ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

1945年4月の新聞が報じる「阿波丸」事件〜スミソニアン航空博物館

2021-04-11 | 歴史

スニソニアン博物艦が空母の実物大展示とともに公開している
「空母の戦争」コーナーは、ついに最終章に入りました。

「日本への道」

というのがその最後のタイトルとなります。
真珠湾攻撃という空母の攻撃に始まり、日本本土への空母の攻撃に終わった
第二次世界大戦の太平洋での戦いですが、そのコーナーに
日本本土への攻撃がいよいよ始まったことを報じる新聞が展示されていました。

 

■ 1945年4月のアメリカ新聞が報じたこと

 

「ザ・ベイカーズフィールド・カリフォルニアン」という
あまり聞いたことのない新聞が展示されています。
まず大見出しは、

「東京大混乱 1500機の海軍機による爆撃後の炎」

これはどうも3月10日の東京大空襲の成功を報じているようですね。
どうやってそれを知ったのかは字が不鮮明でわかりませんが、
この攻撃の時東京では演奏会がおこなわれていて、それが中止された、
という小見出しが下の方に見えます。

映画「怒りの海」をここで紹介した時に、なんとなく非常時下の日本では
歌舞音曲の類が厳しく制限されていたような印象を持っていたので、
戦時下であっても当時の日本では演奏会は普通に行われていたし、
新響などの交響楽団も活動していたことを知ってちょっと驚いた、
ということについて書いたばかりですが、この見出しの「演奏会」が
文字通りの演奏会だったのだとしたら、その情報を裏付けることになります。

 

そしてその右下の2番目に大きな見出しは

「巨大なる我が米国艦隊 日本と戦う:ルソンのジャップを閉じ込める」

バターン、コレヒドールでマニラが陥落した後、日本軍はルソンに展開し
そこで米軍と死闘を繰り広げますが、食料の補給が途絶え、散逸した兵力は
追い詰められ、20万人がここで死んでいくということになります。

この見出しの「巨大米国艦隊」とは、キンケイド提督率いる第7艦隊を意味します。

そして対日本関連の見出しとして、

「ジャップのプリズンシップが沈んで1800名の同盟国人が死亡」

とあります。
プリズンシップというのは存在せず、要は貨物船で捕虜を輸送していたところ、
実はこれをアメリカ軍が攻撃して沈めてしまって、みんな死んでしまったよ、
というニュースですが、これは、時期的に「阿波丸事件」のことであります。

■ 阿波丸事件


阿波丸事件については昔(ブログを始めてまもない頃だったかな)
北京原人の頭蓋骨を載せていて、これが沈没によって失われたという
「噂」にからめて書いたことがあります。

 

ちょうどこの新聞が発行される前の1945年4月1日、シンガポールから日本に
2000名の乗船者を乗せて航行していた貨物船「阿波丸」が、米海軍の潜水艦、

潜水艦クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393)

の雷撃により撃沈されました。

「阿波丸」には安導権(Safe-Conduct)という病院船に準じる保護が約束され、
米軍も「阿波丸」の航路情報を各部隊へ通知し、攻撃しないよう命令していました。

しかし、潜水艦「クイーンフィッシュ」は台湾海峡で航行中の「阿波丸」に
潜望鏡における目視を行わずに攻撃を開始し、1分後には撃沈させてしまったのです。

これによって、「クィーンフィッシュ」が救助した、たった一人の捕虜を除く
乗員2000以上の人々が死亡しました。

新聞の記事には1800名のAlliesが死亡、とありますが、
それが全部捕虜だったのではありませんし、そもそも「阿波丸」は
新聞がいうような「プリズンシップ」などではなかったのですから、
ずいぶんいい加減な情報をもとに報じられていたのだなと思います。

見出しの論調を見ても、なんとなくですが、日本への非難調であることから、
記事では
安導権を無視した自軍の攻撃であることにはふれてもいないんじゃないでしょうか。

 

それでは「クィーンフィッシュ」はなぜ緑十字をつけた「阿波丸」を攻撃したのでしょうか。
後から軍法会議などで当事者の聞き取りを行ったところ、主な理由は

●命令書を艦長が確認しておらず、
「阿波丸」の位置情報の連絡も間に合わなかった

●情報そのものの文章があやふやだった

しかし、この理由意外に不思議なことがあります。

艦長はレーダーで発見した艦影をろくに視認もせず、
軍艦だと誤認したため、攻撃したと証言しているのです。

うーん・・・そんなことって、ある?

Charles Elliott Loughlin USNA.JPG

と訝しむ前に、ここに至った経緯を辿ってみましょう。

まずは「クィーンフィッシュ」艦長、

チャールズ・ラフリン(Charles Elliott Loughlin)

のこの時点に至るまでの戦歴から洗っていこうではありませんか。

まず、「クィーンフィッシュ」第1回目の哨戒です。

このときウルフパック(群狼作戦、潜水艦のチーム攻撃)で撃沈した
楽洋丸」ですが、これにも実は同盟国捕虜が乗船していました。

しかし、このときラフリンはこのうち18名を救助したことが評価され、
最初の海軍十字章を受章しているのです。

つまり、

敵船に自国の捕虜が乗っていて、これを知らず撃沈して殺害せしめても
戦時下では、このこと自体なんらの咎められることはなかった

ということがお分かりいただけると思います。

第2の哨戒では陸軍の特殊揚陸艦「あきつ丸」を撃沈しました。
この戦果に対して「大金星」を射止めたとして、ラフりんはまたしても受賞されました。

問題は、第3の哨戒で行なった船団攻撃です。

結論から言うと、ラフりんはこのときの攻撃に艦長になって初めて大失敗しました。

どう失敗したかは知りませんが、ウルフパックの僚艦、「バーブ」艦長
ユージーン・フラッキー少佐(ラッキー・フラッキーとあだ名のあった人)に、

「信じられんほど下手な魚雷発射w」

とディスられ、本人は日誌に「ちくしょおー!」と書くほどこれを悔やみました。

そして本人はもちろん、乗員一同もこの屈辱に甘んじ、

次の哨戒でなんとか傷ついた評判を回復してやるぜ!

と心に誓った、その「次の哨戒」で遭遇したのが、「阿波丸」だったのです。

 

直前に、潜水部隊司令官ロックウッド中将は、「阿波丸」の安導権情報と航路、
緑十字を艦体に塗装していることなどを発信しましたが、
一度目の電文をラフりんも乗員も、つまり誰も目にしませんでした。

しかも、続いて2回目に届いた電文を見たラフりんは、なぜか

「生まれてから、こんなアホな電文は見たことがない!」

と言い放ちこれをガン無視。

書式が稚拙だったので意味がわからなかった、といいたかったようですが、
電文がアホでも内容がわからなければなんとかわかるようになんとかしろよ、と。

 

そして案の定、ラフりんは濃霧の中で発見された「阿波丸」を、駆逐艦だと思い込み、
いやっほーい!とばかり攻撃して、瞬時に沈めてしまった。というわけです。

「阿波丸」は濃霧の中すぐに沈んでしまったので、相手がどんな船だったか
確認する間もなかったのですが、沈没後海綿を漂流しているところを救助した
たった一人の生存者「阿波丸」の調理師(他のものは救助を拒んで沈んでいった)
下田勘太郎の証言で、自分たちが撃沈したのが民間貨物船、しかも撃沈禁止が出ていた
「阿波丸」であることがわかったとき、ラフりんは

「そ、そんな馬鹿なッッッ・・・!」(脚色しています)

と叫んだと伝えられます。

これがもし本当だとしたら、民間船だと知っていながら攻撃したというわけではなく、
功を逸るあまり、焦って確認せずやっちまったということになります。

のちの裁判で明らかになったところによると、「クィーンフィッシュ」の攻撃は
小型艦船に対するものではなく、明らかに大型のものに対する方法であったことからも、
ラフリンが勘違いしていたことに間違いはない、ということになっています。

軍法会議で彼は有罪の宣告を受けました。

量刑についてはニミッツ長官が寛大にすることを求めたのですが、なぜか
アーネスト・キング海軍長官はニミッツが介入してきたことで
逆にペナルティを重くしました。

キングは日本嫌いで有名だったので(戦前横須賀で財布をスられたかららしい)
甘い判断を下しそうですが、実は部下のニミッツともなんかあったのかもしれません。

結果、ラフりんは戒告処分を受け、艦長職から外されました。

しかしその後、閑職を経て戦後にまた潜水艦に復帰し、第6潜水隊群司令として
ポラリスミサイル搭載潜水艦の指揮を執った実績に対して、レジオンオブメリット勲章を、
そしてワシントンD.C.海軍区の司令官として二度目の同勲章を受章しています。

 

退役後、ラフリンは妻とともに日本に旅行のために来日しています。
1979年ごろといいますから、高度成長期の真っ只中にある日本で
彼はその復興ぶりに目を見張りました。

そのとき受けた「阿波丸事件」に関するNHKの取材で、ラフリンは

もう一度やり直しができたとしても、
運命のあの4月1日と同じ状況、同じ事情ならば、
また、まったく同じように行動するであろう

と発言しています。

というか、これ不思議じゃないですか。

ラフリン、駆逐艦だと誤認していたことについて

「そんなバカな」

とか言っていたわけですし、その結果、裁判有罪で結構な目にあったわけだから

「今度同じことがあったら、攻撃する前に艦影を視認して駆逐艦であることを確かめます」

というのが筋ってもんですよね?

軍人が自分の戦闘行動に対しこのようにいうのを、わたしたちは
原爆投下を行なったパイロット始め、何人も知っているわけですが、
明らかなミスに対しても全く悔いることがない、と言い切ったのは、
もしかしたら本当は

それが実はミスではなかったからでは?

とわたしはこの発言から疑いを抱くようになっています。

それを裏付ける(かもしれない)情報として、

「阿波丸」が陸軍の要請によって軍需物資を積んでいることをアメリカ軍は知っていた

そして、潜水艦隊司令ロックウッド少将は、このためニミッツ指令に

「阿波丸」の攻撃を許可する申請をしていた

という話があるのです。

ニミッツは意図的かどうか、それに返答をしなかったということですが、

ロックウッドはこれを暗黙の了解だと判断し、実は撃沈司令を密かに出していた

というのが考えられるもう一つのストーリーです。

もしこの仮説が正しければ、歴戦の艦長であるラフリンがろくに視認もせず攻撃させた理由にも、
(ちなみに大型艦船モードで攻撃を行なったのは勘違いだったとあとで言い訳するため)
納得がいくと思いませんか。

 

疑いだせば、ラフリン、戒告処分後は身を隠すようにロックウッドの配下に入り、
世間から身を隠して戦後になると復帰も出世もそれなりに順調です。

もしこれを陰謀説につなげるならば、
ロックウッドとラフリンの間で
話ができていた、
というのも一つの可能性だと思います。

 

日本政府は、撃沈直後から「阿波丸事件」に対し戦時国際法違反として抗議し、
アメリカ政府は案外あっさりこれを受け入れ、責任を認めた上で、戦後、日本政府が
アメリカに代わって個人保証を遺族と日本郵船に対して行うことになりました。


2000人以上の人命が失われた「阿波丸事件」の慰霊碑は増上寺にありますが、
ラフリン艦長が来日の時、この慰霊碑を訪れたと言う記録は見つかりませんでした。

なお、文中ときどきラフリンが「ラフりん」となっていますが、
これは決して打ち間違いではありませんので念のため。

 

続く。

 

 

 

 

Comment

「ビッグE」 =空母「エンタープライズ」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-04-09 | 軍艦

空母のハンガーデッキを再現したスミソニアン博物館の展示には、
空母の戦争の歴史、つまり第二次世界大戦の日米海戦史について
スミソニアンの視点で紹介したコーナーがあり、それを紹介してきたわけですが、
真珠湾攻撃に始まって日本艦隊が空母を失うことになったレイテ沖海戦まできました。

こうなると、あとは真珠湾の時とは逆転してしまった日米の戦力バランスの上に、
アメリカ軍がふんだんに空母を投入し日本に飛び石作戦で根拠地を近づけてくる番です。

その「日本への道」という展示の前に、こんなコーナーがありました。

■  空母「エンタープライズ」

「第二次世界大戦でもっとも殊勲賞を獲得した艦」

として、「エンタープライズ」が特にクローズアップされています。

エンタープライズは1934年7月16日ニューポート・ニューズ造船所で起工され、
1936年、海軍長官スワンソン夫人によって命名、進水、1938年就役しました。

起工にあたっては日本側に建造する旨通告が行われています。

 
1941年6月、開戦前のエンタープライズ。飛行甲板が板張りの木甲板。

■ 真珠湾攻撃

「第二次世界大戦におけるアメリカ海軍の歴史において最も象徴的な艦といえる」

ジェームズ・V・フォレスタル海軍長官 1945年

フォレスタルというと、わたしはすぐにあの大火災を起こした空母を思い出しますが、
民主党の政治家であったフォレスタルが海軍出身であったことから、
1949年の神経衰弱による自殺後、その名前がUSS Forrestal, CVA-59につけられました。

まず説明を翻訳しておきます。

「エンタープライズ」に最初の戦闘命令が下されたのは、
1941年12月7日の真珠湾攻撃の10日前のことでした。

そしてその4年後となる1945年の10月27日の海軍記念日、
彼女はニューヨーク港で何百万人もの人々にカーテンコールをしました。

その12年間の艦暦において、「エンタープライズ」は太平洋における
たった一つを除く全ての「空母の戦争」を戦い、その結果
20にものぼるバトルスターを獲得し、彼女のパイロットたちは
12異なる敵空母部隊と戦闘を行い、そしてそのうち2隻を撃沈し、1隻を撃破しました。

そして彼女自身も敵の行動によって酷い被害を何度も受けましたが、
しかしそのたびにいつも次の戦いのために戻ってきました。

「エンタープライズ」の記録には、第二次世界大戦中の
他のいかなるアメリカ海軍の艦船にも匹敵するものではありません。

そして写真の横には歴代艦長の氏名と、航空部隊指揮官の名前が記されています。
その中には、ミッドウェイ海戦の時の指揮官

C.ウェイド・マクラスキー少佐

1943〜44年には

エドワード『ブッチ』オヘア少佐

の名前を認めることができます。

ここには「エンタープライズ」が真珠湾からの出航の際に受けた
バトル・オーダー・ナンバーワンの文書原本が展示されています。
ハルゼー中将の名前で発令されたこの命令は8項からなっており、

1、エンタープライズは現在戦争状態に入っている

2、昼夜問わず、いつでも即座に行動できるよう準備しておく必要あり

3、敵対的行動をする潜水艦に遭遇する可能性あり

4、哨戒している間、全ての士官と下士官兵は特別警戒すること
全ての配置によってその重要性は完全に認識されなければならない

5、だれか一人が割り当ての任務を迅速に遂行できなければ、
特にそれが見張り、あるいは動力を操作するものであったら、
それは人命を大量に失い、最悪の場合船を失うことにつながる

6、艦長は総員が非常時の発生の際同等の責任を負うことをを掌握する

7、我々海軍の伝統の一つは、試練の場に置かれた時、総員が冷静に戦うことである

8、安定した精神と強靭な心が今こそ必要である

とあります。
注意していただきたいのは、この発令がハルゼーからなされた日付が
1941年11月28日、真珠湾攻撃の10日前であったことです。 

真珠湾攻撃が全くの奇襲で、アメリカがこのことを夢にも知らなかった、なんてことは
やっぱり米側の事後プロパガンダに過ぎなかったんじゃないか、と思わされますね。

(今ふと、9/11の前日にコンドリーザ・ライスから
『明日の飛行機には乗るな』と忠告されて
出張の移動をとりやめた
サンフランシスコ市長の話を思い出してしまいましたが、
ただ思い出しただけですすみません)

 

さて、この只如ならぬ訓示を受けて「エンタープライズ」では即応体制が取られたのですが、
証言によると、さすがに乗組員の意識は平時とあまり変わらなかったということです。


12月2日に「エンタープライズ」はウェーク島に海兵隊の飛行隊を輸送し終わり、
12月6日夜に真珠湾に戻る予定でしたが、天候不良のため7日の昼に延び、
そのために真珠湾での攻撃を免れることになりました。

もし彼女の帰港がスケジュール通りであったとしたら、定係された埠頭は
攻撃されて損害を受けていたことでしょう。

「エンタープライズ」の定係埠頭には、なぜか標的艦「ユタ」が代わりにいて、
これを撃沈した日本軍は「エンタープライズ型航空母艦」だったと発表しました。

■ 航空部隊司令官マックス・レスリー

マックス・レスリーはミッドウェイ海戦のとき「ヨークタウン」の航空攻撃指揮官で、
「エンタープライズ」航空隊とともに日本の空母撃沈に功績のあった人です。

その後「エンタープライズ」航空隊の司令官に就任しました。

LCDR Max Leslie USN April 1942.jpgレスリー

この感状は、「エンタープライズ」の航空指揮官として、
ソロモン海戦、サンタクルーズ諸島沖海戦を戦ったことに対し
その功績を称えたものとなります。

■ エンタープライズに突入した特攻機

その艦暦において、「エンタープライズ」は何度も損傷を受けています。
もっとも劇的でかつ深刻だったのは沖縄における特攻機の突入でしょう。

 

「エンタープライズ」が特攻を受ける瞬間は映像にも残されています。

Kamikaze Attacks against USS Enterprise CV-6 11 April 1945

5月14日、「エンタープライズ」に鹿屋基地から飛び立った零戦が特攻を行いました。
隠れていた雲から突撃してきた富安俊助中尉機は集中砲火を巧みに回避し、
背面飛行に転じた態勢から、前部エレベーターの後部に突入を成功させました。

これに対し「エンタープライズ」はダメコンを行いながらも対空戦闘を継続、
旗艦として任務部隊の配置を守り続けてその練度を称賛されました。

特攻機パイロットの富安中尉の遺体は損壊したエレベーターホールの下で発見されました。
遺体はアメリカ兵と同じように丁重に水葬され、「エンタープライズ」乗員が
取得していた遺品は、つい最近身元が判明して家族のもとに戻ったということです。

 

■ プラン・オブ・ザ・デイ 1942年8月24日

「プラン・オブ・ザ・デイ」Plan of the dayというのは、軍艦の日報のことで、
これは乗員にも情報として回されます。

ここにある「エンタープライズ」発行のPODが興味深いのは
1942年8月24日が東ソロモンでの戦いの日だったことです。

このとき、「エンタープライズ」は三発の直撃爆弾を受け乗員を79名失っています。

左側には時系列で起きた出来事が記してあり、その後に

「2発の爆弾がD-203-1LMとD-3031L、そしてもう1発D-303-Lに落ち、
およそ450のバンクとどこそことどこそこが破壊された」

などと書いてあります。
日報なので、「1600 ハッチ1の早い深夜食」「1615士官早い夕食」
などという事項も淡々と記してあるのがリアルです。

日報の日付が29日となっているのは、当日は記載どころではなく、
5日後に初めてこういった事務仕事に戻れたことを表しています。

ダメージ報告は以下の通り。

1942年8月24日、「エンタープライズ」と「サラトガ 」 が日本軍戦闘艦と接触。
アメリカの空母艦載機は、敵から攻撃を受けながら同時に攻撃を行い、

空母、駆逐艦、輸送船が沈没せしめ、90機の敵機が破壊す。
小型空母と軽巡洋艦が損傷し、日本軍は退却。

被害を受けた米軍艦船が「エンタープライズ」のみ。

8月24日午後5時12分頃「エンタープライズ」が30機の日本の急降下爆撃機から
5分間の激しい攻撃を受け、その間に3回の直接爆撃と4回のニアミスを受ける。

最初の爆弾は攻撃開始から約2分後に着弾、飛行甲板の3番エレベーターを貫通し、
2番目と3番目の甲板の間の42フィート下で爆発した。
30分後、2番目の爆弾が同じエレベーターの近くのフレーム179で飛行甲板に衝突し、
8フィート下で爆発。
その1分後、3番目の爆弾が2番エレベーター近くのフライトデッキで爆発した。

5時17分、艦体から約12フィート離れた水中で爆弾が爆発し、
艦体と飛行甲板を含むいくつかの甲板が恒久的に変形した。

興味深いのは、ここに記されているのは「艦体の被害状況」だけで、
人的被害は多数が死傷したにもかかわらずどこにも言及されていないことです。

コーナーの片隅には「エンタープライズ」の活動に関するフィルムや写真が
放映されているモニターがあります。

「ビッグE」のあまりに長きにわたる活躍は、そのまま第二次大戦の海軍の歴史であり、
海戦史であると言っても過言ではない、というようなことが書いてあります。

そして「エンタープライズ」の歴史を語るには欠かせない艦載機コーナー。
グラマン TBFー1Cアベンジャー雷撃機の模型とその編隊飛行写真です。

アベンジャーは1942年6月4日のミッドウェイ海戦で初めて戦闘に参加しました。
6機のアベンジャーのうち5機が、日本の艦隊に挑み破壊されました。
この残念なデビューにもかかわらず、アベンジャーは第二次世界大戦の残りの期間、
アメリカ海軍の標準的な雷撃機として活躍しました。

いくつかの特別の目的のためのバージョンが建造され、1954年まで
幅広い役割と任務で非常に有効に機能したと言ってもいいでしょう。

アベンジャーズはゼネラルモーターズ社の東部航空機部門によって
TBMと指定されて製造されました。
生産数は7500機を超え、後年その多くはイギリスの艦載機として使用されました。

この3人はアベンジャーのパイロット、ウィリアム・I・マーティン少佐
通信手のジェリー・ウィリアムズ(左)砲手のウェスリー・ハーグローブです。

マーティンは、第二次世界大戦中、USS「ホーネット」USS「エンタープライズ」
パイロットとしてから爆撃機と戦闘機の戦隊を指揮しました。

最終的には大西洋艦隊の最高司令官および大西洋司令部の参謀長となり
提督として引退後は、グラマン社のコンサルタントを務めています。

二人の若いアベンジャー乗員は、この写真を撮ってほどなく戦死しました。

 

 

続く。

 

 

 

 

Comments (5)

”Too Close For Comfort " レイテ沖海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-04-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空博物館プレゼンツ「空母の戦争」特集、最終回です。
このコーナーによると、太平洋において空母を使った戦闘が行われたのは10、
しかし、そのうち「どちらもの陣営に空母を置いて戦われたもの」となると、

珊瑚海海戦(1942年5月8日)

ミッドウェイ海戦(1942年6月〜7日)

南太平洋海戦(1942年10月26日)

第二次ソロモン海戦(1942年8月23〜24日)

マリアナ沖海戦 (1944年6月19〜20日)

レイテ沖海戦(1944年10月20〜25日)

ということになります。
スミソニアンの「空母の戦争」コーナーでは、あくまでも
「どちらかが空母を使った」という縛りで紹介がされています。

■ レイテ湾の戦い

「日本艦隊の終焉」とサブタイトルが付けられています。
この端的なタイトルがレイテ沖海戦の全てを表しています。

前回のクェゼリンからトラック島までの飛び石作戦のあと、
日米両軍の間にマリアナ沖海戦が起こり、この結果、日本海軍は
空母三隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)、艦載機多数と搭乗員を失う敗北に終わりました。

アメリカ軍のフィリピン奪回を日本が少ない兵力で阻止せんとしたのが、
この6日間の戦闘で、その中には4回の海戦が含まれます。

その四つの海戦とは、図の位置で行われ、時系列で並べると、

1、シブヤン海海戦(24日10時27分開始)

2、サマール沖海戦(25日6時57分開始)

3、エンガノ岬沖海戦(25日8時15分開始)

4、スリガオ海峡海戦(25日22時36分開始)

となります。

豊田副武

■ 日本の計画

10月17日の午前8時20分ごろ、アメリカ陸軍のレンジャー部隊が
レイテ湾の河口にある島々に上陸を始めました。

日本軍は三つの海軍兵力のコンビネーションでこれを迎え撃つことになりました。

北艦隊(旗艦空母)〜ハルゼー提督率いる高速空母機動隊を侵攻目的地から引き離す

中央艦隊(戦艦・巡洋艦)〜サンベルナディノ海峡を出て侵攻軍を撃破

南艦隊(戦艦・巡洋艦)〜スリガオ海峡を抜け海岸線より侵攻する敵を撃つ

計画の成功に不可欠なのは聯合艦隊の重機関銃と陸上航空機の投入でした。

ここで日本の豊田副武中将の紹介があります。
ADM. SOEMII TOYODAとなっているのはご愛嬌ってことで。

「聯合艦隊1Sの最高司令官である豊田副武は、アメリカの艦隊が
崩壊しつつある大日本帝国の外側に最初に上陸し、
レイテ湾に侵攻せんとする1944年の5月に就任しました。

豊田はのちにこのように回想しています。

もし万事うまくいけば予想外に良い結果を得るかもしれないが、
最悪の場合、聯合艦隊そのものを失うという可能性はあった。
フィリピンの損失を犠牲にしてまで艦隊を救う意味はない』」

負けた指揮官が色々言われるのはこれはどうしようもないとしても、
この人、「大和特攻」を決めた時もこんなこと言ってましたですね。

「大和を有効に使う方法として計画。
成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。
しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」

成功率50%以下の作戦に投入する「大和」とその乗員の生命について
なにか思うところはなかったのか、と聞いてみたい気がしますが・・・。

 

■ レイテ上陸作戦

ウィリアム・F・ハルゼーJr. 提督 
ADM. William F. Halsey Jr.

上の海戦図をご覧いただけばわかりますが、ハルゼー艦隊は
小沢艦隊の陽動作戦にはまって担当海域を離れてしまいました。

護衛空母部隊が栗田健男中将が指揮する第一遊撃部隊との戦闘で
ハルゼー艦隊に救援を求めることになり、ニミッツがこのとき打った有名な電文は

”TURKEY TROTS TO WATER GG FROM CINCPAC ACTION COM THIRD FLEET INFO COMINCH CTF SEVENTY-SEVEN X WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS”

「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR
RR THE WORLD WONDERS」

(第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。
全世界は知らんと欲す)

最後の「全世界はそれを知らんと欲す」は、
電文の意味をわかりにくくするために
付けた意味のない一文だったのですが、
それがアメリカ人なら誰でも知っている
テニスンの詩の一節で、
しかも前文と違和感なく意味がつながってしまったため、

ハルゼーはこれを皮肉をいわれたと思い込んで激怒しました。

ハルゼーは救援を無視し、名前の通りの
「Bull's Run(猛牛の突進)」
小澤艦隊を追撃し、
4隻の日本の空母を撃沈しました。

ハルゼーが罠にはまっておびき寄せられたこと自体は彼の失態であった、
とする歴史家もいますが、アメリカ軍にとって日本の空母壊滅の目的を達し、
結果的に海戦の勝利ということになり、文字通りの「勝てば官軍」として、
ハルゼーはゴールドスター勲章を授与されています。

陸軍部隊のタクロバン上陸

1944年10月20日、
グラマン・アベンジャーが舟艇で上陸する陸軍の掩護をしています。
これらの航空機は、トーマス・C・キンケイド副提督が指揮する
 18隻の護衛空母のグループを含第7艦隊侵攻艦隊の護衛空母から発艦したものです。

■ マッカーサーの戦争

海軍がクェゼリンにはじまってマーシャル諸島をトラックまで
飛び石のように侵攻していたとき、マッカーサーは南西太平洋軍として
連合軍の協力のもと、ニューギニアを制しておりました。

マッカーサーが誇大に勝利を発表して自分の成果にしたため、
同盟国であるオーストラリア軍の働きはほぼなかったことにされるなど、
色々後世には言われているようですね。

マッカーサーの太平洋戦争

 

"People of the philippines!  I have returuned."

スミソニアンではこの写真にこの言葉を添えていました。
1944年10月20日、ダグラス・マッカーサーはレイテに上陸し、
フィリピン人に向けてこの一文で始まる麗々しい文章を記念に残しました。

フィリピンの民よ!私は戻ってきました。

全能の神の恵みによって、私たちの軍隊は再びフィリピンの土の、
つまり我々の血の上に奉献された土壌の上に立っています。

私たちは、あなたの日常生活から敵の支配の痕跡をすべて消し、
破壊できない力の基盤の上に人々の自由を回復するという任務を成し遂げました。

私の側には、偉大な愛国者マニュエル・ケソンの後継者である
セルヒオ・オスメナ大統領とその内閣のメンバーがいます。
あなた方の政府はフィリピンの土壌にしっかりと再建されました。

(中略)

バターンとコレヒドールを忘れない、不屈の精神です。
我々の戦線が前進し、戦いの場にあなた方を連れていくので、
そのときは立ち上がって攻撃してください!
あなたの息子と娘の将来の世代のために、戦うのだ!
祖国の神聖な死者の名において、戦うのだ!
心を強く保ちすべての腕を鋼で固めましょう。
神の導きが道を示しています。

義にかなった勝利の聖杯に神の名を讃えよ!

 

■ エンガノ沖海戦

「比島決戦」というタイトルの当時のニュース映画が見つかりました。
フィリピンでの海戦であり、空母が登場するからには、
これがエンガノ沖の小澤艦隊か?というタイトルは正しいものです。

搭乗員が出撃前に水杯を上げているシーンが映っています。
彼らは司令から

「母艦には帰ってくるな」

と言われていたといいます。

帰ろうにも、エンガノ沖海戦で投入され旗艦「瑞鶴」はじめ
「 瑞鳳」「 千歳」「 千代田」4隻の空母は、
ブル・ハルゼーの怒りに任せた執念の攻撃により全部撃沈されるわけですが。

「千歳」 艦長岸良大佐以下468名戦死

「瑞鶴」 艦長貝塚少将以下843名戦死

「千代田」 艦長城大佐以下全員戦死

攻撃を受ける「千代田」

「瑞鳳」だけは駆逐艦「桑」に艦長以下847名が救助されました。
このフィルムは、「瑞鳳」に乗り込んでいた竹内広一カメラマンが撮影したもので、
乗員が救出されたため、レイテ沖海戦の貴重な映像を持ち帰ることに成功したのでした。

攻撃を受ける「瑞鳳」

フィルム冒頭には竹内氏始め報道班員の名前が6名記載されています。
実は小澤艦隊の各艦には、彼らが特派員として乗り込んでいたわけですが、
あの有名な「瑞鶴」総員退艦前に行われた国旗降納の万歳シーン、↓

これを撮ったのは軍人ではなく、報道班員だったことがはっきりしました。
この人はこの後駆逐艦に移乗し、無事に帰国できたということになります。
「瑞鶴」から「初月」に移乗した人たちは、「初月」が撃沈されて死亡しています。


全員戦死したという「千代田」に乗っていた報道班員も殉職したのでしょうか。

「瑞鳳」に乗っていたカメラマンの撮影した映画を見ていただくと、
敵の航空機を撃沈したこと、着水した航空機の乗員を救助しに行くシーンなどがありますが、
その後の(肝心の)経緯については全くないので、これを見た人は
まさかこのあとカメラマンの乗った空母が沈没したなど夢にも思わないでしょう。

ましてや、冒頭の人々のうち何人かは確実に亡くなっていることも。

 

さて、ハルゼーは実のところオトリ作戦に引っかかったわけですが、
彼にとっては幸運なことに、囮作戦に成功したと判断した小沢長官の

「敵機動部隊を誘致」

という電報は何故か栗田艦隊には届かなかったため、栗田長官は
米機動部隊の在り処を判断する術なく、レイテ湾突入を目前にして
あの「運命の反転」を選択してしまうことになります。

そして日本軍は最後の空母のみならず、組織的なレイテ湾突入の機会を永久に失います。


冒頭に挙げた絵画ですが、ウォー・アーティスト、Tom W. Freeman作の

TOO CLOSE FOR COMFORT

というタイトルの水彩画です。

同名のジャズのスタンダードソングの歌詞だと、この意味は

「あなたとの距離が近すぎて怖い(ドキドキ)」

なのですが、この場合の『あなた』とは艦首に菊をつけた戦艦であり、
ドキドキというよりスレスレでヒヤヒヤ、となります。

1944年レイテ湾の戦いにおいて、米軍のドナルド・D・エンゲン中尉
空母「瑞鶴」に急降下爆撃を命中させました。
この絵に描かれたのは、エンゲン中尉が、その爆撃の後に行われた対空砲を躱すために
帝国海軍の戦艦「日向」の艦首の下方を飛んでいる瞬間です。

この成功によりエンゲンは戦後海軍で中将にまで昇進しました。
どうしてさほど有名でない?海軍中尉の攻撃の絵がここにあるのかというと、
彼は海軍を退役後、1996年にスミソニアンのディレクターになったからです。

その3年後、おそらく現職のまま、彼は操縦していたグライダーが墜落して
75歳の生涯を閉じてしまいました。

 

さて、というわけで、全ての空母(といっても艦載機は4隻全部足しても
『エンタープライズ』の艦載機の数にも満たなかったといいますが)
を失い、その前に載せるべき飛行機も失い、日本はこのあと
最悪の道を選択するしかないところまで追い込まれていきます。

 

続く。

 

 

 

Comments (4)

「1000ヤードの凝視」クェゼリンからパラオまで 〜スミソニアン航空宇宙博物館「空母の戦争」

2021-04-05 | 歴史

スミソニアン博物館の「空母戦の歴史」は、いよいよ
日本が決定的に立ち直れなくなるフィリピンでの海戦までやってきました。

まずは、レイテ沖海戦に先立ち、機動部隊が配置されました。

 

■第58機動部隊

ちょっとわかりにくいのですが、米海軍の58機動部隊とは、
高速機動部隊(Fast Carrier Task Force)が第5艦隊に配属された時の名称で、
これが第3艦隊に配属されると38機動部隊という名前になります。
58TFと38TFは同一部隊であることをご了承ください。

 

さて、1943年12月と翌1月、ギルバート諸島から出撃した部隊が
マーシャル諸島の日本軍に爆撃を行なっている間、高速機動隊は休暇を取り、
その間に新たな指揮官が再配置されることになりました。

飛行士としてパイオニアであったマーク・ミッチャー海軍少将は、
海軍の高速空母機動部隊の指揮官に任命されます。

ミッチャーは空母12隻と艦載機700機あまり、そして戦艦、護衛艦合わせて
数十隻の軍艦をTF58に配備しました。

そして次の6ヶ月間、TF58は中央太平洋においてマーシャル諸島の侵攻支援、
トラック島の日本軍の拠点を襲撃し、パラオとマリアナ諸島に施設を設置しました。

1944年までに史上最大の空母先頭となったフィリピン海戦の舞台が整ったのです。

TF58がいかにこの期間太平洋の隅々まで侵攻し尽くしたかということを
一眼でわかるように表した行動図です。
現地のマップに、わかりやすいように日本語を振っておきました。

ここに記したどの島の名前も、太平洋の戦争について知識をお持ちなら
誰でも聞いたことのある名前ばかりでしょう。

TF58の空母だけ名前を挙げておくと、

第1機動部隊 エンタープライズ ヨークタウン ベローウッド

第2機動部隊 エセックス イントレピッド キャボット

第3機動部隊 バンカーヒル モンタレー カウペンス

第4機動部隊 サラトガ プリンストン ラングレー

 

戦艦:「ドレッドノート」の新しい役割

第二次世界大戦中、太平洋の戦艦対戦艦という伝統的な海戦はほとんど行われませんでした。
その代わりに、戦艦はTF58に統合されて、その必要に応じ、
夜間の水上行動中に起こる敵の空襲に対する防御という形の支援を提供しました。

より速度の遅い戦前の戦艦の多くは、太平洋において、海兵隊と陸軍が行う
水陸両用作戦という「本質的ではあるが魅力的とはいえない任務」で使用されました。

ドレッドノート(dreadnought, dreadnaught)とは「怖れ知らずの」という意味で、
同名のイギリス海軍の戦艦の登場以来、「超弩級戦艦」の階級名となった言葉です。

大艦巨砲主義の時代は終わりを告げ、時代は航空戦に移っていき、
「戦艦」はその役割を時代に合わせて変えていった、ということをいっています。

 

第58機動部隊は陸地攻撃に戦艦の艦砲射撃を使ったりしていますし、
この説明によると、水陸両用作戦は戦艦の「本質」だそうですから、
決して役立たずと言っているわけではありませんが、要するにこの時代、
空母による航空戦を制するものが勝利を制していた、ということなのです。

それならこの時代に大枚叩いてあの弩級戦艦を作っていた日本って何だったの、
ということになりますが・・・・それについては何もいえねえ(笑)


ところでこの写真の戦艦は、

USS 「ニュージャージー」 New Jersey

で、第二次世界大戦中アメリカ海軍に存在した戦艦のうち最も大きく、
最も速かった「アイオワ」級の4隻のうちの1隻です。

最大時速61キロを誇る「ニュージャージー」は157門の砲と各種銃を備え、
対空防御にも万全を期していました。
加えて水上と陸地攻撃のための9門の16インチ主砲を装備していました。

「ニュージャージー」の「War Log」としてアルバムの1ページが貼ってありました。
まずこれが、主砲を「レッツゴー」させているところです。

おそらく艦橋から見た発砲の様子。

20ミリ機銃に配置される乗員と、40ミリの装填風景。

偵察用の水上機が発進したところです。

顎に手を当ててイメージフォト風ポーズをとるのは

マーク「ピート」ミッチャー海軍中将
Vice ADM. Marc A.’Pete' Mitsher USN

彼が第58機動部隊の指揮官に任命されたのは1944年1月のことです。
彼はアメリカ海軍航空に自らが得た四半世紀の経験を全てを注ぎ込みました。

ミッチャーは海軍の最も中心的な空母パイロットの一人であり、
パイオニアとして空母運用のドクトリンとその方法論について開発、
研究、そして整備を行い、実際にはドーリットル隊が行なった東京空襲
そしてミッドウェイ海戦では「ホーネット」を指揮したという、
いわば「空母の育ての親」の一人であったことは間違いありません。

ところで今名前をタイプしていてふと思ったのですが、この名前は
「ミッチャー」というより「ミットシャー」「ミッシャー」
の方が発音としては正しいように思えます。
ドイツ系移民なので、彼の先祖がドイツでは「ミッシャー」だったのは間違いありません。

当ブログではミッチャーについて、

「戦う愚か者」

というタイトルでその海軍人生をまとめたことがあります。
ねっからの「空母野郎」で、決して名声を望まず、戦後も空母航空の存続に尽くしました。

侵略へのプレリュード:クェゼリン

全部で150機以上の日本軍機が破壊されたとされる、第58機動部隊の
三日間にわたる攻撃ののち、1944年2月1日、米海軍の軍艦は
クェゼリン侵攻を支援するために敵の軍事施設を爆撃しようとしていました。

アメリカ軍の作戦名は「フリントロック(火打石)作戦」です。

防衛態勢が整っていなかった日本軍は短期間の戦闘で全滅し、   
委任統治領とはいえ、アメリカにとっては最初の日本領土の占領となりました。

余談ですが、このクェゼリン島には朝香宮家出身の皇族軍人、
侯爵 音羽正彦大尉が勤務しており、この戦闘で30歳で戦死しています。

Tadahiko ou.jpg

当初音羽大尉は大鳥島(マーカス)にいたのですが、「危険だから」と
わざわざ高松宮親王がクェゼリンに転勤させていました。

これは、アメリカ軍がクェゼリンを急襲することを
誰ひとり予測していなかったということでもあります。

それだけに米軍の攻撃は文字通り火打石のような不意打ちとなったのでした。

ここでもう一度最初の地図を見てください。
クェゼリンはTF58進撃の「プレリュード」であったことがよくわかりますね。

そしてこの図でいくと、次はエニウェトクということになります。

東と西の間から上陸:エニウェトク

クェゼリン侵攻を成功させ、米軍は次にエニウェトクの確保を狙いました。
その理由は、ここは日本の本土まで563Km近くにあるからです。

エニウェトクの原住民であるミクロネシア人は彼らの独特の長いカヌーで
島の西から東に向かいました。
それはすぐに東から西へ侵攻する米軍の重要なステージングポイントになるでしょう。

Eniwetok landing 04.jpg

エニウェトクに上陸する米軍兵士。
水は綺麗だし暖かそうだし、ノルマンディよりはなんだか見た目悲壮感がないですが、
当事者たちにとってそんなことは全く関係ありません。

上陸したのは海兵隊兵士6,000名弱、陸軍兵士約4500名、
これを迎え撃つ日本側の兵力は総3,560名というものでした。

飛び石のようにエニウェトクに侵攻した理由は、ここが
日本軍が日本本土からマーシャル諸島へ航空兵力を送り込む中継点であったからで、
目的は飛行場および泊地を確保してトラック島とマリアナを落とすことでした。

アメリカ軍における作戦名は「キャッチポール作戦」といいます。

「サラトガ」「プリンストン」を含む第4機動部隊の水上艦が
沖から、まず艦砲射撃を行い、海兵連隊約3,500名上陸。

戦車を先頭に進撃した米軍に対し、日本の守備隊は猛烈に抵抗を続け、
最終的な占領まで三日もかかってしまいました。

日本軍は全滅しましたが、アメリカ軍も死者行方不明者195名、
負傷者521名と、無事だった数の方が少ないという結果になりました。

この戦闘が米兵にもたらしたストレスは過酷なものでした。

写真はエニウェトクでの2日にわたる絶え間ない戦闘を経て
戦闘ストレスを発症した19歳の海兵隊員セオドア・ジェームズ・ミラー1等兵です。

彼の虚ろな眼差しは、

Thousand-yard stare(1000ヤードの凝視)

と名付けられるものです。
クリックしていただくと、それらの検索画像が見られます。

1000ヤードの凝視(2000ヤードの凝視とも)は、
周囲の恐怖から感情的に切り離された戦闘員の見せる、空白の、
焦点の合っていない虚な眼差しを説明するために使用されるフレーズです。

このフレーズは、「ライフ」誌が第二次世界大戦時代、
特派員のトム・リーによって描かれた、この

「海兵隊員はそれを2,000ヤードの凝視と呼んだ」

という作品を発表した後に一般に普及しました。
この絵は、激戦で悪名高かったペリリュー島の無名の海兵隊員を描いています。

作者のリーはこの絵についてこう語っています。

彼は31ヶ月前にアメリカを離れた
彼は最初の戦闘で負傷した
彼は熱帯病にかかっている
彼は夜に半分眠り、一日中穴からジャップを追い出して殺す
彼の部隊の3分の2は戦死または負傷した
彼は今朝攻撃に戻るだろう
人間はどれだけこのようなことに耐えることができるだろうか?

写真のミラー上等兵は、撮影から一か月後の3月24日、エニウェトクに続いて
米軍の掃討作戦が行われたマーシャル諸島のエボン環礁で戦死しました。

太平洋のジブラルタル:トラック環礁

1944年2月17日の夜明け。
トラック環礁は商船と数隻の軍艦で混雑し、その滑走路には
36機の航空機が駐機しており、それは
1941年12月7日の真珠湾を彷彿とさせるものでした。

TF58の爆撃機による二日にわたる継続的な爆撃と、
空母艦隊の艦砲射撃の後、トラック島はもはや聯合艦隊にとって
使用可能な基地ではありませんでした。

アメリカ軍はトラック攻撃のことを「真珠湾の逆再現」と呼んでいる、
ということをふと思い出しました。

 
2月16日、米軍の攻撃が始まります。
 

空母から飛び立った艦載機ドーントレスの攻撃。
 
 
炎上しているのは「香取」です。

米軍攻撃隊5隻の大型空母から発進した戦闘機72機を主力とし、
完全な奇襲に成功しました。

アメリカ海軍は

「太平洋艦隊は1941年12月7日の日本艦隊による訪問に対し、
トラック島で答礼の訪問を行い、借りを一部返した

と発表しました。

「ファイティング・レディ」

TF58がトラック襲撃から退却した時、不意に空母は日本軍の雷撃機による攻撃を受けました。
この写真は、「ジル」が対空砲火の中を飛びながら胴体に牽引した魚雷を
「ファイティング・レディ」として知られる空母「ヨークタウン」に放ち、
わずかの距離で狙いを外した瞬間です。

カロリン島攻撃

マーク・ミッチャー指揮のTF 58は、3月22日にギルバート諸島の
マジュロに基地を置き、カロリンの西端にあるパラオ諸島に向けて進路を定めました。

残念ながら「価値のある」艦船はパラオからすでに撤退していました。

残っていた商船と157機の航空機は破壊され、カロリン諸島の
ウォレアイ環礁とヤップ島は攻撃されることになります。

 

続く。

 

 

Comments (4)

ソロモン海海戦と南太平洋海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館 「空母の戦争」

2021-04-03 | 博物館・資料館・テーマパーク

前回はガダルカナルの戦いにおける航空隊に焦点を当て、一項を割きましたが、
今日はスミソニアンの展示「空母の戦争」のテーマに立ち返りたいと思います。

 

さて、8月7日に米海兵隊部隊がツラギに侵攻し、ルンガ飛行場を奪ったあと、
これを奪還せんと艦隊をすぐさま派遣した日本軍と米軍の間に激しい戦いが始まりました。
ソロモン海海戦です。

■ソロモン海海戦
 
 
第一次ソロモン海戦は夜戦となり、戦略的には圧倒的な日本海軍の勝利でしたが、
ここスミソニアンのテーマはあくまでも「空母の戦争」でありますので、
空母が運用されなかったこの夜戦については、勝敗にすら言及されておりません。

スミソニアン航空博物館いうところの「空母の戦争」が行われるのは
第二次ソロモン海戦からということになります。
 
というわけで写真は8月24日、第二次ソロモン海戦における
USS「エンタープライズ」の戦闘準備の様子です。
 
 
日本軍は、3隻の空母を含む聯合艦隊のサポートによって、ガダルカナル島に
1500人から軍勢を送り込み、兵力を強化する作戦を立てました。

それに対し、フレッチャー提督「サラトガ」「エンタープライズ」
そして「ワスプ」を率いて立ちはだかりました。
 
日本海軍の戦略は、軽空母「龍驤」を主力艦隊の前方に送り、
ヘンダーソン基地を迂回攻撃してフレッチャー提督を戦争に誘い込むことでした。

その目的は、残る重量級の戦力を全て投じてアメリカ空母を潰すこと。
 

「エンタープライズ」と「サラトガ」はガダルカナル島の東に向かって急行し、
敵機動部隊の位置についての連絡を待っていました。
一方「ワスプ」は南方で燃料の補給をしていました。
 
「エンタープライズ」偵察機は午後に敵空母を発見して攻撃を試みましたが
ほとんどこれに成功せず、「サラトガ」のアヴェンジャーとドーントレス隊は
「龍驤」に激しい攻撃を続けました。
 
日本軍の狙い通り、「龍驤」はいわば囮としての目的を果たしていたのです。

その頃、すでに日本空母打撃群の航空機は東に向かっていました。
空母「エンタープライズ」と「サラトガ」をターゲットとして。
 
 
 
 
ビッグ「E」撃たる
 
敵の爆撃に対し、十分な予防策を取っていたにもかかわらず、
「エンタープライズ」はその日の午後遅くに行われた激しい日本軍の航空攻撃で、
三発も爆弾を見舞われることになりました。
 
午後4時47分、日本軍の攻撃は終わりました。
 
「エンタープライズ」の乗組員は、攻撃と同時に消火活動と修復を行い、
そして、驚くことに1時間後、彼女は航行可能になっていました。
 
この写真は、「エンタープライズ」の飛行甲板で爆弾が炸裂する瞬間で、
撮影した乗員のロバート・E・リードはこれを最後に命を落としたという説もあります。
 
8月26日朝、B-17とヘンダーソンの爆撃隊によって日本の輸送艦と駆逐艦が沈没し、
ガダルカナル島への日本軍の上陸は阻止されました。
 
 
上からきている赤い矢印は右が「瑞鶴」「翔鶴」ら空母機動部隊、
左が「龍驤」で、沈没位置が示されています。

対して下の太いラインが「エンタープライズ」「サラトガ」含む米艦隊で、
細い矢印は「ワスプ」のコースを表しています。
 
なお、赤のガダルカナルへの攻撃マークは、日本機動部隊航空隊が地上攻撃をしたということです。
そして、アメリカ側の青い線は、そのガダルカナルから発進した航空部隊で、
「龍驤」を攻撃しました。

日本はこの海戦で空母「龍驤」を失いました。
赤い星印の場所で損傷した「エンタープライズ」は沈まず、真珠湾に戻りました。
 
 
 
ワスプ沈没
 
8月の最終日、「サラトガ」は日本の潜水艦の魚雷によって深刻な被害を受け、
修理のために真珠湾に戻りました。
 
ちょうど2週間後、ガダルカナルへの援軍の輸送を護衛していた「ワスプ」は、
潜水艦から3本の魚雷を見舞われ、炎上します。
 
弾薬、爆弾、燃料が誘爆し続け、艦長はついに総員退艦を命じました。
そして5隻の駆逐艦の魚雷によって沈没処分になりました。
 
これによって乗員193名、航空機40機が失われました。
 
この時点で、「ホーネット」は南太平洋で唯一残された運用可能な空母となりました。

 
■ 南太平洋海戦(サンタクルーズ海戦)1942年10月26日
 
 
日米両軍の機動部隊はサンタ・クルーズ諸島沖で戦い、この時日本軍は
空母「翔鶴」「瑞鳳」が大破・中破という損害を受けたものの、
米空母「ホーネット」を撃沈、空母「エンタープライズ」を中破させ、
戦術的勝利を収めています。

しかし、日本の攻撃の主目的である飛行場奪回には失敗しました。


そして第三次ソロモン海戦によって連合軍は勝利し、日本軍は
ガダルカナル島への兵力増援を断念せざるをえなくなります。
 
第三次ソロモン海戦についての説明はこれだけです。

というのも、この海戦では空母はアメリカ側に「エンタープライズ」がいたのみで、

日本軍の航空機は空母を介して戦っていないので、
こちらも当展示の説明対象ではないからです。
 
 
 

しかしせっかく第三次ソロモン海戦が出たので、「空母の戦い」とは関係ありませんが、
最後に、いつ見てもすごいと思わずにはいられない、第三次ソロモン海戦における

一式陸攻の「変態飛行」

の写真をあげておきます。

29機の一式陸攻は二手に分かれて8〜16mの超低空を航行し、攻撃を仕掛けました。
 
彼らは戦闘機の迎撃と防空巡洋艦の対空砲火により撃退されましたが、
1機の一式陸攻が「サンフランシスコ」に体当たりし、火災を発生させています。
 
この頃には辛うじて日本には
操縦技術の高い搭乗員が残っていた
という一つの証拠といえるでしょう。


そして一連の激戦でその多くが失われたその後、日本軍は
航空戦での絶対的優位を二度と獲得できなくなっていきます。
 
 
続く。
 

 

 

 

Comments (2)

ガダルカナルの戦い 帝国海軍vs.カクタス航空隊〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-04-01 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

スミソニアンン博物館の空母展示の中の「空母の戦争」シリーズから
真珠湾攻撃、そしてミッドウェイ海戦についてご紹介しました。

今日は本題から少し寄り道することをご了承ください。

ここで、わたしはこのテーマについて紹介するこんな説明があったことに
初めて気がつきましたので、今更という感じですが、あげておきます。

「太平洋における空母の戦争」

米国海軍が最初に航空機を導入してから30年後、そして
最初の空母「ラングレー」がアメリカに登場してからわずか19年後
海軍航空隊は戦争という最大の試練に直面することになります。

多くの点で、アメリカ海軍は海上で戦争を戦う準備ができていませんでした。
海軍は歴史上初めて、

対抗する海面の敵を互いに目撃することのない、
空中を舞台とした戦争

の形を経験することになります。

アメリカ海軍航空隊が成熟したのは第二次世界大戦という舞台でした。

その過程で装備、ドクトリン、運用戦術が改善されていくにつれ、
空母は太平洋における支配的な位置を占め、かつ戦略・戦術の中心として浮上しました。

 

この展示では第二次世界大戦でアメリカ合衆国と大日本帝国が戦った
全部で6の空母対空母の戦いと、米軍と連合軍が行った
重要な役割と任務に焦点を当てています。

ドゥイット・クリントン・ラムゼイ海軍中将
 Dewitt Clinton Ramsey

ラムゼイ提督は45番目に登録された海軍搭乗員であり、
長い卓越したキャリアを積んだパイオニア、優秀な司令官、
そして素晴らしい「アドミニストレーター」でした。

第二次世界大戦の間、彼はソロモン海戦における
USS「サラトガ」での勇敢な指揮を讃えられて海軍十字章を受けました。

ラムゼイ提督は1949年太平洋艦隊司令官に昇進しています。

なぜここでラムゼイ提督が紹介されているかというと、このスミソニアンの
空母展示はドゥイットC・ラムゼイ基金の寄付によって創設されたからです。
創設者はラムゼイ提督の未亡人でした。

アドミニストレーターというのはこの辺を意味するのかと思いましたが、
正確な意味はわからないままです。

■ ガダルカナル島の戦い

さて、というところでそういう「6つの空母の戦い」のうち、次のテーマは
「ガダルカナル島の戦い」です。

しかし実は、このガダルカナル島の戦いは、本コーナーのテーマであるところの
「空母の戦争」を含むソロモン海海戦に言及するためのマクラのような位置づけなので、
スミソニアンではさすがに「ガダルカナル」=飢島、と言われるような
兵站の決定的な失敗によって日本軍が陥った
その後の敗北に至る悲惨な状態までは触れられていません。

あくまでも「空母」が関わってくる部分にのみフォーカスしていますので、
ガダルカナル島の戦いそのものを網羅しているわけではないことを
最初にお断りした上で、始めていきたいと思います。


それではまず、スミソニアンのガ島の戦いについての「概要」から。

1942年8月から1943年2月までの6か月間、アメリカとその同盟国は、
ガダルカナル島を所有するために、日本軍に対して激しい空海陸作戦を戦いました。

連合国による太平洋戦争の最初の大規模な攻撃行動は、日本が依然として
太平洋で重要な海軍の優位性を維持していたため、不利な状況からのスタートとなります。

1942年8月7日、フランク・ジャック・フレッチャー副提督の下、
航空機支援をともなう機動部隊51(TF 61)の支援を受けた軍艦が
ツラギ島とガダルカナル島に日本軍への水陸両用攻撃を行いました。

海兵隊の上陸によってツラギは混乱の日を迎え、ガダルカナル島の主な目的である
未完成の飛行場がすぐに占領されることになりました。

残念ながら、これらの米軍の初期の成功は、敵の爆撃、血まみれのジャングルの戦い、
空中戦、ガダルカナル島で行われる悲惨な戦いへの前奏曲でした。

急襲作戦のための準備

AAVandegrift.jpg

1942年、海兵隊准将、アレクサンダー・ヴァンデクリフト率いる
第一海兵師団がガダルカナルに上陸しました。

これは大戦において日本に対する初めての大規模な地上からの反撃でした。

そしてこれを取り返すために、日本海軍は艦隊を派遣し、
第一次および第二次ソロモン海戦が行われることになったのです。

 

ここまでがスミソニアンによる状況説明です。
ここでは、直接空母とは関係ないものの、一応航空博物館として
スルーできない、ガナルカナル島を守備した著名な航空隊、カクタス航空隊
(英語ではカクタス・エアフォースというのが正式な名称)の言及がありました。

 

というわけで、当ブログでは、スミソニアンでは触れていない部分ですが、
8月7日以降、遠いラバウルからガナルカナルまで飛んで、
彼らと死闘を繰り広げた日本の海軍航空隊についても整理しておこうと思います。

■ カクタス航空隊vs.帝国海軍航空隊

カクタス航空部隊(Cactus Air Force)とは、1942年8月から1942年12月までの4ヶ月間、
ガダルカナル島に割り当てられた連合軍の航空部隊で、
「カクタス」=サボテンは、連合国のガダルカナル島を表すコードネーム です。

 
1942年7月ごろ日本軍によって建設中だったガダルカナル島のルンガ岬の飛行場は
8月7日上陸した海兵隊によって占拠され、ミッドウェイ海戦で戦死したパイロットの名前をとって
「ヘンダーソン飛行場」と名づけられました。

8月7日の航空写真
 
ただし、このヘンダーソン飛行場のある場所はひどい湿地で水捌けが悪く、
とても飛行場に向いたコンディションでなかったため、パイロットは
着陸に大変苦労したそうです。

飛行機にソリをつけて着陸するのがいいとまで言われたとか。
 

ガダルカナル島の生活

当然ながら住居としても最悪の気候条件で、海兵隊は泥だらけのテントに住み、
日米両軍共にマラリア、赤痢、デング熱などの熱帯病に苦しめられた上、

飛行場は正午頃ほぼ毎日、一式陸攻が爆弾を落としにきて、昼間は砲兵、
夜間は軍艦の艦砲射撃という日本軍の攻撃に見舞われました。

カクタス航空隊御一行

カクタス航空隊が対峙したのは日本海軍の航空パイロットです。



ジョー・フォス少佐、カクタス航空隊8機のF4Fの隊長で、
アメリカでは「エース・オブ・エース」とされています。
 
 
彼のグループは案の定「フォスのフライングサーカス」と呼ばれていました。

ところで昔、カクタス航空隊について、日本の戦記小説の登場人物が、

「サーカス出身のパイロットが向こうにはいるらしい」
 
と言うのを読んだことがあるのを、今ふと思い出しました。

カールもフォスもショーパイロットの経験は全くありませんので、
おそらくこれは、「フライングサーカス」という言葉を
勘違いしたものではないかと思われます。
 
日本にも「源田サーカス」とかあったのに、どうして間違えるかな。
 
多分カクタス航空隊の人

そして彼らと戦った、帝国海軍の台南航空隊のメンバーです。
 

この写真には日本のナンバーワンエースと認定されている西沢広義(後列左)
そして坂井三郎(中段左から2番目)、他2名のエースが写っています。
 
台南航空隊は、最高得点の日本の戦闘機エースを何人か含む零戦隊でした。
(アメリカ側の記述による)

8月21日から9月11日までの間に、日本軍はガダルカナル島を合計10回襲撃しています。
この間日本軍の31機の航空機が撃墜され、7機が損害を受けました。
対してCAF海兵隊戦闘機飛行隊の損失は航空機27機、搭乗員9名となります。

上の写真には笹井醇一少佐が写っていないことから、この写真は、
ツラギに米軍が上陸後、同航空隊がガダルカナルまで飛んで
カクタス航空隊と空戦を行う中、笹井少佐がカール少佐に撃墜されたとされる
8月26日以降に撮られたものであることがわかります。

なお、冒頭の写真はVF-17のアンディ・ジャガー少尉が、ラバウルからの帰投後、
日本機を撃墜したことを地上員に報告しているところだそうです。

ワイルドですね。

VF-17は、F4Uのコルセアを運用した最初の部隊で、
「ジョリーロジャース」のマークで有名です。
海軍は当時コルセアを空母サービスに適さないとみなしていたので、
空母ではなくソロモン諸島の陸上飛行隊として活動しました。

2回の任務ツアーで、VF-17は152回の勝利を収め、11名のエースを生み出しました。
その後、ヘルキャットに乗り換えてからは空母「ホーネット」乗組になっています。



 

 

続く。

 

 

 

Comments (4)

”And Then There Were None” ミッドウェイ海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-31 | 歴史

冒頭の絵画は、R.G. スミスの作品で、

「赤城への攻撃ーミッドウェイ」

というタイトルです。
スミソニアンの横の説明によるとタイトルはなぜか「ダグラスSBD−3」

スミスはリンドバーグの大西洋横断成功をきっかけに航空ファンとなり、
ダグラスエアクラフトのエンジニアとして海軍戦闘機の開発に携わった人です。

彼が関わった航空機はSBDドーントレス、ADスカイレイダー、A-3Dスカイウォリアー、
F-4Dスカイレイ、そして彼の個人的なお気に入りであるA-4Dスカイホークなど。

絵画は独学でしたが、エンジニアとして飛行機の構造と機能を知悉していた
彼は、キャンバスの中の航空機に命を吹き込みました。

絵画の正確さを確保するために、彼は目的のシーンやイベントを研究し、
あらゆる角度から被写体を観察するのはもちろん、細部にもこだわり、
航空機からペイントのかけらを収集し、場合によっては、

戦闘中や海上で実際に航空機を観察することまでしています。

戦争が始まった時、彼は海軍に入隊しようとしたのですが、
戦争遂行のためにはダグラスでの仕事の方が重要だからと当局から断られています。
そこで彼は、新しい航空機の設計のためと言い張って?
戦闘参加中の空母に乗り込むことを志望し、ようやく許可されたということです。

彼は後年まで戦争に参加できなかったことを後悔していました。

しかし、ほぼ30年後、スミスは50歳半ばになって、スケッチアーティストとして
ベトナムをツアーする機会が訪れたのですが、このとき彼には海軍から特別に

「大尉」の地位を与えられて各種「作戦に参加」することになりました。

なんと彼はアーティストとしての「勇敢な行動」によって、1973年に米国海軍の
「名誉海軍飛行士」(第10号)に指名され、
それに加えて任官までさせてもらったということのようです。

よかったね。というか、アメリカ海軍って粋なことをするなあ。

彼は海軍への貢献に対する栄誉賞を他にもいくつか授けられているほか、
名誉ブルーエンジェル」(ブルーエンジェルスの特別メンバー)
の称号も持っているということです。


2000年、スミソニアン国立航空宇宙博物館で、

「オールド・マスター・オブ・ザ・スカイ」

というタイトルによる、スミスの25枚の航空絵画とデッサンの特別展が6か月間開催されました。
この「赤城」はそのうちの一枚で、特別展の後、当館が買い取ったものと思われます。

ミッドウェイ海戦を描いたその他のスミス作品には、

「有名な4分間」「ターニングポイント」

などという、ゾクゾクするようなタイトルが付けられています。
スミス氏のその他の作品に興味がある方はここをどうぞ。

航空芸術の格納庫

 

■ VICTORY AT SEA ヴィクトリー・アット・シー

さて、スミソニアンが語るところのミッドウェイ海戦の経緯です。

最初にミッドウェイ爆撃隊が日本の空母部隊を攻撃したのはちょうど午前7時過ぎでした。
南雲忠一提督

「ミッドウェイに対し再攻撃の必要ありと認む」

という電文を艦隊司令部から受け取っていました。

そのとき彼の指揮する4隻の空母の飛行甲板は魚雷を装備し、
米空母艦隊を攻撃する態勢になっていましたが、南雲は
「しぶしぶ」(Reluctantly)ミッドウェイ島攻撃のために
それらを爆雷に換装するように命令を出したばかりでした。

ちょうどそのとき、ミッドウェイ島の攻撃部隊が日本艦隊に接近し、
給油作業と換装作業の最中である甲板に二度目の攻撃を始めたのです。

300キロメートル以上の東方へ「エンタープライズ」「ホーネット」
から飛来したアメリカ軍の戦闘機と爆撃機は、西に進行方向を変え、
敵を見つけるための3時間に及ぶ「不確実な」航行を始めていました。

”エンタープライズが攻撃準備を始める”

6月4日の朝、雷撃隊のTBD デバステーターが飛行甲板で準備を始めています。
これらの米国空母から派遣された3隻の魚雷攻撃部隊は、
日本の空母部隊への攻撃中に敵のゼロ戦闘機によって全て撃墜されました。

雷撃隊全部でいうと、41機の米国艦隊の雷撃機のうち、6機が帰還しましたが、
結論として、敵に効果的な魚雷の攻撃を与えることはできませんでした。

しかしながら、ミッドウェイを拠点とする爆撃機による、
より早い破壊的打撃に続く敵雷撃機との低高度戦闘は、
日本の戦闘機パイロットの注目を完全にここに引き付けることができたのです。

Dive-bombers attacking a Japanese ship, 1942.

”美しい銀色の滝”

「ヨークタウン」の戦闘機隊長、ジョン・サッチ司令官は、
日本の空母を攻撃する雷撃機隊を護衛していました。

のちに語られたサッチの証言は次のようなものです。

「何機かの零戦が雷撃機に正面攻撃をかけてきた。
そして何機かのゼロが我々の戦闘機の前に降りてきた。
まるで蜂の巣のなかにいるようだった。
あまりに敵の数が多いので、我々が全員生還することはないだろうと完全に確信した。

そのとき、わたしは美しい銀色の滝のように見える太陽の輝きを見た。
それはその場に現れた急降下爆撃機であった。

彼らはゼロと同じ方向から来たので、その動きは我々からはよく見えた。
私はそのときほど素晴らしい急降下爆撃を見たことがない。

攻撃が終わった後も、私はそこにとどまっていた。
海面には三隻の空母が残っていて、そのうち一隻は
ときおり青い炎の混じる明るいピンクの炎によって燃えていた。

炎の高さは艦体の長さと距離はほぼ同じで、
炎はそれに向かって噴き上がり、上空にはたくさんの煙があった

その場を離れる前に、三隻の空母がかなり激しく燃えているのを見た」



サッチはこの後「ヨークタウン」への日本の急降下爆撃機による攻撃も目撃しました。

「今や雷撃機が飛来していた。
私は敵にサイドから進入し、それを撃った。
左翼全体が燃え、炎を通して翼の中の構造物がはっきり見えた。

しかし、この悪魔は獲物に十分に近づいて魚雷を落とすまで
空中にで耐え続け、その魚雷は『ヨークタウン』を襲った。

この献身的な雷撃機パイロットは、飛行機が炎上して墜落寸前にもかかわらず、
一歩も引くことなく自分の任務を果たしたのである。

そして、雷撃を行った直後、艦のすぐ近くの海中に墜落した。

日本人パイロットたちは戦術に長け、なおかつ不退転の決意を持っていた。
実際、こと『覚悟』に関する限り、日本とアメリカの艦載パイロットに
全く違いはなかったし、彼ら自身にもおそらく異論はないと思う」

”運命の6分間”

マクラスキー隊が、発進後、戦闘機隊と合流できないまま索敵を行っていたところ、
空母部隊と合流しようとしている駆逐艦(『嵐』という噂もあるが当事者は否定している)
を発見し、その進行方向延長線沿いに日本艦隊を発見、という経過は
マクラスキー隊長の紹介の時にお話ししました。

ここでいう「運命の6分間」とは、10時22分「エンタープライズ」艦爆隊と
「ヨークタウン」艦爆隊の同時攻撃が始まった瞬間から、リチャード・ベスト大尉
3機が旗艦「赤城」に爆弾を命中させるまでの時間です。

そしてたった6分が、戦争のそして歴史の流れを変えたのでした。

ちなみに、もしこの攻撃が仮に5分遅かったら、日本側は換装を終え、
零戦隊が発進してこのような流れにはならなかったかもしれないという仮定もあります。

”The Hiryu Strikes Back(飛龍の反撃)”

この運命の6分間に、「飛龍」は他の3隻の空母から離れていたため、
アメリカ軍急降下爆撃機群の攻撃を受けることはありませんでした。

山口多聞少将

「全機今より発進、敵空母を撃滅せんとす」

の命令のもと、1054、「飛龍」からは小林道雄大尉指揮の艦爆隊、零戦隊が発進。

このときミッドウェイ島の攻撃から帰還した友永丈市大尉の艦攻も
「飛龍」に帰還していましたが、友永大尉は機銃弾によって破損したタンクを
修理することなく、さらに片道燃料で出撃したといわれます。

もっとも本人は、敵艦までの距離が近いので帰れる、といっていたとされます。

 

そして、「飛龍」第一波攻撃隊(22機)は「ヨークタウン」を発見し、
九九艦爆8機による急降下攻撃で5機が爆弾投下に成功、爆弾3発が命中、
1発がボイラー室に火災を発生させ、「ヨークタウン」は動力を失い航行不能となりました。

そして14:30、友永大尉らの攻撃隊が「ヨークタウン」を発見、
両舷から挟み撃ちの形で投下した爆弾のうち2本が左舷に命中します。

”And Then There Were None(そして誰もいなくなった)”

南雲提督に残された最後の空母「飛龍」に、6月5日、
「エンタープライズ」「ヨークタウン」の艦爆隊が四発の爆弾を命中させ、
これを炎上させました。

山口少将は駆逐艦「巻雲」の魚雷による「飛龍」の処理を命じ、
自らは加来止男艦長とともに艦に止まって、艦と運命を共にしました。


最終的に米軍が勝利を収めた、という認識にもかかわらず、
「ヨークタウン」を失ったことを受けて、スプルーアンス少将

事実上フレッチャー少将に指揮権を委譲しました。

その理由として、彼が圧倒的な日本の戦闘部隊による夜間攻撃を恐れていたからといわれます。
そして自分の艦隊を敵艦隊から離れさせるため、深夜過ぎ、西に航路を変えました。

6月5日早朝、山本五十六大将はそれ以上の交戦が無意味と判断し、
艦隊にミッドウェイから帰還する命令を下しました。

 翌日、「エンタープライズ」と「ホーネット」の爆撃機が
約1,000人の乗員を乗せた「三隈」を撃沈し、
 日没までに、残りの日本艦隊は海域を脱しました。

 スプルーアンスの艦隊もすでに燃料は不足しており、パイロットたちは
何より3日間の連続戦闘の後、消耗し尽くしていました。

6月6日、TF16は真珠湾に戻りました。

戦いは終わりました。
そして潮目が変わったのです。

”THE OUTCOME(結果)”

ミッドウェイ海戦の結果は、日本にとって壊滅的な大惨事となりました。
数百人の経験豊富な搭乗員を擁する太平洋艦隊の空母を失い、
その莫大な犠牲に対して、1隻の空母と駆逐艦、重巡、そしてミッドウェイ基地の
41機の航空機という僅少な戦果しか得ることがなかったのです。

逆に、アメリカ側が敵艦に与えたダメージについていうと、
ミッドウェイ飛行隊の戦果は
ごくわずかでしたが、
彼らの繰り返しの攻撃によって敵に引き起こした
混乱と判断の遅れは、
空母雷撃機のそれと組み合わさって、
間違いなく
空母急降下爆撃機隊の成功に貢献したということができるでしょう。

 

”追記”

ミッドウェー海戦の「北フェーズ」は、日本にとって比較的成功を治めたといえます。
ベーリング海にある2つの不毛の島、キスカ島とアッツ島について言及しておくと、
1943年半ばまで北アメリカ大陸の最西端にありながら敵地となっていましたが、
アメリカ側は血なまぐさい戦いの後でアッツ島を奪還し、そののち、
日本軍の迅速な撤退後、キスカ島を占領しました。

 

さて、ミッドウェイシリーズはこれで終わりですが、
「空母の戦争シリーズ」は続きます。

ターニングポイント通過の後、日本本土にコマを進めたアメリカ海軍が
その攻撃を発進させたのも、また空母だったのです。


続く。

 

Comments (4)

「ヨークタウン」と日米の男たち ミッドウェイ海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-29 | 歴史

スミソニアン博物館の空母を模してほぼ実物大に、
実際の空母から採取した素材でハンガーデッキの一部を作り上げた展示では、
人類史上はじめて、空母同士のガチンコ対決となった日米の海戦について
写真を上げながら紹介する親切なコーナーがあります。

前回はアメリカ側の「ア・フュー・ヒーローズ」(大勢のヒーローの中の一部)
を紹介しましたが、このコーナーを包括するテーマとなっていたのは、

■ The Gallant worriers(勇敢な男たち)

という言葉です。

太平洋の戦争での敵味方、両側には、有能な指導者、優秀な戦略家、
そして勇敢な戦闘員たちがいました。

この戦争において様々な空母での戦いに対し捧げられた各展示では、
主要な海軍の司令官たちについて言及されています。
ここに展示されているのは、太平洋における戦争を計画し、そして
それを戦った両側の男たちの厳選された写真です。

そして、英雄たちの写真とともに、誰のものとは記されていない
航空搭乗員のヘルメットが飾られています。

そしてまず、当時の日米両軍の搭乗員の衣装を着たマネキンが並んでいます。

まずこの右側は海軍搭乗員の典型的なスタイルで、S-2タイプといわれるものです。
カーキのコットン製スーツは夏用で、これにライフベストをつけています。

左は海兵隊エースだったジョセフ・フォスが寄贈した搭乗員用衣装一式です。

ジョー・フォスらVMF-121のパイロットと航空機は、
8月中旬からガダルカナル島上空の制空権を争っていたVMF-223を救援するため、
「ウォッチタワー作戦」の一環としてガダルカナルに派遣されました。

護衛空母「コパヒー」からカタパルトで発進し、ガダルカナルに到着した後は、
ヘンダーソン飛行場を拠点としたコードネーム「カクタス」と呼ばれる航空隊、
つまりあの有名なカクタス航空隊の一員となりました。

その後は零戦と対決して落としたり落とされたり(被撃墜2回)して
それでもなんとか生き延びた彼は、ワイルドキャット8機の小隊長として、

「フォスのフライング・サーカス」

を率いることになります。
部隊が撃墜した日本軍機は72機で、そのうち26機は彼の手によるものでした。

第一次世界大戦のエース、エディ・リッケンバッカーの26機撃墜の記録に並んだことで、
フォスは第二次世界大戦におけるアメリカ初の

「エース・オブ・エース」

の名誉を手に入れましたが、その後は実戦配備されるも、
戦時中の記録を塗り替えることなく引退しました。

 

そして、日本海軍航空搭乗員の冬用フライングスーツが展示してあります。
(実はアメリカ軍のもありましたが、写真を撮り忘れました)

説明によると、搭乗員服の素材は絹、綿、ウールの混紡で、裏地は綿のキルトです。
しかし、

「日本軍は海軍、陸軍の搭乗員服は見た目が同じです」

とあるのは何かの間違いではないかと・・・。
海軍の場合ダブルボタンで搭乗員はそれを開けてスカーフを見せていましたし、
陸軍はスタンドカラー風で、ぱっと見で違うとわかるんですがね。

また、こんなことにも言及しています。

陸軍の冬のスーツは裏地にキルトより毛皮がよく使われ、そして
服の内部には電気式ヒーターが内蔵されていました」

まじか。

なんとさすがはメイドインジャパン、ハイテク仕様だったんですか。

今では発熱コード内蔵のダウンという商品が一般にも出回っていますが、
この当時、電源はどこから引いていたのでしょうか。
というかこれなんかとっても構造的に危険な気がするんですが・・・。

また、海軍搭乗員用には二つバージョンがあったことも書かれています。

「JN-1は、JN-2シリーズの特徴である大きなウサギの毛皮の襟がなく、
頭の動きが容易だったため、搭乗員たちに人気がありました」

く、詳しい。詳しすぎる。
ちうか、搭乗員にどちらが人気があったなんてことをなんでアメリカ人が知っているのか。

JN-1とかJN-2はジャパンネイビーのことで、おそらく
スミソニアンが便宜上展示物につけた分類番号だと思われますが、
アメリカ軍の搭乗員服につけられている「S」は何の略かわかりません。

 

■ 日本海軍の「A Few Heroes」

スミソニアンの素晴らしいところは、「戦いの両側に勇敢な男たちがいた」
として、ちゃんと日本の搭乗員とその「戦果」を紹介していることです。

友永丈市海軍大尉 飛龍航空隊

「両側の英雄たち」ということで、日本側の「英雄」の紹介もあります。

この辺りがついうっかり「ジャップ」とか展示物の解説に書いてしまう
地方の軍事博物館とは違い、
国が運営しているスミソニアンだけのことはあります。

ここは現地の説明をそのまま翻訳しておきます。

友永大尉は真珠湾攻撃にも参加した、敢闘精神溢れ冷静な雷撃機パイロットでした。
彼はその日の早い段階でミッドウェイ島における空母打撃の航空を主導しました。
彼はミッドウェイ島への第二攻撃の必要ありと要求していますが、このことは
爆弾を換装するという南雲提督の運命的な決定に影響を与えました。

午後、友永大尉は「飛龍」の残った最後の10機の雷撃機を率いて、
アメリカ軍の空母を攻撃するための「片道任務」を遂行しました。

戦闘によるダメージのため、彼の航空機には敵艦隊海域まで到達して
攻撃するのに足りる燃料しか搭載していなかったのです。

友永大尉と彼のクルー4名は「ヨークタウン」への魚雷攻撃に次ぐ
体当たり攻撃で命を落としましたが、二発の魚雷命中を記録しています。

小林道夫大尉 「飛龍」艦爆隊

6月4日の深夜までに3隻の空母が壊滅したため、「飛龍」は迅速に
反撃を余儀なくされました。
真珠湾攻撃にも参加したベテランで、経験豊富な戦闘機パイロットである
小林大尉は、18機の急降下爆撃機の小隊を米軍空母に対し率いました。

小林大尉は爆撃隊を率いて「ヨークタウン」への攻撃を行いました。

彼と彼の部下は、爆弾を投下する前に航空機を異常ともいえるほど
低い高度に勇敢に滑らせ、優れた結果をもたらすことに成功しています。

18機の爆撃機のうち7機が急降下爆撃を行い、そのうち3機が
クリーンヒットを記録しました。

しかし、小林大尉とその同胞12人は、誰一人として
「飛龍」に戻ることはありませんでした。

mw17072701

ちなみに小林大尉はこちらの写真の方がかっこいいので貼っておきます。

1976年版「ミッドウェイ」の小林大尉。
搭乗員服姿の小林大尉に似た雰囲気の人が配役されているように見えます。


■ ヨークタウン撃沈す

前回ご紹介できなかったアメリカ軍側の「ミッドウェイ戦士録」から、
今日はこの人を取り上げます。

Elliott Buckmaster.jpg

エリオット・バックマスター大佐 
Cap. Elliott Buckmaster

ミッドウェイ海戦で唯一撃沈された米空母、「ヨークタウン」の艦長です。

「ヨークタウン」は空母「飛龍」から出撃した友永大尉の攻撃によって
航行不能に陥ったところ、伊168からの雷撃によってついに沈没したわけですが、
この「ヨークタウン」、実は内部に開戦前からこの艦長をめぐって
内部にかなりの不協和音があったことが明らかになっています。

 

開戦前にバックマスター大佐は「ヨークタウン」艦長を命ぜられました。

彼はアナポリス卒業後、長年にわたり艦艇勤務をしてきた艦乗りで、
ペンサコーラで
航空免許を取ったのはなんと47歳になってからでした。

当時、アメリカ海軍では、空母指揮官になるため、形だけ航空技術を学んできた
経験の浅い士官搭乗員を
「キーウィ」と呼んで見下す傾向があったのですが、
バックマスターはまさにこのキーウィのお手本のような艦長だったわけです。

「ヨークタウン」では副長のジョセフ”ジョッコー”クラーク始め、
多くの古参パイロットたちがこの人事に不満で猛反発しました。

当然ながら指揮系統には軋轢が生じ、内部も当然分裂は避けられず、
パイロットたちは艦長を無視して副長の命令しか聞かず互いを嫌悪し合う・・
不幸なことに「ヨークタウン」はそういう状態で開戦を迎えたのです。

さらに、開戦後、「ヨークタウン」に指揮官として座乗してきた
フレッチャー少将が
航空畑ではなかったということで、クラークらは完全にキレました。

「2人の”キーウィ”に艦を指揮されるのは耐えがたい!」

ということで、公然と反旗を翻し、副長のクラークは上層部やマスコミ、
あらゆる方面に二人の悪口を繰り広げて引き摺り落としにかかっていたというのです。

Rear Admiral Joseph J Clark.jpg「ジョッコー」クラーク

ちなみにクラークはチェロキーインディアン部族出身で、
初めてアナポリスを出たという「闘志あふれる」軍人でしたが、
この激しさは、初代「ヨークタウン」沈没によってバックマスターが退き、
彼自身が二代目の「ヨークタウン」艦長に就任してからも相変わらずでした。

今度は空母任務部隊司令官のパウナル少将に噛みつき、同じように
あたり構わず不満を訴えるという挙に及んでいます。

ちなみにパウナルを任命したのはスプルーアンスだったので、
クラークの「告げ口」先は、ニミッツなどの海軍上層部はもちろん、
フランクリン・ルーズベルトにまで及び、結局パウナルは更迭され、
「ピート」マーク・ミッチャーが空母艦隊司令官に就任しました。

最終的にミッチャーが功績をあげたので、クラークの「告げ口作戦」は
今日結果的に是だったとされています。

勝てば官軍ってやつですか。(棒)

クラークがこのように何かと激しい人だったというのは、その顔にも現れている気がします。
(ちなみにわたしはこの人については以前も紹介したことがあったのを
この時まで忘れていたのですが、あだ名の『ジョッコー』でソッコー思い出しました)

 

もちろん、ミッドウェイで「ヨークタウン」が沈没したのは
指揮系統の不和とは直接関係なく、ただ単純に不運であり、
友永大尉らの攻撃が巧みだったからに過ぎない、ということもできます。

少なくとも、もし艦長と副長がうまくいっていたら沈まずに済んだかも、
などというたらればの可能性は捨てるべきでしょう。


しかし、いずれにしても、この後も海軍の戦闘で一線に立ち続けたクラークとは違い、
バックマスターがこれ以降戦線の表舞台に立つことがなかったのは事実です。



さて、「ヨークタウン」は小林道雄大尉率いる18機の艦爆の攻撃を受けました。

艦上からは5インチ砲から27mm機銃、20mm機銃、12.7mm機銃、7.62mm機銃、
挙げ句の果てにはスプリングフィールド小銃まで使って反撃を試みましたが、
爆弾三発が命中し炎上、全ての動力を喪失、航行不能に陥りました。

写真は明らかに傾きがわかる「ヨークタウン」艦上の乗員たちです。

さらに応急処理の直後、友永丈市大尉率いる艦攻10機、さらには
次席指揮官橋本敏男大尉率いる第二中隊の魚雷2本を受け、再び航行不能になり、
バックマスター艦長はついにここで総員退艦を命じました。

最後まであきらめず救出の策を講じたものの、結局状態は悪化する一方で、
そのうち伊168に発見されて魚雷を受けることになります。

 
「ヨークタウン」は対潜戦を行いながらも艦を救おうとしましたが、
1942年6月7日、ついに沈没しました。

 

ちなみにこのとき「ヨークタウン」を発見後8時間待機、哨戒ののちに攻撃した
伊168は、その後の戦闘によって撃沈されていますが、攻撃時の艦長
田辺弥八少佐(海兵56期)は他の潜水艦に転勤となっていたため、終戦まで生き延びました。

Tanabe Yahachi.jpg

伊168はミッドウェイ島への砲撃を行ったのち「ヨークタウン」を発見、
これに水中速力3ノットで接近し、探信音が頻繁に感知される厳重な警戒を突破して
右舷を目標に距離1200メートルから魚雷を4本発射したところ、
これが空母に3発(アメリカ側では2発)、駆逐艦「ハムマン」に1発、同時に命中し、
両艦はこれによって沈没することになります。

魚雷の命中した瞬間の「ハムマン」、アメリカ海軍の公式再現ジオラマより。

その後の潜水艦に対する駆逐艦の攻撃は熾烈なものでしたが、
伊168は爆雷を避けるために米空母「ヨークタウン」の真下に潜み
5時間にわたるアメリカ軍駆逐艦の爆雷攻撃から離脱し生還したのでした。

 

戦後になって、艦長の田辺少佐はGHQから「ヨークタウン」への攻撃について
執拗な聞き取り調査(というかもはや尋問的な)を受けることになります。
アメリカ海軍はこのときの敗北をとても重視していたということになります。

そしてその結果、

「その慎重かつ大胆な攻撃方法に、調査を担当した米軍関係者も驚いたとされている」Wiki

1998年5月19日には、海底の「ヨークタウン」艦体が発見されています。
艦体には魚雷を受けたためにできた破口がはっきりと確認できるそうです。

続く。

 

Comments (5)

A FEW HEROES ミッドウェイ の英雄たち〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-27 | 歴史

スミソニアン航空宇宙博物館の「空母展示」から、
空母を使って行われた日米間の戦争についてご紹介しています。

というわけで、いよいよミッドウェイ海戦の登場人物についてです。

■ ミッドウェイ海戦の英雄たち

「A Few Goodmen」という映画がありましたね。
直訳すると「一握りの善人」ですが、この意味は「他にも(善人は)いる」
ということでいいかと思います。
このコーナーのタイトルは、

「A Few Heroes」

となっているのですが、これが同じ意味であることは次の文章でわかります。

「戦いの間には陣営の両側に記録に残された英雄たちがいます。
ミッドウェイ海戦においては、フライトデッキに、機関室に、
操舵室に、
そしてコクピットに、祖国のために勇敢に戦い、
そして斃れていった日米の男たちがいました。

ここに紹介するのはそれらの英雄たちのごく一部(a few)です」

A Few Good Men

と題された写真です。(そのものですね)

ミッドウェイ島の海兵隊の守備隊は、
彼らの持てるもの全てをもって反撃しました。

日本軍の爆撃を受けて地上にあった航空機は全て飛行が不可能になり、
さらには各種迎撃用武器も多くがダメージを受けていたのです。

しかしこのような集中的な攻撃を受けたにもかかわらず、
死者11名、負傷者18名と被害は比較的軽微でした。

マリオン・ユージン・カール Marion E. Carl USMC

最初にその一部の英雄として紹介されているのがマリオン・カール海兵隊大尉です。
(最終階級少将)

わたしはこの名前を帝国海軍のエースの一人である台南航空隊の
笹井醇一少佐
ラバウルで撃墜したパイロットとして記憶していたわけですが、
この時になって初めて、カール大尉が海兵隊パイロットであること、
そして、彼がミッドウェイ海戦に参加していたことを知りました。

カール大尉は海兵隊戦闘部隊221(VMF 221)所属で、
ミッドウェイ海戦では海兵隊迎撃部隊に属していました。

この時海兵隊は、時代遅れのブリュースター・バッファローワイルドキャット
完璧に凌駕する、恐ろしい敵「ゼロ・ファイター」に直面することになります。

そして多くの戦闘機パイロットたちの英雄的な健闘にもかかわらず、
VMF221の25機のバッファロー戦闘機のうち、23機が撃墜あるいは撃破されました。

このときカール大尉はミッドウェイの激戦を生き残ったのみならず、
旧式の「不利な機体で」零戦1機を撃墜したとされています。

彼はミッドウェイで、この後、笹井少佐を撃墜することになった
ガダルカナルの戦いを経て
海兵隊航空隊最初の戦闘機エースとなりました。



ミッドウェイで生き残った海兵隊パイロットの記念写真。
輸送機から降りてきたところか、あるいは搭乗の前でしょうか。
マリオン・カール大尉は一番左端です。

ところで今久しぶりにカール少将の英語Wikiを見てみたら、
前には見た記憶のない笹井少佐の写真が同ページに掲載されており、

Junichi Sasai wearing flight gear.
This 1942 photo shows Sasai shortly before his death over Guadalcanal on August 26.
(この1942年の写真は笹井がガダルカナルで8月26日に戦死する直前のものである)

とキャプションがありました。

当ブログ調べによると、この写真のトリミングされた部分には
笹井中尉の兵学校時代のクラスメートが彼と肩を組んでいるのが写っており、
そのクラスメートは同クラスの戦闘機専攻の学生であることもわかりました。

つまり写真の撮られたのはラバウルでもましてや死の直前でもなく、
霞ヶ浦の訓練時代に撮られたものということになるので、
彼が微笑んでいても当然の状況ということが言えると思いますが、

誰が言い出したのやら、この写真が「死の直前」ということになってしまい、
いつの間にかワールドワイドに間違った情報が上書きされているのです。

まったく困ったものですね。

ランス・エドワード・マッセイ少佐 
Ens. Lance E.Massey

海軍兵学校卒のパイロットであったマッセイは、ミッドウェイ海戦において
VT-3(魚雷部隊)の小隊を率いて「飛龍」に低空からの攻撃を試みるも、
「飛龍」からの反撃に落とされ、戦死しました。

このときVT-3のTBDはジョン・サッチ少佐率いる6機のF4Fワイルドキャットに
掩護されていたにもかかわらず、12機のうち10機が失われることになりました。

彼の名前は駆逐USSマッセイ(DD-778に残され、
遺児は兵学校を出て海軍軍人となり、司令官まで昇進して引退しています。

この写真に写っている機体の旭日旗ですが、クェゼリンで沈没させた軍艦を意味しているそうです。

John C Waldron.jpg

ジョン・ウォルドロン少佐 
Lt. Com. John Charles Waldron 

「ホーネット」の第8雷撃機部隊の隊長であったウォルドロン少佐は、
ミッドウェイ海戦で最初に隊を率いて出撃しましたが、
戦闘機の掩護なしの旧式機であるデバステーターは、当時最新型の
零戦の餌食となって、出撃した15機は全て撃墜されました。

出撃の前の日、ウォルドロン少佐は隊員にこう訓示しています。

「もし君たちの誰かが最後の一機になったら、そのときは
相手に体当たりしてでも攻撃してもらいたい。

神の御加護が我々に有らんことを。
グッドラック、そしてハッピーランディングで彼らを地獄に落とせ」

Improbable: Ensign George Gay at Midway

「失われた飛行中隊」

そして、デバステーター隊の15機は全て撃墜され、ここに写っている
15名のパイロットのうち生き残ったのは赤丸のジョージ・ゲイ少尉だけでした。

ちなみに映画「ミッドウェイ」についてここでお話ししたとき、南雲中将が
この全滅の報を受け、

「15名の勇敢な若者が・・・・」

と涙を浮かべるシーンについて、今にして思えばまことに早計ながら、

「デバステーターは二人乗りなので15名はおかしい」

と突っ込んだのですが、南雲中将のいう15名はパイロットのことでした。
つまりここに写っている15名ということになります。

しかしながら、各機には一人ずつ通信兼後部射手が乗っていたので、
正確な戦死者は
29名ということになります。

同乗者の存在が無視されがちなのは相変わらずで、彼らの写真は残っておらず、
この時パイロットと一緒に死んだのにもかかわらず、歴史から抜け落ちた存在となっています。

ジョージ・ゲイ少尉 Ens. George H. Gay jr.

そして彼がウォルドロン少佐の第8雷撃部隊で唯一生き残ったゲイ少尉です。

ゲイ機は「蒼龍」に魚雷攻撃を試みましたが、回避され、同乗の通信&後部射手、
ハンティントンが銃撃によって死亡した後、
撃墜され着水しました。

映画「ミッドウェイ」でも描かれていましたが、ゲイ少尉は海に逃れ、
機銃掃射されないようにずっとシートクッションを頭にかぶって、
海の上から三隻の日本の空母が沈没する様子を丸一日見ていました。

暗くなってから救命筏を膨らませ、撃墜されてから約30時間後、
カタリナ水上艇に救出されて生還することができました。

そんな状態でも微笑んでいるのはさすが名前の通り陽気な青年みたいですね。

ちなみに彼は1994年、77歳で亡くなり、その遺灰は、本人の遺言により
彼の部隊が攻撃のため発進したのと同じ海域に撒かれたそうです。

クラレンス・ウェイド・マクラスキー少将 
C. Wade MacClusky

「エンタープライズの艦爆部隊を、日本の駆逐艦の航跡に沿って進ませ、
敵の主力空母艦隊を捜索したという彼の判断は重要でした」

といきなり書いてあります。
これだけ読んでも、ミッドウェイ海戦について詳しくない人には
何のことやらさっぱり、
という説明ですが、これは、わかりやすく書くと、

発進!

→「発艦する数が多すぎる!じゃ上空で待ち合わせして各自出発な」

→艦攻隊、戦闘機隊と全く反対の方向に行ってしまう><

→「隊長!1機どこかにいってしまいました!」(T_T)

→「燃料がありません!」「1機着水します!」

→「もうだめだ・・・帰還するしかない・・
  おや、駆逐艦が一隻航行している・・

  あの駆逐艦はどこにいくんだ?
  もしかしたら進行方向に敵の艦隊がいるんじゃないか?」

「ビンゴ!」←いまここ

ということになります。
そしてマクラスキーが後年いうところの、

「発見した青いカーペットを切り裂いたような白いカーブ」

は、逸れた雷撃隊がまさに「赤城」を攻撃しているところでした。

いわゆる青絨毯の切れ込み

この後、マクラスキー隊はそのまま攻撃を開始し、
彼の部下であるリチャード・ベスト大尉の部隊とともに
「赤城」「加賀」を沈没に至らしめたというわけです。

負傷して帰還してからは艦上から指揮を執り、それによって
「飛龍」も撃沈したため、直接指揮により2隻、指揮により1隻、
合計3隻を沈没させるという海戦史初の戦果を挙げた指揮官になりました。

ちなみに前にも書いたことですが、このときアメリカ側が発見したのは
駆逐艦「嵐」だった、
と言っているのにもかかわらず、戦後「嵐」の乗員は全員が、

「そのようなことはなかった」「空母の近くを離れたことはない」

とまで証言しているというというんですねー。

それではマクラスキーが発見した「駆逐艦」とは何だったのでしょうか(怖)

ジョン・サッチ少佐 Lt.Com. John S. Thach

第3戦闘機部隊(VF-3)指揮官

サッチ少佐は「ヨークタウン」爆撃隊を目標まで6機のワイルドキャットで掩護しました。
その体勢は、上空のドーントレス艦爆部隊、低空の雷撃部隊の間4キロの空間に
サンドウィッチ状態で掩護戦闘機隊が飛ぶというものです。

そしてサッチ隊は20機の零戦部隊に攻撃されました。

「まるで蜂の巣に突っ込んだようだった」

と後年かれはこのときのことをこのように述懐しています。
この交戦により生き残ったサッチ隊長とわずかのグループは
その後も雷撃隊をエスコートし続けました。

最終的に彼の部隊で「ヨークタウン」に戻ってくることができたのは
彼を入れて3機の戦闘機、そしてたった1機の雷撃機だけでした。

 

 


続く。

 

Comments (3)

「ミッドウェイ燃ゆ」〜空母展示・スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-25 | 歴史

スミソニアン博物館の中に空母の一部を作り、そこでは
歴史的に空母を使った戦争の歴史について説明されています。

真珠湾攻撃、世界初の空母決戦となった珊瑚海海戦とくれば、
次はやはりミッドウェイ海戦がくるわけです。

まず、ミッドウェイ海戦における両艦隊の行動図から。
赤が日本でブルーが米海軍艦隊です。

まずミッドウェイ海戦における両艦隊の行動図を地図で説明です。
赤が日本、青が米海軍艦隊です。

海戦海域を赤で囲んでくれています。
千島列島線から出ている赤い矢印には

「アリューシャンフォース」

とあります。

「ミッドウェイ海戦 太平洋戦線におけるターニングポイント」

とタイトルされた地図は、このような解説から始まります。

珊瑚海の戦いでの米国の戦略的勝利にもかかわらず、日本軍は引き続き
防御境界のさらなる拡大と米国太平洋艦隊との決定的な関与を試みました。

山本五十六大将は、日本は1942年に米艦隊を全滅させることができなければ
それは敗北を意味するということを確信していました。

山本大将とその参謀は、日本の海軍令部の反対を覆し、ミッドウェー島、そして
アリューシャン列島西部を占領することで真珠湾の基地から米艦隊をおびき出し、
破壊するという計画を立てたのでした。

そうすれば、1942年の冬の前にオアフ島への攻撃の道が開かれると考えたのです。

いろんな解釈があろうかと思いますが、この解説だと、まるで
山本と一部の参謀が軍令部の反対を押し切って作戦強行したかのようです。

信じがたい勝利

通常の基準でいうと、アメリカ軍の勝利は絶望的でした。
彼らは戦艦を持っていませんでしたが、敵は11隻保有。
重巡洋艦はこちらが8隻に対し敵は23隻。
軽巡洋艦は3隻でしたがそのうちの1つは動かないのに、
敵は8隻を持っていました。

海岸防衛の前線には時代遅れの銃がしばしばみられ、
しかも彼らは肝心の戦争についてほとんど知りませんでした。

海軍の空母パイロットは誰一人として戦闘の経験はなく、
もちろん陸軍も海兵隊もそれは同じ事情です。

21人のパイロットのうち17人は飛行学校を卒業したばかりでした。
彼らは疲弊し、そして斃されていきました。
機器の問題もあり、彼らは壊滅的な損失を被りました。

つまり彼らは勝つための要素をまったく持っていなかったのです。

それでも彼らは戦いました。
戦うことでで彼らは戦争の行く末を変えました。

なによりそれ以上に、彼らはきらりと光る何人かの男たちの名前を
ミッドウェイという新しいリストに書き込んだのです。

斃れて行った男たちの中から雄々しく立ち上がった男たちは、
いくつかの敗北から信じられないほどの勝利へと導いて行ったのでした。

ポエムです(笑)

アメリカのこういう「敵は強かったがしかし我々は」という論法を、
わたしは永らく「スイカに塩理論」と呼んで、苦労して得た勝利ほど尊い、
ということを強調するためのレトリックのようなものだと決め付けていたのですが、
ことミッドウェイ海戦に関する限り、これは必ずしもそうではないらしいことがわかってきました。

アメリカにとってミッドウェイ海戦というのは、状況的に
勝てる要素のない絶望的な状態を、あらゆる偶然とそれを引き寄せるガッツで
ひっくり返した輝かしい勝利、という位置づけであるということなのです。

ここで両軍司令官の紹介があります。

山本五十六大将

IJN最高司令官、連合艦隊司令官

山本提督は、ミッドウェー海戦を北軍による米軍への空母攻撃で開始する予定でした。
アリューシャン列島でのインスタレーション、続いて
米国のミッドウェイからの注意をそらすためのアダック、キスカ、アッツ上陸。

南雲提督の空母打撃部隊による途中での空襲は6月5日に始まり、
6月7日に侵攻部隊による水陸両用攻撃が続き、米艦隊は
これと戦うために出動しました。

南雲忠一中将 

IJN 空母打撃部隊司令官

南雲忠一中将は、ミッドウェイ海戦で主要な役割を果たしました。
ミッドウェイ島の防衛力と航空戦力を破壊し、太平洋艦隊を排除しようとしました。

チェスター・ミニッツ大将

USN司令官 太平洋艦隊司令官

ニミッツ大将は「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」
この三隻の空母しか使えず、さらに戦艦もなく、ほんの一握りの巡洋艦と
護衛駆逐艦だけの戦力でミッドウェイ海戦を戦うことになりました。

しかし、米海軍の暗号解読者は日本軍の暗号を解読することに成功し、
山本提督の計画と意図を知ることができたので、この情報から
ニミッツはミッドウェイと彼の海軍が日本からの攻撃に備えるための作戦を講じました。

フランク・ジャック・フレッチャー中将

USN司令官、空母打撃軍司令官

珊瑚海海戦の指揮を執ったあと、米海軍の戦術指揮案に任命され、
ミッドウェイ海戦ではTF17(旗艦ヨークタウン)に加え空母部隊を率いました。

「ヨークタウン」とその護衛部隊は5月30日に真珠湾を出発し、
6月2日にミッドウェイの北東約523kmでTF16と合流しました。

レイモンド・A・スプルーアンス中将

USN司令官、第16任務部隊(TF 16)

ハルゼー提督が病気になったため、代わって第16任務部隊司令官に就任しました。
スプルーアンスは飛行出身ではありませんでしたが、 戦闘が進むにつれ、
ハルゼーの戦術を継承した優秀で細心かつ高度な知識を持つ戦略家としての評価を固めました。

フレッチャー提督が戦術指揮を執っていたにもかかわらず、スプルーアンスは
最終的にTF16とは別行動でアメリカの勝利につながる重要な決定の1つを行いました。

この写真の軍服の襟でもわかるように、スプルーアンスは後に提督の階級に達しました。

ミッドウェイ島は前部のイースタンアイランドと後部のサンドアイランドで構成されています。
陸地は環礁全体のうち7.7平方キロメートルにすぎません。

そして地理的な位置はハワイからわずか1828メートルの中央太平洋に位置していたことが、
ミッドウェイの名前を歴史に止めることになるのです。

■ ミッドウエイ島 戦いに参加

1942年の終わりまでに、ミッドウェイ島はいわば「浮沈艦」となりました。

陸軍航空隊のB-17と、双発エンジンのB-26中型爆撃機、
同時に海兵隊の各種戦闘機、そして爆撃機が発進する「母艦」となったのです。
また、PBYカタリナ飛行艇と6機のTBMアベンジャー爆撃機もおり、
トータルで121機の航空機が日本軍の攻撃を待ち受けていました。

 

中でも「インペスベンサブル(欠くことのできない)カタリナ」と呼ばれた
カタリナ飛行艇は、日本艦隊を見つけるためにミッドウェイから扇状に展開して哨戒を行いました。

6月3日午前9時、ジャック・リード少尉(左写真後列右から二人目)率いる哨戒隊は、
ミッドウェイ西方1126キロの海域でミッドウェイに向かってくる敵艦隊を発見しました。

リード少尉の報告を受けて、陸軍のB-17 が爆撃任務のため出撃しましたが、戦果なし。
その夜遅く、4機のPBYが魚雷爆撃を試み、一発のヒットをスコアしています。

さらに6月4日の5時53分、ミッドウェイ島基地のレーダーが150キロの距離に
敵の爆撃機を発見しました。

■ ミッドウェイ島 反撃

7時10分。

ミッドウェイの航空部隊が初めてPBYが発見した敵空母部隊に反撃を行いました。
連続した、しかし組織されない攻撃が数時間にわたって展開され、その過程で
6機のTBMアベンジャー雷撃機が投入されました。

魚雷を換装したBー26爆撃機4機、16機の海兵隊SBD爆撃機、15機の陸軍B-17重爆撃機
そしてついに11機の海兵隊SB2Uヴィンティケイター急降下爆撃機が出撃しました。

Vindicator

アメリカ側の喪失は「驚異的」で、敵にダメージを与えることもできませんでした。
しかしながら、継続的な攻撃は敵の指揮官を混乱させたのも事実です。
このことはアメリカ側の勝利のための条件の潜在的要素となりました。

■ ミッドウェイ燃ゆ

午前6時30分、日本軍の爆撃機がミッドウェイを攻撃しました。
このとき爆撃は海兵隊の司令部、資材庫、飛行艇格納庫に命中し、被害を受けます。

この写真は、戦いの最中にもかかわらず、星条旗を掲揚している海兵隊員たち。
炎上する燃料タンクが向こうに見えています。


続く。

 

 

Comments (3)

世界初の空母決戦、珊瑚海海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-23 | 海軍

さて、スミソニアン博物館の空母展示、空母の開発の歴史に続いて
空母の歴史を語ろうとすればそれは当然真珠湾攻撃から始まるわけです。

日本軍のこの歴史的な奇襲攻撃が「空母元年」の幕を開いたといえます。

■ 1941年の憂鬱な日々

次のコーナーは、連合国にとっての臥薪嘗胆な時期、つまりそれは
日本の立場から見ると日本が快進撃していた時期についてです。

「The Groomy Days Of 1941」

と題された最初の文章を見てみましょう。

太平洋艦隊の3隻の空母は真珠湾における戦艦と同じ運命となることから逃れたものの、
日本軍は少なくとも米国艦隊を封じ込めるという目的に一部成功しました。
彼らは今や、米海軍による深刻な脅威を恐れることなく、
東南アジアの征服を進めることができるようになったのです。

グアム、ウェイク、香港はすぐに陥落し、1941年が終わる前に
フィリピンとマレーシアが侵略されました。


12月10日、英国のみならず世界を震撼とさせたのは、
戦艦H.M.S. 「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦H.M.S.「レパルス」が
シンガポールから航空援護なしでマラヤ東部に向けて航行中、
サイゴンからの日本の航空機の攻撃によっていとも簡単に撃破されたことです。

1942年の春までに、ニューギニアの一部を除いて、
日本はオーストラリアの北にある南西太平洋地域全体を征服し、
戦争を続けるために必要な石油と原材料をタンカーと商船で持ち帰ることができました。

「インド洋の惨事」

と題された写真です。

セイロン島(スリランカ)を拠点とするイギリス艦隊の脅威に対抗するため、
そしてインドからの連合軍の援軍が、ブルーマとベンガル湾での
日本の前進を妨害するのを阻止するために、
空母攻撃部隊は1942年3月出航しました。

それは連合国海軍にもたらされる一連の災厄の始まりでした。

「日本の勝利」

他国の空母艦載機によって沈められた世界最初の空母の最後の姿です。
「勝利の神ハーメス」は、インド洋セイロン島でのイギリス軍施設への
日本の襲撃によって失われました。

運命の1942年4月9日 、英国の巡洋艦、駆逐艦、商船、航空機の損失はあまりに大きく、
英海軍東洋艦隊の残党はアフリカの東海岸に撤退することを余儀なくされ、
これにより残りのインド艦隊は完全に日本軍に掌握されました。

 

■ デスティネーション・トーキョー

Doolittle Raid

おなじみ?ドーリットル空襲の歴史的な位置付けは、
それまで優位だった日本に脅威を感じていた連合国が、
この出来事ですっかりやる気?を取り戻したことかもしれません。

現地の解説にもこのようにあります。

1942年4月18日、日本の首都が爆撃されたというニュースで、
連合国全体の士気が大幅に向上しました。
空母「ホーネット」から飛び立った16機の陸軍B-25爆撃機が、
日本のさまざまな標的に直接の攻撃を与えたのです。

ここでスミソニアンのテーマ的には、空母で始まり、空母で押されていた戦局を、
空母から飛び立った爆撃隊をきっかけに押し戻すことになった、という
「空母尽くし」で美しくまとまっていることにご注意ください。

 

The Doolittle Raid l Photos | Defense Media Network

空母の甲板から大きな爆撃機を発進させるというのは
あまりにも画期的で、飛ぶB-25の搭乗員はもちろんのこと、彼らを甲板から
飛ばせる「ホーネット」の海軍軍人たちも冷や汗ものだったことでしょう。

そもそも、空母というものは
「飛行機を積んで現場に行き、帰ってきた飛行機を甲板に着艦させて持って帰る」
ためのものです。

爆撃機B-25ミッチェルの場合、何とか飛び立つことはできても、
着艦することは物理的にも構造的にも100%無理なのですから、
真珠湾でアメリカ人の度肝を抜いたはずの日本側が、
この意表をつく作戦にそれ以上に驚いたのはいうまでもありません。

何度も当ブログでいうように、ドーリットル隊の日本攻撃の
実質的被害ははっきりいって「Do little」なものでしたが、実は
この作戦はどんな被害を与えたかということよりも、
それまでの歴史上何人たりとも考えつかなかった作戦を練り上げ、
形にしたということに意味があったといえましょう。

WORLD WAR II: The Doolittle Raid proved America and the Allies could win |  Features | albanyherald.com

スミソニアンの解説にもこうあります。

B-25の襲撃は完全な驚きであり、全機がほとんど、
または全く失敗することなく目標を達成しました。

よく言われるように、勝敗の転換点はミッドウェイ海戦でしたが、
ドーリットル爆撃が転換させたものは英語でいうところの「モラル」、
つまり国民全体の士気が大であったということになります。

ドーリットル隊のうちの15機の爆撃機が燃料を使い果たし、
8人の乗組員が作戦後中国で墜落しました。

彼らは1943年に中国大陸からイランに逃亡しています。


■ ザ・ファースト・オブ・メニー

この写真を貼るのは少なくとも二度目という記憶があります。
シカゴのオヘア空港の一隅にあるオヘアミュージアムを紹介したときです。

空港の名前となったエドワード「ブッチ」オヘア少佐
大きな目で日米戦を見た場合の「個人の勝敗の転換点」のシンボルとして
「サッチ・ウィーブ」を編み出したサッチ少佐と共に名前を挙げられています。

博物館の解説を見てみましょう。

 

戦争の初期にはアメリカ側は勝利と英雄に縁のない状態でしたが、
1942年初頭の災厄と敗北のなかから、戦闘において際立った戦果を出した
2人の戦闘機パイロットが出現しました。

「ブッチ」オヘア少佐(左)とJ・S「ジミー」サッチ少佐(右)は、
南西太平洋での最初の日米海軍の戦いが行われた時、これに参加していた
空母「レキシントン」戦闘機戦隊3(VF-3)の戦隊の仲間でした。

戦隊の司令官であるサッチは、優れた性能の日本のゼロ戦を戦うため、
戦闘戦術を編み出し、機動の開発を支援した貢献者です。

ブッチ・オヘア少佐は海軍の最初のエースになり、
卓越した空中戦で名誉勲章を授与されました。

1942年2月20日、彼はグラマンF4Fワイルドキャットで
「レキシントン」を攻撃してきた
5機の日本の爆撃機を4分で撃墜しています。

オヘアは1943年の夜戦中に撃墜され戦死していますが、
米海軍機によるフレンドリーファイアー(同志討ち)と言われています。

そうだったのか・・・知らんかった(´・ω・`)←ワスレテタダケカモ

「長生きしたければチームで戦え」

海軍のF4Fワイルドキャット戦闘機が、一騎打ちでは
日本のゼロ戦に勝てないことが明らかになったとき、

ジミー・サッチの哲学は発展しました。

いわゆる「サッチウィーブ」がその答えでした。

これはチームの攻撃的な戦闘機の狙いを捨てるように設計された独創的な着用戦術です。

図を見ていただけば、零戦と一騎討ちを避け、一機が逃げると見せかけて
進路を誘導し、そこに「ウィーブ」(編み込む)ように割り込んできた別機が、
零戦の進入路をカウンターして迎え撃つメソッドが描かれています。

「サッチウィーブ」は米海軍の標準的な手順となり、他の連合国空軍に採用されました。

■ ウェーク島攻撃

1942年初頭、米軍の空母部隊は、マーシャル諸島の日本軍の施設と、
1941年12月23日に米海兵隊駐屯地から日本軍に奪われたウェーク島に対して
報復攻撃を行いました。

写真は「エンタープライズ」所属のダグラスTBDデバステーター魚雷爆撃機で、
1942年2月24日、ウェイク環礁上空を飛行しています。

これらの先駆的な攻撃作戦は敵にほとんど損害を与えませんでしたが、
米国の空母パイロットたちにに貴重な経験値を提供しました。

 

■ 珊瑚海海戦

 

1942年1月、日本軍はニューブリテン島でラバウルを占領し、
そこで主要基地を構築していました。

日本の次の目的はポートモレスビーでした。
しかし珊瑚海のオーストラリアの基地は日本の空爆に対して脆弱ではありませんでした。

日本軍が計画したMO作戦(ポートモレスビー攻略作戦、モ号作戦とも)では、
日本軍はソロモン諸島のツラギ島とニューギニア南東端のルイジアデス島に
水上飛行場を設置することを目的としていました。

しかし、4月中旬までに、真珠湾の米国太平洋艦隊のコードブレーカーは、
日本軍が南太平洋での攻撃の準備をしていること、
そしてポートモレスビーが目的であることを知っていたのです。

画像が不明瞭でもうしわけありません。
現地の説明によると、これは日本製の爆撃照準器で

IJIN BOMB AIMING APPARATUS MODEL2

というものだそうです。
初めて見聞きするのですがIJINで調べてもわかりませんでした。

説明によると、

「日本海軍では2種類の爆撃照準器が使用されていました。

1つはオプションの照準器で、もう1つはモデル2のような機械式の照準器でした。

このタイプの照準器は、通常の急降下爆撃ではなく水平爆撃に使用されました。

使われたのはほとんどが空母ベースの戦闘機と爆撃機です。

正しい爆弾の照準点は、ターゲット、そして風向、速度などの要素によって補正するために
さまざまなレバーとノブを調整することによって決定されました。
この照準器1932年に東京ケイキセイサクショによって製造されました」

トウキョウケイキセイサクショはおそらく現在の東京計器だとおもわれます。

同社の沿革には照準器を作っていたとの記述はありませんが、

古くは「三笠」「大和」「武蔵」の羅針儀も作っている会社で、
現在もレーダ警戒装置や慣性航法装置を防衛省に納入している会社です。

それにしてもIJINの漢字がなんだったのか気になるなあ・・・。

偉人?

■ 珊瑚海海戦

珊瑚海海戦の概要図です。

まず赤が日本軍、青が米艦隊で、右上の赤線は「翔鶴」「瑞鶴」。
左上からの赤線は「祥鳳」で、レキシントン艦載機に撃沈されたことがわかります。

沈む「祥鳳」

「祥鳳」は第二次世界大戦で最初に沈没した日本の船になりました。
魚雷二発を受けて数分の間に轟沈したということです。


そしてみ右下から進行している青線が「レキシントン」「ヨークタウン」です。

その「レキシントン」は駆逐艦「オネショー」(そんなのあるのか)「シムズ」とともに、
「瑞鶴」の高橋赫一率いる急降下爆撃隊に沈められました。

「ヨークタウン」の爆撃機に攻撃を受ける「翔鶴」ですが、
このときに「翔鶴」が受けたのは一発だけでした。

フランク・ジャック・フレッチャー中将は航空畑ではなく、
南太平洋に進出してくる日本軍を迎え撃つために集められた
連合国海軍の司令官(TF17)でした。

フレッチャーは二隻の空母、二隻のオーストラリア海軍の巡洋艦を含む
補助艦隊としての巡洋艦、駆逐艦、油槽艦の指揮を執りました。

アダム・オーブリー・W・フィッチ中将は「レキシントン」勤務などの経歴もある
海軍の最も経験豊かな搭乗員で、機動部隊の航空指揮官として組織を行った人物です。
高木中将率いる真珠湾攻撃にも出撃した「翔鶴」「瑞鶴」含む機動部隊に対し、
これを「レキシントン」「ヨークタウン」で迎え撃った珊瑚海海戦は、
歴史始まって最初の空母艦隊同士の決戦となりました。

高木武雄中将は帝国海軍の空母機動部隊を指揮し、
ポートモレスビー、ツラギなどへ進攻を阻む同盟国の軍艦を撃破し、
オーストラリアの海軍基地の空襲による撃破を試みました。

2隻の大型巡洋艦に加えて、軽空母「祥鳳」が
五藤存知中将の護衛艦隊に配属され、侵攻グループを保護していました。

五藤存知(ごとうありとも)などという軍人名をアメリカで見ることになろうとは・・。

「戦闘の生存者」

ダメージを受けたドーントレスがかろうじて「ヨークタウン」に着艦しました。
日本の空母が攻撃されている間、「レキシントン」のレーダーは、
こちらに向かってくる日本の爆撃機を察知していました。

その後「 ヨークタウン」は、日本の雷撃機によって発射された8つの魚雷を
身をよじるようにしてかわしましたが、
363 kg爆弾がフライトデッキを直撃し、4階下のデッキまで突き抜けてから爆発し、
乗員のうち66人が重度の火傷によって亡くなるという惨事になりました。
しかし「ヨークタウン」は生き残ることができました。

「淑女の死」Death of A Lady

フレデリック・シャーマン大尉による必死の機動にもかかわらず、
レキシントンは魚雷と爆弾に見舞われながらなんとか航行を続けましたが、
1時間以内に火災が発生し、午後12時47分に突然、
貯蔵タンクからのガソリン蒸気が発火し、壊滅的な内部爆発が船を揺さぶりました。

さらに爆発が続き、火事が制御不可能になったため、
午後5時7分、シャーマン大尉は総員退艦を命じました。

乗員が舫を伝って海に脱出している様子がわかります。
近くには駆逐艦が控えていて怪我人を収容しました。
このとき艦内に取り残された乗員は一人もいなかったそうです。

駆逐艦に移乗したシャーマン艦長は魚雷による沈没を命じ、
彼女は216名の乗員の亡骸と共に海に姿を消していきました。

 

続く。

(前回の予告は何かの間違いで、ミッドウェイはこの次でした。<(_ _)>)

Comments (4)

真珠湾攻撃と日本軍機のいろいろ〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-21 | 航空機

スミソニアン博物館の空母展示では、世界初めての
空母機動部隊による奇襲となった真珠湾攻撃に始まり、
日米の第二次世界大戦の空母艦隊戦について
けっこうなボリュームを持って紹介されていました。

今日は真珠湾攻撃の続きです。

真珠湾攻撃の日本軍オペレーションが大地図で紹介されていました。

皆さんもご存知の経緯ですが、赤い動線について説明しておくと、

●1 単冠湾から出発(地図上部)

●2、3 3400マイルで12/3に到達

●4 12月8日

先遣部隊 潜水艦27

打撃部隊 空母6 駆逐艦9

補助部隊 戦艦2 巡洋艦3 潜水艦3

●5にて航空機回収

●6「蒼龍」「飛龍」「利根」「筑摩」駆逐艦群はウェーク島攻撃の補助のためここで別れる

●7 12月21日〜28日 ウェーク島攻撃

●8 帰還

左下の赤い台形で囲んだ部分が本作戦の行動範囲ということです。

ところで黄色でハイライトを入れた部分ですが、
日本の潜水艦って5隻の特殊潜航艇とそれを運んだ母潜水艦しかいなかったんじゃあ・・・。
27隻って本当にそうだったのかしら(調べてません)

 

ハワイ・オペレーション

日本軍が1941年12月7日を奇襲決行日に選んだ理由は、
アメリカ艦隊が週末でそのほとんどが入港していたからだといわれます。

空母機動部隊から発進した航空機はオアフ島の軍事施設を攻撃し、
潜水艦の部隊は我が軍艦を破壊するために島の周りに配備されました。

いやだからそんなに潜水艦いたんですかって聞いてるんですけど。
この書き方だと本当に潜水艦が27隻来ていたみたいですが(調べてません)

オアフへの攻撃中、2隻の駆逐艦がミッドウェイの構造物を砲撃しました。

ミッドウェイ島を日本の駆逐艦が攻撃したってことでOk?

国際法に従い、宣戦布告はワシントン時間午後1時(ハワイ時間8:00a.m)、
ハワイ攻撃の30分前に米国政府に提出されることになっていました。

しかし、暗号解読とタイピングに時間がかかり、手交できたのは
ワシントン時間の午後2時20分となってしまい、1時間25分の遅れとなりました。

開戦通知の遅れの原因は、そもそもこの非常時に人がいなかったこと、
そして(アメリカ人にはとても理解できないことかもしれませんが)
もっとも時間がかかったのは、英語への翻訳で揉めていたためだったと言われていますね。

 

わたしなど多少プロトコルに則っていなくても意味さえ通じればいいから、
ちゃっちゃとメモみたいなのでも渡しておけばよかったのにと思うんですけど。

日本人の英語が下手な原因は、間違えるのを恥ずかしがるあまり、
文法を組み立ててからしゃべるせいだという話もあるくらいですが、
このときの大使館にもその傾向を見る気がするのはわたしだけでしょうか。

それはともかく、開戦通知遅れについては当時ハル長官は
卑怯な騙し討ちだと怒り、散々これをプロパガンダに使ったわけですが、
現在ではちゃんとそのときのお粗末な遅延事情が(正確にではないですが)
少なくともスミソニアンには(ということは一般的な歴史認識として)
ちゃんと伝わっているようでよかったです。

なお、地図の下部には日米軍双方の戦力が記されています。

発進

第一波である日本海軍のB5N2 「ケイト」艦上爆撃機が
真珠湾攻撃を行うため空母のデッキからテイクオフしています。

攻撃軍はオアフ島の北370キロ沖の発艦ポイントに早朝6時に到達し、
そして1時間15分後、嶋崎重和中佐率いる第二波の攻撃グループが発進しました。

スミソニアンの記述に出てくるこの嶋崎中佐は、あまりに有名になった
淵田指揮官の高名に霞んでしまい、ほぼ無名といっていいのですが、
ここではちゃんと名前が明記されています。

Shigekazu Shimazaki cropped.jpg嶋崎少将(最終)

嶋崎重和は昭和20年1月、第3航空艦隊司令部付となった翌日、
台湾方面で戦死し、戦争が終わってからその年の末に
二階級特進して海軍少将に任ぜられています。

 

「真珠湾空襲、演習にあらず」

50席以上の艦船が埠頭に錨を落とし、休んでいる、
典型的な戦前の真珠湾の写真です。

この写真の港中央に見えているのがフォードアイランドで、
ここには戦艦が島の左側に並んで係留されていました。

陸軍の航空基地であるヒッカム飛行場は、この写真の
メインの海岸線に沿って画面の外に行ったところにあります。

映画「ファイナルカウントダウン」で有名になった(かもしれない)写真。

何かのはずみで何の必然性もないのに真珠湾攻撃の日にタイムスリップした空母が、
そのまま普通に現代に帰ってきてバタフライエフェクト起こしまくる怪作でしたね。

なんかわからんけど偵察機を出したら偵察員が撮ってきたという設定の写真がこれで、
なわけあるかーい!とツッコミがいのある映画でした(遠い目)

 

この写真が歴史的なのは、真珠湾攻撃のその日、
攻撃をしている日本軍の航空機から撮られたものだからです。

画面奥には炎上するヒッカムフィールドが確認できます。
そして7隻の戦艦がフォード島沿岸に沿って係留されているのが見えます。

"AIR RAID PEARL HARBOR-THIS IS NO DRILL"
(パールハーバーは爆撃を受けているーこれは訓練にあらず)

真珠湾に爆弾が落とされると同時にこのメッセージは全ての部隊に発せられました。
これらの写真は米国太平洋戦艦部隊のほぼ完全な壊滅を劇的に示しています。

時代の終わり

パールハーバーの悲劇から最も逃げるべきであった戦闘艦は、
つまり敵の第一目標である三隻の空母だったということになりますが、
「エンタープライズ」はウェーク島に海兵隊航空隊を輸送して帰還中、
「レキシントン」は偵察爆撃機をミッドウェイに届けてやはり帰還中、
そして
「サラトガ」は本国の西海岸にいたため三隻共に無事でした。

たった二隻を残してほぼ全部が何らかの損害を受けたのが戦艦群でした。
(その二隻とは『アリゾナ』と『オクラホマ』)
彼女らは最終的に戦争が終わるまでに全部艦隊に戻ることができたとはいえ、
真珠湾は、空母が海上での戦争で主力艦として戦艦に取って代わるきっかけでした。

物理的にも、そして相手から得た戦略的教訓としても。

U.S.S. 「カリフォルニア」

五発の魚雷を撃ち込まれた「カリフォルニア」はゆっくり泥中に着底します。
写真の一番右に「オクラホマ」の艦隊が微かに確認できますが。
この艦は横転しマストが泥中に突き刺さるように沈没し、
415名の乗員が亡くなりました。

U.S.S 「ウェストバージニア」

「ウェストバージニア」から立ち昇る黒煙、そしてボート。
この写真で見ると、ボートのエンジンは白波を立てており、

今から「ウェストバージニア」に向かうのであろうことがわかります。

半ダースの魚雷が撃ち込まれ、そのうち二本が命中して炎の中海底に沈み、
艦内では105名の乗員が亡くなりました。

 U.S.S 「ネバダ」

「ネバダ」はフォード島に単独で係留されていました。

他の7隻の戦艦が攻撃を受けている間、「ネバダ」にも魚雷が命中し、
航空爆弾も二発うけたにもかかわらず、
どうにか始動することができました。

ネバダの航行ルート

「ネバダ」は湾を出ようとしている間に爆弾を受けましたが、
入江で沈没し湾を塞いでしまうことを懸念し、

ホスピタル・ポイントで自力で座礁して沈没を回避し、
タグボートによってワイピオ・ポイントに再度座礁しています。

「ネバダ」の乗員は50名が死亡し、109名が負傷しました。

 

航空基地

オアフ航空基地

真珠湾の艦船が実に「システマティックに」破壊されていく間、
オアフの航空基地もまた攻撃下にありました。

このOS2U偵察機はフォード島の航空基地で破壊された
海軍と海兵隊の数多くの航空機のひとつにすぎません。

オアフ島の北側にあるカネオヘ湾と、パールハーバー近くのエワでも
爆撃などに遭い多くの航空機が発進できなかったり壊されたりしました。


■ 日本軍機模型

三菱 A6M3 零式艦上戦闘機”ジーク”

さすがはスミソニアン、あの世紀の迷作、マイケル・ベイの「パールハーバー」には
緑で塗装した後期の零戦が、この20型と混じって仲良く飛んでいましたが、
模型は真珠湾コーナーであることもあって当時のバージョンです。(当たり前か)

あれは映画撮影時、アメリカ国内に現存する可動機を動員し、
実際に飛ばせることに拘ったためあんなことになってしまったようですね。

今ならCGでどうとでもなるので、お金をわざわざ払ってこんなを犯す監督はいません。

中島 B5N2 九七式艦上攻撃機 ”ケイト”(左)

真珠湾攻撃の時日本軍機にも迎撃された艦載機があったわけですが、
第二波でもっとも損害が多かったのがこの九七式でした。

水平爆撃を行うというその攻撃特性上、低空飛行で比較的速度が遅く、
大きな機体であるため地上からの砲撃を受けやすかったのです。

特に未帰還機が多かったのは第二波攻撃陣でした。

中島一式戦闘機キ431 隼 ”オスカー”(右)

「♫は〜やぶ〜さ〜は〜ゆ〜く〜」

という歌でも有名(名曲だよね)ですが、この戦闘機を有名にしたのは
「隼」という愛称が一助を担っていたことはまちがいありません。(と思う)


最初単に「一式戦闘機」という名称だった戦闘機に、

敵連合軍の「バッファロー」や「ハリケーン」のようなニックネームが欲しい、
という声を受け、陸軍航空本部発表の正式な愛称として
一式戦は「隼」と命名(発案者は陸軍航空本部報道官西原勝少佐)、
太平洋戦争開戦まもない1942年3月8日には
「新鋭陸鷲、隼、現わる」の見出しで各新聞紙上を賑わした。Wiki

名前って大事(確信)

三菱 G4M1 一式陸上攻撃機 ”ベティ”

海軍の主力攻撃機となった一式陸攻です。
急降下爆撃を行えるものを「爆撃機」、そして水平爆撃を行うものを
「攻撃機」といい、これは日本軍同時のカテゴライズでした。

爆撃機の搭乗員は気質が荒っぽく、攻撃機は紳士的、などという傾向を
海学徒士官出身の映画監督、松林宗恵氏が対談で語っていましたっけ。

愛知 E13A1 零式水上偵察機”ジェイク”

略して「零水」は初期の空母・戦艦・巡洋艦・潜水艦に偵察の要して開発され、
基地にも配備されて艦隊や外地の基地の目として盛んに活動しました。

大戦の序盤はそれなりの成果を納めていましたが、昭和18年以降は
「下駄」と呼ばれたフロートによる速度不足・加速力不足のため、
敵のターゲットとなり情報活動が不可能になっていきました。

川崎二式複座戦闘機 キ45改 屠龍 ”ニック”

「屠龍」といえば想起するのが本土防衛におけるB-29との戦闘です。
巨大な竜つまりB-29を屠る、というその名前も鮮烈なイメージ。

 

■Aftermath(余波)

午前10時までに、最後の日本の攻撃隊は海上で待機中の空母に向かって航行し、
4隻の戦艦が沈没または撃破、4隻が沈没、3隻が駆逐艦が沈没、
2隻の巡洋艦が深刻な被害を受け、
いくつかの小型艦艇と補助艦が被害を受けました。

そして2008名の海軍関係者を含む合計2403人のアメリカ人が犠牲になりました。
(なんだかんだ一般人多かったんですね)

しかし、真珠湾の修理施設、石油タンクを破壊できなかったのは
日本軍の大きな誤算となりました。
そして、このことは米海軍の早急な回復の主要な要因となったのです。

さて、というわけで真珠湾攻撃コーナーがおわりました。

となると次は当然・・・・・?
そう、あれですよあれ。

ミッドウェイ海戦です。

 

続く。

 

 

Comments (4)

真珠湾攻撃と空母〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-19 | 海軍

スミソニアン博物館の空母展示、館内に艦内を再現し、
パイロットのレディルームを再現しただけではありません。

ちょっとした「空母の歴史コーナー」が展開されていました。

 

■ 史上初の軍艦での離着艦

このブログでも何度か取り上げたことのある、
ユージーン・イーリー(Eugene Ely)USS「ペンシルバニア」に着艦した瞬間です。

Eugene Ely and the Birth of Naval Aviation—January 18, 1911 | National Air  and Space Museum

自動車のセールスマンだったイーリーが歴史に残る飛行家になったのは、
たまたま彼が飛行機の操縦を始めた時期にカーティスに出会い、さらに
海軍の初期の軍事的野望をかなえる計画の段階に関わったからといえます。

最初の実験は軍艦からの離艦でした。
カーティス・プッシャーというこの飛行機をの写真を見ると、
よくもこんなもので空を飛ぶ気になるなというくらいデンジャラスです。

しかもパイロットの服装がスーツに革靴、身を守るものが
上半身に巻いた自転車のチューブと皮のゴーグルっていうね。

Eugene Ely Taking Off From Uss Pennsylvania Photograph by Us Navy/science  Photo Library

USS「バーミンガム」で行われた史上最初の航空機離艦実験の瞬間です。
ランディングする甲板が下向きになっているのはツッコミどころ?

これじゃ飛行機は普通落ちますよね。

と思ったらこの後想像通りカーティス・プッシャーは下降し、
車輪が海面に取られてイリーは水浸しになりながらなんとか海岸に着陸しました。

しかし、これが記録としては史上初の発艦ということになりました。

San Bruno and the birthplace of naval aviation | Local News |  smdailyjournal.com

発艦が完璧なものではなかったにもかかわらず、海軍は
今度はさらに難問である着艦に挑戦することになりました。

「ペンシルバニア」の甲板には、着艦ロープが何本も
砂袋に繋げられて飛行機の制動を止めるために設置されています。

飛行機の機体にフックをつけ、甲板のロープをひっかけて止める、
という着艦のセオリーはこの時に生まれ、現在も変わっていません。
カーティス・プッシャーもホーネットも、理論としては同じ方法で着艦しているのです。

これが1911年1月のことです。

Eugene Ely

わずか9ヶ月後、「死ぬまで飛び続ける」と豪語したイーリーは
その言葉通りUSS「メーコン」からの着艦エキジビジョンの際、
機体が着艦失敗して海に落ちる前に甲板に飛び降り、首の骨を折って死亡しました。

「観客は記念品を求めて残骸に群がり、手袋や帽子を綺麗に持ち去った」

という嫌な逸話が残されていますが、彼の手袋と帽子は
おそらく彼とともに甲板にあったものだと思うし、
この写真によると皆残骸を遠巻きにして眺めていますよね。

「手袋と帽子を持ち去った」

のは、甲板にいた人のような気がするのですが、まあどうでもいいか。

■ 最初の空母

空母「ラングレー」USS Langrey CV−1 1922

と写真を出したところでなんですが、「ラングレー」は実は
アメリカ海軍最初の航空母艦ではありません。

実は石炭輸送船を改造した「ジュピター」が最初となります。
全長165mで排水量1万1千トン、航空機の格納とマシンショップのために
十分なスペースがあるとされていました。

その後ノーフォーク海軍工廠でフライトデッキや艦載機エレベーターに
様々な改装が試みられたすえ、USS「ラングレー」が1922年に誕生しました。
「ラングレー」の名前は、偉大な天文学者であり、第三代スミソニアン協会会長
サミュエル・P・ラングレーに敬意を表して付けられました。

就役後何年にもわたって「ラングレー」は、初期の海軍航空の基礎、
戦略やその組織を含む体制づくりに大きな成果を残しました。

1937年にはUSS「テンダー」(航空輸送艦)に改造されて就役していましたが、
1942年2月27日、ジャワで陸軍の飛行機を輸送中日本軍の攻撃によって沈没しています。

空母「レンジャー」USS Ranger CV-4 1934

1920年代の終わり頃、アメリカ海軍は「ラングレー」、「レキシントン」
そして「サラトガ」の三隻を保有していました。
その3隻の運用経験は初めて空母として起工されることになる
次世代の空母USS「レンジャー」に生かされることになります。

1934年の6月4日に命名が行われた「レンジャー」は、わずか1万4千500トン、
最高速度は時速55kmで、米国で最も遅い「艦隊」空母という特徴?がありました。

排気は、飛行中に水平位置にスイングできる6本の煙突(3本は横)
によって払われるという仕組みになっています。

実際のところ「レンジャー」の低速、装備兵器の少なさ、そして限られた武器庫などは、
彼女が太平洋の戦線にでることに向いていたとはとても言えませんでした。

しかしながら、彼女は第二次世界大戦に突入した1942年、大西洋艦隊にあって
北アメリカで効果的に戦い、さらにアメリカ軍の侵攻作戦をサポートし、
戦争期間、最後は練習艦として任務を全うしました。

 

■ 開戦時の空母事情

 

最初の空母は1917年から1920年半ばまでに装備されましたが、
アメリカにおける初期のそれらは巡洋艦や商船、補助艦などを改造したものでした。

この期間、大英帝国ではH.M.S「ハーメス」が最初の空母として建造されています。

1922年のワシントン会議の結果、当時の海軍保有国はいずれも
戦艦と巡洋艦から改造された第二世代の空母を保有することになります。
その時点で米国、英国、日本に2隻、フランスに1隻、つまり
世界には7隻の空母が存在していました。

そしてそれらの中でも当時空母「レキシントン」「サラトガ」は、世界でも最大、
かつ最強の軍艦とされていました。

USS Lexington (CV-2) leaving San Diego on 14 October 1941 (80-G-416362).jpg

空母 レキシントン USS Lexinton  CV-2

USS Saratoga(CV-3)

空母「サラトガ」USS Saratoga CV-3 a.k.a "Sara-maru"

 

1930年代になると艦載機のオペレーションを最初から目的として建造された
空母第三世代が登場します。

しかし英国は1939年から1941年、といっても特に1941年の12月までに
10隻の空母を敵との交戦によって失うことになり、
アメリカが戦争を始めた頃の空母保有数は、

日本ー9隻
英国ー8隻
アメリカー7隻

という状態でした。

 

ここにモニターがあっていきなり日の丸が現れたので、
おお!と注目してしまいました。

ここで放映されていたフィルムは、当時の3主要海軍が
1941年12月7日当時運用していた空母を紹介しています。

フィルムで紹介されていたのは「翔鶴」に続き、

「瑞鳳」

しかしこうして漢字で表す日本の軍艦の名前って、なんて美しいんでしょうか。

わたくしごとですが、MKの名前にはこの時代の空母に使われている
ある漢字が含まれていて、このことをわたしはすごく気に入っています。
(本人はそうでもないらしいけど)

■ 真珠湾攻撃当時における日米主要人物

空母というものの歴史を語ろうとすれば、日本海軍について触れないわけにいきません。
この分野で日本は先陣を切り、当時は先に進んでいたということもできます。

帝国海軍聯合艦隊司令 山本五十六

まずはご丁寧に人物紹介から始まりました。
あくまでスミソニアンによる解説をとご理解ください。

真珠湾を奇襲するという計画は、海軍航空隊の組織と管理に精通した、
海軍航空隊の確固たる支持者である山本提督の発案でした。

山本は、その少し前である1940年、イギリス艦隊がタロントにおいて
イタリア艦隊を攻撃し成功したのからこの攻撃の着想を得ています。

彼はアメリカの工業力と戦争遂行のための潜在能力を知悉しており、
敬意も抱いていたことから、開戦には当初反対の立場でした。

山本元帥は1943年4月18日、ソロモン諸島上空で乗っていた航空機が
ガダルカナルのヘンダーソン基地から飛び立ったP-38戦闘機に撃墜され、
戦死しています。

淵田美津雄帝国海軍少佐

淵田少佐は第一艦隊の空母航空隊の指揮官であり、真珠湾攻撃の第一陣となる
183機の艦載機を率いて飛びました。

淵田は1924年海軍兵学校を卒業し、この攻撃までに

飛行時間は3000時間に達したベテランでした。

この奇襲攻撃に際して淵田が発したドラマティックな通信文は

「トラ・トラ・トラ(Tiger...Tiger...Tiger)」

でした。

淵田はこの攻撃で得た栄達とともに戦争中海軍に仕え、

終戦の時には大佐とし海軍総隊兼連合艦隊航空参謀となっていました。


あの、「トラ・トラ・トラ」って、タイガーのことじゃないんですが・・。

あれはハワイ奇襲攻撃作戦の間だけ使用する通信略語として、
「ト」の次に「ム・ラ・サ・キ」(紫)をつけて作った

「トム」「トラ」「トサ」「トキ」

の四つの略語のうちの「トラ」に、たまたま「奇襲成功」の意味が当てはめられただけで、
実際には深い意味はなかったっていうじゃありませんか。


淵田大佐はああいう人なので()自分の干支が寅ということから
こいつは縁起がいいわいと普通に喜んでいたそうですが、

これが、

「トサ・トサ・トサ」

「トキ・トキ・トキ」

になる可能性だってなきにしもあらずだったわけです。
もし

「トム・トム・トム」

だったらアメリカ軍は、これはアメリカ人を表すよくある名前の連呼、
つまり『アメリカ人をやっつけろという意味』だとか言ってたかもしれません。

しらんけど。

南雲忠一帝国海軍中将 第一航空艦隊指揮官

真珠湾攻撃の機動部隊を指揮しました。
南雲は水上艦勤務が長く、巡洋艦、戦艦、駆逐艦艦長の経験を積み
艦乗りとして高く評価されてきた指揮官でした。

彼は大成功となった真珠湾攻撃に続き、インド洋と太平洋南西における
連合国への空母攻撃を成功させました。

南雲提督は最終的に中部太平洋方面艦隊司令長官として
1944年8月、サイパン攻撃の際洞窟において自決しました。




続く。

 

 

Comments (5)

空母着艦にまつわる色々〜スミソニアン航空宇宙博物館・空母展示

2021-03-17 | 航空機

USS「スミソニアン」CVMという架空の空母のハンガーデッキを
そのまま再現したスミソニアン博物館の空母航空コーナーは、
もちろんそこで終わりではありません。

ハンガーデッキから隣の区画に抜けていくと現れるのが
艦載機パイロットの控室である「レディルーム」です。

まず「レディルームとは」という解説を見てみましょう。

空母の各スコードロン(squadron飛行大隊、英国では飛行中隊)は
レディルームにアサインされます。
レディルームとは、家庭のリビングルームのおよそ2倍のサイズです。

アメリカ家庭のリビングルームの2倍ということは、日本の家屋における
リビングルームとは比べ物にならないくらい広い、と考えられます(笑)

リビングルームに喩えたのは、ここが故郷を離れてやってきた
飛行大隊フライトクルーの「ホーム」でもあるからです。
「オフィス」があり、教室があり、映画館があり、リビングルームもあり・・。

バルクヘッド(壁)には掲示板、地図、ポスター、ブリーフィングガイド、
気象情報とナビゲーション情報を流すモニター、フライトデッキのモニターで埋め尽くされ、
テレビはネットワークが届かない状態でも放映することのできる番組を流しています。

 

また、空母艦載機パイロットというのは、着艦ごとに
「成績」をつけられるということがわかりました。

「ファイナル・グレード」

パイロットの空母着艦の際のアプローチが上手いかどうかは
ナンバー3のワイヤーを捉えることができるかで判断します。

全部で4本あるワイヤの4番目に引っかかるなら、それは
おそらく「高すぎ」「速過ぎ」を意味し、もしナンバー1、2なら
機体の侵入速度は「低過ぎ」「遅過ぎ」るということなのです。

LSOと呼ばれる信号員は、全てのアプローチに対し評価グレードをつけ、
各パイロットの個人成績としてその記録は残されます。

次に挙げるのは典型的なLSOのアプローチに対するコメントです。
これらのコメントはすべて略語(short hand)でログブックに書きつけられます。

「オーケイアプローチ、コメントなし、3ワイヤー」=OK3

「アプローチ失敗、Settle in the middle, Flat in close,4ワイヤー」
OK SIM FIC4

「グレードなし、 Not Enough attitude in close1ワイヤー」
NEATTIC SAR1

真ん中のは「可」でしょうか。
最後のは最終アプローチで高度が低過ぎたため、最初のワイヤーにひっかけても
グレードなし、つまり失格というやつです。
これがが続けば残念ながらパイロット適性なしとして勤務を外されます。

非情なのではなく、命に関わっているからこその措置です。

ロックコンサートのフィナーレでマイクを高く掲げているのではありません。
お仕事中のLSO、The Landing Signal Officerです。

もし着艦の体勢が正しくないときには、「ウェイブオフ」が命令され、
そうすればパイロットは決して着艦することはできません。
もう一回やりなおしです。

 

ちなみにログブックの略語のいくつかを書き出しておきます。

OK パーフェクトパス

OK 正しい判断による理由のある逸脱

(OK) 理由のある逸脱

_ 最低の方法だが一応安全にパス

C 危険、大幅な逸脱、離艦ポイントに侵入

B Bolter

ボルターとはワイヤーをキャッチできなかった場合です。
その場合をボルターといい、ボルターしてしまったらフルスロットルで加速し、
再アプローチをするためにもう一度発艦して一周回ってきます。

Photograph from behind a twin-engined jet fighter. The aircraft's wheels are on the surface, but the engines are still active, and a hook on the underside of the aircraft is in contact with the surface and trailing sparks

空母「ジョン・C・ステニス」のアレスターワイヤに接合失敗したAN F / A-18Cホーネットが
絶賛ボルター中で、機体の車輪は甲板にありますが、エンジンはまだアクティブであり、
機体の下側のフックが甲板に引きずられて火花が起こっています。

ボルターは「失敗」には数えられません。

ログブックの略語は、このほかに「LO=Low」「H=High」など基本から
「L-R=Left to Right」「NC=Nice Correction」(良い修正)など、
なかなかきめ細やかにいろいろとあります。

LSOとパイロットたちは、この略語を隠語として日常生活に使用していると思います。

「ラインアップ」Line Up

フライトデッキにノーズを向ける最終進入体勢をラインアップと言います。
侵入角度をここで調整し、「ミートボール」を見ます。

空母着艦の際に「ミートボール」と呼ばれる機器が活躍することについては
当ブログでも何度かお話ししていますが、ここにも出てきたのでまた説明します。

ファイナルアプローチに入るとパイロットは「ミートボール」を見ます。
ボールとは垂直のフレネルレンズ上に見えているのライトのことで、
もしグライドパス上にいればボールは二つの水平の緑のライトと並んで見えます。
もしグライドパスより高いと、ボールは緑のライトの上に見えるので、そのときは
操縦桿をすぐさま下降に動かすと、ボールも下に見えるはずです。
ボールが下に行ったらあとは簡単、そのまま降下するだけです。

「スムーズに操縦桿を動かさなければクラッシュしてしまい、
あなたはもうおしまいです!
操縦桿さえちゃんと動かせば朝飯前です!( a piece of cake!)」

「エアスピード」Airspeed

近代空母搭載の航空機は着艦の速度調整はパイロットが行うことも、
コンピュータで行うこともできます。
この時にはラインアップとミートボールに集中します。

画質が荒いのでわかりにくいですが、パイロット視線で
いまから着艦をするという設定です。

横のレンズはほぼ一列に並んで見えます。

フレネルレンズ使用によって暗い日でも着艦し易くなりました。

 

 

「トラップ」A TRAP

着艦成功のことを「トラップ」と呼びます。

航空機がデッキにタッチすると同時にパイロットはスロットルをフルパワーポジションに入れます。
もしテイルフックが4本あるロープのどれかに引っかかれば、パイロットは
すぐさまパワーを減速させ、エンジンをアイドリング状態にして自然に機体が止まるようにします。


しかし、フックを引っ掛けることができなかったときには、
先ほど説明した「ボルター」となり、パイロットはフルパワーのまま離艦します。

ただし、このボルターが行われるのは昼間だけで、夜間、嵐の日、
あるいは燃料がないなどのときには行われません。

じゃ失敗しそうな夜間や暗い日はどうやって着艦するのか、って?
ご安心ください。その時にはコンピュータが全てを終わらせてくれます。

しかし基本着艦はパイロットの操縦によって行われます。
全てをコンピュータで行わないわけはおわかりですね?

艦載機飛行隊の部隊章のいろいろ。
真ん中の虎のマークの「ATCRON」ですが、

ATTACK SQUADRON

の造語だろうと思われます。
VA65「Tiger」飛行部隊は、スカイレイダーからイントルーダー部隊となり、
1993年に解散した飛行部隊です。

トランプマークの

ブラックエイセス第41戦闘攻撃飛行隊(Strike Fighter Squadron Forty one)

はアメリカ海軍の戦闘攻撃飛行隊1948年に一旦解隊したあと1950年に再発足しました。
別のコーナーに第41飛行隊の歴史スナップがありました。

1953−1959 マクドネル F2H-4 バンシー

1959ー1962 マクドネルF3H -2 デーモン

1962-1976 マクドネル・ダグラス F-4ファントムII

1976-現在 グラマン F-14 トムキャット

はて、トムキャットっていくらなんでも現役だったっけ?
とさすがのわたしもふと気がついて調べてみたら、やっぱりF-14は
アメリカ海軍からは2006年にはもう引退していました。

スミソニアンともあろうものが、データを書き換えるのを忘れていたと見えます。

ブラックエイセスは現在F/A-18Fスーパーホーネット部隊としてアクティブです。

 

このレディルームは第14戦闘飛行大隊(VF-14)、第41戦闘飛行大隊(VF-41)
どちらも空母USS「ジョン・F・ケネディ」に配属されていた第8飛行隊
実際に使用していたものです。

緑のユニフォームを着ているのはCPO。
CPOと向かい合って立っているおじさんは本物の人間です。

パイロットたちの「着艦成績表」は常に貼り出されます。

=OK、黄色=普通、茶色=グレードなし、=やり直し

となるので、「ルーキー」「スライ」はできる子、「スラマー」はできない子です。

成績優秀者は名前が「トップ・フッカーズ」(トップひっかけ人)として貼り出されます。

「セオドア・ルーズベルト」第71飛行隊の飛行計画書。

「フォッド・ウォークダウン」は飛行甲板のゴミ拾いです(大事)

フライトクルーの記念写真。
髪型と髭率の多さから、70年代の写真かと思われ。

説明がなかったんですが、この上の赤い付きの飛行機、なんだと思います?

 

続く。

 

 

 

Comments (8)

原子力空母「エンタープライズ」100分の1模型〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館の空母ハンガーデッキを模した
CVS「スミソニアン」の一隅には、巨大なシップモデルが展示されています。

 

どんな状態かというとこんな感じ。
レシプロ戦闘機ワイルドキャットの下に備えられた
ライト内蔵の巨大なケースの中にそれはあります。

空母の100分の1スケールの模型というのは圧巻です。
模型ファンならずともこの迫力には皆等しく目を見張る迫力でした。

模型ケースの端に展示されているこの盾には

この展示のメンテナンスの一部は、
USS ENTERPRISE CVN-65ASSOCIATION
によって資金提供されています。

「We are Legend」(1961-2017)

と記されています。

本家のエンタープライズアソシエーションと関係がある、
と誇らしく表明しているわけですね。

エンタープライズが就役していたのは1961年から2012年。
その名前を受け継ぐ艦は8隻目ではありますが、
原子力空母としては世界初となります。


バウデッキ左舷側にはブライドル・レトリーバーが二本突き出しています。
このブライダル・レトリーバーについては「ミッドウェイ」のログで
詳しくお話ししたことがあります。

”MAN OVERBOARD!"(人が落ちた!)〜空母「ミッドウェイ」博物館

この甲板左舷部分に駐機してある艦載機はおそらくA-7コルセアIIでしょう。
ということは模型で再現されているのはベトナム戦争時代と見ていいかと思います。

この頃はカタパルトによる射出の際、シャトルと航空機の主翼基部や胴体とを連結する
「ブライドル」「ブライドル・ワイヤー」を使っていましたが、
「エンタープライズ」の長い歴史上、特に最後の方では
このシステムは不要となり、この部分も必要が無くなったはずなのですが、
どんな時代の写真にもこれが付いているんですね。

甲板を改装することでもあれば無くしてしまったのかもしれませんが、
ブライドル射出式の名残りとして機能しなくなったあとも
あえてシンボルのように残しておいたのかもしれません。

それに、実際にあそこに立ったことのある人間として言わせてもらうと、
なかなか開放感があって他では味わえない眺めなんですよね。

軍艦は「ミッドウェイ」のように柵を立てないので尚更でしょう。

どうやら今から
偵察機Northrop Grumman E-2「ホークアイ」 Hawkeye
が発艦するところのようです。


よく見ると人の動きも非常に細部まで表現されており、
走っている緑シャツ、向こうのクルセイダーの横の赤シャツが
この場面に躍動感を与えています。

ここだけ見ていると、カタパルトがもう立ち上がっているので、
ホークアイのプロペラが回っているように思えてきます。

ブリッジの後方デッキにも航空機が満載です。 
ちなみにこの甲板の航空機の現在地を統括する係が
飛行機の形のマグネットを貼り付けていくボードのことを
西洋版コックリさんを意味する「ウィジャボードOui-ja board」
という、という話は一度書いたことがあります。

最後尾に並べられているのはヘリコプター。
シースプライト、という名称が思い浮かびましたが、
自信がないので思い浮かべただけにしておきます。

艦載機エレベーターに1翼を畳んで乗っているのは、
可変翼機といえばこれしかない、グラマンのF-14トムキャットに違いありません。

そして左はRA-5ビジランティ・・・・かな?

ところで、ハンガーデッキにも何やら機影が見えるではないですか。

ほおおおおお〜〜〜〜〜!

さすがスミソニアン、こんなところにも決して手を抜かないね。
この写真はスミソニアンHPから許可される使用条件でダウンロードしたものです。

こちらで運んでいるのはA-6イントルーダー、それともプラウラー?

ハンガーデッキの中のイントルーダーさん。

この展示コーナーで最初に目撃したインテリパパの二人の息子も
この模型を前に気色満面というやつです。
男の子の模型(あるいは飛行機、船)好きってもうこの頃にはすっかり萌芽しているのね。

絶賛ポリコレ文化革命中のアメリカでは、おもちゃ売り場での
「男の子用おもちゃ」「女の子用おもちゃ」のコーナーをなくせとか
アホなことを言い出しているそうですが、自分たちの小さい時とか、
あるいは自分の子供たちが、誰もそのように仕込まないのに、
彼あるいは彼女が、赤ちゃんの時から男の子は乗り物、女の子は
ぬいぐるみや人形に手を伸ばすのをどう思っているんでしょうか。

って全く関係なかったですね。<(_ _)>

画面手前後ろ向きに駐機されているのもビジランティではないかと思われます。

甲板の上にいるヘリはCH-46ーキング、そしてその後ろは
ボーイングのバートルV-107ではないかと思われます。

どちらも「ミッドウェイ」博物館で実物を見ることができました。

この辺(甲板後部)はトムキャットの巣になっております。

ハンガーデッキにもトムキャットが。

翼を立てた状態なのでこれはクルセイダーでしょうか。

こうやって航空機を紹介していくと、この艦載模型が
ベトナム戦争当時のステイタスに基づいているのがよくわかります。

スミソニアンのHPで答え合わせしたところ、この模型は
1975年当時の艦と艦載機の構成を再現しているということでした。

模型製作者はステファン・ヘニンガーStephen Henninger 氏。
アメリカでも有名なシップモデラーだそうです。

2016年になって従来のライトをLEDに取り換える作業が行われました。

ヘニンガー氏が
ハンガーデッキの内部にアクセスしやすくするため、
後部右舷の艦載機エレベーターを取り外す作業をしているところです。

完成した頃はお若かったはずのヘニンガー氏も、今や立派なおじいちゃん。
しかし、作業中のこの気色満面の様子を見よ。

 

ヘニンガー氏は、数学の学士号を取得しており、最近、大手航空宇宙企業の
技術スペシャリストとしてのキャリアを退職したという人です。

つまり元々模型製作は本職ではなく「趣味」であったということになりますが、
引退してからは個人や企業向けのヨットやクルーズ船の模型制作をしているそうです。

彼は兼ねてから空母に興味を持ち、機会があれば模型を作ってみたいと
切望していたこともあり、スミソニアン博物館の、

USS「エンタープライズ」の1:100スケールモデルを制作する
12年間にわたるプロジェクトを引き受けたということです。

85機の航空機を搭載したこの11フィートのモデルは、1982年に完成しています。

ということは、計画が起こったのは1960年代。
「エンタープライズ」就役間もない頃だったということになります。


計画が立ち上がった頃には最新式の空母だったのが、
模型を作っている間にそうではなくなっていたということですね。

素材はプラスチックのボード、アルミニウムのシート、ポリエチレン、
真鍮とアルミニウムのチューブ、木(バルサ)、ソフトワイヤ、ベニヤ合板など。

接着のために飯田、スーパーグルー、エポキシ、そしてプラスティックセメントが使われています。

A-7コルセアII、A-6イントルーダー、SH-3シーキング、CHー46シーナイト、
A-4スカイホーク(あれ?どこにいたんだろ)F-14トムキャット

などが艦載機として制作されました。

E-2ホークアイとRAー5ビジランティスクラッチビルドといって、
プラモデルのように組み立てキットで作るのではなく、各種材料を用いて
ゼロから制作、つまり文字通り素材から削り出して作られています。

一方、EA-6B プラウラー(うろうろする人の意味)はイントルーダーのキットを
大幅に変更して制作されました。

これら航空機の製作には全部で4000時間費やされたそうです。
航空機だけに1日10時間かけたとして・・・のべ400日!

うーん・・・気が遠くなりそうです。

完成までの模型製作の歴史

● 1970年11月、ヴァーモント州のナサ・ワロップス島で模型考案

●  1971年1月〜7月ペルーにて断面図制作

●  1972年−1975年、南アフリカのヨハネスブルグにて、ハル構造の図面化

●  マサチューセッツ州アーリントンで(わたし昔住んでましたここに艦体と航空機の製作

●  1976年コロラド州に完成したプロジェクトがUホールで運搬される

●  1982年5月26日、プロジェクト開始から11年後、艦載航空機82機が全て完成

●  1980年、二つのパーツに分けて制作された艦体が接続される

●  1982年、ハンガーデッキが接続され細部の調整と仕上げを行う

●  プロジェクト完成 1982年8月

 

 

続く。

Comments (6)