ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

平成最後の八戸を歩く

2019-04-30 | お出かけ

海上自衛隊八戸航空基地の観桜会あらため意見交換会に出席し、
行き先が滅多に訪れることのない八戸という土地だったので、
会が終わってから車で何となくその辺を走ってみました。

アメリカでいつもやっているように、車さえあれば
気の赴くままに探索するのがわたし流の観光のスタイルです。

この日は朝から雨が降り、連休前だというのにさすが東北、
というくらい寒かったので、車を借りていてよかったかもしれません。

全く土地勘がないので、とりあえず蕪島を目標に走り出しました。
海沿いに出てくると、舗装されていない港にいきなりイカ釣り船?

昔北海道で見たイカ釣り船はは温かみのある電球を満艦飾のように付け、
実にノスタルジックなものでしたが、これは一体何の船でしょうか。

今回コンデジで写真を撮ってみて、現像しながらどれもこれも
一眼レフと比べるともうどうしようもないくらい眠たい画像ばかりなので
本当に嫌になってしまいました。

RAW画像で撮っても現像には限界があり、それと反比例して
フラストレーションはマックス。

つくづく素人ほどせめていいカメラを使うべきだと肝に命じました。

ところで、あの東日本大震災ではここも津波に襲われたわけですが、

このピンク色の建物、被災ビデオでみた覚えがあります。

最初にちらっと写ります。

漁業関係の団体が入っていたと思われるこのビル、
震災以来廃墟になっているのかどうかはわかりませんでした。

過去のブログなどを検索すると中にも入れたようですが、
少し前まで「売地」になり、今は立ち入り禁止になっているので

買い手がつき、処分を待っている状態なのだと思います。

廃墟になっても花を咲かせていたらしいこの木は
その時どうなるのでしょうか。

左の立て札は八戸の教育委員会が立てたもので、

「鮫の艀」跡

とあります。
はて、鮫とは?と思って調べてみると、そもそもここは
鮫港という名称なんですね。
昔はここから艀が出ていたということのようです。

二回めとなる蕪島が見えてきました。
前回来た時に調べたところによると、昔蕪島は文字通り島だったのですが、
海軍が埋め立てて地続きにしてしまったのです。

なぜわざわざそんな大工事をしたかはわかりません。(どこにも書いてないので)

とにかく前回漏電で焼けてしまい、修復工事中だった神社が復活していました。

左側の船は地震で持ち主がいなくなってしまったとか?

とにかくすごい数のうみねこが乱舞しています。

前回行きそびれたマリエントという水産科学館に行ってみることにしました。

日本水産界の立役者的な偉人、長谷川藤次郎の銅像がありました。
鮫で雑貨商をしていた人ですが、画期的な網を発明し、漁業王となったとか。

銅像の碑銘が「漁業王」ではなく「漁業翁」となっていました。

ドアを開けるといきなり長い階段が!(驚愕)

階段を登りながら変わった魚類の写真を鑑賞するという仕掛けです。
「階段展示コーナー」というのだとか。

上に到達すると、水槽の掃除をしていた長靴のお姉さんが、
自動販売機で切符を買うようにといいに来ました。
大人300円、子供150円です。

部屋の中心に大水槽があります。

カサゴかな・・・煮付けにすると美味しい系の。

アオウミガメがひかりと命名されたというくす玉がありました。
ピントの合わないコンデジゆえ、とうとう撮れませんでしたが、
ここにはウミガメが三頭がいます。 

ひかりちゃんは去年の10月、カレイの刺し網に引っかかっていたところ、
救出されてここの住亀になったということでした。

名前は公募で決まったそうですが、亀なので性別は不明だそうです。

深海探査船「ちきゅう」の特大模型がありました。

深海における掘削などによる巨大地震・津波の発生メカニズムの解明、
地下に広がる生命圏の解明、地球環境変動の解明、そして、
人類未踏のマントルへの到達という目標を掲げています。

東日本大震災当時、「ちきゅう」は八戸港に係留して、市内の小学校の生徒や先生が
見学に訪れていたそうです。
地震を受けて「ちきゅう」はすぐさま沖に避難し、小学生たちは
船内で一泊を過ごした後、海自のヘリコプターで下船しました。

また、2009年には南海トラフについての研究で掘削を予定していたのですが、
民主党の事業仕分けの俎上に上がり、中断を余儀なくされました。

こちらは深海探索船「しんかい6500」によって撮られた写真。

頭についている耳みたいなのはヒレらしいんですが、
このため英語ではこのジュウモンジダコ

「ダンボ・オクトパス」

と呼ぶこともあるんだそうで。
いや、世の中には実にいろんな形の生物がいるもんだ。

水槽の中のうなぎ(みたいなの)に見つめられている気がする。
そんなわたしは自意識過剰かしら。

クラゲのことを英語でジェリーフィッシュといいますが、これは
同じ種類なのに個体で色が違う「カラージェリー」。

体内の藻によっていろんな色に見えるらしいです。

傘をもふわふわと動かしながら移動している様子は
いつまで見ていても飽きない可愛らしさです。

寝ておられる?

魚類が目をつぶっているのを初めて見たような気がしますが、
これデンキウナギだったかな?
小さいのでまだそんな強力な電気は起こせないらしいです。

しかし、デンキウナギ、電気を発生させながら自分も感電しているそうですね。
でも脂肪が多いので大事には至らないのだとか。

ヒトデや貝などを手で触れるコーナー。

ヤドカリやカニもいるようですね。
この時、来館者はわたしと他府県から来たらしい親子三人連れ、
計四人で、体験していたのは男の子一人でした。

トルコの温泉に住む鯉の仲間で、「ガラ・ルファ」という魚は
古い角質を食べてくれるので、お肌がツルツルになるそうです。
ここでは手や足を入れて角質取り体験ができます。(タオルあり)

やってみたいようなみたくないような。

ピラニアにも種類があって、こちらはナッテリーというそうです。
他の種類もいましたが、ピラニアってなぜキラキラしてるんでしょう。

思わず見入ってしまったハイギョ。さすがは生きている化石です。
外に飾ってあった造花が映り込んで、まるでハイギョがお花をつけているみたい。

普通に金魚もいました。
この頭に何か乗っけてるリュウキン?わたしどうも苦手なんです。

アロワナ。
穏やかな性質なのでペットとして人気があります。

さりげなく一角を海上保安庁が広報コーナーとして独占していました。

最上階は展望デッキだそうですが、その一階下はこんな眺めのレストラン。
お天気のいい日には、ぜひここでお茶を飲むことをお勧めします。
もちろんメニュー豊富で食事もできますよ。

ここから東日本大震災を撮影した動画がありました。
水産翁が台のところまで水に浸かっているのが見えます。

画質が悪いのが残念ですが。

レストランから見た蕪島。

マリエントを出たら、カラスが木ノ実を道路に落として割っていました。
つぎは車に轢いてもらおうとしているのかもしれません。

蕪島に行ってみることにしました。
こういう看板が他人事に感じられないのは、なんどもここが
津波に襲われる動画を観たからです。

しかし、八戸の津波による死者は1名、行方不明者も1名にとどまりました。

やはりここに来たらうみねこの観察をするべきでしょう。
一帯には彼らのニャーニャーという啼き声が響き渡っています。

一方的に襲いかかるうみねこ。

上空から羽をバタバタさせてちょっかいをかけますが・・、

あまり相手にされていない模様。

しばらくここでうみねこを観察していたのですが、あまりに寒い上、
風が強くて、フン避けのつもりで差した折りたたみ傘が
あまり役に立他ないのでやる気がなくなりました。

階段を上がっていく気力も無くなったので蕪島神社はまた次の機会に見ることにし、
途中で見つけたスターバックスで休憩しました。

山形でも見た、ドライブスルー付きの広々した郊外ならではのスターバックス。
いいなあ。こんなのが近所にあったら毎日行ってしまいそう。

前回連れて来ていただいた八食センターに行ってみました。
もう鮮魚売り場は皆店じまいしています。

魚や貝などを持ち込んで焼いて食べるコーナーも、テーブルにいるのは一人だけ。

自衛隊で幹部の皆さんといただいた食事の汁物は「せんべい汁」でした。
この南部せんべいを入れた汁物は全てせんべい汁と呼ぶようです。

迷った末、ここならきっと美味しいに違いないと回転寿司に入ってみました。
意見交換会でのあとであまりお腹が空いておらす、マグロ、サバ、イカの3皿で打ち止め。

悪くはありませんでしたが、八戸基地で出たお寿司の方が美味しかったかな。

せっかくだからといちご煮を頼んでみました。
ホタテとウニが入っている力技料理ですが、やはりここでは身が少ない。
そしてこれが1000円というのは高いのかどうなのか・・。

あ、そして食べてみて思ったことは、わたしはおそらくいちご煮を
今後一生食べなくても全く構わないだろう、ということです。
好きな方には失礼かもですが、一種の裸の王様的料理なんじゃないかって気が。

まあ、回転寿司で食べたくらいで全てを評価するなという説もありますが。

せんべい汁を大量に提供するために科学力と膨大な予算をつぎ込んだ
八戸せんべい汁研究所が作った最終兵器、マ汁ガーZ。

一気に1000食のせんべい汁を提供することができるそうですが、
問題は2万円で買ったなべをイベント会場に運ぶ運賃が数十万かかること。

だそうで、これもう、どこかに固定するしかないんじゃないかしら。

 

さて、この晩もう一泊して次の日八戸を発ったのですが、翌日も寒く、
さすがは東北、と感心しながら帰って来たところ、東京も激寒で驚きました。


八戸基地の方にも、暑くなる前にもう一度いらっしゃいませんか、と
お誘いをいただいているので、蕪島神社まで上がってみること、
そして美味しいいちご煮でイメージを払拭することを主な目的に、
ぜひもう一度足を運んでみたいと思います。




研修ツァーと祝賀パーティ(おまけ 居酒屋利根)〜幹部候補生学校卒業式行事

2019-04-29 | 自衛隊

間に八戸基地訪問の話を挟みましたが、幹部候補生学校卒業式の際の
研修ツァーとそれに伴う行事についてお話しします。

 

海上自衛隊呉史料館、通称「てつのくじら 」見学で、「あきしお」だった
「てつのくじら 」の内部を見学して出てくると、写真展示フロアがあります。


昨年夏の水害における自衛隊の災害派遣活動がパネルで示されていました。

「学生派遣」とは、江田島の幹部学校、第1術科学校の学生たちも
災害現場で様々な支援作業に当たったということです。

給水支援で出動したのはYDT 04 、水中処分母船です。

潜水作業を行う水中処分隊を支援する船で、再圧チャンバーも装備しています。

水害で避難している人たちのために呉音楽隊による慰問演奏が行われました。

呉地方隊の造修補給所貯油所には警備犬を訓練する施設があります。

施設を守る役目を持つ犬は空自にもいますが、国際救助犬連盟の
資格を持つ犬がいるのは三自衛隊で海自だけなのだそうです。

救助資格を持つジャーマンシェパードの「金剛丸」は、
東日本大震災で創作活動に投入されましたが、衰弱死しました。

靖国神社の「忠犬の碑」に祀られている同じ名前の「金剛丸」は、
満州事変で敵陣に突進し、弾を受けて戦死したそうですが、
この「金剛丸」にも殉職相当として功章の首輪が与えられました。

西日本の豪雨災害にも救助犬は派遣され、活躍しています。

ちなみに、「妙見丸」「金剛丸」という犬の名前は、
「あきしお」の中に展示されていたキャップなどを贈呈した
杉本元海幕長が呉地方総監時代に命名したということです。

「てつのくじら 」「あきしお」の艦首をみる形で、
双眼鏡が外に向かって備え付けられていました。
なんどもここに来ましたが、初めて気がつきました。

なんと、伊ー400の双眼鏡だと書いてあります。
なぜここに?って感じですが、呉工廠に置き去りにされていたんでしょうか。

こちらは第二次世界大戦中のアメリカの潜水艦が装備していた双眼鏡だそうです。

アメリカの潜水艦って、もしかして「ミンゴ」のことですか?
と思ったらその通りでした。

第二次世界大戦中のアメリカの潜水艦をもらってきて、
戦後海上自衛隊の第一号潜水艦にしたわけですからね。

 

この日米双眼鏡で今の呉港を眺めてみるのも一興かと思われます。

「てつのくじら 」併設のレストランはもう閉店していました。
ここでどうやら新作らしいメニュー発見。

潜水艦玉子砲なるこのメニュー、潜水艦をかたどったオムライス?
ちょこんと乗っかった半熟卵がより一層潜水艦に・・・似てねーよ!

まあでもデミグラスソースの海に浮かぶ玉子の潜水艦オムライス、
ちょっと食べてみたい気がします。

 

見学が終わってバスでホテルに戻り、夕刻からは
海幕長招待者対象のパーティが行われました。

明日が卒業式というのにその日の晩は低気圧が近づいてきていましたが、
杉本呉地方総監はこのパーティで壇上に立ち、

「わたしが強力なてるてる坊主を作ってなんとかしてみせます!」

と豪語したため、奇跡的に雨は明け方に止み、翌日は快晴でした。

(それを卒業式の祝辞で米軍中将が取り上げたこともご報告しましたね)

退官され、この時が最後の江田島での卒業式となった村川海幕長。

ちなみにこのパーティに出席されていてその後転勤された方に表敬訪問した際、

「あの卒業式の時にはもう辞令は出ていたんですか」

と伺うと、まだ出ておらず全く知らなかった、ということでした。

流石に海幕長はご存知だったと思うのですがどうだったのでしょう。

幹部候補生学校長のご挨拶。

「明日の卒業式、ある瞬間から皆が号令なしで一斉に行動します」

などと「卒業式のみどころ」を説明しておられます。

左前の席には米軍や大使などが固まっており、右は政治家など、
わたしたちは名刺を持って配り歩く感じのパーティでもないので、
その中で顔見知りの一術校長に奥さんとの馴れ初めを聞いたり、
練習艦隊の艦長などと楽しく話している間にあっという間に御開きとなりました。

練習艦隊司令と各艦長も一人ずつご挨拶。

後列左端の川田一佐は「すずつき」の艦長、その前は第8艦隊司令本村一佐です。
皆さんご存知のように、航空学生を乗せた「すずつき」は江田島出航後、
練習航海に向かい、今回中国で行われた観艦式に参加して、
堂々と旭日旗を翻して海上自衛隊の存在をアピールしてくれました。

中国・青島で国際観艦式、海自のすずつき入港

ニュースによると、付随して行われた艦艇見学では、「すずつき」に
五千人もの見学者が訪れ、ロシア艦と人気を争ったということです。

あっという間に御開きの時間になりました。

テーブルの上の食べ物が全く無くなっていないのにご注目ください(笑)
海幕長は出口に立ち、一人ずつお見送りしてくださいました。


パーティの間、海幕長は副官を連れて会場を回っておられたのですが、
挨拶をしている人が何者か完璧にわかっている前提で話しかけてこられます。
しばらく会話を続けていると、後ろから副官が、わたしたちにはわからないような
目だけのサインを出したタイミングで「それでは」と引き上げていくのでした。

「あれ全部副官が仕切ってるんじゃないかな」

とわたしたちは後で言い合いました。
一般的に、のちに司令官となるような人は
若い時に副官配置で司令官のあり方を学ぶようですね。

海幕長の副官配置になるひとはさぞ優秀なんだろうなあ、と思って、
ある元海将に伺ってみたら、やっぱり海幕長副官を経験したことがあるとのことでした。

さて、パーティでは話ばかりしていてほとんど何も食べられなかったので、
わたしとTOは自衛官御用達の居酒屋「利根」に出撃。

なんとここにはまだ前呉地方総監の「愚直たれ」メニューがありました。

歴代「とね」艦長の写真がずっと残されている「利根」ですから、
きっと愚直たれも永久保存版メニューになるのかもしれません。

何と言っても美味しいんですよこれが。

三つの「あ」より。
「あざむかない蒸し鶏」と「あきらめないサラダ」、愚直たれ添え。

そして「あなどらない揚げ盛り」愚直たれ添え。

蒸し鶏とサラダに愚直たれはよく合います。

ネームシップ?「とね」カレーは、
ちゃんと「とね」艦長に認定書をもらっております。

このカレーも小さいのを一つ頼んでみました。

甘口でまったりしていて、少々お子様向けではありますが、
わたしは辛さにおいてはほぼ子供の舌なのでこれくらいが好きです。

このポスターを見る限り、呉氏を盛り上げるプロジェクトも順調のような気がします。

 

というわけで長々語ってきた幹部候補生学校卒業式に伴う
研修ツァーとパーティについて、終わります。

ご招待くださいました海上自衛隊関係者の皆さまに深く御礼を申し上げます。

 

 


平成最後の北の桜〜海上自衛隊 八戸航空基地 観桜会あらため意見交換会

2019-04-28 | 自衛隊

一連の観桜会行事が終わって一息ついたと思ったら、実はまだ
八戸航空隊の観桜会が残っていたのでございます。

八戸基地からこのお知らせをいただいたとき、

「なんと青森県では4月25日頃桜が咲いているのか」

とあらためて日本列島が南北に長いことを認識しました。
そういえば、東北では連休に花見と聞いたことがあったわね。

4月25日の八戸が3月末の呉と同じくらいの気温なのか、
そのことも全くわからないまま、ジャケットの上に羽織るスプリングコートを用意し、
前日やまびこ号に乗って八戸入りしたわたしですが、現地の暑いこと。

こんな蒸し暑い天気でお花見をするのか、と不思議に思いながら明けて翌日、

なんと雨が降っておりました。
昨日の蒸し暑さはつまり今日の雨のせいだったわけだ。

こういう天気になるとやっぱりさすがは東北だけあって、結構寒い。

前日に八戸入りしたのは、朝市に行きたかったからなのですが、
朝起きて窓の外を見るなり、

「やーめた」

と呟いてまたベッドに潜り込んだわたしでした。

ホテルから車で八戸基地まで15分くらい走ると到着。
正門で

「東門に回ってください」

と指示されてまっすぐな道をひたすら走っていくと、
会場となっている体育館に近い入り口に到着しました。

この少し前、陸自の八戸駐屯地勤務の経験のある自衛官から

「あそこの桜はいいですよ」

と聞いていたのですが、噂以上です。
旧軍の頃からある自衛隊の基地駐屯地は、そのほとんどが
敷地内に必ず桜の並木を持っているのが常です。

会場に着くまで片手で運転しながら撮りました。
今回は事情があって一眼でなくソニーのRX100です。

会場に思ったより早く着いてしまい、呆然としていると、

「もう少ししたら人がたくさん来るので、前の方でお待ちください」

とアナウンスがありました。

システム通信分遣隊のバナーが可愛い。

八戸航空基地隊のバナーは旭日に波頭、まるで大漁旗です。
そういえば旭日旗って普通に大漁旗に使われるわけですよね。

第二航空群のエンブレムにあしらわれているのは、
八戸の工芸品「八幡馬」(やわたうま)です。

鎌倉時代に、櫛引八幡宮で参詣者のお土産に売られるようになり、
今では郷土玩具として八戸のシンボルのようになっています。

第2航空群隷下の第2航空隊は、P-3C部隊である第21、第22飛行隊から成り、
コールサインが ”ODIN" (北欧神話の主神)であることから、
その横顔をあしらったマークをシンボルにしています。

ならばこのリボンで結ばれたのは、月桂樹ではなく、
ユグドラシル(世界樹)を意味しているということになります。
これはワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の「神々の黄昏」にも出てきます。

自衛隊の体育館はどこも大変広く、二階にジムがあったりします。

もちろんお料理にサランラップなどかかっておりません。
それにしてもさすがは海上自衛隊、この豪華さを見るがよい。

尾頭付きの鯛が跳ねているような刺身盛りの形は、全国共通です。
おそらく第4術科学校でこのように習うのだと思われます。

そしてさすがは漁港の街八戸、刺身の量がハンパありません。
ほとんどツマなど必要ないくらい、魚身がぎっちりと盛られています。

自衛隊の宴会で油淋鶏は初めて見る気がします。
下が隠れるくらい玉ねぎと薬味がかかっていて美味しそう。

ここにいなり寿司が混じってこないのは東北だから?
お寿司も入れ物の底が全く見えないくらい。

本日も会費制でした。
八戸で会費制は初めてだそうで、というのも自衛隊全体で、
この新年度からそう決まったからということです。

ケーキはどうもケーキ屋さんのもののような気がしました。
シュークリームはざっと見たところ数が少なく、すぐ無くなりそうなので、
わたしはこれにのみ狙いを定め、宴会が始まると一番先に
シュークリームだけを確保するという先手必勝の策を取りました。

開始時刻30分前から次々と人が入ってきて、こんな状態に。
残念ながらわたしには自衛官(しかも数人)以外の知り合いが全くおらず、
アウェー感満点です。

近藤奈津枝海将補の前には名刺交換を求める人々が列をなしていました。
本日は大湊からやって来られたようです。
女性初の海将補であるだけでなく、昨年の12月の人事で、
女性初地方総監部幕僚長に就任されました。

開式となり、第二航空群司令、瀬戸慶一海将補がご挨拶をされました。

本日が観桜会でなく「意見交換会」となった理由の説明からです。

「先日洋上で発生した航空自衛隊所属F35戦闘機の墜落事故を受けまして、
この会を観桜会でなく意見交換会とさせていただきましたことを
ご理解賜りたいと存じます。
私ども八戸基地第二航空群と三沢基地第3航空団とは、
従来より共同訓練、または基地の相互使用などで大変深い関係があります。
この件は、私どもの仲間が事故に遭ったということで非常に残念に思っております。

私どもは事故発生直後から飛行機を上げまして
最大限努力し捜索した訳ですが、まだ操縦者が見つかっておりません。
この事故を受け私どもは同じ航空機を有する部隊といたしまして、
安全管理をさらに一層強化し、事故防止に全力をあげてまいります。」

ちょうど会場に共同訓練の時の写真が飾ってありました。

本日の観桜会が「意見交換会」となることは、少し前から
群司令に伺っていました。

私事ながら、事故の起きる前、海上自衛隊を通して
三沢基地訪問をさせていただく話になっていたのも、当然無期延期です。

群司令は、今年で10年目になるジブチでの海賊対策行動に
ここ八戸から航空隊が派遣されたことについても説明をされました。

「派行空」

という見慣れない(聞きなれない)派遣部隊名となっています。

第31次派行空は三ヶ月の任務を終え帰国しました。

昨年9月の開隊行事には、ご招待をいただいていたのですが、
まだ帰国しておらずTOだけが参列させていただきました。

なんと、アメリカ海軍のP-8が来ていたのか。
それにしてもP-1大きい。

ところで、P-3Cはオライオン、P-8はポセイドンと名前がついていますが、
アメリカとの関わりを絶って作ったためかP-1にはそういう
別名がないのがなんとも味気ない気がします。

国産だから、というんだったら神様の名前で「アマテラス」とか「イザナギ」とか、
「スサノオ」とかいっそ飛行機なので「ヤタガラス」とか。
「ショウキ」なんてのもいいなあ・・あ、本当にあったっけ、「鍾馗」。

閑話休題。

わたしは昨年同基地訪問の際に、P3-Cの整備を見学させていただいたのですが、
この意見交換会で、その時見学行程を組んでいただいた整備の偉い人にお会いし、
改めてお礼をいうことができました。

「エンジン換装のが格納庫に行ったときに行われたので、わたしたち、後から
わざわざタイミングを合わせて下さったのではと話していたんですよ」

「あの作業はもともとあの日にやる予定でしたので、朝見学の行程を組んだとき
ちょうどいいということで・・・タイミングは少し調整しました」

「いろいろ見せていただいた中で、あの工具専門のテーブルにはびっくりしました」

そのときの写真より。
小さな道具の一つ一つに置き場所が決まっており、元の場所に戻っていなければ
視覚的に確認できるという優れもので、置き忘れた工具などを
航空機が吸い込むことによって起こる事故を防ぐための工夫の一つです。

群司令のご挨拶で、空自の事故を受け、当航空基地でもより一層安全に配慮する、
というお話がありましたが、八戸基地では開隊から今日までの間、
航空機事故ゼロの記録を更新し続けています。

ボンベイ最後の日という映画がありましたが、Bombayのことです。
わたしは「ボム」爆弾の「ベイ」格納室なので律儀にボムベイと書いていましたが、
普通にボンベイでいいらしいことがわかりました。

それにしてもこんな東北美人が男ばかりの航空機整備の現場にいるなんて、
なんというかちょっとしたギャップ萌えではありませんか。

つい最近の訓練魚雷搭載作業、ということはこの女性メカニックはまだ
当八戸基地に勤務しておられるという可能性大です。

地震災害などで滑走路が被害を受けたとき、即座にこれを修復し、
航空機の派出を可能とするための技術も、訓練によって受け継がれています。

除雪隊員装備とともに記念写真。
雪かきも自衛隊の任務の一つで、全国どこへでも出動できます。
こんな任務にも女性隊員の顔が見えますね。

「行軍」という言葉がいまだにしっかりと残っている自衛隊。
防大や幹部候補生学校でも行軍は行われます。

十和田湖子ノ口から八戸航空基地まではグーグルマップで65.3km。
車でも1時間25分の道は、どのコースを行っても13時間かかります。
おそらく夜明け前から歩き続けて八戸には夕刻到着したのでしょう。

それにしても13時間歩き続けたとは到底思えないこの彼らの毅然とした様子・・・。

昨年7月には広報のため「すずなみ」が八戸に訪れました。

蕪島の清掃に八戸基地として参加。
全員が自衛官かどうかわからないので一応顔をマスクしました。

体育館で行われることが最初から決まっている行事でしたが、
一応最初の名目が観桜会なので、その日の朝撮った基地内の桜並木の写真もありました。

制服を脱がれたばかりの元呉地方総監発見!
池元海将はここ八戸でウィングマークを取られたということです。
その教育は「大変厳しかった」とおっしゃっていました。

知っている方にご挨拶もできたことですし、意見交換会は続いていましたが、
わたしはこの後八戸をちょっとドライブしてみたくなり、退出しました。

帽子が床に置いてある・・・。

体育館を出たところにある三本の桜。

盛りを一日すぎた桜色が緑色が一層鮮やかとなってきた芝生に映えて。

このトマソン構造物は防空壕の名残でしょうか。
八戸飛行場は昭和16年陸軍飛行場として開港し、陸軍少年飛行隊などが置かれていました。

構内のいずれの桜も樹齢を重ねたらしい大木ばかりで、これらは
まず間違いなく陸軍時代に植樹されたのではと思われます。

車で出口に向かいながら写真を撮っていると、誘導の隊員さんが
何度も何度も誘導棒をこちらに向かって振っていました。
途中で停車して窓を開けたりしてなかなか動かずすみません。

正門の前を通り過ぎるとき、桜並木の写真をどうしても撮っておきたくて、
正門前で車を停めて外に出て撮影させてもらいました。

ここから向こうはずっと桜の並木が続いています。

あと数日で御世変わりとなり、日本の多くの良民のみなさんが
平成最後の日々を慈しむように過ごしているであろうというこの日、
北の桜を愛でる会を催してくれた八戸航空基地と関係者皆さまに心から感謝する一方、
尊い任務中、事故に遭った一人の航空自衛官に思いを寄せる機会となったことを
この日の八戸の桜の色とともに決して忘れないでおこう、とわたしは思いました。

 





江田島探訪〜海上自衛隊 第一術科学校見学

2019-04-26 | 自衛隊

幹部学校に伺ったとき、朝から時間をかけて
第一術科学校長の案内で構内を見学させていただきました。

大講堂に始まり、赤煉瓦生徒館、教育参考館、賜餐館、
ここまで説明したので、残りの部分と参ります。

賜餐館の見学は兵学校同期会の時にも中を見せてもらえましたが、
この日も同じく、扉を開け中は点灯した状態を見せていただけました。

水交館の上にあるのですが、ここから先には車は入らず、
必ずこの舗装されていない昔ながらの道を歩いて行くことになります。

大した距離ではないのですが、兵学校同期会の方々は80歳超えているので、
これだけ歩くのは結構大変であったらしく、後から

「たくさん歩かされたから疲れた」

とこぼしておられました。
日頃はゴルフもされるような活動的な方がそんなことを言うのを聞いて

「歳をとると人間というのは歩くことから衰えていくんだなあ」

と切なく感じたものです。

水交館の山側一段高いところには昔からあるらしいため池があります。
水交館はここ江田島で一番古い建物であり、歴史的にも貴重なので
防火用水が近くに必要ということで作られたのかと思います。

浄水したり底をさらえたりといったことは全くしていないらしく、
きっといろんなものが生息しているんだろうなあという色です。

一時流行った「池の水を抜く」をやったらきっとすごいものが出てくるのでは・・。
例えば、進駐軍の手から守るために隠した海軍の秘宝とか。

そして、土が崩れて一部足を思いっきりあげないと登れない階段を
上っていくと、高松宮記念邸があります。

「ブーツは脱いでいただいても大丈夫ですか」

案内の一術校長がわたしに尋ねました。

後で記念写真を見るとビジュアル的に痛恨の極みなのですが、
昨日朝家を出る時、雨が降っていたので、レインブーツ

(のようなパテントのロングブーツ)を履いていたのです。

この日は歩き回ることが予想されたので、トランクに入れてきたパンプスでなく
楽なこちらで歩き回っていたのでした。

ブーツを脱ぐということは邸内の見学もさ背ていただけるということですね。

兵学校同期会の時にも内部を見学することができ、その時
写真を撮ってアップしたけれど何も言われなかったので
今回はどうしようかと悩んだのですが、基準がわからないので
大事を取って内部の写真は公開しないことにします。

しかしあらためて撮ってきた内部の写真を前回と比べると、
女王殿下のご来臨に備えてか、いたるところがされていました。

例えば五右衛門風呂の入り口の上部に貼ってあったプラスチックの
「洗面所」と書かれたプレートなどは無くなっているようでした。

あれ、前回も人の家臭満点でどうかなと思ったんですよね。

ちなみにこれが4年半前の高松宮記念邸玄関。

玄関の敷石部分、玄関脇のツヤツヤしたタイル(昭和30年代風)、
軒の支柱(根元が腐っている)、蛍光灯、全てが取り替えられ、
雨樋まで新しく付けられています。

内部も外側も、つまり前回の訪問の時に

「大正時代のかしこきあたりの方のお住まいというよりは
昭和に経った築30年の賃貸という感じ」

と酷評した部分が全部昔風に作り変えられていました。
もちろんのこと、前回発見した黄ばんでところどころ破れた障子もです。

また、前回と違い、全ての邸内が見学できるようになっており、
殿下が人とお会いになった洋間の応接室(昔は絨毯敷きだった模様)には
高松宮殿下が兵学校在学時の制服姿、軍人としての年代表、
兵学校時代の写真などがパネルで展示されていました。

珍しいところでは、兵学校時代、カゴに入った大ぶりの松茸を前に、
軍服の軍人(しかも皆偉そう)の真ん中に高松宮親王、という写真もあり。

一般の生徒と違って週末もなかなか羽を伸ばせない殿下のために、
海軍関係者が松茸狩りを企画し、お連れ申し上げたというところでしょう。
しかし、全員が軍服を着込んでいて、畏まって写真を撮っている様子。

松茸狩りくらいもう少しカジュアルにさせておあげになればよろしいのに、
と畏れながら少々同情申し上げずにはいられませんでした。


また、高松宮殿下が戦後江田島をご訪問になった
写真も展示されており、その第一回目は昭和41年4月11日です。

この日何があったかというと、教育参考館で

「海軍兵学校戦公死者銘碑」

の除幕式が行われたのです。
除幕式にあたっては、大講堂で厳かに慰霊式も行われたようで、
かつて玉座のあったところに榊を立てて御神体とし、
その前に献花台をしつらえ、殿下が弔辞をお読みになっている写真もあります。

2回目のご訪問は昭和60年9月3日のことです。
この時、殿下を案内申し上げているのは、おそらく当時の海幕長で、
調べてみると、海軍兵学校76期に在学していた

長田博海将

でした。
わたしが前回ここ高松宮記念邸に来たのは、まさに
長田氏がかつて所属した海兵76期の同期会に
同行したときのことです。

もしこのとき長田氏がまだご存命であれば、この同期会で
ご一緒していたのに違いない、と考えると感無量でした。

高松宮殿下訪問の写真に、赤煉瓦の前に椅子を置いて撮ったものがありました。

その構図はまさにこれ。
今回の訪問の際撮った写真(わたしのカメラを渡して撮ってもらったもの)

ですが、畏れながら位置も角度も全く同じです。

江田島では、来賓があった場合必ずここで椅子を置いて写真を撮る、
とおそらく海軍時代から決まっているのではないかと思われます。

しかもこの後ろの赤煉瓦の収まり具合から察するに、
椅子を置く場所もきっちりと決まっていそう。



邸内の洋間には、「高松宮日記」の初版が置いてありました。
一術校長がそれを手に取って、

「兵学校時代のことも色々書いておられますが、
ご不満なども結構おありだったようです」

wikiには、

特別官舎で過ごし、授業の多くはマンツーマン教育を受けるなど、
特別扱いではあったものの、訓練および授業では、
他の生徒と同じように扱って欲しいと望んでいたと言われる。
初期の『高松宮日記』にも、特別扱いされることへの不満の記述が随所にみられる。

とあります。

一術校長は実際に高松宮日記をお読みになっているということでしたが、
何気なく手に取ってみると(当然ですが)日記は仮名使い旧文体で
(おそらく現代文に訳さず出版したのは忖度配慮のたまものかと)
思わず、

「これを全部読まれたんですか」

と失礼にも聞き返してしまいました。

このときに見た高松宮殿下江田島ご来臨の写真には、
高松宮記念邸の東側に
洋風の朽ちかけた家が写り込んでいました。

江田島に進駐軍が駐留したとき、構内にはいくつか彼らのために
洋風の家が建てられ、この洋館もその一つだったそうですが、
現在では取り壊されてありません。
しかし、進駐軍の建築の中には今も使い続けられているのものあります。

高松宮邸の前庭から木々を通して赤い屋根が見えていますが、
これもそのひとつ。
こちらは現在第一術か学校長の官舎となっております。

この、木の陰に佇んでいる海曹さんの向こうの空き地に
取り壊された進駐軍の洋館が建っていました。
その向こうに見えているのは幹部学校長の官舎となっている建物です。

昔来たときにここに誰か住んでいるのではないか?
と疑っていたこの小さなお家ですが、今回聞いてみたら

「ただの物置です」

ここにはかつてテニスコートがあって、殿下が右手の斜面に作られた
階段を降りてきて週末テニスを楽しまれたということでした。

一般には公開しないことになっているので写真も最小に留めますが、
ここが一術校長の官舎です。

画面奥の崖の崩れ留めの左下枠の土には削ったような跡がありますが、
これなんとイノシシ君の掘った形跡。
イノシシを捕まえて猪鍋をすることもあるとかないとか。

左側にある池には鷺が鯉を食べに来るのでネットがかぶせてあります。
ここ江田島というのは結構な野生の王国であることがわかりました。

 

官舎は広大な二階建てなので、一階ではパーティをすることもできるそうです。
(おそらく進駐軍の司令官の官舎で、ホームパーティをしたのでしょう)

「こんなところに一人で夜寝るのって怖くありませんか」

と聞いてみると、即答で

「怖いです!」

((((;゚Д゚)))))))ヤッパリ

ところで怖いのは幽霊もですが、ここ江田島の自衛官の大敵は実はムカデです。
中畑前校長は実際に噛まれたことがあるということですし、
最近では、幹部候補生が急いで靴を履いたところ、

靴の中にムカデがいて((((;゚Д゚)))))

噛まれて病院送り、という大騒動もあった由。

ムカデは殺すとその臭いが他のムカデを呼ぶので、
冷凍スプレーで凍らせるとかいう話もこの訪問の際伺いました。

出るといえば、呉にもムカデはいて(というか地続きの古い家屋に出る?)
例えば、呉地方総監官舎。

元地方総監だった方に伺ったその壮絶な話は、安全な部屋は一つしかなく、
夏場その部屋を出るときには
常に緊張していなくてはならなかったというもの。

仕事が終わって帰ってきた家でも気を張り詰めていないといけないって・・。


他の地方隊はわかりませんが、自衛隊の偉い人たちの官舎というのは、
歴史が古いとやっぱり色々とあるようで、例えばある鎮守府系地方隊の官舎、
夏以外は寒すぎて家の中でテントや寝袋で凌ぐそうで、それが嫌なばかりに、
理由をつけて他のところに住んでいたら、もっと偉い人から怒られたり、
我慢して住んでいたら体を壊したり・・・何か色々と大変みたいです。

さて、見学が全て終わり、もう一度赤煉瓦の生徒館に戻ってまいりました。
席次表が入り口に貼ってあります。

改めて二回の窓から外を眺めてみます。

舎前(防大と同じようにいうのかどうか知りませんが)の道と
建物が平行でないのは、この赤煉瓦が東西南北に対して
正確に向いて建っているからなのだそうです。

昔当ブログで取り上げた映画「あゝ海軍」で、兵学校教官の中村吉右衛門が
井上成美という設定の森雅之に、コーヒーをご馳走してもらうシーン、
あれは紛れもなくこの部屋で撮影されたことが確認できました。

はいその証拠写真。
窓の外の松の木の背が今よりかなりが低いですが。

(そういえば構内のどこかで「あゝ海軍」の撮影のお礼として
映画会社から寄贈された全身が映る鏡を見た記憶があります)

わたしたちの席は、この写真でいうとちょうど井上校長の座っているあたり。

午餐会のテーブルです。

この日は個人としてただ遊びに行ったとかではなく、
自衛隊にお役に立てる用事で幹部学校にお招きいただいたとはいえ、

午餐会の写真を公開するかどうかについては逡巡したのですが、
学校長から、このお料理の数々、特に

第一術科学校の給養の方々が腕によりをかけて調理された

とうかがったので、その力作を皆様にも見ていただくことにしました。

まず、術科学校にはこのような接待用の立派な食器が
用意されていることに感心しました。
刺身やしめ鯖の皿には本物のハランらしきものが敷いてあります。
この彩の良さ、見てよし食べてよしの一流料亭並みの御膳です。

献立表には第一術科学校(右側)と幹部学校のマーク入り。
刺身は新鮮、天ぷらは季節のものを使い抹茶塩で食べさせるという粋なもの、
野菜の煮物には蕗や筍があしらわれ、お吸い物はあさりです。
そして「お食事」は色も鮮やかな茶碗蒸し。

このような料理を作れる自衛官は海自にしかいないこと、
その給養員たちの育成は舞鶴の第四術科学校で行なっていること、
彼らの腕は確かで、おそらく自衛隊退職後も再就職先に困ることはない、
などという話とともに彩を目で楽しみながらいただきます。

お食事がすみ、御重を下げると、その下からはこのような
(給養のどなたかが描いたもの?)敷紙が現れました。

そこに運ばれてきた感動のデザート、これは手作りで、
餡子を白と桜の色に染めたお持ちで柏餅のように挟んだ桜餅。

本当に美味しくいただきました。

そして色々あって江田島を去るときがやってきました。
車の中から振り返ると、全員が敬礼で見送ってくださっていました。

帰るときにいただいた「お土産セット」には、今回の写真と冒頭のメダルはじめ、
海上自衛隊と江田島の資料、そして写真集が入っていました。
そしてちょっとレトロな「立体絵葉書」も。


江田島について深く知ることになったこの訪問、
関係各位の皆様方のお心遣いの数々に心からお礼を申し上げます。

 

 


てつのくじら 「あきしお」〜海上自衛隊 呉資料館見学

2019-04-25 | 自衛隊

海上自衛隊呉史料館、てつのくじら 見学記続きです。

 

実はここに来るのは思い出すだけでも数度目。
来るたびに同じ展示物の写真を挙げているわけですが、
どっこい来るたびに当方のカメラが進化しているので、
最初の頃には低画質でお伝えすることができなかった細部を
ここでご紹介できることが嬉しくて仕方ありません。

その度に視点が変わり、新たな発見もあるはずなので、どうかお付き合いください。

といいながら、冒頭写真の深海用スーツの

「触手厳禁」

という注意書きに、つい心の中で

「触手はないだろう、触手は・・・」

と前回と同じツッコミを入れてしまうのでした。


先ほど博物館の体験コーナーにあったのと全く同じベッドが現れました。
この階にある寝台は全て士官用で、この個室っぽいベッドのある一角は
副長、航海長と行った「長」のつく士官の専用だと思われます。

昔「はくりゅう」の内部を実際に見学したことがありますが、
ちょうどこの位置にキッチンがあり、そこでは「はくりゅう」の給養員が
今まさにキャベツをスライス中で、大きな山ができていたのを思い出します。

アメリカの軍艦は大抵士官用、下士官用、兵用とキッチンが別ですが、
自衛隊ではその辺りはあまり分け隔てなく、同じところで作るようです。

もちろん食事をするところは別で、食器なども違い、士官は
ちゃんと誰かがご飯のトレイを持ってきてくれるようですが。

こちらの寝台部分は、夜間を表す赤い照明になっていました。

水上艦以上に外の明るさがわからない潜水艦内では、
夜間を表すために赤い照明を点けておく時間があります。

しかし照明を赤にする本当の意味は、外界の暗さに目を鳴らすため
潜望鏡を除くとき、外が夜なのに室内が明るいと何も見えないからです。

アメリカで、とある潜水艦を見学した時、食堂に置いてあるトランプの
赤いハートやダイヤに全部黒の縁取りがされていたのを思い出します。

赤色灯の下でトランプをすると、赤の札が見えなくなるからです。


「はくりゅう」のように、最新型のデジタル潜望鏡の場合、従来のように
艦長一人が潜望鏡を覗き込むのではなく全員で画像を見ることにもな理、
ナイトビジョンでモニターの画像もよく見えるのかもしれませんが、
それでも潜水艦における赤色灯の習慣は変わらないに違いありません。


それから日照にあたる時間が少なくなるのも潜水艦乗りの宿命でしょう。

そろそろ我が海上自衛隊でも女性のサブマリナーが誕生しそうですが、
お肌の美容のことだけを考得た場合、潜水艦勤務だと水上艦より
日焼けの心配がないのでUV化粧品を使わずにすむかもしれません。

これらのベッドも、アメリカで見た潜水艦とそっくりですが、
バラオ級「パンパニト」や原潜「ノーチラス」よりは、こちらの方が
内部に余裕があって広々しているように見えます。

あちらの潜水艦は、第二次大戦中の潜水艦「パンパニト」が狭いのは当然ですが、
原子力潜水艦「ノーチラス」の居住区が狭いのには驚かされます。
全員がもう身欠きニシンのようにコンパートメントにぎっちり収まるかんじで、
ベッド周りなど絶対人がすれ違えないどころか、体を横にしないと歩けません。

原子炉部分のスペースが人間より優遇されていたのも狭い原因だと思います。
もちろん今の原潜はもう少しマシになっているのかもしれませんが。


しかし「あきしお」も実際はこんなに広かったわけではありません。
稼働時にはここにこんな手すりやスロープはなく、そのスペースに

士官用のベッドがぎっしりと並んでいたのです。

展示用にいくつかのベッドを取り外し、(あ、博物館フロアにあったのはそれか)
改装してこのように見やすくしていると説明に書かれていました。

そしてベッドの下が物入れになっていて私物をここに収納する、
というのは全世界、全艦艇共通だと思われます。

こちら食堂もグロトンで見た原子力潜水艦「ノーチラス」のとそっくりです。

海上自衛隊は、最初に訓練用として受け取った「くろしお」を
たたき台にその後の潜水艦を作ったということですが、これを見る限り、
食堂テーブルの配置や色などもアメリカ式を踏襲しているのではないかと感じました。

いざ戦闘となった場合、このテーブルが寝台になるというのも同じです。

テーブルの上にはアクアラングのマスクと、個人脱出用の
スタンキーフードが置いてあります。

大昔、たとえば佐久間艦長の第六潜水艇の頃などは、沈没鎮座してしまったら、
助けを待って、潜水艦ごと
引き上げて救助するしかなかったわけですが、
たとえば沈没した伊ー33の時のように、ハッチを開放して脱出したとしても、
深海から生身で海面に上がるまでに溺れるか、潜水病で結局死ぬかだったのです。

伊ー33で海中に脱出して助かった人がいましたが、奇跡中の奇跡かもしれません。

現代では映画「ハンターキラー」にも出ていた小型救難艇を潜水艦のハッチに接続し、
移乗させて救出する方法が主流ですが、深度があまりない場合には、
このスタンキーフードを被って海に脱出します。

顔の部分だけを覆うため、スタンキーフードでの脱出は低体温症になりがちですが、
全身を覆うことのできるタイプが「そうりゅう」型に装備されているということです。

艦長室。

我が潜水艦では個室が与えられるのは艦長だけ、となると、住環境においては
第二次大戦中のアメリカの潜水艦の圧勝と言わざるを得ません。

艦長室はもちろんですが、チャプレン(従軍牧師)が乗っている艦の場合、
彼らは必ず一人部屋を与えられていました。

従軍牧師はその職務上軍隊の位は高く、士官待遇でした。


ベッドサイドに計器類が景気良く装備されておりますね。
これは進度計、電話、艦内交話装置、ジャイロレピータなどです。


アメリカ海軍では水上艦・潜水艦問わず、せっかく個室があっても
「艦長は寝ない」というのが合言葉らしいですが、我が自衛隊においても

潜水艦長は出航中本当にあまり寝ていないらしいです。

たとえベッドに横になっていても、意識はいつも
深度計とジャイロに向かっているのに違いありません。

さて、「あきしお」の士官居住区を通り過ぎると、
コンソールなどが並ぶ潜水艦の中枢部分が現れます。

護衛艦のチャートルームに当たるのがこのテーブル。

電源パネルは現在でも照明などに使われているので生きています。
下から二段目の緑のランプは警報音のオフスイッチで、
左から

「A音」「B音」「C音」そして「OFF」

バラストコントロールは

「潜航」「浮上」

そしてもう一つのスイッチがあり、「浮上」が点灯していました。

先日見た「ハンター・キラー」でも、昔ここで取り上げた映画
「イン・ザ・ネイビー」でも、潜水艦の操舵席に座っている二人には、
コンビといってもいいような
連帯感で結ばれていました。

こんなところで並んで同じようなハンドルを操作するのですから、
この二人が仲が悪いとちょっと具合が悪いのではないかと素人なりに思います。

ただし、右と左では役目は違います。

右席は

「第1スタンド (潜舵・縦舵)」

(潜舵はセイルから水平にでた舵、縦舵は艦尾の垂直舵)

左は

「第2スタンド(横舵・おうだ)」

(横舵は艦尾の水平舵)

と第1スタンドでは深度と針路、第2では深度調整を行います。

この階の床は穿たれ、透明のアクリルによって階下を見ることができます。
前回来た時も写真を撮ったけど、こんなにクリアじゃなかったので嬉しいです。

魚雷発射室の様子がよくわかりますね。

上から見せるだけではなく、前から後ろから見た写真も。

第二次世界大戦時のアメリカの潜水艦なら結構たくさん見てきましたが、
その頃とは装填前の魚雷の状態が当たり前ですが全く様変わりしています。

原子力潜水艦ともずいぶん違います。

いつも誰かが必ず独占していて写真をちゃんと撮ったことがなかったのですが、
今回はこんな近くから潜望鏡そのものを激写してみました。

その結果、初めてこれがNikon製であることを知りました。

海自イベントで一眼レフを持ち歩いていると、たまにわたしもNikon持ってます、
と自衛官に声をかけられますし、海自のカメラマンは全員がNikon持ちです。

艦橋にある個人用双眼鏡もNikonが多いですし、
(高いのでトキナーとかケンコーを置いている、という艦もありましたが)

「海のニッコー・陸のトーコー」

の時代から今でも海自ではNikonが主流なんだなとわかります。

わたしがNikon持ちになったのも、海軍御用達だったからです。


ところで、階下の魚雷を見ていて、あらためてこの魚雷は
具体的にどこから搭載するんだろう、とふと思ったので、
近くにいた説明の方に聞いてみると、

「こちらです」

と少し離れたところに案内されました。

指差された天井を見ると、ハッチと斜めの魚雷搬入用の孔が。
ラッタルはついておらず、人の出入りはできません。

孔の途中に監視カメラがありますが、もちろんこれは最近付けられたものです。

 

さて、「あきしお」艦内見学はこれでおしまいです。


続く。

 


ドルフィンマーク〜海上自衛隊呉資料館展示より

2019-04-24 | 自衛隊

幹部候補生学校卒業式に伴う研修会ツァーで、呉にある
海上自衛隊呉史料館、(通称てつのくじら、略称てつくじ)の見学をしました。

海上自衛隊発足前からの掃海の歴史とペルシャ湾掃海など
史料館の掃海コーナーが終わると、そこからは潜水艦展示です。

終戦後、海上自衛隊が初めて所有した潜水艦はアメリカ製、しかも
対日戦で使われたガトー級潜水艦「ミンゴ」でした。

海上自衛隊はこれを「くろしお」と名付け、これを一号艦として
潜水艦隊の今に至る歴史が始まります。

「くろしお」については何度もここで取り上げていますが、
受け取りに当たっては自衛官がアメリカの「潜水艦のふるさと」である
ニューロンドンのグロトンの潜水学校で訓練を受け、その後
サンディエゴで艦体を受け取り、日本まで回航してきました。

受け取りとあまり変わらない時期に海自は国産一号(川崎)の
「おやしお」の発注を済ませており、いわば「くろしお」は
それまでのつなぎというか、訓練のために取得したようなものですが、
その後艦体は我が国の潜水艦開発の研究に存分に利用されました。

その受取証書がここに飾ってありました。

何回も来ているのに、これに気づいたのは初めてです。
前回から今回までの間に「くろしお」(ミンゴ)について
何度かお話しし知識にしっかりインプットされたからでしょう。

 

ちなみに今回wikiを見てみたら、かつて当ブログで取り上げた映画、
『潜水艦イ−57降伏せず』『太平洋の翼』の潜水艦シーンには
「くろしお」が使われていたと知りました。

潜水艦内部のベッドを体験できるコーナー。
ちゃんと靴を脱いで寝ている人が二人もいました。
このベッドも本物の潜水艦の装備だと思いますがどうでしょうか。

注意書きとして、ベッドにはうつ伏せで頭から入り、
出るときもうつ伏せになってから、とあります。

潜水艦は狭い空間なので極限の省スペース収納です。
テーブルは滑り止めのために端が高くなっています。

潜水艦内の食事は1日に4回です。

狭くて暗くて暑くて臭くて、とにかく過酷な環境となると
他に楽しみがないということから、乗員の食事に寄せる期待は大きく、
それだけに美味しくて工夫を凝らした料理が出されるそうです。

ただ、実際に潜水艦乗員から聞いたところによると、狭いだけに
消費カロリーが摂取量を下回る傾向にあるので、それだけ
サブマリナーは陸上でのトレーニングを一生懸命行うことになります。


予算的にいって一般的に水上艦艇の食事は陸上勤務より優遇されていて、
20〜25%くらい高額なんだそうですが、中でも潜水艦は
水上艦艇の中でも一人当たりの予算が高いんだとか。

ここには朝6時からの朝食と中間食の模型が展示していますが、
中間食とは夕方6時の「夕方の食事」であり、「夕食」と呼ぶものは
潜水艦では深夜0時に出る食事のことをいいます。

この理由は潜水艦の勤務形態にあります。

潜水艦出向中は、常に一定数が艦を動かさなくてはならないので、
乗員はグループに分かれて6時間勤務、12時間休憩を繰り返します。
地上の昼夜には全く関係なく生活をするこの勤務形態は、
出航中だけとはいえ、
バイオリズム的にいうとかなり変則なので、
それだけでも体力的に過酷です。

こういう変則シフトのため、一日4回食事が出されるのですが、
全員が三度三度じゃなくて四度四度のご飯を全部食べる訳ではありません。


冒頭写真の紳士が見ているのはこのドルフィンマークです。
今回カメラが前と変わったので全部を一面に収めることができました。

我が潜水艦隊のドルフィンマークはなぜか右側の真ん中あたりです。

サブマリナーを表すドルフィンマークは、その名の通り、
この国もイルカをあしらっているものが多いですが、パキスタンやチリ、
ロシア、フランス、ポーランド、スペイン、ドイツなど、特にヨーロッパは
イルカではなく潜水艦そのものをあしらったデザインです。

日本は戦後の潜水艦技術をアメリカに学んだ経歴があるので、
アメリカ式の「ドルフィン」を踏襲したのだろうと思われます。

日本のところにひっそりと一つ紛れている桜に潜水艦のマークは
帝国海軍潜水隊のものであろうかと思われます。

海自の「ドルフィン」がアメリカ由来のものであることを証明しています。

ちなみにイルカも潜水艦もあしらっていないマークは中国海軍のもの。

イルカでなく世界で唯一人魚をあしらっているのがアメリカの、
あの横須賀(のドブ板通りのどこかのお店)で作ったという

『DBFディーゼルボートフォーエバー』バージョン

だけとなります。
このバッジについては、映画「イン・ザ・ネイビー」の

「ディーゼルボート・フォーエバー!」

の章に詳しいので興味がおありの方は後半の説明をご覧ください。

海中航走偵察をする「リーマス」のことを質問した掃海隊出身の方に、
これも海中航走する偵察機器の類ではないのですか?とお聞きしたところ、

「潜水艦搭載の72式魚雷です」

・・・黄色くて長細かったのでついそうかなと思ったんだい!

でもよく見れば大きさが全然違いますし、多分これは
見学の時にやっていたように二人では持てません。てか重さ300Kgだし。

72式魚雷は昭和40〜50年代に就役した「うずしお」型、
「ゆうしお」型に搭載されていました。

ここにあるということは「あきしお」に搭載されていたものでしょう。

無人の対潜哨戒機としてアメリカ軍の駆逐艦が搭載していた
『QH-50 DASH』をここで見ることができます。

アメリカの「バトルシップ・コーブ」で駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディ」を見学した時、
後部甲板がDASHを乗せるためのものであったことから知りました。

「ケネディ」は小型の駆逐艦でしたが、友人ヘリは無理でも
このDASHを搭載することで対潜戦が行えると考えられたのです。

この展示は、DASHが魚雷を二本搭載し潜水艦を攻撃できる状態です。

搭載されているエンジンはポルシェ社のもので、信頼はあったようですが、
どうにも事故が多く、アメリカでは7年で運用中止になりました。

ところが、自衛隊では操縦する人が皆器用なせいか(笑)
本国アメリカよりずっと重用され続けていたと言います。
アメリカで生産中止されても10年間は現役でしたが、
部品が調達できなくなったところで退役しました。

もし部品の問題がなければ、その後も使っていたに違いありません。

 DASHが置いてあるところから外に出ると、「てつのくじら 」の出入口があります。
かつては喫水線だったあたりに出入口を穿って出入りできるようにしました。

「あきしお」だったてつのくじら、今付いているスクリューはダミーです。

館内に入ると、前と少し様子が違っていました。
右手にガラスケースが置かれ、中には潜水艦の名前入りキャップ(カレー付き)
が並んでいます。

「おやしお」「みちしお」「なるしお」「もちしお」
「そうりゅう」「ずいりゅう」、そしてアメリカ海軍原潜の
「コネチカット」「シーウルフ」

第30代幕僚長、杉本正彦氏が当記念館に寄贈したものだそうです。
おそらく氏がその立場上、贈呈された想い出のキャップでしょうか。

「あきしお」進水記念のしおり(進水式に参加するともらえる)、
また、「あきしお」を海から引き上げてここに据え付けた時、
記念に配られたらしいテレフォンカード(時代を感じる)もあります。

潜水艦の竣工記念にベルトが配られるというのは初めて知りました。
こちらは杉本氏が海幕長時代に贈呈されたものらしいですね。

ちなみに川崎や三菱での潜水艦の進水式・引き渡し式に行くと、
必ずそこに杉本氏のお姿をお見かけします。

さて、前も書きましたが、この「てつのくじら 」
最初に出てくるのがトイレ。そしてシャワー室。

入り口のなかった艦体の横っ腹に穴を開けたらそこがトイレだったので
仕方がないことながら、博物館的にこれはどんなものだろう、と
前にも書いたことがありましたが、そうか!

それで入ってすぐのスペースに杉本元海幕長の贈呈品コーナーを作ったのかも。

ここにある施設は士官用です。
流石に護衛艦や掃海母艦と違い、艦長も自分専用の浴室はありませんし、
そもそもバスタブというものは備えられておりません。

ロシア海軍の潜水艦「タイフーン」くらいなら浴槽も余裕かもしれませんが、
ただロシア人はお風呂に浸かる慣習はなさそうだなあ。

あ、それでお風呂の代わりにプールがあるのか!←実話

 

続く。


「モラルはスカイハイ」戦後からペルシャ湾までの掃海〜海上自衛隊呉史料館展示より

2019-04-22 | 自衛隊

幹部候補生学校卒業式に伴う研修行事で、掃海母艦「ぶんご」見学の後、
バスに乗り込んだら、行き先は「てつのくじら館」でした。

「てつのくじら館」、正式名称海上自衛隊呉史料館、もちろんわたしは
ここに数え切れないほど来ているのですが、こういう研修で
案内がフルで付くタイプの見学は考えたら初めてのことです。

案内役は史料館常駐らしい制服自衛官が一人だけでしたが、
わたしたちには海幕から総務課の一個連隊が護衛に付いており、
しかも海将補、一佐、二佐、海曹長いう陣容なので、
ある程度のことであれば、近くにいる誰に聞いても答えが得られる、
という至れり尽くせりな見学となりました。

最初に案内の自衛官が挨拶のあと、このように始めました。

「ここ海上自衛隊呉史料館は全国で五箇所ある自衛隊史料館の一つです」

ほー、自衛隊史料館って5つもあったのか。

「他に行かれた方、おられますか?・・・おられませんか?
海上自衛隊はここと佐世保のセイルタワー、鹿屋にもあります」

そういえばどちらも行ったことあったわね。

「陸自は朝霞に『りっくんランド』という名称のもの、
空自はエアーパークといい浜松に航空博物館を持っています」

これ、どちらも行ったことが・・・
うおっ、ということは、いつの間にか全史料館踏破していたのかわたし。
軽く驚きながら、見学開始です。

呉資料館一階には海上自衛隊の歩みについての展示があります。

右から順番に、

戦前:海上防衛の根拠地となった呉

1948年:戦後、すぐに旧海軍軍人による掃海が始まる

1954年:掃海作業の延長上に生まれた海上警備隊が海上自衛隊へと

1976年:数次の防衛力整備を経て世界有数の海軍となる

201X年:あらゆる事態に即応できる防衛力の構築

というタイムゾーンで分けられていますが、1976年と201X年
何があったのか、調べてもわかりませんでした。

二階に上がっていくと、掃海の歴史から始まります。

終戦、日本が復興を遂げるには、とにかく日本列島の周りに
敵味方で敷設しまくった機雷を除去し、航路啓開することが必須でした。

1947年までの掃海は、生き残った海軍の木造船を流用して行われました。
掃海用の設備も何もない船で、全ての作業を人力で行なっていたといいます。

日本軍の敷設した機雷は構造もわかっているし、簡単な仕組みでしたが、
米軍がB-29から撒いた機雷は処分が難しく、(複合機雷まであった)
掃海隊は有効な対処法を持ちませんでした。

これは、昭和20年9月19日の日付、海軍の名前で出された通達です。
宛先は呉鎮守府長官となっており、目を引くのは

「81部隊 第8特攻部隊」

への下命であると書かれていることです。
呉鎮守府長官から所属掃海部隊に「エリソン」号に乗ってどこからどこまで
掃海をさせるように、と下命する通達のようです。

戦後掃海に投入された掃海艇「桑栄丸」(そうえいまる)は、
米軍の機雷の有無を確認するために、危険海域を航走、すなわち

「特攻掃海」

を実施しました。
総会に参加した他の4隻とともに、彼女らは

「モルモット船」(米軍は”guinea pig ship")

と呼ばれていたそうです。

4隻の「試航船」は、乗員を保護するための緩衝材をつけるなど、
改装を施して、このような航路を航行しました。
機雷があれば爆発し、自らが巻き込まれることになるのですが、
命じる方も命じられる方も、そのことについてどう認識していたのでしょうか。

 

掃海は元山(韓国)沖でも行われています。

日本近海の掃海に当たっていた隊員たちが、朝鮮戦争勃発後、
マッカーサーの命を受けて

「日本特別掃海隊」

という名称で朝鮮半島の掃海に派遣されることになったのです。

水交会が発行した

「海上自衛隊 苦心の足跡 掃海」

には、大東亜戦争を幾多の危険からくぐり抜けて生還し、
日本の再興に邁進している元軍人たちに今になって招集をかけ、
戦地に、
しかも海外の戦争に部下を投入させねばならない指揮官の苦悩、
隊員たちの遣る瀬無さを証言する記録が掲載されています。

そんな彼らが自らを奮い立たせるために口々に言い合ったのは、

「我が国は講和条約前であり、無条件降伏したこの日本の将来を
少しでも明るくするには、連合国の心証を良くすることが必要だ」

というどこからともなく出てきたこんな言葉だったそうです。

これは、「桑栄丸」船長に渡された給与支払いについての通達です。

「桑栄丸」は、同時に任務に当たった4隻の中で最も長期間、
海上自衛隊が誕生した時にも唯一の掃海艇として活動していました。

海上自衛隊への改編当時、掃海艇の艦種は「GP」でした。
モルモットを意味する「ギニー・ピッグ」の頭文字です。

召集された掃海隊員たちは、昭和25年10月のある日、船団を組み、
行き先も知らされないまま米軍の駆逐艦に護衛されて出航しました。

対馬沖航行中、彼らは自分の行き先が朝鮮半島であることを聞かされます。

元山での掃海任務を終えて下関・唐戸に寄稿してきた特別掃海隊の船です。

この掃海活動では、先発隊が拡大掃海中の10月17日午後3時21分、
MS14号艇が触角機雷に触雷、瞬時にして沈没し、死者1名、
負傷者18名の被害を出しており、また米軍の掃海艇も2隻触雷轟沈しています。

特別掃海隊が、中国軍が南下してきたという報を受けて元山を撤退したのは12月初旬。
写真に見える艦体のどす黒い汚れが、彼らが脱してきたばかりの
戦地での極限状況を物語っています。

旧海軍軍人たちが朝鮮戦争にこのような形で参加したことは、
当時も政治問題になる動きを見せましたが、占領命令第二号の

「忠実なる履行義務のため日本側は(米軍に)責任を追及できない」

から、結局問題は提起されず、そのまま歴史の影に埋もれていきました。

そして、掃海隊員たちは、サイレントネイビーとして、
殉職した隊員の遺族たちもまた戦後沈黙を守り通したのです。

 

掃海母艦内でのレクチャーが済んだ後の質問タイムで、同行した人が
全く掃海隊に関係のない質問を始めたので、
空気読んだわたしは、

「一番最近の機雷処理はいつでしたか」

とお節介ながら掃海活動に話題を軌道修正させていただきました。

なぜ一介の参加者に過ぎないわたしが気を遣わなければいけないかって話ですが、
それはともかく、答えは、この表の一番下、

「平成26年度の関門海峡での機雷処理が一番最近の事例」

ということでした。

まだ297個の機雷が日本近海に埋まっているということになります。

 

その後、アメリカ軍の輸送艇をもらい受け改装を施した
自衛隊初の掃海母艦「なさみ」「みほ」が就役しました。

この後運用した掃海母艦「はやとも」も米陸軍の揚陸艦です。

国産初の掃海母艦となったのは、現在、金刀比羅神宮におわす
掃海隊殉職者碑の
同じ敷地にその錨が置かれている「はやせ」です。

戦後掃海の歴史コーナーを抜けると、近年の機雷が展示されています。
我が海上自衛隊にとっては、ペルシャ湾で死闘を繰り広げた「敵」でもあります。


先日映画「ハンターキラー」を観て、潜水艦映画には機雷が切っても切れない、
ということを再確認したばかりですが、この呉資料館の展示が
掃海と潜水艦をフィーチャーしているのも理由あってのことだと思いました。

海中に浮遊する触角を持つ機雷が仕掛けられている状態を表しています。

これら発火方式による機雷は、大きく直接船殻に触れて爆発するタイプと、
艦船の磁気や振動を感知するタイプの二つに分けられます。

中でも触角の衝撃で化学反応を起こし発火するタイプは寿命も長いのだとか。
近年、センサーの省電力化によって機雷の寿命は伸びつつあります。

ペルシャ湾掃海で我が掃海部隊が掃討したという機雷。
この安定の良さは沈底機雷でしょうか。

これらもペルシャ湾の機雷。
左はイタリア製の「マンタ機雷」、右はロシア製「udm機雷」です。
色は・・・後から塗ったんだと思います(困惑)

Botom mine(沈底機雷)はいわば海底の地雷。(ground mine)

60mより浅い海底に、対潜の場合は約20d0m以下の水深に使用されます。
探知するのが難しく、係維機雷よりも大きな弾頭を使用できるので
掃海部隊にとっては厄介な相手です。

掃海艇を見学すると黄色い掃討具を見ることができますが、
それらはS-10や PAP−104などの水中航走式掃討具です。

そういえば、この見学の時に、TOが急に

「掃海と掃討の違いって何?

と初心者にしては結構核心をついた質問をしてきたのですが、
掃海は海中の機雷をお掃除して海を啓開することであり、掃討とは
掃海の一方法であり、機雷そのものを爆破させて処理する方法
と答えたのにもかかわらず、満足せずに自衛官に同じことを聞いていました。

何が不満なのじゃー!

という話はともかく、これは現行のS-10に至るまでのS-4です。

このSが「うかい」の頭文字であることを、案外自衛官は知らなかったりします。
(個人の体験に基づく情報です)

先ほど掃海母艦「ぶんご」艦上で見てきたのと同じ巨大なリールがここにも。

ここには、掃海艇「ははじま」一隻をほぼまるまる分解して、その構造物、
掃海具、キールをスライスしたものまでが展示されています。

はいこちらキールのスライス一丁。

呉史料館は潜水艦「あきしお」まるまる全部が展示されていることで有名ですが、
その「あきしお」に当たるのが「ははじま」です。

掃海艇外いた部分の断面構造模型(本物?)。

触雷の原因になる磁気を帯びないように、全ての素材が木材です。
最近はこれが全てFRP素材に置き換えられています。

リールに巻かれた掃海用の係維の構造を見ることができる貴重な展示。
「フジクラ」って、もしかしてパラシュートの藤倉航装と関係あります?

と思って調べたら、まさにそのものズバリ関連会社でした。
フジクラそのものはワイヤーなどを専門に製造するメーカーで、
住友・古河電工とともに電線御三家(そんな御三家があったのね)の一つです。

こちらも「ははじま」で係維掃海に用いられたカッターなど。
カッターを掃海艇から引っ張り、機雷の係維を切り、機雷を浮かせて掃討します。

「ははじま」の後甲板にあった、係維掃海具の巻上げ機操作スタンド。
この一面全体が、ほぼ掃海艇と同じ大きさのスペースになっていて、そこに
元あった姿にほぼ忠実な配列でこれらのもの展示されているのです。

こちらは水中航走掃討具に繋がっている電線を巻き上げるリールを操作するスタンド。

今でも掃海艇の上に装備されているバルカン銃が台座とともに。
この銃は敵ではなく(そのように使われることも想定しているでしょうが)
係維機雷をカッターで切り離し、浮いてきたものを撃って掃討するためのものです。

 

掃海コーナーの一面には、ペルシャ湾掃海の時の写真などが展示されています。

左の写真は貴重ですね。掃討具S-4mに爆雷を搭載しているところです。

この掃海は、海上自衛隊発足後初めての「作戦準備」、帝国海軍で言うところの
「出師準備」が実施されたという意味で歴史的な意味を持っています。

何もかもが戦後初めてだったため、派遣準備の段階で海上自衛隊関係者は
試行錯誤の困難を一つ一つ解決しながらことを運んでいったとされます。


その余波は隊員の家族にも及びました。
実際に出航日が決まると、部隊の出航に合わせて、呉では初めて

「自隊警備第1配備」

が下令され、呉地方隊の全ての部隊、そして官舎までが深夜含め24時間体制で
警戒体制下に置かれて、自衛官の夫人たちは交代で当直に当たったということです。

そして平成3年4月26日、出国行事に続き、掃海母艦「はやせ」と「ゆりしま」が出航。

ペルシャ湾で処分された機雷の破片。

ペルシャ湾における海上自衛隊の掃海活動ををレンズにとらえ続けたニコンのカメラ。

この派遣については様々なところで語られていますし、
当ブログも何度かお話ししているのでここでは省略しますが、
「苦心の足跡 掃海」の記録から、この二つだけ書いておきます。

まず、掃海隊がペルシャ湾に到着したとき、各国海軍が
 
「よくこんな小さな船でここまでやってきたな!」
 
と驚愕したこと。
二つ目は、中央軍海軍司令官であるアメリカ海軍少将が


「海上自衛隊掃海部隊のモラルは”スカイハイ”(天井知らず)だ」
 
と賞賛したことです。
 
ペルシャ湾派遣部隊が、世界の海軍の中での海上自衛隊の技術の高さだけでなく、
日本そのものの評価を高めてくれたことに感謝するしかありません。
 
 
 
続く。
 
 
 
 

再圧室と「リーマス」〜掃海母艦「ぶんご」見学その2

2019-04-21 | 自衛隊

さて、掃海母艦「ぶんご」の艦内ツァーは、政治家、官僚、政治評論家、
学者、弁護士、その他(わたし)という招待客を引率して行われました。

ところでこのメンバーにどうしてわたしが混じっているのでしょうか。
こうやって書いてみると我ながら実に不思議ですね。

ただ、言わせてもらえば、この中で最も自衛隊に詳しいのがわたしで、
その知識の差は彼らの専門分野とわたしのそれを逆転させたくらい、
というのは間違いのないところです。

ただし、これは裏を返せば、こんなに詳しい人間を、わざわざ
自衛隊への理解を深める初級ツァーに案内する意味があるのか?
ということでもありますけど(自爆)

艦橋と集中制御室を見学したあとは、掃海母艦ならではの施設です。
一般的な自衛艦にはない医療設備を持っており、例えばこの医務室では
手術も可能となっています。

ちなみに手術室を持たない護衛艦などで緊急に手術が行われる場合には、
士官室のテーブルが「手術台」となるため、天井には無影灯が装備されています。

そしてこれこそが掃海母艦にしかない「減圧室」。
水中処分員(EOD)が海中で減圧症(潜水病)になった場合、
母艦に運び込んでここで高気圧酸素治療を行うのです。

前にも書いたことがありますが、潜水士は深海に潜ると
段階的に海中に止まり、時間をかけて徐々に上がってきます。
急激に上がると、高圧下で微小だった血液中の気泡が大きくなって
血管を塞ぎ血行障害を引き起こす潜水病になってしまうのです。

昔は潜水病を起こしたらもう一度深海に沈めたそうですが、
今では人工的に深海と同じ圧力を作り出す装置に閉じ込めます。

これが減圧室です。

減圧チャンバーの外側には「打音信号表」が貼ってあります。
叩く回数によって意味を持たせており、

1、「異常ないか?」または「異常なし」
 (潜降中の時は止まれ)

2、潜降せよ(上昇の時は止まりすぎた、止めるまで潜降せよ)

3、上昇準備をなせ(上昇準備よし)

4、上昇はじめ

潜水士同士の信号だと思うのですが、はて、何を叩くんだろう。
マスク?頭?

ベッドの上に管のようなものが見えますが、これはまさか点滴?

この減圧室にはベッドが二つ、つまり同時に二人収容できるので、第2種装置です。
患者を一人だけ収容するものを第1種装置と言います。

再圧タンクでは治療だけでなく訓練も行われます。

パイプが曲がっているのはカメラの樽型収差?と思い補正してみたら、
今度は某女優さんのインスタ自撮り写真ばりに空間が歪んでしまいました。
つまりパイプは元から歪んでいたらしいことがこれでわかりました。

おっと、海上自衛隊では「減圧室」ではなく「再圧室」でした。

確かに前も、「高圧をかけるのに減圧室という名前はおかしくないか」
と突っ込んでみたのですが、さすがは海自、ごもっともな選択です。

左のカップヌードルケースは水深50mの圧力をかけたもの。
元々の大きさは右のスープヌードルカップと同じだったものです。

問題は、カップヌードルとスープカップヌードルの大きさは
本当に全く同じなのか?ってことなんですけど。

再圧室はベッドのある「寝室兼居室」と、その手前の
トイレや手洗いのある部分に別れています。
同時に二人がいた場合とか、もしかしたら外からも
トイレが見られてしまいそうでものすごく心配です。

ちなみに再圧治療中は携帯はもちろん禁止です。
滞在は結構長くなるので、本などを読んで時間を潰すそうです。

再圧室の見学を終わり、もう一度上甲板に戻りました。
今度は後甲板で何か説明があるようです。

この構造物はデッキクレーン。
手すりで囲まれた部分に乗って操作を行います。

掃海母艦の大事な役目の一つ、掃海艇たちへの餌やり、じゃなくて
燃料・水補給を行うための巨大なホースリールが。

後甲板にいくとエレベーターパレットが下りていました。
掃海母艦のパレットが下りているのを見るのは2回目です。

1度目は深夜の訪問時、食料の補給を行なっているところを見学しました。

機雷の模型などを並べて説明をしてくれるようです。
格納庫の奥には写真も並べてありますが、見る機会はありませんでした。

掃海艇からカッターのついたロープを浮きにつけて引っ張り、
水中に浮いている機雷の係維索を切って海面に浮き上がらせ、
掃討する方法、係維掃海です。

カッターでなく火薬の力で係維索を切断する「爆破型」という方法もあります。

機雷が感応式だった場合もやはり掃海隊で電線を引っ張り、
船の作る磁場だと機雷に「勘違い」させて爆発させる方法もあります。

機雷の模型に機雷の説明が貼り付けてあります。

隣の係維機雷にも触発式と磁気式があり、海の底に沈んでいる
沈底機雷には、

「音響式」「水圧式」「それらの複合機雷」

海底に潜んでいて船が通ると上昇してくる

「上昇・ホーミング機雷」

があるなどといった説明を受けました。

ウェルデッキの底を覗き込むと、そこに三人の掃海母艦乗員が待機していました。

上甲板から下を覗き込むように見ていると、三人の乗員がなぜかこの物体を持ち上げ、
皆の見ている前で向きを変えて置きました。
最初からこの向きに置いておけばいいのにという気もしましたが、
乗員が持って運べるということをおそらく強調したかったのだと思われます。

この機器ですが、恥ずかしながらここまで見ておいて、
記事作成の段階で「水中偵察のためのもの」としか記憶がなく、

困り果てたので、急いで元掃海隊司令にSOSを求めたところ、

「リーマスです」

というお返事。
さらに聞いた記憶がありません。
リーマスという言葉は説明に使われなかったのでしょう。

ご教示いただいたところによると、この一般名称は
海底を自動航走して映像を撮影して戻ってくる、

UUV(Unmanned Underwater Vehicles)

軍用の場合UUV、一般的には

AUV 自律型無人潜水機 (autonomous underwater vehicle)

といいます。

https://www.kongsberg.com/maritime/products/marine-robotics/autonomous-underwater-vehicles/AUV-remus-100/


近年、第二次世界大戦で沈没した軍艦の位置が次々と特定されていますが、
その実績の陰にはこういった無人潜水機の普及もあるのかと思われます。

海上自衛隊のUUVは、東日本大震災後に、当時の掃海隊群司令の提唱により、
比較的浅いところまでのリーマス100(水深100m程度まで)と、
リーマス600(水深600mまで)の2種類が震災対応予算で導入されました。

名目は災害救助、特に津波などによる行方不明者捜索ということでしたが、
海中偵察の無人化もはや世界の海軍の趨勢であることを考えれば、
目的が災害対策のためだけでないことは明白です。


導入した大型のリーマス600は母艦に、小型の100は101掃海隊が装備して
その後研究が進められたということでしたので、ここで見せてもらったのは
状況的に大型のリーマス600ではないかと思われます。

ちなみに、リーマス「REMUS」(レムス)はローマの建国神話に登場する
ローマの建設者で、マルス(軍神)の血を引く双子の片割れの名前です。

「アイギスの盾」→イージス艦

「ファランクス」(古代において用いられた重装歩兵による密集陣形)→CIWS

「エクスカリバー」(アーサーの剣)→英国の駆逐戦車

など、架空の武器やギリシャ神話、ローマ建国神話の固有名詞は
武器開発会社にとって格好のネーミングの宝庫ってことですね。

 

見学は終了し、ラッタルを降り、バスに乗り込みました。

「ぶんご」舷門ではこのように敬礼でお見送りしてくれています。
サイドパイプを吹鳴していますが、これはこちら側の案内役として、
海幕から海将補が来ておられるからであり、決してわたしたちのためではありません。

向かいにいた艦の舷側からも一斉に敬礼が送られました。

さて、「ぶんご」でたくさんお土産をいただきましたので、
最後にこれをご紹介したいと思います。


説明に使われた掃海隊についてのパンフレットのほかは、
この立派な装丁がされた甲板での集合写真、

(見学している間に現像ができていた)それから・・・

タオル。
前にも一度掃海隊訓練の時にタオルをいただきましたが、
その時のも、今回も大変実用的で質のいい製品なのが嬉しい。

このまま掛けて飾れるようになっていますが、実は手ぬぐいです。
バラしてしまうのが勿体無いのでまだこのままおいてあります。

一番「ウケた」のがこれ、係維機雷を模したキーホルダー。
ちゃんと設置されている状態がわかるようにイラスト付きです。

機雷の部分には本当にトゲトゲが付いています。
隊司令が皆にこれを渡すときに、

「ズボンの後ろポケットに入れないでください。
うっかり座るとお尻に棘が刺さって痛いので」

掃海隊群、確実に狙ってきてます(笑)


たっぷり時間をかけて艦内を周り説明を聞いた上、お土産まで。
大変充実した見学をさせていただいた掃海隊のみなさん、
どうもありがとうございました。

 

 

 


艦橋と集中制御室〜掃海母艦「ぶんご」見学その1

2019-04-19 | 軍艦

今年の幹部候補生学校の卒業式には、すでにここで述べたように
前日の見学を含むツァーにご招待いただくという形での参加になりました。

卒業式のご報告が全て終わった今、あらためて卒業式前日の
見学からお話しさせていただこうと思います。

予定には「艦艇見学」とだけ書かれており、何を見せていただけるのかは
当日、岸壁に到着してからのお楽しみ、ということで
集合場所のホテルのロビーから自衛隊のご用意くださったバスに乗り、
やってきたのはわたしにとってはおなじみの昭和埠頭(というらしい)。

一番IHI寄りの岸壁に係留されている掃海母艦「ぶんご」。
これが本日見学させていただく自衛艦です。

わたしにとっては掃海隊の訓練のときに見学させていただいたり、
艦長と会食、あるいは高松での掃海艇殉職者追悼式に先立つ
艦上レセプションで非常に馴染みの深い艦ですが、今日の見学では
どんな発見があるでしょうか。

艦上に案内されて一番最初に何をしたかというと写真撮影。
艦橋が写るように艦首部分に並べられた椅子の前には
掃海隊群のシンボルである龍が機雷を掴んでいる姿を描いたマーク、
それがプリントされたマットが敷いてあります。

感心するのは、こういうときに海上自衛隊というのは
席をきっちりと決めておくことで、しかもその席順は、
前にも言いましたが、海自内部でどういう基準によるものか
厳密に上位が決まっているらしいことでした。

これは間違いなく海軍伝統で、海上自衛隊の規則集には
例えば車の席でも上位がきっちりと決まっていて、
運転手の後ろが「上座」だったと記憶します。

写真撮影後、艦内に案内されました。
掃海母艦の艦橋はほぼ艦体の大きさのままで低く安定しているので
正面から見ると大変見分けやすい形をしています。

移動中も見学中も、カメラマンが記録の写真を撮りまくっていました。

今回は海幕総務から海将補を筆頭に一佐、二佐、海曹長、
そして防衛省職員などが一団となって
一行の案内、説明、
アシストのために出張してきていました。

舷側を歩きながらも周りの写真を撮るのを忘れません。
隣の岸壁には掃海艇「あいしま」と「みやじま」がいます。

これも補給のための構造物のため一目でわかる補給艦、
「とわだ」がいます。

この岸壁には通常「いずも」がいるのですが、今日は訓練に出ていてお留守です。

その向こうが潜水艦基地。
「そうりゅう」型潜水艦が一隻だけ係留されていました。

 

 

やっぱり「みやじま」は地元である広島・呉を定係港にするんですね。
「あいしま」も山口県相島から名前を取っています。

「相島」という島は全国に三箇所あるのですが、「あいしま」と読むのは
山口のだけで、三重県の相島は「おじま」(御木本真珠島のこと)、
そして福岡県のは「あいのしま」と読むのだそうです。

案内されて艦内に入って行きました。

部屋に入ると、席次がモニターに映し出されていたのでびっくり。

最初にレクチャーが行われることになっていたのですが、
ここも全て席が決められていて、左側の真ん中が「上座」のようでした。

席に着くとまず冷たいお茶が出てきて、その後はコーヒー。
陸自もそうですが、自衛隊では必ずコーヒーが出てきます。

レクチャーは勿論掃海隊についてのことです。

まずは掃海隊の歴史や編成などについて。
戦争中、日本側が防御のために、そしてアメリカ側が「飢餓作戦」で
日本列島の周りに敷設した機雷を処分することから活動が始まった、
ということから説明が始まりました。

わたしには周知のことでしたが、同行のお歴々の中には
ほぼ初めて聞く方もおられたようです。

写真は掃海隊の編成図ですが、呉基地の第3掃海隊はこの「ぶんご」、
先ほど見た「あいしま」「みやじま」の3隻となります。
もう一隻の掃海母艦「うらが」は横須賀の第1掃海隊所属です。

掃海隊の現在の活動についても、東日本大震災の行方不明者捜索や
墜落したF-2戦闘機の機体を捜索、回収した時の記録が紹介されました。

これを見て思わずにいられないのが、4月9日のF-35A墜落です。

先日はまだ破片だけで機体も搭乗員も見つかっていないため、空自、
海自、海保は勿論米軍の偵察機まで投入されているようですが、
位置が特定されれば、そのときには掃海隊の出動となるのでしょうか。

レクチャーが終わってから皆が席を立った後ですが、
わたしたち以外のほとんどの席に資料が残されていたのにびっくりしました。

普通こういうのって持って帰りません?

メンバーの方たちは、最後に、何か質問はありませんかと言われて、
レクチャーで話題となった掃海活動とは全く関係ない、明後日の質問
(自衛隊の基本的な知識も全くないことがわかるような)をしたり、
もしかしてこの日まで自衛隊の見学をしたことがないのかなとさえ思わされました。

先に隣の艦長室を見学。
専用のタブ付きバス、応接セット付きの個室です。

丸窓があって外が見えるのがすごい特権と言えるかもしれません。
掃海母艦は大きいので、他の艦よりも艦長室も広いように思えますが、
実際は「あきづき」型護衛艦の艦長室とほぼ同じ感じでした。

見学の最初は艦橋、ブリッジからです。
手前は先ほどレクチャーしてくれた第3掃海隊司令(一佐)です。

「ぶんご」「うらが」などの掃海母艦のブリッジが大変広いことを強調しています。

赤と青二色の椅子は「ぶんご」艦長席。
「ぶんご」艦長は二等海佐職となります。

赤いカバーは第3掃海隊司令席。
自衛官のなかにおいては司令官職だけが座ることを許されます。

「ぶんご」が例えば掃海隊訓練などで、掃海隊群司令(海将補)が座乗する場合、
この席には黄色いカバーが掛けられ「群司令席」となります。
その場合右舷側席は多分艦長席となるはずです(たぶん)

同行の政治家先生が、勧められるままに司令官席に座り、赤いストラップ、
そして第3掃海隊司令の帽子を被って写真を撮っておられました。

ご自身のホームページに「活動記録」として載せるおつもりでしょうか。

艦橋窓からの眺め。
「この世界の片隅に」で、主人公のすずさんが、姪と一緒に立ち、
「大和」「武蔵」などの海軍艦艇を眺めた
灰ヶ峯が連なっています。

岸壁(というよりここ実はポンツーン、浮き桟橋です)には
訓練支援艦「くろべ」が係留されていました。

甲板にはオレンジ色の標的機が見えます。

出航などの時に吹奏されるラッパの置き場は艦によって違います。
天井に近いところに掛けてあるというのだけはどこも同じですが。

案内役の一団におられた海曹の方(海幕の先任伍長だったかも)
が出して見せてくださったのですが、あれ?

もしかしてこれ、マウスピースの近くが折れていないかい?

次にわたしが目をつけた?のは測距儀です。
今まで測距儀を収納しているところを見たことがなかったので、

「測距儀がこんなところにあるー!」

とはしゃいでおりますと・・・・、

海幕の海曹が上から降ろして、触らせてくれました。

「思ってたのより軽いですねー」

「のぞいて見られたことありますか」

「いえ、なかったと思います」

あれ?もしかしたらのぞいたことあったかな?まあいいや。

測距儀ラックに置いて、調節の仕方を教えてもらいました。
筒を回して対象物に焦点をあわせ、その時に掲示された距離が
ここから対象物までの距離です。

「これでどうやって距離がわかるんですか」(これはTO)

「両側のレンズと対象までの三角形から距離を計算します」

つまり三角関数ですねわかります。

最初にやらせてもらいましたが、そもそもどちら側に回せばいいのか
全く見当がつかないのでいくらやってもピントが合わず。

「どうしても合わせられませんー」(´・ω・`)

合わせてもらって輸送艦の艦体に合わせたところをのぞいて見ました。

「ここからあそこまでの距離は約250mですね」

慣れないと、これを合わせていて気分が悪くなることもあるそうです。

いやーこれは楽しい。
見学する人数が少なくて案内が同じくらいいるので、その辺にいる人を
捕まえてなんでも質問し放題、体験し放題。

艦橋から一同は隣のCICに案内されました。
「制御室」ともいうところです。

一般的に護衛艦などの集中制御室はもっと下の階にありますが、
「ぶんご」「うらが」の掃海母艦は艦橋階にあるのが特徴です。

ですから、艦橋を出てすぐ隣の部屋に制御室が!

これはいろんな艦艇を見慣れている目にはちょっとした驚きです。

右上の黄色い一角が「ぶんご」の集中制御室となります。
ご覧のように機械室などは艦体の下の方にあるわけですが、掃海母艦は
機雷を処理する現場で操業を行うので、この図にも書いてあるように、

「機械室の無人化を図る」

ためにこのような設計となっているのです。
ぶっちゃけていいますと、万が一の事態(つまり触雷)に備えてのことですね。

もちろん触雷し艦底が破損することになれば、クラッチや制御機器、
ボイラ、クラッチも被害を受け動かなくなる可能性はあるわけですが、
そこが無人化されていさえすれば、人的被害だけは避けられます。

集中制御室では電源の監視制御も行われます。

制御室に艦の形をし、そのいたるところにランプがついた
左端のようなパネルがあるのを、おそらく艦底見学された方は
一度ならずご覧になったことがあるでしょう。

制御室には応急監視制御版、艦内の状態を一手に把握できるシステムがあります。

なお、わかりやすく動力の伝達について図が示してありました。

「操舵装置」

艦橋にある舵輪は、艦長などの操舵指示を受けて海曹が動かします。
ここから船の舵まで、操舵が伝達されます。

「動力伝達装置」

ディーゼルエンジンで発生した動力はカムを動かし、そのカムは
クラッチによって回転数を変化させ、プロペラを回します。

「プロペラ装置」

プロペラ欲は角度を変えることで前進、中立、後進を行うのです。

 

簡単な図ですが、案外そうだったのか(操舵だけに)と目から鱗の説明で、
単純化された艦船の仕組みが腑に落ちたというか、把握できた気がします。


 

続く。

 

 


「空母いぶき」と「ハンターキラー潜航せよ」〜二つの日英海戦映画

2019-04-18 | 映画

先日、知人からショートメールが入りました。

「公開中のハンターキラー潜行せよを観てきました。
潜水艦好きにはたまらない映画でした」

なんと、いまどき潜水艦映画?

このブログを始め、戦争映画について数々取り上げてきましたが、
その期間を含め、潜水艦ものが公開されたのは初めてです。
世に、

「潜水艦映画にハズレなし」

という言葉もあるように、潜水艦そのものの機構や動力が時代と共にに移り変わっても、
海の中という極限で戦うこの特殊な兵器を描いて、もしつまらなかったら
それはよっぽど監督がヘボだ、というくらい、潜水艦映画は面白いと云われます。


まあ、わたし的には、名作中の名作と言われる

「深く静かに潜航せよ」

など、ここで取り上げてみると素人目にもツッコミどころ満載で、
プロットも穴だらけだったと深く静かに云わせていただきたいですが。

とにかく、そんな待望の潜水艦映画が封切られていると知った次の日、
たまたま午後がぽっかり空いていたので、早速観てきました。

予想通り、原題は「ハンターキラー」一語のみ。
「Hunter Killer」を日本語で検索すると「対潜掃討作戦」としか出てきませんが、
映画の中のセリフでは、

「攻撃型原潜」=attack-submarine

という意味で使われていました。

それをいうなら大戦中の潜水艦は全て攻撃型だったのではないか?
という気もするのですが、能力的に駆逐艦にも勝てなかった頃と違い、
防御力と攻撃力が向上し、対艦、対潜といずれもガチンコ勝負できるようになった
原子力搭載のものに限ってこの名称を与えられます。

 

 

ところで、ハンターキラーと言いながら冒頭の画像。
これはなんだ?とお思いになった方もおられると思いますが、
これは「空母いぶき」試写会でいただいたファイルケース。

「空母いぶき」が映画化されるという話は当ブログでも取り上げたことがあり、
公開されたらぜひ観に行こうと思っていたのですが、なんと公開に先立ち、
プレス用招待券をいただいて、一足先に観てきたのでございます。

卒業式と観桜会関連の記事が終わったら、5月24日の公開前に
試写会の感想を取り上げようと思っていたのですが、
今回奇しくもアメリカ原潜が主人公の映画を観に行って、色々と
比べてしまうところがあったので、そんな観点で話してみます。

 

ところで「ハンターキラー」を観て帰ってきたら、映画を教えてくれたのと
ちがう知人(こちらは女性)からショートメールが入りました。

「ハンターキラー潜行せよという映画見てきました。
ワクワクドキドキですごく面白かったです。
これ見てサブマリナーを尊敬してしまいました」

この文面から普通よりも自衛隊に「グーンと寄せてきている」
世間では珍しい部類の女性であることがお分かりかと思いますが、
なんと偶然にも、全く同じ時間に日本の全く別の映画館で
同じ映画を見ていたことがわかりました。

このシンクロ率よ。

わたしが観た映画館も、女性はわたしを入れて四人。
わたし以外は全員がカップルの連れで、年配男性多し、
という状態だったわけですが、彼女も同じような状況で鑑賞したとか。

 

年配の人の多い映画館あるあるで、英語の映画の場合、終わるやいなや
エンドロールの流れる中席を立つ人が多いという現象がありますが、
今回早々に出て行った人たちは、おそらくこの映画がアメリカ制作ではなく

イギリス映画

だったことを知らないに違いありません。

ついでに、制作チームが幾つにも分かれていて、ロシアの部分は
全てロシアスタッフによって作られていることも知らないでしょう。

(字幕に語尾が全て”V"の名前が並んだのは圧巻だった)

いやまー、普通こういう人たちが出てくる映画はアメリカ映画と思うよね?

ところがどっこい、グラス艦長役のジェラルド・バトラーはイギリス生まれだし、
監督のドノヴァン・マーシュも南アフリカ出身だったりするわけです。

道理ででセリフがわかりやすいと思った。

私見ですが、日本人にとってはイギリス英語の方が聞き取りやすいですよね。
米語を話す息子は信じられない、といつも言いますが。


という話はともかく、この世界の共通言語はイギリス英語。
ロシア人同士も英語で会話していました。(K−19方式)

それから、この写真、なんで「アーカンソー」にロシア軍人がいるかですが、
それを言ってしまうとネタバレになるので観てのお楽しみ。

このロシア軍人アンドロポフを演じているのもロシア人ではなく、
(ロシア語をほとんど喋らないのでその必要がないと思われ)
スウェーデン人俳優ミカエル・ニクヴィスト

映画制作中に亡くなった人の名前が最後の画面に登場することがありますが、
今回は二人名前が出て、その一人がなんと主役級を演じたこの人でした。

ライナーノーツによると、彼は映画撮影中も肺がんと戦っていたそうで、
2017年6月に56歳で、映画の完成を見ることなく亡くなったそうです。

 

 

ところで、この映画のある意味一番大きなツッコミどころは、

「艦長がアナポリスを出ていない」

という設定かもしれません。
突如発生した国家的危機の非常事態に鑑み、事故の起こったロシアの海底に、
重要任務を与えて送り込む潜水艦に乗せる艦長がおらず、呼び寄せた男が、

「ずっと海の中で暮らしてきた」

と豪語するジョー・グラスだったということになっています。

特に飛び級したわけでもなさそうなのに、階級は少佐。
下士官出身で少佐になってもずっと潜水艦に乗っているって・・・あり?
これだと艦長でもないのに副長や航海士より階級が上ってことになってしまうんですが・・・・。

映画『ハンターキラー 潜航せよ』予告編

 

さて、この映画を観に行くことを潜水艦出身のある自衛官に報告したところ、
早速予告編を見ていうには、

「潜水艦の美味しいところを詰め込んだ作品みたいですね」

「これで艦長と副長が反目でもしてくれたらお腹いっぱいです」

確かに、写真下のエドワーズ副長(英語ではXO )は、正統派のアナポリス卒で、
グラス艦長が

「小さい時にこんなことをして(何か忘れた)遊んだだろ?」

というのに対し、

「わたしは艦長とは育ちが違います」

とさりげなく階級差別的なことを言ったり、(このへんがイギリス映画)
艦長の破天荒な指示にいちいち口を挟んだりしますが、
全体の内容の濃さから考えるとほんの味付け程度です。

ところがこちらはその「お約束」が物語の骨子になっていたりするんだな。

「空母いぶき」、このかわぐちかいじ原作の漫画を映画化した作品は、
海上自衛隊の協力は一切ありません。

今はなんでもCG処理できてしまうので、どんなシーンでも実際の装備を必要とせず、
協力を得なくてもなんとかなってしまうというわけですが、
そうなると案外手薄になるのが細部、特に自衛官の所作や制服の着方です。

当ブログ常連のコメンテーターunknownさんは、「空母いぶき」撮影の際、
なんとパーティのシーンにエキストラで参加したそうですが、そのとき、
(自衛官をやらせてくれと言ったら、年齢でダメと言われたとか・・・ドンマイ)
自衛官役の制服の着こなしが変(シャツの入れ方とかベルトとか)だったので、
注意した、とおっしゃっていました。

 

映画の姿勢としてそういうリアリティは追求しなかったのかと思ったのですが、
そういうわけでもなく、本編終了後、エンドロールに元海幕長の古庄幸一氏と、
潜水艦出身元海将の伊藤俊幸氏らのお名前を見つけました。

つまり何らかのアドバイスを元自衛官に求めたということになります。

その後、観桜会の席で伊藤氏にお会いしたので伺ってみると、それは
案外根本的な台本への注文だったことがわかりました。

「かわぐちかいじさんは自衛隊のことは知らないからしょうがないけど、
とにかく副長が(略)自衛隊にあんな副長はいない!と言って(以下略)」

なんと!

漫画「空母いぶき」では、空自パイロット出身の艦長、秋津に対し、
水上艦一筋できた(けど艦長になれなかった)副長の新波の
内心の反発がいたるところに溢れ出ていましたが(笑)、映画でも、
秋津の命令、例えば撃墜せよ!のような命令に対して、副長は

「この距離で撃墜すれば、敵パイロットの脱出はどうたらこうたら」

とか口答えするわけですよ。
それに対して艦長は、

「ここはすでに戦場だ」

などとドヤ顔で決め台詞を言ったりするのです。

やはりこの試写会をご覧になったunknownさんに感想を伺ったところ、
もっとも違和感があったのがこういうところだったそうです。

そもそもUnknownさんは、漫画「空母いぶき」を読むのを
途中でやめてしまったということですが、そのわけは、

「漫画で常々気になったのは、登場人物がよく議論するところです。」

なるほど、これがうざくて嫌になってしまったんですね。

「これは作品のテーマなので仕方ないとは思いますが、
実際には海軍の時代から、正面から戦うか、
避けるかというようなことは、現場では議論しません。

事前に上級司令部(海軍時代だったら、連合艦隊司令部。
自衛隊だったら、自衛艦隊司令部)から、どのような条件では、
どのように行動せよと細かい指示があり、作戦の途中であっても、
判断に迷うことがあると、必ず問い合わせます。
司令部からも現場の動きが見えないと指示を出します。

ちょうどレイテ作戦でレイテ湾に突入するかどうか迷っている栗田艦隊に
『天佑を確信し、全軍突入せよ』と打電した感じです。」

つまり、現場で高度な議論を延々とするのはあり得ない、と。

伊藤元海将がダメ出ししたのも全く同じ点だったことになりますが、
はて、ダメ出しして変えさせてこれということは、原案ではもっと
色々と「鬱陶しかった」(by伊藤)んでしょうか。

 

「ハンターキラー」での「アーカンソー」の副長も

「そんなことをしたら軍法会議ガー」

とか艦長命令に口答えするわけですが、こちらは先ほども言ったとおり、
味付け程度で収まっています。


ただ、発見したのは、どちらも「パターン」を伝統芸のように踏襲していること。

「空母いぶき」=空自出の艦長vs海自副長

「ハンターキラー」=下士官上がりの艦長vs兵学校出副長

つまり、

副長が艦長の軍人としてのランクに納得していない

ただでさえ反感があるのに副長の想像を超える戦略判断をしてくる

副長の反対を押し切って艦長は命令を下す

作戦は成功

艦長すげー!←イマココ

までがセットです。

保身第一のお偉いさんが、実直な軍人とぶつかるのもお約束です。

なんと、この、前例主義で先回りして失敗を予想していちいち怖気付き、
何かと人に当たり散らす小心な統合参謀本部議長を演じるのは
あの!ゲイリー・オールドマンだったりします。

「ハンターキラー」の紅一点はNSAの切れ者という設定ですが、
アメリカには普通に要所に女性がいるのでこれはOK。

問題はこっちだ。

「空母いぶき」にたまたま取材で乗り込んでいるという設定の
本田翼演じる女性記者、本田の上司の週刊誌編集長斉藤由貴、
本筋とはなんの関係もないコンビニのアルバイト。

この女性陣の必要性について、わたしは全く共感できませんでした。

本田翼ははっきりいってウザいの一言だし、
コンビニの話も・・・これどうしても必要だったんですか?

最後まで騒ぎを知らないままの中井貴一とか、
まあ、言わんとしたことはわからないでもないんですが。

「ハンターキラー」ではアメリカの敵はロシアです。

一人の野心的な軍人が起こしたクーデターという設定とはいえ、
アメリカと対峙するのは一応ロシア海軍です。

「空母いぶき」原作は敵は中国となっているはずのに、なぜか映画では
見たことも聞いたこともない架空の国、東亜連邦が出てきます。

具体的な国同士のぶつかり合いという表現を避けたのは、どちらも
配慮とか忖度とかそういうものの結果だと思われます。

 

そして、今回わたしはこの二つは、実は厳密には戦争映画ではなく、

「戦争を回避するための戦闘映画」

であることに気が付いてしまいました。

「空母いぶき」で、副長が眼前に敵がいるにも関わらず、
艦長に向かって攻撃するのしないのでやいのやいのと進言するのも、
日本政府が戦後初の防衛出動を命じながら同時に外交交渉するのも、
そのため戦闘を回避せよと現場に命令を出すのも、現場の自衛官が
専守防衛に殉じようとするのも、開戦をただ避けんがため。

「ハンターキラー」では、ロシアのクーデター部隊に対し、
開戦をなんとしてでも防ごうとアメリカ軍人たちが彼らと戦いを繰り広げます。
(ヒラリー・クリントンの上位変換である女性大統領は影薄し)。

彼らの「戦争を起こさせまいとする戦い」があっと驚く
「第三者」のアクションによって決着を見る、というエンディングも、
偶然とはいえ、気味が悪いほどこの二つの映画は似ているのです。

(そしてそのシーンに思わず感動させられてしまう、というのも)

 

さて、一見似ていないようで案外似ているこの二つの映画ですが、
同じようなことをテーマにしていても、そのスピード感と
エンターテイメントとしてのハッチャケ度は、正直なところ
「ハンターキラー」の圧勝です。

スピード感があるはず、同作品は「スピード」のスタッフが手がけています。

「空母いぶき」がコンビニの話に尺を取られている間に、こちらは
伝家の宝刀ネイビーシールズの命知らずの男たちを投入してきます。
この4人の決死作戦と、彼らの人間としての無骨な連帯感などを
さりげなく混ぜてきて、サービス満点です。

サービスといえば、海中の機雷原を息を殺してくぐり抜けるという
潜水艦映画には欠かせない古典的なハラハラシーンもあり〼。

装備の紹介もさりげに混ぜてきて、先日掃海母艦で見学した水中航走するカメラとか、
深海救難艇DSRVの実際の使用例もスリリングに見せてくれます。

海上自衛隊の潜水艦乗りはこれ必ず見るべきです(断言)

「空母いぶき」と違い、こちらには米海軍が惜しみなく協力したそうで、
主役のジェラルド・バトラーは実際にパールハーバーで潜水艦体験をし、
潜水艦の内部での撮影も二日だけ許可され、映画スタッフはそれを元に
リアルな潜水艦内部のセット(ジンバル付き)を作り上げました。

 

「空母いぶき」では、防衛出動とか相手国との交渉とか、とにかく
政府要人の悩んだり決断したり会議したりが非常に重きを持って描かれます。

これは海外公開時には世界に奇異な印象を与えたという「シン・ゴジラ」の
政府てんやわんやに酷似していますが、まあこれもまた最近では
日本のパニック映画の「お約束」になりつつあるのかもしれません。

 

というわけで、二つの映画を並べて語ってきたわけですが、
わたしとしては皆さんにどちらも大画面の映画館で観て欲しいと思います。

CGとはいえ、どちらもなかなかの迫力シーンが多く、
音響も相まって面白さが数段違ってくるからです。

 

最後に、unknownさんが送ってくださった「空母いぶきのツッコミどころ」を
上げておきますと・・・・

・「いぶき」その他護衛艦の艦橋と巡視船の船橋が皆同じ
つまり一つのセットを使いまわしている

・艦艇の乗員が戦闘服の右肩に船のロゴ入りのワッペンを付けている
これは航空部隊の隊員の仕様である

・CICで配置に就いたまま缶飯を食べたりお茶を飲んだりしていた
こぼすと機器が汚れるので、どんな非常時でも飲食は休憩スペースで行う

・航海中にマストトップの航空障害灯(赤い灯火)と艦橋内の電灯が点いている
どちらも停泊時のみに行われる

・魚雷やミサイルは、映画ほど急激には舵を取れない
ミサイルの場合、パイロットから見て、六つ数えて、
思いっ切り舵を取れば振り切れると言われている

缶飯は官品と同じ色をしていたのですが、惜しかったですね(笑)


それから、聴いた話ですが、先日退官されたある元統幕長が
「いぶき」艦長が空自出身であることについて、

「そんなことは絶対にありえない!空母の艦長は海自です」

とおっしゃっていたそうです。

 

それではみなさま、「ハンターキラー」は現在上映中、
「空母いぶき」は5月24日から公開となります。
どちらもおすすめですので、ぜひ劇場に足をお運びください。

 

 

 


堀内豊秋大佐の肖像〜海上自衛隊 第一術科学校 教育参考館展示

2019-04-16 | 海軍人物伝

教育参考館の展示であと一つだけお話ししたいことがありますが、
その前に、この度の見学で見た賜餐館の写真をご紹介しておきます。

賜参館は、あくまでわたしが調べたところによるとですが、
昭和11年のご行幸(前回ご行啓と書いてしまいましたが、天皇陛下お一人だったようです)
の際の兵学校ご訪問の際、ご休憩を賜るために建てられました。

入り口に置かれた自衛隊の錨のマーク入りマット・・・欲しい。

国会図書館まで行ったとき見つけてきた資料を再掲します。


現在の写真と比べていただくと、昔は奥の壁の向こうに部屋があったらしく、
(もしかしたら控え室、あるいはちょっとしたキッチンがあったのかも)
扉があり、床は絨毯引きになっています。

天井はおそらく昔はシャンデリアの類が下がっていたらしいブラケットの
取り付け場所がありますが、自衛隊に所有が移ってから全部取り外し
無粋な蛍光灯に取り替えてしまったのだと思われます。

現在は元の雰囲気に戻されているようですが、蛍光灯は残されています。

おそらくこれはできた時のままだと思われます。
木製の窓に腰板。
ご行幸の際には前面に天鵞絨のカーテンが掛けられていたのではないでしょうか。

現在の賜餐館の状態と比べていただきたいのがここです。
陛下をお迎えするために造られたことを表すのがこの部分。
大講堂にも見られる、菊の紋を逆に彫り込んだ「玉座仕様」です。

陛下はこの前に設えられた椅子にお座りになり、
休憩、もしかしたら午餐を召し上がられたのかもしれません。

 

さて、教育参考館で一つだけ、皆があまり注目しない展示について
今日はお話ししたいと思います。

 

💮 堀内豊秋大佐の肖像画

 

教育参考館の第二展示室、主に昭和の軍人についての資料が並んでいるコーナーに、
メナド攻撃を行った海軍落下傘部隊の司令官であり、
デンマーク体操かをアレンジした海軍体操の生みの親だった堀内豊秋が、
落下傘を背負い、ヘルメットをかぶってこちらを見ている絵があります。

大きさは縦1.2メートル、横70センチくらい。
メナド降下作戦でカラビラン飛行場に降り立った堀内隊長の姿です。

ネットには一切上がってこないこの大きな油絵に描かれた堀内大佐は、
この写真にもうかがえる実に飄々とした表情で、軍人の肖像にしては
あまりに生き生きとした闊達な印象なのがいつも目を引きます。


前にも書いたのですが、この絵の作者はバリ在住だった画家で、
オーストラリアはウィーン生まれの

ローランド・ストラッセル(シュトラッサー)

であったことがわかっています。

ストラッセルはわかっているところによると1885年生まれ。
第一次世界大戦中は戦争画家として地位を確立しています。

Roland Strasser 

このハフポストの自画像には、堀内大佐の表情に通じるものがあります。
ストラッセルは絵のためにアジアなどを旅行し作品を残している画家で、
検索すれば日本で描いた歌舞伎や着物の女性の絵も見つかります。

ところで!

この記事によると確かにメナド攻撃のあった1942年、彼はバリにいたようですが、
わたしたちにとってはちょっと看過できない内容なので翻訳しておきます。

彼の代表作のほとんどはバリで製作されたものであり、
それは彼にとって
魅力的な場所だったのだろうと思われる。

彼と妻は1942年初頭から1945年末までは
日本軍の占領から逃げるため、

ずっとバリの住居に隔離されていた。
およそ4年間の間彼らは他の白人を見たことがなかったが、
1945年になって
日本が降伏し、AP通信の特派員に発見された。

 

日本軍から逃れるために終戦までの4年間、隠れ家生活をしていた?
バリで?

お断りしておきますが、メナド(現在はマナドとなっている)とバリは
別の島であり、現在でも飛行機で2時間20分の距離なのです。

しかも、堀内大佐がインドネシアにいた時期はたった3ヶ月。

それではここにある堀内大佐の絵はいつどこで描かれたものなのでしょうか。
そのことについて検証する前に、堀内大佐について書いておきます。


オランダ軍が、自分たちをインドネシアから追い出した日本軍に恨みを持ち、
報復のためにほとんど形だけの裁判で「残虐行為の責任」を堀内に負わせ、
処刑にしようとしたとき、住民は堀内司令の助命嘆願をしたといわれます。

それは占領下で堀内大佐、しいては日本軍がいかに善政を布いていたかの証明であり、
かつてここを支配していたオランダ人への住民の強い反発の表れだったと言えましょう。

日本軍が侵攻しこの地を統治して司令として任に当たった堀内大佐は、
まずオランダ軍に徴兵されていたインドネシア兵を解放し、故郷に戻らせました。

その後彼らは、あらためて日本軍に仕えるために戻ってきたのでした。
各々が故郷からの土産を携えて。

インドネシアで日本軍が歓迎されたのは堀内一人の人徳によるものではありませんが、
彼が指揮官として、そして人間としていかに公明正大に振る舞い、
戦争下の現地人にも慕われたかを表すエピソードです。

しかもそれはインドネシアだけではなく、日中戦争の間、全く同じことが
中国でも起こりました。

 

盧溝橋事件を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、
局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、
抗日運動を活発化させました。

あの南京攻略から5ヶ月後、福建省厦門を占領した海軍第五艦隊の
陸戦隊司令だった堀内少佐(当時)が当地に赴任して行ったのは
荒廃した地域の復興、公正な裁判の実地、治安回復でした。

すっかり堀内に信頼を寄せた住民は、任期がきて彼が転勤することを知ると、
現地最高司令官に

「堀内少佐を留任させてほしい」

という嘆願書を提出するという異例の事態が起こりました。
その嘆願書の実物が、この堀内の肖像画の近くに展示されています。

筆跡も麗しい中国語のその嘆願書にはこんなことが書かれていました。
(本文を一部省略して掲載します)

 

かつてこの地は蒋介石政権による、明確な理念もなく、
ただ日本軍に抵抗するために民衆を扇動するだけの政策の影響を受け、
一家の働き手を強制的に徴兵され、献金を強要されるなど、
住民は痛ましい不幸に遭い、住処を失って郷里を離れていきました。
豊かだったこの地は廃墟と化し、とりわけ満州事変が勃発した頃は田園は荒れ果て、
家々は傾き崩れ、どこもかしこも見るに忍びない、それは酷い有様でした。

幸いなことに皇軍がこの地に上陸し、宣撫に全力を尽くしてくださったおかげで、
我々住民は産業を起こして利益を得ると同時に、初めて
それまでの弊害や住民の苦しみを取り除くことができるようになり、
日を追うごとに地方の復興も目に見えて明らかなものになり、
かつてこの地を離れていた住民も戻ってくるようになりました。

昭和14年夏に堀内部隊が本島に駐防するようになってからというもの、
産業を興して利益を得て弊害を取り除き、賞罰も分け隔てなく公正なものであり、
教育を普及し、農業を振興し、橋を改修し、道路を造り、衛生設備を整え、
すっかり荒廃しきったこの地も、ここに挙げた事柄全てにより、
ほんのわずかな期間のうちに、より豊かな地区へと変貌を遂げました。

海外在住の華僑も、家族からの近況を手紙で知る度に、故郷のこの状態は
賢明な長官の全盛のおかげなのだということを知らされております。
おかげさまをもちまして、昨年中に南洋の貿易で得た収益額、および
帰郷してきた住民の統計数は、過去10年間で最高を記録するものになりました。

しかしこのような善政良績の数々は、堀内部隊長、村松中隊長、
その他上下の士官のご一同様が住民の人心を安定させることに努力された、
その恩恵とご意向によるものであり、ご一同様が我々住民との共存共栄にご理解を示され、
我々がこんなご親切な提携や援助を頼ることができなければ、どうしてこの地が
荒廃しきった状況から復興し、日を経るにつれて豊かになっていく今日があったでしょうか。

これは文治武功(法律・制度や教育の充実により占領地域を統治する優れた武勲)
の模範というべきものであります。
「軍人頑固なること石の如し」などと申しますが、

堀内部隊長、村松中隊長、その他上下士官のご一同様が、
実によく我々住民の声に耳を傾けてくださることに感謝しております。

皆が口々に堀内部隊の労苦を厭わぬ仁政を褒め称えているのを耳にします。

これほど素晴らしい功績を挙げられた堀内大隊長ですが、
一つの部隊に長く止まることはできず、近く転勤なさるらしいと聞いております。
もしも堀内部隊長および中隊長、上下士官ご一同様に、これからも末長く
この島に駐在していただけるようにお取り計らいくだされば島民は幸福であり、
皆進んでご指導に従い、この地の様々な業務も復興することでしょう。

このような経緯から、我々は自身の良心に従って黙っていることなどできず、
物の道理も弁えぬ愚かな行いと知りつつも、あえて連盟にてこの陳情書をしたため、
ここに謹んで我々の誠の思いを述べた上、真摯に司令官閣下にお願い申し上げる次第であります。

住民一同の願いを何卒お察しいただき、今後も堀内部隊長ご一同様が本島に駐留し、
島内の治安を維持し、外敵から脅威から我々を守り、地方を防備してくださるならば、
島民全てを挙げてその指揮に従い(かつて周の召公が、甘棠ーかんとうーの木下で
民衆の声に耳を傾け、公正な善政を行ったことに感動した民衆が、
その甘棠をも大切に慈しんだという故事にあるように)心からお慕い申し上げ、
心安らかに生活し、労働を楽しみながら、東亜和平の人民となるべく努力致す所存であります。

この書をしたためるにあたり、丁寧にお願いいたしますよう心がけましたものの、
陳腐な言葉で失礼を申し上げたかもしれませんが、
ただ切に仰せをお待ち申し上げているだけではいられず、
僭越ながらこのような陳情書をお送りすることとなりました。

民国二十九年(昭和十五年)五月一日

厦門根拠地隊司令部 牧田司令官ご高覧

禾山区倉裡社誘導員 黄季通 (押印)

以下103人の連名、押印。

 

必死で健気な思いがあふれていて、読んでいて胸が痛くなるほどです。
念の為書いておくと、署名はもちろんのこと全員が中国人の名前です。

彼らが堀内を慕い、転勤してほしくないと一生懸命の思いでこの陳情書を出した、
その5ヶ月前に、現在の中国が糾弾するところの南京大虐殺が行われたことになりますが、
本当に南京で何十万の無辜の中国人を日本軍が殺戮したのなら、同じ中国人が
堀内と日本軍をこれだけ慕うというのは、あまりにも筋が通らなさすぎませんか。

 

さて、ストラッセルが描いた堀内の絵に戻りましょう。

彼が描いたのは、メナド降下作戦で地上に降り立った時の堀内の姿です。
もちろん彼はその場にいたわけではなく、その時の様子を聞き及び、
本人をモデルに想像で描き上げたのであろうことが想像されます。

おそらく画家は、日本が統治を始めてから隊長である堀内と知り合い、
大作戦を成功させた指揮官の姿を描いてみたいと思ったのでしょう。

ドイツ語のwikiがいうように、彼らが日本軍を恐れてバリに隠れていたのなら、
バリから遠いメナドにいた堀内の絵を描くということは不可能です。

それでは、悪辣な日本軍が画家を拉致でもしてきて無理やり彼に描かせたのでしょうか。

これはわたしの個人的な考えですが、ストラッセルの目を通して見た堀内には
天性の善が滲み出るような朗らかな、何にも恥じぬ明るさが見えます。
もし強制されて描いたならば、彼ほどの画家はこんな風に「敵」を描かないでしょう。

 

今回、日本語、英語、ドイツ語、どこを探しても、
ストラッセルと堀内の関係については探し出せませんでしたが、
おそらく彼は、堀内を描いたとき、インドネシアの古くからの伝説による

「白い布と共に天から降りてきて我々を苦しみから解放してくれた」

日本軍の司令官が、現地民に敬愛されていたことを知っていたはずです。

その後、彼は堀内大佐が占領軍によって処刑されたことを聞きおよび、
沈黙しつつも深い哀悼の誠を捧げたに違いありません。

 

ところで、大変気になったのですが、「堀内部隊を転勤させないでくれ」
という中国人たちの必死のお願いは結局聞き入れられたのでしょうか。

そのことを調べるため、

上原光晴著「落下傘隊長堀内海軍大佐の生涯」

を読んでみたところ、ただこのようにありました。

「住民は堀内の軍政を讃えて、昭和15年10月、「去思碑」を建てた。
この記念碑建立には、百八人の中国人が寄付金を出している。
『おれは原住民にもてるんだよ』
うれしそうに言って、堀内は持ち帰った碑文の掛け軸を妻に見せた」

つまり、嘆願書は聞き入れられず、堀内の転勤が決まったので、住民は
せめてもと彼の徳を讃える碑を建てた、と言うことになります。

戦後、兵学校出身の作家が現地にこの碑を探しにいったそうですが、
もちろんのこと新体制となった中国では、日本軍人の功を讃える碑など、
早々に処分されたと見え、見つけることはできなかったということです。

 

 

 

 

 


「帽振れ」〜海上自衛隊の離着任行事

2019-04-15 | 自衛隊

色々と話が途中ですが、今日は、いつも写真を提供してくださるKさんが
「桜花」の記事を見て送ってくれた修武臺記念館の写真を紹介します。

何度も訪れていながらこんな立派な博物館があることを知りませんでした。
航空自衛隊入間基地の修武臺記念館です。

年に数回一般公開されていて、いずれも申し込み制だそうで、今見ると
5月の7〜9日の三日間が一番近い申込日でした。
早速申し込もうと日付を見たら、見学日は7月。
残念ながらそのころは日本にいない可能性が高く、断念です。


ここは江田島の教育参考館や陸自習志野駐屯地の空挺記念館のように、
ここもまた隊員教育施設として位置付けられているそうで、
Kさんによると

「一通り見ると陸海軍航空隊と航空自衛隊の歴史がわかります」

とのことでした。
機会があればぜひ見てみたいものです。

ちなみに、修武臺を調べていて、こんなページを見つけました。

入間基地隊員食堂

航空自衛隊の各基地の給食で提供される鶏の唐揚げを、
航空自衛隊全体でより上を目指すとする意味を込めて

「空上げ(からあげ)」

と呼称しており、各基地で特色ある空上げがあります。

入間基地では、埼玉県秩父の美味しいお水で造られた
「秩父みそ」をふんだんに使用した

「秩父みそ鶏空上げ丼」

を隊員に提供しております。

空自、いつの間にか海自のカレーに対抗する食べ物を開発し、
着々と宣撫工作(違う?)を進行させて周知に努めておる。

空自界隈で「空上げ」を知らないのはモグリ、という状態にまで
もはや到達しつつあるのでは・・・やるな、空自。

それにしても外観の美しさに加え、このセンスがいま風なのは・・?

調べたところ、1986(昭和61)年、旧航士の本部校舎を利用し、
帝国陸軍航空部隊および空自の歴史資料館として開館した「修武台記念館」を、
2005(平成17)年にリニューアルに向けて一旦閉館、現在の記念館は
2012(平成24)年に航空歴史資料館として再オープンしたものでした。

スミソニアンの桜花は日本から接収した実機の一つですが、これが
日本国内唯一の本物の「桜花」だそうです。

2機いるじゃないか!と思ったら奥は写真でした。
手前は炸薬部分と思いますが、恐るべきは「桜花」ノーズと同じ形であることです。

「爆弾に人が乗っていた」

という「桜花」の実態を雄弁に語っています。

修復は困難だったということですが、この「桜花」、翼の部分がないんですね。
左側のは推進部分であろうと思われます。

復元された計器板。
「桜花」はグライダーのようなもので、案外操作性はよく、
操縦そのものは容易だったという搭乗員の証言がありましたね。

しかし、ロケット推進なのでドイツの「コメート」同様、
推進力が無くなればもう滑空するしかありませんでした。

体当たりする目標まで距離が足りない場合、滑空で目標に
到達するのはほぼ不可能だったと思われます。

修武臺で撮られたF35Aのマーク、おそらく撮影された時には
そんなことが起こるとは夢にも思っておられなかったでしょう。

 

 

さて、自衛官にとって、4月1日はその前に発令された
人事異動によって離任式、着任式が行われる特別な日となります。

海上幕僚長離着任行事

もうご覧になった方も多いかと思いますが、村川全幕僚長の離任式、
そして山村新幕僚長の着任式の様子です。

まず、新旧幕僚長二人により市ヶ谷の一隅にある慰霊碑に献花が行われます。
この時に演奏されているのが、儀礼曲「命を捨てて」です。

戦前から海軍に伝わるこの儀礼曲は、国を守るために命を捧げた
軍人の御霊を鎮魂するために作曲され、記録によると、
真珠湾攻撃の何ヶ月も後、特殊潜航艇で突入散華した「九軍神」の
葬列(棺には遺髪が納められていた)が都内を行進したときには
この曲が演奏された、ということです。

「日本が新しい御世となり、海上自衛隊が新しいリーダーのもと、
諸君が、より強く、より信頼され、より暖かい海上自衛隊を
作っていってくれることを確信しています」(村川海幕長)

さすがは村川海幕長、わたしは特に最後の、

「武運長久を祈ります」

この言葉に背筋がびりっとなる思いがしました。

それから新海幕長山村海将の栄誉礼となるのですが、
山村氏の表情には抑えきれない感慨の色が見て取れます。


ただ、その後庁舎内で二人が握手をしながら、

山村「頑張りまーす」

村川「頑張ってください!うふふ」

山村「はーい」

山村 (=・ω・)人(・ω・=) 村川

あー・・・和むなあ・・・。

最後に、行進曲「軍艦」とともに敬礼をかわしながら歩き、
階段を降りたところで、海上幕僚長旗を立てる係の海曹長が、
これで旗を持つ役目が最後になることを宣言しますが、
その際、村川元海幕長がポケットからメダルを出して、
握手をする手に握らせ、渡しているのに注目です。

それから帽振れの後に花束を渡す女性海曹は、涙ぐんでいますね。

村川海幕長がいかに部下から敬愛されていたかがわかるような
一連の動画でした。

 

さて、今日のエントリはKさんに送って頂いた写真特集ですが、
冒頭写真は、3月31日の年度最終日に横須賀地方総監部の送別行事を
遠くから撮られたものだそうです。

 

花束を貰った女性事務官は退職かな?

 
袖章からして一等海尉の女性自衛官の転属先は何処か?

 
肩章からして海士長の青年は任期退官かな?
「民間に行ってからもガンバレよ。
きっと海上自衛隊より楽だぞ。」

なんて想像しながら見ていると「総員、帽振れ」の号令❢❢
旧海軍時代からの伝統の❝別れの儀式❞は感動します。

全てKさんのキャプションをお借りしました。
全国の自衛隊でこのような別れの儀式が行われ、海上自衛隊は
去る者を伝統の「帽振れ」で見送ったんですね。

 

Kさん、写真の掲載許可をどうもありがとうございました。

 

 

 

 


「海軍大将一堂に会す?」〜海上自衛隊 第一術科学校 教育参考館展示

2019-04-13 | 海軍

前回に続き、この3月に二回にわたって訪れた江田島の教育参考館で、
心に残ったものについて書いています。

 

💮 東郷元帥のカールツァイス製双眼鏡

 

昔、三笠博物館にいったとき、ロジェストベンスキー提督が乗っている
駆逐艦「ヴェドヴィ」を発見し、お手柄をあげた若き中尉、塚本克熊
カールツァイスの双眼鏡が展示されていたのでそれについて書いたことがあります。

 

東郷長官と塚本中尉のツァイス

 

 

東郷平八郎の双眼鏡を覗かせてもらい、欲しくなった塚本中尉が、
当時の給料一年分をはたいて購入したツァイスの双眼鏡で大活躍、
若いうちの投資は惜しむな、ということを教訓にしてみました(そうだったっけ)

 

そのとき、塚本中尉が覗かせてもらった東郷長官の双眼鏡実物がここにあります。

 

三笠にあった塚本中尉のと違い、大事に保存されていたせいか黒皮巻き残っていて
おそらく今でも十分に役目を果たすのだろうと思われます。

 

 

💮 東郷平八郎のお裁縫セット

昔は洋服に穴が空いたら繕って使い続けるのが当たり前。
さらに、男性であっても海軍軍人ならそれができるのも当たり前。

というわけで、ここには東郷元帥が使っていたお針セットと、
靴下が飾ってあったりします。

しかし、現代の自衛隊でもお裁縫スキルは必須です。
なぜなら、階級章やボタンなど、皆自分で制服に縫い付けるからです。

防大もそうですし、幹部候補生学校では、一般台から来た候補生が
いきなりお裁縫とアイロンがけでビシビシしごかれることになります。 

 

💮 大和守護神

絵つながりでもういくつか。
前回、横山大観、藤田嗣治という二人の偉大な画家が戦時中は
軍に協力したということで戦後「戦犯」呼ばわりされたことを書きましたが、
同じコーナーには

大和守護神 堂本印象

があります。
奈良県天理市にある大和(おおやまと)神社が描かれた絵なのですが、
この大和神社には、昭和16年、海軍から

「新しい軍艦に御社の御分霊を祀りたい」

という申し出がありました。
その際、それが「大和」という艦名であることは伏せられていました。
依頼を仲立ちしたのは奈良県で、同時に堂本印象に絵を注文します。
その絵がこれで、絵の裏には「軍艦大和艦長室」と記載があるそうです。


昭和20年の春、天一号作戦で「大和」が沖縄特攻に出撃するにあたって、
可燃物となるものは全て陸揚げされることになり、この絵も艦から降ろされました。

その後江田島に進駐軍が入るという知らせを受けて、美術作品の多くは
宮島や大三島の神社などに、この作品は呉海軍共済病院(現在の呉共済病院)
に預けられていましたが、昭和31年になって海上自衛隊教育参考館に寄贈されました。

大和神社には沖縄特攻で戦死した2717名が末社・祖霊社に合祀されています。
1969年(昭和44年)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立され、更に昭和47年、
坊ノ岬海戦に参加した巡洋艦「矢矧」他、「冬月」「涼月」「磯風」「濱風」
「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」、駆逐艦8隻の戦没者も合祀して、
この海戦での全戦死者3721柱が国家鎭護の神として祀られています。

 

💮技術報国の碑

目黒の幹部学校で先日防衛セミナーを聞いてきましたが、
その時取り壊していた昔の技本の建物の道を挟んで向かいに、

「技術報国」

という碑があります。
この文字を揮毫した都築伊七中将とは、横須賀海軍工廠で、
歴代25名の工廠長のなかでたった三人しかいなかった機関将校の一人です。

 

江田島にはこの拓本が展示されていました。
ただ、ちょっと思ったのは、機関学校出身だった都築中将には、
江田島はあまり思い入れのない場所だという可能性についてです。

 

💮 秋山真之の「鯉」

奇人変人としても名を馳せた紙一重の天才、秋山真之は、
どうやら絵も上手く、描くのが好きだったと見えます。

教育参考館には、見事な鯉が描かれた秋山の手紙が遺されています。

見たところ、手紙にサラサラっと、しかし興が乗ったのか細部も描き込んで、
下書きもなしにかーるく仕上げてしまった感じが只者でない感じ。

「ほー」

「秋山真之って絵が上手かったんですねー」

これを見るとほぼ全員がこのような感想を漏らします。
得意なことはちゃんと証拠を残しておくもんだね。


💮 山本長官機の尾翼

 昭和18年4月18日、聯合艦隊司令長官山本五十六大将の乗った
一式陸攻が撃墜されました。
世にいう「海軍甲事件」です。

教育参考館には、この時墜落した機体の尾翼が展示されています。

wiki

ちょうど尾翼が写っていますが、ここにあったのが垂直尾翼か水平か
確認しそこねました。

長官機は墜落後主翼より前の部分、胴体、尾翼と
三つに分かれており、尾翼は胴体80mも離れたところに

「もぎ取られたように」

転がっていた、と第一発見者が証言しています。
(『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』高嶋博視著より)


💮 柳本柳作艦長の像

紅蓮の炎を体に巻きつけた仁王像のような海軍軍人の木彫の像があります。
柳本柳作海軍大佐(最終少将)を表したものです。

現地に詳しい説明はありませんが、もしあなたがミッドウェイ海戦において
柳本柳作少将が空母「蒼龍」の艦長としてどんな最後を遂げたかを知っていれば、
この小さな木彫に瞑目せずにはいられないでしょう。

「蒼龍」に総員退艦命令が出た後、柳本は一人艦橋に残った。(略)
飛行長楠本中佐は何としても艦長を艦と共に死なすまいと説得を続けたという。(略)
しかし、柳本は頑として首を縦に振らず、そのうち炎で半身に火傷を負っていたという。
窮した楠本は相撲の心得のある乗組員に命じて無理矢理艦長を艦橋から連れ出そうとした。
しかし、炎を掻い潜って艦橋に向かった乗組員が柳本に

「艦長、お迎えに参りました」

と近寄ると、

「何だ!お前は!」

と物凄い鉄拳をその乗組員の頭に放ちあくまでも退艦を拒否した。(略)
柳本はその後最後に退艦する乗組員を艦橋から見送った後、

「蒼龍、万歳」

を連呼しながら炎渦巻く艦橋に飛び込んでいったという。
乗員達はブリッジに残る柳本を顧みて業火の中の壮絶な姿が印象的だったという。

(『太平洋海戦2激闘編』佐藤和正著)


💮 黒木博司大尉の制服

特殊潜水艇で体当たり攻撃を行う「回天」を開発したのは上層部ではなく
海軍機関学校卒の若い士官でした。
その中心だった一人、黒木大尉は、「回天」の使用を上層部に認めさせた後、
実戦で投入するための訓練中に艇が沈没し、殉職しています。

教育参考館中程には、特攻に赴いた海軍軍人たちの遺品や遺書などが
兵学校卒業か否かにかかわらず集められていて、ここでは展示についての説明はなく
ただ、全てを出来るだけ見て、心に留めてくださいといわれました。

 入ってすぐのところにこの黒木大尉の軍服が展示されています。


💮 謎の宴会

 下の階の、兵学校の卒業写真が見られる部屋に進むと、
直継不二夫氏の写真などが飾ってあるガラス張りの展示壁がありますが、
その一番端に、わたしは海軍軍人が記名した巻物?を見つけました。

これがちょっと不思議なのです。
まずその巻物は、一枚の紙に記名がされており、宴会か会合で
海軍軍人が一堂に会した時のものであることはわかるのですが、
わたしが注目したのは書かれた軍人のメンバーです。

有馬良橘 (1944)

財部彪 (1949)

竹下勇(1949)

末次信正 (1944)

岡田啓介(1952)

安保清種 (1948)

米内光政(1948)

百武源吾 (1976)

山梨勝之進(1967)

小林躋造(1962

皆さんはこの全員に共通するタイトルが何かご存知ですね?
そう、全員が海軍大将。

わたしはこの近くにおられた説明の方(学芸員というべき職員)に

「一体どういう状況で揮毫されたかご存知ですか」

と聞いてみたのですが、特に詳しいことはわかっていないようでした。

カッコの中はお亡くなりになった年なので、この宴会は
1944年以前に行われたことは確かです。

「海軍大将友の会」みたいな会合でもあったんでしょうか。


💮 海軍兵学校出身戦公死者銘碑

大理石の壁に刻まれた特攻隊戦死者名簿碑のちょうど裏側には
海軍兵学校卒生徒の戦公死者名を刻んだ碑があります。

兵学校は昭和20年3月までに約1万1千200名の卒業生を輩出し、
その三分の一に当たる約4千名が戦公死しています。
とにも芋昭和8年卒業の61期から昭和18年卒業の72期までは
卒業生の半数が戦死しています。

三面の石の銘碑のあるバルコニー状の場所の両側には扉があって、
扉のガラス越しに中を見ることができます。

ここは一般の見学者には非公開となっているのですが、例えば
戦死者の親族などであれば、中に入ることを許されます。

今回、わたしが海軍兵学校同期会に籍を置いていることもあって、
碑の正面から瞑目し手を合わせることを特別に許していただきました。

全戦死者名の名前はある兵学校出身者が揮毫したそうです。
碑の前にはその後ろの特攻戦死者名碑と同じく、花が供えられ、
水をたたえた鉢が置かれておりました。

 
 
さて、平成29年の幹部候補生学校卒業式に彬子女王殿下がご来臨になり、
その際、殿下に構内と教育参考館の説明をされたのが前一術校長でした。
 
女王殿下のご案内にあたっては、半年以上前から準備が始まり、
展示やその他の情報を精査し、説明内容は完璧に記憶して、
殿下来臨に先立ち、女王殿下役の女性職員を立てて実際に説明して
時間をはかりながら構内を回るというシミュレーションまで行ったそうです。
 
わたしたちは、いうならば女王殿下や安倍首相のために準備された
海上自衛隊挙げての知力結集の恩恵(の余波)に預かったようなものであり、
また1ヶ月後に退任された校長にとって、わたしたちの案内は、
その成果を発揮する最後の機会になったということになります。
 
何れにせよ、このような最高の機会をいただけたのは
わたしたちにとってただただ僥倖というほかありませんでした。
 
 
続く。
 
 



 


「ネルソンの遺髪」と「正気放光」〜第一術科学校 教育参考館展示

2019-04-12 | 博物館・資料館・テーマパーク

またもや江田島第一術科学校見学について書きます。

大講堂の貴賓室に始まり、赤煉瓦の生徒館「モッくんロード」を
通り抜けると、案内コースは教育参考館の前にやってきます。

観桜会でも卒業式でもだいたいそういうコースですが、
一般公開のツァーでも、兵学校同窓会の時でも、生徒館の廊下は
通りぬけることができませんでした。

海軍兵学校の同窓会では赤煉瓦の廊下を通行止めされた
元兵学校生徒たちが、

「同期の桜を見に行こうとしたら止められた」

と文句を言っていて、これを不思議に思っていたのですが、
その時赤煉瓦の一階で候補生の座学が行われていたからだったのです。

というか、中に入れない訳は案内の自衛官から最初に説明されたはずですが、
みんなその頃にはすっかり忘れていたってことなんですね。

この日、普通に卒業前の候補生たちが変わらぬ1日を過ごしていましたが、
授業の時間ではなかったため、わたしたちは廊下を歩き、あまつさえ
候補生たちがさっきまでいた教室を見せてもらったりしました。

そして、教育参考館前の「大和の主砲」前までやってきます。

こちらは「三景艦主砲々弾」とあります。
三景艦というのは日本三景の「松島」「厳島」「橋立」からその名前をとった
「松島」型防護巡洋艦で、日清・日露戦争の頃の軍艦です。

「大和」砲弾の半分くらいしかないように見えますが、これでも
「定遠」「鎮遠」など清国の軍艦を相手にしていた頃には、
圧倒的に大きかったといわれています。

「松島」型の主砲は1門しかありませんでしたが、この
カネー社の「32cm(38口径)砲」を搭載することで
清国艦隊の主力艦を一撃で撃破することができるようになりました。

この砲弾に「三景艦」としか表示がないのは、どの間で使われたか
はっきりしていなかったものかもしれません。

 

さて、そののち当時の一術校長による案内で、教育参考館の見学になりました。
教育参考館内は写真撮影禁止なので、いつも説明ができないのですが、
特に印象に残った展示物について、卒業式の日(一術校副校長の案内による)
要点をメモに残しておきました。

今見ると案の定走り書きした文章は解読不明な箇所が多数ですが(笑)
主なものを書き出してみます。

💮 三人の提督の遺髪

昔は靴を脱いで上がったという大理石の階段の上には、
東郷元帥にまつわる著名なシーンを表した銅の扉があり、その後ろには
東郷元帥、ネルソン提督、山本元帥の遺髪が納められています。

なぜネルソン提督の遺髪がここにあるかも説明を受けました。

1911年に英国でジヨージ5世の戴冠式が行われたとき、
随行していった東郷元帥がネルソンの遺髪入りの額を持ち帰り
海軍兵学校に寄贈して海軍兵学校では生徒の拝観が許されていたのです。


しかし終戦後、その遺髪は進駐軍(連邦国軍)に接収されてしまいます。
イギリスに返されたと日本側は考えていたのですが、そうではなく、
誰がどこに持っていったのか、今でも行方が分からないままだそうです。

それでは今ここにあるネルソン提督の遺髪はどこからきたのかというと、
1981年、当時の海幕長が渡英して英国海軍から贈られ持ち帰ったものです。

それにしてもどうしてイギリス海軍は、一度ならず二度までも
日本の海軍軍人に
ネルソン提督の遺髪をくれたのか。

あまりに気前が良すぎるというか、ネルソンの遺髪ってそんなにいっぱいあるの?
と思わずwikipediaでご本人(の髪の毛の有無)を確認してみました。

42歳、死去5年前のホレーショ・ネルソン

あー、まあこれなら他にも遺髪はたくさん残っていそう。
少々なら他の国にあげてもいいかも。ですね。

 

余談ですが、提督が亡くなったのはご存知トラファルガー海戦でのことです。

当時海戦で戦死した人はすぐさま海軍葬で海に葬っていましたが、
ネルソン提督の場合、この人のおかげでイギリスの海軍力は保っていた、
とまで言われる軍神なので、当時としては異例の措置で、その遺体は
保存のために樽に入れお酒でひたひたにされて持って帰ることになりました。

と こ ろ が (笑)

偉大な提督にあやかろうとした水兵とただ単に酒を飲みたかった水兵が
皆で競って棺から盗み飲みしてしまい、帰国時にはすでに酒は無くなっていました。
酒の種類や棺か樽かについて真偽には諸説あるこの逸話ですが、
遺体の浸かった酒を皆が飲んだことだけは事実だったらしく、
現在でもイギリスではラム酒のことを

「ネルソンの血」

と呼び、たくさんのメーカーが同名で商品を出しています。

Nelson's Blood

 

ちなみに現在、第一術科学校では遺髪室の前に、
内部の遺髪の写真が展示されています。

遺髪室の反対側にも秘密の小部屋があって、ここには
かしこき辺りの方々の軍服等が永久保存されており、遺髪室とともに
基本的には非公開となっています。

海保の卒業式に来訪した安倍首相はやはり中畑一術校長の説明で
実際に遺髪室とその隣の部屋も見学されたと思われます。

 

遺髪室の鋳造された一枚板の扉の正式名は

「東郷元帥記念堂扉」

であり、下絵は東京美術学校助教授の伊原宇三郎が描き、
長崎平和の像を製作した北村西望が彫刻を手がけました。


💮 広瀬中佐の血のついた軍服

今回久しぶりに来てみて、展示室そのものが改装され改装され、
展示もかなり見やすくなっているのに驚きました。
大まかな説明のところには、日本語英語はもちろんのこと、
何と中国語にハングルまであります。

遺髪室のあるホールから展示室に入ると、最初に
小栗忠順、坂本龍馬、西郷従道、勝海舟などの
海軍創建の「立役者」といった人々の写真に始まり、
有名な将官だけでなく、「勇敢なる水兵」の三浦虎次郎などもいます。

中でも大きな扱いをされていたのが広瀬武夫

旅順港閉塞作戦において脱出する際、帰らぬ部下を気遣って船内を探すも
ついに見つからず、脱出するボートに乗り込んだ瞬間、広瀬は被弾。
その体はわずかな肉片を残して四散したといわれます。

ここには、その時ボートの隣にいた武野啓治のシャツが展示されています。
年月を経て、既にうっすらという感じになっていますが、目を凝らすと
広瀬中佐の血のシミの跡が確認できます。

 

前に旅順港閉塞作戦について当ブログで書いたとき、広瀬を失った
報国丸の部下たちが帰還した時の写真を挙げましたが、あの写真で
戦死した二人の棺に囲まれて簀巻きになっていた人がいたでしょう?
あれが武野さんで、この時に着ていたシャツが展示されているのです。

隣で広瀬中佐が爆死し、返り血を浴びたということは、おそらく同時に
本人も骨折するくらいの怪我を負ったのでしょう。

 

それにしても、いかに広瀬中佐が日本人から敬愛されていたとしても、
広瀬コーナーの資料は他と比べてかなり充実しています。

それはそれは広瀬中佐が軍神となった理由と無関係ではないと思います。

兵学校では終戦の報を受けるや進駐軍の手に渡したくない展示物を
あるものは寺などに隠し、書類などは焼却処分しています。

しかし、部下を案じて戦死した広瀬中佐にまつわる資料などは
おそらく連合軍といえど手をつけることはあるまい、と判断し、
写真も遺品も全てが戦前のままに残されたのではないでしょうか。

 

ところでその充実したコーナーには広瀬中佐の写真も多数あるわけですが、
その中で謎なのがブリーフ一枚で拳を握りしめた広瀬の写真です。

当時の日本人、とくにに軍人は全員褌だったはずなんですが、
軍神広瀬、なぜこの時代、わざわざブリーフ一枚で写真を?
そもそも当時こんなのどこで売ってたの?

見れば見るほど謎が深まる写真です。って何の話だ。

 

 

💮 横山大観「正気放光」 

大講堂二階の貴賓室には横山大観の「富士山」がありましたが、
あとで中の方に聞いたところ、レプリカだったそうです。

横山大観 正気放光 

世の中にレプリカはこれほど氾濫しているとわかるわけですが、
第一術科学校教育参考館のものは紛れもない本物です。

東大文化財データベースによると、横山大観は昭和17年10月、
第29回院展に出展していたこの作品を海軍省を通じて海軍兵学校に寄贈しました。

絵を見ていただければわかりますが、「正気放光」は大観の富士山の中でも
とくに大きく、そして画風に横溢するのは一言で言って「厳しさ」です。
富士の手前に太平洋が波打っていますが、富士の後ろに見えている波は、なんと
日本海の荒海なのだとこのときに伺いました。

昭和17年というと、6月のミッドウェー海戦でそれまでの軍事的優勢が逆転し、
夏にはアメリカ軍のガダルカナル上陸を許し、ソロモン海戦によって
それを迎え撃つ兵力の投入にも失敗するなどといった戦況でした。

民間人である横山大観にも、海軍の危機的状況は他の国民と同じく
全く報道を通じても知ることはなかったとは思いますが、それでも
この富士山からは、当時の日本の置かれた厳しい局面が反映されている気がします。

そのような時こそ、「正気」=国民の気を一つにするべき、という気持ちで
大観はこの絵をわざわざ兵学校に寄贈したのかもしれません。

ちなみに「正気放光」の英語名は「Japan、 The Shining」となっていました。

このときの説明によると、横山大観の絵は1号が1億円するそうですが、
「正気放光」は125号の大きさだそうです。

 売却されることは未来永劫ないので、値段などいうだけ野暮というものでしょうが。


💮 藤田嗣治の戦争画

「正気放光」のある一角には、その他兵学校時代からの所有である、
藤田嗣治の「漢口突入」という戦争画もあります。

戦前、エコール・ド・パリの代表的な画家で、モンパルナスに住み、
独特の乳白色の肌の女性を描き(絵の具に日本製の天花粉を入れていた)、
パリ画壇の寵児とまでいわれた藤田が、戦争中は画家として派遣され、
戦争画家として日本では多くの作品を残しているのですが、その一つがここにあります。

ところで巷間言われる、

「藤田嗣治が戦後パリに行き帰ってこなかったのは、戦争画家だったことを
『軍に協力した』と責められ、日本が嫌になったから」

という説を確かめるため、昔読んだ

菊畑茂久馬著「フジタよ眠れ〜絵描きと戦争」

によると、昭和20年10月、終戦後2ヶ月の段階で、あの朝日新聞は、

「藤田、猪熊、鶴田吾郎、彼らが陸軍美術協会を牛耳り、
戦争中ファシズムに便乗した人たち」

「芸術至上の孤塁を守って戦争画を描かなかった画家たちを
非国民呼ばわりしたのは誰たちであったか」

「自分の芸術素質を曲げて、通俗アカデミズムに堕し、軍部に阿諛(あゆ、
へつらうこと)し、材料その他でうまい汁を吸った茶坊主は誰だったのだ」

いう痛烈な宮田重雄の言説を掲載しています。
これに対し藤田は、

「画家は自由愛好者で軍国主義であろうはずは断じてない」

「国民としての義務を遂行したまで」

などと反論しました。
一方勝った方のアメリカの占領軍関係者は、この騒ぎに対し、

「どこの国でも芸術家が国家に協力するのは当たり前」

と切って捨てたそうですが、戦後の「軍国パージ」を行ったのは
むしろこれを利用したい日本人だったということを証明するかのように、
朝日新聞は藤田、そして横山大観を含む「戦争協力画家」たちを

「軍部と手を結んで意識的に戦争熱を駆り立てた」

と昭和21年に紙面で臆面もなく糾弾しました。

横山大観は実際の絵の寄贈以外にも、帝国陸軍に

「大観号(愛國445号)」

という97式爆撃機を献納したこともあったため、戦後は戦犯容疑で
GHQから取り調べを受けたそうですし、(勿論不問となっている)
藤田も訴追を恐れてか戦後は自分の作品をかなりの数処分しています。

(ちなみに『大観号』を検索すると、献呈式に参加する大観とパイロット、
『愛国445号』の写真を見ることができますが、それを無断引用しているのは
どれもこれも『戦犯大観』と口汚く罵るサイトばかりで悲しくなってしまいます)


戦後のある日、藤田嗣治は新たな日本美術会創立メンバーとなった
かつての「戦争画家」、内田巌の訪問を受けました。

藤田と仲の良かった内田はこう言い放ったそうです。

「あなたを戦争犯罪画家に指名しました。
今後美術界での活躍は自粛されたい」

晩年の藤田が

「わたしは日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」

と言ったわけが内田の一言に凝縮されていますね。


こういうのを見ると、戦争中の「権力と芸術家の蜜月状態」と、戦後の
「権力者
GHQと東京裁判史観あるいは平和思想への阿り」(とあえて言う)
とは敗戦を境として表裏一体全く同じ形をしているような気がします。

あたかも双頭を正反対に向けて立つヤーヌス神のように。


しかしながら、戦後、江田島から一時市内の某所に避難させて没収の難を逃れ、
ほとぼりが冷めてからここ江田島に帰ってきたという「正気放光」は、
そんな人の世の芥のようなしがらみなどまるで受け付けぬように、
教育参考館の一隅で、変わらぬ凛とした光を放っています。

 

続く。

 

 

 


桜花〜スティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジー・センターの桜〜スミソニアン博物館

2019-04-11 | 航空機

 

スミソニアン博物館別館、スティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジー・センターには
第二次世界大戦時アメリカと干戈を交えた枢軸国からあくまでも
「イタリア抜きで」(笑)、つまり日独の軍用機が多数展示されています。

このほとんどが、終戦後、アメリカが相手国に乗り込んで
破壊される前の軍用機を接収し、空母に積んで本国に持ち帰り、
海軍と空軍のパイロットに実際に操縦させて性能を評価したものです。

スミソニアンのHPを検索すると、また同協会にはこの時代に接収した
日独の技術文書も数多く保存されており、研究者向けに有料で
公開されていることがわかります。

ちなみに保存の形態は全てマイクロフィルムによるもので、
動画などは撮影者のミスでぼやけていたりするものもあるとか。

日本機ばかりが並べられている一角。
手前から「紫電改」「橘花」「晴嵐」「屠龍」「震電」。
一番奥が「月光」で、その手前に見えている灰白色の機体が
本日取り上げる「桜花」です。

桜花 Kugisho MXY7 Ohka (Cherry Blossom) 22

「桜花」は特攻目的に開発された滑空機です。

靖国神社の遊就館で見ることのできる「桜花」は複製なので、
実はわたしにとっても実際の「桜花」を見るのはこれが初めてです。

現地の説明にある「KUGISYO」は海軍空技廠のことで、
MXY-7が型式番号になります。

「桜花」については日本語のWikipediaに多くが記述されているので、
今日はアメリカ側の説明を中心にご紹介します。

最初から体当たりを目標として開発された航空機というのは、
世界の歴史の中でもこの「桜花」が最初で最後でした。

日本以外の何処の国にとってもあり得ない思想である、
最初から死ぬことを目的とした攻撃、というのもさりながら、
人が操縦して体当たりするための爆弾を開発することの
不合理さと不可解さに、アメリカ人はなべて困惑したのでしょう。

アメリカ側が鹵獲した「桜花」を詳細に研究してたどり着いた結論は

「危険でもっとも手に負えない敵」

この鹵獲機にもわざわざノーズに描かれているように、彼らはこの人間爆弾を
「BAKA Bomb」と呼び、キリスト教の教えに反する自殺が前提の
武器をこうして蔑んでみせましたが、それでも

「アメリカ軍全体に広まった恐怖は決してやわらぐことはなかった」

(戦史研究家ジョン・トーランド)のは確かです。

アメリカ側の被害は1945年4月12日、駆逐艦「マナート・エーベル」が
真っ二つになって轟沈したのを始め、駆逐艦中心に損壊損失含め7隻。
(未確認の民間徴用船を含めるとさらに戦果は増えると言われている)

そして「桜花」特攻によって150名が戦死し、197名が負傷しています。

 

スミソニアンのキュレーターの手による解説も、機体そのものよりも
日本軍の行った特攻に対する解説に重きが置かれています。
以下、翻訳します。

 

Ohka 22は、初歩的な訓練を受けたパイロットが連合国の軍艦などに
突入できるように特別に設計された有人誘導ミサイルでした。

連合軍の空軍と海軍は戦況が進むに従って日本軍の戦闘機を
非常にシステマチックに鎮圧しはじめ、追い込まれた日本軍は
このタイプの攻撃のアイデア(特攻のこと)を選択したのです。

1944年10月19日、大西瀧治郎海軍軍令部次長は、フィリピンで
水陸双方から攻撃するために集結せんとしていた敵軍艦を攻撃するために、
特殊攻撃を行う航空隊を編成することを提言しました。

日本軍はこのユニットを表すのに「特別攻撃」という言葉を使い、
同盟国からは神風として知られるようになりました。

終戦までに、約5000人の搭乗員が特攻によって戦死したと言われます。

連合軍はこれらの部隊を「神風」または「自殺隊」(スイサイドスクヮッド)
日本人は特殊攻撃を意味する「トッコー」という言葉を使いました。

いくつかの哲学的概念が特攻という行動に動機付けられました。
祖国、故郷、そして天皇を救うための究極の犠牲。
そして戦士の名誉と行動の規範である「武士道」に対する義務。
そして、特攻の任務によって1281年にモンゴルの侵略艦隊を破壊した
台風、つまり「神風」の奇跡を再現するという信念。

終戦までに5000人のパイロットが特別攻撃によって死に、現実に
彼らがもたらしたダメージは連合国にとって深刻だったと推定されています。

1945年4月の沖縄侵攻中、アメリカ海軍は21隻の潜水艦と217隻の損害を受け、
被害となった死傷者の数はあまりに酷いものでした。
太平洋戦線で戦死したアメリカ海軍の全死傷者のうち実に7%に当たる
4,300人が特別攻撃によって死亡、また5,400人が負傷しています。

「桜花」の説明に入る前に延々と特攻についてこのような説明をしています。
特攻による自死の概念とその思想についても簡単ではありますが
端的に触れているのはさすがです。

 

そしてここからが「桜花」誕生のストーリーとなります。

トッコー攻撃は、ほとんどすべてのタイプの軍用機で行われました。
しかしそのうち日本軍は特別に設計された特攻用の航空機を必要とするようになります。
敵艦に突入するためには対空戦闘砲とその前に
防衛戦闘機からの攻撃をかわさなくてはいけなかったからです。

その答えは、照準を当てることが難しく、さらに素早く簡単に組み立てることができ、
大量生産が可能な小型飛行機、というものでした。

大田正一少尉は小型のロケット推進力のある特攻機のアイデアを思いつき、
東京大学航空研究所の職員の助けを借りて、改良案を日本海軍に提出したことから
海軍当局者は感銘を受け、プロジェクトは勢いを増しました。

 

「桜花」発案者の大田正一を、英語ではなぜか「オオタミツオ」と間違えているのですが、
この書き方では唐突で少しわかりにくいですね。

大田正一は海軍兵学校卒ではなく、海兵団から操練を経た
航空偵察員で、その頃から「頭のキレるアイデアマン」だったそうです。

この彼こそががロケット推進の有翼誘導弾が三菱で開発されていることを知り、
精度を上げるために人間が操縦すれば良いのでは、と思いついて
東大の教授に相談し、実現にまでこぎつけた「桜花」の産みの親です。

彼は自分のこのアイデアをなんとしてでも海軍に実現させるべく、
軍令部のゴーサインを得るために、自分が偵察員であることを隠して

「出来たらその時にはわたしが乗っていきます」

と宣言していました。

計画を持ち込まれた技術者や航空本部のお偉方にとって、一殺必死の武器に
誰を乗せることになるかが最後の決断のネックとなっていたわけですから、
開発者自らが「自分がやる」と言わなければ許可は降りなかったでしょう。

大田はそれを見越して嘘をつき計画を認めさせただけでなく、

「兵器が出来たら自分が乗りたいですリスト」

を、乗る可能性のない偵察員に取りまとめをさせて、さらに
名前を貸すだけならと賛同した搭乗員の名簿を上に提出しているのです。


最終的に軍令部が「桜花」の計画を承認し、研究試作が開始されるや、
自ら乗っていくと言ったはずの大田はケロリとしてこう言い放ちました。

「また新しい発明を考えて持ってきます」

それを聴いた航空本部の課長だった海軍中佐は自分の判断を悔やんで、

「あんな奴の提案を採用するのではなかった」

と苦々しく思ったという話があります。

その後、大田は桜花を使った特攻部隊「神雷部隊」付きになり、
その時に偵察員から操縦員への転換訓練を受けているのですが、
なんと「搭乗員の適性なし」と判断されています。

本当に真面目に訓練を受けたのか?
適性試験でわざと手抜きしなかったか?

この彼にとって都合よく見える結果に疑義を感じるのはわたしだけではありますまい。

その後新聞に「桜花」の発案者として華々しく紹介されて顔出しした大田は

「自分がそれに乗らないからといって()将兵を死につかせることを
躊躇ってはいけない。今はそういう事態ではない」

と堂々と語り、「桜花」の使用が終戦直前の7月に中止されてからは
方々に再開するように説いて回ったといわれています。

 

終戦の次の日には空技廠にやってきて

「こんな形でやるんなら真先に儂を行かせてくれと上申したのに駄目でした」

と楽しそうに話したという大田中尉は、8月18日、零戦に乗ってそのまま行方不明となり、
殉職扱いで大尉に昇進しました。

が!

戦後、死んだはずの大田の目撃談があちらこちらから出るわ出るわ。

中国軍の義勇軍に加わらないかと誘われたとか、北海道で密輸物資を
ソ連領に運んでいたとか、その合間にも子供を作ったり寸借詐欺をしたり、
傘を持ち逃げしたり(笑)

結局彼は戦犯となることを恐れ、死のうとして零戦に飛び乗ったものの、
金華山沖に着水したところを漁師に拾われて生きながらえ、
戦後のどさくさであちらこちらに起こったように、偽の戸籍を手に入れて
職を転々としながらも細々と、82歳まで生きていたということです。

作家柳田邦男は

「大田少尉は結局、時流に乗った目立ちたがり屋の発明狂」

と彼を評したそうですが、例えば「桜花」を

「この槍、使い難し」

と言い放ち最後まで評価していなかった野中五郎少佐が
生きてこの人物のことを知ったら、おそらく
天地も裂けんばかりに激怒していたことでしょう。


もっとも、功名心にはやる大田の画策によって生産に漕ぎ着けたという
苦々しい経緯があったとはいえ、苦しかった現場はこの兵器に
期待を寄せ、
大田とは無関係に新兵器での体当たりを志願する搭乗員は何人も現れました。

スミソニアンの解説に戻ります。

横須賀の海軍第一航空技術廠(略して空技廠)は、数週間以内に
MXY7 Ohka 11を完成させました。
この単座の飛行爆弾は機首に大きな弾頭を詰め込み、双尾翼には
3つの小型ロケットエンジンを搭載、エンジンは双発で
三菱G4M BETTY爆撃機(一式陸攻)の腹にぴったりと牽引されました。

「桜花」の戦闘デビューは1945年3月21日。
グラマン F6F 「ヘルキャット」が「桜花」 11を搭載した16機の
一式陸攻を迎撃し、これらを全機撃墜するという悲惨な結果に終わりました。

 

この時「桜花」は全て海に没し、発進することもありませんでした。
「桜花」は射程距離が限られていたため、一式陸攻の乗組員は
目標の37 km以内で飛行する必要があったのですが、それはまさに
アメリカ機からは射程距離の範囲内で撃ち落とされるしかなかったのです。

この失敗を元に、空技廠は「桜花」 11を修正して、「桜花」 22を開発しました。
射程距離を約130 kmに伸ばすため炸薬を減らして弾頭の大きさを半分にし、
そしてP1Y1爆撃機「銀河」に適応するようにしました。

(桜花)に搭載されていた炸薬。現在は展示されておらず倉庫に収納されている。


「銀河」は一式陸攻よりも速かったので、まだしもアメリカの護衛戦闘機から
逃れる可能性が高くなったのです。

エンジニアはまた、ガソリンを燃料とし、100馬力の日立製Tsu-11という
新しいハイブリッドモータージェットエンジンを搭載しました。

空技廠は最終的にのModel 22を3機完成させ、生産は地下工場にシフトしました。
しかしほとんどの機体は未完成のままで、22が戦闘に出る前に戦争は終わりました。
他にも「桜花」43Bは地上のカタパルトからの打ち上げ用に設計されていましたが、
もし連合軍が提案した九州への侵攻である「オリンピック作戦」を実施していれば
日本はその攻撃に対して何百という「桜花」で特攻を行ったことでしょう。

その時には何万という連合軍兵士と日本人の命が失われた可能性があります。

「桜花」のコクピットパネル。
あまりにシンプルで恐ろしいくらいです。
搭乗員の話によると、非常に操作性は良く、熟練パイロットでなくとも
正確に機体を繰ることはできたということです。

「桜花」を腹の下に牽引した一式陸攻を後ろから見たところ。
1945年6月6日に撮られたものだそうです。

スミソニアンで公開されている写真より。
これがカタパルト打ち上げ式に開発されていた「桜花」43Bで、
1945年横須賀で撮られた写真だと言われています。

機体の下部には橇状の形状が見え、画面後部には米軍のジープが写っています。

第336邀撃部隊のライスター大尉がジョンソン空港(現在の入間基地)で
1950年、「桜花」と記念写真。

「ディスティネーション、ジャパン!ジョンソン空港にて」

  

ロケットエンジン搭載の「桜花」11型は世界中の美術館にありますが、
モータージェット搭載のNASM MXY7モデル22は1機だけです。

アメリカ軍は「桜花」の試験飛行は行わなかったようで、研究の後
この機体は倉庫にありましたが、スミソニアンの修復スタッフは
1994年から航空機の作業に取り掛かり、3年かけてエンジンを取り付け、
コックピットを再構築し、外装と機体を軽く修理し、
そして機械を再塗装して再マーキングするという丁寧な修復を完成させました。

「桜花」は2003年12月からここに展示されています。

ところで、スミソニアンのページにはこんなエッセイがあります。
エリザベス・ボージャというキュレーターの手によるものです。

最後にこれを翻訳しておきます。

ワシントンDCの春分の日はまだ寒く、雨を伴ったりすると、
春がもう訪れているとはとても想像できませんが、
この時期、アメリカの首都は、その最大の毎年恒例のイベントの一つ、
ワシントン桜祭りを祝うことになっています。

ところであなたは国立航空宇宙博物館にも「いくつかの桜」
があることを知っていましたか?

もしあなたがタイダルベイスン(ポトマック川の入江)で
桜祭りの群衆に紛れるつもりがなければ、バージニア州シャンティリーの
Steven F. Udvar-Hazy Centerを散策してみるのもいいかもしれません。
4月には、駐車場は美しい桜の花でいっぱいです。

敷地内にある記念碑付近を散策したり、ダレス国際空港を離発着する航空機が
頭上を飛んでいるときに航空機を間近で観察するのもいいものですよ。

それから博物館の中に入って、すぐにわたしのいう「別の桜」を観ましょう。

それはボーイング航空ハンガーで展示されている第二次世界大戦時代の
日本の航空機Kugisho MXY7 Ohka 22です。
Ohkaは「桜」という意味です。
彼女の機体には色彩鮮やかな桜の花が描かれています。

(アメリカ人はこの桜のシンボルが近づいて来たとき、
ただ神風攻撃の標的とし見ただけでしたが・・・)。

あなたがDCで桜を観るか、それともあなた自身の町で桜を観るかはともかく、
この春の旅行をどうぞ楽しんでください。

 

続く。