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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

NACAと空飛ぶ大統領夫人〜スミソニアン航空博物館

2025-08-20 | 航空機

■ NACAと近代航空路

アメリカが国内訴訟問題で航空技術を停滞させていた頃、
アメリカ国内の国防計画家や航空愛好家の間で懸念が高まっていき、
タフト大統領の政権で設立が検討され、ウィルソン大統領に承認されたのが
全米航空諮問委員会(NACAエヌシーエーエー)で、設立は1915年だった、
ということを「メイク・アメリカ・ファースト」の項でお話ししました。

そのNACA(航空国家諮問委員会)は、近代的な旅客機の誕生につながる
多くの技術開発に大きな責任を負っていました。

画期的な新世代の旅客機が登場したのは、1930年代初頭のことで、
技術の開発を担ったのは、軍、民間企業そしてこのNACAでした。

この頃、その技術をもとに、全金属製、モノコック構造、
応力皮膜構造、片持ち梁翼、格納式着陸装置、カウル付き空冷エンジン、
可変ピッチプロペラ
などが続々と生み出されていきました。


これらの近代的技術を集めて作った最初の旅客機が、ボーイング247型機です。

ジョン・K・「ジャック」・ノースロップ

1928年にロッキード・エアクラフトを退社したノースロップは、
金属製航空機を製造する会社を立ち上げました。

強靭で軽量な片持ち梁応力皮膜翼と金属製モノコック胴体を組み合わせた、
ノースロップ・アルファが彼の最初の設計でした。


スミソニアンのノースロップアルファ

アルファはボーイングの設立者ウィリアム・ボーイングに感銘を与え、
彼はノースロップの会社を買収することになります。

ジャック・ノースロップが熱烈に主張したオールメタルのモノコック機体は、
その後のアメリカの航空機設計に永続的な影響を与えたのでした。

■NACAの風洞(ウィンドトンネル)

1927年から1939年まで、航空エンジニアの主要な研究手段である風洞を、
NACAはバージニア州のラングレー航空研究所に4つ建設し、
この核心は、航空機設計のブレークスルーをもたらします。


1939年に開通した NACAの高圧トンネル

このトンネルは、大型と高圧を1つの施設で実現した最初のものとなります。
後ろに見える大きなNACAの看板はこのトンネルのものです。

よく見ると、トンネルチューブの上に人が3人保守のためか登っていますね。


プロペラ研究用トンネル

この坑道は、幅6メートル(20フィート)のスロートを持ち、
プロペラを取り付けた実物大の航空機の機体をテストすることができました。

この装置で研究した大きな成果としては、

「固定降着装置と露出したエンジンシリンダーが膨大な抗力を引き起こす」

「エンジンが翼のかなり前方に配置されている方が航空機の性能が向上する」

このようなことがわかりました。

実物大トンネル

この巨大な風洞内の試験スペースは2階建ての小さな家ほどの大きさで、
エンジニアは実物大の航空機を試験することができるものです。

この装置で発見されたことは、

「外付けの支柱、スクープ、アンテナが航空機の性能を損なう」

という、現代人なら誰でも知っているようなことでした。
(コロンブスの卵ってやつですね)

第二次世界大戦中に使用されたほぼすべての高性能米軍機は、
このトンネルでテストされてデビューしています。

高速風洞

この風洞では、時速925キロメートルの風速を出すことができました。

そして、ほとんどの航空機は、その3分の1程度の速度しか出ないのに、
プロペラの先端は音速に達していることがわかったのです。

このことから、リベットの頭部やその他の表面の凹凸が
大きな抗力を生む
ことが実証されたのです。

今の航空技術の基礎となっている「当たり前のこと」が、
この風洞によって実証され、今日の発展につながっているということです。

■ 機内サービスの向上と競争による変化

アメリカの航空産業は急速に拡大しました。

1930年にはわずか6,000人だった旅客数は、1934年には45万人を超え、
1938年には120万人に達するほどに増大していきます。

それでも、飛行機を利用したのは旅行者のごく一部にすぎませんでした。
当時飛行機は非常に高価な交通手段だったからです。

飛行機を利用できるのは、ビジネス旅行者と富裕層だけ。
ほとんどの人々は都市間の移動にはまだ電車やバスを利用していました。

その頃の沿岸から沿岸への航空往復運賃は約260ドルでした。
当時の新車価格の約半額といったところです。


これが飛行機の中?と思わず見直してしまいます。
二段ベッドの上と下に子供がいて、親は別のところで寝るのかな?

きっとファーストクラスのサービスなのでしょう。


ユナイテッドの夜間発に乗り込む人々。
階段の紳士が右手に持っているのはアメニティのオーバーナイトバッグです。
乗客はこの頃入り口で名簿の照合を行ってタラップを登りました。


機内食は昔も今も楽しみの一つです。

テーブルを囲む椅子が向かい合っていますが、これは食事のために
前向きの椅子をひっくり返してセットしたのではないでしょうか。

この頃のプロペラ機でよくこんな安定の悪いグラスを使っていたなあ。


パンアメリカン航空の到着便から降りてくる乗客たち。
遠目にも乗客の女性の美人率が高いのが見て取れます。

これも彼らが富裕層であることを物語っているのかもしれません。



双子らしい姉妹とその父親らしき人。
パパがお金持ちだと、小さい頃からこんな体験ができます。

帽子から靴まで寸分たりとも違わない衣装を揃えているあたり、
(しかも革製の手袋まで)かなりのお金持ち家庭みたいですね。


先ほどの食事風景より少し時代が後になります。

現在の機内食用のテーブルとほとんど同じ様子に見えます。
引き出し式のテーブルに白いナプキンをかけ、
トレイに一食分?を乗せてサーブするやり方です。

ちなみに世界で初めて機内食をサーブしたのはイギリスでした。

ハンドリーページ トランスポート(現ブリティッシュ・エアウェイズ)
1919年にサンドイッチと果物を乗客に提供したのが最初の機内食です。

パンナムの初期の便では、色々と食事どころではなかったので、
乗客にはチューインガムだけが提供されていました。

この1930年代、飛行機の内部はますます広くなり、乗客は食事をしながら
自由に動き回ったり交流したりすることができたため、
航空旅行の「最もロマンチックな」時代と呼ばれることもあったようです。

ラウンジには高級な陶磁器や白いテーブルクロスが備え付けられていました。

ユナイテッド航空は、世界初の機内ケータリング専用キッチンを設置しました。
乗客は、カリフォルニア州オークランドから搭乗するにあたり、
スクランブルエッグかフライドチキンのメインコースを選択できました。

しかし航空技術の進歩が、機内でのサービスに意外な問題をもたらします。
高高度飛行での卵の調理は時間がかかる、パンはすぐに腐ってしまうなど。

パンナム航空は、シコルスキーS-42機内で機内食を温めた最初の会社でした。
ボーイング247やダグラスDC-3といった大型機には、
機内にホットストーブや冷蔵庫を設置するためのスペースが確保されました。

このようなフライトサービスの向上は、競合他社との差別化を図る手段でした。

■ 空飛ぶ政治家たち


冒頭の写真は、大統領夫人、エレノア・ルーズベルトと、
彼女が乗ったユナイテッド航空の客室乗務員のツーショット。
ところでルーズベルト夫人って、むちゃくちゃ背が高くないか?



写真は、テキサス州ダラスからカリフォルニア州ロサンゼルスへ向かう途中、
アメリカン航空の飛行機の外に立っているエレノアさんです。

この写真では特に、彼女の背の高さが普通でないとわかりますね。
調べてみたらアメリカ人女性としても珍しく180センチだったそうですよ。
ついでに夫のフランクリン・デラノは188センチだったようですね。


これは美男美女

1930年代に空の旅が一般的になると、多くの政治家が飛行機を利用しました。

1932年、当時ニューヨーク州知事だったルーズベルトは、
アルバニー-シカゴをアメリカン航空のフォード・トライモーターで移動し、
そこで民主党の大統領候補指名を受け「ニューディール」演説を行いました。



第二次世界大戦中、ルーズベルト大統領は
カサブランカとヤルタで連合国首脳に会うために海外へ飛び、
ファーストレディのエレノア・ルーズベルトは、
大統領に代わってしばしば国内を飛び回りました。

上の、アメリカン航空の飛行機の前に立っているエレノアの写真は、
1933年6月5日に撮影されたもので、彼女はすでにファーストレディでした。

当時、多くのアメリカ人が新しい交通手段に懐疑的だったにもかかわらず、
ルーズベルト夫人は飛行機旅行を積極的に受け入れたことから、
「空飛ぶファーストレディ」として知られていました。

そういえば、黒人パイロットを擁するタスキーギ航空隊の基地視察で、
彼女はなんの根回しもなく、いきなり基地の教官だったルイス・ジャクソン
「あなたの操縦する飛行機に乗ってみたい」と言い出し、
何事もなかったように降りてきて「なんだ飛べるじゃないの」といった、
という話がありましたが、この人どこにいってもこんな感じだったんですね。


おばちゃんニッコニコ


しかし、彼女のような例は当時あまりなく、それというのも
民間航空機の旅にはまだリスクがあって、怖がる人も多かったのです。



そして、彼女の夫であるところのフランクリン・ルーズベルトは、
在任中に飛行した最初の大統領の称号を得ることになりました。

1943年のモロッコで開催されたカサブランカ会議に出席し、
第二次世界大戦における連合国の欧州戦略を策定するため飛行したのです。

この会議では潜水艦の脅威に対し、
航空機を主要な輸送手段にすることが決定されました。


人々が飛行機の安全性に懐疑的になったのは、
1935年5月6日、ニューメキシコ州上院議員の
ブロンソン・カッティングが死亡したT.W.A.ダグラスDC-2の墜落事故など、
有名人・政治家が犠牲になる事故もしばしば起こったからです。

とはいえ、高速移動の利点が、現実の危険や認識されている危険を上回り、
政治家たちは好むと好まざるにかかわらず、それを選択したのも事実です。

続く。








「ATC」大手航空会社の戦時協力〜スミソニアン航空博物館

2025-08-17 | 航空機
スミソニアン航空博物館プレゼンツ「旅客機輸送の歴史」、
今日から1941年〜1958年のゾーンへと進みます。

■ 第二次世界大戦と航空会社

第二次世界大戦中と戦後、航空輸送は劇的に変化しました。
新技術がピストン・エンジン機を進歩させ、
航法と航空交通管制の問題に新たな解決策をもたらしたのです。

業界は連邦政府によって規制され、少数の大手航空会社の支配が続きます。
所要時間と運賃の低下により多くの人々が空の旅を楽しめるようになり、
航空機の乗り心地も改善され続けたため、航空輸送量は着実に増加しました。

しかしその頃世界は第二次世界大戦に突入します。

戦争が始まると、航空会社は軍と密接に協力し、
人員や物資を輸送することで軍事作戦に全面協力しました。

もともと、航空機メーカーは第一次世界大戦中から
アメリカの整備施設へ航空機の補給品や資材を輸送を行っていました。

鉄道と海上輸送で、機器や航空機をフランスの戦場へと輸送していたのです。
今回も航空会社は戦争努力の一翼を担う準備を十分に整えていました。

戦時動員計画は、1937年には航空輸送協会によって立案されていましたし、
その4年後、米国が第2次世界大戦に参戦すると、
計画はスムーズに施行され、航空会社は直ちに軍との緊密な連携を開始。

1942年に航空輸送司令部(ATC The Air Transport Cを結成し、
国内および世界各地での航空機、貨物、人員の輸送の調整を請け負いました。

航空輸送司令部は、第二次世界大戦中における
アメリカ陸軍航空隊の戦略的空輸部隊として位置付けられます。



TWAは、保有していた5機のボーイング307型機とその乗務員を
全て航空輸送司令部(ATC)に移管しました。
同航空会社は1942年に大西洋横断定期便を開設しました。

この頃、国の保有する360機の旅客機のうち200機、
特に最高級のダグラス DC-3が戦争のために徴用され、
航空輸送司令部(ATC)の管理下に置かれました。

ATCは、民間と軍の航空輸送業務の統合を企画したアメリカ陸軍航空隊の
ヘンリー・H・「ハップ」・アーノルド大将の命令で、1942年創立します。

航空機のパイロットと搭乗員(その多くは予備役将校)もATCに召集され、
軍の同僚たちと合流して任務にあたりました。
彼らは長距離の定期便運航における知識と経験を持つベテランでした。



冒頭のスミソニアン展示は、上の写真で航空司令輸送部、
ATCの飛行乗組員が身につけているのと同じ、カーキ制服です。

それまでの「豪華客船のクルー風」からミリタリー調に変わり、
優秀な四発機パイロット、ならびに航法士やその他の乗組員が、
大西洋横断輸送シャトルの操縦任務に就きました。



そうしてATC は、世界中で戦闘機を輸送するフェリーコマンドと、
貨物や人員を輸送する航空サービスコマンドの力を統合して、
巨大な国際航空会社として機能し始めました。

航空管制局の輸送部門は、女性空軍サービスパイロット(WASP)を擁し、
陸軍航空軍輸送司令部に代わって、新造航空機を
工場から訓練基地や乗船港へ輸送し、そこから航空機は
戦地を含む海外の目的地へと飛行によって輸送されていきます。

ATCの航空輸送部門は、広大な国内外の路線網を迅速に構築しました。
ATCは世界中にコンクリート滑走路を備えた飛行場を建設し、
重量輸送機がどこでも運航できるようにしました。

ATCの主力機となったダグラスC-54
最大約4,500kgの積載可能重量はダグラスC-47の2.5倍に相当


最初の主要路線は1942年にブラジル、
そして南大西洋を越えてアフリカ、中東へと開通し、
ドイツアフリカ軍団と戦っていたイギリス軍をはじめとする連合軍に、
切望されていた武器、弾薬、物資を輸送しました。
 
1943年、航空管制局(ATC)は、厳しい気象条件にもかかわらず、
北大西洋を横断する定期便を開設し、第8空軍の作戦と、
1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦を支援しました。

上陸後、ATCは西ヨーロッパとイタリアにおける連合軍の進撃を支援し、
物資の輸送と重傷者の搬送を行いました。

フランス解放時には、負傷兵の治療のため、
約3,600ポンドの輸血用血液をパリに運んでいます。

太平洋戦線における連合軍に対して、航空輸送司令部は、
作戦を直接支援し、オーストラリアの増強を図りながら、
アメリカ軍の中央太平洋および南西太平洋への進撃を支援し、
特に1944年後半に第20空軍が日本本土への壊滅的な爆撃を開始すると、
マリアナ諸島のボーイングB-29に補給を行いこれを支援しました。


1942年、ATCのロゴをジャケットに付けたパイロットと乗組員が、
ロッキードL-18 ロードスターの横を通り、自機の搭乗口へ向かっています。

こちらは民間ではなく陸軍パイロットです。




「あなたのその旅行は今必要ですか?」
不要な移動は戦争努力を妨げる

とあからさまに自粛を促す戦争キャンペーンポスター。
満員ぎゅうぎゅうづめの飛行機内には、通路の補助席に軍人が
仕方ねえなあ、みたいな様子で乗っています。

しかしこの頃の飛行機って、シートベルトなしで大丈夫だったんですかね。

この頃アメリカでは、カジュアルな航空旅行はほぼ完全に禁止となりました。
厳格な優先順位リストにより、戦争支援に従事する者だけが飛行を許可され、
その結果、航空機の搭乗率は80%を超え、戦前比で20%増加しました。

軍は国内の360機の航空機のうち200機を徴用し、
民間航空会社の職員も戦時動員されました。



ATCは、アメリカ軍兵士を慰問するために、
世界中を旅するスターたちを輸送しました。

この写真は、フランク・シナトラが地中海戦線での慰問公演を終え、
帰国のためATCのC-47に搭乗しているところです。

航空輸送司令部は、アメリカ空軍創設後の1948年6月1日まで存続しました。
その後、規模は縮小したものの同等の海軍航空輸送隊と統合され、
軍用航空輸送隊が発足しました。

■ 戦後を見据えて
 

L. ウェルチ・ポーグ
L. Welch Pogue

1944年のシカゴ会議で連合国は戦後の民間航空に関する計画を策定します。

彼らは「空の五つの自由」を確立し、国際航空会社に対して
相互の飛行権と着陸権を認める措置を講じるとともに、
国際連合の一機関として国際民間航空機関(ICAO)を設立し、
国際航空の安全規制と基準の設定を目的としました。

民間航空局(Civil Aeronautics Board)議長、L. ウェルチ・ポーグは、
これらの協定の策定に重要な役割を果たしました。

また、1946年の米英二カ国間のバミューダ協定の策定にも携わり、
米国とイギリス間の航路、運賃、航空権に関する詳細を定めました。

ポーグは第一次世界大戦の退役軍人で、ハーバード大法学部を卒業、
ウォール街で著名な弁護士として名を馳せていたところ、
ルーズベルト大統領によって米国民間航空委員会の委員長に任命され、
国際民間航空システムの発展に重要な役割を果たした人です。

ちなみにこの会議では、以下の規制が定められました。

「航空管制言語を英語とする」
「国際便の規則設定」
「国際民間航空路線を確立するための世界的な多国間条約の採択」
「運航条件」「料金」「輸送能力」

1946年、ポーグ氏は政府の仕事から離れてワシントンD.C.に
自身の法律事務所を設立し、複数の大手航空会社の代理を務めました。
顧客にはベル・エアクラフトやロッキード・マーティンなどがいました。

1981年に法律事務所を退職後、執筆活動と旅行を精力的に行いながら
博物館の案内員として勤務し、
2003年に103歳で死去するまでその職を務めたといいます。

亡くなる最後の週まで車を運転しており、
101歳でワシントンD.C.からフロリダまでを往復していますから、
最後まで頭脳は明晰なままだったのだろうと思います。

■ パンナムの失望

左より;
メキシコ便 パンアメリカン ワールド エアウェイズ
南アメリカ便 ブラニフ エア ウェイズ
ハワイ便 ユナイテッド エア ラインズ
トランスコンチネンタル エア トランスポートTWA

ATCは航空会社と契約し、必要な場所にはどこへでも就航させました。
パンアメリカンの豊富な海外経験は、特に貴重な財産となったのですが、
パンアメリカンにとって計算違いというか、失望させられたことは、
他の航空会社も同じように海外路線を獲得したことでした。

ノースウエスト航空はアラスカと太平洋、
ユナイテッド航空はハワイと太平洋、
イースタン航空とブラニフ航空は中南米、TWAは大西洋、
アメリカン航空はアフリカ、インド、中国に就航、など。

ブラニフ航空(Braniff International Airways)は、
ブラニフ兄弟によって1928年創業した航空会社で、
戦後は広告戦略に力を入れ、機体をポップな色に塗装して、
「ジェリービーンズ・フリート」と謳ったり、イタリアのデザイナー、
エミリオ・プッチやホルストンに制服をデザインさせたり、
またウォーホルを広告に使ったりと尖ったキャンペーンを行いました。

経営不振に湾岸戦争が追い打ちをかけ、1990年に運行を停止。
ブラニフ航空の制服については、またいずれご紹介します。

続く。




家の隣は自然公園〜サンタクララ 西海岸生活

2025-08-14 | アメリカ


西海岸に着いて1ヶ月が経ちました。

アメリカでもテキサスなど各地で暑さが限界突破しているようですが、
今年のベイエリアは最低気温14℃、最高気温25℃くらいで推移しており、
今現在も開けた窓から冷たい風が入ってきて、腕が寒いくらいです。

この地にシリコンバレーが誕生したのも、この
湿度が低く年間を通じて温暖さが少ない気候が与っているからですが、
とはいえ通常8月の昼間の陽射しは強烈だし、
これから9月にかけてかなり暑くなっていくのかもしれません。

■アメリカは抹茶ブーム


到着した次の日は週末だったので、MKがカフェに連れて行ってくれました。
ここはメディカル関係の企業が集まっているオフィスパークで、
その中庭には休憩用のテーブルが置かれています。


生垣が迷路のようになっていて、それが壁のように
小さなテーブルと椅子のある場所を仕切っています。

外で快適に過ごせる期間が短い日本と違い、真夏であっても
木陰に入れば涼しいことから、この辺ではよくある仕様です。

ところでこの写真、写真から消したいものを消す、という
「クリーンアップ」機能を初めて使ってMKの姿を消してみたのですが、
テーブルの端がモヤモヤしているのが全然ダメですね。
(右下に靴が残っていますが、これは単に消し忘れ)


MKが頼んだのは「UBEのラテ」(エディブルカップ入り)。
UBEというと最近社名をこれに変えた企業しか知らなかったのですが、
こちらは今アメリカで流行っている「ヤムイモ」のことです。

フィリピン産でご覧の通り紫色をしており、甘いので
アイスクリームや飲み物にその名前を見るようになりました。
ビタミンやミネラルが豊富で抗酸化作用も期待できる健康食品です。

で、これが入っているカップは全部食べられます。
アイスクリームのコーンみたいなもので、飲み終わるまで形が保たれます。

ちょっと齧らせてもらいましたが、これもコーンと同じく
それだけならわざわざ食べようとは思わないような味でした。



アメリカ人に人気、と言えば、最近抹茶がえらいことになってます。

ここは、今回初めて行ってみたクパチーノの「トーキョーセントラル」
(旧マルカイ)という日本食スーパーのあるモール。
ここには「DAISO」「サンリオショップ」などの日本のお店を中心に、
カレーやラーメン店、アジア系のお店などが入っているのですが、



その一角でいつも人気なのがこのIZUMI抹茶というお店なのです。


うちはTOの趣味で抹茶を毎朝点てて飲む習慣なのですが、
日本から持ってきた抹茶がなくなったので買いに来てみると、
店内は抹茶ドリンクをオーダーして待つ人でいっぱいでした。


この地域で三店舗展開しています。
メニューは抹茶ラテを中心としたものですが、これがウケている模様。

最近抹茶の美味しさに外人が気づいてしまい、世界的なブームです。
京都の宇治にはフランス人が大挙して押しかけたり、
アメリカではここのように抹茶に列を作る人がいたり、
そのせいなのか、抹茶の供給不足が深刻になってきています。

うちのように昔から細々と抹茶を飲んでいた消費者は
おそらくこのブームに内心眉を顰めていることでしょう。



我々はただ抹茶の粉を買いに来ただけなので、
レジでそれは忙しそうにしている人に、横から声をかけて
ショーケースにある抹茶から良さそうなのを選び購入しました。

隣の「トーキョーセントラル」(この辺で一番大規模な日本食料品店)
でも抹茶を売っていたので飲み比べてみましたが、
明らかにトーキョーセントラルの商品の方が新鮮で美味しかったです。




西海岸には美味しいレストランが多いですが、
中にはもちろん「ハズレ」もたくさんあります。

こちらに着いてすぐ、三人でランチを食べに行ったとき、
MKがオフィスタワーと高級アパートの谷間のようなところにある
野外を利用したBBQの店をネットで検索してくれたのですが、
ヤードの片隅で鉄板を並べて焼いてくれる、牛豚鶏のBBQはまあまあとして、



わたしが頼んだ「Poke(ポキ)」、これが空前絶後に酷かった。
(日本人ならこの見た目でもうわかってしまうのだった)

ハワイ料理のポキ(正式にはポケ)とは魚介類をタレに漬け込んだものです。

ポキというのは「細かく切る」という意味なので、
それらの魚類は必ず小さく切るという大前提があります。

そしてマグロを丼にするときには、必ず身を「漬け」ますよね。
うちの場合は必ず醤油酒味醂の黄金トリオです。
アメリカでは「マリネード」に使うのは醤油と米酢、ごま油が多いようです。

いずれにしても魚の身を何かに漬けておくことが肝要ですが、
ここのマグロは何かに漬けたという形跡はなく、
その代わり、塩揉みでもしたのかというくらい辛かったです。

辛くないのはアボカドだけ、という状態で、とても食べ進められず、
ウェイターがチェックアウトに来たときにはほとんど手付かずでしたが、
彼はそのお皿を見ても、「テイクアウトするか」と聞いてきませんでした。

おそらく我々の様子から、「何か」を察したのでしょう。

ちゃんとしたレシピや材料で作っておらず、思いつきで
新鮮でないマグロの品質を誤魔化すために塩漬けにしたポキ丼。
わたしの西海岸での食の歴史に悪い意味で残る、強烈な不味さでした。

■サンフランシスカンらしさ



この次の日、サンフランシスコまで行きました。
目的はこの「ダンデライオン」というチョコレート専門店です。
前回家具を買ったミッション地区にあります。



予想はしていましたが、現地に着いて寒さに震え上がりました。
サンフランシスコはシリコンバレー付近に輪をかけて寒く15℃くらい。
夏でも滅多に20℃以上にはなりません。



ここはMKおすすめのチョコレート専門店で、
昔工場だった建物を利用した物販+カフェ+ファクトリーです。

ちなみにこの写真も、オリジナルはMKが入り口に写っていましたが、
クリーンアップ機能で消してみました。(窓ガラスには写っている)


オーダーしたココアを窓際のカウンターで頂くのもよし。
この部屋の横はファクトリーとなっていて見学することもできます。
ちょうど私たちが着いたとき、ツァーが始まるところでした。




こだわりのチョコレートはテイスティングして買うことができます。



アメリカでケーキが美味しそうに見えることは滅多にありませんが、
ここのはクグロフもブラウニーもスモアもちょっといけそうです。


ココアを頼むと、ポケットにクッキーが入るカップで出てきました。
なるほど、これならクッキーのためのお皿は要りません。


チョコレートカフェの後、去年も行った有名なベーカリーレストラン、
タルティーヌで夕食をいただきました。

日曜の夕方で、これから予約で一杯になる予定です。
ここで地元の人らしい客層を見ながらあらためて思ったのですが、
「サンフランシスカン」(サンフランシスコ人)って、
明らかに他の地方とは違う独特の雰囲気を持つんですよね。(特に白人女性)

うまく言えませんが、ナチュラリストでヴィーガンとまでは行かずとも、
オーガニック好きで少々民主党よりで、あと教育問題に熱心で
髪の毛を染めたりとかはせず、白髪はそのまま育てるみたいな。

みんながみんなそうではないけれど、外見は少なくとも
いわゆる「自然食品店にいるタイプ」が多い気がするのです。

住んでいる地域の気候が気候なので、アメリカ人スターターセットの
「Tシャツに短パン、ビーチサンダル」という格好ではなく、
夏でもLLビーンやコロンビアのパーカなどを着ているせいかもしれません。



さすがはタルティン、こういうのが最高に美味しい。
上に載っているのはいわゆる「ストーンフルーツ」。
ネクタリンやピーチ、プラムやチェリーなど、内部に種=
ストーンを持つ果物のことで、「ストーンサラダ」などに使われます。



タルティンはSFとロスアンジェルスに展開していますが、
ここの売りはピザだったりします。

自分がペパロニ嫌いなことを忘れてついオーダーに賛同してしまい、
残してMKに叱られたのですが、ペパロニ以外は美味しかったです。

帰るとき、一抱えはある大きなサワードウのパンをテイクアウトしました。
5切れくらいに分けてすぐさま冷凍し、時々食べていますが、
サンフランシスコ発祥のサワードウは世界のどこで食べるより美味しいです。

なんでもゴールドラッシュ時代から食べられているのだとか。

■ Airbnbの近隣



今回のAirbnbは偶然一昨年前MKがインターンシップをした会社の近くで、
落ち着いた新しい住宅街の一角にありますが、少し歩くと
そこはORACLEのキャンパスがあったり、インテルの博物館があったり、
あとはWaymoとかGoogleの一部門とかが点在しています。



しかし、さすがはアメリカ、そんなところであっても
住宅地の真ん中の川沿いに自然公園が広がり、そこにはトレイル
(遊歩道)が長く繋がっていて、近隣の人々の憩いの場となっています。


部屋を出て数分でこんなところを歩けるという素晴らしい立地。
泊まるのを決めたときにはここまで予想していなかったので驚きました。



住宅のある一帯の後ろ側にはグアダルーペという川が流れ、
川沿いの土手は整備されて車輌禁止の散歩道が連なっています。


公園の木々越しに見えているのはリーバイス・スタジアム。


11年前にできた多目的スタジアムで、この名前はジーンズのリーバイスが
20年契約・総額2億2030万ドルで取得してつけられたものです。

そしてこれはたった今知ったのですが、この会場、
2026年度のFIFAワールドカップに使用される予定なんだとか。

大会期間中は施設命名権行使禁止規定が適用されるため、
「リーバイス」の名前は使えなくなり、その間一時的に
「サンフランシスコ・ベイエリアスタジアム」の名称となるそうです。


公園の入り口にある案内。
正式名称は「ユリスタック(Ulistac)ナチュラルエリア」と言います。



グアダルーペ川は途中でコヨーテ川に名前を変えますが、
この辺りでは普通に?コヨーテも出るそうです。

園は午前6時に開園し、日没後30分で閉園する:

- 走ったり、背中を向けたりしないこと。
- できるだけ大きく、大きな声を出す。
- 腕を振ったり、物を投げたりする。
- コヨーテの方を向き、ゆっくりと後ずさりする。
- 攻撃されることは稀であるが、
攻撃された場合は、反撃すること
-いかなる場合でも、コヨーテに餌を与えないこと

犬:
- 犬には常に1.5mくらいのリードをつけること。
- トレイルから出ない。リードから犬を離さないこと。


「攻撃された場合は反撃(ファイトバック)すること」

って言われましてもどうやって反撃するのか。


犯人がコヨーテかどうかはわかりませんが、ある日の散歩で
食べ残された?リスの尻尾だけを発見しました。

やっぱり毛が多くておいしくないんだろうか。



公園の至る所にはこのような説明のパネルが設置されています。

ここは「オーク・サバンナ」に分類される地域で、
広大な草原にバレーオークの樹木が点在しているという定義です。

上の説明には、草地の環境は齧歯類(🐿️とかね)とその捕食者を養い、
オークとドングリをすみかとし餌にするキツツキが生息し、
オークにつく蛾がサシバ、鶯、ヒタキの餌になる、と書かれています。


今日散歩中遭遇した小さな蛇。
ものすごいスピードで道を横切ったので、これを撮るのがやっとでした。


ハミングバード(ハチドリ)は部屋の前の木によくやってきます。


歩いていると人口の巣箱があったり、観察地点を表す立札があったり、
ここでは何百人ものボランティアが自然保護のために活動しています。

ボランティアは外来種を除去し、カリフォルニア原産の樹木、低木、草、
野草を植えたり、手入れをしたりしています。
(わたしも彼らがジョウロを持って回っているのを目撃)


一輪だけ突如咲き誇っていた謎の植物。

いろんな種類の蝶が舞い、鳥が巣を作り繁殖し、渡り鳥が冬を過ごし、
ジャックラビット、トカゲなどの野生動物もここを住処にしています。


ゴミの日は週一度、前日夜までに燃えるゴミと資源ごみを
ブルーと黒のゴミ箱に入れて家の前に出しておくと、
大体午前中からお昼にかけて収集車がやってきて回収します。



運転手は一人。

日本のように車から降りず、車に備えられたアームを
まるでクレーンゲームのように操り、
並んだゴミ箱を順番に掴んでゴミを放り込んでいきます。

アームはゴミ箱の横から差し込んで本体を掴み、
上に振り上げる動きで自動的に蓋が開いて中のものがダンプされます。
どんなにゴミ箱とゴミ箱の間が狭くとも、確実に間にフォークを差し込む、
この辺に職人としての技が発揮される作業です(たぶん)


これが今住んでいる家ですが、右隣の家に、


窓用の猫ベッドがあるので毎日様子を窺っていたら、
ついにある日猫さんとご対面が叶いました。

変わった種類なのでAIに素性を聞いてみたところ、
エキゾチックショートヘアではないかという回答でした。

ペルシャ猫とアメリカンショートヘアを交配したという説、
ペルシャとバーミーズという説があるそうですが、
いずれにしてもこのブサカワ猫は交配によって誕生したということです。




遊歩道からスマホで撮った、SFに向かうサウスウェスト航空機。

手持ちで揺れているのにそれでも難なく撮れてしまうというね。
望遠機能も昔とは比べ物にならないくらい進化したiPhoneです。

続く。

映画「駆逐艦雪風」〜敗戦

2025-08-11 | 映画
映画「駆逐艦雪風」最終回です。

本日冒頭画像を見て、またまた一瞬だけの場面に、
軍上層部の偉い人役であの俳優が出ているな、と察した方、あなたは正しい。

それは後にお話しするとして、続きと参りましょう。

■ 空襲


母と上司である手島艦長の妹、木田勇太郎が密かに心を寄せる女性、
雪子が慰問にやってきた日、木田は海兵出の士官である弟、
勇二が回天特攻で散華したという報せを受けます。

そのことを真っ先に伝えるべき母親に、なぜかそれを言えぬまま、
雪子相手に木田が泣いていると、空襲警報がありました。

施設内の防空壕に避難した三人。

爆音が響く壕内で、度胸が座っているのか根が明るすぎるのか、
母親は息子に向かって、

「こんな人(雪子)がいるのに何も言わないのは水臭い」

などと斜め上の説教をしてきます。
カーチャン、今はそれどころじゃないんだってば。

しかしカーチャンはズケズケと雪子の歳(22歳)を聞き、
息子は26歳(長門勇は30歳)なので結婚させたいと思っていたが、
あなたのようなお知り合いがいて安心しました、などと言うのです。

しかも、

「この子は『雪風』のような美人じゃないと結婚せんと言うてました。
じゃが、あなたなら大丈夫、『雪風』より美人じゃ」

木田が雪子は艦長の妹さんだ、と母親を叱責すると、
彼女は慌てて雪子に謝り出すのでした。

志願の烹炊下士官である息子と士官の家族との結婚は
当時の世間的常識からあり得ないことだからです。

■ 作戦


戦況はより日本に不利に傾きつつありました。
ついに敵主力勢が沖縄への上陸を開始したのです。


ここは聯合艦隊司令部。
ここで「天一号作戦」について滔々と説明しているのは、
そう、我らが丹波哲郎です。

「先に『天一号作戦』が発動され、沖縄攻撃の指令が降った。
本日、さらに次の下命があった。

伊藤第二艦隊司令長官は、麾下の『大和』『矢矧』『冬月』『初霜』
『朝霜』『磯風』『浜風』『雪風』を以て、海上特別攻撃隊を編成し、
四月八日黎明を期し、沖縄に突入。所在敵艦船を撃滅。
なお、作戦要領は次のとおり」

このワンシーンだけの登場にも関わらず、タイトルに大きく
写真と名前を扱われるのはそれが丹波哲郎だからですが、
この役どころはそもそも、一体実在の誰のつもり?

参謀飾緒をつけて作戦命令を下していることからも、
連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将ではないかと思われるのですが、
全く本人と似ても似つかないのはもちろん、おそらく本人は
草鹿龍之介どころか、誰を演じているか全く気にもしてなさそうです。

当時の軍人らしくない、額にぱらりとかかる長髪をなでつけもせず、
そう、まるでよその撮影現場からやってきて台本まる読みしているような。
(違ってたらごめんなさい)

上のセリフを言う際、丹波は視線を手前のカメラ横にやりながら、
特に参加艦艇名を列挙する際、明らかにカンペを『読んで』います。

本作戦参加の駆逐艦群に「涼月」「霞」の名前がなかったのは、
この時丹波哲郎が見落としたせいかもしれません。


しかし何やらせても様になってしまうのが困ったもんです(笑)

丹波、これだけをなんとかこなすと、あとは手元の「作戦資料」を手に取り、
ここからは堂々と?次の文章を読みあげます。

「一つ、艦隊は八日黎明沖縄に突入し、敵艦船を撃滅!」

(ここで丹波、ドヤ顔で一座を見回す)

「一つ、余力あらば陸岸に乗り上げ、砲台となって
全弾打ち尽くすまで敵上戦闘に協力す!」


(またも一座を見回す)

「一つ、さらに生命あらば艦隊全将兵は上陸して敵陣に切り込む!」

(またも見回す)

「以上」

(丹波哲郎の出番終わり)

■ 上陸


特攻作戦に出撃が決まった「雪風」は出撃前の最後の時間を過ごしています。
「雪風」の母港は呉だったと言うことですが、撮影は横須賀で行われました。


「雪風」の烹炊では、木田がなんちゃって寿司職人になり、
同僚に寿司を振る舞ってやっていました。

「玉子!」

「そういうときは”ギョク”と言ってもらいたいなあ」

「ちぇっ、言うことだけは一人前でいやあがる」


ただし、物資不足のおり、玉子はたくあんで代用です。
木田は戦死した烹炊長からいつのまにか寿司の握り方を習っていました。



「一度でいいから烹炊長に握ってもらいたかったなあ」


大野の言葉につい目をふせる面々。
そこに加納少尉が、最後の上陸のため内火艇が出ると言いに来ました。


「酒屋町の彼女には義理は済んだのかい」



「眠ってる子を起こすなよ」(ふっ)

あくまでもクールな遊び人を気取る大野。



木田は、最後の上陸と聞いて、あることを決心しました。


自分で握った寿司を手土産に、手島家にやってきました。
木田の目的はもちろん手島雪子に最後の挨拶をすることです。

しかし、何度呼びかけても手島家からは誰も出てきませんでした。


悄然として木田は帰路をたどりますが、
聴こえてきたオルガンと子供の歌声にふと足を止めます。


そこは寺院に併設されていた孤児院でした。


子供の声に微笑んで歩き出した木田ですが、そのとき気づきました。


子供たちの輪の中で「赤とんぼ」を歌っている大野がいることに。


放蕩児を気取っていた大野が、今生最後となるかもしれない上陸で
自分と同じ孤児院の親のいない子供たちと過ごしていたのです。

木田が驚きで目を見張っていると、大野は

「さあ、もう一曲歌ったらみんなでお寿司を食べようか」

上陸前、木田に無理やり握らせた三人前の寿司は、
子供たちへのお土産だったのでした。


大野が子供たちと歌う「夕焼けこやけ」を背に、
木田は海に向かって歩き、心の中でこう呼びかけます。

雪子さん。
今しっかりとあなたの心のこもった千人針を身につけ、
出撃できる自分は、日本一の果報者と思っています。
ただ、最後に今一度お会いできなかったことが残念です。

雪子さん、お幸せに。
沖縄の空からお祈り申し上げております。


■ 出撃


「皇国の荒廃は当にこの一挙にあり。」


「帝国海軍は『大和』以下全力を挙げて沖縄周辺の敵艦隊に対し、
最後の総攻撃を決行せんと出撃した。」



その「雪風」では・・



烹炊の木田たちは絶対に沈まない「大和」の攻撃を機に、
海軍が一気に反撃に出るのだろう、と尚意気軒昂でした。

「その『不沈艦』を『雪風』がまた守ってるんだからな!」

そのとき、「第一警戒配備につけ」と放送がありました。


「戦闘配備につけ!」



実際の「雪風」とは全く違いますが、この映画では
護衛艦「ゆきかぜ」の訓練の様子を動画で見ることができます。



これはボフォース60口径40ミリ機関砲です。
この銃架が回転する様子も見ることができます。
「雪風」の実際の機銃は九六式の25ミリでした。



「敵機発見!」

海軍艦とは違う戦後の最新装備であることは作る方も百も承知ですが、
防衛庁のタイアップを取り付けた時点で、歴史的な齟齬は百も承知で
現行の護衛艦を紹介する約束が同庁とできていたのだと思われます。



対空戦闘が始まりました。


航空機と「大和」は模型による特撮です。


対空戦闘ですが、一応サービスシーンとして、
対潜迫撃砲のヘッジホッグらしきものの作動も一瞬映ります。

ちなみに「雪風」の対潜兵器は爆雷だけでした。


戦闘中、粛々と糧食を作り、配る烹炊の木田。
食缶を持って甲板に走り出て、激しい戦闘に思わずたじろぎます。


そのとき「大和」に爆弾が命中しました。



「はっ・・・!『大和』が・・・!」


救助に向かうという声に対し、艦長は、

「この作戦はいつもとは訳が違う。特攻なんだ!
このまま沖縄を見殺しにできるか!
よし、手島が責任を取る。取り舵いっぱい!」


しかしそのとき、艦隊本部からの無線が届きました。
作戦中止、人員救助のうえ帰投せよという命令です。


そして「雪風」は特攻作戦の死の海からまた生還しました。



「はあ・・・また『雪風』が生き残っちゃったなあ・・」



木田はいきなり厨房の外にペンキ缶を掴んで走り出しました。
何をするかと思えば、



「雪風」の戦果マークを消し始めました。

「ばかやろ〜〜〜!」


加納少尉はじめ同僚が駆け寄ってきます。

「何をするんだ。俺たちの大事な戦果じゃないか」

そこで、「大和」は沈んでしまったし、「雪風」は逃げ出してきたんだ、
「雪風」を卑怯者にはしたくないんだ、と一人騒ぐ木田。


そんな木田を嗜めるために出てくる艦長。
畏れ多くも艦長に向かって烹炊下士官である木田はこんなことを。



「艦長、もう一回引き返しましょう!
雪風一艦だけでも突っ込ませてください!
突っ込みましょう!
艦長、艦長はそんな意気地なしなんですか?
艦長は腰抜けだい!艦長の腰抜け!」

色んな意味でもう無茶苦茶です。
そもそも、今更引き返してどこに突っ込むつもりなのか木田。

即座に艦内牢屋に放り込まれても仕方ないこの木田の暴言に対し、
手島艦長は穏やかに、

「木田、軍人勅諭を知っているな?
上官の命令は天皇陛下の命令だぞ」


脊髄反射でサッと姿勢を正してしまうその場の面々。


流石に木田は艦長を追いかけて謝罪をしようとしますが、
艦長は何もいうな、とあくまでも静かに答え、そして・・・。



「お前に知らすことがあるんだ」


「・・・は?」



「雪子は出撃前の空襲で死んだよ」



艦長はそう一言告げてその場を去りました。



「・・うわあああああああっ!」

咆哮しながら「ゆきかぜ」甲板を全力疾走する木田。


「大和は沈んだ・・・
雪子さんは死んだ・・・
わしゃどうしたらいいんだい・・・・
雪風、お前はなんで沈まなかったんだ。
ばかやろう!死に損ない!

・・・・・雪子さん・・・・・」

■ 終戦



そして戦争は終わりました。
「雪風」は賠償艦船の一環として中国海軍に引き渡されることになりました。


「雪風」が祖国の港を最後に離れた昭和21年7月1日、
長浦の港は風雨が激しく降り注いでいたといいます。


往きて二度と戻らぬ「雪風」の姿を、木田勇太郎は埠頭で見送っていました。


そこにやってきたのは手島元艦長と、
「雪風」を設計した山川元技術中佐でした。

「君だけは見送りに来てくれると思っていたよ」


まるでムショ帰りのようにむさ苦しくなった木田です。

「しかし、せっかく無傷で戦い抜いた『雪風』を・・・」


「いや、木田”くん”」

艦長、すっかり民間人モードです。
切り替えの早い人と見た。

「『雪風』の名は全世界に知れ渡ったんだ。
これから中国所属の船になろうと、必ず栄光の道を歩むと思う」



「そうだ、そうだよ。
『雪風』の名は永遠に消えはしない」

この映画が撮影された1963年当時、まだ「雪風」は現役でした。
1964年の観艦式にも参加しているのですが、
翌年予備艦編入し、1970年には正式に除籍となりました。

元「雪風」乗組員が中心となって保存のため返還要求を行い、
返還は実現手前まで来ていたということですが、台湾からは
台風で浸水したから不可能、という返事によって実質拒否されたのです。

これについては、日中国交正常化に伴い、日本が台湾と断交することがわかり
それが台湾の動きにストップをかけたとする説が存在します。

つまり、台湾は、日本が中国を選び、台湾を切ることが決定した時から、
日本の返還要請に応えるつもりはなかったというのです。


埠頭に立ち、「雪風」の最後の姿を見届ける三人。

「笑って見送ってやろうじゃないか」

このとき、風雨が強かったという史実を再現するために、
台風の途中のような風の強い日に撮影が行われたらしく、
二人の持っている傘が風に煽られて、持つのも大変そうです。



「笑って」といいつつ、誰も笑っていませんが。


岸壁に砕ける波がすごい。本当に台風だったんじゃないかな。



「雪風、雪風・・・!
わしがついてるのを忘れるな!」




自分が手がけた軍艦をこよなく愛した一人の男の戦記、それがこの映画です。

実際の護衛艦「ゆきかぜ」の姿が映像に残されているというだけでも、
歴史の「記録」として大変貴重なフィルムだとまずこの点を評価します。

そこには、命の大切さとか戦争はやっちゃいけないですよとか、
正直映画の受け手にとっては当たり前「すぎる」いつものメッセージもなく、
英雄でもなんでもない、一人の平凡な男の戦時に起こる出来事が
稀有の軍艦の存在を軸として描かれた、後味の良い佳作でした。




映画「駆逐艦雪風」〜特攻

2025-08-08 | 映画
1964年公開、「駆逐艦雪風」3日目です。


「初戦において痛烈な一撃を米英に与えた我が聯合艦隊は、
ここに短期決戦の機を掴んで、その全兵力を挙げて
敵の要所、ミッドウェイ島攻略に出撃した」





東京日日新聞は毎日新聞東京本社発行の新聞で、毎日の前身です。

ミッドウェイ攻撃の戦果について「アメリカのデマは逆効果」とか、
「敗戦ごとに揚げ足取り」などとセンセーショナルな言葉を使い、
要するに、アメリカが嘘の戦果を垂れ流している!と報じているわけです。

しかしこれは、大本営が隠したかった開戦以来初めての敗戦でした。



第一次→かろうじて日本の勝利
第二次→アメリカの勝利
第三次→圧倒的にアメリカの勝利

だったソロモン海戦が行われたというところで・・・、


「雪風」乗組員は、ガダルカナルの撤収について噂をしていました。

「今度のガダルカナルは我が艦も年貢の収めどきかもしれんな」


何気ない会話の中で「母親に会いたい」と誰かが言ったとたん、
なぜかキレてその場を立ち去る大野。

木田が訳を聞くと、彼は、自分が孤児院育ちであること、
そもそも母親の存在を一切知らなかったと打ち明けます。

「そうでなけりゃもう少しマシな人間になってかもしれねえ」


昭和18年2月1日、「雪風」はガダルカナル撤収作戦に参加しました。


ガダルカナルから引き揚げてきた陸軍兵士たちの揚収が始まりました。



「しっかりしろ!」「元気を出せ!」

励ましながら彼らの手を取って艦上に引き上げていきます。



航海長は、揚収に時間をかけすぎると、敵の制空圏内から出られなくなり、
危険であるからそろそろ中止すべきだと艦長に具申しました。

言っている端から敵哨戒艇に発見されたと報せが入ります。


それはアメリカ海軍のPTボート「2」でした。

第二次世界大戦中は若き日のJFKが艇長として乗っていたことで有名で、
高速かつ重武装であったことから、船団攻撃に従事し、
巡洋艦なども攻撃することができたという魚雷艇です。

この頃在日米軍はまだ旧型のPTボートを所有していたようで、
それを映画のため特別出演させてくれたみたいですね。

この強力な魚雷艇の出現に、大野が思わず、

「雪風も年貢の納め時かもしれませんね」

と機関長に言うと、機関長、あっさりと頷いています。


しかしその時移乗作業が終了しました。
次々放たれる魚雷を巧みな操艦でかわしていく「雪風」。

「雪風」が幸運艦となったのは、ただ運が良かったのではなく、
代々腕のいい艦長が指揮を執ったからでもありました。



危機を脱し、揚収した陸軍兵たちに水を配っていた木田は、その中に
石川島の工員時代一緒に「雪風」を手がけた組長がいるのを発見します。

「自分が手がけた船に命を救われるとは思っていなかったぜ。
しかし、お前が『雪風』に乗っているとはなあ」



「だってわし、『雪風』に乗るって言ったじゃないですか///」


しかし、そんな木田に、

「他の駆逐艦がやられているのにかすり傷ひとつないって、
敵から逃げ回っていたんじゃないのか」


横から揶揄い半分混ぜ返す陸軍兵。
愛する「雪風」を貶められて逆上した木田は掴み掛かり、
かつての上司と今の上司が喧嘩を止めるため割って入る騒ぎに・・。


帰国後休暇をもらった木田が実家に戻ると、母親から
弟の勇二が海軍兵学校に入学したことを聞かされます。

優秀な勇二には医者になって欲しかった木田は不満ですが、母親は

「友達が予科練だなんだと入っているのに、
自分だけのんびり勉強するなんて非国民だと思ったんだろう」

と仕方なさそうに言うのでした。


木田には帰国にあたってどうしても会いたい人がいました。
手島艦長の妹、雪子です。

母親の作った「砂糖がないので味噌餡」の饅頭をお土産に、
手島艦長のうちまでいそいそとやってきた木田は、
雪子の姪に当たる手島の娘、京子から雪子の不在を告げられました。

「横浜のおじいちゃんとこ、今行ってるの」

「・・・横浜へ・・・」


雪子に会えずがっかりして艦に戻った木田には、
彼女から不在の詫びと千人針が送られてきました。


そして、烹炊長には今日あたり子供が産まれると言うめでたい報せが。
ちなみにこの烹炊長を演じる柳谷寛は「ハワイ・マレー沖海戦」で
娑婆では僧侶という設定の索敵機操縦士、谷本予備少尉を演じた人です。


ここで烹炊長、甲板に出てポケットから手帳を取り出しました。


そこにやってきたのは加納博司少尉。
(クレジットはフルネームの割に役職が書かれていません)

無線で烹炊長に男の子が生まれたという知らせを持ってきました。

加納少尉の役をしているのは吉田輝雄という俳優ですが、
この名前と顔に覚えがあると思ったら、当ブログで紹介した
「金語楼の海軍大将」で光機関の葛城中尉を演じていた人ではないですか。

当映画出演の菅原文太らと、長身の二枚目スターということで
「ハンサムタワーズ」の一員として売り出されたというあの人ですね。
(『ハンサムタワー』があまりのパワーワードで忘れられない)

そして、秋刀魚が出てこないのに何故か「秋刀魚の味」というタイトルの
小津安二郎の映画で、やはりこの映画にも出演している岩下志麻が
密かに想いを寄せる同僚(婚約者あり)の役が印象的でした。
(ちなみに作中、岩下が失恋するシーンでは、
小津監督はこだわり抜いて100回撮り直しをしたそうです)

木田が水野烹炊長にその嬉しい知らせを伝えようと甲板にでた時です。



米軍の哨戒機が「雪風」上空に飛来しました。



そしてピンポイントで烹炊長を狙い銃弾を放ったのです。
駆けつけた木田が見たのは、すでに絶命して倒れる烹炊長の姿でした。


旗が半旗に降ろされ、烹炊場には水野の遺影が飾られました。
烹炊場の乗組員は、子供が生まれたお祝いにと赤飯を供えるのでした。



烹炊長が最後に考えていたのは、生まれてくる子供の名前でした。
男なら忠雄、女なら孝子と書かれた手帳が遺品となります。


敵は徐々に本土に迫ってきていました。
飛び石作戦により、サイパンへの上陸が行われます。



そして、遂に硫黄島も・・・。
機動部隊はレイテ湾スルワンに殺到してきました。
圧倒的な物量を誇る敵艦隊の前に、戦艦「武蔵」以下24隻を失い
サマール沖において三昼夜にわたる「大和」の奮闘も虚しく、
我が連合艦隊は事実上壊滅の事態に至ったのでした。


しかしその中にあって「雪風」は健在であり続けました。


昭和20年。
桟橋の横を歩いていく回天の乗組員たちを見ながら、つい、
あの格好が羨ましい、などとこぼす「雪風」の乗組員。


その中に、木田は見てしまったのです。
海軍兵学校を卒業後士官になった弟勇二の姿を。
ここにいるということは、彼は「回天」搭乗員なのです。


その夜、兄弟は久しぶりに一緒の時間を過ごしました。
弟が海兵に入ることすら内緒にしていたのは、言えば反対されるからでした。

「医者になる夢は10年先でしか実現できないんだ。
その10年で日本がどうなるかと思うと呑気に勉強していられない。
俺、医者にならなくてもいい。誰かがなってくれればいい。
その誰かのために、俺、犠牲になることを決心したんだ」


「・・・・勇二、いいところに連れてってやろうか」

兄の提案に勇二は首を横に振ります。

「いいよ。女はお袋だけで十分だ。
俺、お袋に抱かれてる夢を見て死にたいんだよ」



次の面会日、木田を待っていたのは母親と雪子でした。



偶然会って一緒にいるという二人の姿に木田は感激。


彼は、この面会に勇二も入れた家族全員で会えると思っていました。
上からの通達で勇二がやってくると聞かされていたのです。


ところが彼を迎えに行った木田は、ある部屋に案内されました。


そこに弟がいると信じて、微笑みながら入室した木田を迎えたのは・・



特攻隊で散華した士官たちの遺影だったのです。



そして、その中に弟がいました。

「昨日出撃しました。見事な最後であったと・・。
現地からの報告によりますと、敵空母を轟沈したと」



悄然として二人の元に戻った木田ですが、どうしても
勇二が亡くなったことを母に告げることができません。
一足違いで転勤になった、と苦し紛れに嘘をいいます。



この母親は何かと楽天的な性格らしく、勇二が海兵に入った時も
多分大丈夫、と言ってみたり、この時も、

「勇二はお前と違って要領がいいから。
お前こそ弾に当たりに行くような男だから気をつけないと」


などと全く疑う様子を見せません。


しかし木田の様子に何かを感じ取った雪子は、
お茶をもらってくると言ってその場を去った木田の後を追ってきます。



そこには涙を流して嗚咽する木田の姿がありました。

「木田さん・・・もしや弟さんは」

「戦死しました・・・回天特攻隊で」



「自分が・・代わりに・・死んでやりたかったです」

木田の背中に声をかけることすらできず、ただ俯く雪子でした。

続く。



映画「駆逐艦 雪風」〜入隊

2025-08-05 | 映画
1964年公開の映画「駆逐艦雪風」続きです。

「雪風」の艤装に石川島重工の工員として関わった主人公、木田勇太郎。
自らが手がけた「雪風」を愛するあまり、次にとった行動とは・・。



ある日本の山村で、出征の壮行会が行われています。



そう、我らが木田勇太郎は海軍に入隊することを決めたのでした。
その理由は、「雪風」と一緒にいたいから。

「わしゃ『雪風』の生みの親だぞ。
ちゃんと乗れることになってんだ!」


そんな簡単に希望艦の乗組になれるかな。



勇一郎とは違って?秀才の弟、勇二(勝呂誉)。
勇太郎は勇二が医者になることを望んでいます。



母親役はお馴染み浦辺粂子。
木田が襷掛けにしているのは寄せ書きの日の丸です。


しかし、やはりものごとはそううまくいかなかった。
木田が最初に配属されたのは「おきちどり」。

これはもちろん海軍艦ではなく、戦後海上自衛隊の特務艇です。
海軍が建造した雑役船(200トン型飛行機救難船)が前身で、
戦後おそらく総会業務に携わるために掃海艇となり、
1961年に特務艇(ASM-72)となっていました。


「こんなはずじゃなかったわい・・」

「おきちどり」から「雪風」を眺めてため息をつく木田。

この「雪風」は海上自衛隊の護衛艦なので「ゆきかぜ」とありますが、
戦時中、旧軍艦の艦名は「ユキカゼ」と片仮名で書かれていました。


烹炊兵となって厨房に配属された木田ですが、
「雪風」への思い捨てられず、仕事に身が入りません。



第二艦隊司令長官への配属願い直訴状を古参兵に見つかり、
皆に責められているうちに乱闘になってしまいます。


上陸禁止になった木田は、同じく上陸禁止になっていた
機械室の大野一等水兵と知り合います。



そそのかされて丁半の賭け事をやっていると、突如甲板士官が現れ、
二人に「もうすぐ貴様らはこの艦からお払い箱になる」と言い残して去ります。

上陸禁止されたのにまだ賭け事をやめない大野は海軍刑務所に行きだと。
そして「雪風」への未練をダダ漏れさせる貴様は輸送船行きと言われ、
ガックリとうなだれる木田・・・。



「ゆきかぜ」は当時横須賀地方隊所属だったのでここは横須賀のはず。



「ゆきかぜ」にメザシになっている駆逐艦の艦名、
二文字なんですが、どうしても読めません><


「雪風」舷門では乗組員が堵列で新艦長の着任を待っていました。


そこに予定より遅れて、到着した内火艇。



♩「ソーッソ ソーッソ ソッドミソー」

こういう場合はサイドパイプではないのか?
と思いましたが、喇叭もありかもしれません。(確かめてません)


しかし降りてきたのは新艦長ではなく主計兵と機関兵(大野)。

「馬鹿者!」

ってこれ本人たちに全く責任無くない?
そもそも海軍がこんな手違いをするわけなかろうというツッコミはさておき、
木田水兵、念願かなって「雪風」に乗れたんですね!



しかし、その後乗り込んで来た新艦長手島中佐には、
「目が死んどる!」
と言い捨てられてしまいます。

「眼の輝き、不備」ってか。


木田が新しく配備された厨房の烹炊長、水野は神田の寿司職人だった人で、
明朗で穏やか、この人の下なら働きやすそうです。


ところが、そんな木田と大野に兵曹からの呼び出しがありました。
艦長より先に着艦したことを「ペテンにかけた」と言いがかりをつけてます。



出たー「軍人精神(注入)棒」。
全く年季が入っておらず、まだ作ったばかりみたいなのが何ですが、
古参軍曹はこれで海軍精神注入したる!とばかりに舌なめずり。



だから俺たちのせいじゃないってのに・・・。


そこに現れて制裁を止めたのは士官(副長?)でした。

「どの艦にも張り切りすぎるヤツがいて困る」



その晩、木田は艦長に呼び出されます。
木田が「雪風」に乗れなくて不平たらたらだったこともご存じでした。



「はあ・・」

しかし、木田は自分が「雪風」に今回配置換えになったのは、
山川技術少佐の口添えがあったからだと聞かされ、驚きます。


手島艦長は山川少佐から木田への贈り物をことづかっていました。

「これを山川だと思ってほしい」

山川少佐が「雪風」設計時に使用したというコンパス(らしきもの)です。


「山川少佐、『雪風』は必ずわしが守ります!」

■ 開戦




高らかに「行進曲軍艦」が鳴り響きました。
ついに開戦です。

「我が大日本帝国は有史以来の国難に直面し、これを打開せんがために
12月8日未明を期して米英両国に対し宣戦を布告した。」

たった2行ですが、この頃はまだこのような「事実」を語っても
どこからも文句が出なかったということを表す重要な証拠です。


第16駆逐隊の「雪風」は、第4急襲部隊の一員として、
レガスビの上陸作戦に参加することになりました。



「雪風」が艦番号102の「ゆきかぜ」なのは大目に見ましょう。



第二次大戦中の海軍にこの装備があれば・・・。


これは実際の海自の訓練に乗り込んで撮影されたシーンです。



これは模型による撮影。



主計の戦いは戦闘中の糧食を作り、配ること。
片手で食べられるおにぎりは戦闘食でありソウルフードです。


ご飯粒を顔につけたままおにぎりを作る烹炊の面々。
この時「軍艦行進曲」はずっと鳴り響いています。


できたおにぎりを食缶に入れると、テッパチをかぶって飛び出し、
各配置に配っていきます。



このときおにぎりが(たぶん偶然)一つ転がり落ちるのですが、
長門勇はこれに「おい、落とすなよ!」とアドリブを入れています。



艦長の横にいるのはさっき制裁を止めた士官じゃないですか。
やっぱり副長だったのか・・・。


というわけでレガスビーへの上陸は成功しました。



しかし木田一等水兵はまたもしくじってしまいます。
烹炊場で同僚とやり取りをするうち、うっかり

「弾が飛んでこないところで大根を切っていられるなら楽」

などと言ったのを古参に聞かれてしまいました。


罰として、皆が通るところで

「私は命が惜しいんです!」

と繰り返し叫ばされることに。


高らかに鳴り響く「行進曲 軍艦」(2回目)。

「大本営発表:
2月27日、スラバヤ北西海上において我が第五戦隊は敵強力艦隊と遭遇、
深夜に亘る海戦ののち、次の大戦果を収めたり。
重巡洋艦2、駆逐艦2轟沈。
軽巡洋艦1、駆逐艦3大破。
なお、我が方損害なし。
この海戦を『スラバヤ沖海戦』と称す。」



「き〜そ〜の〜な〜〜〜〜あ なかのりさ〜ん
き〜そ〜の御嶽山はナンジャラホイ♪」


出撃以来初めての内地への帰還が決まった「雪風」では
木田が機嫌よく歌いながら艦体にペイントしていました。


そこにやってきたのは手島艦長。



「赤は撃沈、黄色は大破した敵艦です」

「面白い。これから貴様に記録係を命じる」




さて、ここは内地の某所、手島艦長の自宅。



艦長は帰国して同期を自宅に招き卓を囲んでいました。
この中で艦に乗り実戦に出たのは手島だけです。

「これからの戦は航空が中心となるな」

「それはハワイ・マレー沖海戦を見ても明らかだ」

「それでは手島の任務はこれから輸送船団の護衛になるな」


ところが、この何気ない会話に食ってかかる者がいました。



なぜか艦長に気に入られ、招待されたものの、
士官と同席できずに次の間に控えていた一水の木田です。

「ただ今の言葉、あまりにも『雪風』を知らなすぎると思います!」



ギョッとした士官たちの目が木田に注がれます。
しかし木田は全く臆せず、

「我が九三式魚雷は決して零戦なんかに劣っておりません!
艦長、そうじゃありませんか」



艦長はそんな木田を咎めることもなくニコリと笑って、

「木田、むきになるな。こいつら僻んどるんだ。
空軍だけで戦闘ができるはずはない」




気まずくなるかと思ったそのとき、手島の妻(小幡絹子)と
手島の妹(岩下志麻)という絶世の美女コンビが食事を持って登場。

「おお、雪子さん、ちょっと見ぬ間にますます綺麗になられますな」

木田にとって衝撃の出会いでした。
このとき、手島がなかなか結婚しようとしない雪子を、

「どうも非国民で困る」

というのですが、なぜ非国民なのかと聞き返す雪子に
同席の士官がいう言葉が衝撃的です。

「それはですな、早くお嫁に行って、
我々の後に続く男の子を産んでもらわにゃ困るってことです」

戦時中の認識としては当然だったこのセリフですが、今ならアウトですね。
しかし、この頃は創作なら許容されていたので、
言われた雪子は恥ずかしそうに俯いて微笑んでいます。
(そしてその横顔を真剣に見つめる木田)


「手伝います」

雪子を追いかけるように、木田が台所にやってくると、
そこには手島の娘である京子がいました。

戦時中、長い髪の毛をカールさせている幼女はいなかったと思いますが、
この京子ちゃん役は当時「マーブルチョコレート」のCMで一世を風靡した
上原ゆかりという少女タレントが演じています。


京子が近所を案内したいと言い出し、雪子と三人で
海の見える丘にやってきた木田。

そこで木田は、雪子が兄の手紙によって、
すでに自分を知っていたという衝撃的な事実を知ります。

「『雪風』には’大家さん’がいて備品を傷つけるとすごく煩い、って」

「酷いな艦長も・・」


そこで雪子は、故郷に「待っている人」がいるかを木田に尋ねます。
雪子、なぜかこのもっさりした水兵に好感を抱いている模様。
しかし木田は、慌ててそれは恋人なんてものではなく母と弟であり、

「私には『雪風』より大切なものはありません!」

と「雪風」恋人宣言。
恋人にするなら戦艦の方が大きくて立派じゃありません?という雪子に、

「とんでもありません。
かたちは小さくても、美しいです。
かかかかわいい。たとえば・・」

「たとえば?」

「あのう・・・その・・雪子さんのような感じです!」

雪子はそれにありがとうと微笑み、木田に手紙を送ると言います。



そこで木田はいきなり駆け出していきました。
極度に感激するとトイレに行きたくなる、という設定でしたね。



その晩、木田は手島艦長の家に泊まることになりました。



ベートーヴェンの彫像が置かれたアップライトピアノで、
(地震とか以前に、これは安全上やめておいたほうがいいと思うけど)
その夜、雪子は「エリーゼのために」を演奏していました。

このとき雪子の手元が映るのですが、岩下志麻さん、
吹き替えなしで実際に暗譜で(楽譜を見ずに)演奏しており、それも、
小さい時からちゃんと習っていたのだろうと思われる弾き方です。

おそらくこのシーンのために久しぶりに練習したのに違いありません。



客間に敷かれた布団で枕から頭を上げ、
ピアノの音に真剣な顔で聴き入る木田でした。

続く。





映画「駆逐艦 雪風」〜建造(おまけ:観閲式観艦式中止決定)

2025-08-02 | 映画

8月15日に劇場公開される「雪風 YUKIKAZE」について、
プレスリリースに参加しその感想を挙げましたが、
最初にこの映画の情報を下さった方が「おそらく便乗商法でしょう」と
戦後80周年記念に発売された戦争映画コレクションの一つに
1964年松竹映画の「駆逐艦雪風」が含まれていることを教えてくれました。

(その他の作品は、『進軍』『少年航空兵』『西住戦車長傳』
『雲の墓標』より 『空ゆかば』)

この映画の見どころは、なんと言っても、戦後就役した二代め、
護衛艦「ゆきかぜ」が、防衛庁の協力を得て登場したというところです。

「雪風」艦上シーンの撮影は全て「ゆきかぜ」で行われており、
自衛隊で運用されていたその姿を見ることができます。


昔の戦争映画は「海軍省後援」とタイトルの前に字幕が出たものですが、
本作は、堂々と?「協力 防衛庁」の文字が(胸熱)

主人公の「ゆきかぜ」が最初から最後まで出っ放しで、
しかも海戦シーンは実際の演習の映像が使われているという、
もう海自は協力というよりスポンサーというべき全面協力してますから、
そのスポンサー名を最初に出すのは当然のことです。



そして、驚いてはいけません。
これが本作品の最初の映像です。
雨の中を進む軍靴の列、これは学徒動員の壮行式ではありません。


(おそらく)1963年に行われた自衛隊観閲式の映像なのです。
これは音楽隊。
映像の始まりとともに流れるのは行進曲「大空」です。

作曲者の須磨洋朔は陸軍の軍学兵で、陸上自衛隊中央音楽隊の創設に尽力、
初代隊長を務めた人で、「祝典ギャロップ」「巡閲の譜」、
防衛大学校の学生歌も作曲したという自衛隊音楽隊の「祖」というべき人。



その防衛大学校。
女性学生が最初に入校したのは1992年のことですから、男性ばかりです。


公募により女性自衛官が登用されたのは昭和49年のことです。
ですので、この女性の集団は、自衛隊病院の看護師ではないかと推察します。

自衛隊の看護学院が設置されたのは昭和50年ですから、
この頃は有資格者が自衛隊に入隊するという形だったのではないかと。
(確認取ってません)


陸自普通連隊。

そういえば何年か前、わたしは同じ朝霞駐屯地で土砂降りの中、
観閲式の予行演習に参加したのを思い出しました。
その時傘は全面的に禁じられていましたが、写真にはちらほら見えますね。

ところで、この項をアップする直前、防衛省からの通達が出ました。

今後の観閲式等について

我が国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に直面する現在、
隙のない我が国の防衛態勢を維持する上で、
観閲式等を実施することは困難な状況に至っております。

このため、今後、観閲式等は、我が国を取り巻く安全保障環境が
大きく変化しない限り、実施いたしません。


実に強い言葉です。
以下これを教えてくれたKさんとわたしの通信会話。

「私を含めた爺婆や身内家族や議員を集めるよりも
大事なことがあることに、やっと気付いた防衛省・自衛隊」

「開催されれば参加することにやぶさかではないものの、
コロナ以降こうなればいいなと思っていました。
(なんか現場で色々と嫌なものを見てしまったこともあり)
この決定を一番喜んでいるのは現場の自衛官たちだと思います」

「知り合いの第一師団の現役は喜んでいますし、
OBも彼程無駄な事は無いと言っています。
横須賀総監部は観艦式支援で半年は忙殺されます。
百里の空自も同じでしょう。

反対派も自衛隊も意見が合いました(笑)」


さて、続きです。

海上自衛隊は、当たり前ですが、現在と寸分変わらず全く同じです。
同じ幹部・曹・士の制服に白いベルトと白いゲートル、
そして戦争中から変わらない海上自衛隊旗・・・。

この映像、60年前なんですね。
参加なさった方のほとんどは80歳を超えています。



戦後初の国産戦車、61式戦車は当時デビューしたばかりでした。


次いで海上自衛隊の観艦式の様子が。


空自の戦闘機に三菱重工がライセンス生産した
F-104スターファイター(あだ名は三菱鉛筆)が導入されたのはまさに
この映画の公開直前である1963年のことでした。


ブルーインパルス、特別機動研究班(当時)がデビューしたのは1960年。



この頃空自は、ブルーインパルスの宣伝のために東宝映画
「今日もわれ大空にあり」の撮影をしています。

さて、冒頭から自衛隊映像と共にナレーターはこう言います。

「戦後19年。
我々国民はあの忌まわしい戦争という文字を抹殺しようと努力してきた。
そして今、平和を謳歌する時代にあって、
人々がその日常下、戦争という言葉を忘れ去った感がある。
しかしその影に、日夜真の世界平和を願い、
黙々と激しい訓練に勤しむ自衛隊三軍の姿がある。」




その中に活躍する「ゆきかぜ」は、昭和29年、
戦後初の国産大型護衛艦として誕生した。




そしてその名は、かつての帝国海軍、
駆逐艦「雪風」の名前を継いだものである。



その初代「雪風」は太平洋海戦史上、同僚駆逐艦の全てが沈んだ中に、
ただ一隻生き残った「奇跡の幸運鑑」である。



この映画は、栄光の歴史を受け継いだ、現「ゆきかぜ」が登場して、
平和への祈願を込めて贈る物語である。





いつもなら字幕映像などキャプチャしないのですが、今回は
観艦式の映像が使われているので全てご紹介します。

これとか、艦砲が二連装なんですけど、何艦のですか?

その当時運用されていた護衛艦では、「あけぼの」、
「あやなみ」型、「みねぐも」型、「むらさめ」型が、
連装砲を搭載していたようですが・・・。


タイトルの後流れるのは、三橋美智也先生の歌う、
『あゝ太平洋』という「喜びも悲しみもいく歳月」的歌謡。

あゝ太平洋

あゝ〜あゝああああああ〜(バックコーラス)

若い命に 盛り上がる
男の夢は 太平洋
試練の嵐 吹かば吹け
眉を上げれば 歌がわく
そうだ男の そうだ男の歌がある


初代「むらさめ」型1番艦「むらさめ」DD-107


この観艦式は観閲艦「あきづき」以下48隻によって、
1962年(昭和37年)、大阪湾で行われた時のものだと推察します。
(この頃は1年おきで、映画の前年度には観艦式は行われなかった)

1957年に「ゆきかぜ」が観閲艦として岸総理大臣を乗せ、
戦後初めて自衛隊として行った観艦式から四回目となります。




この画像に映るのは撮影年に就役したばかりの、
「あやなみ」型護衛艦、DD-112「まきなみ」です。



そしてDD-102「ゆきかぜ」

新三菱重工業神戸造船所で1954年(昭和29年)12月17日に起工され、
1955年(昭和30年)8月20日に進水、1956年(昭和31年)7月31日に就役、
横須賀地方隊に編入されました。

1963年(昭和38年)には翌年公開された本作品の撮影ロケが行なわれ、
先代の駆逐艦「雪風」として登場しました。

旧海軍時代、「雪風」には艦番号はなかったわけですし、
艦体に書かれる艦名も当時はカタカナだったのですが、
「ゆきかぜ」はまだ運用中だったので、書き換えるわけにもいかず。


SS-501は現在では「そうりゅう」の鑑番号ですが、
ここに写っているのは他でもない海上自衛隊の「くろしお」
アメリカ海軍から借り受けた「ガトー」級潜水艦USS「ミンゴ」です。



ヒロイン役には岩下志麻、当時22歳。

ちなみに、開始からここまでの経過時間は4分30秒です。

■ 進水式



昭和14年(1939年)3月24日。
ここ佐世保海軍工廠で一隻の駆逐艦が生まれようとしていました。



このシーンのロケは石川島重工業で行われました。
実際の護衛艦の進水式が行われたところが撮影されています。
この護衛艦が何であるかはわからないように、滑り出した艦体が
ちょうど鉄塔の影に隠れたところが映し出されています。



進水式会場の横手では祝賀会が行われていました。



祝賀会といっても賓客が参加するものではなく、
石川島重工の社員たちのためのささやかな宴席のようです。

自分が手がけた船が初めて水に浮かぶのを見て感激し、
思わず涙してしまうのは工員、木田勇太郎。


「世界一の駆逐艦だからなあ・・」

ちょっと待って。
後ろにいるフネ、もしかしてこれは艦番号184?
ということはこれは「ありあけ」型護衛艦の「ゆうぐれ」DD-184
アメリカ海軍から貸与された駆逐艦「リチャード・P・リアリー」ですね。

そしてその手前は・・・艦番号103?
ということは「あやなみ」DD-103でしょうか。

そして、注目していただきたいもう一つのポイント、
それは彼らが被っている帽子の「IHI」のマーク。

今でこそ同社は石川島播磨重工業、つまりIHIですが、
1945年に石川島重工業株式会社となるまで、この頃は、
まだ東京石川島造船所株式会社という社名だったはず。

しかも、実際の「雪風」は佐世保海軍工廠で建造され、
護衛艦「ゆきかぜ」の建造は新三菱重工業神戸造船所と、
つまりIHI全く関係ないし!というツッコミどころ満載です。

しかしまあ、「ゆきかぜ」はこの映画の少し前、
石川島重工業東京工場で特別改修大工事を行なって生まれ変わっていますし、
進水式会場をロケに提供してくれたので、映画の方も実際にはありえない、
「佐世保工廠の人間が『IHI』のついた帽子着用」
ということでスポンサーの宣伝をしたということでしょう。

いわゆる一つの「大人の事情」ってやつです。



「進水しても完全に成功するまでは後一年が勝負ってとこだ」

「それなら『雪風』を設計した山川少佐なんぞ、
当分安心して寝てられないってわけですね・・・」


そこにちょうどやってきた山川少佐。
「雪風」を設計した技術少佐という設定ですが、「雪風」は
「陽炎」型駆逐艦なので、この艦だけの設計者というのは少し変です。

ちなみに、「陽炎」型駆逐艦は、「雪風」と擱座・自沈した
「天津風」以外の17隻全てが戦没しています。


山川少佐を演じるのは菅原文太。
この頃は爽やかな好青年キャラを演じることが多かったですね。

「これからも頑張ってくれたまえ」

と微笑みながら工員と握手する少佐。
ふと木田勇太郎の顔を見て、

「ああ、君は、いつも歌を歌いながら作業をしていた・・・」

てへっ(長門勇30歳)

次の瞬間、なぜかどこかへと駆け出していく木田。



「あいつ、感激すると便所に行きたくなるんです」

うーん・・妙なキャラ設定だ。


IHIの協力はこれだけでなく、建造中の自衛艦でのロケもしています。


「雪風」で作業中の木田らが何気なく立ち話をしていると、
上から何やら大きな鉄材が落ちてくるのですが(おいおい)、
ちょうどやってきた山川少佐が木田を突き飛ばして彼は難を逃れます。
佐世保海軍工廠、たるんどる。

「危なかったな」

「ありがとうございました。命が助かりました」


「機材はどうでもいいが君たちの身体に何かあってはいかん」

いや、それより皆、ヒヤリハットの原因を突き止めようよ。

「全くお前ってやつは運の強いやつだなあ」

これは「雪風」の強運を暗示しているつもり・・なのでしょうきっと。


山川少佐が「雪風」のMk.30、38口径5インチ単装砲を・・・
じゃなくて、五十口径三年式十二糎七砲の中を覗き込んでいると、
酒瓶を抱えた木田が駆け寄ってきました。

お礼に支給されたお酒を受け取ってほしい、という木田に、
山川は気持ちだけ戴くから故郷に持って帰りなさい、といい、
木田同様「雪風」に対し特別な思いを持っていることを打ち明けます。

そこで木田は、愛する山川少佐のために決心をするのでした。

「わしゃ海軍を志願します。
ご安心ください。『雪風』は必ず私が守ります!」



どうなる木田勇太郎!

というか、映画が始まって10分しか経過していないのに、
ブログエントリを1日分費やしてしまった・・・。

どうなる?

続く。




「フライング・スターズ」初期航空の乗客〜スミソニアン航空博物館

2025-07-30 | 航空機

1941年までのアメリカの航空輸送の進歩について、
前回は各航空会社が、当初の男性客室乗務員「スチュワード」から、
女性客室乗務員「スチュワーデス」を採用し始めた、
というところまでお話ししました。

■スチュワーデスの資格要件

ところで皆さんは「スチュワード」と聞くとどんな職業を思い浮かべますか?

おそらく、それはレストランや客船の男性従業員でしょう。
そして「スチュワーデス」は、というと、これはもう100%、
客室乗務員の名称であると誰もが答えるに違いありません。

元々スチュワードというのは船舶の司厨員のことであり、
イギリスの海運用語の「チーフスチュワード」が元になっています。

パンナムが航空界にその言葉を持ち込んだということは前回述べましたが、
女性の客室乗務員が初めて航空の世界に登場したとき、
それを女性形にした「スチュワーデス」という言葉が生まれたのです。

ただ、その言葉が生まれた頃は名称が統一されていなかったので、
「エアホステス」を採用していた会社もありました。

「空中の女主人(客を招きもてなす人)」

という位置付けによる名称です。


1930年代、スチュワーデスの求人には多くの女性が応募しました。
ただでさえ大恐慌のご時世、客室乗務員は女性が就くことの出来る
チャレンジングで魅力のある数少ない仕事の一つだったのです。

この頃TWAが行った43名の求人に対し、2000人の応募がありました。

この流れで女性の客室乗務員は急速に男性乗務員にとって変わり、
1936年の女性の割合はほぼ全員というくらいにまでなっていました。

そんな狭き門となったスチュワーデスの応募資格とは次のようなものです。

小柄、体重約45~50kg、身長150~160cm
年齢20 ~ 26歳

なぜ小柄?と思いますよね。
これは、機内が狭かったことと、体重制限をかける必要があったからです。
これは暗に「痩せている」=容姿の良さを意味していました。

なお、合格した後は、年に4回の厳格な健康診断を受けなければならず、
完璧な健康状態とそれに伴う美しさを持続することが求められました。

この傾向はその後も続き、たとえば1966年のイースタン航空の要件は、

高校卒業者
独身(未亡人や離婚者でもいいが子供はいないこと)
20歳(19歳半から選考対象とする)

身長157.5cm以上175cm以下
体重47.6kgから61.2kg
身長に比例した体型
眼鏡なしで20/40の視力(0.5)

一番厳しいのが年齢です。
20歳しかダメ、ってことですよねこれ。やばいな。
その歳の離婚者や未亡人って(理屈上は存在するのかもしれんけど)。

身長がいきなり175cmまで緩和されたのは、この間に飛行機が大きくなり、
客席上の棚に背が低くては手が届かないと困るようになったからです。

相変わらず体重に制限がありますが、いくら規格内だと言い張っても、
身長158センチで61キロの人は見た目の問題でまずアウトです。

なぜなら、スチュワーデスになるための最も重要な要素の一つは、
ここでも誰もはっきり言わないけれど容姿と考えられていたからです。

当時、航空会社は女性の性的魅力が利益を増やすと単純に考えていました。

そのため、制服は動きやすさよりも女性らしさをアピールするもの、
体にピッタリフィットする制服や、白手袋、ハイヒールとなりました。

当時の社会がどうして既婚者を忌避したのかは、
まあ色々な理由が考えられるわけですが、ここでは置いておいて、
当時のアメリカで、既婚女性は労働から締め出されており、
そんなことが一切関係なさそうな看護師ですら未婚が条件で、
結婚すればそれは解雇される(退職する)のが常だったのは、
今にして思えば隔世の感があります。

そして、未婚であっても年齢が32歳を超えたら解雇、
体重規定を超えれば解雇、もちろん結婚すれば解雇だったのです。

この婚姻禁止規則が撤廃されたのは、1980年代でした。

余談ですが、体重制限といえば、亡くなった女流ピアニストのN氏が、
搭乗した航空機の客室乗務員の太った体型に激怒し、

「あなたのようなプロ意識のない人にサービスされたくない!」

とサービスを拒否したという内部告発?を読んだことがあります。

実はそのとき、N氏が体重コントロールに苦しんでいたという噂もあるので、
太った乗務員に対し感情的にキレたんじゃないかと勘繰っているのですが、
それはともかく、どうして客室乗務員が太っていてはいけないのか、
それが「見た目」の問題以外にどういった不都合があるのか、
当時は誰もそのような感覚に違和感をもたなかったということなんですね。

今でこそポリコレやらなんやらで、ルッキズムは悪が主流となり、
年齢制限も体重制限も、航空会社の要件から外されました。

ただし、身長制限と視力はいまだに残されています。
先ほども言ったように、どちらもあまりに低いと仕事に支障が出るからです。

■ 空飛ぶスターたち



冒頭写真は、当時颯爽と飛行機に乗り、降り立つスターの姿です。
中でも一番目立っているのは、「アイ ラブ ルーシー」で知られる
ルシル・ボール(Lucille Ball)

ウェスタンエア エクスプレスの補助台に足をかけ、
なんと片手にタバコで降りてきたようですね。

この時代、航空会社が盛んに宣伝に使ったのがスターの乗客です。

航空旅行はハリウッドの有名人たちに人気でしたが、
彼らの雇用主はそもそも飛行機を安全だと考えていませんでした。

映画スタジオは、俳優の契約書に飛行を禁止する条項を頻繁に盛り込み、
特に映画撮影中は飛行を禁止していたくらいです。

しかし、1930年代半ばまでに、この強制は不可能だと気づき、むしろ、
スターを飛行機に乗せることの経済的価値を認識し始めました。
彼らのフライト写真は映画のプロモーションに使えることを知ったのです。

航空会社も、有名人が登場することで利益を得ました。
有名人の到着が写真に収められた際、必ず航空会社の名前が写りましたが。
それは決して偶然などではありませんでした。


ユナイテッドエアラインのスチュワーデスとウィル・ロジャース

ウィル・ロジャースは俳優、コメディアンその他多才な芸人で、
当時絶大な人気を誇り、ハリウッドでも最高のギャラを取っていました。

おそらくこの写真は、美人のスチュワーデスと一緒に、
国内1の人気者が写真を撮れば色々と捗ると周りが判断したのでしょう。

ちなみに彼は、1925年ごろからアメリカ国内を講演して回ったため、
その移動手段に初期の航空郵便機(大変危険だった頃)を使い、
初めてこの飛行機で東西海岸を横断した市民となりました。

そして、若くして(55歳)飛行機事故で他界しています。

友人が2機を合成して製作した飛行機にコラムのネタ探しのため同乗した際、
その飛行機が悪天候のため着陸に失敗して、二人とも即死しました。

彼の名前は出身地のオクラホマを中身に多くの場所に残されていますが、
オクラホマシティにはその名もウィル・ロジャース空港があるそうです。



キャサリン・ヘプバーンというと、スコセッシの映画「アビエイター」で
主役のレオナルド・ディ・カプリオが演じたハワード・ヒューズの相手役で、
ケイト・ブランシェットが演じたことを思い出します。

The Aviator (2004) Official Trailer #1 - Leonardo DiCaprio

わたしが印象的だったのは、初めて彼女が操縦桿を握り、
ヒューズの指示で障害物を超えた時に彼女が言ったこのセリフ。

Golly! - the Aviator

この後で、ヒューズはケイト(ヘプバーン)に、

「Gollyなんていう女は初めて見た」

というんですね。


この映画には現在お話ししている航空界の有名人、
パンナムのフアン・トリップ(アレック・ボールドウィン)、
TWAのジャック・フライなども登場します。


ユナイテッド航空から降りて同じポーズを決めるザ・マルクス・ブラザーズ

マルクス兄弟が何人いるかということについて、
わたしは今の今まで考えたこともなかったのですが、
オリジナルはなんと5人兄弟なんだそうですね。


3人でポーズをとっていますが、実はこのとき、
ユナイテッドのボーイング247には彼らの夫人たちも乗っていました。

・・ん?女性が4人いるけど、どういうこと?
右側3人が奥方連中で、タラップにいるのは女優かな?


一人の乗客がスチュワーデスにこう言っています。

「もし有名人が乗っていたら教えてもらえますか?」

しかし、実は彼以外は全員セレブリティだという・・。

この似顔絵は、アメリカ人ならわかるのだと思いますが、わたしには

ベーブ・ルース(左席2列目)
シャーリー・テンプル(左席3列目)
マルクス・ブラザーズ(右席3列目の3人)
ウィル・ロジャース(右席4列目)


くらいしか自信がありません。

右席一列目の女性はメエ・ウェスト(これは少し自信ある)
その後ろは「でかっ鼻」のジミー・デュランテかな?

■ スタジオから見たスターと飛行機の関係



青丸の中の文章です。

新聞が「空飛ぶスター」についてどう報じたか見てみましょう。
飛行以外に、スタジオはスターたちにどのような制限を課したのでしょうか?


そして記事のヘッドラインは以下の通り。

(右)「スタジオはスターの首を守ろうとするのをやめる」

英語でないとなんとも収まりのつかないタイトルですが、
つまり、スターが「首を壊しそうなアクティビティ」
飛行機、ポロ競技、ハンティングなど危険なスポーツ、果ては
喧嘩や乱闘が起きそうなナイトクラブ通いを今まで制限していたのを諦め、
彼らの裁量に任せるようになったというニュースです。

喧嘩が起こるからナイトクラブ禁止?

とちょっと不思議ですが、先ほどの映画「アビエイター」でも、
招待客ばかりのプレミアで、タキシードなど着こんだ客同士が
つまらない理由で殴り合いをするシーンが描かれていたと記憶します。

俳優の飛行機搭乗を制限しただけでなく、スタジオは
スターたちに数々の制限を課していました。

個人的な関係、個人的な露出、さらには俳優の言論の自由までも。

これらの制限はスタジオ契約を通じて強制され、契約には、
俳優がしていいことと悪いことを規定する条項が含まれるのが常でした。

ですから、俳優や女優は飛行機に乗るのも人目につかないようにこっそりと、
自分たちのスキャンダルに対しては、エージェントに多額の報酬を支払い、
マスコミにバレないように、噂が広がらないように腐心しました。

しかし時代は変わりました。

これらの写真が撮られた頃、映画界の半数は空路で全国を駆け巡り、
残りの半数はおそらく自分の船に船を調達していました。

ポロに興じたければ自己責任だし、クラーク・ゲーブルやウォレス・ビリー、
彼らのような「マンリー」なスターは、少しでも機会があれば
山岳地帯の奥地へ赴いて、幻の野生動物を追い求めるようになりました。

セレブリティのほとんど全員が、週に一度は「危険」な状況に身を置き、
お気に入りの夜の「スポット」では、しばしば拳が乱れ飛び・・。

いずれもハリウッドが強大化して、スターたちの力と影響が高くなり、
あまりにも大金を稼ぐ彼らを抑えることができなくなったからです。

スターとスタジオは、道徳的堕落条項に関する契約こそしていましたが、
はっきり言ってこれもほとんど意味を成していませんでした。

一応紳士協定を結ぶお行儀のいいスターもいて、例えば、
ジョージ・ブレントは、大の飛行機&ポロ好きですが、
映画撮影中は両方を控えることにしており、ディック・パウエルも、
自身のキャリアが確立されると、やはりこの両方をやめました。

ちなみに、当時映画会社がスターと交わした「約束」には
次のような項目があったといいます。

個人的な関係:
スターとしてのイメージを損なったり、世間の論争を巻き起こさぬよう、
許可なく結婚するのは禁止

個人的な出演:
特定の公的イメージを維持するために、服装や髪型、社交活動を制限

言論の制限:
特に政治や社会問題に関して公の場で発言することを制限

その他の契約上の義務:
収入、旅行、休暇などをスタジオが管理できる

飛行機やスポーツは、徐々に緩和されていったようですが、
発言などに関しては相変わらず暗黙の了解以上の制限があったようです。

しかし、このことが、100年経った後も、当時のスターたちを
今よりスターたらしめていたような気がするのはわたしだけでしょうか。

最近の例として、やめておけばいいのにSNSで政治発言を繰り返し、
自分が支持しない側に対してケンカを売った映画の主役女優が、
アメリカの半分から嫌われて映画の収入が悲惨なことになりましたよね。
(まあ、失敗は彼女だけのせいではないとは思いますが)

もし「ウィアード、ウィアード」のあの女優が、当時のとまで行かずとも、
紳士協定的にSNSでの発言を控えるように会社から釘を刺されていたら、
そしてそれを破らなかったら、あの歴史的悲惨は避けられた気がします。

アメリカは、むしろ積極的に自分の政治思想を語るスターが多いですが、
自分の影響力で政治も動かしてやろう、という考えは、
あまりに短絡的で、アメリカ国民の知性を見くびっていると思うんだな。


続く。



「スチュワーデスの誕生」 プロペラ航空機全盛〜スミソニアン航空博物館

2025-07-27 | 歴史
スミソニアン航空博物館の航空旅客機シリーズ、
今日から1941年〜1958年のフェーズを見ていこうと思います。


この時代は、
「The Heyday of Propeller Airlines」
(プロペラ航空機の全盛期)

という言葉に象徴されます。

ところでなぜ1941年なのかというと、そう、
この年からアメリカは戦争に突入するわけですね。

航空輸送は第二次世界大戦中および戦後、劇的に変化しました。
新技術は高度なピストンエンジン航空機の開発を可能にし、
航法と航空交通管制の問題に対する新たな解決策をもたらします。

連邦政府の規制下で、少数の大手航空会社が引き続き支配的な地位を維持し、
その間も、航空需要は着実に増加していきました。

旅行時間の短縮と運賃の低下により、航空旅行がますます身近なものになり、
飛行体験(つまり乗り心地ですね)も継続的に改善されていきました。

そして、1955年、アメリカ合衆国で航空機を利用する人の数が、
鉄道を利用する人を上回る日がついにきたのです。

1957年までに、大西洋横断の手段は完全に客船から飛行機に代わりました。

■ 機長(キャプテン)の「権限」


パイロットには、その地位の象徴として、軍隊風の制服が支給されました。

パン・アメリカン航空は、豪華客船のサービスをそのまm継承し、
飛行艇を「クリッパー」と命名し、パイロットを「キャプテン」と呼び、
乗務員に海軍式の制服(白い帽子、紺色のダブルブレストジャケット、
袖口に階級章付き)を着用させ、他の航空会社もこれに倣いました。

これらの慣習の多くは、現在も続いており、この頃のパイロットの制服は、
100年経った今日もほとんど当時と変わっていません。


トランスコンチネンタル&ウェスタンエア(TWA)のパイロットが
1931年に着用していたジャケットと帽子です。

帽子のエンブレムに、TWAの始まりとなった鉄道路線のシンボル、
「チーフ」という愛称のネイティブインディアンがあしらわれています。

1920年代後半まで、パイロットはオープンコックピットの航空機で飛行し、
フライングスーツ、ヘルメット、ゴーグルを着用していましたが、
時代が進んで閉鎖式コックピットが採用されるようになると、
このT.W.A.パイロットの制服のような「普通の」服装が可能になりました。



ちなみに、パンアメリカン航空は、航空の世界に初めて「キャプテン」
「スチュワード」などの海事用語を持ち込んだ会社です。

これは、飛行機を「空飛ぶ船」に見立てたところから始まっており、
そういった雰囲気は、豪華客船の旅に慣れた当時の顧客を惹きつけました。


ボーイング307機内で、パンナムのファーストオフィサー、つまり
副操縦士が、振り返ってフライトエンジニアと話しています。

フライトエンジニアは、航空機エンジンとシステムの専門家で、
いわば彼の「メンター」に当たり、この役目は今も変わりません。


この 1938 年の身分証明書は、イースタン航空のローレンス W. ティートに
発行されたものですが、何が書かれているかというと・・・

これは、
ローレンス・W・ティートが
ノースアメリカン・アビエーション株式会社の
イーストタン・エア・ラインズ部門の従業員であり、
その職責において、ルート5、6、10および20において
米国郵便物(普通郵便物および登録郵便物を含む)
を扱う権限を有することを証明するものです。

その職務の遂行および米国郵便の保護のため、
郵便局長(1921年4月)の命令により、
勤務中は武器を携帯することが許可されています。

証明者:(担当者サイン)オペレーションマネージャー

このカードは、会社役員および指定された従業員が署名した場合に限り、
身分証明として有効です。

このカードは1938年12月31日以降無効です。

機長の権限は、飛行機では絶対です。

■ スチュワード

イーストエアラインズの客室乗務員、1938年頃

海運業界の伝統に倣い、イーストエアラインズは
客室乗務員向けにこの特徴的な制服を制定しました。

ジョン・ブリズデンインは、1930年代後半、
DC-3型機での勤務の際、この制服を着用していました。
3本の赤いストライプは、彼の3年間の勤務年数を表しています。

イーストエアラインズは、スチュワーデス、女性客室乗務員を導入した
最後の大手航空会社の一つでした。

女性乗務員導入は第二次世界大戦により男性乗務員が不足したためでした。


この頃の機内アメニティです。
TWAのダグラスDC-2で渡される「オーバーナイトフライトバッグ」は、
トランジットが深夜になる客のために用意されました。



手前のは、離着陸時の耳鳴り防止に配られるチューインガムのケースです。
(ハッピーランディングというのは商品名?)

アメリカン航空の夜間飛行用バッグ、1935年

アメリカン航空は、カーチス・コンドル、
後にダグラス・スリーパー・トランスポートに搭乗する乗客に
この夜間飛行用アメニティバッグを配っていました。


■ 史上初の”スチュワーデス”


1927−1941のパネルにも登場したこの愛らしいスチュワーデスは、
世界初の女性客室乗務員として記録されています。

アイオワ州出身の看護師、エレン・チャーチ(1904-1965 )は、
もともと民間航空機のパイロットを夢見ていました。

しかし、当時の女性には無理だと悟った彼女は、なんと、1930年、
ボーイング・エア・トランスポート社のサンフランシスコ支店長に、
看護師を搭乗させるべきだと自分を売り込んだのです。

「女性看護師の存在は乗客の飛行機に対する不安を軽減するのに役立ちます」

こういってチャーチは支店長を説得しました。
そのころの航空雑誌には、彼女を後押しするように、

「航空旅行はまだまだ未知の体験なので、
統計が安全性を示しているにもかかわらず、
機内に女性乗務員がいることによる心理的な効果は極めて大きい。」

という意見を掲載しています。

こうして航空機に乗り込むことが決まり、1930年、
彼女はオークランドとシカゴ間のスチュワーデスとして飛行しました。

ちなみにこのとき彼女に説得された支店長、スティーブ・スティンプソンは、
このアイデアを受け入れただけでなく、後にお見せする
世界初のスチュワーデスの制服のデザインも手がけています。



このときBATは彼女を主任として、続いて7名を採用しています。
写真はチャーチを入れた8名で(チャーチはおそらく左から4番目)
ユナイテッド航空の「オリジナル・エイト」と呼ばれました。

BATが「スカイガール」と呼んだスチュワーデスの条件は以下の通り。

登録看護師であること
独身
25歳未満
体重52キロ未満
身長163センチ未満


どの条件も、今日なら色々とアウトです。(特に独身)

最初のスチュワーデスの制服
ボーイング航空輸送機、1930年(レプリカ)

支店長スティムプソン(たぶんおじさんだよね)がデザインしたという
最初のスチュワーデスの制服は、濃い緑色のウールで作られ、
緑とグレーのウールケープが付いていました。

このレプリカは、ユナイテッド航空が、最初のスチュワーデスである
エレン・チャーチと、ユナイテッド航空の「オリジナル・エイト」と呼ばれる
女性客室乗務員の記念として製作し、寄贈されたものです。


さて、パイオニアとなったエレン・チャーチでしたが、勤務開始後、
わずか18ヶ月で自動車事故に遭って現役を離脱してしまいます。
その後は回復しても現場に戻らず、大学で看護学を納め、
学士号をとって看護師に復帰してバリバリ仕事をしました。

第二次世界大戦中は陸軍看護部隊で大尉として勤務し、
この功績に対し、航空勲章を授与されました。

ついでながら、戦後は病院の管理者にまでなり、1964年、
テレホート第一国立銀行の頭取と熟年結婚を果たし、悠々自適の老後、
と思いきや、結婚の翌年、乗馬事故で60歳の人生を閉じています。




1935年、テルマ・ジーン・ハーマン(Thelma Jean Harman)
TWA初のスチュワーデスとなりました。

フォード・トライモーターズ機に搭乗し、ニューヨークからロサンゼルスまで
TWAの「リンドバーグ・ライン」を飛行する際に着用した夏用制服です。

アメリカン航空、1936~1937年

アリス・ランバートは、アメリカン航空でカーチス・コンドル、
ダグラスDC-2、DC-3に搭乗する際にこの制服を着用しました。



パンナム航空が始めた海をテーマにしたスタイルに倣い、
アメリカン航空は自社の航空機を「フラッグシップ」と呼び、
その「艦隊」であることを意味した

FLAGSHIP FLEET

という言葉は制服の左袖に社旗と共に示されています。

アメリカン航空のスチュワーデス・キー

スチュワーデスのアリス・ランバート・コーカーは、
1930 年代後半にアメリカン航空で飛行していたときに、
この荷物室の鍵を所持していました。


続く。


西海岸に到着〜今年のアメリカ生活始まる

2025-07-24 | アメリカ
  参院選挙が行われた週末、わたしはアメリカで時差ボケと戦いつつ、
インターネットで選挙結果を見ていました。

今回の選挙、投票日にはもう出国している予定だったので、
わたしは期日前投票を済ませたのですが、会場の区役所で驚いたのは、
平日の午後だというのに、投票に来ている人が結構多く、
投票用に設られた部屋に入るのに、列を作って待ったことでした。

そして、開票後のニュースでも言われていたように、
わたしもそのとき投票に来ていたのは若い男性が多いと感じました。

ちなみにわたしが投票した候補者は個人、比例2名とも当選しました。

■ 離陸〜Cクラスの命名由来



今回は羽田空港を夜出発する便です。
ラウンジは前回に比べるとガラガラといっていいほど空いてました。
去年のはいわゆる「コロナリベンジ渡航」だったのかもしれません。


今回の機材のCクラス座席は、比較的狭目のタイプでした。
(座席をフラットにして寝ると両腕が脇に落ちるというあれ)

ただ、備え付けヘッドフォンはイヤーパッドの大きいのにバージョンアップ。
耳に被さるか被さらないくらいの今までのに比べると、
長時間使用してもあまり疲れなくなったのかもしれません。

ところで「Cクラス」と言えば、今まで何となく使ってきた、
ビジネスを表す「Cクラス」の名称が、先日来当ブログで語ってきた
パンアメリカン発祥であるのをご存知だったでしょうか。

わたしは恥ずかしながらこのことに今日まで疑問を持たずに来たので
「C」はパンナムの「クリッパー」の頭文字だったと知り、
散々ブログでクリッパー連呼した直後だったのでそれはもう驚きました。

ちょっと解説しておきます。

先日来、スミソニアンの展示をもとにお話ししてきた旅客機の歴史で、
草創期の旅客機は、それそのものが特権階級専用、つまり

「飛行機に乗ること自体がファーストクラスだった」

「しかしその後運賃に差異化をつけるためクラスを分けるようになった」

と説明しましたね。

時代は降り、規制緩和なども起きて、1970年代に「ジャンボジェット」こと
ボーイング747型機がデビューし、団体割引運賃が導入されだすと、
エコノミーの航空券価格はどんどん安くなっていきます。

そうすると、エコノミーとファーストの料金差がさらに開いてしまって、
その中間が必要になり、「ビジネスクラス」相当が誕生したとされています。

で、その名称の「C」クラスですが、新しくできた中間クラスに、
パンナムは「クリッパークラス(Clipper Class)」と名付けていました。

これが世界中の航空会社に広まり、いつのまにかビジネスクラスを表すのに
「クリッパー」の頭文字「C」を当てはめるようになったのです。
(というのが最も有力な説だそうです)

これに倣い、JALやANAなど日本の航空会社でも、
ビジネスクラスの航空券は「C」で表示されて今日に至ります。

「クリッパー」という言葉に大変思い入れのあったパンナムは、
この名前をパンナムの「代名詞」にしていたこともあって、
       機体の愛称や、コールサインなどでもこの言葉を使用していました。



今回のアメニティケースは、英国のレザーメーカー、
エッティンガーの提供によるものでした。

前回は同じブランドのオレンジでしたが、今回は綺麗なアジュールです。
前回、アイマスクも耳栓もなく、何故かANAのエコバッグと保湿剤、
リップバームだけで『?』となったものですが、今回はフル装備でした。

エコバッグなんぞいらん、アイマスクと耳栓欲しいという声があったと見た。



ANA機内の安全説明は、長らく好評だった「歌舞伎バージョン」から
いつのまにかポケモン総出演バージョンになっていました。


左上の灯りが見える部分はANAのラウンジです。


この日の離陸は出発便が混んでいるらしく、小一時間待機させられました。

ようやく動き出して今から滑走路に入ります。


iPhoneのカメラ機能の向上には驚きます。
もちろんiPhoneでの比較ですが、昔はこんな写真絶対撮れませんでした。
右側に見えるのが今飛び立ったばかりの空港です。

■ 機内〜映画と食事


機内では、

「アプレンティス〜ドナルド・トランプの創り方」

という話題作?を観てみました。

何というか・・・・・ひでえ(呆然)

「アプレンティス」(弟子)というタイトルは、デビューしたばかりの、
初々しい青年だったトランプが、有名な法律家だったロイ・コーンを、
師としてそのやり方を学んでいったということを表しています。

ロイ・コーンは思想を徹底的な反共とするやり手検事として、
ローゼンバーグ事件の裁判で二人を処刑まで追い詰めた人物であり、
トランプはその非情なマインドと、強引で時には悪辣なやり口を学び、
不動産業でトップを極めると、今度は落ちぶれたコーンを切り捨てます。

父と一緒になって航空機パイロットだった兄を冷たくあしらったり、
(兄は精神をやられ自殺する)一目惚れした最初の妻に飽きると浮気三昧、
合間にはお腹の脂肪を取ったり、増毛治療を行なったり、
といった恥ずかしいこともあからさまに語られます。

驚くのは、この映画が大統領選挙1ヶ月前にリリースされたということ。
作品が選挙結果に影響を与えることを期待したのが明らかです。

まあ、選挙結果を見る限り、あまり効果はなかったようです。
元々トランプ嫌いな人はともかく、好きな人やどちらでもない人は、
意図があからさますぎて作品と製作者に不快感と反発を持つに終わり、
つまりこの映画で投票先を変える人はいなかったんじゃないでしょうか。

何しろ映画としてその作品の質を論じる以前に、
制作者がトランプが大嫌いであることしか感じられない作品です。

そこには対象にした人物の真実を描こうというより、徹底的に悪魔化して
人格を何とかして貶めたいという底意地の悪い目線しか感じられない、
(なまじ説得力があるだけに)色んな意味で後味の悪い映画でした。



夜間初の便なので、機内食は朝ごはんのみです。
最近ご飯(米)を食べるのに「凝って」いるので、和食をチョイスしました。

■ 到着


着陸準備のコールがかかったので窓の外を見ると、
いつもより5倍増しってくらいの雲が海岸から地表に覆い被さっていました。

このせいなのか、このところずっとベイエリアは気温が低いそうです。
ちなみに今いるサンタクララでは気温22℃。
夜間は15℃くらいまで下がり、もう寒いくらいです。

蒸し暑い日本から来た身には心からありがたい気候です。


西海岸上空に到着すると、飛行機は海岸線に沿って南下するのですが、
このとき、去年MKが卒業した大学の上空を通過します。

卒業ガウンをきたMKと友人の撮影会をしたのもまるで昨日のことのよう。



Uターンして北に向きを変え、空港に近づくと、
いつものサンマテオのスラウ(湿地帯)が見えてきます。

右下、自分の乗っている飛行機の影が海面に写っているのに気づきました。


サンマテオブリッジ。

陸と陸を結ぶ高速の車道は海面とほとんど同じ高さに設計されています。
ここでは地形的に津波も高波も起こらないからです。



空港でターンテーブルから受け取ったスーツケースを見て声を失いました。
凹んでます。
しかもご丁寧に穴まで開いてます。

多少の凹みなら我慢できるけど、流石にこれはなあ。
いったいどんな扱いをしたらここまでリモワが破壊できるのか。

って、多分これ、ぶん投げたよね。
空中を放り投げたら落下したところに出っ張りがあったとか?

早速空港と、クレジットカード会社に連絡したところ、
相当の金額を保証するか、あるいは日本に帰国した後、
リモワが直々に修理してくれるということになりました。

アメリカの空港職員、乱暴すぎ。
ちなみにデルタ
Throw the luggage! 受託手荷物を放り投げる空港職員

■ Airbnbに到着



飛行機の遅延と高速の渋滞で、予定より2時間遅れでAirbnbに到着。
今回選んだ家は、サンタクララの住宅街にある建売住宅です。


玄関のドアを開けるとこのピアノとソファ、エアロバイクのあるフォイヤー。

今回のこの宿の決め手はこのピアノ。
オーナーが使っていたというアコースティックです。



フォイヤーから階段を上がると、リビング&ダイニングがあります。



手前にはアメリカの家には珍しく小さなテレビ。

オーナーは「丁寧な暮らしアメリカバージョン」系の人らしく、
隅々まで掃除と気遣いが行き届いています。
今まで泊まってきたAirbnbで、この点ベストかもしれません。


キッチンの備品は多すぎず、少なすぎず。
洗剤やケチャップなど、消耗品には新品を入れてくれる気配りです。
食洗機はBOSCHというのも評価高し。


アメリカのファミリー向け一軒家、とにかく広いです。



二階、いや三階に寝室が三つあります。
踊り場に架けられた絵も部屋の雰囲気にピッタリ。



奥はメインのベッドルームですが、オーナーの私物入れのようで
鍵がかかって「開かずの間」になっています。



借りている寝室その1。わたしの部屋になりました。



寝室その2。
こちらのベッドはエアマット、つまり空気を入れて膨らませるタイプ。
デスクがあるので最初わたしはここにする予定でしたが、
TOがその1寝室のベッドでは寝返りが打ちにくいとか、
なぜかエアベッドの方が楽だというので二日目から部屋を交換しました。

わたしはキッチンのカウンターで立ってPC作業をすることに。
アメリカのキッチンカウンターはちょうどスタンディングデスクの高さです。


お風呂は寝室の集まった三階にあります。
洗濯乾燥機はこの前の部屋にあって非常に便利。


Wi-Fiの名前は「Nature」だし、ZENな雰囲気のオブジェもあるし、
どうやら後ろの絵はオーナーかその家族が描いたものだし、
・・・つまりそういう系統の趣味の人の家であることがわかりました。

隅々まできちんと整頓され、清潔なのも、この人ならという感じ。


到着した夜、MKに会いにアパートまで行きました。
前回はなかった玄関のこの絵、「友達に描いてもらった」そうです。



買い物をして帰り、MKは手早くご飯を作ってくれました。

チキンにオニオンのソースをたっぷりかけたものに
サイドはベビーブロッコリー。

仕事が忙しいので、平日はお店やデリバリーに頼りがちとはいえ、
週末は料理を楽しんで作っているということです。
ご飯もいつもしっかり食べているそうで、安心しました。

さて、今年もまたカリフォルニアでの生活が始まります。

続く。






「フアン・トリップの地球儀」テクノロジーの勝利 〜スミソニアン航空博物館

2025-07-21 | 航空機

■ パンアメリカン航空の隆盛

フアン・T・トリップの指揮の下、パンアメリカン航空は
米国の国際航空会社として優位を占めるようになっていきます。

同社の有名な「クリッパー」は、中南米に就航し、
大西洋や太平洋を無尽に横断しました。

1939年には、いよいよボーイング314飛行艇による
定期大西洋横断サービスを開始しました。



前回、空の豪華客船、ボーイング314についてお話ししましたが、
そのジオラマの上にあった模型について触れておきます。



314の上に3機がありますが、まず、


シコルスキーS-40 アメリカン・クリッパー


パンアメリカン航空発の大型飛行艇で、同航空のクリッパー機群の
いわば旗艦と位置付けられ、「アメリカン・クリッパー」として
3機生産され、主にワシントン周辺を飛行していました。




38の座席と6名の乗務員を擁するシコルスキーS-40飛行艇は、
当時、米国最大の旅客機でした。
製造されたのはわずか3機でしたが、
その後のパンアメリカン航空の航空機すべてに付けられた
「クリッパーズ」という名称の最初の機体として、
今もなおその名を残しています。



前々回にご紹介した、マーティンM-130 「チャイナクリッパー」です。

1927年に設立されたパンアメリカン航空は、飛行艇と陸上機を使用して、
ラテンアメリカ全域に定期商業サービスを開始しました。

1935年に、フアン・トリップはこれで
初の定期太平洋横断サービスを開始しました。

ちなみに、パンナムの「クリッパー」は、
1860年代の中国茶貿易のクリッパー船に敬意を表して名付けられました。

クリッパー船が当時最も速い船だったことを受けています。


ハワイ行き一泊の旅が278ドル。


シコルスキー S-42 

S-42型機により、パンナムの乗客はマイアミとブエノスアイレス間の
移動時間を大きく短縮することができました。



さらに、パンナムは1935年に太平洋、
1937年に大西洋を横断する予定のルートを調査するために
改良型のS-42型機を使用しました。

ただ、パンナムは国際線の独占権と引き換えに国内線から締め出されます。
海外独占は第二次世界大戦まで続き、国内線制限は1978年まで続きました。

■ トライアンフ・オブ・テクノロジー


航空機と航空技術の向上は、
低迷していた航空業界の活性化に重要な役割を果たしました。

1930年代半ばは航空会社にとって困難な時期でした。
連邦政府あ航空業界を支配していた大企業を解体し、
航空会社への補助金を削減したため、航空輸送規制は混乱状態だったのです。

この困難な時代に生き残るために、航空会社はより大きく、
より良く、より速い飛行機を求めました。

安全性と効率を高めるために、新しい航法・通信機器も必要です。

そして航空業界はこれに応えました。
1930年代後半までには、最初の近代的な高性能旅客機が登場します。

上の写真はボーイング247。
「近代初の旅客機」という名に相応しいこの機体は、
1933年にユナイテッド航空で就航を開始後、
航空輸送に革命をもたらしました。


このDC-2はボーイング247に対抗するために作られました。

ダグラス・エアクラフト社は、B247の競合機としてまずDC-1を開発。
DC-1は、B247よりも大きく、快適で、12人乗りでした。
さらに座席を14席に増やし、DC-2と改名したこの飛行機は、
競合機(つまりボーイング247)を簡単に凌駕しました。

その後、ダグラス社は、ジェット機時代が到来するまで、
アメリカ国内の航空機製造を独占することになります。

■ 航空交通管制の始まり

航空旅行の普及に伴い、国内の航空路、
特に空港周辺における航空交通管制の必要性も高まりました。

航空会社は最初に自社の航空交通を管理するシステムを開発しました。
しかし、1930年代半ばに発生した一連の重大な事故、特に
ニューメキシコ州上院議員ブロンソン・カッティングが死亡した、
DC-2の墜落事故
は、航空交通管理システムの必要性を浮き彫りにしました。

事故現場

1935年5月6日、アルバカーキからワシントンD.C.へ向かう途中、
ミズーリ州アトランタ近郊の悪天候により、
TWA6便(ダグラスDC-2 )は墜落し、操縦士2名と乗客3名が死亡しました。
搭乗者数は8名で、3名が救助されたことになります。

この事故の直接的な原因は、霧と暗闇の中で飛行機が低高度で飛び、
視界を失った結果地面に衝突したことでしたが、
まず、天気予報が気象の変化を予測できていなかったこと、
飛行機の双方向無線が夜間周波数で機能しておらず、不通だったのに
地上職員が飛行機を呼び戻差なかったこと、そして
通信ができないのにパイロットが飛行を続けたことなど、
いくつもの要因が重なった結果だと調査の結果わかりました。

カッティング上院議員の死は全国的に衝撃を与え、このことから
議会は航空交通安全に関する委員会の報告書の提出を求めます。

連邦政府はこれに対応し、1936年に商務省が
航空交通管理の全国的な責任を引き受けました。


これが、事故後建てられたアメリカ初の管制塔です。

地上と空中、および空中と地上の無線通信を初めて採用した管制塔は、
1930年にクリーブランド空港に建設されました。


1929年にエアクラフト・ラジオ・コーポレーションによって設計された
ARCモデルDは、最初の商用ナビゲーション受信機でした。


航空機用に開発された最初の軽量無線送信機(トランスミッター)です。

ループアンテナを搭載しており、なんとこれを
信号の方向を特定するために回転させることができました。

この送信機は、従来の視覚的死角航法方法から置き換えられました。

パナマ・アメリカンのヒューゴ・レウテリッツが設計・製造し、
1928年にフロリダ州キーウェストとキューバのハバナを結ぶ
パナマ・アメリカンの最初の航路に導入され、安全性に寄与しました。


中央に飛行機の機体が描かれています。
スパーリー・ジャイロスコープ社によって開発された

自動方向探知機(ADF)

は、1930年代半ばに航空機に初めて搭載されました。

これらは既存の4コース無線測距システムに置き換えられました。
ここに展示されているのは、制御ユニットと表示器、
および流線型の筐体に収められたループアンテナです。

ADFは既知の固定無線送信機を検出し、
その位置を航空機に対する相対位置として表示します。

このシステムは、従来の4コース制システムに比べ柔軟で正確でした。
また、計器着陸法の開発にもつながり、パイロットは夜間や悪天候時も
滑走路を特定するための大きな助けになります。



1930年代後半から1940年代に製造されたほとんどの航空機、
ダグラスDC-3などを含むものは、特徴的な「フットボール」形状の
アンテナハウジングを備えたADFを搭載していました。

■ ボードゲーム「フライング・ザ・ビーム」



「フライング・ザ・ビーム」ボードゲーム

航空旅行の人気に便乗して、パーカー・ブラザーズは
航空界の新しい無線航法システムを分かりやすく説明するため、
1941年に「フライング・ザ・ビーム」を発売しました。

ゲームは、最初に無線航法システムを使用して空港に安全に着陸すれば勝ち。
ゲームピース(コマ)はゴム製のDC-3機でした。


ゲームボードはシステムの仕組みを視覚的に示しています:

- 無線ビーコンは、モールス信号の「A」(ドット・ダッシュ)と
「N」(ダッシュ・ドット)のパターンで信号を送信します。

- 信号が交差する点で、信号が結合して連続した音を生成し、
パイロットはこれを追跡して無線ビーコンの方向を特定できます。

- 航空機がビームの中心から外れると、「A」または「N」の信号が
パイロットにコースから外れたことを警告します。

- 範囲ビーコンの正確な位置は
「サイレンス・コーン」によって特定されます。


これを見る限り、むしろ青少年〜大人向けのゲームですね。

■ ファン・トリップの地球儀



スミソニアンに展示されている大きな地球儀は、パンアメリカン航空の社長、
フアン・トリップがニューヨークのオフィスで使っていたものです。

今回、ハワード・ヒューズの映画「アビエーター」を観直してみたところ、
アレック・ボールドウィン演じるフアン・トリップが、
この地球儀を見つめるシーンは2回出てきます。(扉絵は映画より)

確か2回目はトランス・ワールド航空をヒューズに売ることを迫り、
それが結果として失敗したと悟った時だったと思います。

彼はこれで自社の世界展開を計画していました。
トリップはよく地球儀上の2点間に紐を張り、
自社の旅客機がその間を飛行する距離と時間を計算したといいます。



1800年代後半に作られたこの地球儀は、
トリップの多くの宣伝写真で大きく取り上げられ、
パンアメリカン航空とトリップのパブリックイメージの一部となりました。

航空界の巨人というのは何人も存在しますが、
もしフアン・テリー・トリップがいなかったら、
現在私たちが当然のことと思っている航空輸送システムの進化は
まったく違ったものになっていたとまで言われています。

例えば、1950年代半ば、事実上すべての航空会社は、ピストン駆動機から、
タービンエンジン機へとに移行することを検討していました。

しかし、彼だけが、ジェット機の未来を見ていたのです。
しかもその未来がわずか2、3年先にあると予見できたのは彼だけでした。

1960年代の「ジェット時代」は、
この航空界の巨人なしにはあり得なかったといえます。

続く。


「ザ・314」空の豪華客船〜スミソニアン航空博物館

2025-07-18 | 航空機

前回、パン・アメリカン航空が太平洋に切り拓いた、
水上艇マーチンM-130クリッパーを使った郵便航路が、
旅客航路としてその戦略の足がかりになった話をしました。

前回の最後にご紹介したパンナムの社長、フアン・トリップは、
クリッパーに続き、ボーイングに後継機を注文し、
1936年にボーイングは「ボーイング314」をリリースします。

スミソニアンにはこの314の内部を余すことなく見せる
実に魅力的なジオラマが展示されていて、人目を惹いています。

この時代、多くの航空会社がこぞって水上飛行機を使いました。
前にも説明したように、空港インフラがまだ整っていない時代で、
世界最大の滑走路が使える飛行艇は実に理にかなっていたのです。

飛行艇(フライング・ボート)という名前は、これらの水上飛行機が
水上艦の竜骨に似た胴体下部を持っていることから名付けられました。

そして、飛行艇は第二次世界大戦前まで、太平洋横断飛行の主流でした。
アメリカから南米、ヨーロッパ、太平洋諸島、アジア、
そしてさらに遠くまで、他の飛行機が行けない場所に人々を運びました。

当時のほとんどの飛行機では不可能だった、
遠く離れた異国情緒あふれる場所に到達する航続距離、
積載量、そして何より優れた能力を備えていました。

世界の軍隊も同様に、この飛行機の能力を、
海域の哨戒や墜落した飛行士の救助のために使いました。

■ 贅沢さの極み、飛行艇の旅


全盛期には、商業飛行艇での旅はまるで
「クイーン・メリー2世」での航海に匹敵するものでした。

個室の寝室、銀食器のダイニングサービス、シェフが調理する食事、
白い手袋をはめたウェイターなど・・・、これらはすべて、
空の豪華客船で乗客が享受できる高級なもてなしの一部でした。

当然ながら費用も大変高額なものです。

1940年当時、サンフランシスコから香港までの片道航空券は760ドル、
現在の約1万5000ドル(日本円だと200万円くらい)でした。

豪華客船と違うのは、こちらが数週間かかるのに対し、
飛行艇では数日で目的地に到着できることでした。

飛行艇がもたらす空の贅沢さの象徴となったのはパンアメリカン航空でした。
19世紀の大海原を往来した壮麗な帆船をオマージュし、
同社の最初の飛行艇は帆船を意味する「クリッパー」と名付けられました。



パンナムの創設者、フアン・トリップは、自社の顧客を
高級蒸気船のファーストクラスの乗客と同じクラスであると位置付け、
スチュワードとパーサーによる最高のサービスを提供しました。

飛行艇は「キャプテン」と「ナビゲーター」によって運航されていましたが、
この名称は、あえて海軍と同じものを採用しています。

なぜなら飛行艇は豪華客船になぞらえられ、模倣されたからで、
船を操るクルーを海軍と同じ呼び方をすることはこの時代に始まりました。



これは、パンナムのクルーと本物の?海軍軍人が写っている写真ですが、
パンナムのクルーは海軍の冬服のような制服を着ています。

これは、わざと海軍に似せてデザインされていました。
時代が降ると、袖の階級章はまさに海軍と同じだったりします。


ボーイングが発注したボーイング314飛行艇は、
最大航続距離5,700キロメートル(3,500マイル)、
短距離のフライトでは乗客74名と乗員10名を乗せることができました。

元々大型爆撃機として製作されながら、実用化に至らなかった
XB-15試作機(ボーイング294)を叩き台にして設計されました。

XB-15はもちろん航空機であり飛行艇要素は元々全くありません。



スミソニアンの模型が大変素晴らしいので、
細部までここで紹介させていただこうと思います。

まず、コクピットから。
キャプテンとコーパイロットが席についています。


コクピットは客席の上階にあるのですが、このクルーは
飛行艇のノーズ部分の梯子を登ってコクピットに行こうとしています。
何か伝達があるのでしょうか。


コクピットの後ろにはフライトコントロールデッキがあります。
デスクに向かっているのは航法士(ナビゲーター)。


通信士が向こう向きに通信機器に向かっています。

314の成功において非常に重要視されたのは、クルーの熟練度でした。
長距離の水上飛行の操縦と航法に非常に長け、
最も優秀で経験豊富な乗組員だけがクルーと呼ばれました。

また人材育成のため、多くの太平洋横断便には
訓練中のパイロットを必ず載せていたといいます。
この写真で航法士の後ろに座っている人がそれではないでしょうか。

パンナムの機長、副操縦士(ファースト&セカンドオフィサー)は、
入社前に他の水上機や飛行艇で数千時間の飛行経験を積んでいます。

推測航法、時間計測による旋回、海流によるドリフトの判断、
天測航行、無線航法に関する厳しい訓練を経てきたクルーの腕は確かで、
霧に覆われ、視界が全く効かない状況下で、パイロットが着水を決行し、
その後機体を滑走させて港に無事たどり着いたという例もありました。

314の乗員は通常10名となっていましたが、
長距離洋上飛行における疲労を考慮し、
2交代制で最大16名まで増員することがありました。

シフトはパイロット、副操縦士2名、航法士、無線技師、
航空機関士、当直士官(『マスター』と呼ばれることもあった)、
および2名のスチュワードで構成されていました。



スチュワードの一人は、フライトコントロールセンターの下にある
ギャレーでカクテルの用意をしています。
後ろに人の姿が見えますが、これは、何か飲み物を取りに来た客でしょう。

スチュワードの制服の裾が短いのは、サーブの時に
裾が長いとテーブルに当たったりして邪魔だからです。


もう一人のスチュワードは、客室で注文を聞いているようです。
真ん中に棒立ちになっている女性はスチュワーデス?
と思われるかもしれませんが、この人は客です。

なんか手前のおっさんに指差しされて怒られているように見えますね。

彼女が乗務員でないと言い切る理由は、当時の飛行艇では
客室乗務員は常に男性でなければならなかったからです。

その理由は、夜間飛行の際にはベッドを準備する必要があり、
また緊急時には大型の救命いかだを扱う必要があるため、
女性には過酷な仕事であると考えられていたからです。

いかだはともかく、ベッドの用意がそんなに大変か?と思いますが、
おそらくかなりの力仕事だったのでしょう。


この315には定員以上のスチュワードがいるようです。
この人はまさにベッドをメイキングしているところですが、
カーテンを設置したりして、やっぱりかなり大変なのかもしれませんね。

この第5コンパートメントの上部は荷物置き場となっています。


現在の飛行機もファーストクラスは一番前にありますが、
314の一番前のコンパートメントも「ファースト」です。
しかし、ここがファーストクラスに相当するようには見えません。
なぜなら、このコンパートメントは8人掛けで、



ギャレーを挟んで後ろにあるセカンドコンーパートメントと
全く変わりはないからです。
(セカンドコンパートメントを表す説明のプレートが破損している)

むしろ、この狭いコンパートメントで向かい合って、
ほとんど膝がくっつきそうな椅子で長時間過ごすのが
いわゆるプレミアムクラスとはとても思えません。


そして、その後ろにあるコンパートメント。
ここは広いですが、実はメインラウンジです。

実は314、1から5までのコンパートメントは全て普通クラス。

これに乗ることができる段階で金持ち客であることは決定なので、
客席は皆平等に、普通クラスが並んでいるということなのです。


第4コンパートメントもご覧の通り。
こんな空間で1週間過ごすのもなかなか大変だっただろうな。
退屈してもうろうろしたりできないし、
人目があるからうっかりくつろぐこともできない・・。

この第4コンパートメントは、全室より高いところに設置されています。
飛行艇の機体の構造上後ろが上がっていくからですね。



で、この第5コンパートメント、たまたまここだけ
ベッドの用意がされているので勘違いしそうになりますが、
どのコンパートメントも、椅子の間にマットを渡し、
ベッドを作ることができる仕組みになっております。

でも、これを見る限り、一部屋に4人分しかベッドないですよね?
この飛行艇が満席になることは最初から考えてないってことでおk?


ここで314の客席階配置図をご覧ください。
1から5までのコンパートメントは全く同じ作りです。
そして、第6コンパートメントには、


椅子が二人分(=寝台一人分)奥に女性用化粧室があります。



もう一度先ほどの配置図を見ていただくと、
最後尾には「スイートデラックス」が設置してあるのがわかります。


スイートは、お金持ちばかりが乗るこの314の中でも、
さらに特別扱いされたい?超富豪用に用意してございます。

ゆったりと大きな4つの椅子とテーブル、
そして奥には専用の洗面台もございます。
流石にトイレは隣に行かなくてはなりませんが。

ちなみに男性用洗面所は、ギャレーの向こう側に用意されています。


絵による断面図。


模型よりこの実際の写真の方が広々していますね。
これはラウンジだと思いますが、ちゃんとテーブルが備えられています。

これは、1940年ごろの314の様子です。

1920年〜30年代にかけて、様々な形や大きさの飛行艇が開発されました。
数人乗りの小型機から、数十人の乗客を乗せられる巨大な飛行機まで。

さらに、当時の商業航空にとって、航空郵便は欠かせないものでした。
連邦政府と有利な郵便契約を結び、航空会社は
この発展期に十分な収益性を確保し、カリブ海、南米、
そして世界各地への路線を拡大することができました。

飛行艇は独特なスタイルの船です。

フロートプレーンは基本的にポンツーンに搭載された普通の飛行機ですが、
飛行艇は本質的に船と飛行機のハイブリッドです。

強風や荒波にも耐えられる丈夫な翼、そして、
荒波への着陸の過酷な条件にも耐えられるよう、
通常はボートのようなV字型の頑丈な船体を備えています。

このような「珍しい乗り物」の設計には、
全く異なる2つの分野の正確なバランスが求められました。

飛行艇は、陸上機に求められる性能、効率、強度、信頼性に加え、
水上艇の特性と飛行艇自体に特有の特性が求められます。


耐航性
操縦性
水上での安定性
水と空気に対する抵抗力の低さ
船体の構造強度


特に最後の構造強度は、離着陸だけでなく、航走時に
荒れた海面からかかる荷重に耐えられるよう設計されねばなりません。

つまり滑らかさと頑丈さを兼ね備えていなければなりませんでした。

これらの条件を踏まえた設計を成功させるには、
これら相反する性能の適切なバランスを見つけることが不可欠でしたが、
どちらかの分野で計算を誤れば、悲惨な結果を招く恐れがありました。

パン・アメリカン航空は、大洋横断路線の開設準備を進める中で、
まさにこうした課題に直面していたといえましょう。

続く。



水上艇チャイナ・クリッパー〜スミソニアン航空博物館

2025-07-15 | 航空機

今日は、1927年から始まった飛行機輸送の歴史の中から、
旅客機として活躍したある水上艇についてお話しします。

■ チャイナ・クリッパー


「チャイナ・クリッパー」とは、パンナム航空のために製造された
マーチンM-130飛行艇3機のうちの最初の1機に与えられた名称で、
他の2機は「ハワイ・クリッパー」「フィリピン・クリッパー」です。

クリッパー(Clipper)というのは「クリップ」にerをつけた、
「刈る人」「ハサミ」という意味ももちろんありますが、
19世紀の3本マストの快速帆船を意味するこの名前が、
グレン・L・マーチン製造のこの長距離飛行艇に付けられたというわけです。

マーチンM-130は、サンフランシスコーハワイのホノルル間の3,840kmを、
緊急着陸用の滑走路なしでノンストップ飛行できる世界初の旅客機でした。

■ 最初の太平洋横断郵便輸送

元々は、1935年にサンフランシスコからマニラに、
太平洋を横断する初の航空郵便航路のために開発され、
初飛行としてサンフランシスコのアラメダを離陸しました。


このときの真偽不明の噂に、ベイブリッジを越えられず仕方なく下を潜った、
というものがあり、確かにこういう飛行中の写真を見ると、
こいつは高いところは飛べないのではないか?と思われたのでしょうが、
これは都市伝説の類であるとわたしは断言します。


「エアメール」と書かれ、チャイナ・クリッパーが最初に搭載し、
太平洋を横断して運んだ郵便物。

まず、不思議なことに宛先はニューヨークのジョン・ソマーという人ですが、
スタンプはサンフランシスコとなっています。

さらに、左上には

「トランスパシフィックフライトのファーストコンタクト」

とあり、この手紙がその第一便であったことが書かれています。

機長と副操縦士など乗り組んだ全クルーのサインが書かれていますが、
下から2番目に、フレッド・ヌーナンという名前が見えます。

アメリア・イヤハートが行方不明となった最後のフライトに
ナビゲーターとして同乗して、一緒に遭難し消息を絶った人物です。

ヌーナンは商船隊で海事経験があるパイロットで、
クリッパーを最初にサンフランシスコ湾に着水させたのもこの人です。

チャイナ・クリッパーの初飛行の際、ヌーナンは
やはりパイロットとして乗り組んでおり、実際に操縦も担当しました。

ナビゲーターとしては先駆的な人物で、パンナムでも働き、
キャリアをアップさせようというとき、イヤハートに出会いました。


ベイブリッジを潜ったという噂が嘘であることを証明する写真。

ベイブリッジではなく、ゴールデンゲートブリッジを下に見ながら、
軽々と飛翔するチャイナ・クリッパー。

1935年11月22日、太平洋を横断する郵便輸送飛行に出発する姿です。
この出航式典はラジオで全米放送されていたそうです。


「クリッパー」は6日間に合計60時間の飛行を行い、
当初実質無人島だったミッドウェイ島とウェーク島に寄港しました。

これは、クリッパーの航続距離があまり長くなかったためで、
そのため、パンナムはこれらの島にホテル、ケータリング、ドック、
修理、道路、無線設備を整備する必要がありました。

クリッパーの航路はアラメダ離陸後、ホノルル、ミッドウェー、ウェーキ、
グアムを経由してマニラまで1週間かかるルートでした。

実際の飛行時間は59時間48分。
最速の蒸気船で同じルートを航海したら、2週間以上かかるところです。

これは香港までの航路を宣伝するもの

最初の航空郵便飛行には乗客はおらず、乗務員のみが搭乗していました。
積載物は11万1千枚の封筒で重さ約900キロ。
航空機に搭載された郵便物としては過去最大の量でした。

郵便局は、国中から届く当初の予想の3倍の量の郵便物に驚きました。
サンフランシスコの郵便局では、約100人の郵便局員が
クリッパーに積み込む数万通の手紙の準備に追われることになります。

積載された郵便物はほとんどが切手収集家のスタンプ目当てか、
「最初の飛行」で運ばれた郵便物を欲しがる人々が投函したものでした。

しかし、これが予想外の量になってしまったため、クリッパーから
もともと設置してあった乗客用の機内設備は取り外され、
数十個の郵便袋に郵便物を収納するスペースにせざるを得なくなります。


こうやってチャイナ・クリッパーが太平洋上を初飛行すると、
姉妹船のフィリピン&ハワイ・クリッパーも同じ航路を飛ぶようになります。

そしてその初飛行から1年後、クリッパーは旅客サービスを開始しました。

■ なぜ飛行艇(フライングボート)だったのか?



パンナムは、最初に航路の停泊地となったこれらの島や、他にグアム島にも
独自のホテルや施設を建設しており、観光客を誘致していました。

ところで、この時代、なぜこの飛行艇が選択されたのでしょうか。

まず、滑走路のコンディションに悩まされる必要がないためです。

この時代はまだインフラ設備が追いついておらず、
飛行場があったとしても整備が行き届いていないことが多かったのです。

また、緊急時には水上に着陸することも可能であるということが、
長距離の洋上飛行に対する乗客の不安を和らげました。

モルジブに旅行に行った方はご存知と思いますが、
あそこは小さな島に一つのホテルが建っていたりして、
島と島を結ぶ交通手段は、観光客の場合100%飛行艇です。

ここに旅行することになり、飛行艇で移動というプランを聞いた時、
わたしはなぜかすごく安心したのですが、
その理由は、まさにこの時の人々と同じだったと思います。

逆にグランドキャニオンの観光は、現地まで皆小型飛行機に乗りますが、
こちらは乗る前も、乗ってからもとにかく恐怖しかありませんでした。
(時々気流のせいで落っこちてるということを知っていたから尚更)

やはり、山間部を飛ぶのと、海上というのは全く気分が違います。


それから、このチャイナ・クリッパーを見て何か思いませんか?
そう、やたら機体が大きいでしょう。

冒頭のプロペラはチャイナ・クリッパーのものですが、
とにかくこれだけでもでかい。無茶苦茶でかい。

飛行機が重量制限しなければならない理由は、もちろん飛行するからですが、
それより、あまり重いと滑走路の長さで制限を受けることになります。

しかし、着陸ではなく海に着水するのですから、他の航空機よりも
大型で重量のある機体
を作ることができたというわけです。

パンアメリカン航空のラテンアメリカ路線のほとんどは
海岸沿いにあったため(というか飛行艇だから海岸沿いを選んだわけですが)
飛行艇は理にかなった選択だったといえます。

■ パンナム、大西洋横断の野望潰える


パンナムは航空便を手始めに、太平洋旅客路線を開拓しましたが、
実は太平洋横断は彼らの最終目標ではありませんでした。

同社の最終的な野望は、収益性の高い大西洋路線に乗り出し、
アメリカとヨーロッパを結ぶ航路を開くことだったのです。

マーティンM-130飛行艇は最初からそのために開発されたものであり、
実際、技術的にもそれは容易なことと思われていました。

太平洋飛行の最長距離 (サンフランシスコとホノルル間) は、386km、
大西洋横断の最長距離(ニューファンドランド-アイルランド間) は
それより60キロも短い322kmと楽勝の短さだったからです。

ドイツのツェッペリンの2倍の速さで飛ぶ飛行艇が誕生したとき、
この飛行船の時代は終わった、と誰もが思ったでしょうし、パンナムは
大西洋は我らのもの、とガッツポーズしたに違いありません。

しかし、パンナムが大西洋路線に乗り込んで、
ツェッペリンの乗客をやすやすと奪う未来は訪れませんでした。
(飛行船は全く別の理由で自滅する運命にありましたが)

パンナムの飛行艇を阻んだのは、技術ではなく🇬🇧イギリスの存在でした。

イギリスは、アメリカごときが大西洋横断航空路線を独占したり、
ましてや大英帝国に先んじることを心から望まなかったので(そらそうだ)、
イギリス本土や、大西洋を越えたイギリスが支配する飛び地
(大西洋岸カナダとバミューダ)への陸権を与えることを拒否しました。

イギリスがアメリカに大西洋横断路線の開設を認めるのは、アメリカが
大西洋をノンストップで運航できる航空機を開発してからのことです。

クリッパー飛行艇のラウンジ

ヒンデンブルグほど快適ではありませんでしたが、(快適だったんだ・・)
クリッパーはツェッペリン飛行船の2倍以上の速度を誇り、
当時の他のどの固定翼機よりも贅沢な空間を楽しむことができました。


寝台と洗面所なども完備していました。

しかし、当時799ドルの片道運賃を支払える人は滅多にいなかったため、
乗客は8人以上になることはなく、むしろ、ほとんどそれ以下でした。

こんなんじゃとても採算など取れなさそうですよね。


このハミルトン・スタンダード可変ピッチプロペラは、
マーチンM-130飛行艇チャイニーズ・クリッパーに搭載されていました。

ブレードの角度は、離陸時と巡航時の最適性能に合わせて調整が可能で、
これにより航空機の効率が大幅に向上しました。

エンジンは、

プラット・アンド・ホイットニー製、ツインワスプ 

1930年に設計された14気筒、800馬力のツインワスプエンジンは、
マーティンM-130チャイナ・クリッパーに初めて搭載され、
1935年にパンアメリカン航空の太平洋横断定期便の運航を開始しました。

ユナイテッド航空は、1937年に就航したダグラス DC-3Aに
1,000馬力のツインワスプエンジンを搭載しました。

ここに展示されているのは、DC-3シリーズで最も広く使用された
ツインワスプエンジンである、1,200馬力のR-1830-92軍用バージョンです。

ツインワスプエンジンは、大型航空機用エンジンとしては
最多となる17万3000台以上が製造されました。


■(宣伝)映画「チャイナ・クリッパー」

China Clipper - Theatrical Trailer (Warner Brothers, 1936)

なんと、そのものズバリのタイトルを持つ映画が見つかってしまいました。
トレーラーにどこかで見たことのある人が出ていると思ったら、
なんとハンフリー・ボガートでした。(但し彼の出演歴にこの作品名なし)

このいかにも宣伝くさい映画のプロットですが、簡単にまとめると、
リンドバーグの大西洋無着陸飛行に感銘を受けた主人公が、
新しい外洋飛行艇の建造と飛行に奮闘し、成功するまでの話。

妻と上司がなぜか当初反対するんですが、主人公は航空会社を設立し、
それを倒産させても怯まず、何度もチャレンジをします。

ハンフリー・ボガートは、主人公がカリブ海で郵便配達業務を始めたとき、
彼の仕事に参入する凄腕パイロットを演じているのですが、
主人公が夢中になりすぎて利己的な野望に執着し出すと、
彼の妻同様、彼の元を去っていくことになります。
(しかし、のちに太平洋路線が開始されると戻ってきて和解する)

そもそもチャイナ・クリッパーという名前は、
裕福で冒険心あふれる人々が太平洋を越えて東洋へ向かう豪華な空の旅、
というロマンをイメージして付けられたもので、
当時のアメリカ人にとってチャイナとは、どこか遠いエキゾチックな国、
というイメージの言葉に過ぎませんでした。

スタンダードナンバーに

「Slow Boat to China」

というのがありますが、この曲も、中国に行くスローボートに乗ったら
時間がたっぷりあるから、その間に君のことを口説けるだろう的内容で、
全く現実味のない地名として「チャイナ」が取り入れられています。

Peggy Lee & Bing Crosby - Slow boat to China


パンナム路線は当時イギリス植民地だった香港には寄港したものの、
実際中国への路線は開拓もしなかったわけですが、この映画では
「チャイナ」にちなんで、中国に行くような設定になっています。

で、映画では、クリッパーが中国沖に飛行中、激しい台風に遭遇し、
主人公が諦めかけた時、これをボガートが無事に着陸させるというわけ。

彼は多くを失いながらもついに大手との契約を勝ち取り、
ついでに最後に奥さんも帰ってきてめでたしめでたし、という内容です。

このストーリーは、クリッパーの開発者、フアン・トリップの伝記として、
パンアメリカン設立期に焦点を当てたもので、
パンアメリカン航空の協力のもとに、史実に割と忠実に描かれたそうです。

Juan Trippe(1899-1981)

チャイナ・クリッパーの飛行シーンは、あの有名な
スタント・パイロットのポール・マンツが行っています。

映画作品としての評価はいまいちみたいで、航空映画史家によると、

「かつて世界有数の航空会社であった同社の隠された広告」

という位置付けだそうです。

・・・「広告」。
やっぱり映画「作品」とは思ってもらえないクォリティってことですか。

続く。



ミサイル搭載巡洋艦「リトルロック」最終回

2025-07-12 | 軍艦

前回終わるかと思ったら、「ホーリーストーニング」で引っ掛かり?
またしても終わり損ねた「リトルロック」シリーズですが、
さすがに今日は最終回にしなければいけないと思います。



さて、この廊下を歩いてきたところに、こんな写真がありました。


ウィリアム・マーティン海軍中将

アメリカ第6艦隊司令官マーティン中将は、1968年、
この場所でスペインのバレンシア地方軍総督を接遇した。

この期間の軍総督が誰だったかは不明だが、その地位は、
統治下にある領土における国家元首または政府を代表する人物が務めていた。


「この場所」というのは廊下を曲がったところのこと。
これらのことを調べてみました。


マーティン、ウィリアム I.、海軍中将(退役)(1910–1996)

まず、写真で「正体不明の」イタリア海軍提督と握手をしているのは、
第6艦隊第16代司令官だったウィリアム・マーティン中将です。

アメリカ海軍第6艦隊(Sixth Fleet)

は、主に地中海・大西洋の東半部を担当範囲とし、
地中海地域および大西洋の東半分の警備、
ヨーロッパ及びアフリカ地域への戦力の提供などを任務としており、
北大西洋条約機構 (NATO) 部隊としての任務を請け負っています。

マーティン中将の任期は1967年から1968年までで、
「リトルロック」は同時期第六艦隊の旗艦として地中海に展開していました。

1967年、イタリアのガエタを航行する「リトルロック」

第6艦隊観閲式におけるUSS「リトルロック」

1968年6月25日、この日は第6艦隊が地中海に展開して20周年にあたり、
それを記念してフリートレビュー(観閲式)が行われました。

この写真は観閲式において、艦隊旗艦であった誘導ミサイル巡洋艦、
USS「リトルロック」CLG 4が、航空母艦USS「インディペンデンス」
(CVA-62)USS「シャングリラ」(CVA-38)の前を通過するところ。

これだけでは少しわかりにくいのですが、観艦式は、
観閲を行う者が停泊または移動する艦隊を観閲するので、
観閲部隊の先頭艦を旗艦「リトルロック」が務め、そこに
観閲官(マーティン中将)が乗っていた可能性が高いと思います。

ちなみに「シャングリラ」の前方を航行しているのは、
ミサイル巡洋艦USS「コロンバス」(CG-12)です。

で、最初の写真ですが、わたしは、この写真のヴァレンシア総督は、
観艦式の際、現地からのゲストとして「リトルロック」に座乗し、
マーティン司令とともに観閲を行ったのではないかと思うわけです。

■ 「リトルロック」のアンカーキャプスタン



ところで、この写真ですが、「リトルロック」の甲板の
アンカーチェーンが色分けされて見易く展示されていますね。



艦上でのキャンプで、艦の仕組みを説明するときのために、
左舷側と右舷側装備を緑と赤に色分けしてあります。
これはもちろんあくまで展示艦としての効果です。

緑のSTBDはスターボード=右舷、
赤のPORT=ポート=左舷です。

ちなみに、右舷と左舷は、進行方向に向かって右左となります。

まず、ここに見えている装備を説明しますと、
アンカーチェーンが巻き付いている山笠型屋根は

キャプスタン(Capstan)

と言います。
これを「ヴァーティカル・ウィンドラス」と呼ぶ説もありますが、
「リトルロック」中の人の説明によると、これらは互換性のある言葉であり、
「リトルロック」にあるのはキャプスタンと呼ぶそうです。

海軍では、錨鎖を巻き上げるために2種類のウィンチが採用されており、
それは「リトルロック」の垂直軸(ヴァーティカルシャフト)型と、
水平軸(ホリゾンタルシャフト)型です。

ほとんどの戦闘艦で採用されているのがヴァーティカルタイプで、
中の人の話によると、垂直軸の上にあるから、これを
「キャプスタン」と呼ぶのだということでした。

キャプスタン=上下垂直軸
ウィンドラス=水平軸

で動くと考えるそうです。

そして「stbd」「PORT」と書かれたパイプのようなものは、
下の階にチェーンを下すor下の階から引き揚げるホースパイプです。



赤で囲んだ部分を「デビルクロー」(俗称)と言い、
(正式には”ダブルクロー”)ウィンドラスのように
チェーンを固定して動かないようにするための部品です。

デビルクローのこちら側に白に両側が挟まれた赤い鎖が見えますが、これを

ファゾム・リング Fathom Ring

といいます。
ファソムは「尋」といい、推進の測定単位で1ファソムは6フィート、
1.8288メートルに相当します。

錨からこのリングまでの深さは15ファソム、つまり、
大体90フィート(27メートル)なので、ここにそれがあるというのは
それだけの長さのチェーンが降ろされたことを表します。


鎖は黄色い網で覆われたホースパイプ(Hawspipes)につながっています。
現役時代にはもちろんこのような覆いはありません。

この錨孔はアンカーにつながっていて、上げ下げが行われます。
アンカーが引き揚げられると、チェーンはチェーンロッカーに収納されます。


甲板の一階下のセカンドデッキに降りて、
チェーンを巻き取る機構を見せてくれる公式のビデオがありました。
これがキャプスタンの下部です。



そしてこれがウィンドラスと言ってます。

How Does That Work?: USS Little Rock, The Anchor Windlass and Capstan


さらにその一階下の「チェーンハウス」。
ハッチを開けるとそこにあり、今はもちろん何もありません。

ビデオでも言っていますが、チェーン関係の仕事は作動のたびに
鉄粉が舞い散り、それを吸い込むことになるので、マスク必須。
とにかく「ダーティージョブ」だったそうです。


「リトルロック」は現在も固定されていないので、
舫で係留された状態で展示されています。

手前にあるハッチはなんでしょうか。
索具を収納する場所繋がっているところかな?


この舫の結び方もあまり他では見られないような気が・・。

■ スエズ運河復興任務


これは、スエズ運河航行中の「リトルロック」CG-4。
当時のキャプスタンと現在の違いをご覧ください。

現役時代はホースパイプに現在のような「パイプ」はなく、
もちろん塗装なども全くなかったことがよくわかります。

キャプスタンの向こうに乗組員たちが座っていたり、
艦橋の上にも任務モードではない士官たちが見えますが、
これは、スエズ運河航行という特別な状態のため、
甲板で外を見ることを許されていたのかなと。

このとき、なぜ「リトルロック」がスエズ運河を航行したかというと、
以下の理由があります。

1967年のアラブ・イスラエル戦争によって閉鎖されたスエズ運河に対し、
1974年4月、アメリカは、運河の爆発物と沈没船の除去支援を
エジプト政府と合意しました。

正確には

Nimbus Star・・・機雷および爆発物の除去
Nimbus Moon・・・陸上および海面下の海軍爆発物の除去


アメリカはNimbus StarとNimbus Moonを実施し、
民間のサルベージ請負業者が沈没船の除去を行いました。

このプロジェクトを行ったのが第6艦隊のタスクフォース65です。

その結果、運河の再開が可能になり、1975年6月5日、
第6艦隊旗艦の「リトルロック」も開通記念航行に出席しました。

その日、21発の礼砲が鳴り響く中、7隻の船団がスエズ運河を南下して
イスマイリアまで5時間の航海を行い、運河の公式な再開通を祝いました。

世界の海洋国家、中東、そして何よりもエジプトにとって、
これは歴史的な出来事でした。


■ 「リトルロック」事故写真集

その生涯を通して大きな事故なく任務を終えた「リトルロック」ですが、
あわやという事故、軽微だけれど外国艦との衝突事故を経験しています。

それがUSS「サラトガ」CV-60との超ニアミスです。
1967年の「5月か6月ごろ」と日付が明確でない当たりがなんだかですが。

結論から言うと、進路変更の命令に伝達ミスがあって、
「リトルロック」が「サラトガ」の艦首前を横切ったと言う事故です。

この直前まで「リトルロック」と空母は一緒に航行していました。
事故直前、「リトルロック」は「サラ」の左舷を航行しています。

この後、「サラ」は右舷側に転回するつもりだと通信して来たので、
「リトルロック」はその外側に添って航行すべく、速度を上げました。

ところが「サラトガ」は左に転回して来たのです。

つまり、右側に舵を切った「リトルロック」に向かって来る形です。
これは、何らかの伝達ミスであるとされています。


近づいてくる「サラトガ」の艦首

このことに気づいた「リトルロック」は、速度を上げて、
空母の艦首先をすり抜けようとして、右に舵を切りましたが、
ところがどっこい、空母の方も速度を上げていたのです。


「サラトガ」の左舷側から人が避難し始める

艦長はここで「HARD RIGHT RUDDER」と命令しました。
「リトルロック」は左に転回しようとする空母の艦首を、
右に転回しながら全速力ですり抜けることを選択したのです。
総員が空母の艦首を通過することを、息を呑みながら祈りました。

(ちなみに艦内にいた人は、何が起こっているか全くわからず、
ただ手近なものにしがみついていたそうです)



間一髪!!
「リトルロック」はゴミを捨てるためのブームと、
水温を測るための道具を上げ下げするための道具を失っただけでした。
事柄の大きさから言うと、ほぼ無傷です。

おそらくすれ違うところの写真を撮っている人。



衝突を髪の毛一本で回避してすれ違う「リトルロック」と「サラトガ」。
手前の水兵さんが頭を抱えてしまっているのも宜なるかな。
怖かっただろうなあ・・・。



1970年6月13日、NATOの演習に向かう「リトルロック」は、
ギリシャ海軍に貸与された「フレッチャー」型駆逐艦、
「ロンチ」D -56が艦首を横切ったのち同艦と衝突。

「サラトガ」の事故と同じく、このときもギリシャ艦が急に旋回し、
左側から「リトルロック」の前を横切ったことが原因でした。


その結果、「ロンチ」はこうなり、


「リトルロック」はこうなりました。

「リトルロック」の修理はマルタで行われたということです。


と言うわけで、「リトルロック」から下艦しました。
かつてそこに衝突の痕があったとは思えないほど、
現在の「リトルロック」は静かにその艦首をエリー湖に休めています。



「リトルロック」が得たユニット賞は、

キャンペーンメダル
海軍遠征勲章()
コマンド優秀賞
戦闘効率賞(白いE)


などとなります。

「リトルロック」シリーズ終わり






映画『雪風 YUKIKAZE』試写会

2025-07-09 | 映画

【90秒予告】映画『雪風 YUKIKAZE』 8月15日(金)全国公開!!

この夏8月15日公開予定の映画『雪風 YUKIKAZE』の
マスコミ試写会のお誘いをいただき、観てきました。

試写会のお知らせには以下のように書かれています。

平素よりお世話になっております。

竹野内豊主演の映画『雪風 YUKIKAZE』
(配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント/
バンダイナムコフィルムワークス)が 8 月 15 日(金)に全国公開いたします。

たった 80 年前。平和な海が戦場だった時代。
帰ることを夢見ながら戦い続けた兵士たちや、
その無事を祈り、待ち続けた家族たち。

彼らひとつひとつの人生にはどんな物語があり、
それぞれが何を想い続けていたのか。

映画『雪風 YUKIKAZE』は、太平洋戦争の渦中から戦後、
さらに現代へと繋がる激動の時代を背景に、
懸命に生き抜いた人々の姿とその運命を、壮大なスケールで描きます。

タイトルとなっている「雪風」とは、
太平洋戦争中に実在した一隻の駆逐艦の名。
主力だった甲型駆逐艦 38 隻のうち、激戦を生き抜き、沈むことなく、
ほぼ無傷で終戦を迎えたのは、「雪風」ただ一艦。

その戦いの中で「雪風」は、敵の攻撃によって沈没した
僚艦の乗員たちを救い続けました。

生きて帰り、生きて還す――それがこの艦にとって戦う意味でした。

本作はその勇姿を、史実に基づいたフィクションとして甦らせます。

主演は竹野内豊。共演に玉木宏、奥平大兼、當真あみ、田中麗奈、
そして、中井貴一と豪華俳優陣が集結。

知られざる史実を基に、新たな視点で描かれる
最大級の感動大作が誕生しました。

この度、下記日程にてマスコミ試写を実施いたします。

2025 年夏、80 年前の海から、今を生きる私たちへとメッセージを運ぶ
『雪風 YUKIKAZE』。
ぜひともいち早くご覧いただき
公開に向けて応援いただけますようお願い申し上げます。




8月15日公開の戦争映画というと、わたしなどどうしても、
「東宝8・15シリーズ」を思い出さずにはいられないわけですが、
本作が東宝とは関係のないソニー・ピクチャーズの配給でありながら
この日の公開を選んだのも、かつてのシリーズに敬意を表しつつも、
当時とは違う「今・現在」の戦争映画に込めたメッセージを確認してほしい、
という意図だったのではないかと深読みしてしまいます。

次に、プレス資料より、あらすじを書き出しておきます。

「『雪風』......これより乗員の救助に向かう......」

1942 年 6 月、ミッドウェイ島沖。
沈没しようとする巡洋艦「三隈」から、多くの乗員が海に投げだされている。
激しい戦闘を繰り広げていた一隻の駆逐艦が救助に向かう。
先任伍⻑である早瀬幸平(玉木宏)の
「一人残らず引き上げろ!」というかけ声のもと、縄梯子が降ろされ、
海面から次々と乗員が助けられていく。

早瀬が最後に海から救い上げたのは、まだ 17 歳の二等水兵、
井上壮太(奥平大兼)だった。

そんな「雪風」の姿を、これも大きな損傷を負った
巡洋艦「最上」の艦橋から、副⻑の寺澤一利(竹野内豊)が見つめていた。

これ以降、戦局の主導権を米軍に奪われていく中、「雪風」は
ガダルカナルを始めとするソロモン海域における数々の過酷な戦場で、
獅子奮迅の活躍をする。

そしてどんな時も、戦いの後海に投げ出された僚艦の乗員たちを救い続けた。

1943 年 10 月、「雪風」はラバウル港に停泊していた。
早瀬の指揮のもと艦の整備にあたる乗員たち。
そこへ水雷兵として配属されてきたのは、
ミッドウェイで早瀬に救われた井上だった。

二人は再会を喜び合う。

そして艦橋には着任したばかりの新たな艦⻑の姿があった。
あの「最上」副⻑、寺澤である。

しかし乗艦早々、米軍機との戦闘が始まる。
新艦⻑、寺澤の見事な操艦と、先任伍⻑、早瀬の的確な準備で
難を逃れたあと、二人は初めて顔を合わせた。

寺澤は早瀬の働きを認めながらも、ミッドウェイを振り返り

「仲間の救助は大事だが、判断を誤れば艦を失う」

と告げる。

早瀬の顔色が変わり、艦橋に緊張が走る。

冷静沈着に状況を判断し、何よりも作戦遂行を優先する寺澤。
一方、早瀬は乗員一人一人の命を守り、
全員で戦場から生きて帰ることこそが、戦う目的だった。
その後も二人は度々ぶつかることになる。

1944 年に入り、米軍はフィリピンとマリアナ諸島の二方向に進撃し、
日本軍の拠点は次々と失われていく。
7 月には、日本の絶対国防圏とされるサイパン島が陥落した。

呉港に停泊する「雪風」では、乗員たちに届いた手紙が次々と渡されていく。
早瀬は、信州で母と共に暮らす年の離れた妹、
サチ(當真あみ)からの便りを一心に読み続けた。

一方、妻の志津(田中麗奈)のもとへと戻った寺澤は、
もうすぐ誕生日を迎える三歳の娘に、小さな髪留めを置いていった。

10 月。
アメリカは日本にとって南方の最重要拠点であるフィリピンへと迫っていた。

日本海軍は米軍の上陸を阻止すべく、ついにレイテ湾へと向かう。
日米が雌雄を決するそのレイテ沖海戦に、もちろん「雪風」の姿もあった。

戦闘が激しさを増す中、乗員たちの心が一つになり、
死線を潜り抜けていく「雪風」。
絶体絶命の危機に陥るが、早瀬の機転により何とか生き延びた。

ここで寺澤と早瀬は互いの想いをようやく理解し合い、
二人の心は繋がることになる。

そして 1945 年 4 月、日本。第二艦隊司令⻑官、
伊藤整一中将(中井貴一)へ下された、連合艦隊最後の作戦によって、
「雪風」は戦艦「大和」らと共に沖縄へ向かう。

護衛機もなく、死を前提としたいわゆる海上特攻である。

果たして寺澤は、この「十死零生」とされる作戦をどのように生き抜くのか。
「雪風」は、今回もまた、多くの仲間を救い、
港に帰ることができるのか......。

※この物語は史実に基づいたフィクションであり、
人名、事象、時制などに架空の設定が含まれています。

■ 「雪風」出演俳優


この映画で「雪風」艦長、寺沢一利中佐を演じるのは竹野内豊

実際の坊ノ岬沖海戦時の艦長は寺内正道中佐ですが、
実際の寺内艦長は体重96キロ、八字髭を蓄えた柔道五段の偉丈夫で、
竹野内とは全くタイプが異なるからか、仮名となりました。

開戦後の「雪風」艦長は、第3代艦長飛田健二郎、第4代菅間良吉、
そして第5代の寺内艦長、第6代古要桂次艦長
です。

「駆逐艦 雪風 YUKIKAZE」の生涯
・・・飛田健二郎、菅間良吉、寺内正道、古要桂次(第3代~6代艦長)
https://youtu.be/gGH_qeXGSfs?si=661wV15HhBN4WCfj

しかし、これによると映画で採用されたいくつかの艦長エピソードは
いずれも寺内艦長のものであることがわかりました。

駆逐艦 雪風 YUKIKAZE(第五代艦長)「寺内正道」
・・・雪風を沈めてなるものか!坊ノ岬沖海戦から生還した名艦長!


(具体的には観てのお楽しみなのでここでは書きませんが、
ぜひこのビデオで予習してからご覧になることをお勧めします)

あらすじでも言及されていた、寺澤艦長の、

冷静沈着に状況を判断し、何よりも作戦遂行を優先する」

姿勢ですが、これは上のビデオで言及されている、

「例え生存者があっても沈没艦への救助の手は差し伸べず、
敵の攻撃により一隻のみ残ったとしても、作戦遂行のため沖縄に突入せよ」


という出撃前夜の全艦長の申し合わせから来ていると見られます。
その後溺者救助の命が司令部より下されると、寺内艦長は、

「そうと決まれば最後の一人まで救え!」

と総員に申し渡しました。


「雪風」先任伍長役は玉木宏
「真夏のオリオン」で潜水艦長を演じた時は、

「潜水艦乗りなのに小綺麗すぎて、汗をかいていても
ドルチェ&ガッバーナの『ブルー』の匂いがしてきそう」


などと評してしまったことがありましたが、本作では、
玉木さんに限らず、駆逐艦乗組員の薄汚れ具合が実にリアルです。

役者の年齢の問題について。

45歳の玉木宏の妹(當間あみ)がまだせいぜい20歳だったり、
54歳の竹野内に生まれたばかりの娘がいたりしますが、
特に竹野内の艦長役は、実際の駆逐艦艦長なら40歳前後なので、
15歳くらい若い役を演じていることになります。

映画で軍人役が実際より年上の俳優によって演じられるというのは
洋の東西問わずあるあるなのですが、玉木さんも竹野内さんも、
本作では全く観ていて年齢的な不自然さはありませんでした。

お二人ともそもそも全くその年齢より若く見えますし、
俳優というのは多少の年齢なら演技で超越できることを確認した次第です。

いずれにしても、「雪風」という魅力的な題材に次いで、この、
魅力的な男優二人のカップリングというのが映画の推しポイントでしょう。

■ 本作のテーマ



「雪風」が開戦以来いくつもの作戦に参加しながら、
その都度生きて帰ってきたということと、その都度数多の将兵を助けてきた、
駆逐艦であったことが「命を繋ぐこと」という作品のテーマであり、
それを象徴的に表すのが、この「繋ぐ手」です。

「命を救う」というのは、現代における戦争映画のテーマとしては、
こう言ってはなんですが、共感を得やすいものだと思います。

戦後すぐの戦争映画は、わたしが多くの作品を観る限り、
あまり私情を交えず淡々とその経緯を語るといったものが多かったのですが、
そういった作品に対して「反省がない」「戦争賛美」という論調が
左傾化した、主にマスコミ界隈から生まれてくると、例えば
「軍閥」「きけわだつみのこえ」のように軍部批判、
「大日本帝国」のように日本批判するような作品が生まれてきました。
(『戦争と人間』は左に振り切れすぎてもはや制御不能だった)

あとはどの作品も大なり小なり反省色が滲むものでしたが、
今回やはり試写を鑑賞された元海自の方によると、戦争映画は、

2005年(終戦から60年)の「男たちの大和」から「反省色」がなくなり、
「こうして日本はやって来た」という路線になって来たように思います。

わたしも同じことを思いました。

戦後すぐの「淡々と時系列を語る」と基本同じベクトルでありながら、
現代ならではの「命」の価値観によるメッセージを加味したものであると。

■ 実在&創作の軍人


実在の軍人を誰が演じているかも興味深いところです。
第二艦隊司令長官伊藤整一大将を演じるのは、中井貴一
(ここだけの話、この写真の中井貴一、以前と顔違ってませんか?
若い時はすっきりとした一重瞼だったはずが・・・)

「聯合艦隊」のとき


「大和」艦長有賀工作中将(最終)を演じたのは、田中美央(右)。

「大和」特攻に当たって少尉候補生を「日本の未来のために」と
艦から降ろす決定を伊藤整一が下したエピソードも出てきます。

また、「大和」の特攻作戦を伊藤中将に伝達・説得するシーンで
草鹿龍之介参謀長も登場しましたが、役者名はわかりませんでした。

それから、軍令部作戦課長の古庄俊之という軍人が登場します。
寺澤艦長の軍令部時代の上司として、その心情を理解し、
前線で戦う現在の立場を慮る人物、という設定。

演じているのが石丸幹二なのですが、モデルに全く思い当たる人物がなく、
この人が登場するたびにモヤモヤしていました。

そして、モヤモヤしながらもその名前から想像した通り、
エンドロールのクレジットに、監修として
第26代海上幕僚長古庄幸一氏の名前があり、納得しました。

古庄氏の父上だったとかそういうことでもないので、おそらく、
氏に敬意を表して創作した架空の人物だと思われます。

もちろん、本作は海上自衛隊が協力しています。

劇中、「雪風」が帰国し艦長が久々に帰宅するシーンがあるのですが、
出迎えた奥さんに向かって早々に「今日は船に帰る」というんですね。
(田中麗奈はこれに対し、ほんの一瞬、表情を動かすのみ)

このシーンについて、前述の元海自の方は、

「元自衛官が監修しているからだろうなと思いました」

とおっしゃったので、真意がわからず説明を求めると、

海上自衛隊では「家に帰る」とは言いません。
艦長以下全乗員が「船に帰る」と言います。
恐らく、海軍時代の仕来りだろうと思います。
よく新婚ネタで「船が家なの(怒)」というのがあります。

だそうです。(帰るという言葉に気が付きませんでした)


海軍の系譜たる海上自衛隊に、「雪風」始め、
戦いに出て、或いは斃れた先人たちが「命を守る」使命を託す、
というメッセージを込めた一連のシーケンスで映画は終了するのですが、
その中には、江田島の海上自衛隊第一術科学校構内にある「雪風」の錨、
そして自衛官が整列する術科学校が空撮で映し出されるシーンがあります。

このラストのドローンによる空撮は、正門側から海に向かい、
最後に江田島の湾沖に停泊する、ある護衛艦を映し出して終わります。

それが上の写真ですが、さて、この護衛艦はなんだと思いますか?
(このシルエットだけでわかる人はわかってしまうんでしょうけれど)

個人的には、最後の空撮シーンのためだけにも、本作品は
映画館の画面でぜひ観ていただきたい、と声を大にして言っておきます。

最後に、プレス資料より、「雪風」のスペックです。

駆逐艦「雪風」(陽炎型かげろうがた駆逐艦8番艦)

1940 年(昭和 15 年)竣工

○基準排水量 2,033 トン(※「大和」64,000 トン)
○全⻑ 118.5 メートル(※「大和」263.0 メートル)
○全幅 10.8 メートル(※「大和」38.9 メートル)
○最大速力 36 ノット(※「大和」27.46 ノット)
○乗員 233 人(※「大和」3,300 人)

━数多くの激戦に参加し、終戦まで生き抜いた「不沈艦」━

スラバヤ沖海戦を始め、ミッドウェイ海戦や第三次ソロモン海戦、
マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、そして戦艦「大和」が沈んだ
沖縄特攻(天一号作戦)など、太平洋戦争における数々の激戦に参加した
「雪風」は、他の艦が大破炎上していく中で、
絶えず不死身ともいえる戦いぶりを見せ、主力として海戦に送り込まれた
甲型駆逐艦(陽炎型駆逐艦、夕雲型駆逐艦)38 隻のうち、
ほぼ無傷で終戦を迎えたのは、「雪風」ただ一艦のみだった。

━海に投げ出された仲間たちを助け続けた「命を救う艦」━

駆逐艦はどんなに激しい海戦においても、戦闘後はその場に留まり、
海に投げ出された僚艦の兵士たちを救い続けた。
帰国した「雪風」の乗員が、いつも行きよりも多かった、
というのは、いかにもそれらしい逸話である。
沖縄特攻で戦艦「大和」や巡洋艦「矢矧」などが沈んだ時も、
数百名の兵士たちを海から引っ張り上げ、佐世保港に帰還した。
生きて帰り、生きて還す。それが「雪風」にとって戦う意味だった。

━終戦後、約 13,000 人もの邦人を連れ帰った「復員輸送船」━

「雪風」の信念は戦後にも受け継がれる。
太平洋戦争を生き抜いた「雪風」は武装を撤去され、

「復員輸送船」としての航海を続け、外地に取り残された人々、
約 13,000 名を日本に送り返した。
200 名強の乗員が、一度にその四、五倍もの数を乗せ、
繰り返し本土に運んだのである。
漫画家水木しげる氏も「雪風」によって日本に帰ることができた一人だった。

━抽選によって中華⺠国に引き渡された「戦時賠償艦」━

復員輸送船としての役割を終えた「雪風」は、戦時賠償艦として、
戦勝国の抽選により中華⺠国(現在の台湾)に引き渡される。
「丹陽」と名前を変え、その後は台湾沿岸部の警備などで活躍するが、
1970 年に台風の影響で大きな損傷を負い、解体された。

戦時中から“海軍一の働きもの”“海の何でも屋”として、
数々の過酷な戦場で活躍し、「奇跡の駆逐艦」や「幸運艦」と噂され、
終戦後はアメリカの海軍関係者たちから、
第二次世界大戦を通じて最優秀の艦、と絶賛されたという「雪風」。

現在では「舵輪」と「主錨」が江田島の海上自衛隊第 1 術科学校に、
「スクリュー」が台湾海軍よって保管されている。

最後になりますが、鑑賞の機会を下さった方に心よりお礼を申し上げます。