ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

爆撃搭乗員を守る防具いろいろ〜国立アメリカ空軍博物艦

2024-04-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

冒頭写真は、「メンフィス・ベル」のボムベイ、
爆撃槽を下に立って見上げたところとなります。



同じ部分の図解をご覧ください。
この絵でいうところの爆弾が収納されているラックを
ちょうど下に立って見るとこうなるわけです。

ラックと垂直に(機体と並行して)張り巡らされたレールは
上部を人が歩くことができるらしく、「キャットウォーク」となっています。
キャットウォークを歩く時に掴むロープも張ってありますが、
爆弾槽が開いている時ここを歩くことは死ぬほど怖かったでしょう。

実際に、先日終了したスピルバーグの「マスター・オブ・ザ・エア」でも

ここに立つシーンは何度か見たような気がしますし、
ある撃墜された爆撃機で、部下にパラシュートを譲った士官が、
最後にここに立っていたという証言を読んだ記憶もあります。

左上にはノートAとして

「B17Fには爆弾吊り上げ用ブラケットが1つしか付属していませんが、
左右どちらの爆弾ラックにも使用できます」


とあります。
左右は入れ替えることができたということでしょうか。





ボムベイは操縦席の後ろと、機体の比較的前部分に位置しています。



図を見ていただければわかりますが、ボムベイには
大きさの異なる爆弾を搭載することができました。


そして、これが爆撃手の配置するノーズ先端です。
爆撃任務を行っていない時のためにシートには銃が搭載されています。



爆撃の照準のため覗くボムサイトは床にあります。

動画を見ていただければわかりますが、
爆撃手は狙いをつけるときここに腹ばいになります。

B-17 Flight: Bombardier station

内部から見た飛行中のB-17爆撃手のポジション。

エポキシガラスに囲まれた非常に脆弱な、しかも狙われやすい場所で、
爆撃手はしばしば配置についたまま命を落として帰還することになりました。

さて本題、そんな爆撃手はもちろん、爆撃機のクルーの死傷については
連合軍としてはできるだけこれを避ける、

つまり死んだり怪我をしなくていいように手段を講じました。

Flak Training for Pilots in WW 2
まず、できるだけ対空砲を受けずに済む方法が研究されました。
対空砲回避の方法について解説する教育用ビデオが制作されます。

(途中で挟まれているのはディズニースタッフによるドナルドダック風味の絵)


任務中の負傷に備えて、爆撃機にはかならず
航空ファーストエイドキットが搭載されていました。

ここにあるのはサルファ剤(制菌効果)眼帯(アイドレッシング)止血帯、
ジョンソン&ジョンソンの表記が見える薬などキットの中身です。

飛行士が任務中に負傷した場合、利用できる唯一の医療支援は

当初こういった救急キットだけという時代がありました。

しかし爆撃任務の範囲拡大によってミッションにかかる時間も伸びていくと、
任務中もし乗組員が負傷するようなことがあっても、機が着陸し、
専門的な治療を受けるまでに最短でも4時間以上かかりました。

また、搭乗員の死傷について、1942年実態調査が行われ、
そしてその結果、偏向した対空砲火の破片や航空機構造の粉砕片など、
比較的低速の投射物が負傷原因の70%を占めることがわかりました。

その一例です。


1943年10月14日、シュヴァインフルト爆撃任務の際、
胴部銃手だったフィリップ・テイラー技術軍曹が受け、
命を落とすことになった対空砲の破片が展示されています。

これはおそらく軍曹の体内から摘出されたものでしょう。

対空砲を回避するのも大事ですが、受けてしまった時に
人体を守る手立てを早急に講じねばなりません。

この研究結果を受けて防護服とヘルメットの開発と普及が推進され、
何千人もの爆撃機乗組員が負傷や死から救われることになりました。


そのプロジェクトで大きな功績を上げたのが
マルコム・グロウ大佐 Col Dr. Malcolm Grow(後に少将)

第8空軍の外科医長で、米空軍の爆撃機乗組員のために防護服を開発し、
多くの命を救う成果を上げ、戦後、
米空軍の初代軍医総長に任命されています。

グロウは1909年にジェファーソン医科大学で医学の学位を取得し、
1917年に米陸軍に軍医として入隊。

陸軍航空隊の飛行外科医長時代(1934~39年)に、
オハイオ州ライト・パターソン空軍基地に航空医学研究所を設立し、
そこで戦闘乗員を保護する防護服の開発を行いました。

彼が開発した軽装甲冑と鋼鉄製ヘルメットによって
多くの爆撃機搭乗員の命が救われ、戦闘員の士気は著しく向上しました。

次いで1944年5月、グロウ大佐は、砲手を爆風から守る装置、
負傷者用の電気ヒーター付き衣服、手袋、ブーツ、ハンドウォーマー、
負傷者用バッグ、耐風性・耐火性の顔と首のプロテクター、
長時間の爆撃任務で使用する特別戦闘糧食を次々と開発しました。

凍傷患者(爆撃機搭乗中の凍傷罹患はよくあった)は減少し、
飛行効率が向上したことにより大佐は殊勲賞を受賞します。

戦闘が原因による精神的疾患について研究を進めたグロウ大佐は、
新しい軍人専門の保養所の設立に助力し、特別パスシステム、
また戦術部隊の医療将校のための特別訓練課程を制定し、その結果、
この種の負傷者をすべて任務に復帰させることに成功しています。

さて、そんな研究の結果生まれた防具を紹介していきましょう。



爆撃機乗組員の装甲

1944年初頭の着座型爆撃機搭乗員の典型的な防護服。 
衣服と装備の上に着用し、重さは約13ポンド(約6キロ)。  
緊急時には赤い解除ストラップを引っ張ればすぐに外すことができます。


この第8空軍爆撃機の乗組員は、ボディアーマーのおかげで
対空砲火を受けてもなお生きて帰ることができました。

彼の胸の白い丸の部分は、対空砲火が命中した跡であり、
彼はもしこれを着用していなければまず命はなかったことでしょう。

彼が身体に受けた弾丸はアーマーに跳ね返され床に落ちました。
彼が右手に持っているのは自分の身体が受けた弾丸です。


ボディアーマープレート

それではグロウ軍医考案のボディアーマーには何が仕込まれていたか。
というと、これです。

小さなタイルのように見えるこの物質は、厚さ1ミリのマンガン鋼板で、
この正方形が重なり合ってスーツに充填されていました。

布地に縫い付けることでアーマーは柔軟性を維持していました。
まあ、いうたら鎖帷子みたいなものと考えればいいでしょう。



20ミリの砲弾のかけらを受けた装甲ベストの中の
重なり合ったプレートが受けたダメージ。

装甲ベストを着用していたアーサー・ローゼンタール中尉は、
胸に軽傷を負っただけで済みました。

■爆撃手のヘルメットの変遷


爆撃クルーのヘルメットを見ていきます。
開発前のもの、開発後のグロウタイプ、戦争末期のものと色々。

M1歩兵ヘルメット

初期の爆撃機乗員は標準的なM1歩兵ヘルメットを着用していましたが、
ヘッドホンがヘルメットの下に収まりが悪く、具合が悪いと不評でした。
また、ボール砲塔砲手のように狭い場所にいる搭乗員は着用できません。


何しろこんなのですから

M3ヘルメット

標準的なM1歩兵用ヘルメットを搭乗員用に改良したものです。
1945年2月、オーストリアのウィーン上空で対空砲火の破片が命中したとき、
パイロットのフランク・リッグスはこのヘルメットを着用しており、
幸い大きな怪我はなく、数日後には飛行任務に復帰することができました。

M5ヘルメット

戦争末期に発行されたM5ヘルメットは、頬の保護を強化しています。


M4A2ヘルメット

1944年半ばに初めて生産されたモデル。
Growヘルメットを改良したもので、耳あてを追加し、
革のカバーを布に変えて装着感のアップを図りました。

戦時中に8万個以上のM4シリーズヘルメットが製造されています。




連合軍とルフトバッフェ非我で使用された爆撃手用のヘルメット各種。


「Grow Helmet」

1943年、英国のウィルキンソン・ソード社は、
標準的な革製フライトヘルメットの上にかぶる
「グロウ・ヘルメット」を製造しました。

「グロウ」はもちろんドクター・グロウのことです。

このヘルメットは、第44爆撃群司令官フレッド・デント大佐(後に少将)が
1944年3月8日、第8空軍の対ベルリン攻撃を指揮した際に着用したもの。

イケおじ デント少将

撃墜マークのように爆撃マークがペイントされています。

ヘルメット・アーマー

このグロウタイプとM4シリーズと呼ばれたヘルメットには、
マンガン鋼のストリップが5枚貼ってあります。
鋼鉄合金は特に衝撃に対する強度が高いということで採用されました。

ルフトバッフェ爆撃クルーヘルメット

こちらはドイツ空軍の防具です。
1941年のバトル・オブ・ブリテンの間、ドイツ空軍も
さらなる防護の必要性を認識し、
爆撃機乗組員に革張りの装甲ヘルメットを支給していました。


ルフトバッフェ爆撃クルーヘルメット

このヘルメットもスチールの装甲が施されています。
ルフトバッフェの爆撃機搭乗員の標準装備でした。

続く。



「50クラッシュキャップ」爆撃機のコミュニケーション〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-23 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示から、今日は
爆撃機の通信についての展示をご紹介します。



まずこのパネルの『COMMUNICATION』の文字の下のモールス信号、
-.-. --- -- -- ..- -. .. -.-. .- - .. --- -.

これはそのまんま「COMMUNICATION」です。

これがなぜわかったかというと、インターネッツというのは便利なもので、
文字を打ち込むと、即座にトンツー(英語はディット・ダー)
に翻訳してくれるツールがあるのです。
これで、
-.-. c --- o -- m
  ..- u  -. n ..  i  .- a  - t

であることがわかりましたね。とりあえず何の役にも立たんけど。
ちなみに日本語のトンツー翻訳機は見つかりませんでした。

まずここに書かれているのは、

何百機もの航空機と何千人もの飛行士が任務に就いているため、
航空機内や航空機間のコミュニケーションは困難を極める。

特に重要なのは、攻撃してくる戦闘機の方向を
乗員間で共有するためのコミュニケーションであった。

多くの異なるシステムや方法が情報交換を可能にした。

ということです。

たとえばこのトンツー、電信キーですが、無線オペレーターの装備には、
モールス信号を長距離で送信するための電信キーが含まれており、
モールス信号は、長短の信号
(dots「ドット」とdashes「ダッシュ」)
の組み合わせで文字を表します。

念のため、短音がドットでディット、長音がダッシュでダーです。

日替わり信号指示表


1942年11月4〜5日に爆撃機に指定された信号表です。
信号は6時間ごとに指示通り変えないと、敵認定?されます。

照明弾カートリッジの色 GG RR YY GY RR GG

モールス信号でどの文字を点滅させるか(航空機から) H J I L B C

夜間信号灯に使用するカラーフィルター White

地上or海上の艦船から返される文字 B O G W D S

というわけで、例えば11月4日0600に採用される信号は

照明弾カートリッジ色 RR
モールス信号 J
夜間信号灯の色 白
地上&艦船からの信号 O


ということになります。
これらを管理運用するのは通信士です。


これがその通信関係グッズの展示コーナー。

■ 50ミッション・クラッシュ帽



まず、飛行要員独特の潰れた士官用軍帽のことを
“50-mission crush cap”
といいます。

この名称は、陸軍航空隊の飛行士官がラフに使用した結果、
補強リングが取り外され、ボロボロになった状態の帽子を指します。

もちろん軍が推奨する正しい軍帽の規格からいうと「規則違反」ですが、
それは「ベテランクルー」の証として非公式に認められ、
駆け出しと戦闘慣れした飛行要員を区別する印となっていました。

通常の陸軍軍帽は、型崩れを防ぐためにスティフナー(補強金具)
が付いているのですが、パイロットは、飛行中、
軍帽の上にヘッドセットを装着するのがデフォでした。



しかし、スティフナーがあると、どうもこれと相性がよろしくない。

というわけで、彼らは快適にするためにワイヤーを外し、
そのため帽子の側面がぺちゃんこになってしまうわけです。

しかしながらその潰れた帽子は、パイロットにベテランの風格を与え、
これを着用するものは経験豊富な「プロ」と識別されるようになります。

昔日本の大学生(今から考えられないくらい大学生が特権階級だった頃)が、
バンカラを気取って弊衣破帽、高下駄で闊歩したのも、
 実用から派生した自己表現法だったのに似ているかもしれません。


1984年になって、「50ミッション・クラッシュ」というタイトルの
コンピュータゲームが発売されました。

第二次世界大戦のB-17爆撃機をシミュレーションする
ロールプレイングゲームで、登場する部隊も

「ロンドンのすぐ北にあるRAFサーリー基地を拠点とする第8空軍」

と史実をなぞってリアルです。

どうロールプレイングするかというと、爆撃機の10の持ち場に
プレイヤーが指名したキャラクターを配置し、
搭載する燃料の量、爆弾の種類を選び、ミッションに出るわけです。

爆撃機は目標上空で爆弾を投下するため、雲がなくなるまで待ちますが、
雲がなくなると今度は敵の対空砲火が襲ってきます。

時には機体が破損し、乗員が戦死します。
爆撃機の高度が低いほど、対空砲火は激しくなります。

また、フォッケウルフFw190、メッサーシュミットBf109、
メッサーシュミットBf110などの敵の戦闘機が攻撃してきます。

まあこれだけ聞くとちょっと面白そうですが、
ゲームとしての評価は5点中2点くらいの感じで、

「リアルだが退屈で、プレイヤーの能力を発揮する余地がほとんどない」

と評価する声もあったとか。



当時のゲームですので、こんな感じ。
今リメイクしたら面白いのができるんじゃないかな。知らんけど。



今度はマネキンの首をご覧ください。
これがスロート(咽頭)マイクロフォンです。

首筋に装着するシングルまたはデュアルセンサーによって、
装着者の咽喉から直接振動を吸収するコンタクトマイクの一種で、
トランスデューサーと呼ばれるセンサーのおかげで、飛行中の航空機内等、
騒がしい環境や風の強い環境でも音声を拾うことができます。

第一次世界大戦時にイギリスで開発されたのが最初で、
第二次世界大戦中、ドイツ軍でパイロットと戦車乗員が使用し始め、

のちに連合国空軍で採用されるようになりました。

この写真の咽頭マイクはおそらく導入最初の頃のタイプで、
大戦後期は酸素マスクにマイクを装着していました。

仕組みは、咽頭下の頸部に固定された接触式マイクが、気管内の音
(声門の閉鎖と圧力の変化)等振動をキャッチし信号化するというものです。

ちなみにこのメカニズムはその後も研究が重ねられて、
現在ではモバイル機器用のスロートマイクもあるそうです。

モバイル機器のアプリによって、カスタマイズでき、
オートバイの乗車用など、消費者向けの用途がますます普及しており、
COVID-19以降、フェイスマスクの使用下でも通信を円滑にするために
一般用の咽喉マイクも商品化されているということです。


シグナル・ランプ(アルディスAldis・ランプ)

シグナル・ランプは、爆撃機の乗組員が無線機を使わずに
モールス信号を使って航空機間で交信することを可能にするものです。
カラーフィルターを取り付けて、あらかじめ用意された信号を送ります。

かートリッジの色は上から赤、黄、緑です。


M8フレアガン(照明弾)

緊急着陸の宣言、機内に負傷者がいることを知らせる、

友軍機かどうかの識別など、様々な色の照明弾で信号を送ります。

■ 通信士席


「ラジオコントロールボックス」はクルーステーションに設置され、
通信を制御するためのボックスで以下が搭載されています。

1. COMP:ラジオコンパス受信機(ナビゲーション用)

2. LIAISON:VHF(超短波)で編隊内の他機と交信する

3. COMMAND:MF(中周波)での空対地通信用

4. INTER:機内通信用

5. CALL:INTERへの切り替えを機内のクルーに知らせる

 これが使用されると、他の通信はすべて打ち消される

続く。


潜水艦「レクィン」〜乗組員のわすれもの

2024-04-20 | 軍艦

ピッツバーグはオハイオ川のほとりに立つ、
カーネギーサイエンスセンターで展示されている潜水艦「レクィン」。

戦後、レーダーピケット艦に改造された際、後部魚雷室を取払い、
レーダーなどを搭載したCICになっていたスターンルームは、
レーダー等が嵌め込まれていたウィンドウが展示ケースになっています。

これは説明してきたように、「レクィン」がミグレーンプログラムによって
レーダーピケット艦に改装された時の名残ですが、改めて書くと、
彼女はこの改装によって4基の艦尾魚雷発射管を失い、
スターンルーム前方のスペースは、本格的な航空管制センター
(レーダーピケット時代に乗艦していた『レクィン』の退役軍人は、
これを戦闘情報センター:CICと呼ぶ)に改造されました。

艦尾の後方のスペースは、かつてチューブそのものがあった場所で、
乗組員のための寝室スペースに改造されました。

トップサイドでは、後部シガレットデッキの40ミリ砲が撤去され、
そのスペースは代わりにSR-2航空捜索レーダーが設置されていました。

そのとき「レクィン」は、甲板の後機関室の上に
YE-3戦闘機制御ビーコンSV-2低角度水面捜索レーダーを搭載されます。

(このレーダーは、スクリュー近くの喫水線の近くにあったため、
しばしばショートし、Nodding Idiot "うなだれる馬鹿 "と呼ばれていた)

そして「レクィン」は、当時最新技術だったシュノーケルも装備し、
潜望鏡深度に潜ったままの状態で、4基のエンジン
(フェアバンクス・モース)を作動することができるようになりました。


そして、これらの改造情報によると、スターンルームの展示ケースは
改造された収納ロッカーであった可能性が高いです。

その二つ目のケースを見ていきましょう。

それは「レクィン」とは直接的にはあまり関係ありませんが・・。

■ アメリカの民間防衛



USS「レクィン」が、冷戦時代にその任務の大部分を
東海岸の防衛に費やしていた頃、アメリカ国民の最大の懸念は
いつなんどき国土を襲うかもしれない核攻撃の可能性でした。

軍が東側諸国との境を国境防衛するあいだ、
民間人もまた無関心ではいられず、民間防衛パトロールを結成して、
核攻撃の際に国民を支援する責任を負っていました。

ここに展示されているアイテムは、ペンシルバニア州ワシントン郡の
パトロールによって使用された実物です。



アメリカ民間防衛とは、軍事攻撃やそれに類する悲惨な出来事に備えて、
アメリカ民間人が組織的に行う非軍事的な取り組みのことです。

しかし、「民間防衛」という言葉は、緊急事態管理と国土安全保障が
それに取って代わると使われなくなり、存在そのものも消滅しました。

アメリカの民間防衛が本格的に始まったのは第一次世界大戦の時です。

それまでは、国土が大規模な攻撃の脅威にさらされることがなかったため、
これがアメリカ民間人の参加と支援を必要とする最初の総力戦となりました。

このとき民間防衛において行われたのは、

「対サボタージュ警戒の維持」
「軍への入隊を奨励、徴兵制の実施を促進」
「自由公債運動の推進」
「兵士の士気維持のための大衆芸能などによる貢献」

などです。

ここに展示されているのは第二次世界大戦中の
民間防衛ボランティアのためのハンドブック、ガイド、会報です。

真珠湾攻撃後、民間防衛の動きは著しくなりました。

1941年5月には民間防衛局(OCD)が創設され、
より多くの責任が連邦レベルに与えられるようになります。

これらの組織は、脅威に対応して民間人を動員するために協力するものです。
真珠湾攻撃のわずか数日前に創設された民間航空パトロール隊(CAP)は、
民間パイロットに海岸や国境をパトロールさせ、
必要に応じて捜索救助任務に従事させるという取り組みでした。


OCDが運営する民間防衛隊は、約1,000万人のボランティアを組織し、
消火活動、化学兵器攻撃後の除染、応急手当などの訓練を行いました。

日本で隣組などが組織され、民間に訓練が行われたのと同じような感じです。

■冷戦期の民間防衛

第二次世界大戦終了後、冷戦中の民間防衛の焦点は
「核」でした。
核戦争の新たな局面は、世界とアメリカ国民を恐怖に陥れました。

「落とした側」だったアメリカが、今度は攻撃される側になる可能性から、
民間防衛には求められていた以上の対応が促されました。



配布されたパンフレットは、左から

「核攻撃から生き残る」

「あなたと大惨事の間:
生き残るために・・・
家庭でできる民間防衛
食糧備蓄」

「聞け・・・攻撃警告」

という、非常時に対する準備と心構えを啓蒙する内容です。






OCDが装備していた放射線量計。


OCD車両の専用プレート。
PENNNAはペンシルバニアのことだと思われます。

ちなみに、2023年現在、OCDで検索すると、民間防衛ではなく、
強迫性障害(obsessive–compulsive disorder)という意味になります。

そのほかこのケースには、共産主義についての知識、
OCDが装備していた高出力(たぶん)のラジオが展示されています。

■ 「レクィン」艦内に残されていたもの



ミシシッピ川とオハイオ川を遡上して、ピッツバーグに辿り着き、
その後「レクィン」はカーネギー博物館の展示に向けて
大々的にレストアが施されました。

1990年10月にツアー用にオープンした潜水艦USS「レクィン」は、
今日でもピッツバーグで最も人気のあるアトラクションのひとつです。

カーネギー科学センターからの資金援助もあり、
維持費用はそれなりに苦労せず調達できるようで、
約半年ごとにダイバーがオハイオ川に入り、艦体を点検する他、
内部空間はメンテナンスと修復が常に行われている状態です。


ここには、そんなメンテナンスの経緯を通じて、
艦内に残されていた「わすれもの」が展示されています。



左:研磨粉(粉洗剤)の缶

研磨剤の粉末を乾燥石鹸や洗剤、ソーダのことで、
この缶は乾燥漂白剤が混ぜられています。

右:
壊れやすい
精密機器 慎重に取り扱ってください
アメリカ海軍兵器局
シンクロトランスミッター(送信機)Mk7Mod4
ベンディックス航空コーポレーション
モントローズ部門
使用まで開けないでください


シンクロトランスミッターというものがどういうものかというと、

ebay Synchro transmitter

なるほど、これならこういう缶に入っていても納得です。

そしてその缶の上に見える物体ですが・・・
スチールたわしかな?


アメリカのメキシコ料理、「タケリヤ」というようなところにいくと、
手前の赤いプラスチックのバスケットにタコスが入って出てきたりします。

手前のはパンかホットドッグの包み紙、後ろの
Fleetwood Coffee
は、テネシー州のかなり有名なコーヒーロースターで、
1925年創業、今日も営業しています。

その後ろのカードは、「レクィン」ツァー許可証。
よくみると、艦番号が
AGSS−481となっています。
これは、彼女が退役後補助潜水艦として再分類されたときのもので、
その後ノーフォーク海軍基地で不活性化を行っています。

この見学は、補助艦となってから行われたイベントだと思われます。


トランプ、小銭、名誉潜水艦員証明書

名誉潜水艦証明書というのは、シャレで一般人に与えられるものだと思います。

7つの海を股にかける優れたセイラーは知っておくこと:

名前    は、この日付     に
USS             SS                 で確かに潜水を行った。

このような潜水による深海への神秘に入門した彼は、
ここに名誉潜水士に任命されるものとする。

よって、彼はドルフィンマークを身につけるべき
真の忠実な息子であることを宣言する。

          
司令官

いまならなぜ「彼」なのか「息子」なのか、なぜ男限定なのか、
ということで、いろんなところから文句が出そうですが、
もしかしたら、「レクィン」に限らず、この頃は潜水艦に一般人(男性限定)

を乗せて潜航を体験させるということが行われていたのでしょうか。

この「名誉潜水士証明書」は、その記念のためのカードが
たまたま使用されていないまま残されていたということのようです。



パイプ
鉛筆(海軍製造のロゴあり)
クレストの歯磨きチューブ
恋人の写真


これらは本当に乗組員がうっかり忘れた持ち物という感じです。

ベッドの脇から落ちてしまったのを気づかずにいたり、
退艦の時に手荷物に入れるのを忘れたり、いずれにせよ
うっかりと艦内に残したまま、彼は上陸し、2度と戻らなかったのでしょう。

それにしても、気になるのはガールフレンドのものらしい写真です。
いつも身につけるために小さくプリントした白黒写真には、
ワンピース姿の女性の微笑んで立つ姿があるわけですが、
この写真を持って乗り組んだ乗員は、どこかに失くしてしまったと思い、
そのまま潜水艦を立ち去ったのでしょうか。

肌身離さず大事に持っているようなものなら、うっかり
艦内で失くすことなどないような気がするのですが、
もしかしたら何かの事情で彼女とはうまくいかなくなり、
処分したつもりが艦内のどこかで見つかってしまったのでしょうか。

この写真が展示されるようになって、「レクィン」の乗員は
他の軍艦と同じようにベテランのリユニオンを行っています。

USS Requin reunion 1998

その2

これだけ人が集まっているんだから、この写真の持ち主、

あるいはその持ち主と仲が良かった人がひとりくらいいなかったのかな。

あるいは、写真の持ち主はとうに気づいている(いた)けど、
現在全く違う人と結婚して幸せになっているという場合。

それならそれは「なかったこと」にするしかないかな・・。


続く。





潜水艦レクィン〜最後の旅 フロリダからピッツバーグまで

2024-04-16 | 軍艦

潜水艦「レクィン」シリーズ、終わりに近づいてきました。



マニューバリングルームを出ると、そこはスターン(艦尾)ルームです。

何の前知識もなく見学したわたしにはこれは大変な違和感でした。
今までの潜水艦は、艦尾に必ず後部魚雷発射室があって、
退艦の時は必ず魚雷発射管の間に渡された梯子を上っていくものでしたから。



「レクィン」はこうなっていました。

お馴染みの魚雷発射管がなく、ただ広々とした部屋になっています。
これを言い表すには、「スターンルーム」としか適切な言葉がありません。

しかし「レクィン」艦尾が最初からこうだったわけではありません。
就役した1945年から1946年まで、ここは後部魚雷コンパートメントであり、
「レクィン」は従来の潜水艦同様、前部と後部から魚雷発射する仕組みでした。

しかし、「レクィン」がレーダーピケット艦構想により改装された結果、
ここは 1946 年に戦闘情報センター (CIC) になります。
そして様々なプランボードやレーダー機器、乗組員の寝台も設置されました。


「レクィン」航空管制室レイアウト図面

潜水艦の狭いスペースにあらたにCICを設置するには、
魚雷室の一つを潰すしかなかったのだということです。

コンパートメントは「レクィン」が任務が終了するまでCICのままでした。



CICになったかつての後部魚雷発射室コンパートメントのドア近く部分。
レーダー機器とジェネレーター、それまで必要なかったデスクがあります。



CICとなったスターンルームの壁には、今までの潜水艦見学で
見たこともないような鍵付きの扉が整然と並んでいました。

これらが何の収納場所だったかというと、レーダーです。
最初の改造が行われた時、彼女の艦種は「レーダー哨戒潜水艦」でした。

そして今ではそれが、資料展示ウィンドウになっています。

■ 海軍退役後の「レクィン」


ここにはカーネギー博物館に「レクィン」が展示されるようになるまでの
関係書類などが展示されています。

退役し、練習艦としての役目を終えたあと、「レクィン」は
1972年にタンパ市に移され、記念館や観光名所として利用されていました。

この潜水艦に対する地元の関心と支援は、その後15年間、
かなり高かったのですが、だんだん注目が薄れてきた頃、
ツァーガイドがスキャンダルをひきおこしました。(その内容は不明)

そしてその後公開はとりやめられて4年間桟橋で放置されていました。

タンパ市は1989年に海軍に「レクィン」の引き取りを要請しています。
公開が中止になり、維持できなくなったという理由のほかに、
タンパ市は1991年に開催するスーパーボウルを控えていて、
イメージアップを図りたいと考えていましたが、第二次世界大戦時の潜水艦が
それに「そぐわない」と判断したといわれています。

こういう考え方がアメリカ、しかもブルーオアレッドで言うと
「スウィングステート」のフロリダ(しかも当時ブッシュ押し)
で起こったのがちょっと意外。

■ 議会報告書(取得法案陳述)

その頃、ペンシルベニア州ピッツバーグのカーネギー博物館が、
オハイオ川岸に建設中の新しい科学センターに展示するために、
旧式艦の寄贈の可能性について海軍に問い合わせていました。

「レクィン」が取得可能であることを聞いたカーネギー博物館は、
海軍にコネのあるさまざまな地元関係者、そして
ジョン・ハインツ上院議員(共和党)に連絡を取ります。

その後飛行機事故で死亡

何度もここで述べているように、ハインツ議員は、地元産業である
ハインツの御曹司であり、力のある政治家でした。

このときのハインツ議員の出した
「レクィン」譲渡申請のための書類が右側に展示されています。

ちょっとした艦歴も書き添えられているので翻訳しておきます。


旧式潜水艦US.S.の譲渡を許可する法案

S2151にって、潜水艦「レクィン」をペンシルバニア州フィラデルフィアの
カーネギー研究所に移送する許可が与えられる。
譲渡に適用されるはずの60日間の待機期間が満了する前に、
軍事委員会に提出すること。


ハインツ上院議員による;

大統領、私は本日、潜水艦「レクィン」をペンシルバニア州ピッツバーグの
カーネギー研究所に移送するための60日間の議会待機期間を
免除する法案を提出するために立ち上がりました。

海軍長官はこの潜水艦の譲渡を最近承認しましたが、
「レクィン」をフロリダ州タンパからピッツバーグに移送するに際しては
この
60日間の待機期間を免除していただく必要があります。

その出発を早春に早めたい事情は、潜水艦の移送を、
ミシシッピ川とオハイオ川の
水位が最も高いときに行う必要
があるからです。

全長312フィートの潜水艦が川を上り、
メキシコ湾からオハイオ川の河口まで閘門を通過するには、
一年のうち唯一の時期に出発しなければなりません。

この迅速な通過の試みは「レクィン」がピッツバーグに到着する前に
通過しなければならなかったミシシッピ川の様々な区間の水位が、
タイミングを必要としたことから実行に移されました。

「レクィン」は 1972年以来タンパのヒルズボロ川に係留されており、
市はテンチ級潜水艦を維持することにもはや興味を持っていません。

カーネギー研究所が取得することによって、「レクィン」は
新しいカーネギー科学センターの一部としてオハイオ川に浮かび、
訪問者に第二次世界大戦の遺跡を見るユニークな機会を提供するでしょう。


「レクィン」は 1945年1月1日にニューハンプシャー州ポーツマス進水し、
その後 1945 年 4 月 28 日に就役しました。

グアムに向かう途中第二次世界大戦が終わり、大西洋に戻るよう命じられ、
キーウェスト近郊の第4潜水戦隊で数か月間療養した後、
彼女は1.3.5.レーダーピケット潜水艦に改造されました。

その後25年間、彼女は我が国の潜水艦として功績を残して活躍しました。

その後第 2 艦隊および第 6 艦隊と協力して広範な作戦を行い、
北極圏の北を航行し、カリブ海から地中海、
そして大西洋全体まで南アメリカ大陸を巡る巡航を行いました。

 1968 年 12 月 3 日、現役の任務を終えて退役し、
フロリダ州セントピーターズバーグに送られ、
そこで衝突事故が起こるまで海軍予備訓練艦として勤務しました。

そして現在、カーネギー科学センターの一部として
新たな役割で国家に奉仕し続ける機会を得たのです。

私は彼女がオハイオ川の岸辺に到着することを楽しみにしており、
間もなくカーネギー科学センターの一部となることを認める
彼の法案を支持するよう同僚議員に強く勧めるものであります。

大統領、法案の本文を記録に掲載することに全会一致の同意をお願いします。 


このとき、ハインツ上院議員は、海軍の60日間の審議期間
(博物館目的での旧式艦艇の譲渡に関する)を3週間に短縮するため、
必要な法案を比較的短期間で議会に通すことができました。


「レクィン」の移転を許可する法案は、1990年4月9日、
ブッシュ(父)大統領によって署名されました。

タンパ造船所で船体外板の交換を含む必要な修理が完了した後、
「レクィン」はルイジアナ州バトンルージュに移され、
ミシシッピ川を遡ってピッツバーグへの航海を開始します。


4隻のはしけの間に置かれた「レクィン」は、1日あたり

約120マイルを移動し、1990年9月4日にピッツバーグに到着しました。

そして、同年8 月7日、4 隻のバージに挟まれてタンパを出航し、
ミシシッピ川、オハイオ川を通って9月4日ピッツバーグに到着したのです。



フロリダからピッツバーグまで「レクィン」が通ってきた道(川)です。
その間経過した州は10にのぼりました。

カーネギー科学 センター (CSC) は、USS「レクィン」の航海を宣伝するため
マンガス-カタンツァーノという地元コンサル会社と協力して、
大々的にその宣伝を行いましたが、そんな彼らも、
蓋を開けるまで、多くの人々が潜水艦を一目見るために押しかけるとは
夢にも思っていなかったといいます。


曳航されて川を遡る「レクィン」

バトンルージュからビーバーフォールまで、どんなに蒸し暑い日でも、
雨が降りしきっている日でも、ミシシッピ川とオハイオ川を遡って
カーネギー科学センターの新居に向かう「レクィン」を一目見ようと、
たくさんの人々は熱心に川岸に並び、その遡上を見守りました。


オハイオ川を曳航されて通過する「レクィン」



そして最終的に「レクィン」がピッツバーグに到着したとき、
待ち構えていた2,000人以上の見物人が歓声を上げたと伝えられます。



「レクィン」を見るための観覧船特別チケットに記されている

1990年9月4日とは、彼女がピッツバーグに到着したその日です。

オハイオ川には、わたしのこれまでの写真にも写っていたように、
右上の遊覧船「ゲートウェイ クリッパー フリート」が就航していますが、
この日は、「レクィン」の到着を遊覧船の上から見るため、
特別チケットが販売されて、熱心なファンが買い求めたのでしょう。

続く。



アングリフ(襲撃)ルフトバッフェ対CBO〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

アメリカ空軍博物館の展示から、爆撃機関連を取り上げていますが、
今日は連合軍の攻撃を受けて立つドイツからの視点でお送りします。



■ アングリフ-バイ ターク ウント バイ ナハト



ここに展示されているのは、数千枚単位でドイツに投下された
小冊子で、そこにはこのような「警告」がドイツ語で書かれています。

昼夜攻撃
イギリス空軍の巨大爆撃機、スターリング、ハリファックス、
ランカスターは、夜間作戦で激しい攻撃を行っている。
そして今アメリカ空軍が
特殊な航空機を昼も夜も繰り出している。

S.29 ショート・ブラザーズのスターリング、
ハンドレイ・ページのハリファックス、
A・V・ロー(アブロー)社のランカスター、
そしてアメリカの特殊な航空機とはB-17のことでしょうか。

絵に描かれているのはB-17とランカスター?

この小冊子とやらがドイツ国民に何を訴えたかったかというと、
つまり昼も夜もお構いなしに爆撃してくる連合軍は悪い、ってことかな。

ごもっとも。

■複合爆撃機攻撃
Combined Bomber Offensive

さて、ドイツが警告しているところの米軍と英軍の昼夜爆撃作戦は
"Combined Bomber Offensive "として緩やかに連携体制を取り、 
この計画により、「24時間体制」での敵爆撃が確立されていきます。

ドイツにしてみれば、昼間米軍、夜間RAFで切れ目なしに来られた日には
もうちょっとお手上げなんですけど、ってなるでしょう。

コンバインド・ボマー・オフェンシブ=CBO

は、この頃の連合軍が採用した作戦名であり、最優先として
V兵器施設(1944年6月)と石油、潤滑油(POL)工場(1944年9月)
に対する攻撃を行うというものです。

繰り返しになりますが、RAFの爆撃作戦は銃爆撃機による夜間、
アメリカは日中の爆撃を受け持ち、切れ目なく攻撃を行いました。

この計画は1943年、”ハップ”・アーノルド将軍によって
アメリカから情報の共有が提案され、同年6月から実施されました。

攻撃目標は、1944年のDデイまでは、ドイツの戦闘機部隊と
ボールベアリングおよび石油産業が優先目標とされました。

■ ルフトバッフェ


CBOを迎え撃った当時のルフトバッフェの戦闘機です。



高速かつ重武装のドイツ空軍の
フォッケウルフFw190ヴュルガー
は、爆撃機乗組員にとって手ごわい相手でした。

ちなみにヴュルガーとは鳥の百舌鳥のことです。
超余談ですが、この機体、日本陸軍に輸入されたことがあって、
黒江保彦陸軍少佐が試験飛行しています。

それによると、

旋回戦;
三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」に完敗

高度6,000mにおける速度競争
1位 P-51C
2位3位 同率:Fw190A-5&四式戦「疾風」
4位 三式戦「飛燕」
5位 P-40

だったということです。

P51とP-40は鹵獲機。
このレース、出足ではFw190がリードしていましたが、
3分後にはP-51に追い抜かれて最終的にこの順位になりました。




メッサーシュミットBf109
改良が続けられ、ドイツ空軍は開戦から終戦まで使用していました。
デビュー当時はハインケル51の代替として歓迎されましたが、
航続距離が短いのが欠点で、爆撃機の護衛で同行しても
どうしてもロンドンを通過することができず、そのためイギリスは
諸島に点在していた訓練地や生産拠点が無事でした。




こちらは国立博物館所蔵のメッサーシュミットBf 109-10です。

最後の主要シリーズで、連合軍の爆撃で生産が滞り、
この機は2,000機未満しか生産されませんでした。

この展示機は、連合軍の爆撃機からドイツを防衛した部隊である
Jagdgeschwader 300の機体を表す塗装が施されています。

JG300、別名ヴィルデ・ザウ(イノシシ)は夜間戦闘機部隊、
のちに昼間戦闘機部隊に改編された部隊で、指揮官は
275勝を挙げ、史上3番目に高い得点を挙げたエースである
ギュンター・ラール空軍大将が戦争最後の指揮官を務めました。


Günther Rall, 1918- 2009
いい人そう


ルフトバッフェトップエースで連邦軍大将に上り詰めた数少ない例





メッサーシュミットBf110
ドイツ空軍はまた、重爆撃機から身を守るために
同機のような双発戦闘機も採用していました。


 ■ 死線のヨーロッパ上空


ドイツ空軍はアメリカ空軍の戦略爆撃に対抗するため、
それなりに高度な防衛システムを構築していきました。

敵の戦闘機と対空砲「フラック」は連合国側に壊滅的な被害をもたらし、
アメリカ空軍は、通常10人の乗員を乗せた重爆撃機、
8,000機以上を、ヨーロッパ上空での戦略爆撃作戦中の戦闘で失いました。

このポスターは、まさにその時の連合国側の心境を描いています。

しかし、当初は無敵だったルフトバッフェの戦闘機も、
戦争後半に導入されたP-51マスタングやP-47サンダーボルトなど、
アメリカ空軍の長距離護衛戦闘機が出現すると脅威ではなくなっていきます。

連合軍の爆撃機攻勢を守るこれらの飛行隊に対し、
第三帝国空軍は制空権をめぐる決戦に誘い込まれ、その結果、
連合軍はその戦いを制し、西ヨーロッパへの侵攻を進めていきます。

■ドイツ空軍グッズ


いくつかのルフトバッフェグッズが展示されています。


ルフトガウ コマンド・ベルギー-ノルトフランクライヒ
(ベルギー-北フランス航空方面本部)隊旗 

先ほどのイラストは、まさにこれだったんですね。
ハーケンクロイツを持つワシ(ドイツ軍のシンボル)が
敵機を墜落させているという意匠です。

この組織はベルギーと北フランスの対空防御と早期警戒担当でした。

 米空軍の重爆撃機はこの地域の目標を攻撃し、
対独空襲では定期的にこの地域を通過しなければなりませんでした。


ドイツ空軍対空砲手のユニフォームバッジ


 ホーチャー(音響探知機オペレーター)制服バッジ



ドイツ空軍は、巨大な聴音機を使用して、

エンジン音によって飛来する爆撃機の位置を特定していました。


ドイツ空軍B-17戦勝記念標章

この戦勝標は、1943年2月4日の日中、

Bf110夜間戦闘機パイロットのハインツ・グリムという人が
第8空軍B-17に勝利したことを記念したものです。



グリムは1943年10月に戦死するまで、
アメリカ空軍とイギリス空軍の爆撃機を20機以上撃墜しました。
ドイツの戦歴サイトを当たったところ、1943年10月13日死亡とされ、
はっきりした状況はわからないまでも夜間戦闘機に撃墜され、
墜落して戦死したということになっていました。


Bf 109の尾翼と空襲警報ヘルメット

ヘルメット
ボランティアの空襲警報サービス(Luftschutzwarndienst)の市民は、

爆撃機の攻撃が迫っていることを住民に知らせる役目でした。
この任務は、爆撃機の攻撃が増加するにつれて、
すべての市民に義務付けられるようになっていきます。

Bf 109の尾翼

メッサーシュミットBf 109は、爆撃機の乗組員にはMe 109として知られ、

ナチス・ドイツで最も数の多い戦闘機でした。

ここにある尾翼がどういう由来のものか説明はないのですが、
明らかに撃墜されたもので、ハーケンクロイツには銃痕が残っています。


続く。

「砲手の夢」 第8空軍と第12空軍〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-10 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の爆撃機関連展示より、
ヨーロッパに展開した爆撃作戦についてお話ししています。

ところでピンク・フロイドの「ガンナーズ・ドリーム」をご存知でしょうか。

Pink Floyd - The Gunner's Dream

海軍軍人の息子を戦争で失った老夫婦が描かれていますが、
歌詞の内容は以下の通り。(拙訳注意)

砲手の夢

雲の中を漂っていると
今思い出が駆け上がってくる

でも、天と天の間の空間で
異国の野原の片隅で
夢を見た
夢を見た

さようなら、マックス
さようなら、ママ

礼拝の後、車までゆっくり歩いていると
彼女の銀髪が11月の冷たい空気の中で輝いている

君は鐘の音を聞く
襟の絹に触れる
涙のしずくが楽隊の心地よさで生まれるとき
君は彼女のか弱い手を取り
夢にしがみつく!

(オーイ!)
居場所
(「こっちだ、モリス!」)
十分な食事
(「下がれ、下がれ、ジョン!」)

どこか、年老いた英雄が通りに安全に溶け込める場所
疑問や恐れを大声で話せて
それ以上、誰もいなくなることはない場所
彼らが当然のようにドアを蹴破る音も聞こえない

トラックの両側でリラックスできて
遠隔操作でバンドマンに穴を開ける狂人もいない


誰もが法律のもとにあり
もう誰も子供を殺さない
もう誰も子供を殺さない


毎夜毎夜 脳内をぐるぐる回っているもの
彼の夢が僕を狂わせる

異国の野原の片隅で
砲手は今夜も眠る
すんでしまったことは仕方ない
僕たちには彼の最後の瞬間をなかったことにできない
彼の夢を心に留めろ
心に留めるんだ



エモーショナルな老夫婦の姿を描いたこのバージョンの後に、

ぜひ次の同じ曲の別バージョンをご覧ください。
曲ではなく、第8航空隊の映像を紹介するものです。
本来はこちらの映像によりフィットする歌詞だと思われます。

US 8th Air Force - Pink Floyd - The Gunner's Dream - World War II

第8空軍の撃墜され落ちていく爆撃機が次々登場します。
地面で砕け散った機体の側には、搭乗員の遺体が横たわっています。

■初期の作戦 イギリスにおける第8空軍


1942年から1943年初頭にかけて、
イギリス空軍(RAF)は夜間に飽和爆撃を実施する一方、
アメリカ空軍はイギリスの小規模な爆撃機部隊で
白昼における精密爆撃の有効性を証明しようとしていました。

開戦から最初の1年間、第8空軍の重爆撃機は、
ドイツ占領下のフランスの工業・軍事目標とともに、
潜水艦基地や生産施設を攻撃し続けました。

しかし残念ながら、どれほどUボートの基地や造船所を爆撃しても、
大西洋におけるドイツ潜水艦の脅威を阻止する効果はありませんでした。

それでもアメリカ軍爆撃機の指導者や乗組員は、
さまざまな戦術や技術を試しながら貴重な経験を積んでいきます。

ロリアンのドイツ軍潜水艦基地を攻撃中

この頃(1943年6月9日)ミッション中のご存じメンフィス・ベル

【投下された爆弾のエイミング・ワイヤタグ】

博物館所蔵。
1942年8月17日、
ナチス占領下のヨーロッパで第8空軍が行った最初の重爆撃の際、
フランスのルーアン=ソットヴィル鉄道敷地に投下した
爆弾の1つについていた arming wire tag


【爆弾信管のピン&タグコレクション】

爆弾信管のピンとタグ
第303爆撃航空団副隊長ラルフ・ウォルダー軍曹のコレクション 
左より:

ドイツ・ブレーメン 1943年4月17日 1000ポンド爆弾[1982-79-2]

フランス・ロリアン 1943年5月17日 1,000ポンド爆弾[1982-79-1]

フランス・サンナゼール 1943年5月1日 2,000ポンド爆弾[1982-79-3]

ドイツ・キール 1943年5月14日 500ポンド爆弾[1982-79-12]

ドイツ・キール 1943年5月19日 500ポンド爆弾[1982-79-4]

ドイツ・ハルス 1943年6月22日 500ポンド爆弾[1982-79-5]

ドイツ・ブレーメン 1943年6月25日 500ポンド爆弾[1982-79-6]

ノルウェー・ヘロヤ、1943年7月24日、500ポンド爆弾[1982-79-8]

ドイツ・ハンブルク 1943年7月26日 500ポンド爆弾[1982-79-7]

ドイツ・キール 1943年7月29日 500ポンド爆弾[1982-79-9]

25回ミッション達成記念

1943年5月14日、イギリスのバシングボーンで、
飛行場を "buzzing”(ブンブン )させながら、意気揚々と、
第8空軍のパイロット、ローレンス・ドワイヤー少佐は
ハンカチに結びつけたこの50口径の弾丸を投下しました。

 敵地上空での25回目の最後の任務を完了した記念でした。

冒頭の第8空軍バージョンの「砲手の夢」ビデオには、
途中、ヨーロッパでの真の25回爆撃任務達成機である、
「ヘルズ・エンジェルス」の姿を見ることができます。

【爆撃士官マティス兄弟の物語】



1943年3月18日、21歳の爆撃手ジャック・W・マティス中尉は、
ドイツのヴェゲザックにあるUボート基地空襲の任務において、
飛行隊長兼爆撃手を務めていました。

ヴェゲザックに到着する直前、爆弾を投下してから数分後、彼の乗機
「ザ・ダッチェス」(愛称ウルヴァリン)の前部で高射砲弾が炸裂します。

その瞬間、重爆撃機の機首が粉々に砕け、
爆撃手とナビゲーターの区画に、燃え盛る高温の破片が飛び散りました。

エポキシグラスが破損したザ・ダッチェス(AKA”ウルヴァリン”)

この爆発でマティス中尉はコンパートメントの後方に投げ出され、
右腕は肘のところでほぼ切断され、右側腹部を大きく抉られる傷を負います。

大量に出血し、瀕死の重傷を負ったマティス中尉は、
しかし、這うようにして自分の配置に戻り、ほんの数秒の余裕をもって
標的を十字線に合わせ、おそるべき精度で爆弾を投下
しました。

マティス中尉はその後、爆弾の照準の上にうつ伏せになったまま、
出血多量で死亡しました。



その非凡な功績により、マティス中尉は第8空軍搭乗員として
初めて名誉勲章を受章されることになりました。



基地では、マティス中尉の兄、25歳の爆撃手、マーク・マティス中尉が、
「公爵夫人」の帰りを辛抱強く待っていました。

彼はその朝、弟を見送り、その帰りを心待ちにしていました。
兄弟は弟の任務終了後、ロンドンでの3日間の休暇を予定していたのです。


しかし、午後になって基地に帰還した「ダッチェス」の機首部分が

完全に破壊されているのを見た瞬間、彼は本能的に弟の死を確信しました。

二人の兄弟は、アメリカが第二次世界大戦に参戦した直後、
ともに陸軍航空隊に転属し、飛行訓練後、爆撃手に配置されていました。

実はその日、ジャックはヴェゲサックへの同行を兄に頼んでいました。
しかし、上から許可が降りず、マークは飛行ラインから弟を見送りました。

上がこのとき許可しなかったのは、慣例的に
兄弟の同時戦死のリスクを懸念した結果だと推測されます。

マークは弟の死後も彼は第303部隊に残り、乗務の継続を希望した結果、
 1943年5月13日、B-17F


 FDR's Potato Peeler Kids
(ルーズベルトの芋剥きキッズ)

の爆撃手として、キールのクルップ潜水艦工場爆撃に参加しました。

工場は対空砲火と100機以上の戦闘機によって厳重に守られていました。
爆撃を成功させたものの、”FDRのポテトピーラーキッズ”は損傷し、
北海のどこかにマーク・マティスと乗組員を乗せて消えていきました。

わずか2カ月足らずの間に、2人の兄弟は
祖国のため、同じヨーロッパで命を捧げたのです。

■第12空軍 B-17「オール・アメリカン」の奇跡

1943年半ばまで、地中海における米空軍の小規模な重爆撃機部隊は、
主に敵の港、飛行場、船舶を攻撃、並びに北アフリカの敵地上軍を撃破し、
シチリア侵攻への布石を作るべく作戦を展開していました。



第12空軍のB-17「オールアメリカン」は、
北アフリカの敵補給線を爆撃中にドイツ軍の戦闘機に突っ込まれ、
写真のように胴体を斜めに切り裂かれそうになりながら、
 驚くべきことに、基地に帰還した伝説の爆撃機です。

B17 All American ~ (Rev. 2a) (720p HD)

ミッションはいつもどおり始まりました。


激しい戦闘機と対空砲火の波をかいくぐり、編隊は目標上空に到達し、
オール・アメリカンは何事もなく爆撃任務を終えました。

基地に戻ろうとしたとき、2機のメッサーシュミットが迎撃を試みましたが、
砲手がこれを防ぎ、この戦闘機は引き返していきました。

しかしこの後も、2機のメッサーシュミットが飛来しました。

それは二手に分かれ、1機は編隊長機に、
もう1機はオール・アメリカンに飛びかかりました。
両爆撃機の砲手によってドイツ機は2機とも撃破されます。

先頭機を攻撃していた戦闘機は、黒煙をたなびかせながら墜落しましたが、
もう1機は、最後の瞬間、爆撃機に体当たりしてきました。

戦闘機はB-17コックピットの真上を、耳をつんざくような
「フーッ」という音とともに撃ち抜き、尾翼部分に突っ込みました。



衝突で機体後部に大きな穴が開き、左の水平安定板がなくなりました。
衝撃に震えている尾翼は今にも剥落しそうになりました。

茫然自失のクルー全員の点呼をとってみると、
驚くべきことに誰も怪我をしていませんでした。

いつ機体がバラバラになってもおかしくない状態を悟った彼らは、
各自がパラシュートをつかみ、脱出できるように準備を始めました。

そんな状態にも関わらず機体は飛び続けていたので、
パイロットは1マイル1マイルを慎重にコースを維持し続けました。

彼らはサハラ砂漠の上空に差し掛かっていました。

アルジェリアの目的地に到着するまで、
機体が持ちこたえられるとは誰も思っていませんでしたが、
オール・アメリカンはそのまま巡航を続けました。

編隊の僚機が、恐る恐る故障した機体に近づいていきました。
(そして上の写真を撮影した乗組員がいたのです)

僚機は全機でオールアメリカンの周りを固め、
射線が重なり合うように編隊を組んで、
戦闘機が近づくのを阻止しながら飛び続けました。

そのうちアメリカ軍の戦闘機もやってきて周囲を護衛し始めます。

それでもオール・アメリカンはまだ飛んでいました。
尾翼を風に揺らして、人間が足を引き摺るようにしながら。

機内の兵士たちには、その旅は10年かかるように思えたでしょう。
ほんの小さな揺れや振動が尾翼を揺るがし、彼らの心臓も縮みあがりました。

しかし、頑丈な設計と機長の”ソニー”ブラッグの繊細な操縦のおかげで、
なんとか持ちこたえることができたのです。

Kendrick Robertson "Sonny” Bragg
デューク大卒、ROTC
戦後プリンストン大に進学、建築家

そして、オール・アメリカンは無事に着陸しました。

尾翼が機能していなかったので、優雅にというわけにはいかず、
最後の100ヤードは文字通り機体を地面に滑らせてのランディングです。

凄惨な内部の状況が予測されたので、救助隊が駆けつけましたが、
彼らには救急車は必要ありませんでした。
乗組員は誰ひとり負傷しておらず、全員普通に歩いて出てきたのです。


この奇跡の生還劇こそが機体と乗組員の能力の生きた証拠となり、
オール・アメリカンは当時最も写真に撮られた機体となりました。



写真の証拠がなければ、誰も信じないようなこの状態は、
当時から現代まで奇跡の生還として讃えられ、語り継がれてきました。

神話となりすぎて?ありえない尾鰭がつけくわえられ、
最近ですら本当の話ではないことがSNSで広められているそうですが、
オール・アメリカンに起こったことはこれ以上でも以下でもありません。


続く。






「レディ・ビー・グッドの九人」駐イタリア第15空軍〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-08 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示より、第二次世界大戦中
ヨーロッパに展開した陸軍爆撃隊をご紹介しています。

ところで、当ブログシリーズとまるでリンクするように公開された、
スピルバーグの「マスター・オブ・ザ・エアー」が完結しました。

このシリーズを鑑賞する際、偶然にせよ放映に先んじて
ヨーロッパ戦線におけるアメリカ空軍爆撃隊の情報を得ていたことは、
まるで「答え合わせ」か、パズルのピースがはまるような快感がありました。

当ブログには時々こんな「奇跡」が起こります。

誰のためにもならず、なんの自慢にもならず、要はただの偶然にすぎませんが、
この世の全ての出来事の中で、わたしの無意識がたまたま捉えたものが
不思議と他所の誰かの意志と合致する、というささやかすぎる奇跡。

なんとなく引き寄せの法則はあると感じる今日この頃です。

■ イタリアに展開した第15空軍



「長きにわたって我々は南からの攻撃に対して無力だった」

これは、かつての戦闘機エースでドイツ軍最年少将官となった、
アドルフ・ガーランド少将がアメリカ軍について語った言葉です。

1943年9月、アメリカ陸軍航空隊は第15空軍を編成し、
地中海の重爆撃機部隊を南イタリアの基地に集結させました。

南イタリアを根拠地にしたことで、アメリカ空軍は、
南東ヨーロッパで大規模な戦略的空襲を行うことができるようになり、
ドイツ空軍の防衛にさらなる圧力をかけていくことになります。

上の写真は、第15空軍の爆撃機が南イタリアの基地を離陸する様子。
激しい雨の後で、滑走路が一面雨水に覆われ波ができています。

余談:アドルフ・ガーランド少将



ちなみにこう語ったところのガーランド少将ですが、この風貌とか、
バトル・オブ・ブリテンでゲーリングに『何か要望はないか』と聞かれて、

「スピットファイアが欲しい❤️」

と言い放ったったり、爆撃機への体当たり攻撃をやめさせたり、
ジェット機ハインケルHe162のパイロットに少年兵を使うのをやめさせたり、
トレードマークがミッキーマウスだったり(部隊名にしていたらしい)。

なんとなくドイツ軍人ぽくなくね?と思っていたら、やっぱりというか、
フランス系のユグノー教徒(フランス改革派教会)の家系でした。

その動かぬ証拠。操縦席の下にミッキーマウス発見

でっていう話ですが、なんかこの人好きだわ〜。



オーストリアのウィーナー・ノイシュタットにある

メッサーシュミット戦闘機工場を攻撃する途中の一連の爆弾。



第15空軍の爆撃機がイタリア・ミラノのブレッソ航空機工場に爆弾を投下




オーストリア、シュタイアーのボールベアリング工場へ爆撃任務終了後、

死亡したナビゲーターの遺体を爆撃機ノーズから下ろす医療関係者。


空飛ぶ爆撃「列車」?

B-24爆撃手ロバート・ヘンベストRobert Henbest中尉が着用していた

第15空軍と第727爆撃飛行隊のパッチです。


1944年2月、爆撃手ハロルド・クックHarold Cookeが、
レーゲンスブルク上空で撃墜され、捕虜になった後、
投獄中に暇に任せて制作したアイテムその1。

実際のバッジに錫箔を巻いて作ったエアクルー・バッジ飾り。
フレームはベッドのすのこ、フレームを包むパッドは陸軍の制服、
ガラスは窓ガラスを拝借して作ってあるそうです。

そんなにしてまで作りたかったのがこれって・・。



捕虜生活の暇に任せて作ってみたシリーズその2。
木製ベッドのスラットから彫り出されたボンバルディアの翼

・・・・ですが、つまりベッドの一部ですよね?

壊したのか?壊して作ったのか?



テーブルナイフで椅子の座面を彫刻して作った第15空軍のエンブレム。



上の背面にはヨーロッパの地図上空を飛ぶB-24の姿が。



第15空軍の "トグリアー "ジェームス・ウォルシュ軍曹着用アイクジャケット。

 重爆撃機では、「togglierトグリアー?」と呼ばれる下士官が
先導機からの合図で爆弾を投下することになっていました。

トグリアーとは、目標上空で爆弾のスイッチを「トグル」する係です。



ロバート・クラッツ中佐(第455爆撃群B-24爆撃兵、52回の戦闘任務に従事)

着用の帽子には破片が通過したときの破口が残っています。

■ 「レディ・ビー・グッド」とその乗員の物語



「レディ・ビー・グッド」と聞くと、わたしなどは
ジョージ・ガーシュインの曲「Oh, Lady be Good!」が
エラ・フィッツジェラルドの歌で思い出されるわけですが、


この「お嬢さん、わたしに良くしてください」というタイトルを
機体の愛称にした、陸軍のB-24爆撃機の喪失の物語をします。

1943年4月4日、レディ・ビー・グッドは、最初で最後の任務に向けて

リビアのベンガジ近郊にある滑走路、ソルチを離陸しました。




乗員はウィリアム・ジョセフ・ハットン中尉を機長とする総員9名。

手前から:
ハットン、トナー、ヘイズ、ウォラフカ、
リップスリンガー、ラモット、シェリー、ムーア、アダムス

その日の作戦計画では、爆撃隊は時間差でソルクを出発して、
後発の航空機が合流したのち、ナポリを攻撃することになっていました。

ところがその日、サハラ砂漠の強風のために砂嵐が発生し、
視界が全く確保できなくなったため、多くの航空機は
最終的にミッションを中止し、ソルチにUターンしました。

レディ・ビー・グッドは最後に離陸した爆撃機で、
編隊を追いかけましたが、最後まで追いつくことはなく、
目標到達寸前で先発隊がいないのに気づき、帰還を試みました。

しかしレディはハットン中尉の、

「機体の自動方向探知機が正常に作動しないので誘導が必要だ」

という救援を要請する無線を最後に消息を断ち、
捜索救助隊が出動したにもかかわらず、その所在はつかめませんでした。


捜索終了後、レディ・ビー・グッドとその乗組員は
地中海上空で行方不明になったと報告されました。

そしてそのまま第二次世界大戦は終戦を迎えます。

レディ・ビー・グッドと乗員たちは、戦争中に行方不明になった

多くの航空機と乗組員のひとつとして、そのままになっていました。

■ 墜落地点発見




1958年11月、ダーシー・オイル・カンパニー
イギリ人地質学者が、
リビア砂漠上空を飛行中、墜落した飛行機を発見しました。

ダーシー石油会社の派遣した地上チームが調査を行ったところ、
それが墜落したレディ・ビー・グッドであることが明らかになります。

墜落してから16年後のことでした。




軍当局によるレディ・ビー・グッド墜落現場の初期調査は

1959年5月に始まり、三か月で終了しました。

この間、米軍は航空捜索に加え、大規模な地上捜索を行いましたが
数カ月に及ぶ捜索にもかかわらず、
乗組員の遺体を発見することはできませんでした。



その後、パイロットの名前の入ったショルダーハーネス、サングラス、
パラシュート、フライトブーツ、アローヘッドマーカーなどが
現地の人によって発見され、その近くにあった5人の遺体が
レディ・ビー・グッドのクルーであるとする手がかりとなりました。

5人の乗組員の遺骨が発見されたのは、

最初の捜索終了から6ヶ月後の1960年2月のことです。

さらに陸空軍共同での捜索により、五人の位置から21マイル離れたところで
二人の遺骨が発見され、さらに1960年8月、
上空でベイルアウトした後グループと合流できなかった一人、
ジョン・ウォラフカ中尉の遺体を最後に発見しました。

彼はパラシュートが開かず墜落したのではないかと言われています。

九人目のムーア軍曹は最後まで見つからないままでしたが、1953年に
英軍のパトロール隊が発見し埋葬したのが彼ではないかとされています。

■ 彼らに何が起こったか

レディ・ビー・グッドは帰還中燃料不足に陥りましたが、

不時着を試みなかったのは、帰還時は暗く視界が悪かったことに加え、
方向探知機が故障していたことから、
自分たちがすでに基地上空を通り過ぎていたことに気づかず、
地中海上空を飛行していると思い込んでいたせいだと考えられています。

乗組員は全員ミッションの1週間前にリビアに到着したばかりの新人した。

いよいよ燃料が尽きた時、9人全員が飛行機から脱出し、
乗組員のうち少なくとも8人が地上に生きて降り立ちました。

海上にダイブすると思っていた彼らは、砂漠だったと知って
航空機を維持すればよかったと悔やんだかもしれません。
(砂漠であればあるいは不時着が可能だからです)

彼らが着地したのは機体から約15マイル離れた場所だったので、
水筒半分の水しか持っていなかった8人は、
機体に戻るため、砂漠を85マイル歩き続けました。

機体には食料や水を始め、サバイバルグッズが搭載されており、
さらにはまだ無線機も生きている可能性を考えたのです。

後に機体は墜落後も機関銃、無線機は破損しておらず、
食料も水も完璧に残っていたことがわかっています。
魔法瓶入りのお茶は16年経ったにもかかわらずまだ飲める状態だったとか。
ですから、もし飛行機まで戻れていたら、彼らは助かったでしょう。

しかし、ハットン、トナー、ヘイズ、ラモット、アダムズの5人は
疲労困憊しその場から動けなくなり、残りの3人、シェリー、
リップスリンガー、ムーアは歩き続けるも彼らも砂漠の中で倒れ、
最終的には全員が砂漠の真ん中で命を落としました。

■ ロバート・トナー中尉の日記

トナー中尉の遺体のポケットから手帳型の日記が発見されました。



1943年4月4日、日曜日: ナポリ 28機
-戻っている途中で道に迷い、ガス欠で飛び降り、朝の2時に砂漠に着陸した。
ジョンが見つからない。

4月5日(月):北西に歩き始める。
わずかな食料、水筒1/2本分の水、1日1杯の水。
夜はとても寒く、眠れなかった。
休んで歩いた。

4月6日(火):11:30に休息、
太陽は非常に暖かく、風はなく、午後は地獄だった。
15分歩いて5分休む。

4月7日(水):事態は変わらない。
みんな弱ってきている。あまり歩けない。
いつも祈っている。午後はまたとても暖かく、地獄。眠れない。
みんな地面が痛い。(意味不明)

木曜日、4月8日:砂丘にぶつかり、とても惨めだ。
風は良いが砂が吹き続ける。サムとムーアはもうダメだと思う。
ラモットの目が悪くなった。さらに北西に進む。

4月9日(金):シェリー、リップ、ムーアは別行動で助けを呼びに行く。
目が酷い。歩くどころではない。水はほとんどない。
北風が吹いて少しはマシだがシェルターなし、
パラシュートは1つ残っている。


4月10日(土):まだ助けを求めて祈り続けている。
北からの良い風。今は本当に疲労困憊して歩けない。体中が痛い。
みんな死にたがっている。夜はとても寒い。眠れない。

4月11日(日):まだ助けを待っている、まだ祈っている、目が辛い。
体重が減り、体中が痛い。水さえあればなんとかなる。
すぐに助けが来ることを願っている。まだ同じ場所で休めない。

4月12日(月):まだ助けはない。とても寒い夜だ。


おそらくこの夜、日記の主は眠りに落ちて二度と目覚めなかったと思われます。


リビアのウィールス基地の礼拝堂にあるこのステンドグラスは、
B-24「レディ・ビー・グッド」の乗組員に捧げられました。

LORD GUARD AND GUIDE THE MEN WHO FLY
(主は飛行した男たちを守り導き給う)

「IN MEMORY OF NINE WHO MADE THE DESERT A HIGHWAY
 FOR OUR GOD」

(砂漠を神の身元への道とした九名を偲んで)


とあり、以下9名を顕彰しています。

機長:ウィリアム・J・ハットン少尉
副機長: ロバート・F・トナー少尉
ナビゲーター:DP・ヘイズ少尉
爆撃士:ジョン・S・ウォラフカ少尉
フライトエンジニア:ハロルド・J・リップスリンガー技術曹長
無線士:ロバート・E・ラモット技術曹長
砲手/副フライトエンジニア:ガイ・E・シェリー二等軍曹
砲手/無線技師補:バーノン・L・ムーア二等軍曹
砲手:サミュエル・E・アダムス二等軍曹


A Lost Bomber Found In The Desert – The "Lady Be Good"


続く。

映画「嵐を突っ切るジェット機」後編

2024-04-05 | 映画

1961年度作品「嵐を突っ切るジェット機」後半です。

ところでこの映画の主人公を演じた小林旭について調べていたところ、
まだご健在だったばかりか、まさかのyoutubeチャンネルまでありました。

マイトガイチャンネルー小林旭YouTube

さて、劉の行方を追っているという刑事花山が去った後、
榊拓次は彼の名刺を破り捨てました。

兄を疑っているということが面白くなかったのでしょうか。


やばい商売で成り上がった麻薬商人、劉に脅かされ、
英雄はスタッフの一人、千石に操縦させて沖縄にブツを運ばせました。

何も知らない千石は、沖縄に着くと商店に立ち寄ります。
当時の沖縄はアメリカ領なので、お店では英語で接客してきます。

「May I help you?」

「ジャ、ジャパニーズマネー、OK?」

千石は子供のお土産を買いに来たのでした。
これは映画的には「フラグ」というやつです。

彼はこの後、劉一味のやばい話を聞いてしまい、コロコロされてしまいました。


こちら兄の英雄の場末のパイロット集団?溜まり場では、
自衛隊休暇中の榊がまたもや全員を相手に乱闘を始めました。

その理由ですが・・何度見てもわかりませんでした。
なんか怒ってるんですが、全員滑舌が悪すぎて何言いあってるかも不明なの。

おそらくきっかけは、チコが吹いていたトランペットを
拓次が取り上げて吹いたことじゃないかと思います。

なぜ拓次がそんなことをしたかは・・・わかりません。
まさか寂しかったからとか?



マキは榊の態度を諌めるついでにどうして自衛隊に入ったか聞くのですが、
その答えがこれ。

「飛びてえからだよジェット機で!それだけだい」

マキはそんな拓次が、要するにスリルに身を晒していれば満足で、
アクロバット飛行ができなくなるとイライラして喧嘩をする、
要するに子供だと激しくなじるのでした。

全体的に意味不明だらけのこの映画の中で、かろうじて
この可憐なマキさんのセリフだけが、いつもまともすぎるくらいまともです。



二人が言い争っていると、折しも暴風雨が吹き荒れ始めました。
全員が外に飛び出し、一丸となって嵐の中飛行機の係留作業を行います。


そして、台風一過の次の朝、榊拓次とはぐれパイロット集団の間には
すっかり同志としての連帯感が生まれていました。


その晩は全員でジャズバーに繰り出し、マキと榊は
モダンジャズの調べに合わせ、謎のフォークダンスで盛り上がります。



榊はチコと仲直りし、彼の指名でロイク(楽隊用語)バンドとセッション。
トランペットとサックスどちらもプロ並みってすごーい(棒)

ジャズ、バイオレンス、スピード、そしてジェット。
当時の若者が夢中になった(シビレた)ものを満載してみました的な?



とりあえずマキのお説教はこの短絡的な男に響いた模様。
しかしアキラ、こういう顔をしたら許されると思うなよ?


その頃英雄の会社「太平洋航空集団」には、ヤバい仕事と引き換えに
ボスの英雄が劉から受け取ったビーチクラフトが届いていました。

何も知らないスタッフは大喜び。


しかし経理担当のマキは、飛行機購入の資金などないことを知っています。
まともすぎるくらいまともな彼女は英雄を問い詰め、
弟の拓次も兄の様子が何か変なことに気づきました。

兄と一緒に沖縄に行った千石がなぜ帰ってこないのかも不思議です。


拓次は郵便物配布の仕事を引き受け、ついでに
千石の実家を訪ねてみることにしました。

ざっと1ダースの子供が生息している千石の家では、彼の妻が
子供を叱りつけながら彼が元気かどうか無邪気に訪ねてきました。

千石の生死について何か隠している。
拓次はこのとき兄の嘘に気づいてしまったのです。



このとき、英雄の会社事務所には劉とその部下が忍び込んでいました。

警察に追われていることを知って、逃げ込んできた劉は、
英雄を脅かしながらまず事務所に身を隠します。


そんなことを何も知らないマキは、劉の件で英雄を糾弾していました。

「誰から聞いた!」

英雄が劉とつるんでいることをマキに教えたのはチコでした。
二人の会話を物陰で聞いていたのです。

それを知った英雄がチコをタコ殴りにしているところに拓次登場。

理由を問い詰める三人に向かって英雄は弁明を始めました。

英雄と彼らの父が戦後窮地に陥っていたところ、
闇屋の劉が麻薬の運搬を手伝わせて恩を売り、弱みを握って
断れない関係をずるずると今日まで続けてきたのだと。

そしてここでまたしても兄弟で殴り合いが始まるのでした。
殴りながら拓次が兄にいいます。

「飛んでみろ!飛ばねえから腐るんだぞ!
くそお、叩き直してやる!飛んでみろ!
死んだ親父が言っただろう!空は一つだってな!
俺と一緒に飛んでみろ!負けねえぞ!

あんた、パイロットなら飛んでみろ!とべ!飛んでみろ!」

(セスナに兄を押し込もうとする)


そして号泣

うーん・・・よくわからない。
要するに犯罪に手を染めた兄を責めてるんだよね?
飛ぶとか飛ばないとか、責めるポイントここじゃなくない?

兄の英雄は、どんな手段を使ってもここを維持し、
はぐれもの集団に飛ぶ場所を与えたかったと叫ぶのですが、
それに対し弟は「違う!違うんだ!」と泣きわめいて、もうカオス。

そして場面が変わったらいきなり全員がシーン・・・となって、
英雄抜きでこれからどうするか話し合っています。

もう理屈で理解しようとしたら負け、そんな映画。



そのとき事務所の倉庫から出火しました。

劉が火をつけ、どさくさに紛れて英雄を拉致して連れ出し、
一挙に治外法権の沖縄まで逃走しようとしています。
そこから海外に高跳びしようというのでしょう。

劉は追ってきたチコに操縦させ、部下はめんどいので射殺して、
スペアの操縦士として英雄を拉致し、ビーチクラフトで飛び立ちました。

榊拓次はセスナでその後を追います。



そしてこの映画最大のツッコミどころ。
一人で劉を追ってきて2回撃たれても死んでいなかった刑事が、電話で

自衛隊の出動を要請するのです。

ちなみに自衛隊が出動要請できるのは、自衛隊法によると、

治安出動
警護出動
海上警備行動
破壊措置命令
災害派遣
地震防災派遣
原子力災害派遣

で、指名手配犯の逃亡を阻止、というのはどれにも当てはまりません。


セスナでは追いつかないと判断した榊は、即座に空自基地に乗り入れ、
嵐が来るっていうのにF-86に乗り換えて後を追おうとします。

皆が止めるところを無理やり強行突破しようとしていたら、
出動要請が間に合って、なんと基地司令のフライト許可が降りました。

ビーチクラフトに万が一追いついたとして、そこからどうするつもりだ。
戦闘機にできるのは撃ち落とすことだけだぞ。


しかしそんな心配をよそに、ビーチクラフトを追って
嵐を突っ切るジェット機

空自は、
「This time lost contact on my weapon」
を通信してきます。

操縦中目が見えなくなった(何の病気だろう。飛蚊症?)チコの代わりに
英雄が操縦して、レーダーにかからないように低空飛行したからです。。

嵐をつっきれなかった榊は、すぐさま空自基地に引き返し、
米軍の協力体制を取り付けたので行くなという命令を振り切って、
今度はT-33に乗り換え、ビーチクラフトを追うために飛び立ちました。

行き先が沖縄なら米軍に任せたほうがよくない?
なんかこれ、ただ本人が飛びたいだけなんじゃ・・・。

っていうか、空自が新型機を見せたかっただけかも。

そして驚くことに、鷹の目を持つパイロット、榊は、
はるか上空から、追っていたビーチクラフトが停まっている島を発見し、
すぐさま戦闘機が着陸できる滑走路を持つ飛行場に着陸し、次の瞬間

ジープかっ飛ばして、ビーチクラフトの場所に辿り着いていました。

この手際の良さ、さすが自衛隊出動要請されていただけのことはあります。


そこに目の見えないチコが、榊に駆け寄ってきました。

「ジェット〜!ジェット〜!」(初めて聞くけど榊のあだ名らしい)

なぜ彼は榊が来たのがわかったのでしょうか。
というかあんた目が見えないんと違うんかい。


榊はここで劉の一味から銃撃されたり、相手を拳で制圧したりして大暴れ。
マイト炸裂ってやつですか(意味不明)

しかしこの騒ぎの間、銃弾を受けた英雄は、すでに死にかけていました。

自らも傷つきながら駆け寄った弟に、彼が最後に言った言葉は・・。

「空は・・・そらは・・・ひとつだ」

がくっ。


♬パンパパーンパンパパーンパンパパンパパン!♫



えーと、多分これは自衛隊記念日かなんか?
榊は無事に空自のパイロットとして復帰しました。



マキさんからはチコの目も手術で治ると聞き安心です。
チコ、国民健康保険には加入していないと思うけど治療費大丈夫かな。



そのとき、フライトチームから声をかけられた榊は、

「マキ、俺のこと見てろよ!」

というやダッシュしてT-33(かしら)に乗り込み、



華麗なアクロバットを披露するのでした。

きっと彼の心には兄の「空は一つ」という言葉が
これからも生き続けることでしょう。知らんけど。



しかしこんな企画、よく空自の協力許可貰えたな。


終わり。


映画「嵐を突っ切るジェット機」前編

2024-04-02 | 映画

相変わらず精力的に自衛隊イベントに参戦しておられるKさんが、
ある航空自衛隊基地訪問イベントの後、現地で見つけたという
空自を扱った映画のポスターの写真を送ってくださいました。

世の中には、自衛隊を素材にした映画が結構あったみたいですね。
名作がなかったせいか、他の理由か、全く世に知られてはおらず、
わたしもそのどれもに見覚えがなかったのですが、
そのうちの一つがアマプラで観られることがわかったので、
ここで紹介させていただくことにしました。

1961年日活作品、マイトガイ(て何?)小林旭が、
アウトローな空自パイロットを演じた「嵐を突っ切るジェット機」です。

あーもう、このタイトルだけで駄作の匂いがプンプンするぜ。
タイトルとしてまず語呂が悪く、収まりが悪い。
名は体を表すという言葉の通り、名作は名作らしいタイトルを持ちますが、
このタイトルからは何のオーラも感じません。

当作品は2024年現在、奇跡的にAmazonプライムで視聴可能なので、
わたしには珍しく、今回はオンラインデータを元にログ作成しました。

挿絵も巷に流布している元画像の粗いポスターを参考に描いたため、
もはや小林旭に見えない誰かになった訳だが、まあ許してくれ。


さて、1961年日活作品、それだけで色々とツッコミどころありすぎですが、
とりあえず鑑賞において押さえておくべき時代背景は次の三つ。

1. ブルー・インパルスが発足したばかりの時期

2.  
 沖縄は返還されていない

3. 解決の手段としての暴力が社会的に容認されていた


まず1について。
「源田サーカス」で名を馳せた海軍パイロット出身の
あの源田實が航空幕僚長に就任したのが昭和34(1959)年。

空自のアクロバット飛行は、当初、アメリカ帰りのパイロットが
浜松基地で訓練の合間にクラブ活動的にというかこっそり行っていました。

就任した源田航空幕僚長は、自分の経験を踏まえ、これが隊員の士気向上と、
一般人を惹きつける宣伝効果に大いに役立つことから、
アクロバット飛行チームを制式化するよう推し進めます。

このことは、危険な曲技飛行訓練中万が一事故が起こった場合、
非公認のままでは補償が行われないということも考慮された結果でした。

2については、本作の「悪人」(第三国人)が、
地外法権の沖縄経由で逃げようとするというのが話の要となっております。


そして、3。
「すぐ殴り合いが始まる」

こいつが主人公の榊1尉(小林旭)。
この時代に1尉ということは、戦後浜松にできた航空学校の
初期の航空学生であったという設定なのだと思うのですが、
とにかくこの男のキャラがいかにも昭和のヒーロー。

最初のシーンでは浜松の航空記念日に空自音楽隊をバックに

 赤い雲 光の渦よ 青い空 成層圏を吹き抜けりゃ 
フライトOK視界でも 嵐を突いて 歌い抜いて
ジェット〜ジェット〜ジェット〜空を切る♬

という恥ずかしい歌を得意げに披露。
(そういえばマイトガイは本業歌手)

この頃は「ジェット」という言葉が時代の最先端で、
(あの名曲『ジェットジェットジェットパイロット〜』もこの時代)
ブルーインパルス隊長を演じる芦田伸介も、

ジェッツの魅惑を君にも味合わせてやりたいよ」

という、共感性羞恥で身悶えしたくなるセリフを言わされております。



そしてこの主人公、自衛官のくせにろくに敬語を使わない。
誰に対しても偉そう。すぐ「ちぇっ」とかいう。
なぜかサックスをプロ並みにこなす(ただし指はぴくりとも動かない)。
そして、何かというと人を殴る。理由より先に手が出る。足がでる。

というわけで、この映画、筋書きが全く頭に入ってこないんです。
何かあると殴り合いが始まって、そのシーンが無駄に長いので、

何のために殴り合っていたのか終わる頃には忘れているという・・。

ちなみにこの時代には「ハラスメント」なんて言葉毛ほども存在してません。

夕焼けの河原で不良同士が殴り合って傷だらけで倒れるも、
顔を見合わせた次の瞬間熱い友情が生まれていた時代です。

軍隊の鉄拳制裁は、敗戦と民主化を経てもまだ根深く残っており、
学校で教師が体罰をしても誰もがそれを当然と思う、それが昭和でした。



本作の数少ない見どころは、空自全面協力による
初代アクロバットチーム、F-86セイバーの飛行シーンです。

おそらく、航空自衛隊としては、この映画によって、
アクロバットチームの魅力が世間に認知され、あわよくば
入隊志願者も増えることを期待して制作に協力したのだと思います。



オープニング早々、セイバーのアクロバット飛行が始まります。
もうすでにこの頃チーム名称は「ブルーインパルス」となっていました。


ところがいきなり隊長機が墜落。
ちなみにこれ芦田伸介(当時53歳)演じる杉江二佐です。



アキラ、びっくり。
わたしもある意味びっくりですよ。
航空自衛隊の広報映画で初っ端にブルーインパルス墜落って。



そして、自衛隊上層部はこの事故を受けてアクロバットチームを解散。
「国民の税金を使うからには無茶できない」が理由です。


物分かりの悪い上層部へのやるせない怒り。
榊1尉は、セイバーのインテイクに向かって思わず咆哮するのでした。

「ばかやろ〜!(×4回)」

しかし、インテイクからは何の答えもありません。
あたりまえだ。

それどころか上に喰ってかかったことで金沢基地に転勤決定。
浜松→金沢は左遷ってことでOK?



ここでも「暴れん坊」榊1尉は無茶苦茶やりまくり。

無断でアクロバット飛行して罰金(って制度自衛隊にある?)、
しかも何度もやりすぎて罰金が払えなくなり、代わりに床掃除。

ヘラヘラした態度がなってないと水をかけてきた同僚(一緒に左遷された人)
と殴りあいをして、ついに基地司令の呼び出しを喰らいました。


司令は彼に10日間の飛行停止と「休暇」を命じました。

どうもこの二人の様子を見るに、これは「温情判決」らしい。
榊はほくそ笑み、司令は彼が出て行ってから部下と苦笑い。


榊は休暇中、彼の兄が経営するセスナを扱う飛行機会社で、
亡くなった杉江二佐の妹、マキの手伝いをすることにしました。

マキを演じているのは浅丘ルリ子?と思ったのですが、当時人気で、

5年間だけ活動し、結婚を機にあっさり芸能界から引退してしまった、
笹森礼子という女優さんです。


飛行場に着くと、榊はどういう経緯かここでパイロットをしている
元米軍の副操縦士、チコが目薬を差しているのを見て、
大丈夫か聞くのですが、その時無神経な榊が、よりによって彼を
「黒ちゃん」呼ばわりして怒らせ、殴り合いが始まります。

黒ちゃん・・アウトー。



しかしマジな話、こんな米軍の黒人パイロット上がりっていたのかな?

タスキーギ・エアメンも1948年には解散していたし、
海軍の黒人パイロットが最初に誕生したのは朝鮮戦争の時、
ジェシー・ブラウンという人だけだったというし・・・。

ジェシー・ブラウン/彼を主人公にした映画が現在制作中

副機長ってしかも士官だったってことでしょ?
だったらなぜ日本なんぞでこんな怪しげな仕事を?・・ないよなあ。

さて、チコは目の調子が悪いのではと疑う榊とマキを振り切って、
ビーチクラフトでビラまき(当時はそんな仕事があったんですよ)
に飛びますが、突如目が見えなくなり(おいおい)着陸に失敗。


さっそく運輸会社社長の榊の兄(戦時中は戦闘機乗り)が飛んできて、
チコの無事を確かめるより先に、馬鹿野郎と罵り、何発も殴打するのでした。

絵に描いたようなパワハラ。
さすがは元海軍戦闘機乗り。鉄拳制裁のDNA健在です。

兄の仲間というか手下として集まってきているのは、チコ以外にも
全てがいわゆる「パイロット崩れ」の半端者ばかりでした。


彼はこの半グレ集団を何とか食わせていくため、必死なのですが・・。



その兄、英雄(葉山良二)は、戦後闇屋上がりで財を成した三国人、
劉昌徳から、昔手伝わされたやばい仕事をネタに恐喝&買収されていました。

映画では「三国人」と何回も言っているのですが、この名前は中国系。
三国人の解釈は色々あるようですが、この映画では単純に
「非日本人」という意味で使われているようです。

劉は警察に睨まれている自分の代わりに、英雄に
何か(多分麻薬)を運ばせようとしているのでした。


そんな劉の動きは当局にもつかまれていました。
この刑事は、英雄と「同期」なんだそうです。

なんの同期だろ。海軍かな?

聞き込みに来た刑事に、榊拓次は太々しく、

「あんたデカさんだね?」

すると刑事も仲間を劉に二人やられていることを打ち明けついでに、

「君は自衛隊員だから(警察である俺とは)兄弟みたいな間柄さ」

それは・・・どうかな。

榊、この刑事の来訪と捜査の目的が気に入らんらしく、激昂して
刑事の胸元を小突き、あわや公務執行妨害になりかける始末。

このキレやすさ、戦後の食糧不足でビタミンが欠乏しているに違いない。

あらためて思う。
この映画の主人公が自衛官である必然性はどこに?

続く。


"彼らを飛ばすために": 整備士と爆撃指揮官〜国立アメリカ空軍博物艦

2024-03-30 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦時の爆撃機に焦点を絞って紹介しています。
今日は爆撃機の本領である爆撃についての色々です。

■ Keep Them Flying


爆撃機乗組員の生死は、地上作業員の技量と勤勉さに依存していました。

 彼らは大型で複雑な爆撃機を常に完璧に整備し、戦闘による損傷を修理し、
航空機をより効果的に飛ばすための改造を担いました。


兵器課の爆弾装填手は、爆撃機の致命的なペイロード(爆薬搭載)

爆弾を組み立て、運搬し、機体に搭載するという危険な任務を担いました。 



ダンプから1,000ポンドの薬莢を取り出す爆弾装填手。 



薬莢には尾翼を付け、機首と尾翼の信管を付けてから航空機に積み込みます。


B-17の爆弾倉に吊り上げる前に、
500ポンド爆弾の尾翼とアーミングワイヤーを装着する兵器兵たち。

下士官技術専門職のパッチ
左から:
気象、エンジニアリング、通信、兵器、写真

爆撃作戦の成功は、何万人もの高度な技術を持った専門職に依存しています。

 1943年から、航空兵は自分の専門を示すパッチをつけるようになりました。



イギリスの第8空軍基地で、雪の中でB-24のエンジンを交換する地上作業員。 

季節や天候に関係なく、ほとんどの整備は屋外で行われました。



足を泥から守るために缶の上に立ち、B-17エンジンの整備をする整備兵。
イタリアの第15空軍基地にて。


泥にめり込んでしまうんでしょうか



作業ではしばしば事故が起こり、大惨事となっています。

■メットフィールドの「デッドリー」(致命的)アクシデント

1944年7月15日、イギリスのメットフィールド飛行場で、

米軍兵器担当者が高火力爆弾を運搬車から下ろしていたとき、
爆弾が誤爆発し、それが1,200トンの爆弾を誘発させました。



この大爆発で5人が死亡し、20機以上のB-24が破壊され回収不可能になり、
数機が損傷するという大惨事になりました。

爆発音は40マイルにわたって聞こえたといい、
数マイル離れた村の窓ガラスを粉々にするほどの威力でした。



博物館に展示されている爆発の際出た金属片は、かつて薬莢だったものです。
1970年、歴史家のロジャー・フリーマンが、
メットフィールドを訪れた際にこのねじれた薬きょうを発見しました。

薬莢の端には、靴底らしきものが巻き込まれています。
それを履いていた人は、おそらく亡くなったでしょう。


一番下に、この「メットフィールド爆発事件」と書かれていますが、
この石碑、三つの全く違うものを記念してあります。
まず、

「第353戦闘機群」

メットフィールドに最初に駐留したアメリカ軍、第353戦闘機群は、

リパブリックP-47Dサンダーボルトを装備する部隊で、
1943年8月12日にヨーロッパで作戦を展開開始しました。

メットフィールドを根拠地として、対空任務、
西ヨーロッパに展開する爆撃機の護衛、
フランスと低地諸国上空での対空掃討作戦、
フランスの標的を急降下爆撃しました。

そして石碑中央は、

The Carpetbaggers
(カーペットバッガー)

Carpetbaggerとは、もともと南北戦争後に南部諸州にやってきた、
日和見主義的(お花畑ともいう)な北部の人々、と意味を持ちます。

カーペットでできたバッグを持った人たち、という意味があり、

「その土地に縁がないにもかかわらず、
純粋に経済的または政治的な理由で新しい地域に移り住む人々」

という意味の名称になっています。


南北戦争後の北部人でいうと、かわいそうな黒人たちに知識を授け、
貧しい南部を栄えさせ活性化できると信じてやってくる人々。

いずれにしても、褒め言葉としては使われていない感じです。

「The Carpetbaggers」というと、ハワード・ヒューズをモデルにした
邦題「大いなる野望」なる映画がありますが、
こちらは1964年作品なので、この時代には全く関係ありません。

この石碑で記念されているのは、

「Operation Carpetbagger」
カーペットバッガー作戦

に参加した人たち「The Carpetbaggers」ということになります。

コードネーム「Operation CARPETBAGGER」は、
パルチザンの戦闘員たちに夜間に物資を密かに空輸する作戦でした。

1944年8月に第492爆撃群と改称されたこの特殊部隊は、

The Carpetbaggers として知られるようになります。

彼らはB-24リベレーターに、"レベッカ "と名付けられた
指向性空地装置を受け、 "ユーレカ "と呼ばれる送信装置を使って
ナビゲーターを地上のオペレーターに誘導します。

射程距離に入ると、「Sフォン」と呼ばれる特殊な双方向無線機で

地上のパルチザンに連絡し、最終的な降下指示を受け、
地上部隊がドイツ軍ではなくパルチザンであることを確認します。

B-24のボール砲塔が本来設置されている場所をハッチにし、その通称
「ジョー・ホール」からパラシュート降下兵「ジョー」が効果していくのです。
(ジョーが出てくるからジョーホール、ってそのまんま)


サーチライトを避けるため、光沢のある黒に塗装されたB-24で、

カーペットバガーズはイギリスからフランスへの最初の任務を決行。

パルチザンへの物資調達は、間近に迫ったDデイ侵攻への準備でした。

彼らの最も多忙だった月は1944年7月で、少なくとも4,680個のコンテナ、
2,909個の小包、1,378束のビラ(真の目的を偽装するため)、
そして62名の「ジョー」を投下しています。

いうまでもありませんが、彼らの任務は常に危険に曝されていました。

ドイツ軍の夜間戦闘機や対空砲火による危険に加え、

カーペットバガーズは、低空からレジスタンス軍に降下する際、
常に丘の斜面に墜落する危険もありました。

1944年1月から1945年5月までに、最終的には
1,000人以上のジョーがB-24のジョー・ホールから敵地に降下しました。

損害は25機のB-24、さらに8機が修理不可能、
人員損失は当初、行方不明と死亡が208名、軽傷が1名とされましたが、
行方不明者の多くはレジスタンス部隊の助けを借りて帰還しています。





爆撃機が戻ってこないときの地上勤務員の心情を表現した戦時中の詩が

爆弾の写真の上に貼ってありました。


『帰還』
ベール・マイルズ

今朝、21機が出撃した
そして太陽は私の目の前にあった
私が見ていると彼らは弧を描いた
空の中に消えていく前に

今朝、21機が出撃した
陽光が彼らの翼をとらえ
彼らは小さな雑木林を横切っていった
ブラックバードがいつものように囀っているところを

鳥のように朝に向かって
彼らは飛んだ どこへかはわからない
でも私の心にはその日一日小さく
そして微かな祈りがあった

今朝は21機が飛び立った
空を華麗に駆け抜けた
でもまだ彼らの姿は見えない
もうすぐ日が暮れるのに

そして突然、時空を超えて
翼の上に陽の光がある
私の心臓の鼓動の上に
エンジンのうなりが聞こえる

太陽はまだ輝き続けている
しかし私の世界は恐れで暗くなっていく
今朝、21機が飛び立った
しかし帰ってきたのは17機だけ


続く。




マニューバリングルーム〜潜水艦「レクィン」

2024-03-27 | 軍艦

カーネギーサイエンスセンターで展示されている、
潜水艦「レクィン」の艦内ツァー、エンジンルームの隣は
マニューバリング(操縦)ルームです。


毎度出してくるこの図でいうと、5番のところにあります。


■ マニューバリングルーム


エンジンルームの隣のマニューバリングルームは
潜水艦全体の電力の供給を制御し、
コニングタワー、ブリッジ、コントロールルームからの命令に応じて
すべての速度変更が行われる場所です。



ロッカーのような扉にはE-6、E-7、E-8、と書かれています。
EはエレクトリックのE?



制御パネルと配電盤が並びます。
配電盤は潜水艦の後部半分にある補助モーターに電力を供給するもので、
補助モーターは、コンプレッサー、ポンプ、ヒーター、ブロワー、
その他の高出力機器を作動させます。

配電盤への電力は、艦尾のバッテリー、補助エンジン、
または前方のバッテリーからバスタイを通して供給されます。


手前の白い計器は、STBD(右舷)の潤滑油圧力、
右上の小さな計器は電圧計です。


「レバーは動かさないでください!」

という注意書きあり。(エクスクラメーション付き)

レバーは左から


リバース、スタート、ジェネレーター4、ジェネレーター2

発電機は全部で4基、前後エンジンルームに二つづつあります。
左舷側にあるのが2と4です。


これをポートコントロール(舷側制御盤)といいます。
上の通り、2号と4号発電機の発電機レバー、
舷側モーターの始動・逆転レバー、バスセレクター、
後方バッテリーレバーで構成されているものです。

 これにより各プロペラシャフトの速度と方向が指示されます。


今まで見てきたように、ここはエンジンルームの隣にあります。
エンジンはプロペラを直接駆動するのではなく、
まず、各エンジンに取り付けられた発電機(ジェネレータ)を回します。

発電機から送られた電力は、メイン蓄電池に充電され、
電気推進モーターに供給されます。

そしてその切り替えを行うのが、推進制御スタンドです。
潜航中は、主電池から電力を取り出し、浮上時には、
発電機から供給されるのと同じ電気モーターに供給していました。

第二次世界大戦中、米潜水艦はシュノーケルを装備していなかったため、
作動に大量の空気を必要とするディーゼルエンジンは
海面に浮上している間だけ使用されていました。

「レクィン」はレーダーピケット艦のための改装プログラム、
「ミグレーン」IとIIでシュノーケルを装備しています。

一般的にディーゼル艦のマニューバリングルームにあるのは、

【モーターオーダーテレグラフ】
各プロペラシャフトに命令された速度と方向を表示する


【エンジンガバナーコントロール】
各メインエンジンの回転数を遠隔操作する


【軸回転表示器】

各シャフトの回転数を表示する

【グランドディテクター】

潜水艦のウェットな環境は、保護絶縁を通して
電気エネルギーの損傷や漏れにつながる可能性があるため、
この計器で漏電や短絡を検出する

【測温抵抗体】

モーターや減速機の温度を遠隔で示す

金属の電気抵抗率が温度に比例して変わることを利用した温度センサーです。

【ダミーログトランスミッター(送信機)】

前部魚雷室に設置された本物のログ(水中センサーによる速度計)
が故障した場合、この装置を使用して、推定速度を
船速のデータが必要な航行や火器管制提供することができた


このような装備が搭載されています。


わたしの前の見学者の姿がついに見えなくなりました。
みなさん、もっとじっくりと細部も見学しようよ・・・。


■ レーダーピケット任務終了後の「レクィン」

ー1959年から1968年まで

多くの姉妹潜水艦がスクラップ、モスボール、

または他の海軍に売却されていく中、大々的に改装されていたこともあり、
状態が非常に良好だった「レクィン」は新たな命を得ることになりました。

「ミグレーン」プログラムの段階的廃止に伴い、
すべてのレーダー装置は「レクィン」から撤去されており、
オープンコニングタワーは、いわゆる高いプラスチックのセイル
(実際にはグラスファイバー製)に置き換えられていたのです。

これらの改造が彼女の余生を伸ばすことになり、

「レクィン」はその後9年間大西洋艦隊で活躍し続けました。

しかし、実際のところ「レクィン」の活動時間はなくなり始めていました。


1966年後半、「レクィン」は南米各国海軍との一連の演習である
UNITAS VIIに参加し、帰国したのですが、ちょうどその頃から
海軍は「レクィン」の有用性の有無を検討し始め、その結果、
彼女の寿命は尽きつつあるという判断に至ったのです。

そして海軍は1968年末に「レクィン」を退役させることを決定しました。

1968年5月に行われた「レクィン」の最後の任務期間は、わずか1週間。

その内容は主に行方不明になった
原子力攻撃潜水艦USS 「スコーピオン」
SCORPION (SSN 589)
の捜索にあたるというものでした。

「スコーピオン」は「スレッシャー」と並び、
アメリカ海軍が喪失した2隻の原子力潜水艦の一つとして有名です。

彼女はNATO演習参加後、母港への帰投中の消息を絶ち、捜索の結果、
アゾレス諸島南西沖海底で圧壊していたことがわかりました。

当初の原因は投棄したMk37魚雷の命中とされていましたが、命中ではなく、
魚雷の動力源の欠陥による不完全爆発が原因であるとの異論があります。

整備もままならないほどの過密な原潜運用スケジュールが背景にあり、
沈没の責任は海軍にある、とする説ですが、それもあってか、
いまだに沈没原因は曖昧なままとなっています。



「レクィン」が海軍を退役したのは1968年12月3日のことです。


その後フロリダ州タンパに曳航され、海軍予備役練習艦として使用され、
1971年12月20日、海軍リストから抹消されるまでこの任務に就きました。


続く。



アフターエンジンルーム〜潜水艦「レクィン」

2024-03-24 | 軍艦

前回、潜水艦「レクィン」がレーダーピケット潜水艦として、
戦闘艦たる任務に就いた、というところまでお話しし、
その後は艦内ツァーでフォワードエンジンルームまでをご紹介しました。


これはサンフランシスコの「パンパニート」の解説ですが、
エンジンの#1と#2、#3と#4の配置、
それが動力にどうつながっているか可視化できるので載せておきます。

今日は、#3と#4のあるアフターエンジンルームからです。

■ アフターエンジンルーム


フォワードとアフターエンジンルームの間には扉があります。
ところで、この扉の横に見えるもの、これはなんでしょうか。


後部エンジンルームにも同じものがあり、そこには
Lube Oil とペイントされていました。
おそらく、エンジンのための潤滑油を供給する機器だと思われます。

各メインエンジンには、潤滑用の圧油システムが装備されていて、
タンクから潤滑油圧送ポンプが逆止弁を通してオイルを吸い上げ、
オイル・ストレーナーとクーラーを通してオイルを圧送します。
その後潤滑油はエンジンに入ります

エンジン入口の接続部から流れたオイルは、
主軸受、ピストン軸受、コネクティングロッド軸受、
カムシャフトドライブギヤと軸受、バルブアセンブリに分配されます。

分岐によって分けられたオイルは、ブロアギア、
ベアリング、ローターに供給されます。


後部エンジンルームに移ったところ、前を歩いていた人が
ちょうどコンパートメントを出ていくところでした。

やばいどんどん離されている。

通路の両側にはエンジン#3と#4があり、こちらから見て
左が#3、右が#4となります。
今見ているエンジンは、通路の下の階に設置された本体の上部分です。

   ちなみに左舷の2基のエンジンは左回転用、右舷の2基は右回転用です。


こちらは右側の#4エンジン。
体を支えるためのバーが設置されています。
ベンチはおそらく物入れも兼ねているのでしょう。



#3エンジンの上にはここにも洗濯物が干してあります。
気温が高くなるのであっという間に乾いてしまいそうですね。



#4エンジンは一部カバーが切り取られ、中身を見ることができます。

各エンジン用の燃料は、燃料オイルポンプによってタンクから汲み上げられ、
フィルターを通して強制的にインジェクターに送られます。

エンジンは真水冷却システムで冷却されます。
エンジンルームに淡水化装置があるのもこれが理由です。
淡水は、遠心式の淡水ポンプによって循環させるしくみであり、
エンジンのブロワー・エンドに取り付けられています。



第2エンジンルームはここまでです。
コンパートメント扉の下には板が貼ってありますが、
これは配線を傷つけないように現役時代からあったものと思われます。


■ 「ミグレーンII」改装後の「レクィン」

さて、戦後初めてのレーダーピケット潜水艦として
無理くり改装を施された「レクィン」ですが、何しろ初めてのことで
いろいろ不具合が生じたため、アメリカ海軍は
「ミグレーン」(頭痛)プログラムで改良を試みました。

そしてミグレーンII型に改装された「レクィン」は、
レーダーピケットとして11年間運用され、その際、改装後に設置された
艦内の航空管制センター(air control center)は、
大型艦のCIC(戦闘情報センター)と同様に運営されました。

レーダーピケット艦として就役中のほとんどの期間、
「レクィン」は大西洋沿岸で活動していました。

北極で氷に対するレーダーの反応をテストすることがあれば、
まったく逆に地中海への巡航も多かったといいます。

よくあるオペレーションの展開時、
「レクィン」は管制センターに4人の有資格監視員が配置されます。

Aircraft controller(航空管制係)
Height finder operator(高度計オペレーター)
Plotter to plot all contacts reported(プロッター)
Phone-talker to the bridge(艦橋との電話連絡係)

「ハイト ファインダー」というのは直訳すると高度計で、
地上に設置された航空機の高度を測定する装置です。

第二次世界大戦の頃、ハイトファインダーは航空機の高度(実際には、
コンピュータで視角と組み合わされて高度を生成する配置からの傾斜距離)
を決定するために使用された光学測距儀であり、
高射砲を指示するために使用されていました。

ハイトファインダー・レーダーは、目標の高度を測定するレーダーです。
現代の3Dレーダー・セットは方位角と仰角の両方が探知できます。

プロッターは、報告された全てのコンタクトをプロットする任務です。

レーダーピケット艦としての「レクィン」は、
もう一隻のレーダー・ピケット潜水艦と組んで、
「脅威軸に沿って」“along the threat axis “
行動するのがその任務でした。

2隻の潜水艦が組むのは、メインのピケットが潜航しなければならない場合に
もう一隻の潜水艦がカバーできるようにという意図があります。


■ 忌避されがちだった「レクィン」

同じアメリカ海軍の潜水艦なのに、「レクィン」は他の潜水艦より
味方から信頼されないというか、不信感を持たれていたとい噂があります。

もしかしたら、大西洋で氷の下に行ったり地中海に行ったりする任務で
他の潜水艦よりも海上で過ごす時間が長く、
その分存在が非常に不透明に思われたからかもしれません。

地中海でのあるピケット・ミッションでは、
戦闘航空哨戒機(CAP)の司令官が当初、
「レクィン」のコントロールを拒否したというショックな話もあります。

いくら隠密行動が身上の潜水艦でも、同じ海軍の艦にそれはないだろう、
という気がしますが、もちろんこれは最終的な拒否ではありませんでした。

最終的にCAP司令官は「レクィン」参加を受け入れていますので、

「えー『レクィン』?何それ?怪しいからあまり一緒にやりたくねー」

程度の拒否に尾鰭がついた可能性もあります。
いずれにせよ、ミッションは滞りなく続行されたみたいですし。



その後も「レクィン」は、レーダーピケット艦として、
貴重なレーダー・ピケットのサービスを提供し続けました。

海軍はその後、水上および水中ベースのピケットそのものを
段階的に廃止しはじめたのですが、それらの動きの中、
最後のレーダーピケット潜水艦として彼女は粛々と任務を継続し続けました。

最終的にミグレーン・プログラムが終了し、
レーダー・ピケット潜水艦が正式に廃止にかかったのは1959年のことです。

続く。




「日系二世ヒーロー 」ベン・クロキの選択

2024-03-21 | 飛行家列伝

今回アメリカ陸軍航空隊が枢軸国の資源供給を断つべく、
ルーマニアのプロイェシュチ貯油所に対して行った爆撃、
タイダルウェーブ作戦についてお話ししてきましたが、資料を見るうち、

本作戦に日系アメリカ人の搭乗員が参加していたことを知りました。

国立アメリカ空軍博物館の展示には、このベン・クロキという
日系二世の存在については触れられていなかったので、
今日は少し寄り道ということで、日系アメリカ人として生まれ、

アメリカを祖国として戦ったこの人物についてお話ししたいと思います。

■ 陸軍入隊まで


ベン・クロキ(1917年5月16日 - 2015年9月1日)は、
第二次世界大戦の太平洋戦域での戦闘作戦に従軍した
アメリカ陸軍航空隊唯一の日系アメリカ人でした。



ベンは日本人移民の黒木庄助とナカ(旧姓横山)の間に生まれました。

黒木一家はネブラスカ州ハーシーで農場を経営しており、
地元のハーシー高校で成績優秀な彼は副委員長を務めています。

多分左から2番目がベン

1941年12月7日に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃した後、
ベンの父親は彼と弟のフレッドに米軍に入隊するよう勧めました。

日本との開戦後、日系人への反発と差別が起こるのを見据えた彼は、
たとえ自分の祖国に矛を向けることになっても、
息子たちは自分が骨を埋める国に忠誠を示すべきと考えたのです。

さっそく陸軍の募集事務所に赴いた兄弟二人。
日系人ということで門前払いになるかもという懸念もありましたが、
意外なことに、担当者は国籍は問題ないとあっさり採用許可を出しました。

担当者も、今アメリカ人が地球上で一番敵視している人種が軍隊に入ったら、
大変な目に遭うであろうことは想像がついていたはずですが、
なにしろリクルーターにはノルマもあるし、事務所の成績も上げたいわけ。

目の前の二人は日系人ですが、それでも志願者には違いありません。
まあ、はっきり言って入隊を許して彼らがどうなろうと、
彼個人にはどうでもいいことですから、問題ないZE!
(確かに彼らにとっては)として入隊者二人ゲット、という流れでしょう。

このとき担当者が「Kuroki」という名前をポーランド系だと勘違いした、
というまことしやかなエピソードもあるそうですが、
いくらなんでも彼らがポーランド系に見えるはずはありません。

彼には後二人弟がいましたが、そのビルとヘンリーも
従軍を許可されていることからも、その話は後日出たネタだと思います。

 爆撃隊に配属

彼はフロリダ州フォートマイヤーズの第93爆撃群に配属されますが、

そこで日系アメリカ人の海外勤務は許可されないと告げられます。

しかし彼は指揮官に嘆願し、とりあえず事務官として
イギリスの基地に転勤することを許されました。

そこで彼は当時需要のあった航空砲手に志願します。

航空隊の爆撃任務は消耗率も多かったので、彼の志願は聞き入れられ、
すぐさま砲術学校に送られてわずか2週間の研修を終えて、
B-24リベレーターの胴部砲塔砲手になりました。



ある日の任務で彼のB-24はスペイン領モロッコに不時着し、
スペイン当局に捕らえられて3ヶ月後に解放され、
再びイギリスに戻って所属していた飛行隊に復帰しています。


もしかして人気者?



1943年8月1日、

彼はルーマニアのプロイエシュチにある石油精製所破壊作戦、
「オペレーション・タイダルウェーブ」に参加。

健康診断の結果、クロキは入隊規定より5回多く飛ぶことが許されますが、
彼本人は、それを、国内にいる弟のフレッドのためだったと言っています。

30回目の任務で、彼は対空砲火による軽傷を一度負っただけでした。

■ 帰国後与えられた勧誘任務


米国での休養と回復の間、クロキは陸軍から、
健常な日系アメリカ人男性に米軍への入隊を奨励するため、
多くの日系人収容所を訪問するよう指示されました。

そこで彼は二世の志願者を募るリクルーターと共に、

日系人強制収容所、トパーズ、ハートマウンテン、ミニドカを訪問し、
講演活動をして入隊を啓蒙してまわりました。

強制収容所ができる前に入隊していたクロキは強制収容所の実態を知らず、
日系であるというだけで、同じアメリカ市民が、
武装警備と鉄条網に囲まれた収容生活をしているのを目の当たりにし、
一生忘れられない衝撃を受けることになります。

その活動は『タイム』誌を含むニュース記事によって取り上げられました。

■ 「二つの祖国」

帰国後の彼は、もう戦線に赴く義務も果たしていたので、
ベテランとして軍服を脱いで退役生活を設計し直しても良かったはずですが、
彼は自分の信念のため、それを選びませんでした。

クロキが選択したのは、父母の祖国、日本を敵として戦うため、
太平洋戦線に爆撃手として参加するという道だったのです。



このレターは、一旦却下されたクロキの転属願いを
陸軍長官ヘンリー・スチムソンの名の下に許可するものです。

クロキ軍曹については、その素晴らしい戦績を鑑み、
私が先に言及した方針の規定から除外することを決定し、

これを謹んでお知らせすることといたします。

という文章が読めます。


その後、クロキはテニアン島を拠点とする
第20アメリカ陸軍航空隊第505爆撃群第484飛行隊の
B-29スーパーフォートレス「サッド・サキ」の搭乗員となります。



「Sad Saki」(悲しいサキちゃん)とは、もちろん、
日系人であるクロキと攻撃先の日本に因んだ名前でした。

また、乗組員たちは彼のことを

「Most Honorable Son」

と呼びました。
彼はサッド・サキの尾部砲手として、
日本本土上空など28回の爆撃任務に参加します。


B-29から見た東京空襲

当然ですが、彼は太平洋作戦地域、それも日本本土攻撃において
空戦任務に参加した唯一の日系アメリカ人となりました。

終戦までに、彼は58回の戦闘任務を完了し、技術曹長に昇進しています。



ニューヨーク・タイムズ紙は、真珠湾攻撃から50周年にあたる

1991年12月7日の社説で、

「ジョージ・マーシャル元帥はクロキに会いたいと言った。
ブラッドリー、スパーツ、ウェインライト、
ジミー・ドーリトル各大将も彼に
会いたいと言った」

と書いています。



■ 従軍後の戦いとキャリア

彼は見た目こそ日本人でしたが、心は純粋にアメリカ国民でした。

有色人種ゆえに耐えなければならなかった偏見や差別、
不平等ゆえにより熱烈な愛国者になったのか、
愛国者ゆえにそのハンディに立ち向かえたのか、それはわかりません。

偏見を跳ね除けるために敢えて父母の国と直接戦うことを選び、
祖国への忠誠心を戦争という手段で証明しようとしたことが、
あるいはアメリカ人からも評価されない可能性もあったのです。

驚くべき強い意志でアメリカ人であることを証明した彼でしたが、
戦後も人種的平等の必要性と人種的偏見に対する反対を訴え続けるため、
これらの問題を論じる一連の講演ツアーを行いました。


その資金は彼自身の私財、ラルフ・G・マーティンが彼について書いた伝記
『ネブラスカから来た少年』
 The Story of Ben Kuroki』
からの収益金から捻出されました。

この講演で彼は、

「私は自分の国のために戦地に赴く権利を求めて

地獄のように戦わなければならなかった」

と述べたそうです。


戦後、彼はネブラスカ大学に進学し、

1950年に33歳でジャーナリズムの学士号を取得しました。

そして新聞社で記者や編集者を務め、1984年に退職しました。
2005年8月13日にはネブラスカ大学から名誉博士号を授与されています。

2015年9月1日、カリフォルニア州カマリロのホスピスケアにて死去。
98歳でした。



AVC Tribute Videos: Ben Kuroki

YouTubeの自動翻訳ができないので、ざっと日本語訳しておきました。
途中、省略している箇所がありますので念のため。


1941年12月、西ネブラスカのベントン。
「アメリカンドリーム」を求めて日本からの移住し、
農業に従事していた両親のもとにベンと兄フレッドは生まれた。

彼の両親は日の出から陽が沈むまで、1日の休みもなく
重労働をしながら彼らを育てた。

1941年12月7日の真珠湾攻撃が起こったとき、父親は息子たちに、
軍隊に志願して国への忠誠を証明するべきだと言った。

彼とフレッドは150マイル離れた航空隊の募集事務所に赴き、
おそらく日系アメリカ人として最初の志願兵となった。

彼とフレッドはテキサスのシェパードフィールドに送られ、
2週間の試用訓練を受けたが、実情は悲惨で、フレッドは
すぐさま航空隊から追い出されて塹壕掘り部隊へ移動させられ、
ベンは連日連夜KP(残飯処理などの厨房の下働き)をしていた。

彼はそんな仕事も文句一つ言わずに耐えた。

一歩間違えれば、あるいは一度でも疑わしいことがあれば、
忠誠を証明するチャンスが危うくなることを恐れて、
彼は卵の殻の上を歩いていた。

彼は祖国のために戦う権利を逃すまいと一人必死に戦っていた。

彼に初めての任務が与えられたのは1942年12月13日。
B-24の銃手の配置であった。
彼はのちに、最初に遭遇した高射砲は恐ろしかったが、

しかし、不思議なことに彼は、そこで
入隊以来初めて平和な気持ちを感じた、と言っている。

「誰もわたしの国籍を問わず、皆が家族として一緒に戦っていた」

B24搭乗員の平均寿命は10回だったヨーロッパで、
彼の24回目となるミッションは、
「ヒトラーのガスステーション」と呼ばれた、
ルーマニアのプロイェシュチ製油所への爆撃だった。

低空飛行によるプロイェシュチは、アメリカの軍史上でも、
最も多い5人の戦功賞受賞者を出している。

陸軍は、ベンに25回任務を達成したら帰国していいと言ったが、
ベンは彼の愛国心を証明するためにも留まることを望み、
さらに5回を加えた総計30回のミッションに志願した。

陸軍は彼に帰国命令を下し、その後、
日系人強制収容所で演説をさせている。

彼に命じられたのは、収容所の若者に、当時組織されたばかりだった
日系人部隊442部隊への入隊を説得することだった。

(そのことについて)彼は甚だ居心地悪く戸惑っているようだった。

自責の念に駆られる、といい、なぜなら、
このとき彼がおそらくそのうちの誰かに影響を与えたがゆえに、
彼らはリストに乗り、その後究極の犠牲を払うことになったからだった。


その後収容所から出た日系二世兵士たちは、アメリカ軍の中でも
最も過酷だと言われたヨーロッパの地域で陸戦に参加することになる。

ベンはコロラド州デンバーでタクシーを拾おうとしたことがある。

陸軍のフルドレスユニフォームを着ていたにも関わらず、
後ろのシートに乗っていた(乗合タクシー?)民間人がドアを閉め、

「最低のジャップと一緒なんてごめんだ!」

と彼に言った。

ベンは自らと彼の国の権利ために戦うべきだった。
そして30回のミッションを終えた今、彼はもう十分に

自分の愛国心をアメリカ合衆国に証明したと思っていたのだが、

(現実はそのようなものだった)。

彼は日本と戦うための任務に就きたいと志願した。

陸軍の規則で、日系アメリカ人は航空攻撃のために
日本上空に飛ぶことを禁じていた。

一旦断られた彼は、ヘンリー・スティムソンに直訴までして、
ついにはテニアンに飛ぶB-29「オナラブル・サッドサキII」の搭乗員として
彼の祖父母と叔父叔母、姪と従兄弟が住む国の上空を28回、

爆撃するミッションのために飛んだ。

彼のもっとも印象的だったミッションは、
200機のB-29の編隊で東京上空から焼夷弾を落としたときのものだ。

ベンは尾部砲手としてB-29に乗っており、
目的地上空から離れた後、空は1時間は炎で真っ赤だったと言った。

その夜、8万人の日本人が死んだ。

いうまでもないが、彼は女子供も残虐に絶滅させる作戦に疑問を抱いていた。
しかし彼はアメリカ人であり、アメリカは彼の父親の祖国と戦争をしていた。

結局彼は58回の任務をほとんどかすり傷一つ負わずに達成し、

戦後、差別と偏見との戦いという59番目のミッションに着手した。

彼がどこで語ろうと、人々は今や耳を傾ける。


ある年、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙が主催する
年次フォーラムでスピーチするため、ジョージ・マーシャル、
ジョナサン・ウェインライト、クレア・シェンノート将軍が出席した。

そのときウェインライトとマーシャルの間に誰が座っていたか。
技術軍曹、ベン・クロキだった。



■ 叙勲



【二等軍曹として】

殊勲飛行十字章(×3)

オークリーフ・クラスター付航空勲章(×5)
第二次世界大戦従軍記章

【技術曹長として】

殊勲飛行十字章

オークリーフ・クラスター(×5)付航空勲章
第二次世界大戦従軍記章


続く。



プロイェシュチ爆撃の殊勲者たち〜国立アメリカ空軍博物館

2024-03-18 | 航空機

タイダルウェーブ(潮流)作戦を報じるフィルムです。

The Ploiesti Raid 1943 [Operation Tidal Wave]

画像悪すぎ。


■ タイダルウェーブ作戦における名誉勲章受賞者


左上から時計回りに:
ベイカー、ケイン、ジョンソン、ヒューズ、ジャースタッド

1943年に行われたプロイェシュチ製油所への大々的な爆撃は、
アメリカ側に多大な犠牲をもたらしました。

その時わかっているだけで500名もの乗員が未帰還になり、
死者は310名に上ったこともお伝えしましたが、
今日はその作戦遂行において名誉勲章を叙勲された人々を紹介します。

まずは生還した指揮官から。

第44爆撃群司令官 
レオン・ジョンソン大佐
Col Leon Johnson



ジョンソン大佐は、警戒態勢にある敵の防衛線と灼熱の火災、
遅発爆弾の爆発をくぐり抜け、第2波を指揮した堅実さと勇気が評価され、
名誉勲章を受章しました。



博物館に展示されている飛行服とゴーグルは、
ジョンソン大佐が8月1日のプロイェシュチ空襲で着用したもの。
パッチは戦前の第3攻撃群のものがそのまま付いています。

ジョンソンは最終的には将軍として1965年に退役しました。

第98爆撃群司令官
ジョン・"キラー"・ケイン大佐
Col John ”Killer'”Kane


この日、山岳地帯の密雲状態を回避している間に、
彼の部隊は集団編隊の先頭部分とはぐれてしまいましたが、
遅れても目標に向かうことを選択しました。

完全な警戒防御、集中的な対空砲火、敵戦闘機、
先の部隊が投下した遅延爆弾による危険、油火災、
目標地域上空の濃い煙にもかかわらず、
彼は石油精製所に対して編隊を率いて攻撃を続行。

ケインの爆撃機「コロンビア万歳」は、エンジンを失い、
対空砲火を20回以上受け、予備燃料を使い果たし、
北アフリカの基地に到着する前にキプロスに不時着しています。

後3人は作戦で戦死した人たちです。

ロイド・ヒューズ中尉(死後)
2nd Lt. Lloyd Herbert "Pete" Hugues



編隊の最後尾を飛ぶB-24のパイロットだった彼は、
激しく正確な対空砲火と密集して配置された弾幕風船をかいくぐり、
低い高度で目標に接近させましたが、爆撃前に機体は高射砲を受けます。

彼は機長として損傷した機体を不時着させるより
作戦の続行を選択して爆撃を完了させました。

その後川に機体を着陸させようと試みますが、
被弾して燃えていた左翼が飛び、機体は地面に落ちて
彼を含む5人が死亡、2人は重傷で死亡、残りは捕虜になりました。

戦死時彼は少尉任官してまだ半年目の21歳で、
前年には結婚したばかりでした。



遺体は現地の人々の手で埋葬されていましたが、
1950年には身元が判明して故郷に帰されています。

アディソン・ベイカー中佐(死後)
Lt. Col. Addison Baker




アディソン・ベイカー陸軍中佐は、当作戦で
「地獄のレンチ」(Hell's Wrench)と名付けられたB-24に搭乗し、
5つのうちの2番目の編隊の先頭機として飛びました。

彼の機を含む何機かは、先頭機が間違った地点で旋回したため、
目的地ではなくブカレストに向かっていることに気づき、
通信を試みましたが、先頭機が警告する電話にも応じなかったため、
ベイカーは編隊を崩し、残りを率いて正しいコースに復帰しました。 

ベイカーの機は最初にプロイエシュチに到着し、
敵のレーダーを避けるため低空飛行をしていましたが、
対空砲に被弾し、火災を含む深刻な損害を受けます。

しかし彼もまた、機を不時着させるより任務を完遂させるため、
爆弾を目標に投下することを優先しました。



爆弾投下後、ベイカーは低空を飛行していた「地獄のレンチ」を、
乗員がパラシュートで降下可能な高度まで上昇させようとしましたが、
被弾していた機体はその途中で炎上し、乗員全員が死亡しました。


空軍博物館展示:ベイカー中佐に授与された勲功賞等

ベイカー中佐の遺体はその後行方不明のままでしたが、
作戦から80年後の2017年、関係機関が遺骨を掘り起こし、人類学的分析、
状況証拠、ミトコンドリアDNAとY染色体DNA分析により、
遺骨を正確に特定し、あらためてアーリントン墓地に埋葬されました。

彼は当時36歳で、作戦に参加したメンバーの中では最年長だったため、
特定が比較的早くできたということがあるそうです。

ちなみに、最新の鑑定法を使った今回の特定作業で、
今まで身元のわからなかった80名の乗員のうち、36名が特定されました。

 ジョン・ジャースタッド陸軍少佐(死後)
Maj. John Jerstad



シカゴの名門大学ノースウェスタンを卒業後任官した彼は、
ヨーロッパで出撃を重ね、1943年には25歳で少佐に昇進していました。

当時彼は93爆撃群とは関係がなかったにも関わらず、
プロイェシュチ爆撃の潮流作戦に自ら志願し参加しています。

彼はベイカー機長操縦の「ヘルズ・ウィンチ」の副機長を務め、
爆撃終了後、低空飛行から炎上しつつある機体の高度を上げ、
乗員がパラシュートで脱出できるように機長と共に試みましたが、
前述の通り、機体は墜落し、乗員全員と運命を共にしました。

ジェルスタッド少佐は作戦後行方不明とされていましたが、
死後7年目に発見され、死亡が確定しました。


冒頭写真左から
ベイカー、ジャースタッド、ジョンソン、ヒューズ
(ケインは写っていないと思う)


博物館には、ナビゲーターだった
レイモンド・ポール ・"ジャック"・ワーナー中尉が、
8月1日の空襲で着用していたシャツも展示されています。

ワーナー中尉は対空砲火で左腕を切断されそうになりながら、
被災した機体からパラシュートで脱出し、
パラシュートが開いた瞬間に地面に激突し、死を免れました。

彼は1944年の秋に釈放されるまでルーマニアで捕虜になっていましたが、
現地の病院の看護婦が彼の破れたシャツを修理してくれたので、
ずっとこれを着ていたということです。

このワーナー中尉についての経歴はあまりありませんが、
死亡を伝えるサイトのHPに、陸軍少佐として紹介されていました。

帰国してからは軍役から引退していますが、
捕虜になっていたことを考慮されて昇進したようです。

死後2階級特進というのは日本で耳にしますが、
アメリカではむしろ引退後の年金補償の点などを考慮して、
慰労の意味でこういう特進があるのかなと思いました。

余談ですが、ワーナーの本名は「レイモンド・ポール」であり、
あだ名の「ジャック」の要素がどこにもありません。
これは、姓が「ワーナー」であったことから、当時の有名人、
ジャック・ワーナーの名前で周りからも呼ばれていたのだと思われます。


Operation Tidal Wave - 178 B-24 Bombers vs. Hitler's Gas Station

こちらは非常にわかりやすいタイダルウェーブ作戦の説明です。
編隊離陸直後から1機が墜落、低空飛行に入った途端、
グループが分かれて進路を間違え、混乱したと言っています。

そして、このやりとりをドイツ軍が傍受し接近に気がついたと。

そして、結論としてアメリカの爆撃作戦は失敗で、
製油所は、結局終戦まで
「ヒットラーのガソリンスタンド」
として機能し続けたことを強調しています。

次回は、当作戦に参加した唯一の日系アメリカ人、
ベン・クロキについてお話しします。


続く。






「血の日曜日」プロイェシュチ油田爆破作戦〜国立アメリカ空軍博物館

2024-03-15 | 歴史

前回、1943年にドイツの生産工場に対して行われた
アメリカ軍のB-17による2回、3箇所への爆撃作戦についてお話ししました。

その犠牲の多さと費用対効果の悪さから、
「暗黒の木曜日」とまで言われてしまった作戦ですね。

今日は、同じ年に東ヨーロッパの油田を破壊することを目的にした
爆撃作戦「オペレーション・タイダルウェーブ」について取り上げます。

当作戦はB-24ミッチェル爆撃機の部隊によって実行されました。

結論から言うと、アメリカ軍はこの作戦においても
「暗黒の木曜日」の失敗を活かすことができませんでした。

現在進行形のスピルバーグのドラマ、
「マスターズ・オブ・ザ・エアー」の中では、
捕虜になった爆撃機搭乗員に向かって、ドイツ軍の情報将校が、

「レーゲンスブルグもプロイェシュチもダメだったねえ」(笑)

みたいにいうシーンがあります。

■ オペレーション・タイダルウェーブ:
@プロイェシュチ




1943年8月1日。

アメリカ陸軍航空隊は、枢軸国の重要な燃料源である、
ルーマニアのプロイェシュチ油田に対し、
低空B-24の奇襲作戦「タイダルウェーブ作戦」を展開しました。

上の写真を見てお分かりの通り、B-24はほとんど木の高さレベルの
低空を飛んで爆撃を行っています。

178機のB-24リベレーターからなるアメリカ陸軍航空艦隊は、
アフリカ-リビアのベンガジから1200マイルの旅を経て、
正午過ぎには目的地に到達していました。



今ならジェット機で9時間25分(航空運賃¥123.309より)。

だけどちょっと待って?爆撃機だときっともっと時間かかるよね?
正午過ぎに着くには一体何時に出発したんだろう。

ちょっと計算がめんどいのでやりませんが、それにしても
こんな遠方から任務を果たして帰るだけの余裕がB-17にあったんですね。


というわけで爆撃隊はコルフ島とピンドゥス山脈を経由するルートを、
厳密に無線を維持しながら進んでいきました。

目標は、プロイェシュチにある巨大な石油精製施設です。 

当時のルーマニアの指導者、イオン・アントネスク元帥は、
ナチスドイツへの経済支援として、最終的に
プロスティ油田から第三帝国の原油の約60%を供給しました。



アントネスク

戦後、アントネスクと政府要人は戦犯裁判にかけられ、
ルーマニア軍が占領したウクライナなどの地域における
28万〜38万人のユダヤ人絶滅等の責任を問われて銃殺刑に処されました。

処刑の瞬間は今日でもyoutubeで見ることができます。


石油貯蔵所爆撃作戦のコードネーム、タイダルウェーブでは、
第8空軍と第9空軍の5つの爆弾群が合わせて参加しました。


General Jacob E. Smart USAF(最終)

ジェイコブ・スマート陸軍大佐によって考案された本作戦は、
既成の米陸軍航空隊の方針を完全に打ち破るものでした。

陸軍航空隊伝統の高高度精密爆撃という手法ではなく、
B-24に200〜800フィートという低空から爆弾を投下させるのです。

低空からの爆撃機侵入は、奇襲の要素も兼ね備え、
油田に大火災を引き起こすことができるはず、とスマートは考えました。

■ 予測されていた作戦

しかし、ドイツ軍は彼らが来ることを十分に予想していました。

アメリカ軍の暗号を解読したドイツ空軍司令官、
アルフレッド・ゲルシュテンベルク大佐は、罠を仕掛けました。

Gen. Alfred Gerstenberg(最終)

ゲルシュテンベルグ大佐は、戦闘機パイロット出身。

第一次世界大戦ではリヒトホーフェン飛行隊のメンバーでしたが、
戦闘中撃墜され重傷を負って飛行機を降り、陸上勤務をしていました。


その後退役していたところを第二次世界大戦開戦と共に復帰し、
1942年からルーマニアのドイツ軍総司令官となっていました。

ナチス・ドイツ最大の単一石油供給源であった
プロイエシュティの石油精製所周辺に防衛圏を設定することは、

ゲルシュテンベルグに与えられた最も重要な責務だったのです。

防衛圏の構築段階で、ゲルシュテンベルグ司令は
すでに対空砲
(8.8cmFlaK高射砲)を街の周囲に張り巡らせており、さらに、
発煙装置と、最も重要な施設の近くに弾幕気球を設置していました。

「罠」というのは主にこの阻塞気球とも呼ばれる気球のことです。

かわいい

阻塞気球(barrage balloon)

は、金属のケーブルで係留された気球で、シンプルな装置ながら、
低空から進入してきた飛行機をケーブルに衝突させ、
あるいは攻撃を甚だしく困難にするすぐれものです。

B-24リベレーターの軽いアルミニウムの翼は、
気球の鋼鉄のケーブルによって易々と引きちぎられてしまいます。

そして、ドイツはもちろん、ルーマニア、ブルガリア軍の戦闘機が
大佐の迎撃命令一下、いつでも出撃する態勢を整えていました。

このときゲレシュテンベルグの配下には、プロイェシュチだけで
約25,000人の兵士が控え、その命令を待っていたと言われます。



■ アメリカ爆撃隊のミス

リベレーター爆撃隊の不運は、根拠地から目標が遠方だったことです。

アフリカのリビアからの1,000マイルの無警戒飛行中、
雲によって編隊は2つのグループに分断され、
間違った方向転換が、さらに混乱を引き起こしました。

さらにいくつかの編隊が航法ミスを犯し、無秩序のまま、
厳重に防衛された目標地域に到着してしまいました。

しかも、無線の傍受によって、襲来は前もって読まれていました。
これでは企画段階で期待された奇襲にはなりません。



戦闘の混乱の中、一部のB-24は、煙幕装置の激しい煙の中を爆撃し、
前の波から遅れてきた爆弾の炸裂に巻き込まれることになります。


爆弾を落としたところに次の一波が到達してきている

■ 生存者の語る「暗黒の日曜日」

次回に詳しく紹介しようと思いますが、この攻撃の時、
B-24リベレーターの砲手に、のちに「二世ヒーロー」と呼ばれた
日系アメリカ人2世のベン・黒木がいました。


ベン・黒木(Ben Kuroki)

彼は陸軍での現役中58回の任務を遂行していますが、
「タイダルウェーブ」作戦はその24回目となるものでした。

歴史家トム・ギブスのインタビューの中で、プロイェシュチへの攻撃が
いかに「恐ろしい」ものであったかを、彼はこのように回想しています。

「眼下で貯蔵タンクが爆発したとき、
我々の飛行機の高度よりも50フィートも高く炎が上空に舞い上がりました。
私はその時、自分のこの後の運命をはっきりと悟った気がしまし
た。


そのときわれわれの機は低空で目標上空を飛行していましたが、

爆破に巻き込まれなかったのは奇跡だったと思っています」


マック・フィッツジェラルド(前列サングラスの人物)

プロイェシュチ爆撃に参加したリベレーター「ホンキートンク」で
やはり上部砲塔が持ち場だったマック・フィッツジェラルドは、
僚機が3階建てのレンガ造りのビルに激突するのをなすすべもなく見ながら、
「これで今、10人が死んだ」と自分に言い聞かせていました。

次は自分の番だと確信した彼は、心の中で両親に別れを告げていたので、
結果的に自分が死ななかったことには「誰よりも驚いた」と語っています。

二人が語ったコンビナートへの攻撃はわずか30分ほどでしたが、
この間の人命と物資の犠牲は凄まじいものでした。

アメリカ軍の爆撃機は合計で52機が撃墜されました。

マック・フィッツジェラルドはそのうちの1機に搭乗していました。
ベン・クロキが語ったところの炎の高い柱を避けた後、
彼の機は被弾し、墜落して彼と数人の仲間は捕虜になりました。

歴史家のドナルド・L・ミラーは前述の

『マスターズ・オブ・ザ・エアー』原作の中で、
この空襲で310人のアメリカ軍飛行士が死亡
130人が負傷し、100人以上が捕虜になったと主張しています。

また別の報告では、178機の爆撃機と1,726人の兵士のうち、
54機と500人近くが未帰還、捕虜は186名に上るとされています。

ミラーはまた、プロイェシュチ空襲は
「民間人よりも多くの空軍兵士が死亡した、この戦争で唯一の空爆の一つ」
であったとも指摘しています。

ちなみに、現地ルーマニアの民間人と軍人で死亡したのは116名でした。

この戦闘におけるアメリカ人兵士の死亡者は
ルーマニアの民間人と政府関係者によって
ボロバン墓地の英雄区画にある集団墓地に埋葬されました。


2023年になって、MIAの活動により身元が判明し、
故郷のオハイオに戻ってきたアメリカ陸軍中尉の遺骨埋葬式の様子です。

このロイター中尉はプロイェシュチ攻撃の際戦死し、その遺体は
ルーマニア市民によってプロイエシのボロバン墓地に埋葬されていました。

米国墓地登録司令部は、多くの身元不明遺骨を掘り起こし、
このたびロイター中尉が特定される運びとなりましたが、
同団体は最終的に、特定できなかった遺骨を再び埋葬しなおしています。

たとえ特定できなくても、アメリカ人であることがわかっているなら、
とりあえず?持って帰ることはできなかったのでしょうか。




■タイダルウェーブ作戦の影響

プロイェシュチ方面司令のゲルシュテンベルク将軍(最終)の紹介に、

彼の指揮した防衛作戦の結果、1943年8月1日に行われた

最初の空襲、タイダルウェーブ作戦で、
米軍は油田を破壊することができず、大きな損害を被った。

とあります。

この空襲で石油貯蔵施設は確かに爆撃による損害を受けたものの、
ドイツ軍はすぐに数千人の強制労働者を動員し、
コンビナートの甚大な被害を修復してすぐさま生産を再開しました。

数週間のうちに、施設の石油生産量は襲撃前よりも増えたほどです。


それ以来、「血の日曜日」として記憶されている当作戦の損失を鑑み、
アメリカの指導部は、ルーマニアの石油産業に対して、
8ヶ月間、大規模な攻撃を試みることはありませんでした。


続く。