ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

年忘れネイビー・ギャラリー二年目

2011-12-31 | 海軍

前年、初めての大みそかにネイビーギャラリーを掲載し、早一年。
こんなに激動の年はかつてなかったのではないかと思われるほど、激動の一年でした。
この一年を一言で表すことなどとても不可能なことに思われます。
ですが、あえてそれを回文(なぜ回文)で一つだけ挙げるとすれば

「保安院全員アホ」

ついでに
「だんしがしんだ」  <(_ _)>


震災後しばらくブログを閉じていたり、その後毎日の掲載を隔日にしたため、
去年ほどの画像がたまったわけではありませんが、恒例行事としてまた今年もやります。


お約束、笹井醇一少佐から。
この「撃墜機の前のラバウルでの写真」は、
まだ鉛筆下書きの上に彩色する形で陰影を付けていた時代に一度描きました。
「笹井中尉の言ったこと」
という稿の挿絵だったのですが、秋頃なんとなくツールで描き直しました。
「自分の撃墜した」という説明を見たことがあるのですが、自分のかどうかはさすがに分からないのでは。
このあたりも高城肇氏の創作、かなあ。

それにしても、笹井中尉、シャツの袖が短くありませんか。
こうやって細部を描けるようになって「短かったのね」と分かるようになりましたが、
前の手法だと「単にデッサン狂ってるだけ」と思われていたんだろうなあ。



兵学校時代の笹井学生と同分隊の仲間。
これはツールを買う前で、中指を駆使して描いた最後の力作です。
兵学校の教室の窓べ。
このころは窓枠が御覧のように木ですが、現在のこの校舎の窓は全面アルミサッシに変わっています。

左から3番目の田中一郎氏とは「親友」とも呼べる間柄だったようです。
去年アップしたこの写真には、右側に人がおり、右肩に手をかけています。
この写真が「ラバウルで最後の出撃直前に撮った写真」などという大嘘が、
まことしやかに流れているのを見たことがありますが、となりの人物がばっちり写った写真を見れば、
それは上の写真にも見られる田中一郎氏ではありませぬか。
つまり霞空の練習生(少尉)時代、ということですね。

だいたい、当時のラバウルで笹井中尉の肩に手をかけて写真を撮るような階級の人物がいたかどうか?
(8月26日には台南空の笹井中尉の同期は木塚中尉だけになっていたが、着任していたかどうかは不明)

そうか。こうやって誰かの思い込みが伝播されていつのまにか既成事実になっていくと・・・・。

さて、それでは掲載順に行きましょう。
「小川清の時計」小川清少尉。

はて、これ見たことあったっけ、と思われた方、あなたは正しい。
バンカーヒルにに特攻突入して散華した小川清少尉について書いた
「小川清の時計」という稿に載せた肖像があまりにあまりなので、描き直したものです。
早稲田大学の校章の付いた帽子にノートを持ち、ツタの絡まる大学構内でポーズする小川清。
「デンジャーズ・アワー」では「いつも楽しいことを企んでいるような生き生きした眼の持ち主」
と評されています。

「嶋田大将の最後の戦い」
東京裁判で証言台に座る嶋田海軍大将
「東京裁判オタク」であった昔はあまり注目していなかった嶋田大将ですが、
その後海軍に興味を持ちブログを始める運びとなり、あらためてその立場から語ってみました。
おかげで、何か新しい視点が得られたような気がします。

「林谷中尉の恋人」海軍兵学校67期、林谷忠中尉
おそらく、林谷中尉について語ったものは、回想録を除いて初めてではなかったかと思います。
「トンちゃん」と言うあだ名の心優しい海軍士官。
子供が大好きで停泊地では艦に子供を招待するほどだったそうです。

「同期の桜」海軍兵学校67期、宮嶋巌大尉
白皙のこの青年は、戦死することはなかったのですが、
終戦の一年半後、わずか28歳で肺結核のため命を落としました。
「同期の桜」であった上村貞蔵大尉に見取られての最後でした。
「軍神の床屋さん」
海軍兵学校67期、古野繁實海軍少佐

中尉から、真珠湾攻撃の軍神と称えられ、二階級特進しました。
これについて述べている本もあり、また旧兵学校見学のときも解説者がおっしゃっていましたが、
見事にこの「軍神たち」の出身地は、日本の津々浦々にほとんどまんべんなく分かれています。
軍神の物語をより演出するために、地方出身の若者をわざわざ集めたという話は本当でしょうか。
NHKの捏造ドラマ「真珠湾からの帰還」の放映後、この項にアクセスが集中しました。
好きなエピソードですが、ほとんど一度アップしてから見られることも無かったこの話が、
こんな形でも見てくださった方が多かったようで、その件に関してだけNHKに感謝しています。
「荒木俊士大尉」
海軍兵学校67期。
靖国神社に行くと、いつもつい天文台に眼をやります。
荒木大尉はその昔、この神社の前を通って九段中学に通っていました。
九段から見た星空は、荒木少年の心に何を残したのでしょうか。
豪快で、自分にも人にも厳しく、部下に慕われた隊長でした。

「川真田中尉の短ジャケット」
こんな青年がいたということを、実に生き生きと感じさせてくれるような闊達な表情を、
いつもカメラに向けている川真田中尉。
初めてツールが届いて最初に描いた肖像です。
倍率を高くして画素を細かくしたので、アップと半身像がどちらもできました。
しばらく半身像を何となくデスクトップに入れていたのですが、何かの時に知り合いに見られ、
「・・・・・・(何なのか、誰なのか聴きたいけど聴いてはいけないかもしれないので聞かない)」
という空気が流れました。
いっそ、聴いてほしかった・・・・。


「草鹿長官の乾杯」
草鹿任一海軍中将

前後しますが、これは中指の作品です。
描いた順にアップしているわけではないので、こういうことが起こります。

草鹿中将は、兵学校の生徒から「任ちゃん」と慕われたように、人情家で、アツい性格でした。
戦犯指名にも全く言い訳をせず、全て部下の責任を自分が負うという態度に徹したため、
連合軍からは高潔な人物として評価が高かったと言われています。
さらに、戦後、この日のブログで述べたように困窮の生活を余儀なくされながらも、
ラバウルで苦楽を共にした部下のことをいつまでも案じ、復員局に足しげく通っては、
彼らの消息を気にかけていたということです。
同期の井上大将とは随分仲が悪かったようですが(笑)、大将が戦後やはり清貧生活のため倒れたときは、
その治療費集めに奔走するという厚情を見せています。
このひと、やっぱり好きだなあ。
母艦パイロットの着艦訓練」
「機種決定」
海軍兵学校66期、日高盛康少佐
母艦パイロットについていろいろと日高少佐の記述をもとに書かせていただきました。
お歳を召されても戦時中のことは級友の出身、どこで戦没したか、全て明確に記憶しておられたそうです。
「ヤフー知恵袋」で(笑)隊長としての日高少佐の采配にあれこれと言っているのを見つけました。
(興味がおありの方は検索してみてください)
そう言ったことについても沈黙の海軍軍人は戦後「人嫌い」と称されるほど、弁明をせず、
何も語ろうとはしませんでした。
その時の海軍内の命令系統や、それまでの海戦の流れを全て語らずして、
ただ一見失敗に見える少佐の采配を語るのは全く以てナンセンス、とだけ、
個人的な意見を言わせていただきます。

「母艦パイロットの着艦訓練」
母艦乗りの有名人、菊地哲生上飛曹、いや、飛曹長
「エース本」などにも顔を出しているように、乗るのも一苦労の巨体でいざ戦闘機上の人となると、
軽やかで繊細な飛行技術で機を駆って活躍したそうです。
上記日高少佐とは隼鷹乗り組時代の部下の関係でした。
昇進を勧めたの日高氏ですが、菊地飛曹長は生前それを断り続けました。
あくまでも実戦第一、準士官という立場に「合わないもの」を感じていたのでしょうか。

「クラスヘッド・モグ」
海軍兵学校66期、坂井知行少佐

この天才的頭脳の青年の私服姿の写真を見たことがあります。
眼に力強い知性の輝きがありありと現れた、ただものでない感じが、
クラスメートとふざけているにもかかわらず漂っていました。
同期の藤田怡与蔵少佐も、戦後折に触れて彼の死を惜しんでいたそうです。

「私の好きなネイビー」
海軍兵学校68期、大野竹好中尉。
これも去年の記事ですが、大野中尉の絵だけ描き直しました。
ツールが来てから、中指とお絵かきツールではとても満足に描けず気になっていた絵を、
いくつか(と言うか現在進行形で)描き直しています。
弘法は筆を選ばずといいますが、そもそもそれまで「筆」でもなかったという・・・。
今年の始めに購入し、やっと最近ツールの機能を把握できたかなと言う感じです。
ただし、まだ試していないタッチや機能もいっぱいあるので、これからのお楽しみ。
絵を描いていると時間を忘れるのは子供の時から同じですが、
最近は一作(だいたい平均2時間くらい)仕上げるたびに肩が石のように固くなって・・・・・。
歳には勝てないってことなんでしょうが、当面の課題は姿勢を何とかしなくちゃ、です。


ご存じ鴛渕孝大尉の有名な写真。
鴛渕大尉は、ラバウルに行っていることになっているわりには写真にも映っておらず、
台南空で坂井三郎の薫陶を受けたなどという説もありますが、台南空の行動調書には、
鴛渕の「お」の字もありません。

おそらくこれは豊田穣氏が「蒼空の器」「続・蒼空の器」を書いたときに創作したのが、
なんとなくみんなに事実として勘違いされたっぽいと思っています。
・・・じゃ、どこにいたんでしょう。鴛渕大尉。
この人の団体写真に写っているのって、見たことあります?
部下と映っている写真を1枚、一人で写っている写真を、
今までこれを入れて4枚見たことがありますが、
343部隊で有名な割にそれまでの所属がはっきりしていないのは何故なんでしょうか。
・・・もしかしたらこれ、豊田氏のせい?
そうだったらクラスメートの戦歴を混乱させるなよ、とつい突っ込んでみる。


その鴛渕大尉の絵です。
初期のことゆえかなりお絵かきツールの肖像がひどかったので、一応描き直しました。
ところが自分で絵に対して突っ込んだ文章が邪魔になり、この絵に替えることができません。
でもまあ、せっかく描いたので一応ここで発表しておこーっと、ということで挙げてみました。

去年の「ネイビー・ギャラリー」を見ていただくと分かりますが、今年は格段に絵がましになっています。
(当社比)
「中指ではなくペンで絵を書くようになった」という、
そう、類人猿が直立歩行で歩行するようになったくらいの、描き方の進化があったからです。
この進化過程においてはリングはミッシング(紛失)されていず、
二本脚に移行する瞬間のきっかけになったのがペン・タブレットだと言われています。

直立歩行以降、変化は緩やかになりましたが、それでも少しずつ進化は続けていますので、
来年もぜひ長い目で見守ってやってくださいまし。





映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」

2011-12-29 | 映画

    

封切して2日目、TOと息子はミッションインポッシブル3、わたしは同じ映画館で、
「連合艦隊司令長官 山本五十六」を鑑賞してきました。
このブログの読者の皆さんには全く不思議ではないと思われるこの行動、
客観的に見ると、変です。
パパと息子MI3、ママは一人で「セックス&シティ」(やってませんが)ならわかるけど。
日曜だというのに客席はまばら、年齢層は圧倒的に中高年層の男性が多く、
付き合わされている同伴の女性がちらほらいる程度。
女性一人で観ている客は、ざっとみたところわたしだけでした。



呉で予告編を見たときに「きっとろくな映画にはならないと予測する」
などと大言壮語したエリス中尉ですが、そのときに懸念された
「より反戦的に、より自虐的に」ストーリーを運ぶのではないか、ということについては、
心配したほどではありませんでした。
むしろ、そういう方向からできるだけ「個人としての五十六を描く」という方にシフトすることで、
よく言えば視点を変えて、悪く言えば戦争に対する考え方そのものの焦点をぼかして、
そっちの問題についてはうまいことはぐらかすことに成功していると思われました。

で、結論から言うと、面白かったです。
小賢しい平和礼賛への扇動も無く、見た限り逸脱するような捏造も無く、そのあたりは、
監修に当たった半藤一利氏のお目付けが効いているのかな、と。
ただ、これを良いと言っていいのか悪いと言っていいのか、面白かったからいいんですが、
良くも悪くも山本五十六が好きで好きでたまらない人が作った、という映画なんですね。

どうも、原作を手掛けた半藤一利氏は、山本五十六のファンのようだ。
そう思って後で調べたら、ご本人、堂々とそう言っておられます。
新潟県長岡中学校の先輩なんだそうで、「それでは冷静な歴史観など持てないではないか」
とどんなに権威ある識者に言われても半世紀というもの説を曲げることなかった
「筋金入りの山本びいき」であると。

ならばよし。

って、なにが良しなんだかわかりませんが、つまりこれは
「五十六好きによる、五十六好きのための」 
映画である、と位置づけるならば、全てが得心のいく映画となっています。

読者の中には、エリス中尉がこの手の映画に箸の上げ下ろしに文句を言う姑の如く、
あるいは重箱の隅をつつくが如く、揚げ足を取るために眼を皿のようにして画面を観たのでは、
と思われた方もおられるかもしれませんが、

違います。

なんかもう、思いっきりこう言う映画、好きなんですよね。
冒頭に挙げた「これはいくらなんでも酷過ぎる」美化キャスティングも含めて、
我々の知る限りの情報が、今の映画界でどのように具現化され得るか、ということ自体が、
たまらなく面白く、心の中で突っ込みまくりながら心行くまで楽しんでしまいました。

戦争ものに限らず、実在した人物の映画化については、
この役をやるのならだれ、と誰しも心に描くキャスティングがあると思うのですが、
それにしても阿部寛の山口多聞とは・・・・。
何でしょうね、この配役。

阿部ちゃんをどこかに出したいのだが、誰に割り振っても「そりゃー男前すぎるやろ」
と言われることは必至なので、せめて共通点が「長髪であった」というだけで決まったとか。
おまけに、沈みゆく飛龍と運命を共にするのが、山口少将一人っきりと言うことになってる。
観ていて「私もお供します」って、艦長が出て来ないのでまだかまだかとやきもきしていたら、
遂に一人で艦に残っちゃいましたよ。山口多聞。
加来止夫艦長の立場はっ?!
配役の関係とか、時間の関係とかあったんでしょうけど、この節約はいただけなかったわ。
だって、こういうのがちゃんと描かれているのが見たいでしょう?観客としては。

椎名桔平は「誰の役でもいいから出たい」と自分で名乗りを上げてこの役が決まったそうです。
椎名さんは個人的には好きですが、黒島参謀にしては何となく小奇麗すぎる気がしますね。
もっと変人っぽい役が上手い人、佐野史郎みたいな感じの役者がよかったな。

吉田栄作の三宅義勇参謀は、三宅参謀の写真が出て来ないにもかかわらず、
男前すぎると決めてかかって、三宅参謀には失礼なことになってしまいましたが、それはともかく、
最近、俳優としての吉田栄作に非常に興味があります。
今回、山本長官の変人ぶりに付き合わされても文句ひとつ言わず仕える役なのですが、
なかなか、この「こらえっぷり」が、いい演技だなあ、と。
この俳優さん、変なトレンディドラマできゃあきゃあ言われて人気が出ましたが、
そこで天狗にならず、一旦日本を離れ、じっくり演技派に転向していったのが、
最近実を結びつつあるようですね。

あと、どうしても納得いかなかったのが、柄本明の米内光政
出てきたとき、状況とセリフでほとんど誰なのかわかったのですが、この米内大臣だけは
あまりにも予想と反対で、全く分かりませんでした。
しばらく、永野修身と思っていたくらいです。
永野修身は伊武雅刀。この永野はぴったり)
米内光政は・・・そうだなあ、長塚京三なんかがいいのでは?
ついでに言えば、わたし的には井上成美はやはり中井喜一一択。
柳葉敏郎は、表情でもあの渋い井上局長を演技してそれなりでしたが・・・
山本長官より背が低い井上成美というのは、いかがなものか。

この映画は、軍部の外の代表として「東京日報の編集部」と「町の飲み屋」をセレクト。
飲み屋のおかみやそこの常連、ダンサーのおねえちゃんに「一般の日本人」を語らせています。

そして、今回はどんな役をしてくれるのかといつも注目の香川照之は、東京日報の主幹、
世論をあおり戦争をあおり、マスコミの意見こそが国民の総意である、と、
選民意識まみれの傲慢な「マスゴミ」っぷりを、分かりやすく演じてくれています。
なるほど、マスコミが煽ったゆえ世論は戦争に傾いていった、という説は、いまやこのように
映画になる程度には既成事実として認識されているってことですね。

おそらくほとんどのマスコミ人種がそれを判ってやっているというとも、
そして、たった一人の力ではその大きな流れを変えられないというところも、
今と一緒、ということなんでしょうね。
今のマスコミ人種がどの程度過去の反省から危機感を持っているかは全く別問題ですが。

ちなみにここでその流れに疑問を感じる代表が、若い記者の真藤利一なのですが、
名前からお分かりのようにこれは半藤利一さんの分身として登場します。
半藤氏は終戦時15歳ですので、モデルでも何でもありません。
男前すぎるだろの4傑に入れてしまったのは、まだご健在の半藤さんにも大変失礼ですね。
因みに半藤氏は編集者であった若かりし日、なかなかのハンサムでいらしゃいます。
ただ、まあ阿部寛玉木宏はイケメンすぎて誰を演じても大抵こう言われてしまうかなと。

さて、五十六好きの作った映画ですから、
五十六を魅力的に描くことに力を入れている様子がそこここに伺えるわけですが、
過去、五十六のお茶目部分をどう表現するか、については
例えば三船敏郎バージョンでは船の上で逆立ちさせるエピソードなどがありましたが、今回は
「山本五十六の食いしん坊バンザイ!」路線できました。

この役所五十六、やたらものを喰うんだ。
軍令部の長門(だったかな)の食事のときに、故郷から送らせた水餅に砂糖をたっぷりかけて、
気味悪がる皆さんにすすめながらパクパク。
同期の失脚した堀悌吉元中将の家で西瓜をシャクシャク。
真珠湾成功のパーティーの次室で干し柿ムシャムシャ。
どう見ても甘党ではない三宅参謀を無理やり汁粉屋に連れ込んで汁粉ずーずー。
一家のよき父五十六、「味噌汁から食え」などと子供を躾けつつ、
小さなちゃぶ台を四人で囲んでつつましいご飯ほそぼそ。
そして極めつけは、ミッドウェーで失敗し責任感で消え入りそうになっている南雲忠一中将
「まあ食え」とお茶漬けさらさら。

なんでこんな喰ってばかりなの?

いちいち、何か、五十六のキャラクターとか、心情とか、そういうものがこめられていて、
あまりにもこの「もの食いシーン」に、いろんなメッセージを込めすぎてないかい?
一つの映画にせいぜいこう言うシーンは一つ二つで良いんでないかい?
とついつい思ってしまいました。

なぜなら、超余談ですが、エリス中尉、昔相手の食事の時の咀嚼する音が酷過ぎて、
最初のデートでふったことがあるというくらい、ものを食べる音が生理的に嫌いなの。
なのに、なのに、この映画では
「ずるずるー」
「くちゃくちゃ」
「ぞぞぞぞー」
が、やたら「いい音」で次々と出てくるんですもの。
背中のさぶいぼが消える暇がなかったわ。

お茶漬けすするシーンは、南雲中将役の中原丈雄さん、非常に思い入れがあり、
プレッシャーでもあったので「本番で涙が出て来なくて困り果て」、
監督の「結構です」と言う言葉に、終わってから涙がでたという、
まあいわば渾身のシーンだったそうなのですが、
中原さんには初めてのことでも、観ているこちらは「うわ、またかよ」みたいな、
そう、五十六がお茶漬けを勧めたとたんにその展開が読めてしまってうんざり、みたいな。

お約束が多すぎる(少女の髪留めのシーンとか)のが、監督の力量の限界、
なんて言ってしまったら少し厳しすぎるでしょうか。
でも、あまりにも流れが読めてしまうって、映像作家として明らかに創造力不足じゃないですか?


でも、これ、このお正月にすることが無ければ、是非映画館で観ることをお勧めします。
メインではありませんが、艦隊のシーンや、航空戦のシーンの特撮、CGが、
「おお、時代はここまで来たのだ」と感慨深く大画面で観られるからです。

大和や、空母の甲板から発進する零戦、
そして何より山本長官機がジャングルの中に消えて行き爆発する瞬間。
リアリズムを超えるのが特撮、といいますが、これだけでも観る価値があると思います。
(お好きな方には、ですが)
CG協力はあの栃林秀氏。

その「山本長官機墜落の瞬間」ですが、いきなり美しいアコースティックの音楽が・・・・。
そして、「連合艦隊」の「群青」、「大日本帝国」の「契り」のノリだと思うのですが、
小椋佳「眦(まなじり)」というそれらしい、実にそれらしい歌がエンドロールで流れます。
(小椋佳、もしかして歌唱力落ちた?)
これは少し時代に逆行してるかも、と思いながら観ていて、ふと気付くと、
前の席の上品な老夫婦(すごく仲良しそうな)の、奥様のほうが、
眼をハンカチで拭っておられました。


この辺の歴史にそこそこ詳しくて、出てくる人名すべて「初耳」とかではない方であれば
いろんな意味で楽しめる映画だと思います。
DVDで観るのではなく、ぜひ映画館に観に行くことをお勧めしておきます。

 

 

聯合艦隊司令長官 山本五十六 ―太平洋戦争70年目の真実― - goo 映画


軍鶏よ何処かで待っていてくれ

2011-12-27 | 海軍人物伝

入谷清宏大尉
大正7年8月3日生まれ 海軍兵学校67期
宇佐、霞ヶ浦、横須賀海軍航空隊附兼教官を経て第502、第755、偵察第102航空隊長
昭和19年7月14日、哨戒任務のためペリリュウ基地発進のまま消息不明
敵機と交戦 戦死と認定 戦死後昇進、海軍少佐



兵学校67期の肥田真幸大尉のいうところの「悪童三羽ガラス」、
入谷、肥田そして渡辺一彦少尉は、延長教育終了後、級友が戦地に行って戦っているのに、
霞ヶ浦の飛行学生教官に残され大いにくさっていました。


この三人が土浦の街を夜な夜な暴れまわるその過程で、貴公子の容貌を持つこの
入谷少尉を偽殿下に仕立てあげ、二人はお供としてかしずいていたのですが
「この宮様がお供以上にキタナくて」(肥田大尉談)きっとレスにはばれていたに違いない、
という話を「搭乗員のユーモア」の日にしました。


入谷大尉の写真は、クラス写真以外ではこの写真しか手に入らなかったのですが、
横向きではっきり見えるその鼻筋の通ったシルエットは
「土浦の貴公子」←エリス中尉命名
の名に相応しい気品を湛えています。

しかし、この貴公子は酔うと少し品を落としたものの、
穏やかでさっぱりしていて人付き合いのいいユーモアあふれる好青年でありました。


友人と一緒に満員の横須賀線の満員電車に乗った入谷大尉、乗客に向かって
「みなさん、出っ張ったところとへこんだところを突き合わせ融通して、
ずーっと奥へ詰めてください!」

電車中が大笑いになったそうです。



この入谷大尉は当時の飛行学生がほとんどそうであったように熱烈な戦闘機志望でした。
母上に向かって自分の宙返りを天覧に供したいものだと冗談に言うほど自信もあり、
また台南空の笹井醇一中尉とは飛行学生時代はよきライバルを自任し、
操縦ではよく張り合ってお互い負けまいと努力しあった仲でもありました。

しかし、入谷少尉は艦攻専修、笹井少尉はご存知のように戦闘機専修を命じられます。
ガッカリして落ち込んでいた少尉を親身になって慰めたのがその笹井少尉でした。
「涙が出るほどうれしかった」と入谷少尉は語っています。


台南空に赴任した笹井中尉が一足先に戦地に出ることになりました。
十二連空卒業試験前夜、「なるみ」で飲みかわしたのが二人の最後の邂逅になります。

「俺は往く。
しかし、艦隊決戦の最後のとどめを刺すのは貴様の雷撃だ。
悲観するな、焦らずしっかりやれ」



こう言いのこし戦地に赴いた笹井中尉の活躍ぶりは、次々と戦地から入谷中尉の耳に
報ぜられて入ってきていました。
その華々しいしい戦いぶりを、羨ましく思いながらも武運長久を祈っていた入谷中尉でしたが、
ついに昭和十七年八月二十六日、笹井中尉が戦死したという悲報に接します。

「彼の武人としての短くも花々しい人生が、もっとも彼に相応しいように思われるのが
一層悲しく感ぜられる」


戦死の報を受けて笹井中尉に寄せる回顧録に、入谷中尉はこのように記しました。

その入谷大尉は家族に向かっては
「自分は最後の切り札だから、自分が出るようになれば戦争は終わりだ」
と相変わらず冗談のように言っていたのですが、
南方の戦地で厳しい戦いを余儀なくされていたようです。

映画「雷電隊出動」にも描かれていたように、戦地では飛行機が不足していました。
この映画の「川上」のように、入谷中尉も飛行機を取りに日本に帰って来たことがありましたが、
その姿は家族の目にも「あわれに痩せはてて」いたそうです。

整備する人も無く、一カ月かけてやっと数だけ揃った埃だらけの飛行機を揃えて再び、
「全滅すること三回」という最前線(ペリリュー島)へと戻って行きました。

これが入谷大尉の最後の帰国になりました。


「途中で振り返ると、着いてくるはずの僚機が一つ、二つと消えているのを知ったときは
隊長としてたまらない気持ちだ」

「作戦上の指令とあらば、
探知機ですぐやられると決まっている方へも飛ばなければならない」


こんなことを家族に語っていったそうです。


入谷少尉には陸軍に行った兄がおり、幼いころから二人とも秀でた優秀さを噂されていました。
彼らの祖母などは、いつも学校では成績人格ともに教師から絶賛されるこの兄弟が自慢で、
「いつもほくほくしていた」ということです。
入谷少尉と前後してこの兄も戦死しています。



笹井中尉死後、一足、ほんの一足早く散った級友に向けて、
入谷大尉の遺した追悼文の一部をそのまま最後に掲載しましょう。


彼はついに「ソロモン」の花と散ってしまった。
彼の戦死の報に接し、無限の感慨の中に燃え出ずるものは唯、雪怨の炎であり、勃々たる戦意であった。

今こそ我等の出撃すべき秋である。
六十七期搭乗員の残党は未だ未だ健在である。
今は亡き戦友の屍を乗り越え乗り越え突進し、
必ずや仇敵米英に最後の止めを刺し尽くさねばならぬ。


「しゃも」よ。
何処かで待っていてくれ、共に勝利の美酒に酔わん日まで。










重巡洋艦アストリアの運んだもの

2011-12-25 | 海軍

  

ここのところ何日かにわたって、酒巻和男著「捕虜第一号」について書いてきました。
その中で、酒巻少尉が、リビングストン収容所の所長であった
司令官ウィーバー大佐から

「私の弟は海軍大尉であったが、サポー沖で戦死してしまった」

と聞く話があります。
ウィーバー大佐の弟は、重巡洋艦「アストリア」乗組でした。

アストリアは1934年就役、1942年8月9日、第一次ソロモン海戦で戦没しました。
弟ウィーバー大尉の戦死したのもこのときであろうと思われます。


重巡アストリアは真珠湾攻撃当日はミッドウェーに向かう航路にあり、攻撃を免れました。
その後、南大西洋、珊瑚海海戦、ミッドウェーと武運強く戦い続けた艦でしたが、
このソロモン海戦では、三上軍一中将率いる第八艦隊の砲撃のうち一つが中央部に命中。
飛行機格納庫が炎上したので、第八艦隊からサーチライトいらずの砲撃を受け、
鳥海の砲塔に被弾せしめる反撃をしたものの、火災は爆発を誘引し、沈没に至りました。


このアストリアと云う名前に、わたしは昔から聞き覚えがありました。
五・一五事件で青年将校に「話せばわかる」と言い、
その後暗殺された犬養毅首相の孫、犬養道子氏の自伝「ある歴史の娘」を読んだ時、
忘れられない印象を残したのがこの巡洋艦だったのです。

「ある歴史の娘」は、単なる自伝ではありません。

当時の綺羅星のごとく歴史の中心に輝いていた人々、
汪兆銘、尾崎秀美、岸田劉生、梅原龍三郎、石井桃子などの名を
ごく近い身の回りに知る「歴史の娘」犬養道子さんの語る証言です。

高校時代、夢中になって読んだものです。

なかでも道子さんが「素敵な博おじさま」と呼ぶ、
駐米大使斎藤博(画像)の話は印象的でした。

頭がおそろしく切れ、優れた見識と、度胸を持つ、真の国際人。
ルーズベルトとはハーバードでの「俺おまえ」の仲。
政府要人からドアマンに至るまで、彼を知る人すべてのアメリカ人が

「He's a good fellow!」

と言ったという、国際的ナイスガイ。

海軍の誤爆事件、「パネー号事件」では、本国の指示を待たず、
独断でラジオの時間枠を買い取り、独断で謝罪をし、平和的解決を訴えた、
まさに行動力の「ぱねえ」(←一応シャレ)外交官でした。

コールマン髭にアメリカ仕込みの洗練された身のこなし。
知的でありながら、そのものごしに漂う江戸っ子の「粋」。
少女の道子さんにとって

「理想の男性像は、博おじさまプラスアルファ」

だったそうです。


その駐米大使斎藤博は

「夜も寝ないで仕事しているらしい」「血を吐いたらしい」

と、親族が眉をひそめるほど、悪化しつつある日米関係の改善のために
奔走しますが、遂に激務がたたって在任中にワシントンで客死します。

1939年のことでした。

このとき、その悪化の一路をたどる関係であったアメリカ政府は、
アストリア号に、一外交官に過ぎない、しかし全てのアメリカ人に愛された、
斎藤博の遺骨を抱かせ、日本に送り届けました。

アストリア号は、出迎えの軽巡木曽と礼砲を二一発交わした後、
日章旗とアメリカ国旗を半旗に掲げて横浜港に入港しました。

その日のうちに、斎藤大使の遺骨の引き渡し式が行われたのですが、
遺族であった道子さんは、そのとき、斎藤大使未亡人であるおばを、
丁重な、しかしレディスファーストの自然に身についた、
洗練された身のこなしでエスコートする海軍次官に目を留めます。

「だれ?あのスマートな軍人」

「五十六」

父は言った。

「山本五十六」

このとき、日本国民はこぞってアストリア号とその乗員を歓迎しました。
各方面で催される晩さん会、各地への観光に彼らを案内し、
ちょうど桜の季節でもあった日本の美しいところをくまなく彼らに見せ、
喜んでもらおうと最大のもてなしをしたのです。

現在、アストリア号乗員が雷門や皇居、靖国神社、銀座の夜店を
「おのぼりさん」状態で、眼を輝かせて観ている写真が残されています。
どの写真も・・・・軍人と言うには幼い少年も、きりりとした士官も、
一様に日本を心ゆくまで楽しんでいるのがそのはずんだ表情に見てとれます。

酒巻少尉のいた捕虜収容所長だったウィーバー大佐の弟である海軍士官も、
のうちのひとりでした。

季節は四月。

ちょうど満開の桜に彩られ、彼等は最も美しい日本、
もっとも日本らしい日本を満喫したのでしょう。
そして朝野の人々から熱狂的な歓待を受けた大佐の弟は、
桜咲く日本をいつも称揚していました。

弟が死んだとき、私は日本軍を激しく憎悪したのである。
斎藤大使の遺骨を持ってアストリアで日本を訪ねた弟は、
そのアストリアと共に、
日本軍の手によって、
ソロモンの海に沈んでしまった。

弟の死を思えば、日本人は憎い敵国人である。
しかし、弟は、ずっと桜咲く日本を愛し、
日本人を自慢していた。


だから、収容所司令官たる私は、真の日本人を理解し、
その職務を全うしたい。


険悪にありつつある相手国の、しかも一外交官の客死に対し、
軍艦で丁重に遺骨を届ける。
斎藤博大使がそれほどまでにアメリカ国民から愛されていた、
というのは事実です。

そして、このアメリカの誠意に、当時の日本人は感激しました。

しかしながら、これはもとはと言えば、1926年、
当時の駐日大使バンクロフト氏が日本で客死し、我が海軍の軽巡洋艦多摩が
遺体を礼送したことに対する返礼でもあったのです。

憎しみの連鎖からは何も生まれないとは言いますが、
誠意と礼節の連鎖は、
かくのごとく・・・・一触即発の両国間の感情すら、
一瞬とはいえ、
融和へと変化せしめたのです。

親族である犬養道子さんは、この両国の人々の無邪気な熱狂ぶりに、

「おそらく博おじさまがこれを見たら、皮肉に笑って、
『よせやい、何をはしゃいでいるんだ。それよりヒットラーと手を切れよ』
と言っていたに違いない」

と書いています。

斎藤博大使が過労死してまで何をしたかったかと言うと、
その後避けられなかった日米両国の衝突の回避だったのですから。

しかし、

「弟がかつて愛した国だからこそ、敵でも憎しみにとどまらず理解したい」

などと考えるウィーバー大佐のような人が、もし「一人ではなかったら」・・・。
アストリア号の運んだものが、両国を一瞬でも変えたように、
人間の理性と、知性から生まれるお互いの尊重は、
もしかしたら争いそのものを防ぐこともできるのではないかと・・。


重巡洋艦アストリア。

今日、クリスマスにその名前を思い、まるでジョン・レノンの歌の歌詞のような
「夢想」をしてしまったわたしです。





幸せの勝ち負け

2011-12-24 | つれづれなるままに

拾い物ですが、読者のみなさんにクリスマスプレゼント。
全く内容とは関係ないのですが動画が貼れるかどうか試しにやってみました。
先日gooブログでは動画の添付を終了してしまいましたから、これが最初で最後の動画です。


もしもし~頭濡れてますよ~。


さて、いつの時代も流行りの言葉には何かしら胡散臭い「流行らせ臭」が漂っています。

「草食系男子」
「女子力」
「愛され服」
「男子会、女子会」
「婚活」

どれもこれも、新しいムーブメントなどではなく、いつの時代にも存在するものばかり。

ギラギラしていない男性、女性としての総合的な魅力、男の子に受けのいい服、
同性だけの集まり、伴侶を探すための活動。
単にこれらにつけられた便利な「タイトル」に過ぎません。

特に草食系、という言葉ですが、わたしは少なくとも昔から普通に使用していました。
うちのTOはきっぱりと草食系、肉食系と分かれた集団どちらともお付き合いがあります。
職種をはっきり言えないのが残念ですが、草食系=学者タイプ、肉食系=実務タイプ、ってことでご理解ください。
ちなみにTOは基本草食系男子です。
結婚式のとき、二次会を某有名ライブハウスでとり行ったのですが(もちろん新婦側総出の大ライブ大会)、
お酒が入ってもあくまでも和やかに、さざめくように歓談している草食系に対し、
会が進むに従ってやたらプロ演奏中の舞台に突入し歌に踊りを披露しだす者続出の肉食系。
会場は肉食有利の3対1くらいの割合で、きっちりと別れて座っていたのですが、
後からTOと「席がどこから草食でどこから肉食かはっきりわかるほどノリが違ったねー」
と感心したものです。

これが12年前のこと。
ウィキペディアによると、最初にマスコミに「草食系」と言う言葉が現れたのが2006年だそうですから、
7年ほど先取りしていたことになりますね。

だいたい今更「草食系男子が」と言われたところで、
「まあ、そういう男性は必ず一定数いるけど、皆ってわけでもないし」
としか言いようがありません。
世情世相で流行りのタイプと言うのは変わっていきますし、
そのボリュームゾーンにどういうタイプが来ているかというだけの話ではないでしょうか。
「今の男子は草食系だから頼りない」
なんて女性が口をそろえて言うなんて話も、一昔前
「いい男がいないのよね」とか、
「三高男性でないとダメ」
なんて女性全部が言っているようなことにしていた「誰か」の創作ではないかと思っています。

誰かとは誰か。
一言で言うと「マスメディアの中で垂れ流され、なんとなく市民権を得た事共を
さらに繰り返しなぞって既成事実にしていく発言者」
というところでしょうか。

・・・全く一言で言えてませんが。

というわけで、流行りの言葉には全く「言霊」が感じられないゆえ反感しか感じないのです。
つまりありていにいえば「嫌い」ってことですね。
嫌な感じ、というと、バブルの頃の「アッシー」「ミツグ」なども大概でしたが、最近では、
40歳過ぎて若々しい女性のことを「美魔女」と言う某雑誌が売り出そうとしているこの言葉が、
何とも言えないいやーな響きです。
しかし、一時やたら言われた「勝ち組」「負け組」と言う言葉ほどその胡散臭さ満点の、
なんというか、人の心を逆撫でするような嫌な言葉はなかったのではないでしょうか。

これもつまりは草食系のように「金持ち」と「貧乏」を流行りの言葉で言い変えただけです。
しかし、言い変えるのみならず「金持ちは勝ち」「貧乏は負け」とはっきり金銭の多寡で勝敗をつけてしまったあざとさ。
近来稀に見る品のない言葉だったと思います。

この言葉もネッシーのように実態のない、マスコミの作りだしたものだったのでしょうか。
驚くことに、わたしはリアルでこれを口の端に乗せた人物と相対しました。

相手は息子の同級生の母親。
流行りの言葉で言うとママ友ですが、友達ではありませんので念のため。
何かあって一緒に食事したときに、子供の進学や将来についての雑談になりました。
その時彼女が
「いい大学出ていい会社に入ったって、サラリーマンじゃ一生勝ち組にはなれないわよね」
と言ったのです。
かなり驚きました。
ちなみに彼女は日本語は喋るが日本人ではなく、職業は何をしているのかは知りませんが、
家は田園調布、車はメルセデス。
おそらく自分は勝ち組だという前提で話していたのだと思います。

「勝ち組、負け組」にはそれ以上の説明はありません。
つまりそれがイコール幸福の勝ち負けなのかについては全く意を異にするようなのです。

そこには「清貧」「金持ちだが不幸」「自由業で不安定だがやりがいのある仕事があって幸せ」
「暖かい家族に恵まれた普通のサラリーマン家庭」
そんな幾多の幸不幸の形など全くお構いなしの、雑駁で乱暴な二元論があるばかりです。

経済の低迷と震災に続く混乱で、少なくともこのような言葉が生きていくような下地が
世間からきれいさっぱり消えてしまったのは、不幸中の幸いというものかもしれません。

ところで「不幸は比較できるが、幸福は比較できない」という言葉を聞いたことがありますか?
言ったのは、今思いついたわたしです。

「私はこんなに不幸だが、あの人たちに比べればまだ幸福だ」
こういう場合、自分は既にマイナスの場所に立っていて、より不幸な方を見ることによって自分を慰めています。
しかし「私は幸福だ」と真に思う場合、それは絶対のものであって、
より上の幸福や、ましてや少ない幸福と比べる意味もなければその必要もないわけです。

「人間も本当に下等になると、
ついに他人の不幸や失敗を喜ぶこと以外の関心をなくしてしまう」

ゲーテの言葉です。
「勝ち組」とは、もしかしたら、他人を蹴落としたり出しぬいて、
自分の立っている場所を相対的に高めることで、幸福を感じているに過ぎない愚者を、
今風に言い変えたものなのかもしれません。
真に幸福を感じる人はたとえ金銭的に恵まれていても自分を勝ち組とは称しないでしょうしね

案外二重構造の深ーい造語だったりして・・・・。

あ、ただ、お金では幸せになれないけど
「最大限の不幸を軽減することはできる」「金銭的安定の上に初めて幸福も成り立つ」
という、某女性エコノミストの意見には賛成します。

では、クリスマスイブ、頭濡らしてる猫でも見て一緒になごみましょうか。
メリークリスマス!

 



戦艦三笠を観に行く

2011-12-22 | 海軍

2011年3月10日。
その翌日何が起こるのか、神ならぬ身で知る由もないエリス中尉は
(この表現が多すぎる、って?今回だけは冗談ではありませんのでご容赦を)
一日のオフを利用して単身横須賀に向かいました。

ちょうど「軍艦マーチ」について書こうと思っていたので、三笠公園にあるという「行進曲軍艦の碑」
の写真を撮る、というのが主な目的でした。
そして、その写真を載せた記事をアップしたその日、東日本大震災発生。

三笠公園を探訪して戦艦三笠見学をした報告をしないままに時間だけが過ぎてしまいました。
今日はそのときの写真を淡々を貼りつつ、あの日を振り返ってみます。



このでっかい錨は、米海軍基地の入り口にあるもの。
実は横須賀が初めてのエリス中尉、「こちらが三笠公園」という標識をもとに道を左折し、
その後道なりに進めばいいものを、左折したまままっすぐ基地の通用門につっこんでしまったのです。
料金所のようなゲートにアメリカ人がいるのを見て間違いに気付いたのですが、
わたし以上に困っていたのは新兵さんらしい若いアメリカン・ネイビーの門番。

「Ah-....」
まいったなー、
まだ配置についたばかりで日本語なんてわからないのに日本人突っ込んできちゃったよー、
これもカミカゼってやつか?ちょっと違うか?
何て言やわかってもらえるんだろコレ、日本人、英語わからないヤツ多いしなあー、

みたいな困惑の表情を浮かべているので、エリス中尉、
決して己が米海軍にとって有害な存在ではないということをアピールするべく、
「Oh,did I make any mistake?」(何か間違っちゃいましたかねー)と言うと、門番くんほっとして、
「あー、英語しゃべるんだ、よかったー。ここ後戻りできないから、中にいったん入ってUターンしてきてね」
といい、さらに
「英語うまいねえ、アメリカ行ってたことあるの?」
「住んでたけど、ちょっとだけですよ」

などと、意外なところでアメリカ海軍と触れ合いが。
その後、「トモダチ作戦」で、頑張ってくれている米海軍の活躍を知るにつけ
「あの門番くんはどうしているのかなあ」などと考えたものです。

 

そして三笠記念公園に到着。
改装工事中でブルーシートが・・・(T_T)
まあ、まともな写真はいくらでも検索できますので、このときはこうだった、ということで。
それにしても、後ろのアパートが実に目障りだわ。

あの日このマストに(厳密にはこれではありませんが)掲げられたZ旗は、
今日も横須賀の空に翻っています。
 
このZ旗の期するメッセージ、これが秋山真之(右)の草案であったということは、
もう今や皆さん「坂の上の雲」でご存知ですね。
ちゃっかり掛け軸の書にしてしまっている東郷平八郎。
「本日天気晴朗なれど波高し」も、秋山参謀の作ですが、
東郷が発した命令なので、著作者の了解を得ず、自分のものにしてしまいました。

東郷平八郎と言う人物は、時々隙を見せる放言をかましていますが、そのうちの一つ、
「死にたくなかったら陸軍でなく海軍に入れ」(学習院での講演)というのは、
乃木希典を随分と怒らせたようです。

井上大将なども「東郷元帥が平時に口を出すとろくなことにならなかった」などといっており、
秋山参謀という超キレ者で腕利きのディレクターがいなければ、東郷はその神話とともに
「世界三大提督」とまで言われたかどうか?とつい思わないでもありません。
(体質と状況により感想には個人差があります)

 

公園内にはこのような意味不明のアーチと、こちらは意味のある「行進曲軍艦の碑」など、
いろいろなオブジェもあります。
この「軍艦の碑」は、建立に際してかなり執拗な反対運動が起こっただけでなく、
いったん完成した碑の歌詞部分が何者かによって塗りつぶされるという事件が起き、
現在の碑は「修復後」のものとのこと。
「完成」ではなく「修復」となっていることにご注目。
こういう「反戦」的な一派のすることって、行動自体が全く平和的でないことが多いんですが、
その辺の矛盾についてどう思っているのか、少し関係者に聞いてみたい気がしますね。

 

入る前にこの海戦で我が方にに着弾した?砲弾がこのようにいくつか展示されています。
左は(読者の方のご指摘によると)九一式徹甲弾のもののようですが、パンフレットにもこれについては全く書かれていなかったので、確かめられませんでした。
気になった方は、各員一層奮闘努力して調べてみてください。(←投げやり)

さて、いよいよ三笠艦内に入っていきますよ。

入ってすぐお迎えしてくれるのが通信将校なのですが、人形が不気味・・・。
見えないのをいいことに顔も描いていないんではないかと思います。
この艦内の展示は、三笠の参加した海戦の記録を中心に、
艦内での将兵たちの生活を伝えるものとなっており、
当時着用された軍服(実物)なども展示されています。 
 

陸軍マントには萌えますが、海軍マントもかっこいいですね。
そして、この展示のメインは、海軍史上でも例を見ない圧倒的な大勝利であった、
日本海海戦を伝えるあれこれ。

 

ボタンを押すと、時系列で海戦の各艦船の動きが下の海部分に模型で表わされ、同時に、
正面パネルの動きで「東郷ターン」などが示されます。
さらに、右の各艦船横のランプの色で撃沈されたなどという状況が分かるようになっています。
これを一回見れば、文章で読むよりはるかに明快にその流れがわかるという仕組み。
 
駆逐艦「漣」「陽炎」によって捕獲された「ベドウィ」が揚げた白旗。
まさかバルチック艦隊が白旗を必要とする事態になるなど想像もしていなかったのでしょうか。
白旗をもたないベドウィ号はテーブルクロスをマストに揚げました。
そのクロスがここにあります。



そのベドウィ号には重傷を負ったロジェストベンスキー中将が乗っていました。
病院に中将を見舞う東郷長官。
水師営の会見と同じく、武人の尊厳を重んじたこの見舞いに、中将は深く感動したということです。
 

最近検索ワード急上昇?広瀬中佐の着ていた柔道着と、軍歌「広瀬中佐」。
最下段、♪杉野はいずこ~のところがどうしても「♪三時のあ~な~た~」になってしまうのは、
わたしだけでしょうか。

日本海海戦ではロシア側の戦死者4545名、対して日本側は116名です。
この数だけ見ても日本側の圧倒的勝利だったことが分かりますが、それでも百名余の人命が失われたのです。

亡くなった戦友の棺と共に記念写真。
真ん中でスマキになっている人がいますが、おそらく骨折して動かせない状態なのでしょう。
前列で何かを手にしいる水兵は死んだ水兵と親しかったのでしょうか。
うつむいて目も上げられない彼の表情に、友を無くした悲痛が見てとれます。

この水兵や将官がどのように三笠内で生活していたかを伝える展示もあります。
 
水兵たちのハンモックと、便所。
第二次大戦の頃の艦船は、下士官以下の便所には全く仕切りが無かった、という証言もありますから、
明治時代のこの三笠の方が、まだしもプライバシーは確保されていたということでしょうか。

 
勿論将官はこのような個室と、専用のバス・トイレが使用できます。
 
元帥始め幹部の食事の支度をする台所。
棚に穴をあけ、お皿が動かないようにする工夫が。

 
三笠の軍楽隊員は、本来の仕事のみならず、開戦の際の砲弾運びや通信において、
立派な働きをし、何人も戦死したそうです。
楽器や、行進曲軍艦の総譜が展示されています。
 

この三笠は、1922年のワシントン軍縮会議で廃艦に決まったのですが、
記念館として保存すべし、という声が内外に起こりました。
戦列に復帰できない形(海底に固定してしまう)で保存することが軍縮会議で満場一致の上決定しました。

昭和20年の敗戦後。
連合軍の進駐により、三笠はマスト、各砲、煙突など、上甲板構造物を全て撤去され、
何とダンスホール(キャバレー・トーゴー)や水族館が設置されたというのです。

「日本のバルチック艦隊への『侵略』に対する報復だ」と、
ルール無視で終戦間際に参戦してきたロシアはその言い訳にこう言ったそうですが、
案の定その後三笠の廃艦を要求してきたそうです。

どんなことをされてもうつむいて屈辱に耐えるしかない当時の日本人でしたが、
三笠の運命を救ったのは、意外や元敵国人でした。
まず、イギリス人のジョン・ルービン氏が、三笠の荒廃ぶりに慨嘆し、それを新聞に寄稿。
そして、若き日に東郷平八郎に会い、英雄として尊敬していたチェスター・ニミッツは、
三笠の修繕のためにポケットマネーを送り、復興に協力しています。


ニミッツはじめ米海軍は「東郷」に関するものにGHQといえど手を出させなかったそうです。
東郷神社が残されたことからもお分かりでしょう。
バルチック艦隊もそうですが、戦った当人たちであればこそ勇猛な軍人は敵でも讃え、
さらに敗者を貶めることを潔しとしなかった、ということでしょうか。


さて、見学が終わり、横須賀名物のカレーでも食べて帰るか、と立ち寄った喫茶店。
 

店内は、三笠見学後のおじさんたちで大盛況でした。
三笠内もこのような年齢層の見学者が多く、これも「坂の上の雲」効果かなあと思った次第です。

そして、忘れちゃいけない、お約束のお土産。
もう最近「どんなものが食べたいか」ではなくあくまでもウケを狙って選んでいますので念のため。
見ての通り、三笠砲弾豆。
Z旗をつけて彩を与えていますが、砲弾ですから真っ黒の豆です。
中は大豆にコーティングしたもので、素朴なお味が結構でした。
そして、これ。
ただの「おこし」(大阪名物?)の包みに取ってつけたように海軍旗を貼り、
賞状のようなカードには何と「五省」が書いてあります。
海軍旗と五省をとれば、普通のおこしに早変わり。
これ、商品名、何だと思います?

「総員おこし」



・・・・・・・・・・・・・・・。



映画「サラの鍵」~彼女はサラと云った

2011-12-21 | 映画

先週末、息子が友達の家にお泊りに行ってしまったので、久しぶりにTOとデートをしました。
まずは銀座にくり出し、美味しいと評判のモンブランをいただきにホテル西洋銀座に。
何しろわたしは「世界一モンブランに厳しい」と、家族の中では有名なモンブランおたく。
その厳しさたるや、パリのラデュレ本店のモンブランですら言下にダメ出ししたというくらいです。

「フランス産栗と季節限定の和栗のモンブランが、出来たてでございます」

というわけでどちらも注文し、TOと半分こして、どちらにも珍しく合格を出しました。
ケーキの美味しさの決め手、ってつまりお砂糖の分量なんですね。
栗はそれ自体甘いので、普通のケーキのように甘くしてしまってはくどくなってしまうのです。
甘さ絶妙、まことに「よくわかってらっしゃる」絶品のケーキでした。

ジンジャー紅茶やほうじ茶ラテにもすっかり満足して、さて、それでは銀ブラでもしましょうか、
と外に出かけたら、このホテルの建物内の「ル・テアトル銀座」でこの映画、
「サラの鍵」をやっているのを発見。
まだ始まって5分ということだったので、飛び込んで鑑賞しました。
おそらくこのような偶然のきっかけでもなければわざわざ観に行かなかったでしょう。
これが 「ストライプド・パジャマもの」と自分の中でだけ称する、
あるジャンルのものだと思い込んでいたからです。 

 
このジャンル名は「The Boy In The Striped Pajamas」という映画から生まれました。
ユダヤ人絶滅強制収容所の鉄条網ごしに縞柄パジャマ(囚人服)の少年と収容所長の息子が、
何故か仲良くなり、何故か脱走させるのではなく所長の息子が中に入り込み、
何故かユダヤ人と一緒にガス室に入れられてお父さんがっくり、という
「子供+ホロコーストもの」 の「なんじゃあこれあああ!」度マックスから来た、
エリス中尉の中だけに存在するカテゴリーです。
トレーラーで観るこの「サラの鍵」には、その傾向もあるように見えました。

しかし。

この映画にはいい意味で裏切られました。
これは「ホロコーストもの」ではなく、「真実を知る者の苦悩」を描くものだったのです。

主人公はフランス生まれのアメリカ人女性ジャーナリスト、ジュリア。
フランス人の夫の実家であるアパートに昔何が起こったかをふとしたきっかけで調べ出します。

その真実は、過酷なものでした。
1942年夏、ヴィシー政権下のパリ。
ナチスではなくフランス政府によるユダヤ人一斉検挙がありました。
1万3千人のユダヤ人が逮捕され、そのうち8千人がヴェルディヴ競輪場に6日間留めおかれ、
水も食べ物もなく、トイレすら使えないまま各地の強制収容所に行く順番を待たされたのです。
サラの家族もこの摘発に遭ったのですが、サラは弟を納戸に入れ、隠し、鍵をかけます。

「すぐに帰るわ」

親とも離れ離れになったサラは収容所から脱出し、逃げ込んだ農家の老夫婦の助けで、
弟を助けるために、何日もたってからアパートに戻ります。
サラの、老夫婦の、そこに2日前から
「ユダヤ人を追い出して接収したアパートに移り住んできた家族」の見たものは・・。

ホロコーストにかかわる部分はこういったものです。
前半、このような悲劇を描きつつ、アメリカ人ジャーナリスト、ジュリアが、
何故その事件にかかわったのかが、彼女の現在進行形の人生とともに、丁寧に語られます。

このドラマに出てくる人物は、収容所を脱出したサラ(画像)を含め、誰一人として幸せではありません。
サラと引き離され強制収容所で死亡した両親。
「私には何もできなかった。何ができたというの」と、自分に言い聞かせる悲劇の目撃者。
匿ったサラをその後も育てて愛情を注いできたのに、過酷な体験から立ち直れない彼女に去られ、
深く傷つく老夫婦。

ユダヤ人を追い出した家に引っ越してきたがゆえに、
鍵をかけられた納戸の中にあったものを見た、ジュリアの義父。
成長したサラと結婚するも、突然彼女を失うサラの夫。
自分の母親に何があったかを50年間、何も知らされていなかった、サラの息子。
「知ったからといって何も変わらない真実の発掘」にのめり込む妻を責めるジュリアの夫。


ジュリアがサラについて知れば知るほど、見つかる不幸が一つ増え、そして、
知ることによって不幸になる人間がいる・・・・・・。

それでも、ジュリアはその歩みを止めようとしません。
真実を知ることの痛み、知ってしまってから気づく「知らずにいることの罪」。

「それによって世界が変わるのか」という夫の問いは、ジャーナリストのみならず、
真実を知ろうとする、全ての人々が一度は自問するものかもしれません。
知ることによって、そしてそれを知らされることで誰一人幸せにならないどころか、
不幸になる者すらいるという、真実の残酷さ。

なぜそれにもかかわらず人は真実を知ろうとするのか。

この映画の邦題(英語題でもある)「サラの鍵」は、サラが弟を隠した納戸の鍵を意味します。
しかし、この映画を見る限り、この題はこの映画の本質を言い表わしていないと思えます。

原題「Elle s'appelait Sarah」、
(彼女はサラと云った、彼女の名はサラだったという過去形)
これから順次全国上映されていくので、この映画のラストシーンに大きくかかわってくる、
「彼女の名前がサラであったこと」の持つ意味をここで語ることはしませんが、
「真実を知らない自分より知った自分を肯定する」と同時に、自分の人生においても、
無より、有を肯定する勇気を選択をしたジュリアの心境を読み解くカギは、
文字通りの「サラの鍵」よりむしろこちらの原題にあるのではないかと、わたしは思います。


「可哀そう」「悲惨」に眉をひそめさせ、表層的な感情に訴える「泣ける映画」ではなく、
答えの出ない「何故私たちは知ろうとするのか」という永遠のテーマを解き明かそうとする、
心にずっしりと残る映画。
「イングリッシュ・ペイシェント」で、やはり複雑な心理描写を美しい映像に絡ませた、
クリスティン・スコット・トーマスの監督作品と知って、さらに納得しました。

サラ役の超絶美少女、メリュジェーヌ・マヤンスの子役とは思えない演技と、
そのエメラルドのような緑の目の、印象的な眼差しを観るだけでも価値のある映画。
4月までの間、あなたの街で上映されるときには、是非鑑賞されることを心からお薦めします。


あ、それからホテル西洋銀座のモンブラン、こちらも心からお薦めしておきます。

 

サラの鍵 - goo 映画


「捕虜第一号」~捕虜の階級

2011-12-20 | 海軍

酒巻和男氏が終戦後書いた「捕虜第一号」ですが、
勿論、わたしはここに書かれていることが、酒巻氏の捕虜生活の全てであったと
思っているわけではありません。

これが書かれたのは昭和24年。
東京裁判は前の年に結審し、いわゆるA級戦犯が市ヶ谷で処刑されたばかり。
元軍人は「戦犯」という言葉の響きにまだまだ身を縮める思いでいたでしょう。
酒巻氏は、幸か不幸か開戦第一日目にして捕虜になってしまったので、ある意味世間からは
「被害者」と見られる立場でもあり、この非常に早い段階での手記出版となったのかとも思われます。

しかし、当時はまだ日本は進駐軍の占領下にあり、元捕虜であった酒巻氏が書くものは、
当然のことながらアメリカの検閲下にあったことが予想されます。
酒巻少尉に対する虐待も、実際は無かったわけではないでしょう。
市ヶ谷でA級戦犯に対して必要以上に辛く当たるのも下級兵だったように、どこの世界にも、
そういうときにどさくさにまぎれてリンチもどきの虐待をする程度の悪い人間はいるものです。

ただ、そうでない部分を全く打ち消すような描き方、収容所全体でリンチが行われていたような
NHKのドラマ運びを、わたしは「偏向している」と指摘しているわけです。

因みに、ウィキペディアで知ったのですが、酒巻氏は、民放のドラマ化の許可に頷かず、
民放は「黙認されたと了解した」と強行に製作をしたという話があるそうです。

わたしが最初にした、
「酒巻氏がいなくなったからこそ、NHKはこのようなドラマを作った」
という指摘はどうやら正しかったようですね。

しかし、
「捕虜第一号」に酒巻氏が書けなかった「アメリカに都合の悪いこと」はあるとしても、
書かれていることは虚飾ではないと、わたしは考えます。
初版を読めば分かりますが、それが保身のため、あるいは占領軍の眼を意識して、
創作されたようには到底思えないのです。

酒巻少尉の眼は、あくまでも内省的で、本質を見抜こうとする真摯さに溢れており、
もしそれが嘘であれば、つじつまが合わなくなって論理すら破綻してしまいかねないくらい、
その書かれていることには「筋が通っている」ように読めるからです。



今日は、収容所生活での捕虜たちの「階級意識」についてです。
捕虜になっても、基本的に軍隊の階級は持ち越されます。
階級絶対の社会ですから、その中でも一番階級の高いものが指揮を執ることになり、
階級が上の者にはやはり絶対服従という軍隊式は生きていました。
これは世界共通で、捕虜を扱う米軍も、その階級を根拠にキャンプでの待遇を決めていました。

将校と申請すれば待遇が良くなることを期して、階級詐称をした下士官の話をしましたが、
彼等はその嘘がばれた後も、書類上の階級が変わらないので下士官扱いされなかった、
ということからもわかるように、「書面上の記録」は厳格だったようです。

ところが、この「軍隊」には大きな、深刻な矛盾が生じてきます。
収容所にいる間は階級は決して進級しません。
戦争が後半になって、後から捕虜になり護送されてくる者の方が上級である、という現象です。

例えば酒巻少尉は日本の捕虜第一号ですから、
同じ68期の豊田穣氏が中尉になってから捕虜として護送されてきたときは、
同期の豊田氏が上官となってしまっていました。

この二人のような士官同士はお互い分かっていますからトラブルもなかったのですが、
下士官の場合はそう言うわけにもいかなかったようです。
例えば終戦直前になってくると、2、3期若いのに予科練を出てすぐさま準士官になったものが、
進級しないままの兵の捕虜の前に現れてくるのです。

「二年も後から海軍に入籍して、下士官面するな」
ある時兵曹を殴った一水はこう言いました。
そしてキャンプで次に起こった殴打事件は
「陸軍の曹長のくせにキャンプでは上等兵と詐称したのは赦せん。英霊たちに謝れ」と、
海軍の一水が憤慨し、陸軍曹長を殴ったというものでした。
この際、階級を低く詐称するメリットは何だったのでしょうか。

いずれも事件はビリヤードの順番などでもめることをきっかけに起こっていたようです。
子供のけんかのようなきっかけでも一触即発の暴発を起こしてしまうくらい、
捕虜たちの不満のはけ口を抗争に求める気持ちが渦巻いていたのでしょう。

このとき捕虜になっていた軍人で一番位が高かったのは、海軍の某少佐でした。
それを不満に思っていたある陸軍中尉が、海軍の者が陸軍の者を殴ったこの事件を契機に、
陸海軍の指揮系統を分離しようと企てます。

「今陸軍の中には海軍に牛耳られていると感ずるかもしれん。
しかしそれは誤解であり思いすごしであーる。
陸軍で私より高級の人が入れば、いつでも城を明け渡す覚悟はできておーる。」

「謙譲の美徳を発揮すれば陸軍も海軍も無いはずであーる。
しかし、陸海軍を分裂させ、甘い汁を吸おうとするけしからんやつがおーる。」

このような訓示をし、この造反劇は一旦終了しますが、この直後、老少佐は氷上で転倒し、
心臓をやられて一時危篤状態に陥ります。
陸海軍の対立は自然沙汰やみになり、皆が気遣わしげに見舞いに訪れました。
その中には犬猿の仲であるはずの陸軍中尉もいたということです。


実際キャンプの中はうまくいくものではありませんでした。
歪みきった心は、ある程度以上元へは戻らないからだ、と酒巻少尉は考察しています。
約束のない自我は放縦に陥り、醜い自我は互いに衝突し、その結果、

古い者と新しい者、陸軍と海軍、階級固守者と打破者、武士道死守者と打破者。

このようなグループが反目しあい、陸軍が密会したとか、古残兵が謀議したとか、
面白くないニュースがしょっちゅう流れては、正当な警察権も制裁権もない士官グループを
悩ませていました。

某少佐の危篤状態が奇跡的に持ち直し、空気が再び飽和状態になったころ、
飛龍の生存者である古兵と、ソロモンの生き残りである若い下士官が、またもや
ビリヤードの順番をきっかけに爆発を起こしました。

「こんなことで、信頼を得てゐる米軍に恥を曝したくないからねえ。」

やはり飛龍の分隊長であった梶本大尉(これも仮名)は、「腹をくくって」総員を集合させ、
このように訓示しました。

「私はミッドウェーで捕虜となった。全く士官の面汚しだ。
あるいは皆に命令する権限は無いかもしれない」
「然し、私には軍人としての任務、キャンプ内の先任者として、
日本軍人らしい共同生活を保ち、
米軍の司令官に笑われないようにする義務がある」
「私は命令はしない。ただ皆に軍人としての自覚を訴えるだけである・・・・・」

落涙せんばかりに青ざめて、沈痛な面持ちでさらに梶本大尉はこう結びます。

「卑怯者の私も最近に至り遂に肚を決めた。
今後キャンプ内にこのような事件が再び起こったときには、
海軍大尉梶本秀雄は、もはやこの世から姿を消すものと思え」

激しい言葉と梶本大尉の悲痛な面持ちに声も無い一同でしたが、それを横で聞く酒巻少尉は、
少佐の危篤の後もそうだったように、また二週間もすればまたこのような事件が起こり、
もしそうなったとき、梶本大尉は本当に腹を切るのだろうか、と虚無的な思いを抱えていました。

然し、幸か不幸かその心配は杞憂に終わりました。
その直後、士官だけが司令官の命令により、キャンプを移ることになったのです。

そうこうするうち、新しく来る捕虜たちによって、キャンプ内の空気が変化してきました。
召集され無理やり戦地に送り込まれ、日本の敗戦をすでに確信する彼等は
「早く負ければいい」
「日本に帰ってひと儲けしたい」
「捕虜になって死ぬ心配がなくなってこんなうれしいことは無い」

等々、大声で話すような「新人類」に思われました。

彼等を、酒巻少尉は「古いイデオロギーや軍人精神を超えて新しい考えを取り入れた人々」
と考察し、良くも悪くも人間の本心の叫びに忠実な人種であることを発見します。

そして、鉄条網の中のここ「日本」では、いつのまにか、自然に、
いままでキャンプの中で存在感すらなかった、医者、技術者、商人といった職業を持つ者が、
次第に大きい勢力を持つようになってきました。
誰が言うともなく、時勢が変わるように、彼らの方が軍人より偉いのだ、という空気が、
収容所全体を覆いはじめていたのです。

軍人である酒巻少尉ですらも、その空気を自然に受け取りました。
そしてかれは、アメリカという国にいながらじっくりと思索に取り組む時間の中で、

比較的鮮明に、誤りなく、そして穏やかに、自分を変へていけたのかもしれない。
せめてそれが、私の大きい喜びである。
そしてそれが、結局私達捕虜の、唯一の収穫であったのかもしれない。



その捕虜生活をこのように結論づけてこの章を終えています。








特殊潜航艇は攻撃に成功したのか

2011-12-19 | 海軍

 
先日江田島の旧海軍兵学校跡見学のときに撮った、潜航艇の写真です。

8の字の形の魚雷発射口が大きな特徴です。
昭和30年、アメリカ海兵隊によって真珠湾口の海底で発見され日本に送られました。
それにしても、この、まるで中学の技術の時間に生徒がでつくったかのような歪なハッチ。
いくら大戦中のものとはいえ、この技術大国日本の武器とは思えない、
やっつけで作りました感満載のでこぼこの壁面を見ると、その拙い作りの小さな、
「棺桶のごとき」潜航艇に身を委ねて往った若者たちの、命と引き換えに託された思いと、
失われた彼らの未来から、何か重い責めを与えられるようで、思わず胸が苦しくなります。

ここのところ、「義を見てせざるは勇無きなり」という一心で、
感動歴史捏造ドラマ「真珠湾からの帰還 捕虜第一号」を糾弾しています。
勿論、ただ糾弾するのではなく、あまり世間に膾炙していない、酒巻少尉自身の言葉、
「捕虜第一号」を紹介することによって、ドラマで興味を持ち、
インターネットで情報を得ようとする人たちの一助になればという思いでもあります。

今日は、ある意味一番の論点とも言える、
「真珠湾攻撃において特殊潜航艇の戦果はあったのか否か」ということについて、
最近の情報と、酒巻少尉自身の見解をご紹介します。


今回、お涙ちょうだいドラマを製作したそのNHKは、過去放映したNHKスペシャル
「真珠湾の謎~悲劇の特殊潜航艇」によると、(『悲劇』って・・・)

「特殊潜航艇の戦果は全くなし。つまり無駄死にであった。
開戦のための戦意高揚プロパガンダに利用された九軍神+酒巻少尉乙」

・・・とまあ、簡単に言うとそう結論づけています。

ドラマのエンドロールでも、真珠湾に沈座している横山少尉艇とされる潜航艇の映像の上に
「特殊潜航艇による戦果はなかったw(←エリス中尉の悪意のこもった解釈による)」
とテロップを付けて、彼らの「無駄死にぶり」を強調していました。

彼らが開戦にあたり戦意高揚のための軍神になることで利用された、という構図は、
おそらく状況から鑑み、そのとおりであったでしょう。
淵田美津雄少佐が軍令部から「アリゾナの戦果を潜航艇に『欲しい』」と言われた、
という話もあります。

問題は、反戦論への「彩り」のように、この結果を利用するNHKの製作姿勢です。
「特攻は無駄死にだった」とあえて死んでいった若者の遺志をも蔑むのに似ています。

戦争の悲劇、ひいては日本を糾弾する為には傷口に塩を塗ることも死者を鞭打つことも、
そして戦死した人々を冒涜することもなんのそののNHK。
あえてその死は無益なものだった、と強く印象付けるための「オチ」のようなその扱いに、
何度も言いますが不快感を覚えます。

彼らにそんな思想や深遠な意図があったと勘ぐるのはある意味買いかぶりすぎで、
実際はよくある戦争もののお手盛り的構成にすぎず、
全てが終わった後『戦果は無かった』と一言付け加えてむなしさ倍増、といういわば
「お約束のドラマツルギー」のパターンに軽く乗っただけだったのかもしれません。

ところがどっこい。
今年の12月7日、アメリカの研究チームが

「一隻の特殊潜航艇が、真珠湾の侵入に成功し、
米戦艦ウェストバージニアと、オクラホマに二発の魚雷を発射、
(魚雷は一隻につき二発搭載)、
うちオクラホマへの一発が命中、この被害が転覆の原因になったと結論付けた」


と発表してしまったんですねー。製作者の皆さん、当然知ってますよね?
全くざまあみろでございますわ。

このドラマ放映のときにはもう訂正はできなかったんですね。
もっとも、間に合ったとしてもこの「(余計な)一言」が言いたくて仕方が無い風のNHK、
おそらく「気づかないふり」をしたことは予想に難くありません。

それでは攻撃した当人である酒巻少尉は、このときの戦果をどう見ているのでしょうか。
「捕虜第一号」の書かれた昭和24年当時の本人の見解を見てみましょう。

酒巻少尉艇が出撃後、ジャイロコンパスなしの艇走をするうち監視艇に発見され、
爆雷を受け座礁を繰り返しながらも湾内に侵入したことを、
二日にわたって書いてきました。

酒巻少尉はこのことについて、
「監視艇の駆逐艦が終始追い回していたのは、
爆発音や戦闘の様子がその他に無い様子だったことから考えて、酒巻艇一艇のみ」であり、
これは期せずして酒巻艇がおとりのようになって監視艇を引き付け、
その隙に他の潜航艇は湾内に侵入したと考えています。
それはほぼ正確な認識であったことが後日証明されています。

座礁、拿捕された酒巻艇以外の4艇は撃沈され、岩佐直治大尉の艇は引き上げられ、
乗員の遺体は米軍によって手厚く葬られました。
墓標に添えられた襟章から唯一の大尉であった岩佐大尉であると確定されたのです。

アリゾナを沈没させたのが実際は航空部隊であるにもかかわらず、
軍部発表では潜航艇の戦果であるとされたことが今日証明されていますが、
酒巻少尉は、昭和24年当時では明らかにされていなかったこの点について、

然しちょうどその時刻頃、或る特潜から襲撃成功の無電を母艦が確取してゐるから、
少なくとも四艇のうち一艇はその使命を全うして居り、
それがアリゾナを襲撃したものと確信するのである。


と記述しています。
さらに当時、残り二艇の行方は分かっていませんでした。
酒巻少尉は
「自分の艇に起こった様な不具合が、他の艇にもあった」
と考えるのが自然であるとの見地から
「一艇は発進時に沈んだのかもしれないと考える」と推測しています。
(そのうち一つが冒頭写真の潜航艇であると思われます)

先日発表された研究チームの発表によると、
酒巻氏がアリゾナだと信じていたのが実際は「オクラホマ」で、
オクラホマへの攻撃終了後、その特潜は自沈したことも明らかにになっているそうです。

勿論、酒巻艇は攻撃に失敗したわけですが、戦後、本人はこう語っています。

私の艇は発進前からジャイロが動かず盲目航走となったので、
湾内突入と輝かしい魚雷発射の成功を得られなかった。

酒巻少尉が、潜航艇で戦果をあげることを、終戦後もどのように捉えていたかが、
「輝かしい」というこの一言に込められているような気がします。
そしてさらに、艇の整備が良好で、ジャイロコンパスさえ故障していなければ、
魚雷命中の成功まではさまで困難ではなかった、とまで言い切っているのです。


戦後、アリゾナ沈没の戦果は軍令部による「虚飾」で、潜航艇の戦果は無であった、と
「それみたことか」調に糾弾する「研究結果」を、
氏はどのような思いで見ていたのでしょうか。
酒巻氏が「捕虜第一号」以降、真珠湾について黙して語らずひっそりと世を去ったことに、
この自分と仲間が命をかけた攻撃を「あだ花よばわり」する戦後日本社会に対する、
絶望とあきらめのような拒絶を見るような気がするというのは穿ち過ぎでしょうか。


断言してもいいですが、NHK始め日本のメディアは、
おそらく今回のこのアメリカの研究結果を素直に受け入れないでしょう。
現に、これを報じる新聞媒体でも「結果」と表記しながら
「最終結論ではない」「他の学者は疑問を投げかけている」と結んでいます。

艇さえ故障していなければ成功していた。
氏は、それに続けて、このようにこの章を結んでいます。

それは私自身の経験に依つて立証できると思ふからである。
そしてこの事は、私達特潜の攻撃そのものが不成功に終つた後の、
涙ぐましい結論であり、慰めである。

あの日、潜航艇は真珠湾攻撃に成功していた。
今回の研究結果が事実であったとするなら、
オクラホマに魚雷を命中させ、「輝かしい」戦果をあげた潜航艇の二人は、
攻撃終了後自らの艇を自沈させ、拳銃の引き金を引くその瞬間、
おそらく作戦成功の達成感と喜悦のうちに、心から満足して死んでいったと思われます。

わたしは彼らのその至福の瞬間を心から祝福し、その魂のために喜びたいと思います。
酒巻氏が生きていてそのことを知ったら、やはりそう思っただろうことも確信するのですが、
この考えは間違っているでしょうか。




 

 


真珠湾への突入 後半~酒巻少尉と稲垣兵曹

2011-12-18 | 海軍


湾内の煙が私を呼んでいる。

真珠湾で航空部隊が攻撃に成功したのを確認し、自分も一刻も早く湾内に侵入したい。
焦燥感にかられた酒巻少尉はこのように思いました。
こんなところで駆逐艦を相手にしている時間は無い。
重ったるい推進機の回転音が耳触りに神経を逆なでします。
「モーターやプロペラをそっと包んでしまえないか、
音の立たないものと取り換えられないか」


そして、何があっても突入すると意気を奮い立たせ
「何を、この駆逐艦奴!」
と叫びながら、酒巻少尉は艇を監視艇線の中に突っ込ませました。
機雷を受けながらもそのまま直進していると、
無事な秒時の刻みと共に艇がぐんぐんと進んでいく。
何処からともなく微笑と快感が湧いてくる。
「しめた。」と喜ぶ瞬間、
両親や長官や艦長のニコニコッとした顔が私の脳裏を掠めるやうに流れる。


ところが、直後「ズシン」という衝撃音。
「しまった!」酒巻少尉は舌打ちしました。
あと一歩で湾内というところに来て、サンゴ礁に座礁してしまったのです。

潜航艇の乗員は、攻撃目標として
「第一に空母、第二に戦艦、駆逐艦などは目標に非ず」
と命令されていました。
目の前をうろうろする巡視艇に放つ魚雷を惜しんでいるうちに、この座礁によって、
どうやら魚雷の一つは発射不可能にまで損傷してしまったようでした。
残りの一本をいまさら駆逐艦ごときに浪費するわけにはいきません。
何とか艇を離礁させ、再び強行突破を試みましたが、またもや座礁。

前方のバラストを後方に移動させる必死の作業中に、
何度も湯気をおびたバッテリーの電気に感電し身を縮ませながら
「おそろしく長い時間」かかって何とか今回も離礁することに成功しました。
しかし、この座礁で発射装置は完全に破損してしまいます。

泣きたいような気持で自分を責め、故郷を思い、自分の使命に思い至った酒巻少尉は
最後の手段―突入自爆を決心します。

「前進―微速―」
艇附は驚いたように把手を動かした。
「おい、やるぞ艇附。良いか、笑つて死ね、笑つて死ね。
人間万事塞翁が馬、くよくよするな。
笑へ、笑つて死ぬぞ。良いか艇附。」

「はあ良いです、良いです艇長、やりませう。
今更くよくよ思っても仕方ありません。やりませう。」

元気の良い艇附の声が聞こえた。


このとき結局、何度突入を試み、何度失敗したかについては、
すでに戦後の酒巻氏の記憶から薄らいで判然としないものになってしまったそうです。

あてのない突入を試みて、今や二人は極限の状態にありました。
疲労と絶望、悪ガスに満ちた艇内の空気。
酒巻少尉は声も無く潜望鏡にもたれかかり、稲垣兵曹はぐったりと顔を伏せていましたが、
その顔を横向けて艇長の顔を見つめ、こう言いました。

「艇長、シンガポールへ行きませう。今度こそしっかりジャイロを直します」

しかし、今更撤退して再び攻撃に加われるのかという懸念、
このまま帰ってはただ嘲笑と叱責を買うだけだと言う心配から、酒巻少尉は言います。
「いや、俺は帰れん。今からまたやる。」
悲しげに眼を伏せながらも稲垣兵曹は必死で説得します。

結果的に、その後もう一度の挑戦に失敗したので、
酒巻少尉もようやくシンガポールを目指すことを決心したのですが、何たる不運。
走行を続け電池が放電しきった艇は、遂にその動きを止めてしまいます。


潜航艇のメンバーは、作戦遂行後、ラナイ島南西7マイル沖に集合すると決めてありました。
相変わらず方向が定まらぬまま進み続けた艇が、オアフ島付近に近づいたのを、
酒巻少尉たちはラナイ島だと勘違いし、艇を捨てて陸に泳ぎつく決心をします。

潜航艇は、機密保持のために自爆装置を積んでいました。
その導火線に点火し、二人はハッチを登って艇の上に立ちます。

「さようなら艇よ。俺は去っていくぞ。立派に爆発、立派に成仏しろよ」

同じようにためらう稲垣兵曹とほとんど同時に、酒巻少尉は海中へ飛び込みました。

そして艇附の姿は、もはや二度と私の眼に入らなくなってしまった。
私が最後の言葉をかけてから、一、二度艇附が私を呼んでいるような声を聞いたらしい。
然しそれが本当に聞えたかどうか、それさへも判然としない。
暗い海上で波に妨げられ、二人を引き離され、
とうとう苦労を共にしてきた艇附との連絡が、永遠に断たれてしまったのである。


出撃の前の晩、酒巻少尉は眠っている稲垣兵曹の顔を見つめていました。
稲垣兵曹は、うなされているように見えました。

好きな女があるのだらうか。明日の死を恐れてゐるのであらうか。

死なせたくない、しかし同じ死なせるなら華々しく死なせてやりたい。
一つの艇によって結びつけられた、同じ運命の艇附に向ける酒巻少尉の眼は、
かれがあたかも自分の体の一部でもあるかのようです。
なぜなら、稲垣兵曹の生を思うことは自身の生を思うことであり、
その死を思うことは己の死を見つめることでもあったのです。

生きて捕虜になってからも、勿論戦後も、酒巻氏は絶えず稲垣兵曹のことを思い続けました。
陸岸まで辿りつき、華々しい最後を遂げたのか、それとも岸に着くまでに溺れたのか。
艇を捨てるとき、一緒に艇に残り運命を共にすべきだったかと自問した酒巻少尉の、
自分への答えはこうでした。

私は人間である。
艇は冷たい鉄塊の変形に過ぎない。
人には血があり、肉があり、将来の生命と仕事が待っている。
私は立派な軍人でなくてもいい、人間の道を選ぼう。


次の使命を艇附と共に果たすために。

しかし、冷たい波にのまれ、泳ぎ着こうとしてもその傍にすら行くことができず、
それきり永遠に最愛の艇附、稲垣清二曹を失ってしまったこと、そしてその惜別は、
いつまでも、いつまでも、酒巻少尉の心を痛めつけてやむことはありませんでした。


 


真珠湾への突入 前半~酒巻少尉と稲垣兵曹

2011-12-17 | 海軍

「同行二人」~特殊潜航艇の二人という稿で使用した、松尾大尉と都竹兵曹の画像です。
今日は巻少尉と稲垣兵曹だと思って見てください。


それにしても、こうしてみると、この映像における潜航艇の中は広すぎです。
前回アップした潜航艇の図面によると、この絵のイメージの3分の一の広さではないでしょうか。
この狭さから、あのNHKドラマ「真珠湾からの帰還」における青木崇高くんが、
「デカすぎ」で全く搭乗員としてリアリティがなかったとあらためて気づきませんか。

軍神たちの身長について語る資料はありませんが、兵学校68期の広尾彰少尉の、
クラスでのあだ名は「ポケットモンキー」。
いかにも小柄であったかのようなニックネームではありませんか。

映画「連合艦隊」で、零戦搭乗員に扮した丹波義隆(あの方の息子)が、
映画に指導のため訪れた本物の搭乗員に
「あなたは(背が低いので)一番本物の搭乗員らしい」と言われたそうです。
主人公の中井喜一(意外ですが181センチもあるのだそう)のことは
「あんな搭乗員はいなかった。あんな背が高いとそもそも搭乗員になれなかった」ということでした。

飛行機並みに居住空間の狭い潜航艇に体格制限があっても不思議ではありません。
だいたい青木崇高のようなでかい(183センチ)潜航艇搭乗員は、
一人で定員オーバーになってしまうというか、相方に迷惑と言うか。


さて、もう少し巻和男著「捕虜第一号」から、抜粋してお送りします。

同行二人のことを書いたとき、極限下における男たちの結びつきに焦点を当ててみました。
真珠湾攻撃における「ペア」、(今なら「バディ」というのでしょうか)
この「死の兵器」(同行二人の原題)に乗り込む二人がどのようにその日を迎えたか、
今日はそれを酒巻少尉の書き遺した言葉に忠実に語ってみたいと思います。

まず、特殊潜航艇の乗員に選ばれた彼等は、如何なる選考基準のもとに集ったのでしょうか。

一、心身強健で意志強固な者
二、元気旺盛で攻撃精神の強い者
三、独身者
四、家庭的に後顧の少ない者


どれも、当時の「作戦従事のための条件」としてはごく普通の、と言って悪ければ順当な条件です。
須崎勝彌氏「二階級特進の周辺」によると、彼ら十人の出身地は、
見事なくらい日本全国津々浦々の(しかも都会ではない)地方に分散しているそうです。
ドラマで戦後、艇附の稲垣兵曹の墓所を訪ねた酒巻和男に地元の男が言います。
「軍神詣でか?」
「軍神詣で」の聖地は、同じ地方に二つあってはいけなかったのです。



酒巻少尉の女房役、稲垣兵曹は「鎮守府から特撰された最優秀者」でした。
潜航艇のジャイロコンパスが故障しているにもかかわらず出撃を決めてしまった酒巻少尉は、
この優秀な稲垣兵曹を死なせてしまうかもしれないことを自分の死以上に懊悩します。

死ぬかもしれない。彼を死なすかもしれない。さふ思うと私の気持ちは暗くなつて来た。
(中略)
彼の命は明日の戦ひに、いや私の方寸に委ねられてゐる。
私は彼を死なせたくない。然し、私は彼を死なせねばならない。
深い愁慮が私の考へをかき乱してしまふ。

酒巻少尉と稲垣兵曹が出会ったのは昭和16年4月のこと。
海軍幹部で特殊潜航艇の研究が始まってから数年、岩佐大尉や秋枝中尉が搭乗員として、
第一回目の訓練を開始してから半年後のことです。
彼等は全員で「千代田」に寝起きし、呉工廠の特別室で基礎講義を受けました。
呉の海軍潜水学校で模型を使った襲撃訓練、瀬戸内海の三机で行われた実地訓練、
決められたペアはまさに一心同体となって突撃のその日を目指してきました。


士官搭乗員も、下士官搭乗員も、志願ではなく軍部が選定した若者です。
酒巻少尉は、自分が海軍から選ばれて、
「華々しく捨てられていく一個の石としてあること」を任じてはいましたが、
兵学校で教わった軍人としての「何時でも死ねること」という心構えには、
実のところ常に若干の違和感を感じていたそうです。
つまり「もっと深い、もっと慎重な、意義のある」ものであるべきではないかと。
そのためには最後まで生き残ることを努力すべきではないかと。


訓練が始まって以来、酒巻少尉と稲垣兵曹は何時も一緒にいました。
潜航艇が岩礁と衝突したり、目標艦にぶつかったりしながらも、8か月の間に二人は
この潜航艇の操縦と魚雷発射の技術を「百発百中」に近いところまでこぎつけてきました。

しかし、出撃寸前、ときここに至って発生したジャイロコンパスの故障。
ジャイロなしでの潜航艇の滑走は、目隠しをして幹線道路を車で爆走するような暴挙です。

憂愁とも快活ともつかぬ面もちの艦長花房義太中佐は、大きく吐息し、静かな口調で
「酒巻少尉、愈々目的地に来た。ジャイロが駄目になってゐるがどうするか」
と最後の念押しをしますが、酒巻少尉は決然と力と熱を込め「艦長、行きます」と答えました。

潜望鏡による水上滑走に最後の望みをかけて、というよりは、
この日のためにやってきたことの数々を思うと、ここまできてやめることなど、
出撃の興奮にふるえ、国中の期待を一身に背負うような使命感と勇気に、
いまや後押しされている思いの酒巻少尉には
「考えるにも考えられないし、私の立場としても到底言えた義理でもない」

そのとき艦長に最後の敬礼する艇附稲垣二曹の目が、
「異様な閃光のように輝いていた」のを酒巻少尉は記憶しています。


開戦時刻に合わせて潜航艇を発進させた酒巻少尉らは、すぐにジャイロの故障のせいで、
自分たちの艇が目標を90度外して進んでしまったことに気付きます。
そのときは刻こくと迫るのに、電池から発生する悪ガスと湯気が充満する艇内で、
すでに酒巻少尉は「泣き面に蜂」状態でした。
不安そうに顔を見つめる稲垣兵曹を
「心配は無用だ。
どうにかして潜航突破して湾口に辿りつき、魚雷が駄目なら敵艦に体当たりしよう」

と励まし、艇を進めますが、直後に巡視艇である駆逐艦に発見され、二回爆雷を投射されます。

最初こそ「駆逐艦なぞに用は無い」とせせら笑っていた酒巻少尉、この攻撃に
「敵ながらあっぱれ」という気持ちと同時に、猛烈な敵愾心、
さらには一種自暴自棄のような捨て鉢のようなを同時に味わいます。

そのとき、ふと気づいて真珠湾湾上空を確認した酒巻少尉は、潜望鏡の狭い視野の中に、
大きく上がる黒煙の柱を認めたのでした。

「やったな!」

そう呟いて、酒巻少尉は稲垣二曹を呼びます。
稲垣二曹は興奮のあまり、しがみついた潜望鏡の把手から手をどけようともせず叫びました。

「見える見える」

もの凄い塊の煙が、その勢いがあまりにも強いのか、ほとんど真っすぐに中天に舞い上がり、
少しばかり右に傾いているのが見えます。

「おい、空爆は成功だ。どうだあの煙は。
敵艦は今燃へてゐるぞ。よーし、俺等もやるぞ!」


酒巻少尉と稲垣兵曹の二人は、潜望鏡を囲み、互いに肩を組んだまま、
喜び、かつ励ましあいました。

しかし、このとき空中部隊の成功を見る酒巻少尉に不思議な感情が生まれます。
味方の成功を喜ぶ気持ち、自分たちもやらねばと奮いたつ気持ち。
しかしながら、出撃以来の連続的な運命の激変に神経が麻痺してきたのか、
それとも艇内の悪い高気圧のためか、感覚が異常なほど鈍感になっているのです。
そして
「戦争が何か別世界で起こつている他人事のように思えて」ならないのです。

湾内の煙を見て、喜びはしゃぐも、それが
「単なる馬鹿喜びのから騒ぎ」のようだと自覚する、他人のような感情。
呆気じみた倦怠的な自己を見出す、まるで第三者のような自分。

空中部隊の成功を見てしまった自分には、今までの駆逐艦とのやりあいが、
まるで「遊びごと」であったようにも思われるのです。
それどころか、むしろ酒巻少尉は馬鹿馬鹿しくも思える腹立たしさと、
自分たちの任務を成功させねばと逸る焦燥感に一層苛まれてくるのでした。

「今度は爆雷を受けても避退しないぞ。そのまま突入するから覚悟しろ」

そう自分にとも、稲垣兵曹にとも、敵に言うともつかず叫ぶと、
酒巻少尉は特殊潜航艇を静々と進めていったのです。


(後半に続く)




藤田怡与蔵の戦い(日航パイロット編)

2011-12-16 | 海軍人物伝




(前回のあらすじ)
型破りな面接を経て念願の日航パイロットになった元帝国海軍少佐藤田怡与蔵。
そこでかれを待ちうけていたのはどんな試練なのか?
藤田はいかに戦い、いかに勝ったのか・・・・?


というわけで、藤田怡与蔵の戦い、日航パイロット編です。
昭和27年、藤田氏は日航に入社。
三等航空通信士の資格で乗務を開始します。

パイロットは当初全て外国人でした。
つまりは日本の通信資格者が必要だから乗せていただけで、実際の操縦は勿論通信任務も彼らがします。
日本人はただ座ってみているだけ。
藤田氏は、米人パイロットに挟まれて中央のジャンプシートに座り、
彼らが藤田氏に分からないと思って英語で悪口を言っているのを屈辱に耐えながら聞いていたそうです。

しかし、彼らは日本軍を、特に真珠湾でけちょんけちょんに米軍を叩いた帝国海軍を、
同じ軍人として尊敬こそすれ蔑んだり馬鹿にしていたわけではありません。
昭和28年の訓練中、厚木の米軍基地に立ち寄った藤田氏が海軍少佐であったことが分かると、
彼らの態度は一変し非常に丁重なものになったということです。

それでは元海軍パイロットであった藤田氏の目に彼らはどう映ったでしょうか。
藤田氏が副操縦士時代、米人の正操縦士を見て意外にに思ったことは
彼らのあまりな見張り能力の無さでした。

ある日の離陸中、藤田氏は前方低空を横切る水上機を発見し、機長に報告します。
しかし機長がこれを確認するのにたっぷり三秒を要し、さらにそこにいた非番の機長は
「機種は何だった?」
「水上機」と藤田氏が即答すると、彼らは非常に驚きます。

一般的に、離陸中、副操縦士の仕事はとても多く、4つのエンジンの推力を整えたり、
排気温度を上げたり時間を計ったり脚を上げたりフラップを上げたりと、
終始機長の命ずる操作をするのに精いっぱいです。
副操縦士の藤田氏に外を見ている時間など、彼らの常識ではあろうはずはないからです。

このことは、米人パイロットの間でちょっとした「MYTH(神話、伝説)」になりました。
藤田氏はそれから数カ月というもの、「ミス・バスターズ」を自認する同乗の機長から、
度々見張り競技を挑戦されたということです。

藤田氏は戦闘機パイロット。その命は見張り、という訓練を受けてきていました。
昼間でも星が見えるまで訓練した坂井三郎氏の著書でも知られていることです。
藤田氏自身は自分で「自分の見張り能力は中程度」と評価していたのですが、
その中程度の見張り能力でも、米人パイロットからの挑戦に連戦連勝。
「一回一ドルの賭け金でずいぶん外貨を獲得した」と言うことです。


当時の日本人操縦士は戦争を経験した猛者がほとんどでした。
その皆が「副操縦士ではあっても自分がこの飛行機を飛ばしている」
と言った気概を持っていたと言います。
勿論藤田氏もそうで、明らかに酔って乗り込んできた米人パイロットに
「オレが操縦するぞ!どけ!」と怒鳴りつけ、操縦桿を取り上げたこともあるそうです。

藤田氏はその後機長訓練に入るのですが、ここでも戦いは続きます。
副操縦士が機長になると、自分たちの職場が奪われるという意識のなせることだったのでしょうか、
それともたかが日本人にキャプテンの称号はやりたくないという差別心でしょうか。
観察指導と称して座っている彼らからずいぶんと妨害を受けたということです。

ある飛行前の点検で何ともなかった計器が何故かその後動作がおかしい。
ヒューズボックスを調べてみると、何本かヒューズが抜かれているのです。
横に座っている米人パイロットに向かって

( ̄ー ̄)ニヤリ

としてやると、彼は両手にいっぱいのヒューズを

♪~Ш‐( ̄ε ̄;)←ヒューズ


そんな中、いつも厳格な態度で指導に当たる、ある機長と戦争中の話をしていたところ、
どちらもがミッドウェー海戦に参加していたことが分かりました。
その日同じ海において、B-26で帝国海軍艦隊を雷撃した者と、零戦で米軍機を撃墜した者。
かれらはこの偶然に驚き、同時に戦った者同士にしかわからない一体感に意気投合します。


機長の熱心な指導で藤田氏が機長審査に進むことができたのは、この後すぐのことでした。

 

 

 

 


捕虜第一号としての酒巻和男少尉

2011-12-15 | 海軍

なし崩し的に、3日目の「捏造感動ドラマ 真珠湾からの帰還」告発です。
その後、皆がどんなふうにこの番組を受け止めていたか、ネットでの反応を少しリサーチしました。

感想。

思ったほど皆騙されていない。
「艦隊勤務をみんなで歌っていきなりミュージカル展開」(ディズニーのパターンね)や
「ワルツを踊るラストシーン」(ホリエモン映画のあれね)に失笑していたのは我のみに非ず。
それどころか「またやってらー」「お約束」と笑いながら観ている人が大半。
米軍の収容所での捕虜の扱いを酷く描写していることについては、
「NHKは親中親韓、反米で、最近特にその傾向が強いから」と考察している人もいました。

その後、酒巻少尉への関心を持つ人が、このブログにも多くが訪れたというのは、
関心を持つと同時に、あのドラマの真実を検証しようとする人々が多かったということでしょう。
つまりドラマが感動的で反響があればあるほど、
NHKは、自らの創作と捏造を世に知らしめることになってしまっているわけです。

こういうのをマッチポンプっていうのかしら?自分で自分の首を絞めるっていうのかしら?

とにかく、マスゴミなりテレビのすることはまず疑ってかかりましょう、というのが
少なくともインターネットで情報を集めようとする人々の基本姿勢なのだと知って、
少しは安堵の気持ちを持った次第です。


さて、本日はお約束した通り、中宗(相宗)大佐がいなくなってからの、
酒巻少尉の「リーダーぶり」を、本人の記述をもとにお送りします。
冒頭画像は「捕虜第一号」にたった一つだけ掲載されていた挿絵。
あらためて知る、特殊潜航艇の壮絶な極限の狭さ。
「太った大人は入れない」(おそらくほとんどのアメリカ人は不可)
「艇長は立ったまま」
「休憩は機器につかまり、寄りかかり、手足の関節、腰の力を抜いて行う」

って、それは休憩と言えるのか?
「お弁当持ってお菓子持ってハイキングみたい」と、広尾少尉は言ったそうですが、
どうやってお弁当を広げたのか?
そして、食べたからには出る、それをいったいどうやって処理したのか。

我々には想像こそできても、その片鱗さえも実感できない人権無視の兵器。
「こんなもので生きて帰ってこれるわけがない」
渋々Okした山本長官も「生還を目的とするから許可を」と訴えた岩佐大尉も、
誰一人そんな可能性があるはずないと思っていたのは想像に難くありません。


真珠湾攻撃の日、酒巻少尉は潜航艇で出撃し、艇が座礁した後、海中に脱出しました。
艇附を見失い、砂浜で倒れているところを捕獲されます。
(ドラマでは稲垣!と呼んでいましたが、実際は彼らは「艇附」「艇長」と呼び合い、
名前を呼ぶことはなかったようです)
尋問のためホノルルまで汽車で移送される間、泥のように酒巻少尉は眠り続けました。
(ドラマで半裸のまま尋問されていたのが大ウソであるのがこれからもわかります)

前稿でお伝えしたように、その収容所生活が一年以上過ぎ、
それまで先任として捕虜のリーダーだった中宗中佐が
16人の部下と共にサンフランシスコに移送されました。

運命は私を先任者にした。
私は嫌でも捕虜達を指導していかなければならない。


新しく大所帯のリーダーになってしまったら、あなたなら何をしますか?
そう、リーダーとして、その抱負や、今後の目標、そして皆がどうあるべきかを訓示するでしょう。
酒巻少尉のしたのも、方針説明という形の訓示でした。

ところが、集合を拒否した兵が3名いました。
その理由はと言うと
「我々は死ぬのだ。これからの方針を言ふとゐふ坂巻少尉は生きやうと考へてゐる。
全く日本人の蟲けらだ。そんな話は聞きたくも無い」
というものでした。

しかし、そういう「造反」を、酒巻少尉は
「死ぬべきだという軍人的な初心を唯一のよりどころとして、人と反対のことをしたいだけ」
「ニヒリズムに陥って何もしたくない、干渉されたくないということを、正当化し、
指導者の命令に従わないということで優越を感じ、人を困らすことで自分が強さを顕示する」

と断罪します。

(一連の酒巻氏のこういった洞察力、
それをまるで設計図のように硬質な理論で組み立てる頭脳の明晰さ、
さらにそれを明確に表現する文章能力の高さには、実に驚嘆すべきものがあります)

そして、酒巻少尉は「決意の歩を運んだ」のです。
その話は寸分の休みも無く、長時間続きました。
「そして熱した私の怒号は一語一語彼らの考へに毒づいた。
然し全然異論が無い。
ひっそりと俯き込んだ彼等は、私の言葉に確約を誓つてくれた。
そして私は完全に捕虜たちの指導者になつたのである」


用意していた内務方針、諸制度、新編成、日課が可決され、新たな捕虜生活が始まりました。
過去一年間、酒巻少尉が捕虜生活から得た固い信念がその形を作り、
一部の反対をも説得しながら、これは確実に断行されていったのです。

酒巻少尉が最も重要視したのが、「スポーツ」でした。
一部の捕虜の反対を押し切って断行されたのが「インタニーとの定期ソフトボール試合」。
インタニーとは、収容所に収監されている「一般囚、他の国(ドイツ)の捕虜」。
これによって、他のインタニー達への理解が生まれ、何よりも、明るい、広い光の下、
スポーツに我を忘れることで数千の観衆が相共に生の歓喜を味わうことになるのです。



そして、規則正しい清潔を心がける生活を基礎に、「学ぶことによって生まれる生の肯定」
を、酒巻少尉は非常に重視し、そのための夜学が始まりました。
米国の地理歴史、米国事情一般、英語の基礎、数学。
インタニー達との交流から、説教師が来て慰霊をしたり、話を聞いたりする時間も生まれました。

そして、次の収容所、シカゴのマッコイキャンプでも、酒巻少尉はそれこそ
「内部の整理、外部との交渉、衣食住一般の世話、
寸分の休みを惜しんで駆け巡り」
ました。
それは、酒巻少尉が、自分の救い得る、捕虜たちの生きる力が、
戦死した同僚の分も含め、新しい日本のために蓋し得ることを希望していたためです。

昭和19年、5月。
このころになると、マッコイキャンプの日本人捕虜の数は2千人を超えていました。
サイパンから移送される捕虜たちが増え、捕虜たちにも「終戦」という言葉が、
現実味を持って語られるようになって来ていたころのことです。

サイパンから来た海軍兵長と、設営隊の兵二人がキャンプから脱走しました。

この二人は、士官と言った方が待遇がいいと思ったのか、捕虜になったときに、
それぞれ少尉、兵曹長と嘘の申告をしていました。
そこで一度は下士官の中隊長を任されはしたのですが、
彼らの同室がいたため、その嘘はすぐばれ、おまけに隊長としての態度が甚だ傲慢だったため、
反感を買っていた彼等は即座に謝罪させられました。

当時のキャンプで、下士官の作業は、風呂焚きなどの内部作業だけではなく、
農園やダムなどの重労働にもわたっていました。
しかし、書類上階級が将校である彼等には、同じ作業がさせられません。
酒巻少尉は士官室係として彼らに軽作業をさせていました。
しかし、その態度がまた下士官たちの反感をあおり、収容所は一触即発。

二人は、そんな空気に耐えかねたのか、脱走をしたのでした。
そこで不思議なことに、何処へ行ったかと言うと、米軍の前収容所長のところ。
そこで彼等は、階級詐称のことを言わず、ただ士官たちが虐待したと訴えました。

彼らの訴えによって酒巻少尉は厳しく取り調べられました(笑)
しかもその訴えとは
「酒巻少尉は、何かと言うと捕虜たちを扇動して司令官に対抗させ、
日本人同士の中に於いてさへも、平然とリンチを続行し、
あらゆる実権をにぎった悪者のボス」
というものだったのです。

この件で司令官ロジャース中佐は酒巻少尉に対し、それまでの信頼を裏切ったと断罪し、
その真実を追求することなく、ただ疑いだけを酒巻少尉の上に残します。
「何時かわかる日が来ます」と冷静に説明しても耳を貸そうとしなかったのです。


ちょうどそのころ、ハワイ収監時に親しくなったアイフラ大佐が、
わざわざ酒巻少尉に会うために、この収容所を訪れました。

酒巻少尉がハワイから米国本土に移送されることになったとき、
何人かの士官たちは酒巻少尉との別れを惜しんで、泣きそうな顔で埠頭に立っていました。
しかし、このアイフラ大尉(当時)だけは怒鳴りつけるように酒巻少尉に指示を続け、
平然とした顔で近付いてきて、
「私はもはや君とは再会できない」と吐き捨てるように言い放ちました。

しかし、アイフラ大尉はそのあと強く、酒巻少尉の手を握ったのです。
酒巻少尉はそれに対しこう答えました。
「貴方の言葉は誤っている。未来のことは分からないはずです。
再会できないかもしれない、と言わなくてはならない」
苦しそうな顔をして岸壁に戻ったアイフラ大尉は、その後酒巻少尉に大きく手を振り続けました。

そして今、アイフラ大佐自身が、酒巻少尉の言葉が正しかったことを証明しました。
二人は再会できたのですから。

「君の係だったジョンソン曹長も、今では少佐になっている」
再会を心から喜び、屈託なく自分や知人の昇進やのことを話すアイフラ大佐。
その言葉を聞きながらも、横で睨んでいるロジャース中佐、自分のことを信じてくれない中佐が、
開戦以来なぜ一度も昇進できないのか、酒巻少尉はぼんやり考えていました。

もしかしたら、
私たちのような捕虜の収容所長であったのが災いしたせいなのだろうか。


戦後、東京で酒巻氏がロジャース中佐に再会したとき、中佐は依然として中佐のままで、
さらにはそのときにおいてすら、酒巻氏を警戒している様子だったそうです。

捕虜たちの上に立つことで薄汚い濡れ衣を着せられたことに現れるように、
「決して自由になり切れない」魂の不自由が、このロジャース中佐にも及んでいる気がして、
そして、そんな捕虜たちの上に立ったことで中佐の昇進が妨げられたような気がして、
酒巻少尉は何とも言えない哀しみを覚えるのでした。




それにしても、酒巻少尉の捕虜生活において起こったことは、このように、
一部を取り上げただけでも、ドラマにするのに十分すぎるくらいドラマティックに思われます。
事実を曲げずにドラマを創ることができず、捏造までするNHKの、良心と言うよりはむしろ

能力を疑う。







「捕虜第一号」~酒巻少尉と「中宗中佐」のこと

2011-12-14 | 海軍

         

初版、「捕虜第一号」酒巻和男著の表紙です。

NHKの捏造感動ドラマ「真珠湾からの帰還」放映以来、なぜかこのブログにも
「軍神ブーム」が起こってしまいました。(苦笑)
酒巻少尉始め、特殊潜航艇のこと、その乗員について何かを知ろうとする人が多く訪れるのに驚いています。

しかしながら、「全く酒巻氏の意図や事実と違う描写でドラマを作ってしまう」
というNHKの大罪を糾弾しているのが、もしかしたら当ブログだけなのでは?
とも思えるこの状況自体を、わたしは心の底から憂うものです。


ご本人が生存している間は、脚本家須崎勝彌氏のように「不遜である」と感じる良心的な作家もいて、
あからさまな創作は勿論のこと、酒巻氏について語るものはほとんどありませんでした。
しかし、本人が逝去し、遠慮が無くなったので、「蛍」やら「ピアノ」やらあの手この手で、
お涙頂戴の「戦争参加者が可哀そう形式」のドラマを作り上げてきたのと同じような一味が、
同じような意図と目論みを持ってでっち上げた・・・・。
酷い言い方になるかもしれませんが、実態はこんなところだとわたしは踏んでいます。

(ピアノと言えば、前回怒りのあまり書くのを忘れました。
ラストのワルツは、
ウィリアム・ギロック作曲の『ウィンナーワルツ』(In old Vienna)というピアノ小品です。
ピアノ習得者が一度は弾く、美しいメロディの練習曲を書く作曲家ですが、
タイトルでも分かるようにギロックは敵国も敵国、アメリカ人です。
しかもこの曲が作曲されたのは1992年。実にふざけた選曲ですね)



航空特攻や回天、桜花特攻についてはいろんな読み物や映像が百出しているわりに、
この真珠湾の特殊潜航艇については個人的なエピソードが今まで出なかった、ということから、
戦史の隙間にあった掘り出し物エピソードとして、
「皆どうせあまり知らないし多少違うことをでっち上げても、ドラマが感動的ならいいよね」
といったノリでしょう。

ますます許さん。

前回、わたしのこのドラマに対する糾弾ぶりがあまりにも苛烈なので、もしかしたら
驚かれたり、今まで読んでくださっていた方の中には、「ひいた」方もいたかもしれませんね。

わたしは、戦争従事者を「だまされた被害者」とだけ位置づけ、
「可哀そうでしょう、悲しいでしょう、二度とこんなことが起きてはいけませんね」と、
お涙ちょうだいの分かりやすい悲劇ドラマにし、共感を誘う、
こういった反戦ドラマが、もともと吐き気がするほど嫌いです。
真実ほど強いものはありません。
真実を淡々と述べるだけでも、そこから反戦に至る結論を導くことは可能だと信じるからです。
受け手の理解能力までこのように子供扱いする(今のテレビ製作に多々見られる傾向でもある)、
所詮、娯楽番組制作者のお節介な誘導を唾棄するゆえです。

そこに持ってきて、己の都合のいいストーリー展開のために、白を黒と言い変え、
無かったことを「盛り」、さらにスイカに塩を振るがごとき甘ったるいセンチメンタリズム添加。

嘘っぱちドラマに真実味を与える効果でしょうか。
エンドロールのバックに流された海底の特殊潜航艇の映像を見たときは、
このあさましくあざとい「してやったり感」に、文字通り吐き気を催したことを白状します。

そして、こんな代物が製作されるのも、
酒巻氏の語った真実が世間に知られていないせいなのだとしたら、
わたしは微力ながら、ここでそれを伝える努力をするにやぶさかではありません。

今日は、検索の多かった「中宗中佐」についてです。

酒巻少尉は、ハワイで拘束され、3月、ウィスコンシンのマッコイ・キャンプに送還されます。
途中「私を観てはしゃぐ若い娘」などをその目に認めながら無事キャンプに到着。
その後、5月にテネシー州フォリスト・キャンプ、6月には、リビングストン・キャンプに移送されます。
この移動も鎖でつながれていたわけでもなく、ベッドを整えてくれる黒人ボーイの就くものでした。
「キャンデーでもなんでも、欲しいものを言え」と収容所からは言われるのですが、
己の運命と、死んでいった仲間への忸怩たる思いから、酒巻少尉は全く「生活に興味が持てず」
それらを断り、あまりに茫然としているので当初「頭が少しおかしいのではないか」
と疑われていた時期もあったそうです。

11月を迎えたとき、キャンプに大量の日本人捕虜が送られてきました。
彼らと対面した時のことを酒巻少尉はこう書いています。

「皮肉な不気味さが漂つた。
哀調を帯びた奇妙な髭面の中に、ギョロギョロと眼のみが光つてゐる。(中略)
哀れな末路姿の皇軍兵士が、ジロジロと私を覗きこんでゐるのだ。

「真珠湾で捕まった問題の男は彼奴か・・・・・・」
とうなづく彼らの心底には、不思議なそして複雑な感情が奥深く喰ひ下がつたであらう。
火の消えたやうな無言の静けさにたまりかねて、淡いため息をもらしながら、
首垂れたままこの初対面の場面から逃げ去るものもゐる。
そして太陽は容赦なく照りつけた。

厳めしい軍装と武装を取り除かれた囚虜――
弾丸雨飛の戦場から敵国の柵内へ解放された不完全軍人―
戦闘員たる責任と義務が懊悩に孵化した非戦闘員―

彼らは何んなことを何んな風に考えてゐるか私には解らない。
然しやつれた彼等の顔には、深い憂愁から去り切れない一種の不気味な感情が溢れてゐた。
私はその憂愁を取り除いてやりたい。
そして彼らを導いていかねばならない・・・・といった気持が、肚の中に喰いいつてきた。
重苦しい空気の逼迫感に反発して、私は故意に自分を元気づけ、
軽い微笑を作りながらトラックから降り立つた。


長くなりましたが、これを是非読んでいただきたく、掲載しました。
酒巻少尉がこの一年近く懊悩し、逡巡しつつも生きて行くためにここでどうすべきか、
自分の得た経験をもとに、日本人捕虜を「生かすために導いてやらねばならない」
と決意した瞬間です。

この当時、酒巻少尉は米人の何人かと「共感する親しい」人間同士の付き合いがありました。
「捕虜の先頭に立ち、自分たちを酷く扱う米軍に逆らって酷く罰せられる酒巻少尉」は、
つまり比較的事件の無かった捕虜生活を波乱万丈に見せるための創作なのです。

ドラマティックな反乱としてドラマで描かれた「捕虜の労働拒否、独房に収監」というのは、
その後テキサスのキャンプに酒巻少尉が移ったとき「私のマネジメントを煙たがる」
(気の合うアメリカ人もいれば合わないのもいたということ)二人の米軍人が、
「ガードの士官区割による清掃と烹炊という、我々にとって気難しい種類の作業」
を断った「命令違反」の酒巻少尉を、機械的に独房に入れたという顛末を膨らませています。

作業は、その後問題なく捕虜によって行われ、
この独房で、酒巻少尉は勿論虐待もされず、隣に収監された士官と話したり
「ゆっくりと一人で瞑想にふける機会を得た」ということです。




リビングストン・キャンプで酒巻少尉は「飛龍」の機関長であった、
先任の中宗中佐に出会います。
実際は、飛龍の機関長は、相宗邦造中佐で、やはり米軍の捕虜になっています。
中宗は、酒巻氏の著書における仮名であったと考えるのが妥当と思われます。

中佐は、やはり飛龍分隊長であった梶本大尉とともに下士官捕虜の統率に当たってきました。
しかし、それでなくても自暴自棄のニヒリズムに集団に陥った下士官兵をまとめるにあたり、
この二人はかなり面白くない衝突を繰り返していたのです。

下士官兵たちは、最初の段階を過ぎ、死の危険が当面捕虜生活には無いということが分かると、
今度は次第に、自我の増長する無統制な集団と化してきていました。
下士官兵にすでに何かあっても死ぬ覚悟すら無くなってきているらしいことを、
士官たちは憂えていました。

しかし、そういった愚痴を先任士官から聞く酒巻少尉にしても、すでに
「先任が死ねと言えば命令だから死ぬだろうけれども、実は死にたくない。
私が死まで先任に忠実な軍人精神の持ち主であるかは疑わしい。
私には私の考へがある」

という死生観に達しており、ここでの士官捕虜とのギャップに、思わず戸惑いを感じます。

中宗中佐は、四十歳そこら、でっぷり肥った髪の薄い、しかし頬の艶の良いスポーツマンで、
ソフトボールの「士官チーム」では、酒巻三塁手から巧みにボールを受け取る名一塁手でした。
ある日、中佐は酒巻少尉を呼んで
「この(下士官兵の)様子では、いつ事件が起こって死ななくてはいけなくなるとも限らない。
君も立派な士官だから、何時でも死んで貰へると安心はしてゐるが・・・・・、
まあ、それだけの覚悟を持つて居て欲しい」

と言います。
死の覚悟については賛同しかねるものの、
中佐の言う「事件」を誘発しかねない問題をはらむ下士官たちの生活ぶりを、
酒巻少尉も心配します。


ドラマに描かれた「中宗中佐以下16名の送還」事件はその頃起こりました。
「処刑になるのだ」と妄想し、いきり立ち中宗中佐に死を迫る下士官兵たち。
そんな彼らを見つめる酒巻少尉の眼はあくまでも冷やかで冷静です。

然し、彼らの妄想は不思議である。
死なふという気持ちに拘わらず、殺されまいとする矛盾を持つからである。
若し死にたいのであれば、何処へ行き何処で殺されても平気な筈に違ひない。
今更何も怖がる必要はない。
死にたいという空虚な自分たちの言葉をゴマかすために米兵を襲撃して死ぬのであれば
(中略)自ら首を括ればいいではないか。


そしてつまらない虚栄と義理に墓穴を掘る浅ましい姿を、無節制に暴露しているにすぎない、
と断罪します。
中佐らを連れて行かすまいといきり立つ彼ら下士官兵を、武器を持った米兵が取り囲みました。
酒巻少尉は
「これは当然の結果だ。
日本人捕虜に業を煮やしているに違いない米軍にすれば手ぬるいくらいだ」

とここでもあくまでも醒めた目で見ています。そして、
「手出しをするな。黙つて言ふ通りやれ。」
下士官兵を一喝しました。


彼らはおとなしくなり、中佐らはサンフランシスコの収容所に移監されていきますが、
心配するようなことは勿論起こらず、次に移ったマッコイキャンプで坂巻少尉は
彼らに再会します。
そのとき、中宗中佐は、精神に異常をきたしていました。


「イヒヒヒ」と不気味な笑いを散発し、頭にタオルを巻き
「電波除け」と称するガラスの破片を頭上に載せた中宗中佐は、
「畜生、また電波が酷くなりやがった」と突然怒鳴ったりするようになっていました。

そして発作的に自殺を試みるも、その他は正常な振る舞いをするので、当初皆は
「内地に帰ったときに軍法会議を逃れるためにカモフラージュしているのだ」
と冷笑していたそうです。
しかし、次第に本格的な狂人の域に達した中佐の病状は、
ついに「それが彼の死を早める運命へと導いていった」のでした。


しかし、中宗中佐がその後どのような死を遂げたのか、なぜか酒巻少尉の筆は、
それを遺すことを曖昧にしています。
あまりにも悲惨だったので、それを後世に残すことを良しとしなかったのでしょうか。
名前を曖昧にしたのと同じ理由でしょうか。

いずれにしても、「中宗中佐」について記す筆を途中で置いてしまった酒巻氏に、
同じ運命にしばし翻弄された元帝国軍人同朋への哀しい眼差しを見る気がするのです。



次回は、酒巻少尉が中宗中佐の後を引き継いで、収容所捕虜の責任者として奮闘した、
その様子についてお話ししたいと思います。






「真珠湾からの帰還」 NHKの捏造を糾弾する

2011-12-12 | 海軍

12月10日土曜日、夜NHKで真珠湾を攻撃し捕虜になった酒巻少尉を主人公としたドラマ
「真珠湾からの帰還 軍神と捕虜第一号」を観た方はおられるでしょうか。

開戦の日に合わせて放映されたと思しきこのドラマを、予告編の段階からかなり注目していたわたしは、
その日その時間、家にテレビが無いため、わざわざ車に乗り込んで、
5センチ×7センチの豆粒のような画面で鑑賞しました。
(ここは笑いどころではないので念のため)
その感想。

「捏造するのも大概にしていただきたい」

予告編だけ観るとドキュメンタリー調の造りで、
淡々と資料と映像の間にドラマ仕立ての説明を挟む形式のものかと思いきや、
これが全くの感動ドラマ仕立て。

いやな予感がしたものの我慢して車に座って観続けました。
これは・・・・いかんよNHK。
以下製作者への苦言を呈したいと思います。


まずあなた方に問いたい。
あなた方、作者はもちろんのこと、スタッフ全員、巻和男著「捕虜第一号」を読みましたか?
読まずにやっているのならその資料を読みもしないナメた態度に畏れいるし、
読んだ上でやっているのなら、全く悪質というしかありません。
そして、わたしの想像は「確信犯的捏造創作」です。違いますか?

以下順に列挙していきます。

まず、ドラマの骨子となっている
「捕虜第一号となった酒巻少尉の収容所での扱い」について。

ドラマでは、浜辺の砂も落とさない半裸の酒巻少尉を、そのまま厳しく尋問し、
お情けのようにコーヒーを勧めている。
まるで拷問でも行われたかのような雰囲気です。

実際の捕虜第一号による酒巻少尉の追想は、こうです。

「君たちの手柄は立派です。昨日、アリゾナをはじめアメリカの戦艦が三隻も沈みましたよ」
全く恬淡としている。
真珠湾戦が異国の地で行われた何でもなかつたことのやうに平然としている。
(中略)わたしは軽く冷やかされているような気がした。

事務員らしい金髪の娘がコーヒーを置いて立ち去った。
「さあ、ゆっくり飲みませう」
スプーンでかき混ぜながら、彼はわたしにコーヒーを勧めた。

食事が終わると黒人のボーイがパンや果物の残りを片付けてくれる。
そしてテーブルの上にはミルクとコーヒーが置かれる。
ベッドもそのボーイが用意してくれた。


酒巻少尉はこのとき一気に飲み干したコーヒーの
「喉から導き出された甘い夢のような喜悦の感覚」と「捕虜になったことに対する悲痛な罪の意識」
を同時に感じます。

そして、もっとも許しがたい創作が、
「独房にいる酒巻少尉を私怨から半殺しにするアメリカ兵」
「極東裁判でその非道を証言するも記録からそれは抹殺されたとする」




以下、「捕虜第一号」(勿論本の方)からです。

酒巻少尉はハワイで拘束されて直後、独房の鉄格子をゆすってわめいていました。
「Kill me!」
そのとき、外がざわめき、その中に「サカマキ」という言葉が酒巻少尉の耳に聞こえます。
そして銃声が数発。
やがて騒ぎが収まると監視役のMPがやってきました。
「奴らがおまえを渡せって言うんだ。俺だっておまえをぶっ殺したいよ。
だけど任務とあっちゃしょうがない。
俺は命を張ってでもおまえを護る」


命を張ってでもおまえを護る。
この一言で酒巻少尉は不思議なほど冷静になり、沈思する機会を得た、と自覚するのです。
そして
「虜囚の身ではあっても敵国人にさすがは日本人と言わせるのが
俺に残された唯一つのデューティだ」
という諦念に至りました。

お分かりでしょうか。
一事が万事この調子。
「アメリカ側が不当な虐待をし、それに帝国軍人の矜持を持ちつつ立ち向かい、
さらに皆の上に立って処罰まで受け反逆した坂巻少尉」というストーリー展開には
全く噴飯ものと言うほかありません。
これ、アメリカ軍関係者が見たらさぞ立腹すると思いますが、いかがですか?

噴飯を通りこして失笑ものであったのが
「中宗中佐がどこかに送られるのを身を呈して文句を言う酒巻少尉」
「敵軍のために働きたくないと労働を拒否し、罰せられる酒巻少尉」
「独房に閉じ込められている酒巻少尉を救うためにみんなが『艦隊勤務』を唄い、
それを聴く酒巻少尉は嗚咽にむせぶ」

・・・・・あ   の    な    あ    っ ! !

あまり腹筋崩壊させんでくれんかねNHK?
不肖わたくし、テレビを持っていないゆえ、料金を今まで払ったことはないが、それでも、
「カーネーション」が面白いうちは、放映中だけは払ってやってもいい、くらいの歩み寄りは
見せていたのよ?(←誰に?)

でも、もう堪忍袋の緒が切れた。ぜーったい視聴料は払いません。
こんな荒唐無稽な○○ドラマを作る人たちに払うお金は一円だってありませんとも。
(ついでに、反日ソング「独島は我が領土」を持ち歌ににしている捏造韓流歌手を
紅白に呼ぶギャラなど、こっから先も出す気はありませんからよろしく)

まず中宗中佐の件。
「キャンプ内の美化に大きな変化が起きた。
バラックの周囲に白い小石が並び、芝生が植えられ、花が咲いた。
ベッドが整頓され、床が綺麗に拭はれた。
グロテスクなアーマティロ(アルマジロ)と我々の飼い犬を喧嘩させたりして
面白い小康の日々が」
続いている頃(笑)のことです。
中佐以下16名に別のキャンプに移動せよとの命令が下りました。
そのことをもって下士官兵が「処刑になるのだ」などと妄想をたくましくするのを、酒巻少尉は

「中宗中佐は命令に反対して死ねと怒号する下士官兵に取り巻かれ、激しく悩んだ。
わたしは馬鹿らしい彼らの妄想を寧ろ哀れにさへ感じた」

・・・・・・・馬鹿らしい、って言われてますよ、酒巻少尉からも。


そして次に
「敵軍のために労働することを拒否する捕虜、それを代表者として米軍と折衝する酒巻少尉」
あの、キャンプ何年目にもなって、いまさら初めての労働じゃあるまいし、
この人たちは今頃何に対して抵抗しているのでしょうか。

事実は、
「ゴミの処理を下等な仕事だと文句を言った捕虜たちがストライキをおこし、
司令官に命令の撤回を酒巻少尉が頼みに行くと、司令は口を歪め眉を曇らし、
『ではエンスン(少尉)、それでは一体私はどうすれば良いのか』
と聞き返した」
という次第でした。
この後命令がどうなったのか、記述は実に曖昧にされています。
酒巻少尉とは周知の仲であるこの司令は「ことのほか日本人捕虜たちを愛していた」
そうです。

捕虜生活は、彼らの勤勉によって清潔で秩序が保たれ、作業以外はソフトボール、卓球、
クリケットなどのあらゆるスポーツ、趣味のチェス教室やダイヤモンドゲームが行われ、
夜は酒巻少尉が中心となって「夜学」の授業が行われました。
英語や一般教養などです。
そして「いかにして捕虜を明るく幸福な生活に導くかを、いつも研究していた」
収容所司令官の計らいもあって、映画の上演や、小動物を飼うことを推奨されるなど、
米軍からは精神的なケアも怠りなくされていた、と言うではありませんか。


何とかして捕虜生活が苛酷であったように刷り込みたいNHKの意図は一体何なんですか?
彼らは戦争に参加したからこそ捕虜になってもここまで過酷な目にあったのだと、
米軍の捕虜虐待を捏造してまで訴える、その真意はどこにあるのですか?

勿論、捕虜になったことそのものが帝国軍人である彼らにとって、名伏しがたい恥辱と、
生への欲望のはざまにその身を翻弄されるかの如き試練であったでしょう。
しかるべくして、彼らの間にはニヒリズムや厭世感から捕虜同士のいさかいや対立が生まれ、
決して平穏無事な虜囚生活ではなかったことが、酒巻少尉の筆によって遺されています。

しかし、NHKがでっちあげるような米軍へのレジスタンスというのは、せいぜい
「下士官が中宗中佐の件でいきり立ったので、周りを米兵が取り囲んだ」
という程度のこと。

(もしかしたら、酒巻氏の死後、NHKだけが掴んだ特ダネだったんでしょうか?)

そして極めつけが「独房に収監された酒巻少尉を救うためみんなで歌を歌う捕虜たち」
で、その曲が・・・・・「艦隊勤務」

・・・・・・・・・・・・・・「かんたいきんむ」。

あのー、ここは収容所です。
海軍さんだけが収監されているのではありません。
それでなくても、捕虜間のあらゆる対立でも最も多かったのが
「陸海軍の対立」
海軍がたまたま指揮系統の上に立っているのを陸軍兵はかなり不満に思っていて、
陸海兵同士の殴り合いが絶えなかったのですよ?
みんなで心を合わせて海軍の歌なんぞ歌いますか?
陸軍さんならこういう場面では「歩兵の本領」なんかを唄いたいと思うんですよね。
ここはちょっと辛気臭いけど「海ゆかば」くらいにしといた方が良かったんでは?

「うみーのおっとこっのかーんたいきんむーげっつげっつかーすいもーくきーんきーん」

で、まさにおなかが痛くなるくらい笑ったエリス中尉ですが、次第に不愉快になってきました。
 

このシーン、覚えてます?
旅館のお嬢が屋根の上から手を振って、岩佐大尉(男前)が、はっと目を停めると。
岩佐大尉は彼女を愛していたんですねー。本当ですかー?

戦後、酒巻少尉と再会した女性はいけしゃーしゃーと
「岩佐大尉は『世が世なら』っておっしゃったんですー」なんて言うわけです。
けっ。
岩佐大尉は作戦前に故郷での婚約をわざわざ破棄しています。
そんな思わせぶりを旅館の娘にするわけないじゃないですか。
もしそんなことを聴いたとしても、それは、お嬢さん、あんたの勘違いだ。
っていうか、この創作、実在した旅館の娘、岩宮さんにも失礼じゃないの?

この特潜御一行様、宴会の席でどう聴いても最近のアレンジ、最近の録音にしか聞こえない、
おっしゃれーなニューエイジ風ワルツをかけます。
これも、芸者ワルツくらいにしておいた方が良かったんではないでしょうか。

それはともかく、海軍軍人が旅館の娘に
「私と踊ろうか」とか「いやわたしが」「いや貴様が」「いや拙者が」って、
海軍さんは、こういうとき、ホワイトさん(素人娘)には決して手は出さないのよ!

そして、水戸黄門の印籠開陳より確信を持って予想でき得る、このドラマのエンディング。
「このときのワルツを二人で踊る旅館の娘と生きて帰ってきた酒巻少尉」

もう、勘弁して下さい。
観てるこっちが恥ずかしくなってしまいます。

そして、これらの「捏造」+「創作」+「べたべたなドラマツルギー」は、困ったことに
結果「戦争ドラマ」として、そこそこの、というかかなり感動的なものに仕上がっていました。
主演の青木崇高くん、いいですねー。
いい俳優です。「ちりとてちん」でも注目していました。
この青木崇高くんの好演で、さらに一層いいドラマになってしまって・・・ああ困ったもんだ。


さて。
今朝、我がブログに訪問した人たちのうち多くが、
「酒巻少尉」で検索した結果
「同行二人~特殊潜航艇の二人」そして「軍神の床屋さん」という、
特潜をテーマにした稿に辿りついたようです。
それだけ、このドラマを観て「酒巻少尉」に興味を持った人が多かったということなのでしょう。


しかし、NHKさん。
あなたがたは、もし「捕虜第一号」であった酒巻和男氏がいまだ存命中であったら、
この題材を、このように創作しましたか?

酒巻少尉は、出撃の前日、同期の広尾彰少尉と、呉の街をそぞろ歩いたそうです。
「捕虜第一号」にはそのときのことがこう書かれています。

「僕らは純潔を守らう。」
広尾はさう言ってレスの前を横切った。
「人生二十余年、到頭好きになる女がゐなかったなあ」
「今更女々しくなりたくないさ。男の本望だ。潔く死んで行かうぢゃないか」

二人は、そしてそれから最後の出撃に身につける香水を買いました。

その話を酒巻氏から直接聞いた脚本家の須崎勝彌氏が著書、
真珠湾再考「二階級特進の周辺」の最後に書いていることを、
あなた方に遺憾の意と共にお送りします。

氏の顔からそれまで湛えられていた笑みが消えた。
目がうるんだ。
わたしに何やらズキンと衝撃が伝わった。
この人を主役にして、コマーシャルベースの映画をつくるのは、不遜である。
私は「捕虜第一号」の映画化をみずから破棄した。


「連合艦隊」ほか、幾多の戦争映画の脚本を手掛け、
かつ酒巻和男本人を知りその素顔にふれた須崎氏にしてこの見識です。

あなた方NHKは、おそらく酒巻氏が観たら絶望と憤怒の淵に立ち尽くすしかないような、
この「不遜な」、甘ったるい、感動的な、安い、いやらしい、しかも全くの捏造ドラマを、
本人不在をいいことにつくったのです。
本人がいたら決して作らなかったであろうドラマを。

違いますか?