ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

オフィサーズ・キャビンとワードルーム〜USS「スレーター」

2020-01-31 | 軍艦

USS「スレーター」の艦内ツァーは、まずメインデッキ階の
前方の第一銃座とその後ろのヘッジホッグを見学し、
次のセクションに移動が始まりました。

非常時に鳴り響いたであろうベル。

第一銃座のフェンスにはこのような識別表が貼ってありました。
一段目左上から、

戦闘機

P-38「ライトニング」P-29「エアコブラ」
P-40「ウォーホーク」P-47「サンダーボルト」

二段目

戦闘機 P-51「マスタング」

軽爆撃機 A-20「ハヴォック」あるいは「ボストン」

重爆撃機 B-17「フライングフォートレス」

重爆撃機、輸送機 B-24「リベレーター」

三段目

中型爆撃機 B-25「ミッチェル」B-26「マローダー」

輸送・グライダータグC-47「スカイトレイン」
 C-53「スカイトゥルーパー」

輸送機 C-54「スカイマスター」

さすがにこれだけ長いこと軍用機について語っていると、
これらの名前で聞いたことがないのが一つもないのですが、
問題はライトニングとかはともかく、機体の形が見分けられないことですね。
興味の問題というより、人には得手不得手があるんだとしみじみ思います。 

海にものが落ちた時にはこれを接続して伸ばし、拾う。
多分間違っていると思いますが、本当は何にするものでしょうか。

ポンプに使うホースのストアージ(収納場所)だそうです。

赤くペイントされているのでおそらく火災に関係のある器具。
仮置きされているように見えます。

ここは先ほど見学したギャレーの裏側にあたり、このアクセス・ハッチから
下に降りるとクルー・メス(兵員食堂)です。
先ほどのキッチンでできたものはここから手で運んで下におろしていました。
キッチンのクルーの苦労が忍ばれます。

ギャレーの艦首寄り部分全体が、士官の居住区となります。
ここ全体を「オフィサーズ・キャビン」といいます。

一番艦首寄りにある部屋は士官の4人部屋。
駆逐艦では士官といえども二段ベッドで寝ています。

おそらくこの部屋は初級士官の寝室でしょう。

デスクは蓋収納式で、航海中は閉めておくようになっています。

ロッカーの上に二人分の士官用正帽を置くスペースが。

クリフトン・W・ウォルツ中尉コルトン・P・ワグナー大尉の二人部屋。
オフィサーズ・キャビン左舷側は二人部屋が並んでおり、
そのうち一室は機関士官の部屋となっています。

「スレーター」は一度ギリシア海軍に譲り渡され運用されていたので、
これらの写真は後から展示のために集めてきたものだと思われます。
つまり、この写真は本当にここの住人であった可能性あり。

おそらく航海長らの部屋。洗面所付き。

この一角にシャワーとトイレは一箇所あります。
おそらく艦長以外の士官15名は全員ここを使用したと思われます。

オフィサーズ・キャビンはこのような廊下をはさんで、全部で4部屋居室があります。
右側には「X.O」つまりエグゼクティブ・オフィサーの部屋があります。

この一角で一番階級が高いのはこのエグゼクティブオフィサー。
日本語で言うと副長です。

副長だけは洗面台付きの一人部屋をもらえます。

いくつかの海軍映画では必ずそうであるように、階級的には
副長は艦長と同じということになっているようです。

航海長や船務長にあたる役職の士官は、二人部屋。
おそらく先任が下のベッドを使えるのではないでしょうか。

デスクライトは机に作りつけですが、それにしても変わった形です。

艦の前方にキャビンが固まっていますが、その後方には
「オフィサーズ・ワードルーム」があります。

しかしなぜ「バトルドレッシング・ルーム」と書いてあるのでしょうか。

それはこの士官食堂が、非常時には傷病者の看護室になるからでした。

テーブルにはクロスがかけられ、陶器の食器とシルバーが並びます。
駆逐艦でも潜水艦でも、オフィサーはこういう食事を取るのが慣例。
これは大航海時代の帆船のころからあった慣習です。

ワードルームの壁には、この駆逐艦の名前となった「スレーター」の写真があります。
スレーターとは1920年、アラバマ生まれのフランク・オルガ・スレーター
海軍入隊後、1942年4月4日から

USSサンフランシスコCA-38

の乗員でした。
ご存じのように巡洋艦「サンフランシスコ」は1942年11月12日〜13日、
ソロモン諸島で日本軍と交戦しますが、このときスレーター水兵は
20ミリ対空砲の砲手として、死の瞬間まで持ち場で攻撃を続けました。

アーリントン国立墓地にある彼の墓石にはこのように刻まれています。

彼は1942年11日、12日、13日にソロモン諸島地域で、
USS「サンフランシスコ」の砲手として並外れたヒロイズムを発揮した。

攻撃しながら突撃してきた日本軍の戦闘機に直面しても、
彼は自分の持ち場を放棄するなく勇敢に戦い続けた。

我が身の安全を省みることもなく冷静に迎撃を続け、
敵航空機が炎のように急降下攻撃を行い、
彼の持ち場に激突する瞬間まで、
攻撃をやめることはなかった。

そして自分の任務のために死に直面しながらも献身的に義務を果たした。
彼は祖国の防衛のために人生を投げ打って勇敢に戦ったのである。

 

左下 ニミッツ提督を表紙にしたライフ

右上 報道雑誌「コリアーズ」

「コリアーズ」は1888年から54年までアメリカで発行されていた週刊誌で、
表紙のイラストには当時一線だった画家が作品を提供していました。

中央の新聞は、イタリアが降伏したときのニュースが掲載されています。

「バトルドレッシング・ルーム」と日本語で検索しても、それが
戦闘時負傷者の応急手当てを行う軍艦の場所のことであるという
説明がされているのは残念なことに当ブログだけです(笑)

つまり、日本語では全く流通していない名称ということになりますが、
その思想はしっかり受け継がれています。

たとえば我が自衛隊の護衛艦などには、必ず
幹部用の食堂テーブルの上部にこのような医療用無影灯が設えてあって、
いざという時にはテーブルの上で手当て(手術)が行われる、
ということを見学の際説明を受けてご存知の方もおられるでしょう。

その「いざ」というときのため、ワードルームの一角には医療品の棚もあります。

左、「スレーター」の生まれ故郷である「ベツレヘムスティール」のポスター。
戦争中、造船所はフルスピードで「スレーター」のような
「戦死した乗組員の名前シリーズ」を量産していました。

一隻の駆逐艦を23日と8時間で建造、というのは「新記録」です!
と誇らしくポスターにも書いているわけです。

右側の戦意高揚ポスターは、当時の造船担当の中将のことばで、

護衛駆逐艦の装備の生産者の皆さん:大西洋の戦いは時間の戦いです。
Uボートの「ウルフパック」は攻撃を待ってはくれません。
我々の護衛駆逐艦「ウルフ・ファウンド」を待たせないでください。
しっかり働いてあなたたちの役目を果たしてください!

と書かれています。
ナチスの潜水艦作戦「ウルフパック」(群狼作戦)に対抗して、
対戦駆逐艦を
「オオカミ探し屋」と呼称しているわけですね。

このポスターを「スレーター」に寄付したのは、面白いことに
このアルバニー地域にある「元潜水艦乗りのベテランたち」の協会です。

テーブルの上の食器にはことごとくアンカーのマークが刻まれています。

レコードを何枚もストックして順番に演奏することができる
当時最新式の蓄音器も士官室食堂ならでは。

右側は「ベルボトム・トラウザーズ」(ラッパズボン)なるレコード。
これは、ギイ・ロンバルドという歌手のヒット曲です。

Bell Bottom Trousers - Guy Lombardo

かつて隣に住んでいた女の子 彼女はセーラー服の三歳の少年を愛してた
今、彼はセーラー服を着て戦艦に乗ってる 
もう「立派な船乗りだけど 彼女は彼をかわいいと思ってる 
(ベルボトムズボン、紺のコート付き 彼女は水兵を愛し、彼も彼女を愛してる)
船乗りたちがオカにあがると、みんな彼女に夢中でも、
彼にとっては彼女が本命さ
彼らは笑顔で水兵帽を傾けてウィンクする
彼女はただ微笑んで頭を横に降り、そっとため息をつく
彼女のセイラーが海に行く  そこで何をみたんだろう
2番には、
「ほうれん草を食べるとたちまち彼は大きくなった」
なんて、それどこのポパイ、みたいな歌詞もあります。

キッチンにはいまでは滅多に見ることのないコーラの瓶が。

 

コーラの瓶で思い出した余談ですが、昔、まだ息子が2歳くらいの時、
アメリカに住んでいたわたしたちは、西海岸のカーメルという街
(クリント・イーストウッドが市長をしていた)にドライブで立ち寄って、
そこで小さな古いホテルに泊まったことがあります。

フロントでチェックインをしていたら、その間しばらく
一人でテラスのところで庭を眺めていた息子が、部屋に入ってからずっと、

「お姉ちゃんが車に轢かれたの」

「お姉ちゃんは死んでしまってお父さんが泣いてる」

「そのときにコーラの瓶が割れたの」

と語り出し、ことに最後の「コーラの瓶が割れた」を
何度もくりかえしたので、夫婦でゾッとしたことがありました。

なぜなら2歳の息子はコーラというものを飲んだこともないし、当然
「コーラの瓶」など一度も見たことがなかったのです。

あのとき、一人で庭にいた彼に(というか彼の脳内に)何が起こったのか、
今でも
不思議に思うことがあります。

先日ふとその時のことを聞いてみたところ、全く覚えていませんでした。

さて、「スレーター」の修復には莫大なお金がかかりましたが、
ほとんどは寄付で賄われました。

現在の維持費も常に寄付を募っています。

かつての「スレーター」乗組員の写真。
一緒に写っているのが若い女性ばかりなので、ダンスパーティのときのものでしょう。

当時のダンスパーティのBGMの定番はグレンミラーです。
男性が何かを手に持っていますが、基本的に展示は
どこを触っても咎められるようなことはありません。

「スレーター」の第二次世界大戦中の行動範囲と
当時の姿が額に入れられていました。

第二次世界大戦中の全ての行動を線で表したものですが、
大西洋側は船団護衛任務で大戦初期、後半は
太平洋側に進出したことがわかります。

このシリーズを始めてから、読者の方々からもその保存と
維持の努力には称賛の声が上がっていますが、電話の後ろの盾は、

「The Amerikan Welding Society 
Historical Welded Structure Award 」

(アメリカ溶接業界:歴史的溶接構築物大賞)

このアワードは地域社会で溶接のイメージを向上するのに
模範的な献身を示した個人と組織が表彰されることになっています。

歴史的な艦船の復元を溶接業界に高く評価されたということですね。

 

続く。

 

 

 


ギャレーとヘッジホッグ〜USS 「スレーター」

2020-01-29 | 博物館・資料館・テーマパーク

ニューヨークのハドソン川河岸に係留展示されている博物艦、
駆逐艦「スレーター」。

長々と外から見た様子について描写してきましたが、ようやく
見学ツァーの一員として乗艦するときがやってきました。

ラッタルを渡ってから一行は舷門のところでこの艦の歴史的な価値、
多大な努力によって完璧な姿で保存されていることなど説明されます。

そのあと左舷側の舷側に沿ってコースを進んでいくのですが、
すぐにこのような初めて見るコンパートメントを発見しました。

「エスケープハッチ」(脱出用ハッチ)というのが正式名称です。

非常用のハッチといいながら、上部に滑車と鎖があり、ここから
ものを出し入れしていたらしいことがわかります。
内部で火災が起きた時にはここからホースを入れることができるように
消火栓も近くに設置されています。

上部構造物の壁にはアプリケーターがセットされています。
この部分、青いですが、ダズル・カモフラージュの濃部分です。

ツァーに同行していた一人の男性のTシャツが気になって仕方ありません(笑)

「YAMATOって何〜!」

さりげなく後ろに忍び寄り、写真を撮っておきました。
どうも「倭(やまと)」という和太鼓グループがこの年アメリカで
ツァーを行い、この男性はそのコンサートでTシャツを購入したようです。

「人の輪の真ん中に太鼓」

という日本語が書かれていました。

最初に見学したのはギャレーです。
メスドックという水兵用の食堂の一階のデッキにあり、ここで
212名の下士官兵の食事を用意しました。

この時の説明によると、ギャレーというのは平時一番危険な場所だそうです。
波高が高い時、あるいはヘビーな横揺れに見舞われたりすると、
熱湯でもあるスープ類が鍋からこぼれたり、熱された鍋の蓋が飛んで
調理人を直撃することもあるからです。

スープやシチュー類を煮込むために三つの巨大な鍋があり、
これは「コッパーズ」(Coppers)と呼ばれていました。
見たところ女性の後ろの大きな鍋は銅製ではありませんが、
慣例的にそう呼ばれていただけなのかもしれません。

このタイプはアメリカ海軍のスタンダードで皆同じ形をしています。
鍋は低圧の蒸気を使って料理を行う仕組みですが、
この蒸気は艦を動かす補助ボイラーから取られていました。

食材はメスデッキの階(階下)の倉庫に収納されており、そこへは
前方の乗員の洗面所内にあるハッチでいくしかありませんし、
野菜などの倉庫は逆に一階上の上部構造物デッキにあり、
パンの棚は廊下にあると言った具合に散らばっていました。

駆逐艦は小さいのでこれは仕方がありません。

食事の時間になると、重い鍋や食べ物を手で持った人が
前方の梯子を使ってそれらを毎回階下に手で下ろしました。

本日のメニューは

「ドライビーフのクリーム和え」

まず「ドライビーフ」というのが既に謎ですが、ローストビーフとは
全く別物だろうし、まさかビーフジャーキーのことじゃないよね?

まさか高級ステーキ店で出てくる「ドライドエイジドビーフ」のことかしら。

クリームというのは、ミルクを温めてそれに脂と小麦粉をぶちこみ、
ねるねるねるねしてそれに胡椒をぶちこんだもの。
うーん、ハーブを使えとは言わんが、味付けに胡椒だけってどうなんだろう。

左に半分見えているのがオーブン。
オーブンではいつもパンを焼いていて、ことに夜になると
切れ端などをお目当ての乗員たちの人気のスポットでした。

粉を混ぜる「ドウミキサー」はホバートのA-200モデルです。

ギャレーは物資が持ち込まれ、海の状態がそんなひどくない限り、
乗組員に十分な栄養を与え続けることができました。

しかし、駆逐艦乗組員の多くは、北大西洋の船団勤務中、
戦闘ステーションに貼り付いているか、荒天でキッチンの火が使えず、
コーヒーとサンドイッチだけですませていた記憶しかないそうです(涙)

 

説明が終わり、ギャレーを出るとき、わたしは解説の人に

「スレーターにはアイスクリームメーカーはあったんですか」

と聞いてみました。
すると彼は、その質問待ってました、という調子で、
わたしというより見学者全員に聞かせるように、

「スレーターにはアイスクリームメーカーはありませんでしたが、
第二次世界大戦中の軍艦、とくに大きな艦はほとんどが
アイスクリームが食べられるようになっていました。
潜水艦はキッチンが小さいですが、任務がハードなこともあって
アイスクリームメーカーを持っていることが多かったのです」

と説明しました。
ここで説明したこともありますが、駆逐艦の場合、護衛する戦艦や空母に
ゲダンクと呼ばれるアイスクリームショップがあるので、たとえば
海に落ちた飛行機の搭乗員を助けたら、その搭乗員の体重と同じだけ
駆逐艦に対しアイスクリームが振舞われるという風に、
ご褒美兼『餌』にされていたという報告もあります。

そんなアメリカ人のアイスクリーム愛をかつてここでご紹介したことも。

米海軍アイスクリーム事情〜ハルゼー提督とアイスクリーム

ギャレーを出てそのまま艦首に向かって歩いていくと、
艦首旗を掲揚する

Bow Jackstaff

部分に近づきます。
ここには錨鎖などがあるため、立ち入ることはできません。

現在ここに掲揚されている旗はユニオンジャックです。
伝統的に、アメリカ海軍の軍艦が港にいるときに揚げられます。

ユニオンジャックとともに、かつての「スレーター」艦首にて。

「ミッドウェイ」の内部見学で、空母ではトレーニングジムにもなっている
広い「フォクスル」=艦首楼(Fo'c's' le=Forecastle)
をご紹介しましたが、駆逐艦の場合はこの部分がフォクスルということになります。

ところで、このフォクスル=Forecastleですが、なぜこう呼ぶかというと、
帆船時代の名称の名残です。

その時代、船首部分は最初に敵の船と交戦するための城、つまり
「前方の城」だったことに由来します。

ここには通常錨鎖とそれを止めるペリカンフック、チェーンストッパーがあり、
アンカーを上げ下げするために使用される電気駆動式の油圧ホイスト、
アンカーウィンドラス(巻き上げ機)があります。

今はどうかわかりませんが、「スレーター」では一度に
一つのアンカーしか処理することができなかったので、
二つ目のアンカーを使用する場合には、最初のアンカーを固定してから
切り替える必要がありました。

フォクスルの後方には弓形の囲いがあります。
「Gun No.1」の周りを取り囲むようになっていて、
エッジには銃座から見ての角度が10度ごとに刻まれており、
配置につく前にかぶる鉄帽がフェンスに人数分掛かっています。

ここには3"/50 口径対空銃が設置されています。
駆逐艦の主砲としては5”/38 口径の銃を装備することになっていたのですが、
生産不足のため、この台座タイプが主砲として、
最初の駆逐艦4クラスに採用されました。

そのうち生産が需要に間に合うようになり、最後の「ラドロウ」級、
「ジョン・C・バトラー」級に5”/38 口径が搭載されるようになりました。

装填は手動で行い、昇降ギアによって銃弾は運ばれます。
ここでは実際に使用していた弾を見せてもらえます。

俯角のリミットは13度、仰角は85度。

「上部構造物に射線が当たらないように設計されています」

どんなに夢中になって撃ちまくってもこの部分には絶対に当たらないので安心ですね。

「スレーター」ではより正確な銃撃のために、ディレクターコントロール
(射撃制装置)を使用していました

「注意:カバーの取り外しの際にはシフトレバーを元の位置に戻すこと」

と書いてあります。

ディレクターコントロールから送られてくる情報通りに
ここを覗きながら角度を調節するためのスコープだと思います。

「ちょっと持ってみますか」

言われて一人の男性が持たされ、

「重いなこりゃあ」

男性の腕の筋肉が重さで緊張しているのに注意。

#1ガンの後ろには、
MK 10 ヘッジホッグプロジェクターが設置されています。

ヘッジホッグは、先日江田島の第一術科学校に展示されていたのを
ご紹介ついでに説明もさせていただきましたが、繰り返しておくと、
この「ハリネズミ」は、爆雷攻撃の欠点を克服するために、
イギリスで開発された攻撃方法です。

 

第二次世界大戦時、ソナーは船の前方でしかスキャンできなかったため、
潜水艦がいると分かっていてもソナーに引っかからなければ、
爆雷は当てずっぽうに落とすしかなく、攻撃の精度が下がりました。

もっとまずいことは、一度爆雷攻撃を行うと、ノイズと乱流が発生するため、
ソナーがそのあと30分間は使うことができなくなるのです。

この点、艦首近くに設置されたヘッジホッグは、潜水艦をソナーで捉えている
(つまり艦の前方にいることがわかっている)とき、そこに向かって
攻撃を行うということを可能とします。

ヘッジホッグとは、24門の迫撃砲からなり、艦の前方
250メートル先をミサイルで攻撃するものです。
潜水艦の潜むエリアに向けて、迫撃砲は円形、または楕円形をなして
落下していき、潜水艦を取り囲むように海中に落ちてこれを殲滅します。

ヘッジホッグ発射後、海面で水しぶきを上げるミサイル。

こちらは戦後のヘッジホッグの発射跡。

各ミサイルには35ポンドのトーペックスTorpex、英国で開発された
魚雷用の爆薬でTorpedo Explosiveの略語)あるいはTNT爆薬が含まれます。

ミサイルの推進力はロケット式ではなく、無煙パウダーのインパルスチャージです。

ミサイルは先端に接触性のヒューズが付けられており、潜水艦などの
水面下の物体に信管が当たった時に飲み爆発する仕組みでした。

ヘッジホッグには後方に蓋のようなものがありますが・・・・・、

これがそのヘッジホッグの裏側。
コントロール装置一式があり、これ全体がシールドにもなっています。

そしてこれがヘッジホッグのクレイドル、つまり設置されている台。

第二次世界大戦中は護衛駆逐艦とイギリス海軍のフリゲート艦だけが
これを装備していました。

第二次世界大戦中、ヘッジホッグの攻撃を受けて
生き延びた潜水艦はないと言われます。

 

続く。

 


ダズル・カモフラージュと神風特攻〜USS「スレーター」博物館

2020-01-27 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、朝一番にニューヨーク州オルバニーのハドソン川沿いに
係留されている駆逐艦「スレーター」の見学にやってきました。

入場料を支払うと、艦内ツァーの第一陣が出発するまでその辺で待て、
といわれるので、説明の看板を見たりしながら時間を潰します。

平日の朝でしたが、このあたりは観光客もそこそこ多いのか、
二十人以上が待機しています。
見学者はわたしたち二人以外は全員が中年から初老の白人でした。

第二次世界大戦時に大量生産された無名の駆逐艦などに興味を持つのは、
自分の身内がなんらかの形で第二次世界大戦に参加していたような層か、
あるいはわたしたちのようなモノ好きな日本人くらいかもしれません。

時間まで皆、わたしが前回のシリーズで紹介した「スレーター」
展示までの経緯についての掲示板などを見て過ごします。

わたしは岸壁からもう一度全体の写真を撮っておくことにしました。
「スレーター」艦体は特殊な迷彩柄にペイントされています。

このペイントは実際に「スレーター」がアメリカ海軍の軍籍にあった
1945年当時の仕様をそのまま再現してあります。

「ダズル・カモフラージュ」というこの迷彩は濃淡をつけた色のパターンで、
敵の船、そして特に飛行機にとって艦種が特定しにくくなっており、
移動中もその方向がわかりにくいという効果があるといわれていました。

魚雷などを発射する時、照準は敵艦船までの距離を測ることで決定しますが、
それに必要な船の大きさ、速度、そして現在の向いている方向は
それらの計算に必要な要素となります。

そのとき、艦影を小さく勘違いしたり、艦首の角度を見誤ると
正しい情報が得られなくなり、的中率は極端に低くなる、という理屈です。

しかしながら、1945年以降は採用されなくなりました。
その理由は、この塗装は雷撃の目標はそらすことができても、
日本軍の神風特攻隊のパイロットたちの目はごまかせなかったからです。

むしろ肉眼では見つけることが容易であったため、この塗装は
かえって彼らの目標にされやすいらしいということがわかってからは、
アメリカ海軍のほとんどの艦船はシンプルな塗装へ回帰していったのです。

いわゆる一般的にいうところの「甲板」のことを
英語では「メインデック(デッキ)」といい、上部構造物のことを
「スーパーストラクチャー」といいます。

艦首部分は、メインデッキ、スーパーストラクチャー、そして
スーパーストラクチャーの「二階」にあたる部分の「ブリッジ」、
最上階の「フライングブリッジ」、全てに必ず武器が装備されています。

これはスーパーストラクチャー前方に設置された

3"/50 Caliber Gun(Mk22)50インチ口径3インチ砲

の砲身部分を斜め後ろから見たところです。

スーパーストラクチャー、上部構造物の両舷を防護する

20mm Anti-Aircraft Machine Gun(20ミリ対空機関砲)

は、スイス・エリコン社の対空砲です。

対空機関砲はこの階の前方に2基、中央に4基設置されて
まるでハリネズミのように航空攻撃から最も敵から防護したい
重要な部分(『スレーター』はここにCICがある)を守っています。

舫で吊り下げられているこの物体は、縄梯子状のラッタルだと思われます。

上部構造物を守っているのは20ミリ機関砲だけではありません。
後方に向けてアイランドのようなところに設置されているのは 

Twin 40 mm Gun with MK51(40ミリボフォース機関砲と射撃指揮装置)

Mk.51 射撃指揮装置(Mark 51 Fire Control System, Mk.51 FCS)というのは、
アメリカ海軍の艦砲用射撃指揮装置(GFCS)です。

高速で接近してくる航空機に対して近距離で即応できるシステムで、
移動目標を目視照準・追尾すれば、自艦と目標との相対的な角速度変化を検出し、
さらに見越し角を自動算出することができるというスグレモノです。

一人で操作する比較的お手軽なFCSであり、このボフォース 40mm機関砲などと
ともに使用されていました。

高圧のため危険というマークのついたこの魚雷のようなものは
なんだかわかりませんでした。
おそらく甲板の武器に電源を供給するものか電圧システムだと思います。

上部構造物の最高層にあるのがフライングブリッジです。
カバーがしてあるこれはレンジファインダー、光学式距離計、
つまり測距儀だと思われます。
測距儀の設置されている場所をレンジファインダー・プラットフォームといいます。

岸壁レベルから撮ったので一部しか見えませんが、フライングブリッジ。
ここには航空観測台(スカイルックアウト)と海面の観測台があります。

スカイルックアウト・ステーションは遮るものが全く無く、
空を監視することができるように配置されています。 

レーダーが出現する前は、見張りが重要な役割を果たしていました。
これらの見張り任務のために、第二次世界大戦中、双眼鏡、
ベアリングダイヤル、および標高インジケーター付きの椅子が開発されました。

この椅子は艦体の四方にに1つずつ、左舷に2つ、右舷に2つ設置され、
艦内電話で甲板士官とCICにに連絡を取ることができます。

艦が海上にあるときは一日24時間、かならずこれらのステーションは
見張りが立つことになっていました。

こちらは岸壁に展示してあったコーナー。
よくわかりませんが通信機器であることは確かです。

駆逐艦の乗員が使用していたヘルメットはとにかく重たそうです。
航空攻撃から頭を守るための分厚さですが、20ミリが命中したら
こんなものを被っていたところでなんの役にも立たないでしょう。

魚雷か爆雷か・・・。

いずれにしてもこれらは博物館を立ち上げたメンバーが、アメリカ中から
探し出してきたもので、「スレーター」の装備ではありません。

逸失してしまってありませんが、正しい姿は両腕の上に赤と緑のボール
(鉄の補正球)を乗せているナビゲーション機器です。

昔「マサチューセッツ」の艦内でみたこのジャイロコンパスの名称を
英語で「ビナクル」(Binnacle )というのである、と説明したのですが、
日本では全く受け入れられていない名称のようで、いまだに「ビナクル」で
検索しても日本語インターネッツにはわたしの記事しか出てきません(笑)

そもそもわたしはこの「ケルビンのボール」を両手に持ったジャイロの
日本名を全く知らないのでそうとしか言いようがないのですが、
日本の船舶関係者の方はこれをなんと呼んでいるのでしょうか。

普通に「ジャイロコンパス」?

ヘルムスマン(舵輪)の横に装着してあるのもジャイロレピータでしょう。
「スレーター」にはフライングブリッジにジャイロレピータを装備していますが、
これをここでは「パルラス」(Pelorus )と呼称しています。

沿岸近くで操艦するときに周囲に存在する艦船の位置を知るのに
この「パルラス」は重要な役目を果たします。

探照灯も売店の外に展示してあります。
「スレーター」のためにかき集めてきたものの、搭載しなかったようです。
設置してあるのを見るより、このようにその辺に置いてあると
こんなに大きなものだったんだ、と驚くのが探照灯です。

時間になり、その辺で時間を潰していた我々が入るように言われたのは
ここ・・・・「Head」(海軍用語でヘッド=トイレ)ではなく、

その隣のこちらの部屋でした。
わざわざブリーフィング・ルームと銘打っていますが、トイレの横です。

ここでツァー参加者一同は「スレーター」の歴史などについてレクチャーを受けます。

部屋には「スレーター」の元乗員のらしい写真が飾ってありました。

用意されたビデオを見せてもらい、ちょっとした解説員の説明が終わると、
いよいよ艦内に入っていくことになります。

落下防止のネットが下に張られたラッタルを渡っていくわけですね。

駆逐艦の煙突は一本。英語では煙突のことをStack(スタック)といいます。
「積み重ねる」という意味ですが、なぜか汽車や船の一本煙突に限り
この名称を使うようです。

スタックの横には20ミリ機関銃のマウントが二つ並んでいますが、
マウントの高さを変えて干渉し合わないような設計になっています。

どこで撮ったのか全く思い出せない写真(笑)

説明を見る限りコンパスの使用法が書いてあります。
制作した会社の名前が「アナコンダ・ワイヤ&ケーブル会社」・・・。

調べたところ、この会社は第二次世界大戦中はミサイルケーブルを
生産しており、戦後はプラスチックやゴムの絶縁素材を使い、
ワイヤーを製造するというように転換を図ったもののの、
1982年に工場は閉鎖になったということでした。

ラッタルは艦体中央部分と艦尾にもかけられていますが、
艦尾の方は関係者専用らしくセーフティネットも張ってありません。

「全米で最も洗練された改装」と保存と博物館展示に関わった関係者が
胸を張るところの「スレーター」は、どこをみてもいい加減なところ、
放置され傷んだようなところが全く見当たりません。

ボランティアの手によって毎日手入れがされている様子が見て取れます。

下を覗き込むと、彼らのご自慢でもある現存する「最後のホエールボート」が、
ピカピカの状態で係留してありました。
単なる飾りではなく、外壁の清掃などに日常的に使われています。

さて、いよいよ我々のツァーが艦内に入っていくことになりました。



ラッタルを渡ったところにストレッチャーが掛けてあります。
展示というより昔からここにあるのでしょう。

この貫禄のあるおじさんがわたしたちのツァーの解説者、
ボランティアのリチャード・ウォラースさん。

この博物館が、ナショナル・ヒストリック・ランドマークであること、
そして、保存された歴史的な艦船としては、アメリカどころか
世界でも最も保存状態のよい見本であるということを
高らかに宣言して、いよいよツァーを開始しました。

 

続く。

 

 


「国内でもっとも洗練された修復」〜USS「スレーター」

2020-01-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

ニューヨーク州都オルバニーに係留展示されている、
駆逐艦「スレーター」を見学することになりました。

ちょうど艦内ツァーが始まることを知り、売店を兼ねた
ゲストハウスに立ち寄ってみることにします。

スレーターのシルエットとネーム、エンブレムが入ったオリジナルシャツ、
オリジナルキャップもあります。

唐突に自慢ですが、わたしは先日ある自衛隊基地を訪問し、
その際そこでお土産にMOCSのキャップをいただきました。
鍔にちゃんと将官用飾りがついているのは大変嬉しいのですが、
帽子のサイドに(普通配置が書いてあることが多い)バッチリ
フルネームが漢字で刺繍されていて、使用する場所を選ぶのが問題です。

アメリカ滞在時専用にしようかな・・。

ワッペンやピンバッジなど、自衛隊内売店と同じような感じ。

1940年代に作成された「正しい水兵帽のかぶりかた」。
「スクエア・ユア・ハット!」は「きちんとかぶりましょう!」みたいな意味かな。

まわりは水兵さんの帽子の被り方あるあるなんですが、
これにつけられたキャプションがスラング多め。
しかし頑張って知識を総動員しいい加減にさっくりと訳していきます。

左上から時計回りに:

「呪いをかけられて縮んだんだね」

「何も聞きたくない」

「首の細すぎるタイプ(帽子をかぶるのに時間かかりそう)」

「洗ってだめにしてしまいましたタイプ」

「これはうざい。(Salty!)前見えてんのか?」(右上角)

「ポール・リビア(独立戦争の英雄)スタイル」

「前後水平(グレイビーボウル)スタイル」

「右舷に傾いてる(特に丈夫な耳を持っていれば可)

 「ここになーんにも考えてない奴がいます」(右下角)
 
「カレッジ・ジョー、あるいはスポーツモデル風」
 
「フローアフト(後流)スタイル、時々巡洋艦左舷スタイル」
 
(字が欠けて読めず)(左下角)
 
「翼みたい」

「ライフガードのかぶりかた。鼻の日焼け防止によい」

「小隊長、あるいはセンター陥没タイプ」

絵がいまいちなのでよくわかりませんが、水兵さんなら
これをみてあるあるにウケてしまうのかもしれません。

 

フェーズ11993−1997

さて、開始を待つために外に出ると、そこには「スレーター」が
ギリシャから廃棄処分を免れてアメリカに帰国し、
展示艦になるまでが写真で紹介されていました。

左)

ギリシャで「アエトス01」として就役していた「スレーター」が
曳航されてニューヨークに到着したところ

中)

凸凹の艦腹になった「スレーター」の塗装の用意が始まる

右)

飛行ブリッジから天井が取り外されている

USS「スレーター」がギリシャからニューヨークの「イントレピッド」
博物館横に帰ってきたのは1993年8月27日でした。

最初の到達目標は、まず艦の浸食具合などを調べ計画を立てることです。
修復の目標は彼女を1945年6月1日の姿に戻すこと。

当時の内装や設備などをしらべ、ギリシャ海軍によって改装されていた
内部は、すべてボランティアによってかつての姿に近いものに戻されました。

修復にかかる費用は、護衛駆逐艦水兵協会が集めた寄付で捻出し、
ボランティアはコネチカットとニュージャージー州の住人から募集しました。

作業はまずギリシャ海軍の仕様を取り除くことから始まり、
この間、艦内の電気システムと空気圧力システム交換するために
飛行ブリッジの屋根を外すという大工事を行いました。
艦体の全ての部分の塗装を行ったことで費用は大変嵩みました。

 

フェーズ2 1997年から2001年まで

右:ジェネレーター(発電機)ビフォー&アフター

左:飛行ブリッジビフォー&アフター

左:兵員用洗面所ビフォー&アフター

右:CICビフォー&アフター

隣の「イントレピッド」博物館内に置かれた執行部では、
「スレーター」の次の「定係港」探しが行われ、その結果、
1997年10月27日、彼女はハドソン川を遡ってオルバニーまで運ばれました。

ここで待ち構えていた現地の新しいボランティアグループは、
マンハッタンで行われていた作業を引継ぎ、次の仕事に移りました。

オルバニーに着いたからには、一刻も早くオープンして
客を集めることが次の目標です。

修復のフィロソフィーは、その安全、そして清潔の許容基準を念頭に置き、
なによりも「卓越性」(=いい仕事)を優先させることでした。

 

「スレーター」が現役時代備えていたすべての機器や細々したものを
備えた区画を完全に復元する目標は、段階的に実現されていきました。

まず最初のステップは各コンパートメントにすでに存在するものを記録すること。
それからなにが必要かを調べる作業に進みました。

続いての作業プロセスは、ギリシャ海軍時代の改修跡をを削除、つまり
古い塗料を落とし、セラミックタイルの分厚い層と糊をはがし、
彼らが付け加えたスペースを取り壊すことです。

その後、第二次世界大戦時代に実際に使われていた
ブラケットと棚が手に入ったことで金属を加工する仕事は完成しました。

電気の配管関係はコード関係も全てカスタムメイドされ、照明器具は
第二次世界大戦時代の「オーセンティックな」パーツが取り寄せられました。

各コンパートメントはスプレーによる塗装が施され、
新しく設置された機器などはすべて清潔に修復されることを優先しました。

そして最後にデッキが修繕&塗装されて一般に公開されたのです。

フェーズ3 オルバニー 2002〜現在

左から:

ーホエールボートのモーター修理が行われている

ーホエールボートの修理完了

ー海水の浸食で鍍金の4分の1が剥がれた「スレーター」艦腹修理前

 

艦体の修理は全ての段階において骨身を惜しまぬ努力が払われ、
パーツの調達、設置、装備の改装などは、ボランティアによって
細部に至るまで敬意を払って行われました。

特に「スレーター」のホエールボートは新品のようになりましたが、
これは当時の護衛駆逐艦が運用した26,000ほどの同タイプで
現存する最後のボートとなりました。

2007年に行われた最後の工程は、SL海面探索レーダーと
CICのオペレーターコンソールにインストールする作業と、
マストにアンテナを設置する作業でした。

爆雷を保管するラックと、それを海に落とすための
爆雷プロジェクタのローラーローダーは、ギリシャ海軍が
取り外してしまっていたので、2008年になってメンバーはそれを探す仕事、
そして艦尾の機械室の修復に取り掛かりました。

2010年には艦首側の乗員用トイレ(ヘッド)、そしてデッキの板張り替え、
オリジナルのTBL通信トランスミッターを備えた通信室が完成します。

これらのプロセスによって、「スレーター」は国内でも数少ない
完璧な状態に修復された歴史的軍艦のひとつとなったのです。

それにとどまらず、関係者は決して終わることのないメインテナンス作業を
続け、完璧な状態を常に目指しているということです。

 

修復開始当初の問題は、「スレーター」の海面にある艦体部分の修復で
ドライドックに上げるためにファンドを立ち上げる必要があることでした。

そのプロジェクトは300万ドルの予算を必要としましたが、
しかし、従来の入館料や寄付などによる収入ベースではそれを見込めず、
関係者としては頭の痛いところだったのです。

艦船の海面下の修復には艦体をドライドックに上げる必要がありますが、
やはり問題となったのは一にも二にも資金です。

「スレーター」が最後にドライドックに入ったのは1993年、
ギリシャ海軍籍にあったときで、それから20年以上経っています。

政府の支援が全く見込めない中、寄付だけで資金集めを行い、
「護衛駆逐艦歴史博物館」は なんとか1400万ドルを得て、
スタテン島のキャデルドックで修復を行いました。

船殻は圧力洗浄され、耐腐食剤が塗布され、海面下部分も新しく塗り直されました。
艦体の塗装には新しいパターンが採用されました。

作業はオルバニーに移転してからもさらに行われ、
タンクの洗浄、ビルジのメインテナンスまで完成し、完璧な状態になりました。

新しいカモフラージュペイントは、完成の日に向けて施されました。
このペイントは地形と同じようなパターンで、目立つようですが、案外
艦体を背景に隠し見え難くする効果があり、艦体の大きさが視認しにくいそうです。
つまりそのことによって魚雷の狙いを外しやすくするという狙いがあるんですね。

 

とにかく、このこだわり抜いた修復の全ては、かかわった人たちの
熱意と完璧なものを作り上げたいという執念のなせるわざだったといえましょう。

 

さて、というところがわかったところで、見学ツァーのスタートです。
心して見せていただきましょう。

 

続く。

 


護衛駆逐艦USS「スレーター」博物館見学

2020-01-23 | アメリカ

皆さんはカリフォルニアの州都がサンフランシスコでも
ロスアンジェルスでもなく、サクラメントであり、
ニューヨーク州はニューヨークではなくオルバニーであると
ご存知だったでしょうか。

どちらもアメリカ建国後の拠点だったり当時の最大都市ですが、
その後経済の動きに伴って人口移動が行われ、また
産業構造も変化することによって新たな大都市が形成されると
州都と有名な大都市が一致しないという現象が生まれます。

カリフォルニアの州都は何度か移転していますが、オルバニーは
ニューヨークに港が整備されてここが入植者の入り口となり、
その後ここが巨大都市に成長しても
首都機能を維持し続けています。

ちなみにアメリカの州で州都と州最大都市が一致しているのは、

アリゾナ(フェニックス)アーカンソー(リトルロック)
コロラド(デンバー)ジョージア(アトランタ)
アイオワ(デモイン)インディアナ(インディアナポリス)

などで、アトランタ以外は州GDP低め?みたいなところが多い気がします。
州都以外にに大都市が存在する、というのは、あらたな経済活況が生じた、
という証明でもあるわけですからこの傾向も偶然ではないかもしれません。

もう一つついでにこのGDPがダントツに高いのはカリフォルニアで、
国別のランキングでも

1、アメリカ

2、中国

3、日本

4、ドイツ

5、カリフォルニア

と5位に食い込んでくるのですから驚きますね。
ちなみに国内ベスト5は2位以下テキサス、ニューヨーク、
フロリダ、イリノイ州となります。

そういえばイリノイ州の州都もシカゴではなくサクラメントです。

 

さて。

ニューヨークで空母「イントレピッド」が展示されていたのも、
陸軍士官学校ウェストポイントがあったのも、ビリー・ジョエルが
グレイハウンドで渡ったのも、サレンバーガー機長が着水したのも
ハドソン川という世界で誰も知らぬ者のない河川であるわけですが、
わたしは東部に滞在していた2年前、オルバニー市のハドソン川岸壁に
駆逐艦「USS スレーター」が公開されていることを知りました。

ダウンタウンからすこし離れたところにある住所をナビに入れ、
到着したのはこんな場所。

USS「スレーター」の姿が岸壁に見えます。
手前にあるスペースはどこに停めても無料の駐車場。

ちゃんとくる前にオープン時間と休館日でないか確かめてきました。
「スレーター」は週5日、10時から4時までだけのオープンです。

もしかして住んでるんじゃないかというくらい家っぽい船が。
クーラーの室外機といい、屋上のスペースといい、充実してます。

Dutch Apple II

で検索してみると、なんとこの船、貸し切りもできるクルーズ船で、
最大150人のクルーズパーティもできるとか。

ただの遊覧船として乗るなら、27ドルくらいでハドソン川周遊ができます。
物好きにもイベントカレンダーまでチェックしてしまったのですが、
11月から3月までは営業をしていない模様でした。

ニューヨークはとにかく冬寒く、この辺りも1月の最低気温で
マイナス10度くらいなり、ハドソン川が凍ることもあるそうです。

「スレーター」の見学も冬季は行っていません。

「オランダリンゴ」(ダッチアップル)の上流側ごく近くに
USS「スレーター」は係留展示されています。(ここ伏線)

近づいてみました。
起工が1943年3月、44年2月進水式、2ヶ月後の同年5月就役、
と戦争に投入するために超スピードで建造された駆逐艦で、
もう76歳になろうとしているだけあって、艦体は
痩せ馬仕様というのではなく、経年劣化による凸凹だらけ。

11月には早々に閉ざされてしまうハドソンリバーですが、このときは
まだ8月のシーズン真っ最中で、ごらんのように
自家用モーターボートで楽しむ人たちの姿もありました。

ちなみに船首に乗っているのは年配の女性です。

第二次世界大戦中に、アメリカはそれこそ駆逐艦を
時間単位で建造していたわけですが、この「スレーター」は
そのうちのDE、「キャノン」級護衛駆逐艦72隻のうち一つです。

今まで駆逐艦は「ギアリング」級の「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」
を見学したことがありましたが、遠目にも全く佇まいが違う模様。

だいたい艦体の左舷に二本立っている煙突みたいな構造物は何?

ちょっと遠くで正確にはわかりませんが、40ミリ対空砲?
ナンバーがステンシルされたテッパチもちゃんとあります。

この頃の駆逐艦特有の爆雷( Deapth Charge)ラックです。
傾斜になっていてゴロゴロ転がって落ちるという省エネ投下機構。

50口径3インチ砲、アンタイ-エアクラフト・ガン(対空砲)。
この対空砲は日本近海で突入してくる特攻機を攻撃した経歴があります。

デッキの上にはまるで海軍軍人のような格好をした
ボランティアが始業前の点検作業を行っている様子が見えました。

これは何だろうとまじまじ見てしまったのですが、
銃が取り付けられていない銃座なのかな?

何年も人がここに立ち入ったりした様子はなく、
拡大すると照準などにも蜘蛛の巣が張っていました。

当時の救命ボートはそのものが甲板上階に固定してあって、
いざとなればこれを解いて海に落としたようです。
一刻を争う際にこんなにたくさんの留め具を外していて間に合うのか。

つい最近見た映画「眼下の敵」の戦闘シーンで、
駆逐艦艦長のロバート・ミッチャムが総員退艦を命じたあと、
このボートが海に落とされて海に飛び込んだ乗員が乗り込んでいました。

いたるところに対空砲。
40ミリボフォースMK51の二連装マウントです。

信号旗の読める方がいたら右はわかりそうですね。
多分片方は「スレーター」を表しているのだと思いますが。

護衛駆逐艦は、第二次世界大戦開始時に大西洋における
対潜水艦戦への必要性から大量に建造されました。
「スレーター」はこの時期建造された563隻の駆逐艦の一つです。

対潜戦に加え、対空兵器と当時最新の電子機器が搭載され、
さらに高速で長い航続距離を持つ新型駆逐艦が
迅速に建造できるような構造設計によって次々に生み出されていきます。

護衛駆逐艦は、特に危険であった補給船などの船団護衛、そして
沿岸基地攻撃、機動部隊のレーダーピケット艦などの役目を果たしました。

 

「スレーター」は1944年5月に就役した後は大西洋で船団護衛を、
5月8日にヨーロッパ戦線で連合国が勝利した後は6月にパナマ運河を経て
太平洋での船団護衛を命じられました。

終戦の日、「スレーター」は特攻機の攻撃を受けているのですが、
危うく難を逃れ、戦後はフィリピンで任務を続けて1946年に帰国しました。

 

そのわずか1年後、1947年の5月には除籍となっていますから、
まさに戦時用にとりあえず調達された駆逐艦という位置付けだったのです。

仕切り柵に取り付けられた「スレーター」のシルエット。
「スレーター」がここに展示されるようになったのは1997年からです。

たまたまそのような話(スレーターを展示艦にする)が許可になったとき、
「スレーター」は
戦後ギリシア海軍に譲渡されてその任務を終え、
クレタ島で廃棄処分になるのを待っているところでした。

その後ギリシャから大西洋を曳航されてニューヨークに到着し、
準備が整うまでの4年間「イントレピッド」の隣に係留されていたそうです。

これを見て、先ほど「銃が取り付けられていない銃座」と
言い切ってしまったところに

「GUN DIRECTOR 」

と書かれているのに気がついてしまいました。
銃手に敵機の方向を指示するための機器だったようですね。

またこれによると、ゴム筏ではないボートを「ホエールボート」と称しています。

この図とともにあった解説には、護衛駆逐艦が当初太平洋で
ドイツ軍のUボートから輸送船団を守るために投入された経緯から、
シップネームの由来、戦争中の任務、戦後から現在に至るまでが
実に詳しく書いてありました。

まだ博物館はオープンしていませんでしたが、この頃になると
何人かの見学希望らしい人たちが集まってきていました。

そしてゲストハウスのようなところからブルーのダンガリーシャツに
ジーンズ、黒のベルトというまるで昔の水兵のような格好の人が、
艦尾に星条旗を揚げ始めました。

すでに海軍籍にはないので、敬礼もありませんしラッパもなしです。
アメリカの博物艦は、海軍籍になくとも艦尾に旗をあげることが許されているようです。

海軍旗と国旗が同じであるからこそできるということですね。
かつて「スレーター」の艦尾に揚っていたのは海軍旗でしたが、
今ボランティアの手によって掲揚されているのは国旗というわけです。

国旗を揚げ終わると、ボランティアはスタスタと戻っていきました。

星条旗がハドソン川沿いの緑に映えて「スレーター」の艦尾に美しく翻りました。

ところで、今回「スレーター」について調べていたところ、わたしが
この見学をしてから1年後、つまり今年の9月10日に、先ほどご紹介した
クルーズ船「ダッチ・アップル」衝突されていたことがわかりました(笑)

なんでも原因は「ダッチ・アップル」のエンジントラブルだったそうですが、
そりゃ「スレーター」は動けないんだからぶつかった方が悪いに決まってるがな。

幸い、大事にはならならず「スレーター」も「ダッチアップル」も
営業を続けていたようでなによりです。

もう1日後だったらアメリカ人にとって洒落にならない日だったので、
そういう意味でもいらない話題にならずにすんだといえるかもしれません。

入館料は大人9ドルと激安ですが、ちょうどこのとき、
艦内ツァーが行われるということを聞き、参加することにしました。

当ブログではこれからしばらくUSS「スレーター」と駆逐艦について
お話ししていこうと思います。

 

続く。

 


「世界のミイラ」と「ミニチュア鉄道&ヴィレッジ」〜カーネギーサイエンスセンター

2020-01-22 | アメリカ

さて、せっかくなのでピッツバーグで見た
カーネギー・サイエンスセンターの他の展示についてもお話ししましょう。

潜水艦以外にわたしたちが見るつもりをしていたのが
現在の当博物館の特別展示、「マミーズ・オブ・ザ・ワールド」、
世界からミイラを集めてきてお見せしましょうというもの。

特別展示で部屋が別なので、このエキジビジョンを見るのには
通常の入館料に加えて専用の入館チケットを買わなくてはいけません。

博物館のメンバーであれば20ドルの入館料はただですが、
ビジターが特別展示を見ようとしたらコンボで一人32ドル必要です。

アメリカの博物館にしては異例の高さですが仕方ありません。

で、観ましたよ。『世界のミイラ』。

Mummies of the World

最初の部屋で、「見学の注意」みたいな短いビデオを見せられます。
そこでは、展示館内での写真は禁止であることや、展示されているミイラは
かつて生きていた人々だったので敬意を払って見学するように、
みたいなことを言っていました。

写真は撮れませんでしたが、内容はこんな感じです。

一番最後の「干し首ミイラ」は、写真ではわかりませんが、大きさは
わたしのこぶしくらい。
人間の頭がこんなに小さくなるものか、と驚愕でした。

「どうやってこんなにちいさくしたんだろうね」

とMKにいうと、

「そこに書いてあるよ」

読んだところ、頭部から頭蓋骨を抜き取ったあとは、茹でたり、
熱した石などを中に詰めたりして徐々に乾燥させるうちに
だんだん小さくなっていくということでしたが、なんでも
結構な数の干し首は土産物として制作されていたとかなんとか。

なお、ここに展示されているミイラの皆さんについては、
カーネギーサイエンスセンターの科学的チェックを受け、
いつ頃、何歳くらいで、という資料に残された情報以外に、
なんの病気で亡くなったかなども公開されています。

紹介ビデオに登場する「家族のミイラ」ですが、確か女性は
亡くなったのが38歳で、胃からピロリ菌が見つかった、
などと書かれていたような記憶があります。

いずれにせよ、一か所の展示でこれほどたくさんのミイラ
(しかも完璧な状態で)観たのは初めての経験でした。

 

さて、これでここにきた目的は果たしました。
実はここにくることがあまり乗り気でなかったMKに、

「潜水艦とミイラだけ見たらすぐに出てこよう」

とその気にさせるために言って連れてきたので、潜水艦の後は
すぐに博物館を出るつもりをしていたら、なんとMK、

「せっかく来たから他のところも観てみたい」

 

いつも出だしを渋る割には必ず現場に来てからこういうことになるんだな。
思うにこれは彼の超保守的で変化を嫌う性格から来ているようです。

足を踏み出すのに躊躇するけれどその場に来てみれば今度はそこから動かない的な。

まあわたしも高い入館料の分ちゃんと見学するのに異論はありません。

 

長いスロープになっている回廊式の階段を上っていくと、
サイエンスセンターの目玉常設展示らしい、こんなコーナーがありました。

「ミニチュア・レイルロード&ヴィレッジ」という大ジオラマです。
広い部屋全部がジオラマの街。

ピッツバーグやペンシルバニア近郊の実在の地域を表現していて、
50年以上、地元の人々に親しまれているアトラクションなのだそうです。

舞台はペンシルバニア州西部、1880年から1930年までの光景です。

1954年12月1日以来、毎年サンクスギビングの初日に公開され、
ホリデーアトラクションとして人気を博していましたが、ここ
カーネギーサイエンスセンターでは、年に2ヶ月のメンテナンス期間を除き、
一年中展示を見ることができます。

当時の町や村の様子なので、車もそのころの型ですし、
子供の遊びは木の枝に吊り下げたブランコだったりします。

ブランコはゆっくりと揺れています。

鉄道模型なのでこのように常時列車が走り回っています。
これはかつてペンシルベニアにあったシャロン製鉄所を再現したもの。
実際の製鉄所の設計図から起こして構築したそうです。

西部開拓時代っぽい服装に馬車。
よりリアルに近づけるために、ジオラマには最新のコンピュータシステムを投入し、
レイアウトの制御を行っています。
システムはNASAやディズニーワールドに制御モジュールを提供している
Opto22という会社が提供しました。

今回は荷物になるので、一眼レフではなくニコン1のV3に、
広角レンズだけつけて、それで全てを乗り切りました。

ISOを調整しないで撮ったら列車が物凄い勢いで疾走してます(笑)

広い会場を右回りに歩いていると、だんだん暗くなりました。
なんと、昼夜をタイマーで表現しているのです。

この照明システムを開発したのはハーバード大のある研究室で、
実際の太陽光の動きが表現されるようにコンピュータ制御しています。

画面が暗かったので露光を上げすぎて画像が荒れてしまいました。
手前にはウェスティングハウスの研究センターがあります。

シェンリーパークの中にジョージ・ウェスティングハウスの
若い頃の銅像が建っているように、彼はここピッツバーグに住んでいました。

そして川の向こうにあるケーブルカーをご覧ください。

サイエンスセンター上階から潜水艦「レクィン」を撮ったものですが、
川の向こう岸に・・・。

これがそのケーブルカーでございます。
「モノンガヒラ・インクライン」といい、1870年に開通した
全米最古の連続式ケーブルカーなんだそうです。
(多分世界最古はザルツブルグのあれだと思うけどどうでしょう)

なんでも昔、山上に住み着いたのがドイツ系移民だったため、彼らが
祖国にあったこの同じタイプのケーブルカーを作ったということです。

夏に滞在した時、この山頂のレストランがお勧め、という
情報をいただいたのですが、ついに行けずじまいでした。

秋の夕陽に照る山紅葉。

というわけで、ジオラマは場所によって春夏秋冬が変わり、
フランク・ロイド・ライトの「フォーリングウォーター」
(落水荘)は紅葉の中にたたずんでいます。

ピッツバーグのジオラマに川は欠かせませんが、このジオラマの自慢は
水が全て本物であること。
フォーリングウォーターに流れるベア川の水も本物です。

ピッツバーグ市民には見覚えのある建物や光景ばかりなのでしょう。
子供はもちろんですが、大人たちも目を輝かせて見学しています。

冬の景色の中に採石場がありました。
作業員がドラム缶の焚き火で暖まっています。

ジオラマを一周してくると、最後は冬の冠雪した山々が現れます。

なんでも、サイエンスセンターではサンクスギビングの2ヶ月前に
展示を閉鎖して、その期間にクリーニングはもちろんのこと、
毎年新しいモデルとシステムがインストールされることになっているのだとか。

しかし、このジオラマももとはといえば、一人の第一次世界大戦のベテランが
先天性心疾患の闘病の合間に自宅で始めたモデル作りがきっかけでした。

彼が毎年クリスマスに自宅を公開して見せていた評判のジオラマが、
場所を受け継いで最終的にここにやってきたのは20年前のことです。

さて、別のフロアに行くとそこはロボティクスコーナーでした。
ここではロボットアームとエアホッケーの対戦が楽しめます。

アームは無駄な動きを一切しないので、相手の打ったパックの動線が
シュートにつながらないと判断するとピクリとも動きません。

そして確実にヒットしてくるので、人間はまず勝てません。

このコーナーは「歴史的ロボットの殿堂」。

この妖艶なロボットの名前は「マリア」
ドイツの名匠府フリッツ・ラング監督の1927年度作品
「メトロポリス」で描かれた未来の都市に存在するヒロインです。

超かっこ悪いこのロボットは「ゴート」(Gort)
1951年の映画「地球が静止する日」The day the earth stood still
に登場したロボットです。

惑星からの訪問者、クラトゥという名前の人型エイリアンが連れている
8フィートのロボットというのがこのゴート。

The Day the Earth Stood Still (2/5) Movie CLIP - Gort Appears (1951) HD

この頃はアメリカでもこの程度のSFしか作れなかったんだなあ。

当ブログでも一度取り上げた、1999年のアニメ、
「ザ・アイアン・ジャイアント」

わたしに言わせると手塚治虫の「鉄腕アトム」リスペクトのストーリーです。
地球を守るために我が身を犠牲にしたのがこのロボットでした。

説明は要りませんね。
C-3POもR2-D2も、1977年生まれで、もうすでに生まれてから
43年ということになります。

最新作にももちろん登場していますが、もし「スターウォーズ」が
40年前でなく2020年に初めて生まれていたら、登場するロボットは
こんなのではなくAI型美空ひばりみたいなのだったんでしょうか。

なんかそれ嫌だなあ。

ヤスデみたいなアームにバスケットボールを拾い上げ、えいやっと投げれば
必ずシュート成功、成功率100%です。

向こう側に人間が試すことができるバスケットゴールがありますが、
これは、自分でやってみて人間のダメさを思い知るためのもののようです。

次のコーナーはメディカルな分野。
内臓や神経の模型がありましたが、これらは、あのいわゆる
「人体の不思議展」と同じ手法(プラスティネーション)だと思われます。

ここでもやったことあるんですよね。人体の不思議展。
開催に際しては当センターのキュレーターが

「遺体の中国における取得方法について同義的な疑問がある」

として、辞表を提出するという騒ぎになったようです。

The Carnegie Science Center unveils Bodies
... The Exhibition ... but what are you seeing?

子供向け体験型科学的プレイゾーンでは、水を使うので
滑り止めのマットが敷かれていますが、こんな
バナナ型の注意喚起看板?があって和みました。

このあと昼食はフードコート型レストランに行ってみました。

メキシカン料理のカウンターにあったポキ丼。
見かけは美味しそうですが、如何せん味が辛すぎでした。

ブラウンライスは炊き方が堅かったし、ホワイトライスの方が良かったかな。

その日の晩ご飯がピッツバーグ最後なので、これもMKのリストにあった
「ポーチ」というちょっとハイセンスなレストランに行ってみました。

「ホールフーズ」などがある高所得者向けの住宅街の中心に
新しくできたショッピングモールの一角にあります。

MKのお目当てはこれ、スモークドウィングス・ブルーチーズソース添え。
ピリッと辛味がついていてウィングの肉付きもよく、最高です。

というわけで次の朝、ピッツバーグ空港に無事チェックインしました。

乗り換えのシカゴ・オヘア空港行きの小さな機に乗り込み、
1時間半寝るつもりで枕を首に巻いて窓に寄り掛かり、

うとうとしていたら、機内アナウンスがあって、皆がざわざわしています。

なんと、シカゴが天候不良で飛行機が飛ばせませんというのです。
ハブ空港なのにそんなことってある?と思ったのですが、
シカゴ空港の風の強さというのはかなりパイロット泣かせなんだとか。

そういえば昔シカゴに到着した便のパーサーが

「風が強くて大変でしたけど・・・これがシカゴです!」

とアナウンスしていた覚えがあるなあ。

待っていたら飛ぶんかいな、と外に出て時間を潰していたら、
いきなり電光掲示板に「キャンセル」の絶望的な文字が・・・!

カウンターに行って、

「国際線乗り継ぎがあるんですが・・・」

というと、

「お気の毒ですがシカゴには今日飛びません」

と本当に気の毒そうに言われてしまいました。

仕方がないので次の日の同時刻便とシカゴからの国際便を確保してもらい、
とりあえず今晩泊まるホテルをiPhoneから確保し、
そしてレンタカーのカウンターで一泊だけ車を借りました。
どちらにしても全てが手元で行える便利な時代で良かったです。

一泊だけ借りたこの車、キャディラックの新型SUV、エスカレードといいます。
怪我の功名というのか、おかげですごい車に乗れました。

何がすごいって、まず安定性が異様なくらいあって、
滑らかでかつ重厚な走り、まるで包み込まれるような居住性は驚きでした。

機能も充実していて、例えば右側の車線をタイヤが踏んだら、座席の右側が
ブルブルっと震えて「お尻に注意喚起」してくるのには笑いました。

こういうお節介は日本車の専売特許だと思っていましたが。

次の日、無事シカゴ空港に着いて、つい入ってしまったインチキジャパニーズ。
でもおいしかったです(くやし涙)とくに右側のアボカド巻き最高でした。

シカゴ空港は一つのコンコースがまっすぐ長いので、
待ち時間カートを引きながら三往復くらいテクテク歩いて、
Apple Watchに課されている1日のノルマ歩数を稼ぎました。

なぜかコンコースに陸軍と海軍のバナーがかかっています。

空港の所々に、ヴェテランリスペクトのプラークがあったり、
前にもご紹介したオヘアの紹介や、タスキーギ・エアメンのコーナーなど、
国防に携わる人たちに感謝する目的の展示がアメリカの空港には多々観られます。

帰りのシートは変更不可で、問答無用のプレミアムエコノミー。
でも隣が空いていたので超ラッキーでした。

そしてなかなかおいしかったトレイの食事。
というか、お皿を分けて出てくるだけで味は一緒なんだから、
量だけならこちらで十分って気はしました。

ここの問題はシートがフルフラットにならないことです。
無駄に神経質なわたしは真っ直ぐなところでないと熟睡できないのですが、
今回はそんなこともあろうかと、アメリカで買っておいたメラトニン10mgを
摂取して強制的に自分を眠らせる作戦を取りました。

そして帰ってきて1週間になるというのに、いまだに8時に眠くなり
4時に起きてしまうという健康的な時差ボケ生活を送っています。

 

終わり。

 


カーネギーサイエンスセンターのUSS「レクィン」〜ピッツバーグ滞在

2020-01-20 | 軍艦

ピッツバーグに着いて何日目かにローカルニュース&情報番組を
見るともなく見ていると、女性のレポーターがライブで

「カーネギーサイエンスセンターで展示されている潜水艦」

を紹介していました。

「これは行かねば・・・・・!」

わたしは色めき立ったのですが、わたしが色めきたてばたつほど
反比例して行く気がなくなるらしいMKは

「え〜〜〜〜⤵️」

とやる気のない返事をするのです。
しかしこの滞在でどこに行くにも運転するのはこのわたし。
わたしこそが主導権を握っているので、なんなら
彼をホテルに放ったらかしででも見に行ったる!と
わたしは虎視淡々そのチャンスをうかがいました。

そして、滞在もあと1日となった最後の日曜日、

「今日いきたいところある?」

「別にないかな」

「じゃサイエンスセンター行こう。
『マミー』(ミイラ)ってのもやってるみたいだし、
潜水艦とマミー見たらさっさと出てくればいい」

有無を言わさず車をカーネギーサイエンスセンターに向けました。

写真に写っている人が半袖を着ていますが、この日のピッツバーグは
何が起こったのか気味が悪いほど暖かい日で、気温は20度近く。

この少し前には夜外を歩いただけで耳が千切れそうに寒かったのに
なんとも不思議な感じです。

気温が高くなると、とたんにアメリカ人は半袖半ズボンで外に繰り出します。

一般にアメリカの家屋というのは寒冷地ほど内部は暖かく、
外で雪が降っていても家の中ではTシャツで過ごす人が多いのですが、
外が少しでも暖かくなると、部屋着のままで外にでてきてしまうのです。

なんでも日本人とは寒さを感じる皮膚感覚が違うらしいんですが
Tシャツが彼らの民族衣装となってしまったのもそのせいかと(笑)

 

カーネギーサイエンスセンターはいくつかあるカーネギー博物館の一つで、
1991年に設立されました。
子供向けの展示が多いですが、もちろん大人も楽しめます。

この日は日曜だったので駐車場は混雑気味でしたが、それでも
すぐに止めることができました。
駐車場は館内で一律料金(8ドルくらい)を払います。

 

吹き抜けの大きなラウンジに面したガラス窓の向こうに
わたしの目的である潜水艦が見えました。

「わーい、見に行こう!」

階段を降りようとしたら、そこに悲しいお知らせがありました。

「潜水艦は本日公開しておりません」

日曜日だっていうのに?

「雨が降って川の水の流れが早くなって揺れるからとか?」

いずれにしても、いつもは公開している内部の見学は
雨天の場合は中止になるらしいことがわかりました。

しかし、近くに行くことくらいはできそうです。
階段を降りていくと、潜水艦関係の資料が展示されていました。

そういえばテレビの中継もここから行われていた気がします。

まず、潜水服ですが、古色蒼然としたこの仕様は、

Mark V

という1916年に開発されたスーツで、なんと
1964年まで使われたというロングランでした。

深海作業を行う時に用いられたもので、素材はゴム引きの綿キャンバス、
真鍮のヘルメット、手袋そしてウェイトブーツ(錘靴)など。

ダイバーはこの下に保温のためにウールのボディスーツを着用しました。
(それでも全くと言って良いほど保温にならなかったと思います)

また、錘としてウェイトのあるベルトも装着していました。

余談ですが、この防水スーツのキャンバス布を発明したのは
チャールズ・マッキントッシュというスコットランドの化学者です。

マッキントッシュというコートのブランド名はこの名前から取られました。

 シグナルガン(信号銃)

照明弾、発煙弾を発射する銃です。

ところで、ディープパープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」って
モントルー・ジャズフェスティバルで観光客の一人が信号銃で撃った照明弾が
カジノに引火して燃えているのを目撃してその光景を歌ったものですってね。

「どこかの馬鹿がフレアガンで地面に火をつけた」
「スモークオンザウォーター、ファイアーインザスカイ」

そういやこんな歌詞でしたわ。
ロック史上一番有名なイントロを持つこの曲の誕生にになったのだから、
「どこかの馬鹿」の犯罪行為にも功績という一面があったわけだ。

 USS「レクィン」のデッキ

当時の潜水艦のデッキに使われた木材は密で重く、
万が一戦闘で破壊された時にも浮いてこないくらいのものでした。

沈んだ潜水艦の位置がわかるようにするという意図で、
わざと浮きやすい素材を使うこともありました。

 Mk3、Mod 0 六分儀(セクスタント)

目視で現在位置を知ることができる六分儀。
現在の艦船にはGPSが搭載されていますが、どんな船も
必ず停電したり衛星がダウンする可能性を踏まえて
この六分儀を搭載しており、使うことができるようになっています。

 非常灯

潜水艦のパワーがダウンした時にも使える非常灯。
大抵はフラッシュライトよりも明るく広範囲に照らすことができました。

 クォーターマスター(操舵手)のスパイグラス(一番右)

潜水艦が海上を航行している時最もよく使われるのがこれ。
完全防水で滑りにくいグリップを持ち、皮とゴムでカバーされていました。

 潜水艦徽章 ペナント など

「レクィン」とはサメを意味しますが、それをあしらったパッチ、
その他いろいろは、かつての「レクィン」乗員からの寄付です。

⑦ 「レクィン」のワードルームにあった灰皿

艦長や士官の居住区を「ワードルーム」といいますが、そこにあった灰皿です。
70年間行方不明でしたが、最近元乗員が倉庫で見つけたのだとか。

っていうか自分で盗っておいて忘れてたんと違うんか〜い!

 ライオネルコーポレーション テレグラフキー タイプJ36

汽車会社のライオネルが第二次世界大戦中の個人アイテムとして
開発したテレグラフキー。

 

海を模したブルーのガラスごしに展示された潜水艦模型。
まずこちらは

USS H-1(SS−28)

アメリカ海軍最初の潜水艦であり、シーウルフと名付けられました。

1911年に就役し、哨戒任務にあたっていましたが、1920年、
マグダレナ湾沖の浅瀬で座礁し、脱出した艦長始め
4名が岸に泳ぎ着くまでに死亡し、その後艦体は沈没しました。

つい最近の2019年、艦体がバハカリフォルニアの南で確認されています。

そしてこちらは、

USS「ピッツバーグ」(SSN−730)

アメリカ海軍のロサンゼルス級原子力潜水艦の33番艦。
艦名はもちろんここペンシルベニア州ピッツバーグにちなみます。
この名前を持つアメリカ海軍で4隻目の艦となりました。

1983年進水、1985年11月に就役。

2002年には地中海に展開するため出撃し、「イラクの自由作戦」で
トマホークを発射し、2003年4月27日に帰投しています。

母港はコネチカット州のグロトンで、昨年2019年8月退役しました。

モニターでは「レクィン」の内部紹介ビデオが放映されていました。

1968年に海軍から除籍になったとあります。
これは魚雷チューブだと思います。

1969年に無力化され、予備訓練艦として、フロリダの
セント・ピータースバーグに係留されました。

クルーメスのテーブルにはバックギャモンなどのゲーム盤プリントが。
モニターはおそらく見学者のためのものでしょう。
展示されている場所が場所だけに、内部見学もかなり期待できそうです。

こんどピッツバーグにもし行くことがあれば、必ず見てきます。

ちょうどこのピッツバーグ滞在の頃、アメリカで見た駆逐艦の
爆雷についてのエントリを制作していたので、一眼でわかりました。
さらに、帰ってきてから(今更のようですが)、あの名作

「眼下の敵」(The Enemy Below)

を観たもので、尚更タイムリーです。

Mk.9 Mod 3 Depth Charge

という型番で、もちろん艦上から落とすタイプの対潜兵器。
爆発する深度を設定でき、ターゲットに「 爆発的ショックウェーブ」
を与えるというものです。(つまり直接当たらなくても良い)

このタイプは投下してから海中を速く落下するため
シェイプを研究開発されたことが説明されています。

こちらは潜水艦が搭載する魚雷を解剖して置いてありました。

「レクィン」のアンカーチェーンの一部。
アンカーのタイプは「シャンク」、フルーク型だったそうです。

外に出てみました。
サイエンスセンターはピッツバーグ市内を流れるオハイオ川に面しています。
向こうに黄色いブリッジが見えてきますが、そこから川は
以前飛行機が飲み込まれたと書いた
モノンガヒラ川に名前を変えます。

ピッツバーグは川に囲まれていて、市内中心地には
どこから来るのにも橋を渡らなければなりません。
しかもその橋は必ず前に横たわる山をぶちぬいたトンネルとつながっているので、
特に朝夕の通勤時間、高速道路は猛烈に渋滞します。

そういうわけでここでは空港に行く時間が全く読めません。
飛行機に乗る前には
必ず橋の向こう側の空港近くのホテルに泊まるようにしています。

艦尾が係留されている大きなブイは、サイエンスセンターオリジナル。
川の深度がわかるようになっているようです。

潜水艦見学のために特別に制作されたらしい長いラッタル。

中学生のグループが潜水艦を覗き込んでいました。

ものすごく堅牢そうなしっかりしたラッタルです。
おそらく子供や老人なども見学できるよう配慮したのでしょう。

USS「レクィン」SS-481 「テンチ」級
1945−1968

海軍初のレーダーピケット潜水艦に乗艦いただき、
80人の乗員が専門的スキルと、ユーモアと、類稀なる創意工夫で
荒々しい冒険的な艦上生活をいかに刻んでいったかを、
そして冷戦時代の防衛やその科学的ミッションについてを学んでください!
その中のいくつかの知恵は今日にも活かされています。

展示にあたって塗装を引き受けたのがPPGペイント社
本社をここピッツバーグに置ガラス製品・化学製品・塗料の製造会社大手です。
日本にもPPGジャパンという名前で進出しています。

自社の宣伝かたがた、この塗装にどれくらいの時間や手間がかかり、
どれくらいの塗料を要したかについて説明されています。

それによると塗料は全部で240ガロン(908リットル)、
労働述べ時間960時間。

そのおかげで毎年「レクィン」には平均15万5千人の来訪者があるということです。

わたしもその一人になりたかったのですが、残念です。

1945年4月に就役した時には、まだ対日戦争真っ只中だったので、
「レクィン」は、当時計画されていた九州侵攻作戦である

ダウンフォール作戦

に投入され、沿岸攻撃などで上陸支援を行うという予定をしていました。
そのためロケットランチャーなどの重武装を積んでいたということです。

他のこの時期に建造された多くの艦船と同じく、
彼女もまた日本と戦うために生まれたということなんですが、
幸いなことに就役して4ヶ月で戦争は終了しました。

彼女が終戦までの4ヶ月間なにをしていたかというと、
それは「退屈な任務」であるソナー学校の訓練艦でした。

その後レーダー哨戒潜水艦への転換が行われました。
このため、後方の魚雷発射管4門は取り除かれ、
5インチ艦砲と
後部甲板の対空砲も同様に撤去されています。

ところで2代目艦長となったのはジョージ・L・ストリート三世中佐といいまして、

ストリート中佐は大戦中の功績で名誉勲章を受章していますが、
当ブログ「サブマリナーの肖像」シリーズで取り上げた人です。


終戦後は西大西洋での作戦活動を再開し、1947年には北極圏を横断しています。
(『アドルフに告ぐ』じゃないけどこのタイプでは寒かっただろうて)

1948年に船体分類記号が SSR-481 (レーダー哨戒潜水艦)となり、
レーダーピケット改修を施されました。

1953年には近代化オーバーホールが行われ、この近代化で
最後の対空砲は撤去されることになりました。

 

1959年全てのレーダー設備が撤去され、船体が流線型化、
「フリート・シュノーケル改修」が施されると同時に、船体番号は
「SS-481」 へと再変更され、退役まで通常の攻撃潜水艦として従事しました。

「レクゥイン」は1963年9月20日5,000回目の潜航を達成しています。

その後、1968年5月28日、行方不明となった原子力潜水艦「スコーピオン」
(USS Scorpion, SSN-589)
 の探索に参加したのち実験潜水艦となり、
不活性化、そして退役、海軍予備役兵の訓練艦となっていました。

そして最後の最後に IXSS-481 (雑役潜水艦)に艦種変更されています。
雑役潜水艦というのが何をするのかわからないのですが、文字通り
訓練から何からなんでもやっていたのかもしれません。

除籍後「レクィン」はフロリダ州タンパで観光名所にされていましたが、
援助および資金不足のため公開は取りやめられ、4年間桟橋で放置されていました。

1990年、ジョン・ヘインズ・三世上院議員(もちろんあのハインツの三代目)が
この潜水艦をカーネギー・サイエンス・センターで展示する上院議案を提出。

彼女は一旦タンパの造船所でリペアを行い、ルイジアナ州バトンルージュから
艀に乗ってミシシッピ川およびオハイオ川を遡上しピッツバーグにやってきました。

そしてカーネギー・サイエンス・センターに到着し、現在に至るまで
博物館の展示品として公開されています。

 

余談ですがヘインズ上院議員は、「レクィン」がピッツバーグにやってきた
その半年後、飛行機事故で現役のままわずか52歳の生涯を閉じました。

 

続く。


アンディ・ウォーホル美術館〜ピッツバーグ滞在

2020-01-19 | アメリカ

ピッツバーグに着いて用事を済ませたあとは、もはやなんの予定もないので
気の向くままに街を楽しみましょうってことになりました。

うちには便利な息子がいて、こういうときネットで情報を探し、
いろんな提案をしてくれるわけです。

「アンディ・ウォーホル美術館なんてどう?」

実は昨年の夏滞在したときにも現地在住の知人にお勧めいただいてましたが、
わたし別にアンディ・ウォーホル好きでもなんでもないんでね。
キャンベルやマリリンモンローのリトグラフなんて、いまさら生で見たって
それが何?ってかんじでスルーしたんですが、今回はなんとなく、
他に行くところも思いつかなかったので、行ってみることにしました。

劇場などがある町の中心部から美術館に行く途中にあるブリッジは
「アンディ・ウォーホルブリッジ」といって、橋桁ごとに
リトグラフのウォーホル自画像がお出迎えしてくれるという趣向。

ちなみに橋が黄色いですが、ここピッツバーグのカラーは黄色。
市内にかかる黄色い橋はいくつもあります。

何故黄色なのかはわかりませんが、ただひとつたしかなことは、黄色は
地元のフットボールチーム「ピッツバーグ・スティーラーズ」のチームカラーで、
ゲームデイには町中が阪神タイガースの試合があるときの
阪神電鉄甲子園駅周辺みたいになることです。

スティーラーというのはもちろん「スチール」から来ているわけで、
かつてピッツバーグが鉄鋼の町だったことが語源です。
強いディフェンスが出たときには「スティールカーテン」と呼んだり、
なかなかチーム名としては使い勝手の良い名詞だと思います。

スティーラーズの熱狂的なファンは、チームカラーの黄色いタオルを
「テリブルタオル」と称して振り回して応援を行います。

また、日本人女性磯百合子さんがかつてアスレチックトレーナーをしていた、
ということでも日本人には馴染みのあるチームです。

スティーラーズ支える女性トレーナー、初の大舞台へ

この建物がアンディ・ウォーホル美術館。
ウォーホルが死んでから2年後に建ったという美術館は、
単一のアーティストのものとしては北米最大といわれています。

ここに美術館があるからにはウォーホルはここの出身だろうと思ってましたが、
生家というのが、夏に家を借りたシェンリーパークの近くの、
まさに借りたのと同じような作りの家であることが判明しました。

右側がそれらしいんですが、普通に今でも誰かが住んでます。
夏にわたしが借りた家みたいに、少し盛り上がったところに建っていて、
地下にランドリーや寝室があったりするこの辺独特の建築です。

さらに、今までわたしは「ウォーホール」と呼んでいたのですが、実は
彼はチェコ系の移民の息子で本名は「ウォーホラ(Warhola)」、
したがって「Warhol」はウォーホルと読むのが正確であると知りました。

アングロサクソン系だと勝手に思い込んでいたのですが、意外です。

小さな時の落書きから始まり、大学(カーネギー工科大学)
卒業後、ニューヨークで仕事を始めた頃の絵など網羅しています。

ちなみに右側は大学卒業後自費出版したイラストブック、
「25 Cats Name Sam and One Blue Pussy」より。

美術館は最初にエレベーターで7階まで上がり、そのあとは
下に歩いていきながら各階を見学していくようになっていました。

ニューヨークでイラストレーターをしていた頃のアンディ。
さすがイラストレーター兼広告マン、おしゃれです。

ティファニーのクリスマスカードのためのデザイン。

1956年には東京に観光に来ています。
上はウォーホルがその頃知り合った写真家の
エドワード・ウァロウィッチ。
彼もピッツバーグの出身でやはり移民の息子です。
二人は意気投合し、彼の写真とのコラボを行いました。

皇居二重橋前の写真では右から2番目がウォーホルですね。

 

有名な「あれ」の偉大なモデル。

左にハインツがありますが、ハインツもここピッツバーグがお膝元です。
ウォーホルによって有名になったのはキャンベルとハインツだけでなく、
金属たわしのブリロがあります。

企業がウォーホルにお金を払ったわけでもないのに、
彼は勝手に?身近にあるこれらをアートにしてしまったというわけです。

この香水「ミス・ディオール」の広告は、巨大な板に描かれた絵で、
香水の瓶のところはくり抜かれて本物が入っていました。

ミスディオール、一度免税店で買ってしまったことがあるけど、
実際に使ってみたら全然好きじゃなくて、トイレの芳香剤がわりにしてました(笑)

初期の映像作品で、右の椅子に座った人の顔を映し続けたもの。

一般公開された映像作品「チェルシーガールズ」。
ニューヨークの有名ホテル「チェルシー」を舞台に、
その各部屋で繰り広げられる人間の喜怒哀楽を、任意の2部屋分だけ
適宜の時間セレクトし、2つのスクリーンを使いランダムに映し続けるというもの。

右側は若い男性と中年男性がベッドでだらだら話をしていますが、
いきなり女性が出てきたり窓がアップになったりして訳がわかりません。

左側も家族が罵り合っているだけで、訳がわかりません。
しかし、これが全米で公開され大ヒットとなったらしいです。

1963年の「ホワイト・バーニング・カーIII」という作品です。

シルクスクリーンで、ウォーホルの「デス・アンド・ディザスター」シリーズの一つ。
警察と自殺した男の報道写真、事故った車を素材にした作品で、
5回以上画像を重ね刷りしているのだとか。

車はひき逃げをして逃走していた車が路上のポールに激突して
大破炎上したもので、運転をしていた24歳の漁師という男は
激突の際投げ出されてclimbing spike(塀や扉の上に侵入禁止のために仕掛ける
鋭利な先端、いわゆる『忍び返し』)に突き刺さり、死亡した、
という詳細な新聞記事も添えられています。

ウォーホルが描いた人物たち。

日本人キミコ・パワーズさん。

「kimiko Powers」の画像検索結果

2013年のキミコさん。
世界有数の有名な美術コレクターで、芸術家のパトロネスだそうです。

後世に残る肖像を手がけてもらえるのはパトロンの特権ですね。

どれだけ大きな作品か比較対象がいてわかりやすいですね。
「ラファエル・マドンナ $6.99」という作品なんですが、
値段のように見えていたのは本当に値段だったのか・・・。

意味は・・・・多分ないと思う。

「シルバークラウド」(SILVER CLOUDS )という作品です。
部屋の中にヘリウム入りのシルバーの風船がふわふわしていて、これは
見学者が触ってもいい展示です。

「もう絵は描かないよ。
一年前にやめて映画を始めたんだ。
同時に二つのことはできたけど、映画の方がエキサイティングだったし、
絵を描くというのは僕にとって単なる段階だからね。

今、僕は『浮遊彫刻』をやっているんだ。
爆発させて浮かぶシルバーの長方形だよ。」

ウォーホルはこんなことを言っていたようです。

いくつかは天井の送風機に固まってくっついていましたが、残りは
こんな感じでぼよんぼよんとその辺を浮遊しています。

「部屋から出て行ったらどうなるんだろうね」

と言っていたら、その端から一つが部屋から出ていきそうになり、
そのとたん係員が飛んできて連れ戻していました。

1日風船が出て行かないか見張っている係にとっては、
夢にまで出てくる光景なんじゃないでしょうか(笑)

「これは・・・」

「どうみてもあれでわ」

なぜウォーホル美術館にキース・ヘリングの象がいるかってことなんですが、
アンディとキース・ヘリング、そしてジャンミシェル・バスキアが仲が良かったと。

「basquiat andy warhol keith haring」の画像検索結果

そういうことなんですな(納得)

ちな1958年生まれのキースはわずか31歳でエイズで死に、
ウォーホル死後、キースより若かったバスキアも、アンディの死の翌年、
わずか27歳でヘロイン中毒で死んじまったという・・・。

なんだかアンディが二人を気に入って連れて行ってしまったみたい。

アンディ・ウォーホルの愛犬だったばっかりに、剥製にされてしまいました。

ウォーホル本人の希望なんでしょうねえ。
いくら往年の姿を留めておきたいと言っても、
「中身」のことに思いを馳せないのはなんといいますか。

日本に行ったときに買ってきたらしいお土産の般若や大黒様能面があったり。
もうこの辺は本人も覚えていないような持ち物の展示です。

よく物を捨てられない人が、

「将来俺の博物館ができたときに飾るためにとってある」

なんてことを言いますが、(例*TOの兄、MK)
ウォーホルも持ち物をいやっというほどためこんでいたようです。

彼の場合は本当にそのつもりだった可能性はありますね。

ウォーホル、香水はエキゾチック系がお好きだった模様。
「オピウム」も一時日本で流行ったことがありましたよね。

カルバン・クラインのサイン入りカルバン・クラインのパンツ。

「バックトゥーザフューチャー」を思い出した(笑)

この部屋はまだまだあるらしい所蔵品倉庫らしいのですが、
その隅っこにライオンの剥製がありました。

気に入ったらなんでも手に入れてため込む性質と見た。

この箱の全ては本人が梱包してしまったものらしいです。
開けるに開けられないのかも。

これはなんだろう、と注目したらたんなるスイッチでした。

宗教関係の作品。
実はああ見えて?ウォーホルは敬虔なキリスト教徒でした。
教会に毎週行くとかそういう方向の敬虔ではなかったような気もしますが。

巨大な「最後の晩餐」は何を思ったか一枚のスクリーンに二枚刷ってあります。

というわけで、7階から1階まで降りてきて全部を見終わった訳ですが、
先入観で面白くないと決めつけてしまってすみません、と思いました。

彼の作品そのものよりもその人生を浮き彫りにするような展示が多く、
実に興味深くて、またいろんなろくでもないことを考えさせられました。

ピッツバーグにくると、こういう売店に必ずある
「ミスターロジャース」のグッズ。
晩年を過ごしたのがピッツバーグだったということのようです。 

「ミスターロジャースのネイバーフッド」という番組は、
わたしたちがアメリカに住んでいた頃放映されていたので
MKと一緒にわたしもずっと観ていました。

亡くなったとき、「アメリカの一番良い人」と言われていたのが忘れられません。

ヘリング、バスキアがゲイだった関係か、
LGBTについて理解を深めるための絵本があったりします。

しかし、「子供のためのゲイとレズビアンの歴史」っていうのも
すごいタイトルだなあと思ったり。
ちなみに表紙の写真一番左はハーヴェイ・ミルクですね。

わたしたちが住んでいた頃はまだ、面と向かって、

「あなたはゲイですか」

と聞くのはマナー違反だということになっていましたが、今はどうなんだろう。
ずいぶんその頃に比べるとオープンになってきたという気はしますが。

ここにきたら訪れたいリストの一つ、「ヌードルヘッド」にいきました。
「ヌードルヘッド」とは「ヌードル好きすぎて辛い」(意訳)という意味です。

わたしはいつものパッタイを頼みました。
ここの素晴らしいところは具に入れるものを鶏、エビ、肉から選べて、
さらに辛さをゼロから3までの段階で指定できることです。

わたしはこのときゼロと言ったはずなのですが、間違えたらしく
赤いものが混入していて結構辛かったです。

アメリカの飲食店はたくさん出てきますが、食べ残しても
紙パックをくれるので、持って帰ることができます。

この日のパッタイも次の日ホテルで加工して食べました。

また別の日、MKがお勧め?のアレゲニー川沿いの一角に行ってみました。
昔この辺を汽車が走っていた頃、生果卸売市場があったところです。
ストリップ・ディストリクトといい、商店街になっています。

これはセント・スタニスラスチャーチというカトリック教会。
聖堂が建築されたのは1891年だそうです。

1月すぎても街にはこのようなキリスト生誕の人形があちこちにあります。

「キリストをクリスマスまでキープしてください」

と看板にありますが、過去いなくなったことがあるんでしょうか。

イタリア系移民がやっているピザレストランに期待して行ってみました。
ここのピザクラストはフワッフワでまるでパンのようです。
ちょっとトマトが酸味がきつかったですが、おいしかった!

続いて近くにあったお茶の専門店を覗いてみました。
信じられないほどの種類のフレーバーコーヒーの豆を売っていて、
紅茶の葉も扱っています。

店内でもお茶が飲めるので、わたしはカフェオレを飲みながら
紅茶の葉を物色し、ディカフェインのバニラティーというのを選びました。

ぶらっと街歩きで良いお店に出会えるのが気ままな旅行の醍醐味です。

 

続く。

 


ピッツバーグの "メリークリスマス"

2020-01-17 | アメリカ

新年早々アメリカに行ってまいりました。
今回の訪問先はペンシルバニア州ピッツバーグです。

お正月明けの 成田発だったので、仕事始めで高速が混むかも、
とお迎えの車にはいつも出発4時間前にきてもらうところ、
余裕を見て5時間前にしました。

ところが、高速はいつもよりガラガラです。

週末は帰国ラッシュだったはずなのに、どうも世間では
まだ仕事を始めていないものらしい。
7日から開始という職場が多かったのかな?

今回は諸般の事情により、往復共にプレミアムエコノミーという
フラットにならないまでもピッチが広いクラスで予約をしたのですが、
行きに機械でチェックインすると、ビジネスクラスに空きがあったので
マイレージを使ってアップグレードしました。

というわけで長い待ち時間もラウンジで過ごせます。
成田のユナイテッドのラウンジは初めてです。

ところで、受け付け機でアップグレードしたので、
手荷物預けをプレミアムクラスのカウンターでしようとしたら、
カウンター入り口前に立っていた日本人の年配女性係員が、

「ああ、エコノミーはこっち」

と馬鹿にしたような口調で阻止するわけですよ。

「ビジネスですけど」

というと、チケットを見て

「あー、じゃこっち。ごめんねえ」

謝ったもののこんな態度だったので、大抵の無礼には何も言わないMKが

「さっきのなにあれ」

と呆れたようにいいました。

プレミアムクラスは機械受け付けなど通さずにカウンターに行くので、
エコノミー客だと思われたのでしょうが、ANAでもJALでも
内心どう思っていようと客にあんな態度を取る地上係員はおらんぞ。

 

手荷物検査の係員の若い女性にもちょっとこれはどうか、な人がいました。

流した籠から荷物をピックアップしていると、前で睨みながら待っていて、
いかにももたもたしてんなよこっちゃ忙しんだ的なオーラを放ってくるので、
(ラインはガラガラ)その態度にカチンとしながら荷物を取り上げると、
次の瞬間籠を奪うように乱暴に抜き取るわけ。

なんだこいつ、とあらためてご尊顔を拝見すると、物凄い顔で
ぎりぎりっと睨み返してきて、こえ〜〜〜となった次第です。

お正月死ぬほど働かされてキレていたのかもしれんね。

ユナイテッドの国際線ビジネスに乗るのは初めてです。
ユナイテッドではプレミアムシートを「ポラリス」と称していて、
シカゴ空港にあるラウンジと同じ名前です。

小物を収納できる棚の中には水のボトルが用意されていました。
ANAと違ってコンセントがわかりやすいところにあって使いやすそう。

ビジネスクラスでもらえるポーチに何が入っているかは
航空会社によって違いますし、ポーチのデザインも毎回代わります。

今回のユナイテッドはスターウォーズとタイアップ。
ポーチの中の靴下はスターウォーズ的デザインでした。

紙ナプキンにすらスターウォーズが。

食事はなかなかおいしかったです。
わたしの座ったのは直前で取った席なので、ビジネスクラスの
一番後方の席(プレミアムエコノミーの前)だったせいか、
注文を聞きにきたときには肉、鶏、魚の肉は品切れでした。
(隣の人がステーキを頼んで断られていた)

飛行機の中でアイスクリームは食べない、と決めていたのですが、
紙カップではなくボウル入りのアイスにトッピングを選べるワゴンが回ってきたので、
誘惑に負けていちごソースがけを頼んでしまいました。

ちなみにMKはエコノミーでしたが、3人がけの真ん中で、
ほとんど後ろに倒れない小さな座席だったそうで、

「真ん中だからフライトの間一回トイレに行っただけ。腰が痛い」

と後で泣き言を言っていました。

さて、ピッツバーグに到着したのは夜9時だったので、
その日は空港近くのホテルに一泊し、次の日からは
市内のレジデンスイン・バイ・マリオットに移動しました。

気温は昼間でも1度くらいなので、テラスに人影はなし。
滞在中何度かタバコを吸いに出ている人の姿を見ました。

こちらはテラスは同じですが、全く別のビルで、実は養老院です。
何日かは時差ぼけもあって朝4時くらいに起きていたのですが、
毎日必ずその時間に灯をつけてテレビを見ている部屋がありました。

お年寄りなんで早く起きてもすることがなくテレビを見てるんでしょうか。
こちらからは画面しか見えませんでしたが、いつ見ても画面が白黒で、
もしかしたら古い映画を放映するチャンネルをつけっぱにしているのかと思ったり。

というわたしも、PCをしながらテレビをつけてみました。
朝4時にやっている番組ってどんなだろう。

フォックスチャンネルで、お料理教室みたいなのをやっています。
なんとこれ、「ザ・ドクターズ」というトークショーの一場面でした。
もう放映されて12年になろうとするロングランで、医療専門家を招き
専門的な話からプライベートから、語っていただきましょうという番組。

このコーナーでは、ゲストのドクターの得意料理?あるいは
健康のため取っているものを作ってもらいましょうというもの。

左側の若い男性、トラビス・ストークは番組のホストで自身も救急救命医です。
こんな番組で司会をしているくらいだからたいした医者じゃないんだろうと思いきや
デューク大を優秀な成績で卒業し、バージニア大でメディカルの学位を取得、
普通に医者としても優秀で、身長193センチのイケメンという、
医療ドラマに出てきそうな医者、かつトークもうまく賞ももらっているとか。

一番右側の男性が「今日のゲスト」ドクターのようですね。

トークショーのメインである「ドクターの処方箋」コーナー。
ここでゲストの医療に関する取り組みなどを伺います。

真ん中のアシスタントは代替わりしていますが、かつては
ここにも女性医師を据えていた時代があったんだそうです。

「健康のためにはヘルシーなスナックを少しだけ食べること」

なんて言葉になぜか瞳を輝かせていますが、それよりもわたしが気になったのは、
スタジオでかぶりつき、熱心に見学している一団が、全員女性、
しかもこのような気合の入りまくった若い女性ばかりだったこと。

うーん・・・これはストーク博士のおっかけなのか?

それも終わると、今度はテレビ法廷番組、
「アメリカズ・コート・ウィズ・ジャッジ・ロス」

アメリカのテレビ番組は、こういった「絵になる」判事が
番組上で一般人の訴訟を扱うリアルな法廷ショーがたくさんありますが、
これもその一つ。

彼、ロス判事は引退した元判事で、番組そのものは正式な法廷ではありませんが、
当事者の了解のもとで下された判決は実際に法的拘束力を持っています。

しかし驚くのは、医者といい判事といい、こんな人材が
次から次へと現れてくるアメリカの人間の層の厚さです。

今日の原告はこの人。なんかすごい怒っているっぽい。

訴えられているのはなんと尼さん二人だ。
ちゃんと見なかったので詳しい事はわかりませんが、
女性がチャリティーで何かをしたことに対して
この二人の尼僧が取った行動に問題があったとかなんとか。

まあ、他人にとってはどうでもいい話ですが、そういう
少額訴訟を扱うのもこの手の番組の特色です。
額の問題ではなく、人間関係のドロドロ、変わった訴訟が好まれるようです。

このケースのポイントは、「尼さんが訴えられた」だと思うんだな。

ペンシルバニア州はわりと銃規制が緩く、長銃についても
拳銃についても州による規制はありません。

この日は、だれかが銃撃したのでそれが原因で
車が横転事故をおこし、3人が病院に搬送されたようです。

 

そういえば余談ですが、MKの在学している大学で起こった事件。
中国からの留学生が(とんでもない金持ちだったらしい)
何を思ったかピストルを購入しようとガンショップに行ったそうです。

お店の人は外国人なのにもかかわらず売ってしまいました。
銃の販売先は当然書類でお上に報告がされることになります。

すぐに学校にCIAが現われて(全員サングラスに黒スーツだったらしい)
大騒ぎになり、留学生は即刻退学処分になり、
当然のことながら強制帰国させられたということでした。

彼は今後アメリカに入国することすらできなくなったわけです。

さて、アメリカでも連日ゴーンのことが報じられています。
ちょうどこのときは日本から逃走後、初めて公の場に
姿を現したときでした。

「Great Escape」というのはスティーブマックイーンの
「大脱走」とかけているだけで、深い意味はありません。
(もしかしたら相手が日本なので『進撃の巨人』かも?)

どうもアメリカ人はこの件を野次馬的に面白がっている模様。

これはその時の会見の様子でしょうか。
偏見抜きにしても人相が悪いですよねこの人。

「Lavish」というのは「贅沢な」という意味で、ゴーン前会長が
日産のお金で贅沢な生活を(”シャチョー号”とかね)恣にしていた、
ということを説明しています。

やっぱり世界中のどこも、あのベルサイユ宮殿の結婚式
(しかも糟糠の妻を捨てて再婚)には冷淡というか冷笑的だなと(笑)

 

実はゴーン氏の子供のうち一人はMKと同じ学校を卒業しているので、
うちにはカルロスゴーンの写真が載った卒業アルバムがあります。
(この卒アルは毎年幼稚園から高校生まで掲載され、卒業生が一人1ページ、
プライベートな写真を貼って家族や友人への感謝を表すということになっている)

その頃はゴーンさんは多くの日本人から愛されていたと思いますが、
同じ頃にサッカー日本チームの監督だったトルシエ氏と、
日本で活躍するフランス人同士ということで
会談が持ちかけられると、
あからさまにトルシエを馬鹿にして断った
と言う話を聞いて、
やっぱりそんな人だったんだと妙に納得した覚えがあります。

日本語も絶対に覚えようとしなかったと言うし、おそらく
日本人を基本的に蔑んでいたんでしょうね。
これは彼自身がフランスで移民として「蔑まれる」側にいたことと
無関係ではないと思います。

ゴーン氏は、わたしが骨折するまで通っていた乗馬クラブに
ときどききていたそうですし、MKの学校では一度、
講演会も行っているのですが、ついに実物は見ないままでした。

ここにきたら食べたいものリストの一つ、
ユダヤ人街にある人気のベーグルショップの
ハラペーニョ入りチーズクリームのセサミベーグルを買いにいきました。

ハラペーニョが入っているのに、激辛などではなく、
独特の香ばしい香りがしてこれが滅法美味しいのです。

夏場散歩をしたシェンリー公園の同じ場所で車を止めて
朝ごはんがわりにベーグルをいただきました。

夏には全く見えなかった「サーペンタイン・ロード」(蛇通り)が
冬になって樹々が裸になり一望できるようになっています。

夏に訪れた有名なフィップス植物園。

ここのショップで買った石鹸がものすごく好みの匂いだったので
もう一度と思ったのですが、もうすでに扱っていませんでした。

そのかわり、前回家族全員に好評だったルバーブといちごのジャムを見つけ、
日本にお土産に買って帰ることにしました。

あとTOから頼まれたのはシリカ(鉱物)のロールオンデオドラント。
持ち歩きには重いけど、結構効き目があるそうです。

アメリカでは1月過ぎにはまだクリスマスツリーが飾ってあります。

冒頭の家全体をラッピングしたようなデコレーションも
ホリデーシーズンの演出なのですが、(どうやってあるのか何度見てもわからなかった)
いつ片付けるという日は決まっておらず、だいたい2週間くらいが目安ではないか、
とわたしは思っています。

最近、アメリカではポリコレやなんやかんやで、メリークリスマスは祝えず、
ハッピーホリデーとしかいえない、などという噂も日本ではあるようですが、
街角ごとにキリスト教の教会がある古い街では、普通に「メリークリスマス」です。

多民族国家になってもアメリカは基本キリスト教国ですからね。

 

続く。

 


映画「戦場にながれる歌」〜”ロングサイン”と”星条旗よ永遠なれ”

2020-01-16 | 映画

冒頭画像にタイトルを「戦場に流れる歌」と書いてきましたが、
ここに至って本当は「戦場にながれる歌」だったことが判明しました。
漢字にするか平仮名にするかの選択は創作者の強い意図だと尊重し、
タイトルだけはなんとか訂正しましたが、画像はそういうわけにもいかず、
「流れる」のままになっていることをご了承ください。

捕虜としての労働は過酷なものでした。

「ニッポンジン、レイジーバスタード!」(怠け者野郎)
と罵られながら行う野外での重労働。

片目をやられた小沼中尉も捕虜としての身を託っております。
こんな姿に身をやつしていてもイケメンですが。

一旦移動させたドラム缶を元に戻させる、というような
「シーシュポスの神話」みたいな命令をされても、

「イエス!」

と絞り出すように返事をする小沼中尉でした。

 

捕虜たちはとにかく飢えていました。
アメリカ軍はそれなりに糧食を与えたと思うのですが、そこはそれ、

残飯から拾ってきた魚の頭を焼いて食べるなどということになると、
皆目の色が変わるわけです。

タバコと交換してもらえないので、この兵隊は目の前の魚の頭をひったくり、
怒った持ち主にシャベルで殴り殺されてしまいます。

(-人-)ナムー

ゴミの山の中にはさりげなく人間の脚が混じっていたり。

それを見て息を飲むテナーサックスの芦原

同じくトロンボーンの千田伍長

こちら、チューバの青田とトロンボーンの多胡。(東銀長太郎)
米兵のパイ缶を盗みだすことに成功。

むさぼり喰っていると、

「Hey, you! Is it good?」

罰として「私は缶詰泥棒です」と書いたダンボールを背負わされ、
空き缶ぶら下げて基地内を練り歩かされることに。

船長の昼ごはんのうどんをこぼした猫を思い出した。

猫と違うのは、こちらは各部署でサインをもらってこなくてはいけないこと。

アメリカさん結構楽しんでるだろ〜。

このシーンでは、後ろに米軍の放送として、英語で東條英機はじめ
A級戦犯への連合国の裁判の訴追内容を報じるラジオの音声が聴こえます。

その時、田胡が米兵の荷物にトランペットを発見しました。

一瞬にして目で合図し、合意成立。

変な踊り(どじょうすくい)で一人が目を引いている間に、
トランペットをパクっちまおうという作戦です。

「おーい!トランペットだぞ!日本の歌を吹いてくれ!」

彼らがトランペットを鈴木に渡すと、彼は一瞬息を飲むようにして受け取り、
日本のメロディを吹き始めます。

♬ 出船

「今宵 出船か お名残惜しや 暗い波間に 雪が降る」

メロディの流れる中、涙を流す兵隊も。

皆が息を飲んで日本の歌に聴きいりますが・・。

音楽に苛立つ人も。

「てめえみたいなチンドン屋が日本を滅ぼしたんだ!てめえらが何をしたんだ」

「人を殺すだけが戦争じゃない」

しかし、彼はトランペットを踏み潰してしまいます。

ゴミ処理場で働かされていた軍楽隊、一人がビンを拾って音を出すと、

たちまちそこにいた何人かが音程の様々なビンを手にして合奏するという
ミュージカル展開に(笑)

♩ 夕焼け小焼け

米兵の監視はなかったんでしょうかね。

こちら小沼中尉、砂浜に空き缶を埋めて演奏するのは

♪ ふるさと

おっと、聴こえてくる音はどう聞いてもバイブラフォーンです。

「どうしてこの前まで一緒に戦っていた日本人同時が憎しみ合うんだ。
今こそ音楽が必要なんだ」

日本人捕虜同士で殴り合いの喧嘩は当たり前。
ついに崖の上からそのうち一人が転がり落ちて死ぬという事故が起こりました。

皆が駆けつけてくる中、絶望的な目をしてそれを見守る捕虜たち。

その時です。
機械の立てる騒音に紛れて音楽が聴こえてくるではありませんか。

「おい!」

「どうした」

「聴こえないか?」

「何が?」

「トランペットの音!」

「聴こえる!聴こえる!」

「トロンボーンの音!」

「軍楽隊だ!」

「行こう!」

皆、シャベルを放り出して駆けていきます。
あのー、捕虜の監視は一体・・・。

音が聴こえてくる方向に彼らが浜辺を駆けていくと、海辺から見上げる
崖の上で、米軍軍楽隊が演奏していました。

ロケ地は横須賀とか・・・・?

♪星条旗よ永遠なれ

貪るように音を聴きながら、ただ上を眺めている彼ら。

軍楽隊である彼らが今もっとも飢(かつ)えていたものは、軍楽の調べだったのです。

このシーン、在日米陸軍音楽隊が特別出演しております。

彼らの顔は輝き、ある者は涙ぐみながらかつての敵国の「第二の国歌」を聴いています。

恥ずかしながら、このわたしも、このシーンで聴く「スターズアンドストライプス」の
破壊力にはあらがうこともできず、落涙してしまったことを告白します。

チューバのもっとも目立つフレーズでは、下で聴いていた青田、思わず
息を吹き込むような表情をしてしまいます(冒頭挿絵)

ここで写真を点検していてわたしは発見してしまいました。
彼らの左肩についている鳥居のエンブレムに(笑)

多分キャンプ座間からエキストラに呼んだのだと思います。

チンドン屋出身鷲尾は、合わせてクラリネットを吹くポーズをとりますが、
しっかり腰が揺れております。

音楽を聴きながら彼らの瞳に戻ってくる生気。

今ではもうこの人たちも現役ではありません。
このとき演奏した米陸軍軍楽隊のメンバーは、故郷に帰り
余生を送っているか、あるいはもうこの世を去ったかもしれません。

この演奏スタイルがやたらカッコイイ大太鼓奏者も。

彼らは矢も盾もたまらず、投降前に楽器を隠しておいた場所に走っていきました。
どうやって捕虜がそこに行けるのか?とかツッコんではいけません。

そして、土の中から楽器を掘り出して手に取ります。

こんな状態なのに、米軍が一曲終わるまでには楽器は全て使用可能になっていますが、
これも深くツッコんではいけません。

「星条旗よ永遠なれ」は、いつの間にか彼らの頭の中で
「陸軍分列行進曲」に変わっていました。

全員がスタンバイOKとなり(主人公の太鼓は流石に無理だったようですが)
加山雄三の隊長が、トランペットで

♪ 蛍の光 (オウルド・ロング・サイン)

のメロディを吹き始めます。

小沼中尉は確か打楽器奏者と言っていた気がしますが、まあイイや。

半分欠けた状態なのに朗々とエコー付きで響き渡るトランペットの音。

次のフレーズから、サックスが低音パートをつけ始めるという有能さ。

全員がこれに加わろうとしたその時。
崖の上からそれに和する吹奏楽の響きが降ってきました。

丘の上で演奏していた在日米陸軍軍楽隊のみなさんが、一緒に演奏していたのです!

日米双方の軍楽隊が共に奏でる一つのメロディ。
捕虜収容所の皆はいつの間にかそれに耳を傾けていました。

日本軍の捕虜も、米軍の監視たちも・・・。

その瞬間すべての人々が手を止めて聞き入っていました。

そんな捕虜の一人にあっと驚く大物がいました。

役名は「伍長」で名前もありませんが、あの小林桂樹です。
小林はその音楽を聴き、何事かを思うように目を潤ませます。

捕虜同士の喧嘩になった時、楽器を踏み潰した兵隊が言った、

「日本なんかもうどうなっても構うもんか。
俺たちはどうせもう生きてなんか帰れないんだ」

という投げやりな言葉を、音楽が否定したのかもしれません。

ラッキーストライクの殻が落ちている海辺を歩いていく
一人の男(これが誰かはわからない)の姿で映画は終了します。

太平洋の彼方を見据える男の後ろ姿。
音楽によって彼の裡には故国への想いと、帰郷への希望が生まれたに違いありません。

捕虜がどうして監視に咎められることもなく海に入っているのかは謎ですが。

 

最後に、団伊玖磨氏の証言によると、戦後、多くの元軍楽隊員は
米軍基地や米兵用キャバレーでジャズを演奏するようになりました。
その豹変ぶりは団氏を驚かせるに十分であった、ということです。

ただし、皆がアメリカ人の厳しい演奏要求に答えられたわけではなく、
その中で生き残った実力派は、戦後日本のジャズの「祖」となりました。

海軍音楽隊出身の原信夫氏(シャープスアンドフラッツ指揮者)などもその一人です。
ちなみに原氏は1926年生まれ。2020年1月現在93歳でご健在です。

 

終わり。

 


映画「戦場にながれる歌」〜”命ヲ捨テテ”

2020-01-14 | 映画

北支戦線での戦闘において戦死した者の慰霊式が行われることになりました。

♬命ヲ捨テテ

彼らは戦友の亡骸を荼毘に付す葬送で、「命ヲ捨テテ」を演奏します。
戸山学校での遺骨の出迎えの時にこの曲を使わなかったわけはこれでした。

弔銃発射に続き、荘厳な儀礼曲が奏楽されます。

まさか同じ軍楽隊員を早々に演奏で見送ることになるとは
誰も思っていなかったはずです。

クラリネットのチンドン屋出身鷲尾。

相撲取り出身の青田。

クラリネットの新井准尉。北支での隊長です。

トロンボーンの安田上等兵

トランペットの毛利上等兵小川安三が演じています。

いろんな映画に出演した脇役で、「海底軍艦」ではムウ帝国人(笑)、
「今日も我大空にあり」では郵便屋、「太平洋奇跡の作戦 キスカ」では
砲撃兵、「日本のいちばん長い日」では巡査役、「日本海大海戦」では
サバニ船で敵艦の存在を知らせた久松五勇士の一人を演じました。

「死にたくないから軍楽兵を志願した」

と言っていたフルートの中平はこの戦闘で戦死しました。

「中平の馬鹿野郎。
あんなに死にたくない生きて帰るんだって言ってたやつが・・」

「命ヲ捨テテ」が礼式曲として制定されたのは明治25年。
真珠湾の九軍神の遺髪が帰国した時も、同曲が演奏されましたし、
記録にはありませんがおそらく山本五十六大将の葬儀でもそうだったでしょう。

軍神や元帥だけでなく、名もなき兵士であっても等しく戦死者は
この曲をもって送られました。 

 

さて、前回も指摘したように、本作では、
中国人が日本人に向ける敵意がどこまでも執拗なまでに強調されます。

♩愛国の花

を演奏し「宣撫工作」を行う音楽隊ですが、

彼らが行ってしまうとぞろぞろと立ち去ったその壁には・・・、

はい、こんなスローガンが(笑)

道中、牛さんの群れに遭遇し、追い払うために楽器をフル活用する音楽隊。

雪深い農村で車のシャフトが破損し、足止めを余儀なくされた御一行様。
大事な楽器を雪の斜面で転がしてしまうというアクシデントもあり。

近くの民家に助けを求めに行くと、なんとこんな人が出てきてびっくり。

この中国人が雪深い田舎の一軒家でなぜ京劇の化粧をしているのか謎ですが、
それよりもこれを演じているのが森繁久弥ってんでこちらがびっくりです。

森繁久弥、スッピンで顔出しできない理由でもあったんでしょうか。

娘も、田舎の雪に埋もれた一軒家で父親と二人きりなのにバッチリ化粧をして
イヤリングやリボンをつけているという謎。

現れた娘の婚約者に、二人を人質にしてシャフトを買いに行かせている間、
京劇おやじは(どうやってそんなことを知ったのかは謎ですが)、

「あんたたち日本兵は南京で罪もない2万人の人を殺しました」

などと言って日本兵を責めたりします。

東京裁判で松井石根が訴追された原因の一つ、いわゆる「南京事件」が、
当時どのように世間に認識されていたことがわかるセリフです。

この6年後、朝日新聞に本多勝一の「中国の旅」が連載され、そのあまりの内容に
朝日新聞の読者ですら違和感を覚えて(特に当時は戦争に行った人もたくさんいた)
抗議が殺到したそうですが、朝日新聞はこれを一切否定せず今に至ります。

その後中国にこれを政治カードとして利用され続け、彼らの主張する犠牲者数は30万人、
すでに当時の南京市の人口を超えてとどまるところを知りません(笑)

脅迫されながらも約束どおりシャフトを手に入れてくれた娘の婚約者に
疑った軍楽兵たちが平謝りすると、婚約者はキリッと決め台詞を。

「あなたたちのためにやったのではない。私たちの幸せのためだ!」(`・ω・´)

無辜の中国人を殺しておいて、むやみに人を疑うなんて悪い日本兵たちよねー(棒)

彼らの出発直前、現地を離れる汽車を待つ間も、目の前で日本兵が
無益に中国人を殺しまくるというこれでもかのおまけ付き。

中国人たちの憎悪の目、仲間を暗殺され、爺さんの説教、そして匪賊と戦って仲間戦死。
軍楽隊にとっては一つもいいことがなかった「中国の旅」でした。

さて、ここでまたしても急展開。
新井隊は天津からいきなりフィリピンに配属されることになりました。

ここで彼らは、空襲で目をやられたという小沼中尉(加山雄三)に再会します。

トランペットの毛利上等兵は、小沼中尉の世話をしていた戦争孤児の
フォリピン人少女の服についていた大きな蜘蛛を取ってやったのを
娘に勘違いされ、いきなり頰を殴られますが、

彼女の美貌は毛利の心をも殴りつけることになりました(笑)

真理アンヌ、当時17歳。
どう見てもご本人の素性どおりインド系の容貌ですが、フィリピン人の設定です。
彼女はこの前年、「自転車泥棒」でデビューしたばかりでした。

その晩行われた演奏会は、フィリピン人の好きそうなラテンの曲メインです。

曲に合わせて踊り出す陽気な町の人々の影から、トランペットを演奏する
毛利上等兵をじっと見つめる娘の姿がありました。

ところで、北支にいた音楽隊がフィリピンに直接転属というのは
どうも無理のある設定に思えるのですが、どうしてこうなったかというと、
おそらくですが、中国戦線で日本軍が悪辣だった、ということを強調しすぎて
ロマンス的な要素を入れにくくなったからではないでしょうか。

松山監督は中国人女性を被害者としてのみ描くことに執着していたようで、
彼女らの一人が鬼畜のような殺人集団である日本兵と恋に落ちては、
中国で日本軍が悪いことをしたという表現に水を差すことになります。

それから、後半アメリカ軍の捕虜になるという展開を思いついたので、
どこか太平洋戦線に舞台を移す必要があったんですね。

さて、その後、どうやってコミニュケーションを取ったのか謎ですが、
毛利と娘の仲は人のいない海辺でデートをするまでに進展しております。

彼らのセリフは一言もなく、映像だけでその淡い恋が描かれます。

が、映画的に見ると、こういうのは「フラグ」というんですね。ええ。

小沼隊長が25名の隊員を集めて訓示を行いました。
彼らは音楽隊としての使命を終え、これからは迫撃砲小隊に加わって戦闘を行うのです。

シンガポールなど他の太平洋戦線に派遣された音楽隊は全て玉砕したことが伝えられ、
伝令によって予定されていた最後の演奏会も出撃のため中止になることが判明します。

 

移動途中で激しい攻撃に遭う音楽隊、いや今や迫撃砲小隊。
迫撃砲なんて一体どこにあるんだ状態なわけですが。

このシーンは、さっきまで俳優が顔を出していた部分を爆発で吹っ飛ばすという
大掛かりなセットで撮られています。

そこでフラグが立った毛利上等兵、戦死し二階級特進。
なぜなら彼らは迫撃砲に編入される段階ですでに一階級ずつ昇進していたからです。

呆然と顔を見合わせる残りの軍楽兵たち。

この後、転がる日本兵の無残な遺体を見ながら進んでいきます。

いく先々で水漬く屍草生す屍を目撃し、絶望が支配し始めた一行が
海辺に到着したとき、彼らの耳に音楽が聴こえてきました。

 

♩アヴェ・マリア シューベルト作曲

まるで地獄のような世界に突如降り注いだ天上の調べに、
軍楽隊員たちは衝撃を受けて思わず立ち止まりました。

チェロとピアノによる「アヴェ・マリア」。

彼らが今いるこの地獄のような戦場で聴くには
あまりにも現実離れした、天上から降り注ぐようなその響きは
彼らを呆然とさせるのに十分でした。

その音は天上からではなく、海上から聞こえてきます。

アメリカ軍の船が、逃げ隠れしている日本兵に投降を呼びかける
宣撫工作を行っていたのです。

「日本の兵隊さん 戦争は終わりました

マネラはもちろんコレヒドーの要塞も落ちました

むいきな抵抗は やみましょう

アンメリカは 捕虜になった人を殺しません

ふにで日本に送ります

日本では おとさんやおかさんが あなたのかえいを待っています

今からでもおっそくない むいきな抵抗は やみましょう」

というわけで彼らは投降し、捕虜と呼ばれる身になったわけです。

軍楽隊が捕虜になったことをどうして知っているのか、
毛利上等兵を好きだったフィリピン娘は、収容所の柵の外から
ブーゲンビリアの花を持って彼の姿を探し続けていました。

音声はありませんが、彼女の口は

「モウリ」「モウリ」

とつぶやいているのがわかります。

しかし、捕虜になって労働をする軍楽隊の中に、彼の姿はついに見つかりません。

娘は毛利の運命を察して、思い出の浜辺に一人佇むのでした(´;ω;`)

 

 

続く。

 


映画「戦場にながれる歌」〜北支の”愛国行進曲”

2020-01-13 | 映画

陸軍戸山学校時代の団伊玖磨と芥川也寸志が肩を組んでいる写真を見つけ、
絵を書かせていただきました。

カコミはそれぞれの約10年後といった感じでしょうか。
お互い第一線の作曲家として活躍していた頃とはいえ、
このヨレヨレの服にメガネの少年のその後とは思えない洗練ぶりですね。

 

作曲家団伊玖磨の随筆をもとに書かれているこの脚本ですが、
それは昨日までの戸山学校でのた訓練生活までで、団も同級生の芥川も
昭和20年の6月に教育期間を終え、そのあとは終戦まで内地にいたため、
映画のように戦地に出ることなく上等兵とかせしての生活を終わっています。

4月には戸山学校が空襲で全焼したため、浅草に移転したあとは、
団も芥川も演奏ではなく吹奏楽の編曲ばかりをやらされていました。

二人は作曲科でしたので、これはありがたいばかりか、
大変やり甲斐のある楽しい軍楽兵生活だったのではないかと思われます。
演奏がなければ殴られることも少ないわけですしね。

東京中が空襲で焼け野原になり、音楽どころではなくなってくると、
皆は畑を作り、東京湾で貝を取かり、千葉方面に闇の買い出し、
というのが陸軍軍楽隊の任務になり、練習場はあたかも
集団農場のようになっていきました。

そして畑がもう少しで収穫できるという直前、戦争は終わりました。

 

つまり、この映画の次のパート「軍楽兵の見た戦争」の内容は、
団伊玖磨の体験ではないことをまずお断りしておきましょう。

 

♩ 軽騎兵序曲

パート練習していた「軽騎兵序曲」がやっと形になりました。

演奏シーンにはほとんどが実際の奏者がエキストラで出演しているようで、
そのところどころに俳優が混じっている状態。

撮影にあたっては、俳優のほとんどが楽器は未経験だったそうですが、
撮影1ヶ月前からNHK交響楽団の団員に指導を仰ぎ、
各自がそれらしく見えるように猛練習をして臨んだということです。

このシーンでも、一瞬だけとはいえ、指などの動きは完璧にシンクロしてます。
児玉清のスネアドラムもぴったり本職と揃っていました。

 

♪ 陸軍分列行進曲

ここまでが、「立ったまま演奏する練習」。
ここからは、行進しながら演奏をする段階です。
最初なので、楽器がくわえられなかったりつまづいたり、
楽器を隣の人に当てたり(トロンボーン)とトラブル発生。

「陸軍分列行進曲」を演奏しながら歩く隊員たちのシーンですが、
真ん中で二人話しながら立っている人、隊長と中隊長は一体何を・・・?

山本音楽隊長を演じるのは加東大介。

「アブラゲはね、焼いて大根つけて食べるのがこれ一番旨いよ」

「そらうまそうですね。今晩やってみましょう」(大真面目)

全体的にシリアスな展開の映画で謎のシーンです。

訓練期間の8ヶ月が終了しました。
本来なら2年かかる教育を短縮し、楽器を持つところからなんとか、
行進しつつ音楽を奏でるレベルにこぎつけたのです。

「諸君は恒例により全教官と共に九段の靖国神社より市内の繁華街を通り、
宮城前へ向かって大演奏行進を行う!」

♬ 行進曲「青年」

「この行進は諸君の技術・学術の総決算であるばかりでなく、
市民の士気を高揚する重大な任務を持つものである」

靖国神社の拝殿から出発。

チューバのはずがいつの間にかスーザフォンに変わっている青田。

山門を出たところで転びますが、俳優さんは結構怖かったと思います。

相撲部屋から親方と弟子たちも応援に来ているよ。

「あいつ番付に乗ったんだな!」

靖国の参道両側を埋め尽くす割烹着と日本の旗の波。

ドラムメジャーは加東大介ですが、歩くだけで何もしていません。

大村益次郎の像をバックに。
この大村益次郎像は双眼鏡を持ち、自分が指揮をとって彰義隊と戦い、
これを鎮圧した上野公園の方角を見るように立っています。

人波の中を、太鼓を叩く婚約者三条を追いかけて走っていく美津子。
藤山陽子が演じています。

海底軍艦で神宮寺大佐の娘をやってた人ですよね。

音楽隊が行進する街にはなぜか紙吹雪が舞い、窓窓には標語が・・・。
幾ら何でもこんな大仰なイベントだったんでしょうか。

5月27日の海軍行進は風物詩として都民に親しまれていたそうですが。

この行進が行われたのは、19年10月に入隊した団伊玖磨の回想録によれば、
20年の2月で、「分列行進曲」ができるようになったのは1月ごろでした。

陸軍戸山音楽隊は、3月10日の東京大空襲の翌日、都民の士気を鼓舞すべく、
焼け跡を演奏行進したそうですが、それを聴いて心が慰められた人よりも
苛立った人の方が多かったらしく、市民からはレンガを投げつけられたそうです。

 

さて、映画ではこの演奏行進のあと、軍楽隊は北支戦線に出征することになりました。

 

北支に派遣された彼らが見たものは、中国人を暴虐のままに扱う
日本軍の姿でした。

駅で荷物を運んでいた苦力が日本兵が殴られ、線路に落ちて汽車に轢かれたり、
便衣兵か民間人かわからないが夜中に民間人の格好をした中国人を銃殺する、
というシーンがいきなり続き、それを見る軍楽兵たちはドン引きします。

銃殺シーンではご丁寧にも射殺される中国人に

「マ〜〜〜〜〜!(お母さん)」

と叫ばせております。

昭和40年作品であること、監督の松山善三が、当時の「流行」でもあった、
日本軍の中国大陸での「悪行」を暴く的な正義感で書いたことがよくわかり、
わたしはこの部分から、あの「戦争と人間」と同じ匂いを嗅ぎ取りました。

(NHKは最近でも『坂の上の雲』義和団事件や高陞号事件でやらかしてますが)

特に中国での日本軍の行いを無条件で悪、中国人は被害者、
という決めつけのもとに執拗に一定の方向性をもって描写する姿勢は、
あの大左翼映画「大日本帝国」「戦争と人間」に通じるものがあります。

松山善三監督は団伊玖磨と一つ違いですが、終戦時医学生だったので
全く軍隊経験がなく、当然ながら外地での日本軍の所業というのも、
戦後に喧伝された媒体から採用したことばかりであることは
この映画を観るうえで知っておいたほうがいいかもしれません。

この作品が、戸山学校の訓練部分とそれ以降とでは全く雰囲気が代わり、
取ってつけたようにいきなり日本軍批判をする爺さんが現れたりするのも、
つまりそこを境に語り手が別人に交代するからなのです。

わずか10ヶ月とはいえ陸軍に入隊した団と、全く知らない松山の語る部分は、
圧倒的に前半にリアリティがあり、後半は絵に描いたような日本の悪魔化。
監督本人がそこまでアレだったかどうかはわかりませんが、この後半からは、
当時の多くの映画人がそうだったところのDUPESの匂いがします。

山村を車で認知まで移動中、ピータンを食べてお腹を壊した隊員(青田と鷲尾)が
用足しに出かけると、そこで日本軍の小隊に出くわします。

主演クラスの俳優を脇役に豪勢に使っている本作品ですが、その一人、佐藤充
山中で匪賊を待ち受けていたのに、音楽隊の出現で邪魔をされたとお怒りです。

♪ 愛国行進曲

北支の小さな村に着いた彼らは、早速そこで演奏会を行っていました。
そこで演奏されているのが長い前奏を持つ吹奏楽アレンジの「愛国行進曲」。
中国の山村の農民にはちょっとどうかなという選曲です。

ところがここで急展開。

この村人の中に抗日の兄妹プラス一人がいて、演奏を聴いていた日本兵に
女が微笑みかけて注意を引くや、兄が後ろから刺殺してしまいました。

何回見てもこの中国人たちの意図がわかりません。
こんなところでこっそり一人日本兵を殺して何がしたかったのか。

それに意味もなく兵を殺されたら、当然日本軍としても犯人を制圧しようとしますよね?

というわけで兵隊の銃が火を噴き、中国人たちは逃げ惑いますが、
射殺されたのはきっちり刺殺犯の男性二人のみ。

これってすげー日本軍優秀ってことじゃね?

ところが兄を射殺された犯人の女が遺体に取りすがって泣きながら言うんですよ。

「神様!どうしてこんな酷い目に合わなければならないのですか?」

はあ?ちょっと待てよ。
どうしてってそりゃあんたらが罪もない日本兵を刺し殺したからだろうが。
死んだ日本兵のセリフだよそれは。

「坂の上の雲」もそうでしたが、こういう制作物に共通するのは、徹底した
「日本軍は悪」「かわいそうな中国人無罪」という印象操作です。

今急に思い出しましたが、当時のアメリカでは、まさに

「かわいそうな中国人」

がパワーワードになっていたようですね。
誰かも書いていましたが、アメリカ人が中国にある種の動物を可愛がる的な意味の
同情を寄せていて、日中戦争に介入していったのは、あの宋美齢が
皆の前で泣いたりして日本への「懲罰」を求めたからだという説があります。

そしてまた、戦後の自虐史観においても、共産主義を礼賛する確信的左翼や
松山監督のようなデュープスは、一様に

「純粋で無垢で日本人に虐げられたかわいそうな中国人」

のイメージを再生産しては日本人に罪悪感を与えたとわたしは思っています。

というわけでもうこの辺でウンザリしてしまったのですが、めげずに続きを見ました。

この映画のトリッキーなところは、音楽隊は軍隊の一部ではあるが、
戦闘を行う、つまり中国人にとって恐ろしい相手ではなかった、
ということを強調しているこんなシーンでしょう。

中国語が堪能な伍長の無害アピールに信じられないものを見るような中国人たち。

つまり、本作品では軍楽隊は中国で殺戮をしまくっている日本軍とは
全く違う存在であり、むしろこれに戸惑い反発する『良心』であり、
言い方を変えれば戦争に巻き込まれた被害者であった、という色付けです。

彼らが北支に向かう道中見たのは、ただの山村で行われたらしい大規模な銃撃戦の痕でした。

「戦争と人間」では、日本軍が総力を挙げて小さな村の人々を皆殺しにしていましたが、
日本兵が死んでいることから、これは八路軍との戦闘だったようです。

音楽隊御一行様はここで匪賊に襲われ、逃げ惑いますが、
さすがお金がかかっているせいか、この爆破シーンがやたら派手です。

燃え盛る川(なんで?)を大脱走するという派手な展開に。

もう全滅か?という時、友軍が到着しましたが、この激しかった戦闘で
何人もの戦死者が出ました。

もちろん軍楽隊員の中にもです。

 

 

続く。

 

 


映画「戦場にながれる歌」〜國ノ鎮メ

2020-01-11 | 映画

 

ディアゴスティーニ配信の戦争映画シリーズには、音楽ものが2作あります。

一つが以前ここでも取り上げた古川緑波主演「音楽大進軍」で、
「我らがテノール」藤原義江始め、当時の日本の第一線音楽家が出演する
「慰問音楽団」をテーマにした映画でした。

本作「戦場にながれる歌」は、陸軍音楽隊を養成する陸軍戸山学校に入隊した新兵が、
殆ど初めて楽器を持つレベルから演奏可能にまでシゴかれて戦地に出征、
そして迎えた終戦後に捕虜となるまでを描いた本格的な軍楽隊映画です。

 

海軍音楽隊ものでは、日露戦争で「三笠」に乗り組んだ軍楽隊を描いた
沖田浩之主演「日本海大海戦 海ゆかば」を取り上げた事がありますが、
陸軍音楽隊映画を観たのははわたしにとっても初めてのこととなります。

♩行進曲「青年」

どう聴いても戦後の作曲という曲調のテーマで映画は始まります。
この「青年」という曲、iTunesの陸自行進曲集DVDに収められていて、
耳なじみだけはあったのですが、今回この映画のために作曲されたことを知りました。

作曲者は団伊玖磨
本作の脚本の骨子となったのは、戸山学校出身だった團伊玖磨のエッセイです。

それではまいりましょう。
昭和40年度芸術祭参加作品というせいか配役が異様に豪華です。

最初のシーンは、陸軍戸山学校軍楽隊に志願した新入隊者が、
雨の営庭に整列して最初の訓示を受けるところからなのですが、

音楽隊長小沼中尉を演じるのが当時人気絶頂だった加山雄三

クレジットも一番最初だし、ポスターにもでかでかと写真があるので、
誰でも加山が主人公だと思ってしまいますが、実はそうでもありません。

しかしこの頃の加山雄三ってとんでもないイケメンですよね。
加えて世紀の二枚目俳優の御曹司、ヨットを乗りこなし音楽の才能ありと、
(ディナーショーで自作のピアノ協奏曲のさわりを弾いているのを見た限りは

あながち嘘でもないと思った)当時はスーパースター的存在だったとか。

本作では加山は戸山学校の校長で陸軍中尉ですが、軍楽隊で士官になるには
かなりのキャリアが必要なはずで、それにしては若すぎないか、と思います。

音楽隊軍曹を演じるのは名古屋章

戸山学校入隊の日、楽器が決まっていない新兵には、軍曹が
名簿を見ながら適当に割り当て楽器を決めていきます。

え?軍楽隊に来る人の楽器が決まっていないってどういうこと?

そう、当時は今と違い、西洋楽器ができる者など滅多におらず、
軍楽隊員を募集したら、音楽学校の生徒以外はほとんどがアマチュア、
それどころか楽器など見たこともないようなのが混じっていたのです。

二瓶正也演じる鷲尾のようにチンドン屋でクラリネットを吹いていたという
「プロといえばプロ」という者ももちろんいましたが。


決め方は適当といえば適当だったようですが、身体の大きなものはチューバ、
歯並びが良いからフルート、といったように、ある程度適性は考慮していたようです。 

「作曲をやっておりました!」

この児玉清演じる主人公の三条孝が団伊玖磨という設定です。
団は東京音楽学校の作曲専攻学生でしたが、徴兵されるよりはと、
音楽で役に立てる軍楽隊を志願し戸山学校に入隊したのでした。

音大で団と同級生だった芥川也寸志も他14名の同級生と共に入隊し、
戦時中で8ヶ月に短縮された新兵訓練が終了した時には、
250名の中のトップの成績だったということです。(ちなみに団は4番)

「作曲う〜?あんなのは基地外のやることだ!打楽器!」

なぜ、とかどうして、とこの不条理に問い返すことはできない世界(笑)

映画には合いの手のようにところどころにこんな五線譜が現れます。
何かそれまでのシーンと関係あるのかと思って見ていましたが、
ほとんどはまっっっっったく関係ありませんでした。

新兵生活は何事も音楽の訓練、ということで歯磨きもランニングも4拍子で。
全てを指揮棒を見ながら行います。

下手すると自分の楽器の名前も知らない手合いがいるので、訓練は楽器の持ち方から。

楽器を持つこと一つとっても、軍隊式に怒鳴りつけられながらです。
右は教官役の桂小金治

管楽器というのは全くの初心者にとっては音を出すことすら難しいのです。

「風が吹いても鳴る」サクソフォーンや、クラリネットは比較的簡単に音は出ますが、
オーボエやホルンなどは息を思いっきり吹き込んでも鳴るものではありません。
(経験談)

トロンボーンで四苦八苦している田胡を演じるのは当今長太郎
「今日も我大空にあり」でフラれるパイロットを演じていた人ですね。

「この曲の音階名を言うてみい」

「ドーレーミーファー」

「このヤロー、ドレミファとはなんだ!軍楽隊では全てフランス語だ!」

(ソプラノで)「ユトーレーミーファー、やってみろ!」

いや、確かにフランス語のドレミでは

「ut re mi fa sol la ti 」

で、「ユト」を使うこともないではないですが、いくらフランス人でも
ドレミは普通にドレミだけどな。

余談ですが、なぜ「ド」が「ut」なのかというと、もともと音階は

Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve polluti
Labii reatum
Sancte Iohannes

というラテン語の聖ヨハネ賛歌の頭文字から取られているからです。
ユトって言いにくいのでドにしたんですね。

しかしなぜにフランス語?陸軍が軍隊の基礎をフランス式を導入したから?

当時日本はドイツイタリアと同盟だったのだから、イタリア式「ドレミ」か、
ドイツ式の「アーベーツェーデー」で全く問題なかったはずなんですが。

ちなみに日本の音大では、伝統的に音名にはドイツ語を使用します。
それだと例えばドミ♭ソの和音=ツェーエスゲーなどと瞬時に言えるからで、
もちろん三国同盟とはなんの関係もありません。

シャバで相撲取りだった青田は「大バス」を与えられました。
大バスとはチューバ、小バスはユーフォニウム、そして
スーザフォンはそのままスーザフォンと称しています。

スーザってアメリカ人なんですがいいんですか?

軍楽隊は戸外での演奏が主になるので、風が吹こうが雪が降ろうが、
常に営庭で立って練習が行われました。

教官を演じるのちの東京都知事、青島幸男
「いじわるばあさん」がハマり役になるのはこの後です。

 

ところで海軍軍楽隊の人が書いた追想記にも、

「時として練習室の壁が血で染まった」

(海軍は部屋の中で練習できたらしい)とありましたが、
間違えれば棒を持った教官に叩かれ、殴られ、蹴り倒されるのが当たり前。
団さん曰く、

「そのせいで上達は皆驚くほど早かった」

音楽ってそんなもんじゃないだろう?と今の感覚では誰しも思いますが、
恐怖心からくる必死さは案外早く結果を生むものなのかもしれません。

このせいなのかどうなのか、中村紘子氏が書いていたところによると、
昔は間違った生徒を「叩く」ピアノ教師というのが結構いたのです。
叩くといっても頰を殴打するのではなく、間違えた手をピシャッとやるのですが。

戦争映画の陸軍上等兵というと「いじめ役」というイメージですが、
この映画も、新兵をしごき、難癖をつけて殴る上等兵だらけです。

三条は婚約者の写真を私物点検で発見され、三連符の練習と称して

「三津子さん、三津子さん、タタタタン、タタタタン」

と言いながら太鼓を叩かされる羽目になりますが、
インテリにはこういういじめが一番堪えるんですよねえ・・・。

(ex. 映画『わだつみの声』

ちなみに児玉清、この短いシーンで絶望的なリズム感の無さを暴露していますが、
三条は作曲専攻という設定なんでこれはかえってリアリティあるかなと(笑)

 

♬ 國ノ鎮メ

新兵たちがようやく音階練習に入った頃、全員に呼集がかかりました。
戦地から軍楽隊員の遺骨が白木の箱に入って帰還したのです。

 

「國ノ鎮メ」は戦前から陸軍軍楽と海軍儀制曲に共通する儀礼曲で、
現在海上自衛隊では「命を捨てて」とともに慰霊の式にしばしば用いられています。

が、

実はこの曲、「今日の祭りの賑わいを」などという歌詞を見ても
お判りのように、もともと葬送曲ではなく、元始祭や新嘗祭など、
どちらかというとおめでたい皇室行事に用いられてきた曲なのです。

もし、軍楽隊員の遺骨が帰ってくるようなことがあれば、
その時には陸軍でも海軍でも
「命を捨てて」が演奏されたはずです。

なぜここでこちらが採用されたかは、映画後半で判明します。

画面には戦死した軍楽隊員の実際の遺品が映し出されます。

遺骨は満州から帰ってきたものでした。

「軍楽兵も戦死するんだな」

「俺たちにも手榴弾の投げ方とかもっと教えるべきだよな」

実際に戦死した軍楽兵の楽器の破片が遺品として存在するのかはともかく、
このシーンは軍楽兵を目指す彼らの衝撃をよく表していました。

彼らが呟いたように、実際にも、戦闘しないので死なずに済む、
と考えて軍楽隊に入隊した人も少なからずいたのです。

さて、場面は変わり。室内でのパート練習風景。
カメラは上から俯瞰で各部の練習の様子を映していきます。

彼らがパート練習を行なっている曲は、スッペ作曲「軽騎兵序曲」
曲のいろんな部分が聴こえてきてなかなか面白いシーンです。

チンドン屋出身の鷲尾は、ただでさえ現役のクセが抜けず、
クラリネットを吹くと腰がどうしても揺れてしまうと叱られているのに、
反省するどころか、開き直ってチンドン屋のレパートリーをふざけて吹き、
そんな態度に真面目にやっている同僚がブチ切れます。

「先輩が遺骨で帰ってきた日になんだ!」

たちまち全員が巻き込まれる乱闘騒ぎに。

早速軍曹がやってきて、まず喧嘩の当事者がきっちり殴られ、
原因を作った鷲尾はまず問題の流行歌を皆の前で吹かされます。

そして全員が楽器を上に抱え上げ、鷲尾の演奏に合わせて腰を振らされる羽目に。

楽器を上に抱えてずっとその姿勢を保つ、という日本の軍楽隊特有の罰直、
誰が考えたのか、陸海軍軍楽隊どちらもが行なっていたようですね。

小さなフルートだろうが大きなスーザフォンだろうが御構い無し。
この不条理が軍隊というものなのです。

全編通じて音楽と現れる譜面が一致していたのはここだけ。
音符もゆらゆら揺れていました。

ちなみにこの譜面、最後のドの音にタイを付け忘れています。
団伊玖磨はこの演出には全くタッチしてないな(笑)

さて、新兵たちが待ちに待った休暇がもらえることになりました。
軍曹が点検時に皆に行き先を聞くと、皆一様にこう答えます。

「東郷神社に行き、靖国神社で参拝を・・・・」

しかし、真面目に靖国参拝をしたのはトランペットの鈴木だけ。

あとは・・・

「ムフフ・・」「おい入るか」「よし」

若い男の考えることなんて似たようなものです。

女郎屋に入るなり∠( ̄^ ̄)∠( ̄^ ̄)∠( ̄^ ̄)

靖国神社に行くとおっしゃていた軍曹殿となぜかお店でバッティング。
(海軍じゃないのでコリジョンとは言いません)

さもなくば食い気。
相撲甚句が上手いので軍楽隊に入隊したという青田は、
古巣のの相撲部屋でちゃんこ鍋に舌鼓を打っていました。

親方「楽器はなんだ」

青田「大バスです」

親方「なんだおめえ、運転手やってるのか」

青田「バスじゃありません。大バスです。楽器です」

親方「もう番付乗ったのか?」

青田「軍楽隊に番付はありませんよう」

三条は婚約者の美津子さんとお花見・・・・なのですが、
行くところがなくて(´・ω・`)としていたので連れてきた
フルートの中平が一人で喋りまくってすげー邪魔。

中平は入隊一週間前に結婚式を挙げた男でした。
この男も、死にたくないからと軍楽隊に入ったクチです。

「あなたが死んだら私も死ぬ、なんて言われたらさ、
嘘とわかっていても気持ちがいいもんだぜえ」

三人がお花見している後ろでは、なぜか騎馬を行う音声が流れています。

「お前黙ってろよ。俺、美津子さんと話がしたいんだ」

邪険にする三条ですが、後日、この日を涙とともに思い出すことになるのでした。

 

続く。

 


軍艦香取征戦記念写真集〜特務士官と分隊

2020-01-10 | 海軍

さて、第一次世界大戦に参戦した日本がマリアナ諸島に派遣した「香取」。

わたしが偶然手にした写真集は、戦争が終結し、帰還した「香取」乗員
総員に記念として配られたものであったと思われます。

名簿の最初には、大正3年11月30日現在のものであるとあり、
これは「香取」が日本に帰国する5日前のステイタス、つまり
まさに征戦に参加したメンバーの名前が刻まれているとしています。

配られた何百冊もの「征戦記念写真集」のうち、失われることなく
令和の世になって奇しくもわたしの手元にやってきたこの一冊は、
間違いなく第一次世界大戦に参加した「誰か」が所有していたものです。

そして、わたしはその持ち主の手掛かりがうっすらとわかる書き込みを
辛うじて二箇所、見つけることができました。

まず、士官の名簿、楠岡準一中尉の名前の上に、

「分隊士」

と鉛筆で書かれています。
海軍の艦船は、何名かごとの分隊に分けられ、士官が
分隊士という名称の指揮官として割り振られていました。

楠岡中尉はガンルーム士官の最先任なので、おそらく、
彼の担当は第一分隊であったと想像されます。

つまりこの写真集の持ち主はこの中にいるということになりますね。

それにしても、海軍軍人に限らず、昔の人は写真を撮るとき
なぜか全くレンズと明後日の方を見る人が多いですね。
この写真でもなぜか前列の下士官が皆それをやっています。

こういう写真で笑うのはご法度だったらしく、誰一人として
楽しそうにしている人はいませんが、よくよく見ると、左下に
背中の後ろから手を回して、水兵さんを抱きかかえている
下士官がいたりします。(どちらも真顔)

第8分隊の人数を数えてみると、きっちり50名でした。
それにしてもこの分隊、誰一人としてレンズの方向を見ていないんですが、
特に二列目の下士官グループは、示し合わせたように海の方を向いています。

男がレンズを見てましてやにっこり笑う、なんてかっこ悪い、
という感覚の時代だったのかもしれません。

この第11分隊は38名、特に下士官グループの顔の角度が徹底してます(笑)
たまに海を見ていない人が(前列真ん中、二列目右から三人目)いますが、
その二人はなぜか全く逆の方向を見ていたりして・・・。
どういう意味があったんでしょうか。

 

それはともかく、分隊は全部で11あります。
士官次室士官、ガンルーム士官、つまり中尉と少尉は11人。
彼らが11個分隊の分隊士となったということでもあります。

そして、あの東郷平八郎元帥の息子、東郷實少尉が
分隊士を務めたのは、この第11分隊だったはずです。

 

写真集の最初にある乗員名簿は、これが即ち階級順となっています。
艦長から東郷少尉までの士官に続いては

「機関長」

として、機関中佐大須賀久以下機関将校7名。

「軍医長」

として軍医中監、中軍医、少軍医。
軍医の場合は、一般で言われているように「軍医中佐」ではなく
軍医中監、軍医中尉、軍医少尉ではなく中軍医、少軍医といいます。

そして

「主計長」

として海軍主計中監、軍医と同じように中主計、少主計。

それらが全部紹介されてから、初めて下士官となります。

 い

下士官の最高位、准士官として写真に写っているのは15名。
この中で勲章の数が多いのが兵科、機関科の兵曹長で、
全部で五名いました。
あとは上等兵曹、そして機関兵曹です。

 

持ち主が、兵学校出の士官より特務士官を深く尊敬していたのでは、
と思われる書き込みが准士官室の写真にありました。

特務士官各位(兵曹長)

熟練技術者

とわざわざ言わずもがなの解説をしているのを見て、
なんとなくそんな気がしただけですが・・・。

准士官、特務士官は、いずれも下士官兵から昇進した、
いわゆる「叩き上げ」の士官です。
叩き上げという言葉が泥臭すぎるというなら、現場で経験を積んだ
専門性を持ったベテランとでも言いましょうか。

軍艦の運用には高度な専門知識が各部に求められます。
装備品、機関、兵器のどの扱いも、「熟練技術者」が実質的な
運用の要(かなめ)となって初めて全てが上手く回るわけですが、
残念ながら帝国海軍は兵学校偏重が行き過ぎて、特務士官を
「スペシャル」からきた「スペ公」などという蔑称で呼び、
下に見る傾向があったのは恥ずべき因習だったと言えましょう。

その点アメリカ海軍は、CPOを完璧に士官とは別の、
専門技術集団として扱い、それなりの待遇と地位を与えていたので、
逆にCPOの方が実権を握ってブイブイ言わせていたようですね。

「ミッドウェイ」にもCPOのアイランドがちゃんとあって、そこは
彼らが逆に士官を揄して言うところの

「シルバーのフォークとナイフとナプキンでマナーのお稽古」

をするような仰々しさはないものの、彼らのプライドを満たすに十分な
立派な設備が用意されていましたし、そこにあった「クレド」?には、

「CPOは神である」

ということまで書かれていたものです。

「ミッドウェイ」のシステムは戦後のものですが、戦前もまた同じく、
戦艦「マサチューセッツ」には、CPOだけが使用できる特別食堂があり、
そこではちゃんと給仕がついてシルバーとナプキンで食事ができました。
やはり彼らの軍艦における待遇は大変良かったということを表します。

我が日本海軍のCPO、兵曹長、先任伍長は、その専門性の高さでいうと、
少尉や中尉が赤子とすれば大人というくらいの実力差でしたが、
袖に桜が三つつくこの軍服を着ているだけで軍隊では下級となります。

 

名簿の順番はこのあと、

一等兵曹 二等兵曹 三等兵曹

一等機関兵曹 二等機関兵曹 三頭機関兵曹

一等看護手 三等看護手

一等筆記 二等筆記 三等筆記

一等厨宰 二等厨宰 三等厨宰

一等水兵 二等水兵 等水兵 四等水兵

二等木工 三等木工

一等機関兵 二等機関兵 三等機関兵 四等機関兵

一等看護 二等看護

一等主計 二等主計 三等主計 四等主計

従僕 給仕 剃夫 割烹

一番下は民間人だと思われます。
理髪師のことを剃夫と言ったんですね。

 

ところで、阿部豊監督の映画「戦艦大和」で、出撃に際し、
「大和」を降ろされた年配の下士官に、若い士官が

「親父のような年齢のお前に命令することになってしまったが、
これも軍隊だ。許せ」

声をかけられた下士官は涙を堪えながら敬礼し、

「武運長久をお祈りいたします」

と答えるシーンがあります。

わたしが選ぶ戦争映画の名セリフのうちの一つですが、
これほど、士官と下士官における階級と実力経験のねじれという矛盾のなかに
生まれた互いへの尊敬と愛情を表す切ない会話はまたとないのではないでしょうか。

しかし、実際においてはそのような美しい関係は理想論に過ぎず、
士官が父親のような年齢の下士官を「スペ公」と呼ぶような
蔑視とそれに対する反感などが日常的に渦巻いていたのかもしれません。

この写真集の持ち主が、わざわざ特務士官の集合写真にこのように書き込んだのは、
やはり彼にもそういう海軍のあり方に対する反発があったからかもしれない、
と考えても、あながち間違いではないという気がします。


続く。

 


軍艦香取征戦記念写真集〜士官室士官、士官次室士官の肖像

2020-01-08 | 軍艦

さて、古書店で手に入れた「軍艦香取征戦記念」
「香取」が第一次世界大戦でマリアナ諸島に派遣された、
というところまでわかりました。

ついでに、第一次世界大戦についてさらっとおさらいでき、
さらには日本がどのような形で参戦に至ったのかあらためて確認しました。

今まで全く知識の及ばなかった分野なので、この写真集をきっかけとして
また色々と勉強できそうな気がして嬉しい限りです。

さて、アルバムを開くと、昔の装丁らしくなぜか薄紙が二枚挟んであり、
その次にはこんな書が現れます。

ちなみにこちらは最初にブラザーのコピー機でスキャンした最初のページ。

「同心協力」

という達筆の書は、「香取」艦長近藤常松海軍大佐が、
大正3年12月に揮毫したものです。

近藤常松大佐の写真は、ネット上ではほぼ見ることができないため、
これがもしかしたら唯一出回る肖像になるかもしれません。

 

香取艦長近藤大佐は兵学校15期卒。

同期の「出世組」は、こんなメンバーです。

大将:小栗孝三郎・岡田啓介・財部彪・竹下勇
中将:浅野正恭・中野直枝・永田泰次郎・布目満造・森越太郎・山中柴吉
少将:九津見雅雄

クラスヘッドは、のちに統帥権干犯事件で左遷されることになる
財部彪ですが、わずか80名と人数が少なかった割にはのちの総理大臣(岡田)
を出していますし、このクラスで少将まで行った近藤は、
クラスの上位15名くらいには入っていたんではないでしょうか。


しかし、15期で最ものちに有名になり軍神とまで呼ばれたのは、
成績がトップから程遠かったと言われる広瀬武夫です。

対してほぼ無名の近藤常松は、軍神広瀬の話のついでに
「同級生の近藤がこんなことを書いているが」
という形で海軍史にかろうじてその存在を残しているだけです。

持つべきものは軍神の級友ってことですね。

 

余談ですが、広瀬武夫の兵学校でのハンモックナンバーは、現在でも
「とにかく下の方だった」ということくらいしかわかっていません。

これは、わたしにいわせると、当時の兵学校資料、
ハンモックナンバー順の卒業名簿が存在していないからです。

15期のハンモックナンバーは首席財部、次席岡田ですが、

「卒業者中学術試験に最高点を得たる財部彪は機関砲一班を、
岡田啓介は水雷一班を講演せり」

とだけ記載があるものの、名簿の最初は彼らの名前ではありません。
かと行ってあいうえお順でもなく、全く謎の名簿となっているのです。

兵学校の名簿が成績順になるのは、当ブログの調べたところによると、
明治27年卒業の兵学校21期からのことです。

ちなみに、広瀬や近藤が卒業した明治22年、学術優等として
特に賞を授与されていたのが、当時二号(三年生)だった
秋山真之、三号だった加藤寛治、そして四号からは
前にアルバムを取り上げた練習艦隊司令官だった百武三郎でした。

 

そして艦長と同じベージに並んで写真が掲載されている副長。
艦長と副長を同格にするあたり帝国海軍のリベラルさが窺えます。

副長は菅沼周次郎海軍中佐

しかし中佐の割に若くないですか?この人。
まあ、自衛隊の二佐にはこんな感じの人普通にいそうだと考えると、
髭がないせいでこの頃の軍人にしては幼く見えるだけなのかもしれません。

髭=貫禄

ということで、偉くなると皆普通に髭を立てていた時代、菅沼中佐は
何を思って副長という職にありながら髭なしを選択したのか。

ちなみに冒頭の士官室士官の集合写真で、菅沼副長は、
二列目真ん中の艦長の左側にいますが、遠目に見ても若い。
調べてみるとwikiがありました。

旧平戸藩士菅沼量平の二男として長崎県松浦郡平戸に生まれる
兄は平戸派南進論者として知られた菅沼貞風で、幼時よりその指導を受けた

兄の死後、海軍兵学校(26期)に進み海軍入り

ちなみに兵学校26期は59名クラス、同期には

大将:小林躋造・野村吉三郎
中将:清河純一
少佐:高柳直夫

などがいます。
菅沼は成績は43位とどちらかといえば後ろに近いですが、
最終的にクラスのトップ9入りして少将になったわけですから、
軍人になってから実力を発揮した人なのでしょう。

ちなみに中将になった清河純一は、日露戦争の時に第一艦隊参謀だったので、
東郷司令と一緒の写真に清河大尉として写っています。

関連画像

右上、清河大尉。

わたしは早くから清河大尉のイケメンぶりに目をつけていたのですが、
実はそれは当時も周辺では自他共に認めるところだったらしく、
11期下の井上成美などが「気障だ」といって嫌っていたとかいう噂も。
(あくまでもネットの噂ですので念のため)

今回ネット検索していたら、イタリア人が選んだ日本のイケメン侍、
というランキングこの写真の中から三人、つまり

東郷平八郎、秋山真之、清河純一

の名前が上がっているのには驚きました。
日本人でもほとんど知られていない清河純一の美貌に目を付けるとは、
さすがはアモーレ至上主義のイタリア人。

 

それはともかく、清河の同級生の菅沼中佐です。

日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦に従軍

1924年(大正13年)に少将・佐世保鎮守府人事部長を最後に退官した後、
佐世保市助役に推されたが辞退し、退官翌年の1925年(大正14年)
「西海中学」(のちの西海学園高等学校)を佐世保市八幡町に開校
校名と校章は当時の佐世保鎮守府司令長官伏見宮博恭王より下賜を受けた

1963年(昭和38年)12月26日死去。従四位勲三等功五級

菅沼が創立した西海学園高等学校は、今でも佐世保の名門校で、
wikiによると、校歌は創立当時、

海軍軍楽隊が作曲・贈呈(歌詞は地元の作詞家)

したということです。
海軍式の厳格な教育をモットーとしていましたが、流石に今は
HPを見る限りそういう感じではなさそうです。

ただ、wikiによると、

運動部や体育授業の駆け足号令も、旧海軍同様に
「1ー!2ー! 1、2!(ソーレ!)」
を用いている

そもそもこれが旧海軍の号令だったとは知りませんでした。

ちなみに現在の理事長は菅沼さんとおっしゃる方で、
写真を見る限り菅沼少佐のご子孫であることは間違いなさそうです。

さて、それでは次に士官名簿をご覧ください。

その後の軍歴などもついでに記しておきます。

藤井精次 台湾総督府港務官

秋吉照一 「桜」「能登呂」「朝潮」艦長

海津良太郎 「高崎」「鳳翔」「赤城」艤装員長・初代艦長

(おそらく写真上段右から二番目)

入江淵平 「高崎」「音戸」艦長 三重海軍航空隊司令

脇田四郎 第65駆潜隊司令 44年クェゼリンで戦死

真崎勝次 兄は陸軍の真崎甚三郎、戦後政治家

(おそらく上段左端)

 

ここまでが士官室士官、大尉以上です。
海軍では大尉以上を士官室士官、中尉以下を士官次室士官、
ガンルーム士官と称していました。

 

有馬直 「保津」「汐風」「磯波」艦長 第26駆逐隊司令

藤城錦之助 1922年「新高」沈没時に殉職(33歳)

防護巡洋艦「新高」は、大正11年8月26日、カムチャッカ半島で
台風に遭遇し、座礁後転覆し、この時に藤城さんも亡くなりました。

艦長の古賀琢一大佐以下300余名のうち、生還したのは、
水兵一人、艦内から救出された機関兵15名だけだったそうです。

そして皆さん、気づいた方も多いと思いますが、
ガンルーム士官名簿の最後には、

東郷實

の名前があります。
言わずと知れた東郷平八郎元帥の次男ですね。

学習院中等科を経て、1912年(明治45年)7月、海軍兵学校(40期)を卒業。
「香取」は東郷少尉最初の赴任先でした。

40期は中将大繁殖?の期で、有名人を多出しています。

中将:宇垣 纏 ・大西瀧治郎・左近允尚正 ・醍醐忠重 ・ 山口多聞 

40期は卒業者144名、東郷實は後ろから数えて三番目の成績ですが、
最終的には少将にまで昇進し、上位25名となりました。

東郷元帥の息子だったから出世したのか、それとも
勤務についてから優秀だったからここまでこれたのかはわかりません。

現代でも防大や幹部候補生学校での成績が奮わなくとも、
任官してから実力を発揮して将官になる自衛官は陸空海ともに存在します。

 

ところで士官次室士官の写真のどこに東郷少尉がいるでしょうか。

彼はガンルーム士官の中でも最も「下っ端」ですから、
おそらく真ん中の列ではなく、前列に座っている可能性高し。

わたしはこの前列真ん中の男前がそうではないかと思うのですが、
どうでしょう。

Hyo Togo.jpg

ちなみにこちら東郷實の兄、東郷彪(ひょう)

父親が日露戦争の功労者として得た侯爵位を継ぎ、
貴族院議員となって昭和22年亡くなりました。

ちなみに今回得た情報ですが、東郷彪は黒猫が好きだったらしく、
黒猫の絵、黒猫の像を集めまくっており、
黒猫グッズの蒐集マニアとしても有名だったそうです。

でっていう(笑)

 

続く。