ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

板垣征四郎の武士道精神

2012-07-31 | 日本のこと

           


東京裁判が国際法上違法で、戦勝国の報復裁判であるということがこれだけ言われてきてもまだ、
「戦犯」という言葉を平気で自らの国に対して使う国があります。

裁判の最高責任者であったマッカーサー元帥が、昭和25年トルーマンとの会談で、

「東京裁判は誤りであった」

翌年には公聴会の正式な発言において

「日本が真珠湾攻撃を行ったのは、アメリカの仕掛けた罠にはめられたからだ」

こう述べて極東裁判の不当性を認めたにもかかわらず、いまだに「A級戦犯」などという、
便宜上ふり当てられた「国家指導者」をカテゴライズする意味の「A」を、「最悪の罪」と誤解し、
靖国に合祀されていることにすら異論を唱える戦死者遺族がいる国、それが日本です。

それが連合国の日本に与えたプログラムだったとは言え、東条英機始め国家指導者たちが
「悪人だったから死刑になった」と信じ切っている国民がいまだにいる、というのは、
健全な国家として重大な戦後の負の遺産だと思うのですが、その話はさておき。


このとき処刑になったうちの一人に板垣征四郎がいます。
満州事変当時、石原莞爾の上官で関東軍高級参謀でした。
いわば満州国の建国はこの二人によってなされたというべきなのですが、ここで少し余談を。

小沢征爾という日本が生んだ世界的指揮者をご存知ですね?

この小沢征爾の父は満州で歯科医をしていた人物ですが、政治活動をも熱心にしており、
自宅には日本と中国の政治関係者が多く訪れていました。
そのなかに、この板垣と石原がおり、誕生した息子に「征四郎」の「征」、「莞爾」の「爾」を
一字ずつ取って名付けました。
それがマエストロ小沢征爾の名前になったのですが、小沢氏は自分の息子に
「征悦」(ゆきよし)と付けたので、板垣の方の「征」だけが小沢家に残ったというわけです。


さて、今日はその板垣征四郎についてお話したいと思います。

日本がドイツと三国同盟以前の防共協定を結んでいた頃。
1933年に首相になったヒットラーは、ユダヤ人の排斥運動の声明を公に行います。
その迫害に難民の海外流出が懸念され、それについてアメリカが声をあげる形で、
パリで国際会議が開かれました。
議題は、ユダヤ人難民を受け入れるか否か。

しかし、当時の国際社会は全ての国が「受け入れの余地ながない」という理由でそれを拒否。
いい恰好して声をあげたアメリカですら、自国の議会においてそれを拒否したのでした(笑)

「受け入れてもいい」と言ったのは二国のみ。
ただしカナダは「収容能力に限界あり」(あの広い国土で・・・)
イギリスの如きは「植民地であるアフリカのギニアで農業してくれるならOK」(おい・・・)

その前年、我が日本では、五相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)において、
「ユダヤ人対策綱領」を決定していました。

これは、陸軍随一の国際通であった安江仙弘大佐が、「陸軍のシンドラー」としても有名な
樋口季一朗少将を補佐する形で推し進められました。

世界が受け入れを拒否したユダヤ人を、「八紘一宇の精神において受け入れる」
と表明したのは、つまり、世界でたった一つ、日本だけだったのです。
しかも、施策綱領には
「ユダヤ資本を迎合的に投下せしむるが如き態度は厳に之を抑止す」つまり、
ユダヤ人を人道的観点から保護するが、彼らの資産をあてにすることがあってはならない
というただし書きすらあるのです。

満州国の建国理念は「五族協和・王道楽土」でした。
天皇陛下の御心でもある「ユダヤ人保護」を決定したのは政府ですが、
この中で最もこの成立に熱心であったのが板垣征四郎であったと言われています。

日本は、三国同盟締結後のドイツの抗議すら毅然とはねつけ、亡命ユダヤ人を受け入れました。
(現在の日本政府の腰砕け外交ぶりからは信じられないこの強さ・・・・・)

戦前「人種平等案」を提案し、アメリカに退けられた日本。
統合し、あるいは植民地にした朝鮮、台湾の人民にも、教育を施し、インフラ整備をした
世界でも類を見ない宗主国だったのです。

板垣は、その後(昭和16年)朝鮮軍司令官になりますが、あるとき朝鮮の知識人に向かって
「朝鮮は近いうちに独立させなければならないね」
と語り、相手は唖然としたという話が残っています。


終戦間近、板垣はシンガポールの第7方面軍司令官に赴任しました。
そのころ、「阿波丸事件」が起こりました。
いまや一般には全く知られていませんが、アメリカの国際法違反事件、戦争犯罪の一つで、
緑十字をつけて運行していた阿波丸を、米軍潜水艦「クィーンフィッシュ」が魚雷攻撃、
沈没した阿波丸の乗客乗員は一人を除き2000人あまりが死亡したというものです。

もともと、阿波丸は、アメリカから依頼されて、
東南アジアに収監されているアメリカ人捕虜に届けるための慰問品を積んでいました。
阿波丸の付けていた緑十字は病院船の赤十字と共に、安導権(Safe-conduct)を意味し、
これを攻撃することは国際法違反であることは明確だったのですが、
そのアメリカ軍が何を思ったのか、自国捕虜への物資を海に沈めてしまったのです。

もしかしたら、馬鹿ですか?

まあ、この馬鹿艦長はその後軍法会議で有罪にはなっていますが、せいぜい「戒告処分」
で、この処分はあくまで物資を沈めたことに対する不注意を咎めたにすぎず、2千名の命を
一瞬にして海に葬ったことについての罪ではなかったようです。

(因みに、以前書いたことがありますが、中国で行方不明になってしまった
北京原人の頭がい骨が、この阿波丸で運ばれていたという説があります。
もし本当ならアメリカの犯した罪は一般人虐殺、物資の損失だけ留まらないということになります)

まさか緑十字が、しかもアメリカからの依頼で航行していた船が撃沈されたとは夢知らず、
日本軍は、当初必死で船の行方を捜しました。
かなり日数が経過してから事の次第が明らかになり、第7方面軍司令部は当然激昂しました。

会議の末、
「このような非人道的行為に対し報復するため、
捕虜に送られた慰問品を全て没収し、
海中に投棄して見せしめにすべし」
ということで衆議一決したのです。

当時板垣はここに赴任したばかりで、この決議の結果に裁可を下す立場でした。
しかし、この報告を聞いた板垣は、語気も鋭く、

「馬鹿もの!
敵の卑怯な振る舞いに対して、こちらが卑怯な態度で対応したら、
日本武士道の魂はどうなるのか。
捕虜の方々には丁重に慰問品をお配りせい!」

と一喝しました。
この一言に、興奮しきっていた一同ははっと目が覚めたように冷静さをを取り戻し、
戦地の異常な集団心理に突き動かされていたことを自省する機会を得たのです。

板垣征四郎がこれだけの人物なかりせば?

「アイヒマン実験」(特殊な状況下で人は良心より権威者の指示に従う、ということを、
被験者がダミーの高圧電流スイッチをを命令されて押すという方法で実験したもの)
に見るまでもなく、まず報復が諒となり、トップダウンでそのような行為が命令となり、
おそらく命じられた部下は嬉々として高圧電流のスイッチを押し続けた被験者のように、
嬉々として慰問品を海に捨てる行為に身を投じたことでしょう。

そしてもしそれが行われていたら、確実にそれは戦後、アメリカ側の行為の因果とは無関係の
「悪辣な戦争犯罪」として、何人かの命が戦犯裁判で失われるという悲劇を呼んだでしょう。

第二次世界大戦後、「命のビザ」の外交官杉原千畝、「陸軍のシンドラー」樋口季一郎
そして先ほどの安江仙弘は、イスラエル建国功労者の名簿である「ゴールデン・ブック」
その名を刻まれています。

板垣征四郎。
ユダヤ人たちに救いの手を差し伸べた一人でありながら、杉原たちのように顕彰されることもなく、
ただ「A級戦犯」としてその名を呼ばれるこの人物が、人の道を重んじ、
「ユニバーサルブラザーフッド」を願い、そして何よりも
日本の武士道精神の継承者であったことを知る日本人がどれだけいるでしょうか。



*おまけ*



閣議の席で米内光政海相と雑談する板垣征四郎
盛岡一中の先輩(米内)後輩で、ウマが合い、仲がよかったそうです。
そういえば、今も残る盛岡一中の校歌は「軍艦」のメロディを使用していましたね。
(当ブログ『笑ってはいけない行進曲軍艦』参照)






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「カリフォルニアの青い空」

2012-07-30 | アメリカ


朝、前を走っていた車のリアウィンドウがお茶目なので撮ってみました。



この「クールキャッツ&ホットドッグス」は、ペットの出張トリミング会社。
日本でもあれば流行りそうですが、自宅に来て犬や猫のお手入れをしてくれる業者のようです。
これを見て息子と喜んでいたら、この日の午後、全く別の地域の住宅前この車が停まっていました。

アメリカは前にも少し書いた「散歩屋さん」をはじめ「犬猫商売」もなかなかさかんらしく、
ボストンでは大きなビルディングが「プーチ・ホテル」という(おそらく)ペットホテルになっていましたし、
今住んでいるホテルの隣には動物病院があります。



無茶苦茶大きくて、日本のちょっとした個人病院なんかよりずっと立派です。
あの「アドビ」がやっています。
社員からの要請が多かったんでしょうか。

夫婦でアドビ社員という知り合いがいます。
サンフランシスコの超一流ホテルのレジデンスを、インテリアコーディネーターにデコレートさせて、
ホテルと兼用のバレー(配車係)付き駐車場を使用。
入り口には、これも勿論ホテルと兼用のドアマン付きの住宅です。
この二人だけ見ると、まったくそういう「富裕層」に見えない、というのが実にアメリカ的ですが。
この地域はシリコンバレーと言われるIT地帯で、近隣にはアドビは勿論、アップル本社もあります。


さて、この辺のお天気について少し。
ここはパロアルトという一帯ですが、サンフランシスコに住んでいた頃、
知り合いが住んでいたので遊びに来たっきりで、もちろん長期滞在は初めて。
普通に夏は暑いです。

そして、サンフランシスコの夏と同じく、雨が降りません。

「♪イッネーバーレインジンキャールフォーニャー♪」

という歌がありますね。
「雨が降らないなんて、世の中に砂漠以外でそんな場所があるか」
とかねがね思っていたのですが、本当に、雨、降らないんですよ。カリフォルニアって。


そもそもサンフランシスコという土地は西海岸と言っても特殊な地勢のため、天候も特殊です。
マーク・トウェインの言うところの

The coldest winter I ever spent was a summer in San Francisco.
(わたしの過ごした最も寒い冬はサンフランシスコの夏だった)

というのに端的に表わされています。
勿論実際は冬ほどは寒くありませんが、皆あまりの予期せぬ夏の寒さについ驚いてしまうのです。
わたしとて、何年も夏を過ごしていながら、暑い日本やボストンにいるとその寒さをいつも忘れ、
行くたびに「やっぱり寒い」と皮ジャケットにブーツなど慌てて買いに行くという始末ですから。

しかし、サンフランシスコからわずか30分も南に下ると、取りあえずは夏らしい夏を過ごせる、
それがここパロ・アルト、スタンフォード地域。

外を歩くのが辛いほど暑い昼間、しかし太陽が傾いたとたん、冷風が吹き始め、夜は寒いです。

 

因みにこれが夜8時の映像。
日没は8時半ごろでしょうか。

ところで、今住んでいるホテルを少しご紹介。

 

ここはレジデンス・イン・マリオットで、ボストンのと全く同じ系列です。
ソファはベッドになる2ルームで、キッチン付き。

 

飾られている額がピアノとストリングス。
ホテルカラーのクリムゾン・レッドに、統一感があって落ち着きます。



エントランスのわきにはこのような「なんちゃって獅子おどし」が。
なんとなくジャパネスク?
竹風の筒からちょろちょろと水が出ています。



朝ご飯は勿論毎日、月曜から木曜日までは「ハッピーアワー」と言って、6時から8時までの間
サラダと軽い一品(ハンバーガーやタコスなど)、果物やクッキーが出ます。
ボストンでは諸事情により廃止になってしまいましたが、ここでは健在。
夏休みで、この辺のキャンプに子供が参加する家庭が泊るのか、連日満室御礼状態です。

それにしても、中国人の多さよ・・・・。

彼らを見てつくづく思うのだけど、「センスはお金じゃ買えない」。
富裕層らしく、例えば奥様がことごとくブランド品を身につけているのですが、
センスで選んでいるのではなく、「取りあえずお金を出せばいいに違いない」という感じで、
一言で言うと「頑張り過ぎ」。
正直あんまり「イケてない」わけです。

誰が見てもどこのブランドのかわかってしまう、例えばフェンディのロゴが一面に入ったシャツに、
ヴィトンのモノグラムなんか持ってしまったりするんですよ。
つくづく、オシャレとか粋とかって、「これ見よがし」とは対極にあるのだなあと思った次第です。
失礼ついでに「文化発展途上国」という言葉がつい浮かんでしまいました。

ファッションで思い出したのでもう一つ。
ときどき、「日本で、一体いつこういう服を着るのだろう」ってアイテム、ありますよね。
袖なしのカシミヤセーターとか、半袖のニット。
日本の夏は蒸し暑くて、いくら半袖でもニットやセーターなんか着れたものではありません。

「春先に上にコートを引っ掛ければ着られるかな」
と考え、ボストンでいつも訪れるブティックのカシミヤ半袖ツインセットを買いました。
アメリカで着る機会は無いと思っていたのですが、ここに来てみて、役立つこと役立つこと。
こういうアイテムは湿度の低い夏に着るべきものであることを納得しました。

湿度が高いというのは女性の肌にとって恩恵らしく、日本女性の肌がきれいなのもこのせい、
と言われていますから、必ずしも多湿は悪いことではないと思いますが・・・。

 

なぜかアメリカで人気者、ドーモくん。
左は買い物に行ったファッションストアのレジにあったもの、
右は息子のキャンプの教室の壁に貼られていたもの。



街角で見つけた銅像。

「石にされる魔法がとけたと思って皆で喜んでいたら、また石にされた」

というネタ画像そのまま。






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「ながせばはないことながら」~海兵67期の青春

2012-07-29 | 海軍

  

記事が書きたくてアップする項と、絵が描きたくてアップする項があります。
そして今日はお分かりのように後者です。

この笹井醇一少尉の写真は、ブログ開設間もないころ、
鉛筆で画像を作成していた頃に一度描いています。

描きながらそのとき、おそろしく綺麗な眼をしたひとだなあ、と思ったのですが、
今回この画像を描いているときもそのときの感激を思い出しました。
このブログはもともと、というか当初、笹井中尉のことが書きたくて始めたようなものなんですよね。
始めてみれば他に書きたいことが多すぎて、特に最近すっかり忘れていましたが(笑)

今日は、笹井中尉のいた海軍兵学校67期が、どのような少尉生活、
主に航空学生生活を送ったかをお送りしましょう。

兵学校生活について書かれた本には、いかに戦争中の、しかも軍人であっても、
青春を謳歌する溌剌とした様子、「箸が転げても可笑しい」といった風の若者らしい明朗さ、
そして時には、自分がどう見えるかを気にする「お年頃の男の子」ぶりがうかがえて、
なかなか微笑ましいのですが、たとえば。

兵学校の最初の夏休み。
純白の白い第二種軍装、腰に短剣姿で颯爽と帰郷することになるわけです。
「海軍兵学校に入って本当に良かった」と、彼らは入校以来おそらく初めて実感したでしょう。

兵学校生徒の短ジャケットと錨のマークは、世間の、特に女性の憧れの的でした。
帰郷途中にすれ違う人々は、ほぼ例外なく彼らの凛凛しい生徒姿に目を留め、
はっきりとした羨望や憧憬の様子を浮かべるのですから。
これが、青年たちにとって晴れがましく誇らしい瞬間でなくて、なんでしょうか。

これを、67期のある生徒は
「エリート的な気分に浸った一カ月」
と称しています。
しかし、浮かれまくって、「休暇日誌の記載を慌ててしたが、不完全なままで列車に乗り込む」
こういうところは、エリートというより、夏休みの子供です。

そして、冬休みの帰郷をするときは「ネイビーブルーの外套と白手袋」を着用します。
このマントも、本当に素敵ですよね。

先日、知覧の特攻平和記念館の一室に、旧軍の軍服がずらりと飾ってありました。
エリス中尉の近くで、数人のグループが見学していましたが、その中の最も年配のおばあちゃまが

「これこれ!このマントがねえ!これきてる人が素敵でね~!」

と、海軍外套の前で立ち止まって、うっとりと呟きました。

わかる!わかるわおばあちゃん。もっとその話聴きたい!
と思いながら耳をダンボにしていたのに、彼女の連れ(戦後世代)が
「へえー」の一言で話を終わらせてしまったので、そこまででしたが。
皆さん・・・・もうちょっと、お年寄りの話に耳を傾けましょうよ・・。

「あの外套と白手袋が、故郷の人たちに、また若い男女に印象的だったらしい」

非常に人事のような、恬淡とした書きぶりですが、実は、

「特に女学生に憧れの眼差しで見つめられてしまうこと多数で、実に誇らしかった」

というのが実際ではなかったかと、僭越ながら勝手に解釈してみました。

因みに、白手袋は海軍士官のトレードマークでしたが、都会出身のスマートを自認する生徒は
「いつでも白手袋をしているのは地方出身者(田舎者)」などと言っていたようです。(某海軍士官談)
何が粋なのか、って、どのあたりで決まるんでしょうね。

因みに笹井中尉は都心も都心、東京の青山生まれ。
現在プラダ始め、ブランドショップがずらりと並ぶ南青山の青南小学校卒です。
ちなみに、学校の向かいにあるのはヨウジ・ヤマモトです。(どうでもいいけど)

この後兵学校卒業、艦隊乗り組み、そして少尉候補生からめでたく少尉任官と相成るのですが、
この笹井少尉の写真は、少尉任官記念に撮られたものであろうと思われます。

さて、少尉任官と言えば!
そう、レス(料亭)への出入りと、エスプレイ(芸者遊び)が許されるのです。

「任官祝いには母港で初めてレスの酒を味わい、エス(芸者)なる者の存在に、
目の前に花が咲いた思いをするなど、生まれて初めての経験を」

遊び堂々解禁の、ヤング・オフィサーにとって最も楽しい季節が始まるわけです。
そして、笹井中尉67期の場合は、任官から半年後の昭和15年11月に、飛行学生となります。

勿論、訓練は厳しいのですが、給料をもらいながら飛行機の勉強をする毎日。
責任ある配置でもないし、なんといっても独身ですから、俸給と航空加棒は使い放題。
三人部屋の個室には従兵がつき、週末は東京その他へ外泊も自由です。

そして何より、
「シナ事変その他で海軍航空隊の盛名愈々高く、
我々のモテ方はご想像に任せよう」

ちょっと言ってみました風ですが、これもきっと、控えめに言っているに違いありません。
ただでさえモテる海軍士官、さらにモテたのが飛行機乗りと言われているではありませんか。
モテの相乗効果でMMKです。

しかし、モテて遊んでいるばかりが航空士官ではありません。
この間も、着々と訓練は進みますが、楽なことばかりでは勿論無いのです。

例えば筑波颪の吹きすさぶ寒さの中。
飛行機を手入れするときは、揮発油でまるで手が切れそうな辛い思いをします。
あるいは初めての単独飛行、皆が最初のそのときは解放感に両手を離して万歳したり、
大声でわけのわからないことをわめいてみたりするのですが、わめいているうちに、
筑波山ヨーソロで飛んでいるつもりが、よく見たら富士山だったなどという失敗も多数。

肥田大尉の後ろの偵察専攻学生が飛行中「肥田、ここはどこだ」とのたまい、
「バカッ!貴様が偵察ではないか」と喧嘩した話も、この頃の出来事です。



そしていよいよ卒業飛行は、赤トンボの「全員による大編隊飛行訓練」です。
それが終われば機種決定となるわけで、戦闘機志望の多い飛行学生は悲喜こもごもで
この結果を聞きます。

「数十機を撃墜してエースの名に輝き、ガ島上空に散った笹井が
機種決定の日に小躍りして喜んだ姿が今も眼に浮かんでくる」

筆者(同級生だった田中一郎氏)は、そのときの様子をこう書き記しています。
そして、このようにも。

「今思い出しても、一生にあんなに楽しい生活はなかった」

目の前に迫る戦雲、時局の不穏さは、少尉の彼らにもじゅうぶん察せられたでしょうが、
そういった「戦いの秋」を控え、真剣な訓練に励みながらも、彼らは若者らしく、
「酒保のうどん屋のナイス(美人)に、学生舎までうどんを運ばせる秘訣」や
「霞ヶ浦のカモを飛行機の脚の張線に引っ掛けて取る方法」や、
「利根川の鉄橋の下を中錬で通れるか」
などといった問題について、真剣に?討論したりしていました。

「不安定な赤トンボで高高度の宙返りができるかどうか」が討論されたとき、笹井少尉一人が
クラスでたった一人、できる!と言い張り、クラス全員と五銭の賭けをして見事成功したものの
教官には油をしぼられた、という「宙返り事件」も、この頃のことです。

クラスの誰かが「ながせばはないことながら・・」と失言するや、
それが瞬く間に流行語になったりするようないかにも伸び伸びとした日々、
それが六七期飛行学生の送った少尉生活でした。


飛行機乗りは戦死や事故による殉職が特に多い配置です。
67期の飛行学生には、プロペラに頭を刎ねられ死亡した者が一名います。

そして開戦するや、笹井中尉のいた三十五期戦闘機班は全員が戦死、
艦攻乗りの肥田真幸大尉のいた陸上機班も、45名中40名が戦死しています。



しかし、このような青春を思う存分満喫する時間が、若い彼らにあったのです。
平和の時代に歳を重ねたかつての67期生徒たちが、
「それでも人生で最もあのころが楽しかった」と口を揃えていう、輝くようなときが。







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スタンフォードER体験

2012-07-28 | アメリカ

      


何の変哲もない風景ですが、よく見ると・・・・(写真右)
誰が、何のために、どうやって靴を両方電線にぶら下げたのか。
この結構高い(日本より電柱が高い)電線に・・・・・・・・・。

いじめ?

・・・なわきゃない、ここをどこだと思っているのだ。
全米でも平均的知能指数の最も高いと思われる市、スタンフォードであるぞ。

スタンフォードはご存じのように大学の名前ですが、大学の設備や関係者の住居だけで
一つの市になってしまっているのです。


このスタンフォード大学病院のERに先日突撃してきました。
息子がボストンであと一週間を残すところになったキャンプ後半、急に
「サイナス・インフェクションらしいって」
と車に乗り込むなり言うので、
「って、何?」

サイナスって?スヌーピーの登場人物で毛布をいつも持っている子供?
というボケは息子に通用しないので心の中で一人突っ込みながら、仔細に聞くと、
水泳の時間に深く潜ると頭が痛くなる、うつむくと頭が痛くなる、という症状をスクール・ナース
(保健室の先生)に訴えたところ、「Sinus Infectionかもしれない」と言われたとのこと。

帰ってインターネットで調べると「副鼻腔炎」。
日本語でもどんな病気なのかわからないし。
とにかく、疲れているときに発病しやすいということはわかった。
「寝る前のインターネット禁止」
「お風呂で潜るの禁止」
をさっそくいい渡し、ボストンからサンフランシスコまでの飛行機に乗ったときに痛みを感じないよう、
ドラッグストアで症状を訴えて市販薬を買い求めました。

旅行を手配してくれたカード会社に相談すると、やはりスタンフォード・ホスピタルがいいでしょう、
ということで行くことになったのですが、なぜか「初診の場合はERに行って欲しい」
と病院側に言われてしまい、危急の症状でもないのにERに行くことになったというわけ。

何年か前、息子がサンフランシスコで滑り台から落ちて左腕を骨折し、現地の病院
カイザー・プロミネンスのERに駆け込んだことはありますが、あのときは無我夢中だったし。

というわけで、息子のうーん、わりと日本の病院と似ているわ。
この、何とも言えない辛気臭いかんじが・・・・って、

 こ、これは・・・?
なぜ金属探知機がERの入り口に?
空港と全く同じシステムで、左に見えている人がカバンの中もみなチェックします。
「どうしてERに入るのに飛び道具検査があるんだろう・・・」
「テロ防止?もしかしたら911の後できたのかもね」

チェックをしてゲートをくぐるときにビジターのVの字が書かれたシールをもらい、服に貼り、
さらに中で着用するマスクをもらいます。
椅子に座ってマスクをしてから周りを見ると、誰ひとりとしてしている人は無し。
貼り紙には「咳をしている人はマスクして下さい」とあり、わたしは黙ってマスクを取りました。

そこで受付を済ませ待っていると、「どうぞこちらへ」と別室に連れて行かれました。
途中、通りかかった診察室に、テレビドラマ「アリー・マクビール」で
一瞬アリーが熱を上げた医師みたいなイケメン黒人の先生が、デスクに座っているのを発見。
うわー、なんだか本当にドラマ「ER」みたい。
「ねえねえ、あの黒人の先生、無茶苦茶かっこよくなかった?俳優みたい」
「ママ、あまりはしゃがないように」

「・・・はい」


ね?日本の病院そっくりでしょ?
息子は12歳なのですが、まだこの歳だと小児科の患者なのですね。
「ここでお待ちください」
と通されたのがこの部屋。
ERなのに、小児科専門のコーナーがあるとは。

昔、某KO病院のERに、息子が突然出先で目が腫れたときに連れて行ったら、
専門外の内科医(しかもなりたてっぽい女の子)が、「アレルギーですね」
いや、それくらいわたしらにもわかります。
だからこの腫れを何とかしてほしいと思って来たんですが、と途方に暮れたことがあったなあ。
まあ、たとえ彼女が小児科であったところで、それしか言いようもしようもなかったのでしょうが。

ここは24時間営業のERでもちゃんと専門医が何人も待機しているようです。



コンピュータが二台(子供向きのTVゲームが入っている)、テレビが一つ。
わたしたちより先に待っていた親子に、先生が来て何か聞いてます。
取りあえず患者はここで担当医師が空くまで順番を待ちます。



息子はこのようなIDバンドを腕に巻きました。
名前の下のA.K.AはAs Known As、つまり「日頃どう呼ばれているか」を書く欄。
アメリカ人は本名でそのまま呼ばれている人の方が少ないみたいですからね。



隣の部屋に寝かされていた5つくらいのヒスパニック系の女の子。
歩けないのかこの大きなベッドごと移動させられていました。
ヒスパニックの女の子って、赤ちゃんのときからピアスをしている子が多いのですが、
彼女も小さな耳にちゃんとピアスが・・・。



フィリピン系かな?
小さい赤ちゃんの場合はIDバンドは足に付けるようです。
ここに置いてあるおもちゃに喜んでいます。



イスラム・インド系。向こうにいるのがコケイジャンなので、まさにここは今人種のるつぼ?
この男の子は、本人の説明によると、ダイブしたとき飛び板かプールの端で顎を擦りむいた模様。
ERに来るくらいですから、結構酷い怪我でした。
おばあちゃんとお母さんが付きそってきていました。



この男の子は左手をどうやら骨折したようです。
痛みは無いようで、彼はあちこちのおもちゃに興味深々であちこちに歩きまわって元気そうでしたが、
お母さんは気ぜわしげな様子であちらこちらにメールをしたりして、大変です。

わかるなあ、これ。
息子が骨折したときも、ちょうど目を離した瞬間だったので、母親のわたしとしては、
「どうしてちゃんと見ていなかったんだろう」と自分を責め続けたものです。
母親って、そういうものなんですよね。

 

ERにしては無茶苦茶広いと思うのですが、今後さらに拡張する予定があるようです。
実のところ天下のスタンフォードの病院にしては古いんだなあ、と思ったのですが、
どうやら今、スタンフォード病院全体が建て替えにかかっていて、完成は2018年とのこと。

ここで待っていた時間はおよそ一時間くらいでしょうか。
子供が退屈しないように、誰かがテレビを付けていきました。



やんちゃな犬兄弟の冒険物語。(多分)
これを眺めていると、やっとナース、といっても刺青が半袖から見えているおっさんですが、
この、肉体労働者風の看護夫が、呼びに来ました。



通されたのがこの部屋。
息子はこのベッドに座って、わたしは横の椅子に座ってさらにここで待つこと小一時間。

 

ヒマなので写真を撮ってみました。
椅子に座っているのがナースです。
この時、かれは仕事は無かったらしく、iphoneを見ていました。
彼も、小児科のメンバーなんですよね・・・。
男の子には「よう兄弟、何があったんだい」みたいなノリで声をかけていました。
いろんな意味で日本では決して見られないタイプの医療関係者です。

さて、待っている間、息子はこのようなものを持たされて、質問に答えさせられていました。



「お酒やたばこを摂取しますか」という質問があった模様。
小児科なのに・・・・・。
それにしても、子供にipadで問診票を記入させるとは、アメリカの病院、進んでいます。
皆がこういうツールを、持っていないまでも触ることができるという大前提ですよね、これって。



病院内ではふんだんにipadが活用されているようですが、さらにipad3を導入予定のお報せ。
さすがはスタンフォード、そういえばスティーブ・ジョブズはスタンフォードでしたね。
出身校のよしみでアップルの売り上げに全面的に協力しているというわけかしら。


さて、この辺でドクター登場。
若いころのトム・ハンクスとマシュー・モディーンを足して3で割った感じの爽やか系青年。
部屋に来るなり握手を求めてきました。

「ボストンのキャンプで・・・」
「ボストン?僕はボストンから来たんだよ」

うーん、カイザー・プロミネンス・ホスピタルのERとは随分雰囲気が違うなあ。

日本と違って、症状やいつから、など全てを母親ではなく息子本人に聞いていきます。

「痛みはシャープ(鋭い)?それともダル(鈍い)?」
「傷むのは具体的にどこ?」
「プールに潜ったときとかに、頭を打ったりしなかった?」

よくもまあこれだけきっちりと箇条書きにしたように質問できるものだと感心するほど、
よどみなく聞いていき、その間彼はずっと足を60センチくらい開いて立ったまま。
日本もそうかもしれないけど、救急救命医は体力が命ですよね。つくづく。

よどみなくではありましたが、ものすごく時間もかけて問診が続きました。
診察まで何時間も待つ点は日本と一緒ですが、かける時間は雲泥の差、ってくらい違います。
ひととおり質問が終わって、今度は頭を触ったり、押したりして、

「ここは?」
「こうすると痛い?」
「今どんな感じ?」

膝外腱反射のチェックや、何の意味があるのか、かがみこんで足首を握ったり。
たっぷり時間をかけてのち、
「じゃあ、今からわたしはドクター・カーシーとこのことをディスカッションしてきます」
そういって出て言ったかと思うと、五分くらい経ってから
もう二つ三つ質問をしに帰ってきて、また行って、もう一度帰ってきて、とこんな感じ。

ドクターカーシーとやらを、勝手に白人で初老の男性と決めてかかっていたのですが、
「それではドクターカーシーを呼んできます」
彼がそう言って、代わりに入って来たのは、なんとインド系の若い女性。
教授ではなく、オーベンみたいな立場かもしれません。

息子の座っているベッドに座り、ボールペンで話をしながらシーツに意味不明の線を書きつつ、
「フン・・・・」
という感じで自分に納得させるように言うのが癖の先生でした。
両耳に小さな声でハミングして「聴こえる?」というチェックをしたのですが、
後で息子が言うには
「二人とも同じ歌をハミングしていた」

この医局で流行っている歌があるのかしら。
それともこういうときはこの歌を歌うと決まっているとか?

二人とも、ここでしたことは徹底的に症状の訴えを聴くこと。
診断めいたことは一切せず、全てカルテに残し、「本番」の小児科に回すつもりのようです。

アメリカでは医事と薬事が別に機能しているのか、日本のように「痛みどめ出しましょう」
などと簡単に薬を出してくれないと聞いたことがあります。
インフルエンザで行ったとしても、薬も注射もしないので、日本人には物足りない、
という話だったのですが、ここはERなのでさらに「副鼻腔炎かもしれない」とも言いません。

二人の問診が終わり、そのまま病室にいると、
(ここでは外来でも診察室に入るのではなく、医者やナース、
支払いと保険についての質問をする事務員、全て向こうの方から部屋に来る)
肉体派?のナースが来て「診察は終わったけどもう少しかかるから」
と、へやにあったテレビの操作法を教えて出て行きました。
ここのテレビにセットされているのは、全て子供向けの映画など。



そして、20分くらい待っていると、ナースが書類を作って持ってきました。
疑われる病気についての知識について、どんな治療が今後行われるか、次の予約の取り方など。
実にシステマティックで分かりやすい医療だと感心しました。
おまけに、次の予約は病院の方から電話がかかってきて、日にちが決まると今度はeメールに
小児科への行き方はもちろん、今工事中なので時間に余裕を見て、とか、少し早めに来てとか、
懇切丁寧に知りたいことが書いてあります。

今回の治療は旅行傷害保険でカバーされるので、結局こういった医療費がいくらになるのか、
わからないまま終わってしまいそうなのですが、話に聞くと、アメリカの医療は非常に高額。

息子が骨折したとき、取りあえず予約なしで(今回は会社が書類を送ってくれていた)
ERに飛びこんだのですが、息子が激痛に泣き続けるのもお構いなしで、
受付は延々と支払いについて質問を繰り返し、コンピュータをいつまでも操作し、
「自費で払ってわたし自身が保険会社に請求します」
と言っているのに、何が問題なのか全く治療に入ってくれないので困り果てたものです。

全く何のためのERだ、と言いたい気分でしたが、
つまりお金の払えない者は、例え死にかけていても絶対に治療はしない、
というアメリカの病院として当然の対応であったわけです。



さて、最初に待った部屋に行く前、一般成人患者の診察室の並ぶ廊下を通り抜けたのですが、
まるでテレビドラマ「ER」のような光景を目撃していしまいました。

ベッドに半身を起して、傍らの男性と抱き合って泣く女性。
どちらもどうやら東洋系のカップルでした。

「あれ、なんだったんだろうね」
待っている時間、暇なので息子にふと呟くと、

「多分ベビーが女の人のお腹の中で死んだんだよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

いや、わたしもそうではないかとちらっと思っていましたけどね。
12歳の男子がこういう答えを即答するというのも、少し驚きです。

どこでこういう知識を仕入れてくるんだろうなあ。







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雪風は死なず(初心者向け)

2012-07-27 | 海軍












少しでも海軍の艦船というものに興味を持っている方なら、一度は
「世界の歴史上もっとも好運な不沈艦」としての駆逐艦「雪風」の名を聞いたことがあるでしょう。

大東亜戦争中、主要作戦のほとんどに参加し、いつも第一線で戦いながら生き残った、
まるで奇跡のようなこの駆逐艦。

デビュー戦は1941年、12月8日。
そう、大東亜戦争開戦の日です。
パラオ基地を出撃し、フィリピンのレガスピーへの急襲でした。
その後、スラバヤ、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモン、ニューギニア、マリアナ、レイテ、
そして昭和20年4月の天一号作戦の大和特攻。
これだけの激戦を戦い抜き、終戦を迎えたとき、81艦の寮艦たる駆逐艦(特型、甲型)は、
ことごとく沈没し、「雪風」だけが残ったのでした。

第三次ソロモン海戦では至近弾を喰うが、これがもし1mずれていたら、沈んでいた。

この後、艦上機を含む大艦隊に襲われたが、ちょうどスコールの黒雲が現われ、
その中に飛びこんで逃げのびた。

この時、爆撃機が艦橋をかすめるように墜落してきた。
何十分の一秒の違えば、
甲板中央に墜ちているところであった。

天一号作戦では艦体に地響きのようなものを感じたものの、

誰ひとりとして全く気にせず、激しい戦闘を続けた。
後から調べたら、上部甲板に穴が開いており、艦内には不発弾があった。

ダンビール海峡の「スキップ・ボミング」
(爆弾を超低空から落とし、海面で跳ね返らせ艦船の横腹を狙う)

の嵐と化した悪夢の海を駆け回り、海上にいた将兵を助けて、無傷で戦場を去った。

艦底に魚雷が当たったが、そのまま通過していた。

終戦間近(7月30日)の空襲で、ロケット弾が命中したがこれも不発。

終戦後、舞鶴に回航される途中機雷に接触。
今度こそ駄目だと覚悟を決めるも、それが「回数機雷」で、爆発せず。
後ろにいた「初霜」が、同じ機雷に接触し、今度は作動したため暴発し、沈没。

戦争中を通じて、戦闘による死者は10人以下であった。

戦時中の艦長4人(飛田健二郎、菅間良吉、寺内、古要桂次)は戦後も健在であった。



最後の方になると乗組員も、他の艦の乗員を助けながら「当たり前の光景」のように
思えてきたというから、幸運もここまで来るとむしろ不気味というレベルです。

現に、「雪風は沈まない」=「雪風と一緒に出撃すると沈む」
というネガティブな解釈から(船乗りは、何かとげんを担ぐ)
「疫病神」「死神」とまで言われることすらあったそうです。

歴代艦長はそれまで「不沈艦長」と言われていたような人ばかりが就任し、全員が
「どんな激戦場に出ても、雪風だけは絶対に沈まない」
と、全くその気になってしまっていたそうですから、全員の超ポジティブな「プラシーボ効果」が
実際にも好運さえも呼び寄せたのでしょうか。

「駆逐艦な野郎たち」という小林たけし氏の漫画で、新任の中尉がスリッパで出てきた艦長に
驚き、軍帽を斜めに被る艦員に怒り、「どうなってるんだ!」と呆れる話がありますが、
まさにこれは「雪風」をモデルにしており、そのラフな態度が戦前は「田舎者」扱いされていました。

この「駆逐艦気質」を最も体現していたと思われるのが第五代艦長の寺内正道少佐で、
天一号作戦、ご存じ戦艦大和が海の藻屑と消えたあの激戦中、艦橋に椅子を置き、
その上に立って天蓋から鉄兜も被らないまま頭を出し、三角定規で雷跡を読みながら、
航海長の右肩、左肩と蹴りながら操舵を指示し続けました。

この豪胆な艦長の姿に、総員が奮い立ったのは言うまでもありません。
元々、日本の駆逐艦の操艦、ことに「爆弾除けの秘術」はお家芸の域まで達していたと言われ、
ある駆逐艦長のそれなどはまるで名人芸で、あるいはスポーツのようにそれを楽しんだ、
とまで言われていましたが、この寺内少佐も、第4代艦長の菅間良吉中佐も、
この「芸」は超一流であったということです。

そういった「職人技」に加え、この駆逐艦は名技術にその幸運を支えられてもいました。
一般に駆逐艦は造るのが非常に難しいと言われました。
船体を作るのに制限があったからで、それは2千トンから一トン増してもダメ、というくらいでした。
その小さな艦体ゆえに操舵の敏捷性を持つ駆逐艦ですが、また同時に戦艦を撃沈せしめる攻撃力、
あるいはどんな荒波の中も艦体を叩かれることのない安定性が要求されるのです。

雪風は、造船界の天才、「大和」をも手掛けた牧野茂技術大佐によって設計されました。


ところで、日本一の好運艦が雪風なら、日本一の不運艦は?
聯合艦隊が壊滅してしまったわけですから、幸運も何もほとんどのフネは「不運」であった、
としか言いようもないのですが、その中でもワーストの例を三つ。

巡洋艦「畝傍」(うねび)。
フランスで建造され、日本に回航される途中行方不明。

これは明治時代の出来事だそうですが、当時の科学技術では、畝傍が一体どこでどうなったのか
全く分からないまま、とにかく彼女は痕跡も残さず消えてしまったのだそうです。
これは、不運というより生まれる前に消えてしまった、という感がありますが、

空母「信濃」
1961年「エンタープライズ」が生まれるまでは、世界最大の排水量を持つ空母であった。
未完成のまま横須賀から呉まで回航中に、米潜水艦の攻撃により沈没。

雪風は、この回航に「磯風」「浜風」とともに参加しています。
信濃には貨物として特攻機「桜花」、あるいは震洋が乗せられていたといい、これをもって

「信濃の回航が特攻にならなければいいが」

と冗談を言うものがいたということですが・・・・・。

むやみにポジティブであった雪風が幸運を否が応でも引きつけた感があるのに対し、
冗談でもこのようなことを言わない方がいい、という見本のような話だと思いませんか?

空母「大鳳」
魚雷命中ではなく、密閉された艦内の気化ガソリンに、胴体着陸した戦闘機の衝撃で引火、
大爆発を起こし、沈没。

全海軍の期待をになってデビューした空母でしたが、初陣で戦闘開始直後に沈んでしまったのです。
それまで大鳳は何発かの魚雷を受けていたのですが、それにはびくともしていませんでした。


戦後、雪風は戦利品引き渡しとなり、中華民国海軍の旗艦「丹陽」となりました。
その舵輪と錨は、日本に送られ、江田島の海軍兵学校跡に展示されています。








戦後、我が国が軍艦の所有を許されたとき、その最初の艦の名前を決定することになり、
「雪風」乗り組みであった旧軍人たちは、この好運艦の名を引き継ぐことを強く提案しました。

その栄光の名前は、戦後の警備艦第一号「ゆきかぜ」となって刻まれることになったのです。






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尖閣所有者が受けている嫌がらせ

2012-07-26 | 日本のこと

購読しているメールマガジンの記事を、大変例外的にそのまま載せます。
日本が今どんな国と対峙しているのかということが端的に分かる事例だと思いますので・・・。

あえてわたしの感想は載せませんが、もしご存じでなければ読んでみてください。
発信元が雑誌であるというのは信憑性を欠く、という考えもあるかと思いますが、
だからといって大新聞、特に朝日はそのスタンスから、絶対に触れない部分でしょう。

報道の中立性などどこを探しても無いらしい昨今のマスコミ。
「とにかくどんなことであれ事実を報道する」
というまともなメディアとしての機能を果たしているのが、今回こういったゴシップ誌であることが
何とも情けない限りではありませんか。



尖閣地主一族が耐える中国の「嫌がらせ」30年

女性自身 7月20日(金)8時45分配信
 
4月16日、石原慎太郎都知事がワシントンでの講演で、まるで中国を煽るかのように、
尖閣諸島のうち個人が所有する魚釣島、北小島、南小島の3島を東京都で購入するとぶちあげた。
それに対し、今月11日の日中外相会談の朝、中国の漁業監視船3隻が尖閣沖の領海内に侵入し、
日本を挑発する行動に出た。
 
「じつは、島の所有者である栗原一族は30年以上にわたって、
さまざまな手口で中国からいやがらせを受けてきたんですよ。
そのため、今では自宅(さいたま市)のお屋敷はまるで要塞のようになっています」
 
そう語るのは20年来の知人だ。確かに自宅の周囲は高い塀で囲まれ、
その塀には鋭く尖った矢や釘が並び、電線と「高圧危険」の文字が見える。
監視カメラが常時作動し「録画中」の文字も。
 
「前所有者の古賀一族から島を譲り受けて以来、中国政府の商務部
(日本の経済産業省にあたる)
人間が何回も島を買いに来ました。
ときにはその代理人と思しきヤクザ風の人間が『売らんかい』と凄んできたり、
中国系のリゾート会社の名刺を持った人間が一緒にリゾート開発をやらないかと
勧誘に来たり、
とにかくわけのわからない人間が次々と訪ねてきたそうです」
(前出・知人)

 
中国側が350億円で買いに来たという話も、そのリゾート開発の話のときだという。
業者が勝手に金を置いていってしまい警察に届けたことも。
やがて断り続ける栗原一族に、陰湿ないやがらせが降りかかるようになった。
 
「栗原兄弟の次男である國起さんの息子さんが小学生のとき、
下校中に見知らぬ男から声をかけられたことがありました。
大きくなっての結婚式の際には『式をめちゃくちゃにするぞ』
と脅しの電話があったとも聞きます。

また、家の中に動物の死骸かと思いますが、異物を投げ込まれたこともあったそうです。
脅迫電話もたびたびで『売らないと大変なことになる』と
真夜中に電話がかかってくることもありました。

島を売るのを断るたびにです」(同前)
 
現在、栗原一族では兄弟の三男である弘行氏だけがマスコミの取材を受けるが、
島の所有権を実質的に持つ次男・國起氏はけっして姿を見せない。
その理由は30年以上にわたるいやがらせにあったのだ。
 
「いやがらせにも負けず、栗原一族はつねづね『日本を守る』と言っておられた。
しかし一昨年の漁船衝突事件をきっかけに、もう個人じゃ守りきれないと思われたのでは。
栗原さんは20年も前から、島に避難港を造り、自然を保護し、
誰もが行けるようにと話しておられた。

しかし、国は賃貸契約しているにもかかわらず何もしていない。
だから石原さんだったんです」(同前)
 
(週刊FLASH 7月31日号)


野田首相が、おそらく人気取りのためだと思いますが「国が購入する」などと言いだしたとき、
すでに国に対して不信を持っていた所有者は「石原氏にしか売らない」と表明しました。
国が購入したとしてもそれはあくまでも中国に対して懐柔策を取るためで、ヘタしたら
「戦略的互恵関係のために(笑)共同で管理運用を」などと言い出しかねないことを、
中国船衝突問題のときに痛感したのかもしれません。

さらに心配なことがもう一つ。

中国メディアは、遂に沖縄の領有権を主張をし始めました。
沖縄に米軍基地がある大きな理由は、何と言ってもそこが米軍にとってアジアの共産勢力を
寄せ付けないための太平洋の防衛ポイントであるからです。
そして中国がここを狙うのは、逆にアメリカを大陸に近づけないための防衛線になりうるからです。
肝心の沖縄県民が米軍を追い出したがっていることは、中国にとってもっけの幸いなのです。

尖閣諸島が沖縄に属するのはどちらの陣営にとっても自明の理ですが、中国によると、
ポツダム宣言、カイロ宣言の解釈(沖縄は今日本の信託統治下にあるだけで、
住民は日本国民ではない)から「琉球諸島は法的にも中国の属地である」という主張です。

つまり、中国は本気で沖縄を取りにきています。

しかしながら、マスコミ、特に沖縄のマスコミはこのことを全く報じず、
相変わらず米軍基地の存続についてのみ問題を大きく報じるのみ。
沖縄県民も電話アンケートによると40パーセントが「自分は日本民族ではなく琉球民族である」
と答えたことを、中国は自国に都合のいい解釈をしているようです。
(万が一、日本嫌いの沖縄が中国の支配下に入ったあかつきに、
沖縄がチベットにおける現在進行形の虐殺の二の舞にならないと、誰が保障できるのでしょうか)

さらに、中国は当時棄却した戦時賠償を今になってちらつかせ、あるいは武力行使も辞さず、
との報道をしているのですが、これについても国内メディアは素知らぬ顔。

今や日本人以外が中枢を握っているらしいマスコミにとっては、このことは
「報じない権利」を行使してでも国民の目から隠したいことなのかもしれません。



 
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「大和です」を漫画化してみた

2012-07-25 | 海軍











この話を知ったのはいつのことでしたか。

私がホテル勤めをしていた頃の話。

ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。

自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には
苦労を掛けていると思う事。
たとたどしくですが話されました。

同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが
段々背筋が伸びていき神妙に聞き入っていました。
挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」
と尋ねると、新郎は小声で「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり
直立不動で敬礼を送りました。

おじいさんも見事な答礼を返されました。
私はその後は仕事になりませんでした。

いわゆるコピー&ペーストですみませんが、もしかしたら皆さまもインターネット検索の合間に
このちょっとした話を眼にされたことがあるかもしれませんね。

わたしは、最初に読んだとき、眼がうるんできてしまいました。
しかし、漫画にしてしまうとなぜか感動的ではない!なぜだ。

それだけでなく、「せっかくの話を台無しにするな!」
というお怒りの言葉が聞えてきた気がする・・・。

しかし、実はこの「大和編」は、あるパロディのための「マクラ」のつもりで描いたのです。
というか、パロディを描くためには「オリジナル」がないと、というので描かざるを得なかったのですが、
それがため、感動的な話がなんだかいつもの調子になってしまいました。



というわけで、何の愛相もない本文ですが、近々掲載予定の「雪風編」、(こちらがメイン)
どうぞお楽しみに!






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ロス・アルトス到着

2012-07-24 | アメリカ

今アメリカで世間を騒がせている乱射事件を報じる新聞を空港の売店で発見。
これは、ご存知かもしれませんが、容疑者が「バットマン・ダークナイト」が公開されている映画館で
銃を乱射し、今のところ14人もが亡くなったという事件です。

 

容疑者の若いころの写真などもテレビでは報道されていました。
対談番組ではまたもや「銃所持に対する法規制の見直し」について議論されたりしています。
それにしても、冒頭写真の「ダーケスト・ナイト」は、映画の題「ダークナイト」の最上級。
誰が上手い言えと、という感じの見出しですが、この件でワーナーブラザーズは宣伝自粛、
プレミアの中止など、神経質な対応を迫られているようです。

銃の持てない日本では対岸の火事ですから、
もしかしたらこれが集客に結びついたりするのかもしれませんが・・・・。


さて、というわけで、一日更新をお休みしている間に、ボストンを後にしました。
ここで東から西海岸に移動です。
ここでサンフランシスコに移るのが恒例であったのですが、今年は予定が変わりました。
息子のサマーキャンプにいつも選んでいたサンフランシスコのコンピュータキャンプが、
不況の所為か今年は大幅にクラスを減らしてしまい、日にちが上手く取れなかったのです。

そこで、スタンフォード大学でやっているITキャンプに行かせることにしました。
スタンフォードはサンフランシスコ空港から南に30分ほど行った「ロスアルトス」という街にあります。

 

一カ月のボストン生活に別れを告げ、ローガン空港に。
ユナイテッドの国内線ビルディングが、改装されていました。
右写真は、ボストン名物、クラムチャウダーで有名な「リーガルシーフード」空港店。
住んでいたフラミンガム市にもあり、時々行くのですが、今年は行きませんでした。
インチキズシを食べるくらいなら、日本人にはこちらの方がずっと受け入れられる味です。



空港の書店で発見したなごみネタ。
このネコがわっかにした段ボールにスライドしている映像は、ここアメリカでも有名で、
「最もおかしなファミリービデオ」という人気番組でもしょっちゅう放映されています。
このネコ、「まる」というそうですが、「まるです」という日本の本が英訳されて、
平積みで大々的に売られていました。
今最も有名な日本の猫かもしれません。
翻訳本の各章には、日本語のタイトルがそのまま残されていました。


 

このビルは、改装後ジェットブルーと共用しているようです。
ジェットブルーは、ケープコッドやナンタケットなどのリゾート地に路線を持っているので、
この日週末の朝は、ビーチ行きの恰好をした人々で一杯でした。
海外に行かずとも週末にビーチリゾートが楽しめる、アメリカ人には当たり前のことなのです。


このビルの改装は控えめで、どうやらそんなにお金もかけていないようでしたが、
ちょっとした工夫(ガラスにカラーテープを貼って、床に映る影を楽しむ)が見られます。

ところで、セキュリティに並ぶとき、係員のおじさんに「こっちでいいの?」と聞くと、「いいですよ」
息子が後ろでIDチェックをしていたため、わたしがそれを待っていると、

「Are you waiting for your BROTHER?」(太字強調)

おっちゃん・・・・・いくらガイジンの歳はわかりにくいっていっても。
しかし「孫を待っているのですか?」と言われるより気分のいいのはなぜ。
「弟を待ってるの?ってきかれちゃったよ~」と息子に言うと

「それは・・・・無いわ・・・」




サンフランシスコ行きは満席でした。
例年のようにチェロを持って移動しなくても良くなったので、国内線はエコノミーです。
国内線は日本と同じくファーストクラスとエコノミーで、この機のファーストは前方にわずか8席。
前の方は若干席の間のピッチが広いという「ちょっとアッパーなエコノミー」で、
今回我々が乗った後ろの方は、奥の人がトイレに行こうと思ったら、通路側は一旦立たないと
特に太ったアメリカ人は外に出られない、という位狭い席でした。
6時間のフライトですので、飲み物サービスは二回きますが、スナック類は全て有料。
後ろのトイレに並ぶ列がいつも横に立っている、というのも落ち着かない気分でしたが、
ともあれ無事にサンフランシスコに到着。
12時に離陸し、現地時間は二時間巻き戻って、4時です。



この日空港につくなり、サンフランシスコにしては暑くて驚きました。
ここでこんな暑さなら、南に下るとどうなるのか・・・。
この空港の便利な点は、空港ビルとレンタカーの集まったビルがモノレールで連結されていて、
他の空港のように大量の荷物を抱えて空港バスに乗る手間が要らないことです。

今まで不満であった点というと、荷物を運ぶためのカートが有料で、
一台につき機械に3ドル入れないとカートを取ることができない、ということでしたが、
おそらく市民の苦情により解消されたのでしょうか、無料になっていました。
写真は、誰もいないモノレール車両内、猿のようにバーでぐるぐる回って遊ぶ息子。



レンタカービル駅に到着すると、目の前にカウンターが並んでいます。
わたしはここ何年か「ハーツ・ナンバーワンゴールドクラブ」のお世話になっています。
前もって情報やカードを登録しておくと、事前のインターネット予約さえしておけば、
後は予約時間に車置き場に行って、このような掲示板をチェック。
自分の名前が無いことも、そこはアメリカですから時々あるとはいえ、カウンターに並ぶことなく、
黙って車に乗っていけばいいのですから、嬉しいシステムです。

この日も、予約通りにロットにはプリウスが停まっていました。
荷物を積み込んで、さあ、出発というときになって、はて。

カーナビが無い。

予約のときにGPSを付けるという選択が出て来なかったので標準装備だと思っていたんですが。
いつものサンフランシスコなら、目をつぶっていてもどこに何があるかは熟知しているので、
GPSなど全く必要ではありませんが、今回は何から何まで初めての場所。

おまけに、息子はボストンでのキャンプ後半で「サイナス・インフェクション」(副鼻腔炎)にかかって、
週明けにスタンフォード内のクリニックに行くことになっていたり、楽器屋に行ったり、
予定が満載ですから、何かと土地勘のないところでGPS無しでは大変です。

しょうがないので車を交換してもらうことにしました。

「車をスイッチ(交換)していただきたいのですが。
同じクラス、同じカテゴリの車で、条件は一緒、GPSだけが必要です」

海外旅行で役に立つかもしれないので解説しておくと、借りた車が気にいらなければ、
アメリカでは簡単に交換(チェンジではなく、スイッチと言ってね)ができます。
昔、週末でKIAを押し付けられたことがあり、30分走ってガソリンの4分の一が瞬時にして
無くなってしまったとき、あまりの不快さに交換に行ったことがありますからよく知っているのですが。

何年か前にロットにソナタが停まっていたときも交換しました。
「アップグレードなんですが・・・」と係員が言うので、
「ソナタは燃費が悪すぎるので(ほかにもいろいろ理由はあるけど)一カ月も乗るのには困ります」
というと、カローラに替えてくれました。
ヒュンダイ、キーア車は、投げ売りのように安く売られているので、ここではほぼレンタカー専門。
しかし、人気は「プリウス」「アルティマ(ティアナ)」など日本車で、すぐに品切れになってしまうのです。

さて、ナンバーワン・ゴールドクラブのデスクに話を戻して。

ぱこぱことキーボードを叩きながら、係の女性、
「GPS付きのプリウスは、ありませんねえ・・・・同じクラスのも・・・。
お客様、提案なのですが、GPS付きのメルセデスはいかがですか?
「メルセデス?」
「一日たった12ドルのプラスチャージであなたは
メルセデスに乗ることができるのです

「いや・・・しかし、わたしは一カ月も借りなければならないので、それはオーバーコストだわ」
「でも、もし、今GPS付きの車があったとしても、それを借りようと思えば、
お客様は一日につき13ドルの追加料金を払わなくてはいけないのですよ。
それならば、12ドルであなたはメルセデスに乗った方がいいです。
よっぽどこちらの方がリーズナブルではありませんか」

(・・・っていうか)「え、一日ネバーロスト(ここでのカーナビの商品名)を借りるのに13ドル?」
「そうです」
「高くないですか?」

去年ここで借りたアルティマにはネバーロストが付いていたけど、あれはたまたまだったのか。
「ここでは標準装備じゃないんですね」
「そうです」
(背に腹は代えられない・・)「・・・・じゃメルセデスにします」



このメルセデス(アメリカではベンツという呼称は一般的ではない)は目立つところに停まっていて、
最初「レンタカーでベンツ借りる人もいるんだね」などと言いながらここを通り過ぎたのですが、
まさかその10分後に自分自身がこの車をかりるはめになるとは。
神ならぬ身のエリス中尉にはそのときには知るべくもなかったのでした。

でも、今この写真を見て気が付いてしまったのですが、
「ミッドサイズ、あるいはその上のクラスの車を予約された方、この車に替えませんか?
追加料金なしでお乗りいただけますよ」という宣伝文句が書いてありますね。

目立つところにおいてあったのは、めったに予約では出ない高級車を遊ばせずに、
その分よく売れる車種の予約を増やそうというハーツの戦略だったのです。

つまりわたしはGPSにかこつけて「キャンペーン」を推奨する優秀な社員の戦略にかかったのか?
本当にGPS付きの車は一台ものこっていなかったのか?
そういった疑念が今になって浮かんでくる気もしないでもないのですが。

まあいいや、今の車を買う前にコンプレッサ(おもちゃみたい)スポーツタイプ(後ろが狭い)
とヤナセで試乗して、一生メルセデスには縁がない、と見きったつもりだけど、
車の運転大好きのわたしとしては、メルセデスを運転する願ってもないチャンス。

はりきって空港ビルを出ました。
アメリカのレンタカーシステムは簡単で、指定されたところに行けは、鍵が付いた車がおいてあり、
空港のゲートを通るとき契約の書類と国際免許を見せれば、係員が通してくれます。

出るとき、中国系のおじさん係員が「どこまで行くの?サンフランシスコ?」
と聞くので「ロスアルトス」というと、
「ここを出たらライト、レフト、レフトでフリーウェイだよ」
と瞬時に言ったので感心しました。
言っちゃなんだが、こういう気のきく対応をしてくれるのは、常に東洋系なんですよね。
それ以外は愛相はいいけど、それだけ、って感じの人が多いので。
おじさん、「サヨナーラ」と挨拶してくれました。



メルセデスで国道を南下。
ボストンとは違い、このあたりはフリーウェイに料金がいらない(文字通りフリー)なので、
この車にもアメリカのETCに相当するEZパスの器械は付けられていません。

室内がやたらせまいのさえ我慢すれば、適度な重みのあるステアリング、高速で100キロ出すと
とたんに地を這うような安定感があって、非常に信頼感のある走りが楽しめました。
(わたしは徳大寺か)
腐ってもベンツ、やっぱりいいなあと快適なドライビングを楽しみながら30分でホテルに到着。

チェックインしたら、フロント係が、
「お客様、提案があるのですが」

・・・・提案、またキタ―!(AA省略)

「お客様は今、30ナイト予約して居られますが、もしもう一日予約すると、割引対象になり、
560ドルの節約になります」
こういう提案なら大歓迎。
「おお、それは素晴らしい提案ですね」
「最後の日、お客様がもし一日早くチェックアウトされても、ステイタスは勿論残りますから、
我々は部屋をキープしておきます」

というわけで、ハーツの係員の提案で360ドルを余計に払うことになった直後、
ホテルの気の効くフロント係がそれを上回る節約プランを提案してくれたというわけ。

「メルセデス代、でちゃったね」
なかなか幸先のいい出だしとなりました。

ところで、ここは無茶苦茶暑いです。
日本の暑さより「じりじり」と焼かれている感じは強烈。
ハワイの昼間の暑さ、という感じで、ホテルのプールはいつも人がいます。
リーズナブルなホテルでありながら、プールはありテニスコートはありで、ちょっとしたリゾート気分。




部屋からの眺めです。
しかし、夜になったとたん風が冷たくなり、寒ささえ感じたのには驚きました。
ですから夜はクーラーなしで安眠でき、嬉しい限りです。
また西海岸情報などを折りにふれお届けしたいと思います。




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海兵生徒小沢昭一~最後の兵学校生徒

2012-07-23 | 海軍

俳優、エッセイスト、俳人、歌手、そして博物館明治村の館長小沢昭一氏が、
終戦時海軍兵学校生徒であったことをご存知でしょうか。

(なぜ明治村の館長かと言うと、あそこに展示されている写真館が、
小沢氏の父上が若いとき修業した建物であるという縁からだそうです)

小沢氏は海軍兵学校78期、即ち入校してわずか4カ月で終戦を迎えた最後の海兵生徒です。

・・・・?
「先日、海軍と77の因縁についての記事で、77期を『最後の海兵生徒』といっていたじゃないか」
と思われた方、あなたの記憶力ならびに注意力は素晴らしい。
確かに、正規の海軍兵学校生徒は77期が最後の入学となりましたが、この項における
「最後の」というタイトルは、「最後に海軍兵学校に入学することを許された学年」という意味です。



新人物往来社から出版された「江田島海軍兵学校」という本には、
写真家真継不二夫氏の兵学校の写真、娘の美沙さんによる海上自衛隊の写真と、
実に見応えのある写真の数々が掲載されているのですが、巻末の「資料編」、
海軍兵学校生徒卒業者、というコーナーを見ると、各期の代表的な軍人―山本権兵衛に始まり、
広瀬武夫、山口多聞、源田実、野中五郎、関行男が挙げられた顔写真の最後に、
なぜかこの小沢生徒の写真が・・・・・。

78期には財界、政界、文学、音楽、その他戦後有名になった人物がいます。
それもそのはず、なんとこの期の生徒数は4062名。

この学年が正規学生ではなく、
「いずれ正規学生になる予定で、基礎学習を済ませておくべく早めに入学した予科学生」
であるということは「帝国海軍と七十七」という項で説明しました。

従来、兵学校は旧制中学の4年、あるいは5年から進むものでしたが、
戦争が熾烈さを増すとともに中学校の就業年限が4年になり、
兵学校も4年生から3年となり、しかも2年半で繰り上げ卒業、というような事態になりました。
そして兵学校は終戦直前には採用年齢を下げ、中学二年修了程度から採用をすることにし、
これを新しく海軍兵学校予科生徒としたのです。

78期生徒は最初で最後の予科生徒として、終戦後の10月、卒業資格を得ています。
兵学校生徒にしては幼く見える小沢生徒、なんとこの時16歳だったのです。

この78期募集に対しては全国から2万人を超す応募がありました。
戦況が苛烈で色々な日本不利の情報は、はっきりとでは無くても、
中学生にもじゅうぶんに察せられたと思われるのですが、なんと言っても、

「どうせ徴兵に取られるのなら海軍士官となって戦地に行った方がましかもしれない」


と考えた優秀な青少年が多かったということでしょうし、やはり時勢、多くの若者が

「国のために戦う」

ということを当然のこととして「尽忠報国」に突き動かされたからこそのこの数字でしょう。

小沢少年もまた熱心な愛国少年でした。
小さいころから「大きくなったら兵隊さんになる」と決め、軍艦カードで遊んできた少年は、
麻布中学に受験勧誘に現れた先輩兵学校生徒の短剣姿に胸をときめかせ、
朝日新聞連載の岩田豊雄作「海軍」の世界に憧れ、そして、重大動機のひとつは

海軍士官は、ことに兵学校生徒は女にもてた

ことであった、ということも正直に告白しています。

紺のホック留めのジャケットが腰でピタッとしまって、そこに金色の短剣、そして白手袋。
日本中がずだ袋を被って暮らしているような時代に、あれはカッコ良すぎて、
誰が着ても「MMK」(モテてモテて困る)だった。
(「わた史発掘」小沢昭一著より)

毎日合格を願い眠れぬ夜を過ごし、郵便局まで合格通知の到着を待って通い、
その結果合格を知ったとき、天にも昇る心地であった小沢少年。
しかし、実際に入校して、厳しい課業の日々を過ごすうち、どころか実際は入学直後に

しまった!えらいところへ来てしまった
―大失敗だった―間もなく死ぬんだなあ―死ぬのは怖い!


と急に突然、思い始めてしまったのでした。

一瞬の気の休まる間もない訓練、江田島ではなく防府分校の急ごしらえ校舎の
(針生分校よりさらに設備は劣っていたと言われる)ノミ・シラミ、得体の知れない皮膚病を始め
赤痢や流行性脳炎すら発生する衛生環境の悪さで入院患者続出。
そんな中で毎日のように米軍艦載機の来襲を受け、のべつ裏山に逃げ込む毎日。


兵学校で過ごした生徒と一口で言っても、4年間を空襲の無い江田島で過ごした者と、
小沢生徒のような末期的最悪な環境で過ごした者の間には、はっきり言って海軍、そして戦争、
そこに軍人として身を投じて行くことに対する心構えからして全く違っていて当然と思われます。

案の定、入校して4カ月目の夏、兵学校で終戦の勅を聞いた小沢生徒は、
地面を拳で叩いて号泣する教官を横目で見ながら「シメタ!」としか思わなかったそうです。

それも当然で、「陸軍に行くのがいや」「徴兵はもっといや」「海軍はモテるから」という理由で
大量採用の海軍士官採用に応募したと言うだけの16歳の健康な少年が、
上記のような環境の中でもまだ「国に命を捧げること」を本望と心から思えるか。
無理です。

おそらく、78期生徒の誰一人として、そのような覚悟や使命感など持たぬまま、
あれよあれよと戦争が終わって行くのを見ていた、というのが本当のところではないでしょうか。

小沢昭一は、この体験から戦後はっきりとした「軍嫌い」となります。
例えば78期、小沢氏の同期生氏家睦夫氏は戦後、兵学校在学時を追想する本を出版し、そこに

最も暗澹たるべき敗戦前の五カ月の兵学校生活のそこだけが
ぽっかりのぞいた青空のように
懐かしく思いだされるのはなぜだろうか。
一身の栄達も利害の打算も無く、ただひたすらに厳しい規律の中で
自己の能力の限界を
とことんまで鍛え抜くと言った純粋さと、
たとえ自分は捨てても自己以外の他人、ひいては
祖国のために
よりよい自己を形成しようとする人間の美しさがあった


と記しているのですが、これに対する小沢氏の感慨は

「人それぞれの想いでとらえられてしかるべき」

としながらも

「私にとってはどんより曇った灰色の空のように重苦しく思いだされる」


小沢氏にとって兵学校を選び、職業軍人への道を踏み出したこと自体がつまり
「戦争に行って罪を犯していたかもしれない」という、犯さざる罪、即ち
「一生抱えて行く後ろめたさ」となってしまったのでした。

かくして戦後の小沢氏は徹底した反戦、反国体の思想に傾倒したようです。
昭和51年の国会で当時の福田赳夫首相

「教育勅語はこれからも生かして行かねばならない正しい人間の道」


と発言し、それを野党から反論された際

「父母や兄弟への愛、夫婦相和し朋友相信じてどこが悪いのか」

と言ったことを

(福田首相はこう)居直った。正体見たりである。

と著書で言っています。
つまり、教育勅語に書かれているもっともらしいこと全て、最後の文章

「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」
(非常事態には、国の平和と安全に奉仕しなければならない)

これを強制するための「地ならし」に過ぎない、騙されるな、というのが小沢氏の考えです。

戦後、左翼が教育勅語を目の敵にした、最も核心といわれる部分もここで、
「戦争があれば天皇のために命を捧げるべし」
と解釈したためのGHQによる「教育勅語廃止」理由の根本と言うべき問題の部分なのですが、
教育勅語ができた時代の流れを冷静に考えると

「徳川家や主家に対して忠誠を尽くしていた時代は終わった。
これからは国家に忠誠を尽くしなさい」


という、当たり前といえば当たり前
のことを言っているとわたしは思います。

小沢氏はなまじ中途半端に暗部を覗き見て、そこで終わってしまった「軍体験」から、
むしろ極端な「反国家意識」が呼び覚まされてしまったように思えます。

そして、この傾向はいわゆる「アプレ・ゲ―ル」に始まって「団塊左翼」へとつながる共通の、
「国家に対して自分を奉仕するのは馬鹿」→「天皇制反対」の思想と同じです。

「国の安全と平和に公的な奉仕をすることを奨める」ことのどこが
「正体見たり」とまで言い募らなくてはならないことか、若干理解に苦しむのですが・・・。

小沢氏はここで
「そんなこと(教育勅語の中身)はあんたに言われなくたっていい、
そんなことは『民』が『主』になって『自由』に考え、得心するものです。
それが、あの時、我々の父や兄の命と引きかえに得た民主主義と言うものでしょう」
「(福田内閣は)東条内閣とものの考え方においてほとんど変わりはない」

などと言っていますが、うーん・・・・。

民が主になって、自分で道徳や社会規範を自由に考え、得心することを皆が選んだ結果、
今の日本人はどうなってしまったと思います?
小沢氏、現在80を過ぎてご健在のようですが、皆が『私の自由』ばかりを要求して
経済ばかり優先した揚句バブルに踊り、その後、今の体たらくに陥った日本を、
どうご覧になるのか、ぜひ、氏に聞いてみたい気がします。

兵学校78期であった人物の中には、前にも話したことのある「火垂るの墓」の音楽を担当した
作曲家の間宮芳生、漫画家の佃公彦、小説家の佐野洋、などがいますが、
「オレンジ共済事件」で悪名高かった、政治家でオレンジ共済組合理事長、友部達夫
先日亡くなった電通の帝王、成田豊(朝鮮京城中出身、異常な最近のメディアでの
韓国押しの張本人と言われる)、これらの人物もまた78期在籍組です。


それにしても、海軍は敗戦も明らかになってきた昭和20年になって、
なぜ4000人もの兵学校生徒を集めることにしたのか。
全てこれらの人員を使い捨てのように消費するつもりだったのか。

当時、戦争を終結させたがっていたのは海軍の上層部でした。
このことからも、この「鉄砲玉養成」としての大人数採用説は、あたっていないと思います。


実は、既に敗戦を予期していた海軍は、勤労動員中の中学生を4千名も集めることで、
敗戦後の日本のための学業専一の教育をしたのだと言われています。

ここで考えを当時の日本軍の状況にやれば、そこには戦うべき船も、飛行機も、
その材料の鉄さえも、何にも無かったのです。
なのに海軍は4千名もの若者を集めた。
これは海軍の予算で、将来の日本の人材を確保しておこうとする考えだったというのです。

戦後、最後の兵学校副校長、大西新蔵中将が、このように語ったそうです。

「つまり、(4千名もの募集は)敗戦後に向けたものだった。
だから精神主義的教育はできるだけ排した。
最後まで伸び伸びとした教育を続けることができた」

終戦工作を続けた鈴木貫太郎が、当時の校長であった井上成美にこう言いました。

「井上君、兵学校教育の効果があらわれるのは二十年後だよ。
いいか、二十年後だよ」

二十年後の日本のために残す人材として、海軍が自分たちを集めたことを、
4026名のうち何人が知ったかはわかりません。
必ずしもその真意を理解して戦後の日本に貢献した生徒ばかりではなかったでしょう。

しかし、彼ら自身が恩義に思おうと、逆に国家に嫌悪すら抱こうと、終戦に際して、
海軍が、彼らに日本をこれからも存続させていくために働いてほしいという
「望みをかけた」、これだけは確かなのです。






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厭戦ビラと情報戦

2012-07-21 | 日本のこと

呉、入船山にあった呉史跡資料館に展示されていたものです。
本土空襲のついでに、このようなビラを米軍飛行機が落としていったのでしょう。
当時、このようなビラを拾ったら、必ず警察に届けること、というおふれが出ていたそうです。

言いたいことはよくわかるのですが、少し気になったので一言。
この手は「陸軍」「海軍」を表わしているわけですが、右側の海軍らしき袖。
どう見ても二種軍装の白なのに階級章がついています。
おまけにやたら線が細くてたくさんあり、まるで「記憶スケッチ」の海軍軍装のようです。


いきなり余談ですが、「ミツカン」という会社、ありますね。
ここの社章についての話なのですが、最初に海軍兵学校跡見学をしたとき、案内の方が、
「もともと海軍の袖章をモチーフにしている」とおっしゃったのです。
なるほど、ミツカン酢の瓶に書かれた意匠は、言われてみれば少佐の袖章と同じ。
そのときに「創業者の親戚が海軍少佐でどうの」と、詳しいところを聞いたようにも思うのですが、
帰ってきてあらためて調べてみると、ミツカンのHPにもウィキにも、海軍の「か」の字もない。
おまけに、社章の意味は、

酢の命でもある「味」「利き」「香り」の意味も持っており、下の丸○は「天下一円」を意味する

意味はそうなんでしょうけど・・。
モチーフはもともと創業者が自分の家紋から取って考案した、と言うことになっていますが、
商標登録をすることが商法で定められたのが明治17年と言いますから、
創業者が親戚の海軍士官の海軍袖章からモチーフを得たとしても、不思議ではありません。
しかし、戦後、軍にかかわる物事が「悪いこと」になってしまった後もそのまま商標を使い続けるため、
この起源を黒歴史として、公式には消してしまったのでは?
(本当に言ってたんですよ。解説の方・・・・)

さて、閑話休題。

なぜ、このビラが微妙に間違っているかと言うと、それはこれを作ったのがアメリカ人だからです。
米軍機によって撒かれたビラは、人心に「厭戦感」を与えるとともに、
「今あなた方が我々に爆弾を落とされているのは、日本の軍部のせいなんですよ。
我々だってやりたくてこんなことやっているんじゃない。皆で戦争をやめましょう」
という、啓蒙をするという目的があり、これもまた米軍の「情報戦」でした。

以前「白バラの祈り」というドイツ映画について感想を書いたことがあります。
大学でビラを撒いた学生三人がナチス法廷で断罪され、処刑された事件を描いた映画ですが、
この「白バラ事件」で、学生たちが撒いたビラも、ナチスを糾弾し、
「皆は騙されている」と訴えることで人民の自覚を呼び起こそうとするものでした。

映画評に「ビラをまくだけで世界が変えられると思っているソフィーたちの認識は甘すぎる」
という厳しい(笑)ものがあり、それについてもツッコませていただいた次第ですが、
この「ビラによって人心を扇動する」というのは、歴史も認める有効な情報戦なのです。
「たかがビラで処刑にするとは」
と、全ての人々はソフィーら学生たちに同情するわけですが、考えてみれば、ビラを配られる方
(この場合ナチ)が、情報戦を重く見、そういった活動の影響を恐れていたからこそ、
彼らをあのように急いで極刑にしたとも言えます。

「太平洋の奇跡―フォックスと呼ばれた男」、御覧になりました?
せっかく痛快な題材を元にしながら、超のつく大根役者を主役に据えてしまったため、
いまいち映画として画竜点睛を欠くと言った感のある映画でした。
(男前であることは認めますが)
この映画中、サイパンで山中に潜む日本人に対し、命の安全の保障と引き換えに
降伏を勧告するビラがまかれ、皆がそれを見るシーンがありました。

さらに先日感想を書いた「ひめゆりの塔」では、落ちてきたビラを見る少女たちに軍医(藤田進)が、
「敵のかく乱作戦だ。
我が軍は義烈空挺隊が敵の陣地を壊滅したという発表があったのだから」
と叱咤します。

あるいは「日輪の遺産」でも、終戦を知らせるビラが米軍機から撒かれ、
それを拾う少女たちに向かって陸軍少佐(堺雅人)が
「読むな!」と取り上げるシーンもありました。

日本人が終戦時の雰囲気を語れば、必ずそこに「ビラ」の存在があると言ってもいいでしょう。
厭戦気分をあおるとともに、ビラにはもう一つ、軍民の離間を謀る目的がありました。

ところで、外国人の製作するものですから、ビラにはなにかと突っ込みどころが満載です。

たとえば、ある米軍制作のビラですが、以下のような文章となっていました。

日本国民に告ぐ

あなたは自分や親兄弟や友達の命を助けようとは思ひませんか
助けたければこのビラをよく読んでください
数日のうちに裏面のとしてのうち四つか五つの都市を米空軍は爆撃します
(略)
兵器を米空軍は全部破壊しますけれども爆弾には眼がありませんから
どこに落ちるかわかりません
(略)
アメリカの考へてゐる平和といふのはたゞ軍部の厭迫からあなた方を解放することです
さうすればもっとよい新日本が出来上がるんです
戦争を止めるような新指導者を樹てて平和を回復したらどうですか

間違っていはいないけど、台湾の看板のように「文章にするには少し変」という文章です。
中でも「爆弾には眼がありませんから」には思わず「知ってる」と答えてしまいそうです。

さらに、冒頭の呉資料館で見たもう一つのビラ。




「恐怖からの自由」、これは、警官に誰何されているんですね。
何が恐怖なのかいまいちよくわかりません。
警官に行動を監視されている、ってことでしょうか。
それなら多分「特高」のことではないかと思われるのですが・・・。

「厭制からの自由」
この厭制という聞き慣れない言葉は、おそらく「戦時下に強制的に制定さるる法律」のことだと
思いますが、古い文献には使われていても、この頃も一般的な言葉だったとは思えません。
先ほどのビラの文言にも「厭迫」という言葉があり、これも日本語には無いような単語です。
言いたいことはわかりますが、この厭と言う言葉を使うのがアメリカ的には流行っていたのか?

「言語の自由」
おそらく「言論の自由」と言いたかったのでしょう。

「欲望の自由」
欲しがりません勝つまでは、なんて言わされているあなた方、騙されてるんですよ!
と訴えたい、これもわかりますが、挿絵がよくわからない。
ここに描かれているのは尾頭付きの乗った膳。
他の三枚の絵が「今のあなたがたの置かれているBADな状況」であることから考えると、
「こんな貧しい食事に耐えられるんですか?」と言う意味で描かれている気もするのですが、
これ、当時の日本の基準から考えると、すごい豪華なご馳走じゃないですか?
さすが米軍、日本が日頃から粗食であるということを全く理解していない。



このように、情報戦が有効であるからこそ、このようにせっせと米軍もビラを撒いたわけですが、
我が日本も負けてはいません。
主に南方で、米軍兵に向けて日本軍もビラまきをしました。

悪魔の姿をしたルーズベルトに、戦地に追いやられている米兵の姿を描いたビラ。
あるいは、フカの大きな口に迫られながら、恋人とのキスを思い出す米兵。セリフは
「同じ口でも大違い」

うーん。
このセンスはいまいちだと思うのはエリス中尉だけであろうか。

米軍兵士の心をがっちりつかんだセクシーボイスの日系人女性が、甘い声で彼らに
「もう戦争なんてやめて、帰りましょう。あなたのアリゾナの奥さんは今頃浮気しているかもよ」
などと語りかけた「東京ローズ事件」はあまりにも有名です。

このようなプロパガンダ放送を流した、有名な例をいくつか挙げておきましょう。


【第二次世界大戦

ホーホー卿ことウィリアム・ジョイス(ナチス陣営からイギリスに向けて放送、イギリス人)

アクシス(枢軸)・サリー(ドイツ陣営から連合国に向けて放送、イギリス人)

【日中戦争

南京の鶯(中国陣営から日本に向けて抗日放送、日本人)

【朝鮮戦争

ソウルシティ・スー(北朝鮮陣営からアメリカに向けて放送、アメリカ人)

【ベトナム戦争

ハノイ・ハンナ(ベトナム陣営からアメリカに向けて放送、ベトナム人)


新しいところでは、アルカイダのビデオに登場して米軍のイラク進駐を弾劾し、
米兵による殺人やレイプ事件を非難した、アメリカ人のアダム・ガダ―ンがいます。

何かと突っ込みどころの多いビラより、もしかしたら耳で聞く情報の方が、
人心を動かす効果はあったのではないかと思われます。

そしてなんといっても、「ひめゆりの塔」にも「太平洋の奇跡」にも、
その他多くの戦争映画にも描かれていたように、投降勧告の際、最も皆の
「厭戦気分」を揺すぶったのが、スピーカーから流される童謡や日本の流行歌であったそうです。


ところで、あの「政権交代」の前に、自民党が「マニフェストの嘘」というビラを撒きました。
民主党にはマニフェストを実行することなど不可能であるとし、なぜそうなるかという理由、そして
「民主政権で、これだけ日本は悪くなる」という未来予想図を書いたものだったのですが、
某テレビ番組ではこの行為(ビラを撒いたこと自体)をあげつらい、出演者全員で非難したそうです。

これは、「このビラが有効である」ということを民主党(と民主党を支持するマスコミ)が
認めていたということなんでしょうねえ。

勿論、その後の結果を見る限り、マスコミあげてのあの偏向報道には、
ビラなどでは到底太刀打ちできなかったということなのですが。



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州立公園の鵞鳥艦隊

2012-07-20 | アメリカ

ボストンに来ると、必ず訪ねる場所があります。
住居にしている地区から車で10分ほど走ったところにあるナショナル・パークです。
ホプキントンというこの公園については、二年前の夏にもウォーキングをする場所として紹介しましたが、
今日は、ウォーキングのコースの写真をたんたんと貼りながら、ここをご紹介します。



Dogwood drive と名前のついた小道を走っていくと、いつも車を停めるスペースがあります。
ここに停めておくと一周して帰って来たときも日影のままで、めったに他の車も停まっていません。
というか、朝9時にはあまり人影もなく、ときには誰にも会わないこともあります。



湖を左手に見ながら歩いていきます。
広大な公園にはこのようなピクニックエリアがあり、必ずバーベキューコンロが近くにあります。
指定場所以外の遊泳は禁止です。



浮きで囲まれた部分だけが泳いでもいい場所。
このビーチは犬を連れて立ち寄ることもできないことになっています。
砂に筋目が付いていますが、砂ならしのためのトラックが毎朝やってきています。

この見張り台に荷物を置いて、毎朝泳いでいるおじさんがいます。
「ミスター・ブラウン」と勝手に呼んでいます。
ミスター・ブラウンは、どうやら医師の奨めで膝に負担のかからない水泳を日課にしている模様。
今日は「俺は決められた場所だけを泳ぐ男じゃない!」
とばかりに、
浮き輪の柵の外を泳ぎまくっていましたが、危なくないのかなあ。
というか、気持ち悪くないのかなあ。

この湖、結構いろんな生物がいるみたいなんですよね。

 こんなのとか。

先日、珍しくこの時間にミスター・ブラウン以外に人影あり。
女性がデッキチェアで本を読んでいたのですが、いつも平泳ぎのミスターブラウン、
なぜかこのときはずっとクロールで頑張っていました。
ギャラリーがいると、なんかそういう風になっちゃう人なんですね。

ビーチを左に観ながら通り過ぎると、森を切り開いた公園内の道に入っていきます。



この日はこのあと雨が降ってきました。



確かこの日は人に一人も会わなかったと記憶します。
前方を大きな犬が横切った、と思ったら、鹿だったので驚きました。

  

一応夜間は車が入れないようにゲートを閉め、パトロールの車も回りますが、
木立に潜んで一人で歩いている人間を襲うつもりなら、いくらでもできそうです。
道から外れると、深い森になっていますが、そこは「トレイル」という散策道が通っています。
このあたりは豪雪地帯なので、冬はソリやクロスカントリー?も楽しめる模様。

 こんな感じで、緑のトンネルを抜けて行くようになっています。

 夫婦でウォーキングする人たち。

アメリカ人のデヴ混在率は世界一で、見回せば必ず周りに一人100キロ以上の体重の人が
いる、
というくらいなのですが、こういうところで朝から歩こうというひとに決してデヴはいません。
おそらく、知的レベルも高い層であると思われます。

この杖をついて歩いている老人も常連。

いかにも学者の雰囲気を漂わせており、勝手に「ドクター・ゴールドシュタイン」
と呼んでいますが、プロファイリングによると、ドクター・ゴールドシュタインは、
ハーバード大学の生理学の名誉教授で、かかりつけの医師に勧められて毎日歩いています。



この公園は1870年ごろ開発されたそうで、すでに140年の歴史があります。
このプレートは、公園のパトロンであった人物が亡くなったときに作られたと思われるもの。
アメリカ人は、こういう公園や公共の場所に、故人の名前を刻むために寄付をしたりします。
子供を亡くした親が、我が子が遊んでいた公園に遊具を寄付して、そのかわりそこに
名前を入れてもらうのです。

東海岸を見降ろす高台のベンチに
「2001年9月11日、ワールドトレードセンターで亡くなった誰それを偲んで」
と刻まれているのを見て、思わずはっとしてしまったこともあります。



いたるところに消火栓があります。
アメリカの消火栓はすべてこの形と色。
たまに黄色いものも見ます。
緑の中にアクセントのような赤い色が何とも美しい。

 

この建物は着替えなどをするところで、この向こうは左写真のビーチがあります。
この日は地元の幼稚園が集団で遊びに来ていて、ここにしては大混雑でした。


   

ビーチの反対側はこのようなピクニックテーブルのおかれた地帯があります。
木々の間を潜り抜けると、土手の上に出ます。

 この土手の上を歩くのが大好きです。

写真ではここにいるときの空気の匂い、始終どこから度もなく聞こえてくる鳥の声、
風の渡る湖面の漣、何も伝えることはできません。

わたしはここに身を置いている一瞬一瞬、
からだ全体に満ちてくる絶対的な幸福感を繋ぎとめるように味わいます。
わたしがこの世を去ったあとも、きっと魂はここを訪ねてくるだろうと思うほど、心が安らぎます。

ここにいる一カ月に体とこころに満たされたものを、残りの11カ月でアクアラングの酸素のように
使い果たしたころ、またそれを取り入れるために帰ってくる、そういう感じ。

この「自然を楽しむ場所」が、どんなコマーシャリズムに蹂躙されることもなく、100年以上
守り続けられているというのは、国土の広いアメリカならではですが、
羨ましいことに、このレベルの公園は、郊外であればわりとどこにでもあるんですよね。



いつも犬三匹連れて散歩している、ミスター・陳。
土手から湖にボールを投げ、犬をしょっちゅう泳がせています。
三匹のうち、一匹はいつも嫌がって入ろうとしませんが、みなお利口な犬たちで、
ミスター陳が「ステイ」というと、三匹とも置物のようにいつまでもじっとしています。



こうして見ると、犬って飼い主に似るなあ、と思いませんか。
このミセス・オグラディ(ファーストネームはドリス)は、いつも携帯をいじっています。
犬はその間ヒマなので、草の上をごろごろ転がって遊んでいます。

皆、今年毎日のように見る常連なのですが、
この何年か毎年訪れていて、その年の常連に次の年にもお目にかかるということは
今まで一度もありません。

去年、毎日すれ違って、向こうから挨拶してきたミスター・キムは、何日目かに
「どうしてあなたは私が歩いている同じ所に現われるのか?」と聞いてきた、
はっきりいって自意識過剰のすごくヘンな人でしたが、今年は本人が現われません。
(かなりほっとしました)

平日は前述のようにガラガラですし、常連もすぐにいなくなってしまう。
わたしは「一カ月しかいない」と思って一生懸命毎日楽しみますが、
いつでも来ることができるアメリカ人にとってはありがたみがあまりないのかもしれません。

ところで今日、土手をあるいていると、聴きながら歩いていたサングラス型のイヤフォンから
突然ipodの「軍艦行進曲」が始まりました。

周りの光景とこの曲のミスマッチに、曲を変えようとしてふと湖面を見ると・・・



見よ堂々の艦隊。
軍艦行進曲に乗ってこちらにまっすぐ向かってくるガチョウ聯合艦隊を認む。
一艦隊と二艦隊で、そのまま土手に入港すると、そのまま上陸してきました。

 

鳥好きのエリス中尉が彼らの群れに近付いて、写真を撮りだしたそのとき。
あちらこちらから、鋭い視線と共に、「シュー」「シュー」というガス漏れのような音が聞こえてきました。

 

音源はこの方たち。
なんと、立ち止まってこちらを伺っている外敵をガチョウが威嚇する声だったのですね。
猫も威嚇のときは「シャー」と言いますが、まさに同じです。
鳥類が威嚇する様子を初めて見たので、大喜びで?写真を撮りまくっていたら、



ついには首を振り、荒ぶるカンチョウ、いやガチョウ。
そういや中国語の「殺」って「シャー」って読むんですよね。



しかし、威嚇しているのは、群れの両端を守る「艦長と副長」だけでした。
残りの皆さん(雛含む)は全く危機感なくお食事を継続。
ガチョウにも指揮形態があり、群れを護るつわものがちゃんといるわけですね。
ガチョウですらこうやって仲間を守ろうとするのに(以下略)。



別の日、湖岸でカモメに接敵するガチョウ艦隊発見。



ちゃんと艦長らしきガチョウが「シャー」攻撃していますね。
せっかく広い湖なんだから、一ところで喧嘩してないで、もっと散らばればいいのに・・・。


 掲示板のお報せ。

グレイハウンドが逃げました~。
犬のシルエットの下には
「絶対に追いかけないでね。ただ連絡だけお願いします」
と書いてあります。

今頃彼はすっかり野性の血が覚醒して、森の中で狩りをして食いつないでいるのだろうか。
飼い主が心配するほどこのグレイハウンドは困っていないという気もしますが、どうでしょうか。







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江田島村の人々と兵学校の「兵隊さん」

2012-07-19 | 海軍

先日、呉に行き三度目の旧兵学校見学を果たしました。
呉が「海軍と共にあり、海軍と共に発展した街」であることも肌で感じました。
今日は、その中でもおひざ元として、その名が即ち「海軍兵学校」を意味するようになった、
江田島の人々と、兵学校の結びつきについてお話します。

冒頭画像は明治百年史蔵書の付録?に付いてきた、兵学校の往時の地図です。
20分の一位の縮尺なので字が全く読めませんが、この地図には教育参考館がありません。
大講堂(水色)の近くにある長細い二つの建物、その手前(赤)が赤レンガの生徒館、
上部に位置するオレンジ色で囲ったのが第二生徒館ですが、
それまで同居していた海軍機関学校が舞鶴に移転し、この校舎が空いたため、
ここに兵学校の貴重な資料を展示することになったのです。

ですから、旧兵学校の見学をした人は、この地図の下三分の一、
この地図では空白に見える部分だけを建物に添って歩いて見学したことになります。
見学コースを黄色の線で書いておきました。
全体のほんの少ししか公開していないというのがわかりますね。

その後、ここに現在も残る教育参考館が完成したのが昭和11年三月。
その直後の昭和11年四月には、67期生徒が入学してきます。(笹井醇一中尉の期です)
この67期240名の学生は、入校特別教育として、第一種軍装を着用の上、教育参考館において
東郷元帥の遺髪、ならびに戦死者、公死者の名碑に参拝することを最初に行いました。
以降、兵学校生徒は、入学して最初の海軍教育を、参考館の参拝から始めることになったのです。

因みに、この地図で緑で囲った部分には剣術道場、砲術教授所、事務所などがあるのですが、
この後これを移転して、そこに現在も残る新生徒館が建てられました。
完成は12年4月で、68期(鴛渕孝大尉、酒巻和男少尉、大野竹好中尉)からの生徒は、
このできたばかりの生徒館に入った最初の生徒です。

余談ですが、大野中尉は卒業時のハンモックナンバーは36位、その大野中尉を「秀才だ」と
自著で誉めていた作家の豊田穣氏ですが意外や意外?288名中の69位で上位。
優等生タイプに見える鴛渕大尉も、52番と、予想通り上位に位置しています。

さて、それまで何もなかった瀬戸内の漁村だった江田島に海軍兵学校ができて以来、
江田島の人々は兵学校と共にその生活を営んできました。

近隣の人々は、兵学校の始まりと共に起き、生徒が総員起こしの直後に行う号令練習が
まだ明けやらぬ朝の風に乗って聞えてくるのを時報のように聞き、
やがて空が白んでくると兵学校にある唯一本の煙突からまっすぐ煙が上がるのを認め、
「生徒さんたちは食事をしておられる」などと思いをはせたものだそうです。

先日の江田島訪問のとき、いまだに「下宿制度」が士官候補生たちの間に受け継がれている、
と聞いて、心から驚きました。
それを今日も「倶楽部」と称するのかどうかまでは、聞きそびれました。

下宿制度は、週末の休暇となったとき、江田島の民家が家を兵学校の生徒のために開放し、
我が家にいるように寛いですごすためにもてなした制度で、そこを倶楽部と呼びました。

兵学校の生徒は通常許可なく外出することができず、休暇日でもでかけられるのは江田島と
能美島だけ、買い物で商店に入る以外には、倶楽部しか立ち入ることができませんでした。

この倶楽部は学校が厳密に調査をした学校周辺の民家が指定され、生徒たちはそこで
囲碁や将棋に興じたり、読書をしたりして過ごします。
残された写真を見ると、みんなきちんと軍服のままで、なぜかアルバムを見ている人多数。

アルバムを見るのが面白い、というよりなにより、学校内の緊張から解き放たれて一息つける、
こういう時が、彼らにとって何よりの楽しみだったのでしょう。
そして、何と言っても下宿となった民家心づくしの食べ物。
食べざかりの彼らには、それだけでもありがたいものだったようです。

この倶楽部に「お金を払った」という話を一度どこかで読んだことがあるのですが、
それは後期のことで、最初の頃は島民の「好意」だけで賄われていたのではないでしょうか。
ある江田島島民で、家を倶楽部に解放していた人の話です。

「取り決めがあったわけではないが、いつの間にかそうなって、
そこで土曜日にはその準備で大変じゃった。
うどんを打ったり豆腐を作ったり、すし、汁粉、ぜんざい、餅、ミカン、芋、卵、白いご飯、
勿論お金なんかもらったことは無い。
分かるか。あの生徒さんたちは皆、将来日本の柱になるひとじゃからの。
楽しく食べてもらうのがただただ嬉しかった」

このように接待してもらう生徒も、礼儀正しく、島民に感謝を欠かしませんでした。
それだけではなく、例えば村に火災が発生すると、村民は手押しポンプで消火活動をしながらも
今に兵学校が来てくれるぞ、もう来るぞと待ち望んだものだそうです。
決して彼らは兵学校に救援を要請などしないのですが、何も言わなくとも彼らがそのうち
助けに来てくれることを固く信じていました。
そして、村民の信頼を裏切らず、兵学校の屈強の若者たちが隊列を組み、喇叭の音と共に
まさに地響きを立てて乗り込んでくると、皆は歓声をあげて道をあけ、
「もう大丈夫だ。兵隊さんが来てくれた」
といって、頼もしい彼らに全てを任せたのだそうです。

兵学校は日頃から地元の人々と緊密な信頼関係で結びついており、
当然のこととしてこのような時は後片付けまで完全に処理し、我がことのように誠心誠意、
村民のために働いたのです。

台風の季節には、江田島は被害を受けることが多々ありましたが、そんなときも、
翌朝には兵学校では必ず内火艇を出して海岸線を見て回り、島民の姿を認めると
「おーい、大丈夫か。変わったことは無いか」と声をかけました。
村民はまたも兵学校が来てくれたといって、海岸にたくさんが走り出てきます。
そして手を振り、声をからして「ありがとう」を繰り返し、そこに立ちつくしたのでした。




江田島の人々はこのように兵学校と共に在り、その存在を愛しました。
この地で幼少期を過ごした人の話によると、その卒業式の日になると、母親は、
参列することは勿論、中を垣間見ることもできないのに、子供に一番良い着物を着せ、
「静かにしているように」
と言い聞かせたのだそうです。

「いくら騒いだって兵学校まで聞えはしないのに」
内心子供心にそう思っていると

「今日は兵学校の卒業式のために天子様がこの江田島においでになるんじゃ。
もう少ししたら白い軍艦に乗られて、それを迎える練習艦が21発ずつの礼砲を撃つぞ。
びっくりせんように静かにここで見ておれ。
わしは式の終わる昼まで畑にも出んのじゃ。
鍬や鎌の音をガチャガチャさせては申訳ないからの」


明治生まれのこの父親の言は、当時の江田島の村民の、
兵学校に対する気持ちの一端を表わしているともいえましょう。

呉の駅前を写した一枚の写真には、たった一つ、どこかの菓子店が建てたと思われる
大きな看板があり、それに「海兵団子」と書かれていて微笑ましく感じます。

江田島だけではなく、呉の人々にとってもここに海軍兵学校があることが、
彼らの、そして郷土の誇りであったことが覗い知れます。






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アメリカ・スシ事情

2012-07-18 | アメリカ

「クリック」
という映画で、日本人ビジネスマンと商談に入る主人公に、上司が、
「彼らを待たせるな。生の魚を料理する時間も待てない連中だぞ」と言うシーンがありました。

昔、留学でアメリカに住んでいたとき、インド人のクラスメート夫妻を、
「日本人認定ジャパニーズレストラン」に招待したことがあります。
スシには喜んでいた二人ですが、TOが注文したサシミには、出てくるなりとたんに
「いや、もうお腹がいっぱいで・・・・」
インドという風土にはありえない料理ですから、スシはともかく刺身は、
おそらくインド人にとってハードルが高過ぎたのだと、その表情から理解しました。

とはいえ、ここアメリカではスシは普通に人気のエキゾチック料理。
ニューベリーストリートの角のお洒落なイタリアンレストランが、今年行ったらスシになっていて、
ランチ時、外のテラステーブルでアメリカ人が箸を使って寿司を食べてる様子はシュールでした。


今日は、アメリカで大人気、現在のスシ事情をネタにお送りします。(文字通り)

全米展開のオーガニックスーパー、「ホールフーズ」にはどの店にもスシ・コーナーがあります。
新しくオープンすると、当初こそ本物の日本人がいるのですが、いつのまにか
「見かけは東洋人だが日本人でない人」に交替しています。
はっきり言ってここのスシは、カリフォルニアロール(ノリが中に巻いてあって、具がツナとアボカド)
くらいしか食べる気もしないのですが、鮭とマグロを刺身にしてくれるので利用していました。

でも、高いんですよね。
食べ物の全般的に安いアメリカで、ここは小さなトレイに数切れのマグロが10ドル以上するのです。
といって、魚売り場に置いてあるのは生臭くて、とてもサシミなどで食べられません。
仕方なくこれを買っていたのですが、去年から、多分エコロジーへの配慮とか言う理由で、
サシミのトレイの受け皿が紙成型に(蓋は透明プラスチック)なってしまいました。
バランも敷かずに魚身を直接紙の上に乗せてしまっているわけ。
どうなるかわかりますよね?

エコかなんか知らんが、日本人ならこんな売り方は、まずしません。
何度も、底にくっついた貴重な魚身を、受け皿ごと捨てなければいけなくなって、
業を煮やしたわたくしは、ついに「お客様の声」というボックスに、次のような手紙を投入しました。

「毎年夏、日本からここにやってきて一カ月滞在する者です。
お宅のスシコーナーでは、一年前から紙のトレイをサシミに使うようになりましたが、
日本人に言わせると、これは全くありえないことです。
紙のトレイは魚の水分を吸収し、その結果、魚身がトレイにくっついてしまうからです。
受け皿もプラスティックに戻すか、魚身の下に、
プラスティックシートを敷いた方がいいと思います


しかし、この夏中の改善はありえないとしてサシミを諦めかけていたら、
このスーパーの冷凍庫にこんなものを見つけました。

 

ウオリキというニュージャージーの会社が出している「新鮮より新鮮」な「スシクォリティの魚」。
名前は日本風だけど、ニュージャージーというあたりがアヤシイ。
なぜなら、日本のブランドを利用して日本の会社の名前を名乗り商売している多くは
ここアメリカでは、日本人ではなく、コリアンであるという話があるからです。
(ニュージャージーはコリアン系の移民が多い)




これが中身です。
量的にはたっぷりですがこれが14ドル。
紙パックにほとんど身を取られてしまうサシミの値段を考えるとこんなものかもしれません。

魚が高いせいか、勢いスシも「高級料理」にカテゴライズされることが多いらしく、
ニューヨークの超高級スシレストランのイメージから、スシバー=オシャレということになっていて、
映画でもよく「スシバーでデート」というシーンを見ますね。
(ex.キャットウーマン、モンスターズ・インク)


ところで、日本では高級なすし店とはまったく対極の位置にあると思われる回転ずし。
「高級回転ずし」
という店の看板を見たことがありますが、これは「善良な悪人」「裕福な貧乏人」みたいなもので、
「回してる時点で高級じゃないし」と日本人であれば誰しも思うでしょう。

ところが、この「回転ズシ」、フランスや、ここアメリカでも、
結構「クール」なものとして認識されているようです。

今住んでいるところの地域に、唯一「ノードストローム」(超高級デパート)があり、
「ニーマン・マーカス」(高級デパート)があり、モールのアーケードにはアップルストアがある、
という、このあたりでは最もアッパーなショッピングモールがあります。
ルイ・ヴィトン、フェラガモ、ボッテガ・ヴェネタ、オメガにバーバリーという高級品が並び、
地元の富裕層の奥様などがショートパンツにビーチサンダルで訪れます。
(アメリカ人って、どこでブランド物を着たり持ったりしているのでしょうか)

去年の夏、このモールの、アップルストアの前のスペースが工事中で
「カミング・スーン!ジャパニーズレストラン、『ワサビ』!」とお報せがしてあり、
できたら行くのを楽しみにしていたのですが、オープン前に移動になってしまいました。
昨日、アップルに行ったついでに、息子とさっそくチャレンジ(本当にそんな感じ)してきました。



この、全く日本人の関与していなさそうな店の佇まいをご覧ください。
冒頭の写真が「スシ流し機」ですが、日本のベルト式とは違いますね。
さて、どんなスシが流れてくるのか。ドキドキです~!(←嘘)

冒頭の「ツナ・ニギリ」は、マグロ好きの息子がさっそく取り、わたしも一つ頂きましたが、
ん・・・・?これは・・・・・・もしかして、

すし飯に酢を使っていないのではないだろうか。


どんな場末の回転寿司でも一応酢の味くらいはするのが、
腐っても(腐らないように入れるんですがね)日本人の作るすし。
そして、いくら不味いすしでも、日本人のスシなら、すし飯が多すぎで崩れてしまうってこともない。

アメリカでインチキジャパニーズレストランにいくと「だしの味がしない味噌汁」を出されるので、
とたんにオーナーがコリアンかチャイニーズであることが我々にはわかりますが、
「さっと昆布を通しただけ」でも変わる出汁の味が、どうやら連中にはわからないらしい。
このスシも、もしかしたら酢くらいはわずかに使っているのかもしれませんが、
少なくとも昆布を混ぜて飯を炊くなどということは全くしていない「ただのご飯」でした。

「・・・・・なっとらん」
「そう?オレ結構好き」と息子。

小倉で超一流ずしを食べさせて勉強させたつもりでも、所詮は子供。
いまだに「スシロー」と聞くと目を輝かせるような奴なので、そういうものかもしれないけど、
息子よ。これは寿司ではない。ご飯と刺身だ。

しかし、こんな間違ったスシを出すわりには、回転ずし会計システムは、日本と全く同じ。



ツナ・ニギリは4ドル、つまり今は320円ってところですか。

 

タマゴ、キューカンバー・マキ。
このあたりは見かけだけは日本の回転ずしレベルです。

 稲荷。「イナリポケット」。

アメリカ人はこの甘いスシが大好きで、スーパーにも必ず売っています。

 このあたりから怪しいものが続々と登場。

カニカマ・クラブスティック。
日本じゃカニカマって、巻くことはあってもにぎりにはしないですよね。
それと、このカニカマとノリのコンビネーションが、イケてない気がするの。

 レインボー・マキ。

何がレインボーだよ、と思わず突っ込んでしまうわけですが、
三種類のネタをグラデーションさせてアボガドを入れたスシに巻きつけてあります。
わたしはこれを食べてみました。(コメントなし)

 スプリンクル・ロール。

チョコレートじゃないんだから、スジコやらトビコを色付けするのやめてくれんかな。



スプリンクルロールの中に巻いてあるのも、キュウリではありません。
これはすべてアボカド。
アメリカ人はなぜかスシというとアボカドを多用する傾向にあります。
日本ではそんなスシ見たことない、というと、さぞ彼らは驚くでしょう。
わたしはアボカドそのものは好きですが、すしネタとしてはいかがなものかと思います。

 カリフォルニア・ボルケーノ・ロール。

どうもウニ状のものを火山の溶岩に見立てているらしいのですが、
「見た目が汚いんだよっ!」(怒)

 

トーキョーサラダ(海藻入り)にドラゴン・ニギリ。
まったく、どれもこれも、ネーミングがいちいち日本人のセンスとはかけ離れておりますね。
とくにこの「ドラゴン」、見かけの汚さもさることながら、食べ物に「ドラゴン」と使うのは、
そりゃ日本人やない、中国人のセンスや。
上に乗っけたきゅうりの細切りをドラゴンの髭に見立ててございます。
そして上からマヨネーズをかける。
もう、何から何までカオスです。

 シュリンプ・テンプラ・ロール。

スシ、テンプラのコンボです。
確かに日本にも「天むす」っていうのがありましたね。スシじゃないけど。

 タイソンズ・ロール。

「タイソンって、マイク・タイソン?」(わたし)
「シェフの名前だとおもう」(息子)



どれがタイソンかはわからないけど、とにかくシェフの創作スペシャルということですね。
ご飯に裂いたカニカマをかけ、オカヒジキ、そしてマヨネーズがけ。
そもそもスシをわざわざ創作せんでもいい、と日本人は思うのであった。



まだ5時ごろでしたが、デートに来ているカップルあり。
なぜデートだと分かるかというと、女性が一応ワンピースを着ているから。
それにしても立派な体格の女性ですね。アメリカでは普通ですが。

 サシミメニューには、驚いたことにホッキガイがあります。



というわけで、お勘定。
ウェイトレスのおねえさんのスマイルマーク入り。
アメリカのレストランでは、テーブルにこういうビルを置いていきますので、もし現金で払うなら
チップを足した分を挟んで置いてテーブルを去ります。

カードで支払うと、サインを持ってきますから、そのときにチップを自分で請求書に書き足して、
やはりそのまま店を出るのです。
今回は23ドルを挟んでおきました。

やっぱり、食べた量にしては高いかな。



帰り道見つけた新しいスシレストラン。
日本人ならば決して使わない意味不明の漢字、その字体、
そして日本人であればてんぷら屋しか使用しないであろう「天一」という店名。
これはかなりの確率で中国人経営の店であろうとおもったら案の定、
Sushi Hotのあとに DimSum(点心)と言う文字が・・・・・。
いつも思うのだけど、アメリカ人には分からないからって日本の名前を使う。
彼らにはプライドがないんだろうか。ないんだろうなあ。

このあたりでどうやら日本人経営と思われるのは「Aoi」と「Oga's」いうレストラン2軒のみ。
「シェフ・オリエント」とか「トウキョウスシ」、ましてや「テンイチ」なんて、アメリカ人は騙されても、
日本人には名前だけでわかってしまいますよね。

まあ別に、何人が経営しても構わないけど、頼むからあんまり不味いスシを
「これがスシだ」とばかりに広めるのだけはやめてほしい。
日本人の心からのお願いです。





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呉~「海軍様々」の街

2012-07-17 | 海軍

先日、呉の駅前のホテルでの企画「海軍士官コスプレ」を嬉しげにやってしまったわけですが、
つまり、呉という市の名産、というか観光資源は「海軍」であるわけですね。

終戦により海軍が消滅しても、自衛隊の呉鎮守府じゃなくて地方隊があり、
元海兵団の教育隊があり、港には艦船があり、街を水兵さんや二種軍装の自衛官が普通に歩き、
江田島には旧海軍兵学校の建物がそのまま使われていて、大和ミュージアムは今日も盛況。
佐世保や舞鶴ももと鎮守府の港ですが、呉ほど旧海軍の名残りがある街ではないような気がします。
気がするだけで、実はどちらも行ったことはありません。
取りあえず今、それを知るべく、佐世保訪問の計画を立てているところです。

前回、入船山にある鎮守府長官官舎についてお話したわけですが、この入船山は、これだけでなく
歴史民俗資料館、郷土館などで呉の歴史を知ることができる施設を新たに造り、全体を「史跡」
としてこれも観光ポイントにしています。

この入口の門柱は、このようなもの。

  左側   右側

「墓石みたい・・・・」と言うと、案内の自衛隊元艦長氏の夫人と、ボランティアの解説人に
「まっさか~」「ハハハ」と一笑に付されてしまいました。
でも、これ「清心院 玉芳院の菩提のために」って書いてますよね?
清心院と、玉芳院って、誰かの戒名ではないのでしょうか。
墓石ではないけど、斎藤さんと言う人が、この二人の菩提を慰めるために、
ここに寄贈した門柱ではないのかしら。

この門柱は、どうやら大正3年に寄贈されたようです。
司令長官官舎に訪れる車は、まずここを通り、
この官舎に続く道の手前にある番兵塔で誰何を受けるのです。

 
ここで警備の番兵が、雨の日も風の日もひたすら立って任務にあたりました。
遠目にも、石の「お立ち台」に、足の形に跡がついているのがわかるでしょう?
これは、ここに立ち続けた番兵の足型そのままに、石が削れているのです。
しかし、後ろの小さな塔の内部は、木でできているのに全く傷んでもいません。
誰も見ていなくても、ずっと彼らは外に立っていたのでしょう。

官舎に続く道沿いに、このような建物があります。



これは、火薬庫。
爆発しても衝撃が上に逃げるように、側壁を堅牢な総石造りにしてある、全国でも珍しいものです。
「長官官舎の敷地内になぜ火薬庫が?」
と一瞬思いましたが、勿論これは、もともとここにあったのではなく移築、復元されたもの。
元は、あの「音戸の瀬戸」を望む休山(やすみやま)に、陸軍が建設したものだそうです。

火薬庫ですから、非常に小さなものなのですが、内部はちょっとした展示室になっています。

 九七式手榴弾。
日中戦争が起こった昭和12年に制定されたもので、「手投げ」専門。
てき弾筒に使うことはできませんでした。

 拳銃弾。



こんな形の一輪ざしがありますが(笑)、こう見えても立派な?手榴弾です。
中に火薬を詰めていたようで、それが図解で示されています。
勿論全くと言っていいほど破壊力はなかったようですが、これ、なんと驚いたことに、
大戦末期に金属不足を補うために作られたのだそうです。

以前「牛車と竹の増槽」について書いたことを思い出しました。
それにしても、釉薬をかけ、色づかいも気を遣っているように見えます。・・・手榴弾なのに。

これらがガラスケースに展示され、壁には地元の画家が描いた絵がかけられています。

 呉軍港の満艦飾。


 昔の中通り。

一緒に行った元艦長夫人は、呉に生まれ呉に育った生粋の呉人です。
この絵を見て「山の形だけは一緒」とおっしゃっていました。
なんでも、海軍のエライサンばかりが昔住んでいた、丘の上の高官専用地跡に住んでいたとか。
やはりそういう人の住宅は、今も昔も高いところに作るのでしょうか。




ところで、この絵。
整然と列を作るように一方向に向かう人々の群れ。
これは、朝、海軍工廠に通勤する人々の姿です。
ゲートルを巻いた水兵さんが、おそらく見張りのためにと思いますが、立っていますね。

これを見た艦長夫人が「皆、その当時の人にしては身なりがちゃんとしてるねえ」
解説の方が「給料も良かったんでしょうな」

それにしても、すごい人数ですが、実際海軍工廠がこの地にできてから、ここは文字通り
東洋一の規模を持つ設備の充実で、他の三つの海軍工廠(横浜、佐世保、舞鶴)全てを足したより
工員の総数が多かったと言いますから、これも当然のことでしょう。

冒頭の時計台は、海軍工廠造機部の屋上に、1921年(大正10年)設置され、
終戦のときまで工廠で仕事をする人々に時を告げていました。

復刻された四面の時計は、今も正確な時間を刻んでいます。

呉と言う街に住んで、何らかの形で海軍にかかわっていない人間はいなかったのでは、
と、工廠で働く工員の数だけを見ても思いますね。


1912年、この海軍工廠でストライキが起きました。
労働条件の改善を要求するためであったと思われますが、首謀者は検挙されています。
さらに、1818年、全国的に「米騒動」が起こり、ここ呉にも飛び火したとき、その鎮火のため
海軍陸戦隊と工廠労働者が対峙し、銃剣で刺された工員、二人が死亡したそうです。

何とこの騒動の参加者の中に、海軍の水兵がおり(と言うからには一人ではないのかも)
検挙されたという記録があるそうです。

そして、戦中は集中的に米軍がここを空襲したため、海軍工廠の関係者だけでも、
なんとおよそ1900人がその被害に遭い亡くなっています。


 

最後になりましたが、この敷地に入るとまず目に入る小さな家。
これは「旧東郷家離れ」。
東郷平八郎が1890年(明治23年)呉鎮守府長官であったとき(大佐時代)
に住んでいた家の離れをここに移築してあります。

渡り廊下で母屋と繋がっていた離れなので、おそらく東郷大佐は足を踏み入れることはなく、
おそらく使用人が寝起きしていたのだと思います。
そのせいでしょうか、ここの扱いは非常にざっくばらん。
青いジャンパーのおじさんたちは、ここの解説をしてくれるボランティアなのですが、
観光客が来るまで煙草を吸いながらここに待機していますし、
もしここで休憩したければ靴を脱いで座敷にも入れます。



戦後、呉海軍工廠の土地と設備は播磨造船所などが引き継ぎました。
呉造船所、石川島播磨重工業(現IHI)呉工場を経て、
現在はアイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド呉工場と称するそうです。



今回、呉生まれの何人かの方から「親から聞かされたのだが」という前置き付きで、
大和の建造中上に蓆が掛けられていた話を聞きました。
呉の人たちは、建造中から何らかの形で皆「大和」を知っていたようです。

「大和のふるさと」
このような大看板のかけられている、大和誕生の地ですが、大和の建造用ドックは、
1993年に埋め立てられてしまったとのこと。
この跡地は工場になってしまったそうですが、大和の修理を行った「船渠(ドック)」は現存しており、
自衛艦や米軍の艦船などが現在も使用中であるとのことです。

呉生まれ呉育ちの艦長夫人(ある意味この方も海軍関係者)によると、
呉の人々は「やたらプライドが高く、広島人などと馬鹿にしている」ということ。
このプライドの根拠と言うのが、もしかしたらずっとここが「海軍の街」で、
満艦飾の艦観式を見た話や、身内に世界一の戦艦大和を造っていた者がいる
などということと無関係ではないという気もするのですが、これはよそ者の勝手な解釈でしょうか。


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映画「人間魚雷出撃す」

2012-07-16 | 映画

戦後、人間魚雷回天をテーマにした映画はいくつかあります。

人間魚雷回天(1955)、
人間魚雷あゝ回天特別攻撃隊(1968)、
出口のない海(2006)、

そしてこの映画人間魚雷出撃す(1956)

回天そのものがテーマで無くとも、その中にエピソードとして回天がでてくるものは、
海軍兵学校物語 あゝ江田島(1959)
真夏のオリオン(2009)
ローレライ(2005)


この映画に付いて調べたのですが、ウィキペディアにも載っていませんし、
あらゆる映画サイトでも感想を寄せている人がひとりもいません。
戦争映画の中でも無名といっていい情報の無さかもしれません。

しかし、この出演者の顔ぶれを見よ。
冒頭画像以外にも、長門浩之演じる今西一曹の結核を患う弟役に、実際の弟である津川雅彦。




冒頭、森雄之演じる伊58潜水艦長がワシントンの軍事法廷(戦犯裁判ではない)で、
原子爆弾を日本に移送した後のインディアナポリスを撃沈したことについて説明しますが、
二世通訳という設定の超のつく美青年が岡田真澄だったりします。



余談ですが、この長門、津川の兄弟は「弟が美青年で兄が並みだったから」という理由で、
実の母親が徹底的に弟を贔屓して育てたため、長らく不仲であったそうです。
老境に入ってから仲直りをしたそうですが、この映画の頃は不仲真っ最中のはず。
「実際の兄弟に兄弟を演じさせる!」という話題を、制作側が狙ったんでしょうが。


気づいたのですが、後の潜水艦映画では「艦長」という言葉を発音する際、
一般の発音のように「かん」にアクセントを置いているものもあるのですが、
実際の潜水艦乗りたちは、現在残る実写映像(伊10のものなど)を見ると、
「ちょう」のほうにアクセントを置く独特の発音で「艦長」と言っています。
この映画では、先任将校(天草四郎)、航海長(西村晃)始め、全員がこの発音をしています。


この映画は、一見、「出口の無い海」のようにただ戦争の被害者としてのみ回天を描くことに
腐心しているようには見えません。

出撃した伊58。
艦長橋爪少佐(実際の伊58艦長は橋本以行・もとつら)の率いるこの潜水艦には、
黒崎中尉(石原)、柿田少尉(葉山良二)、久波上曹(杉幸彦)、今西一曹(長門)
という四人の回天隊員が乗っています。
このうち二人の士官は予備学生、そして二人の下士官は予科練出身という設定。



柿田少尉が、伊潜艦上にありながらも、慶応出身の軍医長に

「我々予備学生がどんなに苦しみ、どんなに戦って逝ったかを見届けてもらいます」


と言ったり、同じ慶応出身の黒崎中尉は、軍医長にだけこう述懐してみせます。

「今の日本はこんなことで救われるのでしょうか」

「学生時代にスポーツをやってたんですけど、こういうことは戦いの邪道だと思うんですよ。
しかし、もう、しなければならないと思うようになりました・・・しなければね」

伊潜の乗組員は、航海長の西村晃を始め、水雷長の安部徹などが、
(「乙女のゐる基地」で二枚目中尉を演じていた。ぎりぎり往年の雰囲気を残している)、
どんがめ乗りらしい腹の据わった感じと共に、豪胆にも見える明るさを持ち、
冷静かつ大胆な指揮官である橋爪艦長の下、乗員一丸となって任務に全力を尽くします。

その中でこの学徒出身の予備士官は「回天そのものへの疑問」を隠すことなくその表情に表わし、
なかでもこの軍医は、予備士官たちをうち眺めては、
その眼に同情とも共感とも言えぬ苦悩の光を浮かべたりします。



戦いの合間に「アンダンテ・カンタービレ」などとかけてみたり・・。(お約束)

戦いに疑問を持たない者たちと、持つ者(学徒)という構図の中で、この軍医長は、あたかも
予備学生の苦悩を唯一知り同情を寄せる傍観者、という位置づけです。

しかし、こういった描き方からは、実際の回天隊員が「何のために回天に乗ったのか」
と言う部分が欠けたまま、ただ、仕方が無いから伊潜に乗りこんでいるという印象が拭えません。

今連載中の漫画、佐藤秀峰氏の「特攻の島」では、乗り込んだ回天の不具合で出撃できない、
という場面がありますが、実際の回天戦でも、例えば菊水隊参加の伊36潜ですが、
搭載していた4基のうち3基が発進できなかった、という実例がありました。

このように、回天そのものが完成された状態で実戦に投入されたわけではなく、むしろ、
訓練と実戦の繰り返しのうちに改良が構築されていった、という経緯があります。
死を覚悟して出撃したのにもかかわらず、基が発進しなかったため生還を余儀なくされた隊員が
精神的に追い詰められるような事例もあったと思われます。

この映画でも、黒崎予備中尉は三度にわたる出撃に基の不具合で帰還した、という設定です。
訓練の失敗はもちろん、基の故障すら本人のせいにされ
「スクリューが回らなかったら手で回して突っ込め!」
と無茶苦茶な精神論をぶつ参謀がいて笑わせてくれます。

基の故障のため出撃できない、という状態になったとき、
黒崎中尉と今西一曹は、何度も「無駄死にさせたくない」という艦長を訪れては、
「二人で無事な一基に乗せて突撃させてくれ」と懇願します。
そして参謀の暴言ではありませんが、二基とも電源故障であることがわかったら、今度は
「手動で動かせるから出撃させてくれ」と必死で頼み込むのです。


回天の意義も、特攻に赴くことの意味も、つまりは何も納得していないらしい隊員が、
なぜここまで出撃を要望するのかということについては、あくまでも、
「上層部から何が何でも帰ってくるなと言われたから」と説明しているようなものです。
『我々の気持ち(生きて帰ったら何を言われるかわからない)も考えてください』
この台詞からは、いやいや出撃して仕方なく死んでいった、という心境しか見えてきません。


しかしこういった描き方は、さらっと観ただけでは、インディアナポリスを(回天ではなく)
水雷で沈めた伊58の潜水艦の戦いぶり、米駆逐艦からの激しい反撃と、それに耐える
潜水艦乗りたちの苦闘、などという「見どころ」に隠れて、その本音が見逃されがちです。


わたくしエリス中尉が個人的に日本映画史上5本の指に入る美男だと評価する森雄之の、
意外と無骨な潜水艦長としての演技。



ことに敵の爆雷を受けそれが爆発するまでの間の、潜望鏡を囲んだ、
伊潜上層部の面々の緊張した表情の素晴らしさ。



そして、インディアナポリスを轟沈せしめたときに、それまでの緊張に支配されていた艦内が
一転、「万歳」 の叫びで満たされる瞬間。



実際に潜水艦乗員であった槇幸氏の回顧本によると、本当にこのようであったようですし、
前述の伊10潜における戦闘も、こんな大げさではないにせよ緊張感はこのようなものでした。
誰か実際の元どんがめ乗りが指導にあたったのかもしれません。
因みに、資料は

「伊58帰投せり」橋本以行
「鉄の棺」斎藤寛
「人間魚雷生還す」横田実

などの、実際の潜水艦乗りによって、戦後書かれた本から取られています。

こうしたシーンが、実に丁寧な迫真のものであるだけに、
肝心の回天搭乗員の描き方に、なにか割り切れないものを感じずにはいられません。


回天特攻について戦後の世間は「非人間的な特攻兵器で、隊員たちは心ならずも
こういった『鉄の棺』に無理やり乗せられていやいや死んでいった」としか語らないが、
実際回天で出撃していく若者たちは、全く悲観や絶望などしていなかった。

こういう元回天隊員の証言を以前このブログで紹介したことがあります。

平和な世の中の論理では、この兵器が残酷で容認できないように見えるのは当然ですが、
ある隊員(兵学校卒)は、まるで「プロジェクトX」のように、隊員と整備員が一体となって、
訓練と、それに次ぐ反省、議論を重ね、成功に向けて努力を積み重ねる日々だったと語っています。
死は確かにおそろしいが、それを上回るのが「国を守りたい」という気持ちであった、というのが
かれらの、開発途上における気概であったことが判ります。

勿論、その立場や、任命の時期によっても、様々な考えを持つ者がいました。
戦後、特に予備士官出身の隊員には、回天像を恨みつらみから意図的に歪曲し、
あえて虚構を本当にあったことのように書いている人間などもいるようです。

しかし「国のために戦った」という事実を否定し、そういった声を無かったものにしようとする一派は
むしろこちらの「内部告発」を歓迎しました。
そういった「小さな修正」が、回天の「非人道」だけを史実として残していくことになったのです。

戦後の平和な社会は回天を非人道兵器としか評しませんが、乗っていた本人たちと、
そしてなにより敵だったアメリカ軍は「非常に有効な兵器だった」と認めているわけです。

実際の回天が敵に与えた心理的恐怖は大変なものだったと言われます。
見えない敵が(しかも人間が操縦して)海中をこちらに向かってくる。
戦後、アメリカ軍が本当に怖かったのは回天だけだった、という米軍関係者もいます。


しかしながら、乗せられるものの人権とか、人道非人道といった平和時の倫理はさておいて、
この有効な兵器は、決して有効な使われ方をしたとは言えなかったようです。
何より、黒木大尉、仁科中尉二人の若い士官よる「現場から生まれた兵器」であった回天に対して、
海軍上層部の理解があまりなかった、というのが主な原因のようですが、こんな話があります。

ある回天の作戦参謀は戦後、回天の本をたくさん書きました。
しかし、自分のの責任や失敗に就いては一切触れず、さらに
「戦争中、回天を見たことが無い」などと平気でいっていたそうです。
つまり、壮行式に出席して遠くから眺めただけの回天を、戦後得々と語っていたのです。

戦後、靖国神社の遊就館に展示されている回天を前に、この参謀がかつての下士官搭乗員を前に
「どんな兵器か見たこともなかった」と言い放ったので、それに怒った元搭乗員たちが、
回天にこの元参謀を押し込み、上からハッチをバタンと閉めてしまったという事件です。
あくまでも噂ですが。

戦後、回天の非人道ぶりを強調するために
「ハッチを閉めたら外からボルトでハッチを固定されて泣いても叫んでも出してもらえなかった」
などという悪質なデマが、テレビの番組などを通して出回ったそうですが、
元搭乗員たちは、そのままハッチををボルトで固定してやりたかったに違いありません。


確かに回天、桜花、そして特攻そのものが何度も言うように、
平和な世から見ると非人道そのものでしかない兵器ですが、これも何度も言うように、
当時そこに生きていた当事者の気持ちは、その時代の雰囲気、状況、
そう言うものごとの中にあって初めて理解できるわけです。
そもそも、同じものを語るにしても、あまりに前提が違うのです。

「私たちは可哀そうな人でもなんでもない。
当時は国のために命を捧げることに大いなる価値があった。
今の若者たちも、もしあの時代に生きていれば、我々と同じ心境になったはずだと思う」

実際の特攻の生存者は、異口同音にこう語ります。
それを思うと、この映画での回天搭乗員の描き方は、「当事者の気持ちを全く伝えていない」
ということになるのかもしれません。

他の部分が、非常に硬質で、かつ実際の戦いを再現しようという努力が随所に見られるだけに、
実にもったいないというか、残念に思われる映画でした。

でも、取りあえず個人的に石原裕次郎はかわいかった。(おい)

そして、なぜこの映画があまり評価されないのか。
考えてみたのですが、問題があるとすればこの題。
「人間魚雷出撃す」
これがそもそも地味すぎてよくないと思うんですけど・・。
サスペンスシリーズ風に、

「伊58潜帰投す~インディアナポリスを撃沈した潜水艦、
そこに乗り込んだ回天搭乗員たちの
戦い!美男艦長の下した苦渋の決断とは?
もし撃沈がもう少し早かったら広島と長崎の悲劇は防げたのか?
そして、どんがめ乗りたちの戦いぶりとは!息詰まる潜水艦戦闘シーン!
髪の毛の生え際から目が離せない西村晃と、元イケメン安部徹、両脇役の名演技!」


ってのはどうでしょう。







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