ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

潜水艦「グラウラー」〜イントレピッド航空宇宙博物館

2016-03-31 | 軍艦

ニューヨークの「イントレピッド」航空宇宙博物館は、
岸壁に入場するのに料金が必要です。
というのも、博物館として皆に見てもらう部分は空母「イントレピッド」だけでなく、
岸壁に駐機してあるコンコルドや、「イントレピッド」と岸壁を挟んで繋留してある
潜水艦「グラウラー」なども含まれるからです。

今回はその潜水艦「グラウラー」についてお話ししたいと思います。



チケット売り場から行くと、まずこちらが目に入ります。
潜水艦の中は狭く、人が一列になってしか通行することができないので、
当博物館では、外側に順番待ち用の簡単な建物を用意していて(冒頭写真)
20人くらいずつの団体に一人案内人が付く形で見学者をさばいていきます。
ここで待っている人たちは、これから建物の中に入ることができます。

7月のニューヨークは、もちろん日本ほどではありませんがそれなりに暑いので、
建物まで列が進んだら日差しから逃れてほっとするのですが、建物内は
どういうわけかクーラーではなく巨大な扇風機が空気をかき回しているだけ。
さらにそこから20分は並ばないとならず、なかなか大変でした。

それにしてもこの潜水艦のシェイプ、実にオールドファッションだと思いません?
「グラウラー」USS Growler, SSG-577 はグレイパック級潜水艦の2番艦で、
冷戦時代の1958年に巡航ミサイル潜水艦としてポーツマスで就役しました。



これが、グラウラーが秘密に核弾頭を仕込んで積んでいたレギュラスミサイル。
グラウラーなどの潜水艦は、まずこの核弾頭ミサイルありきで建造されました。
つまり、レギュラスミサイルを運用するために作られた潜水艦だったのです。

レギュラスミサイルがごらんのように有翼なので、それまでのタング級潜水艦では
ミサイル倉の開口部を大きく取れず運用に支障をきたすということから、
改変して、一回り大きなグレイパック級が生まれたというわけです。

レギュラスミサイルはあのF-8クルセイダーをつくったチャンス・ヴォート社、
戦後改めヴォートエアクラフト社の製造で、レギュラス(Regulus )というのは
双子座のアルファの意味です。

1954年に実戦配備され、当初は水上艦14隻、潜水艦2隻に装備されましたが、
「グラウラー」が出来るころにはレギュラスは潜水艦専門になっていました。



発射台の構造が実にものものしいのが時代を感じさせます。
二基の固体燃料ロケットブースターが発射に使われ、
アリソンJ33ターボジェットエンジンで飛行を行います。

搭載するのは核弾頭のみ。
つぶしが利かない上、潜水艦なのにいちいち浮上しないと発射できません。
ミサイルなのに飛翔速度もかなり遅く撃墜されやすいという欠点もあったため、
あっという間に弾道ミサイルに主流を譲り渡すことになります。

変わって潜水艦に搭載されたのがロッキードのポラリス型 ミサイルでした。
潜水艦発射専門の弾道ミサイルで、最初からレギュラスの後継として開発されています。

ヴォート社の「カットラスの悲劇」(笑)についてこのブログでは一度書きましたが、
この会社、何かとそういう話題に事欠かないというか、このレギュラスミサイルの件でも、
海軍はまず筋として?ヴォート社と、レギュラスの後継タイプを開発契約しております。

一応ヴォート社も頑張って、 レギュラスIIというのを開発しました。
問題だったミサイルの巡航速度は 最大速度はM1.1→M2、
射程距離はほとんど倍の925→1850km、電波妨害に対する耐性も改良して、
渾身のできだったのですが、残念なことに弾道ミサイルの敵ではありませんでした。

ちなみにポラリス型は核弾頭3基搭載で、誘導方式は慣性誘導。
そのポラリスは慣性航法装置の「ポセイドン」に変わり、そして
慣性+天則航法装置の「トライデント」へと変遷していきます。

現在現役の「トライデントII」は、潜航中の潜水艦から発射することができ、
CEP(誤射)は90〜120m。

太平洋、大西洋、インド洋のどこにいても、旧ソ連圏(もちろん中国や南シナ海もね)
を射程に収めることができます。



さて、広大な「イントレピッド」を見学した後で、実は疲労困憊していたのですが、
これを見逃したら今度いつ来られるかわからないので、頑張って並びました。
建物の外から並びだして、だいたい40分くらいでようやく中に入ることができました。

潜水艦の司令塔とレギュラス・ミサイルを見ながら一列になって進みます。



艦体が楕円形に大きくくり抜かれ、アプローチのための通路が設けられたエントランス。
もちろんこれは博物館展示用に大幅な改造が行われたものです。

実は「グラウラー」が展示されるようになったのは2008年と比較的最近です。
1980年には除籍され、標的艦となって海没処分になるのを待つ状態でした。
しかしどういう働きかけがあったのか、下院議会の決議により、所有権が
「イントレピッド」航空宇宙博物館の館長に譲渡されることになりました。

しかし展示のための改修は困難を極めました。
長らく放置されていたせいで、艦体はさびつき、大きな穴まで空いていたのです。
このくり抜かれた部分にできた穴だったらよかったのですが。(一応冗談)

しかし、そこで決してあきらめないのがアメリカ人。
修理費が100万ドルと膨れ上がりましたが、それでもなんとか展示にこぎつけ、

各方面の努力粉塵の甲斐あって、「グラウラー」は展示艦として往年の姿を止めているのです。

皮肉を言うわけではありませんが、五体満足だった飛行機も錆びつかせてゴミにしてしまったり、
アメリカがモスボールで保存してくれていた飛行艇をようやく引き取っても、
政治が事業仕分けして存続の危機となったりと、その手の文化財保護には
全く情けない状態であるどこかの日本なら、おそらく費用の段階で頓挫していたことでしょう。



サンフランシスコの港で見学した、大戦中の潜水艦「パンパニト」とは
ずいぶん作りが違っていてよくわからなかったのですが、
艦体を輪切りにして、そこの通路を設け、入り口にはガラスのドアを設置したようです。




ガラス戸の設けられた部分の左側に、こんな丸いドーム状のハッチがありました。
これは、状況的に考えて、ミサイルにつながる通路その1?

 

というか、ここが巡航ミサイルのミサイル倉その2だったりします?
おお、よくよく見ると、床にはミサイルを運ぶためのレールがあるぞ。

前の人に続いて、このミサイル倉(推定)を見ながら左に入っていきます。
すると、



こっ、これは・・・・・!
右側に展示されていた部分とほとんど同じトンネルがここにも。
エスカレーターのような通路が設えられたこの部分、もしかして今わたしたち、
ミサイル倉その1の中を歩いていますか?

丸いドームはミサイル倉その1の蓋をした状態だったってことなんでしょうか。



このミサイル倉の壁面には、かつて潜水艦「グラウラー」の乗組員だった
海軍軍人全員の名前の刻まれたプレートが架けられていました。
艦長だったとかはもちろん、海軍の階級も一切なく、ただ名前だけです。



一度に入るグループは、このミサイル倉に一列で並んで端から端までの人数。
仕切りの外側に立っている女性は、このグループを率いツァーを行います。

ただし、説明らしい説明はこの時だけでした。
なぜかというと、潜水艦の中は狭く、1列でしか進行できないので、
皆に説明することなどとてもできないのです。

ただ、艦内を進んでいくと、一人の老人が(どうやら元クルーらしい)いて、
「何か質問があったらわたしに聞いてください」と言っていました。

わたしも何か聞きたかったのですが、何を聞いていいかわからないまま
列が進んでしまい、しかも周りの誰もが同じ状態でした。



ミサイル倉(推定)の突き当たりまで進むと、左に下層階に降りる階段があります。



魚雷調整用のユニットコンソールが左側に。
 

 
windlass lubrication、(巻上機の潤滑油)という文字も見えます。
ダイヤルが大きい!



さて、魚雷調整室のすぐ隣が寝台、というコージーな作りも潜水艦ならでは。
ベッドのシーツがくしゃくしゃで畳まれてもおらず、今起きた風なのは
演出なのかしら。
いずれにしても我が海上自衛隊の艦艇では、こんなことはあり得ません。



みんな無くなっていますが、小引き出しのたくさん付いた物入れ。
まさか乗員一人に一つづつ?



と思ったら全く使用用途のわからない器械。
アップにして計器の文字を読んでみようとしたのですが、艦内が暗くて
思いっきり写真がぶれており、それも不可能に( ;  ; )

 

潜水艦の海図台でしょうか。
軍艦で言うところの航法室とか、チャートルームに相当するコーナー。 

まるでオブジェのように美しく設置されたコードや管の類。
そこに「グラウラー」の内部説明図がありました。



ふむふむ、やはりわたしたちが入ってきたのは「ミサイルハンガー」、つまりミサイル倉。
ミサイル倉の奥の階段したのはトルピード(緑の部分)が設置されてたようです。 

先ほど見た魚雷調整盤は、ここの魚雷のためのもので、艦内にはAFTつまり後部にも
2基の魚雷発射管が装備されています。
私たちが今見ているのが、「ナビゲーション」。 



で、ここが「グラウラー」の存在目的である巡航ミサイルの操作室。
「ミサイルチェックアウト&ガイダンス」センターです。



ガイダンスというとまるで入学時の案内みたいですが、ミサイル誘導のことを
「ミサイルガイダンス」といいます。
チェックアウトは・・・・発射よね? 



Missle coaxial、つまりミサイルのケーブルですとさ。
しかし、さすがは1950年代の武器、当時は最新式でも、
今見ると家電のスイッチのようなほのぼの感が漂ってアナログ感満載です。


さて、次はofficer's quaters、すなわち士官居住区です。


続く。 

 


女流パイロット列伝~西崎キク「雲のじゅうたん」

2016-03-30 | 飛行家列伝

昨日女性軍人の権利拡大についてお話ししたばかりですが、
今日もまた女性の社会進出もの?として女流パイロットを取り上げます。 


最近のNHK連続テレビ小説は、ある特定の職業を志す女性の生き方や
その頑張る姿がテーマとなっていて、これまでの主人公の職業となったのは

美容家、弁護士、医師、和菓子職人、棋士、落語家、パン屋、
脚本家、ダンサー、編集者、教師、アイドル、蕎麦屋。

放映が始まってしばらくは「女の一代記」がテーマとなっており、
一人の女優が子役から交代して以降老婆になるまでを演じる、
という形態になっていましたが、このような
「職業女性」を主人公とする形態の
嚆矢となったのが、女流飛行家がヒロインとなった、

「雲のじゅうたん」(1976年放映)だったといいます。


「雲のじゅうたん」は、飛行機黎明期の女性飛行家何人かがモデルですが、
その一人が、本日ご紹介する

西崎キク(旧姓松本キク)
でした。




今まで何人もの、主に日米の女性パイロットについてお話ししましたが、
飛行機が発明されたのとほとんど同時に

「男もすなる飛行というものを女もしてみたいと」

思い、空を志す女性が表れた「女性の人権先進国」アメリカにおいてさえ、
例えば
「おてんば令嬢」ブランシュ・スコット
傍目には堂々と航空界で名を挙げながら、

実は航空界の女性に対する扱いに絶望したというのが理由で引退しています。

1930年代の日本では、女性が自分のやりたいことを叶えることすら
ままならなかったのですから、
ましてや飛行機で空を飛ぶというのは
さぞ困難なことであったでしょう。


逆に言えば、そんな時代に自分の夢を叶えることが出来た女性は、
それだけで賞賛されるにふさわしいと言えるかもしれません


本日主人公の西崎キクも、「飛びたい」という空への憧れをそれで終わらせず、

実際に形にするだけの強さを持っていましたが、その「強さ」
はただ彼女が自分のやりたいことをやりきった、という結果だけに留まっていません。

飛ぶことを止めたその後の人生は、順風満帆どころか、むしろ
逆風の吹き荒れる苦境であったにもかかわらず、彼女は過去の栄光にこだわることも、
ましてや自棄になることもなく、それらを持ち前の明るさで乗り切りました。

戦後、人々がかつての偉業をテレビドラマで改めて知るようになるまでは
社会貢献につくす市井の人として、ひっそりと生きていた彼女ですが、
ある日突然、まるで雲の彼方に飛び去るようにあっさりと逝ったのでした。


彼女は航空功労者としてハーモントロフィーを受けた唯一の日本女性です。



松本キクは、1912年(大正元年)、埼玉県に生まれました。

地元の埼玉女子師範学校を卒業後、尋常小学校で2年生を担任していました。
ある日子供たちを連れて出た課外授業の帰り道、尾島飛行場に立ち寄ったところ、
ちょうどそこでは新型飛行機のテスト飛行が行われていました。

それが彼女の人生を変えた瞬間でした。
飛行機に魅せられた彼女は、空を飛びたいと熱望するようになります。



新聞広告で見つけた「飛行機講義録」を取り寄せて独学で勉強しながら、

彼女は毎日のように尾島飛行場通いを続けたようです。
そのうち、顔なじみになったテストパイロットの一人が、
彼女を東京立川飛行場で行われた新型飛行機のテスト飛行に誘ってくれました。
そこで彼女は生まれて初めて飛行機に乗ることが出来たのです。

風を切り、雲に向かって自分をどこまでも運ぶ飛行機。
遥かに見下ろす下界は、もし自分が鳥であったらこう見えるであろうと
今まで想像していた世界より遥かに広大で、
天の高みにすら手が届くかに思われたでしょう。




その日以来自分の人生を飛ぶことに賭ける決心をしたキクは、昭和6年、
両親の猛反対を押し切って、東京深川の第一飛行学校へ入学しました。


教師の仕事は、その入学のための費用を稼ぐための手段として、
ぎりぎりまで続けていたようです。


当時の日本もまた航空という新たな世界が開けてのち、
雨後の筍のようにあちらこちらに飛行士を養成する学校が出来つつありました。
やはり黎明期の飛行家であった小栗常太郎が洲崎に作った小栗飛行学校をを経て、
昭和7年、キクは愛知県新舞子にある安藤飛行機研究所の練習生になります。


安藤飛行機研究所は、大正末期に安藤孝三によって作られたもので、
航空局海軍委託練習生の課程を終えた水上機操縦士たちが入所し、
定期航空の経験を積む場ともなっていました。
キクは1933年(昭和8年)、第一飛行学校で二等飛行操縦士試験に合格し、

日本初の女性水上飛行機操縦士の資格を取ったため、ここに入所できたのです。




安藤飛行機研究所で他の男性パイロットと一緒に写した彼女の写真を見ると、
前列の男たちはいずれも当時流行の長髪に飛行服の腕を組んで、
いずれもカメラのレンズから目を逸らす当時の「イケてるポーズ」が、
いかにも気負いとプライドに満ち、彼らなりの挟持のようなものを感じさせます。

後列に並んでいるのは見た目の年齢や服装などから「若輩」でしょう。
キクはその中でも一番端に、まるで女学生のようなお下げ髪でかしこまっており、
まるでちょっと遊びに来たパイロットの姉妹のような雰囲気ですが、
実は後年、この中で最も名前が人に知られるようになったのは彼女でした。


研究所在所中に、彼女は飛行免許を取り「郷土訪問旅行」を果たします。


当時の日本の航空界での女性に対する扱いは男性飛行士のそれとは違い、
一等から三等まである操縦免許で、女性が取れるのは二等まで。
商業操縦士の資格を得るための一等操縦士免許は、
女性には受験資格すらありませんでした。


しかし、やはり物珍しさで人々が耳目を集める女性のパイロットには、
飛行そのものがニュースとなるようなイベントが結構な頻度で用意されたようです。

つまり女性だから注目され、話題になる、それゆえチャンスも訪れる、
という「女性ならではのメリット」も確かにあったのです。



さて、その郷土訪問旅行では、彼女は一三式水上機に乗って

新舞子の研究所を出発、根岸飛行場(静岡)、羽田水上飛行場で給油。
その後出迎えの群衆数万人余の群衆の上を三度旋回し、鮮やかな着水を決めました。

新舞子から郷里の埼玉県本庄市の利根川までは7時間の飛行です。

その後、式典や歓迎会で人々に熱狂的な賛辞を受け、
かつての教え子である子供たちから賞状による激励の言葉を受けて感激したキクは、
三日後、今一度離水して、今度は母校の女子師範がある浦和市、川口、所沢を飛び、
そのとき上空からこのようなビラを三万枚散布しました。


”ふるさとの川は野は麗しく ふるさとの山はこよなく美しい

只感激!!只感謝!!    二等飛行士 松本きく子”


きく子というのはキクの通称です。
当時はカタカナよりひらかな、そして子がついている方が「今風」だったので、
どうもこれは彼女が「芸名」として自分でそう名乗っていた名前のようです。

「女性飛行士第一号」

として華々しい場に出ることの多くなったキクをさらに有名にし、
その名が世界的にも知られたきっかけは、あるパーティからやってきました。

当時愛知県の知事であった遠藤柳作が満州国国務長官に赴任することになり、
その送別会の式場に招待されていたキクは、遠藤からの直々の誘いを受け、
満州まで飛行機で飛ぶことをその場で依頼されたのです。
そして、本格的に

満州国祝賀親善旅行

へのプロジェクトが動き出しました。

これまで水上機に乗っていたキクですが、渡満には陸上飛行機の免許が必要です。
水上機では機体が重く速度も出ないので(羽田から埼玉まで7時間もかかっている)
とてもではありませんが日本海を越えることは出来ません。

そのため彼女は早速亜細亜航空学校に入学し、機種変更のための訓練に入りました。
彼女が乗ることになったサルムソン2A2型への機種転換教育です。
このサルムソンは「白菊号」と名付けられました。

その傍らキクは積極的に後援会や映画会に参加し全国を回るようにもなります。
その目的は、この大飛行にかかる資金調達で、また

「日満親善、皇軍慰問」

の目標のもとに満州に運ぶ慰問品をひろく募集するためでもありました。

そしてさらにもう一つ。
彼女はこのとき飛行機の訓練だけでなく、拳銃射撃訓練を受けています。

当時の満州国は治安が悪く匪賊が跳梁跋扈していました。
万が一途中航路で飛行機が不時着して襲われたとき、相手を撃ち、
最後に自分の誇りを守り通すための拳銃でした。

彼女は海外に飛行機で渡航した最初の女性ともなりましたが、
当時女性が一人で日本を出て満州まで飛ぶことは、
それくらい覚悟のいることでもあったのです。




残された写真を見ると、キクは小柄で目のぱっちりとした可愛らしい女性です。
若い奇麗な女性が飛行家として持て囃されるということになると、
そこにはマスコミの興味や関心が必要以上に寄せられたでしょう。

以前ここで書いたことのあるパク・キョンヒョン(朴敬元)は、
銀座を真っ赤なドレスで闊歩し、衆目を集めるような華やかで派手なタイプで、
大物政治家のパトロンがいる(勿論日本人の)などという噂もありましたが、
少なくともキクには、そのような浮いた話のようなものはなかったようです。

しかし彼女にはこの頃、密かに思いを寄せている男性がいたようです。
それは彼女の飛行学校の教官で、彼はキクの飛行学校でのあだ名である
「めり」という愛称で彼女を呼んでいました。

「めり、絶対に無理はするなよ。
これは記録飛行でもレースでもないのだから。
満州から持って帰る土産は、めりの命だけでいい」

それが訪満飛行に望むキクへの教官からのはなむけの言葉でした。
教官は渡満飛行の国内給油の際、大阪で彼女と会い勇気づけたそうです。



昭和9年10月、新調した飛行服に身を包み、羽田を飛び立った彼女は、
大刀洗陸軍飛行場までまず飛び、その後玄界灘を超えて蔚山(韓国)に到着、
そのあと京城に向かいますが、中央山脈を越えるときに強い向かい風を受け、
燃料がどんどん消費されていくようになりました。

最後の手段として補助燃料タンクに切り替えたものの、排気管から火を噴いたため、
深夜で真っ暗であったのにもかかわらず彼女は大胆にも不時着を試みます。

機体は土手に不時着し彼女は無事でしたが、翌朝見ると、
後3メートル着陸が遅かったら、川に墜落していたことがわかりました。

彼女が飛来して来たとき、京城駅の手前の駅の駅員が飛行機を見つけ、
その後エンジン音と排気焔をたよりに追跡して捜索してくれたため、
彼女はすぐに救出され、飛行機も分解して京城まで運ばれたのです。

(ちなみにこの駅員は、当時”日本人”でもあった朝鮮人でした)


その後満州国の奉天まで、出発してから14日で2440キロメートルの飛行に成功。 
この訪満飛行の功績に対し、パリの国際航空連盟よりハーモントロフィー賞が授与されました。


ハーモン・トロフィーは、その年航空界に功績のあった飛行家に送られる賞で、
アメリア・イアハートは勿論、今までお話しした中では、
ジャクリーン・コクラン、ルイーズ・セイデン、 エイミー・ジョンソン、
そしてマリーズ・イルス
などが受賞しています。


冒頭にも言いましたが、1926年から2006年までの80年にわたる
ハーモントロフィーの歴史で、日本女性の受賞は松本キクひとりです。

ちなみに彼女の受賞順位は31番ですが、
30番はあの、チャールズ・リンドバーグでした。




二年後の昭和12年、キクは樺太のある市の市制祝賀記念飛行に飛び立ちましたが、
このとき彼女は九死に一生を得る経験をしています。

彼女の「第二白菊号」が津軽海峡間でさしかかったところ濃霧と暴風雨に見舞われ、
さらに霧のため気化器が凍結してしまったのでした。
キクが不時着水を覚悟したとき、海面に丁度貨物船「稲荷丸」が航行するのが見えました。


「第二白菊号」を貨物船の至近距離に着水させる前、彼女は船員に向かって

「いま降りますからお願いします」

と叫んでいます。
さすが大和撫子、冷静沈着な上、実に礼儀正しいですね(笑)

もともと水上機の出身であったことがこのとき役立ったと言えるかもしれません。



その年、昭和12年7月というのは、ある意味象徴的な出来事が起こっています。
7月2日には、女性飛行家アメリア・イアハートが飛行中行方不明になり、
そしてその5日後、盧溝橋事件が起こり、満州に火の手があがりました。
29日には通州事件によって日本人居留民が惨殺されたのをきっかけに、
30日にはついに日本軍が天津を攻撃するに至っています。

最も有名な女流飛行家の死、そして戦争・・・・。


キクは陸軍省に従軍志願書を提出しました。

「第一線の戦傷病兵を後方に空輸する操縦士として従軍させてください」

しかし、その申し出は却下されました。

アメリカ軍における女子飛行隊の扱いにも全く同じことが言えましたが、
もし女性が輸送任務の途中で撃墜されまた捕虜になるようなことになったら、
その非難は必ずそれをさせた軍に向かうことになります。

さらに日本では、

「女まで戦争に駆り出すようなことになったと敵に言われては
この上ない軍に取っての恥辱となる」

という理由がそれに加わりました。
まさに「婦女子の出る幕ではない」といったところです。

その年には女性が飛行機を操縦することも禁じられ、
キクの飛行家人生は終わりました。


彼女はその後、満州はハルピンの開拓団に新婚の夫とともに入植しました。
そこで国民学校の教師などしていましたが、匪賊の来襲、ホームシック、
そして極寒の地での夫と息子を病気で失う、などといった苦難の日々を過ごします。

満州で再婚し西崎姓となりましたがすぐに新婚の夫は招集され、行方不明になってしまいました。

絶望のうちに終戦を迎えたキクでしたが、戦後しばらくして、
なんと夫は生きていたということがわかりました。
彼女は夫の復員を待って、戦後の生活に乗り出します。

その後、教育指導員として地域に貢献し、航空界においては
日本婦人協会の理事としても活躍していたキクでしたが、
昭和51年に放映された「雲のじゅうたん」のモデルの一人になったことで
航空界のみならず一般社会でも一躍注目されることになったのです。


世間の関心と賞賛のまだ消えやらぬ昭和54年、彼女は脳溢血で倒れ、
そのまま帰らぬ人となりました。

享年66歳。

”生まれ変わっても、わたしは
またこの道を歩むであろうという道を、今日も歩み続けたい”


彼女が生前残した言葉です。
 







 


彼女が"HASHMARK"をつけるとき~女性軍人と男たち

2016-03-29 | アメリカ

先日、我が海上自衛隊の史上初戦闘艦の艦長になった、
大谷美穂2等海佐のことを少しだけ取り上げました。
去年早くも1佐に就任し、女性初の海将補候補として注目される
東良子氏のいわゆるエリートコースとは違う「艦長コース」にもついに女性が、
と各方面から注目されたのはまだ記憶に新しいところです。


ところで話は全く変わるようですが、 最近の国連、特に女性人権委員会って

一体なんなんですか?(怒)

日本の司法は人権においては中世並み、という批判に
「シャラップ!」と委員会で叫んでしまい、問題にされてしまった大使は
確かに公職にある人物としてお粗末だったかもしれませんが、
それにしても最近の国連界隈の「日本いじめ」は目に余ります。

70年前の職業慰安婦の人権問題を取り上げ、日本に「改善」を迫る。
(日本政府に”犯人を探して処罰せよ”とのお達しです。2016年現在で)
ちなみに問題提起しているのは中国と韓国出身の人権委員。
オブザーバーとして日本を非難したのは朝鮮民主主義人民共和国ってなんの冗談?

そもそも現在形で他民族を弾圧している中国に人権問題を問う資格があるのか?
今この時も現在進行形で売春婦を多数海外に輸出している韓国は、
彼女らの「人権」についていったいどう考えるのか?
北朝鮮は・・・・まあいうまでもありませんよね。

なぜ国連の拠出金が実質世界1位(アメリカが今払っていないため)の国に
これだけ不当な「勧告」が行われ続けているかってことですよ。

しかし、これだけなら、敵は朝日新聞始め国内にも多数いることだし、
国連総長はあの国出身だもんね、でうんざりしながらも我慢していた日本人が

上から下まで等しく怒りまくったのは、

「女系天皇を実質禁止している日本は女性差別である」

として、女性人権委員会が日本の天皇制について是正を求めてきたときでした。
さすがのことなかれ外務省もこれに対しては異常なくらい迅速に対応し、
駐ジュネーブ代表部を通じてこの件に強く抗議し、勧告を削除させました。



世界には、女性の人権が全く認められず、婚外交渉で女性だけが処刑になったり、
女性の運転も禁じられており、被り物で目以外を外に出してはいけない国、
8歳から15歳までに強制的に結婚させられる国などがいくらでもあるわけです。

そういう国に対してでなく、何を言っても「安全で怒らない」日本に対して
文化にも歴史にも敬意を払わない無礼な勧告をしてくるのが最近の国連。
女性の法王がいないのは差別だとなぜバチカンには言わないのかってんですよ。


そこで、日本が「女性差別国」だとするこの女性人権委員会とやらに、

「女性が軍隊の司令官になれる国は、現在世界にどれくらいあるか」 

を聞いてみたいですね。

先日、防衛省は、安倍内閣が掲げる「女性の活躍推進」の方針を踏まえ、
女性自衛官を増やす取り組みを本格化させました。

大谷2佐の艦長就任は、(当人が優秀でなくてはもちろん実現しませんが)
わたしが先日当ブログで推測したように、政権の掲げる方針に添ったものだった、
ということが報道によって裏付けられたようで少しだけ嬉しいです(少しだけな)
この件を報じる読売記事からの抜粋です。 
 

自衛隊では「母性の保護」や「男女間のプライバシー確保」などを理由に、
潜水艦や戦闘機、戦車中隊などへの女性の配置を制限している。
制度上の制限がなくても、女性の幹部登用が少ない職域もあるとされ、
こうした点の見直しについても研究する見通しだ。

これに先立ち、防衛省は今月28日、女性自衛官らの活躍と
ワークライフバランスの推進を狙いとした取り組み計画も策定した。
計画では、駐屯地などの庁内託児施設の増設や、出産・子育て前後に
研修の機会を与えるなどの柔軟な人事管理を行うこととしている。


これに対し、さっそく赤旗新聞が

●少子高齢化に伴い、男性のみでは担いきれなくなってきた自衛隊の任務を、
女性にも負担させようとする思惑である

●イラクやアフガン戦争に派兵された米軍女性兵のうち約4割が
軍隊内で性的被害に遭っているという研究もあり、自衛隊でも必ずそうなる

●兵站活動は敵からの攻撃対象となりやすい

●女性兵士が戦闘支援や応戦しなければならなくなったとき
『自分が殺した』と精神的に自身を追いつめて
帰還後に自分の子を愛せなくなり、育児放棄など虐待してしまう


と噛みついています。

最後のなんか、まるで「風が吹いたら桶屋が儲かる」みたいですね。
女性に限らず、戦闘トラウマは男性にも普通に起こりますよ?
攻撃対象となりやすい兵站活動も何も、戦争ってそういうものですよ?

こういうことに警鐘を鳴らすまえに、日本がどこの戦争に参加して、
自衛隊の女性自衛官がどこの国の人を殺さなければいけなくなるのか、
もう少し具体的に可能性のあるところを詰めてから言っていただきたい。


この際共産党には女性人権委員会とやらに

「女性を登用して司令官として採用し、人を殺す命令を出させる、
こんな日本政府は女性の人権侵害国だ!」

と思うところをそのまま訴えていただきたいものです。
現在の国連なら取り上げてくれるかもしれませんよ。あの事務総長だし(笑)



さて、前置きというか余談が長くなってしまいましたが、
「ホーネット」博物館には女性軍人、WAVESのコーナーがあって、
一度ここでも取り上げたことがあります。



女性下士官と兵の帽子、そして手袋と公式のバッグ。
このバッグ素敵ですね。
かっちりしたシェイプ、なんの模様もないクリーム色、
ハンドルの形が現在のブランドでも採用しそうなかんじです。

アメリカでは、陸軍に付随する看護部隊として女性が初めて
軍隊に参加することになりました。
しかし軍人としてではなく、男性と同様の賃金や手当はありませんでした。

女性が完全な一員として軍隊に加わるようになったのは1944年ですが、
1942年に「補助部隊」として輸送などを担当する女性パイロットの部隊が
誕生していました。

女性を軍隊に参入させるにあたっては激しい反対が軍の中にもありましたが、
海軍の女性部隊であるWAC誕生に鶴の一声を発したのは、なんと
我らが(笑)チェスター・ニミッツ提督だったといわれています。

女性が「コマンドを行わない」「戦闘機、軍艦に乗らない」ことを前提に
WAVESという軍組織に投入されることになったのは1942年8月。
WAVESの初代司令官はミルドレッド・マカフィー少佐でした。



ここでは初の女性提督になったミッシェル・ハワード大将を取り上げましたが、
つい先日も、統合軍に初の女性司令官が誕生するというニュースがありました。
北方軍の司令官に指名されたローリー・ロビンソン大将です。



なかなかのハンサムウーマンぶり。
ちょっとだけメグ・ライアン入ってますか?



提督も統合本部司令も誕生する現在のアメリカですがWAF、WAC、
そしてWAVES、が最初に誕生した当時は、世間の話題をさらいました。
話題に便乗してこんなパッケージの商品を売り出したm&m。
(しつこいようだけどエメネムと読んでね)

同じ画面に写っているのは

Moter Was A Gunner's Mate(お母さんは銃撃手の仲間だった)

という本ですが、この著者は

JOSETTE DERMODY WINGO

という女性で、このページを見ていただくとわかりますが、
トレーニング・ガナーを務めた女性軍人です。

WAVEに入隊後、銃撃主としての訓練課程を修了した彼女は、
サンフランシスコとオークランドをつなぐブリッジの途中にある
トレジャーアイランドという小さな島(住むことを少し検討したこともあり)
に当時あった海軍の砲術専門学校で、教官として勤務していたといいます。



「ガダルカナルではそんなやり方はしなかった」

彼ら(生徒)が言ったとしたら、

「だ・か・ら・ガダルカナルは取られそうになってるの。いいから座んなさい」

というようなユーモアが必要、というのが彼女のお言葉です。
深いなあ(笑) 



メディアも女性の軍人を持ち上げたので、こんな「問題児」も出てきます。
1944年にはついに白人以外、アフリカ系や少数民族の女性にも
軍隊への道が開けました。

しかし、そもそも女性部隊設立の時に最も反対が大きかったのが
男性だったことからもうかがえるように、女性軍人をもっとも疎んだのは
同じ男性の軍人だったのでした。



冒頭の女性下士官の腕には「年功章」がピカーッと輝いています。
英語で「HASH MARK」というこのマークは、下士官兵の「在籍期間」を表し、
1本が3年だったと思います。
彼女のランクはPO1、グレードでいうとE-9までの下士官のE-6、

CPOのすぐ下ということになります。 

おまけにこの女性、お酒のはいった携帯ボトルまで持ってませんか?
米海軍は艦艇内の飲酒が厳しく禁じられていましたから、これも
どういう状況で飲むつもりなのかはわかりませんが・・・。 


さあ、ただでさえ女性が軍人になるのすら快く思っていない男ども、
彼女がもしこんな「年功章」持ちになってしまったら・・・?

・・って、女性下士官が3年勤務すればそれは確実にそうなるわけですが、
なんと彼らは、この後に及んでそれを認めたくないらしい。

”これが男というものさ!WAVEが年功章をつけるとき”

と題されたこの漫画は、気の毒なくらいそんな男たちの狭量を描写しています。



隅から見ていきましょうか。
彼女の部下になってしまう水兵さんたちは、ただひたすら

"NO NO NO!" "YEOOOOO!"

と怯え・・・・・、 



「俺は見た!俺は見たんだあああ!」

と錯乱状態の水兵。

「え?何がおかしんだよコノヤロウ」

という水兵もいれば、

おいおい坊や、いい加減にしろよ。
あーあ、(CHEEZ 、GEEZをわざと間違えて言っている)、
こいつってもしかしておかしくね?」

彼の言っている「ASIATIC」というのはアメリカ海軍内だけで使われた俗語で
CRAZYと同義と思っていただければいいかと思います。

我々には失礼な感じがするんですけど、多分失礼なんでしょう。 

「なんだってこんなことに・・・とほほ」

とすすり泣いているセンシティブな水兵さんもいます。 




こちら、左腕が洗濯板のベテラン下士官たち。飲みで愚痴。

「まだ彼女いるの?」

「(げぷっ)おお、おるでー」

「もう一杯行くか・・・」

いまいち状況が読めませんが、なんかもう自暴自棄って感じです。



もっと深刻な先任下士官たち。
ハッシュマーク6本、つまり勤続18年のおじさんたちにとってはもう、
世を儚んでピストルをぶち込んで(自分に)しまいかねないショック。

すでに遺書を用意している先任に、

「先任・・・大丈夫ですよ、これなんかの間違いですよ」

と必死で止める水兵さん。
しかし、(光ってしまって見えませんが)向こうの方ではすでに
絶望のあまり引き金を引いてしまった人がいるようです。

もちろん漫画ですが、これほどまでに女性の軍隊進出は
男性の反感を買い、邪魔者(足手まとい)が入ってくることへの嫌悪感や、
もしかしたら自分たちの場所を取られるという懸念を呼び起こしていたのは
まず間違いなかったのだろうと思います。


1948年、アメリカ軍で女性軍隊統合法が可決されました。
戦時中は戦時だったゆえ女性が軍隊にいることが「許されて」いましたが、
戦争が終わってしまえばもう女性は必要ない、とされていた法律が変わったのです。

つまり、これによって平時における看護活動以外の女性の軍隊参加が認められ、
同時に女性が士官になる道を開かれたということになりますが、この漫画は
終戦直後、その法律可決に向けて議論が行われていた頃に描かれたものです。

その後も女性軍人の権利の拡大は続きました。
軍隊における女性の割合は2%が上限と定められていましたが、
1962年に撤廃され、現在、軍隊における女性の数は、1972年当時の8倍。
女性士官の数は3倍に増え、優秀な人材なら司令官も夢ではありません。

1999年の調査によると、陸軍15%、海軍13%、海兵隊5%、空軍18%が女性で、
現在はもっと増え、新規入隊者の20%近くが女性だそうです。
今後はもっと増えるでしょう。

女性がハッシュマークをつけるくらいで怯えていた男性の下士官兵の姿は

今日の目から見ると実に滑稽にみえますが、このとき高みの見物をしていた
男性士官たちは、1976年にアナポリスが女子の入学を認めて以降、
彼らと全く同じ心配をしなければならなくなりました。

そして、今では、男性の将官たちにも起こりうる(というか実際に起こった)
事態となっているのです。
ハワード提督が誕生した時に、悔し紛れに

「彼女は女性でアフリカ系だから提督になれた」

というやっかみの言葉が同じ将官から出てきたのは記憶に新しいですね。

優秀な女性とポストを争うことになるのを良しとしない男性の嘆き節は、
おそらく今も、そしてこれからもこの漫画の男たちと同じく続くのでしょう。

 

 


日系アメリカ人~「二つの祖国」ハリー・フクハラとアキラ・イタミ

2016-03-27 | 博物館・資料館・テーマパーク

山崎豊子著「二つの祖国」をお読みになったことがあるでしょうか。

今のNHKからは信じられませんが、この、日系二世として生まれた主人公が

二つの祖国の狭間で翻弄されたあの戦争について、東京裁判の不条理とともに描いた
この小説は「山河燃ゆ」というタイトルで大河ドラマになったことがあったのです。

原作の「二つの祖国」は、何人かの二世たちの経験を元に書かれたものですが、
中心となるモデルは二人いて、ハリー・フクハラはその一人です。




以前日系アメリカ人博物館についてエントリを上げた時にも掲載した写真。


「いかにも切れ者そうな二世」

と書いたその時は知らなかったのですが、このメガネの人物がフクハラだったのです。

フクハラは1920年ワシントン州シアトルに生まれました。

日本名は福原克治といい、「カツジ」とする記述と「カツハル」とする文献があります。

フクハラの両親は広島出身で、アメリカで職業紹介所を経営していましたが、
その父が亡くなって、英語の苦手だった母の希望で一時日本に帰っていました。
日本での生活に馴染めなかったフクハラは、18歳で学校を終えると単身アメリカに帰り、
白人夫婦の家庭に居候しながら、皿洗いやボーイをして学費を捻出し、大学に通いました。

アメリカに来て3年目に日米戦争が起こります。
大統領命令による軍事施設近くからの日系人の追放令が出され、
フクハラはヒラリバー収容所に収容されることになりました。


わたしはこのエントリのためにもう一度、昔読んだことのある「二つの祖国」を、
Kindleで読んでみたのですが、当時のわたしの興味が東京裁判に集中していたせいか()
前半の日系人収容所での悲惨な生活の描写に、全くおぼえがありませんでした。

読み直してあらためて、そこでの生活の辛さは、たとえ写真を見ても公的な資料を見ても、
伝わるものはごくごくわずかであるということがわかったのです。
日系人青年たちが軍に志願した動機の動機の少なくない部分が、

「収容所から外に出たい」

でもあったことは間違いないことに思われました。


1942年11月、軍の通訳募集に応募し合格したのち、ミネソタのサベージにある
MISで情報部の基礎を学んだフクハラは、日本での学歴が長かったこともあって
優秀な成績をおさめ、 6 カ月間のMISLSでの訓練の予定を省略して、
いきなりフィリピン、 ニューギニア、南太平洋にただ一人の二世として投入されました。

最初は同僚の兵士たちから「なぜジャップがいるんだ」と疎まれたそうですが、
戦況が進むにつれ、日本軍から奪取した機密書類の翻訳や日本人捕虜の尋問に成功し、
それが戦況に功を奏するようになってくると、日本人語学兵の必要性とともに、
次第に同僚達からの理解を得ることができるようになったのでした。

そののち投入されるようになった日系兵士たちは、仲間からの誤った攻撃を避けるために、
つねに白人兵士のボディーガードに保護されて移動していました。


戦地での日系兵士の任務は、押収した日本軍の書類、日記、地図などの翻訳、
密林内での日本兵の会話の盗聴、日本軍の通信の傍受などでした。

フクハラに限ったことではありませんが、日系二世たちにとって戦地で、
日本人と「再会」することは一種の恐怖でもありました。

ある二世は密林の中で旧友に銃を向けなくてすむようにと毎晩祈ったと語りました。
一方で、二世は捕虜と なった日本人から激しい憎悪を向けられることが多々あり、
「非国民」と呼ばれることもあったそうです。
そんなとき、昂然と「自分はアメリカ人である」と撥ね付けるのですが、
ほどんどの者が内心は複雑な思いに苛まれることになりました。

たしかに戦場で直接撃ち合うことは少なかったかもしれませんが、
諜報活動によって米軍が戦果をあげれば、
それは間接的に日本人を殺したということです。
欧州戦線に投入された442部隊は、対日戦線に送られたMISの二世たちより、
このようなジレンマを感じなかっただけ幸福だったといえましょう。

日本兵が捕虜になることを潔しとせず自決しようとするので、
それを説得するのも日系兵士たちの重要な役目でした。

「戦陣訓」などが、あまねくその行動原理に染み渡った兵士たちは、
生きて捕虜になったことが日本側にわかると、
戦死よりずっと恐ろしいことが起こる
という強迫観念もあって、皆が死のうとしました。


ある二世兵は戦後、

「日本兵はジュネーブ協定の知識がないから」 

と言ったそうですが、それより以前に、日本軍ではその精神論から、
捕虜になるなら死ぬべきだと骨の髄まで刷り込まれていたことを

もしかしたらよく知らなかったのではないかと思われる発言です。

フクハラにも、ニューギニアの捕虜収容所で、同郷の知り合いが軍曹として
収監されているのに遭遇したことがあり、彼が自決しようと懊悩するのを
必死になって押しとどめたという話が残されています。


わたしは終戦直前になって陸士を卒業し、「ポツダム少尉」になった方から、


「捕虜になって帰ってきた人は、戦後もそれを世間にひた隠しにしていた。
何かのきっかけでその話になると、本当に申し訳なさそうな苦悩の様子を見せた」


という話を聞いたことがあります。
このことは、戦争が終わって戦前とは価値観が逆転し、
かつての軍人を
誰でも彼でも戦争に行ったという理由だけで「戦犯」と罵る風潮と、

「生きて虜囚の辱めを受けた」者を詰る風潮がどちらもあり、
戦争に負けた怨嗟と鬱屈とした恨みを誰彼構わずぶつけ合うような空気が
敗戦後の日本にはあった、という不幸を物語っています。


「捕虜第1号」、真珠湾特殊潜航艇の酒巻和男少尉が捕虜収監中に残した写真は、

頰の彼方此方にあばたのような跡が生々しく残っています。

「アメリカ兵に拷問された跡」

などと伝播する媒体もありますが、実はこれは、酒巻少尉自身が煙草を押し付けた跡で、
写真が日本に伝わったときに、せめて自分だとわからなくするためにしたと言われます。
日本側は真珠湾攻撃の一人が捕虜になったことを早々に感知し、
酒巻少尉をいなかったことにして、戦死した潜行艇の他の乗組員を


「真珠湾の九軍神」

として世間にアピール真っ最中でしたから、その懸念は杞憂に過ぎなかったのですが。
 


さて、フクハラの話に戻りましょう。
彼はフィリピンにいるとき、故郷広島に原子爆弾が落とされたことを知ります。

アメリカ移民には広島出身者が大変多かったというのは有名な話ですが、
原爆投下という「大量虐殺」が祖国の手で行われたことで、
広島出身の二世たちは「二つの祖国」の相克の狭間で激しく懊悩することになるのです。


小説「二つの祖国」主人公の天羽がMISを志願するとき、審問官に

「あなたは戦地で日本にいる弟と会ったときに彼を撃ち殺すことができますか」

と聞かれ、なんという残酷なことを聞くのかと愕然とするシーンがあります。

日本と戦争に突入したアメリカは、日系人を隔離するという政策をとりつつ同時に
国際社会からの非難をかわすため、その日系人たちに、アメリカに忠誠を誓い、
日本に銃を向けるならば市民として認める、という踏み絵を踏ませたのです。


「今わたしはアメリカに裏切られたというショックを感じている
この軍キャンプで毎日捕虜として星条旗を見上げる気持ちはわかってはもらえないだろう。
忠誠を疑われたり、試されたりすることなく、一つの旗、一つの国家に
忠誠をつくすことができたらどんなに幸せかと思う」

という天羽の言葉に、審問官たちはしんと静まり返った、とされています。



南方でフクハラは、自分の部隊が九州への上陸に投入されることを聞き、
知人、特に広島に残した兄弟たちと戦うことになるのではないかと怯えました。
実際、日本の降伏がなければ、彼は実弟のいた小倉の部隊と戦うことになっていました。

戦地で広島原爆の報を知ったフクハラは、

なぜ広島なのか?
自分がアメリカ軍に志願したからこんなことになったのではないか?」

と悔やんだといいます。

そして終戦。

師団長の通訳として来日し神戸にいたフクハラは、家族の安否確認に広島入りし、

母と弟二人が無事であることを知りましたが、広島の陸軍にいた兄は至近距離で被爆し、
手当の甲斐もなく半年後に死亡しました。

彼は戦争が終わったらアメリカの大学に戻るつもりでしたが、
広島の家族を自分が養うことを決心し、軍籍にとどまります。
占領政策期間以降も日本駐在の職に就いて日本の官公庁・警察などと
米軍間の連絡係として働きつつ、敗戦後の日本復興に尽力しました。

1971年に八重山諸島軍政長官を51歳で退官しましたが、軍籍には91年まであり、
ブロンズスターメダルや、レジオン・オブ・メリットなどの勲章を授与され、引退後も
連邦政府から民間サービスに携わった功績を讃えられて叙勲されています。

最終階級は大佐でした。

フクハラの日本滞在期間は合計で48年にも登りました。
晩年はカリフォルニア州サンノゼで過ごし、

2015年の4月にハワイ州のホノルルで96歳の生涯を閉じています。



さて、「二つの祖国」主人公天羽賢治は、戦争が起こるまで
「加州新聞」の記者をしていたという設定でした。

もう一人の天羽のモデル、デイビッド・アキラ・イタミ、伊丹明の経歴がまさにその通りで、
さらに天羽賢治と同じ、鹿児島県加治木町の出身でした。

加治木町には、「二つの祖国」伊丹明の出身地、という立て札と、
いわゆる東京裁判、極東国際軍事裁判において通訳モニターを務めた伊丹の、
イヤフォンをつけた横顔のブロンズ板がいまでもあります。


 伊丹は1950年、39歳の若さで、ピストル自殺を遂げました。

その理由について遺書など明らかにするようなものは残していません。
後世はその自殺と、彼が東京裁判を目撃したことをただ漠然と結びつけるのみです。


イタミは戦時中、(1943年)日本へ寄贈される2隻の独潜水艦のうちの1隻、
U-511の通信を解読しています。
軍事代表委員の野村直邦中将が便乗していて薩摩方言で通信を行ったため、
米海軍情報局が全く聞き取れなかったこの通信を彼が解読できたのでした。

外務省と駐独日本大使館の間で帰朝のスケジュールの打合せをするのに
米軍に盗聴されるのを覚悟の上で国際電話を使用したのですが、その際
鹿児島出身の外交官同士で会話をさせたというものです。

盗聴した米軍にはそもそも日本語かどうかすら判別ができなかったそうです。
米軍自身が暗号にインディアンのナバホ族同士の会話を使用していたので、
アジアの諸言語まで検証しました。

2ヶ月後、米陸軍情報部に勤める鹿児島出身の日系人が「翻訳」できた、
というのが「艦これ攻略」にも載っているのですが(笑)
これがデイビッド・イタミだったのです。

ちなみにこの方法による最初の通信は、野村中将が出発する1週間前のことで、
東京からの「モ タタケナー」(もう発ったかな)という問い合わせに対し
ドイツからは「モ イッキタツモス」(もうすぐ発ちます)と答えたとか。
このU-511は日本で「呂号第五百潜水艇」として警備艦となりました。

輸送されるとき、まだそれはドイツ海軍籍であったので、艦長はドイツ人であり、
しかもこの航行中に民間船2隻、リバティ船2隻を撃沈しています。




二世といってもその数だけ祖国に対する考え方もあるので、
例えば登場人物のチャーリー田宮(NHK大河では沢田研二が演じた)のように、
日本人の部分を自分から取り去ってしまいたい、
アメリカ人としてのみ生きていきたいと願い、日本を蔑む人間だっていたわけです。


二世の日本人に対する態度は、しばしば差別的で専横であったといわれます。
軍政府内の住民用尋問室では、日系人通訳による暴力的な尋問が行われることがあり、
また、沖縄戦と進駐軍MISLSの日系2世米兵のなかには、

「米軍が今もっとも必要とする人間」

として認められた現実に満足して日本人を見下す者もいました。

当時の日本政府機関や民間の団体がなにかの許可申請や陳情を行うのには、
まずこの窓口の二世の担当官に媚を売る必要があったため、その置かれた地位に
特権階級のように傲慢に振舞う二世も決して少なくなかったのです。



「二つの祖国」の天羽賢治は、東京裁判に関わりながら、
それが報復のためのものであることに対する不満を漏らし、また、
戦犯の遺骨を細かく砕き、誰のものかわからなくして共同骨捨て場に捨てることを
「あまりにも非情で人道に悖る」
と述べたことから、CIC当局に目をつけられ「反米思想」を糾弾されます。

ラストシーンで、絶望した彼は東京裁判の行われた法廷に忍び込み、
自分がかつて仕事を務めたガラスのブースに座ってこんなことを考えます。


ここでイヤホーンを通じて流れてくる日英両後を一語一語、
神経を研ぎ澄まして聞き取り、
チェックしたのだ。

二年半、その一字一句が被告の生命に関わるという思いで、
公正なモニターに心血を注いだ。

だが、そこで願い、期待した法の尊厳は、ついに得られなかった。

一体、日米開戦の日から、今日までの自分の苦悩と戦いは何であったのだろうか。


日本語の死刑宣告を、賢治は、二人の被告に告げねばならなかった。
国際法を遵守せず、裁いたものの手は汚れていたが、
それを日本語で被告に言い渡した
モニター自身も、
否応なく、手を汚してしまったように思える。


賢治にとっては、ガラス張りのこのブースが、
自分の死を永遠に封じ込める棺のように思えた。

銃口をこめかみに当てた。銃は冷たく重い。手が震えた。
重さのためではなく、引金を引くことへの恐怖と躊躇いであった。

父さん、母さん、
僕は勇や忠のように自分自身の国を見つけることが出来ませんでした。

お別れを申し上げに行かねばなりませんが、もう一歩も歩けない・・・・。


最後の瞬間が本当にこのようなもので、こういう心情が彼に自殺を選ばせたのかは、
本人が語ることもなく死んでしまった今となっては、永久にわかりません。


しかし、もし彼の「二つの祖国」が戦火を交えることさえなければ
デイビッド・イタミこと伊丹明は自死せずに済んだということだけは確かです。

 


 


イエール大学美術館の「顔」

2016-03-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

ボストン美術館、ニューヨーク近代美術館と東海岸の「大物美術館」
を一度に制覇した去年の夏でしたが、それまで知らずにいたけれどその
莫大な所蔵に驚愕させられたのが、イエール大学美術館です。

ジャンルは多岐にわたり、古典芸術からエジプト出土のもの、アフリカやアジアの民族美術、
そして現代美術にいたるまでをくまなく網羅しています。

こんな充実した展示を一大学が所蔵していて、しかもその美術館は
入場料無料で開放しているのです。

たとえいくばくかのフィーを取ったとしても、これだけの所蔵品を見るためなら
皆お金を払うことに何の依存もないと思われるのですが・・・。

しかも各展示室には必ず何人かの監視員が詰めていて、例えばこちらがカメラを構えると、
禁止されているフラッシュが焚かれないかどうか確かめるために、やってきて、
手元を注視し、その瞬間を見逃すまいと構えているのがわかります。

これだけの人件費だけでも大変なものだと思われるのですが、所蔵品の維持費も含め、
どうやってこれだけのものを無料で運営できるのか不思議でなりません。

さて、そんな話はともかく、今日は私の息抜きと称して、この美術館で見た
「顔」の写真を淡々と貼っていくことにしました。
作品名や作者など、いつもと違って全くちゃんと調べることなく適当に感想をいうだけ。

というわけで、冒頭の写真は、アフリカの民族美術コーナーで見た像。
アフリカの「人を模したもの」は皆何らかの呪術を想起させますが、
それは単なる印象でしょうか。

頭のてっぺんから塔が立っているように何かが直立しているのも謎ですが、
なぜこの人物の左耳が丸く肥大しているのかも激しく謎です。
もしかしたら単に右耳は取れて逸失しただけかもしれませんが、
だとしてもどうしてこんな耳に。



何か生活用具の蓋のようなところに彫り込まれた人物像。
パンツも履かずにラジオ体操の最中です。 



だからアフリカの人物像は怖いんだよ。
ブツブツの無数に浮き出た顔はもしかしてリアリズム?
つまりニキビの多い人だったとか。



草を髪の毛とヒゲにあしらった木彫。

 

熱心に写真に撮っている人がいました。
おちょぼ口を突き出している顔がお茶目です。



あーこんな黒人さんいるよねー。
耳にフックが付いているのは、ここに耳飾りをかけてアクセサリー収納をするための
実用的なインテリアだったのかもしれません。 

アフリカ美術、といってもアフリカ大陸は広く、さらに時代も変遷しているのに

あきらかにどんな作品?にも共通するテーマみたいなものがあるように思います。
そしてアフリカ美術といえばほとんどの人が思うのはこのような木製の仮面。

儀式的な意味があることが多く、実際に宗教的・政治的・社会的なパフォーマンスを
ダンスなどといったプリミティブな形で行うのに仮面はつきものといった印象です。




この絵がなんの一部だかわかる方おられますか?



正解はこれ。

オノレ・ドーミエの「トランスノナン街、1834年4月15日」

わたしは、こんな有名な絵がここにあったのか!と大変驚いたのですが、
ふと気づくと周りにはドーミエの風刺版画が大量にありました。
つまり版画だからあちこちにたくさん残っているってことだったんですね。

この図は、タイトルの日付の日、トランスノナン街でおこった悲劇を描いたものです。
当時フランスでは労働者の暴動が頻発していたのですが、ある日全く無関係の一家の部屋に
ちょっとした手違いで兵士が乱入し、そこにいた全員を射殺したのでした。

男性の横に老人が倒れていますが、奥の暗がりにも男性の母親の体があり、
さらに寝巻きのまま死んだ父親の右腕の下には、重みで圧死したとされる赤ん坊が見えます。


ドーミエは当時新聞社に勤めており、写真のない時代にこういった事件の様子を
まるで写真のように版画に表す仕事をしていました。
ジャーナリズムが勃興したころの画家は、今のカメラマンのような役割だったのです。



さて、ここからは順不同にいきます。
現代美術の彫塑コーナーにあった「自分で自分の顔をつつく人」。



ヒゲの質感がものすごく嫌な感じ(笑)のおじさん。
実はこの作品は上の作品と同じ作者の手によるもので、モデルは作者自身。

どうみても楽しそうに歌っている最中ですね。



ミロだったと思うのですが、ピエロの口のような顔もさることながら、



この顔がちょっと可愛いのでウケました。



現代彫刻のジャンルに入るのですが、この瞳のつぶらすぎる人は、



椅子と一体化しています。
現代美術というのは概して観るものを妙に不安にさせるものが多く、
それをあきらかな目的にしていると受け手にわかってしまうとそれが
またなんとも言えない「不快感」を感じるというか。

それも込みで「芸術」だとするのが現代の美術だというようなこの傾向は、
無意味な音列を音楽と言い張る現代音楽に通じるものがあります。

そういうものじゃない、専門家以外には理解できないだけだ!
という人がいたら、すべての人間に訴えるものがあってこそ、
それは時に耐えうる「芸術作品」と呼ばれるにふさわしいはず、
という言葉を控えめに突きつけてみたいとわたしは思います。

たとえば次の作品を見て人は感動するのかそれとも思わず失笑するのか。




タイトル:

「1日働いてクタクタになって帰ってきたらこんな格好で嫁がテレビを見ていた」



タイトル:

「初心者コースでつったのに話違うじゃん!」



すみません、悪ノリしすぎました。
同じイエスキリスト、別方向から。
「The portrait of an Ecclesiastic」という題名がついています。

なぜキリストを「一聖職者」としたのかは不明。 



イエス・キリストつながりでもう一つ。
十字架を負って歩く姿と磔刑にされている姿を両側に、
茨の冠をかぶり額に血が滴るイエスの肖像・・・・なのですが、 



何百年の時を経て今日残されているという意味での価値はあるとしても、
作品としてみたらこれはいかがなものでしょうか。

イエスキリストをどう描くかというのは画家にとって腕の見せ所だと思うのですが、 
このイエスからはたった一言、「情けなさそうな顔」という言葉しか浮かびません。 

冠のせいで額に滲む血も、想像だけで描かれた子供の絵のような稚拙さ。
細々と描き込めば描き込むほど、どんどんリアリティから遠ざかっていった例。

プロの手によるものではなく、何処かの教会に寄進されたものかもしれません。 



石彫の宗教的作品。
可憐な少女の横にしかめっ面の小さいおじさんがいるのですが
このおじさんの手、 女性の胸に置かれているようにみえます。



我が意を得たりとばかりにほくそえんでいる人。
胸の部分に飾り穴が空いているのは、これがランプだったから? 



日本で出土された埴輪もありました。

「はい、整列したら先生(体育教師)に注目~!」

なんぞこれ。

一目見て思い出したのが「せんとくん」ですが、

共通点は頭から何か生えていることだけ。
せんとくんは一応首から下も人間ですが、こちらは4つ足です。
うしろがどうなっているのか見られませんでしたが、
もしかしたら頭から生えているのではなく、これはしっぽかもしれません。

古代南米でもオッケーの印は指を立てることでした(嘘)
この顔「ご冥福をお祈りします」のAAに似てない?

 

歌ってます。
体つきがかわいい。 

 

耳には穴が空いていて、これもイヤリングが付けられていたらしい。 



この隣にあった人骨。
ただの骨ではなく、骨の表面に細かい彫刻の飾りがあり、祭礼用か
あるいは装飾用に加工されたものだと思われます。
かつては全面にわたって彫刻されていたのだと思いますが、年月が経って
骨の表面が剥離してしまいました。

この写真は不幸にも向こうの壺にフォーカスが合ってしまったため、
どんな彫刻だったかをお見せすることはできません 



後ろ向きで見えませんが、これも強烈に「顔」を感じさせるマグリットの作品。
マグリットの絵は「夢」「無意識」を表した多くのシュールレアリスムの画家と違い、
どの作品も極めて現実的であり(たとえ非現実を描いたものであっても)
画家自身が「目に見える思考」といったように、

世界が本来持っている神秘(不思議)を描かれたイメージとして提示したもの 

(デペイズマン)とされます。


ときおり彼の絵に出現する帽子とスーツの人間は彼自身の姿であり、
彼自身の人生も平凡なものであったといわれます。

つつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い、
ポメラニアン犬を飼い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、
夜10時には就寝するという、どこまでも典型的な小市民であった。(wiki)


こんな人物評から、てっきりヌーボーとしたおじさんだと思っていたら、



ビューティフルなマグリット夫妻。
奥さんは幼馴染みとありますが、彼のモデルもしていたそうです。
シュールレアリスム界の「非凡な凡人」の”顔”はかなりの男前だったってことでオチ。

 




 


映画「謎の戦艦陸奥」後編

2016-03-25 | 映画

というわけで「謎の戦艦陸奥」後編です。
画像は、全編通して一度も見なかったのになぜか宣伝には使われたシーン。

まず、主人公の伏見少佐は、このように銃を持ってルードリッヒ、
駐在武官の皮を被った連合国のスパイの親玉と対峙することはありません。
そもそも伏見はルードリッヒがスパイであることを知らずに、
「陸奥」の爆発で死んでしまう運命なのです。(ネタバレ)

さらに、こちらもスパイの手先として使われているうちに伏見少佐を
好きになってしまう海軍倶楽部のマダム、美佐子は、
ルードリッヒにこのように手篭めにされるということもありません。

美佐子を演じた小畑絹子という女優さんは、今では誰も知りませんが、
当時は新東宝随一の美女と謳われたスタアでした。
どちらかというと清楚というより妖艶な魅力で売っていた方なので、
殿方が「おおっ」というシーンを期待するような宣伝をしたんでしょうか。

この映画、実は当初全く違うストーリー(伏見少佐がスパイ団に脅迫され、
一夜を共にした美佐子にそそのかされて陸奥の爆破を企む)だったので、
そちらの内容にはこのようなシーンがあったという可能性もありますが。 



さて、海軍省での会議では、海軍甲事件、つまり山本五十六大将が
ガダルカナルで戦死を遂げたという悲しいニュースが発表されます。
ちなみに会議の内容は、「ろ号作戦」の実地についてでした。
作戦の後、なぜか会議に出席していた「陸奥」艦長が、嶋田を

「なぜ陸奥はこのたびの作戦からも除外されているのか」

と問い詰めます。
いくら海軍が下からの意見具申を許す体質だからといって、
一介の大佐がよりによって海軍大将に向かって、
しかも会議が終わってから作戦にケチをつけるようなこと言いますかね。


下から突き上げられてやむなく直訴してみたものの、当然ながら
嶋田にもあっさり「次に備えろ」とあしらわれ、うなだれる艦長。
その艦長に向かって、伏見少佐はそれを横で聞いていたにもかかわらず、

「なぜ陸奥が冷や飯を食わされるんですか!
長官におねがいをしてください!」


などとしつこく食い下がるのでした。もういい加減わかれよ。



同じ会議に出席していた伏見の叔父、池上中将。(細川俊夫)
このご時世に呑気にも伏見を横須賀の海軍倶楽部に誘います。
(最初のストーリーでは池上もスパイ団に加担していたことになっている)



そこで伏見少佐は出会ってはならない女性(ひと)と会ってしまいます。
海軍倶楽部のマダム、美佐子。



そこで伏見を待つ、ドイツ駐在武官の皮を被ったスパイ、ルードリッヒ。
皆で乾杯などするのですが、いきなりこのおっさん、

「日本海軍も山本GF長官が死んでコマリマシタネー」

などと軽~く言い出します。
軍令部が内部発表した日にこんなことを知っている時点で怪しさ満点ですが、
細川中将も伏見少佐も全く不思議に思わないようです。



そしてここでも一生懸命伏見の気を引こうとする美佐子、
しかしつれない態度で(しかし流し目で)立ち去る伏見、というお約束が。
後年ニヒルな男の代名詞としてマダムキラーとなった天知茂の本領発揮です。

(余談ですが、天知茂はイメージと違い大変良き家庭人で、夫人によると

喧嘩らしい喧嘩すらした記憶はないとのこと。
大部屋出身からスターになった人間は苦労を知っているだけに←適当)



ところで、「陸奥」の五来兵曹長は、反戦小説を所持していたため、
罰則として艦倉に禁固されていました。



五来の妹になぜかわざわざ会いに来る副長の伏見と松本中尉。
ちなみにこの妹役をしているのは北沢典子。

伏見は「心配しないように」と一言だけ言って立ち去ります。
松本中尉は、美人の妹が兄の身を思って苦悩しているのを見て、
自分のことのように同情します。



その会話を盗み聞きしている呉鎮守府、物資調達係の三原。
ルードリッヒの手先です。
ちなみに三原の後ろには大本営発表の華々しい連合艦隊の戦果が。

なになに、空母2隻撃沈、大破3隻その他たくさんだって?

 

呉海軍鎮守府という設定。



これは呉でロケしたようですね。
「大和のふるさと」のあの丘かな?



なんと、伏見少佐の叔父の池上中将は、平和主義者であるゆえ、
生かしてはおけないと前線に追いやられてしまうそうです。
いろいろと突っ込みどころが多いですが、ここはスルーで。



「戦争は罪悪だ。人類の破滅だ。
お前は次の時代に生きてほしい人間だ。命を無駄にするな」

と甥に切々と語る小笠原中将。



かたやスパイ団は、「陸奥」の爆破計画の第一弾として、
ハーモニカを吹いていて殴られた神近兵曹に近づきます。



煽られてすっかりその気になる神近、手榴弾をわざと盗まされ、
それで「陸奥」の火薬庫を爆破しようとしますが、



よりによって伏見副長に見つかってしまいます。
相変わらずマイペースの伏見が

「陸奥は俺の恋人だ」

などといいだすので毒気を抜かれて失敗。
伏見副長、無欲の勝利です。



失敗した神近兵曹は、三原一味に殺害されてしまいます。



酒を無理やり飲ませて溺死させるという鬼畜の仕打ちでした。



伏見が一人で神近の死について懊悩していると、そこになぜか
横須賀海軍倶楽部のマダム、美佐子が声をかけてきます。



あなたの後ろ姿、まるで白鳥が悶えているみたいだわ」

再会早々開口一番これだよ。
これで美佐子は伏見の気持ちを白鳥、じゃなくって鷲掴みにしようって魂胆です。
そしてさすがは百戦錬磨、たたみかけるように続けて

「今日は離さなくってよ(ハート)」

さらに容赦なく同情作戦を展開。
自分の父がなんと「陸奥」の造船技師で、進水式直後

設計図が盗まれたとき、スパイに売り渡したという嫌疑をかけられ、
銃殺されてしまったという過去を涙ながらに話し出しました。

「だから陸奥が憎いんです!」

それに対して伏見は、

「お父さんは技術者として陸奥を愛していたはずだ。
陸奥を憎んではいけない」

スパイの嫌疑をきせられて処刑されたというのなら、憎むべきは
父に罪を被せた真犯人であり、無実の罪で処刑にした軍部であって、
決して「陸奥」ではない、となだめます。



そのまま二人は、なし崩しに美佐子の部屋での飲みに突入。
出撃を控えた戦艦の副長ともあろう軍人が、

「今日は久しぶりにうんと酔ってみたい」

ですってよー。
で、酔ってみたいその理由って何。

「わたしは君を愛してはいけなかった。
君が憎んでいる陸奥をわたしはこの上もなく愛している。
君とわたしとはその宿命から所詮逃れることはできないのだ」

意味不明。

そして、案の定死ぬの死なないの言いあっているうちに、



こうなってしまいます。



そして、ムードに酔って、近々出撃が決まったと
軍艦の極秘情報を美佐子にしゃべるとんでもない軍人、伏見。


「死ぬおつもりなのね!」

美佐子独白:

わたしはこの人を殺したくない・・・。

陸奥さえなければ・・・!

いやいやいやいや(笑)

陸奥がなくなれば、おそらく副長は他の艦に転勤するだけだし、
そもそも陸奥を爆破したら、伏見はまず間違いなく一緒に死ぬよ?




<スパイ団一味の爆破作戦その2>

火薬庫の係の水兵を酔わせ、寝ている間に靴に時限爆弾を仕込んで、
彼が火薬庫で勤務をしている時間に火薬庫を爆発させる。


ところが、門限に遅れた火薬庫勤務の水谷一水、牢屋に留め置かれてしまいます。



軍法会議は、艦長の計らいで不問にされると聞いて喜び、
水谷一水は走って「陸奥」に戻っていきますが、
折しも時限爆弾のセットされた9時半になろうとしていました。



ちょっとの差で爆破が早すぎて作戦失敗。



もしかしたらこのスパイ団すごい無能なんじゃないの?
これだけいろいろ起こったら「陸奥」も厳戒態勢をとると思うけど。

第3の爆破作戦は、思想犯扱いされていた五来兵曹長に

爆薬を仕掛けさせるというものです。

こんどはうまくいくのかな?



ところで三原の子分はここに来て二人とも始末されてしまいます。
祖国を裏切るような輩は、一般的に敵国人からも信用されないんですよ。
翁長さん聞いてる?




「軍法会議で処刑になる前に陸奥を爆破せよ」

妹からの差し入れの中に爆薬と三原からの手紙を発見する五来。
そもそも閉じ込められているのにどうやって火薬庫に行けというのか。

当時戦艦の火薬庫は常時施錠され、当直将校が鍵を首からかけて持っていましたし。



方や呉の港で伏見は美佐子に呼び出されて桟橋で待っていました。
「陸奥」の副長、もしかしたらすごく暇ですか?

しかし美佐子はやってきません。



肝心の美佐子はルードリッヒに捕まっていたからです。
伏見の手紙と遺品を届けに美佐子の家にいく松本。



伏見少佐をおびき寄せて殺すつもりだったルードリッヒが
松本中尉も殺そうとします。



そこになだれ込んできた我らが海軍警察の一団。
五来兵曹長が良心に耐えかね、一味のことを告白したのでした。
アナと三原もどさくさに紛れて殺してしまったルードリッヒは
問答無用で射殺され、とりあえず一件落着です。



ルードリッヒに撃たれて息も絶え絶えの美佐子、苦しい息の下から

「伏見さん・・・陸奥に」

がっくり。
そこで死んだら何もわからないだろうがあ!



火薬庫の中に仕掛けられた爆破装置。
刻々と爆発までの時間を刻みます。



第3の作戦にも失敗した諜報団一味ですが、
用意周到なルードリッヒは砲弾積み込みの機会に爆弾を仕掛けていました。
最初からこうしてればよかったのではないかと思うがどうか。



正午前、これは史実通りですが、霞ヶ浦海兵団の予科練習生ら
153名が艦務実習のため乗り込んできていました。

本当は後甲板で艦長訓示を先に行う予定だったのですが、三好艦長が
着いたばかりで疲れているだろうと食事を先にさせるように指示し、
それが予科練生にとって運命の分かれ道となったのでした。

爆発による生存者の多くは甲板に出ていたといわれます。



予科練生が立ち上がって皆で「若鷲の歌」を歌いだしました。
しかも「”予科練の歌”を歌う!」って題名間違えてるし。

「若い力の予科練は~」


彼らの歌を神妙に聞く艦長。

史実では三好艦長は爆発時艦長室にいたことがわかっています。
解剖の結果
海水を飲んでおらず、爆発の衝撃により昏倒した際の
頚椎骨折による即死と診断されました。



美佐子の死を見届けた松本中尉は陸奥に帰ってきてしまいました。
その死を知らされ、衝撃を受ける伏見。
そのとき第一砲塔の火薬庫から時限爆弾を発見したという知らせが!



全員で火薬庫の総点検が始まりました。
たちまち2つ目の爆弾を見つける有能な陸奥乗員。



伏見少佐は艦長に報告し、総員退艦命令を出させます。
もうこの際火薬庫注水でもすればよかったのでは?という気もしますが、
最後は何が何でも爆発することになっている関係で、それはしません。

一つづつ火薬箱を開けていくのですが、爆弾の仕込まれた箱が
あと一つになったところで時間切れ。



陸奥は三番砲塔と4番砲塔の付近から大爆発を起こします。
伏見少佐も松本中尉も火薬庫で即死です。




三番砲塔は吹き飛び、四番砲塔前部で艦体は切断。
前部はすぐに、後部も転覆後わずかな間に沈没しました。



陸奥の乗員は1321名、予科練から乗り込んできたのが153名。
生存者はわずか353名という大惨事となりました。
死亡者のほとんどが溺死ではなく爆死というのがその凄まじさを表します。


 
陸奥爆沈という史実をベースにするにはあまりにも不謹慎極まりない創作、
というのがこの映画を見た感想です。

「戦艦陸奥の悲劇的な終焉を劇的に構成したもので 
登場人物を始め全て創作されたものであります」

とこのテロップでもお断りしてますが、あまり言い訳になってません。

ここにあるように当時はまだ「陸奥」艦体はほぼそのままで、
(一部引き揚げ作業が行われたのは1970年) 
今より原因については諸説入り乱れていたころです。


ところで、この話によると、陸奥の爆破は連合国のスパイによるもので、

それが結果として成功したということになるわけですが、もしそうなら
連合国がこの「大戦果」を戦時に発表しない理由があろうはずありません。

だから「敵国の仕業説」だけは当時から否定されていたわけですが、
にもかかわらず、よりによって国際諜報団の暗躍(+陸奥副長と女スパイの恋)
なんてネタをこの件にねじり込んできたっていうのが、
ある意味怖いもの知らずですごい映画だなあと感心してしまいました。




終わり。

 


 


映画「謎の戦艦陸奥」前編

2016-03-24 | 映画

わたくしが入会しているディアゴスティーニの「戦争映画コレクション」は、
毎月一本これまでDVD化されていないレアな戦争映画が送られてきます。

入会して最初に送られてきたのがこの「謎の戦艦陸奥」だったのですが、
わたしはこの作品にいろんな意味で驚かされることになりました。 

いきなり結論をいうようですが、この映画、タイトルそのものが謎です。

ご存知のように昭和18年6月8日、「陸奥」は柱島沖で爆発を起こして轟沈しました。
爆発沈没の原因は諸説あり、未だに真相は謎です。
だからって「謎の戦艦」はないだろう「謎の戦艦」は、と思うわけです。
もしかしたら

「謎の爆発を起こして沈没したところの戦艦陸奥」

を省略したのだろうか、と解釈してみたのですが。

ただでさえ変なタイトルに加え、この映画の超無名度。
みなさんこの映画知ってました?  知りませんよね?
この世間的評価が、すなわち作品的価値でもあるとわたしは解釈したのですが、
とにかくも嫌な予感を覚えながら観てみると、しかしてその内容は、

「戦艦陸奥の爆発を題材にした、全く史実とは関係ないドラマ」

だったのでした。
爆発して艦長以下ほぼ全員が死んでしまうという結末は史実通り。
その原因を大胆にも創作して、ミッドウェー海戦からの離脱と
爆発の間に埋め込んでいるのです。
戦争映画のようで戦争映画ではない、これははっきり言って

「戦争映画の皮を被った(B級)スパイもの」

であり、この中途半端さが、作品が評価されなかった原因でありましょう。
おそらくわたしがここで語らなければ、世の中の大半の人は
一生知らないまま過ごすことであろうと思い、思い切って取り上げることにしました。

まあ、知らずに一生を過ごしても何の問題もない作品であることも確かですが



昭和35年(1960)制作、新東宝作品。
監督は小森白。
製作者としてはともかく作品の全てが無名という、ある意味特異な監督です。



特撮は新東宝の特技班が担当。
ただしところどころ実写映像を混ぜており、これは本物の空母です。
真ん中に写っている棒のようなものは、カメラを乗せた飛行機の尾翼。



一瞬しか出てこない嶋田繁太郎役に嵐寛寿郎、その副官に
宇津井健を起用して、ちょっと豪華な感じを出してみました。



この映画が撮影されたとき、まだ「陸奥」はサルベージが不可能な状態で
柱島沖海底にその艦体を横たえていました。
昭和28年、艦首の菊の御紋章だけが引き揚げられています。

・・・ということを想像させようとしてのカットだと思いますが、
新東宝特撮技術班の仕事が雑で、甲板の手すりがゆがんでいるのが残念。

このとき流れる音楽が当時にしては斬新なので気になっていたのですが、
なんと、作曲家松村禎三御大が若いときに手掛けていたことが判明しました。

「海と毒薬」「紙屋悦子の青春」の付随音楽は良かったですね。



場面はミッドウェー作戦が行われている「陸奥」の司令室から始まります。
これが「陸奥」が参加した初めての作戦でした。



「航空戦隊は敵艦見えずとの偵察機の報告を受け、
所定の作戦計画を変更し
急遽第二次攻撃隊をもって、
ミッドウェー島爆撃を発令せり。

山本聯合艦隊司令長官は、直ちに航空戦隊の変更作戦の中止を命じた後、
すでに航空母艦群の第二次攻撃隊は、艦艇攻撃を魚雷より
陸上攻撃用爆弾の取り換え作業をほぼ終了する模様なり」

との第一艦隊からの連絡に顔色を変える「陸奥」首脳。



「そんな馬鹿な!万が一敵機動部隊が現れたらどうするんです」

とツッコミを入れる副長の伏見少佐。(天知茂)

わたしは天知茂の軍人役をこのシリーズで初めて見たのですが、
結構この人、こういうB級戦争ものにたくさん出演しているんですね。

天知茂という俳優は大部屋の出身で、長年通行人役に甘んじていました。

しかしこの映画の製作を手がけた大蔵貢が新東宝の社長に就任してからは、
経費対策で給料の高いスター級の俳優とは契約を打ち切り、
脇役だった俳優を主役として採用するようになったため、芽が出たのです。

彼がめきめき頭角を現した時期に撮られたのが、この「謎の戦艦陸奥」でした。



「奴らはきっとミッドウェー海域にいるものと思われます」

という伏見少佐の言葉どおり、連合国諜報部は、日本海軍の暗号を
ことごとく解読していたのでした。



かくしてミッドウェー海戦の火蓋が切られました。
これは実写による聯合艦隊(間違いがなければ大和、長門、陸奥)航行の図。



「赤城」で爆装を取り替える乗組員たち。
後ろを艦載機のパイロットたちが全力疾走していきます。



空を埋め尽くさんばかりの米軍機が来襲。(実写)



一刻を争う事態に必死の作業を行う整備員たちのアップが・・。



「はっ!敵機だー!」



ここからの砲撃による戦闘シーンのほとんどは実写。
白黒映画なので実写がいくらでも流用でき、実に便利だった時代です。
しかしそれだけに甘んじず、結構頑張って爆破シーンなども特撮しています。



これも実写。どういう設定かというと・・、



海上に漂う将兵たちを無情にも機銃で撃ち殺しにきた米軍機でした。
先ほど換装作業をしていた兵もあわれ海に沈んでいきます。



こちら「陸奥」艦橋。
ミッドウェー海域から転進せよとの命令に衝撃を受ける一同。

「6隻の空母を見殺しにして戦艦の使命が果たされますか!
長官命令の撤回を要求してください!でなければ陸奥だけでも」

と無茶な進言をする副長(笑)
しかし、「陸奥」乗員の命を預かる艦長にして聯合艦隊の一員である平野大佐、
命令無視をして陸奥だけで戦うなんてことができようはずはありません。

ところで、史実ではミッドウェーの時に艦長だったのは小暮軍治 大佐で、
呉に帰港1週間後、艦長は山澄貞次郎 大佐(海兵44期)に交代しています。
陸奥爆発とともに殉職したあの三好輝彦大佐(海兵43期)は、その年の3月、

つまり爆発の3ヶ月前に着任したばかりでした。

映画では話が煩雑になるので、同じ人間がずっと艦長をしています。
ちなみに、このころの軍艦の艦長人事というのはほぼ1年で交代でした。



「ミッドウェー海域より転進する!取り舵いっぱい」

という艦長の命令通りちゃんと左回頭する「陸奥」(笑)



もう少し船の動きをゆっくりにすればリアリティが出たかもしれませんね。



こちら本物。
退却する第一艦隊の映像を本当に使っていたとしたら尊敬する。



この軍艦は「長門型」だと思うのですが、判定は、読者に丸投げお任せします。



ここでミッドウェーから帰国途中の「陸奥」艦上。
ハーモニカを吹いていた水兵をたるんどる!と殴る下士官。
兵の兄は轟沈した「赤城」の乗員でした。



夜間の甲板をなぜか双眼鏡を下げてうろうろしていた副長伏見少佐が、
すばやく二人に割って入ります。
副長、鉄拳制裁を止めたのはいいけれど、なんとこの二人に
「陸奥」が
戦わなかったことを責められる展開に。

「なんで陸奥は戦わなかったんでありますか!」

戦わずして転進したことを「陸奥」の乗員は不満に思い、鬱屈としていたのです。



帰国する第一艦隊。
そのとき「陸奥」の見張りが敵戦艦を発見しました。



ドミドミソッソッソー、ドミドミソッソッソー。
「陸奥」艦橋における戦闘ラッパがおそらく初めて吹鳴されます。



急速潜行する敵潜水艦。これ本物ですよね?



「陸奥」は左回頭し、のち爆雷投下。
この後、魚雷が投下され爆発するシーンも実写です。



艦砲が一斉に銃口を向けて動いていますが、人が動いているところを見ると、
これは実物大のセットのようです。

新東宝の特技班、(大道具班かな)頑張りました。



この映像、模型かと思ったのですが、どうも本物みたいです。
どちらかわからず何回も見直してしまいました。
遠景にも軍艦が航行しており、主砲から火を噴く様子もリアル。
画像をストップしてみると、古いフィルムの縦傷があることから、
実際の戦闘中の「長門」型ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。



星のマークも明らかなグラマンが海中に没する実写フィルムの後、
「やったぞ!」と砲を抱いて喜ぶ乗員たち。

実際の「陸奥」がこのような戦闘を行ったのはミッドウェーの帰路ではなく、
その2ヶ月後第2艦隊に編入された、第2次ソロモン海戦の後のことです。
この海戦でも「陸奥」はアメリカ軍と交戦することはありませんでした。

「高雄型」「妙高型」からなる高速艦隊が米艦隊を追いかけていく中、
「陸奥」は速度の遅い艦とともに置いてけぼりにされてしまったのです。

このシーンは、そのときに艦隊に接触してきたアメリカ軍飛行艇を主砲で迎え撃ち、
駆逐したという、「陸奥」の唯一の戦闘らしい戦闘を盛り込んでいます。



実際の「陸奥」乗員も、おそらく戦闘らしい戦闘に投入されないことを
忸怩たる思いでいたのに違いありません。

第二戦隊に編入され、南方に向かうに当たって、乗員たちは
久しぶりの出撃に喜び、前祝いをやったというくらいです。
のちにトラックでは「大和ホテル」と言われた「大和」とともに

こちらも「燃料タンク」や「艦隊旅館」なんていわれてしまうんですねー。

死に急ぐな!というのはあくまでも平時の価値観で、このころの海軍軍人が
このような扱いに我が身を嘆いていたとて何の不思議がありましょうか。 

そして、ここに至ってわざわざ艦長を責めに来る一介の中尉、松本。
これが菅原文太だったりするわけですが、若いころの文太が
あまりにイケメンなので、わたしは驚いてしまいましたよ。

「陸奥は転進するべきではなかったと考えます!」

松本中尉に対し、

「あの機敏な転進命令があったればこそ、航空戦隊のみの損害で止まったのだ」

という苦渋の艦長。
すかさず空気読まない伏見副長が、松本中尉の尻馬に乗って、

一挙に6隻の主力空母を失い(艦長 ”うっ・・・”)
 連合艦隊は今後どのような作戦を?」

あーこれ、責めてますね。伏見少佐も怒ってるんですね。
艦内を歩いただけで下からガンガン突き上げられるんで頭来てるんですね。
 
返す言葉なく下を向く艦長。

艦長をいくら責めても何の解決にもならないと思うの。



なんとミッドウェーから時空を超えて柱島沖に現れた「陸奥」。
この時点でこの映画はまるまる1年をすっ飛ばしております。

あっ、だから「謎の戦艦陸奥」なのかな(ゲス顔)

さて、これからがこの映画のオリジナルストーリーとなります。



そのころ日本国内に潜むスパイは、国民の戦意喪失を企み、
帝国海軍の象徴たる
「陸奥」を爆沈するべく計画を進めていた。


なんですってよ皆さん。

この場合のスパイって、つまり連合国側の、ってことですよね?
このおっさんと若いのは、スパイ団の親玉に金で雇われた日本人。



この外人のお姉ちゃんはスパイの親玉の秘書、アンナ。
なぜか盗聴した電文を読み上げるボスの横で、各種ドレスの用意をしています。



ドイツからの駐在武官のふりをしたスパイ、ルードリッヒ。
手にした電報をくしゃくしゃに丸めながら、

「ムツハ ワレワレノテデ カナラズ シズメル」

ここにはアンナしかいないんだから英語かドイツ語でOKよ?

それにしてもこんな少人数のスパイ団で仕事できるのだろうか。




前線に出動できない鬱憤を晴らす宴会で下士官兵たち。
皆で歌うのは

「腰の短刀にすがりつき~連れて行かんせどこまでも」

 なんか選曲が違う気がする。
こういうときにはやっぱり「轟沈」とか「如何に狂風」とかでしょ?



歌の真っ最中に部屋に悠々と入ってくる伏見少佐。
いくら副長でももう少し空気読むべきだと思うがどうか。



案の定慌てて歌をやめ、立ち上がる乗員たち。
鷹揚に

「元気があってよろしいが勤務に差し支えないように注意しろ」

などといって立ち去ろうとする副長に、そのうちひとりが



「陸奥はいつになったら出動するのでありますか!」

ほらまたきたよ。お前らそれしかないのかよ。
俺だって内心その点についてははらわた煮えくり返ってんだよ。
とも言えず、次々と立ち上がって訴えかける下士官たちに対し、



「我々は好機到来を待っているのだ。
ミッドウェーの仇を取る日は必ずやってくる」

と自分でも思ってもいないおためごかしを・・・。
中間管理職はいつの時代も大変なんすよ。ええ。



副長が去った後、やけくそ状態で宴会に再突入。

「腰の短刀にすがりつき~」

だからその曲はこういう場合にはふさわしくないと何度言ったら(略)
副長と松本中尉、このあと艦長室に行って、

自分たちが言われたことをそのまんま艦長に訴えるのでした。

「くどい」

とは言わず、艦長は辛抱強く、いや、もはやキレ気味に、

戦いたかったのは貴様たちだけじゃない!

”戦艦「陸奥」は海軍の象徴なので、断じて沈めてはならない。
戦艦「陸奥」がある限り日本海軍は太平洋を制覇する。
「陸奥」を頼むぞ。”


となぜか艦長拝命のとき、嶋田繁太郎直々にこう言われてしまった、
というのが、この憤懣にに耐えている理由であると説明するのでした。


ここまでで映画の約半分。
つまり前半は、不遇をかこつ「陸奥」乗員と艦長の葛藤を語って終わるわけです。
後半になって、いよいよスパイ団の活躍、じゃなくて暗躍が始まります。
スパイ団は「陸奥」を爆破することに成功するのでしょうか・・・?

・・って、実際爆発してるんですけどね。「陸奥」。


続く。







 






 


海軍の名残り~軍港の街舞鶴を訪ねて

2016-03-22 | 海軍

もう去年のことになりますが、シルバーウィークの舞鶴訪問記、続きです。

港巡りの船を降りた後、わたしたちは赤れんが街に向かいました。
横浜に「赤れんが倉庫」というのがあって、どうも「倉庫」と呼んでしまいますが、
こちらでは「赤れんがパーク」と称するようです。
ホームページにが「赤パー」と大きく書いており、どうもこう呼んで欲しそうですが、
海軍海自用語以外はなんでも略せばいいってもんじゃねえ、と考えるわたしとしては
断固「赤パー」の普及には与しないと断言するものです。

ここには海軍カレーの店もあるということで、(というかここしか食べるところはない)
お昼ご飯に向かいました。



赤煉瓦の建物は当時のままに残されており、
このあたりのように中を改造して現在レストランや博物館になっている棟と、
当時のまま全く手付かずの部分があります。

今見えている建物は左から「2号館」「3号館」。

 

奥に見えるのが5号館となります。
それでは1号館はどこかというと、「赤れんが博物館」のことのようです。

2号館は舞鶴市政記念館、3号は「まいづる智慧蔵」、4号は「赤れんが工房」、
そして5号はイベントホールとなっており、この日は中から音楽が聞こえていました。



ここは2号館「智慧蔵」の中。
内部で当時のまま残されているのはれんがの部分だけ。
屋根は内側から補強工事がなされているようです。
窓のステンドグラスも改装時に施工したものでしょうか。

ここにはインフォメーションと、向かいにレストランがあります。
連休のせいで激混みだったので、30分は待つと言われたのですが、
ここしかないので名前を書いて待つことにしました。



2階に展示場があるのに気付きました。
というか、こんな大きな垂れ幕があったら誰でも気付きますがな。

「日本のいちばん長い日」のロケが行われたということで、何か展示があるようです。
これは行くしかない。
が、疲れているのか残りの二人は「行ってらっしゃーい」と腰を上げず。

わたし一人で二階に上がりました。



鈴木貫太郎を演じる山崎努さんが着たタキシード、
迫水久常の堤真一さんが着ていた国民服が展示されていました。



ロケ地の紹介です。
迫水が御前会議のために花押署名を求めるシーン。

これは、この赤れんがパークの一角で撮られました。
海軍仮庁舎という設定です。



ここに来る直前に案内してもらって見たばかりの東郷邸の書斎です。
東郷中将が座って庭を眺めていたという窓際の机に座り、トランプを並べる鈴木首相。

この庭についても先日お話ししましたが、迫水と鈴木がこの庭で
陸軍大臣指名を巡って話し合うシーンもありました。

実際の鈴木首相の邸宅がこうだったと言われても、
きっとそうだっただろうなと思える東郷邸です。

ところで余談ですが、先日横須賀音楽隊のコンサートにご一緒した
兵学校卒の建築家、Sさんは、戦後、この迫水氏に直々の推薦を受けて
ロータリーだかライオンズだか、そういうクラブに入ったということでした。

「お知り合いだったんですか」

と聞くと、全く面識がなかったのだが、迫水氏がクラブを立ち上げるのに
発起人になって人集めもやっており、同じ東大卒だったからではないかということでした。
このような終戦直前から終戦後にかけて歴史の現場に立っていた人物の名前を
意外なところできいて、感慨深かったわたしです。



鈴木首相らが御文庫(戦争中皇居内に作られた防空壕)の地下通路を通り、
最高戦争指導者会議に向かうシーン。


舞鶴の北吸浄水場第一配水池跡で撮影されました。
これも海軍に縁があって、明治34年、舞鶴鎮守府の開庁に向けて、
軍港内の諸施設と艦艇用の飲料水を確保するために作ったものです。

ここに水が貯えられていたってことなんでしょうか。
今回見逃しましたが、是非一度実際に見てみたいです。




出演者のサイン色紙・・・・なんですが、サインそのものはともかく、
「赤れんがパーク様へ」の字が・・・・・。
一番ましなのが堤真一かな。(小声)

そして、山崎努は左手で書いたのか?



赤れんが倉庫群でこれまで行われた映画のロケ。

「夜汽車」「エイジアンブルー」「バルトの楽園」「男たちの大和」「坂の上の雲」「寒椿」・・。





郷土出身の偉大なアスリートの遺品コーナー。
大江季雄はベルリンオリンピックの棒高跳びで三位になった選手です。



ブロンズ像。



肖像画。
舞鶴の大病院の次男で、長兄が医院を継いでおり、本人は
慶応義塾大学に進んでそこで棒高跳びを始めました。 

彼に棒高跳びを指導したのが、早稲田出身の西田修平。 



有名な「友情のメダル」で、二位の西田と三位の大江が半分ずつメダルを割り、
このように(これはレプリカ)継ぎ合わせたものを作りました。

わたしは小さい時、この話を読んで、

「なんで二位三位と決まったのにそんなことするの?
三位の人はともかく、二位の人は損じゃない」

と今でもきっとそう思うであろうことを思ったわけですが、真実はこうです。

1位が決まったあと、残った三人のうち一人がバーを落とし、
西田・大江が決着をつけないまま競技は終わりました。

運営は西田が2位であるとしたのですが、西田がこれを不服とし、
表彰式で大江を2位の台に上げ自らは3位の台に立っています。


ここで、二人が争ったのが「自分が上」ではなく「相手が上」
であったというのが、高潔で無私な当時の日本人らしいと思わされます。

帰国後に銀メダルを持ち帰った大江の兄が間違いに気付き、
西田の元に銀メダルを持って行ったのだそうですが、悩んだ西田が
知人の経営する宝石店で2つを切ってつなぎ合わせ、
「友情のメダル」が誕生したのです。



敬礼をする1位のメドウス選手(アメリカ)。
大江選手も西田選手も背が高く垢抜けしてイケメンです。

オリンピックが終わってから、4年後、大江選手は陸軍に召集され
フィリピン・ルソンでの戦闘で戦死しました。

メダルを西田のところに持って行ったのは大江選手の兄であったということですが、
もしかしたらこのとき大江選手はもう戦死していたのでしょうか。



さて、舞鶴は軍港として発展した街です。



軍港ゆえ、臨港鉄道も敷設されました。
写真上は駆逐艦「海風」(白露型)の進水式。

「海風」は舞鶴工廠で昭和16年(1936) 進水式を行いました。
スラバヤ海作戦、第二次ソロモン作戦など、南方で戦い、
1943年(昭和19)、潜水艦「ガーフィッシュ」の攻撃を受けて戦没しました。

 

左上の「鎮守府復活」というのは、一時舞鶴は「鎮守府」ではなく「要港部」とされ、
最高司令長官も「要港部司令」となっていたのですが、それが昭和14年に
もう一度鎮守府に格上げされたことを言っているのでしょうか。

しかし、写真を見ると、掛け替えている看板は「舞鶴工廠」。
これは、鎮守府復活のときではなく、その3年前、海軍工作部が
「舞鶴工廠」に格上げされたときのものではないかと思われます。



戦後、舞鶴が引き揚げ港として稼働していたときの写真。
引き揚げ記念館については、また記念館を訪れ改めてお話しする日もありましょう。



舞鶴港の軍艦の進水式記念に製作されたはがき。
右から時計回りに、駆逐艦「敷浪」、「大潮」、「初雪」。
「初雪」の進水式パンフは呉で見たことあるぞ。



どちらも駆逐艦「霞」進水記念。
昭和12年の進水なのですが、右側の風景になにやら不穏な戦火が・・。



駆逐艦「島風」進水記念。

これらのハガキはいずれも「艦隊これくしょん~艦これ~」の
特別展示が行われたときに収集されてきたものだそうで。




こちら、海軍工廠の女工さんたち。
割烹着で仕事していたんですね。
鎮守府時代、「海軍工廠」だった大正10年(1922)の写真です。



海軍工廠工員の徽章。
右の鳥は今でも舞鶴の市章に使われている鶴です。



こちらも海軍工廠の徽章。
この説明で知ったのですが、英語では「海軍工廠」をナーバル・シップヤードというようです。

右から海軍書記用、筆生(筆者を手がける人)用、徴用工員用。



日立造船が寄贈した海軍工廠時代の弁当箱。

軍港の街、舞鶴は、未だに街のそこここに海軍の街であった名残を残しています。
次に訪れた時にはそれらを求めて自分の足で散策してみたいものです。


 


”BABYSAN”~進駐軍の恋人

2016-03-21 | 日本のこと

「ホーネット博物館」の空母「フィリピン・シー」のコーナーに
展示されていた謎の本です。

「個人的な目で見た日本占領」

とあり、ナイスバディの下駄を履いた日本娘が、にこやかに
アメリカ兵の前で手をあげて、あたかも、

「私たちの国、日本へようこそ!」

と歓迎しているようです。
この「BABY SAN」という題名を手掛かりに調べてみたところ、
こんなことがわかりました。

作者はビル・ヒューム
1942年から1945年まで海軍におり、結婚で一旦退役しましたが、
1951年に占領軍の下士官として占領下の日本に滞在しています。

彼の駐留していたのは、横須賀の追浜で、彼はここで進駐軍のための
機関誌「OPPAMAN」の編集長として活動をしていたと言います。

そのときに見たもの、アメリカ海軍軍人が、駐留していた日本の
異文化に触れて受けたカルチャーショックなどを、ヒュームは

「BABY SAN」(ベイビーさん)

という日本女性のキャラクターを創造し、最初のうちは
追浜の米軍基地の掲示板に発表するピンナップ画として発表していました。

最初、米海軍の120航空隊の水兵たちの人気を博し、そのうちそれが
「ネイビータイムズ」に取り上げられてアメリカ本土でも有名になったので、
ヒュームは帰国して4冊の「Babysan」を出版しました。
(Babysan's World, Anchors are heavy, When we get back from Japan)

このピンナップガール「ベビさん」は、漫画家としてのヒュームの足がかりになり、
彼を有名にし、これが代表作ともなっています。




それでは、「ベビサン」をちょっと覗いてみることにしましょう。

「ベイビーサンはクリエイトされた存在ではない。
どのエピソードも、あのとき富士山の国でアメリカ男たちが経験した
大なり小なり本当のことに基づいている。」

とヒュームは言っています。



「日本の女の子ってこんなのだと思ってた?」

このカートゥーンには、踊るベビさんをみながら、水兵がうっとりと、

「国にいる彼女とそっくりなんだよなあ」

と呟くというものもあります。
占領国に進駐するかつての敵国軍人として日本にいるアメリカ軍人たちですが、
どこにいっても若い男が考えることはただ一つ。

問題は、たいていの軍人は結婚していて、日本娘との恋愛を
決してそういう前提で考えていなかった、ということです。

つまり、彼らが知り合い、ましてや恋に落ちることのできる相手は、
当然ながら当時の言葉で言うところの「パンパン」ということになります。

そう、つまりベビさんは・・・・・



「なんでいっつもキャンディなの?なぜオカネ持ってきてくれないの?」

アメリカ男にすれば疑似恋愛のつもりでも、ベビさんにとっては
「仕事」なのですから、当然ですね。




「日本の女の子はアメリカの女の子と違うっていうの?」

うーん、水兵さん、ベビさんにメロメロですが、随分貢がされた模様。



「アメリカに連れてってくれるなら、全部の州に連れてって”ネ”?」

ベビさんはよく疑問形の後ろに「ne?」をつけます。
日本語の「ね?」が英語でもでてしまうようです。

彼女はモテモテなので、すべての州に付き合った男がいるんですね。
中には「Ohno」という日系アメリカ人もいるようです。



「ジョーさん!今夜は勤務だって言ってたと思うけど?」

ベビさんの勘違い?それともジョーがディックと「交代」したのかな?



「今日、故郷に帰らないといけないの。母が病気で」

ダブルブッキングもの、もう一つ。
しれっとお母さんを病気にしていますが、男物の大きな靴が玄関に。

彼女も口ではこういっているけど、ばれても平気って感じですね。

戦後、敗戦でショボーンとしてしまった男たちに比べ、ある種の女たちは
たくましく、進駐軍が来るなり、彼らのニーズに応えてたちまち
「日本の恋人」になる代わりに・・世間からは眉をひそめられる存在となります。



「母の写真、弟の写真、妹の・・・お給料日には仕送りをしなきゃ!」

問題は「誰のお給料日」のことなのかってことなんですが。
この絵の左側に付けられたキャプションによると、大抵のベビさんは
働き手のいない家族を一人で養っていて、稼いだオカネを仕送りしていました。

まあそうですね。

家族の誰かが働いて、皆が食べていけるのなら、外人男相手の
「パンパン」になど
誰が好き好んで身を落としたでしょうか。
当時の貧しい女性が家族を養って生きていこうと思ったら、
そして少しでも楽をしようと思ったら、この選択もやむなしだったということです。

現在お隣の国の人権団体とやらが言い張るように、
無理やり連行されてではなく、
あくまで彼女たちが選んだ道ではありましたが。

そして、かつての敵国だった国の男たちにとっては、彼女らがこの日本で知る
唯一の、「生きた日本女性」であり、その付き合いが日本文化を知る
機会の一つであり、ギブアンドテイクの世界で彼らはそれを楽しんだのです。



「だっておかしらがないと縁起が悪いでしょ?」

カルチャーギャップもところどころでネタにされています。
「(靴を玄関に置いておいても)誰もそんなもの取らないわよ?」とか。



「ノーノー、ベビさん、FULL ルテナントって言ったんだよ、FOOLじゃなくて」

彼女の「恋人」はセイラーだけでなく、もちろんヤングオフィサーもいました。
「Full Lieutenant」というのは公式の階級呼称ではなく、海軍全体で
少尉(Ensign)、中尉( Lieutenant Junior Grade)と大尉(Lieutenant)
の違いをはっきりさせるときに使います。 

O-1 Ensign

O-2 LTJG Lieutenant Junior Grade

O-3 LTLieutenant ( Full Lieutenant)

ということなので、「役満中尉」ってことだと思います。(適当)

ビル・ヒュームは幾つかの「日本占領もの」を書きましたが、彼は
一度として日本男性を描くことはなかったそうです。
彼が日本を見る目は、ベビさんというキャラクタライズされた日本女性を
通してだけで、それは「狭い世界の狭い視点」からの日本にすぎません。

しかもベビさんは当時ですら非常に特殊に類する女性だったのですから、
本人が気づかずとも、そこに偏見が満ちているのはごく自然のことです。

Anything but political, the comic plays on misunderstanding and sexuality. 
(政治的でないのはもちろん、それは偏見とセクシュアリティに満ちている)wiki




有吉佐和子の「非色」という小説をお読みになったことがあるでしょうか。
進駐軍の兵士として日本に駐留していた黒人のトムと結婚した笑子。
彼女はベビさんのような種類の女ではなく、職を求めてPXで働いていた
「カタギの女」です。

彼らは結婚し、アメリカに渡るのですが、そこで彼女は日本にいるときに
潤沢に物を買い与えてくれた夫が、アメリカに帰ったら「貧しい非差別人種」
であることの現実を思い知ります。

日本にいるあいだは、黒人兵にとってそこは「自分より下の人種がいる天国」で、
とにもかくにも色の黒くない肌の子供を産んでくれる日本女性は、まるで
自分の地位を上げてくれ、アメリカでは最下層の自分をも頼りにしてくれる
天使のような存在であった、ということが描かれていました。

主人公、笑子のような女性を「戦争花嫁」(War bride )といいます。

 

終戦直後のアメリカでは、法の下で有色人種に対する差別が保証されており、
アメリカ軍では異人種間の結婚は禁止されていました。

アメリカ軍人が、被占領国民でかつ黄色人種である日本人女性に産ませた子供を
認知する義務はなく、そもそもまだまだ排日移民法がアメリカでは生きていたため、
日本人妻子のアメリカ入国は不可能だったのです。

これはどういうことかというと、日本で女性とどうにかなって、日本で一緒に住み、
子供までなしても、任務の期間が切れて帰国したらあとは音信不通、
残された女性と肌の色の周りと違う子供は路頭に迷う、という例が多々あったのです。


1946年6月29日、アメリカ軍は「GIフィアンセ法」を制定し、
日本人女性とアメリカ軍兵士・軍属との結婚が可能になり、
1950年、GIフィアンセ法が改正され、アメリカ軍兵士の妻子が
人数制限なしに、アメリカに入国可能ということになりました。

「非色」のトムと笑子は、1950年以降に結婚したということになります。


戦争花嫁、というwikiページをみていただけるとわかるのですが、
戦争が起きると、進駐した外国人兵士と現地の女性が、戦後結婚し、
男性の国に共に移住する、という例はどんな戦争にも一定数あります。

戦争花嫁

あきらかに宗教などの障害の大きいとおもわれるアメリカ軍兵士と
イラク女性のあいだにもあったのですから、占領時代に日本女性と
恋に落ち、アメリカに連れて帰った例はいうまでもなく多数ありました。

ある統計では、第二次世界大戦後、アメリカ軍兵士が世界中の戦地から
連れて帰ってきた戦争花嫁は30万人だとされています。
この中には、日米のように敵国同士であった国ではなく、米英のような
同盟国同士の婚姻例も含まれています。


しかし、結婚してアメリカに渡米することのできた笑子のような例は
まだしも(あとのことはともかく)ましで、やはり中には
「現地妻」「占領地の恥はかき捨て」というけしからん輩もいて、
(そもそもアメリカでは妻帯者だったりするわけですから)
従ってあちらこちらに「マダム・バタフライ」を生むことになりました。

この漫画の「ベビさん」は、ともかくも今日明日食べていくために
アメリカ男たちを手玉に取っているだけのように見えますが、
そんな商売をしていても、どこかで自分が虜にした男は、いつか
必ず自分をアメリカに連れて行ってくれる、と信じている風でもあります。

 

これが「BABYSAN」のラストシーンです。
思いっきりそれらしく訳してみたかったのですが、ここは
「He wonders」のリフレインの雰囲気を壊したくなかったので
皆様の読解力にお任せすることにしました。

かつての恋人を乗せた船に手を振りながら、埠頭を歩いてくる
かっこいいセイラーに早速目を奪われているベビさん(笑) 



「ベビさん」シリーズは、進駐軍の兵士たちに大人気であり、まるで

ガイドブックのように進駐を控えた兵士が日本に赴任する前に読む、
という活用のされ方をしていたようです。
彼らはベビさんが特殊な女性であることを知ってかしらずか、
こんな女の子に会えるとワクワクしながら日本にやってきたフシもあります。

美人で、奔放で、エキゾチックで、なんといっても男に都合のいいことに
彼女は決して男に金と情熱以外のものを要求しません。
短期間異次元ワールドに旅行するつもりの男にとって、理想的な恋人といえます。

そして、作者は

Babysan disarmed the sailors and soldiers with her beauty
and ability to adopt new things 

(ベビさんは彼女の美しさと新しいことに適応するその能力etc.で、
水兵やソルジャーを武装解除した)

という「平和的効果」は「 it is highly respected.」(高く尊敬されている)とします。
そして、

These were combined with some of charming things in Japan
including the most charming thing to the United States servicemen
according to Hume, the Japanese girl.


(日本にある幾つかの魅力の中で、ヒュームによれば、
アメリカ合衆国軍人にとって最もチャーミングなものは日本女性)

という賞賛を与えてはいるのですが、残念ながらその評価は非常に
偏った、本人にも気づかない蔑視に満ちたものだと言わざるを得ません。

ヒュームは、「BABYSAN」の序文で、こんなことを書いています。



「この本をフジサンの国を訪れたすべてのアメリカ人に捧ぐ
そして、占領時代、いかに占領されていたかを、
日本人から学ぶ
ことになるかもしれない者たちにも」

「ベビさん」は「ベティ・ブープ」のようなキャラクタライズされた
いわゆるセックスシンボルであり、アメリカ男の「ジャパニーズガール」
に対する甚だ調子のいい妄想を掻き立てるための架空の存在にすぎず、
作者のヒュームは、少なくとも誰か特定の日本女性に対し、
このキャラクターを重ね合わせることはなかったと見えて、
この言葉の中には日本女性への賛辞や感謝は全くありません。


「BABYSAN 」の本は当初日本で印刷されたらしく、冒頭の本も
裏表紙には日本円で値段 (¥300 or 85$)とあります。

しかし日本の社会で、この本ならびに「ベビさん」のキャラクターが、
何かの話題になったり、有名になったりすることがなかったのは、
日本人にとって「ベビさん」は、敗戦を象徴する苦々しい存在だったことと、
当時のすべての日本人、特に男性が、大なり小なり「ベビさん」的なものに対して
抱いていた嫌悪と怨嗟のせいだと思われます。



 



 


魚雷の上で見る夢は〜イントレピッド航空宇宙博物館

2016-03-20 | 軍艦

ニューヨークはマンハッタン、ハドソンリバー沿いにある
空母イントレピッド博物館の見学、艦内の乗組員居住区です。

冒頭写真は艦首のアンカールーム。

さすがに巨大空母のだけあってここだけでも広大です。



暗いのにちゃんと撮らないものだから何なんだかわかりにくいですが、
デスクのバーにかかっているものはスパナやバールのようなもの。
ここは「MACHINE SHOP」といいます。工作室ってところですか。



マシンショップの様子。

船の機械部分を修復したりメンテナンスする部門は

「self-sufficient community at sea」

つまりこのあいだの掃海艇ではありませんが、海の上で「自己完結」すなわち
自給自足できるコミュニティである船にとって不可欠です。
特に空母はどんな事態になっても生還できるように、どんな困難な修復も
行えるような充実した設備を持つマシンショップを持っていました。

空母のマシンショップの「リペアマン」は、空母だけでなく、行動を共にする
艦隊の他の艦艇にとっても必要欠くべからざる存在でした。

ここには旋盤、フライス盤(平面や溝などの切削加工を行う工作機械)、
ドリル、圧縮機、研削盤、電動ノコギリなど、工作に必要な全てが揃って再現されています。




ここで休憩されたり、下手すると椅子などが盗られるかもしれないので、
わざわざガラス張りにして通路と遮断したコーナー。

兵員食堂の一部が当時使われていたトレイが置かれて再現されています。

 

イントレピッドの乗員は総員3,000人はいたということです。
そのほとんどが若い男性の旺盛な食を支えるキッチンをギャレー(galley)といい、
イントレピッドには大きなギャレーが二つありました。

護衛艦もそうですが、こういうところの食事はウェイターが運ぶのではなく、
乗組員がセルフサービスでトレイに食事を取っていくことになります。
ごらんの厨房具は、左奥にあるのがトースター。
日本のホテルにも時々見られる、中でローラーが回っていて
焼けたら下からころんと出てくるタイプのあれです。

右側はおそらくこれはコーヒーか何かのディスペンサー。
アメリカのホテルなどでは、今でも飲み物はほとんどこの形です。

典型的な艦内食は、

チリマカロニアメリカ風、スモークハム、バーベキュービーフコーン添え」

みたいな感じ。
今でも、たとえば日本に駐留している在日米軍の空母もこんな感じでしょう。
空母の牛肉消費量は1日に牛3頭と聞いて呆れたことがあります。



赤と白のチェック柄のテーブルクロスがダイナー風。
先ほどのダイニングも椅子が赤でしたし、アメリカ海軍は何かと
赤を食事の際に使う傾向にあったようです。
わが海上自衛隊では何か色を使うとしても必ずブルーと決まっているようですが、
食欲が湧く色としての赤をつかうというのはいい考えかも知れません。

そして、各テーブルにケチャップが一瓶ずつ置いてあるのが(本物?)
いかにもアメリカの食卓であります。

アメリカ人のケチャップ好きは異常。
誰かが各国の学生が集まる場所で、アメリカ人は必ずケチャップを取って
テーブルに一つどんと置いたままにする、と書いていたことがあります。
日本人の醤油みたいなもんなんでしょうか。

ケチャップって砂糖が多量に入っているのですが、何にでもそれをかけ、
コーラを飲んでアイスクリームを食べるからアメリカ人は太るんだろうな。



ここは間違いなく士官室士官以上のテーブルであろうと思われます。
なぜなら、トレイではなく磁器のお皿やコーヒーカップが載っており、
テーブルが小さくて二人しか席がないものだからです。

アメリカの士官にも「従兵」がついて給仕をしていたんでしょうか。

これは「Second class mess deck」といい、戦後、1969年に
改装されたのだそうです。



兵員用ベッドは三段式。
まあとても広いとは言い難いですが、潜水艦のベッドよりマシかな。



ここもガラス越しの見学です。
ベッドが2段で、しかも通路に余裕があることから、
士官の居住区ではないかと思われます。

このベッドなら、起き上がった時に頭をぶつけなくて済むわね。



兵員用の寝室と違って、こちらには収納用の引き出しも結構たくさん。
士官はいざとなったら身につける制服がかさばるから?



ここも多分士官用洗面所。
一度にたくさんの人が洗面できるようにボウルがたくさんあります。
ここにもトイレがありましたが、イントレピッドは底を固定してあり波の動揺はないので、
もちろんわたしのリバーススイッチがオンされる気配もありませんでした。



BERTHINGというのは船や列車の寝台のことです。
ここはハンガーデッキで、本来居住スペースはないところなのですが、
見学者用に寝台などを再現して、ここだけは体験型にしつらえてあります。

この案内に書いているように、クルーはこのバンクベッドのことを「ラック」と
呼んでいました。(確かに棚である)

空母とはいえ決して平の兵員たちにとっては潤沢なスペースはなく、
一つの区画には大体10人かそれ以上が寝ていましたが、
もっとも普通でない寝台は、この写真のように魚雷の上に設えられたものでした。

「ここでは彼らのベッドを体験できます。
あなたは魚雷の上の寝床でくつろいで寝られますか?」




彼らはくつろぎまくり。
というか、今の米海軍軍艦もこんなベッドなのかしら。




クルーが与えられたユニフォームと私物を入れるスペースはこれだけ。
普通のアメリカの住宅に備えられた洗面所の薬だなくらいの大きさ。

ここがあなたに与えられたとしたら、あなたは何を持ちこみますか?


と書いてあります。



再現された「魚雷の上の」ベッドにはところどころ説明がついていますが、
ベッド中段の棚の横には「MEMENTOS」とあります。
この言葉からは「memento mori」(死を忘れるな)という言葉を思い出すのですが、
同じ語源で、「mementos」とは思い出の品とか形見といった意味があります。

写真がぶれて説明が読めないのが残念なのですが、どちらの意味なのでしょうか。



個室にたった一人で寝られるのは、艦長と司令官だけです。
どちらの部屋かは忘れましたが、さすが空母の特別室だけあって居心地良さそう。



空母なので他にも偉い人用の部屋はあります。
ベッドの頭の上に備え付けてあるラジオが何だか不安ですが、軍艦なので
そんなことは気にしねえ!といったところでしょうか。



体験コーナーでは信号灯を実際に付けてみることもできます。

写真でモールス信号を送っているのはQuartermaster 2nd classのトニー・エバンスで、
なんと彼のいるのはUSS「ブルーリッジ」なんだそうです。

第7艦隊の揚陸指揮艦「ブルーリッジ」は1970年の就役なので、
いま横須賀にいるのと同じ船でしょうね。



体験コーナーでは、「船の音」を聞くこともできます。

まず、一番左から、

BOATSWAIN'S WHITSLE

これを「ボートスワイン」と読んでははなりませぬ。
自衛隊でも普通に使う「ボースン」(掌帆長)の元々の綴りがこれです。

これを略して「BOS'N」とか「BO'SN」=ボースン、というわけ。
ボースンズコールというと、号笛、つまりサイドパイプ。
ホヒーホーとかヒーホーとか船に偉い人が乗ってきた時やなんかに鳴らされるアレです。

あとは「ジェネラルアラーム」とか「フライトクラッシュ・アラーム」(航空事故のとき)
「コリジョン・アラーム」 など、場合に応じて違う警報音を聴くことができます。


イントレピッドの渓流固定してある岸壁でずっとこんなスポーツをしていた人がいました。


続く。


 


「その後」のファットガイ〜FAT GUYS IN THE WOODS

2016-03-19 | アメリカ



YouTubeから「FAT GUYS IN THE WOODS」の宣伝を探してきました。
どうも彼らが仕掛けた罠にはウサギがかかっていたようですね。

無邪気に喜んでいますが、この後殺したウサギの皮を剥ぎ、
捌くという、日常ではためらわれる作業が待っているのです。
しかし、この極限(っても1週間ですが)状態では、ウサギが獲れるなんて獲れるなんて
それだけでも彼らにとってはご馳走の期待で唾さえ出てくる体験だったでしょう。

サバイバル体験が価値観を変えるとすれば、それはきっと食べ物です。

前回、かつて番組で登場したサバイバルメニューによると、
普通にアメリカで暮らしていたら一生食べなくてもいいもの(皮を剥いだ蛇とか幼虫)
をも、口にせざるを得なかった三デブがいたということになります。

それを思えば、本日の三デブはとりあえずいい出だしと言えましょう。
クリークが提案したのは、周りにサトウカエデの木がたくさんあることから、
幹から樹液を採って、それを火で煮詰め、メープルシロップを飲むことでした。 



うーん、これなら是非やってみたい。

カナダで「メープルまつり」というのに行ったことがあります。
敷地一帯で伝統的な手法でメープルを採取して、それを雪の上で固めたのを食べたり、
食堂ではメープルシロップを使った料理を食べたり、という
アメリカではしたことのない楽しい体験でしたが、このメープルシロップ、
その時も見たように、木に穴を開けておくとそこから樹液が出てくるので
それを木に入れ物を縛り付けて受け止めて集めるのです。


ここでデブたちが驚いたのが、採れる樹液の少なさです。
一般にメープルシロップを作るためにはその40倍の量の樹液が必要といわれ、
ここでも散々時間をかけて貯めた樹液も、ほんの一口にしかなりませんでした。




とても4人の男が満足するほどのシロップが採れるはずもなく、
少しの樹液を煮詰めて、周りにこれはふんだんにある雪を溶かして
薄めた甘いお湯を飲むという感じです。


それでも、デブたちが一口飲んで感慨深げにいうには

「甘い!」「甘いよ!」

もっともっとドギツイ甘さのケーキやドーナツを食べてきた(に違いない)
デブたち、今までの生活なら「味がしない」と言い捨てたであろう
自然の甘みの付いたお湯を、まるで甘露のように味わっております。




「regurgitate」というのは「一度口に入れたものを戻す」と言う意味ですが、
一度に飲み込んでしまうのがもったいないので、口の中から出して
反芻しつつ味わっているというかんじでしょうか。

それほどまでにこのメープルシロップ(の混じったお湯)は
彼らにとって貴重でありがたいものであったのでしょう。



「メープルシロップがこんなに美味しいとは」

と感激しております。

今までスーパーマーケットで買ってきて、パンケーキにガバガバ掛けていた
メープルシロップは、大変な過程と苦労を経て製品になっていたことを知り、
またひとつ、感謝する気持ちを学んだのです。

それだけでも、参加した甲斐があったというものですよね。(適当)



一行は行きに通ってきた洞窟をもう一度抜けることにしました。
肘と左足を傷めてしまって辛い思いをしたようです。



そのとき、洞窟のどこか、あるいはこの上の方でものすごい音がしました。
どうも近くでクマが冬眠しているようだ、とクリーク。
大慌てでその場から脱出を図ります。



サバイバリストであり彼らの指導役のクリーク・スチュアート。
前回にも言ったように、彼はプロのサバイバリスト(サバイバーではない)で、
自然に身を置いたときにいかに生き抜くかを熟知しています。

ここでは、「もしこの火が消えたら、わたしたちも死ぬよ」と
割と当たり前のことを言っております。
そして、そのためには、乾いた木を見つけることが重要だ、と。




メープルシロップはよかったのですが、ろくな獲物が捕れないうちに
不幸にしてクリークが虫を見つけてしまいました(笑)

死んだ気でそれを食べる(この写真じゃなかったかも)デブ1。
もう、世界の終わりのような顔をして、

”Oh, that was gross! "

とか言っております。
この「gross 」は、日本語で言うと「キモい」という感じです。

ちなみに「醜いほど極端に太っていること」もgrossといいますが、
少なくともカウチを抜け出してここでサバイバルしている程度であれば、
この呼び名で彼らが呼ばれることはまずないでしょう。(アメリカ基準では)



おそらくですが、このサバイバルに参加した動機を語っています。
もちろん番組の性質から言って、自ら参加を申し込んだわけではないと思いますが、
それならどういう経緯で番組に出ることになったのか、そのわけを是非わたしも知りたい。

「自分自身を試してみる気で」

とかいう、そんな後付けの理由じゃなくってね。



死ぬよと言われつつ、火が消えてしまった模様。
テイクオフはこの場合プロジェクトの成功みたいな意味で、

「どうしてダメだったのかを考えるんだ」

と叱咤されているようですね。
その何をするにも寝転ばずにはいられない態度に問題があるのではないか。



火を起こすもう一つのやり方を試してみることにしました。

実はわたしはここまで見たときに眠くなってしまい、この続きを脱落したのですが(笑)
もう一度起きたときにまだ別の三デブが挑戦していました。



真ん中の人が火おこし棒を土台に押し付け、両側からロープを引き合って
棒の回転で火を起こそうという試み。

この三人、やっとのことで火を起こすことができたのですが・・・、



夜寝る場所を作っているうちに火が消えてしまいました。



覆水盆に返らず。ではなく、消えた火を悔やんでももう元に戻りません。
さあ、今晩どうするの?



こういうときのための脂肪とちゃうんかい!

三人でがっぷり6つに組めば、相当暖かいのではないかとも思うのですが。
火無しで一晩過ごすことを余儀なくされた三デブ、それでも
できるだけくっついて寒さをしのぎました。



長い長い夜が明け、ほっとしてシェルターから出てくる三人。

「俺たち三人みたいに仲良しだったことを神様に感謝しないとな」

とか言っています。
この言い方だと、夜の間は体をぴったりくっつけあっていたようですね。



そこにやってくる悪魔のサバイバリスト。
火のないところで男同士抱き合うようにしてしのぎ、寒さに耐えた
三デブに次なる試練を運んできたのでした。

ん?ところでなんだってこの人、左手を吊っているのかな?



そう、今日のお題は、

「右手だけでサバイバルしましょう」

左手が使えなくなったという設定で作業を行えと非情なお言葉。
同じように左腕を吊られた三デブ、全く嬉しくなさそうです。



そして、今まで以上に苦労して火を起こしたりするわけですが、
この試練はいわば「オプション」。

規定の期間を無事終えた三人に、

「ここで終わってもいいけど、もう1日だけ耐えれば、
この番組特製のサバイバルナイフを差し上げます」

という番組のいわばお約束チャレンジなのです。
これを断る三デブは不思議なことにまずいません。
デブというのは案外環境に順応したら打たれ強いものなのか。



そして、無事に訓練が終わり、晴れやかに感想を述べるのでした。



三人に、サバイバルナイフがプレゼントされました。
一つしかないような気がするのですが、これ、どうするんだろう。

ちなみに、クリークが理想のサバイバルナイフについて語るの巻。

Top 6 Survival Knife Features





にこやかに、そして晴れやかにクリークと握手を交わし、
厳しかったサバイバル生活を終えた自信を胸に帰っていきます。



家に向かう男たちの顔は、一つのチャレンジを成し遂げた成功に
光り輝くようです。


んが(笑)、彼らが家に着くなりまたカウチでポテトを抱え込んで、
今度は他の三デブの物語をあれこれうんちくを垂れながら楽しみ、
番組言うところの

「自然には発生しない飽和脂肪酸(ラードやバターに含まれる)やハイフラクトース
ぶどう糖果糖液糖:果糖42%に果糖を加え甘味を調整した甘味料)のコーンシロップ、
こういった最も健康的でない、しかし最も美味しく感じて便利で安い食べ物」

を、当たり前のように吸収する毎日に戻る姿がはっきり見えるのは、
おそらくわたしだけではありますまい。

しかも、なまじ「おれはあれだけのサバイバルに耐えた」という結果があると、
いつでもあんな生活に耐えられるという自信から、かえって厄介な
デブの道を歩んでいきそうな気がするのですが、番組はおそらく
そこまで責任取る気はないだろうなあ。


 


三人のデブ男、大自然に挑む ”FAT GUYS IN THE WOODS”

2016-03-18 | アメリカ


1月末に多分インフルエンザにかかっているのにアメリカにわざわざ行って、
その大半を部屋で寝ていたときに見た番組を今日も紹介します。

アメリカ行きのご報告の時にもちらっと書きましたが、
三人の太った男が大自然に挑むという誰得チャレンジ番組、

「FAT GUYS IN THE WOODS」



一週間で人生が変わる、とか字幕が付いてますが、つまりは、
日頃カロリー消費量を上回るだけ食って、その結果脂肪を溜め込んだ男たちを、
厳しい自然にサバイバルさせて根性を叩き直す(たぶん)というのが
この番組のキャッチフレーズ。

以前、夏にアメリカでやっている「ネイキッド・アンド・アフレイド」という
破天荒のチャレンジング番組をご紹介したことがあります。



ネイチャー系の、ナショジオチャンネルとか、このウェザーチャンネルなどでは、
この手の大自然に挑む系が過去たくさんありました。

白髪をおさげにした男が、頼まれもしないのに山の中で穴を掘ったり蛇を食べたり、
といったサバイバルものをすっかり見慣れてしまったアメリカ人にとっても、
この、「見ず知らずの男女が一糸まとわぬ姿でサバイバル」という企画は
一大センセーションであったようです。

昨年の夏は、この人気にあやかって柳の下のドジョウを狙ったらしい
なんとも言えない不愉快な番組を見つけました。

題名は忘れましたが、最初から一糸まとわぬ姿で男女が出会う「マッチング」番組です。
海辺のロッジが一軒与えられ、そこで三人の男、三人の女がいきなり
全てを見せ合うところから始まって、さて、誰がカップルになれるでしょうか、
という、18歳以下は視聴禁止(とはなっていないのが恐ろしい)番組。


つまり「ネイキッド」からサバイバルの部分を抜いた企画です。
一応写真は撮ったのですが、あまりに下品すぎて、ここで
写真をあげて内容を説明するのは憚られる番組でした。

全部を見たわけではありませんが、アメリカのテレビ番組は
その下品さにおいて下を見ればきりがありません。 



そんななかで、この「ファットガイ」はむしろ健全すぎるくらい健全です。
普通すぎて謎です。
なぜ太った男なのか。なぜ三人なのか。


調べてみたら2014年に始まったらしいので、すでに3年目を迎えているのです。
もしかしたら夏しかアメリカにいないわたしが知らなかっただけで、
ここでは結構人気がある番組だったのかもしれません。




太古の昔、人間が狩りによって食べ物を得ていたというところから
本番組のタイトルは始まります。




食物連鎖のトップにいる人類は、今やその座に甘んじて?
肥大したお腹に悩むようになった・・・・・・・

って、そりゃあんたたちアメリカ人だけだろっていう。



「思い出すが良い。我々は打たれても立ち上がった。我々は強かったのだ。
文明に飼いならされて、すっかり牙を抜かれているものたちよ」

そして、

「カウチから降りて、ポテトチップスの脂をスェットパンツで拭き(笑)
そして大自然の声で目覚めようではないか」


と続きます。




というわけでカウチから降りてきたデブ三人。
この姿を見てわたしはたちどころに
「なぜデブなのか」だけは理解することができました。

大抵この番組は凍りつくような雪山で行われるため、
万が一のために脂肪を溜め込んで保温力のあるデブを出演させることで
番組はリスク回避というか、保険をかけているのです。(たぶん)



まず集められた三デブは、「師匠」であるナビゲーターに会うため、
ある程度の苦労をすることを余儀なくされます。

今回は、この大きな氷柱の立つような洞窟を抜けたところに、
その「師匠」がいる、と聞かされ、



立って歩くこともできない難所を越えていくのでした。
ただでさえ日頃から運動に無縁なデブたち、もうここで青息吐息です。



氷柱がまるでオブジェのように立つ洞穴の出口に人影が。
これは一体誰?



この人物が、当番組の「サバイバリスト」、クリーク・スチュアート。
クリークは、14歳の時にイーグル・スカウトになっています。

イーグルスカウトとはアメリカのボーイスカウトにおける最高位の章で、
21以上のメリットバッジ、技能賞を持っていなくてはいけません。

つまり、ボーイスカウトの中でも特別な存在です。
所持者は特別な奨学金を利用できるほか、ときには大統領晩餐会にも招待されるなど、
大変名誉とされている地位なのです。


そんな人ですから、サバイバルにかけてもプロフェッショナル。
現在、そういった自然での知恵を伝授するため、インディアナ州に
サバイバルロッジを持ち、そこで体験指南をしているそうです。

冒頭写真は番組宣伝のHPでポテトチップスに火をつけるクリーク。

ちなみに、番組中この写真のように、「サバイバル豆知識」が字幕で現れます。
たとえば「サバイバルの時にクリークはウールとレザーを着用する」とありますね。

確かに、ダウンジャケットでただでさえデブなのに1.2倍くらいに膨らんでいる

参加者に比べると、クリークは異様なくらいの薄着に見えます。
慣れているのか、他にサバイバリストならではの理由があるのでしょうか。

ところで、この斜めに着る形のスヌードというかマフラーは、
なかなか
おしゃれで素敵だと思いました。
こんなの売ってたらぜひ欲しいけど、多分手編みでしょう。



お互い挨拶が終わったあとは、これからのサバイバルについて
さんざん脅かされるというか、予告を受けます。
神妙な顔でそれを聞く三デブ。



華氏34度というのは摂氏1度のことです。
昼間でこれですから、夜には確実に零下になるでしょう。
まず常緑樹の葉のついた枝を集めて仮眠所を作ったあとは、
火を起こすことを始めねばなりません。



クリークはどんな状況でも確実に火を起こす方法をいくつも知っており、
適宜デブたちにそれを指南します。



二本の立木にかけたベルトでどうにかしてどうかすると、
木と木が人力でするより早くこすり合わせられるということみたいです。



木の幹に火を起こす木を挟み、ベルトで回転させて発火させる方法かな?



「あまり強くこすり過ぎない方法がいいよ」

などとアドバイスをしているうちに、



木切れから煙が出たので、それをおが屑のようなものに移して
みんなでフーフー吹きます。

punky wood、パンクウッドともいいますが、森の朽木から採れる
(幹を蹴飛ばしたりして採る)木屑のことをこういうようです。
簡単に火がつくので、サバイバルには欠かせません。 (豆知識による)



どうもクリークは、人に呼びかける時にいちいち「MAN」をつける癖があるようです。
もっと吹いて火を起こせ、と言っております。



やったー!
ついに火を起こして焚き火をすることができました。
「You sucker」と言っていますが、サッカー=おめでたい人、と、
ふうふう吹く、の反対で「吸う」をかけているのかと思われます。
日本語に翻訳しても何が面白いの、ってことになってしまいますが。 



さて、次はお待ちかね、何かをお腹にいれる時間です。
これまでカウチポテトしてきた歴代のデブたちが、この番組で食べさせられたのは

大カブトムシの幼虫
木のラーメン:トナカイモス(ハナゴケ)
フクロネズミ
ローストしたミツバチ
野兎
どんぐりの粥
皮をむいた蛇
アヒル
エルサレムアーティチョーク
ウズラ
ガマガエル
ワイルドベリー
ローズヒップベリーティー


まあ、全然オッケーなものもたくさんありますよね。
特に最初から料理されていさえすれば。

問題は自分でそれを獲って、殺した獲物の皮を剥いで、
焚き火で炙ったりするというそのプロセスにあります。


今回、カウチポテトの代わりに彼ら三デブに与えられた
自然の中の食べ物とは、なんだったのでしょうか。


後半に続く。 

 

”CAT SHOT” 空母「イントレピッド」

2016-03-16 | 航空機

「イントレピッド」のハンガーデッキに入って一番先に目につくのがこの模型です。

プリーズドゥーノットタッチ、と言われなくても手が届きません。
あ、触っちゃいけないのはこの周りのフェンスのことかな。


空母を博物館にしている西海岸の「ホーネット」は、
オリジナルのラッタルを使い、館内に入場する仕組みになっていますが、

ここニューヨークの「イントレピッド」博物館は、空母の外側、
少し離れたところに階段だけの塔を併設し、その渡り廊下を進むと
そこが甲板、という作りになっています。

イントレピッドの見学についてお話しした時に、艦載機というか、
甲板の展示飛行機から解説を始めたのはそのためで、すべての見学者は
甲板からツァーを開始するということになっているのです。

それを見終わった後、選択肢は三つ。

1、艦橋
2、艦内
3、特別に作られたスペースシャトルのコーナー

この順路はどのように行ってもいいですが、あまりに広大な博物館は
見るところが多すぎて、見学には丸一日かかってしまいます。
わたしたちは先日お伝えしたように艦橋を見学し、ついで
甲板に一旦出てからこんどは甲板の下のハンガーデッキに行きました。


ここではこの空母「イントレピッド」そのものの紹介をするコーナーがあります。


「イントレピッド」が最初にハドソンリバーに博物館として展示されたのは1986年ですが、
2006年、ここ86番桟橋、ピア86が老朽化のため改装する際一度移動しています。
もう自走できなくなっているため、6隻のタグボートで曳航を試みたのですが、
長い間に蓄積した泥にスクリューを取られて動かすことができませんでした。



そこで周りを浚渫(しゅんせつ)し、艦体はドライドックに移されました。
ピア86の改修が完成した後、ここに戻されたのですが、問題となったスクリューは
取り外してしまって、館内に展示されています。








大口寄付のスポンサ企業も、ちゃんと目立つところに名前があります。
「ミューチュアル・オブ・アメリカ」はアメリカではよく聞く相互保険会社です。
メイシーズは古くからの老舗デパートで、ボストンの独立記念日の花火大会スポンサーなど、
目立つイベントにはよく名前を見受ける企業。

そして、上から二番目、あのリーマンブラザースの名前が・・・・。

リーマンショックが2008年、イントレピッド博物館改修が始まった頃には
まだサブプライムローンの焦げ付きも始まっておらず、ブイブイ言わせていた時代。
社員が避暑地にクルーザーなど持ち、毎週末はセレブパーティなどと言われていた頃です。


しかし、世間で言われていましたが、リーマンショックの直接の原因って、
韓国政府筋の銀行が株取得をいきなり取りやめたことだったのですね。
日本では報道されなかったので「韓国が原因」って、いったいなんなんだと思っていました。



イントレピッドの進水式で派手にシャンパンの瓶が割られる瞬間。
この写真を撮ったカメラマンすごい。

「イントレピッド」intrepidを辞書で引くと、「恐れを知らない」「勇敢な」
という文語であることがわかります。
この名前を持つアメリカの軍艦は全部で4隻。
もちろんここにある空母「イントレピッド」がその最後の名前を持つ船です。

一番最初に「イントレピッド」と名付けられられた船は、バーバリー(トリポリ)戦争の時、
1801年にリビアにある王朝とアメリカとの戦いに投入されたものです。

二番目は1874年スチームエンジンで、三番目は海軍の水兵の住居として使われていました。



さすが空母だけあって時鐘も大きい。
時鐘とは、以前「大和の時鐘」で説明したことがありますが、
船の上でも時間の経過がわかるように30分おきに鳴らされる鐘です。
鐘の一打を「・」で表すとすると、
 
0:30 ・  1:00 ・・ 1:30 ・・ ・ 2:00 ・・ ・・  2:30 ・・ ・・ ・ 3:00 ・・ ・・ ・・ 3:30 ・・ ・・ ・・ ・ 4:00 ・・ ・・ ・・ ・・ 


これがワンセットで、4:30にはまた一点鐘から始まるのです。

これもなかなか奥が深くて、一巡してくるとまた「・」から始まるのですが、

 16:30 ・ 17:00 ・・ 17:30 ・・ ・ 18:00 ・・ ・・ 18:30 ・ 19:00 ・・ 19:30 ・・ ・ 20:00 ・・ ・・ ・・ ・・

1830、1900、1930、この赤字の鐘の数がここだけ変則なのです。 

ちょうどこの頃が気の緩みなどで、船にとって事故が起こりやすいんだそうですね。
というわけで本来5点鐘のところ、1点鐘にすることで

「まだ当直任務は始まったばかり」

と気を引き締めるためだそうです。

アメリカ海軍でも同じようなことをしているのでしょうか。



ここにもあった特大模型。

こちらは1943年に就役してから、戦時中に運用されていた時の再現モデルです。

「イントレピッド」は大戦時、常時90から100位の航空機を艦載していました。
F6F「ヘルキャット」、SB2C「ヘルダイバー」、TBF「アベンジャー」などです。

昇降機は、当時3つあり、そのうち一つは船のデッキのエッジに、あと二つは
センターラインに当たるところに位置していました。



そのうちの一つが、この部分です。

艦体の色は当初ブルーグレーにペイントされていました。
また別項でお話ししますが、フィリピンで海軍の特別攻撃隊の突入を受け、
多大な被害に苦しめられてから、艦体をカモフラージュの「ダズル・グレー」に
塗り直したあとが、この模型のカラーです。

日本の特攻隊員の目にはあまり関係なかったと思いますが・・。



ステージに誰か立ってお話ししているのに、後ろで喋っている人がいるー(笑)

この模型の置いてあるあたりは「ハンガー1」というのですが、乗組員は

何か催し物がある時にはここに集合しました。
先日、このステージの使用例をいくつかご紹介しましたね。

奥のステージのように見えているのは、艦載機のエレベーターです。
そしてここに見えている飛行機は手前がF9F-8「クーガー」
奥のヘリがパイアセッキHUP/UH25「レトリバー」です。

写真は1958年に撮られたものだということですが、この頃まだ
人権を認められていなかった黒人兵が白人の中に混じっています。
海軍では世間一般ほど人種差別はなかったのでしょうか。



「航空機の着陸とはコントロールされたクラッシュ(墜落)である」

とそういえば昔飛行機の専門家という人に聞いたことがあるのですが、
実際に艦載機に着陸する時に、飛行機は2秒間の間に241kphから0に減速します。

それを可能にするのはアレスティングケーブルとテイルフック。
最初にこれに挑戦したパイロット、ユージン・エリーはこの事故で亡くなりましたが、
それらが改良されたあとも、着艦の事故は幾度となく起こりました。


着艦の際の事故を少しでも軽減するために、いろんなシステムが考えられました。
このオプティカル・ランディング・システムもその一つです。 

ホーネットのシステムは去年確か甲板上にあったと思うのですが、今年は見ませんでした。
甲板上にあるとそう大きく見えないのに、こうしてみると巨大です。 



日本海軍では採用されなかった着艦システム。管制うちわ。
正確にはなんていうのか知りません。
左下の書物には、このうちわマンの動作の意味が図解で示されています。



うちわマンのうちわ管制お仕事例。
ノリノリである。


「機動部隊」という映画についてお話ししたことがありますが、
ゲーリー・クーパーが演じた主人公の海軍軍人が、「ラングレー」という母艦に
必死の思いで着艦訓練していたのを覚えておられますでしょうか。
この「ラングレー」がCV-1、つまり海軍最初の航空母艦です。

この航空管制「うちわ」の横にはそんな説明が書かれているのですが、
興味深いのは、

航空母艦ができるまで、海の上の武器は船であったが、
艦隊戦の時代は終わりを告げ、艦載機による航空戦の時代がやってきたことを
「最初に真珠湾攻撃が証明した」

と書いてあることです。


それだけでは沽券にかかわるのか、ミッドウェイ海戦も付け足してはいますが。
そういえば映画「機動部隊」では、主人公のクーパーが大鑑巨砲主義の海軍上層部に、

「日本軍の攻撃は、これから艦隊戦は航空機の時代であることを教えた」 

みたいなことを言っていましたっけ。
もしかしたら真珠湾攻撃をやった山本五十六っていわゆるひとつのパイオニア?  

そういえば東京裁判でも、同じ海軍軍人として真珠湾攻撃を称賛すると言う葉を

永野修身にわざわざ伝えたアメリカ軍人もいたと言いますね。




キャットショット。猫撃ち?

昔ペルシャとエジプトが戦争になった時、ペルシャの軍隊が盾に猫をくくりつけて、
猫を神の使いとするエジプト兵が攻撃できなくするというものすごーく卑怯な
防御法を編み出し、実際にそれで勝ったという話もあった気がするけど関係ある?


キャプションには、

1954年、インテレピッドからカタパルトで離艦遷都する
ヴォート7FU3
「カットラス」の周りからはスティームが立ち上っている


と書かれてあるだけ。
これは「カタパルト( catapult )」のCATで猫は関係なかったのでした。

そういえば、先日見学した「ロナルド・レーガン」の管制士官が、なにかというと
「キャッツ」「キャッツ」と言っていましたが、こういう風になんでも
略して発音するのは、帝国海軍の伝統を引き継いだ海上自衛隊だけではなかったのね。 


続く。

 


津南雪まつりでランタンを上げる

2016-03-15 | お出かけ

台湾のランタン祭りやコムローイに行かれた方、あるいは「ラプンツェル」の
"I see the light" のクリップをご覧になった方は、ランタンが一斉に上がったときの
あの幻想的な光景をご存知だと思いますが、ここ津南のランタン祭りは
あの空を埋め尽くすランタンとは少し違う、しみじみしたものです。

つまり規模が小さいということなのですが、さらにその打ち上げを3回に分けて行うのです。

これにはいろいろと運営の事情などがあるらしいということがわかりました。



打ち上げは何時何分から、ときっちり決まっているので、それまで皆は
ゲレンデに出ている屋台のものを食べたりして過ごします。

食事の後にもかかわらず、お祭りの雰囲気に弱い息子が「何か食べたい」というので、
このスモーク屋で何か買ってやることにしました。



スモークチキン。
この一角はいわゆる”てきや”とか香具師とかの店でした。
今時はインド人の香具師もいて、「ケバブロール」の店を出していました。



ここでも運営の指示により、1と2にグループ分けされた人々は、
ゲレンデの上がグループ1、下に2と場所まで決められてそこで待ちます。

わたしたちはグループ2なので、この辺りで待つことにしました。

「歓迎」のライト付近を見れば、細かい雪がひっきりなしに降っているのがわかります。



ところでわたしはこの日、手持ちのモンクレーのダウンブーツを履いていました。
このブーツ、暖かいことは暖かいのですが、雪仕様じゃないのでもう滑る滑る。
皆が踏み固めてツルツルになった坂を下るときなど、命からがらでした。

で、ここにもちらほらいた、「10センチヒール女」。
ディズニーランドならば愚挙でしかないこの「勘違いお洒落」ですが、
ここでは、ヒールが雪にアイスピックの役目をして機能していることが判明。

札幌のススキノのお姐さんたちは冬場も皆ハイヒールで闊歩している、
という噂がありましたが、たしかに靴底さえ滑り止めをしていれば、
わたしの「なんちゃってスノーブーツ(都会仕様)」よりはよっぽど安全かも。



いよいよカウントダウンが始まろうとするとき、会場上空に
ドローンが現れました。
上空からランタンの打ち上げを撮影するようです。



打ち上げ前、ランタンに点火が行われます。
人々の間にバーナーを持った運営のボランティアが待機していて、
手際よく周りの人のランタンに火を点けていきます。



ランタンは紙でできていて、濡れると飛ばないので、
指示が出てから外側の包装を外して軽く振ります。

関係者の方が、

「だから天候次第なんですよ。雨もだめだし吹雪はもっとだめ。
今まで中止になったことが1度あります」

とおっしゃっていました。



中に火が入ると、ランタンはこのように立ちます。
あとはカウントダウンを待って一斉に手を離すのですが、
必ずフライングで早くあげてしまう人がいます。

手を離してしまったのか、それとも一番乗りするためか。



灯のともるランタンを皆が捧げ持ってそのときを待つ様子は、
まるで敬虔な祈りの光景のようです。



周りでも次々にランタンが放たれていきます。



わあっと皆の間から歓声が上がりました。



ランタンを持って記念写真を撮ってから、という人ほとんどなので、
なかなか一斉にというわけにはいきません。
子供にはこれいい思い出になるでしょうね。



左の人はランタンを袋から出して中に風を入れています。



子供だけでランタンを持たせてやるご両親。

「まだ離しちゃだめよ」




ランタンが上がっていく様子は台湾やコムローイほどではないとはいえ、
大変感動的なものでしたが、いかんせんiPadのカメラでは焦点を合わせることもできません。



というわけでこの動画をどうぞ。



どうして一斉に打ち上げを行わないのかというと、それには切実な理由があります。
会場の人が一斉に帰路につくと、シャトルバスや車に人が殺到することになり、
大変な混乱になってしまうので、時差を設けているのです。(多分)

まあ、時差は30分もないので焼け石に水って感じでしたが。

アレンジしてくださった地元の方が、どこからともなくランタンをもう一つ持ってきて、

「三回目のスタッフによる打ち上げの時に上げてください」

とくださったので、わたしたちはゲレンデをスタッフとともに登って行きました。
ちょうどお昼、スノボの試合をやっていたスロープの所まで上がってきました。
つるつる滑る靴底でここまで来るのはたいへんでしたorz



せっかくなので息子とランタンを持ち、放すところを撮ってもらいました。



赤いランタンはスタッフ専用。
スタッフも近隣からわざわざやってきたボランティアなので、
いわば「役得」として最後にランタン打ち上げの権利があるのです。



わたしがこのランタンを撮っていると、山の向こうで・・・



花火が打ち上がりました。
あとで中の人がおっしゃったところによると、

「サプライズなので花火を打ち上げることはアナウンスしなかったんです」

花火を上げるということを言うと、みんなそれを見るために残ってしまうので、
あえて隠していたんだと思うな。



せっかくなので「スノボのジャンプ台」まで登ってきました。
ここから飛び出してほぼ地面と垂直の斜面に着地するなんて、信じられません。



上げてしまったらもう終わりなので、精一杯粘って楽しむ人も。



ジャンプ台の上から見下ろした斜面でも、まだ上げていない人が一杯です。



部屋に帰る前に、案内してくれた方が「知り合いがやっているお店に行ってあげましょう」
とおっしゃるので、そこでカレーをいただきました。
白いのはホワイトソースで、キーマカレーの上にかかっています。

このお店は、テキ屋さんのと違って、農作物などを宣伝する目的で
地元の人たちがやっているものの一つでした。
津南の名産品、甘い甘い人参が溶かさずに乗っているというカレー。
そしてご飯。なんといってもここは魚沼産コシヒカリの産地です。
お腹が空いていたら全部食べられたのにと残念に思うくらい美味でした。

「最初は全部テキ屋の屋台だったんですが、やっぱり地元の産物を
アピールする機会だろうということで、店を出すことにしました」

カレー屋さんの隣の汁物のお店は、商売っ気もなく、

「お金いりませんから飲んで行ってください」

と通りがかりの人たちに振舞っていました。



次の日のホテルの朝食を食べたレストラン。
この時初めて気づいたのですが、天井のいたるところに
ランタンが飾ってありました。
「思い出にどうぞ」ということで一つ1000円で販売していましたが、
ランタンは中国から一つ100円で仕入れているのだということです。
(原価は多分5円くらい?)



きのう打ち上げが行われ、お店が並んでいたところは綺麗に片付いていました。
スノボのジャンプ台もスキー客のために壊してしまうのかもしれません。

こういう仕事は、地元の土建屋の出番だそうです。
雪国の土建屋さんは冬になると仕事がなくなるので、雪かきと雪で設営する
こういった競技用の台を作るのが主な仕事になるのだとか。



あ、転んでる人がいる(笑)




まるで祈りを捧げているようなと言いましたが、この雪まつりは3月12日に行われました。
東北大震災の次の日にあたります。

ここ津南町では当日震度6を記録し、人的被害こそ45人に止まりましたが、
それでも地崩れ、地滑りによる住家及び非住家の被害は、全壊34棟を含む
計2,698棟というものでした。

全体の被害があんなに大きくなければこれだけでも大災害のレベルです。

毎年3月11日に雪まつりを行うことができるわけではないので、
ポスターや宣伝には震災の慰霊というようなことは謳っていませんが、
このように震災復興のメッセージを書き込んだ人もいました。

先日、駐米日本大使館が、アメリカの震災に対して行った「トモダチ作戦」
をはじめとする有形無形の援助に対し、謝意を表すメッセージをアップしました。

Embassy Of Japan In The USA  Message Letter 

この後半に、津南のランタンの写真が使われています。

「震災」「慰霊」などと声高にいわずとも、夜空を高く登っていく灯りが、
亡き人たちの霊を慰めるものであれかしと祈る気持ちは、
そこにいた多くの人々に共通するものであったと思います。






 


新潟 津南雪まつり

2016-03-14 | お出かけ

去年のまだ暑くなる前、いやほとんど1年前に、新潟県の津南町で
年に一度行われる紙提灯をあげるお祭りに参加することが決まりました。
台湾で「平渓天灯(ランタン)祭り」という紙のランタンに火を灯して
皆で飛ばすという行事があることを知り、ぜひ参加したいと思っていたのですが、
タイミングを合わせるのが難しく、ほとんど諦めかけていたのでした。

ところが、なんと国内で同じようなイベントが5年前から行われていることを、
例によってTOが地元の知り合いの方から聞きつけ、ぜひにとお願いして
参加資格の取得をしていただいたのでした。

台湾のランタン祭りは春節の行事で、町の人が一斉に赤い提灯を飛ばすのですが、
津南のランタン祭りは、その発祥に意味はなく、会場は単なるスキー場。
何事も「まつり」というものには起源に込められた意味があると思うのですが、
とりあえずそこまではあまり深く考えていない模様。
しかし、スキー場とはいえ一面の雪の中、ランタンを飛ばすなんて、
それだけで幻想的ではないですか



問題は雪国に行くための防寒対策です。


わたしは掃海隊訓練に参加したときの防寒グッズを活用できたのですが、
TOと息子は、雪でも滑らない靴や、ゲートル状のカバーや、手袋その他、
モンベルとLLビーンの通販でこの一日のために(ってか半日)一式揃えました。

そして当日朝8時20分東京発の新幹線で、越後湯沢に向かったのであります。




東京もこの日は大変寒かったのですが、わずか1時間半で、
トンネルをくぐったらそこは雪国だった。

と、今思いついて書きながらもしかして、と調べてみたら、
川端康成先生の「雪国」の舞台はなんとここ越後湯沢でしたー!

実際、トンネルをひとつ越えたら、いきなり雪が地面と平行に降っていて、
息子とわたしが「おおおおおお!」と驚いていたら、次のトンネルでは
雪がやんでいたり、とにかくトンネル出るごとに様子が違ってるんですよ。
あらためて文豪とは凄い文章を書くものだと感心しました。



それにしても都会から1時間、トンネルを越すだけでこの変化。
かつて新幹線の越後湯沢近辺が都会から近いスキーリゾートとして

バブリーに持て囃された(わたしをスキーに連れてっての時代)のも、
この近さが大きな理由だったのでしょう。



駅から津南に向かうバスの中、わたしと息子は早速雪景色を撮りまくります。
彼はiPhoneで、わたしは、iPadで・・・。

Nikon1はいったいどうしたんだ、とおっしゃるあなた、聞いてくださいまし。
いつも旅行には必ず転がしていくヴィトンのキャリーバッグには、
ちゃんと各種レンズとカメラ本体、コンデジはバッグに入れて持っていたのです。
ただしSDカードの入っていない状態で。

現地に入る前にどこかの駅のコンビニでSDカードくらい買えるだろう、
何しろ越後湯沢は都会人のリゾートだし、と甘く見ていたら、
新幹線駅のコンビニにはAppleのギフトカードはあってもSDカードはなし。

一応津南の「ニュー」のつく名前のホテルの売店の人に聞いてみたら、

「山を降りて国道まで出ていただくしか・・」

と予想通りの返事をされました。
コンビニが街角ごとにあって各種ギガのSDカードが買えるなんて、都会だけ。
このことを知っただけでも貴重な教訓となった今回の旅行でした。

そういえばこれと全く同じことが去年丹後地方の旅行であったような気もしますが、
まったくその教訓が生かされていなかったと知ったのも今回の教訓でした。



しかし、その時にも同じことを書いたのですが、
iPadでもなんとなく、そこそこ普通の写真が撮れてしまうんですよねー。





これなど、走るバスの窓から撮ったわりには、なかなかですよね?



撮る場所によってはこんな写真も。
iPadがそれなりに役に立っているのは喜ばしいけど、
それだけに、カメラ一式を入れたキャリーの虚しい重さが堪えます。



越後湯沢から津南まで、車で1時間少々という感じでしょうか。
ホテルのロビーからなんとスキー場に直結。
というかホテルの前が、そのまんまゲレンデです。

今日のランタンフェスティバルは、このホテルの前で行われる模様。



ホテルロビーの真ん中にあった「つるし雛」。

「もっともたくさんのぬいぐるみ(11,655点)を使った世界最大のディスプレイ」


としてなんとギネスブックに載っているそうです。
それがどうしたって感じですが、そもそもギネスレコードというのが

「それがどうしたの集大成」みたいなものだしな。



これが雪まつりのポスター。

客室はチケット販売の日から満室で、駐車場代はフェスティバル参加込みで

5,000円というものが半日で完売してしまったそうです。
そしてこの当日には駐車場の権利が4万円で取引されていたとか。

転売目的で手に入れオークションで売る、観艦式の乗艦券と同じ構図ですね。 

このランタン祭りの「元祖」はタイのコムローイという祭りだそうですが、
有名になったのはディズニーの「ラプンツェル」のアニメだそうです。

観てない方、忘れた方、これでどうぞ。


TANGLED - I See The Light [Official Movie Scene][HQ]


冒頭のポスター風のものは、このビデオの一シーンのようですが、
実は息子がiPhone6で撮って加工した画像にロゴを付けたものです。


津南のランタン祭りは最初にも書いたように5年ほど前からごく小さな規模で始まり、 

最初は街だけのイベントだったのが、ツィッターで急激に広まり、
特に今年の参加人数は、去年と比べ物にならないくらいになりました。

このポスターに書かれているニューグリンピア津南というホテルの
前の広いスペースでやることになったのも、最近だそうです。

さて、このホテルに到着したのは11時。
ホテルは1時に部屋に入れることにしてくれたので、お昼を食べることにしました。



食券式のラーメン屋さんがあったので、担々麺を頼んだら、
こんな真っ赤っかなものが出てきました。

「あ・・・赤い」

恐る恐る食べてみると、辛い、辛すぎる。
担々麺ってこういう唐辛子汁みたいな辛いものだっけ。
あまりに辛そうに(つらそうと読んでね)食べているのを見かねて、
普通のラーメンを頼んでいたTOが交換してくれました。



トリハムのポスターの鳥さんがサムアップしております。



こちらも。なかなかの絵心というか画力についシャッターを切りました。



部屋に入るまでまだ1時間あるので、外に出てみました。
土曜日ですが、スキーしている人はそんなに多くありません。
ちなみに積雪量は例年に比べ3分の1くらいしかなかったそうです。


豪雪地帯として有名なこの地方ですが、降る年で9mいくこともあるのに、
今年はせいぜい3mなのだとか。
このホテル前の景色も、「去年と全然違う」ということでした。



ポスターにある「SNOW WAVE」は、スノボの大会。
雪まつりとコラボして行われていました。
テントではDJがノリノリの音楽をやっていましたが、
(どうもスノボでは
音楽があるのがディフォルトらしい)
息子は去年からコンピュータで作曲をしていて、
DJについても詳しく、

「今のミックスのつなぎ方、かっこいい!わかる?」

などと、賛同を求めていました。(わたしの返事はいつも”へーそうなんだー”)



さすがにこういう写真はiPadでは絶対無理です。
あーせっかく望遠レンズ持ってきてたのにな。
ちなみに、この様子を”白レンズな人たち”が二人くらい撮っていました。

スノボの試合には普通なのかもしれませんが、下で解説者が跳躍ごとに
説明を行っていまして、このノリが実に軽い。

「おーっと、今のはハーフパイプかあ?!」「いえ〜、決まったッ!」

みたいな(ほとんど)感じ。

 

こういうのを望遠レンズで撮りたかったのよ・・・・。

後から関係者の方に聞いたら、鎖骨骨折で救急搬送された選手が一人いたそうですが、
もしかしてこの人だったのかしら。

この日の夜、ランタン飛ばしのあと、このジャンプ台に登ってみましたが、
ジャンプするところが二段になっていて、スロープの傾斜は上から見たらほぼ垂直。

よくこんなところを飛べるものだと背中がゾクゾクしました。
ちなみに選手の中には15歳の少年もいました。



会場ではいろんな楽しみが用意されています。
雪の上を走るスノーバイク体験。
このほか、スノーモービルの体験乗車や、スノーーモービルがけん引する
バナナボートに乗るコーナーなどがありました。



ん?なんか雪で作られた山があるぞ。



前には雪で作られた灯籠が並べられています。



なんと、かまくらの「神社」でした。
鳥居をこんな風に作って・・・・おもわずいいのか?と思ってしまいましたが、
HPを見ると、どうやらご祭神をいただいたちゃんとしたもののようです。

 

縁結びの神ということで、なぜか入り口にはハート型の目口をした雪だるま。
このハート型の目がさり気なくキモい。



こちら御本尊(絶句)

御本尊の周りのタイヤ状のものは実は龍のお腹だったりします。



申年ってことで、龍にしがみつく猿の親子。
かまくらの内壁に彫刻されています。



ぶら下がっているお猿さんも。



灯籠から覗いた「女雪だるま」。
いろいろと微妙な「神社」ですが、まあしょせん観光地の客のための、
つまり
雪が溶けたら溶け去ってしまうものということで。



ホテルの部屋で時間を潰し、ホテル内のレストランに行ったら、その階の廊下には
まるで難民キャンプか観艦式の護衛艦甲板のように人が座り込んでいました。

ホテルに泊まっていない人は、まずプレミアム駐車券5000円(ランタン付き)を
半年前に買うか、普通の駐車券を予約して、その駐車券の下番号が
「あたり」であれば、ランタンを1000円で購入しなければなりません。

このために、イベント開始の前に会場にきた人は、用事が済んだ後
いつまでも外にいるわけにいかず、ホテルのレストランにでも行こう!となるのですが、
どっこい、この日のホテルは宿泊客しかレストラン利用ができませんから、
皆しかたなくロビーか廊下で時間を潰していたのでした。

しかし、参加人数が急激に増えたのは今年からなので、
主催者もことそのような状況になるとは、全く予想していなかったということです。



外に出てみると、テントで抽選で当たった人にランタンを配っていました。
壊れやすく、濡れると飛ばないので、会場ではランタンを開けるのは
飛ばす直前にしてください、となんども注意がありました。



ちなみにうちの家族はホテルに泊まる権利を得た時点でランタン一個確保。




スノボのDJブースがあった所の横には、ステージが組まれ、バンドが
交代で演奏をしていましたが、スキーとかスノボとかのウィンタースポーツが
いつのまにか(わたしが最後にスキーをしたのは大学生の時)
レゲエっぽい雰囲気をよしとするイベントになっていたことを改めて知りました。

ロックでも、Jポップでもなく、「レゲエ」なんですよ。

写真は、バンド演奏の後でてきて挨拶をする運営の偉い人。
割とみんな聞いていませんが、わたしはちゃんと聞いていましたよ?
「ふるさと納税」に米どころで農作物の生産が盛んな当地を
お願いいたします、みたいなことも言っておられた気もします。
 


いよいよイベント開始の時間が近づいてきました。
打ち上げは全部で三回行われ、わたしたちは二回目にあげます。

冷たい雪の上に人々が集まり出し、皆の熱い期待がふくらんでいきます。


続く。