ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

教育航空集団訪問記

2015-06-30 | 自衛隊

渡米前、ある会合でお会いした海自の教育航空集団司令である海将にお誘いを受けました。

「基地に見学に来られませんか。P-3Cの操縦席にもお乗せしますよ」

「本当ですかっ!」

よもやまさか、メールアドレスの一つが「p3coriona」であるというくらい
(aを付けたのは"p3corion"がもうすでに取られていたため女性形)
わたしがこの飛行機に思い入れていることにご存知のわけでもあるまいに、
なんたる猫に鰹節(ちょっと違う?)、そんな餌をぶら下げられたわたしは
脊髄反射で食いついてその場で行く約束をしたのでした。


そしてそれから3日以内に、午前中からお昼にかけての基地見学が
セッティングされました。
さすが自衛隊、話が早い。

午前中の1時間半、たっぷり見学させていただいて、その後海将と一緒にお昼を食べて解散、
という、わたしにとってはまるで夢のようなコースです。 

そして当日。

P-3Cの教育を行うこの基地は、高速を降りると
延々と続く慢性的な渋滞の道を
1時間くらいちんたら走らねばなりませんでした。

家から長時間運転しっぱなしでお尻が痛くなってきた頃、やっとのことで正門前に到着。



間違えて別の入り口から居住区らしいところに入っていくというアクシデントはあったものの、
たどり着いた時には海軍15分前。

海自関係のイベント、特にアポイントメントがあった際、時間には気を遣います。


しかし、わたしは、幹部学校の見学をさせていただいたとき、ナビが別の入り口を指示したため、
目黒川付近をうろうろしているうちに約束の時間に遅れるという痛恨のミスをしたことがあります。
あの時の心臓が縮むような気持ちは、未だに時々思い出すほどです。
関係者の皆様がた、その節は大変申し訳ありませんでした。m(_ _;)m



入り口でもらった車のダッシュボード上の駐車札を見ていただきたい。
フロントガラスに映った時間は「1025~1235」とありますね?

海将とのお約束は「1030」ということになっていました。
しかし、向こうは当然

「10時30分のアポイントメントには1025には到着するのが普通」

ということでこのような予定時間となっているわけです。
つまり、来客にも「海軍五分前」が求められているということなんですね。
(あああああの痛恨の遅刻が・・・)


ちなみに「水交会」と書いてありますが、これは見学者のタイトルにやはり

それらしいことを書かなければいけなかったので、たくさんあるわたしの肩書きから(笑)
海将とお会いした場所でもあるということで、水交会が選ばれたようです。



ここでかつて使われていた飛行機が展示されています。



メンターの次の中間練習機だったテキサン、SNJ型。
黄色い機体が緑のところどころに咲きそろった花の色とマッチしています。



フロントガラスに映っている「22」は、時速22キロで走っているということです。
この広い道路の向こう側に自衛官がすでにでてきているのがお分かりでしょうか。
訪問に際して、色々と手続きを取ってくれた教育航空集団の副官である1尉でした。

今回の訪問にあたっての書類に必要な情報をこのS1尉とやりとりしたのですが、
生年月日はわかるとしても、なぜか血液型を聞かれました。


「なんで血液型なんて必要なんだろう」

朝霞の陸自駐屯地のときも幹部学校も、そんなことは聞かれなかったのですが、
もしかしたらP-3Cのコクピットに上がったりするという予定上、
万が一何かあった時のため、ってことだったんでしょうか。
TOなど、

「血液型・・・・・まさか、P-3C実際に飛んだりとかしないよね?」

と怯えています。
もしそうならどんだけ嬉しいか(T_T)



念のためS1尉に「パスポートのコピーは要りますか」と聞くと、それはいらないとのこと。
いやそこは必要でしょう。パスポート。
操縦席に座らせたり管制塔に上げるのに、わたしたちが中国のスパイだったりしたらどうするんだ。




エントランスを入ったところにある写真。
ウィングマークの下が本日ご招待くださった海将。 
両脇が幕僚長と先任伍長である海曹長。

この写真配置はそのまま教育航空集団の組織図でもあります。
司令官の隷下には、「下総」「徳島」「小月」「 第211」の各航空群があります。
中段の4人はその教育航空群司令、その下の4人は教育航空群先任伍長となります。

司令は1佐、先任伍長はこれも海曹長となります。 



通されたビルの二階が当基地所在の教育航空群司令部であり、

それらを統括した教育航空集団の司令部はこの上の階にあります。

偉い人ほど上で生活しなければいけないのですが、自衛隊ですからエレベーターなどありません。
この後見学した管制塔には、さすがエレベーターはありましたが。




階段の途中に教育航空集団と各教育航空群の楯が飾ってありました。




下総はP-3C、小月はT-5、徳島はT-C90と、使用飛行機があしらわれていますが、

回転翼の操縦を行う第211教育隊は少し変わっていて、



鳥さんがローターを背負って飛んでます。
後ろで煙を吐いているのは桜島ですね。

さて、三階に上がると、基地司令である海将が迎えてくださいました。

海将は前任が江田島の術科学校の校長で、そのときに知り合っております。



ここが教育航空集団の応接室である。

ここにもあった、片眼のだるま。
自衛隊の基地には陸海問わずこのだるまさんがあるのですが、もしかしたら
このだるまの最も安定した販売先は選挙事務所以外では自衛隊ではないかと思ったり。

まずはここでWAVEさん二人が運んで来てくださったお茶をいただきながら、
海将からこの基地と、教育航空集団についての説明を受けます。

海自や陸自の基地駐屯地は、旧軍からの施設を米軍の駐留を挟んで
戦後もずっと使用しているというところが多いのですが、ここは昭和7年に
東洋一大きなゴルフコースが作られ、政財界のVIPが使用していました。

昭和20年に陸軍省が買いとって陸軍飛行場が作られましたがすぐに終戦。
戦後はGHQの接収を経て1959年に米軍が撤退してからは、自衛隊の教育航空隊があります。

「他の基地と違って新しいので本当にお見せするようなものは何もないんですが」

となぜか申し訳なさそうにおっしゃる海将。
いやそんなことありませんって。



テーブルに並べられた模型を見ながら説明を聞きました。

海上自衛隊で航空を選んだ自衛官が、最初に操縦する練習機がこのT-5。

パイロットの「最初の一歩」はT-5を擁する山口の小月航空教育群で始まります。

ここでは座学(講義)を中心とした基礎教育を経て、T-5を使用した飛行教育を行っています。
すべての操縦士、戦術航空士は、搭乗員生活の第一歩を小月で踏み出すというわけです。




小月での教育を終えた操縦士の卵たちは、ヒヨコとなって?この飛行機、

TC-90を備える徳島教育航空群で、計器飛行などの中等教育を行います。



そして次の段階で、操縦士志望の隊員は、固定翼と回転翼に分かれます。

そして、固定翼を選んだものはここ下総でP-3Cでの実用訓練を受け、
卒業してウィングマークを授与されたのち、P-3Cの運用部隊に配属されます。

P-3Cの操縦士は全員ここを卒業しているんですよ」

海将ももちろん、P-3Cパイロットだった元海幕長もここにおられたということなんですね。



徳島を出た後、回転翼を選択したものは、鹿屋にある第211教育航空隊に行って、
この小さなヘリコプター、OH-6DAを使って訓練を受けます。

「レモン」(形と昔黄色だったから)がコールサインのOH-6DAは、
TH-135に移行して行っているそうです。

今報道ヘリというとほとんどこのタイプのような気がしますが、海将によると
今日本ではOH-6DAが汎用されているということです。
それだけ操縦しやすいということなんでしょうね。


ただ、初めてヘリコプターを操縦する訓練生は、たいていこうなるようです。

かのやダンス



テーブルの一番端にあったこれはP-1。
P-3Cがアナログならこちらは最新鋭機なので、全てが自動です。
だからって簡単になるわけではないのですが、P-3Cで苦労した部分は
ずいぶん緩和されることもあるのだとか。

そらそーでしょう、P-3C、機体ができて57年経ってます。 
ただし、P-3Cは何度もアップデートを行っているので、当時のままではありませんけどね。

P-1はPー3Cに比べて幅5m、全長2.4m。全高1.8mも大きくなっている上、 
積載重量も約17トン、最大搭載人数も11人から13人に増やすことができます。

なんといっても巡航速度( 607 km/h→833 km/h)も、航続距離(6,600 km→8,000 km)
も格段の飛躍。

今後切り替わっていき、10年くらい後には完全にP-1だけになるということです。
そのときにはわたしはアドレスをP-1のニックネームにしてるかな?

ところでP-1、なぜニックネームがないのかしら。「ぴーわん」で呼びやすいからいいってか? 



海将のお話を伺いながら、きっちり部屋に飾られているものも写真に撮るのだった。
真ん中の絵皿はわたしの全く当てにならない艦選別眼からみて、旧軍艦だな。



一番上のロンドンオリンピックのときの出場選手の名が記載された絵皿をアップ。
なんと自衛隊体育学校からロンドンには12人も行っているんですね。
自衛隊はスポーツ選手養成機関という一面も持っているのです。




さて、ここでしばらく概要を説明していただいてからは、広報室長のご案内で
いよいと基地見学に出ることになりました。



ふおおおおおお~。

ま、またしても赤絨毯の先に自衛隊の車がドアを開けてくれる海士さん付きで待機!

実はこの日、わたしはどんな服装で出向けばいいのか大変悩みました。
基地内を見学、航空機のコクピットに座る、こういうイベントがあるからには、
航空祭や基地祭のように、スニーカーに動きやすい格好をするべきかと思い、
最初にパーカーとスェットパンツ、運動靴を履いてTOに見せたところ、

「いくらなんでもそれは動き易すぎるってかラフすぎるだろ。
向こうは制服なんだしもうちょっとちゃんとした格好すれば?」

とたしなめられてしまいました。
彼はその後仕事に直行なので、当然スーツです。

「パーカーはチャンネル(仮名)でパンツはJCだけどダメ?」

「そんなの余計ダメ。海将と食事するのに」

というわけで、迷った結果、パンツスーツにパンプスで来たわけですが、
このまるで政治家の訪問のような、下にも置かぬ自衛隊の気遣いのおかげで、
移動は全て車、広い航空基地を汗かきながら歩き回ることもなく、
結果としてきちんとした格好で来て良かったと心から思ったのであります。



気遣いといえば、エスコートしてくださった方は、皆さんが前もって

「これから外に出ますが、その前にお手洗いに行っておかれたらいかがですか」

などと、こちらが心配する前にこんなことまでお声がけしてくださって、(それも頻繁に)
まさに海上自衛隊とは気遣いの集団であると再認識させられた次第です。

お言葉に甘えてお手洗いに行くと、そこはそれこそ舐められるくらい(舐めませんが)
美しく磨き上げられた清潔さで、またもや感動。
そして、壁にはこのような張り紙が・・・。


わたしは防衛協会の懇親会の後、朝霞で基地の案内をしてくださった1佐と再会し、
防衛協会の理事長と一席を囲む機会があったのですが、そのとき人事のその方が、

「陸自の場合は20万人いますからね。
一人の人間が”何かしでかす”のが20年に1回だったとしても、それが20万人なら
毎日誰かが何かをしでかしている計算になるんです」

とおっしゃっていました。
中でも自衛隊員の自殺というのはもっとも大変な案件で、一旦何か起こったら
原因究明と問題点の洗い出し、さらには現場への心理的ケアまでが行われます。

「いじめとかではなく、周りがその本人に対してケアして応援している状態であったのに
それでも自殺してしまったという場合は、隊の雰囲気というか士気が低下するので、
そういう自殺が後一番大変です」

とも。
この張り紙にも見られるように、大勢の人間集団であるからには自衛隊には
一般社会で起こることも一定の割合で起こってくるのですが、一般社会においては
誰も行わない「ケア」「対策」といったことを、自衛隊では任務として行っているのです。



さて、話が逸れましたが、お手洗いにも行ったので(笑)、
いよいよ車に乗って
外に出ることになりました。

そこにはオライオンがわたしを待っている・・・・・・!


続く。 


成田発ボストン行き鶴丸航空(仮名)での偶然

2015-06-29 | アメリカ

というわけで、今年もアメリカからネイ恋をお届けすることとなりました。
最近、コメント欄へのお返事が遅れ気味だったのは旅行の準備のせいです。
いつも遅れ気味じゃないかとおっしゃるあなた、それはもしかしたら気のせいではないでしょうか。

今年のスケジュールはハードで、10日前後ボストンとニューヨークの間をうろうろし、
一度日本に帰ってきて成田から第三国に出国し、そこで用事を済ませて帰ってきたら、
またすぐに東海岸に行って、3日後に西海岸に移動という過酷なもの。

ただでさえ年々時差ぼけから立ち直るのが遅くなっていっているというのに、
こんな全盛期のシンディ・ローパーみたいな旅程をこなしたら、果たして帰国後、
一応行くつもりをしている富士総合火力演習と花火大会はどうなってしまうのか。
考えたくもないので考えていませんが、とにかくそういう怒涛の日々が始まったのでした。



某月某日、我々は鶴丸航空ラウンジにおりました。
成田の出発ロビーには鶴丸航空ラウンジが二つありますが、そのうち一つのみ、
ダイニングメニューを出しているということだったので、そちらに行ってみました。



お昼ご飯代わりにちょっと軽く食べられるものが充実しています。
インスタントとはいえ味噌汁、コンビニのではないおにぎり、焼きおにぎり茶漬けなんてのもありました。
小皿に二種類の副菜もあって、充実です。

ちなみに、このラウンジの上の階はファーストクラス専用ラウンジでした。
普通のラウンジと何が違うんだろう、と思って調べてみたら、そちらでは

寿司職人がご注文に応じて寿司を握ってくれる

ジョン・ロブの専門靴磨き職人(そんなのあるんだ)による靴磨きサービス

スカルプ、ボディ、足ツボの無料マッサージ

があるということです。
足ツボのマッサージしている間に靴を磨けるってことですねわかります。



ラウンジからは向かいに到着した鶴丸機の作業を、車椅子を押す係のブリーフィングに始まり、
全行程みっちりと見学することができました。
飛行機の荷物を降ろすところをわたしは初めて見たわけですが、
荷下ろし専用の小さなドアからベルトコンベアに向かって、荷物がバンバン投げおろされていました。
荷物をこんな扱いするのはアメリカ人だけだと思ったわたしが間違っていました。

写真のハッチからは人の姿は全く見えないのですが、荷物だけが飛んで出てきます。

「うわー、乱暴だねどうも」
「日本の航空会社なら丁寧に扱うと思ってたんだけどな」
「いや、短時間に100個単位の荷物を降ろすんだからこんなもんでしょう」

昔、息子の子供用チェロをどうやって預けたらいいか聞いたら、
普通に預けるしかないと言われたことがあるのですが、あれを真に受けていたら
あのときチェロはきっと五体満足で戻ってくることはなかったことを確信しました。



これから乗る飛行機・・・なんですが、この写真を後から見て、

「コクピットを拡大して撮っておけばよかった」

と思いました。その理由は後ほど。



今回ちょっと嬉しかったのは、いつもアイマスクや耳栓が入っているポーチが、
アメリカのカバンブランド、「TUMI」の製品であったことです。
伊達に名前だけつけているのではなく、ファスナーは堅牢、内側には小物ポケット付き。

「これいいね。持って帰ろうっと」

「ネクタイを入れて持ち運ぶのにちょうどいいねこれ」

「わたしはサングラス入れかな」

「コード類を入れるにもいいかも」

我が家の評判は上々です。

「これ帰りも貰えるんだよね」

「わたしなんか二往復するから4つ貰える予定」(´・ω・`)



機内の楽しみといえば、機内食。

前菜のテリーヌはフォアグラとウナギのようなものが入っていました。
パンは、いつも鶴丸はメゾンカイザー。
右の赤いパンはトマトブレッドでした。



去年同じ便の鶴丸便で洋食を和食に変えさせられ、1万回CAに謝られたわたしですが、
今回は無事魚がメインの洋食を注文することができました。
白身のお魚は・・・これなんだっけ。

鶴丸の痒いところに手が届きすぎて鬱陶しい恐縮してしまうほどのサービスには定評がありますが、

今回も映画を見ていてヘッドフォンをしている時に前にぐっと顔を寄せてきて
なにやら笑顔で囁くので、ヘッドフォンを外して、「は?」と聞き返すと・・。

「本日はどうもありがとうございました。またのご搭乗をこころより云々」

大変ご丁寧にありがとうございます(−_−;)



デザートはムース。

さて、成田~ボストン便のフライト時間は約12時間です。
長時間ですが、それだけ映画をたくさん見る余裕だけはあります。
というわけで、今回観たのが、まず

ジョーカーゲーム

日本映画でジャニ俳優が主演したものなど普段は観る気にもならないのですが、
タイトルで伊勢谷友介(これを変換するまで”いせたにともすけ”って読んでたorz)が
陸軍の軍装をしていたのでついそれにつられて()観てしまいました。

大東亜戦争時の「D機関」というスパイ組織が魔都上海でどうたらこうたら、
という「浪漫的」なものを狙った作品だと思うんですが、あらすじはともかく、
全体的に漂うこの、少女漫画的臭さはなんとかならんのか、と思ったら
原作はミステリー大賞受賞作で少女漫画家が作品にしていました。やっぱり。


D機関創設者の伊勢谷が「魔王」で、女スパイの深田恭子がメイドの格好で登場、
訓練生が「怪物」と呼ばれ・・。もう設定だけでお腹いっぱいです。

呆れたのが、亀梨(これももしかして”かめなし”?)がスパイとして採用される日、

「今上った階段は何段あった」

「24段です。何段めのどこそこに傷が」


地図をテーブルの上に広げて

「マニラは何処だ 」


「この地図にはありません」

「地図の下には何があった」

「コーヒーカップ三客、タバコはしんせい・・」

 

これって、市川雷蔵の「陸軍中野学校」の丸々パクリじゃないですか。
原作でパクってあったのか、映画でパクったかはわかりませんが、ここでがっくりときました。
深田恭子の絶望的なセリフまわしの稚拙さ(昭和初期にそのギャル喋りは何?みたいな)も、
この映画の評価を著しく落とした大きな要因です。
深田さん・・・・黙っている分にはビジュアル的にいいと思うんですけどね。

二つめが

ビッグアイズ

で、これはさすがのティムバートン、トレーラーを裏切る?面白さでした。
奥さんの作品を旦那が自分の作品だと言って有名になり、
ある日妻がそのことを世間に公表して裁判で実際に絵を描いて証明、
というまるで映画のような実話を映画化したものです。

それから、ちょっとおどろいたのは、



今国際線では画面で読書もできるんですね。
わたしは今回初めて知ったのですが、漫画も読めます。
「進撃の巨人」を読み始めたのですが、1巻終わらないうちに到着してしまいました。
まあ二往復する予定なので全部読めるでしょう。




ボストン到着~。
これで夜の7時くらいです。

ローガン空港では今年はイミグレのやり方が大幅に変わっていて、
日本人が申請する「ESTA」(また今年も空港で申請しましたorz)は、専用のラインがあり、
承認機でパスポートをセルフ承認させ、そこで写真を撮り、ブースを通過する仕組み。

ESTAは信頼されている日本国の国民が持つことができる、大いなる特権なのですが、
このESTA持ちであっても、グループのうち一人だけは、なぜか承認機から出てくる顔写真に
大きな×が付けられていて、(わたしだったorz)その人物はもう一度指紋検査と写真を撮影されるなど、
入国手続きは年々厳しくなっていっているように見えます。

それでも他のESTA承認国以外の入国者にかかる時間の5分の1位かもしれません。
日本国民でよかった、とイミグレーションを通るたびに思います。



到着したボストンは9時くらいに日の入りです。
明るいですが、フライトの後で疲れているので空港のホテルに一泊。



部屋からはジェットブルーなど、各社の駐機場が見えました。
バージンエア、JAL、ルフトハンザ、トルコ航空の飛行機が停まっていました。

次の日、ホテルを出て買い物(わたしがまたしてもメモリーカードを忘れたので)したり、
ご飯を食べて次のホテルにチェックイン。



例年息子のキャンプで泊まるホテルを予約したつもりが、ホテルズ.comで頼んだせいで、
近隣の同じ名前の違うホテルを予約してしまっていました。

全く、毎年毎年、無事に予約やなんかをすることができんのか。

最初のホテルで「名前がありません」と言われて、ホテルのPCで調べたところ
そこから15分離れた別のホテルに予約していたというわけ。

「ま、まあいいか。今まで一度泊まってみたいと思ってたから・・」

家族の冷たい目に言い訳するわたし。



いつものホテルより少し狭いですが、仕様は同じ。
まあ、ここには2泊しかしないので文句は何もありません。



ベッドも向こうより少し狭いかな。



夜は「ホールフーズ」(オーガニックスーパー)で買い物してきて、部屋で食べました。

30センチはありそうなツナの塊(10ドルくらいだった)に塩胡椒して、
野菜と一緒に炒め、出来あいの玄米を口に合うように調理しなおした簡単なもの。

「ナショジオチャンネル」の「Deadlist Catch 」(ベーリング海の一攫千金)
という番組で、漁に命をかける男たちのドキュメンタリーを見ながら食べたのですが(笑)
番組で知ったのは、一本釣りされたマグロは高く売れること、しかし高いと言っても
ワンシーズンに1匹しか捕獲できず、しかも一匹がせいぜい110万円であることです。

それでも危険を冒して一本釣りにこだわる、彼らの男気、そして汗と涙の結晶であるツナ。
こころして、ありがた~くいただきました
 

ところで、今回の鶴丸便機中、機長を紹介するアナウンスがあったとき、息子がそれを耳に止め、

「あ、このフライトの機長、もしかしたら同級生の女の子のお父さんかもしれない」

と言いました。
イノウエとかタケウチとかフジイといった、よくあるようなないような名前なので

「 鶴丸航空(仮名)にイノウエ(仮名)なんて機長たくさんいると思うけど・・」


といって話を終わったのですが、その後息子がSNSで着陸後に彼女にすぐ連絡を取り、
それが実際に彼女の父親であることを確認しました。

「へえ、Mちゃんのお父さんだったんだー」

お父さんとは学校の送り迎えや行事で何度もお会いしていましたが、
鶴丸のパイロットであることは最近息子から聞いたばかりです。
12時間の長いフライト、それを操縦していたのがが知っている人だったとはびっくり。
しかも、その同級生のMちゃんは、先日ディズニーシーで息子の寝癖から
人ごみの中の息子を見つけ声をかけてきたという偶然の出会いがあったばかり。


先日も旅行先の空港ラウンジでメールを受け取ったら、その人は実は壁の向こうにいたことがわかり、

「案外人って、こういった偶然に気づかないでいるだけで、実はしょっちゅう
なんらかの関係がある人や、過去あった人とすれ違っているのかもしれない」


と思ったということがありましたが、またもやその偶然に驚かされた次第です。

例えば、わたしが過去乗った飛行機の機長がハーロック三世さんだったり、

お仕事やお店でお世話になった方がこのブログを読んだことがあったり、
自衛隊のイベントなどですれ違っていたり(これはとくに確率高いかな)。


こんなことを想像するとなんだか楽しくなってきます。



またアメリカ滞在で見たものを折に触れご報告しますので、宜しくお付き合いください。
 





 


従兵制度

2015-06-28 | 海軍

大昔、まだ挿絵をブログ機能の「お絵描きツール」で描いていた頃のものを
作画をする時間がないのをいいことに引っ張り出してきました。
ノートパソコンのスクロールパッドに指を滑らせて描いたため、
線もまっすぐに引けないなどのお見苦しい点はありますが、ロゴだけは見やすくしました。

さて、渡米前のパッキングの合間を縫ってのエントリ製作なので小ネタです。
昔、この絵をつかって「従兵のお仕事」について書いたことがあります。

5年前のエントリなどご存知ない方が大半だろうと思いますので説明しておきますね。

かの井上成美大将が「比叡」の艦長をしていたときの従兵、砲術学校高等科卒の優秀な下士官、
駒形重雄三等兵曹は、ある日井上艦長が「今日は帰艦しない」と言い残して上陸した後、
艦長室のバスタブで洗濯していたのですが、ふと魔が差して艦長のベッドに横たわったところ、
そのまま前後不覚となって寝込んでしまいました。


夜半、ふと目覚めた駒形兵曹、妙に体が窮屈なのに気がつきふと見ると

隣には今夜は帰艦しないはずの井上艦長が寝ていたのです。

バネ仕掛けのように飛び上がった駒形兵曹に、井上艦長は、

「いいよいいよ。もうすぐ夜が明ける。朝までそのまま寝てろ」

と言ったというお話。

もちろんこの後、駒形兵曹は這々の態で艦長室を辞したのですが、
このままお言葉に甘えて一緒のベッドで寝続けたとしたら、
総員起こしのとき下士官の寝室(釣り床の列んだ部屋)にいることもできず、
下手したら脱柵を疑われてしまいます。

フネなのでそれはないか。


これは井上茂美の部下に対する思いやりの深い一面を表す逸話ではありますが、
朝になって従兵が艦長の寝室から出てくるところを誰かに見られたらどう思われるかとか(笑)
思いおよびもつかなかったらしいのが、この大将の「浮世離れぶり」をうかがわせます。


このとき、「その気(け)」もないはずの井上艦長が狭いベッドに引き止めるくらいだったのだから、
きっと駒形兵曹はそれなりの容姿、少なくとも爽やか系だったに違いない、と書いたのですが、
一般的に従兵が容姿も考慮されるのはごく普通のことであったようです。

まるで奥さんのように身の回りの世話を焼くのが仕事なので、それは当然として、
もう一つの理由は、司令部や艦長の従兵ともなると、場合によっては天皇陛下や皇族方、
外国の要人との晩餐に侍立することもあったからでした。

もちろんそれだけではダメで、人一倍気がついて頭の回転が速くないといけません。
「大空のサムライ」の坂井三郎氏も、「霧島」乗り組み時代に従兵(のような仕事)を
していたそうですが、海軍砲術学校を2番の成績で卒業した後の配置ですから、
やはりこの任務がいかに重要視されていたかということがわかります。

一般に従兵は現場からそれにふさわしいものが推薦されてなるのが常でした。
「従兵になると出世が早い」と言われていましたが、これは

「従兵になれるくらい優秀なので出世も早い」

ということでもあったのです。

さて、わたしがその会員となっている海軍兵学校某期の、戦艦「長門」艦長を父に持つS氏は、
「長門」でフランス料理を食べたという思い出を話してくれたことがありますが、
中でも印象的だったのが、後ろにナプキンを手にした従兵が控えていて、
椅子を引いたり、お皿のサーブをしてくれことだったそうです。

軍艦の士官の待遇は文字通りの「特別扱い」でした。
海軍士官になればこういう「特権階級」となれるという世間の認識もまた、
海軍に対する憧れを誘う一つの要因でもであったでしょう。

海軍の士官室は、軍艦において

士官室=分隊長以上(分隊長なら中尉も)

第一士官次室=少尉、中尉

第二士官次室=兵上がりの少尉、中尉

準士官室=兵曹長

と区分けされていました。
兵学校、機関学校、軍医学校、主計学校卒は自動的に第一士官次室、
すなわちガンルームから軍艦生活が始まります。
一般大学卒の予備士官もこの待遇でした。

「次室」といちいちついているのは、もともと「ガンルーム」というのが

「学校を出たばかりの士官は、大砲の隣の部屋でいつでも戦闘配置につけるように起居すべし」

という英国流のネーミングであったことからです。
同じ士官であってもガンルーム士官と第二士官は父親と息子の年の差がありましたが、
軍隊なので同じ少尉であってもガンルームの士官の方が階級は上です。

そして従兵ですが、これらの「士官室」には必ず何人かが就くことになっていました。
階級が上に行くほど、従兵一人が仕える士官の数が少なくなっていくわけで、
ガンルーム士官でだいたい2~3人に一人の従兵がつきました。

例えば食事は各士官室付きの軍属が料理を作り、階級によって手間のかけ方、
材料の良し悪しが全く違ってくるのはいつかお話ししたところですが、
これをお給仕する従兵は、深川製磁などのごはん茶碗をお盆で受け取ったりします。
士官の食事は「一食いくら」で食費を徴収したそうです。

もちろんこの場合のごはんは「銀めし」(『銀しゃり』は戦後の闇屋が言い出したもの)で、
士官が食べなかったお櫃のご飯は、従兵がたらふく食べることができました。

これは従兵の最大の特権でしたが、他にも上官のバス掃除を行うときに
こっそり落とす前の湯船に浸かることもできました。
表向きは禁じられていましたが、艦隊勤務は非番のことを「入湯上陸」と言ったくらいで、
毎日入浴などできないのが普通でしたから、士官たちも大目に見ることが多かったようです。


戦艦「大和」は、昭和19年になっても、大尉以上の士官が
テーブルクロスに従兵のサービスでご飯を食べていたそうです。


その食事も当時にしては大したもので、Sさんが言っていた
「後ろにナプキンを腕にかけた従兵が立ってお給仕」
というようなことをしていました。

「大和」に乗り組んでいた士官の話によると、従兵は夜も寝る時間がないくらい、
生活全般にわたってあらゆることをそれこそ上げ膳据え膳で世話してくれ、

「明日着る服はどれ、それから履物はどれ、と決めて、履物も全部磨いてくれる」

「欲しいものがあったら申し付けるだけでなんでも酒保で買ってきてくれる」

その親密さは家族以上で、士官たちは皆彼らに感謝からくる親しみの気持ちを持っていたそうです。


昔一度、丹羽文雄の「海戦」という小説について書いたことがありますが、

これは、作家の丹羽文雄が第一次ソロモン海戦のときに旗艦「鳥海」に座乗して、
夜戦を目の当たりにし、負傷した経験を活写したものですが、その中の、
戦闘後の「鳥海」副官(つまり艦長の副官)とその従兵の話をもう一度掲載しておきます。


「従兵、篠崎はどこだ、篠崎?」
負傷者の顔を一つずつ見て歩いた。
「副官、自分はここにいます」声だけがあった。割合元気が良かった。
「どこだ、篠崎?」

「どうだ、具合は?」

 

返事はなかった。あたりはしいんとした。やがて
「申訳ありません」
と言った。副官は微笑をうかべた。右手を失った篠崎は絶対安静が必要であった。
「しかし、自分には左手が残っています。副官のお給仕は左手で立派にやれると思います」
「うん、やってくれ。自分もそう思っているんだ」

副官は何かを抑えるようにして、朗らかに応えた。顔から微笑が消えそうになった。
副官は黙った。高いところから見下ろしていた。従兵も無言であった。
副官はわざわざ篠崎を見舞いに来たのであったが、そんな気配は示さなかった。

どれだけか副官は見下ろしていたが、
「何も考えずに、くよくよしないで、十分養生しろよ」
「はい」
副官が枕許をはなれた。五六歩歩いた時であった。
「わあっ」
叫びともつかず、よびかけともつかない奇声を従兵があげた。

「何だ。篠崎?」
「魔法瓶がみんなこわれました。申訳ありません」
副官は引き返そうとしてためらった。そのままの姿勢で、
「なに、代りはあるぞ」
副官はそう言うと、大股に部屋を出ていった。


(「海戦」丹羽文雄 中公文庫)



そうかと思えばこんな話もありましたね。


皇族軍人で陸軍騎兵連隊附であった閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう)は、
戦後皇籍離脱後事業を起こし、元皇族の中でもかなり経済的に成功し、

余生も穏やかなものであったということなのですが、
戦後になって離婚した元夫人が、彼が軍隊時代男色家であった、とリークして、
マスコミの好餌となりスキャンダルになりました。

夫人によると、陸軍の官舎は狭く、ベッドは二つであったのですが、
王は高級将校に必ず付いていた従兵と一つのベッドに寝ていました。
井上成美艦長と駒形従兵のケースとは違い、両者合意の上での同衾であったようです。

戦後になってもその従兵と夫妻は同居生活を続け、言い争いになると
元従兵が彼女を殴ったりする異常さに耐えかね、離婚に至ったという話。


いかに軍人に直接仕える「従兵」という職種が上官と緊密な関係を生むかということですが、
戦後になって軍が「悪いもの」になってしまったとき、海軍的ヒエラルキーも
海上自衛隊においてはごくごく表面的なところにしか残らず、したがって従兵の制度もなくなりました。

先日わたしは、ある航空基地司令の執務室で昼食をご馳走になる機会がありましたが、
お茶を運んできたり、三人分のお弁当を運んできたり、そういう旧軍の従兵的仕事は
全て女子隊員が行っていました。
でもこれは来客的に当然というか、自然に感じました。
差別と言われようが、やっぱりお茶もお弁当も、女の人に持ってきてもらったほうが
なんか助かるというか、落ち着くというか。ねえ?

つまり従兵は軍隊に女性がいなかった頃の「女性代わり」の面もあるわけですが、
今現代、自衛官は旧軍軍人ほど「特権階級」ではなくなり(というか社会全体から
そういう特権階級が姿を消したので)、自衛隊もどんなに偉くても自分のことは自分でね、
ということになっているわけです。

しかし、なんとなく個人的には「上から下まで同じ扱いの軍隊」なんてもんがあったら、
なんて味気ないというかつまらないもんだろうと思います。
だいたいそんな共産主義みたいな軍隊、絶対強い気がしないよね。

軍隊が階級社会なのは当たり前。
あまりにも民主的な軍隊は上から下への命令もおちおちできませんから(笑)


海上自衛隊で将官の呼称が「閣下」であったり、将官のパーティー出席のときには
黒塗りの車の横にずっと海曹が立って待っていることや、副官が
目的地に着いたらさっと降りて将官のためにドアを開ける、などというのを見て、
こういう「特別扱い」の形が程よく残っていてほしい、とわたしなど思ったりするのですが、
社会の階級がなくなった日本の自衛隊では、たとえ従兵制度が何かのはずみで復活しても、

「気を遣うからむしろそんなものないほうがいい」

という「民主的な」将官が多くて、運用は無理かもしれませんね。





 


日米開戦と日露戦争の「反省」

2015-06-27 | 日本のこと

当ブログは、制作する時に思い出していれば、海軍的なイベントが起こった日に
そのテーマで書くことが時々あるのですが、先日5月27日の海軍記念日には
全く関係のない内容だったので、肩透かしを食ったように感じた方が約1名いたそうです笑)

何か関連記事をアップしたいと考えなかったわけではないのですが、
2年前のこの季節に、結構集中して日本海海戦について書いたので、
ネタが無くなった書きたいことをとりあえず思いつかず、失礼しました。


さて、5月27日が海軍記念日となったのは、今更ですが、日本海における
帝国海軍聯合艦隊が、バルチック艦隊に勝利した日を記念しています。

しかし、実際に決戦が雌雄を決したのは5月28日であり、鉄火お嬢さんのご報告によると
東郷神社の今年の記念祭はこの日に行われたとのこと。


というわけで、このエントリは5月28日の制作でお届けしております←こじつけ
 



日本は近代になって二度、大国と戦いました。
日露戦争、そして大東亜戦争です。
日露戦争で東洋の小国日本が大国ロシアと戦って勝ったことは、世界に衝撃を与え、
トインビーのいう、白人優生のそれまでの世界の「終わりの始まり」となったのです。

それがちょうど今から110年前のこと。

奇しくも今年は戦後70年と日露戦争110年が同時に来る年です。
つまりロシアに勝利したきっちり40年後に、日本はアメリカに負けたということになります。

この40年間に日本は、そして帝国海軍はその記憶をどう止め、それは後世に生かされたのか。
今日お話したいのはそういうことです。



日本が対米戦争に踏み切った理由を一言だけいうなら、皆さんもご存知のように、
「外圧によって資源を絶たれたため」に尽きると思います。
米国によって石油を禁輸されてしまい、ABCDラインで経済封鎖されたこと、なおかつ
最後まで戦争を避けるために行われていた対米交渉が決裂したことが直接の理由ですが、
それでは日本はいつからアメリカを「仮想敵国」にしていたかご存知ですか?


わたしも最近まで知らなかったのですが、実は

日本は日露戦争の2年後には
アメリカを仮想敵国に決めていた

ことがわかっているそうです。


先日映画「機動部隊」について書きましたが、海軍提督主催のパーティ席上、

主人公のゲーリー・クーパー演じる大尉が、空母など要らないと主張する新聞王に、

「何処と戦争になるというんだね」

と聞かれて

「日本が不審な動きをしています」

と答えたところ、野村大使と五十六海軍武官がそれを聞いていたというシーンがありました。

日本が1923年のこの頃、戦争をしたがっていたわけなかろうが、と突っ込んだのですが、
この説によると、1907年からアメリカは日本の「仮想敵国」だったわけですから、
「日米もし戦わば」が日本側でシミュレーションされていたということになります。

もっとも自身の駐米経験からアメリカの国力を知悉していた山本五十六は、
日米開戦には慎重論者であり、野村大使はギリギリまで政治交渉で戦争を避けようとしたのですから、
「戦争を企む意図を見透かされて狼狽する二人」というのはあくまでも映画的表現にすぎません。
念のため。


ところで山本五十六を「開戦に反対した」という面でのみ語る媒体がありますね。
ひどいのになると「反戦司令官」とまで言ってしまう向きもあるくらいです。

「連合艦隊司令長官山本五十六ー太平洋戦争70年目の真実ー 」(長いんだよこのタイトル、
といつも通りつっこみますが、1968年制作の『連合艦隊司令長官山本五十六』という映画と
タイトルがかぶるため、後ろにいらん言葉をくっつけたようです。誰得)
ではそれが顕著だったわけですが、 そんな単純なものじゃないでしょうと言いたい。

山本五十六は開戦に慎重でしたが、その理由は戦争が嫌いだったとか反戦派だったからではありません。
(誤解を恐れず言えば、全ての軍人は”戦争が嫌い”であると思いますがね)
勝てる見込みのない戦争をするべきではないという、軍人として当然の考えです。

戦史叢書第10巻「ハワイ作戦」には、「山本長官の対米戦回避」という項があり、

「聯合艦隊司令長官として万一の海戦に備え、対米作戦準備の完遂に
努力しながら、心では米国との戦争は回避すべきだと考え続けていたことは確実」

という一文で締められています。




また、昭和16年の初頭に、連合艦隊司令長官であった山本が、

海軍大臣及川古志郎にあてた戦備に関する意見のなかに、こんな一文があります。

「累次図演等の示す結果を見るに帝国海軍は未だ一回の大勝を得ることなく」
「図演中止となるを恒例とせり」

つまり、何度図演をやっても日本が勝てないままいつも中止となる、と言っておるわけです。


しかしそれでもやれと言われれば、勝てそうなやり方を模索するのも軍人のお仕事です。
そこで色々と「必勝プラン」を練ったりするわけですが、これにさかのぼる
軍縮条約の時にも、山本は開戦を念頭に日本の艦艇保有率をなんとか
自分の考えるギリギリの線まで確保するべきだと強硬に主張しているのです。

 
軍縮条約を巡って、その条約の結果を受け入れるべきだとする「条約派」と、
その反対の「艦隊派」の間に抗争が起き、「条約派」が粛清されたということがありましたが、
山本はこのとき「条約派」でもなんでもなかったので、無事だったどころか
その後連合艦隊司令長官になっているわけです。

つまり、「条約派」=「反戦派」、艦隊派=「開戦派」という決め付けは
実に乱暴な二元論にすぎないことがわかりますね。



このときの山本は、軍縮会議に随伴して、 そのときの全権だった文官の若槻禮次郎が
対米6,975%の補助艦艇保有と、3分の2の潜水艦保有に合意したことに不満を唱えています。

前回のワシントン軍縮会議では、戦艦の保有は希望7割に対し6割に抑えられていますが、 
これも「対米戦」をシミュレーションしている海軍の「中の人」以外は、
戦争するつもりでもないのなら今更1割くらい、という認識だったでしょうし、
当時文官の若槻にも理解できなかったように、今の我々が考えても、
そもそも国力差がありすぎる相手に7割が6,975割になったところでそれが何か?というところです。

しかし、このラインを勝ち取れなければ、席を蹴って帰って来るとまで
海軍の「艦隊派」 (この際山本含む)は考えていたので、若槻の合意に激怒したのです。

なぜ山本らは、このわずか0,025%にこだわったのでしょうか。

 


これは、その1割が、0,025が、そしてなにより潜水艦保有の3分の2が、
日米開戦のシミュレーションの結果、


「圧倒的な国力差を作戦で覆せるだけのぎりぎりのライン」

を下回っていたからという理由に他なりません。


ところで、アメリカに戦争を挑む時、海軍は、というか山本五十六は、
前回の勝利であった日露戦争をどう考えていたかという話に移りましょう。

つまりそこに日露戦争の「教訓」はあったのか?



昭和16年11月の大本営政府連絡会議では、

「対米英蘭将戦争終末促進に関する腹案」

と称する書類が提出されています。
始まってもいないのに終末促進か?という気もしますが、とにかく
どうやって終わらせるかは「どうやって勝つか」でもあるわけです。


それが、米英海軍の根拠をやっつけて主要交通線をとりあえず確保し、
自給自足の道をつけて持久戦にも備えるというものですが、持久戦といっても、

「長期持久的守勢を採ることは聯合艦隊司令長官としてできぬ。
海軍は一方に攻勢を採り的に手痛い打撃を与うる要がある。
敵の軍備力はわれの5ないし10倍である。
これに対して次々に叩いていかなければ、どうして長期戦ができようか。
常に敵の痛いところに向かって猛烈な攻撃を加えねばならない。
しからざれば不敗の態勢などは持つことはできない」

つまり

「凡有手段を尽して適時米海軍主力を誘致し之を撃滅する勉む」

その劈頭に

「誘致し」

つまりどこかに誘い出してそこで艦隊決戦をする、と考えていたことがわかります。
日露開戦の際、バルチック艦隊を日本海で撃破したように。

今まで図演で勝ったこともないのに、実際に開戦して必ず勝たなければならない。
そのためには初戦で主力艦隊(空母含む)を「猛撃撃破して」、米国海軍と米国民をして

「救ふべからざる程度に其の士気を沮喪せしむること」

というのがこのときに出された腹案です。
そして同じ腹案の中にこのような一項が見られるのです。(現代語に翻訳しました)


我々は日露戦争において幾多の教訓を与えられた。開戦劈頭における教訓は次のようなもの。

一、 開戦劈頭敵主力艦隊急襲の好機を得ることが必要である

二、 日露戦争における開戦劈頭の日本軍水雷戦隊の士気は必ずしも高くなかった。(例外はあったが)
   技量も不十分だったことを反省せねばならない

三、 旅順港閉塞作戦の計画と実地については失敗だった。
   こういった成功例、失敗例をできるだけ善処して日米戦に臨まなくてはいけない。
   勝敗を第一日目で決する覚悟が必要である。

水雷戦隊の士気が低かった、というのは、上村艦隊がこれを破るまで、
ウラジオ艦隊(浦塩とある)に旅順港を取られ、そこを根城にやりたい放題されたことを言います。
濃霧でウラジオ艦隊を逃した上村大将の自宅に、心ない国民が投石したという話もありましたね。

 
というわけで、これらの教訓から得た作戦実地要領とはどんなものだったか。

一、 敵主力の大部分が真珠湾に在泊するときを狙って飛行機隊でこれを撃破し、
   なおかつ同港を閉塞す

二、  敵主力が真珠湾以外に在泊していたとしても同じ。
   このため、第一、第二航空戦隊(やむを得なければ第二航空戦隊のみ)をもって
   月明かりの夜または黎明を期して全航空兵力をもって全滅を目的に敵を強襲(奇襲)する


山本の作戦が特異だったのは、実は「航空兵力で奇襲」という部分でした。
アメリカの映画「機動部隊」でも、日本が空母で奇襲をかけてきたことが驚きを持って語られます。


結果としてアメリカとアメリカ海軍は奇襲に激怒し、日本の通告の遅れを利してこれを非難し、
「意気阻喪」どころか猛烈な闘志を燃やして逆に全力で反撃してきたわけですが、
もし「通告の遅れ」がなかったら、アメリカはあれほど激怒しなかったのではないか?
という仮定には、わたしは残念ながらNOだと言わざるを得ません。

もしそこに至るまでのアメリカの態度を見ていれば、(囮をしかけて先に撃たせようとしたり) 
日米開戦は「既定路線」だったことは明白だからです。

それより、ここであらためて驚くのが赤字の部分、「真珠湾を閉塞」という文言です。
ここで閉塞作戦が、もしうまくいきさえすればかなり有効な手段であることを、
日露戦争の考察から海軍はかなり期待を持っていたということが読み取れるのです。


そして、山本は

万一ハワイ攻撃のときの我が方の損害の大きさを考慮して守勢を取り、
敵の来襲を待つようなことがあれば、敵は一挙に帝国本土の急襲を行い、
日本の都市は焼き尽くすであろう。
そうなった場合、たとえ南方作戦である程度の成功を収めたとしても、
我が海軍は非難を浴び、国民の士気の低下は避けられないのは火を見るより明らかである。
(日露戦争で浦塩艦隊が太平洋を半周した時の国民の狼狽ぶりはどうだったか。
笑い事ではない

と書いています。
具体的に海軍のプランとは、劈頭に敵を撃滅し、米国が意気阻喪している間に
とにかくライフラインとなる南方を制海権もろとも抑えてしまって、
これをもって自給の備えを確保しておいて講和の道を探るというものでした。


「山本愚将論」(以前お話を聞いた兵学校卒の方もそう言っていましたが)
を唱える人には、開戦してからの明らかに失敗だった作戦指示はもちろん、
この真珠湾攻撃自体をその論拠にする向きもあるようです。

しかし(どこまでアメリカ側が知っていたかはさておいて)、それでは山本以外に

この稀代の攻撃を実行(そしてとにかく成功)させることができたかどうか。
航空本部長を務め、これからは航空だと確信していた山本ならばこその航空攻撃を。



しかし、日本側の「終戦プラン」は大幅に予測を外しました。
真珠湾の成功は、なまじ米国にとって被害が大きく講和で済ませるような状態でなかったため、
士気を沮喪させるどころか、国民は怒りと戦意を猛烈に掻き立て、

結果としてアメリカと日本をその後の不幸な結果に引きずり込むことになります。



いつも言うように、歴史にはイフはありませんが、もし日露戦争で日本が負けていたら、

戦後日本が世界に台頭することも、それによって危機感を覚えた欧米による
「日本叩き」「日本いじめ」が始まることもなかったはずで、ということは
日本が真珠湾を攻撃するということも起こらなかったのです。

(そして世界は、21世紀を迎えてもまだ支配被支配が存在する大国主義だったかもしれません)

極論ですが、つまり、日露戦争に勝った瞬間、アメリカと戦うことは決定し、
40年後の敗戦も、そのときに定められた運命となって確定していたといえるのです。


その伝でいうと、日露戦争で勝った「から」、次の戦争を行うことになった日本ですが、
勝った戦争に対する「反省」(左派の言う反省ではなく、次の戦争をどう勝つかという意味の)
が結果に生かされなかったのは、アメリカの「意地」を見くびっていたことをはじめとして、
全てにおける見通しの甘さであったということなのでしょう。


「甘さ」というなら、帝国海軍がアメリカ相手に日露戦争でさえ失敗した「閉塞作戦」を
あわよくば実行しようと(腹案とはいえ)、考えていたらしいことそのものに、
わたしは、一度得た勝利の記憶のなせる楽観的なものを感じずにはいられません。




 



 


飛行家列伝「バロン滋野」~As Japonais (ア・ジャポネ)

2015-06-26 | 飛行家列伝

エース・パイロット(Flying Ace)とは、空中戦で多数の敵機(現在は5機以上)
を撃墜したパイロットに与えられる称号です。
ドイツ語ではFliegerass、フリーガーアス、そしてフランス語では As、アー、
フランス語の語尾は無音なので「ア」だけという(wikiのアスは間違い)省エネ発音。 

第一次世界大戦で初めて人類は飛行機による戦闘を経験しました。
フランスでは10機撃墜した者にエース(ア)の称号を与え、敵の独英もそれに倣いましたが、
これは当時の飛行機が言い方は悪いけど落としやすかったということでしょうか。

第二次世界大戦が始まると、連合国、枢軸国共に「5機撃墜」がその基準になります。

日本では海軍だけが昭和18年後半に軍令部によって記録そのものを止めたため、
戦後になって彼我の戦果報告と被害状況を照合して客観的な数字を検証する活動が
ようやく1990年代以降になって行われてきたというのが実情です。

ところで、Wikipediaの「エース・パイロット」の項を見ていただくと、
第一次世界大戦のエースパイロットのリストに日本人の名前があるのをご存知でしょうか。
滋野清武(しげのきよたけ)男爵。
これが今日お話しする「日本人初のエース」、バロン滋野です。

ライト兄弟が1910年、グライダーで初めて滑空飛行に成功したとき、

19歳の男爵、滋野清武は広島陸軍幼年学校の生徒でした。

14歳の時に陸軍中将だった父が50歳で病没したため、家督を継いだ清武は、
そのときには自分がのちに飛行機に乗るとは夢にも思っていませんでした。

幼年学校の厳しい世界にに全く馴染めなかった清武はすぐに退学し、
有り余る財産ゆえ何もせずにぶらぶらしていたところ、
母が三人の妹のために頼んだ英語の家庭教師と同年代ゆえ懇意になります。

山田耕筰という名の東京音楽学校のこの学生は、清武に音楽学校への受験を勧め、
予科に入学した清武は、本科でコルネットを専攻するようになりました。
本科2年生であった25歳の時、妹の友達であった公爵令嬢清岡和香子に一目惚れ、
すぐさまプロポーズをして学生結婚で結ばれました。

全てにおいて話が早すぎるという気がしますが、男爵なので別に働かなくても
食べていけるわけですから、学生結婚でもなんの支障もなかったようです。
ただ、和香子の母親には「下賎な楽隊屋」ではなく、「お父様のような軍人」
でないと娘をやりたくない、と当初反対されたのを押し切っての結婚でした。

娘も生まれ、幸せの絶頂だった清武を絶望の深淵に叩き落としたのは若妻の死です。
和香子は出産後すぐに、身体中を蝕んでいた結核のために亡くなってしまったのでした。
毎日谷中の墓地で墓にすがって泣き続けた清武を救ったのはある人物の

「本気で自殺を考えるならば飛行機にでも乗るが良い。
日本はまだ無理だから、ヨーロッパにでも行って飛行家になれば死への最短距離だ」


という言葉でした。
そしてこの言葉は彼の人生をも変えます。

飛行機で空高く飛べたら、和香子の近くに近づいていけるのではないか・・・。
たとえそれで死んでもその時は本当に妻の元に行けるのだから。


フランスに行った清武は、そこで自分でも意外なくらい立ち直りました。

おそらくフランス語やフランスそのものと相性が良かったのでしょう。
そこで当時難しいとされていた自動車の運転免許を取り、ロンドンまでドライブしたり、
オペラやコンサートに興じながら飛行学校に通い、飛行技術を学びます。

飛ぶ練習と並行して飛行機の設計も始め、その試作1号「わか鳥号」(和香子に因んだ)は、
パリの飛行機制作者シャルル・ルーが万博に出品するほどの出来だったそうです。

長身で(フランス人は総じて小柄である)さっそうとした東洋の貴公子が、
数少ない自動車を乗り回し、飛行機の操縦を練習しながら設計もしてしまう。

この出品は清武自身のエキゾチックな魅力も相まって大変話題になりました。
フランスでは無口だった日本の時とは別人のように社交的であった清武は、
しかしこの地でも全く女性と関わろうとしませんでした。

その薬指の結婚指輪に、喪章である黒いビロードリボンが付けられていることを
パリの人々は好意的に眺めては、
彼の悲しみに想いを寄せるのでした。



飛行学校を卒業した清武は帰国し、「わか鳥号」を陸軍の協力で飛ばそうとしますが、

ここにライバルが現れます。
陸軍軍人で、華族である徳川好敏でした。 

今日、徳川は日本で初めて飛行機で空を飛んだということで名前を歴史に刻んでいますが、
この二人はソリが合わないというのか、お互いに黎明期の飛行家であり、
利害関係が一致していることが多く、かなり険悪な仲であったようです。

政治力に長け、さらに陸軍という「後ろ盾」によって航空界の第一人者となった徳川ですが、
実際はフランスに来て1時間で免許を取ったという程度の腕でした。

当然飛行機の仕組みについてもあまりわかっていなかったはずですが、
清武がその飛行機設計をフランスの設計家に絶賛されたことに対抗したのか、
徳川は、既存のエンジンを積み替えたものを「『徳川式』飛行機だ」などと言っていたことも
清武の不興を買いました。

同じ陸軍の飛行教官でも、清武の100時間以上に対して徳川はわずか15時間という飛行時間で
清武のほうが教え方がうまく
、学生に人気があったということも軋轢の原因になりました。

その後、徳川は陸軍軍人であることを生かして周囲に圧力をかけ、

御用掛として呼ばれた民間人の清武を陸軍の中で孤立させてしまいます。


余談ですが、清武の「宿敵」はもう一人いました。 
こちらも大物、志賀直哉です。
学習院時代、清武が華族女学校に妹を迎えに行っていたのを勝手に色々想像して
けしからん、と憤った志賀が友人と共に清武を「ぶん殴った」というものでした。 

しかも志賀は後年、そのことをしれっとエッセイに書き、どう見ても自分が悪いのに
清武のことを「とにかく人に好かれぬ男だった」などとディスって、非難されています。
そのときの随筆の一文は

「フランスに行って飛行将校になり勲章を貰い、
フランス人の細君と混血の赤児を連れて帰ってきた」

という悪意とその裏に潜む嫉妬が隠せずにじみ出ているものです。
三島や太宰ともいろいろあったそうですし、なんだか嫌な奴みたいですね志賀直哉って。


さて、徳川との確執ですっかり陸軍と日本に嫌気のさした清武は、
教官を辞職することを決心し、民間の飛行学校を設立することを考えました。
それに必要な飛行機を購入するために神戸からもう一度渡仏したのですが、
そのときヨーロッパでは大変な事件が起きていました。

サラエボ事件です。

第一次世界大戦の導火線となったこの事件に呼応して、パリからリヨンに避難した清武、
いやバロン滋野は、カフェのレジにいる18歳の可憐な少女に出会います。

滋野夫人となる、ジャーヌでした。 
後に夫が急死して未亡人になったとき、意に染まぬ再婚話から逃げて
清武の元に駆け込んできたジャーヌを彼は受け入れ、結婚して日本に連れ帰っています。


リヨンで暮らしながら清武は考えます。

「この戦争は日本にも波及したので、 民間飛行練習所をつくるどころではないだろう。
この間、計画はひとまず中止して、自分の腕を磨こう。
しかし民間学校はこちらでも閉鎖同様だから、フランス陸軍航空隊に従軍しよう」

いやいや、この流れでどうして従軍となるかな(笑)

ともかく三段飛びのような論理展開で清武はフランス軍に志願し、
フランス陸軍の方も時節柄、喜んでこれを受け入れたのでした。

1914(大正14)年12月2日に入隊した清武は、3日後、少尉に任官します。
さらに「日本の地位に相当する階級を与えるべし」と陸軍側が考慮した結果、
翌月の1月31日には陸軍歩兵大尉に任ぜられました。

フランス陸軍も階級によって待遇が随分と違うのですが、
居室や食堂も変更になるので、この2カ月足らずの間、彼とその周りは
変更に次ぐ変更でてんやわんやの騒ぎとなったようです。

もちろん制服も大尉になると変わります。
現在残されているバロン滋野の陸軍での集合写真を見ると、不鮮明ながら
彼だけが色の違う制服を着ているので大変目立っているのがわかります。
大尉の軍服は上衣が水色、襟章が黄色に金色の星と羽(操縦将校)をあしらい、
腕章が金のエリスと翼(飛行隊)キュロットは赤という華やかなものでした。

(えー、このエリスはエリス中尉のエリスではなく、フランス語の
héliceはプロペラという意味です。念のため)

ピロット(パイロット)としてのバロン滋野の実力はフランス人にも一目置かれていました。
偵察将校で後に親友となるペレージュ中尉が

「バロン滋野、我が隊には百数十人のピロットがいますが、
正直なところわたしは
誰の飛行機にも同乗したくありません。
しかしバロン・シゲノとロルフューブル海軍中尉となら喜んで同乗します」

と真剣に言ったことがあるくらいでした。
さて、1815年の5月27日、バロンに大本営飛行科長から命令が下ります。

「キャピテーノ・シゲノは飛行機に搭乗し、V24中隊に向け出撃すべし」

向かい風に近い烈風の中を時速40キロの列車よりもノロノロと3時間飛び、
部隊に到着したのですが、後で途中ドイツ機とすれ違っていたことを知りました。

着任した翌日、バロン滋野はペレージュ中尉を偵察に乗せ、出撃しました。
初陣です。
それから毎日のように出撃し、その度に砲撃の中を投弾して帰ってきました。
この頃、彼が実家に出した手紙です。

「略)なんとも云えぬ勇ましさです。
自分で自分の乗っている飛行機が見られたらさぞ愉快だろうなぞと、
愚にもつかんことを考えながらタバコをふかして飛んでいると、すぐ近所で敵弾が爆発します。
然し決して中らぬものとチヤンときめ込んでいますからなんともありません。
ヘン、やってやがるなア、位のものです」

幾度となく死と隣り合わせとなりながら、清武は全く恐れず空に上がるのが常でした。
ヨーロッパに来るきっかけになった「死んだら妻の元に行ける」という気持ちが
彼から死への恐怖を取り去っていたのでしょうか。

そんなバロン滋野に司令部からまず感状、続いて「戦功十字勲章」、そして
志賀直哉も嫉妬したという(笑)レジオン・ドヌールが授与されます。
軍機となっていて本人は知るべくもありませんでしたが、評定にはこう書かれていました。

「ピロットの特性顕著、当体に配属以来、軍人としての誠実な特質、勇気、感嘆すべき意志力を示せり。
最も危険な爆撃の数々の任務を遂行せし功績により軍功表彰され、レジオンドヌール勲章を授与さる」


バロン滋野は1915年4月1日、初撃墜をしました。
ランス市郊外上空でヴォアザン式偵察爆撃機で偵察攻撃中、
フォッカー式EIII型駆逐機に攻撃され、45分に亘る空中戦の末、
ほとんど弾を撃ち尽くした状態の時に相手が墜ちたのでした。

たちまちこの戦闘は全フランス陸軍に広がりました。
偵察爆撃機が駆逐機と45分もわたり合って撃墜したとあっては当然です。
ほどなく、バロン滋野はN26鴻(おおとり)飛行中隊に編入されました。
「As」つまり敵機を5機以上撃墜したピロットで構成されたエース部隊です。

 ちなみに第一次世界大戦当時の航空戦において撃墜がどのように公認されていたかというと、

「一人のピロットが敵機を撃ち落とした時に、二人以上のピロットが正確に
その落下した場所を見届けるか、砲兵隊、塹壕の歩兵、繋留気球の偵察将校などが
正確にその落下した場所を報告してくるか、あるいはピロットが撃墜した時に
誰も見ていなかった場合には、そのピロットが案内人となり、二人の飛行将校が
各一機に乗って、その場所に行き、撃墜された飛行機を見届けた場合」

となっていました。
これだけ厳密ならハルトマンやレッドバロンの撃墜数もかなり正確なんでしょうね。

バロン滋野の公認撃墜数は6機と記録されていますが、公認未公認、
共同撃墜の末同僚に戦果を譲ったりしているので実際の撃墜数はもう少し多かったようです。
しかし本人は敵機を撃墜することについてこのように述懐しています。

私は元来狩猟が非常に好きである。
然し鳥を打ち落とした其の瞬間だけは非常に愉快だが、
すぐに其の後には哀れな感じを禁じ得ない、

其れでも矢張りこの遊びがやめられないのである。
丁度其れと同様に敵機を打ち落とした瞬間に愉快を感じ次に非常なる哀れを感んじた。
そして1500メートルの高空からひらひらと真白な飛行機が落ちて行くのを見乍ら
嗚呼彼等も敵とは云へ親も兄弟もあるだらうと思つて馬鹿に哀れっぽく感じた、
それでもをかしい、昼食をする頃になると一時も早く出掛けて行って又打ち落とし度くなる、
人間は実に理由(わけ)の分からぬ動物であるとつくづく思ふ」 


軍極秘の勤務評定においても

「模範的なピロットであり、その勇気と冷静さは中隊の最上の模範を示した」

と激賞されていたバロンは、休戦条約が調印され、1918年11月11日に戦争が終わって 、
その時にはすでに妻となっていたジャーヌと、生まれたばかりの娘を連れ、帰国します。
娘のジャクリーヌ・綾子はその後脳膜炎のため2歳で死去しました。


日本では航空事業についての計画を航空局に積極的に働きかけますが、
関係者はまだ国内に操縦者がいない現状では、バロン滋野の提案による
「フランス人パイロットがわが国を我が物顔に飛び回る」 
事態になりかねないということを盾に、なかなか話を進めようとしません。

それだけでなく宮内省もジャーヌ夫人の男爵家への入籍を認めず、
清武はまたしても日本での生きにくさを実感せざるを得ませんでした。

しかも国は、バロン滋野の申請した航空事業にはのらりくらりと返事をせず、
それでいて神戸の毛織物商川西清兵衛が設立した航空株式会社は認可し、
(のちの川西航空機)彼の焦燥は深まる一方でした。

失意の日々の中で、 若い時から胃弱で何度も入院を繰り返していた清武は、
その心労が祟ったのか、胃病と腹膜炎を併発し、1924(大正13)年10月13日、
ジャーヌ夫人に看取られながら苦悶のうちに昇天しました。
わずか42歳でした。

その後、男爵の後継問題でジャーヌは滋野の実家から酷い扱いを受けることになりますが、
結局彼女は日本でフランス語を教えながら糊口をしのぎ、二人の遺児を育てて73歳で死去しました。 

長男のジャーク・清鴻(きよどり)は海軍の飛行士官を志望しましたが、不合格になったため、
陸軍航空通信隊に入隊し、そこで終戦を迎え、戦後はピアニストになりました。
そのスタイルから「和製(カーメン)キャバレロ」と言われていたそうです。

愛情物語/ジャック滋野
 

否定的に「ビジータイプ」と言われる一昔前の奏法で、フィンガーテクニックはともかく、
今聴くと正直なところ音楽理論的にかなり怪しい点があるのですが、
それなりに当時は有名だったようです。

少しあれれと思ったのが、このレコード?ジャケットにちゃっかり
「Jacques Baron Shigeno joue.. 」(ジャーク・バロン・滋野が演奏する)と書いてあることです。
芸名でもあったんでしょうかね・・・・バロンって。 


清武は音楽家から飛行家へ、ジャークは航空工学を諦め音楽の道へ・・。
父子が逆の道を歩むことになったのも何かの因縁でしょうか。



ところで清武は1918年に、雑誌の「百年後の日本」というテーマのアンケートに対し
こんな回答をしているそうです。

一、華・士族・平民の差別なくなるべし
一、軍人、官人の威力奮はざるべし
一、文明はほとんど極度に達し、従って戦争は不可能に近づくべし
一、少なくとも長距離の輸送・交通・郵便などは空中路となるべし
一、自転車のごとき軽便なる飛行機の使用盛んなるべし

全て100年経って、この世界はまさしく清武のいう通りになっています。

今日もどこかで新たな戦争の火種が生まれ続けているということを除いては。 





参考文献:バロン滋野の生涯 平木國夫著 文芸春秋社



 


田母神俊雄氏講演より~戦後レジームの呪縛と中国の現状

2015-06-24 | 博物館・資料館・テーマパーク

国某協会主催で行われた田母神俊雄氏講演の最終日です。
時間より1分半長く喋り終えたあと、一人だけ質問を受けることになり、
4人が立ち上がったのでじゃんけんで質問する人を決めました。
写真は最後に勝った二人が決勝じゃんけんをしているところですが、
残念ながら勝ち残った方の質問は質問というよりご自分の意見の部分が多く(そういう人いるよね)
何を質問したかったのか、残念ながらわたしにはよく理解できませんでした。

さて、というわけで続きです。




■ 中国と韓国との「歴史戦争」


中国や韓国は日本が戦後そういう教育が行われていることから図に乗って、
南京事件や慰安婦の問題などを未だに騒いでいます。

20万の女性を強制連行するって、いったい何個師団必要なんですか(笑)

日韓基本条約が結ばれるまで、8年かけてお互い話し合いを行っているんですが、
そのときに韓国側は慰安婦の問題など一回も出していないんです。
戦争が終わって30年経って、当時を知る人がいなくなったころその問題を出してくる。

南京大虐殺も東京裁判では証明できなかったのに、当時の人がいなくなってから
既成事実化してきている。
 
昨日わたしはBBCの取材を受けましてね。
南京大虐殺をどう思うかと聞かれて、そんなことはなかったと答えました。
それどころか、森元総理の先祖の森シゲキ中尉はイギリス大使館の警護をしているから
イギリスには感謝して欲しいくらいだなんて言ったんですが、
なんとか日本を貶めようとして意地の悪い質問をしてくるんですね。
731部隊はどう思うのか、とか。 

わたしは統幕学校長時代盧溝橋の戦争記念館というところにいったのですが、
そこの展示で「日本軍の命令書」がありました。
中国語の説明で「日本軍が中国人に生物兵器を使えと指示した司令書」とあるんですが、
読んでみると

「戦闘の際中国人に決して危害が及ぶことのないようにせよ」

 って書いてあるんですね。
うちの学生が

「校長、これ間違っていると指摘しましょうか」

と言ったんですが、ほっとけ、日本人が見ればわかるといって放置しました。

(註:これは英断だったと思います。指摘すれば彼らは展示をこっそり外すだけですから)

南京「大虐殺」なんて嘘と捏造の最たるものです。 


■ GHQは日本を巧妙に壊した

GHQは戦後20万人もの公職追放を行いました。
その穴埋めには戦中左翼とされていた人物が充てられたのですが、
特に最高学府である大学の学長、総長に左翼が座ったことが日本の戦後を歪めたと思います。

東大総長南原繁、矢内原忠雄、京都大学学長滝川幸辰、この人なんかアナーキストですよ。
一橋大学都留重人(コミンテルンの手先)、法政大学大内兵衛。

こんな人たちがそれぞれの大学を自分の左翼の弟子で固めてしまったんです。

戦前、大学というのは将来の日本のリーダーを育てるという明確な目標があったので、
学部を問わずカリキュラムの3分の1はリーダー教育に充てられていたんです。
自衛隊でもやっているように論文を書かせてディスカッションするというようなことです。
 
戦後、そういう学校が生徒たちは大学に入ればヘルメットをかぶってゲバ棒を持って
走り回り、大学はリーダー教育する場などではなくなりました。

そういう人物が、未だに新聞社の論説委員なんかで生き残っています。
こういう人たちが、戦後の言論の不自由な日本を作ってきました。
日本を悪く言ったり批判する自由はあるが、日本を褒める自由はほとんどない。

「日本はいい国だ」

という論文を書いたわたしがクビになったことがいい例です(笑)

昭和21年になっていわゆる東京裁判が行われましたが、この法律的な根拠は、

「マッカーサー条例」

という 事後法だったんです。
法律は遡求しないというのが先進国の原則なんですが、

「昨日までの日本軍を裁くために」

後から作った法律で罰したという無茶苦茶なものでした。
しかも、戦勝国の側の戦争犯罪は全く咎められず、負けた日本だけが罪を問われました。

わたしは去年市ヶ谷の東京裁判の法廷を見学したんですが、解説員は
東京裁判のことはあまり説明するなと指示を受けているらしいんですね。
中谷元ちゃん、このこと知ってんのかなーと思ったんですけど(笑) 

東京裁判のことを説明しないんだったらなんであんなもの残しておくんですか。

(註:わたしが見学した時は東京裁判は映像だけ、三島事件も非常におざなりの説明でした)

政治家もそうですが、役人にもアメリカの歴史観に毒されたままの人がたくさんいます。


教科書検定ではたとえば「南京大虐殺を書かないと検定を通さない」となっていました。
しかし今回相当政治家が動いてくれて、書かなくても通る教科書がでました。
相当根が深くてまだ時間はかかると思いますけどやっていかなければならないと思います。

アメリカは戦後、日本を巧妙にぶち壊しました。
まず、大家族制が壊されました。
その結果、いろんな問題が起こってきています。
昔は子供が家に帰って来ればじいちゃんばあちゃんがいて、若い夫婦が二人で働いていたとしても
日本の伝統文化や生活の知恵を授けられたものですが、今は保育所に預けるしかありません。

家督相続制も壊されました。
これは長男が全財産を受け継いで「家」を受け継ぐという制度なんですが、
この制度で「家」が残っていきます。
これだと自分はこの家の何代目だという形で「家」が残っていくのですが、
兄弟皆平等で相続すれば、「家」は分割されてなくなってしまうようなものです。
田舎ではまだ残っているところもありますが、都会では全くなくなりました。
 
昔は50過ぎれば財布は若夫婦に渡して隠居でしたから、老人の孤独死など起こりようがなかった。
東京都には今一人暮らしの老人が70万人いて、孤独死も大変多いそうですが、
そんな街であっていいわけないと思います。

年金問題も子供と一緒に住むのが普通ならそんなに必要ではなくなってくるし、
子育ての問題も解決しますね。
同居なら子供に対する虐待も起こりにくくなってくる。

これを取り戻すには同居すれば税金を安くするとか、家督相続制は
一人が相続する時にはこれも税金を安くするとかすればいいかもしれません。

戦後2DK住宅が雨後の筍のようにできましたが、これも住むところがないから、
というのではなく、この狙いは日本の大家族制を壊すことだったと思います。
占領軍は日本の若い女性に囁いたんですね。

「日本の若い女性って大変ですね。結婚したら大きな家に住んで旦那さんだけでなく
舅姑、旦那さんの兄弟にも仕えないといけないのだから。
夫と二人だけで新婚生活を過ごしたくありませんか。嫌な姑などと離れて暮らしたくありませんか」

そうすると日本の女性はアメリカっていいこと言うなと歓迎するのです。
そしてわたしもわたしもと2DK住宅を選択して、その結果大家族制はなくなりました。


また、公民館が戦後日本全国津々浦々に作られましたが、何のためだと思いますか?
これは

神社で集会をさせないため

であったんです。
昔は地域共同体の中心は街や村の神社で、何かあれば皆神社に集まっていました。
というわけで、神社の数だけ公民館が作られました。


日本人のモラルを崩すためにもいろんなことが行われました。
「軍艦マーチ」がパチンコ屋で鳴らされるのを戦後GHQが禁止しなかったのは、
パチンコという賭け事に日本人をのめり込ませるためであり、
今、そのお金はせっせと北朝鮮に貢がれているというのが実態です・

日本ぶち壊しは巧妙に行われてきました。
財閥解体って、いいことだったんですか?
農地解放、これもいいことだったんですか?

こういうのは日本の弱体化にしかなっていないんです。


日本はとにかく自分の国は自分で守るという体制を作らなければ
国家政策の自由も確保できません。
今はなんでもアメリカに相談しながらやっているという状態ですが、日本が何か
情報の強化を行おうとすると、アメリカは必ず邪魔に入ってきます。
表向きはお互い独立国家ですから言ってきませんが、巧妙にそれを行います。

中国も、日本が今法的に自分の国を自分で守れないことを知っているから
尖閣に挑発にきているんです。
日本を挑発して戦争をしようとしているわけではないんです。
戦争って準備しないとできませんから。
大部隊を動かすのに、頭きたから明日から戦争だってわけにはいかないんです。
自衛隊は

「中国が戦争の準備を始めたかどうか」

ということを眼目に、毎日毎日情報収集活動を行っています。
今のところ全く「準備」はしていません。
だから、すぐに戦争になんてなりません。
領海に入ってきて出て行けという指示に従わなければ、よその国なら撃たれます。
海上保安庁は撃てませんから過激な放水なんかで対応していますが、
わたしはあんなことはやめるべきだと思うんですね。

もっと穏やかに銃撃して速やかに沈めるべきなんです。

「そんなことしたらせんそうになるじゃないですか!」

という人がいますが、なりません、絶対に。
よその国は中国の船沈めてますよ。韓国はこの1年に2回銃撃しています。
だけど習近平とパククネは抱き合って友好しているじゃないですか。
なぜそれを日本だけができないんですかってことですよね。

きっとわたしが防衛大臣になったら中国の船は尖閣に入ってこないと思います。





■ 日本には「日本派」の政治家が必要だ

自衛隊も防衛省もなかなか言いにくいと思いますけど、日本を悪くしているのは自公の連立政権だと思います。 
公明党が自衛隊のいろんなことをみんな邪魔するんですよ。
でも現役の自衛官は怖くて何も言えないでしょう。
だからわたしがあえて憎まれ口を叩いているんですが、公明党は見ていてもわかるように、
安部総理のやることは何でも反対ですよね。

わたしは安部総理の近くには「日本派」の政党が必要だと思うんです。
日本の政治家には、中国派に対し保守派といわれる政治家がいます。
でも、この保守派の大半は実は「アメリカ派」なんです。
日本の政治状況は「中国派」に対し「アメリカ派」がいるというものです。
「日本派」の政治家は本当に少ないんです。
よその国はアメリカの政治家は皆「アメリカ派」だし、イギリスは「イギリス派」、
フランスは「フランス派」で、これが当たり前です。
日本だけが違うんです。

今の日本には安部総理以外に適任な総理大臣はいないと思っています。
石破茂さんなんかなったら、これは大変ですよ本当に(笑)
靖国神社に行ったこともないしこれからも行かないって言ってるんですから。
彼が防衛大臣の時わたし空幕長で、直属の上司として仕えたことがあるので、
どんな人物かということはわたしもう見抜いてますから。

いいときにはいいけどダメになったら部下を捨ててすぐ逃げますから。

(註:例の論文事件で野党から攻撃されるのを恐れて田母神氏を罷免したことをいっているのか)

彼はね、話してて思ったんですが、自衛隊が強くならないほうがいいと思っているんです、
自衛隊が強くなったら侵略戦争を始めるなんていうわけです。 
わたしは言いましたね。

「いや、先生、侵略戦争ったってやるのは自衛隊でしょう。
我々自衛官も忙しくてそんなことをやっている暇はないですよ。
日曜にはゴルフにも行きたいし。
侵略戦争なんか始めたらわたしの好きな大吟醸も飲めなくなるじゃないですか 」

あの、大吟醸って、米の外側を削ってゴマ粒みたいにしてお酒を作るんです。
外側の二日酔いの成分であるアセトアルデヒドを取ってしまうので、
酔っ払っても二日酔いしにくいお酒なんです。

ここに先輩(元陸幕長)がおられますが、この方もいつも飲んでます。
二日酔いしないお酒なんですが、心臓にはよくないんです。
値段を聞いたらびっくりするからです。

一応わたしは大吟醸が好きだということを皆さんに連絡だけしておきます(笑)

日本の食べ物は美味しい。お酒ももちろん美味しい。
こんないい国ないですよね。本当に。

もっと日本を強い国、もっといい国にして次世代に渡すのが、
今を生きる我々の責任だと思っているんですよね。
そのためには歴史を取り戻さねばならないのではないか。
何より自分の国を自分で守る体制を作らなければならないのではないか。
そうしないと日本はやられてしまうと思います。

飛行機のパイロットって一年間にどのくらい飛ぶかで決まってくるんですが、
中国空軍のパイロットなんてほとんど飛んでませんから。
これ中国でいうと捕まるらしいんですが、これは本当で、離発着もろくにできません。

潜水艦の保有は日本の4倍とされていますが、半分は動かないので稼働率50%、
実質2倍と考えたらいいんですが、中国の潜水艦は静謐性がないんです。
日本のスターリングエンジンが音がいちばん静かです。
潜水艦は位置を秘匿して見つからないことが身上なんですが、中国の潜水艦は
海中で待っていたら向こうから銅鑼を叩きながら現れます。

つまり中国の軍事力なんかに脅かされる必要はないと思います。
わたしが現役時代ブリーフィングでいつも確認するのは

「中国は軍事力で尖閣を取れるか」

ということでした。
7年前までならともかく、今はまた取れないと思います。
でもこんなこと公に言いませんけどね。
言ったら自衛隊の予算を削られてしまいますから(笑)

さて、そんなわけで時間となってしまいましたが、
今日はいいたいことも
全く言えないまま終わってしまいました。(大笑い)
ご静聴ありがとうございました。


終わり

 


田母神俊雄氏講演より~GHQとJAPAN2000に見るアメリカの戦後戦略

2015-06-23 | 日本のこと


■ アメリカ繁栄するも日本に反映なし

アメリカは、中国はこんなに強いぞ、日米安保がなければお前ら困るだろ?
もうちょっと金出せよ、という情報戦をやっています。

日本はアメリカからいろんなものを買わされてます。
例えば今自衛隊はオスプレイを17機、3500億で調達しようとしています。
またグローバルホークという偵察機を入れましたけど、これもリアルタイムの電送が
できないようなバージョンでオペレーションしているそうですね。
リアルタイムでできないから、機体を回収してから解析をするんですが、
この解析もアメリカにしかできないから、またそこでアメリカに金を取られる。

防衛費は伸びているのにアメリカに払うだけだから、国内産業への反映は全くありません。

なぜそんなことになるかというと、現場の自衛隊が吟味して導入を決定するのではなく、
オスプレイもグローバルホークも、政治レベルで入れることを決めてしまうのです。
それからいろいろ交渉したって、アメリカは絶対に呑んでくれません。
導入は決まっているわけですから、いくらこっちが交渉しても向こうは強気で
非常にこちらの不利な条件で押し付けてくるわけです。 

グローバルホークならちゃんとリアルタイムで電送ができるようにとか、
あるいは国内産業にも分け前が行くというような形を作ってから導入しないと、
不便な武器を買わされるだけでなく、国内産業がダメになっていってしまいます。

戦闘機の機種選定もそうですね。
まず戦闘機の機種が決まってしまってから細部の交渉が始まるんです。
そんな形で交渉してもアメリカは絶対に引きません。
日本は「そんな条件なら戦闘機の導入をやめる」ということもできない。

現場で検討して自衛隊のためにも国内産業のためにもなるという利益を確認してから
買う、ということにしないと、まずいと思いますね。

導入してからも、例えば仕様を変更した時に日本は4月に予算をつけて、
アメリカにこうしてくれと要求を出すんですが、答えが返ってくるのは翌年の2月です。
予算を実行する時間がないので、全てアメリカの言うとおりになってしまいます。
こんなことでは国益を守るということにはならないと思います。

■ 成長なき「改革」と「自由と繁栄の弧」

日本が防衛費を増やそうとすると、

「日本は1,100兆円も借金があるのにこれ以上借金増やせない」

という意見が出ますが、これも情報戦の一環だと思います。
そもそも国は借金で潰れたりしません。
いざとなったら一万円札印刷すればいいんです(笑)

その際懸念されるのはインフレですが、アメリカでリーマンショックの時に
9000億円だったのが今3.5倍になって三兆円を超えてます。
それでもアメリカは極端なインフレにならないのです。

日本は10年前の82兆円が今87兆円です。
たとえば100兆円くらい印刷して配ってもインフレにはならないと思います。
日本式の「質素倹約は美徳」という考えは、ある面最もではありますが、
みんながそうなると経済規模は縮小してしまい、
景気も悪くなっていきます。

公共事業はやらなくてはいけないし、公務員の給料も下げてはいけないと思います。
民間の就職がままならない時に岡田克也さんの言うとおり公務員の採用を
57%にしたりしたら、若い人はどこに就職すればいいんですか。

公共事業が悪、という風潮がありますが、これも情報戦によって刷り込みですね。
個人は80歳までに借金が返せなければ破産ですが、国には寿命がありませんから、
毎月たとえ1万円でも返す体制ができれば国は破産しません。
1千100兆円という借金も、毎年1万円ずつ返せば、わずか1千100億年後に完済します(笑)

日本はこの20年、公共事業を減らして予算を切り詰めれば、景気回復できると信じて努力してきました。
緊縮財政ということで、景気回復よりも財政立て直しが先だとしていたんですが、
これに対してアベノミクスは、

「一時的に借金を増やしても景気が回復すれば税収は増えるから、国の財政は後からでも立ち直る」

という積極財政なんです。
歴史を見ても緊縮財政で国が立ち直ったということは一例もないんだそうです。
国が立ち直る時には必ず積極財政が功を奏しています。
江戸時代の天保、享保の改革のとき、庶民の生活は最低だったと言われます。

われわれは「改革」というといいものだと思わされているところがあって、
日本はここしばらく、小泉内閣に代表されるように

「改革なければ成長なし」

という姿勢でいろんな法律を変えてきました。
その結果、あの改革で本当によくなったというものが一つでもありますか?

この20年の間に行われた「改革」は「日本ぶち壊し」でしかありませんでした。
その結果、日本のGDPは20年前より減っています。
これは日本人が働かなくなったから、などという理由ではありません。
GDPを決めるのは日本と日本銀行で、決められた枠の中で企業や個人は「取り合い」をするというものです。

みんなに使いたくなるだけの1万円札が行き渡るように政府日銀がしなくてはなりません。
なぜなら、緩やかな経済成長をしていないと人間は幸せになれないんです。
やりたいことができて政治的に自由であるとき、人は幸せなんです。
自由と繁栄が保証されていることが人間の幸福の基本です。

それでいうと、20年前よりGDPが減っている政治がいい政治だとは言えないと思います。
今安部総理が「2パーセントの経済成長」と言っていますが、
経済成長率が2パーセントになると失業率が1パーセントになる。
1パーセント以下で「完全就職」ですから、「2パーセント」となったんですね。

2%と言わず5%でも10%でも、とならないのは、そうなれば仕事が忙しくなりすぎて
毎日残業、土日出勤で酒飲んだりゴルフやったりもできなくなります。
だから2パーセントくらいが時間とお金のバランスとして丁度いい数字なんです。

日本の経済って、アメリカやヨーロッパ、もちろん中国や韓国と比べて盤石なんですね。
だけど不安を煽るような話ばかりが出てくる。
しかし例えば中国がないと日本経済は成り立たない、なんて全く嘘です。
日本がないと中国経済は成り立ちません。
中国や韓国は輸出で成り立っている国で、韓国などはGDPのうち50%を輸出が占めます。
中国は30%、日本は10パーセントにすぎません。

日本のGDPを輸出が占める割合は世界で三番目(1、アメリカ、2、ブラジル)に低いんです。
よその国に比べればほとんど輸出に依存していないんですね。
しかも、中国・韓国は完成品、つまり車やなんかの完全消費財を売って儲けていますが、
日本の輸出の8割が、これを作るための工作機械など、中間の「資本財」です。
中国・韓国は日本から継続的に資本財の輸入を受けないと経済が成り立たないんです。

これは強いですよ。
パク・クネなんか生意気なことを言ったら、ひとこと「締め上げるぞ」で済む話なんですけどね。
日本がそれをしないのをいいことに、あっちでパクパクこっちでクネクネやってますけど(笑)

でも日本では「中国がないと日本経済が成り立たない論」を言う人もたくさんいます。
わたしが田原総一郎さんの番組に出た時、言ったんですよ。

「田原さん、あなたよく調べてないでしょう」

って。
珍しく反論できなかったみたいですが、都知事選の時に仕返しされました。
関係ない歴史認識なんかを持ち出してきたりして。

「ああこいつ、あの時のこと恨みに思ってるな」

と思いました(笑)



■ 「ジャパン2000」と日本の失われた20年

日本もそろそろ歴史認識を改めて、まず自分の国を自分で守れる国にしなかれば
いけないとわたしは思います。

今日のニュースで下村文部大臣が

「国立大学で国旗掲揚国歌斉唱を行うように要請した」

というのがありましたが、こういうことを少しずつやっていくしかないですね。

21世紀になってからアメリカの戦略が変わったということを、日本人は
政治家も国民も認識しなければいけないと思います。
アメリカは40年に1回、国家戦略を変えています。
日本が日露戦争に勝った後、アメリカの第一の戦略目標は

「日本を軍事的に潰す」

ということでした。
オレンジ計画と言われるものですね。
約40年かけて嫌がる日本を追い込み、戦争に引っ張り出して日本を潰したわけです。

大東亜戦争が終わった後、アメリカにとっての最大の敵はソ連になりました。
これを潰すにもソ連は核武装国ですから戦争をするわけにはいかない。
レーガン大統領は軍拡競争を仕掛け、経済的に疲弊させて内部崩壊に導いて潰しました。

1991年、アメリカはまた戦略計画の見直しを行いました。

1992年、CIAが「JAPAN200」というレポートを作成しています。
この秘密文書を、ワシントンポストにすっぱ抜かれて世界に発信されてしまったんですが、

「冷戦は終わった。
これからのアメリカにとって最大の脅威はソ連の軍事力ではない。
日本とドイツの経済力の脅威である。
これからの世界は経済戦争に入るが、そのためには台頭著しい日本の経済力を押さえておかねば
いつかアメリカ経済は日本経済に支配される」

とそれには書かれていました。
アメリカはこれに基づいて、日本経済の弱体化を仕掛けてきています。

「日米構造協議」というのがありましたね。
建前はお互いの構造を近づけて相互利益が出るようにしましょうというものですが、
実は日本経済を弱体化させることが目的だったんです。
1993年には宮澤ークリントン階段で、年に一度構造改革書を交換しましょう、となり、
日本がアメリカの要求を受けると2~3年以内に法律が潰すというスパイラルに入りました。

これが「改革」の正体なんです。

相互主義で日本も要求をしますが、大した要求はしていません。
これでアメリカの要求により行われたことは

●NTTの分割推進

●郵政民営化

●社外取締役の制度

●建築基準法の改正

●談合の摘発

などです。
建築基準法については、アメリカから輸入される建築資材を点検などするなというもので、
談合の摘発も、これによって我々は「談合は悪」と反射てきに思うくらい刷り込まれました。

談合って、「予算はこれだけだからみんなで分けて落ちこぼれる会社がないようにしましょう」
という「日本的生活安心システム」のはずなんです。
汚職の温床となったり新規参入がしにくいという欠点はありますが、
競争入札は日本の実情に合わないというか、必ず落ちこぼれる会社が現れます。
一長一短なんですが、日本はすでに「談合は悪だ」としてしまいました。

日本人が昔からそう思っていなかった証拠に、「談合坂」ってありますね(笑)
談合が悪いことなら地名になんかなるわけがないんです(笑)

アメリカが介入してアメリカの会社が金儲けしやすいようにしてきたのが
この20年の「改革」の正体です。
だから日本のGDPも20年かけて減ってきました。

そこまでされても逆らえないというのはアメリカに完全に「支配」されているということです。



■ 占領下の日本でなにが行われたか


安部総理は「女性の輝く社会」として「管理職の30%を女性にする」としています。
もともと女性の社会進出は「ウーマンリブ」で始まりましたが、目的は増税でした。
税率はあげられないがもっと税金を取るには女を働かせれば良い、
配偶者控除、配偶者手当、税金を使うばかりの女を働かせれば税収が見込めるというわけです。

女性が働けば家庭教育がおろそかになります。
そうなると、日教組教育のような「洗脳教育」もやりやすくなります。

わたしは能力も意欲もある女性に働くなとは言いませんが、能力に関係なく
30パセーントの管理職とか、男女全く同じ扱いをするようになったら、日本の社会は崩壊します。

女性は普通「愛する男性に守られていきたい」ものだとわたしは思ってるんです。
男性に対抗して同じ待遇にしてくれと言っている女性は、男性に愛されたことのない女性ではないかとすら思います。

安部総理は「日本を取り戻す」といっていますが、それならば経済力だけではなく、
戦前の日本を取り戻して欲しいと思っています。

「戦前の日本は戦争ばっかりやって残虐でろくなもんではなかった」

ということに戦後はなっていますが、これも洗脳されているにすぎません。

「戦後アメリカから民主主義を教えてもらって言論の自由が生まれた」

なんて全く嘘ですよね。
戦前のアメリカは黒人や有色人種には選挙権もなかったんです。
1964年、東京オリンピックが行われた時に「黒い弾丸」と言われた
短距離選手のボブ・ヘイズというアフリカ系アメリカ人がいましたが、
彼はそのとき選挙権を持っていなかったんです。翌年公民権法施行ですから。

そんな国から日本は民主主義を教えてもらった覚えはない。

それを言うなら、アメリカにオバマ大統領が誕生したのも、元はと言えば
わたしは大東亜戦争の結果だと思っています。

しかし日本では戦勝国の歴史観をずっと教えてきて現在に至ります。
「自分の国は悪い国だった」と教えられていては、立派な政治家どころかろくな人間は出来上がりませんよ。
その欠陥製品の最たるものが鳩山由紀夫や菅直人ですね。

アメリカの占領下で何が行われたか、ということを日本人は知りません。

まず、プレスコードが決められ、放送する内容に検閲が入りました。
昭和20年の9月、朝日新聞に鳩山一郎の

「アメリカは原子爆弾を日本に落として酷いじゃないか」

という発言を報道したら、朝日新聞は48時間の発行停止処分を受けました。
朝日新聞はそのとき以来心を入れ替え、すっかりいい新聞になって現在に至ります(笑)


焚書も行われました。
戦前の日本には大航海時代から西欧諸国が世界のあちこちで残虐非道の限りを尽くした
というようなことを書いた本や、逆に日本が朝鮮や台湾、満州でどんなことを行ったか
ということについて書いた本が出版されていたんですが、こういった本が7000冊、
トラックでかき集められて燃やされました。

焚書は歴史の抹殺、検閲は言論弾圧です。

その上で昭和20年の12月8日から10日間にわたって、アメリカは
アメリカから見た一方的な歴史、「太平洋戦争史」を掲載しました。
そして10万部製本して日本全国にばらまいたんです。
平均すると各都道府県に2千万部ずつとなり、大変な数です。

これを基準にして歴史教育をやれ、というわけです。

そのときから日本は侵略国家だ、悪い国家だという歴史教育が始まりました。
そして日本は、今なおそのころからの国家観から抜け出せていないのです。



続く。



 


田母神俊雄氏講演より〜国際社会の”腹黒さ”に日本はどう立ち向かうか

2015-06-22 | 日本のこと

先日参加をお伝えした田母神氏講演の内容を聞き書きしました。
文章を起こすに当たっては、表現を分かりやすく変えたり、重複を避けて編集してあります。

本稿はあくまでも田母神氏の発言であり、わたし自身のものではないことをお断りするとともに、
もし、ご意見・反論などがあればぜひコメント欄で問題提起していただきたいと思います。

わたし自身気づかないでいる問題や、専門分野で判断のできない部分についても
同様、(特に軍事と経済)ご示唆をいただければ幸甚にたえません。


田母神俊雄氏講演 

「これでいいのか日本―誇り高き日本への道―」


■ 自分の国が”いい国だった”と言ったら公職追放になる国


ご紹介をいただきました危険人物の田母神でございます。

いぶん危ないやつだということでマスコミで叩かれるもんですから
おかげでこんなに背が小さくなってしまいました。

わたしは本当は「いい人」なんです。
空幕長の時に日本が大好きですから「日本はいい国だった」という論文を書いたところ、
当時の政権から(麻生政権)

「日本がいい国だったとは何事だ。
政府見解では日本はろくな国ではないないということになっている」

と言われてクビになりました。

だけどこれ、極めておかしなことだと思います。
自分の国を褒めて公職を追われるなんて国、世界中を捜しても日本以外ありません。

クビになって今年で7年目になるんですが、わたしは未だに防衛省から排除されたままなんです。
防衛省の式典にわたしは全く声がかからないのです。
最初は頭にきていたんですが、最近は「楽でいいわ」と考え方を変えました。
諦めてはいますがなんか寂しい気もします。
人生ちゅうのはなかなか思い通りにいかないもんですね。

わたしは統幕学校長だったころ、陸海空と学生が入ってくるんですが、
ほとんど全員が

「旧軍と自衛隊は違う。旧軍は悪い。でも自衛隊は違うんだ」

という意識を持っていました。
これではいかんということで、統幕長時代「国家観・歴史観」という講座を
5コマカリキュラムに入れたんですね。
亡くなった富士信夫さんなんかを呼んで講義をしてもらったりしたのです。

命を賭けて戦うというとき、心構えとして自分の国は素晴らしい国だと思わなければ、
ということで始めたことだったんですが、わたしがクビになった後は
「あれはおかしな講座だ」ということで廃止になったそうで残念です。

統幕学校長のとき、陸海空の学生20名を連れて中国を訪問したことがありました。
平成16年の6月のことです。
そのときに、日本でいうと統合幕僚の副長にあたる「ハン・チャンロン」 という中将が出てきて、
30分の面談を行ったんですが、彼は「ようこそいらっしゃいました」と一言挨拶した後、
すぐに

「過去の不愉快な歴史をどう認識するか」

という話を始めるのです。
彼は満州の生まれで、子供の頃から日本軍の残虐行為について聞かされて育ったので、
体に染み付いていて到底忘れることができない、から始まって日本の悪口ばかりいうんです。
10分くらい黙って聞いていましたが、同席の学生たちも面白くないんですね。
彼らはわたしが日頃「日本はいい国だ」ということを言っているのを知っているので、
どう反応するか見ているわけです。

それを感じて、わたしも勇気をもってしゃべらせてもらったんです。
中国軍に取り囲まれていて実は怖かったんですけどね。日本に帰れなくなるんじゃないかと。
でも、殺したいなら殺すがいいくらいの気持ちで、

「 日本軍が中国人に悪いことをしたとわたしは思ってません。
満州の人口は満州帝国ができた1932年には300万人でした。
それが1945年には5千万人を超えていたんです。
毎年100万人ずつ人が増えていった、これをあなたはどう理解しますか」

と聞きました。
あそこに行ったら残虐行為があるというところに人なんか集まってこないんです。
これだけ人口が増えたということは満州が豊かで治安も良かったからでしょうと。
そして

「中国は日本にだけ謝れというが、どうしてイギリスには言わないのか。
アヘン戦争であれだけいじめられたのだから、日本の10倍は謝らせないとおかしい。
日本にだけ謝らせるというのは中国の政治的理由があるのでしょう」

といったら、彼はびっくりした顔をしました。
それまで反論した日本人は一人もいなかったらしいですね。
それで日本人は絶対反論しないと思ってたらしいです。

しかしさすがは中国人ですね。即座に

「歴史認識を超えて軍の交流を進めよう」

ときました。(笑)
ただ、その後いじわるされました。
我々が到着したのは天安門の15周年だったのですが、中国側が主催してレセプションが開かれました。 
軍の恒例でその答礼として北京飯店で宴会を開いたのですが、これに来ないんですよ。
将軍も中将クラスも「急用ができた」といって来ず、渉外係の少佐しかいない。

翌月に予定していた中国の学校の統幕学校訪問も断ってきました。
わたしも悩むわけですね。わたし「いい人」ですから。
いやいや、いわなきゃよかったかなーと、小鳩のような胸を痛めていたんです。

それを伝えてくれた1佐がどうしましょう、というので、

「悪いけど東京にある中国大使館まで行ってきて、二度と来るなって言ってこい」

と言いました。
でも、直前になってやっぱり来たんですよ。
で、一言言ってやろうと思って、

「あんまり大人気ないことやらないでください」

と言ったら、あれこれ言うので、わたしも言いたいことを言って帰しました。
そうしたら次の年統幕学校の中国訪問を受け入れないってことになり、
1年間交流が途絶えてしまいました。

まわりはでも、

「よく言った。皆心で思っていても言えなかった。たいしたもんだ」 

という雰囲気でした。
ところが同じ意味の論文を書いたらクビになりました(笑)

でも中国の国防大学には、どういうわけかわたしの訪問時の写真がずっと飾ってあったそうです。
おそらく危険人物だから気をつけろということだったのでしょう。


■ 日米安保で日本は守られるか

政治家の間にも歴史認識の問題は蔓延しています。
歴史認識はよその国では過去の問題ですが、日本では現在進行形の問題です。
現在の国会議員の半分がアメリカの押し付けた歴史観を未だに持っています。

歴史は戦勝国が作るんです。
戦争に負けた日本はアメリカの歴史観を押し付けられたのです。
先進的な民主国家アメリカ、極悪非道の独裁国家日本という風に。

日本は独立したからにはアメリカの歴史観からいい加減にはなれないと、
そのうち国は衰退していくと思います。
しかし戦後70年経つのに、未だに憲法問題でもめている。

安保法制だって、特別のことをやろうとしているのではないんです。
日本もよその国と同じように自衛隊が行動して、いざという時には国を守れる体制をつくろう、
とそれだけのことなのです。

しかし、日本のマスコミや野党、左巻きな人たちは

「戦争ができる国にするんですか」

という。
それに対しては

「戦争ができるようにする」

と答えるしかありません。
戦争ができる国の方が戦争に巻き込まれる可能性が低いんです。
福島瑞穂さんなんかその辺何にもわかってない。

集団的自衛権も、スイスみたいな国は別として、行使できないのは日本だけです。
他の国と同じにするだけなのに、特別のことをするようにマスコミも報じるんですね。

実際集団的自衛権が行使できないと、自衛隊が派遣される時困るんです。
インド洋でもイラクでも、自衛隊は他の国に対し

「俺がやられたら助けてね。でもあんたがやられても俺助けられないから」

ということになり、これは誰も一緒に行動してくれなくなります。
武人にとって臆病だとか卑怯者とか言われるのは最大の屈辱ですが、

「お前たちは臆病な卑怯者になれ」

といって日本政府は自衛隊を派遣している。
去年、集団的自衛権について、石破幹事長がこんなことを言いました。

「これはできる、これはできない、と公明党にわかるように明らかにするべき」

本当に馬鹿げています。
やればやるほど、

「日本はこうやれば集団的自衛権を行使できないんだ」

という手の内が他国に筒抜けになってしまうんです。
作戦計画の事前通知みたいなものですね。
密室でやるべきで公の場でやることじゃありませんし、
こんなことをやっている限り絶対戦には勝てませんよ。

こんなことが真面目に国会で話し合われること自体が異常なことだと思います。

 
自衛隊は戦略爆撃機や空母を持てません。
攻撃的兵器を持たされず、何かあったらアメリカに反撃してもらうというけれど、
日米安保って、イコール「自動参戦」ではないんです。

日本が攻撃を受けたらまずアメリカ大統領が日本を守ることを決定して
アメリカ軍にそれを命じなければならない。
しかし、大統領がいくら決めたとしても、大統領の結審の期間はたった2ヶ月、
2ヶ月経ったら議会が同意をしてくれなければ 大統領といえども軍を動かすことはできない。

アメリカの議会がそのとき日本を守るために戦争することを議決してくれますか? 
絶対にしてくれないでしょう。
アメリカの議員はどちらかといえば「反日」の議員が多いと言われています。


じゃ日本はどうすればいいのか。
自民党が昭和30年に結党した時、自分の国は自分で守る、ということを
同時に決めたはずなんですが、それはいまだに実現していない。
アメリカがこれからどうなっていくかもわかりません。国力はおそらく落ちていくでしょう。

しかし、いざ自衛隊に力をつけさせる、軍事力を増やそうとすると、
これをやらせないための情報戦が、世界から仕掛けられてくるわけです。

世界を見回しても、世界中の人たちが全員豊かに暮らすための富や資源はありません。
国際政治というのはその富と資源の「ぶん取り合戦」というのがその本質です。
よその国なんか知ったことじゃない、自分の国だけが豊かになればいいというのが
行動原理である、国際政治の現実です。

ところが、世界で唯一日本だけが、 

「日本列島は日本人だけのものではない」

などと自国の利益より世界のことを考える”立派な”総理大臣を輩出します。
鳩山さんにはまず、

「音羽御殿は鳩山家だけのものではない」

と言って自宅を開放して欲しいですね。
総理大臣時代もろくなことをしていませんが、やめてからも勝手に中国や韓国に行って
日本を売り渡すようなことばかりやっている。

鳩山さんの唯一の功績は、東大を出てもあんな馬鹿がいると世間に知らしめたことです。


■ 「信じるものは騙される」世界

戦前の世界は帝国主義で、強いものが弱いものを搾取する弱肉強食でした。
戦争をするのに理由はいらず、行って勝手に支配して搾取するのが当たり前だった。
しかし、日本が大東亜戦争を戦ったらそれがなくなり、人種平等という建前が初めて生まれ、
1948年、国際連合ができて「世界人権宣言」が出されました。

今は力で富や資源を奪えないから情報戦争を仕掛け、同意を得て合法的に搾取する時代です。
TPPなんかでも、アメリカは公正にこれを行うと考えている「信奉者」がいますが、
そんなことは決してありません。
アメリカが提案しているのは「アメリカが儲かるシステム」にすぎません。

わたしもかつてはアメリカを信奉していた時代がありました。
しかし、総務部長でオペレーションサイドにいたとき考えは変わりましたね。
米軍と仲良くしようという考えはことお金がからむとなかなか難しいものがあります。


航空自衛隊ではF-2を運用していますが、タイヤの問題が起こりました。
アメリカはMOUという軍同士の「了解覚え書き」が合意事項文書があるんですが、
この中に技術の派生・非派生という言い方があり、「派生」はアメリカが開発したもので、
「非派生」というのは日本独自の技術と言う意味です。
この言い方の逆はなく、まあ不平等条約なんですが、アメリカが教えてやるという態度ですね。

アメリカはF-2のタイヤが「派生」だと、つまりアメリカの技術を日本が改善したんだというんです。
その場合は、日本の会社は技術をアメリカの会社に無償でバックしなければいけないんです。
輸出のタイヤがどうなっていたかというと、試作品はフランスのミシュランでした。
サンプルはブリジストンとヨコハマタイヤです。
ブリジストンとヨコハマが作ったラジアルタイヤを、アメリカは「派生だ」と言うんですね。

「何を言っているんだ。日本のブリジストンとヨコハマが作ったんだ」

と言ったのですが、アメリカ側は

「MOUの定義によるとタイヤは派生である」

の一点張りです。
日本人なら相手が作ったものを俺が作ったなんて言いませんよね。
でもアメリカはごく普通にこういうことを言うんです。

わたしもアメリカがこういう勢いなのでつい、

「いいじゃないかアメリカがそう言っているなら派生でも」

といいましたら、ヨコハマゴムの人がそれじゃ困るといって、
こんな話を聞かせてくれました。

当時、世界のタイヤ業界の「ビッグ4」は、

1位 ミシュラン 2位 ブリジストン3位 ヨコハマタイヤ

そしてシェアー一桁でアメリカの

グッドイヤー

という会社だったんです。
グッドイヤーは、当時バーストしたり燃えたりという事故が多かったんですが、
アメリカは日本側に「派生だ」と認めるサインをさせて、
ブリジストンとヨコハマの技術をタダでグッドイヤーに提供させるために
ガンガン圧力をかけていたというわけです。

アメリカ人は一人一人は陽気でいい人たちなんですが、
一度「国を背負って交渉する」となると、本当に狡くて汚いです。


これだけじゃありません。
JKFというデータリンクシステムがあるんですが、政府間でしか売らないものです。
データリンクの端末がイージス艦にクラス2のものが導入され、
7年遅れて航空自衛隊のペトリオットシステムにデータ端末が入るという(クラスM)ことになりました。

防衛省はこれを買うためにアメリカ大使館を通じてこの値段を聞くんですね。
1個1億3000万という答えが返ってきました。
それで予算を組んで、翌年になって、予算をつけて買おうとしたら、今度は2億5千万だという。
ペーパーでやりとりしていたのでその紙を突きつけて交渉しろといったんですけど、
3ヶ月経っても色んな値上がりの理由をいうばっかりで全くらちがあかないんです。

そのころ、向こうの軍の高官がわたしのところに表敬訪問にやってきたので、
こんなことがあるが知っているかと言って、彼もその場で
そんなことは信義に悖ると意見が一致したんですが、彼がアメリカに帰って1週間で

値段が元に戻ったんです。

あれっていったいどういうカラクリだったんでしょうね。
例えばアメリカの将軍が民間に天下るから1年目の給料を日本に払わせろ、
みたいな話だったんじゃないかとわたしは思ってます。

というわけでわたしは国のために、一個につき1億2千万円も節約したんだから、
2千万円くらいくれと言いたいですね(笑)


わたしはアメリカ別に嫌いではありませんし仲良くするべきとは思いますが、
こういうことがあって信奉者などではなくなりました。
なにしろあの国には騙されないようにしなければなりません。
世界においては

「信じるものは騙される」

が基本ですよ。

アメリカの本音は日本に武器はもたせたくないわけです。
しかし独立国だから持つなとは言えない。
そこでどうするかというと、まず、ミサイルの脅威を煽るんです。
もっと日本はミサイル防衛を固めなければならない、と。

今現在の自衛隊は「守りに編した」軍事力です。
守りに偏するというのは攻撃のための武力を持つことは予算的に難しくなる。

現在北朝鮮のミサイルを撃墜する体制は、海上自衛隊のイージス艦が搭載しているSM3、
これで日本の空は「薄く」覆われています。
この上で東京とか大阪の大都市は、空自のPAC3で二重に守られています。
そこに集中すれば10のミサイルくらいは撃ち落とすことができるでしょう。

もし100発撃たれたらもちろん何発かは入ってきますが、そんな可能性はまずない。

日本では年間7000人が交通事故で死亡するのですが、北朝鮮のミサイルに当たって死ぬ確率は
交通事故に遭う確率の100分の1くらいなんで、よっぽど運が悪いと言う計算になります。

それより、

「一発撃ってみろ、そしたらその5倍10倍撃ち返してやれるぞ」

と言えるだけの備えを持っていることが抑止力だと思うんですね。

日本は海自など、アメリカのシステムを使っています。
これは「アメリカと手を切ることができない」ということでもあります。
システムというのは今ソフトウェアで中身が見えないだけに、余計そうなります。

自衛隊はアメリカの友軍として行動するときには相当強い軍だと思います。
しかしアメリカと袂を分かって行動するときにはそうではないというのが現実です。
アメリカはこれを狙ってやっています。


F-35戦闘機を日本に売っておけば日本はアメリカから決して自立できない。
F-4ファントムもそうですが、こういう買い方をしている限り。

軍の自立は国家の自立と同義です。
軍が自立していないのに国家が自立できるわけがありません。
そのためには兵器の国産化を進めていくべきだと思います。

日本もそろそろ戦闘機の開発を進めていかないと、技術者が胡散霧消して
第二次世界大戦が終わったときと同じような状態になっていまいます。
いま三菱重工がMRJという中型の旅客機を作っていますが、三菱重工は
戦闘機の技術者をMRJのためにかろうじて確保しているんです。

この技術者が流出しないためには5年以内に日本が国産戦闘機の開発に
入ってくれないといけない、といわれています。
「心神」という戦闘機を、なんとか早くそういう段階に進めてほしいですね。

(註: 現在米国はあの手この手で戦闘機の共同開­発を持ちかけていますが、
それも日本の技術力を恐れているからに他ならないとわたしは思います)

兵器が作れないと、日本はサウジアラビアやクウェートみたいな国になってしまいます。
日本の原発技術は世界一なんですが、もし原発廃止とでもいうことになると、
当然原発技術者がいなくなります。
いま、原子力工学に進む優秀な学生が大学でも減っているそうです。
国の方針というものは影響がこれほど多いんですが、早く戦闘機も
国産にするという道筋をつけてほしいんですけど、アメリカの本音はこれを日本にやらせたくない。

それに、外国製の武器を使う限り最高性能のものは絶対に入ってきません。
兵器輸出の絶対原則で、

自分の国と同じ性能を持ったものは決してよその国に売らない」

というのがあります。
ソフトウェアで2ランク3ランク落としたものを輸出するんです。
航空自衛隊と米軍はどちらもF-15を使ってますが、アメリカの方が性能がいいんです。
アメリカが能力向上してから、日本に古い形を輸出してるんですから。

それはアメリカに限ったことではなく、世界中がそうやっているんです。

インド軍の人物と話したとき、インド軍はスホーイを輸入してるんですが、
うちのスホーイは中国軍のより性能がいいと自慢していたので、
ロシア空軍の参謀に会う機会があったときに本当かと聞いてみると、

「当たり前だ。国境を挟んでいる国にいい武器を売るわけがない」

といっていました。
 

国際社会は善悪で動くのではなく、利益で動くんです。

例えば北方領土の一括返還をアメリカとドイツが支持しているんですが、
日本人は人がいいから両国が日本の味方であるかのように考えてしまいます。

ロシアは国後択捉を返すとずっと遠回りしなくてはいけない。
だから一括返還を求められても物理的に難しいということなんですが、
ロシアが一部返還して日本と仲良くなるのは、アメリカとドイツにとって困るのです。
つまり、一括返還しか選択肢がないとなると、ロシアが日本に北方領土を返還する日は
決してやってこないわけで、それは同時に

日本とロシアは永久に和解しない

ということを意味するのです。
アメリカとドイツはそのために一括返還を支持しているとも考えられます。
日本に味方するふりをしていますが、自国の利益のことしか考えていないんです。


日本人というのはこういう腹黒さを国民性としてもたないのですが、
国家指導者には是非こういう狡さを持っていてほしいですね。 

 
 (後半に続く)


 


田母神俊雄氏のこと

2015-06-21 | 日本のこと

先日ブログ内でちらっと触れた「防衛部長就任」の件ですが、
これが脳内組織の脳内役職ではなかったという証拠をお見せしましょう。



どや。

国防問題担当部長。地球防衛協会日本支部顧問。

これは、すでに顧問となっている組織とは別の団体であるため、
わたしは二つの団体で「顧問」と呼ばれるところの人間になったわけです。
そうなって改めて「顧問」という役職の胡散臭さ汎用性を実感するわけですが、
それはともかく。


先日、国某協会の主催による田母神俊雄氏の講演会を聴いてきました。
当協会による田母神氏の講演会昨年秋にも一度予定されたのですが、
同氏が都知事選に出馬することが決まって中止になったため、その代わりに
この日行われたという事情のようです。

ところで今度田母神さんの講演聞きに行くんですよ、と防衛関係団体の出席者に言うと、
皆どういうわけか

「ああ〜、田母神さんね〜」

みたいな反応をするんですね。
どうも政治資金の問題について言っているみたいなんですが、

「ワキが甘いよね」

とか、ひどい人になると

「有名になってお金に目が眩んだんじゃないですか」

なんて(繰り返しますが国防団体ですよ)言ったりするわけです。
政治資金の問題って、田母神さんが着服でもしたんだっけ?と違和感を覚えて
調べてみると、なんのことはない、支持者からの寄付などで集めた政治資金を、
会計責任者の50代男性が私的に流用していたので、田母神サイドは横領罪で
この人物を訴えているだけではないですか。

ただ、さらに調べるとお金を巡ってチャンネル桜の水島氏と対立しているという
ドロドロした話もあるそうです。

それでなくても、

「自衛隊に田母神を支持する人間はいない」

なんて説が実しやかに流布されたりして、なんとなく、

「わたしは田母神俊雄を全面支持しているわけではない」

みたいな風潮が保守と言われたい人の中にもあったりするのかなという気がしました。

出る杭は打たれるという諺どおり、氏のアグレッシブな言論(わたしはそうとも思いませんが)
が、中庸をともすれば良しとする多くの日本人にこういう見方をさせるのかもしれません。



わたし自身は、氏が航空幕僚長を罷免されるきっかけになった論文と、
willなどの寄稿、
インタビューを読んだくらいで、実際に講演を聞いたことはありませんでしたから、

虚心坦懐に「田母神イズム」に触れることのできるこの機会に大変期待をしていました。

当日の講演会の内容については、別にエントリを製作してお伝えするつもりですので、
田母神氏についてよくご存じない方は、とりあえず政治資金や水島氏との諍いについては脇に置いて、
それを読んでから評価していただきたいのですが、
とりあえず感想を言うと、
メモを取り講演を聞きながらも、そして書き起こすために
1時間半のちょうどのスピーチを再生したときも、
その意見においては、
わたしが常日頃ここで言っていることと方向性は同じであって、
あたかもわたしの中の小さいおじさんが田母神氏の姿を借りて、
わたしの思っていることを語ってくれているかのように、全く違和感を感じませんでした。

さらに氏のスピーチは、その片言隻句に至るまで、人脈と経歴を生かしたあらゆる方面からの
「裏付け」が取られていて、
それが「仕事」とはいえ、数字も人名も年号もメモ無しで、
「田母神節」といわれる、時々ベタなおじさんギャグを交えながら人を引き込んでいく講話は、
もう既に「話芸」の域に入っていると感じました。


普通のスピーカーなら決してしないだろうなと思われる、考えようによっては
人を怒らせそうな(男に愛されたことのない女が男と全く同じ待遇を要求するものだとか)
本音をガンガン言ってしまうあたりも、思想に関係なく「敵を作る」要素でもあるんでしょうけど。


さて、講演会の後、会場となったホテルのティールームで講師を囲む会が開かれ、
なんとなく申し込んでいたわたしもそこに行きますと、すでに田母神氏は席についており、
その向かいに旧知の元海幕長と元陸幕長が座っています。
お二人にご挨拶をしてからテーブルの一番端っこに座ろうとしたら、元海幕長が

「こっちこっち」

と手招きして、田母神氏の隣に座るように促されました。
つまり、こういう構図です。

元空幕長 ◯|   |◯ 元陸幕長
      |   |
わたし  ◯|   |◯ 元海幕長

うーん、なんたるパワーピラミッド。
一隅だけにブラックホールが生じておる。 


とはいえ、その後元空幕長と並んで写真を撮り名刺を交換したがる方が相次ぎ、
わたしはもっぱら向かいの元海幕長に

「こんなにいろんな所に出没してて、お家の方は大丈夫ですか」

なんてからかわれつつ(もしかして本気で?) 、田母神さんと写真を撮ろうとするおばちゃんに
あんた邪魔、とばかりに黙って体を押しのけられたりしてたのですが、(−_−#)
それもひとしきりすんで、ようやく田母神さんがこちらを向いてくださったので名刺交換をしました。



「僕の名刺です」と渡されたのが一部で有名な田母神さんの「僕乃名刺」。
裏には、丸文字フォントで

お互いもっと仲良くなったら詳細お知らせするね ウッフ
                        ↑
                       注目

いやそこは「ウフッ(はーと)」だろう。
わざわざ初対面の人間のウケをねらうためにこのおっさんは・・・orz

田母神氏は席についたらついたで、わたしに向かって、


「あなたもバストいくつですか?なんて失礼なことを聞かれたら”二つです”と答えなさい」

などと、ハイテンションな(ただし聞かされたほうはテンションだだ下がり)
おやぢギャグを繰り広げるおじさんでした。

しかしそこで気をとり直してまともな方の名刺を見ると、その肩書きは、


「元航空幕僚長」 (Former Chief of Air Staff, JAPAN)

となっているんですね。
氏が講演の中で、「防衛省から正式な儀式に呼ばれることがないのは寂しい」
と言っておられたのを思い出しました。
そういえば田母神氏に現在役職はなく、あくまでも「元航空幕僚長」という肩書きで、
空自時代の経歴をバイオグラフィにも事細かに載せておられます。




隣に座っていたからといって人気者のカリスマを独り占めにできるわけもなく、
次から次へと人がやってきて質問したり写真を撮ったり話しかけたり、
というわけで、わたしはもっぱら元陸幕長と例の防衛省設置法改正のことを話したり、
元陸幕長の刮目すべき防衛論(いつも目からうろこです。ここでは書けませんが)を
拝聴していたのですが、海幕長には気になっていたことを質問させていただきました。

「この間のお話によると、海自始め自衛隊は、日米同盟の深化を第一義にしているし、
日本の平和が9条ではなく日米安保によって保たれてきたというのが現実ですが、
その一方で田母神さんのような考え(アメリカの手を借りず日本を自分の手で守る)も

保守的には決して否定されていませんね」

これに対して、

現状として日米同盟が正式に機能しているうちは自衛隊はそれを第一義にするしかない

というのが元海幕長のお答えだったようにわたしは解釈しました。
自衛隊は「シビリアンスプレマシー」によって命に従う機関であるというのが全てです。


わたしは昔、憲法改正について何日間かに亘って意見を述べたときに

「いずれは米国と幸福な離婚をして日本を自分たちで守らなくてはいけない日が来る」

と書いたことがあります。
田母神さんによると、アメリカの国力、並びに影響力がだんだん落ちているというのも
いつまでもアメリカに守られる日本でいいのか?という懸念の一つですが、
わたしはもう一つの理由として、アメリカのダイバーシティに起因する懸念もあると思います。


つまり、今アメリカでは白人が減り、中国系とヒスパニック系が増加しているのですが、
ヒスパニック系ならともかく、もし中華系がアメリカ大統領になる日が来たら・・・?
そしてこれは実現性が薄いとはいえ、万が一朝鮮系が大統領になったら・・?

そのときに日本が、国防を今のような形でアメリカに押さえつけられ、依存したままだったら、
いったいどんなことが起こるか、考えただけでもゾッとしませんか?

しかし、日米の軍連携には、アメリカの軍需産業のあまりにも深い介入があるようですので、
有利な条件で武器を買ってくれる(しかも交渉抜きで)ありがたいお客様を逃すことになる事態だけは、
アメリカの産業界がどんな手を使っても阻止してくるだろうという気もします。



      
前回の反省から一応配慮して、目元を隠した元陸幕長と元海幕長のツーショット 。
ちなみに冒頭の写真は畏れ多くも元海幕長に撮ってもらいました。
 
ところで、田母神さんほどの有名人となると毀誉褒貶相半ばは避けられないことですし、
「金に目が眩んで」などの無責任な(多分詳細を知らずに言っている)批判も
反対勢力が便乗することで、より一層悪意をもって広められるでしょう。
人格批判もそうですし、わたしはさる筋から「女癖が悪い」と聞いたことすらあります。

そういう問題ほど検証することなく世間は簡単に受け入れてしまいがちですが、
わたしは改めてご本人のブログを訪問し、こんな記述を見つけました。
抜粋するとこんな感じです。


妻との関係が上手く行かず自衛隊在職時代から退官したら離婚するという意志を固めていた
 
自衛隊を退官してから後、妻とは別居していた

その後現在交際している女性と知合い、結婚を申し込んだ

妻が離婚調停には応じてくれないので、裁判で現在係争中


妻の生活の面倒は見ているし、離婚後も相応の負担には応じるつもりだ

そして、最後に、こう書いているのですが、

週刊誌などでも何度か面白おかしく報道されましたが、
現在交際中の女性が私にとっては一番大事です。
彼女を守らなければいけないと思い、今回私の思いを表明しておきます。
彼女に篭絡されたなどという事は全くありません。結婚は私のほうからお願いをしたのです。
そして彼女は私のために待ってくれています。彼女には大変迷惑をかけて本当に申し訳ないと思っています。


なんというか、驚くほど不器用で無防備な人だなあという印象を持ちました。
こういう人を一言で「女癖が悪い」と決めつける世間の評価というのは一体なんなんだろうと。
こんな愚直なくらいの正直な人は政治家には向いていないのではと、心配になったくらいです。

田母神氏は、わたしが

「新党を結成するおつもりはないのですか」

と(実はこのときあまり田母神氏の政治活動への動きを知らずにいた)いうと、

「やろうにも金がないんですよ」

とおっしゃっていましたが、参院選に出馬する意思は固められているようです。
ワキが甘いといえば、例えば自衛官時代、

「どこまで制服組の発言が許容されるかのパイオニアになろうと瀬踏みしている印象があった」

というくらい積極的に個人的な持論や主張を発言するような人物であったことも、
老獪さを備えていなければたちまち潰される政治の世界では、「ある程度までは」懸念材料となります。
ある程度、というのは実績をあげ、動かぬ地位を手にいれることですが、
そうはさせまじとマスコミや野党が鵜の目鷹の目で足下を掬ってくるでしょうし、日本が

「日本は侵略国ではない」

という論文を書いた幕僚長をクビにするような国であった(ある?)ことも事実です。
安倍政権になって変わってきていると信じたいですが、政治は理想だけでは動くものではありません。
正しいことだから言った、では通らないことがあまりにも多い世界に、
田母神氏はあえて自分の理想と信念と直情を武器に斬り込んで行こうとしているのです。

わたしは田母神氏個人の”信奉者”というわけではありませんでしたが、
今回講演を聞き、日頃わたしが考えていることと方向性は同じであることを確認しました。

そして思ったのは、田母神氏自身がいつもいうように、田母神氏”程度”の保守が
「危険人物」となってしまう日本という国の現状は、明らかにおかしいということです。


ここで三島由紀夫の名前を出すのも、ご本人には縁起が悪いと怒られてしまいそうですが、
三島があの事件を起こしたのは、日本という国への強い警告と、その現状に楔を打ちこむためでした。
そして、そのために行動を起こす舞台に選んだのは「自衛隊」でした。
三島は、国防と国体は一元的なものであるとし、国体を変えるために国防にも変われと訴えたのです。

自衛隊の長としての側から国防に携わり、国防を知り抜いた田母神氏の政界への進出は、
はたして日本への「楔」となりうるでしょうか。 

わたしは少なくとも、田母神氏のような人物を、政治家の一人として
迎え入れることができる日本であってほしいと思います。




「宗谷」~海の守り神

2015-06-20 | 博物館・資料館・テーマパーク

見学している時には海軍時代の、それこそ修羅の戦場を
何度も奇跡的に潜り抜けたという彼女の「凄さ」をまだ知らなかったため、
それほどの感慨はなかったのですが、前回のエントリのためにその艦歴を調べて、
「宗谷」が恐るべき強運艦であったことを知り、今更ながらに感激しています。


もちろんこの神がかり的な強運の陰には、「宗谷」と行動を共にしていて戦没していった
数多の艦があったのも事実で、いわば彼女は僚艦によって生かされたのでした。


こんなに幸運なのだったら、例えば海自の派遣部隊などは、任務の無事を祈って

その運にあやかるために「宗谷」詣でを計画してみればどうかと思うくらいですが、
「宗谷」は戦後から海保の所有になり、現在でも海保に船籍があります。

つまりまだ「生きていて」、月に一度は海保の特殊救難隊の救助訓練が行われているため、
昔帝国海軍の船だったと言っても、海自とは”無関係”という立場です。 

余談ですが、海保と海自はその成り立ちから(戦後海保が先にできたのに、後から
公職追放の解けた旧軍軍人を集めて作った海上警備隊と一緒に防衛庁の下部組織に
入ることになったので、海保は猛烈に反対してそのとき独立したまま現在に至る) 
あまり仲が良くなかったという話があります。

しかし今はそんなことを言っている場合ではなく、実際に不審船の追跡の際、
連携の悪さから追跡に
失敗するという事件があってからは、
情報交換・共有の仕組みの検討、共同での対処訓練の実施が行われるようになっています。

陸海で仲が悪く、一層戦況を悪くしたあの失敗を二度と繰り返してはなりません(笑)



砕氷船時代に使われていたらしい浮き輪とv(^_^v)♪ブイ。



前甲板には護衛艦とは全く用途の異なる装備が見られます。
ほとんどがロープを巻き取るキャプスタンばかりのように見えますが、
確かめようにもこの部分は立ち入り禁止になっていて近くに行けませんでした。



これもロープを巻き取るものの形をしています。

(お節介船屋さん解説)
ウインドラス(Windlass)型揚錨機、
商船ほぼこの横置きで左右にロープ巻き取り装置がついています。
一台で左右の錨、錨鎖を切り替えて、揚錨、索取を実施します。

商船は接岸する反対舷の錨を接岸する前に投錨し、
接岸、出港時、錨鎖を巻き取り離岸しますので、良く使用します。





一つ上の写真にも見られるのと同じ形の装備が左右に一つづつあります。
ここであらためて「宗谷」の砕氷艦時代のスペックを当たってみたのですが、
なんと

武器:40mm単装機関砲×1、20mm単装機関砲×1

を搭載していることがわかりました。
まさかこれがその機関砲・・・・ではなさそうですが・・。


(お節介船屋さん解説)
荷役用デリックの索用ウィンドラスです。

商船タイプは甲板スペースがあり、衝撃に耐える必要もないのでほぼ横置き、
軍艦は甲板スペースがあまりなく、駆動装置は甲板の下へ置き、衝撃等にも強くしてあります。



それにしても、南極観測船に武器が備わっていたのか!

巨大生物系に襲われた場合を仮定して?と思ったら、これ海賊対策らしいですね。
こんなに武器を搭載したらオーバーキル、じゃなくて過剰防備なんて言われなかったのか。

ちなみに海自の「しらせ」には船の設備としての武器はありませんが、
やはり海賊対策として小銃と拳銃を搭載しているそうです。



前甲板から見上げた艦橋と操舵室。

海軍の「宗谷」から復員船に転用されたあと、彼女には一度廃船の危機がありました。
海軍の艦船として酷使され、戦地で傷も負い、船体や機関部に傷みを生じていましたし、
海軍艦時代に艦本式ボイラーに換装していたため、商船として復帰するには無理と判断され、

もう少しでスクラップの運命だったのです。

しかし、そのときちょうど、海上保安庁が、灯台補給船を探していました。

「おいら岬の~灯台も~り~は~♪」

という歌がありましたが、昔は灯台は人力による管理で、海の安全を
この灯台守(海上保安庁灯台部)が家族と一緒に灯台に住み込んで守っていました。
灯台というのはたいてい汽車はもちろん道路もないような僻地にあるもので、
船による灯台守家族のための補給がたいへん重要な海保の任務となっていたのです。

しかも、灯台は全国津々浦々にあり、北の果ての灯台に物資を送るには
氷を割っていかねばならないことも多々あるわけです。
そこで白羽の矢が立ったのが、海軍の砕氷船だった「大迫」(おほどまり)でした。

(おほどまり)

日本で初めて作られ、海軍が唯一擁していた砕氷艦ですが、
肝心の砕氷能力があまり優秀でなかったうえ、輸送任務で28年間フルに稼働はしていた彼女は
老朽化が激しかったこともあって、代わりに「宗谷」がこの任務に指名されたのです。

「大泊」は終戦と同時に除籍となり、4年後に解体されて生涯を終えました。




おそらく今年始めまでかけて改装を施したのは上甲板構造物だったのでしょう。
この部分だけ大変塗装が新しくなっていました。

現在の「宗谷」には、海保の所属を意味するこのコンパスマークが

フェンネルにつけられていますが、このマークが初めてここに付けられたのが、
の「灯台補給船」時代なのです。

「おいら岬の灯台守は」の歌がヒットした映画「喜びも悲しみも幾年月」は、
高峰秀子佐田啓二の主演による灯台守夫婦の、戦前から戦後25年間を描いた話ですが、
この映画にはかつて灯台補給船だった「宗谷」の、「灯台の白姫」と呼ばれた
真っ白な姿が映像に留められているそうです。


このとき、「宗谷」は竣工から20年を迎えようとしていました。
かつては戦場を駆け回り、時には敵潜水艦に反撃したりした日々も過去。

今や「宗谷」は燃料、食料や日用品、ときには子供たちへのおもちゃを、
首を長くして待ち続ける灯台守の家族たちにとって

「海のサンタクロース」

と呼ばれ、愛される第三の人生を余生として、静かにその生涯を終えようと・・・


していたのですが、そうや問屋が卸さなかったのです。




しかしその話はまた後日、ってことで、とりあえず艦内写真の続きです。
これは甲板下の階のための明かり窓でしょうか。



なにかボイラーのようなものとその蓋にも見えます。

いかなる衝撃を受けたのか、向こうの取手?の金属がぐにゃりと曲がっていて、
「宗谷」の長い歴史のうちいつ何が起こってこうなったのかなどと考えます。


ポールの先に鳥が停まらないようになっている掲揚棹には
見たことのない旗が掲揚されていますが、船の科学館の旗でしょうか。

海上保安庁の任務を彼女が終え、解任式を行ったとき、ここからは海保の旗が降納されました。

竣工から40年以上が経過した1978年7月3日、解役が決まった彼女は、
最後の任務として、海上保安学校学生の実習を兼ね、全国14の港を巡る
「サヨナラ航海」を実施し各港で、お別れを兼ねた見学会を行って回りました。


(これから解役式を迎える”宗谷”) 

このときに訪れた舞鶴港では、海上自衛隊舞鶴音楽隊がファンファーレで迎えています。

青森港では、大湊地方隊のヘリコプターが飛来して、宗谷の飛行甲板に大湊総監

「同じ海上に勤務する者として、
輝かしい宗谷の栄光と歴代乗組員の努力に最大の敬意を表します」


というメッセージが投下していきました。
一日船長の春日八郎が「さよなら宗谷」を歌い、岸壁では陸上自衛隊第九音楽隊が

太平洋行進曲を←注目

演奏しています。

 


保存先が船の科学館に決まり、稚内港を出港する「宗谷」は、
「UW1(ご安航を)」の国際信号旗掲げ、「蛍の光」「錨を上げて」の演奏に見送られて、
長年の母港だった函館をあとにしたのでした。

 

そして1978年(昭和53年)10月2日、竹芝桟橋にて解役式を迎え退役します。
この解役式でも海上自衛隊音楽隊が国歌を演奏し、
国旗、海上保安庁旗、長官旗がおろされ、「宗谷」は巡視船としての任務を終えたのです。

下線を引いて注目してみたのは、セレモニーの要所要所で海上自衛隊が協力していることで、
これはとりもなおさず、「宗谷」がかつて海軍の艦船であったということからでしょう。



おりしもお台場から見える海を一隻の警視庁の船が通りかかりました。




写真をアップしてみると、「ひので」という巡視艇(パトボート?)でした。
中には帽子でそうと分かる警察官らしい人影が見えます。
こうやって警察が海の安全も守ってくれているんですね。
 

守る、といえば「宗谷」は、海軍艦船時代、数々の修羅場をくぐり抜けて無事でした。

稀代の幸運艦であった「雪風」とはもちろん戦歴も全く違いますから比較にはなりませんが、
それでも、あの戦争中幾度となく敵と遭遇し、戦闘を行ってなおかつ無事だった貨物船は「宗谷」だけです。


(復員船時代の宗谷)


戦後になって、復員輸送の任務にあたっては、触雷で沈没した復員船もあった中、

「宗谷」は全く無傷で約1万9千人の復員を行いました。

ソ連の侵攻後、ソ連兵の略奪、暴行に遭い、彼らから逃れて
命からがら乗り込んできたものの、
憔悴しきっていた人々の何人かが、輸送中の船上で亡くなっています。


「宗谷」では後にも先にも、このときだけ海葬が行われ、遺体が甲板から海中に落とされました。


そしてその後、彼女は前述の灯台補給船として、灯台守家族たちの命と生活を守る役目に就き、
巡視船になってからは
海難救助出動は350件以上、救助した船125隻。
このときに救助した人数は1000名以上に上ります。


巡視船になってからの宗谷は「海の守り神」という異名を取っていたそうですが、
彼女がその生涯で救ってきた命の総数は直接間接的にあまりに多く、数字で表せるものではありません。



続く。 









東京駅前ホテル(仮名)でプレジデント気分

2015-06-19 | お出かけ

TOがスパ&ジムの会員になっている東京駅前ホテル(仮名)は、会員特典として
更新すればホテル宿泊がプレゼントしてもらえます。
いつもこの時期にこの駅前ホテル(仮名)に泊まった報告をするのはそのためで、
実はわたしたち、このホテルにちゃんとお金を払って泊まったことはほとんどありません。

いつも渡米前にちょっとした都会のリゾートを楽しむためにこの会員特典を享受するのですが、
今年はポイントがたまっていて、

「普通の部屋に2泊するか、プレジデンシャルスイートに一泊するか」

という選択を迫られました。

「プレジデンシャルスイートってどんな部屋?」

「VIP用の会議室にもなるテーブルがついてる広い部屋」

「いや、わたしたち三人家族で会議室必要?」

「そうだよねー。普通の部屋2泊でいいよね」

と相談し、そのように申し込みました。
そして当日。



どおおおお~~ん(効果音)

ふおおお、プレジデンシャルスイートだー!

このホテルは「普通の部屋」といっても広く、普通のシティホテルのスイートくらいあるのですが、
その中でVIP用の最大級の広さを持つ部屋が空いていたので(そりゃ空いてると思うけど)
駅前ホテル様(仮名)のご好意で、2階級特進のグレードアップをしていただいたのです。

「こっ、これは・・・」



広くて向こうのものに手が届かないテーブル、その気になれば三人寝られるソファ。



そして、デスクの横にはファクシミリと、卓上にはセロテープやハサミ、付箋の入ったお道具箱。
大統領が付箋を貼ったりセロテープで何か貼るというのは想像できませんが、
それはともかく、向こうには会議用の8人掛けのガラスの長テーブルが!

TOはこの日、ホテルで仕事関係の人と会う予定になっていたので、

「部屋で会議したら?」

というと、いや、ここには人は呼べない、と申します。

「だって、こんなとんでもない部屋、なんか変な勘違いされそうだし・・・」

ごもっともです。 



テーブルの奥にはプライベートルームが。
ただしベッドは広いとはいえ一つだけ。



三人家族のうちはどうしたらいいのかというと、一人がこの会議テーブルの横に
とってつけたように置かれたロールアウェイのベッドで寝ることになります。

こういうとき、だれよりも早起きで、他の二人がグースカ寝ていても起き出し、
マイペースでゴソゴソするわたしがここに配置されるのでした




お風呂のスペースだけでもうちの寝室より広かったり(笑)
ちなみにここはガラスで囲まれていて下には東京駅と丸の内を一望できるのですが、
シアーカーテンは開かないようになっていました。

お調子者がお風呂ではしゃいで向かいのビルから丸見え、ということでもあったのかもしれません。
わたしは電気を消して外の明かりだけで湯船に浸かってみましたが、なかなかよろしかったです。

ただしこの浴槽、体躯の小さな日本人が体を伸ばすと、つるつると足の方に向かって
滑っていくため、何度も顔まで水没しかけるというはなはだ不具合な仕様でした。

プレジデントにこんな危険な浴槽を使わせるというのは如何なものか。



このスペースは四方八方に鏡があって、合わせ鏡で全てを点検することはできますが、
どういうわけか全身が映る鏡はこの広いスペースのどこにもありませんでした。



そして、「プレジデントのためのスイート」だなあと感心したのが、この妙な部屋の装飾。
だいたいホテルの飾りというものは、特に昨今、持てるものはなんでも取って帰る、
という習性を持つ中国人観光客に対応して、がっつりと糊付けして固定してあるのですが、
この焼き物は不安定なコンソールにただ置いてあるだけ。



「中国人なら持って帰りそう」

「さすがにここに泊まる中国人はそんなことしないんじゃない?」

「そう思うでしょう。どんな富豪でも取れるものは取らずにいられない、それが中国人なの」

「しかしこの部屋は素性がホテルにはっきりとわかっている人しか泊まれないからねえ」

と、中国人が聞いたらさぞ怒りそうな失礼な会話をしていたのですが、
このあと、この部屋の正規料金がいくらなのか(二泊分で軽自動車が買える)知り、
もし万が一、中国人が本能に逆らえずこの妙なボトルを全部盗んで帰ったとしても、
部屋代さえちゃんと払って貰えば、ホテル側に全く損失はないと確信しました。

 

部屋に入った時、ウェルカムフルーツとともにハッピーバースデイと書かれた
ケーキと、従業員の寄せ書きしたカードがあったので、この駅前ホテル(仮名)が、
今回TOの誕生日のプレゼントとしてアップグレードしてくれたのだと知った次第です。



ケーキがあるからお茶でも入れましょう、とポットを探したのですが、
冷蔵庫の付近にも見当たりません。

「やっぱり大統領は自分でお湯沸かしたりしないから?」

と言いながら電話をしてホテルの人に聞くと、なんとドアの脇に隠し部屋があって、
ここにお茶を入れる道具があることが判明しました。
広すぎてここに部屋があるのすら気づきませんでした。

またそれからが一騒動で、ミルクフォーマーにお湯を入れて

「なんか全然熱くならないでお湯がぐるぐるまわってるんだけど~。
一杯分ずつしかお湯作れないし」

そこでまたホテルに電話してホテルの人を呼んだところ

「これはミルクを泡立てるものでございます。ポットは棚の中にございまして」

と呆れながらお茶をいれてくれました。
もうプレジデンシャルスイート、大変。そういう問題じゃないか。




東京駅前ホテル(仮名)ですので、眼下には東京駅が一望できます。
鉄男鉄子には垂涎のシチュエーション?

ここに来るようになって知ったことは、

「新幹線の天井はたいへん汚い」

ということです。



朝一番には各種新幹線が待機しているここならではの光景も見られます。



そして夜になりました。



ちなみに巨大な窓を全面的に覆うスクリーンが、ボタンを押すと降りてきて
カーテンを閉めた状態になります。



ご飯はどうするかという重要問題に関しては、

「せっかくこんないい部屋に泊まれたんだからできるだけ部屋にいたい」

ということで衆議一決したため、ルームサービスを頼みました。
普通の部屋だと持ってきたワゴンをそのままテーブル代わりにするものですが、
ここにはこんな立派なテーブルがあるのですから、ちゃんとディナーテーブルとして
活用しなければもったいない。

というわけで、こんな風にセッティングしてもらいました。



いい部屋にいても、することは

息子→ゲーム
TO→映画鑑賞
わたし→ブログのエントリ制作

と、家にいるのと全く同じことです。
めいめい好きなことをしながら、しょっちゅう会話もあったりして、
まあこれも団欒ってやつなのか、と思うわけですが、やっていることは一緒でも
プレジデンシャルスイートですると、妙に盛り上がり?この夜は夜更かしをしました。

いい部屋なので早く寝るともったいないからという説もあります←貧乏性

すると、終電になってから下の線路で 、



保線工事が始まりました。
たくさんの人が出て、車両も動き、なかなか大々的なものです。

日本の過密な鉄道で何の事故もなく、故障や不具合もないのが当たり前のように思っていますが、
こんな夜中に働く人たちのおかげで昼間電車がトラブルもなく運行できるのだなあ。



朝になってあらためて同じところを見たら、こんなでした。
結構昼間にも作業用の車両が置いてあるものだったのね。
一番向こうの山手線電車はもうすでにフル稼働しております。



お向かいには三菱系の某企業の入っているビルが。
この辺りは「三菱」王国なので、ビルのほとんどがそれ系です。
ちなみにここにはわたしの存じ上げている元自衛官がお勤めです。



朝ごはんは二人分だけ無料となります。
下の、メインダイニングに朝食を取りに行きました。
卵料理はオムレツをチョイス。
クロワッサンは流石にバターの量、食感共に完璧です。



席に通される時、アテンドの方が

「改装してメニューが変わってから朝食は初めてですか?」

と聞かれました。
これは以前はなかった「ジャムセット」で、リンゴはちゃんと蓋もついています。
ジャムといっても、ヨーグルトに合えるのに向いていました。

 

このあとわたしは所用があったので外に出ましたが、アフタヌーンティの内容も
改装後変わったというので、昼ごはん抜きで帰ってきてこちらにトライしました。

野菜と和牛バーガー、付け合せだけでわりとお腹いっぱいになったのですが、



お皿の上にはこんなものが・・・・。
こんな甘いものづくしは、わたしにとってちょっとした拷問だったりするのですが、
(最近甘すぎるものを食べるのが特に辛いんです)いくらスゥイーツ好きの女子でも、
こんなものは全部食べられないのでは?という気がします。

周りのテーブルでアフタヌーンティをしているのは息子とTO以外全員女性でしたが、(笑)
ざっと見たところ、若い女性はおしゃべりが目的なのか持て余しているのか、お皿は賑やかなまま。

アラフォー世代の二人組は遠慮なくがっつりと食べていましたが、三人組の若い子だと、
自分は食べたくても、牽制しあってお皿に手を出せない雰囲気があるんじゃないかと思いました。



スコーンとモンブラン以外は食べられなかったので部屋に届けてもらいました。



線路を挟んで向かいには昔の郵便局、今の「KITTE」があります。
いつ見てもこの屋上には人がたくさん出ています。
遠目に見てもいかにも中国人旅行者とわかる人たちも・・。



二日目の夕方となりました。
この時間、夕焼けの混じる空の色とほとんど全室点いたビルの灯りで、
東京は一種幻想的な美しさを見せます。



二日目のディナーも部屋でとりました。
ルームサービスは、レストランにはない手軽なメニューがあって量が調整できるからです。



スパゲティボロネーゼ。



バーニャ・カウダというのは、ポットで熱したアンチョビのソースに
野菜をつけながらいただくものですが、これはバーニャ・フレイダ。
アンチョビのソースが冷たいものをこういうようです。



TOは、キッズメニューのオムライスを無理言って作ってもらいました。
こんなことができるのもルームサービスならでは。
量的にも子供サイズで、これが良かったようです。



開けて次の日、新しい週の始まりで、東京は早朝から活気付き始めました。
駅から降りて丸の内の職場に向かう人々。



最後の朝ごはんもルームサービス。
ホワイトオムレツに付いているのはケチャップではなく「トマトのソース」です。
グラノーラに低脂肪ヨーグルト、ホワイトオムレツというこの取り合わせは、
健康メニュー(シニア向け)ということで、ソースもケチャップと違い全く甘くありません。



ニューについてきたのは雑穀入りトーストで、クロワッサンは息子のです。

ポイント消化とはいえ、こんな部屋に二泊させてもらった上、
3時まで延長で部屋を使わせてもらいました。
4時から近くで用事がはいっていたので、本当にありがたかったです。

東京駅前ホテル(仮名)のご好意で、我が家のホテル宿泊史に残る大グレードアップとなり、
心身ともに大統領気分を満喫しました。



大統領は部屋でブログの更新なんてしないぞ、って?







「宗谷」見学~稀代の幸運艦・特務艦「宗谷」

2015-06-17 | 軍艦

海保の南極観測船「宗谷」が見学できるのをご存知ですか?
お台場の「船の科学館」横の岸壁に係留されて、いつでも無料で中をみることができます。

このことを知ってから一度見てみたいと思っていたのですが、連休最後の日に、
たまたま近くの未来科学館でやっているイベントを見たがっていたTOと
意見の一致を見たので、行ってまいりました。



これがモノレール越しに見た「船の科学館」。
なぜこんな角度で撮っているかというと、見学の前、車をパーキングに駐めてから
ゆりかもめで一駅となりにあるホテルでお昼ご飯を食べたからです。

煙突に見立てた展望台が高すぎることを除けば、本当に大型客船のようです。 
しかし、現時点で(平成27年5月5日)本館は無期限閉館中。
別館でわずかながら展示も行われているのですが今回は立ち寄りませんでした。

この無期限閉館は2011年9月30日からのことで、建物が老朽化したためという説明ですが、
当時の民主党政権の仕分けで、予算が減らされたことが大きな理由であることは明白で、
閉館前に見られなかった残念さが、今更ながらこの政権への怒りとなって蘇ってきました(笑)

許さん蓮舫。

博物館の安い駐車場があるのに、気づかずに民間の高い駐車場に入れてしまった怒りが

さらにそれに拍車をかけました。
こちらは民主党には全く関係ありませんが。




「宗谷」は、正確には岸壁に横付けではなく、誰でも歩いていける通路を甲板に渡して、
バリアフリー状態で甲板レベルまでは見学できるようになっていました。
乗っていても全く波の動揺はなく、どうやら船底は海底に固定されているようです。

「不可能を可能にする・・・強運と奇跡の船”宗谷”」

という横断幕がかけられていますが、これは船舶振興委員会会長だった笹川良一
「宗谷」をここに展示することに決まった時に、彼女に捧げた言葉だそうです。



南極でのかつての「宗谷」の勇姿と、タロ・ジロの姿がありました。
みなさんもご存知ですね?樺太犬のタロとジロ。

わたしはこの手のものに本能的な胡散臭さを感じて、当時も映画は見ませんでしたが、
南極に放置した犬が1年後に2匹生きて見つかった、
という話は当時大きな話題として社会現象にまでなり、
それこそ今なら、
彼らに国民栄誉賞でも出されかねない空気だったのは覚えています。


国民栄誉賞が動物にも与えられるのかどうかは知りませんが。




「宗谷」の後方には水産庁の「白竜丸」が繋留されていました。
てっきりこれも博物館展示されているのだと思ったら、とんでもない(笑)

「白竜丸」の竣工は2014年10月31日。

つまりまだ半年も経っていないバリバリの新鋭艦だったのです

何をもってこの最新式設備を備えた水産庁の「漁業監視船」を、「宗谷」のような
退役した展示艦だと思い込んだのか自分でもわかりませんが、いやまあ、
船ってなんとなく遠目には新しいとか古いとかわからないじゃないですか?

え?そんなものはマストや通信設備を見れば一目でわかるって?

確かに写真を拡大してみれば、衛星通信アンテナなんかもありましたが(笑)
しろーとは真っ赤に錆びた錨くらいにしか目が行かないのよ。

「錨があんなに錆びてるんだからつまり古い船なんじゃない?」

「時間があったらあちらも見に行きたかったね~」

と関係者が聴いていたら噴飯ものの会話をしながら「宗谷」のデッキを渡りました。



驚くことに、「宗谷」の見学は無料です。
おそらく昔は「船の科学館」の観覧料に含まれていたのでしょうが、
今はこの船だけならただで見ることができるのです。
だから今はパンフレットすら配られていません。

入り口に立っていた係員が、よろしかったら寄付をお願いします、
とおっしゃるので箱の中に寸志を入れたところ、このようなカードをくれました。

しかし後からこれも知ったことですが、実はこの「宗谷」もつい最近、
今年の1月末くらいまではリニューアルのため閉館していたのだそうです。
老朽化が激しく(なにしろ艦体だけで言えば77歳ですから)、メンテナンスのため
募金を募ってようやく改装にこぎつけたばかりだったというわけです。


ところで、「ホーネット」について書いた時、

「日本には記念艦『三笠』以外に艦体が保存されていない」

のは戦争に負けたせいだ、と言ったことがありますが、厳密に言うと、
一応海の上で展示されている元「軍艦」があったんですね~。

それがこの「宗谷」だったのです。



ここお台場にある「宗谷」の艦体がこの世に生まれたのは1938(昭和13)年。
彼女はメイドインジャパンですが、最初の名前はロシア風の

「ボロチャエベツ(Волочаевец)」(正確にはヴァラチャーイェヴィェッツ)

でした。
当時、北満鉄道を日本がソ連から買収したとき、契約の一部としてソ連のために
対氷貨物船を3隻受注したのですが、そのうちの一隻がこれだったのです。

この写真は川南工業株式会社香焼島造船所で行われた進水式の時のものです。
しかし、戦争前夜の不穏な時期に契約破棄になったため、ボロチャエベツは

その名で呼ばれることのないうちに、

「自領丸」

と名前を変えて竣工しました。
つまり、ロシア文字のつけられていたのは進水式の時だけだったんですね。



試運転中の「自領丸」。

これは国際情勢というよりも、ロイドの公試試験の規格を満たさなかったという、
日本の造船業にとっては屈辱的な理由もあったようです。 


「自領丸」はソ連向けに造られ、耐氷能力と、当時としては珍しい最新鋭のイギリス製音響測探儀、
つまりソナーがが装備されていたため、海軍は大変興味を示していたのですが、

ソ連との契約がこじれてしまい、しばらく民間の貨物船として就役していました。

函館で蟹缶などの水産物を輸送する仕事をしていた
ころのことですが、
濃霧で寸分先も見えないという悪天候に見舞われたとき、
彼女はソナーで水深を確認しながらゆっくりと航行し、無事に帰港しています。


ソ連との契約問題が片付いた昭和15年、「自領丸」は海軍に晴れて購入され、その名も


「宗谷」

となって今日にまで至るのです。
海軍軍艦色の灰色塗装を艦体に施され、艦尾には 軍艦旗を掲揚した
「宗谷」の艦首には、8センチ高角砲が装備されました。
ちなみに、ソ連から受注して同時に生まれた姉妹艦二隻、天領丸、民領丸は、
どちらも陸軍に徴用されて工作船となっています。



「宗谷」は運送艦、英語で言うと「カーゴシップ」にカテゴライズされ、

これはもっぱら港や基地と基地の間での軍事物資、人員輸送を任務とした船です。
つまりそれまでの任務と同じことをやっていたわけで、「運送艦」だったのは
この「宗谷」一隻だけでした。

海軍籍になってから彼女は北洋での輸送兼測量任務のために艤装をあらため、

基準排水量 3,800トン

速力    12.1ノット

の軍艦として完成しました。



主に北洋での輸送に用いられ、開戦後は南洋、ラバウル、ソロモン方面での輸送、

測量任務に従事していました。

笹川良一が「宗谷」を「強運と奇跡の船」と呼んだのはだてではなかったのです。
まず、この時代に激戦地にあって何度も奇跡的な偶然によって命長らえました。

まず開戦後の1942年3月、ショートランドで測量中に水上機の襲撃を受けますが、
このときには駆逐艦が撃退して無事。
翌月も測量中に水上機に攻撃されますが、このときも無傷でした。

なぜか「宗谷」の行くところ、敵が手薄のため2度にわたる無血上陸の支援に成功していますし、
僚艦が潜水艦攻撃に遭って沈没されることはあっても「宗谷」だけは被害なし。

1943年の1月は、ブカで測量地図を作っているときに敵潜水艦に遭遇しました。

3本の魚雷を、鈍足の「宗谷」は身をよじるようにしてなんとか回避したのですが、
ついに4番目の1本が右舷後方に命中。
総員が覚悟を決めたのですが、幸い不発弾だったため爆発しませんでした。

「宗谷」乗員はその後、この魚雷を甲板にあげて皆で記念写真を撮っています。
戦地でこの余裕、実に男前です。



彼女は戦地に投入されることが予想されていたので、武器も搭載されました。


四〇口径三年式八糎高角砲1基、
九六式二十五粍高角機銃5挺、
九三式十三粍機銃3挺、
九二式七粍七機銃1挺、
落下傘付き爆雷10~20発、
三式一号電波探信儀三型



おお、高角砲などもいっちょまえに持っていたとは本格派。
ところでこの赤字で書いた「落下傘付き爆雷」ですがね。

「宗谷」には爆雷投射機が搭載されていませんでした。
しかし、対潜水艦対策として爆雷は積んでおり、いざ爆雷戦となったら潜水艦上海面に
突進し、しかるのち機雷班が爆雷を手動、いや脚動で蹴り入れたのでした(T_T)

投雷後一目散に現場から逃げるわけですが、鈍足ゆえ爆発に巻き込まれるので、
せめて爆雷に落下傘をつけ、逃げる時間を稼いでいたというわけです。

潜水艦にとっても逃げる時間があったということになる
がそれはいいのか。


その後も海上で翼を休めていた水上艇と遭遇して(水上機との遭遇率高すぎ)
撃ち合ったり、潜水艦「シードラゴン」からの攻撃を受けたりと、それなりに
修羅場を踏んでいるのにせいぜい測距儀が壊され、負傷者が出たという程度の被害で、
いずれも致命傷にはいたらず・・、

浅瀬に座礁して身動きが取れなくなっても次の日何事もなかったように浮いて離礁したり、
船団の中で唯一「宗谷」だけが無事だったり、横須賀の空襲で、「長門」はじめ
他の軍艦が大変な被害に遭っているのに「宗谷」だけが見向きもされなかったり・・。


これは「雪風」レベルの幸運度なんじゃないでしょうか。
幸運度だけでいうと、「宗谷」は戦後の第二第三の人生においても、

奇跡としか言いようのない偶然で喪失を逃れているわけです。

なんといっても、軍艦でありながら戦後経歴偽装、じゃなくて
色々と幸運が重なって民間船となったのが幸いして長らく現役で活躍し、
のみならず2015年の今日、
いまだその姿をこの世にとどめていることがなによりもその証です。



改装したばかりといいながら、いたるところ経年によるサビの浮いた艦体。
さあ、今からこの中へと入っていくことにしましょう。


続く。





 


地球防衛協会連合会(仮名)総会で衝撃(おまけ*防衛省設置法案成立)

2015-06-16 | 日本のこと

先日アップした国際情勢についての西原正氏の講演会は、
全国地球防衛協会連合会(仮名)の総会のときに行われました。
いまさら仮名にしても何にも意味がないような気がしますが、一応これも
検索をスルーするためのちょっとした工夫だと思っていただければ幸いです。

人物の名前を出さなかったり、仮称を使ったり、あるいは日にちをずらしたり、
こういったネット社会でのちょっとした身バレ防止のための努力というものを
当ブログでは怠らずやってきたつもりだったのですが、それがある方面に限り、
あまり意味を持っていなかった「らしい」ことが今回わかりました。

その話をする前に、総会当日のご報告から参ります。


 

講演会の後、開始時刻ちょうどに会場にはいったところ、聞いていたより規模の大きな
大宴会場での懇親会が始まろうとしていました。

中央にいるのは在日米海軍、空軍の制服を着たアメリカ人と、陸空海の自衛官。
海自の制服の後ろ姿は海幕長です。 



わたしの属する某地球防衛協会の会長代理の方が迎えに来てくれて、
決められたテーブルの周りにたどり着きました。(立食だけど一応テーブルが決まっている)

さっそく政治家の先生方のスピーチが始まります。



自民の木原稔代議士。
今確かめるためにツィッターを見たら、この人のツィートがなかなか。

二言目には「審議拒否!」…軽すぎる。
国会で質問することが国民の代表たる代議士の本懐ではないか。
気に入らないから審議を拒否するのではなく、昼夜を問わず審議を要求すべきではないか。

ごもっともです。民主党はそれしかできない政党。

いや、最近は国会で厚労委の委員長の首を絞めて怪我させ、それが
「委員長に飛びかかれ」と紙面で(しかも手書き)指示が出されていたそうなので、
自分たちの主張のためには(というか足を引っ張るためには)暴力も辞さない、という
クズ政党であることがまたしても明らかになったところですね。

丁寧に答弁すると「時間稼ぎだ」と言われ、簡潔に答弁すると「誠意が感じられない」と言われ…

お察しします。

確かにその通りですが、他に表現の仕方があるだろうに。
「女性と黒人 出馬を表明 米大統領選、共和党」琉球新報 5月5日 朝刊

(しょせん)琉球新聞ですから・・。



またしても遭遇、佐藤正久議員。
このとき近くにいた方が

「佐藤議員は滑舌が少し悪いのが残念だ」

とおっしゃったのですが、わたしはこの時、初めて国会に登壇した時と比べると
別人のように演説がなめらかで明瞭にになっている、と、

ちょうど考えていたところだったので、その旨弁護しました。



地球防衛協会の一番偉い人。
後で名刺交換させていただきました。


ところで、佐藤議員が興奮した口調で報告したことがあります。
この日付けで、国会では「防衛省設置法」改正案が成立したのでした。


法案の内容の一番大きな「目玉」は、内局の所掌事務規定の見直し、
そして、制服組と背広組の関係の見直しということになろうかと思います。

わたしはこの次の日、ある海将と会談したのですが、そのときにこの法案について
伺ったところ、部隊運用に関する業務の統幕への一元化がなったことによって、

「つまり話が早くなる」

と一言で明快に説明してくださいました。
しかし案の定、マスコミの論調は一貫して

「文民統制の終わり」=「制服組の暴走」

とどぎつい言い換えを行っては不安を煽っているものばかり。



確信犯なのか故意犯かはわかりませんが、マスコミの論調は(野党はそれに追随)、
「文民統制」と「文官統制」を意図的に混同させているものばかりです。 


はっきりさせておきますが、この法律はマスコミがミスリードしているように
「文民統制」を廃止するものではありません。
本来の「文民統制」とは、国民から選挙によって選ばれた政治家たる防衛大臣が、
 制服組、背広組すべてを統制するというもので、改正後も
最高指揮官が政治家であることで、文民統制は生きております。

それでは「文民」と「文官」の違いとは何でしょうか。


「文民」=政治家
「文官」=防衛省背広組

と考えていただければいいかと思います。 

そもそも日本で戦後、警察予備隊創設を主導した占領軍総司令部民政局別室(略称:CASA)
の意向であった「シビリアン・スプレマシィ」(文民優位)を、まず二世通訳
(今、日系二世について調べてますが、やはり彼らの語学能力には限界があった模様)が
「文官優位」または「文官統制」と誤訳したことが、今日までの錯誤の原因となりました。

それに加えて、当時の内務官僚の、

「軍人はほうっておくと何をするかわからないので、しっかり押さえつけねばならん」

という考えによって、誤訳が意図的に放置され、かつ悪用されてきたという見方があるそうです。

たとえば自衛官の処遇改善の一環として、
統幕長を認証官に据える」という自民案を
佐藤議員らは進めていますが、これに待ったをかけているのが背広組であって、
その根底には「制服組が自分たちの上に立つのが面白くない」という内局の本音があります。

 

それでは法改正後はどうなるか簡単に言うと、「軍事」に関する補佐は各幕僚長が、
「政策」的補佐を内局官僚が、それぞれ専門的見地から行うことになります。

今までは、事務次官の裁量次第では防衛大臣の命令がトップダウンにならなかったり、
現場に知悉した制服組の情報でも、それが背広組の意向に反するものなら、
報告さえ上がらないという弊害があったのですが、制服と背広を対等の関係にすることで
その無駄がカットされる(話が早くなる)というだけのことなのです。

 とにかくマスコミはどういうわけかこれを「文民統制の弱体化」と位置づけ、
「文官統制」と「文民統制」は全く別物なのに、皆これをあえて混同して語り、
いたずらに「軍靴の足音」がががが、とミスリードして国民の不安を煽っているだけに見えます。

じゃー聞きますが、あなたがたのいう「文民統制の弱体化」って具体的になんですか?


そもそも文民が統制しているから戦争にならない、なんてのはわたしに言わせれば幻想ですね。

暴走した文民(政治家)が戦争をおっぱじめ、いわゆる「暴力装置」である軍隊は、プロフェッショナルとして
それに従って戦っただけという例はいくらでもあるではないですか。(湾岸戦争とかね)
もしそうなったとき、(つまり文民が戦争を始めたとき)文民統制は何の意味を持ちますか?


つまり何が言いたいかというと、今回の法案では「文民統制」を廃止したわけでもなんでもないし、
そもそも「文民統制が戦争を防ぐ」=「その弱体化が戦争につながる」というロジック自体、
全くデタラメなのです。



 

ところでこのテーマは、佐藤議員が、その当選直後から、防衛関係議員(石破大臣、浜田大臣、中谷大臣)
らと共に、防衛省改革の一環として推進してきたものでした。

民主党政権時に反故にされ、
民主党政権時に反故にされ、
民主党政権時に反故にされ、

ようやく法改正に至ったのがこの日だったということなのです。
この日の佐藤議員の感慨深そうな面持ちも当然のことと言えましょう。

佐藤議員は、自身のブログで

今回の法改正で、初めてわが国の防衛体制において、
健全な「シビリアン・コントロール(文民統制)」が顕現されることとなる。

と語っています。

文官統制が廃止されることで健全な文民統制が可能になる。

この猿にでもわかる簡単な理屈を理解しているらしい(つまりちゃんと報道している)のは、
わたしの見た媒体では
産経新聞だけでした。





さて、設置法案の話はこのくらいにして。

この後歓談に移る前に、会場に来ていた招待者が名前を呼ばれました。

自衛隊関係は将官以上、議員の代理人(宇土議員の奥様もおられ、ご挨拶させていただきました)
などが呼ばれるとその場で手を上げて「はい」と返事をします。
自衛官の挙手は全員「グー」であることもちゃんと確認しました。

アメリカ海軍、空軍の軍人さんがきておりましたが、空軍さんの方が
呼ばれたときすらすらっと

「よろしくおねがいします~」

と全然訛らない発音で言ったので会場はどよめいておりました(笑)
日本勤務が長い方なんですかね。


そして歓談タイム。
今回初めて海幕長にご挨拶させていただきました。
わたしの存じ上げている元海将と同期でいらっしゃるので、話題として

「元海将がMAST Asiaで講演をなさっていたそうですが後で知って残念でした」

というと

「僕のも聞いてくれなかったんですね・・・いや、聞かない方がいいです」

なんと、海将も同日講演されていたのです。
そしてこのとき、元海将が

Military Statemen Forum 

で渡米されているということを伺ったのでした。 
海将は海自のトップの方々に不思議と共通する、どちらかというと学者的なタイプで、
物腰柔らか、ソフトな声音が、元海将から伺っていた

「江田島時代当時の校長の部屋で、フォートナムメイソンの紅茶とフルーツケーキを二人でご馳走になった」

という逸話になぜか深く頷いてしまう知的で上品な雰囲気の方でした。


さて、本題です(笑)

この後、わたしは地球防衛協会の会長代理に連れられて、旧知の元陸幕長と、
先日水交会で初めてお会いした軍医殿、じゃなくて中央病院の副院長にご挨拶に行きました。 
ここで驚天動地の出来事が起こったのでございます。

元陸幕長はわたしを見るなり、こうおっしゃるではありませんか。

「あなた海軍にくわしいんだってねえ。ブログに出てましたって教えられたよ。
ネービーブルーとかいう」

orz <・・・・・・・・・。

わたしの脳裏には「どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして」
だけがぐるぐると渦巻き、次の瞬間、以下のことに思い当たりました。

当ブログを見た関係者(多分自衛隊の中の人)、かつわたし個人を知っていて、
(どこかで名刺交換した?) ブログと実在のわたしを結びつけられる人がこの世に存在する。

それが一体どういう人物なのか思いを巡らす間も無く、わたしは気付きました。

隣の軍医中将じゃなくて海将も、気のせいか「何か知っておられる風」な表情をされていることに。

わたしはもしかしたら、自衛隊という組織をあなどっていたかもしれん。
確かに、テーマを自衛隊について特化して書いているブログについては、
自衛隊の「そういう部隊」(どんな部隊だ)が
リスト化しているらしい、という噂について、昔軽~く

「こんな話があるけど、当ブログもそのリストに入ってるといいな

みたいなことを書いたことはあります。

しかしまさか元陸幕長ご本人が
こんなブログ見るわけないよね~と思っていたため、
写真をアップするわ、
陸幕長の現役時代の話で漫画を作成するわとやりたい放題やってしまっていました。
幸い元陸幕長は「まだ読んでない」とおっしゃってましたが、
これは何としてでも「読まないでください」というべきだったかもしれません。

この期に及んで元陸幕長だけでなく、各方面に何か失礼なことは書いてなかっただろうかと、
その日は眠れなかった、小心者のわたしでございました。



それにしても、自衛隊の情報収集力&伝達力おそるべし。 




「(たおさ)の船」~ペルシャ湾掃海部隊派遣隊員家族のための小冊子より

2015-06-15 | 自衛隊

ペルシャ湾への掃海派遣については、戦後初めての海外派遣となったため、
自衛隊にはあらゆる面で初めての試みとしての気遣いが求められました。
国民にその活動を正しく報道してもらうために報道関係に関してもそうでしたし、 
何より、現地に家族を送り出すことになる派遣部隊家族への広報は大事でした。

派遣部隊の隊長は以前にも何度かここで書いているように、沖縄戦における
海軍陸戦隊の司令であった太田實海軍中将の息子であった落合(たおさ)1佐の名をとった

「TAOSA TIMES」

という隊内新聞で、活動報告ならびに隊員からのメッセージを海上自衛隊新聞や朝雲新聞など、
関係紙に投稿したり、留守家族に対してビデオや写真集などの配布を欠かさず行い、
さらに地方総監部による現状説明会や親睦会などを通じて、遺漏のない連携を図りました。

その一環として、海幕は、防衛課が中心となって隊員家族のためにパンフレットを作りました。
新人記者の夏子が、父との対話によって国際貢献の意味を模索するという

「夏子の冒険」

そして、掃海部隊司令官である落合一佐の人となりについて紹介する小冊子、

「落合」

です。




自衛隊の歴史にとって大きなマイルストーンともなる海外派遣に、

どんな指揮官を立てるかということは大きな問題でした。
ことがことだけに、当初海将補がその任を負うのが適当、という意見も中から出ました。

海部内閣はそのとき、まだ最終的な派遣の決定を決議していませんでしたが、
地方選挙が喫緊に控えていたため、事態は全くとどまったまま、自衛隊は準備だけを進めていました。
選挙後に派遣が決定されるとしても、それから現地に向かった場合、すでに動き始めているはずの
米独英伊各海軍の活動に、大きく遅れをとることが予想されたのです。

通常、作戦は安全な海域からまず取り掛かるものなので、海上自衛隊が遅れて到着する頃には、
もっとも困難な海域が残っているだけ、という可能性もでてきました。
もしそうなった場合、先行している他国の軍の海軍大佐、あるいは中佐クラスの指揮官と連携、
悪くすれば(?)実質、指導のもとに作戦を遂行することになってしまうのです。

海上自衛隊が『装備は三流だが人は一流』なのは自他共に認めるところでしたが、
であらばこそ、こうした事態が予想される作戦に海将補を出すのは恥であり、
また不必要だという意見が通りました。

海上幕僚長はまた、この時の選定において問われたとき、

「人を選ぶ必要はない、安定した艇とエンジンに留意を」

と回答したということです。
また、

掃海艇の健康診断(水中放射雑音・磁気特性など)は、性能に劣る点はあっても
機密保持のため、ペルシャ湾進出後も自前で行い、決して他国海軍で行わないこと

米海軍との連携は、イラクの使用したイタリア製の「マンタ機雷」に対して
ヘリコプターによる掃海が必要となってくるので大変重要である

などが内内で取り決められたりしました。



海将補では他国海軍との釣り合いが取れず1佐を隊長にすることになりましたが、

厳しい条件下で、安全に、かつ確実に任務を遂行するためには、
指揮官には優れた判断力と統率力が要求されます。

このような重責を任すに足ると海自が判断した落合1佐とは、どんな人物だったのか。

どんな隊長が掃海部隊を率いているかは、掃海派遣に我が子や夫を送り出す家族にとって
何よりの関心事であり、求められる情報です。
家族のために作られたパンフレットの内容はどんなものだったのでしょうか。


「大田中将(当時少将)は、海軍における陸戦の第一人者であった。」

この一文で始まるパンフレットは、あの

「沖縄県民斯ク戦へリ、県民ニ対シ後世格別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

という最後の中将の言葉を引用してその功績と人物を語ったのち、

「沖縄県民の間には、大田少将の名を知らないものはなく、また、
軍に反感を持つ人々の間でも大田少将だけは特別だ、とする人が多い」

とその段を締めくくっています。
次の段の、落合1佐に対する部分は、これをそのまま掲載しましょう。
同じことの繰り返されている部分、その他煩雑な表現はこちらの判断で省略、訂正してあります。



落合1等海佐は、海軍中将太田實の三男として昭和14年、横須賀に生まれた。

大田家は、4男7女の大家族であり、三男「」は9番目の子供であった。(中略)

落合家の養子となったは、高校を卒業すると、
防衛大学校に第7期生として入校し、その後、海上自衛隊に進んだ。

当時の彼の人物評は、

「一見してみるとどこにでもいるような青年で、凄まじい迫力を
感じさせることもなかったし、
また話し上手で人を笑わせたりするようなこともなかった。

しかし、温厚・誠実で多くを語らなくても人を惹きつける何かを持っている青年であった」

という。


2等海尉になって間もなく、第101掃海艇所属の掃海艇第5号の艇長となった。
大きさ僅か50トンの浅海面専用の小型掃海艇で、「小掃」とか、
口が悪い連中は
「毛じらみ艦隊」と呼ぶようなものであるが、しかし、
小さいとはいえ当時は同期のみならず、
先輩、後輩からも羨ましがられたという。


他方、彼だからできるという信頼感もあり、人事に口を挟むものはいなかった。
このころからすでに彼は、周囲の信頼を勝ち取っていくのである。


彼は、5号艇長としての職務をよく果たした。
若干27歳の彼よりも年上の部下も多かったが、彼は決して艇長という役職を振りかざして
仕事をしたことはなかったし、決して部下を怒鳴りつけることもなかった。
かといって部下は彼を軽く見ていたわけではなく、訓練を重ね、
彼の人格に接するに従って、彼に心服していった。


掃海艇が荒天に揉まれ、いつ転覆するともわからないときでも、
彼は常にその温和な顔を崩さなかった。
そんな顔が乗員達を落ち着かせ、安心させた。

「どんなに危険なことがあっても、この人が艇長なら絶対に安心だ」

という確信を皆が持つようになったのである。

一方、この時期はかれにとって、人格だけでなく掃海のプロとしての腕を磨く絶好の時期でもあった。

「掃海はいつも命がけだ。そこには戦時も平時もない。生きるも死ぬも我々の腕次第だ」


普段温厚な彼も、こと掃海のこととなると、徹底して厳しかった。


は、これ以降、掃海艇「いぶき」艦長、機雷敷設艦「そうや」敷設長などを歴任し、
「掃海のことならなんでも俺に聞け」という自信を持つようになった。
その自信の裏には、厳しい訓練で身に付けた技量と経験があったことは言うまでもない。


このように順調に進んでいった彼の人生にも、やがて大きな壁が立ちはだかることになる。
それは父の巡り合わせとでも言おうか、まったくの偶然であろうか、
彼の父、太田中将が玉砕した沖縄に彼が着任したときのことだった。




昭和47年5月15日、沖縄が米国から返還され、防衛庁はその年に
那覇防衛施設局と沖縄地方連絡部を置き、自衛隊の開隊の準備を進めることになった。


同年7月、1等海尉落合は、沖縄地方連絡部に着任した。


地方連絡部とは、地元住民の中から自衛隊員を募集することを主な役割としているが、
他方、地域社会と自衛隊を結びつけるパイプ役をも務める。
特に沖縄のように、新たに自衛隊を開設する際には、地域社会との関係が重要であり、
その意味で地方連絡部の役割は極めて大きい。


しかしながら、先に述べた通り、沖縄住員の軍に対する反感は根強いものがあり、
自衛隊の開設に反対して連日連夜デモや抗議行動が続いた。

特に地方連絡部では、周りをデモ隊に囲まれ、日常の業務など全くできない状況にあった。

落合はこの状況を見て愕然とした。
今まで、制服を着て街を歩き「税金泥棒!」と言われたこともあった。
しかし、それとこれとは全く次元が異なっているのである。
沖縄県民の「軍」に対する感情は人に聞いただけでは理解できないとよく言われるが、
まさに彼はそれを痛感したのであった。

「自衛隊反対!」」「即刻沖縄から出て行け!」「軍国主義反対!」

と凄まじいばかりのシュプレヒコールを連日聞き、さすがの彼も心底から疲れ果てた。
これが父が戦った沖縄なのか?父が命をもかけて守ろうとした沖縄なのか?

は、いろいろと住民との対話を試みたが、まともな話ができる状態ではなかった。
しかし、このようなことがあっても、は決して沖縄住民を恨まなかった。
そして、自分の無力さを痛感し、絶望感に苛まれて、ある日、父の元に出かけていった。
父のもととは太田中将が自刃した小緑の海軍壕である。


月の綺麗な夜であったという。

は、壕の前に一人座り、父と酒を汲み言葉を交わした。
も父の血を受け継いでか、酒は相当いける。
奇妙なことに親子で呑むのは今夜が初めてであった。
しみじみと呑み、時には悲しみがこみ上げてきて号泣した。
が父に何を問い、何を話したかは定かではない。
父との対話は一晩中続いた。

その姿を見ていた者がいた。
彼は沖縄のある地方新聞社の記者だった。

「あ、あなた、ここで一体何をしているんですか?」

「父と酒を呑み交わしているんです」

彼は、自分が太田中将の息子であること、地連に着任したことを淡々と語った。
翌日、地方新聞に海軍壕での落合1尉の記事が載った。
その後、信じられないことが起こったのである。

太田中将の息子が地連にいるとわかって以来、デモ隊は、地連前でのデモを行わなくなった。
沖縄全体から自衛隊反対のデモが消えたわけではなかったが、地連の前だけはなくなったのである。

その後も、住民との話し合いで行き詰まったような場合、彼が出て行くことによって、
大方の問題は解決することができるようになった。


このことは落合1尉自身が、父の偉大さを初めて知るきっかけにもなった。

しかし、彼が太田中将の息子であるということだけだったら、こうはならなかったであろう。
彼は自分から出自を明らかにすることはなかったし、沖縄でどんな苦境に立たされても、
父の威光でそれを解決しようとしたことはなかった。


海軍壕で記者が感動したのも、彼の私心のない心と、人を惹きつける魅力にだった。

彼はたしかに父、太田中将の人格と「無私の心」を受け継いでいる。
しかし、彼はそれだけではなく自衛隊での様々な経験を通し、太田中将の息子ではなく、
海上自衛官「落合」として大きく成長したのである。


大田中将を父に持ち、父の守った沖縄で大いなる貢献をした彼は

今回、わが国初の海外派遣部隊の指揮官に選ばれた。


「の船」はいつも和気あいあいで、しかも活力に満ちていた。

事実、彼の部下だった多くの乗員が、

「あの人の下でならどんな苦労も苦にならなかった」

という。
そしてペルシャ湾での掃海には、まさにこの「の船」の雰囲気が必要なのである。

掃海には多くの危険が伴うことから、特に指揮官には掃海に対する深い知識や
経験に何事も動じない肝っ玉が必要であり、彼がそれを備えているのはもちろんであるが、
何ヶ月もかかる派遣に乗員が堪え、立派に任務を遂行するためには、
何よりも乗員の士気を高めるための艦内の雰囲気が問われるのだ。

そのためにも、落合一佐はまさにうってつけの指揮官である。


彼なら必ずやる。彼なら、絶対に、任務を全うできる。
なぜなら、彼には人格と技術と、そして何よりも大事な「運」がついているのだから。

 完


ペルシャ湾の掃海部隊派遣からすでに22年が経過しました。
派遣の決定にあたっては案の定、野党左派その他有象無象の鬱陶しい横槍が入りましたが、
それが一旦「船出」したのち、世間の目も、マスコミの当初粗探しをするような調子も、
全てが変わっていき、何よりも国際社会の日本に対する目は大きく変わりました。

掃海派遣は地域の安定化という命題と、日本の国益を守るためという副題の元に決定されましたが、
同時に最も重要なことは、それが日本の矜持を守るための戦いであったということであり、
掃海部隊はもとより、当時の海幕、自衛艦隊、各地方総監部など、
海上自衛隊全体が一丸となってその戦いに挑み、勝利を勝ち取ることができたということでしょう。


掃海部隊のことについては、いずれまたお話ししていきたいと思います。
 






沖縄県民斯ク戦ヘリ~太田實中将

2015-06-13 | 海軍人物伝

大東亜戦争で日本領土で地上戦が行われたのは唯一沖縄だけでした。

巨額の制作費を投じて世に出されたS・スピルバーグ制作の「ザ・パシフィック」は
その最終週近くに沖縄での地上戦がアメリカ側の視点から描かれます。

このブログでもかつて映画「ひめゆりの塔」を扱ったことがありますが、
犠牲になった女子学生に主眼を据えるなど、被害者の立場から語った日本映画はいくつかあり、
戦争映画に挿入されているものも含めれば、相当な数になるかもしれません。

しかし、アメリカ側から沖縄戦を描いたものはもしかしたら初めてかもしれません。
このテレビドラマシリーズは、元海兵隊員ユージーン・スレッジのノンフィクション、
「ペリリュー・沖縄戦記」を始め、実際にこれらの戦闘に参加した軍人の証言を
ドラマにしており、そのために大変リアリティのある描写が話題になりました。

そこにはヒーローはおらず、市井の善良な一市民が狂気の戦場で何を見、何をしたか、
淡々と事実が描かれるため、米兵が行っていた非人道的行為も糊塗することなく
そのまま平坦とも言える調子で映像化されています。
映像のあまりのリアリティに、わたしはこれをHuluで通して観たとき、
大画面で見なくてよかったと何度も思ったくらいです。


そして10シリーズの9番目が「沖縄」なのですが、ここで最も印象的だったのは、
乳飲み子を抱えた日本女性が、米兵に近づいていって自爆するという場面でした。
しかし、証言から取られたシーンが多いこの映画で、なぜかここだけ創作だそうです。

実際、民間人が軍役に就いている知人から手榴弾を入手するなどして自決したり、
本土決戦に備えて、少年兵に対戦車自爆攻撃の訓練を行ったという事実はありましたが、
女性や幼児による自爆攻撃は、米軍側の資料を含め、史実に残されていません。

しかし、捕虜にしようとした日本兵が米兵を道連れに自爆したり、米兵が民間人

(映画では少年だったが原作では老婆だそうです)を撃ち殺したり、ということは
度々起こったことであり、穿った考え方をすると「
子連れの女性が自爆」という創作は、

「であるから、米側としては、民間人であっても殺すしかなかった」

というマイルドな言い訳として挿入されたという気がします。

それにしても、米軍が沖縄に侵攻してきたとき、覚悟の上で軍に献身的な協力をするも、
次々と斃れていった沖縄県民が、戦後、本土の犠牲となったことの怨みをアメリカではなく
「日本」と「軍」に持ち続けるのも
当事者であれば致し方ないこととも理解できます。

そんな沖縄県民ですが、彼らの怨みの対象はなぜか海軍にはないと言われます。
その理由というのが、この大田中将(最終)の最後にありました。






太田實少将は海軍兵学校41期。

同期には草鹿龍之介木村昌福(まさとみ)などがいるクラスなのですが、
このクラスの恩師の短剣4人には、現在名前を聞いてすぐにそうとわかる軍人は一人もいません。

一番「出世」した草鹿龍之介も118人中26番ですし、109番だった木村昌福、
そして64番だった太田が
後世に名を残しています。

また先日「ルーズベルトニ与ウル書」で取り上げた市丸利之助もこの学年で、
(彼の成績は22番と”比較的”上位ですが)
木村、市丸、そしてこの大田少将に通じるのは、
いずれもその評価が、ハンモックナンバーで自動的に出世した地位で為した功績でなく、
もっと深いところの、人格や将器から生まれてきた結果であったことに注目すべきでしょう。

超余談ですが、この学年の後ろから7番目のハンモックナンバーに「東郷二郎」という名前があります。
これがうわさの東郷元帥の息子か?と思ったのですが、そうではなく、東郷は東郷でも、
日清日露戦争で第6戦隊司令官だった東郷正路中将の息子でした。

アドミラルトーゴー平八郎さんの方の息子はその一学年上の40期ですが、これも今調べてみたところ、
後ろから数えたほうがずっと早い、144人中121位なんですね(T_T)
しかしまあ、全員が超優秀な集団であるわけですし、
ハンモックナンバーが下の方、
といっても本人の不名誉だとはわたしは全く思いません。


東郷元帥だってそもそも秀才というタイプではなかったわけですし、
現に後世に称えられる軍人はハンモックナンバーとは無関係なことが多いのは、

今説明した実例にもある通りです。


大田少将は昭和21年1月から沖縄方面根拠地司令となり、その3ヶ月後に始まった沖縄戦において
進退極まり、五名の幕僚とともに6月13日、
壕の中の司令官室で自決しました。

軍人として華々しい功績をあげたわけでない一司令官の名前が現在も忘れられておらず、
そして沖縄の人々が海軍に対する反感を持たなかった理由は、大田少将が自決寸前、
海軍次官宛に打った一通の電報が、沖縄県民の心情を代弁していたからに他なりません。

沖縄県民の奮闘と犠牲を称え、後世必ずそれに報いてやってほしい、と締めくくられた電報には、
沖縄戦において、彼らがいかに一丸となって
戦い、犠牲的精神を発揮して、
父祖伝来の土地を守ろうとしたかが、
簡潔な、しかし血を吐くような調子で述べられていました。

それは現代語訳にすると次のようなものです。


沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、

県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる

県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、
現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせする

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、
県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった
にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛招集に進んで応募した

残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、
しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、
軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、
辛うじて砲爆撃を避けつつも
風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、
砲弾運び、挺身切り込み隊にすら申し出る者までいる

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、
女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、
生きながらに離別を決意し、
娘を軍営の門のところに捨てる親もある

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした
頼れる者のない重傷者の看護を続けている
その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ
移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して
勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、
(一部に悪評が無いわけではないが、)
ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、
遂に(判読不能)与えることがないまま、
沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして
草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという
 



米軍上陸当時、沖縄戦に備えて配備されていた部隊は、


運天港と近武湾に配置された震洋隊や咬龍隊、
魚雷部隊などの海上攻撃部隊、
南西諸島航空隊、
第951航空隊沖縄派遣隊、
砲台部隊、迫撃砲部隊

などです。
大田少将が、そのなかで第一次上海事変や2.26事件にも参加した経歴を持ち、
海軍における陸戦の権威であったのは確かですが、この人事の陰には、
前任の司令官が艦艇出身で、陸戦の指揮能力を全く持たなかった、とう事情がありました。

米軍が読谷海岸に上陸した時、大田少将は沖縄本島で1万人を指揮していましたが、
そのうち陸戦隊として投入できる兵力はわずか600人ほどで、しかも赴任にあたって、
大田少将は比喩でもなんでもなく、

「武器がなく竹槍で戦わなくてはいけないらしい」

というようなことを家族に漏らすという有様でした。


第32軍は米軍の飛行場占領以来、防御基地に立てこもり、米軍に対して
多大な犠牲を強いていましたが、参謀本部から

持久戦を捨てて攻勢に出るように

という要求が相次ぎます。
この要請は、実は海軍の主張によるものだったということですが、
5月4日に行われた総攻撃は、米軍の強力な防御砲火によって失敗しました。

このことが関係しているのかどうかはわかりませんが、その後5月24日、
米軍の上陸によって陸軍が首里を撤退することに決めたとき、陸軍の第32軍は
海軍司令部を陸軍第32軍の作戦会議に
呼びませんでした。
そして直前になって
撤退命令を出したのですが、大田少将は敢然とこれを拒否しています。

当初軍司令部が首里撤退に当たってその援護を命じたとき、大田と司令部は
その命令を読み誤り、一旦完全撤退しながら後から復帰しており、
大田の拒否はこのときの齟齬からくる陸軍への拒否だという説もあります。
このとき、「撤退をお断りする」電報はこのような内容でした。

「海軍部隊が陸軍部隊と合流するということは本当にやむを得なかったわけで、
もとより小官の本意ではありません。
したがって南と北に別れてしまったと言えども、陸海軍協力一体の実情は
いささかも変わっていないのであります。
今後はそちらからの電文にしたがって益々臨機応変に持久戦を戦うつもりです」


この電文からはなんとも言えず、実は米軍に退路を断たれたため、

撤退することは敵わなかったから、という推測も成り立ちますし、これは個人的意見ですが、
もしかしたら、大田少将は、撤退によって沖縄県民に犠牲を強いる可能性を懸念したのかもしれません。

事実、陸軍が首里を捨てて島尻地区に撤退したことによって、そこに避難していた島民が

結果的に激しい地上戦に巻き込まれることになっています。



いずれにせよ、この電報を発した翌日、海軍司令部は米軍三個連隊に包囲され、

二日間の抵抗ののち、大田少将は牛島軍司令官に対して

「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり。
根拠地隊は今13日2330玉砕す」

と決別電報を打ち、司令部の壁に辞世の句、

大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり

と書き記し、海軍次官宛にあの電報、その最後に

「沖縄県民斯く戦ヘり 県民に対し後世特別の御高配賜わらんことを」

と記された後世への遺書を打電して自決して果てたのでした。



アメリカ公刊戦史に記された沖縄戦の記述はこのようなものだそうです。


小禄半島における十日間は、十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準以下でありながら、
いつかはきっと勝つという信念に燃え、地下の陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、
しかも米軍に最大の損害をあたえるためには喜んで死に就くという、日本兵の物語であった。

アメリカの沖縄戦を語る視線は、むしろ残酷にも思えるくらいの憐憫に満ちています。



大田少将の兵学校では卒業時の成績は、だいたいクラスの真ん中。
学年途中で病気をして一旦最下位になったからとはいえ、入学時の成績も120名中53番ですから、

団体があれば必ず一定数いる、

”どんな集団に組み入れられてもなぜかいつも中間地点にいるタイプ”

であったという気がします。


その人物像もも皆が口を揃えて、温厚で包容力に富み、小事に拘泥せず責任感が強かったと証言し、
いかなる状況に遭遇しても不満を漏らさず、他人を誹謗するようなことはなかったと言われます。

しかしその反面、家ではすべての事は妻に任せっきり、髭剃りすら寝たまま妻にやらせる亭主関白。
妻とはそういうものだと思って育った娘が、新婚の夫に同じことをしようとしたら、
婿殿は刃物を持って迫ってくる嫁に殺気を感じて飛び退いたという笑い話まであります。

「軍人の妻になったからには夫が一旦任務に就けば、家庭のことはすべて自分でやれ」

という考えのもとに、大田自身は、たとえ子供や妻本人が病気でも、一切手を貸しませんでした。



大田中将は子沢山で、男女合わせて11人の子供がいました。
その理由というのも、兵学校で一番後に結婚したと思ったら、もう一人未婚が残っていて、
さらに一番若い嫁(18歳)をもらったと思ったら、さらに若いのと結婚した同級生がいた為、

「何も一番になれないのは悔しいから、子供の数でクラス1になる!」

と妻に向かって宣言したからだそうです。

11人の子供たちへの教育方針は”海軍式(海兵式?)”。
大田家の朝は海軍体操に始まり、心身を徹底的に鍛えるという家訓のもと、
妻は夫のいない間も、毎日子供たちを連れて海に泳がせに行かねばなりませんでした。
父親である大田少将が子供たちを率いる時には、皆が見ているのも構わず、
砂浜で海軍式号令をかけて、海軍体操を始めるのが常でした。

そして、自分が胃腸を患ったせいで、つり革につかまるのはもちろん、
お釣りを受け取っても激怒されるという理不尽な潔癖性ぶりで子供たちを悩ませていました。



そんな父、大田中将が沖縄に出征が決まった時、本人はもちろん家族も、
それが今生の別れになると明確に理解していました。
別れの日、海軍の車が迎えに来ている辻まで出た大田家の者は、
最後に大田少将が白い手袋をして敬礼をしたまま、ゆっくりと一人一人の顔を
まぶたの裏に焼き付けようとでもするように見つめていたのを覚えています。

そのとき、男児の一人が、父親に向かって海軍式の敬礼を返しました。

大田少将の息子のうち、二人は戦後、海上自衛隊に入隊しました。
三男の落合(たおさ)(養子に行き苗字が変わった)は1991年、
自衛隊初の海外派遣任務となったペルシャ湾掃海派遣部隊を指揮して、
「湾岸の夜明け作戦」に参加しています。




家族への厳しくも愛のある接し方を見ると、「外柔内剛」という言葉が浮かぶのですが、
最後の「撤退お断り」はともかく、大田少将は陸軍とも協調できる人物でした。

しかし、5・15事件に始まる一連の軍人の反乱については、軍人は政治に関与しないという理念から
怒りすら抱いていたわけですから、ここ沖縄で、三月事件・十月事件の首班であった
長勇と協調して戦うということになったときには、さぞ複雑な思いを持ったと思われます。


ところで戦後沖縄県民が「海軍なら許す」という傾向だったのも、
沖縄における陸軍が、外敵と戦うのに必死なあまり、ともすれば沖縄県民に遺恨を残すような
「県民軽視」に走りがちだったのに対し、大田少将の遺書が軍の姿勢を批判する一言すら加えた、
県民の犠牲と努力に言及したものであったからに他なりません。

そこには「天皇陛下万歳」も「皇国の興廃」という言葉も・・、
軍人の遺書や最後の言葉に必ず見られる定型の文句が全くありませんでした。
当時の帝国軍人として、最後にこういう本音を、しかも海軍宛に打電するのは異例のことで、
このことだけをとっても、大田少将を勇気ある人と讃えるのにやぶさかではありません。

しかし、そこであえて規格外とも言える遺書を残した大田少将という人は、
同期で3ヶ月前硫黄島に死した市丸少将の言葉を借りれば、「干戈を生業とする武人として」
護るべきは「皇国」という抽象的な概念めいたものではなく、
そこに生きる国民であると明確に自覚していたのに違いありません。


大田少将始め、司令部が自決を遂げた壕から発見された軍艦旗には、
誰が記したのか、「沖縄の日没」という文字が墨で遺されていたということです。