ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

"We Stick Together" USS「ザ・サリヴァンズ」バッファロー海軍公園

2024-07-12 | 軍艦

バッファロー・ネイバル・パークの展示艦ツァーは、
まず岸壁に係留してある「フレッチャー」級駆逐艦、

USS「ザ・サリヴァンズI」DD-537から始まります。

コロナ蔓延中で展示が中止されていた時にここを訪れ、
岸壁から写真を撮ってここでも紹介しましたが、
今日こそは展示艦の内部全てを見学できるのです。

内部だけでなく、今日の冒頭写真のように、
潜水艦の甲板からしか撮れないような角度の写真も撮れるというわけです。


さて、ミサイル駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」については、
その外からしか見られなかった時にも一応説明しているわけですが、
あらためてもう一度命名の由来について話します。

「ザ」サリヴァン「ズ」となっているのは、「サリヴァン家」だからで、
さらにこの艦については「サリヴァン家の兄弟」を意味します。

ガダルカナル沖夜戦で沈没した巡洋艦「ジュノー」の乗組員であり、
同時に戦死した五人兄弟のファミリーネームが駆逐艦につけられました。

■ サリヴァン五兄弟



ジョージ・トーマス・サリバン二等軍曹
(12/14/1914 - 11/13/1942)
操舵手 - フランシス・ヘンリー・サリバン
(02/18/1916 - 11/13/1942)
二等水兵 - ジョセフ・ユージン・サリバン
(08/28/1918 - 11/13/1942)
二等水兵 - マディソン・エイベル・サリバン
(11/08/1919 - 11/13/1942)
二等水兵 - アルバート・レオ・サリバン
(07/08/1922 - 11/13/1942)


長男のジョージと末っ子アルバートの年齢差は7歳。
サリヴァン家の母はほとんど2年おきに一人ずつ男児を生みました。

昔、日本でもアメリカでも、世界中で子沢山の家庭が多かったのは、
産んだからといって必ずしも子供が無事に育つとは限らなかったからですが、
(医療技術が未発達だったせいで乳幼児が育たなかった)それより
当時は子供は労働力の担い手であり、多少?減ってもいいように、
できる限りたくさん産んでおくという親が特に労働階級には多かったのです。

サリヴァン兄弟の出身はアイオワ州ウォータールーです。

1937年、長男のジョージ、次男フランシスは一緒に海軍に入隊し、
一緒に駆逐艦「ホビー」(DD-208)に乗り組みました。


当時海軍は、兄弟で入隊すると同じ艦に乗り組ませるのが普通だったのです。

二人は1941年の6月に無事に海軍の任期を終えましたが、

同じ年の12月、真珠湾攻撃が起こりました。



二人は、この時撃沈された戦艦「アリゾナ」BB-39
アイオワの友人ウィリアム・V・ボール(Ball)一等水兵
が乗っていて戦死したことを知り、ショックを受けます。


seaman 1st class William V. Ball
(ボールの遺体は現在も艦内に残されている)

「アリゾナ」には彼の兄であるマスティンも乗り組んでいましたが、

彼はなんとか難を逃れ、生き残ることができました。

友人ウィリアムの死に奮い立ったジョージとフランシスは、

海軍に再入隊することを決め、その時ついでに
ジョセフ、マディソン、アルバートの弟三人を誘ったことで、

当時でも珍しい、海軍五人兄弟サリヴァンズが誕生したのです。
彼らは誓い合いました。


「五人で力を合わせてウィリアムの仇をとってやろう!」

イリノイ州グレート・レイクスにある海軍訓練学校で教練を受けた後、
5人の兄弟は全員、1942年2月3日にニューヨーク海軍工廠で
軽巡洋艦「ジュノー」(CL-52)に乗り組むことが決まりました。

このとき兄弟の一人は

“We will make a team together that can’t be beat,”
(負けないチームを作ろう)


と何かに書いています。

■ サリヴァンズに乗艦



見学ツァー通路は「ザ・サリヴァンズ」から始まります。

ラッタルを上っていくと、そこは後甲板。
隣の巡洋艦「リトル・ロック」が映り込んでわかりにくいので、
写真を加工して「リトル・ロック」をボケさせてみました。

右手に写っているのはMk12の5インチ砲で、1934年に制式化され、
第二次世界大戦中のほとんどの駆逐艦はもちろん、
戦後の原子力ミサイル巡洋艦にも搭載されました。

戦後日本に貸与された「リヴァモア」級の「あさかぜ」型、
「フレッチャー」級の「ありあけ」型、そして
戦後初の日本製駆逐艦「はるかぜ」型でも運用されています。

白い幕がかかっているのは、見学用の入り口かな?



かな?と書いたのは、結局この日「ザ・サリヴァンズ」は、
2022年に見舞われた着底事故(上)から完全に修復できておらず、
内部の見学には至らなかったからです。

わたしが岸壁から見学したのは確か12月下旬でしたが、
それから2ヶ月後に老朽化と天候のダブルパンチで沈み始めたようです。

幸い、海深が浅く、着底したことでほとんどの部分が海面に出ており、
その後の修復作業を経て、2022年に浮く状態に戻りました。

つまりわたしがここを訪れたときは、再オープンしたばかりだったのです。

わたしたちが乗艦すると、なぜかここに人がいて、
「ザ・サリヴァンズ」の説明をしてくれました。
しかし、それはどちらかというと機械的なもので、すぐに終了。
私が基本知識として知っていたことだけです。



甲板の床には「シャムロック」がペイントされています。


サリヴァン家のルーツはアイルランドです。
(アイルランドではオサリヴァンO'Sullivanとなる)

これにちなんで、「ザ・サリヴァンズ」の艦マークには、
アイルランドの伝統的なシンボルであるシャムロックが採用されました。



何年か前見学したボストンのバトルシップコーブで展示されていた、
JFKの兄の名前を持つUSS「ジョセフ・P・ケネディJr.」の艦体にも、
ケネディ家のルーツ、アイルランドのこの象徴が描かれていたと記憶します。

そしてこのパッチに刻まれた「We Stick Together」ですが、
スティックという言葉が「くっつく」であることから、特に
災害や大問題が発生した際、団結しようとか助け合おう、
ひいては一緒にいようという意味で使われる言葉です。

ちなみに写真に軍人さんの下半身が写っていますが、
この時点ではまだ艦内の修復は全く(かどうか知りませんが)
終わっておらず、ここから観光客が入っていくのを阻止する係です。

こんなことに現役の軍人を使うなよと思いますが。


現役の軍人といえば、モノホンの軍人さんが二人、ここで何か行われるのか
飲み物(スプライト)持参で乗艦しているのを見ました。

いかにも軍曹っぽいのと、いかにもルーキーらしいのの二人組。
今日は何かここで宣伝を兼ねた活動があるのかもしれません。

彼らの左側に見えているのは(デプスチャージ・トラック)
爆雷投下軌条ですが、このトラックも、艦尾の砲も、
かつては太平洋、台湾沖、そして硫黄島、沖縄で日本軍と戦い、
朝鮮戦争でもバリバリ戦闘任務で稼働していたものです。




続く。


殉職した機関水兵〜潜水艦「レクィン」最終回

2024-05-08 | 軍艦

ピッツバーグのカーネギー博物館に展示されている潜水艦、
「レクィン」を紹介するシリーズ、いよいよ最終回です。



後部魚雷室を改装して設置した航空管制室(乗組員はCICと呼んだ)には、
かつての名残であるロッカーが並んでおり、
そのうち4つの窓が展示ケースとして利用されていました。

最後のウィンドウは、殉職した「レクィン」乗組員のメモリアルです。

■ 殉職した「レクィン」乗組員



マール・ハロルド 'ティンク’ ガーロックJr.
Marl Harold "Tinker" Garlock, Jr.


の、ペンシルバニア州にある墓地の碑銘には、こうあります。

Gave his life in faithful service in his country
aboard the submarine USS Requin

潜水艦レクィンに乗艦し、祖国への忠実な奉仕に命を捧げた


死亡日は1962年9月21日、没地はヴァージニア州ノーフォーク。
このことから、「ティンカー」ことガーロックJr.水兵が、
潜水艦基地での「レクィン」艦上で死亡したことがわかります。



死亡時、ガーロック二等機関兵はわずか20歳でした。
「レクィン」が初めて第二次世界大戦末期の哨戒に出たときには
まだ2歳でものごころもついていなかったに違いありません。

第二次世界大戦で戦闘を行わず、さらにはレーダーピケット艦として
冷戦中の哨戒に出たときも、「レクィン」は敵への魚雷を撃つことなく、
したがって戦闘による乗員の損失はないまま、退役を迎えました。

その「レクィン」で唯一、たったひとり殉職したのがガーロックでした。

展示ブースにある当時の新聞記事にはこのように書かれています。

”ティンカー” ガーロック、海軍潜水艦で死亡

マール・H・ガーロックの故郷の両親に悲劇が襲ったのは、
彼らが息子の死を知らせる以下のテレグラムを受け取ったときだった。

ノーフォークの海軍基地所属、マール・H・ジュニアについて:

「私はアメリカ海軍を代表して、あなた方のご子息である
マール・ハロルド・ガーロック・ジュニア(S394898)が、
去る9月21日、
酸素欠乏による窒息によって死亡したことを
ご夫妻に対し深い遺憾の意をもってお知らせします。

ご子息は国に奉仕中に亡くなりました。
あなた方の大きな喪失に、心よりお悔やみを申し上げます。

もし、あなたがた、そして何か特別なご要望に対し、
わたしたちが力になれることがありましたら、
すぐにでもテレグラムでノーフォークまでご連絡ください」

テレグラムの送信者は、「レクィン」艦長である
E・L・フラニー大尉であった。

のちに分かったことによると、この界隈の誰もが知る人物、
「ティンカー」は、潜水艦のエンジンルーム(ポンプ室という説もあり)で
ソルベール10グリース除去剤を使用して作業中だったが、
密閉された空間で除去剤に含まれていた溶剤を吸って死亡したのであった。

「ティンカー」は海軍に勤務3年目で、メカニックの資格を持っていた。
彼の遺体はその後フィラデルフィアの故郷に運ばれ、葬儀が行われた。


ガーロック機関水兵の死亡診断書を見つけました。

直接的な死因(A) 窒息と中毒
による(B)トリクロロエタン吸入

とあり、「任務中」にチェックが入れられています。
そして、

退役軍人の場合は戦争の名前、平時の場合は平時

という欄に、

Peactime

とあります。
’e’が欠落しているのがミスなのか、これが正式な省略のかはわかりません。

いずれにしても、戦争が終わって(冷戦中とはいえ)平時に、
直接の戦闘などが予測できない中で、まだ20歳の息子を失い、
家族や友人はさぞ狼狽し、悲嘆にくれたことでしょう。


■ 潜水艦を使った戦時広告



航空管制室となって全ての魚雷装備が撤去されたスターンルームは、
ここだけ見ると全く普通の船室のような様相になっています。

ドアの向こうは現在もスタッフが使用する部屋になっています。



このコダックの宣伝ポスターは、1943年に製作された
一連の「軍隊もの」のひとつです。

私たちの安全を守るために、彼らが毎日直面していることを考えると
......彼らにこの喜びを与えるには十分小さいように思える。

任務の合間に彼らが互いに笑い合う姿は、
実は彼らがホームシックにかかっていることなど窺い知れない。

本当のことを語ることができるのは、狂気の日々なのだ。

家からスナップ写真を受け取ったときの彼らの表情。
まるで何か素晴らしいものを手に入れたかのように。

フィルムはまだ不足している。
陸軍と海軍は多くのフィルムを必要としている。

だからこそ、あなたも、手に入れることができるすべてのロールを
最大限に活用してください。
彼が見たがっている人や場所を写しだし、交換するのだ。

あなたの手紙を本当の "故郷からのスナップショット "にしてください。
イーストマンコダック、レチェスター、N.Y.


右上には戦時中らしく、プロパガンダというか戦意高揚の意味で

”Take her down "を覚えていますか?

という文言が読めますが、残念ながらそのあとは
ぶれていて判読できませんでした。


「テイク・ハー・ダウン」(潜航させよ)は、第二次世界大戦において
日本海軍の特務艦「早崎」と潜水艦「グロウラー」が交戦した際、
甲板で銃撃を受けて倒れたハワード・ギルモア艦長が
自分を犠牲にして艦を潜航させるために最後に叫んだ言葉です。



「戦時のタフな使用のために、
バッテリーに新しいスタミナを」

オーウェンス・コーニング社
(Owens Corning Corporation,NYSE:OC)

は世界最大のガラス繊維及び関連製品製造会社です。


主力製品はガラス繊維製の断熱材であり、第二次世界大戦中、
同社はグラスファイバーのバッテリー素材を生産していました。


現在、この他の主力製品は繊維強化プラスチック (FRP) などの複合材料で、
船体や自動車のルーフ、パイプ、風力発電向けの羽根に利用されます。

"Fiberglas"®は、同社の商標だったというのはちょっと驚きです。


■「レクィン」”サルベージ”ドローイング


国立公文書館から提供された USS「 レクゥイン」の原画のコピーです。

アーカイブには、数枚の大判図面、数千枚の青写真、
およびレクインの勤務時代の多くのログと通信が含まれています。



ほとんどがレーダーだったので、今ここのコンパートメントには
これくらいしか当時の機器が残されていません。

ハイドロステアリングのギアモーター。



航空管制に必須だったジャイロ。



さあ、というところで、艦内の見学を全て終わりました。
あとはこのラッタルをのぼっていきます。



最後に、階段の上からスターンルームを撮っておきました。



甲板に上がります。

他の同じツァーのメンバーの姿はほぼ影も形もありませんでした。
赤いシャツのツァーガイドは、何か質問があったら聞いてください、
程度のことしかいわず、ほとんど何も説明してくれませんでしたが、
とにかく全員を艦外に出すために、私たちが上がっていくのを待っています。

急かされている感があってゆっくりできませんでした。
もうちょっと見学時間に余裕が欲しかったなあ・・・。



というわけで、カーネギー博物館の「レクィン」見学レポートでした。

終わり。



潜水艦「レクィン」〜乗組員のわすれもの

2024-04-20 | 軍艦

ピッツバーグはオハイオ川のほとりに立つ、
カーネギーサイエンスセンターで展示されている潜水艦「レクィン」。

戦後、レーダーピケット艦に改造された際、後部魚雷室を取払い、
レーダーなどを搭載したCICになっていたスターンルームは、
レーダー等が嵌め込まれていたウィンドウが展示ケースになっています。

これは説明してきたように、「レクィン」がミグレーンプログラムによって
レーダーピケット艦に改装された時の名残ですが、改めて書くと、
彼女はこの改装によって4基の艦尾魚雷発射管を失い、
スターンルーム前方のスペースは、本格的な航空管制センター
(レーダーピケット時代に乗艦していた『レクィン』の退役軍人は、
これを戦闘情報センター:CICと呼ぶ)に改造されました。

艦尾の後方のスペースは、かつてチューブそのものがあった場所で、
乗組員のための寝室スペースに改造されました。

トップサイドでは、後部シガレットデッキの40ミリ砲が撤去され、
そのスペースは代わりにSR-2航空捜索レーダーが設置されていました。

そのとき「レクィン」は、甲板の後機関室の上に
YE-3戦闘機制御ビーコンSV-2低角度水面捜索レーダーを搭載されます。

(このレーダーは、スクリュー近くの喫水線の近くにあったため、
しばしばショートし、Nodding Idiot "うなだれる馬鹿 "と呼ばれていた)

そして「レクィン」は、当時最新技術だったシュノーケルも装備し、
潜望鏡深度に潜ったままの状態で、4基のエンジン
(フェアバンクス・モース)を作動することができるようになりました。


そして、これらの改造情報によると、スターンルームの展示ケースは
改造された収納ロッカーであった可能性が高いです。

その二つ目のケースを見ていきましょう。

それは「レクィン」とは直接的にはあまり関係ありませんが・・。

■ アメリカの民間防衛



USS「レクィン」が、冷戦時代にその任務の大部分を
東海岸の防衛に費やしていた頃、アメリカ国民の最大の懸念は
いつなんどき国土を襲うかもしれない核攻撃の可能性でした。

軍が東側諸国との境を国境防衛するあいだ、
民間人もまた無関心ではいられず、民間防衛パトロールを結成して、
核攻撃の際に国民を支援する責任を負っていました。

ここに展示されているアイテムは、ペンシルバニア州ワシントン郡の
パトロールによって使用された実物です。



アメリカ民間防衛とは、軍事攻撃やそれに類する悲惨な出来事に備えて、
アメリカ民間人が組織的に行う非軍事的な取り組みのことです。

しかし、「民間防衛」という言葉は、緊急事態管理と国土安全保障が
それに取って代わると使われなくなり、存在そのものも消滅しました。

アメリカの民間防衛が本格的に始まったのは第一次世界大戦の時です。

それまでは、国土が大規模な攻撃の脅威にさらされることがなかったため、
これがアメリカ民間人の参加と支援を必要とする最初の総力戦となりました。

このとき民間防衛において行われたのは、

「対サボタージュ警戒の維持」
「軍への入隊を奨励、徴兵制の実施を促進」
「自由公債運動の推進」
「兵士の士気維持のための大衆芸能などによる貢献」

などです。

ここに展示されているのは第二次世界大戦中の
民間防衛ボランティアのためのハンドブック、ガイド、会報です。

真珠湾攻撃後、民間防衛の動きは著しくなりました。

1941年5月には民間防衛局(OCD)が創設され、
より多くの責任が連邦レベルに与えられるようになります。

これらの組織は、脅威に対応して民間人を動員するために協力するものです。
真珠湾攻撃のわずか数日前に創設された民間航空パトロール隊(CAP)は、
民間パイロットに海岸や国境をパトロールさせ、
必要に応じて捜索救助任務に従事させるという取り組みでした。


OCDが運営する民間防衛隊は、約1,000万人のボランティアを組織し、
消火活動、化学兵器攻撃後の除染、応急手当などの訓練を行いました。

日本で隣組などが組織され、民間に訓練が行われたのと同じような感じです。

■冷戦期の民間防衛

第二次世界大戦終了後、冷戦中の民間防衛の焦点は
「核」でした。
核戦争の新たな局面は、世界とアメリカ国民を恐怖に陥れました。

「落とした側」だったアメリカが、今度は攻撃される側になる可能性から、
民間防衛には求められていた以上の対応が促されました。



配布されたパンフレットは、左から

「核攻撃から生き残る」

「あなたと大惨事の間:
生き残るために・・・
家庭でできる民間防衛
食糧備蓄」

「聞け・・・攻撃警告」

という、非常時に対する準備と心構えを啓蒙する内容です。






OCDが装備していた放射線量計。


OCD車両の専用プレート。
PENNNAはペンシルバニアのことだと思われます。

ちなみに、2023年現在、OCDで検索すると、民間防衛ではなく、
強迫性障害(obsessive–compulsive disorder)という意味になります。

そのほかこのケースには、共産主義についての知識、
OCDが装備していた高出力(たぶん)のラジオが展示されています。

■ 「レクィン」艦内に残されていたもの



ミシシッピ川とオハイオ川を遡上して、ピッツバーグに辿り着き、
その後「レクィン」はカーネギー博物館の展示に向けて
大々的にレストアが施されました。

1990年10月にツアー用にオープンした潜水艦USS「レクィン」は、
今日でもピッツバーグで最も人気のあるアトラクションのひとつです。

カーネギー科学センターからの資金援助もあり、
維持費用はそれなりに苦労せず調達できるようで、
約半年ごとにダイバーがオハイオ川に入り、艦体を点検する他、
内部空間はメンテナンスと修復が常に行われている状態です。


ここには、そんなメンテナンスの経緯を通じて、
艦内に残されていた「わすれもの」が展示されています。



左:研磨粉(粉洗剤)の缶

研磨剤の粉末を乾燥石鹸や洗剤、ソーダのことで、
この缶は乾燥漂白剤が混ぜられています。

右:
壊れやすい
精密機器 慎重に取り扱ってください
アメリカ海軍兵器局
シンクロトランスミッター(送信機)Mk7Mod4
ベンディックス航空コーポレーション
モントローズ部門
使用まで開けないでください


シンクロトランスミッターというものがどういうものかというと、

ebay Synchro transmitter

なるほど、これならこういう缶に入っていても納得です。

そしてその缶の上に見える物体ですが・・・
スチールたわしかな?


アメリカのメキシコ料理、「タケリヤ」というようなところにいくと、
手前の赤いプラスチックのバスケットにタコスが入って出てきたりします。

手前のはパンかホットドッグの包み紙、後ろの
Fleetwood Coffee
は、テネシー州のかなり有名なコーヒーロースターで、
1925年創業、今日も営業しています。

その後ろのカードは、「レクィン」ツァー許可証。
よくみると、艦番号が
AGSS−481となっています。
これは、彼女が退役後補助潜水艦として再分類されたときのもので、
その後ノーフォーク海軍基地で不活性化を行っています。

この見学は、補助艦となってから行われたイベントだと思われます。


トランプ、小銭、名誉潜水艦員証明書

名誉潜水艦証明書というのは、シャレで一般人に与えられるものだと思います。

7つの海を股にかける優れたセイラーは知っておくこと:

名前    は、この日付     に
USS             SS                 で確かに潜水を行った。

このような潜水による深海への神秘に入門した彼は、
ここに名誉潜水士に任命されるものとする。

よって、彼はドルフィンマークを身につけるべき
真の忠実な息子であることを宣言する。

          
司令官

いまならなぜ「彼」なのか「息子」なのか、なぜ男限定なのか、
ということで、いろんなところから文句が出そうですが、
もしかしたら、「レクィン」に限らず、この頃は潜水艦に一般人(男性限定)

を乗せて潜航を体験させるということが行われていたのでしょうか。

この「名誉潜水士証明書」は、その記念のためのカードが
たまたま使用されていないまま残されていたということのようです。



パイプ
鉛筆(海軍製造のロゴあり)
クレストの歯磨きチューブ
恋人の写真


これらは本当に乗組員がうっかり忘れた持ち物という感じです。

ベッドの脇から落ちてしまったのを気づかずにいたり、
退艦の時に手荷物に入れるのを忘れたり、いずれにせよ
うっかりと艦内に残したまま、彼は上陸し、2度と戻らなかったのでしょう。

それにしても、気になるのはガールフレンドのものらしい写真です。
いつも身につけるために小さくプリントした白黒写真には、
ワンピース姿の女性の微笑んで立つ姿があるわけですが、
この写真を持って乗り組んだ乗員は、どこかに失くしてしまったと思い、
そのまま潜水艦を立ち去ったのでしょうか。

肌身離さず大事に持っているようなものなら、うっかり
艦内で失くすことなどないような気がするのですが、
もしかしたら何かの事情で彼女とはうまくいかなくなり、
処分したつもりが艦内のどこかで見つかってしまったのでしょうか。

この写真が展示されるようになって、「レクィン」の乗員は
他の軍艦と同じようにベテランのリユニオンを行っています。

USS Requin reunion 1998

その2

これだけ人が集まっているんだから、この写真の持ち主、

あるいはその持ち主と仲が良かった人がひとりくらいいなかったのかな。

あるいは、写真の持ち主はとうに気づいている(いた)けど、
現在全く違う人と結婚して幸せになっているという場合。

それならそれは「なかったこと」にするしかないかな・・。


続く。





潜水艦レクィン〜最後の旅 フロリダからピッツバーグまで

2024-04-16 | 軍艦

潜水艦「レクィン」シリーズ、終わりに近づいてきました。



マニューバリングルームを出ると、そこはスターン(艦尾)ルームです。

何の前知識もなく見学したわたしにはこれは大変な違和感でした。
今までの潜水艦は、艦尾に必ず後部魚雷発射室があって、
退艦の時は必ず魚雷発射管の間に渡された梯子を上っていくものでしたから。



「レクィン」はこうなっていました。

お馴染みの魚雷発射管がなく、ただ広々とした部屋になっています。
これを言い表すには、「スターンルーム」としか適切な言葉がありません。

しかし「レクィン」艦尾が最初からこうだったわけではありません。
就役した1945年から1946年まで、ここは後部魚雷コンパートメントであり、
「レクィン」は従来の潜水艦同様、前部と後部から魚雷発射する仕組みでした。

しかし、「レクィン」がレーダーピケット艦構想により改装された結果、
ここは 1946 年に戦闘情報センター (CIC) になります。
そして様々なプランボードやレーダー機器、乗組員の寝台も設置されました。


「レクィン」航空管制室レイアウト図面

潜水艦の狭いスペースにあらたにCICを設置するには、
魚雷室の一つを潰すしかなかったのだということです。

コンパートメントは「レクィン」が任務が終了するまでCICのままでした。



CICになったかつての後部魚雷発射室コンパートメントのドア近く部分。
レーダー機器とジェネレーター、それまで必要なかったデスクがあります。



CICとなったスターンルームの壁には、今までの潜水艦見学で
見たこともないような鍵付きの扉が整然と並んでいました。

これらが何の収納場所だったかというと、レーダーです。
最初の改造が行われた時、彼女の艦種は「レーダー哨戒潜水艦」でした。

そして今ではそれが、資料展示ウィンドウになっています。

■ 海軍退役後の「レクィン」


ここにはカーネギー博物館に「レクィン」が展示されるようになるまでの
関係書類などが展示されています。

退役し、練習艦としての役目を終えたあと、「レクィン」は
1972年にタンパ市に移され、記念館や観光名所として利用されていました。

この潜水艦に対する地元の関心と支援は、その後15年間、
かなり高かったのですが、だんだん注目が薄れてきた頃、
ツァーガイドがスキャンダルをひきおこしました。(その内容は不明)

そしてその後公開はとりやめられて4年間桟橋で放置されていました。

タンパ市は1989年に海軍に「レクィン」の引き取りを要請しています。
公開が中止になり、維持できなくなったという理由のほかに、
タンパ市は1991年に開催するスーパーボウルを控えていて、
イメージアップを図りたいと考えていましたが、第二次世界大戦時の潜水艦が
それに「そぐわない」と判断したといわれています。

こういう考え方がアメリカ、しかもブルーオアレッドで言うと
「スウィングステート」のフロリダ(しかも当時ブッシュ押し)
で起こったのがちょっと意外。

■ 議会報告書(取得法案陳述)

その頃、ペンシルベニア州ピッツバーグのカーネギー博物館が、
オハイオ川岸に建設中の新しい科学センターに展示するために、
旧式艦の寄贈の可能性について海軍に問い合わせていました。

「レクィン」が取得可能であることを聞いたカーネギー博物館は、
海軍にコネのあるさまざまな地元関係者、そして
ジョン・ハインツ上院議員(共和党)に連絡を取ります。

その後飛行機事故で死亡

何度もここで述べているように、ハインツ議員は、地元産業である
ハインツの御曹司であり、力のある政治家でした。

このときのハインツ議員の出した
「レクィン」譲渡申請のための書類が右側に展示されています。

ちょっとした艦歴も書き添えられているので翻訳しておきます。


旧式潜水艦US.S.の譲渡を許可する法案

S2151にって、潜水艦「レクィン」をペンシルバニア州フィラデルフィアの
カーネギー研究所に移送する許可が与えられる。
譲渡に適用されるはずの60日間の待機期間が満了する前に、
軍事委員会に提出すること。


ハインツ上院議員による;

大統領、私は本日、潜水艦「レクィン」をペンシルバニア州ピッツバーグの
カーネギー研究所に移送するための60日間の議会待機期間を
免除する法案を提出するために立ち上がりました。

海軍長官はこの潜水艦の譲渡を最近承認しましたが、
「レクィン」をフロリダ州タンパからピッツバーグに移送するに際しては
この
60日間の待機期間を免除していただく必要があります。

その出発を早春に早めたい事情は、潜水艦の移送を、
ミシシッピ川とオハイオ川の
水位が最も高いときに行う必要
があるからです。

全長312フィートの潜水艦が川を上り、
メキシコ湾からオハイオ川の河口まで閘門を通過するには、
一年のうち唯一の時期に出発しなければなりません。

この迅速な通過の試みは「レクィン」がピッツバーグに到着する前に
通過しなければならなかったミシシッピ川の様々な区間の水位が、
タイミングを必要としたことから実行に移されました。

「レクィン」は 1972年以来タンパのヒルズボロ川に係留されており、
市はテンチ級潜水艦を維持することにもはや興味を持っていません。

カーネギー研究所が取得することによって、「レクィン」は
新しいカーネギー科学センターの一部としてオハイオ川に浮かび、
訪問者に第二次世界大戦の遺跡を見るユニークな機会を提供するでしょう。


「レクィン」は 1945年1月1日にニューハンプシャー州ポーツマス進水し、
その後 1945 年 4 月 28 日に就役しました。

グアムに向かう途中第二次世界大戦が終わり、大西洋に戻るよう命じられ、
キーウェスト近郊の第4潜水戦隊で数か月間療養した後、
彼女は1.3.5.レーダーピケット潜水艦に改造されました。

その後25年間、彼女は我が国の潜水艦として功績を残して活躍しました。

その後第 2 艦隊および第 6 艦隊と協力して広範な作戦を行い、
北極圏の北を航行し、カリブ海から地中海、
そして大西洋全体まで南アメリカ大陸を巡る巡航を行いました。

 1968 年 12 月 3 日、現役の任務を終えて退役し、
フロリダ州セントピーターズバーグに送られ、
そこで衝突事故が起こるまで海軍予備訓練艦として勤務しました。

そして現在、カーネギー科学センターの一部として
新たな役割で国家に奉仕し続ける機会を得たのです。

私は彼女がオハイオ川の岸辺に到着することを楽しみにしており、
間もなくカーネギー科学センターの一部となることを認める
彼の法案を支持するよう同僚議員に強く勧めるものであります。

大統領、法案の本文を記録に掲載することに全会一致の同意をお願いします。 


このとき、ハインツ上院議員は、海軍の60日間の審議期間
(博物館目的での旧式艦艇の譲渡に関する)を3週間に短縮するため、
必要な法案を比較的短期間で議会に通すことができました。


「レクィン」の移転を許可する法案は、1990年4月9日、
ブッシュ(父)大統領によって署名されました。

タンパ造船所で船体外板の交換を含む必要な修理が完了した後、
「レクィン」はルイジアナ州バトンルージュに移され、
ミシシッピ川を遡ってピッツバーグへの航海を開始します。


4隻のはしけの間に置かれた「レクィン」は、1日あたり

約120マイルを移動し、1990年9月4日にピッツバーグに到着しました。

そして、同年8 月7日、4 隻のバージに挟まれてタンパを出航し、
ミシシッピ川、オハイオ川を通って9月4日ピッツバーグに到着したのです。



フロリダからピッツバーグまで「レクィン」が通ってきた道(川)です。
その間経過した州は10にのぼりました。

カーネギー科学 センター (CSC) は、USS「レクィン」の航海を宣伝するため
マンガス-カタンツァーノという地元コンサル会社と協力して、
大々的にその宣伝を行いましたが、そんな彼らも、
蓋を開けるまで、多くの人々が潜水艦を一目見るために押しかけるとは
夢にも思っていなかったといいます。


曳航されて川を遡る「レクィン」

バトンルージュからビーバーフォールまで、どんなに蒸し暑い日でも、
雨が降りしきっている日でも、ミシシッピ川とオハイオ川を遡って
カーネギー科学センターの新居に向かう「レクィン」を一目見ようと、
たくさんの人々は熱心に川岸に並び、その遡上を見守りました。


オハイオ川を曳航されて通過する「レクィン」



そして最終的に「レクィン」がピッツバーグに到着したとき、
待ち構えていた2,000人以上の見物人が歓声を上げたと伝えられます。



「レクィン」を見るための観覧船特別チケットに記されている

1990年9月4日とは、彼女がピッツバーグに到着したその日です。

オハイオ川には、わたしのこれまでの写真にも写っていたように、
右上の遊覧船「ゲートウェイ クリッパー フリート」が就航していますが、
この日は、「レクィン」の到着を遊覧船の上から見るため、
特別チケットが販売されて、熱心なファンが買い求めたのでしょう。

続く。



マニューバリングルーム〜潜水艦「レクィン」

2024-03-27 | 軍艦

カーネギーサイエンスセンターで展示されている、
潜水艦「レクィン」の艦内ツァー、エンジンルームの隣は
マニューバリング(操縦)ルームです。


毎度出してくるこの図でいうと、5番のところにあります。


■ マニューバリングルーム


エンジンルームの隣のマニューバリングルームは
潜水艦全体の電力の供給を制御し、
コニングタワー、ブリッジ、コントロールルームからの命令に応じて
すべての速度変更が行われる場所です。



ロッカーのような扉にはE-6、E-7、E-8、と書かれています。
EはエレクトリックのE?



制御パネルと配電盤が並びます。
配電盤は潜水艦の後部半分にある補助モーターに電力を供給するもので、
補助モーターは、コンプレッサー、ポンプ、ヒーター、ブロワー、
その他の高出力機器を作動させます。

配電盤への電力は、艦尾のバッテリー、補助エンジン、
または前方のバッテリーからバスタイを通して供給されます。


手前の白い計器は、STBD(右舷)の潤滑油圧力、
右上の小さな計器は電圧計です。


「レバーは動かさないでください!」

という注意書きあり。(エクスクラメーション付き)

レバーは左から


リバース、スタート、ジェネレーター4、ジェネレーター2

発電機は全部で4基、前後エンジンルームに二つづつあります。
左舷側にあるのが2と4です。


これをポートコントロール(舷側制御盤)といいます。
上の通り、2号と4号発電機の発電機レバー、
舷側モーターの始動・逆転レバー、バスセレクター、
後方バッテリーレバーで構成されているものです。

 これにより各プロペラシャフトの速度と方向が指示されます。


今まで見てきたように、ここはエンジンルームの隣にあります。
エンジンはプロペラを直接駆動するのではなく、
まず、各エンジンに取り付けられた発電機(ジェネレータ)を回します。

発電機から送られた電力は、メイン蓄電池に充電され、
電気推進モーターに供給されます。

そしてその切り替えを行うのが、推進制御スタンドです。
潜航中は、主電池から電力を取り出し、浮上時には、
発電機から供給されるのと同じ電気モーターに供給していました。

第二次世界大戦中、米潜水艦はシュノーケルを装備していなかったため、
作動に大量の空気を必要とするディーゼルエンジンは
海面に浮上している間だけ使用されていました。

「レクィン」はレーダーピケット艦のための改装プログラム、
「ミグレーン」IとIIでシュノーケルを装備しています。

一般的にディーゼル艦のマニューバリングルームにあるのは、

【モーターオーダーテレグラフ】
各プロペラシャフトに命令された速度と方向を表示する


【エンジンガバナーコントロール】
各メインエンジンの回転数を遠隔操作する


【軸回転表示器】

各シャフトの回転数を表示する

【グランドディテクター】

潜水艦のウェットな環境は、保護絶縁を通して
電気エネルギーの損傷や漏れにつながる可能性があるため、
この計器で漏電や短絡を検出する

【測温抵抗体】

モーターや減速機の温度を遠隔で示す

金属の電気抵抗率が温度に比例して変わることを利用した温度センサーです。

【ダミーログトランスミッター(送信機)】

前部魚雷室に設置された本物のログ(水中センサーによる速度計)
が故障した場合、この装置を使用して、推定速度を
船速のデータが必要な航行や火器管制提供することができた


このような装備が搭載されています。


わたしの前の見学者の姿がついに見えなくなりました。
みなさん、もっとじっくりと細部も見学しようよ・・・。


■ レーダーピケット任務終了後の「レクィン」

ー1959年から1968年まで

多くの姉妹潜水艦がスクラップ、モスボール、

または他の海軍に売却されていく中、大々的に改装されていたこともあり、
状態が非常に良好だった「レクィン」は新たな命を得ることになりました。

「ミグレーン」プログラムの段階的廃止に伴い、
すべてのレーダー装置は「レクィン」から撤去されており、
オープンコニングタワーは、いわゆる高いプラスチックのセイル
(実際にはグラスファイバー製)に置き換えられていたのです。

これらの改造が彼女の余生を伸ばすことになり、

「レクィン」はその後9年間大西洋艦隊で活躍し続けました。

しかし、実際のところ「レクィン」の活動時間はなくなり始めていました。


1966年後半、「レクィン」は南米各国海軍との一連の演習である
UNITAS VIIに参加し、帰国したのですが、ちょうどその頃から
海軍は「レクィン」の有用性の有無を検討し始め、その結果、
彼女の寿命は尽きつつあるという判断に至ったのです。

そして海軍は1968年末に「レクィン」を退役させることを決定しました。

1968年5月に行われた「レクィン」の最後の任務期間は、わずか1週間。

その内容は主に行方不明になった
原子力攻撃潜水艦USS 「スコーピオン」
SCORPION (SSN 589)
の捜索にあたるというものでした。

「スコーピオン」は「スレッシャー」と並び、
アメリカ海軍が喪失した2隻の原子力潜水艦の一つとして有名です。

彼女はNATO演習参加後、母港への帰投中の消息を絶ち、捜索の結果、
アゾレス諸島南西沖海底で圧壊していたことがわかりました。

当初の原因は投棄したMk37魚雷の命中とされていましたが、命中ではなく、
魚雷の動力源の欠陥による不完全爆発が原因であるとの異論があります。

整備もままならないほどの過密な原潜運用スケジュールが背景にあり、
沈没の責任は海軍にある、とする説ですが、それもあってか、
いまだに沈没原因は曖昧なままとなっています。



「レクィン」が海軍を退役したのは1968年12月3日のことです。


その後フロリダ州タンパに曳航され、海軍予備役練習艦として使用され、
1971年12月20日、海軍リストから抹消されるまでこの任務に就きました。


続く。



アフターエンジンルーム〜潜水艦「レクィン」

2024-03-24 | 軍艦

前回、潜水艦「レクィン」がレーダーピケット潜水艦として、
戦闘艦たる任務に就いた、というところまでお話しし、
その後は艦内ツァーでフォワードエンジンルームまでをご紹介しました。


これはサンフランシスコの「パンパニート」の解説ですが、
エンジンの#1と#2、#3と#4の配置、
それが動力にどうつながっているか可視化できるので載せておきます。

今日は、#3と#4のあるアフターエンジンルームからです。

■ アフターエンジンルーム


フォワードとアフターエンジンルームの間には扉があります。
ところで、この扉の横に見えるもの、これはなんでしょうか。


後部エンジンルームにも同じものがあり、そこには
Lube Oil とペイントされていました。
おそらく、エンジンのための潤滑油を供給する機器だと思われます。

各メインエンジンには、潤滑用の圧油システムが装備されていて、
タンクから潤滑油圧送ポンプが逆止弁を通してオイルを吸い上げ、
オイル・ストレーナーとクーラーを通してオイルを圧送します。
その後潤滑油はエンジンに入ります

エンジン入口の接続部から流れたオイルは、
主軸受、ピストン軸受、コネクティングロッド軸受、
カムシャフトドライブギヤと軸受、バルブアセンブリに分配されます。

分岐によって分けられたオイルは、ブロアギア、
ベアリング、ローターに供給されます。


後部エンジンルームに移ったところ、前を歩いていた人が
ちょうどコンパートメントを出ていくところでした。

やばいどんどん離されている。

通路の両側にはエンジン#3と#4があり、こちらから見て
左が#3、右が#4となります。
今見ているエンジンは、通路の下の階に設置された本体の上部分です。

   ちなみに左舷の2基のエンジンは左回転用、右舷の2基は右回転用です。


こちらは右側の#4エンジン。
体を支えるためのバーが設置されています。
ベンチはおそらく物入れも兼ねているのでしょう。



#3エンジンの上にはここにも洗濯物が干してあります。
気温が高くなるのであっという間に乾いてしまいそうですね。



#4エンジンは一部カバーが切り取られ、中身を見ることができます。

各エンジン用の燃料は、燃料オイルポンプによってタンクから汲み上げられ、
フィルターを通して強制的にインジェクターに送られます。

エンジンは真水冷却システムで冷却されます。
エンジンルームに淡水化装置があるのもこれが理由です。
淡水は、遠心式の淡水ポンプによって循環させるしくみであり、
エンジンのブロワー・エンドに取り付けられています。



第2エンジンルームはここまでです。
コンパートメント扉の下には板が貼ってありますが、
これは配線を傷つけないように現役時代からあったものと思われます。


■ 「ミグレーンII」改装後の「レクィン」

さて、戦後初めてのレーダーピケット潜水艦として
無理くり改装を施された「レクィン」ですが、何しろ初めてのことで
いろいろ不具合が生じたため、アメリカ海軍は
「ミグレーン」(頭痛)プログラムで改良を試みました。

そしてミグレーンII型に改装された「レクィン」は、
レーダーピケットとして11年間運用され、その際、改装後に設置された
艦内の航空管制センター(air control center)は、
大型艦のCIC(戦闘情報センター)と同様に運営されました。

レーダーピケット艦として就役中のほとんどの期間、
「レクィン」は大西洋沿岸で活動していました。

北極で氷に対するレーダーの反応をテストすることがあれば、
まったく逆に地中海への巡航も多かったといいます。

よくあるオペレーションの展開時、
「レクィン」は管制センターに4人の有資格監視員が配置されます。

Aircraft controller(航空管制係)
Height finder operator(高度計オペレーター)
Plotter to plot all contacts reported(プロッター)
Phone-talker to the bridge(艦橋との電話連絡係)

「ハイト ファインダー」というのは直訳すると高度計で、
地上に設置された航空機の高度を測定する装置です。

第二次世界大戦の頃、ハイトファインダーは航空機の高度(実際には、
コンピュータで視角と組み合わされて高度を生成する配置からの傾斜距離)
を決定するために使用された光学測距儀であり、
高射砲を指示するために使用されていました。

ハイトファインダー・レーダーは、目標の高度を測定するレーダーです。
現代の3Dレーダー・セットは方位角と仰角の両方が探知できます。

プロッターは、報告された全てのコンタクトをプロットする任務です。

レーダーピケット艦としての「レクィン」は、
もう一隻のレーダー・ピケット潜水艦と組んで、
「脅威軸に沿って」“along the threat axis “
行動するのがその任務でした。

2隻の潜水艦が組むのは、メインのピケットが潜航しなければならない場合に
もう一隻の潜水艦がカバーできるようにという意図があります。


■ 忌避されがちだった「レクィン」

同じアメリカ海軍の潜水艦なのに、「レクィン」は他の潜水艦より
味方から信頼されないというか、不信感を持たれていたとい噂があります。

もしかしたら、大西洋で氷の下に行ったり地中海に行ったりする任務で
他の潜水艦よりも海上で過ごす時間が長く、
その分存在が非常に不透明に思われたからかもしれません。

地中海でのあるピケット・ミッションでは、
戦闘航空哨戒機(CAP)の司令官が当初、
「レクィン」のコントロールを拒否したというショックな話もあります。

いくら隠密行動が身上の潜水艦でも、同じ海軍の艦にそれはないだろう、
という気がしますが、もちろんこれは最終的な拒否ではありませんでした。

最終的にCAP司令官は「レクィン」参加を受け入れていますので、

「えー『レクィン』?何それ?怪しいからあまり一緒にやりたくねー」

程度の拒否に尾鰭がついた可能性もあります。
いずれにせよ、ミッションは滞りなく続行されたみたいですし。



その後も「レクィン」は、レーダーピケット艦として、
貴重なレーダー・ピケットのサービスを提供し続けました。

海軍はその後、水上および水中ベースのピケットそのものを
段階的に廃止しはじめたのですが、それらの動きの中、
最後のレーダーピケット潜水艦として彼女は粛々と任務を継続し続けました。

最終的にミグレーン・プログラムが終了し、
レーダー・ピケット潜水艦が正式に廃止にかかったのは1959年のことです。

続く。




レーダーピケット艦第一号〜潜水艦「レクィン」

2024-02-29 | 軍艦

潜水艦「レクィン」の見学途中ですが、ここであらためて
「レクィン」の艦歴についてみてみましょう。

■ 就役〜終戦〜”退屈な任務”

1945年4月28日就役した潜水艦「レクィン」(SS 481)の海軍キャリアは、
スレイド・D・カッター大尉が指揮官に就任し、
米海軍が潜水艦を正式に受け入れたその日の朝1130に始まりました。

80隻の「テンチ」級潜水艦は80隻受注されましたが、
そのうち建造されたのは25隻だけでした。
「レクィン」はそのうちの1隻であり、さらに同級で現存しているのは
「レクィン」と「トースク」 (USS Torsk, SS-423)2隻だけです。


USS「トースク」

「トースク」は就役が1944年12月だったので、戦線に赴き、
2回の哨戒で日本の艦船を4隻撃沈しています。

「トースク」は8月14日に2隻海防艦を撃沈していますが、それらは
第二次世界大戦において魚雷によって沈められた最後の軍艦となりました。

「トースク」が展示されているのはメリーランド州ボルチモアの博物館です。



就役後、「レクィン」はパナマ運河地帯で習熟訓練を行い、
いよいよ実戦に向かうために1945年7月末にハワイに到着します。

そのときの「レクィン」が搭載していた武装は、

5インチ/ 25口径湿式マウント砲 2基
40ミリメートル速射砲を前部と後部に1基ずつ
魚雷発射管 10基
5インチロケットランチャー 2基

1945年8月15日。
戦争が終結したとき、彼女は最初の哨戒にまさに出撃するところでした。
知らせは「レクィン」総員を騒然とさせます。

戦闘ピンをもらえなかったことに動揺する乗組員。
生きて終戦を迎えたことを喜ぶべきだという士官。

さまざまな思いを乗せて「レクィン」は数週間後祖国に戻り、
到着後、大西洋艦隊に編入されました。

その後の数ヶ月間は、ソナー学校の艦船に標的を提供することが主な任務で、
艦長のスレード・カッター曰く「退屈で退屈な任務」でした。

哨戒に出て功を上げたい血気盛んな乗組員たちにとっては特にそうでしょう。

1946年夏、1年間この任務をこなした「レクィン」は、
新しい指揮官と新しい任務を与えられることになります。

■レーダー・ピケットとしての「レクィン」

「レーダーピケット艦」という戦術思想が、

どうやって生まれたかご存知でしょうか。

それは、ほかでもない第二次世界大戦の後期、日本が選択した
特攻という前代未聞の戦術への対抗策としてでした。

レーダーピケット艦は多くの場合駆逐艦が務め、
レーダーによる索敵を主目的に、主力と離れて概ね単独で行動します。

しかし、特攻が激化してレーダーピケット艦が攻撃を受けるようになると、
米海軍は潜水艦を使用するアイデアを熟考し始めました。

つまり、十分なレーダーを搭載し、迎撃戦闘機を制御し、出撃機を誘導し、
艦隊に警告を与えることができるようにするという役目を、
航空攻撃を受けにくい潜水艦に担わせるということです。

そして、1945年の夏、他ならぬ「レクィン」が太平洋艦隊の一員として
日本沖に配備され、そこで行うはずの任務が、
史上初の潜水艦によるレーダーピケットでした。

レーダー・ピケット潜水艦としての「レクィン」が配備される前に
戦争は終結しましたが、その必要性は戦後も海軍に認識されました。

そして世界は冷戦に突入します。

アメリカは、敵となったソ連の航空戦力による対艦攻撃への備えとして、
1950年代初頭よりレーダーピケット任務の増大を始めました。
それを受けて整備されたのが、

レーダー駆逐艦(DDR)
レーダー哨戒駆逐艦(DER)
レーダー哨戒潜水艦(SSR)

「レクィン」はその役目を担う最初の潜水艦として指名されました。

この改造の対象となった最初の2隻の潜水艦は、「レクィン」、
そしてちょうど建造中だった、


USS「スピナックス」Spinax(SS489)

でした。

しかしながら、この改造にはかなりの問題がありました。

使用された装備は、水上艦部隊から急遽転用されたため、問題噴出。

中でも水上艦用だったレーダー機器を狭い潜水艦に詰め込んだことで、
ただでさえ狭い後部のスペースが、さらに狭くなったりしました。

また、潜水することで水上艦用アンテナのシステムがショートするという、
どうして前もってわからなかったの的なトラブルが発生していました。

■ 「ミグレーン(頭痛)」プログラム

さあみなさん、こういう事態になるとアメリカ海軍は何をしますか?
そう、「なんちゃら作戦」発動です。

1948年、アメリカ海軍はその名も

Migraine(頭痛)Program

作戦を発動し、「レクィン」と「スピナックス」に搭載された
初期のレーダー装備の改善プロセスを開始します。

ミグレーン作戦によって最初に改造された潜水艦は、

「ティグローン」(SS 419)TIGRONE

でした。
この名前が「ミグレーン」と韻を踏んでいるのは偶然ではないでしょう。

そのせいなのかどうかはわかりませんが、「ティグローン」はその後
「バーフィッシュ」(BURRFISH)と名前を変えています。


「ティグローン」の改造は、乗組員の食堂が航空管制センターに改造され、
接舷がステムルーム(チューブが取り外された)に移動し、
砲台はより小型で強力なものに交換され、
2つの前部魚雷発射管は取り外されました。

シュノーケルを装備し、

航空捜索レーダーアンテナは後部喫煙デッキの台座に、
水上捜索レーダー・アンテナは司令塔とステムのほぼ中間の台座に、
戦闘機管制レーダーは潜水艦の艦尾付近に設置されることになります。


■ミグレーンIIで改造された「レクィン」

「レクィン」と「スピナックス」はミグレーンIIプログラムで
さらに広範囲の改造を受けることになります。

艦尾チューブが完全に撤去された
ステムルームの前部は航空管制センターに改造
寝台スペースは後部に移動


ミグレーンII改装後の「レクィン」上部構造

さらに、前部魚雷室の下部2基の魚雷発射管は不活性化・密閉されて
収納スペースに改造され(もう必要ないということですね)
蓄電池も容量の大きい改良型サルゴ・バッテリーに交換されます。



レーダーアンテナの配置もミグレインIとIIでは異なり、
SR-2航空捜索レーダー・アンテナは後部喫煙デッキの台座に置かれ、
水上捜索レーダー甲板上、航空管制センターの上に置かれました。

戦闘機コントローラビーコン(YE-3)も甲板エンジンルームの後に移動です。



これらの改造に伴い、「レクィン」は1948年、
レーダーピケットを意味する新しい呼称、SSRを受けたのでした。

■ クルーズ・ベーシング(乗組員寝室)


SSRとしての「レクィン」については後で触れるとして、
今日は艦内ツァー、前回のクルーズメスの続きを見ていきます。


この番号の3番、Berthingです。
ここには36台のバンク(乗組員寝台)があります。


寝台の間にミルクなどの缶詰が積まれていますが、
もちろんこんなふうに缶詰を貯蔵していたわけではありません。
おそらくここにはもともと四人分のバンクがあったはずです。



バンクのマットレスの下は持ち物の収納場所になっています。



近くに立ち寄ることは物理的にも時間的にも不可能でした。
セーラー服とポール・Lの名前入りアルバム?
左の『RAT』はなんだかわかりません。意味はわかりますが。

あだ名かな?

右側の本の題名は「ホーム・イズ・ザ・セイラー」
上半身裸の水兵さんがセクシーなお姉さんを抱き寄せている扉絵です。



冬用セーラー服、写真にグリーティングカード、
タスクグループ・アルファのペナント。



冒頭のこの写真は1959年USS「フォージ」を旗艦とするTGアルファです。
「アルファ」の潜水艦は2隻、そのうち1隻が「レクィン」でした。



野球のグローブが見えます。
グローブの隣は水兵さんが荷物を一切合切入れて運ぶ布袋で、
「シーマンだれそれ」と名前を書くようになっています。



いきなり現れる壁とドア。


建造時の「レクィン」にはなかったのですが、終戦後、彼女が
訓練潜水艦となった1958年に増設されたそうです。

壁ができる前はここは広々と(当社比)した空間で、寝台がありました。

現在はカーネギーサイエンスセンターの職員オフィスとなっています。



バンクの隣は洗面所です。
洗面ボウルは4台、左はシャワー室。
中は見えませんでしたが、二つしかなかったのではないでしょうか。



洗面台の奥に詰め込まれているのはジャガイモの袋。
天井にはレバーで操作する機構があります。



トイレは・・・ひとつだけ。
これは厳しい。色々と。

ちなみに、艦内図を見ていただくとお分かりのように、
乗組員居住区の下は、後部バッテリーとなっています。
ここには総計126個の鉛蓄電池が設置されていました。

前部バッテリーは士官居住区、後部は乗組員居住区の下というわけです。



右が洗面所、その先が次の区画です。

■ 前後部エンジンルーム



次のコンパートメントはエンジンルームです。
まずは前部エンジンルームから。



ここにあるのは「エンジン1」。



フェアバンクス=モースの38D 8 1/8ディーゼルエンジン
4基搭載されています。



前後二つのエンジンルームハウスは、4基の1,600馬力ディーゼルエンジンと
4 台の1,100キロワット発電機があります。


こちらは前部エンジンルームの2基目、「エンジン2」です。
エンジンは発電機を作動させ、艦に電力を供給する直流電力を生成します。


そこで次のコンパートメント、後部エンジンルームです。
前の人からこんなにも遠く離れてしまいました。


続く。



潜水艦「レクィン」〜”パンプキンパイコースに針路を取れ”

2024-02-26 | 軍艦

カーネギーサイエンスセンターで展示公開されている、
第二次世界大戦終戦直前に就役した潜水艦「レクィン」内部ツァーです。


前回はこの艦内区画の9番にあるコントロールルームと、
その出口にあるレイディオ・シャック(通信室)を見ました。



ここで次のコンパートメントに移動します。
今日は2番であるメスデッキ、乗員食堂をご案内します。

この楕円形のコンパートメント間のハッチですが、
もちろん水密ドアが設置され、いざとなるとそれは閉じられました。



左に見えているのがコンパートメントドアです。
次の区画に入るとすぐに右手(左舷側)にゴミ捨て用のハッチがあります。

これは直接外と繋がっているため、開閉には細心の注意が必要でした。
ハッチの蓋には、

「開ける前に必ず説明書を読むこと」

と書いてあります。



ここは乗組員全員の胃袋を満たすための調理を行うギャレーです。
ここにくるととたんに展示にやる気というか、工夫が見られます。



ミートミンスミキサー(肉をミンチにする機械)と、手前には
アメリカのキッチンでは欠かせないブレンダーがあります。

ブレンダーはキッチンエイド製品だとターゲットなどで2〜30ドルで買えます。
単純な機構なので、値段もトースター並みに安いのかと。

棚の上にはハインツの「スィートレリッシュ」の缶詰が見えます。

レリッシュというのは薬味というか、日本だと漬物的位置の添え物で、
みじん切りにしたきゅうりのピクルスのことを指し、
アメリカ人はこれをホットドッグなどに付けて食します。

ピッツバーグはハインツの発祥の地であり、現在も
最初のハインツの工場が残っていますが(現在はアパートになっている)
ここでハインツ製品が強調されている理由はそれだけでなく、
ここピッツバーグに「レクィン」を運んでこられたのも、
ハインツ創業者ヘンリー・ハインツの孫である上院議員、

ジョン・ハインツ3世 Henry John Heinz III 1938-1991

の尽力があったからです。


コーンスターチはとろみをつけたりお菓子の材料にしたりします。
その向こうの「ポッパーズ・チョイス」というのを調べると、

コーン油(弾力性と低飽和度)とココナッツ油(味とサクサク感)
を独自にブレンドした非分離、非水素添加のポッピングオイル
ココナッツ・オイル(味とサクサク感)が独自にブレンドされている

ポッパーズ・チョイスは、コレステロールを含まず、
ココナッツ・オイルよりも飽和脂肪酸が55%低い

原材料 大豆油、ココナッツオイル、ベータカロチン(着色料)、
ナチュラル&ノンオイル

ということらしいのですが、これを調理に使っていたんでしょうか。



それにしても手前のチョコレートメレンゲパイ美味しそう・・・。
左の茶色い袋は海軍でローストしたオリジナルコーヒー入り。

「ネイビークロージング」がコーヒー?と不思議ですが、
ブルックリンには昔からブルックリンネイビーヤードというのがあり、
現在もここでは海軍公式グッズを販売しています。

Brooklyn Navy Yard

床に転がっている白い袋はブラウンシュガー入り。
海軍でも健康志向で精白砂糖は避ける傾向にあるのでしょうか。



日本の鉄板焼きレストランなら、この一切れが四人分になって出てきそう。
手前の「モートンソルト」ですが、現在でもアメリカで食用を始め、

工業、農業用から道路用の塩を販売しているシカゴ本社の会社です。



アメリカで最もよく知られた10代広告のうちの一つ、
モートン・ソルトのロゴ「モートンガール」。

ところで、このステーキを焼いている鉄板なのですが、



これは本稿を作成しているとき住んでいたAirbnbのキッチンコンロで、

真ん中の鉄板部分を

プランチャPlancha

というらしいです。


真ん中の部分を火を下ろした鍋類を置くためのものだと思っていましたが、
MKに言われてこの下にバーナーがあるのを知りました。


一般家庭にも時々あるこのシステム、一度にたくさんステーキを焼く
潜水艦のギャレーなら常備しておくべきかもしれません。



床のグレーチングごしに階下の様子が見えます。



ここはコールド・ストレージ / パントリー、冷蔵庫と食品庫です。
ここには哨戒中に必要な食料品が4.5トンの量貯蔵されていました。



■「針路を”デザートコース”に取れ」

パイが登場したところで、余談です。

「 荒れた海を通過することは、
レーダーピケット潜水艦の操舵を容易にするだけでなく、
潜水艦のパン焼き係の寿命が延びる

何その風が吹けば桶屋が儲かる的な?逸話。
この話は艦内の掲示板に書かれていました。

この好例は我が「レクィン」で起こりました。

ある晩「マンブレース作戦」に参加中のピケット潜水艦「レクィン」、
嵐の中、大西洋で海上を任務哨戒していたときのことです。

パン焼きのチャールズ・ベドウェルは、そのとき潜水艦の小さな調理室で
パンプキンパイを焼こうとしていたのですが、
パイをオーブンに入れるのと同じ速さで潜水艦が荒れた海の中を転がるので、
中身が詰まったパイの中身は全て床にぶちまけられてしまいました。

彼がパイ焼きを諦めかけたとき、艦長がコーヒーを飲みにやって来ました。
そしてパン焼き係の窮状を見て、ブリッジの当直士官に、
ただちに潜水艦の針路を変更するよう指示を出したのでした。

って作戦はもうええんかい。

変更されたあとの針路は「パンプキンパイコース」

または「デザートコース」と呼ばれることになり、
ベドウェルはもちろん、乗組員全員が幸せになりましたとさ。

どっとはらい。


■ クルーズ・メス



クルーズメスのテーブルはこの4つだけです。
一度に座って食事ができるのは24名、ということですから、
一つの椅子に男三人が腰掛けるということですか。

まあ、潜水艦勤務の男たちは基本スマートなので座れるでしょうけど。

テーブルにはバックギャモンなどゲームの面がプリントされていて、
彼らはここで食事、休憩、映画鑑賞の時間を過ごしました。


メスとギャレーの間にはここにも受け渡し窓があります。
棚の上にはスポンサーのハインツ缶詰がずらり。
アップルソース、トマトケチャップ、アプリコット、ビーツの缶が
まるで商品見本のように並んでいます。


カウンターにはトースターと並んで映写機がセッティングされています。
今日はムービーナイトですか。


ところでまじまじと見ても何かわからなかったのがカウンター横のこれ。
アルファベットと数字の組み合わせでウィンドウの中の何かを選ぶようです。
もしかしたらジュークボックス的な?



その下にはかつての「レクィン」で乗組員が休憩時間を過ごしている写真が。


こちらの二人はトランプ、向こうの二人はゲーム盤で対戦しています。
右側に積み上げられたパンとコーヒー豆がリアル。



壁には自衛隊でも見られる艦マークの盾、
ブルティン(コルクですが)ボードには今は写真しか貼ってありません。



通信が来た時のためのヘッドフォン、そして据え付けられた時計は
通常のものとちがい、24時間時計となっています。
窓のない潜水艦は昼と夜を太陽で確認することができないので、
灯りの色でそれを表しますが、さらにこれがあるとわかりやすいですね。



盾は基本的に交換することによってコレクションされます。

上左から:
SS257/ SS568「ハーダー」
SS481「レクィン」
SS555「ドルフィン」

下左から;
SSBN64「ベンジャミン・フランクリン」
SSN615「ガトー」
SS34「クラマゴア」(Clamagore)

このほかにも、カウンターの横には

SSN720「ピッツバーグ」
SS41「バップ・ドス・デ・マヨ」(BAP Dos de Mayo)

の盾があります。
バップ「ドス・デ・マヨ」は聞いたことがありませんでしたが、
ペルー海軍がエレクトリック・ボート社に発注した潜水艦です。

ドス・デ・マヨという名前は、スペイン・南米戦争中の1866年に
カヤオで戦われた同名の戦いの勝利に敬意を表して命名されました。



ボードに貼られた写真も見ていきましょう。

「レクィン」甲板での乗員記念写真は、士官以外全員が砲の上。
下の写真は艦長の離任式でしょうか。
絵葉書にはフロリダのどこかの港が描かれています。


右:サインがあるのでおそらく女優のプロマイド
左:甲板での一シーン。カラーなので1960年以降でしょうか。


右はこれも女優かな。
左はファミリーデイか何かで、かーちゃんと嫁(妹かも)
が潜水艦見学をしにきた時の記念写真でしょう。

こういうときに、潜水艦乗員は彼女らのことを

スナッチ・イン・ザ・ハウス(Snatch in the house)
=潜水艦に乗船している女性


と呼ぶということは先日スラング集で書きましたが、当時の女性は
こんなときにもスカートを履いていたので、ハッチから降りてくる時、
ハッチ下に「走り出す」輩が「レクィン」にいなかったことを願うばかりです。





甲板にやってきたお客様。



溺者救助の方法は誰にでもわかるところに常備です。


続く。



潜水艦「レクィン」〜コードネームは”ロケットウルフ”

2024-02-18 | 軍艦

ピッツバーグのカーネギーサイエンスセンターに展示されている
潜水艦「レクィン」の艦内ツァーシリーズ続きです。
前回、士官区画までをご紹介してきました。



「シルバーサイズ」のときも言及しましたが、「レクィン」のバッテリーも
この士官居住区画、オフィサーカントリーの床下に設置されています。
士官居住区は12番、バッテリー室は10番。
バッテリー室には126個の鉛蓄電池が保管されていました。



さて、オフィサーズ・カントリーから次のコンパートメントに移ります。
区画間のハッチは、Uボートもそうだったように分厚い円筒形の者が多く、
通過するには身を屈めてくぐっていくわけですが、「レクィン」は
ご覧のように縦長の楕円で一般見学客にも「優しい」作りとなっています。

■ コントロールルーム


このコンパートメントは潜望鏡が通るセイルの下部分です。


この図の9番に当たります。
コントロールルームを一言で言うと、

「メイン・ジャイロコンパスとその周りに
潜水と浮上コントロール装置がある場所」

ということになろうかと思います。

■ ハル・オープニングとベント・フラッド警告灯


先ほどの部分とその天井部分です。



SALT WATER DEPTH TO KEEL
SP. GR. OF SEA WATER
1.025

とあります。
まず、Depth to Keel(キール深度)とは、
水面から船舶のキール(最も深い部分)までの水深(または喫水)のこと。
キールは、一般的に定義された測定基準点です。

しかし、潜水艦であるこの艦の場合、その数字が意味を持つのは
海上航走している時だけと言うことになるのですが・・・。

それからSP.GRというのは、Specific Gravityを意味すると推察します。
物体の比重を水の密度で割ったもので、水の密度は1mあたり1,000kg。

というわけで、海水の比重は1.025ということが表記されています。



上の段のランプは、外に向かって開かれるハッチやドアが
潜航の際水密されているかを確認するためのランプで、

HULL OPENINGS

と言う文字が刻まれています。
この確認ランプは現在も生きていて、ブリッジのハッチ、
メインハッチがオープンであとはクローズされていると表示されています。

下の

VENTS(ベント)

は当たり前ですが全てシャットされています。
今更言うまでもないですが、潜水艦は潜航する際ベント弁を開きます。
ベントはメインタンク内部空気排出を行い、
メインタンク下部の海水注入用の穴(フラッドホール)から海水が入り、
船体浮力が低下して艦が沈下を開始するので、今開いていると困ります。

フラッドホールが閉じているかを示すため、右側に

FLOOD(フラッド)

のランプがあります。


その隣の壁面の機器も見ていきましょう。



下はアンプで上には
DELAY
COARSE-OUT
FINE-IN
と操作するダイヤルがある機器です。
製造番号が写っていないので判明しませんが、

ナビゲーター、有資格の修理技術者、または上記のいずれかによって
認可された者以外は、この機器を取り扱わないでください。


と緑のテプラで警告がされているので、
かなり専門的な知識が必要な操作を要するものかもしれません。

それらの乗っているシルバーのロッカーの中には、
小さな武器(小銃など)が収納されているようです。



エンジンテレグラフです。
これはメインのものではなく、艦内各所にあるものの一つで、
この区域の左舷に設置されています。


操舵のアングルをモニターする機器です。

この針が触れている方向に舵が切られているということになり、
現在の「レクィン」はほんのわずか左に舵を切っています。
35以上の数字がないのにちょっと驚きました。

モニターの上の二つの機器はそれぞれ左と右を示しますが、
0から3000までの数字の意味はわかりませんでした。



左は速度計、右はどの方向に進んでいるかを示す磁石、
下の赤いランプはそのままステアリングギアのオンを表します。


潜望鏡が貫通している中心部。
垂直のラッタルは上階のコニングタワーに行くためのものです。



写真を撮っているときは気づかなかったのですが、
ここで初めて艦内の説明版らしきものが出てきました。

ここはコントロールルームで、潜航と浮上に関する装置があり、
この上には司令塔、コニングタワーがあると書かれています。


ラッタルの向こうがステアリングです。

当たり前のことを今更と言う感じですが、水中で舵を切るには、
潜水艦の尾部舵を使って左舷(右)または右舷(左)に旋回します。

操舵手のことを英語でプレーンズマンといいます。
操舵は二人のプレーンズマンがここプレーンズステーションに常駐し、
上下左右の動きを指示するプレーンと舵を速度に合わせて調整します。


ラッタルの横の部分は天井からいろいろと
ものものしいものが迫り出しています。


丁寧に写真を撮っていたら前の人との間がずんずん開いていくのだった。


この階の下の灯りがついていました。



そうなると何があるか見たいのが人情というもの。
潜水艦の井戸がある部分ですから、何かあるはずですが・・・。



前の人を追いかけながら適当に壁を撮るとこんな写真になります。

何が撮りたかったんだって感じですね。


高圧電気の機器(アンプなど)が収納されている部分。
剥き出しになっていると危険なので、まるで金庫のような表面です。



唯一扉のあるコンパートメント、それがレイディオシャックです。
通信室はボートにとって最も重要な情報をもたらすため、
どんな潜水艦でも必ずコントロールルームの近くにあります。

このガラス戸にはここに「レクィン」のコードネームが

ROCKET WOLF(ロケットウルフ)

であることがかかれています。
ロケットウルフか・・・当時はかっこいい響きだったんだろうな。

この無線室は現在でも稼働しています。


コードネームロケットウルフで通信しているのかな。


現在でも現役で稼働中のレイディオ・シャック。
ということは、通信機器は完璧にインストールされているということです。

どんな人がここで通信を行なっているのでしょうか。

検索していたら、昔「レクィン」の通信士だった人が、
大型掲示板のようなところでこんな書き込みをしていました。

The Requin's call sign during my time aboard was ROCKET WOLF....
(We operated with Cutlass whose call sign was CABBAGE...
"Cabbage, Cabbage this is Rocket Wolf, Rocket Wolf...
How do you read me? OVER."


カットラス(戦闘機)のコールサインが「キャベツ」だったので、

「キャベツキャベツ、こちらロケットウルフロケットウルフ、
聞こえますか?オーバー」


とかやりとりをしていたという、まあそれだけの話ですが。



さすがに現役の無線室なので、機器は海軍工廠製ではなく、
普通に民間のトランスミッターなどが装備されています。



NY3ECという番号がわかっていたら通信できる、ってことですか?
アマチュア無線をされる方がおられたらぜひ(って何話すんだ)

https://www.facebook.com/radiocronache/posts/the-ny3ec-station-on-the-uss-requin-ss481-submarine-1945-1968-in-csc-pittsburgh-/1429822994020800/

どうもこの人↑はアマチュア無線愛好家らしい

また、別の書き込みによると、

「NAQCCは水曜日にRequinをアクティベートします。
7.041、10.117、14.061 +/- qrmで彼らを探して下さい。
午前10時頃開始予定。」

ということでした。


続く。






USS「レクィン」〜初代艦長カッター中佐とオリンピック作戦

2024-02-16 | 軍艦

カーネギーサイエンスセンターで公開されている潜水艦、
USS「レクィン」の内部に潜入しております。

前回まで入艦したところにあった前部魚雷発射室と、
それから士官食堂などをご紹介してきたわけですが、
ここであらためて「レクィン」という艦名について説明をします。



USS「Requin」(SS/SSR/AGSS/IXSS-481)

■ Requinの発音

実はこのrequinはどう発音するのが正確なのか当初悩んだのですが、
ˈreɪkwɪn
とわざわざwikiに記してありました。
できるだけ正確なのは ɪ を「フェイス」のように発音するため
「レィクィン」となり、日本語の「レクィン」とちょっと違います。

それにしても、この響き、英語っぽくないというか、もしかして?
と思ったら、やはりフランス語の「サメ」を表す単語でした。

これはアメリカ海軍の艦船名で唯一フランス語が採用された例だそうです。

なぜアメリカ海軍がフランス語の「サメ」を使ったのか?
その理由はちょっと検索したくらいではでてきませんでしたが、
フランスには1794年から同名の軍艦が何隻か存在します。

最新のものは「Narval」級潜水艦の4番艦である、
S634「Requin」で、1958年から1985年まで現役でした。
ちなみにこの「ナヴァル」はイッカクで、S633「Dauphin」イルカ、
S637「Espadon」メカジキなど、同級は海洋生物の名前が命名基準です。

しかし、フランス語だとRが喉の奥から出す特殊な音なので
「requin」の発音は「ホキン」「ホイキン」に聞こえます。

日本語のウィキだと「レクィン」になっているので、
今後も当ブログではこれでいくことにします。

■ 建造と初代艦長カッター中佐

「レクィン」のキールは1944年8月24日、
メイン州キッタリーのポーツマス海軍工廠で打ち下ろされました。

進水は1945年1月1日スレード・D・カッター夫人のスポンサーにより行われ、
1945年4月28日にスレード・D・カッター中佐の指揮のもと就役。

これとても珍しいパターンですね。

スポンサーというのはつまり進水式の時にシャンパンの瓶を割る女性で、
大抵が地元政治家の妻とか、関係した財界の大物の妻が務めるのですが、
同姓同名の別人でなければ、艤装艦長夫人がスポンサーになったのです。

発注が1943年6月、起工(キールレイド)がわずかその2ヶ月後で、
進水式は起工後わずか4ヶ月後という「戦時生産モード」だったので、
こう言っては何ですが、適当な人材が見つからなかったのかもしれません。

もっとも「レクィン」の艤装・初代艦長に任命されたカッター中佐は、
ただの?艦長ではなく、おそらく最も勲章を受けた、
潜水艦指揮官の一人であったことから夫人が選ばれた可能性もあります。


スレイド・デヴィル・カッター(アナポリス時代)1911-2005
デヴィルはdevilではなくDevilleなので念のため

は、4つの海軍十字章を授与されたアメリカ海軍将校です。
第二次世界大戦における日本軍艦船撃沈数では第2位タイでした。

海軍兵学校ではアメリカンフットボールのオールアメリカン選手で、
かつ大学ボクシングのチャンピオンだったということです。


因縁のネイビーアーミーゲームでゴールを決めた瞬間のカッター

■最初の哨戒で味方からの攻撃を受ける

卒業後潜水艦士官としてのキャリアを始めたカッターは、
1941年12月18日、USS「ポンパノ」(SS-181)の副長として
最初の戦時哨戒に出るため真珠湾を出港しました。

この11日前、真珠湾攻撃があり、日米は開戦していたこともあって、
米軍の警戒体制はマックスだったわけですが、隠密行動が基本の潜水艦は
ピリついた米軍の哨戒機に敵と認識され、攻撃されただけでなく、
USS「エンタープライズ」(CV-6)から急降下爆撃機を呼び寄せられ、
「ポンパノ」は燃料タンクが破裂するまで攻撃されることに・・・。

こういう事態になったらこの頃の潜水艦はもうお手上げです。
自分が味方であることを哨戒機に伝える手立てがありませんから。
それではどうしたかというと、逃げました。

とにかく逃げ切って運良く味方に沈められることも、自軍の潜水艦を
撃沈してしまった哨戒機のパイロットが軍事法廷に立つ事態も防ぎました。

そしてそのままマーシャル諸島まで怒りに任せて爆進し、
その怒りを思いっきり敵である日本軍にぶつけました。

その結果、16,000トンの日本輸送船が4本の魚雷で攻撃され、
帝国海軍の駆逐艦が魚雷攻撃を受けましたが、何しろ「ポンパノ」は
急爆に壊されたオイルタンクから燃料が容赦なく排出されていたこともあり、
有効な戦果には結び付かなかったというのが戦後わかっています。

副長時代、「ポンパノ」は日本海域での哨戒で爆雷を受け、
一旦沈没するも何とか生還するという経験もしています。

■「シーホース」での活躍と海軍十字賞

次にカッターはUSS「シーホース」の副長に任命されますが、
艦長のマクレガーが積極性を欠く指揮だったとして
ロックウッド潜水艦司令に解任されたため、急遽艦長に昇任しました。

「シーホース」での哨戒でカッターは通算3回の海軍十字賞を受け、
潜水艦指揮官としての名声を得ることになります。

また、「シーホース」は5回目の哨戒で1944年6月13日に
戦艦「大和」と「武蔵」を中心とする日本の戦闘群を発見しています。
これは、遠くから発見したため接触はしていないが、
定期的な報告を本隊に送り続けたということのようです。

このときのレイテ沖海戦では「武蔵」「扶桑」「山城」の戦艦と
「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」の航空母艦、
「愛宕」「摩耶」「鳥海」「最上」等巡洋艦、駆逐艦、潜水艦が沈みました。

■ 艦長室と士官寝室


さて、ここでカッター中佐も居住した、オフィサーズアイランドの艦長室、
士官寝室などの写真を見ていきましょう。

ただし、何度も言うようですがカーネギーサイエンスセンターは
コンパートメントの解説板などを全く設置していないので、
必ずしも正確であるとは限りませんので一応念のため。

このハンガーにも士官のジャケットやコートがかかっていますが、
パッと見ただけでも少佐のと大尉のが混在しており、
割と適当に雰囲気で並べただけのものであることがわかります。



士官寝室なので、少佐と大尉が同居していたという可能性もありますが、
それにしても同じクローゼットに他人の服を混在させないだろうっていう。



このコンパートメントはベッドが3段。


洗面用ボウルは収納式ですが、ここでは開けて見せてくれています。


金色の物々しいプレートには「ベッドに上がらないでください」と注意書き。
かつてベッドの占有者の名前入りのプレートが貼られていた可能性も微レ存。


そしてこれが艦長室です。

初代艦長カッター中佐以降、27年間の就役期間に、
ここは18名の指揮官の住処となりました。



これは、シナボン
アメリカではモールや空港に必ず出店して、周りに独特の香りを撒き散らす
お馴染みのシナモンロールのチェーン店ですが、わたしはいまだに

日本では横須賀米軍基地の中でしか見たことがありません。



多くの指揮官がいても、「レクィン」にとっては
初代艦長カッター中佐の存在はとても大きなものらしく・・・。


ベッドの枕元に挟まれたさりげない写真も、いかにもカッター中佐の
アナポリス時代を思わせるものになっています。

■カッター中佐「レクィン」艦長に就任


就役当日の「レクィン」甲板にいる艦長(左から二人目)以下士官たち
艦長でかすぎ(さすが元アメフト選手)

「シーホース」の4回目の哨戒と休養休暇の後、
カッターは新造USS「レクィン」(SS-481)の指揮官に任命されました。
前述のように同艦のスポンサーとなったのが妻のフランでした。

どうして新造艦の艦長にカッターが選ばれたかについては後述しますが、
結論からいうと、「レクィン」が就役後、最初の哨戒に出発し、
帰ってきた(1945年7月)直後に戦争は終わってしまいました。

カッターの現役潜水艦指揮キャリアはここでストップすることになります。


◼︎オリンピック作戦とコロネット作戦

なぜ潜水艦隊はこの時期の新造艦「レクィン」の指揮官に
スレード・カッターを選んだのか。

それは、アメリカが九州侵攻作戦「オペレーション・オリンピック」
本州侵攻作戦「オペレーション・コロネット」を想定していたからでした。

当ブログでも過去この本土侵攻作戦について触れたことがありますが、
これは言い換えればアメリカが日本という国との戦争でいかに手こずり、
戦争を終わらす為に手段を選ばないところまで追い詰められたかの証左です。

たとえば硫黄島では、アメリカ軍は日本軍を倒すのに4週間かかり、
予想を遥かに上回る3万人近くの死傷者を出し、
沖縄戦は太平洋における戦争の中で最も激しい戦いの一つになりました。

そこで米軍は官民一体となった日本の抵抗と特攻隊に苦しめられ、
約12週間にわたる戦闘のあげく、5万人近い死傷者を出しました。

これに対し、日本軍の死傷者は約9万人、民間人の犠牲は
少なくとも10万人を超えるとされています。

そしてアメリカは沖縄を日本本土侵攻の「予行演習」と考えていました。



本番の第 1 フェーズ、「オリンピック」は1945年10月下旬に予定され、
作戦規模はノルマンディー上陸作戦と同等となる予定でした。


このとき見積もられていたアメリカ軍負傷者は13万2,000人、死者は4万人。

第 2フェーズ、「コロネット」作戦では、1946年春に東京近くに上陸し、
年末までに日本軍を降伏させることを構想しており、
この作戦の予測死傷者数は 9万人とされていました。

アメリカがそれほどの犠牲を覚悟してでも作戦を遂行させたかった理由は、
もちろん、何としても早く戦争を終わらせたかったからですが、
しかしながら、ワシントンが入手したいかなる証拠をもってしても、
日本が最後の一人まで戦うつもりであることを示していたので
本土上陸はほとんど「最終作戦」として起案されたのでした。

ただし、

「日本は決して降伏しない」

と考えられていた、と書きましたが、実際は、ソ連の侵攻を受けて
ご存知のように日本政府は交渉の開始を模索し始めています。

その情報を受けてアメリカは、本土上陸をせずに戦争が終わることを察知し、
かわりに?終戦に向けて(人体実験としての)原子爆弾投下に踏み切った、
というのが現在のところ通説となっていますね。





ともあれ、この作戦に潜水艦隊も、優秀な司令官の率いる潜水艦を
参加させるという流れとなり、その上で「レクィン」艦長に選ばれたのが
3回の海軍十字賞を受けたカッター中佐だったというわけです。

就役当初から「レクィン」は5インチ(127ミリ)/25口径甲板砲を1門、
24連装5インチ(127ミリ)ロケットランチャーを2基搭載しており、
これは艦隊潜水艦としては通常より重い兵装とされました。

それも、彼女が最初からオリンピック作戦とコロネット作戦で
日本本土を砲撃することを想定していたから、とされます。


■ スレイド・カッター艦長について

最後に、カッター艦長個人の指揮官としての戦績を記します。

他のトップスキッパー(艦長)との比較 /ランキング2位
哨戒回数 4回
撃沈成績 21隻/142,300トン
JANAC(戦後の日本側の喪失と照らし合わせた撃沈)
19隻 / 71,729トン

ちなみにカッターは上官にも反抗的な態度を取る人物で、
上から可愛がられるようなタイプではなかったため、
そのことが後方提督への昇進を妨げたと言う話があります。

特に物議を醸したのは、最初の原子力潜水艦、
USS「ノーチラス」(SSN-571)「厳密には実験船だ」とディスり、
ハイマン・リッコーヴァー提督を激怒させた件だったとか。

カッター・・・・無茶しやがって・・・(AA略)


戦後、カッターは潜水艦第32師団を指揮し、
その後、潜水艦第6戦隊、油井船USS「ネオショー」(AO-143)
重巡洋艦USS「ノーサンプトン」(CLC-1)を指揮。

そのあとは何と、海軍兵学校のフットボールコーチになりました。

かつて彼がフットボールとボクシングの名選手であったことと、
戦時中の英雄として有名であったことが、この任務の多くを助けました。

海軍での現役最後の任務は、ワシントンの海軍歴史展示センター長でした。

1965年に現役を引退し、最初の妻と死に別れてから
1982年、70歳にして再婚しています。

2005年アナポリスのリタイアメント・コミュニティで死去、享年93歳。
米国海軍兵学校墓地に葬られました。


続く。





潜水艦「レクィン」に乗艦!〜前部魚雷発射室と士官食堂

2024-02-04 | 軍艦

さて、ピッツバーグのカーネギー科学博物館に展示係留されている
潜水艦「レクィン」のゲートを通り、甲板に上がります。



まずは桟橋からこれから乗り込む「レクィン」の姿を撮影だ。
甲板には見学者の通路として、細い柵が設置されています。


USS「レクィン」SS-481

ユニークな潜入体験!

私たちの潜水艦は特別な空間であり、真の歴史的遺物です。
あなたの安全とこの艦の保存のために、次のことを行ってください。

 • 慎重に歩きます。床が濡れていると滑りやすくなる場合があります。
 • 装備に注意しながらゆっくりと進みます。 
• 特に階段では足元に注意してください。
・ご搭乗前に食べ物と飲み物をすべて済ませてください。

⬅️入艦はこちらから!


艦体に到達するまでに、艦尾の写真も抜かりなく一枚。
艦首から入り、艦尾から出てくる見学通路のようです。


甲板上に設けられた通路は大変狭く、両手で手すりが掴めるかどうかくらい。


甲板デッキの木材は一度は張り替えられたように見えます。


甲板から見たサイエンスセンターの建物。


セイルに突き当たってその右側を進んでいきます。



ここですかさずセイル根本のライトに注目。



ガラス?に覆われているのは電球本体だけというのにちょっとびっくり。
干渉を受けにくい構造ではありますが、てっきり外側に
ガラスがあるものと思っていました。

ところでこの電球、もし切れたらどうやって交換するんでしょうか。


セイルの右舷側を通り過ぎます。


写真を撮っていたら、すぐ前にいた赤Tシャツ父さんがいなくなり、
その代わりに初老の夫婦がいました。
赤T父さんは子連れだったので、先に入館させてもらったのかもしれません。



セイルの前に来たので、振り返って構造物全体を撮影。
アップにしてみると塗装の択れがすごい。
下地を整えずそのまま上からペイントしているので、こうなってしまった模様。


艦首部分に、見学用の階段が設置されています。
小さな子供はこの階段は降りられないので、パパが抱っこして。


「レクィン」の艦首はピッツバーグの都心部に向けられています。
ちょうど彼女の向かう方向にある、先端にお城のような飾りのあるビルは、
他でもない、塗装を手がけたPPG本社のあるワン・PPGプレイス

艦首が大スポンサーのビルに向いていることは決して偶然ではないでしょう。

その左手の黒っぽいビルはこの一角でで一番高いビル(64階建)
その名もピッツバーグらしい、USスティールタワーです。



博物艦として保存されているすべての潜水艦は、見学者のために
手すり付きの階段を改造して設置しています。

就役中の潜水艦にはもちろんこんな悠長な出入り口はありませんが、
「ダウン・ペリスコープ」(イン・ザ・ネイビー)という映画では、
乗組員がここからゾロゾロ出てきてびっくり、ということがありました。

海軍リクルートのテーマソング(インザネイビー)を主題歌にしていましたが、
そこまで軍事考証(というほどのものなのか)はちゃんとしてません。

さて、というわけで、いつものように見学列の最後尾から入艦です。



入ったばかりはカメラの設定を変えられないので画像ボケてます。
魚雷室勤務の乗組員が寝ていたバンクが階段脇にもあります。


階段を降りるとそこはフォワード トルピードルーム、全部魚雷発射室です。
4基の魚雷発射管のうち、左上のハッチが開けられ、
これから装填される予定の魚雷が左上に用意されている状態。


発射管室床下の機構をアクリルガラス張りにして見ることができました。

全部魚雷発射室には発射管が6基あります。
アクリル板の下に見えているのは、この床の下にある2基の発射管機構です。

時間があれば内部の写真を撮りたかったのですが、
見学の列がスタスタと先に行ってしまったのでできませんでした。

乗艦から下艦まで20分って短すぎない?
ちなみに添乗員?はほとんど何の知識もなく説明もしてくれませんでした。
もしかしたら近くにいる人には説明があったのかもしれません。

階段を降りて魚雷発射管を見たら、ツァーはUターンし、
艦尾に向かって進んでいきます。



壁際で目を引いたのがたくさんの缶詰。
ディスプレイ用ですのでラベルなどがありませんが、すべて保存食です。
実際の潜水艦が哨戒に出る時は隙間なく食料が搭載されていました。
ある程度哨戒が進んで食べ物が消費されるまでは、
乗組員はただでさえ狭い空間で不自由な生活を余儀なくされました。



唐突に洗面台(収納式)。
こんなにいきなり洗面関係の設備が出てきた潜水艦は初めてです。


年季の入った椅子。



一人用のシャワールームです。

ということはこのコンパートメントはオフィサーズカントリーですね。
「シルバーサイズ」もそういえば艦首近くに士官区画がありました。

扉はあったはずですが(そりゃそうだ)、
展示のために取り外されています。


「シルバーサイズ」もそうでしたが、士官用のシャワーは
前部魚雷発射室の後ろ寄りにあります。

「レクィン」の10人の士官と5人の上級下士官のための区間には
ステート(stater)ルーム、パントリー、ワードルーム、オフィスがあります。



まずオフィス。
壁には「誰かが迂闊に話せば船が沈む」という防諜ポスターがあります。



書類などを収納するデスクがあるので、ヨーマンズ オフィスかもしれません。
ところで奥の書類引き出しは果たして開けることができるのでしょうか。



士官用のパントリーです。
ここでは士官と上級下士官のための食事を用意していました。



パントリーにトースターやその他什器などの展示はなし。
説明のためのパネルもなし。
一般人が見学した時に、ちょっとこれは不親切かもしれません。

運営保全しているのがボランティアの団体か、そうでないかの違いでしょうか。
カーネギーサイエンスセンターはそこまで面倒みません的な。



こちらもオフィスです。
おそらく艦長の部屋ではないでしょう。



このスチール製の棚には、何か機器がインストールされていたと思われます。
復元をしようという気がまったくないので、それが何だったかもわかりません。



士官用ダイニングルームです。



ダイニングルームとパントリーの間には窓があって、
ここから食事などを提供していたようです。



窓の反対側の壁には艦内電話。



潜水艦であっても士官用に陶器の食器、シルバーが搭載されています。
空母だろうが潜水艦だろうが、士官の待遇に違いがあってはなりませんから。

その「待遇」を象徴するひとつが、おそらく食器なのでしょう。

シルバーはご存じのように、手入れが行き届いていないとすぐにくすみ、
それを磨くことがバトラーとかカリスマ主婦に必須というくらい面倒ですが、
アメリカ海軍のどの軍艦にもこのシルバー類は装備されていました。



士官食堂のテーブルをよくみると・・・これなんだろう。
こんなところにあるスイッチって、鉄板焼きの火力調整くらいだけど・・。

さらによく見ると、テーブルの両端にスリットと紙を巻き取るローラーが。
これは地図を見るためのチャートデスクだと思いませんか?

士官食堂の机はよく緊急時の手術台に使われますが、
ここには確か手術用の無影灯は設置されていなかった気がします。



シルバーの上にはお風呂用のアヒルさん(セーラー服)が待機していました。

続く。



USS「レクィン」公開再開!

2024-02-02 | 軍艦

今日から新シリーズ、USS「レクィン」を始めます。

ピッツバーグの中心を流れるオハイオ川沿いに係留され、
カーネギーサイエンスセンターの展示の一つとして公開されている潜水艦。

わたしがピッツバーグを訪れるようになってすぐその存在を知り、
コロナ流行真っ最中に外側だけを見学してきたわけですが、
ピッツバーグ最後の年にようやく内部ツァーが再開されていたので、
ここで紹介するために突撃してまいりました。



カーネギーサイエンスセンターと「レクィン」が係留されている河岸の間には
普通に川沿いの遊歩道が横たわっており、
そこを通る人は誰でも潜水艦の姿を間近に観ることができます。



遊歩道側からも博物館への入場は可能となっており、
チケットセンターにもそのままアクセスできるというおおらかさ。



潜水艦の位置からオハイオ川の向こう岸を見ると、
ピッツバーグ名物のケーブルカーがちょうど上下行き交うところでした。


前にも書きましたが、昔は斜面の下と上を繋ぐ近道として、
「ピッツバーグ・ダッチ」と呼ばれるドイツ系移民が敷設した交通機関です。
そういえばザルツブルグにも全く同じようなケーブルカーがあったなあ。

誰もが車を持っている今日では輸送手段というよりも
歴史的な構造物として後世に残されています。



今ではピッツバーグといえば橋とケーブルカー、というくらい、
はっきりいって他にはわりとなにもないところなので、
これを保存し、シンボルにしたのはある意味英断だったかもしれません。


川沿いに切り立った斜面の上は住宅街になっています。
このとんでもなく目立つところに看板を作った「アイアンシティ ビール」は、
景観を損ねているという理由で訴えられたそうですが、
結局裁判に勝って、看板を残す権利を得ました。

ただ、言わせてもらえばこの看板のデザインが悪すぎ。
もう少しいい感じだったら文句は出なかったんじゃないかという気がします。

というわけで「レクィン」のセイル部分を拡大。



ご存知のように、潜水艦の潜望鏡には、攻撃用と捜索用があります。

この写真の左側が捜索用で、先細りの方が攻撃用だと思われます。
そう思った理由は、捜索能力重視の捜索用は大きく、
いざ攻撃となった時は相手に発見されないように小さな方がいいらしいから。
(という説を見つけたのですが、違っていたらすみません)

ちなみに最新式の原潜の潜望鏡は非貫通式電子光学潜望鏡(電子光学マスト)
は、攻撃用と捜索用の機種区別はなく、同じ型のものを2本装備しています。

(同じ型ならなんで一つにしないの?という気もしますが、
分けた方が機能的である理由があるのでしょう。)

ちなみに、自衛隊の潜水艦は光学式が搭載されていますが、
「そうりゅう」はこの他に光学式の潜望鏡も搭載しているそうです。

光学式に何かあった時のバックアップなんでしょうか。



ちなみにこの捜索用ペリスコープの映像は、
博物館内部に設置されたモニターで見ることができます。

あまりに鮮明な画像なので、はめ込み画像かと思いました。


コロナ時にここに来た時には当然内部公開を中止していましたし、
これしか関係展示がなかったので、この写真を撮ってお見せしたものですが、
若干展示が変化しているようなので、もう一度アップします。

まず真ん中のダイブスーツから。



【アメリカ海軍マーク V ダイブスーツ】
1958年9月製

 1916年に発明され、1984年まで使用されていたMk V 潜水服により、
ダイバーは以前は到達できなかった深さで作業できるようになりました。

加圧スーツはゴムの上に綿のキャンバスを重ねて作られており、
真鍮のヘルメット、手袋、加重ブーツには防水シールが付いています。

ダイバーはメインリグの下に保温のためにウールのボディスーツを着用し、
浮力と再浮上を助けるために重りのあるベルトを着用しました。

Mk.Vの技術は、高高度飛行用スーツや、初期の宇宙服の開発に役立ちました。


【錨鎖 アンカーチェーン】

2.5リンク分の錨鎖
長さ: 38 インチ(96.5cm)
重量: 約 150 ポンド(68kg)

アンカーとは、海底に埋め込むフックの一種です。
本体はシャンクと呼ばれ、実際に底に食い込む「歯」をフルークといいます。

なぜアンカーには鎖が付いているのでしょうか?
アンカーチェーンは衝撃吸収材として機能します。
波や風がボートを動かすと、ラインがきつくなる前に
ボートはチェーンを底から持ち上げなければなりません。

アンカーチェーンは、海底の岩や瓦礫による
ナイロンロープの擦れを防ぐのにも役立ちます。


子供にもわかりやすい表現がされています。


【マーク9 MOD3 爆雷 デプスチャージ】
1945年2月製造

爆雷は、水上艦艇や航空機から投下される対潜兵器です。
この装置は、特定の深さで爆発するように設定でき、
ターゲットに爆発的な衝撃波を与えることができます。

マーク9は爆雷工学における大幅な進歩と言われています。

既存の砲身の形状を重みのあるティアドロップ型に変更し、フィンを追加して、
より速く、より直接的な軌道で飛行できるようにしました。

 Mod3のデザインは、第二次世界大戦末期から冷戦まで使用されました。


【魚雷】

説明はありませんでしたが、中身を抜いた魚雷が横たわっていました。
「レクィン」が搭載していたのと同じ大きさの21インチです。

というか、潜水艦魚雷のサイズは全て21インチに統一されてたんですけどね。


これは潜水艦の近くにあった謎の展示。

ある年代のアメリカ人ならおそらく皆知っている、
SFコメディ番組『ミステリー・サイエンス・シアター3000』のキャラ、
トム・サーボ(赤い方)とクロウ
撮影に使われた人形現物なのかもしれません。

トム・サーボの頭部はガムボール・マシン、胴体はおもちゃの
「マネー・ラバー・バレル」貯金箱とおもちゃの車のエンジンブロック、
脚の代わりにボウル型のホバークラフト・スカートをつけています。

このシリーズでは、こんなのもあったと驚愕。

MST3K: Gamera vs. Jiger - Saturday Night Live: Gamera! | SEASON 13

「ガメラ」が上映されているのをトム・サーボやその他が見ながら
ミッキーマウスの替え歌(ミッキーをガメラに変えて)を歌ったり、
ツッコミを入れるというタイプの番組だったようですな。

「ガメラ」はアメリカで放映されたらしく、英語に吹き替えられています。

大村崑さんがお父さん役ででてきたとき、彼らが
「コンちゃーん」と言っているような気がするのですが気のせい?




ツァー参加者は、申し込みをして時間が来たらここで待っていると、
引率の人がやってきて団体を案内してくれます。



そして、見学者一団とともに潜水艦に向かい、乗艦を待つ間、
アメリカンすずめのカップルがいたので写真を撮っていました。



潜水艦とは全く関係ないですが、どうしても見ていただきたくて・・。

すずめカポーは木に残った花殻を食べに来た模様。



上のオス?は日本のスズメに似ています。



下のメス?がまるではしゃいでいるみたい。
鳥や動物も写真に捉えた一瞬がとても表情豊かに見えることがあります。



表情といえば、潜水艦の甲板から鴨が泳いでいるのが見えたので、
なんとなく写真を撮ったのですが、アップにしてみると、
全員?がしっかりカメラ目線だったので驚きました。
特に最前列のリーダーは外部を常に哨戒する役目らしく、ガン見です。



潜水艦に渡る桟橋の手前には、参加したければチケットを買えとのお知らせ。



USS「レクィン」のスポンサーになったのは、地元の大企業である
PPG(船舶、インフラ、タンクなど大型の塗装施工会社)。

「レクィン」の展示にあたってはPPGが塗装を行ったので、
宣伝方々そのデータを公開しているのです。

カーネギー科学センターの冷戦時代の潜水艦 USS Requin は、
PPG PAINTS™ ブランドのおかげで新鮮な塗装を施されています。

SPEEDHIDE® プライマーとPPG 保護および船舶用コーティング製品である 
SIL-SHIELD™ シリコーン・アルキド・エナメル、
これら2 種類の高性能コーティング、約240ガロンを当社が寄付しました。

これらの製品は、優れた接着性、耐食性、耐久性のある仕上げを提供し、
USS「レクィン」のような鉄鋼の表面に最適です。

PPG Paintsラインは、世界有数の塗料会社である
PPG Industriesの事業部門PPG Architectural Coatings のブランドです。


また、施工にあたっては、足場の構築だけで280時間、
塗装には960時間を要したということで、その下には
「レクィン」を訪れる見学者が年間平均15万5000人だとあります。

数字の3と書いてある部分では塗装色についての説明があり、
基本的に使用されているのは「Pantone430U」(グレー系)と白、黒。

3色の配色は、USS「レクィン」のような潜水艦博物館の標準です。
黒は船殻を覆い、灰色は上部構造、帆、マスト、レールを覆います。
艦体番号はもちろん白色です。


比べてみないと断言できませんが、コロナ閉鎖のころより
エントランスが綺麗になっている気がします。

さあ、それでは長年の課題だった「レクィン」内部潜入に臨みます。

続く。

スナイプス(喫水下で航行する男たち)〜USS「エドソン」

2024-01-25 | 軍艦

USS「エドソン」の艦内ツァーも最終日となりました。


ボイラー室には消火用の二酸化炭素のボンベがあります。
二酸化炭素は危険物なので中身は空にしてあることを明示しています。


全体的に赤く塗られているのは消火設備ではないかと思ったのですが、
#2エンジンルームの予備コンデンサーと排気装置だそうです。

艦船用タービンジェネレーター
Ship's Service Turbine Generator(SSTG)

蒸気で動くタービンは、主発電機の巻線を回す別のシャフトに接続された
シャフトに取り付けられ、艦上で様々な目的のための電気を生産しました。


蒸留プラント
2段フラッシュ式蒸留プラント

右側の丸いタンクの蓋?には
「海水ヒーター」とあり、各パイプには供給先が書かれています。

メイン蒸気システムは蒸留プラントに過熱蒸気を供給し、
海水を瞬時に過熱して蒸気にし(フラッシュプロセス)、
凝縮させて再びフラッシュさせます。

2 回目のフラッシュプロセスの後、得られた凝縮液が収集されます。
これらは、以下の目的で使用されました。

蒸気を生成するためのメインボイラープラント用
飲料用や化学薬品(臭素や塩素など)が添加された淡水タンク用

■ スナイプス Snipesとは?

冒頭写真は、ボイラールームのおどろおどろしい地縛霊よろしく、
「釜の中で絶叫する男」・・実に趣味の悪い「エドソン」の展示です。
おそらく、ハロウィーン前になると出回る、庭先の幽霊飾りでしょう。

余談ですが、アメリカではここ何年か、この手のハロウィーンのおふざけが
だんだん悪趣味になってきて、わざわざ家の前に井戸を置いて、
そこから手が出てきているとか、蜘蛛の巣を家全体に張り巡らすとか、
悪ノリする家庭が目立つような気がするのですが、
この「ゾンビ」もその一連の装飾品として売られていたものでしょう。
(そして、そういったろくでもない飾りのほとんどは驚くほど安い)

なぜそのようなものがここにあるかと言うことを考える前に、
ここボイラー室で働いていた海軍機関士たち・・・

スナイプス”Snipes”について説明します。


「スナイプス」

SNIPES OF THE US NAVY:
アメリカ海軍のスナイプス:
艦底で生きる水兵たち:


彼らはこのように呼ばれます。

その誇り高き歴史と伝統とは。
彼らは誰なのか、何をする人たちなのか。

説明になるかどうかわかりませんが次をお読みください。

海軍エンジニア

これを読んでいるあなたは入隊ほやほやの新人だろうか?
DC資格を取ろうとしている?
水上戦のピンを取得しようとしているところだろうか。

そんなあなたは、艦の底深くでフネを動かしている乗組員を訪ねて
甲板の下を冒険したことがあるだろうか。

彼らはどこから来て、いったい何をしているのだろう?
一度でもそんなことを考えたことがあるだろうか。

スナイプとはいったい何なのか?

「スナイプ(Snipe)」という言葉はもともと、
機関部の船員に向けられた侮辱と考えられていた。

他の一般的な呼び名は「ビルジ・ラット」や「ブラック・ハット」で、
「ビルジ」や高温で汚れた機関室で働く乗組員を指していた。

カバーオールを着用する前の時代、船員は季節の制服として
の白とブルーの「アンドレス」(脱衣服)をよく着ていた。

カバーオールは「ディキシー・カップ」「ホワイト・ハット」と呼ばれた。

しかし、スナイプスは、彼らの職場環境があまりにも汚かったため、
ダンガリーシャツに移行した最初の乗組員だった。

第二次世界大戦の頃、乗組員たちは「白い帽子」を紺や黒に染め始めた。

これは、船上での日常生活につきものの油汚れを隠すために、
新しいデニムのズボンで帽子を洗ったせいで、

紺になったのだ(つまり染めたのではない)と考えられている。

そもそも陸上勤務やトップサイドの仕事に就ける幸運な乗組員たちには
こうした問題は起こりようもないので、機関兵を
「ビルジ・ラット(ねずみ)」程度にしか見下さないことも多かった。


【ソルティードッグ・オールドスクール
SNIPEの歴史】


艦船機関部の歴史は、木造帆船の時代まで遡ることができます。

艦船を動かす帆を作るのが文字通り仕事であった帆職人や、
船を浮かべて水密を保つ大工とメイトもそれに含まれます。

以下は、現代のSNIPE格付けの例。

艦体整備技師
ダメージ・コントロールマン
機械工
機関手
電気技師
ガスタービン システム技師


世界の海軍が蒸気動力に転換するにつれて、
艦艇の燃料庫から石炭を回収し、艦の炉室に輸送する責任を負う、
「コール ヒーバー」が登場しました。

動力が蒸気ボイラーからガスタービンエンジン、原子炉へと移行していくと、
その100年ほどの間にさまざまな肩書きが生まれては消えていきました。

第二次世界大戦では、米海軍がCBRN防衛/ダメージコントロールのために
化学戦スペシャリストを創設したこともあります。

ここで語るのは、現代の鉄鋼船の金属工や配管工と一緒に働く
シップ・フィッターのことです。

現在は巡洋艦、潜水艦、航空母艦で働く原子力訓練を受けた者と、
それ以外を浮揚させ、動かす者という棲み分けがされていますが、

今日、これらの男女は、エンジンの稼動維持から消火活動、
ダメージ・コントロール、そして通信システムの管理という重要な任務まで、
それこそあらゆることを担っているのです。


さて、USS「エドソン」のスナイプたちが生息していたこの場所に、
次のような「嘆きの歌」が貼ってありました。


”スナイプの嘆き”

今、私たちの誰もがおりにふれ海を眺める際、
そこに、この国の自由を守るために出航していく
強力な軍艦を眺めたことがあるだろう。

この国の自由を守るために任務に出て帰港してくる
力強い軍艦を眺めたことがあるだろう。

そして私たちは、誰もが一度は魅力的な海の男たちの物語を

本で読んだり、人から聞いたりしたことがあるだろう。

雷、風、雹の中を雄々しく航海する男たち。

しかし、彼らを語る勇壮でロマンチックな海の上の伝説では、

滅多に語られることのない「場所」がある。

それは喫水線の下にあり、そこでは生きた犠牲が払われている。
- 水夫たちが "穴 "と呼ぶ 熱い金属の生き地獄だ。

そこには蒸気で動くエンジンがあり、シャフトを回転させている。
火と騒音と熱気で魂を打ちのめされる場所だ。
地獄の心臓のようなボイラー、憤怒の蒸気の血、
そこでは怒れる神々が造形され、夢の中で悪魔となる。

轟く炎からの脅威は、まるで生きている疑問符のようだ。
それは今にもそこから飛び出し、あなたを舐め尽くすだろう。

タービンは地獄で孤独と喪失に苛まれる魂のように悲鳴を上げる。
どこか遠くの上空からそうするように命じられたタービンは、
あらゆる鐘の音に応えて、動く。

ただひたすら火を灯し、エンジンを動かす男たち、
彼らは光を知らない。


そこに人間や神のための時間はなく、恐怖に対する寛容さもない、
その様相は、生きとし生けるものに涙の貢ぎ物も払わない。
人間ができることで、この男たちがやったことのないことは、
そうそうないからだ。

甲板の下、穴の奥深く、エンジンを動かすために。

そして毎日毎時、彼らは地獄で見張りを続けている。
もし火が消えれば、艦は役立たずの砲弾となる。


怒れる海には船が集結し、戦争をする。
下にいる男たちは、自分たちの運命がどうなるのか、
ただ険しい笑みを浮かべて待つだけだ。

彼らは、戦いの叫びを聞くこともなく、
運命に翻弄される者のようにただ下に閉じこもっている。

戦いの叫びも聞こえない「下にいる男たち」は、
弾が命中すればただ死んでいく。

いや、それでなくとも毎日が戦争のようなものだ。
1200ポンドの熱せられた蒸気はときとして彼らを殺す。

だから、もし君が彼らの歌を作ったり、
彼らの物語を語ろうとしたりしたら、
その言葉そのものが君の耳に響くだろう。

その言葉は、焼かれた炉の慟哭を聞かせるだろう。

そして人々はほとんどこの鋼鉄の男たちのことを耳にすることはない。
船乗りたちが "穴 "と呼ぶこの場所についても、
ほとんど知られていない。

しかし、私はこの場所について歌い、
あなたに知ってもらおうとしている。
なぜなら、そのうちの一人が私だからだ。

汗に塗れたヒーローたちが、
超高温の空気の中で戦うのを私は見てきた。
しかし誰も彼らの存在を知らない。

こうして彼らは、軍艦が出航しなくなるその日まで、
ずっと戦い続ける。
ボイラーの強大な熱とタービンの地獄のような轟音の中で。

だから、戦うべき敵を迎え撃つために撤退する艦を見かけたとき、
できることなら、かすかにこう思い出してほしい。

できることならかすかに思い出してほしい。

"The Men Who Sail Below "を。 



さて、ここで長らく語ってきたUSS「エドソン」の物語も終了です。

機関室の「喫水下の男たち」に想いを馳せたあと、
通路に沿って進むと、明るい五大湖沿いの夏の光景が広がりました。

目の前の桟橋は、岸壁から「エドソン」までを繋いで、
ここに訪れる人々を迎え入れる唯一の通路です。


USS「エドソン」の博物館としての管理と運営は、
わたしが少しお話をした、「この町で唯一の日本人」である女性とその夫、
ベトナム戦争のベテランを始め、地元の人々のボランティアで成り立ちます。

この日、彼らは集まって青い屋根の建物の下で会合をしていました。


海兵隊員の名前を命名された海軍の艦艇一覧です。
「エドソン」もこのなかにあります。

右側に「KIA」とあるのは、キル・イン・アクション、戦死した人です。

この中で唯一「エドソン」だけが、Diedとなってますが、
その理由は、メリット・エドソン将軍は戦死ではなかったからです。

他の海兵隊戦死者のほとんどが1942年か43年、おそらく
南太平洋での日本軍との戦いで戦死したと思われるのに対し、
エドソン将軍だけが没年が1955年となっています。

これは「エドソン」の建造計画が立ち上がったちょうどその時、
海兵隊の戦功者であったエドソン将軍が逝去したことから、
急遽他の第二次世界大戦戦死海兵隊員のリストに「割り込む」形で
「エドソン」が誕生したのだと考えられます。



かつては波乱の海の戦いを見守った甲板からは、
いまでは永遠に平穏なサギノー川の流れがただ見渡せるだけです。

そのときに揚がったのと同じ星条旗を掲げながら。


「エドソン」の甲板から、一羽の美しいサギが飛翔しているのが見えました。
サギノー川の上にサギか・・・・


と日本人のわたしだけは思ってしまうのだった。



それでは「エドソン」の甲板に別れを告げることにしましょう。


最後に今までの旅を振り返ります。


車に戻り、もう一度全体写真に挑戦しましたが・・・またしても失敗。


思い余って?土手を駆け上り、もう一度・・。
これでも少し艦尾が切れてしまいました。
(実は眩しすぎて対象をはっきり捉えることが難しかった)



悔しいのでさらに土手を一番上まで駆け上がりました。
これでやっと「エドソン」の姿を収めることができたというわけです。

そしてこれが最初で最後の完全な艦体写真となりました。


わたしたちはこの後、オハイオ州クリーブランドに向かいました。


「エドソン」シリーズ終わり


#2エンジンルーム〜USS「エドソン」

2024-01-24 | 軍艦

ミシガン州のヒューロン湖に流れるサギノー川沿いに係留された
駆逐艦USS「エドソン」の艦内ツァーも終盤に差し掛かりました。


艦尾から艦首方向に進むと、数段階段を降りて次の区画に入ります。
この写真の右側にあるのが冒頭の艦内図です。




バックアップジェネレーターとラダーコントロールは、
甲板階の二階下の艦尾にあります。
さらにそこから1階分下に降りてきました。
見学できる最下層階になります。



今いるところは×印の位置。
これから見ていくのは、#2エンジンルーム、第2機関室です。

ここに収められている機器についてざっと前もって挙げておくと、

2基のメイン エンジンのうち1基
各エンジンは 35,000 馬力、合計 70,000 馬力を生成

 淡水蒸発器 2 台のうち 1 台
海水をボイラー給水と飲料水に変換する

メインコンデンサー
自動車のラジエーターのように機能し、蒸気を冷却して液体に戻し、
ボイラーで再利用したり、機械を冷却する

 
サービスジェネレーターの4基のうち2基
発電機で電力を供給する



■ Disalinator 
海水淡水化装置とアメリカ海軍の取り組み



何か意味がありそうだけどただのポンプ。


艦内図によるとこの辺りにDesalinater(海水淡水化装置)があるのですが、
画面中央に大きなU字をひっくり返したようなパイプと、
その近くにあるものがそうではないかと思われます。

アメリカ海軍の船舶における海水淡水化の歴史は長く、記録によると、
第二次世界大戦中、USS「サバンナ」の乗組員に
真水を供給するために蒸留プラントを使用したのが最初です。

このプラントは海軍による設計・建設で、
1日あたり約4,000ガロンの淡水を生産することができました。

朝鮮戦争とベトナム戦争中も、艦船で淡水化装置を使用していました。
「エドソン」にあるのと同じタイプのものです。

1970年代初頭、初の逆浸透プラントがUSS「ニミッツ」に設置されました。
このプラントは1日当たり約20万ガロンの淡水を生産することができました。

もちろん現代の海軍艦船では多くの海水淡水化プラントが稼働しており、
これらは、船舶の乗組員や非常用に真水を供給し、
船舶の環境への影響を軽減するのに役立っています。

現代の世界でスタンダードとなる海水淡水化プラントは、
高濃度の溶液に高い圧力をかけることによって水だけが膜を通過し、
塩分が取り残されるという理論のものになっています。

しかし、この逆浸透方式には長所と短所があります。

まず、対象となる艦船の目的(任務)によっては、
浄水システムをカスタマイズする能力が制限されること。

次に、季節により水を生成する能力が制限されること。

第三に、12,000ガロンの蒸留プラントが、
ROプラントで生成された水をすべて処理できなかった場合、
艦は最終的に廃水を海に排出しなければならないことです。

こうした欠陥を考慮して、海軍は現在、艦船群に
どのような水生産戦略を導入すべきかを決定するための調査を行っています。

そして導かれた一つの仮定が、

浄水プラントをモジュール化し、必要に応じて交換する

と言う戦略です。

これによって、資源をより無駄なくかつ効率的に利用できるようになり、
また必要に応じて水の生産量を増やすことも可能になるかもしれません。

■ エレクトリック・ジェネレーター


GE ジェネラル・エレクトリック社製500KW発電機です。


右舷側に2基、図のように並んで設置されています。

エドソンには 4基の発電機がありますが、
そのうち2基は前部 #1 エンジン ルームに、
2基はここ #2 エンジン ルームにあります。

1 キロワットは 10 ~ 100 ワットの電球に相当すると考えた場合、
「エドソン」には、2,000 キロワットを生産する力があるので、
100 ワットの電球を 20,000 個点灯することができるということになります。

キロワット時で測定すると、これは
アメリカの平均的な家庭 2 軒の 30 日間の電力使用量
に相当します。

■#2メインエンジン

第2機関室のメインエンジンは2つのコンポーネントで構成されています。
高速回転する「蒸気タービン」と「減速機」のセットです。

「蒸気タービン」は 7,000 RPM で回転し、
「減速機」はこの速度を 1~250RPMの間で適宜減速します。 

プロペラが 250 RPM で回転すると「エドソン」は
32 ノット (36.6 MPH) を超える速度で巡航できます。

減速機

減速機のギアシステムは、歯車を介して主蒸気エンジン、
主蒸気タービン出力駆動軸を主軸に連結する働きをします。

このトランスミッションの主な目的は、
蒸気タービンの低トルク-高速の速度を、
艦の主駆動軸とプロペラ システムの高トルク-低速に減速することでした。



このステーションには、主蒸気システムやその他のサポートシステムの
圧力と温度を測定するためのさまざまなパネルとゲージがあります。

この中のスロットルバルブは、主エンジンからタービンに送られる
蒸気の量を変えることによってエンジンの速度を増減しました。


ターボジェネレーターのスイッチパネル
高圧危険と至る所に書かれている



「フラッシュ」エバポレーター

パイプには水が左から供給されて生成されたものが右から出るという
矢印が記されています。

この装置は蒸気と真空を使用して塩水を飲料水、
またはボイラー給水に変換します。
2 台の蒸発器で 1 日あたり最大 16,000 ガロンの水を生成できます。

毎日の水使用量: 
 
最大生産量: 16,000 ガロン
1.ボイラー用: 6,000 ガロン
2.乗組員用: 7,530 ガロン
(これには、料理、飲酒、入浴、洗濯、調理が含まれます)
 3.予備: 2,470ガロン (船の洗浄やその他の淡水のニーズに使用されます)

■ スチーム タービン エンジン


ここからはさらに下層に向かって深く降りていく
垂直のラッタルを見下ろすことができます。


緑色の(前進)舵輪の左上にはエンジン オーダー テレグラフがあります。
スピードチェンジのオーダーを艦橋から受けると、
エンジンルームはオーダー通りに表示します。

赤い舵輪は

アスターン・スロットル バルブ Astern Throttle Valve

で、これで蒸気がプロペラを逆回転できるようにします。


あたかも森のように直立するパイプとノズルの間の通路を進むと、


スチーム タービン エンジン

エンジンから生まれる蒸気の熱エネルギーを
出力ドライブシャフトを介して主減速機に届け、
シャフトとプロペラを駆動して船を推進させます。

蒸気熱エネルギーを機械エネルギーに効率的に変換する設計です。



2B2  メインフォースド ドラフトブロワー
 強制通風機

ボイラーに空気を供給するために設置される強制通風送風機です。


足元の地下にも関係機器が見えます。


ボイラーデュープレックス 燃料フィルター 

この装置の機能はボイラー燃料油の最終フィルターです。
ボイラーを停止せずにフィルターを交換することができます。


写真下にぶら下げられている赤い取手のついた黒い棒は、

ライト-オフ トーチ Light-Off Torch(松明)
ボイラー燃料油バーナーガン 

ボイラー炉に「火をつける」ために使用されます。
燃料オイルは 1000 PSI でガンからポンプで送られます。

ガンの先端には「スプレープレート」が付いています。
これにより、燃料が非常に細かい「ミスト」として噴霧され、
「Billowing Fireball」が生成されます。
「エドソン」は 4 つのボイラーに一つづつバーナーガンを備えていました。


燃焼制御エアコンプレッサー 

「Worthington」3 ステージエアコンプレッサーは、
100 PSI の圧縮空気を供給します。

この空気は「自動燃焼制御システム」の制御空気として使用されます。
このシステムは、ボイラー蒸気圧力、ボイラー再水流量、燃料流量、
ボイラーへの空気流量を自動的に調整します。

万が一システムに障害が発生した場合、
ファイアルームはバルブ、レバー、および乗組員一丸となっての
「チームワーク」システムで、全体を手動で操作することになっています。


ボイラールームの気温は華氏110度にまで上がりました。
これらのようなダクトは、ボイラールームで働く乗組員のために
ファイアルームの各所に設置されて、
外気(必ずここよりは涼しい)を送り込んでいました。


バーナーガンの横に何やら軍艦らしくない実験室のようなコーナーが。
詳しい説明はなかったのですが、これらはオイルのサンプルです。

下から「プリビアス(前回の)オイルサンプル」
「ベースライン オイルサンプル」
「ブルー」「ホワイト」「レッド」と記されています。

具体的にどういう状態のオイルで、なんのためにサンプルがあるのか、
全くわかりませんでした。


エアコンプレッサー (HPAC) 

空気貯蔵フラスコに貯蔵される 3000 psi 以上の空気を生成します。


この空気は、魚雷発射システムに使用される蒸気減圧弁などの空気制御弁、
またその他限定されないさまざまな目的に使用されました。



この圧力は、蒸気低減ステーションを通じて
90 ~ 125 ps の範囲内の圧力まで段階的に変化させることができます。


さらに通路を進んでいきます。

続く。


主砲下部装填室と機械修理ルーム〜USS「エドソン」

2024-01-22 | 軍艦

USS「エドソン」艦内ツァー続きです。


このハッチは関係者以外使用禁止。
見学者は階段で移動します。


覗いてみると下は砲弾のラックが見えました。
ということは、ここは砲に砲弾を供給するシステムですね。


降りてみるとそこは砲弾供給システム。
ここは甲板の主砲の真下にもうけられたハンドリングルームです。

この写真では何が何だかわからないので、
まず全体像の画像をご覧ください。

写真に写っている「L」は、この下部分装置左側の意味だと思われます。

ちなみにスプロケット(英: sprocket)とは、
軸の回転をローラーチェーンに伝達したり、
ローラーチェーンの回転を軸に伝達するための歯車のことでで、
チェーンホイールとも言います。




写真の部分はローダー(装填)ドラムのホイストということになります。



図で水兵さんがバリバリの正装をして配置されていますが、
Projectile Hoist=弾頭上げのためのホイストです。



弾頭が装填されている状態。
ここから階上のマウントに直接送られそこで装填されます。



もう一つついでに甲板の砲を上から見た図。


ファイルケースがたくさんあるこの部屋は、サプライオフィスです。
日本語で言うと需品科です。


サプライオフィスのデスクの上には監視カメラのモニターが・・。
自分が写っているのでつい撮ってしまいました。

■ 機械修理 
Machinery Repair Shop


左のハッチを進んでいきます。
出口に消火ホースがあるということは火災の起きやすい現場?


マシナリー リペア ショップです。

重精密切削加工機と金属加工用機械を完備した機械修理工場には、
機械修理工(略称MR)が常駐していました。




海軍の機械修理工(MR)は、艦船を支援し、

割り当てられた機器の中間および組織的なメンテナンスを行います。

ボルトなどの機械用金属部品の製造、変形したねじ穴の締め直し、
機械の稼働による変形箇所の修復を専門とする配置で、
フライス盤、ボーリングミル、グラインダー、電動ハックソー、
旋盤、ドリルプレス、および船上の機械工場で見られる
精密測定機器の使用に熟練していなければなりません。

現在の海軍には2種類の機械修理工:

Machinery Repair Maintainer
機械修理整備士
  Machinery Repair Technician
機械修理技師


がいます。

機械修理工は1948年に創設された配置で、
機械工航海士(Machinists Mate)外部機械工(Outside Machinist)と、
工場機械工(Shop Machinist)の2つが統合されたものです。



彼らは重金属の切断の専門家だったので、
艦内でengraving(彫刻)の必要があると行っていました。

まさか氷やスイカの彫刻はしないと思いますが、彼らは作業場にとどまらず、
必要があれば艦上のあらゆる場所で金属の溶接、
切断、研磨までやってのける「何でも屋さん」でもあります。

写真手前の機器は研磨機械、向こうにあるのは旋盤機械だと思います。


修理ショップのデスクとファイルキャビネット。
当時から使われていたものかどうかわかりませんが、

「道具を使ったら必ず元に戻してください」

という注意書きがあり。


各種修理が行われた作業台と、部品収納棚、ツールと木材置き場。
残されたカッターのメーカーは「クラフツマン」。

CRAFTSMANイケイケHP

アメリカ人にとってガレージは家庭の「マシナリーショップ」でもあります。
そのガレージでゴキゲンの「ガレージバンド」。

ヒューレット・パッカードが最初に何やらを作った家が、
現在「ヒューレットパッカードガレージ」という名称であることは、
この国における「ガレージ」という言葉の広い意味を象徴しています。

■ No.2 非常用ディーゼル ジェネレーター ルーム





非常用ディーゼル発電機が置かれたコンパートメントです。
これは船舶用蒸気発生器が停止した場合に使用されるバックアップ発電機で、
定格 240 馬力の 
6-71 シリーズ カミンズ ディーゼル
Cummins Diesel
でした。

Cummins Inc. エンジン部門


このシリーズのエンジンは非常に信頼性が高く、
現在でも海軍でさまざまな構成でこれらのエンジンが使用されています。

「Aギャング」=補助部門は、「EN」またはエンジンマンで構成され、
発電機のエンジン部分を保守しました。
発電機はフライホイールから直接駆動されました。

「EN」とは米海軍機関士のことで、海軍の艦船や小型船で
内燃機関を操作、修理、整備する下士官水兵です。
通常、これらのエンジンはディーゼルエンジンを指します。

ENはまた、全艦艇に搭載されている空調・冷凍システム、脱塩プラント、
エアコンプレッサー、小型補助ボイラーの保守・操作も行います。

そして微妙に気になる「A GANG」ですが、海軍のスラングで、
船舶や潜水艦の補助部門を指す言葉です。

衛生、暖房/空調、非常用ディーゼル、油圧、高圧空気、低圧空気、
酸素発生装置、飲料水、ハッチのメンテナンス、各種システムを担当します。

発電機はフライホイール(Flywheel、回転系の慣性モーメントを利用した
機構に用いられる機械要素のひとつ。弾み車、勢車)で直接駆動されました。

発電機の定格は 100kw、450 ボルト (交流)、60 ヘルツ、160 アンペア。

艦内の発電および配電システムはを保守していたのはEM、
または電気技師の同僚で構成される電気部門の乗組員たちです。

非常用電力は、同じくこのスペースにある非常配電盤を通じて
重要な電気回路に配電され、

たとえ死傷者が発生した場合でも艦が戦えるようにすること
を想定していました。

たとえば、配電システムが損傷した場合でも、非常用電源ケーブル、
非常用電源ボックスを使用して非常用電源を使うことができます。

■ アフターステアリング

このコンパートメントの奥がアフトステアリングです。
アフター・ステアリング・コンパートメントは、
船の最後尾のコンパートメントにあり、
メインステアリングギアが配置されていた場所でした。

駆逐艦の護衛艦には、電気モーターで油圧ポンプを駆動し、
油圧ラムを動かして舵を切る電気油圧式操舵装置がありました。


これはわたしが昔見学した、ハドソン川沿いに係留されている
駆逐艦USS「スレーター」のアフトステアリングです。

ブリッジでは、操舵手が船のハンドルを回すと、
電気信号が舵からステアリングギアに送信されます。

信号はアフトステアリングで処理され、
ステアリング ギアに舵角の指示を示します。

油圧は電気制御バルブを介してステアリング 油圧ラムに送られ、
ラムと舵(後部ステアリングの下に位置)を動かすのです。

また油圧ポンプのクランクを手動で回すスタンバイ操舵方法もありますが、
もちろんこれは困難で疲れる作業でした。


最後に、このコンパートメントの壁にあった絵をご紹介します。



「アンダーウェイ リプレニッシュメント」
(海上補給)


と題されたこの水彩画のポスターは、USS「インディペンデンス」
1965年10月、USS「マウントカトマイ」(Mt. Katomai)から
補給を受けている南シナ海でのシーンを描いたものです。

USS「インディペンデンス」CV-62は、1965年5月10日、
初の太平洋艦隊での任務でベトナム沖の南シナ海に展開しました。

100日間にわたる作戦行動に参加しましたが、これは
ベトナムに展開した五番目のアメリカ軍空母となります。

「インディペンデンス」と第7航空団は、
1965年6月5日から11月21日までの活動で
北ベトナムのハノイ - ハイフォン間の輸送路に対する
最初の大規模攻撃を行い、航空史上初の空対地ミサイル攻撃を行いました。

この給油が行われたのは、そんな戦闘のさなかだったことになります。

このとき空母は北ベトナムの軍事補給目標に対し、
昼夜を問わない定期的な攻撃を継続し、7,000回に及ぶ出撃を行いました。


一方の「マウントカトマイ」は、1965年2月26日、
第7艦隊の艦船に補給するため、サンフランシスコを出港し、
真珠湾経由で5月15日にスービック湾に到着。

数日のうちに、南シナ海での再武装作戦のために出港し、
ベトナム沖の空母打撃群と戦闘艦にサービスを提供する任務を
11月下旬まで行っていました。


続く。