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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ミサイル搭載巡洋艦「リトルロック」最終回

2025-07-12 | 軍艦

前回終わるかと思ったら、「ホーリーストーニング」で引っ掛かり?
またしても終わり損ねた「リトルロック」シリーズですが、
さすがに今日は最終回にしなければいけないと思います。



さて、この廊下を歩いてきたところに、こんな写真がありました。


ウィリアム・マーティン海軍中将

アメリカ第6艦隊司令官マーティン中将は、1968年、
この場所でスペインのバレンシア地方軍総督を接遇した。

この期間の軍総督が誰だったかは不明だが、その地位は、
統治下にある領土における国家元首または政府を代表する人物が務めていた。


「この場所」というのは廊下を曲がったところのこと。
これらのことを調べてみました。


マーティン、ウィリアム I.、海軍中将(退役)(1910–1996)

まず、写真で「正体不明の」イタリア海軍提督と握手をしているのは、
第6艦隊第16代司令官だったウィリアム・マーティン中将です。

アメリカ海軍第6艦隊(Sixth Fleet)

は、主に地中海・大西洋の東半部を担当範囲とし、
地中海地域および大西洋の東半分の警備、
ヨーロッパ及びアフリカ地域への戦力の提供などを任務としており、
北大西洋条約機構 (NATO) 部隊としての任務を請け負っています。

マーティン中将の任期は1967年から1968年までで、
「リトルロック」は同時期第六艦隊の旗艦として地中海に展開していました。

1967年、イタリアのガエタを航行する「リトルロック」

第6艦隊観閲式におけるUSS「リトルロック」

1968年6月25日、この日は第6艦隊が地中海に展開して20周年にあたり、
それを記念してフリートレビュー(観閲式)が行われました。

この写真は観閲式において、艦隊旗艦であった誘導ミサイル巡洋艦、
USS「リトルロック」CLG 4が、航空母艦USS「インディペンデンス」
(CVA-62)USS「シャングリラ」(CVA-38)の前を通過するところ。

これだけでは少しわかりにくいのですが、観艦式は、
観閲を行う者が停泊または移動する艦隊を観閲するので、
観閲部隊の先頭艦を旗艦「リトルロック」が務め、そこに
観閲官(マーティン中将)が乗っていた可能性が高いと思います。

ちなみに「シャングリラ」の前方を航行しているのは、
ミサイル巡洋艦USS「コロンバス」(CG-12)です。

で、最初の写真ですが、わたしは、この写真のヴァレンシア総督は、
観艦式の際、現地からのゲストとして「リトルロック」に座乗し、
マーティン司令とともに観閲を行ったのではないかと思うわけです。

■ 「リトルロック」のアンカーキャプスタン



ところで、この写真ですが、「リトルロック」の甲板の
アンカーチェーンが色分けされて見易く展示されていますね。



艦上でのキャンプで、艦の仕組みを説明するときのために、
左舷側と右舷側装備を緑と赤に色分けしてあります。
これはもちろんあくまで展示艦としての効果です。

緑のSTBDはスターボード=右舷、
赤のPORT=ポート=左舷です。

ちなみに、右舷と左舷は、進行方向に向かって右左となります。

まず、ここに見えている装備を説明しますと、
アンカーチェーンが巻き付いている山笠型屋根は

キャプスタン(Capstan)

と言います。
これを「ヴァーティカル・ウィンドラス」と呼ぶ説もありますが、
「リトルロック」中の人の説明によると、これらは互換性のある言葉であり、
「リトルロック」にあるのはキャプスタンと呼ぶそうです。

海軍では、錨鎖を巻き上げるために2種類のウィンチが採用されており、
それは「リトルロック」の垂直軸(ヴァーティカルシャフト)型と、
水平軸(ホリゾンタルシャフト)型です。

ほとんどの戦闘艦で採用されているのがヴァーティカルタイプで、
中の人の話によると、垂直軸の上にあるから、これを
「キャプスタン」と呼ぶのだということでした。

キャプスタン=上下垂直軸
ウィンドラス=水平軸

で動くと考えるそうです。

そして「stbd」「PORT」と書かれたパイプのようなものは、
下の階にチェーンを下すor下の階から引き揚げるホースパイプです。



赤で囲んだ部分を「デビルクロー」(俗称)と言い、
(正式には”ダブルクロー”)ウィンドラスのように
チェーンを固定して動かないようにするための部品です。

デビルクローのこちら側に白に両側が挟まれた赤い鎖が見えますが、これを

ファゾム・リング Fathom Ring

といいます。
ファソムは「尋」といい、推進の測定単位で1ファソムは6フィート、
1.8288メートルに相当します。

錨からこのリングまでの深さは15ファソム、つまり、
大体90フィート(27メートル)なので、ここにそれがあるというのは
それだけの長さのチェーンが降ろされたことを表します。


鎖は黄色い網で覆われたホースパイプ(Hawspipes)につながっています。
現役時代にはもちろんこのような覆いはありません。

この錨孔はアンカーにつながっていて、上げ下げが行われます。
アンカーが引き揚げられると、チェーンはチェーンロッカーに収納されます。


甲板の一階下のセカンドデッキに降りて、
チェーンを巻き取る機構を見せてくれる公式のビデオがありました。
これがキャプスタンの下部です。



そしてこれがウィンドラスと言ってます。

How Does That Work?: USS Little Rock, The Anchor Windlass and Capstan


さらにその一階下の「チェーンハウス」。
ハッチを開けるとそこにあり、今はもちろん何もありません。

ビデオでも言っていますが、チェーン関係の仕事は作動のたびに
鉄粉が舞い散り、それを吸い込むことになるので、マスク必須。
とにかく「ダーティージョブ」だったそうです。


「リトルロック」は現在も固定されていないので、
舫で係留された状態で展示されています。

手前にあるハッチはなんでしょうか。
索具を収納する場所繋がっているところかな?


この舫の結び方もあまり他では見られないような気が・・。

■ スエズ運河復興任務


これは、スエズ運河航行中の「リトルロック」CG-4。
当時のキャプスタンと現在の違いをご覧ください。

現役時代はホースパイプに現在のような「パイプ」はなく、
もちろん塗装なども全くなかったことがよくわかります。

キャプスタンの向こうに乗組員たちが座っていたり、
艦橋の上にも任務モードではない士官たちが見えますが、
これは、スエズ運河航行という特別な状態のため、
甲板で外を見ることを許されていたのかなと。

このとき、なぜ「リトルロック」がスエズ運河を航行したかというと、
以下の理由があります。

1967年のアラブ・イスラエル戦争によって閉鎖されたスエズ運河に対し、
1974年4月、アメリカは、運河の爆発物と沈没船の除去支援を
エジプト政府と合意しました。

正確には

Nimbus Star・・・機雷および爆発物の除去
Nimbus Moon・・・陸上および海面下の海軍爆発物の除去


アメリカはNimbus StarとNimbus Moonを実施し、
民間のサルベージ請負業者が沈没船の除去を行いました。

このプロジェクトを行ったのが第6艦隊のタスクフォース65です。

その結果、運河の再開が可能になり、1975年6月5日、
第6艦隊旗艦の「リトルロック」も開通記念航行に出席しました。

その日、21発の礼砲が鳴り響く中、7隻の船団がスエズ運河を南下して
イスマイリアまで5時間の航海を行い、運河の公式な再開通を祝いました。

世界の海洋国家、中東、そして何よりもエジプトにとって、
これは歴史的な出来事でした。


■ 「リトルロック」事故写真集

その生涯を通して大きな事故なく任務を終えた「リトルロック」ですが、
あわやという事故、軽微だけれど外国艦との衝突事故を経験しています。

それがUSS「サラトガ」CV-60との超ニアミスです。
1967年の「5月か6月ごろ」と日付が明確でない当たりがなんだかですが。

結論から言うと、進路変更の命令に伝達ミスがあって、
「リトルロック」が「サラトガ」の艦首前を横切ったと言う事故です。

この直前まで「リトルロック」と空母は一緒に航行していました。
事故直前、「リトルロック」は「サラ」の左舷を航行しています。

この後、「サラ」は右舷側に転回するつもりだと通信して来たので、
「リトルロック」はその外側に添って航行すべく、速度を上げました。

ところが「サラトガ」は左に転回して来たのです。

つまり、右側に舵を切った「リトルロック」に向かって来る形です。
これは、何らかの伝達ミスであるとされています。


近づいてくる「サラトガ」の艦首

このことに気づいた「リトルロック」は、速度を上げて、
空母の艦首先をすり抜けようとして、右に舵を切りましたが、
ところがどっこい、空母の方も速度を上げていたのです。


「サラトガ」の左舷側から人が避難し始める

艦長はここで「HARD RIGHT RUDDER」と命令しました。
「リトルロック」は左に転回しようとする空母の艦首を、
右に転回しながら全速力ですり抜けることを選択したのです。
総員が空母の艦首を通過することを、息を呑みながら祈りました。

(ちなみに艦内にいた人は、何が起こっているか全くわからず、
ただ手近なものにしがみついていたそうです)



間一髪!!
「リトルロック」はゴミを捨てるためのブームと、
水温を測るための道具を上げ下げするための道具を失っただけでした。
事柄の大きさから言うと、ほぼ無傷です。

おそらくすれ違うところの写真を撮っている人。



衝突を髪の毛一本で回避してすれ違う「リトルロック」と「サラトガ」。
手前の水兵さんが頭を抱えてしまっているのも宜なるかな。
怖かっただろうなあ・・・。



1970年6月13日、NATOの演習に向かう「リトルロック」は、
ギリシャ海軍に貸与された「フレッチャー」型駆逐艦、
「ロンチ」D -56が艦首を横切ったのち同艦と衝突。

「サラトガ」の事故と同じく、このときもギリシャ艦が急に旋回し、
左側から「リトルロック」の前を横切ったことが原因でした。


その結果、「ロンチ」はこうなり、


「リトルロック」はこうなりました。

「リトルロック」の修理はマルタで行われたということです。


と言うわけで、「リトルロック」から下艦しました。
かつてそこに衝突の痕があったとは思えないほど、
現在の「リトルロック」は静かにその艦首をエリー湖に休めています。



「リトルロック」が得たユニット賞は、

キャンペーンメダル
海軍遠征勲章()
コマンド優秀賞
戦闘効率賞(白いE)


などとなります。

「リトルロック」シリーズ終わり






”ホーリーストーンニング”〜USS「リトルロック」

2025-06-18 | 軍艦

終わりに近づいた終わりに近づいたと言いながら、
小ネタを引っ張り続けてなかなか終わらなかった
USS「リトルロック」シリーズ、今日が本当の最終回となります。



北極圏到達を意味する「ブルーノーズ」の言葉通り、
ブルーに塗装された舳先の手前には、「カメラマーク」があります。

ここに立って記念写真を撮るもよし、ここから撮影するもよし。
って意味だと思います。

わたしも実際にここに立ってみたのですが、
真っ先に左舷側に見えているカモメに目が行きました。



「リトルロック」を係留している杭は彼らにとってちょうどいい休み場所。
いかに活用されているかがマーキングされた白い筋でわかりますね。


ここは港からエリー湖に出るための水路にあたります。
個人所有のボートやレンタルのディンギーなどが湖から帰ってきています。



「リトルロック」艦首から、巨大な星条旗を正面に望む壮観な景色。
旗が立っているモニュメントは、エリー郡出身の戦死者のための碑です。

画面手前に見える旗は、隣に係留された潜水艦「クローカー」の艦首旗で、
Jack of the United States=国籍旗です。


アメリカの州の数だけ星のある国籍旗は、
「ユニオン・ジャック」といい、現在の海軍で使用されています。
アメリカ建国200周年には、1年間限定で↓この、



「私を踏みつけるな」とヘビが言っている
「ファーストネイビージャック」が使用されていました。

その後、2002年に同時多発テロが発生したのをきっかけに、
長らくこのヘビ柄が国籍旗となっていたのですが、
2019年に元に戻されて現在に至ります。

ちなみに、現行旗に戻したのは2019年6月4日、
そう、「ミッドウェー記念日」でした。なんでやねん。



艦首に立って後ろを見ると、こんな光景が。


残念だったのは、見学路が非常にリミテッドで、
上部構造物の内部は一切見ることができなかったことです。

今のところ「リトルロック」は一般に向けては公開していないところが多く、
一番見てみたい艦橋はその予定もなさそうです。

出資者とか、特別な団体には公開しているのかもしれませんが。

そんなことを考えながらこの写真を撮っていて、ふと気づきました。


誰も入れないはずの艦橋デッキに人がいるぞ!

おじさんの佇まいから見るに、もろに一般人なのですが、
なぜ、こんな格好でこんなところにいるのか?
一般見学通路を歩いている限り、決して上れないところに
どうやって上がって、そして何をしているのか?

色々謎なんですが、もしかしたら「中の人」かもしれないなあ。
中の人、つまり「リトルロックアソシエーション」のメンバー。
同協会は、ニューヨーク州で法人化された非営利団体で、
主に「リトルロック」の乗組員だった退役軍人で構成されています。



しかし、おじさんをさらにアップにしてみると、その腕には
明らかに入場料を払って付けてもらう入館証がはめられてるんですよ。



まあいいや。気を取り直して、廊下を歩いてみる。
黄色い線は見学路ですが、少なくとも廊下からは
上部に続く入り口はなかったんだよなあ・・・・

■ ホーリーストーン


廊下を歩いていると不意に現れた海軍豆知識コーナー。
写真がそもそもわかりにくすぎるんですが、

Holystone(ホーリーストーン)

の説明とあります。
はて、「神聖なる石」とはなんぞや。

この写真に付けられたキャプションによると以下の通り。

ホーリーストーンは、軟らかくもろい砂岩で、かつては英国海軍や米国海軍で
船の甲板を洗浄し白くするために使用されていました。

英国海軍では、この用語(聖なる)の起源としてさまざまな説が伝わっており、
グレート・ヤーマスの聖ニコラス教会の壊れた記念碑の石であるという説や、
ワイト島のセント・ヘレンズ道路の停泊地に隣接する、
廃墟となったセント・ヘレンズ教会で、
海軍軍艦が食料を調達することが多かったから、という説などがあります。

なるほど、教会や石碑の石ならそれはホーリーかもしれない。
ところが、アメリカ海軍では語源はともかく、

「デッキのホーリーストーン作業」は、もともと
祈りを捧げるようにひざまずいて行われたから、とされている模様。

■イギリス海軍のホーリーストーン作業



イギリス海軍のHMS「パンドラ」における「ホーリーストーンニング」。
彼らが手に持っている豆腐のような物体がホーリーストーンです。

それにしても、左側で水兵帽を後ろ前に被ってるニイちゃんとか、
真ん中へんで変なものを舌に乗っけてるやつとか、
イギリス海軍もなかなかフリーダムよの。

しかし、このお茶目な雰囲気は、作業を命じる側にしか見られず、
ひざまづいている水兵さんたちの表情は心なしかひきつって硬いです。
やっぱり床を這いつくばって掃除するっていうのは、
そもそも靴で生活しているガイジンさんにはかなりキツいんじゃなかろうか。

そういえば、初期のイギリス海軍のストーンニングについては、
当事者のこんな告白が残されているのです。

我々は朝の4時から8時まで甲板を磨き続けるのだ。

もし休息を取ろうものなら、顔を蹴られて血を流す。
その後、血を洗い流してから艦長に報告をする。
すると、何の理由もなく鞭打ちの刑に処せられるのだ。

—1796年4月24日、HMS Eurydiceの乗組員による嘆願書より

うわーこれは超ブラック。

この頃の英国海軍は、港でめぼしい男性を攫って船に乗せてましたからね。
最初から乗組員を人間扱いしていません。


ホーリーストーンは1800年代初頭まで英国海軍の艦船の日常的な作業で、
嘆願書の出された1796年にはピークに達していました。

英国海軍の偉い人だったセント・ヴィンセント提督が、
艦長たちに艦隊の全艦の甲板を、

「夏の間は朝夕毎日ホーリーストーンするように」

といらんおふれを出したからです。


ジョン・ジャーヴィス (初代セント・ヴィンセント伯爵)

大型の戦列艦の場合、この作業には最大4時間を要しました。

そのあまりの苛烈な待遇に、ついに乗組員が根を上げて、
お上に嘆願書を上げるという事態になったことが想像されます。

それがセント・ヴィンセントの後任、キース提督に聞き入れられたようで、
1801年にこの命令は撤回されています。

「あらゆる気候、あらゆる気温において、定められた日に
天候がどうであろうと、軍艦の甲板を洗うという慣習は、
乗組員の健康と生命を損なうほど過酷である」

と判断されたためです。

その後甲板掃除はどうなったかというと、

7日から14日に1度、掃き掃除を挟んで実施されるようになった。

いやこれはなんか振り幅極端すぎない?
毎日4時間もかけるから問題になるんであって、
ちょこちょこっとでいいから毎日やったらいいのでは?

しかも、こんな記述を見つけてしまいました。

ホーリーストーン作業は、19世紀から20世紀初頭にかけて
海軍の日常業務の一部として継続されていたが、最終的には単に、
そうしなければ
暇を持て余す乗組員を働かせるための手段とみなされていた。

その
実用性のなさは、1875年の英国医学ジャーナルなどにも示されている。
このとき記されていた助言では、

「甲板のホーリーストーン作業のように、
単に彼らを働かせておくだけの役に立たない作業に従事させるのは危険だ」


と警告すらされていたというのです。

つまり、甲板掃除の目的は「下っぱいじめ」であったってことですよね。
だから、改正するなり掃除が週一とか2週に一回になってしまうんでしょ?

欧米は清掃と精神性は全く別物で、高潔な精神と不潔な環境は共存します。
子供に教室の掃除をさせる日本の教育はかなり異質に見えるそうです。

もちろん我が帝国海軍では、甲板掃除は毎日行われ、
水兵さんたちは下士官に「回れ!回れ!」と声をかけられながら、
この「パンドラ」の水兵さんのポーズでソーフ(雑巾)がけをしてました。

もちろん甲板掃除に4時間もかけることはありません。
なぜって日本の掃除は「いじめ」が目的ではなく、清掃が目的ですから。



■アメリカ海軍のホーリーストーン作業

アメリカ海軍はもう少し合理的な理由でホーリーストーンが廃れました。
ズバリ、
甲板の磨耗が早すぎて経費がかかりすぎる
からです。

そして、ひざまずくスタイルも変遷していきます。

「リトルロック」の写真を見ていただければお分かりのように、
最終的には、ホーリーストーン作業はひざまずいて行うことはなくなり、
石の平らな側面のくぼみに棒を立てて、腕や手で支えながら、
板目方向に前後に動かして行うようになりました。

要するにモップがけと同じになったってことですね。

1949年夏にUSS「ミズーリ」で兵学校卒業後の遠洋航海が行われ、
参加した当時の少尉候補生がこんなことを書いています。



私たちはそれをボイラーの断熱材に使うものだと教えられましたが、
実際にはそうではありませんでした。

30~40人のグループが、4~5インチの厚さの板の後ろに立ち、
他の者たちと息を合わせてストーンを前後に動かします。

責任者の号令で全員が板1枚分後ろに下がってから
再び「シフト」の号令で同じ作業を繰り返します。
確か、作業には海水と砂が使われたと思います。
海水で洗い流し、日光で漂白すると、ポーツマスに到着する直前に、
きれいな白い甲板が完成しました。


ホーリーストーンは、1980年代まで遠洋型掃海艇では行われました。

なぜかというと、掃海艇の船体は避雷のため木製だったので、
船首楼と船尾楼にはチーク材の甲板が敷かれていたのです。

木製の甲板は風化による汚れを落とすために徹底的な掃除が必要でした。

ちなみに小さなホーリーストーンは「祈祷書」、
大きなものは「聖書」と呼ばれていました。
あくまでホーリーにこだわっています。

ホーリーストーン作業は、チーク材の甲板を備えた
「アイオワ」級戦艦で1990年代まで続けられました。

そして、現在ではアメリカ艦隊で最後の木製甲板の軍艦である、
USS「コンスティチューション」、
ドイツ海軍から沿岸警備隊に移管され現役の
USCGC 「イーグル」Eagle、WIX-327(『ホルスト・ヴェッセル』)
などで、この伝統の作業が時々行われています。


「イーグル」


続く。(えっ)



ディスコーンアンテナのクリスマスツリー〜USS「リトルロック」

2025-06-05 | 軍艦

USS「リトルロック」艦内探訪もいよいよ終わりに近づきました。
あとは甲板から降りるまで見たものをご紹介するだけになりました。


まず、1945年と進水(就役ではない)した年が刻まれている時鐘。
このShip's Bell は、船鐘(せんしょう)号鍾(ごうしょう)と言います。

「リトルロック」は、進水から展示艦となった今日まで、
変わらず一つの船鐘を使い続けている幸運な艦といえます。

船鐘の変わった使用例

キリスト教国家ではない我々には想像しにくいですが、
欧米の海軍ではしばしば乗組員の赤ちゃんの洗礼を艦上で行います。

そしてその浸礼(パブテスマ)盤に、時鐘が用いられるのです。


写真は、海軍牧師(左)が、お父さん(ジョン・マデア中尉)が抱いた
赤ちゃんの額に、時鐘に湛えた水で洗礼を与えているところ。

向こうに立っているのはもちろんマデア夫人で、時鐘はひっくり返して
台に備え付け、うまく浸水盤のように設えてあります。

この写真で手前に写っているボーイスカウト少年のスカーフに、
「Troop 76 JAPAN 佐世保」と書いてあるのが気になりますよね。
(もちろんサンダウナー的日本を表すマークも)

これは、全米ボーイスカウト佐世保第76団、極東支部を意味します。

この洗礼式が行われているのは、

ドック型揚陸艦 USS 「トーテュガ 」Tortuga LS-46

「トーテュガ」は2006年3月31日、佐世保基地に前方展開のため到着、
この時に、それまで配備されていた「フォート・マッケンリー」と

艦体交換(指揮権と乗組員の交換)

を行っています。
交換作業は12日間という歴史的にも異例の速さで完了しました。

洗礼式が行われたのは2009年ということなので、
乗組員はオリジナルの「トーテュガ」のではなく、
元々「フォート・マッキンリー」にいたメンバーということになります。

艦上洗礼式というのは我々が思うより頻繁に行われるようで、
マデア中尉夫妻の娘は、1988年の進水式以来、
「トーテュガ」で洗礼を受けた4人目の赤ちゃんであるということです。

船で洗礼を受けた赤ちゃんの名前は、船鐘に刻まれます。

「リトルロック」の船鐘には、もしかしたら
艦上で洗礼を受けた人の名前が刻まれていたのかもしれませんが、
この写真を撮ったとき、わたしはそれを知らなかったので、
名前の存在を確かめることをしませんでした。

佐世保のボーイスカウト団員が参加していたのは、
もしかしたら洗礼を受けている赤ちゃんのお兄さんだから?

■ USS「サンバード」の救命浮き輪


甲板に「リトルロック」のではない救命浮き輪がありました。


この浮き輪についての説明もその近くにちゃんと展示してあります。


USS「サンバード」SUNBIRD 救命浮き輪

サンバードは、1945年4月2日にジョージア州サバンナの
サバンナ・マシン・アンド・ファウンドリー社によって起工され、
1946年4月3日にジョン・H・ラシター夫人のスポンサーにより進水した。


1950年6月23日、コネチカット州ニューロンドンで就役、
LCDR. A・R・クラーク Jr.が最初の指揮を執った。


以前わたしは「アメリカ海軍潜水艦の故郷」であるところの
コネチカット州グロトンで、潜水艦学校の入り口に博物館と間違えて突入し、
IDを調べられて恥をかくという体験をしたことがあるのですが、
潜水艦の多くはそのニューロンドンのグロトンで就役します。

1960年2月、「サンバード」は、退役した

護衛空母「シェナンゴ」(CVHE-28)

を曳航していた2隻のタグボートを支援するよう要請された。

同空母はロングアイランド北岸に着底していたが、
回収船は同空母の浮揚に成功した。


「シェナンゴ」

空母「シェナンゴ」Chenango は、1944年から終戦にかけて、
クェゼリン、エニウェトクの海戦をはじめ、グアムなどにも展開しました。

行動のタイミングのせいで特攻の洗礼を受けずに済みましたが、
その代わり?日本の南西諸島に展開中、戦闘機が着艦失敗して、
飛行甲板が火事になるという事故に見舞われています。

終戦後は、収容所にいた捕虜などの復員を支援する
「マジックカーペット作戦」に従事しました。



1968年5月27日、ナラガンセット湾の作戦海域で行動していた同艦は、
「パーゴ」(SSN-650)と共に、行方不明の

原子力潜水艦「スコーピオン」(SSN-589)

の捜索の支援を命じられた。

「スコーピオン」は発見されなかったが、
2隻はドイツの第二次世界大戦時の潜水艦を含む3隻の船体を発見した。


「スコーピオン」

「スコーピオン」は、地中海から帰投中の1968年5月21日、
定時連絡を最後に消息を絶ちました。

行方不明となった海域で5月22日に爆発音と圧壊音が記録されていましたが、
「サンバード」らによる捜索活動では艦体は見つからず、
5ヶ月後に圧壊した船体の一部が発見されました。

1993年になって公開された事故調査報告では、
原因は投棄したMk37魚雷の命中とされましたが、
異論もあり、実は今も正確な事故原因は特定されていません。

一つ指摘されているのは、当時のアメリカ海軍における、
整備もままならないほどの過密な原潜運用スケジュールが
事故につながった、という説です。

The Dark Mystery of the USS Scorpion Submarine


1986年2月12日から4月22日にかけて、「サンバード」は
NR-1とともに、不運な運命をたどった
スペースシャトル・チャレンジャー号(STS-51L)
の破片と残骸の捜索、発見、回収に参加した。


Large piece of space shuttle Challenger found off coast of Florida

この作戦中、「サンバード」は何度も潜水してシャトルの残骸を回収し、
最終的にこの悲劇的な事故の原因と疑われる
固体ロケットブースターの一部を発見したNR-1に水面支援を提供した。

「サンバード」は1993年9月30日に退役し、大西洋予備艦隊に入ったのち、
1993年11月2日に海軍艦艇登録から抹消された。

廃船契約は2005年7月18日にベイ・ブリッジ・エンタープライズ社
(バージニア州チェサピーク)に発注され、
2005年8月17日に撤去され、2005年11月12日に廃船が完了した。


甲板ではどんなところでも立ち入り禁止にはなっておらず、
その気になればどこにでも行けます。


ですから、アンテナ塔には上らないようにという注意書きあり。


こんなところまで。
ところで、左舷側の海面を見てください。


楽しく二人乗りの三連ディンギーで遊ぶカップルあり。
(ちなみに男同士)
これって楽しそうだなー。

この日は週末だったので、海上にはウォータースポーツに興じる人、
セイリングを楽しむ人などがたくさんいました。



黄色い金網で覆われている部分は、ご存じ、
現役時代は錨鎖の錨孔、ホースパイプ(Hawse Pipe)

展示艦となってから鎖は取り除かれ、孔は危険なので
このように黄色い金網で塞がれているというわけです。

金網は見たところ、溶接などされておらず、
その気になれば?取り除くことができるようなので、
万が一のことを考えて上に乗らないように黄色にしてあるのでしょう。

■ ディスコーンアンテナ



艦首にあるこのアンテナは、

discone/discage antenna coupler group
ディスコーン/ディスチャージアンテナ カップラーグループ


といい、ミサイル搭載艦となった時に追加されたシステムで、
海軍戦術データシステム(NTDS)用に計画されたものです。

高さは44フィート、2種類のアンテナ部分からできていて、
それぞれが音声とデータの送信用となっています。

1950年代から、海軍無線と複合ディスコーンケージ垂直偏波アンテナが
搭載されはじめ、ベトナム戦争時にはアメリカ海軍のほとんどの艦、
巡洋艦、駆逐艦、護衛艦に装備されるようになっていきます。

通常、艦首か最前方の砲架に取り付けられていました。

What is that Giant Antenna on the front of the Battleship?

「赤い線が書かれていればハイフリークェンシーレディオトランスミッター」

と言っていますね。

ところで、このアンテナ、何かに使えそうだと思いませんか?
そう、クリスマスイルミネーションです。

バージニア州ノーフォークに展示されている、USS「ウィスコンシン」では、
毎年美しいクリスマスイルミネーションが施されるのだそうです。

これ、皆さんの想像以上にすごいイルミネーションなのでぜひ見てください!


続く。




ホットケースマン〜USS「リトルロック」艦内展示

2025-05-02 | 軍艦

USS「リトルロック」6インチ砲ターレット内の展示、続きです。



雑に写真を撮ったせいで、砲弾ケースが半分上しか写っていなかったので、
仕方なく三枚の写真を雑合成し、なんとか全体像を復元しました。

空間が歪んでいるのは全く気のせいではありません。

クラッカージャックことブルードレス(セーラー服)の右側に、
ガルベストン級ミサイル巡洋艦が搭載していた、
5”/38二連装海軍砲の真鍮火薬ケースが展示してあります。



もう一度、5インチ38二連装砲をご覧ください。


先端にツノが2本出ているのにご注目。
これはわたしの推測ですが、雷管(点火起爆装置)だと思われます。

5インチ/38口径 海軍砲
真鍮火薬ケース


真の戦争勝利兵器である米国海軍の5インチ/38口径連装砲は、
米国の駆逐艦の標準的な主砲であり、第二次世界大戦中に建造された
USS「リトルロック」のような米国の大型軍艦の標準的な副砲でした。

火薬そのものは15ポンド(6.8kg)、
ここにある薬莢の重さは28ポンド(12.7kg)です。
見た目よりかなり重いですが、この合計19キロの薬莢を、
当時の砲員は手で扱っていました。


5インチ砲の砲塔下部をご覧ください。
この階下にある弾薬庫から砲弾と火薬が運ばれ、
砲弾昇降機が砲塔にそれらを供給します。

ちなみに、この部分は砲架が旋回すると同じ動きをします。
砲撃中、ここに立つ人は、上とシンクロして旋回することになります。

この写真の床に、赤線で囲まれた黒い部分がありますが、
砲架と共に旋回している時には、危険エリアとして立ち入り禁止となり、
中にいる装填手もそこから動かないことで安全を確保します。

また、ここには特別に強力な滑り止め加工が施されていて、
波が荒い時にも装填手が足場を保てるようになっていました。

砲弾は54ポンドと大変重いのでホイストで砲に送られますが、
火薬ケースは先ほども説明したように黒の床部分にいる者に手渡され、
そこから砲に押し上げられました。

今回ちょっとした好奇心から「5"/38使用マニュアル」を見てみたのですが、
薬莢装填マンに対する注意として、

 火薬カートリッジは、実際にトレイに装填する時以外は、
胸の近くに保持してください。

装填されている間は、砲尾ハウジングに触れないようにしてください。
砲が発射され反動が起こると、ハウジングが約15インチほど高速で後退し、
持っていたカートリッジを落としてしまう可能性があります。
このハウジング後部にいる時には反動の分間を開けて立つこと。

薬莢やコルク栓が衝撃を受けたり傷ついたりしないよう、
細心の注意を払ってください。

などという安全上の尤もな注意があるのですが、
そんな注意の中にさりげなく、

炎や飛び散る破片から、自分の体でカートリッジを保護すること!

という一文があって驚いてしまいました。
火薬の暴発は自分の身を呈して止めよってことでおk?

そして、装填の部分は、

装填:カートリッジを両手で持ち、跳ね返りを確認しながら、
ランマーシェルガードの前面にカートリッジを奥まで押し込みます。

プライマーまたはコルク栓を叩かないよう注意してください。
後退し、銃尾ハウジングから離れます。

銃尾ハウジングの後部が反動のために空いているか確認します。

「待機」の要領で別のカートリッジを用意します。

発射:銃尾機構の動作、銃の銃床への復帰、高温の薬莢の排出を確認する。
排出された薬莢が銃から完全に排出され、
スペードがトレイに落とされるまでは再装填を行わないこと。

となっております。

軍艦は、一人一人の動きは単純で簡単ですが、
その小さな動きが積み重なって目的を果たすことができます。

■ ホットケースマン

5インチ砲のマウントクルーは15人から27人が配置されていましたが、
主な役職を挙げると、

マウントキャプテン(砲架長)=砲架指揮官

ガンキャプテン(砲長)=砲架保守担当・砲手補佐

ポインター=砲架の仰角と射撃制御

トレーナー=マウントのトレイン角度制御

サイトセッター=照準器操作

信管セッター=砲弾の時限信管の時間を設定

パウダーマン=火薬ケースからプロテクターを外しトレイにセット

プロジェクタイルマン=発射体と火薬ケースをチャンバーに装填

ホットケースマン=発射後の火薬ケースを拾ってマウントから出す

サイトチェッカー=マウントが照準できているか確認


などです。

ところでこのマニュアルで初めて知った役目、それがホットケースマン。
排出した空の薬莢を処理する役目の人です。

先ほど「一人一人の役目は単純で簡単」と書きましたが、
その典型のような仕事ですね。

5"/38砲の配置では、赤丸の二人がホットケースマンです。

例のマニュアルにはこの人たちについても言及があって、

ホットケースマンの任務は、排出された空の薬莢を処理し、
新しい火薬カートリッジ、乗組員、および銃架上の、
壊れやすい固定具が高温の薬莢に接触しないようにすることである。


と、簡単だけど重要な任務だとあります。
乗りかかった船なので、ついでにこの任務についての手順も。

準備:

担当の持ち場につく際には、必ず耐炎服一式と石綿手袋を着用すること。

排出された高温のカートリッジケースをキャッチできない場合は、
体のどの部分を使ってでもそれを止める準備をしておくこと。


耐火服を着用していれば火傷を防ぐことができます。
ホットケースの停止、安全な処分の責任はあなた一人にかかっています。
決して他の乗組員に頼ってはいけません。
彼らは各自の任務で忙しくそんな時間はありません。

あー、この突き放し方、クールでいいわー。
また、火災に備える装備は以下の通り。

1. 消火用ホース 

2. フォームライトホッパー

3. 携帯用CO2消火器 (二酸化炭素ガス消火器)

4. 砂の入ったバケツ

砂は砲台の火災の消火や、戦闘中の滑りやすい甲板に撒くのに最適なので、
軍艦には標準装備されていたようですが、注意として

「砂バケツを乗組員が灰皿代わりにしないように注意してください」

とわざわざ書かれていました。
書いてないとついやっちゃうのかも。

ここでほお、と思ったのが、火災が実際に起こった時、

「上長から命令があるまでは対処してはいけない」


つまり、消火活動さえ上の指示がないとしてはいけないわけですが、
その理由は、ズバリこれ。

敵標的が残っている間は、砲撃を継続することが優先されます。

なんと、足元に火がついていても敵を倒すのが先とは。
アメリカ海軍恐るべし。

さて、ホットケースマン本来の仕事はここから始まります。

持ち場につく前に、耐火服とアスベスト手袋を着用してください。

持ち場 :

「持ち場につけ」の号令で、砲尾のやや後方左側に位置し、
銃身を上から見る。点検する。

1. 砲尾が閉じられていること
2. 砲口にTompion(プラグ?)が残っていないか
3. 砲身が汚れてないか
足を約50cmほど開き、左足を前に出して銃の方を向く。
右足を後ろに45度開き、銃身の中心を通る線に対して右斜め45度に向ける。
右手はトレーの後端の上に開いた状態で持ち、指を伸ばして上に向ける。
左腕はリラックスさせて胸の近くに置く。

これで「キャッチ」の準備が整う。

待機 :

カートリッジケースストッパーが正しい位置にあることを確認する。

ケースストッパーが正しい位置にない場合は知らせる。

装填:

装薬手はカートリッジをトレイに置く。

発射:

銃が反動し、高温の薬莢が排出されるので、
右手を覆う石綿手袋で高温の薬莢の底を掴む。
薬莢に右手を乗せて戻す。

左手を上げてホットケースを完全に保持し、
後ろに下がり、銃の班長が安全と指定した場所に投げる。

ホットケースを他の班員から遠ざけ、銃から離れた場所に投げ、
次のラウンドのポジションに前進する。

銃身を点検し、通常通り作業を続ける。

■ ネイビータイムズ シップインザスポットライト



手書きの艦内新聞みたいなものが貼ってありました。
イラストはプロの手によるものではないかと思われます。

なぜか同じミサイル巡洋艦「オクラホマシティ」CG -5についての記事で、
判読できる部分はこんな記事が書かれています。

西太平洋で最も有名な巡洋艦の長い歴史が幕を閉じる。
第二次世界大戦時の大砲型巡洋艦の最後の生き残りである
「オクラホマ・シティ」は、12月15日にサンディエゴで退役する。

1944年にフィラデルフィアの海軍工廠で軽巡洋艦として就役した後、
第3艦隊に編入され、沖縄戦の最終段階と日本への砲撃戦に参加した。

1947年に退役し、10年間 「モスボール 」で過ごした。

誘導ミサイル巡洋艦の導入に伴い、「オクラホマ・シティ」は
大規模な改造を受け、1960年にCLGに改装された。

太平洋艦隊の戦闘部隊として初めてタロス誘導ミサイルの着弾に成功し、
その後1975年にエースに再指定された。
ベトナム戦争中は沿岸の戦闘部隊の砲撃支援を行い、
ダナン近郊とチュライで海兵隊を支援した。

「オクラホマシティ」は戦争末期「フリークエントウィンド作戦」に参加し、
その際にはヘリコプターが飛行甲板に着艦し、
米国とベトナムの避難民を安全な場所に運んだ。
この行動により、彼女は功労部隊表彰を受けた。

ミサイル巡洋艦「オクラホマシティ」が退役したのは1979年。
この新聞記事はその直前に書かれたものだと思われます。

記事にもあるように、彼女は太平洋艦隊において
初めてタロスミサイルの発射に成功した戦闘部隊となりました。

ミサイル搭載艦に変更された1960年のクリスマスイブに横須賀に到着し、
第7艦隊の旗艦として、作戦優秀賞を2回受賞したほか、
極東のいくつかの都市で親善大使を務めています。

続く。




セーラー服と機関砲(=クラッカージャックと5インチ砲)〜USS「リトルロック」

2025-04-19 | 軍艦

USS「リトルロック」の管内探訪、後方から見学してきて、
最終的に前方の6"/47砲の前に出てきました。
前回は、砲塔の内部を見ていったわけですが、
ここで艦内に展示されていた一つの写真をご覧ください。

■5"/38 Mk.12砲


夜間演習における6インチ砲と5インチ砲の発砲シーンですが、
前回細かく見ていった三連装の6インチ砲の上方には、
セカンダリーとして5インチ砲が見えています。


テントが貼られていて、5インチの下の6インチ砲は見えません。

テントがなければこんな風に見えます


この5”/38 Mk 12砲ですが、艦内で、この下部にある
アッパーハンドリングルームを見たことを思い出してください。


このハンドリングルームでは、左奥のストアージエリアにある弾薬を、
中央の青い弾薬がセットされているところに置き、
それが階上のガンハウスに送られ装填されるというわけです。

5インチ38口径砲は、1935年以来、米海軍で最も信頼されている
多用途(空中および海上の標的の両方に使用できる)兵器のひとつです。

実は、弾道学的観点で言うと、弾丸重量も初速も、
特に優れているというわけではないのですが、一般的な信頼性、
操作性、精度は非常に優れていると評価されてきました。

第二次世界大戦における最高のセカンダリー砲といえましょう。

アメリカ海軍では当初駆逐艦のみならず、全ての艦種に搭載され、
現在では他のものに置き換わって姿を消しましたが、
他の多くの海軍では今でも広く使用されています。



これは改装後の「リトルロック」であり、
ピンクで囲んだ部分が5”/38砲、搭載数は1基です。


そしてこちらがCL-92として就役した当時の「リトルロック」
タロスミサイル搭載前は、5インチ砲は6基搭載されていました。

艦橋の前後に1基ずつ、そしてサイドに前後を向いたものが2基ずつです。

5" 38 Gun Operation on 13 September 1951 during the Siege of Wonsan; Korean War USS Floyd B. Parks

このビデオを見ていただくとよくわかりますが、冒頭に、
床から薬莢を取り出し、手動で装填しています。



アッパーハンドリングルーム拡大

アッパーハンドリングルームから送られてきた弾薬を手で持って装填します。
映像を見ていると、現場の人はもうただ淡々と、
床のノズルから生えてくる弾薬を同じところに入れる作業をしていて、
一日やっていたら気が狂うんじゃないかとお節介ながら思います。

パワーラム式であったため、発射速度が速く、仰角に関係なく装填が容易。
この特性は、対空兵器として非常に望ましいものでした。

1943年に近接信管式の対空砲弾が導入されたことで、
この兵器はさらに強力な対空砲となるのです。

■ ターレット内展示



前回、6"47砲のターレット内部のこの写真をご紹介したわけですが、
この階段を上った左右のスペースは、展示スペースに利用されています。



ターレット内部にこんなスペースがあったとは。
というわけで、「リトルロック」関連品が並んでいます。

 ■『クラッカージャック』=セーラー服


まず制服。
砲塔に勤務していたガンナーズメイトPO2
(ペティオフィサーセカンドクラス、二等兵曹)のドレスブルー。

ここに「クラッカージャック」とあるので寄り道になりますが説明します。
アメリカでクラッカージャックというと、それはポップコーンです。

「史上最初のジャンクフード」という悪名が与えられています。
何しろポプコーンにキャラメルをコーティングするなどという外道ですから。

ところで「ティファニーで朝食を」のこのシーン、ご存知でしょうか。

Breakfast at Tiffany's (6/9) Movie CLIP - Cracker Jack Prizes (1961) HD
ホリーとポールの二人が、ティファニーに行き、
クラッカージャックのおまけの指輪に名前を刻印させようとします。

そしてこれがオリジナルロゴ。

さあ、もうお分かりですね。
なぜセーラー服が「クラッカージャック」なのかが。

モデルとなった少年、セーラージャックは創始者で、
ドイツ移民のポップコーン売りから身を起こした、
フレデリック・リュックハイムの孫、ロバートです。



しかし、気の毒なことに、ロバートはこのロゴになってすぐ、
肺炎にかかり、わずか7歳で亡くなってしまいました。


墓石には写真か肖像が嵌め込まれていましたが、紛失しました。


このアイコンのセーラー服少年のイメージが浸透し、
商品名がセーラー服を表すまでになったわけですが、
リュックハイムブラザーズ&エックスタイン社(といいます)は、
そのため海軍との協力体制を表していました。
上は、海軍入隊を勧めるクラッカージャックの宣伝です。
犬とセーラージャックがリアルに怖いですが、それは
印刷の図柄の関係で仕方なし。

カラーだとちゃんとかわいいです
眉毛犬は不気味

広告のロゴにはこんなことが書かれていますよ。
もうそのものズバリ、海軍へのリクルートです。

アメリカ海軍に志願しよう

みんなのジャッキーと兵隊さんたちも大好きな

クラッカージャック
世界に有名なお菓子

クラッカージャックのサクサクとした美味しさと栄養価の高さは、
特にカーキとネイビーの軍服を着た青年たちの健康的な食欲をそそります。

「食べれば食べるほど、もっと食べたくなる。」

みんなクラッカージャックが大好き。
この理想的な非常時のお菓子は、
他社製品よりはるかに少量の砂糖しか使っていないのに、
甘いもの好きさんも大満足。

クラッカージャックをモリモリ食べて砂糖と小麦を節約しよう!

クラッカージャックは、栄養バランスが良く、消化に良い食品です。
ジャガイモの5倍、卵の2.75倍、サーロインステーキの1.5倍、
そして全粒粉パンのほぼ2倍の栄養価があります。

クラッカージャックは、甘いものが欲しいという欲求を満たしながら、
お腹に満足感を与えます。

厳選されたポップコーンとローストピーナッツから作られ、
製造過程では人の手が一切加えられていない、
おいしい糖蜜キャンディーでコーティングされています。

特許取得済みのワックスシールパッケージに入っているので、
清潔でパリパリ、おいしさを保ちます。

この製品は、ワックスでシールした包装紙に包まれていましたが、
これは業界初の試みで、特許も申請されていました。

宣伝ですからまあ好きに書けばいいとは思いますが、

「ジャガイモ、卵、サーロインステーキ、全粒粉より栄養がある」

というのは、今日の栄養学からは首を傾げざるを得ません。
栄養がある、を「カロリー」と捉えているのかもしれません。

サーロインステーキと同じグラム数のポプコーンを計算すれば、
(それが食べられる量かはともかく)、カロリーはそりゃ高くなるでしょう。

広告下部の四角い箱(左)の中は次の通り。

昨今の材料費と製造費が高騰に鑑み、
クラッカー ジャックの高い基準と品質を維持するために、
ロッキー山脈の東側では 1 パックあたり 8 セント、
2 パックで 15 セントという価格調整が 必要になりました
(1918 年 5 月 24 日)。

何かと思えば、値上げのお知らせです。
気になるのが「ロッキー山脈東側」という縛り。
ロッキー山脈はモンタナ、ワイオミング、コロラドを通りますから、
要するに値上げしない州はカリフォルニア含む5〜6州だけになります。

なんで山脈で値上げ地域が分けられるのかが謎です。
輸送コストの関係かな?

それをいうなら、東海岸にはアパラチア山脈というのがあってだな。

気を取り直して、四角右側。

国民愛唱歌無料

お名前とご住所をお知らせいただければ、
アンクル・サムの有名な国民唱歌ポケット版を
無料でお送りいたします。お申し込みはすぐに!

アンクルサムの国民唱歌というと、「アメリカ・ザ・ビューティフル」
「ゴッドブレスアメリカ」
(アーヴィング・バーリン作曲)
「ヤンキードゥードゥル」「リパブリック讃歌」(カメラのキタムラ)
などが思い浮かびますが、アメリカ人なら誰でも知っている、

「私を野球に連れてって」
Take me out to the Ball Game


も、いわゆる愛国歌の一つです。(野球国家ですから)

MKはサンフランシスコの幼稚園に通ったのですが、
「ワーク」という母親の見張り当番のとき、お歌の時間に
必ずこの歌を園児に歌わせる先生(女)がいて、わたしもそれで
この歌の国民的な位置付けというのを初めて知った記憶があります。

Edward Meeker - Take Me Out To The Ball Game (1908) - Lyrics

で、この曲をぜひ聴いていただきたいのですが、
コーラスに入ってからの歌詞は次の通り。

Take me out to the ball game,
Take me out with the crowd;
Buy me some peanuts and 
Cracker Jack,
I don't care if I never get back.

私を野球に連れてって
観客の中に連れてって
ピーナッツと
クラッカージャックを買ってね
もう家に帰れなくても構わない

はい、クラッカージャックいただきましたー。
なんのことはない、これ、クラッカージャックのCMソングだったのです。

7回表でこの歌を全員で歌うことはご存知かもしれませんが、
歌詞の後半、「root, root」という地元チームを表す部分を
応援するチームに変えて歌うこと、そして、球場ではもう不動の地位で
クラッカージャックが売られていることは経験者しか知らないでしょう。

一度ニューヨーク・ヤンキースがホームゲームの時、
何を思ったかクラッカージャックを別のクランチン・マンチに変えたところ、
市民からの猛抗議に遭って元に戻したという話もあります。




クラッカー・ジャックで寄り道をしてしまいましたが、
この写真のコーヒーカップは、「リトルロック」乗組員が
かつて艦内で使用していたもので、そこには、

USS LITTLE ROCK
CL-92 1945-1947
CLG-4 1960-1975

とプリントしてあります。

続く。


6インチ47三連装砲〜USS「リトルロック」

2025-04-07 | 軍艦

USS「リトルロック」艦内探訪、見学路はついに
メインデッキの階に戻ってきました。


クォーターデッキの「士官チェックアウトポイント」を出ると、
そこには「リトルロック」の時鐘があります。
時鐘は機能的に今でも現役なので、ちゃんと紐がついています。


ここには「リトルロック」の主砲である、
 6"/ 47 Mk 16 Guns 
があります。

この日、エリー湖沿いは大変陽射しが強くて暑く、
主砲の上にかけられたテントの日陰がありがたくて、
少しここで座って休憩をしました。
左の方にあるバッグも私のものではなく、別の見学者が休憩中です。

この三連装海軍砲は、第二次世界大戦時は主砲でしたが、
「リトルロック」の「ガルベストン」級巡洋艦はタロスを搭載していたため、
前方に1基装備してあるだけとなります。

「リトルロック」CL-92 

これが「クリーブランド」級だったミサイル搭載前の「リトルロック」。
6"/47mk.16三連装砲は前方と後方のメインデッキに2基ずつ置かれました。
(ブルーの◻︎で囲んだ部分)

「リトルロック」CLG-4/ CG-4

1960年に改装されてからの「リトルロック」です。
現在展示されているのと同じように、三連装砲は前方に一基だけとなります。
ここに以下のような説明が二箇所にありました。

マーク16/1 三連装 6”/47砲塔

これは、現存する唯一の米海軍6インチ3連装砲塔です。
各砲(海軍では「ライフル」と呼ばれていた)は、水上&沿岸の標的に対し
1051b.の砲弾を13マイル飛ばすことができました。

1門あたり4.31トンある6インチ砲から、毎分最大6発の砲弾を発射。
仰角は最大60度でした。

発射された砲弾は、最大5インチの硬化装甲板を貫通することができました。
砲塔の前面には6.5インチの装甲板が施されており、
1秒あたり10度という速さで目標を追尾の旋回をすることができました。


6インチターレット

「リトルロック」に搭載されている3連装6インチ47口径砲塔は、
世界で最後の完全な状態のものになります。

砲撃時には20~24人の乗組員がここで作業していました。
砲弾は105~130ポンドで、3~15マイルの距離まで到達しました。

■ 砲塔内部とその仕組み


現地に貼られていた6インチ47口径砲塔の説明その1。
この砲塔(ターレット)の中で20〜24人が仕事を行うわけです。


これが「リトルロック」砲塔内。

■ 装填の役割分担

3基の各砲には、「砲長」砲弾装填手」「火薬取扱手」
そして「火薬装填手」の4名が配置されていました。



火薬取扱手(powder handle)は、左、中央と三箇所にある
「火薬ホイスト Powder Hoist」
から60ポンドの火薬を取り出し、火薬装填手(powder loader)
後ろにある
B「火薬収納トレイPowder handoring Platform」
に入れます。

砲弾装填手(projectile loader)は、左、中央、右にある
「砲弾ホイスト Projectile Hoist」
から、105〜130ポンドの砲弾を取り出し、砲弾トレイに入れます。

すると、砲弾装填手(powder loader)が、装薬トレイから
薬莢(powder cases)を取り出し、砲のトレイに配置します。

一つの砲に一人いる砲長(gun captain)は、それらの作業完了後、
撃鉄(うちがね)を操作して砲弾と薬莢を砲尾に押し込み、
砲尾ブロックを上げて砲を閉じます。

砲塔の潜望鏡である
「ペリスコープ」
で目標の確認を行い、砲撃操作は、
「ターレットオフィサーズ プラットホーム」
に立つ砲塔指揮官の指揮によって行われます。



砲塔内を見学するための階段が付けられています。
これを上がったところが砲塔オフィサーの立ち位置であり、その上部には、


ペリスコープがあります。

砲塔は通常、水上砲列室のコンピュータによって自動的に操作されましたが、
砲塔内からローカル操作することもできました。


このオリジナルの砲塔に入るためのハッチです。
こんな狭いハッチを潜れるくらいスマートでないといけません。
今のアメリカ人なら半数くらいが入れなさそう。



ハッチは1.75インチの厚さの弾道鋼でできています。
「リトル・ロック」が1945年に就役した際には、
6インチ三連装砲が4門(前部2門、後部2門)装備されていました。

1960年にオーバーホールとミサイル巡洋艦への再設計が完了した際には、
この6インチ砲以外のすべてが撤去されました。艦

載ミサイルや航空機の普及により、大口径の艦砲は時代遅れとなったのです。


■照準のために


砲塔左側には照準手(pointer operator)が位置し、
砲塔士官の指示に従って砲の仰角を上げ下げし、照準器に目標を捉え、
或いはローカルモードで砲を発射するための引き金を引きます。

砲塔右側にはトレーナーオペレーター(trainer’s operator)がおり、
砲塔を砲塔士官の指示した方位に回転させ、照準器に目標を捉えます。

ポインターの後ろの3人目のチェッカー(checker crewman)は、
砲の照準を確認します。

ポインタートレーナーチェッカーには、
砲塔の側面から突き出た個別の望遠鏡が装備されており、
標的を観察して方位と仰角を修正することができます。

サイト・セッター(sight setter)はトレーナーの右後ろに位置して、
ポインタートレーナーチェッカーの望遠鏡の焦点距離を調整し、
標的に焦点を合わせるという役目を行いました。

砲塔内の人員配置図です。



■ 砲塔の仕組み

砲塔の厚さは6インチで、全体は装甲バーベットに搭載されています。
バーベットチューブはサードデッキまで伸びていました。

その下から5”バーベット装甲管が第1プラットフォームまで伸びています。
第1プラットフォームデッキは、その下の、
第2プラットフォームの火薬庫と砲弾庫を保護する役目がありました。

第2プラットフォーム階は艦内の最も深い階層で、
その下にあるのは燃料タンク、バラストタンク、水タンクなどです。

■砲塔下部バーベット〜ローラーパス

砲塔のすぐ下には砲パン甲板(gun pan level)があり、
砲の仰角機構が配置されていて、大型の電動モーターで駆動する
油圧伝達装置が仰角ギアを駆動していました。

ここでは大型のスクリュー機構が砲を上下させます。
3門の砲はシンクロしていて、個別に仰角を変えることはできません。

トレイン駆動モーターとピニオンギアも砲パン甲板上にありました。

トレインドライブとピニオンギアは、砲塔機構の回転部分を囲む、
大型の固定リングギアに対して回転します。



砲塔は、訓練用リングギアのすぐ上にある
ローラーパスの84個のローラーベアリングの上を回転します。
このローラーパスは砲塔を持ち上げずローラーを交換することができました。

回転する砲塔の全重量は、3番デッキまで延びる、
鋼鉄シリンダーの上部に取り付けられたローラーパスが支えています。

このシリンダーと砲尾の内壁の間には14インチのスペースがあり、
点検やメンテナンスが可能でした。

「リトルロック」

続く。





ゴールデンスパチュラ〜USS「リトルロック」展示

2025-04-04 | 軍艦

バッファローネイバルパークのUSS「リトルロック」探訪、
そろそろ終わりに近づいてきました。

オフィサーズ・ワードルーム、士官室の机に置かれていた
在日米海軍所属の漫画家の作品をしばらく紹介することになりましたが、
後少し、進んでいきたいと思います。


次に現れたのは各種トロフィーコーナー。

⚫︎ボーリング大会トロフィー

まず手前の二つですが、どう見てもボウリング大会の優勝トロフィー。
右は1976年度大会で、我らが「リトルロック」は3位入賞したようです。


これもボーリング大会のトロフィー。
余ったボウラーを全部くっつけてみました感漂う作りは、
もしかしたら艦内工作部の作品か?

アメリカは何気にボウリングが根付いていて、
日本のように一時的なブームということもなく、普通に皆が楽しんでいます。

そういえば、横須賀の米軍基地にもボウリング場があったなあ。

信じられないことに?ボウリング専門店では、
「USネイビー仕様のボーリングボール」をオーダーできます。
ちょっとこれかっこよくないかい?
どんな人が使うのか知らんけど。

とか思っていたらこんなページを見つけてしまいました。

アメリカ全軍シリーズボーリングボールオーダー

POW/ MIAの柄もあるという・・・さらに誰が使うんだ。

⚫︎ 金のスパチュラ賞トロフィー

そして金色のスパチュラ型トロフィーですが、
その名も「ゴールデンスパチュラアワード」2014年の勝者に与えられた、
「金のスパチュラ」(そのまんま)です。

これは下に説明があったので何かわかりました。

アメリカの通販チャンネルQVCのチャンネルで、
作家でパーソナリティのデビッド・ベナブルが司会を務める番組、

In the Kitchen with David


というのがあって、このデビッドという人が、ゲストを迎え、
料理を紹介したりキッチン用品をおすすめしたり
(そしてそのキッチン用品や食材は番組から通販で買える)
する番組なのですが、この番組のロケが、どうやら
バッファローネイバルパークで行われたっぽいんですね。

この時にゴールデンスパチュラアワードを決めたようなんですが、
その授与先がどこかが全くこの情報からはわかりません。

アメリカに住んでいた時、時々エメリル・ラガーシの
料理ショー(『バン!』が決め台詞)をよく見たものですが、

Why Emeril Lagasse Always Says "BAM!"

このデビッドという人もエメリルのようにめちゃくちゃ太ってます。

Punked In The Kitchen With David on QVC

番組をちょっとみてみたのですが、この回のように、
「ジャガイモにクリームチーズを混ぜ込む料理」とか、

2014 In the Kitchen with David Favorite Moments

「ミートローフの中にチーズマカロニが混入している料理」とか、
命の危険を感じるような恐ろしい料理が中心で、震え上がってしまいました。



ちゃんと撮れませんでしたが、この時に
スパチュラをもらった人たちももれなく重量級。

⚫︎ 陸上競技トロフィー

そして右側のトロフィーなんですが、なんとイタリア語です。

 MEETING ATLETICA LEGGERA
FORMIA 1970

は、1970年にイタリアのフォルミア(ブーツの脛の辺りにある都市)
で毎年?行われてる陸上競技大会のことらしいです。

世界的な大会なので、アメリカ代表として、
「リトルロック」のグループが何かに出場し、入賞したのかもしれません。

アメリカのスポーツは世界一のレベルなので、
オリンピックでメダルを取る人も毎大会山のようにいますから、
海軍軍人がスポーツ大会で優勝することも珍しくないでしょう。

余談ですが、MKの卒業した大学は、先のパリオリンピックで、
一大学だけで世界7位に相当するメダル数を獲得したそうです。

⚫︎ 艦内部署対抗フットボール大会トロフィー


さすが巡洋艦だけあって、艦内で部署対抗のフットボール大会が催せます。
初回大会は1973年に開催され、
1974年、1975年と3回で終了しています。

「リトルロック」は1976年に退役しているので、
1975年までしか行われなかったということでしょうか。

⚫︎ 謎のピンナップガール


To the groovy Tigers of the Rock.....
(グルーヴィーなロックの虎さんたちへ)

というコメントを添えた水着写真の美女の写真。
これは一体どこのどなたでしょうか。

おそらくなんかのイベントで、「リトルロック」を訪問したか、
そんな慣習があるなら一日艦長をしたとかの芸能人かな。
それとも地元のミスコン優勝者とか?

何しろミスL・EXじゃ何もわかりません。

ちなみにグルーヴィーという言葉は、遡れば、
groove(溝に関する)にyをつけた造語で、1937年ごろはこれが
「一級品」とか「優れた」という意味で使われていたのですが、
1960〜70年台に若者の間で「イカす」「かっこいい」(日本なら)
という意味合いで盛んに使われていた形容詞です。

もう少し後の「ナウい」同様、アメリカ的には古臭い言葉ですが、
(今は普通にcoolで済ますことが多い気がする)
あえてレトロでオシャレな雰囲気を表すときに使ったりするようです。

そして、彼女の「ロックの虎」という言葉ですが、
ロックはリトルロックから、トラはおそらく、



非公式に作られていたこのパッチから来ていると思われます。
(『リトルロック』の公式パッチにこのような意匠のものはない)

■ オフィサー・チェックアウトボード

この後、見学路は階段を上って、上甲板に辿り着きました。


USS「リトルロック」
オフィサー チェックアウト ボード


クォーターデッキのワッチは、このボードを使用して、
士官の誰が乗り組んでいるか、上陸していたかを把握しました。

まず、「クォーターデッキ」という言葉について説明しておきます。

帆船の時代、それはメインマストの後ろの高くなったデッキを指しました。
その時代は、ここで船長が船を指揮する場所でした。

メインマストと船尾の高くなった部分との間、
赤で印をつけた部分がクォーターデッキ

現在ではクォーターデッキは特定の、どこという場所を指すのではなく、
港に着岸している時の受付、つまり舷門となる場所を指したりします。

⚫︎練習艦「かとり」のクォーターデッキ



wikiの「クォーターデッキ」の項に貼られている練習艦「かとり」の舷門。
写真が撮られたのは1985年6月ということなので、
情報に間違いがなければ、この時の練習艦隊司令は、
防大4期の井上哲一等海佐のはずです。

この年の練習艦隊には、「かとり」のほかにDD-114「まきぐも」がいて、
遠征先はハワイ、東南アジア、オセアニアとなっています。

写真の作成日が6月5日となっており、写真を撮ったのが
デビッド・ロジャースというベテランであることがわかっています。

UCバークレーで工学の博士号を取った後、海軍の情報将校になった方で、
「かとり」が出航2日後の6月、ハワイで「かとり」を迎えました。

1985年6月から7月にかけてFICPACで勤務していた際、
私は日本の練習巡洋艦「かとり」の士官室で昼食に招待されました。
これは、クオーターデッキに立っている私の歓迎会委員会の様子です。
私は作業用のカーキ色のズボンをはいていたので、恥ずかしくなりました!


上の写真に添えられた説明です。
歓迎委員会・・・・ではないんではないかな。


で、このとき「かとり」の後甲板で「カーキの作業服」のまま、
写真を撮ったというわけです。

これは、カーキ色の作業服を着た私が、日本の軍艦旗を掲げた
「かとり」の船尾甲板に立っているところです。
背景には、パール・ハーバーのイースト・ロックを挟んで
USSアリゾナ記念館があります。


練習艦隊がハワイに寄港した時には、必ず
アリゾナ記念館に立ち寄るということですので、
このときもそうだったでしょう。


話がそれましたが、とにかくこれがクォーターデッキにある
チェックアウトボードです。

言うたら出社札みたいなもので、(今時そんなものはないけど)
士官は必ず上下艦の際、ここで自分の名札の横に
乗艦しているか、それとも上陸しているかのステータスを、
スライドして明らかにするわけです。


「リトルロック」のステータスの仕組みは、
自分の名前の横に金属プレート「ASHOR」(上陸中の意)を出します。
裏側は文字が刻まれていないので、乗艦したらこちらを表にするのでしょう。

ボードはまだ巡洋艦CL-92 の頃のもので、読める名前を調べたのですが、

Lewis, Robert P. - SN (48-49)

と言う人の在籍しか確認することができませんでした。
どうしてホームページのCL-92の名簿に名前がないのかわかりませんが、
なんかわたし調べ方を間違ってるのかな。

続く。








ロウワー・ハンドリングルーム〜タロスミサイル巡洋艦「リトルロック」

2025-03-27 | 軍艦

バッファローネイバルパークのタロスミサイル巡洋艦、
「リトルロック」の艦内探訪、バーバーショップを通り過ぎました。


ここで「リトルロック」についての概要が現れました。
あまり面白くはないんですが、翻訳しておきます。

■ USS「リトルロック」
(CL-92/CLG/CG-4)

1942年、「ブルックリン」級巡洋艦の改良型として
8隻の新型軽巡洋艦(CL)が就役した。
これらは新しい「クリーブランド」級巡洋艦となる予定だった。

最終的に39隻が建造される予定だったが、
実際に就役したのは27隻だけだった。
このうち9隻は建造中にCVL(小型空母)に改装された。

(これらの14,750トンの船は、巡洋艦の武装と上部構造をすべて取り除いた
『インディペンデンス』級となったが、
元の巡洋艦の機械と基本的な船体はそのままであった。)

さらに、予定されていた「クリーブランド」のうち3隻は
建造開始前にキャンセルされた。

「クリーブランド」級巡洋艦は、4基の3連装砲塔(前部2基、後部2基)
12門の6インチ/47砲、12門の5インチ/38砲を連装砲塔
(前部と後部の中央線上に各1門、艦の左右に各2門)に搭載していた。

戦争が進むにつれて、海軍が計画していた1.1インチ速射AA機関砲は
20ミリと40ミリAA砲に置き換えられた。

AA火器の増設に加え、単三火器管制官も追加され、
交差目標への交戦能力を向上させるため、
AA火器は艦首と艦尾に搭載された。

ここでいうAAとはもちろん単三電池のことではなく、
アンタイ・エア=対空という意味です。

■「クリーブランド」級巡洋艦の
誘導ミサイル巡洋艦への改装計画

第二次世界大戦末期には、深刻な「空中からの脅威」が出現した。

まず、ドイツ軍。
誘導グライダー爆弾は爆撃機が艦船に接近することなく攻撃が可能だった。



この場合、一つの例はHencschel Hs 293のことです。
ナチスドイツが開発した世界初の動力付き誘導爆弾であり、
現在の対艦ミサイル(空対地ミサイル)の元祖と言うべき武器です。


もう一つは、FritzX(フリッツエックス)と言う滑空式誘導爆弾。
両者の違いは、ヘンシェルがロケット推進なのに対し、
フリッツXは滑空式で、こちらは徹甲弾でした。

ドイツの遠隔操作による対艦兵器の研究は1939年に始まり、
1943年には実戦に配備されていました。

続きです。

そして日本軍のカミカゼ特攻である。
特攻機は
人間による誘導ミサイルと言える。

操縦者の意思で目標に誘導されるミサイルが、実際に艦船に命中した時、
どれほどの損害になるかを史上初めて証明することになったのが、
それまで世界のどの国もやらなかった特攻という作戦だったのです。

それではこれに対抗する武器となるのは何かというと、
それは地対空ミサイルでした。

1940年代半ば、ジョンズ・ホプキンス大学の応用物理学研究所(APL)
の支援のもと、


「バンブルビー計画」"Project Bumblebee"

として、ラムジェットを動力源とする
地対空ミサイル(SAM)の開発が行われていた。

そして、そのプロジェクトにより生み出されたのが、

テリア(SAM-N-7 / RIM-2)Terrier
ターター(Mk15 / RIM-24)Tarter
タロス(SAM-N-6b)Talos

の各ミサイルである。

今気づいたんですが、どれも「T」ではじまってるのは
どういう理由があるんでしょうか。

海軍の研究開発責任者であったH.G.ボーエン少将は、新しいSAMには
ミサイルと誘導レーダーを格納するための
大型艦が必要であると考える。

ヨーダ耳のボーエン少将
ノックスと仲が悪く、マンハッタン計画からハブられた経歴あり

ミサイルを搭載するのに当時の駆逐艦は小さすぎ、戦艦は大きすぎ。
そこで巡洋艦があるじゃないか、ということになったわけですが、
しかもこの頃、従来の巡洋艦の任務が必要なくなって、
大量に行き場を失った?巡洋艦がゴロゴロしていたのです。

その一つが、「クリーブランド」級巡洋艦だったというわけです。

■ タロス・ミサイル

1951年7月10日、最初のタロスミサイルが
ニューメキシコ州のホワイトサンズ・ミサイル発射場で試験発射された。

1952年10月、WSMRで最初の完全なタロス・プロトタイプ
(XSAM-N-6と命名)が飛行し、同年末に最初の目標迎撃に成功した。

タロスは1959年にガルベストンCLG-3に搭載され、
ベンディックス・コーポレーションが製造の主契約者となり、
完全に運用されるようになったのである。

ベンディックスコーポレーションは1924年創業、
内燃機関のスターター製造から始まった会社でしたが、
1950年代から軍用の油圧部品とシステムを設計製造し始め、
唯一武器であるタロスを設計しています。

ちなみに、最初に軍用にABSを開発したのはこの会社です。

飛行家シリーズで「ベンディックストロフィー」はよく聞く名前ですが、
これは1930年代、民間機のレースをスポンサードしていたからです。

ジミー・ドーリトル、ルイーズ・セイデン、
そしてジャクリーン・コクランなどがこれを獲得しています。

初期のタロス・ミサイルは、発射から運用速度まで約3秒の燃焼時間で、
4000ポンドを超える重量の固体燃料ロケット・ブースターを使用していた。
その後、ベンディックス・ラムジェットが飛行を持続させた。

後のブースターは燃焼時間がやや延長され(5秒)、
ブースターと分離する前にミサイルを時速1300マイル以上まで推進させた。

SAM-N-6bミサイルは当初、通常の高火薬(HE)弾頭を装備していたが、
後に殺傷力の高いとされる「連続ロッド」設計に変更された。


発射艦は誘導ビームにより、タロスに上空から敵機を攻撃するよう誘導する。
(ミサイルの機首の周りに90度ごとに配置された4つの小型アンテナは、
セミ・アクティブ・レーダー・ホーミングシステムの受信機として機能した。

これらのアンテナを持たないタロスミサイルは、W-30型核弾頭
(収量2~5KT)を搭載した核武装ミサイルであり、
明白な理由から終末位相ホーミングを必要としなかった。

これらはSAM-N-6bWとして指定された。

1961年、SAM-N-6blとSAM-N-6bW1(核弾頭)が運用可能となった。
これらはSAM-N-6bとSAM-N-6bWのほぼ2倍の有効射程を持っていた。
さらに、より高い殺傷力を持つ新しい連続ロッド弾頭が追加された。

すべてのタロス艦はいくつかの核ミサイルを搭載しなければならなかったが、
(おそらく使用されることはないだろうが)
通常ミサイルと核ミサイルを別々に持つことは非現実的と判断された。

■6"/47 Mk.16海軍砲

夜間演習による左舷からの砲撃

6"/47 Mark 16艦砲6"/47 Mark 16艦砲は
「ブルックリン」級と「クリーブランド」級軽巡洋艦の武装に使用された。

旧式の6"/50 Mark 8砲の実験から開発されたこの兵器は、
「オマハ」級軽巡洋艦で搭載の従来の6"/53砲の約2倍の貫通力を持つ
「超重量」AP弾を使用することができた。

発射薬とカートリッジは一緒に突っ込まれた。
各砲塔は3人の将校と52人の下士官の乗組員を必要とした。

毎分8発から10発の発射が可能だった。

■ 5"/38Mk.12海軍砲



5"/38口径両用砲は、1935年以来、米海軍で最も信頼されている
両用(対空・対地)兵器のひとつである。

第一次世界大戦中、5"/38口径砲身用に
約10種類の単装および連装が開発された。

さて、ここでようやく本日の本題に入ります。
5インチ砲のアッパー・ハンドリング・ルーム(上部取扱室)を
もう少し先に行ったところで見ることができるのです。

それが本日冒頭の写真です。


まず、見学者はこの一角に立ち、腰の高さのハッチから中を覗くと、
そこにはハンドリングルームがあるというわけです。

■ 5インチ海軍砲『上部取扱室』



USS「リトルロック」は、6インチ主砲のほかに、より小型で多用途な
「ツインマウント」5インチ/38口径の対空・対水上兼用砲も装備しています。
両方の機能には、高い発射速度が必要でした。

上部取扱室は、その上方に位置する砲架にサービスを提供していました。
上部取扱室は、艦内のより保護された部分でもある
4層下の階の下部取扱室と弾薬庫から供給されていました。

上部取扱室は赤で囲まれた部分

通常、上部操舵室には、各砲につき約50発が
「即応用」として格納されていました。

5インチ砲は半固定弾薬(砲弾と別個の火薬装薬)を使用し、
12.3ポンドの火薬を装填した薬莢を使用して、
1分間に最大15発の速度で54ポンドの砲弾を発射することができました。

下の弾薬庫からの補充はより時間がかかりました。

水上目標に対する最大有効射程は18,200ヤード(約9マイル)。
対空防御の場合、37,200フィート(7マイル)上空まで射程できました。

5インチ砲は非常に有効な武器であり、第二次世界大戦中、
米海軍のほぼすべての艦船がこれを搭載していたのです。

「リトルロック」が完成した当初、この艦には5インチ砲の2連装砲架が
6基(前方に1基、両舷に2基ずつ、後方に1基)装備されていました。

その後、「ジェット機とミサイルの時代」を迎えると、
5インチ砲の多数の砲架は不要とみなされ、
艦橋上部に残された1基を除いてすべて撤去されました。

■ 下部取扱室

下部取扱室(赤で囲んだ部分)

下部取扱室から上を見上げたところ

ここは、5インチ発射薬と火薬容器が下ろされ、
3つ下の格納庫に収納される場所である。

ロウワーハンドリングルーム

発射薬と火薬を上部取扱室(1階上のデッキで見ることができる)
に供給するホイスト機構である。
アッパー・ハンドリング・ルームは、
基本的にレディ・サービス・ロッカーであり、
2デッキ上にある5インチ/38口径海軍砲に直接供給された。

下部取扱室の左舷と右舷にある5インチ/38口径火薬貯蔵倉

火薬カートリッジは、これらの比較的小さなコンパートメントに
甲板から頭上まで積み重ねられた。

下部取扱室の 「後端 」にある5インチ/38口径投射筒保管室

金属隔壁の丸い穴は、発射薬の「融着端」用で、

これも甲板から頭上まで積み重ねられた。

特筆すべきは、すべての弾薬が、艦の砲手によって
手作業で移動、収納、装填されていたことである。

ちなみに、安全上の理由でロウワーハンドリングルームは
一般見学客には公開されていません。

弾道面では5"/38には(発射薬重量や銃口速度など)特に優れた点はないが、
一般的な信頼性、扱いやすさ、精度は優れていると評価された。

5"/38は、駆逐艦だけでなく巡洋艦、戦艦、空母にも使用されるほど、
実用的でかつ効果的であることが証明された。

5"/38は米海軍で初めて使用されたものの、
現在ではアメリカで使用されているのはわずか数門である。

他の多くの海軍では今でも広く使用されている。

5インチ38両用砲に使用された弾薬は半固定式であった。
すべての弾丸は、1本の幅の広い銅製ドライブバンドを備えた
鍛造鋼製発射体を使用していた。

機首信管は装填直前までドーム状のカバーで保護されている。
発射薬重量は全種類とも約55ポンド。
これは紛れもなく、第二次世界大戦で最も優れた両用砲であった。

1934年から1945年の間に建造されたほぼすべての主要な米軍艦に搭載され、
1960年代後半になっても新造艦に使用され続けた。
また、多くの補助艦艇や小型軍艦、沿岸警備隊の艦艇にも使用された。

どの海軍にもないこの標準化は、太平洋における戦争で
兵站補給状況に大いに役立った。

毎分15発の発射が可能。



続く。

「OUR NAVY」〜USS「リトルロック」

2025-03-23 | 軍艦

USS「リトルロック」艦内探訪、艦底のブリッグ、つまり
艦内監獄部分を過ぎて、次を見ていきます。


ここはまだブリッグと同じ、居住区の最下層部分です。
艦内監獄部分を挟むように、こちらにも兵員用のバンクがあります。
貼り紙は、ここでキャンプを行う際の参加者への注意書きで、

「この場所の安全に関する説明は、
オフィサーズ・ワードルーム(士官用控室)で行われます」


とあり、さらに、

「この場所に滞在している際の避難場所、および集合場所は、
メインデッキの『Foc'sle』の上部、『アンカーチェーン』のある場所です。

ご質問がある場合はスタッフにお尋ねください。」


と記されています。

「Foc'sle」はfəʊk səl「フォクスル」のように発音し、
正確には「Forecastle」(フォーキャッスル)、
船乗りの慣習として短縮された結果こうなりました。

帆船の時代、ここはフォーキャッスル(前の方の城)と呼ばれ、

the crew's quarters usually in a ship's bow
(前マストより前方=船首にある乗組員の居住区)


であったことから、帆船でなくなってからも、

the forward part of the upper deck of a ship
(船の上甲板の前部)

をこのように呼ぶ慣習が残っているのです。
ついでに、なぜ「城」かというと、中世の帆船は、軍艦の船首が
複数の層からなる城のような構造であったからです。

ここは戦いの際には射手が敵船を狙うプラットフォームになり、
もし船が乗っ取られるようなことがあればここに立てこもり、
最後の防御拠点となるような機能を持ちました。

時代が下って軍艦に大砲が導入されるようになると、
このようなフォクスルの役目は不要となり、ここはただ
前帆と錨を取り扱うための場所となるのですが、「城」の役目はなくとも、
「キャッスル」の名前だけは残ったというわけです。


ここで階段を上がります。
艦内探訪の時には、後からわかりやすいように必ず階段を撮影します。


上の階にはバーバーショップがありました。
この理髪店は、USS「リトルロック」の士官専用でした。

下士官兵用理髪店は、同時に5人までの乗組員を収容でき、
右舷側の海兵隊分遣コンパートメントのすぐ後ろに位置していますが、
残念ながら、一般公開はされていません。

理髪師は乗組員にとって不可欠な存在でした。
乗組員の髪型が海軍の規定に準拠していることを確認することで、
秩序と規律の維持にも貢献していたからです。

乗組員の髪型をいつも短く保つことは、髪を洗う時間の短縮になり、
何百人もが生活する艦上では真水の消費を減らすことにつながります。

艦内では真水は常に不足していたので、少しでも節約せねばなりません。


ヘアカットされる人の椅子の頭部分、つまり理容師が立つところに、
滑り止めとしてマクラメ編みが巻かれたバーがあります。
万国共通の理髪店マークがペイントされているのが微笑ましいですが、
なぜこんなところにあるかというと、理容師が施術中に船が動揺した時、
(そしてその時ヒゲを剃っていてカミソリを持っていたら)
咄嗟に掴むものがないと、非常に危険なことになるからです。

ちなみにこの理容所を表す円柱型の看板をサインポールと言いますが、
世界共通で赤、白、青のレジメンタルストライプと決められています。

営業中であることを表すために、陸ではこれが回転しますが、
船の中では回すわけにはいかないのでペイントだけで雰囲気を出します。

このサインポール、あまりにも歴史が古く膾炙し過ぎていて、
由来も今となっては明らかになっていないようです。

昔理髪師が外科医を兼ねていた頃から使われていた看板で、
今でいう赤十字のような役目をしていたという説もあります。


サインポール兼バーの横の写真は、その説明によると、

「髪の毛をカットしているフレデリック・A・シェンノー艦長
(1961年1月〜1962年2月)」

シェンノーの名前はあのフライングタイガースの人と同じですが、
調べたところ関係はないようです。

第二次世界大戦中は艦隊部司令付きとして南太平洋にいましたが、
その後マサチューセッツ工科大学で修士号を取得しています。

「リトルロック」の艦長になったのは、退役の割と寸前(3年前)です。


理髪師の仕事道具を置く棚にも枠があって滑り落ちないようになっています。


■ 海軍マガジン「OUR NAVY」


マガジンラックには「ナショジオ」「ライフ」「タイム」のほか、
「ネイビータイムズ」などもあります。

「NAVY TIMES」は、予備役、退役したアメリカ海軍の軍人、
およびその家族を対象に、ニュース、情報、分析、
地域社会のライフスタイル特集、教育補助教材、リソースガイドを提供する、
年26回発行の新聞で、1951年に創刊され、現在も継続中です。

毎年同新聞は「日常のヒーロー」を表彰しています。
年間最優秀海兵隊員、年間最優秀陸軍兵士、年間最優秀水兵、
年間最優秀空軍兵士、年間最優秀沿岸警備隊員が選出されます。

また「OUR NAVY」というマガジンも見えますね。

こちらはアメリカ海軍の活動を報じる商業施設で、創刊は1897年。
現在は月刊誌として発行されています。

1941年9月発行(つまり戦前)


1943年9月発行(戦争真っ最中)

1960年12月発行(日本進駐中)

横須賀海軍基地で眠そうなお客さんを抱っこするツィマーマン水兵。
「兵士と他国の人々との親密な関係は、新しい海軍の伝統となりつつある。」
(記事内容)

なお、「OUR NAVY」はデジタルで読むことができます。
インターネットアーカイブ

スポーツ記事あり、ダイヤの指輪の販売サイトあり、
もちろん真面目な?戦記もありますが、超くだらない漫画もあります。

以下、1946年3月発行の「OUR NAVY」より。

スキッパーとブート(艦長と新兵)

「君の前指揮官が、君を『ウィスコンシン』へ派遣するよう要請しました」

「艦に戻る前に再入隊の休暇を取ることはできますか?」

「もちろんだ。
ついでに30日の年次休暇を取ることもできるよ。満足かい?」
「イエスサー!」

「海軍も悪いことばっかりじゃないな
さあ、出発だ! 俺結婚までいくかも」

「テレグラムが来てますよ」
「私に?」

”休暇ヲキャンセルスル 至急帰艦サレタシ”

これって今の俺が帰らなきゃいけないこと?
(##゚Д゚)

どうやらこれは連載漫画らしく、新兵くんが帰艦(どこに?)
したら、最終コマの艦長が何か指令を下すのかもしれません。
知らんけど。

同じ「OUR NAVY」に、日本人として興味深い記事を見つけたので、
ご紹介しておきます。


アメリカ移民として海軍に入隊し、戦後を長崎で過ごす日系人の話。

長崎に住む彼は、疲れを癒して回想録を書きたいと考えている。
彼の回想録は、おそらく長編小説の1,000ページを埋め尽くすだろう。

彼の多彩な経験には次のようなものがある: 
アメリカ艦隊での20年にわたる忠実な勤務、
ウィリアム・D・レーヒ提督とアーサー・マッカーサー中佐
(元帥の兄)の下での任務、メキシコとサント・ドミンゴでの作戦、
1927年に日本に帰国した際、長崎のアメリカ領事館に星条旗を掲げたこと、
第二次世界大戦中、日本軍国主義者にスパイ容疑をかけられ、
40日間投獄されたことなどである。

しかし、87歳の斎藤に最も偉大な経験は何かと尋ねれば、
彼は屈託なくこう答えるだろう。

「それは私がアメリカ国民になった日ですよ」

現在、カイトは占領軍に手を貸している。
彼の仕事は、「原子爆弾が投下された」長崎の港町を見下ろす高台にある
第二海兵師団病院での臨時通訳である。

海兵隊創設170周年に当たる11月10日、斎藤カイトは誕生日を迎えた。
自分とレザーネック(海兵隊)の生年月日が同じであることを知ると、
老海軍兵は歯を見せて笑い、誇らしげにこう言った。

「私はアメリカ海兵隊全体の3分の1以上の年齢です!」

 斎藤は1878年に東京で生まれた。彼は両親と暮らしていたが、
若い頃、アメリカこそチャンスの国だと思い立った。

斎藤は6年間、ニューヨークとその近郊で一般的な家事労働に従事した。
夏の間はボストンに行き、さまざまな山小屋や湖畔のホテル、
海辺のリゾートで従業員として働いた。

海の近くで過ごした数回の夏を経て、潮のしぶきが彼の血に染み込み
1905年秋、彼は船乗りの生活が自分に合っていると確信した。
10月29日、ヴァージニア州ノーフォーク海軍基地で海軍に入隊した。

斉藤が海軍にいた20年間に乗艦した艦船のリストは、
まるで提督の艦隊の名簿のようだ。

旧式戦艦のイリノイ、ユタ、アラバマ、ミズーリ、
海軍のヨットのシークレットリー、USSドルフィン、魚雷艇のUSSスミース。

斎藤はまた、旧型のフランクリン、ロジャース、ウィックス、
セルシック、ブラックホーク、プレストン、マッコール、
フーロン、キッタート、サンタドミンゴ、サラトンプソン、
クラリンダ、アボセットなどに乗り組んだ。

彼の勲章は数多く、それは老海軍兵の財産となるだろう。
休戦の3ヵ月後、斎藤カイトはアメリカ国旗に忠誠を誓い、
アメリカ市民として帰化した。

1923年、フィリピンのカビテに駐留していた斉藤は、
フィリピン人と日本人のハーフの女性と結婚した。
二人が夫婦になった2ヵ月後、妻はマラリアの重い発作に見舞われ、
二人の結婚は悲劇的に終わりを告げた。
発病してから亡くなるまで48時間だった。

斎藤は典型的な海軍の人間で、19年経った今でも海軍について語る。
第一次世界大戦前、当時大尉だったリーヒ提督の下で働いたことや、
USSマッコールでマッカーサー中佐のために料理を作ったことを
楽しそうに話してくれた。

「あの頃は、誰もが斉藤を知っていた」と彼はつぶやいた。

この 「古代のマリナー 」が右手の小指の半分を失った話は、
海軍の特徴的な話である。

1905年、彼が民間船でコックとしてしばらく働いていたときのことだった。
嵐に見舞われた海で数日間航海し、大西洋岸の港に入港した。
すでに船酔いだった斎藤は、ギャレーの強烈な匂いに胃が耐えられなかった。

緑色の顔をした斉藤は船長に自由を求めたが、
翌日まで上陸できないと言われた。
斉藤は青ざめたまま粘ったが、船長はこれまで以上に頑なになった。

そこで斎藤は肉切り包丁を手に取り、「小指」に振り下ろした。
そして「ほら 」と無愛想に言って、その肉片を呆然とする船長に手渡した。
船長はコックに1日だけでなく8日間の療養の自由を与えた。

もちろん、これはすべて斎藤の言い分である。

斉藤は1906年7月6日にカビテ海軍基地で退役し、
長崎の親戚のもとで余生を過ごした。
1927年の再婚については、
「彼女はお金がなく、夫が死んだばかりで、私には妻が必要だった」
と正直に語っている。

斉藤は、この街のアメリカ領事館と毎日連絡を取り合っていた。
海軍で副領事に「時間を割く」ことで、斉藤は
アメリカ大使館のための唯一の国旗掲揚係として認められていた。

彼は毎朝早く、旗手を連れて旗竿にオールド・グローリーを掲げた。
日没になると、斎藤は再び旗を掲げた。

真珠湾奇襲攻撃の1週間後、斎藤は、警戒心の強い日本軍兵士たちに、
アメリカのスパイと見なされ、刑務所に連行された。

6週間の抑留中、彼らは彼に千の質問を投げかけ最終的に無害だと判断した。
しかし、斎藤はまだ監視下にあった。

彼の家はその後2年の間に何十回も荒らされ、破壊され、
彼の妻は尋問のために何度も警察本部に連行された。

最終的に日本の警察は斎藤を郊外の小柳捕虜収容所に連行し、通訳にした。

斎藤によれば、収容所の8,020人の囚人の200人がアメリカ人で、
彼らの多くは、脚気と栄養失調に苦しんでいた。
1944年と1945年の冬の間に、20人の囚人が肺炎で死亡した。

終戦を知ると、斎藤は急いで家に帰り、モールからアメリカ国旗を取り出し、
空き家になっていたアメリカ領事館に掲げた。
私の旗であるアメリカ国旗は、この時4年ぶりに掲揚された」

斉藤は占領軍の前線部隊が到着したときからそこで働き、
海兵隊員、兵士、水兵たちは、この元気な老人を
ナガサキ進駐軍の一員とみなしている。

斉藤は病院にいないときは、あちこちを歩き回っている。
街角では海兵隊と話し、出島の波止場では水兵たちと談笑している。

白い 「ミディ 」キャップは数珠の上に不安定にとまり、
古いネイビーブルーのジャケットとズボンは手足からゆるく垂れ下がり、
海兵隊の野戦靴は道路の埃をかき集めている。
色あせた5つのハッシュマークをつけ、
アメリカの愛国心にあふれた水兵は言うだろう。

「みんな斉藤を知っている」


海軍が再び募集を開始

左上:
ええ、平時には(海軍入隊は)いいものだ。
誰もあなたや艦を撃ったりしないから。

志願者「で・・・でも俺はアクション派だからよ、戦いたいぜ!」

上中央

勧誘する水兵「なぜ海軍かって?本当にバケーションみたいなもんだからさ。
甲板を磨く以外にすることはほとんどないし。
なに、ちょっとペンキ塗りして、真鍮を磨いて、ほんの少し持ち場を担当して、
時々見張り業務があるくらいで、申告すればいつでも上陸できるよ!」

・・・「スーパーネイビー」のために我々が必要としているのは、
「スーパーセールスマン”シップ”」である。

セールスマンシップを「船」のシップとかけています。
口の上手い勧誘係こそが海軍の求める人材、ってことで。

上右:

何!その紳士は我々の制服がお気に召さないと?
かしこまりました。
もっとご満足いただける新しい制服をデザインいたします!

テイラー『金モールの量が足りない?
心配しないで坊や。 それなら、俺らが何とかするからね』

ああ、そうそう、ネイビーの「ニューカスタマー」
(あるいはコスチューマー)は神様です。

「コスプレ」するのが目的で海軍に入る人もいるということでよろしいか。

中左:

太った女性「ねえ、海軍で生活したら、あなたみたいにお肌が綺麗になって
スタイルも良くなるってほんと?
わたしも本当に港港に水兵の恋人ができるかな?」

看板:先着一名WAVES応募した方にナイロンストッキング6足進呈

彼女らが戦時に「シップシェイプ」を保持できる限り、
WAVESはリクルート要員を必要としない。

シップシェイプは「シュッとした」「小綺麗な」という意味もあります。

中段中央:

「会計を見せてください。
豆とラバ肉のメニューについてよくない話を聞いたもので」

少なくともあなたは我々の「値段」に文句はないだろう。
全部無料なので。

当たり前ですが、何を食べても無料です。

中段右:

もしかしたら、明日の科学者の採用は、熟練したシーマンシップよりも
研究室での成果を出したかに大きく左右されるようになるかもしれない。
間違いなく、彼は強力な公式をビーンシューターに放り込んで、
敵艦隊を破壊する原子爆弾を製造するだろう????


下段左:

美しいネイティブベルが海軍に入って

魅惑的な南の島に会いにきてねと誘う古いポスターを見せられたら、
海軍の募集ポスターを描くアーティストは逃げ出すだろうか

子供「おっきい兄ちゃんが熱帯のきれいなおねえちゃんの
くだらない話を話してくれたぜ」



下段右:

アメリカ陸軍軍務分離センター

ウェイン・シーバウド陸軍曹長(名誉除隊済み)は、
我々が冗談を言っているのか知りたがっている。

水兵の持っている紙:
「世界の半分がどうなっているのか見てみよう。
海軍に来たれ」


退役した陸軍軍人が「世界の半分を見るために」海軍に入るかしら。

続く。



「シップ・ブリッグ」艦内監獄〜USS「リトルロック」

2025-03-14 | 軍艦

海自の艦艇の見学を案内付きで行ったときのことです。
格子のついた扉の前で、案内の自衛官が、

「ここが何に使われるか知っている方おられますか」

と質問をし、それが艦内牢であると種明かししたのですが、
軍艦に限らず、およそ一定以上の規模の船には、必ず
勾留室に使う外鍵の部屋が存在します。

最初にアメリカで軍艦を見学し始めた頃、
この「シップズ・ブリッグ」の存在に驚いたものですが、
民間船にもそれが存在することがわかりました。

■ 「リトルロック」のブリッグ



「ベトナムルーム」を見学し終わると、そこは艦首部分になるわけですが、
そこにさらに一階下に続く階段が現れます。

これまで見学してきたのがメインデッキの下のセカンドデッキのさらに下、
サードデッキだったので、このさらに下はというと、
おそらく「ファーストプラットホーム」ではないかと思うわけです。

艦艇居住区の最下層となります。



ところで「G」って何かしら。
ガムテープで作った車の形がほのぼのしますね。
黄色い矢印は、左側通行をするようにという指示です。


居住区の最下層にはたくさんの水兵のバンク(ベッド)があります。
一段の高さは・・・60センチくらいしかなさそう。

一番上の段に寝ている人は、うっかり体を起こしてしまったとき、
パイプなどに頭をぶつける危険あり。

なんと言っても最下層ですから、エンジン音も凄まじかっただろうな。


このコンパートメントのドアにはあまり水密性がなさそうです。
そのドアに貼られた次の展示のご案内は・・・。


「シップズ・ブリッグ」=艦内監獄でございます。
写真に撮られている人が本物でないのは、彼らがセーラー服を着ていて、
スカーフを取り上げられていないことからもわかります。

スカーフ以外にもネクタイ、靴紐、ベルトなど長いものは没収されました。


後で紹介しますが、一口にブリッグと言っても十艦十色、
艦によってその佇まいもさまざまです。

それでいうと、ここ「リトルロック」のはごく小規模でしょう。

厳重に鍵のかかる鉄格子の中は三段ベッド。
定員3名か?
それ以上の不届者が出たら、その時はどこに収監したのでしょうか。
  

現段階ではここに一人収監されており、
寝転がって新聞を読むという監獄ライフを満喫しているようです。

別の見学艦(『セーラム』)で見つけたブリッグの規則は以下の通り。

a. 収監者は常に身体検査を受けなくてはならない
検査は収監前、衛生士官、監獄士官?看守によって行われる

b.ブリッグスペースはいつも清潔にしておくこと

c.専用の衣服を身につける。
収監中は貴重品などを預かるが、釈放時に返却する
もし無くなったりした時には捜査依頼にサインすること

d.規定の髪型にカットすること
収監中は清潔を保つこと/口髭は禁止 /靴を磨くこと

e.重労働収監者は仕事にアサインすること
「パンと水」収監者は見張りのいるところでしか活動できない

f.司令官かブリッグオフィサーがイベントにおける行動を指揮する

g. 収監者はもし状況が許せば、一日に30分から1時間
運動か訓練に参加することができる

こんなところで閉じ込められっぱなしで、
たとえ状況が許しても一日1時間しか運動できないなんて・・。
否が応でも反省モード突入ですな。

営倉では基本パンと水だけしかもらえなかったそうですが、
パンがよっぽど好きなら問題ないかもしれません。

ある空母での実話だそうですが、何人かの収監者が、
パンと水しかもらえないのに憤慨して、1日目は喫食拒否したものの、
二日目から何を思ったか、パンをお代わりしまくってモリモリ詰め込み、
水を飲みまくると言う「逆ハンガーストライキ」を決行しました。

その後数時間で全員が「胃が引き裂かれるような」痛みを覚えましたが、
ストライキは三日続けられ、さすがにこれは馬鹿げていると思ったのか、
彼らはパンのドカ喰いはやめ、普通の量を食べることにしました。

というより、食べられなくなったということだと思います。
しかし何人かは、これがトラウマになってしまい、
その後どうしてもパンが食べられなくなったそうです。ばかす。

パンがダメならお米を食べればいいじゃない、と思いますが、その頃
アメリカ海軍で米が出されることはほぼなかったものと思われます。

今なら多様性の時代なので、艦内でも、メキシカンやチャイニーズなどで
(多分寿司はない)米料理がたまには食べられているかもしれませんし、
ピザは今やアメリカの国民食ですから、いくらでもパンの代わりはありそう。



ブリッグの一角に佇んで何かを天井に問いかけている人。
上記規則の「口髭禁止」「規定の髪型」に違反しているんですがこれは。

■ 過去トリップで遭遇した軍艦のブリッグ



まずは戦艦「マサチューセッツ」のブリッグをご覧ください。


さすが戦艦だけあって、独房が5つも並んでいます。
喧嘩した同士が隣同志の房に入れられて、口で続きをしようとして
監視に怒られたり・・・そんなことがあったかも。



独房の一つ。
「リトルロック」より居住環境は少し良さそうです。



「マサチューセッツ」の乗員でアーティストが描いた漫画で、
このエズラ・プラム(プラムってバカって意味なかったっけ)水兵は、
故郷で奥さんと一緒にちょっとでも長く過ごしたくて、
三日も艦に戻るのを伸ばしてこうなってしまったというわけです。
セリフは、

奥さん「帰ってきてくれてとっても嬉しいわ、エズラ。
でも上の人たちは怒ってるんじゃないの?」

エズラ「たぶんね・・・でも何もされないと思うよ?
だってたった3日帰艦を遅らせただけなんだし」

そして、独房に座って、

「なんてこった!
四角い飯のためにあんなことするんじゃなかった」


エズラくんの足元に置いてある食事は四角いパンと水のみ・・。

「四角い飯(スクエアミール)」とは、トレイの形だと思っていたのですが、
今回ブリッグの囚人食、パンのことだと知りました。


お次はマサチューセッツで見学した巡洋艦「セーラム」のブリッグ。



なんと、ベッドがなく、鉄の床に布団を敷いて寝るという過酷な環境。
日本人なら平気かもしれませんが、アメリカ人にこれはキツい。


空母「ミッドウェイ」のブリッグは再現度高し。



両手を拘束されて肩を落とす収監者。
連れてきたのはCPOで、ブリッグを仕切る担当の前に引き出されています。
デスクにはセル(独房?)の鍵が三本並んでいて、
担当はこれから部屋をアサインすることになります。


写真に写っているのは、
Master-at-Arms (MA)
といい、海軍内で法執行を行い、部隊保護の責任を負う部隊の人です。

昔はこの権限は海兵隊に任されていましたが、
1970年代にMAの管轄になりました。


刑務所とどちらがマシかって感じの独房。


窃盗や喧嘩、脱柵、不敬、反逆、AOL(乗り遅れ含む)・・。
D・トッチさんの罪状は果たしてどれだったのか。

Redditというチャットを見ていたら、シーバッグ(水兵用ダッフル)に
小さなポケットを作り、そこに空砲を入れていたのが見つかって、
ブリッグに放り込まれた水兵さんがいたという話がありました。


柵がなく妙に広々としていますが、ここもかつては独房だったのかな。
洗面台に鏡がついているってすごいいい待遇なんじゃないでしょうか。


展示のため、バックミラーで細部が見えるようにしてありました。


さすが空母、ちゃんと収監者専用のシャワーもあります。



定員6名のHolding Tank(檻房の俗語)。
「リトルロック」のバンクよりずっとこちらの方がマシに見える。

ブリッグがどの艦艇にもあったかというと、そうでもありません。
大きさとしては、巡洋艦以上ではないかという気がしますが、
チャットを眺めていると、ブリッグのない艦も結構あったそうです。

そういう時は、自衛隊のように倉庫に閉じ込めたのでしょうか。

しかし「ミッドウェイ」には、艦底以外にもブリッグがありました。



隙間が縦に細長いので、細い人や小柄な女性なら通り抜けられそう。
これは「ミッドウェイ」の士官区画にあったブリッグです。

最初に紹介した時も書いたのですが、
ブリッグというものは基本的に船底に位置するものなので、
なぜこんな高官の区画にあるのかが全く謎です。

士官が何かやらかしてもブリッグに入れられることはなく、
その時はスーパーバイザーの元、行動監視されて、
区画から出ることを禁じられるというのがスタンダードなのですが、
「ミッドウェイ」では監督する人をあてがうのが面倒なので、
士官用のブリッグを作ってあるという可能性もあります。


「ミッドウェイ」のSNS用撮影スポット。


先ほどの監房の格子部分はここに移設されているのだと思われます。

■ クルーズ船にブリッグはあるのか?

答え:ある。
ブリッグの主な目的は、船内の秩序と安全を維持することです。
通常、乗客エリアから離れた、アクセスしにくい場所にあり、
マットレスなどの基本的な設備は整っていますが快適とは言えません。

例えば、クルーズ船で暴行、殺人、違法薬物の所持が見つかるとか、
泥酔者や乱暴な乗客も拘留室にお入りいただくことになります。

泥酔して倒れて眠り込み、介抱しようとした医療関係者に
乱暴をして怪我をさせたりしたら即ブリッグ行きになり、
法執行官に引き渡されるまでそこでクルーズをお楽しみいただきます。

もし専用のブリッグがなければ、個室に監禁され、
食事は全てルームサービスが届けられます。
出ることを許されず、ドアにはテープが貼られ、
ドアを開けたらわかるようになっています。

さらに重大犯罪者なら部屋の外に警備員が配置されます。

■ ブリッグの幽霊

最後にいかにもネタな小話を。
ブリッグについて調べていて、「軍艦の幽霊」という話を見つけました。

軍艦に幽霊が出る(もっともらしい)理由とは以下の通り。

顕在化の歴史
海軍に所属している間に、心に傷を負ったり、
予期せぬ死を遂げたりした人々は、
自分に起こったことを乗り越えようとする一方で、
安らぎを得るために、配属された場所に留まることを選ぶことがある。
これは、特に戦死した場合や事故で起こる

霊魂の中には、肉体がないにもかかわらず、
奉仕しなければならないという使命感を持っている者もいる。
彼らは必要性を感じ、今なすべきことに順応して、
助けるために彼らの(無い足で)一歩踏み出すのだ。


【リトルロック(バッファロー)の幽霊】

1967年に起こった七日間戦争中、USS「リトルロック」の乗組員は、
イスラエル軍に誤って攻撃されたUSS「リバティ」から、
ひどい熱傷を負った多数の生存者を移送したが、
これらの負傷者の多くは、USS「リトルロック」艦内で死亡した。

艦内では幽霊の警備員が検査を行い、乗船する観光客を見張っているという。

【リビングストン(テキサス)の幽霊】

USS「リビングストン」は神風特攻隊の攻撃を受け、
その際甲板と機関室に火災が広がり、その炎は
巻き込まれた水兵たちを焼き殺した。
その乗組員たちの霊は艦内に留まることを決めたのだという。

このとき死亡したハンサムなエンジン整備乗組員の霊は、
今でも自分の仕事をするために報告し、きれいな女性の訪問者を楽しみ、
時にはツアーを行うことさえあるらしい。

【アイオワ(カリフォルニア州)の幽霊】

USS「アイオワ」は、1980年代、砲塔装填部からの大爆発に見舞われ、
そこで働いていた兵士たちが全員死亡した。

現在、その時死亡した乗組員の霊がボランティアに付き添い、
助言を与え、観光客の命を救ったことさえあるらしい。

【ホーネット(カリフォルニア州)の幽霊】

USS「ホーネット」は第二次世界大戦中、
太平洋での激しい戦闘で300人の死傷者を出した。

「ホーネット」にはランディングコード(航空機のストッパー)
が切れた時に死んだ、首のない甲板乗組員の霊がいる。
彼は勤務を続けないわけにはいかないので、今も職務に励んでいる。


続く。

シック・ベイ〜USS「リトルロック」

2025-02-26 | 軍艦

ミサイル巡洋艦、「リトルロック」艦内探訪の続きです。


グリーンと赤のクリスマシーなタイルの廊下。
この一角に「シック・ベイ」があります。

シック・ベイとは医療目的で使用される艦内の区画を指し、
つまりは艦内病院ということになります。

Pタイルにある蛾のような模様は、医事を表す、
アピクレオスの杖のマークをかたどっているものと思われます。

ここにある「シック・ベイ」の説明は以下の通り。

「乗組員である将校、海兵隊員、下士官兵、
総勢1300人もの乗組員のケアはフルタイムの仕事だった。

そのために医師、歯科医、衛生兵が乗艦し、医療上の問題に対処した。

ここでは、医療室、手術室、回復室、歯科治療室を見ることができる」



左はレントゲン室で、使用中を表すランプが取り付けられています。
ここは一般には公開されていません。

突き当たりは診察&医療室、

「サージカル・ドレッシング・ルーム」

で、外から見るためにドアをガラス張りにしてあります。


この部屋を「シックベイ・ワード」Sick Bay Wardといいます。
回復室と一般的な病気の治療エリアとして機能するエリアです。

血圧測定中

ここを拠点に、総員に向けて、毎日2回の「シックコール」が行われました。

シックコールはアメリカ軍全般で行われる慣習で、

「医療処置を必要とする軍人の毎日の整列」

または、そのための信号ラッパのことをいいます。

Sick Call (Bugle Call)

各自が受けた検査の記録として、通常一人、
時には複数の医療担当者が、各自の健康状態を

「シックコール トリートメントレコード」(治療記録)

に記入することが定められています。

コンパートメント内にはロッカーや書類器具用の棚が配置されています。
棚の上のヘルメットにはメディックを表す赤十字入り。



可動式らしいアイランド型の簡易ベッドは、
診察を受けるため患者が横たわるようになっています。
ベッドにしては妙に高いですが、医師が診察しやすいし、
おそらくこの高さでもアメリカ人なら問題ないのでしょう。

アイランドに立てかけてあるのはギプスに重ねるシーネかシャーレでしょう。
シーネは添木とも副子ともいい、骨折部に当てて包帯で巻くものです。

英語ではギプスではなくキャストといい、添え木はスプリントと言います。

添木の近くに「海の上での医療行為」という本、
机の上には「人体解剖」の本がさりげなく?飾ってあります。

ゴム製の氷嚢は古い型のようですが、今でもダンロップ印のゴム製のものは
ほとんどこれと変わらない形で売られています。

さて、お次は手術室です。


負傷した(重症っぽい)患者を前に、にこやかに微笑む軍医。

軍に限らず、船上の生活は本質的に危険な労働環境にあり、
必然的かつ恒常的に事故が起こりがちです。

長期の配備サイクルや長い「洋上」(at-sea)期間、
乗組員は陸上の病院や施設から遠く離れざるを得ません。

そのため、艦は乗組員や、戦闘グループ全体に対し、あらゆる想定のもとに
医療援助の提供を行う能力を備えていなければなりません。

「リトルロック」の規模の艦艇に手術室が不可欠なのはそのためです。


「リトルロック」1400名の乗組員は、配属された医療要員と、
これらの施設にその健康と、時として生命の維持を依存していました。


白衣と手術着が掛けられた物品棚なるコーナー。
左の機械は麻酔用のガス供給装置だと思われます。

棚にビーカーなどが並んでいますが、運用中は船の動揺に備えて
一番上の棚にあるような枠のついたラックに収納されていたはずです。

ここには、保管が必要な医薬品を入れる薬品箱や、
モルヒネなどの規制薬物を入れる鍵付きのキャビネットもあります。

患者がいない限り、通常、医療室は施錠され、
鍵は医務官と司令官しか使用することを許されていません。



手前に見えるのはステンレス製の尿瓶。
現在は珍しい素材ですが、生産していないわけではありません。



一般の病院で言うところの「病棟」にあたる部屋です。
こちらは下士官兵用のベッド。


アピクレオスの杖の部分だけは、改装時にも残されたようです。
ベッドの真ん中に据えられたデスクは、ここで医務官が
病棟見回りの代わりに待機していたのかもしれません。


デスクの後ろにあるこの窓のある機械ですが、
いわゆるナースコールの役目をするものです。


赤丸で囲まれているものもナースコールです。

緊急事態や問題が発生したときに、このシステムを使うと、
各ボタンには右舷、ベッド、バスルームなどと書いてあり、
このオフィスにいるドクターが電話を取ることができます。

病棟区画にあるナースコールが鳴らされると、隊員や看護師、
薬剤師などの誰かがここに駆けつけてきてくれ、
どのベッドで緊急事態が発生したかを確認してくれます。




テレビ付きの(このベッドからは逆にあって見ることはできませんが)
リクライニング式ベッドが・・・・。

一般の病院で言うところの「特別室」待遇患者用でしょうか。
一つしかないので、その時ベッドが必要な一番上級の乗員用かもしれません。

例えば中尉がここに寝かされていても、もしその時
大佐が担ぎ込まれてきたら、交代させられるとか・・・?

■ 歯科区画


シックベイには歯科治療を行う区画もあります。
処置室を覗くガラス窓の説明を読んでみます。

「この歯科スペースは、アメリカ海軍予備歯科部隊の、
ニューヨーク州バッファローにあるNORVAHQ-105と
NORVADET-405のメンバーによって、
この船で勤務したすべての歯科関係者を顕彰するため修復された」

105と405の略字を検索してもわからなかったのですが、
おそらく、研修部隊のことでしょうか。

米海軍の歯科部隊は1,400人以上の現役、あるいは予備役の歯科医からなり、
軍の治療施設、教育機関、診療所、病院、研究室、船舶、
そして国内外の海兵隊に配属されて職務を果たしています。

また、戦闘作戦、災害支援、人道支援ミッションの現場にも派遣されます。


して、この写真の司令はというと、海軍歯科部隊の最高司令官、
ジョージ・セルフリッジ海軍少将であらせられます。
略歴が書いてあるので、一応見ておきましょう。

ジョージ・デヴァー・セルフリッジ少将は
1924年ニュージャージー州ピットマンに生まれ、
1947年にバッファロー大学歯学部を卒業した。

この間、彼は次のような綬章を受章している
(ユニフォームの左から右へ、上から下へ)。

海軍徴兵章
アメリカ戦線章
第二次世界大戦戦勝章
海軍職業軍務章
国防軍務章
軍隊遠征章

現役を退いた後、セルフリッジ提督は
ワシントン大学歯学部の学部長を務めた。

ニュージャージー州ピットマンの元ルース・M・モティシェロと結婚。
パメラ、シェリル、キンバリーの3人の娘がいる。

どこの誰と結婚して娘の名前がどうとかいうのは
当ブログにとって全くどうでもいい情報ではあるのですが、まあ一応。


歯科部隊最高司令官になったロジャー・トリフトシャウザー少将も、
ここバッファロー出身の歯科医官でした。

歯科大学卒業後すぐに海軍歯科隊に入隊。
1961年、歯科医学校を卒業し、アメリカ海軍歯科隊に入隊し、
1961年から1967年まで現役で勤務し、その間、
ボストンのチェルシー海軍病院、ミッドウェー島の海軍基地、
カリフォルニア州のポイント・ムグ海軍航空基地、
サンディエゴの駆逐艦「ディキシー」でも勤務しました。

1969年から予備士官としてキーウェスト海軍基地、
フィラデルフィア海軍基地、ノーフォーク歯科医院、米国海軍士官学校、
ベセスダ海軍病院、グアンタナモ湾で勤務。

1993年に歯科担当副部長に就任してからは、日本にも来ています。
1994年に少将に昇進し、現役6年、予備役27年を含む
33年間の勤務をもって、1995年に海軍予備役歯科部隊を退役しました。


ちなみにこちらが現在の歯科部隊最高司令官、
ウォルター・ブラッフォード少将
さすが歯科医、もういやっちゅうほど歯を強調してます。

アメリカ人は写真を撮るときよくこんなふうに歯を見せますが、
ここまでむき出そうと思うと、かなりの努力が必要となります。



これが復元されたという歯科診察台。


治療中ドクターがどこかに行ってしまったので、
俺、これからどうなるんかなーと物思いに耽っている水兵くん。

トレイの上に歯牙見本があるので、彼は抜糸後、
ブリッジか差し歯を入れる治療を受けるのかもしれません。

次のバッファローネイバルパーク公式のビデオでは、
シックベイの内部を紹介しています。
レントゲン室の中と、バーベット内部の物置?は
一般公開されておらず、このビデオでのみ見ることができます。

USS Little Rock: Sick Bay

続く。

歴代艦長とミッチャー提督のサイン〜USS「リトルロック」

2025-02-17 | 軍艦

バッファローネイバルパークで展示されている、
ミサイル巡洋艦「リトルロック」艦内展示から、
「リトルロック」の歴史を物語る数々の資料をご紹介しています。

冒頭写真は、おそらく彼女が退役してから作られた、
「リトルロック」歴代指揮官の名前と在任期間を表すプレートです。

CL-92 指揮官


ウィリアム・ミラー大佐
William Edward Miller-CAPT
14 Jun 1945 - 07 Jul 1946

ヘンリー・スミス・ハットン大佐
HENRI H. SMITH-HUTTON - CAPT
07 Jul 46 - 10 Mar 47

フランシス・ミー大佐
FRANCIS J. MEE - CAPT
10 Mar 47 - 04 Jan 48


ウィリアム・ライト大佐
WILLIAM D. WRIGHT - CAPT
04 Jan 48 - 24 May 48

ヘンリー・モーガン大佐
HENRY G. MORAN - CAPT
24 May 48 - 13 May 49

リチャード・クライヒル大佐
RICHARD S. CRAIGHILL - CDR
13 May 49 - 24 Jun 49

CLG-4/ CG-4 指揮官


ジェウェット・フィリップス大佐
JEWETT O. PHILLIPS - CAPT
03 Jun 60 - 25 Jan 61

フレデリック・シェノー大佐
FREDERIC A. CHENAULT - CAPT
25 Jan 61 - 07 Feb 62


ジェームズ・パイン大佐
JAMES R. PAYNE - CAPT
07 Feb 62 - 26 Aug 63

C・エドウィン・ベルJr.大佐
C. EDWIN BELL, JR. - CAPT
26 Aug 63 - 26 Sep 64

ロデリック・ミドルトン大佐
RODERICK O. MIDDLETON - CAPT
26 Sep 64 - 27 Sep 65

オスカー・ドレヤー大佐
OSCAR F. DREYER - CAPT
27 Sep 65 - 11 Apr 67


ジョン・ミッチェル大佐
JOHN J. MITCHELL - CAPT
11 Apr 67 - 24 Apr 68

ウォルター・ベネット大佐
WALTER F.V. BENNETT - CAPT
24 Apr 68 - 15 Nov 69

チャールズ・リトル大佐
CHARLES E. LITTLE - CAPT
15 Nov 69 - 11 Jun 71


ゴードン・ナグラー大佐
GORDON R. NAGLER - CAPT
11 Jun 71 - 27 Jul 72

ロバート・モリス大佐
ROBERT E. MORRIS - CAPT
27 Jul 72 - 24 Jul 73

ピーター・カリンズ大佐
PETER K. CULLINS - CAPT
24 Jul 73 - 17 May 75


ウィリアム・マーティン大佐
WILLIAM R. MARTIN - CAPT
17 May 75 - 20 Oct 76

ケント・シーゲル中佐
KENT R. SIEGEL - CDR
20 Oct 76 - 22 Nov 76

最後のシーゲル艦長だけが中佐である理由ですが、
おそらく艦の退役が決まってからマーティン大佐が任期を終えたため、
残り1か月を消化する間、便宜的に充てられた人事だからだと思います。

同じような人事は、軽巡洋艦として退役が決まった時にもあって、
クライヒル大佐はCL-2最後の1か月だけ艦長を務めました。

海上自衛隊で同じようなことがあるかどうかは知りませんが、
米海軍では、退役が決まって軍事指揮官を必要としなくなると、
書面上だけ必要な艦長を(名前だけ?)充てる慣習があるようです。


それから、これを見る限り、艦長の在任期間は1年と決まっています。

唯一の例外は、1973年7月から1975年5月と、在任2年に亘った
ピーター・カリンズ大佐ですが、その理由は年表からはわかりません。

この頃、「リトルロック」はガエタの第六艦隊旗艦であったこと、
そして任期2年目には大西洋艦隊の戦闘効率賞を受賞するなど、
軍艦として「最盛期」であったらしいことと関係あるかもしれません。

■ ミッチャー提督のサイン


1945年に撮影された「リトルロック」の写真ですが、
たいへん見にくいながら、エンボス加工のように浮き上がるサインは、
あの”ピート”マーク・ミッチャー提督の直筆です。


極端に寡黙で、物静か。
目立つことを嫌い、控えめであったというミッチャーは、
同時期のアメリカ海軍の中でも評価の高い指揮官です。

太平洋で任務部隊を率いたミッチャーは、日本軍との戦いで、
マリアナ空襲、パラオ空襲、そしてマリアナ沖海戦を指揮し評価を得ましたが、
沖縄で「バンカーヒル」「エンタープライズ」と、座乗した艦は
特攻の激しい攻撃を受け、そのことが結局彼の命を縮めたと言われます。

神風特攻隊小川清少尉が突入した「バンカーヒル」の破片は、
ミッチャーからわずか6メートルしか離れていない場所にいた彼の幕僚、
下士官兵10名の命を、その目の前で瞬時に奪っていますし、
移乗した「エンタープライズ」で、ミッチャーがいた甲板に、
冨安俊助中尉機が激突し、またしても彼は旗艦を変更することになりました。

彼の体重は45キロ以下になり、助けなしでは舷側の梯子を登れなくなり、
わずかの期間に「歩く骸骨」(ハルゼー談)のようになっていたそうです。
(ちなみに、英語のwikiには以上の記述はない)



彼が亡くなったのは1947年2月3日で、現役のままでした。
これは心臓発作で亡くなる半年前、トルーマンと握手するミッチャーですが、
60歳というにはあまりに老けています。

■ 海軍仕様バックル



制服の仕様が変わったため、今では超レアとなった海軍兵用ベルトバックル。

かつて兵用バックルには勤務艦のシルエットと艦名が刻まれていました。
写真はシルバーで、これはジュニアランクの兵卒用。

士官、チーフ・ペティオフィサー(CPO)、
その他下士官(NCO)は同じ模様が入った金色でした。


それでは現在、アメリカ海軍ではどんなベルトバックルが使用されているか?


というと、このような面白くもなんともないシンプルなものです。
まずこの金色は、士官とCPO用。
左は男性用、右の女性用は丸みを帯びたシェイプで少し小さいものです。

男性と女性でデザインが違うのはどういうわけか?
『体は男性で心は女性の軍人』が右側を使う権利も与えるべきではないか?


というような、物事をややこしくさせる議論は今のところないようで何より。
流石にここまでポリコレファシズムの魔の手は伸びていないと信じたい。

それに、トランプ当選によって、「性別は男か女二つだけ」となったので
物事がややこしくなることは今後しばらく起こらないでしょう。

さて、視察、儀式などいかなるシチュエーションにも合うように、
現在このようなアルマイト処理された金色の無地が標準となっています。
レートE-7、E-8、E-9の上級下士官は金色です。


E6以下はアルマイト処理されたシルバーのバックルと決められています。

それでは飾りの入ったバックルは禁止になったのか?
と思われた方、ご安心ください。

そのあたり、現在の海軍では個人の自由に任されていて、
適切なデザインであれば、バックルに装飾を施すことは許されています。

たとえば現在陸上勤務になっている人でも、前任の勤務(海上、航空)
の部隊章、記章などを着用するのはアリということです。

■ ボトルシップ


軍艦のボトルシップ実物というのを初めて見たような気がします。
個人で作成したと思われるプラークの文言は次の通り。

USS「リトルロック」CL92

全ての乗組員と
ペンシルベニア州フィラデルフィア クランプ造船工廠主任技術者
チャールズ・F・カールソンを偲んで

模型:レイ・カールソン アメリカ海軍少尉

寄贈:チャールズ F. カールソン Jr.
アメリカ海軍/アメリカ海兵隊軍曹
USS「ニュージャージー」BB-62 海兵分遣隊同窓会

2011年5月 バッファロー ニューヨーク

ちょっとわかりにくいのですが、カールソンは三人出てきます。
この三人について推測してみました。

曽祖父:チャールズ・F・カールソン(クランプ造船技術者)
祖父:チャールズ・F・カールソンJr. 海兵隊軍曹(USSニュージャージー乗組)
孫?:レイ・カールソン海軍少尉

おそらくこのボトルシップを作成したのはレイ・カールソン少尉。
ボトルシップの作成が2011年と比較的新しいことから、
海軍少尉である若いレイはカールソンジュニア軍曹の孫世代と見ます。

軍曹が海兵隊として乗り組んだUSS「ニュージャージー」は
第二次世界大戦中就役しているので、軍曹の父親であるクランプ技術者が
「リトルロック」設計に携わったというのは時期的に整合性があります。

そしてこれを寄贈したのは、そのレイ・カールソンJr.軍曹。
クランプ造船所の技術者、チャールズ・F・カールソンと、
彼が手がけた「リトルロック」の乗組員に捧げられています。
というわけで、

孫か甥(レイ)が作った「リトルロック」のモデルシップを、
祖父(ジュニア)がバッファローの「リトルロック」に寄付をした。
彼の父親(曽祖父)はクランプで「リトルロック」を手がけた造船技師。


というのが、わたしがこのプラークから読み取ったストーリーです。
検証しようがないので間違ってたらごめんなさい。


アメリカ海軍標準仕様の24時間時計。

ウォッチついでに、海軍の見張り(自衛隊ももちろん)「ワッチ」は、
アメリカでは「ウォッチキーピング」「ウォッチスタンディング」です。

このウォッチシステムは、24時間船を動かすためのシフトですが、
軍艦と商船、さらに軍艦の中でも潜水艦は独自のシフトを持ちます。

これは、乗組員がさまざまなシフトで任務を交代して行うことで、
全員が深夜や早朝などの勤務を公平に務めるための仕組みです。


1、電話帳

電話帳ですが、おそらくは艦内電話用でしょう。
「第6艦隊旗艦」とあるので、ガエタを母港としていた頃です。

2、電話帳

カミングス少尉のサイン入り。

3、号笛(サイドパイプ)


英語ではボースンズ・ホイッスル(boatswain's whistle)といい、
号笛のことをBoatswain's callといいます。
パイプには「シャックル」という丸い輪が付いており、
ここに鎖などを結びつけて襟もとに掛けたりします。

このサイドパイプには、組紐が結びつけられていますが、
サイドパイプの紐と気が付かず、7、と番号を打ってしまいました。

4、CLG-4の「リトルロック」パッチ

ミサイル巡洋艦になってから制定されたパッチには、
「 PRIDE IN ACHIEVEMENT」(達成する誇り)とあります。

5、第6艦隊旗艦パッチ

COMSIXTHFLT「モータープール」パッチと説明あり。
モータープールはおそらく当時の第6艦隊のあだ名だと思うのですが、
なぜモータープールなのかまでは調べたけれどわかりませんでした。

まあ確かに艦隊が軍港に係留されている様子はモータープールですが。


あらためて書いておくと、第六艦隊=ヨーロッパ・アフリカ方面艦隊です。
今でもイタリアのガエタが旗艦の母港であり、旗艦を務めたのは、
「ニューポートニューズ」を初代として「リトルロック」は7代目。
現在の「マウント・ホイットニー」は14代目となります。


USS「マウント・ホイットニー」LCC/JCC20

LCCはAmphibious Command Ship、揚陸指揮艦を表します。

第6艦隊の旗艦は代々巡洋艦でしたが、初めて駆逐艦母艦、
「ピュージェット・サウンド」AD-38が旗艦になって以降、
「コロナド」「ラサール」など、揚陸艦が充てられるようになりました。

6、キャンバスベルト

バックルのないタイプの布ベルトです。
どのようなシチュエーションで用いられるものかはわかりませんでした。


続く。





「リトルロック」最後の航海〜USS「リトルロック」

2025-02-11 | 軍艦

バッファローネイバルパークのUSS「リトルロック」内展示から、
彼女自身のヒストリーを紹介しているコーナーです。

■ 第六艦隊旗艦

A DAY IN THE LIFE
ある日の一コマ
「The Rock」の上での日常生活について、私たちに教えてください。

このように書かれたパネルがありました。



これはまさにその「リトルロック」=ザ・ロックのある1日の一コマです。
UNREP、アンダーウェイ・レプレニシュメント=補給作業を行っています。

今日は、1961年以降の「リトルロック」の歴史についてです。

1961年2月9日にフィラデルフィアを出港した「リトルロック」は、
6ヶ月間、北大西洋条約機構(NATO)軍と第6艦隊の両方と行動を共にした。

1962年から1965年にかけては、第六艦隊の一員として、
条約兵器と核兵器の二重戦力として、地中海方面に定期的に巡航した。


第2艦隊の旗艦として東海岸やカリブ海での作戦に参加したほか、
北ヨーロッパ沖でNATO部隊の任務に就いた。
1966年には、オーバーホールと乗組員の再訓練が行われた。

リトルロックは、1967年1月25日に第6艦隊旗艦の任に就き、
イタリアのガエタを母港とし、3年半に及ぶ旗艦としての任務の後、
1970年8月24日に帰港した。




第6艦隊とはなんぞや。

第7艦隊が日本の横須賀に母港を置く駐留艦隊であることはご存知でしょう。

対して第6艦隊は2004年以降ヨーロッパにおける運用部隊を指し、
地中海に進入するすべてのアメリカ海軍艦隊が割り当てられ、
その旗艦はイタリアのガエタに母港を置くことが決まっています。

第6艦隊の発祥は19世紀初頭に遡ります。

アメリカ海軍がバルバリア(バーバリー)海賊と交戦し、
商船の警備を行うようになって以来、
アメリカは地中海に海軍を常駐させるようになりました。

(ここでちょっと豆知識ですが、アメリカが海軍を設立した直接の理由は、
独立戦争後、バルバリア海賊の脅威に対抗するため
でした)

初期の派遣艦隊は「地中海艦隊」と呼ばれていたそうです。
これがのちに「ヨーロッパ艦隊」となり、「第6任務艦隊」となります。

同艦隊は、第一次世界大戦時の艦隊はバルカン半島と中東諸国の平和維持、
第二次世界大戦中はイタリアへの上陸作戦支援などの任に就きました。

戦後、その規模は縮小されましたが、1946年以降、
ソ連の脅威に備えるため、東地中海に戦艦「ミズーリ」が派遣され、
その後、第6艦隊として現在も展開が継続されています。

第6艦隊旗艦を務めるのは歴史的に軽巡洋艦の役目で、「リトルロック」は
1961年、1963年、1964年、1967年、1974年と5回旗艦を務めました。

旗艦の任務期間は6ヶ月〜7ヶ月だったり、3年だったりと、
状況に応じてさまざまでした。

■ タロスミサイル搭載艦


「タロス・ファースト」

海軍と、インディアナ州ベンディックス航空会社のミサイル部門が、
700万ドルの契約で製造したタロス誘導ミサイルは、
海軍の戦略と戦術における革命的な時代の幕開けとなりました。

ギリシャ神話のクレタ島を守る半神にちなんで名付けられたタロスミサイル。

それは、タロスミサイル搭載艦隊、最初の一隻である
USS「ガルベストン」(1958年5月28日就役)の主要武器となりました。

超音速の地対空および地対地ミサイル、タロスは
海軍に長距離、高火力の防空システムをもたらすため設計されましたが、
その開発プログラムは、多くの「初めて」を生み出すことになります。

ジョンズ・ホプキンス大学応用物理学研究所の指揮の下、
「バンブルビー・プログラム」としてその開発が始まりました。

このプログラムにより実現した技術は以下のとおり。

1、
先進のラムジェットエンジン
2、
固体燃料ブースターロケットのサイズ(縮小化)と性能における新記録
3、
ラムジェットエンジンを搭載した完全制御ミサイルの初飛行
4、
短&長距離での正確さを持つデュアル誘導システム搭載の初のミサイル
5、
原子力弾頭の導入における先駆的な取り組み

また、タロスに搭載された4万馬力のラムジェットエンジンによって、
過去、爆撃機が到達可能だった最高度をはるかに上回る機位で、
水平飛行を維持することが可能となったのです。

またラムジェットはロケットよりはるかに「少食」つまり燃料が少なくすみ、
(同じ時間維持するために必要な燃料の6分の1から8分の1)
推力と速度の制御が容易である上にパフォーマンスに優れています。

タロスエンジンのこの多用途性と信頼性は、
誘導ミサイル技術における画期的な成果を実現したのです。

「 高かったIQ」



多用途のタロスは搭載された「頭脳」もたいへん優れていました。

電気機械式の頭脳によって誘導されたタロスミサイルは、
目標の「射程距離」内に入ると、近接信管が弾頭を爆発させました。

タロスは2つの「ブレイン(頭脳)システム」を持ち、その頭脳が
長距離での高火力と高精度という能力を与えていました。

一つ目のシステムは、発射機から目標地点までミサイルを誘導。

発射機から直接受信するビーム型の誘導方式であり、
レーダーから攻撃目標に関する情報を入手してミサイルを誘導します。

これをレーダービームライディング技術といいます。

第2の頭脳は「ホーミング・ブレイン」

これが標的を感知すると、ミサイルの制御は
ビームブレインからホーミングブレインへと自動的に移行します。

ミサイル発射に至るまでの過程を司る神経系である
伝達を行う回路やモジュールは、最新の技術が応用されていました。

この終末誘導段階に搭載されたのがセミアクティブレーダーホーミングです。

実験で飛ばした無人のB-17に向かっていくタロスミサイル

■ ヨーロッパ遠征中のクルーズブック



「クルーズブック」とはアメリカの高校の「イヤーブック」(卒アル)
と似ておりすべての展開が完了した時点で発行されます。

これは、乗組員の遠征中の艦上、あるいは港での日常生活などが、
写真で記録されたアルバムとなっています。

右の1969年6月9日付の艦長からのお手紙にはこんなことが書いてあります。

リトルロックの友人たちへ

前回のファミリーグラム以来、リトルロックはフル稼働のスケジュールで、
地中海とその周辺でさらに多くのマイルを記録しました。

5月の最初の1週間は、私たちの母港であるガエタで過ごしました。

そこは天候が良く、本格的な夏が到来したことを実感するように
シーズン最初の観光客がやってきたものです。

旗艦では日光浴の時間を設けたので、甲板作業中だけでなく、
誰もが太陽を満喫することができました。

「リトルロック」は5月12日にガエタを出発し、一泊停泊後に
イタリアのベニスでの公式の訪問を行いました。
これは私たちが通常予定している公式訪問より少し長い期間でした。

この港は水深が浅く、我々の艦が寄港するには懸念も多かったのですが、
現地のタグボートの助けを借りて係留することができ、
ベニスに寄港する久しぶりのアメリカの軍艦になれたことを誇りに思いました。

サンマルコ広場からわずか200ヤードのブイに停泊した我々の艦は、
滞在中、それ自体が観光名所となってアメリカ人だけでなく、
ヴェネチア観光に来ていた多くのヨーロッパ人に、
地中海におけるアメリカの存在感を印象的に示していたと思います。

ヴェネツィアでは5回以上のツァーが催され、
それは主要な名所のほとんどを網羅していました。

現地では、昨年現役訓練で乗艦したアメリカ海軍予備隊の少佐が、
(彼はヴェネツィアの美術、歴史、建築の専門家でもある)
ツァーのうち2回を手配してくれ、そのツァーで、我々は歴史的な教会、
ティントレットの絵画が展示されている「スコラ・グランデ」、
そして美しいドゥカーレ宮殿などを見学しました。


さすが最初に「友人へ」と書いてあるくらいで、
艦長からの手紙というより、イヤーブックのアルバム委員みたいな文です。

平和な時代のヨーロッパ遠征は、彼らにとって「観光」気分だったんですね。





タロスミサイル搭載艦「リトルロック」は、1973年8月から1979年9月まで、
6艦隊の旗艦として再び地中海に配備されました。

1973年にはチュニジアの洪水被害者を救助し、
1975年のスエズ運河再開通の際には最初の輸送船団の一員となり、
1976年のレバノン危機の際にはベイルートの避難を支援し、
1976年11月22日にフィラデルフィア海軍造船所で退役しました。

■ 退役



ウォレットサイズの退役証明書です。
USS「リトルロック」の退役を記念して、
対象となる乗組員全員にカードが発行されました。

これは協会会員のジョージ・ヒューム氏から寄贈されたもので、
カードには次のように書かれています。

200年退役乗組員

今こそ耳を傾けよ:

SNジョージ・ヒューム

USS「リトルロック」CG4の艦上で、バージニア州ヨークタウンから
ペンシルベニア州フィラデルフィアへの最後の巡航任務に従事した
ジョージ・ヒューム二等兵曹は、
この誇り高き艦を無事に母港に帰還させた功績を称えられ、
ここに証明書を授与されました。

ウィリアム・R・マーティンUSS「リトルロック」艦長


写真は最後の航海で登舷礼を行う「リトルロック」。
英語では登舷礼をManning the railといいます。

そして、冒頭の写真は、登舷礼で岸壁を離れる瞬間。
軍楽隊の演奏と、正装した少女に見守られて、彼女は最後の航海に出ます。

続く。









「誇り高き親善大使」〜USS「リトルロック」ヒストリー

2025-02-08 | 軍艦

バッファローネイバルパークに展示されているUSS「リトルロック」、
今日はその展示から、「リトルロック」の歴史写真をご紹介します。

写真はいずれも艦内に展示されていたものになります。

■ 建造



クランプ造船で建造中の「リトルロック」。
「リトルロック」がレイドダウンしたのは、1943年3月6日でした。
この写真は、起工から十か月後、半年後に進水式を予定してた頃です。

同時に「オクラホマシティ」CL-91、「マイアミ」CL-89、
「アストリア」CL-90が建造されていました。


人間の運命がそれぞれであるように、同じ軍艦として生まれても、
ちょっとの違いで運の良し悪しが確実ににあります。

たとえば、上写真の「マイアミ」「オクラホマシティ」は
「リトルロック」と同じドックで工事が行われているわけですが、
半年早く完成することによって、太平洋での激戦に投入されていますし、
同じく、サボ沖で撃沈された先代の名を継いだ「アストリア」は、
「リトルロック」より一か月だけ早く就役してやはり戦闘を経験し、
生還こそしましたが、日本近海で、あのコブラ台風にも遭遇しています。

■巡洋艦として就役

「リトルロック」が就役したのは1945年6月17日、終戦の二か月前。

軍上層部はおそらく戦争の終結が近いことを知っていたかもしれませんが、
もちろん現場ではそんなこととは関係なく、「リトルロック」もまた、
就役一か月後には粛々とシェイクダウン、習熟航海に向かいました。



訓練はその後投入されるであろう太平洋での実戦を想定していたでしょう。
ところが、キューバ沖のグアンタナモで訓練中、戦争は終わりました。




その後大西洋岸での訓練とフィラデルフィアでの調整を経て、
「リトルロック」は五か月かけて南米19の港を巡航しました。

そして翌年はヨーロッパ大陸三か月のクルーズ、カリブ海での演習、
そして2回二次にわたる地中海クルーズを行っています。

「リトルロック」ホームページに掲載されたこれらの巡航の写真を見る限り、
士官から兵に至るまで、総員の現地での様子は穏やかで幸せそうで、
このクルーズをあたかも観光旅行のように楽しんでいる様子が窺えます。


上の写真は1946年2月1日、南米クルーズでチリのバルパライソ、
ピアサイドを航行する「リトルロック」です。



この油彩は、説明がなかったので詳細は分かりませんが、
この期間巡航で訪れた外国の都市での「リトルロック」と思われます。



1947年2月26日、オーバーホール中の「リトルロック」、
ブルックリンのニューヨーク海軍造船所にて。

このとき、艦体の塗装が海軍の塗装番号「Measure22」から、
一般的なオールグレーの塗装に変更されたとされます。
(それまでの写真と比べると明るい色に見える)

戦時モードから平時モードに塗装し直したということでしょうか。




マサチューセッツのケープコッド運河を通過する「リトルロック」。

我が家がボストン在住時、ケープコッドには何度か車で行きましたが、
力こぶを突き出したような半島の先、プロヴィンスタウンに行くためには、
必ず半島の根元にあるこの人口の運河を渡らねばなりません。

その際、写真にあるサガモア・ブリッジを車で通過することになります。

この写真は1949年に撮られたもので、キャプションには

オリジナルのコミッショニングである『ライトクルーザー』、
CL-92として最後の姿であり、彼女の艦体に書かれた92という数字は、
この後スモールナンバー「4」に変わることになる。

その艦体は第二次世界大戦中はより近代的で、識別が容易であった。

彼女はその艦歴の中で、一度として「怒りの砲撃」を行ったことがない。

ただ、親善大使として活躍し、”C L"(1944-1949)から
”CLG / CG"(1960-1976)の生まれ変わりの旅を通して、
アメリカ合衆国の代表として誇り高くその任務を終えた。

と、(かなり曲訳しましたが)なかなか感動的な文章で紹介されています。


LC-92「リトルロック」は1949年6月に退役し、その後は
ニューヨークのアトランティック予備艦隊に編入されることになります。


退役が決まって、CL-92を記念するプラーク(記念盤)が製作されました。

1945年から1949年までに「リトルロック」艦長に就任した、
6名の司令官の名前が在任機関とともに刻まれています。


こちらはCL-92のプラーク。


こちらはまだ退役まで2年を残す1947年のダンスパーティ写真です。
会場となったニューヨークのホテル・デルモニコは現在も存在します。

調べてみたら、今や大統領のドナルド・トランプが、
2002年に1億1,500万ドルで買っていたことがわかりました。

ホテル・デルモニコの歴史


いやー、どうでもいいけど、トランプってマジ金持ち。
この人とマスクがいるって、史上最も買収が効かない政権じゃないか?


それはどうでもいいですが、写真の一部を拡大してみました。
うーん、皆ハッピーそうで微笑まC。



新婚カップルらしき二人の姿が目立ちますね。
今は彼らの孫世代がリタイアし、ひ孫世代が社会の中心を担っています。

彼らがその後幸せな人生を歩んでいることを祈ります。

■ ミサイル搭載軽巡洋艦への転身



USSリトルロック、ニュージャージー州カムデンにて
1959年12月19日

「リトルロック」は、再就役のため、ニュージャージー州カムデンの
ニューヨーク造船所で誘導ミサイル艦に生まれ変わりました。


換装を行う造船所名、工事期間などが刻まれたプラーク。




同じ12月19日、傾斜実験中の「リトルロック」。

傾斜実験とは、船舶の重心の上下期ちを測定するためのもので、
肝斑状の重量物を横報告に移動した時の傾斜から算出します。


換装工事中の「リトルロック」。
夜間でも照明が煌々と照らしています。







いずれも換装後の就役前公試実験中です。



タロスミサイルの発射実験。


公試を終えて、「リトルロック」は新たに
誘導ミサイル巡洋艦として再就役をすることになりました。

これは、生まれ変わって新たに再就役する「リトルロック」の門出を祝う、
就役式(日本だと引渡式)への招待状です。


続く。



進水式と風の神ボレアス・レックスの認証〜USS「リトルロック」

2025-02-05 | 軍艦

バッファローネイバルパークに展示されている、
USS「リトルロック」内の海軍資料をご紹介しています。



ここで、シリーズ最初に一度紹介している、

「ブルーノーズ勲章
The Order of The Blue Nose」


の正式な認定書らしいものがまたしても登場しました。
ただし、こちらは1962年に北極圏通過したことを示すもので、
「リトルロック」にとっては2度目のブルーノーズオーダーとなります。

繰り返しになりますがもう一度説明すると、ブルーノーズオーダーは、
北極圏を本艦が通過したことを証明する公式の証明書です。


「リトルロック」艦首のリーダーは、ブルーノーズ受賞艦として、
このように青くペイントされていることも以前お話ししましたね。

これは艦「リトルロック」に対して与えられたものですが、
その時その時に勤務していた乗組員全員にも、この証明として
「ブルーノーズカード」は与えられました。



CL92(軽巡洋艦)だった頃の1946年のブルーノーズメンバーシップ。
持ち主のジェームズ・ホールはRDM3つまり3等レーダーマン、
レイティングで言うとE-4となります。
これを認定する士官は当時の「リトルロック」艦長です。



CLG(ミサイル巡洋艦)となった「リトルロック」が、
1965年9月29日に北極圏に達したとき乗務していた
R・W・ピーターソンに対して与えられたブルーノーズ証明書です。

この証明書は、

Boreas Rex
Ruler of the North Wind

から送られたということになっています。
ボレアス王は強大な北風の王として、彼の兄弟たちに、

タイタンに北風を、
エウロスに東風を、
ゼピュロスに西風を、
ノトスに南風を、

それぞれ恒久的に繰る権力を与えました。

彼はノースポール(北極)を支配しており、故に、
ここに到達した人間にもその証明を与える権限を持っているのです。


3回目となる1972年、北極到達で発行された証明書は、
C・H・ケンジンガー 三等兵曹
Petty Officer Third Class (PO3)

が取得した北極点到達の証です。

これによって、すべての男性に、そして、
すべてのセイウチ、ハスキー、キツネ、オオカミ、ホッキョクグマ、
クジラ、テン、トナカイ、カリブー、そして、
北極圏の凍てついた荒れ地に生息するそ
の他のすべての生き物たちに知らしめる

PN-3C.H. Kensingerは、北極圏を横断することで
世界の頂点への入り口を開くことになろう

さらに理解されるべきである:
それは、USSリトルロック(CLG4)という良き船に乗り込み、
つらら、ブリザード、ウィリワウ Williwaw、
(=海岸沿いの山から海に向かって吹き降ろす突風、颪)
そして無数の雪片の土地に入った
1972年9月14日、北風の支配者であり、
凍てつく領域のすべてを統べるボレアス・レックスは、
この地を真の信頼できる氷と塩水のブルーノーズである
私の王家の領土であると宣言する

ここに宣言する

私に与えられた権限により、私はここに、我が臣民すべてに命ずる
彼がどこにいようとも、彼に敬意と尊厳を示すことを

この命令に背く者は、王家の不興を買うことを覚悟せよ

そして、左からボレアス・レックス、「リトルロック」艦長、
第二艦隊&北極打撃艦隊司令官のサインがあります。
右上に描かれているのが、おそらくボレアス・レックスでしょう。

「リトルロック」はこうやって3回ブルーノーズの証明を得ましたが、
後になるほどその証明書の仕様が凝っていっています。

■ USS「リトルロック」の誕生


進水式から始まる「リトルロック」の写真が展示されているコーナーです。

「リトルロック」C L-92は、1942年3月6日、フィラデルフィアの
クランプ・シップビルディング・カンパニーで起工されました。



この造船所で建造された他の艦としては「オクラホマシティ」があります。

進水式は1944年8月27日、リトルロック市会議員夫人、
ルース・ワッセルをスポンサーとして行われています。


1945年6月17日、ウィリアム・ミラー大佐(壇上)を艦長として
コミッショニング・セレモニー(就役)が行われました。

日本の降伏によって戦争が終結する二ヶ月までのことです。
「リトルロック」は習熟訓練の最中に終戦の知らせを受けました。


就役式の招待状。

末尾のR.S.V.Pは、フランス語で「Repondez s'il vous plait.」の略で、
出欠に対して「ご返答お願いいたします」 という意味です。



1945年7月アンダーウェイに向かう「リトルロック」。
物資、弾薬、航空機、燃料が積まれているので喫水線が低くなっています。


1945年9月、艦尾側からの空撮。

■ 航海用ツール


実際に「リトルロック」で仕様されていた各種用具です。




立派な木製の持ち運び用取手付き六分儀、セクスタント

六分儀は天測をして天体と地平線の間の角度を測定することで
航海の際現在位置を知ることができるツールです。

なぜ「六分」なのかというと、枠の角度が60度だからで、
歴史上、同様のツールとしては八分儀というのも存在しました。

こちらは、測定できる角度が小さいため、廃れて六分儀に移行しました。

この六分儀は、1946年から1949年まで「リトルロック」勤務であった、

Allan Yoder FC2/C

が寄付をした、と書かれています。
名前の後のFC2は、

Fire Controlman Petty Officer 2nd class

であり、/の後のCは「カーペンター」であるらしいので、
彼は消防とビルダーのレイティングを持つ下士官ということになりますが、
六分儀のケースには、

Capt. Allan L. Yoder
USCG


と記されていて、この人、沿岸警備隊にいたの?
しかもキャプテンとは?と色々謎です。

珍しい苗字なので検索したら、お葬式の通知などと共に、2007年、
「リトルロック」のオーラルヒストリーのページが見つかりました。

それによると、ヨーダー氏は高校卒業後海軍に新兵として入隊し、
最初に赴任したのが「リトルロック」で、海軍にいたのは3年。
そのあいだ操舵手を務めていたということです。(本人談)

沿岸警備隊のキャプテン、というのは、退役後に取った多くの
船舶関係の資格の中に、「沿岸警備隊の船長資格」があったという意味です。

退役後には海洋関係の調査がありましたが、
そのとき手がけた多くの機密プロジェクトには、
当時極秘扱いだったトム・クランシーの小説
『レッドオクトーバーを追え!』のネタ
になったものもあるそうです。

それってかなり自慢できないか?


こちらもヨーダー氏寄贈によるシップマスター クロノメーター

一般的にはマリン・クロノメーターといい、
天体航法によって船舶の位置を決定するための使用される精密時計です。

かつては、船舶用クロノメーターは人類史上最も正確な
携帯型機械式時計として、海洋国家はその開発に多額の投資を行いましたが、
1990年代に衛星航法システム(GNSS)が登場しました。

しかし、現代でも航海士には従来の天体航法に熟練していることが求められ、
現場でも、使いうる様々な方法を組み合わせて航法を行います。

最先端の方法で行えば、六分儀での天測をわずか数分に短縮できますが、
故障する可能性のある電子システムだけに頼らずに、
複数の独立した位置測定方法を知っていることによって、
航海士は最悪の事態が起こってもそれを回避することができるのです。


展示物の中に「私はなんでしょう」というクイズがありました。
質問しておいて、どこにも答えがないんだなこれが。

というわけで、これはなんでしょうか。
お札を挟むクリップ?
(その心は、乗員は財布を持てないから)


私はなんでしょうシリーズその2。
うーん・・・全く想像すらつかん。
何かと何かを連結するものであるらしいけど・・・。


「リトルロック」で実際に仕様されていた舵輪です。



「スタンダードイシュー」(標準)舵輪はパイロットハウスに装備されます。

どの装備が搭載され、使用されるかについては、
指揮官が最終決定権を持っており、一部の艦船では「伝統的な操舵輪」
(ここに展示されているもの)が選ばれましたが、
もちろんそうでない艦船もあったということです。

いずれにしても、展示されている舵輪は、風と帆だけで船が推進されていた
海軍の過去から受け継がれてきた遺産の象徴でもあります。

ところで、この説明を読んで、一部の艦長が選んだ「伝統的」でない舵輪とは
どんなものだったのか、気になって調べてみたのですが、

まさかこれのこと?


もう一つついでに、wikiにあった舵輪の動力伝達の仕組み。


ところで、舵輪の右下に日本の無条件降伏の調印式が「ミズーリ」で行われ、
ちょうどマッカーサーの前で重光葵がサインをしている写真がありますね。
(画面右にいるのは外相秘書だったオノヨーコのおじ加瀬俊一)

写真に添えられた説明は、

1948年9月2日、
東京湾の戦闘艦USSミズーリ(BB-63)に乗船した大日本帝国代表団が、
連合国代表の面前で降伏文書に署名。
ダグラス・マッカーサー陸軍元帥の 
「これらの手続きは終了した 」という言葉とともに、
第二次世界大戦はついに正式に終結した。

その通りなんですが、そもそもこれここにある意味が全くわかりません。


展示と展示の間に、実際の鑑の装備が現れました。
コントロールステーションとあります。

左下はバルブの操作方法ですが、三つのバルブに書かれた文字が、

F.M.CROSS
CONN. OUT-OUT

F.M.
OUT-OUT

FS 78
SUCTION


となっていて、おそらくこれはどこに通じているかを表します。

真ん中の説明から、これらが燃料関係のバルブであり、
燃料は常に総量を監視され適切が保たれていたことがわかります。

燃料消費ログ

このフォームは、USS「リトルロック」(CL-92)の
各燃料タンクに搭載された燃料の総量を追跡するために使用されました。

これは船の運航にとって非常に重要であり、蒸気船としての目的だけでなく、
船を水平に保つ「トリミング」のためにも必要でした。

燃料レベルが適切に維持されていることを確認するため、
1日中定期的に燃料レベルの測定が行われました。

また、船内の燃料総量は70万ガロンを超えていました。

「リトルロック」のヒストリーをたどる展示、もう少し続きます。


続く。