ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

親パレスチナ派の卒業式ボイコット〜大学卒業式@ベイエリア

2024-06-30 | アメリカ

MKの大学の卒業式報告、続きです。


先住民族から当大学の「承認」を受ける、という
アメリカならではの儀式を終え、ここからが卒業式本番です。



まず学長の「ウェルカム」宣言。
卒業生への祝辞と、学位取得者への賞賛、そして
グラウンドキーパーなどセレモニーのために働いた人々への労いが続きます。

この学長(実は臨時の学長らしいですが)は、

博士号103名、修士号2,475名、学士号1,838名

学部生中176名が80カ国の出身
大学院生中1,301名が110カ国の出身


と数字を挙げ、本学で学んだ人々が世界に多大な貢献をすることを期待し、
卒業生たちをここまで連れてきた彼らの家族や友人に
立ち上がって拍手を送ってください、と告げると、


グラウンドの卒業生たちは立ち上がり、振り向いて
スタンドに向かって手を振り声援を送りながら拍手、
スタンド側からもそれに答えて手が振られ歓声が上がりました。

そして引き続き各種賞の贈呈が行われました。
ここでいう賞は、卒業してからの業績に対してのものがほとんどです。

■ 数百名の学生が卒業式をボイコット


賞の授与が終わり、学長のリチャード・サラー(Saller)が挨拶を始めました。
このサラー学長が一時的な代理だったことを後から聞きました。

前学長のテシエ=ラヴィーン氏が、神経生物学の論文における
データの操作と改竄という、学者にとって致命的なスキャンダルによって、
本人はそのことを否認しながらも、大学のためにと辞任したのを受け、
サラー氏は次期学長が就任するまでの間の代理学長を務めています。

あくまでもテンポラリーな繋ぎなので、名前は学長として残されないし、
よりによって大学史で初めてとも言われる学生運動が任期中発生し、
こんな時に不祥事を受け代理なんて損な役回りとしか言いようがありません。

スピーチを始めた学長は、まずコロナ禍下入学した学生たちの困難にふれ、
次いでここ一年の「悲惨な戦争」について言及しました。

そこまできた途端、卒業生席が大きくざわめきました。



イスラエルのスカーフを掲げた女性を先頭に、
卒業生の席から、次々と人が立ち上がり、退場を始めたのです。

拍手とピーピーという口笛、ざわめき。
それらは席に残る卒業生からだったとは思いますが、
彼らの行動を賞賛するものばかりではなく、
おそらくその中には、非難の声も含まれていたことでしょう。


ある者はイスラエルの旗を持ち、ある者はスカーフを巻き・・。

彼らが入場してきた時、この豆絞り風のスカーフが目につき、

気になっていたのですが、この時になって、この柄が、
PLOの故アラファト議長が着用していたのと同じであるのを思い出しました。

このスカーフ、クーフィーヤというそうですが、
白黒のクーフィーヤはパレスチナの象徴となっています。

後から新聞記事で知ったところによるとウォークアウトしたのは数百人。

しかし、わたしもTOも全く予想外の出来事だったので、
彼らの持っているプラカードに、

「大学はジェノサイドに投資している」

と書かれているのを見て初めて彼らが
大学がイスラエル側に立っているとして抗議していると知った次第です。



よく見ると、客席からも彼らに声援を送る人が少数いて、
大学院卒業者席は、皆が携帯で写真を撮っています。


おそらく大学当局は、なんらかのアクションを予想していたかもしれません。
しかし、まさか学長のスピーチの途中でウォークアウトとは。

大学公式のビデオでスピーチする学長の様子を見ると、
(カメラはずっと学長の顔をアップにしている)
卒業者席から歓声が上がり、抗議者たちが立ち上がりだしても、
学長は平静を装ってそちらをチラリとも見ることはありませんが、
明らかに声の調子には動揺があるのがわかります。

この写真でメリンダ・ゲイツはずっと学生の列を目で追っており、
彼女の横の女性学部長たちは、おそらく今年になってから、
パレスチナ系学生の度重なる学内での狼藉について非難してきた立場なので、
この写真にも明らかなくらい、不快感をあらわにしています。

左後ろには、壇上からビデオ撮ってる教授もいますが(笑)

この件を報じるロスアンジェルスタイムズの記事より。

「学生数百人が、パレスチナへの支持を示すため卒業式をボイコットし、
イスラエルとハマスの戦争に関連した抗議活動で揺れた
キャンパスでの激動の一年を締めくくった。


ソーシャルメディアで拡散している動画には、
リチャード・サラー学長が卒業生に向けてスピーチをしている最中に、

学生たちが次々と椅子から立ち上がる様子が映っている。

学生たちの多くはクーフィーヤやパレスチナの国旗を振っている。
数分以内に、数百人がスタジアムから流れ出る様子が見られる。

このストライキは親パレスチナ派の学生団体が計画したもので、
同団体は学生たちに式典を離れ、別の場所で行われる
「人民の卒業式」に行くよう呼びかけていた。

■ 学生の「座り込み」活動


ガザ地区でのハマスとイスラエルの戦闘が始まった2023年10月17日以降、
アメリカ全土で学生を中心とした抗議運動は活発化していました。

イスラエルの攻撃はハマスの奇襲攻撃に対する報復だったのですが、
ガザでは多くの民間人が犠牲になっていることを受け、
親パレスチナの学生が抗議の声を上げることから活動が始まりました。


そしてすぐにそれは「反ユダヤ・イスラエル主義」となって、
時にユダヤ系学生への個人的ないじめとなって現れることになります。

そこで当大学のユダヤ系学生は、

「偏見に対する報告、安全、コミュニティのメンタルヘルスに
十分な救済策を提供しなかった」


として大学側を非難し、一方パレスチナ系学生側は、

「大学当局からこちらの権利を主張することを弾圧され、
親イスラエル団体の攻撃から守ってくれなかった」

としてやはりこちらも大学側に抗議の声を上げました。


同様の動きは、全米のいわゆるエリート校、
コロンビア、ハーバード、ノースウェスタン大学などでも起きており、
波及的にさまざまな処分(停職など)となって現れています。

こういった対立を、第三者からの目で見る意見も当然あり、
当大学のある2年生の学生は、

「The War at Stanford」

として、次のような意見を表しています。

私のコンピュータサイエンスクラスのセクションリーダーの1人、
Bは、ジョー・バイデン大統領を殺害すべきだと考えていた。

この23歳の学生は先月、少人数の抗議者たちにこう語った。

「民間人というわけにいかないから軍人がやるべきだ。
バイデンは死ねばいいんだ」

彼は、当大学がパレスチナ人の大量虐殺に加担しており、
バイデンはその当事者であるだけでなく、責任者でもあると考えている。
そしてさらに、

「バイデンは大量虐殺の罪を犯したのだから、肌の色が濃いテロリスト
(肌の色が濃いテロリストは、通常、アメリカの飛行機によって
爆撃されたり無人爆撃機による攻撃を受けることは周知の事実)
と同じ扱いを受けるべきだと言っているのだ」

と言った。

彼は、10月7日のハマスによる攻撃は正当な抵抗行為だったと信じており、
現政府に代わってハマスがアメリカを統治すること望んでいるとまで言う。

そこで「君の目的は何なの」と尋ねると、彼は「平和さ」と答える。

私はコンピュータサイエンスのクラスを変えた。


当大学のキャンパスからイスラエルまでは約12,000kmの距離がある。

しかし、ハマスの侵攻とそれに対するイスラエルの報復反撃により、
私の通う大学は分裂してしまった。

この大学は、通常、地政学よりも、今どきの寮を拠点とするような
テクノロジー系新興企業へのベンチャーキャピタル投資に重点を置く。

そこにはバイデン大統領の退陣を求める学生などほとんどいない。(多分)

ガザに平和を望むという若者たちの多くは、
自分が実際には暴力を支持していることに気づいていないようだ。

過激主義が教室や寮に蔓延し、信仰や伝統、外見を理由に
嫌がらせや脅迫を受けることが学生の間では日常化している。

キッパー(ユダヤ帽)を被っているだけで大量虐殺の加害者と罵られたり、
クーフィーヤをつけているだけでテロ支援者と非難されたりするのだ。

東海岸では、アイビーリーグにおける過激主義や反ユダヤ主義が、
メディアや議会から大きな注目を集めた。
学長2人が職を失う事態にまで発展している。

しかし、カリフォルニアのキャンパスを席巻している
文化戦争に気づいた人は
ほとんどいないかに思える。

この記事が書かれたのは今年の3月終わりでしたが、
その後、大学では前述のようにパレスチナ派が頻繁に座り込みを行い、
ついには学長室の占拠や歴史的建造物への破壊行為が起こりました。

そして、今回の数百人による卒業式ボイコットというパフォーマンス。
否が応でも「文化戦争」は大々的に顕在化されることになったのです。

続く。



「騒乱の」卒業生入場〜大学卒業式@ベイエリア

2024-06-27 | アメリカ

MKの大学で行われた卒業式レポート、続きです。

■ 大学新聞一面は「学内政治闘争」

朝の7時半開場とともに卒業式会場に入り、
2時間もの間開始を待つ間、正面のモニターは何人かの卒業生の紹介や、
非常口の案内などを繰り返し放映して飽きさせないようにしていました。



待っている人はプログラムを見たり、
入り口で配られていた大学新聞部の「卒業式特集」新聞を読んだり。

ところで、この第一面、卒業式特集ではあるのですが、タイトルは

「騒乱のキャンパス」

「歴史的な『大量虐殺を阻止するための座り込み』の立場をとる」

「親パレスチナ抗議団体が学長執務室を占拠」

「親イスラエル集会が『人々の』大学とホワイトプラザで対決」


説明するまでもなく、パレスチナとイスラエルの紛争について
学内でも割れてお互いが活発に活動しているというニュースです。

ホワイトプラザといえば、例の撮影ツァーの時、ホワイト噴水の横に



こんな場所が用意されていて、親イスラエル学生の集会所だったようです。


椅子の背中に貼られている写真は、すべて捕虜になっている人で、
「BRING HIM HOME」(彼を家に帰せ)という文字が見えます。

方や、新聞記事の「座り込み」とは、
ハマスが奇襲攻撃によってイスラエル民間人1400人を殺害し、
人質240人以上をとったことに対抗して、イスラエルが
ガザ地区への爆撃をエスカレートさせたのをきっかけに始まりました。


学長室を占拠した抗議者は、学校当局によって拘束され、
即時停学処分、卒業予定者はそれを取り消すという
厳しい対応を大学側がしたことが書かれています。

抗議者たちは、学長室占拠のみならず、選挙時に学校警察の係を負傷させ、
キャンパス中庭の、わたしたちが撮影ツァーを行った、
あの美しい歴史的な砂岩の建物や柱に赤いペンキで
「フリー・パレスチナ」などの落書きをしたことで当局の怒りを買いました。

方やわたしが写真を撮った親イスラエル集会は、
それらの親パレスチナ抗議者の行動に対する抗議が目的で、
親パレスチナ学生に対して道を挟んでシュプレヒコールを浴びせるなど、
文字通り「騒乱のキャンパス」となったことが報じられています。

さすが70カ国から学生が集まっている大学だけあって、
あっちがいればこっちもいるんだなと当たり前のことに感心させられますが、

全くの第三者から見ると、言い方はアレですがどっちもどっち?

というか、戦争なんだから争っているどちら側にも被害者は出るものを、
そのことを互いに詰りあっても仕方なくね?と思ってしまいます。

しかし、当事者には揺るがすことのできないことなんだろうな。
この問題は、この日の卒業式で思わぬ形となって現れることになります。


アメリカは多民族国家ですが、こういう問題は避けられません。


さて、話を卒業式会場に戻しましょう。


開始を待つ間、上空に小型機が飛来し、ユダヤ系学生のために
MAZEL TOV=ヘブライ語のおめでとうというメッセージを運びました。

また、AM YSRL CHAIはヘブライ語で「イスラエルの民は生きる」、
♡の後の
HILLELはユダヤ教の宗教創始者であり、
世界最大とも言われるユダヤ教の大学生組織の名称です。

この組織は、北米を中心に世界中のカレッジやコミニュティで活動しており、

「ユダヤ人学生の生活を豊かにすることで引いては世界を豊かにする」

を目標に、反イスラエル、反ユダヤ主義と戦う姿勢を掲げています。
おそらく前述の集会もHILLELの学生が主導したものと思われます。

■ 卒業生入場


もうこの頃になると暑さは容赦なくジリジリと身を焼く感覚でした。

なのにああ、我々の前列のおばあ様、お母様、お父様、
そして妹の卒業生家族ったら、帽子なし、女性陣は揃って肩むき出し。

長年の習慣の結果、おばあ様のお肌はダメージで世紀末の様相を呈し、
お母様のお肌ももうすでにやばい感じでしたが、アメリカ人女性の多くは
肌を直射日光にさらすことに全く危険性を感じていないらしいんですよね。

しかしさすがにこの異常なまでの日差しには我慢できなくなったと見え、
困りはてたお父様(多分会社の社長かなんか)がプロブラムを破いて、
即席で日除けの帽子を制作し、その場を凌ぎました(娘は着用拒否)。


お父様ったら、頭いい〜!
きっとできるビジネスマンなんだろうな。

ちなみにおばあさまはギリギリまで我慢していたのですが、
息子の入場までは保たなかったらしく、いつのまにかいなくなりました。

おそらく日陰の席に移動されたのでしょう。

可愛い孫の晴れ姿を近くで見ることを諦めるなんて、
よっぽどこたえたに違いありません。


それにしても彼女らの紫外線に対する警戒心のなさには驚きます。
10代の妹の今は輝くような肌も、母祖母と同じ運命を辿ることでしょう。


アメリカには、こういう時のために?
応援する人の顔を大きくプリントしてくれる業者がいます。

遠くから本人がスタジアム席の家族を見つけることもでき、
応援してまっせ!という気合いを周りにもアピールすることができますね。



しかも、本番までは日よけとしても役に立つという優れもの。
ちなみに裏には宣伝のため会社名がデカデカと書かれています。



教授陣の入場が終わると、音楽は「威風堂々」から、
ステージ上の生バンドの演奏するジャズに変わりました。
このバンドがさすがアメリカというか安定の上手さで、
スタンダード中心に学生が入場し終わる長時間演奏を続けていました。

そして、まずは「上級学位学生」、博士課程と大学院卒業者の入場です。


モニターに写っている旗は、スクールオブエンジニアリング、
工学部の学位授与者を表し、彼らが一番最初に入場してきます。

MKもこの中にいるのですが、見つけられませんでした。



席に着くなり自分の家族と携帯で連絡を取り合って、
自分がどこに座っているのか教える卒業生多数。

MKに「どこに座ってる?」とテキストしてみると、写真が来ました。



これは暑そうだ・・・。
卒業生の帽子って、全く日差しを防がないもんなあ。

工学部は全学生の一番最初に席に着いて待ち時間が一番長かったので、
後でMKは「鼻が日焼けした」と言ってローションを買ったほどです。


アピクレオスの杖があしらわれている旗はスクールオブメディシン、
医学・看護学科で学位取得卒業者は少数です。
大学卒業後すぐに実務に入る職種だからでしょうか。

手前のブルーのフードは法学部です。


卒業生席の両ウイングがグラデュエイトで埋まったとき、司会が

「さあみなさん、まだ入場していないのは誰ですか?」

みたいなことを言って、観衆がわあっと沸き立ちます。
いよいよ大学卒業生が入場してきました。

■学士入場


最初に入場してきたのは人文科学部。
ちなみにバチェラーは「学士」という意味です。



先頭にいるのは「木」。
さすが木がマスコットで、

「Fear The Tree !」

が対抗試合の合言葉なだけはあります。
この木の人、大学公式のカメラに映り込もうとして阻止されてました。

それにしてもそれに続くチアガール、ベール被った男性・・・
当大学卒業式は仮装大会なのか?

日本では京都大学がこの慣習を一部受け入れて話題になっていますが、
この大学では、全体的にすごいことになっていました。


各種着ぐるみは標準。
卒業式で思い切り楽しんでしまおうの精神。


浮き輪集団、パンプキン集団。


IN-N-OUT(ハンバーガーのファストショップ)店員がいるぞ!



かと思えばシェフもいます。
左下の学生は、パレスチナの旗を持ってますね。



水泳部?は彼らのユニフォームで入場。



それを壇上から冷たい目で見る女性教授(コロンビア大学卒)。
彼女の出身大学ではこんな卒業生は決していなかったと思う。

ちなみに後ろのジャズバンドのギタリストは、当大学博士課程出身者で、
音楽学部の教授かつ大学ジャズワークショップのディレクターです。


とにかく着ぐるみ率高し。


の辺全て「クラブ」=カニ軍団。
プラカードには「Holy Crab !」(こりゃ驚いた!)というメッセージ。

この集団、実は神経系の発達と癌における
エピジェネティックメカニズムを研究するラボ、通称

The Crabtree Lab☜クリック

で講義を受けた卒業生らしいのですが、見たところただの陽キャ集団。


カニなので泡を吹きながら行進。
この頃になると、音楽はラテン系のサンバとかになり、ノリノリでした。

永遠に続くかと思われた彼らの入場がやっと終わり、
ここでようやくプログラムが進行します。



同大学コーラスによる「アメリカ・ザ・ビューティフル」合唱。
指揮は音楽学部教授、ステファン・サノ博士。

遠目には分かりませんでしたが、サノ博士は日系アメリカ人3世で、
2世の父親は日本軍人としてシベリアで捕虜になった経験があります。

合唱指導だけでなくピアノ、ギターの演奏者としても有名で、
バイオグラフィを見ると、グラミー賞はじめ様々な賞を受賞しています。

Stephen M. Sano

Steve Sano plays Bill Evans' "Peace Piece"
「アメリカ・ザ・ビューティフル」は米国の愛国歌の一つで、
スーパーボウルの前に斉唱されることで有名です。
America the Beautiful
ネイビーバンドの美人ヴォーカリストバージョン



続いて、我々日本人には全く未知の儀式が行われました。

Invocation&Stanford University Indigenous Land Acknowledgement
招請&大学先住民の土地への謝辞


どういうことかというと、この大学が、かつて先住民族、
ムウェクマ・オロネ族の先祖伝来の土地であったことから、
大学としては、先住民族との関係を認識し、尊重し、
目に見える形で示す責任を持っているという認識なのです。

したがって、このような式典の際は、先住民に対し、

「あなたたたちの土地を使わせてくれてありがとう」

と感謝を述べることになっているのでした。


ベイエリアには、スペイン植民地時代以前、
先住民が数百人からなる多文化コミュニティで定住していましたが、
アメリカ統治時代になって、彼らはメキシコ人の土地に避難しました。

ありていにいえば追い出されたってことですね。

当大学の土地からもムウェクマ・オロネ族らが移動していったわけですが、
現在では、先住民族コミュニティは当大学と密接な協力関係にあり、
土地を提供してもらっている立場の大学側は、
彼らについてその物語を広めるための活動を継続しているのです。



大学側が謝辞を述べた後、少数民族代表として、
ユロック族出身の卒業生(2017年人類学部卒、今年博士課程卒)、
メリッサ・アイデマン博士がスピーチを行いました。

部族の象徴なのか、動物の毛皮で作ったストールを着用しています。

「部族にとってこの土地は今も昔も非常に重要なものです。
私たちは大学と先住民族の関係を認め尊重し、可視化する責任があります」

こういう、宣言のような短い言葉でした。
こちらも、要するに

「かつて先住部族を土地から追い出したあなたたちではあるが、
我々の歴史を尊重するならばこれからもここを使わせてやって良い」

という許可を意味していると考えていいでしょう。


わたしは、卒業式で行われたこの行事のおかげで、
これまで全く知らなかったこの地域の成り立ちや歴史の側面を
ほんの少しですが、垣間知ることができました。

多民族国家アメリカ、本当に色々と問題がありますが、
それを解決していこうとするパワーと工夫が、
今日のアメリカを大国に押し上げた原動力となっているのでしょう。

続く。


式開始まで〜大学卒業式@ベイエリア

2024-06-25 | アメリカ
■Airbnb引越し

MKの卒業式の少し前、Airbnbの部屋を引っ越しました。
前回のエメラルドヒルズから、今度はメンローパークの住宅街の一角です。


上空から見ると、明らかに他の地域より緑が多い地域。
その一角のAirbnbは、ドイツ系家族が住む敷地の離れでした。



プールのある家はこの辺では珍しくありません。


宿泊するのはこの離れ。
オーナーによると、この家はちょうど築100年だそうです。

1924年は、前年に関東大震災が起こった年ですが、この時期、
ヨーロッパではイタリアでムッソリーニ率いるファシスト党が政権を獲得し、
前年にヒトラーのドイツ労働党はミュンヘン一揆によって統制を拡大させ、
ここアメリカでは排日条項を含む移民方が成立し移民が全面禁止されました。

そしてちょっと感慨深かったのが、
この年のオリンピックがパリで5月に開かれたという事実
です。

今年はオリンピックイヤー。
そして開催地はなんとパリ。

もしコロナの拡大がなければ、東京オリンピックが延期されることもなく、
前回から100年目に同じ場所が開催地になることもなかったわけで。

そしてついでに、この頃のオリンピック開催は8月ではなかったんですね。

8月開催というのは、いつの頃からか、アメリカの大手テレビ局が、
「この時期はアメリカ国内で大きなスポーツの大会がないから」
という理由で固定したという話はやはり本当なんですね。


そんな頃に建築されたということですが、実際のところ、
アメリカでは100年越えの物件はそれほど珍しくもありません。
内装や配管を取り替えながら、古い家に住み続けています。

古さを実感したのは、キッチンにディスポーザーがなかったのと、
夜中、どうやら天井裏にリスが住み着いているらしく、
小動物が歩く音が聞こえてきたことくらいでしょうか。

次の朝、外のテーブルで食事を取りました。
庭には、お父さんの力作?らしい子供用のお家があり。


プールの奥には巨大なトランポリンが設置されています。

左がガレージ、右がおそらく倉庫。


全力で体を動かすことを楽しむオーナー夫妻らしく、
ガレージにはバイクが2台ありましたし、ある朝など、
プールサイドに干してあったのは、アイスホッケーの防具一式!
しかもゴールキーパー用です。(キアヌ・リーブスを思い出した)

このAirbnbは、オーナがドイツ人ということもあるのか、
古くて小さな部屋の中を考える限り機能的に整えており、
スタンディングデスクと滅法早いWi-Fi、優秀なコーヒーマシン、
今まで体験したことのない寝心地のいいマットレス、
どんなうっかり者でも壊さなくてすむプラスティックのグラス、
(しかも本物のガラスにしか見えない)
アメリカでは初めて見たミッソーニのタオル類と、最高の環境でした。

■ 卒業式当日

ほとんどの関係者にとってこの大学の卒業式は初めてのはずですが、
わたしたちのような外国人の親にとっては、それがどういうものか、
予想がつかないだけに心配は募るばかりでした。

卒業式に参加するためには、必ず卒業生からの招待が必要で、
招待者にはこのような入場チケットがオンラインで配られます。



つまり全員がスマホを持っているという前提ですね。
これをアップルウォレットなどに入れて当日バーコードをスキャンします。

そして同時に車はどこに停めるなどというお知らせももらえますが、
わたしたちは会場に近い駐車場に停めるため、前日に現地を視察して、
開場時間の45分前である6時45分に家を出ることにしました。

しかし、前日は緊張して?寝られず、しかも早く起きてしまう始末。

前日から徹夜で並ぶ総火演&観艦式のガチカメラ勢みたいなのが、
まさかここ西海岸にいるとは思えませんが、こういう状況になると
かつての血が騒ぐのか、どうも平静ではいられないんですよね。



案の定アメリカ人にはそういう意味でのガチ勢はいなかったらしく、
開場30分前でも広大な駐車場はガラガラ、
正面ゲート前にはわたしたちの前に数人いるだけという楽勝モード。


ほっとしながら目の前の注意書きを見ていて、
わたしは自分のバッグがこの図でいうところの
「スモールクラッチ」の大きさ以内なのか心配になってきました。

推奨されるのは中身が丸見えになる透明なバッグで、
そのことは前日にMKからくれぐれも言われていました。
一応ターゲットなどを覗いてみましたが、なかったので、
小さなバッグなら大丈夫だろうと思ったのですが、
それが12センチ✖️16センチ以内かどうかわかりません。

現に後で測ったら14✖️21だったので完全にアウトだったのですが、
規格外のバッグは没収と厳しいことを聞いていたので、

「もしダメだったら、先に行って席取っておいて」

と打ち合わせし、開場を待ちました。
時間になると、それから待機していた係員が配置につき、
自衛隊イベントの時のように、手荷物を台に置いて金属ゲートを通ります。

わたしは大きさを目立たせないように、最初からバッグの蓋を開け、
係に中を見せながら渡し、大きさを問われることはありませんでした。

荷物検査の先には小型のスキャナーがいっぱいあって、
そこでチケットをスキャンしてから会場に向かいます。

大学の卒業式に手荷物&金属検査というのも仰々しいですが、
ここアメリカで大学など学校現場の銃撃事件が相次いでいるため、
当大学ではスタジアムイベントには必ずこの方法が用いられているようです。


推奨されるクリアバッグ一例

ちなみに指定のクリアバッグですが、後にスクールショップに行ったら、
ロゴ入りのが各種売られていて、みんなそれらを買っていました。

バッグ業者の陰謀か?



そしてゲットしたステージ真正面の席。
もっとも、後から考えれば、どうしてもここでなければ、
というような状況でもなかったんですが・・・。

開始2時間前から死ぬほど暑い場所で待ち続ける価値があったか?
と問われると、微妙だったという点で。

学校からは前もって、この日のスタジアムの暑さについて言及がありました。

全員にペットボトルの水が配られましたし、
最初からこれはきつい、という人のためにビューポイントが用意され、
室内の涼しいところ(日陰は涼しいんですよ)で
座って大画面を見られるような用意もありました。


わたしはというと、白の長袖長ズボンにターゲットで見つけた
10ドルの折りたたみ帽子で極力陽を受けないことを考慮したファッション。



さらにはこれに薄手のスカーフとジャパニーズマーケットで見つけた
接触冷感(日本製は神)の日除け手袋で更なる防護をします。

日本のように湿度がないので、重ね着しても暑くはなく、
むしろヒジャブの国の人みたいに、できるだけ露出部を少なくすればOK。
快適快適とほっとしていると、TOが写真を撮りながら

「ヤ⚪︎ルトおばさんみたい」

とわたしもうっすら感じていたのと同じことを言いましたが、
画像検索したところ、ヤクルトというよりゴルフのキャディっぽい。


だんだん両側に人が埋まりだしました。
わたしたちの前列左はヒスパニック系の大家族。
このときは父ちゃんがひと足さきに席を取って待っています。

この、今の所空いているわたしの左側ですが、中国系家族がやってきて
二人の男の子(2歳と5歳くらい)に前の人は背中を土足で蹴られるわ、
何かというと子供連れで座席の前を行き来して出たり入ったりするわ、
意味もなく横の椅子をバタンバタン上げ下げするわ、
それを抑えると睨んできて(!)力任せに同じことを続けるわで大変でした。

二人いるので、いわゆる一人っ子政策の「シャオファンティ」(小皇帝)
には当たりませんが、いずれにしても日本人から見ると躾がなっとらん。

そもそも魔の2歳児をこんなかんかん照りの場所で
何時間もじっとさせておこうとするのが大間違い。
もう少し後ろの日陰席にすれば出入りも簡単だったのに・・。

そうそう、中国人といえば、今回空港で入国審査に並んでいたとき、
審査の順番がきた年配の中国人女性が、なんと列のはるか後方に向かって
大声で旦那さんらしき人の名前を呼ばわるという椿事が発生しました。

その場に並んでいた世界中の人々が彼女に注目する中、
後ろの方にいた男性がひょこひょこ前に出てきてざっと百人の順番を抜かし、
ちゃっかりおばちゃんと一緒に審査を受けようとするじゃありませんか。

もちろん、その次の瞬間、係員に元の場所に戻れと追い返されたわけですが、
そもそもどうしてこの人たちは一緒に並んでないのかね。

まさか、トイレに行っている旦那を待たずに、奥さんだけが並び、

「あたしが先並んでおくから、アンタ呼んだら前まできて!」

とかいう話だったんかな。

入国審査場で大声で叫ぶだけでも大概ですが、加えて
自分と連れ合いに満場の目が注がれても一向に気にしない!というメンタル、
さすがは中国4000年の神秘。

中国人が列の割り込みを悪いことともなんとも思っていない、
というのはよく見聞きする話ですし、わたしも現に中国で目撃していますが、
入管の係員に至っては日常茶飯事レベルでこういうのを見てるんだろうな。

閑話休題。


スタジアムの向かって右手はセレモニーの間日陰になるため、
最初からここに座る人たちがいました。


■ コマンスメント開始

アメリカらしく、時間きっちりにではなく、少し遅れて
今から卒業式が始まるというアナウンスがありました。



エルガーの「威風堂々第1番」中間部のメロディが流れ、
ガウンに身を固めた大学教授陣の入場が始まりました。

アメリカの学校は必ず卒業式にこの曲を用いますが、これは、
1905年、作曲者のエルガーがイェール大学から博士号を授与されたとき、
同校で使用されて以来の慣習になっています。


学長と一緒に入場してきたのは、メリンダ・フレンチ・ゲイツ。
言わずと知れたビル・ゲイツの元妻です。
彼女が本日のスピーカーであるとは前もってMKから聞かされていました。

ゲイツとの離婚の原因は、やっぱりというかなんというか、

「ビルがジェフリー・エプスタインと付き合っているのが許せなかった」

こととはっきり言及していましたね。
彼女本人は彼を一目見てその悍ましさに震え上がったという話ですが、
やっぱりエプスタイン島行ってたのか、ゲイツ・・・。

しょうがないやっちゃな。


こういうアングルの写真が撮れたのは早起きの恩恵というやつでしょうか。
彼女がストームヒールの紐付きサンダルを履いていたのもわかりました。

メリンダが着ているアカデミックガウンは出身のデューク大のもので、
色がドラブなのは、経済学の学士号をもっているからです。

アカデミックガウンは、今在籍している学校に関わらず、
その人の出身大学を表すため、教授席は色とりどりのガウンが混在し、
それらが一堂に集まっているのは大変美しいものです。

続く。



卒業記念キャンパス撮影ツァー〜アメリカ西海岸

2024-06-22 | アメリカ

アメリカでiPhone 15Proを買いました。

この機種から望遠レンズが搭載されたということで、
毎回一眼レフを持ち運ぶ必要がなくなるかと期待してのことです。

今回はなんといってもMKの卒業式というビッグイベントがあるので、
どれくらいこれがカメラに迫れるか試すチャンスでもあります。

iPhoneを買ってすぐ、MKから依頼がありました。

「友達3人でキャンパスでの記念写真を撮りたいんだけど、
一眼レフで撮影してくれない?」

前回のアンダーグラデュエイト卒業式の時には、
カメラを触らなくなってすっかり時間が経った状態で臨んでしまい、
暗い室内でのイベントを撮影するのに冷汗をかいたものですが、
この機会に本番までにカンを取り戻すことができるかもしれません。

わたしは喜んで依頼を引き受けました。

いきなり室内だった前回と違い、毎日が快晴のこの地域の昼なら
カメラがなんでもやってくれるので、気が楽です。

■「テディベア串刺しの刑の噴水」前


昔MKはこのキャンパスを利用したサマーキャンプに参加していたので、
このトレシダー付近と噴水は馴染み深いものでしたが、
ここで卒業式の帽子を被った彼を撮影する日が来るとは・・。


3人は同じ工学部で、真ん中の女子とMKは同じラボにいました。
3人とも専攻は同じ分野で、就職先も同業種となります。

まず最初のロケ地はモニュメント的噴水のある池の前。


ホワイト・メモリアルファウンテンという名前がありますが、
通称は「ザ・クロウ」(つめ)といい、大学対抗試合などの際、
ライバル、カリフォルニア工科大学のマスコットである
「Oski」を象徴するテディベアを頂点で串刺しにするのに使われます。


現場写真

ついでにこのOskiというキャラがこれ。
串刺しにされているテディベアのように可愛くないどころか・・


怖すぎ

彫刻は、ホワイトさんという金持ち夫妻が、彼らの息子二人を記念して
(亡くなったとか?)彫刻家に依頼したものだそうですが、
こんなことに使われているなんて知ったらきっと嬉しくないと思うんだが。

■ メモリアルチャーチ付近


次のロケポイントはメモリアルチャーチの周り廊下。
象徴的な場所なので、よくここも撮影に使われます。



この大学、とにかく広くて、面積は千代田区の3倍。
大学に必要な施設のほかに、ゴルフコース、乗馬場、
ハイキングコース、巨大なディッシュを備えた山丸々一つ持っています。


なんと呼ぶのか知りませんが、ガウンの首にかけているフードの色は、
所属学部を表し、オレンジがエンジニアリング、工学部です。


当大学は毎日学生がガイドを務める観光ツァーがあるのですが、
ツァー客がみんなでこのときのMKたちの写真を撮っていました。

おそらくガイドが、

「あちらに見えますのが、今週日曜の卒業式に出席する学生です」

というようなことを説明したのかもしれません。



スクールカラーは赤で、フードの内側に見えています。

ところで、この写真の右側に見えているサークル、今まで何度も
通行車両を事故に陥れてきた通称「デス・サークル」なんだそうです。

ちなみに学内には基本信号はなく、交差点は全てサークルですが、
この方式、実に合理的で安全なので、わたしは高く評価しています。

しかしここは、周りに街灯がなくてサークルがあることが分かりにくく、
初見の人がここに突っ込んでも無理はないというデンジャラスな雰囲気。

「デス」とまで言われるものをなんとか対策しろよという気がしますが、
驚くことにこういうことには全く無頓着なのがアメリカ人です。


せめて運転者に見えるような看板一つ立てれば解決するのになあ。


廊下はこのメモリアルチャーチに続いています。
チャーチ前の広場には夜のレセプション?のため、
テーブルや機材が雑然と並んでいて、前での撮影はできませんでした。



メモリアルチャーチ内部は観光客のために解放されており、
わたしも初めて中に入りました。



石柱の根元には、当大学開学のきっかけとなった創始者の息子、
訪欧中の急病で夭折したリーランドの名前が刻まれています。

■ ロダン作「カレーの市民」前


お次は、前にも紹介したオーギュスト・ロダンの彫刻での撮影。
三人ともこれがやりたかった模様。



作品名は「カレーの市民」。

百年戦争の際、イングランドに兵糧攻めにされたフランスのカレーで、
市民の命を救う代わりに、六人のカレー市指導者が処刑されました。

この像は、飢えで痩せ衰えた彼らが出頭のため城門を出る姿を捉えています。


ガウンのせいかぴったりキマってます。


メモリアルチャーチ前のクヮッドと言われる広場です。
チャーチ前のごちゃごちゃを隠すように撮影しました。

女性がガウンの下に白いドレスを着ているのは、
なんとなくこの大学ではそういうことになっているからだそうです。

■ ジャンプ写真(一眼レフvsiPhone Pro)

冒頭写真は、当初彼らの撮影計画にはなかったのですが、

わたしが「ここはタワーが綺麗に入る」と提案したところ、
彼らもここが気に入ったので撮った「帽子投げジャンプ写真」です。

さて、わたしがNikon810、TOにiPhoneを担当してもらい、
ほぼ同じシーンを両者で撮影した結果ですが、基本的には
やっぱりと言うかなんというか、Nikonの圧勝でした。

iPhoneのAI機能は、概ね効果的で、わたしがNikonのデータを
時間をかけてソフトで調整するのをほぼ一瞬でやってくれます。

がしかし、比べてみるとやはり色の深みというか、
わたしごときが言うのもなんだけど表現力が違うのです。

というわけで、カメラ機能に定評のあるProですが、
やはり餅は餅屋って感じかな、という結論に達しました。

とはいえ、iPhoneがその能力をここぞと発揮することもあり、
それがこのジャンプ写真でした。
冒頭写真はNikon、そしてこちらがiPhoneです。


(これを見たMKの最初の一言『俺ジャンプすげー』)

細部を見ると確かに重みの点でNikonが優れているのですが、
状況を捉えるのが巧みで、効果的だと思いました。



参考までにもう一度Nikon。
ちなみにこの写真、帽子を際立たせるため、
わたしは時間をかけてソフトでマスクをかけてマス


ここもわたしの提案で選んだポイント。
MKはこの写真が一番気に入ったそうです。
ポイントはひるがえるガウンの袖?


最後のロケポイントは噴水池で。
流石にキャッキャと水を掛け合うシーンはありませんでした。


最後に、MKと紅一点女子のラボで記念写真。

このソファは10年以上「一度もクリーニングらしいことをしていない」ので
「おそらくとてもとても汚い」代物。
そんなソファの横には、明らかにここで寝るための毛布が・・。


研究に没頭していて帰る時間がなくなった学生用でしょうか。

MKと彼女にとっても、この研究室は、
大学院生活において最も長く過ごした空間だった違いありません。

そしてこの週の日曜日、卒業式が行われました。

続く。




楽器作り発表会とテスラ・サイバートラック

2024-06-19 | アメリカ

西海岸シリコンバレー生活レポート続きです。

■ ポリコレか 販売戦略か

ど〜〜〜〜〜ん

最近のアメリカ、下着のモデルに太った人を使うのはもう普通ですが、
それにしてもこれ↑ってどうなんだろう。

太ってるモデル、別にいいんですよ。

アメリカ人は、太っていても顔が可愛らしい人は多いですし、
太っているなりにパンっと肌のハリがあるなら、説得力もあるんですが、
この人のはもう見ちゃいけないものを無理やり見せられているような。

昨今、アメリカのポリコレ具合はもう限界突破しているかに見えます。
ディズニーを筆頭とする制作物や映画、ミュージカルはもちろん、
デパートなどのマネキンが年々太ってきているのも、

このポリコレに端を発するものだと思っていました。

そして、アメリカのポリコレは、こういうのもありどころか、
これを「美しい」と思うような美意識を植え付けようとしているのか?
これって一種の洗脳か?とこれまで思っていたのですが、

今回この限界突破したモデルさんを見て、あることに気がつきました。

広告の目的は商品を売ることです。

それには売り場で気持ちよく商品を手に取ってもらわなくてはなりません。

このスーパーは、アメリカ人の多くを占める「こういう体型の人」が、
安心して、気後れせず下着を手にとることができるように、
「雲の上の人」である完璧なファッションモデルではなく、
彼女らと同じか、あるいはより「下」のモデルを使うことにしたのだと。

毎年この傾向が顕著になっていることから考えても、おそらくこの

「高めを見せ(て劣等感を煽)るな
低めを見せて安心させ(て買わせ)ろ」

という販売戦略はある程度結果を出しているのでしょう。

■ テスラ・サイバートラック

カリフォルニアのアーヴァインに本社のある自動車会社、

リヴィアンの縦目の車も、ここシリコンバレーでは珍しくなくなりました。

By Jay8g - Own work, CC BY-SA 4.0

Amazonプライムの配達の車も半分くらいはリヴィアンです。
同じリヴィアン製でも、こちらは丸目。
このヘッドライトは方向指示器を兼ねています。

今シリコンバレーを走っている車は、テスラなどの米製電気自動車と、
日本車が二分しているといっても過言ではありません。

ここはテスラのお膝元ですし、電気自動車が弱い寒冷気候にも程遠いので、
中古で安売りされるようになると、皆が乗るようになりました。

一昔前(『ララランド』の頃)は右を見ても左を見てもプリウスでしたが、
今は「前後左右皆テスラ」ということも珍しくありません。



今借りているAirbnbのある一帯は高級住宅街ですが、
家の前に停まっている車は例外なくドイツ車、日本車、テスラ、大型アメ車。

時々ヒュンダイやキアを見ますが、それはほぼ間違いなく、
庭の手入れや工事をしにきたワーカーが乗ってきたものです。

傾向として、レクサスとかメルセデスなどの大きなのをメインに、
2台目にテスラ、トヨタ、スバルを選ぶ住人が多いように見えます。

ところで、先日こんな車が横を走っているのを目撃しました。



「うわ、なにこれ!」

「バットマンカーのつもり?」

「これ絶対普通の車の上に改造でブリキのボディ乗っけてるよね」


好きなことを言い合って、MKに会った時にこれを見せたら、

「テスラのサイバートラックだよ」


これのどこがトラックだよ、と言いたくなりますが、
これが今シリコンバレーで一番尖っている(文字通り)Tesla Cybertruck。

2023年から製造しているので、今ちょうど市場に出回って、
ぼちぼち街でも見かけるようになってきているというわけです。

尖ったボディは平らなステンレス鋼板パネルで構成されているからです。

イーロン・マスクの肝入りで作られたこのピックアップトラックは、
近未来的な装甲兵員輸送車を思わせるフォルムを持ち、
お披露目の場所、月、年が映画『ブレードランナー』の舞台と同じ、
というなかなかにロマンを感じさせるデビューを果たしました。

そして聞いてびっくり、理論的に水陸両用として使用できるそうです。
まさに近未来的な夢の車。

しかし、デビューの際、テスラは「このアーマーガラスは絶対に割れない」
と自信満々で窓に金属球を投げるパフォーマンスを行ったところ、
公衆の面前で見事に二つの窓が割れるという辱めに遭い話題になりました。


その後1週の間に、わたしはこのサイバートラックを2台、
一度は家の近所で、もう一度はパロアルトに路駐しているのを見ました。


ところで、サイバートラックは発売早々に、

「アクセルペダルパッドが外れ内装トリムに引っかかり自動加速する危険」

のため、リコールされていますが、MKによると、
彼が秋から就職する会社(就職が決まりました)の社員に
その早々に不具合で事故を起こした当の本人がいるんだそうです。

怪我はなかったそうですが、ことがことなのでニュースで報じられたとか。


そして、その事故の写真を見ましたが、相手のトヨタ車は、
サイバートラックによって鋭角に切り裂かれ、ズタズタ。
運転者が生きているかどうかも心配になるほどのダメージでした。

サイバートラックは特にそのデザインに対し意見が分かれており、
この事故のようにヒトやモノを必要以上に傷つけそうで不快、とか、

(先端恐怖症の人は見るだけで怖いと思う)酷い意見になると、

「サーバートラックはテスラファンの熱狂的な夢の中にしか存在しない
ローポリゴンのジョークであり、
イーロン・マスクの排泄物の臭いの上に立っている」

とまで言われているのだとか。

でもどうせ新し物好きのシリコンバレー住人は我先にと買うんでしょう?
と思ったのですが、このあまりに先鋭的で『人の迷惑を顧みない』
(ちょっと事故っただけで相手は大迷惑、本人も修理で大損害)
コンセプトには、さすがに首を捻っている人が多いようです。

■ 楽器作りゼミのショーケース父兄参観

我々がここシリコンバレーに到着した時には、
MKは大学院の最後の1週間を忙しく送っている時でした。


そしてちょうど共同プロジェクトで参加していた
CCRMA (Center for Computer Research in Music and Acoustics)
ショーケース(発表会)に誘ってくれたので、見てきました。

CCRMAは日本語で言うと「音楽音響コンピュータ研究センター」。
MKの大学の音楽学部に帰属する日本でいうゼミで、
CCRMA=カルマ(最初のCは無音)と発音します。

作曲家と研究者が、芸術的媒体として、また研究ツールとして、
コンピュータベースのテクノロジーを使って共同作業を行う、
ということを目的とした施設で、MKは最後のセメスターに
楽器を作ることを学友3人との共同プロジェクトに選んだのでした。


昔当大学学長の住居(!)だったという歴史的な建物が、
現在はCCRMAだけの研究室として使われています。


卒業式のために一眼レフを持ってきていたので、
リスで練習(久しぶりなので)しました。


やっぱりiPhone11のレンズとは違うなあ・・。当たり前か。


ここには黒リスもいて、普通リス?と喧嘩していました。


こうして見ると、アメリカ人がこいつらを
「ネズミ」くらいの認識しか持っていないのがよくわかる。
尻尾がフサフサじゃないリスってほんとネズミみたい。


ショーケースの行われる会場は三階にあり、階段を上ります。


建物と同じで、軽くできて1世紀は経っていそうなピアノ。



この古い建物の3階はホールになっていて、天井には無数のスピーカー、
プロジェクター、防音装置が施された別世界でした。

プログラムは入り口のQRコードで読み取ります。

で、どんな楽器をみなさんが発表したかと言いますと・・



これをはめて音楽に合わせて色々な動作をすると、
それに合わせて音楽の音量や質が変化するという手袋。

発明者の学生は全盲で、右側の人が色々とサポートしていました。



音を拾うためのコンタクトマイクを仕込んだボウルに水を入れ、
ボウルをさまざまな方向に傾けることで、ピッチの歪み、
パーカッションヒットの速度、エコー(リバーブ)の量、
および音の厳しさを変化させていきます。


新機軸の発明ではないけれど拍手喝采を受けていた大作、
木を切ることから始めて作り上げたエレクトリックコントラバス。
木の選定から9ヶ月かかったそうです。



ブーツにギター操作の装置を仕込んだ人。
足のジェスチャーでワウ、リバーブ、キルスイッチ、
ペダルエフェクトなど全てを操作できる・・・はずですが、
残念ながら本人がまだ使いこなすに至っていませんでした。



距離センサーとパルスを組み合わせたドームの上で
手をかざし、距離を変えることで音が変質していきます。



センサーを仕込んだTシャツで音を変化させていく仕組み。


そして、MKの展示ですが。

MKと以前京都に来た女子、もう一人男子が3人で作ったのは、
Bass Bass(バスのベース)。
=ベース(ギター)であるメカトロニクスベース(魚)で、


近くで見るとこんな

機械式スプリングシステムが、魚を叩く動きをストリングプラックに変換、
ピッチは制御でき、出力音は包丁
(多軸モーション制御システムに取り付けられている)
を介して減衰することができるという仕組み。



「バスフィッシュを叩いて、
音楽と海洋生物のクロスオーバーイベントを体験する」

(本人説明)だそうです。
ちなみにベースに合わせていた音楽は「マンイーター」でした。

後で魚を叩かせてもらいましたが、これで
「🎵たったった〜、んたたったたった」
のリズムを取るの難しすぎ。

魚を叩くことにシャレ以外の意味が何もないという楽器です。


ショウケースが終わったので、昔ここでMKがITキャンプに来ていた頃、
散々お世話になったダイニングホールにいき、
当時はなかったインドのカレーを食べてみることにしました。

注文は左のパネルからいっさいお店の人と口を聞かずに済ませ、
お店の人は一人で黙々と注文のものを揃えて、右側から渡してきます。

インド系の学生も多いので、要望にお応えした感じでしょうか。
ちなみにここには昔から『KIKKA』というジャパニーズがあります。


お味は・・・まあ多くは言うまい。


おまけ:駐車場で前に停まっていた車。
これが動いているところが見てみたい・・・。


続く。



「人生の謎を受け入れる」〜アメリカ西海岸の日本

2024-06-16 | アメリカ

全ては自分自身の不注意が原因であったとはいえ、
大きな二つの困難を無事解決し、なんとか無事に西海岸に到着しました。

その時はまだこちらでのCarPlayのためにeSIMを契約していなかったので、
ナビなしで行けるMKの大学院寮まで直行しました(冒頭写真)



そして、今回の大きな目的の一つ、
日本で彼の元チェロの師匠に売ってもらった電子チェロを渡しました。

本物のチェロと違い、電子チェロはフレーム部分が取り外せるので
運搬が非常に楽で、「楽器のために一席買う」必要もありません。

飛行機では手荷物ではなく、取り扱い注意の楽器として預かってもらい、
到着した空港の特別窓口で受け取り(といっても床に置いてあった)ました。
心配していましたが、持ち込み荷物の一つとして料金は取られませんでした。



MKを拾ってまずは、彼が昨日行ったばかりという
お勧めの中華で夕飯をとりながらeSIMの契約をしてもらいました。



日本では見ないタイプですが、これは餃子の一種です。
カップの中にスープとミートが入っています。

■ Airbnbに到着



ナビが使えるようになったので、今回のAirbnbにチェックイン。
エメラルドヒルズという、レッドウッドシティの丘にある邸宅です。


借りるのはこの建物の庭から入れるゲストルームです。
オーナーは建物の2階と3階に住んでいます。

高級住宅街なので周辺は豪邸ばかり。



テーブルの後ろに、上階に続く階段がありますが、
こちらからは入れないように、鍵付き扉で封じてあるため、
完全にプライバシーを確保され独立した部屋となっています。



こちらがベッドルーム。



ソファはベッドになるので、最大3人までの宿泊が可能です。



庭だけでももう一軒家が建てられるに十分な広さ。
丘の上なので、夜は寒いくらい温度が下がります。



部屋の前には椅子があって、
巣箱にやってくる鳥を見ながらお茶が飲めます。


最近のiPhoneは、写真を撮ったら即座に素性を教えてくれます。
昔は西海岸の鳥の種類を調べるためにブックレットを買ったものですが。



この、つがいで雛を一生懸命育てている鳥はユキヒメドリ、
英語名Junco(ジュンコー)。
自分の頭より大きな羽虫を捕まえてきてはむしゃむしゃして、

それをヒナに与えるために巣に飛んでいきます。



庭にはジャスミンの香りがむせるくらい濃厚に立ち込め、
入り口のレモンの木にはたわわな実が成っていました。



熟れた味が地面に落ちていましたが、これ食べられるのかな。



この辺りは野良猫の代わりに野良鹿がうろうろしています。
庭に鹿が涼みにきていました。



わたしがガラス越しに見ているのでこちらを警戒しています。
その後ろを駆け抜けていくのは特大のリス。

鹿はしばらく木陰で座ってうとうとしていました。



近所には消防署がありますが、ほとんど普通の住宅みたいな建物です。



ただし、番地のポストに誰でもわかる消防車のマークが。



朝散歩に出てみたら、近所に真如苑USAという寺院がありました。



調べたら、1936年に開祖された日本の仏教系新興宗教みたいです。
日本ではオウム真理教以来宗教そのものが邪悪視される傾向にあるので、
この真如苑も何か色々と言われているようですが。



広大な敷地の中は週末のせいもあって散歩している人が多数。



犬連れの散歩者に、真如苑より注意喚起。


気温が25℃ならアスファルトの熱さは51℃。
30℃なら57℃。
30.5℃ならなんと63℃になってしまい、
51℃のアスファルトを歩けば1分で皮膚に異常が起こるとあります。

「もしあなたが裸足で歩いて熱ければ、彼らにとっても同じです」

真如苑の教義については当方知るところではありませんが、

敷地内を散歩する犬の健康被害の心配までしてくれるさすが宗教団体。

■ 日本食、日本語人気



到着して翌日、MKに、パロアルトに新しくできたという
フードコートに連れていってもらって、そこでびっくり。

ジャパンタウンでもないのに、この光景は何?
写真右のラーメン屋は「ORENCH」つまり「俺んち」です。


MKはここでラーメンを頼んでいました。
「オレンチ」なんて店名、日本人じゃなければ絶対につけないよね。


もう一つの・・・日本食?かどうかはともかく、このバーガー店、
その名も「KONJOE BURGER」。



そう、「根性バーガー」です。

メニューに日本語が使われていたりするわけではないですが、
目玉メニューのチキン唐揚げにMochiko=餅粉が使われているのが売り。

日本では今日び「根性」なんて言葉自体死語となっていますが、
これを英語で説明するとすれば何になるんだろう。

思いつくのはgutsですが、「必死に頑張る」という意味があるとはいえ、
「根性」さらには「ど根性」となるとちょっと違う気がします。

「恋の予感」並みに英訳しにくい日本語の一つではないでしょうか。
 

わたしは根性バーガーでシグネチャーの「KONJOE」を選びました。

例年アメリカに来ると、一度はバーガーを食べることにしていますが、
今回は初日にいきなりノルマを果たしたわけです。

パテはミディアムレアオンリー、オニオンとフライドエッグ、
そしてチリペッパーに「根性ソース」(漢字で書くとなんか凄い)がけ。

チリは思ったより辛かったので全部外していただきました。



MKが「ここのケーキは美味しい」というので
写真右側のジャパニーズベーカリー&ケーキ屋(おにぎりもあり)
IKUKAでKabocha=日本カボチャのケーキを買って帰りました。

アメリカのケーキはどうも我々日本人にはただ甘いだけで、
下手したら色も形も食欲をそそらないものが多いのですが、
ここのケーキは普通に日本でも美味しいとされるレベルです。

IKUKAの意味は「いもクリカボチャ」。
日本のさつまいも、栗、かぼちゃのほのかな甘みと
でんぷん質のおいしさへの愛情に由来しているのだとか。

もちパン、バスクチーズケーキ、モンブランなど、
日本で愛されている味やアイテムがパロアルトで買えるお店です。

昨今、インターネットという通信手段で、
情報があまり歪められずに世界中に伝達され、
一昔前のような間違った日本食、間違った日本ではない、
本当に近い情報が現地に根付きつつあるのを感じるお店です。
(その点ジャパンタウンは正誤が混在していると感じる)

■「人生の謎を受け入れる」

一時、変な日本語のTシャツを着ている外国人の写真が
ネットに出回っていましたが、
アメリカ人が日本語を「クール」と考える傾向はいまだに、
というか、最近では特に若い人の間で顕著だと感じます。

アメリカのドラマ(わたしが見たのは『グッド・トラブル』)中、
登場人物が日本語の書かれたシャツを着ていることも多く、
街を歩いていても時々そういうシャツに遭遇します。

今回MKの寮に初めて行って、乗ったエレベーター内で、
学生らしき白人系男性が着ていたシャツの背中に、
なんの飾りも、絵もなく、ただ文字だけ、

「人生の謎を受け入れる」

と書いてあって、わたしは「うーん」と色々考えてしまいました。
日本語として全く間違っていないし、意味もわかるのですが、
日本人なら絶対にTシャツにこの言葉は書かないかな。

「極度乾燥しなさい」に近い生硬な感じもあります。


にしても、なんで日本語なんでしょう。
日本で購入できるウケ狙いのおもしろTシャツとは違い、
アメリカ人が「真面目に」着ているシャツに書かれた言語としては、
英語以外では日本語だけで、中国語やハングルを見たことはありません。

これも、日本という国の、特にアニメや漫画など、
その他文化全般がインターネットで伝播してきた結果、
日本ブランドが「クール」と受け入れられてる証左の一つでしょうか。

だとすれば、つくづくわが国先人の努力と才能、発想と発信力に感謝です。


続く。



カリフォルニア到着〜痛恨の二大ミス

2024-06-13 | アメリカ

現在カリフォルニアにおります。
恒例の渡米が例年より早くなったのは、6月の第二週に
MKの大学の卒業式に出席するためです。

■ ESTA更新を忘れる(2回目)

出発便は深夜発でした。

深夜便のいいところは、起きてから出発までに余裕があることです。
この日もほぼ1日を最後の準備に注力することができ、
羽田までの車の中で、空港に着いたらどうしようか、
などとTOと話をしていたとき、ふと気づきました。

ESTA更新したっけ?



ESTAは我々日本人が享受することのできる米国渡航簡易システム。
ビザ免除プログラム加入国の国民は、前もって登録しておくことで
現地での審査が大幅に簡略化されるというものです。

2年ごとに更新しなくてはいけないのですが、それが問題で、
しょっちゅう渡米していると、したかどうかも忘れがち。

ということで、わたくし、まんまと今年も更新しておりませんでした。

しかし、わたしは甘く見ていました。
前回同じ状況だったとき、空港で簡単に手続きが済んだ記憶から、

「出発まで3時間もあるから余裕余裕」

とばかりに空港ロビーのカウンターにPCを広げたのです。
ところが、

「ESTAは受付後72時間以内に更新されます」

「ESTAの更新は最低でも72時間前にしておくこと」

という但し書きが出てきて真っ青。
それじゃ何か?最悪3日待たされるってこと?

最速で記入を済ませ、送信して、ステイタスが変わるのを待ちます。
案の定、何回リロードしても結果は同じ。

これ、出発までに降りなかったらどうなるんだろうなあ。

カウンターの前に立ったまま、リロード繰り返すこと2時間。
わたしはスタンディングデスクで作業しているので、
立ちっぱなしはもともと全く苦にはならないのですが、
このときはもはや長時間立っている意識すらありませんでした。

そしてついに、ある瞬間、ESTAが降臨したという画面に遭遇!

チェックインカウンターの人が
「結果がどうでも、とりあえずこちらにきてください」
と指定した時間まであと15分でした。

■ 搭乗




深夜発便は、搭乗してすぐ就寝することになります。
食事は到着前に配られる一回のみ。


今回の機材は出発までに2回変更になったせいで、
窓際を予約したのに通路になっていました。
CAに交渉して、窓側に変えてもらいました。


眠くなるまで「ザ・グレイト・エスケーパー」という
マイケル・ケイン(バットマンの執事を演じた人)主演の映画を観ました。

第二次世界大戦の英国海軍退役軍人バーナード・ジョーダン(89歳)が、
2014年6月にフランスで開催されたDデイ70周年記念式典に出席するため、
老人ホームから「脱走」した実話をベースにしています。

THE GREAT ESCAPER | Official Trailer
式典に参加し、現地で知り合った元空軍将校と一緒に、
彼らが元ドイツ兵たちと触れ合うシーンには胸を揺さぶられました。
動画でもお分かりのように、イギリス人は手のひらを外に向け、
ドイツ人は下に向ける敬礼をしています。


90歳の老人にもこんな時代がありましたってことで、
輝くように若く美しい20代の二人と、生きていることすら苦痛そうな、
老いた現代の二人のリアルな姿が繰り返し現れます。

最初は老人たちの姿に見てはいけないものを見るような気分でしたが、
特に最後の瞬間、それは実に尊い姿に思えました。



お待ちかね機内食ですが、残念ながら随分味が落ちたと感じました。

メインの白身魚の揚げたのは「いかにもレンジで温めた食感」。
デザートはお皿に載っている果物と前菜に混入したカステラ?ひとかけら。

有名レストランとのコラボもなかったし、コロナ以降
航空会社は業績を立て直すのに随分苦労しているのかもしれません。


西海岸に到着した瞬間。



スラウと呼ばれる自然保護公園が見えてきました。
画面左下のスラウの中にある一角のビルはフェイスブック本社です。

ただそこにいるだけで磯臭い風に包まれる絶好の立地。
こんなところに社屋を建てるとは、さすがザッカーバーグ(褒めてない)

■ iPadを失くす

事情があってiPad Proを2枚持って使い分けているのですが、
飛行機の中で、うち一つが見当たらないのに気づきました。

あーやっちまった。なくしちゃったよ。

てっきり羽田のチェックインカウンター前に置き忘れたものと思い、
宿泊先に落ち着いてから、まず羽田のANAに遺失物としてとどけたところ、
丸々2日後に「ありませんでした」とお知らせのメール。

そこで、今度は羽田の遺失物係に電話してみました。
係の方は目視しに行ってくれるなど手を尽くしてくれましたが、
それでも見つからないという返事です。

そのとき相手が、「正式な型番はわかりますか?」と聞くので、
確かめるために「デバイスを探す」を開けてみると・・

おい(笑)

サンフランシスコ空港にあることになってました。

つまり羽田に置き忘れたというのはわたしの勘違いで、
実は飛行機の中に(おそらく座席の下とかに)置いてきてしまい、
機内清掃に拾われてSFO空港のどこかで預かってもらってると。

「あの、たった今気づいたんですが、SFO空港にあるみたいです・・」

そう羽田の遺失物係の方に告げ、丁重にお礼を言って切り、

サンフランシスコ空港のロストアンドファウンドに、
テンプレートのクレームを(シリアル番号まで入れて)送りました。

すると、即座に「ロスト&ファウンドのカスタマーセンター」とやらから
こんなメールが入るじゃありませんか。

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ちょっと脅し入ってます。

いかにも1セントの儲けにもならない仕事にはやる気を出さない
アメリカという国ならではの阿漕な隙間商売ですな。

69ドルったら今1万円くらいでしょうか。
↑これをみた瞬間のわたし

これが出国が明日で全く探す時間がない、とかなら
仕方なくこのプライオリティとやらにお金払っちゃうんだろうな。

そうはいくか。

次の日、残りのiPadを持って空港に突入したわたし。
まずは空港ロスト&ファウンド(工事中で仮営業)にたどり着きました。

空港警察の横の、ガラスで区切られたブースの中の人と、
まるで映画の刑務所の受刑者との面会シーンみたいに電話で通話。
すると、中の人は、

「ここでは預かっていないから、ANAに電話してみて」

と電話番号をくれたので、「探す」機能を方位盤のように辿りながら、
指し示すデバイスのマークの方向に進んでいきました。

「きっとここ(デバイスのあるところ)はANAのカウンターに違いない」

オリエンテーリングというスポーツ?がありますが、
広大な空港を歩いていると、まさにそれ気分。

「近づいてきた近づいてきた」

我々の居場所とデバイスのマークは重なりそうで重なりません。
辛うじて一番近いところに立つと、そこはUnitedの出国カウンターでした。

そこで教えてもらったANAの事務所に電話をしてみると、

iPadのカバーの色や型式を聞かれ、

「それでしたらこちらで預かっているものだと思います」

やったー!見つかった。

「それではアイル1のカウンター1前で待っていてください」

数分後、iPadは4日ぶりに手元に帰ってきました。
受け取った瞬間、「探す」から発信したアラームが鳴ったのには笑いました。

今回のことで、本当にアップルユーザーでよかったと感じました。
他社のデバイスにももちろん類似の機能はありますが、
アップルのほど正確かつ便利ではないということです。

おそらく今回、iPadは、頭上の荷物入れからキャリーケースを出したとき、
キャリーの外ポケットに入れていたのが滑り落ちたのだと思います。

というわけで、皆様には、アップル製品を失くしたとおもったら、
何より先に「探す」機能をチェックすることをお勧めします。

なにしろMKによると、

「もしそれが盗難されて中国とかに持ち帰られたとしても、
周りにデバイスがある環境なら、世界中どこからでもそれがわかる」


ということですから。

続く。




映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」 ブーゲンビル

2024-06-10 | 映画

始まった時には考えてもいなかったのですが、
この映画が放映時間2時間10分という超大作であったこともあり、
気がつけば場面ごとに4日に分けて紹介することになってしまいました。

山本五十六を描いた映画は、当然のことながらその最後は
ブーゲンビルで米機に撃墜された「海軍甲事件」で幕を閉じており、
本作も山本の乗った一式陸攻がブーゲンビルのジャングルに墜落し、
それを護衛隊が見送る、というシーンがラストになっています。

■南太平洋海戦


ヘンダーソン基地への艦砲射撃が成功したのを受けて、
アメリカ艦隊(青)は全艦隊をもって北上し、連合艦隊(赤)もまた
「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」を旗艦とする全機動部隊でこれと対峙しました。
(赤線青線はお節介ながらこちらで書き入れておきました)

昭和17年10月26日の南太平洋海戦です。


こ、この二人は・・・!
ミッドウェーの後しょんぼりしていた南雲&草鹿コンビではないですか。

このとき第三艦隊を指揮したのは他でもない、南雲中将でした。
この二人が「汚名返上のチャンスを」と願い出て、
山本が「温情人事」によって二人を留めたゆえの配置でしたが・・。


日本軍の攻撃によって炎上する「エンタープライズ」。

このとき日本側は損傷を受けたものの、空母「ホーネット」、
駆逐艦「ポーター」を沈没、「エンタープライズ」、重巡1隻を中破させ、
日本側は確かに「海戦では勝った」ことになりました。
南雲&草鹿の「汚名」も、返上されたといってもいいのかもしれません。

しかし・・・。


「未帰還機が多いようです」



その一例。
帰投中、機体と身体に傷を受け、持ち堪えられなくなって
海に落ちていく三上中尉(こんなちょい役に田村亮)。


最後まで声を枯らして励ましていた木村中尉は、
三上中尉の最後を敬礼で見送ります。

数字の上では日本軍の勝ちでしたが、多くのベテラン搭乗員と飛行機を失い、
そもそもこの目的であるガダルカナルの陸軍の支援には
兵力不足で結び付かなかったというのが真実のところでした。

つまりは「試合に勝って勝負に負けた」的な・・・?


もちろん兵站がそれで持ち直す事態にはならず、
ガダルカナルの陸軍は、弾薬はもちろん、食料もすでに底をつき、
「飢島」と呼ばれるにふさわしい地獄の様相を呈していきます。

■ガダルカナル撤退


この窮状を打開するために編成された第八方面軍の司令官は今村均大将。

オランダ領東インド(インドネシア)が降伏したあとは、
大本営に非難されながら寛容な軍政を敷いた人物でもあります。



旗艦の舷門で今村を迎える山本長官。

この「武蔵」という設定の船ですが、絶対海自の護衛艦だと思うんだな。
なんならサイドパイプ吹いてる人も自衛官かもしれん。
エキストラ程度ではこんなちゃんとした音は出ないはずだから。


せっかくロケで自衛艦をお借りしたからといって、
いくらなんでもこんなところでテーブル囲まなくても・・・。

この後ろの感じで、1968年当時のどの自衛艦かわかってしまう方、
もしかしたらおられませんかね?

映画では特に描かれていませんが、この二人は佐官時代から親交があり、
今村着任時の夕食会で、山本は

「大本営がラバウルの陸海共同作戦を担当する司令官が君だと聞いた時は、
誰だか同じ様なものの何だか安心なような気がした。
遠慮や気兼ね無しに話し合えるからな」


と陸海軍の側近らの前で今村に話しています。
のちに山本が戦死した際、今村はこの報に涙して悼みました。


二人が艦上で話し合ったのはガダルカナルの現状についてでした。

今村は赴任前に宮中に参内し、天皇陛下より、
ガダルカナルの将兵を万難を排しても救え、というお言葉を賜った、
と山本に告げ、山本もこれを恐懼して聞きます。


こちらは、切羽詰まったガダルカナルの参謀たちに、
総攻撃をかける機会は今でしょ!と詰められている百武司令。

「飢えで死ぬくらいならば玉砕の方がなんぼかマシです!」

ごもっとも。

しかし今の兵力では成功の見込みはまずない・・と司令は躊躇し、
困り果てて、ラバウルからの指示を仰ぐことにしました。


しかし、ラバウルの今村もこれ以上の戦力をガ島に投入することには及び腰。


業を煮やした山本は渡辺参謀を介してガ島撤退の可能性を探りますが、
陸軍側はそのメッセージを今村に伝えることすら拒否するのでした。

「武士の情けだ。
私としてはお取次ぎしかねるし、このままお引き取り願いたい」


つまり陸軍の立場からは撤退を言い出すことはできないと。
なんだろうこれ。プライドが許さない的な?

これを聞いた山本は、自分が「悪者」になって撤退を上に進言する、
そしてこれから海軍は撤退のため全力を尽くすことを決意しました。


そして海軍艦船により暗夜を利用した撤退作戦、「ケ号作戦」が始まります。
(画面はどう見ても真昼間ですが、それはこの際置いておいて)

山本は、

「動ける駆逐艦全てを投入、半数を失うかもしれぬ」

という覚悟でこの作戦に臨み、結果として駆逐艦「巻雲」を喪失、
軍艦数隻が損傷しましたが、将兵1万6000名余の撤退に成功しました。

2月7日のことでした。

■い号作戦



生前の山本五十六を撮った最後の写真として有名ですが、
これは昭和18年4月7日〜5日、南東方面艦隊と第三艦隊の艦載機により、
ガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、
オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行った「い号作戦」終了時のものです。


映画は実際に残る写真に忠実な構図が取られています。
山本長官の白い第二種軍装が遠目に目立っていたのも史実通り。

このとき山本は「武蔵」を降り、ラバウルにきて自ら指揮を執りました。
艦を降りることは山本の本意ではなかったとされますが、
(『ニミッツのように艦上から指揮を執りたい』と言ったらしい)
これを説得したのは参謀長だった宇垣纏でした。

またしても歴史に「もし」はないとはいえ、このとき宇垣が反対せず、
山本がラバウルに来なかったら、海軍甲事件はあったでしょうか。

作戦は、参加航空機第11航空艦隊196機、第三艦隊184機の合計380機で、
各地の米軍港にある艦艇を攻撃するというのが目標でした。



出撃する飛行隊を見送る山本長官と幕僚たち。



艦爆隊長は、いつのまにか大尉になっていた木村でした。

ところで、映画でこの後艦爆の後席に乗り込む木村大尉は、
狭いコクピットになんと長刀を持ち込んでおります。
海軍って飛行機に長い刀は持って乗らないと思ってたけど違うのかな。

もちろん高官は事情が違い、山本長官は、撃墜された一式陸攻で
長刀を持ったままの姿で発見されているわけですが・・。



幕僚と共に帽振れをする山本。



この撮影時、渡辺元参謀ら、実際に山本五十六を知る人々が
映画の現場を見ており、おそらくは助言もしていたのですが、
全ての人々が、三船敏郎の演じる山本は
細かい所作の隅々まで本人そっくりだったと証言しています。





戦果は、駆逐艦1隻撃沈、貨物船1隻撃沈、2隻撃破、
油槽船1隻撃沈、コルベット艦1隻撃沈、掃海艇1隻撃破、
航空機は25機を損失せしめるというものでした。

しかし、我が方は零戦25機、艦爆21機、陸攻15機を失い、
戦果の割には損害が大きく、消耗度の高い作戦となりました。



幕僚を集めた山本は「い号作戦」の終了を宣言し、
それに伴い母艦飛行機隊を内地に帰す命令を下しました。



ほとんどが戦友の遺骨を抱いての帰還です。



山本五十六の敬礼は実に美しかったという証言があります。

駐米大使斉藤博が任務中客死した際、横浜まで「アストリア」が遺骨を運び、
それを遺族の立場で埠頭に迎えた犬養首相の孫犬養道子さんが、父上に、
斉藤未亡人に対するレディスファーストの身についた振る舞いを見て、

「誰?あのスマートな軍人」

と思わず尋ねると、父上の犬養健氏は、

「五十六。山本五十六」

と答えたという話が犬養道子氏の著書に遺されています。

後世の人々が語るその姿から、山本五十六という人物は
所作立ち居振る舞いを含め、写真には写らない魅力があったと考えられます。

その魅力は女性のみならず男性をも捉えるような類のものでした。
常に着るものには徹底的にこだわったという話もあります。


「長官・・・ご無事で!」

兵学校の入学から縁があった木村大尉も内地に帰ります。



翌日、山本は前線の部隊を激励するために前線に飛ぶことを計画していました。
行き先はブーゲンビル、ショートランド。

飛行部隊の帰国を見送った後、この映画では山本は
将兵の見舞いに病院を訪問したことになっています。



怪我しているというのに長官が見にくるからと、
ベッドの上で正座をさせられている怪我人、病人を見回り、
声をかけていた山本は、一人の負傷兵から声をかけられました。

彼はかつて加治川で山本を乗せた船の船頭の息子でした。

駆逐艦「長波」に乗っていてルンガ沖夜戦で負傷したという彼を、
山本は励まし、父親によろしくと告げます。


山本を慕う従兵の近江三曹は、「後百日のうちに」という書を見つけ、
山本が死を覚悟していることを確信し、ラバウルまでやってきます。

そして、第三種軍服を持って山本の前に現れ、
前線ではこれを着てください、と懇願しました。

ところで、山本五十六乗機が撃墜されたとき、なぜ白の第二種ではなく、
カーキ色の第三種を着ていたかについては、その直接の理由について
特に記述が見つからなかったのですが、おそらく、近江兵曹のように
目立つ白では敵の標的になりやすいので、という理由で
嫌がる?山本にカーキを着せた「誰か」がいたということでしょう。

ただ、もし白を死の覚悟の表明として選んでいたのなら、人生最後の瞬間、
初めての、しかもあまり好きではない第三種軍服を着ていたことは
装いにこだわりのあった山本にとって心残りだったかもしれません。


翌日長官機の護衛につく零戦隊、森崎中尉以下6名が挨拶に来ました。



居並ぶ中に、山本は見覚えのある顔を見つけました。
岩国航空隊で、飛行時間220時間!と大声で叫んだ元気な航空兵曹本田です。

今や飛行時間を630時間に増やした本田三飛曹ですが、
仲間はどうした、と聞かれて口ごもりました。


本田に変わって零戦隊の森崎隊長が、配属された彼の同期は22名で
生き残ったのはわずか7名であると告げます。


翌日、二機の陸攻に分乗した長官一行は、ラバウルを飛び立ちました。
後ろに乗っているのは参謀飾緒を付けているので、
航空参謀であった樋端久利雄中佐か、副官の福崎昇中佐のどちらかです。

樋端大佐(死後)は伝説の俊英で「海軍の至宝」とまで謳われた逸材でした。



しかしこの飛行はあらかじめ暗号解読により米軍の知るところとなり、
日本軍が時間に正確なことを利用し待ち伏せされていました。



現れた16機のP-38ライトニングと交戦になる零戦隊。
護衛6機に対し16機、これはもう勝てそうな気がしません。



結果として、陸攻は2機とも撃墜され、護衛の零戦隊は被害なし、
アメリカ側のP-38が1機撃墜されています。



このとき長官機は避難のために緊急着陸を試みたと言われます。
長官機に乗っていたのは山本と二人の中佐、そして高田軍医少将、
機長と副機長、偵察員、電信員2名、攻撃員、
そして整備員計11名で、この全員が戦死しました。

2番機も墜落しましたが、宇垣参謀長はじめ3名が救出されています。



映画では、その後1番機は被弾し、副操縦士と、
山本の後ろの中佐はすでに銃弾を受けて死亡しているように描かれており、
山本の右肩には銃創が見えます。


ここでは、山本の遺体に背部盲管銃創があったとする報告通り、
機上ですでに戦死していたと描かれていますが、実際は、
墜落後発見された遺体の状況から、墜落しばらくは生きていたものの、
全身打撲か内臓破裂により翌日早朝ごろ死亡した可能性が疑われています。

なぜこのような齟齬が生まれたか、なぜ正確な検証がされなかったか。

それは、山本がなまじ神格化された存在だったため、
墜落してしばらく生きていたというより、機上で射撃されて即死した方が
連合艦隊司令長官山本五十六に相応しい、と周りが忖度して
その最後の姿を修正しようとしたからではないかと思われます。

それを疑う理由は、実際に発見された遺体の腐敗具合から、
山本がしばらく生きていたことが当時から推測されているのにもかかわらず、
軍医が墜落現場における検死の際、軍服を脱がそうとしたところ、
渡辺参謀が強い口調でそれを制止し、それをさせなかったことがあります。

長官を敬愛する彼らにとっては、正確な死因を追求し記録に残すよりも、
神・山本の物語を完璧に紡ぐことが優先されるべきだったのでしょう。


日本側で山本の死因がはっきりしていなかったように、
アメリカ側でも正確な撃墜状況は長らくわからなかったそうで、現在は
撃墜した「候補者」二人の共同ということに落ち着いているそうです。

映像もないので真実は永遠に謎のままです。


しかし、発見されたとき山本は座席に座り、
軍刀に手をかけていたことだけは確かです。



零戦が見守る中、ジャングルに墜落し黒煙を上げる長官機。


滂沱の涙を流しながら敬礼する零戦隊の六人でした。

「昭和18年4月18日、長官山本はブーゲンビル島の上空において戦死した。
真珠湾攻撃より1年4ヶ月、日米開戦に極力反対した山本五十六は、
志と違い、皮肉にも彼自身戦争遂行の重大責任を担い、
自らの死によってその節をまっとうしたのである。」

ナレーターはこれも聞いてびっくりの大物仲代達也でお送りしました。



終わり。

映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」ガダルカナル

2024-06-07 | 映画

映画「連合艦隊司令長官 山本五十六」三日目です。
本日扉絵左上の百武晴吉陸軍中将ですが、昭和17年、
ガダルカナル島奪回のために派遣された第17軍の司令官でした。

ところでこの百武という変わった名前に覚えがありませんか?

当ブログでは入手した海軍兵学校の遠洋航海記念アルバムをもとに
シリーズとしてここで紹介したことがあるのですが、
練習艦隊司令官としてこの年(淵田美津雄が在籍していた)の
遠洋航海を指揮したのが、晴吉の兄、百武三郎大将でしたね。

兄なのになぜ名前が三郎なのかというと、百武家は5人兄弟で、
三郎の上に二人(おそらく一郎か太郎、二郎という名前の)兄がいたからです。

百武家は三郎、源吾(海軍大将)そして晴吉と3人の将官を輩出しており、
三郎と源吾は海軍史上唯一、兄弟の海軍大将となりました。

晴吉陸軍中将は、兄三郎に似て眼鏡の細面ですので、
映画の百武役はあまり、というか全く似ていません。



これは三郎の弟海軍大将の五男、百武源吾ですが、
不思議なことに?こちらにそっくりです。

映画の配役担当がこの人と写真を間違えていたのではないかと思うくらい。

そして、左下の栗田健男ですが、これはもう全く、
誰がなんと言おうと似ておりません。
「全く似ていないで賞:海軍部門」を謹んで進呈します。

逆に、「そっくりで賞:陸軍部門」を差し上げたいのが今村均陸軍大将

佐々木孝丸という俳優は多才でプロレタリア作家、翻訳家などの面を持ち、
スタンダールの「赤と黒」の翻訳(フランス語)も行っています。



さて、続きと参りましょう。

ここは岩国海軍航空隊。
現在は米海兵隊が運営しており、軍民共用の岩国錦帯橋空港となっています。


訓練を終了し、これからおそらくは南方の戦地に送られる
新人航空兵たちを前にしているのは、あの木村中尉でした。


今日は山本長官が岩国基地に視察に訪れていました。


一人一人の前に立ち、前列の航空兵に飛行時間を尋ねる山本。

「220時間であります 」「230時間であります」「210時間(略)」

零戦以前のパイロットは、総飛行時間300時間でどうにか操縦がまともにでき、
500時間で列機が務まり、7〜800時間でようやく一人前、
1000時間でベテランだったそうですが、それらのベテランは
ミッドウェーの後くらいになると多くが戦死してしまい、
200〜300時間クラスが戦争に出されることになりつつありました。

■ガダルカナル攻防戦


下矢印は、エスピリッサント島に進出するアメリカ艦隊、
上からきているのはラバウルに進出した日本軍の第2、第3艦隊です。



そのちょうど間にあるのが・・・ガダルカナル島です。
両軍の凄惨な争奪戦が始まる、ということを説明しているのですが、
この図がわかりやすくて、感心してしまいました。



昭和17年8月24日の第二次ソロモン海戦の大戦果を報告するのは
大本営の平出(ひらいで)英夫報道部長

実物

ここで余談です。
2020年の朝ドラ「エール」でも扱われた戦時プロパガンダの一つに、

「音楽は軍需品なり」

というのがあり、この言葉の生みの親が平出大佐でした。

当時の音楽家にとってはこれは贅沢品と迫害されないための錦の御旗となり、
多くの音楽家がいわゆる戦意高揚のための協力を行いましたが、
彼らのほとんどは、戦争が終わるや否や慌てて?アリバイを主張したり、
あれはやむなく、などと保身のために言い訳しました。

わたしの知る限り「空の神兵」の高木東六氏はその典型だった気がします。
時世と価値観の変化を思えば、それを責めようとも悪いとも思いませんが。



その頃、陸軍部隊はガダルカナルに進出したものの、
米軍はすでに三本もの滑走路を完成させ、そこから猛攻をかけてきました。



ここトラック島の旗艦「大和」司令室では、黒島&渡辺参謀をラバウルに送り、
陸軍との話し合いを行うよう要請が行われました。

テーマは補給のための物資輸送です。
連合国軍が8月7日にガダルカナルに奇襲上陸したのを受けてのことでした。



海軍側がこのとき提案したのがいわゆる「鼠輸送」でした。
夜間、高速の駆逐艦を用いるしかなかったので、輸送量が限られ、
貨物クレーンも搭載していないことから、大型武器の運搬はできませんし、
月が明るい時期には駆逐艦が発見されやすく実行できませんでしたが、
それでも述べ350隻の駆逐艦が投入され、2万人が輸送されました。



駆逐艦で輸送を行うことを非効率的だというのは、辻政信参謀
トラック島に戦艦がゴロゴロ「遊んでいる」のだから、
大船団を組んで輸送してくださいよ、とつっかかってきます。

渡辺参謀が、駆逐艦を輸送に出すのは海軍にとっても大変な犠牲である、
少しは海軍の立場も理解してもらいたい、というと、

「しかし、ミッドウェーの失敗は海軍ですよ?
ガダルカナルだって先に手を出したのは海軍だ」

と、(海軍側にとって)ムカつくことをズバリ。


険悪になる雰囲気を宥めたのは流石の百武司令でした。

「どうか陸海心を一つにしてこの難局を乗り切っていただきたい。
それがこの百武の願いです!」

本物への似ていなさもあって、わたしもそうだったでしょうが、
この一言がなかったら、この司令官が誰だかわかる人はいなかったでしょう。
よっぽどこの時代の戦史に詳しい人でもなければ。



いよいよ「鼠輸送」が決行されることになりました。
駆逐艦は昼間敵との接触を避け、北方航路を30ノットで進みます。

駆逐艦には本格的な上陸用舟艇も積めないので、
手漕ぎの小型上陸用舟艇に物資兵員を移して、
駆逐艦の内火艇で曳航する方式が基本でしたが、時としてこの映画のように
ドラム缶に入れた食料や弾薬を縄でつないで海上へ投棄しました。

「これで一体どれくらい味方の手に届くんだろうな」

「いいところ5分の1さ」

水雷戦隊を自認する駆逐艦乗員が、自らの任務を自嘲しつついうと、
たちまち先任が、

「ガダルカナルで飢えて物資を待つ将兵のことがわからんのか!」

と怒声混じりに叱咤し、皆は(´・ω・`)となります。


物資の受け渡しのために陸軍の兵たちが海岸に集結しました。

「作業かかれ〜!」

隊長が怒鳴ると、なんとびっくり、皆海岸で服を脱ぎ出すじゃありませんか。

実際の鼠輸送では、海に流したドラム缶などの物資を、
現地部隊の大発が回収するという方法がとられていましたが、
この映画では大勢が泳いで物資を集めに行くということになっています。



大発でもしばしば回収に失敗することがあったというのに、
人が・・泳いで?



駆逐艦では物資の投下が始まりました。



まるで夜間遠泳大会。
本当にこんな生身で物資を拾いに行っていたんでしょうか。


その時、駆逐艦が連合軍に発見され、空襲が始まりました。

夜間は敵戦闘機の飛行も限られていたので、この映画のように
夜間の作業中敵飛行隊の空襲がどれくらいあったかは疑問ですが、
輸送に向かう日中の往路復路は見つかるたびに空襲を受け、
この結果、聯合艦隊はガダルカナル作戦中の半年で駆逐艦を14隻喪失、
損傷は述べ63隻におよぶ被害を出しています。

またWikiによると、駆逐艦がこれほど損害を受けた理由は、
当時の聯合艦隊の艦隊型駆逐艦が、

「缶室か機械室のどちらかに浸水すると動かなくなる」

という弱点を持っていたことでした。
たまりかねて海軍は鼠輸送専用の輸送艦、

第一号型輸送艦
二等輸送艦(第百一号型輸送艦)

を作ったほどです。
ちなみに第一号型は日本で初めてブロック工法で建造された艦でした。
必要は発明の母?

それから、鼠輸送の最中に、つまり夜間、敵水上部隊がやってきて
夜戦になだれ込んでしまうことが数回ありました。

ルンガ沖夜戦、ビラ・スタンモーア夜戦、クラ湾夜戦などがそれです。
日本の駆逐艦は夜戦が得意だったので、これら艦隊戦には勝ち気味でしたが、
もちろん本来の目標である輸送に支障をきたしたことは否めません。

この映画でも物資どころではなくなり、輸送任務を行っていた
「叢雲」は航行不能、「夏雲」は沈没した、という設定です。

実際の「夏雲」はサボ島沖海戦に「衣笠」と合同で戦闘に当たるため、
「叢雲」は海戦で沈没した「古鷹」の乗員の救出のために出動し、
空襲によって「叢雲」は航行不能、「夏雲」は沈没しています。


司令官室の連合艦隊軍艦名簿に赤で❌をつける渡辺参謀でした。


無言で司令官室に戻り、スローテンポの「佐渡おけさ」を唸る山本。


そんな山本を心配気に眺める従兵の近江三曹。
そんな近江に、山本は、これから二種軍装を着用するから用意してくれ、
とさりげない調子で命令しました。


そのとき、「大和」に陸軍の船が着舷しました。
陸軍の船だから大発?と思いましたが、妙にモダンです。
ラバウルにこんな近代的な船があったのか?



やってきたのは陸軍参謀本部の辻政信でした。
ガダルカナルでの輸送作戦が実を結んでいないこと、
なんとしてもガ島を奪還したいことを語ります。

「後続部隊として第二師団がラバウルに集結しております。
百武司令官は『これ以上海軍に迷惑かけては』と、自ら輸送船に乗り込み、
裸の船団でガダルカナルに乗り上げるとまで申されております!」


これはどの程度史実に忠実かは少し疑問があります。
ガダルカナルの実情を無視して攻撃を強行した本人でありながら
失敗に対する対応策を迅速に行わなかったのもまた辻であり、
ここまでガダルカナルにこだわりながら、具体的な策を出しませんでした。

この誤った作戦指導が多くの人命を失う結果となったという説もあります。

そして本人はというと、現地でマラリアにかかり、
鼠輸送のため到着した「陽炎」に便乗して撤退しています。

「毀誉褒貶が激しく歴史的評価は真っ二つ」

という辻政信ですが、石原莞爾のようなキレ者というわけではなく、
戦後のCIAは、この人物について、

「政治においても情報工作においても性格と経験のなさから無価値」

「機会があるならばためらいもせずに第三次世界大戦を起こすような男」


と断じています。
軍人としての資質がなければ、真の意味での道徳心もないってことですか。



山本は、辻に

「百武司令には、乗るなら駆逐艦に乗って行くように」

と伝言させました。(意味不明)
そして、ゆっくり飯でも食っていきたまえ、などと言います。

これは実際にあったことで、辻が「大和」に山本長官を尋ねた際、
物資統制にもかかわらず山海の珍味が食卓に並んでいたのを見て、

「海軍はゼイタクですね」

と皮肉を言ったそうですし、その少し前、
トラック島泊地で第四艦隊司令長官井上茂美中将の接待で
海軍専用料亭(料亭小松)の宴席で芸者がいたことなども、
同じく不快と違和感を感じていたことを自ら書き遺しています。

料亭小松の「お国を思う覚悟の出張」(空襲による芸者の犠牲も出た)や、
山本長官のせめてもの「心づくし」など知るよしもなかったからですが、
のちにそれらのことを聞かされた辻は、

「下司の心をもって、元帥の真意を忖度しえなかった、恥ずかしさ。
穴があったら入りたい気持ちであった」

と、自分の言動を反省したそうです。
CIAからは酷評でしたが少なくとも自省できる人物ではあったようです。


ついで山本は本作中似ていないで賞大賞の栗田健男(左端)を呼びました。

「ガダルカナルの戦局を打開するために、『金剛』『榛名』で
泊地突入し、艦砲で敵飛行場(ヘンダーソン基地)を叩いて欲しい」

ヘンダーソン基地艦砲射撃

「やらせていただきます」

この映画では草鹿の反対を圧して栗田がこう言っていますが、
実際は、作戦に当初及び腰だった栗田が、山本の

「ならば自分が大和で出て指揮を執る」

という言葉でやむなく?引き受けたという経緯がありました。


そして「金剛」を旗艦とする第三戦隊が出撃しました。



このとき「金剛」「榛名」は合わせて966発の艦砲を発射し、
ヘンダーソン飛行場は半分強の飛行機が被害を受け、
個別の戦果で言うと「日本軍の勝利」となりました。



泊地艦砲攻撃を命じた第三戦隊出撃を見送る山本を、
従兵の近江兵曹は心配気に見つめ、藤井政務参謀(藤木悠)に、
なぜ長官はいつも目立つ白い第二種軍曹をしているのかと尋ねます。

山本は「大和」艦上で、

「あと百日の間に小生の余命は全部すりへらす覚悟に御座候」

と言う手紙を故郷に送っていますが、次にその手紙を書くシーンが挟まれ、
白の二種軍装が山本にとっての「死装束」だったことが示唆されます。


続く。




映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」ミッドウェー

2024-06-04 | 映画

映画「連合艦隊司令長官山本五十六」続きです。

前回、加山雄三演じる伊集院大尉のモデルが、「雷撃の神様」こと
村田重治大佐(最終)であるという話をしましたが、
今日のタイトル画で「友永丈一」としたのは、本作ミッドウェー海戦部分で、
伊集院大尉は友永中佐と同じ運命を辿るからです。

本作の登場人物は一部を除き歴史上の人物が実名で登場しますが、
加山雄三の役は村田大佐と友永大尉のどちらもをモデルにしているため、
唯一この役だけが創作名を与えられているというわけです。

また、黒島亀人先任参謀については、一番知られている肖像ではなく、
本作俳優(土屋嘉男)に似ている若い時の写真を挙げてあります。


真珠湾攻撃後、陸軍は「海軍だけに手柄を立てさせまいと」(黒島談)
大陸進出作戦を強く主張していましたが、
山本の目的は一刻も早く講和に持ち込むことですので、
敵艦隊を叩くため、ミッドウェー作戦を提案しました。


そんな折、劣勢を跳ね返すためのアメリカの捨て身の作戦、
「ドーリトル空襲」が起こります。

空母「ホーネット」を発艦したB29の編隊が本土を襲撃し、
このことは軍上層部をにわかに動揺させ、

「太平洋に防空の砦を築くべし」

としてミッドウェー作戦が決行されることになりました。

劇中、採用された空母「赤城」艦上における敬礼シーン(実写)
ちなみに敬礼しているのは士官のみ



ミッドウェー島への発進攻撃命令を下す機動部隊司令長官、南雲中将。


【軍歌】🎌『日本海軍・出航ラッパ』~映画版~

この時の出航ラッパは、このYouTubeで聴くことができますが、
東宝オリジナル(にしてはよくできている)なのだそうです。

帝國陸海軍喇叭集

本物はこの25番目。
ちなみに「防水」「診察」という喇叭があって驚きました。



「両舷前進びそーく」


「一航戦、赤城、加賀、出航しまーす」


「赤城」飛行隊の士官室は、皆意気軒昂そのものです。
木村中尉の幼馴染の写真(恋人でもないのになぜか持っている)
を皆で回し見して揶揄ったり、山本長官の噂をしたりと、和気藹々。



そして一航戦の飛行隊は、いよいよミッドウェーに向けて飛び立ちました。

本作の特撮模型は、船より飛行機の方がよくできているような気がします。
船はどうしても海面がうまく再現できないので限界があるようですね。

攻撃隊はミッドウェーに差し掛かると米軍の迎撃機と交戦、
その後ミッドウェー島の攻撃は予定通り決行されることになりますが、
作戦司令部には、第一次攻撃隊だけでは効果があまり得られず、
第二次攻撃隊の必要があるという打電が入ってきます。

(ちなみにこの連絡をしてきたのは、伊集院大尉のもう一人のモデル、
友永丈一大尉で、通信文は『カワ・カワ・カワ』)


しかしながら、第二次攻撃隊は敵機動部隊との交戦に備えて待機中でした。


そのとき「利根」の索敵機が、空母のない米艦隊の発見を告げてきました。
ここで機動部隊は後世に禍根を残すミスをしてしまいます。

米機動部隊からの攻撃はないと判断した草鹿は、待機していた航空勢力を
全てミッドウェーに向けてしまうことを決定したのでした。

しかも(映画では語られませんが)実はこの索敵機は、敵索敵に発見され、
近くに日本軍の機動部隊がいることを悟られてしまっていました。



そして、魚雷を陸用の爆雷に付け替えるという命令が下されます。
言うまでもなく第二次攻撃隊をミッドウェーに向かわせるためです。


模型チックな昇降機で付け替えのため甲板から降ろされる飛行機。



そのときです。
索敵機は空母2隻を伴う米機動部隊を発見しました。



「  なにい?!」

歴史に「もし」はありませんが、つい考えずにいられません。
もしこのとき、海軍が出した索敵機が、先の小規模艦隊の代わりに、
空母を伴う米機動部隊を発見していたら、結果はどうだったかと。

少なくとも空母4隻壊滅という事態だけは避けられたでしょうか。


そのとき「飛龍」の山口多聞司令から、米機動部隊に対し
直ちに発進の要ありと認む、という打電がされてきました。

しかし、雷撃機を発進させるには、護衛の戦闘機が出払っていて手薄です。
ほとんどの戦闘機はミッドウェー隊の掩護に行ってしまっていました。



「仕方ない、正攻法で行こう!」

上空直掩戦闘機を呼び集め、再び雷装への付け替えが命じられました。


全員なんでやねんって内心ツッコミ入れながら作業していたと思う。
爆弾が剥き出しになっている今、攻撃されたらどうすんの、とか。


そこに、日本軍にとって絶望的なお知らせが。
敵機動部隊飛行隊がこちらに向かっているというのです。

この一連のシーン、草鹿参謀長演じる安部徹は汗ダラダラ流してます。


急かされまくった攻撃隊がやっとのことで発進していきました。


しかし次の瞬間、米機動部隊攻撃隊が牙を剥いて空母群に襲いかかります。


この、爆弾が甲板を貫き爆発炎上する特撮は見事です。


修羅の海に浮かんだ機動部隊上空を、
たった一機になった伊集院大尉の機が航過しました。


「加賀、沈みます!」

沈みゆく「加賀」に敬礼をする伊集院大尉。(冒頭画)


山本長官の座乗した「大和」に、戦果を伝える電報が届けられました。

「敵艦載機の攻撃を受け、赤城、加賀、蒼龍大火災」

続いて、

「山口司令官より無電、『飛龍は健在なり』」



「山口司令官宛て打電せよ。飛龍の健闘を祈る」



「飛龍」からは艦載機攻撃隊が離艦していきます。
伊集院大尉機はこれらと合同で攻撃に当たることになりました。


燃料タンクを増槽に変えると言う飛行士に、
300マイル飛べれば十分だ、と淡々と返す伊集院大尉。

「はあ?」

「帰ってもおそらく母艦は沈んでいるだろう」

実際の友永丈一機は、ミッドウェー島を攻撃したあと、
母艦に戻って給油していますが、その際左翼タンクが破損していたので、
整備を担当した兵装長が、

「これでは片道燃料になります」

と出撃を制止したのを振り切って出撃しています。

映画の会話はこの時の「片道燃料」を盛り込んでいると思われますが、
友永大尉は、米艦隊までの距離は近いから帰れると計算していたようで、
決して最初から「帰らない覚悟」を決めていたわけではありません。

そして伊集院大尉のもう一人のモデルである村田重治大尉は、
ミッドウェーでは「赤城」から「辛くも」(wiki)生還しています。


映画では、伊集院大尉の艦攻は、米空母「ヨークタウン」に対し、



「テー!」

と魚雷を命中させた後、「ヨークタウン」の艦橋に激突自爆しました。

wikiによると、友永機と思われる隊長機を撃墜したのは、
「サッチ・ウィーブ」の発明者ジョン・サッチ少佐でした。

友永機は、機銃弾を浴びせられ、両翼が炎に包まれながらも、
「ヨークタウン」に魚雷を投下するまで飛び続け、
その最後の瞬間を目撃したサッチ少佐は、

「日本の指揮官機はリブをむき出しにしながらも何とか飛行をつづけ、
海中に墜落する寸前に魚雷を投下し、
ほとんど絶望的な状況でも最後まで任務を果たそうとした。」


と感嘆称賛の言葉を送っています。

「ヨークタウン」はこの攻撃により自力による航行が不能になり、
ハワイまで曳航されることになりましたが、
結局その途中で伊号第百六十八潜水艦に撃沈されることになりました。

聯合艦隊機動部隊の中で唯一最後まで残った「飛龍」も損傷を受け、
指揮官山口多聞少将、加来止男艦長を乗せたまま、
他の3隻の空母と運命を共に自沈することになります。



大敗北が決定し、夜戦を断念した聯合艦隊は、
これ以上の攻撃の必要なしとの判断に伴い、
ミッドウェー作戦の中止を決定しました。



「陛下にはわたしがお詫び申し上げる」

鎮痛な面持ちで反転する「大和」の司令官室に一人向かう山本。


「そして三日間が経過した」

この三日の間に、山本長官は夏服に衣替えなさったようです。



渡辺戦務参謀も衣替え。
一般的には6月1日が第二種軍服着用の区切りでした。



「長良」に乗っていた機動部隊の将官が報告のため「大和」に集まりました。
ところが、この南雲と草鹿だけは第一種軍服のままです。

現実的に考えれば、着替えを乗せたまま「赤城」が沈んだからですが、
それにしても、この二人以外全員真っ白なのは何故でしょうか。



それはおそらく制作側がこの構図にこだわったからだと思います。

情報収集と作戦の不手際で大失敗し、打ちひしがれている二人。
この「戦犯」の二人をあえて「黒いまま」残すことで、
その心情と立場を視覚化したかったのではないでしょうか。

このとき山本は、ミッドウェー作戦失敗の全ての責任は自分にあるとして、
彼らに批判的だった黒島亀人に対しても、

「南雲・草鹿を責めるな」(wiki)

と釘を刺しています。

おそらく自分に全責任があるということを痛感していた山本は、
部下だけに今回の敗戦の責任を取らせることができなかったのでしょう。

そして、汚名返上の機会を与えてほしいという二人の願いを聞き入れ、
再編された空母機動部隊の指揮を引き続き執らせました。

このような明らかな責任者への処分に見られる「身内に対する温情主義」、
さらには、ミッドウェーの敗戦を世間に対し隠蔽したこと、
作戦失敗の原因追及等、反省と今後への対策が全く行われなかったこと。

これらもまた、日本をその後の運命に導く一因になったと言われています。

続く。



映画「連合艦隊司令長官 山本五十六」真珠湾

2024-06-01 | 映画
 
昔、東宝映画は毎年8月15日の終戦記念日に合わせて
戦争大作を公開(8.15シリーズ)していた時期がありました。

本作「連合艦隊司令長官 山本五十六」は「日本の一番長い日」の翌年、
昭和42年最大のシリーズ超大作として制作され、大ヒットをおさめました。

本日のタイトル画は、俳優と演じた人物の写真を並べてみました。

草鹿龍之介=安部徹、宇垣纏=稲葉義男、米内光政=松本幸四郎、
南雲忠一=藤田進となります。

全体的に、最近の戦争ものより実物と似ている俳優が多い印象なのは、
当時を知る人々がまだ世間の大半を占める時代に制作されたせいでしょうか。

わたしの感想としては一番違和感があったのは藤田進の南雲忠一です。

もっとも、誰が一番本人と容姿の点で乖離していたかというと、
それは間違いなく山本五十六を演じた三船敏郎といえますが、これは
映画という表現の中では全く違和感なく受け入れられるから不思議です。

歴代の山本五十六を演じてきた俳優は、大河内傳次郎に始まって、
佐分利信、山村聡、小林桂樹、マコ岩松、役所広司、豊川悦司、舘ひろし、
加藤剛、古谷一行、香取慎吾、ともうほとんど誰一人全く似ていませんが、
おそらく役者が山本五十六を演じるとき、そこに求められるのは
容姿の問題ではなく、「存在する意義」そのものの表現力なのです。

その意味で、当時、山本五十六を直接知っていた人々から、
まるで本人が乗り移ったかのように似ている、とまで言われた三船は、
この歴史的人物を演じるに真に相応しい役者だったのだろうと思います。

■日独伊三国同盟締結



戦前のある年、新潟県加治川。



一人で観光の川下りをしている男性客がいました。



ご存知我らが山本五十六(当時海軍次官)。


船頭との会話の流れでなぜか船端で逆立ちをおっ始める山本。

加治川急流下りの船の舳先で逆立ちは実話であり、
そのほかアメリカ行きの船の中でのパーティで階段の手すりの上とか、
妙義山頂の岩の上とか、とにかく危ないところで逆立ちして
皆がハラハラするのを楽しんでいたようです。
身内からの証言もあります。

「逆立ちのおじさま」

舳先での逆立ちのエピソードは、2011年の同名映画で、
役所広司版山本五十六もやっていましたね。


そんな山本を護衛するとして現れた憲兵隊二人組。
この頃山本は三国同盟に米内、井上茂美とともに反対しており、
賛成派からプロパガンダされ、暗殺の噂さえありました。

山本は海軍芸者の巣であるレス(料亭)の宴席に彼らを呼び、

「陸軍さんは威張ってばかりで野暮だ」

などと陸軍の悪口を言うエス(芸者)に彼らを揶揄わせてご満悦です。


昭和14年8月、海軍省。


この暑苦しい顔の海軍少尉、木村(黒沢年男)は、飛行学生として
霞ヶ浦航空隊に赴任途中、山本海軍次官に挨拶に来ました。
貧しい家出身の彼が兵学校の試験の際、山本が推薦したという縁です。


次に待っていたのは、陸軍の辻政信参謀長たちとの面会です。
彼らは、三国同盟に反対する山本を説得に来たのですが、

「では、我々陸軍だけで(反対のための行動を)やります!」

と息巻く辻に、山本は口元を歪めて笑い、

「太平洋を歩いて渡るとでもいうのかね」



その日、独ソ不可侵条約が締結され、それを受けて首相平沼騏一郎は

「欧州情勢は複雑怪奇」

という名言?を残し、総辞職しています。

従来日本政府が準備していた政策をこれで全て打ち切らざるを得なくなり、
「別の政策が必要になってしまったから」
というのが複雑怪奇声明の内容で、要するに、

「国際情勢を判断できず、外交政策を立てられなくなってもうお手上げです」

という意味の総辞職であったと言われています。


当時の海軍大臣米内光政(松本幸四郎)と語り合う山本。
山本が敬語を使っているのは、米内が海兵の3期上だったからで、
法術学校教官時代で同室になって以来、二人は親友という間柄でした。

映画では山本の海軍次官の職を労うような発言がされていますが、
これは逆で、米内を海軍大臣に推したのが当時次官だった山本です。

三国同盟には山本と共に反対の立場でしたが、その理由は

「海軍力で及ばない英米をはっきり敵に回すことになるから」

という「海軍の論理」によるものであり、
決して大局的な観点からのものではなかった、とする意見もあります。



模型特撮はお馴染み円谷英二の手によるものですが、
CGのクォリティの爆上がりした昨今、この当時の特撮を見ると、
なんだか物悲しい気持ちになるくらい、作り物感が拭えません。

ちなみにこちら戦艦「長門」でございます。



旗艦「長門」の聯合艦隊司令官室で書をしたためていた山本の元に、
山本のお気に入り参謀、渡辺安次少佐がやってきました。



演じているのは平田昭彦。



この有名な写真で一番右に写っているのが渡辺参謀です。

本作撮影現場で、平田昭彦、三船敏郎に挟まれて座る渡辺氏

一般人と並ぶと三船も平田もレベル違いの超イケメンであると実感する写真。

平田は、じゃなくて渡辺参謀は、陸軍が三国同盟締結のため、
反対している米内に海軍大臣を辞させるという情報を持ってきました。
そして、後任の海軍大臣は賛成派の及川古志郎に代わります。



海軍首脳会議で、山本は最後まで三国同盟の危険性を訴えます。

及川新海軍大臣(中央)に、もし同盟を結んだら、
英米の勢力圏から輸入している生産物資が途絶える危険があるが、
どうするつもりなんですか、と詰め寄りますが、
もう締結は決まったことだから・・・・と及川むにゃむにゃ。

ちなみに及川の左の白髪は永野修身軍令部総長。(似てない)


昭和15年9月27日、締結は正式に決定されてしまいました。

■真珠湾攻撃


真珠湾攻撃の艦載部隊がそのための訓練を行ったのは、
オアフ島と地形の似ていた鹿児島湾でした。


訓練に参加している艦爆の指揮官席には、木村中尉がいました。
操縦員の野上一飛曹を演じるのは往時のアイドルスター、太田博之です。



後席から思いっきりやれ!と野上をけしかけたら、よりによって
「雷撃の神様」伊集院大尉の飛行機とニアミスしてしまいました。


木村中尉は真っ青になって伊集院大尉に謝りに行ったところ、
さすが神様、大尉(加山雄三)は鷹揚に部下のミスを許します。

伊集院大尉のモデルは、おそらく真珠湾攻撃の際
「赤城」飛行隊長だった、村田重治大佐(最終)と思われます。

ちなみに、支那事変の際、アメリカ海軍の砲艦「パナイ」を誤って撃沈し、
国際問題になりかねない「パナイ号事件」を起こした本人でもあります。

劇中、伊集院はこの訓練の意図がさっぱりわからないとして、

「市街上空は高度40m、海に出るなり高度5mの『雑巾掛け』、
しかも標的は動かない停泊中の船・・・はて?」

と呟いていますが、軍機となっていた真珠湾攻撃の内容を、
村田だけは上から聞かされていたと言われており、おそらくそれは本当です。



「(アメリカとまともに戦っても勝てないから)
先制で打撃を与えて早期講和に持ち込む」


という山本の真珠湾攻撃の企画意図並びに開戦に関する考えは、
本人ではなく、黒島亀人先任参謀の口から永野修身軍令部総長(白髪)、
伊東整一軍令部次長(その右)に説明されています。

「開戦劈頭、一挙にアメリカ太平洋艦隊を撃滅して
早期講和の機会を掴む以外に道はないのです!」




いよいよ開戦は避けられないとなったある日、
戦艦「長門」における作戦会議では、新型魚雷の採用、
真珠湾に至るコース(北回り)などが確認されていました。


これが最終的に決定されたコース。(棒で押さえているところが単冠湾)


草鹿龍之介参謀長南雲忠一機動部隊司令長官は、
大艦隊が秘密裏に真珠湾にたどり着くことの困難さを挙げ、
副案の検討を提案しますが、山本はそれを切り捨てました。

「国力の違うアメリカと四つに組んで戦うことができないからには、
先制攻撃で敵の奥深くに切り込むしかない」


それに対し、今後反対論は述べず、作戦実行に全力を尽くす、という草鹿。


その後、近衛文麿首相(森雅之)に海軍としての勝算を問われ、山本は

「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。
然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。
三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は
日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」

というあの有名な発言で返します。
井上茂美海軍大将はこの発言は失敗だったという考えで、

「優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず1年だけでも戦える、
間違った判断をさせてしまった。
はっきりと『海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けます』
と言った方が、戦争を回避出来たかも知れない」


と戦後語っています。
そして山本本人はというと、この時の近衛に対して、

「随分と人を馬鹿にした口調で、現海軍大臣と次官への不平を言ってたが
あの人はいつもそんな感じだから別に驚かない。
要するに近衛公や松岡外相等を迂闊に信頼して海軍が浮き足立つのは危険」


嶋田繁太郎に当てた手紙に書いています。
その後首相は近衛から東條英機に代わりました。


そしていよいよ作戦発動に向け・・

「攻撃命令は『ニイタカヤマノボレ』!」


機動部隊は単冠湾を抜錨し・・・。

・・・って、このシーンの特撮は残念すぎ。
予算のなかった「ハワイ・マレー沖海戦」の方がよくできていたような・・。
白黒の方がアラが目立たなくて良かったのかも。



模型のスケールも「ハワイ・マレー沖」より小さそうですよね。
キャスティングにお金を使いすぎて特撮にあまり回せなかったのか?



そしてここ「赤城」艦橋では・・・・

「ニイタカヤマノボレ、イチニイゼロハチ」

頂きました。


開戦の命令を受け、山本は藤井茂戦務参謀に、
開戦の通告が攻撃以前に手交されることを念押ししています。



これに対し、藤井参謀(藤木悠)は心配はいらないと返事しますが、
実際はいろいろアクシデントがあって攻撃後になり、
日本が騙し討ちをしたというイメージになってしまったのはご存知の通り。



ちなみにこの写真で山本の右側にいるのが藤井参謀です。


マストにZ旗が掲揚されます。

「皇国の荒廃この一戦にあり。
各員一層奮励努力せよ」



「かかれ!」


時々実写の映像が混じっています。



「オアフ島だ・・・攻撃態勢作れ」



「全軍突撃せよ!」
「テー!」
「命中!」

オアフ島の山間を縫うように進んだ機動部隊攻撃隊、
真珠湾攻撃の幕が切って落とされました。



結果を待つ司令部の元に届いた電報を通信参謀(佐原健二)が読み上げます。

「我奇襲に成功せり!」



喜びに沸く司令部の中で、一人重い表情の山本五十六。
戦果報告の中に空母が一隻もなかったことを憂えているのでした。



世間は初戦の勝利に対するお祝いムードに沸き立ちました。

軍内ですら、あらゆる機関で戦勝祝賀会が行われる有様でしたが、
山本はそれらの招待を厳しい表情で全て断りました。

アメリカがこのままで済ませるとは思っていなかったからです。



しかし、機動部隊の面々には全員に休暇が与えられました。
早速故郷に帰った木村中尉は・・



幼な馴染み矢吹友子(酒井和歌子)と姉澄江(司葉子)に再会しました。
この二人は単なる華添えキャストで、物語の筋にはなんの意味も持ちません。

姉澄江は両親のいない木村をお針子をして働いて育て、
最終的には兵学校にまで入れた苦労の人です。



日本軍はその後しばらくは破竹の進撃を続け、
太平洋地域においてアメリカ、イギリス、オランダを駆逐し、
南方支援地帯を確保するに至った・・・と思われました。


山本はここですかさず講和の道を探るべきだと考えました。



が、なまじ初戦で連戦連勝してしまったため、国中のムードが
停戦を良しとしないというところまで暴走しつつありました。

「平和など言い出そうものなら国賊扱いだよ」

と米内。
それではもう一度講和の機会を作るにはどうしたらいいか。

相手がそれに応じずにはいられない状態とは、更なる打撃を与えること。
山本に言わせれば、それは空母部隊を撃滅することに他なりませんでした。

そして、このとき講和の機会を求めて深追いした結果、
日本はミッドウェーで敗戦への道に足を踏み入れてしまうことになります。


続く。