ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

アーセナルと三十年戦争〜ウィーン軍事史博物館

2019-08-31 | 博物館・資料館・テーマパーク

ウィーン滞在最後となった日の我々のスケジュールは過密でした。
朝からマルクト(路上市)見学、三つ星レストランシュタイレレックで昼食、
そして夜には、観光客向けのモーツァルトコンサートと、それだけでも
三日分のスケジュールなのに、この合間にわたしの強い希望により
ウィーン軍事史博物館を無理やりねじ込んだのですから。

せめてこの一日、車があれば随分移動も楽だったと思うのですが、
ザルツブルグから帰ってきてレンタカーを返してしまったので、
移動は全て地下鉄の一日券で行うことに。

軍事史博物館は、地下鉄のカルティエベルベデール駅で降り、
そこから路面電車かバスに乗るのが便利、と後からわかったのですが、
非常に残念なことに、その時わたしはツァーの一切合切をTOに丸投げして、
ただ三歩後ろをついていくだけの妻と化していたため、その結果、
酷暑の炎天下をヒーヒー言いながら歩く羽目になってしまいました。

日本の皆さん、今暑いのはあなたたちだけではありません。
オーストリアの夏も猛烈に厳しいです。

公園の中を通り抜けるようにしてようやく見えてきたのが軍事史博物館。
これはまるで中世のお城のような・・・・・・。

HEERESGESCHITLICHES MUSEUM

というのがドイツ語でのウィーン軍事史博物館という意味です。

Heeres=軍、Geschicht=物語 LICHES=ロイヤル

で、略称HGMということなので、今後当ブログでもそういうことにします。

この煉瓦造りの古城ですが、入り口に「アーセナル」とありますね。
アーセナルというとわたしはどうしてもブラスバンドの名曲を思い出してしまうのですが、
ここは1850〜1856年にかけて、実際に「武器庫」として使われていました。

門を入っていくと、外型の部分は外壁であることがわかりました。
本当に武器の納められている部分は外壁によって守られていたのです。

もちろんアーセナルというのは武器とそれを扱う軍隊がいてこその名称です。
しかし、それは短期間で、この建物はその後改装を経て武器美術博物館となりました。

入ってすぐ右にはレストラン「アーセナル・スチューベン」がありますが、
ここももしかしたら博物館となった時から飲食施設だったのかもしれません。

しかし、ここに来ればオーストリアの軍事史を全て俯瞰できるわけではありません。
膨大な資料を収めるにはここはあまりに制限が多く小さいと考えられました。

戦車を展示している場所は外側にあり、これは大変残念ながら、閉館中で
今回観ることはできなかったのですが(涙)軍用機などは全く別の場所に
「ハンガー8」なる展示館があることがのちに判明しました。

今回わたしはザルツブルグで「ハンガー7」というレッドブルCEOのコレクションを
展示する博物館に行きましたが、実はこのネームは、この
「ハンガー8」のシャレだったのでは、と今になって気づいた次第です。

ハンガー8の存在を知っていたところで、今回は時間が足りなかったのですが、
また機会があればぜひ見学してここでご紹介できればとは思っています。

入り口のこの像が誰なのかはわかりませんでした。
おそらく、開館に尽力したハプスブルグ家の末裔ではないかと思います。

 

ここはその後オープンしてから長らく「陸軍博物館」として親しまれましたが、
第一次世界大戦勃発に伴って、一時閉鎖されていました。

しかし、博物館としてその活動までやめてしまったわけではありません。
戦争遂行の真っ只中も、博物館は虎視眈々と(?)可能な限りの
緻密な収集活動に励み、その赤字を補うべく努力していました。

第一次世界大戦そのものの原因となったサラエボ事件で、オーストリア皇太子夫妻が
暗殺されたときの車をはじめ、一級の資料がここには展示されているわけですが、
その陰にはこのような博物館側の努力があったことは想像に難くありません。

終戦後、1921年に博物館は満を辞して再開を果たしました。

 

1938年のドイツ帝国によるオーストリア併合「アンシュルス」の後、
陸軍博物館はベルリンの陸軍博物館の所長の管理下に置かれ、さらに
1940年からは、第二次世界大戦のキャンペーン、
つまり戦意高揚を目的とした特別展示に使用されました。

「vienna military museum arsenal airraid」の画像検索結果 

その後はウィーンの他の博物館と同様、貴重な目録を疎開させましたが、
1944年9月10日のアメリカ軍の空襲で、建物の北のウィングが破壊されました。

「vienna military museum arsenal airraid」の画像検索結果

その後も連合軍の空爆は何度もウィーンを襲い、博物館は
1945年4月の爆撃で建物だけでなく避難させた展示品も
被害を受け、ついに、略奪も行われました。

1946年になって博物館が再建されるにあたっては、名前を軍事史博物館に改名し、
陸軍博物館の頃より統合的に、歴史的出来事を記録する構成が試みられました。

陸軍の資料だけだったのが、第一次世界大戦後消滅した海軍についても、
ヨーロッパ全体の海軍史を補完することによって展示を充実させ、
文化博物館、美術館、技術科学博物館、自然科学博物館としても
数千ものオリジナルの展示物を所有し、大変貴重な世界の遺産となっています。

入り口で入場料を払いますが7ユーロと大変お安くなっています。
19歳まで、60歳以上と障害者、軍人は制服を着ていれば無料です。

エントランスにはこれでもかと石像が林立していますが、
きっとヨーロッパ史に詳しければ誰でも知っているような軍人なのでしょう。

壁画と天井画はカール・ブラースという有名な画家が行いました。
これを見てもわかるように、芸術的に優れていることはもちろん、
その題材はあくまでもオーストリアの軍事史に基づいていなければなりません。

壁画は1872年に完成しました。

子供の見学も大歓迎。
当博物館ではキッズクラブがあり、その名も「オイゲンズ・キンダークラブ」。
オイゲンというのはもちろんのこと、あのプリンツ・オイゲン公のことです。

ここでキンダークラブのお子さまは、自分の好きな衣装を選び、
男の子は騎士、女の子はお姫様となって博物館の中を探訪することができるというわけ。

わたしが行った時にも子供の博物館ツァーのグループがいましたが、
男の子が皆騎士のマントを着ているのに対し、女の子は素のままでした。

 

今いるアメリカでも博物館や美術館に行くと、子供のキャンプが
見学に来ており、その際必ず彼らはこんな風に床に座り込んで説明を受けます。

家の中で靴を履いている人たちの感覚はわたしたちとは大いに違い、
彼らは外で座り込むことも家と同じように平気なのです。

展示は中世の騎士の鎧などから始まるわけで、日本人でヨーロッパの歴史など
非常に疎いわたしには、ああ中世ね、で終わってしまうわけですが、
実はこの展示が始まるのは

三十年戦争

からなのです。
三十年戦争、歴史の時間に聞いたことがあるような・・と思ったあなた、

「ウェストファーリア条約」

という言葉なら聞き覚えはないですか?

一言でいうとこれはカトリックとプロテスタントの宗教戦争でしたが、
三十年にもわたってヨーロッパ全土でドンパチやっていたというのが凄い。

この戦いでカトリック側を率いたのが神聖ローマ皇帝。
相手のプロテスタント側はフランスのブルボン王朝とネーデルラント。

この時カトリック側、オーストリアとスペインのハプスブルグ家は敗北しました。

求心力をなくしたハプスブルグ家に取って代わったのがホーエンツォレルン家。
この名前にも記憶があります。
学校の授業で習うことって、案外無駄でもないってことですか。

三十年戦争の頃の兵隊の出で立ち。
人形の表情は極力簡略化されていますが、遠目には雰囲気出てます。

三十年戦争の頃にはもうマスケット銃などが登場していました。

ここに中世らしいのっぺりした暗殺の絵があったので写真を撮りました。

三十年戦争の間、ボヘミアの傭兵隊長として神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナント2世に仕え、
帝国大元帥・バルト海提督・フリートラント公爵となって位人臣を極めた、

アルブレヒト・フォン・ワレンシュタイン

の暗殺シーンを描いたものです。
ワレンシュタインは戦略家で戦争がうまく、瞬く間に取り立てられて
小貴族でありながら帝国諸侯まで成り上がったことで僻まれ、
軍税制度を利用して占領地から取り立てを行なったたことで恨みを買い、
結局造反を心配した皇帝の命令で暗殺されたと見られます。

彼が暗殺されたのは夜間、寝室で、寝間着を着ている時だったようですね。
絵にはスピッツのような小型犬がいますが、本当だったのでしょうか。

彼は1634年2月、50歳のときエーガーの居城で皇帝軍のスコットランド人と
アイルランド人の将校によって暗殺されました。

典型的な出る杭は打たれるってやつだと思いますが、それにしても
雇い主に寝首をかかれるなんて、せっかく頑張ってきたのになんだったのっていう。

ワレンシュタイン関係で近くにある血染めの手紙が目にとまりました。

全体的に説明書きがあまりなく、あったとしてもドイツ語だけなので、
現地ではとにかく何が何だかわからないで全てを見ていたわけですが、
これはとりあえず撮り、帰ってきて自動翻訳にかけてみました。

ワレンシュタインのパペンハイム元帥への手書きの手紙。
血で染まったページの表には、こう書かれています。

敵がここに進軍し、主人がすべてを置き、何もせずに横たわり、
明日私たちを見つけることができるように

A(アルブレヒト)H(公爵)Z M(メクレンブルグへ)

1632年11月15日

しかし、私は主に仕えたいと思っています。

彼はすでに昨日パンがなくなったパにいます。 逆に緊急の注意: 
Cito,Cito, Citissume, Cito.
(ラテン語で早く、早く、できるだけ早く)

とほほ、自動翻訳酷すぎorz

これは暗殺とは全く関係なく、1632年のリュッツェンの戦いにおいて、
指揮官だった彼が、野戦を敷きスウェーデンのプロテスタント軍団と戦ったとき、
膠着状態と兵糧不足に陥り、パッペンハイム将軍に増援を要請した手紙です。

パッペンハイム

3時間後の午後2時、パッペンハイム率いる騎兵隊が戦場に到着しました。
これを見たヴァレンシュタインは

「あれぞ我らがパッペンハイムだ!」

と叫んだといいます。
パッペンハイムは5度にわたって敵陣に突撃を敢行し、
皇帝軍の劣勢を立て直すことに成功したものの、午後3時、
5度目の突撃の際に銃弾を受けて負傷し、翌17日に死亡しました。

この手紙はそれ以上の説明がないので想像するしかないのですが、
突撃したパッペンハイムが懐に持っていたもので、血は
パッペンハイム自身のものであろうかと思われます。

ちなみに、のちにワレンシュタインが暗殺されたのも、この時の
失態が遠因だったということのようです。

30年戦争の頃の鎧の一つ。
顔面を完璧に防御しつつ、下方を見ることができる工夫がなされています。

しかし、先ほどのリュッツェンの戦いでスウェーデンのグスタフ二世が
戦死する時のシーンを見てみましても、

こんなフルアーマーの人はどこにもいないんですよね。
絵だから顔を見せるために鎧なしで戦ってるんでしょうか。

 

続く。

 

 


「シュタイレレック」でナマズを食す〜ウィーンの三つ星レストラン

2019-08-30 | お出かけ

 

さて、ウィーンを観光できるのも最後の1日となりました。
わたしたちは今日という日をできるだけ有効に使うべく、
朝からホテルを出て地下鉄に乗ることにしました。

これがホテルの前にあったウィーンミッテ、ウィーン中央駅。
オーストリアは地下鉄が大変発達していて、路線が集まる駅は
地下鉄なのにこんなに立派な駅舎を使っているのです。

地下鉄のチケットシステムはある意味性善説に立ったもので、
チケットを買うと、もうそこで機械式の改札に読ませるだけ。

また、その日一日、何回乗ってもどこまで乗ってもOKの
フリーきっぷを買うと、きっぷさえ持っていたら改札を通らずに
ホームに行って電車に乗ればいいのです。

「しようと思ったらタダ乗りできるってことだよね?」

その辺は時々抜き打ちで検査があって、不正が見つかったらもう
社会生活ができないくらいの罰則が待ち受けているのでは?
と想像してみたのですが、実際どうなのかはわかりませんでした。

駅前のストリートミュージシャンは、さすがウィーン、バスーン奏者です。
そういえばこの近くには名門ウィーン音楽大学もありましたね。

仲間が応援に来ているようですが、なぜ彼は路上で演奏を?

ウィーンには今でもULFという路面電車が活躍しています。

ウィーンのULF(Type B)

もうすぐ廃止になるという話ですが、現在の車両はポルシェデザインなんだとか。

ウィーンの地下鉄は1976年に開業ということなのでそう古くありませんが、
大阪地下鉄のような古びた感じがあります。

路線図

路線は全部で6本、駅は104で、大阪地下鉄が100ですから規模としては
同じくらいの感じでしょうか。

カールスプラッツ駅で降りたら、駅舎前にパトカーが停まっていました。
オーストリアのパトカーはフォルクスワーゲンを採用しています。
さすが国民の(フォルクス)車(ワーゲン)です。

サイレンを鳴らす時には上のライトが点灯するのですが、これが青。
彼の地では、バックミラーで赤ではなく青いランプが点灯したらギョッとして、次に

「やられた・・・・・」

と落胆するというわけですねわかります。

こちらがかのウィーン工科大学でございます。

ドップラー効果のクリスチャン・ドップラー、建築家のオットー・ワーグナー 、
ヨハン・シュトラウス2世 (在籍するも音楽に専念するために中退)
ヨーゼフ・シュトラウス (ヨハンの弟。卒業後に技師になるも、やっぱり音楽家に)、
先日お話しした映画監督、フリッツ・ラング、
シュタイナー式教育のルドルフ・シュタイナー などが在学あるいは卒業しています。

それにしても、シュトラウス兄弟、二人とも何やってんだ・・・。

カールスプラッツで降りたのは、ナッシュマルクト、路上市を見るためです。
露店といってもちゃんと建物が建っていて、普通に商店街な訳ですが。

昔は地元の人が食材を手に入れる文字通りの市場だったそうですが、
今や観光客目当ての店ばかりとなってしまったため、住んでいる人は
滅多に立ち寄ることもないのだとか。

店と店の間の通路を歩くと、商売人たちが試食をさせようと
ショーケースの向こうから盛んに声をかけてきます。
見たところ、お店の人は移民が多いようでした。

このパン屋のケースにもさりげなくバクラヴァが混入していますが、これも
オーストリア人には寿司屋でキムチを出しているようなものなのかもですね。

ちなみにオーストリアに多い移民はトルコ人だそうです。
どうりでケバブの店があっちこっちにあると思った。

マルクトの端っこまで歩いてみましたが、特に買いたい物もなく、
本当に冷やかしだけで通り過ぎてしまいました。

観光客向けということがわかっただけではなく、とにかくこの日は
日差しが暑くて蒸し暑く、外を歩くのがただ辛かったせいもあります。

東京では40度近くに気温が上がったとニュースで見ましたが、
ウィーンもザルツブルグも今いるアメリカも、今年はどこも暑いですよ。
日本で暑さに耐えている皆さん、ご安心ください。

どこも夜と日陰が凌ぎやすいことだけは日本よりマシかもしれませんが。

マルクトの端っこまで来ると、あの歴史的な花柄の建物を見て、
そこから折り返し、カールスプラッツ駅まで戻りました。

暑い中、わたしたちは自然と無口になり、ただ歩いていましたが、
わたしはその上途中でお気に入りの髪留めを落としてもう気分は最悪です。

しかし粛々と次の予定に突入。
先日飛び込みで素敵な朝ごはんを食べたシュタットパーク、市立公園の
「メイエレイ」(乳製品という意味)は、別の名前のレストランを併設しています。

というか、こちらの方がメイン、ウィーンの有名な三つ星レストラン、
「シュタイレレック」、本日のランチを予約しているお店です。

なんでも世界有数のレストランの一つに数えられるといい、
この建築は、これも有名な建築家チームPPAGの手によるものです。

日本語で今回見つかったシュタイレレックの説明には、

開口部を市立公園に向けで設計しました。
メタルでできたファサードには公園が映り、天気のいい日には窓が全開にされ、
まるで緑の中に座っているような気分です。

とあります。
公園に向けてというより、これ、実際に公園のど真ん中にあるんですが。

蒸し暑い炎天下から涼しくひんやりした、しかし明るい世界に入ってホッと一息。
いよいよ楽しくちょっとスリリングな食の体験の始まりです。

飲み物をいただきながらメニューを選び、さっきまでの沈黙が嘘のように
話に花を咲かせながら待っていると、パンのカートがやってきました。

係の人全てのパンを説明し終わるのに1分半くらいかかったかと思います。

どれも美味しそうで迷いますが、そこをなんとか二種類くらい選び、
指差したり、「イチジク入りのパン」などというと、それを
鮮やかな手つきで切ってサーブしてくれます。

聴きものは怒涛のようなその説明トークで、英語がとにかく上手い。
MKによると、彼の英語はネイティブで、スコットランド人だろうということでした。

料理を待つ間に、驚くべき量のアミューズが運ばれてきました。
これを食べているだけで少食な人はお腹が膨れてしまうくらい。

MKの頼んだのは魚だったのですが、この料理のパフォーマンスがまた見ものでした。
日本の組み木のような作りでできたトレイの中央に魚の身が乗っているのですが、
ウェイトレスがわたしたちのみている前でこれに熱い蜜蝋をかけていきます。

見ている間にこれが固まっていきます。
固まっていく間、ずっとこのトレイはわたしたちの横に置いてありました。

そして、完全に固まってから蝋を剥がすと、魚身がこんな感じに。

「これをお出しします」

そして出てきたのがこれ。
蝋を掛けたのは身を蒸し上げるためだったようですね。

食べたMKによると、「とにかく絶品」だったそうです。

ブロッコリというのは生では食べられないし熱を通しすぎると不味くなり、
結構美味しく食べるのが難しい食材だと思うのですが、先の部分だけをフライにして

クリスピーにしてソースを絡めるという方法はこの食材の欠点を補っています。

もらった料理説明カードによると、ソースはアプリコットやヘーゼルナッツオイル、
黒ニンニク、ライムなど、とにかく素材にこだわり抜いたものを使っているとか。

これもMKが食べたものなのでなんだか忘れました<(_ _)>
春巻きのようにした野菜の何かと何かの肉だと思います。

これは・・・・焼き芋ではなくってナスと何か。
(こんな説明したらシェフが激怒しそう)

これはわたしが食べたものなので、ちゃんと説明できます。
ガナッシュしたキャットフィッシュのカラマンジー、メドラーとカムートです。
といわれてもなんのことかさっぱり、という方がわたしを含め多いと思いますので、

cat fish ナマズ

calamansi フィリピンの柑橘類 (ナマズの上に乗ってる)

medlar 西洋カリン

Kamut コーサラン小麦

前方のカムートと混ざっているものもナマズの身の一部分だと思われます。

わたしの記憶ではこの人生でナマズを食べたのは初めての経験ですが、
想像していた通り、少しオイリーな白身魚といったお味だと思いました。

やっぱり海底でじっとしていて、地震の時だけ暴れるような魚なので、
身が締まっていないのかなと思いました。知らんけど。

しかし食べておいてなんですが、普通ナマズなんかわざわざ料理するかねえ。

というわけでメインまで来たわけですが、デザートにあたっては
またまた面白い演出をやってくれました。

この丸い葉っぱ、ナスタチュームといって、花も葉も食べられます。
これを鉢ごと持ってきて可愛いハサミでちょきんと切って、
デザートに
あしらってくれるのです。

これはTOが頼んだアイスクリームだったと思います。
切りたてのナスタチュームの葉ををあしらってございます。

わたしの頼んだシソのソルベ。

上に乗せてあるのはメレンゲで、エルダーフラワーの味です。
ゼラニウムのシトロネラオイルがかかっています。

MKのお皿のこの黄身みたいなの、なんだと思います?
ひっくり返してもらってびっくり、枇杷(ビワ)でした。

日本以外で枇杷のデザートなんてものを見ようとは。

小さなアミューズブッシュも出され、お茶も出ておなかにもう何も入りません、
となってから、ボーイさんが黒い映写機のケースのようなものを
運んできて、中から取り出したのは・・・。

小さなチェリーチョコレートでした。

向こうには金柑、ほおずき、ブラックチェリーなどがあり、どれもデザート。
この入れ物のセンスもそうですが、かなり日本のエッセンスが感じられます。

説明には、

伝統的なレシピーを現代風にアレンジし、今ではほとんど忘れられている
地元の食材を使うことで、シュタイレレックでしか味わえない料理を提供します。

とありますが、ビワなどもその一つなんでしょうか。

画像にもあるカードには、「食のカルチャー」として、

「ウィーン料理は世界でただ一つ、都市名に料理がつく料理です。
それは200年も前に、『ウィーン会議』が行われた頃からあります。
様々な料理が平和的なハーモニーのうちに混じり合い、彼らの味覚や伝統が
ウィーンの料理の栄光をいや増しました」

とあります。
前衛的な手法のように見えましたが、基本はウィーン伝統に則っている、
とシェフは高らかに宣言しております。

ニュースを見ると、日本から有名シェフが表敬訪問していたりするので、
そういった食の異文化をウィーン会議の時の(キッチンの)ように取り入れて、
発展させていくことを目標としているレストランなのに違いありません。

 

 というわけで、世界でも有名な(らしい)三つ星レストラン、シュタイレレックの
食は、知的な興奮を掻き立ててくれる「美味しいカルチャーショック」でした。

 

 

続く。


ザルツ・カンマーグートの老人会〜ザルツブルグ-ウィーン車の旅

2019-08-28 | お出かけ

わたしたちがザルツブルグからウィーンの帰りに立ち寄った
ヴォルフガングゼーの湖岸には、

ザルツ・カンマーグート

というオーストリアでも有名な観光地があります。
今回の移動は車だったので、帰りにここに寄ってみることになりました。

ザルツからザルツカンマーグートまでは、細長いヴォルフガング湖沿いに
ずずいーっと右回りに回り込んで、向こう岸にたどり着きます。

しかし羨ましいのは、都会(ザルツ)から少し車を走らせただけで、
すぐにそこは田舎の風景になり、あふれんばかりの自然の中で

保養地を楽しんだり、冬は日帰りでスキーに行くことができること。

「観光地」「休暇」という言葉の持つ意味が、日本人とは全く違うのです。
日本国内は移動に時間とお金がかかる上、どこにいっても日本人でない観光客で溢れ、
大型連休になると争うように国外に出るのが風物詩となっている我が日本。

素晴らしい自然に恵まれた愛する祖国ですが、海外でこういうのをみると、
世界第3位の経済大国という地位ってそんなにいいもんなんだろうか、
などと根源的な問いが浮かんできてしまうので困ったものです。

さて、ザルツカンマーグートに到着しました。
名物の登山電車に乗ってみたかったのですが、時間がないので諦め、
湖の近くで遅昼を食べることにします。

ちょうど、ウォーターフロントに面した良さそうなカフェがあったので
入ってみたのですが・・・

ランチのピークが過ぎたせいか、従業員は一人だけ。
テーブルは二つだけ埋まっていて、彼らはとりあえずビールを飲んで
待っていますが、なかなかオーダーが来ないようです。

「もしかしたらこの人一人で料理も作ってるんじゃない?」

しかも、メニューを見ると、軽食しかありません。
しばらくオーダーを取りに来る様子もなかったので、さっさと見切って
店を後にし、他のレストランを探すことにしました。

一周車で街を回りましたがわからないし車が停められないので、
この、駐車場だけは超大きな「大型店」に行くことにしました。

店内はテラス席と内部に分かれていて、好きなところに座れ、と言われ
一応中を見てみたら、びっくり。

広い店内の半分が埋まっているのですが、座っているのが老人ばかり。
彼らの前ではヴァイオリンとピアノという「楽団」が生演奏していて、
お年寄りのカップルが何組か音楽に合わせて踊っているではありませんか。

「なに?この老人率の高さ・・・」

しかもこの盛り上がり方は・・・・お昼なのになにごと?

どこでも好きな席に座っていいと言われたのですが、どう見ても
わたしたちは完璧な異邦人でしかも彼らの雰囲気にはなじみません。

とりあえずその老人団体の近くは遠慮することにして、
テラス席に座ることにしました。

観察していると、どうもこの老人たちは一つの団体で、
音楽家も自前のようです。

「何だろうあれ・・・同窓会?」

「老人ホームの慰安旅行じゃない?」

「にしては皆元気すぎるんだよなあ・・・」

「趣味の会じゃない?」

オーストリアの老人の趣味って何だろう。
チェスとか、チロルのダンスとか、ヨーデル愛好会とか?

音楽に合わせて何組かのカップルはフロアに出てダンスをし、
その他のみんなは手拍子を取り、一緒に歌って楽しそうでした。

オーストリアでは結構喫煙者が多く、屋外のテーブルでは皆吸うので
各テーブルに灰皿が置いてあります。

瓶のドリンクは「EIS TEE」=アイスティのドイツ語です。

テーブルに座ると、オーストリアの男性の民族衣装、
レーダーホーゼン(革のズボンの意)を女性用にアレンジした
革のショートパンツの制服を着た女の子が注文を聞きに来ました。

オーストリアでしか食べられないことだし、と、MKは
チキンのシュニッツェルを注文しました。
やっぱりクランベリーのソース付きです。

わたしは、ここが湖の近くであることから、マスを注文しました。
横のヴォルフガング湖で今朝釣れたばかりではないかと思ったのです。
おそらくその想像は当たっていたようで、バターで炒めたマスは
全く匂いがなく、レモンをかけていただくと最高に美味しかったです。 

ちなみに、わたしたちが食べているときに老人たちは一挙に出て行き、
駐車場に停めているバスに全員が乗り込んでいきました。

昼食後は街を散策してみることにしました。

1976年、ヴォルフガングという人が司教になってからちょうど1000年目に
記念としてこの看板が制作されたようです。
おそらく、聖ヴォルフガング以降の大司教の名前でしょう。

年代が飛び飛びになっているのはなぜかわかりません。

ツタのからまる建物のアーチ状の入り口には、

SEERESTAURANT KAISERTERASSE

とあり、ここを歩いていくと湖畔のレストラン「カイザーテラス」があるようです。

「Weißen Rössl」というのは「白い馬」なので、「白馬亭」という感じでしょうか。
白い馬が立ち上がっているモニュメントが見えます。

ちゃんとテーマソングもあるようで、大々的に建物に書かれた歌の歌詞は

「♪ヴォルフガングゼーの白馬亭は幸せ溢れる〜♫」

 

このあと街の名前となった聖ヴォルフガング教会の内部を見学。
内部は撮影禁止となっていました。

教会を出るとそこは湖を望む回廊になっています。

ちゃんと調べていませんが、危険だからここに上ってはいけません、
とドイツ語で絶対書いてあるはず・・・・・・なのに、この窓の左側には、
若い中国人女性がスマホでのイメージフォト撮影に余念がありませんでした。

窓枠に座り、片膝を立てて片足をできるだけ長く伸ばし、
身体をそらして片手を後ろに付き、片手を髪に添えるようにし、
満面の微笑みを浮かべて・・・・・。

彼ら彼女ら中国人が写真を撮るとき、見ていて恥ずかしいくらい
気合を入れるのはフィルム時代の昔からのことですが、デジカメ時代になって、
その傾向は一層過熱気味にあり、ある統計では都市部の女性は、
1日平均三回自撮りをするのだそうです。

日本人にも特に若い女性は自撮り好きの人がいっぱいいますが、
自己愛が強いと見られるのを照れる傾向にある日本人と違い、
中国人はそれに加えて「全く人目を気にしない」傾向にあります。

まあ、ポーズを取るのに夢中になって事故が起こっても、
おそらくヨーロッパでは全て自己責任で片付けられるので無問題。

 

下を覗き込んでみると、湖畔にプールのようなものが見えました。

湖畔の上に設えられたサンデッキには、プールとジャグジーがありました。
後から地図で調べたところ、このデッキは先ほどの白馬亭のもので、
ここに泊まれば、こんな特等席で楽しむ事ができるのがわかりました。

湖を泳いでいる人もいます。
ボートにはちゃんとオーストリアの国旗が。

ザルツブルグからウィーンまで田舎道を走っていると、民家の窓には当たり前のように
インパチェンスのような花が咲き誇っていました。

オーストリアの主婦は窓辺に花を咲かせられなければ一人前ではない、
というような習慣でもあるのかと思ったくらいです。

「Seehotel」(ゼーホテル)は湖畔の宿、といった感じでしょうか。
先ほどのホワイトホース・インはだいたい一泊310ドル、
こちらは随分お手頃な165ドルくらいの宿泊料です。

和風の提灯を釣ったアルプスの小屋のようなレストラン。
お店の名前は「マネキ」ですが、中華料理です。

なぜこんなところで日本の名前をわざわざ名乗る?

街歩きを楽しみ、適当な時間にザルツカンマーグートを出発しました。
車中から見る珍しい地形も楽しみです。

しばらく山の中を走りました。
オーストリアはキロ表示なので助かります。

しばらく行くと、岩山と湖畔という、まるでセガンティーニの絵に出てきそうな
風景が現れました。

「車が停められそうだったら降りてみようか」

道路脇の駐車スペースに車を止めて岸まで行ってみると、ここも
驚くほどの水の透明度です。

岸辺にいた鴨軍団が集まってきました。
人の姿を見ると何かもらえるのではと期待するようです。

目をキラキラさせながらこちらを見上げていましたが、
期待されても彼らにやれるようなものは持っていません。

人間なんかから変なものをもらわずとも、ここには普通に
小魚がいっぱいいるんじゃないのかしら。

ウィーンに行くには途中で高速に入りますが、それまでは
農村地帯を延々と走っていきます。

この牧場では、ドイツとフランスの牛を飼育しているようですね。
もちろん全てグラスフェッド、放牧放飼で育ているはずです。

ウィーンに入る手前で日が沈みだしました。

市内に入り、シェーンブルン宮殿前を通る頃にはすっかり夜です。

さあ、明日は最後のウィーン滞在を楽しむことにしましょう。


続く。




ヴォルフガングゼーまでの道〜ザルツブルグ- ウィーン

2019-08-26 | お出かけ

ザルツブルグを後にし、国道158号線、通称ヴォルフガングゼー通りを通って
車でウィーンに戻ることになりました。

ヴォルフガングゼーというのは、ザルツブルグからウィーンにいく途中にある
ヴォルフガング湖のことです。

UボートのUは「ウンターゼー」で「海の下」、ゼーは「海」という認識でしたが、
ドイツ語では潮の有る無しに関わらず、水が溜まったところは「ゼー」のようです。

整備されていて、高速並みに走りやすい一般道路です。

もともとウィーンからザルツブルグまでは汽車で移動するつもりでしたが、
出発の日気まぐれを起こし、車で行くことになったため、帰りにはこれも思い付きで
車ならではの自在性を生かし、湖のほとりの街に立ち寄ることになったのです。

鉄道の旅を選んでいたらそれなりに楽しい体験ができたとは思いますが、
こちらは車で来ていなければ一生縁がなかったかもしれませんん。

さあ、それではヴォルフガングゼーに向かって、
ヴォルフガングゼー・シュトラーセを Lass uns gehen!

ザルツブルグ市内を抜けたらもうそこは普通に田舎で、
道路脇で牛さんが草を食んでいたりします。

オーストリアの牛はご覧のように茶色〜白い毛並みです。

ホテルを出て20分も行かないうちに、わたしは道路脇に戦闘機がいるのに驚き、
助手席のMKにカメラを渡して走る車から写真を撮らせました。

さりげに向こうに見えている重機がボルボ製なのにもちょっと驚きますが、
それにしてもこの戦闘機は一体・・・・なんでしょうか。

画像を調べてみたものの、またどうせ当たらないのは確実なので、
ヨーロッパの兵器に詳しい方々に特定をお任せしたいと思います。

でもF35のノーズにちょっと似てるよね?(言ってみただけですのでお気になさらず)

ところでこの建物、この写真に「museum」と写っていたので調べてみたら、
ここは

「マンロー・クラシック アウト・ウント・ムジーク・ムゼウム」

といって、フェラーリやメルセデスなど、ヴィンテージ・カーの
博物館であるらしきことがわかりました。

ムジーク、音楽については、見てみましたがなんだかよくわからない展示です。

ヤマハピアノ

なんかもしかしたら、単なる個人のコレクション自慢、つまり
レッドブルオーナーのコレクション自慢ハンガー7のしょぼいバージョンだったりして・・・。

それにしても博物館の内容に全く戦闘機関係ないのでワロタ()

この戦闘機以降、MKにカメラを渡して窓の外を適当に撮ってもらいました。
まるで絵のような一本道の突き当たりにある家は現在新築中。

写真を拡大してみたら人が働いていました。
冬は雪に覆われるので、工事は夏の間に終わらせるのでしょう。

さらに走っていくと、岩山の山脈が見えてきました。

オーストリアのバス停はガラス張りの三方囲まれたブースで、
雪の降る冬でもバス待ちが辛くないように工夫されています。

国道沿いのレストランも日本人の目にはどれもおしゃれな作りに見えます。
右側にある「ギムセンヴィルト」というレストランはハンガリー料理だそうですが、
スープが辛そうなのと、デザートの巨大さで、オーストリア風だと思いました。

GIMSENWIRT

この辺りには結構とんでもない形の岩山が多いです。

ザンクト・ギルゲンという街に差し掛かりました。
日本からはオーストリアの観光地としても有名です。
観光の目玉は・・・・・・・、

そう、ロープウェイ。
可愛らしい数人乗りのゴンドラが行き来しているのが車道からも見えました。
ゴンドラは4人乗りで、家族やカップルだけで乗ることも
空いている時なら可能ですが、大抵は相乗りになるようです。

ゴンドラは小さくて、大人四人のるとかなりキツキツだとか。

建物に「Zwölferhorn-Seilbahn」とありますが、これが乗り場です。
開業して60周年を迎えたと書いてありますね。

黄色と赤の二色のゴンドラが可愛らしい。

ザンクト・ギルゲンのロープウェイは10分くらいかかるので、
長い間空中散歩が楽しめるそうです。

子供連れはもちろん、恋人同士や新婚旅行のカップルに超おすすめです。

地図を見ると、こんな長い距離(赤い点線)の路線でした。
右側はヴォルフガングゼー。

終点は山の頂上で、今の季節は問題がないですが、冬は雪に覆われています。
そこからはスキーコースになっているので、地元のスキーヤーには

板を履いて山頂まで自力で登り、一気に滑り降りたりする人もいるとか。

道の横が切り立った崖で、上まで1.2kmあり、岩が落ちてくるかも、
という立て札ですが、こんな垂直の崖の上から岩が落ちてきたら
注意していてもどうしようもないと思います。

程なくヴォルフガングゼーに到着しました。
信じられないくらい水が透明で、深いところは濃いエメラルドグリーンです。

この辺の地形は、切り立った岩山が屏風のようにそびえており、湖は
その岩山の合間に細く切り込まれるような形で水を湛えているのですが、
つまり、湖の底質は泥ではなく岩石多めなのでしょう。

水に濁りのないのはおそらくその岩質も白っぽいからだと思われます。

対岸はすぐそこに見えていますが、これは湖が細長い形をしているからです。
湖を気持ち良さそうに泳いでいる人が。

水の色を見る限り、彼の泳いでいるところはとても深そうです。

湖の周りは全く護岸など人の手が加わっていない状態で、
湖岸の芝生には、多くの市民が湖水浴を楽しんでいました。

この地方もこの季節日向は猛烈に暑いですが、湿度が低く木陰は清涼で、
湖水もおそらくは温度が低いのだろうと思われます。

海水浴と違って真水の、しかも飲めそうに綺麗な水ですから、
シャワーなども必要ありませんし、もちろん入場料も要りません。
ついでに、車は道路沿いにパーキングスペースがあって、無料。
それほど人も多くないのでのんびりできます。

こんな週末の楽しみ方があるなんて、羨ましい限りです。

 

また車に乗って走り出しました。

「あんな岩山の頂上、今まで誰も登ったことないんだろうね」

「それがあったりするんだよ」

「なんのためにあんなところに登るの?」

「イーサン・ハントが休みの日ににロッククライミングするんだよ」

ウィーンに帰る前に、早めに給油しておこうとガソリンスタンドに寄りました。
ところがこのガソリンスタンドというのが・・・

こんな農場の一角にあったりするわけです。
ガソリン入れながら牛の群れを眺めるこの不思議な体験。

そのうち、お食事タイムが終了したらしく、牧童が牛を追い立て、
彼らはお行儀よく一列に並んで歩き出しました。

わたしたちはアメリカに行くと、いつも「ホールフーズ」という
全米チェーンのオーガニックスーパーを利用していますが、肉を買うとき、
値札に書いてある

「グラス・フェッド(grass fed)」

「グレイン・フェッド(grain fed)」

を必ずチェックします。

一般的には牧草を食べて育った牛は、
穀物を食べた牛より肉が美味しいので、高価だとされます。

これは、安い肉牛を扱っている畜産場の管理の問題でもあり、
穀物の持ちを良くするために保存料を入れたり、ひどい場合には
飼料桶の手入れが悪く、腐ったような餌を食べている牛だと、
当然ながらその肉は安いが劣悪であるということになっているからです。

ちなみにホールフーズの場合、時としてそれらの値段は同じですが、
つまり、ここと契約している畜産場は、穀物を食べさせているとしても
管理がしっかりしていて飼料はノーケミカルであるという意味でもあります。


それにしても、高価といっても日本の一流店で食べれば
いくらするかわからないようなテンダーロインが、
たっぷり三人分
(日本の四人分)30ドルくらいで買えるのですからたまりません。

これをレアに焼いて食べるとめっぽう美味しいので、我が家ではこの夏、
家ではかつてやったことがない「ステーキ祭り」が開催されております。

このヴォルフガンブゼーの牛さんたちが乳牛なのか肉牛なのかはわかりませんが、
きっと牛乳も肉も美味しいのだと思われます。

余談ついでに、わたしがアメリカに来るといつも選んでいる、
ケリーゴールド社の
アイリッシュバターをご紹介しておきます。

今まで、何の気なしに選んで、ただ美味しいからと買っていたこのバター、
気づけば有名なグラスフェッドの発酵バターだったのです。

日本で見る真っ白なバターと違い、色は本当のバター色。
食欲をそそる色をしていますが、これは牛が牧草を食べているから。

 日本でも輸入されていますが、一箱1000円くらいします。

さて、ヴォルフガングゼーの

ザンクト・ヴォルフガング・イムザルツカンマーグート

に行くためにを湖を左回りに回り込んでいく途中に
湖沿いにあるシュトローブルという街に差し掛かりました。

ところどころ山がトラ刈りにされています。

「まさかスキー場?」

「あんなところ滑れないよ」

「だとしたら超上級者向けゲレンデだ」

そういえばゲレンデってドイツ語ですよね。
調べてみたら、この近くにはスキー場がいくつかあるようです。

 

続く。

 


アキュムレーターとカタパルト〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-08-25 | 軍艦

しばらくヨーロッぱ旅行記が続いておりますが、ここで
久しぶりに、空母「ミッドウェイ」についての話題をお送りします。

 

かつて空母「ミッドウェイ」勤務で、もちろん横須賀にその期間駐留し、
日本人の奥さんをもらった元海軍軍人、「ミッドウェイ」の著者ジロミ・スミス氏は
2004年、サンディエゴで13年ぶりに「ミッドウェイ」に再会しています。

スミス氏は「ミッドウェイ」に特別な思いを持っていました。

「俺とお前の間柄は他の奴らとはちと違う。
俺とお前にはお互いに日本人の血が流れていて、日本人の血を持っている。
だから特別な間柄だ」

はて、「ミッドウェイ」に日本人の血が流れているとはどういうことでしょうか。

母親が日本人で日本語も堪能なスミス氏は、空母「ミッドウェイ」が
18年間にわたる日本での勤務中、実に一度もアメリカ本国の港に入らなかったことや、

自分のように日本人の妻を持った乗員がたくさんいて、何よりも空母の艦体が
この期間ずっと、日本人の技術者や、港湾労働者に支えられてきたをして、
「日本の血が流れている」と解釈しこのように思い入れを持ってくれていたようです。


さて、そんな「日本人の血を持つ」「ミッドウェイ」でしたが、任務を終え、
横須賀を出航して初めてアメリカの港に入り、その後、

サンディエゴで空母博物館として半永久的にその姿を留めることになりました。

久しぶりの「ミッドウェイ」との邂逅。
舷門をくぐる時、もうそこで敬礼をしなくてもよくなったことに
違和感と一抹の寂しさを感じながら、
スミス氏はハンガーデッキに足を踏み入れます。

「格納庫前方の左舷、右舷の両側には、ジェット機を発艦させる時の
カタパルトを動かす巨大なアキュムレーターも当時のまま設置してあった。

このアキュムレーター、ジェット機が発艦する食べ、耳をつんざくような
シューっというものすごい音を出し、その周辺の温度は軽く50度を超えた。

私の仕事場は、このアキュムレーターのすぐ横にあった。
恐ろしく暑くて、ものすごい騒音が一日中、時には一晩中続いていた」

これが「空母ミッドウェイ」のチャプター1の終わりの部分です。

わたしは結局三年続けて「ミッドウェイ」を訪れ、ここでもお話しする途上、
スミス氏の著書をかなり参考にさせて頂いておりますが、最初に読んだ時、
この「アキュムレーター」の記憶が全くなく、今度訪問したら
ぜひその写真を撮ってこようと楽しみにしていました。

ハンガーデッキから入場し、右の前方に向かって進んでいくと、
「STARBOAD、スターボード(右舷)」と書かれた俵形の大きなタンクが見えてきました。

ワクワクしながら(こんなものを見てワクワクするのはわたしくらい以下略)
近づいていくと、小さく「スティーム・アキュムレーター」という字が見えます。

 

アキュムレータ(hydraulic accumulator)を一言でいうと、圧力を蓄える、
すなわち蓄圧器のことで、電気で言うところの充電式電池のようなもの。

流体の圧力を利用して仕事に供給する高圧流体を蓄えておく装置で、
この「ミッドウェイ」における「流体」とはすなわちスチームのことです。

カタパルト発進には途轍もないエネルギーが必要なので、その動力には
安定した圧力が必要ですが、アキュムレーターはこのために
過剰蒸気またはボイラー水を熱水として蓄え、高負荷時にボイラーに送り、
ボイラー蒸発量を増加させる方式でそれを得るという仕組みです。

もう少し平たく言うとアキュムレーターとは、

「圧力を溜め込んでおいて、いっぺんに解放することでエネルギーを得る」

装置、といえば良いでしょうか。

アキュムレーター図解

近年の日本の企業が作っているアキュムレーターは縦型が多いようですが、
昔は写真に見える「ミッドウェイ」のそれのように横に寝かせる形が一般的でした。

「ミッドウェイ」のカタパルトは最初は油圧式で、大改装後、
  蒸気式のC-11型3基を搭載することになったそうですから、それこそ、
このアキュムレーターは日本で、日本の技術者によって換装された
と言うことになりますかね。

アキュムレータは蒸気の負荷変動を吸収することができるので、
常に安定した圧力を供給し、これを回転エネルギーに変換します。

高速回転する滑車でワイヤを動かし、カタパルトのレール(シャトルトラック)
のうえを、シャトルが高速で動くわけですが、その際、ブライドルと言う
使い捨てのワイヤによってシャトルと航空機を繋げておいて、
航空機を「放り投げる」形で空中に射出するのです。

 

これはWikipediaページの「ジョン・C・ステニス」のスチームカタパルト。
最終チェックをしているところですが、まるで雲に乗っているように
蒸気がレールの間から吹き出しているのにご注目ください。

スティームカタパルトは、シャトルを高速で移動させると、
レールの下からものすごい量の蒸気が噴き上がってきます。

Steam Catapult VS EMALS, Electromagntic Aircraft Launch System
 

面白い動画を見つけました。
前半は従来の蒸気カタパルト。
後半はイーマルス(EMALS)、電磁式カタパルトの航空機射出です。

航空機じゃないので赤い台車がカタパルトの後派手に海に落ちていきますが、
思わず「あああ〜」と声が出てしまいます(笑)

イーマルスの実験は2017年に終わったばかりで、
「ジェラルド・R・フォード」に実験的に搭載されたそうですが、動力に
原子力などを必要とし、電力が失われたら射出できなくなると言う欠点があります。

2019年、今年の春に横須賀の第7艦隊を訪れたドナルド・トランプ大統領は、
イーマルスについてはっきりと

「以降の空母には使用しない」

と断言したということなので、アメリカではこれ以上の発展はなさそうです。

いかなる理由でそのことをわざわざ日本に来て横須賀で言明したのか、
その経緯がよくわからないのですが、コストパフォーマンスの点で
あまり意味がないということになって打ち切りが決まったばかりなのでしょうか。

 

こちらにはタンクの穴のようなものがありますが、これは
手前の赤いリールに巻いてある黒いホースを繋げるのでしょう。

ボイラー水を供給するためのホースだと思うのですが、わたしのことですから、
例によってとんでもない勘違いをしているかもしれないので、
断言はしないでおきます(笑)

USS「ミッドウェイ」において

FODをしなかった日は

最後にFODをしたのは■月■日

CRUNCHがなかった日は

最後にCRUNCHがあったのは

 

FOD(Foreign Object Debris/Damage)とは、甲板を皆で
並んで歩きながら小さなゴミを回収するという空母ならではの慣習です。

ここではデブリス(ゴミ)ではなく『ダメージ』と言っていますね。

小さなゴミでも航空機のインテイクが吸い込むことで、
大事故が起こるため、このFODは徹底して行われます。

クランチ、というのはわたしもこれで初めて知ったのですが、
航空機同士の接触や航空機が構造物にハンガーデッキで当たることです。

私見ですが、航空用語というわけでもなく、「クランチ!」という言葉は
金属同士がぶつかった時の音のイメージから来ているんじゃないでしょうか。

ハンガーデッキで牽引車の操作をしていた人の証言です。

「数え切れないほど、トラクターを運転している時、わたしは
自分がトウイングしている航空機を振り返って見たものです。
そしていつも運転するとき、センターラインのエレベーターが
降りている時には、
大きな穴に落ちてしまいそうでものすごく怖かった」

自分だけ落ちるならまだしも、その時には何億ドルもする航空機と一緒。
ただでさえ事故の起きがちな空母での仕事には、何回やっても慣れは禁物で、
また何回やっても怖いものなのに違いありません。

しかし、どんな作業一つとっても、そこには、アメリカ海軍が
USS「ラングレー」以降積み重ねて来た、気の遠くなるような体験と
そして失敗による犠牲のうえに築き上げられたノウハウが集約されているのです。


 

続く。




ザンクト・ペーター寺院のカタコンベ〜ザルツブルグを歩く

2019-08-23 | お出かけ

いよいよザルツブルグ最後の日になりました。
車で来ているので、時間の制限はありませんが、MKが車なら
ウィーンからこちらに来る途中に見た湖に寄ってみたいと言い出したので、
午後には出発することにして、午前中を最後の観光に当てました。

ホテルのバルコニーから改めて写真を撮っていたのですが、見れば見るほど
メンヒスブルグの岩山を垂直に切り取って作った人口の「壁」がすごい。

ろくな重機もない昔どうやってこんな狂いなくまっすぐに崖を
切り取ることができたのか、不思議でなりません。

街に出たものの、特に目的があるわけではないので、
気になったお店にふらりと入って買い物を楽しみました。

ここではお店の人に相談して、紅茶を三種類選んでもらい・・・・、

ここでは調味料を見ましたが、収穫はなし。

外から見ていかにもセンスがいい物を置いているように見えたので、
地元のブティックにも入ってみました。
ちょっとカルチャーショックだったのは、ジーンズなども置いていながら、
オーストリアの民族衣装、ディアンドルなるドレスも扱っていたことです。

アルプスの少女ハイジが来ていたようなあれですが、オーストリアでは今でも
晴れ着としていろんな場で活用されていることがわかりました。

日本人が買って帰ってもコスプレでもしない限り着る機会もないので、
その代わり一着、普通のロングカーディガンを購入しました。

モーツァルトの像のある広場に出てきました。
後ろのピンクの建物は、モーツァルトの未亡人コンスタンツェが、
銅像ができるのを待ちながら住んでいたとガイドさんは言っていました。

結局広場から遺跡が出てきて工事が遅れ、銅像の除幕式
(ってのがあるのかどうか知りませんが)を待たずして彼女は亡くなります。

MKが学校のツァーで来た時にここで食べたジェラートが美味しかった、
というので広場のテーブルで一休み。

カフェのテーブルの下にはザルツブルグスズメがいました。
アメリカのスズメより日本のに似ていますが、頭が灰色です。

ザルツブルグにいわゆる郊外型モールがあるのかどうか走りませんが、
旧市街の本屋さんは大型書店ではありません。

ドイツ語で本屋を「ブッヒャー」と言います。

洒落た埋め込み式看板は「ホテルヴォルフ」。
小さなホテルだと思いますが、部屋もセンスが良さそう。

と思ったらやっぱり。

ホテル・ウルフ画像

この「ヴォルフ」、狼というより、ザルツの街を作ったという、あの
ちょいワル大司教ヴォルフ・ディートリッヒから来てるんだろうな。

こちらはカフェ黒猫、ガット・ネロ。

トースト、フランクフルトソーセージ、ヌードルサラダ、
モッツァレラ入りサラダ、バゲット、うーん、美味しそう!

崖の下の通りに差し掛かると、少し異質な赤い傘とカフェテーブル登場。

「MANEKINEKO・・・・招き猫、ですと?」

「もしかしたら日本人の経営かな」

もしかしたら、と疑ったのは、海外で堂々と日本語の店名を名乗っていても
中国人や韓国人が経営していて変な日本料理を出している
インチキジャパニーズレストランは普通に存在するからです。
特にアメリカではこれに散々嫌な思いをさせられているので、
すっかり疑り深くなっているわけですが・・・・。

「中国人だね」 ( ゚д゚)、ペッ

わたしはこの、一見日本のゆるキャラ風を装った招き猫(皆ソーラー内蔵で
ゆらゆら揺れている)を見て、一目で断言しました。

腹掛けにひっくり返した「福」の字を使うのは、倒した福、
「倒福」=タオフー=「到福」(福がやってくる)
と中国で言われているからで・・・つまり日本人ではありません。

よく見ると招き猫が持っている小判も地面に置かれておらず、
さらにその小判の「百万両」の百の字が簡体字だというね。

はいそして極め付け、決定的な状況証拠。
どこの世界にこんなたくさん蒸籠を使う日本料理があるよ?

通り過ぎながら食べている人の料理とメニューの字を見たところ、
シェフのおすすめは「Bento Box」。弁当ですよ。
台湾では弁当はもう日本語から台湾語になっているそうですが、それでも
弁当と書いて(ベンタン)と読むわけだし。

案の定、覗き込んだベントーボックスには、餃子とか点心とかが・・・。
もうね、頼むから文化の剽窃、盗用、そして侮辱はやめて下さい。

それも大嫌いな日本語の店名を名乗るなんて、あなたがたにプライドはないの?

とプンスカ怒りながら街のはずれにやってきました。

「justizgebäude salzburg」=正義の建物ザルツブルグ

ってことでザルツブルグ裁判所のようです。

裁判所からUターンしもう一度広場に戻ると、
巨大な金の玉の上に人が立っていました。

噂ではこの金の玉上おじさん、ホーエンザルツブルグ城を睨んでいるとか。
アートなのか?

MKが突然、確信を持ってある方向に歩き出しました。

「ザルツブルグの墓地、確かこっちだったと思う」

お城の鉄道のふもとに当たるところに、水車があります。

 この左側には世界最古のパン屋があり、水車は
粉を挽くために使われていたのだとか。
パン屋さんは今でもちゃんと営業しているそうです。

「あった。ここだ」

MKが連れて行ってくれたのは、ザンクト・ペーター教会の墓地でした。
どこの国に限らず、よその国のお墓というのは大変興味をそそるものです。

ヨーロッパの墓は色とりどりの花を植えて花壇のようにしていることも多く、
墓地といっても公園のような雰囲気が漂います。

ビーデンバーガー、マルナー、シュルツといくつか名前がありますが、
皆一族のようです。
こちらでは結婚して名前が変わっても元のお墓に入るんでしょうか。

DDが何かわかりませんが、ドクトルでいらしたようですね。

時間がないので中を見ることはありませんでしたが、これが聖ペーター教会。
1401年創建と記してあります。

左胸に忠誠を誓うポーズで立つ兵士、墓石の上のヘルメット。
これは武人の墓に違いありません。

DAS OFFICERS CORPS DES K.K.INFANTRIE REGIMENTS N

LIX EHRET 

DAS ANDENKENDAS ANDENKEN SEINES OBERSTEN

UND REGIMENTSUND REGIMENTS COMANDANTEN

これを直接翻訳にかけても正確には出てこなかったのですが、
とにかくこのお墓の主であるフランツ・なんとかベルグという人物が、
歩兵連隊の指揮官であったことだけはわかりました。

お墓の状態から見て第一次世界大戦の頃の人でしょうか。

ザンクト・ペーター教会には、崖をくりぬいて作ったカタコンベがあります。
まるで岩に張り付くような状態で建物が見えますが、この内側は
岩を掘って作った階段の通路が続いているのです。

カタコンベというからには岩の中にお墓があって、そこに葬られている
死者がいると思われますが、そもそもこここがカタコンベだとわかったのは
19世紀になってからの調査の結果なんだそうです。

死者が葬られていたのは3〜4世紀ごろのことです。

右側に、もう文字も定かでない墓石のようなものがはめ込んであります。
墓石の上部には

「DAS ANDANKEN 」「ZUM ANDNAKEN」

とあり、これがドイツ語の「イン・メモリアム」らしいとわかります。
そして、もし映画「サウンド・オブ・ミュージック」を見た方がいたら、
最後にトラップ一家が逃げ込み、隠れた墓場を思い出してください。

それがここという「設定」です。(もちろんあれはセットです)

いくらハリウッドでも、実際のお墓で夜ロケをするなんて罰当たりな真似は
できないし、そもそも許してもらえなかったと思われます。

わたしたちがぼーっとここに立っていると、急に係員がやってきて
人が中に入って行きました。

「あ・・・中入れるんだ」

「え?行く?」

「行きたい」(わたし)

というわけで、偶然中に入る時間に居合わせたので内部を見学しました。

カタコンベがあるとわかるまで、ここには人が住んでいたということですが、
信じられないくらい歩きにくい階段が続いています。

よくまあこんなところに窓枠をはめ込んだもんだ。
内部から眺める外の墓地。

少し広い石室には祈りを捧げる祭壇がしつらえられています。

カタコンベの中から見る聖ペーター教会とザルツブルグ大聖堂。

割と最近作られたらしい鐘楼がありました。

さらに進んでいくと、もう一つの祭壇が。
このチャペルでは今でも祈りが捧げられているということです。

おそらくこのカタコンベができた時からあるラテン語の経文が書かれた岩。

見学できるのはここまでで、これを見終わると元来た道を帰ります。
カタコンベというからにはお墓があるはずなのですが、
その部分はおそらく岩の内部にあって発掘されていないのかもしれません。

パレルモのカタコンベみたいなのだったらどうしようと思っていたので、
内心ちょっとホッとしました。

カタコンベに眠る人々の墓石なのでしょうか。
これらの墓石を見ると、ほとんどが1800年代の死者で、
「ここに眠る」と書かれているので、もしかしたらこの裏側に
本当にお眠りになっているのかなとも思ったのですが・・。

板に描かれた「死の物語」。
翻訳しようとしましたが、ラテン語と亀の甲文字で挫折しました。

というわけで思ってもいなかったカタコンベ見学が終わり、
チェックアウトのためにもう一度ホテルザッハに戻ります。

「愛の南京錠」の橋には、昨日はなかった近代美術館の
新しい展覧会のポスターが。

「ゼログラビティ」

なかなかこの橋にマッチしています。

荷物を取りに来てもらい、ホテルに別れを告げました。
改装して天井がガラスになったせいで、こんなに明るい空間になっています。

ホテルザッハのマスコットであるザッハくん(多分)がお仕事中の写真。
ザッハくんはホテルマンで、この制服から見てどうやらフロント係なのですが・・・。

なぜベッドで寝ているー!(笑)

さて、わたしたちは車でザルツブルグを後にしました。
これから、帰路途中にある湖を目指します。

 

続く。


メンヒスベルグ・崖の上のレストラン〜ザルツブルグの街を歩く

2019-08-22 | お出かけ

さて、「過去と今をつなぐトンネル」を通って、中世ヨーロッパのゾーン、
ホテルザッハに戻ってきたわけですが、夕食に出るまでに時間があったので、
思わず腰に手を当ててそこに立ち、人々の群れを睥睨しながら

「・・World is mine・・・・」

と悪の帝王風につい呟きたくなるようなホテルのテラスから外を眺めていました。

ホテルの前のザルツァハ川の岸では、旅行者らしいカップルが
川の水に脚を浸して休憩中。

今回は時間がなくて見学できませんでしたが、大聖堂の向こうには
ザルツブルグ一の歴史的遺産であるホーエンザルツブルグ城がそびえています。

これは、1077年、当時の大司教が、皇帝派の南ドイツ諸侯の

カノッサの屈辱への報復を恐れて

市の南端、メンヒスブルク山山頂に建設した防衛施設です。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世"バルバロッサ"がザルツブルグを
焼き討ちした時にも、失われることなく現在に至ります。

15世紀後半になるとハプスブルク家など反乱に備えて強化され、鐘楼、
薬草塔、鍛冶の塔、囚人の塔、武器庫、穀物貯蔵庫等が建設され、
防壁が強化されていきました。

城の右側からはどう見ても線路のようなものが下に向かって伸びており、
ホテルにチェックインしたときから気になっていたのですが、
これは

ライスツーク(独: Reißzug、英: Reisszug  Reiszug)

といい、城への貨物搬入を行うための鉄道でした。

正確な敷設年は明らかになっていませんが、少なくとも1500年前後には
もうここにあって利用されていたようで、もし本当ならば
これが世界最古の鉄道となると言われています。

運用形式はフニクラー、つまりケーブルカーのようなもので、
当初レールは木製、牽引は麻のロープでされていたとされます。

1910年までは、人間または動物の力によって動かしていたそうですが、
その後何度も改修され、今日では、鋼製レールとケーブルを使用し、
電気モーターによる牽引が行われています。

最新のアップデートによって、運行を監視するために
閉回路テレビ・システムが使用されているところまできていますが、
動力は手動で、片道5分かかるそうです。

さて、その後、わたしたちはホテルから歩いて、メンヒスブルグ山頂にある
レストランに行くことになりました。

レストランに行くには、やはり山頂に繋がるエレベーターを利用します。

エレベーターに乗るには料金が必要です。
無料にしてしまうと、景色を見るためだけに人が押しかけるので、
已む無い措置だと思われます。

チケットは自動でなく、恐ろしく愛想のないおじさんが
1日に何千回も同じことを言わされているせいか、無表情に
エレベーターの乗り方を説明してくれました。

エレベーターは崖の岩を山頂までくり抜いて60mの高みに達しています。
最上階?に到着すると、エレベーターホールの天井も壁も、
岩肌がそのままの状態になっていました。

メンヒスベルグ山は、昔からこれをくり抜いてトンネルを作ったり、
崖に寄り添うように家屋が建っていたりしますが、よほど地質が堅牢で
崩れることがないということなのでしょう。

この眺めは、ガイドさんによると「ザルツブルグ一番」だそうです。
もちろん、向かいにあるホーエンザルツブルグ城からの眺めもなかなかですが、
そちらからだとお城が見えませんしね。

帝王カラヤンの生まれたという家の全体像も手に取るように見えます。

「愛の南京錠」のおかげですっかり色づいて見える橋もこの通り・・・・
あれ・・・?

ザッハホテルのテラスから下に見えていた川岸のカップルが・・・。

さっき、下を見たら熱烈な愛の交歓中だったんですが、まだやっとる(笑)

ちなみに、わたしがテラスから写真を撮って、歩いてメンヒスベルグまで行き、
頂上に登って展望台にたどり着くまでに軽く1時間半は経っております。

仲良きことは美しき哉。

というわけで、この、ザルツブルグ旧市街らしからぬ建築が近代美術館です。
今日予約したレストランはここの一階にあり、テラス席から見る夜景が売り。

ザルツブルグの観光案内をしてくれたガイドさんが、

「時間がなくて立ち寄ることができない方にはお教えしません。
なぜなら、羨ましがらせるだけであまりに気の毒なので」

と言いつつオススメしてくれた絶景レストラン。
彼女はお願いすると、その場で次の日の夜に予約を取ってくれました。

昔、このメンヒスベルグ山頂には「カフェ・ウィンクラー」なる有名なカフェがあって、
実に何十年もの間、ザルツブルグの名所として人気を博していました。

しかし、ザルツブルグ郊外にあるバロック式宮殿の「クレスハイム」に
カジノが入ることになると、そちらに観光客が流れ、すっかり山上のカフェは
閑古鳥が鳴く状態になってしまったのです。

そこで再開発の計画がたち、建築のデザインをコンペで決定し、
2004年にここに近代美術博物館ができることになりました。

レストランはメインというわけではないのですが、
ザルツブルグを一望できる絶景ポイントとして人気を集めています。

恋人、友人同士はもちろんのこと・・・、

おそらく会社ぐるみで来ているらしい団体のテーブルもありました。

わたしたちの近くのテーブルは、中年のオーストリア男性と、
アジア系の若い女性のカップルでした。

女性はこちらが気まずくなるくらい男性に媚びていて、何かと言えば手を
男性の身体においては耳元で囁いたり、二人の写真を5分おきに撮ったり、
ボーイさんに二人の写真を撮らせたりと大忙しでしたが、
何かそうしなければならないよっぽど切羽詰まった事情でもあったのでしょうか(棒)

などと、周りの様子を見ながらメニューを選び、待っているうちに日が暮れてきました。

パンはサワドー、無塩バターにザルツブルグらしく塩の付け合わせです。

ミートボールの一つ混入したスープですが、やはりこれも辛めでした。
オーストリアの人は塩辛いものを辛いと認識しないのかもしれません。

鮮やかなエディブルフラワーをあしらった前菜。
これを頼んだのはTOですが、花を食べ残そうとするので、

「これは食べなくてはならない花である」

と説得して無理やり食べさせました。

「味がない」(´・ω・`)

だから、食べることができるんだってば。

TOにいわせると、魚は結構いけたそうです。
わたしは珍しくビーフのアントレを頼んでみましたが、
ちょっと、いやだいぶ硬いかなという歯ざわりで、感激するほどではありませんでした。

「これが一番美味しいような気がする」

という声が上がった、マッシュドポテトトリュフ添え。

TOが頼んだスープです。
上にかまぼこのような天ぷらのようなものが乗っていますが、
これがなんだったかは聞きそびれました。

さらに日が落ちると、屋内のバーは赤い照明が点灯されました。

オーストリアは日没が遅いので9時近くになってもこんな明るさです。
ここは、レストランを出てエレベーターに向かう途中にある場所で、
街を一望できるこの展望を楽しみに来る観光客でいっぱいです。

ただしわたしの見たこの日は全員が中国人でした。

エレベーターにはこの中世風石畳の通路を通って行きます。
帰りのエレベーターのチケットはレストランがくれました。

純粋な感覚を超えた色の輝度
眼は必然的にこれを問う
あなたはなぜこれを赤と青と認識し記憶しているのかと
あなたにとって赤と青の色は何を意味するか
どこが赤の始まりでそして終わりであるか
青の始まりで終わりであるか
そしていつそれらは混じり合い一つになるか
と書かれたこれも近代美術館所蔵の作品の一つです。

夕刻のザルツブルグの街を高みから堪能した後は、
ブラブラと歩いてまた「愛の南京錠」の橋を渡りました。

この頃になってようやくこの街は太陽が沈み、夕闇が迫ってきています。

明日は最後のザルツブルグ観光をし、ウィーンに戻ります。

 

続く。

 


ノーメン・エスト・オーメン(コブラは体を表す)〜ハンガー7@ザルツブルグ

2019-08-21 | 航空機

 

ザルツブルグ空港近くにある、レッドブルオーナーの航空機、レースカー、
バイクなどを展示するハンガー7で見たものをご紹介しています。

水上機仕様のセスナの上部を見ていただくと、面白いイラストがあります。
ここはアートの発表の場としても注目されているのです。


 ビーチT3「メンター」

その名前とトレーニングのTからも、練習機であることがわかります。

レッドブルの「フリート」(航空隊)、「フライング・ブルズ」に加わった
最新の航空機が、この「メンター」です。
航空自衛隊の戦技研究班「ブルー・インパルス」の使用機体が、
T-4という練習機であることからもわかるように、一般的に練習機は
大変操縦性が良く、特にこのメンターは練習機のヒット作品で
二十カ国以上の国の空軍で使用されてきたというレジェンドですから、
フライング・ブルズでもパイロットたちはメンターを使って曲技を行います。

アメリカ空軍がメンターの運用を停止し、フライング・ブルズが取得したとき、
ここで要求される高い操作性を満たすため、エンジンとプロペラを交換し、
さらに細心の注意を払って修復が行われています。

練習機だった時代にはおそらくなかったであろうセクシーなノーズペイント。
アメリカ各地の航空博物館であらゆるノーズペイントを見てきたわたしに言わせると、
このレベルのペイントは現場ではありえないので、おそらく、レッドブルが獲得してから
ザルツブルグのアーティストによってアメリカ風に描かれたものだと思われます。

どの機体もペイントは基本元の所属に敬意を払い、変更は行なっていません。

HPに解説がなかったので検索してみると、時計会社のハミルトンと
レッドブルの航空機がカンヌのエアレースに出場し、

「次は日本の千葉県で会いましょう!」

と投稿しているインスタが見つかりました。
さらに調べてみると、2003年に始まり、以後毎年行われてきた

「レッドブルエアレース」

は、その他のレッドブルの催しほど注目を集めることができなかった、
という理由で、千葉大会を最後にもう行われないことがわかりました。

ちなみに、開催日は9月7、8日。
会場は幕張で、砂浜での立ち見席なら8,000円、リクライニングチェア付きなら
二日通しで三万円というお値段でチケットが絶賛発売中でございます。

フェアチャイルドPT-19

米陸軍航空隊の主要練習機として開発されました。
1939年の提案入札で17社の競合他社に勝ったフェアチャイルドの練習機は
当時主に木材と布地から構成されていました。

木製の翼が鋼管のフレームで構築された胴体に取り付けられており、
着陸が容易になる工夫がなされていて、訓練パイロットにとって
キャリアの習得がし易く、操縦者から高い評価を受けています。

PT-19は、1943年にデビューし、6.141ドルで米軍に売却されました。
1952年、軍から買い取った個人がスポーツ用に所有していましたが、
その後イギリスに渡り、 2007年、フライングブルズが買い取りました。

この写真を撮ったとき、誰かがコクピットに座っていましたが、この人が
関係者なのか、特別に座らせてもらった見学客なのかはわかりません。

とにかくこれを見てもお分かりのように、キャノピーがないため、
現在でもPT-19は「コンバーチブル」として空を飛んでいます。

こんな古い飛行機でも飛ばしてしまうあたりがものすごい執念ですが、
この時代の航空機のスペアパーツは現存していないので、
保存し続けるのには並大抵でない苦労があります。

AS 350 B3 + "ÉCUREUIL"(エキュルイユ)

エキュルイユというのは英語でスクウィレル、リスのことです。
余談ですが、今ピッツバーグで住んでいる街はスクウィレル・ヒルといって、
日本語風にいうと「リスヶ丘」ということになろうかと思います。
街の入り口の看板にはリスの絵が描いてあって大変和みます。

それはともかく、これはエアバスヘリコプターという種類のもので、
期待に描かれた等高線のような模様はハンガー7を取り巻く
オーストリアのシュタイネスメーア山脈に似ているのだそうです。

レッドブルは自分たちのテレビ局を所有していますが、このヘリは
そのカメラクルーが撮影飛行を行うのにこれまで使われてきました。

ユーロコプターEC-135

このヘリのフライングブルでの役目はレースの中継カメラを載せることです。
カメラはヘリコプターの機首にあり、低空で、カーチェイスを撮影します。
2006年のワールドカップで、王者フランツ・ベッケンバウアーが1つのステージから
別のステージへ移動する姿を捉えたのはこのユーロコプターでした。

 

ユーロコプターEC135は、最先端の多目的機です。
2つの異なるエンジンを搭載しており、そのうち1つは、カナダの製造業者である
プラット&ホイットニーが製造したターボエンジンです。

EC135のようなテールローターをシュラウド式と言いますが、この
シュラウドの1つの利点は、事故のリスクが低いことです。

最先端の航空電子機器も最先端のものを搭載し、さらに、すべてのフライト、
エンジン、ナビゲーション、およびラジオの情報が最新の多目的画面に表示されます。

ユーロコプターの1,000以上のモデルがEADS(欧州防衛宇宙会社)を始め。
58か国に出荷されました。

ADAC Air Rescue、ドイツ国境警察、ドイツ軍、
オーストリアのÖAMTCAir Rescue、フランスのSAMU Air Rescue、
および米国の多くの企業で使用されています。

常に改良され、新しい分野で新しい目的に使用される最先端のヘリだといえましょう。

ブリストル BRISTOL 171 SYCAMORE(シカモア)

シカモアの名前は、かえでの一種に由来しています。
なぜでしょうか?
このヘリコプターがゆっくりと回転しながら舞い降りる様子が
落ちるセイヨウカジカエデの種子の動きに似ていたからです。

第二次世界大戦の終わりごろ、イギリスのブリストル社は
革新的なタイプのヘリコプターの開発を始めました。

Mk 1プロトタイプは1947年に初飛行で離陸しました。
これはイギリスにとって最初のヘリコプターとなりました。

メインローターは、ブレードを片側、つまりリアブームに向かって
折りたたむことができるように設計されていますが、これは、
海軍艦艇に搭載するにおいて貴重なスペースを節約するための工夫です。

この機体は1957年に建造され、1969年までドイツ空軍が運用していました。

しかし、フライング・ブルズの前のオーナーとなったワイン畑の所有者が
かつてロイヤルエアフォースのパイロットだったことで、機体には
いまだに敬意を評してRAFのエンブレムが描かれています。

ワイン畑のオーナーの切なる願いは、シカモアがその滞空性を維持することでした。
彼は、フライングブルズにシカモアを移譲する際、自分が集めた
膨大なシカモアのスペアパーツを、機体と一緒に渡したと言います。

ブルの専属パイロット、ブラッキー・ブラックは、この尊敬すべき機体に
我が身が乗ることに有頂天になっていましたが、それにしても
木製のローターを持つヘリの信頼性というのはどんなものだったのでしょうか。

グラーツ工大で行われた興味深い飛行試験の結果は驚くべきものでした。
残されている部分全てが「新品同様!」だったのです。

パイロットはこのヘリに乗る気満々だそうですが、何かと難しいヘリなので、
今の所、計画があるという時点に止まっているのだそうです。

ベル コブラ BELL COBRA TAH-1F

日本人のわたしには馴染み深いヘリです。

サクッと分けると、ヘリコプターには商用モデルと軍用がありますが、
AH-1コブラは史上初の

Full Bladed (生粋の・血気盛んな)

戦闘ヘリコプターとして設計されました。
「コブラ」という愛称は、その攻撃的な外観にぴったりです。
この名前はパイロットやエンジニアの間で人気で、すぐに公式名称になりました。

ラテン語の「Nomen est Omen」=「名前は象徴」は、
まさにコブラのためにあるようなことわざですね。

コブラのタンデムコクピットもまた、完全に前例のない機能です。
パイロットと銃撃手が互いの仕事を引き継ぐことができるように、
パイロットの座席はわずかに高くなっています。

現在、後発のヘリの多くは、コブラの特徴であるエッジの効いた
薄いデザインの影響を受けています。

しかしデビュー当初、誰もコブラがどれほど成功するかを予測できませんでした。

1962年、ベル社は米軍にモックアップモデルを導入しましたが、
当初それは関係者を納得させることはできませんでした。

しかしベル社は自作のヘリを完成させるべく粛々と開発を続け、
3年後の1965年、初飛行の準備にこぎつけたのです。

しかし、コブラの成功はその技術的な卓越性のみならず、偶然にも、
ロッキードによって開始されたAH-56(シャイアン)と競合することになり、
その結果シャイアンの問題点が明らかになることでこれに打ち勝ち、
採用されるという「運」にも恵まれていたようです。

コブラの評価は、ベトナム戦争でトラックの空中護衛として使用された
1960年代後半と70年代前半にピークに達しました。

かさばるだけでなく火力が弱かった、ロシアのMi-28NおよびKa-52とは
対照的に、
コブラはより高速で機敏です。

フライングブルズ所有のコブラはもちろん非武装化されており、
GEのタービンエンジンにより通常300km / h、最高350km / h以上の速度がでます。

ただし、Power is moneyという英語のことわざ通りで、コブラのエンジンは
1時間あたり400リットルの燃料を飲み込む「金食い虫」。

本物の女王様は決して慎ましくなどあらせられないのです。

このレーシングカー、なんだか変わった模様だなあと思ったら・・・。

写真がいっぱい貼り付けてありました。

サイドカー付きのバイクというとついナチスを思い出しますが、これは違う?

セバスチャン・ベッテルがこれでグランプリに優勝したというアストンマーチン。
さりげにホンダのマークも見えますね。

巨大なプレデターをかたどったオブジェ。
向こうに見えているのはイカロスというレストランです。

いろんなメカのパーツで作った「レッドブル」。
売店もあって、子供用のレーシングスーツやパーカーが売っていました。

ドーム内があまりに暑く、わたしも写真を撮るのが精一杯、
TOなどはカフェから売店に行っただけで全く見学せず、
ハンガー7を後にしました。

ところが、車に乗って柵越しにわたしは信じられないものを見たのです。

「これ・・コルセアじゃない!」

二人はぼーっとしていましたが、わたしは大興奮。
なんと、ハンガー7ではコルセアを所有し、今でもこれを飛行させているのです。

CHANCE VOUGHT F4U-4 "CORSAIR"

なんどもここで書いていますが、コルセアはチャンス・ヴォート社の傑作です。
コレクターアイテムとしては非常に珍しく、当然高価です。

しかも、この機体の完全性を再現するには、メカニックの精度が重要で、
材料には惜しげも無く投資するしかありません。

優れた軍用機の歴史はコルセア無くしては語れません。
現在、チャンス・ヴォート社によって製造された4機だけが
ヨーロッパの空を舞い、世界中合わせて15機現存しています。

コルセアは最小限の空気抵抗で最高速度に達するように開発されました。
すべてのスタッドは面一に取り付けられ、トランジションは空力的に完璧であり、
すべての脚とハンドルはボディのアルミニウムスキンに溶け込みます。


プロトタイプは1938年に開発されました。
このモデルはPratt&Whitneyの18気筒ダブルラジアルエンジンから
約2000 HPを供給することを目的としていました。

プロペラの直径を4mと大きくしたため、翼をガルウィングにして、
比較的短い軽量の脚を取り付けることができる設計です。

最初のモデルは670 km / hに達することができましたが、
1952年までに最高速度は700 km / hに達しました。
コルセアの信じられないほどのパフォーマンスは、プロペラと
エンジンの内部冷却を担当する水噴射装置の改善から生まれました。

コルセアは、空母の限られたスペース用に設計されました。

しかし高トルクとプロペラの大きさから、空母への着陸と離陸は非常に困難で、
パイロットはコルセアの離陸速度を慎重に決定する必要がありました。
速度が速すぎると、プロペラに機体が振り回され、遅いと離陸できません。

米海兵隊と米海軍は、主に第二次世界対戦中太平洋でF4Uを使用しましたが、
爆撃のためにはコンパートメントを新たに追加しました。

爆弾を投下した後も、戦闘機そのものが重かったわけですが、
特に速度があったため、コルセアを負かすことは大変困難と言われました。

これが、コルセアが機動性のある日本の三菱戦闘機「零式」に挑むことができた理由です。

そして50年代初頭の朝鮮戦争でもこのモデルはまだ使用されていました。

今日、シングルシートのこの歴史的傑作機は、フライングブルズのチームによって
ヨーロッパ中のさまざまな航空ショーで曲技飛行を行なっています。

 

さて、超近代的なハンガー7を後にし、ホテルのある旧市街に戻っていくと、
岩を掘られたトンネルが現れます。

このトンネル、穴を掘るついでに石門風の彫刻もしているという。
手前のオベリスクも岩から切り出したものでしょうか。

「なんかこれすごくない?」

「彫刻も岩から掘り出したんだろうか?」

これは帰りに撮ったもので、つまり旧市街に入って行くときに
通り抜ける「ジークムントスター」というトンネルです。
18世紀に建てられ、オーストリアに現存する最も古いトンネルだそうです。

昔は路面電車が中を通過していたそうですが、今もトロリーバスが通ります。

交通の便を良くするため、ザルツブルグでは崖に穴を開けて
通路を作る計画が持ち上がり、1765年工事が始まりました。

トンネルの高さは135m、幅5.5m、高さ7m。

彫刻を施したのはヴォルフガングとヨハン・アゲナウアー。
聖ジギスムント像の下部にアゲナウアーの名前が刻まれていて、
この一連の謎の暗号を解読すると、

「Johann(Baptist)Hagenauerが(石から) 作り出し 、完成した」

となるそうです。

 

このトンネルは、わたしにとって、中世の世界と、最新の設備と考えうる限りの
近代的なセンスをほこるハンガー7をつなぐタイムトンネルのようでした。

 

 

 


モノンガヒラ川に飲み込まれたB-25ミッチェル〜ハンガー7@ザルツブルグ

2019-08-20 | 博物館・資料館・テーマパーク

今回のオーストリア旅行は、飛行機代を安くするため、あえて
世界一周プランを選択し、たまたまウィーンに直行便があったので行った、
という経緯だったため、特にわたしなど、旅行前に

「何か見たいモノある?」「行きたいところある?」

と幾度となく旅行主催者に聞かれていたのにも関わらず、忙しいのにかまけて
真面目に観光について調査しなかったのですが、ウィーンの軍事博物館と、
ザルツブルグの航空博物館、ハンガー7だけはぜひ行きたい、と希望しました。

ザルツブルグには二泊三日しかいられないので、ガイド付きツァーの翌日、
わたしが運転してザルツブルグ飛行場の近くまで車を走らせました。

32分くらいでハンガー7(ジーブン)に到着しました。
ザルツブルグが旧市街のような古い建物ばかりだと思ったら大間違いです。
いわゆる保護地区は建物の改築も撤去も許されませんが、それ以外は
普通に近代風の建物が立ち並んでいる街です。

ハンガー7は何もない場所を開発したらしく、街灯すらオブジェのようです。

 

ハンガー7は、オーストリアの飲料会社、レッドブルのオーナー、
ディートリッヒ・マテシッツが個人的にコレクションした歴史的航空機、
そしてフォーミュラ1のレーシングカーなどを一堂に集めた博物館です。

F1関係者でいちばんの資産家というマテシッツの慈善的な事業の一つで、
ハンガー7は無料でコレクションを展示しているだけでなく、
イベントの企画、有名なシェフを招聘したレストランによる食の提供、
画期的な建築などによって総合的な文化の中心となっているのです。

そう行った予備知識なしでとにかくたどり着いたハンガー7。

とりあえずまずは何か食べようということになりました。
入り口で尋ねると、中の展示を見ながら食べられるカフェと、
オープンエアでがっつり食べられるレストランがあるとのこと。

このオブジェとスタイリッシュな倉庫の向こうがレストランです。

そこまで本格的に食べなくても良かったので、カフェに入ることにしました。
片面がガラスで展示ハンガーと仕切られています。

窓ガラスには航空機のシルエットのシールが貼ってあります。
こ、この形は・・もしかしてペロハチ?

後から知ったのですが、P-38もハンガー7のコレクションの一つだそうです。

ふと天井に目をやると、宇宙ドームのようなガラス張りの部屋があり、
人の姿が見えるではありませんか。

ここはThreesixty Barといい、鳥瞰を楽しみながらお酒が飲めるスペース。
バーというからには夜間営業もしております。

眺めを確保するために床まで透明にしてしまっているわけですが、
日本だと、下からの視線が気になったり、気にすることに気を遣ったり、
軽犯罪の発生を危惧したり、とにかくいろんなつまらない理由で
企画段階でポシャりそうなコンセプトだと思いました。

何しろ予備知識がないわたしたち、普通のカフェに入ったつもりでお茶を注文したら、
これだけのものがトレイにセットされてきたのを見て驚愕しました。

「ザルツブルグで南部鉄瓶に遭遇するとは・・・・・」

セットされてきた砂時計は、3分、4分、5分と計れるようになっており、
一人に二つカップがついてきて、違う濃さで入れたお茶を別々に楽しめる仕組み。

当たり前のように小さなマフィンも付いてきて、これはオーストリア人好みに
甘く仕上げてありましたが、テイストは「お茶」。

チキンラップを注文したら、野菜たっぷりのラップが二本、味付けのレモン、
カリカリすぎるベーコンと共に出てきました。

カフェでこの頑張りよう、もしかしたらレストランも?と思い後から調べてみると、

ハンガー7レストランのシェフとお料理の数々

オーストリアを代表する大企業のCEOが、マーケティング、つまり
仕掛け人出身であり、趣味人であったことが、この贅沢な
コレクション自慢ついでに文化の発信もしてしまおう的なハンガー7を
生み出したのだといえましょう。

ついでに、世界的な大富豪であるマテシッツ氏は、

 DeepFlight Super Falcon

なる個人用潜水艦を所有しているそうです。
フィジーの彼の島に遊びに来た人はこれに乗せてもらえるんだそうです。
つくづく乗り物が好きな人なんですね。

「Dietrich Mateschitz」の画像検索結果

ちなみにちょっと気になった人のために、マテシッツ氏の近影を。
おお、75歳でこれだと、若い時はさぞかしイケイケだったんでしょうな。
隣のお姉ちゃんはガールフレンドで妻ではありません。
彼は一度も結婚したことがありませんが、子供はいるそうです。

食事もそこそこに、まだ食べている二人を置いてハンガーに出たわたしですが、

「・・・・暑い ; ̄ー ̄A 」

壁面が総ガラス張りのドームは、夏の昼間、太陽の熱でとんでもなく熱くなる、
そんなことは誰でも分かっているわけですが、不思議なことに、
ハンガー内の展示場には全く空調はされていないようで、とにかく暑い。

これだけ色々と先端を行っている施設なのに、しまり屋さんなのか、
あまり客が多くない日は冷房も入れないという主義のようです。

この水上機はセスナの「キャラバン」

アメリカから大西洋を越えてヨーロッパにシングルエンジンで飛行しています。
わたしたちが帰りに立ち寄った美しいヴォルフガング湖では、一年に一度
この「キャラバン」がイベントで姿を現し、湖面に舞い降りるのだとか。

なぜかクライスラーのイエローキャブが。

トヨタ・カムリレーシング仕様。
そういえば、私事ですが、最初にアメリカに住んだときの車が中古のカムリ。

CAMRY→MYCAR→MY CAR

という宣伝をちょうどやっていたときでした。
西海岸に引っ越したとき、車専用の引越し業者に頼んで大陸横断して
持ってきてもらい、二束三文で売っ払って帰ってきました。

F-1に詳しくないので専門的になんというのかは知りませんが、
とにかくレースカーを誘導するための車であることは確かです。

本体はアストンマーチン、タイヤはピレリのようです。
AT&TはアメリカのNTTみたいな感じの会社ですかね。

さて、ここからは航空機が続きます。

見たことがあるようなないような、このトラ塗装の飛行機は何?
と思ったら、これは

アルファー・ジェット

ダッソー、ブレゲ、ドルニエ三社の共同開発による軍用機で、
ポルトガル、エジプト、モロッコ空軍および他の5つのアフリカ諸国では
現在でも運用されているそうです。

卓越した飛行特性と操縦性の良さでパイロットから評価の高い飛行機で、
その機体は美しく、空力的にも完璧と絶賛されているんだとか。

マテシッツ氏がよっぽどお気に入りだったのか、ドイツ空軍が運用中止し、
資産を売却したとき、ハンガー7はこれを結局5機購入し所有しています。

もちろん所有の際には非武装化し、航空ショーに出演しています。

ハンガー7の凄いところは、ただ歴史的な航空機を集めて展示するのではなく、
メンテナンスを行って実際に飛行させているということです。

B-25J「ミッチェル」

わたしが今までにアメリカで見た機体はどれも非活性化され、
ただ機体を展示されているだけでしたが、ここのは違います。
このピカピカの機体を見てもお分かりのように、「ミッチェル」は
今でも、ザルツブルグのハンガー7から飛び立つことができるのです。

マテシッツ氏が乗り物オタだったことは、世界の旧軍機ファンにとっても
大変な恩恵であったということに間違いはないでしょう。


ところで、ハンガー7のHPに記されている「B-25の物語」面白かったので、
これを二つ紹介しておきます。

というか、その一つ目は映画「パールハーバー」でも描かれていた話ですが。

1942年4月18日、ドゥーリトル空襲が行われることになりました。
指揮官のジェームズ・H・ドゥーリトルの名前を冠した日本本土攻撃作戦です。

作戦は、16機のB-25ミッチェルが空母「ホーネット」から出撃して
海を渡り日本へと向かうことになっていました。
しかし、B-25の重量は15トン。
空母は爆撃機が発艦するように作られていません。
そこで重量を減らすために、ドゥーリトルは「ミッチェルから服を剥ぎ取り」、
いや、不要な部品と大きなタンクを取り除いたのです。

機関銃は敵を欺くために塗装された黒いほうきに置き換えられました。
結局、これらのB-25は空母から発艦した最初の爆撃機となりました。

滑走路の長さはたった250メートルです。

 

そして二つ目ですが、ちょっとこれを読んでびっくりしてしまいました。
今これを制作しているのはペンシルバニア州ピッツバーグ。

前にもお話ししたことがあるかと思いますが、ピッツバーグは元鉄鋼の街で、
街の中心を流れる川にいかつい鉄橋がいくつもかかっており、それが
ピッツバーグの象徴と言われています。

川の名前は、おそらくネイティブアメリカンの命名によるものだと思いますが、
「モノンガヒラ川」といいます。
ハンガー7のHPにこの「MONONGAHERA」の文字見たとき、偶然に驚愕しました。
さっきこの川に掛かる橋を渡って帰ってきたばかりなので(笑)

そして、ザルツブルグからピッツバーグに移動したこの夏、
このタイミングでしか知りようのなかった、以下のストーリーがあったことを
不思議な思いで噛みしめることになったのです。

 

20万ドルの価値のあるミッチェルが、わずか10ドルで人手に渡りそうになるも
新しい持ち主はその受け取りを結果的に”拒否された”という話があります。

1965年1月31日、一機のB-25が、燃料不足によるエンジン故障の後、
ペンシルベニア州ピッツバーグのホームステッド・グレイズ橋すれすれに、
モノンガヒラ川の氷の上にに緊急着陸することを余儀なくされました。

劇的な救助任務のすえ、4人の乗組員は無事救助されましたが、
機体は2キロ下流に流されていって、17分後に沈んでしまい、
大々的な捜索活動にも関わらず、機体は見つかりませんでした。

事故から9か月後の11月9日、B-25の所有権が競売にかけられました。
現在なら機体が逸失したままとはいえ、おそらく何百万ドルの価値があるでしょう。

しかし、ピッツバーグ水上飛行機パイロットのジョン・エヴァンスが落札した
ミッチェルの入札額は、数ドル。
つまり彼しか手を挙げた人間がいなかったということになります。

数ドルの投資でもし機体が見つかれば、ハイリターン間違いなし、というわけで、
彼は行方不明のミッチェルを見つけるため惜しみなく費用をつぎ込みました。

彼の雇ったダイバーはモノンガヒラの隅々までくまなく調べ、
B25のものとみられる多くの破片を見つけましたが、不思議なことに
15トンもの機体は結局最後まで見つからなかったのです。

それは、as if it never existed”.
あたかも最初から存在しなかったもののように。

一つのありうべき可能性としては、「モン・リバー」(地元の人はこういう)
と街のアンダーグラウンドに別の川が流れており、そこに飲み込まれたという説です。

多くの”ピッツバーガー”は、今日でも、行方不明のB-25が
この神秘的な川に飲み込まれ、そこで最後の休息場所を見つけたと信じています。

 

この話を、ピッツバーグに在住して20年になるという夫妻に話したところ、
二人とも聴いたことがない、と驚いていました。

もはやそのセンセーショナルな事件を知るのは、当時ここに住んでいて
不思議な話に首を傾げた人たちだけになってしまったのでしょう。


続く。

 


映画「日本破れず」〜”一死以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル”

2019-08-18 | 映画

映画「日本破れず」最終回です。

冒頭画像は、天皇陛下の御聖断を受けて御前会議で早川雪洲演じる
阿南惟幾が涙を流すシーン。
映画では「川浪惟幾」となっているのですが、この映画の謎なところは
関係者を全てわかりやすい仮名にしていることです。
今と違って検索回避などという理由もないのに、なぜこんな配慮をしたのか。

予想されうる理由は、初めて終戦と終戦に向けての長い一日が描かれた
この映画が制作されたのはまだ戦後10年で、関係者が存命だったこと、
そして映画のストーリー上創作があったことなどですが、
例えば誰でもこれが阿南であると理解して観ている映画で、仮名を使うのに
なんの意味があるのかという気もします。

近衛兵を動かして本格的に反乱を起こそうとしたものの、
森師団長に拒否され、これを殺害した反乱将校たちは、
天皇陛下の終戦の御詔勅が録音されたということを聞き及び、
もう寸時の猶予もならぬと行動を起こしました。

彼らがなまじ?小中隊を動かせるクラスの軍人だったことが、
事件を拡大させたということもできるでしょう。

ちなみに、森師団長は映画ではきっぱりと拒否していましたが、
流石に実際は殺気立った若い将校たちを目の前にしては身の危険を感じ、

「明治神宮を参拝した上で再度決断する」

と約束したそうです。
ところが、畑中少佐と上原大尉はおそらくそれを口実と判断し、
無言で師団長を殺害したというのが事実です。

そして史実と大きく違うのが、彼らが玉音盤を奪取する為にNHKに乱入、
局員に拷問まがいの尋問をしたというこのシーンです。

陸軍部隊が職員をホールに集め、玉音盤の在り処を聞くという設定ですが、
実際にはこれは終戦後8月24日に起こった

「川口放送所占拠事件」

をよりドラマチックに創作として挿入したものだと思われます。

ただ、実際にも近衛歩兵が第一連隊の中隊が放送会館に派遣されています。

彼らは近衛師団長が決起し、陸軍大臣もこれを認めたことにして
近衛歩兵第二連隊を動かそうとしていました。

劇中では滝川となっている徳川義寛侍従
録音が無事に終わり、日本放送協会の幹部と明日の放送が無事に行われることを
互いに祈念し合うのですが・・・。

徳川が皇居から送り出したNHK国内局長の矢部謙次郎らは
上原大尉(実際は近衛歩兵連隊長)によって拘束されてしまいました。

彼ら(実際は数名)が近衛司令部に監禁されていたのは史実です。

畑中は矢部に録音盤のありかを聞きますが、矢部はすでに手元にない、
宮内省に渡した、と答えます。

「誰に渡したか名前は知りません」

と答えた矢部は、宮内省の職員を集めたところに連れて行かれます。
つまり名前を知らないなら顔を見ればわかるだろう、というわけです。

前列の徳川と矢部の間に視線が交わされました。

立ち止まってじっと一人を眺めていれば、すぐ気づかれるよ?

目を上げて矢部の顔を凝視する徳川。

目だけで合図を送る矢部。
だからそんな顔していたらバレるってば。

「ここにはおりません。多分録音後交代したのでしょう」

詰め寄る椎崎に毅然と拒否の態度をとり、突き飛ばされる徳川。

実際にも徳川侍従は第一大隊の軍曹に殴られていますが、後日この軍曹は

「周囲の人間は殺意をもって徳川侍従を包囲しており、
このままでは侍従が殺されてしまうと思った。
それを防ぐためにとっさに本人を殴り、気絶させることで周囲を納得させた」

と親族に語っており、直接の殺意や害意は無かったと説明しました。

さて、こちらは阿南惟幾邸。
映し出されているのはどうも小松宮彰仁親王の書だと思われます。
上衣、正帽、軍刀を綺麗に揃え、遺書を認める阿南のもとに、
義弟の竹下中佐が訪問してきました。

映画では竹下は決起を早々に断念したように描かれていますが、実際は
畑中に言われて阿南の決心を翻すように説得しにいったところ、
阿南はちょうど自刃しようとしており、結果として彼は
これを止めずに見守ることになった、ということのようです。

阿南の自決については、これを見ていた竹下が「大本営機密日誌」として
これを書き残し、文芸春秋社の半藤に閲覧を許したところ、半藤が

それをもとに「日本のいちばん長い日」を書き上げたので、
同作品に書かれていることが最も真実に近いところにあるのは確かですが、
この映画製作時にはまだ同著は影も形もありません。

 

この頃(1954年)にも確かとされていた事柄は、

●阿南割腹の現場に義弟の竹下がおり、井田正孝も来たが帰らされた
(井田は自分も自決すると言ったところ往復ビンタされたという話も)

●一緒に直前酒を飲んだとされる

●飲みすぎを心配する竹下に「血の巡りがよくなった方が上手く死ねる」と言った

●竹下が介錯を申し出るが断る

●遺書「一死以って大罪を謝し奉る」

●割腹後阿南は長時間苦しんで絶命した

これくらいでしょうか。

竹下は次の間に下がらされており、こんなに近くにはいなかったと思います。
また、映画では竹下は苦しむ阿南に手を合わせていますが、ここは
やっぱり敬礼ではなかったでしょうか。

また、この最後のとき、阿南は

「米内(光政、海軍大臣)を斬れ」

という言葉を残したとされ、今日までいろんな解釈を生んでいるようです。

さて、もう一人の本作の主人公のようになっているのが藤田進演じる
田中静壱大将で、この人は実質的に終戦の反乱を止めた男、とされています。

森師団長が畑中らによって殺害され、宮中が占拠されていることを知った田中、
自らが立ってこの混乱を収拾する決意をしました。

そして陸軍大臣阿南自決の知らせが。
この映画での田中にはそぐわないとされたのか、採用されませんでしたが、
実際田中は自殺が割腹であったことを聞いたとき、

「腹を斬るのは痛そうだな」

と呟いたとされます。
田中は川口放送所占拠事件を鎮圧した後、拳銃で命を絶ちました。

録音盤の在り処を吐かせようと焦る上原大尉は、徳川侍従に

「たとえ知っていてもあなたたちに話すつもりはない」

と言われて、ついカッとなり、

徳川侍従を射殺してしまいました。
このシーンを観たとき、わたしは本作に実名を使っていないわけがわかりました。
実際の徳川侍従は生きて戦後事件の顛末を書き残しています。

こちらもしつこく尋問を続ける畑中少佐ら。

そこに田中大将が乗り込んできました。
入ってくるなり、

「貴様らに話がある!みんなを集めろ!」

とお怒りです。

「陸軍の特色は天皇統率の下に厳正なる軍紀を維持することにある。
陛下のご意思に背き師団長を射殺、軍の統制を乱すことは、
国軍の最後に最大の汚点を残すことになるぞ!」

そして。

「陸軍大臣は先ほど自決されたぞ」

呆然とする将校たち。

実際にこの時の田中の働きは凄まじく、報を受けるや否や、
近衛歩兵第2連隊司令部に

「師団命令は偽物なので従うな」

と伝達、すぐさま反乱将校は駆逐されていますし、
その後数名の護衛のみで近衛第1師団司令部へ乗り込み、今度は直接

「その命令は偽物なので出動中止」

を伝えて、電話でチャチャっとNHKの占領も解除したため、首謀者は
完全に行き場を失い、クーデターはほぼ未然に解決を見たのです。

この功績のため、8月15日の午前中に天皇陛下から拝謁を賜った田中は、
然し乍ら24日、つまり川口放送所占拠事件を収束させた後、自決しました。

決起を抑えきることができず、その結果帝都が陥った混乱の
責任を取ったのだろうといわれています。

辞世の句は、

聖恩の忝(かたじ)けなさに吾は行くなり

この映画の田中と将校たちの会話は次のようなものです。

「わしも軍人としてどこまでも戦い続けたい。
しかし、陛下が大和民族の存続を熟慮されてのご聖断となったのだ。
我々軍人の至らなさ、陛下と国民に対して誠に申し訳ない次第だと思っておる。
ことに命令一下死んでくれた部下やその家族に対して、
我々が腹を切ったくらいではお詫びにならんのだ。

な。わかってくれ。お前たちの命をわしにくれ。
お前たちばかりを死なせはしない」

「閣下!」

「お前たちは往生際が悪い。
負けたとなると潔く責任を取るのだ。
それが真の日本の武士道だ
お前たちは今後の行動を誤ってはならんぞ。いいか」

言葉の終わらぬうちに一人が走り出たと思うと、拳銃の音が・・・。
いや、だから行動を誤ってはならんと何度言ったら(略)

実際の椎崎と畑中は、田中の説得にも関わらず最後まで諦めきれなかったのか、
球場周辺でビラを撒いたそうですが、結局、二重橋と坂下門の間の芝生
(それってもしかして皇居宮殿前ってことなんでは)で自決しました。

わたしの知り合いの、当時陸軍士官学校を卒業したばかりの人は、
8月15日の午前中、つまりご詔勅のまだ降らない頃から、皇居前で
二人どころか、驚くほどたくさんの軍人が
自決しているのを見た、
と証言しています。

映画ではまだ夜明け前のようですが、実際は玉音放送の始まる
1時間前の11時が二人の自決の時間だったといわれており、
知人の見た
自殺する人たちの中に彼らもいたかもしれません。

そして玉音放送が始まりました。

この頃は玉音放送をそのまま使うことは憚られたのか、
テープの使用許可がまだなかったのか、放送は役者にご詔勅を読ませています。
なので、「忍び難きを・・・・忍び」というあの「間」がありません。

そのことに違和感を感じることで、我々日本人はあの玉音の音声を
何度も何度も耳にしてきたのだということを改めて思いました。

それにしてもエキストラが集まらなかったのか、人が少ない。

日本中の人々が、いろんな場所でこれを聞きました。

映画では、陸軍病院の負傷兵たちが立ってこれを聞く様子や、
靖国神社の石畳に、正殿に向かって座る「愛国婦人会」の女性たち、
南方の戦地で整列した航空部隊の兵士たちの姿も描かれます。

他の映画と違うのは、玉音放送が最初から最後まで全て朗読されることでしょう。
そして、その音声にかぶせて、焼け跡のトタン屋根のあばら屋で
新しい命が生まれ出たことが語られます。

そして10年。
この映画製作時、終戦に生まれた子供達は10歳です。

「彼らこそ日本再建の担い手だ」

映画は戦後生まれの子供たちに未来を託すかのようなエンディングを迎えます。

が、しかし、この後の占領期間を経て、このころの子供たち、すなわち
団塊の世代が受けてきた戦後教育によって、また近年再び、多くの日本人が
国家観を見失ってしまっているという苦い現実を認識している目には、
このシーンはある意味皮肉なものとして映ります。

ともあれ、あの大東亜戦争が終わるに至る長い長いあの一日に、
様々な人々が己の信じるところに向かって行動しました。
しかし、いかなる考えで行動を挙したにしても、各自の思うところは
日本の国体を将来に残すためという一点に変わりはなかったのだろうと思います。

本作は宮城事件といっても反乱将校を非常に限定して描いているため、
「日本のいちばん長い日」のようなエクストリーム展開はありませんが、
阿南惟幾、田中静壱の二人に焦点を当てることで、決起した反乱将校の
心情にも寄り添う努力がなされていると思われました。

 

一言で言って、阿部豊の阿南と田中に対する愛が溢れている作品。
この二人の軍人を演じた早川雪洲と藤田進の演技を見るための映画です。

 

 

終わり。

 

 

 


映画「日本破れず」〜”阿南君は暇乞いに来たんだね”

2019-08-16 | 映画

終戦記念日シリーズ「日本破れず」二日目です。

再び閣議。
この映画、最初から最後まで閣議と御前会議の繰り返しです。

東郷外相は日本側の条件は理解されたとして進めたい考えですが、
阿南は国体の護持は担保されていないとして反発します。

 

この映画は、阿南vs東郷という対立を軸に進めていて、
海軍内の終戦工作などについては一切割愛しているので、
東郷茂徳役を主役級山村聡に持ってきたのだと思われます。

米内大臣も受諾条件を飲むべきと主張し、またも場は険悪に。

鈴木首相も一緒になって大御心を錦の御旗に阿南を攻撃するので阿南はキレて、

「まるで大御心を盾にして陛下のお影に逃げる卑怯な態度」

とまで言い募るのでした。

梅津美治郎参謀総長もどちらかといえば阿南に賛成。
豊田副武軍令部総長も「再交渉すべき」という考えです。

そこに軍務課の荒尾課長以下将校たちが、外務大臣に抗議しにきました。
降伏を撤回せよ、と叛乱の可能性までチラつかせて迫りますが、
東郷はこれをはねのけます。(かっこよくね)

「総理も軍人です!兵隊の気持ちはお分かりのはず」 

「あなた方の考えはわかった。がわしの考えは違う。
わしは、日本は滅亡しないという確信があるのだ」

二・二六事件で叛乱将校たちに命を狙われ、死地から生還した
鈴木首相、もう恐れるものはないとばかりに彼らを睨み据えるのでした。

 

八千万の命を救うには降伏の屈辱も止むを得ない、という考えの外相。
その晩外相邸で謎の爆発事故が起こります。(事実ではない)

「たとえ我々が死んでも、平和のバトンは受け継がれるよ」

と東郷、決め台詞を。
ちなみに実際の東郷は原爆投下について早速外相として世界にこれを訴え、

「非人道的行為においてはナチスの数倍において」 

とキャンペーンを張ることを指示しています。

こちら、蹶起の実力行使に向けて計画を練る陸軍将校たち。
各地から行動を起こす部隊の情報が入ってきていました。

荒尾は阿南陸相にクーデターの承認を迫ります。
その内容は、宮城を占拠し、天皇陛下を首班に立てて新政府を・・・・

・・・あれ?なんかデジャブが・・・・。 

「クーデターに訴えるのは御前会議まで待て」

またしても会議を言い訳に引き延ばしを図ります。(2回目)

阿南は森赳近衛師団長と(劇中では林)田中静壱東部軍管区司令を召喚し、
各部の動きについて意見を聞きました。 

田中静壱大将を演じるのは藤田進です。

オックスフォード大卒で駐米武官だったことからマッカーサーとも親交があり、
知米派軍人だった田中は、結果的に宮城事件の叛乱鎮圧に貢献し、
最後の反乱事件となった川口放送所占拠事件を収束させた夜、
司令官自室で拳銃を用いて自決しました。 

映画では田中(役名は中田)に

「大御心を無視して暴挙を起こし軍内部の内部を画するが如き不逞の輩は
この田中、身命を賭して対処するつもりです」 

と言わせています。

 

ここにも押しかけてきてクーデターの承認を迫る畑中たち。

「陛下を別の場所にご案内し閣僚を拘束すべきです!」

しかしまたしても阿南、

「御前会議が終わるまで待て」 

会議を理由に引き延ばしを図るのでした。(3回目)

そして阿南陸相が戦争継続を訴える陸軍将校たちを待たせる言い訳にしてきた
会議も4度目となりました。

しかも今度は2回目の御前会議です。
日本に突きつけられた降伏条件を飲む飲まないで意見が一致しないので、
畏れ多くも天皇陛下のご聖断を仰ぐことになったのです。

次の瞬間御前会議は終わっておりました。
畏れながらまるで3分間クッキングのような展開です。

陛下は内外の諸情勢を察せられ、外務大臣の意見に賛成され、
降伏を受諾するほか無し、と仰せられたのです。

”このまま戦争が続けば国土は焦土と化し、国民の苦難は続く。
どんな形でも国民が残る限り復興の光明も見えてこよう。
ご自身はいかになろうとも国民の命を救いたい。

国民に呼びかけるのがよければ進んでマイクの前にも立とう。”

そのお言葉を首相の口から聞く閣僚たちの目には涙が・・・。

御前会議は宮中の防空壕ともなっている地下で行われました。
閣僚たちは続いてこれについて話合う会議をもつ予定です。

史実によればこの御前会議が行われたのは8月9日です。

御前会議では滂沱の涙を流した阿南陸相、ゆっくりと窓辺に歩み寄ります。
この一連の早川雪洲の演技は、ある意味多くの俳優が演じてきた
阿南惟幾の原型になっているのではと思われる圧倒的な存在感です。


この映画は、戦後初めて終戦を描いたものであり、阿南が
俳優によって演じられた最初の作品となりました。

わたしは「日本のいちばん長い日」(三船敏郎)「大日本帝国」(近藤弘)、
「日輪の遺産」(柴俊夫)、「日本のいちばん長い日」(役所広司)を観ていますが、
男前すぎて感情移入しにくい三船、左翼映画の添え物だった近藤(だれ?)、
荒唐無稽なトンデモ阿南だった柴、マイホームパパの役所とどれもイマイチなため、
文句なくわたしには早川雪洲の阿南が最も相応しく適役だと思われました。

ついでに、音楽担当は「ハワイ・マレー沖海戦」「加藤隼戦闘機隊」、
「雷撃隊出動」「勝利の日まで」「姿三四郎」を手がけた鈴木誠一で、
声楽的な旋律を重厚な和声の弦楽器が盛り上げ、感動的なシーンを作り上げています。

阿南が涙を浮かべているところに押しかけてきた軍務官一同。

クーデター計画を立案して持ってきたのですが、それを読み上げようとするのを
阿南は、

「待て」

と一言で遮り、

「もう何事も遅い。皇軍はご神裁のもとに進むことを見た」

最も急進的な畑中は、阿南に辞職することを提案します。
そうすれば内閣は瓦解するので、終戦詔書に
陸相がサインしなければ
終戦の合議も成立しないと。


この辺りのことを史実に照らして説明しておきましょう。

実際には、阿南は鈴木内閣を支えていく決意をしていたとされ、
6月に和平を望む米内光政が鈴木内閣を辞任しようとした時には、
大嫌いな(はずの)米内に手紙まで送ってこれを翻意させています。

この映画からもうっすら読み取れることですが、阿南惟幾は
陸軍の将という立場から戦争継続を主張していたものの、それは
あくまでも陸軍の暴発を押しとどめるためであり、その真意はむしろ
終戦工作を進めることにあったといわれており、鈴木首相もそのことは
よく理解していたというのです。

もし阿南が表面上そう思われていた通り、継戦を望んでいたのだとしたら、
畑中のいう通り自分が
辞職さえすればそれは実現したはずですが、かと言って、
最初から
降伏を認めていれば、強硬派が後任の陸軍大臣に取って代わることになり、
やはり鈴木内閣は解散を余儀なくされ、日本は泥沼の戦争になだれ込んだかもしれません。

阿南は全て見通した上で陸相の座に付いたまま陸軍の総意を主張することで
悪役を引き受け、終戦に到るまでの「引き延ばし」をしたのではなかったか、
というのが、迫水久常など近くで見てきた人たちの見立てです。

この「腹芸」こそが、阿南惟幾という軍人が後世に評価されている理由でしょう。

そして追いすがる彼らをまたしても閣議があるからと後にし(4回目)ます。
残された将校たちは口々に

「陸相に裏切られた!」

「もう俺たちだけでやろう!」

といいますが、中でも竹下、稲葉正夫の二人は少しここで思いとどまる様子。

今回の閣議のテーマ、それは玉音放送をいかに行うかの一点です。

深夜に録音した御詔勅を何時に放送するか、外地の将兵に聞かせるための
告知の徹底などが話し合われ、その結果、昭和20年8月15日の正午に
玉音放送が行われることに決定されました。

彼らだけでなく、この時、終戦への動きを受けて各地で反乱の動きがあり、
厚木航空隊が決起したという噂が彼らの耳にも届きます。

今や決起する彼らは、陸相の訓示をブッチします。

阿南の、

「最後の断は降ったのである。
不服の者あればまずこの阿南を斬ってから行動せよ」

という訓示を聞いた軍務官は、荒尾課長、竹下、稲葉の三人のみ。
涙を浮かべる彼ら三人に向かって阿南陸相はいうのでした。

「お前たちは思いとどまれ。思いとどまれ」

そして、南方から来たという珍しい葉巻を持って鈴木首相を訪ねます。
映画では、このとき交わされたという二人の、

「終戦についての議が起こりまして以来、
自分は陸軍を代表して
強硬な意見ばかりを言い、
本来お助けしなければいけない総理に対して
ご迷惑をおかけしてしまいました。
ここに謹んでお詫びを申し上げます。
自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで
他意はありませんでしたことをご理解ください」

「それは最初からわかっていました。
私は貴方の真摯な意見に深く感謝しております。
しかし阿南さん、陛下と日本の国体は安泰であり、
私は日本の未来を悲観はしておりません」

「私もそう思います。日本はかならず復興するでしょう」

という会話がほぼそのまま登場します。

また、映画にはありませんが、鈴木は阿南が去った後、彼の決意を察して

「阿南君は暇乞い(いとまごい)に来たんだね」

とつぶやいています。

映画で描かれていたように、東郷茂徳外相は阿南と最も激しく対立しましたが、
最後と思われるときには阿南は東郷に、

「色々と御世話になりました」

と丁寧に挨拶をしています。
しかし、米内海相に対しては、切腹中、

「米内を斬れ」

などと口走っていたそうです。
米内光政の方も、阿南に関しては

「よくわからない人だった」

と言っており、これはもう理屈ではなく、陸海軍の不仲をそのまま
体現し合っていたということなのかなという気がします。

畑中は東部軍司令官田中静壱軍司令官のもとに決起を訴えに来ますが、
田中は彼をにらみすえ、(・∀・)カエレ!! と一言。

さらに彼らは、陛下が終戦の御詔勅を録音することに聞き及び、
これをなんとしてでも奪い取り放送を阻止することにしました。

こちら、14日の深夜、陛下の玉音を録音するのにスタンバイするNHKのみなさん。

日本放送協会国内局長、矢部健次郎を演じるのは佐々木孝丸です。
右側のタキシードは徳川侍従

こちら近衛師団長執務室。
森赳師団長に畑中らは玉音テープを奪取するため近衛師団を決起させよ、
と迫りました。

それを毅然と跳ね除ける森師団長(高田稔)。

「御聖断はすでに降ったのである」

大変素晴らしい演技ですが、そのことを言うときにそっくり返っているのがアウト。
普通こう言うときには背筋を正しませんかね。

それはともかく。

陛下直属の部隊をご意志に反して決起させるなどとんでもない、
と言うのが真っ当な森師団長の意見ですが、畑中は、陛下の
周りを取り囲んでいる重臣をとりのぞくべき、と言い張り、
またしても(・∀・)カエリナサイ!!と諭され、男泣き。

畑中が泣いていると・・・

さらに血気にはやった航空士官の上原重太郎大尉(宇津井健)
飛び込んできて、一言交わすや、

たまたまそこにいた第二総軍参謀白石少佐を惨殺。
ほぼ同時に畑中が森師団長を銃で射殺します。

史実では、上原大尉が飛び込んできてから畑中が森を撃ち、
さらにその後上原が森を斬りつけてとどめをさすと言う展開でした。

「貴様ら、軽率に行動して国家を誤るな!」

瀕死で言い残す森。
実際は銃弾を受けた後上原によって肩を斬られているので、
何かを言い遺すということは可能ではなかったと思われます。

無言で武器を収めた畑中らは、

森師団長と白石少佐の遺体に敬礼をし、去って行きました。


続く。

 


映画「日本破れず」〜”海軍は負けたが陸軍は負けていない”

2019-08-15 | 映画

今日は日本が終戦を天皇陛下の御詔勅によって知らされた
1945年昭和20年から74年目になります。

本当に日本が終戦となったのはポツダム宣言を受諾し、
降伏文書にサインをした9月2日なのですが、一般には
この日を「終戦記念日」と呼んでいます。

74年前、この御詔勅を巡る「日本のいちばん長い日」がありました。
今日はその記念企画として1954年作品「日本破れず」を取り上げます。

監督は阿部豊
バイリンガルで、ジャックアベという名でハリウッドでも活動しており、
「燃ゆる大空」「南海の花束」「戦艦大和」などを撮っています。

終戦の日を扱った映画としては「日本のいちばん長い日」ばかりが有名で、
この映画についてはほとんど評判を目にする機会もなかったため、
あまり期待して観始めたわけではないのですが、見終わって個人的に
もしかしたらこのテーマで描かれたものの中で一番ピッタリくるというか、
最も心情にフィットしているような気がしてきました。

その理由は一つ、阿南惟幾を演じた早川雪洲の存在感です。


早川雪洲については若い時はハリウッドでもてはやされた
「アメリカのアジア系セックスシンボル第一号」で、映画
「戦場にかける橋」に出ていた、ということのほかに、ヨーロッパで活躍した
日本の歌姫田中路子が付き合っていたことがあって、なぜか
彼女には「最低の男」呼ばわりされていたということしか知りません。

田中路子女史にとっては最低だったかもしれませんが、とにかく
阿南惟幾を演じるのにこれほど相応しい俳優は現れていない、
と断言してもいいくらい、わたしははまり役だと思いました。


冒頭画像左下の鈴木貫太郎総理、これは小津作品でおなじみの斎藤達雄
東郷外相(作品では南郷)は山村聡が演じています。

どちらも実物よりビジュアルが底上げされているのは映画だから仕方ありませんが、
特に山村聡が無駄に男前すぎて、ちょっと東郷には勿体無い感じ。
(わたしは東京裁判での東郷が、開戦責任を海軍に押し付けるため
偽証したことを全く評価していないので、点が辛いことをご了承ください)

右下はそれとは逆の意味でビジュアル的に不満だった米内海相。(柳永二郎

映画「聯合艦隊司令長官山本五十六以下略」における
女好きということだけフォーカスしたデレデレだらしない柄本明よりは
まだマシですが、それにしてももう少しなんとかならんかったのか。

つまりこの映画、東郷茂徳に結構美味しいセリフを言わせて持ち上げており、
主役級俳優山村が配役されているとわたしは理解しています。

「日本のいちばん長い日」では山村聡が米内を演じていましたが、こちらの方が
「金魚大臣」なんてあだ名が(悪い意味で)ついてた米内にある意味合ってる、
と思うのはわたしだけでしょうか。

さて、始めましょう。

映画は1954年、戦後9年たった繁栄する東京の街並みが映し出されます。
思わずおお!と目を皿のようにして見入ってしまいました。

銀座中央通りを一丁目から観ている感じでしょうか。
右側のビルが和光で、その手前は工事中。
その手前の白いビルは今アップルになっています。

同じく中央通り、「ワシントン靴店」が1954年からあったとは。
さりげなく「ペニシリン」の看板が出ているのが時代を感じます。
右側奥の一番背の高いビルが三越です。

「教文館」は今もありますが、一階は現在マイケル・コースの店舗です。

銀座を歩く女性たち。おしゃれです。
今は日本人より外国人の方が多いのは皆さんご存知の通り。

観光地として楽しんでくれるのは一向に構わないのですが、
道端でトランクを開けて荷物の整理をするのと、声が大きいのと、
それから「ハナマサ」の横の広場でものを食べてゴミを散らかしたまま
平気でバスに乗って行ってしまうのは本当にやめてほしいです。

「地球防衛軍」にも登場した森永の地球儀ネオンの場所には、今ユニクロのビルができ、
毎日のように中国人観光客が目の色変えて押しかけています。

ナレーション。

「戦前にも見られなかった軽薄華美な姿が眼に映る」

戦中派阿部豊の感想ですので念のため。

「私たちは有史以来初めて味わった敗戦の苦しみを、また、
無血終戦へと導いて再建への基盤を作った人々の勇気と良識を
長く噛みしめる必要があるのではなかろうか」

これには全面的に賛成です。

場面は昭和20年、敗戦の色濃くなってきた戦地の映像となります。
サイパン、硫黄島、比島を席巻した米軍はいよいよ沖縄に上陸しようとしていました。

そして、5月23日の東京大空襲です。

空襲の次の日の朝、川には飛び込んだ人々の遺体が浮かんでいました。
水面には明らかに油が浮かんでおり、真に迫っています。

東京は1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けましたが、
特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、
5月25日-26日の5回は大規模で被害も大きかったそうです。

焼け跡のシーンがたくさん出てくるのですが、どうもセットじゃないみたい。

このシーンも本当に火をつけたところにエキストラを走らせてるんですよ。
皆大丈夫だったんだろうか。

開始からたっぷり7分まではこんなシーンが続き、国民はすでに
戦争に疲れ切っているということが描かれます。

そんな中、陸軍大臣阿南(映画では仮名の川波ですが、面倒なので以降
全員実在の人物名で説明します)は、
荒尾興功軍事課長
空襲の被害などについて報告させていました。

竹下正彦中佐(沼田曜一)、畑中健二少佐(細川俊夫)とともに、
いわゆる「宮城事件」に関わる軍人たちです。

ちなみにこの竹下中佐が書いた宮城事件までの顛末を
半藤一利が元にして書いたのが
あの「日本のいちばん長い日」です。

竹下は戦後陸上自衛隊に入り、陸将になって幹部学校長を務めました。

空襲を受け、鈴木首相と東郷外相はお見舞いに参内。
皇居の門は今とあまり変わっていない気がします。

沖縄が陥落し、いよいよ本土決戦が現実のものとなってきました。

皆で竹槍の訓練。おそらくこの中の何人かは本当にやったことがあるでしょう。

配給は芋や豆ばかりになり、食糧難は本格的に。
そんな頃、連合国は日本に降伏の条件を提示してきました。

ポツダムでの米英支三国宣言というやつですね。

当時はまだ2枚目のかほりがうっすらと残っている安部徹
軍事課長荒尾は、ポツダムにおける三カ国が突きつけてきた降伏の条件、

「日本軍国主義を抹殺する」

「日本領土を保障占領する」

「日本領土は本州、北海道、九州、四国にこれを限定する」

「日本国軍は連合国軍の手によって武装解除する」

「戦争犯罪人は連合国の名において厳重に処罰する」

「国民の言論、宗教、および思想の自由、基本的人権を尊重する」

を説明します。
歴史を振り返れば、連合国はほぼこの通りの占領政策を敷きました。

「日本に無条件降伏を突きつけているんだ!」

宮城事件首謀者の一人で、8月15日二重橋と坂下門の間の芝生で
畑中健二少佐と共に自決する椎崎二郎を演じるのは丹波哲郎

「さらに問題なのは新しい政府をつくるということだ」

竹下中佐は阿南陸相の親戚(義弟)でもあります。

彼らは本土決戦における徹底抗戦を行うべく意思を固め、
ポツダム宣言を受諾しないように働きかけよう、と決します。

彼らは阿南陸相を捕まえて直訴しますが、阿南は
確たる返事をせず、閣議に出席するといって場を去ります。(1回目)

鈴木首相を首班とする閣議の議題はポツダム宣言について。

東郷外相「むしろ有条件講和として解釈する。受け入れるべき」

阿南陸相「軍は無条件降伏と解釈するので厳しく反撃すべき」

首相「外交的手段を講じている今挑戦的態度は取るべきではない」

米内海相「総理に同感」

東郷と阿南は特に軍の対応への考で意見が真っ向から対立します。



そして広島と長崎に原子爆弾が投下されました。
日本が降伏に応じない限り、各都市にこれを落とすぞ、という脅しです。

このキノコ雲はアリゾナの実験の時のものではないかと思いますが。

打ちひしがれる人々に追い討ちをかけるように、ソ連参戦のニュースが。
このおばあちゃんたちは、戦争の辛さを9年前までいやっというほど味わった、
戦中真っ只中時代。
息子が戦地に取られたという人たちではなかったでしょうか。

国民はもうどうにでもしてくれの状態。
かといって負ければ男は皆殺し、女は辱めを受けて国が無くなる、
と皆は思い込んでいますから、絶望的です。

原爆投下とソ連参戦を受けて行われた閣議で、阿南は
日本が降伏を受け入れるとしても、条件がある、と述べます。
天皇の存続を柱として、戦争犯罪人は日本側で処置する、
としたのが大きな主張で、これを連合国が受け入れない限り
戦争をあくまで遂行すべき、というものでした。

ここで東郷が、

「天皇の存続以外は拒否されるから絶対条件以外は受け入れるべき」

というのですが、実際には天皇の存続を連合国が認めるかどうか、
この段階では全く日本側には予測できなかったはずです。
天皇処刑論も連合国の一部の国からは出ていたのですから。

米内海軍大臣は、阿南のいう「本土決戦」について、

「戦争は陸海軍の統合が必要だが、今の日本にその力はない」

と焦土となった日本の現状を踏まえて反対するのですが、
陸軍の考えとして、一億玉砕を覚悟すれば何らかのチャンスがあるはず、
と本土作戦への意欲をにじませ、「戦局は五分五分である」という阿南に対し
米内は

「個々の武勇談は別としてブーゲンビル、サイパン、フィリピン、
レイテ、硫黄島、沖縄、我が方は完全に負けている」

といいます。
これは史実に残る閣議の発言そのままです。
ただし、これに対する阿南の

「海軍は負けたが陸軍は負けていない」

というのは本当に言ったかどうかわかりませんでした。
阿南自身がそう思っていたことは確かだと思いますが。

何れにしてもこの二人は映画だけでなく実際も終始対立し、のみならず
個人的にも反発する間柄であったことは皆が書き残しているところです。


この映画では畏れ多くも天皇陛下のお姿を俳優に演じさせるという
不敬なことはせず、御前会議のシーンも「おられるという設定」です。

カメラアングルも天皇陛下視点(笑)

陛下が、忍び難きを忍び万世の民に平和の道を開きたい、と
最後に仰せられたあの御前会議です。

阿南は陸軍の首脳部を集め、御前会議の結果を報告しました。
国体の護持を条件にポツダム宣言を受諾することに決まったと。

徹底抗戦を主張する陸軍軍人たちは騒然とします。

荒尾大佐、畑中少佐以下一派は、降伏絶対反対で行動を起こすことを決定。
このとき畑中がこういいます。

「たとえ大和民族が絶滅したっていいじゃないか。
国体を守るために殉じた精神は世界史の一ページを飾る」

おっと、この言葉ものすごいデジャブがあるんですけど・・。
そう、日本丸腰論の森永卓郎氏ですよ。

「軍事力をすべて破棄して、非暴力主義を貫くんです。
仮に日本が中国に侵略されて国がなくなっても、後世の教科書に
『昔、日本という心の美しい民族がいました』と書かれれば
それはそれでいいんじゃないかと」(2011年1月1日)

徹底抗戦と丸腰を唱える両者の到達点がここまで一致するって、
・・・・・・何かの悪い冗談ですか?

まあ、そういいつつも

「戦争になったら自分はアメリカに逃げる」

などとも放言している森永氏と比べるのは、そもそも
この軍人たちに失礼というものかもしれませんが。

陸軍航空士官の上原重太郎を演じるのは宇津井健

市ヶ谷の防衛省見学ツァーに参加した人は、上原大尉が自刃した場所にあった
慰霊碑が慰霊ゾーンに置かれているのにお気づきだったでしょうか。

上原大尉は、宮城事件で近衛師団長森赳中将を殺害した後、
修武台の航空神社前で自決した人物です。

 

 

続く。



英雄フォン・トラップ少佐とトラップ家亡命の真実〜ザルツブルグを歩く

2019-08-13 | 海軍人物伝

さて、ザルツブルグの旅行記をお送りしていたつもりが意外なところで海軍軍人、
しかも潜水艦艦長の軍歴について紹介するという、当ブログ本来の
役目?を思いっきり果たすことができて大変嬉しく思っております。

さて、本編の主人公、トラップ少佐についてですが、正式な名前は

Baron Georg Johannes Ludwig Ritter von Trapp
バロン・ゲオルク・ヨハンネス・ルードヴィヒ・リッター・フォン・トラップ

です。
バロン(男爵)およびリッター(騎士号)を叙任されたため、名前にフォンがつきます。

騎士号は一般的に貴族階級のように生まれ持って家が相続しているものではなく、
例えば戦功を挙げた武人に授けられる勲章のような称号で、その場合は
「フォン」も一代限りとなるのかと思っていたのですが、たとえばトラップ家の
子供達も、男女全員が「フォン・トラップ」名を相続しています。

指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンの父親は騎士でしたが、もともと
カラヤン家は17世紀から貴族に叙せられていました。

さて、フォン・トラップ中尉は第一次世界大戦勃発後初めて
二度目となる潜水艦艦長職に就くことになりました。

 

1915年(35歳)潜水艦U-5の艦長拝命

SMU-5 Erprobung.jpg

前回艦長だったU-6もそうでしたが、このU-5も、進水の儀式は
彼の妻となるアガーテ・ホワイトヘッドが行なった潜水艦でした。

彼女は彼女は魚雷を発明したホワイトヘッドの孫で、妙齢の独身女性だったため、
新造艦進水式にこの頃引っ張りだこだったのではないかと思われます。

冒頭画像は、U-5の艦橋にいるフォン・トラップ艦長。

サブマリナー、フォン・トラップの本領発揮はこの艦長になって以降です。
年表にはありませんが、この頃もう彼は大尉に任じられていたと思われます。

まず、4月27日、オトラント海峡で、澳=洪海軍をアドリア海に封じ込める
作戦に従事していたフランス海軍の装甲巡洋艦「レオン・ガンベッタ」に、
フォン・トラップ艦長のU-5が、二発の雷撃を行いました。


レオン・ガンベッタ

雷撃された時、地中海において潜水艦の脅威が増大していたにもかかわらず、
「レオン・ガンベッタ」は護衛を伴っていなかったといわれます。

二発の雷撃で「レオン・ガンベッタ」は10分で沈没し、乗っていた821名中
ヴィクトワール・セネ少将を含む684名が死亡し、生存者は137名でした。

同じU-5で、トラップ少佐はこの年、イタリアの潜水艦「ネレイデ」も撃沈しています。

Regia Marina Nereide.jpgネレイデ

澳=洪海軍は偵察機によりイタリアの潜水艦「ネレイデ」の存在を確認し、
ゲオルク・フォン・トラップ艦長の潜水艦U-5が急遽派遣されました。

「ネレイデ」が浮上して停泊していた沖にトラップ艦長のU-5が沖に浮上すると、
まず「ネレイデ」は魚雷発射し、これを外したため潜水を試みました。
U-5は潜水中の「ネレイデ」に魚雷1本を発射し命中。
ネレイデは全乗員とともに沈没しています。

1916年(36歳)U14艦長就任

 An Austro-Hungarian wartime postcard of the submarine in Austro-Hungarian Navy service as SM U-14.U-14

前艦長の病気でU-14の艦長に就任したのがフォン・トラップでした。
彼が艦長になってから、U-14は爆雷を受けていますが、損害箇所の修理とともに

近代化を施したU-14を、再びトラップ艦長が指揮し、
世界最大の貨物線ミラッツォなど、11隻の撃沈記録を打ち立てます。

U-14はその後、艦長が二人交代しましたが、この二人をもってしても
トラップ艦長の戦績を超えることはできなかったということです。

U-14の、全てフォン・トラップ艦長の指揮による戦果をあげておきます。
これらの戦果は全て撃沈で、撃破はありません。

Vessels sunk while in command of U-14
DateVesselNationality 
28 April 1917 Teakwood  United Kingdom  
3 May 1917 Antonio Sciesa  Kingdom of Italy  
5 July 1917 Marionga Goulandris  Greede  
23 August 1917 Constance  France  
24 August 1917 Kilwinning  United kingdom  
26 August 1917 Titian

 United kingdom

 
28 August 1917 Nairn  United kingdom  
29 August 1917 Milazzo  Kingdom of Italy  
18 October 1917 Good Hope  United Kingdom  
18 October 1917 Elsiston  United Kingdom  
23 October 1917 Capo Di Monte  kingdom of Italy

1918年(37歳)Uボート基地指揮官としてカッタロに転任

37歳で潜水艦隊司令というのは異例の昇進の速さだと思いますが、
トラップ艦長が打ち立てた戦果の賜物です。

潜水艦隊司令なのに少佐だったというのも、年齢が達していなかったからでしょう。

11月11日、第一次世界大戦終結

大戦中のフォン・トラップ少佐の撃沈記録は、総数12隻(45,668総トン)。

叙勲された勲章は以下の通りです。 

マリア・テレジア軍事勲章騎士十字章

レオポルト勲章騎士十字章

プロイセンの一級鉄十字章

オットー戦功章 

カール勇猛章等ドイツ領邦の勲章も受章

そして、これらの功績により、騎士に叙せられました。

 

ゲオルク・フォン・トラップ少佐は海軍の、いや国の英雄だったのです。

この軍歴と功績を踏まえた上であの映画の「トラップ大佐」を改めて見ると、
かっこいいのは外見と階級だけで、実に滑稽な演出によるカリカチュアされた
軍人像(例えば子供達に軍隊式に行進させたりとか)に当てはめて表現されており、
マリアはもちろん、子供達も、フォン・トラップ少佐の海軍の同僚も、
とにかく本人をよく知る者は一様にショックを受けたというのがよくわかります。

特に、海軍時代の少佐の部下の一人は、養老院でこの映画を初めて観て、

「フォン・トラップがコケにされているように感じ」

怒りを覚えた、とまで言っていたというのです。

しかも実際のトラップ少佐は、家庭においてはとても優しい人で、映画のような
軍隊式の厳しい教育パパとはかけ離れていたため、
妻のマリアは、
映画製作中、何度も夫の描かれ方について脚本を書き換えるよう頼みましたが、
最後までそれは聞き入れられることはありませんでした。

 

繰り返しますが、家族ならずともザルツブルグの人々は、
「サウンドオブミュージック」という映画にずっと冷淡な目を向け続けました。

アメリカ人視点で語られている併合下のオーストリアについての描き方も、
ヨーロッパの人々がこの映画に反発する大きな原因です。

自由な民主主義国家のオーストリアを虐げるために併合したナチス、
そしてフォン・トラップはそのナチスと戦う善、のような描き方は、いかにも
善悪二元論で無条件にナチスを悪者にするハリウッドならではだと思います。

オーストリア併合・アンシュルスの現実は、決してハリウッドの善悪論などで
全てが語れるような単純なものではありませんでしたし、
もっと根源的なことを言えば、フォン・トラップはオーストリア軍人で、彼自身は

「オーストリア・ファシズムの立場からナチスと権力争いをしてその結果破れた側」
(wiki)

に立っていたに過ぎず、映画に描かれていたような「自由オーストリア対ナチス」
と言う構図は全く当てはまらないといえます。
もっとわかりやすく言うと、アメリカから見たならば、ヒトラーとトラップ、
どちらも同じ穴の狢と行っては何ですが、政治的方向性は同じくしていたはずなのです。

さらに皮相的な推察をさせていただければ、当時ヒットラーは、オーストリアの英雄、
フォン・トラップ少佐を客寄せパンダ的に我が方に取り込みたかったのに対し、
トラップはオーストリア人でありながら併合と言う形で祖国を裏切ったヒットラーを嫌悪しており、
かつ隷属的な立場に降ることを拒否し、亡命を決意したという見方もできるかと思います。

 

以上のことから、我々日本人は、トラップ一家が亡命したという結果だけを見て、
アンシュルスの実態に目を向けないままハリウッドの「歴史修正」を
単純に信じ込まされてきたという見方がなりたちます。

だとしたら、あの映画が歴史音痴の日本人に与えた「悪影響」は計り知れません(笑)


蛇足ですが、イタリアで「サウンド〜」が上映されなかったのは別の理由によるものです。

海軍軍人フォン・トラップは、彼らから見ると、自国の商船を何隻も沈めた極悪人で、
しかも、当時の同盟国ドイツに対し自由のために戦うという「善」として
英雄のように描かれているのが許せない!というのがイタリア人の見方だそうです。


何が言いたいかというと、こんな面倒臭い案件を、独善的なストーリーで
映画にしてしまうアメリカという国を、
当事者含めヨーロッパの人々は
いかに苦々しく見ていた(見ている?)か、ということなんですね。

ヨーロッパ人に「アメリカ嫌い」が多いのも宜なるかなといったところです。


さて、ザルツブルグの通りにあった「サウンド・オブ・ミュージック」ショップですが、
つまり当時を知る人がいなくなって、観光客向け(しかも、あの映画のおかげで
『聖地巡礼』に訪れる日本人は昔から多いとか)に稼ごうと考える
商売人も現れている今日この頃、ということなのでしょう。

誤解がないように書いておくと、オーストリア人はハリウッド映画は無視しましたが、

西ドイツではこの映画の9年前、トラップ一家の物語を題材とした映画『菩提樹』、
『続・菩提樹』が制作されており、ドイツ語圏でのハリウッド映画の不評とは対照的に
『菩提樹』は「1950年代で最も成功したドイツ映画のひとつ」とも言われている (wiki)

ということなので、トラップ一家が嫌われているというわけでは決してありません。


それより、当ブログ的に最後に触れておきたいのが、K.u.K
オーストリア=ハンガリー海軍の消滅です。

もともと海のない国に生まれた海軍でしたが、第一次世界大戦に敗戦し、
1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、海軍の艦艇や軍人は
分裂した諸国や戦勝国へ分割されてしまい、消滅することになりました。

「一度消滅した海軍が復活した例は日本だけ」

と云われるように、オーストリアには以降海軍と名のつく組織はありません。

フォン・トラップ少佐が、それ以降の長い人生で、特にアメリカに亡命した後も、
海軍時代のことはもちろん亡命についても一言も語らなかったことが、
彼の深い悲しみと海軍消滅がその人生に落とした影を物語っているような気がします。

続く。

 

 


ゲオルグ・フォン・トラップ海軍少佐の軍歴〜ザルツブルグの街を歩く

2019-08-12 | お出かけ

 

ザルツブルグの観光案内が終わり、歌手だというガイドさんに
自作のCDを記念に頂いて彼女と別れたのは、
マックス・ラインハルト広場というところでした。

この左にあるのがモーツァルト祝祭小劇場、右に向かって
ウィーンフィルハーモニー通りという道が通っています。

マックス・ラインハルトはユダヤ系オーストリア人のプロデューサーで、
ザルツブルグ音楽祭の原型となる催しを1920年に創始した人です。

彼は1938年、ナチスドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)したのを
きっかけにアメリカに亡命し、5年後、客死しました。

ユダヤ系オーストリア人の芸術家といえば思い出すのが、昔「ヒトラーと映画」
という本で知った、映画監督フリッツ・ラングの亡命劇です。

ラングはある日、宣伝相のゲッベルスに招かれ、ラングを名誉アーリア人として
扱うので、ナチスの宣伝映画を撮って欲しい、と頼まれます。

その日のうちに銀行からお金を引き出してアメリカへの亡命をするため
国外脱出をしようとしていた彼は、土曜日のこととて、
銀行が閉まるまでに宣伝省を辞去するつもりでしたが、
興に乗ったゲッベルスが、ラングの次期作品について夢を語り出してしまい、
結局、解放されたときにはすでに銀行は閉まっていました。

ラングは仕方なく、着の身着のままで現金を残したまま国外に脱出、
危ういところで命永らえた、というのですが、後年、ナチスに背を向けたとは
本人が言っているだけで、実はラングはゲッベルスに自分を売り込んでおり、
その後色々都合が悪くなって亡命しただけ、という説が浮上しているそうです。

さらに歩いていくと、グシュテッテン通りというところに出ます。
この通りには、ご覧のようなうっす〜〜〜い建物が、まるで
崖に張り付くようにして並んでいます。

通りに面しているのはレストランやバー、パブなどですが、
どうも上階には普通に人が住んでいる風なんですよね。

黄色いビルの上部には、「1418 黄金の太陽 1968」
と金色の文字でありますが、まさかこれらの建物、そんなに古くから・・・?

グシュテッテン通り近くを歩いていると、ウィンドウにこんな写真が。
「映画サウンド・オブ・ミュージックショップ」とでもいうんでしょうか、
まあ一種のキャラクターショップみたいなもので、写真や関連本、
あの映画に関したグッズ、民族衣装などを売っている店のようでした。

前回、ザルツブルグ大聖堂に爆弾を落として破壊したせいで、
ザルツブルグの人たちはこの映画に冷淡だった、と推測してみました。

実際の理由はそんな単純なものではないかもしれませんが、
このハリウッド映画がドイツ語圏では全く受け入れられず、
ザルツブルグを除いてオーストリアでは21世紀に至るまで
一度も上映されていないことからみても、冷淡といより無関心、
というのが実際のところかもしれません。

 

ここで映画をご存知ない方のために一応説明しておきますと、

妻に先だたれたやもめの海軍大佐、トラップとその7人の子供の元に
修道院から派遣されてきた家庭教師のマリア。
彼女は子供たちの心を掴み、彼らの父親トラップ大佐と恋に落ち結婚。
トラップ一家合唱団として活動を始めるが、ナチスへの協力を求められ、
コンサートの夜、一家は亡命を図る・・・

というもので、ザルツブルグに実在した一家をモデルにしています。

右側のヒゲの男性がトラップ氏。中央がマリア夫人。

写真には10人いますが、もちろんこれは全員トラップ家の子供たち。
7人が先妻との間の子、3人がマリアとの間にできた子供です。

結婚したとき、トラップは47歳、マリアは22歳という年の差婚でした。

Georgvontrapp.gif

ところで、今日のタイトルが、旅行記の割には本来の当ブログらしいのは、
「サウンド・オブ・ミュージック」の登場人物、

バロン・ゲオルグ・ルードヴィッヒ・リッター・トラップ

が海軍軍人で、今日はこの人のことをお話しするつもりだからです。

この映画について書かれたものは多いですが、トラップ氏の海軍での
軍歴についてフォーカスしたものはあまりないようなので、やってみます。

それでは参りましょう。

 1894年(14歳)海軍兵学校に入学

オーストリアというのは海なし国であるわけですが、かつて
オーストリア=ハンガリー帝国時代には海軍が存在しました。

この時代は海運が盛んだったため、その保護を目的として海軍が創設され、
これが結構強かったようなのです。

普墺戦争ではイタリア軍を撃破していますし、北海まで行って
デンマーク海軍とも交戦しているくらいなので、当然ながら
優秀な青少年を教育する兵学校も存在しておりました。

トラップ少佐が兵学校に入学したのは14歳だったことになりますが、
高等学校の段階で士官教育を施すシステムだったようですね。

ゲオルグは、海軍軍人だった父の跡を継いで、自分も同じ道を目指し、
フィウメにあった(現在はリエカ)海軍兵学校に入学することになります。

兵学校では士官教育の一環として、楽器を専攻させられました。
当時の海軍士官は(今もある程度はそうですが)紳士教育とともに
外交官ともなる社交教育もされており、音楽はその一環だったのです。

14歳のフォン・トラップはヴァイオリンを選びました。

4年後、兵学校を卒業すると、彼は士官候補生として、
練習艦コルベットSMS 「ザイダ II」に乗り組み、2年間の訓練航海を終えます。

この頃は帆船での航海であり、当時のオーストリア=ハンガリー海軍は
二回に渡る遠洋航海を行なっていたのです。
そのうち一回の航海は、オーストラリアでした。

今回、オーストリアで、

「オーストリアにカンガルーはいません」

と書かれたTシャツを目撃しましたが、自国と名前が似ている
この国について、フォン・トラップがどう思っていたのか知りたいところです。

練習航海で各地を訪れたフォン・トラップは、ついでに聖地巡礼を行い、
ヨルダン川で7本の水を購入して帰りました。

この水は、後に生まれた7人の子供たちに洗礼を施すために使われました。

(ということは、フォン・トラップは士官候補生時代、結婚相手もいない頃から
自分は子供を7人作ろうと決めていたということになります。
もちろん、水が7本あるので7人作ることにしたという可能性もありますけど)

それはともかく、最後の水を使う頃には水は腐っていたのではいやなんでもない。

 

1898年(18歳)任海兵隊少尉

オーストリア=ハンガリー海軍の略称はK.u.K
 kaiserlich und königlich (帝国と王国)を意味します。
もちろんこれはオーストリア帝国とハンガリー王国のことです。

1900年(20歳)防護巡洋艦「ツェンタ」乗組

トラップ少尉の乗り組んだ「ツェンタ」は、この年に発生した義和団の乱で
中国大陸に出征しています。


皆さんは皆北京市内の居留民保護を目的とした八カ国同盟軍、覚えてますか?

この写真、教科書にも載ってましたよね。
背丈の順で我が日本国は堂々一番右ですが、ただし、この時の日本軍は
強く正しくたくましく、その精強さで世界を驚嘆させたことも覚えといてください。

左から英・米・英領オーストラリア・英領インド・独・仏、
そしてオーストリア=ハンガリー、イタリア、日本軍。

記念写真は士官ではなく、全員兵士を選抜して撮られたようです。
オーストリア=ハンガリー軍の兵隊のいでたちは水兵ですね。
つまり海軍が派遣されていたことがわかります。

小型巡洋艦ツェンタ

防護巡洋艦「ツェンタ」の艦歴によると、義和団の乱の前年まで彼女は

日本(長崎、佐世保、鹿児島)

を訪問していましたが、義和団発生の報を受けて本国に呼び戻され、
75名の乗員を乗せて天津に向かいました。
この中に我らがトラップ少尉が海兵隊員として乗っていたのです。

「ツェンタ」は装甲巡洋艦カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア
と合流し、両艦の乗員160人がドイツの海兵隊を支援し戦闘を行いました。
この時の戦闘は激しく、「ツェンタ」艦長は戦死。
参加した両艦の乗員の一員として、トラップ少尉も勇猛勲章を受勲されています。

1903年(23歳)Fregattenleutnant の試験に合格 任海軍少尉

フレガッテンレウテナントとは、オーストリア=ハンガリー海軍の階級で、
英語で言うところのフリゲート・ルテナント。
海軍の階級でいうと、サブ・ルテナント、海軍少尉ということになります。

 1908年(28歳)航海科に転科 中尉任官 潜水艦隊に配属

 海兵隊員として10年間海軍に奉職したトラップは、潜水艦乗組になります。

ゲオルグ・ルードヴィッヒ・フォン・トラップは、海軍を志した時から
潜水艦に魅せられ、潜水艦隊の一員になることを希望していました。

1908年、新しく編成された海軍の潜水艦隊、Uブート・ヴァッフェに
転属するという願っても無いチャンスを掴んだトラップは、
その資格となる昇進試験を受け、

Linienschiffsleutnant 中尉

に任官しました。

 

オーストリア=ハンガリー海軍潜水艦隊は、特に第一次世界大戦において
「アドリア海での連合国軍の動きを抑圧した」(wiki)精強部隊だったとされます。

1910年(30歳)新造潜水艦U6「アガーテ号」の艦長に就任

オーストリア=ハンガリー海軍でも、潜水艦はUボートです。
同じドイツ語で「ダス・ウンターゼー・ブート」なのは当たり前ですね。

ここでトラップ(多分少佐)に運命的な配置が行われます。
彼が初めて艦長になったU-6は、数字から見てもわかるように
K.u.Kが所持した6番目の潜水艦で、その愛称「アガーテ」は、
「ホワイトヘッド魚雷」、つまり魚雷の発明者とされるイギリス人技術者、

ロバート・ホワイトヘッド

の孫娘が進水の儀式を行い、命名者になったことから与えられたものです。

おそらく「アガーテ」の艦長になったことが、縁を引き寄せたのでしょう。
翌年、トラップ少佐(多分)は、その当人と結婚することになります。

1911年(31歳)アガーテ・ホワイトヘッドと結婚 

「ロバート・ホワイトヘッド アガーテ・ホワイトヘッド」の画像検索結果 

二人は海軍基地のあった街、プーラに住んで、その後7人の子供をもうけました。
が、1922年、トラップ少佐が海軍を退官してからのことになりますが、
アガーテは、長女の猩紅熱の看病をしていて自分が罹患してしまい、
32歳の若さで夫と子供を置いて亡くなってしまうのです。

それで「サウンド・オブ・ミュージック」の話につながっていくわけですが、
ここは
トラップ少佐の軍歴について続けます。


1914年(34歳)魚雷艇54号の艦長に就任

サラエボでオーストリア皇太子が暗殺されたのをきっかけに、
第一次世界大戦が勃発しました。

今回は、ウィーンで軍事博物館の見学をしてきたのですが、その中に
サラエボ事件の資料などもあったので、いつかお話しするつもりです。

トラップ少佐は、魚雷艇の艦長に任命され、それと同時に海軍基地のあった
プーラ(現在のクロアチア)からザルツブルグに転居します。 

1915年(35歳)潜水艦U-5の艦長拝命 

ここからが本格的なトラップ少佐の軍歴となるのですが、続きは後半で。



 


ザルツブルグ大聖堂爆撃とその復興〜ザルツブルグの街を歩く

2019-08-10 | お出かけ

ザルツブルグ到着の翌朝お願いしたガイドツァーが続いております。

泊まっているホテル・ザッハの近くのミラベル庭園という、昔風にいうと
お妾さんが囲われていた宮殿は、現在市役所だそうですが、例の
ニシカワフミコさん始め、日本人も、ここでザルツブルグ市役所公認の
結婚式を行うカップルが多いのだということです。

まあ、お妾さんの屋敷といってももう今は誰も気にしないかもしれませんが。

歩いていると、レジデンツ広場に出てきました。
中央には荒ぶる馬のいる「アトラス神の噴水」があり、正面は
現在州庁舎となっている宮殿です。

宮殿であったかどうかは、外壁に紋章があるのでわかります。

それにしても、昔の建築物はこうして拡大してみるとレンズの収差では
こんな風にはならないという歪みが目立ちます。

遠目に見るとなんの問題もないのに、不思議です。

州庁舎の屋上には「グロッケンシュピール」という鐘楼があり、
35個の鐘が一日三回、モーツァルトの曲を演奏します。

今は電動、あるいはコンピュータ制御かもしれませんが、昔は
人が鳴らしていたのかもしれません。

レパートリー?は51曲あるそうですから、とりあえずモーツァルトの
有名どころはほとんどカバーしているという感じでしょうか。

大聖堂の壁に沿って馬車の駐車場になっていました。

広場の奥には「ザルツブルグの息子」モーツァルトの像があります。
モーツァルトの妻コンスタンツェは、夫の死後、奥のピンクのアパートに住んで
銅像のできるのを待っていたそうですが、掘ってみたらローマの遺跡が出てきて、
色々やっているうちに亡くなってしまい、銅像完成を見ることがありませんでした。

広場に面しているザルツブルグ大聖堂の裏側にはスタンドが建てられています。
おそらくこの次の週に行われたザルツブルグ音楽祭の準備だったと思われます。

中に入ってみました。
1628年ということは、400年近く前に建てられた壮麗なバロック建築による聖堂です。

それではこの祭壇も4百年前からのものなのか、と思われた方、
残念なことにそうではありません。
戦災により大聖堂は一度崩壊しているのです。

1600年代からここにあった教会なので、当然ながら、
ザルツブルグ出身のあの人もこの人も、ここに通った可能性があります。

モーツァルトは例えばここで洗礼を受けました。
そして、オルガニストとしても仕事をしていたそうです。

モーツァルトのオルガンの腕前は、

「文字どおりオルガンの名手で、オルガンの即興演奏家としても桁外れの存在」

と、同世代の音楽家からも絶賛されるほどでした。

ところで余談ですが、バッハやベートーヴェンの時代、
オルガンを使った「音楽試合」があったというのをご存知でしょうか。

誰か偉い人(司教とか)が、最初のフレーズをお題として発表すると、
二人の音楽家が、それぞれそのテーマでフーガを即興演奏し、
どちらが優れているかジャッジが勝ち負けを決めるというものです。

 

フーガというのは、一つのテーマが4声とか5声の各声部に、形を変え、
前のテーマを追いかけるように次々と現れてくる形式の楽曲ですが、
基礎を学ぶため、音大でも作曲科なら必ず授業で4声のフーガを書かされます。

これがまた一言でいってパズルのような緻密な調整が必要な作業なんですわ。
これを即興で、しかもオルガン(足ペダルももちろん使う)でやるなんて、
昔の音楽家マジ天才ばかりなんじゃないだろうかと思ったくらいなんですが、
例えばベートーヴェンなど、このフーガ勝負に滅法強かったとか。

わたしは勝手に宮本武蔵みたいな剛腕のイメージをベートーヴェンに
持っているわけですが(笑)その伝でいうと、モーツァルトは天才らしく、
涼しい顔して天使のように無邪気に、大胆に、そして華麗に
テーマを展開させていったんだろうなあと想像しています。

ところで、大聖堂だけあって、オルガンが一つや二つではありません。
まるでボーズのスピーカーのように、四面の角に一つづつ、
計4台のパイプオルガンがあるので驚いてしまいました。

この4台が全部いっぺんに使われるなんて場面があるんでしょうか。

「モーツァルトが弾いたのはどのオルガンなんでしょうね」

ガイドさんに聞くと、そこまではわからないとのことでした。

祭壇左側前方のこれはきっと必ずモーツァルトも弾いたに違いありません。

震災で先生のご都合が悪くなったのでやめてしまいましたが、
わたしは
しばらくの間パイプオルガンを習っていたことがあります。
(バッハの小フーガト短調を弾くところまでは行きました)

壁を向いて演奏するパイプオルガンには、必ずバックミラーがあるのですが、
探してみたら、ここのオルガンにもちゃんとありました。

「オルガン台の下に監視カメラが仕込んでありますね」

ガイドさんにいうと、彼女はとても驚いて、

「えっ、どこですか?あ、ほんとだ。知りませんでした」

何十年もの間見てきて、いつの頃からかカメラが付いたのに
今日気づいたということで、感謝されました。

ここまでかなり歩いたので、椅子に座ってしばし脚を休めていると、
横に設えられた階段状のステージに黒いワンピースの女子が並びました。

出演前、用意しているときに小耳にした会話によると、彼女らはアメリカから来た
学校の聖歌隊で、教会を回ってボランティア演奏をしているようです。
「グロリア」をはじめ聖歌の演奏が電子ピアノの伴奏で始まりました。

うちの息子の高校も、去年夏ウィーンとザルツブルグに来て、ウィーンでは
彼女たちのようにオーケストラ演奏をしています。
こちらの教会はそういう場を貸すのにとても協力的なんですね。
日本の学校の修学旅行も、そういう企画をすればどうでしょうか。

ザルツブルグ大聖堂の入り口正面には、こんなパネルがありました。

1944年10月16日、ザルツブルグをアメリカ軍の空襲が襲いました。
尖塔に爆弾が命中し、大聖堂は損害を受けています。

教会上部から見た被害の様子。

「どうしてこんなところを爆撃しなければならなかったんでしょう。
アメリカ人だってほとんどはキリスト教徒なんじゃないんですか」

わたしが遣る瀬無い思いについこう尋ねると、ガイドさんは、

「あの人たちはほら、自分たちに歴史が無いから文化に敬意もないんですよ」

と、軽蔑したような言い方で答えました。

日本の都市部に爆弾を落としたときに、彼らは

「日本では家内工業で家庭でも武器の部分を作っているから」

などと民間人を殺戮したのを正当化しましたが、ザルツブルグの
300年以上歴史のある教会をわざわざ狙ってこれを破壊したことについて、
彼らは一体どんな言い訳ができたというのでしょう。

単に戦争だから、任務だったからで済まされる話ではないような気がします。

この大聖堂爆撃については、アメリカさんもそれなりに汚点と思っているらしく、
ほとんど英語での記述が出てこないのですが、wikiでも

The Salzburg Cathedral was damaged duringWorld War II 
when a single bomb crashed through the central dome
over the crossing.

なんとなく自然発生的な、攻撃した人間の存在の見えない書き方。
決して狙って破壊したのではない、とでも言いたげなニュアンスです。

戦後ハリウッドが、ザルツブルグを舞台に、あのミュージカル映画
「サウンド・オブ・ミュージック」を製作したとき、現地の人々は
驚くほどこの映画に対して冷淡だったという話がありますが、その理由の大部分は、
この破壊がアメリカ人に対する拭いきれない嫌悪を残したからではなかったでしょうか。

しかし、我が日本の皆さんにおかれましてはご安心ください。
このパネルの左上、一番目立つところには日本語でこう書かれているのです。

「献金をありがとうございました」

ザルツブルグ大聖堂は1959年に爆撃で崩壊した聖堂を立て直し、
その年の5月18日に戦後初めてのミサが行われていますが、
このパネルには、その修復費用を寄せた国の言葉でお礼が書かれているのです。

日本語が真っ先に書かれているというのは、おそらくですが、
日本から教会の信徒などを中心に多額の浄財が寄せられたのではないでしょうか。

お礼の下には、

「入り口の門にはつぎの三つの年号がご覧になれます」

774年 最初に聖堂がこの地建てられた

1628年 現在の元となった大聖堂が完成した

1959年 戦後の復元が完成した

わたしは、ザルツブルグ大聖堂再建のために、戦後の豊かでない生活の中から
捻出したお金で献金を行なったのあろう当時の心優しい日本人たちに、
心からありがとうございましたと心の中で頭を下げずにはいられませんでした。

そして、ザルツブルグの人たちがそんな日本に向ける思いの一端を、
わたしたちは最後にガイドさんが連れて行ってくれた小さな教会で知ることになります。

「この教会は、東日本大震災が起こったとき、日本の人たちに向けて
鎮魂のミサを特別に取り行ってくれたのです」


瓦礫の中から記念に保存されている部分は、何を意味するのでしょうか。

さて、このザルツブルグ祝祭劇場前で、ガイドさんはツァー終了を告げました。

しかしまあ、大聖堂の司教様も昔とは様変わりしているようです。
ポケットに手を入れて歩きスマホとは(笑)


続く。