ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「血の日曜日」プロイェシュチ油田爆破作戦〜国立アメリカ空軍博物館

2024-03-15 | 歴史

前回、1943年にドイツの生産工場に対して行われた
アメリカ軍のB-17による2回、3箇所への爆撃作戦についてお話ししました。

その犠牲の多さと費用対効果の悪さから、
「暗黒の木曜日」とまで言われてしまった作戦ですね。

今日は、同じ年に東ヨーロッパの油田を破壊することを目的にした
爆撃作戦「オペレーション・タイダルウェーブ」について取り上げます。

当作戦はB-24ミッチェル爆撃機の部隊によって実行されました。

結論から言うと、アメリカ軍はこの作戦においても
「暗黒の木曜日」の失敗を活かすことができませんでした。

現在進行形のスピルバーグのドラマ、
「マスターズ・オブ・ザ・エアー」の中では、
捕虜になった爆撃機搭乗員に向かって、ドイツ軍の情報将校が、

「レーゲンスブルグもプロイェシュチもダメだったねえ」(笑)

みたいにいうシーンがあります。

■ オペレーション・タイダルウェーブ:
@プロイェシュチ




1943年8月1日。

アメリカ陸軍航空隊は、枢軸国の重要な燃料源である、
ルーマニアのプロイェシュチ油田に対し、
低空B-24の奇襲作戦「タイダルウェーブ作戦」を展開しました。

上の写真を見てお分かりの通り、B-24はほとんど木の高さレベルの
低空を飛んで爆撃を行っています。

178機のB-24リベレーターからなるアメリカ陸軍航空艦隊は、
アフリカ-リビアのベンガジから1200マイルの旅を経て、
正午過ぎには目的地に到達していました。



今ならジェット機で9時間25分(航空運賃¥123.309より)。

だけどちょっと待って?爆撃機だときっともっと時間かかるよね?
正午過ぎに着くには一体何時に出発したんだろう。

ちょっと計算がめんどいのでやりませんが、それにしても
こんな遠方から任務を果たして帰るだけの余裕がB-17にあったんですね。


というわけで爆撃隊はコルフ島とピンドゥス山脈を経由するルートを、
厳密に無線を維持しながら進んでいきました。

目標は、プロイェシュチにある巨大な石油精製施設です。 

当時のルーマニアの指導者、イオン・アントネスク元帥は、
ナチスドイツへの経済支援として、最終的に
プロスティ油田から第三帝国の原油の約60%を供給しました。



アントネスク

戦後、アントネスクと政府要人は戦犯裁判にかけられ、
ルーマニア軍が占領したウクライナなどの地域における
28万〜38万人のユダヤ人絶滅等の責任を問われて銃殺刑に処されました。

処刑の瞬間は今日でもyoutubeで見ることができます。


石油貯蔵所爆撃作戦のコードネーム、タイダルウェーブでは、
第8空軍と第9空軍の5つの爆弾群が合わせて参加しました。


General Jacob E. Smart USAF(最終)

ジェイコブ・スマート陸軍大佐によって考案された本作戦は、
既成の米陸軍航空隊の方針を完全に打ち破るものでした。

陸軍航空隊伝統の高高度精密爆撃という手法ではなく、
B-24に200〜800フィートという低空から爆弾を投下させるのです。

低空からの爆撃機侵入は、奇襲の要素も兼ね備え、
油田に大火災を引き起こすことができるはず、とスマートは考えました。

■ 予測されていた作戦

しかし、ドイツ軍は彼らが来ることを十分に予想していました。

アメリカ軍の暗号を解読したドイツ空軍司令官、
アルフレッド・ゲルシュテンベルク大佐は、罠を仕掛けました。

Gen. Alfred Gerstenberg(最終)

ゲルシュテンベルグ大佐は、戦闘機パイロット出身。

第一次世界大戦ではリヒトホーフェン飛行隊のメンバーでしたが、
戦闘中撃墜され重傷を負って飛行機を降り、陸上勤務をしていました。


その後退役していたところを第二次世界大戦開戦と共に復帰し、
1942年からルーマニアのドイツ軍総司令官となっていました。

ナチス・ドイツ最大の単一石油供給源であった
プロイエシュティの石油精製所周辺に防衛圏を設定することは、

ゲルシュテンベルグに与えられた最も重要な責務だったのです。

防衛圏の構築段階で、ゲルシュテンベルグ司令は
すでに対空砲
(8.8cmFlaK高射砲)を街の周囲に張り巡らせており、さらに、
発煙装置と、最も重要な施設の近くに弾幕気球を設置していました。

「罠」というのは主にこの阻塞気球とも呼ばれる気球のことです。

かわいい

阻塞気球(barrage balloon)

は、金属のケーブルで係留された気球で、シンプルな装置ながら、
低空から進入してきた飛行機をケーブルに衝突させ、
あるいは攻撃を甚だしく困難にするすぐれものです。

B-24リベレーターの軽いアルミニウムの翼は、
気球の鋼鉄のケーブルによって易々と引きちぎられてしまいます。

そして、ドイツはもちろん、ルーマニア、ブルガリア軍の戦闘機が
大佐の迎撃命令一下、いつでも出撃する態勢を整えていました。

このときゲレシュテンベルグの配下には、プロイェシュチだけで
約25,000人の兵士が控え、その命令を待っていたと言われます。



■ アメリカ爆撃隊のミス

リベレーター爆撃隊の不運は、根拠地から目標が遠方だったことです。

アフリカのリビアからの1,000マイルの無警戒飛行中、
雲によって編隊は2つのグループに分断され、
間違った方向転換が、さらに混乱を引き起こしました。

さらにいくつかの編隊が航法ミスを犯し、無秩序のまま、
厳重に防衛された目標地域に到着してしまいました。

しかも、無線の傍受によって、襲来は前もって読まれていました。
これでは企画段階で期待された奇襲にはなりません。



戦闘の混乱の中、一部のB-24は、煙幕装置の激しい煙の中を爆撃し、
前の波から遅れてきた爆弾の炸裂に巻き込まれることになります。


爆弾を落としたところに次の一波が到達してきている

■ 生存者の語る「暗黒の日曜日」

次回に詳しく紹介しようと思いますが、この攻撃の時、
B-24リベレーターの砲手に、のちに「二世ヒーロー」と呼ばれた
日系アメリカ人2世のベン・黒木がいました。


ベン・黒木(Ben Kuroki)

彼は陸軍での現役中58回の任務を遂行していますが、
「タイダルウェーブ」作戦はその24回目となるものでした。

歴史家トム・ギブスのインタビューの中で、プロイェシュチへの攻撃が
いかに「恐ろしい」ものであったかを、彼はこのように回想しています。

「眼下で貯蔵タンクが爆発したとき、
我々の飛行機の高度よりも50フィートも高く炎が上空に舞い上がりました。
私はその時、自分のこの後の運命をはっきりと悟った気がしまし
た。


そのときわれわれの機は低空で目標上空を飛行していましたが、

爆破に巻き込まれなかったのは奇跡だったと思っています」


マック・フィッツジェラルド(前列サングラスの人物)

プロイェシュチ爆撃に参加したリベレーター「ホンキートンク」で
やはり上部砲塔が持ち場だったマック・フィッツジェラルドは、
僚機が3階建てのレンガ造りのビルに激突するのをなすすべもなく見ながら、
「これで今、10人が死んだ」と自分に言い聞かせていました。

次は自分の番だと確信した彼は、心の中で両親に別れを告げていたので、
結果的に自分が死ななかったことには「誰よりも驚いた」と語っています。

二人が語ったコンビナートへの攻撃はわずか30分ほどでしたが、
この間の人命と物資の犠牲は凄まじいものでした。

アメリカ軍の爆撃機は合計で52機が撃墜されました。

マック・フィッツジェラルドはそのうちの1機に搭乗していました。
ベン・クロキが語ったところの炎の高い柱を避けた後、
彼の機は被弾し、墜落して彼と数人の仲間は捕虜になりました。

歴史家のドナルド・L・ミラーは前述の

『マスターズ・オブ・ザ・エアー』原作の中で、
この空襲で310人のアメリカ軍飛行士が死亡
130人が負傷し、100人以上が捕虜になったと主張しています。

また別の報告では、178機の爆撃機と1,726人の兵士のうち、
54機と500人近くが未帰還、捕虜は186名に上るとされています。

ミラーはまた、プロイェシュチ空襲は
「民間人よりも多くの空軍兵士が死亡した、この戦争で唯一の空爆の一つ」
であったとも指摘しています。

ちなみに、現地ルーマニアの民間人と軍人で死亡したのは116名でした。

この戦闘におけるアメリカ人兵士の死亡者は
ルーマニアの民間人と政府関係者によって
ボロバン墓地の英雄区画にある集団墓地に埋葬されました。


2023年になって、MIAの活動により身元が判明し、
故郷のオハイオに戻ってきたアメリカ陸軍中尉の遺骨埋葬式の様子です。

このロイター中尉はプロイェシュチ攻撃の際戦死し、その遺体は
ルーマニア市民によってプロイエシのボロバン墓地に埋葬されていました。

米国墓地登録司令部は、多くの身元不明遺骨を掘り起こし、
このたびロイター中尉が特定される運びとなりましたが、
同団体は最終的に、特定できなかった遺骨を再び埋葬しなおしています。

たとえ特定できなくても、アメリカ人であることがわかっているなら、
とりあえず?持って帰ることはできなかったのでしょうか。




■タイダルウェーブ作戦の影響

プロイェシュチ方面司令のゲルシュテンベルク将軍(最終)の紹介に、

彼の指揮した防衛作戦の結果、1943年8月1日に行われた

最初の空襲、タイダルウェーブ作戦で、
米軍は油田を破壊することができず、大きな損害を被った。

とあります。

この空襲で石油貯蔵施設は確かに爆撃による損害を受けたものの、
ドイツ軍はすぐに数千人の強制労働者を動員し、
コンビナートの甚大な被害を修復してすぐさま生産を再開しました。

数週間のうちに、施設の石油生産量は襲撃前よりも増えたほどです。


それ以来、「血の日曜日」として記憶されている当作戦の損失を鑑み、
アメリカの指導部は、ルーマニアの石油産業に対して、
8ヶ月間、大規模な攻撃を試みることはありませんでした。


続く。



日の丸の寄せ書きと日本刀〜USS「LST393」艦内展示

2023-09-30 | 歴史

第二次世界大戦でDデイに参加した戦車揚陸艦USS「LST393」。
ミシガン州マスキーゴンに展示されているこの記念艦、
公開されている艦内部分を一応見学し終わりました。



ここからはいきなり枢軸国コーナーとなります。
まずドイツ第三帝国グッズから。



なんで悪役っぽくほくそ笑んでるんですかね。
後ろの、

「第二次世界大戦時のアメリカの敵」

には、このような解説がありました。

「この展示は、ここに描かれた国家がWW2時に存在したことを
面白おかしく表現するためにあるのではありません。

むしろ、この展示は2つの理由からここにあるのです;

1 、戦争の野蛮さと、これらの戦時中の国々を打ち負かした
人々の犠牲を思い起こさせることです。

2、これらの品は、アメリカの兵士によって戦場で発見され、
アメリカの故郷に持ち帰られました。

彼らの奉仕と犠牲を思い起こさせるものとして、
退役軍人とその家族にとって意義深いものです。


これらの遺物は、第二次世界大戦の恐怖を永久に記録するために、
USS LST 393 Veterans Museumに寄贈されました。」



とかいいながら、いやこれドイツ軍人の持ち物じゃないし。

例によってヒトラーと日本の「誰か」(誰にも似ていない)が、
テーブルで何かを食べている(日本人は正座している)と、
黒い頭巾の何者かが武器を振り翳してきて、

「そんなの注文しとらんぞ!」

テーブルクロスの下にムッソリーニが隠れているという漫画。
漫画が風刺しようとしているところはどうかご想像ください。


棍棒式の手榴弾、黒皮の鞄、銃弾入れベルト、
ライフル、おそらくカールツァイスの双眼鏡の入っていたケース。



各種パンツァー(いいかげん)



短刀(手前)と鉄製の筒。



海軍士官のサービスドレス。
おそらくセレモニー用ドレスだと思われます。



第一次世界大戦時のドイツ軍兜と軍服。
この形の鉄兜は知っていますが、兵用にこんなものもあったとは・・・。

これってなんの防御にもならないよね。

その気になれば頭突きで攻撃するため・・・とか?



さて、ここからは我々にとって興味深い、大日本帝国コーナーです。



上から日本陸軍士官帽、陸軍鉄兜、
陸軍飛行帽、陸軍兵用帽、海軍艦内帽。



日本占領時にアメリカ兵が記念品として持ち帰ったものだと思われます。

まず、

【陸軍大臣官房局編纂
陸軍成規類聚(りくぐんせいきるいじゅ)】


ですが、英語の解説は

Japanese army Instruction Manual
日本陸軍取扱説明書

となっており、
全く間違いです(がそう書くしかなかったのでしょう)。
類聚という言葉はあまり聞いたことがないですが、
「集めたもの」という意味があり、要は規則集ということです。

国会図書館のデータベースで内容を見ることもできますが、
これは陸軍の運営に関わること全ての規則を網羅した辞典で、
例えば兵役対象者の職業や経歴はどのように扱うかとか、
戦時に陸軍大臣はある事項にどのように関与するかとかいう法律書です。

大変興味深いのは、これを持ち帰ったアメリカ兵
(ジョン・ピエトロビッチ AR SVGP)によると、取得した場所が
硫黄島の洞窟
であったという事実です。

つまり、日本軍の誰かがこの分厚い陸軍版六法全書みたいなのを、
前線である硫黄島に持ち込んでいたということになるわけです。

おそらく、法務にかかわる任務を担っていた将校か下士官の持ち物で、
これが硫黄島で必要になる場面があるとその人は考えたことになります。


【小樽黄地商店の商品包装紙】

お札を挟んで上下にあるのがそれですが、調べたところ、
黄地商店は有限会社として2016年まで存在していたことがわかりました。

しかし、商売はたたんでしまったので、
この店が何を扱っていたのかはわかりません。

同名の同じ住所にある黄地商店というのがここのことなら、
精肉店ということですが、こちらは「きじ商店」と読むらしいし・・。
上に絵葉書を置いてなければ商品名が読めるんだけどな。

どうでもいいけど、英語の記述があるのに
どうしてわざわざ上下逆さまに展示してあるのか。

【経済学原理
福田徳三著 改造社出版】


”Japanese Insructional book”(ママ)

と説明があります。
何でもかんでもわからなければインストラクションいうな。
兵隊さんが持って帰ったので軍関係ものと思い込んでるんですね。

経済学原理ならきっと手掛かりになる挿絵もないだろうしなあ。
せめて中国人のスタッフはいなかったのか。

福田徳三は東京商科大学(現一橋大学)卒の経済学者で、
立ち位置としてはマルクス主義に反対する自由主義経済の推進者で
かつ日本で最初に福祉国家論を唱えた人物でもあります。

【Soldier’s Guide to the Japanese Army
日本陸軍ニ関スル 軍人ノ案内書

説明は、

アメリカ兵士のための日本陸軍と戦うための本
Book for the US Soldier to fight the Japanese Army

これは間違えようがありません。
なぜならこの本は英語で書かれたアメリカ兵のための書だからです。

本にはアメリカ人の持ち主の名前が書かれています。
検索したところ、日本では公文書図書館にあるそうです。

真ん中のお札(1ドル札と50センタボス)は日本政府発行。
占領地の札なのにすごい凝った印刷がされているのがさすがです。

センタボスはスペイン語なので、
フィリピンで発行されていたお札と考えられます。



【コート】

陸軍士官のコートってダブルボタンでしたよね?
色もこんな茶色じゃないし。
というわけでこれは普通のコートです。

色がそれっぽいのでアメリカ人は軍装と思っている模様。


【日の丸と武運長久】

右:SMSダニエル・メローシェ(空軍)氏より貸借

左:ラリー・デイビス氏が太平洋で取得したもの


相変わらず横書きを縦に飾るという失礼なことをやらかしていますが、
怪我の功名?偶然「武運長久」が縦に読める・・・でっていう。



【日の丸寄せ書き】

アメリカ兵がお土産感覚で持ち帰った日の丸の寄せ書きを、
書かれた名前を元に日本の遺族に返そう、という奇特なアメリカ人がいる、
というニュースを何年か前ネットで目にしたことがあります。

相変わらずここにもそのうちの一つがあるわけですが、
おそらくほとんどはこのようにアメリカに残ったままでしょう。

日本人には、これが
「林幸茂」という人の出征に際して贈られた、
出征記念の寄せ書きだということがはっきりとわかるわけですが、
漢字の上下も判別できない人ばかり生息している地域では、この文字列など、

我々にとってのシュメール文字くらい不可解でかつ意味のない
「模様」みたいなものなので、当然深く思うこともないのかもしれません。


それにしても、この林幸茂という青年は知人の多い人らしく、
名前だけで国旗の白い部分が埋め尽くされていますが、ところどころに

「一志奉公」「東亜建設」「祈武運長久」「勇」「力」「米英打倒」

といった言葉も見えます。


仔細に眺めると、「青春部隊」という言葉がいくつか書き込まれ、
そのうち一つは「青春部隊長」・・・そういうグループを作っていたのかな?
「豆チョコボンボンズ」というのは、真っ黒に日焼けした
男の子たちのグループの一人だったということかな?

彼が過ごした故郷での幸せな少年時代を彷彿とさせます。



さて、先ほど彼らにとってのシュメール文字などと書いてしまいましたが、

今回はここマスキーゴンの心あるアメリカ人たちに謝ろうと思います。

この日の丸寄せ書きは彼らの敬意を表すかのように美しく額装され、

しかも入艦してすぐのところに掲げ、次のような解説が加えられていました。

”グッドラックフラッグ(幸運の旗)”

寄せ書き日の丸は、大日本帝国の軍事行動、
特に第二次世界大戦中に派遣された日本の軍人への伝統的な贈り物でした。

国旗は通常、友人や家族によって署名された国旗であり、多くの場合、
兵士の勝利、安全、幸運を願う短いメッセージが添えられていました。

「日の丸」という名前は、文字通り「丸い太陽」を意味する
日本の国旗の名前から取られています。

遠く離れて駐屯する軍人や愛する人のために寄せ書きされた日の丸は、
広げられるたびに世界共通の希望と祈りを持ち主に届けました。

多くの署名やスローガンが記されたこの旗は、その所有者に
困難にも立ち向かうことのできる力を与えると信じられていました。

1942年から1945年にかけての太平洋戦争では
何百万人もの日本人が命を落としましたが、持ち運びが簡単だったため、
米海兵隊員と兵士たちは何千ものこれらの旗を持ち帰ってきました。

近年、一部の退役軍人らによって、
日本軍人の家族に
この旗を返還する取り組みが行われています。


USS「LST393」は、日の丸を日本の家族と「再会」させる、

というプロジェクトを行なっている団体の中で最も活発に活動している
オレゴン州アストリアの「オボン・ソサエティ」と連絡を取りました。

もしソサエティが旗の持ち主の軍人遺族と連絡をつけることができたら、
当博物館はすぐさま国旗を日本に返還するつもりをしていますが、
それまでは教育目的で展示させていただくことにしています。


この寄せ書きはマスキーゴンのトーマス・ブルドン氏から貸与されました。


彼の父親トーマス・E・バートンは第二次世界大戦で
海軍の艦上戦闘機パイロットであったことから考えて、
海兵隊と
旗を何かと交換して手に入れた可能性が高いということです。



【脇差 ワキザシ ショートスウォード】

神軍刀として配布された脇差短刀(12~25インチ)です。
これらは 1935 年から 1945 年にかけて大日本帝国軍向けに製造されました。

政府はこれらを下士官(軍曹および伍長)に配布しましたが、
士官は自身で購入することが推奨されていました。

この剣は構造を簡素化するために木製の柄を持っているもので、
おそらく第二次世界大戦末期に製造されたと考えられます。
革で包まれた木製の鞘も付いています。

タッセルはランクを示します。

茶色、赤、金は将官用。
佐官は茶色と赤。
中隊長または准尉の場合は茶色と青、
下士官の場合は無地の茶色です。 


軍刀のタッセルのことは正式には刀緒といいます。
正式には以下の通り。


陸軍将官 茶色・赤に金織入り
陸軍佐官 茶色・赤
陸軍尉官 茶色・紫

海軍士官 茶色


この刀も海軍の艦上戦闘機パイロットだったトーマス・E・ブルドンが
太平洋から持ち帰ったもので、島での戦闘後に海兵隊員と交換したとのこと。

ところで、どうしてブルドンさんが
「海兵隊と交換した」と強調するのか、
わたしは最後の展示を見てなんとなく腑に落ちました。




ブルドン氏の父親は、日の丸と刀という、当時のアメリカ兵が
目の色を変えて欲しがっていたお土産だけでなく、
おそらくそれらの持ち主である写真の人物の
財布まで持ち帰っていました。

そしてその財布の中には、この写真が入っていたのです。
寄せ書きの名前、林幸茂という兵隊は、この内の誰かで、
一緒に写っているのは初年兵仲間か、それとも
例の「青春部隊」のメンバーだったのか・・・。



戦争中の高揚感から、あきらかに日本兵の遺品であるとわかる略奪物を
故郷に持って帰ってきたものの、その持ち主がどうなっていたか、
おそらくパイロットの父親は、これらを自分の持ち物と交換した
海兵隊員に聞いたであろう当時の状況について、戦後、

あまり思い返さないように(考えないように)していたかもしれません。

だからこそ、彼は息子にその経緯を詳しく語らないまま他界したのでしょう。

そして、これも仮定ですが、息子は、父親がこれらを手に入れた方法が、

戦死した日本兵の遺体から略奪しというものでなかったということを、
後世に対し、父の名誉のために、表明したかったのではないでしょうか。



続く。






「ライトフライヤー号をアメリカに帰そう」作戦〜シカゴ科学産業博物館

2023-07-09 | 歴史

MSIの時間潰し航空機見学ツァー、最後に、
原初の動力飛行機であるところのライト・フライヤーと、
逆にここにある最新の飛行機であるボーイング727をご紹介します。

今日はライト兄弟のフライヤー、「キティホーク」から。

■ ライト・フライヤー『キティホーク』


MSIのトランスポーテーション(交通)ギャラリー東側バルコニーには、
1903年製のライトフライヤーの精巧なレプリカが置かれています。

これは、ライト兄弟の初飛行から100年の節目にあたる年、
2003年に、動力飛行を実際に行った米国初のレプリカです。




「グレン・エルリンの魂」と呼ばれるこの複葉機のレプリカは、
初期の革新的な飛行の現実と大胆さを間近で垣間見ることができます。



1903 年12月17日、オーヴィルとウィルバーのライト兄弟は
世界初の飛行機で有人飛行の夢を実現しました。

写真は、同日ノースカロライナ州キティーホークにおける歴史的瞬間。

ライト フライヤーは自力で離陸し、ほぼ 1 分間飛行を維持し、
パイロット 3 名の制御下で飛行しました。

これまで他のどの飛行機でも達成されたことのない偉業を成し遂げたのです。

オハイオ州デイトン出身の独学のエンジニア、プリンター、
自転車整備士が、航空時代を開始し、世界を永遠に変えた瞬間でした。



「飛行時代の夜明け」と記されたライト兄弟の写真。
上のキティホークでの初飛行で、コントロールしているのがオービル、
見守っているのがウィルバーです。

キティホークは初飛行の場所ですが、
ライトフライヤーの別名でもあります。

ご存知のように、これが有人重飛行機hevier-than-airの初の持続飛行でした。



アンヘドラル(垂れ下がった)翼、
前部エレベーター(カナード)、
後部ラダーを備えた単葉複葉機です。

12馬力のガソリンエンジンを搭載し、
2枚のプッシャープロペラを動かして操縦を行います。
(というよりただ乗っているだけ?)

最初の機体は不安定で飛行が非常に困難だったため、
4回目の飛行で260m飛んで着陸時に破損し、
その数分後に強力な突風で吹き飛ばされて大破しました。

その後オーヴィルによって修復され、現在は、色々あった後、
ワシントンD.C.の国立航空宇宙博物館に展示されています。

■オーヴィル・ライトとスミソニアンの確執

この間実は色々あって、「キティホーク」はロンドンにいた時期があります。
アメリカ人の魂と呼んでもいいようなライトフライヤーがなぜ?

それは、オーヴィルとスミソニアン協会の間の確執にありました。

地質学者チャールズ・ウォルコット

当時のスミソニアン協会長官チャールズ・ウォルコットが、
ライト兄弟が初めて動力による制御飛行を行ったという功績を認めず、
それは、ライト兄弟のテストが成功する9日前に、
同じようなチャレンジをして失敗したサミュエル・ピアポン・ラングレー
「史上初」であることにしようとしたからだと言われています。


ラングレー


ラングレーの実験(飛行時間5秒)
っていうかもう落ちにかかってるし

これは、ウォルコットが、サミュエル・ラングレーの友人だったことから、
なんとか彼を「史上初」にしたかったという情実からきたゴリ押しでした。

ちなみにラングレーはスミソニアン協会の事務局長でした。
(日本語のWikiでは長官となっているがこれは間違い)


エアロドーム(陸軍がラングレーに依頼した)

ラングレーがエアロドーム号を使ってポトマック川で行った実験は
失敗でしたが、友人の航空史における地位回復を臨むウォルコットは、
やはりライト兄弟と訴訟問題で揉めていたグレン・カーティスと組んで、
もう一度エアロドームをスミソニアンの展示から引っ張り出して
ニューヨークのケウカ湖で飛ばそうとしました。

カーティスは、ライト兄弟と飛行機の特許で争っていたため、
エアロドームで制御されたパイロット飛行が可能であることを証明し、
ライト兄弟の広範な特許を無効化しようとしたのです。

カーティスはここでエアロドームにこっそり改良を加えました。
エアロドームが「人類初の飛行機」かどうかを証明するためには
やってはいけないことでしたが、カーティスはなんやかんや言い訳して、
特許弁護士や評論家からは、

「いやこれ原型留めてねーし」

といわれるくらい改造して飛ばそうとしたのです。
しかし、前述のように湖面から数フィートの高さで5秒間飛んだだけでした。

しかも、訴訟で裁判所はライト兄弟の特許を認める判決を出しました。

それはともかく、スミソニアンが「ラングレー推し」し出した頃、
オーヴィルは当然それに激怒し、

「もし私たちの偉業をスミソニアンが認めないつもりなら、
『キティホーク』をロンドンの博物館に送るがそれでもいいか?」


と脅したのですが、全く効果はありませんでした。
そこで引っ込みがつかなくなったオーヴィルは、
本当に機体をロンドンに送ってしまったのでした。


ロンドンの科学博物館に展示されていた「キティホーク」
柵もなにもなく、その気になれば触り放題という


そのうち第二次世界大戦が始まり、「キティホーク」は
爆撃の多い市街地を避けて、地下貯蔵施設に避難していましたが、
まだ戦争真っ只中の1942年、ウォルコット長官が死去したことを受けて
新長官となったチャールズ・アボットが、
これまでのスミソニアンの公言を撤回する考えを示しました。


スミソニアンの誤りを認めた男、アボット長官(天文学者)

新長官が就任に際して言及した「4つの後悔」の中の一つが、

「人が乗って自由に飛行できる最初の飛行機」が
ラングレーのものであると認定してしまったこと

とであり、長官は、

「1903年12月17日にノースカロライナ州キティホークで
ライト兄弟が初めて空気より重い機械で持続飛行したことは認められている。

ライト博士が飛行機を(スミソニアンに)預けることを決めたら...
それにふさわしい最高の名誉が与えられるだろう」

と翌年の年次報告で表明しました。
(ちなみに後三つの『後悔』がなんだったかはわかりませんでした)

翌年、オーヴィルはアボットと何通かの手紙を交わした後、
フライヤーを米国に返還することに同意しました。

フライヤーはその後、いくつかの契約条件のもとで
スミソニアン博物館に売却されることになりましたが、
そのうちのひとつには、こう書かれています。

スミソニアン協会またはその後継者が、アメリカ合衆国のために
管理する博物館やその他の機関、局、施設において、
1903年のライトフライヤーよりも古い時代の航空機モデル、
または設計された航空機が、制御飛行において
自力で人間を運ぶことができると主張する声明、
またはラベルを公表したり表示することを許可しない


■ オペレーション・ホームカミング

「キティホーク」がロンドンに「出張」していたのは意外に長く、
1928年から1948年までの20年間でした。

オーヴィル・ライトとアボット長官の間でようやく話がまとまったため、
アメリカはフライヤーをアメリカに戻す計画として、
「オペレーション・ホームカミング(里帰り作戦)」を展開しました。

アメリカは何でも「オペレーション」にしてしまいますが、
とくにこの「ホームカミング」という言葉が好きらしく、
一般にこの名前で知られるのは、1973年にニクソン政権で行われた
ベトナム戦争の捕虜を一気に家に帰す帰還作戦です。

そのせいで、こちらの作戦はライト・フライヤーの件でしか語られませんが、
ともあれ20年間海外にあった飛行機を、アメリカに戻すというのは
当時のアメリカにとってそれなりに大変なことだったのです。

ホームカミング作戦では、「キティホーク」が20年間の海外生活を経て、
空母「パラオ」の輸送によりアメリカに戻されました。



1948年10月18日、イギリスの様々な飛行組織の代表や、
サー・アリオット・ヴァードン・ロー(イギリスの航空エンジニア、企業家。
自作の飛行機で自国の空を飛んだ最初のイギリス人)
など、イギリスの航空界の先駆者が出席した式典で、
「キティホーク」の正式な引き渡しが行われました。

執行者となったのは、アメリカ民間航空局の
リビングストン・L・サタースウェイトでした。

そして11月11日、「キティホーク」は1,111人の乗客とともに
「マウレタニア」号で北米に到着しました。

定期船がノバスコシア州ハリファックスに停泊すると、
スミソニアン国立航空博物館のポール E. ガーバーが機体を出迎え、
アメリカ海軍空母USS「パラオ」に載せ、ニューヨーク港経由で送還。

そこからワシントンまでは、フラットベッド・トラックで移送されました。

アメリカの道路を走っていると、時々「OVERLOAD」と書かれた
超重量物を運ぶ特別輸送トラックを目撃することがありますが、
おそらくこのときも、「キティホーク」を載せたトラックは
周りを守られて、ゆっくりとスミソニアンに向かったのでしょう。

■ スミソニアンの「キティホーク」



そして、現在のスミソニアン博物館には、
ライトフライヤーを据えた「ライト兄弟コーナー」があります。



オーヴィル愛用のマンドリンの展示の横に座る見学者。

わたしが実際スミソニアンに訪れて撮った写真です。
スミソニアンライト兄弟コーナーはまた日を改めて紹介すると思います。



コロナといえば、これはコロナ前のスミソニアンの展示。


MSIのライトフライヤー レプリカの展示。



オーヴィルは黒マスク派でした。

■ 「ライトフライヤー」飛行 100周年

2003年12月17日の100周年が近づくにつれ、米国飛行100年委員会などが、
ライト・フライヤーの飛行を再現する企業の入札を開始しました。

このとき落札したライト・エクスペリエンスは、
オリジナルのライトフライヤー、試作のグライダーやカイト、
その後のライト航空機の多くを丹念に再現し、
実際に12月17日、それを飛行させようと試みました。

事前のテスト飛行では成功していたそうですが、
天候不良、雨、弱い風のため記念日には飛行できなかったそうです。

この複製は、ミシガン州のヘンリー・フォード博物館に展示されています。

このほかにも、アメリカ航空宇宙学会(AIAA)ロサンゼルス支部が、
1979年から1993年にかけて製作した実物大レプリカ。

この航空機は、カリフォルニア州のマーチフィールド航空博物館にあります。

このほかにも、米国内はもとより、世界各地に静態展示のみの
飛行しない複製機が多数展示されており、
「パイオニア」時代の単一の航空機としては、
史上最もたくさん複製された機体となっています。


続く。



メインバラストタンクブロー〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-05-22 | 歴史

シカゴにある科学産業博物館のU-505展示から、
今日は「浮上と潜航」についての操作関係です。

まず冒頭の写真はU-505が実際に搭載されていた装備で、
ユンカース製のエアコンプレッサー実物です。

エアコンプレッサー、つまり空気を圧縮するものですよね。


コーナーの説明には、

「Uボートはどうやって潜航&浮上を行うのか」

とありますが、ここで潜水艦の潜航浮上の仕組みを今一度説明しておきます。

潜水艦の潜航・浮上のために不可欠な働きをする装置はバラストタンクです。
手っ取り早く言ってしまうと、バラストタンクに海水を入れたり出したりして
その重さで潜航したり浮上したりするわけです。



前にもシルバーサイズ潜水艦シリーズで説明しましたが、
潜水艦を潜航させるときには、バラストタンクに海水を注入し、
艦の重量を増加させてアルキメデスの原理的に沈み、
逆に浮上する時には空気を入れて海水を出すのですが、
バラストタンクの海水をどうやって排出させるかというと、
「気畜機」に圧縮されて蓄えている空気を注入するのです。

「気畜機」というのは帝国海軍以来の日本の潜水艦用語ですが、
それがようするに、ここに展示されているエアコンプレッサーです。

このエアコンプレッサーを使った浮上までの一連の動きを、

「メインタンク・ブロー」

といいます。

英語では「メインバラストタンク」ですが、
号令でどのようにいうのかはわかりません。

バラストタンクは「メインタンク」「メインバラスト」などとも称します。

余談ですが、帝国海軍では「メンタンブロー」で通っていたようですね。
航空機畑で「Go ahead」が「ゴーへー」だったみたいなもんでしょうか。



このユンカース・フリー ピストン・コンプレッサーは、
U-505に搭載された 2 つのエアーコンプレッサーのうちの 1 つで、
艦体の後方に配置され、もう 1 つは機関室にあり、
主要なディーゼル エンジン配置の一部でした。


ユンカースのエアコンプレッサーは革新的なデザインでした。
名前にあるように、何が「フリー」かというと、ピストンです。

ピストンはシリンダー内にあり、従来のように
クランクシャフトには取り付けられていませんでした。


これはフリーピストンのエンジンの図です。

ピストンがクランクシャフト等の出力伝達軸に機械的に結合されておらず、
蒸気、燃焼ガス、液体金属等の作動流体を介するというのが定義ですが、
フリーピストン・エンジンのコンセプトが最初に成功したのは、
実fはこのエアコンプレッサーであり、代表的な使用例がUボートです。

このシステムの利点は、高効率、コンパクト、低騒音・低振動であること。
設計がシンプルなので、標準的なコンプレッサーよりも省スペースで、
潜水艦という厳しい重量制限が求められる環境には理想的でした。

しかし、このコンプレッサーの操作は超絶複雑だったため、
U-505 の乗組員は、コンプレッサーをちゃんと操作し続けるためには
定期的な修理が必要であると不満を漏らすレベルだったそうです。


How U-boats Dive & Surfaceシリーズの続きです。

Buoyancy(ボイアンシー) =浮力

という言葉がここのポイントです。

【ボイアンシー・ステーション】

他のタイプのボートとは異なり、潜水艦は
重量を増減することによって浮力 (または浮く傾向) を調整できます。

希望の深度に到達するために、U-505 の乗組員は一連の制御を操作して
潜水艦の重量を変更し、必要に応じて潜水または浮上を行います。

【U-505の潜航と浮上】

潜水艦の浮力が「正」(ポジティブ)の場合、それは浮上しています。
これはつまり艦体が置き換えていた水より重量が軽くなった状態です。

潜航するためには、ベントバルブ(通気弁)を開け、
艦体内側と外側の間にあるバラストタンクの上部から空気を放出すると、
タンクの底にあるフラッドバルブから水が流れ込みました。

潜水艦の艦体に取り込む水は負(ネガティブ)の浮力を生み出し、
それが彼女を水没=潜航、サブマージさせることになるのです。

逆に浮上するためには、ベントバルブを閉じます。
その後圧縮空気がタンクに吹きこまれ、水を排出して艦体が軽くなり、
海面に浮上するというわけです。

【ダイブ・プレーン(潜舵)とトリムタンク 】

U-505を操舵するには、ボートの可動式潜舵を調整して、
潜水および浮上時の艦体の角度を制御します。

潜水艦が目標の深度に達すると、艦体の平衡を維持するために
ダイブプレーンを水平にします。

トリム(日本では”ツリム”だった模様)という言葉は、
艦体の前後の傾きという意味であり、艦体前後に二箇所設置され、
艦体のバランスの微調整は、それらの浮力比を操作して行います。


ここで、アメリカ海軍の初年兵への教育用に製作された、
例によって大変わかりやすい映画をご覧ください。

Submarine Ballast Tanks

バラストタンクも皆が同じ場所にあったわけではなく、
アメリカ海軍では、潜水艦の型式で形状も違っていたようです。

■ バラストウェイト



展示の片隅にひっそりと置かれていた実物のバラストウェイト。


この写真に見えるのは・・・バラストではないでしょうか。

場所がどこだか説明がないのですが、潜水艦の艦底が見えているような。
作業をしているのはシップビルダーで、乗組員ではないので
船舶の建造中の写真だと思われます。

バラストウェイトは、ボートを水中で直立状態に保つものです。
前後ではなく、左右に傾かないようにするものですね。

すべての船は、この目的のために一定量の固定バラストを搭載しています。
一般的に設置するバラストの重量は、船舶の内容物の重量と、
重心への近さによって決まってきます。

Ballast Operation

一般の船の場合。

バラストウェイトの重さのおかげで、たとえ強風で海が荒れても
船が転覆したり、またが沈みすぎたりすることがありません。

ちなみに、映画「Das Boot」(『Uボート』)でも描かれていた、
急速潜航のときに手の空いた乗組員が、だーっと前方になだれ込んで
重力を前に傾ける「人間バラスト」になっていたシーンですが、
この鉄のバラストは、バランスを取るために最初から装備してあるので
動かすことはできません。

■ 浮上チャレンジ Buoyance Challenge

博物館にはここに「浮上チャレンジ」という体験コーナーがあります。



操作パネルと浮上する潜水艦の模型の入った水槽(状のタワー)、

左側にはエアーコンプレッサー、右側にはバラストウェイトがあります。
しかし、このバラストを見て、気がついたことが。

この写真は博物館のHPのものですが、
わたしが見に行った2022年の夏には、
バラストウェイトは4つしか置いていませんでした。

写真を撮った時にはこんなたくさんあったのに、
いったいどこに分散してしまったのでしょうか・・。



わたしが通りかかった時には、例によって誰かが操作中でした。

こういうとき、空くのを待って何がなんでもトライしてみたい、
という前向きな好奇心をいっさい持たないわたしは、
ここにある体験コーナーのどれも写真を撮るだけで通過しました。

このコーナーは、U-505がどのようにして深度を調整できたか、
それをシミュレーションで理解するというものです。

自分の調整を試すことができるのは高さ3mの水槽(状のもの)。
ここでU-505のカットモデルやバラストタンクを駆使して、
浮力調整にチャレンジしてみましょう、というわけです。



わたしが見ていたチャレンジャーは、U-505の浮上に成功したようです。

Uボートはさまざまな制御装置を操作することで、海上で体重を変化させ、
必要に応じて素早く潜水や浮上を行うことができました。


で、どんな複雑なものかと思ったら・・・・・。
これはつまり「メインタンクブロー」か「ベント開け」をボタン一つでできると。

あなたのミッション:
下のライトに点滅されている水深ポイントで
ニュートラルな浮力を維持してください


任務が完了したら、緑のランプが点灯する仕組みです。


公海では(high seasと表現されている)、たった一つのミスで、
ボートの潜航を瞬間遅らせてしまい致命傷になったり、また、
潜航の時間が少しでも長すぎると艦体をクラッシュさせることになります。

つまり、Uボートのバラストタンクには、いかなるときでも
その状況、その時その時の潜水艦の目的ー潜望鏡深度、潜航深度、
平衡浮力に対し、適正な割合の水と空気がなければなりません。



右側のプラズマスクリーンには、自分が操艦しているボートの状態が
刻一刻と映されているので、こちらも確認しながら行います。

そして、ミッションをやり遂げたチャレンジャーは、
スクリーンに映し出される海上の自分の船の姿に、
成功の合図(どうするのかはしらんけど)を送るというわけです。


続く。


プリズナーズ・オブ・ウォー(戦争捕虜)〜シカゴ科学産業博物館U-505展示

2023-04-30 | 歴史

冒頭写真のパネルにある一列に並べられた半裸の男たちは、
捕虜になった直後のU-505の乗員たちです。

わたしはこの写真を見た途端、映画「Uボート最後の決断」で
アメリカ海軍潜水艦の乗員が、全員Uボートの捕虜になり、
Uボート乗員の視線の中を全裸で歩かされるシーンを思い出しました。




捕虜になるだけでもアレなのに、
全裸で行進させられるというのは恥辱以外の何でもありません。

そういう辱めを与えるのが目的なのか、それとも
そのことによって抵抗力を削ぐのが目的かはわかりませんが、
いずれにしても捕虜を「押さえつける」手っ取り早い方法かと思われます。



さて、ボートを捨てて救命いかだで海に逃れたUボート乗員たちは、
Uボートもろともアメリカ軍に捕獲されることになりました。

しかしアフリカ沖を救命いかだで漂流し、味方に拾われる確率は
非常に低かったことを考えると、命拾いだったと考えていいでしょう。



ともあれ彼らはアメリカ艦船に救助された瞬間、
戦争捕虜(プリズナーズ・オブ・ウォー)となったのです。



ホースで水をかけられていますが、これはボートにいるドイツ兵たち
(汗まみれで色々と臭い)を乗艦させる前に洗浄しているのかと。
アフリカ沖で暑いので彼らにはありがたかったかもしれません。



というわけで、今日は博物館の展示からこちらを哨戒、
じゃなくて紹介します。



潜望鏡をのぞく艦長らしき姿。



■ 囚われの身

U-505の拿捕の際死亡したドイツ側の乗組員は、
「ゴギー」ことゴットフリート・フィッシャーただ一人でした。

彼は、最初のアメリカ軍による航空攻撃の際
甲板で銃弾を受けて死亡したとされます。

タスク・グループは残りの58人の乗組員を海から救出しました。
繰り返しますが、ほとんどのUボート乗組員が経験するよりも、
これは結果としてはるかに好ましい運命といえます。

USS「ガダルカナル」に乗せられた彼らはバミューダに輸送され、
ルイジアナ州ラストンでの捕虜収容所の準備を待つために
そこで数週間収容生活を送りました。


バミューダでのUボート乗員たち


ハンス・ゴーベラー二等機関士の捕虜調書。

怪我の状態を書く欄に「左手と人差し指に怪我」、
調書が取られたのは1944年6月13日と捕虜になってすぐです。

一番下にはドイツでの住所も書かれています。



こちらも両手の指紋を念入りに取ってあります。
ヨーゼフ・ハウザー中尉の調書。


捕虜になった時にアメリカ軍に接収されたハウザー中尉の鉄十字章

「勇敢かつ英雄的な戦闘指揮に対して与えられる」
この鉄十字章、アイアンクロスについては、ドイツ軍人の憧れとして
いくつかの映画に登場してきましたが、
ハウザー中尉、何とこれを授与されていたようです。



こちらもヨーゼフ・ハウザー中尉のヒトラー・ユーゲントバッジ。
最後の方はヒトラー・ユーゲントは全員参加となっていました。


「行方不明」扱いされたU-505の乗組員

U-505の捕虜のキャンプ・ラストンでの扱いは「非常に良いものだった」
と、当時のアメリカ側からはそういうことになっていました。

しかし、彼らには特別の事情がありました。

U-505の乗員だけが他の捕虜から隔離され、アメリカ海軍は
彼らの手紙を検閲以前にすべて没収するという扱いをうけたのです。

つまり彼らはいなかったことにされたのでした。

なぜかというと、アメリカ海軍は、U-505を捕獲したことを
ドイツはもちろん国内でも、同盟国に対しても秘匿したかったからです。

海軍作戦部長兼アメリカ艦隊司令長官、
アーネスト・J・キング提督からトップダウンで
これらの特別条件は決定され、通達されました。

しかも、いなかったことにされたどころか、
アメリカは、1944年8月までにドイツ海軍に対し、

「U-505の乗組員親族に、
彼らは既にに死んでいると通知すべきである」

と通達をしているのです。

これ、わたしがドイツ軍関係者だったら、怪しさMAXで疑うな。
なんだってわざわざこんな持って回った言い方してくるんだろう?
「撃沈した」と言わないのは、何かの事情があるんじゃないかって。

しかも、この捕虜の扱いは、1929年に締結された
ジュネーブ第三条約の捕虜の待遇に対する規約、

第 69 条〔措置の通知〕
抑留国は、捕虜がその権力内に陥ったときは、直ちに、捕虜及び、
利益保護国を通じ、
捕虜が属する国に対し、
この部の規定を実施するために執る措置を通知しなければならない。


第 70 条〔捕虜通知票〕
各捕虜に対しては、その者が、捕虜となった時直ちに、
又は収容所(通過収容所を含む。)に到着した後 1 週間以内に、また、
病気になった場合又は病院若しくは他の収容所に移動された場合にも
その後 1 週間以内に、
その家族及び中央捕虜情報局に対し、
捕虜となった事実、あて名及び健康状態を通知する通知票を
直接に送付することができるようにしなければならない。


に明確に違反していました。
どうすんだよアメリカ海軍。

とにかく、死んだことにされていたU-505の乗員は、
故郷に手紙を送ることも、生死を知らせることもままなりませんでした。

そして、これもジュネーブ条約によると、

第 71 条〔通信〕
1.捕虜に対しては、手紙及び葉書を送付し、
及び受領することを許さなければならない。
抑留国が各捕虜の発送する手紙及び葉書の数を
制限することを必要と認めた場合には、その数は、
毎月、手紙二通及び葉書四通より少いものであってはならない。

2.長期にわたり家族から消息を得ない捕虜又は家族との間で
通常の郵便路線により相互に消息を伝えることができない捕虜
及び家族から著しく遠い場所にいる捕虜に対しては、
電報を発信することを許さなければならない。

その料金は、抑留国における捕虜の勘定に借記し、
又は捕虜が処分することができる通貨で支払うものとする。
捕虜は、緊急の場合にも、この措置による利益を受けるものとする。



そこでU-505捕虜は、自分たちが捕まったことをなんとか知らせようと、
何度も無駄な試みを繰り返しました。

あるときの彼らの作戦は、セロファンの袋で風船を作り、
掃除用の化学薬品を混ぜて作った水素ガスを充満させた風船を作り、
「U-505生存!」と書かれた鉄十字の紙を貼り、
外に向けて飛ばし、誰かが拾ってくれるのを待つというものでした。

風船は収容所の境界フェンスの上に飛ばすところを目撃されましたが、
街中ならまだしも、ルイジアナの、「鉄道がある」というだけで選ばれた
なーんもない土地に飛ばしても、人が拾う可能性は微量子レベルでした。

こんなところですから

■ 捕虜たちの生活

一般的な捕虜にとって、ラストン捕虜収容所の生活は穏やかなもので、
バンドや合唱団から流れる音楽が常に空気を満たしていました。

芸術家は絵を描き、大工は家具を作り、
故郷の建物や記念碑のミニチュアを作る者もいて、彼らの作品は
現在でもラストンのいくつかの家に残されたりしています。

運動も奨励され、ドイツの囚人たちはアメリカに来て初めて、
野球やバスケットボールを習いました。

高学歴の囚人たちは、近くのルイジアナ工科大学から取り寄せた本を使って、
さまざまなテーマの授業を他の囚人向けに行いました。

収容所の運営に携わらない囚人たちは、地元の農家で働き、
木材を伐採し、公共施設を建設しました。
給料は「スクリップ」と呼ばれる収容所通貨で支払われ、食堂で使ったり、
洗面用具や雑誌、ビールなどを購入することができました。

多くの「囚人」は、一緒に働く地元の人たちと親しくなり、
「敵」とも一生付き合える関係を築いていったということです。


木材の伐採を行う収容所の作業隊
アメリカ人看守が枢軸国の囚人たちと気軽にポーズをとっている



収容所の囚人には、創造性を発揮するための材料すら与えられました。

この写真の、ナポレオンがライプツィヒで敗れたことを記念して作られた
「国戦記念碑」をはじめ、ドイツの有名な建造物のミニチュアを作ることが
囚人の「流行り」として盛んに行われていました。

しかしU-505の元乗組員たちは、一般の捕虜とも交流を遮断されていました。
他の捕虜からドイツ国内に情報が漏れるのを防ぐためです。


■ 捕虜の解放と帰還

U-505の捕虜は、終戦までキャンプ・ラストンに留まり、
終戦が決まってからドイツへの送還作業が開始されました。

ドイツの家族は、死んだと聞かされていた息子や夫が
生きていたことにさぞ驚き喜んだことでしょう。


先ほどのヨーゼフ・ハウザー中尉が、捕虜解放前に
フランスの収容所から母親に宛てたメッセージが残されています。

ドイツ人捕虜
住所:バイエルン ツヴァイブリュッケン・ルンダーシュトラーセ18

メッセージ:

2年が経ち、僕は再び西ヨーロッパの海岸にいます。
僕は健康で、すぐに戻れるでしょう。
前回からお母さんからも婚約者からも便りがありませんでしたが、
願わくばみなさんが今も元気で健在でありますように。

戦争で財産を失ったとしても、それに対して泣いたりしないで。

昨日僕は解放の通知を受けました。
「アメリカンゾーン2、移住地ミュンヘン」
これは解放されてからの目的地で、すぐにそうなると思います。

早くまたお会いできますように。
あれからのことを全てお話ししたい!

愛する母!僕の素敵な花嫁、兄弟、
ミュンヘンにいる全ての親戚。
彼らがいるところに残らず僕の挨拶を送ってください。
これは息子のセップからのお願いです。

ヨーゼフ・ハウザー中尉
LANT 50 GNA
C.C.P.WE.#23 c.o. P.W. I.B
フランス パリ

最後の捕虜は、1947年に帰国しましたが、博物館の資料として
1991年に行われたかつての捕虜へのインタビューが掲載されています。

■ ヴォルフガング・シラー元水兵へのインタビュー



Q.魚雷室での生活はどのようなものだったのか

もちろん、とても狭かったです。

魚雷の上には私たちの・・私たちのテーブルがありました。
魚雷に木の板をのせるんですが、私たちは寝台に座り、
魚雷の上に置かれたこの木の板で食事をしました。

寝床は、見張りのローテーションごとに交代して使いましたので
「ホットバンク」といっていつも暖かかった。
4時間ごとに誰か起きればすぐに次の人が寝るのです。
その度ベッドを交代しました。

最初に乗艦した人たちはとにかく
ザックの上やハンモックの上を取ってここで寝ていました。
Smutje(コック)なんかは、ほとんどここ。
魚雷の上の真ん中のところでしたね。
彼らは自分のベッドを持っていなかったのです。

「フリーウォッチマン」「フリーランナー」と呼ばれる連中は寝床がない。
しかし、私は自分の特別な寝台を確保していました。

リラックスすることなんてできません。
パイプのせいで仰向けにしか寝られないし寝返りも打てないんですから。
でもそれも当然、とにかく眠る場所さえあれば、って感じです。

海が荒れた時にはパイプの上ですから、滑り落ちないように
頑張って自分の体を支えなければいけなかったのですが、
ある日、あまりにも海が荒れていて、ベッドから振り落とされて
隣の人の背中に「落ちた」ことがありました。


Q.非番の時は何をしていたのですか?
読書?音楽?カードゲーム?


私は本の虫で・・今日もそうです。今日も英語の本を読んでいます。
当時は、できるだけ多くの本を読む努力もしました。
そのやり方で自分を楽にすることに大成功したのです。
自分の神経を保つために。

カードゲームですが、あれはワッチのシフトで
できない方がもしかしたらラッキーだったかもしれません。
(その心は、負けたらお金が減るから)

音楽や娯楽について補足すると、艦内にレコードプレーヤーがあり、
ドイツのレコードや歌を再生することができました。
だから、少しは音楽も聴きました。

アンテナでラジオを受信できたかどうかは、もう思い出せません。
もしそうなら、せいぜいアメリカかスペインのラジオが、
私たちがいたその辺りで受信できたはずです。
でも、今はもうどうだったかわかりません。

Q.読書は、楽しみのためだけだったのでしょうか、
それとも技術的なこと、つまり勉強のためだったのでしょうか?


覚えている限りでは、「宿題」もありました。
魚雷学校で学んだことを「知識を新たにする」という意味で。

潜水艦の中で、生活の中で、学んだことを活かして
実践的に仕事をこなしていくことが必要だと思いました。

各個人が自分のポジションを守り任務をするだけでなく、
他の人のポジションも満たすことが重要だったんです。

困ったときに助けてくれるように お互いに皆の分担を受け持ちました。
それは必要なことでした。

例えば何かの交戦中に誰かが倒れてしまったとしたら、
彼の持ち場をを引き継ぐことができなければなりませんでした。

その点で、私たちはとても充実していましたし、
そのことに興味を持ちましたし、目的を正しく理解して、
それぞれのやり方で行動できるようにしていました。

Q.音楽はオペラとかですか?

『リリ・マルレーン』とか、そういうのしか思い出せないんですけど、
軽音楽がが圧倒的に多かったかな。

若い頃、自分がオペラやオペレッタに関心があったとは到底思えません。
強いて言えば、ドイツ語で
 "am Hut haben"(「帽子の上に持っている」)
という表現があるんですが、それでいうと、
私たちはもっと軽い音楽を聴いていたと思いますよ。

その頃、ポップスはすでにすごく人気が出てきていましたし。
たまにアメリカやイギリスのレコードを聴く機会もありました。

『リリ・マルレーン』なんかは今の人でも知ってると思いますが、
それが自然と私たちの緊張をほぐしてくれていたというか。

Q.初めて潜航をしたときのことを教えてください。

ある潜水の場面で、私はたまたま中央司令室に立っていたのですが、
潜水艦がかなり鋭角に沈むと、中央司令室から艦首魚雷室が見えたんです。
まるでワインボトルを貯蔵したセラーを覗き込んでいるような感じでした(笑)

Q.どんな感じだったのでしょうか?
何を考えていましたか?

潜水艦がどれくらい傾斜を保てるか分からないので、
少し不安な気持ちになりました。
私たちはエンジンの力で潜水していたので、つまり、振動していたのです。

そして、「ダイブ!」の号令で、最初の潜水タンクが浸水し、
あっという間にこの角度になりました。
ジェットコースターみたいな感じで、とても不安な気持ちになりました。

Q.デプス・チャージ(深度爆雷)を落とされた時
の感覚はどんなものでしたか?


深海棲艦での体験はいろいろな種類のものがありました。

爆雷はあるときは近くに、あるときは遠くに落ちてきました。
私たちが捕虜になったとき、爆雷が私たちに当たったり、
近くに沈んだりして、艦のガラスが粉々になったことは実際に知っています。

他の深度爆雷はもっと遠くに落ちていました。
一つ覚えているのは水深40~60メートルの地点にいたときのことです。
攻撃されたとき、司令官から

「駆逐艦が向きを変えて、またこちらに向かっている」

と言われました。

その後、爆雷が落ちることはありませんでしたが、
ある安全地帯では常に深度計を増設していました。

当時はまだ、私たちが潜れる深さまで爆雷はセットできなかったんです。

Q. U-505が「不運艦」だったという話がありますが、
あなた自身そのような感覚をお持ちでしたか?


それについては、次のようなことしか言えません。

私はこの爆弾まみれの航海から生きて帰ってきましたが、はっきり言って
あの頃、我が国の潜水艦にできることはもうなかったんじゃないでしょうか。

U-505は、出撃準備が整っても、出発前にすぐにドック入りしました。

いざ出発というときになると、どういうわけか
オイルやその他のダメージが見つかり、また帰ってこざるを得ない。
4、5回、そんなことを繰り返して出撃したのです。
(不具合はフランス人潜水艦基地労働者の工作の結果だったとされている)

そんなだったので、U-505は不運艦だという噂が自然に生まれました。

でも、私たちは結局ラッキーでした。
だって、みなさんご存知のように、私たちは皆生き残りましたから。


Q. 総員退艦になってから、あなたは
ハンス・ゲーベラーと一緒に海に入ったそうですね。

はい。

一人で泳ぎながらどうするか考えていると、駆逐艦がやってきて、
米水兵が糸(釣り糸だったらしい)を我々に投げ始めたのですが、
私はその糸に引っかかりませんでした。

そこで、私はさらに泳いで、大きなボートに向かいました。
ボートにはすでに多くの人が座っていましたが、その中から

「まだ元気で助けを求めて泣いている奴のところまで泳いでいけるか」

と聞かれたので、こう答えました。

「誰か一緒に泳いでくれれば」

そのとき声を上げてくれたハンス・ゲーベラーとは、
いつも和気あいあいとした関係で、いい仲間だったんです。

そこで、一緒に泳ぎだしたんですが、慌てていたせいで
救命胴衣の紐を締めておらず、しかも短パンしか履いていなくて
剥き出しのふくらはぎに紐が擦れてしまい、それが痛くて・・。

でも最初何でなのかかわかりませんでした。
そこでハンス・ゲーベラーを振り返って、

「サメ?俺の後ろにサメがいるの?」

と聞くと、彼は答えました。

「Nein. Nein.」(いねーよ)

海中に太陽の光を通して、灰色の影のようなものが見えた気がして、
てっきりサメが私を狙っているのだと思ったのです。

彼が、

「大丈夫だから!」

と言ってくれましたが、念の為彼を後ろを泳がせました。
(サメがいた時のために 笑)


Q.ドイツの「スポンサーの街」について。

海軍の「スポンサーの町」はバート・ヴァイセ(ドイツ)でした。

今日、スキーヤーや人々がリラックスするために行くような、
湖の辺りに美しいホテルがあるとても素敵な町で、そこに招待されました。
「爆撃の航海」のすぐ後にね。

バイエルンでは初めて"スキーの海軍 "を見ましたよ。
海軍がスキーやるんだ、って驚きました。

もちろん、若かったので、歓待され、いろいろ体験させてもらい、
人々が私たちをいつも楽しませてくれたのが嬉しかったです。

その地域の別の町からパーティーに招待され、
そこで潜水艦の乗組員は党の大物たちと一緒に写真を撮ったんです。

Q. お偉いさんというのはどういう人かご存知ですか?
(インタビュー終わり)


インタビュアーは、ここで歴史に残っているような
ナチスの大物の名前がでてくることを期待したのだと思いますが、残念ながら
オーラルヒストリーはここまでしか掲載されていませんでした。


しかし、ドイツ軍捕虜というのは、思い過ごしかもしれませんが、
アメリカでは全く問題なく暮らしていたようです。



捕虜といえば、最後に私見的余談です。


アメリカ人がドイツと戦争しても、国内のドイツ人を
日系人のように強制収容所に閉じ込めることをしなかったのは、
ドイツ系がWASP、アメリカの支配層である

ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント
 (White Anglo-Saxon Protestants)


の一つの流れであり、イングランド、スコッチ系を含むイギリス、
オランダと同じ移民時のエリートだったからと言われていますね。

(ルーズベルトはオランダ系。JFKはアイリッシュ系で
プロテスタントではないカトリック系の初めての大統領であり、
選挙の際、ハンディを覆すためにケネディ家は
マフィアの力を利用して大々的に選挙不正をしたと言われている)

原子爆弾をドイツに落とす計画は最初から最後まで議論すらなかったのも、
結局はそういうことだったんだろうなあ・・・(とわたしは思います)。




続く。



F-21 第10艦隊対潜追跡室@ワシントンD.C.〜U505 産業技術博物館

2023-04-16 | 歴史

U-505の展示されているところにたどり着くまでに
見学者は知識を積み重ねるための展示を見ながら進んでいきますが、
前回のハンターキラーの結成とその成果についての展示がすむと、
そこから一階地下に移動することになります。



さすがのアメリカ人もほとんどが階段を使って降ります。



通路にはこの部分を利用した展示WAVESに関するポスターが。

この海軍に女性兵士を募集するリクルートポスターには、

「これは女性の戦争でもある!」
”It's a woman's war too!”

と書かれ、通信任務に就くWAVESが描かれています。



「何の気なしの不注意な会話が
敵のピースを完成させる」
(意訳)

ナチスの指輪をはめた手がはめたピースで、

「護送船団の 英国への出航は
今夜である」


という情報(パズル)が完成しております。

防諜、当ブログでも日本の戦時中の防諜啓蒙映画、
「間諜未だ死せず」をご紹介したことがありますが、
どこの国にとってもこれは国民にあまねく注意喚起すべき重大事でした。



このポスターは以前も紹介したことがあります。

「不注意な言葉が・・・
・・・不必要な沈没に」



荷物を担いだ水兵さんが爽やかに笑っていますが、
これも防諜ポスターです。

「もし彼がどこに行くのかしゃべったら・・・
彼はそこに着くことはないかもしれません!」




これは、WAVESリクルート目的のポスターで、

「彼をできるだけ早く故郷に帰すために
WAVESに入隊しましょう」


映画「陸軍の美人トリオ」では、三人の美女のうちひとりが
出征した夫をすこしでも支援できればと思って入隊したという設定でした。

陸軍の場合は女性隊および女性兵士をWACと言いますが、海軍は

 the Women Accepted for Volunteer Emergency Service

の頭をとってWAVESであるということは何度か説明しています。
第二次世界大戦時に設立した海軍予備役の女性部門で、設立するとき、
徴兵制ではなく自発的な奉仕活動であることを明確にするため
「アクセプテッド」「ボランティア」
という文字を海の波を表すことばに組み立てて名付けられました。

「エマージェンシー」が入っているのは、戦争中ということで
一時的な危機のための結成ということにしておけば、
女性の採用に眉を顰めがちな年配の提督たちを
納得させやすいかも?と考えたからだそうです。


ジョゼフィン・ストーヴァル・オグドン・フォレスタル

そして、ニューヨークのファッションブランドが、
海軍次官補ジェームズ・フォレスタルの妻でありながら
「ヴォーグ」のエディターだったジョー・フォレスタル
(あれ?この名前・・)の協力を仰ぎ、それはそれはオシャレな制服を作り、
素敵なポスターでWAVESを大々的に勧誘した結果、
1942年末の時点で、WAVESには770人の将校と3,109人の下士官がおり、
終戦の頃にはその数は86,291人に増え、その内訳は将校8,475人、
下士官73,816人、訓練生約4,000人になっていました。

面白いのが、WAVESの出身地で特に数が多かったのが、
ニューヨーク、カリフォルニア、ペンシルバニア、イリノイ、
マサチューセッツ、オハイオという、大都市を有する州だったことです。

訓練をする場所も、ハーバード大学、コロラド大学、MIT、
カリフォルニア大学、シカゴ大学などのキャンパスで行われました。

共学が基本だったそうですから、応募が増えたのも当然かもしれません。

将校の訓練カリキュラムには、通信、補給、気象学、工学はもちろん、
日本語のコースもありました。

戦争になったら敵の言葉を禁じていたどこかの国とは
戦略的なものの考え方が根本で違っていると感じさせますね。

そして、WAVESという「時代遅れの」頭字語ですが、
WAVESが存在しなくなっても1970年代までは使用されていました。

現在はそもそも、女性兵士を括る部隊が存在しないので、
その名称も公式には存在していません。
女性軍人を「WAVES」と呼ぶこともなくなりました。

ところが、我が海上自衛隊では女性自衛官のことを
なぜかS抜きで「WAVE」とよんでいる(いた?)模様。

今でもそうなのか、それとも今では用いられないのかわかりませんが、
これが一体何の略なのかご存知の方おられますか?

ただなんとなくアメリカ海軍の用語を輸入したのかな。



こちらも超有名なWAVESリクルートポスター。

「男性を海で戦わせるために解き放ちましょう」

つまり、WAVESの存在意義とは、後方支援に就いて
陸上基地の男性人員を海上勤務に置き換えることでした。

しかしこのことは「解き放たれたいと思っていない」すなわち
海上勤務に就きたくないと思っている男性からは
敵意を持たれる
という一面もあったということになります。

あるWAVESは、上司になる男性士官に挨拶をしたところ、
あからさまに必要とされていないと思い知らされ、さらに、下士官たちは

「送られてきた女性が仕事ができなければ、
男がその仕事を続けて海に送られるのを避けられる」


といって、女性には無理そうなタイヤの運搬を命じたそうです。
(しかし彼女らは体力ではなく”頭”を使って滑車で全ての運搬を完了したとのこと)



パラシュートの糸の管理をしているWAVES。

「このような重要な仕事をするために必要な資質を持っていますか?」

これは、あれだね。
こんな仕事なら男性より女性が向いているでしょ、と言いたげ。



「あなたの海軍には、あなたのために
『男性サイズ』の仕事があります」


どれもこれも、後方で行う男性の仕事を置き換える気満々です。

まあ、後方支援のままいけるなら、できれば戦地に送られたくない、
と内心思っている男性軍人なら、WAVESに八つ当たりしたくなっても
仕方がなかった?かもしれません。しらんけど。


さて、ここまでは「防諜」と「WAVES募集」できたわけですが、
女性軍人がその力を真に発揮し、実際に戦果に寄与したとすれば、
それはインテリジェンスの分野だったかもしれません。

Uボートの捕獲がタスクグループに命じられた、
というところまで、前回の展示は説明してきたのですが、
ここにあるということは、おそらくインテリジェンスが
そのミッションに大きな力を貸したというところかもしれません。

ということで、このゲートの上には

F-21  SUBMARINE TRACKING ROOM
WASHINGTON, D.C.

とあります。

■ F-21潜水艦追跡室 ワシントンD.C.


インテリジェンスのパワー
”トップシークレット 第10艦隊"

米海軍はUボートの捕獲には火力以上の力が必要だと知っていました。
そのミッションはインテリジェンスによって支えられなければならないと。

タスクグループ21.12が1944年4月、
二度目の対潜哨戒から戻った時、あのギャラリー大佐は
第10艦隊への入隊許可を得ました。

ここでギャラリーはドイツのUボートの内部構造に関する極秘情報を
彼に与えた司令官、ケネス・ノウルズに会いました。

ノウルズと彼の第10艦隊チームは、
1944年3月以来、ある一隻のUボートを追跡していました。

その潜水艦がフランスのブレストから出航し、
アフリカに向けて南に舵を切ったときです。

Uボートの正確な身元までは不明でしたが、
ノウルズはそれが海上で三か月の期間を過ごした
古い潜水艦である可能性が高いと判断しました。

タスクグループ22.3は5月末、つまり
Uボートが母港に帰る前に捕獲する必要がありました。

■インテリジェンス
”それは女の戦いでもあった”


1942年の夏、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトは
ついに正式にWAVESを設立しました。

そして、ドイツ海軍のエニグマコードを解読するため、
600名のWAVESに、121台の

”Bombe”暗号解読コンピュータ

を構築するという極秘任務が与えられます。



ミルドレッド・マカフィー
は1942年8月に海軍予備役中佐に就任し、
WAVESの局長に任命されたとき、
アメリカ海軍初の女性将校となりました。

彼女はのちに大佐に昇進しました。
マカフィーはシカゴ大学で修士号を取得し、
ウェルズリーカレッジの学長を務めました。

彼女のWAVES におけるリーダーシップにより、
彼女は米国海軍功労賞を女性として初めて授与されました。



Bombeは、連合国がドイツのエニグマを解読するために開発した
暗号解読機につけられた名称です。

初期の近代的なコンピューティングデバイスの一つと考えられ、
動作中に発生する大きなカチカチという音からその名が付きました。



ドイツはエニグマと呼ばれる精巧なコードを考案し、
暗号で情報を送信することができました。
エニグマはコード化されたメッセージを読み取って送信するために
マシンとセットアップ情報の両方が必要だったため、
コードを破るのが手強いシステムでした。

1943年の夏、アメリカの暗号解読者が
Bombeマシンを使用し、ドイツ海軍の
4ローター(M4)エニグマシステムをついに解読しました。

これにより、アメリカ海軍は海上でドイツ海軍司令部と
Uボート間の通信を読み取ることができるようになりました。

■ 第10艦隊潜水艦追跡室 ワシントンD.C.


第10艦隊、といっても実際の「艦隊」ではありません。

これは、知る人ぞ知る、ワシントンD.C.にある
最高機密の米国海軍対潜情報司令部のコードネームでした。

写真はF-21潜水艦追跡室でのWAVESが作業をしているところ。

Uボートや枢軸国の艦艇を探知し、
連合国の船舶を守るために必要な任務を遂行した女性たちです。

1942年1月、ワシントンDCのショッピングモールからすぐのところにある
海軍省ビル(通称「メインネイビー」)

1942年以降、第10艦隊は、第二次世界大戦中に
Uボートの脅威を破壊するためのアメリカの作戦の中心となりました。

そして「F-21」ですが、その第10艦隊の内部にある
米海軍潜水艦追跡室のコードネームでした。

そこではアメリカとイギリスの諜報機関が協力してUボートを追跡し、
連合軍の護送船団の経路を情報に応じて変更したり、
あるいはハンターキラータスクグループを攻撃に誘導したりしました。

対潜水艦情報司令部F-21の秘密対潜追跡室司令官
ケネス・ノウルズ中佐

「ハフダフ(Huff-Doff)座標」とBombe解読法を駆使して、
ノウルズはUボートの位置情報を、
ギャラリー大佐率いるタスクグループに毎日送信し続けていました。

そして、ギャラリー大佐はこの情報を使用して、
西アフリカ沖にいると思われたUボートを探索したのです。
  


「ハフダフ(Huff-Doff)」
とは、高周波方向探知機を意味するHF/DFを音読みしたものです。

連合国がこのレーダー技術を使用し始めたそのとき、
Uボートとの戦いにおける大きなブレークスルーがもたらされました。



大西洋のハフダフ聴取局により、連合国は
無線信号の強度を測定することで、
水面に浮上したUボートの大まかな位置を特定することができました。



ところで、この付近にあった、この日付です。
1944年6月1日。

この日が何を意味するのかは、この先の展示でわかるでしょう。
続いて先に進んでいくことにします。


続く。






「灰色の淑女とダンス」潜望鏡今昔物語〜潜水艦「シルバーサイズ」博物館

2023-03-09 | 歴史

前回に続き、潜水艦「シルバーサイズ」プレゼンツ、
「潜望鏡の歴史」についてです。


第一次世界大戦の終わりまでに、潜望鏡のほとんどの問題は解決しました。

初期の、取り込まれる映像の見にくさという問題については、
大きな筒の中に2本の望遠鏡やレンズを挿入することで、
画像を拡大したり明るくしたりして解決がなされます。

大きな安定した筒を使うことによって、画面の安定性と、
表面の画像の乱れを軽減し、小さな潜望鏡ヘッドで先端を補足して
画像のバランスを取るというふうに改良されていきました。

レンズとミラーの調整の際、位置合わせをしやすいように、
潜望鏡は二重の筒芯で構成されていました。

外側は圧力と伸縮に耐える厚みを持った素材で、
そして光学系は内側の筒に収容することで衝撃を受けにくくなります。

■ 潜望鏡の発展

潜望鏡には、

反射型(リフレクティング)Reflecting
と屈折型(リフラクティング)Refracting、

leとra、ちょっと違いで全く違う二つのタイプがあります。


   反射型潜望鏡            屈折型潜望鏡

「反射型潜望鏡」は単純に鏡を使用して、
筒の長さの方向に光を反射するものです。

右は屈折型潜望鏡ですが、こちらは鏡の代わりにプリズムを上下に置きます。

上部のプリズムは映像から光を集め、その光を
潜望鏡の筒の長さをつなぐ一連のレンズと2本の望遠鏡を通して、
2番目のプリズムに跳ね返すことで像を送ります。

このプリズムが光を反射して、2枚のレンズからなる二次鏡筒に入り、
接眼レンズで見ることができるのです。

プリズムは反射面にコーティングを施す必要がなく、
鏡より頑丈であるため、鏡よりこちらの方が重用されました。

しかし、入ってきた光がチューブを通る段階で、
どうしても暗くなってしまう
という問題がありました。

潜望鏡開発者たちはこの解決策を見つける必要がありました。


潜望鏡の中で映像が暗くなる理屈はこういうことです。


懐中電灯のビームが、照らした面から遠ざかるにつれて光の輪は大きくなり、
それに従って明度は落ち、暗くなります。

潜望鏡の中で起こるのがこれと同じ現象です。
取り込まれた画像はチューブを降って移動するうち、
距離があればあるほど、ぼやけてかすかになり、見えなくなるのです。

これを解決したのがアイルランドの光学設計者、


ハワード・グラッブ卿(Sir Howard Grubb)1844−1931

という人でした。


これは手持ち用の接眼機ですが、
彼の工夫は赤い部分に内面が銀色に塗装された板ガラスを仕込むことで、
凸面ガラス(Concave)によって取り込まれた像を明るく保つことです。





こちらが、初期の潜望鏡のアレンジメント。
チューブの端にはミラーもプリズムもないことに注意してください。
Lは「レンズ」、Iは画像です。

最初の潜望鏡はレンズだけだったのに驚かれるでしょうか。



こちらがグラッブ卿のアイデアによるのちの改良版。

潜望鏡では、一連のレンズをチューブの正確なポイントに挿入し、
光の焦点を合わせたり、最焦点を合わせたりすることで問題を解決しました。

レンズのさまざまな曲がりが収縮、拡大、反転を繰り返し、
人の目に入る前に画像が出来上がっていることに注目してください。

これにより、画像を明るいまま焦点を合わせることができ、
潜水艦を安全に水中に保つために必要な長さまで
潜望鏡を伸ばすということができるようになったのです。

しかし、筒の中にこれだけのレンズがあるのも大概じゃね?

と思われたあなた、あなたは正しい。
その後、この連続したレンズの組み合わせは、
我々が知るポピュラーな仕組みへと発展していったのででした。



その後、引き込みの仕組みができ、潜望鏡は
使用していない時には潜水艦内深くに引き込むことができ、
波の上でそれが発見されにくいようになっていました。


それから第二次世界大戦になっても、潜望鏡は
「シルバーサイズ」に搭載されているような古典的な外観のまま、
何十年もの間、ほとんど変更されず、実質同じ仕組みが使われていました。



もちろんその何十年もの間、テクノロジーの発達により
倍率などレンズの性能に関わることは向上しましたが、
この第二次世界大戦時の潜水艦「マッケロー」の写真のように、
潜望鏡を手で引き下ろし、ハンドルを握りながら覗き込み、
潜水艦が沈降していく時には、ギリギリまで外を見るために
潜望鏡を引き下げながら自分の体を床に屈めていったりするのです。

それは、奇しくもアメリカ海軍の潜水艦員たちが
「潜望鏡を覗く」の同義語として使う、
"Dancing with the Grey Lady"
(灰色のレディとダンスする)


そのものであり、それは潜望鏡が発明されてから
ディーゼル潜水艦、原子力潜水艦と動力が変わっても
それだけは全く変わることがありませんでした。


USS「ペンシルバニア」で灰色淑女とダンス 1990年代

「ダウン・ペリスコープ」「アップ・ペリスコープ」

という命令は、潜水艦映画で何度も聞くフレーズです。
"Dancing with the gray lady "
とは、潜望鏡を覗きながら見張することそのものなのです。


■ ニュータイプのペリスコープ


コンセントが邪魔〜

ところが時代は進みました。

潜望鏡が「灰色の淑女」ではなくなったのは、
「バージニア」級潜水艦と共に最新鋭型の光学機器がデビューした時です。

「バージニア」級とロイヤルネイビーの「アストゥート」級潜水艦
いずれも潜望鏡を搭載していません。

その代わり、使用しているのが
フォトニック・マスト(Photonics Mast)であり、
水面上に持ち上げるのは潜望鏡ではなく電子画像センサーキットです。

わたしも、「そうりゅう」クラスの潜水艦を初めて見学した時、
すでに潜望鏡という、あのおなじみの「灰色のレディ」は影も形もなく、
外の画像を皆で画面を見ることで認識するようになっていたので、
それこそ価値観がひっくり返るような衝撃を受けたものです。

ところでここでちょっと考えてみましょう。

技術の進歩の過程で真っ先になくなると言うことは、
それなりに変えていかなくてはいけない大きな理由があったはずです。
従来の光学式潜望鏡には、2つの問題がありました。

1つは
潜望鏡を格納するための潜望鏡井戸のスペースの確保

それは艦の高さいっぱいいっぱいが必要なので、その大きさゆえに
セイルや内部のコンパートメントの配置が制約が生まれます。

もう1つは、レディと親密にダンスをできるのは一人だけ、ではなく、
=潜望鏡は一度に一人しか見られない
という、地味に深刻な問題です。



海軍は、この2つの問題を解決するために、
AN/BVS-1フォトニクス・マストを開発しました。

2004年にデビューした「バージニア」級攻撃型潜水艦が、
フォトニクス・マストを搭載した史上最初の潜水艦となりました。

フォトニクス・マストは、艦体を貫通せず(つまり格納されない)
昔の車のアンテナのように、伸縮自在に伸び縮みし、
従来の光学式潜望鏡の画像処理、航法、電子戦、
通信の機能を全て変わりなく提供する機能を持ちます。

フォトニクス・マストには、光学式潜望鏡のプリズムやレンズの代わりに、
電子画像処理装置が使われるのが大きな違いです。

センサーユニット、複数の電気光学センサーは、
回転するヘッドに設置されて、海面から突き出しています。



マストの中には、カラーカメラ、高解像度白黒カメラ、赤外線カメラ
3つのカメラが搭載され、それぞれがイメージを捉えます。

また、耐圧・耐衝撃構造のコントロールカメラと、
正確な目標範囲を提供し航行を支援する
アイセーフレーザーレンジファインダーもマストに搭載されています。




以前ならセイルの先から艦底まで必要だったペリスコープウェル(井戸)も、
これならセイルの中だけで収納ができます。




ペリスコープウェルが小さくなると、ボートの制御室の位置を
より自由にレイアウトすることができるようになります。



従来のレイアウトはまず潜望鏡ありきなので、
潜望鏡を必要とする制御室は狭い上甲板に置かざるを得ませんでした。
ここしか井戸を設置するのに必要な深さがないからです。

左、「バージニア」以前、右、「バージニア」
紫が「ペリスコープ井戸」

「バージニア」級では、制御室はより広い2階デッキ(第2甲板)
に配置され、より開放的なレイアウトになったというわけです。



これは見つかりにくい?
「バージニア」級潜水艦の潜望鏡



さて、フォトニクス・マストが取り込んだ画像は、光ファイバーで
2台のワークステーションと司令官用コントロールコンソールに送られます。

「バージニア」級に2本備わっているフォトニクス・マストは、
これらのどのステーションからでもジョイスティックで操作できます。
ジョイスティックたらあれですよね。
ゲームのコントローラーみたいな。
なんでも「もがみ」型の操縦もこれだと最近聞いたな。

各ステーションには、2台のフラットパネルディスプレイ、
標準的なキーボード、トラックボールインターフェイスが設置されています。
画像は全て媒体に記録されます。

(この辺りの技術も日進月歩なので、iPhone並みに
アップデートが加えられていっているでしょう)



ちなみに現在フォトニクスマストを搭載した潜水艦を建造する国は
米国の他はロシア、英国、日本、フランス、中国のみとなります。


■ エンドスコープ Endoscopes 内視鏡



エンドスコープというと聞き慣れませんが、要は内視鏡です。

この偉大な発明のおかげで、今回わたしも、
一昔前ならたいへん痛みを伴った副鼻腔炎の手術を
快適かつ安心して受けることができたわけです。

そして今回調べてみてちょっと嬉しかったのが、この内視鏡が、
ある意味ペリスコープの一つの発展形と考えられていることです。


胃の内視鏡検査のための先端機器

その恩恵を激しく被ったばかりで全く他人事ではないので、
わたしの受けた歯科性副鼻腔炎による炎症除去手術で説明します。

たった10年前まで、わたしのような症状の患者に対しては、
「経上顎副鼻腔手術」と言って、歯肉(上唇の裏)部を切開し、
上顎骨の一部をノミで除去、上顎洞を中心として粘膜を極力除去、
という、読んだだけで痛くなるような術式が用いられました。

アメリア・イヤハート(頬に膿を排出するためのパイプを出していた)
の頃の手術ほどではないにしろ、10年前のこのやり方だと
術後の痛み、顔の腫れが強い、術後に頬部のしびれ感が残ることがある、
出血が比較的多い、入院期間が長い(両側で2~3週間)、
副鼻腔が本来の生理機能を失う可能性がある、
将来的に膿や粘液が貯まる術後嚢胞という別の病気が発生する事がある、
と、受けるかどうか選択の余地を迫られるものだったのです。

ところがESS(内視鏡下副鼻腔手術)だと、鼻の穴から手術操作を施行、
鼻腔と各副鼻腔の隔壁を開放、病的粘膜のみを除去するだけなので、
術後の痛みが少なく顔の腫れはほとんどなし。

出血が比較的少なく入院期間が短い(両側で1~3日間)、
副鼻腔の生理機能が比較的保たれ、術後嚢胞の発生頻度がきわめて少ない、
とありがたいことばかり。

術者は手術野をはっきりと見ることができ、
手術に必要な切開量は10年前と比べても遥かに小さくなっています。

この10年での変化ですらこれくらい進歩しているように、
内視鏡を使用して行われる医療処置はますます増えていくのでしょう。


内視鏡で見たウサギの肺
最近は獣医も医師と同じくこのテクノロジーを用いて治療する

画像はレンズではなく、デジタルケーブルを介して伝送されるため、
内視鏡は、従来の潜望鏡よりも、どちらかというと
フォトニック・マストとの共通点がより多いと言えます。



それでも、ペリスコープのように、
直接見ることができない部分を見ることができる点は同じ。

内視鏡の発展のその最初の地点には潜望鏡があった、
というのはあながち間違いではありません。

ありがとう潜望鏡(迫真)

続く。




宇宙開発競争と世界初の弾道ミサイルV2〜スミソニアン航空宇宙博物館

2023-02-11 | 歴史

スミソニアン博物館の宇宙開発競争コーナーは、コーナーというには大規模な
ワンフロア全てを占めるその資料によってその歴史が語られています。

■ スペースレースとは

第二次世界大戦後、最強国となったアメリカとソビエト連邦は、
軍事力の均衡を保ちつつ相手を牽制し合う冷戦に突入します。

半世紀にわたり、二つの超大国は、その思想御社会構造の違いから、
方や民主主義国、方や全体主義的共産主義国として、
世界一の覇権を手にするべく、互いにその優位性を競い合ったのです。

そして宇宙は、このライバル関係の重要な舞台となりました。

宇宙空間を舞台としたロケット工学や宇宙飛行の分野で互いが鎬を削りあい、
世界の注目を浴びながらその優位性を示そうとしたのが、
いわゆる米ソ宇宙開発競争です。

宇宙開発の分野は、また、敵を監視するためのツール(秘密衛星)
として、発展していきました。

そして、これから述べていく様々な研究とその実行において、
あるときは成功し、あるときは失敗で貴重な人命を失い、
互いの国の総力を上げて宇宙を目指すための技術を積み重ねていきます。

しかし、冷戦の間、宇宙という一つの方向を見続けたことは、
いざ冷戦が終わってしまうと、そのわだかまりも消えることになりました。
一発の砲火も交えなかったことは、雪解け後の和解もスムーズだったのです。

冷戦終結後、アメリカとロシアは宇宙ステーションの建設など、
宇宙での共同事業に合意することになりました。

恐怖と敵意から始まった競争は、冷戦終結後はパートナーシップに変わった
・・・・・と果たして言えるかどうかは断言できませんが。

アイゼンハワー大統領は、ソ連がスプートニクを打ち上げた、
いわゆる「スプートニック・ショック」の一年後、このように述べました。

「ソ連の脅威が歴史上ユニークなのは、その包括的なものであることだ。

人間のあらゆる活動は、拡大のための武器として利用される。
貿易、経済発展、軍事力、芸術、科学、教育、思想の世界全体・・・。

全てがこの拡大のための戦車に繋がれているのだ。

つまり、ソビエトは完全な冷戦を展開しているのである。

全面的な冷戦を展開する体制に対する唯一の答えは、
全面的な平和を実現することである。

それは、私たちの個人的、国民的生活のあらゆる財産を、
安全と平和が育つ条件を構築する仕事に投入することを意味する。

我々は、ほんの少し前までは、長距離弾道ミサイルに
年間100万ドルしか使っていなかった。
1957年には、アリアス、タイタン、トール、ジュピター、
ポラリス計画だけで10億ドル以上を費やした。

このような進歩は喜ばしいことではあるが、
だかしかし、まだもっとやらなければならない。

つまり、私たちの真の問題は、今日の強さではなく、
明日の強さを確保するために今日行動することの必要性なのである」

ドワイト・D・アイゼンハワー大統領、1958年

アイクの言う「強さを確保するための行動」とは
具体的にはどのようなことを指すのでしょうか。

アイゼンハワーのこの演説の年、アメリカでは
初の衛星、ヴァンガード1の打ち上げを行なっていました。



ヴァンガード1号は太陽電池パネルを利用した最初の衛星です。
当初はソ連にえらく遅れをとっているとされていたアメリカの宇宙開発ですが、
ちな、このヴァンガード1は、地味にまだ軌道を回っており現役です。

当初の見積でも軽く2000年間は保つと見込まれていましたが、
いろいろ訂正があって結局寿命240年というところで落ち着いています。

ヴァンガード1は、打ち上げ当時と抵抗特性は基本的に変わっておらず、
今日もせっせと大気のデータを地球に送り続けており、
「最も長い間宇宙に存在している人工物」
の輝かしいタイトルを持っています。

とはいえ、この頃総力を上げて宇宙開発に取り組むソ連に対し、
アメリカは周回遅れというくらい後塵を拝する屈辱的な状態が続き、
1961年、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは演説を行うのです。



「最後に、もし私たちが今世界中で起こっている、
自由と専制政治の間の戦いに勝つためには、
1957年のスプートニクのように、
ここ数週間に起こった宇宙での劇的な成果、この冒険
世界中の人々の心に与える影響を私たちが知らなければならない」

ジョン・F・ケネディ大統領、1961年5月25日

1961年初頭にアメリカはチンパンジーを打ち上げる実験を成功させ、
演説の少し前になる5月5日には、ついにアメリカ人宇宙飛行士、
アラン・シェパードを宇宙に打ち上げることに成功しました。

しかし、ソ連がボストーク1号でガガーリンを打ち上げたのは
そのわずか1ヶ月前でした。

しかもガガーリンの軌道上打ち上げに対し、シェパードはただの打ち上げ、
と見かけこそ大きく差がついていたということになりますが、
さすがと言うのか、この時のケネディの演説は
シェパードの「遅れをとった成功」をさらに国民の希望へと押し上げます。

我々は、月に行くべきです。
しかし、この国のすべての市民と議会のメンバーは、
私たちが何週間も何ヶ月もかけて注目してきたこの問題を、
慎重に検討して判断すべきだと思います。

なぜなら、この事業はあまりに負担が多いので、

それを成功させるために働き、負担をする覚悟がなければ、
米国が宇宙での立場を得ることに同意したり、
望んだりする意味はないからです。

しかしもしその覚悟があるなら、今日、今年中に決断しなければなりません」

そしてさらに翌年、1962年、同じくケネディ大統領はこう言いました。

「宇宙開発競争において、私たちは長い道のりを歩んでいます。
私たちは遅ればせながらスタートしたのです。
これは新しい海であるが、アメリカ合衆国はこの海を航海し、
どこにも負けない地位を築かなければならないと私は信じています」


ジョン・F・ケネディ大統領、1962年

■ 宇宙戦争の「軍事起源」

アメリカの「航空の父」、ハップ・アーノルド将軍はかつてこう言いました。

「次の戦争は、海戦で始まるのでもなく、
ましてや、人間が操縦する飛行機の攻撃で始まるのでもない。
一国の首都、例えばワシントンに
ミサイルを落とすことから始まるかもしれない」


彼がこの「未来」を予言したのは、1945年のことでした。

その予言が当たったのかについては諸説あるかと思います。
なぜなら、戦争の始まりというものは、作為的にせよそうでないにせよ、
小さなきっかけから、というのが今のところ定石となっているからです。

しかし、始まりはともかく、攻撃はミサイル発射とイコールであることは
今現在の世界において全ての人々が周知のことでありましょう。


その後冷戦が始まると、米ソの戦略家は同じ課題に直面することになります。

戦争になった時、いかにして敵の心臓部を素早く攻撃するか。

第二次世界大戦後から出現し始めたロケットは、
次世代の新しい戦争のスタイルを予感させました。

それは、核爆弾を世界中のどこからでも敵国土に届けることができること。

それゆえ戦争は前触れもなく、突然、決定的に始まり、
そして戦う前に終わるかもしれない、ということを意味します。

そして地球を横断する爆弾を搭載できるロケットは、
当然ながら機械や人間を軌道に乗せることもできます。

宇宙開発競争は、とどのつまり長距離兵器の開発競争でした。
この両大国アメリカとソ連にとって、宇宙開発用も戦争用も技術は同じ。

宇宙開発競争の名の下に、アメリカとソ連は「長距離兵器としての」
ロケットを製造するようになったということになります。

ところで宇宙開発戦争において、どうしてソ連が当初リードできたかですが、
当時のアメリカはまだ武器の主流が爆撃機であったのに対し、
ソビエトは最初からミサイルを念頭に置いて、
国家単位で戦略的に開発を行ったからでした。


■V-1ミサイル〜巡航ミサイルの元祖



第二次世界大戦後、ソ連とアメリカが目の色を変えて獲得しようとしたのは
ドイツのロケット技術と技術者でした。

ドイツは第二次世界大戦中にミサイル兵器の開発を行っており、
ミサイルに核を積むと言う戦略の未来予想図を思い描く両国にとって
これらはとりあえず喉から手が出るほど欲しいものだったのです。

1944年6月に実戦投入されたドイツのV-1は、世界で初めて実用化された
「巡航ミサイルの元祖」で、スミソニアンに本体が展示されています。

(が、わたしはこの”小さな飛行機”がV-1だと夢にも思わなかったため、
ちゃんと写真を撮っていませんでした。
わたしが撮った写真は巡航ミサイルの後ろにかろうじて写っていたもので、
どこかしらが欠けてしまっています)

V-1のVはビクトリーと言う英語の意味ではもちろんなく、
(どうでもいいけど日本の女子って写真撮る時なんでVサインするんだろう)
ズバリ「報復兵器」Vergeltungswaffeを意味し、
宣伝省大臣、ゲッベルスの命名でした。



パルスジェットで発射されるV-1は、ヨーロッパの都市に向けて
何千発も発射されましたが、(1日平均102発、全部で2万1千770発くらい)
案外低速で精度が低い上、迎撃され、撃墜されやすいものでした。

とはいえ、イギリスに到達した時の死傷者は2万4千165人もおり、
ロンドン市民にとっては大変な脅威となっていたのも事実です。


V-1着弾後、瓦礫の下の生存者を探す民間防衛部隊と消防隊員

連合国ではこれを「バズボムbuzz-bomb」(ブンブン爆弾)とか、
「フライングボム」などと呼んでいました。

ブンブン爆弾って可愛いんですけど。



前にもこの「報復兵器」についてお話ししたとき、
ヒトラーの最終目的はイギリス国民の戦意の喪失だったのが、
彼らのモラル(戦意)はこんなことでは失われなかった、
と言うことを書いたのを思い出しました。

国民全体の戦意を喪失させるまでの爆撃はこの爆弾には不可能で、
せいぜいロンドン市民を恐怖に陥れるくらいが関の山だったともいえます。

つまり、住宅地を狙って国民の戦意を喪失させるより、
戦略地域や軍事施設を狙えばそれなりの効果はあったはずなのですが、
巡航ミサイルの元祖として記されるべき存在と言いながら、
如何せん当時の制御技術ではV-1の誘導着弾は不可能でした。

■ 世界初の弾道ミサイルV-2


というわけで、スミソニアンには本来V-2ミサイルが展示されています。
この写真では手前に見えている白黒市松柄のロケットがV-2です。

が、わたしが訪れた時、V-2の展示は(断じて)ありませんでした。
どこかに貸し出されていたのかもしれません。



もしこんな実物を目にしたら目の色変えて写真撮っちゃうはずだしね。
ちなみにこのV-2の左上にチラッと見えているのがV-1です。

見るからに凸凹ですが、長年乱暴に扱われた結果でしょう。

V-2(Vergeltungswaffe zwei)は、
遠隔地攻撃のために使われた最初の弾道ミサイルでした。

現代における最初の長距離弾道ミサイルであり、これこそが
今日の大型液体燃料ロケットや発射体の祖先と言ってもいいでしょう。

ドイツ陸軍兵器局は、1930年代から長距離ミサイルの開発を目指し、
ロケットエンジンを搭載した航空機の開発を模索していました。

そして1942年10月、バルト海に面したドイツのペーネミュンデから
液体燃料のV-2ミサイルを初めて発射し、成功させたのです。

先代のV-1はイギリス、ベルギー、フランスに多大な物理的、
かつ精神的損害を与えることに成功し、これに続くV-2は、
さらに決定的なテロ兵器となるはずでしたが、ここでも問題が。

このロケットは精度も信頼性もコスト効率も良くありませんでした。

とはいえイギリスに対して発射されたロケット弾は週平均60発ほど。

戦争の残りの期間には3,200〜600発が連合国側に向かって発射され、
このうち、1,115発がイギリスに到達し、1,775発が大陸の目標に命中、
ほとんどはベルギーに向けて発射され、パリにも19発が命中しています。

V-2による死者数は約5,500人、重傷者数は6,500人、
V-1、V-2両兵器によって破壊された家屋や建物の総数は約33,700棟。

それなりに兵器としては成功したといえますが。

戦後、アメリカと他の連合国は、
この革命的な新技術のノウハウを獲得するために、
V-2本体、文書、V-2技術者をできる限り多く捕獲しようと奔走しました。

その中には、イギリス、フランス、そしてソ連が含まれていました。

イギリスは、「バックファイア作戦」「クリッターハウス作戦」
V-2を打ち上げる実験を行なっています。

フランスはヴォルフガング・ピルツをはじめとするV-2研究者の協力を得て、
初の液体燃料ミサイルを完成させました。
この技術はのちにV-2と外観が似ている
ヴェロニク型観測ロケットに生かされることになります。

ヴェロニク


V-2とソ連の研究

そしてソ連です。

1945年5月5日、ペーネミュンデを占領したにもかかわらず、
避難してきたドイツ軍が大部分を破壊し、有用な資材も奪われました。

しかし、ソ連はその後占領したノルトハウゼンから貴重な資料を押収し、
この地域にロケット研究所を設立し、多くのV-2を再建しました。

数千人のドイツ人技術者、科学者、技能者とその家族がソ連に送られ、
その結果、ソ連は復元V-2を発射することに成功しています。

ソ連はV-2の基本技術を大幅に改良しいくつかの派生エンジンを製造。
1948年初めて打ち上げに成功したR-1は、ロシアでは初の
「国家的ロケット」とされていますが、外観はV-2とほぼ同じでした。


つくづく思うV-2の完成度の高さ

R-2は上層大気の研究や、生物学的研究のためにウサギや犬など
動物が打ち上げられ、最終的には
宇宙飛行を視野に入れた研究へと移行していきます。

V-2とアメリカの研究

アメリカもまた、V-2技術が出現するとほぼ同時に入手計画を始めています。

1944年、最初のV-2がパリとロンドンに向けて発射されてから2ヶ月余り後、
米陸軍兵器部隊はゼネラル・エレクトリック社に、捕獲したV-2を研究させ、
ドイツの設計に基づくミサイルを開発する契約を結んでいるのです。

これはプロジェクト・ヘルメスと名付けられました。

1945年5月、ソ連軍が進駐する前に米軍はミッテルヴェルクに入り、
100機のV-2の部品が米国に輸送されました。
そのうちの2機はスミソニアンに引き渡されたと推定されています。

この間、ヴェルナー・フォン・ブラウン博士とその主要メンバーが
降伏してきて、アメリカはいえーい!と喜びました。

ペーパークリップ作戦(当初はオーバーキャスト作戦)のもと、
最終的に118名が弾道ミサイルや後の宇宙開発用ロケットの開発に関わります。

1946年、アメリカでV-2の静止発射が行われ、1947年には、
パラシュートによるV-2ノーズコーンの陸上回収に初めて成功。

ケープカナベラルのロングレンジ実験場(後のケネディ宇宙センター)では、
合計で67回のV-2の飛行が行われています。


戦後、アメリカやソ連は鹵獲したV-2をもとに、ロケット開発を行いました。
それは次第に変遷を遂げ、究極の兵器を得るという大国の欲望は
ICBM、巡航ミサイル、大陸間弾道ミサイルに結実していくのです。


続く。




窓猫とアレゲニー墓地〜ピッツバーグ雑感

2022-08-28 | 歴史

■窓猫コレクション

わたしたちが住んだ地域の住居には、思い出すだけで数匹の「窓猫」がいて、
住んでいる間にすっかり顔馴染みになったりしました。



この子は一度紹介していますが、着いて早々
AirbnbとMKの職場の中間地点で発見した
「リベラルキャット」
飼い主は急進派リベラルらしく、猫ベッドの横に「堕胎禁止令反対!」
のアジビラを掲示していたことから。

猫を見る人はビラにも注目してくれるというわけです。


夜、近道をしようと思って細〜〜〜い道を通り抜けていたら、
夜なのに窓の外を見ている三毛猫がいました。

片側にびっしり駐車してあって、通り抜けるのも大変な道でしたが、
通り過ぎた後、わざわざ3mほど戻って写真を撮りました。


いつもスペースが空いている道路の前にお住まいの気品ある猫嬢。
極限の狭い道に縦列駐車していると、むっちゃこっちを見てきます。


あまりの気品に「其方は・・・」とか喋りそう、ということで、
名前が「そなた」になりました。



これも車でぐるぐる回っていると時々お見受けする角の窓猫。
毛がみっしりと密集している=denseから「でんすけ」。



別の日、でんすけの待機位置がいつもとちょっと違っていました。



窓枠に虫か何かを見つけたらしく、そちらを見てヒゲ袋を震わせる、
「かかか」鳴き=クラッキング(英語ではchatterling)の真っ最中でした。

クラッキングは獲物となるもの、例えば窓の外の小鳥や高い所の虫など、
何か気になるものが見えるけれど猫の手が届かないところにある時、
猫が例外なく行う鳴き方です。


最後にでんすけを見た時、彼は(多分彼)伸びの真っ最中で、
これまで見た猫史上初めてというくらい長く伸びていました。


1階の道路脇の窓にばかり注意が行きがちですが、たまに
2階の窓猫を発見することもあります。
鼻の模様から「コアラ」と名付けたこの猫は、
ご飯の後だったらしく、口を盛んにぺろぺろしています。


いつも散歩する公園で、初めて道路沿いに亀がいるのを見ました。



この亀は確かグランドラピッズで見たのと同じ、
アメリカ大陸に生息するニシキハコガメだと思われます。

今調べてびっくりしたのですが、日本ではペットとして売買されていて
ペットショップでは25〜50万円の値段がつくんだとか。

世の中にはこんなもの?にそんな大枚を叩く人がいるんですね。

まあもっとも、亀と同じくらいの値段がつけられたブランドバッグに対し、
たかが鞄にそんなの信じられない、という価値観だってあるわけですが。



公園で歩いていたら、右の茂みから道を横断しようとしていた鹿の一群。
大人の鹿はもう道を渡って反対側にいましたが、そこにわたしがきたので
この子鹿ちゃんは人間に対してビビりまくって固まってしまっています。



すると、後ろから来た若い鹿(多分お兄ちゃん)が、鼻の先っちょで
子鹿をちょんちょん、と突いて、渡ることを促していました。

「ここの人間は悪いことしないから、大丈夫、早くいきな」

といっているようでした。

■ アレゲニー墓地



ピッツバーグに来るようになって以来、何度かこの
アレゲニー墓地については(特に南北戦争関係の記事で)取り上げました。

今回泊まったアパートはこの近くだったので、
ある日思い切って墓地の中を車で通過し、その後、お天気の良い日に
中を散歩してみました。


お墓の中を歩くなんて、と日本人は思いがちですが、
アメリカで墓地はちょっと静かな公園のように認識されている節があり、
この日も歩道をジョギングする人や散歩する人、
ベンチで読書する人などの姿がところどころ見られました。


アレゲニー墓地(Allegheny Cemetery)は、ペンシルバニア州最古にして
最大の埋葬地で、創設は1844年です。


これは創設時当時のままの石造りの正門で、時代を表して
入り口は車がやっと1台通れるくらいの狭さなので、
実質車の出入りは建物の後ろに設けられた道路で行います。

建物左側は墓地の総合事務所となっていて、
これからの「死後の住処」を求める人のための手続きや、
お墓のメインテナンスなどを行っています。

1800年からある墓地に、土葬を新規で受け付けるほど場所があるのか?
とつい心配になりますが、少なくとも中を車で一周したところ、
まだまだスペースに余裕はあるように見受けられました。

とはいえ、墓地事務所としては、年々場所を売っていく関係で、
火葬を推奨する方向のようで、この写真の右側にもその宣伝があります。

あと、墓地を回ってみて、新しく入居する人たちのために、集団霊廟、
ちょっとお手頃な棺のアパートみたいなのがありました。

火葬はしたくないという人向けで、棺をそのアパートの外から
郵便受けのような感じで並べて差し込む形で埋葬?します。
もちろん霊廟の中にも名前があり、そこで死者を偲ぶこともできます。

棺の収まっているスペースに墓碑銘と生年月日、死亡月日が書かれますが、
よく見ると多くの人がまだ生きていることもわかります。
その人たちのほとんどは、連れ合いを亡くして葬り、その隣についでに?
自分の終の住処を用意した未亡人や残された夫でした。



名も無き一般市民の小さな墓石、たった一人の名前が刻まれた
豪壮な霊廟と、その佇まいはその人物が生きていた時の社会的地位を
そのまま表していて、なかなか感無量です。

中には、一族の霊を守護する天使の像を誂えてしまう人も。



ジェームズ B. ホッグの復活の天使
Angel of the Resurrection on James B. Hogg monument


ホッグ家はペンシルバニア州のいわゆる名家で、
ほとんどが銀行業や販売業、運輸、ガラス製造の会社を持っていました。

このジェームズというのは、ピッツバーグで企業をいくつも構えていた
ジョージ・ホッグという人物の息子ジョンの子供のようです。

ジョン・ホッグも第一国立銀行の創設者という人物ですが、
このジェームズに関しては情報がないだけでなく、
記念碑が建てられたのは父親のジョンが29歳の時なので、
もしかしたら、ジョージは幼くして死んだ子供であり、
その死を悲しんだ両親が、息子の霊を見守ってくれる天使の像を
高名な彫刻家に依頼したのではないかと思われます。

このエピソードを知って像を改めて見ると、天使は
地上を指差しているようですが、これはちょうど
そこにジョージが眠っているということなのかもしれません。




墓地は二つの大通りの間に挟まる形であり、
右手のペンアベニューから左手のバトラーストリートまで
中では結構ダイナミックな高低差の斜面になっています。

その中間地点くらいに、池がありました。
カモやリス、ガチョウ、うさぎなど、墓地の中は
動物たちにとっても安逸の得られる住処となっています。



中は普通に車道になっていて、夕方に門が閉められるまでは
中に誰でも自由に入っていくことができます。


YouTubeを検索すると、夜中の3時にガイガーカウンターみたいなのを持って
忍び込み、霊の存在を証明するようなことをしている人もいるようですが、
これは墓地に許可を取ってるんでしょうか。




これは最初に車で中を走ってみた時のもの。
どんよりとした曇天の墓石の間を何人かが走り回っていました。

中を歩いたときには、ふと傍の墓石に目が止まることがありますが、
小さいサイズの墓標により、そこにいるのが
1800年代にわずか6歳で亡くなった子供であることがわかったりします。

するとわたしは100年以上前、たった6年しかこの世にいなかった
アメリカ人の女の子のことについて、色々と考えずにはいられないのでした。

とまれ、墓地というのは、生きている人間に
生と死の彼我を考えさせる場所でもあります。


■グルメ


コロナ以降、テイクアウト中心の店がとても重宝がられて、
このサラダ専門店も、今年になって新しく3号店を構えました。

ここは周りをUPMC(ピッツバーグ大学医学部病院)の施設に囲まれていて、
ランチを食べにくる医療関係者の姿がいつも見られます。

右の女医さんは、製薬会社かおそらく保険関係のセールスの人と
ビジネスランチをしているところです。



わたしが頼んだのはEL JEFE(エル・へフェ)
エルヘフェはスペイン語でシェフのことなので、おそらく
「メキシコ風シェフサラダ」だと思います。

そういえばシラントロやアボカドは標準装備でした。


カーネギー自然史&美術館併設の『The Café』は、
今年の5月にMKが学部の卒業式をした後お昼を食べに来ました。

ただのカフェではなく、もちろんサンドイッチやバーガーもありますが、
ここの得意はラージプレートやこんなスープなのです。

メニューにはちゃんとシェフの名前(女性だった)が記載されています。

これは、確かスイカのガスパッチョ。



珍しいタマリンドの実を使ったエビのソテー。
ソースはタマリンドの色をしており、赤いのはトマトではなくスイカです。


この昼食の後、わたしたちは兼ねてからここで公言していた、
カーネギー・サイエンスセンターのUSS「レクゥイン」の見学をしました。

色々問題のある見学でしたが、そんなこともまたここでご報告します。


MKの卒業した学校は、新しく校舎を増設する工事が進んでいます。
この時アパートからモニターを学校に持って行って、
彼はそれ以降IDを返却しましたから、これが建物内に入る最後になりました。

中を歩いていると、高校生らしい一団が、現役学生に連れられて
「学内ツァー」を行なっているのとすれ違いました。

アメリカでは国土が広いため、実際行ったことがない大学に願書を出し、
合格して初めてそこに行くという学生がいないわけではありません。

でも、夏休みを利用して志望大学のツァーに参加し、
それでアプライを決めるという普通のやり方で受ける人ももちろんいます。

MKはちなみにこの大学のツァーには参加せず合格した口です。



散歩に行く公園にはボブ・オコナーというゴルファーの名前がついた
ゴルフ場があり、この写真の後ろ側が全部その敷地です。

去年道路沿いの木は雷で倒されてしまったのですが、
今年行ってみたらハロウィーン仕様にデコレーションされていました。

ちなみにアメリカではまだ暑いというのに、
インテリアショップやデコレーショングッズを売る店はすでに
どこもハロウィーンの飾り付けが始まっています。


ピッツバーグ最後の外食は、タイ料理「プサディーズ・ガーデン」です。

最後に何が食べたいか?となった時、家族3人の意見が一致したのですが、
週末だったので予約が取れず、ウォークインで順番待ちをして入れました。

これは、おそらく「この世で一番美味しい」ロティ。


MKのノンアルカクテルの後ろにあるのはマンゴーのサラダです。



スティッキーライスのココナッツミルク掛けにマンゴーのデザート。
もう、これ以上ないほど大満足でした。

ただ、お勘定の時になって、TOが、

「UMIの一人分より、安い・・・」

といらんことを呟いたので、またしてもわたしたちは
あの悪夢のジャパニーズを思い出してしまったのですが。


続く。


そのとき真珠湾にいた艦たち〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-12 | 歴史


ミシガン州マスキーゴンのシルバーサイズ潜水艦博物館の展示から、
今日もやたらと詳細にわたる真珠湾攻撃についてをご紹介します。

「真珠湾への道」として日米の動きをタイムラインで表した横には、
真珠湾における攻撃後の出来事が記されていました。



7時55分の第一次攻撃

8時53分の第二次攻撃

ミッドウェイに向かうUSS「レキシントン」(←)

ウェーク島から戻ってきていたUSS「エンタープライズ」(→)

がまず図になっています。
そして、その下には、

「ワシントン」「パールハーバー」「フィリピン・マニラ」

で起こったことがこれも時系列で書き出されています。
今回はそれはさっくりと省略しますが、その代わり、
時刻を追って真珠湾に停泊していた艦船がどうなったかを追います。


■ 戦艦「ユタ」



【現役戦艦と誤認され撃沈】

戦艦USS「ユタ」は、ユタ州の名を冠した最初の艦です。

1931年、「ユタ」は前年に調印されたロンドン海軍条約の条件に従い、
非武装化され標的艦に改造され、AG-16と改称されていました。

また、艦隊の砲手の訓練に使われていた艦です。
「ユタ」はちょうど1941年末に真珠湾に入港したばかりで、
フォード島沖のバースF-11に係留され、対空砲術訓練を終えていました。

12月7日の朝8時前、「ユタ」の乗組員の何人かは
真珠湾を攻撃するために接近してくる最初の日本軍機を見ましたが、
アメリカ軍機だと思い込んでいたそうです。

攻撃が始まったとき、「蒼龍」「飛龍」の中島B5N魚雷爆撃機16機は
空母を探して「ユタ」が係留している場所にやってきました。

いつもはそこに空母が停泊しているはずだったからです。

日本軍の飛行隊長は「ユタ」は攻撃の価値なしと判断したのですが、
中島辰巳中尉率いる「蒼龍」のB5N6機は離脱して攻撃を始めました。


バーベット上の形状が空の穴を覆う箱であることを認識せず、
砲塔である、つまり戦艦であると誤認したと思われます。

6本の魚雷が「ユタ」に発射され、そのうち2本が命中し、
もう1本は外れて巡洋艦「ローリー」に命中しました。

【ユタの沈没】


深刻な浸水はすぐにユタを圧倒し始めました。
ユタは左舷に傾き、艦尾が沈んでいきました。

総員退艦が始まったとき、一人の乗員(機関員ピーター・トミッチ)は
乗員を助けるために持ち場を離れず殉職しました。


トミッチ

トミッチはヘルツェゴビナ系クロアチア人のアメリカ海軍水兵です。

攻撃の時ボイラー室に勤務していた彼は、攻撃によって
艦が転覆することを悟りながらも、ボイラーを動かし続け、
すべての乗員が持ち場を離れるのを確認するまで持ち場に留まり、
そのことによって自らの命を失いました。

彼はその行動により死後名誉勲章を受けています。

その後「ユタ」は横倒しになり、脱出できた乗組員は岸まで泳ぎつきました。

その中の一人、ソロモン・イスキス司令官は、
転覆した艦内に閉じ込められている人々のノックの音を聞き、
有志と共に損傷の激しい巡洋艦「ローリー」から切断の道具を取ってきて
閉じ込められた人を解放しようと試み、4人の救出に成功しています。

Solomon Isquith

「ユタ」では合計で58人の将校と下士官兵が死亡し、
461人が生き残りました。

【沈没墓となったユタ】

「ユタ」は当時軍事的な価値がなかったため、沈没後放棄された状態で
海軍艦艇登録から抹消されました。
錆びた艦体を一部海面上に見せながら。

「ユタ」が沈んだときに死んだ兵士たちは、その後も
運び出されることはなく、長い間「墓」に眠っていました。

その後記念碑が建てられた際、
艦の近くにプラットフォームが設置されましたが、
ここには軍の身分証明書を持つ人だけがアクセスできます。

2008年になって「ユタ」の艦内から7人の遺体が運び出されて火葬され、
その遺灰は再び沈没艦に撒かれました。


■ カシンとダウンズ


「カシン」は攻撃時、「ダウンズ」「ペンシルバニア」と共に
真珠湾で乾ドックに入っていました。

250kg爆弾の低次爆発により燃料タンクが破裂し、
両艦に制御不能の火災を引き起こしました。

「カシン」はキールブロックから滑り落ち、「ダウンズ」に衝突。

両艦とも修理不可能なほど損傷しましたが、
機械類や装備は引き揚げられ、メア・アイランド海軍工廠に送られ、
引き揚げ材をもとに全く新しい艦が建造され、
それらには元の艦の名前と番号が与えられました。



その後、再就役した「カシン」は古巣の真珠湾に戻り、
テニアン、サイパン、マーカス、硫黄島で活動。

江戸の仇を長崎で、とばかり、真珠湾の仇を主に南洋で晴らしていた
「カシン」ですが、一度は国際法の遵守を確認するために
日本の病院船に乗り込み、臨検を行い、
違反がないことを確認すると、ちゃんと船を解放しています。




■ ショー(USS SHAW)


USS「ショー」(DD-373)は、「マハン」級駆逐艦で、
海軍士官ジョン・ショー大尉の名を冠した2番艦です。

1941年12月7日には、パールハーバーの乾ドックに係留されていました。

「ショー」が係留されていたのは補助浮遊式乾ドックYFD-2で、
彼女はそこで深度充電装置の調整を受けていました。

日本軍の攻撃で3発の爆弾を受け、2発は前部機銃台を、
1発は艦橋の左翼を貫通し、火災は艦全体に広がりました。

0925までに、すべての消火設備は使い果たされましたが、
火を消し止めることはできず、総員退艦の命令が出されます。

そして0930過ぎに前部弾倉が爆発しました。

「ショー」は修理の結果、現役に復帰し、戦後に至るまで
ほぼ第一線で活躍し、その功績に対して11の賞を与えられました。

■オグララ(USS Oglala)



「オグララ」は機雷掃海艇です。

ネイティブ・インディアンの「オグララ」族から名付けられました。
(oglala族を変換すると、普通に”小倉裸族”になってしまう件)

建造時は高速貨物船「マサチューセッツ」という名前であった彼女は、
その後ボストンで旅客船となってのち、第一次世界大戦の時に
Uボートに対抗するため、機雷掃海艦に生まれ変わりました。

最初に機雷掃海艦になった時の名前は、「オグララ」ではなく、
USS「ショーマット」Shawmut ID 1255
で、その名前のまま無線操縦船、水蒸気テンダー、掃海艇として
就役していました。

「ショーマット」が「オグララ」に改名された理由は、
当時病院船「ショーモン」(Chaumont)というのがいて、
英語では後者のTを落とさず発音する人が多いことから、
「ショーマット」と「ショーモント」で混同する可能性があったからでした。

1941年、「オグララ」は、機雷掃海隊司令官の旗艦となって、
真珠湾攻撃当時、パールハーバー海軍基地のテンテン桟橋に、
軽巡洋艦「ヘレナ」の隣に係留されていました。

【オグララ沈没】

7時55分頃、「オグララ」の乗員は日本軍の攻撃機を発見し発砲しています。

中島B5N2空母魚雷爆撃機「ケイト」は魚雷を放ち、
それは「ヘレナ」との間の左舷近くで爆発しました。

この爆風で「オグララ」は左舷部が破断し、火室床板が浮き上がり、
着水を始めましたが、それとほぼ同時に日本軍機による空爆が行われます。

艦ドックから電力供給を受けている状態だったため、
乗組員は火災に対処するためのポンプを起動することができませんでした。

この損傷により、後に「オグララ」は

"the only ship ever to sink from fright."
「恐怖によって沈んだ唯一の船」


と異名を得ることになります。

火災が防げなかったのは怖気付いたからだったとでもいうのでしょうか。
実際は決してそうではないと思いますが・・なかなか厳しいですね。


攻撃開始から約5分後、爆弾が「オグララ」と巡洋艦の間に落下し、
「オグララ」のボイラー付近で爆発しました。
左舷5度に傾斜し始め、浮力を維持できぬまま急速に沈没していきます。

当時の指揮官であったローランド・E・クラウス司令官は、
「ヘレナ」から「オグララ」を離して、桟橋に直接固定することを決定。

これは9時頃には作業完了しましたが、30分後には艦隊は20度傾き、
廃艦命令を余儀なくされる状態になりました。

10時頃、船はドックの方向に向かって横転し、
左舷側に沈む際にブリッジとメインマストが破壊されました。



「オグララ」の死者はゼロでしたが、負傷者が3人いました。
この人的被害の少なさについて、指揮官はその報告の中で、

「海軍の最高の伝統」に従って行動した全乗組員

を賞賛し、特に2人の乗員の英雄的行動を讃えました。

ジェラルド・"E"・ジョンソン二等水兵は、ボイラーの爆発を防ぎ、
艦への浸水を抑えるように奮闘し、
アンソニー・ジト掌帆長は、日本軍機の接近に対し、
いち早く高射砲を素早く作動させ、迎撃を試みたという功績です。


「オグララ」はその後3度目の引き上げ作業を経てようやく陸に揚がり、
修理ついでに内燃機関修理船ARG-1に生まれ変わりました。

ニューギニアの作戦などに参加し、戦後退役してスクラップ化されました。


■ カリフォルニア(USS California)



1941年12月7日朝、「カリフォルニア」はフォード島の南東側、
バトルシップ・ロウ(戦艦列)の最南端の艦に係留されていました。

攻撃が始まった直後、当時乗艦していた副長のマリオン・リトル中佐は、
総員配置の命令により砲を作動させ、艦の航行準備を行います。

8時3分、乗組員は、三菱A6M零式艦上戦闘機らと交戦を開始。
しかし、すぐに準備弾薬はなくなり、弾倉のロックを解除しなければ
補給ができない中、中島B5N魚雷爆撃機(九七式艦攻)2機が接近し、
投下した魚雷が前部と後部に命中。

攻撃時、検査で「カリフォルニア」の水密扉はすべて開いており、
また、舷窓や外扉の多くも開いていたため、
制御不能の浸水が艦全体に広がって艦体は左舷に傾き始めました。

リトル副長はダメコンチームに右舷の浸水対策を命じましたが、
左舷の浸水は広がり続けます。

魚雷の爆風で前方の燃料タンクも破裂し、燃料系統に水が入り込んで
電気系統は全てストップしてしまいました。

その後、D3A急降下爆撃機(九九式艦爆)から繰り返し攻撃を受け、
爆雷が右舷に1発、左舷に1発命中。

この時対空砲兵は爆撃機のうち2機を撃墜したと主張しましたが、
混乱した状況下での撃墜は困難として認められませんでした。

0845、アール・ストーン中佐(誰?)が乗艦し指揮を執ろうとしたところ、
(こんな時にも国旗に敬礼とかしたんだろうか)
同時に「カリフォルニア」は徹甲弾らしきものを被弾しました。

この爆弾は上甲板を貫通した後、第二甲板で跳ね返り、艦内で爆発し、
火災を引き起こし、約50名の死者を出します。

その後、乗員の必死の作業で電力とボイラーが回復、
しかし火災が広がったので、攻撃が終了してから他の船が接舷し、
消火と排水作業を行いましたが、艦体は3日間かけてゆっくり沈没し、
最終的に泥の中に沈みました。

この攻撃で98名が死亡、61名が負傷し、
何人かは攻撃中の行動に対して名誉勲章を授与されました。
ある者は持ち場を離れることを拒否し、そこで死亡しています。

その後、「カリフォルニア」はずっと沈没した状態であります。

艦内の遺体25体が今後の身元確認のために引き揚げられたのは、
なんと2019年12月6日
のことでした。



■ メリーランドMeryland

【沈没を免れたメリーランド】

12月7日の朝、「メリーランド」は「オクラホマ」を左舷に並んでいました。

前方には「カリフォルニア」、後方には「テネシー」「ウェストバージニア」
艦尾は「ネバダ」と「アリゾナ」という位置関係でした。

この7隻の戦艦は、最近演習から帰ってきたばかりで、
いわゆるバトルシップ・ロウ(戦艦列)にまとめて係留されていたのです。

「メリーランド」の乗組員の多くは、攻撃が始まった時、
9時の上陸休暇の準備をしていたり、朝食を食べていました。

最初の日本機が現れ、爆発音が船外の戦艦を揺らすと、
「メリーランド」のラッパ手が「ジェネラル・クォーター」を吹鳴。

この時持ち場の機関銃のそばでクリスマスカードの宛名を書いていた
レスリー・ショート水兵は、機関銃で魚雷爆撃機を撃墜しました。
(レスリー・ショート水兵の写真は残っていません)

「オクラホマ」の内側にいたため、魚雷攻撃から逃れた「メリーランド」は、
すべての対空砲台を作動させることができました。

最初の攻撃で「オクラホマ」は沈没したため、
生き残った乗員が対空防御のために「メリーランド」に移乗しました。

その後「メリーランド」も空爆を受け被害に遭いますが、
砲撃を続けながら転覆した「オクラホマ」の生存者救出を試みました。

日本側は「メリーランド」を撃沈したと発表しましたが、
沈没を免れ、翌年6月には大幅改修を加えて戦列に復帰しています。

真珠湾で被害を受けた戦艦としては2隻目の復帰を果たしたことになります。

■オクラホマ

わたしが撮った「オクラホマ」の写真、端が欠けてしまっただけでなく、
写真に壁のコンセントが混在しているという・・・。<(_ _)>

攻撃時、「オクラホマ」は「メリーランド」の隣、
戦艦列のフォックス5番バースに停泊していました。

彼女は「赤城」と「加賀」隊の集中的な標的となって、
3本の魚雷を撃ち込まれ、そのうち2本は
第一煙突とメインマストの間の喫水線下6.1mの船首に命中しました。

この瞬間は、確か映画「パールハーバー」で再現されていたかと思います。

魚雷は対魚雷バルジの大部分を吹き飛ばし、
隣接する燃料バンカーの発音管から油を流出させたものの、
どちらも艦体を貫通しませんでした。

約80名の乗員が甲板上の単装砲に就くために奔走しましたが、
発射ロックが武器庫にあったため使用することができませんでした。

そこでほとんどは喫水線の下にある戦闘配置につくか、
航空攻撃時の規定に従って3階デッキに避難します。

0800、3本目の魚雷が命中、艦体を貫通し、
第2プラットフォームデッキの隣接する燃料バンカーを破壊し、
2つの前部ボイラー室への通路、後部ボイラー室への横隔壁、
2つの前部射撃室の縦隔壁を破裂させます。

艦体が左舷に転覆し始めると、さらに2本の魚雷が命中。
なお、乗員は総員退艦を行う際、航空機から機銃掃射を受けています。

12分以内に、マストが着底し、右舷が水面に浮上し、
キールの一部が露出した状態で転覆していましたが、
多くの乗組員が「メリーランド」に移乗して対空砲を手伝いました。

そのうちの一人、アロイジウス・シュミット神父は、
第二次世界大戦で死亡した最初のアメリカ人聖職者となりました。

シュミット神父は他の乗員とともに、コンパートメントに閉じ込められ、
小さな船窓から乗員が脱出するのに手を貸していましたが、
自分は脱出せず、さらに多くの者を救おうとして沈没に巻き込まれました。

彼は12名の乗員の救出を行なっています。


シュミット神父

これらの他にも多くの人が転覆した船体の中に閉じ込められました。
転覆から数分後には救助活動が始まり、夜になっても救助活動は続き、
数時間後に救出された人の例もあります。

この時亡くなった何人かの軍人の名前は、
この後に建造された駆逐艦名として残されました。

USS「イングランド 」(DE-635)/USS「イングランド」 (DLG-22)
ジョン・C・イングランド少尉

USS「スターン」(DE-187)
チャールズ・M・スターン・ジュニア少尉

USS「オースチン」
ジョン・アーノルド・オースチン工兵長

USS「シュミット」 (DE-676)
アロイジアス・シュミット神父(中尉)

USS「バーバー」(DE-161)
マルコム、ランドルフ、リロイ・バーバー水兵

(オクラホマには『バーバー』という水兵が3人いたということです)

などです。

【再沈没したオクラホマとDNA鑑定】

前にもこのブログで書いたことがありますが、「オクラホマ」は
何度も浮上が試みられたものの、不可能だったので、退役し、
スクラップにされるためサンフランシスコにタグボートで運ばれる途中、
ハワイ近海で嵐に遭い、沈んでしまったという悲劇の艦です。

この時のタグボートの名前が「ヘラクレス」「モナーク」だったというのも
個人的には印象深く記憶に残る事件です。

引き揚げた際回収された乗員の遺体は全部で429体でしたが、
当時、そのうち身元が判明したのはわずか35名だけでした。

2015年になって国防総省は2015年4月、国防総省は、
「オクラホマ」乗組員の身元不明遺骨をDNA分析のために掘り起こし、
特定された遺骨を家族に返還することを発表しました。

その後DNA鑑定は着々と進み、2021年2月4日には300人目となる、
イリノイ州の19歳の海兵隊員のを特定したと発表しています。

2021年6月29日プログラムは終了し、
最終的には身元不明者はわずか33名を残すだけになりました。
33名の遺骨は、真珠湾攻撃80年目の12月7日に再埋葬されたと思われます。





■ ウェストバージニアとテネシー

【沈没後16日間生きていた3人の水兵】


「ウエストバージニア」は「テネシー」と並んで停泊していました。

攻撃が始まってすぐ、彼女は魚雷爆撃機に91式魚雷7本を舷側に、
爆撃機に16インチ(410mm)徹甲爆弾を2本打ち込まれました。

最初の爆弾は上部構造物の甲板を貫通し、
下のケースメイトに収納されていた弾薬が誘爆した結果、
その下の調理室甲板に広がる大火災を引き起こしました。

2発目の爆弾は後部の砲塔の屋根に命中し、
砲塔上部のカタパルトに搭載されていた艦載機、
OS2Uキングフィッシャー・フロートプレーンを破壊し、
甲板上に流れたガソリンが火災を起こしました。

魚雷によって開いた穴による転覆はなんとかダメコンで食い止めましたが
「アリゾナ」から漏れた燃料油に引火し、翌日まで続く火災が発生。

「ウェストバージニア」では合計106名が犠牲になりましたが、
そのうち3人は、16日間気密倉庫で生き延びていたことが後でわかりました。

サルベージ後、倉庫で3人の遺体とともに、12月23日までの
16日の日付が赤鉛筆で消されたカレンダーが見つかったのです。



2019年、国防省は「ウエストバージニア」の35名の不明遺体のうち
8名が特定されていると発表しています。

【テネシー】

攻撃が始まって、「テネシー」の周りはダメージを受け始めました。
「テネシー」も徹甲爆弾の直撃を受け、火災が起こります。

戦闘後、「テネシー」の周りの戦艦はほとんど沈没してしまい、
彼女は身動きできないままそこに残されていました。

その後「テネシー」はメア・アイランドで修復を行い、
近代化改修が施されてアリューシャン方面、タラワ攻防戦、
クェゼリン戦やエニウェトク戦、マリアナ諸島、
ペリリュー戦やアンガウル戦、フィリピン戦、硫黄島戦、沖縄戦、
レイテ沖海戦とフルで参加して1947年に退役、1959年に解体されました。


■ ネバダ



攻撃時、「ネバダ」は「アリゾナ」の後部に係留されていましたが、
単体だったため、他の7隻の戦艦とは異なり、操艦することができました。

司令官フランシス・W・スキャンランドが攻撃開始時不在だったため、
甲板士官であるジョー・タウシグ少尉(同名の提督の息子)が
再先任として攻撃と対処を指揮することになりました。



あれ?こんな話どっかの映画で見ましたよね。
ジョン・ウェインのアレだったかな。

「ネバダ」は91式改2魚雷1本が爆発し、継ぎ目からの漏水により、
傾斜を始めましたが、艦を出港させることに成功しました。
しかしタウシグ少尉は攻撃で脚を失うことになります。

第二波攻撃がやってくると、「ネバダ」はヴァル急降下爆撃機
(九九式)の主要なターゲットとなります。

日本軍のパイロットは、水路で「ネバダ」を沈めて
港を封鎖しようと考えたのです。(それなんて旅順港閉塞作戦)。

しかし、常識的に考えて250kg爆弾で戦艦を沈めることは不可能。

この時の戦術的目標選択は大いに間違っていました。
というか、もし日露戦争の記憶がなければ、日本軍の搭乗員は
このようなことを考えなかったんじゃないかと思われますがどうでしょう。

攻撃は「ネバダ」にいくつもの穴を開け、火災を起こすことに成功。
しかし、沈めることはできず、当時「ネバダ」の主弾倉は空だったので、
被害は最悪を免れることになりました。

その後「ネバダ」は深い海での沈没を防ぐために、
移動しながらも航空機を何機か撃墜し続けています。

午前中に合計60名の死者と109名の負傷者を出し、
翌年2月7日になって行われた引き揚げ作業中には、
腐敗した紙や肉から出た硫化水素ガスに侵されてさらに2名が死亡しました。
(この人たちも戦闘による戦死と認められたんでしょうか)

【原爆実験を生き延びて、退役】

着底した「ネバダ」は引き揚げられて大改装を施され、
アッツ島攻略作戦、ノルマンディー上陸作戦、につづき、
硫黄島、沖縄攻略作戦に参加しました。

沖縄では特攻隊による攻撃を受けて死傷者を出しています。


戦後、「ネバダ」はビキニ環礁における原爆実験(クロスロード作戦)
標的艦に供用されることが決定しました。

「ネバダ」は同作戦中の、空中投下実験における目標とされ、
視認性を高めるために全体を赤く塗装されて実験に投入されましたが、
2回にわたる核爆発(エイブル実験/ベーカー実験)を生き残ったため、
結局真珠湾へ戻って、8月29日に静かに退役しました。


■ アリゾナ



「アリゾナ」では、7時55分ごろ空襲警報が発令されました。

「加賀」と「飛龍」隊のそれぞれ5機ずつ、
計10機の九七式艦攻が「アリゾナ」に襲いかかります。

「加賀」搭載機は高度3,000mから爆撃を行い、
その直後、「飛龍」の爆撃機が艦首部を攻撃しました。

爆弾は命中4発、ニアミス3発で、うち1発は砲塔の表面で跳ね返り、
甲板を貫通して艦長用食料庫で爆発し、小火を引き起こし、
もう1発はメインマストの横で命中し、対魚雷隔壁の付近で爆発、
次の爆弾は左舷後部の5インチAA砲付近に命中しました。

【弾倉爆発】

最後の爆弾は08:06にII砲塔付近で命中し、
艦の前部にある弾倉付近の装甲甲板を貫通したと言われます。

命中後約7秒で弾倉は大爆発を起こし、前部内部構造の大部分が破壊されて、
前部砲塔とコニングタワーは下方に、マストと煙突は前方に倒れ、
艦体は事実上真っ二つになりました。

その爆風は凄まじく、横付けされていた修理船「ヴェスタル」は
火災を起こしていましたがこの風で消し止められたほどでした。



この爆発によって当時の乗組員1,512人のうち1,177人が死亡、
真珠湾攻撃時の犠牲者の約半数を占める数です。

「アリゾナ」爆発の原因は、艦体がほぼ壊滅状態で沈んだため、
検証のしようがなく、いまだに議論されているようです。

【アリゾナ・メモリアル】



よく知られているように、「アリゾナ」は生きた墓として
現在も沈没時の姿のまま真珠湾でメモリアルとなっています。

ここでちょっと耳寄りな情報を。

「アリゾナ」の真珠湾攻撃の生存者は、希望すれば、自分の死後、
遺灰を戦友と一緒に艦内に納める権利を有しており、
また、「アリゾナ」に勤務したことがある退役軍人は、
その遺灰を艦の上から海中に撒くことを許されています。

ちなみに沈没した艦体からはいまだに1日に2リットル以上の油が
港に漏れ続けているため、海軍は、港のさらなる環境悪化を避けるために、
油の継続的な漏れを軽減する非侵入型の手段を検討しているところです。
(ロボットに作業させるのだと思われ)

これを知って写真を見ると、確かに記念館の上の海面に
油が作り出している膜のようなものが確認できますね。


「アリゾナ」は永久に就役しない(できない)艦ですが、
いまだに米海軍の所有権下にあり、永久的に、
現役で就役中の海軍の艦艇と同様、合衆国旗を掲揚する権利を保持します。

■ パールハーバーの「最後の犠牲者」?



このコーナーには、
The Last Victims of Pearl Harbor?
として、二人の軍人の名前と写真が掲げられています。

ハズバンド・エドワード・キンメル提督、
そしてウィリアム・キャンプベル・ショート将軍

どう「犠牲者」なのかと言いますと。

真珠湾攻撃について、多くは誰が責任を負うべきかを知りたがった。

海軍と陸軍の司令官だったキンメルとショートは、
議会の調査によって、非難を受け、降格され、引退を余儀なくされる。

今日、歴史家は、キンメルとショートが攻撃への備えがなかったのか、
それとも(真珠湾攻撃そのものが)意図的に仕組まれていて、
適切に準備できるような情報が得られなかったのか、意見が分かれている。

戦後、海軍上層部は、その指揮下における施設や装備が
非常に限られていたことを考えると、キンメルは

できる限りのことをした有能な指揮官であったと主張した。

チェスター・ニミッツ提督はキンメルを擁護し、

もしキンメルが艦隊を出撃させて日本軍を捜索する指令を出していたら、
空母6隻とその護衛艦38隻からなる聯合艦隊によって、
おそらく米艦隊は壊滅させられていたかもしれない
(だから彼の判断は
リスクマネージメントの点からベストではないがベターだった)と述べた。

実際、パールハーバーでは、被害こそ大きかったものの、
すぐに活動を再開し、わずか数週間でほぼ平常に機能を取り戻している。

1995年になって、議会は、真珠湾攻撃の責任を負うべきは

この二人だけにあらず、他の高級将校も同じである、と結論づけたが、
キンメルとショートの名誉が挽回されることはなかった。

1999年、議会はついに二人の無罪を証明する決議を行い、
post humously(死後)階級を復活させようというところまでいったが、
当時の大統領ビル・クリントンは署名を拒否。

ジョージ・ブッシュも、それ以降の歴代大統領も
悉く署名を拒んでいるため、

この問題は未解決のままである。

さて、なぜでしょうか。(意味深)


続く。




パールハーバーへの道〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-10 | 歴史

ミシガン州マスキーゴンにある潜水艦「シルバーサイズ」をメインとした
潜水艦博物館の室内展示は、日米開戦のきっかけとして
真珠湾攻撃について大変こだわりを持っているように見えます。



館内はこのようなパネルによる通路に沿って歩いていくわけですが、
潜水艦博物館という割に手前の真珠湾攻撃の写真が大きすぎ。


天井からはさらに零式艦上戦闘機の模型が吊り下げられ、
この角度で見るとより一層迫力ある展示になるというわけです。たぶん。


天井から吊られているのは零戦のみ。
つまり、真珠湾攻撃のパネルに効果を与えるための展示なのです。



何というか、真珠湾攻撃に全振りしている感じです。
それにしてもこの写真、本物なんでしょうか。

上空の航空機、脚が出ているということはこれは米軍のだと思いますが、
遠方にいるのに妙にはっきりしすぎてないか?


前回、当博物館の真珠湾攻撃展示を解説したのですが、
ここでまたもや、

「The Road to Pearl Harbor」
(パールハーバーへの道)

とタイトルされた気合の入ったパネルが現れました。
そこまで気合を入れて真珠湾攻撃について語りたい何かが
この博物館にはあったということなのでしょう。

●1931−1940

日本は満州に侵攻し、中国での影響力を
万里の長城と沿岸沿いに拡大し続けていた。

日本も中国も互いに宣戦布告をしなかったため、
米国の中立条約(US Neutrality Acts)の下で
両国との貿易停止を余儀なくされていたルーズベルトは、
貿易を継続することを許されるようになった。

日本は国内で必要な鉄くずとオイルの80%を米国からの輸入に頼っていた。
中国の輸入品にはやがて武器が含まれるようになる。

●1940年1月

日本海軍の山本五十六提督は、アメリカが日本に対する石油の供給を
遮断
した場合に備えて、真珠湾攻撃を模索し始めた。

主なターゲットは空母と戦艦であった。

その数日後、アメリカ大使はペルー大使館を通じてこれを発見したが、
ワシントンはその報告に対し、不可能な作戦であるとして取り合わなかった。


■ 真珠湾攻撃についてー
実は米大使がペルー大使から事前に聞いていた説

世の中には、開戦に至るまで、日本が経済的に追い込まれていったとされる
ABCD包囲網(当時の日本人は一般国民でもこの言葉を知っていた)すら、
日本が戦争を起こす動機ではなかったとする説もあるくらいです。

ましてやアメリカ側の解説にこの辺りへの言及がないのは当然です。

しかし、その割に、赤字の部分を史実として言い切っているのが、
何ともバランスが悪いとわたしは思ってしまうわけです。

この部分こそ、陰謀論がまつわる真偽不確かな話だからです。

このペルー大使館云々の噂について解説しておきましょう。
噂は噂らしく、3通りの説があります。


【噂 その1】

当時駐日アメリカ大使館員だったフランク・シューラーの追想です。
ペルーの特命全権公使リカルド・シュライバーが、
駐日アメリカ大使であったジョセフ・グルーに、

「日本が真珠湾を攻撃する計画をしているらしい。
このことを至急アメリカ政府に通報してほしい」


と伝えたのですが、グルー大使は

「あなたは、米国と世界に偉大な貢献をされました。
すぐに国務省に電報を打つことにしましょう」


と感極まった口調で言ったものの、
本国に通知をするのを意図的に避けたという噂です。

だとしたら一体何の目的で?


ジョセフ・グルー駐日大使
日本贔屓だったという噂もあり(←この辺りが噂の元かも)

【噂 その2】

コーデル・ハル国務長官

ハル国務長官の回顧録によるとこうなります。

グルー大使が東京から1月27日、次のように打電してきた。

『日米の間で事が生じた際、真珠湾に大規模な奇襲攻撃をかけることが、
日本の軍部によって計画されている』


と云う話を、駐日ペルー公使が、
日本人を含む多数の筋から聞いたと言っている”

また、この時ペルー公使は、グルー大使に対して、


『自分としては日本側の
このような計画は奇想天外だと思うが、
たくさんの筋から聞いたのでお伝えしようと思ったのだ』

と告げたらしい。

そこで国務省としては翌日、この公電の内容を陸軍省と海軍省に伝達した。

【噂 その3】

駐日アメリカ大使館員、一等書記官クロッカーが、シュライバーから
「一日本人(ペルー公使館の日本人通訳)を含む複数の情報」
として聞いた話。

「万一日本がアメリカと紛争になった場合、日本は
全軍事力を使用して真珠湾に大攻撃を加える意図を持つ」


それを伝えられたグルー大使が電報を打ち、その内容は
アメリカ海軍にも伝えられたが、海軍作戦部長のハロルド・スターク
太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメルに対して

「海軍情報部としてはこの
流言は信じられないと考える」
「予測できる将来に、こうした行動が計画されているとは
考えられない

という内容の電報を2月1日付で送った。

噂;以上


「ワシントンはそれを実現不可能として取り合わなかった」

という説に一番近いのは「噂その3」でしょうか。
「その1」の噂は、グルー大使が本国に打電しているのが本当なら、
全く間違っていたことになります。

「その2」の噂は、ハルの回想録の話によると、
グルー大使は国務省にその話を電報で伝えていたことになりますが、
ハルはその話を「取り合わなかったのかどうか」については書いていません。

さて、噂はともかく、展示の続きです。

●1940年5月

通常はサンディエゴに駐留している太平洋艦隊は
ハワイのパールハーバーに恒久的に移転することになる

●1940年7月5日

アメリカは日本への武器などにつながる機械、そして
交換部品の全ての輸出を停止したが、
石油・鉄鋼は停止しなかった

●1940年9月27日

日本全権代表がベルリンでの会議に参加し、
ナチスドイツ、イタリア、日本による枢軸国を正式に確立
(三国同盟)

●1940年11月

ルーズベルトは、先に攻撃されない限り、
アメリカは戦争しないと公約し、前例のない3期目の大統領に就任


「あなた方の息子たちを戦場に送らない」

というこの時のルーズベルトの公約があったからこそ、
彼は「日本に先に撃たせた」とする説がいまだに存在します。

●1941年4月

日本側の暗証番号が解読され、全ての通信が傍受される

● 1941年6月24日

アメリカが日本に対し石油と鉄鋼の禁輸措置をとる

●1941年9月24日


日本の諜報機関からのメッセージが傍受される
内容は真珠湾のすべての艦船の係留場所を示すグリッドの要求だった

そのことを真珠湾関係者の誰も伝えられていない


ということは、やっぱりアメリカは真珠湾攻撃のことを
少なくとも3ヶ月前に知っていたことになりますよね。
もちろんこの報告はルーズベルトにも上がっていたに違いないのです。

ここまで知っていながら、なぜ奇襲を許したのか。

●1941年11月

日本は外交団をアメリカに派遣し、平和的解決策を模索する
どちらの側も立場を譲ることはせず、交渉は決裂


いわゆる「最後通牒」ハルノートのときですね。
これを受けて、日本は開戦やむなしと判断し、
真珠湾への道が開かれることになります。

●1941年11月26日

423機の航空機と護衛部隊を乗せた6隻の航空母艦が
真珠湾に向けて日本を出発

● 1941年11月27日

真珠湾の艦隊司令官キンメルとショートは、和平交渉が再開されない限り、
日本軍はフィリピン、タイ、マレー半島、ボルネオで
可能な攻撃を発動するかもしれないという
最初の警告を受ける

キンメル提督とショートは警戒体制をとり、弾薬装填、人員配置、
対潜網を張って真珠湾の入口を封鎖した

あれ・・・?

キンメルもショートも知っていて、ここまで準備していたのか。
しかもこれ、攻撃の10日前ですよね?
なんで奇襲攻撃を成功させてしまったんだろう。

というか、恥ずかしながらわたし、このことを初めて知りましたが・・。


●1941年11月28日

航空母艦USS「エンタープライズ」は、艦載機を引き渡すために
ウェーク島に向けて真珠湾を出発した


「エンタープライズ」と護衛艦艇は12月6日に帰港する予定であった

これって、深読みするならば、真珠湾攻撃を知っていた「誰か」が、
被害を空母に及ばせないように真珠湾から「逃した」
っていうことかもしれないと思ったり。(とする説も実在しますね)

これだと、真珠湾に残された艦艇群は、アメリカからある意味
デコイ扱いされていたということになります。

これは当事者たちの心情としてはとても受け入れ難い仮定かもしれません。



●1941年12月3日

真珠湾で第2の戦争メッセージが受信された
アメリカとイギリスの領土にいるすべての領事館が、

暗号を破棄し、
文書を燃やしていた(らしい)

開戦準備であるとの警告


●1941年12月

航空母艦「レキシントン」は真珠湾を出港し、ミッドウェイに向かった

12月6日、米国諜報機関は日本からの14パートからなるメッセージを
解読することに成功している

それによると、南太平洋のどこかに攻撃が迫っていることが示されていた

「レキシントン」とエスコートは巨大な嵐に足止めをくらい、
パールハーバーの200マイル真西にいて到着が遅れそうになっていた


パネル左側の

「知っていますか?」

というところには、何とこんなことが書かれています。

1940年以前、太平洋艦隊は毎年夏真珠湾で訓練を行なっていました。
1932年と1938年の2回、真珠湾はこの模擬演習として
アメリカ軍に「攻撃」されていたことになります。

どちらの演習も、真珠湾の艦隊にとっては完全な「奇襲」となり、
攻撃は完全な成功を収めたとされます。

そして1932年の演習は、「本物」と全く同じとなる
日曜日の明け方に行われていたのでした。


知っていますか?いや、わたしは知りませんでした。

つまりこれによると、模擬攻撃が2回成功していたのに関わらず、
直後の同じような日本の攻撃を許してしまった
ということでよろしいか。

って、何のための模擬演習やね〜ん!

こういうのを見ると、アメリカはいまだに(この博物館もある意味そう)
日本の奇襲攻撃ガー!という立場に立っていますが、
攻撃があるかもしれないと思いながら何もしてなかったくせに、
被害者ぶりっこも大概にせいよ、とついツッコんでしまうのよね。




ツッコむといえば。

ちょっと皆さん、見てくださいよ。
アメリカ人にはこれが真珠湾攻撃の演習に見えるんですってよー。

これってあれですよね。

戦後、あまりのリアルさにてっきり実写だと思われてフィルムを没収された
映画「ハワイ・マレー沖海戦」の撮影セットじゃないの。

いくら慎重に行われるべき大作戦であったとしてもですよ。

本来紙の上の図演で済むところ、こんなリアルに真珠湾を再現し、
艦船の模型まで縮尺をきちんとしていたといまだに信じてるのね。

日本人、どれだけ几帳面だと買い被られているんだろうか。

そういえば、この勘違いをアメリカではいまだに誰も訂正しないらしく、
マイケル・ベイの怪作「パールハーバー」でも、
同じようなことをしていた怪しい日本人軍団がいたような気がするな。

確かプールの入り口に巨大な鳥居が立っているシュールなもので、
あのシーンには大笑いさせていただいた記憶があります。

今回もわたしはついこれを見てふふっとなってしまったのでした。

歴史にはある意味完全な真実というものはない、
ということを思い知らされる一枚の写真です。


続く。





日米開戦とアメリカ潜水艦隊〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-08 | 歴史

ミシガン州マスキーゴンにあるシルバーサイズ潜水艦博物館。
まずは潜水艦「シルバーサイズ」ではなく、前庭に艦橋のある「ドラム」、
「シルバーサイズ」の隣の沿岸警備隊のカッター、そしてなぜか
入口を入るとすぐに現れた触雷潜水艦についての話になりましたが、
これはまあいわゆる前座的な潜水艦の世界への導入とお考えください。

沿岸警備隊のカッター「マクレーン」についても、ここにある理由として
アラスカで日本軍の呂32号潜水艦を撃沈したとされるから、
ということだと理解することにしましょう。

もっとも、前回も説明したように、これはアメリカ側の誤認で、
「マクレーン」が撃沈したのは呂32ではなく、それどころか、
本当に撃沈したという証拠もないということがわかったわけですが。

潜水艦博物館的にはそうであってはあまり好ましくないので、
訂正された情報を頑なに受け入れず、展示のアップデートもしていない、
ということが重々理解できたところで、次に進みます。



■真珠湾攻撃〜全ての始まり




「シルバーサイズ」と潜水艦隊を語るために、まずこの博物館は、
真珠湾攻撃が全ての始まりだったとする解釈のもとに、
(それまでの両国の関係、歴史的経緯などに対する考察はスッパリとなしで)
アメリカの潜水艦隊が、第二次世界大戦にどのようにその力を求められ、
最終的にはアメリカの勝利に寄与したか、という流れを構成しています。

日本人であるわたしがアメリカの軍事博物館に立って、
諦めにも似た無力感に苛まれるのが、こういうアメリカの意志を見る時です。

なぜならわたしは、戦争という国益のぶつかりあいにおいて、
歴史を刻むのは勝者であり、そのことは神の目から見るところの
「善悪」とは何の関係もない、という考え方に立っているからです。

そもそも戦争が始まるに至る経緯について、
よほど中立を意識する、スミソニアン博物館のようなところでもない限り、
アメリカ側の正義に立ってしか語られることはないというのが
わたしがこれまで見てきたアメリカの軍事博物館の基本的姿勢であります。

それでも毎回こうやって地方の軍事博物館を訪れるたび、
もしかしたらアメリカという大国のどこかに、
戦争という普遍的なものが、ただパトリオティックな立場からではなく
科学的に論じられている場所があるのではないかと
心のどこかで期待している自分がいるのです・・・・

・・と言うようなドリーマー的ポエムはそこそこにして。

ここシルバーサイズ潜水艦博物館の説明は、先ほども言いましたように、
真珠湾攻撃から全てが始まったとされ、その解説に力を入れています。




日本帝国海軍の機動部隊がその日どうやって真珠湾を攻撃したか。
このパネルでは、空母から発進した航空隊の航路を図解で示しています。

「奇襲攻撃は午前7時48分に始まりました。
当時、日本の代表団はワシントンで
介入しないことを交渉していました。

どうやらそれは我々の軍隊の不意を突くためだったのです。
策略はうまく働きました。


353機の日本軍の戦闘機、艦攻、艦爆機が真珠湾に降下し、
それが午前9時30分に終了したとき、2402人のアメリカ人が殺害され、
8隻の戦艦が沈没又は深刻な損傷を受け、
数百機の航空機が損傷又は破壊されました。」



開戦の際の通知が、現地大使館の不手際により、攻撃より後になり、
その結果意図せぬ国際法違反になったこと。

そしてその前段階で、日本に最後通牒として突きつけられたハルノート。

これらは歴史的にも検証されていることであるにもかかわらず、
ここではそういった日本側の事情や言い訳は全く斟酌されることなく、
とにかく日本が悪いという姿勢を清々しいくらいきっぱり貫いています。

「介入しないことを交渉していた」とおっしゃっていますが、
ハルノートという名の事実上の最後通牒を、アメリカが突きつけてきたのは
まさにそのワシントンではなかったでしたっけ。

ま、いいんですけどね。
ミシガンの田舎で歴史的な中立を叫ぶ気はわたしにも全くありません。



とはいえ、この部分の展示、日本側が真珠湾攻撃を行った時の経緯は、
非常にわかりやすく、段階的にまとめられており感心しました。

ある意味、今まで見てきた真珠湾攻撃の資料の中で
一番わかりやすく時系列が語られているような気がします。



まず、下の地図からご覧ください。

日本列島とハワイが線で繋がれ、攻撃までの動きが
番号に従って説明されています。

1、山本五十六提督が率いる攻撃の秘密の計画は、
41年初頭から海軍の艦隊本部で開始されました。

目標は迅速な日本の勝利であり、アメリカの艦隊が、オランダ領東インドと
マレー半島の日本の征服に干渉するのを防ぐのが目的です。

日本軍は、主要な米艦隊のユニットを破壊することによって、
彼らの海軍力を高め、侵攻を強化する時間を手に入れんとしました。

2、11月22日までに攻撃隊は日本の北、千島列島の単冠湾に集まりました。

3、南雲忠一提督が指揮を執る機動部隊は、11月26日に出発し、
連合国からの探知を回避するために北ルートをたどりました。

艦隊には「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」
の六隻の空母が参加していました。


4、機動部隊は12月3日、油槽船団から洋上補給を受けました。

5、艦隊は、12月7日未明にオアフ島の北約200マイルに到着し、
午前8時に
攻撃を開始しました。

2400人以上の人員を殺害し、8隻の戦艦を沈没又は損傷せしめ、
数百機の航空機を使用不可能にしたのち、午後3時までに離脱しました。

この攻撃はアメリカ海軍と真珠湾に破壊的な大混乱をもたらしました。

6、12月16日、空母「蒼龍」と「飛龍」が帰還した艦隊から分かれ、
ウェーク島の攻撃に加わりました。

7、残りの艦隊は12月23日に日本に帰着しました。

8、ワシントンにいた日本の代表団は勾留されましたが、
1942年に日本に帰国を許され釈放されました。






1、艦隊は12月7日未明にオアフ島の北約200マイルに到着し、
午前6時に攻撃を開始しました。
日本の艦隊本部から無線で送信された命令は、

「ニイタカヤマノボレ」

408機の航空機が二波の攻撃によって熱帯の朝の空に唸りを上げました。

2、日本の潜水艦は、オアフに「ミゼット・サブ」を運んでいました。
特殊潜航艇のこと)
午前1時、それらは真珠湾に潜航するために発進を行います。

最初の潜航艇は午前3時42分に
駆逐艦USS「コンドア」に発見され、
6時37分に撃沈が確認されました。

これが太平洋戦争におけるアメリカの最初の「1発」となりました。

しかしこの出来事にもかかわらず、アメリカ側で
警戒警報は発令されず、
アメリカ軍もまた全くこれらに対応することをしなかったため、
迎撃も行われず、日本軍の波状攻撃を易々と許したのです。

3、183機の最初の攻撃波は、午前7時48分に真珠湾に到着し、
攻撃という名の破壊を開始しました。
この攻撃で艦爆と艦攻がアメリカの戦艦を沈めました。

4、さらに多くの水平爆撃機と急降下爆撃機を含む
第二波の171機が、午前8時50分に到着しました。

この時までに第一陣の攻撃隊は艦隊に戻っていました。

5、空襲の総指揮官である
淵田美津雄少佐は、
午前11時に偵察飛行を開始し、戦果を確認してから
午前1時に艦隊に戻って、報告を行いました。

6、淵田は、艦隊をすぐに帰還させるのが最善であると決定した
南雲忠一提督と、第三波攻撃について話し合いました。

最初の2回にわたる攻撃は大きな犠牲を私いました。

日本軍は真珠湾の攻撃そのものには成功したものの、
最もターゲットとすべきアメリカの
三隻の空母の位置がわからず
さらに天候は悪化しつつあり、今やアメリカ軍の防衛と警戒体制は
最初と違いより緊密なものへとなってきています。

さらに、第三波の攻撃は100機以上の飛行機に燃料を補給する必要があり、
それが日没後に行われなければならなくなっていました。

日本軍の機動部隊は、確実な夜間の作戦手順を開発しているべきでした。

もし第3回目の攻撃が行われていたら、それは
アメリカ軍の潜水艦をノックアウトし、燃料補給中のそれを炎上させ、
さらに造船所を無力化させた可能性がありましたが、
それには日本側のリスクはあまりに大きく、

数十機の航空機を失うことになり、南雲はそれを懸念したのでした。




■ そしてアメリカ潜水艦隊は


そして、この「サドンリー・アット・ウォー」を受けて、
潜水艦隊がどうなっていったか、と話が続くわけです。

「1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃は、
アメリカを第二次世界大戦に突入させました。

当時アメリカ海軍の太平洋水上艦隊は非常に弱体化していたため、
55隻の潜水艦は日本の領土内で活動できる
唯一の攻撃部隊として
就役を余儀なくされたのでした」

アメリカが随分と受け身で一方的な被害者として語られていますね。

それはともかく、水上部隊が弱体化していたというのは、
ワシントン軍縮条約の結果を受けて、ということでよろしいか。

というわけで、戦力の重きが潜水艦に置かれていったということなのですが、
ここでアメリカ海軍の潜水艦戦術についての説明があります。

やっぱりここは潜水艦博物館ですのでね。


【アメリカ軍の潜水艦技術】

Torpedo Direction Computer(TDC)
は、1940年から41年にかけて開発されていました。

そのメカニズムによって、移動する潜水艦から移動するターゲットに
魚雷を命中させるデータが魚雷の誘導システムに搭載されるようになります。

これは、必要なデータを入力した瞬間に魚雷を発射できるため、
潜水艦の戦術を簡略化することができました。


Target Bearing Transmitter(TBT)
は、
オペレーターが夜間の消灯時にブリッジからターゲットのベアリングを感知し
乗員に送信することができました。
このデータを使用して彼らはTDCを設定し、魚雷を発射するのです。


暗視潜望鏡(The Night Vision Periscope)
は、1942年に使用されるようになった、強力で非常に人気のある
目標補足装置であり、さらに大幅に改良されたものは
1944年から使用されるようになりました。




第二次世界大戦の太平洋戦線での1941年から2年までの状況です。
番号のついたところで日米の戦闘が行われています。

1、真珠湾

日本の空爆では潜水艦基地は攻撃を免れ
港の4隻の潜水艦は無傷のままでした。

当時、フィリピンのペアトに27隻の潜水艦、カビテに28隻の潜水艦がおり、
平時のパトロールと偵察の訓練を受けていましたが、
多くは戦時中の攻撃などの戦術に移行することができませんでした。
このため、135名の潜水艦長のうち、40名が交代
させられています。

2、ジャワ沖

1942年2月、日本軍はオランダ領東インドを占領しました。
総称して、ジャワ・キャンペーン(ジャワ沖海戦)と言われる

4回の海戦の過程で、日本は南西太平洋の広大な資源を確保し、
シンガポールからスマトラとジャワに至り、ニューギニアの北岸を越えて、
ニューブリテンのラバウルまで広がる防御線を確立したのでした。

3、珊瑚海

1942年5月4日から8日までの珊瑚海の戦いは、
日本の南方への侵攻の勢いを止めました。

これは航空機によって戦われた最初の海戦となり、しかも
艦船同士は視覚的にすら接触することなく終わりました。

日本軍の輸送船団と航空機の多大なる損害は、
アメリカのミッドウェイでの勝利への道を準備することになります。

4、ダーウィン


チャールズ・ロックウッド少将は、1942年5月、
アメリカ軍南西大西洋潜水艦隊の指揮を執り、
魚雷の技術的問題の解決に取り組みを始め、
潜水艦隊をますます強靭にするための戦術的革新を行いました。




ちなみにロックウッド少将ですが、やる気がないと思われる潜水艦長を
闘志に溢れた者に躊躇いなく入れ替えて人事刷新を行うだけでなく、
乗員の待遇改善も進め、任務から帰還した潜水艦乗りたちに
充実した休暇を提供するため、ロイヤル・ハワイアンホテルを開放し、
航海中の食事を豪華にし、生野菜やアイスクリームを提供させました。

アイスクリーム製造機が故障した潜水艦は出撃を禁じたという話もあり。

実際、アイスクリームはアメリカ軍人にとって
日本人にとっての白いコメ同様「やる気の源」だったからねえ・・・。


5、ミッドウェイ

ミッドウェイ海戦は1942年6月4日から7日に起こりました。
ここで我々の海軍は大日本帝国海軍の攻撃を打ち負かし、
日本の航空隊に取り返しのつかない損害を与えました。

この時から日本は守勢に回らざるを得なくなります。

6、ガダルカナル

42年8月から43年2月までのガダルカナルキャンペーン中の戦闘は、
連合軍による最初の攻撃であり、日本の最初の陸上戦の敗北でした。

日本は戦略基地となるヘンダーソン飛行場を奪還できませんでした。




そして、1941年8月26日、カリフォルニアのメア・アイランドで
潜水艦「シルバーサイズ」は就役を行いました。

写真は進水式で海上に滑り出した直後の「シルバーサイズ」です。



続く。


ピッツバーグ・グルメ〜怒涛の悪評価ジャパニーズレストラン

2022-07-29 | 歴史

ピッツバーグに到着してからあっという間に二週間が経ちました。
Airbnbの部屋を住みやすくするための立ち上げもすみ、
唯一の心配だった、ガレージがないという問題についても、
駐車禁止の時間と場所を把握することによって、路上駐車に慣れてきました。

さて、今日は到着以来ここピッツバーグで訪れたレストランの中から、
アジア系と日本料理をご紹介しようと思います。


バッファローからピッツバーグに到着した夜は、
前回ピッツバーグで最後の夜に行って感激した高級タイ料理、
「プサディーズ・ガーデン」でMKとの再会を祝いました。


ここのタイカレーはいつ食べても感動的に美味です。
そしてこのパパイヤとスティッキーライスのココナッツ和えは最高。


去年はCOVID19のせいでオープンしていなかったお店です。
カジュアルなベトナム料理の「ツーシスターズ」。

お店の名前通り、二人の姉妹が経営しているレストランで、
オーナーらしい姉妹はキッチンでなくフロアとレジで頑張っています。

今回行ってみると、お店は大変繁盛しているように見えましたが、
壁には「人手不足でサービスが十分にできずすみません」
みたいなことを書いた張り紙があり、実際にもオーナー姉妹が
一人で運んで片付けてレジもしてオーダーも取るとキリキリ舞いしていました。


そんな中でも以前から品質を落とすことなく、
美味しいベトナム料理が提供されていたのは嬉しいことです。

前菜がわりにまず生春巻きをひとつ。



ここでは3人が3人ともいつも同じものを注文します。
それがこのチキンフォー。
自由にトッピングする野菜もたっぷりで、見かけより量が多く、
わたしなど全部食べ切ることができないほどです。

味は少し物足りないかなくらいのあっさりで、
その透明なスープもその気になれば全部完飲できるレベル。

コストパフォーマンスの点でも高評価を差し上げたい良店です。


今住んでいる通り沿いにあるジャパニーズレストラン「UMAMI」。

「旨味」という日本語がアメリカで市民権を得たのは、
ネットの発達によるところが大きいのではないかと思います。

西海岸、シリコンバレーに「UMAMIバーガー」が登場し、
その言葉選びに驚いたのが4〜5年前だったでしょうか。

わたしたちがアメリカに住んでいた頃には、日本食を謳うストランでも、
出汁を取っていない(つまりお湯に味噌を溶かしただけの)味噌汁を
平気で出してくることがあり、もしかしたら日本人以外には
昆布だしの旨味は味として認知されていないのか?と思ったものですが、
今では、たとえ日本人など見たことがないような地域の人でも、
ネットで本物の日本食の調理について簡単に知ることができます。

まあ問題はいくら知識があっても味わうことはできない、つまり
本物の味を知ることができないという点については
ネット以前と何も変わっていないということですが。

「UMAMI」という店の名前から受ける印象は悪くありません。
なまじ日本人がやっているというだけで、別に美味しくもない日本食を
これぞ本物、とばかりに海外で広めている微妙な店よりは、
ずっと日本の食について理解が深そうな予感を抱かせます。

そんな「UMAMI」については、MKがすでに友人と行った事があり、
評価については「まあまあ」という事だったので、
特に大きな期待もせず軽い気持ちで一度食べに行ってみました。



お水のグラスがパンダなのはいかがなものかと少し思いますが、
枝豆にはちゃんと塩が振ってあるし、味噌汁も出汁は取れています。
具も豆腐にわかめにネギと実にオーソドックス。


鉄火丼。
悲しいのは、ちゃんと紫蘇を使ってくれているのはいいとして、
それがほとんど黄色い色をしていた(つまり枯れかけ)ていたことです。

それから、アメリカのきゅうりは日本のと種が違うため、
日本の胡瓜の1.5倍太く、胴体にくびれもイボイボも全くありません。


これはわたしが頼んだ海鮮丼。
問題のシソは刻まれていて、生のうずら卵、トビコがあしらわれています。
ご飯はちゃんとすし飯の味がしました。

これ以外に、ここではお好み焼きも食べる事ができ、
MKいわく「まあまあ」ということです。

アメリカ人にも美味しく手頃なジャパニーズと認識されているようで、
この二日後、MKが友達と夕ご飯に行ったらまたここになったそうです。


日本料理、特に寿司レストランは、アメリカ人には少し高級で、
たとえばデートに選ぶ店みたいな位置づけの店が多い気がします。

値段が高いのは、生魚を扱うことから仕方がない部分がありますが、
いわゆるインチキジャパニーズの経営者は、
高い値段を取るためにろくに寿司のことを知らないで、
聞き齧り、見かじりの偽寿司を提供しているところがほとんどです。

もちろん前述のように日本人が経営しているからといって
必ず美味しいとは限りません。
日本にある店が全て美味しいわけでないのと同じです。

しかし今回遭遇したジャパニーズレストランほど、値段だけは一流で
中身はとてもじゃないけど日本からは味も中身も、程遠い、
残念なレストランはありません。

しかし、ブログのネタとしてはもう最高の逸材だったので、
早速ここで、ネットの低評価(太字)と共にご紹介していきます。ネタだけに。


昨年の夏に行った、SOBAというレストランに併設されているUMI。
UMIはピッツバーグでも数少ない高級和食の店と自称しています。

SOBAは決して悪くなかった(特に良くもなかったけど)ので、
高いのは分かっていましたが、家族で一度は行ってみようとなり、
MKになかなか予約が取れない中取ってもらい、出撃しました。

このレストランに入るのはとても難しい。
いつも予約でいっぱいで、一流レストランのような錯覚を覚えるからだ。
しかし、金曜日の夜、私たちがいた2時間の間、
多くの空きテーブルがあり、決して忙しいわけではありませんでした!!
要約すると、この経験はすべて気取った見せかけのように感じられました。


この人は「忙しく見せかけて高級なふりをしている」としていますが、
わたしが実際に行ってみたところ、要するにテーブルはあっても、
作る人がいないのだと思われました。

延々と続く階段を三階まで上っていくと、ドアを開けた途端、そこに
寿司カウンター(決して誰も座らない)が出現します。

あれっと思ったのは、そこにいた職人からなんの挨拶もないことでした。
見かけだけは日本人風のアジア系職人は、日本語が喋れないらしく、
「イラッシャイマセ」(ニューヨークの一風堂では金髪の店員にも言わせる)
どころか、助手らしい黒人女性と無言でこちらを眺めるのみ。

実はわたしはこの時点でかなり失望していました。



写真の右手は掘り炬燵風のテーブルですが、土足で利用します。
「掘り」の部分の掃除はどうしているんだろうとか、
土足で出入りするその座る部分はつまり地面に座っていることになるのでは、
とか、掘り炬燵ゾーンにサービスする従業員は、日本仕草のつもりか、
床に指や膝をついているけど、ここは(略)とか、色々と考えさせられました。

「書」のつもりで壁に貼られた「花鳥風月」は、日本なら
小学生高学年の部なら学校で優等賞をもらえる程度のレベルの達筆です。
っていうか、額にするのに、こんな練習用の半紙選ばないっつの。

心あるアメリカ人もこんなことをおっしゃっておられる。

私たちは日本のミニマリズムが大好きなのですが、
このスペースは完全に的外れで、アップデートが必要です。
照明が貧弱で、頭上のスポットライトは何も強調していません。



照明が当たっていないしょぼい滝、
(画面の右側にある水が流れる石段のようなもののこと)



効果のない照明に紛れてしまっている二つの壁画、



テーブルはあまり目立たない蛍光灯のある勝手口を向いていて、
(わたしが座ったのはまさにその席)
拭いたばかりでびしょびしょに濡れたテーブルに座らされたため、
さらにずさんな第一印象になりました。


日本のミニマリズムが好きな人にとってはインチキ以外の何物でもない、
これは確かにその通りですが、まあ日本人に言わせると、
この程度のインチキさはまだ許容範囲というものでしょう。

ここが料金の高い高級レストランを謳っていなければの話ですが。

ウェイトレスはなぜか全員がアフリカ系の女性でした。
カウンター内の助手もアフリカ系でしたが、ここは西海岸と違って
日本人風味のアジア系のウェイトレスは調達しにくいのかもしれません。

しかし、彼女のサービスはフレンドリーで丁寧で、
説明もちゃんとしており、悪いものではありませんでした。

問題は料理の内容そのものです。
って、レストランでこれに問題があればその時点でもうダメなんですが。

ここはピッツバーグで最高の日本食レストランとして宣伝されています。
しかし、先週の金曜日の夜、私たちの体験はひどいものでした。

料理は最悪で、満足感がなく、値段も高く、せいぜい平均的なものでした!!!

このレストランはおまかせの7コースか11コースしかなく、
ニューヨークのNobuより高いし、とてもがっかりしました。


ふざけたことに、ここは夕食しかやっておらず、
しかもチョイスできるのは「OMAKASE」のみ。
オーダーを聞いてその都度一皿作る、ということをできる料理人が
おそらくはいないのだと後からわたしは確信しました。

この人が言っている「7コース」「11コース」は皿数のことです。



こんなこともあろうかと、わたしはいつになく熱心に
皿の写真を全部撮ってきました。
写真がどう加工しても暗いのは、店内の異様な暗さのせいです。

これがその一皿目なのですが、まず、上に載っているものはともかく、
それが白くて丸い洋皿に乗ってきたのに猛烈な違和感を覚えました。

高級日本料理を自称するなら、器にもう少し気を使わないか?
こんな皿で出された日には、海原雄山でなくとも味見前にブチギレ確実だ。

皿の上は、なんか忘れましたが魚の身をツミレにしたものに、
甘いソースがかかっているもので、特に感銘も受けず。

いや、でも、最初の一皿くらいはね?前菜だし。



ところが2皿目、魚の切り身に同じようなソースをかけたものが
全く同じお皿で出てきて、あれっと思いました。

ま、まあ、これもまだ前菜ということなのかも。

写真は拡大していますが、切り身の大きさは寿司に乗っているのと同じくらい。



三皿目、今度はサワラの味噌焼き的なものが出てきましたが、
これにかかっているソースもほとんど同じもの。

ここで嫌な予感が萌してきました。

まさかとは思うけど、ずっとこんな感じなの?
お皿も白い丸皿のままだし・・・。

さて、この辺でアメリカ人の意見を聞いてみましょう。

「7品とも魚が同じに見えました。
真っ白な皿に紙のように薄い切り身、野菜は一つもありません。
海草のサラダ、緑の野菜のスチーム、野菜の天ぷらはどうでしょうか?」

客にメニューの提案をされてるし。

「シェフはベストを尽くしていますが、味はお互いを引き立たせておらず、
すべてのソースは嫌な甘さです。

11品のコースのうち7品が2ピースの小さな刺身でしたが、
どれも同じような味で、独自性、味、創造性が欠けています」


全くその通り。
日本料理に砂糖を使うという噂を間に受けて、
どのソースにも甘みをつけてしまったって感じです。

わたしたちは行く前に次の中国系らしい人の感想を読んでいたのですが、
店を出てから、その人の意見に100%賛同していました。

「11品のおまかせコースが進むにつれ、
失望という言葉では言い表せないような感覚に陥りました。


コースのほとんどが魚の薄切りで
甘すぎる醤油ソースは魚の味を消してしまっている」

提供されたわさびは本物の生わさびではない。
本物のわさびは、まろやかな味とほのかな甘みがあるが、
偽物のわさびは非常に強く、甘みはない。
135ドルのおまかせコース(11品コース)で、
新鮮な食材を提供すると言っているのに、これは全く納得がいかない」

「ウニもない」

全くその通り。もはやこの意見はわたしのものではないかみたいな。
わたしたちは後からこう言い合いました。

「あの中国人の意見そのまんまだったね」

「きっとあの人は孔子様の生まれ変わりだったに違いないだ」

そしてこの「孔子の生まれ変わり」の意見のうちで、
一番参考になったのがこの情報でした。

「白マグロ(エスカラール)が出てきた。
油分が多く、たくさん食べると下痢になるため、日本では違法な魚である」



英語ではホワイトツナなので、なんの問題もなさそうですが、
日本語の「アブラソコムツ」のことです。

アブラソコムツの恐怖

日本では幼稚園での集団食中毒?が起きたこともあり、
法律的に売ってはいけない魚として指定されているものが、堂々と。

脂が多いため、危険とされているこのアブラソコムツですが、
毒というわけではないので大量に食べなければ大丈夫。

というわけで、アメリカでは禁じられていません。
しかし、ロスアンゼルスの多数の韓国系寿司屋でこれを偽装して出し、
弁護士事務所から巨額の賠償を請求されたという事件もあったそうです。

孔子様のおっしゃった通り、前菜の最後にこれが出てきたので、
わたしは一切れだけ食べてパスしました。

問題は、この「外道魚」を出す店がいやしくも一流店を気取っていることです。

あーだんだん腹たってきた。

そして、6皿目までがこの白い洋皿の連続だったことで、
呆れ返ったわたしたちは、

「まさかこのまま最後まで行かないよね」

「最後にお寿司が出るよね」

「大丈夫、カウンターでおじさんがお寿司作ってるのが見える」

「11品コースだけ寿司が出ますだったらどうする?」

「もうその時にはテーブルひっくり返して帰る」

とヒソヒソ言い合っていました。


そして初めて白い丸皿以外で出てきた最後の希望、いや最後の一皿。
寿司の上にトマトのトッピング(笑)

寿司の大きさだけは一流っぽく小さくまとまっていましたが、
これは単に材料をケチるための握り方でしょう。

すし飯はいつ炊いたのか冷たくて硬く、粒が感じられる舌触りで、
日本では決してやらないトッピングは、味を誤魔化すため。

「トッピングに溺れ、魚の味をほとんど感じることができませんでした。
魚の寿司でないことを事前に言ってほしかった」


しかもサーモンの握りにはクリームチーズが。

「この夜一番がっかりしたのは、クリームチーズ入りサーモンの握りだろう。
立派な「おまかせ」料理でありながら

クリームチーズの入った握りを出したところは初めて見た気がします」

「握りにクリームチーズ?がっかりです :( 」

それより何より、お高いコースなのにたったこれだけで終了!というのに、
わたしたちはもうほぼ茫然としてしまいました。

おそらく出された全品は全部かき集めても一皿に軽く乗るくらいしかなく、
最後の寿司以外は全部白い丸皿に乗ったカルパッチョ的前菜。

まさにふざけんなでございます。



かろうじてマシだったのはこの偽寿司風デザートでした。
巻き寿司のようなピスタチオをかけたチョコファッジ、
醤油のようなチョコソース、そしてワサビのようなクリーム、
ガリそっくりのマスクメロンの薄切り。

これはアイデアとして面白いし、楽しい話題にもなります。


このコースが一人100ドルでなければ、もう少し寛容になれたでしょうけど。

それでは最後に、この店に対するアメリカ人たちの罵詈雑言をどうぞ。

「シェフは、美味しくない魚や料理の失敗作でこの値段を取る前に、
ロサンゼルスやニューヨーク、デンバーなどの
素晴らしい日本食レストランを経験するべきだ」

「ピッツバーグには選べる日本食レストランが限られているので、
非常に高価で質の悪い寿司と日本食しか知らない客は
こんなところでも満足してしまうのでしょう」

「しかし、本当にがっかりしたのはその量です。
3コースとデザートをいただきましたが、お腹が空いたまま帰りました。
夕食後、そのままブリトーを食べに行きました。
前菜が全部で2オンスの生魚で構成されていたので笑ってしまった」

「お金を貯めて、もっといいところで本物の寿司を食べましょう」

「Gi-jinの方が断然価値があるし、美味しいです」


最後の「GI-JIN」とは、ピッツバーグのもう一つの有名高級寿司店です。

この意見は、孔子の生まれ変わりさんのものだったので、
わたしたちはピッツバーグを去る前に、この店(Gi-jinは漢字で外人と書く。
日本人にとっての外人がやっている寿司屋であると標榜しているらしい)
に予約を入れ、行ってみることにしました。

美味しくてもそうでなくても、またとんでもなら尚のこと、
ここで紹介するネタとなってくれることを祈りつつ。






ナイアガラフォールズとニコラ・テスラの関係

2022-07-23 | 歴史

gooブログの〇〇機能のせいで、せっかく仕上げた記事が
ほとんど全て記憶されておらず、ゼロからやり直す羽目になりました。
こういう時には本当にやる気がなくなるのですが、頑張ります。
(独り言です)

さて、空前絶後に不味かったバッファローウィングスの夜から一晩空け、
次の日、後述するナイアガラフォールズ観光を済ませてから、
わたしたちは懲りずに美味しいバッファローウィングスを求めて
ナイアガラからもう一度ホテルのあった市街に戻ってきました。

昨日のあれをバッファローでの最後のウィングスにしてしまったら、
もうバッファローウィングスの存在そのものを嫌いになりかねない、
とTOが言うもので、(わたしはそうは思いませんでしたが)
今一度、バッファローにチャンスを与えることにしたのです。

って何様だよ。
というか、どれだけバッファローウィングス好きなのわたしたち。



ナイアガラの滝近くから、ピッツバーグに戻る道ぞいにある
目ぼしいウィングの店の情報を片っ端から検討して行った結果、
市街の飲食店が立ち並ぶ通りにあるレストランなら堅いだろう、
と店を決め行ってみたところ、何やら良さげな雰囲気の店。



ピンときて入ってみると、専門はハンバーガーで、しかもこの店は
エイジドビーフを使ったバーガーもあるというのです。

そんな店ならバッファローウィングスも普通に美味しいんじゃないかな。

店内はオールドアメリカンな感じで、壁には至るところに
LPレコードのジャケットが飾ってあって、店主の趣味がうかがえます。

ビリー・ジョエル、ジョーン・バエズ、ビートルズ、スティング、
ロッド・スチュアートにモンキーズ・・・。

写真右側に写っている3人の初老の男性たちは、ドンピシャの世代なのか
顔を巡らせてジャケットの曲について話題にしていました。

ここもオリジナルのTシャツなどを扱っているようですが、
少なくともオバマ来店の写真や新聞記事などを飾ってはいません。

日本でも有名人の色紙を壁に貼っているところって、
碌なもんじゃねえ、とまでは言いませんが、有名人が来ることと、
美味しいことは全く関係ないことだと思うんだな。



ウィングとバーガー、サラダを頼むことにしました。
サラダは果物やナッツ、ドライフルーツがたっぷりです。

このサラダもゴートチーズが当たり前のように入っていましたが、
わたしはヤギも羊も苦手なので、抜いてもらいました。



これがバッファローウィングス(本物)ですよ。
テリのある表面、食べるとチリパウダーとカイエンの刺激がピリッとして、
淡白なチキンの身を楽しく美味しいものにしてくれます。

辛くなった口を人参とセロリで少し宥め、なんならほんの少し
ドレッシングを香る程度につけると「味変」にもなります。

これですっかりわたしたちのリベンジは成立しました。

左は、おそらくアメリカで初めて食べるアヒツナバーガー。
マグロの身は「たたき風」でシアーという半生状態です。

ビーフバーガーがメインですが、ビーフが食べられない人のために、
チキンはもちろん、ダック、ひよこ豆のパテ、そして
なんとマグロのたたきのバーガーも提供しているお店でした。

その意気や良し。



さて、時間を戻して、その日の朝、我々はナイアガラフォールズの
手前にある公園の入り口の駐車場に車を停めていました。

これが今回借りているホンダのCR-Vなる4WDです。

シカゴのレンタカーでは、大都市の空港ハーツということで
膨大な数が展示されたVIP会員専用サークルから車を選べたのですが、
わたしは、こういう時には迷わずドアを片っ端から開け、
車内に首を突っ込んで、匂いを嗅いで車を選びます。

車内の匂いで車の経年が瞬時にしてわかるからです。

臭いのチェックをしながらも、車内に置かれた鍵を視認して、
インテリジェントキーかどうかを確かめるのも怠りません。

そういういわばプリミティブな方法で、今回は
走行距離1000キロも行かないほぼ新車をゲットすることができました。

HPを調べたら、WLTCモード14.2km/L(今は10モードじゃないんだ)
ということで、燃費もなかなか悪くありません。

実際、五大湖沿いを走り回っていた頃は毎日給油が必要でしたが、
街中を走るようになってからは給油は一週間に一度で済んでいます。

ただし、皆様もご存知かと思いますが、今アメリカでは物価高、
特にガソリン代が急騰していて、昨日一番安いunleadedを満タンにしたら、
なんと53ドル(日本円で7,000円くらい)かかってしまいました。

今の車の二代前、ハイオク車に乗っていたことがありますが、
円高のせいもあってそれ以上なのにちょっとびっくりです。



このナイアガラ公園の駐車場には、前回MKときた時にも停めています。

もし万が一、今後ナイアガラ観光を車で行うという方のために
何度も書いていますが、くれぐれも車は滝の近くに停めず、
地元の人が散歩に来て停めるこの無料の駐車場をご利用ください。
このロットが満車でも、もう一つ奥に無料の場所があります。

ここに車を停めるメリットは、無料であることの他に、
滝に向かって流れていくドラマチックな流れを見ながら歩いて行けること、
そして夏は鳥たちの姿が川の近くに見られることです。



さっそく変わった鳥が姿を現しました。

黒に羽の付け根だけが赤と黄色のナイキマークというこの鳥は、
Red-winged Blackbird、和名を ハゴロモガラス (羽衣烏)といい、
オスだけがこの模様でメスは茶色だそうです。



サンドパイパー=イソシギではないかと思います。

スタンダードナンバーになっている「The Shadow of Your Smile」
という曲がありまして、この曲の題は日本語で「いそしぎ」です。

Andy Williams ~ The Shadow Of Your Smile (Live)


「いそしぎ」というのは原題「Sandpiper」という、
エリザベス・テイラー主演の映画で、ヒロインのテイラーが
翼の折れたいそしぎを保護して連れて帰るというシーケンスがあります。

もっと大きな鳥だと思っていましたが、こんなに小さかったのね。



川面にコロニーを作って生活しているらしいいそしぎの集団。
この辺りはまだ流れがそう激しくないので、水鳥が多く見られます。



右側のイソシギ、首を傾げていてかわいい。



隣の草地はグースの縄張りでした。
皆しめしあわせたように川面に体を向け、くちばしは後ろに向けて。

何かあったら水に逃げるための習性でしょうか。



その横手に、なんとガチョウの保育所がありました。
本日の預かり児童は三羽、保育士さんはちゃんと子供たちを見守っています。

そういえば、イルカもペンギンもコロニーを作る動物の中には
子供だけを集めた保育所があり、面倒を見る保育士がいるらしいですね。



マザーグースが雛鳥を引率中。
雛鳥歩いてないし。



これがグースの赤ちゃん。
身体の大きさに比べて脚の比率が大きい。



しばらく(と言っても数分)歩くと川面も水鳥の姿も無くなりました。
そして川の流れがご覧のような激流になります。

しかし、人がここに落ちれば確実に命はないような場所でも、
護岸工事や柵は必要最小限しか行われていません。

日本ならガチガチにコンクリで岸を固めて柵をつけ、ご丁寧に
川の横には「危険!」「水遊び禁止」と立て札を立てるでしょう。

そんなこと言われなくてもわかっとる、と誰でも思うことを
あえて呼びかけて憚らないのが、日本の行政というものなのです。

もっとも、景観を重んじて行政の手を入れるのを住民が拒み、
その結果災害の規模が大きくなるということも実際にはあるので、
一概にそれが悪だとはいいませんが、まあ少なくとも観光資源に対しては
極力手をつけないで自然のままに残す方向でお願いしたいものです。





ただし、夜になるとこの激流をライトアップするために
実にたくさんの投光器が岸に取り付けられています。



ライトアップといえば、これはMKが冬友達とカナダに行った時の写真。



時間ごとに色が変わっていくそうです。



絶対カナダ側から見る方がいいですよね。



というわけでアメリカ滝の横にたどり着きました。
いつ見てもこの凄まじい眺めには心を掴まれるような気がします。

ここからは向こうにカナディアンフォールというカナダ側の滝が見えます。



滝つぼから巻き上がる水滴が虹のアーチをかけ、
そのアーチの下を滝巡りの遊覧船が通過していきます。



赤い遊覧船は、向こう岸のカナダから出ています。
カナダの国旗の色から赤い船に赤い水滴よけコートというわけです。

見たところ観光客は圧倒的にアメリカ側の方が多く、
遊覧船の待ち時間もカナダはアメリカの5分の1くらいのようでした。

滝の眺めもカナダ側からの方がいいらしいし、
一度はカナダからナイアガラを見ておくべきだったかな・・。


前回はコロナ禍下でしたし、真冬だったので、
人影がなかったアメリカン・フォールの向こう側に人の姿が見えます。


アップしてみました。
あれ?この写真の上の方に何か銅像がありませんか?



これは、公園の入り口にあった案内図ですが、TOが指差しているところの
左側は、アメリカの「ゴート・アイランド」といいます。

さらに調べたところ、アメリカンフォールの横手には、

ニコラ・テスラのモニュメント

があるということがわかりました。
はて、なぜナイアガラの滝にテスラの像が・・・・?



そこでこれですよ。

前回人気のないナイアガラで、この写真を撮った時、当ブログでは
昔ホテルでもあったんだろうか、などと適当なことを書いたのですが、
これは廃墟などではなかったのです。


「ナイアガラパークスの発電所のトンネル体験。
100年以上前に建設され、復元された水力発電所を探検してみてください。
インタラクティブな展示、魅力的なモデルなどを発見してください」

などという言葉があり、特にこの「トンネル」から
ナイアガラを眺めるというのは、ぜひ体験してみたくなります。



今回発電所の存在に気づいたのは、この写真を拡大したら
デッキの上に黄色い制服らしきものを着た人がいて、
さらにエレベーターの装置らしきものがあることを確認したからでした。


HPによると、発電所の中にはいつでも入れ、中にはかつての
発電所の遺構がそのままの形で保存展示されて見学することができるとか。

で、この発電所なんですが、ここにニコラ・テスラが関わっていました。

かつてナイアガラフォールズにあった世界初の大規模水力発電所は、
他ならないニコラ・テスラの残した業績の一つでした。

ニコラ・テスラはジョージ・ウェスティングハウスと共に、
ナイアガラの滝に世界初の水力発電所を建設し、
世界を「電化」の第一歩に導くという偉業を成し遂げています。

この旧ナイアガラフォールズ発電所の唯一の遺構である
アダムズパワーステーション(パワーハウスNo.3)が、
そのとき建造された水力発電所の一つでした。

人類が電気というものを生活になくてはならないものとして
使い始めてからの歴史の中で大きなターニングストーンである
このアダムズパワーステーションは、国定歴史建造物に登録されており、
さらに今後、ここには科学博物館を作るという話もあるそうです。

ナイアガラの滝のアメリカ側を訪れる観光客は年間約800万人。
カナダ側には年間約2,000万人が訪れます。
(あれ?ということはカナダ側の方が多いんだ)

よく、人はナイアガラフォールズのことを、

「死ぬまでに一度は見ておくべき場所」

と呼びますが、ここにあるのは、自然が作り出した造形美のみにとどまらず、
世界を今日の「電化」に導いた歴史的遺跡でもあったのです。

ナイアガラ・フォールズの「電気的な意味」は、
テスラの生み出した多相交流電流(AC)の最終的な勝利であり、
今日、地球全体を照らし続けているのはそのシステムです。


こちらがアメリカ側のニコラ・テスラ像。
上の写真に写っているのがこちらです。



こちらは2006年に除幕された、カナダ側、
クイーン・ヴィクトリア・パークにあるテスラモニュメント。

テスラが特許を取得した700の発明の一つである、交流モーター
(交流誘導電動機、多相交流を用いて回転磁界を作る原理を元にした装置)
の上に立っています。

アメリカとカナダ、どちらにも一つづつテスラ像があるというのも、
彼の成した偉大な功績を思えば、もっともなことかと思われます。


続く。




「ハンドシェイク・イン・スペース」アポロ-ソユーズ実験プロジェクト

2022-07-15 | 歴史

スミソニアン博物館の宇宙事業関連展示を見ていて、
かなり驚いたのは、米ソが共同で行っていた宇宙開発事業があったことです。

アポロ-ソユーズは、1975年7月に米ソ共同で実施された
初の有人国際宇宙ミッションです。

アメリカのアポロ宇宙船とソビエト連邦のソユーズカプセルが
ドッキングする様子を、世界中の何百万人もの人々がテレビで見守りました。

このプロジェクトと宇宙での印象的な握手は、
冷戦下の2つの超大国のデタント(緊張緩和)の象徴であり、
1957年にソビエト連邦がスプートニク1号を打ち上げたことで始まった
宇宙開発競争の終わりを告げるものと一般には考えられています。




それは、見学に来た人が疲れたら座り込むのにおあつらえむきの場所、
高さといい広さといいちょうどいい設置台の上に見ることができます。





■アポロ-ソユーズ実験プロジェクトASTP

ちょうど今日、7月15日から24日は、"宇宙での握手 "で有名な
アポロ・ソユーズ テストプロジェクトから47年目にあたります。

このミッションは正式にはアポロ・ソユーズ テストプロジェクト(ASTP)
ソ連ではもちろんソユーズ・アポロと呼ばれています。
Экспериментальный полёт "Союз" - "Аполлон"(ЭПАС)
Eksperimentalniy polyot Soyuz-Apollon (EPAS)

また、ソ連は公式にこのミッションをソユーズ19と命名しています。

アメリカはすでにアポロ計画を中止しており、使っていない機体を
番号をつけずに「最後のアポロ」として飛ばすことにしました。



ASTPは、アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船をドッキングさせる試みでした。

この世界の2大プレーヤーが共同作業に至った理由、それは
1972年に締結された二国間協定に基づくものでした。

間接的には、米ソの間で締結された、核兵器の保有数、運搬手段の制限、
複数弾頭化の制限が盛り込まれた

「第二次戦略兵器制限交渉」

の流れからきていたと思われます。

目的は、将来の米ソ宇宙船のドッキングシステムの研究で、
宇宙空間の平和利用のための協力に関する覚書に基づいて計画されました。

■緊張期

アポロ・ソユーズの目的は、ズバリ、
冷戦時代の超大国である米ソのデタント政策でした。

つまり政治目的事業というやつです。

アメリカが「赤化から世界を救う」ためのベトナム戦争に参戦している間、
当然ですがこの2つの超大国の間には緊張が走っていました。

ソ連の報道機関は一貫してアメリカのアポロ宇宙計画を強く批判し、
例えば1971年のアポロ14号打ち上げの写真には、

「アメリカとサイゴンの傀儡によるラオスへの武力侵入は、
国際法を足元から踏みにじる恥ずべき行為」

というキャプションをつけたくらいです。

一応ソ連のニキータ・フルシチョフは1956年のソ連共産党20回大会で
「平和共存理念」としてソ連のデタント政策を公式化してはいますが、
両国の緊張緩和はなかなかそのきっかけを掴めないでいました。

それは1962年、ジョン・グレンが地球周回軌道に乗った
初めてのアメリカ人となった後のことです。

ジョン・F・ケネディ大統領とフルシチョフ首相との間に交わされた
手紙をきっかけに、NASAのライデン副長官とソ連の科学者、
アナトリー・ブラゴンラヴォフが中心となって
ある計画について一連の話し合いが行われるようになりました。

驚くべきことに、科学者同士の話し合いは、
キューバ・ミサイル危機の真っ只中にあった1962年10月に、
ドライデン-ブラゴンラヴォフ協定として正式に結ばれることになります。

その内容は、気象衛星のデータ交換、地球磁場の研究、
NASAの気球衛星Echo IIの共同追跡などの協力などです。

この時、トップがケネディとフルシチョフであったことは大きく、
雰囲気としては、もう少しでケネディはフルシチョフに
有人月面着陸の共同計画を持ちかける可能性すらあったと言われていますが、
1963年11月ケネディが暗殺され、その一年後フルシチョフが罷免されたため、
それぞれの指導者がいかなる個人的な希望を持っていたとしても、
もう物理的かつ永久にそれは無理となってしまったわけです。

ご存知のように、この後両国の有人宇宙計画間の競争は過熱していき、
この時点でさらなる協力への努力は終わりを告げることになりました。

■宇宙競争と更なる緊張

その後は極度に両国の関係は緊張し、さらに軍事的な意味合いから、
米ソ間の宇宙協力は1970年代初頭にはあり得ませんでした。

1971年6月、ソ連は初の有人軌道宇宙ステーション
「サリュート1号」の打ち上げに成功しており、一方、アメリカは
その数ヶ月前にアポロ14号を打ち上げ、人類を月に着陸させるための
3度目の宇宙ミッションを行っていました。

月競争は終わりを告げたと言っても、そこで両国の関係が変わるはずもなく、
この計画が立ち上がってからも、米ソ両国は
お互い相手の工学技術に対して厳しい批判をし合っていました。

まずソ連ですが、アポロ宇宙船を「極めて複雑で危険」と批判。

ソ連の宇宙船は、ルノホド1号とルナ16号が無人探査機、
ソユーズ宇宙船は、飛行中に必要な手動制御部分を極力少な口することで
ヒューマンエラーによるリスクを最小限に抑えるように設計されていました。

一方、アポロ宇宙船は人間が操作することを前提に設計されており、
操作するためには高度な訓練を受けた宇宙飛行士を必要とする、
というのがソ連の考える「ダメな理由」です。

しかしアメリカはアメリカで、ソ連の宇宙船はダメだと盛んに批判しました。
例えば、ジョンソン宇宙センター所長のクリストファー・C・クラフトは
ソユーズの設計についてこんなことを言っています。

「私たちNASAは冗長構成に頼っている。
たとえば飛行中に機器が故障した場合、クルーは別の機器に切り替えて
ミッションを継続しようとするが、
ソユーズの部品はそれぞれ特定の機能に特化して設計されており、
一つが故障すると、宇宙飛行士は一刻も早く着陸しなければならなくなる」


ソユーズ宇宙船は地上からの制御を前提としていたため
アメリカソユーズ宇宙船を非常に低く評価していたということですが、
自動制御で特別に訓練された宇宙飛行士がいなくても遂行できるのと、
インシデントを予測して人間に対応させるのと、
さて、どちらが安全でしょうという命題となります。

という風に互いのやり方を否定し合っている同士が、
政治的案件で一緒にプロジェクトを成功させなくてはなりません。

しかも今回の計画は、これまでのアポロ計画とは全く違い、
カプセルから飛行することを前提とした実験となるわけです。

結局、アポロ・ソユーズ試験計画のマネージャーであるグリン・ルニーは、
ソビエトを怒らせるようなことを(たとえそう思っていたとしても)
マスコミに話すな!と関係者に注意をしたと言われます。

ルニー「ソ連様を怒らせちゃいけねえだ」

NASAは、アメリカ流の軽口がソ連に理解されにくいことを知っており、
ちょっとした言動や批判が原因でソビエトが手を引き、
ミッションが廃棄されることを心から恐れていたのです。

1971年の6月から半年にわたり、ヒューストンとモスクワで
米ソのエンジニアは会議を行い、宇宙船のドッキングの可能性について
相違点を解決してすり合わせを行いました。

その中には、ドッキング中にどちらかが能動的にも受動的にもなれるという、
2隻間のアンドロジナス周辺アタッチシステム(APAS)設計も含まれます。


そしてベトナム戦争が終結すると、アメリカとソ連の関係は改善され始め、
宇宙協力ミッションの実現性も高まってきました。

アポロ・ソユーズは両国の緊張の融解によって可能となると同時に、
プロジェクト自体にアメリカとソ連の関係を改善する働きが期待されました。

フルシチョフの後任となったソ連の指導者レオニード・ブレジネフは、


いいこと言ってみた

「ソ連とアメリカの宇宙飛行士は、
人類史上初の大規模な共同科学実験のために宇宙へ行くことになる。
彼らは、宇宙から見ると我々の惑星がより美しく見えることを知っている。
私たちが平和に暮らすには十分な大きさだが、
核戦争の脅威にさらされるには小さすぎる」


と述べました。

1971年、ニクソン大統領の外交顧問であったヘンリー・キッシンジャーは、
このミッションの計画を熱心に支持し、NASA長官に対して、

「宇宙にこだわる限り、やりたいことは何でもやってくれ」

と激しくゴーサインを出しています。

そして1972年4月までに、米ソ両国は

「平和目的の宇宙空間の探査及び利用に関する協力に関する協定」

に署名し、1975年のアポロ・ソユーズ試験計画の実行を取り決めました。



ASTP実験の画期的だったところは、初めて外国人飛行士が
ソ連の宇宙船にアクセスすることができるようになったということです。

ソ連の宇宙計画はソ連国民に対してすら情報が秘匿されていたのに、
アポロの乗組員はその宇宙船、乗組員の訓練場を視察することが許され、
ソ連の宇宙開発について情報を共有することになったのですから。

もちろん逆も真なりで、ソ連の関係者は
決してアメリカの宇宙事業に関わることは許されませんでしたが。

まあ、なんというか非常に融和的なおめでたいニュースなのは事実ですが、
ASTPに対する反応がすべて肯定的だったわけではありません。

多くのアメリカ人は、ASTPがソ連の宇宙開発計画に過大な評価を与え、
あるいはNASAの高度な宇宙開発努力を譲り渡すことになると危惧しました。

一方ソ連ではそういうアメリカ側の懸念について、

「ソ連との科学協力に反対するデマゴーグ」

と批判する人もいました。

とはいえ、この事業によってアメリカとソ連の間の緊張は軟化し、
このプロジェクトは将来の宇宙における協力プロジェクト、
シャトル-ミール計画や国際宇宙ステーションなど、
共同作業の前例となったのは動かし難い事実でもあります。

■ 乗組員



アポロ乗組員

司令官:トーマス・スタッフォード(後ろ)
ヴァンス・ブランド(前列真ん中)
ディーク・スレイトン(前列左)


覚えておられる方もいるかもしれませんが、
スレイトンはマーキュリーセブンの一員でした。

彼は心臓に疾患が認められたため、打ち上げをずっと見送って
NASAのディレクターとして宇宙船を「見送る側」でしたが、
ついにこのプロジェクトで宇宙に行く唯一の機会を得ました。

ソユーズ18号乗組員

司令官:アレクセイ・レオーノフ(後ろ右)
フライトエンジニア:ワレリー・クバソフ


レオーノフといえば、人類最初に宇宙遊泳をした男。
絵を描くのが得意で、宇宙でスケッチをしたあの人です。

■打ち上げ



1975年7月15日、2人乗りのソ連のソユーズ宇宙船19号が打ち上げられ、
その7時間半後に3人の飛行士を乗せたアポロ宇宙船が打ち上げられました。





両宇宙船は、7月17日に地球を周回する軌道上でドッキングしました。

その3時間後、ミッション指揮官のスタッフォードとレオーノフは
ソユーズの開いたハッチから宇宙で初めて握手を交わしたのです。


国際握手会開催中

この歴史的な握手により、軌道上での約47時間に及ぶ
ドッキング作業が開始されました。
写真は16ミリ映画フィルムの1コマを複製したものです。


2隻の船が停泊している間、3人のアメリカ人と2人のソビエト人は、
共同で科学実験を行い、旗や贈り物(後に両国に植えられた木の種など)
を交換し、音楽を聴かせ合いました。

ちなみに、ソ連側からは
Maya Kristalinskaya - Tenderness

アメリカ側からは
WAR - Why Can't We Be Friends? (Official Video) [Remastered in 4K]

こんな選曲だったそうです。

「どうして僕たち仲良くなれないんだろうね?
調和して暮らしていけるなら肌の色なんて関係ないのに」




そして彼らは証明書に署名し、お互いの船を訪問して一緒に食事をしました。


スレイトンとレオーノフ

彼らはお互いの言語で会話をしました。
つまり、お互い相手の言葉を勉強していったということです。

この時、オクラホマ出身のスタッフォードのロシア語がソ連側にウケました。
レオーノフは後に、こんなことを言っています。

「ミッションでは3つの言語が話されていました。
ロシア語、英語、そして『オクラホマスキー』です」


ドッキングや再ドッキングの際には、2つの宇宙船の役割が逆転し、
ソユーズが「活動的」な側となることもありました。



そしてその一つがこの「プラーク合体」です。
アストロノー(アメリカの宇宙飛行士)とコスモノー(ソ連の宇宙飛行士)
は、国際協力のシンボルとして、軌道上で記念プレートを持ち寄り、
合体させて完成させました。

■アポロ-ソユーズテストの科学的成果

このミッションで行われた実験のうち4つは、
アメリカの科学者が開発したものです。
発生学者のジェーン・オッペンハイマーは、
無重力が様々な発達段階にある魚の卵に与える影響を分析しました。


あのオッペンハイマーとは関係ありません

44時間一緒にいた後、2つの船は分離し、
ソユーズの乗組員は太陽コロナの写真を撮り、
アポロは人工日食を作るために操縦を行い、短いドッキングの後、
二つの船は分かれてそれぞれの航路をたどりました。

ソ連はさらに2日間、アメリカは5日間宇宙に滞在し、
その間、アポロのクルーは地球観測の実験も行っています。

ASTPで、アメリカは宇宙から地球を体系的に観察・撮影し、
軌道上から地球を探査・研究するための新しいデータを取得しました。

このミッションで、スミソニアン国立航空宇宙博物館が
重要な役割を果たしたことはあまり知られていません。

ファルク・エルバズ博士は、博物館の地球惑星研究センターの創設者であり、
ASTPの地球観測・写真撮影実験の主任研究員でした。
この光地質学実験がミッションに含まれるようになったのも、博士の功績です。

エルバズ博士は、アポロの宇宙飛行士が月を周回する際の
目視観測を訓練した経験があり、今回は地球がターゲットとなりました。

博士は、宇宙飛行士がT-38飛行機で上空から地質を観察し、
写真に撮る練習をするための飛行計画を立てました。

宇宙飛行士は宇宙空間で約2,000枚の写真を撮影し、
そのうち約750枚は雲に隠れていないなど、質の高い写真でした。



地球観測・写真撮影実験 アンゴラ
アフリカ南西部のアンゴラを撮影したもの。(出典:NASA)

エルバズ博士は、地質学、海洋学、水文学、気象学などの分野で
画像を分析する科学者チームを結成しました。
軌道写真は上空を広くカバーしているため、大きな構造物や広い分布、
従来の現地調査が困難な地球上の遠隔地やアクセスしにくい場所などを
直接調査することが可能です。

地図の更新や修正、地球資源のモニタリング
動的な地質学的プロセスの研究、海洋地形の調査など、
これらの写真の用途は広範囲にわたります。


博物館の宇宙戦争ギャラリーでは、ドッキングした状態の
アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船を見ることができます。

展示されているアポロのコマンドモジュールとサービスモジュールは試験機で
2つの宇宙船をつなぐドッキングモジュールは
バックアップフライト用のハードウェアとなっています。

ソユーズ宇宙船は、ソユーズを最初に製造した
エネルギア設計局によって作られた実物大模型です。



最後に、スミソニアン所蔵のソ連の国旗を。

この旗は、米ソ共同のアポロ計画で、アポロ司令船に搭載された
特別な「ギフトバッグ」に含まれていた10枚のソ連国旗のうちの1枚です。

また、アメリカの国旗10枚、白トウヒの種の特別な箱、
宇宙船がドッキングしたことを証明するASTP証明書も含まれていました。

1975年7月、アポロとソユーズが地球周回軌道上でドッキングしている間に
宇宙飛行士の間で贈呈され、交換されたものです。


続く。