■ NACAと近代航空路
アメリカが国内訴訟問題で航空技術を停滞させていた頃、
アメリカ国内の国防計画家や航空愛好家の間で懸念が高まっていき、
タフト大統領の政権で設立が検討され、ウィルソン大統領に承認されたのが
全米航空諮問委員会(NACAエヌシーエーエー)で、設立は1915年だった、
ということを「メイク・アメリカ・ファースト」の項でお話ししました。
そのNACA(航空国家諮問委員会)は、近代的な旅客機の誕生につながる
多くの技術開発に大きな責任を負っていました。
アメリカ国内の国防計画家や航空愛好家の間で懸念が高まっていき、
タフト大統領の政権で設立が検討され、ウィルソン大統領に承認されたのが
全米航空諮問委員会(NACAエヌシーエーエー)で、設立は1915年だった、
ということを「メイク・アメリカ・ファースト」の項でお話ししました。
そのNACA(航空国家諮問委員会)は、近代的な旅客機の誕生につながる
多くの技術開発に大きな責任を負っていました。
画期的な新世代の旅客機が登場したのは、1930年代初頭のことで、
技術の開発を担ったのは、軍、民間企業そしてこのNACAでした。
この頃、その技術をもとに、全金属製、モノコック構造、
応力皮膜構造、片持ち梁翼、格納式着陸装置、カウル付き空冷エンジン、
可変ピッチプロペラなどが続々と生み出されていきました。

技術の開発を担ったのは、軍、民間企業そしてこのNACAでした。
この頃、その技術をもとに、全金属製、モノコック構造、
応力皮膜構造、片持ち梁翼、格納式着陸装置、カウル付き空冷エンジン、
可変ピッチプロペラなどが続々と生み出されていきました。

これらの近代的技術を集めて作った最初の旅客機が、ボーイング247型機です。

ジョン・K・「ジャック」・ノースロップ
1928年にロッキード・エアクラフトを退社したノースロップは、
金属製航空機を製造する会社を立ち上げました。
強靭で軽量な片持ち梁応力皮膜翼と金属製モノコック胴体を組み合わせた、
ノースロップ・アルファが彼の最初の設計でした。
1928年にロッキード・エアクラフトを退社したノースロップは、
金属製航空機を製造する会社を立ち上げました。
強靭で軽量な片持ち梁応力皮膜翼と金属製モノコック胴体を組み合わせた、
ノースロップ・アルファが彼の最初の設計でした。

スミソニアンのノースロップアルファ
アルファはボーイングの設立者ウィリアム・ボーイングに感銘を与え、
彼はノースロップの会社を買収することになります。
ジャック・ノースロップが熱烈に主張したオールメタルのモノコック機体は、
その後のアメリカの航空機設計に永続的な影響を与えたのでした。
■NACAの風洞(ウィンドトンネル)
1927年から1939年まで、航空エンジニアの主要な研究手段である風洞を、
NACAはバージニア州のラングレー航空研究所に4つ建設し、
この核心は、航空機設計のブレークスルーをもたらします。
NACAはバージニア州のラングレー航空研究所に4つ建設し、
この核心は、航空機設計のブレークスルーをもたらします。

1939年に開通した NACAの高圧トンネル。
このトンネルは、大型と高圧を1つの施設で実現した最初のものとなります。
後ろに見える大きなNACAの看板はこのトンネルのものです。
よく見ると、トンネルチューブの上に人が3人保守のためか登っていますね。

プロペラ研究用トンネル
この坑道は、幅6メートル(20フィート)のスロートを持ち、
プロペラを取り付けた実物大の航空機の機体をテストすることができました。
この装置で研究した大きな成果としては、
「固定降着装置と露出したエンジンシリンダーが膨大な抗力を引き起こす」
「エンジンが翼のかなり前方に配置されている方が航空機の性能が向上する」
この装置で研究した大きな成果としては、
「固定降着装置と露出したエンジンシリンダーが膨大な抗力を引き起こす」
「エンジンが翼のかなり前方に配置されている方が航空機の性能が向上する」
このようなことがわかりました。

実物大トンネル
この巨大な風洞内の試験スペースは2階建ての小さな家ほどの大きさで、
エンジニアは実物大の航空機を試験することができるものです。
この装置で発見されたことは、
「外付けの支柱、スクープ、アンテナが航空機の性能を損なう」
この装置で発見されたことは、
「外付けの支柱、スクープ、アンテナが航空機の性能を損なう」
という、現代人なら誰でも知っているようなことでした。
(コロンブスの卵ってやつですね)
(コロンブスの卵ってやつですね)
第二次世界大戦中に使用されたほぼすべての高性能米軍機は、
このトンネルでテストされてデビューしています。
このトンネルでテストされてデビューしています。

高速風洞
この風洞では、時速925キロメートルの風速を出すことができました。
そして、ほとんどの航空機は、その3分の1程度の速度しか出ないのに、
プロペラの先端は音速に達していることがわかったのです。
このことから、リベットの頭部やその他の表面の凹凸が
大きな抗力を生むことが実証されたのです。
今の航空技術の基礎となっている「当たり前のこと」が、
この風洞によって実証され、今日の発展につながっているということです。
■ 機内サービスの向上と競争による変化
そして、ほとんどの航空機は、その3分の1程度の速度しか出ないのに、
プロペラの先端は音速に達していることがわかったのです。
このことから、リベットの頭部やその他の表面の凹凸が
大きな抗力を生むことが実証されたのです。
今の航空技術の基礎となっている「当たり前のこと」が、
この風洞によって実証され、今日の発展につながっているということです。
■ 機内サービスの向上と競争による変化
アメリカの航空産業は急速に拡大しました。
1930年にはわずか6,000人だった旅客数は、1934年には45万人を超え、
1938年には120万人に達するほどに増大していきます。
それでも、飛行機を利用したのは旅行者のごく一部にすぎませんでした。
当時飛行機は非常に高価な交通手段だったからです。
飛行機を利用できるのは、ビジネス旅行者と富裕層だけ。
ほとんどの人々は都市間の移動にはまだ電車やバスを利用していました。
その頃の沿岸から沿岸への航空往復運賃は約260ドルでした。
当時の新車価格の約半額といったところです。

それでも、飛行機を利用したのは旅行者のごく一部にすぎませんでした。
当時飛行機は非常に高価な交通手段だったからです。
飛行機を利用できるのは、ビジネス旅行者と富裕層だけ。
ほとんどの人々は都市間の移動にはまだ電車やバスを利用していました。
その頃の沿岸から沿岸への航空往復運賃は約260ドルでした。
当時の新車価格の約半額といったところです。

これが飛行機の中?と思わず見直してしまいます。
二段ベッドの上と下に子供がいて、親は別のところで寝るのかな?
きっとファーストクラスのサービスなのでしょう。

二段ベッドの上と下に子供がいて、親は別のところで寝るのかな?
きっとファーストクラスのサービスなのでしょう。

ユナイテッドの夜間発に乗り込む人々。
階段の紳士が右手に持っているのはアメニティのオーバーナイトバッグです。
乗客はこの頃入り口で名簿の照合を行ってタラップを登りました。

階段の紳士が右手に持っているのはアメニティのオーバーナイトバッグです。
乗客はこの頃入り口で名簿の照合を行ってタラップを登りました。

機内食は昔も今も楽しみの一つです。
テーブルを囲む椅子が向かい合っていますが、これは食事のために
前向きの椅子をひっくり返してセットしたのではないでしょうか。
この頃のプロペラ機でよくこんな安定の悪いグラスを使っていたなあ。

テーブルを囲む椅子が向かい合っていますが、これは食事のために
前向きの椅子をひっくり返してセットしたのではないでしょうか。
この頃のプロペラ機でよくこんな安定の悪いグラスを使っていたなあ。

パンアメリカン航空の到着便から降りてくる乗客たち。
遠目にも乗客の女性の美人率が高いのが見て取れます。
これも彼らが富裕層であることを物語っているのかもしれません。

遠目にも乗客の女性の美人率が高いのが見て取れます。
これも彼らが富裕層であることを物語っているのかもしれません。

双子らしい姉妹とその父親らしき人。
パパがお金持ちだと、小さい頃からこんな体験ができます。
帽子から靴まで寸分たりとも違わない衣装を揃えているあたり、
(しかも革製の手袋まで)かなりのお金持ち家庭みたいですね。

パパがお金持ちだと、小さい頃からこんな体験ができます。
帽子から靴まで寸分たりとも違わない衣装を揃えているあたり、
(しかも革製の手袋まで)かなりのお金持ち家庭みたいですね。

先ほどの食事風景より少し時代が後になります。
現在の機内食用のテーブルとほとんど同じ様子に見えます。
引き出し式のテーブルに白いナプキンをかけ、
トレイに一食分?を乗せてサーブするやり方です。
現在の機内食用のテーブルとほとんど同じ様子に見えます。
引き出し式のテーブルに白いナプキンをかけ、
トレイに一食分?を乗せてサーブするやり方です。
ちなみに世界で初めて機内食をサーブしたのはイギリスでした。
ハンドリーページ トランスポート(現ブリティッシュ・エアウェイズ)が
1919年にサンドイッチと果物を乗客に提供したのが最初の機内食です。
パンナムの初期の便では、色々と食事どころではなかったので、
乗客にはチューインガムだけが提供されていました。
この1930年代、飛行機の内部はますます広くなり、乗客は食事をしながら
自由に動き回ったり交流したりすることができたため、
航空旅行の「最もロマンチックな」時代と呼ばれることもあったようです。
ラウンジには高級な陶磁器や白いテーブルクロスが備え付けられていました。
ハンドリーページ トランスポート(現ブリティッシュ・エアウェイズ)が
1919年にサンドイッチと果物を乗客に提供したのが最初の機内食です。
パンナムの初期の便では、色々と食事どころではなかったので、
乗客にはチューインガムだけが提供されていました。
この1930年代、飛行機の内部はますます広くなり、乗客は食事をしながら
自由に動き回ったり交流したりすることができたため、
航空旅行の「最もロマンチックな」時代と呼ばれることもあったようです。
ラウンジには高級な陶磁器や白いテーブルクロスが備え付けられていました。
ユナイテッド航空は、世界初の機内ケータリング専用キッチンを設置しました。
乗客は、カリフォルニア州オークランドから搭乗するにあたり、
スクランブルエッグかフライドチキンのメインコースを選択できました。
しかし航空技術の進歩が、機内でのサービスに意外な問題をもたらします。
高高度飛行での卵の調理は時間がかかる、パンはすぐに腐ってしまうなど。
パンナム航空は、シコルスキーS-42機内で機内食を温めた最初の会社でした。
ボーイング247やダグラスDC-3といった大型機には、
機内にホットストーブや冷蔵庫を設置するためのスペースが確保されました。
このようなフライトサービスの向上は、競合他社との差別化を図る手段でした。
ボーイング247やダグラスDC-3といった大型機には、
機内にホットストーブや冷蔵庫を設置するためのスペースが確保されました。
このようなフライトサービスの向上は、競合他社との差別化を図る手段でした。
■ 空飛ぶ政治家たち

冒頭の写真は、大統領夫人、エレノア・ルーズベルトと、
彼女が乗ったユナイテッド航空の客室乗務員のツーショット。
ところでルーズベルト夫人って、むちゃくちゃ背が高くないか?

彼女が乗ったユナイテッド航空の客室乗務員のツーショット。
ところでルーズベルト夫人って、むちゃくちゃ背が高くないか?

写真は、テキサス州ダラスからカリフォルニア州ロサンゼルスへ向かう途中、
アメリカン航空の飛行機の外に立っているエレノアさんです。
この写真では特に、彼女の背の高さが普通でないとわかりますね。
調べてみたらアメリカ人女性としても珍しく180センチだったそうですよ。
ついでに夫のフランクリン・デラノは188センチだったようですね。

これは美男美女
1930年代に空の旅が一般的になると、多くの政治家が飛行機を利用しました。
1932年、当時ニューヨーク州知事だったルーズベルトは、
アルバニー-シカゴをアメリカン航空のフォード・トライモーターで移動し、
そこで民主党の大統領候補指名を受け「ニューディール」演説を行いました。
1932年、当時ニューヨーク州知事だったルーズベルトは、
アルバニー-シカゴをアメリカン航空のフォード・トライモーターで移動し、
そこで民主党の大統領候補指名を受け「ニューディール」演説を行いました。

第二次世界大戦中、ルーズベルト大統領は
カサブランカとヤルタで連合国首脳に会うために海外へ飛び、
ファーストレディのエレノア・ルーズベルトは、
大統領に代わってしばしば国内を飛び回りました。
上の、アメリカン航空の飛行機の前に立っているエレノアの写真は、
1933年6月5日に撮影されたもので、彼女はすでにファーストレディでした。
当時、多くのアメリカ人が新しい交通手段に懐疑的だったにもかかわらず、
ルーズベルト夫人は飛行機旅行を積極的に受け入れたことから、
「空飛ぶファーストレディ」として知られていました。
当時、多くのアメリカ人が新しい交通手段に懐疑的だったにもかかわらず、
ルーズベルト夫人は飛行機旅行を積極的に受け入れたことから、
「空飛ぶファーストレディ」として知られていました。
そういえば、黒人パイロットを擁するタスキーギ航空隊の基地視察で、
彼女はなんの根回しもなく、いきなり基地の教官だったルイス・ジャクソンに
「あなたの操縦する飛行機に乗ってみたい」と言い出し、
何事もなかったように降りてきて「なんだ飛べるじゃないの」といった、
という話がありましたが、この人どこにいってもこんな感じだったんですね。
彼女はなんの根回しもなく、いきなり基地の教官だったルイス・ジャクソンに
「あなたの操縦する飛行機に乗ってみたい」と言い出し、
何事もなかったように降りてきて「なんだ飛べるじゃないの」といった、
という話がありましたが、この人どこにいってもこんな感じだったんですね。

おばちゃんニッコニコ
しかし、彼女のような例は当時あまりなく、それというのも
民間航空機の旅にはまだリスクがあって、怖がる人も多かったのです。
民間航空機の旅にはまだリスクがあって、怖がる人も多かったのです。

そして、彼女の夫であるところのフランクリン・ルーズベルトは、
在任中に飛行した最初の大統領の称号を得ることになりました。
1943年のモロッコで開催されたカサブランカ会議に出席し、
第二次世界大戦における連合国の欧州戦略を策定するため飛行したのです。
この会議では潜水艦の脅威に対し、
航空機を主要な輸送手段にすることが決定されました。
在任中に飛行した最初の大統領の称号を得ることになりました。
1943年のモロッコで開催されたカサブランカ会議に出席し、
第二次世界大戦における連合国の欧州戦略を策定するため飛行したのです。
この会議では潜水艦の脅威に対し、
航空機を主要な輸送手段にすることが決定されました。

人々が飛行機の安全性に懐疑的になったのは、
1935年5月6日、ニューメキシコ州上院議員の
ブロンソン・カッティングが死亡したT.W.A.ダグラスDC-2の墜落事故など、
有名人・政治家が犠牲になる事故もしばしば起こったからです。
とはいえ、高速移動の利点が、現実の危険や認識されている危険を上回り、
政治家たちは好むと好まざるにかかわらず、それを選択したのも事実です。
続く。
ブロンソン・カッティングが死亡したT.W.A.ダグラスDC-2の墜落事故など、
有名人・政治家が犠牲になる事故もしばしば起こったからです。
とはいえ、高速移動の利点が、現実の危険や認識されている危険を上回り、
政治家たちは好むと好まざるにかかわらず、それを選択したのも事実です。
続く。