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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ホットケースマン〜USS「リトルロック」艦内展示

2025-05-02 | 軍艦

USS「リトルロック」6インチ砲ターレット内の展示、続きです。



雑に写真を撮ったせいで、砲弾ケースが半分上しか写っていなかったので、
仕方なく三枚の写真を雑合成し、なんとか全体像を復元しました。

空間が歪んでいるのは全く気のせいではありません。

クラッカージャックことブルードレス(セーラー服)の右側に、
ガルベストン級ミサイル巡洋艦が搭載していた、
5”/38二連装海軍砲の真鍮火薬ケースが展示してあります。



もう一度、5インチ38二連装砲をご覧ください。


先端にツノが2本出ているのにご注目。
これはわたしの推測ですが、雷管(点火起爆装置)だと思われます。

5インチ/38口径 海軍砲
真鍮火薬ケース


真の戦争勝利兵器である米国海軍の5インチ/38口径連装砲は、
米国の駆逐艦の標準的な主砲であり、第二次世界大戦中に建造された
USS「リトルロック」のような米国の大型軍艦の標準的な副砲でした。

火薬そのものは15ポンド(6.8kg)、
ここにある薬莢の重さは28ポンド(12.7kg)です。
見た目よりかなり重いですが、この合計19キロの薬莢を、
当時の砲員は手で扱っていました。


5インチ砲の砲塔下部をご覧ください。
この階下にある弾薬庫から砲弾と火薬が運ばれ、
砲弾昇降機が砲塔にそれらを供給します。

ちなみに、この部分は砲架が旋回すると同じ動きをします。
砲撃中、ここに立つ人は、上とシンクロして旋回することになります。

この写真の床に、赤線で囲まれた黒い部分がありますが、
砲架と共に旋回している時には、危険エリアとして立ち入り禁止となり、
中にいる装填手もそこから動かないことで安全を確保します。

また、ここには特別に強力な滑り止め加工が施されていて、
波が荒い時にも装填手が足場を保てるようになっていました。

砲弾は54ポンドと大変重いのでホイストで砲に送られますが、
火薬ケースは先ほども説明したように黒の床部分にいる者に手渡され、
そこから砲に押し上げられました。

今回ちょっとした好奇心から「5"/38使用マニュアル」を見てみたのですが、
薬莢装填マンに対する注意として、

 火薬カートリッジは、実際にトレイに装填する時以外は、
胸の近くに保持してください。

装填されている間は、砲尾ハウジングに触れないようにしてください。
砲が発射され反動が起こると、ハウジングが約15インチほど高速で後退し、
持っていたカートリッジを落としてしまう可能性があります。
このハウジング後部にいる時には反動の分間を開けて立つこと。

薬莢やコルク栓が衝撃を受けたり傷ついたりしないよう、
細心の注意を払ってください。

などという安全上の尤もな注意があるのですが、
そんな注意の中にさりげなく、

炎や飛び散る破片から、自分の体でカートリッジを保護すること!

という一文があって驚いてしまいました。
火薬の暴発は自分の身を呈して止めよってことでおk?

そして、装填の部分は、

装填:カートリッジを両手で持ち、跳ね返りを確認しながら、
ランマーシェルガードの前面にカートリッジを奥まで押し込みます。

プライマーまたはコルク栓を叩かないよう注意してください。
後退し、銃尾ハウジングから離れます。

銃尾ハウジングの後部が反動のために空いているか確認します。

「待機」の要領で別のカートリッジを用意します。

発射:銃尾機構の動作、銃の銃床への復帰、高温の薬莢の排出を確認する。
排出された薬莢が銃から完全に排出され、
スペードがトレイに落とされるまでは再装填を行わないこと。

となっております。

軍艦は、一人一人の動きは単純で簡単ですが、
その小さな動きが積み重なって目的を果たすことができます。

■ ホットケースマン

5インチ砲のマウントクルーは15人から27人が配置されていましたが、
主な役職を挙げると、

マウントキャプテン(砲架長)=砲架指揮官

ガンキャプテン(砲長)=砲架保守担当・砲手補佐

ポインター=砲架の仰角と射撃制御

トレーナー=マウントのトレイン角度制御

サイトセッター=照準器操作

信管セッター=砲弾の時限信管の時間を設定

パウダーマン=火薬ケースからプロテクターを外しトレイにセット

プロジェクタイルマン=発射体と火薬ケースをチャンバーに装填

ホットケースマン=発射後の火薬ケースを拾ってマウントから出す

サイトチェッカー=マウントが照準できているか確認


などです。

ところでこのマニュアルで初めて知った役目、それがホットケースマン。
排出した空の薬莢を処理する役目の人です。

先ほど「一人一人の役目は単純で簡単」と書きましたが、
その典型のような仕事ですね。

5"/38砲の配置では、赤丸の二人がホットケースマンです。

例のマニュアルにはこの人たちについても言及があって、

ホットケースマンの任務は、排出された空の薬莢を処理し、
新しい火薬カートリッジ、乗組員、および銃架上の、
壊れやすい固定具が高温の薬莢に接触しないようにすることである。


と、簡単だけど重要な任務だとあります。
乗りかかった船なので、ついでにこの任務についての手順も。

準備:

担当の持ち場につく際には、必ず耐炎服一式と石綿手袋を着用すること。

排出された高温のカートリッジケースをキャッチできない場合は、
体のどの部分を使ってでもそれを止める準備をしておくこと。


耐火服を着用していれば火傷を防ぐことができます。
ホットケースの停止、安全な処分の責任はあなた一人にかかっています。
決して他の乗組員に頼ってはいけません。
彼らは各自の任務で忙しくそんな時間はありません。

あー、この突き放し方、クールでいいわー。
また、火災に備える装備は以下の通り。

1. 消火用ホース 

2. フォームライトホッパー

3. 携帯用CO2消火器 (二酸化炭素ガス消火器)

4. 砂の入ったバケツ

砂は砲台の火災の消火や、戦闘中の滑りやすい甲板に撒くのに最適なので、
軍艦には標準装備されていたようですが、注意として

「砂バケツを乗組員が灰皿代わりにしないように注意してください」

とわざわざ書かれていました。
書いてないとついやっちゃうのかも。

ここでほお、と思ったのが、火災が実際に起こった時、

「上長から命令があるまでは対処してはいけない」


つまり、消火活動さえ上の指示がないとしてはいけないわけですが、
その理由は、ズバリこれ。

敵標的が残っている間は、砲撃を継続することが優先されます。

なんと、足元に火がついていても敵を倒すのが先とは。
アメリカ海軍恐るべし。

さて、ホットケースマン本来の仕事はここから始まります。

持ち場につく前に、耐火服とアスベスト手袋を着用してください。

持ち場 :

「持ち場につけ」の号令で、砲尾のやや後方左側に位置し、
銃身を上から見る。点検する。

1. 砲尾が閉じられていること
2. 砲口にTompion(プラグ?)が残っていないか
3. 砲身が汚れてないか
足を約50cmほど開き、左足を前に出して銃の方を向く。
右足を後ろに45度開き、銃身の中心を通る線に対して右斜め45度に向ける。
右手はトレーの後端の上に開いた状態で持ち、指を伸ばして上に向ける。
左腕はリラックスさせて胸の近くに置く。

これで「キャッチ」の準備が整う。

待機 :

カートリッジケースストッパーが正しい位置にあることを確認する。

ケースストッパーが正しい位置にない場合は知らせる。

装填:

装薬手はカートリッジをトレイに置く。

発射:

銃が反動し、高温の薬莢が排出されるので、
右手を覆う石綿手袋で高温の薬莢の底を掴む。
薬莢に右手を乗せて戻す。

左手を上げてホットケースを完全に保持し、
後ろに下がり、銃の班長が安全と指定した場所に投げる。

ホットケースを他の班員から遠ざけ、銃から離れた場所に投げ、
次のラウンドのポジションに前進する。

銃身を点検し、通常通り作業を続ける。

■ ネイビータイムズ シップインザスポットライト



手書きの艦内新聞みたいなものが貼ってありました。
イラストはプロの手によるものではないかと思われます。

なぜか同じミサイル巡洋艦「オクラホマシティ」CG -5についての記事で、
判読できる部分はこんな記事が書かれています。

西太平洋で最も有名な巡洋艦の長い歴史が幕を閉じる。
第二次世界大戦時の大砲型巡洋艦の最後の生き残りである
「オクラホマ・シティ」は、12月15日にサンディエゴで退役する。

1944年にフィラデルフィアの海軍工廠で軽巡洋艦として就役した後、
第3艦隊に編入され、沖縄戦の最終段階と日本への砲撃戦に参加した。

1947年に退役し、10年間 「モスボール 」で過ごした。

誘導ミサイル巡洋艦の導入に伴い、「オクラホマ・シティ」は
大規模な改造を受け、1960年にCLGに改装された。

太平洋艦隊の戦闘部隊として初めてタロス誘導ミサイルの着弾に成功し、
その後1975年にエースに再指定された。
ベトナム戦争中は沿岸の戦闘部隊の砲撃支援を行い、
ダナン近郊とチュライで海兵隊を支援した。

「オクラホマシティ」は戦争末期「フリークエントウィンド作戦」に参加し、
その際にはヘリコプターが飛行甲板に着艦し、
米国とベトナムの避難民を安全な場所に運んだ。
この行動により、彼女は功労部隊表彰を受けた。

ミサイル巡洋艦「オクラホマシティ」が退役したのは1979年。
この新聞記事はその直前に書かれたものだと思われます。

記事にもあるように、彼女は太平洋艦隊において
初めてタロスミサイルの発射に成功した戦闘部隊となりました。

ミサイル搭載艦に変更された1960年のクリスマスイブに横須賀に到着し、
第7艦隊の旗艦として、作戦優秀賞を2回受賞したほか、
極東のいくつかの都市で親善大使を務めています。

続く。




セーラー服と機関砲(=クラッカージャックと5インチ砲)〜USS「リトルロック」

2025-04-19 | 軍艦

USS「リトルロック」の管内探訪、後方から見学してきて、
最終的に前方の6"/47砲の前に出てきました。
前回は、砲塔の内部を見ていったわけですが、
ここで艦内に展示されていた一つの写真をご覧ください。

■5"/38 Mk.12砲


夜間演習における6インチ砲と5インチ砲の発砲シーンですが、
前回細かく見ていった三連装の6インチ砲の上方には、
セカンダリーとして5インチ砲が見えています。


テントが貼られていて、5インチの下の6インチ砲は見えません。

テントがなければこんな風に見えます


この5”/38 Mk 12砲ですが、艦内で、この下部にある
アッパーハンドリングルームを見たことを思い出してください。


このハンドリングルームでは、左奥のストアージエリアにある弾薬を、
中央の青い弾薬がセットされているところに置き、
それが階上のガンハウスに送られ装填されるというわけです。

5インチ38口径砲は、1935年以来、米海軍で最も信頼されている
多用途(空中および海上の標的の両方に使用できる)兵器のひとつです。

実は、弾道学的観点で言うと、弾丸重量も初速も、
特に優れているというわけではないのですが、一般的な信頼性、
操作性、精度は非常に優れていると評価されてきました。

第二次世界大戦における最高のセカンダリー砲といえましょう。

アメリカ海軍では当初駆逐艦のみならず、全ての艦種に搭載され、
現在では他のものに置き換わって姿を消しましたが、
他の多くの海軍では今でも広く使用されています。



これは改装後の「リトルロック」であり、
ピンクで囲んだ部分が5”/38砲、搭載数は1基です。


そしてこちらがCL-92として就役した当時の「リトルロック」
タロスミサイル搭載前は、5インチ砲は6基搭載されていました。

艦橋の前後に1基ずつ、そしてサイドに前後を向いたものが2基ずつです。

5" 38 Gun Operation on 13 September 1951 during the Siege of Wonsan; Korean War USS Floyd B. Parks

このビデオを見ていただくとよくわかりますが、冒頭に、
床から薬莢を取り出し、手動で装填しています。



アッパーハンドリングルーム拡大

アッパーハンドリングルームから送られてきた弾薬を手で持って装填します。
映像を見ていると、現場の人はもうただ淡々と、
床のノズルから生えてくる弾薬を同じところに入れる作業をしていて、
一日やっていたら気が狂うんじゃないかとお節介ながら思います。

パワーラム式であったため、発射速度が速く、仰角に関係なく装填が容易。
この特性は、対空兵器として非常に望ましいものでした。

1943年に近接信管式の対空砲弾が導入されたことで、
この兵器はさらに強力な対空砲となるのです。

■ ターレット内展示



前回、6"47砲のターレット内部のこの写真をご紹介したわけですが、
この階段を上った左右のスペースは、展示スペースに利用されています。



ターレット内部にこんなスペースがあったとは。
というわけで、「リトルロック」関連品が並んでいます。

 ■『クラッカージャック』=セーラー服


まず制服。
砲塔に勤務していたガンナーズメイトPO2
(ペティオフィサーセカンドクラス、二等兵曹)のドレスブルー。

ここに「クラッカージャック」とあるので寄り道になりますが説明します。
アメリカでクラッカージャックというと、それはポップコーンです。

「史上最初のジャンクフード」という悪名が与えられています。
何しろポプコーンにキャラメルをコーティングするなどという外道ですから。

ところで「ティファニーで朝食を」のこのシーン、ご存知でしょうか。

Breakfast at Tiffany's (6/9) Movie CLIP - Cracker Jack Prizes (1961) HD
ホリーとポールの二人が、ティファニーに行き、
クラッカージャックのおまけの指輪に名前を刻印させようとします。

そしてこれがオリジナルロゴ。

さあ、もうお分かりですね。
なぜセーラー服が「クラッカージャック」なのかが。

モデルとなった少年、セーラージャックは創始者で、
ドイツ移民のポップコーン売りから身を起こした、
フレデリック・リュックハイムの孫、ロバートです。



しかし、気の毒なことに、ロバートはこのロゴになってすぐ、
肺炎にかかり、わずか7歳で亡くなってしまいました。


墓石には写真か肖像が嵌め込まれていましたが、紛失しました。


このアイコンのセーラー服少年のイメージが浸透し、
商品名がセーラー服を表すまでになったわけですが、
リュックハイムブラザーズ&エックスタイン社(といいます)は、
そのため海軍との協力体制を表していました。
上は、海軍入隊を勧めるクラッカージャックの宣伝です。
犬とセーラージャックがリアルに怖いですが、それは
印刷の図柄の関係で仕方なし。

カラーだとちゃんとかわいいです
眉毛犬は不気味

広告のロゴにはこんなことが書かれていますよ。
もうそのものズバリ、海軍へのリクルートです。

アメリカ海軍に志願しよう

みんなのジャッキーと兵隊さんたちも大好きな

クラッカージャック
世界に有名なお菓子

クラッカージャックのサクサクとした美味しさと栄養価の高さは、
特にカーキとネイビーの軍服を着た青年たちの健康的な食欲をそそります。

「食べれば食べるほど、もっと食べたくなる。」

みんなクラッカージャックが大好き。
この理想的な非常時のお菓子は、
他社製品よりはるかに少量の砂糖しか使っていないのに、
甘いもの好きさんも大満足。

クラッカージャックをモリモリ食べて砂糖と小麦を節約しよう!

クラッカージャックは、栄養バランスが良く、消化に良い食品です。
ジャガイモの5倍、卵の2.75倍、サーロインステーキの1.5倍、
そして全粒粉パンのほぼ2倍の栄養価があります。

クラッカージャックは、甘いものが欲しいという欲求を満たしながら、
お腹に満足感を与えます。

厳選されたポップコーンとローストピーナッツから作られ、
製造過程では人の手が一切加えられていない、
おいしい糖蜜キャンディーでコーティングされています。

特許取得済みのワックスシールパッケージに入っているので、
清潔でパリパリ、おいしさを保ちます。

この製品は、ワックスでシールした包装紙に包まれていましたが、
これは業界初の試みで、特許も申請されていました。

宣伝ですからまあ好きに書けばいいとは思いますが、

「ジャガイモ、卵、サーロインステーキ、全粒粉より栄養がある」

というのは、今日の栄養学からは首を傾げざるを得ません。
栄養がある、を「カロリー」と捉えているのかもしれません。

サーロインステーキと同じグラム数のポプコーンを計算すれば、
(それが食べられる量かはともかく)、カロリーはそりゃ高くなるでしょう。

広告下部の四角い箱(左)の中は次の通り。

昨今の材料費と製造費が高騰に鑑み、
クラッカー ジャックの高い基準と品質を維持するために、
ロッキー山脈の東側では 1 パックあたり 8 セント、
2 パックで 15 セントという価格調整が 必要になりました
(1918 年 5 月 24 日)。

何かと思えば、値上げのお知らせです。
気になるのが「ロッキー山脈東側」という縛り。
ロッキー山脈はモンタナ、ワイオミング、コロラドを通りますから、
要するに値上げしない州はカリフォルニア含む5〜6州だけになります。

なんで山脈で値上げ地域が分けられるのかが謎です。
輸送コストの関係かな?

それをいうなら、東海岸にはアパラチア山脈というのがあってだな。

気を取り直して、四角右側。

国民愛唱歌無料

お名前とご住所をお知らせいただければ、
アンクル・サムの有名な国民唱歌ポケット版を
無料でお送りいたします。お申し込みはすぐに!

アンクルサムの国民唱歌というと、「アメリカ・ザ・ビューティフル」
「ゴッドブレスアメリカ」
(アーヴィング・バーリン作曲)
「ヤンキードゥードゥル」「リパブリック讃歌」(カメラのキタムラ)
などが思い浮かびますが、アメリカ人なら誰でも知っている、

「私を野球に連れてって」
Take me out to the Ball Game


も、いわゆる愛国歌の一つです。(野球国家ですから)

MKはサンフランシスコの幼稚園に通ったのですが、
「ワーク」という母親の見張り当番のとき、お歌の時間に
必ずこの歌を園児に歌わせる先生(女)がいて、わたしもそれで
この歌の国民的な位置付けというのを初めて知った記憶があります。

Edward Meeker - Take Me Out To The Ball Game (1908) - Lyrics

で、この曲をぜひ聴いていただきたいのですが、
コーラスに入ってからの歌詞は次の通り。

Take me out to the ball game,
Take me out with the crowd;
Buy me some peanuts and 
Cracker Jack,
I don't care if I never get back.

私を野球に連れてって
観客の中に連れてって
ピーナッツと
クラッカージャックを買ってね
もう家に帰れなくても構わない

はい、クラッカージャックいただきましたー。
なんのことはない、これ、クラッカージャックのCMソングだったのです。

7回表でこの歌を全員で歌うことはご存知かもしれませんが、
歌詞の後半、「root, root」という地元チームを表す部分を
応援するチームに変えて歌うこと、そして、球場ではもう不動の地位で
クラッカージャックが売られていることは経験者しか知らないでしょう。

一度ニューヨーク・ヤンキースがホームゲームの時、
何を思ったかクラッカージャックを別のクランチン・マンチに変えたところ、
市民からの猛抗議に遭って元に戻したという話もあります。




クラッカー・ジャックで寄り道をしてしまいましたが、
この写真のコーヒーカップは、「リトルロック」乗組員が
かつて艦内で使用していたもので、そこには、

USS LITTLE ROCK
CL-92 1945-1947
CLG-4 1960-1975

とプリントしてあります。

続く。


6インチ47三連装砲〜USS「リトルロック」

2025-04-07 | 軍艦

USS「リトルロック」艦内探訪、見学路はついに
メインデッキの階に戻ってきました。


クォーターデッキの「士官チェックアウトポイント」を出ると、
そこには「リトルロック」の時鐘があります。
時鐘は機能的に今でも現役なので、ちゃんと紐がついています。


ここには「リトルロック」の主砲である、
 6"/ 47 Mk 16 Guns 
があります。

この日、エリー湖沿いは大変陽射しが強くて暑く、
主砲の上にかけられたテントの日陰がありがたくて、
少しここで座って休憩をしました。
左の方にあるバッグも私のものではなく、別の見学者が休憩中です。

この三連装海軍砲は、第二次世界大戦時は主砲でしたが、
「リトルロック」の「ガルベストン」級巡洋艦はタロスを搭載していたため、
前方に1基装備してあるだけとなります。

「リトルロック」CL-92 

これが「クリーブランド」級だったミサイル搭載前の「リトルロック」。
6"/47mk.16三連装砲は前方と後方のメインデッキに2基ずつ置かれました。
(ブルーの◻︎で囲んだ部分)

「リトルロック」CLG-4/ CG-4

1960年に改装されてからの「リトルロック」です。
現在展示されているのと同じように、三連装砲は前方に一基だけとなります。
ここに以下のような説明が二箇所にありました。

マーク16/1 三連装 6”/47砲塔

これは、現存する唯一の米海軍6インチ3連装砲塔です。
各砲(海軍では「ライフル」と呼ばれていた)は、水上&沿岸の標的に対し
1051b.の砲弾を13マイル飛ばすことができました。

1門あたり4.31トンある6インチ砲から、毎分最大6発の砲弾を発射。
仰角は最大60度でした。

発射された砲弾は、最大5インチの硬化装甲板を貫通することができました。
砲塔の前面には6.5インチの装甲板が施されており、
1秒あたり10度という速さで目標を追尾の旋回をすることができました。


6インチターレット

「リトルロック」に搭載されている3連装6インチ47口径砲塔は、
世界で最後の完全な状態のものになります。

砲撃時には20~24人の乗組員がここで作業していました。
砲弾は105~130ポンドで、3~15マイルの距離まで到達しました。

■ 砲塔内部とその仕組み


現地に貼られていた6インチ47口径砲塔の説明その1。
この砲塔(ターレット)の中で20〜24人が仕事を行うわけです。


これが「リトルロック」砲塔内。

■ 装填の役割分担

3基の各砲には、「砲長」砲弾装填手」「火薬取扱手」
そして「火薬装填手」の4名が配置されていました。



火薬取扱手(powder handle)は、左、中央と三箇所にある
「火薬ホイスト Powder Hoist」
から60ポンドの火薬を取り出し、火薬装填手(powder loader)
後ろにある
B「火薬収納トレイPowder handoring Platform」
に入れます。

砲弾装填手(projectile loader)は、左、中央、右にある
「砲弾ホイスト Projectile Hoist」
から、105〜130ポンドの砲弾を取り出し、砲弾トレイに入れます。

すると、砲弾装填手(powder loader)が、装薬トレイから
薬莢(powder cases)を取り出し、砲のトレイに配置します。

一つの砲に一人いる砲長(gun captain)は、それらの作業完了後、
撃鉄(うちがね)を操作して砲弾と薬莢を砲尾に押し込み、
砲尾ブロックを上げて砲を閉じます。

砲塔の潜望鏡である
「ペリスコープ」
で目標の確認を行い、砲撃操作は、
「ターレットオフィサーズ プラットホーム」
に立つ砲塔指揮官の指揮によって行われます。



砲塔内を見学するための階段が付けられています。
これを上がったところが砲塔オフィサーの立ち位置であり、その上部には、


ペリスコープがあります。

砲塔は通常、水上砲列室のコンピュータによって自動的に操作されましたが、
砲塔内からローカル操作することもできました。


このオリジナルの砲塔に入るためのハッチです。
こんな狭いハッチを潜れるくらいスマートでないといけません。
今のアメリカ人なら半数くらいが入れなさそう。



ハッチは1.75インチの厚さの弾道鋼でできています。
「リトル・ロック」が1945年に就役した際には、
6インチ三連装砲が4門(前部2門、後部2門)装備されていました。

1960年にオーバーホールとミサイル巡洋艦への再設計が完了した際には、
この6インチ砲以外のすべてが撤去されました。艦

載ミサイルや航空機の普及により、大口径の艦砲は時代遅れとなったのです。


■照準のために


砲塔左側には照準手(pointer operator)が位置し、
砲塔士官の指示に従って砲の仰角を上げ下げし、照準器に目標を捉え、
或いはローカルモードで砲を発射するための引き金を引きます。

砲塔右側にはトレーナーオペレーター(trainer’s operator)がおり、
砲塔を砲塔士官の指示した方位に回転させ、照準器に目標を捉えます。

ポインターの後ろの3人目のチェッカー(checker crewman)は、
砲の照準を確認します。

ポインタートレーナーチェッカーには、
砲塔の側面から突き出た個別の望遠鏡が装備されており、
標的を観察して方位と仰角を修正することができます。

サイト・セッター(sight setter)はトレーナーの右後ろに位置して、
ポインタートレーナーチェッカーの望遠鏡の焦点距離を調整し、
標的に焦点を合わせるという役目を行いました。

砲塔内の人員配置図です。



■ 砲塔の仕組み

砲塔の厚さは6インチで、全体は装甲バーベットに搭載されています。
バーベットチューブはサードデッキまで伸びていました。

その下から5”バーベット装甲管が第1プラットフォームまで伸びています。
第1プラットフォームデッキは、その下の、
第2プラットフォームの火薬庫と砲弾庫を保護する役目がありました。

第2プラットフォーム階は艦内の最も深い階層で、
その下にあるのは燃料タンク、バラストタンク、水タンクなどです。

■砲塔下部バーベット〜ローラーパス

砲塔のすぐ下には砲パン甲板(gun pan level)があり、
砲の仰角機構が配置されていて、大型の電動モーターで駆動する
油圧伝達装置が仰角ギアを駆動していました。

ここでは大型のスクリュー機構が砲を上下させます。
3門の砲はシンクロしていて、個別に仰角を変えることはできません。

トレイン駆動モーターとピニオンギアも砲パン甲板上にありました。

トレインドライブとピニオンギアは、砲塔機構の回転部分を囲む、
大型の固定リングギアに対して回転します。



砲塔は、訓練用リングギアのすぐ上にある
ローラーパスの84個のローラーベアリングの上を回転します。
このローラーパスは砲塔を持ち上げずローラーを交換することができました。

回転する砲塔の全重量は、3番デッキまで延びる、
鋼鉄シリンダーの上部に取り付けられたローラーパスが支えています。

このシリンダーと砲尾の内壁の間には14インチのスペースがあり、
点検やメンテナンスが可能でした。

「リトルロック」

続く。





ゴールデンスパチュラ〜USS「リトルロック」展示

2025-04-04 | 軍艦

バッファローネイバルパークのUSS「リトルロック」探訪、
そろそろ終わりに近づいてきました。

オフィサーズ・ワードルーム、士官室の机に置かれていた
在日米海軍所属の漫画家の作品をしばらく紹介することになりましたが、
後少し、進んでいきたいと思います。


次に現れたのは各種トロフィーコーナー。

⚫︎ボーリング大会トロフィー

まず手前の二つですが、どう見てもボウリング大会の優勝トロフィー。
右は1976年度大会で、我らが「リトルロック」は3位入賞したようです。


これもボーリング大会のトロフィー。
余ったボウラーを全部くっつけてみました感漂う作りは、
もしかしたら艦内工作部の作品か?

アメリカは何気にボウリングが根付いていて、
日本のように一時的なブームということもなく、普通に皆が楽しんでいます。

そういえば、横須賀の米軍基地にもボウリング場があったなあ。

信じられないことに?ボウリング専門店では、
「USネイビー仕様のボーリングボール」をオーダーできます。
ちょっとこれかっこよくないかい?
どんな人が使うのか知らんけど。

とか思っていたらこんなページを見つけてしまいました。

アメリカ全軍シリーズボーリングボールオーダー

POW/ MIAの柄もあるという・・・さらに誰が使うんだ。

⚫︎ 金のスパチュラ賞トロフィー

そして金色のスパチュラ型トロフィーですが、
その名も「ゴールデンスパチュラアワード」2014年の勝者に与えられた、
「金のスパチュラ」(そのまんま)です。

これは下に説明があったので何かわかりました。

アメリカの通販チャンネルQVCのチャンネルで、
作家でパーソナリティのデビッド・ベナブルが司会を務める番組、

In the Kitchen with David


というのがあって、このデビッドという人が、ゲストを迎え、
料理を紹介したりキッチン用品をおすすめしたり
(そしてそのキッチン用品や食材は番組から通販で買える)
する番組なのですが、この番組のロケが、どうやら
バッファローネイバルパークで行われたっぽいんですね。

この時にゴールデンスパチュラアワードを決めたようなんですが、
その授与先がどこかが全くこの情報からはわかりません。

アメリカに住んでいた時、時々エメリル・ラガーシの
料理ショー(『バン!』が決め台詞)をよく見たものですが、

Why Emeril Lagasse Always Says "BAM!"

このデビッドという人もエメリルのようにめちゃくちゃ太ってます。

Punked In The Kitchen With David on QVC

番組をちょっとみてみたのですが、この回のように、
「ジャガイモにクリームチーズを混ぜ込む料理」とか、

2014 In the Kitchen with David Favorite Moments

「ミートローフの中にチーズマカロニが混入している料理」とか、
命の危険を感じるような恐ろしい料理が中心で、震え上がってしまいました。



ちゃんと撮れませんでしたが、この時に
スパチュラをもらった人たちももれなく重量級。

⚫︎ 陸上競技トロフィー

そして右側のトロフィーなんですが、なんとイタリア語です。

 MEETING ATLETICA LEGGERA
FORMIA 1970

は、1970年にイタリアのフォルミア(ブーツの脛の辺りにある都市)
で毎年?行われてる陸上競技大会のことらしいです。

世界的な大会なので、アメリカ代表として、
「リトルロック」のグループが何かに出場し、入賞したのかもしれません。

アメリカのスポーツは世界一のレベルなので、
オリンピックでメダルを取る人も毎大会山のようにいますから、
海軍軍人がスポーツ大会で優勝することも珍しくないでしょう。

余談ですが、MKの卒業した大学は、先のパリオリンピックで、
一大学だけで世界7位に相当するメダル数を獲得したそうです。

⚫︎ 艦内部署対抗フットボール大会トロフィー


さすが巡洋艦だけあって、艦内で部署対抗のフットボール大会が催せます。
初回大会は1973年に開催され、
1974年、1975年と3回で終了しています。

「リトルロック」は1976年に退役しているので、
1975年までしか行われなかったということでしょうか。

⚫︎ 謎のピンナップガール


To the groovy Tigers of the Rock.....
(グルーヴィーなロックの虎さんたちへ)

というコメントを添えた水着写真の美女の写真。
これは一体どこのどなたでしょうか。

おそらくなんかのイベントで、「リトルロック」を訪問したか、
そんな慣習があるなら一日艦長をしたとかの芸能人かな。
それとも地元のミスコン優勝者とか?

何しろミスL・EXじゃ何もわかりません。

ちなみにグルーヴィーという言葉は、遡れば、
groove(溝に関する)にyをつけた造語で、1937年ごろはこれが
「一級品」とか「優れた」という意味で使われていたのですが、
1960〜70年台に若者の間で「イカす」「かっこいい」(日本なら)
という意味合いで盛んに使われていた形容詞です。

もう少し後の「ナウい」同様、アメリカ的には古臭い言葉ですが、
(今は普通にcoolで済ますことが多い気がする)
あえてレトロでオシャレな雰囲気を表すときに使ったりするようです。

そして、彼女の「ロックの虎」という言葉ですが、
ロックはリトルロックから、トラはおそらく、



非公式に作られていたこのパッチから来ていると思われます。
(『リトルロック』の公式パッチにこのような意匠のものはない)

■ オフィサー・チェックアウトボード

この後、見学路は階段を上って、上甲板に辿り着きました。


USS「リトルロック」
オフィサー チェックアウト ボード


クォーターデッキのワッチは、このボードを使用して、
士官の誰が乗り組んでいるか、上陸していたかを把握しました。

まず、「クォーターデッキ」という言葉について説明しておきます。

帆船の時代、それはメインマストの後ろの高くなったデッキを指しました。
その時代は、ここで船長が船を指揮する場所でした。

メインマストと船尾の高くなった部分との間、
赤で印をつけた部分がクォーターデッキ

現在ではクォーターデッキは特定の、どこという場所を指すのではなく、
港に着岸している時の受付、つまり舷門となる場所を指したりします。

⚫︎練習艦「かとり」のクォーターデッキ



wikiの「クォーターデッキ」の項に貼られている練習艦「かとり」の舷門。
写真が撮られたのは1985年6月ということなので、
情報に間違いがなければ、この時の練習艦隊司令は、
防大4期の井上哲一等海佐のはずです。

この年の練習艦隊には、「かとり」のほかにDD-114「まきぐも」がいて、
遠征先はハワイ、東南アジア、オセアニアとなっています。

写真の作成日が6月5日となっており、写真を撮ったのが
デビッド・ロジャースというベテランであることがわかっています。

UCバークレーで工学の博士号を取った後、海軍の情報将校になった方で、
「かとり」が出航2日後の6月、ハワイで「かとり」を迎えました。

1985年6月から7月にかけてFICPACで勤務していた際、
私は日本の練習巡洋艦「かとり」の士官室で昼食に招待されました。
これは、クオーターデッキに立っている私の歓迎会委員会の様子です。
私は作業用のカーキ色のズボンをはいていたので、恥ずかしくなりました!


上の写真に添えられた説明です。
歓迎委員会・・・・ではないんではないかな。


で、このとき「かとり」の後甲板で「カーキの作業服」のまま、
写真を撮ったというわけです。

これは、カーキ色の作業服を着た私が、日本の軍艦旗を掲げた
「かとり」の船尾甲板に立っているところです。
背景には、パール・ハーバーのイースト・ロックを挟んで
USSアリゾナ記念館があります。


練習艦隊がハワイに寄港した時には、必ず
アリゾナ記念館に立ち寄るということですので、
このときもそうだったでしょう。


話がそれましたが、とにかくこれがクォーターデッキにある
チェックアウトボードです。

言うたら出社札みたいなもので、(今時そんなものはないけど)
士官は必ず上下艦の際、ここで自分の名札の横に
乗艦しているか、それとも上陸しているかのステータスを、
スライドして明らかにするわけです。


「リトルロック」のステータスの仕組みは、
自分の名前の横に金属プレート「ASHOR」(上陸中の意)を出します。
裏側は文字が刻まれていないので、乗艦したらこちらを表にするのでしょう。

ボードはまだ巡洋艦CL-92 の頃のもので、読める名前を調べたのですが、

Lewis, Robert P. - SN (48-49)

と言う人の在籍しか確認することができませんでした。
どうしてホームページのCL-92の名簿に名前がないのかわかりませんが、
なんかわたし調べ方を間違ってるのかな。

続く。








ロウワー・ハンドリングルーム〜タロスミサイル巡洋艦「リトルロック」

2025-03-27 | 軍艦

バッファローネイバルパークのタロスミサイル巡洋艦、
「リトルロック」の艦内探訪、バーバーショップを通り過ぎました。


ここで「リトルロック」についての概要が現れました。
あまり面白くはないんですが、翻訳しておきます。

■ USS「リトルロック」
(CL-92/CLG/CG-4)

1942年、「ブルックリン」級巡洋艦の改良型として
8隻の新型軽巡洋艦(CL)が就役した。
これらは新しい「クリーブランド」級巡洋艦となる予定だった。

最終的に39隻が建造される予定だったが、
実際に就役したのは27隻だけだった。
このうち9隻は建造中にCVL(小型空母)に改装された。

(これらの14,750トンの船は、巡洋艦の武装と上部構造をすべて取り除いた
『インディペンデンス』級となったが、
元の巡洋艦の機械と基本的な船体はそのままであった。)

さらに、予定されていた「クリーブランド」のうち3隻は
建造開始前にキャンセルされた。

「クリーブランド」級巡洋艦は、4基の3連装砲塔(前部2基、後部2基)
12門の6インチ/47砲、12門の5インチ/38砲を連装砲塔
(前部と後部の中央線上に各1門、艦の左右に各2門)に搭載していた。

戦争が進むにつれて、海軍が計画していた1.1インチ速射AA機関砲は
20ミリと40ミリAA砲に置き換えられた。

AA火器の増設に加え、単三火器管制官も追加され、
交差目標への交戦能力を向上させるため、
AA火器は艦首と艦尾に搭載された。

ここでいうAAとはもちろん単三電池のことではなく、
アンタイ・エア=対空という意味です。

■「クリーブランド」級巡洋艦の
誘導ミサイル巡洋艦への改装計画

第二次世界大戦末期には、深刻な「空中からの脅威」が出現した。

まず、ドイツ軍。
誘導グライダー爆弾は爆撃機が艦船に接近することなく攻撃が可能だった。



この場合、一つの例はHencschel Hs 293のことです。
ナチスドイツが開発した世界初の動力付き誘導爆弾であり、
現在の対艦ミサイル(空対地ミサイル)の元祖と言うべき武器です。


もう一つは、FritzX(フリッツエックス)と言う滑空式誘導爆弾。
両者の違いは、ヘンシェルがロケット推進なのに対し、
フリッツXは滑空式で、こちらは徹甲弾でした。

ドイツの遠隔操作による対艦兵器の研究は1939年に始まり、
1943年には実戦に配備されていました。

続きです。

そして日本軍のカミカゼ特攻である。
特攻機は
人間による誘導ミサイルと言える。

操縦者の意思で目標に誘導されるミサイルが、実際に艦船に命中した時、
どれほどの損害になるかを史上初めて証明することになったのが、
それまで世界のどの国もやらなかった特攻という作戦だったのです。

それではこれに対抗する武器となるのは何かというと、
それは地対空ミサイルでした。

1940年代半ば、ジョンズ・ホプキンス大学の応用物理学研究所(APL)
の支援のもと、


「バンブルビー計画」"Project Bumblebee"

として、ラムジェットを動力源とする
地対空ミサイル(SAM)の開発が行われていた。

そして、そのプロジェクトにより生み出されたのが、

テリア(SAM-N-7 / RIM-2)Terrier
ターター(Mk15 / RIM-24)Tarter
タロス(SAM-N-6b)Talos

の各ミサイルである。

今気づいたんですが、どれも「T」ではじまってるのは
どういう理由があるんでしょうか。

海軍の研究開発責任者であったH.G.ボーエン少将は、新しいSAMには
ミサイルと誘導レーダーを格納するための
大型艦が必要であると考える。

ヨーダ耳のボーエン少将
ノックスと仲が悪く、マンハッタン計画からハブられた経歴あり

ミサイルを搭載するのに当時の駆逐艦は小さすぎ、戦艦は大きすぎ。
そこで巡洋艦があるじゃないか、ということになったわけですが、
しかもこの頃、従来の巡洋艦の任務が必要なくなって、
大量に行き場を失った?巡洋艦がゴロゴロしていたのです。

その一つが、「クリーブランド」級巡洋艦だったというわけです。

■ タロス・ミサイル

1951年7月10日、最初のタロスミサイルが
ニューメキシコ州のホワイトサンズ・ミサイル発射場で試験発射された。

1952年10月、WSMRで最初の完全なタロス・プロトタイプ
(XSAM-N-6と命名)が飛行し、同年末に最初の目標迎撃に成功した。

タロスは1959年にガルベストンCLG-3に搭載され、
ベンディックス・コーポレーションが製造の主契約者となり、
完全に運用されるようになったのである。

ベンディックスコーポレーションは1924年創業、
内燃機関のスターター製造から始まった会社でしたが、
1950年代から軍用の油圧部品とシステムを設計製造し始め、
唯一武器であるタロスを設計しています。

ちなみに、最初に軍用にABSを開発したのはこの会社です。

飛行家シリーズで「ベンディックストロフィー」はよく聞く名前ですが、
これは1930年代、民間機のレースをスポンサードしていたからです。

ジミー・ドーリトル、ルイーズ・セイデン、
そしてジャクリーン・コクランなどがこれを獲得しています。

初期のタロス・ミサイルは、発射から運用速度まで約3秒の燃焼時間で、
4000ポンドを超える重量の固体燃料ロケット・ブースターを使用していた。
その後、ベンディックス・ラムジェットが飛行を持続させた。

後のブースターは燃焼時間がやや延長され(5秒)、
ブースターと分離する前にミサイルを時速1300マイル以上まで推進させた。

SAM-N-6bミサイルは当初、通常の高火薬(HE)弾頭を装備していたが、
後に殺傷力の高いとされる「連続ロッド」設計に変更された。


発射艦は誘導ビームにより、タロスに上空から敵機を攻撃するよう誘導する。
(ミサイルの機首の周りに90度ごとに配置された4つの小型アンテナは、
セミ・アクティブ・レーダー・ホーミングシステムの受信機として機能した。

これらのアンテナを持たないタロスミサイルは、W-30型核弾頭
(収量2~5KT)を搭載した核武装ミサイルであり、
明白な理由から終末位相ホーミングを必要としなかった。

これらはSAM-N-6bWとして指定された。

1961年、SAM-N-6blとSAM-N-6bW1(核弾頭)が運用可能となった。
これらはSAM-N-6bとSAM-N-6bWのほぼ2倍の有効射程を持っていた。
さらに、より高い殺傷力を持つ新しい連続ロッド弾頭が追加された。

すべてのタロス艦はいくつかの核ミサイルを搭載しなければならなかったが、
(おそらく使用されることはないだろうが)
通常ミサイルと核ミサイルを別々に持つことは非現実的と判断された。

■6"/47 Mk.16海軍砲

夜間演習による左舷からの砲撃

6"/47 Mark 16艦砲6"/47 Mark 16艦砲は
「ブルックリン」級と「クリーブランド」級軽巡洋艦の武装に使用された。

旧式の6"/50 Mark 8砲の実験から開発されたこの兵器は、
「オマハ」級軽巡洋艦で搭載の従来の6"/53砲の約2倍の貫通力を持つ
「超重量」AP弾を使用することができた。

発射薬とカートリッジは一緒に突っ込まれた。
各砲塔は3人の将校と52人の下士官の乗組員を必要とした。

毎分8発から10発の発射が可能だった。

■ 5"/38Mk.12海軍砲



5"/38口径両用砲は、1935年以来、米海軍で最も信頼されている
両用(対空・対地)兵器のひとつである。

第一次世界大戦中、5"/38口径砲身用に
約10種類の単装および連装が開発された。

さて、ここでようやく本日の本題に入ります。
5インチ砲のアッパー・ハンドリング・ルーム(上部取扱室)を
もう少し先に行ったところで見ることができるのです。

それが本日冒頭の写真です。


まず、見学者はこの一角に立ち、腰の高さのハッチから中を覗くと、
そこにはハンドリングルームがあるというわけです。

■ 5インチ海軍砲『上部取扱室』



USS「リトルロック」は、6インチ主砲のほかに、より小型で多用途な
「ツインマウント」5インチ/38口径の対空・対水上兼用砲も装備しています。
両方の機能には、高い発射速度が必要でした。

上部取扱室は、その上方に位置する砲架にサービスを提供していました。
上部取扱室は、艦内のより保護された部分でもある
4層下の階の下部取扱室と弾薬庫から供給されていました。

上部取扱室は赤で囲まれた部分

通常、上部操舵室には、各砲につき約50発が
「即応用」として格納されていました。

5インチ砲は半固定弾薬(砲弾と別個の火薬装薬)を使用し、
12.3ポンドの火薬を装填した薬莢を使用して、
1分間に最大15発の速度で54ポンドの砲弾を発射することができました。

下の弾薬庫からの補充はより時間がかかりました。

水上目標に対する最大有効射程は18,200ヤード(約9マイル)。
対空防御の場合、37,200フィート(7マイル)上空まで射程できました。

5インチ砲は非常に有効な武器であり、第二次世界大戦中、
米海軍のほぼすべての艦船がこれを搭載していたのです。

「リトルロック」が完成した当初、この艦には5インチ砲の2連装砲架が
6基(前方に1基、両舷に2基ずつ、後方に1基)装備されていました。

その後、「ジェット機とミサイルの時代」を迎えると、
5インチ砲の多数の砲架は不要とみなされ、
艦橋上部に残された1基を除いてすべて撤去されました。

■ 下部取扱室

下部取扱室(赤で囲んだ部分)

下部取扱室から上を見上げたところ

ここは、5インチ発射薬と火薬容器が下ろされ、
3つ下の格納庫に収納される場所である。

ロウワーハンドリングルーム

発射薬と火薬を上部取扱室(1階上のデッキで見ることができる)
に供給するホイスト機構である。
アッパー・ハンドリング・ルームは、
基本的にレディ・サービス・ロッカーであり、
2デッキ上にある5インチ/38口径海軍砲に直接供給された。

下部取扱室の左舷と右舷にある5インチ/38口径火薬貯蔵倉

火薬カートリッジは、これらの比較的小さなコンパートメントに
甲板から頭上まで積み重ねられた。

下部取扱室の 「後端 」にある5インチ/38口径投射筒保管室

金属隔壁の丸い穴は、発射薬の「融着端」用で、

これも甲板から頭上まで積み重ねられた。

特筆すべきは、すべての弾薬が、艦の砲手によって
手作業で移動、収納、装填されていたことである。

ちなみに、安全上の理由でロウワーハンドリングルームは
一般見学客には公開されていません。

弾道面では5"/38には(発射薬重量や銃口速度など)特に優れた点はないが、
一般的な信頼性、扱いやすさ、精度は優れていると評価された。

5"/38は、駆逐艦だけでなく巡洋艦、戦艦、空母にも使用されるほど、
実用的でかつ効果的であることが証明された。

5"/38は米海軍で初めて使用されたものの、
現在ではアメリカで使用されているのはわずか数門である。

他の多くの海軍では今でも広く使用されている。

5インチ38両用砲に使用された弾薬は半固定式であった。
すべての弾丸は、1本の幅の広い銅製ドライブバンドを備えた
鍛造鋼製発射体を使用していた。

機首信管は装填直前までドーム状のカバーで保護されている。
発射薬重量は全種類とも約55ポンド。
これは紛れもなく、第二次世界大戦で最も優れた両用砲であった。

1934年から1945年の間に建造されたほぼすべての主要な米軍艦に搭載され、
1960年代後半になっても新造艦に使用され続けた。
また、多くの補助艦艇や小型軍艦、沿岸警備隊の艦艇にも使用された。

どの海軍にもないこの標準化は、太平洋における戦争で
兵站補給状況に大いに役立った。

毎分15発の発射が可能。



続く。

「OUR NAVY」〜USS「リトルロック」

2025-03-23 | 軍艦

USS「リトルロック」艦内探訪、艦底のブリッグ、つまり
艦内監獄部分を過ぎて、次を見ていきます。


ここはまだブリッグと同じ、居住区の最下層部分です。
艦内監獄部分を挟むように、こちらにも兵員用のバンクがあります。
貼り紙は、ここでキャンプを行う際の参加者への注意書きで、

「この場所の安全に関する説明は、
オフィサーズ・ワードルーム(士官用控室)で行われます」


とあり、さらに、

「この場所に滞在している際の避難場所、および集合場所は、
メインデッキの『Foc'sle』の上部、『アンカーチェーン』のある場所です。

ご質問がある場合はスタッフにお尋ねください。」


と記されています。

「Foc'sle」はfəʊk səl「フォクスル」のように発音し、
正確には「Forecastle」(フォーキャッスル)、
船乗りの慣習として短縮された結果こうなりました。

帆船の時代、ここはフォーキャッスル(前の方の城)と呼ばれ、

the crew's quarters usually in a ship's bow
(前マストより前方=船首にある乗組員の居住区)


であったことから、帆船でなくなってからも、

the forward part of the upper deck of a ship
(船の上甲板の前部)

をこのように呼ぶ慣習が残っているのです。
ついでに、なぜ「城」かというと、中世の帆船は、軍艦の船首が
複数の層からなる城のような構造であったからです。

ここは戦いの際には射手が敵船を狙うプラットフォームになり、
もし船が乗っ取られるようなことがあればここに立てこもり、
最後の防御拠点となるような機能を持ちました。

時代が下って軍艦に大砲が導入されるようになると、
このようなフォクスルの役目は不要となり、ここはただ
前帆と錨を取り扱うための場所となるのですが、「城」の役目はなくとも、
「キャッスル」の名前だけは残ったというわけです。


ここで階段を上がります。
艦内探訪の時には、後からわかりやすいように必ず階段を撮影します。


上の階にはバーバーショップがありました。
この理髪店は、USS「リトルロック」の士官専用でした。

下士官兵用理髪店は、同時に5人までの乗組員を収容でき、
右舷側の海兵隊分遣コンパートメントのすぐ後ろに位置していますが、
残念ながら、一般公開はされていません。

理髪師は乗組員にとって不可欠な存在でした。
乗組員の髪型が海軍の規定に準拠していることを確認することで、
秩序と規律の維持にも貢献していたからです。

乗組員の髪型をいつも短く保つことは、髪を洗う時間の短縮になり、
何百人もが生活する艦上では真水の消費を減らすことにつながります。

艦内では真水は常に不足していたので、少しでも節約せねばなりません。


ヘアカットされる人の椅子の頭部分、つまり理容師が立つところに、
滑り止めとしてマクラメ編みが巻かれたバーがあります。
万国共通の理髪店マークがペイントされているのが微笑ましいですが、
なぜこんなところにあるかというと、理容師が施術中に船が動揺した時、
(そしてその時ヒゲを剃っていてカミソリを持っていたら)
咄嗟に掴むものがないと、非常に危険なことになるからです。

ちなみにこの理容所を表す円柱型の看板をサインポールと言いますが、
世界共通で赤、白、青のレジメンタルストライプと決められています。

営業中であることを表すために、陸ではこれが回転しますが、
船の中では回すわけにはいかないのでペイントだけで雰囲気を出します。

このサインポール、あまりにも歴史が古く膾炙し過ぎていて、
由来も今となっては明らかになっていないようです。

昔理髪師が外科医を兼ねていた頃から使われていた看板で、
今でいう赤十字のような役目をしていたという説もあります。


サインポール兼バーの横の写真は、その説明によると、

「髪の毛をカットしているフレデリック・A・シェンノー艦長
(1961年1月〜1962年2月)」

シェンノーの名前はあのフライングタイガースの人と同じですが、
調べたところ関係はないようです。

第二次世界大戦中は艦隊部司令付きとして南太平洋にいましたが、
その後マサチューセッツ工科大学で修士号を取得しています。

「リトルロック」の艦長になったのは、退役の割と寸前(3年前)です。


理髪師の仕事道具を置く棚にも枠があって滑り落ちないようになっています。


■ 海軍マガジン「OUR NAVY」


マガジンラックには「ナショジオ」「ライフ」「タイム」のほか、
「ネイビータイムズ」などもあります。

「NAVY TIMES」は、予備役、退役したアメリカ海軍の軍人、
およびその家族を対象に、ニュース、情報、分析、
地域社会のライフスタイル特集、教育補助教材、リソースガイドを提供する、
年26回発行の新聞で、1951年に創刊され、現在も継続中です。

毎年同新聞は「日常のヒーロー」を表彰しています。
年間最優秀海兵隊員、年間最優秀陸軍兵士、年間最優秀水兵、
年間最優秀空軍兵士、年間最優秀沿岸警備隊員が選出されます。

また「OUR NAVY」というマガジンも見えますね。

こちらはアメリカ海軍の活動を報じる商業施設で、創刊は1897年。
現在は月刊誌として発行されています。

1941年9月発行(つまり戦前)


1943年9月発行(戦争真っ最中)

1960年12月発行(日本進駐中)

横須賀海軍基地で眠そうなお客さんを抱っこするツィマーマン水兵。
「兵士と他国の人々との親密な関係は、新しい海軍の伝統となりつつある。」
(記事内容)

なお、「OUR NAVY」はデジタルで読むことができます。
インターネットアーカイブ

スポーツ記事あり、ダイヤの指輪の販売サイトあり、
もちろん真面目な?戦記もありますが、超くだらない漫画もあります。

以下、1946年3月発行の「OUR NAVY」より。

スキッパーとブート(艦長と新兵)

「君の前指揮官が、君を『ウィスコンシン』へ派遣するよう要請しました」

「艦に戻る前に再入隊の休暇を取ることはできますか?」

「もちろんだ。
ついでに30日の年次休暇を取ることもできるよ。満足かい?」
「イエスサー!」

「海軍も悪いことばっかりじゃないな
さあ、出発だ! 俺結婚までいくかも」

「テレグラムが来てますよ」
「私に?」

”休暇ヲキャンセルスル 至急帰艦サレタシ”

これって今の俺が帰らなきゃいけないこと?
(##゚Д゚)

どうやらこれは連載漫画らしく、新兵くんが帰艦(どこに?)
したら、最終コマの艦長が何か指令を下すのかもしれません。
知らんけど。

同じ「OUR NAVY」に、日本人として興味深い記事を見つけたので、
ご紹介しておきます。


アメリカ移民として海軍に入隊し、戦後を長崎で過ごす日系人の話。

長崎に住む彼は、疲れを癒して回想録を書きたいと考えている。
彼の回想録は、おそらく長編小説の1,000ページを埋め尽くすだろう。

彼の多彩な経験には次のようなものがある: 
アメリカ艦隊での20年にわたる忠実な勤務、
ウィリアム・D・レーヒ提督とアーサー・マッカーサー中佐
(元帥の兄)の下での任務、メキシコとサント・ドミンゴでの作戦、
1927年に日本に帰国した際、長崎のアメリカ領事館に星条旗を掲げたこと、
第二次世界大戦中、日本軍国主義者にスパイ容疑をかけられ、
40日間投獄されたことなどである。

しかし、87歳の斎藤に最も偉大な経験は何かと尋ねれば、
彼は屈託なくこう答えるだろう。

「それは私がアメリカ国民になった日ですよ」

現在、カイトは占領軍に手を貸している。
彼の仕事は、「原子爆弾が投下された」長崎の港町を見下ろす高台にある
第二海兵師団病院での臨時通訳である。

海兵隊創設170周年に当たる11月10日、斎藤カイトは誕生日を迎えた。
自分とレザーネック(海兵隊)の生年月日が同じであることを知ると、
老海軍兵は歯を見せて笑い、誇らしげにこう言った。

「私はアメリカ海兵隊全体の3分の1以上の年齢です!」

 斎藤は1878年に東京で生まれた。彼は両親と暮らしていたが、
若い頃、アメリカこそチャンスの国だと思い立った。

斎藤は6年間、ニューヨークとその近郊で一般的な家事労働に従事した。
夏の間はボストンに行き、さまざまな山小屋や湖畔のホテル、
海辺のリゾートで従業員として働いた。

海の近くで過ごした数回の夏を経て、潮のしぶきが彼の血に染み込み
1905年秋、彼は船乗りの生活が自分に合っていると確信した。
10月29日、ヴァージニア州ノーフォーク海軍基地で海軍に入隊した。

斉藤が海軍にいた20年間に乗艦した艦船のリストは、
まるで提督の艦隊の名簿のようだ。

旧式戦艦のイリノイ、ユタ、アラバマ、ミズーリ、
海軍のヨットのシークレットリー、USSドルフィン、魚雷艇のUSSスミース。

斎藤はまた、旧型のフランクリン、ロジャース、ウィックス、
セルシック、ブラックホーク、プレストン、マッコール、
フーロン、キッタート、サンタドミンゴ、サラトンプソン、
クラリンダ、アボセットなどに乗り組んだ。

彼の勲章は数多く、それは老海軍兵の財産となるだろう。
休戦の3ヵ月後、斎藤カイトはアメリカ国旗に忠誠を誓い、
アメリカ市民として帰化した。

1923年、フィリピンのカビテに駐留していた斉藤は、
フィリピン人と日本人のハーフの女性と結婚した。
二人が夫婦になった2ヵ月後、妻はマラリアの重い発作に見舞われ、
二人の結婚は悲劇的に終わりを告げた。
発病してから亡くなるまで48時間だった。

斎藤は典型的な海軍の人間で、19年経った今でも海軍について語る。
第一次世界大戦前、当時大尉だったリーヒ提督の下で働いたことや、
USSマッコールでマッカーサー中佐のために料理を作ったことを
楽しそうに話してくれた。

「あの頃は、誰もが斉藤を知っていた」と彼はつぶやいた。

この 「古代のマリナー 」が右手の小指の半分を失った話は、
海軍の特徴的な話である。

1905年、彼が民間船でコックとしてしばらく働いていたときのことだった。
嵐に見舞われた海で数日間航海し、大西洋岸の港に入港した。
すでに船酔いだった斎藤は、ギャレーの強烈な匂いに胃が耐えられなかった。

緑色の顔をした斉藤は船長に自由を求めたが、
翌日まで上陸できないと言われた。
斉藤は青ざめたまま粘ったが、船長はこれまで以上に頑なになった。

そこで斎藤は肉切り包丁を手に取り、「小指」に振り下ろした。
そして「ほら 」と無愛想に言って、その肉片を呆然とする船長に手渡した。
船長はコックに1日だけでなく8日間の療養の自由を与えた。

もちろん、これはすべて斎藤の言い分である。

斉藤は1906年7月6日にカビテ海軍基地で退役し、
長崎の親戚のもとで余生を過ごした。
1927年の再婚については、
「彼女はお金がなく、夫が死んだばかりで、私には妻が必要だった」
と正直に語っている。

斉藤は、この街のアメリカ領事館と毎日連絡を取り合っていた。
海軍で副領事に「時間を割く」ことで、斉藤は
アメリカ大使館のための唯一の国旗掲揚係として認められていた。

彼は毎朝早く、旗手を連れて旗竿にオールド・グローリーを掲げた。
日没になると、斎藤は再び旗を掲げた。

真珠湾奇襲攻撃の1週間後、斎藤は、警戒心の強い日本軍兵士たちに、
アメリカのスパイと見なされ、刑務所に連行された。

6週間の抑留中、彼らは彼に千の質問を投げかけ最終的に無害だと判断した。
しかし、斎藤はまだ監視下にあった。

彼の家はその後2年の間に何十回も荒らされ、破壊され、
彼の妻は尋問のために何度も警察本部に連行された。

最終的に日本の警察は斎藤を郊外の小柳捕虜収容所に連行し、通訳にした。

斎藤によれば、収容所の8,020人の囚人の200人がアメリカ人で、
彼らの多くは、脚気と栄養失調に苦しんでいた。
1944年と1945年の冬の間に、20人の囚人が肺炎で死亡した。

終戦を知ると、斎藤は急いで家に帰り、モールからアメリカ国旗を取り出し、
空き家になっていたアメリカ領事館に掲げた。
私の旗であるアメリカ国旗は、この時4年ぶりに掲揚された」

斉藤は占領軍の前線部隊が到着したときからそこで働き、
海兵隊員、兵士、水兵たちは、この元気な老人を
ナガサキ進駐軍の一員とみなしている。

斉藤は病院にいないときは、あちこちを歩き回っている。
街角では海兵隊と話し、出島の波止場では水兵たちと談笑している。

白い 「ミディ 」キャップは数珠の上に不安定にとまり、
古いネイビーブルーのジャケットとズボンは手足からゆるく垂れ下がり、
海兵隊の野戦靴は道路の埃をかき集めている。
色あせた5つのハッシュマークをつけ、
アメリカの愛国心にあふれた水兵は言うだろう。

「みんな斉藤を知っている」


海軍が再び募集を開始

左上:
ええ、平時には(海軍入隊は)いいものだ。
誰もあなたや艦を撃ったりしないから。

志願者「で・・・でも俺はアクション派だからよ、戦いたいぜ!」

上中央

勧誘する水兵「なぜ海軍かって?本当にバケーションみたいなもんだからさ。
甲板を磨く以外にすることはほとんどないし。
なに、ちょっとペンキ塗りして、真鍮を磨いて、ほんの少し持ち場を担当して、
時々見張り業務があるくらいで、申告すればいつでも上陸できるよ!」

・・・「スーパーネイビー」のために我々が必要としているのは、
「スーパーセールスマン”シップ”」である。

セールスマンシップを「船」のシップとかけています。
口の上手い勧誘係こそが海軍の求める人材、ってことで。

上右:

何!その紳士は我々の制服がお気に召さないと?
かしこまりました。
もっとご満足いただける新しい制服をデザインいたします!

テイラー『金モールの量が足りない?
心配しないで坊や。 それなら、俺らが何とかするからね』

ああ、そうそう、ネイビーの「ニューカスタマー」
(あるいはコスチューマー)は神様です。

「コスプレ」するのが目的で海軍に入る人もいるということでよろしいか。

中左:

太った女性「ねえ、海軍で生活したら、あなたみたいにお肌が綺麗になって
スタイルも良くなるってほんと?
わたしも本当に港港に水兵の恋人ができるかな?」

看板:先着一名WAVES応募した方にナイロンストッキング6足進呈

彼女らが戦時に「シップシェイプ」を保持できる限り、
WAVESはリクルート要員を必要としない。

シップシェイプは「シュッとした」「小綺麗な」という意味もあります。

中段中央:

「会計を見せてください。
豆とラバ肉のメニューについてよくない話を聞いたもので」

少なくともあなたは我々の「値段」に文句はないだろう。
全部無料なので。

当たり前ですが、何を食べても無料です。

中段右:

もしかしたら、明日の科学者の採用は、熟練したシーマンシップよりも
研究室での成果を出したかに大きく左右されるようになるかもしれない。
間違いなく、彼は強力な公式をビーンシューターに放り込んで、
敵艦隊を破壊する原子爆弾を製造するだろう????


下段左:

美しいネイティブベルが海軍に入って

魅惑的な南の島に会いにきてねと誘う古いポスターを見せられたら、
海軍の募集ポスターを描くアーティストは逃げ出すだろうか

子供「おっきい兄ちゃんが熱帯のきれいなおねえちゃんの
くだらない話を話してくれたぜ」



下段右:

アメリカ陸軍軍務分離センター

ウェイン・シーバウド陸軍曹長(名誉除隊済み)は、
我々が冗談を言っているのか知りたがっている。

水兵の持っている紙:
「世界の半分がどうなっているのか見てみよう。
海軍に来たれ」


退役した陸軍軍人が「世界の半分を見るために」海軍に入るかしら。

続く。



「シップ・ブリッグ」艦内監獄〜USS「リトルロック」

2025-03-14 | 軍艦

海自の艦艇の見学を案内付きで行ったときのことです。
格子のついた扉の前で、案内の自衛官が、

「ここが何に使われるか知っている方おられますか」

と質問をし、それが艦内牢であると種明かししたのですが、
軍艦に限らず、およそ一定以上の規模の船には、必ず
勾留室に使う外鍵の部屋が存在します。

最初にアメリカで軍艦を見学し始めた頃、
この「シップズ・ブリッグ」の存在に驚いたものですが、
民間船にもそれが存在することがわかりました。

■ 「リトルロック」のブリッグ



「ベトナムルーム」を見学し終わると、そこは艦首部分になるわけですが、
そこにさらに一階下に続く階段が現れます。

これまで見学してきたのがメインデッキの下のセカンドデッキのさらに下、
サードデッキだったので、このさらに下はというと、
おそらく「ファーストプラットホーム」ではないかと思うわけです。

艦艇居住区の最下層となります。



ところで「G」って何かしら。
ガムテープで作った車の形がほのぼのしますね。
黄色い矢印は、左側通行をするようにという指示です。


居住区の最下層にはたくさんの水兵のバンク(ベッド)があります。
一段の高さは・・・60センチくらいしかなさそう。

一番上の段に寝ている人は、うっかり体を起こしてしまったとき、
パイプなどに頭をぶつける危険あり。

なんと言っても最下層ですから、エンジン音も凄まじかっただろうな。


このコンパートメントのドアにはあまり水密性がなさそうです。
そのドアに貼られた次の展示のご案内は・・・。


「シップズ・ブリッグ」=艦内監獄でございます。
写真に撮られている人が本物でないのは、彼らがセーラー服を着ていて、
スカーフを取り上げられていないことからもわかります。

スカーフ以外にもネクタイ、靴紐、ベルトなど長いものは没収されました。


後で紹介しますが、一口にブリッグと言っても十艦十色、
艦によってその佇まいもさまざまです。

それでいうと、ここ「リトルロック」のはごく小規模でしょう。

厳重に鍵のかかる鉄格子の中は三段ベッド。
定員3名か?
それ以上の不届者が出たら、その時はどこに収監したのでしょうか。
  

現段階ではここに一人収監されており、
寝転がって新聞を読むという監獄ライフを満喫しているようです。

別の見学艦(『セーラム』)で見つけたブリッグの規則は以下の通り。

a. 収監者は常に身体検査を受けなくてはならない
検査は収監前、衛生士官、監獄士官?看守によって行われる

b.ブリッグスペースはいつも清潔にしておくこと

c.専用の衣服を身につける。
収監中は貴重品などを預かるが、釈放時に返却する
もし無くなったりした時には捜査依頼にサインすること

d.規定の髪型にカットすること
収監中は清潔を保つこと/口髭は禁止 /靴を磨くこと

e.重労働収監者は仕事にアサインすること
「パンと水」収監者は見張りのいるところでしか活動できない

f.司令官かブリッグオフィサーがイベントにおける行動を指揮する

g. 収監者はもし状況が許せば、一日に30分から1時間
運動か訓練に参加することができる

こんなところで閉じ込められっぱなしで、
たとえ状況が許しても一日1時間しか運動できないなんて・・。
否が応でも反省モード突入ですな。

営倉では基本パンと水だけしかもらえなかったそうですが、
パンがよっぽど好きなら問題ないかもしれません。

ある空母での実話だそうですが、何人かの収監者が、
パンと水しかもらえないのに憤慨して、1日目は喫食拒否したものの、
二日目から何を思ったか、パンをお代わりしまくってモリモリ詰め込み、
水を飲みまくると言う「逆ハンガーストライキ」を決行しました。

その後数時間で全員が「胃が引き裂かれるような」痛みを覚えましたが、
ストライキは三日続けられ、さすがにこれは馬鹿げていると思ったのか、
彼らはパンのドカ喰いはやめ、普通の量を食べることにしました。

というより、食べられなくなったということだと思います。
しかし何人かは、これがトラウマになってしまい、
その後どうしてもパンが食べられなくなったそうです。ばかす。

パンがダメならお米を食べればいいじゃない、と思いますが、その頃
アメリカ海軍で米が出されることはほぼなかったものと思われます。

今なら多様性の時代なので、艦内でも、メキシカンやチャイニーズなどで
(多分寿司はない)米料理がたまには食べられているかもしれませんし、
ピザは今やアメリカの国民食ですから、いくらでもパンの代わりはありそう。



ブリッグの一角に佇んで何かを天井に問いかけている人。
上記規則の「口髭禁止」「規定の髪型」に違反しているんですがこれは。

■ 過去トリップで遭遇した軍艦のブリッグ



まずは戦艦「マサチューセッツ」のブリッグをご覧ください。


さすが戦艦だけあって、独房が5つも並んでいます。
喧嘩した同士が隣同志の房に入れられて、口で続きをしようとして
監視に怒られたり・・・そんなことがあったかも。



独房の一つ。
「リトルロック」より居住環境は少し良さそうです。



「マサチューセッツ」の乗員でアーティストが描いた漫画で、
このエズラ・プラム(プラムってバカって意味なかったっけ)水兵は、
故郷で奥さんと一緒にちょっとでも長く過ごしたくて、
三日も艦に戻るのを伸ばしてこうなってしまったというわけです。
セリフは、

奥さん「帰ってきてくれてとっても嬉しいわ、エズラ。
でも上の人たちは怒ってるんじゃないの?」

エズラ「たぶんね・・・でも何もされないと思うよ?
だってたった3日帰艦を遅らせただけなんだし」

そして、独房に座って、

「なんてこった!
四角い飯のためにあんなことするんじゃなかった」


エズラくんの足元に置いてある食事は四角いパンと水のみ・・。

「四角い飯(スクエアミール)」とは、トレイの形だと思っていたのですが、
今回ブリッグの囚人食、パンのことだと知りました。


お次はマサチューセッツで見学した巡洋艦「セーラム」のブリッグ。



なんと、ベッドがなく、鉄の床に布団を敷いて寝るという過酷な環境。
日本人なら平気かもしれませんが、アメリカ人にこれはキツい。


空母「ミッドウェイ」のブリッグは再現度高し。



両手を拘束されて肩を落とす収監者。
連れてきたのはCPOで、ブリッグを仕切る担当の前に引き出されています。
デスクにはセル(独房?)の鍵が三本並んでいて、
担当はこれから部屋をアサインすることになります。


写真に写っているのは、
Master-at-Arms (MA)
といい、海軍内で法執行を行い、部隊保護の責任を負う部隊の人です。

昔はこの権限は海兵隊に任されていましたが、
1970年代にMAの管轄になりました。


刑務所とどちらがマシかって感じの独房。


窃盗や喧嘩、脱柵、不敬、反逆、AOL(乗り遅れ含む)・・。
D・トッチさんの罪状は果たしてどれだったのか。

Redditというチャットを見ていたら、シーバッグ(水兵用ダッフル)に
小さなポケットを作り、そこに空砲を入れていたのが見つかって、
ブリッグに放り込まれた水兵さんがいたという話がありました。


柵がなく妙に広々としていますが、ここもかつては独房だったのかな。
洗面台に鏡がついているってすごいいい待遇なんじゃないでしょうか。


展示のため、バックミラーで細部が見えるようにしてありました。


さすが空母、ちゃんと収監者専用のシャワーもあります。



定員6名のHolding Tank(檻房の俗語)。
「リトルロック」のバンクよりずっとこちらの方がマシに見える。

ブリッグがどの艦艇にもあったかというと、そうでもありません。
大きさとしては、巡洋艦以上ではないかという気がしますが、
チャットを眺めていると、ブリッグのない艦も結構あったそうです。

そういう時は、自衛隊のように倉庫に閉じ込めたのでしょうか。

しかし「ミッドウェイ」には、艦底以外にもブリッグがありました。



隙間が縦に細長いので、細い人や小柄な女性なら通り抜けられそう。
これは「ミッドウェイ」の士官区画にあったブリッグです。

最初に紹介した時も書いたのですが、
ブリッグというものは基本的に船底に位置するものなので、
なぜこんな高官の区画にあるのかが全く謎です。

士官が何かやらかしてもブリッグに入れられることはなく、
その時はスーパーバイザーの元、行動監視されて、
区画から出ることを禁じられるというのがスタンダードなのですが、
「ミッドウェイ」では監督する人をあてがうのが面倒なので、
士官用のブリッグを作ってあるという可能性もあります。


「ミッドウェイ」のSNS用撮影スポット。


先ほどの監房の格子部分はここに移設されているのだと思われます。

■ クルーズ船にブリッグはあるのか?

答え:ある。
ブリッグの主な目的は、船内の秩序と安全を維持することです。
通常、乗客エリアから離れた、アクセスしにくい場所にあり、
マットレスなどの基本的な設備は整っていますが快適とは言えません。

例えば、クルーズ船で暴行、殺人、違法薬物の所持が見つかるとか、
泥酔者や乱暴な乗客も拘留室にお入りいただくことになります。

泥酔して倒れて眠り込み、介抱しようとした医療関係者に
乱暴をして怪我をさせたりしたら即ブリッグ行きになり、
法執行官に引き渡されるまでそこでクルーズをお楽しみいただきます。

もし専用のブリッグがなければ、個室に監禁され、
食事は全てルームサービスが届けられます。
出ることを許されず、ドアにはテープが貼られ、
ドアを開けたらわかるようになっています。

さらに重大犯罪者なら部屋の外に警備員が配置されます。

■ ブリッグの幽霊

最後にいかにもネタな小話を。
ブリッグについて調べていて、「軍艦の幽霊」という話を見つけました。

軍艦に幽霊が出る(もっともらしい)理由とは以下の通り。

顕在化の歴史
海軍に所属している間に、心に傷を負ったり、
予期せぬ死を遂げたりした人々は、
自分に起こったことを乗り越えようとする一方で、
安らぎを得るために、配属された場所に留まることを選ぶことがある。
これは、特に戦死した場合や事故で起こる

霊魂の中には、肉体がないにもかかわらず、
奉仕しなければならないという使命感を持っている者もいる。
彼らは必要性を感じ、今なすべきことに順応して、
助けるために彼らの(無い足で)一歩踏み出すのだ。


【リトルロック(バッファロー)の幽霊】

1967年に起こった七日間戦争中、USS「リトルロック」の乗組員は、
イスラエル軍に誤って攻撃されたUSS「リバティ」から、
ひどい熱傷を負った多数の生存者を移送したが、
これらの負傷者の多くは、USS「リトルロック」艦内で死亡した。

艦内では幽霊の警備員が検査を行い、乗船する観光客を見張っているという。

【リビングストン(テキサス)の幽霊】

USS「リビングストン」は神風特攻隊の攻撃を受け、
その際甲板と機関室に火災が広がり、その炎は
巻き込まれた水兵たちを焼き殺した。
その乗組員たちの霊は艦内に留まることを決めたのだという。

このとき死亡したハンサムなエンジン整備乗組員の霊は、
今でも自分の仕事をするために報告し、きれいな女性の訪問者を楽しみ、
時にはツアーを行うことさえあるらしい。

【アイオワ(カリフォルニア州)の幽霊】

USS「アイオワ」は、1980年代、砲塔装填部からの大爆発に見舞われ、
そこで働いていた兵士たちが全員死亡した。

現在、その時死亡した乗組員の霊がボランティアに付き添い、
助言を与え、観光客の命を救ったことさえあるらしい。

【ホーネット(カリフォルニア州)の幽霊】

USS「ホーネット」は第二次世界大戦中、
太平洋での激しい戦闘で300人の死傷者を出した。

「ホーネット」にはランディングコード(航空機のストッパー)
が切れた時に死んだ、首のない甲板乗組員の霊がいる。
彼は勤務を続けないわけにはいかないので、今も職務に励んでいる。


続く。

シック・ベイ〜USS「リトルロック」

2025-02-26 | 軍艦

ミサイル巡洋艦、「リトルロック」艦内探訪の続きです。


グリーンと赤のクリスマシーなタイルの廊下。
この一角に「シック・ベイ」があります。

シック・ベイとは医療目的で使用される艦内の区画を指し、
つまりは艦内病院ということになります。

Pタイルにある蛾のような模様は、医事を表す、
アピクレオスの杖のマークをかたどっているものと思われます。

ここにある「シック・ベイ」の説明は以下の通り。

「乗組員である将校、海兵隊員、下士官兵、
総勢1300人もの乗組員のケアはフルタイムの仕事だった。

そのために医師、歯科医、衛生兵が乗艦し、医療上の問題に対処した。

ここでは、医療室、手術室、回復室、歯科治療室を見ることができる」



左はレントゲン室で、使用中を表すランプが取り付けられています。
ここは一般には公開されていません。

突き当たりは診察&医療室、

「サージカル・ドレッシング・ルーム」

で、外から見るためにドアをガラス張りにしてあります。


この部屋を「シックベイ・ワード」Sick Bay Wardといいます。
回復室と一般的な病気の治療エリアとして機能するエリアです。

血圧測定中

ここを拠点に、総員に向けて、毎日2回の「シックコール」が行われました。

シックコールはアメリカ軍全般で行われる慣習で、

「医療処置を必要とする軍人の毎日の整列」

または、そのための信号ラッパのことをいいます。

Sick Call (Bugle Call)

各自が受けた検査の記録として、通常一人、
時には複数の医療担当者が、各自の健康状態を

「シックコール トリートメントレコード」(治療記録)

に記入することが定められています。

コンパートメント内にはロッカーや書類器具用の棚が配置されています。
棚の上のヘルメットにはメディックを表す赤十字入り。



可動式らしいアイランド型の簡易ベッドは、
診察を受けるため患者が横たわるようになっています。
ベッドにしては妙に高いですが、医師が診察しやすいし、
おそらくこの高さでもアメリカ人なら問題ないのでしょう。

アイランドに立てかけてあるのはギプスに重ねるシーネかシャーレでしょう。
シーネは添木とも副子ともいい、骨折部に当てて包帯で巻くものです。

英語ではギプスではなくキャストといい、添え木はスプリントと言います。

添木の近くに「海の上での医療行為」という本、
机の上には「人体解剖」の本がさりげなく?飾ってあります。

ゴム製の氷嚢は古い型のようですが、今でもダンロップ印のゴム製のものは
ほとんどこれと変わらない形で売られています。

さて、お次は手術室です。


負傷した(重症っぽい)患者を前に、にこやかに微笑む軍医。

軍に限らず、船上の生活は本質的に危険な労働環境にあり、
必然的かつ恒常的に事故が起こりがちです。

長期の配備サイクルや長い「洋上」(at-sea)期間、
乗組員は陸上の病院や施設から遠く離れざるを得ません。

そのため、艦は乗組員や、戦闘グループ全体に対し、あらゆる想定のもとに
医療援助の提供を行う能力を備えていなければなりません。

「リトルロック」の規模の艦艇に手術室が不可欠なのはそのためです。


「リトルロック」1400名の乗組員は、配属された医療要員と、
これらの施設にその健康と、時として生命の維持を依存していました。


白衣と手術着が掛けられた物品棚なるコーナー。
左の機械は麻酔用のガス供給装置だと思われます。

棚にビーカーなどが並んでいますが、運用中は船の動揺に備えて
一番上の棚にあるような枠のついたラックに収納されていたはずです。

ここには、保管が必要な医薬品を入れる薬品箱や、
モルヒネなどの規制薬物を入れる鍵付きのキャビネットもあります。

患者がいない限り、通常、医療室は施錠され、
鍵は医務官と司令官しか使用することを許されていません。



手前に見えるのはステンレス製の尿瓶。
現在は珍しい素材ですが、生産していないわけではありません。



一般の病院で言うところの「病棟」にあたる部屋です。
こちらは下士官兵用のベッド。


アピクレオスの杖の部分だけは、改装時にも残されたようです。
ベッドの真ん中に据えられたデスクは、ここで医務官が
病棟見回りの代わりに待機していたのかもしれません。


デスクの後ろにあるこの窓のある機械ですが、
いわゆるナースコールの役目をするものです。


赤丸で囲まれているものもナースコールです。

緊急事態や問題が発生したときに、このシステムを使うと、
各ボタンには右舷、ベッド、バスルームなどと書いてあり、
このオフィスにいるドクターが電話を取ることができます。

病棟区画にあるナースコールが鳴らされると、隊員や看護師、
薬剤師などの誰かがここに駆けつけてきてくれ、
どのベッドで緊急事態が発生したかを確認してくれます。




テレビ付きの(このベッドからは逆にあって見ることはできませんが)
リクライニング式ベッドが・・・・。

一般の病院で言うところの「特別室」待遇患者用でしょうか。
一つしかないので、その時ベッドが必要な一番上級の乗員用かもしれません。

例えば中尉がここに寝かされていても、もしその時
大佐が担ぎ込まれてきたら、交代させられるとか・・・?

■ 歯科区画


シックベイには歯科治療を行う区画もあります。
処置室を覗くガラス窓の説明を読んでみます。

「この歯科スペースは、アメリカ海軍予備歯科部隊の、
ニューヨーク州バッファローにあるNORVAHQ-105と
NORVADET-405のメンバーによって、
この船で勤務したすべての歯科関係者を顕彰するため修復された」

105と405の略字を検索してもわからなかったのですが、
おそらく、研修部隊のことでしょうか。

米海軍の歯科部隊は1,400人以上の現役、あるいは予備役の歯科医からなり、
軍の治療施設、教育機関、診療所、病院、研究室、船舶、
そして国内外の海兵隊に配属されて職務を果たしています。

また、戦闘作戦、災害支援、人道支援ミッションの現場にも派遣されます。


して、この写真の司令はというと、海軍歯科部隊の最高司令官、
ジョージ・セルフリッジ海軍少将であらせられます。
略歴が書いてあるので、一応見ておきましょう。

ジョージ・デヴァー・セルフリッジ少将は
1924年ニュージャージー州ピットマンに生まれ、
1947年にバッファロー大学歯学部を卒業した。

この間、彼は次のような綬章を受章している
(ユニフォームの左から右へ、上から下へ)。

海軍徴兵章
アメリカ戦線章
第二次世界大戦戦勝章
海軍職業軍務章
国防軍務章
軍隊遠征章

現役を退いた後、セルフリッジ提督は
ワシントン大学歯学部の学部長を務めた。

ニュージャージー州ピットマンの元ルース・M・モティシェロと結婚。
パメラ、シェリル、キンバリーの3人の娘がいる。

どこの誰と結婚して娘の名前がどうとかいうのは
当ブログにとって全くどうでもいい情報ではあるのですが、まあ一応。


歯科部隊最高司令官になったロジャー・トリフトシャウザー少将も、
ここバッファロー出身の歯科医官でした。

歯科大学卒業後すぐに海軍歯科隊に入隊。
1961年、歯科医学校を卒業し、アメリカ海軍歯科隊に入隊し、
1961年から1967年まで現役で勤務し、その間、
ボストンのチェルシー海軍病院、ミッドウェー島の海軍基地、
カリフォルニア州のポイント・ムグ海軍航空基地、
サンディエゴの駆逐艦「ディキシー」でも勤務しました。

1969年から予備士官としてキーウェスト海軍基地、
フィラデルフィア海軍基地、ノーフォーク歯科医院、米国海軍士官学校、
ベセスダ海軍病院、グアンタナモ湾で勤務。

1993年に歯科担当副部長に就任してからは、日本にも来ています。
1994年に少将に昇進し、現役6年、予備役27年を含む
33年間の勤務をもって、1995年に海軍予備役歯科部隊を退役しました。


ちなみにこちらが現在の歯科部隊最高司令官、
ウォルター・ブラッフォード少将
さすが歯科医、もういやっちゅうほど歯を強調してます。

アメリカ人は写真を撮るときよくこんなふうに歯を見せますが、
ここまでむき出そうと思うと、かなりの努力が必要となります。



これが復元されたという歯科診察台。


治療中ドクターがどこかに行ってしまったので、
俺、これからどうなるんかなーと物思いに耽っている水兵くん。

トレイの上に歯牙見本があるので、彼は抜糸後、
ブリッジか差し歯を入れる治療を受けるのかもしれません。

次のバッファローネイバルパーク公式のビデオでは、
シックベイの内部を紹介しています。
レントゲン室の中と、バーベット内部の物置?は
一般公開されておらず、このビデオでのみ見ることができます。

USS Little Rock: Sick Bay

続く。

歴代艦長とミッチャー提督のサイン〜USS「リトルロック」

2025-02-17 | 軍艦

バッファローネイバルパークで展示されている、
ミサイル巡洋艦「リトルロック」艦内展示から、
「リトルロック」の歴史を物語る数々の資料をご紹介しています。

冒頭写真は、おそらく彼女が退役してから作られた、
「リトルロック」歴代指揮官の名前と在任期間を表すプレートです。

CL-92 指揮官


ウィリアム・ミラー大佐
William Edward Miller-CAPT
14 Jun 1945 - 07 Jul 1946

ヘンリー・スミス・ハットン大佐
HENRI H. SMITH-HUTTON - CAPT
07 Jul 46 - 10 Mar 47

フランシス・ミー大佐
FRANCIS J. MEE - CAPT
10 Mar 47 - 04 Jan 48


ウィリアム・ライト大佐
WILLIAM D. WRIGHT - CAPT
04 Jan 48 - 24 May 48

ヘンリー・モーガン大佐
HENRY G. MORAN - CAPT
24 May 48 - 13 May 49

リチャード・クライヒル大佐
RICHARD S. CRAIGHILL - CDR
13 May 49 - 24 Jun 49

CLG-4/ CG-4 指揮官


ジェウェット・フィリップス大佐
JEWETT O. PHILLIPS - CAPT
03 Jun 60 - 25 Jan 61

フレデリック・シェノー大佐
FREDERIC A. CHENAULT - CAPT
25 Jan 61 - 07 Feb 62


ジェームズ・パイン大佐
JAMES R. PAYNE - CAPT
07 Feb 62 - 26 Aug 63

C・エドウィン・ベルJr.大佐
C. EDWIN BELL, JR. - CAPT
26 Aug 63 - 26 Sep 64

ロデリック・ミドルトン大佐
RODERICK O. MIDDLETON - CAPT
26 Sep 64 - 27 Sep 65

オスカー・ドレヤー大佐
OSCAR F. DREYER - CAPT
27 Sep 65 - 11 Apr 67


ジョン・ミッチェル大佐
JOHN J. MITCHELL - CAPT
11 Apr 67 - 24 Apr 68

ウォルター・ベネット大佐
WALTER F.V. BENNETT - CAPT
24 Apr 68 - 15 Nov 69

チャールズ・リトル大佐
CHARLES E. LITTLE - CAPT
15 Nov 69 - 11 Jun 71


ゴードン・ナグラー大佐
GORDON R. NAGLER - CAPT
11 Jun 71 - 27 Jul 72

ロバート・モリス大佐
ROBERT E. MORRIS - CAPT
27 Jul 72 - 24 Jul 73

ピーター・カリンズ大佐
PETER K. CULLINS - CAPT
24 Jul 73 - 17 May 75


ウィリアム・マーティン大佐
WILLIAM R. MARTIN - CAPT
17 May 75 - 20 Oct 76

ケント・シーゲル中佐
KENT R. SIEGEL - CDR
20 Oct 76 - 22 Nov 76

最後のシーゲル艦長だけが中佐である理由ですが、
おそらく艦の退役が決まってからマーティン大佐が任期を終えたため、
残り1か月を消化する間、便宜的に充てられた人事だからだと思います。

同じような人事は、軽巡洋艦として退役が決まった時にもあって、
クライヒル大佐はCL-2最後の1か月だけ艦長を務めました。

海上自衛隊で同じようなことがあるかどうかは知りませんが、
米海軍では、退役が決まって軍事指揮官を必要としなくなると、
書面上だけ必要な艦長を(名前だけ?)充てる慣習があるようです。


それから、これを見る限り、艦長の在任期間は1年と決まっています。

唯一の例外は、1973年7月から1975年5月と、在任2年に亘った
ピーター・カリンズ大佐ですが、その理由は年表からはわかりません。

この頃、「リトルロック」はガエタの第六艦隊旗艦であったこと、
そして任期2年目には大西洋艦隊の戦闘効率賞を受賞するなど、
軍艦として「最盛期」であったらしいことと関係あるかもしれません。

■ ミッチャー提督のサイン


1945年に撮影された「リトルロック」の写真ですが、
たいへん見にくいながら、エンボス加工のように浮き上がるサインは、
あの”ピート”マーク・ミッチャー提督の直筆です。


極端に寡黙で、物静か。
目立つことを嫌い、控えめであったというミッチャーは、
同時期のアメリカ海軍の中でも評価の高い指揮官です。

太平洋で任務部隊を率いたミッチャーは、日本軍との戦いで、
マリアナ空襲、パラオ空襲、そしてマリアナ沖海戦を指揮し評価を得ましたが、
沖縄で「バンカーヒル」「エンタープライズ」と、座乗した艦は
特攻の激しい攻撃を受け、そのことが結局彼の命を縮めたと言われます。

神風特攻隊小川清少尉が突入した「バンカーヒル」の破片は、
ミッチャーからわずか6メートルしか離れていない場所にいた彼の幕僚、
下士官兵10名の命を、その目の前で瞬時に奪っていますし、
移乗した「エンタープライズ」で、ミッチャーがいた甲板に、
冨安俊助中尉機が激突し、またしても彼は旗艦を変更することになりました。

彼の体重は45キロ以下になり、助けなしでは舷側の梯子を登れなくなり、
わずかの期間に「歩く骸骨」(ハルゼー談)のようになっていたそうです。
(ちなみに、英語のwikiには以上の記述はない)



彼が亡くなったのは1947年2月3日で、現役のままでした。
これは心臓発作で亡くなる半年前、トルーマンと握手するミッチャーですが、
60歳というにはあまりに老けています。

■ 海軍仕様バックル



制服の仕様が変わったため、今では超レアとなった海軍兵用ベルトバックル。

かつて兵用バックルには勤務艦のシルエットと艦名が刻まれていました。
写真はシルバーで、これはジュニアランクの兵卒用。

士官、チーフ・ペティオフィサー(CPO)、
その他下士官(NCO)は同じ模様が入った金色でした。


それでは現在、アメリカ海軍ではどんなベルトバックルが使用されているか?


というと、このような面白くもなんともないシンプルなものです。
まずこの金色は、士官とCPO用。
左は男性用、右の女性用は丸みを帯びたシェイプで少し小さいものです。

男性と女性でデザインが違うのはどういうわけか?
『体は男性で心は女性の軍人』が右側を使う権利も与えるべきではないか?


というような、物事をややこしくさせる議論は今のところないようで何より。
流石にここまでポリコレファシズムの魔の手は伸びていないと信じたい。

それに、トランプ当選によって、「性別は男か女二つだけ」となったので
物事がややこしくなることは今後しばらく起こらないでしょう。

さて、視察、儀式などいかなるシチュエーションにも合うように、
現在このようなアルマイト処理された金色の無地が標準となっています。
レートE-7、E-8、E-9の上級下士官は金色です。


E6以下はアルマイト処理されたシルバーのバックルと決められています。

それでは飾りの入ったバックルは禁止になったのか?
と思われた方、ご安心ください。

そのあたり、現在の海軍では個人の自由に任されていて、
適切なデザインであれば、バックルに装飾を施すことは許されています。

たとえば現在陸上勤務になっている人でも、前任の勤務(海上、航空)
の部隊章、記章などを着用するのはアリということです。

■ ボトルシップ


軍艦のボトルシップ実物というのを初めて見たような気がします。
個人で作成したと思われるプラークの文言は次の通り。

USS「リトルロック」CL92

全ての乗組員と
ペンシルベニア州フィラデルフィア クランプ造船工廠主任技術者
チャールズ・F・カールソンを偲んで

模型:レイ・カールソン アメリカ海軍少尉

寄贈:チャールズ F. カールソン Jr.
アメリカ海軍/アメリカ海兵隊軍曹
USS「ニュージャージー」BB-62 海兵分遣隊同窓会

2011年5月 バッファロー ニューヨーク

ちょっとわかりにくいのですが、カールソンは三人出てきます。
この三人について推測してみました。

曽祖父:チャールズ・F・カールソン(クランプ造船技術者)
祖父:チャールズ・F・カールソンJr. 海兵隊軍曹(USSニュージャージー乗組)
孫?:レイ・カールソン海軍少尉

おそらくこのボトルシップを作成したのはレイ・カールソン少尉。
ボトルシップの作成が2011年と比較的新しいことから、
海軍少尉である若いレイはカールソンジュニア軍曹の孫世代と見ます。

軍曹が海兵隊として乗り組んだUSS「ニュージャージー」は
第二次世界大戦中就役しているので、軍曹の父親であるクランプ技術者が
「リトルロック」設計に携わったというのは時期的に整合性があります。

そしてこれを寄贈したのは、そのレイ・カールソンJr.軍曹。
クランプ造船所の技術者、チャールズ・F・カールソンと、
彼が手がけた「リトルロック」の乗組員に捧げられています。
というわけで、

孫か甥(レイ)が作った「リトルロック」のモデルシップを、
祖父(ジュニア)がバッファローの「リトルロック」に寄付をした。
彼の父親(曽祖父)はクランプで「リトルロック」を手がけた造船技師。


というのが、わたしがこのプラークから読み取ったストーリーです。
検証しようがないので間違ってたらごめんなさい。


アメリカ海軍標準仕様の24時間時計。

ウォッチついでに、海軍の見張り(自衛隊ももちろん)「ワッチ」は、
アメリカでは「ウォッチキーピング」「ウォッチスタンディング」です。

このウォッチシステムは、24時間船を動かすためのシフトですが、
軍艦と商船、さらに軍艦の中でも潜水艦は独自のシフトを持ちます。

これは、乗組員がさまざまなシフトで任務を交代して行うことで、
全員が深夜や早朝などの勤務を公平に務めるための仕組みです。


1、電話帳

電話帳ですが、おそらくは艦内電話用でしょう。
「第6艦隊旗艦」とあるので、ガエタを母港としていた頃です。

2、電話帳

カミングス少尉のサイン入り。

3、号笛(サイドパイプ)


英語ではボースンズ・ホイッスル(boatswain's whistle)といい、
号笛のことをBoatswain's callといいます。
パイプには「シャックル」という丸い輪が付いており、
ここに鎖などを結びつけて襟もとに掛けたりします。

このサイドパイプには、組紐が結びつけられていますが、
サイドパイプの紐と気が付かず、7、と番号を打ってしまいました。

4、CLG-4の「リトルロック」パッチ

ミサイル巡洋艦になってから制定されたパッチには、
「 PRIDE IN ACHIEVEMENT」(達成する誇り)とあります。

5、第6艦隊旗艦パッチ

COMSIXTHFLT「モータープール」パッチと説明あり。
モータープールはおそらく当時の第6艦隊のあだ名だと思うのですが、
なぜモータープールなのかまでは調べたけれどわかりませんでした。

まあ確かに艦隊が軍港に係留されている様子はモータープールですが。


あらためて書いておくと、第六艦隊=ヨーロッパ・アフリカ方面艦隊です。
今でもイタリアのガエタが旗艦の母港であり、旗艦を務めたのは、
「ニューポートニューズ」を初代として「リトルロック」は7代目。
現在の「マウント・ホイットニー」は14代目となります。


USS「マウント・ホイットニー」LCC/JCC20

LCCはAmphibious Command Ship、揚陸指揮艦を表します。

第6艦隊の旗艦は代々巡洋艦でしたが、初めて駆逐艦母艦、
「ピュージェット・サウンド」AD-38が旗艦になって以降、
「コロナド」「ラサール」など、揚陸艦が充てられるようになりました。

6、キャンバスベルト

バックルのないタイプの布ベルトです。
どのようなシチュエーションで用いられるものかはわかりませんでした。


続く。





「リトルロック」最後の航海〜USS「リトルロック」

2025-02-11 | 軍艦

バッファローネイバルパークのUSS「リトルロック」内展示から、
彼女自身のヒストリーを紹介しているコーナーです。

■ 第六艦隊旗艦

A DAY IN THE LIFE
ある日の一コマ
「The Rock」の上での日常生活について、私たちに教えてください。

このように書かれたパネルがありました。



これはまさにその「リトルロック」=ザ・ロックのある1日の一コマです。
UNREP、アンダーウェイ・レプレニシュメント=補給作業を行っています。

今日は、1961年以降の「リトルロック」の歴史についてです。

1961年2月9日にフィラデルフィアを出港した「リトルロック」は、
6ヶ月間、北大西洋条約機構(NATO)軍と第6艦隊の両方と行動を共にした。

1962年から1965年にかけては、第六艦隊の一員として、
条約兵器と核兵器の二重戦力として、地中海方面に定期的に巡航した。


第2艦隊の旗艦として東海岸やカリブ海での作戦に参加したほか、
北ヨーロッパ沖でNATO部隊の任務に就いた。
1966年には、オーバーホールと乗組員の再訓練が行われた。

リトルロックは、1967年1月25日に第6艦隊旗艦の任に就き、
イタリアのガエタを母港とし、3年半に及ぶ旗艦としての任務の後、
1970年8月24日に帰港した。




第6艦隊とはなんぞや。

第7艦隊が日本の横須賀に母港を置く駐留艦隊であることはご存知でしょう。

対して第6艦隊は2004年以降ヨーロッパにおける運用部隊を指し、
地中海に進入するすべてのアメリカ海軍艦隊が割り当てられ、
その旗艦はイタリアのガエタに母港を置くことが決まっています。

第6艦隊の発祥は19世紀初頭に遡ります。

アメリカ海軍がバルバリア(バーバリー)海賊と交戦し、
商船の警備を行うようになって以来、
アメリカは地中海に海軍を常駐させるようになりました。

(ここでちょっと豆知識ですが、アメリカが海軍を設立した直接の理由は、
独立戦争後、バルバリア海賊の脅威に対抗するため
でした)

初期の派遣艦隊は「地中海艦隊」と呼ばれていたそうです。
これがのちに「ヨーロッパ艦隊」となり、「第6任務艦隊」となります。

同艦隊は、第一次世界大戦時の艦隊はバルカン半島と中東諸国の平和維持、
第二次世界大戦中はイタリアへの上陸作戦支援などの任に就きました。

戦後、その規模は縮小されましたが、1946年以降、
ソ連の脅威に備えるため、東地中海に戦艦「ミズーリ」が派遣され、
その後、第6艦隊として現在も展開が継続されています。

第6艦隊旗艦を務めるのは歴史的に軽巡洋艦の役目で、「リトルロック」は
1961年、1963年、1964年、1967年、1974年と5回旗艦を務めました。

旗艦の任務期間は6ヶ月〜7ヶ月だったり、3年だったりと、
状況に応じてさまざまでした。

■ タロスミサイル搭載艦


「タロス・ファースト」

海軍と、インディアナ州ベンディックス航空会社のミサイル部門が、
700万ドルの契約で製造したタロス誘導ミサイルは、
海軍の戦略と戦術における革命的な時代の幕開けとなりました。

ギリシャ神話のクレタ島を守る半神にちなんで名付けられたタロスミサイル。

それは、タロスミサイル搭載艦隊、最初の一隻である
USS「ガルベストン」(1958年5月28日就役)の主要武器となりました。

超音速の地対空および地対地ミサイル、タロスは
海軍に長距離、高火力の防空システムをもたらすため設計されましたが、
その開発プログラムは、多くの「初めて」を生み出すことになります。

ジョンズ・ホプキンス大学応用物理学研究所の指揮の下、
「バンブルビー・プログラム」としてその開発が始まりました。

このプログラムにより実現した技術は以下のとおり。

1、
先進のラムジェットエンジン
2、
固体燃料ブースターロケットのサイズ(縮小化)と性能における新記録
3、
ラムジェットエンジンを搭載した完全制御ミサイルの初飛行
4、
短&長距離での正確さを持つデュアル誘導システム搭載の初のミサイル
5、
原子力弾頭の導入における先駆的な取り組み

また、タロスに搭載された4万馬力のラムジェットエンジンによって、
過去、爆撃機が到達可能だった最高度をはるかに上回る機位で、
水平飛行を維持することが可能となったのです。

またラムジェットはロケットよりはるかに「少食」つまり燃料が少なくすみ、
(同じ時間維持するために必要な燃料の6分の1から8分の1)
推力と速度の制御が容易である上にパフォーマンスに優れています。

タロスエンジンのこの多用途性と信頼性は、
誘導ミサイル技術における画期的な成果を実現したのです。

「 高かったIQ」



多用途のタロスは搭載された「頭脳」もたいへん優れていました。

電気機械式の頭脳によって誘導されたタロスミサイルは、
目標の「射程距離」内に入ると、近接信管が弾頭を爆発させました。

タロスは2つの「ブレイン(頭脳)システム」を持ち、その頭脳が
長距離での高火力と高精度という能力を与えていました。

一つ目のシステムは、発射機から目標地点までミサイルを誘導。

発射機から直接受信するビーム型の誘導方式であり、
レーダーから攻撃目標に関する情報を入手してミサイルを誘導します。

これをレーダービームライディング技術といいます。

第2の頭脳は「ホーミング・ブレイン」

これが標的を感知すると、ミサイルの制御は
ビームブレインからホーミングブレインへと自動的に移行します。

ミサイル発射に至るまでの過程を司る神経系である
伝達を行う回路やモジュールは、最新の技術が応用されていました。

この終末誘導段階に搭載されたのがセミアクティブレーダーホーミングです。

実験で飛ばした無人のB-17に向かっていくタロスミサイル

■ ヨーロッパ遠征中のクルーズブック



「クルーズブック」とはアメリカの高校の「イヤーブック」(卒アル)
と似ておりすべての展開が完了した時点で発行されます。

これは、乗組員の遠征中の艦上、あるいは港での日常生活などが、
写真で記録されたアルバムとなっています。

右の1969年6月9日付の艦長からのお手紙にはこんなことが書いてあります。

リトルロックの友人たちへ

前回のファミリーグラム以来、リトルロックはフル稼働のスケジュールで、
地中海とその周辺でさらに多くのマイルを記録しました。

5月の最初の1週間は、私たちの母港であるガエタで過ごしました。

そこは天候が良く、本格的な夏が到来したことを実感するように
シーズン最初の観光客がやってきたものです。

旗艦では日光浴の時間を設けたので、甲板作業中だけでなく、
誰もが太陽を満喫することができました。

「リトルロック」は5月12日にガエタを出発し、一泊停泊後に
イタリアのベニスでの公式の訪問を行いました。
これは私たちが通常予定している公式訪問より少し長い期間でした。

この港は水深が浅く、我々の艦が寄港するには懸念も多かったのですが、
現地のタグボートの助けを借りて係留することができ、
ベニスに寄港する久しぶりのアメリカの軍艦になれたことを誇りに思いました。

サンマルコ広場からわずか200ヤードのブイに停泊した我々の艦は、
滞在中、それ自体が観光名所となってアメリカ人だけでなく、
ヴェネチア観光に来ていた多くのヨーロッパ人に、
地中海におけるアメリカの存在感を印象的に示していたと思います。

ヴェネツィアでは5回以上のツァーが催され、
それは主要な名所のほとんどを網羅していました。

現地では、昨年現役訓練で乗艦したアメリカ海軍予備隊の少佐が、
(彼はヴェネツィアの美術、歴史、建築の専門家でもある)
ツァーのうち2回を手配してくれ、そのツァーで、我々は歴史的な教会、
ティントレットの絵画が展示されている「スコラ・グランデ」、
そして美しいドゥカーレ宮殿などを見学しました。


さすが最初に「友人へ」と書いてあるくらいで、
艦長からの手紙というより、イヤーブックのアルバム委員みたいな文です。

平和な時代のヨーロッパ遠征は、彼らにとって「観光」気分だったんですね。





タロスミサイル搭載艦「リトルロック」は、1973年8月から1979年9月まで、
6艦隊の旗艦として再び地中海に配備されました。

1973年にはチュニジアの洪水被害者を救助し、
1975年のスエズ運河再開通の際には最初の輸送船団の一員となり、
1976年のレバノン危機の際にはベイルートの避難を支援し、
1976年11月22日にフィラデルフィア海軍造船所で退役しました。

■ 退役



ウォレットサイズの退役証明書です。
USS「リトルロック」の退役を記念して、
対象となる乗組員全員にカードが発行されました。

これは協会会員のジョージ・ヒューム氏から寄贈されたもので、
カードには次のように書かれています。

200年退役乗組員

今こそ耳を傾けよ:

SNジョージ・ヒューム

USS「リトルロック」CG4の艦上で、バージニア州ヨークタウンから
ペンシルベニア州フィラデルフィアへの最後の巡航任務に従事した
ジョージ・ヒューム二等兵曹は、
この誇り高き艦を無事に母港に帰還させた功績を称えられ、
ここに証明書を授与されました。

ウィリアム・R・マーティンUSS「リトルロック」艦長


写真は最後の航海で登舷礼を行う「リトルロック」。
英語では登舷礼をManning the railといいます。

そして、冒頭の写真は、登舷礼で岸壁を離れる瞬間。
軍楽隊の演奏と、正装した少女に見守られて、彼女は最後の航海に出ます。

続く。









「誇り高き親善大使」〜USS「リトルロック」ヒストリー

2025-02-08 | 軍艦

バッファローネイバルパークに展示されているUSS「リトルロック」、
今日はその展示から、「リトルロック」の歴史写真をご紹介します。

写真はいずれも艦内に展示されていたものになります。

■ 建造



クランプ造船で建造中の「リトルロック」。
「リトルロック」がレイドダウンしたのは、1943年3月6日でした。
この写真は、起工から十か月後、半年後に進水式を予定してた頃です。

同時に「オクラホマシティ」CL-91、「マイアミ」CL-89、
「アストリア」CL-90が建造されていました。


人間の運命がそれぞれであるように、同じ軍艦として生まれても、
ちょっとの違いで運の良し悪しが確実ににあります。

たとえば、上写真の「マイアミ」「オクラホマシティ」は
「リトルロック」と同じドックで工事が行われているわけですが、
半年早く完成することによって、太平洋での激戦に投入されていますし、
同じく、サボ沖で撃沈された先代の名を継いだ「アストリア」は、
「リトルロック」より一か月だけ早く就役してやはり戦闘を経験し、
生還こそしましたが、日本近海で、あのコブラ台風にも遭遇しています。

■巡洋艦として就役

「リトルロック」が就役したのは1945年6月17日、終戦の二か月前。

軍上層部はおそらく戦争の終結が近いことを知っていたかもしれませんが、
もちろん現場ではそんなこととは関係なく、「リトルロック」もまた、
就役一か月後には粛々とシェイクダウン、習熟航海に向かいました。



訓練はその後投入されるであろう太平洋での実戦を想定していたでしょう。
ところが、キューバ沖のグアンタナモで訓練中、戦争は終わりました。




その後大西洋岸での訓練とフィラデルフィアでの調整を経て、
「リトルロック」は五か月かけて南米19の港を巡航しました。

そして翌年はヨーロッパ大陸三か月のクルーズ、カリブ海での演習、
そして2回二次にわたる地中海クルーズを行っています。

「リトルロック」ホームページに掲載されたこれらの巡航の写真を見る限り、
士官から兵に至るまで、総員の現地での様子は穏やかで幸せそうで、
このクルーズをあたかも観光旅行のように楽しんでいる様子が窺えます。


上の写真は1946年2月1日、南米クルーズでチリのバルパライソ、
ピアサイドを航行する「リトルロック」です。



この油彩は、説明がなかったので詳細は分かりませんが、
この期間巡航で訪れた外国の都市での「リトルロック」と思われます。



1947年2月26日、オーバーホール中の「リトルロック」、
ブルックリンのニューヨーク海軍造船所にて。

このとき、艦体の塗装が海軍の塗装番号「Measure22」から、
一般的なオールグレーの塗装に変更されたとされます。
(それまでの写真と比べると明るい色に見える)

戦時モードから平時モードに塗装し直したということでしょうか。




マサチューセッツのケープコッド運河を通過する「リトルロック」。

我が家がボストン在住時、ケープコッドには何度か車で行きましたが、
力こぶを突き出したような半島の先、プロヴィンスタウンに行くためには、
必ず半島の根元にあるこの人口の運河を渡らねばなりません。

その際、写真にあるサガモア・ブリッジを車で通過することになります。

この写真は1949年に撮られたもので、キャプションには

オリジナルのコミッショニングである『ライトクルーザー』、
CL-92として最後の姿であり、彼女の艦体に書かれた92という数字は、
この後スモールナンバー「4」に変わることになる。

その艦体は第二次世界大戦中はより近代的で、識別が容易であった。

彼女はその艦歴の中で、一度として「怒りの砲撃」を行ったことがない。

ただ、親善大使として活躍し、”C L"(1944-1949)から
”CLG / CG"(1960-1976)の生まれ変わりの旅を通して、
アメリカ合衆国の代表として誇り高くその任務を終えた。

と、(かなり曲訳しましたが)なかなか感動的な文章で紹介されています。


LC-92「リトルロック」は1949年6月に退役し、その後は
ニューヨークのアトランティック予備艦隊に編入されることになります。


退役が決まって、CL-92を記念するプラーク(記念盤)が製作されました。

1945年から1949年までに「リトルロック」艦長に就任した、
6名の司令官の名前が在任機関とともに刻まれています。


こちらはCL-92のプラーク。


こちらはまだ退役まで2年を残す1947年のダンスパーティ写真です。
会場となったニューヨークのホテル・デルモニコは現在も存在します。

調べてみたら、今や大統領のドナルド・トランプが、
2002年に1億1,500万ドルで買っていたことがわかりました。

ホテル・デルモニコの歴史


いやー、どうでもいいけど、トランプってマジ金持ち。
この人とマスクがいるって、史上最も買収が効かない政権じゃないか?


それはどうでもいいですが、写真の一部を拡大してみました。
うーん、皆ハッピーそうで微笑まC。



新婚カップルらしき二人の姿が目立ちますね。
今は彼らの孫世代がリタイアし、ひ孫世代が社会の中心を担っています。

彼らがその後幸せな人生を歩んでいることを祈ります。

■ ミサイル搭載軽巡洋艦への転身



USSリトルロック、ニュージャージー州カムデンにて
1959年12月19日

「リトルロック」は、再就役のため、ニュージャージー州カムデンの
ニューヨーク造船所で誘導ミサイル艦に生まれ変わりました。


換装を行う造船所名、工事期間などが刻まれたプラーク。




同じ12月19日、傾斜実験中の「リトルロック」。

傾斜実験とは、船舶の重心の上下期ちを測定するためのもので、
肝斑状の重量物を横報告に移動した時の傾斜から算出します。


換装工事中の「リトルロック」。
夜間でも照明が煌々と照らしています。







いずれも換装後の就役前公試実験中です。



タロスミサイルの発射実験。


公試を終えて、「リトルロック」は新たに
誘導ミサイル巡洋艦として再就役をすることになりました。

これは、生まれ変わって新たに再就役する「リトルロック」の門出を祝う、
就役式(日本だと引渡式)への招待状です。


続く。



進水式と風の神ボレアス・レックスの認証〜USS「リトルロック」

2025-02-05 | 軍艦

バッファローネイバルパークに展示されている、
USS「リトルロック」内の海軍資料をご紹介しています。



ここで、シリーズ最初に一度紹介している、

「ブルーノーズ勲章
The Order of The Blue Nose」


の正式な認定書らしいものがまたしても登場しました。
ただし、こちらは1962年に北極圏通過したことを示すもので、
「リトルロック」にとっては2度目のブルーノーズオーダーとなります。

繰り返しになりますがもう一度説明すると、ブルーノーズオーダーは、
北極圏を本艦が通過したことを証明する公式の証明書です。


「リトルロック」艦首のリーダーは、ブルーノーズ受賞艦として、
このように青くペイントされていることも以前お話ししましたね。

これは艦「リトルロック」に対して与えられたものですが、
その時その時に勤務していた乗組員全員にも、この証明として
「ブルーノーズカード」は与えられました。



CL92(軽巡洋艦)だった頃の1946年のブルーノーズメンバーシップ。
持ち主のジェームズ・ホールはRDM3つまり3等レーダーマン、
レイティングで言うとE-4となります。
これを認定する士官は当時の「リトルロック」艦長です。



CLG(ミサイル巡洋艦)となった「リトルロック」が、
1965年9月29日に北極圏に達したとき乗務していた
R・W・ピーターソンに対して与えられたブルーノーズ証明書です。

この証明書は、

Boreas Rex
Ruler of the North Wind

から送られたということになっています。
ボレアス王は強大な北風の王として、彼の兄弟たちに、

タイタンに北風を、
エウロスに東風を、
ゼピュロスに西風を、
ノトスに南風を、

それぞれ恒久的に繰る権力を与えました。

彼はノースポール(北極)を支配しており、故に、
ここに到達した人間にもその証明を与える権限を持っているのです。


3回目となる1972年、北極到達で発行された証明書は、
C・H・ケンジンガー 三等兵曹
Petty Officer Third Class (PO3)

が取得した北極点到達の証です。

これによって、すべての男性に、そして、
すべてのセイウチ、ハスキー、キツネ、オオカミ、ホッキョクグマ、
クジラ、テン、トナカイ、カリブー、そして、
北極圏の凍てついた荒れ地に生息するそ
の他のすべての生き物たちに知らしめる

PN-3C.H. Kensingerは、北極圏を横断することで
世界の頂点への入り口を開くことになろう

さらに理解されるべきである:
それは、USSリトルロック(CLG4)という良き船に乗り込み、
つらら、ブリザード、ウィリワウ Williwaw、
(=海岸沿いの山から海に向かって吹き降ろす突風、颪)
そして無数の雪片の土地に入った
1972年9月14日、北風の支配者であり、
凍てつく領域のすべてを統べるボレアス・レックスは、
この地を真の信頼できる氷と塩水のブルーノーズである
私の王家の領土であると宣言する

ここに宣言する

私に与えられた権限により、私はここに、我が臣民すべてに命ずる
彼がどこにいようとも、彼に敬意と尊厳を示すことを

この命令に背く者は、王家の不興を買うことを覚悟せよ

そして、左からボレアス・レックス、「リトルロック」艦長、
第二艦隊&北極打撃艦隊司令官のサインがあります。
右上に描かれているのが、おそらくボレアス・レックスでしょう。

「リトルロック」はこうやって3回ブルーノーズの証明を得ましたが、
後になるほどその証明書の仕様が凝っていっています。

■ USS「リトルロック」の誕生


進水式から始まる「リトルロック」の写真が展示されているコーナーです。

「リトルロック」C L-92は、1942年3月6日、フィラデルフィアの
クランプ・シップビルディング・カンパニーで起工されました。



この造船所で建造された他の艦としては「オクラホマシティ」があります。

進水式は1944年8月27日、リトルロック市会議員夫人、
ルース・ワッセルをスポンサーとして行われています。


1945年6月17日、ウィリアム・ミラー大佐(壇上)を艦長として
コミッショニング・セレモニー(就役)が行われました。

日本の降伏によって戦争が終結する二ヶ月までのことです。
「リトルロック」は習熟訓練の最中に終戦の知らせを受けました。


就役式の招待状。

末尾のR.S.V.Pは、フランス語で「Repondez s'il vous plait.」の略で、
出欠に対して「ご返答お願いいたします」 という意味です。



1945年7月アンダーウェイに向かう「リトルロック」。
物資、弾薬、航空機、燃料が積まれているので喫水線が低くなっています。


1945年9月、艦尾側からの空撮。

■ 航海用ツール


実際に「リトルロック」で仕様されていた各種用具です。




立派な木製の持ち運び用取手付き六分儀、セクスタント

六分儀は天測をして天体と地平線の間の角度を測定することで
航海の際現在位置を知ることができるツールです。

なぜ「六分」なのかというと、枠の角度が60度だからで、
歴史上、同様のツールとしては八分儀というのも存在しました。

こちらは、測定できる角度が小さいため、廃れて六分儀に移行しました。

この六分儀は、1946年から1949年まで「リトルロック」勤務であった、

Allan Yoder FC2/C

が寄付をした、と書かれています。
名前の後のFC2は、

Fire Controlman Petty Officer 2nd class

であり、/の後のCは「カーペンター」であるらしいので、
彼は消防とビルダーのレイティングを持つ下士官ということになりますが、
六分儀のケースには、

Capt. Allan L. Yoder
USCG


と記されていて、この人、沿岸警備隊にいたの?
しかもキャプテンとは?と色々謎です。

珍しい苗字なので検索したら、お葬式の通知などと共に、2007年、
「リトルロック」のオーラルヒストリーのページが見つかりました。

それによると、ヨーダー氏は高校卒業後海軍に新兵として入隊し、
最初に赴任したのが「リトルロック」で、海軍にいたのは3年。
そのあいだ操舵手を務めていたということです。(本人談)

沿岸警備隊のキャプテン、というのは、退役後に取った多くの
船舶関係の資格の中に、「沿岸警備隊の船長資格」があったという意味です。

退役後には海洋関係の調査がありましたが、
そのとき手がけた多くの機密プロジェクトには、
当時極秘扱いだったトム・クランシーの小説
『レッドオクトーバーを追え!』のネタ
になったものもあるそうです。

それってかなり自慢できないか?


こちらもヨーダー氏寄贈によるシップマスター クロノメーター

一般的にはマリン・クロノメーターといい、
天体航法によって船舶の位置を決定するための使用される精密時計です。

かつては、船舶用クロノメーターは人類史上最も正確な
携帯型機械式時計として、海洋国家はその開発に多額の投資を行いましたが、
1990年代に衛星航法システム(GNSS)が登場しました。

しかし、現代でも航海士には従来の天体航法に熟練していることが求められ、
現場でも、使いうる様々な方法を組み合わせて航法を行います。

最先端の方法で行えば、六分儀での天測をわずか数分に短縮できますが、
故障する可能性のある電子システムだけに頼らずに、
複数の独立した位置測定方法を知っていることによって、
航海士は最悪の事態が起こってもそれを回避することができるのです。


展示物の中に「私はなんでしょう」というクイズがありました。
質問しておいて、どこにも答えがないんだなこれが。

というわけで、これはなんでしょうか。
お札を挟むクリップ?
(その心は、乗員は財布を持てないから)


私はなんでしょうシリーズその2。
うーん・・・全く想像すらつかん。
何かと何かを連結するものであるらしいけど・・・。


「リトルロック」で実際に仕様されていた舵輪です。



「スタンダードイシュー」(標準)舵輪はパイロットハウスに装備されます。

どの装備が搭載され、使用されるかについては、
指揮官が最終決定権を持っており、一部の艦船では「伝統的な操舵輪」
(ここに展示されているもの)が選ばれましたが、
もちろんそうでない艦船もあったということです。

いずれにしても、展示されている舵輪は、風と帆だけで船が推進されていた
海軍の過去から受け継がれてきた遺産の象徴でもあります。

ところで、この説明を読んで、一部の艦長が選んだ「伝統的」でない舵輪とは
どんなものだったのか、気になって調べてみたのですが、

まさかこれのこと?


もう一つついでに、wikiにあった舵輪の動力伝達の仕組み。


ところで、舵輪の右下に日本の無条件降伏の調印式が「ミズーリ」で行われ、
ちょうどマッカーサーの前で重光葵がサインをしている写真がありますね。
(画面右にいるのは外相秘書だったオノヨーコのおじ加瀬俊一)

写真に添えられた説明は、

1948年9月2日、
東京湾の戦闘艦USSミズーリ(BB-63)に乗船した大日本帝国代表団が、
連合国代表の面前で降伏文書に署名。
ダグラス・マッカーサー陸軍元帥の 
「これらの手続きは終了した 」という言葉とともに、
第二次世界大戦はついに正式に終結した。

その通りなんですが、そもそもこれここにある意味が全くわかりません。


展示と展示の間に、実際の鑑の装備が現れました。
コントロールステーションとあります。

左下はバルブの操作方法ですが、三つのバルブに書かれた文字が、

F.M.CROSS
CONN. OUT-OUT

F.M.
OUT-OUT

FS 78
SUCTION


となっていて、おそらくこれはどこに通じているかを表します。

真ん中の説明から、これらが燃料関係のバルブであり、
燃料は常に総量を監視され適切が保たれていたことがわかります。

燃料消費ログ

このフォームは、USS「リトルロック」(CL-92)の
各燃料タンクに搭載された燃料の総量を追跡するために使用されました。

これは船の運航にとって非常に重要であり、蒸気船としての目的だけでなく、
船を水平に保つ「トリミング」のためにも必要でした。

燃料レベルが適切に維持されていることを確認するため、
1日中定期的に燃料レベルの測定が行われました。

また、船内の燃料総量は70万ガロンを超えていました。

「リトルロック」のヒストリーをたどる展示、もう少し続きます。


続く。



ダメージコントロール制御の「XYZ」〜USS「リトルロック」展示

2025-01-19 | 軍艦

USS「リトルロック」のセカンドデッキを歩きながら見てきましたが、
そろそろ端に到達したようです。

ここで唐突に「PLAN OF THE DAY」、
本日の予定というのが掲示されていました。

但しこれは現役時代のものではなく、スカウトのためのものでした。

■スカウトの1日


1630 - スカウト到着、隊は展示棟(博物館に隣接)で集合。
隊長はミュージアムで会費の残金を支払い、
宿泊キャンプメンバー全員にリストバンドを受け取り、配布する。

1730 - 船尾のムービールーム、または
前方のオフィサーズワードルームの指定された場所に集合し、
オリエンテーションと安全に関するレクチャーを受ける。
食堂係は訓練中に選ばれる-夕食係5名、朝食係5名。

1830 - イブニング・ミール(チャウ)、モーション・シミュレーター、
展示棟(アーティファクト・ディスプレイ・ヤードも含む)、
ミュージアム(シップス・ストアを含む)がオープン。

1945 - 博物館(シップス・ストアを含む)、
展示棟(モーション・シミュレーターを含む)、工芸品展示ヤード閉鎖!
総員USS「リトルロック」に戻る!
注:上記はすべて朝8:00に再開されます。


1945 - チャウライン(食事配給)Tagged (Closed)終了。

2000 - スカウトや大人隊員を含むすべての野営隊員は
艦上にいなければなりません。

USS 「ザ・サリヴァンズ」のギャングウェイは警備されてます。
(『リトルロック』は「ザ・サリヴァンズ」甲板から乗艦する)

2015 - ムービーコール

2種類の異なる映画が、一つはムービールームで、
もう一つはオフィサーワードルームで上映されます。
ファーストクラスCPOメスではドキュメンタリーが上映されます。

2230 - TAPS
TAPS消灯、デッキでは静寂を保つこと。

0630 - Reveille(総員おこし)
ギアを寝台に移動し、就寝した場所を清掃(Square Away)します。
当直士官の点検を受けるとチャウに行くことができます。

当直士官の許可が出るまで列に並ばないこと!

0730 - 朝食(モーニング・チャウ)
食事係は0725にギャレーに出頭すること。

0830-セルフガイドツアー
コメントシートに記入しメスデッキにあるボックスに投函してください。

そのあとは好きなだけパークをお楽しみください。

公園は1000時に一般開放されます。
個人的な装備はすべて、1000より前に車までお持ち帰りください。


注:パークは1000に開園します。

持ち物はそれまでに車に積んでおいてください。


■ ダメコン制御の分類




一瞥して、一般人にはなんのこっちゃという文章ですが、
おそらく海上自衛隊の方ならよくご存知のはず。

ここからは、軍艦のドアなどに必ず見られる閉鎖マークについてです。
海自の護衛艦でも必ず目にする、XYZなどの意味を解説しています。

日本語では「艦内閉鎖標識」、英語でいうところの
「ダメージコントロールフィッティング」についての分類です。
調べたところ、これは万国共通らしく、日本と同じでした。

準備の重要条件

1. コンディションXRAY


- 安全な港と海軍施設にのみ設置される
XRAY(X)のマークがあるレバーは、
航海、停泊時でも常に閉鎖・停止

2. コンディションYOKE 


通常の平時の入港・航行状態
XRAY(X)・YOKE(Y)と記されたレバーは、
実際に使用されている時以外は、常時閉鎖されている
開いているときは、D.C.閉鎖日誌にそのように記すこと

3. コンディションZEBRA 


平時の緊急作戦および戦時の戦闘状況に設定される
XRAY(X)YOKE(Y)ZEBRA(Z)と書かれたレバーはすべて閉鎖されており、
D.C.セントラルから許可を得た場合のみ開けることができる。

4. XRAY (X) 

平時・戦時を問わず、点検、清掃、修理、補給品の受け渡しなど、
開放が必要な期間を除いて常に閉鎖する全てののドア、金具、バルブを含む

一般的に「X」は、人が区画内にいる場合や金具を使用している場合に
開けてよいドアや金具を指し、
それ以外の場合は閉めておくべきとされる。

例:
倉庫および二重底のドアおよび通風カバー、

空気試験接続部、音響板、弾薬庫への入口、爆発室、締切り、
ピークタンクおよび油水タンク、すべてのマンホール。

5. クラスYOKE (Y) 

艦内警戒閉鎖発令時に閉鎖・停止
クラス「Y」には、クラス「X」以外のすべてのドア、
付属品、またはバルブが含まれる。
これらは、船舶の安全、作業の遂行、または
乗組員の快適性に影響を与えることなく、
作業時間終了後に閉じればよいとされる。

例:
日常的に使用される区画、操舵室、作業場、
頻繁に使用されるが夜間には一般的に使用されないすべての区画、
タンク、通路のドアおよび付属品に使用される。

6. ゼブラ(Z) 
戦闘配置につく通路などで警戒配置中は開放
船の運用、居住性、アクセスのために通常開いており、
戦闘時や非常時には閉鎖される。


船舶の運航のために昼夜を問わず必ず開いているべきドア、

付属品、バルブ、換気カバーが含まれるが、
作業中または緊急時には閉じなければならない。

例:
 居住区画や戦闘配置へのアクセスドア、居住区画の換気ダクトカバー、

消火用配水管の切り取り部分、機械室への入口、
総員配置前に閉めることができないドア、弾薬庫の換気、
巡航条件下で船舶を運用するために換気が必要な居住区画、
作業場、その他の類似区画の換気カバー、
衛生および居住条件に必要な最低限の空気口、
および戦闘用ポートに適用されます。

7. WILLIAM (W) 
いかなる場合でも開放・運転
(近くで火災発生し被害を減らす必要がある時、
または総員離艦時に閉鎖・停止可)

作戦行動中に必ず開けなければならないドア、バルブ、付属品に使用。
これらは、局所的な緊急事態を除いて開けたままにしておくべきであり、
特にクラス「W」の火室換気用開口部は決して閉めてはいけない

Wクラスのドア、ハッチ、およびスキッドは、
船舶の運航や武装に悪影響を及ぼさない場合、
一時的に閉鎖することができる。 
メインデッキより下では、一般配置時に「W」ドアには
必ず当直を配置しなければならない。
 水線下の「W」ドアおよびハッチは最小限に抑えなければならない。

例:
弾薬ホイストのある区画とコンベアのある区画の間のドア、

エンジンルームに空気を供給する送風機モーター、
エンジンルームからの排気筒ハッチ、
船の戦闘に迅速なアクセスが必要なバルブ、
弾薬ホイストなどがある区画への入口、 弾薬庫の排水コック、
またはボイラー停止弁のリーチロッドがある区画への入口、
修理班用の装甲甲板を通る1つまたは2つのハッチ、
上部構造物の気密化が不可能な部分にあるドアおよびハッチ、
乗組員が常駐する区画にある排水バルブ、
機械室および機銃への冷却水を制御する消火栓バルブ。


以下は、弾薬の移送や重要なシステムの作動を可能にするため、

特別な権限なしに開けることができるレバーである
使用していない時には閉める

1. 

サークルXRAY


サークルヨーク


サークルゼブラ

閉鎖されていても限られた場合に限り艦長の許可を得て開放
コンディションゼブラの間、食料の分配、衛生設備へのアクセス、
戦闘ステーションやその他の重要なエリアの換気を可能にするため、
指揮官の権限のもとに開くことが許可される。

開放された場合は、必要に応じて直ちに閉鎖できるようにしておく。


BLACK D ZEBRA(ブラック・D・ゼブラ) 

灯火管制時、夜間、艦内を暗くするために閉鎖される。

CIRCLE WILLIAM (W) 


CBR防御発令時に閉鎖・停止
- ZEBRA状態中は通常開いているが、
NBC(核、生物、化学兵器)攻撃があった場合は閉じることがある。

続く。

オフィサーズ・アイランド〜USS「リトルロック」

2025-01-07 | 軍艦

タロスミサイル巡洋艦「リトルロック」艦内探訪、
メインデッキの艦内博物館のスペースを抜けると、士官区画です。
博物館の区画は、CPOと兵員用の区画となっていました。



まず登場したのが「オフィサーズ・メス」。

テーブルは床に固定されているので、おそらく現役当時の姿のままでしょう。
兵のためのメスとは違い、床のタイルからして特別感が漂います。


今まで歩いてきたのはセカンドデッキという、上甲板の下階ですが、
ここでも士官区画は艦の前方に位置しており、
特に艦長の執務室は(ついでに従軍牧師のオフィスも)
この際前方にあることがお分かりいただけるかと思います。
(Chip Chapin というのはおそらくタイプミス)

プライベートラウンジは右舷、ギャレーは左舷にあります。


メスにはオフィサーズ・ラウンジ、士官用ラウンジも含まれます。
床は相変わらず市松に配したPタイルで、ちゃんとしたソファもあります。

説明によるとこのスペース「は」エアコンが装備されていたそうです。
(ちょっと待て、下士官兵用区画にはなかったのか?




士官用区画であるワードルームの修復のために使用された
多くの物品や資材に資金を提供し、また寄贈したのは、
ベテランや関係者の組織、USS「リトルロック」アソシエーションです。

大変充実したホームページを運用しています。



手前に見えている模型の船は、USS「コンステレーション」です。
手前の紹介文を翻訳しておきます。

USS CONSTELLATIONはスループ・オブ・ウォーで、
アメリカ海軍が設計・建造した最後の帆船である。

1797年9月に建造され、1853年に解体されたフリゲート、
USS「コンステレーション」から少量の資材を引き揚げ、
1854年に建造された。

単甲板の 「スループ 」であるにもかかわらず、
フリゲート艦の同型艦よりも大きく、
より強力な砲弾発射砲を装備している。

このスループは1854年8月24日に進水し、
1855年7月28日にチャールズ・H・ベル大尉を指揮官として就役した。
1954年に退役するまで、1世紀近くにわたって活躍した。
現在は博物館船として保存されている。

コンステレーションは全長199フィート。
最も幅の広いところで43フィートのビームを持つ。
最大喫水は21フィート(満載排水量1,400トン時)。
乗組員は士官21名、下士官265名。
当初のコンステレーションは、16門の8インチ砲と
4門の32ポンド砲を主砲甲板に搭載していた。
スパー甲板には一対の追撃砲が搭載され、
艦首には30ポンド砲パロット・ライフルが、
艦尾には20ポンド砲パロット・ライフルが配置された。
また、3門の12ポンド榴弾砲も搭載していた。

1860年以前は、地中海とカリブ海、そして「アフリカ艦隊」で活躍。
アメリカ南北戦争では、多くの任務に就いた。
戦後は、アメリカ海軍士官候補生の訓練に従事し、
地域作戦を支援するためヨーロッパ各地に派遣された。
1914年、コンステレーションは、米国国歌、
「星条旗」作詞100周年を記念する式典に参加。
1926年5月15日、フィラデルフィアに曳航され、
USSオリンピアと並んで係留された。
それから1926年7月4日、独立宣言調印150周年記念式典に参加した。

式典の後、メンテナンスのためフィラデルフィアで乾ドックに入れられ、
11月にニューポートに曳航された。
最終的に1955年2月4日に退役し、ボルチモアに曳航され、
8月15日に海軍登録から抹消された。
修復作業が完了した後、1961年7月4日、ボルチモアの
コンステレーション・デッキ(メリーランド州)に永久停泊した。

1963年5月23日に国定歴史建造物に指定され、
1966年10月15日に国家歴史登録財に指定された。

彼女は、アメリカ南北戦争から現存する最後の無傷の海軍艦艇である。


この模型ですが、細部までこだわった力作でした。
よく見ると、その時代の格好をした乗組員が、船首に一人、
船長らしい帽子を被った人が中央マストに一人、船尾にも一人います。

帆船は帆船というだけあって、帆を張るためのリグが
縦横無尽に張り巡らされていますが、全て正しく再現されており、
サービスのためにサイドの砲は全てハッチを開けた臨戦態勢となっています。


部屋に設られたテーブルには、かつてのオフィサー使用のグッズ各種。
コーヒーカップには海軍のマークが金で刻まれています。

タイプライターはスミス-コロナ(Smith-Corona)社製。
電動式ではないので、インクリボンさえ購入できれば今でも使えます。

スミス・コロナ社はかつては名の知られたタイプライター、
および計算機メーカーでしたが、1980年代中盤以降、
ワードプロセッサ台頭の波を受け業績が悪化するという困難を経て、
現在は製品カテゴリーを熱転写関連商品に絞り経営しています。



「Glad Rags to Rich」(ボロから富豪へ)

という衝撃的なタイトルのついた歌手のシェールが表紙の雑誌。
調べたところ、1975年発行のTIMESです。

この当時彼女は28〜9歳、成功を手にし初めてタイムズの表紙を飾りました。

「ボロから富豪へ」という言葉は、シャーリー・テンプル主演で有名な
映画の題名ですが、文字通り貧乏から金持ちになった主人公と同じく、
彼女は幼少期は大変貧しい家庭に育っています。

なんでも理由は母親が何度も離婚と再婚を繰り返していたためとか。



このシャンパンのボトル、ジッポーライター、タバコは、
オバマ大統領からの寄贈、と一応はなっていますが、本人からではなく、
オバマが大統領時代バッファローを訪問したとき、
なぜかシークレットサービスから寄贈されたものだそうです。

そういえば、バッファローで名前だけは有名だけど固くて辛くて、
まあ要は激まずだったバッファローウィング屋に、
オバマが来た時のの写真が得意げに掲げられていたなあ。

ただただ辛くて、衣が岩のように硬いバッファローウィングを、
老舗というだけで有り難がって食べてるアメリカ人ってもしかしてあほ?

とまで思わせてくれたあの店、オバマもきっと「まずっ」とか思ったと思う。

ちなみにタバコの箱らしいのにはオバマのサイン入り。
あまり有難くはないけど「恩賜の煙草」というところですか。

っていうか、オバマってタバコ吸わないよね?


ゲームなどがやりかけで置いてある(灰皿もあり)テーブル、
周りには油彩の絵がいくつか飾ってあります。



「リトルロック」の鑑番号4が見えるこの右側の絵ですが、
これは彼女がイタリアの地中海沿いの港ガエタに停泊していた時の姿で、
1959年から3年間「リトルロック」に乗り組んでいたある乗員、
(RDSN Seaman, Radarman Striker)が描き、寄贈したものです。



「リトルロック」に陶器を提供したバッファロー・ポッタリー・カンパニー
1901年、ニューヨーク州バッファローに設立されました。

1875年設立のラーキン・ソープ・コンフィ社から派生した会社です。
創業者は親戚同士で、なぜ陶器を石鹸会社が扱うようになったかというと、
陶器を売ったら洗剤も売れるよね、ということだった模様。

現在会社はオネイダ有限会社の一部として存続し、
アメリカ軍のレストランやクラブなどの食器を請け負っています。

展示されているのは、1944年の就役から1976年の退役まで、
USSL「リトルロック」で使用された陶磁器のごく一部であり、
バッファローの人々や産業界が常に示してきた、
アメリカ軍への全面的な支援を象徴するものとされています。

アメリカの深川製磁みたいなものでしょうか。



こちらは士官用食器です。

ご存知のように、海軍艦船上では、陶磁器も銀の食器も、
士官の日常の食事に使われるものでした。

そしてここの説明にもあるように、これは、アメリカ海軍における、
将校と下士官兵の間の生活全般における多くの大きな差異の一つです。


ここはオフィサーズ・パントリー

士官用のワードルームで供される食事を用意するところです。
デザートやスナック、コーヒーがいつでも用意されていました。
コーヒーカップは暖かいコーヒーのために常に温められていたそうです。

そして常に給仕の兵がスタンバイして、彼らにサービスを行いました。




冒頭のスケッチですが、
「アメリカの自由の防人三世代」
というタイトルで描かれた、バッファローのある一族の肖像です。

Krestos一族は、ここバッファローで、三代にわたり、
国防に携わる軍人を輩出してきました。

右下の人はメイン州バース(Bath)の造船監督官だった
ディーン・M・クレストス少佐であろうかと思われます。

また、左側の船は日本軍の潜水艦に撃沈されたUSS「インディアナポリス」
右側はミサイル駆逐艦USS「ファラガット」DDG-99です。

いずれもクレトス家の誰かが乗り組んだ艦ということですが、
「インディアナポリス」に乗っていたクレトス水兵は、
撃沈された時乗っていたとして、無事生還されたのでしょうか。


続く。

「戦艦のように戦った駆逐艦」サミュエル・B・ロバーツ〜「リトルロック」展示

2024-12-26 | 軍艦

「リトルロック」艦内の展示、駆逐艦水兵協会シリーズより、
今日はまずサマール沖で日本海軍と戦った、ある駆逐艦についてのお話です。

■ In Footsteps of Brave Men
勇者たちの足跡

1986年4月、「オリバー・ハザード・ペリー」級ミサイルフリゲート艦、


「サミュエル・B・ロバーツ」
USS Samuel B. Roberts (FFG-58)

が就役しました。



上の記事に添えられた写真の左端が就役時の「サミーB」です。

このフリゲート艦は、第二次世界大戦中、
ガダルカナル島で孤立した海兵隊員を救助した功績により、
死後海軍十字章を受章した海軍水兵、

サミュエル・ブッカー・ロバーツ・ジュニア
Samuel B. Roberts jr.(1921-1942)

にちなんで命名された3隻目の艦です。
ちなみに一代目は、

USS Samuel B. Roberts (DE-413)

二代目は、「ギアリング」型駆逐艦、


USS Samuel B. Roberts (DD-823)

それでは、その横の2隻との関係は何でしょうか。

■サマール沖海戦

まず、真ん中の艦番号52は、同級の

USS「カー」Carr (FFG-52) 

1944年10月25日のサマール島沖海戦に参加した
USS 「サミュエル・B・ロバーツ」で後部砲の配置だった三等砲手、
ポール・ヘンリー・カーの戦功を称えて建造されたフリゲート艦です。

そして、325の艦は、やはり同級の17番艦、

USS 「コープランド」Copeland (FFG-25)

この名前は、やはり「サミュエル・B・ロバーツ」艦長だった、
ロバート・W・コープランド中将(最終)にちなみます。

コープランド

このときカー水兵は戦死し、コープランド艦長は救出されています。
それでは「サミーB」は帝国海軍とどのような戦いをしたのでしょうか。

「ジョン・C・バトラー」級駆逐艦護衛艦である
SS「サミュエル・B・ロバーツ」(DE-413)は、
サマール沖海戦で日本海軍によって撃沈されました。

サマール沖開戦は、1944年10月のレイテ沖海戦の一部で
同艦はタスクユニット77.4.3(「タフィ3」)の一員として
少数の駆逐艦、護衛駆逐艦とともに護衛空母を守っていました。

そして、サマール島沖で重武装した日本の戦艦、巡洋艦、
駆逐艦からなる栗田艦隊と対峙することになります。

10月25日の夜明け直後。

陸軍の攻撃を航空支援していたタフィ3がサマール島東岸沖を航行中、
栗田健男中将の指揮下にある23隻の日本海軍の機動部隊
(センターフォース)が水平線上に現れ、攻撃を加えてきました。

状況を見たコープランド艦長は、乗組員に向かってこう艦内放送します。

「この圧倒的不利な戦いにおいて、おそらく生き残ることは不可能だ。
我々は、やれる限りやって損害を相手に与える

駆逐艦の煙幕に隠れて、発見されず突進した「サミーB」が
2.5海里(4.6km)まで艦隊に迫ったとき、砲弾がマストに命中し、
それが魚雷発射装置を詰まらせましたが、すぐさま修復。

「鳥海」に2.0海里の距離まで潜り込み(射程放線より低い)魚雷発射。

この時見張りは少なくとも1本の魚雷が命中したと報告していましたが、
実際には「鳥海」に魚雷は命中していません。
(但し同じ英語のWikiでも、『カー』の項では艦尾に命中とされている)

そのとき重巡洋艦「筑摩」が現れ、米空母に向かって幅射撃を行ったため、
コープランド艦長はそちらに進路を変更し、砲撃を命令しました。

このとき艦長は、

「魚雷を発射する。
効果があるかは疑問だが、我々は任務を遂行する」

と放送しました。

このとき「筑摩」は空母と「サミーB」の間に位置していました。
「サミーB」は小型で高速の相手に対して難しい攻撃を強いられます。

この後35分間、「サミーB」の艦砲は5インチ弾全弾、600発以上を発射し、
「筑摩」と交戦を行いますが、すぐに「筑摩」だけでなく、
「大和」「長門」「榛名」からの砲撃をも受けることになります。

8時51分、巡洋艦の砲弾が「命中し、ボイラーの1つが損傷。
「金剛」が0900に「サミーB」の機関に決定的な打撃を与えました。
そしてついに0935、総員退艦の命令が下されます。

「サミーB」はその30分後に沈没し、乗組員90名が死亡。
コープランド艦長含む乗組員120名の生存者は、救助されるまでの50時間、
3つの救命いかだにしがみついていました。


ポール・カー3等砲手

このとき「サミーB」で砲架52、後部5インチ砲を担当していたのは
ポール・H・カー3等砲手(21歳)でした。

砲架52は、攻撃を受けて爆発するまでの35分間で、
貯蔵されていた325発の弾丸をほぼすべて発射していました。

52を担当していたカーは爆発を受けて倒れ、
腸に重傷を負って瀕死の状態で発見されましたが、
そのとき彼は手に最後の弾丸を抱いたままで、
破壊された砲に最後の砲弾を手で装填しようと繰り返し試みていました。
そして、救助に来た者に弾丸を装填するのを手伝ってくれと懇願しました。

そして「サミュエル・B・ロバーツ」が日本帝国海軍の砲撃で沈没する直前、
カーは砲塔の横で息を引き取りました。

彼には死後銀星章が授与され、誘導ミサイルフリゲート艦に名を遺しました。



■ メトカーフ3世中将の演説


「軍隊、特に海軍ほど伝統が重要な職業はない」

これはグレナダ侵攻で指揮を執ったメトカーフ3世中将の演説です。
「サミュエル・B・ロバーツ」に見られる水兵、特にカーの勇敢な戦い、
自らを犠牲にして戦ったヒロイズムについて以下のように述べています。


「タイコンデロガ」「ヨークタウン」「ヴァンセンヌ」・・。

これらの独立戦争における戦いの名が、現在は
アメリカ海軍のイージス艦の名前となっていることが表すように、
伝統を受け継ぐもの、それが海軍でもある。

伝統にまつわるもう一つの重要な出来事は、今年4月12日に行われる
USS「サミュエル・B・ロバーツ」(FFG 58)の就役である。

この日、3隻の水上戦士は、1944年10月25日のレイテ湾制圧戦における
サマール沖海戦のように、再び足並みを揃えることになる。

その歴史的な日に、LCDRロバート・W・コープランドは
USS「サミュエル・B・ロバーツ」(DE413)を率いて、
数でも火力でも圧倒的に勝る敵との戦いに臨んだ。

「ロバーツ」には、オクラホマ州出身、19歳の3等砲手、
ポール・ヘンリー・カーも同乗していた。
戦闘に勝利し、レイテ湾への上陸を確実にしたのは、
コープランドLCDRの優れたリーダーシップ、勇気、専門知識、
そしてカー下士官の並外れた勇気と活躍によるものだった。

しかし、その代償は大きかった。
下士官カー兵曹と多くの乗組員は生き残れなかった。
 
「サミー B.」は沈没したが、その前に彼女は
「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」という賞賛を獲得したのである。

この艦、艦長、そしてインスピレーションを与えてくれた乗組員が、
USS「 コープランド」 (FFG 25)、USS「カー」(FFG 52)、
USS「サミュエル B. ロバーツ」FFG 30
として艦隊に戻ることになる。

これは今日の海上戦士にとって何を意味するか?
これら戦闘フリゲート艦とイージス巡洋艦との関係は何だろうか?

非常に簡単に言うと、それは地上の戦士と過去、
つまり戦闘と革命の伝統とのつながりなのである。

イージスの新たな戦術を模索する際には、
アイデアの革命を起こさなければならない。
「古いやり方」にだけ埋め込まれた慣習をやめなければならない。
しかし同時に、戦いの伝統は維持しなければならない。

今日地上の戦士は、過去の戦いに斃れた人々の英雄的行為と闘志を忘れず、
また先を見据えて新たな革命が近づいていることを認識しなければならぬ。
卓越した戦闘の伝統を築くことは我々の責任である。

そうすることで我々は世界で最も偉大な海軍であり続ける保証がされる。



海軍作戦部長 J・メトカーフ3世アメリカ海軍中将

このような感動的な演説を紹介した後に残念速報ですが、
このメトカーフ3世中将ったら、そのグレナダ侵攻作戦後、
補佐官数名とともに、捕獲したソ連製のAK-47を国内に持ち込み、
ノーフォークの海軍基地で乗っていた機からそれら24丁と弾倉が押収され、

逮捕?されるという不祥事を起こしています。

軍規則と米国関税法のどちらにも違反していたからです。

しかし、ロナルド・レーガン大統領が介入したこともあって、
メトカーフは海軍から警告を受けただけですみ、しかもその後、
海軍作戦部副参謀長に任命されるなど、全く昇進にも影響なしでした。

ただし、この特別扱いが適応されたのはメトカーフだけで、
一緒に同じことをした下士官6名と下級将校1名
(うち2人は海兵隊員、5人は第82空挺師団の兵士)は全員降格、
しかも不名誉除隊となり、少なくとも1年の懲役刑を受けています。

本人にはどうしようもなかったのかもしれませんが、それを差し置いても
そうと聞くと、このご立派な演説の有り難みもあまりなくなりますね。

同じことをやっておいて、というか一番階級が上の彼が責任者なのに、
彼だけが無傷どころか出世して、部下を見捨てた?ことには違いありません。

■ 「サミュエル・B・ロバーツ」

最後にサマール沖での「サミーB」と、三代目「サミーB」の因縁の話を。

1988年、「サミュエル・B・ロバーツ」はイラン・イラク戦争のとき、
クウェートのタンカーを保護する作戦に参加しました。

補給艦と合流するとき、見張りが付近に機雷を発見し、
艦長のポール・リン中佐は、艦が機雷原に入ったことを確認すると、
乗組員を戦闘配置に送り、艦底の乗組員を甲板に上げました。

艦はエンジンを逆転させて機雷原から後退しましたが、
係留されていたイランの接触機雷に接触し、その爆発は
竜骨を破壊し、左舷に穴をあけ、2つの区画に 2,000トンの水が浸水し、
大火災が発生したため、5分間とはいえ停電に見舞われ、
消火活動もままならない状態になりました。

必死のダメコンで艦は一応安定しましたが、乗組員10人が重傷を負い、
4人が重度の火傷を負い、リン艦長も機雷の衝撃波で左足を骨折しました。

上層部から艦を失う可能性について尋ねられたリン艦長は、
我々は決して艦を放棄しない、という答えの最後に、

これに勝る栄誉はない」

と付け加えました。

「サミュエル・B・ロバーツ」(DE-413)の艦長、
コープランド少佐が、サマール沖戦闘後の報告書に記した、

「これらの人々と共に任務に就いたこと以上に名誉なことはない」

という言葉をこの時に引用したのです。


アメリカ海軍士官学校の同窓会ホールには、レイテ湾海戦で

「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」

という名声を得た「サミュエル・B・ロバーツ」と、
その乗員を顕彰するコンコースが存在します。


続く。