ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

嵐山・祇園2023年末旅行

2023-12-31 | お出かけ


MKが帰国する日、朝からTOが具合悪そうにしており、
熱もあるということだったので、空港への出迎えはわたし一人で行きました。

羽田国際空港は海外からの観光客で混雑しており、
空港から出るのに検査とその結果待ちで何時間もかかったり、
バスで千葉のホテルに連れ去られて隔離されたりといった事態が
まるで夢だったかのように平常の年末の様子が戻ってきていました。

出てきたMKにTOが熱を出したことを伝えると、

「コロナの検査キット買って帰ったほうがよくない?」

と提案するので、前回MKのためにキットを買った薬局でブツを購入し、
帰って検査させてみたところ、ビンゴ

1年前の正月に帰国してきたMKが、
アメリカから来た友人と明治神宮でコロナをもらって発病したのに続き、
我が家で2番目のコロナ罹患者となってしまいました。

2年前ならいざ知らず、コロナがほぼインフルエンザ化した今日び、
家族がコロナになってもそんなにパニックにはなりませんが、
問題はMKが帰ってきてすぐに予定していた家族旅行です。

我が家ではこの年末に家族旅行を2連発で決行することになっており、
第一弾は、実家にMKを連れていく関係で、いつもの京都だったのですが、
これでTOの参加は不可能になったため、飛行機の予定をとりやめて、
わたしとMKだけが車で関西に行くことになりました。

わたしたちが濃厚接触者として菌をばら撒く可能性もあったので、
出発の朝わたしたちも検査して陰性であることを確かめての出発です。

実は今年の春、車を買い替えていたのですが、
夏は2ヶ月日本にいないことと極力外出を控えたため、
この車でまともにロングドライブをするのは初めて。

前回から今回の間に車の特にIT関係のシステムが激変しており、
その使い方も隣にエンジニアリング専攻のMKが乗って
あれこれと調べて使い方をサーチしてくれたので一石二鳥です。

今年はカード会社の優待券を利用できる嵐山のホテルをとりました。



昔料亭だった場所をマリオット系のホテルが買い取って、
ラグジュアリーホテルとしてオープンさせた「翠嵐」に一泊。



神戸川崎財閥の創業者、川崎正蔵の別荘として建てられ、
建築当時は「嵐山御殿」と称された屋敷や庭を残し、
当時の趣きと現代の快適さを融合させたホテルです。

のんびり出発したせいで到着が7時になったのですが、
車を外に停めてこの門をはいっていくと、どこで見ていたのか
ホテルマンが二人お迎えに中から現れました。

そのうち一人が金髪長身の白人男性だったのにちょっとびっくり。

外国人観光客用に採用したスタッフだと思いますが、
東京以外でも白人ワーカーが普通にいるのが今の日本。


宿泊棟はホテルとなった時に新築されたようです。



クリスマス前だったので部屋にツリー飾り。



到着したときにはお腹が空いていたので、コンシェルジュの
レストランに予約をとりましょうかという提案にOKを出しましたが、
行ってみると平日のクリスマス前で客はわたしたちだけ。

飲みもしないのにソムリエがいるレストランで、
しかもメニューもそんなに多くありませんでした。(高いし・・)
後から考えれば、ルームサービスかカフェでもよかったのかな。

まあ、このたたき風は普通に美味しかったからよしとしよう。



MKのフィッシュ&チップスも美味しかったそうです。
さすが京都、フィッシュ&チップスが天ぷらに見える。


朝目覚めて外を見れば、目の前に開ける嵐山の麓。


関西人なので子供の頃から数えて嵐山には何度も来ていますが、
川沿いの光景や岸の貸しボート屋などは変わっていません。

左手の奥にはモンキーパークいわたやまなるものがあって、
120匹の猿が餌付けされているのを観察できるそうです。

昔知り合いに、京大の霊長類研究グループの人がいたのを思い出しました。
ここは彼らの研究のフィールドワークの場となっているそうです。

オープンは1957年ということですが、
わたしは今回までその存在を知りませんでした。


ホテルに到着した時はもう日が暮れて真っ暗でしたが、
MKがめざとくホテルの近くに「%アラビカ」というコーヒー店を発見。

京都発のコーヒーブランドで、SNSで有名になり、
京都に3店舗を構えるほか、今や香港、中国、シンガポール、
フランスなど世界17カ国(2021年8月現在)で展開し、
2021年にはニューヨークにもフラッグシップ店がオープンしました。

ドバイにもあるそうです。

次の朝、オープンを待ちかねて行ってみたら、
なんと店の前にはすでに待ち列ができていました。

平日だったせいか、周りにいるのはほとんど海外からの観光客。
日本人に見える人たちはほとんどがアジアからの非日本人でした。


アラビカ京都のシンボルは「パーセント」。
コーヒーチェリーに実がなっている様子に似ていることから選ばれました。



カフェスペースは1卓しかなく(しかも外)、
そこは予約の上料金を払って使用するシステムです。
店内は浅煎りにローストした豆やオリジナルグッズが展示してあります。

グッズは予想通り、%だけをあしらったバッグ、エプロン、シューズなど。



オーダーしたらポケベルを持たされるので、外で待ちます。

冬は「嵐山」の名前の通り強風が吹き、夏になると
ぴたりと風が止まってひたすら蒸し暑い京都でこれはなかなか大変ですが、
美味しいコーヒーを飲むために皆そんな努力を惜しみません。

そしてここでコーヒーを買った人のほとんどがやるように、
わたしも保津川にかかる渡月橋をバックに写真を撮ってしまうのだった。

わたしはオーツのラテ、MKは普通のラテをオーダーしましたが、
どちらかというとオーツの方が美味しかったような気がします。

さて、その後、ホテルの方から人力車ツァーの提案をいただきました。

車での送迎を必要としなかった客は、その代わりに利用できるとのことで、
わたしたちは喜んで12分だけの人力車体験を申し込みました。


きっと寒いだろうとマスクまでして出動しましたが、
カイロのようなものを座席に敷いてくれ、膝掛けもかけてもらい、
覆いもあったので、思ったほどではありませんでした。

ただ、袖口の開いたセーターを着ていたため、そこだけ冷気が辛かったです。

人力車を引く方は追加料金で遠出を提案してくれたのですが、
時間があっても手首が寒すぎてそれは断念しました。



有名な天龍寺の嵐山五百羅漢の前を通りました。
お釈迦さまの直弟子が五百人いたことから、彼らをそう呼ぶのですが、
ここには百体の奉納された羅漢像がならんでいます。



羅漢の近くにあった古い石像は、力車の人は知らないということですが、
どうも朝鮮半島経由のもののような雰囲気がします。


写真は力車の人が客のスマホで撮ってくれます。
豆腐屋の前で撮った写真は「雰囲気を出して」モノクロでした。



ホテルの前の駐車場まで帰ってきてツァー終了。
袖口さえ寒くなければ延長をお願いしたかった・・・。



チェックアウトしてから、ホテル内のかつての庵を利用したカフェ、
「茶寮 八翠」で予約したランチをいただきました。



保津川のウォーターフロントで、行き交う遊覧船が望めます。
外のテーブルでいただくこともできますが、遠慮しました。


茅葺き屋根の庵は1910年に建てられたものをそのまま利用。


手前の「アフタヌーンティ」はカレーライス付き。
MKは鯛丼セット、アフタヌーンティは半分ずつ分けて食べました。


この日は祇園のいつもの料亭旅館に宿泊予定でしたが、
合間にわたしの実家に帰り、久しぶりに母の顔を見てきました。

人力車であまりに寒かったので、防寒用のシャツを買うために
無印良品の入っている桂のイオンモールに行ってみたのですが、
これがまたアメリカ並みの規模の巨大モールで、しかも駐車場代ほぼ無料。

昔気の利いたお店どころか何もなかった時代を知っているだけに、
この何年かですっかり様変わりした京都近郊の様子に驚かされました。


阪神の実家からもう一度京都に蜻蛉返りしてきて、
その晩はいつもの祇園の料理旅館に宿泊。

TOのキャンセルは仕込みの関係上できなかったので、
夕食はわたしとMKで三人分食べることになりました。

ただ、コロナで致し方ないことなので、と女将が気を遣ってくださって、
キャンセル料を最小限にしてくれた上、
京都応援クーポンというのを相殺して宿泊料に還元してもらいました。



夕食のメインだった鹿肉、これも三人分を二人で分けました。
元々は4切れずつだったことになります。

旅館と契約しているのは80代の猟師で、もう「趣味の猟」の域だそうですが、
血抜きの処理が滅法上手いので、鹿肉が生臭くならないそうです。

おっしゃる通りこの鹿肉はなぜか歯触りがサクサクとして、
今までフランス料理で食べたどの鹿より美味しいと思いました。

付け合わせのりんごの煮たのとの組み合わせも絶妙です。




最後のお食事はあんかけ風ご飯。
鳥獣戯画のお椀がとっても可愛らしい。


デザートは別腹・・・とはいえ、これを一人半前食べるのは辛かったっす。
渋皮煮の乗った栗のブラマンジェ。



その夜の宿泊は本館から一筋隣の別館二階にて。
珍しく一階の部屋に別の宿泊客がいるなあと思っていたら、
次の日アフリカ系の女性が一人で泊まっていたことがわかりました。

女性の一人旅で料亭旅館を選ぶとはなんと優雅な。

もっとも、女将が元FAでスタッフ全員英語が堪能であることで
ここを選ぶ外国人旅行者は多いそうですが。



昼にピザレストランの予約を取ってあったので、
好むと好まざるに関わらず、朝食は早めに食べねばなりません。

いつものカウンターは人がいるということでお座敷でいただきました。



大きなだし巻き卵と焼き魚を中心とした和食。



蛤の小鍋とMKの頼んだ洋朝食のパンのカゴが並びます。



女将からのいつもの自筆のお手紙は、
今回ピンポイントで病気になってしまった「ご主人様」への伝言付き。



チェックアウトまで部屋でゆっくりしてから、
西洞院のピッツェリア、「エンボカ」に向かいました。

皆さんはNetflixのシリーズ「シェフズ・テーブル」をご存知でしょうか。

同シリーズの「ピザ編」で紹介されていた唯一の日本のピザ専門店、
京都の「モンク」のオーナーが、最初にピザを学んだのがここです。

京都の町屋をそのまま利用し、二階を取り払って吹き抜けにした店内は広く、
かつての座敷部分を残して掘り炬燵風テーブルがあるのがユニーク。



お手洗いの横は、京都の家独特の坪庭がそのまま残っています。



トッピングはハーフアンドハーフがセレクトで可能。
基本のマルゲリータとキャベツをオーダーしてみました。

窯焼きなのでところどころ黒く焦げていますが、
ピザ生地本体はもっちりふわふわで感動の美味しさ。


普通のピザが美味しかったので、デザートピザもいってみました!
これは最初からハーフアンドハーフ。



食後コーヒーを飲んでから京都を出発しようと外に出たら、
エンボカの近くに良さげなロースタリーがあったので入ってみました。

入り口ではコーヒーの試飲ができます。


アメリカでいうプアオーバーは日本ではハンドドリップというらしい。
入り口で試飲した豆をハンドドリップしてもらいました。



フラットホワイトはエスプレッソに泡立てたスチームミルクを注いだもの。
MKが頼みました。
名称は日本でもアメリカと同じくフラットホワイトです。


この後途中2回の休憩を挟み、8時には帰宅しました。


続く(のか?)



キャデラック オブ ザ フリート(艦隊のキャデラック)〜USS「エドソン」

2023-12-30 | 軍艦

USS「エドソン」の艦内ツァー、続きです。

■ガンマウント キャリアルーム


このコンパートメントは艦の主砲の 1 つの真下にあります。
ここにある機械で、下の弾倉から銃架まで弾薬を輸送するのです。

USS 「エドソン」の砲は全自動ですので、
必ずしもオペレーションのために人力は必要ないのですが、
通常、「エドソン」では有人で運用されていました。



全体的に大きすぎて全体像が掴みにくいですが、
ここからマウントに弾薬が送られていくということです。

一つのマウントは 2 人の乗組員によって管理されていました。

そのうちの1人はオブザーバー

オブザベーションバブルという位置に座ってオペレーションを監視しますが、
必要があれば、そこからサイトをのぞいて発砲することができました。

もう一人は、装置から瞬時も目を離さず、
すべてが適切に機能しているかどうか確認するためにそこにいました。

砲架搭載室自体は 2 名の乗組員によって管理されていました。
そのうちの 1 人は、機械が正しく動作することを確認する安全監視員であり、
砲台運搬室のもう一人は砲長です。

砲長は銃のすべての機能を監視できる特別なコンソールの後ろに座り、
緊急の場合には自分の位置から砲を制御することもできました。

マガジンの担当は9名で行います。
彼らの仕事は銃の機械式装填装置に装填することでした。

ローダーは 2 つのスチール製ドラムで、
リボルバーのドラムのように機能します。
各装填手は 1 丁の銃に 20 発の弾薬を装填しました。

■ダメコン鬼十則


「鬼十則」なんていうブラック企業チックな言い回しが
アメリカにあるのかどうかはわかりません。
とりあえず10のルールなのでそう表現してみましたが、
キリスト教国ではむしろ「十戒」が適当かもしれません。

ダメージコントロール’十戒 ’

1. 諸君の艦を防水状態に保て

2. 素材の状況に違反(Violate)するな

3. 重大な損傷にも耐える艦の能力を信じよ

4. たとえ暗闇の中でも、自分の進むべき道を把握せよ

5. ダメコン用具の使用方法と維持方法を熟知しておけ

6. 損害状況を最寄りのダメコンステーションに報告せよ

7. 個人物品は常に適切に保護しておくように

8. 日頃から人的損害発生時の対応について訓練しておく
自分自身を守ることが諸君の艦を守ることにつながる

9. 少しでも希望ある限り、艦を救うためにあらゆる手段を講じよ

10. 冷静であれ(Keep Cool;)決して艦を諦めるな!



ここでさらに下の階への階段が現れました。


かつては水兵用のコンパートメントだったのだと思いますが、
今は戦争博物館のようになっています。


下の階(おそらくエンジンルーム)に続く、
垂直のラッタルのハッチがありましたが、もちろん使用禁止です。
っていうか、これどうやって降りていくんだろう。


それはともかく、この周辺の展示は、おそらく地元出身のベテランの
戦歴に基づいて展開されているらしく、ガダルカナルの戦いでした。

写真の男性、ジョン・ミールケさんという方ですが、
かつて海兵隊でガダルカナルでの戦闘に参加しています。

パトリック・K・オドネル著「イントゥ・ザ・ライジング・サン」より

約 300 人の海兵隊員が小さな丘の側面にせまっていた。
馬蹄形の戦線はヘンダーソン飛行場前の最後の防御陣地だった。

ジョン・ミールケは彼らの最後の抵抗を思い出す。
 
「私たちは集まって尾根の逆斜面に陣地をとっていました。
尾根のふもとのあたりでは、空挺部隊数名が任務から離れており、
私たちは集まって尾根の逆斜面に陣地をとっていました。

その時、彼らの中に一瞬パニックが起こりました。

基部の周りで、何人かの空挺部隊がその位置から退却していました。
彼らは口々に合言葉を叫んでいました。
パニックに陥ることより恐ろしいことはありません。

そして彼らは前進していきました。

彼らに対して申し訳なく思いましたが、私自身は怖くありませんでした。
幸いなことに、彼らは(士官の命令によって)方向転換しましたが、
その多くは穴に戻り、そこで死亡しました。
 
しかし士官たちは


『銃撃を続けろ!そこから上がれ!』

といい続けました。・・・・」
 

戦いの行われた尾根に立つ海兵隊員

600名からなる日本軍が何度も奪還しようとしたヘンダーソン飛行場。

尾根の高台の後ろに陣取った海兵隊は、島への侵攻初期、
この場所で何度も血みどろの戦闘を余儀なくされました。



この時の戦闘風景がジオラマにされていました。
日本兵が突撃していく先には海兵隊の潜んだという「穴」があります。


日本語によるガダルカナル島「攻撃要図」

一木支隊の攻撃と米軍の防御
第一次総攻撃と米軍防御
第二次総攻撃と米軍防御

第二次攻撃後の日本軍態勢


日本軍の攻撃が矢印で記されています。
赤で記された場所が写真に撮られたヘンダーソンフィールドです。

■ 海軍関係展示


木箱に入れられた機器は、

スタディメーター(STADIMETER)

といいます。

スタディメータは、高さがわかっている物体の距離を測定する機器で、
2,000ヤード以上、10,000 ヤードまでの距離をかなり正確に測れます。

艦隊で行動しているとき、艦隊内の他の艦までの距離を測定するために、
ブリッジではほぼ継続的に使用されていました。

とてもデリケートな機器であるため、許可された担当者だけが
慎重に取り扱う必要があります。

ブルージャケットマニュアル 1943より

ちなみに写真右がわの金色のゴミ入れ(にしか見えない)には、

ミサイル駆逐艦 USS「バリー」DDG-52

の刻印が入っています。



エドソンのパッチの横にあるのは海兵隊の帽子でしょうか。

■ 乗組員室
Crews Berthing(B&M Division)


水兵用のバンクにやってきました。
ロッカーのようなベッド、極限まで細長い個人用ロッカー。


ここはファイアーマン?の控え室でしょうか。
防火スーツとホースの横にチェッカーボードが備えてあります。
配電盤の上には昔のタイプのテレビが。


 ボイラー技術者 (BT) とマシニストメイト(MM)の乗員が
このスペースに住み、寝ていました。

「フォレストシャーマン」級は、すべての停泊エリアに空調設備を備えた
最初の艦級であり「艦隊のキャデラック」と呼ばれていました。

中段と下段のマットレスとパッドは、持ち上げて
下に物を収納することができましたが、
最上階のベッドののラックはそういったスペースがなかったので、
そこの住人はロッカーを使用しました。


ロッカーで作られた壁の向こうは、立ち入り禁止。
G&ASの「補給」とあります。
Gはガス、ASは「Aviation Support」?(適当)



ところで、この、大人一人がギリギリで、起き上がると頭を打つ
狭い空間が、現在の展示艦で驚くべき利用法をされていました。



ガラス張りの大型艦船模型展示棚として活用。
誰が思いついたか知りませんが、なかなかスマートなやり方です。

そしてこの模型はもちろんUSS「エドソン」。



「エドソン」の上下には、


USS「インガーソル」INGERSOLL DD-990

下のは文字がぶれてどうしても読めません。
USS Ha
だけはわかるのですが。
「Hawaii」かな?





USS「ジョン・ポール・ジョーンズ」JOHN PAUL JONES DDG32


USS 「アイルウィン」AYLWIN (FF-1081)

「ノックス」級フリゲートです。


艦尾にはヘリポートがあります。
しかしこのヘリポートは波があるとき着艦しにくそう・・・。

ちなみに自衛艦のヘリパイロットから、何回やっても
波の高い日や暗いときの着艦は怖い、と伺ったことがあります。

しかも、決して他の者にその不安を悟られてはならないという・・。



それでは、この青い目の水兵さんに見守られながら次に進みます。


続く。



お帰りなさいエドソン〜USS「エドソン」

2023-12-27 | 軍艦

USS「エドソン」の艦内展示をクローズアップした前回は、
「エドソン」の退役式についてのお知らせを含む、
最後の艦内報をご紹介することができました。

今日もその続きです。



1988年12月にその兵役を終え、退役したUSS「エドソン」。
その後、各方面の尽力で博物艦として保存されることになりました。



「お帰りなさいエドソン」というシリーズは、
ここベイシティの地元紙のヘッドラインだったようです。
写真は1974年当時撮られたもの。
波を切る舳先が完全に宙に浮いた状態なのに注目です。



退役後、フィラデルフィアの海軍工廠で保存されていた「エドソン」は、
その名も「カーネル」という名前のタグボートに曳航されて
ここまでやってきたといいます。

「現在USS エドソンは、フィラデルフィアの停泊地から
3,000 マイル以上離れたベイ・カウンティへ向かっています。

タグボートが老朽化した全長418フィートの海軍駆逐艦を
サギノー川の河口まで曳航し、そこで水上博物館となる予定です。

艦の到着は間もなく予定されていますが、
彼女について知っておくべきことは次のとおりです。

USS「エドソン」は、
メリット "レッド マイク" エドソン少将にちなんで命名された、
アメリカ海軍の「フォレスト シャーマン」級駆逐艦でした。
1988 年に退役しました。
進水は1958年1月4日、最初の配備は1960年1月の西太平洋でした。
冷戦中に活躍し、ベトナムに 3 回配備され、
その間に複数の有功部隊賞を受賞しました。」



セントローレンスシーウェイの閘門を通過するUSS「エドソン」。


セントローレンス シーウェイは上の部分。

実は「エドソン」は、退役後1989年から2004年までの間、
ニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館で展示されていました。

ニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館にいた頃の
USS 「エドソン」


イントレピッドで展示されていた頃の「エドソン」シックベイ

昔「イントレピッド」に行った時には「エドソン」はおらず、
その「代わり」に展示されたという、航空機コンコルドがありました。

コンコルドの機体の下はその日陰にテーブルが置かれ、
フードトラックで買った軽食を食べる場所になっていたものです。

とにかく、コンコルドに展示場所を奪われた?「エドソン」は、
2004年に一度ブルックリン海軍工廠で艦体の修理を行いました。

まだイントレピッド博物館にいた頃の「エドソン」に、
ある日、ベイシティから来た人々が乗り込みました。


彼らは、ニューヨークのイントレピッド水上航空宇宙博物館を訪れた
単なる観光客ではなくサギノー・バレー海軍艦船博物館のメンバーでした。

「私たちは彼女が『それ』であることを確認するために来たのです」

サギノー・バレー海軍艦船主催のマイク・ケグリー氏は語りました。
全長418フィートの退役海軍駆逐艦は、まさに彼らが探していた船でした。

このころ、「エドソン」を引き取って展示艦にしようと名乗りを上げたのが、
ウィスコンシン州の海軍艦船協会と、ケグリー氏たちの
サギノー・バレー海軍艦船協会だったのです。

その結果、サギノー・バレー海軍艦船協会が権利を勝ち取りました。


ところで、さきほどの現地の説明によると、
「フィラデルフィア海軍工廠から曳航されてきた」
となっていますが、二つの海軍艦船協会が手を上げて選考されていた時期、
「エドソン」はブルックリン海軍工廠で修復を行なっていたとあるので、
フィラデルフィアではなくニューヨークから曳航されたことになります。



フィラデルフィアからにせよ、ニューヨークからにせよ、
セントローレンスシーウェイを通過したということは、
「エドソン」は曳航されて川を北上して行ったということでしょうか。

しかしそれだとどうしてもカナダ国境を越えることになるんだけど・・。

謎だ。

再び「エドソン」を地元に迎えるベイシティの新聞の記事です。

この5月、海軍はUSS「エドソン」の所有権を博物館に正式に移管する。

「エドソン」は現在、タグボート「コロネル」の乗組員7名によって
エリー湖を曳航されているところである。

「エドソン」は今週初めにサギノー川に到着すると、
一時的にワート・ストーン・ドックに係留され、その後は
インディペンデンス公園のボート乗り場近くで
恒久的に係留するための設備を完了させる。

ボート乗り場から400メートル下流にある
ワート・ザ・ストーン・ドックスのダグ・ワート社長は、
USS「エドソン」に一時的な住居を提供することによって
博物館を支援できるのを大変うれしく思っていると語った。


そしてベイシティのサギノー川河畔に到着。



以降、「サギノーバレー・ナーバルシップ ミュージアム」として、
かつての姿を後世に伝えるとともに、軍事にかかわるイベントや
その他のコミュニティの場として地元の人たちに支えられ今日に至ります。

■「エドソン」での退役軍人支援イベント



「退役軍人に対する正しい認識を」

と書かれたこの記事。

写真の男性は1952年にMP(ミリタリーポリス)の任務に就いていました。
この日「エドソン」で行われた退役軍人の日のセレモニーに出席するため、
わざわざポーツマスからここまでやってきたそうです。


この日のセレモニーに参加した地元のベテランたち。

USS「エドソン」は過去の軍事遺産の保存・継承のみならず、
観光資源として、また退役軍人の顕彰の場として、
今日もサギノー側のほとりにその姿をとどめています。

■ アワード受賞記念パーティ招待状



第 1 回 造船業者主催 パーティ
 後援 
アメリカ海洋造船労働者産業組合
49地域、C. I. O. 

'43年2月20日土曜日夕
 ウェノナ ホテル ボールルーム 
午後10時から午前2時まで



ウェノナホテルはベイシティの格式あるホテルでした。
その後、ホテルを廃業してアパートになっていましたが、
1977年10人の死者を出すという歴史的な火事によって消失しています。



デフォー造船会社 

アメリカ海軍船
U.S.S「バルダック」Balduck

進水式を含む海軍記念日の式典にご出席いただくよう、
あなたのご家族やご友人を心よりご招待いたします。

1944年10月27日金曜日、午後3時30分

主催: メアリー・ダーブンストラクト夫人

進水式とその後のヤード内見学ツァーに伴う海軍記念日の記念品は、
2番ゲートを入門した際にお受け取りいただけます。

今日は「従業員の日」です。

ゲート番号 2. 「フットオブジェファーソン」は
3:20 P.M に開門しますのでご利用ください。

入門証は必要ありません。


USS「バルダック」(APD-132)は、ガダルカナル戦死した海兵隊伍長、
レミ・A・バルダック(1918-1942)にちなんで命名された、
アメリカ海軍の「クロスリー」級高速輸送艦です。

バルダック伍長は、ルンガでの日本軍との戦闘で、
小隊の先頭に立って日本軍の陣地を正面から攻撃し、
敵に手榴弾を投げつけた瞬間に致命傷を負い、戦死しています。

「バルダック」はミシガン州ベイシティのデフォー造船会社で
1944年10月27日に進水しました。
この招待状はそのときの進水式に参加する人に向けたものです。

1945年5月7日にニューオーリンズで就役した「バルダック」は、
沖縄に到着後、朝鮮と中国の青島占領に参加し、就役1年で予備役に。

1953年再就役し、横須賀とサンディエゴを往復し、1958退役しています。


アワード 

アメリカ海軍の「E」ペナント に対して
受賞者 デフォー造船会社

海軍長官
ワシントン
1942 年 3 月 6 日

親愛なるデフォー氏:

この度、海軍生産賞委員会が、デフォー造船会社の生産功績に対して
海軍「B」賞の受賞者に指定したとお知らせできることを光栄に思います。

1966 年以来「B」は卓越性を表す伝統的な海軍の象徴であり続けています。
それは、あなたと同僚諸君によって大切にされるべきものです。
海軍長官として、そして同じアメリカ人としてこの栄誉の達成を祝福します。

そうすることで、あなた方の会社の貢献は他の愛国的同胞の貢献とともに、
始まりに過ぎないことを思い出していただきたいのです!

これらの製造品の層はこれからも勝利の流れとなるに違いありません! 

敬具

 H.J. デフォー氏、デフォー造船会社社長、
ミシガン州ベイシティ

デフォー造船は、1905年にベイシティに設立された小さな造船会社です。

第二次世界大戦中、戦争のため操業は絶頂期で、
同社は154隻の船を建造する盛況を見せましたが、
1976年、アメリカ海軍との契約更新に失敗し、操業を停止しました。

第二次世界大戦後、米海軍向けに護衛艦、誘導ミサイル駆逐艦、
オーストラリア海軍向けに誘導ミサイル駆逐艦などを建造し、
またRV「メルヴィル」とRV「クノール」という調査船も建造しました。

RV「クノール」Knorr は、1985年、サイドスキャンソナーを使って
RMS「タイタニック」の沈没地点を最初に発見した船です。

また、1960年代に沈没した行方不明の原子力攻撃型潜水艦、
USS「スコーピオン」とUSS「スレッシャー」が、
深海の莫大な圧力によって爆縮した破片を発見しています。


■セイラーズ クリード 船乗りの信条



私は合衆国水兵である

アメリカ合衆国憲法を支持し擁護し、私の上に任命された者の命令に従う

私は海軍のファイティング・スピリット(Bluejacket)を代表し、
世界中の自由と民主主義を守るために先陣を切った人々を代表する

私は、名誉と勇気と献身と誇りを持って我が国の海軍戦闘チームに奉仕する

私は、卓越性を持ちすべての人の公正な処遇に全力を尽くす


「セイラーズ クリード=水兵の信条」の「水兵」とは
新兵から提督に至るまで、すべてを表すものです。

海軍全体の規律を維持するためには、
文書化された基準(規範)が不可欠である、ということで、自尊心、
他者への敬意、名誉、勇気、献身といった基本的価値観に重点を置いた
「水兵信条」など、海軍に特化した規範があります。

海軍に所属する水兵の存在の事実上すべての側面を支配するもので、
これは海軍文化の定番であり、忠誠の誓いのように暗唱され、
すべての軍人に自分たちが何者であるか、
なぜ任務に就くのかを思い起こさせるためのものです。

セーラーズ・クリードができたのは意外と最近で、1993年、

海軍作戦部長フランク・ケルソ提督の指示により作成されました。

1994年、海軍作戦部長のジェレミー・ブールダ提督は、
「ブルージャケット」という言葉を「ネイビー」に置き換えることで、
この信条をよりすべての兵士を包含するものにするという
マイナーチェンジを承認しました。

今日、「船員の信条」は新兵訓練所で全隊員が暗記し、
士官訓練にも取り入れられていますし、
曹長の任命式には、曹長の信条と水兵信条の両方が唱えられます。

海軍の制服に身を包むすべての職員は、まず水兵であり、士官、曹長、
下士官、飛行士、海兵隊員、水上戦士、潜水艦乗組員、
加えて、ボートマン、ヨーマン、クォーターマスター、ラジオマン、
医務士官、看護士官、チャプレン(従軍牧師)など。
これらも全ては「セイラー」と包括されます。

これは団結とエスプリに影響する重要な点です。


水兵という言葉は、米国海軍の隊員(将校または下士官)を表す場合は、
常に大文字で「SAILOR」と表記され、米国海兵隊の下士官、
または将校を表す場合にも、同じように大文字で表記されます。



続く。


「エドソン」退役式へのご招待〜USS「エドソン」

2023-12-24 | 軍艦

ミシガン州のヒューロン湖に流れ込むサギノー川沿いに展示された
駆逐艦USS「エドソン」の艦内見学、前回は
CPO室、通称ゴートロッカーまでを紹介してきました。

■艦内ランドリー


続いては乗組員全員の衣類とリネンその他を全て洗濯する、
シップズ・ランドリーです。
全員、つまり士官たちの制服のプレスも全てここが引き受けます。

ここに備えられた巨大な洗濯/脱水機および乾燥機の容量は
50 ポンド 、22〜3kg(乾燥重量) でした。

ところで、アメリカ合衆国の洗濯機は、とにかく大容量を難なく洗い上げ、
乾燥機は、布団であろうがクッションだろうがガンガン乾かしてしまいます。

それもこれも洗濯機乾燥機が巨大だからこそなせるわざです。

家庭用でもホテルのコイン式のランドリーであっても大きさは同じで、
むしろ家庭用の方が容量も大きいのが標準仕様。

日本のように「置き場所に困る」という家はほとんどないので、
(集合住宅はほとんど共用のランドリーがある)
洗濯機と乾燥機は必ず独立したものが備えられていて、
「洗濯乾燥一体型」なんてのは今までお目にかかったこともありません。

ところで、大きな乾燥機の何がありがたいかと言うと、大抵のものは
ポンと放り入れるだけでほとんどシワが伸びて仕上がること。

ちなみに我が家の洗濯乾燥機はドイツ製のミーレです。
(スペース的にビルトインできる国産タイプがなかったのでやむなく・・)
最初、備え付けにきた業者が、

「ドイツ人は乾燥機で乾かし切らずに、最後の仕上げとして干して仕上げる」

と言っていて、そのときは、ふーんさすがドイツ人、マメなのね、
と思っただけでしたが、実際使ってみると、その意味がわかりました。

自動乾燥にすると、終わっても僅かに湿りが残っているので、
すぐに干さないとシワが伸びないまま生乾きになるということだったのです。

もちろん乾燥時間を延ばせばそれなりにカラカラに乾きますが、
なにしろドラムが大きくないのでシワが刻まれてしまいます。
それなら生乾きのまま干したほうが綺麗に仕上がる、という・・。

最近の日本製乾燥機がどうなのかは知りませんが、
アメリカのは乾燥から出してそれを干すという作業をしなくていいし、
なにしろどれもこれも気持ちよくぱりっと乾いてくれるので、

「乾燥機って本来こうあるべきだよなあ」

とあらためて思ったりします。

が、その話はともかく。



各コンパートメントでは、汚れた洗濯物は 2 つの容器に集められ、
1 つは白用、もう 1 つは青 (カラー) 用でした。

また、清掃員が集めた洗濯物を持ち込んで洗濯を行う指定日があります。
持ち込まれた洗濯はその日に仕上がりますから、
1日の終わりに各部門の代表者はきれいな洗濯物を受け取り、配布します。 

■ 艦内シャワー

「エドソン」の展示にあたっては、そのために水兵や下士官の人形を
オーダーして製作するような予算はなかったと見えて、
各部署に配置された人員は、明らかにファッション用のマネキンです。

せめて、ギャレーのスキンヘッド二人組のように、
イケメンの男性ばかりで揃えることもできなかったのか、
それともあえてウケを狙ったのか、艦内ショップに
LGBTQな香りを漂わせる色っぽい水兵さんを配置していたり、
シャワー室ではこれは完全にアウトな女性がシャワーを浴びていたりします。

タオルを巻いているからシャワーは終わった模様

もちろん「エドソン」の現役時代、女性は乗り組んでいませんでしたから、
彼女は乗組員たちの「願望」を具現化した夢の存在ということで。

さて、軍艦のシャワーについては何度も同じことを書いていますが、
艦は水量が限られているため、シャワーの湯は少ない上、
厳しく使用量を時間で制限されていました。

時間にして3分間が限度だったので、最初に体を濡らしたら一度止めて、
石鹸を体と頭になすりつけ(おそらくシャンプーは使わなかったと思われ)
石鹸を流し切るのがせいぜいだったに違いありません。

幸い?アメリカ人は、バスタブに肩まで浸かるということに対して
日本人のように切実な欲求を感じない人種なので、これで十分ですが、
基本的欲求の4番目に”入欲(浴)”があると思われる日本人は、
シャワーだけで下手すれば何ヶ月もなんて、精神的にかなり来ます。

というわけで、自衛隊の艦には湯船があるそうです。

わたしは昔、ある護衛艦の艦長室に一人用のバスタブがあったのを見て、
アメリカ海軍の人が見たらさぞ驚くだろうなと思った記憶があります。

まあもっとも、その艦長ご自身にうかがったところ、

「ゆっくり入浴なんてしたことありません」

というお返事だったので、「4大本能」のひとつより任務遂行の責任が勝る、
というのも日本海軍の末裔らしさかなと感銘を受けたものです。

ちなみに自衛艦風呂の湯船の湯は海水を沸かしたものだそうですが、
天然のバスソルトだと思えば、むしろ贅沢ですよね。

アメリカでは入浴剤というと「バスソルト」で、
皆風呂用のエプソムソルトなどを使います。


■ベトナム時代の「エドソン」写真



「エドソン」の記録写真コーナー。
これを一枚ずつ見てみましょう。



ベトナムにて 1968年

手前二人は士官と下士官。



1968年5月3日
DMZで艦砲射撃により撃墜された南ベトナム人パイロットを発見
(画面中央上の水上)
 USSエドソンは救出に向かっている

これってまじなやつ・・。



「エドソン」右舷前方海上に南ベトナムのパイロットがいる

ヘイローが彼を救出しようとして上空にきましたが、
「エドソン」は、自分たちが前進して救出を行うので、
そこから退いてほしいとヘイローに要請したそうです。


ヘリの立場は一体・・・。


「エドソン」からホエールボートを海上に下ろしている
要救助者に近づいてあとはホエールボートで収容する作戦



その後、海上から救出された南ベトナム海軍のパイロットは
ストレッチャーで手当てのために「エドソン」のシックベイに運ばれました。

写真ではオレンジ色のメンバーが担架で運んでいます。




1968年6月
非武装地帯で海兵隊員を支援している間、
海軍の快速ボートが弾薬、食料、淡水(プラス一杯のアイスクリーム!)
を補給するために「エドソン」に横付けしてきたところ



1968年ベトナム
トンキン湾のヤンキー ステーションにて
「エドソン」が給油を受けた空母。


給油の間人員を受け渡ししているところ。
(運ばれている人の遠目に見ても不安そうな様子よ)


■ 1988年11月 ある日の「副長からのお知らせ」


まず、掲示板の下の「ペイントについて」からみていきます。

【USS 「エドソン」 DD-946 の塗装】

「エドソン」のすべての金属表面をコーティングするには
約 14,000 ガロンの塗料が必要でした。

当時の海軍グレードの塗料は平均して1ガロンあたり重さ約7ポンドでした。
つまり、最初の海上試験で、「エドソン」は
塗料だけで 98,000 ポンド(49トン)を運んだことになります。

(これらの数値は USS「フォレスタル」のデータから推定されたもので、
排水量 1 トンが必要であると記載されています)

「エドソン」の排水量は進水時2800 トンでした。

さて、その次は右上の「Long Beach DISPATCH」ですが、
これは「エドソン」がベトナムから帰還したことを報じています。
戦績目覚ましかった「エドソン」を、タイトルで
「トップガン デストロイヤー」と呼んでいますね。

さて、最後に右上の「本日の通達」です。
これは「エドソン」副長の名前で出されたお知らせとなっています。

【お知らせ】

1、カロリーカウントコーナー 

土曜日
ランチ:ホットのツナとスイスのバンズ添え 415カロリー
クレオール風マカロニ 350カロリー
ディナー:ベイクドチキン 300カロリー

日曜日
ランチ:フィッシュウィッチチーズ添え 520カロリー
夕食:ベジタブルベイクドミートローフ 315カロリー

月曜日
ランチ:コールドカットプラッター 435カロリー
夕食:シリアンビーフシチュー 545カロリー

1988年といえば、アメリカでもフィットネスや健康志向が高まり、
ジムに通うのがステイタスみたいな風潮になった頃ではなかったでしょうか。
軍艦でもカロリーを意識して食事をしていたということですね。

2. 艦スケジュール: 

以下1988年11月11日から30日までの期間の改訂されたスケジュールです。
1988 年 11 月 11 日から 30 日 - ニューポート入港

 3. ヘッドデューティの割り当て: 

(1988年11月7日から11月20日までの期間)
11月7日、11月13日: B&M ヘッド
11月14日、11月20日:第 1 部門ヘッド

ヘッドデューティとはトイレ掃除のことです。

 4. サンクスギビング フードバスケット プログラム
「幸せな感謝祭」にするための取り組み

困っている家族のために、チャペル・オブ・ホープは
感謝祭の食料バスケットを準備しています。
乾物や缶詰、お金の寄付受付はチャペル・オブ・ホープで11月20日まで。
このプロジェクトへのご支援を心より感謝申し上げます。 


5. NOTE

廃止措置手順 (機器、資材など) に関する質問がある場合は、
ヒギンス大尉または CW02 ジュリアーニに問い合わせてください。

いかなる状況においても、廃止措置問題に関して
 NAVSEA、INACSHIPSPAC、CNSG-4 など、
外部機関に連絡する権限は誰にも与えられません。

「廃止措置」というのは、ほかでもない、
この「エドソン」が退役することを指しています。

民間業者などの介入などを阻止するため、阻止問題に関しては
絶対に上官の頭越しに上と話をするな、と言っているようです。

6. NOTE

新しい 
CINCLANTFLT はカーター提督です。
彼は1988年11月2日にフランク・B・ケルソー2世提督を解任しました。


CINCLANTFLTというのは、
 Commander-in-Chief, U.S. Atlantic Fleet
大西洋艦隊司令

のことです。
「彼は誰それを解任しました」という言い方は穏やかではありませんが、
普通にポスト代替わりの時にはこのような文言を使用します。

7.  DECOM(退役式) への招待

艦は「エドソン」 の DECOM への招待状を郵送します。

参加に興味のある人をご存知の場合は、1988年11月15日までに
管理事務所の YNC (SW) WHITE まで名前と住所を提出してください。

参考までに、日付は 12月15日 13:00、
USS 「エドソン」ピア II で設定されています。
悪天候の場合はNUSCジムを使用します。


DECOMというのは、「エドソン」退役の式典のことです。
「エドソン」が海軍を退役したのは1988年12月15日でした。

乗組員がこれに参加するのは当然のことですが、
このお知らせでは、退役の式典に参加する知人や関係者がいれば
手続きをすれば招待できますよということを告知しているわけです。

おそらくこの「お知らせ」は、「エドソン」副長が配布した最後の連絡で、
それが今日に至るまで外されることなく掲示されているのでしょう。

8. パトリック・ホールでの食事

1988年11月19日 から、下士官乗組員は
パトリック・ホールで食事をできるようになります。

「エドソン」ステッカーの付いたIDカードを提示する必要があります。
 ステッカーが必要なメンバーは、ヘルゲーソン大尉 までご連絡ください。

 9. 補給下士官会議

1988年11月14日月曜日、午前9時に
メッセデッキで補給下士官会議が開催されます。

この会議はすべての補給下士官に義務付けられています。

10. 礼拝スケジュール

日曜日、1988年11月13日

09:00 - USS「エドソン」(プロテスタント)ロジッド牧師
09:00-SS「アイルズ」(プロテスタント)レイツォ牧師
09:00-055「 クラーク」(プロテスタント)マリヤ牧師
10:00- USS 「カポダーノ」 (プロテスタント) フォントルロイ牧師
1030-SMA 会議室 (ラナン カトリック) スミス牧師

聖書研究、1900水曜日 - 15 コロンビア サークル、
グリーン レーンハウジング / デイビス牧師

 グループ牧師事務所の支援が必要な方は、デービス牧師、
フォントルロイ牧師、または RPC ローガン までご連絡ください。

 D.A.ナップ

(Knapp) エクゼクティブ オフィサー



続く。


一度だけのミッション トニー・ナスタル〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-12-21 | 飛行家列伝

前回まで、二人の腰部砲手、ウェストガンナー、
右のスコット・ミラーと左のビル・ウィンチェルを紹介してきました。

途中から参加したため、25回の回数に達していなかったミラーは
国債ツァーに加わらなかった、ということを覚えておられるかと思います。

今日はそのミラーの代わりにツァーに参加したもう一人の右腰部砲手、
19歳のトニー・ナスタルの話をしようと思います。


一度だけなので彼をメンフィス・ベルの乗組員としていない媒体も多く、
例えばwikiには載っていても、メンフィスベル・メモリアルアソシエーションの
HPでは乗組員として数えられていないのが彼の存在です。

メンフィス・ベルに一度だけ乗ったメンバーは彼だけではなく、
特に機長は25回のうち4回はモーガン大尉以外で、
C・L・アンダーソン大尉は2度、ジョン・ミラー大尉は1度、
メンフィス・ベルの指揮を執っていますが、彼らとナスタルの違いは
つまり公債ツァーに参加したかしなかったかということでした。

1度のミッション➕ツァーに参加してスポットライトを浴びたことで、
その後の彼の人生には常に注目されるものになります。


■ キャシマー・アントニー”トニー”・ナスタル
Casimer Anthoniy Nastal

写真を見てもお分かりの通り、彼は当時19歳と大変若い軍曹でした。

ナスタル軍曹は 1941 年に兵役に入り、447BG、8AF など、
このときすでにさまざまな爆撃機での実績を重ねていました。

彼は先にメンフィス・ベル同じ飛行隊に所属していたB-17爆撃機、
ジャージー・バウンスに搭乗し、6回ミッションを行っています。



ところで「ジャージー・バウンス」と言う言葉でピンときた人いますかね。
ここで盛大に余談に突入しますが、「バウンス」はジャズ用語です。

この頃の爆撃機には、乗組員たちの気分を表す愛称がつけられましたが、
機長が全権的に自分の妻や愛称をゴリ押しするわけでもなく、
流行っていたジャズのタイトルが選ばれる例もありました。

「ジャージー・バウンス」はご存知ベニー・グッドマン楽団のヒット曲で、
1942年ごろ、4週間連続でチャート一位となり、そののちも
グレン・ミラーやエラ・フィッツジェラルドなどがカバーしました。

映画「ミッドウェイ」のサントラにも収録されています。

Jersey Bounce

この名前がつけられた爆撃機はアメリカに3機、イギリスにも何機かあり、
「ジャージーバウンス3」は撃墜されたことがわかっています。

余談ついでに、ジャズの曲名をつけた爆撃機を紹介しましょう。

B-17G「Ain't Miss Bea Heaven」
「Ain't Misbeheavin'」(『浮気はやめた』のもじり)

Fats Waller - Ain't Misbehえavin' - Stormy Weather (1943)

B-17F「Baltimore Bounce」(ボルチモア・バウンス)

B-17G「Blues in the Night」(ブルース・イン・ザ・ナイト)

B-17G「Mairzy Doats」

B-17F「Memphis Blues」(メンフィス・ブルース)

B-17G「Minnie the Moocher」(ミニー・ザ・ムーチェ)
Cab Calloway - Minnie the Moocher ( Remastered 720p )
麻薬中毒の少女の話

B-17F「Mr. Five-by-Five」

B-17G「Old Black Magic」(オールド・ブラック・マジック)
"That Old Black Magic"から取られた
Marilyn Monroe - That Old Black Magic (Bus Stop)

B-17G 「 Paper Dollie」(ペーパー・ドーリー)
「Paper Doll」から
The Mills Brothers - Paper Doll

B-17G 「 Pistol Packin Mama 」

B-17G 「 Shoo Shoo Baby 」


B-17G 「Shoo Shoo Baby aka Silver Fox 」

B-17F 「Star Dust 」(スターダスト)
スター・ダスト(Stardust) - ザ・ピーナッツ (The Peanuts)

スターダスト  (耳コピ英語なのに発音がすごい)

B-17G 「 Sweet Adeline 」(スィート・アデライン)
Sweet Adeline - The Mills Brothers (1939)

B-17F「Yankee Doodle Dandy」


閑話休題、話を元に戻します。
ナスタルがジャージー・バウンスに搭乗してミッションを行ったのは
6回でしたが、かなり過酷な任務となったようです。


ジャージー・バウンス時代のナスタル:おそらく前列左

最終的に、彼がスコット・E・ミラーの後任として、

ベルの右腰部砲手に配属されたときには19歳、同機の最年少乗組員でした。

ナスタルが搭乗したのは、ベルが25回目にリーチをかけていたときです。
彼はベルが第二次世界大戦中のヨーロッパ戦域で必要とされた
25回目の任務にここで偶然立ち合うことになりました。

彼はこの1回で国内に帰還し、ツァーに参加することを要請されます。

それは彼が、ジャージー・バウンスを含むいくつかの爆撃機で
ミッションを重ねてきた結果、これが彼にとっても
25回目の任務完遂となったことが考慮されたからです。

ベルのメンバーの中には、帰国後戦闘に復帰ことはなく、
退役して市民生活に戻った人もいましたが、若い彼は、
ほんの短い間ツァーに参加すると、すぐに前線に復帰し、
最終的に55 回のミッションに参加し、生き残りました。

■ 戦後の生活

終戦後、民間人として彼は堅実な人生を始めました。
イリノイ州でハーリー・マシン社の「Thor」(ソー)という洗濯機

のセールスマンをしていたナスタルと、同じスペースで
ユーレカ掃除機の宣伝をしていたドリスが出会ったのは、
コモンウェルス・エジソンという商業施設でした。
それ以来彼らは51年間の人生を共に歩んできました。

トニーはジュエル・フードストア(イリノイに展開するスーパーマーケット)
の店舗を回ったあと、アーチウェイクッキーのセールスマンとして働き、
子供を二人設けて、引退後はアリゾナに夫婦で移り住みました。



ごくごく平凡な、一市井人の穏やかな人生です。

しかし、彼の人生には、ヨーロッパで一度だけ任務で乗り込んだ
メンフィス・ベルの名前が最後まで賞賛と共について回りました。

妻のドリスはいいます。

「トニーの飛行機の歴史について尋ねる電話や、
サインをして送り返してくれという写真が届かない週はありませんでした」

「でも彼に会ったとき、わたしは彼が
戦争の英雄であることさえ知らなかったんです」

結婚して、彼は妻に当時のことを話しました。
メンフィス・ベルの一員として、沿岸から沿岸までの防衛工場を訪問した
1943年の戦時国債ツアーは、特に楽しかったということ。

「デトロイトで乗組員は、タイガー・スタジアムで行われた
デトロイト・タイガース対ニューヨーク・ヤンキースのダブルヘッダーを、
ジョー・ディマジオといっしょに見に行ったんだ」

「僕はデトロイト出身だったから、その試合の合間に
5万人の観客に向かって戦争公債について話すことになったんだ。
何を話したかはまったく覚えていないけど、そのとき
タイガースのチーム全員のサインボールをもらったことは覚えてる」

西海岸に向かう途中、クルーはハリウッドに1週間滞在しています。


その時の仕事は、ウィリアム・ワイラー監督が1943年に制作した
ドキュメンタリー「メンフィス・ベル」のナレーションの録音でした。

「ハリウッドにあるウィリアム・ワイラーの邸宅で開かれたパーティにも
何度か参加させてもらったよ」

この間女優と知り合ってあっという間に深い関係になり、
自分が結婚したのも忘れて結婚しようとした搭乗員もいましたが、
もちろん彼にとって、そんなのは別世界の話でした。(たぶん)

当時、ワイラー監督は、グリア・ガーソン主演の1942年の

『ミニヴァー夫人』でアカデミー監督賞と作品賞を受賞しており、
ハリウッドに豪邸を構えていたのですが、その家の
トロフィー・ルームには、ワイラーが撮影のために

メンフィス・ベルに乗り込んで5回ミッションに同行したことに対し、
軍人に与えられる航空勲章が飾られていたそうです。


コスプレじゃないよ

戦争中、戦闘任務に5回成功した者には航空勲章が授与される決まりでした。
撮影に同行というのも、陸軍軍人としてのワイラー少佐にとっては
「ミッション」とする旨陸軍が取り計らったんですね。

それから約半世紀後の1989年、ワーナー・ブラザースの最新作

『メンフィス・ベル』の撮影がイギリスで開始され、
ナスタル夫妻と他のクルーがアドバイザーとして招かれました。

この撮影の補助?監督は、ワイラーの娘、キャサリン・ワイラーでした。

この撮影の時、現場に参加した何人かの元クルーは、助言に呼ばれたはずが、
実際は映画フタッフがその助言を聞き入れなかったことを
かなり不満に思ったと書き残していますが、彼らの妻たちは
監督の一人が同世代の女性であったことで、頼みやすかったのか、

「私たち妻たちグループでキャシー・ワイラーに、
撮影で使っていたB-17の中に入ってみたいと頼んだの」

そしてどうやら彼女らはその願いを聞き届けてもらったようです。

「実際入ってみないと、その狭さと窮屈さは想像できないわ」

ただ一度だけ乗ったメンフィス・ベルのおかげで、
彼とその妻はほかの人が一生出会えない出来事に出会い、
その「特別」を心から楽しんだようです。


続く。




最初の徴兵制入隊砲手〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-12-18 | 航空機

メンフィス・ベルのクルーの紹介、士官を終えて下士官、
ウェスト・ガンナーであるルイス・ミラーを前回ご紹介しました。

今日はもう一人の腰部砲撃手、ビル・ウィンチェルからです。

■ ビル・ウィンチェル 腰部砲手

【徴兵制で入隊

クラレンス・E ”ビル”・ウィンチェル
はマサチューセッツケンブリッジ生まれ。

彼が軍隊入りしたのは、これまでの搭乗員のように
飛行機に乗りたいので自ら志願して、というものではなく、
1940年に始まったばかりの徴兵制くじで彼の番号が引かれたからでした。


1940年9月、民主党郵政のアメリカ上下院議会で、選抜訓練徴兵法
(Selective Training and Service Act of 1940)が可決され、
当時のルーズベルト大統領(民主党)が署名して成立しました。

このときの徴兵法は、連邦選抜徴兵登録庁
(Federal Selective Service System Agency)を設立し、
21〜30歳の男性に選抜徴兵登録をさせ、
徴兵された者に12月の兵役を義務付けるというものでした。

ウィンチェルが被徴兵者となったのはこのアメリカ最初の選抜によります。

その後、アメリカは第二次世界大戦に参戦することになり、
18歳〜45歳の全ての男性に徴兵登録が義務付けられ、
45歳〜65歳の全ての男性には徴兵登録が奨励されるについで、
兵役期間はそれまでの12ヶ月から19ヶ月に延長されることになりました。

1940年10月29日。

その日、何百万人ものアメリカ人が息を呑んでラジオを聴いていました。

何百万人もの若者の番号が、巨大なガラスの「金魚鉢」に入れられ、
誰が最初に徴兵されるかをくじ引きし、それが実況放送されたのです。



その日選ばれた何百万人の中の一人に、ビル・ウィンチェルもいました。

「私の番号は、そのボウルから52番目に引き出された名前だった。
何百万という番号の中で、自分の番号を覚えていない人がいるだろうか?」

このとき自分の番号を引き当てられた者は、特典として?
自分の行きたい兵科を選ぶチャンスが残されていました。
いずれにせよ、若きウィンチェルは決断を迫られることになります。

彼の仲間の一人が、有名な
イリノイ州第107騎兵隊、ブラックホース部隊
に入ったこと、自身馬が大好きで、なにより歩くのが嫌という理由で、
彼は騎兵隊に入隊しに行きました。

ところが彼が応募に行くと、騎兵隊は定員に達し締め切られていました。
(歩くのが嫌という人が多かったってことですかね)

そこで彼は、馬を使う野砲隊に入隊を決めますが、
(なぜ彼がここまで馬にこだわったのかは謎)
彼が入隊して1週間後、馬は使わないことに決まってしまいました。

そして、テネシーのよくわからんキャンプに送られて、
荒地を切り開いて駐屯地を作るような場所で、
いわゆる「KP仕事」(キッチンポリス、本来は厨房の仕事だが
実際は軍隊における下士官の雑務をさす)ばかりさせられました。

「便所掃除。汚い仕事ばかり。
空軍の勧誘が来たとき、私はそのチャンスをつかみました。
今の服装にはとても耐えられなかったのです。

大尉は私に昇進の可能性があることを告げ、
もし空軍に入隊すれば、二等兵として再出発し、
戦争中は格納庫の掃除に明け暮れることになると言い、
私はチャンスに賭けると答えました」。


最初の勤務地はミズーリ州セントルイス。


ここで彼は基礎訓練のやり直しを強いられ、その後、
フロリダのマクディル・フィールドに転勤となりますが、
彼がメンフィス・ベルの一員となる歴史がここから幕を開けます。

【視力検査表をカンニング】

マクディル・フィールドで彼が最初に驚いたのは、
下士官兵が将校と同じように飛行していることでした。

そして陸軍兵にも航空機に乗るチャンスがあるということ、
つまり4発動力の大型爆撃機には空軍のパイロットだけでなく、
陸軍の砲兵が必要とされていることを知ります。

彼の目標は砲手として爆撃機に乗ることになりました。

しかし、ウィンチェルはそのために視力という
もう一つの厳しいハードルを越えなければなりませんでした。

砲兵としての訓練を受けてきたものの、彼は生まれつき左目が乱視で、
それでなくても「片目のガンナー」といわれていたのです。

とても厳しい航空の視力検査に合格できそうにありません。

というわけで、切羽詰まった彼のとった最後の手段は、
視力表のコピーを手に入れてそれを記憶する
というものでした。

あー他にもいたなあ、視力表を覚えるチートでウィングマーク取った人。
海軍最初の飛行士、セオドア「スパッズ」エリソンだったかしら。
違ったらごめん。


というわけで彼はそのファイルを常備し、チャートを片っ端から暗記し、
テストを受けに行くときは、どのチャートを使っているのかを調べ、
一番下の行に来たら、覚えたチャートを読み上げているふりをしました。

記憶力がよかったから、それで20-20の結果になった」

20−20とはアメリカの視力を表す数値です。

アメリカの視力表は日本のと違い、アルファベットを読むもので、
(スネレン視標という)6m(20フィート)離れて検査し、
20フィートから見えるべき指標が20フィートの距離で見えれば20/20。

これは日本の数字に直すと20割る20で=1.0となります。

つまり彼は記憶はしたものの100%正解ではなかったんですね。
いや、もしかしたら怪しまれるので手加減したのか?

日本で航空兵がこういうズルをしたという話は聞きませんが、
日本式のCの空いた部分を指で刺すタイプだと、記憶力に自信があっても
何種類ものチャートを覚えるのは難しかったかもしれません。


【航空砲術学校】

マックディルに到着して間もなく、彼は掲示板の告知を目にしました。
『 航空砲術学校の志願者募集』

キタ〜♪───O(≧∇≦)O────♪

徴兵された砲兵でありながら、彼はこれに志願しました。

結果、ネバダ州ラスベガスの航空砲術学校で6週間学び、
彼は晴れて航空法術学校でウィングマークを取得、伍長に昇進。

砲兵隊にいたら決してありえなかったことです。

このラスベガスの航空砲術学校時代の鮮烈な記憶のひとつに、
彼はある軍曹の言葉をあげています。

彼はこう言ったのでした。

「航空射撃手の平均寿命は6分だ」

爆撃機の任務そのものの危険さを端的に表す言葉でした。
これを聴いてそのことに心を悩まされなかったかというと嘘になります。

だからというわけかどうかはわかりませんが、マックディルに戻った後、
ウィンチェルは無線学校にもトライしています。

同じ爆撃機に乗っている限り、射撃手と無線士の寿命が
そんなに違うとは思えませんが、ここは素直に、彼が
どんな手段でも航空機に乗りたいと思ったと考えることにしましょう。

しかしながら、彼には無線の才能が全くありませんでした。
『ダーとディット』をうまく使い分けることができなかったのです。

ダーとディットは、日本の「トンとツー」に相当します。
ダーはツー、ディットはトンなので前後が逆ですが。

その頃になると、軍は航空に爆撃兵を徴兵するようになっており、
彼は航空スクリーンの小さなバグを追跡する機器担当になり、
それが得意だったので、すぐに爆撃手として定期的に飛ぶようになりました。

結果として彼は25回のベルの任務を終えるまで生き残り、
「爆撃手の平均寿命は6分」という軍曹の予言を大きく裏切って
特別な存在だったと証明することになりました。

(彼が『長生き』しただけ、短命となる射撃手がたくさんいたわけですが)

【俺が将校に銃を向けた件ーノルデン照準器】

当ブログでは、アメリカ各地の軍事博物館で何度となく
このノルデン照準器実物の写真を紹介してきました。

そのコレクションをご覧ください。


ピッツバーグ、ソルジャーアンドセイラー軍事博物館所蔵


カリフォルニア、パシフィックコースト航空博物館所蔵


カリフォルニア、オークランド航空博物館所蔵

これらを紹介したときにも散々説明したように、
ノルデン照準器は当時のアメリカ軍の超機密品扱いでした。

そしてそれを扱うのは・・・そう、爆撃手です。
ノルデン照準器を取り扱う爆撃手は、45口径の拳銃で武装し、

誰にも触らせない、見せないように命じられていました。

ある日、ウィンチェル伍長が乗り組んだ爆撃機が
ヒューストン基地への訓練飛行の後、一晩そこに滞在することになりました。

機内にこの機密機器を置いたままにして置けないので、
彼がそれを基地の保管庫に運んで施錠管理してもらうために
機外に持ち出し、運んでいると、若い中尉が近づいてきました。

「何を持っているんだ」

「ノルデンの爆撃照準器です」

中尉は珍しい言葉を聞いたので好奇心にかられたと見え、
ウィンチェルの方に向かってやってきました。

「ちょっと見せてくれないか」

しかし、彼はノルデン照準器の扱いに関しては、
何人たりとも他者に見せてはならぬ、と命令されていたので、

「それ以上近づかないでください」

しかし、彼の言い方がまだ静かだったせいか、それとも
相手が下士官だったせいか、中尉は平気で近づいてきました。

やむなく彼はピストルを抜いて鋭く叫びました。

「あと一歩でも踏み込んだら死ぬぞ!」

とたんに中尉はシーツのように真っ白になりました。


下士官の将校に対する態度としては常識的にあり得ませんが、
だからこそ中尉はこれがいかに重要な機密であるかを悟ったのでしょう。

彼はそのまま黙ってその場を去りました。


 【メンフィス・ベルの腰部砲手として】

ここまで順調に爆撃手としてのキャリアを積んできたウィンチェルですが、
みなさん、ここでちょっと思い出してください。

メンフィス・ベルの爆撃手、チャールズ・レイトンが士官だったことを。
そう、爆撃手の配置は一般的に士官担当です。

ウィンチェルは1942年5月16日、爆撃手兼航空砲手として

戦闘任務に就くことになり、軍曹に昇進しました。
それからしばらくして、メンフィス・ベルの所属する第91爆撃隊は
出撃前の最終訓練のためにワラワラに向かいます。

彼はワラワラで爆撃手として爆撃機に乗れると思っていましたが、
その直後、空軍上層部は爆撃手は将校でなければならないと決定したため、
ここでウィンチェルは職を失うことになってしまいました。

空軍としては爆撃手として訓練を受けた下士官の使い道に苦慮したようです。

そこで彼がどうなったかというと、スコット・ミラー軍曹とともに、
ミネアポリスのハネウェル社に転勤させられ、
自動飛行制御装置の整備と保守を学ばされることになりました。

ミラー軍曹もそうでしたが、爆撃手の仕事がなくなった今、
飛行機に乗り込む「クルーではなく、メカニック」となったわけです。



ここでもう一度この図をご覧ください。
中央部には飛行機の両サイドに砲が装備されているのですが、
この頃までのB-17では、乗組員の定員は9名で、
両側の銃を一人で担当することになっていました。

攻撃はいつもどちらか片側からしかやってこないだろうと言う判断です。

しかし、実戦に入るとそれは机上の空論であることがわかり、
実際は左右に一人ずつ、二人の腰部砲手が必要だと結論づけられました。

そこで彼は上からこう言われたのです。

「もし腰部砲手で良ければ、君を採用する」

前回のミラー軍曹は自分から配置を申し出てこの配置になりましたが、
もう一人の腰部砲手が決まったのはこういう経緯でした。


そうして、全米で52番目に徴兵され、騎兵隊に入隊しようとして締め出され

次に野砲隊に入隊しようとし、無線訓練で不適格と烙印を押され、
飛行機に乗りたいがために視力検査でチーティングをし、
目の前だった航空爆撃兵の配置を軍の都合でキャンセルされた若い兵士は、
最後に得た配置で腰部銃手となったのでした。


写真の下に展示されていたウィンチェルのフライトスーツと階級章、
ウィングマークなど。

彼の死亡を示すサイトにはこのように記されています。

出生 マサチューセッツ, USA
1994年死亡(年齢 77)
没地  米国イリノイ州クック郡バリントン

TSgt. 技術軍曹- 左腰部砲手

メンフィス・ベルの8番目で最後となるドイツ戦闘機を撃墜したのは
彼の銃撃でした。

また、彼が毎日つけていた綿密な日記によって、後世に
メンフィス・ベルの正確な行動記録が残されることになりました。

化学技術者として引退。


続く。


ハイ・フライト〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-12-15 | 飛行家列伝

国立空軍博物館展示のメンフィスベルについて、
乗組員をさらっと紹介するつもりが、機長副機長爆撃担当と、
いきなりトップ3人の女性関係が派手すぎて時間を取られてしまいました。

 チャック・レイトン 航法士



本日ご紹介するナヴィゲーター、チャック・レイトン
見るからに純朴そうな青年なので、おそらくここからは
あっさりと進めていくことができると信じたい・・


・・・・とここまで書いてから、実際にレイトン大尉について調べたのですが、
写真の印象が、本当にその人となりを表す例であることがわかりました。



たとえばこの団体写真なんですが、メンバー(部下)の後ろから
半分だけ顔を出している彼の様子からはいい人の雰囲気しかしません。
少なくとも真面目そうです。

他の士官3人がどいつもこいつも女性関係とんでもなかった?せいで、
わたしは彼にも品行素行その他一切全く期待していなかったのですが、
実際の経歴とその後の人生を知ると、少しでも彼を疑ったことを
すまんかったと土下座して謝りたいほどの好青年であることがわかりました。

チャールズ「チャック」レイトンは1919年5月22日、
インディアナ州生まれ、ミシガン州育ち。

オハイオ・ウェズリアン大学で化学を学んだ後、
1942年1月20日にナビゲーター訓練のため、
米陸軍航空士官候補生プログラムに入隊し、その後
1942年に中尉任官、ナビゲーターのウィングマークを取得しました。

その後、B-17フライング・フォートレスの訓練を修了し、
B-17「メンフィス・ベル」のナビゲーターとしての任務を完遂。

ナビとしての彼の力量については一般に言及されていませんが、
メンフィス・ベルに最初から最後まで乗務し、機をその度無事に
任務先から基地に戻したのですから、相当な技量を持っていたことでしょう。

写真のキャプションで彼はこう語っています。

「リード・ナヴィゲーター(編隊の先頭機のナヴィゲーター)には
フォーメーション全体の全責任がかかってくる。
ときどき、その責任の重さが怖くなりました」

メンフィス・ベルは編隊のトップを任されることが多かったのですが、
さすがはそのナヴィゲーターであった彼ならではの言葉です。

25回の任務を完遂したメンフィス・ベルの航法士として、
見事任務を果たした彼は、その後、1943年6月から9月まで、
乗員とともにアメリカ全土を回る戦時国債ツアーを行いました。

戦争債券ツアーの後、レイトンは少佐に昇任し、
1945年11月27日に終戦を受けて名誉除隊しました。


彼の経歴には15歳での駆け落ち経験も、出撃二日前に結婚したことを忘れて
他の女と結婚することも、犬を餌に女の子を部屋に連れ込むとかもなし。
おそらく結婚相手も普通に出会い普通に恋愛して選んだのでしょう。

彼の訃報記事を探して読んでみましたが、さらにこんなことがわかりました。

現役を退いた後、チャールズはミシガン州立大学に入り直し、
改めて学士号と修士号を取得して教職に就き、
数学と科学の教師、指導カウンセラーとして働いていたと。

他の3人の士官と比べたら神々しいくらい清潔で実直な青年ですね。
いや、決してその3人を悪くいうわけではありませんが。

彼が教鞭をとったイーストランシング高校の同僚は彼を、

「彼は真の『ピースメーカー』でした。
特別な思いやりを誰に対して持っており、
決して敵を作らない穏やかな人物でした。

とても謙虚で、第二次世界大戦での任務には誇りを持っていましたが、
世間の注目を浴びることは好まない様子でした」

と語っています。
その言葉を裏付けるように、彼の訃報記事の出だしはこのようなものでした。

「イースト・ランシング高校の何百人もの出身者、学生にとって、
チャールズ・レイトンは友人でありカウンセラーだった。
しかし彼が第二次世界大戦の英雄であることを知る人はあまりいない」


彼は実生活で、戦時中の任務について自慢話をするどころか、
ほとんど語らなかったのだということがうかがい知れます。

そんな彼ですから、帰国後、英雄として騒がれ、注目され、
派手な場所に出たりすることを内心嫌がっていたに違いありません。

彼の人生の唯一の妻であるジェーン・レイトンは、
彼が1991年に亡くなったとき、亡夫から聞いていたであろう話として、

「帰国してからの国債ツァー、そしてヨーロッパでワイラー監督が
5回『ベル』に同乗して撮ったドキュメンタリーが
オスカーを取ったことが彼らを全米で有名にしましたが、

彼らはそれを『26回目のミッション』と呼んでいました」

と言っています。
これはどういうことかというと、乗組員の誰もが、
撮影されることを苦痛に感じていたという意味です。

メンフィス・ベルの搭乗員たちは、ワイラー少佐の映画撮影に際し、
必要な考証と助言のためにわざわざイギリスまで飛んだにもかかわらず、
映画スタッフは彼らに対し全く配慮をせず、多くの助言は無視され、
映画の登場人物や事件はすべて、何人もの人物や行動を合成したつぎはぎで、
何一つ本当のものはなかったことに失望していました。

レイトンもまた、映画の中での自分のキャラクターの描かれ方に
最後まで不満を持っていたと言います。

しかも、それから数十年後、彼らは同じような経験を繰り返すことになります。

彼が亡くなる前年に公開された映画「メンフィス・ベル」で、
おそらく彼は強い失望と不満をふたたび感じたに違いありません。


1990年作品の「ベル」の航法士、フィルは、小説によると、

「誰よりも自分の運の悪さを信じており、
何かあって死ぬのは絶対に自分だと思い込んでいる」


陰キャというか屈折した青年で、D・B・スウィーニーが演じています。

壮行パーティでハリー・コニックJr.が「ダニーボーイ」を歌っている時、
酔っ払って外で「死にたくねーーー!」と叫んでいたのはこの人です。

あまりにも死にたくなくて(?)最後のミッションで
「ベル」の脚部が片方手動でしか動かせなくなった時、
「死ぬもんか!死ぬもんか!」
といいながら降着装置のハンドルを回す、という役回りでした。


いずれにしても、実在のレイトンと似た要素はゼロのキャラクターです。

レイトンはこれを見て、ワイラー監督とそのチームに対して感じた
「全くこちらのことを配慮していない」
というネガティブな感情を数十年ぶりに蘇らせたにちがいありません。

■ スコット・ミラー 右腰部銃手



ウェストガンナー、というのがどこの配置のことか、
文面ではピンとこないと思いますので、
とりあえずこの図を見てください。


飛行機の胴体(ウェスト)に左右に一人ずつ銃手が配置されます。
これがウェストガンナーです。

この図は、映画「メンフィス・ベル」の登場人物配置の説明ですが、
映画の腰部砲手にはシカゴ出身で粗暴な荒くれ者のジャック(下)、
アイルランド出身、赤毛で信心深いジーン・マクベイが配置されています。

スコット・ミラーの配置はチンピラジャックと同じ右腰部でしたが、
写真を見る限り、ミラーも二人のどちらにも当てはまる要素がありません。

さて、このスコット・ミラーですが、本当の名前は
エマーソン・スコット・ミラー

エマーソンが気に入らなかったと見え、上から注意されたのにもかかわらず、
ファーストネームではなくミドルネームのスコットを名乗っていました。

彼はメンフィス・ベルの国内国債ツァーには参加せず、それどころか
帰国すらさせてもらえずにイギリスに取り残された何人かの一人でした。

理由は、以下の理由でベルの任務に途中から参加した結果、
彼個人の搭乗数が「マジック25」に達していなかったからです。

彼の代わりにツァーに参加したのは、同じ配置のトニー・ナスタル軍曹でした。


ミラーは1942年5月16日に航空砲手として戦闘任務につく資格を得ました。

一旦ワラワラでリチャード・ヒル中尉のB-17に配属されたのですが、
どういうわけか、ハネウェル社で自動パイロット制御メンテナンスを行う
技術者としての訓練を受けるため、ミネアポリスに転勤させられました。

彼が転勤してすぐ、ヒル中尉の機は定期訓練飛行で山に墜落し、
乗員全員が死亡しています。(その後片付けをさせられたのがモーガン)

彼は戦闘配置のない技術者としてイギリスに送られましたが、
自分には向いていないと感じ、飛行中隊の司令官のところに行って、
戦闘飛行機に乗りたいと申し出ました。

司令官はむしろその言葉を聞いて嬉しそうにしていたそうです。

というわけで、彼は凍傷を負った銃手の後任としてベルに配置されますが、
そのときベルはすでに10回ミッションを行った後だったというわけです。

ミラーがメンフィス・ベルに乗って行った任務は16回でした。

モーガン機長はミラーも帰国してツァーに参加させてほしいと言いましたが、
回数が足りていないということでそれは却下されたそうです。



この制服はスコット・ミラーの遺族の寄贈による展示です。



ミラーの遺族は軍グッズ一切合切を博物館に寄付しました。

ミラーは1943年7月4日に別のB-17に乗って25回目の任務を終えましたが、
帰国後のパレードも記者会見も映画スターに会うこともありませんでした。

メンフィス・ベルのコーナーが創設されることになった時、
博物館がスコット・ミラーの家族と連絡を取ったところ、

「彼らはトランク一杯の遺品を寄贈してくれた」

博物館スタッフは語ります。

「彼は自分の命を危険にさらし、そして一旦は忘れ去られていました。
しかし、この寄贈品によって、彼の名前は
何世代にもわたって記憶されることになるでしょう」



最後に、チャック・レイトンの死亡通知に添えられていた
カナダ空軍のパイロット、ジョン・ギレスビー・マギーJr.の詩を、
当ブログ的には2回目になりますが紹介しておきます。

当ブログで坂井三郎の「大空のサムライ」の英語版を紹介した時、
序文としてこの詩が掲げられていたのを翻訳したものでした。

マギーJr.は訓練中空中衝突の事故で殉職し、
戦闘を一度も経験せぬまま亡くなったパイロットでした。

この詩は彼が高高度のテスト飛行の経験から着想を得たものです。

 High Flight 高高度飛行

ああ、僕は地上の不遜な束縛から逃れ
笑いに包まれた翼で大空を舞った;
太陽に向かって登った
そして百のことをした
君が夢にも思わないようなことを

太陽に照らされた静寂の中で
そこでホバリングし
叫ぶ風を追いかけ、足跡のないホールの中を
僕の熱心な船は、足のない空気のホールを通り抜けた

上へ、上へ、長く譫妄のように燃える青を、
風の吹きすさぶ高台を、いともたやすく駆け上ってきた
ヒバリも鷲さえも飛んだことのない場所を

そして、静かな高揚した心で
そして、静かな高揚した心で、僕は宇宙の高みへと足を踏み入れた
そして手を差し伸べ、神の御顔に触れるのだ

続く。



国策映画「愛機南へ飛ぶ」後編

2023-12-12 | 映画

松竹映画「愛機南へ飛ぶ」後編です。

船員だった父を亡くした水野武は、母一人子一人の生活から
陸士入学を果たし、見事成績優秀者として卒業式で賞状を受け、
念願だった航空士官任官を果たしました。

■ 開戦


昭和16年12月8日、大東亜戦争の開戦の日がやってきました。



水野武の母久子が働く航空工場の工員たち。
君が代がフルバージョン流れる中、粛として首を垂れます。



久子が舎監を務める女子寮では、女工たちがラジオを聴いていました。



その夜、久子は寮生の中沢から、実家が大変な状態なこと、
手伝いに帰郷しろと言われている、と打ち明けられます。



久子は帰郷を勧めますが、彼女は

「戦地の兵隊さんたちのことを思うと、とてもできません」

そう思っているならなんで打ち明けたんだって話ですが。
個より公に殉じるのは軍人だけにあらず、こういう自己犠牲を賞賛し、
戦時下の国民の在り方を説いてくるのがさすが国策映画です。




開戦二日後の12月10日、ここは台湾の日本陸軍航空隊基地。
隊長が猿をペットにしています。



我らが水野武少尉率いる4名が、この基地に着任してきました。


ここで武は航空士官学校の同期、馬場少尉と再会します。


やはり同期の戦闘機乗り、岩田少尉も同じ基地でした。
再会を喜び合っていると出撃命令がかかり、岩田はこう言い残していきます。

「人生わずか50年、ただし軍人半額じゃ!はっはっは」

おい、フラグ立てるな。


邀撃に向かった戦闘機隊は米軍戦闘機(マスタング?)と撃ち合います。


一対一で敵機の後ろを取った岩田は相手を撃墜しますが、
自分もその直後背後を取られてしまいます。

一連の戦闘シーンはこの頃の特撮にしては上出来で、
どう合成してあるのか実写と見紛うばかりです。


戦闘機が出撃している間、整備員たちは、
自分が整備した飛行機が無事に帰ることをただ待つだけです。



戦闘機隊は帰投しましたが、岩田少尉の機が帰ってきません。

「小幡中尉殿、岩田少尉殿はどうされたんでありますか!」

「編隊を離れたがすぐ戻る。心配するな」

敬礼の仕方(皆手のひらを前に向けている)もそうですが、
いちいち「殿」をつける陸軍式呼称も、
海軍ばかり取り上げてきたわたしには、新鮮に感じてしまいます。



心配そうな整備担当。


そのとき、見てもわかるくらいフラフラとした飛行で
岩田少尉機が基地に戻ってきました。
整備員が真っ先に駆けつけ、救急隊も急行します。



負傷しながらもなんとか帰還した岩田少尉。
あれはフラグではありませんでした。よかったね。

■ 後方支援


ここは水野の母久子が働く航空機工場です。


どこのかはわかりませんが、本物の工場風景。



女子工員が机を並べて作業をしています。



こちら中沢清子さん。
実は彼女の実家は大変どころではなく、父は危篤で、
しかも彼女はその知らせを受け取っていました。

なのに彼女は仕事を離れようとしません。



こちら、別の女子工員牧さん。
熱があるのに隠して作業を続け、昏倒してしまいます。



風邪なら皆に伝染するから素直に休めよ、と今なら思うんですが、
こういうのがともすれば賞賛されがちだったんですね。

そして父の危篤を隠して仕事を続けていた中沢清子さんですが、
それが皆の知るところとなり、久子ら全員に勧められて
やっと帰る決心をしたときには時すでに遅し。

帰る支度をしているところに父訃報の電報が届き、
それをみた彼女は泣き崩れるのでした。

(この部分フィルム欠損で映像なし、字幕の説明による)

中沢さん、戦後、あの時の自分を殴りたい、とか思いそう・・。

■ 索敵行



前線の水野少尉に敵基地爆撃のための偵察命令がくだりました。



水野少尉と同期の馬場少尉が後席に同乗します。
こういうときに組むのはベテラン下士官のような気がするけど違うのかな。



キ51九九式軍偵察機という設定ではないかと思われます。



ちなみに当基地爆撃隊の飛行機は、九九式双発軽爆撃機キ48、
連合軍コードネームLily
と思います。(映像本物)


で、この航空司令なんですが、わたしてっきり藤田進だと思っていました。

でもクレジットを見たらどうも違うみたいなんですよね。
そもそも映画についての詳しい情報が全く残されていないので、
これが誰なのか結局突き止めることはできませんでした。



さて、出撃した水野機は。


敵基地らしきものを発見しました。



さっそく後席の馬場少尉が航空写真を撮ります。
・・って、このカメラのでかさ!

これは、日本工学工業(現ニコン)が開発した、
陸軍の96式航空写真機
で、レンズは180ミリだったということです。
映画では本物のカメラを陸軍から借りて使っています。

両手と顎を使って本体を保持してシャッターを押すのですが、
重量はほとんど10キロあったということなので、
揺れる機上では焦点を合わせるのは大変だったと思われます。



しかし、馬場少尉がよく見ると、基地にはダミー機が置かれているだけ。
その旨基地に打電して、彼らは帰途につくことにしました。

つまり、爆撃隊は今回出番がなかったということになるのでしょうか。


ところがその直後、水野らはボーイング30機の大編隊が、
マラッカ海峡方面に向かうのを遠方から発見しました。

どう考えてもすぐに帰投しないといけないこの状況で、
彼らは残り2時間の燃料を追跡に使うことを瞬時に決めました。

「軍人半額だ、行くぞ!」



100キロ追跡したところで、大編隊は本物の基地に着陸して行きました。
さっそく撮影の上、基地に送るために打電します。

そのとき。



「あっ!来たっ!」


邀撃にきた敵戦闘機でした。



機体に被弾を受けながらも反撃し、ようやく1機撃墜。


そのころ、水野偵察機の報告を受けた基地司令は、
発見された基地への爆撃隊の出動を命じていました。

 

一方航空司令は、水野機との連絡を取ろうとしますが、
通信機に被弾してしまった水野機からの応答はありません。

ところで、このときの通信のシーンで手前にいる通信員は、
「水兵さん」で主人公の海兵団の同級生山鳥くん、
「間諜未だ死せず」で憲兵隊の使い走りをしていた俳優が演じています。
国策映画専門のちょい役専門俳優だったんですね。

今となってはその映像以外に彼のデータは何も残されていません。


こちら水野機、通信機はついに直らず、燃料も尽きました。
ここからは、のちに彼らのことを報じたとされる新聞記事からの解説です。


敵戦闘機を追い払いをしたものの、
致命的な一撃を発動機に受けた水野機の高度はグングンと下がり、
やがて密雲の中に飲まれてしまつた。

これまで巧みに気流を利用して操縦を続けてきた水野少尉も、
密雲の悪気流の中で視野を奪はれては如何ともなす術がない。

今はこれまでと彼は背後に呼びかけた。

「オイ馬場、良いか」




馬場も莞爾としてヨシと答える。
自爆の決意がお互いの胸に通い合つたのだ。



二人は静かに瞑目した。



思へば25年の命、ここに散るも男子の本懐である。

日頃の修養全てこの一瞬に向かつて集中されていたのだといふ。
通報の任務半ばにして果てるを悔いる色の他、
二人の若い軍人の顔には些かの動揺も認められぬ。



機はさうした二人を乗せて下降速度を早めていく。

と、何を思つたか水野少尉はハッと目を開いた。
そして彼はこの時、雲の切れ間に浮かぶ母親の顔をはつきりと見た。

思はず握る操縦桿。
愛機は母の顔目指して急速旋回した。




一刹那、山肌に生ひ茂つたジャングルの梢をサッと入って、
機は危うく激突を免れていた。

馬場少尉も目を開いてみた。

何たる天佑!




山を超へた彼方には南海の一孤島が白砂を光らせて横たわつてゐる。
水野少尉懸命の操縦は功を奏した。
水野機はそこに奇跡的な着陸を遂げることができたのである。



その頃航空基地からは、水野機の捜索隊が出されていました。



無人島に不時着した二人は、それでも自分たちの報告がうまくいったか
そればかりを気にしています。

「せっかく重要な任務を与えられたのに
こんなところで犬死にしちゃ申し訳ないからなあ」



懸命に通信機を修復しようとするのですが・・・。



「だめだ・・処置なしだよ」



しかしその頃、水野機の報告を受けた爆撃隊は
敵の基地を発見し、飛行場の機体に大損害を与える戦果を挙げていました。



一方捜索隊に成果はなく、その夜航空隊長は、
一人月夜の元で部下のことを思い過ごしました。


翌朝早くから再び出された捜索隊の一機が、小さな島を見つけました。



これこそが水野機が不時着した島だったのです。



食料を探しに砂浜に出てきた武は、上空の爆音に気づきました。



飛行機の翼から必死で手を振ります。



そのへんにある葉っぱのついた枝を大きく振る二人。



わかった、という印に捜索機は大きくバンクをし、
非常用の食料と水を落としていきました。

このときの捜索機パイロットと二人のやりとりはなかなか感動的です。

このとき落として行った通信筒には、二人の報告によって
敵飛行場の機体47機を撃滅したという戦果が記されていました。



その晩、二人は差し入れられた非常食で祝宴を開きました。



このときバックに流れるのは、「索敵行」という、
まるで彼らのためにあるかのような軍歌ですが、
調べたら、この映画の主題歌として作られたものでした。

日の丸鉢巻締め直し グッと握った操緃桿
萬里の怒濤何のその 征くぞ倫敦華盛頓
空だ空こそ國賭けた天下分け目の決戦場!

瞼に浮かんだ母の顔 千人力の後楯
翼にこもる一億の 燃える決意は汚さぬぞ
空だ空こそ國賭けた 天下分け目の決戦場!

作曲した万城目正(まんじょうめただし)は映画の音楽も担当しています。
戦後ヒットした「リンゴの唄」「悲しき口笛」「別れのタンゴ」
「東京キッド」などの作品は知っている人も多いでしょう。


■ 「殊勲の荒鷲」



二人の奇跡の生還は新聞に報じられました。
水野久子の実家のある故郷では、新聞記事を手に
祖父と叔父叔母が歓声をあげます。



「殊勲の荒鷲」

母に導かれて奇跡の生還
水野・馬場少尉の敢闘


という見出しと、彼らの敵戦闘機との戦い、敵編隊発見、不時着、
捜索隊に発見されるまでが物語仕立てで?記事にされています。

当時は、このような戦意を高揚させるための記事が
敵味方彼我でマスコミによって取り上げられ、大々的に報じられました。

「百人斬り」事件のように、記者が受けるプロパガンダ記事にしようと
必要以上に盛って書いたところ、戦後にそれを元に戦犯認定され、
最終的に命を失う結果になった例もありましたが、それはともかく。

新聞記事は、映画の小道具と思えないほどちゃんと作られており、
画面に一瞬しか映らないにも関わらず細部が記されているのが確認できます。

馬場中尉は(え?少尉でしょ)キーを握ると基地に無電を打ち始める。
「イバ飛行場にて敵機20を発見せるも戦闘機5機の他は偽飛行機なり」

その時である。
はるか南方に見える多数の黒点。
「ボーイングだ」「うん」
水野機は再び高度を上げた。

そして、同じ誌面に「呉鎮合同葬」を報じる記事も見えます。
 


久子が寮監を務める女子寮で、卓球台に集まった女子工員たち。
うち一人が皆に新聞記事を読んで聞かせていました。
それが先ほどの不時着部分の記事です。

そして、後方支援に携わる国民の皆様の奮闘努力を労うことも忘れません。

「あたし達のことも出てるわよ!
”なお両少尉は生還の原因として機体の優秀性を上げ、
制作関係者の上下一致の熱性によるものとして感謝されている”」




久子は夫の遺影を見上げながらつぶやくのでした。
それはかつて息子の進路を決めることになった、夫の日記中の一文でした。



「子供は父母の子たると同時に国家の子なり・・」


そして程なくして、武が前触れなしで母の元に帰ってきました。
帰るなり母に敬礼する息子。



「武・・・!」

母の目にみるみる涙が浮かんできます。



武は父の墓前に手を合わせました。

親子はこの三日間の休暇中、父の墓参り方々小旅行に出かけました。


どこのお寺かはわかりませんが、本堂に
「大東亜戦敵国降伏祈修」
などという木札が下がっています。
帰郷してくる軍人や、出征兵士の家族が祈祷を依頼したのでしょう。


そして瞬く間に休暇は終わり、久子はまた元の日常に戻りました。

二人でいる間は戦争や戦地の話などなにもしないまま、
武はまた帰っていってしまいました。



そのとき、工場の上空に爆音が響きました。



陸軍の飛行機3機が青い空を南に向かっていきます。


「愛機南へ飛ぶ」

この映画のタイトルはこの最後のシーンを指していました。



母は飛行機の消えた方向に向かって頭を下げ目を閉じました。



予想通りゴリゴリの国策映画で、面白いかというと全く面白くありませんが、
陸軍予備士官学校、航空学校の生きた映像を見ることができます。

そして、我々が思う以上に、当時たくさんの国民がこの映画を観て、
戦地に息子がいる全国の母親たちは紅涙を振り絞り、
少年たちは迫力ある模型の空戦映像に興奮し、そして
ともすればあまり人気がなかった偵察への志願が増えたことでしょう。


終わり。





国策映画「愛機南へ飛ぶ」前編

2023-12-09 | 映画

しばらく海外の古い戦争映画が続いたので、この辺で
戦中の国策映画を取り上げることにします。

「愛機南へ飛ぶ」

この有名なタイトルは耳にしたことのある方も多いでしょう。
わたしは一度、出征した軍人の遺書の中にこの言葉を見た覚えがあります。

海軍国策ものである「水兵さん」と同じく、(制作は1年違い)
こちらは陸軍航空兵のリクルートが目的にもなっています。

正直、日本の戦意高揚国策映画に面白い作品があったためしはないですが、
1943年という戦争真っ最中の作品ということで
我々が思う以上に皆に観覧され、人気もあった作品です。

■ 映画配給会社という名の映画配給会社

「一億の 誠で包め 兵の家」

「映画配給会社」(社名)の配給した作品の最初に現れる標語です。
映画配給会社は第二次世界大戦の間存在した映画配給会社で、
1942年に創立し、1945年8月15日に解散しました。

わかりやすく戦時高揚映画配給を目的とした軍御用達会社だったわけです。

1942年2月、政府は映画統制令を出し、
全ての娯楽映画としての制作は禁止されることになります。

松竹、東宝、大映、日本映画社の4社が合同で出資され、
戦時中の作品とニュース映画を引一括して配給していました。

その配下に書く映画制作会社がいて、実際の制作を行います。
そして、映画配給会社、通称「映配」の作品には、このロゴか、

「撃ちてし止まむ」

のどちらかが必ず最初に登場しました。
(こちらは『乙女のゐる基地』で見た覚えがある)

ロゴに続き「情報局国民映画」の文字が現れ、やっとタイトルです。


■ 子は国の宝



水野家は民間船舶会社の船員を一家の主人とする平凡な家庭です。
昭和2年のこの日、家の居間で、若い夫婦が
8歳になった息子の武の将来について話し合っていました。



父親の水野氏を演じるのは佐分利信。(おそらく客寄せキャスティング)
それが宿命とはいえ、明日からまた何ヶ月も母と子を置いて船に乗る生活。

最後の休暇の夜、夫婦は息子の武の将来について語り合っていました。

「わたしはお医者さんになってほしいわ・・。
船乗りは、ちょっと・・・・」


明日からまた母子二人の生活が始まると思うと、
息子を船には乗せたくないという本音がつい出てしまう妻でした。

夫は思わず苦笑しますが、彼女の意見に賛成も反対もせず、
ただ一つ、丈夫で清らかな子供になってほしいと言い、出港していきました。

■ 父の訃報



そして5月27日。
この日は海軍記念日でした。



東京では海軍の大行進が行われる慣例がありました。
当時の実際の行進と観衆の様子を見ることができます。
これは銀座周辺だと思われます。



有楽町、丸の内・・・東京中を正装した海軍の分列が歩き、
人々はそれを見るために沿道に集まり、大変賑わいました。



川が見えますが、現在上に首都高が走っている場所ではないかと思われます。
都電の線路も見えますね。



この日老男女は海軍行進を沿道で旗を振って声援を送りながら見送ります。
「海軍記念日」は当時初夏の季語にもなっていました。



息子武が友達と海軍行進を見に出かけた後、
鎮痛な面持ちの船舶会社の社員が水野家に悲しい知らせをもたらしました。

航路の途中、水野氏が病気にかかって急死したというのです。



一家の主人を失った母子は、母の故郷にやってきました。

母は、息子を実家に預け、自分一人で東京で働くつもりでした。
会社からの弔慰金などはもらえましたが、それだけでは備えとして不安なので
体の弱い武を田舎で静養させている間、洋裁でなんとか身を立て
将来のたくわえにしようと考えたのです。

母が自分を置いて東京に働きに行く決意を告げると、
武は寂しそうな、不安そうな様子を隠しません。

都会っ子で体の弱い武は、このころ地元の子供たちの遊びの輪からも
得てして遅れをとるような状態でした。



母親の考えを変えたのは、学校で母親向けに行われた講演会でした。
今でいう?「母親教室」みたいなものです。

講師(笠智衆)は、親の愛情が子供の一生にとって大切であることを説きます。

「子供を苗木に喩えるならば、母親は太陽となって照らし、温めることで
水も肥やしも十分に彼らい吸収させることができるのです。

子供は国家の将来を担うお国からの大切な預かりものなのです。」





その言葉にハッと胸を打たれた母は、決心しました。
息子はどんな苦労をしても自分の手元に置いてここで育てようと。



そして、10年の時が流れ、昭和12年7月7日。

盧溝橋でのちの日中戦争の戦端となる事件が起きたのと同じ日、
水野母子の暮らす中学校では軍事教練が行われていました。



その指揮を執る生徒は、すっかり逞しく成長した水野武でした。
演じるのはこの頃の国策映画の常連で主役などを務めたご存知原保美です。



母は実家の郵便局で働きながら息子をここまで育ててきました。
顔見知りの村の医師は、すっかり丈夫になった武に感嘆します。

「来年は進学ですな。どんな道に進むんですか」

「はあ、できれば先生と同じ方面に行ってくれればと・・」

「医者ですか。いや、これからは経済をさせなさい」

先生、なぜだ・・・・。



しかし武が進みたいのは医学でも経済でもありませんでした。
ある日思い詰めたように、母に告げます。

「士官学校に行って飛行機に乗りたい」

母は呆然とします。
今の不安定な世情で軍人になりたいというだけでも心配なのに、
さらに危険な航空に進みたいと言い出すとは。

「お母さんはもっと・・静かな仕事の方があなたに向くと思ってたんだけど」

「お父さんが船に乗ったように、僕は飛行機に乗りたいんです!」





もちろん母の心情としては反対が先に立ちます。
しかしその夜、亡き夫の写真を見ながら夫の遺した日記を見ていた彼女は、

「子供は夫婦の子であると同時に国家の子である。
父は父の道を行く、汝は汝の進む道を選べ」


という言葉を見つけてしまいました。



それを読んだとき、彼女は亡き夫の声を聞いたような気がしたのです。


次の朝、父の遺影の前で、彼女は息子に告げます。

「飛行機でもなんでもあなたの思う通りやってごらんなさい。
その代わり、お父さんの子として恥じないよう、
決して途中で諦めたりしてはいけませんよ」



それを聞いた武は顔を輝かせ、それからそっと涙ぐむのでした。

■ 陸軍予科士官学校



成績優秀だった水野武は、難関の陸軍予科士官学校への入学を果たします。
映画はここから俄然陸士の学校案内として細かく学生生活の描写となります。

陸軍予科士官学校は陸軍士官学校の文字通り予科たる機関です。

明治20年に士官学校官制が制定されると、
士官候補生学校として陸軍幼年学校予科、陸軍幼年学校本科が誕生しますが、
大正9年に、編成が変わり、幼年学校本科は予科士官学校となります。

予科在学中の生徒は「将校生徒」と称し、卒業するときに初めて
士官候補生(上等兵)となって兵科が指定されることになります。

予科士官学校は当初幼年学校本科のあった市谷台にあり、
陸軍幼年学校の卒業生、一般試験合格者(16歳〜19歳)
下士官からの受験合格組、中国、タイ、モンゴル、インド、
フィリピンからの留学生が在学していましたが、
開戦後入校者が激増すると、手狭になった市谷から、1941年、
数ヶ月という突貫工事で竹中工務店が完成させて朝霞に移転しました。


学校案内ですので、日課の概要も申し上げてくれます。
6時起床は全国共通ですね。



現在も陸上自衛隊朝霞駐屯地に残る遥拝所石碑。
(場所は当時と変わっているらしい)





遥拝所は、海軍兵学校の「八方園神社」の方位盤に相当する場所で、
宮城をはじめ日本の各地域の方角が示された方位石が置かれ、
将校生徒たちはこの場でその方角に向かって頭を下げ敬礼を行いました。


方位石の横で軍人勅諭を唱える水野武将校生徒。


そして学科についての説明です。

海軍兵学校と同じく陸士でも理化学系統の学問に重点が置かれました。
いつの時代も戦争は科学の最先端で行われるべきだからです。

対して文化系統の学問としては、国体認識を強化し、
精神的な史談を取り上げて愛国心を養うことが重要視されました。

主にその目的とするところは軍人としての精神訓育です。


あらゆる兵科の将校となるための訓練の一環として
乗馬が行われていた時期もあったということがわかります。

そういえば、第一空挺団のある習志野駐屯地には近衛騎兵連隊、
第一騎兵連隊があり、馬場があったと以前ここでも取り上げましたね。

この映像もおそらく習志野での撮影ではないでしょうか。
映像では数十頭単位の馬が大きな円を描いて駆けているのがわかります。


お次はまるで現代のレンジャー部隊の訓練そのままの障害走。
「集合教育障害走」というそうですが全国共通かどうかは知りません。



拳銃を小脇に抱えながら匍匐前進で低所をくぐり、障害物を乗り越えて。


市谷から移転した広大な朝霞の陸軍予科士官学校は、
戦後米軍に接収され、キャンプ・ドレイクとして運営されていました。

これらの施設もある程度残されたのかもしれませんが、
現在は一部を除き、ほとんどかつての姿をとどめていないと思われます。



武道も勝ち負けよりも精神性が重んじられます。

■ 陸軍航空士官学校



武は陸軍予科士官学校を卒業し、士官候補生として入校を果たしました。

陸軍航空士官学校は昭和12年、埼玉県所沢飛行場内で開校し、
昭和13年に入間に移転した航空士官養成機関です。
昭和16年、昭和天皇により「修武台」の名を賜りました。

ご存知のように、陸軍航空士官学校は戦後米軍に接収され、
ジョンソン基地となっていましたが、航空自衛隊の発足を受け、
現在は航空自衛隊入間基地となっています。


修武台と書かれたこの石碑は、現在でも入間基地内で見ることができます。


座学ではこの日、偵察についての講義が行われていました。
偵察の任務は戦闘をできるだけ避け、情報を持ち帰ることだ、
と基礎的なことから説明です。



飛行機のエンジン始動の実習シーンは、ロケの日に天気が悪かったらしく
画面が真っ暗でほとんど何をしているのかわかりません。


航空機における空中戦と剣道には合い通ずるものがあるということで、
航空学校では剣道が重視されました。

「肉を斬らせて骨を断ち、斃れてなお止混ざるの気魄を遺憾無く発揮せよ」



水泳、というか高所からの飛び込み。



どうも入間川に練習用の飛び込み台が設置されていたようです。

冒頭の見事な飛び込みを見せているのはおそらく最優秀者で、
頭から飛び込めずに足から着水している生徒もいます。

この士官候補生たちは、その後どんな戦場で戦うことになったのでしょうか。



水中騎馬戦。手前の二人、結構楽しそう。


大きなリングの内部につかまり、地面を転がっています。

現在では「ラート」という大きな2本のリングで行う車輪運動ですが、
第二次世界大戦中、「フープ」「操転器」という名称で
航空操縦士養成の訓練専門器具として採用されていました。

大戦後姿を消していましたが、もともと発祥地のドイツでは
子供の遊具として知られており、これが1989年、
大学教授が留学先から持ち帰り、スポーツとして復活しています。


ロープを高所までよじ登り、上にたどり着いたら片足バランス。
平均台の上でも結構大変なのに、この高さで・・・。
これも搭乗員として必要な平衡感覚を鍛える運動です。


予科でも行われた器械体操は、航空学校になるとより進化して。
空中回転などは基本です。



これを画面では「球戦」と称していますが、アメリカンフットボールです。
さすがにこの名前は使えないので・・・。
ただし、外来語全て禁止されていたわけではありません。(ルールとか)



瑣末なルールには拘らず、敢闘精神を発揮して。

■女子搭乗員たち


その頃。
息子が航空学校に行くようになってからすっかり飛行機に目覚めた母は、
地元の子供のグライダーの面倒を見るまでになっていました。



彼女の父親と釣りに行く途中、そんな彼女の姿を見て
結構結構大いにおやんなさいと励ます恩師、笠智衆。


そのとき通りかかった武の同窓生、航空機工場勤務の菅沼に誘われ、
母は週末、霧ヶ峰の滑空場を訪れました。

霧ヶ峰は知る人ぞ知るグライダー発祥の地でした。

昭和8年にグライダー滑空場が始まって以来滑空機のメッカとして
ご覧のように、映画が制作された頃も滑空は行われていましたが、
終戦と同時に使用中の数十機と機材は焼却されました。

戦後7年の昭和27年からまた学生航空連盟などの団体が
ここでの訓練を開始し、現在も競技会が開催されています。

霧ヶ峰グライダー滑空場


どうして動力がないのに宙返りなどの操縦が可能なのか、
少年が尋ねると、航空工場勤務の青年は、
上昇気流を利用するのだ、とわかりやすく説明してやります。

そして華麗に舞っていた一機のグライダーの操縦席を見て母は驚きました。
女性だったからです。

「あれは中級機ですが、さっき宙返りをした高級機に乗る女性も二人います」



この女性は初級機パイロットです。



尾翼の後部にいる係が装置を外すと、グライダーはするすると滑走し、
そのまま斜面を降りながら飛び立つのです。

初級機は最初このように低い安全な場所から始めます。


滑空を終えると、降機し、



監視官に高度を報告し、敬礼して終わります。(ちなみに高度は4m)



滑空を済ませた機体は、皆で掛け声を出しながら元の場所に戻します。



このグライダー女子が、どこの所属で何を目的にここで訓練していたのか、
映画では説明されませんし、資料も見つかりませんでしたが、
陸軍の一部はグライダーを軍利用するための研究をしていたそうですから、
その補助として挺身隊の女子を輸送搭乗員に養成していたのかもしれません。



彼女らの様子からは、とてもグライダーを遊びでやっているとは思えません。



しかし、隊員が全員美人であることから考えても、
映画的な演出と創作であった可能性は大いにあります。



グライダー女子の存在は水野の母久子に強いショックを与えました。
そして彼女自身も何か航空に携わりたいという思いを強め、
菅沼に航空工場での仕事の斡旋をその場で依頼しました。

カーチャン・・・。

■ 卒業式



そんな母の心を知ってか知らずか、息子の武は
順調に航空士官への道を歩んでいました。

今日は初めての単独飛行です。



その日、武は旧友菅沼からの手紙を受け取りました。
それには、彼の母が航空工場の舎監として働くようになったこと、
それは間接的に息子の助けになると信じているからだ、とありました。

このあと、舎監として若い娘たちの面倒を見る久子のもとに、
武が休暇で帰ってきて父の思い出を語り合ったりするわけですが、
それら多くの場面のフィルムが欠損しており、こんな感じで解説されます。





そして次のシーンでは航空士官学校の卒業式です。
水野武は第54期卒業(1941年)という設定です。



「台湾第8068部隊付士官候補生水野武」



武は3名の成績優秀者の一人として卒業式で名前を読み上げられました。



このとき軍楽隊の奏でる儀礼曲の曲名はわかりませんでした。



卒業生は家族を伴ってそれぞれ振武台航空神社に参拝します。



遥拝所にて。

「ここで毎朝宮城と伊勢神宮を遥拝するんです。
それから、お母さんおはようをいうんです」




母は宮城の方向に深く頭を下げるのでした。

映画で武が卒業したとされる航空士官学校第54期は395名、
操縦298(偵察66戦闘82軽爆60重爆90)技術37通信36偵察24名。

そのうち戦没者は254名でした。

続く。



「曹長に聞け」〜USS「エドソン」付録:CPOジョーク

2023-12-06 | 軍艦

前回までUSS「エドソン」の乗組員生活区画を見てきました。
続きです。

■ シックベイ



「シック・ベイ」は軍艦の病棟であり診療所です。
ここにあったプレートには何が書かれているかというと、

このコンパートメントは、乗組員が怪我や病気のをするスペースです。

1. 医師はいませんでした

2. 乗組員は軍人による治療を受けることになります

3. 隊員は救命士と同様であり、実行できる手当て、治療は限られていました

4. 彼らの主な役割は、患者を航空母艦などの大型船や、
適切な治療が提供できる陸上施設に移送するまで、
患者の状態を安定させることでした。

通常、シックベイは独立勤務の曹長または一等兵曹が統括します。
彼と助手の HN または HM3 は両方とも航海 X 部門に配属されていますが、
「エドソン」の場合は、この艦が

戦隊司令官旗艦  DESRON
(スコードロン コマンダーズ フラッグシップ=デスロン) 

としての役割を果た酢ようになってからは、メディカル オフィサー
=軍医が乗組員として勤務していました。

「シックコール」(体調不良の連絡)の受付は、
0730-0830と1300-1330の間にすることになっており、
軽度の病気とされる乗組員はシックベイで治療を受けますが、
「エドソン」が港にいれば病人は上陸させられて、
隊員には手がけられないレベルの治療を海軍病院で受けました。

ところで、かつて海軍衛生兵だった人のこんな詩を見つけたので
翻訳しておきます。

”私は海軍衛生兵”

私は海軍衛生兵だ

若者の体力と熱意、そして老人の知恵と経験を持っている

医者3役、看護師1役、海兵隊員2役、ヨーマン1役、母親3役だが、
実態は100%水兵だ

1778年以来、数え切れないほどの海兵隊員、兵士、
水兵の命綱となってきた

あるとき私は戦場から海兵隊員を運んできた
そして、私の死を兄弟姉妹のように悼む海兵隊員たちに、
私自身も恭しく運ばれてきた

私は若い

私は老いた

勇敢で、怖がりで、傷だらけだ

ロブ ローリー ボーイ、外科スチュワート、ファーマシストメイト、
病院衛生兵、IDC・・・・

私の肩書きは年月とともに変わってきた

平和を謳歌しながらも、海やジャングル、外国の都市、ワシントンD.C.、
そして白、褐色、珊瑚色、黒......あらゆる色の砂浜で、
戦争の痛みを感じてきた

白、褐色、珊瑚色、そして黒......私は自由で、地獄を味わった
硫黄島では古き栄光を得たこともある

私は潜水艦で盲腸を摘出し、戦闘のさなかに手足を切断した
通常の医療行為で期待をはるかに超える範囲の処置を数多く行った

私は、自分の国の海軍、海兵隊、陸軍、空軍の負傷者を治療するために、
自分の負傷も死も顧みることはなかった

私は海軍の中で最も多くの勲章を持っている
そのほとんどは、本人ではなく、妻や子供、あるいは母に贈られたものだ

私は、これまで戦ってきたすべての海兵隊員と、
船に乗って海に出たすべての水兵の命が存えたのは
"ドク "と呼ばれた人たちのおかげであることを、心の中で誇りに思う

すべての兄弟姉妹に幸せなバレンタインデーを

マーク・A・ライト

HMC(SS)、米海軍

2003年2月14日




■ CPO ギャレー



見ればわかる。
CPO(チーフ ペティ オフィサー)の巣、ではなく、ギャレー&メス。
海軍的にいうところの「ゴートロッカー」です。

No Entry Use Other Door
進入禁止 他のドアを使用せよ

という言葉がどうしてこんな大々的に看板に金文字で打ってあるのか。
そもそもこの部屋に「他のドア」があるのか。
このドアを使っていいのは誰なのか。

色々と疑問が湧いてきます。

すべての軍隊には「入隊」(Enlisted)と「徴兵」(Commissioned)
という2種類の兵隊がいるものですが、アメリカ海軍と沿岸警備隊には
4つの階級が存在します。

「入隊」(Enlisted)
任命されたCPO
任命されたウォラント(
Warrant)
「徴兵」(Commissioned)


そのため、"チーフ "という称号はより特徴的なものとなります。

曰く、曹長は

知恵の泉である
親善大使である
人事関係の権威である
技術専門家である


海軍でも沿岸警備隊でも、そこここで使われる言葉、それが

"曹長に聞け "(Ask the Chief.)

だといえば、CPOが海軍でどんな存在なのかがわかるでしょう。

(あ、よかった『他のドア』があった)



Fouled Anchor ファウルアンカーという海軍用語があります。



ファウル(foul)とは、絡みつく、絡まるという意味の海事用語で、
一般的には、何かが間違っている、または困難であるという意味です。
帆船時代に生まれた言葉でもあります。

ファウル・アンカーとは、錨が海底の障害物に引っかかったり、
ストックやフルークにケーブルが巻きついたりした状態を指します。

そして、CPO、曹長の紋章にはこのファウルアンカーがあしらわれています。
錨は、曹長にとって、すべての下士官が日々耐えなければならない
試練と苦難を象徴する、曹長そのもののシンボルとされてきました。

錨、鎖、文字。
知らない人が見ると、単にアメリカ海軍の曹長を示す記号に過ぎませんが、
曹長にとっては、これらはより高貴で輝かしい意味を持っているのです。
たとえば、錨と鎖、『USN』のレターに、彼らはこんな意味を込めます。

U "は "Unity "
協力、調和の維持、目的と行動の継続性

S "は "Service(奉仕)"
神、仲間、そして海軍への奉仕

N "は "Navigation "
全人類、特に同胞である仲間のチーフとの取引において、
神と人の前にまっすぐに歩むことができるよう、自らを真の航路に保つこと

チェーン
柔軟性の象徴
私たちが日々、一本一本繋いでいく人生の鎖


私たちの魂に対するすべての神の約束の成就という希望と栄光の象徴
誘惑、苦難、迫害の嵐の中で、信仰を堅固に保ち、
自分のあるべき立場にとどまるよう励ますものである

■ CPOジョーク



CPOジョークを集めてみました。
これを読むと、CPOという人種の実態がわかってくるかもしれません。

「誰が犠牲になるか」

ヘリコプターの下に11人がロープでぶら下がっていた。
10人の海軍士官と1人の曹長である。

ロープは11人全員を支えるには十分な強度がなかったため、
多くが助かるためには誰か一人が手を放さなければならなかった。
しかし誰がその志願者になるかは決めかねた。

そのとき決然と曹長が名乗り出た。


「わたしは海軍のために何でもします。
家族を捨て、すべての経費を請求せず、見返りもなく多くの残業をする。
それが曹長だからです!」


彼が感動的なスピーチを終えると、海軍士官たち全員が拍手をし始めた。

「川を渡る力」

むかしむかし、3人の海軍士官が森の中を歩いていると、
突然、巨大な荒れ狂う川の前に立った。
しかし、彼らはどうしても向こう岸に行かなければならなかった。

しかし、こんな激流をどうやって?

最初の海軍士官はひざまずき、主に祈った:
主よ、どうか私にこの川を渡る力をお与えください!

主は彼に長い腕と丈夫な足をお与えになった。
これで彼は川を泳いで渡ることができた。
約2時間かかり、何度も溺れそうになった。

しかし、彼は成功した!

これを見た二人目の海軍士官は、主に祈って言った:
主よ、どうか私に力と、この川を渡るのに必要な道具をお与えください!

主は彼に桶をお与えになり、桶が何度か転覆しそうになったにもかかわらず、
彼は何とか川を渡ることができた。

この様子を見ていた3人目の海軍士官はひざまずいて祈った:
主よ、どうか私にこの川を渡る力と手段と知性をお与えください!

主はその士官を曹長に変えられた。

曹長は地図を一目見て、数メートル上流に歩いて行き、橋を渡った。


「マスターチーフと3人の中尉」

ある日、マスターチーフがランチを食べに、
キャプテンとオフィサーズ・クラブに行った。
メインダイニングに入ると、そこはかなり混雑していた。

空席が2つあるテーブルに3人の中尉が座っているのに気づいたので、
艦長は彼らに仲間に入れてもらえないかと頼み、
中尉たちは快く彼らを席に招いた。
彼らは昼食を注文し、食べながら会話がはずんだ。

話の流れで、マスターチーフが、これまで多くの士官を見てきて
特徴を観察してきた結果、その士官の来歴を割り出すことができると言った。

中尉たちは興味を持って、自分たちがどのようにして任命されたかを
当ててみたまえと彼に言った。

曹長は左側の中尉に向かい、ROTCを卒業したでしょうと言った。
驚いた中尉はどうしてわかったのか尋ねた。
マスターチーフは、中尉の会話から、
学歴は高いようだが、軍歴は浅いようだったからと答えた。

マスターチーフは次に、右側の中尉に、
OCSを経て入隊した経験があるでしょう、と言った。

この中尉も驚き、どうやって当てたのかと尋ねた。

マスターチーフは、やはり会話を通して、
しっかりとした軍歴を持ち常識を備えていることがわかったからと言った。

そして、テーブルを挟んで向かい側にいた中尉に、
あなたは海軍兵学校を卒業しているでしょうと答えた。

中尉はその通りだと答え、調子に乗って、高い知性、軍人としての姿勢、
その他海軍兵学校で身につけた優れた資質に気づいたからか?と聞いた。

曹長は、そのようなことはないと答えた。
彼はただ、中尉が兵学校のクラスリングをはめていたのを見ただけだった。

「提督への道」

長時間の民間フライトで、3人の男が並んで固くなって座っていた。

飛行機が水平飛行になった後、窓際の席の男が突然、
低い声ではっきりと自信たっぷりに言った。


「アメリカ海軍提督、退役。結婚して息子が2人、2人とも外科医です」

数分後、通路側の座席に座っていた男が、
口元に笑みを浮かべながらこう言った。


「アメリカ海軍提督、退役。既婚、2人の息子はともに裁判官です」

少し考えた後、中央の席の男が自己紹介することにした。
目を輝かせてこう宣言した。


「アメリカ海軍曹長、退役。結婚歴なし、2人の息子はともに提督です」


「ザ・マスターチーフ」

曹長はある日、新入りに気づき、執務室に来るよう吠えた。
曹長はまず、君の名前は何だ、と新入りに尋ねた。
ジョン、と新人は答えた。

マスターチーフは眉をひそめた。

「私は誰もファーストネームで呼ばない。
それは親しみを生み、権威の崩壊につながる。
スミス、ジョーンズ、ベイカー、としか呼ばない。
私のことは『マスターチーフ』としか呼ばせない。わかったか?」


「はい、曹長!」

「よろしい!では、君の苗字は」


新人はため息をついて言った。

「私の名前はジョン・ダーリング・マスターチーフです」

「・・・・さて、ジョン、次に言っておきたいことはだな」



「消えたチーフ」

第二次世界大戦中のある島嶼作戦で、
5人の人食い人種が通訳として海軍に雇われた。

機動部隊の司令提督が人食い人種を歓迎したとき、彼は言った。
「我々は君たちのサービスに対して十分な報酬を与える。
だから、水兵を食ったりはしないでくれ」

人食い人種は約束した。

4週間後、司令部の提督が戻ってきて言った。

「君たちはよく働いてくれているし、私は君たちにとても満足している。
しかし、我々の曹長の一人がいなくなった。
彼の消息を知っている者はいるか?」


人食い人種たちは皆、首を横に振った。
提督が去った後、人食い人種の酋長は村人に、
曹長を食った馬鹿者がこの中にいるといった。

ためらいがちに手を挙げた者に、酋長は言った。

「馬鹿者!どうせ気づかれないと思ってこの4週間、

少尉、中尉、中佐、そして司令官を食ってきたのに、
貴様はよりによって曹長を食っただと?


「シーマンシップ・テスト」

ある時、OODが下士官のシーマンシップをテストすることになった。

「曹長、もし前方の見張りが海に落ちたらどうしますか?」


「簡単です。"Man Overboard "と叫びMan Overboardの手順に従います」

「それではオフィサーが船外に落ちたらどうしますか?」

曹長は言った。

「うーん・・・・・どっちのですか?」

註:Officerにはcommissioned(士官)と
non commissioned(下士官)がいる


「猿」

ある観光客がペットショップに入り、展示されている動物を見ていた。
彼がそこにいる間、下士官が店に入ってきて、
「シーマン モンキーをください」と言った。

店員はうなずき、店の脇にある檻に行き、サルを取り出した。
首輪とリードをつけ、曹長に手渡した。

驚いた観光客は店主に聞いた。
数百ドルですよ。どうしてそんなに高いんですか?

「ああ、あのサルはヘッドや通路を掃除したり、
船や格納庫の備品の定期メンテナンスをしたり、
複雑なアビオニクス・システムのトラブルシューティングや修理を
ミスなくこなしたりできるんだ。」


観光客は別の檻の中のサルを見た。


「そっちはもっと高いよ!$10,000! 何をするんですか?」


「GMT、CSTT、PRT、DC、3M、PQS、事務処理もできる。
本当に役に立つものばかりですよ」


観光客はもう少し辺りを見回すと、ケージに入った3匹目のサルを見つけた。
首には50,000ドルの値札がついていた。


「うわ高い!いったい何をするんだ?」

店主は答えた。

「まあ、実際に何をするのか見たことはありませんが、
納品書には『オフィサー』と書いてあります」

「理髪店」

ワシントンDC近郊の小さな町で、床屋が店を開いて商売をしていた。

若い海兵隊員がハイ&タイトに仕上げてもらいにやってきた。
床屋は若い海兵隊員に兵役について尋ね、世間話が弾む。
散髪が終わり、海兵隊員が財布を開くと、床屋は言った。


「国家への偉大な奉仕に感謝して、お金は結構です」

翌朝、床屋が店を開けようとすると、玄関先に箱が置かれていた。
箱の中には感謝の手紙とSEMPER FIの真っ赤なTシャツが入っていた。

同じ日の朝、若い陸軍のG.I.が散髪にやってきた。
同じように陸軍の話やその他の世間話をする。
散髪が終わると、G.I.は立って財布に手を伸ばす。
床屋は言う。おごるよ。国のために働いてくれてありがとう。

翌朝、男が床屋を開けると、玄関先に
陸軍のボールキャップと礼状が入った箱が置かれていた。

同じ日、マスターチーフが散髪にやってきた。
彼はフルドレスブルーに身を包んでいる。

理髪師は感心し、また同じことが起こる...軍務についての世間話だ。
マスターチーフがお金を払おうとすると、またしても店主は言った。


「偉大な国家への奉仕に感謝して(略)」

翌朝、床屋が店を開けようとすると、
玄関先に3人の曹長がいた。


「老いた塩」

ある年老いた戦艦の提督が死んだ。
ペテロは彼を温かく迎え入れた。


「あなたは国によく仕えたのだから、天国に入ることができる」

提督は門をくぐり、聖ペテロに歩み寄った。


「ここに海軍曹長がいないことを祈るよ。
彼らは人間の中で最も無作法で、最も不愉快な種類だ。
もし彼らがここにいるのなら、私は中に入らない」

「心配はいりません、提督。
天国に入ったチーフはいません。
ここには一人もいませんよ」
そうして、提督は天国に向かった。


しばらくして、提督は驚くべき光景に出くわした。
それは、カーキ色の服を着て、頭に駐屯地の帽子を少しかぶり、
片手にはほとんど空になったジャック・ダニエルのボトル、
そして両腕には美しい女性。

憤慨した提督は、あわてて聖ペテロのところに戻り、彼に詰め寄った!


「あれは何なんだ。」


心配しないで、提督、聖ペテロは優しく言う。

「あれは神です。彼は自分がチーフだと思い込んでいるだけですよ」

「司令部長の選考」

ある若い海軍士官が交通事故に遭った。


なぜか両耳は切断されたが、身体的な障害はなかったため、
彼は軍に残り、最終的には提督となった。
しかし、彼は自分の外見に非常にセンシティブなままだった。

ある日、提督が3人の曹長と面接していた。
最初のマスターチーフは水上戦タイプで、素晴らしい面接結果だった。
面接の最後に、提督は彼にこう尋ねた。


「私について人と違ったことがあると思うか」

水上戦のマスターチーフはこう答えた。


「あなたには耳がありません」


提督はこの無粋な態度に激怒し、彼を執務室から追い出した。

2回目の面接は航空マスターチーフで、彼は最初の人物よりもさらに優秀で、
人事ファイルもはるかに良かった。
面接の最後に、提督は彼に同じ質問をした。

航空曹長はこう答えた。


「あなたには耳がありません。」


提督は彼を追い出した。

三人目の面接は潜水艦曹長だった。
彼は明晰で、非常に鋭く、他の2人を合わせたよりも
多くのことを知っているようだった。
提督はこの男を気に入り、同じ質問をした。

驚いたことに、潜水艦曹長は言った。


「はい、あなたはコンタクトレンズをしていますね」

提督は感心して、なんて観察力のある曹長なんだろうと思った。
その上この人物は私の耳について何も言わない。

提督はなぜそれがわかったのか尋ねた。

その潜水艦の曹長はこう答えた。


「はい、耳もないのにメガネをかけるのは難しいですから」

「全能の下士官の力」

旅客機が離陸しようとしたその瞬間、5歳の男の子が癇癪を起こした。

困惑した母親が、何をなだめようとしても、
少年は激しく叫び続け、周囲の座席を蹴り続ける。

突然、飛行機の後方から、アメリカ海軍曹長の制服を着た年配の男性がきて
苛立つ母親が息子に向かって振り上げた手を止めた。
白髪で礼儀正しく、物腰の柔らかい曹長は身を乗り出し、
自分の襟の方に手をやって少年の耳に何かをささやいた。

途端に少年は落ち着きを取り戻し、母親の手をそっと取り、
静かにシートベルトを締めた。
他の乗客は皆、自然に拍手をした。

チーフがゆっくりと席に戻ろうとすると、客室乗務員が彼の袖に触れた。


「あの少年にどんな魔法の言葉を使ったのか、お聞きしてもいいですか?」

彼は穏やかに微笑み、そっと打ち明けた。


「この錨、ストライプ、バトルリボンを見せて、これをつけている者は、
乗客を一人を飛行機から放り出す権利がある、と言ったんです」

「チーフと提督」

チーフと提督が同じ日に死んで天国に行った。
天国に着くと、聖ペテロが二人に、天国の新しい家に案内すると言った。

提督の新しい家に着くと、プールやテニスコートもある、
ゲート コミュニティーにある美しいマンションだった。
提督はそのマンションにいたく満足した。

聖ペテロは、チーフにどこに住むか見せてあげるから来なさい、と言った。
提督は、まだ天国をあまり見たことがないので、一緒に行きたいと言い、
3人はチーフの新しい家を見に行った。

大きな丘に着くと、彼らは車を走らせ、巨大な邸宅に入った。
チーフが新居の調査をしている間、提督はペテロを横に引き寄せて言った。

「なぜチーフの家はこんなに大きくて、
私の家はマンションなのか理解できない。
地球上では私は提督で、彼はただのCPOだったのに!」


聖ペテロは言った。


「提督、あなたはわかっておられない。
天国には提督はたくさんいるが、チーフはめったにいないのです」


「ベスト」

兵士、水兵、空兵、海兵が、どの軍がベストかについて口論をした。
口論は白熱し、最終的には互いの殺し合いにまで発展した。

そして彼らは天に召され、天国のパーリーゲートにいることに気づいた。
そこで彼らは聖ペテロに、どの軍が一番優れているかと尋ねた。

聖ペテロは即座に答える。


「今度神様に会ったら、お考えをうかがってみます」

しばらくして、4人は聖ペテロに再会した。
彼らは神からの返答が得られたかどうかを尋ねた。

すると突然、白く輝く鳩が聖ペテロの肩に舞い降りた。
鳩のくちばしには、きらきら光る金粉のついたメモが入っていた。

聖ペテロは4人に言った。


「主が何とおっしゃっているか見てみましょう」


トランペットが鳴り響き、金粉が宙に舞い、ハープがクレッシェンドを奏で、
聖ペテロは4人の若者たちにメモを読み上げた。

覚書

To:兵士、水兵、海兵隊員、航空兵

From: 神

件名:どの軍務が最高か

諸君、軍隊のすべての部門は名誉ある高貴なものです。

あなた方一人ひとりが、立派に国に貢献しているのです。

アメリカ軍の一員であることは、特別な敬意、賛辞、
献身を保証する特別な召命を意味するといってもいいでしょう。

そのことを誇りに思ってください。

敬具

GOD CPO USN (Ret.)


「いびきをかく男と同室」

曹長が小さな町に入る頃には、ホテルの部屋は満室だった。


「どこかに部屋があるはずだ、ベッドだけでもいい、どこでもいい」


と彼は懇願した。

「ああ、ダブルの部屋ならあるんだが・・・海兵隊のガニー(砲手)だ。
でも実を言うと、彼はいびきがうるさくて、
過去に隣の部屋の人から苦情が来たことがあるんだ。
あなたにとって割に合うかどうかわかりませんよ」


「大丈夫です」


と疲れたチーフは断言した。

翌朝、チーフは目を輝かせて朝食にやってきた。

「よく眠れましたか?」


「よく眠れましたよ」


マネージャーは感心した。

「もう一人のいびきはどうでした?」


「いや、すぐに黙らせましたよ」


「どうやったんですか?」


「部屋に入ったとき、奴はすでにベッドにいていびきをかいていたので、
頬にキスをして『おやすみ、きれいだね』と言ってやりました」



「魔法のランプ」

二等下士官、一等下士官、曹長が昼食をとるために船を降りていた。
公園を横切る途中、彼らはアンティークのオイルランプに出くわした。

それをこすると、煙の中から精霊が出てくる。


「3つしか願いを叶えられないから、各自1つずつ願いを言うがいい」

「まず私から!」


と二等兵曹が言う。

「バハマでスピードボートに乗って、美女に囲まれて、
何不自由なく暮らしたい!」


パッ!彼は行ってしまった。

次は俺だ! 一等下士官が言う。


「ハワイで、専属のマッサージ師とビーチでくつろぎながら、
無限のピニャコラーダと美女に囲まれていたい!」


パッ!彼は去った。

次はお前だ、とジーニーはチーフに言う。
チーフは言った。

「昼食後すぐにあの二人をフネに戻せ」

続く。


ウィッシング ウェルとミッシングマンズ テーブル〜USS「エドソン」

2023-12-03 | 軍艦

USS「エドソン」の艦内探訪シリーズ続きです。
上甲板から1階下のワードルーム、そして士官用ステートルーム、
給料支払い事務所、人事事務所を前回まで見てきました。



人事事務所を出たところに赤くペイントされた何かがありました。
艦内で赤いものといえば消火関係・・?



■ AFFF ホース リール アッセンブリー

やはり消火関係だったようです。
その隣にあったAFFF ホースは、火災時の初期対応用消火ホースです。

即時に対応できる要員がすばやくアクセスできて取り扱えるように、
そしてその後の本格的な消火のための再突入を強化するために、
このホースは機械スペースの正面玄関近くに設置されていました。

■ 艦内売店



棚の上のスナック菓子は、日本でもお馴染み「キットカット」以外にも、
「ミルクダッズ」(ミルク不発弾)、ネッスルのチョコレートバー、
「ベビールース」はピーナッツのヌガーバーです。
どれをとっても日本人の甘味許容量を軽く倍超えしそうな勢い。


マルボロ、キャメル、ウィンストン、ポールモール、
セーラム、ラッキーストライクなどのタバコ各種。

海軍でも昨今は艦内禁煙が進んでいますが、この頃は無問題。



売店勤務のセメラッド水兵。
こっち見んな(笑)

■ クルーズ メス デッキ & ギャレー


クルーメス デッキ(兵員食堂)にやってきました。
ここはギャレー(キッチン)もあります。



右側のトレイとカトラリーを撮ってから左にスライドして
食事を受け取っていくシステムです。
カトラリー置き場にある「本日のメニュー」は、


グリュイエール(チーズのことと思われる)
スパム
イカ

これがマジならあまり美味しくなさそうな・・・。
メインがスパムというあたりがもうね。


サーブしてくれるのは内側に立ったキッチンのクルー。
奥にスキンヘッドのイケメンがいる・・・・。



トースターですが、「エドソン」は今日現在でも
パーティやスリープオーバー(お泊まり)企画で艦を借りられるので、
もしかしたら使うことがあるのかもしれません。



昔テレビが置いてあったかもしれない場所には
薄型液晶があり、かつての「エドソン」の活動が映し出されています。


こちらのキッチンにもスキンヘッドのイケメン、フェレン水兵がいます。
スプーンを一本持って立ち尽くすフェレンくん、
エプロン引きずってますよ〜。

ところで、このフェレン君のように、厨房で働くかどうかというのは
はっきりいって本人の意思でもなんでもなく、
スカウトされて海軍に入った場合、特に選択の余地はなかったそうです。

ここには残飯を処理するという任務?もあるのですが、
当時は海の生態系とか汚染とかが全く問題にもなっておらず、
軍艦は残飯を粉砕機に放り込んで、海に撒いていました。

アメリカ人の基本的なキッチンには、どんな古い家にも
シンクにディスポーザーが付いていて、食べ物のかすは
シンク横のスイッチをオンにすれば、底のモーターがすごい音を立てて
全てを砕いて排出してしまうという仕組みです。

法律でこれを禁じている国からやってきた我々日本人は、何度やっても
これをするたびにものすごい罪悪感が拭えないのですが、
アメリカ人ときたら、キッチンのシンクとは「ゴミ排出所」だと思っていて、
せいぜいその機械が壊れないようにストレーナーをつけるくらいしか
「配慮する」ということをしません。

ですから、軍艦が海軍ぐるみでおんなじことをしていても、全く驚きません。

むしろ、今はそういうことに国際的にうるさくなってきて、
アメリカ海軍はどう対処しているのだろうと不思議です。

とにかく、アメリカ海軍がこうやって残飯を撒き散らすと、
南洋ではおこぼれに預かろうとするサメが集まってきていたそうです。

そうなるとうっかり海に落ちることもできません。

空母など、飛行士が海に落ちる危険性もあるというのに、
もし彼らがサメの餌食になったとしてもそれは
自業自得となってしまう、ということまで考えなかったのでしょうか。


コーヒーサーバーがある「談話室」でしょうか。


「エドソン」現役の頃はカセットテープ全盛だったと思いますので、
ここにあるCDは、現在の艦内企画で使ったものだと思われます。

「007カジノロワイヤル」「プラトーン」「ブリット」
「ラスト オブ ザ モヒカンズ」「センチネル」「レイジング ブル」
「スタートレック」「ダニエルクレイグ 007」

「エドソン」時代の作品も含まれています。

■ ウィッシング ウェル(願掛けの井戸)


「エドソン」にもウィッシング ウェルがありました。
井戸の向こうにある黄色いTシャツは「エドソン」調理スタッフオリジナル。

古今東西古来より、船乗りは迷信深いものです。
航海は常に危険と予測不可能な事態を伴うからです。

第二次世界大戦中の海軍兵士は、戦闘の危害から身を守るために
小さなセント・クリストファー・メダルを首から下げていました。

「守りたまえ」とある

船の進水式には女性が舳先でシャンパンのボトルを割り、
それがうまくいったら幸先がいいという験担ぎをしますし、
水兵が刺青をいれるのも、ファッションというより縁担ぎの意味があります。

設備(荷下ろし用井戸)を利用した展示艦の願掛け井戸は、
これまでのアメリカ国内で見てきたいくつかの軍艦で見てきました。



コインを入れてベル(これがどこにあるかわからなかった)を鳴らすと
あなたの願いが叶います!と断言されていました。

底をのぞいてみると、なかなかの金額のコインが貯蔵されていました。


■ 乗組員の生活の場



この一帯は乗組員の主な生活に必要な施設が集まっています。
左手のドアを覗いてみましょう。



バーバーショップ

9000-1100、1230−1530の営業です。
三百人以上の乗組員がいるので、毎日誰かが来るのでしょう。

ドアの横の張り紙には、マイケル・フォリーとトーマス・クレート・タボー、
という二人のバーバーが詰めているとありますが、
この名前は、展示の再現に力を貸してくれた人だそうです。


バーバーの制服に、客が掛けるケープ。
後ろには建造中の「エドソン」の写真、
地域出身のベテランの「俺もかつては」的自慢写真が並びます。

ブルーエンジェルスの元メンバーが、引退後にシートに収まる写真もあり。

当時の兵隊のヘアカットは基本的に「ハイ&タイト」とされていました。
クルーカットのミリタリーバージョンとでも言うべきスタイルで、
今でも、そして自衛隊でも、特にヘルメットを着用しがちな職種の方は
てっぺんを残してサイドを刈り上げるこのヘアカットをしていますね。

具体的には、側頭部と後頭部の髪をこめかみの上まで、
通常は1.6mmかそれよりも短く刈り上げます。

頭頂部を残すのは、戦闘用ヘルメットの重量がかかるため、
頭部を保護すると言うちゃんとした理由があります。


そしてなぜか同じ一角に郵便局がありました。

水兵はランチに来て手紙を受け取り(出し)、
散髪もとここ一カ所でいくつものことができたわけです。

ポスト オフィス

郵便は配備中の軍艦の乗組員の士気に大きな影響を与えます。
通常、この規模の郵便局は、NAV X 部門に割り当てられた郵便係
[=PC] の水兵または 3等水兵が運営しています。

もし展開中に艦が数週間郵便物を受け取れなかった場合、
郵便物が溜まって大きな荷物が 10〜15 個一度に来ることもありました。

仕分けが完了し「メールコール」が 「1MC」から発せられると、
部門の「郵便局」がその部門の郵便物を受け取ります。

ちなみに「1MC」=1 Main Circuitとは、艦内放送回路のこと。
一般的な情報や命令を艦内のすべてのスペースとトップサイドに送信し、
すべての乗組員が(通常)それを聞くことができる十分な音量です。

毎日定期的に乗組員に一般的な情報を伝えるために使用され、
艦内各所に設置されたラウドスピーカーを通じて再生されます。

非常時、たとえば対艦ミサイルの飛来、化学攻撃、衝突、
飛行甲板の墜落など、差し迫った特定の危険の際には、
さまざまな警報音を送信するためにこの回線が使用されます。



ポストオフィス勤務だった「エドソン」のベテラン、
トーマス・アラン・カツマ(Katsma)氏の家族は、
2017年に氏が逝去された際、彼の思い出を「エドソン」に残そうと、
かつて勤務していた場所に写真を提供しました。

「エドソン」がベトナム戦争に参加していたとき、
カツマ水兵は20歳だったということになります。

その後の彼の人生が家族に愛され豊かで幸福なものだったことを祈ります。



■ミッシングマンズ・テーブル再び

ベトナム戦争では多くのMIA(任務中行方不明)
POW(戦時捕虜)の軍人が祖国に帰ることができませんでした。

ここにもそんな軍人たちを忘れないための「陰膳」的慣習である

「ミッシングマンズ テーブル」
Missingman's Table


があります。
当ブログ的には短期間内での繰り返しになりますが、ここの説明から
ミッシングマンテーブルの「作法」とその意味について書いておきます。

あなたの目の前にあるテーブルは名誉ある場所です

ただ一人用のセッティングです。
このテーブルは、武器を職業として扱うわたしたちの仲間が
わたしたちの中からいなくなってしまった、
という事実を象徴するわたしたちの方法です。

彼らは一般に”POW”または”MIA”と呼ばれ、
わたしたちは ”BROTHERS” と呼んでいます。

彼らは今日わたしたちと一緒にいることができないので、
わたしたちは彼らのことをこうやって思うのです。

【 小さな一人用のテーブル】

抑圧者に対する一人の囚人の弱さを象徴しています。

【白のテーブルクロス

祖国の武器を取れという要請に応じた
彼らの意図の純粋さを象徴しています。

【花瓶に飾られた一輪の赤いバラ

信仰を持ち続けて帰還を待っている戦友の家族、
彼を愛する人たちを表しています。

【花瓶に結ばれた赤いリボン

花瓶に目立つように結ばれた赤いリボンは、
行方不明者の生存情報を要求するという不屈の決意の証である
何千人もの人々の胸元に施された赤いリボンを彷彿とさせます。

 【キャンドル】

不屈の精神が、天に向かって到達することを象徴します。

【レモンのスライス

レモンは彼らの苦い運命を表しています。

【パン皿に置かれた塩】

彼らを待つ家族の涙を象徴しています。

【逆さまに置かれたグラス

今、彼らはわたしたちと一緒に乾杯することはできません。

【椅子

椅子は空席です。彼らはここにはいません。

彼らとともに救い、彼らを同志と呼び、彼らの力と援助に頼り、
彼らを頼りにした者たちよ。

忘れないで!
彼らが帰ってくるその日まで、決して忘れないで!



続く。