ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

コメント色々~護衛艦「さみだれ」乗艦記

2012-06-30 | 自衛隊

先日、ふと気づけば、開始以来800日を迎えた当ブログでございます。
気の向くまま海軍的なことから時事まで書きたいことを書き、脚の向くまま行きたい所へ行き、
それをまた書き連ねてきた800日。

おかげさまでこんな拙い読み物に対しても、申し訳ないほどの閲覧数を毎日記録し、
ID承認制にもかかわらず記事に対してコメントを下さる方もおり、まことに感謝の念に堪えません。


ところで、ここボストンでわたしがぐーすか寝ている間に、昨日の「さみだれ乗艦記」に対して、
コメントが集中してしまいました。(当社比)

わけがわからないまま書いた護衛艦の武器についての興味深いコメントも頂きましたので、
コメント欄ではなく、ここでそれらをご紹介(とお返事)させていただきたいと思います。

一人一人の方にコメントしたいのですが、コメント欄は時系列で並べられてしまうので、
直接のお返事がしにくい、と判断したための窮余の策でもあります。
それでは参ります。


カッコだけ (ミルママ中尉☆☆)

おはようございます、エリス中尉殿!!

恥かしながら、父は武人?としてはそれなりに勤め上げて無事定年を迎えましたが、
若かりし頃はその容貌故に、船乗りにたとえるなら「港々に女あり」みたいな感じで、
転勤先にそのような女性が複数あった模様であります。
時間、挨拶、整理整頓にうるさかった父も女性には甘かったという・・・お恥ずかしいことで(泣)
でも、亡くなってみると、そんなワキの甘い父が憎めないというか、今となっては笑い話です。


そうそう、常套句に関しては「白衣の天使」に騙されたってのもありそうですね。
人間病むと心が弱くなりますから。

話しは変わりますが、護衛艦さみだれ乗艦に際して運動靴を履かれた由、
さすがエリス中尉殿用意周到ですね。感服いたしました。次回も楽しみにしています♪


エリス中尉

ミルママ中尉殿、申し訳ありませんっ!
色々とおコメント下さっているミルママ中尉の、よりによってこのコメントが最初に・・・・。

勿論、自分の連れ合いや周りの人間に対しては、それなりの「誠実」っちゅうもんを、
ついつい要求してしまうのが人間の常ですが、以前にも書いたようにわたくしは
「男の浮気は必要悪」
みたいに頭のどこかで思っているわけで、決して奨励するわけではありませんが、
そのあたりに対しては男的な考えを持っているというのか、
「仕方ないんじゃない?」くらいに軽く考えています。
むしろ、人間的な魅力と「女好き」は十分共存する場合もないわけではない可能性がある、
ときっぱり(どこがきっぱりだ)言わせていただきます。

ある俳優の奥さんが「夫は女性にもてたけど、こんな夫が手放さないのは私だけ。
むしろ女として、こんな魅力のある男をつなぎとめているのは冥利に尽きる」
と言っているのを中学生のときにどこかで読んで(←)、
そのときは信じられない、と思いましたが、今では理解できます。

海軍軍人はそのカッコよさでMMであったのはこのブログ読者ならよくご存じの史実?ですが、
モテていただけでなく、彼らはそれこそ「筋金入りの女好き」が多かった模様。
しかし、昔は遊ぶならブラックさんと大いに、みたいに奨励されており、またその場もありました。
そういうことがカラッと割り切って行われるため、今よりトラブルにならなかったんでしょうね。

全くフォローになってませんが、ミルママ中尉どののお父上に、武人に対する敬礼を!


さくらさん

こんにちはエリス中尉
次回もとても楽しみです!

そして多分「ジパング」で
護衛艦「みらい」が使っていたと私も記憶してます。
やはり護衛艦となると旧海軍もそうですが、
「ジパング」がちらつきますよね?

そう言えば何かのTVで「駆逐艦」は「敵を駆逐する=敵を排除する」と言う意味だから、
「専守防衛の日本は云々…」と説明してました。

「JDS」と言うもの「JS」になったとは…
知らなかったです。
どうでもいいですが、私の電子辞書には「JDS」とあります。

エリス中尉

JSへの変更ですが、辞書には載っていなかったということはわりと最近なのでしょうか。

艦を降りて、そこまで連れて行ってくれた士官と話しながら歩いていたとき、
「あさぎり型(だったと思います。間違っていたらすみません)なんか、
(どう見ても大きいのに)『駆逐艦だ』と自分たちでは言い張っていますからねえ
とおっしゃったので、「え、駆逐艦、って言葉、使うんですか?」と聞くと
「使いますね。普通に」との返事です。

DDとはDestroyer、つまり駆逐艦であり、ジェーン海軍年鑑でもその通り駆逐艦の分類です。
つまり、世界的分類、当事者の使用呼称、全て「駆逐艦」であるわけです。

駆逐艦。なんてカッコイイ響きなんでしょうか。
「駆逐艦な野郎たち」っていう好きなマンガがあったなあ。
つまんない国内向けのポーズはそろそろやめて「駆逐艦」を正式名称にしてほしいですね。

ところで、さくらさんも「ジパング」読まれたんですね。
脇役キャラ好きのエリス中尉は、実は如月中尉に最も注目していました。
「みらい」のなかでは菊池三佐。(好みピンポイント)
滝少佐もゴーマンキャラで大好きです。って何を言っているんだわたしは(笑)

看護婦の制服姿に騙された私が来ましたよ(爆) (リュウTさん)

特別見学うらやましすぎます!

さて、
家内のバイト先の同僚(新婚さん)の旦那が海兵さんで、
春雨か村雨でソマリアに行っています。
子供がいないから今は遠距離恋愛(?)をしていますが、
子供ができたら大変そうです。
特に赤ちゃんの時はノイローゼにならないだろうか。

エリス中尉 

ただの遠距離じゃありませんからね。ソマリアとは・・・。
自衛官の妻たち、夫が派遣される場所と情勢によってはまさに命の危険すらあるわけですから、
いくら覚悟して結婚したとはいっても、皆心労が絶えないことと思われます。

わたしは息子が乳幼児だったころ、TOの仕事が最も過酷で忙しかったので、
話のできない赤ちゃんとふたりっきりで部屋に閉じこもり、ほとんどノイローゼ気味でした。
今にして思えば、その頃インターネットをやっていればかなりましだったのかもしれません。
そのとき「子育てブログ」など始めていたら、このブログは生まれていなかったでしょうけど。


護衛艦の中は電圧が高く、ノートパソコンを使うにも変圧器を要する環境。
インターネットゲームは勿論、しょっちゅうメールなんてできる環境ではないようです。
メールもろくに届かないのですから、昔の船乗りとほとんど変わりないのではないでしょうか。

いつも思うのですが、自衛官、医療従事者、そして介護関係は、もっと給与ベースを上げ、
ステイタスを与え、若者のあこがれの職業にして人員をもっと確保するべきです。

ところで、ミルママ中尉のコメントに「白衣の天使に騙された」という一文があるのですが、
なんとこのタイミングで、その被害者、じゃなくて該当者が・・・・・・!
まあ、騙されたというのも人聞きが悪いので
「制服を着ているときと脱いだ時のギャップが、考えていたより大きかった」
ということにしましょうよ。(あんまり変わらないって?)

本当に騙された、というのは
「介護の資格があるので老母と同居しても大丈夫だろうと思って結婚したら、妻は2か月でキレて、
ドアを壊すなどの破壊行為に及び、義母を広大な新築の二世帯住宅からホームに追いやった」
という、うちの親戚の男性のことを言うのです(爆)


フォロー (リュウTさん)

私もさほど詳しくないのですが・・。

短SAMは敵航空機への攻撃という「矛」もそうですが、
攻撃してくる対艦ミサイルを迎撃する「盾」の役割もまた大きいです。

90式艦対艦誘導弾(SSM-1B)は国産で、もちろん我が国だけです。
HARPOONはアメリカ製で、自衛隊や西側諸国も所持しています。
もちろん、あちら側の国々(露とか支とか)も指をくわえて見ている訳無く、
この手の艦対艦ミサイルは色々開発されています。
どちらの性能が・・というのは軍機なのでわかりません。

米軍とは単艦でのタイマンなら負けないでしょうが、
実際にケンカすると、数に頼んでやってくるので・・。
空母もあるし。
飽和攻撃と言いますが、同時攻撃にも限りがあるんですよね。
あちらはその気になれば反則技(核)もありますので。
ガンダムで例えるなら、シャアのゲルググには負けないが、
あちらにはエルメスが複数配備されて、
トドメはソーラレイシステムまであるぞといった感じ??
わからなければスイマセン。

>「近接する対空目標、即ち敵航空機にぶっ放すもの」
現代の戦闘では敵航空機は基本、そこまで接近しません。
「近接する対空目標、即ち我が艦に攻撃してくる対艦ミサイルにぶっ放すもの」です。
短SAMで撃ち漏らした対艦ミサイルを迎撃する「最後の盾」です。
これを撃ち漏らしたら・・おそらく「総員退艦!」となります。
想像したくありませんが。


エリス中尉

「という理解でいいでしょうか」とエリス中尉が言いだしたら、それは
「もしどなたか詳しい方がおられましたら、補足訂正お願いします」という意味でもあります。

「さみだれ」パンフレットの20mm機関砲の説明に
「近接する対空目標に対処するために」
と書いてあり、さらに手動にもなる、ということを読んだとたん、大東亜戦争中の戦艦上における
「敵飛行機、向かってくる!」
というあの情景が思い浮かんでしまいました。

近代戦では、もうあのような戦いは無いということでしょうか。
つまり、対空、というのは戦闘機ではなく、ミサイルのことだったんですね。

「ガンダムで例えてくれ」
と言ったわけでもないのに、実に分かりやすい例えを誠にありがとうございます。
戦前は「日米もし戦わば」なんて本が出版されていたみたいですが、今でも、
「日中もし戦わば」「日韓もし戦わば」
って、インターネット上ではシミュレーションが好き勝手に行われているみたいですね。

同盟国だからというだけでもなく、アメリカにとって、今や日本は戦う意味も理由もないわけで、
「もし戦わば」という仮定自体、果てしなく意味が無いものに思われます。

しかしながら、ここで「日米もし戦わば」を、リュウTさんの例えを元にあえて考えてみると
最初の一撃は我が自衛隊の錬度で圧勝できても、物量であっという間に巻き返され、
そして最終的には、最終兵器の核が地方都市のどこかに落とされ・・・

・・・・・あれ、どこかで聞いたような話が・・・。


桜に錨さん

はじめまして
最後の「予科練16期」です
ブログ興味深く読ませて戴いています
短期間の海軍生活でしたが苦しかった事も今では懐かしく思われます
「吊り床」と「巡検ラッパ」を思い出しては日々を送って居ます


エリス中尉

本物の海軍軍人の方が、遂にこのブログに・・・・!
開設800日目を迎え、エポックメイキングな出来事が起こってしまいました。

桜に錨さん、いらっしゃいませ。
自衛官の方や、元海自、自衛官を父上に持つ方、といった方々のコメントはこれまでもありましたが、
さすがに本物の帝国海軍軍人からコメントを頂くのはブログ始まって以来です。
大変光栄に存じます。

予科練16期というと、昭和20年4月に入隊という、まさに「最後の予科練」ですね。
この件でインターネットを検索してみたところ、16期甲飛の海軍飛行兵長であったという方が、
「わたしの予科練記」というHPを持っておられるのが見つかりました。

読みだしたら非常に興味深く、ついつりこまれて夢中になって読んでしまいましたが、
もしかしたら、これは桜に錨さんのページでしょうか。

正味4か月の海軍生活が、現在も桜に錨さんの、心の故郷のようになっているのですね。
苦しかったことも勿論おありでしょうが、何人もの元海軍軍人が言うように、過ぎ去ってみれば
「海軍は良かった」「美しい組織だった」
と、思いだされることも多いのだとお察しします。

戦争を肯定することと、かつて青春の情熱をかけた場所と時間を懐かしむことは、全く別のことです。
しかし、そういう風に戦中を回顧することすら、タブーのような空気を醸成した戦後の風潮に、
ひいてはその思想に異論を唱えるのが、このブログの基本姿勢とも言えます。

「吊り床」と「巡検ラッパ」を思い出しては日々を送って居ます

この一文に、若かりし日の桜に錨さんのお姿を想像すると同時に、感無量です。

そんな方もまた拙ブログに目を通して下さっている、ということを励みにしつつ、
これからも精進してまいりたいと思います。

コメントをいつも下さる皆様方も、ありがとうございます。
800日目を迎えて、ブログ主からの心からの感謝を、この場をお借りして申し上げます。




というわけで、一日「さみだれ乗艦記」はお休みさせていただきました。
明日、また続きからアップしますのでよろしくお付き合いください。




護衛艦「さみだれ」乗艦記

2012-06-29 | 自衛隊

呉を案内して下さった元艦長氏夫妻について、夫婦関係のことなどをだらだらと書いていたら
紙幅?が尽きました。
今度こそ本当に乗艦記と参ります。

心構えはまず外面の準備から。というわけで、乗ったことは無いけれど、
戦うためにできている軍艦というものの内部が、いかに狭い通路、急な階段を通るものか、
海軍好きの末席を汚すものとして多少なりとも知っているつもりのエリス中尉、
この時はどんな動きにも対応できるようにちゃんと運動靴で出かけましたよ。

さて、本日乗りこむ護衛艦は、「むらさめ」型の6番艦として平成12年に就役した「さみだれ」。
旧軍の駆逐艦「五月雨」はこれの先代であり、初代にあたります。

初代五月雨は、ミッドウェー、第三次ソロモン、マリアナ沖のそれぞれの海戦を戦い抜きましたが、
マリアナ沖海戦直後の1944年8月、輸送任務にあたっているところを米潜水艦に撃沈され、
パラオ諸島海域の海底で永遠の眠りについています。

乗艦の際、さみだれについてのパンフレットを頂くのですが、それに当然のことながら
先代「五月雨」のスペックや歴史が書いてあります。
しかーし。

「五月雨」の歴史には、なぜか肝心の、戦争中に撃沈されたということが書かれていないのです。
当然、誰に攻撃されたかということも書いていません。
ついでに、「五月雨」を初代軍艦「さみだれ」と、なぜかひらがなで表記しているのです。

何を、誰に遠慮しているのか海上自衛隊。

小さなことだけど、こんな風に気を遣うくらいなら、そもそも旧軍の名称を使うのもアウトでしょ?
堂々と
「パラオ諸島北端で座礁中米潜水艦「バットフィッシュ」(SS-310)の雷撃を受け沈没した」
って書くべきでしょ?

・・・・・・いかんいかん、わたしは何に怒っているのだ。



これがそのパンフレット表紙。
「さみだれ」のマークは、右下のペガサスです。
いかにも駆逐艦らしい俊敏なイメージのマークですね。
ついでにこのJSですが、少し前まで護衛艦は「JDS」=Japan Defence Shipだったそうです。
英語の名称から「防御」を外した。これはわたくし賛同します。


もう軍ではない、ということを占領軍とひいては国内のある勢力に向けて表明するために
戦後海軍は「自衛隊」「護衛艦」という言葉をひねり出しました。
しかし、自衛隊はともかく、護衛艦の英訳は、世界的に見て

「ディフェンスなんてわざわざ断る必要あんの?

国を護るために戦うのは当たり前だろーが!
そもそも軍艦っちゅうのは攻撃するもんだろーが!」

と不思議がられるネーミングであることに、彼ら自身もようやく気付いたと見えます。
(そういう理由ですよね?)


          

前回の写真でお分かりと思いますが、「さみだれ」は同型の駆逐艦が二隻並んで、
仲良く接岸している、その外側に位置します。
ですので、手前の艦「いなづま」から乗り、ジョイントというか通路を渡って乗りこみます。



ちなみに、この「いなづま」はこの艦としては4代目。
旧海軍時代から、艦名は天象、気象、山岳、河川、地方(旧国名)から採用されてきました。

このネーミングについては本が出るほどいろんな話があるのですが、
駆逐艦だけに限ると、だいたい気象関係の名前になります。

ちなみに、このむらさめ型の護衛艦は、ほかにも「はるさめ」「ゆうだち」「きりさめ」。
実に雅な響きで美しゅうございますね。

 「いなづま」を通り抜けるときお迎えしてくれたボンレスハム状態の人。

これは、いったいなんのためにあるのでしょうか。
まだ艦長の説明が始まっていなかったので、気になっていたけど聞きそびれました。
救助訓練用の人形?戦闘時擬装用のダミー?(というのもわけわかりませんが)

隊員の間では、絶対なにか名前があるに違いない。「カイジ」とか。

  

ヘリコプターが離着艦するヘリポート。艦尾にあります。



搭載ヘリコプターはSH-60K。
4名の乗員で運行しますが、この乗員は普段は別の基地にいて、
「さみだれ」にヘリが搭載されるときには「さみだれ」の指揮下に入ります。




さて、いよいよ主要武器の見学に突入。
ただし、先にお断りしておきますが、エリス中尉、現在の武器に関しては全く知らないので、
今後の説明に何か間違いがあったらすみません。



この上にあります、と言われたので、素直に写真を撮ってみました。
垂直式短SAM発射装置(VLS for short range SAM)。(がこの上にあります)。

VLSとはVertical Launching System 、垂直発射システム。
SAMとはShip-to-Air Missile、つまり 艦対空ミサイルのことです。

短、というのは短射程を意味し、つまり一行で言うと、
垂直式発射システムによる、短い射程距離の艦対空ミサイル
というのがこの武器の説明です。わかりやすいですね。




パネルはおそらく見学者のためにだけ出してくるもの。
RIM-1662(ESSM)の発射4コマ劇場(と書いてある)


性能要目(RIM-7Mとの比較)

1、最大射距離     さらによく飛ぶ
2、最大速度      相当速い
3、高高度        かなり高い

って、全く説明になっていない気がするんですが。
まあ、詳細は「軍機」ですから、一般には公開していないっていうのはよくわかります。
中国のスパイだってこういうところには簡単に来られるわけですからね。

   SSM-1B/HARPOON

水上目標に対処するため(つまり、敵艦船攻撃のときですね)HARPOONミサイルを発射する。
演習のときの写真で、ここからミサイルがぶっ放されているのを見ましたが、ものすごいです。
下のパネルは、国産のミサイルSSM-1Bについての説明。

せっかくだから全文書き写してみます。

90式艦対艦誘導弾(SSM-1B)

慣性+アクティブレーダー誘導、ジェットエンジン推進をする国産初の艦対艦誘導弾である。
艦から発射後、敵艦のレーダーの目をくぐり抜けるため、海面へ降下し、
低高度で水平飛翔を行う。

最終段階ではミサイルの頭からレーダーを出し、敵艦を捜索、探知および誘導、
そして目標に命中する。



すっげー!
三枚の写真には上から

「発射!」
「海面ぎりぎりを飛行中」
「敵に命中!沈没!」

と子供にも分かるように三コマ仕立てで説明がされています。

ミサイルの頭からレーダーを出し、敵艦を捜索、探知、ミサイルは誘導され敵艦に命中。
そういえばこれ、「ジパング」で護衛艦「みらい」がうっかり使ってしまってませんでした?
「みらい」がレーダー補足したのは、航空機でしたっけ。

しかし、こんなもんで戦争したら、持ってる方が勝つにきまってません?
しかも、これ国産なんですよね。持ってるの、うちだけ?
同じような兵器で戦ったら、一瞬の速さが勝敗を分ける、ということなのだろうけど、
我が日本の自衛隊の錬度は米軍から見ても「絶対に戦争したくない」というものであった、
という話を聞いたことがあるから、本当なら日本が圧勝だ!(←お気楽すぎ?)



三連装短魚雷発射管(Torpedo tubes)


案内は、「さみだれ」艦長ご本人自らがご一緒して下さいました。

いくら「特別見学者」とはいえ、一般人に見せられる護衛艦の設備なんて知れています。
特別と特別でない見学者の違いというか、元自衛官の紹介ならではの「お得」って、なんだったの?
と後から考えないでもなかったのですが、もしかしたら「艦長自ら艦内を案内してくれた」という点?

しかし、誰がいつ来ても艦長が案内するものなら、別段特別扱いでもありませんよね。
普通はどうなのかしら。
ここは、一般見学をしたことがある方の証言をぜひ聞いてみたいところです。


それはともかく、艦長は歩きながら説明をして下さるのですが、なぜか当然のように
この一団の中心人物、というかこの企画を立てさせた張本人であるところのエリス中尉よりも、
はっきりいって付き合いで来た程度のTOに向かって話をするのです。

艦長、TOに向かって説明→TO、ほーとかへーとかの返事→エリス中尉、質問→
艦長、TOに向かって説明→TO、素人以下の相槌→エリス中尉、TOに分かりやすく説明
→以下ループ

艦長さん。
護衛艦を見に来るのは、軍おたくの旦那と、仕方なくくっついてきた奥さんだけじゃないんです。
さすがにこのループを三回くらいして、ようやく艦長はわたしにむかって説明するようになりましたが。

素人以下と言えば、この魚雷についての説明を聞いたときも、TO
「魚雷って、潜水艦だけが持っているんだと思っていました」なんて言うんですよ~。
恥ずかしいからどうかこれ以上しゃべらないでくれ、と思っていました。

後で調べると、この魚雷は対潜水艦攻撃用のようですね。
そのときにはこの発射口が海面に向き、圧縮空気によって魚雷が発射されます。

62口径76ミリ速射砲

空中、水上、いずれの目標も攻撃可能な無人砲。
オトー・メラ―ラ製のこの速射砲のコンパクト版がこれです。
なんと日本製鋼でライセンス生産されている模様。これも一応国産だ。

一分間に100発射出可能だそうです。
このとき
「うーん、五月雨撃ちなんてものじゃありませんね」
よせばいいのに、つい口をついてこんなことを言ってしまったエリス中尉。

「・・・・・・・・・・」

かんちょうの へんじがない きこえなかった ようだ


聞えないふりをした、とも言えるな。

 高性能20mm機関砲(CIWS)

まあよくぞあっちこっちにいろんな武器を搭載しているものです。
全方位ぬかりなく「防御」するためには、これもいたしかたなし。いいぞもっとやれ。

これは対空砲です。
こちらからは見えない、この白い物体の艦橋に向いた方向に20mmの銃口がついています。

これは自動手動、切り替え可能。
このイニシャルはクローズ・イン・ウェポン・システム
「近接する対空目標、即ち敵航空機にぶっ放すもの」
って理解でよろしいでしょうか。


駆逐艦「五月雨」乗艦記、まだまだ!続きます。







自衛官の女房~護衛艦「さみだれ」乗艦記

2012-06-28 | 自衛隊

怒涛の呉海軍紀行、愈々クライマックスです。
護衛艦に乗ってまいりました~!

最近は陸軍やメディア、政治など、気の向くまま書き散らし、ファッションタグの記事は全く更新されず、
しばらくブログ主が女性であることに気づかなかったという方すら(あなたですよ、あなた)いる
当ブログですが、原点はやはり、海軍ですよ。
タイトルにもある通り、たまにはネイビーブルーへの憧れを熱くただ語りたい。

一般に、興味を持ち続けていれば、機会はおのずとやってきてくれるものです。
今回も「軍艦に乗ってみたいなあ」と一言呟くと、あら不思議、実現してしまいました。

これというのも今回呉の案内をして下さった元自衛官の「艦長氏」のおかげなのですが、
もともと艦長氏は、TOの仕事関係の親族の方。
もしわたしがこういうことに興味が無ければ、一生お会いする可能性の無かった方です。

それを思うと、人との出会いは全く縁だなあ、と思わずにいられません。


さて、写真がたくさんあるのでいつものように淡々と写真を貼りながら参りたいと思います。
まず冒頭写真ですが、この灰色の空とグレイの自衛艦の取り合わせ、美しいですね。
真っ青な空、青い海に浮かぶのもいいけど、こちらは物々しくって、かっこいいではないですか。

本日乗船するのは106のナンバーの付いた「さみだれ」。
なぜに仲良く二隻が並んでいるのかというと、ドックに留められる艦数に限りがあるので、
こうやって場所を節約しているのです。
さみだれに行くには、手前の105の艦から乗艦し、両艦をつなぐ通路を通り抜けします。


さて、見学当日、ホテルに車で自衛隊元艦長夫妻が迎えに来てくれ、呉地方隊に到着しました。
これがその門の様子。



うわー、なんだか刑務所の塀みたいだわ。
刑務所と違うのは、この鉄条網が「外から侵入する者が無いように」貼られていること。
アメリカ軍もこの隣の敷地を利用しているので、厳重警備であるのも当然かと。



このゲートをくぐって停泊している護衛艦に乗り込むわけですが、その前に。
この「呉造修補給所 工作部、資材部」というものについて説明しておくと、



ここがその工作部、資材部の建物。
これは自衛隊呉地方隊(昔の鎮守府?)の一部門。
先日ご報告した「呉教育隊」も、この呉地方隊の編成の一部です。
教育隊の敷地内に「陸警隊」という看板もありましたが、それも地方隊に含まれます。

艦船の中にはあらゆる機材が積み込まれますが、とくに電化製品などは、
主に揺れであっという間に壊れるのだそうです。
ここは、そういう備品の整備をしたりする部門ということです。

ここで案内の士官と待ち合わせる予定だったのですが、元艦長氏が「海軍五分前」の体現者、
そしてわたしも、及ばずながらその精神を順守する者として「五分前の五分前」を厳守したため、
約束の時間より20分も早く現地についてしまいました。

ここは、呉で泊ったホテルからは車で行くとわずか10分少々で着いてしまうのです。

呼び出してもらうと、門番の隊員が、ピンク色のママチャリをこいで聞きに行ってくれました。
わたしと艦長夫人、「かわいい~!」(自転車が)と大喜び。



案内の士官さん。
長身のイケメンで、この方を見るなり艦長夫人、わたしにこっそり
「いやー、この人かっこいいわー」

「娘の相手にどうやろか・・・なんて」

艦長夫妻にはお子様が二人、一人は東京の建築会社勤務、お嬢さんは海外留学を経て、
現在関西の大学で教鞭を取っており、まだ独身とのことです。
「自衛官の女房」というと必ず驚愕されるという、華やかな雰囲気をお持ちの夫人、
初対面の我々に
「こんなこと言ったらあんなこと言って、それでいつもケンカですわ」
と、「喧嘩ばかりの夫婦生活」を笑いながら話して下さいました。


それにしても、自衛官の奥様という立場って、どんなもんなんだろうなあ。
海自は何と言っても「船乗り」ですから、一旦任務に着くと、何カ月も帰ってこないのが普通。
しかも危険な任務に日々就いている夫を連れ合いに持つ人は、どんな毎日を送っているのか・・。

防人の夫を持つこの奥様は、一人の時間をフルに使い、パワフルに自家菜園、ハーブ教室、
編み物教室、料理教室、と、趣味というよりいつでも自活できるような生活設計を立てて
毎日を楽しんで来られたようです。

昔、お子さんのの担任の先生が「自衛隊など日本に必要ない」と子供の前で語ったことに激怒し、
「父親を誇りに思えなくなるようなことを先生が行ってどうする」と抗議したことがある、と
奥様が話したとたん、そういった問題にはあまり発言しない男性陣を尻目に、
日教組の問題点について舌鋒鋭く盛り上がる女性陣。

「呉の学校の先生が日教組なんですか?クラスに自衛官の子供がいるでしょうに」
「そのときもお父さんが自衛官という子が3人いたんよ、クラスには」
「許せませんね!」

我がことのように憤るエリス中尉。

「いやー、あんた、話し合うねえ!」

思わず肩を叩きあいたくなる連帯感が女同士の間に生まれました(苦笑)



車の中で聞くお二人の会話もなかなかで、
「お父さん、自衛官の服てどこになおしてあるのか、教えといてね」
「押し入れの中にあるわ」
「お父さん死んだらどこにあるかわからんようになるし。
棺桶に入れるときに着せたげんとあかんから

ちょ・・・奥さん・・・。

でも、ちらっとおっしゃっていましたが、結婚したのも
「もう、最初に会ったとき、自衛官の制服がそれはかっこよかったんですよ」
「そうでしょうねー!」
「で、騙されたんですわ」
「・・・・・・・・・・・・」



そんなヒロシ(艦長氏の名前)の後姿(右)。
皆さん、この後姿、72歳に見えます?
艦長氏の趣味はテニス。
悠々自適の退官後、テニスを始めた(!)艦長氏、毎日のトレーニングの末、
2年前はねんりんピックシニア大会の広島県代表で全国大会まで行ったんですよ。

わたしたちが行った日に雨だったことは
この方と我々にとって非常にラッキーでした。
毎日朝からコートに出て、朝食はステーキでもOK、という方ですから、
きっと晴れていたら「ああああこんなことしてないでコートに立ちたい!」
とうずうずしてしまっていたであろうからです。

ねんりんピックは60歳から参加資格が得られるので、艦長氏は
「もう最近はどうしても勝てなくなった。若いもんがどんどん出てくるから」
と実に悔しそうにおっしゃっておられました。
若い。身体も若いけど気も若い。

「テニステニスで、たまに孫が来ても知らん顔なんです」

「もう男の子には厳しくてね。
子供が三歳のとき予防注射で泣いたら『男がそんなことで泣くな!』って叱りつけて、
人前で喧嘩ですよ」

夫人は、ここぞとわれわれに艦長氏との結婚生活の不満をぶちまけ、一度などは
「こんな人と結婚したのを後悔したことが何度も・・・・」みたいな激しいお言葉もありましたが、
案内のイケメン士官のことを、冗談でも「娘の婿に」と言っていたということから見ても、
日教組の先生と戦った話から考えても、
夫が自衛官であることそのものについては、きっと誇りにしていたのだと思います。

日本の、特にこの世代の夫婦って、相手の愚痴を言うのが愛情表現だったりしますよね。
・・・・そうですよね?

  

ドックには計5隻の護衛艦が泊っていました。
朝一で見学に向かう我々と、何人かの「上陸組」がすれ違いました。
週末の「勤務明け」ですね。
当たり前のことですが、護衛艦の乗員は護衛艦の中での勤務が仕事。
朝、軍艦旗(って言ってもいいよね)掲揚する儀式も、昔と全く変わらず行われます。


左の写真は、輸送艦「おおすみ」。
この「おおすみ」、サイズは超巨大で、海外派遣のときに活躍します。
医療システムが充実していて、手術室も備えているのだそうです。

これは非常用の救命ボート?
バーのような吊り具が外に倒れ、そこから海面に降ろされる仕組みですね。
万が一電源喪失をした際は、手動でも降ろせるのでしょうか。



停泊中フネはしょっちゅう外壁のメンテナンスをしていなくてはいけない、と聞いたことがあります。
すぐに牡蠣や海藻などがくっついてしまうのだそうです。
まさか見学者に写真を撮られているとは夢にも思っていない整備員。
整備員の向こうにみえているのが魚雷です。



皆さんご存じですね?
護衛艦というものは、国民の税金で賄われているわけです。
つまり、どの護衛艦も、我々国民のものでもあるのです。
ですから、国民の義務としてこういうものがあることを知らなくてはいけないし、
自衛隊が国民に護衛艦を公開しているこのような機会に、一度は見学をすべきでしょう。

・・・・と、初めて観に行ったくせにやたら偉そうに言ってしまいましたが、
向こうはむしろ、ぜひ国民の皆様に見学をしていただきたい!
と、オープンにその場を設けてくれているのですから、これを利用しない手はありませんよね。




これも、「見学者大歓迎」の印。
何のためにこんなに大々的に名前を掲げているかというと、この日は日曜日で、
ここ呉地方隊では朝10時半に護衛艦を一般公開しているからです。

この日はお天気があまり良くなかったので、人影は我々以外にありませんでしたが、
もし、見学をしたいと思ったら、皆さんは、ただ時間までにここに来ればいいのです。
この階段を上った舷門には、受付係と思われる自衛官が二人、待機していました。



少し見にくいですが、「さざなみ」にも「いなづま」にも、艦のマークがありますね。
「いなづま」はカミナリ様というか、風神の意匠で、なかなかかっこいマークをお持ちでした。

ところで・・・タイプしながら、やはり「漣」「稲妻」「五月雨」「大隅」がいいなあ、とふと思いました。
護衛艦の漢字表記復活を、国民の一人として熱望します。


もし、この稿を見て「護衛艦見学、行ってみようかな」と思われた方。
見学に行けば個別に案内してくれるのか、それとも皆一緒に回るのか、わかりません。
なぜ分からないのかって?

それはわたしたちは一般とは違う

特別見学者だったからです。(大威張り)

というわけで、それではいよいよ、「さみだれ」に入っていくわけですが、
前置きが長くなってしまったので次にします(爆)


乗艦記と言いながら、乗らずに終わってしまった・・・・・。





ハンモック・ナンバー

2012-06-27 | 海軍

文字通りのハンモックナンバーとは、自分の寝る吊り床に書かれた番号のこと。
4けたの番号のみが書かれ、それによって戦闘配置が分かる仕組みになっていました。

海軍の学業成績をハンモック・ナンバーと称するのはもう皆さんご存じのことと思います。
ついでに少しインターネットをあたると、
「ハンモックナンバーが昇進について回る海軍では、その仕組みが組織を硬直させ・・・」
と、まるでハンモックナンバー重視が日本が負けた原因のように結論付ける意見や、
「ハンモックナンバーが必ずしも軍人として優秀だったかどうかとは一致しない」
という、誰でも考えつきそうな意見に厭というほどお目にかかります。

ですからまあ、今日はそういった1たす1は2みたいな結論は抜きで、
ハンモックナンバーと実在の軍人の関係を考察していきたいと思います。


そもそも、海軍兵学校にしても予科練にしても、もの凄い倍率の試験を潜り抜けてきたという時点で
その頭脳が優秀であることは最低保障されています。
ですから、そこで例えばハンモックナンバーがテールエンド(びり)だった、と言っても、
それでも当時の日本の青年の中の一握りの超エリートの一員であったことに変わりありません。

「田舎の天才」がここに来て「あれ?俺ってもしかしたら、たいしたことないんじゃね?」
と「身の程を知る」ことにもなり、謙虚を学ぶことにもなったと思われる兵学校ですから、
このような頭脳優秀集団の中でも、恩賜の短剣組、つまり上位5人ともなると、
もうすでに努力してなれるというレベルではありません。

この「天才レベル」の短剣組から、実際にも軍人として評価された人物を挙げると、

秋山真之 17期 首位(88人中)

が真っ先に思い浮かびます。
「坂の上の雲」でもおなじみの名参謀、秋山真之は「のべつに頭が回転し続ける天才」そして
「天才であったが、さらに努力家でもあった」そうです。
日露戦争後、秋山は海軍大学で教鞭をとりました。
そこで自らの戦った日露戦争のことを
「私があの戦争で国に奉仕したのは、戦略・戦術ではなく、戦務であった」
と述べています。
すなわちこの天才にとって戦争は「学問の実戦」であったと考えられていたのでしょうか。

井上成美 37期 2位(179人中)

軍人としての評価より、終戦工作をしたことと、
海軍兵学校の校長であったころの、教育者としての評価が高いのが井上大将。
「ハンモックナンバー必ずしも軍人の資質を表わさず」の例であるともいえます。
戦が下手でも、軍人を育てることができれば、それもまた一つの軍人の業績でしょう。
因みに、音楽でもよく「名演奏家必ずしも名教師ならず」といいます。

山口多聞 40期 2位(144人中)

人物将器能力共に評価の高い、しかし悲劇の提督。
海軍大学では主席で卒業しています。
アメリカ側から「ヤマモトの後継者は彼を置いてない、しかし彼は死んでいるから大丈夫」
と言われたというほど、敵にもその勇将、智将ぶりは伝わっていました。

色々調べていてふと思ったのですが、この山口中将はじめ、首席より次席の人の中に、
有名な軍人が多いような気がします。

山梨勝之進 25期 2位(32人中)
野村吉三郎 26期 2位(59人中)
永野修身  28期 2位(105人中)



上の三人の場合は違いますが、宮様クラス、つまり皇族が同クラスにいると、
どんなに優秀でも首位はあきらめなければなりません。
自動的に宮様が一位になるからで、例えば二人宮様のいた49期は、
本来首席で卒業するはずの生徒は、三位に甘んじなくてはいけませんでした。

もしかしたら、首席というのは案外このような「裏の事情」によって選ばれることもあったのでは?
この「錚々たる2位の面々」を見ていると、ついそういう疑惑が浮かびます。



恩賜の短剣組であれば、自動的にその出世のスピードは「特急に乗ったようなもの」。
逆に言うと「恩賜の短剣だったのに出世しなかった」というのはなぜだろう、と考えてしまいます。

堀悌吉 32期 首位(192人中)

優秀な人材の集合体だった兵学校の生徒をして、「神様の傑作のひとつ堀の頭脳」
と言わしめた、天才的な頭脳を持つ人物だったと伝えられます。
映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」では、予備役に回されて無聊をかこつ堀悌吉を、
同期生の山本五十六が訪問するというシーンがありましたね。

堀が左遷されたのは、軍令部の権限強化を目的として行われた「大角人事」による粛清でした。
この人事で予備役に追いやられたのは、つまりロンドンの軍縮会議における軍縮条約の推進派。
堀悌吉はそのなかでも「戦争は悪である」とはっきりした見解を持っていたと言われています。
将来の海軍大臣候補をまとめて四人葬ったこの人事に対して、山本は
「巡洋艦一個戦隊と堀悌吉とどちらが大事だと思っているのか。海軍の大馬鹿人事だ」
と怒りまくり、自分も海軍をやめる!とまで言い出しますが、それを引きとめたのも堀でした。

この黒幕には東郷元帥も名を連ねていたため、これを以て
「東郷元帥は晩節を汚した」というものもおり、例えば井上大将が言ったという、
「平時に口を出すとろくなことにならなかった」とは、これを指していたのではないでしょうか。


その東郷平八郎元帥ですがイギリスに学び、兵学校を出ていないので、
幸か不幸かハンモックナンバーは残されていません。
しかし、兵学校で主席になるようなタイプの人間ではなかったようです。

日本とロシアの関係が風雲急を告げたとき、海軍大臣山本権兵衛は、聯合艦隊司令官に
「姥捨て山」とすら言われていた舞鶴要港部司令官の東郷平八郎を抜擢しました。
これを明治天皇は不思議に思われたというのです。

意外な人事に、その理由を尋ねられたとき、山本大臣は
「東郷は運の強い男でございます」
と奏上したそうです。

このように、卒業時の成績が一生ついて回ると言っても、その後の働きによっては
鈍行から特急に乗り換えることも、現実問題としては不可能ではありません。

こんにち、日本で一番有名な提督は東郷平八郎であることを誰しも疑いませんが、
実はアドミラル・トーゴーは、特急、それも新幹線への乗り換え組だったということです。


先日散々お話した「キスカの撤退作戦」でも、ご存じのように大抜擢人事が行われました。

木村昌福 107番(113名中)

ハンモックナンバーを跳ね返すほど、実戦で働きをあげた木村少将のような軍人に共通するのは、

「自分の判断を最後まで信じる」
「いつも強運に恵まれている」

これに尽きると思います。
発令されたとき、皆が一瞬驚き、決戦終了後も世界が驚嘆した東郷の「T字戦法」。
木村少将以外は誰もが納得せず、皆が反対した、キスカ突入作戦の撤退。

ともに、数分、そして一日ずれても作戦は成功していません。
この二人に共通するのは、おそろしいばかりの運のよさでした。


三川軍一 38期 3位(149人中)

神重徳  48期 10位(171人中)

ここで、悪名高い第一次ソロモン海戦における三川艦隊の再突入問題について少し。
三川長官が勝利を収めたあとの撤退を決意したのには、先任参謀神重徳の進言がありました。
皆さんご存知でしょうから詳細は省きますが、栗田艦隊と違ってこちらは「反転せず」。


これはわたしの単なる想像ですが、この神参謀、三川長官共に、これを決意する瞬間、
その脳裏には、「東郷ターン」始め「決断の成功例」が去来していたということはないでしょうか。

ここで欲をかいてせっかくあげた嚇嚇たる戦功がフイになったとき、
「皆に非難されてもあのとき撤退しておくんだった」
と後悔する自分の姿までをシミュレーションして、その結果この帰還を選んだのでは?

三川忠一は、真珠湾攻撃の時、南雲忠一司令官に第三次攻撃を進言した人間です。

南雲忠一 36期 7位(191人中) 海大は2位

南雲忠一の第三次攻撃中止も、この三川軍一の反転も、いわば、恩賜の短剣組の
「優等生の安全運転」が結果的にに悪い形で出てしまった例かもしれません。

ある元海軍軍人などは、この三川撤退について、
「功名心からのことであれば、その罪は万死に値する」なんて言っておられます。

後世のものとしてはせいぜい「後からなら何とでも言えるよなあ」としか言えませんけど。


米内光政 29期 68番(126人中)

これほど成績の悪い者が、海軍大将まで昇進し、海軍大臣や連行艦隊司令長官に就任したのは
極めて異例のことであったとされます。
現に、若いころ米内は「首切り5分前」の職場を転々としていたそうですが、
かれの偉かったのは、その間、候補生のような初心に戻って本を読みまくっていたことでした。

米内がなぜ兵学校でこれほど成績が悪かったかというと、
詰め込み式で、何しろ量をこなすことが要求される兵学校の学業において、
自分が納得するまで一つのことを深く研究し、
問題を掘り下げていくようなアプローチをしていたからだそうです。

大器晩成型の見本のような人物で、それが決して中途半端ではなかった証拠に、
米内は次第と軍の、そして日本の中心へと望まれるような形で出ていくことになります。

面白いのは、周りの人間もこういった米内の有望なことを認めていたということです。
「彼は上手くいけば化ける」
兵学校の教官のこの予言は当たったのでした。

財部彪 15期 首席(80人中)

優秀な人物でした。
しかし、この人物は、自力ではなく、コネの助けで楽に出世する誘惑に勝てなかったと見えます。
彼がめとったのは、何と山本権兵衛の娘。
首席を見込まれてのことでしょう。

ところがこのとき、この結婚を、なんと山本大将に向かって直接、

「財部は優秀な男である。
しかし閣下の娘と政略結婚なんかしたら、
自分の実力で出世したとしてもそう思ってもらえないから、
どうかそれだけはやめてやってくれ」

とねじ込んだ男がいました。

広瀬武夫 15期 64番くらい(80人中)

ご存じ、軍神広瀬中佐、実に男前です。
ワールドワイドに愛されたこのナイス・ガイは、成績こそ地味でしたが、慧眼で、さらに
山本大将にこんなことを直接談判しに行くほど、実行力と侠気のある人物でした。

しかし。

後の軍神もこのとき、山本大将にとってはただのハンモックナンバー64番(くらい)の男。
進言は無視され、財部は結婚後、案の定「財部親王」と陰口をたたかれることになります。
岳父の威光の恩恵を被ったということでしょうか、「大角人事」の粛清は何とか逃れましたが、
その後「統帥権干犯事件」で予備役に追いやられます。

海軍大将まで出世し、海軍大臣も務め、傍目には順調な「恩賜の短剣コース」。
その人事には「女婿」という言葉が影のように付き添い、財部自身が賞賛されることはなかった
という意味では、広瀬の懸念はまさに的中したのでした。

こうしてみると、ハンモックナンバーは、出世の一つの足がかりにはなっていますが、
人間的に魅力があって、隊長としてのカリスマ性を持ち、あるいは軍神にまでなってしまう人物は、
全くそれとは無関係であるということがわかります。

広瀬武夫しかり、野中五郎しかり。


それから、今回調べて思ったのが、クラスの人数のまちまちなこと。
一口で恩賜の短剣と言っても、
18人クラス(24期)の首席と、581人クラス(71期)の首席では、
随分その価値も違ってくると思うんですが・・・。


ところで、先日「三笠艦橋の図」を別項にアップしたとき、若い航海士の
「枝原百合一」(ゆりかず)という名前が気になる、と書いたのですが、
今回ハンモックナンバーのことを調べていて、この百合一くんが、

枝原百合一 31期 首席 (173人中)

であることが判りました!パチパチパチ
でも、百合一くんは、その後中将どまりです。残念。

さてそこで冒頭の「ジパング」もどきですが、

滝栄一郎 51期 首席 (255人中)
草加拓海 51期 滝より下(255人中)

ここだけの話ですが、この「ハンモックナンバー」、
この順位について話題にするのは、海軍軍人同士のタブーとなっていたそうです。


ですから草加少佐、このとき内心かなり頭にきてたと思います。


 

 

 


旧兵学校見学記~「あの人」の参列

2012-06-26 | お出かけ

さて、3度目の兵学校見学記二日目です。
行ったことのある方はご存じだと思いますが、見学ツアーは一日何度か行われていて、
入り口で受付をすると、売店の併設された建物のロビーのようなところで始まりを待ちます。

その間、時間まで見学者はすることがないので売店で買い物をしたり、何が売られているか、
それを見て楽しんだりして過ごすのです。

三度目ですが、何回来てもその都度少しずつ扱っているものが違っていて楽しめます。
写真に撮りそこねましたが、布袋に入っている豆、つまり「秋山参謀の豆」が目を惹きました。
「坂の上の雲」人気にあやかり商品ですね。
他にも関連商品はいくつかあったと記憶します。

その他、少しウケたものを、ちょっとだけ写真に撮りましたのでご紹介します。



えー、これは「ファイトー一発!」系の飲み物、つまりスタミナドリンクであると思われます。
元気バッチリ。
思わず軽く目が宙を彷徨うような直接的なネーミングありがとうございます。
バッチリとバッチリ2があるようですね。
自衛隊のカッコいい戦闘機や戦車の進軍がパッケージにされていると、自衛隊の皆さんは
皆これを愛用してハイになっているのか?とつい勘違いして買ってしまいそうです。

もしこれが大正製薬の某ユ○ケルと同じようなものであれば、おそらく
カフェインとアルコールで一時的に元気になったような錯覚をさせるというもののはず。
(実はそうなのよ、皆さん)
しかも、このパッケージによって、プラシーボ効果(そうなのよ、皆さん)はより一層顕著でしょう。
つまり、元気バッチリになれる(気がする)こと間違いなし!

 自衛隊限定版、撃GEKIせんべい!

なんかこの辺になると、ただウケを狙っただけのような・・・。
戦車や自衛艦のパッケージから、中身のせんべいの味をどう想像しろと。
これ、中がどうなっているのか、見てみたかったなあ。
だからって買おうという気にはさっぱりなれないというのが企画ミスかも。
でも、土産物のお菓子って所詮そういうものですよね。「ウケれば良し!」

せんべい=お茶ウケとも言うことですし。




こじつけ商品その二。
「海の男だから海に優しいせっけん全身シャンプー」
合成界面活性剤を使ってません、というエコ商品なわけですね。
なぜか兵学校生徒館の写真入り。
なんでもかんでも土産物にしてしまう、この商魂。

でもこれ、こうして能書きを読むと、なかなか良さそうな商品ではないの。
別に海の男でなくても、これ使っていいと思います。
オールインワンで、これ一本、頭からつま先まで洗えてお得。
だいたい、シャンプーやらリンスやら、特に男の人がいろいろ使う必要って、全く無いんですよ。
昔の人はそんなもので洗わないからいつまでも緑の黒髪だったって説もありますし。



ロビーには写真もいくつか展示してあります。
これも行った方はご存じでしょうが、見学コースは限られていて、見ることのできるのは
広大な敷地のごくごく一部なんですね。

これは理化学講堂ですが、わたしが「理化学講堂は」というと、元艦長氏は「何それ」
案内の人に「ここに理化学講堂ってあるの?」「あります。見学はできませんが」「へー」

・・・って、あんたここにいたん違うんかいっ。

 この留魂碑、八芳園も見ることはできません。
この留魂碑は、かつてここで学んだ学生(41期生、大正二年卒)が
「死後、我々は魂の故郷である江田島に集わん」とし、当時は古鷹山に建てられたものですが、
現在は校内に移転されています。

前回述べたように、元艦長氏はここで体験した生活のあまりの厳しさゆえ
「この近くに来ただけで胸が重い」という方です。
こういう方は江田島を「魂の故郷」とは、とても考えられないのではないかと・・・。
変な話ですが、亡くなられてもここを彷徨ったりしないと思われます。

それにしてもこの留魂碑、いちいち漢字が普通と違いますが、何か理由があるんでしょうか。



見学のとき、カッター置き場に何人かの人影あり。
案内の方いわく、「今日は土曜日で休みなのだが、もうすぐおそらくカッター競技があり、
チームが自主的に練習をしているのでしょう」

おおー、休み返上で、しかもこんなに雨が降っている日に。

兵学校の描写に「カッターをこぐ生徒のズボンは真っ赤になった」というのがあるでしょう?
あれ、艦長氏に言わせると本当らしいです。
今も、やっぱりお尻の皮がすりむけて、ズボンが血で染まるんだそうです。
これほど自己鍛錬しなくてはいけない職場が、果たして今の日本にどれくらいあるでしょうか。

しかも、団体で競技に勝利するためにこんな努力を自ら・・・。
おそらく、他のチームに比べて成績が悪く、なんとかしようと一念発起しての休日返上?

と感動していたら、案内の方ったら、

「残念ながら、今までの例であんなふうに練習をして勝ったチームはほとんどありません」

          

さて、見学コースのいちばん最初、大講堂に戻ることにしましょう。
本日タイトルの「あの人」の話をしなくてはなりませんから。

元艦長氏から聞いた話です。
何年か前、幹部候補生学校を「小沢」という名前の生徒が卒業しました。
卒業式は、当然ここ、大講堂で行われます。
学校側では、この生徒の父兄の参加をめぐって議論が巻き起こりました。

「この小沢生徒の父親を父兄席に座らせるべきか、それとも貴賓席に座らせるべきか」

父親の名前は小沢一郎。
国会議員である小沢氏をどう扱うか、学校側では頭を抱えたのでした。



昔からそうですが、父兄はこの二階の桟敷席のようなところに座ります。

    

右写真の壇の左上が、左写真の二階部分、貴賓席です。
一般席との間に仕切りがあるのがお分かりでしょうか。
戦前はここには兵学校の卒業生である三笠宮殿下が貴賓として座られました。

結局、ここに小沢一郎は国会議員として座ることになり、
戦後この場所が使用された唯一の例となったのだそうです。
戦前は皇族のための席でしたから、平民が?座ったという意味でも唯一の例です。

これを聞いたとき、国会議員の息子が自衛官になることもないわけではないだろうけど、
何といってもあの小沢一郎の息子が自衛官に、というか、小沢一郎が息子を自衛官にすることに
同意した、ということが、何となく不思議に思われました。

もっとも、本人はとっくに自衛官を退職し、都内でサラリーマンをしているということです。
噂の域を出ませんが、インド洋の派遣が始まった頃、父親である小沢議員が
「自衛隊をアフガンに派遣させろ」と言いだしたころと、退職が一致するのだそうです。
これは悪く考えると、自衛隊の幹部が危険な場所に行く可能性が出てきたので、小沢氏が
息子にやめることを勧めた、ということだったかもしれません。

自衛官退職後、この方はわざわざ英国に留学しているそうなので、信憑性がありますね。

今回、元艦長氏と話をしていて、民主党の自衛隊に対する様々なぞんざいな仕打ちに、
関係者一同がかなり腹にすえかねている様子が分かってきました。
艦長氏の口からは福島みずほのお花畑九条賛歌に対する批判なども飛び出しましたが、
何といっても、直接自衛隊に対する予算を削りまくったことで、怒っておられました。



そして、怒っているのは艦長氏だけではありませんでした。
この日、術科学校に到着するまで、わたしたちは艦長氏から小沢一郎の話を聞いていたのですが、
この日案内して下さった自衛隊OBの方も、示し合わせたように大講堂で
「「実は民主党の小沢一郎が」
と言いだしたので、わたしも艦長氏も、びっくり。

だって、前回、前々回、共に小沢氏の話なんかちらっとも出なかったんですよ。

そして、この案内氏もまた民主党にどうやらお怒りの様子だったのです。
この写真に見られる兵学校の松。
松の木なのに毎日厳しい校風に吹かれて?まっすぐ起立している松、この手入れに、
年間何百万かがかけられていたのが、ほとんど10分の一に削られてしまった、と
ぼやいておられました。

手を入れないと松なんてすぐ枯れてしまうのに、この歴史の松がどうにかなっても、
日本人の心などわりとどうでもいい風の民主党には、「全く関係ない」ということですかね。
この予算が削られたのは、あの二番じゃダメなんですかれんふぉー?のパフォーマンス、
政権交代後、嬉々として「パンとサーカス」のサーカスとして行なった事業仕分けでしたね。

「自衛官の制服を中国製にしろなんて言ってましたね・・・・全く何も考えてないんですね」
わたしがそういうと、艦長氏も深く肯いておられましたよ。


今、新党を作るとか離党するとかで、またもや「ぶっこわし屋」の面目躍如とも言える小沢一郎。
一体どこに行こうとしているのか、なにがやりたいのか。
その小沢を離党したら証人喚問するぞ、って脅迫している野田総理も大概ですが、
この内ゲバは、まるで極左のそれのような様相を呈しているではありませんか。
(まったく民主党って、現在機能停止してません?・・・・・あ、政権交代直後からずっとか(笑)



まあ、一つ言えることは、たとえ奇跡が起こって、今後小沢一郎が政権の中心に返り咲いても、
兵学校の松が助かる見込みはなさそうだということです。

その後議員を引き連れて中国詣でをしたり、習金平のために天皇陛下に無理やり公務させたり、
韓国で日本の悪口を言ったり、やはりどう見てもやっていることが極左反日にしか見えません。
自民にいたころアフガン派兵を推していたというのも、つまり思想は無いってことなんでしょうけど。

息子の卒業式だけでなく、正門からの実習航海までを見送った父としての小沢氏と、
これらの政治家小沢一郎の姿には、全く共通点がないというか、同じ人物とはとても思えません。


もうこうなったら、離党でも何でもして、小沢氏が民主党をぶっ壊してしまうことを希望します。
そして、民主の皆さんと共にどこかに行ってしまってください。

はっきり言って、ここの松が生きながらえることの方が、民主政権の月単位の延命なんかより
ずっと日本にとって意味のあることだと思うの。









海軍兵学校跡三度目見学記

2012-06-25 | 海軍

わずか一年半の間に関東からわざわざ広島県の兵学校跡に三回も行った、エリス中尉です。

怪しい。怪しすぎる。

もし、今回の案内の係員が前回、前々回と同じ人だったらどうしよう?
いくらなんでも三度目は確実に顔も覚えられているだろうからヘタすると不審者扱いかも、
と軽く怯えながら門をくぐりました。

今回、大きく違うことは、呉からフェリーで小用港に着く「兵学校の皆さんの帰省コース」ではなく、
呉から音戸の瀬戸、早瀬大橋、と橋で繋がった陸沿いを、元艦長氏の運転で行ったこと。
早瀬大橋方面からは、術科学校に近付くと、古鷹山がこんな角度から見えてきます。



水戸黄門の印籠のように、元艦長氏がIDを提示すると、術科学校のあのゲートの中に、
車ですいすいとはいって行けるのですから、これは感激。
いかに三度目でも、関係者と行くのは違う視点からの見学になるだろうという期待が募ります。

それに今回はTOも一緒で、かれにとっては当然初めての訪問になるわけですから、
艦長氏が案内コースに「術科学校」を入れてくれる話を聞いたときも、断りませんでした。

幸い?三度目は、これまでとは違う方の案内だったので、わたしもひとまず安心。

この日もご覧のように雨が激しく降っている一日でしたが、
だからこそこんな日にしかみられない兵学校跡の姿が見ることができました。
まず、冒頭写真の兵学校学生館。

美しいと思いませんか?

案内の方が「今日来た方たちはラッキーです。赤レンガは雨の日が美しいから」
とおっしゃっていましたが、いつもより深みを増した煉瓦の色もさることながら、
濡れた敷石に校舎が鏡のように映し出されている様子なども、こんな日ならではの情景です。

晴れているときの見学では、結構近くまで立ち寄ることが許されていたのに、
この日は通路から遠景を眺めるだけで通り過ぎました。
最初は校舎のぎりぎり近くまで行け、レンガを接写できたのですが・・。

 雨の日ならではの眼福その2。

当然のようにここの学生も傘をさすことが許されません。
例の黒いコートを着て、このいでたちで江田島を歩きます。
カバンに透明のビニールカバーをかけ、雨から保護している人もいました。

この日は土曜日で、艦長氏によると「おそらくこれから下宿にいくのではないか」とのこと。
驚きました。
兵学校時代から、江田島の人々は「下宿」と称して週末には自宅を開放し、
そこで食べたり飲んだりして羽を伸ばす学生の面倒を見た、という話があるでしょう?

そのシステムが、今も江田島には伝わっているというのです。

術科学校との取り決めなのか、飲食代はどうなっているのか(昔は民家の厚意)、
そのあたりは聞きそびれましたが、艦長氏によると、
「やっぱりちょっとの間でも学校から出て、息を抜きたいんですよ。ちょっとでも」

はあ~、そんなに息を抜きたいもんですか。

「なにしろ辛いもんなんですよ。ここの生活は」

そうなんですね。
やっぱり、四六時中監視の目が光っているこの学校内では、張りつめっぱなしなんですね。



だって、これだもの。
この「分隊点検」という文字の、おどろおどろしい字体は、何?
この字に表れているのは、学生たちの恐怖?

この分隊点検では、身だしなみがいちいち細かくチェックされて、もし「不備!」とか言われたら、
外出は一時間単位で遅れるのだとか。
艦長氏も「髭とか、ちょっとしたシワとか、もう、アラ探し以外のなにものでもないんですよ」
と、数十年前のことを今さらのように嘆息して居られました。



「地面を見てくださいよ、葉っぱや枯れ木が全く無いでしょう。
これは毎朝学生が掃除をして、砂の部分にはほうきで筋目をつけるんです」と艦長氏。
しかーし。

エリス中尉の小姑のような厳しい目は、このツツジを見逃さなかった。
季節が終わり、枯れたツツジの花がら。
今、地面は美しく掃き清められていますが、枯れたツツジはそのまま残っていますね。

兵学校時代は生徒が一つ一つ手でこれを取り去り、枯れた花がらを決して残さなかったそうです。
昔の兵学校はマニュアルではない、「心のある」掃除をしていたということでしょうか。

  

相変わらず壮麗な大講堂から見学は始まります。
ここに入ると、どこの学校の講堂にもあるあの何とも言えない古い匂いを感じます。
どうして、学校の講堂というものは同じようなにおいをさせているのでしょうか。


 

兵学校もそうですが、現在の士官候補生も、卒業式のときに成績優秀者はこの方向から
壇上に登り、恩賜の短剣を受け取り、目の高さに捧げ持って後ろに下がります。
そして式の間、ずっとそうやって捧げ持っていなくてはなりません。
晴れがましいと、それを辛いなどとは思わないのでしょうか。

今、成績優秀者の受け取るのは感状ですが、短剣ではだめなのか真剣に聞いてみたいところです。

銃刀法違反になるから
、というのが艦長氏の答えですが、なんとまあ、夢のない・・・。



誰も撮らないこの角度から写真を撮ってみました。
ヘンデルの「見よ、勇者は帰りぬ」の流れる中、この階段をここから登った短剣組。
兵学校のときも、現在も、

成績の順番に前から座るので、

これを見ている父兄には、我が子がどんな成績でで卒業するのかが丸わかりだったそうです。
因みに、案内をしてくれた元自衛官の方も、元艦長氏も、
「私は後ろの方に座っておりました」そうで・・・・。



しかし昔は、と言ってはお二人に大変失礼ですが、
「東大(一高)や京大(三高)は滑り止めだった」
という案内の方の言葉は若干誇張であるとしても、当時の男子の憧れ、それが兵学校。
たとえ後ろの方に座っていても、日本中から選ばれた俊秀の一員であったことに違いありません。

実際は「一高三高に行きたいが、実家が貧乏だったので、費用が全て国から出る兵学校に行った」
という選択のもと、兵学校に来た生徒もいたそうです。
68期のクラスヘッド、山岸計夫生徒もその一人で、兵学校に入る前は
ボーイのアルバイトをしながら夜学に通い、兵学校に在学中もらっていたお金を切り詰めて
妹を学校に行かせるために仕送りしていたそうですが、
かれもまた貧困ゆえに兵学校を選ばざるを得なかった生徒でした。

案内の方は続けて、「昔はそうでした」

「しかし、今は違います!今は元気でやる気があれば誰でも入れます!」

元艦長氏、苦笑い。
何もそんなに力いっぱい強調しなくても。
というか、それなりに難しいと聞いたことがあるのですが?



入るときに自衛官のIDを出した艦長氏ですが、ツアーの間、一度も案内係に向かって
自分が元自衛官であることを明らかにしませんでした。
身内の人間にしか分からないような質問も勿論することなく、わたしたちにだけ聴こえるように
「あのときはこうだった」「これは実はこうなんですよ」
とひそひそ説明して下さってはいましたが。

自分が若いときに過ごした場所が懐かしくないのかしら、と不思議に思っていたのですが、
どうもご本人がおっしゃるには
「あまりにもあの訓練の日々が辛かったので、今でもここに近付くとその辛さが思い出されて、
何とも言えない重たい気分になってしまう」
とのこと。
ちょっとしたトラウマになるほど、厳しい生徒生活だったんですね。

戦後、一度も江田島を訪れたことの無い元軍人が結構いるという話を聞いて、
「青春の日々を過ごした江田島に行ってみたい、という風には思わないのだろうか」
と漠然と不思議に思わないでもなかったのですが、どうやらそのうち少なくない人たちの心は
「あまりに過酷な日々だったので、あまり思い出したくない」
ということのようです。

帝国海軍の精神によって支えられた美しい切磋琢磨の場、などと知らない者が憧れるには、
当事者にとってはあまりに色々あり過ぎて、といったところかもしれません。

戦後の江田島で過ごした艦長氏ですらそうなのですから、ましてや旧軍の「鉄拳制裁付き」
学校生活は、一言では語れないほど複雑な感慨を各自に残したのに違いありません。


旧兵学校三回目見学記、後半に続きます。







映画「ひめゆりの塔」の怖さ

2012-06-24 | 映画

一日遅れですが、沖縄戦から67年目の慰霊の日がここ米国東海岸時間では今日、
23日に行われたということで、この映画についてお話したいと思います。

 

エリス中尉が中学三年のとき、曽野綾子の「生贄の島」を読み、沖縄で何が起こったか、
自分と歳の変わらない女学生たちがどんな地獄を見てどう死んでいったかに衝撃を受けました。

「かんごふさん、かんごふさん」
身体が動かない傷病兵の傷にたかる蛆のたてる「しゃりしゃり」という肉を喰らう音。

若い娘の写った家族写真を拾い、それを彼らに返却するときの甘い幻想を描いていた米兵が、
死体となった同じ家族を塹壕の中に発見する話。

あまりに衝撃を受けた若き日のエリス中尉は、何を思ったか、よせばいいのに、
その秋の「読書感想文コンクール」にこの本を選びました。

ああっ!
恥ずかしい。
自分の中二病が、いや、正確には中三病が、はずかしいぃぃっ!

結果は皆さんもうすうす予想する通り。
中学一年のときのヘルマン・ヘッセ「車輪の下」二年のときのパール・バック「大地」と、
それまで校内の読書感想文コンクールの優秀賞を総なめにしてきたエリス中尉が、
初めてなんの賞ももらうことができず、屈辱の落選となりました。orz


今、タイムマシンがあったら、中学三年の夏に戻って、あの頃のわたしに言ってやりたい。
読書感想文コンクールの感想とは、あくまでも「創作物に対する感想」であって、
戦争に対する恐怖と疑問を述べること読書感想とは言わんのだ、ということを。
百歩譲ってこの本を選ぶとしても、作者の「対象に対するアプローチとその記述」
に対する感想を述べるのであれば、なんとかその範囲内に収まるのだけど、と。
そして、これを選ぶくらいなら、「秘密の花園」の方がずっとましだ、と。

(いや・・・、提出の遅れた男子が、先生に
『なんや、提出日過ぎとるぞ!・・・・で、読んだ本が秘密の花園やて?
なーにが秘密の花園やねん!だいたい秘密の花園ちゅう顔かオマエは!』
と皆の前で公開処刑されていた話を思い出したもので・・・)


それはともかく、この映画に見られる乙女たちの受難は、
「生贄の島」に描かれた悲惨をありありと思いだすに十分なものでした。

それにしても、当時の教師たちというのは、実際にもこの映画のように、わが身をすり減らし、
命の危険を冒しても生徒たちを守るために最後まで努力し、死んでいったのでしょうか。

「国に命を捧げる」と覚悟を決めた少女たちの純粋に思い詰めた清い死とともに、
この映画の先生たちの死は、教育者として崇高な使命を全うしたがための尊い自己犠牲で、
かれらを聖職者と呼ぶのにふさわしいものでありましょう。

この映画は、追い詰められて壕の中に逃げ込んだ沖縄県民と軍が、投稿勧告にも肯じず、
爆弾を投入されわずかの生存者を残して全滅した「第三外科壕」の勤労学徒の女子学生と
先生たちの戦いとその死を描きます。

ひめゆり学徒をテーマにした映画は、これを含めて六本制作されており、いずれの作品も
そこここに創作が加えられているために、事実とは違っているのだそうですが、
このことを調べていて、他のあることに気が付きました。

それは、沖縄、という文字通り生贄となった島の犠牲を語るとき、必ず「軍が」「国が」
島民を助けなかった、それどころか島民に死を強要した、ついには島民を殺戮した、
と声高に叫ぶ人たちの存在です。

彼らにとって悪は常に日本であり、軍であり、そして天皇です。
日本が戦争をしたことと、自決を強要するような精神訓育を国民に施したこと、
一億総玉砕と言いながら実際は沖縄だけが犠牲になったということも、それもこれもすべて、
未来永劫糾弾すべき許されざる所業、ということになるのでしょうか。

つまり、沖縄は犠牲になり、加害者は他ならぬ日本であると。

こういう意見を見ると、不思議でしかたないことがあります。
彼らは沖縄県民であったがゆえに酷い目にあった。これはわかります。
それでは、彼らを実際酷い目にあわせた、というか殺したのは誰か?ということなのですが、
これは、アメリカ軍ですよね?
日本軍は、沖縄県民ともに戦い、逃走し、彼らもまた「戦陣訓」の呪縛に投降することもできず、
やはり多くの兵が次々と死んでいったわけですよね?

軍が自決の強要をした、というのがサヨクな方々のお気に入りの日本悪玉論の論拠のようですが、
当時の日本人、ことに女性であれば
「生きて辱めを受けるならば自ら進んで死を選ぶ」というメンタリティを皆が持っており、
強要されずとも自決を選んだ者が多数であったことは、
サイパン島の投身や、真岡交換局の乙女たちの例を見るまでもなく明らかです。

では、そのメンタリティは誰が押し付けた、ということまでいいだすと、
江戸時代の武士社会における道徳や教育まで歴史をさかのぼらなくてはならないのですが・・。

そして、必ずしも軍人だけが自決を迫ったという構図ではなく、集団を率いるリーダーや、
あるいは家族の長によってそれが決断されることも多々あった、という記述が
「生贄の島」にあったと記憶します。

この件で、「日本悪玉論派」が、現地を実際に歩き回って取材をした曽野綾子の著書を
「印象操作の捏造」と決めつけ、一度も沖縄に行かず「オキナワ・ノート」を書いた
大江健三郎のことは全面的に肯定しているのも、わたしにとって不思議なことの一つです。



戦争という異常事態の中で、醜いものをむき出しにされた人間性がどんな形相を見せたか、
平和な現代に生きる我々には、到底想像の及ぶところではないと思います。
軍人と言えども、所詮は徴兵されてきた民間人でもあり、たとえ率いるのが士官であったとしても、
軍が一般人を見殺しにしたり足手まといにしたり、そんな例は確かにあったのでしょう。

しかし、現地の古老などは「立派な兵隊さんも多かった」などという証言をしているわけです。
左派が言うように「一人残らず悪の軍隊」「沖縄にいたのは悪い軍隊」
と決めつけるのは、あまりにも同じ日本人を貶めていませんでしょうか。

以前「日本のいちばん長い夏」について書きましたが、
あの対談に参加した紅一点の主婦は、激戦地沖縄の出身です。
彼女はアメリカ兵から自分を救おうとした兵隊が、次々と目の前で射殺されていった、と語り、
その直後、別の軍人が「戦争はもう終わったよ」と笑いを浮かべて言ったことに強く憤ります。
ではわたしたちを救うために死んでいったあの人たちは、何のために死んだのかと。

つまり、ここでも彼女はほとんど同時に見た二種類の軍人を語っているわけです。

左派の人々は、つねに「軍」「国」を、まるで全く自分たちとは別の、切りはなされた集団として
語り、断罪し、ことに職業軍人をまるで民衆を虐殺したかのように語ります。
(そして、今や本人たちは誰一人沖縄戦を経験していないらしいのも特色です)

そこで彼らにぜひ聞いてみたいことがあります。
軍人たちも公の人間であると同時に被害者であり、傷つき斃れ、或いは自決によって
亡くなっていったわけですが、このことは、彼らの「自業自得」なのでしょうか。

いや、責めているのは個人ではなく、あくまでも公の団体としての「軍」、マクロに見て「国」である、
とおっしゃるのならば、どうしてその怒りの先が決して直接の殺人者に向かないのでしょう。
どうして、ワシントンで沖縄戦の写真を掲げて、犠牲者たちのためのデモをしないのでしょうか。

わたしにはそれが不思議でたまりません。

アメリカに対しては、そこだけ妙に物分かりがよくなって、
「戦争だったから仕方がない」と納得してしまうくらいの度量をお持ちであれば、
日本が、そして軍が、沖縄県民に「酷いことをした」のも「戦争だったから仕方がない」
という同じ理屈で納得するべきではないのでしょうか。


日本の過去を悪にするという点において、つまり彼らは「親米」なのです。


たとえばある左翼な方は、ひめゆりの塔を見学し、語り部の語る「悲惨な話」
(蛆が人を喰らう音の話)を聴き、今まで以上に戦争の悲惨さに気づき、
今までの自分の認識は甘かった、とさえ思った、と御自身のブログに書いておられます。

語り部は「このように、戦争とはひどいものなのです」と言って 話を終わらせたのだそうですが、
ここで筆者は何故か、

「最近、あの戦争を賛美する勢力が台頭しつつあるが」

と、話をワープさせます。
戦争を賛美する勢力。それはなんでしょうか。
戦争を賛美し、「あの戦争は正しかった」と声高に叫ぶ人間がどこにいるというのでしょうか。

当時の国際情勢、日本を飲み込もうとする大国の謀略、それらを虚心坦懐に歴史として見つつ、
「なぜ日本は戦争をしてしまったのか」ということを、二度と同じことを繰り返さないために
解き明かそうとすることは、戦争を賛美することなのでしょうか。

その結果、彼らが望むような、そして終戦後の国民が信じ込まされてきたような、
「日本の野望だけが全ての原因で戦争は起こった。したがって日本は戦犯国である」
という単純なことではない、という説がでてきたとしても、これのどこが賛美なのでしょうか。

日本が戦ったら、終戦後、列強から、独立の気運が高まった植民地が全て独立してしまった、
その「事実」を言うことのどこが、日本の戦争を賛美しているということになるのでしょうか。


現在の日本で「もう一度戦争を起こそう」と公式に訴えている基地の外に属する団体は、
わたしの知る限りありませんし(あったら破防法対象よね)、
日本人は誰もかれも戦争などまっぴらごめん、という嫌悪感をDNAレベルにまで持っていますから、
サヨクな方々が心配するようなことは、今後も決して起こらないと保証してもいいのですが、
(わたしに保障されても仕方ないんだけど)そういうことじゃないんでしょうね。たぶん。

さて、映画について全く語る気無し。

というわけでもないのですが、もう、この映画、辛いんですよ。観ていて。
「勝利の日まで」なんて軍歌を天使のような声で歌う、清純な乙女たち。
仲間を助けるために銃撃の降り注ぐ夜道を「私が行きます」と皆が名乗り出、歩けない仲間を
担架で運び、泥と汚物にまみれて、ひとり、また一人と亡くなっていきます。
先生たちも、彼女らとともに、使命を果たすために命を失っていくのです。



ぬかるみを逃走して一夜明け、太陽を見ただけで心から幸せを感じる若い娘たち。
「オーソレミオ」(ああ我が太陽)をすきとおるようなソプラノで歌う、香川京子
水浴びしながらはしゃがずにはいられない純真な彼女らの微笑みが、胸を抉ります。



先生たち。
なんと、この右側の男性は、「ああわだつみの声」で東大仏文の助教授を演じた人では?
信欣三(しん きんぞう)という俳優です。
このころの戦争映画に、インテリ男性の役でよくお呼びがかかっていたようですね。
なんと、この人、戦前は「左翼劇場」というプロレタリア劇団に身を置いていたそうで。

お呼びがかかっていたと言えば、この俳優さんも。



原保美。この人も「きけ、わだつみの声」で、やはり陸軍中尉を演じていましたね。
ここでは見習士官ですから、今回は「わだつみ」で苛められていた方の学徒士官という設定。



先生の紅一点は、津島恵子
生徒たちは姉のようにこの美しい先生を慕います。

そして。

この地獄のような戦場で、人々は運命を共にするのですが、そのなかでも
心温まる人間の触れ合いが、当然ながら生徒たちと軍関係者のあいだにも存在します。



皆さん!藤田進ですよ!
軍人を演じさせたら(というか軍人以外の演技をわたしはいまだに観たことがないのですが)
天然なんだか演技かわからない独特の「抜け」をそのセリフ回しに持ち、
やたらに軍服が似合うので、何を演じさせても納得させられてしまう、藤田進

この藤田進が、乙女たちと同じ年の娘を持つ、温厚な、心優しい軍医を演じています。
病人の枕もとで沖縄民謡を歌ってやる少女たち。
にこにこしながら見守る軍医と先生。
このあと、コワイ婦長が叱りにきて歌は中止になります。



皆が追い詰められ、食べ物も乏しい中、軍医は貴重なパイナップルを分け与えます。
「そんな汚い手を出しちゃだめだ。はい、アーンして」
微笑みながら、パイナップルを口まで運んでやる軍医。



生徒が一夜を過ごした民家では、老人が一つしかない芋を皆のために供します。
「すみません」
心から感謝をする先生。

しかし、この後このあたりが爆撃にさらされ、爆弾にやられて息も絶え絶えの老婆から
「子供を連れて行ってやってほしい」
と何度も頼まれても、先生は返事をすることができないのです。
そして「着いていらっしゃい」と勝手に着いて来させた男の子を、壕の婦長は追い出します。

皆が、少しずつ、自分たちの生のために、他人を切り捨てる選択を余儀なくされていくのです。

そして、遂に最後のときは訪れました。
第三外科壕に籠る皆の耳に、米軍の投降勧告が聞こえてきます。

「日本の皆さん、日本の戦争指導者はもう降伏します。
皆さんは何のために戦っているのですか。
出てきてください。
この壕には誰もいないのですか。
もう少しだけ待ちます」

息をのんでそれを聴く壕の人々。

「戦意を喪失させるためのデマだ。信じるんじゃない」

軍医が低い声で叱責します。
このとき、軍医は「自分の娘にそっくりで特にかわいがっていた」香川京子の傍らで、
その肩を抱きしめてやっています。

しかし次の瞬間。



我慢できずに壕の外に走って行こうとする娘。
と、一発の銃声が響きます。

軍医でした。
冒頭画像は、娘を撃ったピストルを構えたままの軍医。



皆、感情を失ったひとのようになって、ただそれを見つめます。
津島京子の表情は、彼女がこのとき視力を失っていて何も見えていないという設定です。





海岸沿いを逃げる道を選んだ者たちは、皆海上から掃射されて全員が死に絶えました。


この映画において描かれた地獄、人が人でなくなる真の地獄をあらわすこのシーンは、
これが実際にあったことかどうかということ以上に、戦争の残虐さを伝えるのに成功しています。

心優しい軍医が、それまで抱きしめていた娘を射殺する。

「人が平時の常識や道徳、善悪も社会規範も、何もかもかなぐり捨てる瞬間」が、
人格者で温厚なこの軍医にも訪れたように、善良な一人の人間が修羅となりうる、
それが戦争の最も非情たる現実なのです。

仲間を見捨て、切り捨て、見殺しにする話も、わが身を呈して隣の者を庇う美しい話も、
一つの戦争の中に同時に起こり得る出来事です。

そこで、そこにいた中の「誰が悪い」という犯人探しをすることが、何を産むのでしょうか。
ましてや平和の世にぬくぬくと生きている者たち、その場にいもしなかった者たちに、
その死者の群れのなかからより罪深い者をを指さす資格が、果たしてあるのでしょうか。



この映画における藤田進は、これまでの「軍人タイプ」のどれとも違っています。
ここでの藤田は、今まで演じてきた戦史に残る高級軍人ではなく、「名の無い軍人」。

その直後、米軍が壕に投入する黄色弾によって死にゆく運命の、悪鬼のような形相の軍医。
藤田が硝煙の立ち上る銃を構える姿には、戦争に、命のみならず人間の尊厳さえをも蹂躙され、
非業の死を遂げた声なき軍人たちの無念が一身に体現されているようです。

この映画の、そして戦争の恐怖を、心から感じさせられた瞬間でした。







旅しながら淡々と写真を貼る~ボストン到着

2012-06-23 | アメリカ

というわけで、無事にパッキングも終わり、出国することになりました。
例年夏場二カ月家を留守にするので、部屋の片づけを完璧にして、ピアノにカバーをし、
お掃除ルンバの邪魔にならないように障害物をどけ、日本に残るTOのためにいろいろ冷凍し、
と準備をすませます。

二カ月も旦那を一人にして心配じゃないのか、って?
健康面では外食が増えるので心配ですが、「そういう意味」の心配は、全くしておりません。

世の中には連れ合いを裏切っても自分のそのときの欲望と感情に素直になってしまう人間と、
そういう精神的不合理を引き受けることを精神衛生上よしとしない人間、そして、
頭からそのようなことを考えない人間が存在しますが、わが連れ合いはこの後者二つのタイプです。

わたしもそれなりに世の中に出てから男性というものを見てきたので
「浮気」=悪、というような単純な考えは毛頭持っておりません。
その後に起こってくる「楽しさの代償」を引き受け、かつ誰も傷つけずにすむという自信があるのなら
それはおやりになろうがどうしようが、人それぞれだと思うのみでございます。

しかし、相手がこのエリス中尉のように「ふとした目線のそらし方や話題に逡巡する様子」
などから、なぜか全てを―分かりたくもないのに分かってしまうような、
異常にカンの鋭い人間であると、こういう相手を連れ合いにすることは、
よっぽど諜報察知能力がうわてであるか、あるいは何を悟られても天が下に恥ずるところなし、
という品行方正な人物でないと、とてもじゃないが結婚生活なんてできるものではありません。

そういう意味では「自分がされて不愉快なことは自分もしない」という意見において一致している、
こういう二人は、非常にうまくやっていくことができると自負しているわけです。



変な前置きになってしまいましたが、そんなTOの見送りのもと、7時半手配の配車にて、
成田に無事到着、チェックインもすませ、日本最後の名残に「朝ずし」を少しつまみ、
スターバックスでお茶を飲みながらそれぞれがパソコンチェック。
一同余裕です。

いよいよ出国ゲートで
「元気でね~」
「パパも外食するときは食べすぎないようにね」
「向こうにいったらとにかく車の運転だけは気をつけてね」
「うん」

・・・・・・うん?

・・・・・・・・・・・うんてん?

「国際免許忘れた」  orz


出国前、ESTA(日本人だけに与えられた入国審査を簡便にするための事前オンライン登録)
の期限を更新するためにパスポートを使い、その後ライセンスと別々に保管していたため、
いつもパスポートケースに挟んでおく国際免許を家に置いてきてしまったのです。

「どうしよう・・・」
「俺、今から家に帰って免許書探して、FEDEXですぐホテルあてに送るから。
取りあえず空港からタクシーでホテルに行けば?」

浮気をしないなんてことより、事務能力に異常に長けた人間を伴侶にしていて良かった、
と思うことが、基本粗忽もののわたしの場合度々あるのですが(←)、
今回も心からこの連れ合いのありがたさに感謝しました。

というわけで、それでも一抹の不安を胸に抱いたまま、機上の人となったのでございます。
 どこかで見たような気がする飛行機の窓・・・。

先日広島に行った時のANAの新型ボーイングと同じではないか!
この「シャッターの無いウインドウシールド」もそのまま。
「流行ってるのかな、この窓」などと言っていたのですが、
機長のアナウンスによると、この機体はまだ世界でも11機しかないとのこと。
なんと、そのうちの二機に立て続けに乗ってしまっていたとは。

今まで毎年ボストンに行くのには直行便が無く、大抵シカゴ・オヘアかアトランタ乗り替え、
というのが恒例になっていたのですが、今回はJALの直行便です。
これもまだ就航したばかりで、
「最新式の設備で、ビジネスクラスは10%、エコノミーは5%広くシートピッチを取った」
とのこと。



シート前の映画スクリーン。
黒ですが、少しカンパニーカラーの赤をあしらっているあたりがお洒落です。



シートはフルフラットですが、なぜか脚の方が低くなる傾斜がついていて寝にくかったです。
全てのパーツは微調整できるので、苦心して寝やすいように動かしましたが、
それでも機内では決して熟睡できない、無駄に神経質なエリス中尉でございました(辛)。
飛行時間が13時間もあったというのに・・・。


和食の機内食。

あまりにもピント合わなさすぎだろ、って?
ちょうどこのとき、先日の台風の名残りでタービュランスが治まらなかったんです。



赤い鶴。そういえばここのマークでしたね。
会社更生法以降、去年の一月からあの鶴丸に復活していたんだっけ。
FAのサービス態度は、非常にていねい(すぎるほど)でした。
機内食で息子が頼んだステーキが無くなり、私どものところにパーサーが変更のお願いに
やってきたわけですが、承諾したことを最後の最後まで何度も恐縮されました。



洋食には、エリス中尉御用達、メゾンカイザーのパンが付きます。
それはいいんですが、温めるのに電子レンジを使わないでほしいの・・・。
冷めると固くなって不味いんですよね。

さて、機内でのお楽しみと言えば、映画です。
このフライトで映画を三本観ました。

 

ネイビー・シールズ。


 プス・イン・ブーツ。

 ザ・アーティスト。

この最後の「ザ・アーティスト」。
なんと、一部意味のあるシーンを除き、全編字幕カンバン入りのサイレントなのです。

サイレント時代の大スターが、トーキーに乗り遅れ、次第に凋落していく様子と、
そんな彼を売れない女優時代から愛していた、トーキーの人気女優。
時代の移り変わりに翻弄される二人の淡い恋愛、健気な若い女優の献身。

このタイトルが「アクター」「ムービースター」ではなく、「アーティスト」であることも、
観たらお分かりになるかと思います。
映画そのものが大好きな方、そして犬好きにも(犬が大活躍!)お薦め。

ローガン空港。

飛行機を降りるなりTOに国際免許の件を電話してみました。
「明日の朝8時にはホテルのフロントにFEDEXで届くから安心して」

やれやれ安心。

で、初めて空港からいつものホテルまでタクシーに乗りました。



こういう錆だらけの車が走っているのを見ると、アメリカに来たなあ、って感じです。
たいていヒスパニックかアフリカ系の若いもんが乗っています。

アメリカに住んでいても、タクシーに乗ることはめったにありません。



運転席と後部座席の間にはアクリルの分厚い仕切りがあり、隙間がほんの数センチ空いています。
渡したホテルの住所を、運転手がカーナビではなくiphoneに打ち込み、
「これでいい?」とガラス越しに見せるので、受け取るために引き戸を開けようとしたら、
しっかり接着されてそれ以上は開かないようになっていました。

わずかのお金のために人を殺す人間がごろごろしているこのアメリカで、
タクシーの運転手をするって、大変なことなんだなあ。



それにしても、いまどきのタクシーなのにカーナビもないのかい!
と思っていたら、後部座席の前にテレビスクリーンがあり、到着したら料金と、チップを入力する
画面がピッとでて、OKを押してこの機械にクレジットをスライドさせたら支払い完了。
こういう部分(つまりお金をスムーズに徴収すること)に関して、アメリカほど情熱を傾けて
便利なシステムを作り上げる国も無いかと思われます。

因みに日本の情熱は・・・・たとえば、今回、JALの機内化粧室までが洗浄機付きだった、
というあたりに顕れていますかね。

明けて今日。
朝届いた免許を持って、車を借りにローガンエアポートまで行ってきました。

 

よく他州のナンバーになることがあるのですが、今回はニューヨークナンバーです。
エンパイア・ステート(ビルのあるステートつまり州)という洒落入りナンバープレート。
はいいとして、どうしてこんなに激しく歪んでるのでしょうか。
車が無傷なだけに、不思議です。
アメリカは車の小傷なんかはレンタカーにつけても許容範囲、なぜって車は乗れば傷がつくから、
みたいな考えなので、日本のように車を借りるときに係員が一緒に車の周りをまわって、
「傷がないことをご確認ください」
(その心は、もし帰って来たときに傷がついていたらお客さんのせいだから弁償してね)
なんてことは決してやりません。
ヨーロッパでも同じで、わたしは二―スで車を借りたとき、結構派手な引っかき傷をつけて
返却しましたが、何も言われませんでした。

というか、日本の「車の傷恐怖症」って、異常よね。


ところでこれを今作成している時間、日本時間18時。米国東海岸時間朝の5時。
そう、東海岸に行ったときに訪れる「恐怖の時差ぼけ」です。
ホテルに着くのが正午だったため、眠いのを我慢できずに3時に寝てしまい、
当然夜の10時には目がパッチリ冷めてしまいまして。

これ、酷いときには一週間続くんですよね。
息子がインターネットで時差ぼけ解消法を調べてくれましたが、

「何も食べないことだって」
・・・・・そりゃ無理だ。




海軍士官に変身体験

2012-06-22 | 海軍

今移動中なので、小ネタです。
呉に行ったとき、いつも(といっても過去二回だけ)泊るホテルのロビーに、いきなりこんなものが!



なんだなんだ?二種軍装参謀飾緒付きと第三種軍装。
近づいて見てみると、どうやらこの軍服は本物らしい。

提供中田商店。軍服マニア御用達の横須賀にあるミリタリーグッズのお店ですね。
チェックインもそっちのけで喰らいつくエリス中尉(笑)

呉にとって海軍は「観光資源」でもあるんですね。
このホテルには、中田商店から借りてきた海軍士官の軍服を着る「変身プラン」があるのです。
よく、横浜異人館とか、明治村とか、先日はどんな意味があるのか熱海の温泉ホテルで、
レトロなロングドレスを着て変身写真を撮りませんか?って企画を目撃しましたが、
あれの男性版ですよ。

「変身願望」はどんな人にも多少はあるもののようで、
そういう願望をお手軽に叶えられる変身スタジオは根強い人気があります。
昔宣材のための写真を撮るのに、この変身系のスタジオで一度撮ってもらったことがありますが、
皮膚呼吸が困難と思われるくらいファンデーションを塗りたくられ、映りが自然に見えるメイク、
というふれこみの不自然なメイクをばっちり施され、できた写真は「まるで人形」。
今ならフォトショップがありますから、ここまで準備段階で作り込む必要はないんでしょうけど。

それにフォトショップは「加工」ですが、変身は「取りあえず自分には違いない」わけで、
このあたりの高揚感が決定的に違うところです。



まん中の偉そうなおじさん、右の若い人も、よく似合っていますね。
もしかしたらモデルは支配人とフロント係、婚礼担当のお嬢さんたちでしょうか。
一式を借りるだけなら1500円。
ただし、これを着てホテルの外に出ることはご遠慮ください、ということなので、変身しても
そんなに広くもないホテルを練り歩くしかすることはありません。
そこで、当然のように別料金で写真室の記念撮影、というのが提案されているわけですが、
ただ一式を借りて、携帯で写真を撮って盛りあがって終わり、という楽しみ方も自由です。

わたしは当然のように写真室に撮影を申し込みました。




パンフレットをご覧になってお分かりかと思いますが、夏場であるせいか、
借りられるのは二種軍装と三種軍装だけです。
このプランは、昨年暮れに「聯合艦隊山本五十六」が公開されたときに始まったのだそうです。
そのときは第一種軍装も着ることができたのかな。

飛行機までの時間を利用してこの変身ごっこをすることになり、フロントで申し込みました。
実は自分が着たいわけではなく、息子に着せたかったのですが、当の息子は

「ぜ っ た い に い や だ」

とにべもなく母親の頼みを拒絶したので、仕方なく自分とTO二人での参加を決めました。
TOはねえ・・・。
なんか似合う気がしないの。軍人から雰囲気がほど遠いんですよ我が夫ながら。
まあ、技術中佐、ってところならそう見えないことはない、ぎりぎりのレベル。
わたしは勿論のことそんなもの着たところで仮装大会にしかならないし、息子の不参加で
かなりやる気が失せましたが、・・・・といいつつ、二種三種、どちらも借りてしまった(^^ゞ

「こちらが白い方、こちらが緑です」
渡された一式は異常な重さ。
そうでしょうとも、どちらも短剣からベルトから靴まで入ってるんだもの。

取りあえず三種軍装から着替えてみました。
これ、確か映画の「大空のサムライ」で、笹井中尉役の志垣太郎さんが着てたっけ。
ラバウルで。

・・・なわきゃーない、と思わずいまさら突っ込みを入れてしまったエリス中尉でした。
暑いよこれ。
ラバウルでは笹井中尉は(おそらく)その暑さのせいで飛行服姿を残していないというくらいなの。
長袖ワイシャツにネクタイ、ウールの上着。
こんな恰好で熱帯のラバウルをうろうろした日には、戦わずとも熱中症で玉砕だ。

というくらい、暑かったです。

取りあえず最終装備を付ける前に自分で写真を撮ってみました。
見てお分かりのように、サイズが大きいんです。
身長160センチの男性もいないはずはないのですが、やはり肩とかウェストとかは、
女性が着ると余りまくりでした。
しかし、この三種軍装がなかなか好評(つっても家族と写真スタッフだけに、ですが)でした。

スタッフの
「宝塚みたいですね~」
この一言を聞いた途端、

宝塚歌劇新作ミュージカル「聯合艦隊司令長官山本五十六」
グランド・レビュー「トラ!トラ!トラ!」

飛龍の甲板で所狭しと踊りまくる水兵姿のタカラジェンヌ。
迫力ある戦闘シーン。
いよいよ最後のとき、羅針儀に身体を縛り付ける山口多聞司令、加来止夫艦長。
(いずれもトップスター競演による)
飛龍に味方の魚雷が撃ち込まれる最後の瞬間、二人のデュエットが響き渡る。

「愛、それは~気高く~」「愛、それは~哀しく~」

瞬時にこれだけの情景が脳裏をよぎったエリス中尉でありました。


・・・さて。

写真スタジオで撮ったものはまだ送られてきていないのですが、わたしのもっていたカメラで
スタジオの人が写真を撮ってくれました。



お調子者夫婦。
夫婦漫才コンビ「山本五十五、五十六」(いそこ、いそろく)デビュー!
ってか?

TOは、お腹の貫録だけは将官レベルです。
やっぱり似合っていないとわたしは思ったのですが、パソコンのモニターで確認したところによると
スタジオでカメラマンが撮った写真だとそれなりにそれらしく見えていたから不思議です。
やっぱり男性って基本的に軍服が似合うものなのでしょうか。
わたしは・・・どう見てもサイズが・・・。
参謀飾緒が肩から外れかかってるし。

それにしても、これ、キャンバスのような素材で、なにしろ無茶苦茶暑かったです。
先日観た「太平洋の嵐」で、二種軍装を着こんだまま軍艦の中で宴会をする士官たち、
というシーンがありましたが、あれは絶対無いね。
クーラーもないのに、こんなもん着こんだまま狭い船室で酒飲むなんざー考えられん。

でも、短剣吊りベルトの仕組みも分かったし、二種軍装の下にはYシャツを着なくてよい
(襟に学生服のようなカラーがつけてある)ことも分かりました。
写真だけ見て今まで絵を描いていたわけですが、むしろそちらの勉強になって良かったです。



というわけでエリス中尉(襟の階級は大佐w)三種軍装立ち姿。
皮の薬莢入れ、銃のホルダー、おまけにメッセンジャーバッグのような皮のカバンも小道具に
付いていましたが、カバン以外を適当に身につけてみました。
ガンのホルダーがなぜか右腰にあるということは、写真を撮ってから気づきました(笑)

で、この飛行靴が付属でついてきたので、飛行士官のようないでたちになってしまったわけですが、
この靴が何とサイズ27センチ。
写真室まで歩くのも一苦労(脱げるから)でしたの。

スタジオの方にお聞きしたのですが、このプラン、なかなか開始以来好評のようで、
今でも結構利用者があるとのことです。
陸軍士官の恰好だってもしできるならやってみたい、なんて思う人はきっと多いと思うのですが、
少なくともそういう企画は今まで見たことはありません。
「ここは海軍の街」っていう観光的イメージがあるので海軍軍人ごっこはできますが、
陸軍となると、理由がないというか、いろいろ面倒なことが起こってくるんでしょうか。

まだしばらくやっていると思うので、特に男性の方、呉に行ったらトライしてみてね。
あなたの中の何かが変わるかも?
わたしは・・・
旧軍軍服は男のためにこそあるもので、女が着ても似合わんということだけは確認できました(笑)

因みにホテルは呉駅前、呉阪急ホテルです。(ステマ?)


ところで、本日の宝塚歌劇妄想ネタについて一言。
戦中、宝塚歌劇はわりと似たようなことをやっていたんですね。
坊主頭のカツラを被って、兵隊の恰好をさせられて・・・・・嗚呼。






どんがめ下剋上

2012-06-21 | 海軍






「真夏のオリオン」という映画をご覧になりましたか?

「真夏のオリオンという曲をめぐって、米軍駆逐艦の艦長と伊潜の間に、数奇な触れあいが」
という、今の日本映画にありがちな、ご都合主義満載お涙ちょうだいな映画ではありますが、
全体的によくまとまっていて、わたしは好きです。
なかでも、潜水艦と駆逐艦の対決を戦闘シーンのメインにしているあたりが、新しい切り口で
戦争もののエンターテインメントとしては上出来だと言っていいかもしれません。

しかし、まあ、これが魅力でもあったりするのですが、この映画、「どんがめ乗り」たちが
なんというか、小奇麗すぎるんですね。

どんがめ。
海軍では潜水艦をこう呼び、どんがめ乗り自らもこのように自称していました。
もともとは、その鈍重な動きを揶揄してネーミングされたものです。

霞ヶ浦などで飛行学生がシゴかれるとき、ヘタな操作をしたり、もたもたしたりすると、
「鈍感!どんがめに行けどんがめに!」
と罵られたものだそうです。
鈍感、というのは今と少しニュアンスが違う気がしますが、つまりは「どん臭い」ってことでしょう。
同じ陛下の股肱に対して失礼もいいところですが、飛行機に乗ろうというような傾向の学生が、
海中をのろのろ潜る潜水艦を「鈍感なやつが乗るもの」と決めてかかるのも仕方ありません。

おまけにこの勤務、衣食住全てが、人類の忍耐の極限に挑戦するが如く過酷なのです。
特に衛生面。


「真夏のオリオン」の伊潜の皆さんが、航行何日目になっても、全員つるつるの顔をしており、
特に艦長の玉木宏など、一応汗などかいているものの、近づいたらドルチェ&ガッバーナの
「ブルー」の香りがしてきそうなくらい爽やかな顔をしているのですが、これは映画ならではで
きつい、臭い、暗い3K職場の実態とはかけ離れた印象です。

伊号の行動期間はだいたい一ヶ月半から二ヶ月半。
この間、受け持ちの海区(なわばり)の中を潜航したり浮き上がって充電したりしながら
辛抱強く敵が現れるのを待ちます。
潜水艦は速度が遅くて、艦船を追いかけることができないので、
大抵、待ち構えるか、迎え撃つ、という戦法をとるわけです。

昼間はほとんど浮き上がることなく、夜陰に乗じてこっそり浮上する毎日、
乗員は何日間も太陽を浴びずに、じめじめと湿った艦内にじっとしているのです。

このため、ビタミンと紫外線の不足で、全身が脚気症状になったり、視力が落ちたりします。
皆若いので、上陸して二週間もすれば元通りになったそうですが、
年配の艦長や下士官は、よほどの体力がないと務まらないでしょう。

映画には、若い軍医中尉にビタミン剤を渡されたベテラン下士官(吉田栄作)が、
反発から「飯食ってるから必要ない」などというシーンがありますが、もしベテランであれば、
潜水艦勤務のビタミン欠乏状態についてよく知っているはず。
このような台詞は決して出てくるはずはないのですが。


細かいことですが、近頃の映画って、こういう描写が本当にアマいですよね。


特に不人気で志願が少ないのが上層部の悩みの種でもあった潜水艦勤務ですが、
そのわけは、飛行機のような華やかさも、軍艦は勿論駆逐艦のような勇ましさも無く、
ひたすら海中で
隠密行動をとるという地味な兵種で、おまけに、
わずかの故障や被害であっという間に
全員が戦死してしまう、という
「逃げ場の無さ」となにより閉塞感が忌避されたものでしょう。


同じ危険で死亡率の高い航空でも、どこまでも広がる空の解放感と、海中の密室では、
どうしても前者に志望が集中するものと思われます。

それは決してイメージだけのことではありませんでした。
その危険さは、佐久間艦長の遺書で有名になった潜水艦事故であまねく知れ渡っていましたし、
実際に潜水艦勤務になった者は、この事故をいつも心のどこかで意識していたでしょう。
潜水艦に乗る限り常に死と隣り合わせ、といった考えから逃れることはできなかったのです。


潜水艦任務というのは常に隠密行動が本分で、最低限の戦況報告や指示を受ける場合を除き、
基地への無線連絡は基本的にしないことになっていました。
現在位置を探知されたり作戦が解読されることを避けるためです。
基地では艦が任務機関が過ぎても帰ってこなくなって初めて、その潜水艦の犠牲を知るのです。

・・ここで気づいたのですが、映画「潜水艦イ―57潜降伏せず」で、わたしがしびれたシーン、
つまりあの映画のクライマックスでもあるのですが、池部良扮する伊潜の艦長が
「伊57潜は降伏せず 只今から戦闘に入る」と基地に打電するシーンは、
この事実にてらすと、つまりありえなかった、ということになりますね。(がっかり)



しかし、このような過酷な勤務でありながら、いや、過酷な任務であるからこそ、
彼らはどんがめ乗りであることに誇りを持ち、強い連帯感で結ばれていました。
それは、他の大型艦や、個人技の航空には無い、一蓮托生の覚悟からきていました。

撃沈されたり艦に何かあれば、艦長から兵まで、一人残らず一緒に死んでいくのです。
共に死ぬと決めた同志の精神的な結びつきは、あるいは血より濃いものであったでしょう。

潜水艦には、「甲板整列」がありませんでした。
「男たちの大和」にも描かれた、あの「ヘタするとリンチ・タイム」が無かったのです。
軍隊における陰湿な、苛めとしごき、それによって渦巻く下級の者の怨嗟と仕返し。
そんなことをしているほど潜水艦は、いわば暇ではなかったのです。

艦長士官から下は水兵に至るまで、全員が同じ事業服で、暑ければFU一丁の食事タイム、
その食事の用意も、手が空いているものがする。
士官も自分で洗濯をしなくてはいけないし、時にはギンバイさえする。

陸軍に驚愕された「上下関係の(理由あっての)緩さ」が海軍の本領ですが、
潜水艦はそんな海軍の中でもありえないくらい「皆平等」でした。
死ぬのも確実に同時ということが骨の髄まで沁みついていると、組織とはこうなるのでしょうか。

潜水艦では全員で輪投げに興じ、負けた者がたとえ兵曹長であっても、
下級の者の「牛殺し」(デコパッチン)を逃れることはできません。

つまり、兵隊にとっては上がむやみやたらに身近に思える分、
上に行くほど「損した気がする」わけです。
まともに考えたら、何のために難しい兵学校まで出たのか、と思うくらいの割の合わなさです。

だから志望が少なかったのか、という理解も成り立ちますが、ところがどっこい、
士官たちは、そんな一見馬鹿馬鹿しいどんがめ勤務を、皆誇りにさえしていたというのです。
そして下の者たちも、そんな緩い階級差に乗じて士気がたるむかというととんでもなく、
だからこそ「一緒に死ねる」と本気で思えたのだそうです。

ここで、海軍で最も割の合わなかったと思われる、潜水艦艦長について。

潜水艦には士官は勿論のこと、艦長ですら個室が無かったというのです。
「イー57潜降伏せず」では、広い艦長室で、池部良が机の上の写真立てから家族の写真を抜き、
軍服のポケットにいれるという、これも私の好きなシーンがありましたが、
個室どころか、実は艦長は蚕棚と呼ばれる(これは現在の自衛艦でもほぼ同じ)ベッドに兵と同じように寝ていました。
ですから艦が揺れてよろめき艦長の顔に手をついてしまった、などという無礼狼藉は日常茶飯事。

大事にされすぎてリューマチになってしまった山本五十六は例外としても、
だいたい潜水艦艦長の少佐クラスは、脚を使って働かなくなるので
そろそろ体力の衰えが気になってくるお年頃。

一般に他の配置になった少佐なんぞより、ずっと足腰もできていたそうですが、それでも、
若いぴちぴちの水兵さんには基本的に動きがついていくことができず、
急速潜行で艦に飛び込むときには頭上に兵が降ってきたり、半ズボンの脛を痣だらけに
していたり、が潜水艦艦長の日常だったそうです。

しかし、それを考えると、「真夏のオリオン」で少佐が玉木宏って・・・・・。
そもそも少佐にしては若すぎませんか?あれじゃせいぜい大尉でしょう。

池部良は年齢的にはOKですが、だからといって冒頭の漫画を池部良で再現するのは
別の意味でヘンですね。

しかも、潜水艦長の指令は、他の配置より「一蓮托生」の結果を大きく左右します。
「不沈戦艦」と言われた伊41板倉光馬艦長は、何度も危機一髪の死地を脱出していますが、
ご本人が戦後述懐するような「少しの運のよさ」からだけではなく、
「艦長の決断」によって艦が救われたと思われる事例が数多くあります。
中には、もし板倉艦長でなかったら助からなかったのではないかと思われる例も。
板倉艦長については、また別の日に書きたいと思います。


ところで、今4巻まで出版されている佐藤秀峰氏の漫画「特攻の島」は、今佳境に入っています。
的(回天)に取り残された渡辺二飛曹を、敵中浮上して救うことを決断する伊潜艦長。

「恐れるな・・・時間はまだたっぷりある・・・・浮上オ!!」


最初はただのオヤジだと思っていたこの艦長が、やたらかっこいいんですけど。

今をときめく漫画家である佐藤秀峰氏が回天搭乗員を扱った漫画を描いていることや、
「真夏のオリオン」と「ローレライ」という二本の映画が潜水艦をテーマにしていること、
そして、ここで描かれた爽やかな二人の艦長(玉木宏、役所広司)を通じて、この、
一見地味でどん臭い兵器である潜水艦乗りのカッコよさを実は再認識しようとしているのか?
もしかしたら、日本の戦争ものが「潜水艦」にも目を向け始めているのか?
もしかしたら、ちょっとしたブームか?
とちょっぴり期待しないでもないのですが・・・まあ、たまたまだろうなあ。



この戦争で、総数139隻の潜水艦が参戦し、そのうち乗員ともども127隻が失われました。
そのうち24隻は、いつ散華し、どこで永遠の眠りについているかもわかっていないそうです。







呉教育隊見学記

2012-06-20 | 自衛隊

呉海兵団。
最近書いたばかりの映画「海ゆかば 日本海大戦」で、最初に主人公が出てくるシーンは
呉海兵団であった、ということを覚えておられますか?

その呉海兵団です。
それを書いたときには、自分がその海兵団跡に実際行くことになろうとは、神ならぬ身には
知る由もなかったわけですが(大げさだな)、この写真がそれでございます。

旧軍消滅ののち、占領軍から返還されたこの跡地には、江田島から移転してきた呉練習隊という
まあ、海兵団のことですが、水兵さんの訓練機関が置かれ、現在は教育隊と称します。
つまり、若いぴちぴちの水兵さんたちの生態が思う存分観察できる場所、と。

そこに潜入することは、勿論一般人には許されておりません。
許されておりませんが、構内にある五〇m室内温水プールでは、一般向けに週末プールを
解放しているくらいですから、そんなに秘匿された聖地、というほどでもありません。



しかしゲートを入るとさっそく警備兵が飛んできました。
ミッキーマウスの模様の入った、元自衛官のIDをさっと示す元艦長(笑)。
中を案内してくれる士官を呼び出してもらいました。

 入口にさりげなく飾ってある大和の砲弾(本物)。

大和ミュージアムに没収されなくて何よりです。



防空壕ですね。
呉は終戦前厭というほど敵の空襲を受けています。
海兵団がここにあることも察知されていたため、昭和二〇年には大々的に被害を受けました。

 明治天皇御行幸記念碑。

進駐軍の接収にも遭ったこの地ですが、どうも取り壊しは免れたようですね。
お墓のように見えるから、もしかしたらアメリカ人には怖くて手が出せなかったのかもしれません。

さて、この日は写真でもお分かりの通り、一日中雨模様でした。
なんてついていない、と言いたいところですが、それが違ったんだな。
雨の日でなくては見られないものがあったのです。

 

海軍軍人は雨の日でも傘をさすべからず。
旧海軍の掟が、今日の海上自衛隊にも生きているという証拠が!
雨が降ろうがやりが降ろうが、傘を差してはいけないので、防水のレインコート着用。
軍帽にはバスキャップみたいな透明のカバーをかけて雨に備えます。

しかし、顔や手は当然びしょぬれ。
ズボンも靴も濡れるがまま。
画像のように自転車なんぞに乗ろうものなら・・・。

昔は雨用マントがあったそうですが、軍帽はどうしたのかな。

因みに、このコートは「完全防水などで決してない」そうです。
長時間の濡れていると、沁みてくるということか・・・。



みんなで「雨の日の海軍さんは大変」話で盛り上がっていたら、こちらに向かう士官の人影。
「ああー、あの人も傘なしで・・・・」
「しかも、雨でもトレーニングとかでなければ走ってはいけないんですよ」
「歩いてますねーあの人も」

 とか言っていたら、その方が案内して下さる士官でした。

いやはや、豪雨の中、モノ好き一人(わたし)のために本当に申し訳ない。
とはいえ、元艦長夫人も付いてきて一緒に見学です。
この方は、数十年の間自衛官の女房でありながら
一度も夫の職場に関係する施設を見たことが無いという人でした。
まあ、そんなものかもしれませんね。

この後、さっくりと施設案内をしながら隊員の日常や訓練の日課などを説明して下さいました。


敷地内はまるで学校のようでしたが、



学校と違うことがあるとすれば、グラウンドにヘリポートがあることでしょうか。



体育館も異様に広大です。
バスケットボールのコートが4面は取れそうです。
ここは、入隊式などのセレモニーのとき、二千余の人数を収容する施設でもあるからです。
この反対側の観覧席二階には、トレーニングマシンが置いてあり、隊員の自主トレに使われます。
勿論、武道場やオリンピックサイズのプールも完備。

昭和39年には、東京オリンピックの水泳選手がここで強化合宿をしたそうですから、
当時からプールは国際規格のものがあったのかもしれませんね。

因みにこの日は土曜日で、お休み。
雨にもかかわらず外出する隊員が多かったのか、残っている人は少なめに思えました。
何と週休2日制です。
士官氏は「できるだけゆっくりさせています」とおっしゃっていました。

そうか。月月火水木金金なんて、今は「とんでもない」んだ。
そんなことしたら、皆やめてしまうのかしら。
でも、普通の若者に比べればとんでもなく規律厳しい生活をしているのだから、
週末くらいぜひぜひゆっくりさせてあげて下さい。
若い男の子だからデートだってしたいでしょうし。

海軍なら「上陸」ですが、ここでは「外出」なんだそうです。
艦隊であればそういうのですが、ここは一応陸戦隊、じゃなくて陸警隊だから、ということです。
外出前には江田島の幹部候補生がされるように、やはり外出前点検が行われますが、
制服を着て外出するとき、彼らには、色々な注意が前もってされるそうです。
例えば、決してマスコミのインタビューには答えるな、とか。

まあ、「尖閣問題についてどう思われますか」
なんて聞かれても、自衛官としては自分の意見として答えるわけにもいきませんしね。

呉の街はどこに行っても当たり前のように制服の自衛官が街を歩いていました。
これも週末だったからでしょうが、女の子とデートしている(妹かもしれませんが)
水兵さんを何組か目撃しました。
一組は手をつないで歩いていて実に微笑ましかったのですが、士官のデートは見ませんでした。

もしかしたら、士官候補生は制服でのデート禁止なんでしょうか。


さて、この辺で、いよいよ隊員宿舎に突入~!



入ってすぐのところに、姿見があります。



45度にテープの貼られた姿見、これは行進のときの手の振りをチェックするもの。
前が赤、後ろにグレーの線まで手を振ります。
この時代は、一番大切なのが「行進」なんですね。

兵学校にあったような敬礼練習機は無いのか聞いてみましたが、それはありませんでした。
ただ、すれ違う隊員たちは皆士官にちゃんと敬礼し、私たちには元気な声で挨拶してくれました。
規律正しい若者たちの姿って、なんて清々しくって見ていて心洗われるんでしょうか。

こういうとき、つい
「徴兵制を復活して、一年でもいいから若者はこういう生活を経験するべきではないか」
なんて考えてしまいますね。
韓国軍のように陰湿ないじめがあるわけでもないし、(ないですよね?)
今のところ徴兵から実戦に投入される心配もなさそうだし、(これもない・・ですよね?)
国防というものに対する理解を深めるとともに、国家に対する意識、ついでに精神修養も兼ねて。

いかな問題児であっても、お金を払って戸塚ヨットスクールに入れるなら、
自衛隊に放り込んだ方がずっと効率的だと思うんですが、いかがなもんでしょう。





帽子をちゃんとハットラックにかける。
ただこれだけのことですが、これがまた何とも海軍的。

そして、ベッドのこの整え方を見よ。
これぞ海軍伝統。



見本のベッドは、まるで毛布が板のようにピシッとしています。
どうして海軍だとベッドをちゃんとしなくてはいけないのか、などと考えだすと、
わけが分からなくなってきますが、つまりは伝統だから、なんでしょうね。
それにしても、ベッドをベットと書くのも、海軍伝統?

これだけしわ一つなく整えられたベッドですから、たとえ休日でも、この上に転がって
ごろごろしたりマンガを読んだり、なんてことをするわけありません。




雨にぬれた服を乾かすくらいはしてもいいようです。
この写真を撮ったとき、この扉の反対に隊員が二人いて、
「えっ、なんで見学者がいるの?」「なんで写真撮ってるの?」
みたいな慌て方をさせてしまいました。ごめんね。



「隔離部屋」「学生倉庫」

態度が悪いとか、罰直を受けるべき不良な学生を皆から隔離しておく「学生の倉庫」ですか。
と思ったら、そうではなく、風邪をひいた学生はここに隔離するのだが、
普段は学生用の物品倉庫であるということのようです。



さきほど、一年くらい徴兵して、などと言ってはみましたが、こういう一面があると無理かも、
と思ったのが、これ。携帯電話。
隊員は携帯電話をこうやって預けていなくてはなりません。
始終ポケットから取り出してぴlこぴこメール、なんてとんでもないというわけです。
しかし、家からの緊急連絡が入っていないとも限らないので、
昼休みにチェックをすることが許されているそうです。
ケイタイ中毒になっているようないまどきの若者が、こんなやり方をどう思うか、なんですが・・。

まあ、携帯なんてないならないで、なんでもない(はずな)んですけどね。

 

階段の上のスペースでは、ライフジャケットの付け方、手旗信号の練習、そして、
ロープの結び方の練習などが行われる模様です。

わたしたちも士官にもやい結び(基本中の基本)を習いました。

 

指導を受けている元艦長夫人。
元艦長は、引っ越しや荷物を結ぶときにこれを教えてくれなかったのですか?と聞くと「全然」

この結び方を無意識にしてしまうのが海軍や海自出身者であるようで、ヘンな話ですが、
自殺するときのロープの結び方、そして犯罪のときも、この辺からアシがつくことがあるとか。

一瞬で結べて、解けず、それ以上輪が締まることがないため、
自分の身体に結びつけるときに役に立つそうです。海に流されたときには特に。

さて、このとき、実は雨にもかかわらずグラウンドを走る人影は一人や二人ではありませんでした。
休みでも自主トレをする隊員たちの姿です。
かつて自衛隊見学をしたある人が「自衛隊員とは止まると死ぬ生物なのか?」
と書いていましたが、まさに一瞬も止まることなく常に身体を鍛えることこそ仕事。
でないと、いざというとき兵士として何の役にも立たないからですね。

これを見てください。



懸垂の目標2500回。
2500回ってあなた、わたしなんか、多分一回が限度よ?
いや、今ならもしかしたら一回もできないかも。
だって、先日公園の鉄棒につかまってぶら下がったまま、20も数えられなかったもの。

それなのに、この三班の皆さんったら、もう400回も懸垂してますよ。
余白には「やってみせろ!!とにかくやれ!!」



これは、写真に撮りそこなったけど、別の班の目標、ランニングのようですね。
いずれも厳しく「インチキ」を禁じています。
そう、自分しか知らなくても、誰も見ていなくとも嘘はつかない。
自衛官として、ではなく人間として大事なことですね。
とくと聞かせてやりたいやつが、何人かいるなあ。



若い柔軟な心には、こうやって言葉による規律規範の確認を徹底します。
しかし、一番下の「誰かのせいにするのは男として最低」には是非「女であっても最低」さらに
「人間として最低」という文言に変えていただくことを提言します。

 感動のあまり手が震えて画像がぼけました。(嘘)

お前のオールを任せるな。
海の男的に言う「自己責任」ですな。

 標語ではなくただの注意なのですが・・。

たかが通行禁止を言うのに「正面玄関を使用せよ。」
軍隊口調です。
近道としてちゃっかり通り抜けする隊員があまりに多く、業を煮やした感じが伝わってきますね。

 

ここで突撃隣の昼ごはん。
白い服は案内の士官氏。
その辺の隊員に今日のメニューを聞いてくれました。
この日はカツ重。
さぞ一日三食ガッツリとこのようなヘビーなものを食べるんでしょうね。
金曜日はここも当然のようにカレーだそうです。

ところで、ここは隊員食堂なので、士官の姿はみませんでした。
士官は士官食堂で、もう少し豪華なものを食べているのかしら。
因みに、元艦長の妻証言では「海自のご飯は美味しい」とのことです。
そういえばホームページでもやたらレシピの紹介に力を入れていますね。
「おおすみ」オリジナルレシピによる鮭のムニエル!とか。





この建物は、資料館として使われていたようですが、先の芸予地震でかなり損壊し、
ついに取り壊すことになったのですが、モニュメントとしてこの部分だけ残すことになりました。
冒頭の写真はかつての武器庫。
今何に使用されているのかは聴きそびれました。
しかし、完璧に地震には(しかも何回も)耐え、完璧に残っているのですね。
こういう武器庫は壁が頑丈で、いざ中で何かあったとき、
爆風が上に逃げる作りになっていると聞いたことがあります。


海兵団、じゃなくて教育隊で訓練を受けている若い人たちに共通の雰囲気は、
なにしろ「きちんとしている」こと。
若いうちはきちんとしていることがいかに傍から見てイケてることか、
特に自分のことであれば分からないかもしれませんが、
この日見た水兵さんたち、背筋がしゃんと伸びていて礼儀正しく、皆カッコよかったぞ。

やっぱり若者は社会に出る前に一度くらい自衛隊での訓練を義務(略)






旅しながら淡々と写真を貼る~呉グルメ編

2012-06-19 | お出かけ


またまたまた、広島県呉に行ってまいりました。

前回は、前々回見学しそこなった大和ミュージアムと、どちらかというとこちらがメインだった、
海上自衛隊の資料館「てつのくじら館」を西日本行脚のついでに観る、という目的がありましたが、
今回は最初から呉が目的地。
話せば長いことなので話しませんが、少しだけ仕事がらみです。

今回は、海軍の町呉をどっぷりと探訪するための強力な案内人を得ての旅行。
その案内人とは、呉在住、元海上自衛官の今悠々自適、某艦船の艦長を最後に退職された方。
これはもう、行くしかないでしょう。

今回は新幹線ではなく、羽田から広島空港までANAを利用しました。
そしていきなりびっくり!
地方行きなのに、使用機がボーイング社の新型旅客機、ボーイング787だったんです。
それがどうした、と普通なら思うわけですが、この機体の最も画期的なのがウィンドウシールド。

 

普通の機体にある、シャッと手で降ろす日よけではなく、下のダイヤルを操作すると、
窓ガラスが暗くなって日差しを遮ってくれますが、外の視界を遮りません。
「なにこれ~!どうなってんの?」
13歳の息子とこの仕組みによって討論したのですが、息子の考えは
「温度が変わると二重ガラスの中の色が変わるんだと思う」
「でも、夏の日差しで温度が上がったらどうするの?」

飛行機から降りてさっそく調べたところ、正解は

2枚の薄いガラスの間にジェルの層が挟まれていて、
電流がジェルに加えられると化学変化によってジェルが暗くなる

というもの。
この説明では化学変化が温度の関するものかどうかは分かりませんが、少なくとも
二重ガラスの中の物質の変化によるもの、という息子説は正しかったようです。


前回新幹線から在来線に乗り換えての呉行きが結構大変だったので、
今回は空港からレンタカーを借りました。
移動だけが目的なので、究極的に燃費の良い車を指定したら、アクアになりました。
空港から往復して、買い物にも出かけ、満タンにしたらガソリン代が900円。
このガソリン高のご時勢に、これはすごいですよね。

高速道路も整備されたばかりで、途中のドライブインなど、綺麗で至れり尽くせり。
レストランがあり名産品は勿論、近くの農場の産である乳製品などを買うこともできるのです。

 

大和ラムネ見っけー!
大和では圧力装置を利用してサイダーを製作することができる、という話を以前
「海軍おやつ」という項でお話したことがありますが、まさにこんな瓶で売られていたのでしょう。

右の「平家物語絵巻」のレリーフは、なんとドライブインのトイレの壁の飾り。
用を済ませてドアを開ければ、そこにはこの作品がどーんと飾ってあるわけです。
日本人でも軽くビックリするのだから、外国人観光客は日本の底力?にさぞ驚くであろう。
なんでトイレにこんな渾身のアートが?って。

しかも、ここのトイレですが、広大な広さの全てのブースが洗浄器、暖房付き。
極寒の頃訪れても、寒さ辛さで震え上がることは無いわけで、全く日本って国は・・・。
こういう面のこだわりって、もう文字通りの「ヘンタイ」ですわ我が国ながら。



ドライブインで隣に泊っていた大学のバス。
IPU。環太平洋大学。International Pacific Univercitiy。
どうも体育系の大学のようですが、初めて知りました。

「ん~、『イプ』か・・・」と息子。
「『アイプー』じゃない?」と母。
広さ偏差値で言うと、日本大学の上、亜細亜大学と同レベルってところでしょうか。
こうなると次は『東半球大学』ついで『世界大学』の出現が待たれますね。

 

一時間後に呉到着。
もうすっかりおなじみになったyoume、「ゆめタウン」で夜ごはんを買ってチェックインしました。
たかがスーパーとはいえ、結構美味しいんですよ。お寿司とか。

部屋は、前回と全く(号数も)同じ部屋。
謎のトマソン椅子の付いているスィートルームです。
今回もホテルの御好意により、謎のアップグレードをしていただきました。


泊ったホテルは呉の駅前にあります。
この駅ビルは「クレスト」と言います。
昔、何もなかった戦中の呉駅前には「海兵団子」という広告塔がぽつんと立っていましたが、
今立っているのはこのようなもの。

ゆうわくをふりきる心 強い意志。
うーん、深い。あらゆる年齢層の、あらゆるシチュエーションに通じる標語ですね。
しかしなぜ五七五なのかとか、ここに看板を立てて人心に与える効果があるかとかは考えるまい。

この次の日から怒涛の「海軍ツアー」が始まるのですが、それは別の日にお話しするとして、
その元自衛官ご夫妻が、山の中の「趣味の自家菜園&泊りこみ小屋五右衛門風呂付き」
にご案内して下さいました。
そこに行く途中に通ったのが、ここ。



音戸の瀬戸でございます。
先日観た映画「太平洋の嵐」で、ミッドウェイに出撃する聯合艦隊がここを通るとき、
「狭いので単縦陣になって通る」
と主人公の偵察将校中尉が言うのですが、元艦長によると、
「ここは狭いうえに底も浅く、掃海艇のような小さい艦艇でもよほどの注意が必要だった」
というほど厳しい海峡だそうです。
当然のことながら、大和、武蔵などはここを通ることができず、回り道をしました。



その回り道をしたのがこちら。
ご夫妻の(というより奥様の)隠れ家から海峡を望む。
「ここを大和が通るときはすごかったでしょうね」
「ええ、まあそのころこの橋はありませんけどね」



隠れ家には電気が通じており、テレビは勿論電子レンジも使えます。
NHKの朝ドラをやっています。(観てませんが)
この後の「平清盛」には、元艦長も文句言い放題。

わたしはこのドラマの不調の原因として「王家問題」、ひいてはNHKの歴史認識問題に
注目しているのですが、インターネットなどせず、そんなことなど全く知らない艦長氏にとっても
「面白くない」ことは明確のようですね。
なぜ面白くないか、ということは全く解明できなくとも。

ここに来て初めて気づいたのですが、このあたりは清盛ゆかりの地でもあります。
地元は盛り上げようと記念館などを作り、企画を立ち上げ、一生懸命でした。
大河ドラマが「地元起こし」になるって、本当だったんですね。
かなりの観光客が臨めるというのも、どうやら本当だった模様。



奥様が
「今このあたりに来る人らって、みんな『清盛』目当てなんだけど、清盛はいいんですか」
「はあ、全く興味ありませんから」
「ふーん、変わっとるねー。なんで海軍なの」
「はい・・・。話せば長いのですが・・・」

なぜエリス中尉が海軍に興味を持つにいたったか、そう言えばここでもお話したことはありません。
ブログ開始当初、そういうことにしておいた方が気が楽?というか、それがタイトルでもあるので
海軍の誰かのファンになったから、ということにして今日まで来たわけですが、本当のところ
それはあくまでも「派生的なもの」かつ、「キャッチーなタイトルとしての理由」にすぎません。

実はたどっていけばそこには「自分が生まれた国、日本が好き」という原初的な理由、
しかし、知れば知るほど不思議な「国を愛させまいとする勢力による政治に対する不信」、
そして「日本の現状に対する不安と不満」があります。

いきなりこういう理由でブログを始めても、誰も読んでくれないと思ったものですから、
まあ、カルいところから語りだしてみた、というわけです。

カルい部分や表面的な部分も、わたしにとって語るべき重要さを持っていることに
違いは無いのですが。





雨が降っていなければここでサンドイッチの昼食を戴くはずでした。
奥の小屋は五右衛門風呂。
ここで採れた無農薬の野菜を、知り合いのレストランにおろしているそうです。
仲間が集まって星を見ながらワイワイやるのだそうで、理想のカントリーライフですね。
奥様はピザ焼きがまを作る計画をしていて、それが完成したらまたお邪魔する約束をしました。

この後見学などをすませて、もの凄い豪雨の中、お好み焼きを食べに行きました。
ところでエリス中尉、こころから広島県民に謝らなければいけないことがあります。
前回「そばと入れてソースで食べさせる広島風お好み焼きは下品」
などと断言してしまったことです。

すみませんでした。(AA省略)




お好み焼きと言えば「粉の塊り」
この思いこみと先入観すら覆してしまう広島風お好み焼きが存在することを知らなかったための、
全く失礼な暴言であることが判明したのです。
元艦長夫人が連れて行って下さった「呉で一番おいしいお好み焼き屋さん」それがここ。

どう美味しいのかが、目の前で焼いてくれる過程で少し分かりましたので分析してみます。



まず、薄いクレープを土台として製作。
そこにもやし、キャベツなどの具を載せてしばらく焼きます。
この後、ここにほんの少し溶いた粉をたらすのですが、粉はこれだけ。
ほとんどが野菜と好みで選べる肉、魚介類です。
「粉っぽい」という独特なチープな食感は、ここで払しょくされるのです。



ここからが問題。
一旦このように、お好みを二層に分けて各々しばらく焼きます。
店主に聞いてみると「これをやっているのはうちだけ」その理由は
「キャベツを直にじっくり焼いた方が美味いんじゃないかと思って」

そうですよねー!

玉ねぎのスープなんかでもそうですが、先にそれだけ炒めた方がずっと野菜のうまみがだせる。
よくわかってるじゃないかご主人!



山芋も、いきなり混ぜないでまず鉄板に落としてじっくりと焼いてから重ねます。



そして、奥に見えている蓋でしばらく蒸すように火を通すのですね。
因みに、この納豆の乗っているのはエリス中尉の注文なのですが、
このお好み焼きに何となく納豆をトッピングしたことを無茶苦茶後悔しました。

粉の少ない「そば無し」を頼むと、「そばの無いのを頼んでも意味が無い!」などと宣言され、
「どこの一流料理だよ」と文句の一つも言いたくなるようなお好み焼き屋ばかりではありません。
ここではそば無しも快く作ってくれます。
つまり広島で味わえる炭水化物の最も少ないお好み。
ああそれなのに、たっぷり入れた野菜の味が

みんな納豆の味と食感のせいで分からなくなってしまったからです。

やっぱり、一党独裁、全体主義というのはお好みにおいても駄目ですね。
あまりに個性の強すぎるリーダーがいると、その思想が全体を覆い隠してしまうという・・・。
何の話だ。



黄身が異常なくらい盛りあがっている、新鮮な卵を使っているのでこの状態。
お好み焼きというB級グルメでありながら材料に手を抜かない、これも美味しさの秘密でしょうか。



完成。
この後、本体が見えなくなるほどネギをかけられます(笑)

皆さん、呉にお立ち寄りの節には、呉市三条の「ポパイお好みハウス」へどうぞ。
広島式お好みが好きでない方も目からうろこが落ちることでしょう。

開けて次の日、呉最後の食事には、艦長夫人が作った野菜を卸している料理屋さんへ。

 

「たかだ」といいます。



奥さんは非常にこだわって手間暇かけた料理を出すのを喜びとしているような、
「料理人の鑑」。



自然食、という気負いもなく、しかし究極の新鮮な野菜と食材を使って、実に手のかかった、
しかも素朴でありながら美味しい料理を出してくれるお店でした。
アジの開きに、名前は忘れたけど特別な大根おろし。



問題の卵
先日、新さんへのコメントで思わず自慢してしまいましたが、この卵を、アツアツのご飯にかけ、
極上醤油をたらしていただく卵かけご飯(TKG)。

日頃生卵などとんでもない、という息子がお代わりまでして平らげました。
シンプルなものほど素材の良さが問われますが、これなどその典型。

「卵って、生で食べても美味しいんだ」

あらためて知った気がいたします。
というわけで、呉にお越しの節にはぜひ中通り三丁目、三楽ビル一階の「たけだ」へ。
熱烈お薦めです。


というわけで、呉紀行、いよいよ海軍特別編に突入!






「海ゆかば 日本海海戦」 行進曲軍艦

2012-06-18 | 海軍

      

なんと一つの映画で4日連続記事を書いています。
戦争もの、海軍もの、そして軍楽隊もの。

このブログにとってドンピシャリの語るべき内容がこれだけそろっているという映画もまたとなし。
映画の筋にはろくすっぽ触れず、音楽を中心にお話を進めたらこうなってしまいました。



行進曲「軍艦」 瀬戸口藤吉作曲

いよいよ日本海大戦に臨む聯合艦隊。
伊東四朗演じる丸山隊長のタクトが一閃、
旗艦三笠艦上では、この海戦に先立つこと5年前に作曲された行進曲軍艦が演奏されます。

さっそく大疑問なのですが、前回まで説明してきたように、
軍楽隊は出航の際の儀式に演奏をした後、楽器を艦艇の格納庫に収納し
「諸子が次に楽器を演奏できるのは、日本がこの海戦に勝利したその時である」
と厳命されていたはず。

なぜここであらためて演奏をしていいことになったのでしょうか?

史実によると、丸山寿次郎隊長以下26名の軍楽隊が行進曲「軍艦」を演奏したのは、
三笠が佐世保軍港を出航したときです。
これ以降、軍楽隊は映画にも描かれているように、楽器を収納し、砲塔伝令、艦橋の信号助手、
そして負傷者運搬の猛訓練に入ったとされていますから、実際には出航時に国旗を打ち振る
群衆に答えるような形で演奏された「軍艦」が、最後の演奏になった軍楽兵もいたわけです。

しかし、この映画では前回のブログに書いたように、ストーリー上
「主人公の東郷司令への直訴により、三笠艦上で慰安演奏会が一度だけ行われた」
ということにしたので、物分かりのいい東郷司令が、この後
「一度楽器を出してきたのなら、士気を鼓舞する為に一度『軍艦』をやりんさい」
と言ったとしても、自然だよね?ってことで、ここに「軍艦」の演奏を持ってきたのでしょう。

海軍軍楽隊を描くのならば、軍艦行進曲を演奏しなければ、それを描いたことにはなりません。
どこで「軍艦」を演奏するシーンを挿入するかについては、おそらくもっとも制作者が侃々諤々、
論議を尽くしたものと想像します。


つまり、劇の後半に「見どころ」を間配るために、わざわざ決戦前に演奏したという設定にしたと。
出航時、軍楽隊は後甲板に円陣を描いた隊形で「軍艦」を演奏し見送りに答えた、という
記録が残っており、このシーンはそれを再現しています。

軍楽隊は、割り当てられた仕事だけでなく、万が一砲員が全員戦死してしまったとき、
最後の最後まで戦い続けるために、代わって砲を操作することを義務付けられていました。

したがって、彼らは砲兵としての臨時訓練をも砲兵長の指導の下で受けさせられました。

この軍艦の流れる中、画面は順に、一戦に備える三笠の艦上を追います。
明治天皇の御真影に礼をする東郷長官。
「石炭捨て方」、つまり艦を軽くするための余分な燃料を廃棄。
甲板、艦内の拭き掃除。
兵器の手入れ。
甲板に消火用の水と砂の桶を配置。
最後の入浴。
これは、バスに5人ずつ順に並んでつかり、「交代!」と言われればさっと前に進み、
後ろから次の5人が入る、という当時の軍艦内の兵の入浴を再現してくれています。
ついでに、認識票をつけた全裸の兵が、褌をつける様子も説明してくれています。



ところで、以前「甲板士官のお仕事」という項で「棒きれ持ってズボンまくり上げた甲板士官」
という話をしたのを覚えておられるでしょうか。
この映画で絵に描いたような甲板士官が登場するシーンがありました。

うーむ。まさにこれは甲板士官そのもの。
ガッツ石松のカマタキ松田と、佐藤浩市のジャクりオオカミの殴り合いに呼応して、
大乱闘になってしまった下士官兵たちをシメるために飛んできました~!

でも、実際に「脚を開け!歯をくいしばれ!」と言って愛の鉄拳を振るうのは、
士官じゃなくて右側にいるスマートな下士官なんですよね。
それにしてもこのシーン、確かに巷間伝わる伝統的な甲板士官スタイルではあるけれど、
どうして裸足なのが、この士官さんだけなのかと・・・・。
軍隊に詳しくなければ、右の皮靴の下士官の方が偉い人だと思ってしまいそうです。
実際にも、年齢は士官より上なのには間違いありませんが。

 

こういうシーンを、映像で観たい!
史実を描いた映画を観る楽しみはここにあります。
実際にこの電文を打つとき、ツートントンしている横に秋山参謀がいるはずはないのですが、
それでも、こういうシーンを観てなんとなく百人一首の下の句が出てくる前に分かったような、
「これこれ!」というちょっとした愉悦を感じる人もいるのではないでしょうか。

それにしても、この横内正さんの秋山参謀は無茶苦茶はまり役だなあ・・・。
モッくん出現にいたるまで、歴代で最高の秋山役ではないだろうか。



敵艦発見の報を受け、みな戦闘態勢に入ります。
軍艦行進曲を演奏し終わった軍楽隊は駆け足で着替えを始め、海軍手ぬぐいを額にきりりと。



「諸君の命は、今日、こん伊地知がもらう。
私も死ぬから、みんなも思い切ってやっちくれ!」
艦長の訓示の後、張り裂けんばかりの声で万歳三唱。
狭いフネの上ですが、皆さん手を高々とあげてバンザイしています。

この部分の撮影も記念艦「三笠」の上で行われたようですが、この撮影のとき、
どうやら横須賀はものすごい強風だった模様。
セーラー服の襟がバタバタはためくほどで、本当らしさ満点です。



 

愈々(いよいよ)合戦のとき。
三笠艦上では杯を交わす儀式が各場所で行われます。
東郷司令はじめ将官たちは日本酒をグラスで。



フネの底の機関室でも同じように茶碗での乾杯が。
うーん、この映画でのガッツさん、かっこいいぞ。



ケースメート(砲郭)を、この映画では砲員の持ち場という意味で使用していました。
杯を交わした後、砲に清酒をかける大上一曹。

 

そして揚がるZ旗。

「皇国ノ興廃 コノ一戦ニアリ 各員一層 奮励努力セヨ」

秋山真之参謀考案、この世紀の名信号旗文。
これを全艦にメガホンで伝令するのも軍楽隊員の役目。



それを受けて復唱し、あるいは緊張する各部署。
この医務室の軍医たち、そして負傷者運搬に割り当てられた軍楽兵たち。
後ろにクラリネットのガタさん(緒方軍楽下士)がいます。

 

世紀の一瞬、東郷ターン、敵前大回頭を支持する東郷長官(を演じる三船敏郎)。
もうなんかね、三船敏郎でないとできない演技ですよ。
演技と言っても、三船さん、この映画で実は大したことはしていないんですよね。
じーっと空をにらんでるのがほとんどのシーンで。
だけど、本当に、これはもうこの人でないとだめ。

だいたい今、この瞬間の東郷平八郎を演じるのにふさわしい男優が、
日本の映画界に果たしていますか?

ところで、最近どこかで、
「東郷長官は、このとき実は『面舵』と言いながら手を左に回したのだけど、
回りの(多分加藤参謀長)が気を利かせて『取り舵』に修正した」という説を読んだんですよ。

多分、この証言が間違いだと思う(思いたい)んですが、これが海軍軍人の書いていることで、
無下に単なる妄想だと言いきれないところがあって・・・。
どなたかこの件についてご存知の方、いませんか?


 

戦闘がはじまり、艦内は修羅場となります。



東郷司令が「一ところに皆で集まっていることはなか」といったので、分散した将官ですが、
なんだかここの人たちはやられてしまっています。
よく東郷さんのいたところは無事だったなあ・・・。
負傷者運搬の兵たちも、「大丈夫でありますか?」「大丈夫ですか?」「大丈夫か?」
と相手によってかける声も微妙に区別しています。

まあ、このあたりの描写については、おそらく皆さんもご覧になった「坂の上の雲」に詳しいので、
これ以上はやめますが、戦闘中、甲板士官が、下士官が、仲間内で、
「がんばれーっ!」「がんばれ!」
と叫びあう。
頑張れという言葉が、本当の意味で使われる、ってこういう場合なんだろうなあ・・・。





戦死する大上一曹。白目剥いてます。
緒方先任も、眼をやられてしまいました。
「おめえのラッパ、上行って皆に聴かせてやれ・・・・・・」がくっ。



決戦が雌雄を分け、喜びあう松田兵曹始めボイラー室の面々。
ここの兵たちは、弾を撃つわけではなく、ただ艦底でフネを動かし続けるのが戦闘。
艦がやられたら、まず助かることなく一緒に沈んでいく持ち場です。

従って、機関部の勤務をする者たちは、恬淡というより無頼というか、妙に肝の据わった
人物が多かったとどこかで読んだことがあります。



艦橋の皆も、感無量の面持ち。
三十分で勝負はつきました。



砲員の持ち場に戻ると、生き残ったのはわずか三名。
三名共に呆然自失の態で機能停止しています。
そこで源太郎は一世一代の演奏を・・・。

「映画 海ゆかば オリジナルテーマ曲」 




終止符をつけてしまいましたが、これはAメロです。
砲員たちが、このトランペットの音色に我に帰ったようになり、再び最後の戦闘に突入する。
負傷して呻く兵たちをうち眺める悲痛な表情の秋山参謀、相変わらずの東郷司令(笑)。
もう三船敏郎、ほとんど演技してません。立ってじっとしているだけの簡単なお仕事です。

とにかく、大変良いシーンなのですが・・・・・・いかんせん、このメロディが・・・。

いい曲なんですよ。
譜面が読める方は、哀愁を帯びたこの旋律が御理解いただけるかと思います。
だがしかし、譜面を読める方なら、これもお分かりかもしれませんが・・・・・このメロディ、
まるで裕次郎の歌うムード歌謡みたいではないですか?
明治時代に、こんな曲調の旋律があるわけない、とあえて突っ込んでみる。


エンディングでこれが「海ゆかば」に変わる。「海ゆかば」が終わってから、
さらにその後一度思い出すかのようにこの旋律をリフレインする。
この音楽の演出も、実に心憎いものです。

しかし、ここで皆さんに悲しいお報せがあります。

国民歌謡「海ゆかば」が、信時潔によって作曲されたのは1937年。
昭和12年です。
当然日本海開戦時にはこの曲は存在していません。
ですからこそ、源太郎がいきなり「海ゆかば」をトランペットで奏で始める、
という展開にならなかったのですが、それを言うなら、このタイトル自体が無茶よね。



交響曲第4番ヘ短調作品36 第一楽章」 P.I.チャイコフスキー作曲


これは映画の中で使われたのではなく、この映画の予告編に使われていました。
このファンファーレの「運命の警告」を意味するテーマの勇壮な、そして悲愴な響きは、
この映画の内容そのものです。

そのあまりのはまり具合に思わず我が意を得たりとひざを叩いてしまったのですが、
この曲が

ロジェストヴェンスキー指揮 レニングラード・フィルハーモニー

演奏のものであることに、10ルーブル5カペイカ。






映画「海ゆかば 日本海大戦」 家路

2012-06-17 | 海軍

いよいよ明日は開戦という夜、東郷司令の特別の計らいによって、
三笠艦上で慰安演奏会が行われることになりました。

勿論そんな事実はどこにもないのですが、軍楽隊が主人公の映画なので、
特別に造られたストーリーです。
それに、もしかしたら、一度くらいあったかもしれないじゃないですか・・・。慰安演奏会。



横須賀にある記念艦「三笠」上で夜ロケされたこの演奏会シーン。
息をのんで楽団を見つめる将兵たち。
砲身にまたがっている人たちが計10人くらいいますね。

この、全く史実にないエピソードが、いや、史実に無くとも、この映画の最も美しいシーンだと、
わたしは断言いたします。

交響曲第9番第二楽章「家路」 アントニン・ドボルザーク作曲

トランペット奏者が主人公なので、最初の「遠き山に陽は落ちて」のメロディを、
トランペットが演奏していますが、本来はイングリッシュ・ホルンのメロディです。
イングリッシュホルンとは、別名コールアングレ、ホルンとついていますが、オーボエ族です。
オーボエ奏者がこの曲の出てくる時は持ちかえて演奏します。
そして、この曲が全てのイングリッシュホルンを使用する曲で最も有名なものです。

この有名な旋律の流れる中、一人一人の兵隊たちの表情が映し出されます。
その故郷の美しい景色と共に・・・・・。



千葉県、房総半島でしょうか。
「軍楽兵が兵隊ならば、トンボチョウチョも鳥のうち~!」
「音楽芸者が戦えるかい!」
などと軍楽兵たちを馬鹿にしていた水兵たちですが・・・・・。



長良川か、茨城県潮来か・・・。



越中、富山県境の出身。
「越中の人間は意地汚いさかい、残飯の食い過ぎで腹痛おこすんや」
とからかわれていた兵隊さん。




源太郎は越後出身。新潟ですね。
「越後の三助が、プカプカドンに出世したっちゅうわけか」
などと言われていました。
かれの思い出すのは自分のために鯛を買ってきた健気なセツの姿です。



京都。
前に立てば戦死か否かを占ってくれる「ネズミ大明神」に奥さんをあてがうために、
ネズミ探しに源太郎と島田を突き合わせた兵隊。
この役者さんが芸達者で、名前が知りたくて調べたのですが、配役が明記されているのは
ちょっとしかでていない三笠の将官の役ばっかりなんですよね。
軍隊のヒエラルキーがこんなところにも・・・・。
多分、高月忠さんだと思う。




この兵隊さんは、関西弁でしたので、これは紀伊半島の沿岸沿いかもしれません。
この俳優さんは掛田誠さん。(ですよね?)




京都府、天橋立ですね。



緒方先任の故郷は鎌倉でしょうか。



ガッツさん、マジ泣き。
これ、仕込みの涙じゃないんですよ。
右目に涙があふれてくるのをカメラがしっかり捉えているのです。
写真は・・・もしかしたらガッツ石松こと鈴木石松さんの故郷、栃木の田舎かもしれませんね。




可愛い軍楽兵の島田くんの故郷。
東京出身という設定ですが、明治時代は東京もほとんどこんな光景だったのでしょうね。



大物登場。
秋山真之参謀の故郷は、ご存じ愛媛県松山市。
それにしてもこの秋山参謀はそっくりである。
誰かと思えば横内正さん、初代格さんではないか!

ジャクりオオカミ、大上一曹の故郷は南部、つまり岩手の貧しい村。
人事の心証が悪くしてまで金貸しなどやってがめつく金を貯めるのも、全て故郷に田畑を
買って、いつか弟を呼び戻すという夢を持っていたからでした。
ただの嫌な奴じゃないのよ。



この演奏はたっぷり4分以上、つまり原曲の中間部分、嬰ハ短調に移行するまでのA部分を
なんと全曲演奏します。
いかにこのパートが映画の重要な部分であるかということなのですが、

ここで、皆さんに悲しいお報せがあります。

この、ドボルザークの第9交響曲が作曲されたのは1893年のこと。
日本海大戦が1905年のことですから、作曲されて12年経っており、
この映画の音楽担当者は安心してこの曲を選んだのかと思われます。

しかし、実際はこの曲が日本に入ってきた、つまり日本初演は実は1920年のこと。
日本海大戦のなんと15年も後、作曲されてから27年目にして日本人はそれを聴いた、
ということが今日判明しているのです。

勿論、この演奏会自体が映画のための創作には違いないのですが、それでも、少しは
整合性というか、「もしかしたら・・・」みたいな希望が欲しかったなあ・・。

それにもかかわらず、ここは素晴らしいシーンです。
全部写真を撮ってしまったのですが、これを音楽と共に見るのと、ただ写真を見るのとでは、
全く受ける感動が違いますので、このシーンのためだけにもこの映画を観てほしいと、
皆さまに切にお願いしたいくらい、感動しました。


映画「226」で、処刑される軍人たちが、いちいち奥さんのことを思い出しまくるシーンがあって、
そのカットがどれも冗長なため、「これはいくらなんでもやり過ぎだろう」と鼻白んだものですが、
こういうワンカットだけのシーンであると、なぜか自然に感情移入してしまいます。

それまで卑猥な冗談で笑ったり、下級兵いじめをしていた兵たちも、また一人の人間であり、
彼を愛し愛される者がいる故郷があるということが、
一瞬のカットでありながら雄弁に語られるのです。




拍手も鳴り止まぬ中、一人抜け出す大上。
「おらあ、おっかねえ!死にたくねえ!
フネさおろしてくれ!国さけえらしてけれ!」
号泣する彼を見守る源太郎は・・・。



沖田は、これも本当に、眼を真っ赤に充血させて泣いています。

「大上さん、国や海軍のために戦うんじゃないがや。
あんたは、田んぼや畑のために戦かやいいがね。
しっかりしてくだせえや、砲員長。
あんたが戦ってくんなきゃ生きて内地に帰れねえですけ」

いろんな男優の戦争映画における演技を観てきましたが、このシーンは両者ともに名演です。


それにしても、惜しまれる・・・・・・。沖田浩之・・・・・。



次回最終回、ようやく日本海大戦です。





「海ゆかば 日本海大戦」 アニー・ローリー

2012-06-16 | 映画





映画「海ゆかば 日本海大戦」
いよいよ日本海大戦に向けて佐世保を出港するところからです。

上の画像は「三笠艦橋の図」を映画で表現しようとしている瞬間を写してみました。
こういう制作側の「こだわり」を見るのも、戦争映画を観る楽しみの一つですね。
これ、監督が「三笠艦橋の図」を手にしながら、
「ああ、秋山参謀はもう少し本を上にお願いしまっすー!
加藤参謀長は双眼鏡持ちあげて!」
とか支持してカメラ回したんでしょうか。

ついでなので、三笠記念館内の展示に、この絵に描かれた人物と彼らのその後が分かる資料が
ありましたので、加工して載せておきます。





「艦橋の図」の右奥と、加藤少将の後ろにいる伝令は、もしかしたら軍楽隊員かもしれません。
個人的には枝原航海士少尉の「百合一」という名前がとても気になりました。

さて、映画に戻りましょう。



双頭の鷲の旗の下に ヨーゼフ・フランツ・ワーグナー作曲

モードバーを消すのを忘れてすまなんだ。
佐世保軍港を出港して朝鮮の鎮海湾上に向かわんとする三笠艦上。
この曲が本当に演奏されたという記録は無いようですが、
双頭の鷲=オーストリア・ハンガリー帝国のシンボルを称えたこの曲が
出撃に際して演奏されていたとしても不思議ではありません。

指揮をしているのは伊東四朗ですが、本物の楽団員であるこの軍楽隊を見ていると、
特に打楽器奏者は、ちゃんと伊東さんのタクトを見て演奏しているんですよね。



蛍の光 Auld Lang Syne スコットランド民謡


海軍兵学校の卒業式の描写で「ロング・サイン」と書かれていることが多く、
海兵関係者は海軍がそのように制定したのでこう呼んでいたようですが、
正確に発音するなら「オウルド・ラング・サイン」です。

もともとスコットランド語は全く英語とは別の言語で、英語に訳すならold long since、つまり
times gone by、日本語なら「過ぎ去った日々」という意味でしょうか。

この曲に合わせて海軍の伝統、「帽振れ」が始まります。


 

兵たちと将官たち、いずれも様々な想いと覚悟を胸に・・・・・・。



皆が帽振れできるわけではありません。
機関部でかまたきをしている者たちは勿論、砲兵たちも持ち場からの出航です。
髭の砲員が外を見ようとぴょんぴょんはねているのが切ない・・・。




ワンコーラス終わったところで、なんと源太郎くん、トランペットでソロを取らせてもらっています。
指がちゃんと譜面どおりに動いているんですねこれが。



それからたとえばこのシーン。
沖田くん、なんと話をしながら、つまり演技しながら、しかもカメラ切り替えなしで
ハンモックのネッチングをするするとやってのけているのです。

沖田浩之という俳優について私はほとんど認識も興味も無かったので、自殺してしまったとき
「仕事がなかったのだろうか・・・・」
くらいの感慨しか持ちませんでしたが、この映画で見せる演技に対する姿勢の細部に、
真面目で誠実そうなものを感じ、あらためてその死を悼む気持ちになりました。

人物的にも育ちがよく聡明な趣味人だったと言いますから、芸能界では生き難かったのか・・。
いずれにしても、生きていたら今頃いい俳優になっていたかもしれず、残念です。

出ていく艦を沿岸や、屋根の上に登って見送る佐世保の人々。



紋付き袴で大日章旗を打ち振る髭の老人。
ああ、古き良き日本よ・・・(映画製作時の状況を含めいろんな意味で)。

出航後、楽団員は楽器を艦底倉庫に格納させられます。

「諸子が次に演奏をするのは、大日本帝国が勝利し、平和が訪れた日である!」




アニー・ローリー Annie Laurie スコットランド民謡

ああそれなのに、ガッツ石松の「かまたき松田兵曹」は、フルート吹きの軍楽兵島田に、
自分たちのギンバイ宴会への出張演奏をこっそり命じます。
この皆に狙われる可愛い軍楽兵がフルート吹きであるということにご注意ください。
管楽器の中でも特に女性的で繊細な雰囲気を持つ、彼にピッタリの楽器ですね。

しんみりと聞き入る機関部の兵隊たちと、どこで嗅ぎつけたのか隅っこで
島田をガン見している鉄砲屋、ジャクりオオカミこと大上一曹(佐藤浩市)

嫉妬のあまり、これを上に言いつけます。
甲板整列で罰直を食らいそうになり震えている島田を庇って、源太郎が一言。

「いままで楽器は兵器だと教わってきたのに、

なぜ戦闘時にその兵器を使用できないのですか!
わたしにはその理由が判りません!」

それを聞いて軍楽士、隊長である伊東さん。




同じ音楽家としてそれは分かる。
分かるが軍人としては「軍規違反だ!」と罰を与えざるを得ない、辛いところです。

こうしている間にも艦は海上を進みます。
バルチック艦隊はマラッカ海峡を通過しました。
総員、火の出るような訓練に励む毎日。
軍楽兵たちは、負傷者の運搬などの訓練もします。



なんと、この時代にもトリアージが!



艦尾で語り合う東郷と秋山参謀。
ちょっと、これ「みかさ」ってひらかなで・・・・。orz
因みにこのデッキ部分は、床が鉄格子のような網状になっていて、
「ピンヒールの方はご遠慮ください」な材質でした。
本物を使うのはいいんだけど、全く無風状態に見えるというのもいかがなものか。

バルチック艦隊がいよいよ沖縄沖を通過し、艦内には異様な雰囲気が流れます。

酒保は解禁され、飲み放題喰い放題。
皆、遺髪を切ったり、遺書を書いたりして準備をし、あるものは
「ネズミ大明神様」に、戦死か否かのお伺いを立てたりします。

兵隊たちの他力本願は、しばしばこういう「神頼み」となって現れました。
もっとも、どんなに努力しても死ぬ時は死ぬし、生き残るのは運でしかないのですが。
大東亜戦争時の飛行隊では兵の間で「コックリさん」が大流行していたそうです。

彼らの中のすくなくない人数は、黄海の海戦を経験しており、どんな修羅場になるのかを
知り尽くしていたようです。
この映画の砲員配置のなかでも、ジャクりの大上兵曹は黄海海戦の生き残りという設定です。

島田と共に罰直を受けてから、源太郎は東郷司令に直訴します。

「軍楽兵は音楽の演奏が戦闘です!
どうか最後に、わたしたちに演奏をさせてください!」

黙って通り過ぎた長官が、軍楽隊に「最後の慰安演奏会」を命じたのはその夜のことでした。


次回に続く。