この「女流飛行家列伝」では、一度、アフリカ系アメリカ人の
ベッシー・スミスを取り上げ、人権が認められているどころか 南部では
「奇妙な果実」(住民が木に吊るして処刑した犯罪者)と呼ばれる
私刑(リンチ)さえ行われていた当時のアメリカで、飛行家として成功
(あれを成功と呼ぶのならですが)した彼女の戦いについてお話ししました。
そもそも、女性の地位すらアメリカにおいても同等ではなかった当時、
女性で、しかも有色人種が飛行機で飛ぶというのは、限りなく不可能に近い話。
そんな中でも決して希望を捨てず空に挑んだ彼女は、
まさしく挑戦し続ける壮絶な人生を歩んだ勇者であったといえましょう。
そして、その構図は当時世界どこにいっても似たり寄ったりで、
まず女性であるというだけで全ての可能性は大きく損なわれ、
飛行機に乗るという機会が訪れるような女性は、社会のほんの一握り、
さらに言うと、一人いるかいないかという国だってあったわけです。
本日の主人公キャシー・チャンの国、中国では少なくともそうでした。
ヒラー博物館の「女流飛行家」のコーナーの説明によると、彼女は
広東出身の中国人
中国系女性で初めてアメリカにおいて操縦を習得した人物
であるということです。
彼女は1927年にアメリカに来て、南カリフォルニア大学で1931年までに
単位を修得し、ピアノに習熟していました。
正式に留学してちゃんと卒業し、プロではないが玄人並みにピアノが弾けたと。
これは、当時の中国において特権階級というか、
よほど裕福な家庭に生まれたと考えるのがよさそうです。
おそらくアメリカに来てから、彼女は飛行機に興味を持ったのだと思われますが、
母国の中国には飛行学校はあっても、女性の入学は許されていなかったことから、
彼女はこの4年間にアメリカで飛行免許を取り、そして中国に帰って、
中国で女性も参加できる飛行学校を作ることを決心します。
今現在アメリカには、共産党幹部の関係者やら富裕層やら特権階級やらが、
アメリカでその文明を自分だけが享受しようと、
イナゴの群れのように押しかけて移民になっているわけですが、
一般に中国人というのは、自らが得た富を決して母国のために使おうとしないし、
また、自国を良くしていこうという考えも全く持たず、ただ己の満足のために
いとも簡単に生まれた国を捨ててしまえるようです。
それはキャシーの時代でも似たようなものでした。
中国人の欲望の吹きだまりの象徴ともいえる中華街は、
アメリカ始め世界の(韓国を除く)どの国にもあります。
しかし彼女はそんな中国人とは違っていました。
アメリカで4年も過ごせば、おそらくあとは何とかしてそのまま
アメリカに住みつくことしか考えないであろう大多数の中国人とは違って、
自分のように「空を飛びたい」と考える同胞の女性のために、
自分がその先駆となって祖国で道を切り開こうとしたようです。
そのため、彼女は猛烈に勉強しました。
何しろ、当時はアメリカでも、パイロットは総人口の0.1パーセントだった時代です。
そんな中彼女は中国系女性として(中国系アメリカ人ではありません)
初めて航空免許を、そして、1932年には将来開く学校のために
インストラクターの免許まで取ってしまうのです。
1935年には、これも東洋系女性では初めての商業パイロットとなり、
彼女は飛行でお金を稼ぐようになります。
そして、いくつかのエアレースや、エアショーにも出演し、腕を磨き、
将来のために資金をためていきます。
1937年、彼女は西海岸の中国系コミュニティで飛行を披露し、
目標に向かってまず70万ドル(当時のか現在の価値でかは不明)を
調達することに成功しました。
このころには東洋人女性としてはもちろん初めて、
西海岸の女性飛行家のクラブ99’sにも名を連ねるようになります。
そのお金で彼女は念願のライアンSTトレーナーを購入しました。
これは、彼女が中国に帰って始める飛行学校の、
大切な練習機の第一号になる予定でした。
wikiでは若干このあたりの記述にヒラー博物館との違いがあるのですが、
ウィキによると、彼女が帰国の決心をしたのは日中戦争の開戦(1937年)で、
「彼女は中国の勝利のために自分の飛行機を使おうと思った」
となっています。
おそらく、こんなマイナーな人物のウィキを制作するのはどこの国だろうが
まず間違いなく中国系だと思いますので、
まあ、中国人的にはそうだったんだなと思うしかありません。
だって、このウィキによると日中戦争のことを「日本が侵略してきたので」
とあっさりひとことで日本悪玉扱いですから。
これも中国からすればそうなのかもしれませんがね。
さて、彼女が中国に出発する前、まだ免許を取っていない練習生が
なぜか彼女のトレーナーを操縦してみたいと言い出しました。
これもウィキによると「彼女の男の友達」ということになっています。
友達であるから、免許がなくても乗せてあげようと彼女は考えたのでしょうか。
まさかその友達が、自分の新しい飛行機を墜落させ、
修復不可能なまでに壊してしまう
とは考えもしなかったのは確かです。
さて、この後、彼女は彼を訴えたでしょうか。
普通のアメリカ人であればおそらくそうするように。
おそらく彼女の事情と、立場を考えればそれは決してなかったでしょう。
そしてその「男の友達」とやらも、彼女に対し、
機体を弁償するなどという償いをしようとはしなかったようです。
彼女はただ「その事実に絶望し、失意のまま本国に帰っていった」
とあるからこれもおそらくそうだったのでしょう。
それにしても、この男の友達の行為。
特に事故を起こしてからの無責任さに、どこかキャシーを
「侮った」ようなものを感じるのは私だけでしょうか。
そもそも、彼女の飛行機に乗らせてほしいと言い出したことからしてそうです。
少なくとも、アメリカ人の所有機、しかも新品のものであれば、
たとえ女性のものでも、免許のない自分が飛ばしていいものかどうか、
自分がそれを賠償するだけの財力も覚悟もないのなら、ためらう、あるいは
遠慮するというのが普通なのではないでしょうか。
彼女が中国にそのまま帰った理由は、もう一つありました。
どうやら超大金持ちだったらしい彼女のパパが、その事故のことを聴いて
急に娘の安全が心配になり、彼女に飛行機をあきらめさせたのでした。
冒頭画像は、彼女がその機体のプロペラに手を置いているところですが、
彼女は実に幸せそうで、少しおどけたそのポーズから昂揚と誇らしさが
写真を通じても痛いくらい伝わってきます。
これは念願かなって手に入れた愛機との、
初めての記念写真だったのではないでしょうか。
彼女の夢はこの飛行機を失ったときに終わり、
彼女はそれっきり、二度と空をとぶことはありませんでした。
つまりそこまでのキャリアでしたが、中国では有名人だったようです。
彼女は戦後夫と共に二軒の花屋を経営し、
2003年に99歳の大往生を遂げました。
死因は癌だったということですが、
・・・・・・・この年になれば「老衰」でいいんじゃないかしら。
きっと最後までタフな婆ちゃんだったんだろうなあ。
合掌。