこのように評価している「抗日」を、
よりによって我が日本の公共放送局が「戦争」と称するとは・・・・・・・。

何度も言いますが、いったい、彼らはどこの国の立場に立っているのでしょうか。

1902年に抗日運動が収束してから、台湾は急激に発展しました。
ことに台湾総督児玉源太郎と後藤新平の「黄金コンビ」の時代には
風土病も抑えられました。
住民の平均寿命を30歳にしていたあらゆる熱帯特有の風土病は、
中興の祖であった鄭成功の命も奪いましたが、日本人も
これらのペスト、コレラ、マラリアなどに罹患しかなりが死亡しています。

オランダ統治時代からアヘンの吸引も蔓延しており、清朝はこれらを

「匪賊」「風土病」「阿片」「生蕃(原住民)」

と呼びました。
後藤はこれらの難問を一気に解決するべく、実に巧妙な政策を打ちます。

阿片はいきなり廃止するのではなく、吸引を「免許制」にして、
国による専売を行い、「闇取引」を根絶させます。
阿片の収入も総督府の収入とし、それを社会整備の予算を確保します。
台湾人を阿片の仲買人、小売人にして利益を上げさせながら、その一方で
彼等にゲリラ対策に協力させ、国の利益を病院を建てたり、あるいは
総督府付きの医学校を創立することに回しました。

このときに造られた医学部が現在の台湾大学医学部です。

そして、徐々に官主導で阿片の取引を減らしていき、
50年近くかけて阿片の習慣は台湾から無くなりました。

そして、面白いのですが、統治政府は林火旺という匪賊の頭領に

「罪は咎めないので投降せよ」

と呼びかけ、出てきた彼らに土木工事の仕事を与えました。
建設土木関係と言うと、昔は日本でも「組」が請け負っていましたから、
まさにこれは日本とおなじの「適材適所」。

「彼らの改心」「ゲリラ撲滅」「国土整備」

が一石三鳥で期待できる素晴らしい施策です。

後藤新平は台湾近代化の父、と言われています。
道らしい道すらなかった「化外の地」に日本は次々と改革を行います。

今もそのまま残る南北縦貫鉄道、港湾、道路、ダムの建設。

苗木の無料配布と補助金を交付し造林事業を推進。

台湾銀行を設立して通貨金融制度を確立。

阿片を始め、纏足、辮髪、先住民の首狩りなどの悪習の追放。

学校を作り教育制度の整備。

新渡戸稲造主導の製糖業などの産業育成

台湾の気象に合ったコメ(蓬莱米)などの改良を始めとする農業指導


「日本は台湾に対して偉大なことをした」

これは、李登輝元総統の日本統治に対する評価です。

しかし、このような日本統治政府のしたことを列記すると必ず
「植民地としてそのような国の整備をするのは当たり前で、
実際は日本人は台湾人を動物のように扱ったではないか」

という反論があります。
台湾の先住民族の暮らしぶりを万国博覧会で紹介した時に、
それを「人間動物園」だと呼称した、という捏造をした
NHKの「ジャパン・デビュー」の製作スタッフのような人たちのことですね。

(しつこいと言われようが、何度も言わせていただきますよ。NHKさん)

これだけの成果を並べ、当の台湾人の感謝する言葉を聞いてもなお、
「日本が悪かった」「日本は謝罪すべき」だと言い募る人々、
それが冒頭にも述べた「謝罪マゾヒスト」「自虐アドレナリン中毒者」の皆さん、
あるいはそこまでいかずとも「なんとなく世間がそういうことになっているらしいから」
と周りの空気を読みつつ「いい人」と思われようとする人たち。

これらの人々は、台湾人の言った
「犬去りて豚来る」
の意味をもう少し史実に学んでいただきたい。

何年か前に後藤新平と新渡戸稲造の業績についてのシンポジウムが行われました。
そのときに、なんと我が日本代表のパネリストは(誰だか名前はわからなかった)

「日本は台湾にいいこともしたかもしれないが、悪いこともした。
台湾の人たちにお詫びをしたい」

と発言したというのです。
このパネリストも、どうやら「自虐善人」であった模様。
韓国のような国相手ならともかく、台湾人相手にこれでは

「何を言っているのこの人?」

とむしろ呆れられ「あんたは後藤新平から何を学んだのだ」
と逆に不快感を持たれたのではないかと思います。

統治した台湾総督府は台湾人の自治を認めませんでしたし、
社会的にも出世に制限があったのも事実です。
同胞とされていた朝鮮人には日韓併合前から陸軍士官学校への入学を認め、
日本人と一緒に学んだ彼らの中の優秀なものには中将にまでなった者もいました。

比べて台湾人は二等国民と扱われたのは事実です。
台湾人は政治運動を起こし、総督府はそれを「治安維持法違反」として逮捕したりしました。
しかし実態は、政治犯として捕えられても「食事つき無償宿」に壮行会をして入り、
出所しすれば一躍英雄扱い。

政府から呼び出されたが最後、それっきり行方も分からなくなった者が
何万人もいるような戦後の国民党とは違って、あくまでも日本は
法治国家として台湾人を扱ったのです。

冒頭の画像は、台湾総督府第五代総督の後藤新平晩年の像。
実に「大物」「怪物」といった風格のある人物です。

後藤新平はもともと医師でした。
しかし、その卓越した政治手腕と何よりも先を見通す卓見は、
医師という職業だけにとどまることはなく、多くの業績を残しています。

満鉄初代総裁。

拓殖大学の創立。(同大学はそのせいで今も台湾との縁が深い)

日本ボーイスカウトの初代総長。

日本最初のラジオ放送をした東京放送局初代局長。

そして関東大震災後の帝都復興計画。
(東京の現在の幹線道路網は後藤の主導で構築され現在に至る)

シチズン時計と言う名を頼まれて命名。(これはおまけ)


ざっとあげただけでこれだけがずらずらと出てきます。

台湾統治は後藤が41歳のときでしたが、
このときに後藤は上に挙げたような統治を

「生物学の原則に則ったものである」

という有名な言葉で説明しています。
台湾の特殊な状況、民族や歴史や気候、これらすべてひっくるめて、

「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、
無理に変更すれば当然大きな反発を招く。
よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」

という方針、つまり簡単に言うと

「ヒラメに鯛の目を付けることはできない」

という「生物学的理論」的考えです。
なかなか的を射た比喩ではあります。

台湾総督府も第三代総督の乃木稀典までは、すべて軍人であったので、
匪賊対策ひとつとっても「懲らしめてしまえ」というような対処をしました。
児玉源太郎も陸軍出身ですが、この時の民政局長がこの後藤でした。
つまり、この二人がコンビとなることで、台湾統治は大きく近代化に
「生物学の原則を取り入れて」前進することができたのです。

今回もあらゆるインターネット上の「台湾統治」について調べてみたのですが、
「NHKへの訴訟は間違っている。なぜなら日本は台湾を植民地にしたから」
というような雑な理論を展開しているある左翼思想を持つ人物によると、
「後藤新平は差別主義者だった」(だから統治は悪であった)とか。
どう差別主義者だったのか具体的な資料もなしに決めつけるのもどうかと思いますが、
もしこれが「差別主義だったに違いない、なぜなら日本は台湾を以下略」
だったら、わたし怒りますよ?

本当に差別主義であったかどうかはともかく、パワフルに台湾の国としての体制を
根本から作り上げた後藤と言う人物は決して清廉で潔白なだけの政治家ではなく、
清濁併せ呑む実行の人であったようで、そういう彼のスタイルは
「金権政治家の典型」「黄金至上主義」などと批判されることも多かったようです。

なかでも台湾統治時代に樟脳の専売で結びついたのがあの「鈴木商店」というあたりが、
この陰口もさもありなんと思わせます。

ただ、その目もくらむばかりの実績を知っている後世の者は
「しかしそれが何か?」と言うしかないのも事実なのですが。



後藤は数々の名言をも残していますが、死の間際に言ったという

よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。
仕事を残して死ぬ者は中だ。
人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ


という言葉は、ボーイスカウトの「白いお髭の総長さん」として少年たちに慕われた
この「怪物」の真骨頂であったと言えましょう。

「いいこともしたがそうでない部分もあった」
台湾人自身の言うところの日本の台湾統治に対する評価と、
この後藤新平への人物評価はまさに方向を同じくするものです。

後藤新平がその一生にしたことの数々は、今日も台湾や日本にとって
偉大な痕跡となり重要な意味となって存在していることに誰も否定はできないでしょう。




白洲次郎の「改憲」(おまけ・石原慎太郎の国会爺放談)

2013-02-14 | 日本のこと

   

安倍総理が中国との緊張が高まる中においても礼儀正しく
『旧正月おめでとうございます』
と在日華僑へ向けた新年の挨拶をしましたね。
これは日本国の総理大臣として恒例にしたがってたんたんと礼を尽くしたわけで、
照射したのしないのと中国側が発言を二転三転させ醜態を曝しているにも関わらず、
こちらはりっぱな文明国としての「大人の対応」であったとわたしは評価します。

元より日本は、その武士道精神から、たとえ戦争中であっても海に落ちた将兵を救出したり、
撃沈した敵国の軍艦が沈む現場に花束を投下したりと、
戦う相手にも、というかだからこそ礼節を以て相対する、というメンタリティがあります。

大東亜戦争中逝去したルーズベルト大統領を悼む弔電を送った鈴木貫太郎、
そして、国際法を無視して自国の一般船舶を沈められてもなお、
それに対する報復を諒とせず逆に捕虜を丁重に扱うよう指示した板垣征四郎。

この安倍首相の挨拶に中国人民がむしろ戸惑っているのを見て、わたしは
「これが日本の強みであり戦い方かもしれない」と思いました。


さて、政権交代後悪夢の三年が終わり、ようやく国会質疑を見ても、
その答弁の姑息なこと(つまりその場しのぎと言う本来の意味において)、
その稚拙なことに怒りと絶望のあまり胃を痛くすることもなくなり、
とりあえず外国人参政権やら人権法案やらを勝手に通される心配も遠のき、
安心とはいえないものの、切羽つまった心配をしなくともよくなり人心地がついた、
という今日この頃です。

国会で、「外国人からの違法献金や前科者との黒い交際、
あるいは手書きの領収書偽造についての質問に閣僚答えられず」
というような、どんな喜劇をも上回るブラックジョークの利いた場面をみることが
できなくなったのは、少し残念と言えば残念ですが。

答える閣僚の答弁にも実に安定感があって隙がなく、
(麻生さんの共産党議員に対する『我が国は共産国家じゃないんで』には笑った)
「ああ、良くも悪くも自民党は与党慣れしている」
と妙に感心してしまったのですが、片や昨日まで与党閣僚であった民主の皆さんの、
少数野党になったとたん本来の姿に先祖返りして、
実に品の無い与太者のようなイチャモン質疑をしてみたり、
「グーグルアースで中国の艦船の位置がわかる」となどいう愉快な、
体を張ったギャグで世間を心から笑わせてくれたり、という姿を
「ああ、良くも悪くも民主党とは野党が一番しっくりくる」
と、思わず目頭を熱くしながら見ています。(←嘘)


ところで今国会の「見もの」は民主の凋落(本当にこの言葉がぴったり)だけでなく、
石原慎太郎元東京都知事が18年ぶりに国会に帰ってきたことです。
わたしは正直言って、いまだに維新の党の立ち位置が今ひとつわからず、
「石原さんと橋下さんって、一緒に党をやるほど方向性が同じだったっけ?」
と違和感を感じたものですが、それについては今日はおきます。

昨日、その石原氏が衆議院予算委員会で質疑に立ったのを見ました。
質疑、といっても持ち時間の1時間40分、ほとんどそれは
時事放談。いや爺放談。

「シナと言って何が悪い。当の中国がほかの国にはそう呼ばせているのに」
「三木(首相)、わたしは大っ嫌いだったんだが」
「あいつが(オバマ大統領のこと)」
「私は『暴走老人』という名称が気に入っているのだが、
名付け親の田中真紀子さんは
落選してしまってこれが本当の『老婆の休日』」

しかしながら、わたしは心から思いましたね。
こんな人が国会にいるべきだと。国会に戻ってきてくれてよかったと。
この1時間40分の「爺放談」において、
民主党の議員たちの元閣僚とは思えない、ただけんか腰で噛みつくだけの、
ついでに「お前が言うか」という一言を投げつけたくなるような厚顔な質問とは、
内容も質もことなる世界が本人の見てきた歴史の重みすらをも伴って展開されました。

「自分の目の黒いうちに戦争をしたいだけ」とか「ボケ老人」などと、
特に「9条教」の方々はこのように石原氏を誹謗するわけですが、
そういう方たちに一度でもこの人の主張にじっくり耳を傾けたことがあるのか、
と聞いてみたいです。

リアルタイムのインターネット中継でわたしはこの質疑を見ていましたが、
氏がいきなり「憲法改正」について触れたので、注目しました。
石原氏はだいたいはわたしの考えと同じような「改憲論」を語ったと思います。
そしてほどなく、「あの」名前がその口から登場したのでした。
この部分を書き起こしてみましょう。

「今でも神格化されているかつての名総理であった吉田総理、
この側近中の側近だった白洲次郎さんからね、わたし面白いことを聞きました。
わたしあの、割と歳早くですね、世間に出たもんだから、
当時は文壇てもんがありましてね。その文壇の催し物、ゴルフの後で、
白洲次郎の奥さんの正子さんの縁で、白洲さんも来られてたんですが、
一緒にプレイしながらいろいろな話をしたんですね。
『吉田さんは立派だった』と。しかしね。
『一つ大きな間違いをした』と。
それはね、『サンフランシスコ条約が締結されたときに、
なんで、あの憲法を廃棄しなかったのか』こう言ってましたな」

・・・みなさん。

サンフランシスコ条約が締結されたときに憲法を廃棄するべきであった

サンフランシスコ条約のときに

(つまり)昭和27年に改憲すべきだった


どうですか~?(大威張り)

威張るわけではないんですが(威張ってるけど)、
わたくしことエリス中尉が去年の末、
「改憲論者からの手紙」というログで、このように述べたことを覚えておられますか?

その部分です。

ところでこの際ですからわたしの考えを言わせていただきましょうか。
わたしは、日本は憲法を日本が独立した昭和27年、
つまりあなたの生まれた年に改訂するべきだったと思っています。



つまり、わたしはこの石原氏の爺放談によって初めて知ったのですが、
白洲次郎とわたしは全く同じ考えだったんですねー。
いやはやこれは実に目出度い。
思わず、「マッキーの案内で武相荘訪問」という、
わたし的にば「あれ」以来あまり気が進まなかったお誘いに二つ返事で飛んで行って、
この人物に纏わるところで祝杯でも上げたい気分です。飲めないけど。

ね?そうでしょ?
改憲すべきはあのタイミングしかないと、白洲次郎も思っていたってことですよね。

さらに言うと、この「すべきだった」と言う言葉の中には、
「あのとき改憲する機会を逸したため、その後日本ではするしないを巡って
それそのものが国内の言論を二分する左右陣営の対立の道具となった」
ということに対する悔恨が込められているとわたしは思っています。


ところで石原議員は(議員って呼ぶのも畏れ多いほどエラそうにしてましたが)
改憲について簡単に言うと次のように述べていましたのでご参考までに。


現行の憲法は、戦争の勝利者が、
敗戦国を統治するために強引に造った即席の憲法である。
わたしは、統治された国が、独立した後、数十年にわたって
そういう憲法を存続させたという例を世界で見たことが無い

つまり、白洲次郎とエリス中尉の言うように、「真の独立」をするためにも、
サンフランシスコ条約のときをおいて改憲すべきタイミングは無かった、
と言うわけです。

さらには

憲法は廃棄すると総理大臣が言ったとき法的に阻止する根拠はない

とも。
だから、安倍総理、頑張ってやっちゃいなさい、ってことなのですが(笑)
また、トインビーの言葉を借りて、「借り物の憲法」「借り物の国防」
に甘んじている日本の現状をこのように語りました。


いかなる大国も滅亡する運命を逃れられないものであるが、ことに
いかなる大国も自分で自分のことを決められない国は速やかに滅びる

つまり、国防を傭兵に任せたローマ帝国の滅亡例として挙げたのです。

ところで。


世間からいわば「忘れられていた」白洲次郎をNHKが持ち上げたことに、
実を言うと、わたしはこの局の「戦略」を見ています。
ドラマ「白洲次郎」に続き、その後「吉田茂」も制作されたそうですが、
前にも言ったように「白洲次郎」でNHkは近衛公を「悲劇の宰相」としてのみ描き、
「反戦」の一面(しかも近衛は全面的な反戦論者でもなんでもない)だけをクローズアップし、
白洲と吉田が作り上げた憲法に対してはただ「困難を極めた」という面でのみ語り、
しょせんは占領国憲法であったという欠陥についてはあえて無視する。
NHKの「護憲的色づけ」を、このドラマの「白洲、吉田ヨイショ」に見るというのは、
少々穿ちすぎでありましょうか。

ドラマヒット後(ヒットしたかどうかは実は知らないのですが)、
雨後の竹の子のように出てきたさまざまの書物においても、
白洲が「憲法」をどう評価していたかについては、作成作業終了直後の

「監禁されて強姦されたらアイノコが生まれた」

以外の証言は全く述べられていません。
唯一つ、
(憲法について)「いいものはいい」と白洲が言ったことを、
「どういう欠陥があってもこの憲法はいいものである」
という無茶苦茶な解釈をしている文章を見たのみです。

わたしはこの「いいもの」とは、これも一連のログで述べたように
「現代にも通用し、改正する必要の全くない部分」
のことであり、白洲本人も「そのような部分は変える必要はない」
と言う意味で言ったのだと解釈しているのですが。



いま一度石原慎太郎についてです。
石原議員は冒頭、「国民に遺言をするつもりで国政に出てきた」と言いました。
そして、なぜ「暴走老人」と言われながらもこの挙に出たかというのは
靖国神社で見た齢九十歳の戦争未亡人の句に押されたからだと語りました。

その句とは、

「かくまでも醜い国になりたれば捧げし人の唯に惜しまる」

と言うのだそうです。
石原議員の証言による白洲次郎の言葉と同じくらい、
わたしはこの句に対し身の引き締まるような思いを持ったのですが、
あなたはこの未亡人の言葉をどのようにお感じになりますか。





水野義人と操縦適性

2013-02-13 | 海軍











土浦航空隊では、13期飛行予備学生の適性を骨相学で決めた、
という話を、昔書いたことがあります。

大西瀧治郎の奥さんは、これも前に書いたように、
順天堂大学の創始者で総長だった人の娘さん。
その妹が、笹井醇一中尉の母上、という関係です。
この順天堂大学総長の教え子が、その骨相の専門家?
水野義人氏で、そのつてで大西瀧治郎が海軍所属に徴用しました。

それはともかく海軍所属の・・・・・どんな名目の役職だったんでしょうか。

占い師?骨相判定係?

大西長官が生きていたら正式な役職名を思わず問いただしたくなります。
理由を知らないものからみると情実が絡んでいるとしか見えなかったでしょう。
(実際絡んでいたんですが)
しかしながらこの水野氏は、骨相学で操縦適性をズバリと当てたのみならず、
その結果、航空機事故は現実に激減したので、大西長官のこのスカウトに
眉唾半分で文句を言っていたものも、この結果を観ては黙るしかなかったそうです。


なんどかこのブログ中話したことがありますが、わたしは、
この世にいない人の姿を見たり、未来に起こることがわかったり、
そういった能力を持っている人間を一人知っていて、
良く世間で言われる「不思議な話」はあながち嘘八百ではないらしい、
と、信じざるを得ない立場を取るものですが、
この水野氏もこの人のような能力を持っていたのだろう、と思っています。

ちなみにその知り合いですが、プロの、というか修行した霊能者ではないので、
見えたり見えなかったりというのが非常にムラがあったりするのだそうです。

以前東北地方で、母親が自分の娘と近所の男の子を殺したと言う事件がありました。
当初通報したのがその母親であったこともあり、真犯人が謎のまま第一報がありましたが、
その人にはその段階で、テレビのニュース画面に映っていた橋の欄干に、
女の子が川面を向いて座っている姿が残像のように見えていたのだそうです。
のちに母親は娘を欄干にその姿勢で座らせ、後ろから突き落としたことがわかりました。

この方が義父の葬式に来てくださった時、後から
「律儀な方ですね。榊奉納(神式)する列席者に頭を下げていました」
とおっしゃったそうなのですが、まあ、こういう「見える系」の話を
全て脳の誤作動だとする意見もありますからわたしには何とも言えません。

ただ、その人物がどうやら「本物らしい」と思うに至ったのは、TOとの付き合いの中で
「車の左後ろのタイヤがパンクしている映像が見えます」(二か月後に実現)
「奥様は肝臓が疲れておられるようです」(二日後にその通りだと分かる)
「玄関にある横長の額が落ちるとか落ちないとか」(そういう会話を過去したことがあっただけ)
とか、そういった他愛もないというかあまり役に立たないことを何度か当てられた、
という程度に過ぎませんが、この水野氏はこの知り合いの「プロの霊能者」である母上のように、
仕事としてその不思議な能力を海軍で発揮したという、おそらく世界でも珍しい例でした。

もっとも、ヒトラーも側近を信じず、星占い師を信用してその通りに国を動かしていた、
と言う話もあるにはありますが。


この水野氏の伝説はほかにも多数あります。

「昭和20年の8月、もうすぐ戦争は終わるでしょう、と予言した。
その理由は、特攻隊の隊員から死相が消えていたから」
とか、
「ある部隊で脱走兵が出た。
水野氏は『真水に縁のあるところにいる』と言う。
それを聞いた海軍が川沿いを重点的に探したが見つからなかった。
後から分かったところによると、脱走兵は海を越えて逃げてしまっていた。
水野氏の見たのは近隣の真水ではなく、海外の川か湖沿いだった」
とか、
「関東大震災の前、大阪と東京をどちらも歩いて、
『大阪では何も感じなかったのに東京では死相が表れている人が多かった』
などと言った。

この予知能力においては、知り合いと同じくなんとなく先のことがわかるだけ、
というタイプのものをお持ちだったという気がします。


骨相学で志望者の中から不適任者をふるい落としたり、
あるいは合格した志望者の戦闘機、偵察機、攻撃機などの専攻を決める際も
この水野氏が一目顔を見て決めたということです。

その対象になったのが冒頭の13期予備学生だったというわけです。

当時の大学生と言えば、今と違って社会のエリートを自認していましたから、
科学の先端を行くはずの海軍でいきなり占い師みたいなのが出てきたことに、
彼らはさぞかし驚きと「大丈夫かいな」といった不信感を持ったものと思われます。

しかしその「科学」というのは日進月歩。
昨日の最新科学も10年も経てば石器なみにその意味を失います。
そこでようやく、冒頭の変なマンガに話題がつながるわけですが。

と言うわけでこのマンガ、飛行機創世記の頃は、このようなことが「科学」とされた、
という信じられない実話をいつもの調子で描いてみました。

飛行機が発明されてすぐのころです。
なにぶん初めてのことゆえ、飛行機にまつわるモノゴトはすべてが手探り状態でした。
操縦の初歩的なミスは勿論のこと、
飛行場の整備にも不備が多かったため、着陸の時に飛行機が逆立ちする事故が非常に多く、
そうなるとパイロットは頭を打って、操縦席で失神してしまうのでした。
そして、そのまま脱出できずに火災に遭い、死亡事故につながる例が多々ありました。

そこで、操縦士の適性を見る方法が研究されました。それがこの漫画にもある

ハンマーで頭を殴って失神させ、
十五秒以内に意識を回復すれば適性があると判断した

というものであったというのですが・・・・。

いや、これ、殴るのは人間でしょ?
殴りどころや力の入れ方次第では、この段階で殉職しちゃいませんか?
この殴る係には相当の力加減をコントロールする技術が要求されそうです。

だって、考えてみてください。
人を失神するくらい殴る、って相当な力がいりますよね?
しかもたった15秒で目が覚めることを前提にするというのは・・・・。

それに、この15秒ですが、なぜに15秒。

この時間が、どこから出てきたのか、全くの謎です。
おそらく、科学者と飛行機の技術者などが鳩首会談?して、
「失神した後、飛行機にたとえ火がついても気が付いて脱出できる時間」
として決まったのがこの15秒だった、ってことでしょうか。

「近代的なはずの海軍が、骨相見など当てにするような体たらくでは、
そもそも近代戦で勝てっこなかったという証拠ではないか」

この件に対するこのような無責任な意見をしばしば見ますが、
作戦そのものを占いに頼っていたならともかく、霊能者の力を借りて人相を見ること自体、
わたしの少ない体験談からいわせてもらえば、そうバカにしたものでもないと思います。

少なくとも「殴って15秒」のこの適性検査よりは、
ずっと合理的(科学的とは決して言いませんが)だと思うのですが。