ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

特攻の賛美と顕彰の違い〜靖国神社 遊就館展示

2017-01-31 | 日本のこと

遊就館の唯一写真撮影可である大展示場の展示物について
お話ししております。 

大展示場には飛行機、潜水艦、戦車、艦砲などの大型展示と、
ガラスケースの中にぎっしりと収められた遺品の展示があります。 


これは全て南方や沖縄で収集された遺品の数々です。


遠目に茶色い「塊」のような遺品の一つ一つを仔細に眺めると、そこには
かつてこの塊が生きていた誰かの持ち物であった痕跡が残され、
その持ち主の運命について考えずにはいられません。

鉄かぶと、認識票(120211070の番号入り)、鍋釜。
ガスマスクはウェーク島で収集されたものです。 

朽ちて底だけになってしまった靴。万年筆。ホーローのカップ。
これらは沖縄で収集されたものです。 

薬瓶、注射器、そして大量の丸メガネ。
もしかしたら軍医やあるいは民間人のものかもしれません。 

97式中戦車(チハ車)

サイパンで米軍の上陸部隊を阻止するため戦った
戦車第9連隊第5中隊の戦車です。

その後ご存知のようにサイパンの部隊は玉砕してしまい、
この戦車はサイパンの海岸に埋没したままになっていたのですが、
同連帯の生存者が働きかけてサイパン島民の協力を得、
昭和50年8月12日、日本に帰ってきました。

詳細な構造図がアルミのパネルで展示されています。
戦車は4人乗りだったようですね。 

ここ一帯は「戦艦大和・武蔵」のコーナー。
武蔵の主砲弾、徹甲弾などが並べて展示してあります。
 

ブロンズで作られた「武蔵」のウォーターライン模型。
昭和44年と言いますから、まだ武蔵の生存者が多く健在であった頃、
「軍艦武蔵会」の名前で製作されたものです。

戦艦「陸奥」の副砲
「陸奥」は柱島沖で謎の爆発を起こし沈没した悲劇の戦艦です。
この副砲は昭和48年に遺骨を収集するという目的でサルベージが行われた際
緒に引き揚げられました。 

「陸奥」副砲後ろから。
爆沈は昭和18年6月、艦とともに殉職したのは1122名。
その中には艦長の三好輝彦大佐(殉職後少将)もいましたが、
三好艦長はその直前まで同期の「扶桑」艦長の鶴岡大佐を訪ねており、
帰還した直後に爆発に巻き込まれています。

「扶桑」は「陸奥」が爆沈する様子を目撃していたということですが、
「扶桑」艦長は、後から三好艦長を引き止めていれば、
という後悔に苛まれたりしなかったでしょうか。 

「陸奥」の小錨。主錨ではありません。

ここには実物大の「震洋」の模型もあります。(これは小さいもの)

軍令部は昭和19年から劣勢を挽回するため9つの特殊兵器を計画しました。
それらにはからまでの番号が振られ、
「マルイチカナモノ」「マルキュウカナモノ」などと呼ばれていました。

特殊奇襲兵器

㊀金物 潜航艇 
㊁金物 対空攻撃用兵器 
㊂金物 可潜魚雷艇 小型特殊潜水艇「海龍」
㊃金物 船外機付き衝撃艇  水上特攻艇「震洋」
㊄金物 自走爆雷 
㊅金物 人間魚雷 「回天」
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止 
㊈金物 特攻部隊用兵器

が「回天」、が一人のりのボートの艦首に
250キロ爆弾を搭載し
敵に体当たりしていくという「震洋」でした。

海軍兵学校卒や予備士官が艇長となり、乗員はこれもまた
空に憧れてやってきた予科練の出身者が充てられました。

「震洋」のスクリュー。

空母「翔鶴」の特大模型。
艦載機まで全て搭載した力作です。

艦尾には「くか うやし」という艦名が見られます。 

旧東洋紡渕崎工場の女子寮から見つかった「血書の壁」。

香川県・小豆島に設けられていた陸軍の水上特攻艇「まるれ」の
訓練施設の壁一面に、終戦直後、少年兵が書き付けた「血書」です。

「本土決戦 一億特攻!されど大詔一度下りて、大東亜聖戦終る」

 

戦争末期、小豆島には旧日本陸軍が極秘裏に組織した「陸軍船舶特別幹部候補生隊」
の拠点が置かれ、当時、同町にあった東洋紡績渕崎工場が宿舎となっていましたが、
血書はその押し入れ奥の壁に貼られた新聞紙の下から見つかりました。

「断じて日本は負けたるにあらず」

大きく忠義を尽くすという意味の「盡忠(じんちゅう)」という題で、
「全員特攻の命を拝し」「其の心の成らんとして果たさず」
「断じて日本は負けたるにあらず」と結んだこの文章は、つまり
敗戦の悔しさと自分がその役に立つことがなかった無念を表したものです。 

陸軍船舶特別幹部候補生隊、「若潮部隊」は15〜19歳の少年兵計約8千人で編成され、
ベニヤ板製、全長5・6メートルのモーターボートに爆雷を積み、
敵艦に体当たりする自爆攻撃の訓練を受けていました。

小型艇や輸送船が此のモーターボート型特攻で損傷を負ったそうですが、
しかし、戦果はアメリカ側の資料からの判断なので
海軍の「震洋」のものかこのマルレのものかは判別できません。 

ある資料では約1400人が実戦で戦死したとされていますが、
そのほとんどが輸送途中に輸送船ごと沈没したためであるという説もあります。 

ただ、本当に戦争末期には特攻しようにもその船がなくなっていたらしく、
こんな話も・・・・

岡部さんの戦争

 

艦船の模型でもう一つ目を引くのが駆逐艦「秋月」

乗員による戦闘用意の様子が再現されている渾身の作です。 

空に向かって大きく手を振る士官始め4人の姿もあり。

甲板作業をしている一団と、敬礼を交わす二人。
こういった軍艦での動きが至る所で再現されており、時間があればいつまでも
見ていたいくらいでした。

皆様も遊就館にいったらこれを必ずご覧になることをお薦めしておきます。 

 

ところで、前半に少し述べた「日本人に戦争は向いてない」の人もそうですが、
よく「特攻を賛美するな」と言う人がいます。

特攻は戦法の外道であり、非人道的であり、非科学的な愚の骨頂である、
と言う観点からのことですが、それでは遊就館が
「特攻を賛美しているのか」と言うとそれも違う気がします。

わたしもこの点については

「軍による組織的な特攻を行ったことははっきりと日本の汚点である」

と思っているくらいですが、例えばこの大展示場にある、
本土迎撃のために体当たりを敢行した陸軍曹長のような「自発的な特攻」に対しても
それはただ同調圧力による強制された死であり無駄死にだったといい捨てることは
英霊に対してその魂を二度死なせるようなものではないかという気がします。

それでなくともただ不幸な時代に生まれてしまったというだけで、
死なねばならなかった戦死者をその死に方によって区別することはあってはならない、
という考えが基本にあるからです。

特攻で自分の愛するものたちがいる世界を守ることができると信じて
死んでいった人たちに対し、感謝とその魂の安寧を祈ることは決して
手段に対する「賛美」と同義ではない、とわたしは思うのですが。

 

 

 


彗星、桜花そして回天〜靖国神社遊就館展示

2017-01-30 | 日本のこと

防衛団体で靖国神社の昇殿参拝をした後、遊就館を見学しました。
いつも昇殿参拝にはセットとして遊就館見学がついてくるのですが、
崇敬奉賛会の会員の特典としていつでも無料で入れるということもあり、
団体の皆さまとご一緒させていただいたのは初めてです。

何度も来ているので、わたしはいつも遊就館見学では
前回の見学から今回までの間にこのブログ製作を通じて深まった知識を
ここで改めて確認するというような見方をします。
展示を通り過ぎながら見ていき、ピンと来たところで立ち止まり
そこだけじっくり資料を眺める、という感じ。

でないと、あまりに展示が膨大すぎて、最初しか見ることはできなくなります。

 

さて、遊就館内部は基本撮影禁止となっていますが、最後の展示だけは
写真が許可されていたので、今日はそれをご紹介します。

遊就館の回廊展示を全部見終わって人々が最後に足を踏み入れるのは
高い天井には明かりとりの窓を設けた大展示室です。


まず入ってすぐ鎮座するのは

艦上爆撃機「彗星」

中部太平洋西カロリン諸島ヤップ島のジャングルで発見され、
昭和56年にここに展示されてからもはや35年が経過しているので、
経年劣化が激しく、今年は修復作業に入るそうです。

6月の19日から25日まで、現場で機体を動かさず作業するそうですが、
平常の営業日にもかかるので、マニアな人はこの時に行くかも(笑) 

戦後何十年もジャングルの中に放置してあった3機の彗星の部品を継ぎ合せ、
1機にして不足部分は手作りで補っているということが他サイトでわかりました。
錆を落とし歪みのその上からペンキを塗っているので機体表面はボコボコしています。



アツタ(熱田)21型発動機

ドイツのダイムラー・ベンツで開発・製造されたDB 600とDB 601エンジンを、
大日本帝国海軍の指示で愛知航空機がライセンス生産した航空機用エンジン。

ボコボコの彗星とこのエンジンを見て、

「作りが雑だ!∴ 武器も満足に作れない日本人は戦争に向いていない」

とそれなんて三段論法?みたいな結論を出しているサイトを検索の段階で発見しましたが、
どちらについてもその来歴を調べてから言って欲しかったかな。 

昭和20年1月、Bー29爆撃機とP-51護衛戦闘機の編隊が本土を空襲しました。

常陸教導飛行団の小林雄一軍曹及び鯉淵夏夫兵長は、「屠龍」でこれを迎撃、
体当たり攻撃を敢行して散華しました。

本土防空

機体の部分は、51年経った平成20年に千葉県八千代から発掘されたものです。 
小林少尉(戦死後)のご遺骨もそのとき初めて見つかりました。 

これも本土決戦における邀撃で戦死した命の愛機だったものです。

昭和20年4月、米軍爆撃機の編隊に五式戦で邀撃に上がった陸軍曹長平馬康雄は、
撃墜された乗機が埼玉県新方村の水田の泥中深く埋没して戦死。
その機体は長年放置されて来ましたが、27年後の昭和47年2月、
この場から機体の一部とご遺骨がご遺骨が発掘され機体の部品はここに展示されています。

機体の搭乗者が明らかになったのは、遺品にはっきりと
名前が残っていたからであろうと思われます。

ご遺骨が身につけていた右側の姓名入り被服は、27年の長きにわたり
水田の底10メートル地点に眠っていたにもかかわらず、
不思議なくらい鮮やかにその主の名前を留めています。

左は、縛帯(ばくたい)つまりシートベルトの一部。 

平馬機のプロペラ。
先が折れ曲り、衝撃のすごさを物語ります。 

平馬曹長についての詳細はこちら

 

ロケット式推進機「桜花」模型

専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一の存在と言われ、
開発者の三木忠直氏は戦後

「日本の技術者全体の名誉の為にも、
桜花は我が技術史から抹殺されるべきである」

として桜花について語ることを拒んだこともありました。
ただ、実際にこの飛行機に乗ることになった要員や開発者本人はじめ、
我々日本人が自虐的にこの兵器の性能をただ貶める傾向にあるのに対し、
米軍が一定の脅威を感じていたことは間違いありません。

ちなみに「桜花」の戦果は、真っ二つになり轟沈した
駆逐艦「マナート・エーベル」 DD-733
を含む軍艦7隻(1隻撃沈 2隻大破除籍 1隻大破 3隻損傷)、
戦死者149名、負傷者197名 というものでした。

この数字以外にも米側の記録に残らない民間船を撃沈したという日本側の記録もあります。

これに対し、日本側の10回にわたる桜花出撃の結果、
桜花パイロット55名が特攻で戦死、その母機の搭乗員は365名が戦死しました。

ところで、世界で最初に音速を突破した航空機となったベル X-1
母機B-29から発射されるそのシステムの着想を「桜花」から得たらしい、
という説があります。

X‐1号の開発が始まったのは終戦直後の1946年であったこと。

そしてもう一つはベル X-1が音速を超えた飛行時のパイロット、
チャック・イェーガーが三木氏との会談において、

「桜花も銀河も、当時、世界の最高技術でした。
アメリカ軍が、三木さんの技術を参考にした可能性があります」

と述べたことからも、かなり信憑性が高いと言われているようです。


三木氏はこのことを知った時、その技術が未知の音速突破に挑む
機体のシステムの一部となったことに救われた気持ちになった、
と語ったそうです。

 

回天4型の輪切りが展示してありました。

回天はご存知の通り搭乗員が爆弾を頭部に搭載して敵艦に突入するために
特殊潜航艇から発展して作られていますが、4型は、
戦時中に開発された「1型」の改良版で、6隻建造され、
まだ使用されないうちに終戦を迎えたので海中投棄されたものです。 

この4型は建造途中で放置されていたものだそうです。

内部の艤装などには全く至っていなかったものですが、
わかりやすいように潜望鏡だけを後付けしたようです。 

潜水艦搭載用の気蓄器
浮上するときには、このタンクからメインタンクに空気を送り込み、
海水を放出して浮き上がります。

「メインタンク・ブロー」というやつですね。

中には圧縮された空気が入っていて、非常用も加えて数個、
搭載されていました。 

大展示室の様子です。

平日にもかかわらず、見学者はかなりいました。
(他の軍事博物館と比較して)
若い人たちや白人の男性が目立ったのですが、最近の傾向でしょうか。
中韓からの観光客は境内では時々見ますが、今まで一度も
遊就館の中で騒いでいたのを見たことがありません。 
(外の売店では一度あり)

もし入館料が無料なら、この傾向も変わってくるのかもしれませんが。

回天1型改1を後ろから。
終戦後ハワイの米陸軍博物館で展示されていたものが、
1979年遊就館に「永久貸与」されて今日に至ります。 

わたしはいつも遊就館に来ると、大展示室を出たところで命の顔写真を
できるだけ多く目に留め、あるいは知っている名を求めてそこで
しばらく過ごすことを決めています。

この見学の後、その写真の中に、今まで見たことがなかった
回天の開発者、黒木博司大尉の見覚えのある姿を見つけ、思わず

「ああ、ここに・・」

と口に出して呟き手をさしのべました。 
気がつけば同じ区画のすぐ下にシドニー湾に突入して散華した
松尾敬宇大尉の写真もあります。
そのときわたしはニューロンドンで見た特殊潜航艇について
エントリを製作するために調べた直後でした。

以前黒木大尉について書いたとき、それが偶然にも大尉が回天の事故で
殉職したのと同じ日だったことに続き、少し不思議な因縁を感じたものです。 

大型潜水艦の艦上に搭載された「回天」4隻。
「特攻の島」でも出撃シーンに搭乗員が4名描かれていましたが、
このような状態から発進したということがわかります。

回天艦内には内部から続くハッチをくぐって搭乗しました。 

 

遊就館の展示、後半に続きます。

 


防衛団体総会と靖国神社参拝

2017-01-29 | 日本のこと

いくつも防衛団体に名前を連ねているわたしに、今年もまた
新年の賀詞交換会出席の機会が来ましたので、参加して来ました。

いきなり関係ない写真ですが、皆さん、お堀前のパレスホテル、行ったことあります?
年明けてすぐ、近くで用事があったのでここのカフェに行って見ました。


なんと、お堀端にウォーターフロントの(笑)カフェがありまして、
こんな風景を見ながら外でお茶ができるようになっておりました。

その昔「宮様も外人様もお越しになるホテル」がキャッチフレーズだった
パレスホテル、改装してかつてのオーセンティックな雰囲気はそのままに、
洗練されたインテリアと地の利を生かしてすっかりオッシャレーになっております。 

蒸し野菜も、ストウブの鍋で直出しすることでボリュームたっぷりに(見えます)。

そういえば今年は酉年でしたね。

お堀端の松の木からしょっちゅうスズメがやってくるカフェ。
可愛いけど落し物をしていくので、カフェのテーブルには

「僕たちに餌をやらないでください」

と鳥が言っている絵が置いてありました。
でもパンくずとか落とすと来ちゃうんだよ・・。

わたしは別にわざとやってませんよ?

さて、というわけで本題、市ヶ谷の某ホテルで行われた賀詞交換会、
例によって政治家の先生方が壇上に上がって1分以内の挨拶中。

こういう会合には、とりあえず国会議員は手当たり次第に呼ぶらしく、
出席名簿を見る限り28名が招待されていましたが、本人の出席はいつも
だいたいこんなものです。

佐藤正久議員は皆勤なのですが、この日は姿は見ませんでした、
 

今年は民進党の最後の良心(笑)とも世間では言われているかもしれない、
長島昭久先生が出席です。
この団体の総会には必ず民進党からあのクイズ王小西が招待されるのですが、
なぜかご本人がご来臨されたことはありません。

衆参議員28名のうち民進党の招待者は5名。
(青柳陽一郎、大野元裕、中西哲、長島、小西)

ほとんどが自民で、安全保障法案成立前は、こういった会合でもその経過が
議員の口から語られ、

「必ず成立を!」

などと皆に約束するような場所ですから、招待されたからといって、
白い目で見られかねないこの場におめおめと出てくることは、
長島議員のように改憲についてもその点意見をしっかりと持ち、
(会報誌で長島議員の改憲についての論文を読んだことがある)
自分は保守であると冗談抜きで(笑)言えるような信念がない限り 
メンタル的にも無理ではないかという気がします。

 

まあ、もっとも、去年、小川とかいう民進党のブーメラン議員が

「民主党(当時)だからといって国を思う気持ちに変わりはありません」

と自虐ギャグをかまして笑われていましたし、田中真紀夫も
落選前の最後の姿を見せてくれていましたから、
(わたしはこの人、いい人なんだろうなーと思いました。
政治家には向いていないけど) 
あまりこだわらずに出てくる議員もいないわけではないようですが。 

 

この日は欠席でしたが、ヒゲの隊長佐藤議員や、宇土議員と並んで、
クイズ王が談笑しているところなどを一度見てみたいものです。

自民の山田宏議員。

後ろ、宇都隆史議員。
珍しく奥様とお二人での出席でした。

貼りついたような笑顔がトレードマーク、公明党の防衛大臣政務官、
石川博崇先生。(つい先生付け)
 

寺田稔先生。
両手で相手の握手に答えに行くのは政治家の基本スタイル。 

今回初めてご挨拶させていただいた岡部俊彦陸幕長
今wikiで見たら、ヘアスタイルが今と違っていました。

空挺レンジャー出身で初級幹部の時に日航機墜落事故の災害派遣で
現場を指揮したという経歴をお持ちです。 

「わたし、帽子をかぶると10歳若返るんです」

 註:「これは岡部陸将ではなく第一師団長の西陸将である」というご指摘を
西陸将のお知り合いの方からいただきました。
「降下初めで空挺降下なさったんですか」と聞いたらしていないとおっしゃったので、
その時点でついうっかり岡部陸幕長だと思い込んでしまっていました。
ヘアスタイルを変えたんじゃなくてそもそも別人でしたorz 
お二方には失礼ひらにお詫び申し上げる次第です。 

 

今回、新しく海幕長になられた村川豊氏にご挨拶したかったのですが、
お忙しかったようで乾杯の後すぐに退席してしまわれました。

その時に、わたしは去年の総会ですでに村川さんにご挨拶していたのみならず、
一緒に写真まで撮っていただいていたことに気がついたのでした。
村川海幕長は経理補給出身で、海幕長に後方支援の職種出身者が就任するのは
海自の創設以来初めて・・・というか、帝国海軍が始まって以来ですよね。 

この人事について、海自内部でも色々とあったらしい、ということを
わたしは風の噂に聞きましたが、まあ前例のないことであれば
保守と革新の意見が同時に湧き上がるのは当然のこと。

それより、わたしが少し気になったのは、いつもは自衛隊の将人事など
取り上げない毎日新聞などが、「後方支援出身が海幕長」という言葉を
大きく見出しに持ってきていたことです。

防衛省ではアメリカとの二国間における後方支援の協定を公開していて、
そのガイドラインは誰でも目を通すことができるのですが、
まず支援物資には武器弾薬は含まれない、とされています。

そこで共産党始め野党は自衛のために武装することも、
兵站もまた戦闘である、という解釈から後方支援そのものが違憲である、
としてこれを否定するわけです。

そこでメディアとしては、この否定派に向かって、

「自衛隊は後方支援から始める戦争の準備のために村川海将をトップにした」

とミスリードしてその意見を後押ししているように思いました。
 

 

 

会合のあとは、団体で靖国神社での昇殿参拝を行いました。
毎年昇殿参拝の時には待合室の段階から宮司が出てこられ、
お話を伺うことに決まっています。

今回の昇殿参拝はもう一つ別の団体と一緒に行われましたが、
伺ったところ金沢にある神社の権禰宜を筆頭に職員が全員、
研修のような形で参拝に来られたということでした。
さすが全員が神職というだけあって、昇殿した後の立ち居振る舞いが
一般人とはまるで違っていました。

二礼二拍手一礼は正座のままで行うのが本職のやり方のようです。

参拝が終わると渡り廊下で神殿を臨みつつお神酒をいただくのですが、
今回はその時にも宮司のお話がうかがえました。

その時に、手前にある拝殿はずっと後にできたけれど、本殿の創建は
明治5年に遡り、それからずっとここにある、と聞いて、
わたしは古い歴史のある建物を前にするといつも覚える、
それから今日までの時の流れを瞬時に見る感覚がまた訪れるのを感じました。

 

この時宮司はこのようなことをおっしゃいました。

「このようなことを言うのは贅沢というものかもしれませんが、
初詣にあまりにたくさんの方々が参拝に来られるのを見ると、
私どもとしては実に複雑な気持ちになるのです」 

靖国の御祭神は国のために命を捧げた方々である。
ここに来ればその方々たちの尊い御霊に思いを馳せ、
その安寧と彼らが命をかけて守ろうとした国体というものを
これからもそのご遺志の元に護持していくことをお誓いするのが
参拝の本領というものであり、新年の初詣で商売繁盛や
子孫繁栄など個人的なお願いをするのは少し違うのではないか、
ということは、わたしも常々考えてはおりました。

だから、我が家の新年の初詣はいつも「二段構え」で、
金王神社や金刀比羅神社と靖国を「掛け持ち」します。

 

以前ここのコメント欄で話題になった御霊祭りでのトラブルについて、
わたしはこの機会に宮司に伺って見ました。

「御霊祭りというのは東京の夏のお祭りでは最大級と言えるものなんですよ。
参加者も多いわけですが、今の若い人は携帯で連絡を取り合って
境内に駆けつけ、そして・・・・ナンパをするんです」

(宮司ははっきり”ナンパ”といった)

「それで露店を中止にされたんですか」

「それもありますが、今参道を皆が集えるような広場に作り変えているので、
その部分に仮設の塀を作ってしまっているのです」

 

なるほど・・・。
いろんな点で世界中からの注目を受けるという意味では日本一有名な神社には
こんな「悩み」があったのですね。

わたしは崇敬会で行われた識者の講話を何度か聞き、
その過程で靖国神社の成り立ちからその歴史、存在意義に至るまで
一通りは勉強してきたつもりですが、そういう基本を抑えることなく、
一般の神社と同じようなお願い事をするつもりでやってくる善男善女を
靖国神社としてはありがたいことだと思いつつ複雑な思いで受け止めていると・・・。


この「内側からの告白」の意外さにわたしは思わずたじろぎました。

祈りの場であることはもちろん、英霊に感謝を捧げる場所であることが
蔑ろにされていると神社側では捉えられているということでしょうか。


伊勢神宮の神々は決して私利私欲を叶えるための祈りを聞き届けることはない、
というのは案外知られていない事実です。
伊勢神宮の「達人」に聞いたところ、そのような祈りを捧げる者には
逆に神罰が与えられることもあるというくらい厳格なものだということです。

靖国の祭神がそのような手厳しい罰を参拝者に与えるとは思えないのですが・・。

 

しかし、実際に新年に詣でる人びとの波の中に身を置いたわたしは
いかに晴れ着に身を包んでいようと、華やかな新春の空気の中であろうと、
本殿の鏡の前に身を置き瞑目した者の英霊への畏れと崇敬、感謝の気持ちは、
決して損なわれることがないものであるとどこかで感じています。

我々が享受しているのはこの社におわす神々の思いを礎に成り立った平和と繁栄。

日々の暮らしの中でもそのことに思いを致す瞬間があるからこそ、
我々はここにやってきて御霊に手を合わせるのであって、日本人であれば
その祈りの本質を
時と場合によって曲げることは決してしない筈だと信じるからです。 

たとえその感謝のついでにちょこっと虫のいい「お願い」をするとしても(笑) 


 

 

 


シャムロックはケネディ家の印〜駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」

2017-01-28 | 軍艦

バトルシップコーブについて説明したとき、この

「ジョセフ・P・ケネディJr.」

について少し触れたのですが、それをもう一度書いておきます。

JFKの兄、ジョセフはハーバード在学中に海軍パイロットに応募、
1942年に海軍予備少尉となって対潜哨戒任務に就いていましたが、
1944年に欧州戦線で極秘作戦に参加し、戦死しました。
そしてその1年後、
彼の名前を付けられた駆逐艦が誕生しました。
それがこの「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」です。


ここで思うのが、ジョセフが事故死する2ヶ月前に、
弟のジョンはまだ同じようにハーバードを卒業して海軍におり、
前にここでもお話ししたPTボートの艇長として日本軍と戦い、
危ういところで生還するという経験をしていたことです。

弟が九死に一生を得たその2ヶ月後、父親が期待をかけていた
兄の方が死んでしまったという運命の不思議さ。

さらに不思議なのは、海軍がこの無名の予備士官の名前を駆逐艦に与えた時、
後の合衆国大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは

まだ政治家ですらなかったという事実です。

「ケネディ家の人々とケネディ」

という説明ボードには、まず左上のロバート(JFKの弟)が

「僕は海軍の幹部候補生学校を辞めてすぐ
レーダーマンとしてJPKに配置されたのさ」

1945年の12月15日にJPKは就役し、ロバートは海軍士官としての訓練を切り上げ、
2月1日からカリブ海への「シェイクダウン・クルーズ」、つまり慣らし航海に
見習いとして乗務を始めました。

5月1日には名誉除隊をしてメダルも授与されています。

青い星の中には、ケネディ夫人ジャッキーのことが書かれています。
次回詳しくお話ししますが、彼女は夫とともにJPKから
アメリカズカップを観戦し、また70年には息子のジョンと
娘のキャロラインを伴って乗艦しています。

キャロラインは先日日本での大使職を離任しましたが、
やはり民主党の大使だけあって、空気読まないリベラル的発言が
時として痛々しかったというように感じました。

本国アメリカでも、日本の大使になるには実力不足では?
という声が実のところ相次いでいたとか。

さて、そして最後にJFKが何を言っているかというと・・・、

「私はJPKをキューバに送って、ソ連に”ビジネスであることを”見せたのだ」

「ビジネス」の意味ががイマイチよくわからないのですが・・・。
1962年のキューバ危機において、米
政府はキューバでのソ連の弾道ミサイル配置に対応し、
海上封鎖のため艦隊をカリブ海に配置しましたが、JPKはその任務に参加し、
ソ連がミサイルをキューバから撤去した後も、哨戒を続けています。

 

ついでに、ジャッキー夫人は、この時、

『もし事態が変化したら、私はキャロラインとジョンJRの手をつなぎ、
ホワイトハウスの南庭に行きます。
そして勇敢な兵士のようにそこに立ち、
全てのアメリカ人と同じく運命に立ち向かいます。』

と、大統領の家族だけが核シェルターに避難することを拒否したそうです。
男前だねえ。
しかし、これ本当にそうなっていたら、大統領の家族を差し置いて
自分たちが避難するわけにいかなくなったホワイトハウスの関係者に
かなり恨まれたかもしれませんね(笑) 

キューバ危機は脅しや北のしょぼいミサイル威嚇と違って、本当にそうなる
可能性がかなり高かったと言われていますから、彼女のこの発言は
それだけで評価されるべきだとわたしは個人的に思っています。 



さて、ここでアメリカ海軍の駆逐艦の命名基準についてお話ししておくと、
第二次世界大戦中、対潜哨戒、護衛任務のために大量に建造された
「ギアリング」型駆逐艦には、

戦死した海軍軍人の名前

が、彼らの栄誉を称えてつけられることになっていました。
ですから、DDの700番代から890番までの駆逐艦には
「ハロルド・J・エリソン」とか「フレッド・T・ベリー」とか、

あるいは個人ではなく海軍の家系を顕彰して、ファミリーネームだけの
「ストライブリング」「ヴォーゲルゲサング」なんてのがあります。

いずれも世界的には無名の戦死者ですが、つまり海軍はこの駆逐艦に
名を残すということを若い海軍軍人たちへの「戦死特典」?
として士気鼓舞に利用していたと思われます。


日本では、現在に至るまで人の名前は船につけないことになっています。
(『しらせ』は”そういう地名があるから”というウルトラ解釈による)
たとえば大戦末期に大量に建造された「松型駆逐艦」にはえらく苦労して
木の名前をつけていたわけですが、「松」「杉」といったメジャーな木は
あっというまになくなり、次第に小さな木になっていって最後には
「雑木林」と呼ばれていたことは、ここでも一度書いたことがあります。

最後にはもう同じ桜でも「若櫻」「山桜」などをひねり出し、
建造中止になったものの、「夏草」「秋草」「薄」「野菊」とその範囲は
野に咲く草に突入していったわけで、あと11隻名前を考えなければいけなかった
当時の海軍工廠の命名係は、終戦になってさぞホッとしたことであろう、
と前回も結びました。 

その点、アメリカ海軍の駆逐艦の命名基準であれば、
「付ける名前が枯渇する」ということだけはありません。
戦争が続く限りそれは無尽蔵に・・・・・。

そういう意味ではこの「ギアリング」型駆逐艦は日本の「松型」と似ていて、
戦争が終わったので途中で生産打ち止めになったというのも、
(156隻建造予定だったが96隻で打ち止め)一緒です。

ただしこちらは大量生産の割にはできがよかったようで、
終戦後は国内や西側諸国の他国の軍隊で運用され、
最後の型が退役したのがなんと2014年だったということです。
(これにはある事情があるのだけどそれはまたいずれ) 


ともかく、「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」もまた、そういう駆逐艦の

一つとしていわば機械的に?その名を付けられたにすぎず、
本来ならばその他と同じ「戦死者の名前をつけた船」として、
戦後は海外の海軍で余生を終えていたのかと思われます。

ところが、この戦死したジョセフ・ケネディの父という人が野心家で、
なんとしてでも自分の息子を政治家にする気満々だったため、
長男の死後は次男を政界に送り込むことにあらゆる手を打ち、
長男の名前をつけた駆逐艦も、次男のPTボートが撃沈され、
生還したことも全て、次男が政界にでるための宣伝に利用して頑張りました。

なにより本人も長男が生きていたときの劣等感を克服してその気になり、
その後あれよあれよと大統領にまで上り詰めてしまったのはご存知の通り。


「ジョセフ・P・ケネディ・Jr.」(以下「JPK」)と同時期に建造された
「ギアリング」型駆逐艦のうち、戦後標的艦にならなかったものは、
台湾やトルコ海軍などにほとんどが譲渡されていったのですが、
JPKはケネディが政治活動に入った頃から「特別扱い」されており、
(そうさせたのはもちろんケネディ父)現役を退いたあとも
他の船のような廃棄処分をされることもなく、展示艦となったわけです。 

バトルシップコーブの海上展示が一望できる場所。
手前にJPK、ライオンフィッシュ、そして向こうにマサチューセッツが。
ミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」はライオンフィッシュと
マサチューセッツに挟まれていて少し確認しにくいですが。

JPKを正面から見てみました。
艦首に揚がっているのは青字に白の艦首旗、信号旗は
おそらくJPKを表す固有の組み合わせであろうと思われます。 

これは最初にバトルシップコーブに来たとき。
右がJPKで、わたしはこのあと「マサチューセッツ」見学をしました。
前に海軍迷彩の軍人さんが歩いていたので後ろから撮らせてもらいました。

ここから入っていきます。
ラッタル右側には各地の都市の方向を示す矢印が。

後甲板に

「アーレイバーク提督国際駆逐艦乗り博物館」(直訳)

というお知らせがあったので、草鹿中将の話とか、海上自衛隊との
この提督とのつながりについて知っている日本人としてはすわ!と
盛り上がるも、博物館は現在改装中でした。
これを見るためだけにもう一度行きたいくらいです。 

その下の白い看板には

「ものを持ち去る、落書きをする、破損するなどの行為を
この船の上で行うことは犯罪として扱われますので、
そのような行為に対しては法律に照らして起訴します」

とバトルシップ・コーブの名前で書かれています。
誰も見ていないと思って、記念になりそうなものを持って帰るとか、
こっそりどこかに落書きするなどといった行為が
いままでないわけではなかった、ということでしょうか。

艦尾から国籍旗越しにながめる戦艦「マサチューセッツ」の図。
黄色いドラム缶は海に転がり落とせるようになっています。

キャプスタンに描かれたシャムロックの印。
これこそが「ケネディの印」なんだそうです。
JFKの曽祖父がアイルランドからの移民だったからで、
シャムロック(クローバーではない)はアイルランドの国花です。

映画「逃亡者」ではハリソン・フォードがセントパトリックデイの
行列に紛れて逃げるシーンがありましたが、あれは
聖人パトリックの命日の3月17日で、シャムロックの緑を身につけます。

ハロウィーン、最近ではブラックフライデーと、これまで
わけもなくあちらのイベントに便乗し続けてきた節操のない日本ですが、
さすがにこれだけは無理だろうと思っています。 いや思いたい。

ヘリコプターを搭載することができたのか?と少しびっくりしました。
そのわりには着地地点が狭すぎませんか?

実は、JPKが載せていたのはDASH(Dorone Anti Submarine Helicopter )
対潜ドローンヘリでした。

これ。

ジャイロダイン社のQH-50というタイプで、このJPKのように
小さな駆逐艦上でも搭載し、潜水艦を攻撃することができました。

いまにしてびっくりしてしまうのですが、アメリカ海軍の対潜構想は

近距離=魚雷

中距離=ASROC

遠距離=DASH

というもので、遠距離に操縦して対潜攻撃を行うことのできる
無人兵器として、非常に大きな期待をかけていたようなのです。

操縦は複数チャンネルのアナログFMで行うため、 CICから操作するとき
まず「機体の位置がわからない」「高度もわからない」ことになり、
当然のことながら帰ってこない機体も多かったそうです。

アメリカでのDASHの運用は10年くらいで終了しました。

後部煙突と構造物の間にDASHの格納庫がありました。
写真を撮っていたときにはなにを載せていたか知らなかったので、
小さな格納庫だなあと思っていたんですよね。

ところで、わたしは全然知らなかったのですが、このDASH、
我が海上自衛隊でも運用していたらしいんです。
「たかつき」「みねぐも」型に搭載するために20機運用していて、
しかも現場では大変評価されていたとか。 

そのため、アメリカが運用をやめてから8年もの間、
部品の調達が難しくなる
までずっと使っていたということです。

日本人にはこの操縦や運用が肌に合っていたのかもしれません。

JPKの主砲はMk12、5インチ砲。
大型艦には対空砲として、小型艦には主砲として搭載された艦載砲です。

主砲の前に取ってつけたような電話ボックスみたいのがありますが、
これは昔ハッチだったところに展示艦となってから入口をつけたのでしょう。

艦番号である850がペイントされています。

わたしはこのペイントは基本的に航空機が着陸の認識につかうもの、
と思っていたわけですが、無人機を着陸させるのに番号の必要があるのか?
とふと思いました。
(とはいえ、おっちょこちょいのヘリが間違って降りるのを防ぐことはできる) 

あと、850のうえに麻呂の眉毛みたいな丸二つがあるのですが、
これはなんでしょうか。

無人機である DASHが見分けるためのポイントだった、に2シャムロック。

 

 

続く。

 

 

  


ショアラインパークのペリカン天国

2017-01-26 | アメリカ

西海岸はシリコンバレーに滞在している時、
スタンフォード・ディッシュとともにわたしが散歩コースにしているのが

マウンテンビューのショアラインパークです。

バードサンクチュアリという自然保護区に隣接している公園で、
広大な敷地には池とボートハウスがあり、さらにゴルフ場もあります。
ゴルフ場と公園は特に仕切られていないので、最初の年間違って
コースに入ってしまったということがありました。

わたしのお目当ては主にペリカンの生態を写真に撮ること。
まるで滑走路に滑り込むように川に着水するここのペリカンの姿を
少しでも綺麗に撮りたいと、先代のマウント式望遠レンズを
わざわざこのために持ってきたりしました。(結果は失敗)

その後望遠を純正のものに変え、いざ今年こそ、と来てみた去年の夏、
なんとペリカン滑走路は水不足でペリカンの頻繁な飛来は捉えられず。

今年も水不足は深刻で、なにしろ水がないため水辺の鳥であるサギが
山の中のスタンフォードディッシュに餌を求めてやってくるくらいですから
ここがその後どうなっているのか、恐々という気持ちで行ってみました。



ショアラインパークの近くにはグーグル本社があります。
この辺り一帯にグーグルの建物が散らばっているため、社員はこの
「グーグルカラー」の自転車であたりをうろうろしています。

この日ショアラインパークにグーグル社員が遊びに来ていたようでした。
もしかしたらポケモンGOをしに来ていたのかもしれません。



ここにもジリスが生息しています。
ここはディッシュトレイルと違い、木々が豊富なのであまり猛禽類が来ず、
蛇以外の天敵はいないのではないかと思われます。 



なんかこんなお菓子がありそうな・・・。
赤い丸が写っていますがなんだったのかわかりません。



太って立派なリスが口をもぐもぐさせているのでアップにしてみたら・・・、



口の端に何か咥えていました。



巣穴の周りで和んでいるリス家族。



「うわっ・・・・わたしの年収、低すぎ?」



喧嘩上等なリスは片耳に戦闘負傷あり。



巣穴の周りが一番落ち着くのか、顔だけ出してじっとしているリスを
ここではよく見かけます。
育った環境によって、同じリスでも全く行動や性質すら違って見えます。



全般的にショアラインのリスはディッシュトレイルよりおっとりしているというか。
彼らはディッシュトレイルのリスより人間を怖がります。



かなり遠く(50mくらい)を望遠で狙ってみました。
手持ちでしたが、わたしの腕でこれだけ撮れれば大したものだと思います。
(彼らが置物のようにじっとしていたので撮れたのですが)
Nikon1の望遠、優秀なんじゃないでしょうか。



池のほとりにある美味しいクロワッサンのあるカフェで朝食をとることがあります。
食べていると、パンくずのおこぼれを狙う鳥に取り囲まれます。

これはオスが黒いBrewer’s blackbird、照りムクドリもどきのメス。




バターたっぷりのクロワッサンのかけらなど、鳥は食べないほうがいいと思うのですが。

鳥「くれ」

ここには「エサやり禁止」の張り紙があります。



羽を広げると、その時だけ赤い模様が大きく見える鳥。
Red-winged Blackbird、ハゴロモガラスです。




鶯のような色をした鳥。
Orange crowen warbler、サメズアカアメリカムシクイという
あまり情緒的でない名前が付いています。 

 

グースは普通にいます。



飛ぶ時は傘型の編隊飛行をするグースですが、水上滑走の時には単縦陣。



カモメの幼鳥だと思う。

 

池の端の浅いところを餌場にしているサギは相変わらずです。
ここなら水不足で魚がいなくなることはないでしょう。
ここには大サギと小サギが3〜4羽生息しています。



こんな広いのに「縄張り」があるらしく、他のサギが来たら追っ払います。
大サギと小サギはバッティングしなければ共存できるようです。



鳴きながら威張って歩いていた大サギ。



おお、美しい。
まるで日本画にあるようなポーズを決めてくれた大サギ。
長い首はねじって収納?するんですね。



去年も見た川鵜がいました。
水の上に顔を出しているのは一瞬で、一旦潜ると水中をすごい速さで泳ぎ、
次には全く違うところに顔を出すので、写真が撮りにくい鳥です。



「鵜の目鷹の目」といいますが、それくらい鵜はハンターとして優秀。
鷹が上空から地上の小さな獲物を見逃さないように、鵜は水中で
驚くべき視力と素早い潜水を行って狩りを行います。

捕獲する際には時に1分以上、水深10m近くまで潜水することもあり、
1羽で1日500gの魚を食べるといいますから、起きている間はほぼ全部の時間
こうやって過ごしているみたいですね。

ところで、この写真で、鵜の羽がびっしょり濡れた感じがするでしょ?
ウ類の翼羽は油分が少なくあまり水をはじかないらしいです。

だから、狩りが終わったら、長時間同じ姿勢で濡れた翼を広げ、
小刻みに震わせ翼を乾かしているのだそうです。



池の周りを通り過ぎると、水辺の鳥の群生地が現れます。
ここはいつ来ても独特の「水辺くさい」臭があるのですが、
今年は特にそれがひどくなっているような気がしました。

 

それもそのはず、目に見えてわかるくらい、去年より水かさが減ってしまっています。



この一帯が全部干上がってしまっており、鳥たちは水のある部分に
全部の種類が移動してしまって、そのため一部が混雑しているのでした。



干上がっていない部分もおそらくは随分水深が浅くなったのでしょう。
それを計測する杭のうえにはアジサシが一羽。



それではペリカンの生息地はどうなっているのか・・。
うーん、確かに水の量は最初の年と比べると激減です。



しかしとりあえずはペリカンは生息できるくらいにはなっていました。
この写真は夕方来て撮ったもの。(5時くらい)
もうこの時間には就寝モードで、羽繕いに専念しています。



こちらは朝。
最初の年には1分おきに戻ってくるペリカンの着水が見られたのですが、
数も減ったせいか、それとも時間が遅く食事がもう終わっていたのか、
飛来してくるペリカンはずっと立っていても全くいませんでした。



ペリカンも水浴びをした後は岸で羽を乾かすようです。



ペリカンが飛んでこないので仕方なくカモメを撮っていたら・・・、



やっと一羽、飛んできました。



シャッタースピードは1/2000です。
画面の色が朝なのに黄色っぽいのは、ホワイトバランスをうっかりして
日陰モードにしたままで撮っていたからですorz



飛んでいるときのペリカンは邪魔なもの(くちばしの袋とか首とか)
をすっきりと収納して実に優雅な姿です。


 

よく見ると羽の先を一枚一枚エルロンのように動かしてコントロールしています。



さて、こちらペリカン生息地にいた小サギくん。
ここで水中の小さな生物を食べるようです。



何か見つけて走っている状態。
やっぱりそういうとき脚はいちいち水上に出すんですね。



夕方来たときに見たおそらく同一サギ。



ところで、飛来するペリカンは夕方にきても1羽もいなかったわけですが、
そのかわり、彼らの豪快な水浴びの姿はふんだんに撮れました。

ペリカンの水浴びは、その大きな翼をなんども水に打ちつけるように振り下ろし、
主に翼を洗うことが主目的のように見えます。



ペリカンの群生地に近づくと、この独特な水音が遠くから聞こえてきます。
それくらいこの水浴びの音は独特で豪快なのです。



バタバタが終わって一仕事終えた風のペリカンさん。



その後はくちばしや首を使って丹念に羽をつくろいます。
くちばしでガジガジ噛むようにすることも。



水浴び正面から。
向こうではカモメも水浴び中。





ペリカンが翼を広げるとこんなに大きくなるのかと驚きます。



水を蹴って飛び立った瞬間。



シャッタースピードを上げて撮ると水浴びがこんな風に。



岸に上がると、羽を広げながら歩いて落ち着く場所を探します。



羽に赤いタグをつけているペリカンを遠目に発見しました。
やはり生態を研究するチームがあるようですね。



狭い地域に何種類もの鳥類が生息していますが、彼らも
なんとなくその中で住み分けをしているようです。

水不足の原因が何かわかりませんが、状況が一向に改善していないのは
異邦人であるわたしもこころが痛みました。
日本に帰ってきていきなり空港で大雨を見たとき、

「この雨をカリフォルニアに分けてあげたい・・」

と不条理なことを考えたものです。


 

さすがのアメリカ人も天候をどうにかすることはできないようですが、
とにかく来年はなんとか状況がましになっているのを祈るばかりです。

バーズサンクチュアリの鳥たちのためにも。


 


龍崎先生の殉職〜横須賀歴史ウォーク

2017-01-25 | お出かけ

もう去年の夏前のことなので自分でも記憶が薄れているくらいですが、
横須賀市の観光協会のようなところがボランティアのガイドによる
歴史ツァーを行なっておりまして、わたしはコースに含まれている

「料亭小松」

という言葉に激しく反応し、参加をしたということがありました。
わたしがこのツァーに参加し、それについて調べているまさにそのときに、
料亭小松は不審火によって全焼してしまったというショッキングな
結末?を迎えたという話を覚えておられる方もおられるでしょうか。

ツァーについて、その後一つだけアップしていない記事があったので、
今更、という気もしますがお話しておきたいと思います。

まずはお昼休憩をした横須賀自然博物館と文化会館の周辺から。



横須賀文化会館の正面に立つブロンズの日本にしては巨大な像。

「この感じ、どこかでみたような気がしませんか」

ガイドに言われてもはて、と皆が首をかしげるだけだったのですが、
これは長崎の平和祈念像の作者でもある北村西望(せいぼう)の作品なのだそうです。

そう思ってみるとそう見えないこともないけど・・・って感じですね。
長崎の像にもあのポーズにはいちいち意味があるそうなので、
(垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、
横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命を表し
軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている)
この自由の女神にも
そのポーズに何か意味があるのかもしれません。



ちなみにこの女神、アップにすると口を開けており、
いかにも何か雄叫びをあげている風です。

この像隣には説明のためにわざわざ立派な黒曜石の碑があり、それによると

● この像は西村西望先生の作で名作である
● 昭和52年市制施行施行70周年祈念に所有者が寄付した
● 台座は広島産の御影石で30トンである

ということですが、自由の女神そのものについては全く書かれていませんでした。
長崎の祈念像ですら税金の無駄遣いだといってわーわー騒ぐ人がいたくらいなので、
きっとこれにも文句をつける人がいたかもしれません。

まあ、中央公園の核兵器廃絶の碑なんかよりはまともな使い道だと思いますが。



次に歩いて到着したのは通称「赤門」。
ここは、先日訪れた旧横須賀鎮守府、田戸台庁舎の近くです。
鎮守府の見学の帰りに写真を撮った古いつくりの八百屋を右手に見ながら
京急のガードを一旦くぐってもういちどガード手前に戻ったところにあります。

赤門の由来はこの門が昔はもっと鮮やかな朱色で塗られていたからです。
それにしても、こういった文化財(ぽいもの)の前に民家風のフェンスはいったい・・・。
と思って調べてみたら、この門に変える前にもブロック塀の上に金網を立てた、
ごく普通の「当時の民家の塀」でした。

ここは代々永島家の家屋であり、今でもつまり「民家」なのです。


「自由の女神」設置の市制70周年のとき、この古くから伝わる
(江戸時代に作られたと言われる)民家の門が横須賀市の
「風物百選」に選ばれたので、ローカルツァーにも組み込まれているんですね。


今でもこの後ろ側には永島家の子孫が住んでいて、ガイドさん(自称後期高齢者)は

「ここの人が幼稚園の先生で私の子供が教えてもらっていた」

というような話をしていました。
江戸時代にこういう門を作るだけのことはあって、永島家は名主であり、
浜代官であり、
(このあたりは昔海岸だった)庄屋でもあったという地元の名家です。

こういう、門でありながら住居部分を持っている形式の建築を「長屋門」といいます。
昔の武家屋敷では、外郭に家来のための長屋があり、警備を兼ねてそこに住んでいました。
門の脇の格子の窓からは入る人をチェックしていたのかもしれません。

ちなみに、赤門そのものは江戸時代のものですが、その他の部分は
長年の間に幾度となく手が入れられているということでした。

冒頭の苔むした墓石などは、このあたりにあった供養塔や墓を
整地する時にまとめてここに祀ることにしたもののようです。
まだ比較的新しくはっきり刻字が読めるものもありますが、
経年の剥落により全くなんのためのものかわからなくなってしまったものも。



そこから少し歩いたところに、横須賀市立田戸小学校があります。
その校門の一角に、こんな石碑がありました。

「噫龍崎訓導の碑」

んどう、を変換しても教師を表す「訓導」という漢字は出てきませんでした。
ガイドの人も、

「先生のことを”訓導”なんて言ったんですね」

などと全く聞いたこともないような口ぶりで言っていましたが、 
昔親の本棚にあった石坂洋次郎とか有島武郎とか、山本有三あたりの
昭和の学校ものを読んだことのあるわたしには珍しい言葉ではありません。

龍崎ヒサ先生は戦前、ここにあった田戸国民小学校の「訓導」でした。
昭和17年11月19日、4年の生徒202名が校外学習のために学校を出発したのですが、
龍崎先生の組が東京急行電鉄(今の京浜急行電鉄)の踏切にさしかかったとき、
右手のトンネル内から浦賀行きの下り電車が来たので一同はその通過を待ちました。

悲劇はその次の瞬間起こりました。
下電車が通過したあと、反対側の線路に上りの特急がやってきているのに
一人の生徒が飛び出して踏切を渡ろうとしたのです。

「危ない!」

先生は叫びながら線路に飛び込み、生徒をを向こう側に突き飛ばしましたが、
自分自身はやってきた上り電車に接触し、死亡しました。 


先生の殉職は大きく報じられ、その学校葬には、文部大臣をはじめとして、
神奈川県知事、横須賀市長、帝国教育会長、
神奈川県女子師範学校長、
横須賀教育会長、市会議長から追悼文が寄せられました。


中には横須賀鎮守府司令長官海軍大将古賀峯一からのものもあったそうです。
近隣を歩いて知りましたが、横須賀鎮守府とこの田戸国民学校、
そして事故現場となった
線路は大変近いところにあります。

龍崎先生は享年30歳。
兄は陸軍士官学校を経て当時少尉として戦線にあり、母を前年度亡くしており、
さらに弟は病床にあったため、彼女が家の働き手であったということです。


「今の先生にも立派な方はおられるんでしょうけどね」


ガイドさんは彼女の殉職の様子を説明した後、こんな風に言いました。
かつて教師は「聖職」と呼ばれ、教師は矜持と使命感なしでは務まらない、
というのが一般的な認識だったのですが、確かにいまでは
先生が「聖職」なんて、
なにやらタチの悪い冗談のような気すらしてきます。

確かに志の高い先生も世の中にはたくさんおられるでしょう。
誰だって夢と使命感を持って教師になるのですし、わたし自身、
ごくわずかですが、
あの先生は人間的にも尊敬できた、
と思える先生に出会ったこともなかったわけではありません。


しかし、いざとなった時に身を呈して生徒の命を守るような行動が
とっさに取れる先生がどれだけいるかというと、
それは残念ながら限りなくゼロに近いのではないでしょうか。

わたしはこのことを嘆いたり非難するつもりで書いているのではありません。

龍崎先生が亡くなった昭和17年頃の、もっと言えば戦前の日本人と今の日本人は、
政治家から末端の庶民まで、全く人間の「質」というものが
違ってしまっているのではないか、そしてその原因とは、
「個」というものが「公」あってのことであるという考え方を
失うような戦後の価値観の変化に実は原因があるのではないか、
ということを龍崎先生の死から感じ、かすかに絶望しこそすれ・・。




龍崎先生は即死ではなく、その後病院に運ばれて夕方に亡くなったそうですが、
最後の瞬間までうわごとで救った児童の安否を案じていたそうです。



このあと、お龍さん終焉の地を案内してもらい、横須賀中央駅に向かって
最後のガイド地に向かう途中にあった小さな祠。
三浦帝釈天だそうです。

ガイドさんが、「この祠を立てるのに私費を投じた人がいて」
(だったかな)という説明をしたとき、一人の参加者が

「その人は県会議員にでも立候補するつもりだったの」

と揶揄するように聞きました。
このおじさんは何かとこういう目立つ「決め台詞」を言いたがる人で、砲台では

「B29が来ても一つも落とせなかったんだろう」

とバカにしたように言ったり、古い建物などを見ても

「これ、どこかから補助出ているの?出てない?じゃあダメだな。もう持たないね」

といってみたりって感じでした。
一味違う穿ったことを言っちゃう俺、ただ者じゃねーんだぜ?みたいな?
現役時代、会社ではさぞウザがられ・・・・おっと。




ごちゃごちゃと飲み屋が連なるところの隙間に、
「米浜」と台座にある日蓮上人霊場の碑がありました。
これももともとここにあったのを動かせずに、このようなところに設置した模様。



最後の見学地、諏訪神社に到着。この時午後2時です。
朝の9時半から、50分の休憩を挟んでずっと歩いていたことになります。

全国の諏訪神社というのは、信濃の国、長野県にある諏訪神社から
ご祭神を頂いてきて創建したものですが、ここもまた1573年に

「諏訪明神の御分霊を勧請す」と伝わっているそうです。
享和元(1801)年本殿・拝殿の造替があり、現在の社殿は大正12年造営のものです。



本殿脇の倉庫のような建物も、大正時代の建築なのかもしれません。



同行者がまたまた「小泉」という名前を見つけてきて
あの小泉家の親類だろうか、とかわいわいやっていました。

大正時代のご造営のときに寄進した名前が刻まれています。

「尾張屋」「大工 小林弥助」「八百秀」「理髪店 加地勇」

「待合 千代田」「待合 三河亭」・・・・・。

 ガイドは

「ほら、ここに待合もあるんですよ!」

とワケありげにいうのですが、どうもその口ぶりから、
「待合」というのを娼館かなにかと勘違いしているように見えました。


一言で待合といっても、政治家も出入りするような格式の高い店もあれば、
小待合、安待合と呼ばれ、連れ込み宿同様に使われる店もあり、
その格にも相当な違いがあった(wiki)わけですが、どうも最近の人たちは
待合を「下の方」だというようなイメージで捉えている人が多いようです。

格式ある待合・料亭は「一見さんお断り」が当然であったそうで、
まるで京都の店のような格を保っていましたが、少なくともこの時代
名前を刻むほど神社の造営に寄進するからには、よほど流行った、
しかも格式の高い方の待合であったことは確かだと思います。


余談ですが、海軍士官は海軍兵学校を卒業し少尉候補生となって
遠洋航海に出発する前、皇居遥拝や明治神宮参拝などの行事をこなすため
しばらくの間東京近辺に宿泊します。

関東にある候補生の実家に彼の仲のいい級友を泊めることが普通に行われ、
昼間の行事をこなせば夜は皆で連れ立って銀座などに繰り出したのだそうですが、
そのときに少尉候補生では禁じられている待合に行った、という話を
戦後に書かれた追想記で読んだことがあります。

海軍さんの隠語では待合のことを「チング」(待つ=ウェイチングから)
といったそうですが、このときも地方出身の候補生が

「かねてから(つまり卒業前から)約束していたチングに案内しろ」

と言い出し、皆でこわごわと「初めてのS(芸者)プレイ(遊び)」を
してみたものの、もし見つかったらえらいことになるので、(芸者さんと)泊まる、
と言い張る一人を引きずって連れて帰った、という話でした。

当時の海軍士官は、遊ぶならブラック(玄人)と一流のレス(料亭、レストラン)
でさっぱりと遊べ、ただし一人前になってから、と教育されていたので、
待合は待合でも怪しげな方に、しかも候補生がいるのが見つかったら大事だったのです。




横須賀界隈の飲み屋さんでは、ブランデーとジンジャーエールをミックスした
「横浜ブラジャー」という目眩のしそうな名前のドリンクをやたら推していて、
今やどこにいってもこれが飲めるそうですが、美味しいかどうかという以前に、
このネーミングセンスと、シンボルとなっている絵があまりに酷いと思います。

そこで焼きそばとご飯を化学調味料で味付けし、ソースでマゼマゼして食す

「そばめし」なる下品な食べものを、わたしの郷里神戸で広めようとする
動きが(知る人ぞ知る長田地区辺りに)あったのを思い出しました。

こんな志の低いもの勝手に神戸名物にするな!

と、わたしは神戸出身の一人として糾弾しこれを阻止しようとするものですが、
きっと横須賀にもこの飲み物推しを
快く思っていない人もいるに違いありません。


 

ちなみに駅周辺の小道にはこのようなスナックとカバーとかが林立しており、
どれもこれも築年数の古そうな、地震に耐えられるのかと心配になるような
建物にギュウギュウという感じで立ち並んでしました。

その並びで発見した「赤レンガ」と「錨」という店の並びに何かを感じたので、
カメラに収めておきました。


これをもちまして、横須賀歴史ウォークシリーズ、思い出したように
最終回とさせていただきたく存じます。

またこのような企画があったら参加してみることにしましょう。

 


 


ナショナル・シップ〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

2017-01-24 | 博物館・資料館・テーマパーク

アメリカのナショナルシップ、「コンスティチューション」の話も
そろそろ終わりに近づいてきました。

昔、人類初のスペースシャトルは「コンスティチューション 」
と名付けられる予定だったのに、アメリカ人たちが

「そんな名前より、テレビドラマ”スタートレック”の宇宙船である
”エンタープライズ”がええ」

と騒いでそうなってしまったということを話したことがありますが、
これ、どうしてこんな圧力に負けちゃったかね。
「国の船」であるこの船の名前をつける方が、ずっとアメリカの事業として
格調らしきものが保たれたのに・・・。



さて、それではこのネイビーシップヤードのいたるところにある、
「コンスティチューション」にまつわる資料写真を紹介していきます。



まず、1851年にドック入りしている「コンスティチューション」。
1850年代はアフリカ沿岸を奴隷貿易船を探して警戒航海し、
南北戦争の間は海軍士官候補生の訓練艦となっていました。



1927年、チャールズタウンネイビーシップヤードにて。

「コンスティチューション」の修理が始まるところです。
前回も説明しましたが、1905年に2度目の解体の危機を逃れ、
その後ずっとどこかに係留されたまま放置されていた状態なので、
白黒写真でも明らかなくらい船体が傷んでいるのがわかります。

1917年には、巡洋戦艦「コンスティチューション」を建造する
計画が立ち上がったので、こちらの名前は

「オールド・コンスティチューション」

に変えられましたが、軍縮条約でその案が潰えたため、
8年後、彼女の名は1925年に元どおりにされました。


この写真によると、修復工事はそれから2年後に始まったようです。



1928年の写真です。
木材の切り出しがすべて手で行われています。



こちらは1963年の写真。
マストの切り出しは電動鋸で行われています。

この時期に「コンスティチューション」が修復をしたという記録はなく、
1973年に大々的な修復が行われたとあります。



そしてこれが1992年に行われている修復の様子。
船殻の外壁を支えるつっかえ棒を設置しているところでしょうね。

この時の修復には進歩した科学の恩恵が大いに寄与しています。
一例ですが、内部構造が腐食しているかどうかを、
超音波による検査で調べ、対処したというように。

このスキャンによって使用に耐えない部分だけを取り替える措置が取られました。


44ヶ月かけた大修復によって、彼女は帆走が可能になり、
1997年には、生誕200周年を祝って記念的な航行が行われました。
最後に航行してから実に117年ぶりでした。



ブルーエンジェルスの祝賀飛行を受ける「コンスティチューション」。
彼女は風速約12ノット (22 km/h)の風を受けて自力で40分間南南東に帆走し、
最高速度は6.5ノット (12km/h)にまで達したということです。




いきなり時間が思いっきり巻き戻りまが、ドックの脇にあった
説明板に、昔ドックがなかったころの船の修理法であった
「ヒービング」をしている絵がありました。

船を倒しておくのに、いちおう機械を使ったんですね。
しかしこんなことをしたら船の中に海水が入ると思うがどうか。



「コンスティチューション博物館」館内の様子。
1階には売店とレクチャールーム、映像室、そして
「コンスティチューション」建造までの資料が展示されており、
二階には艦内生活と1812年の戦いについての資料が主に展示されています。



二階にも映像室があります。
ここでは数分間の「コンスティチューション」と「ゲリエール」の戦いを
当時の絵画などを映し出しながら、英米双方の乗組員のセリフに沿って
説明する内容となっています。



HMS「ゲリエール」は、「コンスティチューション」との戦いで
マストをすべて折られてしまったんですね。



スクリーンはこのような横長のカーブのある壁で、
この形状を効果的に使って戦闘の経緯を追っていく仕組みです。



前回この写真について説明しなかったのですが、これは展望鏡でしょうか。



ジョージ・シリアン(1818〜1891)はギリシャの生まれで、6歳の時に
オスマントルコの虐殺によって家族を失い孤児になりました。
母親が襲い来るオスマントルコ兵から彼を救うために船に乗せて
海に押し出したため、彼は助かり、アメリカ海軍によって救出されました。

当時の大統領、モンローの計らいで「コンスティチューション」の
キャビンボーイとなったシリアンは、その後正式に海軍軍人となります。
南北戦争が始まる頃には、彼は海軍兵学校の砲術科の教官として
大変尊敬を集めていました。

その技術的な専門知識と献身、リーダーシップは今日の海軍下士官の
インスピレーションモデルともなっており、「ジョージ・シリウス功労賞」という
下士官に与えられる賞にその名前をとどめています。



さてこれはだれでしょうか。



第7代アメリカ合衆国大統領、アンドリュー・ジャクソン。

なぜか、このジャクソンの全身をかたどった像を
「コンスティチューション」の艦首に取り付けることになったとき、
ボストン中の人はゾッとしたと言われています。

”この戦争においては、ジャクソン大佐は徹底的な大量虐殺を行った。
男も女も、子供であってもジャクソンは容赦せず皆殺しにした。
児童も含む約800名のクリーク族を殺し、
殺したインディアンの死体から鼻を削ぎとらせて戦利品とさせた。
インディアンの死体からは肉が剥ぎ取られ、それは細く切られ、
天日で干して彼らの軍馬の手綱として再利用された。
また、「女を生き残らせるとまた部族が増える」との考えから、
特に女(乳幼児、女児を含む)を徹底的に殺すよう全軍に命じた。
これらはすべてジャクソンの指揮によって行われたものである”

といった彼の悪行の噂がひろまっていたので、ボストンの人々は
この人物に好意的なものを感じてられなかったのかもしれません。


像の設置を決めたのは海軍工廠の責任者だったのですが、これには

不人気を挽回したいというジャクソンの政治的な下心から来た根回しがあり、
彼が米英戦争の英雄だったからという無茶な理屈をごり押しして、
この無粋な像を「コンスティチューション」につけてしまったのでした。



で、これなんですが、首の部分をのこぎりで切って、
下で待ち受けている人に渡してますね。

「コンスティチューション」に乗って戦ったわけでもない大統領の像など
艦首につけられて
一番憤っていたのはほかでもない、船乗りたちでした。

この絵はその一人、地元の船の船長、28歳のサミュエル・デューイが
ある嵐の日に船外に漕ぎ出して、頭の部分をのこで切り落として、
友達(下にいる人)に渡しているところです。

その友達はアマチュア彫刻家だったので、この木片の部分から
石膏の鼻から上のジャクソンを作り、デューイあろうことかそれを
ワシントンのジャクソン自身に送りつけたというのです。

そこから先いろいろあって、ここにその頭が残っていると言うわけ。

Off With His Head




ハーバード大学1802年クラス卒の「コンスティチューション」の
従軍神父、ジェームズ・エバーレットの所有だったと思われる
「コンスティチューション、クラス・オブ1802」と記されたマデラ酒。
大学同期の飲み会のために作られた名前入りのお酒だったようです。

まだ中には酒が入っているらしく、アクリルガラスの中のボトルは
盗難防止用のセンサーがつけられています。




「戦争の人的被害」と題されたコーナーにあったこの絵は、

「トッテンハム・コート街の老いた准将」

と題されたもので、軍艦に乗り込み、脚を失って、
今では路上で物乞いをするしかない元軍人の姿を描いています。

1812年の戦いで勝利を収めましたが、「コンスティチューション」乗員は
9名が死亡し、27名が重傷を負いました。
乗り込んだ医官は、鋸やナイフで手足を切り落とし同僚の命を救う、
そんな時代でした。




イギリス軍の砲撃を受け、水兵、リチャード・ダンの脚は粉砕されました。
医官は彼の脚をひざ下から切り落とし、義足生活となりましたが、
彼はその後も海軍を辞めることなく、二本足の船員と同じ仕事をこなしたそうです。



右のメダルは、戦死したジョン・アイウィン中尉の戦功を讃えるメダル。
ただしそれが家族に授与されたのは、死後7年経ってからでした。


左は、戦友の死んだ時の様子を彼の弟に知らせるために書かれた手紙。
ブッシュというこの中尉の子孫は、その後第二次世界大戦に出征したとき、
この手紙を軍服のポケットにお守りのように入れていたということです。



真正面から撮らなかったので一部しか見えていませんが、上は
「ゲリエール」の水兵の顎の骨。
戦闘から2週間後、医官は彼の顎を切り取らざるを得なかった、とあります。

下の大腿骨は、「コンスティチューション」水兵の脚だったもの。
戦闘から8ヶ月も経った後に手術で切断されたものです。





わたしが最初に「コンスティチューション」という帆船が海軍の現役艦であり、
海軍軍人の乗組員が乗務していると聞いた時の驚きは大変なものでした。

我が日本で例えて言えば、咸臨丸が海自の現役艦で、2佐が
艦長を務めているようなもので、イベントの際にはその艦長始め
乗組員全員が勝海舟とその船員のコスプレ(プレイじゃない)
をするようなものです。

博物館館内には、2015年冬現在の乗組員の写真が飾ってありました。
HPを見れば、修復中の今現在の乗組員の写真もみられます。

さて、そこで、この写真を見る限り普通に女性軍人が乗り組んでいるわけですが、



最初に女性士官が「コンスティチューション」の乗組員になったのは
1996年のことでした。
この軍服は、「コンスティチューション」勤務に必要不可欠な、
1812年当時の士官のスタイルで、実際に当時のものですが、
このスタイルの軍服を女性が着たのも
彼女、クレール・V・ブルーム少佐が初めてだったのです。

ガラスケースの中にショルダーバッグがありますね。
もちろん1813年当時にはこんなものを誰も使っていませんでしたが、
彼女は

「女性だからいろいろ持って歩きたいものもあるのに、
この制服はあまりにもポケットが少ないから」

という理由で、靴と合わせたデザインのバッグを持っていました。

「女性はバッグがないとだめなのよ。
たとえ1813年のスタイルをしている時でもね」



売店には様々な「コンスティチューション」グッズだけでなく、
なぜかコーストガードの飛行機模型もあったりします。



最後に、現在の「コンスティチューション」内部の写真を。
これはなんでしょうか。
全く想像がつかないのですが、もしかしたらストーブ?



そして、乗員がいつでも目を洗うことができる機械が
わざわざ備え付けてあるのが印象的でした。
イージス艦には全く必要のない設備ですね。








というわけで、長らく語ってきた「コンスティチューション」。
アメリカの船であり、それにまつわる歴史を調べることで、
また少しだけアメリカ海軍について詳しくなったような気がします。

終わり。



 


食生活と”ドッグワッチ”〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

2017-01-22 | 博物館・資料館・テーマパーク

今日は「コンスティチューション」の船員生活についてです。



二階に上がると、「コンスティチューション」についてのいろいろを
学びましょう、という士官がお出迎えしてくれます。

「ここは1812年、コンスティチューションの世界です。
水兵になって国を守るために船に乗るチャンスですよ」

とまあ、やってくる客を水兵にリクルートしているわけですね。



ここではどんな船内生活が行われていたかを知ることができます。
チェストの中には「コンスティチューション」船員の荷物が収められています。



こちら実際に現在の「コンスティチューション」に積んであるチェスト。
わかりませんが、乗組員の貴重品かなんかが入っているのでしょうか。




ところでイギリス海軍といえば無敵艦隊に勝利後、
世界最強の海軍としてもうブイブイ言わせて来続けたわけで、
イメージは決して悪くないわけですが、(英国そのものがそうですね)
実態はえらいブラック組織でもありました。
なんと、軍艦に乗せる水兵を港で男を拉致して調達していたというのです。

ときとして港の入り口に軍艦が隠れていて、商船が入港してくると
襲って船員を強制拉致していたと言うんですから、こりゃ酷い。
抵抗する商船との間に戦闘行為が起こることすらあったそうです。

男手を取られた彼の家族もそうなると悲惨な道を辿りました。
給料は出ますがが安くて家族を養うどころではなく、そうなると家族は
犯罪でもなんでもして生きていかなければなりませんでした。

当時はいわゆる「新造艦ラッシュ」でどんどん船を作っていたため、
それに見合うだけの頭数をそろえるのは志願者だけでは無理だったのですが、
だからってねえ・・・。 



それではアメリカではどうだったかというと、

長い間の緊張のあと、この船の栄えあるクルーに自分が加えられ、
我が国の船、しかもすでに大変な権威のある船を守ることが
できるのだと思うと、まるで奴隷生活から解き放たれた気がした。
(パードン・モーヴェイ・ウィップル 1813年)

まあこの1813年というのは、米英戦争で「コンスティチューション」が
HMS「ゲリエール」と戦い、これに勝利を収めて

その「オールド・アイアンサイズ」ぶりを称えられた次の年ですから、
これはアメリカ人にとっては願ってもない名誉ということだったのでしょう。

うがった見方をすれば、こういう水兵のいる船と、拉致されてきて仕方なく
そこにいる水兵の船とでは、戦いの結果も自ずと決まってくる気もしますね。



さて、そうやって栄光の「コンスティチューション」の乗員になれる、
ということが決まってから娑婆に別れを告げるわけですが、

二年間のお別れ

船の上というのは極限の狭さなんだ。
持ち込める手荷物はこのバッグひとつだけさ。
着るものを詰めたら、故郷を偲ぶものを入れる場所なんてほとんどない。
長い間家族や友人と別れて暮らすのに慰めになるものって、
何を持っていったらいいのかな?

彼のバッグの中にはパイプとトランプも見えています。



1812年、アフリカ系の水兵はいたのでしょうか?
それがいたんですよ。

「歴史家によると、船員の7〜12%が”色的にフリー”だった」

ってことなので(笑)黒人もいたということのようです。
しかも、船の上では彼らは取り立てて差別されることもなく、
同じところに寝起きし、白人のカウンターパートとして勤務していました。
ここの解説にも、

「海の上の仕事は、おそらく当時のアメリカで唯一、黒人に対しても
そのキャリアが尊重され、同等に給料も払われた仕事だった」

とあります。

この理由は明瞭で、沖にでれば完全に孤立する船という組織の中で
そういう人種によるヒエラルキーを作ることは、対立を生み、
最悪の場合反乱・謀反といった事態につながることが予想されたからです。

ここで予想されるのは白人船員たちの「不満」が出ることですが、
万が一それが事件化したとしても、せいぜい起こり得るのは下へのリンチで、
特権階級である士官への造反につながりにくかったからに違いありません。

一貫して海軍でのアフリカ系アメリカ人の扱いが他と比べて公平だったのも、
遡ってみればこのころからの伝統だったということができましょう。



天測儀と望遠鏡、そして・・・聖書?



左の士官はこれを用いて天測を行っています。

”数学が好きでよかった!”

僕が艦上で学ぶことはコンスティチューションの艦位を
調べることになるだろう。
しかし全く陸地が見えない状態でどうやってそれを知るのかな?
そう、毎日正午にミシップマンはこのセクスタント(六分儀)で
太陽の位置が水平線からどのくらいあるか調べるんだ。
そのあと、計算台でその数字から現在位を割り出すのさ。

これを行うとき、いつも期待することがある。
水平線上にテレスコープで敵の帆を見つけて、栄光の頂点を極めることさ!

六分儀はゲドニー・キングとその息子によって発明されました。

そして右のイケメンのミシップマンが何を言っているかというと・・・

”他より一段上さ!” A CUT ABOVE REST

「僕の軍服は最新の規定にしたがってカットされたもので、
仕立て屋によってぴったりに作られているんだ。
士官候補生としての新しい生活における最初の贅沢さ。
どう贅沢って、何しろ給料の5ヶ月分だからね!」


ちなみに「a cut above rest」(他より優れている)の「カット」と
洋服の仕立ての「カット」をかけているんですね。誰うま。



船の中ではこんなところで寝ていましたの巻。

高さが三様ですが、これは実際にここで寝心地を試すために
小さい子供でも一人で上がることができるようになっているのです。

「あなたが1812年の水兵でなかったら、ここで4時間以上寝られますか?」

などという挑発的な文句が書いてあります。
試しませんでしたが、よっぽどひどい寝心地なのでしょう。
でも帝国海軍の水兵さんたちは普通にハンモックで寝てましたが。



こちら基本ブラック職場だったイギリス軍の水兵さん。

「ハンモックで寝られるか?

俺たちみたいな水兵はハンモックで寝るんだ。
暗くて激混みで狭く、時々潮を被るような場所に
互い違いに床を吊るしてね。
睡眠時間は4時間で、万が一寝過ごしたらハンモックのロープを
いきなり外されて叩き起こされるんだ」

それはひどい・・・。
やっぱりイギリス海軍の方が待遇悪いみたいです。

それにしてもハンモックって劣悪な待遇の象徴みたいに言われてますが、
帝国海軍の水兵さんたちは(略)



さて、続いては食生活。
ここには食べ物の模型をてにとって、1日の食事を
再現する学習をすることができます。



こちらを参考にね。


月 パン400g 酒半パイント 肉450g 豆半パイント

週一回モラセス(甘味)酢、チーズ、バター。
単位が1日、というところに注目してください。
しかし、冷蔵庫のない時代、どうやって食べ物を保存していたのでしょう。
十分過酷と思われるアメリカ海軍の食事ですが、それでは
イギリス海軍ではどうだったかというと、 主食はカンパンと塩漬けの肉と

チーズといった風でこのあたりはアメリカ海軍と同じです。


 

木の船なので船底はいつも湿気の多い状態ゆえ、食べ物にはすぐに
コクゾウムシが涌いてしまい、食べ物に付きました。
大量のコクゾウムシが立てる音はいつも聞こえており、

カンパンは虫だらけですぐにボロボロに崩れてしまいます。

腐らないように大量の塩につけておいた肉もすぐにウジが湧きました。
肉の代わりに生魚を置いておき、そちらにウジがたかったら肉を出す、
という方法で少しでも防ごうとしましたがあまり効果はありませんでした。

また湿気のこもった船倉ではチーズもすぐに腐ってウジが湧きます。
たくさんの蛆が涌くと、まるでチーズに足が生えて
浮き上がって動いているように見えたといわれています。
(しかもそれを食べるんだ・・・・)


しかしこんな食生活であっても水兵のなり手はある程度いました。
足りない分はさらってきましたが、全部が全部というわけではなかったのです。 

なぜなら、こんな食事でも当時の農民の貧困層からしたら、
質はともかく、まだまだ量的にたくさん食べることができたからです。



えー、今まで話してきたのはイギリス海軍での食事事情ですが、おそらく
アメリカだって冷蔵庫があったわけではないから、きっと
これと大差なかったと思うんですよ。

水兵の身分は肌の色を問わず公平であったわけですが、
そのかわり、水兵と士官たちの身分には天と地くらいの違いがありました。
このあたりも海軍での士官とその他の身分の違いに受け継がれているようですね。

で、これが士官室での食事を再現したもの。



まあはっきりいって大したものを食べていないのは今と一緒ですが(笑)
テーブルにシルバーを並べ、ワインとともに食事をするという具合に、
やはり水兵とは全く違う待遇だったわけです。



さて、これが実際の「コンスティチューション」の士官が食事をした場所。
まるで民家のダイニングテーブルですが
後になってから備えられたもので当時のではありません。 



一人分のベッドがありました。
艦尾のこの部屋はおそらく艦長の寝室だったのでしょう。



昔はろうそく立てだったに違いないランプ。
壁に掛けてあるのも天測儀・・・・・・?



さて、ここでとっておきの情報を。
コンスティチューション博物館の洗面所にいったところ、壁にこのような
蘊蓄話が貼ってありました。

コンスティチューションでトイレはどうしていたのか?

構造上海にすることなど不可能だし・・・・と思っていたら、
やはり専用のスペースが艦首部分に置かれていたようです。

この部分だとまっすぐ下が海なので、落下させられたんですね。
現在でも海軍ではbathroomのことを"head"と称しますが、
むかしここにあったことが由来です。
この絵の下にはこんなことが書いてありました。

「考えてみてください。
座った時に下から飛沫がこないなんて。
ここが博物館でよかったって思いませんか?」

ええ思いますとも。



博物館は観覧料無料ですが、入り口に人がいて、
寄付金を払わねば入りにくい空気を色濃く作り出しております。
そこで皆、いくつもあるアクリルの募金箱に10ドルくらいを入れるのですが、
その下に犬がいるのにわたしは最初に気づきました。



と思ったら二階にもいたよ。(床には犬の足跡付き)
マークによるとこれはイギリス海軍のの犬。

「ドッグワッチといっても僕を見ていることじゃないよ。
海軍で16時から20時までのあいだの見張りのことなんだ。
この時間は二つに分けられ(ツーハーフワッチ)、
「ファーストドッグ」は16:00〜18:00、
「ラストドッグ」は18:00〜20:00。
これらの時間は通常の見張り時間の半分なんだ。

この変則シフトが存在する理由は、順番に見張りをローテーションするときに
ここを二つに分けることでシフトが奇数になるからと言われています。
また、どちらのシフトの者も、食事を夕方に食べることができます、

また、わんちゃんこうも言ってますよ。

「僕はみながこの勤務を気に入ってるってこと知ってるよ。
なぜならこれで毎日同じ時間に見張りすることを避けられるから」


むむう、この犬・・・・・何者。


続く。


 


”ライブ・オークの呪い”〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

2017-01-21 | 博物館・資料館・テーマパーク

ボストンの歴史的遺産であり、観光資源。
それだけでなく「ナショナル・シップ」として永久にその保存が
議会によって決められている帆船「コンスティチューション」。

その保存に至るまでのことを少し話しておきます。



1800年代終わりには蒸気船の時代となり、帆船は一線を退くことになり、
「コンスティチューション」も解体処分が検討されたのですが、
1905年、艦体を残すことが多くの国民の請願によって決まります。

1917年には「レキシントン型」巡洋戦艦(巡洋艦ではない)の
「コンスティチューション」に名前を譲るため、彼女はいったん
「オールド・コンスティチューション」と改名させられますが、軍縮条約で
レキシントン型の巡洋戦艦を造る計画そのものが中止になったため、
1925年には元の名前に戻されました。

そして熱心な支持者の寄付した資金で修復が行われ、アメリカの象徴として
全土の沿岸の都市を曳き船に引かれて訪問しています。

この後の修復でマストや艤装など全てが取り替えられ、砲はダミーに変わりました。
ただしこの写真は1907年に撮影された修復前のものなので、
写真に写っているカロネード砲は稼働可能なものだと思われます。

 

 1927年6月16日、「コンスティチューション」はドライドックに入りました。
修復に必要な942,500ドルのためにファンドが立ち上げられました。
写真は修復後上部構造物が元に戻された「コンスティチューション」の姿。
1931年の7月1日の写真です。



1992年から1996年にかけても大規模な修復が行われました。
この改装では、前の改装の際に時間と金を節約するために
取り除かれていた最小の構造材料の多くが再び使われました。
これは実際に海を帆走することを念頭に行われた措置です。

一つの波頭が船体の中央を押し上げて、船首および船尾が下がり、
船体が曲がることを「ホッギング」といいますが、
このホッギングに抵抗するため斜補強材を組み込むことも再現されました。



2度目の訪問時は天気が良かったので、甲板の
内側の綺麗なブルーグリーンがよくわかっていただけるでしょうか。
冒頭写真は甲板の船首部分に立ち、バウスプリット方向を真っ直ぐ見たところ。



て、前回「コンスティチューション・グッズ」でご紹介に漏れた
幾つかの製品をここであげておきます。

7番「ビレイング・ピン」です。
お節介船屋さんに「ビレイピン」という言葉を教えていただいていたので
たちどころにこれが何かを理解しました。ありがとうございました。

甲板のロープを結びつけるための可動式のピンで、これは
1873年から1877年の間に行われた全面改修のさい外されました。
全部が木でできているので、昔の船は改修ごとに頻繁に部品を変え、
それ自体を記念品として販売していたようですね。

8番の銅
メダルも同じ改修の時に「コンスティチューション」から
取り外された銅で作った記念品です。

9番のレターオープナーは1906年〜1907年の改修の際、
船体に使われていた釘をはずしてそれから作られたものです。

10番「カービル」(Carvil) といって、大きなビレイピンです。
1855年にポーツマスの海軍工廠で取り外されたものに銘板を打ち、
そこには

これはUSS「コンスティチューション」のカーヴィルであり、
ポーツマスのヘンリー・ザクスターがマサチューセッツの
スーザン・ウィラードに贈ったものである

ということが書かれています。 
男性から女性に贈るロマンチックなプレゼントには如何なものか、
という気もしますが、まあなんか事情があったのでしょう。 



さて、コンスティチューション博物館には「コンスティチューション」が
建造されるにあたって、木材の選定の経緯から説明があります。

「船の外殻はすなわち骨組みでもある。
内部に使う木材は、腐食に強いものでなくてはならず、
荒れ狂う波にも耐え、大砲発射の衝撃に耐えるものでなくては・・。
どの木が一番良いだろうか?」

右側の「メイドインアメリカ」の地図の上には、

「我が国の戦艦は我が国にある素材から作られるべきだ」

というベンジャミン・ストッダードという、ジョン・アダムス大統領に
初代海軍長官に任命された政治家の言葉が書かれています。



そこで1795年から、ジョージア・シー・アイランドで、ライブオークの木の
伐採が造船工と「アックスマン」という名の黒人奴隷によって行われたのでした。

しかしジョージアの潮を帯びた沼地で硬くて重いオークの木を
手仕事で伐採する重労働に彼らは大変苦しんだと言います。



「こんな仕事うんざりだ。
ご主人は俺がひでえ思いをして働いた賃金をまるまる懐にいれるが、
おれにはびた一文よこしやしねえ。
ほとんどのヤンキーアックスマンは見てるだけでここに住みもしねえで、
しかも病気になったらすぐに帰されてしまいやがる。

おれには選択肢はねえ。
逃げたくたってもどこにも行く場所はねえがな」 



こんな仕事、うんざりだ!
24時間働きづめでいつお迎えが来てもおかしくないんだ。
蛇に噛まれるか、熱でやられるかで死ななかったとしても、
すぐに倒れてきた木に押しつぶされるか、さもなければ
巨大な車輪の下に潰される大勢のうちの一人になるだろうさ」

みなさん、うんざりしておられるのはよーくわかりました。



さて、こんな苦労をして現地から切り出してきたライブオークの木。
この人物はジャン・バプティスト・ル・コートワという船大工です。

「ボストンで一番大きな船であるコンスティチューションを作るため、
巨大なオークの木を裁断したり組み立てるのは大変な仕事だ。
この船を作るためにはたくさんの人出が必要なんだ」

その下には「手伝いますか?」とありますが、これは右側の
船の外殻に合わせて木材を切り組み立てるコンピュータゲームへの
お誘いとなっています。



これはフリゲート艦「フィラデルフィア」の建造のようす。
ドライドックもない頃なので、地面にコロをしき、その上に
船を作って行っているような感じですね。

会談ではなくスロープ式の通路を作っていたようですが、
これではおそらく事故もしょっちゅうだったと思われます。



さて、二回目に「コンスティチューション」に乗った時のことです。
「コンスティチューション」乗員がいきなり一段高いところに登り、
ろうろうとその歴史、建造から彼女が「オールドアイアンサイズ」と
言われるに至ったイギリス軍艦との戦闘に至るまでを説明し始めました。



彼もまた先ほどの水兵のように、2週間のブートキャンプを終えたところで
いきなり「コンスティチューション」への着任を指示され、
ここでの仕事は国民にこの「アメリカの船」を宣伝すること、といわれて
こういうパフォーマンスも任務の一環として淡々とこなしているのでありましょう。

演説のような説明が終わった後は、見学客が盛大な拍手で
彼をねぎらいました。



あとで甲板下を見ていたらうろうろしていた先ほどの人。
見張りも彼らの大事な任務の一つなのでしょう。



こちらの写真は最初の訪問のとき。
甲板に人が少なく、天気が悪かったので画面が暗いです。

この二人の女性はおそらく姉妹でしょう(確信)



絵に描いたような「アメリカ人観光客スターターパック」な人が・・・・。

こちらは船尾。
船尾にはこのように下を覗き込むためのスリットが3つ穿たれています。
しゃがみこんで転落防止のネット越しに熱心に外を眺める家族がいました。



ちなみに先ほどのライブオーク伐採の話に戻りますが、
当時の先任船大工のトーマス・モーガンという人は、80人からなる
ニューイングランド在住のアックスメンと(エックスメンじゃないよ)
船でジョージアに渡りました。
 
一口で言ってそれは「バックエイキングワーク」(背中の痛くなる仕事)
だった、とかれは述懐しています。

現地は始終雨が降り、高温多湿でマラリアに罹る者が続出しました。
ニューイングランドの気候で生まれ育った彼らには、全く順応できない
厳しい現地の気候だったため、病気で送り返されなければ現地で
死んでしまうため、中には帰るために仲間を殺した人もいました。

結局、ニューイングランドからきた白人の船大工の中で
最後までここで仕事を続けることができたのは、モーガンを含む
たった4人だけであったと伝えられます。 
もちろん、帰ることを許されない黒人奴隷たちは別です。

彼はこんな言葉を残しています。


「もし、木を全部切るまでここに残っていたなら、必ず死ぬ。
ここにきた者には、等しく”樫の木の呪い”が待っているんだ」



続く。

 


朝鮮戦争慰霊碑〜旧プレシディオ軍用地 サンフランシスコ

2017-01-20 | アメリカ

サンフランシスコに夫の知人を案内したときのことをもう少し。
どこに客を案内するかということは、車を運転するわたしに
完全に任されていたので、わたしはゴールデンゲートブリッジのあとは
半島の北西角に当たる太平洋に面した海岸に車を向けました。



何度かこのブログでもこの海岸の写真をご紹介していますが。
なんどもこれもいうように、いつ来てもここはこんな風です。

この写真を撮ったのは8月の中旬ですが、この一帯には雲が垂れ込め、
海流の関係で常に強い風が海から吹き上がってくるおかげで、
霧が立ち込めることはありませんが震え上がるほど寒いのです。
わたしはここに来るときには必ずこちらで買った冬物を着ます。
寒さに鈍感なアメリカ人も、ここでだけはあの「スターターパック」な人は
ほとんど姿を見ることもありません。 







これも前にご紹介したことがありますが、ここには昔、

サットロ・バスズ

という温水プール施設がありました。
これはかつての海水プールの遺構です。
サットロというのはオーナーであったアドルフ・サットロの名前です。
1896年に建てられ、1966年に不審火で焼失するまでここにありました。



上の写真に見えている部分にあったプールの内部。
右手窓の外に海が見えているのがお分かりでしょうか。



部分拡大。
ノーダイビングの看板の横で落ちるふりをして飛び込む若者。



当時の水着を復刻してマネキンに着せていました。


冬はもちろん夏でも海水浴などとんでもない気候のサンフランシスコで、
年中プールに入れるとあって市民の人気を集めましたが、何しろ
維持費が大変すぎて、経営はいつも赤字だったといいます。

1966年に廃業してすぐ、なぜか不審火が起きて建物は失われました。
サットロはサンフランシスコを離れ、保険金を主張したそうです。

お荷物だった店などがある火突然不審火によって焼けてしまう。
なんかこういう話、世の中にはよくありますよね(棒)



遺構には自由に立ち入ることができます。
3組ともハネムーン?



わざわざこんなものを落書きしに来る人がいます。



この遺構に隣接したところに、レストラン棟ががあります。
これからいく「クリフハウス」がここにあります。
カフェはいつ来ても混んでいますが、レストランの方はお値段が高く、
(一皿20ドル台)そのためいつも席がなかったことはありません。

この斜面に人がいるので写真を撮ってみました。



みんなで寝転んで楽しんでますね。

このあたりに分布する植物もご覧のように独特です。
まるでコケのような柔らかい草がみっしりと生えて、
まるで絨毯のようになっているのです。



かつてのクリフハウス部分。
プールなどの入り口でもあり、ここから皆入場しました。



年中吹く強風を利用して、この建物は風力発電を取り入れています。
そういえば、この周りにはかつて稼働していた風車が2基あります。



あまり満席になることはないとはいえ、一応予約して一番乗りしました。



ここのパンは絶品です。
「ラタトウィユ」(レミーのおいしいレストラン)ではありませんが、
パンをちぎるときにパリパリと香ばしい「音」がします。



家族が取った鴨のロースト。
少しもらいましたが大変滋味溢れる肉でした。



わたしはホタテと海老がクスクスのサラダに乗ったもの。



ところで一番乗りだったので窓際の席に案内され、
そこからはこんな風に外が見えるのですが・・、



なんと、カップルがこの極寒の海で青春ごっこを始めました。



男の子が何かを言って逃げ、女が追いかけて転び、全身びしょ濡れ(お約束)
サンディエゴならともかく、ここでこんなことをやっていたら、
まず間違いなく呆れた目で皆に見られることは間違いありません。

この後、日本の、12月くらいの寒さの中、濡れた服で
二人がどうやって過ごしたのか少しだけ気になるところですが、
いずれにせよ若いって無謀と同義なのね。



砲台が張り巡らされ、サンフランシスコ湾入り口には機雷が撒かれていた、
という前回のエントリで貼ったYouTubeを見た方ならお分かりのように、
ゴールデンゲートブリッジを中心としたこの一帯は、1994年まで
軍による運用が行われていた「軍用地」でした。

対日戦のため日系二世兵士を集めて情報部隊を作り、
教育していたのもここでしたし、複葉機の時代には滑走路もありました。
クリッシーフィールドの皆がキャンプを行う芝生の一隅には防空壕があり、
それらは皆現在歴史建造物として保存されています。

1776年に最初にここを軍用地として使い出したのはスペイン軍でした。
1821年、メキシコがスペインから独立し、ここはメキシコの一部になります。
プレシディオもそうですが、サンフランシスコにヒスパニック系の名前の
通りや街が多いのはそういうことからです。

米墨戦争でアメリカがここの所有を宣言してからのち、
ゴールドラッシュによってアメリカ人がつめかけ、
アルカトラズに要塞を築いたりして、街は発展していきます。

わたしがここでいまだに口座を持っているウェルズファーゴという銀行は
1800年代にできていますし、チョコレートのギラデリ、衣料会社の
リーヴァイ・ストラウスも同じ頃に創業しています。

観光地として世界中の人々を惹きつけるこの一帯には、ユーカリとアメリカンパインが
森林を形成し、ここに来るとわたしは車の窓をあけて独特の芳香を吸い込みます。

そんな森の一角に、戦没兵士が眠るサンフランシスコ国立墓地があります。
わたしは去年初めてこの中に入り、写真を撮ったのですが、
なぜか入り口の写真を残して全てが消えていました。

もちろん単なる事故か、どうせわたしのことだから何か気付かないうちに
データが消えるようなことをやったのだとは思いますが、
それを何かの啓示ととらえることもまた吝かではなく、この中で
写真を撮ることをわたしはそれ以来きっぱり諦めることにしました。

そのかわり、と言ってはなんですが、去年来た時に建設予定となっていた
朝鮮戦争のメモリアルコーナーが完成していたので、立ち寄ってみました。




Pusan Perimeter(June-September 1950)
とあります。
釜山の石ででもあるのでしょうか。



ここで現地にあったこの戦線の移動の様子をみてみましょう。


●一番左 1945年、日本が降伏し、北半分をソ連が、南半分を
アメリカが占領していたときの様子です。

元シールズの奥田という人が最近熱唱したという「イムジン河」という歌には

「誰が祖国を二つに分けてしまったの」

という歌詞がありますが、誰も何も、アメリカとソ連なんですよね。
ところでついでにこのひと、参院選の時投票用紙に◯をつけた
とかツィートしていたそうですが、
(指摘されてツィート削除)なんかもう隠す気なさそうですね。

何って、ほら、選挙に行ったことがないってことを。


●左から2番目 北朝鮮が1950年6月25日に北緯38度線で砲撃をいきなり始め、
奇襲してきたときです。
ソウルは占領され、韓国軍は敗退して釜山に追い詰められました。

ちなみに、奇襲の2日後の6月27日、李承晩は南朝鮮労働党の党員を
共産主義者として処刑を命じ、裁判なしで20〜120万人の民間人が
虐殺されるという「保導連盟事件」が起こっています。


●真ん中 そこで、我らが?マッカーサーがバターン号で日本から駆けつけ、
東京を起点にそこから毎日専用機で戦場に通い、アメリカ軍を指揮。
9月15日から10月24日で戦線を大きく押し戻しました。

ちなみにこのとき最初に韓国軍の参謀総長になったのは(すぐ解任されましたが)
陸軍士官学校49期卒で砲兵科少佐であったチェ・ビンドク(蔡 秉徳)でした。



Inchon Landing(1950 September 15)

マッカーサーが9月15日に行った仁川上陸作戦、「クロマイト作戦」の日が
ここに記されています。
それまで苦戦していた国連軍ですが、この作戦以降、 米英軍と
韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変しました。



仁川で、上陸作戦でレッドビーチの防波堤を越えていく海兵隊員たち。
このときにバルドロメオ・ロペスという海兵隊員は、壕に投げられた
手榴弾を自分の体の下に引き入れて戦友を爆発から守ったという話があります。

●右から2番目 
11月25日になんと中国人民軍が参戦してきます。
人海戦術の前に国連軍もアメリカ軍も疲弊を強め、
戦線はまたも大きく南下することになりました。 



1950年8月に撮られた戦場での一コマ。



1952年、ハートブレーク・リッジというところの塹壕で
40フィート向こうにいる敵と対峙している第27砲兵師団。




上の写真で傷ついた兵士に手を貸している左の人物と、
上の写真で自分のジープを祭壇にミサを行っている従軍牧師は
同一人物で、エミール・ケイパーン大尉といいます。

彼はこのあと戦線で捕虜となりましたが、収容所で従軍牧師としての務めを果たし、
それだけでなく皆に食べ物を分け与えて勇気付けました。
1951年に結核を罹患し収容所で亡くなっています。

朝鮮戦争には4人の従軍牧師が参加していますが、その全員が
捕虜になり、朝鮮半島で没しました。




雪の中休息を取るハンナム貯水池の海兵隊員たち。
1950年12月撮影。



M-26戦車(パーシング)の前に立つ子供。1951年6月撮影。



ハンナムの戦士の墓にたたずむオリバー・P・スミス海兵隊少将



北と南の国境、DMZ(非武装地帯)で向かい合う両軍の兵士。



このメモリアルゾーンに出資したパトロンの名前が刻まれています。
サンフランシスコ市、韓国政府を始め個人名も。



国立墓地を見学していた連れと入り口で合流しました。



さて、というところでサンフランシスコ案内は終わり。
これは知人と別れた後、買いものしたオークストリートのジャズカフェ外壁。
サッチモと右はニーナ・シモン。



ロスアルトスに帰ってきました。
これなんだと思います?



答え;自転車スタンド。



おまけです。
2015年の夏、スタンフォードで節約したつもりで安いホテルに泊まったら、
2日目に火事になった、という話をしたかと思いますが、今年、
近くを通った時にどうなっているか見てみました。



全く直してません(笑)
窓の隙間から真っ黒焦げの部屋の中がそのまま見えていました。
ホテルは営業しているみたいでしたが。

多分保険金も受け取ったんでしょうにねえ・・。(呆)

終わり。 


ファイロリガーデン〜加州富豪の豪邸と庭園

2017-01-18 | 博物館・資料館・テーマパーク

住んでいた時期も含めると、13年以上訪れるカリフォルニアですが、
今年の夏までまったく知らなかったスポットがありました。
まあ、カリフォルニアだけで面積は日本と同じくらいあるので、
それも無理はないとは思いますが、意外だったのはそれが
車でしょっちゅう走るフリーウェイの脇にあったということです。

それはファイロリ・ガーデン。

1906年のサンフランシスコ大地震のあと、多くの富裕層が
市内から外れたところに居を移しました。
彼らは鉄道、炭鉱、金融など、アメリカの「ギルデッド・エイジ」 
(金メッキの時代、1870〜80年代)を築いた人たちです。

富豪ウィリアム・ボウワーズ ボーン二世夫妻が
住んでいたファイロリは、その時代の最後の遺産といってもいいでしょう。

ファイロリガーデンは1915年から1917 年にかけて建てた邸宅と
1917年から1929年にかけて造られた庭園によって成り立っています、
1936年に夫妻が亡くなった時、ウィリアム・ロス夫妻に売却されました。

現在は文化遺産として2月から10月までの間だけ公開されており、
1000人以上のボランティアが運営に携わっています。



カリフォルニアは気候が植物の育成に適しているので
庭園は「その気になれば」造成が可能ですが、文化的に
ヨーロッパのようなガーデニングは浸透していないので、
こんなところにヨーロッパ風庭園があるとはまったく意外でした。

インターネットでホームページからツァーを申し込むこともできますが、
わたしたちはセルフツァーを選択しました。

このエントランスを入っていくと受付があります。

まず見学は庭園から。
変わった植物だなと思ったら、赤いのはガラスのオブジェでした。
彩りのつもりか池にビーチボールを浮かべていて、
イギリス人ガーデナーが見たら怒り狂いそうな眺めです。
 
フランスの庭園はベルサイユを始めいくつか見ましたが、
こういう手の加え方はアメリカ人ならではという気がしました。

庭園のそこここにあずまやのような建物があります。
テニスコートあり、プールありで、かつてのアメリカ人の
富裕層の生活が偲ばれます。

植木鉢が置いてあるあたりが庭園としては如何なものか、
と言う気もしますが、それはさておき。

日時計のある庭。

ラベンダーが花の盛りでした。 

分厚い生垣のトンネル。

歩いていくとテニスコートの近くにトイレがありました。
立ち寄ってみると中はこんな。
ロッカールームとして使われていたのかもしれません。 

トイレの窓の外にあった「盆栽」のようなもの。

盆栽といえばところどころ「盆栽風植栽」にしていて、例えばこれ。 
はっきりいってこれじゃない感がハンパありません。 

向こうで謎の剪定に励んでいる庭師。
プールの前にはアクリルガラスのハリセンに
本物のテニスボールをあしらったオブジェがありました。

こういうのもアールデコ風っていうんでしょうか。 

 

この庭は、ボーン夫妻の死後、家と広大な敷地を購入した
ロス家の夫人によって1975年に歴史保存のためのナショナルトラストに
寄贈され、それ以降公開されて今日に至ります。

 

しかし、ただの庭見学だけがここの楽しみではありません。
ウィリアム夫妻のためにサンフランシスコの建築家、ウィリアム・ポークが
設計したこの豪奢な邸宅の中を見ることができるのです。

不動産と一緒に寄付された家具やドレスなど、
当時の富豪の生活ぶりを垣間見ることのできる展示。

タキシードはボーン2世の甥の着用したもの、
ドレスはボーン夫人のもので、いずれも1915年頃のものです。

 

「シップルーム」と名付けられた、もともとは朝食用の食堂。
ここには帆船の模型や夫妻が旅行で使ったトランクなど、
「海関係」のグッズが飾られている部屋です。

で、この大きなトランクなんですが、分かる人にはわかる、
これフランスのゴヤールの製品なんですね。
日本ではあまり有名ではありませんが、サントノーレ通りにあって
格としてはルイ・ヴィトンより上と言う説もあるくらいです。

がラス戸の中には世界各地で買ってきた記念品とともに、
当時の最新式であったらしい小型カメラが。

さらに廊下を進んでいくと厨房にたどりつきました。
まるで漫画に出てくる大富豪の家のように、キッチンには
ユニフォームを着たコックとメイドがいたようです。

何十人分もの料理を作るキッチンですから、ホテルの厨房並みの広さですが、
個人宅なのでインテリアには温かみがあります。

ダイヤルロック式の分厚い扉の中には
来客用の銀器が収納されていました。

ジャンバルジャンは燭台を盗んで人生を誤りましたが、
それを売れば食べていけるくらい価値のあるものだったのですね。

今は食卓を飾ることもなく、扉の中でひっそりと輝きを放つだけです。

厨房はバトラーの控え室も兼ねていたようです。
各部屋からここにブザーが通じていてコールすると光る仕組み。
それにしてもなんたる部屋の多さ・・。

 

コーヒーを入れたり朝食のパンを焼いたりする棚。

オーブンとコンロは換気扇付きで今でも使えそうです。
というか、消火栓が置いてあるところを見るとときどき
ここで何かイベントが行われることもあるのかもしれません。

お菓子などを作る大きな台。
暇そうに天井を見ている人はボランティアの解説員。

40年にわたってシェフを務めたのは中国系アメリカ人のロウさん。
ネクタイを締めた紳士は当家の執事です。 

さて、そんなキッチンで生み出される料理は、このダイニングに運ばれます。

キッチンには来客をマネージメントするための表が貼ってありましたが、
年齢性別はもちろん、何語を喋るかまで個人のデータが書き込まれていました。
英語が一番多いのは当然ですが、独仏伊、そしてスェーデン語と、
あらゆる国の言葉を喋る客が一堂に会するような晩餐会も多々あったようです。

ボーン夫妻の時代、彼らが亡くなる少し前に行われた
最後の正式な「晩餐会」を再現しているテーブルです。

その時ボーン夫人が着たドレスも飾られています。

晩餐会が行なわれた1933年11月24日の写真。



次の間は居間というかプレイルームとでもいうのでしょうか。

卓ではスクラブルのゲーム中。



銀の糸を織り込んだ贅沢なコートは1920年台のもの。



ハープシコードのようですが、これはスピネットといって、
弦が斜めに貼られそれを引っ掻いて音を出す鍵盤楽器です。
これはベントサイド・スピネットで、18世紀にイギリスで流行しました。

こちらにはスクエア・ピアノがあります。
箱の中の弦は鍵盤に対してこちらも斜めに張られています。
アップライトピアノの前身というところで、これも18世紀後半のもの。



大きな東洋製の壺、右側の壁にあるのは中国製の螺鈿絵。
ガラスのビーズをふんだんにあしらったパーティドレスは1910年のもの。

壺の反対側には1964年にここで「デビュタント」を行った
ロス家の親戚の娘さんのきたデビュタントドレスがありました。



手縫いの総刺繍のドレスはフランス製です。



書斎にきて思わずわたしがおおっ、と盛り上がった海軍の軍服。
スウェーデン領事だった海軍軍人、ウィリアム(この人もウィリアムか・・)
マトソン大尉が着用していたものです。

これはサンマテオの博物館からの貸与で、当家とは関係ありません。

本棚に目ざとく海軍マークを見つけて写真を撮るわたしであった。
海軍関係の絵や版画を集めた本のようです。 

こちらの写真は状況から言ってウィリアム・ロス氏ではないかと思われます。
右側は戦時中に撮られたらしく陸軍の軍服ですね。

こちらロス夫人。(さっきの絵の人だと思われ)
お若い時にはまるで女優さんみたい。

ロス氏も若い時は超イケメンだったみたいです。 



ロス夫人と愛馬。
やはり上流階級は乗馬を嗜まれるのですね。
右側はロス夫人と彼女の兄弟。

なんと家の中にコンサートホールが。
このファイロリガーデン、周りはほとんど原生林みたいな木々に囲まれた山間地で、
土地はふんだんにあるからとはいえ、これには唖然としました。
ピアノは見てませんが多分スタンウェイでしょう。

 

ここで行われた舞踏会やその他パーティで着用されたドレスが幾つか
マネキンに着せて飾ってありました。

いわゆるバッスルスタイルのドレスですね。
日本では鹿鳴館でこのスタイルのドレスが着用されました。

大きな暖炉は大理石製。

ホールを出たところにあった一人用のトイレ。
無駄に広い。

少し小さな(といっても軽く30畳くらい)居間には、お酒を収納しておく
隠し戸棚と(閉めると壁になる)ワインセラー(右)がついています。
暖炉の上にある絵はロス夫人ですが、これははっきり言って絵としてはイマイチ。

ワインセラーのドアの上には鹿の首が飾ってあります。
おそらく当主は狩猟も楽しんだのでしょう。



見学を終え、ランチを食べるために中庭に席を取りました。
右側は主婦四人組。
おしゃべりに夢中になっている様子は日本と変わりません。

キッシュとサラダにスープという取り合わせ。

帰りにお土産店に寄ってみました。
ここでラベンダーの香りのハンドクリームを購入。

買いませんでしたが、スリッパの足裏のところが
草(grass)になっている商品を発見。
これが気持ちいいのかどうかは謎ですが、商品名が

「Grass Slipper」orz

ちなみにシンデレラのガラスの靴を英語では「glass slipper」といいます。 


この売店でずっとオペラのアリアが流れていました。
「ファイロリ」という名前とこういうBGMのセレクトから、わたしは
ここに来るまでは、この豪邸を所有していたのは
イタリアからの富豪の移民だと思っていました。

「みなさんはファイロリはイタリア系の名前だと思われるかもしれませんが」

ここの解説にもありますが、この名称は初代オーナーのボーン氏の命名で、

FIght for just cause;LOve your fellow man; LIve a good life」

(戦う理由はただ、あなたに続く人間を愛し、良き人生を歩むため)

というボーン氏の会社(金を掘る会社と地下水を売る会社)
のクレドから2文字ずつ抜粋した造語だということです。


カリフォルニアでありながらヨーロッパに迷い込んだような空間。
アメリカの古き良き時代の豪奢な生活を垣間見た1日でした。





サンフランシスコの対日防衛要塞 砲台跡

2017-01-17 | アメリカ

シリコンバレーに滞在中、TOの知人が当地に来ることになり、
サンフランシスコは初めてだという彼を案内していわゆる
お上りさんコースをドライブしたときの話です。

やはり最初はゴールデンゲートブリッジであろう、と
いつも車を停めるクリッシーフィールドの海岸沿いから、
ブリッジを渡った観光用の展望台に行ってみました。

週末なので予想はしていましたが、パーキングに車が溢れていたので
無駄な待ち時間を費やすことをすっぱりやめて、
わたしはそのままブリッジを渡り、対岸からブリッジを眺めるという
「地元民コース」を選択しました。



「ライムポイント」とあるのが橋のたもとです。

ブリッジを渡ったところ全体を「ゴールデンゲート保養所」というのですが、
そのサンフランシスコの対岸に当たるところには見た目通り馬てい形をした
「ホースシュー・ベイ」というのがあり、そこには観光客はまず来ません。

ここはフォートベイカーという地名で、本日お話するつもりの
サンフランシスコ防衛のための要地でもあった一角。
現在はヨットハーバーとベイエリアの歴史博物館、そして
沿岸警備隊の基地が置かれています。



当てずっぽうで車を走らせ、数台しか車が停まっていない空き地に
車を停め降り立ったとき、わたしたちは思わず感嘆の声をあげました。



「すごい」

「こんな風にブリッジが見えるところに初めて来た」

「おまけにここまったく観光客がいない・・・」




ブリッジの写真は数多くありますが、こちらから見た角度の方が美しい。
わたしたちは冷たい風の吹きすさぶ岸壁から行き交う船を見ていました。

ふと後ろを見ると、全く整備されていない小高い丘があり、
そこが展望台のようになっているのに気づいて登って行きますと・・・・、



全く整地されていない(つまり柵とか舗装した道がない)
踏み分け道のような階段でずっと上に登っていくことができました。




わたしたちの停めた車が下に見えています。
ここからはさらにヨットハーバーも一望できます。



さらに左に首をめぐらせば、アルカトラズ島が。
向こうにベイブリッジが見えているアルカトラズなんて初めてです。

普通には見られない建物の後ろ側と巨大な給水塔が認められます。



ブリッジの下に、ここに来なければ絶対に見ることのできない建築物発見。
フォート時代の監視所かもしれません。
廃屋になっているのかと思ったら、敷地になんとソーラーパネルが見えます。
岸壁に衝突しないように夜間照らすライトの電源をソーラーで取っているようです。




ブリッジの下は日本なら「銀座」と呼ばれるであろうくらい交通の激しいところです。
船好きであればここで1日でも行き交う船を見て過ごせるでしょう。(寒くなければ)

このとき、わたしのセンサーにひっかかった一隻のボート、いやカッター。
なんと沿岸警備隊の巡視船ではないですか。

この直前、ニューロンドンでコーストガードアカデミーの見学を
したばかりなので、このご縁に少し驚いてしまいました。



ここホースシューベイにコーストガードの基地があることは
後で地図を見て知ったことですが、このときにも
コーストガード専用のポンツーンがあるのをわたしは
目ざとく見つけて注目していたのです。



実はこの前、写真に写っている崖沿いの道路に車を止めていたとき、
コーストガードの隊員がみんなでだーっと走ってきて、
いかにも緊急事態!な騒然とした空気のままカッターに乗り込み、
わずか1分以内に出動してしていく様子を目の当たりにしたのです。


そのときわたしは自分のカメラを息子に貸していたため、
iPadで撮ったのがこれ。


ブリッジの上から人が飛び込んだときの捜索などに対応するためにも
ここにコーストガードの基地があり、非常時に出動しているのです。
しかしこのときになんのために出動したのかはわからずじまいでした。

こちらの写真は、その後帰ってきたカッターから隊員が降りているところです。
大事に至らなかったようですね。 




日本ならこんなところにはあっという間に柵ができてしまうところです。
ここに登ってくるのも勝手なら、落ちるのも自己責任。
こういう部分に関してはこれが世界のスタンダードであり、
日本というのは本当に甘やかされた優しい社会だと思います。

この花を供えられている人は、ここから飛び込んだのか、滑落したのか。
あるいはここから望むブリッジから飛び降りたのでしょうか。

ちなみに「世界で2番目に自殺者の多い建造物」(1位は南京)
であるGGブリッジでは2014年現在でわかっているだけで1,653名が
ここから飛び降りて自ら命を絶っています。



さてところで、ここから帰ってきた日、わたしはこの場所を
確かめるためにグーグルアースを見て気づきました。



これ・・・・砲台跡ですよね?

なんと、写真を撮っていたところをさらに登っていくと
そこにはこんなフォートレスの遺跡があったのです。

そう、先ほども言いましたが、ここはサンフランシスコ沿岸防衛のために
かつては全てが軍用地であった一帯です。
有名なブリッジ下のフォートレス(またお話しします)のように、
ここにもフォート・ベイカーという基地がありました。
現在博物館になっている建物の多くは当時の兵舎だったりします。



このあと、ブリッジに乗ってサンフランシスコに帰ろうとしたのですが、
ブリッジの入り口わきの道に、せっかくの機会なので入ってみました。



完全に観光道路となった山の上の2車線道路は、深い霧の中
どんどんと高度を上げていき、ついにはブリッジが下に見えてきました。



車を停めて降り、写真を撮ったところからは、一車線一方通行の
細い急な坂道がどこかにつながっており、車が降りていきます。



ここにあった案内板を見てびっくり。
この辺りは、要塞だったころの砲台の遺跡がいまでもごろごろあるのです。
この地図の丸いのが二つの砲台跡。
火薬庫や弾薬庫、コンプレッサーなどが示されています。



砲が2門据えてあった砲台。

「バッテリー」という名の砲台は「バッテリー・メンデル」、
『バッテリー・ウォラース」「バッテリー・スペンサー」、
「バッテリー・タウンズリー」、「バッテリー・カービー」などと
名前が付いていて、この一帯をまるでハリネズミのように防御します。



現地の看板には当時の写真もありました。
「最後の要塞砲台跡」と説明があったので、それを訳しておきます。

史上最も巨大で最も強力であったアメリカ陸軍の16インチ砲。
2,100パウンドの砲弾を26マイル外洋まで撃つことができました。
1942年に着工が始まり、1943年には完成したこれらの砲台。
第2次世界大戦は、この湾岸を日本軍の攻撃から防衛するために
この一帯を軍用地に変えました。

第2次世界大戦勃発までサンフランシスコ湾は西海岸でも
最も需要な防衛拠点と認識されてはいましたが、真珠湾攻撃における
日本軍の航空攻撃が、それまでの防衛の概念を永遠に変えたのです。

あとにご紹介するビデオの中でも言っていますが、真珠湾のあと、
日本軍が次にどこを狙ってくるかということは彼らに想像もつかず、
可能性としてはサンフランシスコが最も濃いとされていたことがわかります。



未だに残る「リング」。
これは砲台にある砲身を操作するためのワイヤが繋がれていました。



砲台に続くトンネルの入り口。
これらの現地にある写真を見てふと気付いたのですが、
最新の「ターミネーター」って、この辺でてきたよね?



この説明のあった部分は「バッテリーナンバー129」という場所でした。
フォートそのものは米西戦争の30年も前の1861年には完成していました。



1943年、マリーン・ヘッドランドに運搬される砲身。

129番の砲台が活動をやめたあとは、砲身などはトンネルの中に置かれ、
1948年に裁断してスクラップになるまで放置されていたそうです。



なぜここに砲台が集中しているかというと、サンフランシスコに攻めてこようと思ったら、
この狭い海峡とブリッジの下をくぐらないといけないからです。

これは、別のところ(朝鮮戦争のメモリアルゾーン)で見つけた写真ですが、
朝鮮戦争のとき、(1953年)、  「ジェネラル・ネルソン・M・ウォーカー」
(輸送艦)がブリッジの下を航行していくところです。

搭載しているのは戦争捕虜で、これから朝鮮に送還するところだったとか。

World of Warships - San-Francisco Artillery Corps


英語ですが、当時の映像とCGによって分かりやすく
サンフランシスコの防衛について説明してくれています。

これによると、砲台勤務の兵は砲台のコンクリートに付けられた
簡易ベッドで寝ていたようですね。
タバコも吸えず大変過酷な任務だったようです。


10年以上前から数え切れないくらいなんども来ていながら、
こんな軍事遺産があったことをわたしは今まで知りませんでした。


怪我をしたアシカなどを保護して治療し、また海に返してやる

海洋哺乳類センター

もあって、見学できるそうですし、来年はカメラを持って
1日ここで過ごしてみることにしましょう。
 

 


F-M社の対向ピストンエンジン〜潜水艦「ライオンフィッシュ」

2017-01-15 | 軍艦

さて、潜水艦「ライオンフィッシュ」見学、最終回です。
いままで見た潜水艦の内部は、前後に魚雷発射管、コニングタワー下に
ジャイロコンパスや操舵のあるコントロールルームがあって、士官用の区画は前方、
下士官兵の食堂はタワーよりも後方、にあるというのが共通していました。

狭い潜水艦内ならどこが上も下もなさそうなものですが、これが決まっているのは
おそらくですが、

「士官の居住区は少しでもエンジンから遠いところに置く」

という理由によるものではないかと思いました。
下士官兵はクルーズ・メスという食堂以外には居住区はなく、
バンクというベッドがまとめられている区画で寝起きするか、
あるいは魚雷発射管室の棚のベッドがもらえるかなのですが、
その場所は必ずエンジンと隣接しているようです。

メスの次の部屋は何もありませんでした。
もともとはここにバンクが所狭しと吊られ、ほとんどの兵が
寝起きしていたはずの場所ですが、現在はご覧のように、
例えば元サブマリナーの同窓会があったり、レクチャーが行われたり、
そういう場所として利用されているように見えます。

しかし、そこに唯一当時のままに残されている装備がありました。

はい、アイスクリームマシンです。

一瞬ウォータークーラーかと思いました。
おそらく当時は上部にサーバーが設置されていたのでしょう。

アメリカ人のアイスクリーム好きについてはこのブログでも
何度となく取り上げてきましたが、「パンパニト」にも別のタイプの
マシンがあり、ここにも・・・。

前回「アメリカ海軍の艦艇にとってのチャプレン(従軍牧師)は
日本海軍艦艇にとっての神棚と同じかもしれない」と仮定しましたが、
もしかしたら神棚に相当するのはアイスクリームマシンではないか?
という気がしてきました。

敵の艦船を沈めて興奮のアイス。
魚雷を躱されて悔しさをぶつけ合うアイス。
パイロットを救出して、あるいは捕虜を生け捕りにしてご褒美のアイス。
敵の攻撃により友を失い、彼を偲んでアイス。
故郷のパーラーを思い出して、恋人とのデートを思い出してアイス。
良きにつけ悪しきにつけ、嬉しい時も悲しい時も、暑い時にはもちろん
もしかしたら寒い時にも、おそらく彼らは何かと理由をつけては
アイスクリームマシンの前に列を作ったのではないかと思われます。

ね?ここまでくれば宗教みたいなものでしょ? 

続いては洗面所。
といっても、潜水艦の乗員が哨戒中ここで毎日髭を剃れたか、
というとそれはとんでもない話でした。
人間の尊厳としてせめて毎日歯は磨くことができたのだと思いたいですが、
とにかくこのころの潜水艦は、水を作ることができなかったので、
特に男性ばかりの空間ではものすごいことになったと思われます。

後ろに洗濯機もありますが、果たして哨戒中にこんなものが使えたのか。


ところで昔から潜水艦に女性を乗せないことになっている理由は

 

「狭くて浴室やトイレを分けられない」

「同じく狭くて居住区を分けられずプライバシーが確保できない」

「水が制限されるので衛生面で女性には過酷であるから」

だと言われてきたのですが、原子力潜水艦を持つアメリカ海軍では
かなり昔からフェミ団体に後押しされた政治家が圧力をかけてきて、
潜水艦に女性将兵を乗せるという試みが検討されてきました。

現場からはかなりの反発があったと言いますが、そこはアメリカ、
勢いとノリで押し切って、女性サブマリナーが誕生しました。

いろいろを乗り越えて、潜水艦が女性に門戸じゃなくてハッチを解放したのは
2010年で、この時に43名の女性士官が潜水艦配置されています。
彼女らは専門の「潜水艦勤務士官」のコースを修了した後、
バージニア級の潜水艦にそれぞれ着任しました。

さらにはUSS「ミシガン」SSGN-727は、2016年(ということはもうすでに?)
女性下士官を乗せる最初の潜水艦になることが決まっています。

英国海軍にもこんなニュースも。

ロイヤルネイビーに最初の女性サブマリナー

2年前のニュースですね。
フランス海軍にも女性サブマリナーはいるようです。

各国がこうやって一見悪条件で現場からの反発も大きく、
さらにトラブルとなりやすそうな女性の配置を進めるかというと、
人権問題よりもむしろ「人材確保」(優秀な)という面が大きいとか。

昔と違って潜水艦勤務の環境がましになり、危険も力仕事もなければ、
女性を乗せることはむしろいいことだと考えられているようです。 

 

いずれにしても、このころの潜水艦と我が海上自衛隊では全く考えられません。

水兵たちのバンクの隣がエンジンルームです。
通路を挟んで両側にあるのがエンジンそのもの。

フェアバンクス-モース社が1943年から米海軍の
潜水艦専用に供給しており、当時の潜水艦ほとんどすべてが
同社のエンジンを搭載していたと言われています。

同社はもともと風車を作っていましたが、回るものつながりで
そのうちエンジン製造にも進出し、メジャーになり、潜水艦用に開発された
ディーゼルエンジンはことに評価されています。

現在も同社のエンジンはホイッドビー・アイランド級ドック型揚陸艦や
サン・アントニオ級ドック型輸送揚陸艦の水陸両用の船に使用されているほか、
アメリカ沿岸警備隊のカッターでも使用されています。

F-M社のこのタイプを「対向ピストンエンジン」といいます。
英語ではそのままopposed-piston engineで、
1気筒に対して2個のピストンが対向して備えられ、燃焼室を共有するものです。

エンジンの一部がスケルトン仕様になって展示されています。

なのに急いでいたのと暑さでぼーっとしていて、詳しく写真を撮りそこないました。

対向ピストン機関とはこのようなものです。

 

上で回転している車輪の吸入口から空気と燃料を混ぜます。
上の写真で見えているのはクランクの部分ではないかと思いますが、
詳しく写真を撮らなかったのでわかりません。

しかも今気づいたのですが、この展示にはボタンがついていて、
そこをぽちっとすると説明が聞けたというのに・・・。



ちなみにこちらもF-M社の対向ピストンエンジンを搭載した
潜水艦「パンパニト」のエンジンルーム。 

いわゆる「マニューバリング・ルーム」。
エンジンルームに隣接していて、各種操作機械や、あるいは
メイン・プロピュルージョン・コントロールシステムがあります。 

写真上部のドラムには「バルブ」と記されています。 
メインエンジンの排気バルブではないかと思われます。 

エンジンルームは「メイン」と「アフター」とが続いてありますが、
メインの方がエンジン、ジェネレーター2基ずつなのに対し、こちらは
それに加えて排気バルブ、補助エンジンなどもあります。

ちなみにゴミ箱は現役の模様。

アフターエンジンルームのメインエンジン。

メインモーターはここにあります。
「バラオ」級のモーターは4基搭載されていました。 

トイレは狭いですが、左側にいざ!というときにつかまれるような
安全用の手すりが配置されています。
用足し中に転がり落ちるなんてシャレになりません。 

マニューバリングルームのマニューバリングスタンド。
潜水艦の2つのプロペラを動かすのは4つのモーターで、
ここと直結しています。

潜水艦が水上を航走するときにはその電力は4つのジェネレーターを通じて
4つのディーゼルエンジンから生み出されますが、潜航のときにはそれは
蓄電されたものを使うしかないのです。

電池は浮上しているときに充電されます。 

ジェネレータの出力をコントロールするパネル下部のレバー。
このパーツはGEの製品でした。  

というわけで、最後尾の後部魚雷発射室までやってきました。

前部と同じく、魚雷発射管に近づくことができないように柵があるので、
間からカメラを入れて撮りました。

やり方を知っているとハッチを開けることもできるので、
ツィッターやインスタグラムに、魚雷発射管に入って顔だけ出している
写真をあげるような不埒ものが出てきかねないってことでしょうか。

 

あまり事例はないですが、潜水艦内で死者が出た場合には
魚雷発射管から外に放出して水葬したときいたことがあります。

そこで思い出すのが、ドイツからU-boatで日本に帰国する途中
ドイツが降伏してしまったため、艦内で自決した二人の技術中佐の話です。

1945年、アウシュビッツとキールのトロイメライ

このエントリで語った二人の海軍軍人は、いずれも
Uボートが連合軍の手に落ちる前に、魚雷発射管から海中へと、
ドイツ海軍の手によってその遺体を水葬に付されました。

24本ストアしてあったという魚雷が、ローディングするためのラックに乗せられて
展示されています。

今でもNATOでは魚雷は21インチつまり533mmが規格となっていますが、
それはもともとこのころの魚雷の規格が21インチだったからです。

「ライオンフィッシュ」に搭載されたのは同じバラオ級の「パンパニト」が
搭載していたMk14ではないかと思われます・ 

こちらにMk14とは明らかに形の違う魚雷が2本ありますが、
こちらは1945年には主流となっていたMk16だと思われます。

魚雷は推進のために内部に内燃機関を持ちますが、このタイプは
機関への酸素供給にあたって、従来の空気室を用いる方法ではなく、
液体の過酸化水素水を化学反応させ発生した酸素を用いています。

このとき同時に水蒸気も発生することから、これらを利用し、
燃焼及びタービンへの蒸気供給を行雨という仕組みです。

この仕組みのおかげで酸素携行量が増え、Mk14より航続距離が倍以上に伸び、
空気を用いた場合と異なり窒素排出も無いため航跡が薄く、
発見されにくくなりました。

また、ジグザグ航行などのパターン航行もできるようになりました。

昔はこの上部が魚雷を積み込むためのハッチだったと思われます。
今は階段をつけてここから出入りができるようになっています。 

上の写真を改めて見て、魚雷の中身を見せるために
わざわざ外側を外して展示してあったのに気付きました。

この時もちろんこれらが見えていたはずなのに、どうして至近距離で
写真を撮っておかなかったのか・・・・。

さらには魚雷の上に魚雷の爆発の仕組みなどの説明があります。

今にして思うと、この時には時間がないのと暑いのでモノを考える
力がかなり低下していたからだと思うのですが、
潜水艦内で酸素不足っていうのも関係していたんじゃないかな。(嘘)

 

でも、こうやって外に出てきた時に少しほっとしたのも事実。
きっと酸素供給システムなんて作動させていないでしょうしね。

さて、これで潜水艦「ライオンフィッシュ」の見学は終わりましたが、
バトルシップコーブにはもう一つの記念艦があります。

 

 

 


スプルーアンスの息子〜潜水艦「ライオンフィッシュ」

2017-01-14 | 軍艦

バラオ級潜水艦「ライオンフィッシュ」。
前部発射管を見ただけで前回終わってしまったので
次に行きたいと思います。

発射管室はこのように檻状の扉で仕切られていたので、
魚雷発射管の写真は、間からカメラを入れて撮りました。

信管と火薬を抜かれて不発処理された魚雷の上には
カンバスのバンク(兵員寝床)があるのは皆同じ。
魚雷の上に寝るこの配置は開放感があって兵には人気があったそうです。

「ライオンフィッシュ」のバラオ級潜水艦が搭載していたのは
21インチ、すなわち533mmの魚雷です。

前部には(3つしか見えませんが)6基、後部に4基、
計10基の発射管を装備していた「ライオンフィッシュ」、
魚雷は前部で24本搭載していました。

天井近くに見えているのはダクト?それとも2門の発射管?

前回話が出たTDC(魚雷管制装置)があるとしたら
こういうところではないかと思われます。

潜水艦では前部魚雷発射室に続いて必ずオフィサーズ・クォーター、
士官居住区があるようです。 

というわけで、いきなり士官食堂が現れました。
銀器にマリーゴールド色のテーブルクロス、
そして錨のマークの付いた食器にカトラリー。

こんなテーブルセッティングをしていても食べるのはアメリカの食べ物ですが、
それでも閉塞感のある艦内において食事は何よりもの楽しみですから、
腕利きの調理員が心を込めて用意したものを、せめてこうやって
ちゃんとしたテーブルで食べることを大事な習慣にしていたのでしょう。

士官用のキッチンも兵員用とは別です。
こんなに狭いんだから一緒にすれば場所の節約にもなると思うのですが、
軍というところは必ずこういうところをきっちりと分けます。
 

パンケーキにハムエッグ、といった朝食が用意されていますが、
ちゃんと陶器の食器に盛り付けてありますね。

 

二人、あるいは三人寝ることができる個室の壁に掛けられた
軍服はルテナント・ジュニア・グレイド、中尉のもの。

この部屋は「チャプレンズ・ルーム」、つまり従軍牧師の部屋で、
潜水艦にすら牧師を乗せていたということになります。
乗員総数66名で、士官は6名、そのうち1名が牧師だったということで、
アメリカ海軍にとっての従軍牧師というのは、日本海軍の艦艇に
必ず神棚があるのと同じであるとわたしは位置付けたのですが、
この説、どうでしょうか。

ベッドの上に演出として置かれたギターと雑誌「ライフ」。

バラオ級の定員は85名ですが、それよりかなり少ない当艦は、
居住スペースにかなり余裕があって、もしかしたら
従軍牧師は専用の個室を(告解室兼用で)もらえたのかもしれません。

右側の壁にある丸いものは折りたたみ式の洗面台。
・・・・・じゃないよね多分。

カトリックでは司祭が額に水をかけて、

「父と子と聖霊の御名によって、あなたを洗う」 

という儀式を行うということなのでその専用台が、
まさかこれ・・・・?

誰も見たことはありませんが、従軍牧師の乗艦していた潜水艦が
魚雷にやられてもうだめだという時には、乗員たちは牧師の元に
集まり、牧師は彼らと自分自身のために祈りを捧げたのでしょうか。

沈没前のタイタニック号で群がる船客たちに告解を与えた牧師が、
彼自身もまた今から神に召されることを覚悟していたように。 

ベッドの上にある金属のプレートは、造船会社がつけたもの。
例の、仕事が遅くて不確実で、これ以降の発注を取り消された
クランプ造船会社の名前と起工日、進水日が刻まれています。 

ベッド上右側の写真はもちろんFDR。
左はレイモンド・スプルーアンス海軍大将でしょうね。

何しろ「ライオンフィッシュ」の艤装&初代艦長は元帥の息子、
スプルーアンス少佐だったということなので。

エドワード・D・スプルーアンス

シャープで冷徹でいかにもインテリそうな父親の風貌に比べて、息子は
どちらかというとやんちゃで闊達な面影を残しているように見えます。
終戦後は、一時的に降伏した伊号潜水艦の艦長をしていたこともありました。

このスプルーアンスの息子がその後どうなったのかというと、
なんと1969年、54歳の若さで交通事故により死亡してしまったのです。

スプルーアンスは元帥にはなれなかったものの、終生海軍大将として
現役のまま、つまり俸給も得ていたということです。
晩年には椎間板ヘルニアと白内障を患い、動脈硬化症を併発して
カリフォルニアのペブルビーチで闘病生活を送っていました。

そんなおり、長男の事故死の知らせを受けたスプルーアンスは、
精神に異常をきたして認知症のようになってしまったといいます。
そして同じ年の12月に息子の後を追うように亡くなりました。

死後はニミッツ元帥とともにサンフランシスコのゴールデンゲートにある
国立墓地に眠っているということです。

旧式のタイプライターに封書、卓上のカレンダーは
1945年5月になっています。

区画同士を区切る扉は他の潜水艦に比しても小さい気がしました。
扉の右下にあるのはクランプ造船所ではなくポーツマスの
海軍工廠で作られた非常用操舵室バッテリー。

黒いパネルは開くと各区画のボルトメータースイッチがあります。

煌々と明かりのついた機械室。

コントロールルームに差し掛かってきました。

 

下階から続いていそうな方向度目盛りのついたバー。
「ペリスコープ・ウェル」と言われるものでしょうか。 

操舵室。
展示にあたっては直接手で触れられないようにアクリルでカバーしてあります。

手前の大きな車輪が"helm"、舵のようです。

こちらはバウプレーン(前方の安定舵)を操作するためのホイール。
右と左を別々に操作したようです。

操舵席と機器の間には甲板に出るための垂直梯子がみえます。

ドアやハッチが潜航時空いているかどうかが、
このインジケーターで一覧できることになっています。

これによると外とつながりハッチ等で開け閉めする出入り口は前方に2、
後方に2、中央に1と全部で5つあるらしいことがわかります。 

"DEAD RECKONING TRACER"

「死んだ推測の追跡」ってなんですかって感じですが、
デッドレコニングで「推測航法」を意味します。

わかっている艦位を記していくことによってその情報から
これからの航路を決定していくというのが「航法」の定義です。

航法は

天則航法(方位磁針や六分儀、クロノメーター、海図などを用いる)

山アテ航法(陸地の特徴的な地形を目印にする)

スターナビゲーション(天体の位置や動き、風向、海流や波浪、生物相などから総合的に判断)

などがありますが、いずれも船から目視するもので、
このころの潜水艦は、浮上して行うことが基本でした。

これはどういうことかというと、索敵されていたり、悪天候の際には
航法を行うことができず、したがって自分がどこにいるのか見失い、
誤差が生じることがあったということなのです。

天測が出来ない時や、潜航中は、速力と針路、時間の経過から、
計算で自艦の位置を推定しますが、これが推測航法といいます。

ジャイロコンパスで針路、速力計で速さはわかりますから、
それらの情報がこのトレーサー、航跡自画器に推測艦位を出していきます。

ちなみに潜水艦の速度を知るには、ピトースウォード(ロッドメーター)
と呼ばれる金属のブレードが船殻から海中に突き出しており、
これが船速を感知してピトーメーターログにデータとして取り込まれます。

(日本語では情報を見つけられなかったため、英語のままですが、
おそらく何か適正な名称があるのだと思います)

ギャレーです。
「パンパニト」にもあった、ミキサーがここにも。
この狭いキッチンでおそらくパンも粉から作ったのでしょう。

左手にはガラスをはめた引き戸式の小窓があり、兵員には
ここから食事を出していたらしいことがわかります。 

そういえば、先日お話した映画「勝利への潜行」で、
アイドルの写真を取り上げられた水兵が、ここから手を突っ込んで

「返してくれ!」

と懇願するも、写真を見ているキッチンの主に
跳ね上げ式の窓でパチンと挟まれ、からかわれるというシーンがありました。 

その窓がこの写真の左に見えています。
なぜかここに「コレヒドールからの脱出」という題で
マッカーサーが脱出した時のことが書いてあるので、何かと思えば

「マッカーサーがそのときに乗り込んだPTボートの船長、
シューマッハー中尉はその後、ライオンフィッシュの副長になった」

というそれがどうした情報でした。
ちなみにこのときには3隻の敵駆逐艦に追われ、砲火を受けつつも、
勇敢なPTボートの船長はそれをかいくぐって脱出を成功させたそうです。 

ちなみにこんなに短い文章なのに、一番最初に

「マッカーサー将軍が万が一捕虜になっては士気に関わる、
という判断がなされたため、ルーズベルト大統領の脱出命令が出された」

とちゃんと言い訳っぽく書いてあるのには少しウケました。
アメリカでもこのときの脱出を良く言わない人がいるみたいです。

まあ、部下を置き去りに敵前逃亡、というのはどう言い訳しても事実だし(ゲス顔)

ここがクルーズ・メス、兵員食堂。
ぎゅうぎゅうに座っても一度に食事ができるのは20人くらいです。 

テーブルの端は1センチくらいのガードが取り付けられ、
艦が揺れても滑り落ちないようになっています。

窓ガラスに貼ってあるお知らせは、元サブマリナーで、
「ライオンフィッシュ」の展示に際してボランティアとして
様々な協力をしてくれたベテランたちの名前と、
彼らに対する感謝の言葉が書かれていました。

 

続く。 

 


対日戦の戦果(の真実)〜潜水艦「ライオンフィッシュ」

2017-01-13 | 軍艦

前回今回共に、「ライオンフィッシュ」の写真を撮ったのは
戦艦「マサチューセッツ」の甲板からです。

あらためてみると「バラオ」級潜水艦の艦尾に妙なものが。
名前はなんというか知りませんが、減揺装置の一種ではないでしょうか。

ここでいきなり余談です。

現代の潜水艦の塔から突き出している羽のような減揺装置を
フィン・スタビライザーといいますが、これを発明したのは
なんと日本人であったということをご存知でしょうか。

1920年代に、三菱造船の元良信太郎博士が揺動を軽減する装置を発明し、
1923年に対馬商船「睦丸」に取り付けられたのが世界で最初でした。

しかし、制御技術の未熟だった当時では十分な効果を発揮することができず、
特許はそのままイギリス企業に売却されてしまいました。
これの技術を実用化したイギリスやアメリカは、駆逐艦などに取り入れましたが、
日本では敗戦まで全く研究されることもありませんでした。

戦後になってこの技術は海外から取り入れられましたが、
日本人はこのときこれが同胞の発明であることを知って驚いたのです。

なんだかあの八木&宇田アンテナと同じような話があったんですね。

階段を下りていくとそこは前部発射管室。
バラオ級の魚雷発射管は全部で10門あり、ここには
1、2、4と書かれた21インチ発射管が3門見られます。
(おそらく3は右下にあるのかと)

そのうち1には日章旗が、そして2には旭日の線の数もいい加減な
(これは強いて言えば旧海軍の大将旗ですね)海軍旗が小さく書いてあり、
サンフランシスコで見た
同じバラオ級の「パンパニト」と全く同じです。

全く対日戦と関係ないミサイルコルベット艦のミサイルに
なぜか日の丸をペイントしていたのを見てから、こういうのは
当時からあったのではなく、展示の際に誰かが「気を利かせて」
雰囲気を出すためにわざわざペイントしたのではないか、
とわたしは実は疑っているのですが、まあこの「ライオンフィッシュ」は
現に日本海近郊でうろうろしていたという戦歴があるので、
全くの捏造ではないでしょう。

そのミサイルコルベット艦「ヒデンゼー」甲板から見た「ライオンフィッシュ」
ですが、艦橋には当時からあったらしい両日本旗が見えます。

ちなみに砲塔正面に据えてあるのは20ミリ機関銃と思われます。

バラオ級潜水艦は対日戦に多数投入されており、たとえば「パンパニト」も、
開戦当日の12月8日に日本が拿捕した米国の「プレジデント・ハリソン」こと
改名して「勝鬨丸」となった輸送船を撃沈しています。

ここで、バラオ級潜水艦によって沈められた我が方の艦船を、
ウィキからの転載になりますが、挙げておきます。 

いやもうとんでもないですね。
ちなみにここに書かれている戦果はこれらが沈めた全てではないのです。 

それにしても「シーライオン」の戦果がものすごすぎ。
よっぽど腕利きが乗り込んでいたか、というか強運だったのでしょう。

もちろん伊潜が撃沈した敵艦船も決して少なくないので、
双方にとって潜水艦というのは大変な脅威となったことがわかります。


ちなみに、学童疎開船を撃沈した「ボーフィン」は、船団を執拗に追い詰め、
その監視過程で「対馬丸」に子供が乗っているのを確認していたはずですが、
戦後、生存中の元乗組員が

「夜間だったので艦長も子供たちの乗船を知らなかった」

と見え見えの言い訳をしています。
米軍は日本近海を哨戒潜水艦に対し「無制限攻撃作戦」を布いており、
知っていてもおそらく攻撃したであろうといわれていますが、
やはり知らなかったことにしておこうということになったのでしょう。

それだけでなく「ボーフィン」は、「対馬丸」を沈めた第6次哨戒に対し、

「戦闘において比類ない英雄的行為をしたもの」

としてネイビークロス(海軍十字章)を授与されており、
真珠湾が母港であり、たくさんの日本船を(ヨット、漁船を含む民間船ばかりで
軍艦は海防艦1隻の計24隻)を沈めたことから、

「真珠湾の復讐者」

と言われて未だにアメリカ人にとっては英雄的存在なんだそうです。 

そこでこの表に「ライオンフィッシュ」の名前がないことに、
現地で実際にこの艦体を見たわたしとしてはホッとしているわけですが、
彼女の対日戦における実績がどんなものであったかを、
これも日英双方のwikiから抜粋してみますと。

 

1945年1月15日 キーウェストを出港
太平洋戦線に移動し真珠湾に回航され、哨戒に備えてサイパン島に進出

1945年4月2日、最初の哨戒で東シナ海および黄海に向かう

4月10日 最初の戦闘を行い、日本海軍の潜水艦による2本の魚雷をかわす

5月1日 艦砲により3本マストのスクーナーを破壊
    僚艦が救助したB-29乗員を移乗させてサイパンへ送り届ける

5月22日 51日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投
    艦長がスプルーアンスからブリッカー・M・ガンヤードに交代

6月20日 2回目の哨戒で日本近海に向かう

7月10日 早朝、足摺岬沖で浮上航行中の伊168型潜水艦と思しき潜水艦を発見
     魚雷を2本発射し、爆発音と煙を潜望鏡から確認
     続いてもう2隻の潜水艦に対して砲撃を行うも、失敗に終わる

7月10日の戦闘で、「ライオンフィッシュ」は3隻と戦ったと思っていたようですが、
相手は燃料輸送に従事していたしかも伊162の1隻だけでした。

ちなみに英語のwikiでは「爆発音と煙を確認したが伊162はダメージを受けていない」
とだけひっそりと書かれております。 

当時相手を撃沈したと思い込んだ「ライオンフィッシュ」は喜びに包まれ、
戦時日誌にもこのことが " Very happy!! " と記されているそうですが、
これも英語wikiには記述されていません。 

7月11日  潜水艦を発見して魚雷を発射したが外す

8月15日  終戦。哨戒の終わりには航空機乗員の救助任務に従事していた

8月22日  58日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投
      その後、サンフランシスコに向かった

本人たちにとっては戦果をあげてベリーハッピー!!な帰還となったようで何よりです。
いや別に皮肉ではなく。 

ところで、魚雷発射室に、かつてここを職場としていたヴェテランが
当時の思い出を語っているビデオが流されていました。

時間がなかったので全部聴いたわけではないですが、写真を撮っているとき、

「日本の潜水艦に向けて魚雷を放つ時は夢中だったが、
その潜水艦が沈んだとき、彼らにも家族があり愛する人がいるのだと
じつに複雑な気持ちになった」

というようなことを話しているのを耳に挟みました。

そのときにはわたしはまだ「ライオンフィッシュ」の勘違いについて
全く知らなかったので、ふーんと思いつつ聞いていたのですが、
こうして史実を知った今となっては、彼らは未だに本当の戦果を知らず、
(アメリカのwikiでも曖昧な書き方しかされていないように)
今のようにインターネットで調べるという習慣もない時代に晩年を送った
元乗員たちは、死ぬまで自分たちが3隻の潜水艦と戦い、
そのうち1隻を撃沈したと信じてこの世を去ったのではないかと思っています。

 

続く。