ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

スコシ・タイガープログラム F-5EタイガーII〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-01-30 | 航空機

今のところ閉館していて再開の予定が立っていないらしい
フライング・レザーネック海兵隊航空博物館ですが、
かつては、来館者に海兵隊航空への理解と協力を求めるための
いろんなイベントを開催していたものです。

オープン・コクピット・デイとは、その日決められた航空機に
乗り込んで、コクピットに座ることができるという企画のことです。


2013年から2019年まで続けられてきたのは、
「パイロットとピクニック」Picnic With a Pilotという企画。

海兵隊のヴェテランパイロットを囲んで現役時代の
体験や自慢話などをうかがうチャンスです。
たとえば2019年8月24日にお話を伺ったというアコスタ中佐は、
TOPGUNを卒業し、FAー18のインストラクターパイロットで、
最終的には海軍長官事務補佐官まで行ったという人です。



同じ話をするとしても、こういうギャラリーなら
やっぱり、おじさんとしてはいつもより張り切ってしまう感じ?

「パイロットとピクニック」企画は、毎週土曜日に行われていたようですが、
今は博物館そのものが閉館しているので残念です。

さて、今日ご紹介するタイガーIIは、
オープン・コクピット・デイが最後に行われたらしく、
コクピットに上がるための台が、いまだに設置されています。


 ■ノースロップ F-5E タイガーII


Fー5EタイガーIIは、 軽量・多目的戦闘機という位置づけで、
1950年代後半にノースロップ社によって設計された
F-5超音速軽戦闘機ファミリーのひとつです。

タイガーIIと呼ばれるのはアップデート型のF-5のEとFで、
F-5のAとBは「フリーダムファイター」Freedom Fighterという、
タイガーとは何の関連性もない名前で呼ばれていました。

同時代の戦闘機にはマクドネル・ダグラス社のF-4ファントムIIがありましたが、
こちらと比べてFー5シリーズは小型でシンプルなため、
調達・運用コストが低く、輸出機として生産が行われました。

1970年、アメリカの同盟国に低コストの戦闘機を提供するための
国際戦闘機コンペティションで優勝したノースロップが、
1972年に導入したのが、第2世代のF-5EタイガーIIということになります。

もともとノースロップは、第二次世界大戦時代の護衛空母に乗せるため、
F-5を開発していたのに、海軍がそれらを引退させてしまったうえ、
アメリカ空軍は軽戦闘機というものを戦略上必要としなかったため、
製品の行き場を海外の販路に求めたという事情もありました。

その後タイガーIIを導入した国は、南ベトナム、タイ、イラン、エチオピア、
サウジアラビア、ヨルダン、大韓民国、リビア(王政時代)、モロッコ
で、
カナダはライセンス生産を行っていました。

冷戦中の1972年までに同盟国のために800機もの機体が生産されています。

【計画と生産】

1953年、NATO(北大西洋条約機構)は、通常兵器以外に核兵器も搭載でき、
さらに荒れた飛行場でも運用できる軽量の戦術戦闘機を必要としていました。

そこでノースロップ社のチームはヨーロッパとアジアを視察して、
各国のニーズについて調査を行ったのですが、その結果、
どこも高価なジェット機を数年ごとに買い換えることはできないと判断し、
10年以上の使用に耐える機体を目指すことにしました。

持ちがいいというよりは、長期間にわたって
アップデートできる技術が導入された機体です。

その結果、設計チームは、性能と低コストのメンテナンスを重視し、
コンパクトで高推力のゼネラル・エレクトリック社製J85エンジン2基を搭載した
小型で空力に優れた戦闘機を開発しました。



F-5Aは、主に日中の制空任務を目的として設計されていますが、
地上攻撃のプラットフォームとしても機能する機体として、
1960年代初頭に就役しました。

冷戦時代には、米国の同盟国のために1972年までに800機以上が生産されました。
アメリカ空軍は軽戦闘機を必要としていませんでしたが、
F-5AをベースにしたノースロップT-38タロン練習機を約1,200機調達しました。



このアップグレードでは、より強力なエンジン、より大きな燃料容量、
翼面積の拡大と前縁延長による旋回率の向上、オプションの空対空給油、
空対空レーダーを含むアビオニクスの改良などが行われました。

主にアメリカの同盟国で使用されていますが、
サポート任務を行うため、F-5N/F型はアメリカ海軍とアメリカ海兵隊で
アグレッサー訓練機として運用されています。

【プロジェクト・スパローホーク】

F-5からは偵察専用のRF-5タイガーアイ🐯👁が派生しました。

また、F-5は一連の設計研究の出発点ともなっています。
YF-17コブラやF/A-18といった海軍戦闘機は、
これが元になって誕生したといっても過言ではありません。

ちなみにコブラはFー16に負けて制式採用されませんでしたが、
実用化作業を施されてF/A-18になりました。


YF-17コブラ


F/Aー18ホーネット

ノースロップF-20タイガーシャークは、F-5Eの後継機として開発された
先進的な機体でしたが、最終的には輸出先が決まらず中止されました。

1964年、アメリカ空軍はプロジェクト・スパローホークを立ち上げました。
これは、軽攻撃機であるグラマンA-6A、ダグラスA-4、ノースロップF-5A
戦術的な任務環境で評価するというプロジェクトです。

テストの目的は、これらの航空機の近接航空支援能力を判断することでした。

結果から言うと、このプロジェクトでF-5Aフリーダムファイター
有能な戦闘爆撃機であることが証明されたわけですが、
国防長官は南ベトナム空軍にジェット機を供給することにあまり熱心ではなく、
しかも残念なことに、このときF-5Aは1機、模擬空戦中に失われました。

翌月に行われた評価テストはスコシタイガーと呼ばれるものです。

【スコシ・タイガープログラム Sukoshi Tiger Program】

ノースロップF-5A/Bフリーダムファイターは、当初、
軍事援助プログラムを受けている国と、
外国軍売却で航空機を購入する国に納入される予定でしたが、
ベトナムでの消耗が激しく、すぐに入手可能であったため、
空軍は東南アジアで使用するために200機の取得を要請しました。

同機は1965年までにすでに十数カ国の空軍で使用されて輸出に成功していました。

しかし、国防総省が同機の海外販売に熱心に取り組んでいるにもかかわらず、
米空軍はF-5を1機も発注していないと主張する声もありました。

そこでマクナマラ国防長官は、
「スコシ・タイガー」と名付けられたプロジェクトのもと、
東南アジアでF-5の運用評価を行うことを命じたのでした。

ある英語のサイトには、
「プロジェクト名は、日本語の「小虎」に由来している」
と大嘘が書かれていましたが、これは日本人なら誰も間違いだとわかりますね。



1965年、ウィリアムズ空軍基地に12機のF-5Cを搭載した部隊が編成されました。
この機体は、F-5Aにいくつかの改良を加えたもので、
飛行中の燃料補給機能、装甲板の追加、
アビオニクスや搭載兵器の変更などが行われました。

10月22日にウィリアムズを出発した飛行隊は、4日後に
ベトナムのビエンホアに到着し、同日中に最初の戦闘ミッションを行います。
戦闘評価は4ヶ月強の予定で、その後帰国することになっていました。

Sukoshiというのはご想像の通り「少し」で、(もちろん”小さい”ではない)
littleというところをわざわざ日本語にすることで、
「アジア」を強調したものと考えられます。

ベトナムに持っていくのになんで日本語なんだ?という気がしますが、
まあ、彼らにとって日本もベトナムもアジアだし、
みたいな大雑把な認識を持っていたことの現れかもしれません。

それにアメリカ航空隊というのは、第二次世界大戦中から
「サラ-マル」(空母サラトガのあだ名)とか「チョットマッテ号」
(アメリカ陸軍航空軍第98爆撃群第344爆撃隊に所属したB-29爆撃機)
とか、露悪的に日本語を使って喜ぶ悪い癖があったので、
この「スコシ」もその名残りだったのではないかという気がします。


スコシタイガーでの給油テスト中

この評価でF-5は、1966年1月1日からダナンに派遣され、
前線基地での活動や北ベトナムでの任務を経験することになっていました。

計画はいくつかの段階に分かれており、

第1段階ではビエンホアから遠くない目標を攻撃し、
第2段階では部隊をダナン飛行場に移動させて地元の目標を攻撃し、
第3段階ではビエンホア飛行場に戻って集中的な作戦を行うこと、


となっていました。

スコシ・タイガー評価は1966年3月9日に終了しました。
その期間飛行隊はビエンホアから2,093回、ダナンから571回の出撃、
合計3,116時間の戦闘飛行を行いました。

評価期間中に失われた機体は1機のみで、技術的な問題から16機が損傷し、
42回の出撃が中止されました。
しかし、 評価は成功したとみなされています。

折しもプロジェクト終了時に米国の戦力増強が承認されたばかりであったため、
F-5部隊はそのまま南ベトナムに留まることが決定され、
そのまま共和国空軍に引き渡されて、
ベトナム人飛行士と整備士の訓練が開始されました。

戦闘評価は33名のチームで行われ、性能、武器運搬精度、
整備性、信頼性、操縦性、生存性、脆弱性などが、
現地のF-4、F-100スーパーセイバー、F-104スターファイターとの
比較データとして提出されました。

その結果、F-5はフル装備で560発の20mm砲を2門、汎用爆弾を2個、
ナパームキャニスターを2個搭載した場合の平均航続距離は120海里と
他の戦闘機に比べ、航続距離が短く耐久性に欠ける
という欠点が明らかになりました。

この不足を解消するために、給油機による支援が行われることになりました。
写真はそれを解消するための空中給油の様子です。

その他の細かい問題点はあっても、メンテナンスが非常に簡単で、
エンジンの交換もわずかな時間で済み、小型であるために
戦闘でのダメージも小さいうえ、搭載能力に優れ、
F-5はFACの地上攻撃機として人気を博し、最終的には
VNAF(ベトナム空軍)にも大量に供給されることになったのです。

そして1967年以降、同機はVNAFの最も強力な武器となったのでした。

【運用】



タイガーIIは、空爆と地上攻撃の両方の任務をこなすことができるため、
幅広い役割を果たしており、ベトナム戦争でも多く使用されました。
1987年に生産が終了するまで、タイガーIIは1,400機が生産されています。

F-5N/Fのバリエーションは、その後もアメリカ海軍とアメリカ海兵隊で
アグレッサーとして使用されており、
2014年時点でまだ約500機がバリバリに就役しています。

【FLAMのF-5EタイガーII】

ここに展示されているF-5EタイガーIIは、
ノースロップ社がカリフォルニア州ホーソーンで製造した輸出用戦闘機で、
当初は南ベトナムに納入される予定でしたが、
南ベトナムが崩壊したので輸出の話はなくなり、国内配備になりました。

シリアルナンバーは74-01564で、
1976年にT-38Aタロンからのアップグレードに伴い、
まず、ネリス空軍の第57戦闘機兵器航空団に送られました。

F-5Eは、ソ連のMiG-21とほぼ同じ大きさと性能を持っていたため、
アグレッサーとなって敵対的な戦術を教えたり、
米空軍飛行隊にDACT(Dissimilar Air Combat Training)として使われました。

第57飛行隊は最終的に第64アグレッサー飛行隊となり、
当機は部隊指揮官の飛行機として活躍しています。

その後、米海軍に移管され、ネバダ州ファロンにある
打撃戦闘機群127飛行隊(VFA-127)の「デザート・ボギーズ」に送られ、
海軍飛行隊にアドバーザリー訓練を提供しました。
そして1996年、VFA-127が解体されるまでそこに所属し、
その後VFC-13戦闘機隊の「セイント」に移されます。

聖人って・・。

「セイント」は、海軍戦闘機兵器学校(TOPGUN)がファロンに移転した際、
NASファロンでのアドバーザリー訓練の役割を担いました。

2007年、この機体はフロリダ州セントオーガスティンにある
ノースロップ社のメンテナンス施設に送られました。
海軍がスイス空軍のF-5Nを購入した際に、本機の退役が決定され、
海軍籍から外されました。

■スイスから「輸入」されるタイガーII



これはどういうことかと思って調べてみたのですが、
米海軍がスイス空軍から取得したF-5E 16機とF-5F 6機を改造し
取得して、仮想敵の高高度・高速の戦術戦闘機として運用したということです。

F-5はここでも書いたように長年その役割を担ってきましたが、
最新の安全システム、航空電子機器、共通の戦術的能力がなかったので、
最近スイス空軍から取得した16機のF-5Eと6機のF-5Fを改造し、
アップグレードをして運用しようということのようです。

2020年から、米軍はスイスから22機のF-5E/Fを取得し、
現在就航している43機を補完し、場合によっては置き換えていっています。

PMA-226のアドバーザリー部隊チームリーダーであるフォーサイス氏は、

「このパンデミック下、1970年代の機体に21世紀の技術を統合するのは
技術、スケジュール、管理にかなりの問題があったにも関わらず、
パートナー、艦隊、PMA-226チームとの建設的な協力が任務を成功に導いた」

と述べているそうです。

アップグレード改造を受けるF-5機は、
F-5N+/F+
と命名される予定です。

空対地警告、悪天候対策、燃料レベル警告などの必要な計器類を追加することで、
パイロットや機体を失う潜在的なリスクを低減するのが目的で、
このアップグレードはまた、「友軍」の空対空訓練を改善するため、
戦術的な機能が追加されたものとなっています。


特筆すべきは、Tiger IIがアドバーザリーの役割に理想的で、
安価に運用でき、保守が簡単で複雑なシステムがないことです。

しかし、現在の状態では、現実的には
MiG-21「フィッシュベッド」(MiG -21のNATOコードネーム)
程度の「脅威の再現」しかできないことがわかっており、
今、信頼できる対抗手段を現実として導入するために近代化が切実に必要なのです。



続く。





最後のスカイホーク製造番号2960のペイントの謎〜フライングレザーネック航空博物館

2022-01-28 | 航空機

なぜかスカイホークだけが3機もあるここフライングレザーネックですが、
前回ご紹介した練習機、TA-4Fは、この横の航空基地で
訓練飛行の際に事故を起こし、修復が不可能とわかったので
そのまま運んできて展示するという特殊な経緯だったことがわかりました。

そして3機目のスカイホークですが、これも博物館にとって好都合なことに、
前者2機とバージョンが違い、塗装もご覧の通り全く別物です。

■スカイホークA-4M II


A-4MIIは、スカイホークシリーズの最後のバージョンとして製造されました。
つまり最終形というわけです。
名機と言われたスカイホークの最終形だけあって、
A-4MスカイホークIIは、明らかに最も高性能な機体となりました。

もともとスカイホークは、あのジェット機時代には、
アメリカ海軍の輸出機として最も人気のある機種であることは証明済みでした。

サイズが小さかったので、第二次世界大戦時代に就役した
古くて小型の空母でも、取り回しが可能だったからです。


その結果、1979年までの27年間の長きにわたり、
2960機もがあらゆるバージョンで生産されることになりました。

そのミッションはこのようなものです。

「攻撃的な航空支援、武装偵察、防空を
海兵隊遠征軍のために提供する」

A-4Mは近接航空支援プラットフォームの要件を満たすため、
アメリカ海兵隊に特別に製造された最後の機体と言ってもいいでしょう。

元々近接航空支援そのものは、空軍力の任務としては古典的であるがゆえに
航空優勢の獲得が航空戦の第一議となってくると重要性は低下していました。

しかし、アメリカ海兵隊の海兵隊航空団は、伝統的に
近接航空支援任務を重視しており、研究を重ねていたのです。

というのも、海兵隊の主任務の一つが地上部隊の支援であったからですが、
この結果として開発された攻撃法の1つが、急降下爆撃だったというくらいです。


さて、その要件を満たす機体に搭載された
推力11,200ポンドのプラット&ホイットニーJ52-P408エンジンは、
従来のものよりも20%は強力なものとなりました。

また、視認性を向上させた大型のフロントガラスとキャノピー
視覚的な爆撃精度を上げるためのアングルレート・ボミングシステム
(ARBS、角度速度爆撃システム)
を搭載しています。

このARBSは元々海兵隊の攻撃機のために特に設計されたシステムで、
無誘導武器を使用して近距離支援活動を行う際に、
昼夜を問わず爆撃の精度を向上させることが目的でした。
これは通常外部か機首に取り付けられています。

また、共通の光学システムを使用した自動レーザー追尾システム
パイロット制御の追尾テレビも搭載されているので、
パイロットはARBSを使ってテレビの画面で地上目標を確認し、追尾装置をロック。

するとトラッカーがレーザーで照射されたターゲットに自動的にロックオンします。
パイロットはその後表示される指示に従うだけ、という簡単機能。

もうここまできたら、あとはコンピュータがダイブの角度と、
トラッカーの角度の許容範囲内の組み合わせを検出し、
勝手に爆弾を発射して攻撃までしてくれるというわけです。
It's so easy!


展示機のノーズチップをご覧ください。
このブルーに見えるクリアカバーの後ろにマウントされているのがARBSです。

この世界ではずいぶんと早くからAI(といっていいのかどうかわかりませんが)が
人間の代わりを務めてきたようですね。

これによって、戦闘機パイロットには昔のような「射撃の腕」というものは
全く必要なくなってしまったということになります。

もちろんそれとは別の能力が要求されるようになるので、
パイロットになるのが簡単になったというわけではないと思いますが。

また、この写真でノーズセンサーの両側に、
猫のウィスカーパッド(ヒゲ袋)みたいな形のがありますが、ここには
ALR-45レーダー警告システムのアンテナが設置されています。

1969年、より強力なSAMとAAAが登場したため、
米海軍は、海軍攻撃機用の次世代警告システムAN/ALR-45を開発しました。
AN/ALR-45は、ハイブリッドマイクロサーキットを搭載した
世界初のデジタルシステムです。

1970年から1974年にかけて、AN/ALR-45は導入されました。

機首の下には、ALQ-126デセプションジャマー送受信システム
のアンテナがあります。


また、艦上での着陸距離を短縮するためにドローグパラシュートが搭載されました。
これも当時の先端技術だったようです。

Solo Turk F-16 Drogue parachute landing and he lost a part of it RIAT 2018 AirShow

着陸後に小さなパラシュートが開くのはエアショーでお馴染みですが
なかなか可愛らしい光景でなごみます。
ドラッグシュート(Dragchute)という言い方もあります。

その他改良されたものは、

無煙バーナー缶
角型の垂直尾翼の上に配置された敵味方識別(IFF)アンテナ



ヘッドアップディスプレイ(HUD)などが変更されました。

最初のスカイホークの項で説明しましたが、
もともとA-4は核兵器の軽量運搬プラットフォームとして設計されました。

【運用】

Mighty Mikes「マイティ・マイクス」は
Mud Marines「マッド・マリーンズ」を守るための
究極の近接航空支援兵器として改良されました。

マッド・マリーンズは先日紹介した映画「フライング・レザーネックス」で
説明した通り、海兵隊歩兵を表すのですが、マイティ・マイクスって何?

マイティ・マイクスというとこれしか考えられないんですが。
30 minutes of Mighty Mike 🐶⏲️ // Compilation #8 - Mighty Mike


海兵隊でのA-4の愛称だったんでしょうか。
推測するに、マイティ・マイクスはA-4機体の愛称なんじゃないかしら。


さて、先ほど説明したARBS= Angle Rate Bombing Systemの搭載で、
A-4Mは、間違いなく世界最高の近接航空支援ジェット機となったわけですが、
皮肉なことに、A-4MはA4Aを除くスカイホークの中で
唯一、戦闘に参加していないバージョンとなってしまいました。

なぜなら、A-4Mが初めて就役したのは、ベトナム戦争が収束に向かっていた
1971年であり、湾岸戦争に先立つ1990年2月には第一線を退いていたからです。

というわけで、海兵隊のA-4Mは、その現役期間中、

日本に前方展開して、実現しなかった戦争に備えていた

のでした。(-人-)
まあ、配備されるだけで終わる戦闘機は別にこれだけというわけではないからね。
それをいうなら自衛隊になってからの日本の戦闘機はどうなる。

ちなみに、A-4を運用していた他国軍にイスラエル軍がありますが、
ここは中東のいくつかの紛争があったのでMiG-17を敵として出撃しています。

ただし、中東で実戦に投入されたA-4は、ほとんどがドッグファイトなどより
対空砲(AAA)や地対空ミサイル(SAM)に撃墜されていたようです。

数少ない例の一つとして、エズラ・ドタン大佐が、
A-4のポッド式空対地ロケット弾でMiG-17を1機、
同じくA-4の30ミリ砲で翼を落としてもう1機、計2機を撃墜しています。

しかもEzra Dotanはイスラエル空軍のエース(勝利数5)として、
乗機はミラージュネシェルのエースにカウントされており、
たまたまA-4に乗っていた時に撃墜しただけと認識されているようです。

A-4Mは合計160機が製造されました(うち2機は改良型のA-4F)。

【A-4の終焉】

1979年2月27日、アメリカ海軍がマクドネル・ダグラス社の
A-4M Bureau Number (BuNo) 160264
を受領したことにより、25年間にわたるスカイホークの生産が終了しました。

この間、2,960機のスカイホークがラインから出荷されました。
最後の『スクーター』(A-4の愛称の一つ)を最初に飛ばした飛行隊は
VMA-331バンブルビーでした。


1990年、VMA-211が最後のA-4Mから
AVー8BハリアーIIに移行させていきました。
そして最後にサービスを終えたのは1994年のことでした。

HPによると、ここにあるのはその最後の機体160264なのだそうです。
さらに、最後に生産された2960機の、さらに一番最後の機体です。

その証拠、2960の数字が書かれている

最後に受領したのはNASレムーアのVA-23ブラックナイトで、1967年でした。
パッチに書かれているATKRONは前にも説明したことがありますが、
Attack Squadronからできた造語で「攻撃飛行中隊」を表します。



メリーランド州のNAS Patuxent Riverにある海軍航空試験センター(NATC)
カリフォルニア州のNAWCチャイナレイクにある
VX-5ヴァンパイアズにも所属して、ミサイルテストに参加していましたが、
その後海兵隊に返還され、海軍と海兵隊を行き来し、
NASメンフィスにあるVMA-124ウィストリング・デス Whistling Death
での所属を最後に引退しました。


ところで、HPには、間違いなくこの機体と同じ写真と共に、

「このジェット機は現在、MCASミラマーのVMA-124の
最後のカラーを身にまとっています」


と書かれているのですが、VMA-124の塗装はこれなんです。


「ブルーエンジェルス」としっかり書いてある現地の機体を
さすがのわたしも見間違えようがないのですが、ただしこのペイント、
記憶にあるブルーエンジェルスのそれとは全く違います。

なのにどうしてこう既視感があるんだろう、と考えてみたら、
これ、ブルー・インパルスに似てませんか?


機体には国旗が。
右からトルコ、ニュージーランド、クェート、アメリカ、イスラエル、
オーストラリア、青と白のはたぶんアルゼンチン。

この国旗の配列と、「ネイビー/マリーンズ」というペイント、
ブルーエンジェルスのマークを見てわたしははたと合点がいきました。

おそらく、この塗装はアメリカ軍の「どこにもない」オリジナルで、
FLAMが考えたところのA-4の歴史をあらわしているのでは
と。
その結果たまたまブルーインパルス に似てしまったのではないでしょうか。

国旗はA-4を採用した国全てを表し、
使用したのは海軍と海兵隊、ブルーエンジェルスの機体にも使われたことがある。

そういうことなんじゃないかな。
みなさまどうお思いになります?

しかし、それならそうとどこかに一言説明しておいてくれないと、って気がします。


今気がついたのですが、ここの入り口の看板には
このスカイホークが同じペイントのまま描かれていました。
オリジナルの塗装を施し、実際に飛ばすこともあったようです。



スカイホークの生産が1979年に終了した当時、
27年間にわたる生産期間はアメリカの戦術機の中で最長でした。


続く。



マングースとスーパーフォックス TA-4Jスカイホーク〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-01-26 | 航空機

FLAMにはA-4スカイホークが3機あります。
前回、A-4Fという最初のバージョンをご紹介したわけですが、
現地では少なくとも形に少しの違いも見分けることができませんでした。

そして今日ご紹介するスカイホークには頭に「T」が付いています。
それはこれが訓練機であることを表しています。

しかし、アメリカ軍の軍用機に詳しい人なら、
この機体を見ただけでこれが訓練用だとわかるのだそうです。
そのポイントはペイント。(お、韻を踏んでる)
オレンジと白のマーキングがどうやら訓練機を表しているらしい。


■ マクドネル-ダグラス TA-4Jスカイホーク Skyhawk

【そのミッションと訓練機の色々】

海軍及び海兵隊の学生飛行士のための高度な艦載ベースの
ストライク(打撃)ジェット訓練機です。

今更ですが、ジェット練習機とは、
基本的な飛行訓練や高度な飛行訓練を行うためのジェット機のことです。
通常それは専用に設計されるか、あるいは既存の航空機を改造して作られます。

軍用ジェットエンジン搭載機が導入され、同時に
専用の操縦訓練機が必要となりました。

1940年代、つまり最初の訓練機は、グロスター・メテオ(英)
ロッキード・T-33などの既存の設計に手を加えたものでしたが、
その後、エアロL-29デルフィンBACジェット・プロボスト(英)など、
最初から訓練機として設計されたものが登場しました。


ロッキード T-33

一般的に軍航空の訓練では、基礎訓練にピストン機やターボプロップ機を使い、
訓練が段階的に進むと、ジェット練習機の過程に入ります。

しかし、アメリカでは、セスナT-37ツィートのようなジェット練習機が、
訓練の初期段階にも使われるようになってきました。

さらに、イギリスでは、戦闘機や攻撃機のパイロットに選ばれたパイロットは、
フォーランド・ナット(Folland Gnat)のような、高度な訓練機を使いました。

RAF飛行訓練学校の訓練機フォーランド・ナット

アメリカ軍の練習機としては以下のようなものがあります。

ロッキードT2V シースター Sea Star(退役)
テムコTTピントPinto(退役)
マクドネル・ダグラスのT-45ゴスホークGoshawk(現役)
ノースアメリカンのT-2バックアイBuckeye(現役)
ノースロップT-38タロンTalon(現役)



T-38タロン

ちなみに我が自衛隊では、1962年からなんと2006年までの長きにわたり、
富士重工のT-1を使用してきました。


T-1

その後置き換えられたのは1975年から2006年までのT-2で、
生産は三菱重工業です。


T-2

現段階での空自での訓練パイロットの中等練習機は、
川崎重工のT-4であるのは皆様ご存知の通り。


T-4(ドルフィン)
TA-4J Skyhawk Documentary

【TA-4Jスカイホークのヒストリー】

1965年、スカイホークの最初のタンデム(縦列)二人乗り、
デュアルコントロールのトレーナー(訓練)バージョンが海軍用に開発されました。

その際、胴体は2フィート4インチ延長され、それに対し
胴体の燃料タンクは100ガロンの大きさにまで縮小されています。

T-4には、訓練機ではない方のA-4Fに利用可能であれば、
あらゆる種類の武器を搭載するだけの能力がありました。


【計器飛行訓練機】

A-4スカイホークの訓練機バージョンTA-4Jは二人乗りで、
T-9Jクーガーに代わって訓練の役割を担うようになりました。

そしてその後T-45ゴスホークに取って代わられるまでの数十年間、
白とオレンジのマーキングを施した上級ジェット練習機として活躍しました。

さらにTA-4Jは、すべての海軍マスタージェット基地で、
計器訓練RAGに割り当てられました。

RAGって何かしら、とアメリカ人でも思うと思うのですが、
ここには全く説明がありません。

RAGとは、
「Replacement Air Groups」
とかつて呼ばれていた海軍と海兵隊の部隊のことで、
現在はFRS「Fleet Replacement Squadron」ですが、
「RAG」という呼称はそのまま残っており、普通に使われています。

FRSは飛行士、飛行士官(NFO)、および下士官の乗組員を、
彼らが飛行を割り当てられた特定の最前線の航空機で訓練する部隊です。

リプレースメント(代替)・パイロット
リプレースメント(代替)兵器システム士官

は、

(カテゴリーI)新たにウィングマークを取得した飛行士
(カテゴリーII)航空機を別のタイプに変更する飛行士
(カテゴリーIII)空白期間を経てコックピットに戻る飛行士


のことをいいます。

訓練を終えた卒業生は、艦隊飛行隊に配属されます。
また、FRSは航空機の整備士を育成し、飛行隊の減少に備えて代替機を提供し、
整備と航空機の運用を標準化する役割を担っています。

回り道をしましたが、TA-4Jは、この部隊における
計器飛行の訓練機として使用されていたということです。


また、TA-4Jは、海軍航空隊がまだ多くのプロペラ機を保有していた時期に、
ジェット機への移行のための訓練に利用されましたし、また、
海軍航空隊員の年次計器訓練、チェックライドに使われていました。

年次訓練というのは、現役を降りたあとのパイロットが
技量維持のために行う飛行訓練のことです。
英語では「チェックライド」と呼んでいるようです。


計器飛行というのは、前にも説明したことがありますが、
視界が天候等で不良となっても、目視なしで計器を頼りに操縦を行うことです。

もちろん平常の操縦では行われることはありませんが、
(それどころか、航空法によって有視界飛行が可能な場合は禁止されている)
どんなコンピュータ搭載の最新艦の乗組員でも、天測を行い、
海図に定規で線が引けるように、いざというときに備えて行われる
マニュアルモードでの訓練と考えていただくといいかと思います。

この事態は通常気象条件により起こってきますが、
これも航空法によって決められたところによると、
この条件が揃った状態のことを、

計器気象状態
 Instrument Meteorological Conditions ;
IMC

と称します。

計器飛行訓練に割り当てられたTA-4Jは、
外界の情報を遮断するために、フードが折りたためるようになっていました。

INSTRUMENT FLIGHT IN THE T-38A TALON TRAINING AIRCRAFT U.S. AIR FORCE FILM 84344

このアメリカ空軍編纂の計器飛行訓練の映像は、Tー38タロンで行われております。
7:30くらいから乗り込んで、8:30にキャノピーを下ろしますが、
後ろの訓練パイロットだけが、その後ゴソゴソと(笑)
手動でフードを引っ張って外界を遮断しています。

その後、

計器に従って離陸が行われ、(10:00~)
高度の維持、コースの入力に続いて、アプローチ(22:00~)
タッチダウン寸前からの再離陸(25:00~)
マニュアルモードに切り替えての着陸

と全てが一本で見られます。
なんか、見てるだけなら簡単で誰にでもできそうに思えますが、
ここに来ることができる時点で一握りの「エリート」なんだろうなあ。

ちなみにアメリカ海兵隊の計器飛行が行える部隊は、

VF-126(カリフォルニア州NASミラマー)
VA-127(ネバダ州NASファロン)
VF-43(バージニア州NASオセアナ)
VA-45(フロリダ州NASセシルフィールド、後にキーウェストに移転)

でした。

  【アドバーザリー(アグレッサー)】

さらに、単座のA-4スカイホークが世界各地の飛行隊(VC)に割り当てられ、
そこで訓練などに使用されました。

1969年にあの海軍戦闘機兵器学校(TOPGUN)が設立されます。
空戦機動(ACM)訓練が新たに重視されるようになったことで、
A-4スカイホークが機器RAG部隊とマスタージェット基地の複合飛行隊、
両方で利用できるようになりました。

軽快なA-4は、TOPGUNが好んで「MiG-17役」として使用します。

F-4ファントムももう誕生していましたが、
こちらはまだ戦闘機としての能力を最大限に発揮し始めたばかりで、
小型の北ベトナムのMiG-17やMiG-21相手には
期待したほどの性能を発揮できなかったのが正直なところでした。

TOPGUNでは、改造したA-4E/Fを使って行う、
異種格闘技戦訓練(DACT)を導入しました。

「マングース」(Mongoose)と呼ばれた改造機は、背骨のハンプ、
20ミリ砲とその弾薬システム、外部の貯蔵庫をなくしており、
スラットは固定されていました。

USN F-14A Tomcats vs. A-4 "Mongoose" & F-16N Air Combat Training

このビデオで0:14に映るのが改造されたA-4「マングース」です。
(マングースのスペルがMongooseだと初めて知ったわたし)

トムキャットは何の因果か、マングースとF-16を同時に相手にしている模様。

スカイホークは小型で、よく訓練された飛行士の手にかかれば
低速での優れた操縦性を発揮するため、艦隊乗組の飛行士に
DACTの細かいポイントを教えるのに理想的な機体だったと言われています。

中隊はやがて、アドバーザリー訓練という主要な役割に移行したことを示す、
鮮やかな「脅威タイプ」の塗装を施すようになりました。
(航空自衛隊でもアグレッサー部隊の塗装は派手でしたよね)

これらの訓練をより効果的に行うために、単座のA-4Eなどが導入されましたが、
「究極のスカイホーク」は、改良型のJ52-P-408エンジンを搭載した
「スーパーフォックス」SuperFox Agressorだったとされます。


画像はハセガワさんにお借りしております


ファロン基地のアドバーザリー部隊

この機種は、1974年のUSS「ハンコック」最終巡航時に艦載されたもので、
また、1973年にブルーエンジェルスが選択した機種でもあります。


旧USMCスカイホークが余ってきたこともあって、
A-4MバージョンはVF-126とTOPGUNの両方で使用されることになりました。

A-4は、F-5E、F-21(Kfir)、F-16、F/A-18によって
アドバーザリーの役割が強化されたにもかかわらず、
1993年にVF-43が退役し、その後まもなくVFC-12が退役するまで、
「仮想敵国の脅威の代用」機の役を果たし続けました。

2003年、スカイホークは退役、最後に運用したのはVC-8でした。

A-4Mをアドバーザリーの役割で運用していた部隊は他にもあります。
テキサス州ダラスにある海軍航空予備軍の
オペレーション・メンテナンス・デタッチメント(OMD)です。

ここに配備された4機のジェット機を操縦した飛行士の多くは、
空軍基地の司令官を含めてNASダラスに所属していました。

そしてF-4ファントムIIや後にグラマンF-14トムキャットの
仮想敵機としてその訓練と開発に貢献しました。

その他の任務は、カリフォルニア州ミラマー、
ネバダ州ファロンへの目標曳航などです。

それにしても、アグレッサーとなってから「究極の機体」が登場するとは、
何とも息の長い名機だったんだなと感嘆せずにはいられません。

【FLAMのTA-4J】

機体ナンバー158467は、地中海のNAS基地に展開していた
VT-7が海軍の学生パイロットの訓練に運用していた機体です。

1992年、MCASエルトロでクロスカントリー訓練を行っていたところ、
離陸事故が発生しましたが、学生とインストラクターに怪我はありませんでした。

機体はその後経済的に修理が不可能であると判断されたため、
1995年5月にこの博物館に運ばれて展示されています。

海兵隊の航空事故履歴を当たってみましたが、
事故と言えるほどの重大事故ではなかったのか、調べてみたところ、
どこをみてもその日(7月19日)にエルトロでの事故報告はありませんでした。

見た目は特にわたしには事故の形跡は全くわかりませんが、
見る人が見たら、なにか足りない部分があったりするのかもしれません。


続く。


ロフト爆撃とは A-4F スカイホーク〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-01-24 | 航空機

ベトナム戦争時代のヘリコプターを紹介した後は、
戦闘機スカイホークを取り上げることにします。

ここフライングレザーネック航空博物館には、
なぜかスカイホークが少しずつ違うバージョンで3機展示してあります。

■マグドネル・ダグラス A-4 スカイホーク

ダグラス・A-4スカイホークは、1950年代初頭、
アメリカ海軍と海兵隊のために開発された単座亜音速空母対応攻撃機です。
使用年は「1956−1998」となっており、
まるまる40年もの間現役だったということになります。

A-4スカイホークは、ダグラス・エアクラフト・カンパニー、
後のマクドネル・ダグラスによって設計・製造された
デルタ翼のシングルターボジェットエンジン機です。

見た目からスマートなスカイホークは比較的軽量で、
最大離陸重量は11,100kg、最高速度は1,080km/時以上。
5つのハードポイント(武器搭載ポイント)には、さまざまな種類の
ミサイルや爆弾などの弾薬を搭載することができます。

【その任務-核投下のためのマニューバ】


USMCの攻撃任務、それは攻撃的な武装偵察を提供し、
海兵隊遠征隊の防空を行うことです。

軽量でありながら、A-4の爆弾搭載能力は、
第二次世界大戦中のボーイングB-17爆撃機と同等とされ、
低空爆撃システムと「ロフトテクニック」と呼ばれる技術を用いて
核兵器を投下することもできました。

この英語でいうところの「ロフト」なる技術なのですが、
これを表す「デリバリーテクニック」を「運搬技術」と訳すと、
どうしても意味が噛み合わなくなるのに気が付きました。

ロフトはつまりトス・ボミング(Toss Bombing)と同義であり、
これ自体がアメリカ空軍の爆撃方法のことだったのでした。

トス爆撃 / ロフト爆撃 (Loft bombing)は、主に低空を飛行し、
機体を引き起こしつつ、爆弾を進行方向前方へと放り投げる方法を言い、
爆弾投下後、機体はそのまま上昇・反転し、退避します。

この方法の利点は、爆弾を放り投げるため、
投下機は目標に接近することなく、爆撃を行うことができるというもので、
なるほど、これなら核爆弾でも安全に落とせます、というわけですね。

そしてA-4は搭載能力がB-17並で、しかもインメルマンターンで
投下後避退することも可能な機体、ということが言いたいわけです。

Toss Bombing - Delivery Of Atomic Weapons By Light Carrier Aircraft - Execution (1959)

このビデオの3:00すぎから、どうやって核を投下し、
その場から退避するかを図解で説明しています。
後半には実際に爆弾投下をしている実写映像があり。



さらにこれはロフトテクニックの一つ、「オーバーザショルダー」という方法です。

第二次世界大戦の大型爆撃機は、核を落とす時、
(といってもそれが行われたのは合計二回だけだったわけですが)
高高度からほぼ無差別に投下するしかありませんでした。

しかし、この方法を用いると、低空から目的地にピンポイントに投下を行い、
しかも機体に爆発の影響が及ばないうちに速やかに現場離脱することが可能です。

技術上、民間人への無差別攻撃とならざるをえなかった
「広島・長崎」の教訓と反省生かされた、
落とす側にも落とされる側にも優しい、
実に人道的な核投下方法と言えましょう。

(もちろん嫌味です)

【仕様】

A−4のデザインはいわば「シンプル・イズ・ベスト」の好例といえるでしょう。

前縁スラットは重力と空気圧がかかると適切な速度で
自動的にドロップするように設計されており、その仕組みには
モーターはもちろん、パイロットスイッチさえ必要としません。

翼の上のボタンが並んでいるような翼端前面がスラット

前縁スラットとは、主翼の前縁に垂れ下がった「張り出し」のことです。
フラップと連動して下がり、揚力を増やす効果を得るもので、
翼との隙間(スロット)によって大迎え角時の失速を防ぎ、
速度が上がれば格納されます。


構造をここで見ていただきます。

主脚(3本ある脚のうち、前方のもの)が主翼桁を貫通しておらず、
格納した時にホイール自体のみが翼の内側にあり、下部構造支柱は
翼下表面の下のフェアリングに収納されるように取り付けられています。

と文字では分かりにくいので、動画をご覧ください。

DOUGLAS A4 SKYHAWK LIGHT ATTACK AIRCRAFT SALES FILM 80624

フィルム最初に、主脚が格納される寸前までの映像を見ることができます。

この仕様の採用の目的は、強度を変えずに翼構造自体を軽くすることにあります。
また、重い翼の折り畳み機構をなくすことによって、
多大な重量の節約を実現することができるようになったという意味で
画期的だったといわれています。


エンジンは、当初ライト社製のJ65ターボジェットエンジンでしたが、
A-4E以降はプラット&ホイットニー社製のJ52エンジンを採用しています。

先ほどのA-4のビデオの4:10から見ていただくと、
エンジンが内蔵されている位置を赤でわかりやすく教えてくれます。

【A-4F バージョンノート】

A-4Fからのアップグレードには、1,300ポンド以上の推力を備えた
Jー52ーPー8Aターボジェットが含まれます。

着陸後の走行距離を最大1000フィート短縮するために、
翼には新しいリフトスポイラーが追加されました。

その他の変更点は、ゼロゼロ射出座席(A zero-zero ejection seat
速度0、高度0でも、射出座席装置による機体からの脱出が可能)、
パイロットを保護するための機体への防弾、防空砲素材、
そしてコクピット後方にフェアリングハンプが追加されました。

フェアリング・ハンプ。コクピット後方が山なりに出っ張っている

この「コブ」の中には電子機器やアビオニクスが収納されており、
これらについても最新式のものに改良されています。

zerozero射出といえば、当博物館の室内展示を出る直前に、
このようなものが無造作に置いてあったのですが、
これはまさかそんなものではないですよね?

ゼロゼロ機能は、低高度・低速飛行中や地上での事故の際に、
乗員が回復不能な状態から上方に脱出するために開発されました。

通常、パラシュートは、安全に着地するための一定の高度を必要とします。
そのため、ゼロゼロ機能が導入される前までは、
最低の高度と低速度という条件が揃わなければ脱出できませんでした。

ゼロ(航空機)の高度から脱出しようとすれば、当たり前の話ですが、
シート自身を十分な高度まで持ち上げる必要があります。


初期の座席は、航空機から砲で発射される仕組みと同じものだったため、
座席内に仕込まれた非常に短い「砲身」に必要な衝撃を与えていました。
そうしないとパイロットの人体が押しつぶされてしまうからですが、これでは
どうしても総エネルギー量が制限され、高さを増すことができませんでした。

しかし、ゼロゼロ技術では、小型ロケットでシートを適切な高度まで上昇させ、
小さな爆発でパラシュートのキャノピーを素早く開くため、
パラシュートの開傘に対気速度と高度を必要としません。

まず、レバーが引かれると、シートキャノンがシートを機体から外し、次に
シート下のロケットパックが発射されてシートを高度まで持ち上げます。

ロケットの発射時間はキャノン砲よりも長いため、大きな力は必要ありません。
また、ゼロゼロロケットシートだと、イジェクションの際に
パイロットにかかる力は大幅に軽減し、怪我や脊髄の圧迫を減らすことができます。

もちろん人体への衝撃が全くなくなるわけではいので、
射出による脱出は、ゼロゼロ射席以降でも、パイロットにとって
「それを体験するときはパイロット人生が終わるとき」
というくらいの異常事態であることに何ら変わりはありません。

(とレガシーホーネットの海兵隊パイロット本人から聞いたことがあります)

A-4Fのプロトタイプは1966年に初飛行を行い、
海兵隊へは1967年から始まり、146機が製造されました。

【ベトナム戦争での運用】

A-4Fはベトナムでの使用を最初から目的に設計された最初のスカイホークで、
太平洋沿岸の飛行隊にのみ割り当てられ、大西洋艦隊には配備されませんでした。

ベトナム戦争に投入されるようになると、上空を飛行するパイロットの
主な脅威は、地上からの銃撃と高射砲となりました。

パイロットをこれらの攻撃から保護するために、
コックピットの周りには装甲板が設置され、先ほど書きましたが、
機体全体には耐弾性、耐対空砲性の素材が追加されます。


ベトナム戦争期間中、A-4Fに搭乗した海兵隊航空隊は
VMA-214「ブラックシープ」Blacksheep


VMA-223「ブルドッグ」Bulldogs

VMA-311「トムキャット」Tomcats


予備軍としてはVMA-131「ダイヤモンドバックス」、
VMA-133「ドラゴンズ」、VMA-134「スカイホークス」、
VMA-142「フライングゲイターズ」
もA-4Fに乗っていました。

ちなみに311航空隊のトムキャッツは、2020年の秋に解散しています。
もしやコロナのせいで?と思ったのですがさにあらず、
ハリアーIIを装備していた部隊だったので、一旦解散してから
次にF-35Cに移行し、再就役をする予定だそうです。

F-35というから垂直離着陸型かと思ったら、Cが付くのは艦載機タイプの模様。

ちなみにVTOL、垂直離着陸できるのはB型、
F35-Aは空軍用で一般的な離着陸(CTOL)機。
ABCと順番に来ていますが、F35ーCは空母搭載型、つまり
CはキャリアーのCというわけです。


【FLAMのA-4F】

FLAMののA-4F(BuNo.154204)は、1967年8月に
海軍のVA-23「ブラックナイツ」に受け入れられ、
ヤンキー・ステーションのUSS「タイコンデロガ」(CV13)艦載飛行隊に
代替機として加わるというデヴューを果たしました。

1968年2月、204はヤンキー・ステーションに留まり、
USS「ボノム・リシャール」(CV31)搭載部隊、
VA-93の「ブルー・ブレイザーズ」に移され、
ケサンの戦いで米海兵隊を支援する任務に従事しました。

1968年5月28日、大規模な修理のために日本の厚木基地
FAWPRA(Fleet Air West Repair Facility)に送られ、修理後
NAS厚木の戦闘作戦支援活動(COSA)に移され、再配置されました。

この機体は、USS 「コーラル・シー」(CV 43)乗組、
VA-153の「ブルーテイル・フライズ」 に連れられて、帰ってきました。

戻った後、VA-212「ランパント・ライダーズ」 "Rampant Raiders "
(獰猛な攻撃者という意味?)にすぐさま移され、再び
1969年、USS 「ハンコック」(CV 19)に搭載されてベトナムに戻ることに。

任務を成功させた後、VA-127 「ロイヤルブルーズ」"Royal Blues "に入り、
ここでは戦闘機の代替パイロットのための高度な全天候型ジェット計器の訓練や、
ライトジェット攻撃パイロットのための再教育訓練に使用されました。

ここでの5年間の任務の間、誘導ミサイルのテストを行うために
NAS Pt.MuguのVX-4に一時的に貸し出されています。

そしてまたしてもVA-55「ウォーホース」とともに最後のベトナム派遣で
再びUSS「ハンコック」に搭乗し、あの脱出作戦フリークエント・ウィンド、
イーグル・プル作戦、ブルー・スカイ作戦
に参加しました。

USS「ハンコック」がカリフォルニア州アラメダ海軍基地に戻ると、
204は基地に残り、NASアラメダの航空隊予備軍、
VMA-133(MAG42)「ドラゴンズ」に14年間所属。

1989年海軍予備軍のVFC-13「セインツ」に移管され、
NASミラマーで異種空戦訓練(DACT)を行うアグレッサーとなりました。

この時、アビオニクスの「ハンプ」が取り除かれたので、
展示機には、どこを探しても本項に書いたところの特徴的なコブはありません。

その後1991年に運用を終了し、MCAS エルトロの博物館に展示されています。


続く。





映画「フライング・レザーネック」(太平洋航空作戦)後編

2022-01-22 | 映画

映画「フライング・レザーネックス」邦題「太平洋作戦」後編です。




その夜、カービーとは決定的に対立します。

ベテランに地上攻撃をさせ、補充兵には爆撃機の援護をさせる、
というカービーの作戦にグリフは反発してきたのでした。

ちなみに例によってこの部分の日本語字幕はかなり細部が省略されていますが、
そのせいで彼らの言い合いがよく理解できないので、全文翻訳しておきます。

「これは逆ですよ!交代させてください。
彼ら(ベテランパイロットたち)は疲弊している」

「いや、これでいいんだ。彼らは地上攻撃の経験があるからな。

・・・いや、訂正だ。君を爆撃隊の援護に回してやる。
その代わり補充兵から一人選んで君の代わりにに地上攻撃に入れろ」

グリフは、補充兵の訓練記録がまだ来ていないため、
誰を地上攻撃に回していいかわからない、と命令を突っぱね、

「えーと、やっぱり(補充兵でなく)私が地上掃射に入りますよ」

するとカービーは、激昂して、

「グリフ、わたしの決断に不満ばかりだな。
君は自分では何も決断できない。
部下を指差して『死んでこい』ということができないんだ。

部下の訓練履歴だと?
誰の女たちがどう思うかとか、子供が生まれたことを知ってるかどうかとか、
そんなことばっかり気にしやがって!
自分のことだけ見てろ。他人の事情まで背負い込むな」


要するに、部下思いというより下から嫌われるのが怖くて、
非情な、しかし任務遂行に必要な命令を下すことができないのを責めているのです。

一旦引き下がりかけたグリフですが、テントを出るところでいきなりブチ切れ。

もううんざりだ!もうあんたは信用できない!

私に言わせれば、カメになるのは簡単だ。
あんた自身を人間味ってものから甲羅で隔てればいいさ。

400年前の詩人が私よりうまいことを言ってますよ。
『人は孤島ではない』(人は一人で生きていけない)ってね。
葬儀の鐘がなるのは死んだ人間のためじゃないんです。
それは残されたものが全員で苦しみを共有するためなんだ。

なぜあんたはそれを分かろうとしない。
文句があるなら階級章を外して外に出ろ!


気色ばんで二人が外に出たところ、人がカービーを呼びに来て決闘はお預け。



集められた幹部に告げられたのは、迫りくる日本艦隊の情報でした。
ここで司令は空母のことを「フラットトップ」と言っています。




最初に編隊離脱で叱責された後、反省して頑張っているシモンズにも声かけを。
ちなみに英語ではこの字幕の「命は大事に」の部分は

「死んだヒーローより生きている海兵隊だ」

となっています。



そして出撃。
さっそく零戦部隊と交戦し、1機を失います。





この時の零戦パイロットを演じているのは、
そこそこ活躍した日系人俳優、Ryoichi Rollin Moriyamaです。



そして、彼らは眼前にトーキョー・エクスプレスを発見しました。

ここから航空隊が容赦無く爆破していく艦船のカラー映像などが出てくるのですが、
これはもちろん朝鮮戦争のものではなく、第二次世界大戦のものでしょう。


どこかで見覚えのあるような



海兵隊マーチが高らかに鳴りひびくと、海面の艦隊はほぼ壊滅していました。



この出撃で航空隊はケルヴィンとシモンズを失いました。
「死んだヒーローになるな」という注意はやっぱりフラグとなったのです。



この任務成功により、カービーと部隊は内地帰還が決まりました。

カービーはなぜグリフを隊長に推薦しなかったか語ろうとしますが、
グリフは耳を傾けることも握手も拒み、二人は気まずい別れをします。

ちなみにカービーが右手に持っているのは酒と一緒に海兵隊が奪ってきた
(のをクランシーが盗んできた)日本刀です。

■ 帰国と『次の任務』





場面はいきなり輸送機からアメリカのカービー少佐自宅前。
タクシーで夜中帰着した少佐は、ポストに、妻が自分宛に出した手紙が
差し戻されて返ってきているのを発見しました。



ここで翻訳の間違い発見。



字幕では彼が嫁に「切手代が無駄になった」となっていますが、
実際には「切手はまだ使えるよ」と言っているのです。
(Amazonプライムの日本語版は『もう切手はいらない』となっていて正しい)

画面にアップにされる手紙の切手にはスタンプが押されていません。
つまり、本人が帰国したため、手紙は戦地に行かず戻されてきたというわけです。

もっとも、軍事郵便は無料だったはずなので、どちらにしても
切手にスタンプを押されることはなかったと思いますが。

もう一つおまけに、このとき手紙に貼られていた6セント切手は、
1949年発行で、戦争中はまだ存在していなかったということです。



息子のトミーは寝ていましたが、起こされて父親を見るなり、

「ハロー・メイジャー」
「パパを少佐とよぶのはやめなさい」
「そうだ、もうすぐカーネルとよばなきゃならんからな」


「ルテナント」がつくとはいえ、確かに中佐もカーネルですからね。



父親はベッドで息子にお土産の日本刀を渡し、

「パパが日本軍の将校と一対一の素手で戦って奪ってきたんだ」

嘘はいかんなあ、嘘は。



そしてここからがツッコミの嵐。

将校の刀=真剣を直接子供に与えて持たせることはもちろんですが、
寝室に残された息子が、日本刀を抜身にしてベッドでブンブン振り回し、
刀の上にジャンプして着地し、そのとき手を刀の下に挟んで怪我しないとか。

それから、息子の寝室の壁に貼られた「イエール」「ハーバード」
「C」「W」も謎です。



このとき、妻に心配げにいつ発つのか聞かれて、次の任務はワシントンなので、
ずっと一緒にいられるよ、と自信満々で請け合います。



んが、これはすぐに安請け合いだったとわかりました。
次の日司令部に呼ばれた彼は「新型戦闘機」搭載部隊への就任を告げられるのです。

つまり戦地に逆戻りです。



おまけに偶然なのかわざとなのか、上はまたしても
副隊長に天敵グリフィン大尉を当てがってきたのでした。

「わたしが隊長で大丈夫かい?」

「ハッピーってわけではありませんが、なんとかやれると思います」




カービーが外に出ると、「カウボーイ」と家族、その他メンバーとばったり。

カウボーイは愛想よくカービーを家で飲みませんかと誘い、
妻のバージニアを紹介するのですが、このときカービーは彼女に向かって、

「お久しぶりです」

なんて言っているのです。
はて、カウボーイとはカナルで初めて会ったんじゃなかったっけ。


ここで衝撃的な?シーンを。

カウボーイが抱いている息子のジャック、目に物凄いあざを作っています。
どう見てもメイクで描いた感じではありません。
そもそも父と久しぶりに会った子供にあざができてるという設定なんて変ですよね。


バージニア、つまり彼らの母親に、

「ジルのヘイメーカー(干し草を作る機械・拳)にぶつかったの」

と言わせて、姉が弟を殴ったということにしているのですが、
この濡れ衣はあまりにもお姉ちゃんが可哀想です。

男の子のあざはとても女の子が殴ったようなものには見えません。

これは、撮影直前に子役が怪我をして代役が立てられなかった
(あるいは親がどうしても下ろすのを承知しなかった)ため、
急遽説明くさいセリフを加えたように見えます。

この子供も、元気ならもう70歳は越しているはずですが、
このときの事情を今でも覚えているでしょうか。

このシーンでもう一つ不思議だったのは、
カウボーイがカービーを何度も自宅のパーティに誘ったり、
車の後部座席にはマッケイブ、アーニー、もう一人が乗っていて、
皆カービーにものすごく愛想よく会話をしていることです。

その様子はとても戦地で反発しまくっていた部下たちとは思えません。
いくらあっさりしているアメリカ人でももう少し根に持ちそうなものですが。



カービーが官舎に帰ると、妻は、彼のトランクに名前を書いていました。
昇進したので「中佐」をつけて。



また戦地に行かなくてはならないことをどうやって説明しよう、
と悩んでいたカービーですが、妻は明るく

「知ってたわ。妻同士のネットワークは早いのよ」

そして、あなたのような優秀な人が必要とされるのは仕方ないわ、と言います。
涙を見せずに部屋を出て行った妻ですが、代わりに入ってきた息子が



「ママが泣いてるよ」

うっ・・・・それはつらい。
部下との出会い、妻との絡みも、旧版では全てカットされていて驚きます。


■F4Uコルセア部隊



「新型航空機」とはF4Uコルセアでした。

F4Uがガダルカナルに進出したのは1943年ということで、これは史実です。
映画撮影当時、時代はすでにジェット機へと移りつつありましたが、
ジェット機はまだ木製甲板の空母の使用ができなかったため、
生産は続いており、撮影に借りるのに全く不便がなかったのです。



後半はF4Uが甲板から発進するカラー映像から始まりますが、
おそらくこれも朝鮮戦争時代のフィルムだと思われます。



がダルカナルの航空隊基地の片隅になぜか転がっているのが零戦の残骸。



「カナル」(日本人は省略するとき『ガダル』だがアメリカ人は後半を使う)
に帰ってきたカービーを、出迎えたのは、
なぜか降格されて一兵卒になったクランシーでした。

しかも、今度の配置はMPだというではありませんか。
おそらく「悪行」がバレて懲罰的に降格されついでにMPに行かされたのでしょう。



部隊は早速新任務を与えられました。

苦戦して先遣隊に追いつけない海兵隊部隊の支援です。
日本軍の根拠地をまたしても低空飛行で攻めることになりました。



司令室のプロッティングボードを囲み、
”Roger and out."と言いながらコマを動かしています。

というところでしばらく歩兵が移動するような実写映像が続くのですが、
ガダルカナルというのにヤシの木のジャングルどころか、
背景には草木一本見えない禿山で、どうみてもこれは朝鮮半島



ね?



これはロケのようですが・・。



いかにもアメリカの広野でロケしてるって感じ?


戦死した日本兵のように挿入されていますが、明らかに朝鮮戦争の映像。


その日の夜、(これも別バージョンではカットされていた)
カウボーイが義兄でもあるグリフに神妙な様子で告白します。

戦闘機に乗るたびに恐怖が増していき、拭い去ることができないと。



グリフはこの義理の弟に対し、(あ、ということはバージニアはグリフの妹か)

「雷が同じ場所に2回落ちる確率は、他の場所に落ちる確率と同じだそうだ」

というバルトの法則を持ち出して慰めます。
それってどういう意味なの?



「お前が落ちる確率は、他の奴が落ちる確率と同じってことさ」

つまり滅多にないことだから安心しろと。

カウボーイはそれでもあまり理解できない様子で、
国内の物資不足などを話題にしたかと思うと、グリフに
もしものことがあれば妻と子を頼む、などと気弱なことを言うのでした。

それはそうと、グリフのいう「バルト(Balt)の法則」とやらですが、
本当にこんな法則があるのかどうかは甚だ疑わしいとおもいます。

そもそも、バルトって数学者、実在するの?


さて、低空地上爆撃任務中の航空隊に、艦隊から急遽支援要請が入りました。


艦隊が苦戦していたのは神風特攻隊の迎撃でした。



特攻機が多数襲来して混乱しているので、急遽こちらに来て欲しいというのです。



特攻機搭乗員その1。
前にも見たことあるような日本人が特攻パイロットになっています。



特攻機搭乗員その2。
特攻隊なのに必勝の白鉢巻を締めていないのでアウト。



至急艦隊に向かうと連絡をしたカービーとグリフィンの小隊ですが、
ここでまたもやテキサスが、

「カマカ〜ゼ♪ カマカーゼ♪」
(ラクカラーチャのメロディで。この後は『線路は続くよ何処までも』)

とふざけ出すではありませんか。
カービーが何かいう前に、グリフが撃ち落とすぞ!と叱責します。

ところで、前段のカウボーイの葛藤とグリフに弱音を吐くシーンは、
許し難いことに粗悪版ではカットされて観ることはできません。

こちらのバージョンしか知らないと、カウボーイという男は、最後まで
単なる調子乗りの軽薄な人間で終わってしまうことになるのですが、
完全版を見ていれば、彼が必死で恐怖を克服しようとしているのだとわかります。

ちなみにこの歌の部分は脚本には書かれていません。
俳優のアドリブだと思われます。


テキサスの機は、その直後不調を起こしエンジン出力低下していきました。



離脱したところに零戦が急襲してきます。



この零戦の胴体には「左翼主要タンク」と大きく赤で書いてあります。



追われてテキサスは無線で編隊に助けを求めますが、グリフはこれを拒否します。
艦隊を救出に向かう任務は一刻を争うからです。



見かねたマッケイブ中尉がテキサスの救出に行く、と名乗りを挙げますが、
グリフは断腸の思いで間髪入れず禁止しました。

「黙れ、レッド10!」(マッケイブの機)

つまり、グリフは部下であり義理の弟を見殺しにする決定をしたのです。



超冷静そうな零戦パイロット・・これも森山さんか?





機を離脱しようとしたテキサスは、零戦の銃撃を浴び、脱出する前に
炎上した機体もろとも海に突っ込んで戦死を遂げました。



特攻で炎上する艦隊の上空に着いたカービーの部隊は、そこで特攻機と交戦します。

すでに攻撃が終わっている状態で、まだ現場に
特攻機がうろうろしているとはとても思えないのですが。





交戦中銃弾が無くなったカービーは、なんと特攻機に
自分の機を体当たり(特攻に特攻)させてそれを阻止しようとしました。



「脱出してください!」

当たり前のことを叫ぶグリフ。
言われなくても脱出しますって。

カービーの落下傘は無事開き、彼は駆逐艦に救出されました。



ヒットされたのは艦隊の8隻だけで、沈没には至らずなんとか耐え凌ぎました。
艦隊司令は、

「パンケーキ・オールフライヤーズ」

といい、

「パンケーキ・オール・ファイターズ」

と通信させます。
この「パンケーキ」、映画の最初からちょくちょく耳にするのですが、
これは第二次世界大戦中の軍隊スラングで、正確には

「航空機がちゃんと失速して着陸し、三つの車輪を同時に着地すること」

を意味します。
それから派生して「着陸」という意味で使われたと推測されます。
つまり、司令は、全ての機に着陸を許可したというわけですね。

一つまたどうでもいいことを知ってしまった。



帰投した隊員たちは、自分がどんな艦を攻撃し、それがどうなったかを
興奮気味に語りますが(タガサキ型タグボートという謎ワードあり)。


カウボーイを助けに行くと名乗って拒否されたマッケイブ中尉は、
自分一人がいなくても作戦は成功していたのに、
なぜ助けなかったのかと憤懣やるかたない様子です。



そして、作戦を成功させたカービーには、ついに帰国命令が出ました。



基地を去るカービー中佐の荷物に、お酒を入れておきましたよ、と、
いまや兵隊なのに相変わらずのクランシーです。

「盗んでまへんで。心配せんといてください。
輸送パイロットから買うたんです。
わたしのガラやないんですが、餞別ににちょうど盗んでこれるもんがのうて」

「君の記録の唯一の汚点だが大目にみよう。じゃあな、クランシー」

「お元気で、サー」


この後のセリフは、実は英語では赤字の通りです。


「最悪の指揮官の下で働きましたよ」
字幕*最高の指揮官だった


「こっちも最低のラインチーフを持ったもんだ」
字幕*お前も最高だった

翻訳とは正反対であるのにご注意ください。

心情はどちらも字幕の通りなんでしょうが、そこをあえて
お互いこう言い合うのが「現場の空気」というものなんでしょう。




そして最後に忘れちゃいけない、グリフとの別れです。
輸送機に負傷した腕で乗り込むカービー中佐に駆け寄ってきた彼は、

「隊長にあなたが推薦してくれるとは思いませんでした。
あなたは憎まれ役だと思ってた」


おお、カービー中佐、最後にグリフを推薦していったんですね。



「そのとおり、私は憎まれ役だ。そして君がこれからそうなるんだ。
私だって別に君を好きになったわけでもないよ、グリフ」

と憎まれ口を叩きながらも、こんなことをしみじみと語ります。

「カウボーイのことは残念だったな。あの決断はどれほどつらかったか。

君はこれから毎晩ベッドに向かうとき・・そうだな、
尻ポケットを引きずりながら、ベッドに向かい、横になる。
胸のむかつきを抱えて天井を見上げるんだ。

そして、神に願うんだよ。
明日の攻撃を、全部成功させてください。

でも、次の朝目覚めると思うんだ。大尉にまた戻りたいと。
そしたらもう誰かの命令を聞いてさえいればいいからな。

そして君は機嫌が悪くなり、怒りっぽくなる・・・そうだ、私みたいに。
そして君はいつか今の私のように尻ポケットを引きずって航空機に乗り込み、
国に戻って地上勤務をするだろう。


兄弟、私は君のためになるようなことは何もしてない」


黙ってそれを聞いていたグリフィンは、



「変なこと言っていいですか?(I'm going to say something dizzy.)
もし内地でお会いすることがあったら、
奢りますから、一杯飲んでくれませんか」




「喜んで『乗船』するさ。じゃあな」

「さようなら。
正しいプレーを心がけますよ。いいコーチがいたから」

「そうだな、国での『試合』を楽しみにしてるよ」


前隊長が機内に姿を消した後、輸送機の下に飛んできたのはアーニーでした。



「あなたが隊長で私が副長ですって?」

なんとアーニーが中尉から大尉に進級したってことですか。

シモンズとかジョーゲンセンとかカウボーイとか、
上が軒並みやられてしまったし、マッケイブは反抗的だし、
この際消去法でってこと・・・いやなんでもない。

まあなんだ。おめでとう。

「その通りだ。今すぐ状況報告せよ。全員を集合させるんだ」

「今すぐにですか?」

今後全ての命令は速やかに実行せよ!(キリッ)」




命令される側からする側へ。
「鬼隊長」がひとり誕生した瞬間でした。



日本語訳、しかもあっちこっちカットされた画質の悪いバージョンで見ると
スカスカの作品にしか思えないのですが、アメリカでは評価の高い映画です。

左派監督がブラックリスト入りを免れるために撮った戦争映画は、
ウェインとライアンという天秤の平衡を決して崩すことなく・・、
というか、天秤の片側にウェイン、反対側に監督のレイとライアンが乗って
ちょうど均衡が取れ、いい感じに仕上がったと言う気がします。

そして、なんと言っても完全版を観て初めて評価の対象になった映画でした。

皆様もこの映画を見るときには、決して質の悪い「太平洋作戦」ではなく、必ず
「太平洋航空作戦」と言うタイトルを探して購入されることをお勧めします。


終わり。




映画「フライング・レザーネックス」(太平洋航空作戦) 中編

2022-01-20 | 映画


ジョン・ウェインの海兵隊航空もの、「フライング・レザーネックス」2日めです。

■喪失



負傷兵の輸送のためにPPY(水陸両用機)がやってた夜、
ガダルカナルには大雨が降りました。


空襲がない代わり、海から海軍が派手に艦砲を撃ち込んできます。


昼間来たばかりのPPYは撃破され、非難していた穴に爆弾が直撃して
兄をミッドウェイ で亡くしたマラーキ中尉は即死しました。


晴れわたった翌日の哨戒で、またも犠牲者が出ました。


出撃するなりアーニー・スターク中尉が、
エンジンの不調を訴え、基地への帰投を要請しました。
言下に「ネガティブ!」とそれを拒否するカービー。

しかし、アーニー、度重なる要請を出し、OKを得て離脱しました。
さて、彼の機は本当にエンジンが不調だったのでしょうか。



直後、敵機編隊が現れて交戦になります。

零戦との空戦が終了し、編隊を組みなおそうというときになって、
ジョーゲンセン大尉が、弱った敵機を見つけ、
ニヤリと笑って編隊を離脱し、追いかけていってしまいました。


しかし、ジョーゲンセン機の背後から別の敵機が襲ってきます。



機体が今度こそ炎上し、ベイルアウトしたジョーゲンセンでしたが、
パラシュートで宙吊りになっているところを日本軍に発見され、射殺されました。



帰投した隊員たちが、ジョーゲンセンの身を心配していると、
ラインチーフのクランシーがケーキを運んできました。

「砲兵隊の食堂で出しっぱなしになってたもんで」

「砲兵隊の連中、どこでこんなものを作る材料を手に入れるんだろうな」



そこに、怖い顔をした隊長と副長がやってきました。
ジョーゲンソン大尉の遺体がジャングルで見つかったのです。

「遺体置き場に行け、そしてじっくりとジョーゲンソンを見てこい!
次に単独で勝手に攻撃に行きたくなったら思い出せるように」

みんなは(´・ω・`)として言われた通りにしますが、グリフ副隊長は

「皆思い知ったでしょう。あの言い方はどうかと思いますが」

「残酷だったとでも言いたいのか」

「せっかくクランシーがケーキを差し入れしていたのに・・」

そういう問題か?

カービーもわたしと同じ意見で、同じようなことを言い、
次の瞬間、唐突にシモンズの軍法会議行きを取り消すと宣言しました。

ジョーゲンセンの死が確実になった今、貴重なパイロットを
軍法会議にかけている場合ではない、と言う判断です。
そして、冷酷にも(グリフにとっては)こう言い放つではありませんか。

「ジョーゲンセンの件はシモンズのより良い教訓になったしな」


■ つのる焦燥



カービーはジョーゲンセン亡き後の部隊再編成にとりかかります。

まず、彼のバディだったパッジ・マッケイブ大尉に、
今度はアーニー・スターク中尉と組め、と告知すると、

「嫌いな奴と組むと士気が下がります。
個人的には嫌いでも好きでもないすが、彼、『操縦がが荒い』んで」

アーニーは前回の哨戒でエンジン不調を理由に
途中で帰ってしまった搭乗員です。
カービーはそれを聞いても表情を変えず、あっさりと命令撤回。

「そうか、じゃ取り消しだ」

「え・・何か不味かったっすか」

「いいや、正直に言ってくれてよかった」

そしてその足でアーニーのところへ行くと、

「俺と組め」

「少佐、私の機はエンジンの調子が悪くて・・」

「君がそう言うならそうなんだろうな」



「皆わたしと組むのを嫌がるんです」

「俺と組め」

思い切った様子でカービーを呼び止めたアーニーは、

「少佐・・マッケイブ大尉はエンジンのせいとは思ってないかもしれません」

つまり、自分が臆病風に吹かれて帰投したのを彼には見抜かれていると。

「しかし君を軍法会議にかけたら良いパイロットを失う」

「良いパイロット・・?
少佐、優秀なパイロットが任務注撃墜が怖くて汗をかいたり、
口がカラカラに乾いたりすると思われますか」

「誰もがそうだ」

「少佐も?」

「スロットルをフォワードに入れるときはな。
そうじゃないと言う奴は相手にするな、馬鹿だから」

それを聞くとアーニーの顔は別人のように晴れやかになり、

「ウィングを引き受けます」


日の丸をカーテンにするなっつーの

ある日、グリフ副長から素敵なお知らせがもたらされました。
台風が来るので敵が動けない24時間だけ航空隊は休みになるというのです。

わっと湧き立つ搭乗員たち。

「風呂入ろ!シービーズの奴ら、俺の風下に立つと鼻を鳴らしやがるんだ」

「海軍は狭い船で集団生活する形態上、清潔にこだわり不潔を嫌う」
というのはどうも世界共通の傾向のようですね。

しかし、そんな彼らのささやかな期待は、次の瞬間
搭乗員の招集命令がきて、あえなく打ち砕かれました。

砲兵隊の援護任務について、砲兵隊大佐を交えた会議が行われるのです。



ピンクの横線は前線に、矢印は90m後ろに目印として設置します。
航空隊に与えられた任務は、矢印に沿って低空飛行し、
前線を攻撃しおわったら、前線と並行に退避すること。

すると、よりによってこんな会議の最中に「カウボーイ」がこんなことを。

「俺ら、休暇だと聞いてたんですがね」

他所様である陸軍大佐の前で任務に不平とはやってくれますなあ。

これは外部的にもみっともない上、隊長に恥をかかせているようなものです。
カービーはそれは噂だ、と一言で切り捨て、作戦について、

「とにかく低空飛行が作戦成功のカギだ。私の機についてこい」



するとカウボーイ、無視されて怒りが治らないせいか、

「少佐、ついでにプロペラのハブに銃剣をつけちゃどうです?」

と混ぜっ返してきました。
カービーは即座に、

「よし、貴様が大佐と一緒のジープに乗って偵察に行け。

そしたら前線で誰かが銃剣をつけたライフルを渡してくれるだろう」

とっさにこんな嫌味で答えられる、そんな人にわたしはなりたい。

砲兵隊の大佐はカウボーイの冗談になんの反応もしませんが、
彼のロデオブーツを見て呆れたような顔をします。

カービーは本人ではなくグリフに向かって、

「カウボーイ、あいつは馬鹿なのか。
ブリーフィングでジョークを言うなんて、君が義弟を甘やかすからだ」

しかし彼を庇って一方的に叱責されるグリフも面白くありません。

「休暇がもらえると思っていたところに、危険な攻撃を命じられたんですよ。
たまには休ませてやることも必要では?」




「戦場では誰にも休暇など必要ない!」

カービーはさらに、吐き気を訴えている隊員(ビリー・キャッスル)にも
出撃させろと言い放ちます。
それってマラリアじゃないのか。



ベテラン下士官でカービーの旧知であるクランシーは、
映画全編を通して「コミックリリーフ」(ボケ役)です。

燃料を手で入れるのはもううんざりとばかり、海軍設営隊の使っていた
自動食器洗い機を拝借してきて、そのポンプを「有効活用」するのですが、
このシーケンス、海軍とのカルチャーの違いもあって個人的にウケたので、
英語を一字一句漏らさず翻訳しておきます。

クランシーは大阪弁にしておきました。

「海軍さんて、こんな野営地に食器洗い機持ってきてるんですわ。
あいつら食器を手でよう洗われへんのやろか」




そこにシービーズの水兵がやってきて、

「航空隊に専用のキッチンはあるか?」

「いや、マッドマリーン(海兵隊歩兵)と共同やけど・・・何か?」

「今全部の厨房を調べてるんだが、’食器を洗うやつ’がどこかに行った」

「そらそいつ、勝手にどっかに行ってもうたんやろ。どんなやっちゃねん」

「やつじゃねーし。マシンだ」

「マシン?機械が皿洗うんかいな?」

「ああ」

「はえ〜、んなアホな話、聞いたことあらします?」

「ないなー」←カービー

「携帯キッチンユニットの一部なんだけど、自分が荷出ししたから間違いない。
もし盗んだやつを見つけたら・・・」

「砲兵隊の食堂は探しました?あいつらネコババやら平気でしよんねんで。
倫理観っちゅうもんがない連中やさかいに。ほら、あの辺におるわ」

「む・・・行ってみる」

ケーキを盗まれた上に窃盗の常習呼ばわりされて砲兵隊もいい迷惑だ。

ちなみに会話中の「mud Marine」は海兵隊の歩兵の通称というか愛称で、
同じ海兵隊でも他の職種と分けるためにこういう言い方をします。



「Mud Marine」で画像検索するといくらでもこんなのが出てくるのですが、



昨今は女性隊員も普通にこういう訓練を行います。



まあ、世の中にはこういう「マッドマリーン」(海の泥美容)も存在するので、
女性にはこの訓練、パックも兼ねて一石二鳥かもしれませんが。



見事食器洗い機のポンプで給油をしている現場を見てカービーは

「クランシー、君のこれからが心配だ」

「少佐、水陸両用部隊で海軍の食器洗い機を使うことを承認してくれますか」

「即興で創意工夫できるラインチーフを承認するのが少佐というものさ」



■ ガダルカナルの死闘

陸軍の要請を受けてカービー新隊長のもと、前線を支援する攻撃が始まりました。


朝鮮戦争で負傷者を担架で運ぶシーン
担架の背後を担いでいる兵が、撃たれたのか倒れ込んでいる



航空隊は歩兵も驚くほどの低空攻撃をやってのけます。

「これ以上低く飛べるものか?」
「独身ならね」


しかしこの日、嘔吐がとまらないと訴えていたのに
出撃を強制されて飛んだ搭乗員が撃墜されて未帰還となります。



砲兵隊大佐はその日のうちの再攻撃を要請してきました。
カービーがその時間を打ち合わせしていると、グリフがやってきて
デスクにコーヒーカップを叩きつけるように置き、睨みつけました。



死んだビリー・キャッスルのマグでした。

ちょっと余談をします。

山口の海兵隊飛行隊の基地内部をパイロット直々の案内で見せてもらったとき、
このような名前が書かれたパイロットたちのカップが
壁のボードに掛かっているのを見たことがあります。

海兵隊飛行隊だけの慣習なのか、他でもこうなのかは知りませんが、
レガシー・ホーネットの部隊であるそのユニットでは
ほぼ全員が、飲んだ後、洗わないカップをそのままラックに戻していました。
どれもこれも真っ黒なカップを見たパイロットの奥さんが呆れて、

「Boys.....」(男って・・・)

と呟くと、新婚の旦那さんであるパイロット(大尉)は慌てて

「僕はちゃんと洗ってますよ?」

と言い訳していたのが可愛かったです。



このカップは映画の中でしょっちゅう出てきますが、
(なぜか日本の旗を飾ったラックにかけてある)
カリフォルニアのメーカーがジョン・ウェインのオーダーで作ったものです。

なんでもウェインは、ここで作ったオリジナルマグに
映画クルーの名前を入れて全員にプレゼントしていましたが、
その慣習はこの映画から始まったと言うことです。

各々のカップには「デューク(ウェインの愛称)より」と書かれていました。

さて、死んだ隊員のマグをこれ見よがしに置いて見せたクリフ副長。
それは「吐き気があるのに無理やり飛ばせたから」という抗議ですが、
カービーは軍医から「吐き気は大したことなかった」と言辞を取り、
暗にそれを否定するのでした。


「文句あっか?」


「ありません」



ここで案外食えない砲兵隊大佐が、飄々とした様子で嫌味を言います。
さっき「歩兵と一緒に偵察してはどうだ」と
カービーに叱責されたカウボーイに向かって、

「君、やっぱり偵察として一緒に連れて行ってやろうか?」

それに対し、カウボーイはクソ真面目に、

「いや、私は飛ぶ方がいいです。陸の連中は荒っぽいから」

すると大佐、ニコニコしながら(怖い)

「いやいや、こちらこそ荒っぽい航空隊には怖がらせてもらってますよw」

これは、低空飛行のことを言っているのかもしれません。



カービーは例のクランシー曹長に命じてテントを集めさせます。

低空飛行に必要な目標にするつもりですが、
案の定、クランシーはそれを砲兵の部隊からこっそり「調達」してきた模様。

「砲兵の連中、自分たちのやー言うて取り返しに来たんですわ。
穴が空いてるとこにシリアルナンバーがあったはず、とか言い張るんで、
それ証明してみい、でけへんのやったら帰れ!言うたったんです」




クランシーの「調達」はこれだけではありませんでした。
カービーが去った後、MPがきて、クランシーにこんなことを。

「1時間前、トラックからランタンが十個盗まれたが、何か知ってますか」

このおっさん、調達とは他の部隊から盗んで間に合わせることだと思ってないか。

「あーそれな。ここだけの話やけど、あそこでシービーズの連中を見たわー」

食器洗い機を盗まれただけでなく、
ランタン泥棒の濡れ衣を着せられる海軍もいい迷惑だ。

ちなみにMPが去った後、クランシーは、

「Copper.」(カッパー)

と呟きますが、これは「銅」ではなく、警察官のことです。
おまわりめ、といったところで、ここではMPを意味しています。
(でもこれはある意味フラグ)



その夜、隊員は「ニップ」から略奪した「サケ」を飲んで大はしゃぎしていました。



マッドマリーンが日本の将校を殺して奪い、椰子の木の陰に隠していたのを
例によってクランシーがこっそり「調達」してきたのです。

皆の前で毒味と称して一気飲みし、その強烈さに目を白黒させるカウボーイ。



喧騒をよそに、カービー少佐は死んだビリーの家族に直筆の手紙を書きかけますが、
数行を書いたところで筆が進まなくなりました。



両親の写真、本人のID、そして遺して行ったカップ。


そこで、家族から送られてきたボイスレコード(シート)
の子供の声を聞いて気持ちを紛らせるのでした。



ミッドウェイにいるときに本国から送られてきた家族の声のシートを
彼は持ち歩き、何度となく戦地で再生しているのです。

遺族への手紙を書くのは、通常従軍牧師の仕事ですが、
牧師は今日戦死してしまったということで、隊長が書くしかありません。

しかも、今日亡くなったビリーは、マラリアの嘔吐に苦しんでいたのに
医務室に送るどころか、彼自身が命令して無理に出撃させているのです。

「本当のことなんて書けるものか!
なーにが『カクタス作戦』だ。こんなもん『靴紐作戦』だろうが」


つい軍医に愚痴を言ってしまうカービー隊長。

靴紐=shoestringは、「手元不如意」とか「物質不足」という意味があります。

日本語字幕ではこういう面倒くさそうな用語は一切翻訳できないせいか、
単に「危険すぎる」となっていますが、この翻訳はかなり変です。

どんな危険な任務であっても、部下にそれを命じ自分も毅然と出撃する軍人、
というカービー隊長という人物のキャラクター設定を考えると、
「危険すぎる」は彼がもっとも言わなさそうな台詞ではありませんか。

このように、この作品は、ネイティブにしか理解できない部分が多く、
(わたしもほぼ聞き取れず、文章で読んで初めてわかることばかりでした)
したがって、日本語字幕に頼って観ても、その面白さはおそらく
10分の1も伝わってこないんだろうなあとこういう誤訳に出会すたびに思います。



その夜、カービーは海兵隊の将軍に呼び出され、陸軍との連携でなく、
「我が歩兵の援護を低空飛行なしで」したまえ、とにこやかに釘を刺されます。

一見人が良さそうと言うか温厚ですが、なかなか腹黒い親父と見た。



日本酒でしたたかに酔い、今日のフライトは「地獄確定」となったグリフに、
翌朝クラン軍医が声をかけ、様子をうかがいます。

これも軍医の役目の一つです。



グリフは戦地での現状に苦しみ、隊員の喪失に苦しみ、
そして、その原因の一部はカービーにあると考えていました。

そんな「優秀な」指揮官だから、ここでも結果を出して上に評価されるだろう、と。

ちなみにこのとき、彼はカービーのことを、
「ダニエル・グザビエー・カービー少佐」とフルネームで呼んでいます。

アメリカ人が相手をフルネームで呼ぶとき、得てしてそれは
相手を思いっきり皮肉っているので念のため。



次の哨戒でナバホ族出身のパイロット、チャーリーが脚に銃撃を受けました。

最初のシーン(右足)


次のシーンでは左足に。もしかして単にフィルムが裏?


飛行機がひっくり返るシーンは模型使用?



彼は機体をなんとか着陸させますが、片足切断となりました。
切断したのが右が左かは不明です。



その夜野戦病院のベッドに様子を見に来たカービーに、彼は

「ナバホ族居留区の世話役に手紙を書いてくれませんか。
その人が字を読めない家族に手紙を読んで聞かせてくれるから。

そして僕の馬を売ってくれと。
この脚では荒馬はもう乗れないから・・・。
でもこれからは馬より車の時代ですよね」


と微笑みながらいうのでした。

カービーが慈愛に満ち溢れた笑顔で(こう言う時のウェインの優しそうなこと)
彼を励まして枕元を去ると、チャーリーの顔からはスッと笑顔が消えました。


続く。




映画「太平洋作戦」(フライング・レザーネックス)

2022-01-18 | 映画

昨年末より、サンディエゴの海兵隊航空博物館、
「フライング・レザーネック航空博物館」の展示をご紹介していましたが、
その検索過程でそのものズバリの
「フライング・レザーネックス」という映画があることを知り、
せっかくの機会ですのでこの映画を紹介することにしました。

博物館の方は、おそらくこの映画のタイトルをそのまま運用したはずです。
しかしながら日本語タイトルは、案の定センスゼロの「太平洋作戦」。


こういうとき日本の配給会社は、どうしてこう絶望的に無個性な題をつけるのか、
ということについてはもう今更という感がありますが、
それより問題はこの作品を扱うDVD販売会社の販売姿勢です。

DVDの画質が悪い!

本編が始まった途端、何か設定に不具合があるのかと一度再生を止め、
点検してからもう一度再生し直したというくらいの酷さです。
Amazonの商品レビューでわざわざそのことに言及している人もいたくらいなので、
大元のDVDダビングの技術にどうやら問題があったようです。

そこで不本意ながらその辺の画像をかき集め、二日分を制作し終わったのですが、
次に取り上げる映画を探すため、自分のDVDラックを見ていたら、
なんとわたしは同じ映画をあと2枚、合計3枚持っていたことが判明しました。

「フライング・レザーネック」という特殊なタイトルを記憶していれば
何枚も同じDVDを買ったりしなかったはずですが、邦題が
「太平洋作戦」などというすぐ忘れてしまうものだったため、買ったのを忘れて、
高速道路のレストエリアなどで一枚300円くらいでワゴン売りしているのを
他の戦争ものといっしょに3回も購入していたと見えます。

しかしこれは今回に限り、ラッキーでした。

もしや?と思って残りの2枚の画質をチェックしたら、
3枚目のDVDが「当たり」だったのです。



ちなみにタイトルはこれだけが「太平洋航空作戦」。
あとの二枚は「太平洋作戦」となっていました。


画質の悪いバージョン


3枚目のDVD、同じシーン



三枚目はデジタルリマスターしてあるバージョンだったというわけです。

おお、と感激して全部キャプチャし直しながら観なおしたところ、なんと
前の2枚は、画像以前に、あっちこっち大事な部分が勝手にカットされており
それによって全く映画の内容さえも変わっていたことがわかったのです。

ちなみに2021年12月現在、Amazonプライムではこの映画が観られますが、
こちらはデジタル化前のカットしまくりバージョンですので念のため。


■ ハリウッドの赤狩りと本作品

さて、例によって本編に入る前に、この映画の背景について語ります。



制作は1951年。
タイトルにもある通り、制作はハワード・ヒューズです。

前回、当ブログで扱ったウェインものの邦題は「太平洋機動作戦」でしたが、
こちら「航空作戦」と同じ年に製作されています。

同じ年にウェインで海軍と海兵隊を扱った第二次世界大戦ものが製作されたのは、
大衆のムードを、その前年度に始まっていた朝鮮戦争を肯定する方に
誘導するのが目的であったと考えてまず間違いありません。


さらに、配役と制作のメンバー、当時の世相を鑑みると、
もう一つ、ハリウッドで起きていた歴史的な問題が見えてきます。

制作会社はRKOラジオピクチャーズ
RKOグループはこのときハワード・ヒューズの管理下にあり、
ヒューズが映画のスポンサーとして制作の資金繰りを行ったというわけです。

ヒューズは誰知らぬものがない熱心な飛行機マニアでしたが、
いくら航空機がふんだんに出るといっても、これは露骨な戦争推進映画。
あのヒューズには「違う、そうじゃない」的な毛色の作品であったうえ、
しかも監督のニコラス・レイは有名なリベラルです。

それではなぜこの時期に彼らが戦争推進映画を撮ったかですが、
そのキーワードは1950年代にアメリカの芸能界に吹き荒れた「赤狩り」でした。

赤狩りは共和党議員のジョセフ・マッカーシーの告発をきっかけにしているので
「マッカーシズム」とも呼ばれる反共産主義運動です。

ハリウッドで共産党と関連づけられた人物は「ブラックリスト」に載り、
その中でも、召喚や証言を拒否した10人(ハリウッド・テン)
かなり長い間業界から干されていたという話が有名です。


そんな流れを受けて、1952年、俳優協会が映画スタジオに対し、
誰であってもアメリカ連邦議会で自身の潔白を証明できなかった人物の名前を
自主的にスクリーンから削除できる権威を与えるという出来事がありました。

ヒューズはその前から、スタジオから共産主義者(とされる人物)を排除するために
いわゆる「踏み絵」的な映画の制作を、何人かに試しています。

その映画のタイトルは「私は共産主義者と結婚した」


つまらなさそう・・・

最初に監督を打診されたジョン・クロムウェルもジョセフ・ロージーも
これを拒否し、会社によって罰せられた上ブラックリスト入りしました。

ニコラス・レイはというと、これがとんでもないやつで(笑)
一旦引き受けておいて、製作が発表された直後に辞退してしまいました。
彼に何があって辞退したのかは謎です。

彼の解雇が検討されましたが、なぜかヒューズは契約を切りませんでした。

これは推測の域を出ていませんが、この時二人に何かしらの密約があって、
レイはその条件として、本作を撮ることになったのではないかと言われています。

本作はハリウッド的には露骨な戦争推進映画であり、
(戦争映画を見慣れているとこんなものだろう、としか思いませんが)
本来ならリベラル左派のレイが手がけるような内容ではありません。

「リベラル監督に、ゴリゴリタカ派のウェイン主役の戦争映画を撮らせる」

確かに誰が見てもこれは「罰ゲーム」です。

ゆえに、これがレイの当局に対する「アリバイづくり」、
あるいは彼をブラックリストから外すよう働きかけたヒューズへの
「借りを返す」ための作品であったと見られているのです。

しかし、レイ監督、そこは腐っても映画人の端くれ?ですから、
黙っておとなしく戦争礼賛映画を撮ると見せかけて、
(というか実際にもちゃんと撮りきってその評価も高いのですが)
保守派の代表のようなウェインの「カウンターパート」、
リベラル俳優のロバート・ライアンを送り込んだとされています。



本作のポスターからもわかるように、サブテーマは二人の男の対立です。

ロバート・ライアンの役どころは部下思いで人気があり(というか受けがよく)、
下からは隊長への就任を望まれていたのに、
ジョン・ウェイン演じるダン・カービー少佐の推薦が受けられず、
のみならず上に立たれてそのやり方を一から否定されるグリフ大尉です。

ロバート・ライアンは大学ボクシング部出身の「タフなタイプ」で、
リベラルでありながら「Kick Wayne's ass」(ウェインに立ち向かえる?)
ができる唯一の俳優とみなされて、キャスティングされたと言われます。


しかし、蓋を開けてみると、関係者全員にとって意外な展開が待っていました。

確かに撮影の間、ライアンはウェインから、例のブラックリスト支持を熱く語られ、

「中国の都市に核攻撃をして朝鮮戦争を拡大させるべき」
「ソ連を東欧から追い出すために軍事力を行使するべき」


などといった演説を拝聴せざるを得なくなったのも確かですが、
一旦撮影が始まると、二人は互いの政治的な立場は一切脇に置き、
良好な関係のままプロフェッショナルに仕事を完了させました。

そのライアンをキャスティングした監督のニック・レイも同様でした。

政治的には対立する立場であったはずウェインとの関係は実際には悪くなく、
というか、撮影中は全クルーがウェインを称賛し、
ウェイン自身も、全てのクルーに対し満足していたというのです。

ここで思い出していただきたいのですが、以前当ブログで紹介してこともある、
後年撮影されたウェインのベトナム戦争もの「グリーンベレー 」では、
ほとんどの俳優とクルーがウェインを嫌い、対立関係にあったという事実です。

「グリーンベレー」とこのときとの違いはなんだったのでしょうか。

一つはウェイン本人が脂の乗り切った時期で、まだ「老害化」しておらず、
現場でスタッフの人心を掴み得たこと、そしてもう一つは、
このときの朝鮮戦争と、後年のベトナム戦争に対する
大衆感情の「温度差」にあったのではないかとわたしは思います。

ちなみに、監督ニコラス・レイとジョン・ウェインは
映画撮影から20年後になる1979年6月のほぼ同じ時期に亡くなりました。
6月11日がウェイン、16日がレイの命日です。


■ 新隊長就任



さて、それでは始めましょう。
おなじみの海兵隊マーチが何のひねりもなく始まり、タイトルには

「この作品を米国海兵隊の、特に航空団に捧げる
この作品を可能にした彼らの協力と支援に対して感謝の意を表します」


とあって、映画の撮影に海兵隊の協力があったことを強調しています。



舞台はハワイのオアフにある海兵隊航空団基地。




ここにVMF247航空団「ワイルドキャッツ」が駐屯しています。



彼らは負傷した前指揮官の後任として、敬愛する上官、
グリフィン大尉が自分たちの隊長になって戻ってくると思い込み、
いち早く祝賀会を開いて大尉を迎える用意までしていました。



ところが、グリフィン大尉は新任の隊長、ダン・カービー少佐を伴っていました。
大尉はカービー少佐の推薦を受けられず、昇進できなかったのです。

このことは後々まで二人の間の問題として尾を引きますが、普通、
自分が就任するポジションに他の大尉を推薦するなんてありえませんよね。

推薦しなかったのはカービーではなく前任の隊長のはずなのですが。



カービー新隊長は、鷹揚に、この人違いの就任パーティを続けるようにいいますが、
テキサス出身の「カウボーイ」ヴァーン・ブライス中尉が履いている
ロデオブーツに目を止め、さっそくお小言を与えます。

「私甲高なんで・・」



意味不明の言い訳をするブライス中尉に新隊長は、

「飛行中は履くな!」

カウボーイはグリフィン=グリフ大尉の義弟、そして金持ちだ、と
グリフ大尉が紹介しますが、その口調からも、カービー少佐は
隊の中にすでに「馴れ合い」「ゆるみ」が蔓延しているらしいと察します。

かたや部下たちも新隊長に決していい感想は持ちません。

「俺たちを馬鹿にした目で見てたな」

「非情な男で、訓練で地面すれすれの超低空飛行をさせるそうだ」




真ん中にいる、マッケイブ中尉役の俳優ですが、
どこかで見たことがあると思ったら、あの世紀の駄作「オキナワ」
インテリ乗組員エマーソンの役をしていたジェイムズ・ドブソンじゃないですか。

しかし、悪口に興じる隊員の中、一人だけカービー少佐に
強いシンパシーを持つマラーキ(Malotke)中尉(右)

彼はミッドウェイ海戦で兄を亡くしており、そのときの航空隊長であった
カービーから送られてきた、心のこもった手紙に感銘を受けていました。



部隊の戦線への移動が決まりました。

マラーキ中尉の家族は、兄のように弟も戦争で失うのかと
移動でしばらく手紙が書けないという彼の報告に絶望しています。



ハロルド・ジョーゲンソン大尉の妻は赤ちゃんを産んだばかり。



「キュートなビリー・キャッスルから手紙が来たわ。
あたしあの子好きなのよね」



キュート・リトルボーイ・キャッスル(絶賛モテアソバレ中)

周りに侍らせた軍服の男たちに満面の笑みで言いながら、
他の男の戦地からのと一緒に暖炉の上にビリーからの手紙をピンで止める派手な女。

どうも彼女は「軍服愛好家」「コレクター」で、
ビリー・キャッスルはそのコレクション(取り巻き)の一人のようです。



ナバホ族出身のチャーリーも、両親に短い手紙を書きます。



彼らの両親は文字が読めないので、居留区の世話役が音読してやっています。



早速問題を起こした「カウボーイ」ブライス中尉。



彼の自慢の美人妻が、「パパからの手紙」を一男一女に読んでやります。
手紙が一瞬映りますが、彼の家族はLAに住んでいる模様。

・・・さて。

この一連の隊員とその家族などのシーンは、画像の粗いバージョンと、
Amazonプライムの本作からはバッサリとカットされています。

しかし、この部分、実はのちに回収される「フラグ」なのです。(あ言っちゃった)
ここをカットするなんて、映画の楽しみを半減させかねない蛮行じゃないかしら。


■ガダルカナル進出



VMW247航空隊はその後ガダルカナルに進出することになります。

この部隊は実際のVMF-223「ブルドッグ」航空隊をモデルにしています。
「ブルドッグ」はF4Fを搭載した海兵隊戦闘飛行ユニットで、
最初にガダルカナルに転出した航空隊でした。

現在でもVMA-223、海兵隊攻撃航空隊として存在しており、
AVー8Bハリアーを運用し、イラク・アフガニスタンにも参加しました。



カービーの部隊がガダルカナルに進出して以降の実写映像はすべてカラーです。
さすがアメリカ、あの時代にこれだけカラー映像が、と思いきや、
実はほとんどが朝鮮戦争のニュースリールからの抜粋だそうです。



ニック・レイがなぜカラー映像の使用に拘ったかと言うと、彼にとって
これが初めてテクニカラー映画となったからで、カラーと白黒映像を混ぜるという
後年よく見られる手法を嫌ったのでしょう。

ですから、本編の映像には、第二次世界大戦には存在しなかった航空機が
ところどころ発見できるそうですが、画像が悪いので判別できません。
(わたしの場合判別できないのは画像だけが理由ではありませんが)



ガダルカナルで最初にVMF247が搭乗するのはF6Fヘルキャットですが、
「ブルドッグ」が運用したのは、先ほども書いたようにF4Fワイルドキャットです。

F6Fは1943年後半まで日本軍と交戦することはありませんでした。

映画に登場するF6Fは、先日来当ブログでご紹介してきた航空博物館の近く、
エル・トロに拠点を持つ訓練部隊に当時現役で運用されていた機体です。

映画撮影当時、ワイルドキャットはほとんど残っていませんでしたが、
ヘルキャットの方はまだかなりの数残っていたのです。



日本軍に苦戦しているという地上軍の支援攻撃に指揮を執る新隊長カービーですが、
彼はここでもご紹介した、カクタス航空隊のジョン・スミス少佐がモデルです。



本物と比べるまでもなく、ウェインが歳取りすぎ。

スミスがガダルカナルでエースになったとき、すでに38歳くらいだったので、
44歳の俳優なら、なんとか演技でカバーできないこともないと思うのですが、
ウェインはどこまでいってもジョン・ウェインだからなあ。

鈴木亮平みたいに役作りのための増量減量なんて考えたこともなかったでしょう。



さて、カービー隊長就任後、最初の任務で早速問題が発生しました。
何を思ったか、勝手に敵機を追って編隊を離れていってしまうシモンズ中尉

そのまま彼はその日帰投しませんでした。



ガダルカナルに到着したカービー少佐は、ミッドウェイ以来旧知だった
ライン・チーフのクランシーに再会します。

ラインチーフはフライトライン(航空隊)の維持管理を監督する下士官です。

クランシーは「足りないものはジャップの攻撃以外全てだ」といい、
さらに燃料補給を手動でしなければならない、と愚痴を言います。



軍医のクラン中佐もミッドウェイ以来です。
こういう映画には相談役としてつきものなのが軍医です。


いかにも素人さん

このとき、カービー少佐に基地の地上員が挨拶したりしますが、
彼らは本物の海兵隊員で、エキストラとして出演しているようです。

協力の「お礼」といったところでしょうか。



カービーらが司令部に向かったところ、零戦が単独で攻撃を加えてきました。
クランシーによるとこれは「日常茶飯事」であるとのこと。




何人か出てくる零戦搭乗員、そして日本軍の砲兵はクレジットにありませんが、
記録には「フランク・イワナガ」「ロリン・モリヤマという
二人の日系人俳優の名前が残されています。

彼らの乗っている零戦は、白く塗って日の丸をペイントしたヘルキャットです。



「あーびっくりした」

司令部に続く道にある傾いてしまった看板には、

「この通路は世界最速の海兵隊員たちが通行します」

と書かれています。
この言葉は海兵隊なら誰でも知っている、

”Through these portals pass the world's finest fighting men
: United States Marines"


の改編です。



零戦はひとところにまとめて駐機されていた航空機を一撃で撃破していきました。
ただでさえ利用可能な機体が少ないと言うのに。



翌日、昨日行方不明になったシモンズ中尉が意気揚々と帰還してきました。

帰投命令を無視して離脱して敵機を追いかけ、あげくに
燃料の無くなった戦闘機を乗り捨ててパラシュート降下し、
ドヤ顔で帰ってきてうそぶいていうことには、

「交戦のベテランである俺様に、貴様ら、なんでも聞いてくれよ!」

カービー隊長は彼に激怒し、軍法会議にかけると叱りつけます。
そうなればグリフ副隊長も厳しく言わざるを得ません。

「君が落とした機種は」

「さあ・・軽偵察機だったような・・わかりませんが」

「君の出身校はどこだ」

「ハーバードビジネススクールです」

「君が失くした戦闘機の値段は!」

「1万5千ドルです」

「それでは敵の偵察機の値段は!」

「わかりません」(´・ω・`)

「考えろ!」


これだけ厳しく言ったら大丈夫、と思ったら、カービー隊長は
要するに貴様のその甘い態度がいかんのだ、とマジお怒りモード。



そして司令所の入り口にあった、謎の漢字らしきもの
(『軍』からあっちこっち抜き取ったような)が書かれた板を、
腹立ち紛れに叩き落として去ります。

それにしてもこの現場には漢字がわかるスタッフが皆無だったんですね。


その晩、グリフ副長を交えた隊員の中で、カービー少佐に対する愚痴が噴出。
アンチ・カービーの急先鋒はマッケイブ中尉ですが、そんな彼らを
一応はなだめていたグリフは、カービーの信奉者マラーキが、

「どんな時にも命令が下せる、カービーはプロフェッショナルの軍人だ」

と激褒めすると、それは俺への皮肉か、と気色ばみ、
物資も戦力も不足のこの戦地で、ちょっとしたことで
部下を軍事裁判にかける非情な隊長、カービーに対する反感を口にします。

「俺だってプロフェッショナルの兵隊だ!」




続く。



海上自衛隊東京音楽隊 第63回定例演奏会〜後編

2022-01-16 | 音楽

昨日、海外から渡航してきた帰国者入国者の待機期間が
10日に短縮されるというニュースが流れました。
オミクロン株型の感染者が爆発的に増えているのに如何なることかというと、
この型の潜伏期間が3日程度と短いことがわかったからだそうです。

つまり1ヶ月遅ければ、MKも4日だけとはいえ自粛期間が短かくてすんだのですが、
元々彼はあまり物事に対して文句を言わない性質で、
コンピュータがあってご飯が食べられさえすればそうストレスもないらしく、
14日の待機期間、コンピュータで作曲したり、ゲームをしたり、
ピアノを弾いたりして機嫌よく過ごしていました。

MKは小さい時習わせたピアノは嫌がってやめてしまったのですが、
チェロは性に合ったようで、学校のオーケストラで演奏していただけでなく、
曲を作るようになり、長じてコンピュータミュージックをやるようになってから
マスタリングをプロに講義を受けたり、来年は工学部で授業を取ったりと、
わたしとは全く違う方向からのアプローチで音楽を人生の友としています。


ですので、わたしは今回の海上自衛隊東京音楽隊のコンサートについても、
本人に確認を取らず、二人分の参加を申し込みました。


実にほぼ2年ぶりに行われた海上自衛隊東京音楽隊定例演奏会。

疫病対策で間隔をとった席での緩衝となったため、
平常時の半分以下の観客数で開催されたことになりますが、
それではどんな人たちがいたかということも報告しておきます。

わたしがMKと座ったのは、ステージから通路を挟んで
二番目のブロックだったわけですが、通路の前の席に座っていたのは
察するところ間違いなく自衛隊入隊を希望しているか、検討しているか、
あるいは地本に招待された未来の自衛官のようでした。

音楽隊の任務は演奏を通じて広報を行うことにありますから、
いわば自衛隊入隊を考える若い層は最も招待に値する対象でしょう。

また、ホールの前の広場には、制服を着た高校生の一団が
体育座り(!)して待機していました。

吹奏楽人口の裾野を広げるということと、地域への貢献という意味で
自衛隊音楽隊は近隣の学校の吹奏楽部を指導し、
4年前の瞳記念館の時のように演奏を一緒にすることがありますが、
おそらく彼らもそういう関係で音楽隊から直接招待を受けたのでしょう。
それ以外にも客席には、私服で楽器を持った高校生がちらほら見受けられました。


また、わたしたちの席の近くにいた、アメリカ人らしい母親と子供達。
彼らは在日米軍の関係者として招待されたと思われます。

♩Paradise Has No Border NARGO

さて、それでは東京音楽隊の久しぶりのコンサート、
後半に演奏された曲についてです。

東京スカパラダイス、というバンドの名前をご存知の人も多いと思いますが、
その名前はこのグループが「スカ・バンド」であることからきている、
ということについてはご存知なかったりするかもしれません。

スカ (Ska) は、1950年代にジャマイカで発祥したポピュラー音楽のジャンルです。

一言で言ってリズムの2拍目と4拍目が強いラテン音楽、という感じなのですが、
その頃「イケてる音楽」とされていたニューオーリンズのジャズが好まれた
南米ジャマイカでは、ラジオの感度が悪く、2・4拍目が強調されて聞こえたため、
これが誤ってコピーされてスカになったという眉唾な起源伝説もあるそうです。

スカはレゲエ、メントなどと同じくジャマイカ独特の民族音楽(フォーク)で、
ブラスバンドでこれを行う形式は、イギリス統治下でもたらされました。

1962年といえばジャマイカが独立した年ですが、このムーブメントもあって
アップテンポのスカは、この頃急激にジャマイカの音楽シーンを席巻しはじめます。

また、政府主導でスカを海外に普及させようという動きもありました。

我らが東京スカパラダイスオーケストラの結成は1985年。
2020年には東京オリンピックの閉会式に出演し、
「上を向いて歩こう」などを演奏したのを覚えておられるでしょうか。

東京スカパラダイスオーケストラ 「Paradise Has No Border」
(Live Ver. ゲスト:さかなクン)



この「楽園に国境はない」という意味の曲は、
誰でも一度くらいどこかで耳にしているくらいキャッチーで有名です。
日本人の感覚になぜかピッタリで、とにかくノリがよく気分が上がります。

曲が始まると、早速サックス、トランペット、トロンボーンなどがフロントで
交代でソロを披露して嫌が応にも雰囲気は盛り上がっていくのでした。

ところで、曲の最初から指揮者の樋口好雄二等海佐の姿が見えなくない?
と思ったら、案の定、左の後ろでパーカッションを演奏をしておられました。

樋口隊長は打楽器出身でいらっしゃるので、昔取った杵柄スティックで、
個人所有らしい真っ赤なパーカッションセットを演奏する姿を、
わたしは横須賀音楽隊時代から何度か見てきたような記憶があります。

しかし残念なことに、この日、隊長の「ポジション移動」について
MCからは何の説明もありませんでした。
時節柄あまり目立たないように(?)という配慮だったかもしれませんが、
気づかない人のためにも、これはぜひアナウンスしていただきたかった。


♫三文小説 常田大希

演奏する音楽のジャンルが多岐に渡るので、自衛隊音楽隊の演奏会に行くと
聞いたことがないアーティストについて知ることがでるのも、嬉しいところです。

今回その意味で一番と言っていいほど心に残ったのは、King Gnuという
「トーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイルバンド」の曲でした。

四人のメンバーそれぞれが、多方向から影響を受けた音楽を持ち寄り、あくまでも
日本語の歌詞にこだわるという音楽スタイル。
ミクスチャー・スタイルというのはこの辺からついたスタイル名だそうです。

「三文小説」。
タイトルだけで只者ではない気がするこの楽曲について、
この日のプログラムには常田大希という名前だけが書かれていましたが、
一般的にはKing Gnuというバンドの曲と認識されています。

King Gnu - 三文小説 (King Gnu Live Tour 2020 AW “CEREMONY” Tour Final in Makuhari Messe)


ドラマの主題歌に使われたので、そちらで聞き覚えのある人はともかく、
初めて聴く人は、この美声のボーカル(ベースの井口和輝)が
男性であるのに驚いたかもしれません。

東京音楽隊は今回これを中川麻梨子三曹の歌唱に乗せて聴かせてきました。

音楽的にメロディも転調もとても高度で、次の展開が読めないのに、
一度聞くと心に残りまくる、とにかく不思議な曲です。

King Gnuの基本仕様は、常田大希がチェリストであることから、
オリジナルにはストリングスが必ず入ってくるのですが、
そんな曲を。吹奏楽団である東京音楽隊が取り上げるに至った経緯というのに
わたしは個人的に大変興味を持ちました。

そこでYouTubeを聴いていただくと、最初の方に、ストリングスに絡みつくように
ブルブルっというように響くシンセサイザーの低音が重なり、
それがとても強い印象を残すのがお分かりいただけるでしょう。

この日、このブルブルシンセサイザーの部分は管楽器で代用されました。
ヴォーカルの中川三曹の反対側にソリストのように立った
バストロンボーン(?)が、この効果を請け負っていたと思われます。

とにかく、その効果があまりにも秀逸だったので、わたしは
この曲を選んだ理由は、この管楽器代替によるサステナブル可能なことが
もしかしたら選曲関係者のツボにハマったからかしら、などと考えてしまいました。

この効果ありきの選曲だったのか、
女性歌手がこの男性ボーカルの曲を歌うのが目的だったのか。

そんな「選曲のモチベーション」についていろんな想像を巡らせるのも、
自衛隊音楽隊の演奏会の後の楽しみと言っていいのではないでしょうか。

ただ、この曲についてはMKが、後から

「歌詞が何を言っているのかわからなかった」

と、ボヤいていたとおりで、それはオリジナルも同じです。
前もって歌詞を把握していないと、何を言っているか聞き取ることは
まず不可能なくらい内容が深遠です。

歌詞の理解しやすさまでを演奏者の力量に背負わせるのは酷というものでしょう。

さて、ここで、MCは、思いっきり海上自衛隊の広報を行いました。

自衛隊の防衛任務についての説明、そして(これがおそらく主目的)
会場の若い人たちに向けて、海上自衛隊への勧誘がひとしきり行われたのです。

改めて自衛隊のイベントというのは、
新たな人員確保のための広報活動なのだと感じました。

🎵 ドラゴンクエストによるコンサート・セレクション すぎやまこういち

【音楽】ドラゴンクエスト すぎやまこういち作曲 
横須賀音楽隊オンラインコンサート2021第1弾



YouTubeで、横須賀音楽隊の演奏を見つけました。
実際のコンサートが自粛されていた期間、自衛隊音楽隊はオンラインで
コンサート映像を配信していたようです。

すぎやまこういち氏が亡くなったのは昨年の9月30日。
これを受けて東京音楽隊では氏の代表作品でもあるこの曲を選んだのでしょう。

亡くなるすこし前となる東京オリンピック開会式の選手入場曲に
日本を代表するゲーム音楽の一つとして挿入されています。

Overture / 序曲
Distant Journey introduction part / 遙かなる旅路のイントロ部分
Unknown World / 広野を行く
Holy Shrine /聖なるほこら
Endless World / 果てしなき世界
At Alefgard / アレフガルドにて
Hero's Challenge / 勇者の挑戦
into the Legend /そして伝説へ


「そして伝説へ・・」はドラゴンクエストシリーズのIIIの音楽で、
まさにわたしがドラクエにハマっていた真っ只中でしたから、
どの曲も耳馴染みがありすぎて、当時のことをありありと思い出しました。

♬アンコール A Whole New World

さて、というわけでこの曲でプログラムは全曲終了したわけですが、
指揮者退場、拍手、アンコールという「儀式」もあっさり目に、
樋口隊長が男性の隊員をステージに連れてきて紹介しました。

自衛隊音楽隊史上初の男性歌手、というのが彼の正体でした。

管楽器には歌の上手い人が多いことから、音楽まつりや男声が必要な時には
いつもの楽器を傍に置いた「副業歌手」がそれを務めるのですが、
どういう経緯か、この度東音では、専用の男声歌手を採用したというのです。

ハシモトコウサク二等海曹と紹介された男性歌手は、
このアンコールを顔見せとして初めてその声をステージで披露しました。

曲はディズニーアニメ「アラジン」から「A Whole New World」

言わずと知れたデュエット曲ですが、これを先輩歌手の中川三曹と
(後輩の方が階級が上なのが自衛隊という組織の不思議なところ)歌いました。

最初の公式のステージということでおそらくかなり緊張されたことでしょう。
クラシックの声楽法を勉強してこられたと思われる美声でしたが、
MKの講評は辛辣で、まず、真っ先に出た言葉が

「初めて人前で歌うっていうときに、日本語じゃない曲を選ぶってどうなの」

最後は女性歌手とデュエットをしなければならないと決まっていたなら、
「得意じゃない英語の曲なんかじゃなく」
言葉が聞き取れるものにするべきだというのが彼の意見でした。

うーん・・こういうときにふさわしい日本語のデュエットってあるかなあ?

「銀恋」とか「3年目の浮気」は問題外としても、
例えば「アナ雪」の日本語版からとか・・、あ、それは今はアウトか。

あと、MKによると、男声だけでなく中川三曹の歌も、ブラスバンドの音量に
かき消されて聴こえにくい部分が多々あったけれど、これは
PAのバランスでもう少しなんとかできたはず、ということでした。

ところで2月には東京音楽隊は第61回定期演奏会の開催が予定されています。

今ふと気がつけば、そのプログラムには、
プッチーニの「誰も寝てはならぬ」Nessun dorma(トゥーランドット)
という文字が見えるではないですか。


この日が本格的なハシモト二曹の歌手デビューと見て間違いないでしょう。
彼にとって、この曲こそが歌手としての本領発揮となるはずなので、
ぜひ期待して、この日の「本当の初舞台」を待ちたいと思います。


それにしても専門の男性歌手なんて、もしかしたら世界の軍楽隊にも
例のない、初めての存在かもしれませんね。

一体どういう経緯で男性歌手を採用する流れになったのか、
その辺の裏の事情を無性に知りたいのはわたしだけでしょうか。

というわけで東京音楽隊演奏会についてのご報告はここまでです。

素晴らしい演奏会に参加の機会をいただきました音楽隊の皆様方に、心より
感謝すると共に、これからの演奏会が無事に行われることを祈って止みません。



*おまけ*



この演奏会の後、MKはまたアメリカに戻っていきました。
出発は羽田国際線ターミナルから。
右の方は入国者のPCR検査などを行うコーナーとなっています。

出発時間が1830なのに、空港入りしたのは10時半。
空港で東邦大学のPCR検査を受け(2万円くらい)、結果が出る3時半まで
空港で時間を潰すのにずっと付き合っていました。

ちなみに平常ならこのカウンターはカタール航空の受付が行われるので、
画面奥に「祈祷室」が設けられています。



人っ子一人いない昼間の空港。
2月いっぱいは政府が水際対策のため入国を制限しているので、
電光掲示板の発着予定はほぼ全てが「欠航」となっていました。



東京オリンピックで来日する外国人客を当て込んででしょうか。
空港のブリッジに日本橋が出現していました。
本物の木材を使ってオリジナル通りに建造したものだそうです。

歩いている人が誰もいないのが虚しい・・・・。



検査を受けてから結果が出るまで、チェックインもできないので、
わたしたちはデッキに出てガラガラの空港を眺めたり、
第三ターミナル併設のホテルでご飯を食べたり、伊藤園で抹茶を飲んだり、
それでも時間が余っているので第二ターミナル、第一ターミナルと巡って
カードラウンジでネットをしたりして時間を潰しました。

ようやく3時半にPCR検査の陰性の結果をもらって初めてチェックイン。

しかし、ゲートの中に入ってもラウンジはもちろんお店は空いていません。
仕方がないのでまたもや伊藤園の前でギリギリまで時間を潰しました。

なんと8時間もの間空港でただ待っていただけということになります。
入国も大変でしたが、出国も見送りの人間にとってはそれ以上に大変です。
これでは余程の理由がない限り海外に行こうなどと誰も思わないでしょう。

帰国したMKによると、アメリカの入国後は日本のような自粛はありませんが、
ただ、クリスマス期間各地に散らばって帰ってきた学生が
COVID-19を持ち寄って大学にクラスターが起きないように
学校の授業が2週間はリモートになるそうです。


最後に、蛇足のまた蛇足ながら、MKの「日本で食べたいものリスト」のうち、
目標達成したものを粛々と貼って終わりにします。



銀座のTOなじみの小さな料理屋のマグロ。



刺身のほかは、卵とじとなって出てきました。



ニューオータニの寿司屋。

この日、ジャイアンツの4番丸選手と5番の誰かのトークショーがホテルで行われ、
ロビーはすごい人でしたが、寿司屋のカウンターはわたしたちだけでした。



この時握ってもらったヒカリもの。
ここの握りは一貫ではなく一つずつです。



近所のラーメン屋さんの、幻の(滅多に汁が残っていないらしい)坦々麺。
それほどいうなら、と辛いもの苦手なわたしも死んだ気で食べてみました。
半分が限度で、残りはTOのお腹に収まりましたが、美味しかったです。

終わり。



海上自衛隊 東京音楽隊 第63回定例演奏会 前編

2022-01-14 | 音楽

1月10日、新宿のオペラシティで行われた
海上自衛隊東京音楽隊の第63回定例演奏会に参加してまいりました。

コロナ発生以降、何度も演奏会の開催のお知らせをいただいていましたが、
その直前になると、疫病感染対策の自粛要請を受けて中止になり、
そのお知らせを頂いてガッカリ、ということを繰り返してきました。

実は今回も直前にオミクロン株型の蔓延防止策が囁かれだし、
またもや中止か、とわたしは早々に心の準備までしていたのですが、
今回は、前日になっても、何のお知らせも来ません。

いつもならこんな心配はしないのですが、何もないのが逆に不安になり、
当日音楽隊に電話をかけて聞いてしまいました。

「本日の定例演奏会ですが、予定通り行われるんでしょうか」

「開催される予定です」

「そうですか・・もしやと思ってしまったものですから」

「お気をつけてお越しください」

電話は守衛室のようなところにかかったようでしたが、
それはつまり音楽隊の人は既に現地入りしているということです。
わたしはようやくホッとしました。

ところで、冒頭画像は演奏会と何も関係のない、
銀座三越前のライオン(マスク着用)です。

なぜこんなのを上げているかというと、
いつもなら演奏会参加ご報告のトップ写真は、東京音楽隊のバナーの入る
演奏開始前のステージということにしていたのですが、
この日、いつものように写真を一枚とったところ、
オペラシティの会場係がすうっといつの間にか横に来て、
会場内の写真は禁止されている、と注意されるではありませんか。

疫病対策と写真撮影は何の関係があるのかわかりませんが、
そういうことになって現場の写真を一枚も残せなかったので、代わりに
三越ライオンのマスク姿でもにぎやかしに上げておくことにしたのです。

ちなみにこのマスクは、以前確か「丸に越」の三越マークが入ったものでしたが、
今回写真を撮ったら、ただの普通の白いマスクに代わっていました。
夜中に盗まれでもして代わりを作るのをやめたのかな・・。




ついでと言っては何ですが、お向かいの和光のショーウィンドは、
年明けになってこのような虎の顔が現れました。


立ち止まってしばらく見ていたら、瞬きしたので驚きました。
毎年和光のショーウィンドは工夫があって目を楽しませてくれますが、
今年のようなのは初めてです。

◆ 開場


この日、わたしは東京駅前でランチを済ませて新宿に向かいました。


これも演奏会とは全く関係ありませんが、この日のスケジュールは
演奏会の前に、MKの「日本で食べたいものリスト」に入っていた
「丸の内ホテルの鯛どんぶり」を頂くところから始まったので、
せっかくだから宣伝方々画像をあげておきます。

東京駅近辺で人とちょっと豪華なランチを食べることになった時、
わたしはかなりの確率で、この大志満椿寿の鯛どんぶり(後半茶漬け)を選びます。
以前は2千円台前半だったのに、少し前値上げしてしまい残念なのですが。

予約したところ、板場から、どうせなら朝イチで食べていただくのがおすすめ、
と言われたので、11時からのブランチと相成りました。
とにかく美味しくて大満足間違いなしの鯛どんぶり、おすすめです。

食後は仕事場に向かうというTOと別れ、MKと車で新宿に向かいました。
オペラシティを訪れる人そのものが少ないのか、駐車場はガラガラで、
MKは車で仮眠を取り、わたしはネットを見て開場まで時間を潰しました。

開演30分前に会場入りすると、コロナ対策のおかげで
会場の人の入りは今まで見たことがないほど少なくされていました。

まず、座席は一席ごとに空けて、前後も重ならないようになっており、
前の三列目までは人を座らせず空けてあります。
吹奏楽団なので演奏者はマスクをするわけにいきませんから、
前列はステージからの飛沫防止対策で空けてあるのです。

会場内では、わたし以外にもスマホで写真を撮って、その途端
係員が飛んできて注意されている人がいましたし、
何しろ久しぶりの開催ということで、顔見知りと話し込む人もいましたが、
会場が少し話し声で騒がしくなるや否や、

「会場内での会話はお控えください」

という注意が、撮影禁止と共にアナウンスされるという厳戒態勢です。
それだけでなく、検温と消毒、換気対策、そして時差退出など、
最大限の対策をやれるだけやって、
何とか開催に漕ぎ着けたこの日を守り切ろうとする努力がうかがえました。

◆開演

それでは、この日のプログラムについてお話ししていきます。

開演のブザーが鳴り、ステージ上に東京音楽隊の隊員が現れました。
本当に、久しぶりに彼らがステージに乗っている姿を目にした気がします。

この日も司会をされたハープの荒木美佳二等海曹によると、
東京音楽隊がこういうステージに乗るのは何と2年ぶりだとか。
確か、代々木の体育館での音楽まつりの後、
クリスマスコンサートをしたのが最後ではなかったでしょうか。

ようやくやっとステージに立つことができたという感慨と、
これから人前で演奏する喜びと興奮のせいなのか、ステージは
彼らから立ち昇る空気で陽炎が揺らめいているように見えたものです。

今まで何度プログラムを組み、演奏会の日に合わせて練習を重ね、
音を作り上げて調整してきたその土壇場でそれが中止になり、
その計画を破棄して、また一からやり直すということをしてきたのでしょう。

発表の機会を絶たれた音楽家の挫折感は、我々一般人が
演奏会の中止に対して思うような、残念だ、などという簡単な言葉では
とても表せないものだったに違いありません。


♩この美しき、”蒼”を守るために

そんな東京音楽隊が最初に選んだのは、音楽隊員オリジナルでした。

作曲者はチューバ(?)奏者の藤田翔吾三等海曹が作曲したということで、
かつて披露されてきた音楽隊員の手による楽曲の例に漏れず、
それは海上自衛隊の伝統である喇叭のメロディをモチーフに取り入れたものでした。



♫デビュー・カドリーユ作品2 ヨハン・シュトラウスII

Debut-Quadrille op. 2 - Johann Strauss II


何度か東京音楽隊の演奏を聞かせていただいていますが、
また珍しい傾向の曲を選んだものだ、と感じました。

例年ウィーンフィルは、年始にわたしも行ったことのある楽友協会ホールで、
ウィンナワルツ、ポルカなどのニューイヤーコンサートを行うことが有名で、
今年もダニエル・バレンボイムが棒を振ったようです。

プログラムはシュトラウス親子の作品が取り上げられるのが慣例ですが、
もしかしたら年始のコンサートということでこの曲が選ばれたのかと思いました。

ただし、東音はウィーンフィルと違い吹奏楽団なので、この
シュトラウスの19歳の時のデビュー曲?を、管弦楽曲から編曲してあります。
取り上げられるのも珍しいこの曲が吹奏楽演奏されるのは本邦初とのことで、
この編曲を手掛けたのも藤田三等海曹ということでした。

YouTubeは5分台で収録されておりますが、
短い楽曲が6曲でワンセットとなっています。

♬ 鳳凰が舞うー印象、京都 石庭 金閣寺  真島俊夫


日本吹奏楽界の超大物、真島俊夫が京都をイメージして描いた作品。

「中間部の静かな部分は竜安寺の石庭からインスピレーションを得たもので、
遠く殻鹿脅しや竹林をそよがせる風の音も聞こえます。
そして最後の壮大なクライマックスは華麗な金閣寺とその屋根に、
今にも天に向かって羽ばたこうとしている黄金色の鳥、"鳳凰"の印象です。
"鳳凰"はまた、空ではなく時空を飛ぶ鳥だと言われています。」

と作曲者はこの曲について語っています。

まるで鼓、篳篥、笙、唄鈴の音に聴こえる各楽器の扱いも、拍子木も鳴子も
オリジナルのスコアに表された通りだと思われますが、
途中で観客の目を奪った、そよぐ風を表すために打ち振られた葉のついた枝は、
もしかしたら当音楽隊オリジナルの工夫ではなかったでしょうか。

それからこれを聴きながらふと思ったことは、西洋音楽の理論で書かれた楽曲に
伝統の拍子木が重ねられる時、それは立派なポリリズムとなっているわけで、
和洋のミクスチュアって、それだけで創造された新しい境地だなあ。と。

訳わからないことを言ってますが、思っただけなので気にしないで下さい。

ちなみに、わたしは京都の、しかも金閣寺の隣から帰ってきたばかりだったため、
鷹峰の麓の苔むした岩や高杉がまだ記憶に新しかったこともあり、
この曲の調べは、その時の気持ちに見事な親和性を持って響きました。



♭ オーメンズ・オブ・ラブ


吹奏楽団のコンサートを聴きに行ったら、正直一曲くらいはやってほしいのが
T-SQUAREの「宝島」かこの曲、と言ったら、ミュージシャンに怒られるのかな。
いや、彼らもこの王道吹奏楽ポップスを演奏するのは好きだと信じたい。

というわけで、この日オーメンズ・オブ・ラブが聴けて満足なわたしです。

2017年の人見女子講堂での演奏会でのバージョンが見つかりました。
わたしはこの時の演奏も聴いているはずなのですが、
この映像を見て、今回とはメンバーも随分変わっているのに気がつきました。

ついこの間だった気がしますが、もう4年以上前なので、退団した人あり、
転勤してきた人、していった人で顔が変わっていて当然です。

ところで、この日「Omen」の(って略したらなんか変?)メロディは
クラリネットのバンドマスターによるウィンドシンセサイザー(リリコン)でした。

とにかく持っているだけでかっこいい(気がする)楽器ですが、
この日の演奏もT Squareの伊東たけしさんとは雰囲気の違うかっこよさでした。

09 T Square Omens of Love Live The Legend 2016

メロの後、安藤正容さんのギターソロがそれを受け継ぎますが、
この日もオリジナル通りギターが演奏に加わってくれてT Square好きには大満足。

#宿命 藤原聡
#アイノカタチ feat. HIDE(GReeeeN)


「宿命」という曲に関しては何の知識もなかったため、
そういう曲なのね、という感じでただ聴いてしまいましたが、その次の
「アイノカタチ」では、ヴォーカルの中川麻梨子3等海曹の歌に聴き入りました。

久しぶりに見るステージの中川三曹は以前よりほっそりしたようで、
ただでさえ時間の流れを感じずにはいられませんでしたが、何より
ポップス系の曲の歌い方が随分柔軟になられたなあという感を持ちました。

口幅ったいようですが、この自粛期間中、いろんな音楽を聴いて
表現の引き出しを増やすような研鑽をされたのかもしれません。


さて、この日の演奏会は休憩なしのノンストップで行われたのですが、
それは、幕間に人がロビーに参集することを避ける措置だったと思われます。

当ブログでは、ここで一応前半終了とし、残りのプログラムについて
MKの帰国騒ぎなどを交えながら後編でお話ししようと思います。


続く。




お正月京都旅行〜アマン京都編

2022-01-12 | お出かけ

京都旅行ご報告の続きです。



わたしたちは、祇園の料理旅館で一泊した後、アマン京都に向かいました。
わたしの車のナビにまだアマンが登録されていなかったのが災いし、
住所を入れても該当地らしきアバウトな地点しか出てこないうえ、
ナビに、わざわざ裏側から回り込む、狭い山道を指示されて走る羽目になりました。

到着してみると何のことはない、金閣寺方面から来ていれば
舗装された普通の道路で来ることができたのがわかり、ガックリです。

まあ、車検前でナビのアップデートをしてなかったのが悪いんですけどね。



やっとのことでアマン京都玄関に到着。
中から出てきたのはスタッフのようです。



門松の立てられた正門脇には黒いドアマンの待機室らしい小屋があり、
訪問者はここで検温と手の消毒を行い、車を降りて歩いて入場します。


祇園の女将はもちろん、京都の人たちは、アマン京都が開業するまでの
政治的なゴタゴタというか、ややこしい経緯を知っているようで、
なんでもアマンの経営者が日本に作るならここしかない、と
肝煎りで決まった場所だったのに、開業に関しては
市との交渉が難航して計画が宙に浮いた状態が続き、
計画開始から開業までなんと25年、四半世紀が費やされたのだとか。




元々ここは西陣織で財を築いた浅野と言う名家が
織物美術館のようなものを作ろうと、庭園を作っていた場所でした。

とにかく石が好きな当主で、岡山などから石を集め、
広大な敷地はほぼ石で埋め尽くされていると言っても過言ではありません。

玄関口を入ると、構内に続く通路は、世界のどこにもないような
巨大な石を使った石畳が広がり、訪れる人を驚かせます。


チェックイン後、部屋への案内の前に、コンシェルジュが
構内を歩きながらちょっとした説明ツァーをしてくれました。

細道に沿って高さが揃った見事な高杉が目を惹きます。


浅野家の当主は庭園造りが完成しないうちに土地を手放すことになり、
持ち主のないままこの一帯は手付かずで放置されていました。


こういう構築物のうち、どれがオリジナルで、どれがアマンの手が入っているのかは
今となってはもうわかりませんが、少なくともこの美しく生え揃った苔は、
アマンが土地を手に入れてから設えて育てているようです。


庭園の至る所に先ほど井戸状のものや、このような
地下水路の覗き口があります。


基本的にアマンリゾーツのコンセプトは、自然に溶け込むことなので、
開発にあたってはたった一本の木も抜かないようにしています。



木は元々浅野さんが選定したものが残っているのですが、
わたしは庭内を歩きながら、桜の木がないことに気がつきました。

「桜はないみたいですね」

というと、

「ええ、なんだか桜はお嫌いだったようで」

桜が好きではない、ではなく積極的に嫌い、という、
いわゆる通人というのも珍しいといえば珍しいかもしれません。


チェックインは本来3時ですが、昼食を取るために12時には現地到着しました。
二カ所あるレストランのうち和食の「鷹庵」へ。

アマン京都は一歩入るとまるで外界から切り離されたような雰囲気ですが、
レストランは宿泊客でなくても普通に利用できます。

この日は会社単位の団体客がいてかなり賑やかでしたが、
その中の女性一人がテンションかなり高めで声も大きく、
正直ちょっと残念な雰囲気になりました。


テーブルのミニ芝生?にお飾りをつけてお正月風。


「鷹庵」のインテリアは和風寄り。
灯りのシェードはどうやら俵をイメージしているようです。


和食と言っても、ガチガチの古い懐石風というわけではなく、
和風テイストの自然食を和の器にあしらったという感じです。


料理長は吉兆出身で、料理の内容は毎日変わるのだとか。
長期滞在客への配慮でもあります。


鶏肉の団子のすまし汁。
柚子と三つ葉が香り高い一品です。


こちらはもう一つのオールデイダイニングで晩ごはんの前に出てきた
いわゆるアミューズ、ウニのカナッペでございます。


昼ごはんをガッツリ頂いたので、夜はスープ一品だけにしました。


フィッシュ&チップスに全くいい思い出のないわたしには理解できませんが、
MKはこのよくわからない料理が好きらしく、よく注文します。

彼がメニューに三千円のフィッシュ&チップスがあったので、
一つだけ注文したのですが、出てきたものを見てびっくりしました。

この物体を見て何の料理だか当てられる人はいますまい。
いわゆるチップス的なカリカリの部分は、まるでモンブランのような
細いヌードル状のものをフィッシュに巻いて揚げてあるのです。

MKによると、味はフィッシュ&チップスの上位変換だったということです。


オールデイダイニングの前には暖炉を設えたウッドテラスが広がり、
そこでは電気膝掛けを貸してもらって飲み物をいただくことができます。


そこに座って空の星を眺め、家族でいろんな話をしました。
話題は主にMKの今後についてでした。

MKも早いもので、今年卒業すれば大学院進学が待っています。
一応在学している大学の院には合格しているのですが、
西や東の大学にいくつか願書を出している上、インターンがどこになるかも
向こうが決めることなので、来年の今頃彼がどこにいるかは全くわかりません。


おっと、忘れていました。こちらアマン京都の客室でございます。
三人で泊まるので、テーブルのこちら側にあるソファがベッドになっています。

お湯を張るのに30分かかる大きな木のバスタブ、洗面台が
寝室と全く同じ大きさに広々と配置されていて、
水回りがゆったりしているというのは実に居心地の良いものだと感じました。



ウェルカムフルーツはりんごが二個、お正月だからか、
大吟醸の小さな酒樽がサービスで置かれており、
願い事を書いておくとホテルの人が近所の神社に奉納してくれる絵馬まであります。


チェックインした日は祇園の旅館女将のお薦め通り、部屋を堪能し、
温泉に入り、スパを楽しみ、次の朝、ゆっくり歩けば
1時間かかるという敷地内を探検してみることにしました。

敷石は巨大で歩きやすいのですが、うっかり石の端を踏むと
傾斜で躓いてしまうので、気をつけなければいけません。
慣れているはずのホテルのスタッフも、転ぶことが多々あるそうです。


古い石仏の足下に何かの実が備えられていますが、
これは庭内に常駐する「お庭番」が「映え」を意識して置いているようです。


このあたりを鷹峰地区と言いますが、この庭園は高峰山の裾に
抱かれるように存在しています。
各客室となっている建物のある平地から、ソーラーによる常夜灯が設置された
石段を登っていくと、平地を見下ろす高さに苔むした通路が伸びています。


鷹峰山に続くゆっくりした坂道を登っていくと、急に広い石段が現れました。
前の所有者が作ったのかどうかはわかりませんが、
単なる散歩コースとしてはえらく大掛かりな工事をしたものです。


とはいえ、金刀比羅神社の境内のような脚力体力を試される石段ではなく、
すぐに広場のような終着点に辿り着きます。

一体何にするために作ったのか、真ん中に石舞台のようなものがあり、
奥には山から湧き出す水が貯まる小さな貯水池があるだけ。
宿泊客の散歩以外の目的でこの場所が使われたことはないのでは、と思われました。

こういう壮大な「無駄」が時間に追われる日常から心を解き放ってくれます。


坂を降りてくると、ここにも湧き出る水の貯水池が。

チェックアウトは何やらよくわからない特典によって、
通常12時のところ、4時まで伸ばしてもらえました。



ホテルのコンシェルジュに相談したところ、
近隣のリゾートホテルのレストランや鳥料理の店を紹介してくれたので、
この鳥料理屋で親子丼を頂いてみました。


中は昔民家だった家の座敷に絨毯を敷いて、そこに土足で上がっていくので、
何かとてもいけないことをしているような気がしました。

肝心のお味ですが、京都にしては味が濃い親子丼でした。


昨日は粉雪がちらついたりして曇りがちな一日でしたが、
この日はきれいに晴れて青空の下の散歩が楽しめました。


昨日火を囲んでしばし語らったテラス。
火は一日中点されていつでも周りで暖を取ることができます。

2年前に泊まった伊勢志摩のアマネムにも、こんなテラスがあって、
食後に火を囲んだりしたものです。



上に見えているのがアマンの中で最もお高い部屋です。
値段を言うのは野暮ですが、一泊90万円台と言う噂です。


チェックアウトギリギリまでホテルを楽しむ魂胆満々で、
アフタヌーンティーを三人で一つ注文することにしました。

三人で順番に好きなものを取っていく方式です。
ここにも京都銘菓「花びらもち」のミニチュアがありますね。


アマン京都のアフタヌーンティなので、メインはみたらし団子。
カートでやってきて、炭火で少し炙った団子に、
味噌、餡、タレの三種類を選んでつけてもらえます。


わたしは赤味噌をつけていただきました。
三個の団子に一種類ずつ違うものを付けるのもありです。


お茶はアフタヌーンティについてくる一人分は飲み放題。
今回はサービスで全員にお抹茶を点ててくれました。

4時にチェックアウトした後、神戸のわたしの実家に向かい、
時節柄短時間の年始訪問を行いました。
母に孫の顔を見せてやれてよかったと思います。

その夜は、たまたまTOが宿泊券を持っていたため、
大阪の帝国ホテルに泊まりました。

ところで、このとき実家を出てからナビで大阪に向かったのですが、
もうすぐ到着というのに、様子がおかしい。

行けども行けども、全く大きなホテルがあるような街並みではないのです。
道は細いし、そもそも建ち並んでいるお店の名前が悉く怪しい。
「熟女なんとかヘルス」とか「聖リッチ女学園」とか。

「到着しました」と言われて横を見ると、確かにありましたよ。
大阪帝国ホテルが。
うーむ、大阪には帝国ホテルとは名のみ似て非なる帝国ホテルがあるのですね。
関西出身なのに知らんかったわ。

周りのいかがわしい?雰囲気から、てっきりこちらは時間制ホテルかと思いきや、
案外まともなビジネスホテルであることが後からわかりましたが、
これって帝国ホテル本家から文句出なかったのかしら。

それとも、大阪の帝国はこちらの方が先だったってこと?

無事本家に到着



来てみて昔泊まったことがあるのを思い出しました。
確か、MKをユニバーサルスタジオに連れて行った時だったかな。
夜頼んだマッサージのおばちゃんが、痛いだけで気持ち良くなくて、おまけに
痛いのは体が悪い証拠、みたいに言い放たれた記憶があります。


長距離ドライブの前に帝国の中華を!と思いつき、
簡単なコースを選んだら、付いてきた麻婆豆腐が激うまでした。

そして、そのまま順調に休憩もとりながら新東名をかっ飛ばしていたのですが、
ちょうど浜松に差し掛かった時、運転手であるわたしが
急に夕飯のことを思い出したため、高速を降りて鰻を食べることになりました。

TOが選んだ鰻屋を目指して山道をうねうねと降りて走っていき、
いつの間にか車は航空自衛隊浜松基地の横を走っていました。

なんと、航空自衛隊員御用達(に違いない)鰻屋だったのです。


鰻屋なのに、家の佇まいはまるで喫茶店のようにファンシー系でしたが、
一歩店に入ると、ちゃんと生簀には鰻がにょろにょろしておりました。

電話で予約したら、今から鰻を3本用意します、との返事。


そしてそれがこうなって出てきたというわけ。

わたしは白焼きの鰻重を選択しました。
あまりにも鰻が大きすぎて、全部食べられず、TOに手伝ってもらったほどです。


というわけで、最後を浜松の鰻で締め、我が家の京都旅行は無事に終わりました。





お正月京都旅行〜祇園料亭旅館編

2022-01-11 | お出かけ


MKの自粛期間は1月1日まででした。
1月2日なった途端、文字通り自粛明けましておめでとうございましたとばかりに、
三ヶ日を外して京都へ家族旅行に行ってまいりました。

つい最近紅葉を見に京都に行ったことをここでご報告したばかりなのですが、
関東在住の関西出身者にとって、京都というのは実に不思議な街で、
行かなければ行かないで平気なのに、一度行くと、なぜかすぐ来たくなるのです。

特にコロナ以降、すっかり外国人観光客がいなくなったため、
街が記憶に残る昔の姿に戻ったようで、京都愛は募るばかり。

今回お正月旅行に京都を選んだ理由はそれだけではありません。

この冬、わたしたちは、コロナで大学が閉鎖になった時に
カリフォルニアの豪邸にMKを1ヶ月も避難させてくれたクラスメートを、
日本に招待しようとしていました。

結局、コロナ新型株の蔓延でそれも計画だけに終わってしまったのですが、
彼に日本を存分に満喫してもらうつもりで、京都の宿を取ってあったので、
せっかくだから家族で泊まりに行こうということになったのです。

一泊めは前回と同じ、祇園の料理旅館の別館です。


こう見えて暗証番号解除式(木の札の下がタッチパネル)

今回は公共交通機関での移動を避けて、車で行くことにしました。
うちで免許を持っているのは他にいないので、運転はもちろんわたしです。

関東関西間の長距離ドライブは結婚して関東に引っ越ししたとき以来ですが、
その時とは違い、今では新東名、新名神が開通していて、
6時間もあれば京都に着くことを、いつも京都に車で帰省している知人に聞いて、
そんな早いなら、と思い切って車で出かけてみました。

道はまっすぐで制限時速が120キロと走りやすいし、混雑も全くなく、
何より途中のPAがどこに止まっても綺麗で施設が充実していて、
とても快適なドライブ旅行を楽しむことができました。

世の中っていつの間にかどんどん不便がなくなり便利に変わってるんだなあ。


余録というか、ついでに驚いたのは、自分の車の恐ろしいほどの燃費の良さでした。
愛車はクリーンを謳ったディーゼルエンジン搭載型なのですが、
ほぼ満タンで出発し、京都に着いた時にはまだ半分残っていました。
つまりその気になれば無給油で往復できたことになります。

しかも軽油なので、ガソリン代は往復してもせいぜい6,000円くらいという計算。





さて、今回もお世話になる祇園の料理旅館Sさん。
昔から続く老舗なので、こういうのも平安時代ものだったりするかもしれません。

ちなみにこの川にかかる橋は、現女将のお婆ちゃまが独断で設置したそうです。
一応橋というのは民間人が勝手にかけたり外したりしちゃいけないんですが、
そこはそれ、戦中のどさくさに、そら橋があった方が便利やし、ということで。

戦後、お役人が条例違反摘発の見回りに来て、いつから橋があるのか聞かれたとき、
お婆ちゃま、当時の当家女将は、

「そうどすなあ〜」

だけでケムに撒いて乗り切ったそうです。
これ、何も答えになったはらしませんやん。
言う方も言う方やけど、これで納得して帰る役人も役人やわ。


別館の玄関に飾られたお鏡は、なんと餅ではなくザボンでした。
確かにお餅と違い、松の内ずっと飾っていてもこれならカビが生えません。

ってそう言う理由かどうかは知りませんが。



料理旅館の床間のしつらえは季節毎に変わります。
今回は見た目もめでたい大徳寺の坊様の書いた書、松飾り、
そして炭を俵のように積み重ねて稲穂をかけたお飾りでした。


着いて最初にお茶菓子をいただきました。

お菓子は京都の人なら誰でも知っている、銘菓花びら餅。
中のピンク色の餡が透けて見える可愛らしいお餅で、
必ずゴボウが挟んであるのが標準仕様でございます。



荷物を置いた後、長時間の運転ですっかり硬くなってしまった足腰を動かすため、
MKと一緒に鴨川の河原を歩きに行きました。



上流に向かって歩いていくと、向こうまで渡れる飛石があったので、
向こう岸まで渡って河原を折り返して戻ろうと思ったのですが、
如何せん、わたしの履いていたスカートの裾幅が思っていたより狭く、
飛石を飛ぶのに十分なほど足が広げられないことが最初の跳躍でわかりました。

かろうじて最初の石に飛び移ったものの固まっているわたしに、MKは

「やめた方がいいよ。俺だけで行く」

と言い、さっさと向こう岸に渡ってしまったので、諦めて戻り、
川を挟んで反対側の河原を歩き、四条の橋の袂で落ち合いました。


部屋でPCのレイアウトをしたり、作業をしているうちに夕食時刻になり、
わたしたちは本館に向かいました。

玄関の右側が食事をいただくカウンターとなっています。
他のお座敷と違い、カウンターは掘り炬燵形式で床暖房が入っているので、
正座の苦手な外国人宿泊客にも優しい気遣いです。


お正月ということでまずは竹のお猪口で日本酒が出されました。


雛飾りのミニチュアでしか見たことがないようなお膳。
この会席膳を「八寸」と言い、これに乗って出されるお料理も八寸と呼びます。

ちなみに八寸を運んでいるのが当家の女将さんです。
CA出身の別嬪さんなので、その筋では有名人なのではないかと思っていましたが、
たまたま人から、彼女が関西放映のあるCMに出演していると聞いて、
やはりと納得しました。(空気清浄機か何かだそうです)

着物の模様に合わせた薄紅色のマスクをしておられますが、
今回彼女のマスクから出た目が必要以上に「笑っている」ことに気がつきました。

接客業の方は意識しているかもしれませんが、単なる愛想笑いだと
口元が歪むだけなので、マスクで隠されると笑っていることがわかりません。
客に心から笑っていると認識されるためには、彼女のように
全身全霊目で笑わなければ伝わらないのかもしれません。

京都のお客商売、プロの中のプロの真髄を垣間見た気がしました。



手前、松の葉にお菓子のように彩り良く色んなものが刺してありますが、
黒豆、千社唐、そして千呂木なるもので、これは「チョロギ」と読み、
ソフトクリームみたいな形の、生姜みたいな味のする物体です。
シソ科植物の根っこなのだそうですが、赤は染めてありオリジナルは白です。


向付(むこうづけ)は懐石料理の刺身,酢の物などのことです。
この日の向付は伊勢海老、モンゴウイカ、ヒラメのお造りでした。


鍋で出てくるわけではありませんが、「鍋物」です。
魚のメインで、河豚煮に聖護院大根と高菜があしらわれています。


この日の焼き物は鹿肉のロースステーキでした。
フランス料理以外で鹿肉を食べたのは初めてかもしれません。
和食料亭のステーキなので、ソースはバルサミコ酢ではなく黒酢です。
付け合わせは普通にリンゴのコンポートでした。


デザートは柚子に入ったゆずシャーベット、紅白イチゴ。
驚きの美味しさだったのはクリームチーズとナッツを乗せた干し柿でした。

この夜、MKは父親に連れて行ってもらって祇園のバーを初体験しました。
祇園には古い町屋の内部は思いっきりモダンなインテリアの
お洒落なバーがたくさんあるのです。


次の朝の朝食です。
わたしは日頃朝食抜きの生活をしていますが、今回だけは特別。
京都の料亭旅館のお雑煮が食べられる滅多にない機会なので、
わたしもTOも迷わずお雑煮付きの和食を選び、MKだけが洋食にしました。

箸袋にはちゃんと名前が書かれ、お膳に添えられた和紙には
女将が前日の会話などからヒントを得たメッセージが
毛筆で認められていて、食事の席に話題を提供します。

何気ない会話の時も、女将は頭脳をフル回転させているらしく、
このメッセージに頓珍漢なことが書かれることはまずありません。
記憶力も大したもので、夕食の会話の中で次の日の朝食について
メモも取らずに客のオーダーを聞くのですが、
(和食か洋食か、餅が何個だとか、コーヒー紅茶どちらにするかとか)
それが間違えて出てきたことは一度もありません。


そもそもわたしは雑煮というものを好きでも嫌いでもないのですが、
京都の白味噌仕立ての雑煮だけはなかなかいいものだと思っています。

お餅を焼いて入れる地方もあるようですが、京都では丸餅は
湯通しするだけで煮るので、あくまでもとろけるような柔らかさ。

この旅館がそうしているのかどうかは聞きませんでしたが、
京都では毎年、をけら参りで頂いたおくどさんの火を、
雑煮を作るために縄に点して持って帰るという慣習があります。

なぜに京都のお雑煮は白味噌かというと、それは神様が白色がお好きだから。
なぜ丸餅かというと、角がなく円満でありますようにという意味があります。

さらに京都の歳神様は生臭いものがお嫌いのようなので、
出汁も昆布で取ると決まっているのだとか。

同じ神様と言っても地方とご利益によってお好みも色々のようで、
西宮戎の神様は生臭いもんどころか、マグロ一体奉納されてますが。



ところでこの旅館は、海外にも多くのファンを持っていることで有名です。

女将によると、あるドイツのお客様は、毎年必ずやってきて
この旅館に泊まり、夜は舞妓ちゃん芸妓ちゃんを引き連れて、
彼女らにご馳走するのが生きがいだという、ある意味ディープな日本通でしたが、
コロナ禍以降、その無上の喜びがどんどん後回しになっていき、
半年先を予約してはそれがダメになってガックリ、を何度も繰り返しておられ、
女将もお断りしなければならないのがとても辛い、と言っておられました。

日本人なら何とか規制の間隙を縫って「京都欲」を満たすことができますが、
海外のファンは全くその道が閉ざされ、随分寂しい思いをしているようです。
せめて今年は海外からの客を受け入れられるようになってほしいものです。

もしそうなったら、MKは3月にクラスメートを招待したいと言っていますが、
こちらもどうなりますことやら。


さて、女将がわたしの朝食膳のメッセージに書いてくれた言葉とは、

「京都の奥座敷のアマンまでお気をつけて運転なさって下さいませ」

その時の女将の言葉はこうでした。

「外に出るのは勿体無い、ずっと中を楽しむのがええ思います」

我々の京都旅の二日目は、現代の京都の(ある意味)秘境、アマン京都でした。





CH-53A シースタリオン〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-01-08 | 航空機

■ シコルスキ CH-53A シースタリオン Sea Stallion
 
展示ヤードにその姿があり、現地には説明の看板がありながら、
なぜかフライング・レザーネック航空博物館のHPには
影も形もその存在がないという不可思議なことになっていますが、
気を落とさず説明していきたいと思います。


CH-53Dシースタリオンは、海兵隊で使用されている中量輸送用ヘリコプターです。
もともと海兵隊ように開発されたもので、現在は
ドイツ、イラン、イスラエル、メキシコで運用されています。

そのミッションはというと、海兵隊任務部隊などを支援するために
重機、人員、物資をヘリコプター輸送することで、
1962年から運用するために発注されました。

シコルスキのヘリコプターの中では最大級の大きさであり、
従来の固定翼機に匹敵する耐荷重能力を備えていました。

【誕生までの経緯】

1960年、アメリカ海兵隊はHR2Sヘリコプターの後継機を探し始めていました。

1961年から陸海空軍は合同で
三軍VTOL輸送機”Tri-Service VTOL transport”
の開発を開始していましたが、
設計はあれこれと複雑になるわ、計画は長引くわで、
これでは満足のいく時間内に実用機を受け取ることができないとして、
結局海兵隊はこの計画からいち抜けたーと脱退しています。

このときですが、結果的にはヴォート・エアクラフトXC-142という
超かっこ悪いティルトウィング垂直離着陸機が
世界で初めて誕生しています。


「どすこ〜い」

XC-142Aは5機製造されましたが、そのどれもが事故を起こし、
うち3機が失われ、実用化には至りませんでしたから、
いちはやくこの計画から足抜けした海兵隊は、慧眼だったか、
あるいは危機を見抜く力があったということなのでしょうか。

この機体、わたしはオハイオ州はデイトンの
国立アメリカ空軍博物館で実際に見ているはずなんですが、
データをいくら探しても出てきません。


VTOL機に見切りをつけた海兵隊ですが、海軍兵器局が
1962年3月、海兵隊に代わって、海兵隊のために
「ヘビー・ヘリコプター・エクスペリメンタル/HH(X)」
の要求を提出しました。
その要求は、

「航続距離120マイル、最高速度170マイル、最大8,000ポンドの貨物、
乗客、医療用リッターを持ち上げることができる
マルチロール・ヘリコプター・プラットフォーム」

というもので、強襲輸送では、兵員ではなく重装備の運搬ができること。

この「豪勢な」要求にはいくつかの企業が飛びつきました。
ボーイング・バートル社はCH-47チヌークの改良型を、
カマン・エアクラフト社は英国フェアリー・ロトダイン複合ヘリの開発型を。

そしてシコルスキー社は長年ヘリコプターの飛行に携わってきた経験から、
大型の実用機CH-54「ターレ」とS-64「スカイクレーン」をもとに、
CH-54/S-64と同様の頑丈さと柔軟なシステムを備えた機体に
新しいエンジンを積んだS-65を提案しました。

ボーイング・バートル社とシコルスキー社の競争は激しく、
チヌークはアメリカ陸軍が保有して評価を得ていたこともあって有利でしたが、
最終的にシコルスキー社が落札しました。

【製作】

海兵隊は当初、4機の試作機を調達しようとしていましたが、
苦しい懐具合を忖度したシコルスキー社が、
契約をキャンセルさせないように開発費の見積もりを下げ、
2機だけにすれば安くですみますけど?と提案しました。

当時のアメリカ国防長官ロバート・S・マクナマラは、
チヌークを共同で運用すれば費用の面でもお得で便利、と考えていたため、
この計画に対して圧力をかけてきたそうです。
海兵隊はこれに対し、
「チヌークを改造するのは安くない、かえって費用がかかる」
とマクナマラ側を説得し、要求を通しました。


こういった政治的な側面や技術面が進捗を遅らせたため、
コネチカット州にあるシコルスキー社の工場で
初号機が初飛行を行ったとき、当初の予定より約4ヶ月遅れていました。

2,860軸馬力のT64-GE-3シリーズのターボシャフト・エンジンが2基搭載された、
CH-53「シースタリオン」ヘリコプターは、飛行試験中にもかかわらず、
すでに米海兵隊は16機を発注していました。

飛行試験は予想以上に順調に進み、開発期間の遅れを取り戻すことができ、
1964年は一般公開の運びとなりました。
CH-53Aシースタリオン
という軍用呼称と名前が付けられたのもこの頃で、
約2年後には初めてベトナム戦争の実戦部隊に参加しています。

Sea stallionというのはタツノオトシゴのシーホースと違い、
完全な造語で、スタリオンは「種馬」の意味です。

海軍&海兵隊使用のヘリには「Sea」が付くことになっていますが、
馬は馬でも、英語では猛々しく雄々しいイメージの
「スタリオン」を持ってきたところに「シーホース」からの発展性を感じますね。



【仕様】

CH-53の外観は、ヘリコプターとしてはオーソドックスなレイアウトといえます。
コックピットのフライトデッキは前方に大きく張り出したデザインで、
機体の外側を見渡せるようにガラス張りの窓で覆われています。



フライトデッキには2名のパイロットが配置され、
胴体側面のドアからアクセスします。

コックピットの真後ろには、重機関銃を搭載できる武器ステーションが2つ。
各砲手が任務を行うためのオープンエアの四角いポートが与えられています。

CH-53の胴体はもちろん幅よりも全長が長いですが。
この正面を見てお分かりのように、実に堂々とした顔つきです。

胴体から突き出たサイドスポンソンによって幅が広くなり、
外部燃料タンクをさらにその外側に搭載して航続距離を伸ばすことができました。

エンジンは胴体上部の側面、前方よりにマウントされています。
6枚羽根のメインローターマストは胴体に密着し、
胴体の屋根から突き出たエンジンルームの固定具の上に乗せられます。

タラップは電動で下降し、タラップの端には銃座を設置することも可能。
貨物室は広く、武装した兵士は向かい合って2列に座るようになっています。

シースタリオンはGPSセンサーを内蔵しており、
キットとして7.62mmと50口径の銃が搭載されています。
通信はUHF/VHF/HF無線、セキュア通信機能、IFFを搭載しています。


シースタリオンは、同じシコルスキー社の
S-61R/ジョリー・グリーン・ジャイアントシリーズにデザインが似ているので、
「スーパー・ジョリー・グリーンジャイアント」とあだ名がつけられました。

コックピットの後ろの胴体右側には乗客用のドアがあり、
後部には動力式の荷台が付いています。
水陸両用を目的としたものではありませんが、胴体は水密性があるので
緊急時にのみ着水することができました。

操縦機能については、3つの独立した油圧システムが使われています。

乗員はパイロット、副操縦士、クルーチーフ、空中監視員の4名の乗員、
兵員は38名、4名の医療従事者というのが基本のセットです。

搭載貨物は内部に3,600kg、外部にスリングフックで吊るして
5,900kgを搭載することができました。

艦艇に搭載できるように、テールブームとローターは折りたたみ式。



CH-53DにはAN/ALE-39チャフディスペンサーや
AN/ALQ-157赤外線対策などの防御対策が施されています。

【空軍・海軍での運用】

CH-53は、1967年の1月には早くもベトナムの戦場に到着していました。
ベトナム戦争シリーズで何度も書きましたが、ベトナムの暑いジャングルの中、
敵はどこにでも潜み、どこからでも出てくるかに思われたようです。
しかも彼らはソ連の支援を受けていました。

CH-53はすぐに実戦の「洗礼」を受けることになりました。

しかし一旦任務に就くと、CH-53は比較的信頼性が高く、
頑丈であることが証明されました。

当初期待された仕様通りに撃墜された飛行士を救出し、
大量の貨物や兵員をホットゾーンに出入りさせ、
必要に応じて負傷者を安全地帯まで移動させることができたのです。

ベトナム戦争期間、全部で139機のCH-53Aが製造されました。
あの「フリークェント・ウインド(頻繁な風)」作戦では、
人員の避難を行うなど重要な役目を果たしたのもシースタリオンです。

海兵隊は1980年にイランで行われたアメリカ人人質救出作戦
「イーグルクロウ」
では、海兵隊の回転翼部隊が出動しましたが
ヘリコプターが激突炎上し「デザート・ワン」は惨事と恥辱に終わりました。


また、海兵隊のCH-53はグレナダ侵攻における
「アージェント・フューリー」作戦で使用されました。


アメリカ空軍も、この大型輸送ヘリコプターに注目しました。
1966年に最初の8機(HH-53B)を発注しました。
「スーパー・ジョリー・グリーン・ジャイアント」と名付けたのは空軍です。
もともとこのグリーンジャイアントは、
墜落した飛行士の捜索救出のために特別に改造された戦闘救助機でした。

救助活動中のHH-53C

改良された「グリーン」系のHH-53Cは、空中給油できるプローブと
さらに外部燃料タンクによって作戦範囲が改善されていました。

味方のパイロットは敵地のはるか遠くで墜落する可能性が高かったからです。

アメリカ空軍のスタリオンは、ベトナム戦争末期以降も運用されたが、
その目的はパイロット救出の一点にありました。
燃料補給プローブ、チャフ/フレアディスペンサー、
装甲を備えた広範なジャマー群も搭載され、
サーチ&レスキュー機能を向上させるためのサーチライト、
電動ホイストも追加されています。

空軍では、1970年にアイボリーコースト作戦として、
北ベトナム収容所のSS「マヤグエス」の乗組員を救助するため
海兵隊と空軍保安部隊を乗せて飛びました。

アメリカ海軍もいわば「CH-53のブームに乗った」形です。
1971年、海軍はシースタリオンを空挺掃海艇として使用するために、
15機のCH-53Aモデルをアメリカ海兵隊から直接受け取っています。



これらは米海軍では「RH-53A」と呼ばれ、
より強力なターボシャフトエンジン(各3,925軸馬力)、機雷除去装置、
水中の機雷掃討用のの12.7mmブローニング重機関銃2挺を搭載していました。

その後、アメリカ海軍はCH-53Dを「RH-53D」として30機納入し、
再び掃海任務に使用しています。
CH-53Dの登場により、米海軍はRH-53Aを米海兵隊に返還し、
これらは元の米海兵隊のCH-53Aの規格に戻されました。

アメリカ海軍は最終的にRH-53Dモデルを、
より近代的なMH-53E「シードラゴン」に変更しました。
CH-53E「スーパースタリオン」は、初代「シースタリオン」を
さらに強力にしたもので、第3のエンジンを搭載し、運搬能力が向上しています。

「シードラゴン」というのはタツノオトシゴ的な生物ですが、
「スーパースタリオン」(超種馬)ってすごいネーミングなだあ。
もはや「海」何も関係ないっていうね。

かっこよすぎか


また、VIP輸送用の「VH-53F」もあります。

イラクでのフリーダム戦争では、CH-53は空軍、
アメリカ海兵隊、アメリカ海軍によって運用されました。
「不朽の自由作戦」の支援でも三軍全てで運用されています。

2012年、CH-53Dがアフガン地域で最後の任務を行いました。

2007年9月17日、海兵隊は10機のMV-22Bオスプレイを配備しました。
今後海兵隊のCH-53DとCH-46Eシーナイツの主要な代替機となっていく予定です。

ただし、パワフルなCH-53Eは代替せず、代わりに
開発中のCH-53Kが海軍と海兵隊のCH-53Eに取って代わる予定で、
いくつかのCH-53Dヘリコプターは第3海兵連隊の訓練用に残されます。

最後のCH-53Dは2012年11月に退役しました。


サービス USMC

推進力:2基のGE T64-GE-413ターボシャフトエンジン
対気速度:160ノット
航続距離:578nm
乗組員:クルー パイロット2名、乗務員1名
武装:3挺の50口径機関銃
積載量:兵員37名または24名の患者・4名の付添い人、
または8,000ポンドの貨物

続く。





鹵獲されたイラク軍の「ヒューイ」〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-01-05 | 航空機

フライング・レザーネック航空博物館の展示ですが、
HPで紹介されているのに現地になかったり、逆にHPにはあるのに
撮ってきた写真のどこにも機体が見当たらない、という例がいくつかありました。

修理中だったのか、それとも別の博物館に移転していたのか
今となってはわかりませんが、今日ご紹介する機体は、
HPにその名前があって、展示機もその名前であるのは確かなのに、
実物はどう見てもHPのものとは違う、という特殊な例です。


■ ベル UH-1N

冒頭写真はわたしが撮ってきた写真ですが、HPに載っていたのはこれ。



どちらもUH-1N ヒューイに見えますが、
そもそも色が違う。大きさが違うし窓の数も違う。

しかし、とりあえずこちらを先に説明しておきます。

【ベル UH-1 イロコイス(愛称:ヒューイ)】

単一のターボシャフトエンジンを搭載し、
2枚羽根のメインローターとテールローターを備えた
軍用ユーティリティヘリコプターです。

1952年にアメリカ陸軍が、医療搬送と実用性を兼ね備えたヘリコプターを
ベル・ヘリコプター社に要求し、1956年に初飛行しました。

UH-1は米軍初のタービン式ヘリコプターであり、
1960年以降16,000機以上が製造されています。

イロコイは当初HU-1だったことで1をiと読み「ヒューイ」と呼ばれていましたが、
1962年に正式にUH-1に再指定されたにもかかわらず、
ヒューイの愛称はそのまま変わらずに親しまれてきました。

UH-1はベトナム戦争で初めて実戦投入され、約7,000機が配備されました。

【ベトナム戦争とヒューイ】

1962年、海兵隊は、セスナO-1固定翼機カマンOH-43Dヘリコプターに代わる
突撃支援ヘリコプターの選定コンペを行いました。
優勝したのは、すでに陸軍で運用されていたUH-1Bです。

このシングルエンジンのヘリコプターはUH-1Eと名付けられ、
海兵隊の要求に合わせて改良されました。

主な変更点は、海上使用に備えて耐腐食性に優れたオールアルミ製の採用、
海兵隊の地上周波数に対応した無線機
停止時にローターを素早く停止させるための艦上用ローターブレーキ
そして屋根に取り付けられたレスキューホイストなどです。

UH-1イロコイ(またはヒューイ)ヘリコプターは、
ベトナム戦争のイメージそのもの、と言っても過言ではないでしょう。

そのイメージのほとんどは、ヒューイの全艦隊が任務地に向かって、
または任務地から飛びたつ姿です。

ガンシップは固定翼機の支援を補うために使われ、
着陸地点の調査や周辺の敵軍の排除を行います。
そしてその後、輸送機が兵員を運びこむのです。

地上での戦いでは、これらのヘリコプターが残って地上支援を行ったり、
負傷者を救出したりしました。
時にはジェット機の接近戦を支援することもありました。
まさにアメリカ軍の主力機であり、あらゆる戦略に対応できたのです。

UH-1は、第二次世界大戦以来、最も多く生産された航空機となりました。


UH-1Nは、ベル205の胴体を伸ばした機体をベースに開発されました。
もともとは1968年にカナダ軍(CF)向けに開発されたもので、
CUH-1Nツインヒューイという名称でした。

しかし、カナダの下院軍事委員会の委員長が、米軍用機の購入に反対して、
この計画はポシャってしまいました。
委員長が反対した理由は、プラット&ホイットニー・カナダPT6Tエンジン
そのときカナダで生産されていたからでした。

しかも当時のカナダ政府は、アメリカのベトナム参戦を支持しておらず
それどころか、アメリカの徴兵逃れをした人を受け入れていたのです。

そこで米国議会は、アメリカ軍の購入を承認したというわけです。

UH-1Nの海兵隊への納入は1971年に始まり、それから43年間
活躍したUH-1Nイロコイは、2014年9月になってようやく退役しました。

海兵隊ライト・アタック・ヘリコプター飛行隊773は、
これを運用した最後の海兵隊で、最後の派遣を2013年まで行なっていました。

その後UH-1NはアップグレードされたUH-1Yヴェノムに置き換えられます。
海兵隊によるUH-1Nの最後の戦闘配備は2010年のアフガニスタンでした。

FLAMのUH-1N(BuNo.159198)は、1974年アメリカ海兵隊に受け入れられ、バージニア州MCAFクアンティコのHMX-1に
「兵器システム評価機」として派遣され、その後は
新しいヒューイのパイロットとクルーの訓練に使われていました。

2010年4月26日に退役して、その時からここに展示されていたようです。
(ただしこのときには戸外にはでていませんでした)





さて。
それではこちらのヒューイ的なヘリコプターです。

「HAHAHAHAHAHAHA」
というアテレコをしたくなる顔の表情ですが、
これ、さっきのと顔が違いますよね。
現地展示機の方が口角上がってるし。

それでは、運良く現地の説明を忘れずに撮ってくることができたので、
それを翻訳しておきましょう。

【ベル214ST(スーパートランスポーター)】

ベル214STは、ベル・ヘリコプターのVH-Aヒューイシリーズから派生した
ミディアムリフトのツインエンジンヘリコプターです。

なんだ、同じヒューイの仲間だけど、全く別のヘリだったのね。

ベル214というのはUH−1ヒューイのエンジン強化型で、
「ヒューイプラス」と呼ばれていましたが、この214STは
されにそのエンジンを双発にし、大型にした、いうならば
「特大型ヒューイプラス」というべき機体です。
もちろん、そう呼ばれていたわけではありませんので念のため。

STはスーパートランスポーターのことですが、
元々は「Stretched Twin」から来ていたそうです。
さすがにストレッチツインは意味がわかりません。
「ストレッチする双子」・・・?

214と214 STは同じ番号でありながら全く外観が違います。


わたしには「全く違う」と言われても、そんなもんですかという感じですが、
言われてみれば、確かにローターの付いているところが違うかな。

そもそも「ヒューイプラス」なるヘリの存在は聞いたこともないのですが、
それはなぜだと思います?

214STは、もともとベル214B「ビッグリフター」をもとにした
軍事プロジェクトとして開発され、
イランでの生産を行うためにイラン政府によって資金提供を受けているのです。


【イラク革命とヘリの製造】


なるほど!
それで初めてこのペイントがイラン国籍機を意味するのだとわかったわたしです。
ピンクがかった機体の色も、砂漠での運用に合わせた仕様だったんですね。


尾翼にも思いっきり国旗ペイント。
ちょっとデザイン的にここに国旗をあしらうのはどうかなと思いますが。

214STの暫定的なプロトタイプは1977年2月、テキサスで最初に飛行しました。
しかし、
「1979年、シャーが転覆します」

シャー?ガンダムかな?

というベタなボケは無視していただくとして、
シャー(shāh شاه)は、「王」を意味するペルシア語、または王、
それもイラン系の王の称号のことです。

それくらいは一般常識として知っていましたが、
「転覆=withdraw」の意味がわからず、わたしはここではたと困りました。

もしかしたらわたしだけかもしれませんが、総じて日本人って、
中東とかアラブとかの歴史や出来事があまり理解できていないってことないですか?

というわけで「シャーの失脚」と言われても全くピンとこない上に、
検索すると子猫が「シャー!」とやっている画像が出てきたりするもんですから、
ついそちらに時間をとられてしまいながらもなんとかわかったところによると。

1979年2月11日、この日は「中東を変えた歴史的な出来事」または
「アメリカとイランの敵対の歴史が始まった日」
つまり、「イラン革命の日」だったのです。


かつてのイランは今とは違い、シャーが支配する王政の国でした。

「最後のシャー」となったパフラヴィー2世は親米でしたが、
これに国内の民族主義勢力が反発します。

1951年、民族主義者のモサデグ氏が首相に就任し、石油の国有化を宣言しますが、当然のことながらアメリカはこれに烈火の如く怒り心頭。
ありがちなことですがCIAなどの工作によって、クーデタを起こさせて
首相を失脚させ、親米のパフラヴィー2世に再び実権を戻してしまいます。

つまりアメリカはイランを中東における“反共の砦”にし、
石油資本をメジャーに握らせることに一旦は成功したというわけです。

このアメリカとの蜜月期間、パフラヴィー2世は、豊富な石油マネーをもとに
軍備拡張やさらなる近代化を進めますが、その弊害で農村は疲弊。
インフレが発生し、国民の間では次第に経済的な不満が高まっていきます。

そして反政府デモの弾圧をきっかけに暴動が拡大し、
1979年、パフラヴィー2世はついに国外に脱出、王政は崩壊しました。

この後パリに亡命していた宗教指導者ホメイニ師がイランに凱旋帰国して
反米路線を掲げる「イラン=イスラム共和国」が成立しました。

その後、パフラヴィー2世の受入をアメリカが認めたことを受けて、
アメリカに反発したホメイニ支持の学生たちがテヘランのアメリカ大使館を襲撃。
1年以上も大使館員とその家族52人を人質にとる事件、
アメリカ大使館人質事件が起きたのは、強烈な記憶にある人も多いでしょう。

その後のイラン=イラク戦争も、隣国イラクのサダム・フセイン
アメリカの支援の下、革命の混乱に乗じてイランに侵攻したのがきっかけです。

つまり、その後の世界におけるアメリカと中東の今日に至る齟齬は、
全てこの1979年の革命をきっかけに始まっていると
いうわけです。

まあ、それまでの、大国と仲良くしてもらう代わりにオイルを搾取される関係を
そもそも平和な状態と呼べるのか
、という説もありますがね。

ついつい、大東亜戦争に突入するまでの日本の追い詰められ方と、
この新米政権下のイラン国内の疲弊の構図を重ねてしまうわたしです。


【革命後の設計変更】

話を戻しましょう。

新米政権が倒れたので、ベル・エアクラフトは生産計画の変更を余儀なくされます。
イラン国内から生産を撤退し、ダラスのフォートワースの施設で
残りの214STを建造しました。

1981年から始まった製造に続き、1982年に納入が開始されました。
(どこに?って、それはイラン軍だったのではないかと思いますが)

その際、ベル214STにはスタンダードな214からの設計変更がありました。
より機体が大型化し、胴体が伸びて、10〜18人の乗員用の座席を備え、エンジンは
1.625shp(1.212kW)のゼネラルエレクトリックCT7-2Aを2基積んでいました。

このヘリコプターは、いくつかのground-breakingな、
つまり画期的なベル社の革新をもたらすものでした。

それは、「1時間の乾式トランスミッション」(残念ながら意味不明)
そしてファイバーグラス素材のローターブレード
エラストマー樹脂(ゴムの種類)のローターヘッドベアリング
スキッドかウィール型か選べるランディングギアなどの採用などであり、
コクピット用のドアと両側の大きなキャビンドアが独立していたことでした。

燃料上限は435ガロン(1646L)で、燃料は増槽が追加できます。
これからもわかるように、この機体はベルで製造された最大のヘリコプターでした。

ベルは最終的に100機の214STを製造しました。
軍用バージョンとして製造されたものは、イラク、
ブルネイ、ペルー、タイ、ベネズエラなどに配送されました。

1991年には生産を終了し、機体はベル230におきかえられていくことになります。

【FLAMのBell214ST】

この特別な214ST(シリアル番号28116)は、
1980年代にイラク政府によって購入され、「砂漠の嵐」のときには
イラク軍のヘリとして任務を行なっていました。

1991年2月27日の朝、海兵隊第1師団の部隊が
クェート国際空港に入り、掃討を開始した時です。
燃え尽きた航空機と破壊された建物の真っ只中に、
(他人事みたいな言い方ですが、そもそもこの破壊をしたのはアメリカだよね)
イラクのマーキングを施したほとんど真新しいベル214STがあったのです。

第一師団の海兵隊員たちは、すぐにこの歴史的機体の「鹵獲」を主張し、
アメリカに「送り返す」手配をしました。

ヘリコプターは、「砂漠の嵐」における海兵隊員の
卓越した支援に対する感謝の印として、
その後、ここMCASエルトロに拠点を置く
第3海兵師団(第3海兵航空団)に与えられました。

このベル214STは、捕獲されたとき750時間の飛行距離を記録していました。
現在の価格は250万ドル以上ということです。


続く。





明けましておめでとうございます。

2022-01-03 | 自衛隊

新年早々映画の紹介がずれ込んだので、毎年恒例の
写真年賀状シリーズと参ります。

今年は、年末年始が帰国してきたMKの自粛期間と重なることもあって、
お出かけが4日からになったのですが、いつも現場に参戦しては
自衛隊の写真をくださるKさんが、今年は横須賀軍港のお正月風景を
ご覧のように素敵に撮影して送ってくださったので、
ぜひ皆様に見ていただきたく、ご紹介します。

冒頭の写真ですが、潜水艦にもちゃんとお正月飾りを付けるんですね。
他の艦もどこかに注連飾りしていたりするんでしょうか。



この写真、いったいどこから撮影されたのでしょうか。
「いずも」甲板にはF -35戦闘機発着用に黄色いラインが書き加えられているとか。



仲良く並んでいる101「むらさめ」と154「あまぎり」ですが、
看板号の塗装がずいぶん違っている、とのこと。
単純に「塗装前塗装後」っていうことではないってことなんですか?

Kさんによると、海上自衛隊ではロービジ化が進んでいて、
艦番号は白文字から目立たない灰色に変更されて行っているということです。


お正月なので流石の海自もこの日は訓練はお休みだったんでしょうか。



いつもの場所のレーガン先生、補修工事真っ最中。


さて、Kさんによると、コロナのせいで昨年は
「腰のひけたことを繰り返しただけの一年」だったということです。

ただ、わたしはこれが悪いことばかりだったとは思いません。
コロナで全ての公開イベントなどがなくなったこともです。
今後、爆発的な感染が形を潜めても、しばらく人の集まるようなイベントは
自衛隊においても自粛の方向でしょう。

そして、世の中がすっかりコロナ前に戻る、ということはいろんな意味で
もう期待しないほうがいいとわたしは思います。

従前、イベントが昨今過熱気味で、例えば観艦式や総火演などでは
多数の入場券がネットオークションで高額で取引されるなど、
何かとよからぬ問題も起こっていたことを考えると、この自粛傾向を奇貨として、
新しい形の自衛隊広報活動を模索することも可能なのではないでしょうか。

広報活動は自衛隊にとって重要ですが、あくまで最優先の任務ではないのですから。



令和四年年初め 旧年度お絵かき作品ギャラリー

2022-01-02 | 映画

平成三年度に制作したイラストを一挙に紹介する恒例のお絵かきギャラリー、
改めて紹介した映画の内容を振り返りながらアップしてきましたが、
ようやく最後になります。

東支那海の女傑
戦争映画に名を借りた戦後スパイアクション

前編 中編 後編
当作品はディアゴスティーニの「戦争映画コレクション」の一つでしたが、
日本軍が登場し、戦闘シーンも一応あるのに、なぜか戦争映画に思えない、
という、あの昭和の時代の東宝作品特有の世界感に支配されています。

また、主人公である天知茂が、軍人にしては必要以上の
男の色気みたいなのを振りまいているせいもあって、決してそうではないのに、
わたしなど一連の天知茂戦争ものに「エログロナンセンス」という言葉を
失礼にも思い浮かべてしまうのでした。

天地の相手役は、東宝の社長大蔵貢の愛人として有名だった高倉みゆきで、
つまりこの映画は社長が自分の愛人をヒロインとして企画した、
完全に公私混同作品ということになります。

戦争映画のヒロインというと、一般的には、主人公の軍人の帰りを待つ女性とか、
従軍看護師あたりが相場ですが、この映画に限り、
女主人公は男顔負けの立ち回りをする派手な役である必要があったので、
「支那海を根城にする海賊の女頭領」なんてキャラをぶち上げたというわけです。

確かにこの設定は、オリジナリティという点では際立っています。
日中戦争時代の大陸なら日本人が登場しても不思議ではありませんし、かつ
波乱万丈でロマンを感じさせる冒険映画としての舞台装置としてはバッチリです。

しかしながら、これに無理やり帝国海軍と絡ませたため、
海軍的にはあり得ないことの連続になってしまいました。

まず、天知茂演じる一階の海軍大尉が特務機関から受けた密命というのが、
国家予算に相当する時価総額のダイヤを日本に運ぶこと。
一応そのダイヤは日本国民の資産ということになっていますが、
なぜそれが中国にあって海軍が持って帰るのかって話ですよ。

そのダイヤを日本に運ぶのに軍艦が使用されるだけなら問題はなかったのですが、
なぜか天知茂は東支那海に跋扈する海賊からダイヤを守るため、
驚くことに一大尉の分際で独断で海賊軍に軍艦を売ってしまいます。

そのときも散々ツッコんだのですが、警備艦とはいえ軍艦なのだから、
そのまま普通に東支那海をぶっちぎればいいのに、所有権を海賊に譲渡し、
剰えそれを操艦させ、女頭領に指揮を取らせるという展開がどうも納得いきません。

一番これはあかんと思ったのは、いつの間にか高倉みゆきが
軍艦「呉竹」の名前を「泰明」号なんていうラーメン屋の屋号みたいなのに変え、
艦橋で攻撃の指揮まで執り出した時でしたね。

何しろ彼女は、女性、中国人(おまけに海賊)という、この頃の日本男児にとって
最も命令されたくなさそうな条件を三つ兼ね備えているんですから。



東宝スパイ映画(的なもの)のお約束、それは軍人を演じる我らが天知茂と、
スパイとか海賊という怪しい立場の女性が恋に落ちるという展開です。

その際、天知茂はわたしの知るかぎり、必ずと言っていいほど
その女性に対し、ツッコミどころ満載の名言を残してくれます。

あの世紀の新東宝名作「謎の戦艦陸奥」での天知茂の相手役は
女スパイであるバーのマダムですが、彼女の「陸奥」の造船技師だった父は
スパイの疑いをかけられて銃殺され、なぜか「陸奥」を憎んでいます。

繰り返します。

海軍ではなく、彼女が憎んでいるというのは戦艦「陸奥」なのです。
それに対し、部下にも「陸奥」大好きっ子を公言して憚らない副長の彼が
マダムに向かって投げかける謎のセリフがこれ。

「私は陸奥を愛している。
だから君も嫌いにならないでほしい」

そしてこの映画では、海賊の女頭領に向かってこんな問題発言を・・・。

「僕はあなたをそんな人だとは思いませんでした。
もっと・・・女らしいひとだと思いたかった」

「なぜもっと女らしい道を選ばないんです!」

好きになった途端、流し目しながら自分の好み視点で説教から入る天知茂。
もう最高です。

さて、映画では陛下の御船たる帝国海軍の軍艦を、
よりによって中国海賊に売り渡してしまい、名義が譲渡されると、
帝国海軍軍人が海賊どもに操艦ができるように訓練が行われるという、
とんでもない展開となって驚かせてくれます。

昨年末ご紹介した呉越同潜水艦映画、「Uボート最後の決断」では、
成り行き上、手を取り合ってUボートの操艦を余儀なくされた米独の潜水艦乗員が
同じ作業を通じて互いの間にいつしか同志的な連帯が生まれるという
実に映画的なストーリーとなっていましたが、この時には、
中国人海賊は所詮海賊、帝国海軍の軍艦を操艦する作業はあまりに過酷で、
最後まで「呉竹」乗員はダメ出しを続けていました。

しかもその後、海賊たちは張啓烈の反乱に付き合って全員が決起し、
あっという間に掃討されてしまうのです。
この反乱のどさくさに、軍艦はいつの間にか海軍の手に戻っているのですが、
売ったのなら所有権はまだ海賊(高倉みゆき)にあるはずなんだがな。

しかも、その軍艦を、中国海軍の艦隊に囲まれた途端、
艦長が一人残って自沈させてしまうという展開に・・。

その後海賊の女頭領は、なぜか一族郎党を見捨てて、
日本に天知茂と一緒に渡り、幸せに暮らしましたとさ。

めでたしめでたし。

と言いたいところですが、初期設定の「ダイヤを持ち運ぶ」という密命は
いつの間にか彼らの中でどうでも良くなっていたとみえ、
天知茂は、ダイヤを「呉竹」から持ち出さないまま内火艇に乗り込み、
そのまま日本にさっさと向かっております。


マーフィーの戦争 Murphy's War
”何もかもがうまくいかなかった” 超大作映画



明らかに「マーフィーの法則」を想起させるタイトルなので、
こちらもマーフィーの法則と絡めて解説してみました。

自分が乗っていた船を沈めたUボートに、周りがドン引きするほど執拗に、
しかもたった一人で戦争を挑む、マーフィーという男の話です。

この映画が専門家からも一般大衆からも全く評価されず、
予算をかけた割に全くヒットしなかったのはなぜだろうか、
ということを、「映画ヒットのセオリー」を紐解いてまで
解明しようと試みたという意味で、当ブログにとっても画期的な作品です。

実際のバラオ級潜水艦にダズル迷彩を施して、
ベネズエラ海軍に操艦などの協力を得て、さらには水上艇の飛行シーン、
クレーンをUボートに落とすシーンなど、何かとお金をかけたのに、
如何せんキャラクターに魅力がなく、人物描写が杜撰なため、
全く主人公のマーフィーの必然性のない行動に誰もが共感が持てなかったから、
というのがわたしの分析した映画失敗(って言っちゃう)の原因です。

この映画は主人公を演じたピーター・オトゥールの実際の妻である
シアン・フィリップスが女医の役で共演しています。
二人が実際の夫婦だからか、二人の間にはラブシーンはなく、
役の上で恋愛関係に陥るという展開にはなりませんが、
わたしが思うに、そのせいでどうにも画面に緊張感が感じられません。

共演後に結婚に至るならともかく、すでに連れ添って長い二人が共演しても
映画はあまり成功しないというのはあながち嘘ではないと思いました。


映画がヒットするには、「セーブザキャットの法則」が必要と言われています。
そこで当ブログでは、この映画がヒットしなかったわけを、
この猫救いの法則に照らしてみました。

すると、その結果、主人公があるきっかけで行動を起こす前に、それに対して
抵抗したり逡巡したりする、という過程が欠けていることがわかりました。

つまり、マーフィーがなぜ偏執的な復讐者となったのかについて、
全く躊躇いも自省もなかった、というわけで、そんな人物描写の雑さが
観ているものに共感を与えにくいという結論に至ったのです。

”危険物は必ず落ちてほしくないところに落ちる”


終戦になったという言葉を聞いてマーフィーがいう、

「あいつらの戦争はな。俺のはまだだ」

は、この映画を象徴する台詞の一つでしょう。
相棒だったルイにドン引きされて見捨てられたマーフィーは、
その後海底に沈没したUボートにとどめを刺そうとして、
自分も命を失うという、後味の悪いエンディングで映画は幕を閉じます。

たまたまテレビで再放送をしていたとかならともかく、
わざわざお金やましてや時間を使って観るべき映画ではありません。

最後に、わたしがここまでこの映画を嫌うのは、
主人公マーフィーに対する、拭い難い嫌悪感が大きな理由でした。
だって共感できるポイントがたった一つもないんだもん。




「オキナワ」神風との対決 OKINAWA
超低予算ニュースリールツギハギ戦争映画


映画史から全く顧みられることもない、世紀の駄作にも光を当てることで、
映画という映像芸術のある意味深淵に迫ってみた挑戦的な試みです。

苦心して探し出した映画サイトの本作品感想欄はどれも痛烈で、
その中から、「(酷すぎて)エド・ウッドの戦争映画かと思った」
という名言を見つけた関係で、知らなくても人生に何の影響もなかった
ハリウッドの反天才監督、エド・ウッドなる人物の存在を知ってしまったほどです。

ストーリーなんてのはこの映画にはなく、ただひたすら
ピケット艦である駆逐艦「ブランディング」の砲兵たちと幹部が、
神風特攻に怯えながら配置と解除を繰り返し、
その間愚にもつかん無駄話が甲板とバンクで垂れ流され、
ついに特攻に激突され、死者を一人出して最後に祖国に帰るところで終わります。




ブログの編集画面が変わって、1日で終わらすつもりのログが
字数制限を超えて二日に分けざるを得なくなったため、
最初に制作したタイトル絵を二日分に分けて書き直すことになったのですが、
他の映画紹介では全く苦にならないこれらの作業も、
あまりに映画がくだらなかったので腹立たしくさえ感じてしまいました。

ただ、彼らが勘違いして航空特攻だと思って採用した
陸軍の義烈空挺隊の特攻出撃シーンが映像として結構な分量収録されており、
ここだけが映像作品として後世に残す意味を持っていると言っておきます。

本年度扱った中で紛れもなくその低質さ、くだらなさ、志の低さ、
低予算においてナンバーワンの駄作だと太鼓判を押します。


というわけで、旧年度の映画紹介を終わります。
今年も継続していろんな戦争関連の映画をご紹介していければと考えておりますので
よろしくお付き合いください。