ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「いずも」自衛艦旗授与式観覧記~防衛省代表・乗艦

2015-03-31 | 自衛隊

「いずも」引渡式はなんと式典開始5分で終了していたことに、
式次第を後から見て気がついたわたしです。


「引渡」というのは、造船会社から防衛省との間で引渡書と受領書が交わされ、
社旗が降下された時点で完了してしまうということなんですね。
というわけで、式典のほとんどが「自衛艦旗授与式」に含まれるということなのですが、
その自衛艦旗とともに乗員が全員(といっても式典要員のごく一部の隊員ですが)乗艦し、
最後にサイドパイプとともに艦長が乗艦するというところまで進みました。 




「いずも」艤装艦長並びに初代艦長、吉野淳一佐。



続いて「防衛省代表乗艦」です。
「ふゆづき」のときには1日違いで「すずつき」も就航したため、
そのどちらかに防衛大臣クラスが出席するとバランスが取れないということだったのか、
「ふゆづき」のほうには政務官が防衛省代表を務めましたが、今回は
ワンアンドオンリーの防衛大臣出席です。

先日コメント欄で「カレーがついた帽子をかぶっているのが4人もいて驚き」という
雷蔵さんのコメントを真に受けて、「(カレーのシミは)何かの見間違いでは」
などと天然ボケをかましてしまったエリス中尉でございましたが、それはともかく、
カレークラスが4名幹部として勤務するということそのものが、
「いずも」の陣容が「厚い」ことをあらわしているらしいこともわかりました。


この4人とは副長以下、

砲雷長、船務長、航海長、飛行長

ってことでいいですか?



というわけで「防衛省代表」として「いずも」に乗り込む中谷防衛大臣。
先導のために前を歩くのも海将で、後ろは海上幕僚長が付き添います。
防衛大臣旗を持って歩いてきた人はスロープの所で立ち止まり、 



舷門で外側に向かって旗を立てて待機です。
やっぱり護衛艦の中は狭くて、階段とか廊下とか大きな旗が移動するのは大変だから?



乗艦した乗組員たちは甲板整列して大臣乗艦をお待ち申し上げております。



大臣は実にラフな感じで談笑しつつ移動。
中で吉野艦長と合流したらしく、艦長が説明をしている模様。
武居海幕長は笑いを浮かべておられます。



この時にはいつの間にか社旗に変わって自衛隊旗が掲揚されていましたが、
どう見てもこれが「海将旗」にしか見えませんでした。
海幕長が乗るからには下に錨のついた”海上幕僚長旗”を揚げるものと思っていたので
あれ?と思った次第です。



そしてまず自衛艦旗が掲揚されます。
この瞬間、護衛艦「いずも」には魂が吹き込まれ、名実ともに彼女は自衛艦として船出をしたのでした。




自衛艦旗掲揚の間敬礼をしている海将たち。



モニターのスクリーンはは翩翻と翻る自衛艦旗を大きく映し出しました。



そして防衛大臣訓示。

日本は戦後70年の間平和国家として歩み続け、世界からの信頼を得てきたが、
しかし昨今の国際情勢は、今までのような消極的な防衛戦略が許されない状況であり、
いまこそ「積極的平和主義」を旗印にせねばならないこと、そして

この「いずも」の就役は、そのための歴史的な第一歩であり、また、
災害救助の場面でも国民のさらなる期待に応えるであろうこと、さらに国際的にも
これから日本に求められる役割はいっそう重要なものになるであろう。

これは何度かこのような自衛隊イベントに参加してきた者に言わせると、
安部総理が幾度となくこういう場で語ってきた政府方針そのままの内容でした。
そして、確かめてはいませんが、マスコミは案の定、この訓示内容を

「中国を牽制したものであった」

などと書くであろうことも容易に想像できました。
実際マスコミは、「牽制」というよりむしろ向こうの立場に立って

「刺激する(刺激したらどうするんだ・刺激するな)」

という論調でこれを論じたことは皆様も周知の通り。
もっというと、

「近隣諸国に日本を非難してほしい


というのが本音だったんじゃないですかね。



さて、防衛大臣はこのあと、艦内を視察に入ったわけですが、「ふゆづき」の時と違い、
何しろ大きな船なので時間がかかります。
そこで、立ったまま見ている出席者のために、正面のオーロラビジョンでは、
「いずも」の海上公試の記録を説明付きで少しだけ放映してくれました。

海上公試は、平成26年9月22日から27年の3月5日までの間に行われたそうです。




まずスペックから。
全長248m、ということは333mのジョージ・ワシントンより85mも小さいわけだ。
それをわざわざ「いずも」の半分ぐらいに見える大きさのGWを並べたイラストで

「いずもはこれほど大きいのだから、ほら、いつだって空母に早変わり!」

とかやっていたNHKっていったい。
ちなみにGWの333mは東京タワーの高さと全く同じです。
どれだけ大きいんだ。



まずは航空機移送試験。
つまり、初めて「いずも」の甲板にヘリコプターが着艦した瞬間です。

 

お次はそのヘリを昇降機、外付けの方の第一昇降機で降ろします。
ヘリパットの周りにはロープが張られていますね。
これ、SH-60のしっぽは完全に外に出ちゃってませんか?

っていうか、これに戦闘機載せるのは到底無理そうな・・・。

 

下の階の内部から取られた昇降機の下降の様子。



続いて艦橋脇の第二昇降機もテスト。
どう見てもSH60に特化して作ったサイズにしか見えません。
ローターとかもうギリギリですよね。




航空管制室からの指令も公試において初めてなされるということになります。
右の「手空き 手を振れ」は、ヘリコプターが公試を終えて去っていくので、

「手の空いている人はヘリコプターの人に手を振ってくださ~い」

といってる、ってことでおk?
(カレーの件みたいにこれもまたとんでもない間違いとかでなければいいな)



お次は武器の海上公試。
火を噴くファランクス。



チャフランチャーも。

 

こちらがSeaRAMですね。
R2D2みたいなのが付いていると皆同じに見えてしまうんですよわたし。



かっこいいい!

「いずも」のロゴマークはなんと一般公募されていたそうです。
真正な選考の結果決まったこのデザインは、

「いずも」という名前から受けるモチーフをわかりやすく表現しました。
“ヤマタノオロチ”を背景とし、そのヤマタノオロチを討伐した際に生み出されたとされる
“天叢雲剣(草薙の剣)”を中心に配置することによって、圧倒的な力を抑え込む
さらなる強力な存在というイメージで表現しました。
また隠し要素として円形としたヤマタノオロチを赤色にすることで、日の丸のイメージも盛り込んであります。

なるほどねえ、「圧倒的な力、大蛇(おろち)を抑え込む剣」ですか・・・。




というわけで海上公試の記録放映、終わり~。



途中で儀仗隊がまたもや甲板から陸に移動している儀仗隊発見。



「エリスさん(仮名)、あそこのカメラにボクとエリスさん映ってますよ」

現地で知り合いになったMさんが舷門の上を指差すので見てみると、監視カメラがあるのに気付きました。 
今もどこかでモニターを見ている人がいるのかも・・。 



というところで見学を終えた中谷防衛相が出てきました。



見学の間ずっと舷門で起立して待っていたと列員たちは敬礼でお見送り。



何を思ったか中谷防衛相、一番手前の海士くんに握手を求めます。
勿論それを拒否しようはずはありませんが、何より彼は驚いたのではないでしょうか。



左の頬を打たれたら右の頬も差し出せ、ということで(違うかな)
左と握手したからには右側ともちゃんと公平に握手をする大臣であった。

自衛隊の最も若い一隊員の手を取り、目をしっかりと見て激励の言葉をかける防衛大臣。
(という政治家的には美味しい絵です)
もし艤装員家族席に彼らのご両親が来られていたらこれは嬉しかっただろうな。



というわけで意気揚々とラッタルを降りる中谷元・防衛大臣。

「元レンジャー教官の防衛大臣は頼もしい」

というご意見をコメントにいただきましたが、自衛隊出身だからといって
ゴリゴリの保守かというとそうでもなく、リベラリズムを称揚し日韓議員連盟にも所属しており、
大東亜戦争に関しては「日本が他の国土を蹂躙していた」という視点から「広い心で」
他国、ことに近隣諸国との関係を発展させるべきであるという立場の政治家のようです。

しかし改憲派でもあり靖国神社の政府要人参拝にも問題無しという立場で、
つまり保守とリベラルの間くらいの立ち位置ですかね。



下艦してきた防衛省代表の栄誉礼に続き、退場。
公式行事における中谷元・防衛大臣のお仕事はここまでです。



というところでわたしたちも祝賀会場へ・・・・・。


と思ったら、あれ?
なんのアナウンスもないまま、艦内に向かってまたもや入っていく一団が。
そう、特例だと思うのですが、ここでゴッドファーザーとなった小野寺五典元防衛相が、
可愛い娘であるところの「いずも」の中を見学することになったようです。

「多分ご本人が見たいと言ったんでしょうね」

「もしかしたら小野寺さんが視察を終えるまで僕たちここで待ってないといけないの?
頼むよ~!みんなが祝賀会やってるときにゆっくり見ればいいじゃない、ねえ?」

わたしたちがここに到着してこの時でちょうど1時間が経過していました。
式台の上ですこしは楽とはいえ、立ちっぱなしは堪えます。
このとき、ふと防衛省席をみると、自分の名札の前に起立し続けていた海将たちが
一斉に脚を片方持ち上げて足首を回したりして「まいったまいった」みたいな様子をしていました(笑)

乗員たちが整列して立っていた時間はそれどころではなかったと思いますが、
海将くらいのお年になると、一時間立ち続けるともう足が痛くなるものらしいです。

というかこっちが普通なのであって、隊員たちの鍛えられっぷりは本当に凄いなと思います。




しかしMさんが心配するようなことにはならず、小野寺さんがまだ中にいる間に、

わたしたちは順次祝賀会場に移動をすることになりました。
よかったよかった。

退場の順番は、入ってきたのと全く逆で、防衛省関係者に続き会社招待者、
最後に艤装員家族となります。

移動のバスに向かう途中で紅白垂れ幕の外から「いずも」を撮ってみました。




えっとー、こちらは左舷なのでSeaRAMってことでよろしいでしょうか?

これはCIWSのミサイル版的なもので、11連装発射機を持ちます。
ちょうど、CIWSの機関砲部分をミサイル発射機に替えた外見です。

RAMとは、ローリング エアフレーム ミサイル の略で、回転しながら飛翔し、
その回転により安定して飛ぶというメカニズムです。

誘導方式は、Block0であれば、中間誘導がパッシブ(敵ミサイルから発射されているレーダ電波を追尾)、
終末誘導が赤外線。Block1であれば、一貫して赤外線誘導です。

・・というコメントをいただきましたので、そのまま掲載させていただきました。
wivernさんわかりやすい解説をどうもありがとう存じます<(_ _)>


  


ほんとだ~。よく見ると形が違う。
しかし自衛艦旗の掲揚竿の横についている階段と張り出したところは
航行中は絶対に使用しないんだろうなあ。
おそらく上から見たら海の上に突き出した「ピーターパン」の処刑台に見えるに違いありません。


我々はこのあとバスで祝賀会場に移動となりました。



続く。 


「いずも」引渡式・自衛艦旗授与式観覧記~「海のさきもり」

2015-03-30 | 自衛隊


基本当ブログは「ネイ恋」(笑)という題名の通り、主催者の「萌え目線」からネイビーを語る、
というのが基本路線となっている関係上、自衛隊広報やましてやニュースのような、
簡潔にまとめられた記事が読めるだろうなどとは、よもや皆様方も考えていらっしゃらないでしょうが、
それをいいことに前回は調子に乗って中谷防衛相の過去にまで寄り道してしまいました


しかし今日はいきなりどんどんいきたいと思います。
なぜなら今日お話するのは、メインイベントである 引き渡し式と自衛艦旗授与式だからです。

 

中谷防衛相の入場から続きと参りましょう。
中谷さんが胸に手を当てているのは反省しているのではなく栄誉礼を受けているから。
(断った端からしょうもないボケを・・・↑)




「ふゆづき」のときには儀仗隊が近かったのですが、今回儀仗隊は、
「いずも」の繋留された式典会場の一番端に位置していたため、
防衛相が栄誉礼を受けているところは「オーロラ」で見ることになりました。

儀仗隊員の凛々しいお姿を写真に撮れなかったのは残念です。



前に先導の海将補、後ろには武居海幕長(たしか)を従えて式台まで歩む防衛相。
「ふゆづき」のときの防衛事務次官は、こういうとき真っ直ぐ前を見て歩いていましたが、
中谷さんは出席者の居場所を満遍なく見渡して、何度となくお辞儀をする派のようです。



政治家はなべてそうですが、この方も異様なくらい腰が低い。
式台に到着するなり画像がぶれるくらい高速お辞儀をする中谷防衛相。
単にシャッターがぶれただけという説もありますが。

ところで横の武居海幕長は防衛大23期、中谷防衛相は24期です。
防衛大では対番学年として教え教えられたという関係ですが、
自衛隊を退職して政治の道へと入り、今や指揮系統の上に位置することになったわけで、
これはどちらにとっても感慨深いことであろうと思われます。

のみならず中谷氏は平成13年、小泉内閣で史上最年少の防衛庁長官を勤めており、
省庁の違いはあってもこの地位に身を置くのは二度目ということになります。
その頃は自分の防衛大の大先輩の上に立つことになったわけですが。

先日、防衛大卒業式を扱ったエントリで「任官辞退は必ずしも自衛隊への拒否ではない」
という私見を披露したわけですが、自衛官を途中退職して国防関係の職に就く一例として
この中谷氏のようなケースもあるということなんですね。

非常に特殊な例ではありますが(笑)




ちょうど防衛相がこちらにお尻を向けることになりましたが、
これは何をしているかというと、引渡式最初の式次第である

引渡書並びに受領書交換

となります。
造船会社から引渡書を受け取り、確かに受け取りましたと受領書と引き換えます。
手前はJMUの幹部で皆こちらに注目していますが、その向こうの
防衛省出席者の制服組は皆顔を動かすことを禁じられているらしく、
真っ直ぐ前のモニター映像を見ています。
 


続いて、社旗降下が行われます。
「いずも」乗員たちは頭中、注目。



進水式以来掲げられてきたJMUの社旗が(しかしシンプルな旗ですね)降納されます。

ここからは全く見えませんが、降下しているのは造船会社社員です。

式次第はここまでの5分間で「引渡式終了」となっています。

ここからが「自衛艦旗授与式」になります。



このときふと気づくと、地上での役目を終えた儀仗隊のメンバーが乗艦中。
このあと防衛省代表たる防衛大臣乗艦のために甲板で待機です。



参謀飾緒をつけた自衛艦が盆に載せて捧げ持ってきたのは、
そう、自衛艦旗です。

小野寺さんが一生懸命見てる~(笑)



この緞子のテーブルクロスといい、漆の盆といい、これは
「引渡式セット」としてJMUの物品倉庫にしまわれているものに違いありません。

このとき、今か今かと待っていたわたしの耳にきこえてきたのは・・・



海上自衛隊儀礼曲「海のさきもり」でした。
このYouTubeはわたしがRaffaella Santiの名前でたったひとつだけ、
あまり世間に知られていないこの曲を「ふゆづき」の自衛艦旗授与式の画像とともに
アップしているものです。

昔からお付き合いくださっている方は覚えてくださっているかもしれませんが、
山田耕筰作曲のメロディに付けられた歌詞は、海軍兵学校73期のペンネーム江島鷹夫によるもので、
奇縁といいますか、わたしが仕事で関わった方の恩人ともいうべき人物だったのです。

「我等こそ海のさきもり」


この曲を聴くたび、この最後の一節にわたしはどれだけ感動させられることでしょうか。



防衛大臣と「いずも」艦長吉野淳一等海佐が礼を交わします。

吉野1佐は防衛大学校出身ではなく、広島修道大学卒業だそうです。
中国地方の方から頂いた個人的なご意見によると

「東京でいうと日大といった感じの位置付けで、
んー?海上自衛隊に?だいぶ雰囲気が違うなあ・・・・と若干違和感を」

持つというイメージの大学だそうです。

わたしはイメージどころか地元民ではないのでこの学校のことを知りませんでした。
よってこのご意見についてはなんとも言えませんが。



盆から取り上げた自衛艦旗を両手で渡す防衛大臣。

向こうで撮っている人の写真には、わたしがカメラを構えているところが写っているはず・・。

         ミ∧_∧  
       ミ (/【◎】
     .  ミ /  /┘
        ノ ̄ゝ こんな風に・・。

そして冒頭画像のように、二人で自衛艦旗を持った手を高々と上げ、




防衛大臣は手を離し、艦長は左手だけで捧げ持ちます。



そして、そのまま「いずも」乗員たちの整列しているところに向かって
ゆっくりと、しかし堂々たる足取りで歩(ふ)を進めるのでした。



海自の写真班の向こうにもSPが配置されています。



隊列に近づいた時、前列の副長が回れ右をしました。



艦長は副長に自衛艦旗を渡し、お互いに敬礼を交わします。

左手で旗を運ぶのは敬礼をするからなんですね。



「旗いただきました~!」

という感じで正面に向き直ったとき、「乗組員乗艦」のアナウンスが・・。



同時に音楽は行進曲「軍艦」に変わるのでした。



しかし艦長はその場にとどまり、全員の乗艦を見届けます。



ところでシリーズ初日のエントリに「正帽にカレーのシミをつけている幹部が三人もいた」
という大変ショッキングなコメントをいただいたのですが(笑)

防衛大学校や幹部候補生学校では、外出の時にすら点検して、ほとんどいちゃもんのような、
ネクタイ歪みとかボタンが真っ直ぐではないという理由で外出止めになるほど、
海上自衛官というのは海軍時代からの伝統で威儀、特に服装の乱れにやかましいですよね?

こんなハレの日に帽子にシミをつけて出席する幹部がしかも複数いるなど考えられない!
とわたしはこの写真を極限まで拡大して帽子のシミを探しましたが、少なくとも
ここに写っている人の正帽は下ろしたてではないかというくらい綺麗でした。

何か反射したとかの見間違いではないでしょうか。・・・・たぶんですけど。



副長以下前列は金筋3本の1佐、二列目からは2佐です。
ということは二列目一番向こうの女性自衛官も2佐?



幹部に続いて海曹が乗艦。

わたしは「幹部」を正式にも「士官」という名称に戻してほしいと思うのですが、
そんなことになった時にも「海曹」はそのままでいいと思います。

「海曹」「陸曹」「空曹」

うん、どれもいい感じですよね。(個人的感想です)



左の若々しい三曹の左袖に見えるのはウィングマークのような形をしていますが、
もしかしたら搭載艦のヘリパイロットかな?

 

海曹の並び順はよくわかりません。
2曹と3曹が隣同士だし・・・。



続いてWAVEたち乗艦。
「ひゅうが」までは専門の居室が護衛艦にはなかったなんて信じられませんね。



続いて海士たち。
手前の二本線は一等海士の階級章です。旧海軍の1等兵ですね。



最後の一団が舷門の奥に消えていったと思ったら・・・、



6名の海士と海曹が一人戻ってきました。



ただいまより艦長上官の儀式にうつるため、と列をつくったのです。
右にいるカメラマンはバスで一緒だった市ヶ谷の陸自写真中隊の隊員です。



サイドパイプが空気を震わせました。
護衛艦に命を吹き込む自衛艦旗が運び込まれてのち、長である艦長がいよいよ乗艦です。




「案外上に行く人というのは大きなフネの艦長は経験しないんですね」

「そうなんですってね」

隣のMさんが言い出したのでわたしも相槌を打ちました。
今回のMさんの出席を取り計らってくれたのは元自衛官で退官後造船会社に
再就職された方だったそうですが、(後でご紹介されました)
その方も若い時に小さな船の艦長をやってあとは陸上勤務のまま偉くなったそうです。



しかし、男と生まれ(女性艦長も誕生しましたが)海上自衛隊に入ったからには、
内外から注目を受ける海上自衛隊史上最大の護衛艦への艦長就任が
ネイビーとしてこの上ない名誉でなくてなんでしょうか。

この瞬間、吉野1佐はこれまでの海上自衛官人生で最上の”冥利”を感じておられるに違いありません。


続く。 



 


「いずも」引き渡し式観覧記~或るレンジャー隊員の30年後

2015-03-28 | 自衛隊

コメント欄で「ひゅうが」にも昇降機は二基あるよ~、と教えていただいたことから、
観艦式でその「ひゅうが」に実際に乗艦しておきながら、後部甲板に昇降機があったことに
全く気づいていなかったことに気づきました(笑) 

しかも
このたび取り寄せた”DDH「ひゅうが」型護衛艦のすべて”というムック本によると、
見学者を乗せて稼働していたエレベーターよりもずっと大きいものだったんですね。


つまり昇降機の数は同じで、設置場所だけが違っていたということです。

そこでたった今思いついたのですが(笑)

「ひゅうが」の甲板を見ると艦橋横の昇降機はほぼ甲板の中央付近に位置しており、
これを戦闘機離発着に運用するのは
まず物理的にダメですよね?
なぜなら戦闘機の着艦には着艦フックを引っ掛けるアレスター降着装置が要るわけで、
もし「ひゅうが」に
アレスターを設置するとなると、この昇降機が邪魔でしょう?(小並感)

というわけで、「ひゅうが」就役時から近隣諸国とマスコミが空母だ空母だと騒いでいた割には

その可能性はほぼないに等しかったと言えるんじゃないかってことなんですが。


そこで「いずも」ですが、昇降機が外付けのようになっていて甲板に干渉していない、
つまりその気になれば実際に空母にすることは可能なわけです。

すなわち、いざとなると雷蔵さんのおっしゃるように、これから40年の間に
何が起こっても対応できうることを視野に入れて設計がなされていることは
ほぼ間違いないのではないかと思うわけです。 

しかもそれはNHKが言いたてるように「憲法に違反する」ことでは全くありません。

実際に「いずも」が空母に作り替えられることになるかどうかは、
その”近隣諸国”の出方によっていかようにも変わってくることだからです。

万が一そっちから攻めてくるようなことがあったら、これ空母にしちゃうからね?
もしそのときに憲法改正していなかったとしても、そっちが先に手を出したら、
こちらは堂々と、専守防衛の現行の範囲内で反撃できるんだからね?

という具合に「いずも」とこれに続いて導入される同型艦の導入は、我々が思っている以上に
相手に対してこういうメッセージとなっていることにあらためて気づくのです。
日本国に対して将来的に領土を蹂躙するという野望を持っている国にとっては、

これはとんでもない抑止力となるのではないでしょうか。

道理でメディアが一様に発狂するわけです。

そういえば、ちょうど今朝、TBSのある海外特派員デスクは在日朝鮮人で、朝鮮大学を卒業して
北京大学に留学した経歴を持つというスレッドがあがっていました。
日本のメディアで仕事をしておきながら、彼の報道人としての目標は”南北統一”なんだそうです。
なんだそれ。っていうかなんでこの人が日本にいるの?


我々日本人が思うよりずっと、メディアの中における非日本人の割合は多いらしいことに
わたしもあらためてショックを受けたのですが、これはTBSだけではなく、
各テレビ局が軒並み同じ状況であるとすれば、今の日本のメディアが国際関係の報道において
どのような立場から報道をしているかはどんなお花畑なリベラル頭でも気づこうというものです。


ところで今回いただいた非公開コメントの一つに、


「運用と搭載は厳密に違うし、空自との連携調整も一朝一夕では無理!」

というご意見もありました。
わたし自身もそう書いたわけですし、防衛省は実際あくまでもヘリ搭載艦から一歩も出ません、
と言い切っているわけだし、実際その通りだと思います。

しかし、可能性はゼロではなく、連中が空母だ空母だと騒ぐのもわからなくはありません。
空母であることを明確に否定しつつも、実際には空母改装への可能性を残すことで


どんな国際情勢の急激な変化にも即応できる

という含みを匂わせており、これが近隣諸国と非日本人のメディアに焦燥を与えているのでしょう。
しかしマスコミがどうキャンキャン吠えようが、近隣諸国に
日本の即応体制と反撃に出た時の軍事力を誇示せずして、なんの国防かと思うわけですよ。

そして、いざ有事に備えて、運用の問題も含めて対応するための「いずも」極秘作戦が

我が防衛省の地下深くで協議されつつあるに違いないとわたしは思っているのですが。

もちろん特定秘密保護法案の対象でねっ!(*^∀゜)ъ




さて、式典開始まで現場で立ち続けている間に撮った写真。
といっても、目の前に大きな壁が立ちふさがっているような状態では
写せるところは艦橋とマストと舷門くらいのものです。

艦橋の一番右側の窓に人影がありますね。

窓の上部にある機械はそこからワイパーが出ています。

窓の下から突き出しているものは、放射能塵洗浄装置だと思うのですがそうですか?
この装置は「あきづき」以降の護衛艦に搭載されるようになったもので、
艦の各所に配置された散水ノズルから海水を吹き上げ、その飛沫で艦を覆い放射能汚染を防止します。

これを導入するにあたって社会党が大騒ぎしたそうなのですが、その理由が


「原水爆反対」

だったということで・・・もしこれが本当なら、言った奴は確実に馬鹿に違いない。

艦橋は「ひゅうが」乗艦時にもこういう写真を撮りましたが、
艦橋の窓上部に付けられた防空システムのFCS-3のアンテナは
大小一つづつCバンドとXバンド、周波数帯が違うものがあったと思います。

こちらには一面に一枚しかアンテナが見当たりません。
「ひゅうが」のシステムをFCSと称するのに対し、こちらをOPS-50といいますが、
これは機能を対空捜索と航空管制に限定したシステムをいうそうです。




暇に任せて後ろ側も撮りまくり(笑)
こちらの式台の垂れ幕越しに見る「きりしま」の改装中のお姿。
日本の護衛艦はどれもピカピカで、横須賀に係留してある米海軍第7艦隊の軍艦が、
錆が浮き放題なのと比べると信じられないくらいにいつも綺麗にしているのに、
さらに大規模補修で全面塗り直しとかやっちゃうんですね。

こうしてみると塗り直しのできないレーダーの表面だけが汚い・・・(笑)

ところでこの岸壁に移動する途中にはゲートがあり、そこでは
出入りのたびに社員証や身分証明書を日頃はチェックするようになっていました。
護衛艦関係のドックなので、人の出入りには細心の注意を払っているんですね。



甲板の上からは式典を撮影しようとカメラが集まりだしました。
彼らの後ろからはときどき自衛官が顔を出します。

「これは見張ってますね」(笑)
「見張ってるんですね」(笑)

わたしとMさん。

 

撮るものがなくなったので、艦体の表面に注目してみました(笑)
「痩せ馬」仕様がよくわかりますね。



さらにもっと痩せ馬がわかる角度で。
この「痩せ馬」に関してはコメント欄で色々と御指南いただきまして、
かなり詳しくなったつもりです。
未だに「護衛艦 痩せ馬」で検索すると、一番トップに当ブログが出てきます(笑)

「いずも」の鋼板は今までにも増して薄そうですよね。



またマストかい、って?

だからマストくらいしか写すものがなかったんだよおおっ!


仕方がないから解説しよう。

一番上にお皿がありますが、これはヘリ搭載艦には全てついているもので、

戦術航法装置(Tactical Air Navigation, TACAN
 )といい、略称から「タカン」と呼ばれているものです。
航空機からの方位、距離測定を同時に行うものですが、雷蔵さんのコメントもあったように、
複数の船が固まって走っているときなどには、
パイロットがあてにするのは赤黄青の航空識別灯だということなんですね。



10分くらい前になって、「ようやく防衛省関係者が入場してきました。
皆足元を見ているのは自分の立ち位置を確かめています。
空自、陸自の制服は各一人ずついました。



そこにふと空気が変わる感じがして、小野寺元防衛相が入来。

ロビさんのコメントで知ったのですが、「いずも」の名付け親だったんですね。
本来引き渡し式に前防衛相が臨席することはなく、さらに駆逐艦クラスであれば防衛相も来ない、
というのが通例のようですが、やはりいろんな意味で日本の防衛と自衛隊にとって
エポックメイキングとなる大型艦の誕生となるわけですから、
当時の防衛相として思い入れもひとしおなのでしょう。


小野寺さんといえば防衛相退任の挨拶で号泣したという話にも窺えるように、
防衛相としてその職と、何より自衛隊にかなり「入れ込んで」いたのではないかと思いました。

「どうして辞めさせられたんでしょうね」
「辞退したって話ですけどね。スキャンダルが出そうになったので」

これについてはどんな情報も憶測の域を出
ていないのでなんとも言えませんが、
集団的自衛権の採択と時期的に重なっていたあのころ、野党やマスコミに付け入る隙を与えないように
慎重の上にも慎重を期して、という安倍さんの思惑もあったかもしれません。




小野寺さんの左側の男性も確か政治家だったような・・・。
ちなみに右側の後頭部と左端はSPです。



ふう、やっとのことで防衛大臣入場。

この中谷防衛相が防衛大24期で元レンジャー教官だったのは有名ですが、
レンジャー教官だった、ということは当然レンジャーだった、ってことでおK?

やおら「中谷元のレンジャー時代の写真は流出していないのかっ!」と思い立ち、
検索したら、ありましたよ。



ご本人のHPにも同じ写真が掲載されていましたが、これは転載フリーの心の広いブログから引っ張ってきました~!
うーん、 この目つき鋭いイケメンレンジャー隊員が・・・・、



ことわざに”三年経てば三つになる”と申しますが、30年経てば
こういう体型のヒトになってしまうとは・・(T_T)

いや、今でもイケメンであることにお変わりはないとは思いますがね。
興味のある方は、若き日、イケメン防衛大生であったころの元ちゃんのお姿など見てみてください。

中谷元ホームページ



・・・・って、全然「いずも」引き渡し式と関係ないし。


続く。


 


「いずも」引き渡し式観覧記~「我が海軍」

2015-03-27 | 自衛隊

安倍首相が予算委員会の答弁中に、海外との「軍」との比較議論の中で、自衛隊を
「我が軍は」と一瞬言ったことを捉え、政権の足を引っ張るチャンスとばかりに、
民主党、共産党と左翼御用学者、マスコミがまた大騒ぎしようとしました。(しています?)


以前自衛隊関係者から聞いた話ですが、海外では自衛隊ははっきりと軍であるとされており、

むしろミリタリーと称しないことが日本への不信感と捉えられることもあるというのです。
そもそも、「Self-Defense Forces」は直訳すると「自衛のための”軍”」、フォースというのは
そのまんま「軍隊」と同義であって、いくら日本人に英語ではピンと来ないからといって、

「ミリタリーはダメだけどフォースならおK」

とはいかなる意味か、とおそらく英語圏の人間は皆首をひねっているでしょう。
まあ要するに皆言葉遊びなんですよ。

「”我が軍”とは言いましたが軍はミリタリーではなくフォースのつもりで言いました!」

と安倍さんは突っ込みに対しては答えればいいんじゃないかな、と思いつつこの件を監視していると、
左翼御用達反日芸人(学者じゃないですよね)のK山Rカ氏が、バカッターことツィッターで、

「オバマ大統領は演説で ”our military"とは言うけど"my military"とは言いません」

と発信したのを知りました。

そういえば当ブログ開設1年目くらいに、エントリ文中で「我が海軍」と書いたところ、匿名で

「あなたは海軍の関係者ですか?」

と非難するニュアンス満点のコメントしてきた奴がいたなあ(遠い目)

いくら海軍ファンったって、「私の海軍」なんていうつもりも資格もないわけだし、
だいたい「我が」は「我らが」つまり「日本の」という意味ですが何か?
とそのときにも返答したように
、日本語の「我が」には英語の「our」、ドイツ語の「unser」、
フランス語の「notre」の意味を包括しますからね。


安倍さんも普通に、

「これら外国の軍隊と”我が日本国の自衛隊”を比べますと」

を口語において省略して”我が軍”としただけにすぎないと思いますし、おそらくは(ですが)
民主党だってそうなんだろうなあとは内心思ってるんだと思いますよ。
こうやって、足を救うつもりでやればやるほど(うちわ疑惑とかね)国民からは

「つまらんことで国会の審議を止めるなこの馬鹿者どもが!」

みたいな非難が寄せられその度に支持率が落ちていくのもわかっているはず(おそらく)
なのですが、麻生政権を引きずり落としたときの勝利の味がまだ忘れられないのでしょう。
あの政権交代よもう一度、ってところですかね。もう絶対無いと断言してあげますが。


ところでわたしは当初、てっきり安倍首相が「軍隊」といったことに民主党始め反政府派は
異論を唱えているのかと思っていたのですが、
そもそもそういう
方々って、日頃
「自衛隊は軍隊だ!」と言ってませんでしたっけね。

はいそうです、軍隊は違憲のはずなのに、日本には自衛隊という名の軍隊があるんです。
だから憲法改正しないといけないんですよ、と政府に持って行かれるとまずいと気づいたのか、 
あるいは振りあげた拳の降ろしどころに困ったのか、彼らがすぐに論点を
「我が」に鮮やかにすり替えたのは、見ていて愉快でした。


しかも枝野さんなんか、そのことを非難する声明の中で「我が党は」っていっちゃってますよ?

「ほー、それでは民主党はお前の所有物なのか?」

ってもし突っ込まれたらやっぱり本人も「我々の」のつもりで言いました、って言い訳するでしょ?
子供かよ。

ちなみにK山さんですが、オバマが演説で「my military」と言っている部分を探し出してきた人がいて、
(これもすごいですよね)早速赤っ恥をかいていました。ご苦労様なことです。




さて、本日の出席者には

早く行ってカメラのために最前列をキープしよう」

などという落ち着きのない人は、わたしとここで知り合ったMさんくらいしかおらず、
ましてやバスに一番乗りして岸壁に着いた時にも、現地まで走っていくなどという
はしたない事をする人は、一人もいませんでした。

皆一応関係者ですから、式に出席するのが目的です。
ごつい1眼レフを持っていたのはわたしが見た限りではMさん一人でした。
よって、わたしたちは会場までの道を悠々と歩いていくことができました。



岸壁の両側には紅白の垂れ幕で通路ができています。
先に歩いている集団は、別のバスできた艤装員家族の皆さん。



右側のカメラマンさんは、わたしたちと同じバスで隣の席でした。
カメラはわかりますが、鉄製の譜面台を持っていたので何に使うのか尋ねたところ、
彼は防衛大臣付きのカメラマンで、譜面台は大臣が挨拶するときに録音機を
置くために持っているのだと答えました。

「それだけのために・・・?」
「そうです」

彼は自分は陸上自衛官で市ヶ谷勤めだということを語りました。

「ああ、写真中隊って言うんですよね確か」
(なんで知ってるの、みたいな顔で)「そうです」

自衛官といってもスーツを着て譜面台を持って歩く仕事もあるってことですね。

彼は自分がどこに待機すればいいのか、案内係の海自隊員に聞いており、
この入り口から入るようにと指示されているのですが、横に旗を持って
立っているゴツい自衛官は、まさに防衛大臣旗を持つ係。
彼もここで防衛大臣の到着を待ち、会場では旗を持って付いて回るのが役目です。

そういう役目の隊員は儀仗隊のようなベルトに脚絆着用するようです。



ここは防衛省関係者並びに招待者入り口。
ここを通り過ぎて・・・・、



会社招待者席と艤装員家族席の入り口は一緒です。



入って行って、そこで招待状の入っていた封筒を見せると、
色でわかるらしく、名前を確かめもせずに左に誘導されました。



こんなものをアップする出席者はおそらく他にいないでしょうから、
参考までに、当日配られた資料をお見せしましょう。
一番左にはマスコミ(カメラマンでない記者)と見送りの従業員がいるところです。
参列者の向かいには、儀仗隊と並んで音楽隊がいます。

ところで図の「オーロラ」って何かしら。「オーロラ三人娘」なら知ってるけど。 
確かここには映像モニターがあったような気が・・・・・・あ、「オーロラビジョン」か! 



「ふゆづき」のときにも、われわれが現場に到着した時、こうやって整列し、
身じろぎもせずに乗員たちは立ち尽くしていました。
あのときは篠突く雨が容赦なく彼らを打ち、参列者は心から同情したものですが、
今日は本当にお天気でよかったです。彼らのためにも。

彼らが立っているのは艤装員の家族席の真ん前で、気が利いているなと思ったのですが、
ここにいるのは
「いずも」乗員の全員ではもちろんありません。

後で聞いたらさすがは巨大ヘリ空母、乗員は470名はいるということだったので、

せっかく見に来ても、娘息子なり夫の顔を全く見られなかった家族もいたということです。


ところで護衛艦の乗員を組織するのは、副長が人事の権限を持っているときいたことがありますが、

どういう選定のされ方で選ばれたにしても、「いずも」のような最新鋭艦、しかも
内外から大変な注目をされている護衛艦の初代乗組員になったということは、
おそらく彼らとその家族にとってたいへん名誉なことなのに違いありません。



誰もいない会場に入ったわたしたち、思わず顔を見合わせて、

「近いですねー」

と驚きあいました。
三井造船所は岸壁が広いせいで、艦体まで距離を感じましたが、
今回はすごいでしょ~?



防衛省関係者はまだバスさえも到着しておりません。
見てもおわかりのように、一段地面より高く造られた式台には
三井造船のときのように椅子が全く置かれていない、つまりここでは
最初から最後まで立ちっぱなしでいなければならないということなので、
政府関係者は式典開始ぎりぎりにご入来するということのようです。

このとき時計を見ると9時50分。
うーん、あと40分ここで立って待つのか・・・。



誰もいない隣の防衛省出席者の式台には、足元に出席者の名前が書かれています。
制服組の立つところなので、階級順とか色々と決められているんですね。



隣のMさんと話をしながら暇に任せて写真を撮りまくります。
もうすぐ降下されるJMUの社旗の下に見えるのは赤、黄、青のランプ。
航空管制と何か関係があるのかな?



甲板にはテレビ局のカメラマンらしい人影が。
「ひゅうが」の就役式はやはりここJMUで行われたのですが、式典の後、
定繋港の横須賀まで、なんと防衛省は報道陣を乗せて航海したという話です。

報道関係に自衛隊への理解を深めてもらおうとここまで計らったというのに、
「ひゅうが」が空母になるから中国がどうしたこうした、みたいな今回と同じような
論調の報道は当時から行われていたと記憶しますし、「おおすみ」の事故の件のように
明らかに自衛隊を非難する立場に立って報道をしていたことからも、自衛隊側は

「メディア・ファティーグ」

とでもいうべき無力感を彼らに対して持つに至ったのではないか、とふと思いました。
おそらく自衛隊が、今後報道陣を護衛艦の最初の航海に乗せるようなことは二度とないような気がします。



右胸にバッジをつけているのは副長と航海長でしょうか。
皆顔色が緑ですが(笑)、これは彼らの立っている人工芝が顔色に反射しているのです。

いかに訓練しているとはいえ、小一時間身じろぎもせず立ち続ける乗員たち。
視線も動かしてはいけないようで、直立しただ正面を向いていますが、その目の端には
きっと艤装員家族席の自分の家族をしっかり捉えているに違いありません。


続く。 

 


「いずも」引き渡し式観覧記~「きりしま」が「ちびしま」に!

2015-03-26 | 自衛隊

「いずも」観覧記第一弾にたくさんの方からコメントありがとうございます。
皆さまへの返答はできるだけ観覧記の本文中でさせていただこうと思います。

さて、冒頭画像は引き渡し式当日のニュース写真を雷蔵さんが送ってくださったのですが、 

「きりしま」が「ちびしま」に!

というタイトルが付いていました(笑)
そう、「いずも」の引き渡し式が行われる同じ岸壁の向かいには、
ちょうど「きりしま」がドック入りしているんですね。

「いずも」と比べるとあの大きな「きりしま」がまるで「ちびしま」状態に・・・。
というわけで当意即妙に笑わせていただいたのですが、実は現地に着いた時、
わたしも真っ先にドック入りしている護衛艦の「174」を目に留め、

あっ、「ちびしま」だ・・・・じゃなくて「きりしま」だ! 

と当ブログアイコンに使わせていただいているmizukiさん作の絵を
思い出してその偶然にじ~~~~んとなっていたのです。
だってそうでしょ?
自衛隊所属の艦艇は星の数ほど・・・・はないにしても、とにかくたくさんあるのに、
よりによってこの日対岸にいたのが当ブログアイコンの「174」だったなんて。

これが感動せずに居られるでしょうか。



ということで、紅白の垂れ幕から上を撮影してきました。
なんと、ハッチ部分がベニヤ板で覆われています。
塗装のやり直しのためにこんなことまでするんですね。

ちなみに、写真には撮れませんでしたが、「きりしま」の艦尾にはちゃんと

自衛艦旗が

掲揚されていましたよ。
ドック入り中も掲揚降下されるんですね。

(足軽零戦記者さま、前回の護衛艦旗は全て自衛艦旗と訂正させていただきました。
ご指摘ご訂正ありがとう存じます。
そういえば前に同じ間違いをして、現役の自衛官から”それ違いますから”っていわれたんだった) 


ところで、昨日も最後に思いっきりTBSのニュースの「中国と近隣諸国を刺激」という

それだけで小一時間ノンストップで理路整然とツッコミ可能な記事に対し、
思わず鼻で笑わせて頂いたのですが、
YouTubeによるとNHKも酷かったみたいですね。



これがニュース解説のフリップ。
空母じゃないよ、ヘリコプター搭載艦だよ、とそらとぼける安倍首相、
それを腕を組んで睨んでいる中国の習近平総書記。

昨日「いずも」は「ジョージ・ワシントン」より小さい、と書いたのだけど、
これを見る限り米空母は遠近法を考慮しても「いずも」の3分の1にしか見えません。

こういうとことでこまめに印象操作を仕込んでくるのがテレビ的手法なのですが、
いやー、それにしてもNHKってどこの国営放送なんでしょうね。
まるで我が安倍総理がよっぽど疚しいことをやってるみたいじゃないの。
このニュース解説も酷かったですよ。

「いずも」は国際基準で見ても空母である

とまず「他国を攻撃するために」戦闘機を搭載して攻めに行く空母と「いずも」は
同質のものであり、いざとなれば作り変えも可能であることを強調し、さらには

国民の多額な税金つぎ込んで作るからには国民に対して納得のいく説明が必要だ

ときたもんだよ。
「納得」というのはつまり、中国様の懸念通り、

「もしいざとなった時にはこれを空母にして攻めに行くつもりで造りました」

というのが本音です、と白状すれば許してやるって言いたいのかしら。
説明も何も、「いずも」がヘリ搭載空母であり、その目的は


●洋上における司令塔
●監視警戒
●大規模災害に対応

であると防衛省は口を酸っぱくして?広報していると思うんだが。
それを、

大きさは空母だからきっとそのうち戦闘機を積むにちがいない!

と決めてかかって、暗に憲法違反であるから国民に説明を!ってこれ、なんなんだろう。
なんか、愛しているって男が言ってるのに信じないで、あなたはモテるからそのうち浮気するんでしょ!
きっとそうだわ!とかいって勝手にヒステリーを起こしてるメンヘラお嬢さんみたいな?

違うかな。


オスプレイを積めるとかいう報道もそうだけど、「搭載できる」というのは

ただ乗せるだけのことを言うんじゃないですからね?
員だけでなく整備士やその設備、昇降機や格納庫だって機種が違えば規格も違うのだから、
現行のSH-60以外のものをそう簡単にぽんぽん積めるもんじゃないと思うのよ。
ましてや戦闘機となると、ほぼ一から造り変えるくらいの大規模改修が必要なのでは?

わたしは素人なのでそう思うだけだけど、多分これ正しいと思います。(ですよね?)

国内のメディアがこれだけ発狂するから「中国と近隣諸国」とやらも
マッチポンプで呼応するが如くに「刺激される」んじゃないんですかね。

そもそも、「いずも」がたとえ空母であったところで、現実に空母を保持して
実際に南シナ海で脅威となっているような国に「自分とこは持つけどお前は持つな」
などと言われる筋合いは全くないと思うし、潜水艦で領海内をウロウロしたり、
尖閣でゴタゴタしたり、サンゴを勝手に取りに来たりする国があるから、
こちらとしてもこういうものを装備せざるを得ないわけで。

某国から日本を防衛するために作ったのに、どうして当の某国に配慮せねばいかんのか。

ついでに、メディアの決まり文句では、必ず「中国などその他近隣諸国」と言ってますが、
これはごまかさずにちゃんと「中国、韓国、北朝鮮」と言いましょう。

この2カ国がつまり世界的に「悪玉」と認められた北朝鮮とつまりは同じ側であることを
ぼかしているうちは、報道としての公正性を認めるわけにいかないと思いますよ。



さて、それでは、この日のことを順を追ってお話ししていくことにしましょう。
わたしは未だにIHIとJMUの関係がよくわかっていなかったのですが、
ここ横浜の新杉田には、もともとIHIのあったところで、どちらもがここに共存しています。

JMUはこれも前にお話ししましたが、IHIの造船部門とユニバーサル造船が合併したもので
IHIの造船部門は石川島播磨重工業と住友重機械の合併したもの、
そのユニバーサル造船も日本鋼管と日立造船が11年前に合併してできたものです。

ちなみにユニバーサル造船の舞鶴事業所は帝国海軍の舞鶴工廠を起源としてるそうです。


いただいた招待状には「9時半までにおいでください」と書いてあったのですが、
自衛隊イベントは
何時間も前から待つという習性が染み付いてしまっているわたし、
少しでも早く行って前列に座らねばという強迫観念?から、前日にJMUに電話して、

「朝は何時から入れてもらえますか」

とわざわざ聞き、

「8時半くらいからですが、あまり早く来られてもお待ちいただく時間が長くなってしまいます」

と少し言いにくそうに言われてしまったのは、少し恥ずかしかったです。

というわけでとりあえず8時40分を目指して(笑)行くことにしました。



広大な構内の移動にはわざわざ大型バスが用意されていました。
バスには何人かの人々が乗り込んでいたのですが、着いてみると入り口で
招待状の提示を求められ、その種類によって行き先が違いました。
ほとんどが別の部屋に入ってしまい、この部屋に通されたのはわたしを入れてわずか3~4人。

どうやら他の人たちは皆艤装員、つまり自衛隊員の家族であったようです。

この記念式典に参加している人たちは4種類のカテゴリに分けられ、

防衛省出席者

防衛省招待者

会社招待者

艤装員家族

という分類です。
わたしは地球防衛協会から出席したのですが、この枠でいうと「会社招待者」となっていました。



同じバスに乗ってこられた会社招待者で、ニコンの一眼レフを構え、
わたしと同じようなもの(お花とか)を撮りまくっていた方と声を交わしたのをきっかけに、
お互い自己紹介と情報交換が始まりました。
というか、わたしが”ふゆづき”の経験を踏まえて


「写真を撮られるのなら前列の中央寄りがいいですよ」

とアドバイスをしたことからそれでは岸壁までのバスには一番乗りしましょう、
ということになり、この日一緒に共同戦線を張ることになったのでした(笑)

この方、Mさんは昔某大に入学したものの、自分が合っていないと見極めて早々に辞め、

旧帝に入り直したという過去がおありだそうです。
今は会社経営者ですが、趣味は鉄道で写真をFacebookに挙げておられるとのこと。

「そういうののために写真を撮るとなると、場所とかこだわってしまいますよね」

ついわたしがこのように言うと、

「あなたはFacebookとかやってらっしゃらないんですか?
え?何もやっていない?せっかくいろんなところにいって写真を撮って
それだけいろんなことをご存知なのに、もったいないなあ」

しかしわたしは、ブログならやっています、と喉まで出かかってすんでのことでやめました。
どうしてこういうときに、ブログ主であることを決して言えないんだろうなあ。

なんかのトラウマかしら(笑)


「本でもお書きになったら僕買わせていただきますよ」

はあ、まあそのうちいずれ、なんかのきっかけでそんなことになったときには。

それにしてもさすがは大きな造船会社、しかも「いずも」の引き渡し式。
1時間使う待合室のために、白いテーブルクロスを敷いたテーブルに綺麗なお花を飾り、
女子社員にお茶を運ばせるとは。

そのとき、社員の男性が10時半の引き渡し式のために10時から入場が始まるので、
9時50分から岸壁への移動が始まる、ということをアナウンスしました。

「バスには一番乗りしましょう」
「もう外で待っていた方がいいですね」

二人で一番先に待合室を出て、待機していたバスに寒いから入れろと開けさせ、
(わたしが言ったんじゃありません) 一番バスの一番前の席に乗り込みました。



走ること1分、鉄扉で普段は仕切られているらしい施設の一角に入っていくと、
「いずも」キター!
ああいよいよ・・・・・・、胸が高鳴ります。



甲板の人影はカメラマン。
どうやら式典前に報道陣に中を公開しているようです。

公開したってほとんどそんな写真記事にもならないのに・・・。
ムック本とか模型会社の記者かな?




後ほど出航見送りの時に、近くに立っていた人がJMU社員だったらしく、

「吃水は7mなんですよ」

と話していましたが、これを見ると正確には水深目盛は7、4mを指しています。



隣のMさんもバシャバシャとニコン特有の音を盛んにさせながら写真を撮っています。
この角度から見ると、昇降機の部分の出っ張りが大変大きなものであるとわかりますね。

さて、「いずも」就航のニュースは、我がメディアが、
(といっても、メディアがわたしの所有物だといっているわけではありませんので念のため)←皮肉
マッチポンプで騒いだおかげもあって、世界中の注目するところとなりましたが、
海外(中韓以外)のこのニュースに寄せたコメントを集めたサイトで、こんな声がありました。


「中国の国家主席さんはやっちゃったね。
安倍さんに口実を与えたのは、あなただ」

「中国が領土の拡大を狙っているのに日本を縛り続けるなんて馬鹿げてる」

「いいね。日本は海軍力をもっと向上させる必要があるんだ」

「そろそろ日本は本当の表舞台に戻っていいときなんだよな。
日本はきっと世界に力になれるよ」


何だか 我が国のメディアが本来言うべきことばかりのような気がするのですが・・。



続く。 




 







 


護衛艦「いずも」引渡式・自衛艦旗授与式(概要)

2015-03-25 | 自衛隊


「いずも」の引き渡し式に出席が決まりました!

と、わたしはどれだけ今日の日まで皆様に自慢かたがた予告したいのを我慢してきたことか。
内緒にするのにたいした理由があったわけではありません。
当日まで何があるかわからないのと、それから万が一の可能性ですが、
当ブログ読者で式典に出席予定の方がいた場合、現地で当人確定されるかもしれないと思ったのです。

まあ別に悪いことをやっているわけではないので当人確定されてもいいんですけど、
やっぱり恥ずかしいじゃないですか~。(そんな理由かい)

とにかく、「いずも」関係の式典があったら是非出席したいとお星様にお願いしていたところ、
各方面のお星様たちのご紹介とご尽力により出席が叶いました。
わたしがいかに地球防衛協会の重職であったとしても、まだまだ

「あーちみちみ、いずもを見たいから出席すると河野くんに言うといてくれたまえ」

というわけにはいかず、全く今回も関係者各位には衷心より感謝をする次第です。
ここで感謝してもおそらく関係者各位には伝わらないとは思いますが。



というわけで今日から何日間か「いずも」引き渡し式についてご報告したいのですが、

今日はとりあえず概要としてかいつまんでお話しします。

冒頭写真は、2時に出港となった「いずも」の姿。
まだ甲板には乗員が立っています。
完璧に外洋に出てしまうまで、そのままでいるのが決まりのようです。



昨年3月、護衛艦「ふゆづき」の引き渡し式並びに出港式に参加した時には大雨でした。
つい最近、

「エリス中尉+自衛隊イベント=雨」

という公式が定着するような嫌な予感が、と書いたときに

「近々ある自衛隊イベントで降られると困る」

と少しこのことをほのめかしてみたわけですが、もしかして読者の方々のうち

「これはもしかしたら 『いずも』か?」

とその裏を読んで予想をされた異常に勘のいい方も一人くらいはおられたかもしれません。
とにかく、今日はその懸念を一掃する日本晴れとなってくれたのです。

 ∩( ・ω・)∩

そして見るがよいこの「いずも」の勇姿を。
こんなところから式典を見ることができたなんて、すごくないですか?

ただ「ふゆづき」の時以上に式典会場からは「いずも」の全貌が見えないわけですが(笑)
それもそのはず、かなり広い岸壁の比較的後ろに観覧席を設けていた「ふゆづき」でしたが、
「ふゆづき」どころか「いせ」よりおおきな「いずも」が、普通の大きさの岸壁から
出航することになったため、出席者の位置は艦体のすぐ近くになってしまったんですね。
わたしのいたところは、入り口の真正面でした。



マストにはまだJMU、ジャパンマリンユナイテッドの社旗が揚げられています。
これが引き渡し式では降下され、代わりに自衛隊旗が揚がるのです。



真横はご覧の通りの政府関係者、防衛省関係者席。
ん?なぜ前防衛大臣の小野寺さんがいるの?



昨日防衛大学校の卒業式のニコ動画像をあげた中谷防衛大臣。
「ふゆづき」のときは政務官でしたが、さすがに最大規模の空母型ヘリ搭載艦の
1番艦就航ともなると、防衛大臣が出席するようです。



式典のメインは、「自衛艦旗授与式」。
右は「いずも」艦長、吉野敦1佐。



報道陣の数は午後にはこの2倍に増えていました。
海外のメディアも来ており、関心の高さを表していました。

自衛艦旗を捧げ持った副長を先頭に乗員乗艦。
曲はもちろん行進曲「軍艦」です。



海士のセーラー服集団を見ると「海上自衛隊っていいなあ」といつも思います。
彼らを最後に艦長を除く全員が乗艦しました。



そして防衛大臣乗艦。
この後甲板で訓示、さらに大臣の艦内見学と続きます。
大臣が下艦してきたらとりあえず午前中の式典は全て終了。



祝賀会場に移動するときに初めて「いずも」に揚げられた自衛艦旗を見ました。

美しい・・・・。

CIWSが甲板レベルではなく一段低いところに、しかも二つあるんですね。




斜めになった部分は二つある昇降機のうち一つです。
しかし大きい・・・・。とはいえジョージ・ワシントンよりずっと小さいんですよね。
空母じゃないから当たり前なんですが。



祝賀会会場はなんと、JMUの体育館でした。
三井造船の祝賀会は戦前に立った古い迎賓館だったので、部屋が中で分かれており、
出席者のうちVIPとその他が別々になっていましたが、ここではみんな一緒です。
祝賀会のお料理についてもまた別項でお伝えしますのでお楽しみに。



さて、午後からは出航のための式典となります。

JMU側より、「いずも」乗員に花束贈呈。



そして艦長乗艦。



即座にハッチが閉まり、出航準備です。
このハッチが閉まる様子は、誰にとっても見るのは初めて。
報道陣のカメラですら逐一その動きを熱心に撮影していました。



そして「いずも」出航。
全く音もなく、岸壁から離れていきます。
この時に演奏されていた「軍艦」が、



「帽振れ」のときには「ロングサイン」、「蛍の光」に変わっていました。



後ろのインマルサットアンテナ?がいかに巨大かわかっていただけますでしょうか。



「帽振れ」が終わり、岸壁を離れて今から母港に向かう「いずも」とその乗員。
乗員は直立のまま舷側に立っています。



「ひゅうが」型との大きな違いは甲板の大きさでしょうが、それ以外にも

昇降機の数が2基になったなどという違いがあります。


 
初めて艦体が全てファインダーに収まりました。
やはり見た目も大きな違いがありますね。 

さて、「いずも」就航は早速ニュースソースに上がっているようですが、
TBSのニュースでは、このように報じたようです。

全長248メートル、海上自衛隊では最も大きい艦艇で、
外見上は「航空母艦」にも見える護衛艦が完成し、25日から就役しました。


就役したヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」は、全長248メートル、
排水量およそ2万トンで海上自衛隊の歴史上最も大きい艦艇です。


艦首から艦尾までを貫く平らな甲板を備えた姿は、外見上は「空母」と同じ。
ヘリコプター9機を搭載し、そのうち5機が同時に発着できるほか、
新型輸送機オスプレイも搭載できるということです。


政府は「自衛隊は攻撃型空母を持つことができない」という見解を示していますが、
海上自衛隊は、戦闘機などが発着できないことから、
「空母」ではなく「護衛艦」にあたるとしています。

ただ中国など周辺諸国を刺激する可能性もあります。

ただ中国など周辺諸国を刺激する可能性もあります。

ただ中国など周辺諸国を刺激する可能性もあります。


ふーん(嘲笑)


続く。





 


平成26年度防衛大学校卒業式~帽子投げと任官辞退者について

2015-03-24 | 自衛隊

今年も防衛大学校の卒業式が恙無く行われました。

知己の方から今年もニコニコ生放送で放映があるよと教えていただいたので、
当日の夜7時から行われた再放送を見ました。
画面をキャプチャしたのであまり画質は良くありませんが、
見損なった方のために途中までご紹介します。

途中まで、というのは、安倍総理の挨拶の頃に視聴者が増えて、
一般会員が追い出されてしまったのにもめげずに何度も入り込んだ結果、
任命式のシーンから画面が固まってしまい、停止画像にコメントが流れているだけ、
という状態が延々と続くのに業を煮やして見るのをやめたのでした。

教えてくださったのは、当ブログにも何人かおられる、「身内が防大生」である方ですが、
やはり父兄の方なればこそ、防衛大臣および総理大臣がどのような訓示をするか、
ということに強い関心を持っておられるということでした。

我々にとっては国単位で考える漠然としたことでも、防大生の家族ともなると、
国防の現状はそのまま娘息子の将来の運命でもあります。

外圧利用とでもいうのか、アメリカやドイツを始め他国に働きかけて
安倍政権は右派政権であり日本は軍国化に傾いていっている、
ということにしたい民主党始め野党左派やマスコミ(リベラルなんて言うもんか)の
レッテル貼りにも等しい批判に対し、安倍首相がこの場でなにを表明するのか、
それに興味を持たない関係者はいないでしょう。 



それではまいりましょう。

「寿司」ですが、この瞬間まで何もない会場の様子が延々と写っていたので、
寿司を食べながら見るわ、などと雑談しているわけです。
今年もニコニコのコメントをともにお楽しみください(笑)

中谷元防衛大臣。
防衛大臣を退く前から中谷元防衛大臣とはこれいかに。



防大OBであることから、わたしの所属するもう一つの防衛関係団体では
講演会などでお名前をお見かけします。

これは日本が直面している防衛問題の現状について講演会ができるくらい

知悉しているということであり、(民主党時代はそれこそ何も知らないのは
文民統制だと言い放つような馬鹿議員が防衛大臣だったことがあるのです)
制服組出身を防衛大臣にしたことは、

安倍総理が防衛省の設置法条文を現在改正しようとしていることとつながります。

これはどういうことかというと内局の背広組、本官が制服組自衛官より優位を保つと解釈される
12条の条文が不適切だされたということなのですが、同時に部隊運用(作戦)を、
今まで分担されていた状態から制服組主体に改める
「運用一元化」を盛り込む予定だそうです。



安倍首相入場のアナウンス。



キャプチャした時にアイコンが写ってしまいました(_ _;)



栄誉礼で儀仗を行う儀仗隊。




国家斉唱(笑)




卒業式授与。



やっぱりハンモックナンバー上位からですか。
一人女性の姿が見えます。



国分良成大学校長が賞状の授与を行う間音声なし。
以前は少しだけ(恩賜の短剣組?)名前が聞こえた気がするのですが、
今年は全くなしでした。
インターネットですから誰が見ているとも限りませんしね。
もちろん、その気になれば外国からでも視聴できるってことは、
成績優秀な将来の将官候補の名前をチェックして、彼らに

ハニーとかマニーとかのトラップをかけることを考えるような
けしからん国だって・・・・。おっと。



一人が受け取って前を立ち去ると、全員が機械仕掛けのようにざっ!と前に一歩進む、
その様子が・・・・・



ピラゴラスイッチという某公共放送の番組で行われる

「アルゴリズム行進」を皆に想起させたようでございます。

話が出たからには(笑)ここで全く防大と関係ないですが、わたしの最もお勧めする
「フィリピン刑務所でのアルゴリズム行進」動画を貼っておきます。

1000名近くで行いギネスに挑戦です。

アルゴリズム行進 (フィリピン の 刑務所)





国分校長挨拶。後ろの人は自分が映っている自覚はないのか。




安倍首相訓辞。


訓示はまず昨年練習艦「かしま」が南方で戦死した日本軍の将兵たちの
137柱のご遺骨を日本に連れ帰ったことから始まりました。
日本の平和が戦死した人々の犠牲の上に成り立っていること、そして
その平和を守り抜くために日本は「平和国家」という言葉を唱えるだけではなく、
国際情勢の変化と向き合って自衛隊もそれに対応してきた、と述べました。

「地にいて乱を忘れず」

という吉田茂元総理が防大1期生に向けた訓示をひもとき、
昨日までの平和は明日からの平和をも保証するものではない、従って
不戦の誓いを守るならば「行動しなければならない」というのが
マスコミの報じるところの

集団的自衛権の行使を可能とすることなどを含む、
安全保障法制の整備を着実に進めていく考え」

を示したということのようです。

その上で、

「日本が戦争に巻き込まれる、などというただ不安を煽ろうとする無責任な言説は
荒唐無稽なものであることはこの70年の歴史が証明している」

と右傾化への懸念を吹き飛ばし、有事には「自らの命を顧みず」任務に遂行する
自衛官たちの命についても自分が責任を負うものだとしました。

そして「軍事力」とは「戦う」ということにとどまらず、災害派遣はもちろん
国際社会において機雷除去や復興のためのPKO活動で貢献することなど、
広がりを見せている今日、自衛隊指揮官への期待は大きいと語りました。

なんども自衛隊イベントで安倍首相の訓辞を聞いてきましたが、必ず
どこかで首相は自衛隊員の家族に向かって、自衛隊最高指揮官としての責任と、
大事な子女を預かる者としての責任を重く感じている、と述べています。


自衛隊員の生命に責任を持つ、という言葉の意味は、つまりいかなる事態になっても

野党が言うところの”自衛隊員が殺し殺されるような事態”は政治によって回避する、
というのと同義だと思うのですが、 マスコミ的にはそんなことはわりとどうでもいい話なので、
今日もまた記者クラブで決定した「憲法改正への意気込み」という項目だけが
当日の安倍首相が語ったこととして報道されるのでした(笑)


様式美というかお約束というか、といったところでしょうか。



続いて元防衛大臣の挨拶。
中谷防衛大臣の辞には、防大に海外からの留学生が学び卒業することが
強調されていると思いましたが、式典の後の記者会見でも、
日本がこの度シーレーンの安全確保を期したインドネシアとの防衛協力の
覚書を取り交わしたということを話しています。

http://toyokeizai.net/articles/-/63970

これが中国の海洋進出への活発化を念頭に置いたものであることは
間違いのないところです。



白石隆 政策研究大学院大学学長の祝辞。

こういう名前の大学があることをわたしは今の今まで知りませんでした。

内容は・・・・・後ろの寝ている人の左と、演者の右の安倍総理SPの
鋭い目つきが気になって、ほとんど覚えておりませんm(_ _;)m



卒業生代表答辞。(だったと思う)

この人がハンモックナンバー首位の世が世なら恩賜の短剣ですか~。



学生歌というのはたぶん校歌と同義なのですが、なぜ校歌と言わないのかはわかりません。


♪海青し太平の洋   緑濃し 小原の丘辺  学舎は 光輝よひ
真理の 道の故郷   丈夫は呼び交ひ集ひ  朝に忠誠を 誓ひ
夕に祖国を思ふ   礎ここに 築かん  あらたなる  日の本のため♪



というわけで、お待ちかね帽子投げた~~いむ!


学生が一人前に出て、なにやら応援団ぽい宣言をしたと思ったら、
皆が同時に立ち上がり、



轟音を響かせて駆け出して行きます。

昔(2006年)出席した自民党の河野太郎氏がHPで

来賓の前でそんなことをするのは失礼だということから、来賓が退場した後に帽子投げが始まる。
もしも、防大の卒業式に来賓として参加して、帽子投げを見ようとするならば、
来賓退場のアナウンスでさっさと退場し、すぐさま別の入り口から戻ってこなければならない。

とぼやき気味に書いています。

9年も前のことなので今はどうなっているかわかりませんが、
これがあるから挨拶の時間も耐えられたのに、と不満に思う
出席者は多かったのではないかと思われます。



右端にいる卒業生は、何か落としたらしく、わざわざ
戻ってきて床にかがんで拾っていました。



皆一目散に出口を目指すのですが、一般人なら狭い通路で団子になり、

将棋倒しになって事故になってしまうかもしれません。

その中で、なぜか二人だけが別の方向に走っていきます。



二人はなぜか赤い毛氈の敷かれた階段を駆け上り、壇上に向かう模様。

なんだなんだ、この二人は何をしようとしているんだ?



と思ったら、カメラは帽子と椅子に移動してしまいました。

この人たちが何をしたのかご存知の方おられますか。



そして嵐が過ぎ去った後の会場。




転んでた人いましたか・・(笑)




国分校長、嬉しそう。

中谷防衛大臣は30年前(くらい)のことを思い出したかな?



続いて、統合幕僚長始め、自衛官が退場。

壇の下に降りて歩いて行くとき、どこからともなく人が出てきて、
通路に落ちている帽子を拾って道を空けていました。



この放送は録画なので、編集されていたのですが、次のシーンは

卒業生たちが任官する部隊の新しい制服に身を包んで再入場し、
任命式、宣誓式となりました。

・・・が、わたしはこのあとまた音声がなくなったところで
画面がフリーズしたままだったので、ここまでしか見ていません。

おそらく、彼らは自衛官の「服務の宣誓」を行ったのでしょう。

さて、卒業式があることを教えてくださった方の情報によると、
今年卒業の59期生は、定員480名に対し、国内入校者562名という大世帯となり、
そのため予算を圧迫し、その年度の3年の硫黄島研修、2年のスキー訓練をなどを
中止するという検討がなされたほどだったそうです。


(スキーはともかく、硫黄島研修には何をおいても行っていただきたいと思いますが)

ところで、防大の卒業生の話になると、ニュースも含め世間では
何人が任官辞退したかということがことさら話題になるわけですが、今年も
たとえばエネーチケーニュースでは、首相の訓辞が

「集団的自衛権の行使を可能とすることなどを含む、
安全保障法制の整備を着実に進めていく考え」

であったということを報じ、最後に任官辞退者が25名であるとわざわざ報じました。



これについて私見ですが、入ってはみたがどうしても自衛官に向いていない、

と自覚しながら自衛官を続けることは誰にとっても良い結果とはなりませんし、
逆にどんな人物でも指揮官にしてしまうのは間違っています。

成績がいいから医学部に入ったけど、医者に向いていないと知ったら
潔くやめるのが、
本人のためであり、将来不適格な医者に診察されるかもしれない患者をなくすというのと同じで、
自衛官の「任官拒否」も認められるべきではないかと思うのですが・・・。



そして、報道や世間で言われる「任官拒否」といっても理由は様々で、
優秀な人材を
確保したい企業に、自衛官の二倍の給与で
ヘッドハンティングされる者ばかりではなく、
防衛産業に関連した民間企業に就き、
人脈によって国防に寄与する、
というケースも多いことも語らなくては不公平な気がします。

マスコミはこの件を、毎年自衛隊否定につなげるような印象操作に使うわけですが、
それがまったくの見当違いであることは当然として、むしろそのように言われることを受けて
防衛大学校が辞退をさせまいとすることの方が問題ではないでしょうか。

現に、これもいただいた情報によると、近年任官辞退をしないよう指導が厳しいようで、
そのため卒業するまでは任官辞退を匂わせず、幹部候補生学校に入校するや
退職手続きをする卒業生が少なくないらしいのです。

つまりわざわざ陸空海の制服に身を包み、服務の宣誓を行いながら
退職することを内心決めている者がこの中にも何名か含まれているということになります。


そんな欺瞞のうえに切られる社会人生活のスタートには「幸先悪い」という言葉さえ

浮かんできて、他人事ながら何やら気の毒な気さえしてしまうのですが、
任官辞退が許されない空気が、彼らをしてこのようなことまでさせるのでしょう。

国費で4年間育ててきた人材を確保するために学校がこのように対処するのは当然といえますが、
個人の資質や意欲、適合不適合の見地からみれば、画一的な指導もまた甚だ疑問と言わざるを得ません。

防衛大学校はマスコミの「任官辞退は右傾化への拒否」などという低次元の印象操作に与せず、
長期的に見た組織の精強化という観点で、自衛官の育成を行っていただきたいと思います。









駆逐艦「叢雲」-The Captain Is The Last-

2015-03-23 | 海軍

呉海軍墓地の慰霊碑を元にお話ししているこのシリーズ、
前回駆逐艦「叢雲」の途中で終わってしまったのですが、
その前に、タイトルの英語の意味をご存知でしょうか。 
これは全部最後まで言うと

The captain is the last man to leave the ship
(船長は船を離れる最後の人間である)


海洋国家イギリスで生まれたらしい言葉です。
イギリスといえば、例えばあのタイタニック号の沈没の時、
船長のエドワード・スミスは船と運命を共にしており、幾つかの証言から
彼が救助される道を選ばなかったらしいことが明らかになっています。

スミス船長ががタイタニックの "The last man” であろうとしたことはまず間違いないでしょう。

昨年韓国で起こったセウォル号の転覆・沈没事件は修学旅行中の学生が
まともな救出作業も行われず多数犠牲になった驚愕すべき事故でしたが、
それよりも世界が驚いたのは、船長が乗客の足止めをした上で自分たちがいの一番に脱出し、
なぜか収容先の病院で濡れたお札を乾かしていたと報道されたことでした。

2012年にイタリアで起きたクルーズ船、「コスタ・コンコルディア」号の座礁では、
救出のために船内に入ることをためらった船長に、沿岸警備隊が

「今逃げようとしているのか。ほかの言い訳はするな。
今、乗客が船の中に何人いて、何が必要か把握せよ」

と叱責しさらなる救助活動を続けるよう指示を与えたといわれます。
この事故でクルーズ船の99%の乗客はクルーの救助活動によって助かりましたが、
脱出しようとしたときには、まだ船内に300人の乗客が残っていたことから、

乗客1人あたり懲役8年と計算して懲役2400年
死者・行方不明者34人に対して懲役8年ずつ合計272年
ずさんな操船による座礁の責任として懲役10年
それに伴う過失致死責任として懲役15年
合計2697年

同船長に求刑されています。(まだ結審していない模様)

平時の民間船でも乗員全員の生命に対して責任を持つのが艦長の使命。
これは最悪の場合にも

「たとえ船と運命を共にすることがあっても最後の一人であれ」

という海の鉄則でしょう。

ましてや戦時中の軍艦では、艦長が沈む艦に殉じるのは海軍軍人として当然である、
このような不文律が帝国海軍にあったとしても全く不思議ではありません。


というところで再び「叢雲」の話に戻ります。
前回少し説明したように、駆逐艦「叢雲」は1942年、「古鷹」の救助に向う途中
ガダルカナル基地を飛び立った米軍機の攻撃によりスクリューを破損し、
航行不能になった末、味方の手で処分されることになりました。

このときは米軍の命中弾が少なく、死者は20名とわずかだったため、ほとんどの乗員は
艦と運命を共にしようとする艦長と水雷長を残して、まず「初雪」に移乗しました。
そして乗員を別の艦に移したあと、「初雪」はもう一度艦長らを説得するために戻ってきました。


艦長たちは当初頑として説得に応じなかったそうですが、
「初雪」乗員の必死の努力でなんとか彼らが退艦することを承服し艦を後にした途端、
「叢雲」はそれを見届けるかのように炎上し始めたそうです。


「わしはフネに残る!」


と言い張るも無理やり降ろされた軍人はたくさんいて、小沢治三郎もその一人でした。
マレー沖海戦でプリンス・オブ・ウェールズと運命を共にしたトーマス・フィリップ提督の話を聞き、

「俺もいつかはフィリップと同じ運命をたどらねばなるまい」

と話したとされる小沢は、いつか自分にそんな日が来た時には潔く死のうと覚悟していたはずですが、
マリアナ沖海戦で「大鳳」が沈没した時には「若月」を経て「羽黒」に移乗しており、
ご存知レイテ沖海戦のときにも攻撃を受けて作戦能力を失った「瑞鶴」から設備の整った
「大淀」に移乗させられています。

いずれの場合も小沢は艦に残ることを主張したそうですが、特にレイテ沖の場合は
指令を出す人間がいなくなってしまうと説得され、移乗を承諾しました。

ここで艦長が沈没時、その運命を共にした艦を列記していくと、

(戦艦)

金剛 (島崎利雄)大和(有賀幸作)武蔵 (猪口 敏平)

(空母)

蒼龍(柳本柳作) 飛龍(山口多聞) 瑞鶴(貝塚武男) 信濃 雲龍

(重巡)

羽黒 那智 麻耶 筑摩

(軽巡)

長良 名取 川内 神通 阿賀野



これに対し艦長が沈没前に別の艦に移乗した例は、



(戦艦)


比叡 榛名 霧島

(空母)

赤城 翔鶴 龍驤 翔鳳 瑞鳳 千歳

(重巡)

古鷹 加古 足柄 愛宕 鈴谷

(軽巡)

天龍 龍田 球磨 木曽 大井 五十鈴 由良 鬼怒 阿武隈 那珂 夕張 能代 矢作 大淀



中でも「蒼龍」の柳本艦長の最後は壮絶で、艦が沈む際、部下の制止を振り切り
燃え盛る艦橋にただ一人残って万歳を三唱しながら焼死したというものです。
江田島第一術科学校の「教育参考館」には、まるで阿修羅像のように
炎に包まれる柳本艦長を象った木像を見ることができます。

またここには出しませんでしたが、「朝潮」に乗っていた久保木秀雄駆逐隊司令や
「巻波」艦長などのように、駆逐艦の艦長も多くが沈む艦に殉じています。



退艦して生き残ったとされる艦長も、本人は残ると言って勲章まで出してきてつけたのに、

その後強引に説得されて退艦した「赤城」艦長青木泰二郎大佐のような人がほとんどです。


これについては少々穿った考えですが、引き止められることがわかったうえで

一応残ることを主張した艦長も中にはいたのではないか、とわたしは思っています。
この「赤城」の青木艦長と「比叡」の西田艦長の例があるからです。


「比叡」艦長の西田正雄大佐は「比叡」沈没時、
総員退艦させた後に艦に残ろうとしましたが、

「未来の戦艦大和艦長、さらには連合艦隊司令長官たりえる人物を死なせるのは忍びない」

と掌航海長が説得を試み、さらに艦橋から降ろそうとするも頑なに拒否したため、
掌航海長とその部下3人が西田を羽交い絞めにして甲板に担ぎ下ろしました。

そこで西田艦長は、後甲板に並ぶ乗員に訓辞を述べさせられるのですが、
終わってから再び、残る残らないで1時間半にもわたる押し問答になります。

 

その様子を「比叡」より将旗を移した駆逐艦「雪風」から見ていた第11戦隊司令官が、

「比叡の実情報告のため、雪風に移乗せよ」

と命令を出すことで、西田艦長を退艦させようとしました。
しかし命令を無視してでも比叡に残ろうとする西田艦長。
ついには上甲板に海水が押し寄せる状態となり、もはやこれまでと考えた掌航海長は
大声を出して暴れる西田の手足を担ぎ上げ、そのままカッターに無理やり運び込みました。

 

艦隊司令に比叡の状況を報告後した後、西田艦長はなおも「比叡」に戻ろうとしましたが
「雪風」は動き出し、そして「比叡」に魚雷を発射してその場を去りました。


こんな成り行きであったのにもかかわらず、「比叡」の動力が艦長退艦後も生きていたという理由で、
査問会議さえ行われず、問答無用で西田大佐には予備役、すなわち閑職への左遷決定が下ります。
このときにそれを決定したのが嶋田繁太郎
逆に西田大佐をかばったのが山本五十六で、

「 比叡1隻を失うことより、西田を失うことのほうが、海軍にとって痛手である」

と意見したのですが、山本と日頃仲が悪かった嶋田大将は判定を覆しませんでした。

先日アルバムの写真で、同じ日に大将に昇進した山本と嶋田が、

並んで靖国神社の参道を歩いている写真について説明したわけですが、
同学年で大将に昇任したたった二人なのに(だからかな)不仲だったんですね。

また「赤城」艦長であった青木泰二郎大佐も、沈没まで指揮を執り続け、
最後まで退艦を拒んでいたのを無理やり連れ出されたのにもかかわらず、
艦長退艦後「赤城」は無人のまま動き回ってしまい、それゆえ連合艦隊司令部(山本五十六)が
「赤城」の処分をためらう、というようなことがあったせいで、
ミッドウェー海戦の後、
やはり予備役に回されてしまっています。


「比叡「赤城」沈没は1942年、開戦からあまり日の経たない時期だったので、
これらの裁定が他の軍艦の艦長たちに与えた衝撃は大きく、したがって戦争末期になって
指揮官はできるだけ生き残って戦うべし、というような風潮になってきてからも、
彼らは逡巡するより先に、とりあえず「残る」と言うほかない心理に追い込まれていたのでは・・。



上に挙げなかった軍艦の艦長は、戦闘中に戦死したり、退避する間も無く沈没したり、
轟沈してしまって退避を選択する
余地もありませんでした。

「山城」「扶桑」「伊勢」「日向」
「加賀」「鳥海」「衣笠」「最上」「熊野」

などです。
そして戦闘状態でもないのに、何が起こったかわからないまま死んだ、
「陸奥」艦長の三好輝彦大佐も。

もしかしたら艦に残ることを表明した艦長の中には、あるいは
戦闘中に死んだこれらの艦長たちを羨ましいという気持ちはなかったでしょうか。
残ることを「選択」しなくてもよくなったという意味で。

そして、言い方は悪いですが、艦に残ろうとする艦長とそのお供一人に
(必ず二人残ることを言い出すのは賀来止夫艦長の影響か?)
 現在の海軍が置かれている戦況を説き、生き残って戦うようにと退艦を説得する幹部には、
あたかも結果が分かっているのに、一応そう決まっているからやっているといった、
まるで儀式を踏まえているようなやり切れなさを感じた者も少なからずいたのでは・・・。




「武士道とは死ぬことと見つけたり」というのは葉隠の言葉で、

二つのうち一つを選ばなければならない状態、つまり死ぬか生きるかというような場面では、
死ぬほうに進むものであり、それでは犬死にだなどという意見は、思いあがりである、

という考え方であり、それはまさに


”The captain is the last man to leave the ship”

の精神と相通ずるものがあります。


誰しも生きるほうが好きなのだからおそらく好きなほうに理屈がつくだろうが、
しかし、もし選択を誤って生き延びたととしたら、腰抜けである。

このような日本古来の武士道の思想が、帝国海軍に受け継がれたことは間違いありません。

しかしこれはもののふの「平時の心構え」なのであって、平時でなく戦場、
そして一対一で刀と槍で戦う武士の戦場と軍艦での戦闘では、
その精神をそのまま受け継ぐことは、あまりにも前近代的で非合理で、
まさに命の無駄遣いにすぎないという考え方もあろうかと思います。



「飛龍」に残ることを決めたとき本人は夢にも思わなかったでしょうが、
山口多聞少将が艦に殉じ、
多くの将兵たちの命の責任を取って死んだことは、
わずかながらもその後の帝国海軍に「殉死の美学」という名の呪縛を与えたとはいえないでしょうか。

山口少将の最期を描いた映画、絵、文章には涙を誘われずにいられないわたしですが、
また一方でこのような考えを振り払うことができないのです。



ところで、冒頭の「叢雲」の沈没の時、艦長とともに説得され、
最終的に退艦した
「叢雲」本多敏治水雷長ですが、
いくつかの艦の艦長を務めるうち終戦を迎え、
戦後は海上自衛隊に入隊して
南極観測船「ふじ」の初代艦長となり、初めて南極の氷を踏んだ自衛隊指揮官となりました。








「ルーズベルト」ニ与フル書~市丸利之助少将

2015-03-22 | 海軍人物伝

靖国神社の遊就館展示を見たことのある方は、一番最後の本土決戦のコーナーで
ガラスケースに収められた
「ルーズベルト」ニ与フル書、というコピーの文字に
必ず目を留められたことでしょう。

これは、昭和20年3月26日(公式)に硫黄島で戦死した、

市丸利之助海軍中将(最終)

が、硫黄島でしたためた、米国大統領ルーズベルトへの書簡です。

市丸少将は日本が玉砕することになった昭和20年3月の硫黄島の戦いで戦死しましたが
その最後の状況ははっきりしておらず、遺体も不明のままです。

ただ、亡くなる前にしたため、日系二世の三上弘文兵曹に英訳させた手紙が
アメリカ軍の手に渡ったことで、少将の名は人に知られることとなりました。


この手紙は日本を追い詰めて戦争を起こさせたことを正面から詰り、それまでの
白人支配の大国主義に立ち向かって有色人種の支配からの解放を目指す日本の立場を説き、
さらにはアメリカの勝利の意味に疑問を投げかけて終わっています。 

日本がなぜ戦わなくてはならなかったのか短い言葉でを全て言い尽くしたこの手紙は、
戦後、あの戦争を自分自身の負い目にしてしまってきた多くの日本人に、
負けたゆえに不当に負い続けていた戦犯国の汚名を晴らし、
もう一度日本の誇りを取り戻そうという思いを抱かせずに入られません。


昭和19年11月、第27航空戦隊司令官として硫黄島に着任した市丸少将は、
昭和20年2月19日に上陸してきた米軍との間で行われる熾烈な戦いに
すでに自分の運命を予感していました。
あの擂鉢山の戦いで「擂鉢山の6人」が星条旗を揚げたのは2月23日です。

余談です。
擂鉢山に揚げられた星条旗は翌日、翌々日、朝になると日章旗に変わっていたそうです。
闇夜に紛れて旗を(二日目は血で描いた日の丸だった)揚げに来ていた日本兵がいたのです。
アメリカ軍は躍起になってその周辺の草叢や洞窟を火炎放射器で焼き、
その後は日本の旗が擂鉢山に揚がることはなくなりました。


3月7日には、「海軍と中央の不手際を責めた内容」の総括電報が
栗林中将の名前で打電され、3月14日には日章旗が奉焼され(焼かれ)ました。

そして70年前の今日である昭和20年3月17日、栗林中将のあの決別の電報が打たれます。
その最後には

国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき


という句が添えられていました。

おそらく同日、市丸少将はこの「ルーズベルトに与うる書」を書き、
二世の兵曹に通訳をさせたのに違いありません。
この書は、市丸少将の遺書でもあったのです。

自分の書いた遺書がアメリカ軍の手に渡ることを期(ご)して、市丸少将は
この原文と英語訳を、それぞれ突撃する別の将校の体に身につけさせました。
彼らが死んだ後、敵が将校の遺体を検分することを見越してのことです。

 市丸少将の目論見通り、日本文の手紙はは村上治雄海軍通信参謀、英文は
赤田邦雄第二十七航空戦隊参謀の体に巻かれて米軍に発見されました。
市丸少将自身も最後に自分の体に日英両方の手紙を巻いていたと思われますが、
それらしき死体が発見されることはありませんでした。

もしこのことを考えて2部ずつ取られた写しの方が発見されたのです。
手紙は、というより二人の遺体は、硫黄島北部の洞窟内にあったということです。

その内容を口語訳で記しておきます。
出典はwikiですが、一部判断により手直ししています。


ルーズベルトに与うる書

 日本海軍市丸海軍少将が、フランクリン・ルーズベルト君に、この手紙を送ります。
私はいま、この硫黄島での戦いを終わらせるにあたり、一言あなたに告げたいのです。

日本がペリー提督の下田への入港を機として、世界と広く国交を結ぶようになって約百年、
この間、日本国の歩みとは難儀を極め、自らが望んでいるわけでもないのに、
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変を経て、
不幸なことに貴国と交戦するに至りました。

これについてあなたがたは、日本人は好戦的であるとか、
これは黄色人種の禍いである、あるいは日本の軍閥の専断等としています。
けれどそれは、思いもかけない的外れなものといわざるをえません。

あなたは、真珠湾の不意打ちを対日戦争開戦の唯一つのプロパガンダとしていますが、
日本が自滅から逃れるため、このような戦争を始めるところまで追い詰めらた事情は、
あなた自身が最もよく知っているところです。

畏れ多くも日本の天皇は、皇祖皇宗建国の大詔に明らかなように、
養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三綱とする八紘一宇という言葉で表現される
国家統治計画に基づき、地球上のあらゆる人々は、その自らの分に従って
それぞれの郷土でむつまじく暮らし、恒久的な世界平和の確立を唯一の念願とされているに他なりません。


*この部分の英訳は


“Yosei” (Justice), “Choki” (Sagacity) and “Sekkei” (Benevolence),

となっています。
 

このことはかつて、

 四方の海  皆はらからと 思ふ世に  など波風の 立ちさわぐらむ

という明治天皇の御製(日露戦争中御製)が、あなたの叔父である
セオドア・ルーズベルト閣下の感嘆を招いたことで、あなたもまた良く知っていることです。


*セオドア・ルーズベルトは第25、26代大統領でFDRの叔父にあたります。
東郷元帥が日露戦争終結後読み上げた「聯合艦隊解散之辞」に感銘を受け、
これを英訳させて軍の将兵に配布させていたことが有名ですし、
自身は日本びいきでアメリカ人で初めて柔道の茶帯を取得しています。
忠臣蔵(47RONIN)を愛読していたことも知られているのですが、
その後台頭する日本に脅威を感じてか露骨に牽制を始め、排日移民法なども作らせるようになりました。

ハワイ王朝を乗っ取ろうとした時、巡洋艦「浪速」「金剛」がそれを牽制したため、
ハワイを併合するという野望は崩れ共和国としたことも、嫌日の要因でしょう。

 

わたしたち日本人にはいろいろな階級の人がいます。
けれどわたしたち日本人は、さまざまな職業につきながら、
この天業を助けるために生きています。
我々帝国軍人もまた、干戈(かんか)をもって、
この天業を広く推し進める助けをさせて頂いています。

*干戈というのはいくさのことです。
この部分の出だしで市丸少将は「Japanese」ではなく「 We, the Nippon-jin,」
と自称していることが目を引きます。

「干戈」の部分の英文はこうなっています。

We, the soldiers of the Imperial Fighting Force take up arms to further the above stated “doctrine”.
(私たち帝国軍の兵士たちは、上記の「教義」を促進するために武器を取っている)



わたしたちはいま、豊富な物量をたのみとした貴下の空軍の爆撃や、艦砲射撃のもと、

外形的には圧倒されていますが、精神的には充実し、心地はますます明朗で歓喜に溢れています。

なぜならそれは、天業を助ける信念に燃える日本国民の共通の心理だからです。
けれどその心理は、あなたやチャーチル殿には理解できないかもしれません。
わたしたちは、そんなあなた方の心の弱さを悲しく思い、一言いいたいのです。


あなた方のすることは、白人、特にアングロサクソンによって世界の利益を独り占めにしようとし、
有色人種をもって、その野望の前に奴隷としようとするものに他なりません。

そのためにあなたがたは、奸策もって有色人種を騙し、
いわゆる「悪意ある善政」によって彼らから考える力を奪い、無力にしようとしてきました。


近世になって、日本があなた方の野望に抵抗して、有色人種、ことに東洋民族をして、
あなた方の束縛から解放しようとすると、あなた方は日本の真意を少しも理解しようとはせず、
ひたすら日本を有害な存在であるとして、かつては友邦であったはずの日本人を野蛮人として、
公然と日本人種の絶滅を口にするようになりました。

それは、あなたがたの神の意向に叶うものなのですか?

大東亜戦争によって、いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば、それぞれの民族が善政を謳歌します。
あなた方がこれを破棄さえしなければ、全世界が、恒久的平和を招くことができる。

それは決して遠い未来のことではないのです。

あなた方白人はすでに充分な繁栄を遂げているではありませんか。
数百年来あなた方の搾取から逃れようとしてきた哀れな人類の希望の芽を、
どうしてあなたがたは若葉のうちに摘み取ってしまおうとするのでしょうか。

ただ東洋のものを東洋に返すということに過ぎないではありませんか。
あなた方はどうして、そうも貪欲で狭量なのでしょうか。

大東亜共栄圏の存在は、いささかもあなた方の存在を否定しません。
むしろ、世界平和の一翼として、世界人類の安寧幸福を保障するものなのです。
日本天皇の神意は、その外にはない。
たったそれだけのことを、あなたに理解する雅量を示してもらいたいと、
わたしたちは希望しているにすぎないのです。

ひるがえってヨーロッパの情勢をみても、相互の無理解による人類の闘争が、
どれだけ悲惨なものか、痛歎せざるを得ません。

今ここでヒトラー総統の行動についての是非を云々することは慎みますが、
彼が第二次世界大戦を引き起こした原因は、第一次世界大戦終結に際して、
その開戦の責任一切を敗戦国であるドイツ一国に被せ、極端な圧迫をする
あなた方の戦後処置に対する反動あることは看過することのできない事実です。

あなたがたが善戦してヒトラーを倒したとしても、その後、
どうやってスターリンを首領とするソビエトと協調するおつもりなのですか?


*ヒトラーはルーズベルト死去の直後、4月30日に自殺した 


およそ世界が強者の独占するものであるならば、その闘争は永遠に繰り返され、

いつまでたっても世界の人類に安寧幸福の日は来ることはありません。

あなた方は今、世界制覇の野望を一応は実現しようとしています。
あなたはきっと、得意になっていることでしょう。

けれど、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、そういった得意の絶頂の時に失脚したのです。
願わくば、私の言外の意を汲んでいただき、その轍を踏むことがないようにしていただきたいと願います。

市丸海軍少将



わたしはこの文章を読むうち、あらためてぞくぞくと鳥肌が立つのを感じました。

この手紙は日本を煽って戦争に仕向けたアメリカの欺瞞を糾弾しつつ、
「ファシズムとの戦い」という大義名分を叫びながら、一方では有色人種の人権を踏みにじっている、
というこの大いなる矛盾を突いたものでした。


お前は今勝ったと思って得意になっていようが、その勝利は決して真の勝利ではない、
と市丸少将が看破した通り、戦後、かつての強者の元から日本が望んだように
すべての国が立ち上がり、独立を果たしていきました。

「貪欲で狭量な大国たち」が被支配階級の代表として戦いに立ち上がった日本を叩き潰し、
極東国際軍事裁判において二度と自分達に逆らえないようにしたはずにもかかわらず、
一旦そのように動き出した大きな流れを押しとどめることすらできなかったのです。



そして市丸少将の「どうやってソ連と協調するつもりなのか」という言葉は、
不気味なくらい、戦後アメリカの憂鬱を言い当てています。
この東西対立がなければ、もしかしたら被支配国の独立は
もう少し先送りになっていたという因果関係までうっすらと予想されるではありませんか。



先日、映画「アメリカン・スナイパー」について書いたとき、マイケル・ムーアが

「アメリカはイラクを開放してなんかいない。自分達の過失をおとぎ話のように語るな」

とベトナム、イラク、アフガニスタンの全てにおいてアメリカが解放者などではなく、
むしろそこへいったのは失敗だったと認めるべきだ、と言っていたことを書いたのですが、
今も昔も大国アメリカの大義名分なんてこんなものです。

マイケル・ムーアがこれを読んで、自分の叔父を殺した日本兵のいる日本が
解放者だったと認めるかどうかは甚だ怪しいところですが(笑)


「得意の絶頂の時にウィルソンが失脚した」ように、得意の絶頂のFDRは、
手紙が書かれたわずか一ヶ月後の4月12日に死亡したため、これを読むことはありませんでした。
死もまた「失脚」であると考えれば、手紙は奇しくもFDRの運命を言い当てたことになります。

もし合衆国大統領が生きてこの文章を読むことがあったら、そのとき彼はどう感じたでしょうか。
この血を吐くような「虐げられてきた民族の心の声」を聞いてなお、
一片の良心に照らしても神の前に恥じることすらなかったであろうと考えることは、
むしろこの政治家の人間性を貶めることのような気さえします。


わたしは戦後70年後の日本人の一人として、この世界が
市丸少将の言ったことそのままになったことを鑑みるに、日本は戦争には負けたけれど
最終的に目指した勝利を(敵から見るとこれもまた大義名分に過ぎないのですが)
勝ち取ることはできたのだと考えずにはいられません。

かつての植民地、被支配国が大国と同じ一票の権利を持ち、国同士対等である
という70年前日本が理想とした社会が曲がりなりにも生まれたのは、
アメリカが勝ったからではなく、日本が戦ったからだと確信するものです。



市丸少将の書いたルーズベルトへの手紙は、アメリカ軍の手に渡ったあと、

7月11日、新聞に掲載されて アメリカ人は皆これを目にすることになりました。

 これが当時アメリカに当時論議を巻き起こしたという記述はどこにもありません。
「正義のアメリカ」に楯突く小賢しい言論とほとんどのアメリカ人は思い、
ごく少数の人間が、この言葉に何かを感じるだけに終わったのかもしれません。


ただ、わたしは、このような手紙、アメリカとその大国主義を真っ向から否定する意見を、
戦争が続いているにも拘らず、隠すことなく全米に公開したアメリカという国を、
良くも悪くも文明国であると思い、そこに民主国家としての良心を見ます。


そしてやはり、市丸少将の最後の言葉の持つ普遍の力は、決して少なくないアメリカ人、
移民の国であるアメリカにとって、人間としての良心に訴えかけるものであったと信じたいのです。

アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官、チェスター・ニミッツ元帥は、
この手紙をAnnapolisの海軍兵学校に提出させ、そこに納めさせました。
このことを以って決めつけるわけではありませんが、ニミッツ提督もまた手紙の内容に真理を認め、
市丸少将の叫びに共鳴した一人だったからではなかったかとわたしには思えてなりません。


 A Note to Roosevelt(Battle of Iwo Jima)
 



 


華の二水戦

2015-03-20 | 海軍

「華の二水戦」という曲をご存知でしょうか。
なんでも「艦これ」関係から生まれたもので、帝国海軍でももっとも練度が高く、
攻撃力に優れていたと誉れの高かった第二水雷戦隊をトリビュートしてできた、
アニソン風の、ってアニソンなんですがまあそういう曲です。



【艦娘想歌】華の二水戦

音楽関係者のくせに「千本桜」のピアノバージョンを着メロにしているくらいなので、
この手の曲にも、出来さえ良ければ偏見は全く持たないわたしですが、
この曲はいかんせん曲の出来以前に歌手の出来が(声優が歌ってるんですよねきっと)

・・というわけであまりの苦痛に最後まで聴けなかったのですが<(_ _;)>
このタイトルの「華の(花の)二水戦」とは、第二水雷戦隊の実際のキャッチフレーズでした。
それくらい二水戦はカッコよく、特に青年士官たちの憧れだったんですね。ええ。



日露戦争の2年前に、帝国海軍は艦隊の編成を行いました。
第一、第二艦隊はいずれも常設の戦闘部隊という位置付け。

第一艦隊は戦艦、第二艦隊は巡洋艦、巡洋戦艦からなる部隊です。
そのまま終戦までこの形態は存続したのですが、
第一次世界大戦の前に、この枠組みの中に新たに創設されたのが水雷戦隊です。

戦艦部隊である第一艦隊には第一水雷戦隊、そして第二水雷戦隊は第二艦隊の所属です。
帝国海軍には全部で6つの水雷戦隊が存在していました。

もしかして知らない方もいるかもしれないので一応説明しておくと、水雷戦隊とは

「水雷(機雷・魚雷・爆雷)攻撃を行うから水雷戦隊」

です。(砲撃・水雷が攻撃の二本柱として考えられていた)



そしてなぜ第二水雷戦隊が精鋭部隊となったか、ですが、前線部隊、

つまり最前線での攻撃が主任務である第二艦隊には、強力な装備と長大な航続力が要求され、
いきおいそこに、強力な装備の駆逐艦が投入されるようになったからでした。

第一戦隊ももちろん最新鋭艦が投入された前線部隊でしたが、

どちらかというと「斬り込み隊」の役どころである二水戦に対し迎撃、防衛がメイン。

従って「二水戦」そして戦時の臨時編成部隊である「四水戦」には装備だけでなく
最高練度の乗員が集められ、ここに配属されることは大変な名誉とされていたのだそうです。
たとえば「二水戦に転勤になった」となると、ガンルームの皆から羨ましがられて
有り金全部お酒を奢らされたほどだったとか。

ただし、その訓練は他のどの水雷戦隊よりも厳しく、日々異常な想定による訓練が
倦まず弛まず繰り返され、ついにはその訓練が過酷すぎて事故を起こすほどでした。


特にこのブログでもファンの多い陽炎型、わたしの好きな吹雪型
「島風」一隻だけの島風型と最新鋭の駆逐艦が次々と投入されていた最盛期には、
帝国海軍内のみならず、

「世界最強の水雷戦隊」

の名をほしいままにしました。
日本以外では誰が言ったか知りませんが。



ところで、その第二水雷戦隊の旗艦として帝国海軍の期待を一身に背負い、
またその期待に背くことなく最後まで活躍したのが、冒頭画像の記念碑、

軽巡洋艦「神通

でした。

・・・・え?

どこに「神通」の碑があるんだ、って?
いやわたくし、このとき下に人を待たせていたので、前回と同じく小走りに走りながらも
これらの碑の写真を漏れなく撮りまくったつもりでしたが、死角があったんですねー。
「神通」慰霊碑は、向こう側の、ちょうど字が隠れてしまっている方なのです。

これが「神通」のものであるとなぜわかったかって?

それは、手前にある個人墓石、

「故海軍中将 伊崎俊二之墓」

から類推したのです。
伊崎俊二少将(死後二階級昇進)は、第二水雷戦隊司令官として、
昭和18年7月11日、コロンバンガラ海戦で戦没した旗艦「神通」と運命を共にしました。

wiki


ところで、この最後の戦いは、「神通」が後世の歴史家から

「神通こそ太平洋戦争中、最も激しく戦った日本軍艦である

と賞賛されることになったものでしたが、その最後の戦いで「神通」は
味方の雷撃を成功させるため、旗艦として先頭に立ち、煌々と探照灯を照らしました。

たちまち「神通」は恰好の目標となり、「リアンダー」「ホノルル」「セントルイス」
からの2600発余に及ぶ砲撃、雷撃が集中し、艦橋への直撃弾で艦長佐藤寅治郎大佐、
およびこの第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将を含む482名が死亡しました。

しかしながら、この照射によって日本側は敵艦隊をほぼ壊滅状態にし、

沈没「グウィン」
大破「ホノルル」「セントルイス」「リアンダー」「ブキャナン」「ウッドワース」

対して我が被害は、攻撃を一身に受けた「神通」だけで、結果日本軍の勝利に終わりました。
(「雪風」がちょこっと小破)

「神通」は探照灯照射しつつ自らも果敢に攻撃を続け、艦首だけを残して沈みながらも
2時間以上砲撃を続けていた様子が、双方から畏敬の念を持って語られています。


このとき二水戦の駆逐艦部隊は、旗艦が喪失して退避命令を出すものがいなくなり、
相手を全滅するまで戦闘をやめられなかったという説もあるようですが、そうではなく、

精鋭部隊の二水戦が「神通」の弔い合戦とばかり、阿修羅のように戦い続けたというのが
本当のところではないかとわたしは思います。


ところで「異常な想定の訓練で事故が起こった」と先ほど書いたのですが、
その事故で損害を受けたのは、実はこの「神通」でした。

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これが事故直後の「神通」の傷ましい姿。
駆逐艦「蕨」と衝突し、「蕨」は沈没。
「神通」を避けようとした後続の「那珂」が「葦」に激突し両艦大破という大事故で、
これを美保関事件といいます。
「蕨」の沈没は激突からわずか26秒後で、乗員92名は何が起こったかわからないまま海に沈みました。

この厳しい訓練も原因を辿ればそこに「ワシントン軍縮条約」があり、
どれだけあの条約で海軍は追い詰められていたんだよ!と今更腹立たしくもあるのですが、
それはともかく、この訓練は『暗闇の中高速で艦の間を艦が縫う』といった
異常な想定で行われたことがわかっており、「神通」に探照灯が照らされて目潰し状態のところ、
接近してきた「蕨」に気づいた乗員の報告を艦長の水城大佐が聞きそこなった、
といろんな不運が重なった結果起こってしまった事故でした。

砲術出身士官は難聴が多かったそうですが、聞き取れなかったのはそのためでしょうか。
いずれにせよこの責任を感じた水城大佐は、判決前日、自決してしまいました。


その事故から16年後、暗闇の中探照灯を照らして自らの位置を知らせ、
「神通」は単艦砲撃の矢面に立って逝ったのです。
探照灯、という共通の言葉に、この事故が影を落としているような偶然を感じずにいられません。



前に行けなかったので下から柵越しに撮った

駆逐艦天津風之碑

アメリカ海軍の艦船は功績のあった軍人などの名前がよく付けられます。
これに対し、帝国海軍の艦船名は同じ地名でも「大和」「扶桑」などの「美称」、
そしてこの「天津風」を含む「陽炎型」のような「自然現象」などもあり、
実に文学的でしかもかっこいいものが多いのですが、とくにその中でもわたしが
最も美しく文学的でしかも勇壮な響きであると思うのがこの「天津風」です。

「天津風」とは読んで字の通り「天を駆ける風」で、百人一首の僧正遍昭作

天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ

から取られたことは間違いないと思われます。
当時は「天津乙女」という芸名の宝塚の大スターが全盛でしたから、
この艦名からそれを想起した人々もいたかもしれません。

開戦時にはこの「天津風」と「初風」「雪風」姉妹艦の「時津風」の4隻で
花の二水戦の第16駆戦隊を構成していました。

名前こそ典雅ですが、「天津風」は他の駆逐艦とは違う特色がありまして、

駆逐艦改良のため、テスト的に出力が大きな新型ボイラーを搭載していました。
乗組員には各種学校を優秀な成績で卒業した者ばかりが集められ、
その試験結果を観察、報告させデータが取られたそうです。

このデータを元に作られた新型缶を搭載した次期主力駆逐艦こそ、
日本駆逐艦史上に名高い重雷装高速駆逐艦「島風」でした。


開戦当初、彼女は「花の二水戦」の一員として南方に投入され、
船団護衛などに従事、第三次ソロモン海戦(野戦)では、その高速機動を遺憾なく発揮し
巡洋艦を撃破するなどしましたが、やはり相手を見極めるために探照灯を点けていたので
集中砲火を浴びることになり、大破し死者多数を出すことになります。

敵からの恰好の目標になると熟知していながら夜戦で探照灯を点けるというのは、
それでも雷撃を避けてみせるという高速性への自信の表れだったでしょうか。

その後も「天津風」は、艦体をズタズタにされても無事な第一砲塔だけで応戦、
小回りを生かして艦ごと向きを変えて砲撃を行う、という無茶ぶりを発揮して活躍を続けましたが、
ある海域で、米潜水艦の魚雷を受け、躯体が捻れて真っ二つになってしまいます。

このとき乗員は後ろ半分に乗り移ろうとしましたが、潮に流されて艦体はどんどん離れていき、
泳いで乗り移ろうとした駆逐隊指令の古川大佐ら34名は海に取り残され死亡しました。
田中正雄艦長は泳ぎ着き辛うじて生還しています。

艦橋が失われて、動力はもちろん海図も手元に残らなかった「天津風」。
どうしたとお思いですか?
艦内にあった雑誌の付録の地図から推定して救援無線を発したのです。
しかし案の定位置が180キロずれていて、友軍に発見されないまま一週間漂流することになり、
食料も無くなった末、フカを釣って食べたという話も残されています。

乗員の気力と体力が限界に近づいたとき、一式陸攻に発見され、その後
駆逐艦「朝顔」
「天津風」の艦体を曳航して生存者は生還しました。

「天津風」には失われた艦首部分と艦橋を仮設し、応急修理を施しておいて、
日本に自力回航して舞鶴で本格的に艦首を取り替える工事をすることが決まり、
船団護衛をしつつ日本に向けて出発しました。

wiki
最後の航行で交戦する「天津風」。艦首は仮設のもの。


この船団はしかし途中で敵の来襲を受け、「天津風」以外の僚艦は全て撃沈されてしまいます。

「天津風」は果敢にも単艦日本まで向かうことを決意しますが、すぐに敵が襲ってきます。
満身創痍で離脱したと思ったら、いつの間にか機雷源のど真ん中を航行しており、
そこを無傷で抜けたと思ったら今度は浅瀬に座礁。
苦心してそこから抜け出そうとしていたら陸からは現地の匪賊が襲ってくるというありさま。


ここに至ってもはや打つ術なしと、「天津風」からは、
廈門の陸戦隊との連携を恃んで
総員が退去したのち、軍艦旗が降ろされました。

「花の二水戦」の強者らしく自らの爆雷によって「天津風」はその波乱の生涯を終えたのです。




駆逐艦「叢雲」慰霊碑

「叢雲」も就役した1929年から1938年までの間、第12駆逐隊として二水戦の一員でした。
叢雲とは読んでその通り「群がる雲」のことです。

「花の二水戦」としては特に戦闘に参加していないようですが、
その後、日中戦争、ミッドウェー海戦、ソロモン諸島作戦の数々に参加しました。


「叢雲」の最後は、サボ沖で待ち伏せしていた敵にやられた「古鷹」の乗員を
捜索しているうちに夜が明けてしまい、ガ島を飛び立った飛行機に攻撃され、
結局味方の雷撃によって沈没するというものでしたが、この「叢雲」については

もう少し踏み込んでお話ししたいことがあるので、また別の項で。







 


WAVESあれこれ~「アメージング・グレース」

2015-03-19 | 海軍人物伝

さて、ホーネットの艦内を利用した「ホーネット博物館」のWAVESコーナー、
続きと参ります。
WAVES、直訳すると志願緊急任務のために受け入れた女性は、第二次世界大戦時、
軍の人員を増やす要求に応じて1942年8月に正式に組織されました。

当初から、WAVESは海軍の「公式部分」として扱われ、男性と同等に扱われました。
つまり、階級が高ければ女性でも男性の「上官」として敬礼される立場です。
冒頭ポスターの左のほうでも、男性の水兵さんたちが女性の士官を見て

「俺らも敬礼するの?」


などと侃々諤々話し合っている様子が描かれていますが、これはもしかしたら当初
海軍の男どもにとっても画期的すぎたに違いありません。
しかし、ともあれこの扱いは、女性軍人を集めるのに大いに効果を発揮しました。

軍人になっても地位は男性の下で仕事は補助、というものなら、
とてもではないけどアメリカ女性を集めることはできなかったでしょう。

驚くことに、WAVESの給与体系は全く男性と一緒でした。
給料が一緒なら彼女らを取り締まる軍規も全く同じです。
つまり、「特別扱いはしない」ということを表明して募集したのですね。

とはいえ、性差を考慮して戦闘艦や航空機の勤務からは遠ざけられ、
米国本土内の任務に限定されていました。

しかしご時世というのでしょうか、大戦の後半ごろから、本土内という縛りは外れ、
米国の領土とされている地域なら海外でも勤務できるということになって、
WAVESの一部をハワイに派遣するという動きもありました。

国は海軍勤務の女性軍人を広く募集します。
真っ白な制服を着て軍艦の見えるハドソンリバー沿いを闊歩する素敵なWAVES。

「この絶好の機会をお見逃しなく」「海軍はWAVESに貴女を必要とします」

そんな殺し文句に、海軍を志望した女性は多かったでしょう。



このリクルートポスターは、どうみても「ヴォーグ」の挿絵のノリですが、
これはのWAC、WAVES、そして海兵隊の制服をまとった女性たち。
写っていませんが一番向こうにはWAFの女性がいます。
いずれも(ってか同じ顔ですが)流行りの眉毛に真っ赤な口紅を塗っています。 



コーストガード、沿岸警備隊も負けてはいません。

アメリカ軍は軍隊ごとの摩擦をできるだけ避けるために、沿岸警備隊にも
海軍と全く同等の階級制度を採用していました。(います)

SPARDSというのは

 Semper Paratus and its English translation Always Ready

つまり、沿岸警備隊のモットーである「即応」のラテン語のあとに、
英語訳をくっつけたという説と、いわゆる「フォーフリーダム」、4つの自由の

Speech, Press, Assembly, and Religion

(言論、報道、集会、宗教の自由)
から取ったものだという説がどちらもアメリカ版のwikiページに別個に存在します。
どちらが正しいのかはわかりませんが、このニックネームを考案したのは、
沿岸警備隊の最初の女性司令官、

ドロシー・C・ストラットン大佐

であることだけは確かです。
ちなみにストラットン大尉はWAVES出身。
亡くなったのは2006年で、なんと107歳の天寿を全うしています。



ドロシー・ストラットン大佐コーナー。

彼女の名前はUSCGC Stratton (WMSL-752)」に残されました。



「マリーンになりませう」(戦中なので)
「戦いに海兵隊を解き放て」

ってとこですか。
ちなみに、toがfromだと全く違う意味になります(笑)



アメリカ人の好きそうな「過去の声ー未来への旅」という絵。
過去から現在に至る有名なミリタリーウーメンが一堂に会してます。



南北戦争の従軍看護婦や聖職者からはじまっているようです。
女性が制服を着出すのが第二次世界大戦時からで、ここには以前お話しした
WASP の初代司令官、ジャクリーヌ・コクランやナンシー・ラブがいるはずです。
29番はアメリカ海軍で初めて士官となり、WAVESの初代司令官になった

ミルドレッド・H・マカフィー少佐




朝鮮戦争のパート。



現代のパート。

黒人女性として初めて沿岸警備隊で回転翼のパイロットとなった
ラシャンダ・ホルムズが前にいますね。

アメリカ陸軍は2008年に史上初めて陸軍大将が誕生しています。
その名もアン・ダンウッティ陸軍大将
陸軍で「弾撃って」とはなんてぴったりな
と思ったら、兵站担当師団の司令官だったそうです。

この絵が描かれたのが2008年以降であれば、おそらく彼女も描かれているはずなのですが。


宇宙服を着ているのは、空軍大佐でNASAの宇宙飛行士となった

アイリーン・コリンズ空軍大佐


1999年のスペースシャトル、コロンビア号の初の女性船長を務めました。




おお、誰かはわからぬがなんと聡明そうな美人、と思った方、お目が高くていらっしゃる。
彼女の名はグレース・ホッパー
名門ヴァッサー女子大学とイエール大学で数学と物理学を専攻し、ヴァッサーで教鞭をとり、
女性で初めて数学の博士号を取ったという「アメージング・グレース」(彼女の愛称)でした。

彼女は1943年、つまり37歳にして海軍の予備役になり、翌年には中尉に進級。

同時にハーバード大学でコンピューターの開発に携わりました。
つまり、コンピューター開発者の仕事をすることが「海軍での仕事」だったということです。
だから多分カッターを漕いだり遠洋航海には行ったわけではないと思います(笑)


ところで、現在コンピュータ用語で使われるプログラムの不具合を意味する言葉としての
「バグ」という言葉は、当初彼女が実際に機械に蛾が挟まって作動しなくなったことから
その後不具合を「バグのせいで」と言ったり書いたりして定着した用語です。

もちろん彼女が生んだのはコンピュータスラングどころではなく、
英語に近い言語でプログラミングできるようになるべき、というその考えに基づき、
開発させたプログラミング言語COBOLです。
(これはこれでその後いろんな問題があったようですがそれはさておき)



退任前のアメージング・グレースのお姿。

彼女は1966年、中佐で予備役に退くのですが、翌年の1967年、
作戦部長付きのプログラミング言語担当として現役に復帰します。
このとき61歳。
定年後の再就職をもう一度海軍でしたようなものですね。
そして1973年には大佐、1983年には77歳にして代将(Commodore)、
そして2年後、80歳を前に准将になります。

まあこれは米海軍の階級制度で代将が無くなり准将になったためですが、
彼女の場合はこういった破格の昇進も「功労賞」といった意味合いがありそうです。

彼女が海軍を最終的に退任したのは79歳で、これは男女関係なく
最年長での退役の記録となっているそうです。

うーん、やっぱり「アメージング・グレース」だったんですね。




ここでもう少しWAVESの写真などを。
終戦後、日本への占領軍として駐留していた女性兵士たち。
宮島で記念写真ですか。

そういえば、占領軍のパレードで隊列をなしていた女性将兵たちはかっこよかったなあ。
ああいうのを見た日本人が「こら負けますわ」と打ちひしがれたであろうことは想像に難くありません。



朝鮮戦争における女性将兵たち。
韓国軍の女性兵士(っていたのね)たちと交流している写真がありますね。



「わたしも最初は同じ間違いをしちゃったのよね。
お化粧室ならここ真っ直ぐ行って3つ目のドアよ」

意味わかりますか?
甲板の「パウダールーム」とは、後ろで作業している水兵でわかるように
パウダーはパウダーでも「ガンパウダー」、つまり火薬庫のことなのです。




WAVESが内地に送るためのニューイヤーカード。
シャレが効いてるつもりなんでしょうが。

「もし残りの ”さんざびっちず” が いなくなってれば、
いつもの通りのお正月をお祝いできたのにね」

だそうです。
イタリアが降伏した後の、1944年に書かれたものですね。

それにしても女の人の出すカードじゃないだろこれ(呆)




 


ドキュメンタリー「ポセイドンの涙」~自衛官たちの”311”

2015-03-18 | 自衛隊

自衛隊の中の人に教えていただいて、「ポセイドンの涙」を観てきました。

大々的な宣伝もしていないようで、東京は渋谷のヒューマントラストシネマ、
大阪は十三のサンポードシティ(そういえばあったな~そういうの)にある
シアターセブンで、ごくわずかの間上映されているだけ(しかも1日1回)。
教えていただかなければ、おそらく観ないまま上映が終わっていたでしょう。


この映画は、東日本大震災で被災した人々というより、救難という立場で

現場にあった自衛官たちに焦点を当て、救う者の目線であの時何があったかを
浮き彫りにしようとしています。

ひとつの大切な命を救えなかったことで自衛隊員が流す痛恨の涙。
ひとつの大切な命を救えたことで自衛隊員が流す喜びの涙。
自分が救った命との別れ、そして再会。
ひとまわりも、ふたまわりも大きくなった命の姿に自衛隊員が流す感動の涙。
海上自衛隊が撮影した貴重な映像と共に、
「救った人と救われた人」から「ひとりの人間と人間」へと移りゆくドラマを捉えた
感動のドキュメンタリー。


これが映画の「アオリ」です。

被災者についてはあらゆるメディアが取り上げて語ってきましたが、救助に当たった自衛隊、
なかでもひとりの自衛官があの場にあってどのようなものを見、何を思ったのか、
それを語ったものは特ににニュース媒体にはなかったと思います。


この映画は海上自衛隊の全面協力のもと、災害当時の自衛隊所有の映像と写真を
(不肖宮嶋氏の写真も提供されていた模様)追いながら、何人かの自衛官に
スポットを当て、彼らと被災者の交流とともに、彼ら自身が被災者への思い、
救えなかった命に対する後悔などを語っていくというものですが、
映画HPで製作者はこのドキュメンタリーを


「自衛隊の賛美映画ではない」

と語っています。

これは自衛官たちが「救助するという体験を通じて自らも被災した」と位置付けてあり、

組織としての自衛隊ではなく、その中にあった彼らもまた、傷つきやすい一人の人間であり、
制服に身を包んでいる間は決して外に表すことのない、葛藤や苦悩を持つものとして描かれます。

その描き方でまず ”あれっ” と思ったのが、出演者の一人、水中処分員である
「つのしま」乗組員の2等海曹が、被災地で遺体捜索に当たった時のことを語るシーン。

本編では現場の声としてどんな遺体がどのような状態で発見されたか、ということが
本来なら「配慮」のため公にならないようなことまで赤裸々に語られます。
「つのしま」の2曹は、現場に入って最初の遺体を見つけたときのことを、

「その御遺体(の状態)は・・・・・言ってもいいんですか」

と口ごもったのちスタッフに断ったのです。

災害をテーマにしたドキュメンタリーで、救助側に話を聞くとき、普通はまず
災害地で彼らがどういう遺体を目撃したかということは聞きません。
ところがこの映画では、そういう生々しい体験をスタッフは聞き出そうとしたかのようです。





東日本大震災発生からわずか4分後に防衛省災害対策本部が設置され、
6分後に岩手県知事が自衛隊への出動要請を出したのと同時に、
自衛隊司令官が、出動可能な全艦艇に出港命令を出しました。

ちなみに阪神淡路大震災の自衛隊出動は発生から4時間後でした。



この映画には、立場的に分類すると3種類の自衛官が登場します。
まず、その命令系統の上にいて災害救助の指揮を執った司令官。

第4海災部隊指揮官 掃海隊群司令 福本出海将

災部隊指揮官 第2護衛隊群司令 淵之上英寿 海将補 

(いずれも階級は当時)です。

そして、その指令を受けて現場で直接任務に当たる自衛官たち。

掃海艇「つのしま」の2曹であり、屋根にしがみついたまま漂流する男性を発見し
救出した「ちょうかい」の乗組員であり、あるいはSH-60で津波のため浸水した
幼稚園の屋根から子供たちを救出したパイロットらです。

彼らはいずれも、あの場にあって ”そのときのことを思い出せないほど” 
全身全霊、死に物狂いの作業にあたりながらも、尚且つ

「もっと救えたのではないか」「もう少し早く来られれば生きていたのではないか」

という無力感を震災後感じてきた、と口々に語ります。



そして三番目は、指揮官でも現場で救助作業を行う実地部隊隊員でもない自衛官。
それが、本日画像の音楽隊隊員、村上渚3等海曹です。

村上3曹は横須賀音楽隊のフルート奏者。
お綺麗でしょ~?
わたしはあまり画像をちゃんと見ていなかったときには、
ドキュメンタリーと言いながら映像を挟んで芝居を行う作りかと思いこんでいました。
つまりこの写真が女優さんに見えていたんですね。


ところでわたしには先日、横浜みなとみらいホールで行われた横須賀音楽隊の
演奏会にご招待をいただいていたのにもかかわらず、当日ちょっとした事故が起こり、
涙を飲んだという悲しい出来事がありました。

横須賀音楽隊といえば、米国スーザ協会から”ハワード空軍大佐賞”を受賞したのだそうです。
ちなみにこの賞が外国の音楽隊に送られたのは賞が創設されて以来5回目ですが、
陸自中央音楽隊、空自中央音楽隊に続き横須賀音楽隊の受賞でそのうち3回が自衛隊の受賞となりました。
このときに行っていれば、、ホール壇上でアメリカ海軍第7艦隊70戦闘任務隊少将から
賞が代理授与される様子と、そしてフルートの村上3曹を見ることができたのに・・・・。


それはともかく彼女は、死力を尽くしてなお無力感を感じていた男性自衛官とは逆、
つまり、災害発生後何もすることができないと悔しく思ったことから、現地への派遣、
主に被災者への心のケアをするという任務に就くことを決心し、派遣の募集があった時
いち早く名乗りを上げたということでした。

この映画の主人公の一人が彼女であり、彼女と彼女に憧れる被災地の高校生との
震災後の交流が、あえていえば映画の”ドラマ”となっているのです。

しかし、「一人の人間、一人の女性としての自衛官」を描くためか、
村上3曹が音楽を演奏するシーンはまったく描かれません。




わたしが映画を見終わった感想は、ただただ「自衛隊ありがとう」の一言でした。

渋谷の映画館はちょっと大きめのホームモニターで観ているようなスクリーンで、
全部で50人くらい入る映画館に平日の朝で数えてみたら13人しかいませんでしたが、
映画が始まるなり、そこここで鼻をすする音が起こりました。

自衛隊ヘリから撮られた津波映像に、なぜかラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」や、
わたしが一度ここでお話ししたこともあるプーランクの即興曲15番「エディットピアフに捧ぐ」
などが被せられているのを聴いているうち、わたしも(主に右目から)涙が溢れました。



「自衛隊賛美ではない」


と言いながら、製作者の自衛隊に対する思い入れや賞賛の気持ははっきりと感じられます。
(監督は自衛隊関係の映像を多く手がけているいわば”専門家”)
スタッフに「国防男子」「国防女子」の仕掛け人?がいるということから見ても、
この映画によって海上自衛隊をもっと知ってもらいたい、
という意図のもとに制作が行われたのはまず間違いないところです。




その上で少し気になったことを書かせていただくと(でたw)。


屋根の上で漂流した男性、そしてその男性を発見し、救助した「ちょうかい」の隊員たち。
製作側は彼らにインタビューを行いながらその中でどちらもに「再会」を提案します。

九死に一生を得、そのあとも

「今もあの時の一列に並んだ自衛隊の人たちの姿が忘れられない」

と語る男性に異論のあるはずがありません。
しかし、「ちょうかい」の隊員は誰もがその提案に対して無言でした。



「会ってみたくありませんか」


と言われた三人の顔には、一瞬茫然としたような、戸惑ったような、もっとはっきり言うと

「それは困る」

という気持ちがありありと現れていたと思ったのはわたしだけでしょうか。
当人の心理を忖度する無礼は百も承知で言うのですが、このような大災害の救助にあたって、
職務として懸命にやったことに対し、お礼を言われるために救った側が
果たして救助者と「逢いたい」と思うものでしょうか。


もちろん自衛官たちが、職務に対して感謝されれば嬉しいのは当たり前です。

たとえば園児たちにお礼を言われたヘリ部隊の隊員たちが涙を流したように、
それを光栄だと思うことはあっても、それではお礼をされるために逢いたいか、
と聞かれたら、おそらくほとんどの自衛官はとまどうのではないでしょうか。



ほとんどの自衛官たちにとっても未曾有の災害発生は「初めての経験」でした。
皆が皆、そのときは夢中でただ任務をこなすのが精一杯だった、といいます。

彼らがどれだけ夢中だったかは、男性に会うことをようやく承諾した「ちょうかい」の一人の海曹が、
野原の真ん中で待つ男性のところまで歩いて行かされる(!)のですが、そのときのことを、

「(救助者の)顔を全然覚えていなかったので」

といったことにも表れています。

自衛官が救難作業をするのはそれが任務だからで、「好意」「善意」とは別の行動です。
さらに、「どこそこ所属の何々海曹」と救助者から顔を認識されることも考えていないでしょう。

感謝の会が催されるとかならともかく、救った個人にわざわざ会いにいけとなれば、

「任務でやったことなので」

とやんわり断るのがほとんどの自衛官ではないでしょうか。



映画製作者が、このように被災者と彼らを救った自衛官との間に再会を仕組み、

それをストーリーとしてこの映画を、言い方は悪いですが、ことさら映画的に、
感動的にしようとしている意図をここに見る気がしました。

もちろん高校生と憧れの自衛官のお姉さんの再会、というのは仕組まれたことだと知っていても
心の底から再会を喜び合う二人の姿に、いつの間にか泣かされていましたし、
そのものを否定しようという気には到底なれませんが、
もう一人の「主人公」である掃海艇の海曹が、収容した御遺体の遺族(夫)と
再会するということにまでなったとき、わたしは正直言って違和感すら感じたのです。

もっとはっきり言うと、もういい加減にしてあげてください、という気持ちです。




海曹は当初収容した御遺体について語り、自分の成したこと、成せなかったことを

思い、悩み、実に真摯な態度で取材に答えているうち、次第に

「もしできるならそのうちお墓にお参りしたい」

などと言うに至ります。
今となってはどこからが彼の意思だったのか。
あるいは製作側がその言葉を捉え、悪く言えば誘導したのかもしれませんが、
海曹はとにかく遺族と会うことになるのです。



二人の会話についてはここではお伝えしません。

もし、映画を観に行ける方がおられたら、ぜひ、わたしが何を言いたかったのか、
このシーンのときに少し思い出していただければと思います。

一言だけ言わせていただくならば、わたしはこの、誠実そうでひたむきで、
自衛官であることを心から誇りに思っている自衛官と、

妻の遺体を収容した自衛隊員に対して、お礼以外に言うべき適切な言葉を何も持てないらしい、
見るからに憔悴した影を漂わせる(顔は隠されていた)男性の邂逅シーンには、
見てはいけないものを見たように感じました。


事故や災害で愛するものを亡くした人に向かってことさらに、

「今のお気持ちは」「なんて声をかけてあげましたか」

などと聞くマスコミと寸分違うことのない確信犯的鈍感さ。
人間の感情は正直で、製作ものにつきものの
創り手のあざとさみたいなものが見えると、
途端に舞台裏を見せられたようで、鼻しらむというのか・・・。

たとえば「おおすみ」に「ジュピター」のメロディがかぶさるシーンや、
司令官が現地の子供たちに混じって一緒に手を振るシーンに感じる不意の感動とは
まったく異質の夾雑物が入り込んでくるような気がするのです。

気のせいか、始まって数分で始まりずっと続いていた”鼻をすする音”は、
この微妙なシーンのところではほとんど聞こえてきませんでした。


しかし、それをおいても、あの震災についてこのような個人的な信条を吐露する自衛官など、
制服の下に全ての感情を納めて淡々と任務にあたる自衛官たちをニュース映像で見る限り
想像もつかないというのがほとんどの国民ですから、こんな形とはいえ彼らもまた一人の人間である、
ということを突きつけた本編は、ある意味大変貴重な作品だと言えます。


もしかしたら製作者は、わたしのような論者に非難されることを百も承知で、
映像に彼らの「涙」を記録したかったのかもしれません。
「ポセイドンの涙」というタイトルの真意は、「鬼神も泣かしむ」に通じるのかと思っていましたが、
見終わった今、あらためてポセイドンが

「怒り狂うと地震を起こす海の支配者」

でありながら、同時に

「海の守護神」

でもあった、ということにも気づくのでした。
海の守護者
、それはつまり・・・・・。


 

自衛隊をよく知る方も、知らない方も、もし機会があったら
様々なことを考えさせられるこの映画をぜひ観ていただきたいと思います。



東京
 渋谷ヒューマントラストシネマ 20日(日)まで

大阪 シアターセブン 3月27日(金)まで予定



映画「ポセイドンの涙」ホームページ
 


地球防衛協会(仮名)顧問就任歓迎会

2015-03-16 | 自衛隊

わたしがひょんなことから、地球防衛協会日本支部(仮名)の顧問という、
肩書きは偉そうだけど実質なんの仕事もない地位に就いたのは、去年のこと。
地球防衛協会会長直々のご手配により、

「何の義務も発生しませんから」

というお言葉をいただいたのをいいことに、本日に至るまで
地方総監に表敬訪問をご手配いただいたり、自衛隊関係のイベントでは
ここぞと自費で刷った名刺を配ってみたりしつつも、一度もその協会が
どんなものであるのか知る機会のないままきてしまいました。

しかし、ここにいたってようやく、新人歓迎会を開いていただけることに。
やっと歓迎会が開けるほど新人の数が貯まっただけかもしれませんが。

さて、というわけで、当日の飛行機をマイレージのポイントを使って取り、
楽天で一泊6000円という最底値のMホテルシングルルームを予約。(安っ)

「楽しみだなあ~。歓迎会ってどんなかしら」
「あ、”手荒い歓迎”だったりして!」
「手荒い歓迎って何」
「『この度日本支部顧問に就任した・・』『聞こえ~ん!』『声が小さ~い!』みたいな」

つまらん知識ばっかり無駄に蓄えおってからに、TO・・・。


さて、歓迎会当日。

雨ですorz
どうしてわたしが自衛隊関係イベントに西日本に行く時、その日は必ず雨なのか。
今日はホテルで手荒い歓迎を受けるのが目的なので天候はどうでもいいとはいえ、
「伊勢」慰霊式といい、「ふゆづき」引き渡し式といい・・・。
近い将来に予定されているある自衛隊関係式典も、

「エリス中尉+自衛隊関係イベント=雨」

という最近確立されつつあるこの公式に則るのではないかと、嫌な予感しかしません。
ちなみに前の日、Siriに天気を聞くと


「明日は雨です。てるてる坊主の出番となりそうです」

雨が降るのがわかっているのに、てるてる坊主の出番とはこれいかに。

「じゃーてるてる坊主を作れば晴れるんですか」

と正面切って聞き返してみれば、

「おっしゃっている意味がわたしにはわかりません」

あんたが言うたんや。あんたが。



これは当日ではなくその翌日の空港で撮った写真。
3月中旬に入ろうとしているのにそういえば昨夜は冷え込んだし、今日は雪。



しかも西日本だというのに・・。
やはりわたしと自衛隊関係イベントは天候的に相性が悪いのか。



さて当日。いきなり歓迎会会場です。
とあるシティホテルの宴会場で行われた歓迎会、名札をつけて会場に入ると、
両隣は防衛協会会長と地元K済Do友会会長、と、知り合いががっつり固めてくれていました。
地球防衛協会の目的というのは地域の防衛問題、というと堅苦しいのですが、
要は自衛隊を応援していきましょうといったファンクラブ的色合いが強いものらしいです。

会員は地元の会社社長、弁護士や会計士などの個人事業主、それから元自衛官。
元自衛官はその後会社経営者となったり、あるいは隊友会の偉い人だったり。
あとは県会議員や政治家秘書、なんて方もおられました。
皆さん防衛問題と自衛隊に大変関心があるという一点では共通しているのですが、
職種も年齢もまちまちです。

この写真は、暫しの歓談の後、壇上に3名ずつが上がって自己紹介をしているところ。
皆さんの自己紹介を聞きながら気づいたのですが、特に企業経営の方は
実質自衛隊と取引がある、ということで会員になっているケースが多いようでした。
自衛隊もまた地域経済の輪の一環と考えれば、当然のことかと思われます。



ところで最新の内閣府統計によると、「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」で、

自衛隊に好印象を持つ回答が92.2%に達し、昭和44年の調査開始以来、過去最高となりました。
なんでも、東日本大震災のあと、その救援活動を評価された数字と見られる91.7%を
またしても上回ったということです。

内訳は、「良い」41.4%、「どちらかと言えば良い」50.8%。
「どちらかといえば悪い」「悪い」はわずか4.8%でした。


わたしが接する経済人という限られた範囲でいうと、自衛隊と商売で関わっている会社経営者は勿論、

そうでない人たちも会社に日の丸を揚げ君が代を歌い、考え方は保守あるいは保守寄りですし、
日本の企業であることを何よりも会社のアイデンティティにしています。

すなわち、その立ち位置から自衛隊を応援しこそすれ、否定する理由は全くありません。

翻って「自衛隊反対」とか、ついでに9条どうたらこうたらみたいな人たちって、

どうも学校の先生や公務員、企業勤めでも労組、あとは学生といったイメージがあります。
あとは朝日新聞の記者みたいなタイプね。

いっとき「ネット右翼」とはイコールニートのひきこもり(ついでに三次元オタ)
みたいなレッテルを貼ろうとして色々と印象操作をしていた一派がいたようですが、
ネットで保守思想を語ることを「ネット右翼」と決め付けるのであれば、
他ならぬ当ブログ主催者などもそれに当てはまってしまうわけで・・。

でも、わたしこのどれにも該当しないしな。

こういうレッテルはあくまでも彼らの脳内産物で、逆も真なりとすれば
わたしが持つ反対派のイメージもまた単なるイメージにすぎないと言えないこともないですが、
実態が「日教組」「労組」「共産党」「社民党」「非日本人」だったり、
代表的な反対派でパッと思い浮かぶのが辻元清美や福島瑞穂だったりするので、
イメージと実質は決して乖離していないと思われます。



そのうえであえて言えば、反対派は

「社会的に経済活動に組み込まれていない」

つまり物を作ったり売ったりしている人はあまりいないように思うのです。

こういう者は得てして机上の空論で全ての物事を処理するきらいがあり、したがって
絵に描いた餅のような平和論に与するが故に、自衛隊にもまた反対するのではないか、
・・と、なんとなく因果関係が見えるような気がするわけでございます。



つまり会社経営者等経済人に反対派がいないのではないかってことなんですが、
実際にも組織を動かすものとして、その人材育成法を自衛隊組織に学ぶ会社経営者もいます。

たとえばこのときの挨拶で、会社社長の一人は、自衛隊に社員を研修に行かせていると語りました。

「新入社員に社員教育の一環として入隊してもらうのですが、帰ってきたら顔が違うんです」

そういう教育機関としての絶対的な信頼もまた自衛隊に対する協力へと繋がっていきます。



自衛隊側にとっても防衛協会や協力会との付き合いは大切なものです。
なんといっても隊員の安定した再就職雇用者としての企業経営者がいるわけですから。

「かしま」艦上パーティで、自衛官の将官クラスの方が招待客の一人に

「いつもたくさん(退職自衛官を)雇っていただきまして」

みたいなことを言っているのを横で聞いていて思ったのですが、
企業側も自衛隊で鍛えられた人材だからこそ安心して自分のところで雇えるわけで、
これが本当のウィンウィン関係。



この壇上であいさつをしている海上自衛官は、地元地本の募集課長という肩書きの2佐。
ご本人は回転翼操縦出身だそうです。
後でご挨拶に行った時に

「SH-60です。JでKには乗ってません」

とおっしゃっていました。

そのとき隣にいた地球防衛協会副会長がわたしに(この方は”ふゆづき”の時にもお会いした)

「Jって知ってる?ジャパンのJですよ」

「自慢ではありませんが、わたし、JとKの違いはローター見たらわかります」

「ほーそれはすごいなー」

するとニコニコしながら聞いていた2佐、

「これ(といって手のひらを下に向け手首をくの字に折った両手を広げた)がKでー、」

いいなあこのリアクション。萌えました。
このとき、横には司会をしていた県会議員という女性もおられ、4人でしばらく話したのですが、
こんな話が出ました。

「知ってますか?当地は大東亜戦争で戦死者第1号と最後の戦死者を出してるんです」

「といいますと?」

「まず、真珠湾のときの特殊潜航艇に一人ここ出身がいたんですな」

「どなたですか」

「K曹長です。H大尉と一緒に乗っていた」

そういえば9軍神の出身地は見事に西日本の各地に散らばっている、と聞いたことがあります。
同県出身者がいないというのは意図してのことだったのか、と。

「では最後の戦死者とは」

「最後の特攻ですよ」

「U中将ですか」

「よくご存知ですな・・・あの気持ちはわかるが何人も連れて行かなければねえ」

「本人が操縦できないんじゃ仕方ないですけどね」

戦史や歴史に詳しい人が多いのもこういう団体にありがちな特徴。
というかこれ伏せ字になってない?

ところで、”壇上に上がって三人ずつ挨拶”ですが、当然小官にも順番が回ってきました。
なぜここにいるか、誰の紹介か、きっかけは何か、的なことを適当にしゃべり、

「顧問などという肩書きを悪用して自分の行きたいイベントに行ったり
人に会ったりする以外、実質何もしてないのですが・・」

というと、会場から

「それが仕事だからいいんだよ~」

と声がかかりました



そんなこんなで会合はお開きに。
副会長がなぜか万歳の音頭をとって閉会です。

「ぶあんざーい」

と字で書けばこの通り発音されました。
万歳三唱したのは兵学校の同期会解散会以来です。って、5ヶ月前ですが。

会合の後、何名かの方々と名刺交換をさせていただきましたが、
そのうちのお一人のご実家は昔陸海軍に軍服を納めていて、その流れで
現在も陸自と海自に寝具などを納入している会社の経営者でした。
その方のお話ですが、

「一時、安いからといって海外に制服を発注させようという動きがありましてね」

「蓮舫ですね」

「あ・・・はあ・・・まあ、いわゆる仕分けですね。とんでもないことでねえ。
あれは、発注する制服の種類で、これからどの基地にどんな階級の自衛官が
何人配置されるかみたいなこともまるまるわかってしまうんですな。
つまり、部隊の人員配置が手に取るようにわかるんですよ。
これをどことは言いませんがよその国にやらせるという。無茶苦茶ですよ」

「危なかったですね」

昔、悪用されるから絶対にダメ、とここでも書いたことがありますが、
具体的にはこういうことだったんですね。
それを言い出した蓮舫はさすがにそこまでのことは考えていなかったと思いますが、
どこかからそういう指示が出されていたという可能性はあります。

いかに民主党が裏では中国に「手を突っ込まれて」いたかを物語る事案でしたね。


さて、明けて次の日、出発地は激しい風に粉雪が混じる荒天で飛行機の出発が遅れました。
羽田は雨でしたが、なぜか途中は冒頭写真始めとてもいい天気。



面白い地形だったので写真に撮ってみました。
関東6県のどこかです。



これ、もしかしてどこかの基地ですか?



前の席の人も後ろの人もこれを携帯で撮っていました。
海の上にポツンと浮かぶ構造物。
上空からなので小さく見えますが、かなり巨大なものらしいです。
これはなんでしょう。



羽田の端っこにあった浮島滑走路。
果たして使われているのかという感じです。



わたしは国内移動はANAが多いので、第1ターミナルは久しぶりなのですが、
行きに伊勢丹のブティックを見つけたので、帰りに寄ってみました。
店舗の隅にベーカリーカフェがあって、美味しいサンドウィッチがいただけます。

ここでお昼を食べてからお店を見て歩き、ファリエロ・サルティの春色のストールと
春になると着たくなるマリンテイストの服に合わせる白いスカートを購入。
日本にいると滅多にこういう買い物をしないのですが、今日はつい気分に誘われました。

というわけで、地球防衛協会の会合に参加することによって、あらためて
地方経済と自衛隊の深い関係の実態を目の当たりにすることになりました。
災害派遣によってあらためて注目され、それによって初めて自衛隊を認識する人もいますが、
それ以前に、自衛隊は経済循環の一部として地域に深く根付いているということがよくわかりました。


顧問としても名前を覚えてもらったし、行ってよかったです。(小並感)


 


「古鷹」「青葉」「衣笠」~重巡第6戦隊の「山ガール」

2015-03-15 | 海軍

呉・長迫公園、別名呉海軍墓地についての続きです。
今日は山の名前、といっても名山ではない山を名前に持つ三隻の巡洋艦についてです。




「青葉」の碑は前にもご紹介したのですが、なぜまた挙げるかというと、

「大和ミュージアム」で撮った写真の中にこんなものを見つけたからです。

 

「青葉」砲塔の望遠鏡。
これが軍艦の望遠鏡の覗き口なんですね。
レンズは二つずつ付いていて回して変更するようになっています。
これによって焦点が変わるのでしょうか。

この望遠鏡のレンズを通して古賀峯一、三川軍一らが艦長時代海原を見渡した、
と思うと感慨深いものがあります。
古賀峯一大佐は5代目艦長、9代目が三川軍一となります。

古賀峯一はその後大将となって連合艦隊司令長官に任命されますが、

飛行艇(二式大艇)でミンダナオ島に向かう途中、低気圧に巻き込まれて行方不明になりました。
山本長官機の撃墜を「海軍甲事件」、こちらを「海軍乙事件」といいます。

あと有名どころでは、海軍主計科士官(主計中尉)で後に総理大臣となる
中曽根康弘氏が最初に乗艦したのが「青葉」。
それから、「ある少尉候補生のブラックアウト」で書いたことがありますが、
酩酊の末、あろうことか乗り組んでいるフネの艦長を殴ってしまった、
後の不沈潜水艦長、板倉三馬が、少尉候補生時代、艦長を殴ったその「沙汰」として
海軍をクビにならず「青葉」勤務を命じられたという栄光の歴史も()あります。


「青葉」も「伊勢」が甚大なる被害を受けた昭和20年7月24日、
そして大破着底した4日後の28日の「呉軍港大空襲」のとき、
「伊勢」のいた音戸沖とほど近い警固屋に、修理を諦められた状態で係留されていました。
このとき「青葉」は浮砲台として奮戦したのですが、やはり「伊勢」と同じように両日にわたって
米軍機動部隊からの攻撃を受け、大破したのです。

戦後そのまま放置されていた「青葉」は昭和21年11月、ようやく解体されました。

その際、この望遠鏡や菊の御紋章、主砲砲身尾部が取り外されてその名残として残っています。
ご紋章は術科学校、主砲尾部は大和ミュージアムで見ることができます。



重巡洋艦「青葉」は、大正13(1924)年、造船界の鬼才、
平賀譲造船中将の手で造られました。
今日このあとお話しする「古鷹」型の欠点を改善し、発展強化した艦です。
大きな修正点は主砲が単装砲から連装砲になったことですが、平賀先生が
「古鷹型の艦体に連装砲は無理」と強硬に言い張ったので、上が平賀中将を欧州に調査に行かせて、
その間に藤本貴久雄少将に改装させてしまったという話があります。

後年、この藤本設計のミスで「友鶴事件」が起こっていますが、調べてみると、
「長門型」の屈曲煙突もこの人のアイデアだし、研究熱心で、何と言っても
平賀「不譲」とあだ名され、若干残念な人格だった平賀大先生よりは若干人望もあり・・。

大先生は藤本が気に入らなかったようで、研究成果を握りつぶしたこともあったそうですし、
おそらくは「友鶴事件」の後追い込みに圧力をかけたりしたにちがいない(あくまでも想像です)
のですが、その理由を手繰ると、このとき「青葉」の改装で自分が「外された」ことかもしれません。
(あくまでも推測です)


さて、同型の「衣笠」より少しだけ(5日)早い完成となったので、このタイプには

「青葉型」と名付けられることになりました。

この「青葉」、そして姉妹艦「衣笠」、そして「古鷹」は、「重巡は山」
という命名基準に即していずれも山の名前がついています。
「古鷹山」はいわずもがな江田島の兵学校を臨むあの山です。

ああ、「青葉」は青葉山からね、と納得したついでに「青葉山恋歌」を口ずさんだあなた、

この「青葉山」は仙台のあれとは違う、舞鶴市の「青葉山」で、分祀神社も別なのです。
舞鶴市の青葉山は、舞鶴鎮守府の近くにあり、軍港の海軍軍人におなじみの山だったのですね。



そして「衣笠」ですが、阿波国、徳島県にある「阿波富士」というあだ名の衣笠山とする
説が当時から流布していました。
しかし、「青葉」とのバランスを考えると、ここは徳島のではなく、

横須賀鎮守府の近くにある衣笠山

と考える方がすっきりします。
つまり、「青葉型」の命名基準は、山は山でも名山とかではなく
「海軍軍人にとっての馴染みの深い山」
ということだったようです。





初戦のころ、ウェーク島の戦いなどで勝っていて余裕があったのか、
「青葉」には従軍作家の海野十三(うんのじゅうざ)が乗り込んでいました。

報道班員として「鳥海」に乗り込んでサボ沖夜戦を体験し「海戦」を書いた丹羽文雄は、
艦艇乗り組みの海軍軍人たちに、覚悟の点でも戦いの後のいたわり合いの点でも
美しいものを見、凄絶な海戦の様子と共にきめ細やかな筆致で書き残しているのですが、
海野もまた、彼らの 勤務態度に強い感銘を受けたことを記しているそうです。

ただ、「青葉」の居住性は作家にとって最悪だったようで、

そのことについてもさりげなく述べられているのだとか。(読んでません)


さて、「青葉」が最大の殊勲を上げたのは第一次ソロモン海戦です。
と「艦長たちの軍艦史」によると、「青葉」がこの海戦で20センチ主砲183発を
米軍重巡艦隊に撃ち込んだ、とあり、沈没した「ヴィンセンス」は
「青葉」の発射した20cm砲弾が艦橋と艦首脳を吹き飛ばしたのが致命傷だったようです。

この活躍で「青葉」は「ソロモンの狼」というあだ名を奉られています。

 

サボ沖の夜戦は前述の丹羽文雄が「鳥海」に乗り込んで著述していますが、
このとき「青葉」では米軍のレーダー射撃で32発の弾によって、
乗り込んでいた第6戦隊司令官五島存知少将と「青葉」副長が戦死しました。

この履歴で「カビエング泊地の遭難」とあるのは、ラバウルにあった当時、
敵の直撃弾一発が右舷機械室に命中し、直径10メートルの大穴が鑑腹にあき、
魚雷が爆発して
一面火の海と化してしまったため、艦長は沈没を免れるために
カビエン(グ)の海岸に「青葉」を擱座させたときのことを指します。

このときの山森亀之助大佐(45期)の決断は的確で、「青葉」はその後
救難作業で浮揚し、「川内」に曳航されてトラック島に入港することができました。

昭和19年の「マニラ沖の遭難」とは、敵潜の攻撃を受け、機械室に魚雷が命中、

艦体は急速に右傾し、航行不能寸前となるも、「鬼怒」に曳航されて
マニラに帰港して一命をとりとめたときのことです。

このように幾度も、あわや戦没というところから生還してきた強運の「青葉」でしたが、
終戦直前の「呉大空襲」で最後の時を迎えます。

7月24日の空襲では1弾を受けただけでしたが、28日には
命中弾4発を受け、艦内は満水となって着底、艦尾はほとんど切断されました。

「青葉」の戦死者は二日間で212名にも及びました。




去年の秋に兵学校76期同期会のツァーで訪れたときの写真。
どんなに探しても「衣笠」の写真はこれだけでした。
ほとんど走りながらシャッターを押したので・・。

こういう海軍墓地の慰霊碑の配置はアトランダムのようでそうでもなく、
戦艦は一番下の、階段を登らずに済む正面にたいてい巨大な碑石を使って
建てられていて、駆逐艦は駆逐艦でまとまっている感じがありますが、
「青葉」と「衣笠」、姉妹艦同士も比較的近い位置に置かれていました。

「衣笠」が「阿波富士」といわれる徳島の衣笠山でなく横須賀のそれであることは、
衣笠」竣工直前の1927年(昭和2年)田村重彦(衣笠)艤装委員長/初代艦長が軍務局長に対し
「艦名は横須賀の衣笠山で良いのか」と問い合わせたところ、
「御考察ノ通リ」という返答があったことから確かなこととされています。


「衣笠」は「青葉」とともに第一次ソロモン海戦で気を吐き、

さらに共に参加したサボ沖夜海戦で目覚ましい活躍をしました。
命中弾4発を受けながら小破程度で、敵艦「ボイシ」に二発、

「ソルトレイクシティ」にも2発の魚雷を命中させています。

だ、このとき後述する「古鷹」は「三人山娘」の中で最初の戦没を遂げます。
その後「古鷹」が欠けた第6戦隊は解散となり、「衣笠」は第3次ソロモン海戦に参加しますが、
このとき「エンタープライズ」艦載機の
攻撃によって艦橋の前部に直撃弾を受け、
艦長の沢正雄大佐(44期)副長の宮崎房雄中佐(48期)が即死しました。
遺体は両人共首から上がなかったということです。

浸水は次第に激しくなり、微速しか出せない状態のままそのうち左舷側に傾き、
転覆して511名を乗せたままサボ島沖の海底深くへと沈んでいきました。

生存した乗員は駆逐艦「巻雲」「風雲」に救助されましたが、なぜか彼らは、
そのとき
真っ青な空に雲が二つぽっかりと浮かんでいたのをいつまでも記憶に留めていたそうです。




重巡洋艦「古鷹」戦没者慰霊碑

ちなみにこの慰霊碑の揮毫は、もはや揮毫といえばこの人、の源田實でお送りしております。


重巡「古鷹」は「加古」とともに建造時は画期的な新型重巡でした。
同種の外国の巡洋艦より防御力が勝っており、動揺、振動は少なかったそうです。
ただし、「青葉」に乗った従軍作家が思いっきり苦言を呈したように

居住性は最悪だったということです。
まあこれはすべての帝国海軍艦艇に言えることでもありましたが、
とくに「古鷹」はあだ名が「水族館」。

その心は「友軍艦船の飛沫が飛び込んでくるので窓を開けられない」orz

そしてそのため猛烈な暑さであったとか。そりゃそうだ。


超余談ですが、最初の古鷹艦長となった塩沢幸一大佐(32期)の実家は「養命酒」本舗です。

塩沢大佐が「古鷹」の艤装艦長になってからほどなく「養命酒」は会社組織になり、
同期の山本五十六がロンドン軍縮会議に「養命酒」を持参してからは海外にも
広まったという黒い噂があります。


サボ沖海戦は米軍が第6艦隊を待ち受けて奇襲をしてきたというもので、
「衣笠」は無傷、「青葉」は大破、そして「古鷹」はこのときに沈没しています。

日本海軍が得意としてきた夜戦に初めて惨敗した海戦でもありました。
否、前回の勝利からよもや米軍側が夜戦を仕掛けてくるはずがないと油断したため
判断ミスによる敗北を喫したと宇垣纏は「戦藻録」で断じています。

わたしはアメリカ側の「レーダーの勝利」と断じたいところですが。

さらに宇垣は

当時の戦況を仄聞するに無用心の限り、人を見たら泥棒と思へと同じく、
夜間に於て物を見たら敵と思へと考へなく、
一、二番艦集中攻撃を蒙るに至れるもの、殆ど衣笠一艦の戦闘と云ふべし。 


と、第六艦隊司令長官の判断ミスを断罪しています。
五島長官は、戦闘の次の日出血多量で「青葉」艦上にて亡くなりましたが、
最後の最後まで、昨夜のは同士討ちの戦闘であったと信じ、
「馬鹿者、馬鹿者」といい続けながらの最後だったそうです。



さて、「古鷹」の最後です。
戦闘時「青葉」の張った煙幕に潜り込めず、一旦避退しようとしていた「古鷹」は、
集中攻撃されている「青葉」を認めるや即座に敵艦隊と「青葉」の射線上に割り込みました。
そして炎上しながら離脱を図る「青葉」の身代わりとなって集中砲撃を浴びることになります。

「古鷹」はそのうち九三式酸素魚雷の酸素に火がつき火災となってしまい、
闇のなかで燃え盛る艦体が敵艦の格好の目標となってしまいました。
しかし「古鷹」は怯まず、火焔を負いながら敵艦の方向に突進しています。

そしてそんな中でも果敢に応戦し、照射射撃をして位置を晒した
軽巡「ボイシ」に30数発の主砲をうち、砲弾4発を命中させて撃破しましたが、
ついにその後航行不能となりました。


この海戦は夜戦ゆえ日米双方に混乱が多く、どちらもが相手を誤認していたり、

相打ちになったりしたのですが、一番悲惨だったのが「ファレンホルト」「ダンカン」で、 
隊列から落伍して日米艦の真ん中に出てきてしまったため、両方から攻撃されることになりました。
特に「ダンカン」は、日本側からより味方から受けた命中弾のほうが多かったといわれています。

アメリカ艦隊司令官ノーマン・スコット少将は、その最中、米艦隊が
「ダンカン」を射撃しているかもしれないと不安になって射撃中止を命じましたが、
興奮した部下たちを制止することはもうすでに不可能な状態だったということです。


「古鷹」は翌日総員退去命令が出され、艦尾から海の底へと消えていきました。

艦上で確認された戦死者は33名、行方不明者225名。
駆逐艦「初雪」に救助されたのは艦長以下518名でした。

「古鷹」「青葉」「衣笠」生みの親である平賀譲中将は、「古鷹」戦没の報に接し、
まるで娘を亡くしたかのように嘆き悲しみました。
直後に東京帝国大学総長に再任されていますが、そのときにはすでに健康を極度に損ね、
結核菌に喉頭を冒されていた平賀中将は、2ヶ月後に死去。

平賀中将の脳は死後取り出され、現在東京大学医学部で保存されています。

 
 
 
 

呉海軍墓地~重巡洋艦「熊野」と「栗田雲隠れ」の真相

2015-03-14 | 海軍

前回の「呉海軍墓地」シリーズ、「三隈」の項で何度か出てきた
重巡洋艦「熊野」慰霊碑も、もちろんこの一角にあります。


 ところで、わたしの育った地域には「熊野神社」という小さな神社がありました。
初詣や夏祭りには、町の人々が足を向ける地元の神社で、「熊野神社」というと
わたしにとってイコールこれだったのですが、実は和歌山県田辺市にある
熊野本宮大社の「分霊」された神社だったようです。

戦艦「伊勢」に、伊勢神宮と同じ神様を祀る神社があったように、
この「熊野」の中にも紀伊田辺の「熊野本宮大社」の本殿を模した艦内神社があり、
毎月1日には熊野神社例祭が行われていたそうです。


「熊野」は少し前まで「新宮川」とされていた紀伊半島の旧「熊野川」

から取られた艦名で、重巡洋艦でありながらこれも軽巡の規格である川の名前です。
重巡なら「山」のはずなので。

ちなみに熊野古道という熊野三山に通じる参詣道がありますが、
この場合の山は本宮、速玉、那智神社という熊野の三神社のことであって、
もちろん重巡「熊野」のいわれではありません。

話が出たのでついでに余談を。

1090年に白河法皇のご参詣に始まり江戸時代まで盛んだった熊野詣では、
1900年には下火となり、参道だった道も地元の人々の生活道路としてのみ知られていました。


そこに改めて着目した最初の人物は和歌山県出身の医師で、子規の流れをくむ
ホトトギス派俳人だった福本鯨洋という人物だそうです。
鯨洋は、また熊野九十九王子すべてを吟行し、踏破したとのことです。 
その後「熊野古道」はまた人々の訪れるところとなり、
2000年にはユネスコの世界遺産として登録されました。



さて、「熊野」は最初に二等巡洋艦(軽巡)として建造されたのですが、
後から主砲を換装し、重巡になったので名前はそのまま残されました。


「重巡だけど川の名前を持つ」

つまり、もとは軽巡だったけど重巡になりました、なフネは多いが、
その逆がないのはなぜかというと、これは重巡と軽巡の規格の違いにあります。


単純に言うと両者の違いは主砲の口型の大きさだけなんですね、ええ。

驚きましたか?私も今驚きました(笑)

そもそも、何度となく語ってきたあのロンドン軍縮会議で

カテゴリーA「一等巡洋艦(重巡)」(155~203mm)
カテゴリーB「二等巡洋艦(軽巡)」(155mm以下)

というカテゴリーを決めたのが「軽重」分けの始まりです。

これもついでなので、この辺の経緯を説明しましょう。
わかりやすくするためにお芝居形式でやります。


=1921年 ワシントン=

日本米英仏伊「第一次世界大戦の戦勝国で軍艦の保有量決めようず」

米英「じゃ早速だけど米英:日で5対3な」

日「そ、そんな・・・せめて10対7に」

米英「もう決まったことですからwww」

伊仏「・・・・・・・・」(どちらも比率1.75)


ワシントン会議後

日「くそー、こうなったら条約ギリギリの大きさの巡洋艦作ったる!
  補助艦艇ならいくら作ってもいいんだろ!どやあ!」(古鷹できる)

米英「お、その手があったか。それじゃこっちも条約ギリギリで巡洋艦作ったる」

ー競争激化ー

日本「どやあ!」(妙高型:妙高、那智、足柄、羽黒できる)
  「どやあ!」(高雄型:高雄、愛宕、麻耶、鳥海できる)

米英「(むっ・・・・こ、こいつら・・・)←脅威を感じる
 
=1930年=

米英「えー、それではロンドンで補助艦艇保有割合についての会議をしまーす」


日「えっ」

米英「重巡は米英日で10対8対6ね。んで軽巡は10対13対6。
  伊仏は・・まあどうでもいいか会議来てないし」


伊仏「・・・・・・」

日「しゃあない、水雷艇にできるだけ武器搭載したる!どやあ!」

=友鶴事件発生=

日「・・・積みすぎてひっくり返ってしもうた」\(^o^)/

=第4艦隊事件発生=

日 \(^o^)/

=第二次ロンドン軍縮会議=

日「もう日本は軍縮会議脱退します。国連からも脱退したことだし。
 今までいろいろお世話になりました」(棒)

米英「ぐぬぬぬ・・・」


日「ひゃっはー!今までの条約もみんな破棄じゃあ!

 軽巡の主砲皆取り替えて重巡にしたるわい!」


軽巡であった最上型(最上、三隈、鈴谷、熊野)、利根型(利根、筑摩)を
全て重巡にしてしまう




これらが重巡でありながらなぜ川の名前を持っているかにはこういう理由があったのです。

そうだったのかー(←)


ところで前回、ミッドウェー海戦の時に「最上」が「三隈」に衝突したのち、
旗艦だったこの「熊野」が無事な「鈴谷」(すすやですよ、すずやではなく)を連れて
怪我した同士を組ませて帰投させた、という件を、

「艦には艦の論理がある」

として一定の理解を示した当ブログですが、 もう一度検証しておきましょう。

まず、なぜミッドウェー作戦でこの4隻が単独行動していたかというと、
山本GF長官の命により、第二戦隊はミッドウェー島基地を破壊しに行くところでした。
今や空母4隻が失われた海軍、機動部隊と基地隊に挟み撃ちにされる危険があったからです。

4隻が単縦陣で航行していると米潜水艦が現れました。
これを回避するために先頭の旗艦「熊野」が一斉回頭を命じたのですが、

同じ命令を二回発したため、続く3隻に混乱が起こります。
(つまりこのときの「熊野」の命令の出し方が悪かったということなんですが)
前回も書いたようにこれで「最上」が「三隈」に衝突。

そのあと「熊野」は「鈴谷」だけを連れて聯合艦隊に合流をするとして、
この損傷した「最上」と「三隈」に駆逐艦「荒潮」「朝潮」の護衛をつけ、
放置して現場を離脱します。

熊野」が、というよりこの場合は栗田少将の命令だったことをお忘れなきよう。

しかし、山本長官の懸念は大当たり。
取り残された「最上」「三隈」そして駆逐艦2隻は
米軍機動部隊と基地飛行隊に波状攻撃で挟み撃ちされ、
「三隈」喪失、「最上」大破。


ところでこの間、離脱した「熊野」と「鈴谷」は何をしていたのでしょうか。


先日お話しした映画「ファイナルカウントダウン」では、空母「ニミッツ」が

丸1日太平洋で行方不明になっていたことを、カーク・ダグラス扮する艦長が艦隊司令に

「太平洋で丸1日行方不明になるとはなんたる海軍だ!」

と叱責されていましたが、実はこのときの「熊野」と「鈴谷」も、
太平洋で丸一日行方不明になっていたのです。
「なんたる海軍」だったのです。
この間、無線を封鎖したまま航行していた「熊野」「鈴谷」は、7日になって

「三隈と最上の救出に手を貸せ」

という命令が出てから、初めて自艦の位置を明らかにしたのでした。
なんたる海軍だ、とはどこからも叱責されたり責任を取らされなかったものの、
この時に第二艦隊通信参謀中島親孝少佐

「どうも困った部隊である」

と評しています。
この中島少佐は、そもそもこの戦隊にミッドウェー基地を攻撃させる作戦も
地理的に距離が遠すぎ、無茶な作戦だとして


「いつもながら困った戦隊である」

と言っていたそうで、これ全く同じセリフなんですけど。
この人の口癖だったんでしょうか(笑)
しかもその命令、元を手繰れば山本五十六なんですけど。


「いつもながら困った五十六である」

とは言わなかったのか。
この命令には「横暴だ」(「最上」航海長)「空母4隻やられて血迷ったか」
(第7艦隊主席参謀)などと皆が不満を口にしていました。
つまり山本長官さえこの命令を出さなければ、っていうのが現場の総意だったようなのですが。


戦後、栗田はこのときのことを


「そんなことが起こっているとは知らなかった」

と言いました。
これは横にいた「熊野」艦長に言わせると言い逃れ
で、後に


聯合艦隊に合流すると「最上」と「三隈」の救助に行かされるので、
栗田はそれを避けるために合流せずに雲隠れしていた

という意味の証言をしているのです。
何か横で見ていて思うところがあったのでしょうか。


前回「フネにはフネの論理がある」という一面からお話ししてみたこの事件、

内部の証言を加えて内側から見ると、また違う景色が見えてくるのがわかります。

というか、やっぱり栗田健男って・・?とどうしても思ってしまうわけですが、
栗田中将の立場からこの行動の弁護ができる方、おられませんか。 



ミッドウェーの後、栗田少将は第7艦隊の司令を交代させられました。
これはやはり引責というものであったと思われます。


1941年12月8日以降、「熊野」はマレー、ミッドウェー、ソロモン、マリアナと
主要な戦地には全て赴いて戦い抜きました。
そしてルソン島沖で
「タイコンデロガ」の艦載機攻撃によってついに武運尽き撃沈されました。


「熊野」の「艦これ」での運は(100点満点の?)5。

昭和19年11月まで何度か傷つきながらもとにかく生き残ったのに
どうしてこんなに「運」が低いかというと、その最後のわずか一ヶ月の間、
「熊野」は魚雷6本(もしくは8本)、
爆弾を10発受けるという不運が重なった結果、
満身創痍のままに戦没を遂げたからだそうです。


最後の最後まで乗員は本土帰還を目指して対空戦闘、そしてその都度応急修理に奮闘しましたが、

彼女が日本の港に錨を下す日は二度とやってきませんでした。

合掌。