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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

15星15条星条旗とアメリカ国歌〜USS「リトルロック」艦内展示

2025-04-28 | 歴史

USS「リトルロック」砲塔内展示、続きです。
実は皆様にお詫びしなければならないことがあります。



前回、この星条旗をローンスターのテキサス海軍旗として紹介しました。
星一つの星条旗なんで、疑うことなくそのように判断したのですが、
別の写真を見たら、

「15星15ストライプの星条旗である」

と書いてあってのけぞりました。(比喩的表現)
だって・・・星が一つしか(見え)なかったんだもん・・・。

これに気がついた時には前回のログを仕上げた後で、
よりによってテキサスネイビーの絵まで描いてしまっていたというね。

まあ、思い込みとはいえこんなことでもないと、
テキサスネイビーについて調べることもなかったかもしれん。
と、誤りは誤りとして、肯定的に考えることにしました。

誰にも迷惑かけてないからいいよね?


で、ここにかかっている星条旗は何かというと、
15 Stars 15 stripes (15星15条)星条旗です。
説明にはこのように書かれていました。

星条旗
星15と縞15
1812年戦争を記念して

1795年には、ケンタッキーとバーモントを表す星条旗2本が、
オリジナルの13本から合衆国の国旗に追加され、合計15本となった。

1818年、連邦議会は、合衆国に加盟した各州について、
加盟後の7月4日に星を1つ追加し、
当初の13の植民地を表す13本の縞がある星とすることを宣言した。

1812年の戦争中、星条旗はフォート・マクヘンリーに掲げられ、
フランシス・スコット・キーによる国歌
『The Star Spangled Banner 星条旗』のインスピレーションとなった。

まず、アメリカの星条旗は州が増えるたびに
形を変えてきたことはご存知かと思いますが、



まずこれが独立13州(植民地)を表す独立後初のバージョン。
念のため、13週とは以下の通り。

ニューハンプシャー、マサチューセッツ、ロードアイランド、
コネティカット、ニューヨーク、ニュージャージー、
ペンシルベニア、デラウェア、メリーランド、ヴァージニア、
ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア


これに、1818年まで、
ケンタッキーとヴァーモントが加わって15週となった星条旗。

■ 国歌「星条旗」成立のきっかけとなった旗

詩人であり弁護士であったフランシス・スコット・キーは、
米英戦争を軍人ではない立場から目撃しています。

1812年に始まった米英戦争の最中、1814年、
キーは友人である医師、ウィリアム・ビーンズを含む捕虜の釈放を
イギリス軍と交渉するため、マディソン大統領の許可を得て
ボルティモア(メリーランド州)のマクヘンリー砦に入りました。

彼はイギリス海軍の戦列艦HMS「トンナント」に乗り込み、
捕虜の解放を交渉し、それに成功します。

しかし、キーと同行者は、イギリス軍の攻撃計画を耳にしたため、
戦闘が終わるまで上陸を足止めされて、経過を船上から目撃します。

イギリス海軍の16隻の攻撃部隊は、9月13日の日の出とともに
マクヘンリー砦への砲撃を開始し、砲撃は25時間続きました。

フランシス・キーが見た光景
爆弾の放物線が実際に線で描かれているのが画期的

雨の日中から夜にかけて、キーは砲撃を目撃し、
砦の小さな「嵐の旗」がはためき続けているのを観察しました。

「♩ああ、夜明けの光で、
夕暮れの最後の輝きに誇らしげに我々が歓呼したものが見えるだろうか。
その幅広の縞模様と明るい星が、危険な戦いの間、
我々が見守った城壁の上に、勇敢に流れていたものを」


砲撃中、HMS「エレバス」は「赤く輝くロケット弾」を700発、
重迫撃砲艦HMS「テラー」「ボルケーノ」「デバステーション」
「ミーティア」「アエトナ」は「空中で炸裂する爆弾」
1,500〜1,800発も砦に放ちました。

歌詞「♩ そして、ロケット弾の赤い輝き空中で炸裂する爆弾が」

しかし、死傷者や被害は最小限に抑えられました。
キーは、アメリカの勝利を知ると同時に、砦の上に意気揚々とはためく
大きなアメリカ国旗の光景に強く心を打たれることになります。

歌詞「♩夜通し我々の国旗がまだそこにあったことを証明していた
⁠ああ!星条旗はまだはためいているか?
自由の国、そして勇者の故郷で」



このときキーが目撃した星条旗こそが、この15星15条旗でした。

スコット・キーは感動のままに、船上で歌詞を書き始め、
イギリス軍から解放されてからホテルでそれを完成させました。

その後、ウッドロウ・ウィルソン大統領のもとで、
メロディのつけられたこの曲はプロの作曲家5人の手で編曲され、
独立記念日などで演奏されてきました。

作曲家の5人の中には、あのジョン・フィリップ・スーザがいました。

■ターレットパンフレット



星条旗の下にあるのは、(おそらく)
砲塔勤務メンバーに渡されるターレットの説明書だと思われます。

システム:砲
コンポーネント:砲塔 6/47 三連装 SF
MRCコード:G-44 W-4
サブシステム:砲塔 6/47 三連装 SF
関連メンテナンス:なし

階級:GMG3  GMGSN
M/H 合計:4.0
経過時間:2.0

メンテナンス要件 説明
1、ガンコンパートメントの機器に潤滑油を塗布します

安全対策

1. 標準的な安全上の注意事項を守ってください

2. 砲のロックとスライドの固定装置が確実に作動していることを確認する

3. Tバルブが閉じていることを確認する

4. トレインモーターコントローラーの回路ブレーカーがオフになっていて、
タグがついていることを確認する

5. 昇降モーターコントローラーの切断スイッチがオフになっており、
タグがついていることを確認する

6. スライド電源装置コントローラーの切断スイッチがオフになっており、
タグがついていることを確認する

7. スライド固定装置と砲のロック装置が解除されている時には、
砲の作業範囲に人がいないことを確認する

ツール、部品材料、試験装置

1. MIL-L-17672 MS 2075T-H を備えた 2 つのポンプ オイラー

2. MIL-L-17672 MS 2075T-H 準拠のレバー式グリースガン 2 個

3. きれいな布

4. 懐中電灯 (2)

5.警告タグ(3)

6. 1インチのペイントブラシ(2)

手順

注 1: すべての不一致を保守グループの監督者に報告します。

予備
a. スライドのロック装置が掛かっていることを確認してください。
b. 銃のロック装置が掛かっていることを確認してください。
c. T字バルブが閉まっていることを確認してください。

■フォックスグリーンビーチの戦い


砲塔内に架けられた額は、すっかり紙質が劣化していますが、
これはノルマンディ上陸作戦の一コマを描いた絵です。

海軍の援護射撃のおかげで、私たちは上陸することができた。
あの援護がなければ、絶対にビーチを越えられなかっただろう。

1st United States Infantry Division: Colonel S B Mason, Chief of Staff

フォックス・グリーン・ビーチの戦い
ノルマンディー、1944年6月6日

それは海軍艦艇の艦砲射撃のおかげ、というメイソン大佐ですが、
検索するとこんな絵が出てきました。


戦争画家として有名だった、アンソニー・グロス(Anthony Gross)
が1944年に描いたメイソン大佐です。

グロスはノルマンディー上陸作戦に同行し、
作戦開始後午後2時にアロマンシュ近くの海岸に上陸して、
上陸地点をスケッチし、海岸の塹壕で夜を過ごしています。

ポスターの下部に書かれた説明は次のとおり。


この日未明、世界がかつて目にしたことのない、
最大規模の水陸両用作戦が始まった。

午後半ばには、障害物の少ないビーチのわずかな隙間にも、
障害のある上陸用舟艇が散乱していた。

支援の波は、短距離および長距離からの砲撃が絶え間なく降り注ぐ中、
隙間を狙って円を描きながら前進した。

陸軍の砲を搭載した多くの水陸両用車が破壊されたため、
部隊に必要な火砲の多くが不足した。

海軍の駆逐艦がその穴を埋めた。

沿岸の射撃統制班が甚大な被害を受けたため、
駆逐艦は主に自らの視覚による測量に頼らざるを得なかったが、
それでも射撃の機会を捉えて目標を攻撃した。

彼らは、海岸にギリギリまで接近し、88mmドイツ製機関砲と
機関銃による複雑な交差砲火から上陸部隊を救うために、海岸を掃射した。

この海軍による砲撃支援により、水際での敗北は回避され、
苦戦を強いられていた部隊は橋頭堡を確保することが可能となったのである。


「リトルロック」が就役したのは1945年で、
そもそもノルマンディ作戦の時は生まれてもいなかったわけですが、
要するに、海軍砲の素晴らしさを讃え、
ノルマンディ作戦が成功したのは海軍砲の功績が大である、
ということをわざわざここで強調しているというわけですね。


続く。



「ピース・オブ・ロープ」山下奉文陸軍大将の処刑〜「リトルロック」艦内展示

2025-02-23 | 歴史

バッファローネイバルパークの「リトルロック」艦内の
展示ルームをご紹介しています。

■登舷礼を行う「リトルロック」


現役だった頃の「リトルロック」で登舷礼を行っている様子。
艦橋から撮られたちょっと珍しいシーンです。

元乗組員から寄贈されたというこのバトルヘルメットには、
コマンダーを表すCOMMという文字と、少佐の階級章がマークされています。
ヘルメットの縁にあるベルトについてはわかりませんでした。

そして、写真の左側のクロームの物体は、5インチ砲の火薬ケースです。
「リトルロック」が搭載していたのはMk.12で、就役時は6基でしたが、
タロスミサイル艦に改装されてからは1基だけとなりました。

その代わり、Mk.16の6インチ砲が1基だけ導入されています。

■ カジュアルティ・パワーシステム


こちらは展示ではありませんが艦のダメージコントロールシステム、
「カジュアルティ・パワーシステム」です。

本体には、

ライザー端子 3-56-2
ライザー端子2-56-2に接続
コンパートメントA-211-L内


と記載があります。
これは艦内のダメコンシステムで最も重要なものですが、
これ自体は単純な配電装置となっています。

船がダメージを負うなどの非常事態に、艦体を浮揚させるため、
あるいは危険な区域から脱出するために必要な、
重要な機械や装置のための電力源を確保する非常システムです。

カジュアルティ・パワーシステムは次のアイテムで構成されています。

○ ポータブルケーブル(ラックに収納されている)

○ 隔壁端子(バルクヘッドターミナル)
水密性を阻害することなく隔壁間の回路を連絡する
ライザー(高さを調節するの意)によってデッキ間が調整される

○供給源に繋ぐコネクション


 ライザー端子は、バルクヘッド端子と似ていますが、
ライザー端子同士、取り外すことができない装甲ケーブルで接続され、
それらは垂直方向に「ライズ」するために配線されます。

つまり、発電機から主甲板および第 2 甲板レベルにパワーを運ぶのです。


ここにあるのは配電盤で、電源パネルの端子は高音になるので、
カジュアルティ電源ケーブルが端子に接続される前に、
パネルへの通常の供給は遮断する必要があります。

非常用電源システムからは、操舵装置、IC配電盤、消火ポンプ、
消防室や機械室の補機類などに供給が行われます。

■ スカットルバット


俗語としての「スカットルバット」が、「噂」「ゴシップ」を表し、
この語源がこの水供給器であることは、
当ブログでも何度となくお話ししてきたところです。

航海用語の樽や噴水による水供給器=スカットルバットは、
水兵たちがその周りに集まって噂話をしたことから、
いつしかスカットルバットは噂を意味する言葉になったというわけです。


この写真は帆船で使われていた樽型のスカットルバットです。
バット(樽)には水を汲み出すための四角い穴が開けられています。


これはシースカウト(ボーイスカウトの海版)で行われている
「スカットルバット吊り上げ競技」の様子です。

帆船時代の樽のスカットルバットは、甲板の一階下に収納しますが、
その際、写真のような三脚を甲板のハッチの上に立てて、
保管庫からの出し入れを行う作業が日常的に行われていました。

この競技は、その作業と同じことを、水をこぼさずに行い、
その最短時間を競うもので、三脚の下に置かれた樽にロープを結び、
ドラム缶を規定の高さ(3フィート)に持ち上げるのを3回繰り返し、
地面にドラム缶を降ろして装備を元の状態までするまでが1ラウンドです。

水がこぼれたり、作業中誰かと話をしたら失格。
「優秀」とされるタイムは1分未満だそうです。

安全のために参加者はヘルメットをかぶっていますね。

■ 山下奉文大将処刑に使われたロープ(実物)


他の多くの展示艦と同じく、ここもまた館内は博物館となっていて、
「ベトナムルーム」と名付けられたコーナーには
海軍艦なのに陸軍ヘリ部隊や陸軍の女性についての展示があります。

そして、もう少し先に進むと、ほんの一瞬ですが、
我々日本人にとって看過できない展示が現れます。


第二次世界大戦時、マレー作戦の指揮官としてイギリス軍と戦い、
シンガポールを陥落させ、フィリピン攻防戦でアメリカ軍と戦った、
山下奉文陸軍大将の処刑を報じる新聞と、その際使われた
処刑用のロープの一部が展示されていたのです。


山下奉文元帥は、第二次世界大戦中の大日本帝国陸軍大将である。
マラヤ・シンガポール侵攻の最前線に立ち、
70日間でこの2カ所を制圧するという快挙を成し遂げ、
英国のウィンストン・チャーチル首相は、
日本軍によるシンガポールの無念の陥落を
「最悪の災害」「英国軍事史上最大の降伏」と呼んだ。

戦後、マニラでの裁判の結果、彼は戦争犯罪の有罪判決を受け、
1944年に日本が占領したフィリピンの防衛戦における部隊の行為により、
1946年に絞首刑で処刑された。

この写真は、有名な、山下大将がアメリカ軍に投稿した時のものです。
かつて恰幅の良かった大将の体はすっかり痩せていますが、ご本人は

「家内にはいつももっと痩せろと言われていたからちょうどいい」

と笑っていたとか。

以下、ここに展示されている写真とその説明です。

戦後、山下大将が裁判中に収容されていたフィリピンのロスバノス収容所

山下大将が処刑された絞首台

処刑直前、黒い頭巾をかぶっている山下大将が見える


処刑執行したメンバー

写真左から2番目のハワード・ロス(写真左から2番目)は、
山下大将の最後の言葉が

「May I face the East.」

であったと回想している。

処刑寸前、山下大将は皇居の方角に頭を下げ遥拝を行いました。

山下大将が処刑された後4、5日して、フォリピン第一キャンプの入り口の
本部前の掲示板に処刑の写真が四つ切り大に引き伸ばされて、
11枚のシリーズで張り出されたといいます。

その11枚とは下の通り。(wiki)

1、刑場の全景
2、山下が患者輸送車から下車する場面(囚人服姿)
3、階段の手前の山下
4、十三階段途中の山下
5、十三階段の一番上の山下
6、山下の首に縄がかけられた状況
7、蹴り板がはずれて釣り下がる
8、下半身が黒見を帯びた袋に入れられつつあるところ
9、完全に袋に入れて、遺体を運ぶところ
10、遺体を担架に乗せるところ
11、担架の前で日本人の僧侶が読経しているところ

ここに展示されていた写真は「1」以外相当するものがありません。

11枚の写真は海軍の公式カメラマンによって撮影されたものであり、
ここにあったのは、現場に立ち会うことを禁じられた報道関係者が
なんとか処刑の様子を収めようとこっそり撮影したものと思われます。

■ 処刑を報じるイギリスの新聞


山下奉文が絞首刑になったのは、シンガポール陥落で煮湯を飲まされた
イギリスと、マッカーサーの報復感情が大きく作用したと言われています。

これはそのイギリスの発行した新聞です。

「山下と太田、絞首刑に」

と赤字で大きくタイトルがありますが、実際の処刑についての記事は
一番右だけになります。

「他の日本軍戦犯も処刑される」

マニラ 2月23日-(UP)
本日午前3時、ロスバニョスのフィリピン拘置更生センターで、
山下奉文元大将が絞首刑に処された。
他に2人が絞首刑に処された。
太田誠一大佐と東路琢磨である。
AFWES-PACの命令により、報道陣とカメラマンは刑場から退出させられた。

シンガポール陥落の際、山下大将がパーシバル中将に「イエスカノーか」
と降伏を高圧的に迫った、という噂については全くのデマで、
ご本人、日露戦争の「乃木-ステッセル」会談みたいになればいいな、
と思っていたら、もうとにかく通訳がグダグダで何を言っているかわからず、
その苛立ちもあって「いやだからどっちなんだって聞いてるの」
みたいなことを言ったら、変に脚色されてしまったらしいですね。

全くお気の毒としか言いようがありません。

ついでに、この日の新聞のヘッドラインは他に何が書かれているかというと、

「空挺部隊と反乱軍が砲撃戦で64人の死者を出す」

「カナダ、シャープノートを獲得」

【オタワ2月28日】
ソ連のスパイ組織に関するカナダ政府の立場を批判するロシア語のメモが、
昨日遅くカナダ政府に届いたことが、外務省関係者の話で明らかになった。

「エジプトの学生騒乱で23名が死亡」

「3月7日に米国で電話ウォークアウトを実施」
(電話会社のストライキ)

「インドネシア軍」

【バタビア、2月23日-(UP)】
セレベス北部のゴロンタロに2万人のインドネシア軍が集結していると、
昨日、民族主義新聞ムルデカが報じた。
ムルデカ紙によれば、この軍隊は完全装備で、
地元の先住民当局の同意を得て、
すでにドルサンクとモンゴンドゥールを占領している。

以上となります。

山下大将を戦犯として処刑したかったアメリカとイギリスは、
なんとかして残虐行為の責任を被せようとしましたが、
どの証言者の口からもその名前が聞かれることはありませんでした。

裁判に立ち会ったイギリスの記者が次のようなことを書き残しています。

「山下裁判はきょうもつづいた――しかしこれは裁判ではない。
審理でさえあるかないか疑わしい。
昨日は山下の名は一回だけでた。今日は一回も出なかった。

裁判をする軍法委員会は、いかなる法律や、証拠の規定にも
拘束されないかのように、裁判をすすめている。

私は日本人の弁護を扱ったことはない。
しかしイギリスの法廷なら、山下の場合のような
杜撰な告発は受理されないだろう。

裁判は軍司令官は兵隊のどの行為にも責任があるということを
制定しようとしているらしい」

アメリカの法曹関係者にも、この裁判が
復讐と報復が目的であることを見抜いていた人がいました。

「もし敗戦の敵将を処置するために、
正式な手続きの仮面をかぶった復讐と報復の精神をのさばらせるならば
それは同じ精神を発生させ、
全ての残虐行為よりも永久的な害毒を流すものである」

マーフィー米最高裁判事 wiki

そして、最後まで堂々とした山下大将に対し、アメリカ人弁護人は
感嘆と尊敬の念を抱いていたといいます。

「彼には威厳と平静さがあった。
勝利者になろうが、敗北者になろうが、司令官になろうが、
捕虜になろうが、彼は男らしかった。
(中略)彼の眼は深くて思慮があった・・人生を見つめて来た者の眼、
人生を理解し、死を恐れない者の眼・・」

弁護人フランク・リール大尉 wiki


ところで、絞首刑のロープが細切れにされて展示されているのには、
細切れにすれば各方面に記念品として配りやすいからで、
これこそ、アメリカに伝わる悪しき慣習の成れの果てです。



このロープの別の一部分がここにも・・・。

山下大将の横に、武藤章(東京裁判で処刑)参謀(当時)がいます。

武藤中将は、フィリピンで山下に切腹することを提案するも、
逆に説得されて現地で降伏し、降伏調印を行っていますから、
この写真はその時のものかもしれません。

武藤中将は、東京の軍務局勤務が長かったので、連合軍は、
東京裁判に出廷させ、そこで裁くことを決めていたため、
山下大将が裁かれたマニラ軍事法廷では起訴されずに帰国しました。

これで現在世界に二つのロープのピースが現存することがわかったわけです。

絞首刑のロープを切り刻んで記念品にする(か売り捌く)行為に対し、
アメリカ軍はもちろん、これを不適切として公式には禁じていました。

基本的にはこの命令は守られたのですが、
軍部や死刑執行官の目をかいくぐって不法行為を犯す者は絶えず、
処刑が行われたこのフィリピンの刑務所でも、それは行われました。

もちろん、そんな敬意を欠いた不謹慎な記念品に一体なんの意味があるのか、
と不快に思う人の方が、特に現代では多数であるせいか、
この「遺物」が必要以上に重要視されることもないわけですが・・・。

■米軍の投降勧告ビラ



アメリカ兵に告ぐ!

「私は抵抗をやめました」
このリーフレットは、抵抗をやめようとする日本人に
人道的な待遇を保証するものである。
直ちに最寄りの将校のもとに連れて行くこと。
最高司令官の指示による

終戦が決まり、日本人に降伏し、良い待遇を受けるようにと投下された
アメリカ合衆国の降伏ビラ。



この小さな旭日旗が何を表しているのかは説明がありませんでした。
絹の搭乗員スカーフを使って手作りしたように見えます。


続く。



メイン推進プラント〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2025-02-20 | 歴史

バッファローネイバルパークのタロスミサイル艦「リトルロック」、
艦内展示をご紹介しています。



「リトルロック」記念区画(ここ)を改修するため、
寄付してくれたUSS「リトルロック」の元乗員、そして
場合によってはその遺族に捧げられた認識票の壁、
「ウォール・オブ・オナー」と呼ばれる展示です。


真ん中の窓を覗くと、何か見えそうですが通り過ぎてしまいました。

よく見ると、いくつかのタグは名前が刻まれていません。
今後、寄付があれば名前を刻むシステムなのだと思われます。


この寄付呼びかけを行ったのは、1946年から1947年までの間、
「リトルロック」に、

MM1C
(Machinist's Mate Petty Officer First Class Machinist's Mate 1st Class)

として乗り組んだ、

Lyle H.Swatek ライル・スワテク氏

であり、寄付を行ったのは彼の遺族です。
スワテク氏は2018年に90歳で逝去しました。

お葬式の記事によると、彼は戦後父親の仕事だった石油販売業を拡大して、
自分の事業を広く展開し、全米石油販売協会の会長にまでなった人物です。

彼は「リトルロック」での1年間の任務を心から誇りにしており、
成功してからはバッファローネイバルパークにおける
「リトルロック」の展示実現に尽力しました。

彼がいかに「リトルロック」を愛していたかは、遺言により、遺族は
故人への献花の代わりに「リトルロック協会」への寄付を呼びかけている、
ということからもうかがい知れるというものです。

アメリカには、維持費が集まらずに、廃艦の危機を迎える歴史的軍艦、
わたしがボストンで見学した「セーラム」のように、寄付を呼びかけるも
うまくいっていない艦、スクラップにされてしまった艦が多数あります。

「リトルロック」は、社会的に大成功を収めたかつての乗組員が、
このスワテク氏のように、並々ならぬ愛情と熱意を持って、
その地位とコネクションを使って存続を実現させた数少ない例と言えます。

■ Mk.V ガスマスク


マークV防毒マスク

ネイビー・ダイアフラム(NAVY DIAPHRAGM / ND)マークV防毒マスク
は、1957年に米海軍の洋上部隊のために実戦配備されたもので、
プラスチック製の単眼バイザータイプの接眼レンズを使用していた。

Mark Vはレンズが広いため視野は広いが、曇りやすい。
マークVマスクの面体には、2つのClフィルターディスクキャニスター、
スピーチダイアフラム、排気バルブがある。

調節可能な5本のストラップ付きラバー製ヘッドハーネスにより、
快適かつガスタイトなフィット感を提供。
NDマークVガスマスク用のグレー、
またはカーキ色のキャンバス製キャリングバッグには、
腰にフィットするベルトが付いている。

マスクに加え、小型の金属製容器に入ったM13人員用除染キット1個と、
M5/MSAl保護軟膏キットが収納されている。
後者は綿布と3本の保護軟膏からなる。

フィルターキャニスターが2つあることで、保護性能は向上するが、
その分、吸入抵抗が大きくなる。

つまり、通常の作業条件下で呼吸するためには、
より多くの努力が必要となるということである。

ちなみにダイアフラムという言葉そのものは、横隔膜を意味します。


6"/47 CALIBER NAVAL GUNBRASS POWDER CASINGSTORAGE
CONTAINER ANDPROJECTILE
6"/47口径 海軍砲 真鍮火薬薬莢 収納容器 及び発射薬


砲(海軍では『ライフル』と呼ばれていた)は、150ポンドの砲弾を
13マイルの距離から地上および海岸の標的に発射することができた。

仰角41度での最大射程は14.5マイル。
砲弾の重量は様々で、徹甲弾の重量は130ポンド、
高容量砲弾の重量は105ポンド、耐久砲弾の重量は105ポンドであった。

弾薬は半固定式(semi-fixed、砲弾と火薬ケースは別々)。
これらの砲の火薬ケースの重量は105ポンドであった。



おそらく上の写真に写っているのと同じ砲の写真です。
艦内の見学を終わって甲板で撮りました。

マーク16が搭載されたのはUSS「ブルックリン」「ファーゴ」、
そして「リトルロック」の「クリーブランド」級の計38隻です。
「クリーブランド」級は、四つの三連装砲塔に12門の砲を備えていました。

上の写真に見られるように、主に三連砲塔に搭載され、
基本的に対水上を目標とする設計がなされています。

■ ロッカーと思ったら・・・


一日でいくつもの軍艦を巡らなければならなかったこの日、
先を急ぐあまり、このロッカーがただのロッカーでないことを、
薄々わかっていながら近づいて点検することをしませんでした。

後から写真をチェックして、猛烈に後悔しています。



そのうち三つのロッカーには、「OPEN ME」の表示。
中から灯りが漏れていて、開けると何か展示があるようなのですが、
あまりに急いで通り過ぎたので、チェックしませんでした。



左上は、この窓から中を除き、下のボタンを押すと、
おそらく何か映像を見ることができる仕掛けでしょう。

「組織」「艦隊でのルーチン」「特別な場所」「イベント」

のボタンを押すと動画が見られたのかもしれません。
こちらは「Crew」(乗組員)であり、



こちらは「THE SHIP」なので、おそらく艦全体についてです。
もう少し心に余裕があれば、立ち止まってチェックできたのに・・・。

■ 主推進プラント


これも大変残念なのですが、大事な展示なのにボケてしまいました。

ガラスに取り替えてある扉越しに撮った写真がこれです。



プロペラ(スクリュー)を動かすためのプラントの一部です。



推進システムについて説明があるのですが、
フネの形が縦なのでちょっと横にしてみました。

説明は「メーコン」「リトルロック」勤務だった元機関士官によるものです。

【メイン推進プラント

クローズド・サイクル推進プラントの流れ
このプラントでは同じ水が繰り返し使用される

ボイラーを出た水は過熱蒸気となってタービンに送られ、
そのエネルギーはタービンのシャフトを通して機械エネルギーに変換され、
減速(Red'n)ギアを通って船のプロペラを回す。

排出された蒸気はタービンの下にあるメインコンデンサで凝縮される。
その後、脱気(DA)給水タンクに汲み上げられ、ボイラーへの給水となる。
追加の補給水は、メインコンデンサーを経由してサイクルに導入される。

エンジニアリング・スペース
消防室 (2)
ボイラーは2階建てで、最大634psiの圧力で運転され、
予熱された燃料油で供給される複数のバーナーに
強制通風空気圧を使用して、約360度の過熱(850度)の蒸気を発生させる。
アップテイクには、ボイラーテンダーが空気供給を調整するために
煙を監視するための潜望鏡が装備されている。

ボイラー水は脱気(DA)フィード・タンクから供給され、
上層階に配置されたボイラー・テンダーが常に水位を監視する。

エンジンルーム (2)
スロットルとゲージボードは、上層階にある高圧(HP)タービンと、
低圧(LP)タービンの制御と監視を行う。
主減速機は両階にあり、主潤滑油フィルターは下階にある。


メインコントロール:
当直機関士官のステーションは前部機関室にある。
4つのプロペラの回転数、重要なバルブの位置、蒸気圧が表示される。
ブリッジや他の重要なエリアとの直接通信が可能である。

注釈
各エンジニアリング・スペースは3つのレベル
(ファースト・プラットフォーム、セカンド・プラットフォーム、ホイド)
に分かれている。図面は縮尺通りではない。
蒸気ラインは描かれておらず、水道ラインも描かれていない。

作成者
ジョン・R・ロバーツ
(USS『メーコン』(CA-132)乗艦B師団士官
USS『リトルロック』乗艦M師団士官、1959-1952)


続く。


アイゼンハワー「鉄の十字架」演説とTHE NAVY WAY

2025-01-13 | 歴史


USS「リトルロック」艦内の博物館展示を見ながら歩いています。
前回の従軍牧師コーナーから、士官区画までの間の壁に、
パウチされた二つの引用文が展示されていました。

まず一つが、アイゼンハワー大統領の演説の一部です。

■ アイゼンハワーの演説「平和へのチャンス」



アイゼンハワー大統領が1953年4月16日、アメリカ新聞編集者協会で

「鉄の十字架演説」としても知られる演説を行いました。

軍人であるにもかかわらず(軍人だから、とも言えますが)
軍事費増大に強く反対する主張でアイゼンハワーが大統領選に勝利したとき、
朝鮮戦争は膠着状態のままでしたし、そんなとき、
ちょうどソ連が原子爆弾を完成させたというニュースは、
ソ連に対する強行姿勢と軍事力の増大に国内を傾かせていました。

その時、絶対的指導者ヨシフ・スターリンが死去しました。

このことはソ連に「パワー・バキューム」(権力の空白)を生みましたが、
言い換えれば、これは新体勢との和解のチャンスでもあるわけです。

そのことをアイゼンハワーは演説の中で、

すべての人々にとって公正な平和が実現する可能性」

と冒頭で述べています。



まず、第二次世界大戦後の米ソの姿が語られます。

「第二次世界大戦が終戦した時、我々は彼らと戦勝を祝い、
平和の時代を築く展望を共有した仲だったのに、
あっという間にお互いは別の道を選んで袂を分かった」


そして、大国が軍拡を恣に推し進めた結果、現在の人類はあたかも

「鉄の十字架に吊るされている」

状態にあると続きます。
冒頭写真で抜粋されているのはその有名な一節です。

「製造される銃、進水する軍艦、発射されるロケット弾。
これらは極論すれば、飢えているのに食べ物を与えられていない人々、
寒さに震えているのに衣服がない人々からの窃盗で成り立っています。

世界の軍拡のためには金銭だけが費やされるわけではありません。
それは労働者の汗、科学者の才能、子供たちの希望が費やされます。

例えば、最新式の重爆撃機1機のコストは、
近代的なのレンガ造りの学校一つの建造費に相当します。
人口 6 万人の町に電力を供給できる発電所2基分です。
設備の整った立派な病院が二つできます。
コンクリートの高速道路約50マイル分です。
戦闘機一機は小麦50万ブッシェルと同額です。
駆逐艦一隻の費用は、8千人が住める新築住宅に相当します。

繰り返しますが、これは本当の意味の生き方とは全くいえません。
戦争の脅威の雲の下で、人類は鉄の十字架に吊るされているのです。」

そしてアイクは、果敢にもこのようなことを提案します。

ソ連は戦後好き勝手に軍拡して第三次世界大戦の脅威となりつつあるが、
(ツッコミ:戦後軍拡してきたのはアメリカも同じなんだが)
ちょうどスターリンが死に、一つの時代が終わったことだし、
ソ連もこの際?自由世界とのすり合わせによって平和を探求してほしい、
アメリカはそれを手助けするために一肌脱ぐから、ね?

それにはどうすればいいかというと、つまり「軍縮条約」です。
米ソで話し合いをして軍事拡張競争をトーンダウンさせましょう、
そのためには以下のことを決めましょう、と彼は続けます。

1. 国際比率による武力の制限
2. 軍事目的の戦略物資の総生産量の制限
3. 原子力の平和利用、核兵器の禁止、原子力の国際管理
4. 破壊力を持つ兵器の制限または禁止
5. 国連による査察制度を含む適切な保障措置によって以上を施行

要はかつてのワシントン・ロンドン軍縮条約と同じことをしようと。

しかし、ソ連がおとなしく交渉のテーブルにつくわけないし、
奇跡的にそれが実現したとしても、互いの利益をめぐって対立したとき、
かつての日本ではないですが、椅子を蹴立てて帰ってしまい、
交渉決裂、ならば戦争だ、とならない保証はどこにもありません。

アイクは、ジョン・レノンいうところのドリーマーだったのでしょうか。

軍縮することで節約できたら、それを世界援助および復興基金に充て、
未開発地域の支援、公正な世界貿易の推進を行い、
誰も苦しまない平和で豊かな世界が構築できる、として、

そして、それは必ず実現できるはずである、なぜなら
我が国のみならずロシアや中国の国民も含め、
すべての国民が平和を渇望しているはずだから。

神が人間を創造したのは、大地と自らの労働の成果を
破壊するためではなく、
楽しむためであるはずだから。

と、このように演説を終えました。


しかし、現実は過酷でした。


アイゼンハワー政権下では実際には冷戦が深刻化していき、
政治的な圧力によって軍事費は増大して行かざるを得なくなるのです。
そして1961年の退任演説では、ついに

「軍産複合体の腐敗した影響に対して国家は警戒すべき」


という言葉を残して政界から去りました。

ちなみにこの、

「軍産複合体」

Military–industrial complex=MIC

という造語を作り出したのは他でもないアイゼンハワーであり、
軍に武器、装備、サービスを供給する防衛産業との関係をいいます。

アイクの退任演説についても述べておきます。

Eisenhower's Warning about the Military-Industrial Complex

平和維持に不可欠な要素は、抑止力のための即応軍事力であり、
巨大な軍事組織と大規模な軍需産業の結合、発展は自然な流れだった。
しかし、政治の側は軍産複合体による不当な影響力の獲得を警戒すべきである。

この組み合わせが我々の自由や民主的なプロセスに危険を及ぼしてはならない。
警戒心と知識を持って適切にそれらを制御されなくてはならない。


この演説はその後のベトナム戦争への流れに対する警告となりましたが、
それが実際にはどうなったかは後世の知るところです。

■ THE NAVY WAY



海軍のやり方

私たちは長い間、わずかなもので多くのことを成し遂げてきて、
何もなくても何でもできることを証明したのです。

つまり、海軍は、非常に少ない、限られた資源でなんでもやってきたので、
今ではそれが当たり前になっている、というわけです。

ただし、この言い回しはアメリカ六軍全てに応用されております。
そのように評価された元祖はマッカーサー(陸軍)だそうですが、
他は以下の通り。

空軍のやり方(空中空輸)

ラングレーから飛び立つ給油機は、1950 年代初頭に建造されたもので、
給油高度、給油速度にも限界があり、また、老朽化の問題もあるが、
「私たちは長い間、わずかなもので多くのことを成し遂げてきたので、
今では何もなくても何でもできる」をモットーにしている。

海兵隊のやり方

ベトナム戦争に従軍した多くの海兵隊員はこう思っている。
「海兵隊員は長い間、わずかなもので多くのことを成し遂げてきたので、
今では何も持たずに何でもできる」
加えて、平和のために戦う者にとって、生命と自由は、
守られた者には分からない味わいを持つ。

沿岸警備隊のやり方

沿岸警備隊員は、少ない資源でより多くのことを為すよう求められている。
なので、いずれ誰か”何もなくても全て成し遂げよ”と言い出すだろう、
というのが冗談になっているが、必ずしも冗談に思えないのが辛いところ。

海軍のやり方(パイロット)

海軍の「配達人」、プロペラ付きの旧式の飛行機で
今も世界中を飛び回っている VR21 飛行隊のパイロットはこう言う。
「私たちは長い間、ほんの少しの物で多くのことを成し遂げてきたので、
今では何もなくてもほとんど何でもできるのです」

続く。

公式には「紛争」だったベトナム戦争〜USS「リトルロック」ベトナムルーム

2024-12-20 | 歴史

「ベトナムルーム」を終わったつもりでしたが、あと一回続けます。
USS「リトルロック」艦内を利用した展示室、
「ベトナムルーム」の展示から、主に戦死者の遺品を中心に紹介します。

■ 戦死したフットボール選手



ベトナムルームのケース内に、こんなコーナーがありました。
陸軍のアメリカンフットボール選手で、プロチームでも活躍した、



ジェームズ・ロバート(ボブ)・カルス
James Robert Kalsu(1945−1970)


の着用した帽子が展示されています。

アメリカ史上、ベトナム戦争で戦死した二人のプロフットボール選手
(もう一人はクリーブランド・クラウンズのドン・スタインブルンナー)
のうちの一人でした。

その後、2004年にアフガニスタンで、陸軍レンジャー部隊の軍曹、



パトリック・ダニエル・ティルマンJr.
Patrick Daniel Tillman Jr. 1976-2004

が戦死するまで、史上最後の戦没プロフットボール選手とされていました。

オクラホマ大学でフットボール選手として活躍したカルスは、
バッファロー・ビルズに指名され、プロ選手となりました。

ベトナム戦争が始まると、予備役将校訓練課程(ROTC)だったカルスは、
1968年のシーズンが終了していたこともあり、少尉として陸軍に入隊し、
第101空挺師団の一員として1969年南ベトナムに着任しました。

そして1970年7月21日、駐留していた彼の部隊は
敵の82ミリ迫撃砲の攻撃を受け、彼はその砲撃で亡くなりました。

彼が、ベトナムの丘の上に位置する駐屯地で
妻からの手紙を読んでいるときに攻撃が始まりました。

迫撃砲が直撃したとき、彼は今日が彼女の出産予定日であることを知らせる
その手紙を持ったままだったといいます。


この攻撃でキャンプに撃ち込まれた砲弾はおよそ600発と言われ、
そのうちの1発がカルスの後頭部に炸裂したのでした。

彼の妻は予定日きっかり(つまり彼の戦死した日)に自宅で産気付き、
第二子であるジェームス・ロバート・カルスJr.を出産しましたが、
二日後、夫が息子の誕生日に戦死したという通知を受け取りました。。


カルスの遺族(右側息子:父の生まれ変わりかというくらい瓜二つ)

戦死時のカルスの階級は中尉。
空挺バッジの他にブロンズスター、パープルハート勲章を授与しています。


あとは誰のものかはわからないベトナム土産の数々が飾ってありました。
左のはベトナム獅子舞の頭でしょうか。

ベトナムでは、テト(旧正月)が明けた仕事始めや、
あるいは店開きなどの際に獅子舞を行う風習があります。
(テトというと、『テト攻勢』を思い出しますね)

獅子舞は中国発祥でアジア全域に伝播していますが、
いずれの国でも正月を祝うために舞うという共通点があります。


手前のアオザイには英語で「Ao Dai」と説明があります。
あとはほとんど土産店で売っているようなものです。

■ POWブレスレット


円筒形のアクリルに被されたブレスレットが並べられたケース。

各ブレスレットにはベトナム戦争中に捕虜/行方不明とされた
23人のニューヨーク州西部の軍人の名前が刻まれています。

このケースは博物館が独自に製作したもの。
行方不明者全員がアメリカの土を踏み、
ブレスレットが全て取り外される日までこのまま保管されます。


POW/MIA BRACELETA Prisoner Of War Bracelet 
(またはPOW/MIA Bracelet)は、ベトナム戦争中に捕虜となった
アメリカ軍人の名前、階級、行方不明となった日付が刻まれた、
メッキまたは銅製の記念ブレスレットのことです。



このブレスレットは、1970年5月、カリフォルニアの学生グループ
「ヴォイス・イン・バイタル・アメリカ」(VIVA)が、
ベトナム戦争で捕虜となったアメリカ人を忘れてはならない、
という意図のもとに作られたのがきっかけになりました。

このブレスレットは現在も販売されており、
収益は、捕虜/行方不明者の家族に寄付されています。

フロリダ州タラハシーにあるブレスレット記念碑

ブレスレットをつけていた人たち、そして今もつけている人たちは、
ブレスレットに名前が記された兵士、あるいはその遺骨が
アメリカに帰還するまで、ブレスレットをつけ続けることを誓っています。

1970年から1976年の間に、およそ500万個が配布されました。



アメリカに来たことがある人は、おそらく一度はどこかで見る
POW/ MIAフラッグの意匠です。

You are not Forgotten
(あなたたちは忘れられていない)

という捕虜・行方不明者へのメッセージが書かれています。
そしてこのような作者不明の詩も。

私は捕虜だ

第一次世界大戦中に生まれた
以来、すべての戦争に参加してきた
兵士になったとき、捕虜になるつもりはなかった
- 上官に命じられたから仕事をしただけだ

凍え、熱され、空腹で、拷問され、こきつかわれ、虐待され、殴られた
生きて帰るためにできることをした

捕虜として経験したことは、誰も理解できない
捕虜になり、行方不明者の名簿に名前が載せられる
これ以上悪いことがあるだろうか

MIAを忘れさせないで
彼らを見捨てないで
彼らは兄弟なのだ
彼らは帰還を叫び求めているのだ



ベトナムルームの展示を見終わったと思ったら、
そこに、この展示全体についての説明がありました。

・・・・・わたしはもしかして逆から見学していたのか?

この展示品には、ベトナム帰還兵から寄贈された記念品が含まれています。

展示の目的は、この史上最も評価されなかった戦争に従軍した、
多くの人々の勇気と犠牲を思い起こさせることです。

ベトナム戦争で58,300人の軍人が全力を尽くしましたが、
その中にはラオスとカンボジアで亡くなった軍人も含まれています。

「史上最も評価されなかった」

というのは、「most unpopular war」が原文です。
「最も人気のない」と訳してもまあ間違いではない気がしますが、
じゃ逆に聞くけど、「人気のある戦争」って何?

そして、わたしはここから先に心底驚きました。

米国議会が実際にはこれを「公式戦争」 と宣言していないため、
公式には「紛争」と呼ばれていますが、軍にとってその違いはありません。


そ、そうだったの〜〜?
アメリカ的にはベトナム戦争は「War」でなく「conflict」だったってこと?

でも、ベトナム戦争のことを「ベトナム紛争」って呼ぶ人なんて、
古今東西公人民間人問わず存在しませんよね?

これって、宣言しなかったというより、し忘れただけじゃないか?
っていうか、必要以上にだらだらやっている間になんで決議しなかったのか。

気を取り直して続き。

ベトナム戦争は1955 年に「始まり」、1975年にサイゴン
(現在はホー チミン市と呼ばれる)の陥落で終わりました。

この戦争では、南ベトナムの民間人19万5,000人から43万人、
北ベトナムの民間人5万人から 6万5,000人、
さらに、少なくとも4万人のカンボジアの民間人、
約110万人の共産主義北ベトナム軍とベトコン軍が殺害されたとされ、
未だに1600 名以上の兵士が戦闘中行方不明(MIA)に、
720〜840名の米軍兵士が捕虜になったまま(POW)となっています。



WNY VIETNAM VETERAN'S MONUMENT
ベトナム帰還兵記念碑

これは前回バッファローを訪れた時、写真を撮って紹介した記念碑です。





WNYとは「ウェスタンニューヨーク」のことで、
つまりここバッファローも含まれるニューヨーク州東部出身の
ベトナム戦争ベテランの名前が記された記念碑となります。

で、このお知らせが何かというと、

修復プロジェクト

30年の歳月を経て、改装が必要です。

究極の犠牲を払った私たちの英雄を讃えるために、
活気を取り戻すためにご協力をお願いします。
税控除の対象となる寄付は、
Western New York Veteran's Housing Coalition, Inc.にお願いします。
小切手の宛先は:Vietnam Monument Restoration Fundです。

どこがどう不具合で修復が必要なのか、
少なくとも近くで写真を撮ったわたしにはわかりませんでしたが、
寄付を募って資金集めをしなければならない事情があるようです。


最後に、このコーナーを締めくくるのは
ウッドロー・ウィルソン第28代アメリカ合衆国大統領の言葉です。

ウィルソン大統領は初めて「国旗を公式に記念する日」として、
1777年に議会が「星条旗を採択した」6月14日に制定を行いました。

これを受けて6月14日、海岸から海岸までの大通りに国旗がはためき、
マーチングバンドは「星条旗よ永遠なれ」や「ディキシー」を演奏し、
議員は町の広場で演説を行われ、しばらくはそういうこともありましたが、
今日では、6月14日の演説やパレードはほとんど見られません。

たとえ6月14日に大通りに国旗が並んでいるのを見ても、多くの人は
「7月4日にしては早すぎる」「何の日だろう」と思うでしょう。

それどころか、もし昨今議員が愛国的な演説をこういう場で行えば、
下手すると罵声を浴びせられたりしかねないご時世でもあります。
(それもこれもアメリカが昨今陥っている分断化の影響ですが、
トランプ大統領復活で多少は空気も変わってくるかもしれません)

それはともかく、ウィルソン大統領は、記念日制定に際して
以下のような演説を行い、それがここに書かれています。

我々が称え、その下で奉仕するこの旗は、
我々の団結、力、国家としての思想と目的の象徴である。

この旗は、我々が世代から世代へと与えてきた以外の何ものでもない。
その選択は我々に委ねられている。

平和であろうと戦争であろうと、
その選択を実行する軍勢の上に堂々と静かに翻っている。

そして、たとえ沈黙していようとも、
それは我々に語りかけてくるのである。

なお、オールド・グローリーとはアメリカ合衆国の国旗の愛称です。

続く。



戦死した女性軍人たち〜USS「リトルロック」ベトナムルーム

2024-12-14 | 歴史

巡洋艦「リトルロック」艦内を利用したベトナム戦争関連展示から、
今日はベトナム戦争に参加した女性軍人についてご紹介します。

■ ベトナム女性記念碑


以前ピッツバーグのハインツミュージアムで開催されていた
ベトナム戦争展示をご紹介する際、この
ベトナム女性慰霊碑に触れ、画像を上げたことがあります。


女性彫刻家、グレンナ・グッドエーカーが制作し、
ワシントンD.C.に設置されたこの作品は、負傷した兵士と女性二人、
どちらも看護師で一人は兵士を抱き抱え、アフリカ系看護師は空を見て、
ヘリの到着を待っているかのような瞬間を表現しています。

ベトナム戦争がようやく過去のこととなった1984年、
看護師としてベトナムに派遣されたダイアン・カールソン・エバンスは、
ベトナム戦争に参加した女性の勇気と、犠牲者を称えるため、
他二人とともにベトナム女性慰霊財団(VWMF)を設立しました。

戦争中、延べ26万5千人以上の女性軍人と民間人女性が従軍しましたが、
ベトナムに駐留した米国女性は約1万人で、その90%は看護師でした。

その他は、医師、理学療法士、医療関係者、航空管制官、
軍事情報部、行政部などで、民間人は、赤十字、USO、
スペシャルサービス、アメリカン・フレンズ・サービス委員会、
カトリック・リリーフ・サービス、その他の人道支援組織や、
報道特派員やワーカーとしてベトナムに派遣されていたわけです。

その中の8名が、命を落としました。

しかし、記念碑設立計画は、なぜか男性だけでなく女性から反対されました。
もとタスクフォース勤務で当時コネチカット知事だった
ジル・A・ミシュケル
の反対理由は以下の通り。

「退役軍人(ベテラン)という言葉は男性を意味する。
私たち(女性)が称えられるべきという提案すら不快である」


また、ベトナム慰霊壁の設計を行った中国系デザイナー、マヤ・リンも、

「(この追加を許可することは)記念碑が適切な、
法的および美的承認プロセスを経てから何年も経った後でも、
我々の国定記念物が民間の利益団体によって改ざんされる可能性」

というよく意味のわからない反対意見を出しています。

しかし結局、男性の上院議員2名、下院議員1名によって法案が提出され、
レーガン政権時代に、記念碑の設置の署名がまず行われました。

今にして思えば大変不思議なのですが、
国のため出征して戦場で任務を果たし身を危険にさらし、
その結果命を失った女性を顕彰することの一体何が問題だったのでしょうか。

エレノア・グレース・アレキサンダー大尉


冒頭写真の装備は、海兵隊の外科看護師であった、
Cap.  Eleanor Grace Alexander 

エレノア・グレース・アレキサンダー大尉

が着用していた迷彩服とブーツです。

彼女のマネキンは、愛用していた聴診器を首にかけ、
マネキンの後ろの彼女の認識票が大きく拡大されたポスターには、

”Not all women wore love beads in the sixties.”

直訳すれば「60年代、全ての女性が首飾りを愛したわけではない」
つまり戦場に自ら身を投じる女性もいた、という意味のフレーズが見えます。

1940年生まれのアレクサンダー大尉は、
ニューヨークの病院で外科看護師として勤務していましたが、
政治的関心の高さから陸軍看護部隊を志願しました。

友人は彼女が入隊したとき、危険を感じて、
代わりに平和部隊で国のために尽くしてはどうかと助言したのですが、
彼女の意思は固く、国内で訓練を受けたのち、医療旅団に配属されます。

1967年11月30日、アレキサンダー大尉は、戦闘で負傷した兵士のため、
プレイクで治療任務を行ないましたが、任務後基地に戻る飛行機が墜落し、
同乗していた25名と共に、27歳の若さで亡くなりました。

彼女がベトナムに着任してまだ1年も経っていませんでした。


国防総省は数日間この事故を公表しませんでした。
敵に情報が漏れることで捜索活動に障害をきたすからです。

ある新聞記事はこのことを以下のように伝えました。

「先週の木曜日、双発の輸送機がクイニョン南のジャングルの中で墜落し、
乗員全員となるアメリカ人26名が死亡した。
飛行機には4人の乗組員、2人のアメリカ民間人、
18人の陸軍兵士、2人の空軍兵士が乗っていた。

墜落の原因は不明。
飛行機はプレイクからクイニョンに向かう途中であった。」

彼女はベトナムで仲間の兵士たちから信頼され賞賛を受けていました。
ある兵士は、こう回想しています。

「アレクサンダー大尉を失ったとき、誰もがとても悲しみました。

戦場の常として我々は部隊から兵士を戦死によって失っていましたが、
そのような損失に対しては、こう言ってはなんですが、
元々覚悟があったというか、心のどこかで予期するものがありました。

しかし、アレクサンダー大尉の場合は少し違いました。

彼女を失ったことはいつもより皆を落ち込ませ、
喪失の悲しみで部隊には暗雲が垂れ込めたようになったのです。

彼女がいなくなって、私たちは皆、彼女をなんというか、

いかに理想化していたか、何より愛していたことに気づいたんだと思います」

同僚の看護師も、エレノアの戦士による喪失感に苦しめられました。

看護師で友人のローナ・プレスコットは、自らの心的外傷から
戦後看護師を辞めることになりましたが、その後、経験を活かして
心的外傷後ストレス症候群に苦しむ退役軍人のカウンセラーになりました。

彼女は戦後23年経って、エレノアにこんな手紙を書きました。

エレノア、あなたは私より数カ月年上。

「スーパーナース」としてO.R.を支えていましたね。

あなたは決して慌てず、ミスをせず、
身だしなみさえきちんとしていて、一流だと思った。

一方、私は目の前の生活に追われて、怒り、苛立ち、
ついでにくせ毛と毎日格闘していたわ。

どうやって持ちこたえたの?
みんな、あなたに頼っていたよ。

あなたと私は、トリアージし、仕事をこなし、兵士たちを動かし、祈った。
私はいつも怒鳴ってばかりだったけど、あなたはそうしなかった。
私はあなたの強さに感心してたし、羨ましかった。

テントの下で働いたり、ヘリからすぐに負傷者を運び出したり、
暑さの真っ只中に身を置いたりしましたね。

私が緊急外科チームに配属されたとき、
あなたはそこには自分が行きたい、といっていたっけ。

そのチームは1日24時間対応が基本だったのに。

あの時、プレイク出張の電話は緊急外科チームの私にかかってきた。
私がそこにいなかったので、あなたは私の装備とジャケットをつかんで、
私の代わりに激しい戦闘と死傷者の多いプレイクに行ってしまった。

それを知って、私は内心あなたのためにはよかったと思ってたの。
でもそれから6週間後、クィニョンに帰るあなたの飛行機が墜落した。

あの日はとても風が強かったわ。
あなたはV.C.領土の奥深くの山に墜落した。
機体には弾痕があったと聞かされた。

数日後、あなたの遺体が回収された。
少なくとも捕虜にはならなかったようだけど・・即死だったの?
・・・・痛みはあった?

私は追悼式に行くことができなかった。
精神安定剤を手に入れて薬を全部飲んだ後、眠り続けた。

どうして私は生き残って、あなたは死んだの?

エレノア、「壁」に行くと涙が出て止まらない。
あなたの死に涙が止まらないの。

23年経った今も、そのことをよく考える。

神のご意志なのか、それとも私があなたの運命を狂わせたのか。
申し訳ないのか、罪悪感を感じるべきなのか。
どうすればいいのかわからない。

私はあなたから命を奪ったの?


それとも、チームの一員として究極の看護をするという経験を、
無謀にもあなたにさせてしまったのかしら?

そのことを知りたかったけど、本当は知りたくなかったのかもしれない。

私があなたの統率力と冷静さに驚嘆すれば、
あなたは手術、点滴、剥離をフルでこなした私の経験を羨ましがった。

「わたしも本当に重要な仕事をするチャンスが欲しいわ」

って。

私はいつも、第85師団でのあなたの仕事の方が、
第616師団での私よりもうまくいっていると思っていたけどね。

エレノア、あなたは死ぬ前に「チャンス」を得たのよ。

それは私のおかげなのよ。
チャンスを得たあと、あなたが死んだことも。

それは違うと自分に言い聞かせてきたけど、でも、本当はそうなんだわ。

私はもがきながら、相変わらず不完全ながらも、
今も何かを世の中に与えようとしています。

私のように傷ついた他の生存者を助けること。
あなたのためにもそうしなければならないと思っています。

あなたの友人

ローナ



アレクサンダー大尉のマネキンの足元には、死亡記事、
彼女の追悼式のプログラム、戦後、彼女の兄が
手術室の制服を着た彼女を描いた絵と一緒に写っている追悼記事があります。

こうして、エレノア・アレクサンダー大尉は戦死後、
青銅星章とパープルハートを授与されました。


■戦死した8名の女性軍人

ベトナム戦争では、8名の女性軍人が任務中死亡し、
ワシントンD.C.にある壁に名前を追加で刻まれました。

シャロン・アン・レーン陸軍中尉(ロケット弾直撃による死亡)

エリザベス・アン・ジョーンズ陸軍少尉(ヘリが高圧線に触れ墜落)

キャロル・アン・エリザベス・ドラズバ陸軍少尉(ヘリ墜落)

アニー・ルース・グラハム陸軍中佐(脳卒中:搬送先の日本で死亡)

ヘドウィグ・ダイアン・オルロウスキー陸軍中尉(輸送機墜落)

メアリー・テレーズ・クリンカー大尉(輸送機の墜落)

パメラ・ドロシー・ドノバン陸軍少尉(戦病死)

圧倒的に多いのが輸送中の事故による戦死です。



続く。



MKの友人に恩返しツァー〜稚内編「本州最北端の地を制す」

2024-10-29 | 歴史

奈良から帰ってきてすぐ、MKが帰国した時の重要な任務である、
デンタル関係(普通の歯科と矯正歯科)に行ってきました。

矯正に関しては高校生の時と遅い時期になってしまったのですが、
噛み合わせの調整も含めて結構大変なその治療を、

「アメリカの大学に行ったり、もしアメリカで生活するのなら
多少大変でも絶対に矯正はやっておいた方がいいと思います」


と始めさせてくれた矯正歯科の先生には大変感謝しています。

矯正は無事に終了し、今は帰国のたびに歯並びをチェックして、
ナイトガードを調整してもらうために一度訪れることにしています。


矯正歯科のある代官山は、東京でも特にお洒落な雰囲気のエリアで、
建物も、その中に入っている店舗も来るたびに変わっています。

歯科のあるビルの一階には無印良品が絶賛開業準備中でしたし、
このブルーボトルコーヒーも冬に来た時にオープンしたばかりです。

車はいつもTSUTAYAのパーキングに停めるのですが、
買い物をしてサービス券を貰ってもまだ高い駐車代にいつも唖然とします。

東京都心は間違いなく世界で一番駐車料金の高い地域でしょう。


ここに来ると、つい頼んでしまうスモークサーモン付きのプレート。

アボカドが付いてくるのは嬉しいのですが、アメリカとは違い、
コンディションのいい(黒くなったりしていない)ものはまれ。

アメリカでは店頭でその日に入ったものの熟れ具合を目で確かめて、
一番美味しい時にいただくことができるのですが、輸入品に頼るため、
日本では難しく、このときのアボカドも果肉が黒ずんで苦くなっていました。

最近は日本で美味しいアボカドを食べることはほとんど諦めていて、
その分、アメリカに行くとその分もせっせと摂取しています。



クリーニングとチェックアップの歯医者は汐留にあるので、
お昼は日テレ近くのブラウンライスカフェ、銀座通りのファンケルビル、
あるいは銀座三越のレストラン街になります。

三越にはいくつか中華レストランがあり、これは
その中でわたしが一番美味しいと思った四川飄香(ピャオシャン)。
中華100名店2021にも選ばれたそうです(今知りました)。

麻婆豆腐大好きのMKが、美味しいと感嘆し、
単品で注文した鶏(よだれ鶏)も最高でした。



わたしが頼んだあっさりスープの鶏麺は、お店の方が、
「味変にどうぞ」と持ってきてくださった薬味でこちらも大満足。

■ 稚内に到着


さあ、恩返しツァーも後半戦に差し掛かりました。

何日か横浜に滞在した彼らと、羽田空港で集合し、
1日に2便しかないという羽田ー稚内便に乗って1時間半後、
飛行機が下降してくると、緑地の尾根に風力発電の風車が見えてきました。


広い土地利用の一つの方法としての風力発電開発です。

ところで、稚内にはTOの仕事関係の知人が提携業務をお持ちで、
兼ねてからいいところだからぜひ、とお勧めされていたので、
アメリカから帰ってきてから行ってみようと検討していました。

ちょうどその頃、MKの恩人GBくんが日本に来てくれることが決まったため、
一応本人に北海道に興味はあるかとと尋ねてみたところ、
ぜひという返事だったので恩返しツァーの一環として計画したという経緯です。


この海岸線はもしかしたら日本の最北端?

眼下に円形の緑地帯が見えますが、これは宗谷公園の多目的広場、
「宗谷ふれあい公園」で、「ふれあいゴルフ場」「ふれあいオートキャンプ場」
「ふれあいキャンプ炊事棟」「ふれあいロッジ」などがあり、
やたらとふれあっている一帯であることがわかりました。

一角に位置する「サハリン友好の森」は、サハリン州との連携を通して
民間レベルでの日露友好を深めようとしている運動の賜物のようです。


空港のレンタカーで一番セレナ(ミニバン)を借りて、
迎えにきてくださったTOの知り合いの知り合いの後を付いて走りました。
この日は晩までこの方のご案内で行動することになっています。

ちなみに空港駐車場は無料で、その気になれば何日でも停められるそうです。
世界で一番駐車場の高いところからやってきたわたしは軽くショックでした。


お昼を食べていないわたしたちのために、案内の方は、
(有名牧場の社長、つまり牧場長)レストランに連れて行ってくれました。
クロユリ群生地にいきなり現れたのは風車のついたサイロ風建物。
ここは宗谷丘陵上に立つ展望&休憩施設です。

後で知って驚きましたが、4月29日から11月3日の間しか営業しないそうです。
今年にもうあと少しで営業終了するということですね。


牧場長さんが連れて行ってくれたのはここの食堂。
もう2時になっていたせいか、客は私たちだけでした。
それにしてもテーブルとテーブルの間が広い。


迷いながら選んだ塩ラーメン。

北海道の食事はどこに行ってもハズレなし、とは知っていましたが、
プリプリと弾力がありかつ柔らかいホタテ、あっさり目のスープ、
コシのある麺が混じり合って絶品でした。



最初いくら丼を頼んでいたのに、皆が「ラーメン」と言うので
ふと気が変わって結局ラーメンにしてしまったわけですが、
お店の人がミニ丼もあると提案したので、TOが追加で頼んでくれました。

このイクラが他で食べるものと全く違ったのは、
この写真からもお分かりいただけるでしょう。

■日本最北端の地に立つ



そしてここに来る観光客が全員そうするように、最北端に到達。
宗谷岬の「日本最北端の地の碑」は日本の「てっぺん」にあります。


ふと横を見ると、間宮林蔵の像が。
身体を微かに捻り、その視線はサハリンの方向に注がれています。

この日は沖にサハリンが見えましたが、間宮はこれが島であることを発見し、
ついでに島と大陸の間に海峡があることも発見し、間宮海峡と名付けました。

それまでサハリンが島だと誰も思わなかったのかい、
とつい思ったのですが、これをご覧ください。


展望台にあった間宮のサハリン探索コース

これを見ると、宗谷から見る限り、サハリンが島なのか、それとも
大陸から生えている?半島なのかは不明だったのがわかりますね。

これは、間宮が実際にサハリンに行って、大陸との間に
海峡があることを確かめて初めてわかったことでした。

ところでわたしはなんとなく間宮林蔵はスパイだった、
という噂というか都市伝説めいたことを聞いたことがあったのですが、
wikiにより、実際樺太探検が終わってから、幕府の隠密として
全国各地を調査して、地方の犯罪を検挙していたということを知りました。

「スパイ」という言葉が的を得ているかどうかはともかく、
職業欄も「御庭番」「探検家」となっているので、探検より隠密が主任務で
噂?は本当であったということになります。

■ 牧場見学



TOの知人の紹介ということで空港まで迎えにきて下さった牧場長には、
最北端観光に続き牧場の見学もさせていただきました。

まず牧場事務所で、会社(牧場)案内のビデオを観覧。
その後車で牛舎に連れて行かれたのですが、



事務所を出たところで全員防疫のための青い靴カバーを渡されました。



まず連れて行かれたのが仔牛の生育ブース。

生まれた仔牛はすぐに母牛と引き離される運命ですが、
成長にとって大切な免疫を含む初乳は飲ませてもらえます。

ここでは実際に母牛から直接もらうのか、それとも初乳を搾乳するのか、
そこまでは聞けませんでしたが、この話を聞くと、いつも

「♩僕が毎日牛乳飲むから それを仔牛が知っているから
怒っているのか 牧場の仔牛 知らない顔して遊んでいました」


という歌を思い出します。

小さい時には、なぜ僕が牛乳を飲むと仔牛が怒るのか、
自分も飲んでるんだからいいじゃないか、と思っていたのですが、
仔牛が牛乳を飲めるのは初乳だけで、あとは母と引き離されて人工乳、
と知ってなるほどと思いました。



動物の子供は何でも可愛いものですが、黒々とした目の仔牛の可愛さは異常。

しかし、牧場の牛が何のためにここにいるかを考えると、
彼らを「かわいい」と思うことにすら、心の何かがストップをかけてきます。

いや、いいんですけどね。「可愛い、そして美味しい」で。
可愛いに「そう」がくっついてきさえしなければ。

「命をいただく」ということに関しては、当牧場のHPを見ると、
他の同業種同様、定期的に彼らを慰霊する「獣魂祭」を執り行っています。

当牧場の牛には黒毛の和種からできた「和牛」と、
黒毛と「ホル」(ホルスタイン)を掛け合わせた「黒牛」の2種類がいます。

ホルスタインの血が入ると、どこかに白い模様が入るそうです。


ブースの中には、干し草、水、ミルクの3点が備えられています。



大人牛がいる牛舎にも案内してもらいました。
車を前に停めると、中から鹿が二頭飛び出してきました。
時々忍び込んで、牛のご飯を食べるのだそうです。

忍び込むといえば、牧場のニュースを見ていたら、かつて
ヒグマが「散歩していたのでハンターが捕獲した」という記事がありました。

捕獲されたヒグマ

「銃器を使用して捕獲」って・・・つまり射殺したってことですよね。
鹿がご飯を盗むくらいなら大目に見られても、ヒグマはなあ・・。

何かのはずみで牛を食べて、そのおいしさに目覚めでもしたら大変だから、
もう、問答無用で「捕獲」なんだな。


社長がこの牛さんたちを指さして、



「ここにいるのは今年のクリスマスには食卓に上がります」

それを聞いて全員、

「・・・・・・・・・・・」し〜〜〜〜ん
(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)


その後は牧草地を一望にできる高台に案内していただきました。


ここを宗谷岬ウィンドファームといい、
風の強い丘陵地帯一帯に57基の発電設備が並んでいます。
当然のことながらこれが日本最北端の発電所です。

発電の風車は三菱重工業製。

2005年からここで作った電気は稚内全体の電気の6割を賄い、
全量を北海道電力に売電しているということですが、
20年目となる2025年からは新しい風車に建て替える計画だそうです。


丘陵地帯の道を進んでいくと、タイヤの感覚が「滑る」感じになり、
同時に「白い道」と呼ばれるちょっとした名所に差し掛かりました。

「白い道」は産廃となるホタテの貝殻を廃物利用して敷き詰めた
ロマンチックな自然のウォーキングコース(11キロコースと5キロコース)。

ですが、遮蔽物が一切なく、常に風が吹くこの丘陵地を、
2時間歩くために来る奇特な観光客は果たしているのかしら。

おそらくほとんどは、車で通過して途中で写真を撮るだけだと思います。

■波除ドームの壮麗



ホテルに近い、稚内港にやってきました。
ここには、名所の一つ、北防波堤ドームがあります。

北海道遺産、土木遺産に指定されたこの構築物は、文字通り防波堤ですが、
どうしてここだけこんな立派なものが唐突に、と思ったら、
昭和6年、北海道と樺太を結ぶ鉄道連絡船が就航していた頃には、
このドームの左端まで国鉄の線路が延長されており、
船から降りた人たちはドームを通って波にも雪にも濡れず、
「稚内桟橋駅」から電車に乗り込むことができたのだそうです。


今、遊覧船が就航していますが、別のところで発着します。



設計したのは北海道帝国大学を卒業した、
若干26歳の北海道庁技師、土谷実という人でした。
(今この名前で調べてもオウムの人しか出てきませんでした)

防波堤なのにエンタシス状の柱が並ぶ様子は実に壮麗というか、圧倒的。
大学を出たばかりの一公務員である土谷技師のセンスの賜物です。

どうしてこの人がその後の建築界で有名にならなかったのか不思議ですが、
おそらく、彼はその人生を北海道庁に奉職することで満足していた、
ある意味「足るを知る」人物であったのではないでしょうか。



ドームは上に乗ることはできませんが、横には遊歩道ができています。

■大鵬幸喜上陸の地


ドームは今改装中で、右から順番に補強をし直しているようです。

そしてドーム前の広場の一角にあるのが「大鵬幸喜上陸の地」の碑。

「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が表す通り、
昭和の人気力士と言われた大鵬ですが、
実は父親がウクライナ出身の白系ロシア人でした。

コサック騎兵、マルキャン・ボリシコと日本人の母親の間の三男で、
納谷幸喜という本名の他に、イヴァーン・ボリシコという別名を持ちます。
出生地は南樺太、当時は日本でしたので、大鵬は日本生まれとなります。

第二次世界大戦後、ソ連が侵攻してきたため、大鵬は母と共に
小樽に向かう引き揚げ船「小笠原丸」に乗り込みました。


小笠原丸

終戦の8月15日、「小笠原丸」は稚内にいましたが、
樺太の引き揚げ任務を要請され、8月20日、租界者1514人を乗せて出航。
翌日、稚内に到着し、半数強の878人が下船します。

悲劇はその翌日、22日に起こりました。

稚内港を出港して小樽に向かう途中、「小笠原丸」は、
増毛(留萌の下)沖5浬でソ連の潜水艦L-12の雷撃を受け、沈没したのです。

L型潜水艦

その時、潜水艦は「小笠原丸」を沈没させると、浮上して、
波間に漂う人々に機銃掃射を加えているのが離れた監視台から目撃されました。

沈没による死者641人、生存者61人で、収容された遺体は468体でした。

そこで大鵬の話に戻りますが、この時、大鵬母子は稚内で下船していました。
「小笠原丸」を降り、波除ドームの下を歩いて行ったことでしょう。

だからこそ、ここにそれを記念する碑が立てられたわけですが、
これがただの話でないのは、彼らの下船は当初の予定になかったことです。

元々彼らは樺太から小樽まで行こうとしていました。
しかし、母親の納谷キヨが出港後、船酔いで気分が悪くなってしまい、
我慢できずに稚内で途中下船したことで、翌日の難を逃れたのでした。

言うまでもありませんが、このとき母親が船酔いしていなかったら、
後の大横綱、大鵬幸喜はおそらく生まれるべくもなかったのです。

このことは大鵬自身も深く心に留める人生の転機の地として、
生前いくども稚内のこの場所に足を運び、

「ここ稚内で降りたことで今の自分がある。
横綱になれたのも、稚内が原点となっている」

という言葉を残しているのだそうです。


そのあとは、稚内港を臨む地に立つホテルにチェックインしました。


旧ANAホテルということで内装は都会のシティホテルと同じ。
驚いたのは、いつも駐車場(もちろん無料)が満車であること。

そして、一度、大人数の中国人観光客のグループが大挙していたことです。
彼らの会話を聞いて、チャイニーズ・アメリカンであるSAさんが、

「彼らはカントニーズを喋っていた」

と言うので、

「ということは香港から来たっていうこと?」

と聞くと、おそらくそうだろうとのこと。
はー、こりゃ驚いた。

何のために中国人が稚内なんぞに観光に来るのか。
東京も京都も見飽きちゃった、という通なリピーターなのか。
それとも、北海道が珍しいのか、最北端に立ちたかったのか。

いずれにしても、10年前ありえなかったことが今日本で起こっているようです。


その日は、社長さんのご案内で、ホテル近くの居酒屋で親睦会。
さすがは北海道の居酒屋、何を食べても普通に新鮮、普通に美味しい。

「ところで御社の黒毛和牛はここでも頂けますか」

と聞き、早速注文して出てきたのがこれ。
伺ったところ、ここでお皿に乗ってくるためには、
やはり2、3ヶ月前に出荷されたものだということでした。

わたしたちは、命の恵みに心から感謝して、これを美味しくいただきました。

続く。


バルジの戦いと第二次世界大戦の友軍誤射事件〜国立アメリカ空軍博物館

2024-09-12 | 歴史

昔、わたしが全くそちら方面の知識がなかったころ、
知り合いにいわゆるミリタリーオタクな人がいました。

特に親しいという関係ではなかったのに、わたしが戦争映画に
興味がないわけではない、程度の反応をしたところ、なぜか張り切って
いくつもの戦争映画DVDやなぜか小説を無理やり?貸してくれたものです。

そんな彼のミリオタっぷりは、広島に仕事に行ったとき、
泊まっていたホテルのウェイトレスのお父さんが
海上自衛隊の佐官というだけで彼女をナンパするほどでした。
(今にして思えば彼女の父上は呉勤務だったのだと思う)

別の知人とそんな彼のミリオタっぷりを話題にしたとき、わたしが、

「〇〇さん、戦争映画が好きらしいですよ」

というと、もう一人が、へー、どの辺の?と聞くので、
第二次世界大戦の、しかも日本ではなくヨーロッパの、というと、

「蛤御門の変とかじゃダメなんだ」

いや、蛤御門の変の映画はないから。

という彼が貸してくれた中にあったのが、
「メンフィス・ベル」小説版とDVD、そして「バルジ大作戦」でした。

予告編「バルジ大作戦」(Battle of the Bulge)trailer
ヘンリーフォンダ ロバートショウ チャールズブロンソン

主役ヘンリー・フォンダにチャールズ・ブロンソンとは。
当時の超人気俳優を使っていたわけですね。
ちなみに今検索したら、ドイツ軍伍長役として、当ブログで取り上げた映画、
「モリツリ」のドンキー、「戦線の08/15 Zweiter Teil」の伍長役だった、
ハンス・クリスチャン・ブレヒが出演していることがわかりました。

この映画の有名なシーンが、これ。
映画「バルジ大作戦」"BATTLE OF THE BULGE" 戦車兵の唄

「ドイツ兵が歌って元気になるシリーズ」。
装甲師団のみんなが「パンツァー・リート」で誇りを取り戻すシーンです。

このドイツ軍将校は今にして思えばパイパー少佐がモデル?

■ バルジの戦い

バルジの戦いにはよく「ヒットラー最後の賭け」というタイトルが付きます。

1944年12月16日、ドイツ軍はアルデンヌの森の守備が薄いところを狙い、
大規模な奇襲攻撃を開始しました。

後世にいう「バルジの戦い」です。

最初の7日間、霧、雲、雪により連合軍の戦術航空戦力は著しく制限され、
先鋒部隊として投入されたヨアヒム・パイパー大佐の機甲戦闘団
目覚ましい活躍などもあって、12月24日までに
ドイツ軍に西方50マイルまで侵攻を許すなど絶望的な状況に陥りました。


ヨッヘン・パイパー

ここで、航空戦力の点からこの経緯を見ていきます。

連合軍とドイツ軍の航空戦力は、12月23日に天候が回復すると、
どちらも地上部隊を支援するためにすぐさま出撃しました。

この時多勢に無勢だったドイツ空軍は主に戦闘機を出しましたが、
第9空軍は戦闘機だけでなく、爆撃機、グライダー、輸送機を投入。

マイナスDデイの時点で航空勢力が削がれていたドイツ側は立ち向かえず、
地上のドイツ軍は次第に補給を断たれ、苛烈な攻撃に後退を始めます。




12月のヨーロッパ北部の寒さは異常。

というわけで、荒れた冬の現場での飛行作業は
第9空軍の整備要員にとって厳しい労働条件となりました。

この写真では、乗組員は P-38の凍ったエンジンを外部ヒーターで暖め、
エンジンを始動できるようにしているところです。
手前に見えているダクトホースで空気を送り込むのでしょうか。

メカニックは急拵えの作業足場スタンドの上に乗って、
機首の銃の整備をしているところです。


アルデンヌの地で陸軍地上砲兵部隊と航空士官が握手する歴史的瞬間。
(多分日頃は仲が悪いに違いないのでそういう意味でも)

カリフォルニア州バークレー出身のローウェル・B・スミス少佐(右)が、
第9空軍の366FG、390FSに所属し、任務は地上部隊との協力でしたが、
このときは地上部隊からの「掩護」を受けた、という状況でした。

弾薬を使い果たして基地に帰還してきたスミス少佐は、Bf109の攻撃を受け、
味方の対空砲座の上空を低空飛行したところ、対空部隊が敵機を発見し、
数回の攻撃の末撃墜し、少佐を助けることに成功しました。

というわけで、これは少佐が礼を言いにきて握手を交わしているところです。

このときドイツ軍が「最後のサイコロ」として行った
「ボーデンプラット作戦Bodenplatte」
において、スミス少佐は近接支援任務のために15分早く離陸したところ、
Fw190とMe109が部隊空襲をしかけてきました。


スミス少佐はこのときFw190と交戦し、2機を撃墜しています。


このスキーを履いている人はP−47サンダーボルトのパイロットです。
そして後ろのテントは「ブリーフィングルーム」。

駐機場までスキーで移動する第9空軍ジョージ・ブルッキング少佐。


真ん中、ブルッキング少佐。全員パイロット。


バルジの戦いで好天に恵まれた最初の日、1944年12月23日。
第9空軍の軽・中型爆撃機に襲われたドイツ・リンブルク近郊の鉄道操車場。

鉄道車両にはジュネーブ条約に基づく攻撃制限がなかったため、
輸送中の連合軍捕虜が鉄道攻撃で命を落とすことがありました。

究極の友軍誤射、フレンドリーファイアーです。

■ 最悪のフレンドリー・ファイアー

余談ですが、第二次世界大戦中起こったアメリカ軍友軍攻撃の悲劇の一つ、
アッレローナ鉄橋爆撃について取り上げておきます。

第二次世界大戦中最悪の友軍誤射事件はイタリアで起こりました。

1944年1月28日、米空軍機がイタリア中部オルヴィエートの北にある
アッレローナの橋を爆撃し、この攻撃によって、
40~50両の列車が直撃を受け、10両が破壊され、3両が脱線し、
残りの1両はアーチの中で座屈するという大被害となりました。

米軍のパイロットが知らなかったのは、その列車には
1,000人以上の連合軍捕虜が乗っていたということでした。

捕虜の出身はアメリカ、イギリス、南アフリカなどでしたが、
今日に至るまで、何人が死亡したのか確かなことすらわかっていません。
推定死亡者数は200人〜600人と、えらく誤差がありますが、

どちらにしても結構とんでもない人数です。

近くの村に住む人々は、その処理のためにドイツ軍に駆り出され、
その結果、惨劇を目の当たりにすることになりました。

付近住民の証言によると、

「村人らが到着すると、死体の山があった。
彼らは死体を爆弾のクレーターに入れ、ガソリンをかけて火をつけた」


捕虜たちは、有刺鉄線で固定されたトラックの上部の隅に
小さな窓があるだけの家畜用車両で運搬されていました。

爆撃の後、橋の上で働いていたイタリア人がツルハシを手に、
荷車の鉄格子や錠前を壊してくれたためかろうじて助かった者、
また、トラックで現地を通りかかった南アフリカの軍人が、
爆撃の最中に列車を外から開放し、逃げることができた者もいました。

しかし、この第320爆撃群の公式戦史によると、この事件は
友軍誤射ではなく、単なる「任務成功」として讃えられています。
そこにはこう書かれているそうです。

「オルヴィエート北橋で擱座したドイツ軍の兵員列車を捕らえ、
逃げ惑う敵兵の間で爆弾を炸裂させた。」

5 Devastating Cases of Friendly Fire In WW2...

このビデオでは、第二次世界大戦の5つの友軍誤射事件を取り上げています。

1、バーキング・クリークの戦い・イギリス空軍

レーダー障害によりハリケーンを敵と認識したRAFがこれを迎撃、犠牲者二人
ちなみにIFFは当時開発中

2、生物学的ミス・日本陸軍

中国で731部隊が実験した生物兵器で大陸に住んでいた日本人が死亡

3、アンバー事件・イギリス空軍

1942年4月13日、航空デモしていたRAFホーカー・ハリケーン戦闘機が
観客にいきなり発砲、その結果25人が死亡、71人が負傷
パイロットが悪天候で観客をダミーだと誤認して銃撃したことによる

4、PT-346 誤射事件・アメリカ海軍

1944年、海兵隊コルセアがPTボート347を日本の砲艦と誤認し攻撃、
一緒にいたPT350はコルセアを零戦だと勘違いし、これを撃墜、
コルセアは飛行隊を引き連れて来襲し、珊瑚礁で立ち往生しているPTを攻撃
最終的にPT346、347、350の21名が死亡・行方不明、14名負傷、
海兵隊コルセアのパイロット2名が死亡


攻撃が終わり、漂流していた何人かは全く別のアメリカ軍機に射殺されている

5、コブラ・カラミティ

ノルマンディでの脱出作戦「コブラ作戦」中、
アメリカ軍の爆弾が友軍部隊に落下し、111人が死亡、490人が負傷

ノルマンディ関係では、この後、空挺部隊の乗った輸送機を味方が攻撃し、
しかも脱出した空挺降下中の兵を、下から撃ちまくった事件もあります。


バルジの戦いの結果は連合軍の勝利で、1945年1月末までに、
ドイツに奪われていた領土を実質的にすべて取り戻す結果になりました。


続く。




「血の日曜日」プロイェシュチ油田爆破作戦〜国立アメリカ空軍博物館

2024-03-15 | 歴史

前回、1943年にドイツの生産工場に対して行われた
アメリカ軍のB-17による2回、3箇所への爆撃作戦についてお話ししました。

その犠牲の多さと費用対効果の悪さから、
「暗黒の木曜日」とまで言われてしまった作戦ですね。

今日は、同じ年に東ヨーロッパの油田を破壊することを目的にした
爆撃作戦「オペレーション・タイダルウェーブ」について取り上げます。

当作戦はB-24ミッチェル爆撃機の部隊によって実行されました。

結論から言うと、アメリカ軍はこの作戦においても
「暗黒の木曜日」の失敗を活かすことができませんでした。

現在進行形のスピルバーグのドラマ、
「マスターズ・オブ・ザ・エアー」の中では、
捕虜になった爆撃機搭乗員に向かって、ドイツ軍の情報将校が、

「レーゲンスブルグもプロイェシュチもダメだったねえ」(笑)

みたいにいうシーンがあります。

■ オペレーション・タイダルウェーブ:
@プロイェシュチ




1943年8月1日。

アメリカ陸軍航空隊は、枢軸国の重要な燃料源である、
ルーマニアのプロイェシュチ油田に対し、
低空B-24の奇襲作戦「タイダルウェーブ作戦」を展開しました。

上の写真を見てお分かりの通り、B-24はほとんど木の高さレベルの
低空を飛んで爆撃を行っています。

178機のB-24リベレーターからなるアメリカ陸軍航空艦隊は、
アフリカ-リビアのベンガジから1200マイルの旅を経て、
正午過ぎには目的地に到達していました。



今ならジェット機で9時間25分(航空運賃¥123.309より)。

だけどちょっと待って?爆撃機だときっともっと時間かかるよね?
正午過ぎに着くには一体何時に出発したんだろう。

ちょっと計算がめんどいのでやりませんが、それにしても
こんな遠方から任務を果たして帰るだけの余裕がB-17にあったんですね。


というわけで爆撃隊はコルフ島とピンドゥス山脈を経由するルートを、
厳密に無線を維持しながら進んでいきました。

目標は、プロイェシュチにある巨大な石油精製施設です。 

当時のルーマニアの指導者、イオン・アントネスク元帥は、
ナチスドイツへの経済支援として、最終的に
プロスティ油田から第三帝国の原油の約60%を供給しました。



アントネスク

戦後、アントネスクと政府要人は戦犯裁判にかけられ、
ルーマニア軍が占領したウクライナなどの地域における
28万〜38万人のユダヤ人絶滅等の責任を問われて銃殺刑に処されました。

処刑の瞬間は今日でもyoutubeで見ることができます。


石油貯蔵所爆撃作戦のコードネーム、タイダルウェーブでは、
第8空軍と第9空軍の5つの爆弾群が合わせて参加しました。


General Jacob E. Smart USAF(最終)

ジェイコブ・スマート陸軍大佐によって考案された本作戦は、
既成の米陸軍航空隊の方針を完全に打ち破るものでした。

陸軍航空隊伝統の高高度精密爆撃という手法ではなく、
B-24に200〜800フィートという低空から爆弾を投下させるのです。

低空からの爆撃機侵入は、奇襲の要素も兼ね備え、
油田に大火災を引き起こすことができるはず、とスマートは考えました。

■ 予測されていた作戦

しかし、ドイツ軍は彼らが来ることを十分に予想していました。

アメリカ軍の暗号を解読したドイツ空軍司令官、
アルフレッド・ゲルシュテンベルク大佐は、罠を仕掛けました。

Gen. Alfred Gerstenberg(最終)

ゲルシュテンベルグ大佐は、戦闘機パイロット出身。

第一次世界大戦ではリヒトホーフェン飛行隊のメンバーでしたが、
戦闘中撃墜され重傷を負って飛行機を降り、陸上勤務をしていました。


その後退役していたところを第二次世界大戦開戦と共に復帰し、
1942年からルーマニアのドイツ軍総司令官となっていました。

ナチス・ドイツ最大の単一石油供給源であった
プロイエシュティの石油精製所周辺に防衛圏を設定することは、

ゲルシュテンベルグに与えられた最も重要な責務だったのです。

防衛圏の構築段階で、ゲルシュテンベルグ司令は
すでに対空砲
(8.8cmFlaK高射砲)を街の周囲に張り巡らせており、さらに、
発煙装置と、最も重要な施設の近くに弾幕気球を設置していました。

「罠」というのは主にこの阻塞気球とも呼ばれる気球のことです。

かわいい

阻塞気球(barrage balloon)

は、金属のケーブルで係留された気球で、シンプルな装置ながら、
低空から進入してきた飛行機をケーブルに衝突させ、
あるいは攻撃を甚だしく困難にするすぐれものです。

B-24リベレーターの軽いアルミニウムの翼は、
気球の鋼鉄のケーブルによって易々と引きちぎられてしまいます。

そして、ドイツはもちろん、ルーマニア、ブルガリア軍の戦闘機が
大佐の迎撃命令一下、いつでも出撃する態勢を整えていました。

このときゲレシュテンベルグの配下には、プロイェシュチだけで
約25,000人の兵士が控え、その命令を待っていたと言われます。



■ アメリカ爆撃隊のミス

リベレーター爆撃隊の不運は、根拠地から目標が遠方だったことです。

アフリカのリビアからの1,000マイルの無警戒飛行中、
雲によって編隊は2つのグループに分断され、
間違った方向転換が、さらに混乱を引き起こしました。

さらにいくつかの編隊が航法ミスを犯し、無秩序のまま、
厳重に防衛された目標地域に到着してしまいました。

しかも、無線の傍受によって、襲来は前もって読まれていました。
これでは企画段階で期待された奇襲にはなりません。



戦闘の混乱の中、一部のB-24は、煙幕装置の激しい煙の中を爆撃し、
前の波から遅れてきた爆弾の炸裂に巻き込まれることになります。


爆弾を落としたところに次の一波が到達してきている

■ 生存者の語る「暗黒の日曜日」

次回に詳しく紹介しようと思いますが、この攻撃の時、
B-24リベレーターの砲手に、のちに「二世ヒーロー」と呼ばれた
日系アメリカ人2世のベン・黒木がいました。


ベン・黒木(Ben Kuroki)

彼は陸軍での現役中58回の任務を遂行していますが、
「タイダルウェーブ」作戦はその24回目となるものでした。

歴史家トム・ギブスのインタビューの中で、プロイェシュチへの攻撃が
いかに「恐ろしい」ものであったかを、彼はこのように回想しています。

「眼下で貯蔵タンクが爆発したとき、
我々の飛行機の高度よりも50フィートも高く炎が上空に舞い上がりました。
私はその時、自分のこの後の運命をはっきりと悟った気がしまし
た。


そのときわれわれの機は低空で目標上空を飛行していましたが、

爆破に巻き込まれなかったのは奇跡だったと思っています」


マック・フィッツジェラルド(前列サングラスの人物)

プロイェシュチ爆撃に参加したリベレーター「ホンキートンク」で
やはり上部砲塔が持ち場だったマック・フィッツジェラルドは、
僚機が3階建てのレンガ造りのビルに激突するのをなすすべもなく見ながら、
「これで今、10人が死んだ」と自分に言い聞かせていました。

次は自分の番だと確信した彼は、心の中で両親に別れを告げていたので、
結果的に自分が死ななかったことには「誰よりも驚いた」と語っています。

二人が語ったコンビナートへの攻撃はわずか30分ほどでしたが、
この間の人命と物資の犠牲は凄まじいものでした。

アメリカ軍の爆撃機は合計で52機が撃墜されました。

マック・フィッツジェラルドはそのうちの1機に搭乗していました。
ベン・クロキが語ったところの炎の高い柱を避けた後、
彼の機は被弾し、墜落して彼と数人の仲間は捕虜になりました。

歴史家のドナルド・L・ミラーは前述の

『マスターズ・オブ・ザ・エアー』原作の中で、
この空襲で310人のアメリカ軍飛行士が死亡
130人が負傷し、100人以上が捕虜になったと主張しています。

また別の報告では、178機の爆撃機と1,726人の兵士のうち、
54機と500人近くが未帰還、捕虜は186名に上るとされています。

ミラーはまた、プロイェシュチ空襲は
「民間人よりも多くの空軍兵士が死亡した、この戦争で唯一の空爆の一つ」
であったとも指摘しています。

ちなみに、現地ルーマニアの民間人と軍人で死亡したのは116名でした。

この戦闘におけるアメリカ人兵士の死亡者は
ルーマニアの民間人と政府関係者によって
ボロバン墓地の英雄区画にある集団墓地に埋葬されました。


2023年になって、MIAの活動により身元が判明し、
故郷のオハイオに戻ってきたアメリカ陸軍中尉の遺骨埋葬式の様子です。

このロイター中尉はプロイェシュチ攻撃の際戦死し、その遺体は
ルーマニア市民によってプロイエシのボロバン墓地に埋葬されていました。

米国墓地登録司令部は、多くの身元不明遺骨を掘り起こし、
このたびロイター中尉が特定される運びとなりましたが、
同団体は最終的に、特定できなかった遺骨を再び埋葬しなおしています。

たとえ特定できなくても、アメリカ人であることがわかっているなら、
とりあえず?持って帰ることはできなかったのでしょうか。




■タイダルウェーブ作戦の影響

プロイェシュチ方面司令のゲルシュテンベルク将軍(最終)の紹介に、

彼の指揮した防衛作戦の結果、1943年8月1日に行われた

最初の空襲、タイダルウェーブ作戦で、
米軍は油田を破壊することができず、大きな損害を被った。

とあります。

この空襲で石油貯蔵施設は確かに爆撃による損害を受けたものの、
ドイツ軍はすぐに数千人の強制労働者を動員し、
コンビナートの甚大な被害を修復してすぐさま生産を再開しました。

数週間のうちに、施設の石油生産量は襲撃前よりも増えたほどです。


それ以来、「血の日曜日」として記憶されている当作戦の損失を鑑み、
アメリカの指導部は、ルーマニアの石油産業に対して、
8ヶ月間、大規模な攻撃を試みることはありませんでした。


続く。



日の丸の寄せ書きと日本刀〜USS「LST393」艦内展示

2023-09-30 | 歴史

第二次世界大戦でDデイに参加した戦車揚陸艦USS「LST393」。
ミシガン州マスキーゴンに展示されているこの記念艦、
公開されている艦内部分を一応見学し終わりました。



ここからはいきなり枢軸国コーナーとなります。
まずドイツ第三帝国グッズから。



なんで悪役っぽくほくそ笑んでるんですかね。
後ろの、

「第二次世界大戦時のアメリカの敵」

には、このような解説がありました。

「この展示は、ここに描かれた国家がWW2時に存在したことを
面白おかしく表現するためにあるのではありません。

むしろ、この展示は2つの理由からここにあるのです;

1 、戦争の野蛮さと、これらの戦時中の国々を打ち負かした
人々の犠牲を思い起こさせることです。

2、これらの品は、アメリカの兵士によって戦場で発見され、
アメリカの故郷に持ち帰られました。

彼らの奉仕と犠牲を思い起こさせるものとして、
退役軍人とその家族にとって意義深いものです。


これらの遺物は、第二次世界大戦の恐怖を永久に記録するために、
USS LST 393 Veterans Museumに寄贈されました。」



とかいいながら、いやこれドイツ軍人の持ち物じゃないし。

例によってヒトラーと日本の「誰か」(誰にも似ていない)が、
テーブルで何かを食べている(日本人は正座している)と、
黒い頭巾の何者かが武器を振り翳してきて、

「そんなの注文しとらんぞ!」

テーブルクロスの下にムッソリーニが隠れているという漫画。
漫画が風刺しようとしているところはどうかご想像ください。


棍棒式の手榴弾、黒皮の鞄、銃弾入れベルト、
ライフル、おそらくカールツァイスの双眼鏡の入っていたケース。



各種パンツァー(いいかげん)



短刀(手前)と鉄製の筒。



海軍士官のサービスドレス。
おそらくセレモニー用ドレスだと思われます。



第一次世界大戦時のドイツ軍兜と軍服。
この形の鉄兜は知っていますが、兵用にこんなものもあったとは・・・。

これってなんの防御にもならないよね。

その気になれば頭突きで攻撃するため・・・とか?



さて、ここからは我々にとって興味深い、大日本帝国コーナーです。



上から日本陸軍士官帽、陸軍鉄兜、
陸軍飛行帽、陸軍兵用帽、海軍艦内帽。



日本占領時にアメリカ兵が記念品として持ち帰ったものだと思われます。

まず、

【陸軍大臣官房局編纂
陸軍成規類聚(りくぐんせいきるいじゅ)】


ですが、英語の解説は

Japanese army Instruction Manual
日本陸軍取扱説明書

となっており、
全く間違いです(がそう書くしかなかったのでしょう)。
類聚という言葉はあまり聞いたことがないですが、
「集めたもの」という意味があり、要は規則集ということです。

国会図書館のデータベースで内容を見ることもできますが、
これは陸軍の運営に関わること全ての規則を網羅した辞典で、
例えば兵役対象者の職業や経歴はどのように扱うかとか、
戦時に陸軍大臣はある事項にどのように関与するかとかいう法律書です。

大変興味深いのは、これを持ち帰ったアメリカ兵
(ジョン・ピエトロビッチ AR SVGP)によると、取得した場所が
硫黄島の洞窟
であったという事実です。

つまり、日本軍の誰かがこの分厚い陸軍版六法全書みたいなのを、
前線である硫黄島に持ち込んでいたということになるわけです。

おそらく、法務にかかわる任務を担っていた将校か下士官の持ち物で、
これが硫黄島で必要になる場面があるとその人は考えたことになります。


【小樽黄地商店の商品包装紙】

お札を挟んで上下にあるのがそれですが、調べたところ、
黄地商店は有限会社として2016年まで存在していたことがわかりました。

しかし、商売はたたんでしまったので、
この店が何を扱っていたのかはわかりません。

同名の同じ住所にある黄地商店というのがここのことなら、
精肉店ということですが、こちらは「きじ商店」と読むらしいし・・。
上に絵葉書を置いてなければ商品名が読めるんだけどな。

どうでもいいけど、英語の記述があるのに
どうしてわざわざ上下逆さまに展示してあるのか。

【経済学原理
福田徳三著 改造社出版】


”Japanese Insructional book”(ママ)

と説明があります。
何でもかんでもわからなければインストラクションいうな。
兵隊さんが持って帰ったので軍関係ものと思い込んでるんですね。

経済学原理ならきっと手掛かりになる挿絵もないだろうしなあ。
せめて中国人のスタッフはいなかったのか。

福田徳三は東京商科大学(現一橋大学)卒の経済学者で、
立ち位置としてはマルクス主義に反対する自由主義経済の推進者で
かつ日本で最初に福祉国家論を唱えた人物でもあります。

【Soldier’s Guide to the Japanese Army
日本陸軍ニ関スル 軍人ノ案内書

説明は、

アメリカ兵士のための日本陸軍と戦うための本
Book for the US Soldier to fight the Japanese Army

これは間違えようがありません。
なぜならこの本は英語で書かれたアメリカ兵のための書だからです。

本にはアメリカ人の持ち主の名前が書かれています。
検索したところ、日本では公文書図書館にあるそうです。

真ん中のお札(1ドル札と50センタボス)は日本政府発行。
占領地の札なのにすごい凝った印刷がされているのがさすがです。

センタボスはスペイン語なので、
フィリピンで発行されていたお札と考えられます。



【コート】

陸軍士官のコートってダブルボタンでしたよね?
色もこんな茶色じゃないし。
というわけでこれは普通のコートです。

色がそれっぽいのでアメリカ人は軍装と思っている模様。


【日の丸と武運長久】

右:SMSダニエル・メローシェ(空軍)氏より貸借

左:ラリー・デイビス氏が太平洋で取得したもの


相変わらず横書きを縦に飾るという失礼なことをやらかしていますが、
怪我の功名?偶然「武運長久」が縦に読める・・・でっていう。



【日の丸寄せ書き】

アメリカ兵がお土産感覚で持ち帰った日の丸の寄せ書きを、
書かれた名前を元に日本の遺族に返そう、という奇特なアメリカ人がいる、
というニュースを何年か前ネットで目にしたことがあります。

相変わらずここにもそのうちの一つがあるわけですが、
おそらくほとんどはこのようにアメリカに残ったままでしょう。

日本人には、これが
「林幸茂」という人の出征に際して贈られた、
出征記念の寄せ書きだということがはっきりとわかるわけですが、
漢字の上下も判別できない人ばかり生息している地域では、この文字列など、

我々にとってのシュメール文字くらい不可解でかつ意味のない
「模様」みたいなものなので、当然深く思うこともないのかもしれません。


それにしても、この林幸茂という青年は知人の多い人らしく、
名前だけで国旗の白い部分が埋め尽くされていますが、ところどころに

「一志奉公」「東亜建設」「祈武運長久」「勇」「力」「米英打倒」

といった言葉も見えます。


仔細に眺めると、「青春部隊」という言葉がいくつか書き込まれ、
そのうち一つは「青春部隊長」・・・そういうグループを作っていたのかな?
「豆チョコボンボンズ」というのは、真っ黒に日焼けした
男の子たちのグループの一人だったということかな?

彼が過ごした故郷での幸せな少年時代を彷彿とさせます。



さて、先ほど彼らにとってのシュメール文字などと書いてしまいましたが、

今回はここマスキーゴンの心あるアメリカ人たちに謝ろうと思います。

この日の丸寄せ書きは彼らの敬意を表すかのように美しく額装され、

しかも入艦してすぐのところに掲げ、次のような解説が加えられていました。

”グッドラックフラッグ(幸運の旗)”

寄せ書き日の丸は、大日本帝国の軍事行動、
特に第二次世界大戦中に派遣された日本の軍人への伝統的な贈り物でした。

国旗は通常、友人や家族によって署名された国旗であり、多くの場合、
兵士の勝利、安全、幸運を願う短いメッセージが添えられていました。

「日の丸」という名前は、文字通り「丸い太陽」を意味する
日本の国旗の名前から取られています。

遠く離れて駐屯する軍人や愛する人のために寄せ書きされた日の丸は、
広げられるたびに世界共通の希望と祈りを持ち主に届けました。

多くの署名やスローガンが記されたこの旗は、その所有者に
困難にも立ち向かうことのできる力を与えると信じられていました。

1942年から1945年にかけての太平洋戦争では
何百万人もの日本人が命を落としましたが、持ち運びが簡単だったため、
米海兵隊員と兵士たちは何千ものこれらの旗を持ち帰ってきました。

近年、一部の退役軍人らによって、
日本軍人の家族に
この旗を返還する取り組みが行われています。


USS「LST393」は、日の丸を日本の家族と「再会」させる、

というプロジェクトを行なっている団体の中で最も活発に活動している
オレゴン州アストリアの「オボン・ソサエティ」と連絡を取りました。

もしソサエティが旗の持ち主の軍人遺族と連絡をつけることができたら、
当博物館はすぐさま国旗を日本に返還するつもりをしていますが、
それまでは教育目的で展示させていただくことにしています。


この寄せ書きはマスキーゴンのトーマス・ブルドン氏から貸与されました。


彼の父親トーマス・E・バートンは第二次世界大戦で
海軍の艦上戦闘機パイロットであったことから考えて、
海兵隊と
旗を何かと交換して手に入れた可能性が高いということです。



【脇差 ワキザシ ショートスウォード】

神軍刀として配布された脇差短刀(12~25インチ)です。
これらは 1935 年から 1945 年にかけて大日本帝国軍向けに製造されました。

政府はこれらを下士官(軍曹および伍長)に配布しましたが、
士官は自身で購入することが推奨されていました。

この剣は構造を簡素化するために木製の柄を持っているもので、
おそらく第二次世界大戦末期に製造されたと考えられます。
革で包まれた木製の鞘も付いています。

タッセルはランクを示します。

茶色、赤、金は将官用。
佐官は茶色と赤。
中隊長または准尉の場合は茶色と青、
下士官の場合は無地の茶色です。 


軍刀のタッセルのことは正式には刀緒といいます。
正式には以下の通り。


陸軍将官 茶色・赤に金織入り
陸軍佐官 茶色・赤
陸軍尉官 茶色・紫

海軍士官 茶色


この刀も海軍の艦上戦闘機パイロットだったトーマス・E・ブルドンが
太平洋から持ち帰ったもので、島での戦闘後に海兵隊員と交換したとのこと。

ところで、どうしてブルドンさんが
「海兵隊と交換した」と強調するのか、
わたしは最後の展示を見てなんとなく腑に落ちました。




ブルドン氏の父親は、日の丸と刀という、当時のアメリカ兵が
目の色を変えて欲しがっていたお土産だけでなく、
おそらくそれらの持ち主である写真の人物の
財布まで持ち帰っていました。

そしてその財布の中には、この写真が入っていたのです。
寄せ書きの名前、林幸茂という兵隊は、この内の誰かで、
一緒に写っているのは初年兵仲間か、それとも
例の「青春部隊」のメンバーだったのか・・・。



戦争中の高揚感から、あきらかに日本兵の遺品であるとわかる略奪物を
故郷に持って帰ってきたものの、その持ち主がどうなっていたか、
おそらくパイロットの父親は、これらを自分の持ち物と交換した
海兵隊員に聞いたであろう当時の状況について、戦後、

あまり思い返さないように(考えないように)していたかもしれません。

だからこそ、彼は息子にその経緯を詳しく語らないまま他界したのでしょう。

そして、これも仮定ですが、息子は、父親がこれらを手に入れた方法が、

戦死した日本兵の遺体から略奪しというものでなかったということを、
後世に対し、父の名誉のために、表明したかったのではないでしょうか。



続く。






「ライトフライヤー号をアメリカに帰そう」作戦〜シカゴ科学産業博物館

2023-07-09 | 歴史

MSIの時間潰し航空機見学ツァー、最後に、
原初の動力飛行機であるところのライト・フライヤーと、
逆にここにある最新の飛行機であるボーイング727をご紹介します。

今日はライト兄弟のフライヤー、「キティホーク」から。

■ ライト・フライヤー『キティホーク』


MSIのトランスポーテーション(交通)ギャラリー東側バルコニーには、
1903年製のライトフライヤーの精巧なレプリカが置かれています。

これは、ライト兄弟の初飛行から100年の節目にあたる年、
2003年に、動力飛行を実際に行った米国初のレプリカです。




「グレン・エルリンの魂」と呼ばれるこの複葉機のレプリカは、
初期の革新的な飛行の現実と大胆さを間近で垣間見ることができます。



1903 年12月17日、オーヴィルとウィルバーのライト兄弟は
世界初の飛行機で有人飛行の夢を実現しました。

写真は、同日ノースカロライナ州キティーホークにおける歴史的瞬間。

ライト フライヤーは自力で離陸し、ほぼ 1 分間飛行を維持し、
パイロット 3 名の制御下で飛行しました。

これまで他のどの飛行機でも達成されたことのない偉業を成し遂げたのです。

オハイオ州デイトン出身の独学のエンジニア、プリンター、
自転車整備士が、航空時代を開始し、世界を永遠に変えた瞬間でした。



「飛行時代の夜明け」と記されたライト兄弟の写真。
上のキティホークでの初飛行で、コントロールしているのがオービル、
見守っているのがウィルバーです。

キティホークは初飛行の場所ですが、
ライトフライヤーの別名でもあります。

ご存知のように、これが有人重飛行機hevier-than-airの初の持続飛行でした。



アンヘドラル(垂れ下がった)翼、
前部エレベーター(カナード)、
後部ラダーを備えた単葉複葉機です。

12馬力のガソリンエンジンを搭載し、
2枚のプッシャープロペラを動かして操縦を行います。
(というよりただ乗っているだけ?)

最初の機体は不安定で飛行が非常に困難だったため、
4回目の飛行で260m飛んで着陸時に破損し、
その数分後に強力な突風で吹き飛ばされて大破しました。

その後オーヴィルによって修復され、現在は、色々あった後、
ワシントンD.C.の国立航空宇宙博物館に展示されています。

■オーヴィル・ライトとスミソニアンの確執

この間実は色々あって、「キティホーク」はロンドンにいた時期があります。
アメリカ人の魂と呼んでもいいようなライトフライヤーがなぜ?

それは、オーヴィルとスミソニアン協会の間の確執にありました。

地質学者チャールズ・ウォルコット

当時のスミソニアン協会長官チャールズ・ウォルコットが、
ライト兄弟が初めて動力による制御飛行を行ったという功績を認めず、
それは、ライト兄弟のテストが成功する9日前に、
同じようなチャレンジをして失敗したサミュエル・ピアポン・ラングレー
「史上初」であることにしようとしたからだと言われています。


ラングレー


ラングレーの実験(飛行時間5秒)
っていうかもう落ちにかかってるし

これは、ウォルコットが、サミュエル・ラングレーの友人だったことから、
なんとか彼を「史上初」にしたかったという情実からきたゴリ押しでした。

ちなみにラングレーはスミソニアン協会の事務局長でした。
(日本語のWikiでは長官となっているがこれは間違い)


エアロドーム(陸軍がラングレーに依頼した)

ラングレーがエアロドーム号を使ってポトマック川で行った実験は
失敗でしたが、友人の航空史における地位回復を臨むウォルコットは、
やはりライト兄弟と訴訟問題で揉めていたグレン・カーティスと組んで、
もう一度エアロドームをスミソニアンの展示から引っ張り出して
ニューヨークのケウカ湖で飛ばそうとしました。

カーティスは、ライト兄弟と飛行機の特許で争っていたため、
エアロドームで制御されたパイロット飛行が可能であることを証明し、
ライト兄弟の広範な特許を無効化しようとしたのです。

カーティスはここでエアロドームにこっそり改良を加えました。
エアロドームが「人類初の飛行機」かどうかを証明するためには
やってはいけないことでしたが、カーティスはなんやかんや言い訳して、
特許弁護士や評論家からは、

「いやこれ原型留めてねーし」

といわれるくらい改造して飛ばそうとしたのです。
しかし、前述のように湖面から数フィートの高さで5秒間飛んだだけでした。

しかも、訴訟で裁判所はライト兄弟の特許を認める判決を出しました。

それはともかく、スミソニアンが「ラングレー推し」し出した頃、
オーヴィルは当然それに激怒し、

「もし私たちの偉業をスミソニアンが認めないつもりなら、
『キティホーク』をロンドンの博物館に送るがそれでもいいか?」


と脅したのですが、全く効果はありませんでした。
そこで引っ込みがつかなくなったオーヴィルは、
本当に機体をロンドンに送ってしまったのでした。


ロンドンの科学博物館に展示されていた「キティホーク」
柵もなにもなく、その気になれば触り放題という


そのうち第二次世界大戦が始まり、「キティホーク」は
爆撃の多い市街地を避けて、地下貯蔵施設に避難していましたが、
まだ戦争真っ只中の1942年、ウォルコット長官が死去したことを受けて
新長官となったチャールズ・アボットが、
これまでのスミソニアンの公言を撤回する考えを示しました。


スミソニアンの誤りを認めた男、アボット長官(天文学者)

新長官が就任に際して言及した「4つの後悔」の中の一つが、

「人が乗って自由に飛行できる最初の飛行機」が
ラングレーのものであると認定してしまったこと

とであり、長官は、

「1903年12月17日にノースカロライナ州キティホークで
ライト兄弟が初めて空気より重い機械で持続飛行したことは認められている。

ライト博士が飛行機を(スミソニアンに)預けることを決めたら...
それにふさわしい最高の名誉が与えられるだろう」

と翌年の年次報告で表明しました。
(ちなみに後三つの『後悔』がなんだったかはわかりませんでした)

翌年、オーヴィルはアボットと何通かの手紙を交わした後、
フライヤーを米国に返還することに同意しました。

フライヤーはその後、いくつかの契約条件のもとで
スミソニアン博物館に売却されることになりましたが、
そのうちのひとつには、こう書かれています。

スミソニアン協会またはその後継者が、アメリカ合衆国のために
管理する博物館やその他の機関、局、施設において、
1903年のライトフライヤーよりも古い時代の航空機モデル、
または設計された航空機が、制御飛行において
自力で人間を運ぶことができると主張する声明、
またはラベルを公表したり表示することを許可しない


■ オペレーション・ホームカミング

「キティホーク」がロンドンに「出張」していたのは意外に長く、
1928年から1948年までの20年間でした。

オーヴィル・ライトとアボット長官の間でようやく話がまとまったため、
アメリカはフライヤーをアメリカに戻す計画として、
「オペレーション・ホームカミング(里帰り作戦)」を展開しました。

アメリカは何でも「オペレーション」にしてしまいますが、
とくにこの「ホームカミング」という言葉が好きらしく、
一般にこの名前で知られるのは、1973年にニクソン政権で行われた
ベトナム戦争の捕虜を一気に家に帰す帰還作戦です。

そのせいで、こちらの作戦はライト・フライヤーの件でしか語られませんが、
ともあれ20年間海外にあった飛行機を、アメリカに戻すというのは
当時のアメリカにとってそれなりに大変なことだったのです。

ホームカミング作戦では、「キティホーク」が20年間の海外生活を経て、
空母「パラオ」の輸送によりアメリカに戻されました。



1948年10月18日、イギリスの様々な飛行組織の代表や、
サー・アリオット・ヴァードン・ロー(イギリスの航空エンジニア、企業家。
自作の飛行機で自国の空を飛んだ最初のイギリス人)
など、イギリスの航空界の先駆者が出席した式典で、
「キティホーク」の正式な引き渡しが行われました。

執行者となったのは、アメリカ民間航空局の
リビングストン・L・サタースウェイトでした。

そして11月11日、「キティホーク」は1,111人の乗客とともに
「マウレタニア」号で北米に到着しました。

定期船がノバスコシア州ハリファックスに停泊すると、
スミソニアン国立航空博物館のポール E. ガーバーが機体を出迎え、
アメリカ海軍空母USS「パラオ」に載せ、ニューヨーク港経由で送還。

そこからワシントンまでは、フラットベッド・トラックで移送されました。

アメリカの道路を走っていると、時々「OVERLOAD」と書かれた
超重量物を運ぶ特別輸送トラックを目撃することがありますが、
おそらくこのときも、「キティホーク」を載せたトラックは
周りを守られて、ゆっくりとスミソニアンに向かったのでしょう。

■ スミソニアンの「キティホーク」



そして、現在のスミソニアン博物館には、
ライトフライヤーを据えた「ライト兄弟コーナー」があります。



オーヴィル愛用のマンドリンの展示の横に座る見学者。

わたしが実際スミソニアンに訪れて撮った写真です。
スミソニアンライト兄弟コーナーはまた日を改めて紹介すると思います。



コロナといえば、これはコロナ前のスミソニアンの展示。


MSIのライトフライヤー レプリカの展示。



オーヴィルは黒マスク派でした。

■ 「ライトフライヤー」飛行 100周年

2003年12月17日の100周年が近づくにつれ、米国飛行100年委員会などが、
ライト・フライヤーの飛行を再現する企業の入札を開始しました。

このとき落札したライト・エクスペリエンスは、
オリジナルのライトフライヤー、試作のグライダーやカイト、
その後のライト航空機の多くを丹念に再現し、
実際に12月17日、それを飛行させようと試みました。

事前のテスト飛行では成功していたそうですが、
天候不良、雨、弱い風のため記念日には飛行できなかったそうです。

この複製は、ミシガン州のヘンリー・フォード博物館に展示されています。

このほかにも、アメリカ航空宇宙学会(AIAA)ロサンゼルス支部が、
1979年から1993年にかけて製作した実物大レプリカ。

この航空機は、カリフォルニア州のマーチフィールド航空博物館にあります。

このほかにも、米国内はもとより、世界各地に静態展示のみの
飛行しない複製機が多数展示されており、
「パイオニア」時代の単一の航空機としては、
史上最もたくさん複製された機体となっています。


続く。



メインバラストタンクブロー〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-05-22 | 歴史

シカゴにある科学産業博物館のU-505展示から、
今日は「浮上と潜航」についての操作関係です。

まず冒頭の写真はU-505が実際に搭載されていた装備で、
ユンカース製のエアコンプレッサー実物です。

エアコンプレッサー、つまり空気を圧縮するものですよね。


コーナーの説明には、

「Uボートはどうやって潜航&浮上を行うのか」

とありますが、ここで潜水艦の潜航浮上の仕組みを今一度説明しておきます。

潜水艦の潜航・浮上のために不可欠な働きをする装置はバラストタンクです。
手っ取り早く言ってしまうと、バラストタンクに海水を入れたり出したりして
その重さで潜航したり浮上したりするわけです。



前にもシルバーサイズ潜水艦シリーズで説明しましたが、
潜水艦を潜航させるときには、バラストタンクに海水を注入し、
艦の重量を増加させてアルキメデスの原理的に沈み、
逆に浮上する時には空気を入れて海水を出すのですが、
バラストタンクの海水をどうやって排出させるかというと、
「気畜機」に圧縮されて蓄えている空気を注入するのです。

「気畜機」というのは帝国海軍以来の日本の潜水艦用語ですが、
それがようするに、ここに展示されているエアコンプレッサーです。

このエアコンプレッサーを使った浮上までの一連の動きを、

「メインタンク・ブロー」

といいます。

英語では「メインバラストタンク」ですが、
号令でどのようにいうのかはわかりません。

バラストタンクは「メインタンク」「メインバラスト」などとも称します。

余談ですが、帝国海軍では「メンタンブロー」で通っていたようですね。
航空機畑で「Go ahead」が「ゴーへー」だったみたいなもんでしょうか。



このユンカース・フリー ピストン・コンプレッサーは、
U-505に搭載された 2 つのエアーコンプレッサーのうちの 1 つで、
艦体の後方に配置され、もう 1 つは機関室にあり、
主要なディーゼル エンジン配置の一部でした。


ユンカースのエアコンプレッサーは革新的なデザインでした。
名前にあるように、何が「フリー」かというと、ピストンです。

ピストンはシリンダー内にあり、従来のように
クランクシャフトには取り付けられていませんでした。


これはフリーピストンのエンジンの図です。

ピストンがクランクシャフト等の出力伝達軸に機械的に結合されておらず、
蒸気、燃焼ガス、液体金属等の作動流体を介するというのが定義ですが、
フリーピストン・エンジンのコンセプトが最初に成功したのは、
実fはこのエアコンプレッサーであり、代表的な使用例がUボートです。

このシステムの利点は、高効率、コンパクト、低騒音・低振動であること。
設計がシンプルなので、標準的なコンプレッサーよりも省スペースで、
潜水艦という厳しい重量制限が求められる環境には理想的でした。

しかし、このコンプレッサーの操作は超絶複雑だったため、
U-505 の乗組員は、コンプレッサーをちゃんと操作し続けるためには
定期的な修理が必要であると不満を漏らすレベルだったそうです。


How U-boats Dive & Surfaceシリーズの続きです。

Buoyancy(ボイアンシー) =浮力

という言葉がここのポイントです。

【ボイアンシー・ステーション】

他のタイプのボートとは異なり、潜水艦は
重量を増減することによって浮力 (または浮く傾向) を調整できます。

希望の深度に到達するために、U-505 の乗組員は一連の制御を操作して
潜水艦の重量を変更し、必要に応じて潜水または浮上を行います。

【U-505の潜航と浮上】

潜水艦の浮力が「正」(ポジティブ)の場合、それは浮上しています。
これはつまり艦体が置き換えていた水より重量が軽くなった状態です。

潜航するためには、ベントバルブ(通気弁)を開け、
艦体内側と外側の間にあるバラストタンクの上部から空気を放出すると、
タンクの底にあるフラッドバルブから水が流れ込みました。

潜水艦の艦体に取り込む水は負(ネガティブ)の浮力を生み出し、
それが彼女を水没=潜航、サブマージさせることになるのです。

逆に浮上するためには、ベントバルブを閉じます。
その後圧縮空気がタンクに吹きこまれ、水を排出して艦体が軽くなり、
海面に浮上するというわけです。

【ダイブ・プレーン(潜舵)とトリムタンク 】

U-505を操舵するには、ボートの可動式潜舵を調整して、
潜水および浮上時の艦体の角度を制御します。

潜水艦が目標の深度に達すると、艦体の平衡を維持するために
ダイブプレーンを水平にします。

トリム(日本では”ツリム”だった模様)という言葉は、
艦体の前後の傾きという意味であり、艦体前後に二箇所設置され、
艦体のバランスの微調整は、それらの浮力比を操作して行います。


ここで、アメリカ海軍の初年兵への教育用に製作された、
例によって大変わかりやすい映画をご覧ください。

Submarine Ballast Tanks

バラストタンクも皆が同じ場所にあったわけではなく、
アメリカ海軍では、潜水艦の型式で形状も違っていたようです。

■ バラストウェイト



展示の片隅にひっそりと置かれていた実物のバラストウェイト。


この写真に見えるのは・・・バラストではないでしょうか。

場所がどこだか説明がないのですが、潜水艦の艦底が見えているような。
作業をしているのはシップビルダーで、乗組員ではないので
船舶の建造中の写真だと思われます。

バラストウェイトは、ボートを水中で直立状態に保つものです。
前後ではなく、左右に傾かないようにするものですね。

すべての船は、この目的のために一定量の固定バラストを搭載しています。
一般的に設置するバラストの重量は、船舶の内容物の重量と、
重心への近さによって決まってきます。

Ballast Operation

一般の船の場合。

バラストウェイトの重さのおかげで、たとえ強風で海が荒れても
船が転覆したり、またが沈みすぎたりすることがありません。

ちなみに、映画「Das Boot」(『Uボート』)でも描かれていた、
急速潜航のときに手の空いた乗組員が、だーっと前方になだれ込んで
重力を前に傾ける「人間バラスト」になっていたシーンですが、
この鉄のバラストは、バランスを取るために最初から装備してあるので
動かすことはできません。

■ 浮上チャレンジ Buoyance Challenge

博物館にはここに「浮上チャレンジ」という体験コーナーがあります。



操作パネルと浮上する潜水艦の模型の入った水槽(状のタワー)、

左側にはエアーコンプレッサー、右側にはバラストウェイトがあります。
しかし、このバラストを見て、気がついたことが。

この写真は博物館のHPのものですが、
わたしが見に行った2022年の夏には、
バラストウェイトは4つしか置いていませんでした。

写真を撮った時にはこんなたくさんあったのに、
いったいどこに分散してしまったのでしょうか・・。



わたしが通りかかった時には、例によって誰かが操作中でした。

こういうとき、空くのを待って何がなんでもトライしてみたい、
という前向きな好奇心をいっさい持たないわたしは、
ここにある体験コーナーのどれも写真を撮るだけで通過しました。

このコーナーは、U-505がどのようにして深度を調整できたか、
それをシミュレーションで理解するというものです。

自分の調整を試すことができるのは高さ3mの水槽(状のもの)。
ここでU-505のカットモデルやバラストタンクを駆使して、
浮力調整にチャレンジしてみましょう、というわけです。



わたしが見ていたチャレンジャーは、U-505の浮上に成功したようです。

Uボートはさまざまな制御装置を操作することで、海上で体重を変化させ、
必要に応じて素早く潜水や浮上を行うことができました。


で、どんな複雑なものかと思ったら・・・・・。
これはつまり「メインタンクブロー」か「ベント開け」をボタン一つでできると。

あなたのミッション:
下のライトに点滅されている水深ポイントで
ニュートラルな浮力を維持してください


任務が完了したら、緑のランプが点灯する仕組みです。


公海では(high seasと表現されている)、たった一つのミスで、
ボートの潜航を瞬間遅らせてしまい致命傷になったり、また、
潜航の時間が少しでも長すぎると艦体をクラッシュさせることになります。

つまり、Uボートのバラストタンクには、いかなるときでも
その状況、その時その時の潜水艦の目的ー潜望鏡深度、潜航深度、
平衡浮力に対し、適正な割合の水と空気がなければなりません。



右側のプラズマスクリーンには、自分が操艦しているボートの状態が
刻一刻と映されているので、こちらも確認しながら行います。

そして、ミッションをやり遂げたチャレンジャーは、
スクリーンに映し出される海上の自分の船の姿に、
成功の合図(どうするのかはしらんけど)を送るというわけです。


続く。


プリズナーズ・オブ・ウォー(戦争捕虜)〜シカゴ科学産業博物館U-505展示

2023-04-30 | 歴史

冒頭写真のパネルにある一列に並べられた半裸の男たちは、
捕虜になった直後のU-505の乗員たちです。

わたしはこの写真を見た途端、映画「Uボート最後の決断」で
アメリカ海軍潜水艦の乗員が、全員Uボートの捕虜になり、
Uボート乗員の視線の中を全裸で歩かされるシーンを思い出しました。




捕虜になるだけでもアレなのに、
全裸で行進させられるというのは恥辱以外の何でもありません。

そういう辱めを与えるのが目的なのか、それとも
そのことによって抵抗力を削ぐのが目的かはわかりませんが、
いずれにしても捕虜を「押さえつける」手っ取り早い方法かと思われます。



さて、ボートを捨てて救命いかだで海に逃れたUボート乗員たちは、
Uボートもろともアメリカ軍に捕獲されることになりました。

しかしアフリカ沖を救命いかだで漂流し、味方に拾われる確率は
非常に低かったことを考えると、命拾いだったと考えていいでしょう。



ともあれ彼らはアメリカ艦船に救助された瞬間、
戦争捕虜(プリズナーズ・オブ・ウォー)となったのです。



ホースで水をかけられていますが、これはボートにいるドイツ兵たち
(汗まみれで色々と臭い)を乗艦させる前に洗浄しているのかと。
アフリカ沖で暑いので彼らにはありがたかったかもしれません。



というわけで、今日は博物館の展示からこちらを哨戒、
じゃなくて紹介します。



潜望鏡をのぞく艦長らしき姿。



■ 囚われの身

U-505の拿捕の際死亡したドイツ側の乗組員は、
「ゴギー」ことゴットフリート・フィッシャーただ一人でした。

彼は、最初のアメリカ軍による航空攻撃の際
甲板で銃弾を受けて死亡したとされます。

タスク・グループは残りの58人の乗組員を海から救出しました。
繰り返しますが、ほとんどのUボート乗組員が経験するよりも、
これは結果としてはるかに好ましい運命といえます。

USS「ガダルカナル」に乗せられた彼らはバミューダに輸送され、
ルイジアナ州ラストンでの捕虜収容所の準備を待つために
そこで数週間収容生活を送りました。


バミューダでのUボート乗員たち


ハンス・ゴーベラー二等機関士の捕虜調書。

怪我の状態を書く欄に「左手と人差し指に怪我」、
調書が取られたのは1944年6月13日と捕虜になってすぐです。

一番下にはドイツでの住所も書かれています。



こちらも両手の指紋を念入りに取ってあります。
ヨーゼフ・ハウザー中尉の調書。


捕虜になった時にアメリカ軍に接収されたハウザー中尉の鉄十字章

「勇敢かつ英雄的な戦闘指揮に対して与えられる」
この鉄十字章、アイアンクロスについては、ドイツ軍人の憧れとして
いくつかの映画に登場してきましたが、
ハウザー中尉、何とこれを授与されていたようです。



こちらもヨーゼフ・ハウザー中尉のヒトラー・ユーゲントバッジ。
最後の方はヒトラー・ユーゲントは全員参加となっていました。


「行方不明」扱いされたU-505の乗組員

U-505の捕虜のキャンプ・ラストンでの扱いは「非常に良いものだった」
と、当時のアメリカ側からはそういうことになっていました。

しかし、彼らには特別の事情がありました。

U-505の乗員だけが他の捕虜から隔離され、アメリカ海軍は
彼らの手紙を検閲以前にすべて没収するという扱いをうけたのです。

つまり彼らはいなかったことにされたのでした。

なぜかというと、アメリカ海軍は、U-505を捕獲したことを
ドイツはもちろん国内でも、同盟国に対しても秘匿したかったからです。

海軍作戦部長兼アメリカ艦隊司令長官、
アーネスト・J・キング提督からトップダウンで
これらの特別条件は決定され、通達されました。

しかも、いなかったことにされたどころか、
アメリカは、1944年8月までにドイツ海軍に対し、

「U-505の乗組員親族に、
彼らは既にに死んでいると通知すべきである」

と通達をしているのです。

これ、わたしがドイツ軍関係者だったら、怪しさMAXで疑うな。
なんだってわざわざこんな持って回った言い方してくるんだろう?
「撃沈した」と言わないのは、何かの事情があるんじゃないかって。

しかも、この捕虜の扱いは、1929年に締結された
ジュネーブ第三条約の捕虜の待遇に対する規約、

第 69 条〔措置の通知〕
抑留国は、捕虜がその権力内に陥ったときは、直ちに、捕虜及び、
利益保護国を通じ、
捕虜が属する国に対し、
この部の規定を実施するために執る措置を通知しなければならない。


第 70 条〔捕虜通知票〕
各捕虜に対しては、その者が、捕虜となった時直ちに、
又は収容所(通過収容所を含む。)に到着した後 1 週間以内に、また、
病気になった場合又は病院若しくは他の収容所に移動された場合にも
その後 1 週間以内に、
その家族及び中央捕虜情報局に対し、
捕虜となった事実、あて名及び健康状態を通知する通知票を
直接に送付することができるようにしなければならない。


に明確に違反していました。
どうすんだよアメリカ海軍。

とにかく、死んだことにされていたU-505の乗員は、
故郷に手紙を送ることも、生死を知らせることもままなりませんでした。

そして、これもジュネーブ条約によると、

第 71 条〔通信〕
1.捕虜に対しては、手紙及び葉書を送付し、
及び受領することを許さなければならない。
抑留国が各捕虜の発送する手紙及び葉書の数を
制限することを必要と認めた場合には、その数は、
毎月、手紙二通及び葉書四通より少いものであってはならない。

2.長期にわたり家族から消息を得ない捕虜又は家族との間で
通常の郵便路線により相互に消息を伝えることができない捕虜
及び家族から著しく遠い場所にいる捕虜に対しては、
電報を発信することを許さなければならない。

その料金は、抑留国における捕虜の勘定に借記し、
又は捕虜が処分することができる通貨で支払うものとする。
捕虜は、緊急の場合にも、この措置による利益を受けるものとする。



そこでU-505捕虜は、自分たちが捕まったことをなんとか知らせようと、
何度も無駄な試みを繰り返しました。

あるときの彼らの作戦は、セロファンの袋で風船を作り、
掃除用の化学薬品を混ぜて作った水素ガスを充満させた風船を作り、
「U-505生存!」と書かれた鉄十字の紙を貼り、
外に向けて飛ばし、誰かが拾ってくれるのを待つというものでした。

風船は収容所の境界フェンスの上に飛ばすところを目撃されましたが、
街中ならまだしも、ルイジアナの、「鉄道がある」というだけで選ばれた
なーんもない土地に飛ばしても、人が拾う可能性は微量子レベルでした。

こんなところですから

■ 捕虜たちの生活

一般的な捕虜にとって、ラストン捕虜収容所の生活は穏やかなもので、
バンドや合唱団から流れる音楽が常に空気を満たしていました。

芸術家は絵を描き、大工は家具を作り、
故郷の建物や記念碑のミニチュアを作る者もいて、彼らの作品は
現在でもラストンのいくつかの家に残されたりしています。

運動も奨励され、ドイツの囚人たちはアメリカに来て初めて、
野球やバスケットボールを習いました。

高学歴の囚人たちは、近くのルイジアナ工科大学から取り寄せた本を使って、
さまざまなテーマの授業を他の囚人向けに行いました。

収容所の運営に携わらない囚人たちは、地元の農家で働き、
木材を伐採し、公共施設を建設しました。
給料は「スクリップ」と呼ばれる収容所通貨で支払われ、食堂で使ったり、
洗面用具や雑誌、ビールなどを購入することができました。

多くの「囚人」は、一緒に働く地元の人たちと親しくなり、
「敵」とも一生付き合える関係を築いていったということです。


木材の伐採を行う収容所の作業隊
アメリカ人看守が枢軸国の囚人たちと気軽にポーズをとっている



収容所の囚人には、創造性を発揮するための材料すら与えられました。

この写真の、ナポレオンがライプツィヒで敗れたことを記念して作られた
「国戦記念碑」をはじめ、ドイツの有名な建造物のミニチュアを作ることが
囚人の「流行り」として盛んに行われていました。

しかしU-505の元乗組員たちは、一般の捕虜とも交流を遮断されていました。
他の捕虜からドイツ国内に情報が漏れるのを防ぐためです。


■ 捕虜の解放と帰還

U-505の捕虜は、終戦までキャンプ・ラストンに留まり、
終戦が決まってからドイツへの送還作業が開始されました。

ドイツの家族は、死んだと聞かされていた息子や夫が
生きていたことにさぞ驚き喜んだことでしょう。


先ほどのヨーゼフ・ハウザー中尉が、捕虜解放前に
フランスの収容所から母親に宛てたメッセージが残されています。

ドイツ人捕虜
住所:バイエルン ツヴァイブリュッケン・ルンダーシュトラーセ18

メッセージ:

2年が経ち、僕は再び西ヨーロッパの海岸にいます。
僕は健康で、すぐに戻れるでしょう。
前回からお母さんからも婚約者からも便りがありませんでしたが、
願わくばみなさんが今も元気で健在でありますように。

戦争で財産を失ったとしても、それに対して泣いたりしないで。

昨日僕は解放の通知を受けました。
「アメリカンゾーン2、移住地ミュンヘン」
これは解放されてからの目的地で、すぐにそうなると思います。

早くまたお会いできますように。
あれからのことを全てお話ししたい!

愛する母!僕の素敵な花嫁、兄弟、
ミュンヘンにいる全ての親戚。
彼らがいるところに残らず僕の挨拶を送ってください。
これは息子のセップからのお願いです。

ヨーゼフ・ハウザー中尉
LANT 50 GNA
C.C.P.WE.#23 c.o. P.W. I.B
フランス パリ

最後の捕虜は、1947年に帰国しましたが、博物館の資料として
1991年に行われたかつての捕虜へのインタビューが掲載されています。

■ ヴォルフガング・シラー元水兵へのインタビュー



Q.魚雷室での生活はどのようなものだったのか

もちろん、とても狭かったです。

魚雷の上には私たちの・・私たちのテーブルがありました。
魚雷に木の板をのせるんですが、私たちは寝台に座り、
魚雷の上に置かれたこの木の板で食事をしました。

寝床は、見張りのローテーションごとに交代して使いましたので
「ホットバンク」といっていつも暖かかった。
4時間ごとに誰か起きればすぐに次の人が寝るのです。
その度ベッドを交代しました。

最初に乗艦した人たちはとにかく
ザックの上やハンモックの上を取ってここで寝ていました。
Smutje(コック)なんかは、ほとんどここ。
魚雷の上の真ん中のところでしたね。
彼らは自分のベッドを持っていなかったのです。

「フリーウォッチマン」「フリーランナー」と呼ばれる連中は寝床がない。
しかし、私は自分の特別な寝台を確保していました。

リラックスすることなんてできません。
パイプのせいで仰向けにしか寝られないし寝返りも打てないんですから。
でもそれも当然、とにかく眠る場所さえあれば、って感じです。

海が荒れた時にはパイプの上ですから、滑り落ちないように
頑張って自分の体を支えなければいけなかったのですが、
ある日、あまりにも海が荒れていて、ベッドから振り落とされて
隣の人の背中に「落ちた」ことがありました。


Q.非番の時は何をしていたのですか?
読書?音楽?カードゲーム?


私は本の虫で・・今日もそうです。今日も英語の本を読んでいます。
当時は、できるだけ多くの本を読む努力もしました。
そのやり方で自分を楽にすることに大成功したのです。
自分の神経を保つために。

カードゲームですが、あれはワッチのシフトで
できない方がもしかしたらラッキーだったかもしれません。
(その心は、負けたらお金が減るから)

音楽や娯楽について補足すると、艦内にレコードプレーヤーがあり、
ドイツのレコードや歌を再生することができました。
だから、少しは音楽も聴きました。

アンテナでラジオを受信できたかどうかは、もう思い出せません。
もしそうなら、せいぜいアメリカかスペインのラジオが、
私たちがいたその辺りで受信できたはずです。
でも、今はもうどうだったかわかりません。

Q.読書は、楽しみのためだけだったのでしょうか、
それとも技術的なこと、つまり勉強のためだったのでしょうか?


覚えている限りでは、「宿題」もありました。
魚雷学校で学んだことを「知識を新たにする」という意味で。

潜水艦の中で、生活の中で、学んだことを活かして
実践的に仕事をこなしていくことが必要だと思いました。

各個人が自分のポジションを守り任務をするだけでなく、
他の人のポジションも満たすことが重要だったんです。

困ったときに助けてくれるように お互いに皆の分担を受け持ちました。
それは必要なことでした。

例えば何かの交戦中に誰かが倒れてしまったとしたら、
彼の持ち場をを引き継ぐことができなければなりませんでした。

その点で、私たちはとても充実していましたし、
そのことに興味を持ちましたし、目的を正しく理解して、
それぞれのやり方で行動できるようにしていました。

Q.音楽はオペラとかですか?

『リリ・マルレーン』とか、そういうのしか思い出せないんですけど、
軽音楽がが圧倒的に多かったかな。

若い頃、自分がオペラやオペレッタに関心があったとは到底思えません。
強いて言えば、ドイツ語で
 "am Hut haben"(「帽子の上に持っている」)
という表現があるんですが、それでいうと、
私たちはもっと軽い音楽を聴いていたと思いますよ。

その頃、ポップスはすでにすごく人気が出てきていましたし。
たまにアメリカやイギリスのレコードを聴く機会もありました。

『リリ・マルレーン』なんかは今の人でも知ってると思いますが、
それが自然と私たちの緊張をほぐしてくれていたというか。

Q.初めて潜航をしたときのことを教えてください。

ある潜水の場面で、私はたまたま中央司令室に立っていたのですが、
潜水艦がかなり鋭角に沈むと、中央司令室から艦首魚雷室が見えたんです。
まるでワインボトルを貯蔵したセラーを覗き込んでいるような感じでした(笑)

Q.どんな感じだったのでしょうか?
何を考えていましたか?

潜水艦がどれくらい傾斜を保てるか分からないので、
少し不安な気持ちになりました。
私たちはエンジンの力で潜水していたので、つまり、振動していたのです。

そして、「ダイブ!」の号令で、最初の潜水タンクが浸水し、
あっという間にこの角度になりました。
ジェットコースターみたいな感じで、とても不安な気持ちになりました。

Q.デプス・チャージ(深度爆雷)を落とされた時
の感覚はどんなものでしたか?


深海棲艦での体験はいろいろな種類のものがありました。

爆雷はあるときは近くに、あるときは遠くに落ちてきました。
私たちが捕虜になったとき、爆雷が私たちに当たったり、
近くに沈んだりして、艦のガラスが粉々になったことは実際に知っています。

他の深度爆雷はもっと遠くに落ちていました。
一つ覚えているのは水深40~60メートルの地点にいたときのことです。
攻撃されたとき、司令官から

「駆逐艦が向きを変えて、またこちらに向かっている」

と言われました。

その後、爆雷が落ちることはありませんでしたが、
ある安全地帯では常に深度計を増設していました。

当時はまだ、私たちが潜れる深さまで爆雷はセットできなかったんです。

Q. U-505が「不運艦」だったという話がありますが、
あなた自身そのような感覚をお持ちでしたか?


それについては、次のようなことしか言えません。

私はこの爆弾まみれの航海から生きて帰ってきましたが、はっきり言って
あの頃、我が国の潜水艦にできることはもうなかったんじゃないでしょうか。

U-505は、出撃準備が整っても、出発前にすぐにドック入りしました。

いざ出発というときになると、どういうわけか
オイルやその他のダメージが見つかり、また帰ってこざるを得ない。
4、5回、そんなことを繰り返して出撃したのです。
(不具合はフランス人潜水艦基地労働者の工作の結果だったとされている)

そんなだったので、U-505は不運艦だという噂が自然に生まれました。

でも、私たちは結局ラッキーでした。
だって、みなさんご存知のように、私たちは皆生き残りましたから。


Q. 総員退艦になってから、あなたは
ハンス・ゲーベラーと一緒に海に入ったそうですね。

はい。

一人で泳ぎながらどうするか考えていると、駆逐艦がやってきて、
米水兵が糸(釣り糸だったらしい)を我々に投げ始めたのですが、
私はその糸に引っかかりませんでした。

そこで、私はさらに泳いで、大きなボートに向かいました。
ボートにはすでに多くの人が座っていましたが、その中から

「まだ元気で助けを求めて泣いている奴のところまで泳いでいけるか」

と聞かれたので、こう答えました。

「誰か一緒に泳いでくれれば」

そのとき声を上げてくれたハンス・ゲーベラーとは、
いつも和気あいあいとした関係で、いい仲間だったんです。

そこで、一緒に泳ぎだしたんですが、慌てていたせいで
救命胴衣の紐を締めておらず、しかも短パンしか履いていなくて
剥き出しのふくらはぎに紐が擦れてしまい、それが痛くて・・。

でも最初何でなのかかわかりませんでした。
そこでハンス・ゲーベラーを振り返って、

「サメ?俺の後ろにサメがいるの?」

と聞くと、彼は答えました。

「Nein. Nein.」(いねーよ)

海中に太陽の光を通して、灰色の影のようなものが見えた気がして、
てっきりサメが私を狙っているのだと思ったのです。

彼が、

「大丈夫だから!」

と言ってくれましたが、念の為彼を後ろを泳がせました。
(サメがいた時のために 笑)


Q.ドイツの「スポンサーの街」について。

海軍の「スポンサーの町」はバート・ヴァイセ(ドイツ)でした。

今日、スキーヤーや人々がリラックスするために行くような、
湖の辺りに美しいホテルがあるとても素敵な町で、そこに招待されました。
「爆撃の航海」のすぐ後にね。

バイエルンでは初めて"スキーの海軍 "を見ましたよ。
海軍がスキーやるんだ、って驚きました。

もちろん、若かったので、歓待され、いろいろ体験させてもらい、
人々が私たちをいつも楽しませてくれたのが嬉しかったです。

その地域の別の町からパーティーに招待され、
そこで潜水艦の乗組員は党の大物たちと一緒に写真を撮ったんです。

Q. お偉いさんというのはどういう人かご存知ですか?
(インタビュー終わり)


インタビュアーは、ここで歴史に残っているような
ナチスの大物の名前がでてくることを期待したのだと思いますが、残念ながら
オーラルヒストリーはここまでしか掲載されていませんでした。


しかし、ドイツ軍捕虜というのは、思い過ごしかもしれませんが、
アメリカでは全く問題なく暮らしていたようです。



捕虜といえば、最後に私見的余談です。


アメリカ人がドイツと戦争しても、国内のドイツ人を
日系人のように強制収容所に閉じ込めることをしなかったのは、
ドイツ系がWASP、アメリカの支配層である

ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント
 (White Anglo-Saxon Protestants)


の一つの流れであり、イングランド、スコッチ系を含むイギリス、
オランダと同じ移民時のエリートだったからと言われていますね。

(ルーズベルトはオランダ系。JFKはアイリッシュ系で
プロテスタントではないカトリック系の初めての大統領であり、
選挙の際、ハンディを覆すためにケネディ家は
マフィアの力を利用して大々的に選挙不正をしたと言われている)

原子爆弾をドイツに落とす計画は最初から最後まで議論すらなかったのも、
結局はそういうことだったんだろうなあ・・・(とわたしは思います)。




続く。



F-21 第10艦隊対潜追跡室@ワシントンD.C.〜U505 産業技術博物館

2023-04-16 | 歴史

U-505の展示されているところにたどり着くまでに
見学者は知識を積み重ねるための展示を見ながら進んでいきますが、
前回のハンターキラーの結成とその成果についての展示がすむと、
そこから一階地下に移動することになります。



さすがのアメリカ人もほとんどが階段を使って降ります。



通路にはこの部分を利用した展示WAVESに関するポスターが。

この海軍に女性兵士を募集するリクルートポスターには、

「これは女性の戦争でもある!」
”It's a woman's war too!”

と書かれ、通信任務に就くWAVESが描かれています。



「何の気なしの不注意な会話が
敵のピースを完成させる」
(意訳)

ナチスの指輪をはめた手がはめたピースで、

「護送船団の 英国への出航は
今夜である」


という情報(パズル)が完成しております。

防諜、当ブログでも日本の戦時中の防諜啓蒙映画、
「間諜未だ死せず」をご紹介したことがありますが、
どこの国にとってもこれは国民にあまねく注意喚起すべき重大事でした。



このポスターは以前も紹介したことがあります。

「不注意な言葉が・・・
・・・不必要な沈没に」



荷物を担いだ水兵さんが爽やかに笑っていますが、
これも防諜ポスターです。

「もし彼がどこに行くのかしゃべったら・・・
彼はそこに着くことはないかもしれません!」




これは、WAVESリクルート目的のポスターで、

「彼をできるだけ早く故郷に帰すために
WAVESに入隊しましょう」


映画「陸軍の美人トリオ」では、三人の美女のうちひとりが
出征した夫をすこしでも支援できればと思って入隊したという設定でした。

陸軍の場合は女性隊および女性兵士をWACと言いますが、海軍は

 the Women Accepted for Volunteer Emergency Service

の頭をとってWAVESであるということは何度か説明しています。
第二次世界大戦時に設立した海軍予備役の女性部門で、設立するとき、
徴兵制ではなく自発的な奉仕活動であることを明確にするため
「アクセプテッド」「ボランティア」
という文字を海の波を表すことばに組み立てて名付けられました。

「エマージェンシー」が入っているのは、戦争中ということで
一時的な危機のための結成ということにしておけば、
女性の採用に眉を顰めがちな年配の提督たちを
納得させやすいかも?と考えたからだそうです。


ジョゼフィン・ストーヴァル・オグドン・フォレスタル

そして、ニューヨークのファッションブランドが、
海軍次官補ジェームズ・フォレスタルの妻でありながら
「ヴォーグ」のエディターだったジョー・フォレスタル
(あれ?この名前・・)の協力を仰ぎ、それはそれはオシャレな制服を作り、
素敵なポスターでWAVESを大々的に勧誘した結果、
1942年末の時点で、WAVESには770人の将校と3,109人の下士官がおり、
終戦の頃にはその数は86,291人に増え、その内訳は将校8,475人、
下士官73,816人、訓練生約4,000人になっていました。

面白いのが、WAVESの出身地で特に数が多かったのが、
ニューヨーク、カリフォルニア、ペンシルバニア、イリノイ、
マサチューセッツ、オハイオという、大都市を有する州だったことです。

訓練をする場所も、ハーバード大学、コロラド大学、MIT、
カリフォルニア大学、シカゴ大学などのキャンパスで行われました。

共学が基本だったそうですから、応募が増えたのも当然かもしれません。

将校の訓練カリキュラムには、通信、補給、気象学、工学はもちろん、
日本語のコースもありました。

戦争になったら敵の言葉を禁じていたどこかの国とは
戦略的なものの考え方が根本で違っていると感じさせますね。

そして、WAVESという「時代遅れの」頭字語ですが、
WAVESが存在しなくなっても1970年代までは使用されていました。

現在はそもそも、女性兵士を括る部隊が存在しないので、
その名称も公式には存在していません。
女性軍人を「WAVES」と呼ぶこともなくなりました。

ところが、我が海上自衛隊では女性自衛官のことを
なぜかS抜きで「WAVE」とよんでいる(いた?)模様。

今でもそうなのか、それとも今では用いられないのかわかりませんが、
これが一体何の略なのかご存知の方おられますか?

ただなんとなくアメリカ海軍の用語を輸入したのかな。



こちらも超有名なWAVESリクルートポスター。

「男性を海で戦わせるために解き放ちましょう」

つまり、WAVESの存在意義とは、後方支援に就いて
陸上基地の男性人員を海上勤務に置き換えることでした。

しかしこのことは「解き放たれたいと思っていない」すなわち
海上勤務に就きたくないと思っている男性からは
敵意を持たれる
という一面もあったということになります。

あるWAVESは、上司になる男性士官に挨拶をしたところ、
あからさまに必要とされていないと思い知らされ、さらに、下士官たちは

「送られてきた女性が仕事ができなければ、
男がその仕事を続けて海に送られるのを避けられる」


といって、女性には無理そうなタイヤの運搬を命じたそうです。
(しかし彼女らは体力ではなく”頭”を使って滑車で全ての運搬を完了したとのこと)



パラシュートの糸の管理をしているWAVES。

「このような重要な仕事をするために必要な資質を持っていますか?」

これは、あれだね。
こんな仕事なら男性より女性が向いているでしょ、と言いたげ。



「あなたの海軍には、あなたのために
『男性サイズ』の仕事があります」


どれもこれも、後方で行う男性の仕事を置き換える気満々です。

まあ、後方支援のままいけるなら、できれば戦地に送られたくない、
と内心思っている男性軍人なら、WAVESに八つ当たりしたくなっても
仕方がなかった?かもしれません。しらんけど。


さて、ここまでは「防諜」と「WAVES募集」できたわけですが、
女性軍人がその力を真に発揮し、実際に戦果に寄与したとすれば、
それはインテリジェンスの分野だったかもしれません。

Uボートの捕獲がタスクグループに命じられた、
というところまで、前回の展示は説明してきたのですが、
ここにあるということは、おそらくインテリジェンスが
そのミッションに大きな力を貸したというところかもしれません。

ということで、このゲートの上には

F-21  SUBMARINE TRACKING ROOM
WASHINGTON, D.C.

とあります。

■ F-21潜水艦追跡室 ワシントンD.C.


インテリジェンスのパワー
”トップシークレット 第10艦隊"

米海軍はUボートの捕獲には火力以上の力が必要だと知っていました。
そのミッションはインテリジェンスによって支えられなければならないと。

タスクグループ21.12が1944年4月、
二度目の対潜哨戒から戻った時、あのギャラリー大佐は
第10艦隊への入隊許可を得ました。

ここでギャラリーはドイツのUボートの内部構造に関する極秘情報を
彼に与えた司令官、ケネス・ノウルズに会いました。

ノウルズと彼の第10艦隊チームは、
1944年3月以来、ある一隻のUボートを追跡していました。

その潜水艦がフランスのブレストから出航し、
アフリカに向けて南に舵を切ったときです。

Uボートの正確な身元までは不明でしたが、
ノウルズはそれが海上で三か月の期間を過ごした
古い潜水艦である可能性が高いと判断しました。

タスクグループ22.3は5月末、つまり
Uボートが母港に帰る前に捕獲する必要がありました。

■インテリジェンス
”それは女の戦いでもあった”


1942年の夏、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトは
ついに正式にWAVESを設立しました。

そして、ドイツ海軍のエニグマコードを解読するため、
600名のWAVESに、121台の

”Bombe”暗号解読コンピュータ

を構築するという極秘任務が与えられます。



ミルドレッド・マカフィー
は1942年8月に海軍予備役中佐に就任し、
WAVESの局長に任命されたとき、
アメリカ海軍初の女性将校となりました。

彼女はのちに大佐に昇進しました。
マカフィーはシカゴ大学で修士号を取得し、
ウェルズリーカレッジの学長を務めました。

彼女のWAVES におけるリーダーシップにより、
彼女は米国海軍功労賞を女性として初めて授与されました。



Bombeは、連合国がドイツのエニグマを解読するために開発した
暗号解読機につけられた名称です。

初期の近代的なコンピューティングデバイスの一つと考えられ、
動作中に発生する大きなカチカチという音からその名が付きました。



ドイツはエニグマと呼ばれる精巧なコードを考案し、
暗号で情報を送信することができました。
エニグマはコード化されたメッセージを読み取って送信するために
マシンとセットアップ情報の両方が必要だったため、
コードを破るのが手強いシステムでした。

1943年の夏、アメリカの暗号解読者が
Bombeマシンを使用し、ドイツ海軍の
4ローター(M4)エニグマシステムをついに解読しました。

これにより、アメリカ海軍は海上でドイツ海軍司令部と
Uボート間の通信を読み取ることができるようになりました。

■ 第10艦隊潜水艦追跡室 ワシントンD.C.


第10艦隊、といっても実際の「艦隊」ではありません。

これは、知る人ぞ知る、ワシントンD.C.にある
最高機密の米国海軍対潜情報司令部のコードネームでした。

写真はF-21潜水艦追跡室でのWAVESが作業をしているところ。

Uボートや枢軸国の艦艇を探知し、
連合国の船舶を守るために必要な任務を遂行した女性たちです。

1942年1月、ワシントンDCのショッピングモールからすぐのところにある
海軍省ビル(通称「メインネイビー」)

1942年以降、第10艦隊は、第二次世界大戦中に
Uボートの脅威を破壊するためのアメリカの作戦の中心となりました。

そして「F-21」ですが、その第10艦隊の内部にある
米海軍潜水艦追跡室のコードネームでした。

そこではアメリカとイギリスの諜報機関が協力してUボートを追跡し、
連合軍の護送船団の経路を情報に応じて変更したり、
あるいはハンターキラータスクグループを攻撃に誘導したりしました。

対潜水艦情報司令部F-21の秘密対潜追跡室司令官
ケネス・ノウルズ中佐

「ハフダフ(Huff-Doff)座標」とBombe解読法を駆使して、
ノウルズはUボートの位置情報を、
ギャラリー大佐率いるタスクグループに毎日送信し続けていました。

そして、ギャラリー大佐はこの情報を使用して、
西アフリカ沖にいると思われたUボートを探索したのです。
  


「ハフダフ(Huff-Doff)」
とは、高周波方向探知機を意味するHF/DFを音読みしたものです。

連合国がこのレーダー技術を使用し始めたそのとき、
Uボートとの戦いにおける大きなブレークスルーがもたらされました。



大西洋のハフダフ聴取局により、連合国は
無線信号の強度を測定することで、
水面に浮上したUボートの大まかな位置を特定することができました。



ところで、この付近にあった、この日付です。
1944年6月1日。

この日が何を意味するのかは、この先の展示でわかるでしょう。
続いて先に進んでいくことにします。


続く。






「灰色の淑女とダンス」潜望鏡今昔物語〜潜水艦「シルバーサイズ」博物館

2023-03-09 | 歴史

前回に続き、潜水艦「シルバーサイズ」プレゼンツ、
「潜望鏡の歴史」についてです。


第一次世界大戦の終わりまでに、潜望鏡のほとんどの問題は解決しました。

初期の、取り込まれる映像の見にくさという問題については、
大きな筒の中に2本の望遠鏡やレンズを挿入することで、
画像を拡大したり明るくしたりして解決がなされます。

大きな安定した筒を使うことによって、画面の安定性と、
表面の画像の乱れを軽減し、小さな潜望鏡ヘッドで先端を補足して
画像のバランスを取るというふうに改良されていきました。

レンズとミラーの調整の際、位置合わせをしやすいように、
潜望鏡は二重の筒芯で構成されていました。

外側は圧力と伸縮に耐える厚みを持った素材で、
そして光学系は内側の筒に収容することで衝撃を受けにくくなります。

■ 潜望鏡の発展

潜望鏡には、

反射型(リフレクティング)Reflecting
と屈折型(リフラクティング)Refracting、

leとra、ちょっと違いで全く違う二つのタイプがあります。


   反射型潜望鏡            屈折型潜望鏡

「反射型潜望鏡」は単純に鏡を使用して、
筒の長さの方向に光を反射するものです。

右は屈折型潜望鏡ですが、こちらは鏡の代わりにプリズムを上下に置きます。

上部のプリズムは映像から光を集め、その光を
潜望鏡の筒の長さをつなぐ一連のレンズと2本の望遠鏡を通して、
2番目のプリズムに跳ね返すことで像を送ります。

このプリズムが光を反射して、2枚のレンズからなる二次鏡筒に入り、
接眼レンズで見ることができるのです。

プリズムは反射面にコーティングを施す必要がなく、
鏡より頑丈であるため、鏡よりこちらの方が重用されました。

しかし、入ってきた光がチューブを通る段階で、
どうしても暗くなってしまう
という問題がありました。

潜望鏡開発者たちはこの解決策を見つける必要がありました。


潜望鏡の中で映像が暗くなる理屈はこういうことです。


懐中電灯のビームが、照らした面から遠ざかるにつれて光の輪は大きくなり、
それに従って明度は落ち、暗くなります。

潜望鏡の中で起こるのがこれと同じ現象です。
取り込まれた画像はチューブを降って移動するうち、
距離があればあるほど、ぼやけてかすかになり、見えなくなるのです。

これを解決したのがアイルランドの光学設計者、


ハワード・グラッブ卿(Sir Howard Grubb)1844−1931

という人でした。


これは手持ち用の接眼機ですが、
彼の工夫は赤い部分に内面が銀色に塗装された板ガラスを仕込むことで、
凸面ガラス(Concave)によって取り込まれた像を明るく保つことです。





こちらが、初期の潜望鏡のアレンジメント。
チューブの端にはミラーもプリズムもないことに注意してください。
Lは「レンズ」、Iは画像です。

最初の潜望鏡はレンズだけだったのに驚かれるでしょうか。



こちらがグラッブ卿のアイデアによるのちの改良版。

潜望鏡では、一連のレンズをチューブの正確なポイントに挿入し、
光の焦点を合わせたり、最焦点を合わせたりすることで問題を解決しました。

レンズのさまざまな曲がりが収縮、拡大、反転を繰り返し、
人の目に入る前に画像が出来上がっていることに注目してください。

これにより、画像を明るいまま焦点を合わせることができ、
潜水艦を安全に水中に保つために必要な長さまで
潜望鏡を伸ばすということができるようになったのです。

しかし、筒の中にこれだけのレンズがあるのも大概じゃね?

と思われたあなた、あなたは正しい。
その後、この連続したレンズの組み合わせは、
我々が知るポピュラーな仕組みへと発展していったのででした。



その後、引き込みの仕組みができ、潜望鏡は
使用していない時には潜水艦内深くに引き込むことができ、
波の上でそれが発見されにくいようになっていました。


それから第二次世界大戦になっても、潜望鏡は
「シルバーサイズ」に搭載されているような古典的な外観のまま、
何十年もの間、ほとんど変更されず、実質同じ仕組みが使われていました。



もちろんその何十年もの間、テクノロジーの発達により
倍率などレンズの性能に関わることは向上しましたが、
この第二次世界大戦時の潜水艦「マッケロー」の写真のように、
潜望鏡を手で引き下ろし、ハンドルを握りながら覗き込み、
潜水艦が沈降していく時には、ギリギリまで外を見るために
潜望鏡を引き下げながら自分の体を床に屈めていったりするのです。

それは、奇しくもアメリカ海軍の潜水艦員たちが
「潜望鏡を覗く」の同義語として使う、
"Dancing with the Grey Lady"
(灰色のレディとダンスする)


そのものであり、それは潜望鏡が発明されてから
ディーゼル潜水艦、原子力潜水艦と動力が変わっても
それだけは全く変わることがありませんでした。


USS「ペンシルバニア」で灰色淑女とダンス 1990年代

「ダウン・ペリスコープ」「アップ・ペリスコープ」

という命令は、潜水艦映画で何度も聞くフレーズです。
"Dancing with the gray lady "
とは、潜望鏡を覗きながら見張することそのものなのです。


■ ニュータイプのペリスコープ


コンセントが邪魔〜

ところが時代は進みました。

潜望鏡が「灰色の淑女」ではなくなったのは、
「バージニア」級潜水艦と共に最新鋭型の光学機器がデビューした時です。

「バージニア」級とロイヤルネイビーの「アストゥート」級潜水艦
いずれも潜望鏡を搭載していません。

その代わり、使用しているのが
フォトニック・マスト(Photonics Mast)であり、
水面上に持ち上げるのは潜望鏡ではなく電子画像センサーキットです。

わたしも、「そうりゅう」クラスの潜水艦を初めて見学した時、
すでに潜望鏡という、あのおなじみの「灰色のレディ」は影も形もなく、
外の画像を皆で画面を見ることで認識するようになっていたので、
それこそ価値観がひっくり返るような衝撃を受けたものです。

ところでここでちょっと考えてみましょう。

技術の進歩の過程で真っ先になくなると言うことは、
それなりに変えていかなくてはいけない大きな理由があったはずです。
従来の光学式潜望鏡には、2つの問題がありました。

1つは
潜望鏡を格納するための潜望鏡井戸のスペースの確保

それは艦の高さいっぱいいっぱいが必要なので、その大きさゆえに
セイルや内部のコンパートメントの配置が制約が生まれます。

もう1つは、レディと親密にダンスをできるのは一人だけ、ではなく、
=潜望鏡は一度に一人しか見られない
という、地味に深刻な問題です。



海軍は、この2つの問題を解決するために、
AN/BVS-1フォトニクス・マストを開発しました。

2004年にデビューした「バージニア」級攻撃型潜水艦が、
フォトニクス・マストを搭載した史上最初の潜水艦となりました。

フォトニクス・マストは、艦体を貫通せず(つまり格納されない)
昔の車のアンテナのように、伸縮自在に伸び縮みし、
従来の光学式潜望鏡の画像処理、航法、電子戦、
通信の機能を全て変わりなく提供する機能を持ちます。

フォトニクス・マストには、光学式潜望鏡のプリズムやレンズの代わりに、
電子画像処理装置が使われるのが大きな違いです。

センサーユニット、複数の電気光学センサーは、
回転するヘッドに設置されて、海面から突き出しています。



マストの中には、カラーカメラ、高解像度白黒カメラ、赤外線カメラ
3つのカメラが搭載され、それぞれがイメージを捉えます。

また、耐圧・耐衝撃構造のコントロールカメラと、
正確な目標範囲を提供し航行を支援する
アイセーフレーザーレンジファインダーもマストに搭載されています。




以前ならセイルの先から艦底まで必要だったペリスコープウェル(井戸)も、
これならセイルの中だけで収納ができます。




ペリスコープウェルが小さくなると、ボートの制御室の位置を
より自由にレイアウトすることができるようになります。



従来のレイアウトはまず潜望鏡ありきなので、
潜望鏡を必要とする制御室は狭い上甲板に置かざるを得ませんでした。
ここしか井戸を設置するのに必要な深さがないからです。

左、「バージニア」以前、右、「バージニア」
紫が「ペリスコープ井戸」

「バージニア」級では、制御室はより広い2階デッキ(第2甲板)
に配置され、より開放的なレイアウトになったというわけです。



これは見つかりにくい?
「バージニア」級潜水艦の潜望鏡



さて、フォトニクス・マストが取り込んだ画像は、光ファイバーで
2台のワークステーションと司令官用コントロールコンソールに送られます。

「バージニア」級に2本備わっているフォトニクス・マストは、
これらのどのステーションからでもジョイスティックで操作できます。
ジョイスティックたらあれですよね。
ゲームのコントローラーみたいな。
なんでも「もがみ」型の操縦もこれだと最近聞いたな。

各ステーションには、2台のフラットパネルディスプレイ、
標準的なキーボード、トラックボールインターフェイスが設置されています。
画像は全て媒体に記録されます。

(この辺りの技術も日進月歩なので、iPhone並みに
アップデートが加えられていっているでしょう)



ちなみに現在フォトニクスマストを搭載した潜水艦を建造する国は
米国の他はロシア、英国、日本、フランス、中国のみとなります。


■ エンドスコープ Endoscopes 内視鏡



エンドスコープというと聞き慣れませんが、要は内視鏡です。

この偉大な発明のおかげで、今回わたしも、
一昔前ならたいへん痛みを伴った副鼻腔炎の手術を
快適かつ安心して受けることができたわけです。

そして今回調べてみてちょっと嬉しかったのが、この内視鏡が、
ある意味ペリスコープの一つの発展形と考えられていることです。


胃の内視鏡検査のための先端機器

その恩恵を激しく被ったばかりで全く他人事ではないので、
わたしの受けた歯科性副鼻腔炎による炎症除去手術で説明します。

たった10年前まで、わたしのような症状の患者に対しては、
「経上顎副鼻腔手術」と言って、歯肉(上唇の裏)部を切開し、
上顎骨の一部をノミで除去、上顎洞を中心として粘膜を極力除去、
という、読んだだけで痛くなるような術式が用いられました。

アメリア・イヤハート(頬に膿を排出するためのパイプを出していた)
の頃の手術ほどではないにしろ、10年前のこのやり方だと
術後の痛み、顔の腫れが強い、術後に頬部のしびれ感が残ることがある、
出血が比較的多い、入院期間が長い(両側で2~3週間)、
副鼻腔が本来の生理機能を失う可能性がある、
将来的に膿や粘液が貯まる術後嚢胞という別の病気が発生する事がある、
と、受けるかどうか選択の余地を迫られるものだったのです。

ところがESS(内視鏡下副鼻腔手術)だと、鼻の穴から手術操作を施行、
鼻腔と各副鼻腔の隔壁を開放、病的粘膜のみを除去するだけなので、
術後の痛みが少なく顔の腫れはほとんどなし。

出血が比較的少なく入院期間が短い(両側で1~3日間)、
副鼻腔の生理機能が比較的保たれ、術後嚢胞の発生頻度がきわめて少ない、
とありがたいことばかり。

術者は手術野をはっきりと見ることができ、
手術に必要な切開量は10年前と比べても遥かに小さくなっています。

この10年での変化ですらこれくらい進歩しているように、
内視鏡を使用して行われる医療処置はますます増えていくのでしょう。


内視鏡で見たウサギの肺
最近は獣医も医師と同じくこのテクノロジーを用いて治療する

画像はレンズではなく、デジタルケーブルを介して伝送されるため、
内視鏡は、従来の潜望鏡よりも、どちらかというと
フォトニック・マストとの共通点がより多いと言えます。



それでも、ペリスコープのように、
直接見ることができない部分を見ることができる点は同じ。

内視鏡の発展のその最初の地点には潜望鏡があった、
というのはあながち間違いではありません。

ありがとう潜望鏡(迫真)

続く。