ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

掃海隊員の歌七番〜海上自衛隊 掃海隊員殉職者追悼式@高松金刀比羅宮

2019-05-31 | 自衛隊

今年の掃海隊殉職者追悼式に参加して気づいたのは、参加者に配られる
資料等が新しい内容になっていたことです。

編者は元航啓会の会長で、幹候(部内)2期の細谷吉勝氏。
「苦心の足跡」でも三項を手がけておられ、実際の部隊は
「カルガモ艦隊」と言われた頃の第101掃海隊におられました。

語り継ぐ 太平洋戦争後の掃海戦」

と題された小冊子は、大東亜戦争末期における日米の機雷攻防戦で
日米彼我で日本列島の周りに敷設された機雷の状況に言及し、
さらに、戦後すぐ始まった掃海活動の実態、方法とその苦労、そして
実際の触雷事故と掃海隊員の殉職、そして現在に至る
殉職者の顕彰と追悼の歴史を、数字や地図など加えて述べています。

断片的な掃海についての知識でなく、これを最初から読み通せば、
戦後掃海の歴史が明快に分かる資料になっています。

従前の資料に不備があったというわけでは決してありませんが、
参加者に新たなアプローチで知識を共有してもらおうとするこの姿勢は、
呉地方総監部の殉職者追悼式に対する誠実さの現れであると言えましょう。

さて、山門の茶屋で冷たい甘酒を飲んでまた席に戻ってきました。
わたしの座っている場所から前列は、前列が地方総監や来賓の政治家、
水交会会長など、挨拶を行う来賓が並び、その後ろが掃海隊指揮官です。

海軍の艦内帽を被った方は献花の時は会社名とともに紹介されていましたが、
もしかしたら航啓会に属しておられたという方かもしれません。

待つことしばし、呉地方総監が来場されました。
呉に着任されて慰霊祭と追悼式の執行者となるのは初めてとなりますが、
前日の立て付けに参加したカメラマンのMかさん(仮名)の報告によると、
総監は、彼女が参考になれば、と差し出したこれまでに撮った追悼式の写真集を見て、
霊名簿奉安や降納などの所作について
熱心に研究をされていたということです。

この写真で総監の入来に椅子から立ち上がっている背広の男性は、
当金刀比羅宮の権宮司、琴丘(ことおか)泰裕氏です。

今年出席された殉職者のご遺族は6家族10名。
わたしが最初に参加し始めた頃に比べてもかなり少なくなっています。

テントの中央は通路となっており、前列のご遺族の後ろには、
歴代呉地方総監、その後ろには歴代掃海隊群司令が並んでいます。

歴代呉地方総監は31代の山田氏を始め、道家氏、杉本氏、伊藤氏が、
掃海隊群司令は、第二代の河村氏、福本氏、徳丸氏、岡氏らが出席されていました。 

一番最後に政治家が入場。
この日出席した政治家は、自民党の大野恵太郎氏、三宅しんご氏、
そして国民民主党の党首である玉木雄一郎氏でした。

写真にはかろうじて玉木氏の顔の一部が写り込んでいます。

前回出席した2年前、玉木氏は違う党の議員だったと思いますが、
さらにその前にはそれとも違う党だったと記憶します。
党名ロンダも大概にして戴きたいという気がしますがそれはともかく。

今回は、伊勢志摩サミットの後、玉木議員と並んで、ボリスジョンソンを風刺した
漫画を安倍首相だと勘違いして共に生き恥を曝した山井議員が離脱して、
今や絶滅も間近の泡沫野党国民民主党首としての追悼式参列です。

 

政治家の追悼の辞は、殉職者の霊名簿が奉安され、黙祷の後に、
水交会の会長や掃海隊群司令などとともに行われました。
去年、もはや何党にいるのか誰も知らない元民主の小川淳也議員が
実に不快な追悼の辞を行なったことを前回も書きましたが、
玉木議員の追悼の辞は、至極まっとうな、殉職隊員への弔意を真摯に述べ、
彼らの遺業を讃える文句のつけようのないものでした。

前回の追悼の辞の時も玉木氏には同じ印象を受けましたし、というか、
要は小川とかいう議員が特殊だったということなのでしょう。

昨年の追悼式が終わった時、小川議員は皆が退場する前に、文字通り
逃げるように真っ先に会場を出て行きましたが、玉木議員は会場に残り、
遺族の前で頭を下げ、退場していく参列者の波の中でただ立っていました。

わたしは出口に向かいながらなんとなく玉木議員の前に出てしまったので、
成り行き上挨拶をしなければならない雰囲気になり、

「ありがとうございました」

と言って頭を下げました。
もちろんわたしは政治家としての彼を全く評価していません。

一連の政府批判のための批判もさることながら、一躍彼の名を高めた
加計学園問題での発言、特に身内である獣医師会からの献金については、

「ますます疑惑が深まった。受け取っていないならそれを証明しろ」by玉木

と思っていることに変わりはありませんんが、
慰霊式に出席してまともな弔辞を上げるだけの良識はあるわけで、
そこに対しては国民の一人として謝意を述べたのです。

もちろん、心の中では、

「ただしそれは今日の出席に関してだけだがな」

と付け加えていたわけですけど。

ほとんどの列席者にスルーされていた玉木議員は、わたしに対し、
あの、いつもの、目を見開いたような表情で挨拶を返しました。

あとで、同じ地方防衛団体の方々と歩きながら、

「玉木議員とか変なことを言って目立っている野党議員って、
いわゆるポジショントークをしているだけじゃないのかという気もします」

というと、相手は即座に、

「違いますよ!玉木は大平さんの娘婿ですからね。裏切りですよ」

と口角泡を飛ばし、玉木がいかに悪いやつかを力説するのでした。
いや、それこそが政治がある意味プロレスみたいなもので、
彼は野党党首を「演じている」ってことの証拠だと思うんですが。

 

あと、最初に弔辞を読んだ大野啓太郎議員の

「今日のような空の色、今日のような山の緑、今日のような空気感を
(殉職した)皆様方も感じておられたのかと思います」

というような(正確ではありませんが)最初の言葉は胸に響きました。

 

続いて行われたのが儀仗隊による敬礼ならびに弔銃発射の儀式ですが、
わたしは、儀仗隊を配しての国旗掲揚、呉地方総監による霊名簿奉安、
そしてハイライトとも言える弔銃発射など、追悼式の様子は
招待されて参列しているという立場上、撮影しないと決めています。

そのため、わたしは例年、前日の立て付けを見学させていただき、
弔銃発射のリハーサル写真だけをここでお見せしていたわけですが、
今年は前日に別の見学会があったため、儀仗隊の写真等は一切無しです。

弔銃発射などはMかさん始め写真を上げておられる方がいると思いますので、
式典の様子をご覧になりたい方は検索してみてください。

弔銃発射は、儀礼曲「命を捨てて」の演奏の後、
同じ曲の頭8小節がが超高速で演奏されるたび発射、
これを三回繰り返して行います。

この「命を捨てて」は海軍時代から伝わる鎮魂の儀礼曲で、
真珠湾の九軍神の葬礼の時にも演奏されたという記録があります。

続いては呉地方総監を筆頭とする献花が行われます。

献花の間中、音楽隊は斎藤高順 作曲の「慰安する」という鎮魂曲を
繰り返し、繰り返し演奏し続けます。

作曲者の斉藤高順は陸軍戸山学校出身、戦後は小津安二郎の映画
「東京物語」の音楽を手がけ、世界での小津ブームと共に
評価が高まっている作曲家です。

この曲のデータは見つからず、いつ作曲されたものかは不明ですが、
嘆きを表す導入部と、長調になって救済を感じさせる中間部のコントラストが
大変美しい佳曲で、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑における拝礼の際も取り上げられます。


一番最初に献花するのは殉職者ご遺族のみなさま。

今年参列されたご遺族のうち二名は、毎年そうされているように
お身内の遺影を抱いて、前に進まれました。

遠目にも、写真の人物はまだ幼さの残るセーラー服の青年であるのが認められます。

写真を献花台の上にこちらを向けて立て、受け取った一輪の白菊を
供えながら、写真に向かって何か話しかけられたようにも見えました。

わたしはこの日何も考えずに黒いウールのスーツを着てきてしまい、
テントの下で蒸されて汗が噴き出し、ハンカチが手放せない状態でしたが、
この瞬間、涙が不意にあふれ、持っていたハンカチを目元に押し当てることになりました。

ふと気がつくと、左前の元掃海隊群司令も同じように目を拭っています。

 

献花は参列した全員が行うことになっているので、大変時間がかかります。
最初は個人名が呼ばれますが、後の方になると、水交会単位、そして
地本関係単位、自衛官単位でまとまって前に進み出て献花します。

この写真は最後の自衛官の献花となったときの様子です。

追悼式には管区の海上保安庁からも列席します。
戦後、まだ海上自衛隊が生まれる前に、掃海業務は
昭和23年に発足した海上保安庁の下設置された

「航路啓開所(本部)」

とその地方組織によって行われていたのです。

この時に広島に置かれた第六管区本部航路啓開部の末裔が、
現在の第六管区海上保安本部です。

 

この写真右側に写っているのは、一番最後に、

「幹部・海曹・海士代表」

として献花を行った三名です。

この後、追悼電報の披露に続き、呉音楽隊による追悼演奏が行われました。

「掃海隊員の歌」「海ゆかば」「軍艦」

の三曲です。

「掃海隊員の歌」の歌詞を一番だけあげておきます。

「独立日本の朝ぼらけ 平和の鐘は鳴り響き

大国民の度量をもて 雄飛の秋(とき)は迫りけり

今躍進の機に臨み あ 掃海は世の鑑」


昨年は、二番までを指揮者が歌いましたが、今年は
指揮者が変わったせいか、演奏だけが行われました。

この「掃海隊員の歌」を作詞した姫野修氏は、掃海業務に当たった方です。
今回、会場で歌詞を読みながら聴いていて、七番の

「天覧賜う和泉灘 嘉賞の御言戴きて

全員感泣奮励し 内海航路も啓開す」

という部分に気が付いたので帰ってから調べてみたところ、
作詞者の姫野氏ご自身の講演内容にそのことが述べられていました。

 

昭和二十五年三月天皇陛下の四国行幸があり
ご寄港先の小豆島土庄港の掃海を完了、十五日行幸当日は
播磨灘の掃海を実施しつつ遙拝を行いました。

三月三十一日は御召船山水丸が四国から神戸にお帰りの余次、
和泉灘で掃海部隊の御親閲を忝うしました。

呉・下関の三十二隻の掃海部隊は二列縦陣で登舷礼を行い、
陛下は悪天候を冒して御召船の甲板にお立ちになり大久保長官のご報告に
掃海業務の成果を嘉せられたと洩れ承つております。 

昭和天皇は、終戦後の昭和21年2月から9年かけて全国を御巡幸されています。
掃海部隊はその任務に対して陛下からのお言葉を賜り、歌詞にもあるように、

「全員感泣奮励した」

のでした。

掃海任務そのものが様々な経緯を孕む政治的な事案であったこともあり、
殉職隊員の家族がその死因について世間に公表しないように、と
口止めされていたこの時代に、陛下から直々に暖かい労いの言葉を賜った
隊員たちの感激はいかばかりであったでしょうか。

会場出入り口には弔電が披露されています。

地元選出の国務大臣平井卓也、呉市の寺田稔、山本博、宇都隆史議員。

広島市長、三原市長、山口県下松市長、光市長など、発起人に名を連ねる市長。

そして、陸自中部方面総監、岸川陸将からです。

追悼式後には遺族と関係者が慰霊碑の前で記念撮影を行うのが恒例です。

参列者はほとんどが直会のため式場からバスで移動するのですが、
わたしは周りにいたオールドネイビーの皆様が、

「歩く?」「歩こうか」

「たまには歩かないとダメだよ」

と言いながら階段を降り始めたので、なんとなくつられて
所属防衛団体の人たちと一緒に階段を歩き出してしまいました。

下りですし、体力的には全く問題のない距離ではあったのですが、
この日の湿度と日差しは思ったより酷く、考えなしに選んだ
ウールのスーツはまるで魔法瓶のように熱を溜め込んで汗が噴き出し、
たまりかねたわたしは食事会前に車に着替えを取りに行くという羽目になりました。

 

続く。



掃海殉職者慰霊碑〜 掃海隊殉職者追悼式@金刀比羅神宮

2019-05-30 | 自衛隊

毎年5月の最終土曜日には、金刀比羅神宮の一角にある慰霊碑前で
戦後日本の周辺海域の機雷を除去し、海を警戒する任務中に
殉職した掃海隊員の追悼式が行われます。

 

前夜の掃海母艦「うらが」艦上でのレセプションの翌朝、わたしは
讃岐うどんはもちろん、朝っぱらからデザートにケーキまである、
四国で一番充実した(当社比)朝食バッフェをゆっくりいただき、
車にカメラマンのMかさん(仮名)と横須賀地方隊で仕事をしていたという
元ウェーブさんの二人を乗せて、金刀比羅神宮近くの料亭に向かいました。

紅梅亭前からは海自がシャトルバスで会場近くまで連れていってくれます。
バス到着場から慰霊碑のある会場は、階段を少し降りたところにあり、
年配の出席者も安心して参加できる仕組みになっています。

昨夜同席したお歴々とシャトルバスに同乗し、その中の
かつての呉地方総監だった方から、総監時代にそれまで途絶えていた
愛媛での「五軍神」(最初の組織特攻を行った関大尉ら)
の慰霊祭を復活させた、などという話を伺いながら来ました。

「ということは、もし〇〇さんが呉総監になっておられなかったら、
慰霊祭は復活することなく消滅して
いたかもしれないということですか」

「わかりませんが、その可能性はありますね」

同じ地方総監と言っても、決して事なかれ主義というのではないにせよ、波風立てず、
面倒臭いことはやらず、
極めて無難に任期を全うして終わる人もいれば、
他の総監がやらないようなことに
敢えて挑戦する人もいるということでしょうか。

一般の管理職にも言えることですが、部下からはおそらく前者の方が歓迎されるでしょう。
しかし、たとえそれで嫌われたとしても、退官後、これが私の為したことだ、
と胸を張って言える実績が一つでもあれば、それは指揮官として本懐を遂げた、
というものではないかと(外部者なので恐る恐るですが)言っておきます。

週末であることもあり、多くの良民が本殿を目指して階段を登っていました。

この茶店は、下から急な登ってきた人が、ちょうど少し休憩したいな、と思う
最初の絶妙な立地にあって、いつも繁盛しています。

山門の本殿寄りには「五人百姓」と呼ばれる金比羅名物、
加美代飴を独占販売している五つの店が屋台を出しています。

この飴はどう言った経緯か五人百姓しか売ってはいけないことになっていて、
この時も赤い毛氈に傘の飴売りが、通りゆく人に試食販売していました。

わたしの前を歩いていた追悼式参加者に試食の飴をさし出したお店の人は、

「いや、そんなん食べたら歯が取れてしまう」

と手を振って断られ、苦笑しています。
昨晩もご一緒したこの方は防大出の士官だったということですが、
なかなか豪快さんだったらしく、現役時代、

「警衛を殴ったことがある!」

と衝撃の告白をしておられました。
そしてその理由はというと、

「門が閉まってから入ろうとして塀を乗り越えただけなのに
泥棒呼ばわりされたから」

深夜に塀を乗り越えていたらそりゃ泥棒扱いされますがな。

「越中国富山」

こんな書き方をするところを見ると明治より以前の年間でしょうか。

全国から寄せられる寄進の石碑に書かれた文字を読んでいるだけで、
金刀比羅神宮の「ご威光」というものがひしひしと伝わってきます。

そういえば去年はここから儀仗隊が出てきたなあと思いながら歩いていると、
ちょうど音楽隊のメンバーが楽器を手に一列で現れました。

譜面立てなどはすでにセットされているのかもしれませんが、
楽器は置きっ放しにすることは決してできないので、その都度持ち運びます。

この日はこの時間から日差しはつよく、昨日よりかなり湿度が高くて、
わたしなどもすでにううんざりしていたのですが、自衛官はさらに
式典用の服装で、白とはいえ長袖ワイシャツに上着という重武装です。

 

ところで、「苦心の足跡 掃海」に、旧海軍の海兵団出身で機雷兵となり、
戦後幹部候補生学校6期で掃海作業に当たった人が書いていたことですが、
現在の掃海部隊に当たる旧海軍での機雷兵の海軍内でのヒエラルキーは低く、
「下から三番目」、つまり兵科では一番下だったそうです。

機雷兵の任務は、機雷、掃海、爆雷、火薬化工兵器の取り扱いなどで、
陸軍における「下から三番目」は工兵(今の施設科)だったとか。

それでは下から二番目は何かといいますと、陸海共通で、

輜重兵・看護兵

「輜重・看護が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」

なんて普通に言われていたものです。
そして、一番下というのはなんだったと思います?

そう、それが

軍楽隊員

だったんです(T ^ T)
今では音楽隊はもちろん、掃海、施設科、輸送科、衛生科と全て
スペシャリストで、職業に貴賎なし、職種に上下など付けようがないのですが、
昔はとにかく歩兵と砲術至上主義だったので、機関科ですら
「罐焚き風情」なんて言われて兵科と差別され、
このことから「機関科問題」が生まれたりしました。

そんな究極の階級社会の中で、軍楽隊員に対する偏見は特に酷く、彼らには

海軍芸者

なんて蔑称が与えられていたということです。ドイヒー。

出席者はほとんどがバスで連れてこられるので、会場を間違うことはまずありませんが、
いつも追悼式会場の看板は階段のところに目立つように置いてあります。

もしかしたら、これは一般の参拝客の目につくところに置いて、
慰霊式の内容に興味を持ってくれるという効果を期待しているのかもしれません。

慰霊碑のある広場に続く道沿いには、掃海母艦「はやせ」の錨があります。
自衛隊初の国産掃海母艦で、1971年に就役後はペルシャ湾派遣時には
旗艦として活躍したのち、「うらが」「ぶんご」に道を譲り退役しました。

退役は2002年、実に31年間頑張っていたことになりますが、
こうしてみると、掃海母艦というのはある程度中身をアップデートして
結構長期間運用するものらしいですね。

会場入り口には追悼式に寄せられた各種電報が掲示してあります。
岩国の第31航空群司令、地本部長など内輪からのものも、
もちろん政治家からの電報もあります。

左上は、去年の追悼式で、掃海隊の殉職と安倍政権への批判という、
誰が考えても関連づけるのが不可能な二つの事案を、銀河点並みの
ウルトラC着地により見事に結びつけるということをやらかし、
会場の心ある人の顰蹙を買ったという伝説の小川淳也議員の電報です。

野党の小物議員が故意犯的にやらかした追悼式の政治利用(しかも言い逃げ)

とわたしは断言したものですが、こんなものでも地元の議員なので、
自衛隊としては招待状を出さなければならないらしく、今年は、
前日の艦上レセプションにもこの日も、女性秘書が代理で出席していました。

艦上レセプション会場で、これが小川議員の秘書か、と凝視していたら、
ご本人とバッチリ目が合ったのですが、次の瞬間逸らされました。

・・・・わたし、別に睨んでませんよ?



会場入り口には受付のテーブルが置かれ、そこで直会(追悼式後の食事会)
に参加する人は会費を支払って入場します。
そこには案内役の海士くんが控えており、席まで連れて行ってくれました。

御霊に捧げる供物はもうすでに霊前となる慰霊碑前に供えられています。
霊名簿を奉納し、献花を行う台が用意されているところでした。

各自治体(この追悼式の発起人となった元々の自治体)の首長から、
海幕長や群司令など自衛隊から、そして各種防衛協力団体、
遺族一同の名前で飾られた花は、白菊と白百合。

会場にはそこはかとなく百合の放つ芳香が漂っています。

会場がまだ準備状態なので、わたしは慰霊碑の背後に回って、
そこにはめ込まれた銘板を今回初めて写真に撮ってきました。

「発起人は掃海隊を出した港湾都市の首長」

と書きましたが、これを見ると兵庫県から以西の、ほぼ全ての港湾都市名が見えます。
この日献花された市長の名札の数はこの数に到底及びませんから、
発起には携わったが、現在では全くノータッチ、という市が増えているのでしょう。

そういえば、前呉地方総監の池海将が、

「殉職者慰霊碑建立に携わっていながら追悼式との関係が無くなっていたある市の長に、
今年は声をかけて出席(だったかな)してもらうことができた」

ということをおっしゃっていたのを思い出しました。

なお、一番左の世話人の欄に、

海上保安庁 航路警戒本部長 田村久三

という名前が見えますが、この田村氏は、兵学校46期卒、
海大を出てから東大で機雷兵器の研究を行い、海軍工廠で実験部員として
大東亜戦争中は艦政本部の掃海部長を務めた人物です。

戦後は第二復員掃海課長として、その後は海上保安庁の
特別掃海隊総司令官という立場で掃海隊を指揮して来られました。

本人が語らず、正式な記録にも残っていませんが、
元航啓会(元掃海隊員で組織された任意団体、呉資料館の開館をもって解散)
のある会員の証言によると、この人はある年の追悼式で、

「環境整備費として田村久三様から金一千万を賜る」

という立て札を目撃したそうです。
その当時、一千万といえば庭付き一戸建て住宅が賄える金額で、
それを見た元隊員は驚愕したということですが、田村氏の死後も、
田村夫人は金刀比羅神宮境内に四基の奉燈を行うなど、
夫の遺志を継いで寄付を行っていたという話もあります。

この慰霊碑建立を発案したのは呉航啓会で、会場入り口にある案内板などは
全て有志の浄財で賄われています。
今回は写真を撮りませんでしたが、この入り口の金属の案内板は

旧海軍工廠の技術を受け継いだ日新製鋼の最高級素材を使用して

作られたもの、という話です。

ブロンズの銘板の横には、掃海隊殉職者七十九柱の名前が打たれた
金色のプレートがはめ込まれています。 

昭和27年7月7日に慰霊碑の除幕式が行われた時には、殉職者の総数は
77名とされていたのですが、その後、昭和20年10月11日、博多沖で殉職した
「真島丸」の乗組員のうち「顕彰漏れ」となっていた鈴木正男氏、
昭和38年海自37掃「はりお」で殉職した平井満海士長の2名が追加され、
79名の名前が記されています。

なぜ二人の認定が遅れたかというと、死亡理由が「訓練中」「移動中」というもので、
触雷などの直接の原因ではなかったことだったようですが、その後、

「危険極まる掃海業務にあっては、殉職者の叙位、叙勲や遺族への補償等の関係から
現場への進出、海域間の移動等、基地を離れての行動中の事故死も
掃海殉職として処理されることが決まった」

ため、新たに殉職認定されたという事情がああります。

早く会場に到着したものの、風がないこの日テントの下は大変蒸し暑く、
まだ開式まで時間があったので、茶屋に顔見知りの自衛官と一緒に行ってみました。

追悼式のたびにここで甘酒を飲むのが最近のちょっとした楽しみとなっています。

杖を持って今から本殿を目指す三人の若い男性が、同行の自衛官の
白い詰襟が珍しかったのか、声をかけてきました。
自衛隊にあまり縁がない層にとって、儀式用の自衛官の制服は
こんな機会でもないと見ることもないのかもしれません。

ちなみにこの時、同行した自衛官の告白?により、第1種夏服には
財布を入れるポケットはない、(あるいは財布は持たない)ということを知りました。

山門の脇に衝撃的な告知看板がありました。

つい最近参道にて、

「盲目の参拝者を突き飛ばした不心得者がいる」

との通報がありました。
十分お気をつけてお参りいただきますとともに、
目撃されましたら当宮社務所へご連絡頂きますようお願い申し上げます。

いやー・・・最近こういうプシコ案件(医療関係者用語)が
あまりにも多くありませんかね。
昔もそれなりに変な人の凶悪犯罪はありましたが、今はなんというか、
普通に見える人が実は、みたいなスリラー映画的な事案が目立つというか。

わたしたちは甘酒を飲みながら看板を読み、この件について話題にしました。

「不心得者って・・・そんなレベルじゃないですよね」

「すでに犯罪です」

「しかし神社の境内で犯罪を犯すとは・・・」

それって日本人かなあ、とつい口に出してしまいましたが、正直、
昨今の犯罪続きの世相を思うと、必ずしもそうも言い切れない気がして、
日本人の一人として実に残念な気持ちになりました。

戦後日本の安寧のために危険な任務に従事した掃海隊殉職者たちも、
自分たちが命を賭してその復興に携わった祖国が、もし
人心の荒れた犯罪の多発する国になったとしたら、その時もなお
「任務に殉じて本望であった」などと思えるでしょうか。

 

さて、冷たい生姜入りの甘酒で喉を潤しているうちに開式の時間が近づきました。
そろそろ会場に戻ることにしましょう。

 

続く。

 

 

 

 


SOPAと失われた自衛艦旗の真実〜掃海母艦「うらが」艦上レセプション@高松港

2019-05-29 | 自衛隊

 

高松で行われた掃海殉職者追悼式に伴う掃海母艦「うらが」艦上での
レセプションは、日没時刻を迎え、恒例の自衛艦旗降下が行われました。

海曹と海士が索を結び、自衛艦旗を畳むという後の作業を行なっています。

この後、旧知の自衛官から

「今日の自衛艦旗降下はどうでしたか」

と聞かれたので、

「やっぱり甲板が広いと人がいなくて撮りやすいです」

などと答えるうちに、ちょっとした自衛艦旗降下のトリビアを教えてもらうことに。
ちなみにこの場合のトリビアとは、「瑣末なこと」という本来の意味ですが、
それはそれでなかなか深い話だったので書いておきます。

この会話で新たに知った単語があります。

ソパ。

この後に「アホ」をつけると「ソパ・デ・アホ」でニンニクスープのことですが、
もちろんそちらではなく、

SOPA(Senior Officer Present Afloat )

英語を読んでいただければ、一発でその意味がわかっていただけるでしょう。
定係港であれば、そこに「現在」「浮かんでいる」ところの先任、
つまり一番ランクが高い艦長がいる艦、ということになります。

リンク先を読んでいただくと、

「アメリカ海軍の掃海艇が佐世保に入った場合」

として、

「掃海艇の艇長は中尉であり、入港に先立ち、すでにそこにいる米国駆逐艦の
どこにSOPAがいるかをメッセージによって知らされている。
SOPAは掃海艇に対し、どこに係留するかを始め、各種割り当ての任務を指示する」

とあります。

 

アメリカ海軍も我が海上自衛隊も階級社会なので、フネ同士の敬礼も
下から上に向かって行い、SOPAはそれに答礼を行います。

「かが」体験航海で、艦橋デッキから艦隊司令のいる方向(別の艦)に向かって
敬礼を行なっていましたが、艦隊司令のいる艦がこの場合のSOPAだったというわけです。

ところでこの時伺った話によると、興味深いことに、このSOPA優先の法則は、
自衛艦旗降下の号令のタイミングにも適応されるというのです。

 

呉港で「夕呉クルーズ」に参加した人は、降下時間になると、あちこちから
少しずつタイミングのずれた喇叭譜「君が代」が聴こえてくるのをご存知でしょう。

少しずつずれて聴こえてくるのがまた風情があっていいものですが、
実はこれにはちゃんとした理由があるのです。

 

定係港などで複数の自衛艦がいる場合、自衛艦旗降下において

号令はSOPAが真っ先にかける

ということが決められているからです。
長年の慣習でこうなったのか、どこか規則に書かれているのかはわかりませんが、
具体的にどういうことかというと、降下の際一番最初にかけられる号令、

「十秒前」

は、SOPA艦が最初に発令し、他の艦はそれを聞いてから一斉に号令を下すのです。

ですから、

「停泊数が多い定係港などでよく注意して聞かれると、
SOPA『じゅうび… 他『十秒まえ!』てな感じできこえます」

なんだそうですよ。

アメリカ海軍の掃海艇が、佐世保のSOPAを前もって調べて入港するように、
艦乗り、(多分航海員)の重要なお仕事は、どのフネがSOPAかチェックすること。

そして、例えば同じ二佐の艦長のフネのうち、どちらがSOPAかは
どちらの艦長が先に二佐に昇任したかで決まるというのです。

航海員の間で、

「やった、うちの方が先だ」

とか、

「惜しい。あちらが半年早かった」

なんて会話があったりするんでしょうか。

SOPAは「プレゼント」という言葉からわかるようにテンポラリーなものです。
同じ港でも、定係されている艦艇が日々変わるので、SOPAもその都度違います。

だから、それを毎日チェックする係が必要になるわけです。

そういえば呉のクルーズで、「SOPAは目印に旗を揚げている」という話を
解説の人から聞いたことがあったようななかったような・・・・。

あと、細かいことにこだわるわたしとしては、同期で同時昇任した
二人の艦長がいた場合、
どうやってSOPAを決めるのかが気になります。


この法則でいうと、高松港におけるこの日のSOPAは間違いなく「うらが」なので、
「みやじま」「つのしま」の当直士官は、「うらが」の当直士官の
「十秒前」に少し遅れて発令を行なっていたはず、ということになります。

 

また、こんな自衛艦旗降下にまつわるトリビアも聞きました。

「うらが」のような大きな艦にはラッパを吹く航海員は4人ほどいて、
一人や二人上陸していても、誰か必ず吹ける人が残っているものですが、
潜水艦や掃海艇は航海員そのものが2〜3人しかいないので、停泊の時間には
全員が上陸してしまっていることも少なくない(というか多い)そうです。

この日も掃海艇の航海員が全員でうどんを食べに上陸していた可能性は高いですが、
「うらが」がラッパを拭いてくれるので、全く問題はなかったはずです。

 

そこで、またしても細かいことにこだわるわたしとしては、
掃海艇や潜水艦が
単身でどこかに係留していたとして、航海員が出払っていたら、
その時はラッパなしで自衛艦旗降下を行うのかがとても気になります。

みんなでハミングしながら降下とかだったら、ちょっと見てみたいですが。

なみに呉地方総監部から万が一、ラッパを吹ける人が何かの事情で
誰もいなくなったとしても、今ならあの!杉本総監がいるから大丈夫です。

太陽が沈み、急激に周りが暗くなってきました。
「うらが」のマストには、掃海隊群司令の海将補の在艦を表す
桜二つの司令官旗が揚げられています。

去年の掃海母艦艦上レセプションまでは、格納庫の中に主賓テーブルを置いて
その奥で主賓が挨拶していましたが、今年は格納庫には
呉音楽隊から選抜された軽音楽バンド「マリーンナイツ」の演奏ステージになっています。

バンドは「セント・トーマス」「A列車で行こう」「イパネマの娘」など、
ジャズのスタンダードやボサノバなどを演奏していました。

「かしま」で焼き鳥が美味しかったのを思い出し、屋台に行ってみたら、
最後の三本になっていました。
三本も食べられそうにないので二本だけもらおうとしたら、

「全部どうぞ!」(迫真)

まあ、一本だけ残していかれても困るでしょう。
覚悟を決めて全部いただきました。

ところで、この日、とても不思議だったことが一つ。

カレーがなかったのです。

海自といえばカレー、カレーといえば海自、というくらいで、
カレーの屋台はいつも大人気なのですが、そのカレーがないとは。

そのことに気がついて、知り合いに

「カレーないですよね。そういえば」

「本当だ。なんでだろう。聞いてみよう」

たまたま通りかかった乗員にその人が声をかけました。

「今日なんでカレー出てないの」

「そ、それはですね・・・・・・」

わたしは彼の答えにくそうな様子をみて、察しました。
翌日の紅梅亭での参加費は4000円也を徴収しましたが、
「うらが」でのレセプションで会費は取らなかったところを見ると、
やはり財政に関係する理由なのかもしれない、と。

そこで、

「わかった!どうしてカレーがないのか」

「えっ・・・?」

「今日金曜日でしょ?乗員の皆さんがみんな食べちゃったんだ!」

「(苦笑いして)・・・そうです」

楽しい時間はすぐに過ぎ去り、いつしか艦上には、マリーンナイツの
ピアノがやたら上手いクラリネット奏者が奏でる「蛍の光」が流れています。

出口に向かうと、なんとそこでは掃海隊群司令白根海将補と、
呉地方総監杉本海将が、

一人一人の手を両手で握って

お別れを惜しんでくれているではありませんか。

いろんなレセプションに出ましたが、ホストが手を握る系は初めてです。
もちろんわたし自身、この人生で海将や海将補に手を握られたのは初めてです。

うしてそういうことになったのか、どなたの発案かはわかりませんが、
下艦したあともお二人の掌の暖かさは不思議なくらい心を明るくしてくれました。

 

舷梯のすぐ近くには、殉職隊員のご遺族のためにバスが待機しています。

岸壁にはいくつものテントが明日の広報イベントのために用意されていますが、
おそらく例年のように陸自からいくつかの装備が展示されるのでしょう。

追悼式行われた25日、翌日の26日と行われた一般公開には
結局今年は行くことはありませんでしたが、おそらく今回も
年に一度の掃海隊の寄港を楽しみにしてやってくる人々で賑わったのに違いありません。

 

さて、わたしは、レセプションが終わった後、元海自の紳士にお誘いを受け、
三人の方々とアフターにお付き合いすることを約束しておりました。
下艦して、さあ行きましょうということになった時、一緒に歩きだした団体は
三人どころか、なんと十人くらいの一個小隊になっていました。

ほとんど全員がオールドセイラーで、海将とか総監とか、そうでない方も
某大の名誉教授で作家とか、またしてもなんでわたしがここに混ざっているのか、
というメンバーだったわけですが、とにかくそういうことになったので、
車を埠頭の駐車場に置いたままみなさんと一緒に駅前まで歩いていきました。

最初に入ろうとしたのがここ(笑)
大衆酒場みたいな、じゃなくてちゃんとそう書いてあります。

この日は金曜日でお店が混んでいたため、5人分しか席がないということで、
まずは約半数がこちらになだれ込んで行きました。

残りの六人はその隣の店に。
隣の店はホッピーがあるけど、こちらにはない、という違いがあります。

(このホッピーとやらを飲むために、わざわざ途中で隣に出張していた人あり)

ここで出た話は、どれも、皆様にお話ししたいくらい興味深いものばかりでしたが、
その中でも、わたしが個人的に一番盛り上がった?のは、三井玉野で行われた
潜水艦救難艦
「ちよだ」引き渡し式で、「自衛艦旗がなかった事件」の真相です。

自衛艦旗が艦長に渡され、艦長がそれを副長に渡し、副長は高々と
それを掲げて乗艦し、
自衛艦に命を吹き込むという伝統の儀式ですが、
この日は、誰も自衛艦旗がないことに気づかないまま式が進行してしまい、
急遽海曹室にある自衛艦旗を走って取りに行って間に合わせたという事件。

あれは、

「前日の雨で自衛艦旗が濡れたのを、三井造船が良かれと思って
どこかで乾かして、その後返すのを忘れていた」

というのが原因だったんですって。

やっぱりね。
海自なら全てそういうことはルーチンワークで間違いなくやるはずなのに、
あんなミスをするなんておかしいと思っていたんですよ。

やっぱりいつもと違うことをしたらダメってことなんですね。

そうそう、この時聞いたところによると、自衛艦旗を艦長が受け取り、
それを二つに折って副長に渡すという時に、
緊張して自衛艦旗を落としてしまった
という例も、海自の長い歴史にはあったそうですよ。

「最初にそういう事故があると、どうしても縁起が悪い、ってなるんだよね」

オールドセイラーのこの一言が重かったです(笑)

宴会が終わり、車を取りにもう一度「うらが」のいる岸壁に戻って、
冒頭の写真を一枚撮りました。

駐車場に戻ろうとして、ふと柵に「ご安航を祈る」のUW旗と、
安全祈願が描かれた紙が貼ってあるのに気がつきました。

毎年訪れる掃海隊を待ちわびていた高松の応援団が置いていったのでしょうか。

 

さて、明日はいよいよ掃海隊殉職者追悼式当日です。

 

 

続く。

 

 


舟盛りと機雷と自衛艦旗降下〜掃海母艦「うらが」艦上レセプション

2019-05-27 | 自衛隊

今日、5月27日は旧海軍記念日に当たります。

わたしは最近買い変えた車のナンバーをこの527にしている人ですが、
こういう変わったことをする人間は世間には稀で、ほとんどの人にとって
この日は、何の意味もない普通の日に違いありません。

しかしかつては、この日、海軍部隊の都内大行進が行われ、
軍楽隊の勇壮な調べにのって、キリリと白い脚絆をつけたネイビーたちが
一糸乱れぬ更新を行う様子は、海軍を志す青少年や、海軍軍人に憧れる乙女、
そして軍楽隊志望の音楽少年を多数産出したものだそうです。

終戦後、かつての海軍記念日は何の記念日でもない普通の日になりましたが、
戦後、その海軍組織から生まれた掃海隊員の殉職者を顕彰することになったとき、
慰霊祭は旧海軍記念日の5月27日に行のうことが定められていました。

つまり今日は、本来なら「慰霊祭」が行われていたはずなのです。

ここでわずかに心安らぐ事実は、最終土曜日が追悼式、その前日の立て付け前に
慰霊祭を行うと決まっている所為で、何年に一度かは、本来の5月27日に
その日が巡ってくるということでしょう。

 

さて、その5月最終週金曜日に行われた、掃海母艦「うらが」艦上での
レセプションについてお話しします。

約8年前の自衛隊の報告によると、艦上レセプションは年々広報的色彩を濃くしており、
追悼式に比べ規模も拡大しているとのことですが、平成から令和になった今年も
その傾向は変わっていないといっても差し支えないでしょう。

掃海殉職者の追悼を第一義に行われている行事ですが、
同じ頃の報告でこんな数字があります。

艦上レセプション参加者約160名中、100名は艦上レセプションのみ参加

主催者側海自を除く追悼式参加者約120名中、60名は追悼式のみ参加

つまり、艦上レセプション参加者の6割は追悼式には出ていない、ということです。

追悼式会場となる慰霊碑前の広場のキャパシティを考えると、
艦上レセプション参加者が全員出席することはおそらく不可能なので、
海自側は、レセプションにのみ参加する層に対し、広義の広報と、
狭義の募集協力活動につながる効果を期待していると見られます。

ちなみに、追悼式および艦上レセプションの案内は、呉地方総監部から
日頃海上自衛隊が世話になっている関係省庁、協力団体、造船会社、
国会議員、報道関係者などを含む広い範囲を対象に送られています。

受付に近づくと、呉地方総監部の総務課でもうすっかり顔なじみとなり、
顔を合わせると女子的お手振り挨拶をするまでになったウェーブさんが
名簿照合のための官姓名報告をする前に名札を持ってきてくれました。

彼女のおかげですっかり甘やかされたスポイルドチャイルドのわたしは、
最近呉監の行事では
大船に乗った気になって(海上自衛隊だけに)、
ひどいときには招待状の封筒すら持っていかなかったりします。

他所の行事では通用しないし、万が一彼女が転勤でもしたらたちまち困るのですが。

開会時間と同時に乗艦したので、すでに甲板は客でいっぱいでした。
早速知り合いを見つけては抉りこむように歓談を行います。

こうしてみるとあまり人が多いように見えませんが、もうすぐ挨拶が始まるので
ほとんどの参加者はテントの下(というかテーブルの周り)に集中しているのです。

時間通りにレセプションが始まり、呉地方総監杉本海将がご挨拶。
呉総監になって初めての追悼行事の執行者を務められることになります。

市長や政治家の挨拶の後、海幕副長の出口海将が紹介されました。
奥に見えているひときわ背の高い自衛官がその人です。

このとき、司会の自衛官がうっかり名前を「出川海将」とアナウンスしてしまい、
ちょうどその直前に名刺交換をしたばかりのわたしはあっと思ったのですが、
間髪入れず当のご本人が、

「出川ではありません。出口です。出川は芸人です!」

とツッコミを入れたのです。
この写真は、皆がそれにどっとウケて拍手しながら笑っているところです。

さらに名刺交換の前に、わたしは或る元海将から、出川海将の噂、
とにかく
ベタ褒めといっていいほどの高い評価を伺ったばかりだったのですが、
この、打てば響くような、部下の失敗を責めず笑いに変えてしまう
お手本のごときネイビーのユーモアを目の当たりにし、なるほどと納得しました。

名刺交換させていただいたとき、出川海将のウィングマークを見て、

「パイロットでいらしたんですか」

と伺うと、

「それは正しいようでそうでもないです」

と思わず引き込まれるような返事が返ってきました。
つまり、海将はTACO(戦術航空士)だった、ということなのですが、
P-3Cの場合、機長よりTACOが先任だった場合にはこちらが機長を務めます。

「淵田美津雄ですね」

それを聞いてわたしは思わずマニアックなことを口にしてしまいました。

もちろん海将はその意味をご存知だったので良かったです。

言い訳するわけではありませんがこの写真、焦点がボケているのではなく、
舟盛りの向こうの機雷に当たっています。

機雷ですよ。機雷。

ここ何年か連続して掃海母艦の艦上レセプションに出ていますが、
舟盛りと機雷、これほどシュールな組み合わせは初めて見ます。

これを掃討しないと舟盛りが触雷する!あぶなーい!というシチュエーション?
・・・いや、それとも機雷が海上に浮かび上がっているということは、
もう係維は切断されていて、あとは舟盛りの上からバルカン砲で掃討するだけの状態か?

この日、開会までてーブルにはメインの舟盛り以外は何も料理がありませんでした。

出川じゃなくて出口海将と皆が笑っている写真を見ていただければわかりますが、
ほとんどのお料理は挨拶をしている間、せっせとテーブルに運び込まれてきて、
終わるまでには全てが出揃っているといった具合です。

これは関西で練習艦隊が行なった「オペレーション・ラップ」と同じく、
開会前に料理が食べられないようにする作戦であることに気が付いたのは、
次の日人と話していて、

「関西から西はどこにいっても料理がなくなるのが異常に早い」

というテーマになったときでした。

「下関なんかもすごいんですよ。皆始まる前に食べ始めてしまう」

大阪ではラップをして乾杯と同時に外すという方法でそれを防ぎましたが、
ここでは挨拶の間に運び込むという戦法。
さすがに挨拶の時に料理に手をつける人はいませんから。

「というか東京や横須賀が特殊なんですかね。
下手すると最後まで食べ物がいっぱい残ってたりしますよね」

「東京は特に、食べ物にがっつくのはかっこ悪いという風潮があるんですよ。
パーティはグラス片手に談笑するもので、ものを食べる場ではないという」

そういえばわたしもごく身近な人間から

「社会人たるものパーティでものを食べているようではダメ」

と聞いたことがあります。
パーティとは新たな人脈を得る場であり交流をする機会であって、
刺身を食べている時間があるなら少しでも多くの人と名刺交換すべし、
と考える人種がが関東一円に多く集まっているということなんでしょう。

本日の調理を担当した給養の責任者が皆に紹介されました。
長いエプロンとワイシャツに白い蝶タイというシェフのいでたちです。

そして、追悼式に伴うレセプションということで乾杯も献杯もなし。
挨拶が終わり、どうぞご歓談くださいという言葉と同時に消え失せる刺身群。
向こうの舟盛りの刺身を取っている人たちは、なぜか皆自分の箸を使っています。
確か横にトングが置いてあったと記憶するのですが。

しかしそんなことより、かぼちゃを使ったこの不思議なオブジェを見てください。

これはなんですか?(真剣)

かぼちゃに「たかまつ」「うらが」はわかるとして、縄が縛られた
かぼちゃの中からは蛸の足とエビが顔を出しているのですが、
・・・・・蛸壺かな?

それならなぜ、エビがいる?
それとも掃海部隊の人ならああ、あれか、とわかるような種類のものなのかしら。

ちなみに、このエビは宴会終わりころにはいなくなっていたそうです。

高松港での艦上レセプションの大きな見所があるとすれば、それは日没です。

薄暮のなかに浮かびながら、次第にその色を紫に変える瀬戸内の島々の向こうに、
この日の太陽が空を茜色に染めつつ落ちていくころ、艦内には
自衛艦旗降下が行われるということが一般客に向けてアナウンスされます。


「海上自衛隊では毎日日の出と共に自衛艦旗を掲揚し、日没と同時に降下する
『自衛艦旗降下』を行います」

練習艦隊の自衛艦旗降下と違って、「うらが」の甲板は広く、
しかもこの日はそれほどたくさんの人がいなかったせいで
旗降下を見守る役の士官もいつもの位置に立っています。

写真を撮る人は周りに集まりましたが、横須賀や神戸の
練習艦隊のときより参加者に元自衛官が多かったせいか、
周りが人だかりになったりすることはありませんでした。

「うらが」の向こう側に係留してある掃海艇「つのしま」は、阪神基地隊、
「みやじま」は呉からやってきました。

高松での追悼式に伴う自主広報の一環で、毎年掃海艇(感)が来航し、
追悼式翌日の日曜日、午前午後一回ずつ体験航海を行なっています。

毎年800名程度が体験航海に参加しているそうで、わたしも一度だけ、
二年前に乗せていただいたことがありますが、1時間で帰ってくるクルーズなので、
全くの「遊覧コース」という感じになります。

地元地本としては、自衛隊入隊を考えている人たちを対象にした広報活動、
と位置付けていますから、そういう青少年や子どもたちを取り込みたいところです。

 

余談ですが、今年行われる予定の海自観艦式が、招待者を絞って、入隊志望者を優先し、
つまり自衛隊広報の本来の姿に立ち返るらしい、と最近聞き及んだところです。

確かに近年の自衛隊イベントの人気は過熱の傾向にあり、広報という点では
喜ばしいことなのですが、その弊害として、いつも同じ常連のマニアが跋扈したり、
チケットが高額でオークション取引されるという憂慮すべき状態を生んでおり、
しかもその割に、人気が自衛官の増加につながっていないという厳しい現実があります。

あれだけの大々的なイベントを、何の事故もなく運営することができる
海上自衛隊の組織力とそのスキルには感嘆するしかありませんが、
それはもう十分に世間に知らしめることができたと考えれば、そろそろ

悪しき傾向に「歯止め」をかけるときにきているのではないでしょうか。

ついでに(これは単なる個人的な予想なの聞き流して欲しいのですが)
今年の観艦式は、
皇室行事の影響で、例年より早めに行われるかもしれませんね。
第二週の予行で本番がその週末、という線ではないかとわたしは思っていますが、
さて、どうなることやら。


自衛艦旗降下を行う当直士官たちが、不動の姿勢で時間を待つ間、
太陽の縁が山の端に消えていくのが見えました。
完全に沈み切った瞬間が、すなわちこの日の日没時間です。

今か今かと待っていると、

「10秒前」「気をつけ!」
ラッパ「♪ドッソッドッドミソ〜♪」


この写真は電飾の灯りが灯った瞬間で、発令より一瞬早かったようです。

 「時間」

これを「うらが」では「じかん!」と短くコールしていましたが、
中には「じか〜ん」と延ばしていっている艦もあります。

人によって言い方に癖があったりするんでしょうね。

向こう側の掃海艇の艦首旗は、「時間」の瞬間姿を消しました。


次第に闇が濃くなっていく高松港に浮かんだ「うらが」甲板には、
いつしか軽快な音楽隊の演奏するジャズやボサノバなどが格納庫から流れて、
華やいだ空気の中で人々がレセプションのひと時を思いおもいに過ごしています。

いろんな場所で自衛隊の艦上レセプションに参加してきたわたしですが、
ここ高松港での掃海母艦甲板でのそれが一番好きかもしれません。

昼間の熱を払って甲板に吹き渡る五月の夜風の匂い、
掃海母艦ならではの広々とした甲板で眺める海軍伝統の自衛艦旗降下の儀式。
そして、心締め付けられるような瀬戸内の夕焼けの色がここにはあるからです。

 

続く。


金刀比羅宮における「慰霊祭と追悼式」〜掃海隊殉職者追悼式

2019-05-26 | 自衛隊

毎年5月の最終週末に行われる掃海隊殉職者の追悼式に今年もご招待いただき、
参加してまいりました。

終戦直後より大戦中日本近海に敷設された機雷の掃海に従事し、戦後日本の
航路啓開にその命を殉じられた七十九柱の御霊を慰霊追悼するこの催しは、
毎年高松市の金刀比羅宮境内に座す殉職者慰霊碑の前で行われます。

海上自衛隊では例年その前日に高松港に寄港する掃海母艦艦上で
追悼式出席者や地元の支援者を招いてレセプションを行っているのです。

係留中は掃海母艦の一般公開が行われる他、地元の地本から
陸上自衛隊の装備なども岸壁に展示され、ここ高松では一年に一度の
大掛かりな自衛隊広報イベントとして定着しています。

レセプションの行われる日の午前中の飛行機で高松に到着しました。
高松空港の愛称は「さぬき空港」です。

愛称だからわざわざ平仮名にしていると思ったのですが、そうではなく、
いつからかは知りませんが、最近讃岐市は公式にも「さぬき市」と書くそうですね。

空港に隣接している「こどものくに」。
調べてみたら結構大規模な体験型乗り物科学館といった感じの施設でした。

さぬきこどもの国

日本唯一の国産旅客機であるYS-11が地上展示されています。
中に入ってコクピットに座ることもできますし、そのほかには引退した
路上電車ことでんの車両なども見られるそうです。

今度飛行機の時間待ちがあれば行ってみようかな。

さて、例年追悼式前日に会場の立て付けと、昨年はその前に行われる
呉地方総監の昇殿参拝の様子を皆様にお伝えしてきましたが、
今年はここ高松で見学行事が入ったためお休みです。

 

ここで、以前も書いたことがある追悼行事の歴史を今一度紐解いてみたいと思います。

殉職者家族を迎えて行われる追悼式の前日には、同じ慰霊碑の前で
金刀比羅神宮が主催して神式の「慰霊祭」が実施されることになっています。

追悼式がこのように「慰霊祭」を別の日に行う、という今の形になったのは
昭和50年からのことで、それ以前は

「金刀比羅宮が祭主となり執行する慰霊祭に、海上幕僚長が招かれ、
掃海部隊は掃海艦艇を含めた部隊として参加」

して行われていました。

海上自衛隊がこの慰霊祭において金刀比羅宮の協力・支援をしてきたわけです。

ところが、昭和50年ごろ、海上自衛隊として慰霊祭に協力することが憲法上(20条)
問題があるとにわかに騒がれ出すようになりました。

 

皆さんもご存知の通り、戦後の自虐教育を受けた「団塊の世代」が社会の中心となり、
政治経済教育文化に携わるようになってきた時期、自衛隊の行事は「軍パージ」の
格好の対象となって鵜の目鷹の目で糾弾を受けたわけですが、これもその一つです。

そもそも慰霊祭は、掃海部隊を出した全国32の港湾都市の首長が、
金刀比羅宮に直々に依頼することで始まったものでした。

神宮としては、糾弾に屈して慰霊祭を分けて行うなど到底受け入れ難いことであり、
その案に反発したと記録にはありますが、それを説得したのは他ならぬ
当時の呉地方総監であり、金刀比羅神宮は

「不本意ながら、今の世情では仕方ない」と妥協したのである。

(当時の呉地方総監管理部長の書簡より)とあります。

これによって従前と大きく変わったのが

「個人的に行われ自衛隊が招待されるという形になったこと」

そして、

「企画準備執行全てが海上自衛隊から呉地方総監部の所掌に移ったこと」

でした。

 

掃海隊殉職者は金刀比羅宮で永代供養されているため、追悼式においても
神官が控え、必ず式の前後に礼名簿の奉安と貢納が行われます。

わたし個人としては、追悼式にこのような神式の行事を残しながら、
わざわざ慰霊祭を追悼式の前日、しかも呉地方総監と掃海部隊指揮官等だけを
招待して行い、それをもって追悼式から「宗教色を排した」といいきれるかというと、
それは全くの欺瞞であり、矛盾に満ちていると思わざるを得ません。

海上自衛隊発行の「苦心の足跡」にも、

「掃海殉職者追悼行事の現状と将来」

として、

「制服での参加、役職の紹介などは社会通念上許されるであろう」

としながらも、

問題があるとすれば、追悼式の中に慰霊祭的要素が多少残っていることである」

として礼名簿の奉安降納について言及されていますが、この「問題」とは
あくまでもわたしがいう「矛盾」と同義であると解釈したいと思います。

ここで個人の見解を言わせてもらえば、殉職者の慰霊を行うという大義のために
「妥協した」金刀比羅神宮にも、心ならずも(と言い切ります)公的決定に従い、
神宮を説得する側に回った当時の呉監にも、敗戦後の占領軍が作り上げた
「時代の空気」の犠牲を強いられたことについての同情を禁じ得ません。

しかし何より、「矛盾と問題」を包括したまま行われている慰霊の形については、
慰霊されるべき肝心の殉職者の御霊に対し、ただ申し訳ないと衷心より思うものです。

 

それから、これも繰り返しになりますが、かつての金刀比羅宮での慰霊祭は
旧海軍記念日である5月27日に行われていました。

行事を週末にして参加者の便宜を図るという大義名分があったとはいえ、これを

「5月最終土曜日の追悼式前日」

に変更したのも、根本は同じ理由によるものです。

 

 

「空母」「戦闘機」という名称が使えないなど、自衛隊という組織に少し関われば
呆れるくらい言葉の言い換えなどの「苦心の足跡」が目についてきます。

しかし、こういった防衛省の文字通りディフェンシブかつ腰の引けた配慮に対し、
責められるべきは決して自衛隊そのものではありません。

河野元統幕長式に言わせていただけるならば、それもこれも

「わたしは、根本を質せば、『憲法』」

に帰結する問題だと思っています。

 

さて、追悼式に参加する掃海部隊の指揮官などが招待を受けて参列する、という
この慰霊祭については、わたしも一度だけその様子を見学したことがあったものの、
神事をわたし如きが軽々に扱うべきではないと判断し、それ以来自粛してきました。

今、こういった経緯をあらたに鑑みて、自粛の理由は自ずとこのように変わってきます。

つまり、彼らの妥協の理由となった政教分離を含む自衛隊に対する公論そのものが
変わっていかない限り、慰霊祭は世間に広く告知するべきではないということです。

世間に不用意に知らしめることによって自衛隊反対派の攻撃の好餌となる機会を
増やすのはよろしくない、というのが今の「わたしが自粛する理由」です。

誤解なきように追記すれば、これは決して隠匿や逃げ隠れという意味ではなく、
この形で慰霊式を続けるという苦渋の選択をした当時の関係者の意志を尊重しています。

もっとも、今回艦上レセプションでお話しする機会を頂いた、
元地方総監ふくむオールドセイラーたちによると、最近、特に東日本震災後、
慰霊の方法にまで目くじらを立てるような空気は確実に減少しているとのことで、
わたしも去年の若い政治家の挨拶(『任務に殉じたことは本望であったでしょう』)
などからその片鱗を感じたりしました。

ぶっちゃけ、これは団塊の世代が世の中から減っていることと無関係ではないと思います。

この日高松入りして、地元出身である見学会の主催者に連れて行っていただいたのは、
讃岐うどんのお店でした。

観光客などおそらく知らない、近隣の人や通りがかりの人が利用する、
普通の讃岐うどん屋さんです。

ここ関東ではあちこちで見られる「丸亀製麺」方式で、うどんを選び、
自分で好きな天ぷらなどのトッピングを選んで食べるわけですが、後で
別の地元出身者にその話をすると、言下に

「丸亀は讃岐うどんじゃありませんよ」

なんかわからないけど地元の人には全く評価されていないようです。

その人に言わせると、そういう地元の人が行くような店の方が絶対に美味しい、
ということでした。

というわけでそのローカルなうどんを。
天ぷらの一番上に乗っているのは「昆布の天ぷら」です。

昆布そのものを天ぷらにしたものなど生まれて初めて見たので、
多少チャレンジングかと思いましたが食べてみたら、
中の昆布は柔らかさを残した肉厚のもので、天ぷらが揚げたてならば
さぞかし美味だろうと推測されるお味。

うどんは讃岐うどんにしては細麺だということでしたが、
うどん慣れしていない余所者のわたしには判別不可能です。
出汁の薄さもうどんのコシと柔らかさの絶妙な妥協点?も、
蛇口からうどんが出てくるという噂のこの地方の人たちの
日常食として納得のお味だったことを報告しておきます。

こんなボリュームで一人600円くらいというのが泣かせますね。

今回宿泊したのはいつもの「クレメントホテル」の駐車場だったところに新設された
JRクレメントイン高松。
いつも招待を頂いてからではクレメントホテルは満室で取れないので、
新しくて若干お安いセカンドラインが登場したのは嬉しい限りです。

見学が早めに終わったら立て付けだけでも見に行きたかったのですが、
懇談が長引いてしまい、金刀比羅宮に行くのは断念し、直接チェックインしました。

部屋でゆっくりして体を休め、カメラマンのMかさん(仮名)を拾って
現地に到着した時には開会の数分前で、日は傾きかけ、地面には
長い影を作っています。

ウルトラマンの柵留めが可愛いですね。

平成13年にサンポート高松港が整備され、ここに掃海母艦を係留して行う
ようになってから、一般公開は例年大変な盛況ぶりだそうです。

整備前も同じように掃海母艦と、在泊艦艇5〜6隻による公開を行っていましたが、
土日二日間の来艦者はせいぜい約800名程度だったのが、
埠頭全体が綺麗になってからはその倍くらいに人数が増えたとか。

昔はこの自主広報活動は香川地連(地本)主導の募集広報だったのですが、
近年では掃海隊殉職者追悼式に対する国民的関心を取り戻すため、追悼式と関連づけて、
掃海の歴史と掃海部隊をアピールするような方向に向いています。

具体的には、掃海母艦上に機雷掃海に関わる教材や資料、模型などを展示する、
掃海母艦の内部施設を公開してその任務について理解してもらう、などなど。

そこに殉職者のご遺族を乗せたマイクロバスが到着しました。
それまで会場入り口で来客に挨拶をしていた呉地方総監が、舷梯を降り、
バスの前で一人一人を敬礼でお出迎えしています。

手前はこの日も金刀比羅宮での慰霊祭、立て付けと参加してこられた
自衛隊の撮影をライフワークとするカメラマンのMかさん(仮名)。

 

長年追悼式を撮り続け、各ご遺族についても深く知悉しておられ、
ご遺族からの信頼がいかに厚いかがこの一年ぶりの抱擁からも伝わってきます。

ブルーのリボンをつけておられるのが遺族の方々です。

高齢化、世代交代が進み、今回参加したご遺族は、79名の殉職者に対し、
わずか6家族という状態でした。

平成23年に発行された「苦心の足跡 掃海」においては、

「近年の艦上レセプションは、遺族の慰問、追悼式参加者の懇親にとどまらず、
広い意味での広報活動、狭義の募集広報などが入り混じったものとなっている。
しかし、それぞれの目的は十分に達せられているものと思われる。

遺族の高齢化、世代交代が進む中で今後は戦後の掃海業務そのものを
国民に知らしめる広報活動として追悼式に関連づけて
艦上レセプションを行うことが肝要であろう」

と記載されていますが、これは決してご遺族が減っているからといって
殉職者追悼はもちろん、ご遺族への慰問という意義の比重を軽くする、
と同義ではないことを信じたいと思います。

 

続く。

 


雨の登舷礼〜令和元年 海上自衛隊練習艦隊出航

2019-05-24 | 自衛隊

横須賀地方隊で行われた令和初の練習艦隊出国行事は、なんの因果か
おそらく海上自衛隊にとっても歴史的な豪雨の中の出港となりました。

わたしの周りの招待者のほとんどは欠席していましたが、関係者や来賓、
何より実習幹部と乗員の家族はほぼ全員が間違いなく現地に来ていたのですから、
うちのTOのように、電車が止まって仕事に戻れなくなるかもしれないと考え、
安全策を取った人以外は、はっきり言って「サボり」です。

特にもし万が一、出席を朝になって取りやめた理由が

「予定していたお帽子やドレスが着られなくなっちゃう〜」

というふざけたものだったら、この日、上下雨合羽で来場し、
また体育館の隅でそれらを身につけて雨の中で艦隊を見送っておられた
何代か前の海幕長の爪の垢でも煎じて飲め、と言ってやりたいです。

さて、前回体育館の観覧席から撮った写真をアップしましたが、
横須賀地方隊の体育館の二階に今回初めて上がりました。

一部はジムになっています。

鍛えよ筋力!! 磨けよ気力!!均整のとれた心と技と体

「鍛えよ」と韻を踏んで「磨けよ」としたんですね。

さて、窓の下に見える「いなづま」の乗員が帽振れをしているところから続きです。
はっきりと画面にも写っている土砂降りのせいで、大変そうですが、
そんな中でも姿勢のいい幹部はいるもので。

この一番左の幹部は、どの写真を見てもいつも顔をしゃんと掲げ、
まるで帽振れのお手本のように行なっていて目を惹きました。

同じく「いなづま」の幹部たち。

艦首部分の乗員たちもその場で帽を振ります。
旗竿に向かって立っている二人とインカムをつけた人は帽振れを行いません。

メガホンの乗員は士官で、メガホンで何か指示をしながら帽子を振っています。

悪天候下での出港はおそらくなんども経験しているであろう海曹のみなさんですが、
よく見ると何人かは目をつぶったまま帽振れしています。

目に水が流れ込んでも顔を拭うわけにいきませんから。

雨の中、行進曲軍艦は意外なくらいはっきりと聴こえてきました。
どこで演奏しているのだろうと不思議だったのですが、もしかしたら
体育館に入る屋根付きの駐車スペースだったかもしれません。

多少の雨なら音楽隊は楽器に雨具を装着して演奏しますが、
この雨では全ての楽器がダメになってしまうでしょう。

おそらく、連合艦隊で山本大将が最初のスープのスプーンを取り上げた瞬間、
それをリレーで甲板に待機している音楽隊に伝え、ほとんど間髪入れず
演奏を始めたように、出港の瞬間、音楽が始まったに違いありません。

 

離岸時の帽振れが終わりました。
「帽戻せ」で帽子をかぶった幹部たちを横から撮影しています。
カメラマンではないようですが、きっといい写真が撮れただろうな。

それから一番左の人の惚れ惚れするほどの姿勢の良さに注目。

出航を見るために多くの家族が体育館の観覧席に上がっていきましたが、
しばらくするとほとんどの人たちが体育館を出ていきました。

「皆さんどうして出ていってるんですか?」

立っている自衛官に聞くと、

「さあ、どうしてかわかりませんが・・・」

そこに行ってみてわかったのですが、アナウンスに促されて上がってみたものの、
窓が小さく、「かしま」はほとんどそこから見えないということがわかったので、
豪雨にも関わらず多くの家族が岸壁に出て行ったのでしょう。

さすがは海上自衛隊、これらの人たちを規則で足留めすることはしなかったのです。

この日参加した人の報告を聞いた知人が、

「練艦隊の見送りでは、みなさんずぶ濡れになったと聞きました。」

とメールを下さったのですが、現地でのアナウンスでは
岸壁での見送りは行わない、とされていましたし、原田副大臣や海幕長は
体育館のフロアから出たバルコニーから見送りをしたので、
ずぶ濡れになったのは招待客や来賓ではなく、
この時に岸壁まで出て行った人たちだけだったと思われます。

乗員から見えるように自衛艦旗を振っている人の姿も見えますね。

体育館の窓は小さく、窓ガラスを開けたところからわたしはカメラを突き出すようにして
なんとか写真を撮っていたわけですが、ふと気がつくと、
係留してある「きりしま」など、他の護衛艦の甲板に人が立っていました。

桟橋に完全防備で写真を撮っているのはカメラマンだと思われます。
ある意味、いつもと違ったドラマチックな出港シーンが撮れたのではないかと思いますが、
来年の自衛隊カレンダーにこの日のどんな写真が載るか見るのが楽しみです。

艦番号153「ゆうぎり」とその向こうの「おおなみ」にも
練習艦隊を見送るために登舷礼が行われています。

「きりしま」の右舷側はくまなく登舷礼の人の列で埋め尽くされていました。
ここからは見えませんが、おそらく艦首側の舷側にも人が立っているのでしょう。

作業服である海上迷彩の上にレインコートを着用しています。

練習艦隊が体育館から出て行ってから「いなづま」、続いて
「かしま」が横須賀湾から出て行くまでの間、彼らはずっと立ち続けていました。

岸壁を離れた「いなづま」の艦体は、回頭が可能なところまでタグに引っ張られていきます。

「向こうにいるのはアメリカの船かね」

近くで見ていた爺様が若い人に聞いていました。

「そうでしょうね。向こう岸は米軍基地なんですよ」

艦番号63は駆逐艦「ステザム」です。
ここから見ても艦体のサビがはっきり確認できるという米軍仕様。

回頭が終わり、「いなづま」がもう一度帽振れを行いました。

練習艦隊はこの後、東京湾を出る時に観音崎沖を通過しますが、
登舷礼は観音崎で見送る防衛大学校のヨットに挨拶をするまでずっと行われます。

ふと気がついたら、体育館の中の自衛艦が帽振れを行なっていました。
海幕長などは外のテラスに出ているのだと思われます。

ちなみに、帽振れしている人の後ろにいるのは2年前の練習艦隊司令官です。

「いなづま」の艦体が完全に湾口に向き、タグボートが離れていきました。

しばらくしてようやく、出航した「かしま」が視界に入ってきました。

わたしのいた体育館の窓からは、角度的に「かしま」出航は見えず、
回頭して初めてカメラのフレームに収まるようになったのです。

「かしま」の実習幹部たちの帽振れをようやく見ることができました。

「帽戻せ」。

「かしま」の頭から尻尾まで、見事に並んだ実習幹部の登舷礼。

例年、練習艦隊を観音崎から遠目に見ると、登舷礼の白い列が大変美しいのですが、
今日はこんな天気なので黒い列となり、視覚的に少し残念な出航となりました。

今年もし晴れていたら、わたしも去年のように車で観音崎まで駆けつけ、
通り過ぎる「かしま」と「いなづま」を三脚を立てて撮ろうと思っていたのですが、
全くそんなことのできる状況ではなかったため、諦めました。

ところで、こんな雨の日にも防大のヨットは観音崎での見送りを行なったのでしょうか。

回頭が終了して、二度目の、そして最後の帽振れです。

こんな遠くからでも黄色いストラップの練習艦隊司令官はよく見えます。

岸壁でずっと演奏されていた「軍艦」はこの時の彼らに聴こえていたのでしょうか。

後甲板にいるのは女子実習幹部たち。

下の階で帽振れできた人はラッキーです。

そして「かしま」も登舷礼の列を見せたまま横須賀軍港から出ていきました。

終了のアナウンスが行われ、まず副大臣が退場、海幕など関係者が出ていきました。

先ほどまで人が立っていた「ゆうぎり」「おおなみ」の甲板からは
人がかき消すようにいなくなっていました。

大変な天気でしたが、わたし自身のことを言えば、車で体育館の近くまで来て、
しかも雨装備は万全、自衛官ではないので傘もさせて・・・・
こんなので大変などといってははっきりいってバチが当たるくらいです。

お昼にはちょっと早い時間でしたが、そのままメルキュールホテルの
ブルゴーニュで、一人のランチコースをいただきました。

サラダや前菜、パスタがバッフェで食べられ、それに魚か肉のメインが選べて
デザートまで付いてくるという超お得なランチで、横須賀に来ると
(他に店を知らないせいもありますが)いつもここに来てしまいます。

ここからは我が潜水艦基地がよく見えます。
この日もしお型潜水艦が蓄電の水煙をあげている様子を眺めながら、
観音崎まで実習幹部が登舷礼でたち続けていたのか、もしそうなら
彼らの新しい第一種夏服はいきなり雨の洗礼に遭ってしまったなあ、
などと考えました。

 

「雨降って地固まる」などという陳腐な言葉を使うのも何ですが、
海上自衛隊練習艦隊の歴史で、こんなドラマチックな出航も滅多にないでしょう。
江田島での「錨を上げて」事故もさることながら、今年の練習艦は、
もうすでに起こるべき波乱をかなり”消化した”という言い方もできます。

(練習艦隊の遭遇する”困難”が一定量であると無茶な仮定をしての話)

強引すぎる結論ですが、だから、きっとこれから始まる航海は
順風満帆なものになるはずです。

半年後、皆さんが精強なる初級士官となって無事に帰国する日をお待ちしています。

 

 

 


令和元年 雨の海上自衛隊練習艦隊出国行事

2019-05-23 | 自衛隊

元号が変わり、タイトルも「令和元年」となった練習艦隊が出国する予定の日、
天気予報は驚くことに「降雨確率100パーセント」となっていました。

昔こそ「晴れ、然らずんば雨」という潔い態度で二つに一つの予報を行い、
外れたときの非難も甘んじて受けていた(らしい)のに、いつの頃からか
降水確率などという曖昧な予報で逃げを打っている()気象庁が
ここまでキッパリと言い切るからには、必ず、しかもかなりの雨が降るのでしょう。

わたしは前日から覚悟を決め、急遽、

「テントなしの観覧席に座るための日除け重視の装備」

から、レインコートにブーツといった雨装備に変更を行いました。

朝起きると、一緒に行く予定だったTOは、申し訳なさそうに

「昼からの会議に間に合わなくなったら困るから今日はパス」(´・ω・`)

仕事なら仕方ないね。

というわけでわたしは一人で車に乗り、横須賀に向かいました。
家を出るなりワイパーのセンサーは大雨に反応して激しく動いております。

高速道路も皆いつもより2割くらいスピードを落として慎重に走っている感じ。

横須賀に入るランプは今まで見たことがないくらい車の渋滞が伸びていて、
そのおかげで窓から「かしま」の写真を撮ることができました。

艦上には自衛官以外の人の姿も見えています。
実習幹部や乗員の家族は、ホテルに泊まっていた人が多かったようですが、
あとでホテルの人に聞くと、皆さん朝7時半からロビーに集合して出かけたとか。

一般招待客の受付は9時から始まりますが、家族は8時くらいから
艦内の見学ができることになっていたのでしょう。

自衛艦のラッタルでは傘を差すことは禁じられているので、見学も大変だったと思われます。

自衛官は土砂降りでも傘をささないことになっている人種ですが、
流石にこんな日は黒いナイロンのレインコートを着用します。
しかし完全防水ではないし、帽子だって靴だって、濡れたら不快でしょう。

何と言っても一晩で服を乾かしてアイロンがけをするのが大変そう。

 

さて、横須賀に到着するなり、ちょっとしたトラブル発生。

この日、わたしは車のナンバーをちゃんと出欠ハガキに記しておいたのですが、
入り口で一度承認を受け、許可証をフロントガラスに置いていたのにも関わらず、
警衛の隊員が自転車でわざわざわたしの車を追跡してきて、車を停めたところで
声をかけてきました。

「車のナンバーがこちらの控えには見つからないんですが」

「おかしいな・・ハガキが届かなかったんでしょうか」

「通知のない方は面会の手続きを取って入っていただくことになります」

 

なんのこっちゃ、とはびしょ濡れで自転車を漕いできた彼には気の毒で
とても言えませんでしたが、言われたからには仕方がないので門まで戻り、
受付のテントで車を降りて聞いてみると、

「こちらの控えにはちゃんと名前も車もちゃんと書いてありますよ」

つまり、警衛にのリストだけナンバーの記載漏れがあったということのようです。

まあ、余裕を見て早めに到着していたので、これだけごちゃごちゃやっても
体育館(会場)に着いたら招待客の中では一番乗りに近い感じでした。

海軍五分前を旨としておいてよかったっす。

席に案内してもらい、コートを脱いで、開式まで時間があったので
化粧室に行っておくことにしました。

この日は体育館のフロアから一階下の洗面所が女性用にあてられており、
すでに廊下に沿って長蛇の列ができていたのですが、そのおかげで
そのフロアにある自衛官用の施設(食堂や理髪店)を見学することができました。

ここは隊員食堂とは別の、民間経営のラウンジというかカフェかと思われます。
シャンデリアがこの体育館が作られた時代を表していますね。

同じ階には広報資料室もあって、写真を撮ってきましたので、
またいつか紹介したいと思います。

化粧室から帰る時、すでに階段には練習艦隊幹部たちが待機していました。
来賓席にはまだほとんど人がいない状態です。

この写真に写っている幕僚幹部や幹部学校長は早くから到着していたようですが、
制服の自衛官以外は本当にギリギリになって入場してきましたし、
わたしの座っている招待者席は、後ろを振り返ってみると
ただの一人も座っていませんでした。

ガランと空いた多数のパイプ椅子の後ろには、隊員の家族がぎっしりと立っています。

招待客のほとんどが、出席の返事を出しながら、この天気で来なかった
(来られなかった)というわけですが、式が始まってから来る人なんかどうでもいいから、

この空いた席に後ろで立っている家族を座らせてあげればいいのに、と思いました。

具合が悪くなって倒れそうになったおばあちゃんもいたんですよ?

10時の開式に先立ち、実習幹部と練習艦隊乗員代表が入場してきました。
晴れていれば純白の制服に身を固めた彼らが「かしま」から岸壁に降りてくる様子が
見られたはずですが・・・。

今回は前日から雨が降ることが決定していたので、実習幹部たちは体育館で
前もってリハーサルを行ったに違いありません。

土砂降りの「かしま」から歩いてきた割には全く濡れた様子がないので不思議です。

練習艦隊の出国行事はいつも全身純白の第1種夏服を着用して行われます。

この制服が採用になったのは昭和33年のことだったそうですが、
自衛隊開隊後4年目で、旧海軍の夏服を思わせるデザインに決まったとき、
旧海軍出身者は皆一様に快哉を叫んだのではなかったでしょうか。

わたしはこの第一種夏服とともに、旧軍と同じデザインの海上自衛隊旗、
そして海軍兵学校とそっくりの防衛大学校の制服に

「よくぞ残してくれました三大デザイン賞」

を差し上げたいとかねがね思っております。
ちなみに「よくぞ残してくれました大賞」はもちろん行進曲「軍艦」です。

神戸での入港歓迎行事にも各種自衛隊支援団体の方々がかけつけていましたが、
この日の豪雨の中でも出航を見送る各種団体は熱心に参加しておられます。

会場の自衛官は全員が白い夏服に身を包んでいます。
将官や佐官などの着こなしには長年着慣れた余裕が感じられますが、
実習幹部の様子が特にパリッとして見えるのは、おそらくこの日が
士官として着る初めての第一種夏服だからでしょう。

官品の制服については「体を制服に合わせろ」などと言われると聞きましたが、
階級が上になると、こだわる自衛官はお気に入りの店で誂えたりします。

今後ろから歩いてくるのはタイ王国からの留学生です。

実習幹部の前に艦長と司令官、右側には練習艦隊の乗員代表が立ちます。

中央の式台付近に座る来賓はこの頃にはきっちり到着していました。
二列目の自衛官は海幕勤務とかではないかと思われます。

各国武官と大使館から、政治家、防衛省関係、アメリカ海軍の軍人、そして
海上保安庁からも何人か列席していました。

右側の背の高いアメリカ海軍の大佐は、部下らしい女性軍人と連れ立って来場していましたが、
座る席が見つからず、ウロウロさせられていてちょっと気の毒でした。

防衛副大臣が入来し、儀仗を受ける時に軍人が立ち上がったので、
その間に挟まった民間の来賓たちも全員が立ち上がってしまっています。

アメリカ軍の女性軍人は、わたしのさらに斜め後ろに座っていて、
前で何が起こっているかわからないらしく、とりあえず、
大佐が敬礼するのを見て慌てて敬礼する、という形で乗り切っていました。

どうして二人の席を並べてあげなかったんだろう。

さらにこの後、来賓の紹介が行われたのですが、いつもは名前を呼ばれたら、皆
「行ってらっしゃい」とか「頑張ってください」などと一言コメントをいうのに、
最初の人(どこかの大使)が返事をしなかったものだから、続く全員が
黙っているしかない雰囲気になってしまいました。

後になって返事をしたら、返事をしなかった最初の人に恥をかかせると思ったのでしょうか。

なんだか、フィンガーボールの水をゲストが飲んでしまったので、ホストが
恥をかかせないため自分も飲んだ、という話を思い出してしまいました。

防衛副大臣が儀仗令を受けている間の敬礼。

女子幹部は髪の毛は後ろでまとめるかショートカットが原則です。
男性のように刈り上げてしまっているボーイッシュ女子もいますね。

防衛副大臣原田賢治氏の訓示。

練習艦隊司令官、梶元大介海将補。
流石の堂々たる立ち姿、全く隙がありません。

続いて、新海幕長山村海将の訓示が行われました。

海幕長の訓示は大体の雛型が決まっていて、それを人によって
少しずつアレンジして行うことが何回も出席して分かってきました。

「千変万化に姿を変える海」

「諸君は様々なことを学ぶであろう」

「伝統のユーモア」

「乗員の諸君は実習幹部のお手本となって欲しい」

「家族の皆様、感謝いたします」

こういったキーワードは必ず訓示に登場します。

続いて、横須賀市長や水交会会長などからの花束贈呈。

練習艦隊司令は、花束を副官に一旦預けます。

そして、原田防衛副大臣に出航報告を行います。

そして、家族席、来賓席に向かって敬礼をしながら歩き、体育館を出て乗艦を行います。

行進はもちろん行進曲「軍艦」の演奏に乗って行われます。
一般人たちは拍手で、軍人たちは敬礼で見送ります。

家族席の前は自分の家族を探して視線がそちらに向いてしまう幹部多し。

 

さて、練習艦隊が出て行ってしまった後、アナウンスがありました。

「本日は天候のため、岸壁での見送りは行いません。
皆様は観覧席からお見送りください」

はて、観覧席って何かしら。

近くの自衛官に聞いてみると、体育館観覧席のこと。

体育館フロアから一階上がってみると、狭い通路にが巡らされ、
胸の高さくらいに横長の小さい窓があり、
皆そこから下を覗き込んでいます。

わたしが見ると、もう「いなづま」は出航しようとしていました。
とりあえず窓ガラスを開けてレンズを外に出すようにして撮影しました。

すでに最後の舫が今岸壁から離れようとしています。

艦首では、出航の瞬間を待って国籍旗を降ろそうとしている乗員の姿がありました。

そして出航。
艦体が岸壁から離れていきます。

「いなづま」の舷側にも実習幹部が登舷礼に立っています。
ここを出て行くやいなや乗艦し、次の瞬間レインコートを着て立つという超早業です。

それにしても、この写真を見て、出航当時の雨の強さがおわかりいただけるでしょう。
この日一日を通して出航の瞬間がもっとも風雨が強かったのではないかと思われます。

おそらく彼らの帽子はあまり役に立たず、
その顔には遠慮会釈なく激しい雨が吹き付けていたに違いありません。
そして皆の姿勢が心持ち前かがみに見えるのは、風があまりに強いせいだと思います。

そこであゝ無情にも「帽振れ」の号令が・・・!

言っておきますが、この画面の白いのは雪ではありません。雨粒です。
おそらく艦内のシャワーくらいの水量だったと思われます。

どうしても俯き加減になってしまう幹部もいますが、
昂然と面を上げて、しっかりと帽振れを行なっている強者もいます。

 

わたしの近くで窓越しに見ていた年配の方が、

「本人たちは大変だけど、雨の中の出航っていいもんだねえ」

と感に絶えぬように呟きました。

自衛官を志して、防大なり幹部候補生学校の門をくぐったその日から、
幾多の厳しい訓練に耐えてきた彼らにとって、雨に降られるなどは
わたしたちが思う「大変なこと」のうちに全く入らないのかもしれません。

 

続く。

 


メア・アイランドの「マッド・パピー 」原子力潜水艦「ギターロ」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2019-05-21 | 軍艦

 

 今日はメア・アイランドに関係ある「ギターロ」という名前の
2隻の潜水艦についてお話しします。

まずは第二次世界大戦に参加したUSS「ギターロ」、SS-363

「ギターロ」というと楽器のギターを思い浮かべてしまいますが、
潜水艦「ギターロ」の命名となったサカタザメ「ギターロ」の英名は
「ギターフィッシュ」、スペイン語でギターを意味します。

これがギターロさん。
まあ言われてみればギターぽい?

以前、船は普通女性形で扱われるのに潜水艦は"he"と男性扱いしていたので、
そうなのかと思ったことがあるのですが、ギターロという魚は女性形にも関わらず、
潜水艦「ギターロ」となると、男性形になるのだそうです。

 

 

「ギターロ」は1943年4月7日、ウィスコンシンのニトワック造船で起工し、
9月26日に進水、1944年1月26日に就役しました。

戦時中なので起工から就役までの時期が大変短くなっています。

就役と同時に彼は戦争の只中に投入され、哨戒を行いました。
その哨戒はことごとく「成功であった」と言える戦果を挙げ、
数々の殊勲賞を授与されています。

● 第1の哨戒

1944年5月30日、与那国島近海で「照月型駆逐艦」に護衛された輸送船団を発見
輸送船「四川丸」(東亜海運、2,201トン)を撃沈

6月2日未明、火焼島北西15キロ地点でヒ65船団を発見

タンカーに向けて魚雷を6本発射したが、海防艦「淡路」が雷跡に入り込み、
魚雷が命中し「淡路」轟沈

海防艦「淡路」

6本のうち1本は輸送船「有馬山丸」(三井船舶、8,697トン)に命中
同日夜、「峯風型駆逐艦」を撃沈

● 第2の哨戒

1944年8月7日夜、南シナ海で「吹雪型駆逐艦」に3発命中
海防艦「草垣」撃沈 船団は逃す

8月8日、ルソン島沿岸で700トン級哨戒艇を砲撃で撃沈

8月10日、「香取型巡洋艦」撃破、タンカー「進栄丸」(日東汽船、5,135トン)撃沈
「吹雪型駆逐艦」撃沈

8月21日、輸送船「宇賀丸」(松岡汽船、4,433トン)轟沈

8月27日浮上砲戦の末、タンカー「第二十七南進丸」(南方油槽船、834トン)撃沈
油槽船「第三南進丸」(南方油槽船、834トン)と
油槽船「第二十五南進丸」(南方油槽船、834トン)に損傷

● 第3の哨戒

10月8日、レイテ島沖に向けてミンドロ海峡を通過中の
栗田健男中将率いる第二遊撃部隊を探知し、司令部に重要な情報を送理、
レイテ沖海戦の勝利に寄与する

10月30日、輸送船「ぱしふいっく丸」(玉井商船、5,872トン)
「広明丸」(広海汽船、2,857トン)を撃沈

11月4日、ルソン島沿岸でタマ31A号船団を発見し、
特設運送船「香久丸」(大阪商船、6,806トン)を群狼で集中攻撃

「香久丸」撃沈の戦果は「ギターロ」「ブリーム」、そして
「レイ」に三等分された

11月6日、「愛宕型重巡洋艦」に魚雷命中
「レイ」とともに重巡洋艦「熊野」に命中させたと報告

ただし、命中させたと報告された重巡「熊野」は無事で、
その21日ごの11月25日、航空攻撃を受けて戦没しています。

● 第4、第5の哨戒 

南シナ海で2月18日大型輸送船1隻の撃沈を報告

4月9日、ギターロは5回目の哨戒で南シナ海に向かい、
ベルハラ島近海に23個の機雷を敷設

その後はボルネオ島とシンガポール間で哨戒を行ったが、この時期、
この周辺には目ぼしい艦船はほとんど残っていなかった

その後真珠湾に帰投しサンフランシスコで終戦を迎える

 

「ギターロ」の第1、第2、第3、そして第5の哨戒は成功とされ、
4個の従軍星章および1個の海軍殊勲部隊章を受章しました。

 

こうして書き出してみると、本当にたくさんの日本艦船が
この潜水艦一隻によって戦没してきたのだと実感されます。

戦後、「ギターロ」はトルコ海軍に譲渡され、そこで一生を終えました。

 

ところで冒頭の写真、かっこいいですね。
原子力潜水艦「ギターロ」SSN-665への艦長乗艦です。

2代目「ギターロ」はスタージョン級原子力潜水艦の17番艦。
1964年12月18日にメア・アイランド海軍造船所に発注され、
1965年12月9日起工、1968年7月27日に進水式を行いました。

そして、17ヶ月後の1970年1月に就役が予定されていました。

「ギターロ」の模型や乗員のバッジ、メダルが飾られたケースには

「ギターロは短期間で復元」

というタイトルのおそらく社報が飾ってあります。
そう、「ギターロ」にとってもここメア・アイランドにとっても
歴史的な事故によって、彼の就役は大幅に遅れることになったのです。

その事故についてお話ししましょう。 

建造途中の1969年5月15日、16:00ごろのことです。

民間の原子炉部分建造グループAが機材測定のためタンクに水を充満させようと、
艦の後方タンクに約5トンの水を注入し始めました。

ところが30分以内に別の建造グループB原子炉とは別の部分担当)が、
整備のため艦の角度を修正しようとし、艦首を2度上昇させるため
前方に位置するタンクに注水を始めてしまったのです。

つまり、艦の前方と後方で、同時に別のグループが注水していたのです。

両グループは互いの活動に気づかないまま注水を続けました。

そんなことしたら沈んでしまうやないかい!

と思ったあなた、あなたは鋭い。
しかし誰もそのことに気がつかないまま作業は続けられ、
艦体が傾きかけてから警備監視員は水位の異常に気がつきます。

そしてグループBに対し、前方が低くなっていたことを警告しますが、
なぜかグループBはこれらの警告を無視

1630から作業を始めたグループBは1945、バラストタンクへの注水を停止して、
なんと食事のため2000に休憩に入ってしまったのでした。

うーん、これは全く危機感を感じてなかったってことですね?

グループBが食事に行ってしまう少し前、グループAは
目的の角度調整を完了したので、
後部タンクから排水を始めました。
そして30分後。グループAはまだ排水の作業中でした。

グループBが食事を終えて戻ると、なんとびっくり。
艦の角度が急傾斜し、前部ハッチが水面下になっているではありませんか。

しかもいくつかの大型ハッチは閉めずにいたので開いたまま。
当然そこから多くの水が流入しまくっています。

慌てて彼らは防水扉とハッチを閉めようとしましたが、おっと残念、
作業中のため、ラインやケーブルが邪魔になって扉を閉めることはできず。

そして「ギターロ」は沈没してしまったのです。(-人-)

ところで冒頭の「マッド・パピー」というあだ名は、
ハッチを閉めることが不可能とわかった20時55分にわざわざ命名されたそうです。

呑気にあだ名をつけてる場合か?という気がしますね。
しかも言わせてもらえばなんだろう、このあだ名の表す他人事感。
事故の原因が自分たちのミスにあるとは微塵と思ってないような・・。


それにしても海軍ともあろうものが、いくら民間作業員だと言っても、
こんなコントのような理由で原潜を沈めていいわけがありません。

というわけで、ここには、沈没した「ギターロ」を、海軍の沽券にかけても
少しでも早く引き揚げるべく努力する様子が、(今更、って感じですが)
おそらく新聞記事のあまり良くない画質の写真で残されています。

これは完璧に沈んでしまっている「ギターロ」。

添付された記事によると、この復元作業で大活躍したのがダイバーでした。
ダイバーは引き揚げのためにまず設置されたデッキから海中に入り、
牽引のためのワイヤを通す作業を行いました。

木曜日の晩から始まった作業は日曜には終了したとあります。

もう少しわかりやすい写真をどうぞ。
沈むのが仕事の潜水艦ですが、建造途中でセイルを残して全部沈んではお手上げです。

潜水艦の艦体に排水のためのチューブを2本立てています。
引き揚げると同時に内部の水を汲み出さないと潜水艦は浮きません。

当たり前のことですが一応言っておきます。

筒の上部から汲み出された水が細いホースから
大変な勢いで出ているのが確認できる写真。

1時間に4000ガロン(1万5千リットル)の水が
艦内から汲み出されました。

中将(左)とか海軍工廠の一番偉い人(真ん中)とか。
右は引き上げた艦体をリペアのためにドライドックに引っ張っていくタグ。

そして周りの岸壁にクレーンを配置してようやく引き上げに成功。

事故から三日後に引き揚げられたマッドパピーこと「ギターロ」が
ドライドックにその姿を安置された様子です。

この沈没による損害は1,520万ドルから2,185万ドルと言われました。
その就役は1972年9月9日、当初の予定から2年半遅れることになりました。

冒頭の写真は、ようやく就役することになった「ギターロ」に
艦長ゴードン・ロンギ中佐が乗艦する瞬間だったのです。

そう思ってみれば、この敬礼には万感の思いが込められているらしいのが
よくわかりますよね。

あー、俺、一体何年間偽装艦長に足止めされてたんだ みたいな(笑) 


就役した「ギターロ」はその後、トマホークミサイルの実験などに加わりました。
また、米海軍の原潜として初めてソ連の高官を乗せて艦内ツァーを行っています。

(ロシアの軍人を艦上に迎えているギターロ。この中にパウエルがいる)

ところで皆さん、このツァーの時、アメリカ軍はこの事故のことを
ロシア軍人たちに正直に説明したかどうか知りたくありませんか?

わたしは、

「言わなかった」

に5カペイカ。
とはいえパウエルは陸軍なので、もしかしたら海軍の恥を晒すために
わざと言っちゃったという可能性も微レ存(※)。


※ 「限りなく可能性が低いが、ゼロではない」 

 


MiG-21とベトナム戦争時代の航空機〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-05-20 | 航空機

ウドバー-ヘイジーセンター、スミソニアン別館の展示です。

ただ飛行機を並べて個々の説明をしているというのではなく、
明らかに時代に沿ってテーマ通りに展示してあるのが嬉しいところ。

ベトナム戦争については、初っ端に

「主に共産主義の普及を阻止するための作戦として始まったが、
東南アジアにおける戦争は、四代にわたる大統領就任期間、
10年以上にわたる惨事の継続となり、その後のアメリカにとって
政治的、軍事的、社会的ジレンマとなった」

と厳しいことを書いております。
というかその通りなんですけどね。
こういう博物館でこの評価がなされるあたり、アメリカの言論が
まだまだ健全であることを感じさせます。


ローリングサンダー作戦に始まるアメリカ軍の航空攻撃は、
当初はハノイとハイフォンにあったミグ戦闘機基地への爆撃に
限られていましたが、その後は前線での近接戦闘と
敵航空機の制御が任務の全てになっていきました。

1972年末のラインバッカー作戦IIではB-52爆撃機による夜間爆撃、
戦闘爆撃機による昼間の鉄道、発電所、武器庫、通信施設、
ミグ飛行場、ミサイル用地、そして橋などを攻撃し尽くしました。

この作戦は11日にわたって行われ、15機の爆撃機を失いましたが、
終戦に向けた交渉を有利にする幇助となりました。

第二次世界大戦と違い、航空兵力の投入は勝利に直結しませんでした。

三年後、アメリカ軍は南ヴェトナムから撤退し、その後は
北ベトナムの支配による共産主義のもとで統一されることになります。

ベトナム戦争で爆弾を景気よくばらまいているB-52。(右)
左上はA-6 イントルーダーです。

アメリカ海軍が朝鮮戦争での経験から学んだことを一つ挙げるなら、
低空でも高いサブソニック能力を持ち、かつレンジの長い
打撃航空機の必要性だったといってもいいかもしれません。

しかもいかなる天候下にあっても、敵の防御を突破し、
小さな敵に対しても確実に「サーチ・アンド・デストロイ」、
つまり探し出し、そして破壊することができる、そんな飛行機です。

グラマンのイントルーダーはそんなニーズに応えるもので、
1960年に初飛行後、海軍には1963年、海兵隊には64年に配備されました。

ここに展示されている「A」タイプは海軍に1968年に配備され、
その後ベトナム戦争、その後1991年の砂漠の嵐作戦では
72時間の飛行時間を記録しています。

総飛行時間は7500時間、6500回以上の着陸を行い、
767回の空母着艦、カタパルト発進は712回と記録されています。

AIM-120 AMRAAM Missle

Advanced Mediun- Range, Air-to Air Missile、
の頭文字で「アムラームミサイル」となります。

中距離空対空ミサイルで、イントルーダーの足元にあったので
これが運用していたのかと思ったのですが、

F-14D, F/A-18, F-15, F-16

だそうです。

製造したヒューズ社は吸収合併されて、今では
ファランクス・シウスを作っているレイセオンが管理しています。

そういえば、5月17日のニュースとして、アメリカが日本に
F−35戦闘機に搭載するためのアムラームを160発売却すると報じられたばかりです。 

https://www.afpbb.com/articles/-/3225612

朝日デジタルでは、「先月墜落事故を起こしたF-35」となっていて実に不愉快。

マグドネル F-4S ファントムII

あの「ファントム無頼」連載時でさえ、老朽化がネタになっていたF-4が
まさか平成の終わりまで日本を飛ぶことになろうとは
何人たりとも予想していなかったでしょうが、
ファントムIIってベトナム戦争時代の飛行機っていう認識なんですよね。
アメリカでは。

製造元だってまだダグラス社と合併する前の名前が記載されています。
(合併してマクドネル・ダグラスになったのは1967年)

日本国自衛隊始め、アメリカでも空軍、海軍、海兵隊、
13カ国で採用されてきたマルチロール機、ファントムII。

ここに展示してあるのは1972年、海軍のS.フリン中佐と
彼のレーダー・インターセプトであるW.ジョン大尉が、
ベトナム時代に敵のMiG戦闘機を沿岸部から駆逐し、さらに
サイドワインダー空対空ミサイルでMiG-21を撃墜した機体です。

そのサイドワインダーミサイルが隣に展示してありました。

アメリカにとって初めての熱感知式の誘導ミサイルとして、
史上最も成功した短距離空対空ミサイルです。

1950年のデビュー以来多くのモデルが開発されてきていますが、
ここにあるのはそのスタンダードタイプです。

アメリカ国内で様々な航空機に搭載されたのみならず、
世界40カ国の軍に採用されたロングヒット商品で、
ベトナム戦争に始まってペルシャ湾岸戦争にも使われています。

さて、このファントムIIですが、さらにその後、
ベトナムの爆撃作戦第2ラインバッカー作戦にも参加しています。

その後海兵隊に所属が移り、F-4JからF-4Sに近代化されました。
この改装でエンジン(無煙に変更)ハイドロ、電気系統、
配線、翼の改良による駆動性などが全て向上しました。

その他、電波ホーミング誘導方式やフォーメーションライト
(蛍光で夜間視認できるテープ)の胴体と垂直尾翼への設置なども
この大改装の時に行われています。

展示機には最終的な所属先である海兵隊部隊、

VMFA-232 Red Devils

の塗装がそのままになっています。

これは珍しい。
ファントムIIのノーズコーンの中身が見えてます。

APGー59レーダーが搭載されている部分ですが、
wikiにはもっと鮮明な写真がありました。

同じくファントムIIの搭載している72型。

もっとわかりやすい、100型。
この写真は1982年のものだそうです。

ちなみに我が航空自衛隊はF-4J改にAPG-66Jを搭載していました。
改装が行われたのは昭和の終わりなので、当然これもその後
何かに置き換わっていると思うのですが、わかりませんでした。

・・・もしかして最後までそのまんまだった?

アメリカ軍の航空機の進化は、兵器を装備する航空機のサイズ、
または能力に合わせた兵器の開発によって推進されてきた面があります。

朝鮮戦争ではB-29に対して行われた高周波電力伝送のメソッドを使った
短距離のナビゲーションシステムが使われ、たとえ目標の天候が悪くても
爆撃機の広範囲への攻撃を可能にしてきました。

ベトナムではますます洗練された「賢い」兵器が投入され、
その結果、過去の多くの爆弾は「アホ」だったということになりました。

(現地の説明には本当にこう書いてあります。”dumb"= 馬鹿・うすのろ)

これらの新しい精密兵器は、

「戦略的爆撃は大規模な爆撃機タンクを搭載する
大型爆撃機で行われ、ゆえに民間人の死傷者数が多い」

という従来の常識的な考え方を覆したと言ってもいいでしょう。

とはいえ嫌味な言い方をあえてさせていただくとするなら、
第二次大戦末期、アメリカ軍が東京を空爆することになったとき、
仮にこのころの技術があったとして、それでもなおかつ
カーチス・ルメイがその爆撃方法を選んだかどうかは怪しいものです。

 

さて、このような新しい精密攻撃を行う兵器が、様々なバリエーションで
航空兵力に搭載されるようになってきたわけですが、その結果として
1991年のペルシャ湾岸戦争では巡航ミサイルが艦船ならびに
B-52爆撃機から発射され、レーザー誘導爆弾がF-117(ナイトホーク)、
A-6イントルーダーなどから落とされ・・・・・・、
いわば「新しい波」
イラクを攻撃したということになります。

攻撃航空機のタイプによる効果の違いではなく、あくまでも
敵に与えた実際のダメージを勘案することで開発された攻撃法は、
空中または地上のターゲットを対象とした精密兵器の開発によって
一層強化されていくことになります。

今更このブログで皆さんにご紹介するまでもありませんね。

ヴォート RF-8G クルセイダー

Rが付いているので偵察型のクルセイダーです。
そのほかの機体に比べてメンテがよくないようだけど気のせいかな。

つい最近も書きましたが、クルセイダーは初めての艦載型
ジェット戦闘機として、時速1600kmの高速を誇りました。

variable incidence wing (可変発生翼)

というのはクルセイダー特有の仕組みで、翼の迎え角を
最大7度まで気流に合わせて変えることができる上、
着艦時のパイロットの前方視界も確保できました。
これが艦載機パイロットにとって離着艦を容易にしたのです。

このシステムを搭載した生産航空機は史上クルセイダーのみです。

可変翼は艦載機として切実な問題である省スペースにも役立ち、
翼の先を折りたたむこともできました。

しかしそんな便利なシステムならどうして全ての艦載機に搭載しないのか?
と思ったあなた、あなたは鋭い。

これをするには翼にピボット機構を備えなくてはいけませんが、
このため翼そのものの重量が増大し、コストもかなりのものになります。

さらに、翼が前後に動く

可変翼(スィープ・ウィング)

翼そのものが変形する

能動空力弾性翼 (AAW)

などの他にも空力抵抗に対応する可変翼が研究によって生まれてきたため、
結局このシステムそのものは、クルセイダーのみに搭載されて終わったのです。

このRF-8Gは海軍で運用されていた最後のクルセイダーです。

F8U-1Pとして配備され、最初の7年間は海兵隊に所属して
南西アジアでの戦闘時間は400時間、総飛行時間は7,475時間。
これはクルセイダーの中では最も長時間となる記録です。

ここでの展示は、翼を折りたたんだポジションが見られます。

ミコヤン-グレヴィッチ MiG-21F " Fishbed C"

当博物館にはもう一機MiGが展示されています。

フィッシュベッドというのはそのまま解釈すると「魚の寝床」ですが、
これはNATOのコードネームであってソ連製ではありません。

ソ連ではその翼の形(三角形)からバラライカと呼ばれたそうですが。

MiG-21はソ連の第二世代ジェット戦闘機です。
1956年に試験飛行後、1960年にMiG-21F-13としてデビューしました。

ユニークな「テイルド・デルタ」のの機体は薄いデルタ翼を持ち、
それは操作性と高速性、中空域での優れたパフォーマンスと、
離着陸に適した特性を与えました。

その後MiG-21はソ連軍の要撃戦闘機のスタンダードとなり、
その後レーダーやさらにパワフルなエンジン、
アップデートを加えることでマルチロール・ファイターとなりました。

MiG-15ほどではないにしろ、12種類のMiG-21が、
30カ国の軍によって採用されたのです。

戦闘機として凄かったのが、機能の割に作りがシンプルだったことですが、
それゆえいくつもの派生形を生み、あまりにも種類が多くなって
機体の規格がまちまちなため、整備しにくいという欠点がありました。

とはいえその性能は、F-16が世に出てくるまで
世界のトップにあったというくらいです。

驚くべきことに、2019年現在でも世界各国の空軍に配備されており、
近代化改修を重ねて今後も多数運用し続けられるといわれています。

あまりにもたくさん作られたため、アメリカの田舎あたりには
自家用機として「趣味のMiG」を飛ばしている人がいるんだとか(笑)

このMiG-21F-13はワシントンD.Cにあるボーリング空軍基地で
行われた「ソ連軍武器展」で展示するために整備されたものです。

「ソビエト連邦を知る」

というトレーニングプログラムの一環として行われたもので、
歴史を忘れないようにという意味で企画されたということです。


ベトナム戦争といえば、こんなものもありました。

北ベトナム軍は戦争中に捕虜にしたアメリカ人を釈放するにあたって、
こんな統一されたスタイルをさせて帰していた、というのです。

ベトナム人はしないスタイルなので、これが彼らの思うところの
「アメリカ人らしい服装」だったということになるのでしょうか。
この服装に黒い革の鞄というのが定番となっていました。

これは1972年に捕虜になった空軍のバド・ブレッカー少将が着ていたものです。
少将も捕虜に?と驚きますが、もしかしたらパイロットだったかもしれません。
まる7ヶ月の間捕虜生活を送ったということです。

解放される時、POW、捕虜たちは「ハノイ・タクシー」
と呼ばれるC-141で祖国に帰されました。
彼らが最初に到着するのはあのフィリピンのクラーク基地。

ここで医療検査を受け、メディアのインタビューを受けてから
家族と友人の待つ祖国へと向かって行きました。

左は「ホーチミンサンダル」で、タイヤから作られています。
ベトコン御用達の定番ファッションです。

このデザイン、今普通にオシャレに履けますよね。
無印良品で売ってそう。

右は「ドッグ・ドゥ」トランスミッター

ホーチミンの道に空中から落とされ、夜間何か動きを感じると
警告を発するデバイスです。
信号はCIA などによってモニターされていました。

どう見ても犬の落し物だが?と思ったあなた、あなたは鋭い。
「Dog Doo」で調べるとそのものが出てきますよ。

ところで、ベトナム戦争で登場したヘリは、ベトナム戦争の
象徴のようなイメージがありますね。

例えばこれは1967年に行われた「マッカーサー作戦」での一シーンですが、
ベル UH-1ヒューイが人員(右側に列を作っている)
を輸送するためにジャングルの中に切り開かれた部分に降りているところです。

 戦場での一シーンなのになぜか厳粛で美しいと感じてしまいました。
人々が天上から舞い降りる使徒の如きヘリコプターを待つ様子に、
祈りにも通じる、救済を求めてやまない思いが表れているからでしょうか。

 

続く。 

 

 


河野克俊元統幕長の「ありがたい」発言の真意 @ 虎ノ門ニュース

2019-05-18 | 日本のこと

 

昨年の憲法記念日に安倍首相が加憲案を打ち出してからしばらくして、
当時の統合幕僚長だった河野克俊海将が、外国特派員クラブでの質問に答える形で

「自衛隊の存在を明記してくれれば我々にとってはありがたい」

と発言したことはまだ記憶に新しいところです。
河野統幕長の発言は一部メディアと野党がそれを非難し、ある議員などは

「統幕長を辞任するべきだ」

などと騒いだものの、それは大した問題にもならず収束しました。

その後河野統幕長は史上もっとも長い4年間の任期を無事に終えられ、
平成31年3月末で勇退し民間人となられました。

 

先日、その河野氏が、ネット番組、「真相深入り 虎ノ門ニュース」の
レギュラーコメンテーター、ジャーナリストの有本香氏の招きで、
当番組に出演されたのをご覧になった方は多いのではないでしょうか。

わたしもこの回を大変楽しみにしており、車で移動中の時間を利用して、
リアルタイムで片言隻句聞き漏らすまいと視聴していたのですが、番組の後半、
この時の「ありがたい」発言についての真意をお話しになっていたので、
当ブログでは、その部分だけを書き出してみることにしました。

なお、独自の判断で、口語だと意味のわかりにくい部分、重複している部分など、
省略したり、読みやすく編集していることをお断りしておきます。

 

● 顔の見える自衛隊になったきっかけ

有本 河野さんのキーワード『顔の見える自衛隊』これはどういう意味でしょうか。

河野 つまり「国民に顔の見える自衛隊」です。

防衛庁自衛隊ができたのが昭和29年、わたしも昭和29年生まれなので、
ともに今年で65年目を迎えます。

憲法9条の問題、つまり自衛隊は違憲であるという問題はは自衛隊創設以来あって、
それで自衛隊に対する国民の目が大変厳しい時代がずっと続きました。

わたしが防大に入ったのは昭和48年ですけれども、この頃PKOの任務を担って
自衛隊が(海外派遣に)いくなど想像もしておりませんでした。

「存在する自衛隊」ではあったんですけど「動ける自衛隊」ではなかったんです。

平成2年に湾岸危機が起こり、サダム・フセインがイランに侵攻しました。
それに対して時のアメリカ大統領、パパブッシュが、
「これを見過ごしたら今後世界は混乱する」
と多国籍軍を編成して、皆で協力しておし返そうじゃないかという話になりました。

その時、「日本は何をしてくれるんですか」という話になったんですよ。

それまでの日本はお金を出すが人は出さないというやり方だったんですが、
やっぱりそうではなく人的貢献、つまり汗をかいてくれという話になったんです。

どうするかについて日本中が大議論になりました。
民間人に行ってもらえば憲法上問題はないんですが、
そんな状況ではない、自衛隊でないとそんな任務は担えないのです。

それで自衛隊を出す出さないという話になったのですが、
その時わたしも末端班員として関わってたものですから、(海上幕僚監部防衛班)
「家政婦は見た!」じゃないですけど、上層部の動きをずっと見とったんです(笑)

その時よく自衛隊海外派遣に対する反対論として出てきたのが、

「いつかきた道」、それから「蟻の一穴」
(自衛官を一人海外に行かせるとそこから派兵につながる)

「軍靴の足音が聞こえる」

自衛官は決して特別な人間じゃありません。
わたしだって別に純粋培養されて自衛官になったんじゃありません。
よく考えてください。学校ではみなさんの横に座っていたんですよ。
自衛官って普通の日本人なんです、などと説明しなければならないような状況だった。

つまり自衛官海外派遣の反対論を突き詰めると
「自衛官不信論」に行き着くのではないかと痛感したんです。

しかし自衛官のどこが不信なのかと聞いてもわからない、漠然たる不信感。
それがどこからきているかというと、

「戦前の軍隊って悪かったじゃないですか、
自衛隊だって軍隊なんだから何やるかわからないじゃないですか」

そこにさっきの三つのキャッチフレーズ(いつかきた道、蟻の一穴、軍靴の足音)
をかぶせると、不信が倍加されていく。

その時絶望感に苛まれまして。いくら言っても信じてもらえないな、と。

自衛隊がそんな組織でない、ということは行動で示さなければダメなんですが、
そもそもその行動の機会も与えてもらえない。

創設以来自衛隊は訓練もやり、アメリカとの関係もしっかりやってきたんですが、
不幸にして国民からは顔が見えなかったんです。

顔が見えないと不気味ですよね。

ところが急転直下、湾岸戦争が終わった平成3年に掃海部隊の派遣が行われました。
自衛隊が任務を帯びて海外に派遣された先駆けでした。
これで機雷掃海を見事に成し遂げ、大変な評価を受けて帰ってきたんです。

それでも相当な反対運動がありましたが、向こうでの活動などについて
テレビ放映でも取り上げるようになり、その頃から国民にようやく

「自衛隊の顔が見え出した」

のではないかと思います。

有本 報道の仕方がたとえ逆風ではあっても、とりあえず
自衛官の生の姿がテレビに映るというのが大きかったんですね。
我々と同じ普通の日本国民が、普通の青年が頑張ってる姿が見えたと。

河野 その後、相当の反対論もあるなかPKO法案が通りましたが、
これも掃海部隊の活動がなければ通らなかったと思います。

これで国際緊急救助隊という海外への災害派遣に自衛隊が参加できるようになりました。
今では、国際緊急支援には自衛隊が真っ先に出て行きますが、
このような人助けさえダメだった時代があったんです。

阪神淡路大震災では、都道府県知事の要請がなければ動けず、出遅れたので、
その反省から自衛隊が必要と判断すれば独自に動けるようになりました。

それがオウム真理教のサリン事件、インド洋オペレーションにつながり、
それが陸上自衛隊のイラク派遣につながって行きました。

そして東日本大震災が起きました。
自衛隊の活動が高く評価され、自衛隊への信頼が上がったと言われます。

ペルシャ湾からの一歩一歩の積み重ねが東日本大震災に至り、
日本人の9割の方が自衛隊を信頼しているという結果につながったと思います。

「顔の見える自衛隊」の時代になったので、それに応じて信頼感がたかまってきた。
この姿勢を貫いて行くべきだと思います。

有本「切ないのは、公的機関の中で信頼度がナンバーワンで、信頼度が高い。
これは自衛隊の人たちが自分たちで勝ち得てきた信頼以外の何物でもないと。
本来であれば政治が大変な仕事をしてくれている自衛隊に対する信頼を
持てるようにしなくてはいけないのに、その役割を果たしてこれなかった、
と安倍総理もおっしゃっています。

自衛隊の人たちの自発的な努力に余りに多くを負い過ぎているのは、
国民の一人としては申し訳ないというか間違っていないかと思うのです。

河野 隔世の感があるのが、最近は

「こういう法案で自衛隊を出すな!自衛官がかわいそうじゃないか」

という反対論が出ていることです。昔は

「自衛隊なんて何をするかわからないから制約をかけろ」

だったのに(笑)

それから

「自衛隊を海外に出したら軍国主義につながる」

だったのが、実際に出してみたらそうじゃなかった。
海外に出て任務が終わったら皆家族の元に帰っていく。
我々自衛隊はそういうことを身を以て示したつもりでした。

ところが安保法制の時にまた同じような議論になりました。

有本 統合幕僚長に就任されて2年目、中谷防衛大臣の時ですね。

河野 すると、同じようなキャッチフレーズがまた聞こえ始めた。
「明日から徴兵制」とか。

有本 安保法案の中身に不備があるとかではなく、いきなり「いつかきた道」以下略、
徴兵制という荒唐無稽なレッテルを貼っての反対論は国民として虚しかったですね。
こういうのは湾岸危機から始まったんですね。

河野 間違いなくそうです。わたしたちは身を以て体験しましたので。

 

有本 海外では軍人が軍服で歩いているのは普通の光景ですが、日本では
自衛官がユニフォームを着て外にでちゃいけないみたいな・・。

河野 いけないってことはないないですけどね。

有本 いけなくはないですか。
 日本では自衛隊に対する敬意が少ない気がします。
他の国では軍人は尊敬されますし、感謝の気持ちを向けますし。

例えば、ニューヨークで一年に何回かかどうかわかりませんが、海軍の船が着くと、
あんなリベラルなところなのにニューヨーカーたちが

「今日は海軍の若い人たちが街に繰り出してるよ」

と歓迎するんです。

「今夜は羽目外してどんどん遊んでもらわないと」

みたいな感じで。こんな雰囲気は日本にはないですね。

河野 いろんな見方があると思いますが、
わたしは、根本を質せば「憲法」だと思います。


● 連立方程式を解いた結果

有本「なるほど。
今までお立場上憲法について話すことはなかなかなかったと思いますが、
いろんな制約が憲法によってかけられているということですね。

河野 2017年に外国特派員クラブで講演を行いました。
憲法記念日に安倍総理が憲法明記論を出された直後だったんです。

有本 いわゆる9条三項加憲論というものですね。自衛隊を明記する、と。
これに対してあの時河野さんがおっしゃったことが非難されました。

河野 あの時はそんなタイミングなので聞かれるだろうと思っていました。
事前の打ち合わせでも『聞きたい』と言われていました。
それに対して「答えられません」でしたら何の問題もなかったのですが、
ただ、9条の問題というのは根本で、その当事者は誰かというと自衛隊なんですよ。

わたしはその時曲がりなりにも制服組のトップでしたから、
メディアからの質問を国民と我々をつなぐものとすれば、
国民が自衛隊に感想を求めていたということでもあったのです。

そこでわたしが答えないというのはそれこそ「顔の見える自衛隊」であると言えない。

今までならそういうことには踏み込まないのが「安全策」だったと思いますが、
わたしは一歩踏み出したのです。あれはだから「確信犯」です。

この問題についての当事者であるわたしは何らかの言葉を発する必要があると。
ただし、政治的な制約がかかっていますから、
わたしとしてはこの「連立方程式」を解いたわけです。

有本 ご存知ない方のために説明しておくと、憲法記念日に安倍首相が9条3項加憲論、
つまり自衛隊を明記するという案に言及したのに対し、河野さんが外国特派員協会で、
どう思われますかという質問に対し、

「ありがたいと思う」

と言葉を発したわけです。
一部メディアは「統幕長がありがたいとは何事か」と批判を行いました。

河野 わたしが自衛隊を憲法上明記して欲しいとか明記してくれとか、
してもらいたいとかはできないんです。

でもわたしが解いた連立方程式の回答は、

「憲法に自衛隊の根拠になるような条文が盛り込まれることになれば
それはありがたい」

国会が発議をし、国民が過半数で認めた状態になれば、わたしの気持ちとしては嬉しい。
自衛隊の厳しい時代を経験していますので、先輩などのことを考えると、
ありがたいというギリギリの言葉を述べたわけです。
わたしは今でもこれが政治的発言とは全く思っていません。

自衛隊が違憲というのは自衛隊ができた頃は有力な考え方だったんです。
保守と呼ばれる方だって自衛隊は憲法違反だというわけですよ。

社会党などは、

「自衛隊は違憲なので解散し、非武装中立で日本は軍隊を持たず
米ソどちら側にも属さず中立でいるべきである」

わたしはこれに賛成はしませんがこの論理はわかります。

しかし、

「自衛隊は違憲だが現状自衛隊は受け入れられているので、
国民が自衛隊をいらないというようになるまで
そのままの状態で仕事をしろ」

というのは到底納得できません。

有本 最高法規で認められていないどころかそれに反する存在なのに、
あろうことか一番大変なことをやらせようとしている。

河野 今自衛隊が憲法違反という方も、それが
国民に受け入れられているという事実は認めているんです。

ならば!ここははっきりと結論を出していただきたいと思うんです。

実力組織である自衛隊が憲法違反かもしれないという問題を抱えたまま
国家が進むのはもう限界だと思います。
違憲論も無理があるので決着をつけていただきたいんです。

 

あの発言が報道されたとき、統合幕僚長ともあろう方が「うっかり」
そんな失言をするとは思えなかったので、わたしはそこに必ず、
河野氏ご自身の強い意思があるはずだと確信していたのですが、
このときに氏がおっしゃった「連立方程式の答え」を聞いて、
まさにわたし自身の答え合わせも終了したように腑に落ちました。

 

● 自衛隊の悲願 

ところで、自衛隊がその行動規範をポジティブリスト、やっていいことだけを決められ、
つまりリストにないことには手を出せないという状態なのはご存知かと思います。

今回、unknownさんがこの件でご意見をくださったのでご紹介しますと、
自衛隊が武力行使を始め、全てに抑制的なのは、もちろん憲法9条の
「戦争放棄」に起因するものですが、それだけでなく、
このとき河野氏が番組でおっしゃった、

「自衛隊が共産革命等の内乱に備えるための警察予備隊から発展した」

ということも大きな要素ではないかというのです。

恥ずかしながら浅学ゆえ知らなかった部分なのですが、自衛隊法の第87条以降、
「自衛隊の権限」には、

「警察官職務執行法を準用する」

という箇所が「何度も何度も」出てくるのだそうです。

自衛隊法

 

少なくとも、今のポジティブリストを、ネガティブリスト方式
(やってはいけないことを決められている)に変えないことには、
自衛隊は「シームレスな危機」に対応できないのは確かです。

「警察職務執行法からの呪縛」から解放されるとき、
自衛隊は「使える軍隊」になることができるのではないか、
というのがunknownさんのご意見です。

 

加憲論については、テクニカルな点でも主に憲法学者からの反対が多く、
そちらについては前途多難が予想されます。

しかし、とにかく現実離れした9条を改憲するには、まず
憲法改正のための96条の改正を喫緊の課題として実現させていただきたい。

いずれにせよ、河野氏が統幕長として発した

「(自衛隊の存在を明記していただければ)ありがたい」

この言葉を

「同じ日本人である自衛官たちの総意であり悲願」

と受け止め、その意欲のある総理大臣が首長であるうちに、
自衛隊の存在が憲法で認められる日が一日も早く訪れてほしいと切に願います。

 

 

 


艦上レセプションにおける社交〜海上自衛隊 「日本国」練習艦隊行事

2019-05-17 | 自衛隊

前回までのあらすじ

某月某日、横須賀地方総監部に寄港した練習艦隊旗艦「かしま」と
「いなづま」艦上で行われたレセプション会場。
国旗降ろし方をかぶりつきで撮影していた「わたし」に、
いきなり声をかけてきた女性の正体は?


「『ネイビーブルーに』っていうブログの方ですか?」

(前回最後とは若干セリフが違いますが、だいたいこんな感じです)

カメラを構えていたわたしに彼女はこう言いました。
当ブログ運営者であるかどうか聞いてこられたのです。

 

ところで余談ですが、わたしにブログのことで声をかけてこられる方、
(文章含む)は、なぜかタイトルの後半を省略する傾向にあります。

「恋をして」と口に出すのが気恥ずかしいと思う方が多いのかもしれません。

「恋をして」・・・・「恋」・・・・

確かに。

そもそも口に出して言えないような名前をつけるなよって話ですが、
わたし自身これまで自分のブログタイトルを口にしたことは今まで一度もありません。

人に口で伝えたり聞いたりすることを最初から想定していなかったからこそ、
こんなこっぱずかしいタイトルをつけてしまったとも言えます。

 

 

それはともかく、声をかけてこられた方は、元自衛官の奥様でした。

実は先の連休中、わたしは葉山で知人のヨットに乗せてもらったのですが、
そのちょうど前日、この元自衛官ご夫妻は同じ方のヨットでクルーズをして、
その航行中、わたしとそのブログ、「ネイビーブルーに」の話になったようです。

「奥さんがブログ見て”勉強されていた”らしいんですよ。
で、エリス中尉(仮名)さんがレセプションに行かれるならぜひお会いしてみたいと」

その元自衛官というのは他でもない、何年か前の練習艦隊司令官です。

当「ネイビーブルーに」の性質上、ブログ上では大々的にご紹介した訳で、
例によって微に入り細に入り、司令の箸の上げ下ろしじゃなくて階段の上り下りまで
克明に写真を撮ったばかりでなく、出国行事では奥様とご子息の後ろ姿までアップしたものです。

奥様はそれらに目を通しておられたばかりでなく、司令官クラスの妻に要求される
在日米軍軍人の夫人会との親睦会などの出席に当たって、
当ブログ「ネイ恋」記事を
参考にされておられたらしい・・・・・ 

という「伏線」があったので、「いなづま」艦上で声をかけられたときも、
わたしは女性と一緒にいる元海将補の姿を見てすぐに相手がわかったのですが、
はて、それにしても、どうしてお二人はわたしがブログ主だとわかったんでしょうか。

「今までのブログの写真から見て、たぶん自衛艦旗降下の時に旗の近くにいけば
そこで写真を撮っておられるのではないかと思ったんです」

すごい。完璧にこちらの行動を読まれておる。
奥方、そなた何者?

 

「ネイビーブルーに」は細々とやっている個人ブログに過ぎないのですが、
時折このようなエキサイティングな(笑)出会いがあるだけでなく、
見知らぬ誰かに何かを(影響とか、きっかけとか、縁とか)与えたと知ることもあり、
そんなときには、ささやかながらも充実感を噛みしめるのです。

 

この後、奥様とは立ち話で散々盛り上がりましたが、特に

「出世する自衛官の夫を持った妻の気持ち」

など、日頃から気になっていたことなどを聞かせていただきました。
その時にうかがったところによると、

●自分の仕事のことを家で全く言わない夫、逆に言う夫がいる

元海将補は奥様の言うところの全く仕事のことを言わないタイプで、
急にこれこれここに行くことなったから、と言う事後報告なので、
(て言うか自衛官ってそんなものですよね)奥様としてはなかなか大変だったとか。

●階級が上に行くと、米軍夫人会などとの付き合いがあるので、
着付けや英語を習ったりする夫人もいる

偉くなる予定?の自衛官は妻になる人の社交的資質も考慮すべし、ということでしょうか。
英語や着付け以前に、人前に出るのが嫌いというタイプでは、ちょっと辛いかもしれません。

アメリカでは海軍士官はリチャード・ギアの「愛と青春の旅立ち」
(原題:An Officer and a Gentleman)を見るまでもなく、エリートで
結婚相手としては高嶺の花なので、当然妻のレベルは何かと高いはず。

ならばそのカウンターパートとしての自衛官妻はそれなりの実力
(主にコミュ力)が必要となってくる(はずなの)です。

●わからないことは先輩の夫人が教えてくれる

●自衛官の妻同士は結束が強く、助け合いこそすれいじめなどはない

●夫の階級をかさにきたマウンティングなど一切なし

 

そういえば陸自の将官からも、官舎での妻同士のトラブルの類については
全くない、との証言を聞いたことがあります。

陸海でそうなら、空自はさらになさそうですね。(単なるイメージですが)

 

とはいえ、長い自衛官妻生活の中には、この人には二度と会いたくない、
と言うような人もいなかったわけではない(婉曲表現)ということで、
これもまた人間社会の縮図である自衛隊では普通のことかと思われます。

そのうち他の方と話しておられた元海将補が話に加わられたので、
練習艦隊司令官としての一連の姿を追いかけ、それについて語ったわたしとしては
どうしても聞いてみたかったこの質問をしてみました。

「練習艦隊の司令官って、自衛官なら一度はやってみたい配置なんじゃないですか」

それに対する返事は、もちろんイエス、に続き、

「『日本国』と頭に付くのは練習艦隊だけですからね」

なるほど、海上自衛隊で唯一、一国を代表するという意味の冠をつけ、
日本国の代表として国際交流を行う艦隊の司令官なんですものね。
そこで奥様に、

「出航行事の時司令官であるご主人の姿を見てどんなお気持ちでした?」

と聞くと、

「挨拶を間違えないかとか、そんなことが気になってしまって・・」

「でも〇〇さん立派でいらっしゃいましたよ。惚れ直したんじゃないですか」

奥様が返事をする前に、元司令、

「そこはイエスでしょ?」

 

元海将補は流石にパーティ会場では引っ張りだこで、わたしと奥様が話している間に
どこかにいってしまわれたのですが、のちにわたしとTOが一緒にいると
再び見つけて下さったので、ちゃんと夫婦でご挨拶することができました。

埠頭で練習艦隊の指揮官として立っておられた姿がまだありありと記憶にあるのに、
その同じ方とこんな会話をしていることが何かとても不思議な気がしました。

 

ついでにいえば、わたしは自衛隊イベントで指揮官、将官クラスの自衛官と
その奥様に何回もご挨拶してきましたが、

出世する自衛官の夫人は明るくて可愛らしい感じの人が多い

ことに気がつきました。
もちろん例外もありましょうが、夫婦仲のいい人、愛妻家が多いような気がします。

練習艦隊の音楽隊は、各音楽隊の選抜メンバーで構成されています。

ジャズやラテン、時々は演歌などを演奏していた当夜のバンド、
海自つまり日本国代表として演奏を披露するメンバーだけあって、
大変お上手な方ばかりでした。

この時、東京音楽隊の三宅由佳莉三曹が遠洋航海に乗り組むという話を聞きました。

もしそれが本当だったらの話ですが、今年の夏、東京音楽隊は
カナダのハリファックスでのミリタリータトゥに出演するので、
三宅三曹は練習艦隊からでカナダに合流する予定なのかもしれません。

実はわたくし、今年、ハリファックスでの東音の晴れ姿を観るために、
夏の予定をタトゥーに合わせようとかなり努力したのですが、
どうしても予定が合わず、断念したばかりです。

いつもだいたい同じ時期にアメリカにいるわたしとしては、練習艦隊とも一度くらい
海外で遭遇してみたいのですが、これもいつも、西海岸に向こうがいればこちらは東、
といった具合にすれ違うばかりで、一度も実現したことはありません。

「パーティではホストたる実習幹部はすべからく客と社交を行うべし」

というお達示が出たかどうかはわかりませんが、これまでより一層、
会話を積極的にしようと向こうから話しかけてくるようになったおかげで、
わたしも今回は会場をウロウロして、めぼしい?幹部に声を掛け、
あれこれインタビューするまでもなく、何人かとお話ができました。

当ブログでは、大正時代の練習艦隊がハワイの公館での庭園で行われた宴会で、
明らかに社交を行わず、候補生(当時には任官前に遠洋航海が行われた)ばかりが
同じ場所で固まっている決定的な証拠写真を紹介して、

「日本人は海軍ですら社交がなってない」

と苦言を呈した?ことがあるのですが、戦後70年、令和の世になって、
ようやく日本の海軍士官の社交力はワールドスタンダードに達した、
と言ってもいいらしい兆候を目の当たりにし嬉しく思いました。

というわけで、わたしもこの夜はこの他に

●儀仗隊出身

●体力徽章付き、固定翼機志望

である実習幹部と話をすることができました。

「あおざくら」絶賛愛読中のTOは、相手が儀仗隊だったと聞いて大興奮。

「なんで儀仗隊を選んだんですか」(TO)

「なんとなく一番楽そうに見えたんです(´・ω・`)」

「あー・・・・甘い。甘すぎる」(わたし)

「甘かったです」

興味津々で色々とわたしも質問したところによると、

銃を落とした時の罰則は腕立て伏せで、回数も失敗の程度によって決まっている
一番左で銃を回す人は一番上手いというわけではなく、最近は全員ができる
(そういえば最後は全員でやっていたのを見たことがありました)
「蹴り倒せ」の練習の時、失敗して中央をくぐり抜ける人に銃が当たることもある

ということでした。

体力徽章の幹部からは、体力テストの結果は一年しか保たないので
次の年基準に達しなかったら返還しなくてはいけないこと、
基準は年齢が上がると低くなるということ、バッジをもらうには
陸上と水泳とふた通りあるが、陸上はやたら厳しいので、実習幹部バッジ保有者のうち
陸上でバッジを取ったのはたった一人であることなどを教えてもらいました。

また、実生活にはなんの役にも立たない自衛隊の話をたくさん知ってしまったぜ。

バンドが「蛍の光」の演奏を始めました。
かつての練習艦隊司令官が語っていたところによると、海外での艦上レセプションで
終了となって「蛍の光」が始まっても、彼らは日本人のように
これを聞くと足が自然に出口を向いてしまうという刷り込みがされておらず、
つまり出て行ってくれないので大層困ったということです。

海外で一体練習艦隊はどうやって客を追い出しているのか興味あるところです。

「かしま」に置いてあるモニターでは、去年の練習艦隊の映像が流れていました。
前海幕長、村川豊海将の姿も。

「かしま」を降りて配属部隊に向かう幹部たちの姿。
今彼らはどこでどんな任務に当たっているのでしょうか。

舷門に向かうと「かしま」乗員が通路に立ってお見送りしてくれます。
帽子をかぶっていない自衛官たちは一人一人の目を見て挨拶。

舷門にたつ自衛官たちは着帽しているので敬礼でのお見送りです。

「かしま」の舷梯は幅が広く階段は木製で、自衛艦のそれにしては一般向けですが、
それでも自衛官たちは降りる人の一挙一動をしっかり注意して見ています。

岸壁には、自衛隊が出した送迎の車がずらりと列を作って待っています。

あれ?車の左を歩いているのは女性の一佐だ。
もしかしたら東さん?

知り合いが降りてくるのを待っていると、いきなりサイドパイプが連続して
「ホヒーホ〜」「ホヒ〜ホ〜」と忙しく繰り返されました。

見ると、いかにも偉そうな自衛官の一個小隊がまとまって降りていました。
隊司令以上の自衛官が乗り降りするときに吹鳴するというのが号笛ですが、
一回吹くだけでも結構肺活量が要りそうなのを、これだけ繰り返すと、
サイドパイパーは貧血になってしまったのではないかと本気で心配。

江田島の幹部候補生卒業式行事でわたしがいじめられたご一緒した人のお姿もありました。
あれから周りの人に聞かされたところによると、この人はわたしが知らなかっただけで、
昔から自衛隊のイベントというイベントには必ず来られていたそうです。
お見それしました。

どんなときにも写真に写るようなど真ん中に進出していかれる性質のせいか、
写真を撮る人々にはどうにも評判は芳しくないようにお見受けしましたが(棒)

帰り、車を一瞬止めて「陸奥」の砲身越しに電飾の練習艦隊を撮りました。

このあと彼らに会うのは、出国をお見送りする行事となります。

 

続く。


「国旗降ろし方」〜海上自衛隊 日本国練習艦隊「かしま」艦上レセプション

2019-05-16 | 自衛隊

令和最初の練習艦隊、その横須賀での艦上レセプションに参加しました。

さすがは海上自衛隊、時間ぴったりに会の開始を告げる鐘が鳴り、
練習艦隊司令官、梶元大輔海将補があいさつを行いました。

前回のレセプションでもアナウンス台の後ろに、
雷神風神の暖簾がかけてありましたが、これは「かしま」ではなく、
今日もメザシ状態でパーティ会場になっている「いなづま」から
借りてきているのではないかと思っています。

この挨拶で梶元司令は、本日のパーティに出席している実習幹部は
全員ではなく、乗員共々上陸中であるというお断りを行いました。

こちら、一体どこから撮ったのという攻めの角度からのKさん写真。
(よこすか軍港めぐりの船の上からかしら)

岸壁に幹部、曹士が整列している様子が写っています。
防大や幹部候補生学校ではありませんから、上陸前の点検とかではないと思いますが、
まあこんな感じで訓示を受け、上陸していったのでしょう。

どうやって出席組か上陸組かを決めたのかあとで実習幹部に聞いてみると、

ローテーションなんですよ。
前回の泊地で出たら今回は上陸という感じで」

「そうなんですか。
じゃんけんで負けた人が出席してるんじゃないんだ」

これもレセプションに出席する来客が年々増えてきて、候補生全部では
どうしても会場が手狭になってしまうからなのでしょう。

それに今年はオリンピックの関係か、晴海寄港がなくなり、
レセプションが横須賀だけになってしまったため、仕方ありません。

しかしその配慮が大変功を奏し、何年か前の芋の子洗う状態ではなく、
少なすぎず多すぎず、ちょうどいい混雑具合だったことをご報告しておきます。

梶元司令のあいさつの後は、「かしま」「いなづま」艦長が紹介されました。
「やまゆき」の艦長のお姿が見られなかったのは大変残念です。

江田島での錨上がらない事件ではすっかり名を上げた(とわたしが思っているところの)
「かしま」艦長高梨一佐。

高梨一佐の艦歴について存じ上げているわけではありませんが、
これら一連の練習艦隊行事について話をしたわたしの知る範囲から、

「あの人はゴリゴリの艦乗り」

みたいな、もちろん賞賛の言葉を耳にして、なるほどと思った次第です。

 

また、前回少しお話ししたところの「東日本大震災当時の横須賀地方総監」
だった方にお会いした時、あまりこういう機会にお見かけしない方だったので、
珍しいですね、というようなことを言うと、

「いつもは来ないんですが、練習艦隊司令官の梶元海将補は、震災のとき
原子炉の冷却水のバージを曳いて搬入した部隊の指揮官だったんです」

震災発生後の3月24日、原子炉の冷却水が足りないという事態になったとき、
米海軍が提供した横須賀にあるバージ(鉄でできたはしけ)2隻を海上から
福島第一原発の岸壁に回航し、真水を補給するという、

真水作戦(オペレーション・アクア)

が横須賀地方隊から出された、という話はこの元海将の著書

「武人の本懐 FROM THE SEA 東日本大震災における海上自衛隊の活動記録」

で知っていましたが、もう一度確かめてみると、
最初に決定されたという概案にはちゃんと名前があります。

護衛・警戒部隊の指揮官には第11護衛艦隊司令・梶元大介一等海佐を充てる。

当時、ニュースを食い入るように見ていたわたしたちは、

「バージを牽引して冷却水を」「アメリカ軍が貸与」

といった断片的な情報とはいえ、このことを知っていました。
現在、作戦名で検索しても、当時のニュースと、このyoutube、

 米軍貸与のバージ船が福島第1原発に接岸=日米共同の「真水作戦」
 

5年後、参加した隊員が語った朝日新聞の記事しか出てきません。

作戦実行時には岸壁に横付けすることを「突入」といったそうですが、
朝日新聞の海自提供によるビデオを見ると、曳船艦橋にいる隊員は、
全員が背中に名前の書かれた防護スーツを身につけ、目だけ出した状態です。

突入する船には内側にタングステンを張り、被曝については最大限に留意して
隊員の健康の安全を図ったということですが、それでも
命令を下し、見送る指揮官の「私」の部分は、心で泣いていたに違いありません。

ともかく、この練習艦隊司令があの作戦に参加していたと知ったこと、
それはこのレセプションにおける大きな収穫の一つでした。

しばらくして、「かしま」から両艦に渡されたラッタルを渡り、
「いなづま」に移動しました。

こちらには屋根はありませんが、この日は実に素晴らしい五月晴れで、
日が落ちてひんやりとした気持ちい風が吹き渡る甲板では
こちらの方が横須賀の夜景を楽しむことができるという状態です。

「いなづま」の甲板で歓談している(この写真に写っている)人々の中には、
かつて練習艦隊司令官だったという方の姿もお見受けします。

ちなみにこの日お話しするしないにかかわらず、艦上で見かけた
元練習艦隊司令官は、指折り数えてみたら5人になりました。
わたしが存じ上げないだけで、もっと多くの元司令官が来られていたのかもしれません。

わたしが「いなづま」に移動したのは、そろそろ自衛艦旗降下の時間だったからです。
この日の日没は1836。

まず最初に、当直の海士が位置に着きました。
飛行甲板の端に引かれていた紅白の幕がカーテンのように開けられたので、
わたしはここに立って降下を見守ることにしました。

オランダ坂の下、ここが乗員の喫煙場所になっているようです。
一服していた一佐ズは、いきなりカーテンが開いて注目の的に。

「自衛艦旗降ろし方五分前」

で、当直の海士もやってきてまずは互いに敬礼で挨拶。

それが終わると後ろに立っている幹部に敬礼をします。

飛行甲板の端に立っていたわたしは、当直士官より前に出ているのにこれで気づき、
慌てて後ろに下がりました。

ところが下がった場所(周りに人がいて身動きできず)は
ちょうどライトが当直海士に重なってしまう位置でした(´・ω・`)

前回教えていただいた通りに記述すると、この時当直士官は手をお尻の後ろに。
海曹と海士は片手で旗の索を持ち、右手は腰のあたりに維持しています。

幹部は「休め」、曹士は「整列休め」の状態で時間まで約5分待つのです。

今思ったのですが、これ、いかなる天候の時も同じやり方ですよね?
土砂降りでも、大風でも、身を切るような寒さでも・・・・。

東京の客は皆マナーがいいので、写メを持って当直士官の前に身を乗り出して、
注意されるというようなことは決して起こりません。

時間直前に、当直士官が左舷側に立っている二人の腕章をつけた士官と曹、
この二人に正対しました。

うーん、なんかこういうの初めて見るような気がするんですが。

見ているとまるでガンマンのように(笑)ほぼ同時敬礼。
女性士官は実習幹部で二尉は指導中とかかな?

階級に則って女性の方が一瞬早い敬礼です。

敬礼が終わると当直士官はまたもや待つ姿勢に。

艦橋からマイクで

「十秒前」

の声がかかり、で当直士官が「気を付け」します。
まだこの時には電飾は点灯されていません。

「じか〜ん」

でラッパ譜「君が代」が吹鳴され、「降ろせ」となります。
同時に電飾がパッと明るくなりました。

「君が代」終了と同時に降ろし終わって、「かかれ」(解散)。
解散するのに「かかれ」とはこれいかに。

旗をたたんでいるところに急ぎ足で近よる人影あり。

この後、二人で旗をたたむところも撮ろうとしていたら、
女性が近寄ってきて声をかけられました。

「『ネイビーブルーに・・』というブログされている方ですか?」

「・・・・!」

 

続く(笑)

 


令和最初のかしま艦上レセプション〜海上自衛隊練習艦隊行事

2019-05-15 | 自衛隊

呉で卒業を見送り、神戸でお迎えして大阪で激励した日本国練習艦隊が、

愈々横須賀に入港してきました。

神戸の後、

中城、佐世保、大湊、舞鶴、呉、三机

とほとんど日本を一周して日本での最後の寄港地に到着し、
ここから約半年にわたる遠洋練習航海に出航するわけです。

呉では艦は最後のオーバーホールを受け、連休中、実習幹部は
それなりに休みを取ることもできたという話です。

というわけで、わたしも横須賀の艦上レセプションに参加してまいりました。

そしていきなりですが、写真はいつものKさんにお借りしたもので、
こちらは横須賀入港直後の練習艦隊を撮ったものだそうです。

こちらもKさん写真。
ヴェルニー公園はバラが今満開だったんですね。

護衛艦とバラを眺めながら歩いてみたかったのですが、車だったので残念。

この日TOとは一枚ずつ別々に招待状をいただいていたので、
わたしは招待状一枚につき一人許される同伴者もを誘い、
ご本人と打ち合わせの上、1730の受付開始より30分前に
横須賀地方隊の門付近で待ち合わせることにしました。

ところでいつの間にか地方総監部前の看板が変わりましたね。
明るいブルーに白字、大きく桜に錨マークが描かれ、
大変見やすくスッキリしています。

約束を10分すぎるという電話があったので仕方なくここで待っていると
さらにそれから10分遅れて同伴者登場。

おかげで、早めに入って行く人たちの観察?ができました。

車でそのまま入っていき、誘導に従って岸壁の柵沿いに駐車します。

ここで気がついたのですが、江田島で見送り神戸で出迎えた
「やまゆき」がいません。
改めて招待状を見ると練習艦隊は「かしま」と「いかづち」だけとありました。

「やまゆき」がいつから、なぜいなくなったのかわかりませんが、
大阪と神戸のレセプションで「やまゆき」艦長と話した限りでは、
遠洋航海に参加しないとはおっしゃっていなかったので不思議です。

 

練習艦隊は最近二隻艦隊が基本になっているようです。

帝国海軍の昔は基本三隻でしたし、自衛隊でも2002年から2016年まで
三隻編隊だったのですが、ここ3年二隻編成が続いています。

さらにwikiをみると、海上自衛隊開隊以来、1969年まではずっと
四隻で艦隊を組んで遠洋航海を行なっていたことがわかりました。

ちなみに最初の練習艦隊の陣容は、

「はるかぜ」「くす」「すぎ」「かや」

というものです。
幸運艦にちなんだ海自最初の駆逐艦を旗艦に、残る三隻は

「オグデン」「コロナド」「サンペドロ」

というアメリカから貸与された艦でした。

この時一気に貸与されたタコマ級哨戒フリゲート18隻にはなぜか
「くす」型として、全部木の名前が与えられています。

なぜ終戦直前濫造された「雑木林駆逐艦」こと
「松・橘」型の命名基準を用いたかが大いに気になります(笑)

まだ受付時間にはなっていないはずですが、もう人が入り始めています。

「かしま」の隣に係留されていたのは「たかなみ」でした。

「たかなみ」は東日本大震災の時もここ横須賀地方総監部にあって、
地震発生の報を受けるや海上自衛隊の先陣として東北沖へ急派され、翌12日、
宮城県石巻港近くの岸壁に孤立していた幼稚園児11人を含む135人を救助しました。

これを「レスキュー フロム ザ・シーの実践だった」というのは、
「たかなみ」艦長、米丸祥一二佐(当時)です。

レスキュー・フロム・ザ・シーとは文字通り海からの救出で、
元々は阪神大震災の教訓を元に、
第2護衛隊群司令部が作成したマニュアルに書かれています。

「たかなみ」艦長米丸二佐インタービュー


そういえば、この艦上レセプション会場で、東日本大震災のとき
横須賀地方総監として災害対応指揮を執った元海将にお会いしましたが、
総監としてのご自身と海上自衛隊の活動記録を書いたご著書には

「FROM THE SEA」

というサブタイトルが付いていたのを今更のように思い出しました。

前回ここに来た時には向こうの岸壁で「いかづち」の帰国を迎えたのでした。
今そこには「てるづき」など護衛艦の姿が見えます。

 

ちなみに今見えている左舷の錨が、江田島出航の時に泥に取られ、
艦長の判断で前進と後進をかけて引き揚げられたという、あれです。

この後のパーティで「かしま」に乗っていた幹部と話したところ、
舷側に立って今か今かと待つもフネが全く動こうとしないので、
おかしいなと思っていたら、艦内に入れという号令がかかったとか。

錨鎖が切れて飛ぶ可能性を考慮して甲板から避難させたのでした。

おっと、艦体に傷が付いてますが、これは出航までに塗り直しますか?

「かしま」舷門では、乗員が敬礼で一人一人をお出迎え。
看板の後ろにおられるのが「かしま」艦長高梨一佐です。

それにしても、この舷門に立つ自衛官の表情をご覧ください。

写真というのは不思議なもので、時として取り繕った本心を
見事なくらい露わにしてしまうことがあるものですが、
この写真からは、決して単なる儀礼やマニュアルからではない、
誠実かつ温かいホスピタリティの気持ちが感じられます。

一般人にとって自衛官に敬礼されながら軍艦に乗艦するというのは、
個人差こそあれ、多少の緊張を感じる一瞬だと思いますが、
こういう時の自衛官は、こちらに威圧感を感じさせまいとしているようです。

さて、入場するとやっぱりまず、お料理に目が行きます。
横須賀のスイカカーヴィングは、もうインスタに出回っているでしょう。

年号が令和に変わって初めての艦上レセプション。
というわけで字体も麗しい「令和」に鶴亀をあしらったデザイン。
「かしま」のスイカカーヴィング小隊放つ渾身の作品です。

神戸の艦上レセプションが割と最近だったので記憶に新しいのですが、
比べると気のせいかこちらの方が豪華なような・・・。

ご参考までにこちらが関西での同じ「かしま」メインテーブル。

何が大きく違うかというともう一目瞭然ですね(笑)
スイカにもギリギリまでカバーがかかっているので、どんな飾りか
乾杯の瞬間までわからなかったという・・・。

なんどもしつこいですが、初めての方のために書いておくと、
関西ではこうしておかないと皆乾杯前に食べ始めてしまうのです。

まさか「まだ食べないでください」と注意するわけにもいかないし、
自衛隊としては「オペレーション・ラップ」発動もやむなしだったと。

去年の練習艦隊司令官が奇しくも言ったという

「大阪では笑いを、マナーは東京で学ばせます」

が、この対応の違いに一部具現化されているというわけです。

関西では見なかった小さな番傘が可愛いですね。

これら和菓子も「かしま」キッチンで作るのでしょうか。
両レセプションを通じて食べなかったのでお味にはコメントできませんが、
和菓子店で売っているのと全く遜色ないこの美しさに感嘆します。

陸空の養食はもちろん、海自でも、和菓子が作れる職人が乗っているのは
「かしま」「はしだて」を置いて他にないかもしれません。

魚の口が爪楊枝で大きく空けられております。
この後の艦隊司令挨拶で、

「かしまの料理は世界中でいつも大変楽しみにされている」

と梶元海将補がおっしゃっていたように、かしまの料理がワールドワイドで
絶賛されていることはさておき、海外ではこの演出、(魚の頭を飾る)
同じようにするのかどうかものすごく気になります。

魚の眼が怖いどころか、刺身すら苦手(寿司はOKらしい)なのは、
我々が、子豚の丸焼きがリンゴを咥えているのを見るような感じ?
外国の方々との感覚の相違は埋めがたいものがあると思うのですが・・。

練習艦隊経験者に聞いてみたいことの一つです。

会場に人が増えてきました。
今回、練習艦隊は晴海に寄らなかったので、例年晴海と横須賀で一回ずつ催す
レセプションもこの日の一回だけになり、その分招待客も多かったと思われます。

横須賀地方隊の招待だけでなく、海幕の招待客、市ヶ谷勤務の自衛官、
元将官、政治家などが一堂に会するレセプションとなるので、
客層が関西と違うのは、当然といえば当然でしょうか。

会場のあちらこちらでは挨拶が始まり、名刺が飛び交っております。


そんな中、料理の写真を撮っていたら、新任少尉が声をかけてきました。

関西での艦上レセプションでも思ったのですが、今年の訓練幹部は、
一切飲み食いせず、来客に積極的に話しかけてきて、
パーティにおけるホスト役を積極的に勤めようとする姿勢が目立ちました。

何年かに亘って艦上レセプションに出ていますが、新任幹部が集まって
雑談していたりが目立つ年もないではなかったので、おそらく今年は
接客と社交について特に指導があったのかもしれません。

最初にお話しした幹部は「かしま」乗組で出港時トラブルの体験組。
水上艦艇志望ということでしたが、

「航空と潜水艦の適正もあるらしいのでまだどうなるかわかりません」

航空と潜水艦は身体条件が特殊なので、志望しても弾かれることが多いそうですが、
逆に、特にこの二つを志望していなくとも適正があれば候補に残ることもあるようです。

まだ誰も手に取っていない、おなじみ練習艦隊紙パック酒。
わたしはこうやって写真を撮っただけでしたが、レセプションが終わったら
TOがいつの間にかパックを3つゲットしてきていました。

「お酒飲まないのに・・・」

わたしがいうと、

「でも料理に使えるし・・・・それに」

「こんなのもあったから。写真撮るでしょ」

撮るよ。撮りますとも(笑)

かつて練習艦隊の遠洋航海に積んでいく変質しない酒を
海軍に納入していた三宅酒造さん、今年は遠洋航海に
ある意味これほど日本らしいデザインはないかもしれない、
アニメ風女性自衛官イラスト付きカップ酒で、攻めの姿勢です。

 

続く。

 

 

 


"唇(リップ)が滑れば鑑(シップ)が沈む"〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2019-05-13 | アメリカ

 メア・アイランド海軍工廠の博物館は、
昔造船所だった頃の建物がそのまま使われています。

If you don't want to wear your goggles

pick out your glass eyes

while you can still see them

標語です。

「もしあなたがゴーグルをつけるのが嫌だったら、
まだその目が見えるうちに義眼を選んでおきなさい」

義眼のことは英語でオーキュラー・プロテーゼといいますが、
ガラスでできているため俗にグラス・アイズといいます。

ゴーグルをつけましょう、というよりインパクトがあって、
誰でもははー、と言いつけを守ること請け合いです。

真ん中に書かれている目玉は、義眼ってことなんですね。

メア・アイランドにあったナース・コーア、看護師部隊の募集ポスターは
二度目になりますがあげておきます。

応募は地元の赤十字で行なっています、と書かれています。

これも2回目ですが、1900年ごろの水兵募集ポスター。
昇進により増給アリ、みたいなことが岸壁に書いてあります。
月17ドルから77ドルまで支給、食費住居費医療費、
最初の制服だけ無料、とあります。

最初・・・ということは二着目からは自費ってことですね。

時々字が裏返っていて(RとN)、どうもこれがアメリカ人の考えるところの
「ロシア語っぽい」書き方らしいです。

ここにあるのでてっきり映画のポスター風標語かと思ったら、
本当にこんな映画があったんでした。

「これが(世界を死ぬほど笑わせた)筋書きだ!」(アオリ)

として、映画のタイトルは

”THE RUSSIANS ARE COMING, THE RUSSIANS ARE COMING"

”ロシア人がやってくる、ロシア人がやってくる”

The Russians Are Coming, The Russians Are Coming Movie Trailer

日本でも公開されていたらしく「アメリカ上陸作戦」という邦題がついていました。
アメリカのグロスター(東海岸)島にある日流れ着いてしまったロシアの潜水艦。

ロシア人が攻めて来たとの噂があっという間に広まり、島中が大パニック。
乗組員たちは半ば暴徒と化した島民に追い詰められて港の建物に立てこもり、
潜水艦も浮上して一触即発、ロシア潜水艦の乗員が島の子供を助けたことで
どちらもがホッとして戦いを止めようとしたところ、誰かが通報したため
空軍がやってきてしまいます。

さて、ロシア潜水艦と島民の運命やいかに。

Russian Submarines Beware

なぜこのポスターがここにあるのかわかりませんが、撮影は西海岸だったそうなので、
メア・アイランドが何か関係していたのかもしれません。

冷戦真っ最中のアメリカで、ロシア人が映画でどう扱われていたのか、
ちょっと興味がありますが、DVDは出ていないようです。

なぜ中国語のポスター(笑)

簡体字なので想像するしかないですが、普段の訓練が侵略戦争の備えになる的な?

全員顔が濃い(笑)
中国人の理想とする顔貌というのがだいたいこれでわかりますね。
若い頃の毛沢東は中国人にとってのハンサム、
北朝鮮の人の理想は若い頃の金日成だったと聞いたことがありますが。

こちらは何かの百周年で、労働階級の支配する政治万歳、
のような気がします。(適当)

"上に上がって手を洗っていらっしゃい!”

マッカーシズムというのはマッカーシー上院議員の告発をきっかけに始まった
いわゆる「赤狩り」ですが、これに批判的だった女性議員、
マーガレット・チェース・スミスが、マッカーシズムという汚い泥を
家(議会)に持ち込んだ ゾウを叱り付けています。

なぜゾウなのかというと、この「マッカーシズム」という言葉が
生まれたのが、この漫画が最初だったから。

曲芸のゾウを「重ねた赤いペンキ缶」の上に立たせようとする議員、
ゾウは嫌がって「ここに立てっていうの?」


これもマッカーシズム批判の戯画のようです。
赤いペンキ缶を持ち刷毛を振り回して人を追いかけているのがマッカーシー、
後ろに立っている人の看板には

「フランコとチャンのためじゃないならお前は非国民だ」

真ん中の女性は嘆願書に署名してもらおうとしていますが、
人々は怖がって逃げているという・・・。

「私はFBIのコミュニストだった」

フランク・ラブジョイ主演、1951年の映画です。
FBIに所属する主人公が共産党本部に入り込み、スパイを行なっていた、
つまり当局に共産との情報を報告していたという話ですが、
これは実際にあったことだそうで、ある手記を基にしています。

赤狩りについては、例えば映画界でも告発された方、した方と真っ二つで、
調べられた俳優にチャップリン、ウィリアム・ワイラーなど。
反対運動をしたのは

グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、
ハンフリー・ボガート、ダニー・ケイ、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、
ベニー・グッドマン、キャサリン・ヘプバーン、フランク・シナトラ

で、逆に告発者側となったのは

ロナルド・レーガン、ウォルト・ディズニー、ゲイリー・クーパー、
ロバート・テイラー、エリア・カザン

など。

こういうのを見ても、どちらが正しく、どちらが間違っていた、などとは
後世になっても誰に判定することもできない気がします。

日本でも昔人気のあった女優さんが自称リベラルにまつりあげられていますが、
その年代の人って、この時代の「反マッカーシズム」は表現者としての使命、
と捉えてそれに乗っかることをよしとしているような・・。

今回の「空母いぶき」の佐藤浩市さんのあれも、本人がというより
どこかからそうするように依頼なり意向があったんじゃないのかな。

映画関係者は昔から反体制左翼が伝統的に多いんですよね。

最近、国の助成金で映画を作っておいて、その映画がなにやら賞を取ったら
国からの祝意を辞退したい、と言い放った監督がいましたが、あれもそんな感じ。

公権力と距離を保ちたいなら最初から助成金を断るべきだったよね。

水爆実験の時らしく、キノコ雲の根元に艦船の影が見えていますね。
なんでこんな不穏な画像を使うの?

まず、「それはここでも起こりうる」して。
「自警団(だと思う)に加わりましょう」と言うお誘い。

ニュージャージーのニュー・ブルンスウィックと言う街の自警団らしく、
ジェイズドラッグストア、マジェスティックベーカリー、メイドウェル家具店、
写真現像店、不動産屋、宝石店、ホテル兼レストラン・・。

つまり、街のお店が協賛しているというわけですが、
それにしても大層な・・・・。

自警って具体的に何をするのかというと、つまりこの流れで言うと、
赤い人を告発しましょう、ってことなんだと思います。

こえー(笑)

ここで時代は少し巻き戻り、戦時中のポスターを。

A slip of the lip can sink ship

「唇から漏れた一言がフネを沈めることもある」

向こうで真っ赤に炎上しつつ沈みゆく船、そして乗員は悲壮な顔つきで
(まあそうなるでしょう)助けの手を求めています。

その下には、

「部隊の移動、船の航路、武器などについて会話しないでください」

とあります。
真珠湾後作られた映画でも、日系人やドイツ人が会話に耳をすませている、
と啓蒙するためのシーンが描かれていましたね。

Loose Lips Might Sink Ships

その一言がフネを沈める

「このポスターは国家の勝利に寄与するための役割を担って、
シーグラム株式会社が作成いたしました」

企業がこんな啓蒙ポスターを作っていたんですね。
シーグラムは2000年にコカコーラに買収された飲料会社です。

アンクル・サム(アメリカ合衆国の擬人化)が、造船所の
工員たちにシルバーのお皿を運んでいる絵。

ジョージ・ミラーと言うのはカリフォルニア下院議員で、
民主党の議員です。


自由でない社会の自由メディア(Free media in unfree societies)

を標語に、アメリカ合衆国議会の出資で運営されていたラジオ。
現在でも放送は毎週1,000時間以上、28の言語で、短波、AM、FMおよび
インターネットによって行われています。
公式の任務は、

「事実の情報と思想を広めることにより、民主的な価値と制度を促進する」


「真実の」になっていないところがまともな気がします。
「真実」ではなく「事実」を伝えて欲しいですよね、日本のオールドメディアも。

こいつら、フェイクニュースを作り出すだけでなく、自分たちに都合の悪いことは
報道しない自由を行使して伝えないばかりか、例えばアリバイ作りのための記事に対しては
卑怯にも検索されないように検索回避タグを記事に埋め込んでましたからね。
事実を報じず真実を封じる、こんな団体を報道機関と呼ぶのか?って話ですよ。

アメリカも含め、今世界的に旧態メディアの劣化が極地に来ていると感じます。


「彼女に真実を聞かせずに育てないで」

ラジオ・フリー・ヨーロッパのポスターです。
あれ?こっちは「真実」か・・・・。

それでは聞きたい。
真実ってなんですか?

 

 

 


レギュラス・ミサイル搭載艦「グレイバック」と「ハリバット」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2019-05-12 | 軍艦

メア・アイランド海軍工廠博物館の展示から、潜水艦関係を紹介します。 

わたしが2年ほど前に見学したコネチカット州のグロトンが

「潜水艦のふるさと」

 

ということになっているのですが、ここメア・アイランドでもかなりの数の
潜水艦を建造しています。
というか、第二次世界大戦が始まってからは、潜水艦と潜水母艦しか
作っていなかった、といった方が正しいかもしれません。

それでなく、現役だった潜水艦の機能停止する作業もここで行われ、
例えばこれもわたしが見学したことがある史上初の原子力潜水艦
「ノーチラス」は、1980年ここでディコミッション(廃止)後、
コネチカットまで曳航され、グロトンで展示されているのです。

それにしてもサンフランシスコからコネチカットまでどこを通って・・・?
どう考えても西海岸を南下してパナマ運河しかないのですが・・・。

とにかく、メア・アイランドで建造されたディーゼル式潜水艦は27隻、
潜水母艦は4隻。
原子力潜水艦は1957年就役の「サーゴ」SSN583を最初に、
18隻を建造しています。(そのうち一隻は潜水艇『トリエステII』

ここになぜか?メア・アイランドで廃止された「ノーチラス」(奥)と、
ここで最初に建造された原潜「サーゴ」の模型が一緒に並んでいます。

 

1950年代というのは、ディーゼルエンジンの潜水艦と、
原子力潜水艦の過渡期で、どちらもが同じ海軍で運用されていた時代です。

この時代からしばらくは、原潜とディーゼルボートの乗組員たちの間で
不毛な(しかし過渡期にはありがちな)対立が起こり、

「ディーゼルボート・フォーエバー」

なんてバッジが生まれたりしたということを書いたことがあります。

ですから、同じ新式のミサイルを、ディーゼルと原子力エンジン、
どちらの潜水艦もが搭載する、というようなことも起こったのです。

ニューヨークの「イントレピッド」博物館で、「グラウラー」という
ディーゼルエンジンの潜水艦を見学し、お話ししたことがあるのを
覚えておられる方もおられるかもしれません。

あの「グラウラー」が背中に積んでいた面妖なミサイル、あれを

レギュラス・ミサイル(Regulus )

といいましたね。
この写真の、潜水艦「グレイバック」 SSG574の甲板に見えているのがそうです。

そもそも「グレイバック」のSSGとは何を意味するかというと、

SSは「Submarine Ship」、Gは「Guided」

巡航ミサイル潜水艦(Cruise Missile Submarine)

で、つまりレギュラスミサイルという艦対地ミサイルを積み、
攻撃することを任務とする、ということでした。

このレギュラスミサイルについては「グラウラー」で述べましたが、
もう一度説明しておくと、あの!クルセイダーを生んだヴォート社が手掛けたもので、
ギュラスとは獅子座のα星の名前から取られました。

核弾頭を搭載し、二基の固体燃料ロケットブースターで発射され、
アリソンJ33ターボジェットエンジンによって飛行するミサイルです。

「グレイバック」は、史上初めて艦対地ミサイルを搭載した
歴史的なディーゼルエンジン潜水艦となりました。

ここには「グレイバック」の巨大な模型と、華々しい引き渡し式、

建造を手掛けた工廠ならではの工事中の写真などが飾ってあります。

この二つの円筒がどうなったかというと・・・、

この、艦首側の球二つですよ。
愛嬌があるというかなんというか。

「グレイバック」級2番艦だった「グラウラー」は、展示に際して
この部分から球をなくし出入り口にしてしまっていました。
うーん、こんなところから出入りしていたのかわたしは。

もっと変な写真をどうぞ。なぜ赤い。
それと、なんだかセイルが高くなってね?

と思ったのですが、ベトナム戦争に投入し、捕虜を救出するための
水陸両用潜水艦なるものにジョブチェンジしようとしたようです。

の変な二つの球は、レギュラスミサイル発射に必要だった、
というのはこれを見るとなんとなく分かりますが・・・。

どうもよくわからないのよね。この球の役割が。
レギュラスミサイルが海面に浮上しないと撃てない、ということと
関係ある、つまりミサイル誘導のためのものだと思うのですが。

どなたかこの球二つの役目をご存知だったら教えてください。

「グレイバック」の盾やハガキが飾られています。

ところで「グレイバック」ってコクチマスという魚のことらしいのですが、
なんか乗組員は勝手にクジラっぽいものを想像していたようですね?

マスとくじらじゃ全く別の生き物なんだが。 

「?????」

この「グレイバック」のハッチカバーの前に立った時、

MALE DIE (男性死亡)

の文字に首をひねりました。

現地にはなんの説明もないので、家に帰ってからしらべてみると、
「グレイバック」は、1982年1月、フィリピンのスービック湾で
潜水訓練をしていた士官一人、兵4人の「フロッグメン」が、
「グレイバック」に戻るためにチェンバーの中で待っていたところ、
酸素が供給されずに意識を失い、排水仕切っていないチャンバー内で
昏倒し、溺れて死亡した、という新聞記事が出てきました。

一人のダイバーは、たまたまバルブに腕をかけていて、
水の中に倒れずに済んだため、彼だけが生き残りました。

死亡事故といえば、これだけのようですが、ハッチカバーがなぜ
ここにあり、このような文字が書かれているのかは分かりませんでした。

さて、

「レギュラスミサイルはディーゼル潜水艦と原潜、
どちらにも搭載されることになった」

と書いたわけですが、その最初でかつ史上唯一のレギュラスミサイル搭載原潜が

USS「ハリバット」 SSGN/SSN-587

でした。
から2番目の写真は、

「キャプテンブルースは110本ほどのハリバットを釣りました」

というなんじゃそりゃあ、なお手紙だったりします。
そして、一番左には、

「ハリバット、シーウルフ、パーチェ、リチャード・C・ウルフは
海軍から特別な任務を与えられたスパイ・サブマリンだった」

と書かれています。
これは後で説明しましょう。

「オヒョウ」を意味する「ハリバット」が就役したのは1960年。
レギュラスミサイルを搭載するためにデザインされた初めての原潜でした。

レギュラスミサイルは、艦体を浮上させなければ発射できません。
結局これが弱点となって、ポラリスミサイルに置き換わるのですが、
「ハリバット」はレギュラスミサイルを搭載するため、
喫水線が大変高いのが特徴です。


これを見ればよく分かりますね。
この写真は、「ハリバット」が行なった7回のミサイル実験のものでしょう。

左がレギュラス1、右が速度などを改善したレギュラス2の模型です。

上しなければ発射できず、スピードが遅いので撃墜されやすい、
という弱点を補うために2をせっかく作ったのに、
ポラリスミサイルと比べると陳腐化は明らかだったため、
レギュラスミサイルは「ハリバット」に搭載されたのを最後に姿を消しました。

「ハリバット」記念グッズの数々。
「グレイバック」が強面なのに比べて、口からレギュラスを吐き出す
ハリバットくん(ヒラメみたいな魚?)が可愛いっす。

左、「ハリバット」の「キール・レイイング」が行われている写真。
倉庫の屋根の上から見ている工事関係者、リラックスしてますねー。

右側は初代艦長の経歴など。

そしてこれが「ハリバット」の潜望鏡。
左のケースには気圧計や進水式で使われた槌などがあります。 

 「ハリバット」は、1965年にSNGから「Guided」のGを無くした
SSN(原子力潜水艦)に変更されました。

 そして、メア・アイランド海軍工廠でオーバーホールと改修を受け、
改修によって特殊任務艦として電子情報収集及び分析装置を多数搭載されました。

「スパイ・サブマリンになった」と書かれていたのはこのことです。

そしてその後真珠湾に戻り、太平洋艦隊及び第1潜水艦開発部隊に所属し、
1976年に退役するまで情報収集活動を続けていました。

アメリカが情報収集のための潜水艦を投入したのは、冷戦のためです。
「ハリバット」は、 

オペレーション「アイヴィー・ベル
(カムチャツカ半島からオホーツク海を経てソ連本国へつながる通信回線の盗聴)

CIAのプロジェクト・ジェニファー
(沈没したソ連潜水艦の引き上げの補助)

などを行いました。


ところで、レギュラス2は最初「ハリバット」に搭載するつもりでしたが、
ポラリスの方が優れているということになって1958年には廃止されています。

ということは、「ハリバット」は絶賛陳腐化決定のレギュラス1を
ずっと積んだまま哨戒を行なっていたということになるのですが、
それは「ハリバット」的には全く問題なかったんでしょうか。

最後に、この海軍工廠に残されていた、「ハリバット」の機関長だった人物の
感傷的なポエムをご紹介しましょう。


ハリバット 最後の航海

我々は家族も友人も置いてきた
太陽はゴールデンゲートに沈みつつある
自由と そして興奮の時間だ
今 ハリバットを最後の航海に出そう

その艦体は老いぼれ 装備はイカれ
彼女が最後にミサイルを放ったの遥か昔だ
六ヶ月をかけて我々は最後の準備をした
ハリバットは今最後の航海にでる用意が整った

海の上にいた九十二日間 なにが要求されたか
それらを全てやり遂げ 彼女は賞賛を受けた
今鐘が鳴る 歌が歌われる
ハリバットが最後の航海を行うこの時に

十六年の間 彼女は時として虐待された
出動に次ぐ出動に奔走させられた
彼女の乗組員がカリフォルニアの太陽を見ることは稀だった
そして今 彼らはハリバットに乗って最後の航海に出る

全てが終われば 我々は偉業を讃えてやろう
それをするのはただ 彼女の乗員だった栄誉ある者だけだ
長く 長く 航海を終える彼女のための鐘が鳴らされる
我々は忘れないだろう 彼女の最後の航海を

ワシントンはいう 彼女はもう歳だと
とても良い艦(ふね)だったのに 彼女の日はついに来なかった

装備はまだまだ現役で その外殻はまだまだ堅牢なのに

我々は彼女の最後の航海を この後もずっと覚えているだろう

ブレマートン(基地)で彼女は最後の年を過ごす
もし潜水艦が泣くことができるなら 彼女はきっと涙を流すだろう
だから最後に 精一杯楽しもうじゃないか
ハリバットと彼女の乗員たちの 最後の航海を

 

(´;ω;`)ブワッ

続く。