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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「駆逐艦雪風」〜特攻

2025-08-08 | 映画
1964年公開、「駆逐艦雪風」3日目です。


「初戦において痛烈な一撃を米英に与えた我が聯合艦隊は、
ここに短期決戦の機を掴んで、その全兵力を挙げて
敵の要所、ミッドウェイ島攻略に出撃した」





東京日日新聞は毎日新聞東京本社発行の新聞で、毎日の前身です。

ミッドウェイ攻撃の戦果について「アメリカのデマは逆効果」とか、
「敗戦ごとに揚げ足取り」などとセンセーショナルな言葉を使い、
要するに、アメリカが嘘の戦果を垂れ流している!と報じているわけです。

しかしこれは、大本営が隠したかった開戦以来初めての敗戦でした。



第一次→かろうじて日本の勝利
第二次→アメリカの勝利
第三次→圧倒的にアメリカの勝利

だったソロモン海戦が行われたというところで・・・、


「雪風」乗組員は、ガダルカナルの撤収について噂をしていました。

「今度のガダルカナルは我が艦も年貢の収めどきかもしれんな」


何気ない会話の中で「母親に会いたい」と誰かが言ったとたん、
なぜかキレてその場を立ち去る大野。

木田が訳を聞くと、彼は、自分が孤児院育ちであること、
そもそも母親の存在を一切知らなかったと打ち明けます。

「そうでなけりゃもう少しマシな人間になってかもしれねえ」


昭和18年2月1日、「雪風」はガダルカナル撤収作戦に参加しました。


ガダルカナルから引き揚げてきた陸軍兵士たちの揚収が始まりました。



「しっかりしろ!」「元気を出せ!」

励ましながら彼らの手を取って艦上に引き上げていきます。



航海長は、揚収に時間をかけすぎると、敵の制空圏内から出られなくなり、
危険であるからそろそろ中止すべきだと艦長に具申しました。

言っている端から敵哨戒艇に発見されたと報せが入ります。


それはアメリカ海軍のPTボート「2」でした。

第二次世界大戦中は若き日のJFKが艇長として乗っていたことで有名で、
高速かつ重武装であったことから、船団攻撃に従事し、
巡洋艦なども攻撃することができたという魚雷艇です。

この頃在日米軍はまだ旧型のPTボートを所有していたようで、
それを映画のため特別出演させてくれたみたいですね。

この強力な魚雷艇の出現に、大野が思わず、

「雪風も年貢の納め時かもしれませんね」

と機関長に言うと、機関長、あっさりと頷いています。


しかしその時移乗作業が終了しました。
次々放たれる魚雷を巧みな操艦でかわしていく「雪風」。

「雪風」が幸運艦となったのは、ただ運が良かったのではなく、
代々腕のいい艦長が指揮を執ったからでもありました。



危機を脱し、揚収した陸軍兵たちに水を配っていた木田は、その中に
石川島の工員時代一緒に「雪風」を手がけた組長がいるのを発見します。

「自分が手がけた船に命を救われるとは思っていなかったぜ。
しかし、お前が『雪風』に乗っているとはなあ」



「だってわし、『雪風』に乗るって言ったじゃないですか///」


しかし、そんな木田に、

「他の駆逐艦がやられているのにかすり傷ひとつないって、
敵から逃げ回っていたんじゃないのか」


横から揶揄い半分混ぜ返す陸軍兵。
愛する「雪風」を貶められて逆上した木田は掴み掛かり、
かつての上司と今の上司が喧嘩を止めるため割って入る騒ぎに・・。


帰国後休暇をもらった木田が実家に戻ると、母親から
弟の勇二が海軍兵学校に入学したことを聞かされます。

優秀な勇二には医者になって欲しかった木田は不満ですが、母親は

「友達が予科練だなんだと入っているのに、
自分だけのんびり勉強するなんて非国民だと思ったんだろう」

と仕方なさそうに言うのでした。


木田には帰国にあたってどうしても会いたい人がいました。
手島艦長の妹、雪子です。

母親の作った「砂糖がないので味噌餡」の饅頭をお土産に、
手島艦長のうちまでいそいそとやってきた木田は、
雪子の姪に当たる手島の娘、京子から雪子の不在を告げられました。

「横浜のおじいちゃんとこ、今行ってるの」

「・・・横浜へ・・・」


雪子に会えずがっかりして艦に戻った木田には、
彼女から不在の詫びと千人針が送られてきました。


そして、烹炊長には今日あたり子供が産まれると言うめでたい報せが。
ちなみにこの烹炊長を演じる柳谷寛は「ハワイ・マレー沖海戦」で
娑婆では僧侶という設定の索敵機操縦士、谷本予備少尉を演じた人です。


ここで烹炊長、甲板に出てポケットから手帳を取り出しました。


そこにやってきたのは加納博司少尉。
(クレジットはフルネームの割に役職が書かれていません)

無線で烹炊長に男の子が生まれたという知らせを持ってきました。

加納少尉の役をしているのは吉田輝雄という俳優ですが、
この名前と顔に覚えがあると思ったら、当ブログで紹介した
「金語楼の海軍大将」で光機関の葛城中尉を演じていた人ではないですか。

当映画出演の菅原文太らと、長身の二枚目スターということで
「ハンサムタワーズ」の一員として売り出されたというあの人ですね。
(『ハンサムタワー』があまりのパワーワードで忘れられない)

そして、秋刀魚が出てこないのに何故か「秋刀魚の味」というタイトルの
小津安二郎の映画で、やはりこの映画にも出演している岩下志麻が
密かに想いを寄せる同僚(婚約者あり)の役が印象的でした。
(ちなみに作中、岩下が失恋するシーンでは、
小津監督はこだわり抜いて100回撮り直しをしたそうです)

木田が水野烹炊長にその嬉しい知らせを伝えようと甲板にでた時です。



米軍の哨戒機が「雪風」上空に飛来しました。



そしてピンポイントで烹炊長を狙い銃弾を放ったのです。
駆けつけた木田が見たのは、すでに絶命して倒れる烹炊長の姿でした。


旗が半旗に降ろされ、烹炊場には水野の遺影が飾られました。
烹炊場の乗組員は、子供が生まれたお祝いにと赤飯を供えるのでした。



烹炊長が最後に考えていたのは、生まれてくる子供の名前でした。
男なら忠雄、女なら孝子と書かれた手帳が遺品となります。


敵は徐々に本土に迫ってきていました。
飛び石作戦により、サイパンへの上陸が行われます。



そして、遂に硫黄島も・・・。
機動部隊はレイテ湾スルワンに殺到してきました。
圧倒的な物量を誇る敵艦隊の前に、戦艦「武蔵」以下24隻を失い
サマール沖において三昼夜にわたる「大和」の奮闘も虚しく、
我が連合艦隊は事実上壊滅の事態に至ったのでした。


しかしその中にあって「雪風」は健在であり続けました。


昭和20年。
桟橋の横を歩いていく回天の乗組員たちを見ながら、つい、
あの格好が羨ましい、などとこぼす「雪風」の乗組員。


その中に、木田は見てしまったのです。
海軍兵学校を卒業後士官になった弟勇二の姿を。
ここにいるということは、彼は「回天」搭乗員なのです。


その夜、兄弟は久しぶりに一緒の時間を過ごしました。
弟が海兵に入ることすら内緒にしていたのは、言えば反対されるからでした。

「医者になる夢は10年先でしか実現できないんだ。
その10年で日本がどうなるかと思うと呑気に勉強していられない。
俺、医者にならなくてもいい。誰かがなってくれればいい。
その誰かのために、俺、犠牲になることを決心したんだ」


「・・・・勇二、いいところに連れてってやろうか」

兄の提案に勇二は首を横に振ります。

「いいよ。女はお袋だけで十分だ。
俺、お袋に抱かれてる夢を見て死にたいんだよ」



次の面会日、木田を待っていたのは母親と雪子でした。



偶然会って一緒にいるという二人の姿に木田は感激。


彼は、この面会に勇二も入れた家族全員で会えると思っていました。
上からの通達で勇二がやってくると聞かされていたのです。


ところが彼を迎えに行った木田は、ある部屋に案内されました。


そこに弟がいると信じて、微笑みながら入室した木田を迎えたのは・・



特攻隊で散華した士官たちの遺影だったのです。



そして、その中に弟がいました。

「昨日出撃しました。見事な最後であったと・・。
現地からの報告によりますと、敵空母を轟沈したと」



悄然として二人の元に戻った木田ですが、どうしても
勇二が亡くなったことを母に告げることができません。
一足違いで転勤になった、と苦し紛れに嘘をいいます。



この母親は何かと楽天的な性格らしく、勇二が海兵に入った時も
多分大丈夫、と言ってみたり、この時も、

「勇二はお前と違って要領がいいから。
お前こそ弾に当たりに行くような男だから気をつけないと」


などと全く疑う様子を見せません。


しかし木田の様子に何かを感じ取った雪子は、
お茶をもらってくると言ってその場を去った木田の後を追ってきます。



そこには涙を流して嗚咽する木田の姿がありました。

「木田さん・・・もしや弟さんは」

「戦死しました・・・回天特攻隊で」



「自分が・・代わりに・・死んでやりたかったです」

木田の背中に声をかけることすらできず、ただ俯く雪子でした。

続く。



映画「駆逐艦 雪風」〜入隊

2025-08-05 | 映画
1964年公開の映画「駆逐艦雪風」続きです。

「雪風」の艤装に石川島重工の工員として関わった主人公、木田勇太郎。
自らが手がけた「雪風」を愛するあまり、次にとった行動とは・・。



ある日本の山村で、出征の壮行会が行われています。



そう、我らが木田勇太郎は海軍に入隊することを決めたのでした。
その理由は、「雪風」と一緒にいたいから。

「わしゃ『雪風』の生みの親だぞ。
ちゃんと乗れることになってんだ!」


そんな簡単に希望艦の乗組になれるかな。



勇一郎とは違って?秀才の弟、勇二(勝呂誉)。
勇太郎は勇二が医者になることを望んでいます。



母親役はお馴染み浦辺粂子。
木田が襷掛けにしているのは寄せ書きの日の丸です。


しかし、やはりものごとはそううまくいかなかった。
木田が最初に配属されたのは「おきちどり」。

これはもちろん海軍艦ではなく、戦後海上自衛隊の特務艇です。
海軍が建造した雑役船(200トン型飛行機救難船)が前身で、
戦後おそらく総会業務に携わるために掃海艇となり、
1961年に特務艇(ASM-72)となっていました。


「こんなはずじゃなかったわい・・」

「おきちどり」から「雪風」を眺めてため息をつく木田。

この「雪風」は海上自衛隊の護衛艦なので「ゆきかぜ」とありますが、
戦時中、旧軍艦の艦名は「ユキカゼ」と片仮名で書かれていました。


烹炊兵となって厨房に配属された木田ですが、
「雪風」への思い捨てられず、仕事に身が入りません。



第二艦隊司令長官への配属願い直訴状を古参兵に見つかり、
皆に責められているうちに乱闘になってしまいます。


上陸禁止になった木田は、同じく上陸禁止になっていた
機械室の大野一等水兵と知り合います。



そそのかされて丁半の賭け事をやっていると、突如甲板士官が現れ、
二人に「もうすぐ貴様らはこの艦からお払い箱になる」と言い残して去ります。

上陸禁止されたのにまだ賭け事をやめない大野は海軍刑務所に行きだと。
そして「雪風」への未練をダダ漏れさせる貴様は輸送船行きと言われ、
ガックリとうなだれる木田・・・。



「ゆきかぜ」は当時横須賀地方隊所属だったのでここは横須賀のはず。



「ゆきかぜ」にメザシになっている駆逐艦の艦名、
二文字なんですが、どうしても読めません><


「雪風」舷門では乗組員が堵列で新艦長の着任を待っていました。


そこに予定より遅れて、到着した内火艇。



♩「ソーッソ ソーッソ ソッドミソー」

こういう場合はサイドパイプではないのか?
と思いましたが、喇叭もありかもしれません。(確かめてません)


しかし降りてきたのは新艦長ではなく主計兵と機関兵(大野)。

「馬鹿者!」

ってこれ本人たちに全く責任無くない?
そもそも海軍がこんな手違いをするわけなかろうというツッコミはさておき、
木田水兵、念願かなって「雪風」に乗れたんですね!



しかし、その後乗り込んで来た新艦長手島中佐には、
「目が死んどる!」
と言い捨てられてしまいます。

「眼の輝き、不備」ってか。


木田が新しく配備された厨房の烹炊長、水野は神田の寿司職人だった人で、
明朗で穏やか、この人の下なら働きやすそうです。


ところが、そんな木田と大野に兵曹からの呼び出しがありました。
艦長より先に着艦したことを「ペテンにかけた」と言いがかりをつけてます。



出たー「軍人精神(注入)棒」。
全く年季が入っておらず、まだ作ったばかりみたいなのが何ですが、
古参軍曹はこれで海軍精神注入したる!とばかりに舌なめずり。



だから俺たちのせいじゃないってのに・・・。


そこに現れて制裁を止めたのは士官(副長?)でした。

「どの艦にも張り切りすぎるヤツがいて困る」



その晩、木田は艦長に呼び出されます。
木田が「雪風」に乗れなくて不平たらたらだったこともご存じでした。



「はあ・・」

しかし、木田は自分が「雪風」に今回配置換えになったのは、
山川技術少佐の口添えがあったからだと聞かされ、驚きます。


手島艦長は山川少佐から木田への贈り物をことづかっていました。

「これを山川だと思ってほしい」

山川少佐が「雪風」設計時に使用したというコンパス(らしきもの)です。


「山川少佐、『雪風』は必ずわしが守ります!」

■ 開戦




高らかに「行進曲軍艦」が鳴り響きました。
ついに開戦です。

「我が大日本帝国は有史以来の国難に直面し、これを打開せんがために
12月8日未明を期して米英両国に対し宣戦を布告した。」

たった2行ですが、この頃はまだこのような「事実」を語っても
どこからも文句が出なかったということを表す重要な証拠です。


第16駆逐隊の「雪風」は、第4急襲部隊の一員として、
レガスビの上陸作戦に参加することになりました。



「雪風」が艦番号102の「ゆきかぜ」なのは大目に見ましょう。



第二次大戦中の海軍にこの装備があれば・・・。


これは実際の海自の訓練に乗り込んで撮影されたシーンです。



これは模型による撮影。



主計の戦いは戦闘中の糧食を作り、配ること。
片手で食べられるおにぎりは戦闘食でありソウルフードです。


ご飯粒を顔につけたままおにぎりを作る烹炊の面々。
この時「軍艦行進曲」はずっと鳴り響いています。


できたおにぎりを食缶に入れると、テッパチをかぶって飛び出し、
各配置に配っていきます。



このときおにぎりが(たぶん偶然)一つ転がり落ちるのですが、
長門勇はこれに「おい、落とすなよ!」とアドリブを入れています。



艦長の横にいるのはさっき制裁を止めた士官じゃないですか。
やっぱり副長だったのか・・・。


というわけでレガスビーへの上陸は成功しました。



しかし木田一等水兵はまたもしくじってしまいます。
烹炊場で同僚とやり取りをするうち、うっかり

「弾が飛んでこないところで大根を切っていられるなら楽」

などと言ったのを古参に聞かれてしまいました。


罰として、皆が通るところで

「私は命が惜しいんです!」

と繰り返し叫ばされることに。


高らかに鳴り響く「行進曲 軍艦」(2回目)。

「大本営発表:
2月27日、スラバヤ北西海上において我が第五戦隊は敵強力艦隊と遭遇、
深夜に亘る海戦ののち、次の大戦果を収めたり。
重巡洋艦2、駆逐艦2轟沈。
軽巡洋艦1、駆逐艦3大破。
なお、我が方損害なし。
この海戦を『スラバヤ沖海戦』と称す。」



「き〜そ〜の〜な〜〜〜〜あ なかのりさ〜ん
き〜そ〜の御嶽山はナンジャラホイ♪」


出撃以来初めての内地への帰還が決まった「雪風」では
木田が機嫌よく歌いながら艦体にペイントしていました。


そこにやってきたのは手島艦長。



「赤は撃沈、黄色は大破した敵艦です」

「面白い。これから貴様に記録係を命じる」




さて、ここは内地の某所、手島艦長の自宅。



艦長は帰国して同期を自宅に招き卓を囲んでいました。
この中で艦に乗り実戦に出たのは手島だけです。

「これからの戦は航空が中心となるな」

「それはハワイ・マレー沖海戦を見ても明らかだ」

「それでは手島の任務はこれから輸送船団の護衛になるな」


ところが、この何気ない会話に食ってかかる者がいました。



なぜか艦長に気に入られ、招待されたものの、
士官と同席できずに次の間に控えていた一水の木田です。

「ただ今の言葉、あまりにも『雪風』を知らなすぎると思います!」



ギョッとした士官たちの目が木田に注がれます。
しかし木田は全く臆せず、

「我が九三式魚雷は決して零戦なんかに劣っておりません!
艦長、そうじゃありませんか」



艦長はそんな木田を咎めることもなくニコリと笑って、

「木田、むきになるな。こいつら僻んどるんだ。
空軍だけで戦闘ができるはずはない」




気まずくなるかと思ったそのとき、手島の妻(小幡絹子)と
手島の妹(岩下志麻)という絶世の美女コンビが食事を持って登場。

「おお、雪子さん、ちょっと見ぬ間にますます綺麗になられますな」

木田にとって衝撃の出会いでした。
このとき、手島がなかなか結婚しようとしない雪子を、

「どうも非国民で困る」

というのですが、なぜ非国民なのかと聞き返す雪子に
同席の士官がいう言葉が衝撃的です。

「それはですな、早くお嫁に行って、
我々の後に続く男の子を産んでもらわにゃ困るってことです」

戦時中の認識としては当然だったこのセリフですが、今ならアウトですね。
しかし、この頃は創作なら許容されていたので、
言われた雪子は恥ずかしそうに俯いて微笑んでいます。
(そしてその横顔を真剣に見つめる木田)


「手伝います」

雪子を追いかけるように、木田が台所にやってくると、
そこには手島の娘である京子がいました。

戦時中、長い髪の毛をカールさせている幼女はいなかったと思いますが、
この京子ちゃん役は当時「マーブルチョコレート」のCMで一世を風靡した
上原ゆかりという少女タレントが演じています。


京子が近所を案内したいと言い出し、雪子と三人で
海の見える丘にやってきた木田。

そこで木田は、雪子が兄の手紙によって、
すでに自分を知っていたという衝撃的な事実を知ります。

「『雪風』には’大家さん’がいて備品を傷つけるとすごく煩い、って」

「酷いな艦長も・・」


そこで雪子は、故郷に「待っている人」がいるかを木田に尋ねます。
雪子、なぜかこのもっさりした水兵に好感を抱いている模様。
しかし木田は、慌ててそれは恋人なんてものではなく母と弟であり、

「私には『雪風』より大切なものはありません!」

と「雪風」恋人宣言。
恋人にするなら戦艦の方が大きくて立派じゃありません?という雪子に、

「とんでもありません。
かたちは小さくても、美しいです。
かかかかわいい。たとえば・・」

「たとえば?」

「あのう・・・その・・雪子さんのような感じです!」

雪子はそれにありがとうと微笑み、木田に手紙を送ると言います。



そこで木田はいきなり駆け出していきました。
極度に感激するとトイレに行きたくなる、という設定でしたね。



その晩、木田は手島艦長の家に泊まることになりました。



ベートーヴェンの彫像が置かれたアップライトピアノで、
(地震とか以前に、これは安全上やめておいたほうがいいと思うけど)
その夜、雪子は「エリーゼのために」を演奏していました。

このとき雪子の手元が映るのですが、岩下志麻さん、
吹き替えなしで実際に暗譜で(楽譜を見ずに)演奏しており、それも、
小さい時からちゃんと習っていたのだろうと思われる弾き方です。

おそらくこのシーンのために久しぶりに練習したのに違いありません。



客間に敷かれた布団で枕から頭を上げ、
ピアノの音に真剣な顔で聴き入る木田でした。

続く。





映画「駆逐艦 雪風」〜建造(おまけ:観閲式観艦式中止決定)

2025-08-02 | 映画

8月15日に劇場公開される「雪風 YUKIKAZE」について、
プレスリリースに参加しその感想を挙げましたが、
最初にこの映画の情報を下さった方が「おそらく便乗商法でしょう」と
戦後80周年記念に発売された戦争映画コレクションの一つに
1964年松竹映画の「駆逐艦雪風」が含まれていることを教えてくれました。

(その他の作品は、『進軍』『少年航空兵』『西住戦車長傳』
『雲の墓標』より 『空ゆかば』)

この映画の見どころは、なんと言っても、戦後就役した二代め、
護衛艦「ゆきかぜ」が、防衛庁の協力を得て登場したというところです。

「雪風」艦上シーンの撮影は全て「ゆきかぜ」で行われており、
自衛隊で運用されていたその姿を見ることができます。


昔の戦争映画は「海軍省後援」とタイトルの前に字幕が出たものですが、
本作は、堂々と?「協力 防衛庁」の文字が(胸熱)

主人公の「ゆきかぜ」が最初から最後まで出っ放しで、
しかも海戦シーンは実際の演習の映像が使われているという、
もう海自は協力というよりスポンサーというべき全面協力してますから、
そのスポンサー名を最初に出すのは当然のことです。



そして、驚いてはいけません。
これが本作品の最初の映像です。
雨の中を進む軍靴の列、これは学徒動員の壮行式ではありません。


(おそらく)1963年に行われた自衛隊観閲式の映像なのです。
これは音楽隊。
映像の始まりとともに流れるのは行進曲「大空」です。

作曲者の須磨洋朔は陸軍の軍学兵で、陸上自衛隊中央音楽隊の創設に尽力、
初代隊長を務めた人で、「祝典ギャロップ」「巡閲の譜」、
防衛大学校の学生歌も作曲したという自衛隊音楽隊の「祖」というべき人。



その防衛大学校。
女性学生が最初に入校したのは1992年のことですから、男性ばかりです。


公募により女性自衛官が登用されたのは昭和49年のことです。
ですので、この女性の集団は、自衛隊病院の看護師ではないかと推察します。

自衛隊の看護学院が設置されたのは昭和50年ですから、
この頃は有資格者が自衛隊に入隊するという形だったのではないかと。
(確認取ってません)


陸自普通連隊。

そういえば何年か前、わたしは同じ朝霞駐屯地で土砂降りの中、
観閲式の予行演習に参加したのを思い出しました。
その時傘は全面的に禁じられていましたが、写真にはちらほら見えますね。

ところで、この項をアップする直前、防衛省からの通達が出ました。

今後の観閲式等について

我が国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に直面する現在、
隙のない我が国の防衛態勢を維持する上で、
観閲式等を実施することは困難な状況に至っております。

このため、今後、観閲式等は、我が国を取り巻く安全保障環境が
大きく変化しない限り、実施いたしません。


実に強い言葉です。
以下これを教えてくれたKさんとわたしの通信会話。

「私を含めた爺婆や身内家族や議員を集めるよりも
大事なことがあることに、やっと気付いた防衛省・自衛隊」

「開催されれば参加することにやぶさかではないものの、
コロナ以降こうなればいいなと思っていました。
(なんか現場で色々と嫌なものを見てしまったこともあり)
この決定を一番喜んでいるのは現場の自衛官たちだと思います」

「知り合いの第一師団の現役は喜んでいますし、
OBも彼程無駄な事は無いと言っています。
横須賀総監部は観艦式支援で半年は忙殺されます。
百里の空自も同じでしょう。

反対派も自衛隊も意見が合いました(笑)」


さて、続きです。

海上自衛隊は、当たり前ですが、現在と寸分変わらず全く同じです。
同じ幹部・曹・士の制服に白いベルトと白いゲートル、
そして戦争中から変わらない海上自衛隊旗・・・。

この映像、60年前なんですね。
参加なさった方のほとんどは80歳を超えています。



戦後初の国産戦車、61式戦車は当時デビューしたばかりでした。


次いで海上自衛隊の観艦式の様子が。


空自の戦闘機に三菱重工がライセンス生産した
F-104スターファイター(あだ名は三菱鉛筆)が導入されたのはまさに
この映画の公開直前である1963年のことでした。


ブルーインパルス、特別機動研究班(当時)がデビューしたのは1960年。



この頃空自は、ブルーインパルスの宣伝のために東宝映画
「今日もわれ大空にあり」の撮影をしています。

さて、冒頭から自衛隊映像と共にナレーターはこう言います。

「戦後19年。
我々国民はあの忌まわしい戦争という文字を抹殺しようと努力してきた。
そして今、平和を謳歌する時代にあって、
人々がその日常下、戦争という言葉を忘れ去った感がある。
しかしその影に、日夜真の世界平和を願い、
黙々と激しい訓練に勤しむ自衛隊三軍の姿がある。」




その中に活躍する「ゆきかぜ」は、昭和29年、
戦後初の国産大型護衛艦として誕生した。




そしてその名は、かつての帝国海軍、
駆逐艦「雪風」の名前を継いだものである。



その初代「雪風」は太平洋海戦史上、同僚駆逐艦の全てが沈んだ中に、
ただ一隻生き残った「奇跡の幸運鑑」である。



この映画は、栄光の歴史を受け継いだ、現「ゆきかぜ」が登場して、
平和への祈願を込めて贈る物語である。





いつもなら字幕映像などキャプチャしないのですが、今回は
観艦式の映像が使われているので全てご紹介します。

これとか、艦砲が二連装なんですけど、何艦のですか?

その当時運用されていた護衛艦では、「あけぼの」、
「あやなみ」型、「みねぐも」型、「むらさめ」型が、
連装砲を搭載していたようですが・・・。


タイトルの後流れるのは、三橋美智也先生の歌う、
『あゝ太平洋』という「喜びも悲しみもいく歳月」的歌謡。

あゝ太平洋

あゝ〜あゝああああああ〜(バックコーラス)

若い命に 盛り上がる
男の夢は 太平洋
試練の嵐 吹かば吹け
眉を上げれば 歌がわく
そうだ男の そうだ男の歌がある


初代「むらさめ」型1番艦「むらさめ」DD-107


この観艦式は観閲艦「あきづき」以下48隻によって、
1962年(昭和37年)、大阪湾で行われた時のものだと推察します。
(この頃は1年おきで、映画の前年度には観艦式は行われなかった)

1957年に「ゆきかぜ」が観閲艦として岸総理大臣を乗せ、
戦後初めて自衛隊として行った観艦式から四回目となります。




この画像に映るのは撮影年に就役したばかりの、
「あやなみ」型護衛艦、DD-112「まきなみ」です。



そしてDD-102「ゆきかぜ」

新三菱重工業神戸造船所で1954年(昭和29年)12月17日に起工され、
1955年(昭和30年)8月20日に進水、1956年(昭和31年)7月31日に就役、
横須賀地方隊に編入されました。

1963年(昭和38年)には翌年公開された本作品の撮影ロケが行なわれ、
先代の駆逐艦「雪風」として登場しました。

旧海軍時代、「雪風」には艦番号はなかったわけですし、
艦体に書かれる艦名も当時はカタカナだったのですが、
「ゆきかぜ」はまだ運用中だったので、書き換えるわけにもいかず。


SS-501は現在では「そうりゅう」の鑑番号ですが、
ここに写っているのは他でもない海上自衛隊の「くろしお」
アメリカ海軍から借り受けた「ガトー」級潜水艦USS「ミンゴ」です。



ヒロイン役には岩下志麻、当時22歳。

ちなみに、開始からここまでの経過時間は4分30秒です。

■ 進水式



昭和14年(1939年)3月24日。
ここ佐世保海軍工廠で一隻の駆逐艦が生まれようとしていました。



このシーンのロケは石川島重工業で行われました。
実際の護衛艦の進水式が行われたところが撮影されています。
この護衛艦が何であるかはわからないように、滑り出した艦体が
ちょうど鉄塔の影に隠れたところが映し出されています。



進水式会場の横手では祝賀会が行われていました。



祝賀会といっても賓客が参加するものではなく、
石川島重工の社員たちのためのささやかな宴席のようです。

自分が手がけた船が初めて水に浮かぶのを見て感激し、
思わず涙してしまうのは工員、木田勇太郎。


「世界一の駆逐艦だからなあ・・」

ちょっと待って。
後ろにいるフネ、もしかしてこれは艦番号184?
ということはこれは「ありあけ」型護衛艦の「ゆうぐれ」DD-184
アメリカ海軍から貸与された駆逐艦「リチャード・P・リアリー」ですね。

そしてその手前は・・・艦番号103?
ということは「あやなみ」DD-103でしょうか。

そして、注目していただきたいもう一つのポイント、
それは彼らが被っている帽子の「IHI」のマーク。

今でこそ同社は石川島播磨重工業、つまりIHIですが、
1945年に石川島重工業株式会社となるまで、この頃は、
まだ東京石川島造船所株式会社という社名だったはず。

しかも、実際の「雪風」は佐世保海軍工廠で建造され、
護衛艦「ゆきかぜ」の建造は新三菱重工業神戸造船所と、
つまりIHI全く関係ないし!というツッコミどころ満載です。

しかしまあ、「ゆきかぜ」はこの映画の少し前、
石川島重工業東京工場で特別改修大工事を行なって生まれ変わっていますし、
進水式会場をロケに提供してくれたので、映画の方も実際にはありえない、
「佐世保工廠の人間が『IHI』のついた帽子着用」
ということでスポンサーの宣伝をしたということでしょう。

いわゆる一つの「大人の事情」ってやつです。



「進水しても完全に成功するまでは後一年が勝負ってとこだ」

「それなら『雪風』を設計した山川少佐なんぞ、
当分安心して寝てられないってわけですね・・・」


そこにちょうどやってきた山川少佐。
「雪風」を設計した技術少佐という設定ですが、「雪風」は
「陽炎」型駆逐艦なので、この艦だけの設計者というのは少し変です。

ちなみに、「陽炎」型駆逐艦は、「雪風」と擱座・自沈した
「天津風」以外の17隻全てが戦没しています。


山川少佐を演じるのは菅原文太。
この頃は爽やかな好青年キャラを演じることが多かったですね。

「これからも頑張ってくれたまえ」

と微笑みながら工員と握手する少佐。
ふと木田勇太郎の顔を見て、

「ああ、君は、いつも歌を歌いながら作業をしていた・・・」

てへっ(長門勇30歳)

次の瞬間、なぜかどこかへと駆け出していく木田。



「あいつ、感激すると便所に行きたくなるんです」

うーん・・妙なキャラ設定だ。


IHIの協力はこれだけでなく、建造中の自衛艦でのロケもしています。


「雪風」で作業中の木田らが何気なく立ち話をしていると、
上から何やら大きな鉄材が落ちてくるのですが(おいおい)、
ちょうどやってきた山川少佐が木田を突き飛ばして彼は難を逃れます。
佐世保海軍工廠、たるんどる。

「危なかったな」

「ありがとうございました。命が助かりました」


「機材はどうでもいいが君たちの身体に何かあってはいかん」

いや、それより皆、ヒヤリハットの原因を突き止めようよ。

「全くお前ってやつは運の強いやつだなあ」

これは「雪風」の強運を暗示しているつもり・・なのでしょうきっと。


山川少佐が「雪風」のMk.30、38口径5インチ単装砲を・・・
じゃなくて、五十口径三年式十二糎七砲の中を覗き込んでいると、
酒瓶を抱えた木田が駆け寄ってきました。

お礼に支給されたお酒を受け取ってほしい、という木田に、
山川は気持ちだけ戴くから故郷に持って帰りなさい、といい、
木田同様「雪風」に対し特別な思いを持っていることを打ち明けます。

そこで木田は、愛する山川少佐のために決心をするのでした。

「わしゃ海軍を志願します。
ご安心ください。『雪風』は必ず私が守ります!」



どうなる木田勇太郎!

というか、映画が始まって10分しか経過していないのに、
ブログエントリを1日分費やしてしまった・・・。

どうなる?

続く。




「フライング・スターズ」初期航空の乗客〜スミソニアン航空博物館

2025-07-30 | 航空機

1941年までのアメリカの航空輸送の進歩について、
前回は各航空会社が、当初の男性客室乗務員「スチュワード」から、
女性客室乗務員「スチュワーデス」を採用し始めた、
というところまでお話ししました。

■スチュワーデスの資格要件

ところで皆さんは「スチュワード」と聞くとどんな職業を思い浮かべますか?

おそらく、それはレストランや客船の男性従業員でしょう。
そして「スチュワーデス」は、というと、これはもう100%、
客室乗務員の名称であると誰もが答えるに違いありません。

元々スチュワードというのは船舶の司厨員のことであり、
イギリスの海運用語の「チーフスチュワード」が元になっています。

パンナムが航空界にその言葉を持ち込んだということは前回述べましたが、
女性の客室乗務員が初めて航空の世界に登場したとき、
それを女性形にした「スチュワーデス」という言葉が生まれたのです。

ただ、その言葉が生まれた頃は名称が統一されていなかったので、
「エアホステス」を採用していた会社もありました。

「空中の女主人(客を招きもてなす人)」

という位置付けによる名称です。


1930年代、スチュワーデスの求人には多くの女性が応募しました。
ただでさえ大恐慌のご時世、客室乗務員は女性が就くことの出来る
チャレンジングで魅力のある数少ない仕事の一つだったのです。

この頃TWAが行った43名の求人に対し、2000人の応募がありました。

この流れで女性の客室乗務員は急速に男性乗務員にとって変わり、
1936年の女性の割合はほぼ全員というくらいにまでなっていました。

そんな狭き門となったスチュワーデスの応募資格とは次のようなものです。

小柄、体重約45~50kg、身長150~160cm
年齢20 ~ 26歳

なぜ小柄?と思いますよね。
これは、機内が狭かったことと、体重制限をかける必要があったからです。
これは暗に「痩せている」=容姿の良さを意味していました。

なお、合格した後は、年に4回の厳格な健康診断を受けなければならず、
完璧な健康状態とそれに伴う美しさを持続することが求められました。

この傾向はその後も続き、たとえば1966年のイースタン航空の要件は、

高校卒業者
独身(未亡人や離婚者でもいいが子供はいないこと)
20歳(19歳半から選考対象とする)

身長157.5cm以上175cm以下
体重47.6kgから61.2kg
身長に比例した体型
眼鏡なしで20/40の視力(0.5)

一番厳しいのが年齢です。
20歳しかダメ、ってことですよねこれ。やばいな。
その歳の離婚者や未亡人って(理屈上は存在するのかもしれんけど)。

身長がいきなり175cmまで緩和されたのは、この間に飛行機が大きくなり、
客席上の棚に背が低くては手が届かないと困るようになったからです。

相変わらず体重に制限がありますが、いくら規格内だと言い張っても、
身長158センチで61キロの人は見た目の問題でまずアウトです。

なぜなら、スチュワーデスになるための最も重要な要素の一つは、
ここでも誰もはっきり言わないけれど容姿と考えられていたからです。

当時、航空会社は女性の性的魅力が利益を増やすと単純に考えていました。

そのため、制服は動きやすさよりも女性らしさをアピールするもの、
体にピッタリフィットする制服や、白手袋、ハイヒールとなりました。

当時の社会がどうして既婚者を忌避したのかは、
まあ色々な理由が考えられるわけですが、ここでは置いておいて、
当時のアメリカで、既婚女性は労働から締め出されており、
そんなことが一切関係なさそうな看護師ですら未婚が条件で、
結婚すればそれは解雇される(退職する)のが常だったのは、
今にして思えば隔世の感があります。

そして、未婚であっても年齢が32歳を超えたら解雇、
体重規定を超えれば解雇、もちろん結婚すれば解雇だったのです。

この婚姻禁止規則が撤廃されたのは、1980年代でした。

余談ですが、体重制限といえば、亡くなった女流ピアニストのN氏が、
搭乗した航空機の客室乗務員の太った体型に激怒し、

「あなたのようなプロ意識のない人にサービスされたくない!」

とサービスを拒否したという内部告発?を読んだことがあります。

実はそのとき、N氏が体重コントロールに苦しんでいたという噂もあるので、
太った乗務員に対し感情的にキレたんじゃないかと勘繰っているのですが、
それはともかく、どうして客室乗務員が太っていてはいけないのか、
それが「見た目」の問題以外にどういった不都合があるのか、
当時は誰もそのような感覚に違和感をもたなかったということなんですね。

今でこそポリコレやらなんやらで、ルッキズムは悪が主流となり、
年齢制限も体重制限も、航空会社の要件から外されました。

ただし、身長制限と視力はいまだに残されています。
先ほども言ったように、どちらもあまりに低いと仕事に支障が出るからです。

■ 空飛ぶスターたち



冒頭写真は、当時颯爽と飛行機に乗り、降り立つスターの姿です。
中でも一番目立っているのは、「アイ ラブ ルーシー」で知られる
ルシル・ボール(Lucille Ball)

ウェスタンエア エクスプレスの補助台に足をかけ、
なんと片手にタバコで降りてきたようですね。

この時代、航空会社が盛んに宣伝に使ったのがスターの乗客です。

航空旅行はハリウッドの有名人たちに人気でしたが、
彼らの雇用主はそもそも飛行機を安全だと考えていませんでした。

映画スタジオは、俳優の契約書に飛行を禁止する条項を頻繁に盛り込み、
特に映画撮影中は飛行を禁止していたくらいです。

しかし、1930年代半ばまでに、この強制は不可能だと気づき、むしろ、
スターを飛行機に乗せることの経済的価値を認識し始めました。
彼らのフライト写真は映画のプロモーションに使えることを知ったのです。

航空会社も、有名人が登場することで利益を得ました。
有名人の到着が写真に収められた際、必ず航空会社の名前が写りましたが。
それは決して偶然などではありませんでした。


ユナイテッドエアラインのスチュワーデスとウィル・ロジャース

ウィル・ロジャースは俳優、コメディアンその他多才な芸人で、
当時絶大な人気を誇り、ハリウッドでも最高のギャラを取っていました。

おそらくこの写真は、美人のスチュワーデスと一緒に、
国内1の人気者が写真を撮れば色々と捗ると周りが判断したのでしょう。

ちなみに彼は、1925年ごろからアメリカ国内を講演して回ったため、
その移動手段に初期の航空郵便機(大変危険だった頃)を使い、
初めてこの飛行機で東西海岸を横断した市民となりました。

そして、若くして(55歳)飛行機事故で他界しています。

友人が2機を合成して製作した飛行機にコラムのネタ探しのため同乗した際、
その飛行機が悪天候のため着陸に失敗して、二人とも即死しました。

彼の名前は出身地のオクラホマを中身に多くの場所に残されていますが、
オクラホマシティにはその名もウィル・ロジャース空港があるそうです。



キャサリン・ヘプバーンというと、スコセッシの映画「アビエイター」で
主役のレオナルド・ディ・カプリオが演じたハワード・ヒューズの相手役で、
ケイト・ブランシェットが演じたことを思い出します。

The Aviator (2004) Official Trailer #1 - Leonardo DiCaprio

わたしが印象的だったのは、初めて彼女が操縦桿を握り、
ヒューズの指示で障害物を超えた時に彼女が言ったこのセリフ。

Golly! - the Aviator

この後で、ヒューズはケイト(ヘプバーン)に、

「Gollyなんていう女は初めて見た」

というんですね。


この映画には現在お話ししている航空界の有名人、
パンナムのフアン・トリップ(アレック・ボールドウィン)、
TWAのジャック・フライなども登場します。


ユナイテッド航空から降りて同じポーズを決めるザ・マルクス・ブラザーズ

マルクス兄弟が何人いるかということについて、
わたしは今の今まで考えたこともなかったのですが、
オリジナルはなんと5人兄弟なんだそうですね。


3人でポーズをとっていますが、実はこのとき、
ユナイテッドのボーイング247には彼らの夫人たちも乗っていました。

・・ん?女性が4人いるけど、どういうこと?
右側3人が奥方連中で、タラップにいるのは女優かな?


一人の乗客がスチュワーデスにこう言っています。

「もし有名人が乗っていたら教えてもらえますか?」

しかし、実は彼以外は全員セレブリティだという・・。

この似顔絵は、アメリカ人ならわかるのだと思いますが、わたしには

ベーブ・ルース(左席2列目)
シャーリー・テンプル(左席3列目)
マルクス・ブラザーズ(右席3列目の3人)
ウィル・ロジャース(右席4列目)


くらいしか自信がありません。

右席一列目の女性はメエ・ウェスト(これは少し自信ある)
その後ろは「でかっ鼻」のジミー・デュランテかな?

■ スタジオから見たスターと飛行機の関係



青丸の中の文章です。

新聞が「空飛ぶスター」についてどう報じたか見てみましょう。
飛行以外に、スタジオはスターたちにどのような制限を課したのでしょうか?


そして記事のヘッドラインは以下の通り。

(右)「スタジオはスターの首を守ろうとするのをやめる」

英語でないとなんとも収まりのつかないタイトルですが、
つまり、スターが「首を壊しそうなアクティビティ」
飛行機、ポロ競技、ハンティングなど危険なスポーツ、果ては
喧嘩や乱闘が起きそうなナイトクラブ通いを今まで制限していたのを諦め、
彼らの裁量に任せるようになったというニュースです。

喧嘩が起こるからナイトクラブ禁止?

とちょっと不思議ですが、先ほどの映画「アビエイター」でも、
招待客ばかりのプレミアで、タキシードなど着こんだ客同士が
つまらない理由で殴り合いをするシーンが描かれていたと記憶します。

俳優の飛行機搭乗を制限しただけでなく、スタジオは
スターたちに数々の制限を課していました。

個人的な関係、個人的な露出、さらには俳優の言論の自由までも。

これらの制限はスタジオ契約を通じて強制され、契約には、
俳優がしていいことと悪いことを規定する条項が含まれるのが常でした。

ですから、俳優や女優は飛行機に乗るのも人目につかないようにこっそりと、
自分たちのスキャンダルに対しては、エージェントに多額の報酬を支払い、
マスコミにバレないように、噂が広がらないように腐心しました。

しかし時代は変わりました。

これらの写真が撮られた頃、映画界の半数は空路で全国を駆け巡り、
残りの半数はおそらく自分の船に船を調達していました。

ポロに興じたければ自己責任だし、クラーク・ゲーブルやウォレス・ビリー、
彼らのような「マンリー」なスターは、少しでも機会があれば
山岳地帯の奥地へ赴いて、幻の野生動物を追い求めるようになりました。

セレブリティのほとんど全員が、週に一度は「危険」な状況に身を置き、
お気に入りの夜の「スポット」では、しばしば拳が乱れ飛び・・。

いずれもハリウッドが強大化して、スターたちの力と影響が高くなり、
あまりにも大金を稼ぐ彼らを抑えることができなくなったからです。

スターとスタジオは、道徳的堕落条項に関する契約こそしていましたが、
はっきり言ってこれもほとんど意味を成していませんでした。

一応紳士協定を結ぶお行儀のいいスターもいて、例えば、
ジョージ・ブレントは、大の飛行機&ポロ好きですが、
映画撮影中は両方を控えることにしており、ディック・パウエルも、
自身のキャリアが確立されると、やはりこの両方をやめました。

ちなみに、当時映画会社がスターと交わした「約束」には
次のような項目があったといいます。

個人的な関係:
スターとしてのイメージを損なったり、世間の論争を巻き起こさぬよう、
許可なく結婚するのは禁止

個人的な出演:
特定の公的イメージを維持するために、服装や髪型、社交活動を制限

言論の制限:
特に政治や社会問題に関して公の場で発言することを制限

その他の契約上の義務:
収入、旅行、休暇などをスタジオが管理できる

飛行機やスポーツは、徐々に緩和されていったようですが、
発言などに関しては相変わらず暗黙の了解以上の制限があったようです。

しかし、このことが、100年経った後も、当時のスターたちを
今よりスターたらしめていたような気がするのはわたしだけでしょうか。

最近の例として、やめておけばいいのにSNSで政治発言を繰り返し、
自分が支持しない側に対してケンカを売った映画の主役女優が、
アメリカの半分から嫌われて映画の収入が悲惨なことになりましたよね。
(まあ、失敗は彼女だけのせいではないとは思いますが)

もし「ウィアード、ウィアード」のあの女優が、当時のとまで行かずとも、
紳士協定的にSNSでの発言を控えるように会社から釘を刺されていたら、
そしてそれを破らなかったら、あの歴史的悲惨は避けられた気がします。

アメリカは、むしろ積極的に自分の政治思想を語るスターが多いですが、
自分の影響力で政治も動かしてやろう、という考えは、
あまりに短絡的で、アメリカ国民の知性を見くびっていると思うんだな。


続く。



「スチュワーデスの誕生」 プロペラ航空機全盛〜スミソニアン航空博物館

2025-07-27 | 歴史
スミソニアン航空博物館の航空旅客機シリーズ、
今日から1941年〜1958年のフェーズを見ていこうと思います。


この時代は、
「The Heyday of Propeller Airlines」
(プロペラ航空機の全盛期)

という言葉に象徴されます。

ところでなぜ1941年なのかというと、そう、
この年からアメリカは戦争に突入するわけですね。

航空輸送は第二次世界大戦中および戦後、劇的に変化しました。
新技術は高度なピストンエンジン航空機の開発を可能にし、
航法と航空交通管制の問題に対する新たな解決策をもたらします。

連邦政府の規制下で、少数の大手航空会社が引き続き支配的な地位を維持し、
その間も、航空需要は着実に増加していきました。

旅行時間の短縮と運賃の低下により、航空旅行がますます身近なものになり、
飛行体験(つまり乗り心地ですね)も継続的に改善されていきました。

そして、1955年、アメリカ合衆国で航空機を利用する人の数が、
鉄道を利用する人を上回る日がついにきたのです。

1957年までに、大西洋横断の手段は完全に客船から飛行機に代わりました。

■ 機長(キャプテン)の「権限」


パイロットには、その地位の象徴として、軍隊風の制服が支給されました。

パン・アメリカン航空は、豪華客船のサービスをそのまm継承し、
飛行艇を「クリッパー」と命名し、パイロットを「キャプテン」と呼び、
乗務員に海軍式の制服(白い帽子、紺色のダブルブレストジャケット、
袖口に階級章付き)を着用させ、他の航空会社もこれに倣いました。

これらの慣習の多くは、現在も続いており、この頃のパイロットの制服は、
100年経った今日もほとんど当時と変わっていません。


トランスコンチネンタル&ウェスタンエア(TWA)のパイロットが
1931年に着用していたジャケットと帽子です。

帽子のエンブレムに、TWAの始まりとなった鉄道路線のシンボル、
「チーフ」という愛称のネイティブインディアンがあしらわれています。

1920年代後半まで、パイロットはオープンコックピットの航空機で飛行し、
フライングスーツ、ヘルメット、ゴーグルを着用していましたが、
時代が進んで閉鎖式コックピットが採用されるようになると、
このT.W.A.パイロットの制服のような「普通の」服装が可能になりました。



ちなみに、パンアメリカン航空は、航空の世界に初めて「キャプテン」
「スチュワード」などの海事用語を持ち込んだ会社です。

これは、飛行機を「空飛ぶ船」に見立てたところから始まっており、
そういった雰囲気は、豪華客船の旅に慣れた当時の顧客を惹きつけました。


ボーイング307機内で、パンナムのファーストオフィサー、つまり
副操縦士が、振り返ってフライトエンジニアと話しています。

フライトエンジニアは、航空機エンジンとシステムの専門家で、
いわば彼の「メンター」に当たり、この役目は今も変わりません。


この 1938 年の身分証明書は、イースタン航空のローレンス W. ティートに
発行されたものですが、何が書かれているかというと・・・

これは、
ローレンス・W・ティートが
ノースアメリカン・アビエーション株式会社の
イーストタン・エア・ラインズ部門の従業員であり、
その職責において、ルート5、6、10および20において
米国郵便物(普通郵便物および登録郵便物を含む)
を扱う権限を有することを証明するものです。

その職務の遂行および米国郵便の保護のため、
郵便局長(1921年4月)の命令により、
勤務中は武器を携帯することが許可されています。

証明者:(担当者サイン)オペレーションマネージャー

このカードは、会社役員および指定された従業員が署名した場合に限り、
身分証明として有効です。

このカードは1938年12月31日以降無効です。

機長の権限は、飛行機では絶対です。

■ スチュワード

イーストエアラインズの客室乗務員、1938年頃

海運業界の伝統に倣い、イーストエアラインズは
客室乗務員向けにこの特徴的な制服を制定しました。

ジョン・ブリズデンインは、1930年代後半、
DC-3型機での勤務の際、この制服を着用していました。
3本の赤いストライプは、彼の3年間の勤務年数を表しています。

イーストエアラインズは、スチュワーデス、女性客室乗務員を導入した
最後の大手航空会社の一つでした。

女性乗務員導入は第二次世界大戦により男性乗務員が不足したためでした。


この頃の機内アメニティです。
TWAのダグラスDC-2で渡される「オーバーナイトフライトバッグ」は、
トランジットが深夜になる客のために用意されました。



手前のは、離着陸時の耳鳴り防止に配られるチューインガムのケースです。
(ハッピーランディングというのは商品名?)

アメリカン航空の夜間飛行用バッグ、1935年

アメリカン航空は、カーチス・コンドル、
後にダグラス・スリーパー・トランスポートに搭乗する乗客に
この夜間飛行用アメニティバッグを配っていました。


■ 史上初の”スチュワーデス”


1927−1941のパネルにも登場したこの愛らしいスチュワーデスは、
世界初の女性客室乗務員として記録されています。

アイオワ州出身の看護師、エレン・チャーチ(1904-1965 )は、
もともと民間航空機のパイロットを夢見ていました。

しかし、当時の女性には無理だと悟った彼女は、なんと、1930年、
ボーイング・エア・トランスポート社のサンフランシスコ支店長に、
看護師を搭乗させるべきだと自分を売り込んだのです。

「女性看護師の存在は乗客の飛行機に対する不安を軽減するのに役立ちます」

こういってチャーチは支店長を説得しました。
そのころの航空雑誌には、彼女を後押しするように、

「航空旅行はまだまだ未知の体験なので、
統計が安全性を示しているにもかかわらず、
機内に女性乗務員がいることによる心理的な効果は極めて大きい。」

という意見を掲載しています。

こうして航空機に乗り込むことが決まり、1930年、
彼女はオークランドとシカゴ間のスチュワーデスとして飛行しました。

ちなみにこのとき彼女に説得された支店長、スティーブ・スティンプソンは、
このアイデアを受け入れただけでなく、後にお見せする
世界初のスチュワーデスの制服のデザインも手がけています。



このときBATは彼女を主任として、続いて7名を採用しています。
写真はチャーチを入れた8名で(チャーチはおそらく左から4番目)
ユナイテッド航空の「オリジナル・エイト」と呼ばれました。

BATが「スカイガール」と呼んだスチュワーデスの条件は以下の通り。

登録看護師であること
独身
25歳未満
体重52キロ未満
身長163センチ未満


どの条件も、今日なら色々とアウトです。(特に独身)

最初のスチュワーデスの制服
ボーイング航空輸送機、1930年(レプリカ)

支店長スティムプソン(たぶんおじさんだよね)がデザインしたという
最初のスチュワーデスの制服は、濃い緑色のウールで作られ、
緑とグレーのウールケープが付いていました。

このレプリカは、ユナイテッド航空が、最初のスチュワーデスである
エレン・チャーチと、ユナイテッド航空の「オリジナル・エイト」と呼ばれる
女性客室乗務員の記念として製作し、寄贈されたものです。


さて、パイオニアとなったエレン・チャーチでしたが、勤務開始後、
わずか18ヶ月で自動車事故に遭って現役を離脱してしまいます。
その後は回復しても現場に戻らず、大学で看護学を納め、
学士号をとって看護師に復帰してバリバリ仕事をしました。

第二次世界大戦中は陸軍看護部隊で大尉として勤務し、
この功績に対し、航空勲章を授与されました。

ついでながら、戦後は病院の管理者にまでなり、1964年、
テレホート第一国立銀行の頭取と熟年結婚を果たし、悠々自適の老後、
と思いきや、結婚の翌年、乗馬事故で60歳の人生を閉じています。




1935年、テルマ・ジーン・ハーマン(Thelma Jean Harman)
TWA初のスチュワーデスとなりました。

フォード・トライモーターズ機に搭乗し、ニューヨークからロサンゼルスまで
TWAの「リンドバーグ・ライン」を飛行する際に着用した夏用制服です。

アメリカン航空、1936~1937年

アリス・ランバートは、アメリカン航空でカーチス・コンドル、
ダグラスDC-2、DC-3に搭乗する際にこの制服を着用しました。



パンナム航空が始めた海をテーマにしたスタイルに倣い、
アメリカン航空は自社の航空機を「フラッグシップ」と呼び、
その「艦隊」であることを意味した

FLAGSHIP FLEET

という言葉は制服の左袖に社旗と共に示されています。

アメリカン航空のスチュワーデス・キー

スチュワーデスのアリス・ランバート・コーカーは、
1930 年代後半にアメリカン航空で飛行していたときに、
この荷物室の鍵を所持していました。


続く。


西海岸に到着〜今年のアメリカ生活始まる

2025-07-24 | アメリカ
  参院選挙が行われた週末、わたしはアメリカで時差ボケと戦いつつ、
インターネットで選挙結果を見ていました。

今回の選挙、投票日にはもう出国している予定だったので、
わたしは期日前投票を済ませたのですが、会場の区役所で驚いたのは、
平日の午後だというのに、投票に来ている人が結構多く、
投票用に設られた部屋に入るのに、列を作って待ったことでした。

そして、開票後のニュースでも言われていたように、
わたしもそのとき投票に来ていたのは若い男性が多いと感じました。

ちなみにわたしが投票した候補者は個人、比例2名とも当選しました。

■ 離陸〜Cクラスの命名由来



今回は羽田空港を夜出発する便です。
ラウンジは前回に比べるとガラガラといっていいほど空いてました。
去年のはいわゆる「コロナリベンジ渡航」だったのかもしれません。


今回の機材のCクラス座席は、比較的狭目のタイプでした。
(座席をフラットにして寝ると両腕が脇に落ちるというあれ)

ただ、備え付けヘッドフォンはイヤーパッドの大きいのにバージョンアップ。
耳に被さるか被さらないくらいの今までのに比べると、
長時間使用してもあまり疲れなくなったのかもしれません。

ところで「Cクラス」と言えば、今まで何となく使ってきた、
ビジネスを表す「Cクラス」の名称が、先日来当ブログで語ってきた
パンアメリカン発祥であるのをご存知だったでしょうか。

わたしは恥ずかしながらこのことに今日まで疑問を持たずに来たので
「C」はパンナムの「クリッパー」の頭文字だったと知り、
散々ブログでクリッパー連呼した直後だったのでそれはもう驚きました。

ちょっと解説しておきます。

先日来、スミソニアンの展示をもとにお話ししてきた旅客機の歴史で、
草創期の旅客機は、それそのものが特権階級専用、つまり

「飛行機に乗ること自体がファーストクラスだった」

「しかしその後運賃に差異化をつけるためクラスを分けるようになった」

と説明しましたね。

時代は降り、規制緩和なども起きて、1970年代に「ジャンボジェット」こと
ボーイング747型機がデビューし、団体割引運賃が導入されだすと、
エコノミーの航空券価格はどんどん安くなっていきます。

そうすると、エコノミーとファーストの料金差がさらに開いてしまって、
その中間が必要になり、「ビジネスクラス」相当が誕生したとされています。

で、その名称の「C」クラスですが、新しくできた中間クラスに、
パンナムは「クリッパークラス(Clipper Class)」と名付けていました。

これが世界中の航空会社に広まり、いつのまにかビジネスクラスを表すのに
「クリッパー」の頭文字「C」を当てはめるようになったのです。
(というのが最も有力な説だそうです)

これに倣い、JALやANAなど日本の航空会社でも、
ビジネスクラスの航空券は「C」で表示されて今日に至ります。

「クリッパー」という言葉に大変思い入れのあったパンナムは、
この名前をパンナムの「代名詞」にしていたこともあって、
       機体の愛称や、コールサインなどでもこの言葉を使用していました。



今回のアメニティケースは、英国のレザーメーカー、
エッティンガーの提供によるものでした。

前回は同じブランドのオレンジでしたが、今回は綺麗なアジュールです。
前回、アイマスクも耳栓もなく、何故かANAのエコバッグと保湿剤、
リップバームだけで『?』となったものですが、今回はフル装備でした。

エコバッグなんぞいらん、アイマスクと耳栓欲しいという声があったと見た。



ANA機内の安全説明は、長らく好評だった「歌舞伎バージョン」から
いつのまにかポケモン総出演バージョンになっていました。


左上の灯りが見える部分はANAのラウンジです。


この日の離陸は出発便が混んでいるらしく、小一時間待機させられました。

ようやく動き出して今から滑走路に入ります。


iPhoneのカメラ機能の向上には驚きます。
もちろんiPhoneでの比較ですが、昔はこんな写真絶対撮れませんでした。
右側に見えるのが今飛び立ったばかりの空港です。

■ 機内〜映画と食事


機内では、

「アプレンティス〜ドナルド・トランプの創り方」

という話題作?を観てみました。

何というか・・・・・ひでえ(呆然)

「アプレンティス」(弟子)というタイトルは、デビューしたばかりの、
初々しい青年だったトランプが、有名な法律家だったロイ・コーンを、
師としてそのやり方を学んでいったということを表しています。

ロイ・コーンは思想を徹底的な反共とするやり手検事として、
ローゼンバーグ事件の裁判で二人を処刑まで追い詰めた人物であり、
トランプはその非情なマインドと、強引で時には悪辣なやり口を学び、
不動産業でトップを極めると、今度は落ちぶれたコーンを切り捨てます。

父と一緒になって航空機パイロットだった兄を冷たくあしらったり、
(兄は精神をやられ自殺する)一目惚れした最初の妻に飽きると浮気三昧、
合間にはお腹の脂肪を取ったり、増毛治療を行なったり、
といった恥ずかしいこともあからさまに語られます。

驚くのは、この映画が大統領選挙1ヶ月前にリリースされたということ。
作品が選挙結果に影響を与えることを期待したのが明らかです。

まあ、選挙結果を見る限り、あまり効果はなかったようです。
元々トランプ嫌いな人はともかく、好きな人やどちらでもない人は、
意図があからさますぎて作品と製作者に不快感と反発を持つに終わり、
つまりこの映画で投票先を変える人はいなかったんじゃないでしょうか。

何しろ映画としてその作品の質を論じる以前に、
制作者がトランプが大嫌いであることしか感じられない作品です。

そこには対象にした人物の真実を描こうというより、徹底的に悪魔化して
人格を何とかして貶めたいという底意地の悪い目線しか感じられない、
(なまじ説得力があるだけに)色んな意味で後味の悪い映画でした。



夜間初の便なので、機内食は朝ごはんのみです。
最近ご飯(米)を食べるのに「凝って」いるので、和食をチョイスしました。

■ 到着


着陸準備のコールがかかったので窓の外を見ると、
いつもより5倍増しってくらいの雲が海岸から地表に覆い被さっていました。

このせいなのか、このところずっとベイエリアは気温が低いそうです。
ちなみに今いるサンタクララでは気温22℃。
夜間は15℃くらいまで下がり、もう寒いくらいです。

蒸し暑い日本から来た身には心からありがたい気候です。


西海岸上空に到着すると、飛行機は海岸線に沿って南下するのですが、
このとき、去年MKが卒業した大学の上空を通過します。

卒業ガウンをきたMKと友人の撮影会をしたのもまるで昨日のことのよう。



Uターンして北に向きを変え、空港に近づくと、
いつものサンマテオのスラウ(湿地帯)が見えてきます。

右下、自分の乗っている飛行機の影が海面に写っているのに気づきました。


サンマテオブリッジ。

陸と陸を結ぶ高速の車道は海面とほとんど同じ高さに設計されています。
ここでは地形的に津波も高波も起こらないからです。



空港でターンテーブルから受け取ったスーツケースを見て声を失いました。
凹んでます。
しかもご丁寧に穴まで開いてます。

多少の凹みなら我慢できるけど、流石にこれはなあ。
いったいどんな扱いをしたらここまでリモワが破壊できるのか。

って、多分これ、ぶん投げたよね。
空中を放り投げたら落下したところに出っ張りがあったとか?

早速空港と、クレジットカード会社に連絡したところ、
相当の金額を保証するか、あるいは日本に帰国した後、
リモワが直々に修理してくれるということになりました。

アメリカの空港職員、乱暴すぎ。
ちなみにデルタ
Throw the luggage! 受託手荷物を放り投げる空港職員

■ Airbnbに到着



飛行機の遅延と高速の渋滞で、予定より2時間遅れでAirbnbに到着。
今回選んだ家は、サンタクララの住宅街にある建売住宅です。


玄関のドアを開けるとこのピアノとソファ、エアロバイクのあるフォイヤー。

今回のこの宿の決め手はこのピアノ。
オーナーが使っていたというアコースティックです。



フォイヤーから階段を上がると、リビング&ダイニングがあります。



手前にはアメリカの家には珍しく小さなテレビ。

オーナーは「丁寧な暮らしアメリカバージョン」系の人らしく、
隅々まで掃除と気遣いが行き届いています。
今まで泊まってきたAirbnbで、この点ベストかもしれません。


キッチンの備品は多すぎず、少なすぎず。
洗剤やケチャップなど、消耗品には新品を入れてくれる気配りです。
食洗機はBOSCHというのも評価高し。


アメリカのファミリー向け一軒家、とにかく広いです。



二階、いや三階に寝室が三つあります。
踊り場に架けられた絵も部屋の雰囲気にピッタリ。



奥はメインのベッドルームですが、オーナーの私物入れのようで
鍵がかかって「開かずの間」になっています。



借りている寝室その1。わたしの部屋になりました。



寝室その2。
こちらのベッドはエアマット、つまり空気を入れて膨らませるタイプ。
デスクがあるので最初わたしはここにする予定でしたが、
TOがその1寝室のベッドでは寝返りが打ちにくいとか、
なぜかエアベッドの方が楽だというので二日目から部屋を交換しました。

わたしはキッチンのカウンターで立ってPC作業をすることに。
アメリカのキッチンカウンターはちょうどスタンディングデスクの高さです。


お風呂は寝室の集まった三階にあります。
洗濯乾燥機はこの前の部屋にあって非常に便利。


Wi-Fiの名前は「Nature」だし、ZENな雰囲気のオブジェもあるし、
どうやら後ろの絵はオーナーかその家族が描いたものだし、
・・・つまりそういう系統の趣味の人の家であることがわかりました。

隅々まできちんと整頓され、清潔なのも、この人ならという感じ。


到着した夜、MKに会いにアパートまで行きました。
前回はなかった玄関のこの絵、「友達に描いてもらった」そうです。



買い物をして帰り、MKは手早くご飯を作ってくれました。

チキンにオニオンのソースをたっぷりかけたものに
サイドはベビーブロッコリー。

仕事が忙しいので、平日はお店やデリバリーに頼りがちとはいえ、
週末は料理を楽しんで作っているということです。
ご飯もいつもしっかり食べているそうで、安心しました。

さて、今年もまたカリフォルニアでの生活が始まります。

続く。






「フアン・トリップの地球儀」テクノロジーの勝利 〜スミソニアン航空博物館

2025-07-21 | 航空機

■ パンアメリカン航空の隆盛

フアン・T・トリップの指揮の下、パンアメリカン航空は
米国の国際航空会社として優位を占めるようになっていきます。

同社の有名な「クリッパー」は、中南米に就航し、
大西洋や太平洋を無尽に横断しました。

1939年には、いよいよボーイング314飛行艇による
定期大西洋横断サービスを開始しました。



前回、空の豪華客船、ボーイング314についてお話ししましたが、
そのジオラマの上にあった模型について触れておきます。



314の上に3機がありますが、まず、


シコルスキーS-40 アメリカン・クリッパー


パンアメリカン航空発の大型飛行艇で、同航空のクリッパー機群の
いわば旗艦と位置付けられ、「アメリカン・クリッパー」として
3機生産され、主にワシントン周辺を飛行していました。




38の座席と6名の乗務員を擁するシコルスキーS-40飛行艇は、
当時、米国最大の旅客機でした。
製造されたのはわずか3機でしたが、
その後のパンアメリカン航空の航空機すべてに付けられた
「クリッパーズ」という名称の最初の機体として、
今もなおその名を残しています。



前々回にご紹介した、マーティンM-130 「チャイナクリッパー」です。

1927年に設立されたパンアメリカン航空は、飛行艇と陸上機を使用して、
ラテンアメリカ全域に定期商業サービスを開始しました。

1935年に、フアン・トリップはこれで
初の定期太平洋横断サービスを開始しました。

ちなみに、パンナムの「クリッパー」は、
1860年代の中国茶貿易のクリッパー船に敬意を表して名付けられました。

クリッパー船が当時最も速い船だったことを受けています。


ハワイ行き一泊の旅が278ドル。


シコルスキー S-42 

S-42型機により、パンナムの乗客はマイアミとブエノスアイレス間の
移動時間を大きく短縮することができました。



さらに、パンナムは1935年に太平洋、
1937年に大西洋を横断する予定のルートを調査するために
改良型のS-42型機を使用しました。

ただ、パンナムは国際線の独占権と引き換えに国内線から締め出されます。
海外独占は第二次世界大戦まで続き、国内線制限は1978年まで続きました。

■ トライアンフ・オブ・テクノロジー


航空機と航空技術の向上は、
低迷していた航空業界の活性化に重要な役割を果たしました。

1930年代半ばは航空会社にとって困難な時期でした。
連邦政府あ航空業界を支配していた大企業を解体し、
航空会社への補助金を削減したため、航空輸送規制は混乱状態だったのです。

この困難な時代に生き残るために、航空会社はより大きく、
より良く、より速い飛行機を求めました。

安全性と効率を高めるために、新しい航法・通信機器も必要です。

そして航空業界はこれに応えました。
1930年代後半までには、最初の近代的な高性能旅客機が登場します。

上の写真はボーイング247。
「近代初の旅客機」という名に相応しいこの機体は、
1933年にユナイテッド航空で就航を開始後、
航空輸送に革命をもたらしました。


このDC-2はボーイング247に対抗するために作られました。

ダグラス・エアクラフト社は、B247の競合機としてまずDC-1を開発。
DC-1は、B247よりも大きく、快適で、12人乗りでした。
さらに座席を14席に増やし、DC-2と改名したこの飛行機は、
競合機(つまりボーイング247)を簡単に凌駕しました。

その後、ダグラス社は、ジェット機時代が到来するまで、
アメリカ国内の航空機製造を独占することになります。

■ 航空交通管制の始まり

航空旅行の普及に伴い、国内の航空路、
特に空港周辺における航空交通管制の必要性も高まりました。

航空会社は最初に自社の航空交通を管理するシステムを開発しました。
しかし、1930年代半ばに発生した一連の重大な事故、特に
ニューメキシコ州上院議員ブロンソン・カッティングが死亡した、
DC-2の墜落事故
は、航空交通管理システムの必要性を浮き彫りにしました。

事故現場

1935年5月6日、アルバカーキからワシントンD.C.へ向かう途中、
ミズーリ州アトランタ近郊の悪天候により、
TWA6便(ダグラスDC-2 )は墜落し、操縦士2名と乗客3名が死亡しました。
搭乗者数は8名で、3名が救助されたことになります。

この事故の直接的な原因は、霧と暗闇の中で飛行機が低高度で飛び、
視界を失った結果地面に衝突したことでしたが、
まず、天気予報が気象の変化を予測できていなかったこと、
飛行機の双方向無線が夜間周波数で機能しておらず、不通だったのに
地上職員が飛行機を呼び戻差なかったこと、そして
通信ができないのにパイロットが飛行を続けたことなど、
いくつもの要因が重なった結果だと調査の結果わかりました。

カッティング上院議員の死は全国的に衝撃を与え、このことから
議会は航空交通安全に関する委員会の報告書の提出を求めます。

連邦政府はこれに対応し、1936年に商務省が
航空交通管理の全国的な責任を引き受けました。


これが、事故後建てられたアメリカ初の管制塔です。

地上と空中、および空中と地上の無線通信を初めて採用した管制塔は、
1930年にクリーブランド空港に建設されました。


1929年にエアクラフト・ラジオ・コーポレーションによって設計された
ARCモデルDは、最初の商用ナビゲーション受信機でした。


航空機用に開発された最初の軽量無線送信機(トランスミッター)です。

ループアンテナを搭載しており、なんとこれを
信号の方向を特定するために回転させることができました。

この送信機は、従来の視覚的死角航法方法から置き換えられました。

パナマ・アメリカンのヒューゴ・レウテリッツが設計・製造し、
1928年にフロリダ州キーウェストとキューバのハバナを結ぶ
パナマ・アメリカンの最初の航路に導入され、安全性に寄与しました。


中央に飛行機の機体が描かれています。
スパーリー・ジャイロスコープ社によって開発された

自動方向探知機(ADF)

は、1930年代半ばに航空機に初めて搭載されました。

これらは既存の4コース無線測距システムに置き換えられました。
ここに展示されているのは、制御ユニットと表示器、
および流線型の筐体に収められたループアンテナです。

ADFは既知の固定無線送信機を検出し、
その位置を航空機に対する相対位置として表示します。

このシステムは、従来の4コース制システムに比べ柔軟で正確でした。
また、計器着陸法の開発にもつながり、パイロットは夜間や悪天候時も
滑走路を特定するための大きな助けになります。



1930年代後半から1940年代に製造されたほとんどの航空機、
ダグラスDC-3などを含むものは、特徴的な「フットボール」形状の
アンテナハウジングを備えたADFを搭載していました。

■ ボードゲーム「フライング・ザ・ビーム」



「フライング・ザ・ビーム」ボードゲーム

航空旅行の人気に便乗して、パーカー・ブラザーズは
航空界の新しい無線航法システムを分かりやすく説明するため、
1941年に「フライング・ザ・ビーム」を発売しました。

ゲームは、最初に無線航法システムを使用して空港に安全に着陸すれば勝ち。
ゲームピース(コマ)はゴム製のDC-3機でした。


ゲームボードはシステムの仕組みを視覚的に示しています:

- 無線ビーコンは、モールス信号の「A」(ドット・ダッシュ)と
「N」(ダッシュ・ドット)のパターンで信号を送信します。

- 信号が交差する点で、信号が結合して連続した音を生成し、
パイロットはこれを追跡して無線ビーコンの方向を特定できます。

- 航空機がビームの中心から外れると、「A」または「N」の信号が
パイロットにコースから外れたことを警告します。

- 範囲ビーコンの正確な位置は
「サイレンス・コーン」によって特定されます。


これを見る限り、むしろ青少年〜大人向けのゲームですね。

■ ファン・トリップの地球儀



スミソニアンに展示されている大きな地球儀は、パンアメリカン航空の社長、
フアン・トリップがニューヨークのオフィスで使っていたものです。

今回、ハワード・ヒューズの映画「アビエーター」を観直してみたところ、
アレック・ボールドウィン演じるフアン・トリップが、
この地球儀を見つめるシーンは2回出てきます。(扉絵は映画より)

確か2回目はトランス・ワールド航空をヒューズに売ることを迫り、
それが結果として失敗したと悟った時だったと思います。

彼はこれで自社の世界展開を計画していました。
トリップはよく地球儀上の2点間に紐を張り、
自社の旅客機がその間を飛行する距離と時間を計算したといいます。



1800年代後半に作られたこの地球儀は、
トリップの多くの宣伝写真で大きく取り上げられ、
パンアメリカン航空とトリップのパブリックイメージの一部となりました。

航空界の巨人というのは何人も存在しますが、
もしフアン・テリー・トリップがいなかったら、
現在私たちが当然のことと思っている航空輸送システムの進化は
まったく違ったものになっていたとまで言われています。

例えば、1950年代半ば、事実上すべての航空会社は、ピストン駆動機から、
タービンエンジン機へとに移行することを検討していました。

しかし、彼だけが、ジェット機の未来を見ていたのです。
しかもその未来がわずか2、3年先にあると予見できたのは彼だけでした。

1960年代の「ジェット時代」は、
この航空界の巨人なしにはあり得なかったといえます。

続く。


「ザ・314」空の豪華客船〜スミソニアン航空博物館

2025-07-18 | 航空機

前回、パン・アメリカン航空が太平洋に切り拓いた、
水上艇マーチンM-130クリッパーを使った郵便航路が、
旅客航路としてその戦略の足がかりになった話をしました。

前回の最後にご紹介したパンナムの社長、フアン・トリップは、
クリッパーに続き、ボーイングに後継機を注文し、
1936年にボーイングは「ボーイング314」をリリースします。

スミソニアンにはこの314の内部を余すことなく見せる
実に魅力的なジオラマが展示されていて、人目を惹いています。

この時代、多くの航空会社がこぞって水上飛行機を使いました。
前にも説明したように、空港インフラがまだ整っていない時代で、
世界最大の滑走路が使える飛行艇は実に理にかなっていたのです。

飛行艇(フライング・ボート)という名前は、これらの水上飛行機が
水上艦の竜骨に似た胴体下部を持っていることから名付けられました。

そして、飛行艇は第二次世界大戦前まで、太平洋横断飛行の主流でした。
アメリカから南米、ヨーロッパ、太平洋諸島、アジア、
そしてさらに遠くまで、他の飛行機が行けない場所に人々を運びました。

当時のほとんどの飛行機では不可能だった、
遠く離れた異国情緒あふれる場所に到達する航続距離、
積載量、そして何より優れた能力を備えていました。

世界の軍隊も同様に、この飛行機の能力を、
海域の哨戒や墜落した飛行士の救助のために使いました。

■ 贅沢さの極み、飛行艇の旅


全盛期には、商業飛行艇での旅はまるで
「クイーン・メリー2世」での航海に匹敵するものでした。

個室の寝室、銀食器のダイニングサービス、シェフが調理する食事、
白い手袋をはめたウェイターなど・・・、これらはすべて、
空の豪華客船で乗客が享受できる高級なもてなしの一部でした。

当然ながら費用も大変高額なものです。

1940年当時、サンフランシスコから香港までの片道航空券は760ドル、
現在の約1万5000ドル(日本円だと200万円くらい)でした。

豪華客船と違うのは、こちらが数週間かかるのに対し、
飛行艇では数日で目的地に到着できることでした。

飛行艇がもたらす空の贅沢さの象徴となったのはパンアメリカン航空でした。
19世紀の大海原を往来した壮麗な帆船をオマージュし、
同社の最初の飛行艇は帆船を意味する「クリッパー」と名付けられました。



パンナムの創設者、フアン・トリップは、自社の顧客を
高級蒸気船のファーストクラスの乗客と同じクラスであると位置付け、
スチュワードとパーサーによる最高のサービスを提供しました。

飛行艇は「キャプテン」と「ナビゲーター」によって運航されていましたが、
この名称は、あえて海軍と同じものを採用しています。

なぜなら飛行艇は豪華客船になぞらえられ、模倣されたからで、
船を操るクルーを海軍と同じ呼び方をすることはこの時代に始まりました。



これは、パンナムのクルーと本物の?海軍軍人が写っている写真ですが、
パンナムのクルーは海軍の冬服のような制服を着ています。

これは、わざと海軍に似せてデザインされていました。
時代が降ると、袖の階級章はまさに海軍と同じだったりします。


ボーイングが発注したボーイング314飛行艇は、
最大航続距離5,700キロメートル(3,500マイル)、
短距離のフライトでは乗客74名と乗員10名を乗せることができました。

元々大型爆撃機として製作されながら、実用化に至らなかった
XB-15試作機(ボーイング294)を叩き台にして設計されました。

XB-15はもちろん航空機であり飛行艇要素は元々全くありません。



スミソニアンの模型が大変素晴らしいので、
細部までここで紹介させていただこうと思います。

まず、コクピットから。
キャプテンとコーパイロットが席についています。


コクピットは客席の上階にあるのですが、このクルーは
飛行艇のノーズ部分の梯子を登ってコクピットに行こうとしています。
何か伝達があるのでしょうか。


コクピットの後ろにはフライトコントロールデッキがあります。
デスクに向かっているのは航法士(ナビゲーター)。


通信士が向こう向きに通信機器に向かっています。

314の成功において非常に重要視されたのは、クルーの熟練度でした。
長距離の水上飛行の操縦と航法に非常に長け、
最も優秀で経験豊富な乗組員だけがクルーと呼ばれました。

また人材育成のため、多くの太平洋横断便には
訓練中のパイロットを必ず載せていたといいます。
この写真で航法士の後ろに座っている人がそれではないでしょうか。

パンナムの機長、副操縦士(ファースト&セカンドオフィサー)は、
入社前に他の水上機や飛行艇で数千時間の飛行経験を積んでいます。

推測航法、時間計測による旋回、海流によるドリフトの判断、
天測航行、無線航法に関する厳しい訓練を経てきたクルーの腕は確かで、
霧に覆われ、視界が全く効かない状況下で、パイロットが着水を決行し、
その後機体を滑走させて港に無事たどり着いたという例もありました。

314の乗員は通常10名となっていましたが、
長距離洋上飛行における疲労を考慮し、
2交代制で最大16名まで増員することがありました。

シフトはパイロット、副操縦士2名、航法士、無線技師、
航空機関士、当直士官(『マスター』と呼ばれることもあった)、
および2名のスチュワードで構成されていました。



スチュワードの一人は、フライトコントロールセンターの下にある
ギャレーでカクテルの用意をしています。
後ろに人の姿が見えますが、これは、何か飲み物を取りに来た客でしょう。

スチュワードの制服の裾が短いのは、サーブの時に
裾が長いとテーブルに当たったりして邪魔だからです。


もう一人のスチュワードは、客室で注文を聞いているようです。
真ん中に棒立ちになっている女性はスチュワーデス?
と思われるかもしれませんが、この人は客です。

なんか手前のおっさんに指差しされて怒られているように見えますね。

彼女が乗務員でないと言い切る理由は、当時の飛行艇では
客室乗務員は常に男性でなければならなかったからです。

その理由は、夜間飛行の際にはベッドを準備する必要があり、
また緊急時には大型の救命いかだを扱う必要があるため、
女性には過酷な仕事であると考えられていたからです。

いかだはともかく、ベッドの用意がそんなに大変か?と思いますが、
おそらくかなりの力仕事だったのでしょう。


この315には定員以上のスチュワードがいるようです。
この人はまさにベッドをメイキングしているところですが、
カーテンを設置したりして、やっぱりかなり大変なのかもしれませんね。

この第5コンパートメントの上部は荷物置き場となっています。


現在の飛行機もファーストクラスは一番前にありますが、
314の一番前のコンパートメントも「ファースト」です。
しかし、ここがファーストクラスに相当するようには見えません。
なぜなら、このコンパートメントは8人掛けで、



ギャレーを挟んで後ろにあるセカンドコンーパートメントと
全く変わりはないからです。
(セカンドコンパートメントを表す説明のプレートが破損している)

むしろ、この狭いコンパートメントで向かい合って、
ほとんど膝がくっつきそうな椅子で長時間過ごすのが
いわゆるプレミアムクラスとはとても思えません。


そして、その後ろにあるコンパートメント。
ここは広いですが、実はメインラウンジです。

実は314、1から5までのコンパートメントは全て普通クラス。

これに乗ることができる段階で金持ち客であることは決定なので、
客席は皆平等に、普通クラスが並んでいるということなのです。


第4コンパートメントもご覧の通り。
こんな空間で1週間過ごすのもなかなか大変だっただろうな。
退屈してもうろうろしたりできないし、
人目があるからうっかりくつろぐこともできない・・。

この第4コンパートメントは、全室より高いところに設置されています。
飛行艇の機体の構造上後ろが上がっていくからですね。



で、この第5コンパートメント、たまたまここだけ
ベッドの用意がされているので勘違いしそうになりますが、
どのコンパートメントも、椅子の間にマットを渡し、
ベッドを作ることができる仕組みになっております。

でも、これを見る限り、一部屋に4人分しかベッドないですよね?
この飛行艇が満席になることは最初から考えてないってことでおk?


ここで314の客席階配置図をご覧ください。
1から5までのコンパートメントは全く同じ作りです。
そして、第6コンパートメントには、


椅子が二人分(=寝台一人分)奥に女性用化粧室があります。



もう一度先ほどの配置図を見ていただくと、
最後尾には「スイートデラックス」が設置してあるのがわかります。


スイートは、お金持ちばかりが乗るこの314の中でも、
さらに特別扱いされたい?超富豪用に用意してございます。

ゆったりと大きな4つの椅子とテーブル、
そして奥には専用の洗面台もございます。
流石にトイレは隣に行かなくてはなりませんが。

ちなみに男性用洗面所は、ギャレーの向こう側に用意されています。


絵による断面図。


模型よりこの実際の写真の方が広々していますね。
これはラウンジだと思いますが、ちゃんとテーブルが備えられています。

これは、1940年ごろの314の様子です。

1920年〜30年代にかけて、様々な形や大きさの飛行艇が開発されました。
数人乗りの小型機から、数十人の乗客を乗せられる巨大な飛行機まで。

さらに、当時の商業航空にとって、航空郵便は欠かせないものでした。
連邦政府と有利な郵便契約を結び、航空会社は
この発展期に十分な収益性を確保し、カリブ海、南米、
そして世界各地への路線を拡大することができました。

飛行艇は独特なスタイルの船です。

フロートプレーンは基本的にポンツーンに搭載された普通の飛行機ですが、
飛行艇は本質的に船と飛行機のハイブリッドです。

強風や荒波にも耐えられる丈夫な翼、そして、
荒波への着陸の過酷な条件にも耐えられるよう、
通常はボートのようなV字型の頑丈な船体を備えています。

このような「珍しい乗り物」の設計には、
全く異なる2つの分野の正確なバランスが求められました。

飛行艇は、陸上機に求められる性能、効率、強度、信頼性に加え、
水上艇の特性と飛行艇自体に特有の特性が求められます。


耐航性
操縦性
水上での安定性
水と空気に対する抵抗力の低さ
船体の構造強度


特に最後の構造強度は、離着陸だけでなく、航走時に
荒れた海面からかかる荷重に耐えられるよう設計されねばなりません。

つまり滑らかさと頑丈さを兼ね備えていなければなりませんでした。

これらの条件を踏まえた設計を成功させるには、
これら相反する性能の適切なバランスを見つけることが不可欠でしたが、
どちらかの分野で計算を誤れば、悲惨な結果を招く恐れがありました。

パン・アメリカン航空は、大洋横断路線の開設準備を進める中で、
まさにこうした課題に直面していたといえましょう。

続く。



水上艇チャイナ・クリッパー〜スミソニアン航空博物館

2025-07-15 | 航空機

今日は、1927年から始まった飛行機輸送の歴史の中から、
旅客機として活躍したある水上艇についてお話しします。

■ チャイナ・クリッパー


「チャイナ・クリッパー」とは、パンナム航空のために製造された
マーチンM-130飛行艇3機のうちの最初の1機に与えられた名称で、
他の2機は「ハワイ・クリッパー」「フィリピン・クリッパー」です。

クリッパー(Clipper)というのは「クリップ」にerをつけた、
「刈る人」「ハサミ」という意味ももちろんありますが、
19世紀の3本マストの快速帆船を意味するこの名前が、
グレン・L・マーチン製造のこの長距離飛行艇に付けられたというわけです。

マーチンM-130は、サンフランシスコーハワイのホノルル間の3,840kmを、
緊急着陸用の滑走路なしでノンストップ飛行できる世界初の旅客機でした。

■ 最初の太平洋横断郵便輸送

元々は、1935年にサンフランシスコからマニラに、
太平洋を横断する初の航空郵便航路のために開発され、
初飛行としてサンフランシスコのアラメダを離陸しました。


このときの真偽不明の噂に、ベイブリッジを越えられず仕方なく下を潜った、
というものがあり、確かにこういう飛行中の写真を見ると、
こいつは高いところは飛べないのではないか?と思われたのでしょうが、
これは都市伝説の類であるとわたしは断言します。


「エアメール」と書かれ、チャイナ・クリッパーが最初に搭載し、
太平洋を横断して運んだ郵便物。

まず、不思議なことに宛先はニューヨークのジョン・ソマーという人ですが、
スタンプはサンフランシスコとなっています。

さらに、左上には

「トランスパシフィックフライトのファーストコンタクト」

とあり、この手紙がその第一便であったことが書かれています。

機長と副操縦士など乗り組んだ全クルーのサインが書かれていますが、
下から2番目に、フレッド・ヌーナンという名前が見えます。

アメリア・イヤハートが行方不明となった最後のフライトに
ナビゲーターとして同乗して、一緒に遭難し消息を絶った人物です。

ヌーナンは商船隊で海事経験があるパイロットで、
クリッパーを最初にサンフランシスコ湾に着水させたのもこの人です。

チャイナ・クリッパーの初飛行の際、ヌーナンは
やはりパイロットとして乗り組んでおり、実際に操縦も担当しました。

ナビゲーターとしては先駆的な人物で、パンナムでも働き、
キャリアをアップさせようというとき、イヤハートに出会いました。


ベイブリッジを潜ったという噂が嘘であることを証明する写真。

ベイブリッジではなく、ゴールデンゲートブリッジを下に見ながら、
軽々と飛翔するチャイナ・クリッパー。

1935年11月22日、太平洋を横断する郵便輸送飛行に出発する姿です。
この出航式典はラジオで全米放送されていたそうです。


「クリッパー」は6日間に合計60時間の飛行を行い、
当初実質無人島だったミッドウェイ島とウェーク島に寄港しました。

これは、クリッパーの航続距離があまり長くなかったためで、
そのため、パンナムはこれらの島にホテル、ケータリング、ドック、
修理、道路、無線設備を整備する必要がありました。

クリッパーの航路はアラメダ離陸後、ホノルル、ミッドウェー、ウェーキ、
グアムを経由してマニラまで1週間かかるルートでした。

実際の飛行時間は59時間48分。
最速の蒸気船で同じルートを航海したら、2週間以上かかるところです。

これは香港までの航路を宣伝するもの

最初の航空郵便飛行には乗客はおらず、乗務員のみが搭乗していました。
積載物は11万1千枚の封筒で重さ約900キロ。
航空機に搭載された郵便物としては過去最大の量でした。

郵便局は、国中から届く当初の予想の3倍の量の郵便物に驚きました。
サンフランシスコの郵便局では、約100人の郵便局員が
クリッパーに積み込む数万通の手紙の準備に追われることになります。

積載された郵便物はほとんどが切手収集家のスタンプ目当てか、
「最初の飛行」で運ばれた郵便物を欲しがる人々が投函したものでした。

しかし、これが予想外の量になってしまったため、クリッパーから
もともと設置してあった乗客用の機内設備は取り外され、
数十個の郵便袋に郵便物を収納するスペースにせざるを得なくなります。


こうやってチャイナ・クリッパーが太平洋上を初飛行すると、
姉妹船のフィリピン&ハワイ・クリッパーも同じ航路を飛ぶようになります。

そしてその初飛行から1年後、クリッパーは旅客サービスを開始しました。

■ なぜ飛行艇(フライングボート)だったのか?



パンナムは、最初に航路の停泊地となったこれらの島や、他にグアム島にも
独自のホテルや施設を建設しており、観光客を誘致していました。

ところで、この時代、なぜこの飛行艇が選択されたのでしょうか。

まず、滑走路のコンディションに悩まされる必要がないためです。

この時代はまだインフラ設備が追いついておらず、
飛行場があったとしても整備が行き届いていないことが多かったのです。

また、緊急時には水上に着陸することも可能であるということが、
長距離の洋上飛行に対する乗客の不安を和らげました。

モルジブに旅行に行った方はご存知と思いますが、
あそこは小さな島に一つのホテルが建っていたりして、
島と島を結ぶ交通手段は、観光客の場合100%飛行艇です。

ここに旅行することになり、飛行艇で移動というプランを聞いた時、
わたしはなぜかすごく安心したのですが、
その理由は、まさにこの時の人々と同じだったと思います。

逆にグランドキャニオンの観光は、現地まで皆小型飛行機に乗りますが、
こちらは乗る前も、乗ってからもとにかく恐怖しかありませんでした。
(時々気流のせいで落っこちてるということを知っていたから尚更)

やはり、山間部を飛ぶのと、海上というのは全く気分が違います。


それから、このチャイナ・クリッパーを見て何か思いませんか?
そう、やたら機体が大きいでしょう。

冒頭のプロペラはチャイナ・クリッパーのものですが、
とにかくこれだけでもでかい。無茶苦茶でかい。

飛行機が重量制限しなければならない理由は、もちろん飛行するからですが、
それより、あまり重いと滑走路の長さで制限を受けることになります。

しかし、着陸ではなく海に着水するのですから、他の航空機よりも
大型で重量のある機体
を作ることができたというわけです。

パンアメリカン航空のラテンアメリカ路線のほとんどは
海岸沿いにあったため(というか飛行艇だから海岸沿いを選んだわけですが)
飛行艇は理にかなった選択だったといえます。

■ パンナム、大西洋横断の野望潰える


パンナムは航空便を手始めに、太平洋旅客路線を開拓しましたが、
実は太平洋横断は彼らの最終目標ではありませんでした。

同社の最終的な野望は、収益性の高い大西洋路線に乗り出し、
アメリカとヨーロッパを結ぶ航路を開くことだったのです。

マーティンM-130飛行艇は最初からそのために開発されたものであり、
実際、技術的にもそれは容易なことと思われていました。

太平洋飛行の最長距離 (サンフランシスコとホノルル間) は、386km、
大西洋横断の最長距離(ニューファンドランド-アイルランド間) は
それより60キロも短い322kmと楽勝の短さだったからです。

ドイツのツェッペリンの2倍の速さで飛ぶ飛行艇が誕生したとき、
この飛行船の時代は終わった、と誰もが思ったでしょうし、パンナムは
大西洋は我らのもの、とガッツポーズしたに違いありません。

しかし、パンナムが大西洋路線に乗り込んで、
ツェッペリンの乗客をやすやすと奪う未来は訪れませんでした。
(飛行船は全く別の理由で自滅する運命にありましたが)

パンナムの飛行艇を阻んだのは、技術ではなく🇬🇧イギリスの存在でした。

イギリスは、アメリカごときが大西洋横断航空路線を独占したり、
ましてや大英帝国に先んじることを心から望まなかったので(そらそうだ)、
イギリス本土や、大西洋を越えたイギリスが支配する飛び地
(大西洋岸カナダとバミューダ)への陸権を与えることを拒否しました。

イギリスがアメリカに大西洋横断路線の開設を認めるのは、アメリカが
大西洋をノンストップで運航できる航空機を開発してからのことです。

クリッパー飛行艇のラウンジ

ヒンデンブルグほど快適ではありませんでしたが、(快適だったんだ・・)
クリッパーはツェッペリン飛行船の2倍以上の速度を誇り、
当時の他のどの固定翼機よりも贅沢な空間を楽しむことができました。


寝台と洗面所なども完備していました。

しかし、当時799ドルの片道運賃を支払える人は滅多にいなかったため、
乗客は8人以上になることはなく、むしろ、ほとんどそれ以下でした。

こんなんじゃとても採算など取れなさそうですよね。


このハミルトン・スタンダード可変ピッチプロペラは、
マーチンM-130飛行艇チャイニーズ・クリッパーに搭載されていました。

ブレードの角度は、離陸時と巡航時の最適性能に合わせて調整が可能で、
これにより航空機の効率が大幅に向上しました。

エンジンは、

プラット・アンド・ホイットニー製、ツインワスプ 

1930年に設計された14気筒、800馬力のツインワスプエンジンは、
マーティンM-130チャイナ・クリッパーに初めて搭載され、
1935年にパンアメリカン航空の太平洋横断定期便の運航を開始しました。

ユナイテッド航空は、1937年に就航したダグラス DC-3Aに
1,000馬力のツインワスプエンジンを搭載しました。

ここに展示されているのは、DC-3シリーズで最も広く使用された
ツインワスプエンジンである、1,200馬力のR-1830-92軍用バージョンです。

ツインワスプエンジンは、大型航空機用エンジンとしては
最多となる17万3000台以上が製造されました。


■(宣伝)映画「チャイナ・クリッパー」

China Clipper - Theatrical Trailer (Warner Brothers, 1936)

なんと、そのものズバリのタイトルを持つ映画が見つかってしまいました。
トレーラーにどこかで見たことのある人が出ていると思ったら、
なんとハンフリー・ボガートでした。(但し彼の出演歴にこの作品名なし)

このいかにも宣伝くさい映画のプロットですが、簡単にまとめると、
リンドバーグの大西洋無着陸飛行に感銘を受けた主人公が、
新しい外洋飛行艇の建造と飛行に奮闘し、成功するまでの話。

妻と上司がなぜか当初反対するんですが、主人公は航空会社を設立し、
それを倒産させても怯まず、何度もチャレンジをします。

ハンフリー・ボガートは、主人公がカリブ海で郵便配達業務を始めたとき、
彼の仕事に参入する凄腕パイロットを演じているのですが、
主人公が夢中になりすぎて利己的な野望に執着し出すと、
彼の妻同様、彼の元を去っていくことになります。
(しかし、のちに太平洋路線が開始されると戻ってきて和解する)

そもそもチャイナ・クリッパーという名前は、
裕福で冒険心あふれる人々が太平洋を越えて東洋へ向かう豪華な空の旅、
というロマンをイメージして付けられたもので、
当時のアメリカ人にとってチャイナとは、どこか遠いエキゾチックな国、
というイメージの言葉に過ぎませんでした。

スタンダードナンバーに

「Slow Boat to China」

というのがありますが、この曲も、中国に行くスローボートに乗ったら
時間がたっぷりあるから、その間に君のことを口説けるだろう的内容で、
全く現実味のない地名として「チャイナ」が取り入れられています。

Peggy Lee & Bing Crosby - Slow boat to China


パンナム路線は当時イギリス植民地だった香港には寄港したものの、
実際中国への路線は開拓もしなかったわけですが、この映画では
「チャイナ」にちなんで、中国に行くような設定になっています。

で、映画では、クリッパーが中国沖に飛行中、激しい台風に遭遇し、
主人公が諦めかけた時、これをボガートが無事に着陸させるというわけ。

彼は多くを失いながらもついに大手との契約を勝ち取り、
ついでに最後に奥さんも帰ってきてめでたしめでたし、という内容です。

このストーリーは、クリッパーの開発者、フアン・トリップの伝記として、
パンアメリカン設立期に焦点を当てたもので、
パンアメリカン航空の協力のもとに、史実に割と忠実に描かれたそうです。

Juan Trippe(1899-1981)

チャイナ・クリッパーの飛行シーンは、あの有名な
スタント・パイロットのポール・マンツが行っています。

映画作品としての評価はいまいちみたいで、航空映画史家によると、

「かつて世界有数の航空会社であった同社の隠された広告」

という位置付けだそうです。

・・・「広告」。
やっぱり映画「作品」とは思ってもらえないクォリティってことですか。

続く。



ミサイル搭載巡洋艦「リトルロック」最終回

2025-07-12 | 軍艦

前回終わるかと思ったら、「ホーリーストーニング」で引っ掛かり?
またしても終わり損ねた「リトルロック」シリーズですが、
さすがに今日は最終回にしなければいけないと思います。



さて、この廊下を歩いてきたところに、こんな写真がありました。


ウィリアム・マーティン海軍中将

アメリカ第6艦隊司令官マーティン中将は、1968年、
この場所でスペインのバレンシア地方軍総督を接遇した。

この期間の軍総督が誰だったかは不明だが、その地位は、
統治下にある領土における国家元首または政府を代表する人物が務めていた。


「この場所」というのは廊下を曲がったところのこと。
これらのことを調べてみました。


マーティン、ウィリアム I.、海軍中将(退役)(1910–1996)

まず、写真で「正体不明の」イタリア海軍提督と握手をしているのは、
第6艦隊第16代司令官だったウィリアム・マーティン中将です。

アメリカ海軍第6艦隊(Sixth Fleet)

は、主に地中海・大西洋の東半部を担当範囲とし、
地中海地域および大西洋の東半分の警備、
ヨーロッパ及びアフリカ地域への戦力の提供などを任務としており、
北大西洋条約機構 (NATO) 部隊としての任務を請け負っています。

マーティン中将の任期は1967年から1968年までで、
「リトルロック」は同時期第六艦隊の旗艦として地中海に展開していました。

1967年、イタリアのガエタを航行する「リトルロック」

第6艦隊観閲式におけるUSS「リトルロック」

1968年6月25日、この日は第6艦隊が地中海に展開して20周年にあたり、
それを記念してフリートレビュー(観閲式)が行われました。

この写真は観閲式において、艦隊旗艦であった誘導ミサイル巡洋艦、
USS「リトルロック」CLG 4が、航空母艦USS「インディペンデンス」
(CVA-62)USS「シャングリラ」(CVA-38)の前を通過するところ。

これだけでは少しわかりにくいのですが、観艦式は、
観閲を行う者が停泊または移動する艦隊を観閲するので、
観閲部隊の先頭艦を旗艦「リトルロック」が務め、そこに
観閲官(マーティン中将)が乗っていた可能性が高いと思います。

ちなみに「シャングリラ」の前方を航行しているのは、
ミサイル巡洋艦USS「コロンバス」(CG-12)です。

で、最初の写真ですが、わたしは、この写真のヴァレンシア総督は、
観艦式の際、現地からのゲストとして「リトルロック」に座乗し、
マーティン司令とともに観閲を行ったのではないかと思うわけです。

■ 「リトルロック」のアンカーキャプスタン



ところで、この写真ですが、「リトルロック」の甲板の
アンカーチェーンが色分けされて見易く展示されていますね。



艦上でのキャンプで、艦の仕組みを説明するときのために、
左舷側と右舷側装備を緑と赤に色分けしてあります。
これはもちろんあくまで展示艦としての効果です。

緑のSTBDはスターボード=右舷、
赤のPORT=ポート=左舷です。

ちなみに、右舷と左舷は、進行方向に向かって右左となります。

まず、ここに見えている装備を説明しますと、
アンカーチェーンが巻き付いている山笠型屋根は

キャプスタン(Capstan)

と言います。
これを「ヴァーティカル・ウィンドラス」と呼ぶ説もありますが、
「リトルロック」中の人の説明によると、これらは互換性のある言葉であり、
「リトルロック」にあるのはキャプスタンと呼ぶそうです。

海軍では、錨鎖を巻き上げるために2種類のウィンチが採用されており、
それは「リトルロック」の垂直軸(ヴァーティカルシャフト)型と、
水平軸(ホリゾンタルシャフト)型です。

ほとんどの戦闘艦で採用されているのがヴァーティカルタイプで、
中の人の話によると、垂直軸の上にあるから、これを
「キャプスタン」と呼ぶのだということでした。

キャプスタン=上下垂直軸
ウィンドラス=水平軸

で動くと考えるそうです。

そして「stbd」「PORT」と書かれたパイプのようなものは、
下の階にチェーンを下すor下の階から引き揚げるホースパイプです。



赤で囲んだ部分を「デビルクロー」(俗称)と言い、
(正式には”ダブルクロー”)ウィンドラスのように
チェーンを固定して動かないようにするための部品です。

デビルクローのこちら側に白に両側が挟まれた赤い鎖が見えますが、これを

ファゾム・リング Fathom Ring

といいます。
ファソムは「尋」といい、推進の測定単位で1ファソムは6フィート、
1.8288メートルに相当します。

錨からこのリングまでの深さは15ファソム、つまり、
大体90フィート(27メートル)なので、ここにそれがあるというのは
それだけの長さのチェーンが降ろされたことを表します。


鎖は黄色い網で覆われたホースパイプ(Hawspipes)につながっています。
現役時代にはもちろんこのような覆いはありません。

この錨孔はアンカーにつながっていて、上げ下げが行われます。
アンカーが引き揚げられると、チェーンはチェーンロッカーに収納されます。


甲板の一階下のセカンドデッキに降りて、
チェーンを巻き取る機構を見せてくれる公式のビデオがありました。
これがキャプスタンの下部です。



そしてこれがウィンドラスと言ってます。

How Does That Work?: USS Little Rock, The Anchor Windlass and Capstan


さらにその一階下の「チェーンハウス」。
ハッチを開けるとそこにあり、今はもちろん何もありません。

ビデオでも言っていますが、チェーン関係の仕事は作動のたびに
鉄粉が舞い散り、それを吸い込むことになるので、マスク必須。
とにかく「ダーティージョブ」だったそうです。


「リトルロック」は現在も固定されていないので、
舫で係留された状態で展示されています。

手前にあるハッチはなんでしょうか。
索具を収納する場所繋がっているところかな?


この舫の結び方もあまり他では見られないような気が・・。

■ スエズ運河復興任務


これは、スエズ運河航行中の「リトルロック」CG-4。
当時のキャプスタンと現在の違いをご覧ください。

現役時代はホースパイプに現在のような「パイプ」はなく、
もちろん塗装なども全くなかったことがよくわかります。

キャプスタンの向こうに乗組員たちが座っていたり、
艦橋の上にも任務モードではない士官たちが見えますが、
これは、スエズ運河航行という特別な状態のため、
甲板で外を見ることを許されていたのかなと。

このとき、なぜ「リトルロック」がスエズ運河を航行したかというと、
以下の理由があります。

1967年のアラブ・イスラエル戦争によって閉鎖されたスエズ運河に対し、
1974年4月、アメリカは、運河の爆発物と沈没船の除去支援を
エジプト政府と合意しました。

正確には

Nimbus Star・・・機雷および爆発物の除去
Nimbus Moon・・・陸上および海面下の海軍爆発物の除去


アメリカはNimbus StarとNimbus Moonを実施し、
民間のサルベージ請負業者が沈没船の除去を行いました。

このプロジェクトを行ったのが第6艦隊のタスクフォース65です。

その結果、運河の再開が可能になり、1975年6月5日、
第6艦隊旗艦の「リトルロック」も開通記念航行に出席しました。

その日、21発の礼砲が鳴り響く中、7隻の船団がスエズ運河を南下して
イスマイリアまで5時間の航海を行い、運河の公式な再開通を祝いました。

世界の海洋国家、中東、そして何よりもエジプトにとって、
これは歴史的な出来事でした。


■ 「リトルロック」事故写真集

その生涯を通して大きな事故なく任務を終えた「リトルロック」ですが、
あわやという事故、軽微だけれど外国艦との衝突事故を経験しています。

それがUSS「サラトガ」CV-60との超ニアミスです。
1967年の「5月か6月ごろ」と日付が明確でない当たりがなんだかですが。

結論から言うと、進路変更の命令に伝達ミスがあって、
「リトルロック」が「サラトガ」の艦首前を横切ったと言う事故です。

この直前まで「リトルロック」と空母は一緒に航行していました。
事故直前、「リトルロック」は「サラ」の左舷を航行しています。

この後、「サラ」は右舷側に転回するつもりだと通信して来たので、
「リトルロック」はその外側に添って航行すべく、速度を上げました。

ところが「サラトガ」は左に転回して来たのです。

つまり、右側に舵を切った「リトルロック」に向かって来る形です。
これは、何らかの伝達ミスであるとされています。


近づいてくる「サラトガ」の艦首

このことに気づいた「リトルロック」は、速度を上げて、
空母の艦首先をすり抜けようとして、右に舵を切りましたが、
ところがどっこい、空母の方も速度を上げていたのです。


「サラトガ」の左舷側から人が避難し始める

艦長はここで「HARD RIGHT RUDDER」と命令しました。
「リトルロック」は左に転回しようとする空母の艦首を、
右に転回しながら全速力ですり抜けることを選択したのです。
総員が空母の艦首を通過することを、息を呑みながら祈りました。

(ちなみに艦内にいた人は、何が起こっているか全くわからず、
ただ手近なものにしがみついていたそうです)



間一髪!!
「リトルロック」はゴミを捨てるためのブームと、
水温を測るための道具を上げ下げするための道具を失っただけでした。
事柄の大きさから言うと、ほぼ無傷です。

おそらくすれ違うところの写真を撮っている人。



衝突を髪の毛一本で回避してすれ違う「リトルロック」と「サラトガ」。
手前の水兵さんが頭を抱えてしまっているのも宜なるかな。
怖かっただろうなあ・・・。



1970年6月13日、NATOの演習に向かう「リトルロック」は、
ギリシャ海軍に貸与された「フレッチャー」型駆逐艦、
「ロンチ」D -56が艦首を横切ったのち同艦と衝突。

「サラトガ」の事故と同じく、このときもギリシャ艦が急に旋回し、
左側から「リトルロック」の前を横切ったことが原因でした。


その結果、「ロンチ」はこうなり、


「リトルロック」はこうなりました。

「リトルロック」の修理はマルタで行われたということです。


と言うわけで、「リトルロック」から下艦しました。
かつてそこに衝突の痕があったとは思えないほど、
現在の「リトルロック」は静かにその艦首をエリー湖に休めています。



「リトルロック」が得たユニット賞は、

キャンペーンメダル
海軍遠征勲章()
コマンド優秀賞
戦闘効率賞(白いE)


などとなります。

「リトルロック」シリーズ終わり






映画『雪風 YUKIKAZE』試写会

2025-07-09 | 映画

【90秒予告】映画『雪風 YUKIKAZE』 8月15日(金)全国公開!!

この夏8月15日公開予定の映画『雪風 YUKIKAZE』の
マスコミ試写会のお誘いをいただき、観てきました。

試写会のお知らせには以下のように書かれています。

平素よりお世話になっております。

竹野内豊主演の映画『雪風 YUKIKAZE』
(配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント/
バンダイナムコフィルムワークス)が 8 月 15 日(金)に全国公開いたします。

たった 80 年前。平和な海が戦場だった時代。
帰ることを夢見ながら戦い続けた兵士たちや、
その無事を祈り、待ち続けた家族たち。

彼らひとつひとつの人生にはどんな物語があり、
それぞれが何を想い続けていたのか。

映画『雪風 YUKIKAZE』は、太平洋戦争の渦中から戦後、
さらに現代へと繋がる激動の時代を背景に、
懸命に生き抜いた人々の姿とその運命を、壮大なスケールで描きます。

タイトルとなっている「雪風」とは、
太平洋戦争中に実在した一隻の駆逐艦の名。
主力だった甲型駆逐艦 38 隻のうち、激戦を生き抜き、沈むことなく、
ほぼ無傷で終戦を迎えたのは、「雪風」ただ一艦。

その戦いの中で「雪風」は、敵の攻撃によって沈没した
僚艦の乗員たちを救い続けました。

生きて帰り、生きて還す――それがこの艦にとって戦う意味でした。

本作はその勇姿を、史実に基づいたフィクションとして甦らせます。

主演は竹野内豊。共演に玉木宏、奥平大兼、當真あみ、田中麗奈、
そして、中井貴一と豪華俳優陣が集結。

知られざる史実を基に、新たな視点で描かれる
最大級の感動大作が誕生しました。

この度、下記日程にてマスコミ試写を実施いたします。

2025 年夏、80 年前の海から、今を生きる私たちへとメッセージを運ぶ
『雪風 YUKIKAZE』。
ぜひともいち早くご覧いただき
公開に向けて応援いただけますようお願い申し上げます。




8月15日公開の戦争映画というと、わたしなどどうしても、
「東宝8・15シリーズ」を思い出さずにはいられないわけですが、
本作が東宝とは関係のないソニー・ピクチャーズの配給でありながら
この日の公開を選んだのも、かつてのシリーズに敬意を表しつつも、
当時とは違う「今・現在」の戦争映画に込めたメッセージを確認してほしい、
という意図だったのではないかと深読みしてしまいます。

次に、プレス資料より、あらすじを書き出しておきます。

「『雪風』......これより乗員の救助に向かう......」

1942 年 6 月、ミッドウェイ島沖。
沈没しようとする巡洋艦「三隈」から、多くの乗員が海に投げだされている。
激しい戦闘を繰り広げていた一隻の駆逐艦が救助に向かう。
先任伍⻑である早瀬幸平(玉木宏)の
「一人残らず引き上げろ!」というかけ声のもと、縄梯子が降ろされ、
海面から次々と乗員が助けられていく。

早瀬が最後に海から救い上げたのは、まだ 17 歳の二等水兵、
井上壮太(奥平大兼)だった。

そんな「雪風」の姿を、これも大きな損傷を負った
巡洋艦「最上」の艦橋から、副⻑の寺澤一利(竹野内豊)が見つめていた。

これ以降、戦局の主導権を米軍に奪われていく中、「雪風」は
ガダルカナルを始めとするソロモン海域における数々の過酷な戦場で、
獅子奮迅の活躍をする。

そしてどんな時も、戦いの後海に投げ出された僚艦の乗員たちを救い続けた。

1943 年 10 月、「雪風」はラバウル港に停泊していた。
早瀬の指揮のもと艦の整備にあたる乗員たち。
そこへ水雷兵として配属されてきたのは、
ミッドウェイで早瀬に救われた井上だった。

二人は再会を喜び合う。

そして艦橋には着任したばかりの新たな艦⻑の姿があった。
あの「最上」副⻑、寺澤である。

しかし乗艦早々、米軍機との戦闘が始まる。
新艦⻑、寺澤の見事な操艦と、先任伍⻑、早瀬の的確な準備で
難を逃れたあと、二人は初めて顔を合わせた。

寺澤は早瀬の働きを認めながらも、ミッドウェイを振り返り

「仲間の救助は大事だが、判断を誤れば艦を失う」

と告げる。

早瀬の顔色が変わり、艦橋に緊張が走る。

冷静沈着に状況を判断し、何よりも作戦遂行を優先する寺澤。
一方、早瀬は乗員一人一人の命を守り、
全員で戦場から生きて帰ることこそが、戦う目的だった。
その後も二人は度々ぶつかることになる。

1944 年に入り、米軍はフィリピンとマリアナ諸島の二方向に進撃し、
日本軍の拠点は次々と失われていく。
7 月には、日本の絶対国防圏とされるサイパン島が陥落した。

呉港に停泊する「雪風」では、乗員たちに届いた手紙が次々と渡されていく。
早瀬は、信州で母と共に暮らす年の離れた妹、
サチ(當真あみ)からの便りを一心に読み続けた。

一方、妻の志津(田中麗奈)のもとへと戻った寺澤は、
もうすぐ誕生日を迎える三歳の娘に、小さな髪留めを置いていった。

10 月。
アメリカは日本にとって南方の最重要拠点であるフィリピンへと迫っていた。

日本海軍は米軍の上陸を阻止すべく、ついにレイテ湾へと向かう。
日米が雌雄を決するそのレイテ沖海戦に、もちろん「雪風」の姿もあった。

戦闘が激しさを増す中、乗員たちの心が一つになり、
死線を潜り抜けていく「雪風」。
絶体絶命の危機に陥るが、早瀬の機転により何とか生き延びた。

ここで寺澤と早瀬は互いの想いをようやく理解し合い、
二人の心は繋がることになる。

そして 1945 年 4 月、日本。第二艦隊司令⻑官、
伊藤整一中将(中井貴一)へ下された、連合艦隊最後の作戦によって、
「雪風」は戦艦「大和」らと共に沖縄へ向かう。

護衛機もなく、死を前提としたいわゆる海上特攻である。

果たして寺澤は、この「十死零生」とされる作戦をどのように生き抜くのか。
「雪風」は、今回もまた、多くの仲間を救い、
港に帰ることができるのか......。

※この物語は史実に基づいたフィクションであり、
人名、事象、時制などに架空の設定が含まれています。

■ 「雪風」出演俳優


この映画で「雪風」艦長、寺沢一利中佐を演じるのは竹野内豊

実際の坊ノ岬沖海戦時の艦長は寺内正道中佐ですが、
実際の寺内艦長は体重96キロ、八字髭を蓄えた柔道五段の偉丈夫で、
竹野内とは全くタイプが異なるからか、仮名となりました。

開戦後の「雪風」艦長は、第3代艦長飛田健二郎、第4代菅間良吉、
そして第5代の寺内艦長、第6代古要桂次艦長
です。

「駆逐艦 雪風 YUKIKAZE」の生涯
・・・飛田健二郎、菅間良吉、寺内正道、古要桂次(第3代~6代艦長)
https://youtu.be/gGH_qeXGSfs?si=661wV15HhBN4WCfj

しかし、これによると映画で採用されたいくつかの艦長エピソードは
いずれも寺内艦長のものであることがわかりました。

駆逐艦 雪風 YUKIKAZE(第五代艦長)「寺内正道」
・・・雪風を沈めてなるものか!坊ノ岬沖海戦から生還した名艦長!


(具体的には観てのお楽しみなのでここでは書きませんが、
ぜひこのビデオで予習してからご覧になることをお勧めします)

あらすじでも言及されていた、寺澤艦長の、

冷静沈着に状況を判断し、何よりも作戦遂行を優先する」

姿勢ですが、これは上のビデオで言及されている、

「例え生存者があっても沈没艦への救助の手は差し伸べず、
敵の攻撃により一隻のみ残ったとしても、作戦遂行のため沖縄に突入せよ」


という出撃前夜の全艦長の申し合わせから来ていると見られます。
その後溺者救助の命が司令部より下されると、寺内艦長は、

「そうと決まれば最後の一人まで救え!」

と総員に申し渡しました。


「雪風」先任伍長役は玉木宏
「真夏のオリオン」で潜水艦長を演じた時は、

「潜水艦乗りなのに小綺麗すぎて、汗をかいていても
ドルチェ&ガッバーナの『ブルー』の匂いがしてきそう」


などと評してしまったことがありましたが、本作では、
玉木さんに限らず、駆逐艦乗組員の薄汚れ具合が実にリアルです。

役者の年齢の問題について。

45歳の玉木宏の妹(當間あみ)がまだせいぜい20歳だったり、
54歳の竹野内に生まれたばかりの娘がいたりしますが、
特に竹野内の艦長役は、実際の駆逐艦艦長なら40歳前後なので、
15歳くらい若い役を演じていることになります。

映画で軍人役が実際より年上の俳優によって演じられるというのは
洋の東西問わずあるあるなのですが、玉木さんも竹野内さんも、
本作では全く観ていて年齢的な不自然さはありませんでした。

お二人ともそもそも全くその年齢より若く見えますし、
俳優というのは多少の年齢なら演技で超越できることを確認した次第です。

いずれにしても、「雪風」という魅力的な題材に次いで、この、
魅力的な男優二人のカップリングというのが映画の推しポイントでしょう。

■ 本作のテーマ



「雪風」が開戦以来いくつもの作戦に参加しながら、
その都度生きて帰ってきたということと、その都度数多の将兵を助けてきた、
駆逐艦であったことが「命を繋ぐこと」という作品のテーマであり、
それを象徴的に表すのが、この「繋ぐ手」です。

「命を救う」というのは、現代における戦争映画のテーマとしては、
こう言ってはなんですが、共感を得やすいものだと思います。

戦後すぐの戦争映画は、わたしが多くの作品を観る限り、
あまり私情を交えず淡々とその経緯を語るといったものが多かったのですが、
そういった作品に対して「反省がない」「戦争賛美」という論調が
左傾化した、主にマスコミ界隈から生まれてくると、例えば
「軍閥」「きけわだつみのこえ」のように軍部批判、
「大日本帝国」のように日本批判するような作品が生まれてきました。
(『戦争と人間』は左に振り切れすぎてもはや制御不能だった)

あとはどの作品も大なり小なり反省色が滲むものでしたが、
今回やはり試写を鑑賞された元海自の方によると、戦争映画は、

2005年(終戦から60年)の「男たちの大和」から「反省色」がなくなり、
「こうして日本はやって来た」という路線になって来たように思います。

わたしも同じことを思いました。

戦後すぐの「淡々と時系列を語る」と基本同じベクトルでありながら、
現代ならではの「命」の価値観によるメッセージを加味したものであると。

■ 実在&創作の軍人


実在の軍人を誰が演じているかも興味深いところです。
第二艦隊司令長官伊藤整一大将を演じるのは、中井貴一
(ここだけの話、この写真の中井貴一、以前と顔違ってませんか?
若い時はすっきりとした一重瞼だったはずが・・・)

「聯合艦隊」のとき


「大和」艦長有賀工作中将(最終)を演じたのは、田中美央(右)。

「大和」特攻に当たって少尉候補生を「日本の未来のために」と
艦から降ろす決定を伊藤整一が下したエピソードも出てきます。

また、「大和」の特攻作戦を伊藤中将に伝達・説得するシーンで
草鹿龍之介参謀長も登場しましたが、役者名はわかりませんでした。

それから、軍令部作戦課長の古庄俊之という軍人が登場します。
寺澤艦長の軍令部時代の上司として、その心情を理解し、
前線で戦う現在の立場を慮る人物、という設定。

演じているのが石丸幹二なのですが、モデルに全く思い当たる人物がなく、
この人が登場するたびにモヤモヤしていました。

そして、モヤモヤしながらもその名前から想像した通り、
エンドロールのクレジットに、監修として
第26代海上幕僚長古庄幸一氏の名前があり、納得しました。

古庄氏の父上だったとかそういうことでもないので、おそらく、
氏に敬意を表して創作した架空の人物だと思われます。

もちろん、本作は海上自衛隊が協力しています。

劇中、「雪風」が帰国し艦長が久々に帰宅するシーンがあるのですが、
出迎えた奥さんに向かって早々に「今日は船に帰る」というんですね。
(田中麗奈はこれに対し、ほんの一瞬、表情を動かすのみ)

このシーンについて、前述の元海自の方は、

「元自衛官が監修しているからだろうなと思いました」

とおっしゃったので、真意がわからず説明を求めると、

海上自衛隊では「家に帰る」とは言いません。
艦長以下全乗員が「船に帰る」と言います。
恐らく、海軍時代の仕来りだろうと思います。
よく新婚ネタで「船が家なの(怒)」というのがあります。

だそうです。(帰るという言葉に気が付きませんでした)


海軍の系譜たる海上自衛隊に、「雪風」始め、
戦いに出て、或いは斃れた先人たちが「命を守る」使命を託す、
というメッセージを込めた一連のシーケンスで映画は終了するのですが、
その中には、江田島の海上自衛隊第一術科学校構内にある「雪風」の錨、
そして自衛官が整列する術科学校が空撮で映し出されるシーンがあります。

このラストのドローンによる空撮は、正門側から海に向かい、
最後に江田島の湾沖に停泊する、ある護衛艦を映し出して終わります。

それが上の写真ですが、さて、この護衛艦はなんだと思いますか?
(このシルエットだけでわかる人はわかってしまうんでしょうけれど)

個人的には、最後の空撮シーンのためだけにも、本作品は
映画館の画面でぜひ観ていただきたい、と声を大にして言っておきます。

最後に、プレス資料より、「雪風」のスペックです。

駆逐艦「雪風」(陽炎型かげろうがた駆逐艦8番艦)

1940 年(昭和 15 年)竣工

○基準排水量 2,033 トン(※「大和」64,000 トン)
○全⻑ 118.5 メートル(※「大和」263.0 メートル)
○全幅 10.8 メートル(※「大和」38.9 メートル)
○最大速力 36 ノット(※「大和」27.46 ノット)
○乗員 233 人(※「大和」3,300 人)

━数多くの激戦に参加し、終戦まで生き抜いた「不沈艦」━

スラバヤ沖海戦を始め、ミッドウェイ海戦や第三次ソロモン海戦、
マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、そして戦艦「大和」が沈んだ
沖縄特攻(天一号作戦)など、太平洋戦争における数々の激戦に参加した
「雪風」は、他の艦が大破炎上していく中で、
絶えず不死身ともいえる戦いぶりを見せ、主力として海戦に送り込まれた
甲型駆逐艦(陽炎型駆逐艦、夕雲型駆逐艦)38 隻のうち、
ほぼ無傷で終戦を迎えたのは、「雪風」ただ一艦のみだった。

━海に投げ出された仲間たちを助け続けた「命を救う艦」━

駆逐艦はどんなに激しい海戦においても、戦闘後はその場に留まり、
海に投げ出された僚艦の兵士たちを救い続けた。
帰国した「雪風」の乗員が、いつも行きよりも多かった、
というのは、いかにもそれらしい逸話である。
沖縄特攻で戦艦「大和」や巡洋艦「矢矧」などが沈んだ時も、
数百名の兵士たちを海から引っ張り上げ、佐世保港に帰還した。
生きて帰り、生きて還す。それが「雪風」にとって戦う意味だった。

━終戦後、約 13,000 人もの邦人を連れ帰った「復員輸送船」━

「雪風」の信念は戦後にも受け継がれる。
太平洋戦争を生き抜いた「雪風」は武装を撤去され、

「復員輸送船」としての航海を続け、外地に取り残された人々、
約 13,000 名を日本に送り返した。
200 名強の乗員が、一度にその四、五倍もの数を乗せ、
繰り返し本土に運んだのである。
漫画家水木しげる氏も「雪風」によって日本に帰ることができた一人だった。

━抽選によって中華⺠国に引き渡された「戦時賠償艦」━

復員輸送船としての役割を終えた「雪風」は、戦時賠償艦として、
戦勝国の抽選により中華⺠国(現在の台湾)に引き渡される。
「丹陽」と名前を変え、その後は台湾沿岸部の警備などで活躍するが、
1970 年に台風の影響で大きな損傷を負い、解体された。

戦時中から“海軍一の働きもの”“海の何でも屋”として、
数々の過酷な戦場で活躍し、「奇跡の駆逐艦」や「幸運艦」と噂され、
終戦後はアメリカの海軍関係者たちから、
第二次世界大戦を通じて最優秀の艦、と絶賛されたという「雪風」。

現在では「舵輪」と「主錨」が江田島の海上自衛隊第 1 術科学校に、
「スクリュー」が台湾海軍よって保管されている。

最後になりますが、鑑賞の機会を下さった方に心よりお礼を申し上げます。


「苦行のフライト」初期の旅客機〜スミソニアン航空博物館

2025-07-06 | 航空機
1927年〜1941年のアメリカの航空について、
スミソニアン航空博物館の展示をもとにお話ししています。

今日は旅客機となってからの客室目線で語っていきます。

■ コクピット剥き出し時代


スミソニアンのノースロップ「アルファ」です。

新旧の航空機技術を融合させた過渡期の航空輸送機設計を代表する機体です。
6人の乗客を客室に収容できましたが、パイロット席は剥き出しでした。

機体は全金属製で流線型でしたが、着陸装置は固定式でエンジンは1基のみ。

ジョン・K・「ジャック」・ノースロップによって設計され、
金属製航空機の大きな進歩でした。

その多くの特徴、特に多セルラー翼設計は、
後にダグラスDC-2およびDC-3に採用されました。

より強力な双発機の登場により、旅客機としては時代遅れとなりましたが、
高速貨物機としては引き続き活躍しました。


ちなみに、1920年代、パイロットがオープンコクピットにいた頃、
できてすぐに潰れたエアロマリン航空の機内はこのようなものです。

注目して欲しいのは、彼らの座っている椅子。
重量を抑えるため、なんと籐の椅子(もちろんシートベルトなどなし)
が客席として使われていました。


みんな笑ってますが・・・。

■ フォード・トライモーター


1926年に初飛行したフォード・トライモーターです。


トライモーターはこのコーナーの上部に展示されています。


博物館資料より。
航空機が一般に普及する上で最も重要な出来事の一つは、
ヘンリー・フォードが航空機製造に参入したことでした。

当時、フォードの自動車は信頼性の象徴であり、人々は
フォードが手がけるならば航空機も安全なものだろうと考えたのです。

そして、その通り、フォード・トライモーターは頑丈で信頼性が高く、
航空史に永遠に名前を残すことになりました。


コクピットにはパイロットの姿が見えます。
客席より高い位置にコクピットがありました。


まるで汽車の客室のような客席。
コクピットと客席の間は階段三段くらいの高さの差があります。




当たり前ですが、当時の飛行機料金は非常に高価でした。

ビジネス旅行者と富裕層しか飛行機に乗ることができず、
庶民は都市間の移動に電車やバスを利用するしかありません。

飛行機での東海岸から西海岸までの往復旅行は約260ドル、
これは当時の新車の半額(今の日本円で200万くらい)でした。

しかし、高額で不便&不快な旅にもかかわらず、
商業航空は毎年何千人もの新たな乗客を惹きつけ、
基本的に冒険を好む彼らは飛行機の利点と未知の体験に飛びつきました。

アメリカの航空業界は急速に成長しました。
1929年にはわずか6,000人だった乗客数は、1934年には45万人を超え、
1938年には120万人に達しました。

それでも、広大なアメリカで、飛行機を利用するのは
一般の旅行者のごく一部に過ぎませんでした。

その理由を次に説明します。

■ 快適とは程遠かった飛行機の旅



1927年以降旅客機として飛んでいたTATの飛行機、
フォードのトライモーターです。

パイロットは少なくとも外に剥き出しの席で操縦する必要はなくなり、
客席は備え付けのスチール製になり、進化を遂げたわけですが、
パネルの右下の、当時のパイロットの懐古談を見てみましょう。

当時の飛行機というものがどんなだったかが明かされています。

「飛行機は熱い油と煮えたぎるアルミニウム、消毒液、
排泄物、革製品、そして嘔吐物の臭いが充満している……。
短気な客室乗務員たちは、嘔吐物の臭いを放ちながら、
比較的新鮮な空気を吸おうと、できるだけ頻繁に前に出ようとする」


えー、そうだったんだ・・・・。

どんな写真も映像も伝えられないもの、それが臭い。

今のように空調システムで何分かおきに機内の空気が入れ替わるなど、
そんな技術は微塵もなかったこの時代、人が狭い機内に
何時間も滞在して、そこで食べたり飲んだり出したり吐いたり、
そんなことが行われれば、まあそうなるのが自然の理。

飛行機の利点はとにかく速く移動できることで、
その旅は決して快適ではなかったことをこの言葉が証明しています。


航空会社は宣伝のために有名人、俳優などを乗せ、
その度に宣伝しましたが、こういう写真を見る限り、
その不快な臭いは全く感じ取ることができません。

彼ら彼女らも、これも仕事の一環、と割り切って、
にっこり笑いながらその不快感に耐えていたのですね。


「短気なスチュワーデスが嘔吐物の匂いを振り撒きながら」
飲み物サービスを行うの図。

しかも、この飛行機、狭くて通路をカニ歩きしなくては通れなさそう。


これは当時革新的だったボーイング247型機の機内ですが、
この機体、フォード・トライモーターよりもはるかに速く、
騒音も少ないという利点はあったものの、機内は窮屈で、
翼のスパー(翼桁)が通路に入り込んでいたため、移動は大変でした。

いずれも富裕さを感じさせる服装に身を包んだ乗客たちが、
心なしか顔を曇らせているのは、主に写真に映らない生理的なことに対し、
避け難い不快感を我慢しているからに違いありません。



こちらがスミソニアンのボーイング247型
ピトケインの「メールウィング」の看板が覆い被さってしまっていますが、
ピトケインはその上の黒と黄色の機体です。

ボーイング247は、それまでの航空機で最も近代的なシェイプでした。
実際、「最初の近代的旅客機」と呼ばれています。

1933年、ユナイテッド航空で就航し、航空輸送に革命をもたらしました。
競合機の2倍の速度を出すことができるこの設計は、
新世代の民間航空機の先駆けとなったのです。

フォード・トライモーターの客室機内で乗客が食事をしているところ。

夜間の撮影らしく、窓の外は暗く、室内灯が灯されています。
しかし、この写真は宣材のために撮られたものなので、
もしかしたら飛行機は飛んでおらず、外の景色を映さないように
(フォトショなんて当時ありませんから)
夜、飛行場で撮影したのではないでしょうか。

ちなみに通路はやはり狭く、こちらもカニ歩き推奨です。


さて、というわけで、航空会社の懸命の宣伝にもかかわらず、
初期の航空旅行の実態は、およそ快適とは程遠いことがお分かりでしょう。

しかも、費用がありえんくらい超高額でした。 

飛行中、機内は騒音と寒さ、不安から乗客は極度に緊張を強いられ、
当時の与圧されていないため低高度を飛行する機体は
遠慮なく気象の影響を受け、激しく揺れることも度々。

当然、何人かは必ず乗り物酔いに見舞われることになります。

冒頭のパイロットのいう吐瀉物は、当時の飛行機につきものだったのです。
そこでずっと勤務し、必ず何人か現れる乗り物酔いの乗客の世話を焼く
客室乗務員が、その臭いに塗れても・・これは仕方がありません。

航空会社は乗客のストレスを軽減するために、あれやこれやと
多くのアメニティを提供しましたが、1940年代に入っても、
その環境は変わらず、空の旅は相も変わらず過酷であり続けました。 

■ 機内放送(メガホン)



スミソニアン博物館には、この時代の旅客機で、
フライト中に客室乗務員と乗客がコミニュケーションを取るための
「メガホン」が展示されています。

当時の機内はエンジン音と機体が風を切る音で、
人の声を聞き取ることが不可能だったのです。

フォード・トライモーターの場合、離陸時の騒音は120dBに達し、
それがずっと続けば永久的な聴力障害をきたすほどでした。

ちなみに、通常の会話が60dB、交通量の多い道路は70dB、
掃除機(アメリカ製)80dB、ロックコンサートの最前列が110dBです。

聴力が受ける痛みの閾値は130dBであり、
160dBの音で鼓膜は瞬間穿孔を起こします。


ここで閑話休題、豆知識です。

なぜ高いところに上ると耳が痛くなるのか?

それは、耳と喉を繋ぐ空気で満たされた小さな管が、
上昇or下降中の気圧の変化によって頭の中に生じた圧力差のせいで
詰まってしまうからです。

あくびをしたり唾を飲むこむと、この管が開いて、
圧力が均等になり、耳は元通りになるというわけです。

高層ビルへのエレベーターに乗ったこともない当時の人のほとんどは、
この初めて体験する症状にかなり驚かされたことでしょう。


そこで航空会社が乗客のために配ったのが、ガムでした。
離陸&着陸時の気圧の変化のために、客室乗務員は
この洗練されたステンレスのディスペンサーを乗客に差し出し、
離陸&着陸前に噛むことを推奨していたのです。


流石に、ケースは乗客に配られたものではなく、中身だけとなります。
これは1938年、イースタン航空の機内で使用されていたものです。



ケースの後ろにはCHASEとありますが、
アメリカでチェイスといえば銀行しか思いつきません。

■ ダグラスDC-3〜航空旅行のさらなる拡大



1935年に初飛行したダグラスDC-3は、
航空輸送の黎明期に最も成功した旅客機となり、
政府の補助金なしに収益を上げて飛行した最初の航空機となりました。

民間用と軍用、米国製と外国製を合わせ、
13,000機以上が製造され、現在も多くの機体が飛行しています。



人気のあった14席のDC-2の大型化型である21席のDC-3は、
当時の基準では快適で、強固な多桁翼と全金属製の構造により
非常に安全という評価を受けていました。

航空会社は、信頼性が高く、運航コストが低く、
ひいては収益性が高いことからDC-3を高く評価しました。
パイロットは、その安定性、操縦性、
そして優れた単発エンジン性能を高く評価しました。

博物館に展示されているこの飛行機は、
イースタン航空で56,700時間以上飛行しました。
1952年に退役後、イースタン航空の社長、
エドワード・V・リッケンバッカー氏から博物館に寄贈されました。



1936年に撮影された旅客機内部です。

「嘔吐物まみれ」の頃からは随分進化しているように見えますが、
先ほどの文章を思い出してください。

「1940年代に入っても飛行機の旅は過酷であり続けた」


とはいえ、飛行機のシートもシートベルトこそないものの、
現在の形にいきなり近づいてきているようで、席は3列配置です。

飛行中は足元に十分なスペースがあったものの、
頭上の荷物置き場は現在の電車並みで、これは揺れが酷いと
上から落ちてくることもあったのではないでしょうか。

また、搭乗時には適切な服装が求められ、服装規定もありました。
乗客にノブレスオブリージュ的なものが求められていたなんて、
現在の飛行機の乗客から見ればなんのこっちゃって感じですが。

この1930年代は航空旅行が爆発的に成長した10年間でした。
乗客数は1930年の6,000人から1934年には45万人を超え、
1938年には120万人へと、10年間で驚異的な増加を見せました。

しかしながら、インフレ調整後の 航空運賃は2万ドルにも達し、
多くの人にとって航空旅行はやはり手の届かないものでした。

ですから、この写真に見える客室乗務員以外の乗客は、
いずれも社会のごく一握りの「上級国民」だったということです。


続く。


映画「戦艦バウンティ号の叛乱」」叛乱、漂流、判決

2025-07-03 | 映画

映画「バウンティ号の叛乱」最終日です。

実際の「バウンティ」の反乱の際、フレッチャー・クリスチャンは、
味方をしてくれそうな乗組員を把握してからまず上甲板を制圧し、
皆に武器を配ってから艦長室に乗り込んでいったとされています。


こちらブライ、朝起きて機嫌よく伸びをしていたら反乱軍が乱入してきます。


3人の男がブライを捕まえて手を縛り、
警報を鳴らしたら殺すと脅したそうです。


眠っていたスチュアートら候補生も叩き起こされました。
「叛乱か?」


船上では大騒ぎが起こっていました。


両手を縛られて連れてこられたブライに対し、日頃の恨みとばかり
彼を罵り、傷つけようとはしゃぐ乗組員ですが、



クリスチャンは、乗っ取った目的はリンチではなく鞭打ちの廃止だとして、
食料、磁石、短剣を与えて船に乗せて追放することを宣言します。

そこで、全乗員に、船に残るかブライと一緒に行くかを選ばせました。

実際、クリスチャンと叛乱者たちは、自分達に賛同する者がもっと多いと
過大評価していたようですが、半数がブライに着いていきました。


植物学者のネルソンもボートに乗った一人です。
彼は、船に残していくパンノキの苗を気にして、
乗組員に水をやるのを忘れないでくれ、と頼んでいきました。



彼らが乗せられたのは全長7メートルのランチボートです。
士官候補生の一人に、クリスチャンは、君は残ってもいいと言いますが、
彼はむしろそれを拒否して船を降りていきました。


その後何人もの乗組員が艦長に着いていきたいと懇願してきますが、
ボートは満杯でこれ以上乗れないとしてクリスチャンはそれを拒否。
そしてあぶれた彼らをブライの同調者として船底に閉じ込めさせます。

最終的にボートに乗り込んだのは、45名のうち20名でした。

なお、船大工と武器工の3名も、ブライに着いて行こうとしましたが、
「バウンティ」の航行ができなくなるという理由で船に残されています。

これは、ほとんど実際の事件の経緯通りです。

映画で散々ブライを悪として描いているのに、なぜ多くの乗員が
彼の側に立ったのか、映画でしか事件を知らなければ混乱するでしょう。



そして、ブライらを乗せたボートは海に放たれました。



「バウンティ」を離れるボートから、ブライは叫びます。

「私は死なない。このボートが沈まない限り。
もし私の運命がそうすべきと決めたなら、必ず英国までたどり着く。
生きて諸君全てと再会し、英国艦隊の一番高い檣から諸君を吊るす!」




バイアムは「バウンティ」に残されましたが、(残ったのではない)
ここで現実的な彼はクリスチャンに抗議します。
艦長だけでなく、他の乗組員も死ぬかもしれないと。

「私がこれを好きでやっていると思うか?」

彼は叛乱の際暴動には加わりませんでした。
この期に及んでバイアムは今更ブライに着いていくと言い、さらに

「諸君、国王の名において任務に戻ってくれ!」

と必死で乗員に訴えかけますが、乗組員の中から

「コケコッコー!」

とまぜっ返す声に激昂して思わず殴りかかろうとします。
クリスチャンはそんな彼を手荒く扱い、船底に閉じ込めさせるのでした。

実際の事件もそうであったように、この叛乱は、善悪で論ずるまでもなく、
肝心の叛乱の動機が曖昧で、やり方が間違っている以上、
いくらクラーク・ゲーブルに演じさせようと、正当性の説得力は皆無です。

もっとも、この根本的な理由の曖昧さこそが、この事件を歪め、
クリスチャンという人間を主人公として描くことを許したといえます。



今や舵取りを行うことになったクリスチャンは、針路をタヒチに向けました。
行き先を聞いて、タヒチを離れたくなかった皆は大喜びです。

早速船からパンノキの苗を海に投棄し始めました。

実際の「バウンティ」はこの後タヒチに戻り、島民に対し、自分とブライ、
そしてクックが近くの島に入植地を作るつもりだと虚偽の申告をしました。

クックは10年前にすでに亡くなっていましたが、彼の名前を出すことで
タヒチの酋長たちから物資や贈り物を取れると思ったからです。

そして30名のタヒチ人男女を騙して「バウンティ」号に乗せ、
(これは原住民を色々と利用するためだったと考えられる)
タヒチの近くの小さな島ツブアイに定住する計画を立てます。

しかし、タヒチの人々は訪問中だった別のイギリス船の乗組員から、
クリスチャンの言葉が嘘であることをすでに聞かされていました。

この頃には残留乗組員からのクリスチャンへの信頼は失われつつあり、
結局24名のうち16人は彼と別れて、タヒチに残ることを選択しました。


映画に戻ります。

クリスチャンは船底に閉じ込めているバイアムのところに行って、
逆らわないと約束すれば自由にすると言いますが、彼は返事しません。

「殴ってすまなかった」

「いえ・・本当に辛いのは、もう二人が友人に戻れないことです」



ブライとその部下の漂流は続いていました。

実際の彼らは、小さな島を見つけては立ち寄っていましたが、
島民に敵対的行動を取られ、一人を殺害されるということがあって、
彼らはティモールのオランダ人入植地を目指すことになりました。



彼らは1日の水と食料の分量を綿密に計算し、航海を続けました。

このMGMのスタジオでタンクを使って撮影されたハリケーンシーンでは、
屋内にも関わらず、ロートンと共演者は水に濡れ、ケーブルに揺すられ、
スタジオの焼け付くような照明にさらされることになりました。

撮影では死者も出ています。



ブライは航海中ずっと士気を保つため、西に進みながら
観察、スケッチ、海図を記し、日記を書き続け、
語り合い、皆で歌い、そして繰り返し祈りを捧げました。

映画でも、ネガティブに陥りがちなクルーに対し、ブライは
やることさえやっていればなんとかなる、海と戦おう、と励ましています。

このとき彼らはヨーロッパ人として初めてフィジー諸島を通過しましたが、
島民が人喰いという情報があったため、上陸を諦めています。



実際もそうだったのですが、この漂流シーン、ブライがもう立派すぎて・・。

皆で捕まえたカモメを、全員で分けるため自分が預かり、
今にも死にそうな男にまず血を飲ませてやろうとするのです。

「飲め、艦長命令だ」

言っちゃなんですが、クリスチャンごときでは、ここまで皆を統率して
諍いもなく航海はできなかったのではないでしょうか。

7mのボートで漂流することを覚悟の上で半数の乗組員が彼についてきた、
というのは、彼らがそれを知っていたからでしょう。

元からブライは船乗りとして大変な実力者だったと言いますし、
おそらくクリスチャンにはない人望があったのだと思われます。

現にタヒチ残留組の半数はクリスチャンを見限って彼の元を去っています。



5月2日から始まった漂流から1ヶ月以上経った6月12日。
前日まで続いた荒天で船はほとんど崩壊し、乗員は全員倒れていました。



それでも舵を取り続けていたブライの目に、陸地が映ります。

”We’ve beaten the sea itself.”
(我らは海に勝利した)


MGMのタンクプールで辛いハリケーンの撮影が終わった時、
チャールズ・ロートンはこれと同じセリフを呟きました。

前述のように過酷な撮影を終えたクルーは、彼の言葉を聞くなり
感動して歓声を上げ、ロートンは声を上げて泣き崩れたということです。



その頃、バイアムの実家では、息子のいないクリスマスを祝っていました。
豪邸の外で歌われる「God Rest Ye Merry, Gentleman」のキャロル。



同じキャロルが遠く離れた南のタヒチで歌われていました。



タヒチに戻ったバイアムはテハニとどうやら結ばれ、



クリスチャンはマイミティと結婚し、



子を成したという話になっていますが、事実は
そんな単純な話ではありません。



ある日、沖合にイギリス船の姿が見えました。

海軍本部は、フリゲート艦「パンドラ」を派遣し、
叛乱者を捉えて裁判にかける決定をしたのでした。

実際の「パンドラ」は1791年3月23日にタヒチに到着し、
数日内に「バウンティ」の生き残り14人を捕えました。


映画では、「パンドラ」に捕まったエリソンと、架空の人物
バイアムが島に残って英国に帰る決意をしたとされています。



バイアムとスチュアートが英国船に乗り込むと、
そこで待っていたのは、なんとブライでした。

これはもちろん史実とは違い、実際のブライは捜索船作戦の時、
別のパンノキ輸送の任務中でした。



ブライは彼らを叛乱者として拘束するように命じます。

これは実際と同じで、「バウンティ」の生存者は、
「パンドラの箱」と呼ばれた「パンドラ」の区画に閉じ込められました。

実際の「パンドラ」艦長エドワーズは、自分たちは潔白であると信じて
投降してきた彼らを逮捕し、監禁して監獄に閉じ込めています。

ところがここで予想外の(いや海ならありがちか)海難事故が起こりました。

「パンドラ」は「バウンティ」を5週間に亘り捜索しましたが
結局見つけられないまま、グレートバリアリーフで座礁し沈没したのです。

座礁は「パンドラ」艦長エドワーズの無能による失策と言われており、
有能なブライが指揮していたら、事故は起こらなかった可能性もあります。

「バウンティ」の乗組員4人が、この沈没で溺死することになりました。


「パンドラ」は軍艦なので、海兵隊によって非常時のドラムが鳴らされます。

この鼓手は最後の最後までドラムを打ち続け、
見かねた乗組員にボートに引き摺り込まれています。


拘束されている反乱者たちは、ブライの命令で解き放たれました。

ここで彼らを見殺しにするという展開にならなかったのは、
実際は「パンドラ」にブライは乗っておらず、下手な創作をしたら
ブライの名誉を回復しようとする彼の子孫が黙っていないからでしょう。

タイタニックの件もそうですが、実在の人物を創作上うっかり悪人に描くと
当人の遺族親族からクレームがつく可能性は避けられません。

現に「バウンティ」叛乱事件の件でも、長きにわたってブライの子孫は
実際の彼の名誉について戦ってきたということです。


助けてくれた礼をいうバイアムに、ブライは叫ぶように言います。

「ミスターバイアム、旗艦のためにも君を失うわけにはいかん。
ボートに乗りたまえ!」


「バウンティ」関係者はこの後、漂流を強いられ、10名が生還しました。

クリスチャンはというと、英海軍の追手から逃れるためタヒチを脱出し、
ピトケアンという島に定住しましたが、その後リーダーシップを失ってゆき、
そのうち、イギリス人に所有物扱いされて不満を抱いたタヒチ人たちに
今度は彼自身が叛逆を起こされ、虐殺されたという説があります。
詳細は歴史の中に埋もれてしまい、不明だそうです。



「バウンティ」では乗組員がタヒチ女性に我慢ができなくなって手を出し、
彼女の恋人であるらしい男性と掴み合いの喧嘩が始まりました。



裁判は19792年9月12日、ポースマス港のHMS「デューク」で行われました。


叛乱発生時、このバーキット、エリソン、マスプラットの3名が
武器を持っていたということを航海長フライヤー准尉が証言しました。



エリソンは、自分は武器を持ったが使っていないと訴えますが、
航海長は、あったことを淡々と証言します。

「武器を振り翳して、艦長を酷いあだ名で呼びました」



「酷い名前とはどのように?」

軍法会議の裁判長は、海軍提督サミュエル・フッド子爵でした。



「・・・青っ鼻のバブーン(ヒヒ)と」

思わず下を向いて笑いを堪えるのに必死な裁判官たち。
エリソンにしたらこれで死刑かどうかなので笑い事ではないんだが。


最後にブライが呼ばれ、証言します。
叛乱の前日、クリスチャンとバイアムがデッキで話しているのを聞いたが、
バイアムが「任せてくれ」と言い、クリスチャンは「よし、決まりだ」
そして二人は握手していた、と。

これはクリスチャンがもし自分に何かあったら、
故郷に行って自分のことを話してくれ、と頼んでいたわけですが、
ブライは後からあれが叛乱の打ち合わせだと合点がいったというわけです。



バイアムは、それは故郷の家族に会ってほしいという話だった、と言い、
ブライ艦長はその前後を聞いていたはずだと問い詰めますが、
彼は頑なにノーと言い続けます。

映画的には、これがブライの策略だということのようです。

バイアムは必死で、わたしは島に残りはしたが、武器もなく、
そもそもクリスチャンには叛乱を止めるように言った、と言い訳をします。

まあでも・・・結果が結果だし、これは本当に言い訳に過ぎないよね。

「私は叛乱を企てていません!」


「じゃなぜ艦長と一緒にボートに乗らなかったのかね」


「スチュアートと一緒に船を反逆者から取り戻す準備をしていたからです」

えー、それ本当なの?

裁判官たちも同じような顔をしたところで、ブライが冷酷にも言い放ちます。

「スチュアート候補生は『パンドラ』の事故で亡くなりました」

つまりそれを証言する者はいないということです。


収監されている区画で、妻子に会うために帰ってきたのに、
と取り乱すエリソンを、バイアムは慰めていました。



そこに判決が出され、彼は呼び出されました。



裁判長の前に短剣が置かれていました。
無罪であれば短剣は横向き、被告人の方を向いていれば有罪です。


有罪を悟ったバイアムは、もうどうにでもなーれ、とばかり、
言いたいことを言うことにしました。
ここに及んで、艦長の体罰の実態を訴え始めたのです。

「その暴虐を許せない男が一人いた。
艦長の負けです。フレッチャー・クリスチャンは未だ自由のままです」

「反逆者となった者は言うでしょう。
”奴隷ではなく、自由な英国人として進んで仕事をしたい”と」



しかし判決は非情にも彼に絞首刑を言い渡しました。

実際の裁判において、彼のモデルと言われるトーマス・ヘイウッドも、
やはり死刑(マストに絞首される極刑)を宣告されています。



閉廷後、ブライは裁判長に感謝を述べ握手しようとします。

「ブライ艦長、私の意見ではあなたはボートでの航海において、
海軍史に記されるほど見事な指揮を執られたと思う。
そのシーマンシップと勇気は賞賛する・・・・が」


最後のbutを残し、裁判長は彼の握手に応えず去って行きました。


判決を言い渡されたエリソンが戻ってきて、バイアムに
妻子と会うことができたことを報告します。

トーマス・エリソンは故郷に帰るために「パンドラ」に自首し、
裁判では叛乱の際銃を持っていたことを証言されて死刑になりました。


その頃フレッチャー・クリスチャンは、「バウンティ」で
ピトケアン島に新天地を求め上陸しようとしていました。



追手に見つからないよう、彼は「バウンティ」を燃やしました。

"She makes a grand light."(彼女が盛大に明かりを灯していますね)

"Good English joke."(ナイスイングリッシュジョークだ)


これが最後のセリフです。
どこがナイスジョークなのかわたしにはさっぱりわかりませんが。

前述のように、クリスチャンはこの後タヒチ人の叛乱で
他の5名の元乗組員とともに殺害されることになります。


そしてバイアムはというと、国王の恩赦によって赦免されました。

彼のモデルであるヘイウッドの経歴によると、その後の彼は
急に上級士官たちから寵愛を受けるようになってキャリアを再開し、
順調に出世して退職後は平穏に過ごしたということです。

彼が叛乱にどのように関わったかは当時から不明瞭と言われており、
20歳で処刑されたエリソンのような後ろ盾もお金もない下級船員と違い、
実家は裕福でコネも多く、やり手の弁護士をつけたことが恩赦の理由です。

そのほかに、彼が自分の正当化のために、ブライの人格を貶め、
叛乱を耐え難い専制政治への抵抗として理解できるとし、
その結果彼は無傷で仕事に戻ることができたとする説もあります。



映画は、再び海軍士官として英国のために頑張るぞ!と
意欲を燃やすバイアムの明るい表情で終了します。



実話を掘り下げれば掘り下げるほど、このハリウッド映画における
単純な善悪の決めつけとそのための創作が透けて見え、
ゲーブルのにやけ顔が最後になるほど胡散臭く見えてくる作品でした。

史実を踏まえた上でツッコミながら鑑賞するのも一興かもしれません。


終わり。



映画「戦艦バウンティ号の叛乱」〜タヒチ

2025-06-30 | 映画
映画「戦艦バウンティ号の叛乱」二日目です。
政府の命令を担った「バウンティ」は、苦難の航海の末、
ついにタヒチに到着します。

ちなみにブライ艦長の技量は卓越していて、タヒチには過去二度、
当時英国海軍航海長であったジェームズ・クックとともに訪れています。
ブライはクックから航海術を学ぶ弟子であり、
ブライとフレッチャー・クリスチャンは同じ師弟関係にありました。

クックはハワイ先住民との間のトラブルが元で惨殺されています。


初めてのタヒチ。皆期待に満ちた表情で島陰を見つめます。



島からはタヒチ人たちが総出で熱烈歓迎。
この時MGM社に雇われたタヒチ原住民の数は2,500人に上ります。



「バウンティ」を迎えるために彼らが漕ぎ出すカヌーは
全てハリウッドからロケ地のカタリナ島に輸送されて撮影に使われました。


船に乗り込んできたタヒチの男にココナッツを渡され、中身を飲んで
「ミルクだ!卵を産む牛がいるのか」と言うシーンがありますが、
ご存知のように、ココナッツの中にはココナッツミルクはありません。

スタッフは誰もココナッツジュースを飲んだことがなかったようです。
おそらくこのシーンは、殻から飲むふりをしていただけでしょう。



立派なカヌーに乗ってやってきたのはヒティヒティ(Hitihiti)
と言う首領で、キャプテン・クックがこの島を訪れたことを知る人物です。

ブライはキャプテン・クックと一緒にここにきたことがありました。

「クック船長は?」「亡くなりました」

まあ、10年前のことですから。

「クック船長が、今度はジョージ国王と来ると言ってましたが」

「あーいやー陛下は来られなくて遺憾と仰せでした」

「国王が来ないなら帽子をくれると約束した」

「あーそそそ、もちろんです、覚えてます。帽子ね」

ブライ艦長、なんかいきなりいいやつモード発動。
まあ、ここでパンノキの実をもらい、乗員の面倒を見てもらう訳ですから。


ヒティヒティはバイアムが気に入ったらしく、

「わたしヒティヒティ、あなたテヨ(友達)、うち泊まるよろし」

「はえ〜」



艦長は乗組員を集め、この島にいる間も任務中なので羽目を外さないこと、
パンノキの積み込みを行うこと、上陸には必ず許可を得ることを訓示します。

いや、これ、割と当たり前のことだよね。

ただ、クリスチャンに島の上陸を禁じました。
直前の司法裁判の結果を受けてのことと思われます。

これもまあ当たり前と言えば当たり前かも。
一応死刑判決下ってるわけだし。



島民は花を編んで船を飾り、地元の食べ物を振る舞ってくれました。
島民生活の描写では、バナナの葉で蒸し焼きにした豚の姿焼きとか、



下拵え中の豚とかがバンバン登場します。
今なら絶対アウトな画像ですね。




島民に混じって労働をする乗組員たちが目を奪われたのは、女性。



「バウンティ」がタヒチに滞在したのは5ヶ月でしたが、この間、
「乗組員の多くは現地の女性たちと乱交生活を送った」(wiki)とされ、
クリスチャンを含む18名が性感染症に罹患しました。
ちなみにブライはそういうことは行わない主義だったようですが、
部下の行動には比較的寛容だったそうです。

ただ、「想像を絶する放蕩の誘惑」で、任務の遂行が滞ることに対し、
失望し、激怒していたと伝えられます。

タヒチでの生活に無節操になった(とブライが考えた)ため、
クリスチャンはしばしば皆の前でブライに侮辱され、
これが二つ目の「叛乱の理由」とも言われています。



首領の家でタヒチ語辞典の編纂を試みていたバイアムにも、
テハニという女性が近づいてきます。



そのとき、クリスチャンが上陸してきたので、
バイアムは喜んで迎えに行きました。
ヒティヒティが艦長に頼んで彼の上陸を許可してもらったのです。



テハニはバイアムの仕事中のペンで書きかけのノートに落書きを始めました。
犬猫が飼い主の持ち物に悪戯するような感じでしょうか。



そこに戻ってきたバイアムが慌てて駆け寄りペンを取り上げます。
このときのセリフがひどい。

「何やってんだ、この”小さなお化粧ザル”(little powder monkey)!」

ね、すごいでしょ。
ナチュラルに人間扱いしていないよね。
英語を話さない原住民というのはこいつらにとっては猿なのよ。
そして、自分がちょっと船に乗っていたからといって、粋がって

「もしまた僕の船の横を通ったら、
君の小さな右舷を叩いてやるぞ、わかったか?」

などという恥ずかしいセリフを吐いています。
で、お前はこの女性の何?
しかも、この男、女性が英語を全く理解しないと思ってこれ言ってるんですよ。

テハニが「イエス」というと、彼はびっくりして、

「君は僕のことを馬鹿にしてるんだな」

彼女はニコニコしながら「イエス」

「え・・・英語わかるの?わからないの?」

「彼女はイエスという言葉しか喋れないんですよ」

ね?脚本そのものが原住民をバカにしてるでしょ。


テハニを演じているモビータという女優はメキシコ系アメリカ人で、
確かにエキゾチックな美人ではありますが、その後のキャリアでも
ほとんどが「島の娘」みたいなセリフの少ない役ばかりを演じました。
あるサイトでは、

「おそらく5分以上、ぼんやりとした、
恋に落ちた笑顔を保てるかどうかでキャスティングされた女の子」

などと書かれています。

アフリカ系アメリカ人に対しても、つい最近まで
人間扱いしていなかったアメリカで、1935年というこの当時、
原住民を猿呼ばわりするこのセリフがなんの問題にならなかったのは
当たり前と言えば当たり前なのですが、正直、実に不快です。


そのときパウダーモンキー2号が現れました。

ヒティヒティの孫、マイミティ、本名マウアトァ、
後のイザベラ・クリスチャン、あだ名メインマスト。
フレッチャー・クリスチャンの現地妻だった実在の女性です。


一目見るなり恋に落ちたらしいクリスチャン。


言葉も通じない相手に・・・いや、通じないからこそなのかな。

こうしてクリスチャンとバイアム、そしてほとんどの乗員の、
ブライの言う「放蕩で快楽主義的なタヒチの日々」が始まるのでした。

タヒチに到着した「バウンティ」の乗組員にとって、
色んな意味で運命的な5ヶ月間がはじまりました。


主人公のフレッチャー・クリスチャンとバイアム候補生は、
どちらもいい感じのタヒチ美人といい感じになります。

この二人の女性、あまりに似ていて見分けがつかないんですが、
クリスチャンの相手のマイティティを演じたのは
マモ・クラーク(Mamo Clark)というホノルル出身の女優で、
この映画がデビュー作だったそうです。

テハニを演じたモヴィータ同様、ポリネシアの王女とか、
太平洋諸島を舞台にしたB級映画に現地の女性役に需要がありました。
しかし、その後、陸軍大尉と結婚し、子供を儲けてから、
女優業を引退して大学(UCLA)で学位を取得しています。

ちなみに、モヴィータは2回目の結婚相手が、
1962年版「バウンティ」のクリスチャン役、マーロン・ブラントでした。

これはきっと、作品をネタに運命感じて盛り上がっちゃったんだろうなあ。
彼女はブラントとの間に二児を設けましたが、2年後離婚しています。



男二人は、この地上の楽園で美しく純真な女性に知り合えたことに
すっかり舞い上がっていますが、まあ要するに「現地妻」よね。
女性ではなく「化粧した可愛い猿」と思ってることはわかってるからな。

実際の「バウンティ」乗組員がタヒチ滞在中「放蕩と快楽の日々」
を過ごしたことは前述しましたが、相手が女性だけとは限らず、
この最初のフィルムには現地の少年と乗組員のカップが写っていました。
そのシーンはいつの間にかカットされたそうです。

今なら「LGBTQへの配慮がない」と糾弾されるかもしれません。


そこにブライ艦長から、クリスチャンに帰還命令が出ました。



怒りながらも一応命令には従うクリスチャン。
出発前に彼らは初めて結ばれます。

実際にはこんなロマンチックなものでは決してなかったと思いますが、
やはりクラーク・ゲーブルにあまり変なことはさせられないですよね。

ちなみに二人は互いの言語を全く理解しておらず、クリスチャンは
マイティティを故郷の元カノの「イザベラ」という名で呼んでいました。
どこまでも傲慢で無神経な白人様ですこと。


まあでもこういう関係に言葉はいらない・・ということだったんでしょう。
小舟に乗り遅れて泳いで船に戻るクリスチャンを追いかけてきて
海上で別れを惜しむマイティティでした。


「バウンティ」には目標通り大量のパンノキの苗が積み込まれました。

ブライ艦長と話をしているのは、実際の「バウンティ」にも乗っていた
民間の植物学者デビッド・ネルソンです。(役ではモーガンとなっている)
このほかにも、植物の世話のために彼の補佐である庭師が乗っていました。

ネルソンが、西インド諸島に運ぶまでこの植物を枯らせないためには
積載量以上の水が必要だと言うと、ブライが提案した解決策は

「それでは乗組員のための水を制限しよう」

いやいや、それはまずいでしょう。


島で取得してきたものを没収された乗員の間には不満が溜まっていきます。



架空の人物バイアム候補生ですが、こちらは自分が帰国することを踏まえ、
女性には手を出さなかったという設定です。(実際は出していました)



ヒティヒティは、バイアムに島に残って息子になれ(つまり娘の婿になれ)
とまでいうのですが、彼は申し出をきっぱり断りました。


去っていく彼を見送りながら涙するテハニ。


しかしクリスチャンはそうではありませんでした。

彼はすっかりまた戻ってくるつもりだったので、
彼女から贈られた現地のパールを受け取り、バイアムに
自分が帰ってくることを通訳させます。

常識人のバイアムはそれに対し、

「この島は僕たちにとって現実ではありません。
帰国する船こそが現実なんですよ」


とど正論で忠告しますが、彼は取り合いません。


この3人は島を離れたくなくて脱走したものの、捕まって連れ戻されました。

これは「バウンティ」の史実通りで、左のマスプラット始め3名が
小型ボート、武器、弾薬を持って脱走したというものです。

従前から、アシスタントコックのウィリアム・マスプラットは、
怠慢を理由に鞭打ち刑を受けていたこともあり、逃げたかったのでしょう。

彼らの逃走期間は3週間、連れ戻され鞭打ちに処されています。


出航すると、ブライは総員を集めて、ココナッツが10個紛失した件で
クリスチャンが犯人ではないかと問い詰め始めました。

「クリスチャンの気分は、ブライが船長の私的備蓄から
ココナッツを盗んだと非難したときにさらに悪化した。
ブライは乗組員全員を罰し、ラム酒の配給を止め、食料を半分に減らした」

(wiki)

クリスチャンはこの件で「バウンティ」の生活が我慢ができなくなり、
筏を作って島に逃げることを検討し始めたそうです。

しかもブライはマイティティが彼に真珠を贈ったという報告を受け、
この島から得られるものは全て国王に所有権があるものだと主張し、
ココナッツだけでなく真珠も窃盗した、と彼を責め始めました。

クリスチャンはそれならこんなものいらん、と真珠をブライに渡します。

甲板では続いて、脱走した者への懲罰が始まろうとしていましたが、
船医のバッカスが来ていないことにブライは気がつきます。



「わしゃー高齢な上に重病でね」

と迎えに来たバイアムに情けなく呟く船医。
というか、高齢なのに遠洋航海に着いてきて浴びるように飲酒していたら
こうなるのが当然で、全く同情できかねるんですが。



連れ戻しに行ったはずが安静を指示したというバイアムに、艦長は、

「私の船に規律を乱すような老耄の酔っ払いはいらん」

実際のブライは、だらしない外科医のハガンにキレており、
彼の不潔で怠惰な生活態度は最大の悪影響を及ぼすとまで言っていました。

診断ミスで乗員を死なせ、自分の間違いを隠す報告をしていたわけですから
船医としての信頼はとっくに失われていたことは間違いありません。


彼を甲板に来させることで艦長とクリスチャンらが揉めていると、
ふらふらになった船医が部屋から這い出すようにやってきました。

しかしマスプラットへの鞭打ちが始まると、船医はその場に倒れ込み、
クリスチャンの腕の中で死んでしまいます。

実際に船医が死亡したのはタヒチに到着して1ヶ月半後のことでした。
これをブライは、「無節制と怠惰の結果」と厳しく断じています。


しかしこの映画では、クリスチャンがここぞとブライを責めまくり。
「全員が証人だ、あんたが殺した」
とまで言ってますが、どう考えても原因は本人にあるんだなあ。



乗組員の中には、思わず武器になるようなものに手を掛ける者がでますが、
ブライのひと睨みで引き下がります。


船医の遺体を部屋に安置しながら、植物学者は、
確かに彼は酒飲みだったが、優しくて皆彼を愛していた、
船乗りに必要なのは規律だけじゃないんだが、と嘆きます。


そして何事かを決心したらしいクリスチャンは、バイアムに、
もし君だけがイギリスに帰ったら、自分の実家を訪ねてほしいと頼みます。



鞭打ちが延期になったマスプラットが地下に鎖で繋がれていると、
彼がサメで殴った下士官がやってきて、諍いが始まりました。



拘束されたまま虐待されている彼らを見てついにクリスチャンブチギレ。

「ブライ、貴様にこの船の指揮はもう執らせない!
立ち上がってまた男になってやる!」

最後のセリフは"We'll be men again, if we hang for it."で、
「絞首刑になっても構わん、今立ち上がるぞ」と翻訳されています。




クリスチャンの呼びかけに興奮して応える乗組員たち。
早速手の空いた者は武器を手に取り始めます。

叛乱が起こりつつありました。

続く。




映画「戦艦バウンティ号の叛乱」〜航海

2025-06-27 | 映画

1932年アメリカ作品、「バウンティ号の叛乱」を取り上げます。
主演のクラーク・ゲーブルが、自らの出演作で最も気に入っていた作品で、
1787年に実際にイギリス海軍で起きた叛乱事件をベースにしています。

まずこの事件について軽く説明しておくと、タヒチ島から
奴隷用の食料品としてパンノキ(ブレッドフルーツ)を
イギリス領である西インド諸島に運ぶ任務を任された「バウンティ」で、
海尉心得だったフレッチャー・クリスチャンという人物が反乱を起こし、
ウィリアム・ブライ艦長ら19名を救命艇に乗せて追放したというものです。

叛乱の理由は実はよくわかっていないそうです。

この事件はそれゆえに小説化され、実に5回映画化されました。
ちなみに、フレッチャー・クリスチャンとブライ艦長を演じているのは、

ウィルトン・パワー/ジョージ・クロス(1916年)
エロール・フリン/ メイン・リントン(1933年)
クラーク・ゲーブル/ チャールズ・ロートン(1935年)
マーロン・ブラント/ トレヴァー・ハワード(1962年)
メル・ギブソン/ アンソニー・ホプキンス(1984年)


となりますが、1933年、この1935年と1962年版は、
ブライ艦長を残酷な独裁者としており、それが叛乱の理由とされます。

1984年版は、ブライ艦長は卓越した指揮官で、部下への虐待もなかった、
という史実に忠実な作りとなっているのですが、そのため実際同様、
なぜ反乱が起きたかというポイントがわかりにくくなっているそうです。



早速始めましょう。

1787年、ポーツマス。
この街に住むトーマス・エリソンと新婚の妻がパブで楽しんでいました。
エリソン夫妻には子供が生まれたばかりだそうです。
(なのになぜこんなところで酒を飲んでいるのかは聞かないでやってね)

エリソンは実際の「バウンティ」の乗員と同名です。



その時、パブに「国王の名において!」と飛び込んできた一団。
ロイヤルネイビーの強制徴募隊(press-gang)でした。

隊を率いるのはフレッチャー・クリスチャン海尉(クラーク・ゲーブル)、
海軍の徴用船「バウンティ」の副長です。

前にも書きましたが、この頃のイギリス海軍は、
港港で若い男を強制的に拉致し、船員として船に乗せていました。

Press Gangs (Impressment)



ロイヤルネイビーの強制徴募

そもそも人権などという言葉が存在しない時代ですし、
「国王の名の下に」やっていることなんで、これも犯罪ではありません。
しかも徴用されたが最後、2年間は帰ってくることができません。
どんなブラック企業でも入社退社は本人意思だというのにこいつらときたら。

徴募隊はパブに屯っている男たちを「大漁だ」と引っ立てて行きます。



それでは士官はというと、流石に強制ではなく、
艦長か召喚の縁故任命による採用者でした。

この貴族の息子ロジャー・バイアムは、ノブリス・オブリージュとして、
艦長の知り合いである左のおじさんの推薦で海軍に入ることになりました。
バイアム家は7代に渡って海軍士官を輩出している家柄です。

おぼっちゃま、かっこいい海軍士官の制服にすっかりご満悦。

実際は、貴族などの子弟は12歳〜14歳の頃からキャリアを始め、
2年後に初めて少尉候補生となりますから、彼のようにいきなり船に乗り込んで
その日から「ミシップマン」と呼ばれるということはありません。

演じているのはフランチョット・トーン(撮影当時27歳)。
この変わった名前から、すぐにこの人が1965年の「危険な道」という
ジョン・ウェインの映画で潜水艦長を演じていたことを思い出しました。

このとき彼は母親に「提督になって真珠をお土産に持って帰る」と言います。
映画を二度観た人は、これが伏線であると気づくことでしょう。



1700年代のポーツマス港を再現しています。
この頃の撮影ですから、本物の帆船を使っていると思われ。

MGMの美術部門は、当時の絵画などを参考にセットを作り上げました。



副長のクリスチャンが「バウンティ」に乗り込むと、強制徴用したエリソンが
2年間の徴用を逃れようと船を破損したとかで捕まっていました。

クリスチャンは、俺も最初はしがない水兵だったが
君も頑張れば俺みたいになれる、と彼を励まし、
甲板の妻子と会ってこい、と話せる上司ぶりを発揮します。



バイアム候補生との挨拶で、クリスチャンは自分のことを、
『Acting Lieutenant and Master's mate』と自己紹介しています。

翻訳の字幕はなんとこれを「クリスチャン海尉、艦長の知り合いだ」
とトンデモ超訳していて、全く困ったものです。

まず「アクティング・ルテナント」は正確には「代理中尉」であり、
「マスターズ・メイト」は「艦長の知り合い」ではありません。

マスターズメイトは艦長を補佐する上級下士官のレイティングで、
ゆえに士官という映画での設定には矛盾が生じるのですが、
まあそこは主人公なので士官扱いでいいよね、ってことなんだと思います。

ただ、この頃の士官はほとんどが「艦長の知り合い」か推薦だったので、
翻訳は間違っていても偶然ここだけは間違っていなかったことになります。

しかもこの翻訳、別の場面で彼のことを「XO」(副長)としていたので、
当ブログも副長だと思い込んだ時点で扉絵を作成してしまいました。

お詫びは致しますが訂正はしませんので悪しからず。

実際の「バウンティ」では、艦長のブライは海軍中尉、
その下の航海長など4名の幹部は全員准尉、6名が士官候補生、
二人マスターズ・メイトがいて、その一人がクリスチャンでした。

ですからクリスチャンが艦長と同じ階級というのはあり得ないのです。



義足の酔っ払いが吊り上げられて来ました。
「バッカス」と呼ばれる酒飲みの船医です。
義足は本物ではなく、本物の脚を隠して撮影していると思われます。

実際の「バウンティ」の外科医だったトーマス・ハガンも義足の大酒飲みで、
治療していた患者を不注意で死なせた上、それを隠蔽しようとするなど、
問題があったため、ブライは酒を没収するなどの罰を与えています。


エリソンは妻子との別れを惜しんでいます。



バイアムは士官室の仲間、スチュアートとヘイワードに紹介されます。
史実によると、両者はいずれも実在した名誉士官候補生です。

ちなみにバイアムは架空の人物ですが、同じ名誉士官候補生の
ピーター・ヘイウッドがモデルと言われています。



艦長付きのコックは、ブライがどんな人間か心配しています。
自分は怖がりなので大丈夫だろうか、と。

このコックは映画のそこここで愚かな失敗を繰り返し、
笑い(全く面白くないですが)を誘うための「道化」役といったところです。


そこに現代の海上自衛隊のと全く同じサイドパイプが鳴らされ、
「バウンティ」艦長ブライ中尉が乗船してきました。

そしてびっくり、乗り込むなり、全艦隊における鞭打ち刑の実施を求めます。
罪状は・・・よく分からんが、「上官への暴力」らしいですよ。



この頃の海軍の鞭打ち刑のやり方、それは執行者の船に
罪人を鞭打ちやすいように縛った小舟を横付けし、
執行者が罪状を読み上げ、回数を伝達すると、鞭が振り下ろされます。

いやでも、すでにこの人鞭で散々打たれた後でぐったりしてるんですが。



「死んでます」

やっぱりな。
しかし、ブライは平然と死体への2ダース(24回)鞭打ちを命じました。


この光景を見てられなくなったバイアム候補生、失神。



予定通り刑罰が終了すると、出航準備が始まります。
帆船ですので、最も重要な作業は帆を張ること。


早速バイアムはマストに上らされますが、なんとかこなします。



「一番降りてくるのが遅い者は鞭打ち」というローカルルールで、
早速ヘイワード士官候補生に殴られるエリソン。

候補生のくせに早速体罰係かい。



高らかに「ルール・ブリタニア」が流れる中、
風に帆をはらみ出航していく「バウンティ」でした。


出航して改めてブライ艦長とクリスチャンが顔を合わせました。

彼らが一緒に仕事をするのはこれで三度目で、ブライは
今回初めて艦長を務めるにあたり(ついでに実際は33歳)、
二度西インド諸島に共に航海したクリスチャンを抜擢したのでした。

実在のクリスチャンは出航時23歳で、裕福な貴族の出身です。
航海士としての技量は、過去の航海でブライから叩き込まれたようなもので
つまり二人は師弟関係にあったと言ってもいいでしょう。


ところで、ブライを演じたチャールズ・ロートンとゲーブルは大変な不仲で、
撮影中、彼はゲーブルの目を見ることもなく、ゲーブルが耐えかねて
スタジオを出ていくこともしばしばだったそうです。

制作側としてはその関係が映画に緊張をもたらすことを期待したのでしょう。

当初、ブライ役は「海兵隊に敬礼」のウォレス・ビーリーに依頼されました。
ビーリーとゲーブルも不仲で有名だったからだろうと思いますが、
ビーリーがあまりにもゲーブル嫌いすぎて、出演オファーを断っています。

ついでに、二人の不仲の衝撃的な理由ですが、ロートンは同性愛者で、
映画の撮影にも愛人兼マッサージ師を同行してきていたのに対し、
ゲーブルは大変な同性愛者嫌いであったからと言われています。


バイアムら士官候補生は、若いせいかどうも船の任務をナメています。

本を読みかけてすぐ退屈になってやめたり、
仲間のハンモックが切れるようにこっそりナイフで切れ目を入れたり、
ランプをわざわざ大きく揺らしてみたりしてふざけ合っていると、
クリスチャンがやってきて航法の口頭試問を始めました。



それに応えようとする候補生たちですが、何しろ今日は船上生活1日目。
揺れるランプを見ているとつい・・・・。


3人とも船酔いに我慢できなくなって部屋を飛び出して行きました。

この後、候補生同士のつまらない理由で喧嘩が始まってしまい、
それを艦長に見咎められたバイアムだけが罰を受けることになりました。

マストの上で反省するまで降りてくるなというものです。



運悪く風が強くなって海が荒れてきました。

船を立て直す作業に皆が追われる中、放置されたバイアムを
マストからリグで縛って下に降ろしたのはクリスチャンでした。



艦長はまだ懲罰中だから彼を元に戻せと無茶苦茶なことを言います。



一旦医務室で手当を受けていたバイアムは、艦長命令で
もう一度マストの上にやられますが、彼は負けずに上から手を振って見せます。



よくやった!とクリスチャン。



あれ?これなんかいい話っぽくない?



嵐が去ると、早速ブライ艦長は働きが悪いと乗組員を叱責し、
ちょっと反抗的な態度を取った者を容赦なく鞭打ちさせるようになりました。

彼らは志願者ではなく、強制徴募組で技術がないから仕方ない、と
徴募してきた当人クリスチャンが言い訳をしてやるも船長聞く耳持たず。

その後も小さなミスを見つけては彼らを鞭打たせます。


中でも一番残酷だったのが、甲板掃除で膝を擦りむき、
砂が入って痛いので水を求めて作業を中止した水兵を縄で縛り、
放り込んで海に沈め、溺死させたことです。



アフリカ沖航行中、全くの無風状態になりました。
帆船は2隻の手漕ぎボートで牽引しなくてはなりません。


航海長「この40年の間でこんな無風状態は初めてです」


牽引するボートの動力はもちろん乗組員たち。



このとき食糧庫を調べていた者が、チーズが紛失していると言い出します。
ブライは誰かが盗んだといきり立ちますが、一人の乗組員が、
艦長本人の命令で港で降ろし、艦長宅に運んだと証言します。

実際のブライは船の食料の管理を厳格におこなっており、その理由は
倹約して余った食料を売り戻して利益を得るためだったと言われます。

このこと自体は犯罪ではなく、この頃普通に行われていたようですが、
このときの航海ではブライはクリスチャンがココナッツを盗んだと責め立て、
それが叛乱の一つの原因になったとされています。


その時風が僅かに吹き始めました。
牽引している2隻のボートにスピードを上げさせて、



帆が風をはらみ出しました。



チーズの件を申告した乗組員は、かわいそうに縛られたまま・・・。



艦長、船医、航海長、クリスチャン、そしてバイアム候補生という
ちょっと訳のわからないメンバーによる食事の席で、
艦長は皆にチーズを勧めますが、全員がなぜかこれを断ります。



明らかに艦長のチーズ疑惑に対する意思表示ですかね。
キレ気味にあいつらの味方をするのか?と聞くブライに、

「失礼ながら、私は・・あなたが不当だったと思います」

「不当?つまり私が嘘をついたと言うのかね」

「ポーツマスで彼がチーズを船から降ろしたのは確かなのに、
彼への懲罰はやりすぎだと思います」

怒った艦長はクリスチャンを部屋から追い出しました。



船の食料はどんどん困窮して行きました。
6人に対したった一切れの馬肉が配られるのみ。

あまりの酷さに、乗組員たちはクリスチャンに訴えます。

「我慢してくれ。士官も似たようなものなんだ」


その時乗組員たちはサメが泳いでいるのに気がつきました。
6人分の馬肉一切れを使ってそれを釣り上げることに。



見事サメを甲板に引き揚げると、自分たちをいつも殴る役の下士官が
一切れ寄越せば黙っていてやる、と言ってきたので、
ムカついていたバーキットはサメの尻尾で彼を殴り倒します。



それを艦長に見られてしまい・・・



懲罰を受けることに・・・・。


皆で鞭打たれた者を労わりますが、仲間の一人がバイオリンを弾き出すと、
皆がそれに合わせて歌い出します。

「バウンティ」には実際マイケル・バーンと言う音楽家?が乗っていました。



「海の上で聴く音楽がこんなに美しいとは知らなかった」

ちなみにフランチョット・トーンとクラーク・ゲーブルは、
ジョーン・クロフォードを取り合うライバル同士だったことがあり、
撮影に入った頃は互いを嫌い合っていたのですが、撮影中、
酒と女が好きと言う共通点が二人を近づけ、親しくなったそうです。

実際、この作品で二人と愛し合うタヒチ女性役の女優とは
どちらもが撮影中お付き合いをしていたという「同好の士」でした。

このシーンで、音楽を怒鳴ってやめさせたブライに対し、
クリスチャンはいつか痛い目に合わせてやる、と息巻くのですが、
それを若い(と言う設定の)バイアムがなだめます。

「私はいつもあなたと会えたことをよかったと思ってます」

このシーンの撮影の時には二人はもう仲良くなってたっぽい。



もう直ぐタヒチに着くというとき、船長がクリスチャンを呼び、
積載されている食料品リストにサインをさせようとしました。

しかしクリスチャンは、記載されている食糧が
乗組員に支給されていないことを理由にサインを拒否します。

皆やっていることだし、以前はサインしたのになぜ?と聞かれると、
平時ならいいが、今は乗組員が飢えているから、と答えます。


激昂したブライ艦長は、甲板で自分が裁判長である軍法会議を開き、
そこでサクッとクリスチャンに死罪を申し渡すのでした。


しかしクリスチャンは全く平静に、
イギリスに戻ったら査問会議を要求する、と言い放ちます。

二人の間の空気が一触即発になったその時、



「バウンティ」はついにタヒチに到着しました。

続く。