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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

日の丸の寄せ書きと日本刀〜USS「LST393」艦内展示

2023-09-30 | 歴史

第二次世界大戦でDデイに参加した戦車揚陸艦USS「LST393」。
ミシガン州マスキーゴンに展示されているこの記念艦、
公開されている艦内部分を一応見学し終わりました。



ここからはいきなり枢軸国コーナーとなります。
まずドイツ第三帝国グッズから。



なんで悪役っぽくほくそ笑んでるんですかね。
後ろの、

「第二次世界大戦時のアメリカの敵」

には、このような解説がありました。

「この展示は、ここに描かれた国家がWW2時に存在したことを
面白おかしく表現するためにあるのではありません。

むしろ、この展示は2つの理由からここにあるのです;

1 、戦争の野蛮さと、これらの戦時中の国々を打ち負かした
人々の犠牲を思い起こさせることです。

2、これらの品は、アメリカの兵士によって戦場で発見され、
アメリカの故郷に持ち帰られました。

彼らの奉仕と犠牲を思い起こさせるものとして、
退役軍人とその家族にとって意義深いものです。


これらの遺物は、第二次世界大戦の恐怖を永久に記録するために、
USS LST 393 Veterans Museumに寄贈されました。」



とかいいながら、いやこれドイツ軍人の持ち物じゃないし。

例によってヒトラーと日本の「誰か」(誰にも似ていない)が、
テーブルで何かを食べている(日本人は正座している)と、
黒い頭巾の何者かが武器を振り翳してきて、

「そんなの注文しとらんぞ!」

テーブルクロスの下にムッソリーニが隠れているという漫画。
漫画が風刺しようとしているところはどうかご想像ください。


棍棒式の手榴弾、黒皮の鞄、銃弾入れベルト、
ライフル、おそらくカールツァイスの双眼鏡の入っていたケース。



各種パンツァー(いいかげん)



短刀(手前)と鉄製の筒。



海軍士官のサービスドレス。
おそらくセレモニー用ドレスだと思われます。



第一次世界大戦時のドイツ軍兜と軍服。
この形の鉄兜は知っていますが、兵用にこんなものもあったとは・・・。

これってなんの防御にもならないよね。

その気になれば頭突きで攻撃するため・・・とか?



さて、ここからは我々にとって興味深い、大日本帝国コーナーです。



上から日本陸軍士官帽、陸軍鉄兜、
陸軍飛行帽、陸軍兵用帽、海軍艦内帽。



日本占領時にアメリカ兵が記念品として持ち帰ったものだと思われます。

まず、

【陸軍大臣官房局編纂
陸軍成規類聚(りくぐんせいきるいじゅ)】


ですが、英語の解説は

Japanese army Instruction Manual
日本陸軍取扱説明書

となっており、
全く間違いです(がそう書くしかなかったのでしょう)。
類聚という言葉はあまり聞いたことがないですが、
「集めたもの」という意味があり、要は規則集ということです。

国会図書館のデータベースで内容を見ることもできますが、
これは陸軍の運営に関わること全ての規則を網羅した辞典で、
例えば兵役対象者の職業や経歴はどのように扱うかとか、
戦時に陸軍大臣はある事項にどのように関与するかとかいう法律書です。

大変興味深いのは、これを持ち帰ったアメリカ兵
(ジョン・ピエトロビッチ AR SVGP)によると、取得した場所が
硫黄島の洞窟
であったという事実です。

つまり、日本軍の誰かがこの分厚い陸軍版六法全書みたいなのを、
前線である硫黄島に持ち込んでいたということになるわけです。

おそらく、法務にかかわる任務を担っていた将校か下士官の持ち物で、
これが硫黄島で必要になる場面があるとその人は考えたことになります。


【小樽黄地商店の商品包装紙】

お札を挟んで上下にあるのがそれですが、調べたところ、
黄地商店は有限会社として2016年まで存在していたことがわかりました。

しかし、商売はたたんでしまったので、
この店が何を扱っていたのかはわかりません。

同名の同じ住所にある黄地商店というのがここのことなら、
精肉店ということですが、こちらは「きじ商店」と読むらしいし・・。
上に絵葉書を置いてなければ商品名が読めるんだけどな。

どうでもいいけど、英語の記述があるのに
どうしてわざわざ上下逆さまに展示してあるのか。

【経済学原理
福田徳三著 改造社出版】


”Japanese Insructional book”(ママ)

と説明があります。
何でもかんでもわからなければインストラクションいうな。
兵隊さんが持って帰ったので軍関係ものと思い込んでるんですね。

経済学原理ならきっと手掛かりになる挿絵もないだろうしなあ。
せめて中国人のスタッフはいなかったのか。

福田徳三は東京商科大学(現一橋大学)卒の経済学者で、
立ち位置としてはマルクス主義に反対する自由主義経済の推進者で
かつ日本で最初に福祉国家論を唱えた人物でもあります。

【Soldier’s Guide to the Japanese Army
日本陸軍ニ関スル 軍人ノ案内書

説明は、

アメリカ兵士のための日本陸軍と戦うための本
Book for the US Soldier to fight the Japanese Army

これは間違えようがありません。
なぜならこの本は英語で書かれたアメリカ兵のための書だからです。

本にはアメリカ人の持ち主の名前が書かれています。
検索したところ、日本では公文書図書館にあるそうです。

真ん中のお札(1ドル札と50センタボス)は日本政府発行。
占領地の札なのにすごい凝った印刷がされているのがさすがです。

センタボスはスペイン語なので、
フィリピンで発行されていたお札と考えられます。



【コート】

陸軍士官のコートってダブルボタンでしたよね?
色もこんな茶色じゃないし。
というわけでこれは普通のコートです。

色がそれっぽいのでアメリカ人は軍装と思っている模様。


【日の丸と武運長久】

右:SMSダニエル・メローシェ(空軍)氏より貸借

左:ラリー・デイビス氏が太平洋で取得したもの


相変わらず横書きを縦に飾るという失礼なことをやらかしていますが、
怪我の功名?偶然「武運長久」が縦に読める・・・でっていう。



【日の丸寄せ書き】

アメリカ兵がお土産感覚で持ち帰った日の丸の寄せ書きを、
書かれた名前を元に日本の遺族に返そう、という奇特なアメリカ人がいる、
というニュースを何年か前ネットで目にしたことがあります。

相変わらずここにもそのうちの一つがあるわけですが、
おそらくほとんどはこのようにアメリカに残ったままでしょう。

日本人には、これが
「林幸茂」という人の出征に際して贈られた、
出征記念の寄せ書きだということがはっきりとわかるわけですが、
漢字の上下も判別できない人ばかり生息している地域では、この文字列など、

我々にとってのシュメール文字くらい不可解でかつ意味のない
「模様」みたいなものなので、当然深く思うこともないのかもしれません。


それにしても、この林幸茂という青年は知人の多い人らしく、
名前だけで国旗の白い部分が埋め尽くされていますが、ところどころに

「一志奉公」「東亜建設」「祈武運長久」「勇」「力」「米英打倒」

といった言葉も見えます。


仔細に眺めると、「青春部隊」という言葉がいくつか書き込まれ、
そのうち一つは「青春部隊長」・・・そういうグループを作っていたのかな?
「豆チョコボンボンズ」というのは、真っ黒に日焼けした
男の子たちのグループの一人だったということかな?

彼が過ごした故郷での幸せな少年時代を彷彿とさせます。



さて、先ほど彼らにとってのシュメール文字などと書いてしまいましたが、

今回はここマスキーゴンの心あるアメリカ人たちに謝ろうと思います。

この日の丸寄せ書きは彼らの敬意を表すかのように美しく額装され、

しかも入艦してすぐのところに掲げ、次のような解説が加えられていました。

”グッドラックフラッグ(幸運の旗)”

寄せ書き日の丸は、大日本帝国の軍事行動、
特に第二次世界大戦中に派遣された日本の軍人への伝統的な贈り物でした。

国旗は通常、友人や家族によって署名された国旗であり、多くの場合、
兵士の勝利、安全、幸運を願う短いメッセージが添えられていました。

「日の丸」という名前は、文字通り「丸い太陽」を意味する
日本の国旗の名前から取られています。

遠く離れて駐屯する軍人や愛する人のために寄せ書きされた日の丸は、
広げられるたびに世界共通の希望と祈りを持ち主に届けました。

多くの署名やスローガンが記されたこの旗は、その所有者に
困難にも立ち向かうことのできる力を与えると信じられていました。

1942年から1945年にかけての太平洋戦争では
何百万人もの日本人が命を落としましたが、持ち運びが簡単だったため、
米海兵隊員と兵士たちは何千ものこれらの旗を持ち帰ってきました。

近年、一部の退役軍人らによって、
日本軍人の家族に
この旗を返還する取り組みが行われています。


USS「LST393」は、日の丸を日本の家族と「再会」させる、

というプロジェクトを行なっている団体の中で最も活発に活動している
オレゴン州アストリアの「オボン・ソサエティ」と連絡を取りました。

もしソサエティが旗の持ち主の軍人遺族と連絡をつけることができたら、
当博物館はすぐさま国旗を日本に返還するつもりをしていますが、
それまでは教育目的で展示させていただくことにしています。


この寄せ書きはマスキーゴンのトーマス・ブルドン氏から貸与されました。


彼の父親トーマス・E・バートンは第二次世界大戦で
海軍の艦上戦闘機パイロットであったことから考えて、
海兵隊と
旗を何かと交換して手に入れた可能性が高いということです。



【脇差 ワキザシ ショートスウォード】

神軍刀として配布された脇差短刀(12~25インチ)です。
これらは 1935 年から 1945 年にかけて大日本帝国軍向けに製造されました。

政府はこれらを下士官(軍曹および伍長)に配布しましたが、
士官は自身で購入することが推奨されていました。

この剣は構造を簡素化するために木製の柄を持っているもので、
おそらく第二次世界大戦末期に製造されたと考えられます。
革で包まれた木製の鞘も付いています。

タッセルはランクを示します。

茶色、赤、金は将官用。
佐官は茶色と赤。
中隊長または准尉の場合は茶色と青、
下士官の場合は無地の茶色です。 


軍刀のタッセルのことは正式には刀緒といいます。
正式には以下の通り。


陸軍将官 茶色・赤に金織入り
陸軍佐官 茶色・赤
陸軍尉官 茶色・紫

海軍士官 茶色


この刀も海軍の艦上戦闘機パイロットだったトーマス・E・ブルドンが
太平洋から持ち帰ったもので、島での戦闘後に海兵隊員と交換したとのこと。

ところで、どうしてブルドンさんが
「海兵隊と交換した」と強調するのか、
わたしは最後の展示を見てなんとなく腑に落ちました。




ブルドン氏の父親は、日の丸と刀という、当時のアメリカ兵が
目の色を変えて欲しがっていたお土産だけでなく、
おそらくそれらの持ち主である写真の人物の
財布まで持ち帰っていました。

そしてその財布の中には、この写真が入っていたのです。
寄せ書きの名前、林幸茂という兵隊は、この内の誰かで、
一緒に写っているのは初年兵仲間か、それとも
例の「青春部隊」のメンバーだったのか・・・。



戦争中の高揚感から、あきらかに日本兵の遺品であるとわかる略奪物を
故郷に持って帰ってきたものの、その持ち主がどうなっていたか、
おそらくパイロットの父親は、これらを自分の持ち物と交換した
海兵隊員に聞いたであろう当時の状況について、戦後、

あまり思い返さないように(考えないように)していたかもしれません。

だからこそ、彼は息子にその経緯を詳しく語らないまま他界したのでしょう。

そして、これも仮定ですが、息子は、父親がこれらを手に入れた方法が、

戦死した日本兵の遺体から略奪しというものでなかったということを、
後世に対し、父の名誉のために、表明したかったのではないでしょうか。



続く。






甲板のエントツアマツバメ〜戦車揚陸艦USS「LST-393」

2023-09-27 | 軍艦

第二次世界大戦中は戦車揚陸艦LST-393、
戦後はフェリー「ハイウェイ16」として活躍した輸送艦の見学、
あとは甲板を残すのみとなりまいた。


左舷側には艦唯一の

3"/50 caliber gun
(3インチ50口径砲)


が装備されています。
フェリー時代には武器は外されて、展示艦になってから
同型のものを設置したのだと思われます。





今気がついたのですが、地面には船が置いてあります。
屋根に星印があるのでおそらく陸軍のPTボート的なのに違いない、
と探したところ、

ベトナム・リバーボート

であるらしい画像が出てきました。




パトロールボート・リバリーン、略してPBRと呼ばれるボートは、
ベトナムのジャングル川のような浅瀬をパトロールするためのものでした。

1966年に登場した最初の11隻のモデル1 PBRは、
ベトナムのメコン川やその他の内陸水路に沿った武器輸送を阻止し、
セキュリティチェックや河川パトロールに運用されました。

特殊なベトナム戦争用ボートは、グラスファイバー製で、
海上船舶よりも底が平らで、長さは約31フィートでした。

艇長、機関士、船員、砲手仲間からなる4人の乗組員を乗せ、
時には5人目(多くは南ベトナムの税関または警察官)も同行しました。

船には4丁の機関銃とグレネードランチャー、
そして各兵士が携行する多数の武器が搭載されていました。

河川でのパトロールは米軍にとって全く新しい体験であったため、
最初のPBRは何度も設計変更を余儀なくされました。

しかも、河川の任務はベトナム戦争の中でも特に危険であり、

ゲリラとの戦闘などによって死者を多く出しています。

海軍と陸軍の両方が使用したこれらの「ベトナムバトルシップ」は、
戦争を通じて重要な任務を数多くこなしました。



前回ご紹介したビデオ、「Dデイショー」では、この20ミリ泡にも
人が配置されて、航空機に攻撃をしているのが確認できます。

この場所からも民間船時代には武器はなくなっており、
ここにあるのは有志(元軍曹らしい)製作によるレプリカだそうですから、
あくまで「撃っているフリ」だったはずですが。

20MM OERLIKON CANNON
(エリコン20ミリ砲)


「太平洋のカミカゼキラー」として知られているこの対空機関砲は、
0.5 ポンドの銃弾を1マイルまでの誤差で正確に発射することができました。

通常は5人で運用しますが、独自の60発弾薬ドラムのおかげで
一人でも対応することができました。
どこにでも取り付けることができ、LST393には
多い時で12門が搭載されていました。


「知られている」って・・・。
「太平洋のカミカゼキラー」なんて言葉、生まれて初めて聞いたわ。



二連装ボフォース40ミリ砲
A twin Bofors 40 mm


は、艦尾の左舷に装備されています。



ブリッジには、ウィールハウスのさらに上にデッキがあります。
このドアは密閉されていて入ることはできません。



そこに上がって最上階から見たエリコン泡。
隣の埠頭に見えている建物は、
グランドバレー州立大学(という大学があることを初めて知る)の
一つの研究棟なのだそうです。



艦尾甲板階。



A twin Bofors 40 mm
二連装ボフォース40ミリ砲




さて、これで一応甲板の装備などを見終わり、このあとは
艦内のあちこちを利用した軍関係の展示を見ていったわけですが、
あとになって、大変残念なことに気がつきました。

このとき、わたしはうっかりしていて(疲れていたのかも)
エンジンルームを見学することなく艦を降りてしまったのです。



内部を動画で公開しているYouTuberがいました。


Landing Ship Tank "USS LST 393" Tour

どうやら、スターンラダールームの後、ブリッジに上がる前に
バンクの途中にある階段を降りないとだめだったようです。

11:44から16:00までがエンジンルームになりますのでご覧ください。




ところで戦車揚陸艦の内部の広さを生かし、LST393は各種イベントの開催、
パーティなどへの貸し出しなどを積極的に行っています。

そして、艦内のいたるところに、集められた戦時グッズが展示されています。


戦車揚陸艦特有だと思うのですが、タンクデッキは
フロアの周りをぐるりと囲むようにコンパートメントがあります。

今日から紹介していくのは、そのコンパートメントを
展示ブースのように利用した戦時記念品や展示などです。



まずその前に、甲板階から降りる手前で見たものを。
オリジナルの機械部品が説明付きで棚に並べられています。




1、トリゲート 

2、汎用ノズル 

3、汎用ノズル 




4、ワイゲートWyegate?

5、ダブルフィメール Dewatering

6、シミーズ 

7、雄から雌へ 




8、ジュビリー・パイプ・パッチ リペア

10、雄プランクフランジ リペア


リペア以外はほとんどが消火ホース関係の部品となります。



階段の踊り場には陸軍軍人さんが立っていました。



それではここからミリタリーグッズ展示に入ります。
まずはOD色のケースに収められたフィールドデバイス一式。

固定脚付のマシンガン、傘の骨のようなスタンド、磁石、
バックパックに、塹壕から外を見るための陸上ペリスコープらしきもの。



偽装網の上にはどこかに飾られていたらしき一コマ漫画。
ベテランらしい軍曹が新人から銃剣を奪い取りながら、

”Get on the ball." -Rookie.

ゲットオンザボールというのは、本気でやれ、というような意味でしょうか。
真剣に取り組むとか、集中してやるというようなニュアンスです。



漫画もう一つ。

”Home was never like this!"

我が家ならこうじゃなかったのにな。
そりゃまそうだろうと。(AA略)



ルーズベルトをあしらった飾り時計、ミッキーの看板、
当時の大きなラジオや夫婦記念の絵皿・・・。
なんだかアメリカの街にひとつはあるスリフトショップみたいです。


軍サービスを行っていた元女性軍人が、

「当時わたしが着ていたお気に入りの服なの!飾って!
これはわたしが最近趣味にしているパッチワークなの!
これもミシンと一緒に飾ってくださる?」


とおっしゃるので仕方なく飾っている感ありありの展示。





最上階の構造物の周りを一周して甲板をもう一度臨む。



鳥の巣がありました。
燕にしてはちょっと大きくて色が違う気がしますが・・・。

写真を撮っていると、別の見学者がやってきたのですが、
彼ら(男性一人、女性一人)はわたしたちを見て、

「さっき潜水艦でも会ったよね」

と声をかけてきたのでちょっと挨拶をして、
今見たばかりの燕(多分)の巣があることを教えてやると、

「うぇえ、こいつら家にすぐ巣を作るんだよな。
気持ちわりい」


みたいなことを言ったので、そりゃすまんかったと謝りました。



まあたしかにあまり可愛い雛ではありませんでしたが、
こういうとき日本人ならこんな反応しないよな・・。




気がついたら二羽の鳥が鳴きながら軍艦の周りを飛来していました。
写真をアップしてみたら、一羽が木の枝を咥えていました。
もしかしたら雛たちの親なのかもしれません。

気になって調べてみたら、

chimney swift(エントツアマツバメ)

ではないかと思われます。
文字通り煙突や構造物に巣を作るので嫌われているとか。
ニイちゃんが憎々しげに言い放つのもちょっとわかりました。
コウモリみたいな感じなんですよね。

わたしが写真を撮った時、親鳥らしいのは激しく鳴いていましたが、
これは巣に近づいたわたしたちを威嚇していたのかもしれません。

何にしてもすまんかった。<(_ _)>



ナビゲーションとホイールハウス(ブリッジ)〜戦車揚陸艦LST-393

2023-09-24 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに展示されている
第二次世界大戦中の戦車揚陸艦、US「LST-393」。



今日はブリッジの階の続きです。




このワードルームは、マスキーゴン出身で第二次世界大戦の陸軍退役軍人、
フランク・スプレイグ氏に敬意を表するため、
彼の息子であるレミントン・スプレイグ博士によって修復されました。


さて、ここはすでに丈夫構造物の甲板階となるのですが、
さらに上に上がっていくことにします。

ナヴィゲーティング・ブリッジがあるようです。


階段の上にはコンプレッサールームがありましたが、立ち入り禁止でした。



ナヴィゲーティングオフィサー、つまり先ほどの
フェアバンク中尉が勤務していたに違いないオフィスがあります。

ここはプロッティング・テーブルとされています。


信号早見表などが書かれた便利もの。



階段を登って右側にあるのがチャートルームとデスク。



他のディスプレイはいろんなところから集めてきた関係で
ほとんどが当時のものではありませんが、ここだけは
正真正銘どの機材も第二次世界大戦中使われていたものばかりだとか。

アメリカには第二次世界大戦中にすでにテプラがあったのか・・・。


謎の電気器具。



棚の上にある顔写真は、第二次世界大戦中、
戦車揚陸艦乗組の水兵で唯一名誉メダルを受賞した

ジョニー・ハッチンス
Johnnie David Hutchins


という人物です。

1943年9月、ニューギニア・ラエへの攻撃において、
ハッチンスの乗ったUSS「LST473」が、
日本軍の陸上砲台と空からの攻撃を受けながら敵地海岸に近づいたとき、
敵の魚雷が波間を突き破り、致命的な精度で船に襲い掛かりました。

操舵はミサイルを避けようとしましたが、次の瞬間
爆弾がパイロットハウスを襲ったため、操舵はその場から離れてしまいます。
そのときLST-473はなすすべもなく無防備な状態に置かれました。

そのときハッチンズは、爆発で致命傷を負っていましたが、
この危機的な状況を十分に理解し、すぐに舵を握り、
迫り来る魚雷から艦を守るために最後の力を振り絞りました。

彼の最後の力は艦を守るために、そして
最後の努力は任務の遂行に費やされ、
結果として、彼は国のために勇敢に命を捧げて亡くなりました。

ハッチンスを含め、7名が戦死し、14人が重傷を負っています。

その後彼の名前は

USS Johnnie Hutchins (DE-360)

として駆逐艦に遺されました。
日本軍と戦って斃れた彼の名を負った駆逐艦は、
沖縄では航空救難艦として活動して終戦を迎えています。



チャートルームの反対側はホイールハウス、操舵室となります。



なんというか、普通の軍艦のブリッジとあまりに違う、
民間船舶のような佇まいにちょっと違和感を感じました。

今までアメリカで見てきた空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、
そのいずれの水上艦とも違いますし、自衛隊の艦とも全く違います。

民間転用のためにわざわざ操舵室を作り替えることはないでしょうし、
そもそも、戦車揚陸艦は戦闘艦ではなく輸送任務が主なので、
特に1942年当時の輸送艦はこれが標準仕様だったのかと思われます。

まず正面の舵輪はhelms、左のレーダーにRadar、
舵輪の向こうのビナクル(磁気コンパス)にMagnetic Compass、
と名称のシールが貼られています。

レーダーには

トランスミッター・レシーバー

と製造番号の書かれた当時のプレートがそのまま残っています。



手前にはエンジンテレグラフ。
奥のエアコン(いわゆるセントラルヒーティング式)の上には、

シップベル・コード
Codes for Ships Bells


として以下のように指示する一覧表があります。

1ホイッスル 或いは 1ベル・・・前進

1ホイッスル 或いは 1ベル・・・停止

2ホイッスル 或いは 2ベル・・・後進

3ホイッスル 或いは 3ベル・・・チェック

4ホイッスル 或いは 4ベル・・・ストロング

4ホイッスル 或いは 4ベル・・・オールライト


「チェック」「ストロング」の意味と、
「ストロング」と「オールライト」の違いはどうやって見分けるのか、
部外者にはちょっとわからない点がありますが・・。



右手には
カーゴホールド(船艙)のライトスイッチがあります。



艦首はこの前にあるAmazonの建物の方向を向いています。
室内はグリーンに塗装されていますが、おそらくこれは
フェリー「ハイウェイ16」時代の名残りで、元はグレーだったと思われます。

そして、「ホイールハウスと名称が示されているわけですが、
これも民間フェリーになってからの名称で、
LST396時代はもちろんここは「ブリッジ」と呼ばれていました。




フェリー時代の名残といえば、まだこんなディレクトリがありました。
ミシガン湖など五大湖を航行する船舶共通の交通ルールが書かれています。

真ん中は船同士が接近した時に衝突を回避する方法ですが、
最後の直角か斜めに交差する場合はどうするのでしょうか。

この状況では、2 隻の汽船が衝突の危険を伴う状況で
直角または斜めの角度で互いに接近している。

他の船を自分の左舷側に認めた場合、その船は、針路と速度を維持し、
他の汽船の方は、前者の船尾を横切ることによって避けなければならない。
その際、必要であれば速度を緩めるか停止するものとする。


なるほどー、何かの役に立つ日が来るかもしれないから覚えておこう。


さて、ここでパイロットハウスを出て甲板の前に立ってみましょう。
通常は甲板は立ち入り禁止ですが、イベントの際は一般公開されます。

Air Raid LST 393 on D-Day

Dデイの記念イベントでは、ストーリー仕立てで、
甲板の上で陸軍兵士たちが思い思いに過ごしているところ、

「ゼネラルクォーターズ、ゼネラルクォーターズ!
メン・オン・バトルステーション!」

とまず叫び声がかかり、陸軍兵と水兵が上空に飛来する
4機の敵機(さすがに塗装まではされていない)に攻撃を加えます。
薬莢が散らばっているので、空砲を本当に(?)撃っています。

4:35になると負傷者が出て、甲板に倒れたままの人や、
救護班に連れて行かれる人も出てきます。
うつ伏せで倒れている人はトリアージの結果後回しに(-人-)

8分くらいで攻撃は終了し、テープで仕切られた甲板の左舷側にいた客が
皆で拍手をして、Dデイショーはおしまいです。

しかし何がすごいって、第二次世界大戦中のレシプロエンジン機が
こういう時のために、いつでも飛ばせる状態にあるアメリカという国です、

また、甲板を使ったイベントとしては、コロナ蔓延中は中止していた
 "Movies On Deck"が復活しております。

参考までに、上映メニューは、

6月23日「トップガン」(オリジナル)
7月7日「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」
8月4日「ブルース・ブラザーズ」


上映開始時間は日没直後の夜10時。
入場料は無料で、椅子も自分で用意してねとのこと。
ポップコーンやスナックは販売しており、それとは別に
艦のメンテナンス費用やベテランへの寄付大歓迎、とのことです。



それにしても、ブルースブラザーズねえ・・・。

Dデイを描いた「プライベート・ライアン」とか有名どころの海軍ものは
もうやり尽くした後、ということでこのプログラムかもしれません。



WW2 Uniforms LST 393 on D-Day

また、デッキの上ではありませんが、艦前の広場で
Dデイには当時のユニフォームファッションショーも行われています。
(ちなみにBGMは、誰が選んだのか、

”Watch What Happens"何が起こるかみてみよう

というわけでこういうことが起こったわけですが、
どうでもいいけど皆お腹が大きすぎ。
当時の軍人さんは、皆もう少しスマートだったと思うぞ。



外から見たブリッジ・・・いや、ホイールハウスです。

続く。



オフィサーズ・デッキ〜戦車揚陸艦 US「LST393」

2023-09-21 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに展示されている
第二次世界大戦時の戦車揚陸艦、US「LST-393」を紹介しています。




かつては戦車、戦後はフェリーとして車を乗せてミシガン湖を航行した
展示艦の、車両を搭載する艦首扉から入場し、
そこからギャレーを見ながら、まさにこの地図の
You are hereのところにやってきたと思ってください。



You are hereから通路はいきなり舷側に出ました。
というわけで今日はオフィサーズ・デッキを見ていきます。


LST393は、展示艦になってから1945年のカモフラージュ塗装にされ、
それを塗り替えながら展示されていましたが、2014年、
Dデイ当時の塗装に変えるプロジェクトによって、現在の灰色になりました。

ここが湖沿いで、海水による侵食がないせいで、6年経ったこの日も
LST393の艦壁のグレーのペイントは比較的きれいなままでしたが、
通路は長らく手入れされたようにはとても見えません。

ご予算の関係?でデッキは展示艦になった当時のままなのかもしれません。



オフィサーズ・ステートルーム(執務室)の一つに到着しました。
上部構造物に位置するため、カーテン付きの舷窓があり、
これが潜水艦ばかり見てきた目には
普通の船っぽくて、ちょっと新鮮な感じがします。

「393」兵員たちの生活する場所は、冬にも暖房がなくても大丈夫なくらい
熱気が充満して、そのせいで熱帯では大変でしたが、
(ノルマンディ上陸作戦の後、対日作戦の支援で太平洋に進出した)
ここオフィサーズステートルームは、日光が直射で夏は暑く、
しかも冬は吹きっさらしで、死ぬほど寒くなるところです。

下の階で説明されていたように、LST393は艦内に7つ設置されていた
ベンチレーションブロワーによって送られてくる艦内の熱気を
暖房として利用していたので、それがここにも送られ、
写真の右側に見える暖房器具から排出されていたと思われます。


オフィサー・ステートルーム2、2つめの士官寝室です。
縦も横も広くてマットもちゃんとしたものが用意されています。

上の段が高すぎていくらアメリカ人でも脚が上がるんだろうか、
と心配になる程ですが、軍艦にはベッドの梯子など存在しませんから、
おそらく、両手を上の段にかけ、よっこらせと体を持ち上げてから
片足をかけて上ったのに違いありません。

もちろん靴は履いたままだっただろうな。

ご存知のようにほとんどのアメリカ人は家の中を外で履いた靴で歩きます。
その「外」というのが、基本的に猛烈に汚いところが多く、
映画などを見ていると、下手したら靴のままベッドに寝転んだりしてますが、
これは日本人にとっては生理的になかなか受け入れられません。



ベッド脇に貼ってあるのは、クルーナンバー(ちなみに17)、
レーティング(階級)、任務などで、火災や非常時、
そして総員退艦のときの信号の発信法が書かれています。

ベッド横にあっていつも目にすることで記憶に刻み込み、
危急の際に行動することができます。



潜水艦と違って、二人で一部屋という贅沢な環境です。
電話は部屋に一台。



次にキャプテンズ・クォーターズ、艦長室です。
さすが艦長の部屋だけあって、応接室&ダイニングと寝室が別。

空母の艦長室などとは大いに雰囲気が違いますが、
戦車揚陸艦なので、まあこんなものでしょう。


ノルマンディ上陸作戦時、LST339の副長(Executive Officer)だった、

ベン・オーウェン少佐 Ben Owen

の着用していた制服が飾ってあります。

オーウェン少佐は戦後予備役になっていましたが、朝鮮戦争が始まると
軍役に復帰し、今度は艦長としてLST803に乗務しました。

駆逐艦や戦艦、巡洋艦などと違い、揚陸艦は数が少なく特殊なので
副長が艦長になって同じ艦に乗り組むということもあるのでしょう。



どの軍艦でも、個室で一人で寝られるのは艦長だけです。
艦長が自分の艦に着任してベッドに初めて寝るときには
俺もようやくここまで・・・と感慨に耽るものではないでしょうか。


艦長用シャワールーム。

上にあるのはシャワーではなくスプリンクラー(最新式)です。
これがシャワーよりいいかどうかは大いに疑問ではありますが、
とにかく、脱衣所には暖房器具付きで至れり尽くせり。
ブース内には石鹸置き場まで完備しています。



シャワー室。



配管は古いですが、シャワー栓は新しいものです。
しかも、割と最近使ったらしい形跡が・・・。

もしかしたら泊まれるのかな。


もうひとつの士官寝室にも、カーキのサービスドレスが飾ってありました。
こちらは中佐の制服ですが、持ち主の名前は書かれていません。
オーウェン少佐が艦長になったときの制服かもしれません。



冬場、ここで書き物をするのはさぞ手がかじかんだことでしょう。



士官用洗面所です。
何度も言いますが、冬は寒かっただろうなー。



ワード・ルーム、オフィサーズ・メス、士官食堂です。
士官たちはここで食事を「提供され」ました。



担当スチュワード(下士官)は、まずこの緑の窓、
「ワードルーム・パントリー」に出来上がった料理を置き、
セッティングを完了してから、テーブルに座っている士官にサーブしました。

兵員たちの食事は、世界共通のあのアルミ皿一枚で足りますが、
士官の場合は最初から最後まで、陶器で一品ずつサーブされます。
(サーブする順番も階級順と決まっていました)


椅子が15脚見えますが、LST393時代、士官は多くて10名でしたから、
内部の様子は今とは少し違っていたかもしれません。

もちろん当時テレビはありませんでしたが、きっとその代わり
レコードプレーヤやラジオはあったはずです。


この艦にはめずらしく、木でできたドアです。
後から付け足したものかどうかはわかりません。



金色のプレートにはオフィサーズ・メスという表示と、
艦内の「アドレス」に当たる番号が刻印してありますから、
もしかしたらプレートだけは当時のものかもしれません。

キャビネットとクローゼットが見えますが、ここは
食器、テーブルカバー、スチュワードジャケットを保管する場所でした。



1944年当時のオフィサーズ・メスにおけるLST393士官のみなさん。
左手前から、

R.D. マクレー艦長
ポール・グラムシュ少尉
フランク・ミラー中尉
マシュー・ケニー中尉


右列奥から
ジョン・フェアバンク中尉
ハワード・ホイットモア少尉
ジョン・スパノ中尉
ジーン・ラヴェル少尉


なぜか、当時XOだった先ほどのベン・オーウェン大尉がおらず、
写真に写っているのは全員が中尉以下初級士官です。

手前の空席がオーウェン副長の席で、
カメラのシャッターを押していたのは副長だったのかもしれません。


ところで、この区画を出たところにこんなプレートがありました。



テーブルの右奥に座っていたジョン・フェアバンク少尉は、
393ではおそらくナビゲーション士官だったと思われます。
その後彼はLST-212の副長になり、少佐で退役しました。



ST-212は、1943年7月6日に就役し、ヨーロッパ戦線では
393と同じ1944年6月のノルマンディーへの侵攻に参加しました。

1945年11月に退役、海軍名簿から抹消されて、
その後は商船用に改造されました。

こうしてみると、ほとんどの戦車揚陸艦はDデイのために建造され、
戦争が終わったらたちまち用がなくなって、民間船、
(ほとんどはフェリー)商用として余生を送ったらしいことがわかります。

ところで、このフェアバンク中佐のプレートがなぜあるのかはわかりません。
本人か家族が名前を残すために特別に寄付を行ったのかもしれません。



写真で士官たちが囲んでいるのはこのテーブルだと思われます。



これにテーブルクロスをかけ、写真は左側から撮ったんじゃないかな。



ワードルームパントリーの窓から覗くと、小さなキッチンと
コーヒーセットがありました。

イギリス人は「ティー」、アメリカ人はコーヒー。

というわけで、ここにも巨大なコーヒーサーバーが。
士官はせいぜい多くて十人だったというのに・・・・。



錨のマークの刻印入りのコーヒーカップとお皿。
今のアメリカ人なら皆マグを使っていそうです。



ところで、オフィサーズステートルームの一隅に
このようなコーナーがありました。
リユニオン(同窓会)の写真と、当時の戦闘日誌などのコピーが見られます。



当艦ではなく、LST308のものでした。
同じLSTつながりで、ここを同窓会に使ったのかもしれません。
1995年と2001年のもので、微妙に人数が減っているのが切ない・・・。

LST308も、サレルノ侵攻とノルマンディ上陸作戦に参加していますが、
艦体そのものは終戦後すぐ1946年に退役して廃艦処分となりました。




続く。

ギャレーとメスデッキと「ネイビー・クックブック」〜US 「LST393」

2023-09-19 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに展示されている
第二次世界大戦時の戦車揚陸艦、US「LST-393」を紹介しています。



ベーシングデッキの下の階に降り、スターンルームを出ると、
そこに小さなギャレーが現れました。

説明がありませんでしたが、この小ささは、
士官用のギャレーではないかと思われます。

LST-393には士官は8名から10名が乗務していました。



棚の上にはヒルズブラザーズのコーヒー缶が見えます。
Hills Bro は日本でも「ヒルズコーヒー」と言う名前で展開しています。

ヒルズコーヒーの歴史


■ギャレーとメス・デッキ

スターンルームを抜けると、兵員用のバンクがあり、同じ階には
お待ちかねのギャレーとメスデッキが現れます。



「スターボード・メッシング・デッキ」Starboard Messing Deck
左舷食堂デッキ

です。
ここと、これに続くいくつかのコンパートメントは、
下士官が食事をとるエリアとなっていました。



デッキには(写真を撮りませんでしたが)この
細長いテーブルを保持するための溶接部分の跡がいくつも残っています。

下士官はこの上の階にあるギャレーで食事を受け取ったあと、
持ってきてここで食事をしました。
トレイを持って狭い階段を降りるというのは大変ですが、
彼らはきっと慣れていったのでしょう。

このエリアには乗組員のシャワー、洗面台、ヘッド(トイレ)もありました。



このスペースには寄付された元軍人の遺品などが飾られています。
例えばこのウォルター・スプロウルズ氏の軍服。

かれはマスキーゴン出身の戦闘機パイロットで、
大変優秀だったため、昇進も早く、将来を嘱望されていましたが、
訓練機との接触事故によってわずか32歳の生涯を終えたとあります。



床に置いてあるのはニール・スポーリマンというモーターマシニストの荷物で、

「米国海軍軍務からの分離に関する通知」

という書類が添えられています。



海軍任務先から出す写真入り挨拶カード。
書類は離職許可書類のようなものでしょうか。



ギャレーは、すべての兵員の食べ物が調理され、提供される場所です。

ここはかつて最も汚れたコンパートメントでした。

兵員は、縦揺れ横揺れする艦内でサーブを待つ長い行列に並び、
食事をゲットし、さらにそれを
一階下のメス・テーブルに持っていって食べなければなりませんでしたから、
トレイをひっくり返す事故もあったでしょうし、
食べ物の飛沫がその辺にこぼれまくるのも避けられませんでした。

「海軍は清潔をモットーとし」

というのは平時の建前であって、戦時中は特に
掃除もそれどころではないという雰囲気だったかもしれません。

もちろん展示にあたっては汚れた部分はできるだけ剥がして復元しています。


第二次世界大戦に参加した、本艦勤務給養の

エバー・ヤング 三等兵曹 Petty Officer Third Class (PO3)

の写真と制服です。

隣にはやはりここで勤務していたジャック・マイルズ氏寄贈の
「海軍クックブック」が飾ってあります。

後ろに見えるのは、アメリカの軍艦必須の、粉などを混ぜるミキサーです。




USネイビークックブックですが、創刊は1920年。
主に軍艦乗組員のための質の高い食事、バランスの取れた食事、
そして効率性を説く海軍厨房のバイブルで、基本的な食品の種類、
ビタミンとその効用、食品の保存について書かれています。

各レシピは100人前を想定していて、ミールプランナーが
自分の持ち場の必要数に応じて増減しやすくなっています。

前書きとしてこんなことが書かれています。

The Cook Book of the United States Navyには、
料理の原則、献立の計画、栄養学の新しい知識に基づいた
レシピの包括的なコレクションが含まれています。

レシピの多くは海軍のコミッサリーの職員によって提案され、

テストされたもので、すべてのレシピは

海軍における実用のために開発されました。

高水準の食品を調理する上で、コミッサリーの職員に役立つ補足情報は、

表やその他の形式で提示されています。

もう少し中を覗いてみましょうか。
海軍軍人の「生命線」であるコーヒーについては以下の通り。

【コーヒー】

焙煎コーヒーはデリケートで傷みやすい製品です。
挽いてあっても、豆であっても、缶に真空パックされている場合を除き、
コーヒーは慎重に取り扱う必要があります。
空気に触れると風味も強度も失われてしまいます。

  コーヒーはしっかりと蓋をし、涼しく乾燥した場所に保管してください。
臭いの強い食品の近くでの保管は避けてください。
焙煎したコーヒーは異臭を容易に吸収し、
それらは完成したコーヒーに顕著に表れます。

一般的な雑用として豆に入ったコーヒーを購入した場合は、
抽出するたびに使用する直前に必要な量だけを挽いてください。 
ネイビーコーヒーは専門的にブレンドされ、焙煎されています。

コーヒーを淹れるためのいくつかの簡単なルールに従えば、
豊かで楽しいコーヒーが期待できます。 

また、アメリカ人の魂であるアイスクリームはというと。

【アイスクリーム】

アイスクリームは海軍のメニューの「定番」であるべきです。
アメリカ人に人気のデザートの 1 つであることに加えて、
それは栄養価が高く経済的です。
以下の指示を注意深く守っていただければ、
高品質のアイスクリームを製造するのに役立ちます。

冷凍庫、材料を計量するときに使用する器具、アイスクリームの缶、
その他すべての器具を注意深く清潔に保ち、適切に滅菌してください。

最終製品の均一性、適切な食感、心地よい風味を確保するために、
すべての材料を正確に計量または測定します。
以下の指示に従ってください。

バッチを冷凍庫から取り出す前に、
正しい「オーバーラン」に達することが重要です。
「オーバーラン」とは、冷凍プロセス中に、
混合物に空気を吹き込むことによって得られる体積の増加を指し、
80% から 100% まで変化します。
市販品では 100% の「オーバーラン」が最も一般的に使用されます。

「オーバーラン」を判断する簡単な方法は次のとおりです。

カップ 1 杯の元の混合物の重量を量ります。
カップの重さを差し引きます。
適切な「オーバーラン」に達したと判断したら、
カップ 1 杯分のアイスクリームの重さを量り、再度正味重量を決定します。

アイスクリームの重量が元のミックスの重量のちょうど 50% であれば、
100% の適切な「オーバーラン」が得られます。

たとえば、ミックスの入ったカップの元々の重さが 8 オンスであった場合、
バッチを抽出する直前のサンプルの重さは 4 オンスになるはずです。
「オーバーラン」が多すぎるアイスクリームは急速に溶け、
溶けた製品に多くの気泡が現れます。

調整を誤ると、冷凍庫の内壁のクリームの薄い層が凍ってしまうので、
冷凍庫のブレードを鋭く、適切に調整してください。
これにより、バッチが冷媒から遮断され、凍結時間が長くなり、
「オーバーラン」が減少する傾向があります。

リース- 走る" から に アイスクリームを硬化キャビネット、
または0°F以下10°Fの部屋に保管します。

サーブするときは、キャビネットを 6°F に保ってください。
スクープを「転がす」動きですくってください。
スクープをアイスクリームに掘ったり押し込んだりすると、
アイスクリームが圧縮され、1 ガロンあたりの摂取量が減ります。


さすがアイスクリームが士気を高めるとトップが言明するだけあって、
作りかたはやたら科学的に厳密な感じです。

クックブック原文に興味を持った方のために。





ボードには、特別メニューが貼ってあります。

オリーブ
甘いピクルス
ローストターキー
セージドレッシング
グレーヴィー
マッシュポテト
バターコーン
バターエンドウ豆
野菜サラダ
フルーツケーキ
ミンスミートパイ
アイスクリーム
コーヒー
ミックスナッツ
キャンディ
葉巻 とタバコ




こちらは1943年護衛空母USS「ナッソー」のクリスマスメニュー。
「Chow」というのはチャウと発音し、ご飯のことです。

スイートピクルス
オリーブ
トマトジュースのカクテル
ローストターキー
焼きハム
クランベリーソース
マッシュポテト
セージドレッシング
モツグレービーソース
アスパラガスのチップス
スキャロップド・コーン
パーカーハウスロール
フルーツケーキ
アップルパイアラモード
バター
コーヒー
ミックスキャンディー
ナッツ盛り合わせ
葉巻とタバコ


別の艦なのに、まるでしめしあわせたかのように同じようなメニュー。
これがアメリカ人のクリスマスの定番なのでしょう。

LST393にはないスキャロップド・コーンという料理は、
典型的なアメリカの年末年始料理で、ニューイングランド発祥。

ローストビーフのサイドディッシュ的立ち位置の料理で、
スキャロップと言いながら魚介類は入っていません。

コーンにクリーム、卵、砕いたクラッカー、玉ねぎを混ぜて
キャセロールに入れてグラタンのようにオーブンで焼いたもので、
カロリーがたっぷり取れそうな、アメリカ人の好きなタイプの一品です。



これが「ナッソー」の給養くん(名前の表示なし)。
おそらくマスキーゴン出身なのでしょう。



護衛空母「ナッソー」Nassou(AVG-16 その後 ACV-16)

は、1942 年5 月に就役した37隻のC3 CVEのうちの1隻で、
「ボーグ」級護衛空母10隻のうちの1隻です。


1943年、アッツ沖を航行中の「ナッソー」


第二次世界大戦中は、アッツ島占領のための航空援護、

のちにタラワ島侵攻における輸送任務と航空支援に参加。

マーシャル諸島、クェゼリンでも作戦を展開し、
対潜哨戒と戦闘航空哨戒の両方を行っています。

最大の任務は、タスクグループ30.8としてハルゼー提督の第3艦隊に参加、
他の護衛空母とともにアドミラルティから出港し、
攻撃空母に航空機とパイロットの交代要員を提供しました。

パラオの攻撃、フォリピン作戦、ウルシー環礁において同じく
航空機とパイロットの補充と交代任務のほか、
1944年10月24日のレイテ湾海戦で沈没した

「プリンストン」の生存者382名を輸送する任務も行っています。

5つの戦功賞を受けた殊勲艦ですが、海軍から抹消されたあと、
1961年6月、日本に曳航されてそこで廃艦されました。

どうしてこのとき日本でスクラップになったかの理由はわかりませんでした。


続く。


ノルマンディ上陸作戦〜戦車揚陸艦 US「LST393」

2023-09-15 | 軍艦

マスキーゴン湖沿いに係留されている展示艦、
戦車揚陸艦US「LST-393」の艦内をご紹介しています。

ところで全く関係ない話を冒頭にぶち込みますが、
今LSTの「L」を打ったところ、なぜか候補として

🏳️‍🌈←これ

が出てきて、思わず、は?と声が出ました。
なんでLがいきなりLGBTなんだよと。

アメリカでは今あまりにメディアと左派のLGBT推しが酷すぎて、
ご存知のようにディズニー映画はえらいことになっているし、
それに文句を言ったら社会的に抹殺されかねない圧があるしで、
当然ながらこれに反発しながら、今まで黙るしかなかった保守層も
どんどんエスカレートするこのムーブメントに我慢しきれなくなって、
もうええかげんにしろ!という声がちらほら上がり出したように思います。

わたしはLGBTはもともと「個性」の範疇に収まることと考えていましたが、
アメリカのメディアや企業の昨今のあからさまなLGBT押し付けには
さすがにこれ変でしょ、と不快な気持ちを持たずにいられません。

これ、いったいどこからどういう指令が出てるんかしら。



閑話休題、LST-395の内部にはいってきました。

かつてフェリーの貨物として車両を搭載していた部分は、
いま展示艦のロビーのようになっていて、
その周りにはこれでもかと戦時資料の展示が行われています。

さすが戦車揚陸艦。それにしても広い、広すぎる。



指示の通りにまず階段を1階登ってみます。
そこでは洗濯板みたいな袖章をつけたCPO(上等兵曹)がお出迎え。



まるで鏡でものぞいているのかと思うくらい、長く続く廊下。
ここは「Berthing Deck」と呼ばれる乗組員の洗面所デッキです。

英語では

Supply Group Berthing(補給部隊洗面所)

となります。

潜水艦と違って、何しろ乗っている人数が多い(兵員最大115名)ですから、
水回りの設備もたくさんないと、朝など大変なことになります。


続いて兵員用バンク。

潜水艦ばかり見てきたので、廊下の広さにちょっと感動してしまいました。
バンクもこれくらい高さがあれば、起き上がっても頭打たずにすみますね。

しかし、もともと軍艦なので、舷窓はありませんし、
空気を取り入れているのはファンシステムのみ。



この大型ファンシステムは船内に 7 つあるうちの 1 つです。
空気の循環は特に熱帯地域では非常に重要でした。
そういう場所でこのコンパートメントは猛烈に暑くなりますから。

ユニットの中央には蒸気熱交換器があり、
ボイラーからの蒸気によってエネルギーが供給されると、
流れる空気が加熱され、それが寒冷時の船舶の暖房に使用されます。

しかし、ここマスキーゴンは冬場零下30度にはなる地域なので、
その間乗組員はかなり快適だったのではないでしょうか。


右側のハンドルのある機器は、換気用ブロワーのスイッチ。
冬場はこのユニットで艦内の空気を循環させていました。

この艦は空調がないそうですが、冬場はこれで十分だったということです。
いかにボイラーなどの熱が艦内に篭るものかということですね。


シャワーブースも、潜水艦と比べると広すぎて怖いほど。
しかもこれ士官用ではなくて兵員用ですから。


さて、わたしはこの地図で言うところの「タンクデッキ」から階段を上って、
ベーシングデッキを歩き、突き当たりまでやってきました。



一番奥に行くと上に、この階段を降りると下に(当たり前)。
しかしさて、どちらから行くべきか。
「順路」というものが決まっていないだけに、迷います。



ふむ、「スターン・ラダー・ルーム」とな。
ではこれから攻略することにして、下に降りていきますか。

スターン・ラダーとは文字通り艦尾の舵があるところ。
艦首から入って、一番後ろまでやって来たことになります。


今は物置かな?
真ん中にダイナマイトの起爆装置みたいなのがありますが、
スプレーポンプと書いてありました。



ここがスターン・ラダールーム
まず艦尾に向かって立ち、左舷側を向いた時に見える景色です。

右側の船殻からワイヤが来ていますが、



それいは手前の「クリーブランド」と書かれた機器に繋がります。
赤字で「イマージェンシー・ステアリング」とあります。



「クリーブランド」の左、艦尾に向かって左側。(右舷側)



奥に見えている黒い二つの機器はジェネレーターのようです。



ラダールームを出ると細い廊下。

■ノルマンディ上陸作戦





薬瓶や酸素マスクのある部屋に水兵さんが一人立っている部屋。
ここはどうやらファーマシーのようです。



ところで、マネキンの水兵さんが着ているセーラー服の袖に、
ドラゴンの刺繍が施されているのに気がつきました。

そういえば、戦争が終わってからアジア方面に寄港したフネの水兵の中で、
現地で軍服に刺繍を入れるのが流行ったことがありましたっけ。

もちろんこれは公式には禁止されていましたが、
何しろ戦争が終わった頃の開放感の中のことでしたから、
若い水兵のこの罪のないちょっとした違反は、大目に見られていたようです。


大きな木のトランクはファーストエイドキット、救急箱です。
中身を一応書き出しておきます。

アンモニア:気付用
消毒用アルコール:傷の消毒
キャスターオイル(ひまし油):下剤
サルファカイン:やけど
特別咳止め
メタフェン:傷口消毒
アプリケーター:消毒剤の塗布に使う
タンブレード:喉の検査、軟膏の塗布
エプソムソルト:下剤、感染症に
酸化亜鉛:擦過傷、炎症のための肌用軟膏
包帯
ガーゼ
三角巾
包帯鋏
スプリンター鉗子
バンドエイド
眼帯
喉の炎症のためのトローチ
アスピリン
点眼剤
安全ピン

が入っていると記されています。
こうやって書き出してみると、完璧なファーストエイドキットの内容です。



ところで、最初に説明したかどうか忘れましたが、
LST-393はDデイ、ノルマンディー上陸作戦に参加しています。

HPには作戦当時、実際に参加した乗組員が記した日記が掲載されています。

【1944年6月5日】

イギリス、ファルマス港に係留。
旗艦から0810に錨を降ろすよう信号を受けた。

0823年に錨を降ろし、サイ・フェリーを牽引して
作戦計画1-44を開始するために
タスクグループ126.4の船団を形成して航行中である。


LST-393は、1944年6月6日の夜、オマハビーチ地帯に到着しました。
シャーマン戦車やその他の戦争物資を積み込んだ後、
ノルマンディーの気まぐれな潮の流れに翻弄されながら、2日過ごしました。

「ノルマンディ上陸作戦」、別名オペレーションネプチューンの実施日は
1944年6月6日となっており、この日記にはその日だけの記述がありません。

【1944年6月7日】

イギリスのファルマスから、フランスのコルヴィルへ向かう。
陸軍車両と陸軍要員を乗せたLSTと他の様々な船舶の護衛艦で航行中。

1010、フランスのコルヴィル、
オマハビーチ沖の水深10ファゾムで船首錨を投下。
1,135人の負傷者を乗船させる。


彼女はオマハビーチまで30往復してさまざまな装備や物資をフランスに運び、
負傷した兵士や数千人のドイツ軍捕虜を乗せて帰還しました。

 【1944年6月8日】

敵機が上空に現れたため、0115にG.Q.(ジェネラルクォターズ)。
我々は砲火を維持した。(迎撃を続けたの意?)
1515に錨を降ろし、ビーチに接近するために航行する。

1531に、コルベイユ沖のセーヌ湾の水深7ファゾムで船尾の錨を放した。
1532、輸送のためにLST75から人員を積む。
2025、負傷者が乗船。

2119、錨を下ろして北回りの船団停泊地に向かう。
2217、イギリスのポートランドに向かうLSTの船団に編入する。

【1944年6月13日】

イギリスのポートランドからフランスのコルヴィルへ向かう。
LST輸送船団で航行中。
1104、ユタ・ビーチのシュガー・レッド・セクションの沖合、
水深3ファゾムに停泊。


【1944年6月15日】

サウザンプトンへの輸送船団で航行中。
サザンプトン外部ドックのバース6に船首と右舷を係留。
1137負傷者を運び出す。


【1944年6月16日】

0017、輸送船団を編成し、コルヴィルのセーヌ湾ビーチに向け出航。
1352に水深8ファゾムで停泊した。

1523、海岸に近づくために進路をとる。
1530、オマハ、Fox Red Beachの沖合で停泊した。
1738、オマハビーチの上陸港の外に立っている防波堤を通過して航行中。


【1944年6月17日】

ヴィアヴィルのオマハ地区、ドッグホワイトの沖合に停泊。
0003年、赤色警報を受け、G.Q.を鳴らした。
0028、G.Q.解除。

0345に車両と人員の荷揚げを開始。
0400完了した。

HMS「セレス」から、LCT 210を牽引して
イギリスのポートランドに向かう命令を受けた。

1200、航行中。

1312、LCT 210の仮隔壁が破損し、LCTはビーチに戻るよう命じられた。
1345、10マイル先の輸送船団に合流するため、再び航行中である。



【1944年6月18日】

LST 355(F-S)、400、523、27、393、288、532の船団で、
南イングランドのポートランドから
フランスのセーヌ海岸のオマハとユタの侵攻海岸に向かう。
コース079度、速度6ノットで航行中。

1231、ユタ・ビーチの「S」レッド・セクションに接岸。
1438、車両と人員の浜辺への荷揚げを開始した。
1515、海岸から死傷者と生存者の収容を開始、
1635、荷揚げ船の運用を完了した。


【1944年6月20日】

更なる指示をHMS 「セレス」から受けるため、0745に出航した。

0910フランスのセーヌ湾のオマハビーチに停泊し、
0937嵐の中を操船。

サザンプトンに向かう輸送船団を形成するために航行中、
我々は輸送船団の旗艦として行動する。



【1944年6月21日】

0014、パイロットが乗艦。


0955、英国サザンプトン港のハード「S-3」に船首と右舷を係留。


艦首扉を開き、負傷者の荷揚げを開始、

負傷者の荷揚げ作業を終え、英国陸軍の車両と人員の船積み作業を開始した。
417名の兵士と12名の将校、英国人、68台の様々なタイプの車両、
これらを引き受け、積み込み作業を完了した。


ここに飾ってある制服は、ここがファーマシーであることから、
Dデイに参加したファーマシスト、

ウィリアム・トバイアス・レーリング
Willian Tobias Rehling

が着用していた制服と、Dデイ並びにその後の
沖縄侵攻にあたって授与されたメダルです。



ファーマシーの一隅には看護師の写真(美人ばかり)と
1943年8月のカレンダーです。

ノルマンディ上陸作戦当時の日付ではないのがちょっと不思議。



続く。




戦車揚陸艦 USS LST-393〜「ハイウェイ16」と呼ばれたフェリー

2023-09-12 | 軍艦

今日から新シリーズに突入します。

シカゴのミシガン湖沿いにあるマスキーゴンで、
潜水艦「シルバーサイズ」を見学したその後、
わたしは前もって立てておいた計画に従い、
同じマスキーゴンで展示艦となっているLST-393を訪れました。

LST-393は

1942年7月27日起工
1942年11月11日進水
1942年12月11日就役


戦時中ということで、起工から就役までわずか4ヶ月と
超スピードで建造された戦車揚陸艦です。

■ マスキーゴン



このときのわたしの移動経路について説明しておきます。

先日までお話ししてきたMSI、科学産業博物艦のあるシカゴ周辺から、
ミシガン湖に沿ってまずシルバーサイズ博物館に到達。(赤いポイント)



「シルバーサイズ」見学を終えて、午後には移動。
ミシガン湖から流れ込むマスキーゴン湖沿いに、
内陸に向かうと、LST-393の展示があるというわけです。



マスキーゴンという地名はあまりにも日本人に馴染みがなさすぎて、
(ちなみにピッツバーグ在住の知人も知らなかった)
地図の表記ですら「マスケゴン」と「マスキゴン」「マスキーゴン」が
混在するくらいですが、発音は「マスキーゴン」が一番近いです。

先住民族オタワ族の言葉で、「湿地の川あるいは沼地」を意味する
”Masquigon”が地名となっています。

湖沿いののんびりした街で、人口の60%くらいが白人、
航空部品やタービンエンジン、装甲車製造会社が目立つ産業です。

面積46.93㎡に対し人口は3万8千人。
ちなみに渋谷区の面積は15.11㎡に対し総人口は24万3293人です。
面積3分の1で人口8倍って・・・。



博物館の正面はAmazonでした。
ビルはおそらく築100年くらいだと思います。


艦体全部をフレームに収めようと思ったら、かなり遠くからでないと不可能。



展示艦の前には、各種アメリカ軍旗などをはためかせた、
陸軍のトラックがでーんと鎮座しています。



こちらの記念碑は、マスキーゴン郡(ここはマスキーゴン市)出身の
戦功メダル受賞者2名の名前が刻まれています。

一人はアレクサンダー・マクヘイル陸軍軍曹という人で、

南北戦争において突撃中に南軍旗を奪取し、
その旗を投げ捨てて敵への突撃を続けた」


二人目のデュアン・エドガー・デューイ海兵隊予備伍長は、

朝鮮戦争における板門店付近の戦いで、負傷しながらも
向かってくる共産主義者の手榴弾から自らの体で仲間を救い死亡」

南北戦争と朝鮮戦争・・・。



外から見る限り全く人の気配がありません。
オープンという表示がなければ、入るのをためらってしまいそう。

入り口は艦首から、と矢印がありました。



矢印の示すままに、艦首に向かって歩いていきます。



マスキーゴン湖は、ミシガン湖から流れ込む「内湖」なので、
全く波のない湖面は鏡のように静まりかえり、まるで池のようです。



戦車を内部に積載するために、艦首は大きな扉が開かれています。
こんな造りの軍艦はアメリカでも初めて見たような気がします。



もともと港でもなんでもないので、護岸工事はまったくされていません。



いよいよエントランスにやってきました。

何年か前、ニューヨークのロングアイランドからニューロンドン間を
フェリーで移動した際、ノルマンディ上陸作戦に参加した揚陸艦で
改装していまだに現役で稼働している船に乗ったことがあります。

揚陸艦はその構造から戦後フェリーに転用されることが多く、
LST-393もフェリーとしてデトロイトで生産される新車を運搬していました。

ここからが特殊な事情なのですが、LST-393は、
戦争が終わると海軍名簿から抹消されて水路運行を行なっていました。
その時につけられた船名は「ハイウェイ16」

その理由は、高速道路16号線の陸路が終わるところから、
湖の上を「延長」した水路を16号線として運行していたからです。


「・・・・」はLSTのハイウェイ16「水路」

その際、この艦首のドアは溶接されて閉じられ、
戦車用だったデッキは車用に改造され、
デトロイトからマスキーゴンまで陸路16号線で運ばれてきた車を乗せて、
ミシガン湖をわたり、ほぼ正面のミルウォーキーで降ろしていました。

水路の16号線は、ミルウォーキーからまた陸路の16号線に替わります。

■ 博物艦



そんなこんなで使われなくなってから放置され、
経年劣化の一途をたどっていた393ですが、
2005年にマスキーゴンの住民二人が率いるグループが交渉し、
所有者がこの船を係留していた場所ごと、管理を引き継ぐことになります。

数年にわたる修復と清掃の結果、見学が可能なまでになり、
2007年には1940年代後半以来溶接で閉ざされていた扉が開かれました。

管理者のUSS LST 393 Veterans MuseumのHPには次のようにあります。

LST-393は、第二次世界大戦中に製造された
1,051隻のLST(上陸用舟艇戦車)のうち、現存する2隻のうちの1隻です。

USS LST-393を修復し、後世に残すこと、あらゆる兵科、
あらゆる時代のすべてのアメリカの退役軍人を称えること、
そしてアメリカの若者と一般の人々に、
軍隊に従事した人々の役割について教育するのが我々の使命です。

博物艦としてスタートしてからも、ほとんどの軍事博物艦と同じく、
LST-393もまた、現地のボランティアによる運営により、
修復や改装、イベントの企画などが現在進行形で行われています。



艦名が書かれているところを見ると、
軍艦時代からの浮き輪(っていうのかしら)だと思われます。
この浮き輪もノルマンディーに行ったのでしょうか。



現地でこのプレートと浮き輪を見た時には「?」だったのですが、
今この瞬間やっとこの意味がわかりました。

フェリー「ハイウェイ16」だった頃の彼女の装備です。



スロープを登っていくといきなり第二次大戦時のジープがお出迎え。
正確には

The Willys MB
フォードモデル名:GPW


という名称で、モデル名は

G=政府契約車両
P=ホイールベース80センチの偵察車
W=ウィリス設計のエンジンを搭載


という意味だそうです。


写真のゲイリー・ヤクボウスキーさんからの貸借で、
この人はこのジープを1975年までレストアして乗っていたようです。

ここにあるということは、ご本人が亡くなったのかな・・・。

さて、ジープの奥の売店も兼ねた窓口でフィーを払い、
いよいよ内部に入っていきます。



すぐに「ハイウェイ16」についての説明が見つかりました。

ハイウェイ16 カーフェリー

1946〜1973

第二次世界大戦中の輝かしい戦歴の後、
USS 「LST-393」 はデトロイトの Sand Products, Inc. に売却されました。
彼らは彼女をカーフェリーに改造し、製造したばかりの新車を積んで
ハイウェイ 16 号線を経由してマスキーゴンに到着し、
ミルウォーキーまで 1 日 2 往復する航行を 27 年間続けました。

当時、多くのマスキーゴンの若者が、フェリーに乗って働いていました。

2005 年 USS「LST 393 」保存協会がこの船を管理したとき、
この船の「カーフェリー時代」の一部であった船上の多くの機器が保存され、
このコンパートメントに展示されています。


第二次世界大戦中、このコンパートメントは
弾薬保管ロッカーであったことに注意してください。



それがこのコンパートメント(だと思う)。

棚には電子機器や電球、トランクやラジオ、斧などが見えます。
奥は鎖の収納されるスペースのようです。

ここは「掌帆長のロッカー」ボースンズロッカーではなかったかとのこと。
リザードライン、モンキーフィスト、ヒービングライン、
マーリンスパイク
などのアイテムもこここに保管されていたかもしれません。
(とはいえ、このうち一つもどんなものかはわかっていないわたしである)


この狭いコンパートメントは、マスキーゴン出身で
軍サービスを行った人々の写真室となっています。

マスキーゴン地域からは6000名の男女が軍に関わりました。

テーブルの上ににはスクリーンと連動するキーボードとマウスがあり、
そこで人名を検索して、資料を画面に映すことができます。

今映っている看護師は、ハリエット・アン・グリフィス・クローズさんで、
彼女はカデット・ナースプログラムに3年参加し、
シカゴのセントルークス病院にあった看護学校に学びました。


次の部屋に行ったところ、モニターで
おそらく393に関するビデオが放映されていて一人が見ていました。

こういうのに大変興味はありますが、何しろ時間がないのでパス。

ここからしばらく小さなコンパートメントには、
制服やペナント、写真、他の軍艦の記念展示などが続きます。

それらは全体の紹介が終わってから取り上げることにして先に進みます。



続く。





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