ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「深く静かに潜航せよ」〜宿敵秋風撃破

2018-04-29 | 映画

映画「深く静かに潜航せよ」三日目です。

最初2編で終わるはずが三日に分けざるを得なくなり、
ヒーヒー言いながら三作目の絵を仕上げてエントリ製作したら、
なんと字数オーバーで4回連載にすることを余儀なくされました。

というわけで、まるで締め切りが迫った漫画家のように、
掲載時間に間に合うように絵を製作したのですが、これがね・・・。

こんな時に限って、ソフトの画面が突然落ちるんですよ。
これまで絵をほとんど仕上げた状態でソフトがクラッシュして呆然としたことは
はっきり言ってなんどもあり、そのために少し書いては保存して、
というのを習慣にしていたつもりですが、今日はたまたま保存なしで進んでいて
見事クラッシュ、というのを三回繰り返しました。

後になるほど保存は進んでいるのでダメージは少なかったのですが、
ロゴを入れた直後、一瞬にして消えてしまった時にはもう泣こうかと思いましたよ。

というわけで、本日のタイトルは、コニングタワーで指揮をとる
クラーク・ゲーブルとバート・ランカスターの二人のショットです。

あとで説明しますが、この時には副長の謀反が成立したあとなので、
艦長がランカスター、ゲーブルは元艦長、という立場です。


さて、前回、わざわざ魚雷発射室まで被害を見にいって転倒し、
戦闘終了後、昏睡に陥ったリチャードソン艦長。

目覚めると兵員のバンクに寝かされており、ミューラーと軍医が見守っていました。
兵たちは艦長が倒れたというのに部屋を出ていってしまったようです。

昏睡の原因は転倒の際に後頭部を打ったことで、おそらくは脳震盪というより
脳挫傷らしく、軍医は

「下手すると永遠に昏睡することになる」

とおどかすのですが、艦長はそれを誰にもいうな、と押しとどめます。

っていうかさー、くどいようだけど、戦闘中にわざわざ艦長が
魚雷発射室などに行かなければこんなことになってないよね?


実はそう思ったのはわたしだけではなく、これを演じるクラーク・ゲーブル本人も、
このメインプロットに強い拒否を示し、撮影を実際にボイコットしているのです。

つまり、こんなトンマな理由で(とはどこにも書いてませんが多分)負傷し、
潜水艦の指揮をバート・ランカスターに取って代わられる、という筋書きに対し、

「わたしがこれまでMGMで築き上げてきた20年の名声にそぐわない」

とゲーブルはきっぱりと言い切ったのでした。

このとき、クラーク・ゲーブル57歳、バート・ランカスター45歳。
いずれも中佐と大尉を演じるには歳をとりすぎていたことは確かですが、
この時ランカスターがよせばいいのにゲーブルの歳を揶揄するという事件があり、
ゲーブルはこれですっかりへそを曲げてしまったと言われています。

共演の少し前、『OK牧場の決闘」でワイアット・アープを演じてノリに乗っていた
ランカスターに対し、全盛期を過ぎていた自分の衰えを感じて
軽口が許せなかったということなのかもしれません。知らんけど。


結局どう説得されたのかはわかりませんが、ゲーブルは2日間のストライキののち、
プロットを受け入れてスタジオに復帰するという騒ぎになりました。

さて、そんな訳ありの二人の絡みです。

重賞を隠してリチャードソン艦長はブレッドソー副長を呼びつけ、
二週間で修理を完了したら豊後水道に戻ると宣言します。

まだやる気なのか艦長。

「人命を弄ぶのはもう終わりにしましょう。限界を超えてます」
(We're through playing with lives. It's the end of the line. )

と真っ当なことをいう副長に対し、

「魚雷の事故は百に一つだから今度は大丈夫だ!」

いやー、ゲーブルがこの役を嫌がったわけがよくわかりますわ。
この艦長、全くだめだもん。
戦闘指揮官たるものが、なんの根拠もなく「今度は大丈夫」とは。

案の定副長に、

「どうしてもそうしたいなら泳ぐか救命ボートで行けば?
私たちは艦で帰りますから」

とか冷たく言われちゃうし。
しかもそれに対し、

「その言葉は高くつくぞ。考え直した方がいい。
ちょっとでもこの艦を動かしたら君は絞首刑だぞ!」

とまるで映画のチンケな悪役のようなセリフで副長を脅す艦長。

いやー、ゲーブルがなぜこの役を嫌がったか(略)

おまけにこんなことまで言われちゃうし。

「それなら一緒に絞首刑になりましょうや。
あなたの作戦行動が命令違反なのは明白だ」

そして、有無を言わせず航海長を呼び、「ナーカ」は真珠湾に戻ること、
そしてこれからの指揮は自分が執ることを宣言しました。

グッバーイボンゴ(豊後)、ハローパール(真珠湾)」

乗員たちは皆大喜びですが、そのうちの一人が不機嫌に、

「42年からこっち5回哨戒に出たが、十五発の魚雷と一緒に真珠湾に帰るのは初めてだ」

そう、リチャードソン艦長が、真珠湾に戻ると宣言する副長に対し、

「潜水艦が無傷で母港にもどるのか」

と詰ったように、戦争しに来たのに戦わずして帰還するのを良しとしない者もいます。
はしゃいでいたみんなは、これを聞いて恥ずかしげにしゅんとしてしまいました。

そこに士官カートライトがやってきて、艦長のことを

「どうせならもっと早く倒れてりゃよかったのに」

と揶揄したため、彼を天敵とみなすミューラーは彼を殴りつけます。

早速「自称新艦長」ブレッドソーが飛んできて

「俺に優しく扱ってもらえると思ったら大間違いだぞ!」

こちら、新艦長が皆の前で士官を叱りつけたことで最悪の雰囲気の士官室。
ラジオからは

「It's been a long long time」

というスタンダードナンバーが流れていますが、おっと残念、この曲が発表されたのは
1945年のことで43年という設定のこの頃には存在していません。

それはともかく曲に乗せておなじみ東京ローズの放送が始まるのですが、

「この世にいないナーカの皆さんにお悔やみを」

といいつつ、艦長以下兵員の名前までをずらずらと読み上げ始めます。
え?なんで兵の名前まで知ってるの?

豊後水道で捨てたゴミを拾われていたことを突き止めたブレッドソー、
なぜかピコーン!とあることを決心し、リチャードソンに

「豊後水道に戻ります」

日本軍が拾ったゴミからこちらの動向を特定していたのであれば
その情報を逆手に取って戦えると判断したのでした。

この理屈も実はよくわからないんですが、どなたかわかる方説明お願いします。

「君はいずれにせよ撤退などしないと思っていたよ。軍人ならな」

「グッドラック、ジム」

わかりやすく豊後水道に向かうことを表すためにUターン。

ちなみにこの時、水平線には明らかに大型の艦影が見えていますが、
これは米海軍の空母(もちろん1968年当時の)であるといわれています。

戦いに戻ることと、艦の指揮をとることを改めてブレッドソーが宣言すると、
乗員はどうぞどうぞ、と新艦長にお守りをタッチさせてあげます。

ああやっぱり彼が艦長になると皆嬉しいんだ。
同じ命令をしても、受け入れられる人と反発される人がいるという・・・・(涙)

これはやっぱりゲーブルにとっては面白くない脚本だったと思われます。

そして豊後水道に戻った「ナーカ」は船団と護衛の「アキカゼ」についに遭遇しました。

作戦は輸送艦を攻撃し「アキカゼ」を引き寄せて、近づいたら艦首を狙う、
というリチャードソン艦長が立てたそのままです。


ところでこのシーン、あまりに不思議なので何回もリピートしてしまいました。
「ナーカ」の艦体が鋭角に浮上しているのにも関わらず、潜望鏡は
海面に対して90度の角度をキープしたままなのです。

潜水艦の潜望鏡がこんな動き方をするのも不思議だし、万が一それができたとしても
浮上の時にそんなことをするものだろうか、と疑問です。

「ナーカ」の放った魚雷に輸送船を撃沈され、見張りの水兵が

「〇〇ノセンビ、アカリアカリ」

と全く意味不明の報告をすると、「豊後ピート」艦長、(小説によるとこの艦長は
ナカメ・タテオという名前らしい)またもや

「取舵一杯、水中爆弾準備せよ」

 というか、いつも命令が水中爆弾準備せよだけなんですけど、
よくよく聞くとなんかこの人の日本語も少し怪しい。

魚雷を受けた輸送船の横をこちらにやってくる「アキカゼ」。
艦橋のてっぺんに大きな探照灯をくっつけて主砲はどう見てもMk12、5インチ砲。
うーん、どう見てもこれは日本の駆逐艦には見えませんがな。

それどころかマストもないし、ギアリング型でもなければフレッチャー型でもない・・・。

「ナーカ」の艦橋からは、「アキカゼ」のコースに合わせ、進路を決定、
いよいよ正面衝突です。
甲板まで浸水した位置で直進してくる「アキカゼ」に魚雷を打ち込むのです。

「艦を水平にしろ」(Rig out bow planes.)

「1500ヤード接近で魚雷発射」(Commence firing at 1,500.)

魚雷を放った次の瞬間、艦橋から降りて潜航です。
そして・・・・、

正面から放った二本の魚雷が「アキカゼ」を艦首から爆破しました。
リチャードソン艦長の作戦通りに、ついに宿敵「アキカゼ」を沈めたのです。

寝ながら首だけ起こしてアナウンスに聞き入っていたリチャードソン、
「アキカゼ」撃沈に湧く艦内の声に、安堵の表情を浮かべるのでした。


ところで、リチャードソンが昏睡状態の時に、彼がベッドで幻聴のようになんども聞く

「What is it, Sir?」

「I can't make that out.」

 「これはなんですか?」「私にはわかりません」という会話の意味が全くわかりません。
何か過去の任務で起こったことを思い出しているようなのですが・・・。

これも原作を読めば理解できるのでしょうか。





続く。

映画「深く静かに潜航せよ」〜秋風との対峙

2018-04-28 | 映画

映画「深く静かに潜航せよ」中編です。

今回冒頭に載せるゲーブルの絵を真面目モードで描いてしまい、
3カットこのタッチで描くのはキツいので、シリーズを2回で終わらせることにして
内容のペース配分を早めてしまったのですが、前編がアップされた後、
「続」編を楽しみにしています、という現役の自衛官からメールをいただき、
現役の声に弱いわたしとしては、もう少し細かく進めてみようかなという気になりました。

というわけで、今回は前、中、後編に分けることにして、
前回、「ナーカ」の艦長になるはずだった副長のブレッドソーに
艦長はごり押ししてきたリチャードソンに決まった、ということを告げにきた
人事の大佐その他について、ちょっと補足しておきます。

仏頂面でいつの間にかみんなの輪の外にいた大佐、
挨拶もそこそこに

「ギャレーにミルクはあるか」

「粉ミルクですが」

「構わん」

そしてギャレーでブレッドソーが粉ミルクを調合するのを待つ間、

「サブマリン・・・・肝臓を壊された。歳を感じてゾッとするよ」

などと軽口を叩き、

「君は潜水艦が好きか」

ブレッドソーが

「わたしは任務を志願したんです。もちろんです」

という言葉を聞きながらミルクを受け取り、一息で飲み干してしまいます。

 

実は今わたしは、行きつけのクリニックで体組織検査の結果勧められた
水溶ビタミンを朝晩摂取しているのですが、あまりにまずいので、
小さなコップに水溶液、横にチェイサーを置いて、一気に水溶液を飲み、
息をしないまま急いでチェイサーで匂いを洗い流す、という技を開発しました。

この大佐がミルクを飲む様子がまさにそれ。

ミルクが好きだから飲んでいるのではなく、肝臓を壊して医者に言われ、
仕方なく1日に三杯のミルクを飲んでいる人みたいな飲み方です。

ちょうどミルクの時間にブレッドソーに引導を渡す仕事をすることになったので、
この際潜水艦の粉ミルクでもいいや、とばかりにこれを所望したと思われます。

潜水艦勤務というのがいかに大変であるかを「身を以て知った」軍人、
ということが深読みすればわかる、なかなか印象的なシーンだったのですが、
冒頭の自衛官もここが

「この映画の”ツボ”だった」

と書いておられました。
何か思い当たる節がおありなんでしょうか(笑)

 

それから、作者のエドワード・L・ビーチは呉の潜訓に来た事があったとか。

実際に潜水艦に乗って日本軍と命の取り合いをしていた人なので、
その著書では日本人ディスりが激しい傾向にあるらしいのですが、
実際に日本に来て潜水艦施設を見るくらいですから、個人的な恩讐はなかったのでしょう。

たとえあったとしても、日本に来た後はそれも無くなっていたと信じたいですね。

もう一つ、映画について細かく突っ込んでおくと、陸に上がったリチャードソンと
ヨーマンのミューラー(ジャック・ウォーデンという名優)が
図演を行うシーン、テーブルの上にはご覧のように模型があります。

この模型は、ミューラーが

「施設のあっちこっちから盗んで来た」

図演用模型という設定ですが、模型に詳しい人に言わせると、
これは明らかにどれも

「レベル」Revell

というアメリカの模型会社の製品で、しかも50年台半ばに発売されたもの。
このうちUSS「ミズーリ」の模型でそれが顕著にわかるそうです。

 

そして、この脚本には大変な「穴」があることを知ってしまいました。

冒頭、豊後水道でリチャードソンの乗っていた潜水艦が「アキカゼ」にやられて
乗員は海に投げ出されます。

艦長のリチャードソンも、ヨーマンのミューラーも生き残ったということは、
このあと彼らは救助されて真珠湾まで帰還したということなのですが、
悲しいことに、1942年当時、まだ米国の艦船はこの区域に入って来ておらず、
したがってこの海域で艦を破壊され海上を漂流することになったが最後、
彼らは自動的に日本軍の捕虜になっていたはずだ、というものです。

いわばこの話の大前提なので、この決定的な矛盾は辛いものがありますね。

原作者のビーチ前川は軍人だったので潜水艦の操作運用については正確ですが、
残念ながら実際の歴史との整合性にはあまり拘らなかったようです。

 

さて、前回の続きと参りましょう。

かつての仲間を葬った宿敵「アキカゼ」に復讐するという、
ある意味軍人としてはあるまじき、私怨を晴らすという下心を持って
「ナーカ」の艦長に無理やり就任したリチャードソン中佐は、
打倒駆逐艦に特化した訓練を行い、これで駆逐艦「モモ」を倒します。

艦長の姿勢に士官連中は反発し、ついに造反の計画まで囁かれるに至りますが、
「ナーカ」は艦長命令により粛々と、「アキカゼ」のいる豊後水道に航路を向けるのでした。

海上航走の際の見張りはこうやって行います。
双眼鏡を見ながら肘が支えられる仕組みなんですね。

さて、その豊後水道で、「ナーカ」は日本の船団を発見しました。

「先導の船からやりますか」

尋ねる部下に艦長は

「あれは平底船だから(シャロー・ドラフトなデコイ)十発撃っても下を通過する」

とベテランらしい冷静な意見を。
こういう記述がいかにもサブマリナーだった作者らしいと思わされます。

この船団を護衛するのは艦長が遭遇を焦がれていた豊後ピート、駆逐艦「アキカゼ」でした。
どうして潜望鏡から見ただけで「アキカゼ」と特定できるのかはわかりませんが。

それをいうなら前回も遭遇するなり駆逐艦「桃」だ!と言っていましたが、
海上で見ただけでは艦種はともかく普通艦名までわからないんじゃ・・・。

 

それはともかく、艦長はまず船団の輸送船を攻撃することにし、
スピードがある「アキカゼ」は訓練通り正面から魚雷を撃つことにしました。

まず二本の魚雷で輸送船を攻撃。

いくら駆逐艦でもそのスピードはないわー、という信じられない速さでやってくる
我らが「アキカゼ」。
いくら速いと言っても、艦尾が完璧に浸水してるのはやりすぎと思うがどうか。

そして「アキカゼ」は「ナーカ」が照準をするより早く撃って来ます。

おまけにそのとき、空からも零戦隊が掩護にやって来て爆雷を落としてきました。
てかこれアメリカ映画には珍しく本当に零戦じゃね?

ギリギリまで「アキカゼ」を仕留めるにブリッジで頑張っていた艦長ですが、
航空機の攻撃があまりにも熾烈になったため、初めて潜航を命じました。

魚雷がこちらに向かってくるのを確認するや、隔壁の閉鎖を各所に命じます。

たちまち各区画の間にあるハッチがしめられていきます。
どこかに破損があって、そこが浸水しても被害を最小に食い止めるためです。

深く静かに潜航して、敵の攻撃をただ当たらないように祈りながら待つ、
潜水艦映画おなじみのシーンです。

この映画は、戦後に作られた潜水艦映画の名作中の名作と讃えられていて、
のちのいくつかの潜水艦映画にもこの映画へのオマージュや応用が見られるそうですが、
敵の攻撃を息を潜めて待つシーンについてはこれがオリジナルではありません。

この映画の影響は、「レッド・クリムゾン・タイド」「U-boat」などに顕著らしいので、
そのうち何かの機会に検証してみたいと思います。

一発目の魚雷は艦体を逸れて通過していきました。

ソナーマンが上に駆逐艦が停止したことを察知します。
「アキカゼ」が「ナーカ」の位置を特定したのです。

そして爆雷は雨あられのように撒かれはじめました。

そして、ついに・・・・・。

「ナーカ」の魚雷発射室に命中し、損害を与えました。

魚雷のスクリューが勝手に周り出したりしたとおもったら、
ハッチの鎹が損傷し、水漏れがしてきました。

ちなみにここにアフリカ系の水兵がいますが、1943年当時、潜水艦では
黒人は兵員食堂のコックか給仕としてしか乗り込むことはできなかったはずです。

よせばいいのに、魚雷発射室と連絡がつかないからと、わざわざ被害を見に行った
リチャードソン艦長、三発の爆雷が爆発した衝撃で床に転倒し、頭を打ってしまいます。

思ったのですが、どうせ見にいっても何の役にも立たないのだから、
艦長は本分を守って司令タワーから動かない方が良かったのではないでしょうか。

そして、乗員同士で賭けをしたとき、

「アンラッキー7」

に賭けて悪夢の第7海域を引き当て、掛け金を一人勝ちした若い水兵、
ジェシー君には惨劇が待ち受けていました。

爆発の衝撃で、留め金が外れ、そのショックでスクリューがぐるぐる回っていた
魚雷がラックから落下し、床に転倒していた彼を直撃したのです。
いやー、このシーン酷すぎて思わず声が出ちゃったよ。

艦長はジェシーの近くで倒れていたので直撃は受けませんでしたが負傷し、
ジェシー君を含む3人が犠牲になりました。

(-人-)ナムー

そして、トドメをさすまで諦めそうにない「アキカゼ」に対し、
これも潜水艦映画でおなじみの「死んだふり作戦」、つまり魚雷発射孔から
沈没したと見せかけるためにものを排出する作戦が取られることになりました。

「オイルを流出させ、毛布やギア、あらゆるものを射出しよう」

そこでリチャードソン、艦長として非情の命令を下します。

「さっき亡くなった者の死体を発射しろ」

潜水艦が偽装のために艦内のものを魚雷発射管から射出する、というと、
こんなシリアスな展開の時になんですが、1959年作品「ペチコート作戦」を思い出します。

日本の潜水艦ではないことを証明するために、アメリカ人女性の下着を射出する、
というこの時のクライマックスは、1年前に公開された本作のパロディだったのでしょうか。

だとしたらかなり不謹慎な気もしますが。

一瞬息を飲み、続いて「イエス・サー」と返事をするブレッドソー副長。

若い水兵の遺体をチューブに入れる時、彼らの表情にはえも言われぬ
苦衷と諦めの色が浮かぶのでした。

そして、遺体が射出されていく発射管の覗き穴を直視できないミューラー・・・。

あれ?この人ヨーマン(下士書記官)なのに何で魚雷発射室で仕事してるの?

魚雷チューブの独特の揺れと音を、潜望鏡の周りでただ黙って聴く艦長以下乗員。
今射出されているのはさっきまで一緒に戦っていた乗員なのです。

射出後、「アキカゼ」がこれに騙されてくれるか・・・・。

海上には射出された諸々が浮かび上がりました。
それを発見した「アキカゼ」の乗員、

「ヤッタ、ヤッタ、チンボツダ!」

だから日本語でおkっていってるだろ!(怒)

 

ところで、このシーンにおける「アキカゼ」艦長(中佐)の襟章、
なぜか金線が4本の土台に桜がついていますが、

こちらが本物ですので念のため。

潜水艦が沈没したと判断した艦長は、流暢な日本語で

「最大戦速、護送船に復帰せよ」

と命令、日本語でおkな部下が電話を取り上げて復唱する前に場面は切り替わります。
(きっと復唱できなかったんだと思う)

「スクリューの音が小さくなりました」

助かった!と皆でホッとするのですが、その時彼らは
何者かが発する不気味な通信音を耳にするのでした。(伏線)

というわけで最大の危機は去ったわけですが、ここでリチャードソン艦長、
懲りもせず、わざわざ「どうだ」と一言聴くために魚雷発射室まで出かけて行き、
そこで先ほどの負傷が祟って昏倒してしまいました。

だから艦長は司令塔で大人しくしていろとあれほど(略)

この時、魚雷発射室にやってきたリチャードソンが辛そうにしているのに
誰も気づかず、しかも倒れ込んだときも後ろの異変に御構い無しに
皆ぞろぞろと発射室(しかもまだここは修理が必要)を出ていってしまい、
艦長を支えるのがミューラーただ一人、というのが何やら切ない。


つまり艦長、乗員に基本相手にされてない(あるいは避けられてる)ってことでおk?

 

続く。

 

 


映画「深く静かに潜航せよ」〜豊後ピート

2018-04-27 | 映画

潜水艦映画について多くを語りながら、
今まで取り上げる機会を逸してきたのですが、最近何かと
潜水艦づいていることもあり、気合いを入れて今回この名作、

「Run Silent, Run Deep」(深く静かに潜航せよ)

に取り組んでみることにしました。

 

この映画が昔から潜水艦の戦闘映画として高く評価されているのは、
原作者の

エドワード・ビーチ少佐(Edward Latimer Beach Jr.)

が大戦中に「トリガー」「ティランテ」「パイパー」など
実際に潜水艦に乗り組んでいた人物だったと言う理由が大きいでしょう。

 

映画は1942年の豊後水道から始まります。

この「豊後水道」が、この映画では親の仇のように何度も出てくる
キーワードとなっているのですが、アメリカンの発音ではなぜか

「ボンゴ・ストレート」

となります。

映画冒頭、クラーク・ゲーブル扮するリチャーソン中佐が指揮する潜水艦は
日本の輸送船団の護衛に当たっていた

「豊後ピート」

とあだ名されるおそるべき駆逐艦「アキカゼ」と対峙しました。

これまで3隻ものアメリカ軍潜水艦を撃沈している「アキカゼ」艦長は
目の前をうろうろしている潜望鏡をあっさりと見つけて叫びます。

「潜望鏡、潜望鏡、水中爆弾投下」

こういう場合の命令としてこれが正しいのかと言われると多分違うと思うのですが、
まあ、俳優が日本人であるらしいだけましというものです。

この日系俳優はどこにも名前がクレジットされていません。

戦闘による名誉の負傷のつもりか、この「豊後ピート」艦長、
筋肉少女帯の大槻ケンジさんのようなメイクを目元にしております。

それに答えて横の乗員が

「スイチュウパクダン、ジュンピセヨ」

残念、こちらは「日本語でおk」な人でした。

船団に向かって魚雷を二発放ち、さてー、どうなってるかな?
と潜望鏡を除いたリチャードソン艦長が見たのは、なんと
こちらにまっすぐ向かってくる駆逐艦の姿でした。

慌てて潜航を命じる艦長ですが、轟音とともに・・・・

潜水艦はバラバラに。

映画開始からわずか2分半で帝国海軍との勝負はついてしまいました。

一年後、真珠湾基地。
リチャードソン中佐は、陸に上がって鬱々と臥薪嘗胆の、つまり
暇に任せて復讐のための図演をやって時間を潰す日々を過ごしていました。

図演には彼に心酔しているヨーマンのミューラーが付き合ってくれます。

「やった!これで200連勝です!負けたのは一回だけです」

「でもその一回は机の上じゃなかったしな」

「・・・・・・」

ついつい僻みっぽい愚痴を言ってしまうリチャードソン。
部下に気を遣わせてんじゃねーよリチャードソン。


ミューラーから、「アキカゼ」に撃沈された潜水艦がまた一隻増えた、
というニュースを聞き、心穏やかではないリチャードソン、
いきなり模型を机から叩き落とします。(おいおい)


そして、戦闘で負傷した艦長が艦を降りる潜水艦「ナーカ」(Nerka、ヒメマス )
の入港の噂を聞くや、何が何でもその艦長になったる!と一人で決心するのでした。

 

「ナーカ」が入港してきました。
この映画で「ナーカ」に扮したのは、「レッドフィッシュ」SS-395です。

「レッドフィッシュ」は戦争中、

「ぱとぱは丸」タンカー「第二小倉丸」「瑞穂丸」

「鳳山丸」空母「雲龍」

を撃沈、多くの船を撃破しています。
朝鮮戦争にも参加し、この映画のすぐ後に退役して標的艦となりました。

これまで副長だったブレッドソー大尉(バート・ランカスター)が艦長になるというので、
「ナーカ」の乗員はお祝いのジャケットをプレゼント。

ブレッドソーも大喜びでそれを受け取って皆ではしゃいでいると・・・

いきなり仏頂面の偉い人が乗り込んできました。
こういう人は大抵悪い知らせを持ってくるものです。

「これはなんだ」

「グッドラック・トークン(お守り)ですよ。
戦闘配置につく前にお尻を触ってやるんですよ」

にこりともせず、

「面白い」(interesting)

 

あれ?人事の大佐、今から戦闘配置なの?

案の定、偉い人のお知らせは、「ナーカ」の次期艦長はブレッドソーではなく
リチャードソンに決まったというものでした。

「彼は第7海域に詳しい。
ホットスポットの第7海域にはアキカゼがいて、4隻撃沈された。
参謀本部は彼に仇を討たせたいのだ」

「わたしではダメなんですか!」

「いやー、リチャードソンがかなり頑強にねじ込んできてねー」

というわけで怒り心頭のブレッドソー、自宅を急襲です。
そんな彼に向かって、リチャードソン、呑気に

「防虫剤のスプレーとって?」

「お断りします!」

要するに彼は、艦長だと思っていたのに今更副長なんてできねえ!
部下の手前もあるしいっそ艦から降ろしてほしい、
ということを言いにきたのでした。

「君の気持ちもわかるが、これも上からの命令でね」

「命令じゃないでしょう。あなたが彼らのところに行ったんだ。
かわいそうな(sad)人事の司令官のところに」

「とにかく君の申し出は断る。これはわたしからの命令だ」

「うっ・・・・」

おまけに、

「主人をお願いね」(ニコニコ)

命令に加えて奥さんにこんなことを言われたら、
ジェントルマンの軍人としては
いやでも

「お任せください」

って言わざるを得ませんわ。

憤懣やるかたないブレッドソー副長の思惑を乗せたまま「ナーカ」号は出航。

乗組員はどの水域に出陣することになるか、賭けを始めます。

「僕は7」

「なにいいいい?」

誕生日が7日だからという理由で「7」に賭けたジェシーくん、
皆に縁起でもない、アホタレが!と突っ込まれて涙目。

ところで、彼の後ろの魚雷発射管の蓋には日本の国旗のペイントがありますね。
実際に「レッドフィッシュ」はここから、日本の船を攻撃していたのです。

そして艦長がいよいよどの海域に出撃するかを告知する時がきました。

「当艦の進路を第7海域に向ける」

「うっわ・・・・最悪」

 

問題の豊後水道は避ける、とする言葉に皆は一応安堵しますが、
ヨーマンのミューラーは驚いて手を止めます。

艦長、「アキカゼ」に復讐するんじゃなかったのか。

「ナーカ」は訓練を行いながら豊後水道を避けて第7海域に進みます。

その訓練とは、深度50フィートで魚雷発射できるよう、
潜行と同時に潜望鏡をあげ、艦が平行になると同時に射つというものでした。

訓練は執拗に繰り返され、何回やっても満足しない艦長の

「ダイブ!ダイブ!」

が何度も艦内に響き、そのうち士官の中には疑問を持つ者も現れます。

「どうして豊後水道を避けるのにこんな訓練をする必要がある?」

さらに、初めて遭遇した日本の潜水艦に対峙せず、これを見逃す艦長に、
兵の心にも不満が芽生えていきます。

「これは出撃じゃない。”模擬出撃”だ」

「艦長は敵が怖いんだな」

士官室でも新艦長の評判は散々です。

「彼の慎重さに感謝しなきゃな。石橋を叩いてまだ渡らない」

「ドリルマスター(訓練の達人)の艦長に乾杯!」

そんな士官をなだめるブレッドソー副長も皆から孤立していくようでした。

 

そんなある日訓練で事故発生。
甲板にゴミ捨てに出た人を置いたまま、「ダイブダイブ」をやっちゃったのです。

「危うく死者が出るところだった。訓練の責任は君にある」

艦長は副長のブレッドソーを頭ごなしに叱りつけ、カチンときた彼は、

「いくら訓練をしても艦長が攻撃する気がないなら無駄です」

と言い返してしまいます。

しかしついに艦長が戦闘命令を下す時がやってきました。
大型タンカーを護衛する駆逐艦「モモ」に遭遇したのです。

「モモ」って、もしかしたら「雑木林」と言われた「松型」の4番艦「桃」のことかな?

「桃」は実在しましたが、1944年からだだーっと作られた駆逐艦なので、
1943年という設定のこの頃にはもちろんまだ存在していません。

なぜ「モモ」にしたかについては、わたしは

「アメリカ人にとって発音しやすかったから」

の一点だと思っています。
「アキカゼ」も全員が発音に苦労してるんですものー。

タンカーをやられて初めて「ナーカ」に気がつく駆逐艦「桃」の見張り。
そんなことで護衛艦が務まるか!

右側の士官はその報告を受け、

「〇〇舵いっぱい、なんとかなんとか」

と言いますが、残念ながらこの人の日本語も全く聞き取れません。

戦闘態勢になって甲板を走ってくる「桃」の乗員ですが、こんな時に全員が
第一種軍装を着込んでいるのはおかしいと思います。

それから、水兵さんたちが全員長髪なのでアウト。

向きを変えてこちらに直進してくる駆逐艦「桃」。

臆病な艦長のことだから多分潜航して逃げるだろうと皆が思っていたら、
正面から駆逐艦を迎え撃ち、潜行して艦隊が平行になった途端、魚雷発射!

そう、つまり訓練はこのためにやっていたのです。

「アキカゼ」との対決では、正面からくる「アキカゼ」から逃げたのが敗因だったので、
艦長はそれを克服すべく訓練を繰り返したのでした。

 

現金なもので、乗員たちは

「艦長はわかってる!」

と手のひらぐるんぐるんに返して褒め称え始めました。

「正面から突っ込んでくる駆逐艦を見て震えたが、艦長は落ち着いたもんさ。
顔色一つ変えず魚雷発射を命じてた!」

 

しかし、士官には懐疑的な者もいました。

「潜水艦を無視して駆逐艦には全力で・・・・
あれはなんかの実験なんじゃないでしょうか」

いや、実際そうなんですけどね。
リチャードソン艦長の目的は、「アキカゼへの復讐」一点なのですから。

次にリチャードソン艦長が輸送船団を見逃した時、ついにブレッドソーはキレました。
艦長の命令した航路を自分で割り出すと、行き先はまぎれもない豊後水道。

「豊後水道に行くつもりですか?」

「そこにアキカゼがいるからな」

「行かないと言っていたのに?」

「命令はその状況に応じて変わる」

いやー・・・これは艦長としてアウトじゃね?
最初っから豊後水道にいくつもりしていたのに、皆に隠していたわけだから。

「あなたは魚雷温存のために潜水艦を見逃し、艦首攻撃のために船を危険にさらした」

「我々は艦首攻撃でモモを沈めた。またやれる」

「相手はアキカゼです。艦首攻撃はアドバンテージなんかじゃない。
失敗したら軍法会議ですよ」

「失敗などせん」

「人の命がかかっているのに何を言い切ってるんですか」

もはや、リチャードソンは「ナーカ」を「アキカゼ」への復讐のために
恣意的に利用しようとしているとしか思えません。

ていうか実際にそうなんですけどね。

やはりキレた士官連中はブレッドソーに謀反をそそのかしますが、
漢の彼はそれをきっぱりと断ります。

艦長の意見には絶対反対ですが、海軍の男として
彼の矜持がそれだけは許さないのでした。

「艦長の腰巾着」と言われて士官と喧嘩したミューラーが、
艦長にその一部始終を報告しています。

「大尉は謀反をはねつけましたよ」

「そうだろうな」

「なあミューラー、俺も馬鹿者かな」

「は?」

「副長はそう思っている」

「本当にアキカゼをやれば誰も文句はないでしょう。
我々は前にアキカゼにやられた時とは違う」

「そう思っていいかな」

「豊後ピートの葬式を出してやりましょう」

 

潜水艦長として、復讐を任務より優先させるリチャードソン艦長。
彼に賛同してくれるのはミューラーだけというこの孤独な状況で、
宿敵「アキカゼ」と戦うことはできるのでしょうか。
 

続く。



ブートキャンプとスチールビーチ・パーティ〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-04-26 | 軍艦


Enlist、という単語はそのまま訳すと

「軍隊などに進んで入隊する」

という意味があります。

enlisted manとは〔男性の〕下士官兵のことで、省略形はEM。

enlisted personnel
enlisted soldiers

という言い方も同じく下士官兵のことです。

それでは女性はどうなるかというと

enlisted woman

階級的には将校(commissioned officer)の一つ下、
准尉(warrant officer)のひとつ下までを言います。

ここからは、その下士官兵の制服が展示されています。

まず、この制服はレイティングではなく赤十字を付けています。
医療関係であることが一目見てわかるようになっています。


首からボースンズ・パイプ(サイドパイプ)を吊り、胸ポケットに入れています。
ボースンズパイプとは、日本語では号笛といい、マイクを通してお知らせの前に
その内容を告知する意味で使われたり、舷門では艦長や艦隊司令など、
「偉い人」が乗るときに吹鳴する笛のことです。

それからこの制服を見て初めて気がついたのですが、米海軍のセーラー服の
袖カフスのライン、横に長〜〜〜い「日」の形をしています。

わたしの出た中学はセーラー服だったわけですが、ラインは端まで伸びていました。

日本は帝国海軍の時代から袖にカフスがなく、したがってラインもありません。
現在の海自の海士の制服も昔と同じです。

左はどちらも1864年当時ですから、南北戦争時代の水兵服です。
アメリカ史では北軍・南軍という用語の代わりに、この時代のアメリカ合衆国を
特にユニオン(Union)、その軍隊をユニオン軍といいます。

「Petti Officer Union Navy」

は北軍の海軍下士官、ということになります。

そして右側のSeaman(水兵)は"Confederate Navy”

これはアメリカ連合国海軍、南部連合軍の海軍という意味です。

当然ですが、南北に分かれていたため軍服は二種類あるわけです。


右側の額の二人は1905年、日露戦争当時の下士官兵で。
左はCPO (上等兵曹)、右は Coxswain(舵手)です。

どちらも第二次世界大戦の頃のユニフォームで、
真ん中の人は喇叭手(Bugler)です。

なぜか冬服と夏服の水兵さんが一緒にいる光景。
なぜか張り切って指を立てる下士官。(人差し指ですので念のため)

左袖二の腕部分に付いているラインは「年功章」といい、
一本につき3年勤め上げたことを表します。

これを「フル・ドレス」または「パレード・ユニフォーム」と言います。
ブルーの「ジャンパートップ」、ズボンのボタンは13個。
セーラー服のタイと靴は黒。

映画「ペチコート作戦」でボタンが13個のわけ(建国時の州の数が13)
についてわざわざ言及するシーンがありましたね。

そしてこのパンケーキのような帽子を「ホワイトハット」と言います。

メダルの類は左のスラッシュポケットに縫い付け、
リボンなどが付いたものは公式の場に着用しました。

このアフリカ系のシーマンはまだ勤続3年以上5年以下です。

彼は航空徽章を付けていて、レイティングも「エアー・クルー・マン」です。

オペレーター、メカニック、ナビゲーションに提出するレーダーでの探査、
電子機器での操作などを行っている部署の水兵さんです。

このユニフォームを「サービスドレス」「ホワイトユニフォーム」と言い、
検査と航海中の穏やかな天気の時に着用しました。
軽量の「ダッククロス」(キャンバス地)でできていて、熱帯地域でも
快適に過ごすことができる工夫がされていました。

これもメダルをリボン付きに変えることで、フォーマル仕様になります。

素材が「ダンガリーシャツ」なので「ダンガリー・ワークウェア」

この作業用の軽いシャンブレーのシャツは長袖、半袖とあり、
下にはダークブルーのズボン(ジーンズに見えますが違います)。

このスタイルは作業中灰色か白の艦体から見分けやすい色となっています。
ブルーの野球帽には必ず艦名が入り、白い帽子とはデッキの天気で
使い分けられました。(軍人は傘をささないのでこの選択は重要です)

これに黒のベルト、作業靴、(ブーツ)を合わせると完璧な水兵スタイルです。

我が日本国自衛隊でも作業服は日常着にしては鮮やかなブルーを採用していますが、
一にも二にもこれは艦上で見分けられる事を目的としています。

「 BOOTCAMP LOCKER INSPECTION」

海上での生活環境というのは、狭さとの戦いです。(多分)

1970年ごろ、CPO以下の下士官兵は一つのロッカーに
全ての個人携帯物を収納しなくてはなりませんでした。

もちろん今でも似たようなものだと思います。

このロッカーはその一例ですが、全ての水兵たちにとって、
自分の持ち物を収納する空間を見つけることはちょっとしたチャレンジでした。
物を持たなければいいんですが、勤務上どうしても持っていないとならない、
必要最低限のものを直すにも、大変な苦労だったのです。

一応はよく考えられていて、海の男として勤務に必要な最低限の荷物は
きちんと治るように設計されていました。

そして、これが一人の水兵の荷物全て。

新兵教育(Boot Camp)の一つに、荷物の整理の仕方、というのもあります。
ご覧のグッズは、彼らがどのように衣類などを収納したか、私物をどのように
検査されていたかということを見本で示しています。

これを叩き込むことで、新兵は

「フネの上で暮らすとは、狭さとの戦いであり、それをどう克服するか」

の初歩段階を知ると言われます。

これだけしか荷物が持てないのに、洋服ブラシ、靴墨に靴ブラシは一人1セット。
洋の東西を問わず、海軍というのが身だしなみにいかにうるさかったかの証でしょう。

自衛隊ではどうか知りませんが、アメリカ海軍のおしゃれな若者は、
艦が港に入るとそれこそ目一杯着飾って上陸するのだそうです。

もっとも、わたしは「着飾っているアメリカ人の男」というのをこれまで
あまりというかほとんど見たことがありません。

どこに行っても、夏はTシャツに半ズボン、ベースボールキャップにサンダルという
基本のセットに若干のバリエーション(タンクトップに運動靴とか)があるのみです。

ですから、この「着飾る」の意味がわからないのですが、艦隊勤務の場合、
乗員は起きているときは作業服、寝ているときは下着というアイテムの繰り返しなので、
普通のアメリカ人よりはフラストレーションが溜まるのに違いありません。

というわけで、彼ら基準で言うところのおしゃれな若者は、ネックレスをつけたり、
指輪をはめたり、香水を振ったりしてめかしこんで上陸するのです。

 

寄港している時には上陸という楽しみがありますが、出航して長期の航海に出ると、
海軍では乗組員たちのために時々は気晴らしを企画します。

艦上での慰問コンサートだったり、映画スターの慰問だったり
(ミッドウェイには一度ブルック・シールズがヘリで飛来したことがあるらしい)

「スチールビーチ・ピクニック」(鉄のビーチでのピクニック)

と呼ばれるフライトデッキでのパーティだったりするのです。

このスチールビーチ・ピクニックは、必ず出航して45日目に行われる、
ということが決まっており、大抵は一回だけで済むのですが、
一度、「ミッドウェイ」がどこの港にも入らず、111日間、
航海を続けた時には、二回行われたということです。

スチールビーチ・ピクニックは、艦載機を全て艦首に集めて、
中央から艦尾にかけての部分を「ビーチ」ということにし、
特設ステージを用意してバンド演奏(おそらく皆乗員)が行われ、
乗員たちはあちこちで歌ったりビールを飲んだり、あるいは
その辺に用意されているビニールプールに入って本当に「海水浴」をします。

一階下のハンガーベイではその間ボクシング大会やバレーボール大会が行われ、
勝者にはちゃんとトロフィーも用意されます。

そしてメインはやっぱりバーベキュー。

アメリカ人のピクニックはバーベキューがなくては始まりません。
ということは、「ミッドウェイ」にはバーベキューセットが
一つならず搭載されていたということでもあります。

グリルはデッキ最後尾に用意されて、ハンバーガーやホットドッグ
の具を次々と焼いていきます。
(アメリカ人のいうバーベキューとはハンバーガーとホットドッグのこと)

こんな時だからビールも飲み放題かと思ったらとんでもない。

一応アメリカ海軍は「艦内での酒禁止」を公的には謳っているいるので、
スチールビーチでしか出てこないビールも、一人二本だけと決まっています。

乗員には前もって二枚のビール券が渡され、それ以上飲めないのですが、
そこはそれ、名前が書いてあるわけではないので闇の取引が行われ、
ビールを飲めない者も高値で売る目的でビール券を購入するというわけ。
(せこい)

甲板では冷え冷えのビールなど望むべくもないのですが、それでも
若い連中はそんな生ぬるいビールを最高で20ドル出して
闇取引で購入していたということです。

ちなみに、スチールビーチ・パーティは問答無用の全員参加。

なぜならその日は艦内の食堂は全て閉鎖、
お腹が空いたらフライトデッキでバーベキューを食べる他ないからです。

この日ばかりは、艦長もこわーい副長も、水兵と同じ場所で
同じハンバーガーやホットドッグにかぶりつくというわけです。

 

続く。

 

 

 

 


兵器庫とサス・ケージ〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-04-24 | 軍艦

 

ここ空母「ミッドウェイ」のメインデッキ見学が続いています。
この階に展示されているクルーと士官のメスつまり食堂など、
施設を見学して一巡してくると、だいたい30分かかって
元のところに戻ってくるようになっています。

この案内図を見ると、設備は全て艦尾側にあったことがわかります。
赤丸のツァー開始地点には兵員用のメス、艦体の中央部分にギャレーがあり、
艦尾まで行って帰ってくるとまたギャレー部分が現れるというわけです。

艦尾のある位置に来ると、階下に機械室が広がっているのが見えました。
ここは上から見学するだけで見学は許されていません。

眼下には

AFT EMERGENCY DIESEL GENERATOR
(艦尾 非常用ディーゼル発電機)

が見えていました。

発電機など電気関係の機器がある階で、関係者しか立ち入りを許されていません。

続いて赤いドアのある部屋の小窓越しにやりとりしている警衛あり。
ドアには大きな「W」の文字、ここは

SHP'S ARMORY (艦内兵器庫)

で、小型の武器、たとえばピストル、ライフル、ショットガン、手榴弾、
煙火を発する火器一式などがここで管理されていました。

gunners mate(砲手)が沿岸をパトロールする際に使用する、
あるいはセレモニーで使用するための武器です。

ドアの「W」はWeaponの意味があったんですね。

武器庫内部の写真。
「マガジン」と言います。

マガジンはこの階ではなくこの階下にありました。

小さな武器を受け渡しする窓口の前部には金網のドアが敷設されています。
当時からあったのか展示を保護する意味で作ったのかはわかりません。

小さく開けた窓口越しにピストルを受け取っているのは、袖に
錨が交差したボースンズメートのレイティングを付けた乗員。

ちなみに、このレイティングのウィキが大変面白いのであげておきます。

List of United States Navy ratings

ビルダーは指矩、料理のスペシャリストは本の上に鍵(秘密のレシピ?)
音楽隊は竪琴、ヨーマンは羽ペン、インテリアコミニュケーションは
地球儀の上に電話(今でもそうなのかしら)。

アメリカらしいなと思うのが「レリジョン・プログラム・スペシャリスト」
これは文字通り宗教の行事に関わる部門の専門家のこと。

行政と予算関係で従軍牧師の補助を手がけるのが主な仕事で、
宗教関係文書を保管し、地域機関や聖職者との関係調整を行います。

礼拝や宗教教育、ボランティアプログラムを企画し、ライブラリ、
牧師のオフィスを監督し、行政事務や秘書業務を行います。

また宗教的なプログラムによる訓練を通して宗教活動を行うという、
従軍牧師とは別に属する組織なのです。

宗教が人心の支えになっている欧米ならではですね。

武器(その他器具、腕章含む)などは「 Officer Of the Deck」
OODと呼ばれる士官、あるいは下士官兵であるジュニアOODが受け取ります。

またマリーン・デタッチメント(MARDET)という部門は
こことは別に武器庫を持っていて、独自に管理していました。

武器庫の右手にはエレベーターがあります。

これは階下にある武器庫に武器類を出し入れするために作られたものです。
確かに武器を持って階段を上り下りするわけにはいかないですが、
そのためだけにわざわざエレベーターを作ってしまうんですね。

エレベーターシャフト越しに下の階をのぞいてみました。
武器を扱う人が着る赤いシャツの乗員が、弾薬の整備をしているのが見えます。

ケージは下の階にあり、今武器を上に運んで来るという設定です。

この写真の右下の写真が、このエレベーターがハンガーデッキに到達したところです。

なぜエレベーターでわざわざ下から持ってこないといけないかというと、
空母の武器類はできるだけ船底の、船殻に近いところのマガジンに収納するからです。
ここにあるような武器運搬専用のエレベーターシャフトは魚雷や爆雷などを
マガジンからここセカンドデッキにあるメスデッキエリアまで運ばれます。

低い階にエレベーターがあるという意味は、4階下にあるマガジンと
直接的に連結できるということです。

セカンドデッキからハンガーデッキには別の武器エレベーターが開通しています。

こうやって分けることによって万が一運搬中にが爆発した場合、
ダメージを最小に止めることを目的としています。

要するに、最初に武器の収納ありきで軍艦というのは設計されており、
これがため、少々おかしなことも起こります。

 

皆さんもお気づきかと思いますが、この武器受け取りのエレベーターは、
見学通路の途中、すなわちギャレーの動線にありまして、つまり
爆弾専用のエレベーターが食堂のど真ん中にあることになるのです。

わたしも最初この配置には首を傾げずにはいられませんでしたが、
爆弾の艦底での収納場所からエレベーターの位置はここしかない、
ということでそういうことになったのでしょう。

万が一、実際に爆弾を実戦で扱うような事態になったときには、
誰もご飯を食べている場合ではありませんので、同じ場所でも不都合はないのです。

 

ただ、普通に「ミッドウェイ」では訓練も行うわけで、訓練中には
数千人の乗員のうち誰かが食堂でご飯を食べているわけです。

というわけでその人たちは、食事中、馬鹿でかい爆弾が
食堂を突っ切っていくというシュールな光景を目にすることになりました。

 

冒頭の写真の入り口のような施設を「サス・ケージ」と言います。

「サス」が何をサスのか、これは日本語の本で読んだのでわからないのですが、
このサス・ケージ、艦内にはここ以外にももう一箇所ほど存在しているそうです。

ご覧のようにワンウェイミラーになっていて向こうからは見えても
こちらから中を見ることはできないようになっています。

ケージの中にいるのは海兵隊員で、窓の前に座っていつでも見張りをしており、
前に誰かが立つだけですかさず対応してくる仕組み。

このマジックミラー越しに入室許可証を出してきた関係者だけが
中にはいることができ、大変厳格でした。

初めて「ミッドウェイ」に乗ったものは、大抵
このサス・ケージの真っ黒な窓の向こうに何があるかがどうしても気になって、
つい顔を窓にくっつけて中を覗こうとします。
すると、中にいる海兵隊員が

「こらあっ!すぐそこをどけえ!」

と大声で怒鳴ってくるのです。

なまじ食堂への通路にあったりするので、好奇心に駆られる水兵は後を絶たず、
1日になんども前に立って顔を押し付けてくる間抜けヅラを怒鳴りつける
海兵隊員も、いい加減うんざりしていたことと思われます。

 

 

ところで、かつて「ミッドウェイ」の下士官だった「ミッドウェイ」の著者
J. スミス氏が
初めてサンディエゴの「ミッドウェイ」を見学したとき、この部分は
艦内ツァーの対象にもなっておらず、パンフにも乗っていなかったようです。

おそらく、このような人形もその頃はなかったのに違いありません。
スミス氏が「ミッドウェイ」を訪れたのは、彼女が博物館としてオープンした
2004年のことで、もう14年も前のことなので、無理もありません。

この本が書かれた時に著者がインタビューした博物館のマーケティングディレクター、
スコット・マックガウ氏は、

「ミッドウェイの博物館への変身は最長10年かけて行う予定である」

と言っており、そのころの「ミッドウェイ」は博物館というより
ほとんど現役時代の空母そのままを展示しているようなものだったとか。

(それはそれで意味があるのでは、という気もしますが)

 

ついでに「ミッドウェイ」の博物館化までの話をしておくと、
サンディエゴ市が日本での任務を終え、1992年に退役していた
「ミッドウェイ」を博物館にする計画を起こしたのは、1996年のことです。

1997年に除籍になった「ミッドウェイ」はその後オークランドでドック入りして
2003年にサンディエゴに回航され、次の年にはもう博物館として公開されています。

最初は一般公開している場所も非常に限定的であったそうですが、
ディレクターのいうように、10年をめどに展示を整備していき、
甲板の航空機や映像コーナー、そしてあちこちの「ミッドウェイ」人形など
充実を図ってきた結果が、現在の展示艦「ミッドウェイ」の姿です。


現在「ミッドウェイ」が係留されている桟橋は、もともと海軍の所有でしたが、
オープンの3年前に、急に海軍が権利を放棄する決定をしたので、
複数の連邦機関が桟橋の所有権を欲しがって動き出したと言うことがあり、
それは博物館「ミッドウェイ」オープンへの最大の難関でした。

マックガウ氏ら関係者はワシントン詣でをして嘆願を行い、
桟橋の所有権はサンディエゴ市の港湾局に渡って一件落着したそうです。

しかし、その間博物館への寄付金を募ることができず、大変だったとか。

「ミッドウェイ」の運営と、次の大きな問題だった環境に対する税金は
全て寄付金で賄いました。

また、環境問題の他にも、「ミッドウェイ」係留によって海岸線の景観が損なわれる、
という理由で博物館を許可しない、と言う事を言ってきた州政府組織もありました。

このことが公聴会で図られることになった時、なんとしてでも
「ミッドウェイ」博物館をオープンさせたい人々は作戦を練りました。

公聴会がテレビで放映されることになったので、推進派はサポーターを集め、
このプロジェクトが多くの市民のサポートを得ている事を強調しようとしたのですが、
公聴会では発言のあと拍手をすることが許されていません。

そこで、500人のサポーターには小さな国旗が配られました。
賛成発言が終わるたび、声を出さず、全員で一斉に旗を振ると言う作戦です。


このような努力が実を結び、全会一致で「ミッドウェイ」博物館のプロジェクトを
推進する許可を得ることができたということです。


こういった事をマックガウ氏からインタビューで聞いたあと、
かつて下士官としてここに勤務し、やっぱり好奇心に駆られて小窓を覗き込み、
海兵隊員に怒鳴りつけられたスミス氏は、ここぞと

「特殊兵器格納室を見せてください」

と頼んでみたそうですが、

「まだ照明と消火設備が整っていないので消防署によって現場は封印されている」

ということで、あっさりと断られたということです。

ちなみに特殊兵器庫をガードしている海兵隊員はM-16を手にしていて、
海軍軍人だったスミス氏からみても「とても怖かった」とか・・・。


それから14年経った今も、「ミッドウェイ」の特殊兵器庫はまだ公開されていません。



続く。



 


彷徨える日本人の幽霊〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-04-23 | 軍艦

空母「ミッドウェイ」のランドリーコーナーを見学しました。
まだまだ続く展示を先に進んでいきます。

コード的なものを巻いておくものが壁に設置されています。
こういうどうでもいいようなものも一応撮っておくことにしています。

クリーニングのために0830から1000までは施錠する、
ということがドアに書かれていますが、肝心の

MIDWAY INST

という部門が何かはわかりません。
インスティチュートかな?
今ならインスタグラムもINSTだけど・・・。

おおっ、もしかしたら後ろに積んであるのは札束でしょうか。
乗員のスナイダーさんは

「ペイデイ(給料日)は女房に40ドル送ることになってたよ。
そのお金で彼女は各種支払いをするのさ」

としみじみと語っています。
1962年ごろというと日本ではドルが360円だった頃です。
日本円だと今の14万4千円になりますが、向こうの感覚ではもう少し安かったはず。

しかし、お給料は札束で支給されたんですね。
今でもそうですが、アメリカのお札の最もよく使われる単位は20ドルで、
こちらで購入した50ドルや100ドル札をペラっと出すと、レジの人は
マジックインキの茶色みたいなマーカーで印をつけて、本物かどうか
確かめたりします。

滅多に高額紙幣を見たことがないので、しげしげと眺めて透かす人もいます。
マーカーは、偽札ならペンの跡が残るけど本物なら残らず消えてしまう、
という便利もの。
これを使う時、お店の人はちょっと嬉しそうにします。
レジにいつ100ドル札が来てもいいようにペンを常備してあっても、
滅多に出番がないので、やっと使う日がキター!
という達成感みたいなのがあるのかもしれません。

話が逸れましたが、そういうわけで、電子マネーでない頃には
これがペイデイのありふれた光景であったというわけです。

 

ドアにかかっているバッグ、さっきもどこかで見たなあ、と思ったら、
士官用食堂の料金徴収ブースの中でした。

個人用でなく、仕事で何か(お金?)を運ぶためのバッグだと思われます。

この階段を登ってしまうとまたハンガーデッキに戻ってしまいます。
階段の下に謎の穴が空いていますが、ハッチを開けた時のハンドルが当たらないように?

売店でタバコとか歯ブラシを購入している乗員。

「艦内の売店ではなんでも買えたよ。
上は150ドルのロレックスから、下は15セントの歯磨き粉まで」

H .カーマイケル(もしかしてホーギー・カーマイケル?)さんは
このように言っておられます。

1962年なのでこれも日本円にすると・・・ロレックスが5万4千円?

物価指数で計算し直してもこれ今の10万8千円にしかならないんですが、
ロレックスってこんな安い時計でしたっけ?

不思議に思って調べてみると、アメリカが自国時計産業保護を行っていた時期、
ロレックス社はケースやムーブメント部品を輸出し、
組み立て工場を設立して、北米で生産をしていたことがあるそうです。

つまりセカンドラインなら10万円でロレックスが買えたということみたいですね。
ひょんなことからどうでもいいことを知ってしまった(笑)

あるいはロレックスは軍人割引?対象だったかもしれません。
ダグラスさんの思い出によると、

「マルボロ一箱がたった10セントだったよ!」

ということですから。
これも換算してみると当時の36円、現在の価格だと360円ですが、
日米の物価の違いがあるので今の180円って感じかな(適当)

今JTの価格表を見てきたのですが、タバコって400円もするんですね。

さて、シャワー室にやってきました。
オフィサーズ・アイランドの一角なので士官用だと思われます。
ドアの外に洗濯バッグやガウンをかけて今使用中。

なんと、ここにやってくると「ジャー」という水音と、
シャワーを浴びながら誰かが鼻歌を歌っているのが聞こえてきます。

セントラルヒーティングも完備のシャワールーム。
ただし時間は1分半で済ませてね。

1分半だと一曲歌い終える前に時間になってしまいますが。

洗面セットを持ち込んでいる人もあり。
歯磨き粉はアメリカでおなじみのコルゲートです。

洗面台に大理石柄のデコラボードを貼ってあるあたりが士官用って感じ。

ちなみにシャワーのお湯はアメリカ海軍では真水です。
海水を真水にする担当の係、というのがいて、彼らは自分たちの仕事に
大変な自信と誇りを持っていたそうです。

それだけ昔はすごい技術とされていたのでしょうか。

ただし、シャワーのお湯はなんとなくヌルヌルしていて、石鹸も落ちにくく、
その日によって微妙に成分も違うという感じだったそうです。

まるで海水そのもののようなしょっぱい日があるかと思えば、
なぜかジェット燃料JP-5の匂いがすることもあるなど、安定していませんでした。

そしてお湯の温度も全く一定でなく、真冬の日本海を航行する時には冷水、
時として熱湯が出てくるときもあって、なかなか大変だったそうです。

冷水の方が気合いを入れればなんとかなるだけマシで、熱湯の場合は
一瞬ボタンを押して霧のような熱湯を何度かに分けて浴び、
此れを以てシャワーとする、みたいな体の洗い方をせねばなりません。

こんな時にはシャワー室のあちらこちらから悲鳴が聞こえてきます。
とても鼻歌など歌っている場合ではありません。

兵たちは、悲鳴が聞こえてくると腰にタオルを巻いたまま、
別の、状態のマシなシャワーを求めて艦内をうろうろすることになります。

よそのコンパートメントでも、マシなお湯が出るという情報が広まると、
あっという間にそこに行列ができることになるのです。

今の空母は原子力ですからおそらくこんな悲劇はないでしょう。
たとえあったとしても、普通に女性軍人が同居している艦内で、
タオル一枚で歩き回ることはもはや不可能です。

トイレットだったと思います。

床は全体的に緑のタイル張り。

階段の下を覗いてみると、そこは兵員用の居住区の様子が少し見えます。
ロッカーから洗濯物をランドリーバッグに詰め終わったらしい人がいます。

その向こうに脚だけ見えている人がいますが、影を見る限り
このマネキンは「下半身だけ」の可能性があります。

なかなかのイケメン青年、ローズボロ君が上半身裸で荷物の搬送の真っ最中。

「UNREPは全く面白くない仕事だったよ。
洋上での再補給をこなすと背中が痛むほどだった。
何時間も、作業終了まで箱が次々とやってくるんだ」

UNREP(underway replenishment)

は進行中の洋上で燃料や軍需品、日用品などを船から船へ移動させる作業です。

洋上補給=アンダーウェイってことでOK?

キャプテンズ・コール・ボックス。

つまり艦長に何かを直訴するための目安箱というわけです。
船という運命共同体を住処とする海軍では、こと船の安全については
意見具申を末端から上に上げることのできる組織と言えます。

いじめや各種ハラスメントについての訴えもあったかもしれません。

ここにも補給でクレートを積み込んでいる写真がありました。

「我々が積み込まなくてはいけないクレートっていうのは本当に
大きくておまけに重いものばかりだったんだ。
チームワークで皆協力して運ばなければいけない。

再補給に11時間かかるっていう”最高記録もあったよ」

あの、その11時間の間に食事くらいはもちろん取れたんでしょうね?

こちら、補給部門のオフィスの様子です。
職場が・・・・狭いです。

「補給オーダーはトイレットペーパーからテレタイプのテープまで、
ありとあらゆるものが毎日机の上を行き来していたよ」

J.リンカーン

映画「ペチコート作戦」劇中、実話として、ある潜水艦の艦長が、
補給部門に見本付きで送ったトイレットペーパーの要請を無視され、

「諸君は本品の代理に何を使えというのか」

と気色ばんで補給処に手紙を送ったことが紹介されていましたっけね。
トイレットペーパー・・・人間の尊厳を守るためにも必要です(笑)

高圧電流が流れている「何か」。

この出入り口の上をみてください。

STARBOARD OPEN

POET LINE OPEN

という二つの電光掲示があり、右側の『スターボード』が点灯しています。
右舷と左舷を意味するわけですが、これが何かというと、

「チャウ・ライン」

すなわち食事を待つ列に並ぶ許可を表しています。
空母は巨大な都市なので、特に給料日は郵便局や食事の列が混雑し、
長蛇の列となってしまいます。

そこで、左舷、右舷に居住区がある人員を分けて、
「今並んでいいのは左舷側の乗員」として混雑緩和をしたのです。

そんな状態ですから、食事にはゆっくり時間をかけることは許されません。
ほんの数分で空腹を満たすと、すぐに彼らは次にテーブルを譲り、
仕事へと帰っていくのです。

アメリカ海軍に限らず、自衛隊でも一度経験すれば「早寝早食い」は
もう身についてしまうと言いますよね。

 

ところで冒頭写真をみてください。

床にあるハッチを開けて作業をする場合には、ご覧のようなネット状のガードを置いて、
間違って人が落っこちてしまうことを防ぎました。

これが置いてあっても上を歩かないでね、と書いてあります。

それから、ハッチを開けておくことによって、

「中に人がいる」

ということを知らせることにもなりました。
ここでわたしたち日本人には非常に興味深い話をしましょう。


「ミッドウェイ」が横須賀勤務だったころ、床にハッチのある通路付近に

日本人の幽霊が出る

という乗員たちの噂があったそうです。

「ミッドウェイ」が日本に来てしばらく経った頃、塗装の工事で
乗艦してきた日本人が、普段あまり人の出入りがない場所で作業をしていたところ、
中に人がいるとは夢にも思わず、乗員がハッチを閉め出航してしまったのでした。

横須賀を出航後何日も経ってからその日本人は死体で発見されました。

その後、出航のたびにそのハッチ付近から声が聞こえたり、
いるはずのない日本人の姿を見たという証言が相次いだのだそうです。

((((;゚Д゚)))))))

「空調中なので閉めてください」

と書かれた青いドアは

「フライング・ミシップマン・クラス」(飛行士官候補生)

が何かやっている途中なので入室禁止、とあります。 

ところで、艦内にあったこの注意書きを日本人のわたしとしては
思わず立ち止まってしみじみと眺めてしまいました。

そして「ロナルド・レーガン」を見学した時、彼女はちょうど補修中でしたが、
甲板で作業をしている工事関係者のほとんどが日本の会社からの派遣で、
日本人だったのを思い出しました。

 

ハッチに閉じ込められて幽霊になってしまった日本人の事故などを経て、
「ミッドウェイ」では、注意書きに日本語併記をするようになったのでしょう。

(-人-)ナムー

 

 

続く。

 

 

 


ランドリー〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-04-22 | 軍艦

 

 

 

 

空母「ミッドウェイ」の乗組員、そして士官の「食」の場を中心にお話ししてきました。
今日は軍艦の「衣」についてです。

ワードルームを過ぎ、通路に沿って歩いて行くと、階段を降りるように指示がありました。

オーディオツァーの人のためにあちらこちらにある黄色い道案内には

「階下にランドリーの展示があります」

と記されています。

軍艦見学の時に階段があったら必ず写真を撮ることにしています。
あとで見た時にどこを見たかわからなくなるのを避けるための工夫です。

空母のランドリーはざっくり言って4,500人の洗濯をするところです。

いきなり洗い終わった後の洗濯物をかけている部屋に出てきました。

赤のV型赤ライン3本で鷲のマークが付いているのは

一等海曹
ペティオフィサー・ファーストクラス
Petty Officer First Class  (PO1)

翼のついているのは航空徽章のようなものだと思われますが、
ラインが緑というのは初めて見た気がします。

おまけに白い夏服も(なぜ一緒にあるのか謎ですが)緑の線ですね。

袖についていて所属階級がわかるものを「レイティング・バッジ」と言いますが、
その部分をアップしてみます。

 

左から2番目のようにマークに翼が生えているものはだいたい航空関係ですが、
写真の「錨に翼」はそのものズバリ、

 AN Airman

航空兵のマークとなります。

一番右から、電子マークに翼は、

AT Aviation Electronics Technician

航空機の電気技師ですね。
その左、プロペラに本をあしらったのは

AZ   Aviation Maintenance Administration man

航空機メンテナンスの管理を行う部門です。
その左は本と羽ペンのマークですが、

PS   Personnel Specialist

パーソナルのスペシャリスト、つまり人事記録の管理、報告書の作成、
会計処理の実施に関わる事務および行政業務を行なったり、
レイティングの決定、訓練、昇進、賞、教育機会、および軍人の福利厚生や

人事管理に関する名簿などの刊行物の管理を行う全般的な仕事です。

その横、鍵のようなものがクロスしているのに羽がついているのは

AM Aviation Structural Mechanic

AME - Equipment

航空機の機体を専門とするメカニックがAM、
航空機の装置を専門とするのがAMEというレイティングです。


一番左は、航空マークの下にアスクレピオスの杖があるのでそれだけであれば

HM Hospital Corpsman

なのですが、それに『D』が被せてあるので・・・・ドクター?
でもドクターが水兵の服を着るというのもなんだか変だし。

と思ったら、頭文字Dはデンタル、歯科のDでした。

棚に収納されているのはランドリーバッグ。
クリーニングする衣類はこのようなバッグにまとめられて運ばれてきます。

毎週、1,075以上のランドリーバッグが艦内のあちこちから運び込まれてきます。

 

ベケットという乗組員は1990年ごろここで働いていました。
食住全てに階級差があるのが軍隊ですが、どうも洗濯も士官のものは
特別に行われ、扱われていたようです。

「士官は大抵いいものを着ていたからね。
僕たちの仕事は出来上がった服を仕分けし、パッケージして、
彼らの寝台や居室まで運ぶまでだったよ」

サックス5thアベニューで特別に仕立てた軍服ですねわかります。

水洗いできない制服などは、船の中にも関わらずドライクリーニングができたようです。
ただし毎日ではなく、

士官は 火・木・土、CPOは月・水・金

と決まっていました。

「ブラックバッグ」は多分中身が見えないようなバッグのことだと思うので、
下着などだと思いますが、これは毎日出すことができました。
ブラッグバッグの場合は

受け取り時間 0730−0930

兵による受け取り 0830−0930

航行中 1500−1800

寄港中 1300−1600

兵による受け取りは、持って来なくとも集配してくれるサービスでしょう。
航行中と港に停泊している時で時間が違うのがなぜかはわかりません。

アメリカでコインランドリーの洗濯をしたことがある方は、この形の
小型の洗濯機を使った事があるかと思います。

大抵、上にコインを入れるスロットや引き出し式のコイン投入口があって、
(溝に指定の数のクォーターを並べ、引き出しをがちゃんと押し込むと投入される)
しかるのち、モードを「ホワイト」「カラー」「デリケート」などから選択するのです。

軍艦ではおそらくこの段階で仕分けしてはいないような気がします。
(してたらごめんなさい)

洗濯物の入ったバッグは40パウンド(約18キロ)。
艦内のあらゆるところ、人間が生活し、服の洗濯を必要とする全ての場所から
集まってくる汚れた衣服の集積場であるここは、とにかく暑くて
汗まみれで仕事をしていた、と彼、ラックナーくんは述懐しております。

特にバッグを抱えて階段を上り降りするのは「リアル・ベア」
我慢できないくらい酷い仕事だったよ、ということです。
艦内のあらゆるところからこのバッグを集めてくるわけですから・・。

ドライヤー、乾燥機の中ではずっと白いシャツがぐるぐる回転していました。
一応確認のために触ってみたのですが、熱はありませんでした(笑)


ちなみに、アメリカの乾燥機は家庭用であっても基本巨大なので、洗濯物が
シワなく仕上がりますが、自宅に帰って乾燥機を使うと、
小さいせいでイマイチアメリカの時のようなパリッとした仕上がりになりません。
優秀な日本の白物家電ですが、乾燥機だけはこの点かなり不満を持っています。

この乾燥機はアメリカのコインランドリーにあるものの二倍くらい大きいです。

”毎日毎日山のような洗濯物にアイロンをかけていたよ。
一日に 4,750パウンド(2.3トン)の洗濯物がドライされてくるんだからね”

 

海軍では洗濯物を一つづつプレスするということになっていました。
しかし、2トン3千キロの洗濯物を全部手でやっているわけにはいきません。

そこで活躍したのが、このプレスマシーンです。
もっとも多いシャツは、ここにセットしてプシュー!とやれば
少なくとも細部以外はプレスすることができます。

ズボンもセットするだけでOK。

まあ、これを使うことそのものが結構重労働に見えますが。

今はシャツのプレス機は立体成型なので、この頃よりは楽になっているはずです。
それにしてもこんな大きなプレス機、事故はなかったのでしょうか。

先日プロ用のへアアイロンを使っていて、ちょっと先っちょを当ててしまい、
おでこを火傷してしまったわたしにすれば、なんだか嫌な予感のする作りです。

いやー、ヘアアイロンってね、ちょっと触っただけで火傷になるんですよ。
「ペチコート作戦」で艦長が上に座っただけでお尻に火傷してましたけど、
あれは絶対にあるあるだな、と今回実感しました。

これは「ランドリー・マングル」という機械です。

マングルなどという単語を初めて知ったわけですが、つまり洗濯ローラーのことです。
「三丁目の夕日」で洗濯機が初めてやってきたとき、横にローラーがあって
これで水を絞っていましたが、あれを英語で「マングル」というんですって。

その「マングル」使用中の写真。

基本大きなシーツやテーブルクロスを乾かすために使われました。
乾燥機よりも手早く水気を取ることができたのだそうです。

熟練のオペレーターならこれでシャツやパンツもプレスしてしまえたとか。

彼はプレス機の係だったデイビス君です。

”一度に三つのプレスを大急ぎでしなければならなかった。
おまけにとんでもなく暑いプロペラのところにそれを持っていかなきゃならない。
プロペラの振動が脚に伝わってきたよ”

かなりのつらい仕事であったようですが、ロバーツ君は

「何人かはここにずっとアサインされていたよ」

と言っています。
ずっとですか・・・それはひどいな。
彼は自分の元の配置に戻ることができるまでの90日間、
残りの日数を毎日毎日「カウントダウン」していたということです。

はあ・・・よっぽど辛かったんですね。

ここは袖章を付けたり外したりつけたり外したり(以下略)する部署です。

ここはランドリーよりちょっとは楽かもしれません。(ちょっとだけな)

艦内のミシン仕事というのは1日にかなりの数あるとは思いますが。

一日中レイティングバッジをつけたり外したり(略)というのも、
単純労働的な意味でかなり辛い仕事なんじゃないでしょうか。

マークをつけるのを待っているシャツなどがいくつも置いてありますが、
毎日やっていたらかなりうんざりしそう。

ニューズウィークの「AT WAR」はもちろん湾岸戦争のことでしょう。

こちら、洋服の手入れ全般をする専用の台がある部屋です。

”船の上で縫い物がどれだけ必要とされているかを知ったら皆驚くと思います。
ユニフォームが破れたに始まって、新しいレイティングバッジをつけたり、
ミッドウェイの旗の修繕なんていうのもありました”

1967年頃勤務していたホッジさんの回想です。

海軍をやめたら洋服屋さんに就職できたかもしれません。

こちら裁縫師。

”艦上の裁縫師というのは、ミッドウェイの中でも歩合で仕事をする
数少ない一人でもあるんだ。
ただしもらったお金は、水兵仲間の福利厚生基金に行くわけだけど”

なぜか自分では使わなかったんですね。
技術職なのに・・・。

”洗濯物は部隊に返されるとき、大きなバッグごと部屋に置かれているんだ。
で、その仕分けは自分たちでやるわけだが、
よくステンシルの名前が
消えて読めなかったりするんだこれが(怒)”

二人とも、すげー嫌そうな顔して洗濯物を仕分けてます(笑)

実際の量は決してこんなものではなかったでしょうが、一応どんな感じか理解するために、
バッグが「山のように」(小山?)積んで置いてあります。

 「階下にランドリーバッグを投げ落とさないこと」

「バッグを担いで階段を上り下りするのが一番辛かった」

という先ほどの水兵さんの話を思い出すと、この注意書きに笑ってしまいますね。
逆に何故ダメなのか、とも思いますが、もしかしたら下を歩いていた人に当たって
不幸にも負傷したとかいう事故があったのかもしれません。

 


続く。

 

 




海軍の身だしなみ規則とホテルサービス〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-04-20 | 軍艦

空母「ミッドウェイ」博物館、「クリーンシャツ」と呼ばれる士官用の施設、
ワードルームと士官たちに食事を作るギャレーまでを見てきました。


ところでオフィサーズ・カントリー(士官居住区)には

デッキ・デパートメント・オフィス

というボースンズ・メート(BM's、boatswain mates )の一部署があります。
艦首楼(フォッスル)にあるアンカー関係のギア、ロープやラインなど、
船を安全に岸壁につけるための道具を操り、これらを管理する係です。

「ミッドウェイ」が海上で補給を行うとき、補給艦との間に
補給パイプを渡すための索具を操作することも、BM'sの仕事です。

また、空母からボートを海面に下ろしたり上げたりする仕事も行います。

Navy Boatswain's Mate

最初に「スモールボート・オペレーション」と言っていますね。

「自分のことを”シーウォリアー”(海の戦士)だと思ってるよ」

とセカンドクラスのBM'sが言ってるこのビデオは、アメリカの
テレビ広告用に製作されたものです。

アメリカでテレビを見ていると、軍の宣伝を見ます。
陸軍と海軍がほとんどで、時々海兵隊という感じですが、
不思議なことにエアフォースの宣伝は見た覚えがありません。



さて、何千人もが暮らす空母は昔から「一つの街」です。

生活が全てそこで完結し、不足ないようにあらゆる必要なものを積んでいるのですが、
面白いことに「どこに何があるのかを把握する係」という部署があります。

メインテナンス・マテリアル・マネージメント

通称3M「ミッドウェイ」の上で大変広範囲の仕事を行いました。

艦内に備えられた全ての機器設備の部品は、大きなものから小さなものまで
PMS(女性特有の症候群にあらず)と呼ばれる

「プランド・メイテナンス・システム」

が管理し、その統一と管理そのもの、代価以外のこと全てに責任を負っていました。

いわば船の神経中枢のようなものです。

各機器の部品が適正に管理され、それらがスケジュールにそって
適正に運用されるための調整を行うのがPMSの仕事でした。

”船のあちらこちらにある全ての設備や機器の百千のパーツの
在庫と貯蓄を管理していたのが私たちでした。
必要とあれば、たった一個のワッシャーとかボルトであっても
我々はすぐさま用意をしたものです”   S.ミラー 1980

艦内の理髪店です。
理容師は留守で、椅子の上のクッションには

「15分で戻ります」

とメモが貼り付けてあります。

出入り口の左のボードには15分刻みにスケジュール表があり、
自分が散髪してもらいたい時間の欄に名前を書き込むシステムです。

というか、たった15分で散髪も髭剃りもやってしまっていたんですね。

まあ、基本バリカンでゾリゾリっとやるだけなのでそんなものかもしれません。
ところがこの写真につけられたキャプションによると

”いつも誰かが手早く『トリム』してもらうのを待っていたよ。
「ミッドウェイ」の水兵たちは、
基本ヘアカットには10分しかかからないと思っていたから”

なんと15分ではなく10分でしたか・・・。
これでは髭剃りも肩もみも当然なしだな。

ところで、どこの海軍もそうであるように、アメリカ海軍にもヘアカット、その他
「毛」に関することについては決まりがありました。

「アメリカ海軍軍人の身だしなみについての基準」

というこのポスターをちょっと見てみましょう。

【ヘアカット】

耳の上と首回りの髪の毛は絶対にえりにかからないこと、
長いところでも絶対に4インチ(10cm)以上にならないこと、
耳にかからないこと、被り物を取った時に眉毛にかかっていないこと、
部分的にも2インチ以上にはならないようにすること。

1970年代ごろには一般の男性の間にもみあげを長くしたり、
ヒゲを途中でカットする(アフリカ系に多い)などというのが流行りましたが、
海軍軍人たるものそのような流行りに身をやつすことは決して許されません。

まあでも、当時の写真を見ると皆大なり小なり時代の影響を受けているんですけどね。


【もみあげ】

当時の流行りを見越して(笑)注意には

「もみあげは裾広がりにしないこと、耳の真ん中辺まで伸ばさないこと」

としっかり釘をさしております。

【口髭】

口髭についてもあれこれと決まりがあります。

「口の端のホリゾンタルライン」つまり延長線より
ヒゲが外にはみ出てはいけませんよということになっています。
また口の端から「バーティカルライン」を引いて、それより
4分の1インチ(6mmくらい)以上外に出てもいけません。

カイゼル髭や長岡外史みたいなのは問題外です。

例にちゃんと白人とアフリカ系を使っているあたり気を遣っていますね。

女性も何かと決まりが大変そうです。

【襟部分の裾】

襟に髪の毛が触れるのは構わないが、それより長くしない。
襟のラインと髪の毛の裾が平行に同じ線であること。

開襟は上部から最大2.5-1.25cm下まで可。
(結ばない場合)長さは頭皮から5cmくらい。

【ブレイド】

ブレイドというのは編み込みヘアのことです。
アメリカではよくアフリカ系が縮れた毛を編んでしまっていて、
その全てにビーズがついているのを時々見かけるのですが、髪の毛は
どうやって洗うのか、そもそも洗っているのか心配になります。

制服での編み込みヘアは直径を4分の1インチに抑えること。
固く編み込んで頭皮にしっかりまとめること。

わざわざこの項目を作っているのは、アフリカ系への配慮と思われます。

【ヘッドギア】

と言っても、宗教団体が修業で使うものではなく(そらそうだ)
帽子など被り物の総称です。

ギャリソンキャップやコマンドボールキャップの場合、
前頭部のブリムから髪の毛が見えてはいけない。

command ball capというのは自衛隊でも使用している
ベースボールキャップ型の帽子のことです。

ボールは「ベースボール」のボールのことだと思います。

全てのヘッドギアは頭部の一番大きな部分にきっちりと、
快適にフィットするようにかぶること。

ところで下の写真Dの真ん中と右端にセーラーの女性がいますね。
アメリカ海軍は女性もセーラー服を着る事があるんですか?

しかもこの真ん中とその右のベレー帽みたいなの、初めて見るような気がするのですが。

ヘアカットとヘアスタイルは均整のとれた見た目にする事。
極端に左右不対称でバランスが悪い髪型は規則違反になります。

左右不対称・・・例えば片側だけ長ーく伸ばして、反対側は
耳のすぐ下で切ったような髪型のことですね。

学生時代山本さんという人がやってたけど、山本さん元気かな。

さて、ここはワードルームの近くなので、彼らがくつろぐラウンジがあります。

うーんどうですか、この内装のジャパーンなこと。
白木の腰板はまるで日本の温泉旅館にありそうですし、壁のライトは雪洞風。

奥にはこれは間違いなくメイドインジャパンの日本人形(冒頭写真)、そして


五月人形として製作されたと思われる武者人形がケース入りで。

「馬乗大将 光陽」

とありますが、この「光陽」というのは加賀人形によくついてくる銘です。
もしかしたら最初の原型を作った職人なのかもしれませんが、
オークションなどでも普通に出回っているようで、多分単なるブランドでしょう。

冒頭の女性の人形は「鼓」というタイトル付きです。

どちらも「ミッドウェイ」が横須賀にいた時に日本の団体から
寄贈された記念品のようなものではないかと思われます。

ワードルームラウンジでくつろぎすぎるくらい寛いでいる士官たち。
てかあんたら基本的に行儀悪すぎ。

天井の灯りが同じなのでこの部屋だと思われますが、内装は違います。

やはり当時からほんのりとジャパネスクですね。

ワードルームラウンジに飾ってあった絵その1。

「海上での補給」

そうそう、これですよ。BM'sが行うのは。
補給艦との間に索具やパイプを渡すのは大変な仕事だとこれを見ても思います。

絵その2。

「補給作業中」

何を補給しているかというと、弾薬の類。

「ミッドウェイ」にはここに、

「ホテル・サービス・オフィス」

なるカウンターがありました。

一般に、民間の人たちや将官は「ミッドウェイ」勤務となった場合、
最低一晩から最長6ヶ月までの期間、艦上で過ごすことになります。

このオフィスはそんな臨時の「お客様」のためにリネン類や、
お泊りに必要な
各種アイテムを取り揃えてお越しをお待ち申し上げています。

艦上でとった食事代も、ここで徴収することになっていました。

枕やシーツ、毛布の他にタオルや洗面道具、シャンプーや髭剃りに至るまで。
金銭管理も(書面上で)行うので、ファイルなども全て棚には並んでいます。

ホテルサービスのフロント係。
名前はきっとジェームズさん。

ジェームズの上司、アランさんはタイプライター(電動式)で書面を作成中です。
大きなカウンターがあって、貸し出すものの受け渡しはここで行います。

専門のこんな部門があるということは、毎日のように利用があったということでしょう。
さすがは海上の都市、巨大空母です。

これだけ至れり尽くせりで全てが揃うなら、ぜひ1泊くらいならしてみたいですね。

 

続く。

 

 

 


クリーンシャツ・ワードルーム〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-04-18 | 軍艦

 「ミッドウェイ」には4500人もの人が生活するため、いくつも
飲食をする施設があります。

艦長や艦隊司令などが食事をする個室の他には将校が食事をする「ワードルーム」

チーフ(E-7,8,9 )が食事をする「チーフズ・メス」

そして、E-1からE-6の兵員食堂を「メス・デッキ」とか「ギャレー」と呼びます。
ギャレーは二ヶ所あって、これらの「区分け」は厳密です。

階級の上下を問わず、正式に招待されない限り、それぞれの階級の食堂以外に
立ち入ることは許されていません。

前にも言いましたが、例外は、「殿上人」である艦長が水兵の士気を高めるため、
そして彼らの「雰囲気」をチェックするため、そして親睦を深める?ために
ギャレーにふらりと現れて食事をすることがあるくらいです。

さらに、若い士官は時々ギャレーでの食事を義務付けられていていたそうですが、
彼らは例外なく水兵と会話するわけでもなく、黙々と食べて、
シートに何やらコメントを書き込んで出て行く、といった具合だったようです。

前回までギャレーをご紹介してきましたが、今日はワードルーム、
すなわち士官用の食堂を見ていきましょう。

海自の士官用食堂などもテーブルリネンはブルーでしたが、
ここは椅子も一つづつ肘掛けが付いているお揃いのカラーです。

シルバーがちゃんとセットされていて、金線の入った食器がセッティング。
毎日こんなきちんとしたテーブルで食事をしていたんでしょうか。

これはセルフサービスなどではなく、ちゃんと給仕がサーブするテーブルですね。

と思ったら当時の食事風景の写真がありました。
ちゃんと給仕がお皿をサーブしています。

これを見てお分かりのように、士官は全員白人、
給仕がそれ以外の、ほとんどがヒスパニックかアジア系です。

食事が終わっても、彼らは自分で食器を片付けたりする必要はありません。

「ジョン・デ・ブランの想い出のために」

デ・ブラン氏は「ミッドウェイ」のボードメンバーで、本艦の博物館化に
大いに寄与した人物であったようです。

写真の子供は子供時代のデ・ブラン氏で、一緒に写っている彼の父親、
アーネスト・デブラン大尉は「ミッドウェイ」でダメコンの士官でした。

写真は1945年、このワードルームで行われたクリスマスパーティでの一枚です。

一緒に写っている男の子はその後父と同じ道を歩んだでしょうか。

映画鑑賞もこの部屋で行われていたんですね。

CDで映画が手軽に見られる時代ではないので、
かなりの数の嵩張るフィルムを持ち込んでいたものと思われます。

ラックの下には巨大なフィルム缶が積み重ねてあります。

逆から見た映写機。
操作はシンプル。走行、止める、早送り、巻き戻し、ボリューム、以上。

映写機のメーカーは(ミシンの)シンガー社です。

前にも書きましたが、シンガー社は戦争中各国と武器製造の契約をしてたため、
ノルデン照準器やガーランド銃なども作っていた会社です。
戦後、特に1960年代から多角化に舵を切って生き残りました。

電卓など作っていたことは知っていましたが、映写機もあったんですね。

 

ジュースクーラーやウォーターサーバーなど。
この辺りはギャレーと同じカフェテリア方式です。

唐突に壁に飾ってあった扇子。
彼らがどこで手に入れたのかはわかりませんが、和風というより中国風です。

この部屋は

The 'Clean Shirt' Wardroom

と呼ばれていました。
このワードルームを使用するとき、士官は必ず制服(作業服ではない)を着用したので、
「クリーン・シャツ・ワードルーム」と呼ばれることになったのです。

兵員食堂と違って、士官はワードルームでの食事をその都度支払らうことになっています。
その分を貯めておいて時々スペシャルメニューを奮発する、というのも可でした。

先ほどのブースは、士官たちが支払いをするための会計係が座っていたんですね。

ワードルームは食事だけでなく、ミーティングや映画鑑賞にも使われました。

ワードルームでは銀器が用意されていました。

これは重巡洋艦「トレド」CA133で実際に使用されていた銀器一式です。
「トレド」は1945年の5月、第二次世界大戦の終わり頃就役し、
終戦後は日本で占領政策に従事したということです。

銀器はお金がかかるだけでなく、いつも手入れをしていなければならない
「執事泣かせの」食器なので、ご予算はもちろん精神的にも余裕があったということです。

 

各プレートはトレドの名前と海軍のマーク、所縁の地が刻まれています。
このお皿はトレド美術館、他はトレド大学に教会など。

パンチボウルもゴージャス。

現地の説明によると、こういう意匠も日本風を意識しているのだそうです。
障子を透かして桜を見るような壁照明、なかなかモダンジャパネスクって感じ。

何しろ「ミッドウェイ」は十八年間日本に勤務していて、その間
一度も母国に帰ったことがなかったのです。

しかし、「ミッドウェイ」での日本勤務を経験した海軍軍人は、
上は将官から若い水兵まで、例外なく皆が日本を大好きになったそうです。

その理由は、日本人のもてなしの精神であり、あるときは市井の人々の親切であり、
他にはない魅力的な文化などでありましたが、特に海軍軍人として、
日本と触れ合う窓口となる海上自衛隊の人々、そして在日米軍基地で働く人々の
ずば抜けた技術、能力、ならび仕事に対するプライドには感嘆させられた、
と、かつての司令官が語っています。


「砂漠の嵐作戦」における「ミッドウェイ」の勇姿。
このとき「ミッドウェイ」の母港は横須賀で、最後の出撃となりました。

湾岸戦争開戦翌日の1991年1月16日に「レンジャー」とともにペルシャ湾に入り、
航空攻撃を行ったのが、「ミッドウェイ」の名実ともに最後の戦争です。

母港の横須賀には戦争終了後の3月11日に戻り、同年8月に「インディペンデンス」に
横須賀での後任を譲り、よく年引退しています。

 

海軍士官がこのようにいちいちシルバーでちゃんとサーブされた食事をする意味は、
自分たちが特権階級であることを自覚させるため・・・というより、
士官のアラマホシキ姿を目指す「ジェントルマン教育」の一環という説があります。

望むと望まざるに関わらず、海軍士官というのは海軍の顔、
場合によっては国の代表として振舞わなくてはならなくなる時がやってきますから、
テーブルマナー一つとっても普段からの慣れが必要というわけです。

日々の生活が「ナイフ・アンド・フォーク・スクール」なんですね。

こちらではやはりアジア系の乗員がテーブルセッティング中。

ナプキンまでブルーです。
重厚な椅子カバーまでかけられたダイニングチェアの背中には、
座る人の階級と名前を入れるようになっています。

この部屋にも大きな扇子がありますが、そもそ巨大な扇子を壁掛けにするって、
どちらかというと中国の文化で、日本人はやりませんよね。

日本では扇子は扇子立てに立てて飾るものです。

ここにも日本勤務の証、テーブルの上にはさりげなくキッコーマンの卓上瓶が!

兵員食堂の住人だった元乗員によると、「ミッドウェイ」の食事は
ギャレーであっても決して悪くなく、むしろ美味しいほうだったそうなので、
ワードルームはさらに美味しいものが出ていたのではないかと思われます。


「将校連中が食事から戻ってくると、皆腹回りが目立って大きくなっていて、
しばらくの間動きが鈍い。
椅子に座ったまま立ち上がる気配も見せない。
やはり美味いものを食っているのだろう」

(J. スミス 空母ミッドウェイ アメリカ海軍下士官の航海記)

それでも仕事はハードなので、さしものアメリカ人でも太る人は滅多にいなかったそうです。
しかし食べ物はいくらでも食べられてしかも無料なので、中には食べすぎて太る人も。

船では太り過ぎを測る基準に「緊急用のハッチを潜れるかどうか」というのがあり、
このハッチに体がつっかえるレベルになると、イエローカードが出され、
ある一定期間までに体重が落とせないと、海軍から(船からではない)追い出されます。

 

なぜか扉が和風の引き戸・・・・
きっと横須賀で改装したなこれは。

ここがワードルームのキッチンです。
サーブ方式なのでギャレーのコックとは違う苦労があったと思われます。

何かをしているようで何もしていないキッチンのクルー(笑)

ここに入るときには・・・何をカバーするのかな?
頭?口?靴?

’チーフは我々に食べ物を提供することを誇りに思えと言っていたよ。
「その気持ちが食事を作るんだ」ってね。’ E.C. ロンゾン 1972

彼はフィリピン系ですね。

鳥の丸焼きに山盛りのフルーツ。
サンクスギビングのご馳走かもしれません。

”ホリデイの食事はまさにご馳走だった。
海上勤務で同じような食べ物が続いたあとは特に感動したね”

”食器洗い場は、もう暑くてうるさくて信じられないくらいだった。
汚れた食器が次々とやって来て永遠に終わらないような気がしたよ”

”我々の食事は兵員にサーブされるものよりいつもいいものだった。
そうなったのは食事代を直接個人が支払うようになってからさ”

L.ジャクソン 1978

ワードルーム士官のお話です。
そうでない時代には大したものではなかった、と・・・。

ここからはオフィサーズ・メス。
ここも呼び名は違いますが士官専用食堂です。

45年間サービスを続けて来たこと、全てのアメリカ海軍の中で
ここがもっとも「ファイネスト」なワードルームであると書かれています。

こちらは士官たちが普通に食事をする日常的な食堂でしょう。
流石の士官も毎日ワードルームでナイフとフォークの持ち方を練習するほど
暇ではなかったと思われます。

左から

「ホワイトミルク」

「ホワイトミルク」

「チョコレートミルク」!!!!

コーヒーディスペンサー。

「ミッドウェイ」がサンディエゴで展示されるようになって見に行った
元乗員によると、このような設備は当時と全く変わっておらず、
間違いなく実際に使っていたものがそのままなどが残されているということです。

アイスクリーム・ディスペンサー?

アメリカにいると、学校やプレイルームなどではしょっちゅう
「ピザナイト」「アイスクリームソーシャル」などという
食べ物を餌に?した社交に参加する(させられる)ことになるのですが、
軍艦といえどもその傾向に変わりはなく、「ミッドウェイ」でも
「ピザ食べ放題」「アイスクリーム食べ放題」などという
イベントがしょっちゅう行われていたということです。

デザートがいつでも食べられる専用の回転ケース。
やはりこういうものは士官食堂にしか見ることはできません。

今日のデザートはチェリーパイとアップルパイです。
でかい(白目)

アメリカ人の作るパイの甘さを知っているわたしは、
こういうの見ただけで全力でごめんなさいしてしまいます。

朝食用のトースターとシリアルボックスディスペンサーもあります。

士官室にはソフトドリンクが取り放題のアイスケースまであります。
ウェルチのフルーツジュースやV-8などがありますが、
かつてはコーラやスプライトが主流だったと思われます。

士官もメスでは朝食は兵員と同じように並んでサーブしてもらう、
カフェテリア方式です。

ベーコン2スライスで86カロリー、ハム2スライス116カロリーなど、
なぜかカロリーが明記してあります。

「カロリーが同じならば何を食べても太りやすさ、やせやすさは同じ」

だから健康のためにはカロリーを抑えないと、という
いわゆるカロリー神話が全盛であった頃だったってことですね。

ちなみに現在では

「カロリーと脂肪を制限するよりも、糖質を制限するほうが減量効果は高い」

という「糖質制限」がダイエットの主流になっているようですが、
その説にも異論が出始めているようで・・・・(笑)


「ミッドウェイ」の士官さんたちは、カロリー計算なんてするくらいなら
甘いパイや炭酸飲料を控えるだけで十分ダイエットできたんじゃないかな。

 


続く。

 

 

 

 


XOは決して笑わない〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-04-17 | 軍艦

兵員用のギャレーと艦内教会を見てきた「ミッドウェイ」、
歩いていくと、アクリルで階下が見えるように覆いをしてありました。


この下が「オフィサーズ・カントリー」、士官居住区のようです。

階段の下には、掃除中の水兵さんの姿あり。
彼はアジア系、しかも中国系っぽい東アジア系です。

当時の「ミッドウェイ」の士官達の写真を見ると、やはりというか
驚くくらい白人種しかいません。

当時「ミッドウェイ」乗組だった日系アメリカ人のジロミ・スミス氏に言わせると、
士官はどんな格好をしていても(たとえトレーニングシャツでも)
見分けがついたそうです。

「不思議と将校は風貌がわれわれ下々のものとはちょっと違っていて、
たとえジョギングウェアーでもなんとなくそれと分かる。
肌が綺麗で髪が整い、無意識のうちに気取っているのか・・・・・。
きっとそのように訓練されているのだろう」

 

今の海上自衛隊はどうなのだろう、とふと考えた時、
ある方がエントリに対しての要望に加え、

「華やかな幹部の世界と曹士の世界はまったく別物である
上の世界だけを見て、今の海上自衛隊は語れないと思う」

というご意見を送ってこられたことを思い出しました。

軍隊ならあって当たり前の「階級差」ですが、自衛隊の場合、
幹部と曹士の間には「職域の違い」「権限の違い」こそあれ、

「華やか」「上の世界」

という言葉に表されるような隔絶があるとは感じていなかったので、
それだけにこの言葉のセレクトそのものがわたしには結構な衝撃でした。

 

確かにわたしの立場で海上自衛隊と接する時、その接点そのものは
幹部、しかも高級幹部と言われる自衛官になることは否めません。
しかしあえてこの方にこの場を借りて私見を述べさせていただけるのならば、
逆説のようですが、一般人が自衛隊を見て幹部の世界、この方のいう
「上の世界」だけを見ることは不可能だと思うのです。

(外から窺い知るだけの上っ面の世界、というならまだわかりますが)

なんの行事に参加しても、どんなイベントを見学しても、そこに居て
船を動かし、料理を提供し、儀仗を行い、音楽を演奏するのは
幹部に指揮された曹士であり、それら全てを以って我々は「自衛隊」だと認識しています。

どんな組織にも色んな立場からの視点や意見があって然るべきだと思いますが、
そのようなヒエラルキーに立ち、曹士を”下層”と見なすのは、たとえそれが
曹士の「側」の意見であっても、否、それならば尚更、
誇りを持って任務に就いている自衛官に対して敬意を欠くことにならないか、
とわたしは少し複雑な思いを抱いたのでした。


さて、少々重たい話になりましたが、先に進みます。

立派でしかも広々とした部屋が現れました。
ここは「XO クォーターズ」、エグゼクティブオフィサーの区画です。

「XO」と呼ばれるところの「エグゼクティブオフィサー」とは、
艦上における日々のあらゆるアクティビティに責任を持ち、統率する役目で、
指揮権でいうと2番目の権限を持つ・・・つまり副長です。
その所掌範囲は広く、例えば艦内の衛生問題などにも関わります。


例えば懲戒処分になるようなこと起こった時、艦長にあげる前に
スクリーニング、事情を聞くといったことも XOの仕事です。

XOは上級士官食堂の中でも先任なので、ご覧のようにその居住区は
「ミッドウェイ」の中でも最高の環境に設えられているのです。

壁にはかつてここでブイブイ言わせていた(かどうかは知りませんが)
XOの誰かの写真とともに、「ミッドウェイ」ベテランの

「XOが笑っているところなど、現役中に見たことがなかった。
艦長が艦上での仕事がうまくいっているか確かめるために彼に目を向けたり、
乗員との接触という場面では、それが普通だったよ」

という言葉が書かれています。
XOというのはそれだけ「睨みをきかせる」役割だったようですね。

船のどこかをかたどったような円形のソファテーブルには
当時の「スターズアンドストライプス」が挟んでありました。

この飛行機、JALじゃないですか!

日本赤軍(Japanese red Army)がダッカで日航DC8を・・
1977年のダッカ日航機ハイジャック事件が報じられています。

この時に彼らが要求したのは、勾留中の赤軍派メンバーの釈放。
福田赳夫政権は超法規措置で赤軍派を釈放しましたが、その時に

「人命は地球より重い」

と言ったとか言わなかったとか。
この時にハイジャックを起こした犯人の一人、坂東國男は、もともと
浅間山荘事件で収監されていたのを、バングラデシュで赤軍派が起こした
ハイジャック事件で釈放されたという人物です。

このころの「超法規措置」は、次のテロやハイジャックを産む事になり、
その反省に鑑みて現在では

「テロには屈しない」

という姿勢がスタンダードになっている気がします。

 

右側は7月4日の独立記念日特集号です。

さすが船のナンバーツー、「最高の環境」であるXOの寝室です。
枕元には燭台ふうのランプがあしらわれ、木目のインテリアにベッドカバー、
そしてカーペットは深い海のネイビーブルー。

壁全体が収納棚になっていて、これは快適そう。

木星に見えますが、クローゼットの扉、木を貼り付けたスチール製です。
これだけクローゼットが広ければ、たとえサックス5thアベニューで仕立てた
特別製のお洋服を持ち込んでも余裕で収納できますね!

近くには専用のシャワーとトイレ、洗面台のコーナーまで。
XO以外は使うことを許されません。
シャワーカーテンまでネイビーブルーのこだわり。

そしてちゃんとシャワー横にはタオルとガウンを掛けるバーまで。

 

思い出したのですが、呉の「てつのくじら」館に展示されている「あきしお」では
士官用シャワー室を見ることができます。
あれを何度見ても、シャワーブースの中にタオルや着替えを持ち込む余地はないし、
かといって外にも着替えを置くような場所もないのが不思議でたまりませんでした。

先日、ある会合で海自の方に聞いたところによると、彼らは着替えなどは持たず、
タオルで体を拭いたらそのままの姿で艦内を練り歩いて行くのだそうです。

うーん、潜水艦に女性幹部を乗せる話があると聞きましたが、これ無理じゃね?

さて、そんな「ミッドウェイ」の特権階級XO、スタッフも充実です。
彼の元で事務を行うスタッフの執務室もこの通り、スペースも広い。

彼は一等海曹、ペティオフィサー・ファーストクラスで勤続9年。
Yeomanという書記下士官だと思われます。

XOのもとで必要な書類を作成中です。

部屋にあるこの謎の機械は・・・テレックスというやつかしら。

日本ではテレックス業務は終了し、世界的にも商用では、
コンピュータネットワークの構築や、ファクシミリの登場、インターネットの普及で、
多くの一般商用テレックス通信は電子メールに移行されたことで終了しましたが、
実は軍用指揮通信などの特殊な用途では一部現役と言われています。

英字を縦に打っているので妙な感じのファイルです。
端から

NAVAL EDUC (ナーバルエデュケーション)

SUPPLY PUBS (サプライパブリックス0

NEOCS MAN (Navy Enlisted Occupational Standards)

MILPERS (ミリタリー・パーソネル)

4000LOGISTICS (補給)

7000FINANCE (予算)

NAVPERS (Navy Personnel Command )

DOD PUBS (?)

などの呪文が書かれています。

 右は電卓(大きい・・)、ブラザーの電気式タイプライター。

これは1970年台に主流となった電子タイプライターのようです。

このSX-400を検索してみたところ、1978年に発明されたデイジーホイール式で、
ウォルマートで同じ形のものがつい最近まで売られていた形跡がありました。

当時は最新型のツールが真っ先に持ち込まれたんですね。


淡々と出てきた順番に写真を貼っていきましょう。

「ファイアーファイティング・ステーション」とあります。

オフィサーズカントリー、士官区画にあるこの設備は、出火しやすく
それゆえその対策をしっかり行わなければいけない空母に必須のものです。
これは「ミッドウェイ」全体で16あるAFFF(消火フォーム)ステーションの一つで、
巨大なタンクは600ガロンのAFFFの濃縮液を貯めておくことができます。

液は消火用の水と混ざって泡を作り、ガソリンのような可燃液体を
包みこむことによって火を消し留めるだけでなく、火の回るのを食い止めます。

このステーションは1分間に250ガロンのAFFFを放出することができます。

赤とブルーのストライプにはここに包括される液体を表し、
赤は消火用の水で海からダイレクトに組み上げられ、
ブルーはAFFFの濃縮液を意味しているのです。

赤と青のテープが巻かれていることで、それらのブレンドがここにある、
ということを示します。

この向こう側は士官用の食堂です。
入室する前にこのたくさんのフックに帽子を掛けるのだと思われます。
自衛隊だとテーブルにおく方式が多いような気がしますが、米軍は、
横須賀米軍基地もそうですが皆フック方式だったと思います。

副官が自分の帽子の上にボスのをのせる、なんて文化は旧海軍からの
日本だけのオリジナルのような気がしますね。

守衛室のような小さな部屋発見。
この椅子に座ってここで待機し、窓越しにチケットか何かを確認したのかな?

このパネルは文字を差し込んで毎日変えられるようになっています。
ガラスの扉を開けて毎日メニューの文字を付け替えたんですね。

スープはクレオール
クレオールというのはルイジアナのニューオーリンズあたりの風土料理です。
ケイジャンと共通するもの(ガンボやジャンバラヤ)も多いですが、
こちらはこの地に入植したフランス人の影響が大きいかもしれません。

ちなみにクレオールスープはスネ肉の煮込みスープ。
「怪談」の小泉八雲、ラフカディオ・ハーンはルイジアナ出身で、
クレオール料理の本を日本語で書いています。

ジャマイカン・ジャークチキンというのもジャマイカ料理ですが、
単純にチリペッパーなどの香辛料を使ったフライドチキン様のもの。

サリスベリーステーキは以前米軍基地の食堂でご飯を食べた時、
メニューにあった覚えがありますね。

サリスベリー博士が「健康にいい肉料理」として考案した
ミンチ肉と玉ねぎを混ぜた、ハンバーグステーキみたいなもの。

玉ねぎ混ぜたくらいで健康にいいとは笑ってしまいますが、
アメリカ人はなかなか野菜をメインにしないので仕方ありません。

そして、下の方には「本日の映画」として

「トータルリコール」

出演 アーノルド・シュワルツネッガー シャロン・ストーン

1990年の公開ですが、「ミッドウェイ」退役の2年前ですね。
この頃「ミッドウェイ」は湾岸戦争で北アラビア海に展開していました。
長い航海で故郷を離れているしかも戦争中ですが、
艦内で乗員の慰安は普通に行われていた・・というか、だからかな?

ところで上の写真の左端、変なものが写っています。

・・・腕?

にしては写っている場所が下すぎるんですが。角度も変だし。
そもそも袖(しかも内側?)にこんな字を書いた服ってあるかなあ。

((((;゚Д゚)))))))ナニコレ・・

 

続く。

 

 


「ホーリー・ヒーロー」〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-04-16 | 軍艦

 

 

さて、空母「ミッドウェイ」の内部を探索しております。
ギャレーという兵員用の調理室の見学を終わると、案内板には

「シティ・アット・シー・ループ」

として、メインデッキの艦尾側の区画を巡るコースが示されます。
ガイダンスを聴きながら歩くと約30分かかるということですが、
ここは乗組員が生活するための施設が集まっています。

ここから先は「オフィサーズ・カントリー」という案内が現れました。
現役当時からあったらしい医療関係のグッズのボックスが通路に。

ここはギャレーの近くにあるS-2ディヴィジョン。
S-2のメンバーは、ミッドウェイのギャレーの各々のメニューに必要な
材料を用意するために配置されていた係です。

なぜかはわかりませんが、その食材は船のあちらこちらに置かれていて、
しかも気の遠くなるほどのアイテムの多さでした。

それらの場所を把握し、メニューに応じて材料を集めてくる。
それだけの仕事のために人が必要だったということです。

このドアの内側もかつては生鮮食料品が置かれていたため、
エアコンがいつも効いていたようで、「開放禁止」とあります。

いきなりこのような何もない(ように思える)空間に出てきました。

ミッドウェイ」のような巨大な空母に必要な物資を運び入れるのも
専門の係を必要とする大変な仕事です。

かつてその仕事についていたベテランは

「3,000パウンド(約1.4トン)もの貨物を4階もの地下まで降ろす時は
本当に神経を払ったものだよ。
ゆっくりゆっくりと下ろしていくんだが、なかなかエキサイティングな仕事だった」

と語っています。
まあ、お仕事を楽しんでおられたようで何よりです。

右側で笑っている人が持っているのはワイヤを降ろすためのスイッチでしょうか。
それにしても写真に写っている水兵さんたち、皆幼いですね。

下の階は「オフィサーズ・カントリー」(士官居住区)とあります。
アクリルの板が張られて降りることはできませんが、覗くと
居室に組んだ足が見えています。

これが「脚だけ」の展示である、に1ミートローフ。

ハッチの「19」は、オーディオツァーの説明の番号です。
「サプライ・デパートメント」とありますので、補給部門の説明をしてくれるのでしょう。

CHAPはこの先にある教会、つまりチャペルを意味するのだと思います。
その下の緑の看板は

「考えよ 我々の目標は無事故である」

という標語が書かれています。

廊下には人工呼吸の方法が図解で。
実際に訓練していなくても毎日のように見ていたらなんとかなるだろう、
という期待の元にこういうものが目につくところに貼ってあるわけですが、
いざとなると資格があったり経験者でもないと、臆してしまって
倒れている人に手は出せないのが普通ではないでしょうか。

市長が大相撲春場所で挨拶中に土俵の上で倒れてしまった件でも、
周りにいる男性の誰一人として呆然として動かず手を拱いていたため、
女性の有資格者が意を決して上がっていったという経緯があります。

わたしは「そう昔から決まっていること」を、特に現在の社会的常識とされること
(得てしてそれは差別という言葉に帰結する)を根拠に覆すことには
基本的に反対なので、女系天皇も「海をゆく」の歌詞も、女性が土俵に上げることも
現状を変えることはしないほうがいい(あるいはよかった)と考えるものですが、
この件では伝統やしきたりより優先するべきは人命救助の緊急性であったのは自明の理です。

まあただ、

「事後、塩をたくさん撒いていた」

ことまでヒステリックに非難するのは如何なものかとは思います。
女性が上がったからというより、それ以前に人が倒れたわけですから、
清めの塩くらい多めにしてもいいんじゃない?

 

さて、閑話休題。

というわけで艦内教会です。
日本の軍艦にも艦内神社は必ずありましたし、現在も自衛艦には
船の大きさの大小を問わず神棚が備え付けてあります。

軍艦の中ということをあまり感じさせない木を基調としたインテリアで、
心の安らぎを求めてやってくる乗員たちへの配慮が行き届いています。

しかし椅子が24隻しかないようですが、こんなのでことが足りたのでしょうか。

 

注目すべきはステンドグラスです。
自然光を通す一般の教会と違い、船の中の教会はライトを透かしたものです。

モチーフは太陽と空、そして海と星。

室内の内装そのものがキリスト教然としていないのは、この頃のミッドウェイには
ユダヤ教や仏教の礼拝が行われることもあったということでしょうか。

その隣には士官の個室がありました。
階級は中佐ですが、机の上に広げられている本はどうも賛美歌と
聖書のように見えます。

奥にかかっている軍服をアップにして見ました。
中佐(コマンダー)を表す3本線の上には通常星のマークがありますが、
これは十字架、つまりここは教会のチャプレン、従軍牧師の個室です。

そしてそのお隣は?

フライトスーツとギアがさりげなく置いてあるので、彼はパイロットですね。
ブルーの錨のマークには

「NAVY-MARINE CORPS RELIEF SOCIETY」海軍ー海兵隊互助協会

のものです。
1904年に設立された非営利団体で、海軍と海兵隊のメンバーに
経済的、教育的、その他の援助を行うためのファンドを運営しています。

これがなぜここに張られているのかというと、おそらく展示のために
基金からのなにがしかの援助が行われたのではないかと思います。

士官の個室には専用の洗面台もあるので、朝は快適です。
流石にシャワーまでは付いていません。

アメリカの洗面台は鏡が扉になっていて、開けると薬棚がありますが、
ここも軍艦の中ながら同じ仕様のようです。

辞書を見ながらタイプライターで何かお仕事をしていますが、
チョコチップクッキーを齧りながらはいただけませんなあ。

アメリカ社会では夜にチョコチップクッキーが振舞われることが多く、
ホテルなどでもよく夜にフロントの横を通りかかると
チョコチップクッキーが誰でも取れるように置いてあります。

なぜ夜なのか、なぜチョコチップなのか、いまだにわかりません。

おそらく彼は夜士官用キッチンを通りかかって、
クッキーとコーヒーを持って自室に戻り、仕事をしながら
ささやかな背徳?を楽しんでいるところなのでしょう。

それはそうと、彼の後ろには「ヒンズー教」「ユダヤ教」「カトリック」
「イスラム教」「プロテスタント」「仏教」についての本があり、
ヘルメットにはなぜか十字の印が刻まれています。

ということは、この士官も宗教関係・・・?
アメリカには「司祭パイロット協会」なるものがあって、
パイロットの資格を持ちその布教活動に航空機を用いる司祭の協会、
なんだそうですが、このパイロットもそういう「空飛ぶ司祭」なのかしら。



一般的に、空母には牧師が必ず最低一人は乗り組むことになっています。
戦時中はバラオ級潜水艦にすら乗り込んでいたらしいことが、
バトルシップ・コーブの潜水艦「ライオンフィッシュ」見学でわかりましたが、
今は流石にないような気がします。

「ノーチラス」の南極行きも、いわゆる司祭がお祈りで使う「セット」はありましたが、
実際に牧師が乗り込んでいたという記録はありません。
乗員に一人くらい牧師の資格を持つ者がいたのかもしれませんが。

さて、空母の牧師の階級は特に決まっていませんが、一般的に
上級将校が多く、佐官以上というイメージがあります。

お祈りのお勤め以外にも、乗員の人生相談に乗ったり、
あるいは告解などを聞いたりするので、あまり若いとダメなのでしょう。

カトリックやプロテスタントなど、個人的には何らかの宗派に属しているはずですが、
艦内で行われるミサや集会の時には、集まる信者によって
カトリックになったりプロテスタントになったり、結構アバウトだったようです。

軍人の人種も様々となった昨今では、「ミッドウェイ」でも
仏教徒、イスラム教などの集まりや儀式が行われていたそうですが、
キリスト教の牧師のような職種は海軍には現在もありません。

「ミッドウェイ」がバトルグループを組織して行動している間などは、
「ミッドウェイ」乗組の牧師が全艦艇の宗教行事をはしごして回ることになっていました。

どうやってするかというと、ヘリコプター部隊の出番です。

毎週日曜日になると、ヘリコプターは牧師さんを乗せて、一つづつ
機動部隊の艦艇を訪れ、お祈りが終わるとはい次、はい次、といったように
お祈り巡幸?を行なって回るのです。

これを

「ホーリー・ヒーロー」HOLY HELO

と海軍では称しています。
カタカナで書くとまるで「聖なるヒーロー」みたいでかっこいい響きですが、
この場合の「ヒーロー」は海軍式のヘリコプターの略称です。

どうやらチョコチップクッキーの士官さんは、ホーリーヒーローの牧師なので、
自分で操縦するわけではないですが、そのお勤めの時にパイロットスーツをきて
ヘリに乗り込んでいたってことなんでしょうね。


海上自衛隊の掃海部隊では、水中処分員というダイバー資格者を
ヘリコプターから海中に降ろすことを

「ヘローキャスティング」(Helocasting)

といいますが、この「ヘローキャスト」の「ヘロー」も英語では
どちらかというと「ヒーロー」と発音することになっています。

RとLの発音は英語の人には全く別の発音と認識されるので、
わたしたちが思うほど「英雄」と似てるとは思わないみたいですが。

余談ですが、ヘリコプターのことを「ヒーロー」というのは海軍だけで、
陸軍も空軍も、ヘリは「チョッパー」と呼んでいるそうです。

「チョッパー」という言い方(何をチョップするのか)は非常にカジュアルで、
正式なものではないという説もありますので念のため。

 

この「ホーリー・ヒーロー」の際、ヘリ部隊にもちょっとした役得があります。
牧師さんをハシゴさせる際、ついでに郵便物を配ったり物資を運んだり、
といった用事もすることから、そういうものに餓えた?艦艇の乗員からは
えらく感謝され、お礼の品を積んで帰ってくることもしばしばあったということです。


つまり、ちょっとした「ヒーロー」扱い・・・?


続く。




ギャレー配置は辛いよ〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-04-14 | 軍艦

 

今回の「ミッドウェイ」見学には驚きました。
セカンドデッキに降りるなり、そこはギャレーだったのです。

配膳を行うカウンターの後ろは全部のスペースが調理スペースでになっています。

ギャレーというのは船上で兵員の食事を用意するキッチンのことです。
「ミッドウェイ」のギャレースタッフは、70名の

「メス・マネージメントスペシャリスト」

「メス・コック」

から成り、これらのメンバーで毎日13,000食を賄いました。

「目」という漢字の形のような通路に、機能的に設備が並んでいます。

ギャレーは24基のコンベクションオーブン、80ガロンのケトルが6個、
4基のディープフライヤー、2つの圧力調理器、そしてダイニングテーブル大の
二つのグリドル(鉄板)が備えられていました。

L字型のヒーターパイプで何かを温めるのだと思いますが、
それがぐい〜んと持ち上がるようです。

4基あるという、ディープフライ(揚げ物)用のシンクがこれかな?

「エブリデイ・イズ・ア」までが見えていたので、

「ペイデイ」「ニュー・デイ」

などと勝手に想像してみたのですが、全部写った画像がありました。

EVERYDAY IS A NEY DAY PRESS ON

ネイ、というのは前回も説明した、

キャプテン・エドワード・F・ネイ・メモリアル・アワード
(エドワード・F・ネイ大尉記念賞)

のことで、アメリカ海軍の飲食設備がすべからくその受賞を目指して
日々刻苦勉励すべし、と目標にされているところの優秀賞です。

ネイデイ、というのは、ネイ・アワードを審査するために、審査員が
抜き打ちで(ミッドウェイ現役の頃は告知があった模様)やってきて、
施設の清潔さやメニューの充実度、味やサービスの状態をチェックする日。

大抵はネイ・デイだからと特別に審査員にアピールすることをしたり、
その日に向けてキッチンを大掃除したりしますが、
付け焼き刃というのは得てして厳しい審査員の目には見破られてしまうもの。

「たとえ審査の日でなくても毎日ネイ・デイのつもりで仕事しましょう」

というキャンペーンを行なっているわけです。

"press on"というのは「推し進める」とか「ゴールを目指す」という意味があります。

キッチンにはいたるところにかつての給養員の写真と
彼の「思い出の一言」がパネルになって飾られています。

どの写真も、ヒゲや髪型に時代を感じさせます。

「リブ(肋骨部分)がメニューに乗ると、僕と友達は
だいたい2トン以上の肉をカットすることになったよ。

一日それをやって肉を処理し終わったあとには、
いつも
腕の筋肉がズキズキと痛んだものだ」

H・タスカー 1989

おう・・・それは大変でした。

まさにタスカーさんが持ってるのが、問題のリブ肉です。
骨も切らないといけないし、大量なのでさぞ辛かったでしょう。

だいたいリブ肉なんて人の手でないと処理できないんですよね。

これ全てが「80ガロンのケトル」というものです。
ケトルというと日本語ではヤカンというイメージを持ちますが、
つまり大きなお鍋ですね。

ちゃんと煮込む時のために蓋ができるようになった造り付けです。

これは大変そう・・・。
絶対調理する人の汗とか色々入ってるよね(断言)

「ケトルの担当には、いつも特に優秀な調理人を配膳しました。
なぜなら、彼らは圧力鍋の蒸気の音を聴き分けて、火加減を知り
調理をするということが身についていたからです。

朝食に煮込む大量の”海軍豆スープ”を調理するためには、
優れたカンを持っていなければならないのですよ」

C.リングランド 1984

リングランドさんは厨房人事のエキスパートだったようです。

それにしても「海軍豆スープ」(Navy Bean Soup)って・・・何。

デスク型の機械は何をするものか全くわからないのですが、
近くにベーカリーの説明があったので粉物を処理する何かです。

左は小麦粉を練るものだと思うのですが・・・。

こちらは「アフト・ベーカリー」。

 

「広さはたった350平方フィートだったが、乗組員が欲しがれば、
650個くらいのパイを一晩で焼いてやったものだ。

小麦粉が立ち上ってまるで霧のような状態になったよ」

B. ブリストル 1978

そういうところで働いた人たちは、後々喘息や慢性気管支炎など、
小麦粉の粉塵による深刻な呼吸器障害を患うことが多かったと言われます。

見たところマスクなどしていないようですし・・・。

見るからに若い調理員は肉などの下処理の係です。
下っ端のうちは食器洗いとか、こういう仕事しかさせてもらえません。

「メニューにチキンがあるとなるとうんざりしたよ。
つまりそれって1,100羽のトリをそれぞれフライにするために
9,000ピースにカットするってことだから。

僕はいまだに自分にグレーズソースの匂い染み付いてる気がするよ」

G.アヴガレノス 1958

なるほど、先ほどのディープフライヤーにトリをセットしてますね。

「ギャレーの仕事ってのはとにかくキツかったよ。
地獄のように猛烈に蒸し暑いところで長時間皮を剥き、食材を刻み、
揚げ物をしてそれを綺麗にする。その繰り返しだ。

でも、そんな中でもできる限りの美味い飯を作ってきたと思ってる」

J.ロサス 1965

というわけで今夜のディナーにはフライドチキンが・・・・。
アブガレノスくん、御愁傷様です。

と思ったら、あれれ?

ヴュルカン(バルカン、火の神)という製品名の大型オーブンでは
チキンがいい具合に焼けている模様。

今夜はフライドチキンじゃなかったの?
丸焼きならアブガレノス君は少し楽できたかもしれませんね!

 

キッチンの隅の、ちょうど凹んだようなスペースにぴったりはまる机は
メニューを考案する係のお仕事デスクのようです。

机の上に置かれているのは、レシピとメニュー表など。
あとは食材を注文するための用紙だったりします。

レシピの一つ、「マンハッタンクラムチャウダー」は・・・

材料 生ベーコン、刻みドライオニオン セロリみじん切り
  缶入りクラム トマトピューレ 人参 じゃがいも

1、ベーコンをカリッとするまで焼く(レシピL2参照)
  取り出して、刻む ベーコンの油を2のために取っておく

2、オニオンをソテーしセロリとともにベーコンの油に投入、
  7分間「テンダー・クリスプ(少し柔らかく少し硬く)」になるまで調理

3、クラムを水洗い 汁は取っておく

続きはありません。

無くなったとかではなく、ここまでしか書いていないのです。
このあとは・・・じゃがいもと人参を刻んで炒め、あさりの汁を入れて煮て

トマトピューレを加えて最後にあさりとベーコン投入したらいいんじゃないかな。

主婦のカンですが。

それと、マンハッタンとボストンクラムチャウダーとの違いは、
赤いか白いかだと思います(これもカン)

あとレシピは「サヴォイチキン」「焼いた缶入りハム」とか。
しかしサヴォイチキンはともかく、缶入りハムを焼くのにレシピなんている?

と思って読んで見ると、

「砂糖と酢を混ぜ、クローブを加えたものをフライパンのハムに振る」

というとっておきの隠し味が書いてありました。
うーん・・・ハムに砂糖と酢・・・醤油があれば黒酢あんだけど・・。

これが週間献立表。
せっかくなので、ある一日のメニューをご紹介しておきましょう。

朝食

冷たいフレッシュフルーツ、フレッシュジュース

熱々のオートミール 

ゆで卵 卵お好みで オムレツ お好みで

オーブンでフライしたベーコン
グリルしたカナディアンベーコン

ハッシュブラウンポテト

ホットワッフルにシロップを添えて

昼食

ニューイングランド・クラムチャウダー

サヴォイ・ベイクド・チキン

バーベキューしたスペアリブ

マッシュポテト

ごはん(スティームドライス)

チキングレービー

カニのスパニッシュ風

スクァッシュとズッキーニのメドレー

熱々のディナーロール

デザートバー サラダバー

(お急ぎの方用;スピードライン)

ベイクトポテトバー

ベーコン、ブロッコリのチーズ掛け

蒸したフランクフルトソーセージ

チリビーンズ

フレンチフライ

ベイクド・ビーンズ

夕食

ビーフヌードル

ローストターキー/グレービー

ヤンキーポットロースト/レッドドレッシング

人参のグラッセ、蒸したカリフラワー、

ディナーロール、

デザート /サラダバー

 

「ヤンキー・ポット・ローストって何ですか」

とSiriさんに英語でお伺いしてみたところ、
(これ発音の練習になります。下手だと聞き取ってもらえないので)
ブラウンソースのポークシチュー的なものを紹介されました。

Traditional Yankee Pot Roast

ちょっと作ってみたいと思いました。

メニューですが、「スチームドライス」とか「ビーフヌードル」などがあるのは
「ミッドウェイ」」が横須賀にいた時の影響かなと思ったり・・・・。

デザートのレシピも。
左はバナナクリームパイ、右はファッジブラウニーです。

うーん、Yum-yum!!

(クリームが多すぎるとか虫わきそうに甘いに決まってるとかはこの際なしで)

 

続く。

 

 

 


オヘア少佐とF4Fワイルドキャット〜シカゴ・オヘア国際空港展示

2018-04-13 | 飛行家列伝

今回のアメリカ行きでトランジットを行なったのは、シカゴのオヘア空港です。
何しろ最終目的地の空港への便が少ないことから、前人未到、
空港で6時間という、アトランタで予定便に乗れなかった時以来の
待ち時間を経験することになってしまいました。

どんなラウンジで過ごすかは、待ち時間の快適さを左右する要素です。
オヘア空港にはユナイテッドのプレミアムクラス用「ポラリスラウンジ」があり、
そこでなら6時間も苦ではないだろうと思ったのですが、残念なことに、
乗り継ぎを行う便はシートにクラス差がないという共産主義的な機体しかなく、
ラウンジの門番(怖いおじさん)に

「これから乗る便のクラスがプレミアムでないとダメ!しっしっ」(脚色してます)

と追い返されてしまいました。

「く、悔しい〜〜」

涙を飲んで普通ラウンジで行きのトランジットをやり過ごした我々は、
帰りにちゃんとポラリスラウンジへのリベンジを果たしましたとさ。

確かに、席に着いたら注文したメニューが食べられるレストランがあるとか、
トイレが一つ一つ個室になっているとか、設備はまあそれなりでしたが・・。

アメリカにしては出ている料理がちょっと気が利いているという程度。
しっしっされた恨み抜きで言っても正直期待したほどではありませんでした。

 

ところで、この時ポラリスラウンジの場所をチェックしていて、
この第一ターミナルに
オヘア空港の名前となったパイロット、

エドワード・ブッチ・オヘア( Edward Butch O'hare)1914ー1943

のメモリアル展示があることを知りました。

エドワード・”ブッチ”・オヘア海軍少佐が愛機にしていたF4Fワイルドキャットが
空港ターミナルの検査場(右側)の横に展示されているのです。

現地で実物を見るとそれほどとは思いませんが、こうやって写真に撮ると
戦時中の白黒写真で覚えのあるずんぐりした躯体がやっぱりワイルドキャットです。

アメリカの空港は地名である通称名以外に人物の名前をつけることがあり、
ケネディ空港、ハワイのダニエル・ケン・イノウエ空港、ジョン・ウェイン空港、
ルイ・アームストロング空港(ニューオーリンズ)、ダレス空港、
サンノゼのノーマン・ミネタ空港などがよく知られた人名空港です。

ちなみに世界にはサビハ・ギョクチェン(女流飛行家)空港(トルコ)、
フレデリック・ショパン空港(ワルシャワ)、レオナルド・ダ・ビンチ空港
アントニオ・カルロス・ジョビン空港(リオ)、チンギス・ハーン空港(モンゴル)
ニコラ・テスラ空港(セルビア)などが有名なところとしてあり、
最近ではついに我が日本にも、

高知龍馬空港

が誕生しました。


エドワード・”ブッチ”・オヘア少佐の父親エドワードは弁護士でした。
シカゴでアル・カポネの一味として随分と際どいことをやって財をなし、
ドッグレースの支配人などをやっていた一筋縄ではいかない人物でしたが、
その一面、飛行機に大変な愛着と憧れを持っていたと言われます。

エドワードの夢は息子のエドワードを海軍の士官パイロットにすることでしたが、
当時のアナポリス入学には国会議員の推薦が必要だったというくらいで、
ましてやギャングのビジネスパートナーの息子ではとても入学は不可能でした。

そこで彼は、まずギャング仲間の脱税を当局に密告します。
さらに、アル・カポネが裁判で陪審員を買収していることを暴き、通報。
つまり息子の兵学校への入学と引き換えに仲間を売ったのです。

カポネが牢屋に入って2年後、息子のブッチはアナポリスに入学しました。

しかし、組織は裏切り者を許しませんでした。
ブッチ・エドワードが、何者かに銃撃され父親が死亡したという知らせを聞いたのは
彼が兵学校を卒業し、飛行訓練を行なっている時だったといわれています。

その後彼は優れたパイロットとなり、「サッチ・ウィーブ」の開発者、
ジョン・サッチの飛行隊に配属され、サッチと共に
そのマニューバの開発を行なっています。(右側がサッチ少佐)

彼の技量によってグラマンF4Fワイルドキャットは、

「ジャパニーズ・”ゼロ”・ファイター」に対し、速さにおいても
その駆動性についても優位に立つことが可能に
(現地の英文を直訳)

なったといわれます。

これは、とりもなおさず、それまでのアメリカ海軍飛行隊が
零式艦上戦闘機に圧倒されていたということを表しているわけですが、
それはともかく(笑)彼はアメリカ海軍最初の「トップガン」だったのです。

向こうがオヘア、手前のF-1がサッチです。
「レキシントン」艦載機部隊時代。

ハワイ上空を飛行するサッチとオヘアのワイルドキャット。
彼らはUSS「レキシントン」に配備されていました。

1942年2月20日、「レキシントン」はソロモン諸島ラバウルを攻撃しましたが、
これは第二次世界大戦における最初の空母からの航空攻撃となりました。

迎え撃ったのは帝国海軍第4飛行隊の18機の爆撃機で、この戦闘で
オヘアは今にも「レキシントン」に爆弾を落とそうとしていた
「ベティ」(一式陸攻)を4分間の間に5機撃墜しています。

この戦闘で第4飛行隊は18機のうち15機を失い、この日のうちに
オヘアは「エース」(5機撃墜が条件)になりました。

早速撃墜した5機を意味する海軍旗を愛機にペイントするオヘア。

「レキシントン」艦上のサッチ率いる第3飛行隊VF-3グループの記念写真です。

 USS「レキシントン」。
「サラトガ」と共にアメリカ海軍最初の空母となります。

ところで、この写真は「サラトガとレキシントン」という説明に添えられていたものです。

レイアウト的に「レキシントン」の説明が添えられていたので、わたしはてっきり
これが「レキシントン」であることを信じて疑わなかったのですが、
(しかも建造年月日が横に書かれていたので、どう見ても建造中のレキシントン)
コメント欄で、

「これは真珠湾で入渠中のヨークタウンである」

というご指摘を受けました。
そんな馬鹿な、ともう一度確かめたのですが、やっぱりそうなっています。

これは看板を作成した人がレイアウトをいい加減にしたか、
あるいは資料の写真を間違えたかのどちらかだと思われます。

(ヨークタウンは機動部隊のことが最後に一文出てくる)

これも「サラトガとレキシントン」の説明に添えられていた写真ですが、
どちらでもない「ヨークタウン級」であることが判明しました。

ということは、これも「ヨークタウン」の写真である可能性は高いですね。

戦争が始まった頃、アメリカ海軍は七隻の空母を保持していました。
オヘアの勤務してた「サラトガ」のコードはCV-3です。
空母には4個の航空部隊、戦闘機隊、爆撃機隊、偵察隊、
そして雷撃隊が搭載されていました。

オヘアの配属された戦闘機隊は「急降下爆撃」のパイオニアで、
優れたパイロットばかりを集めたエリート部隊でした。

「フィリックス・ザ・キャット」の作者パット・サリバンは
この精鋭部隊のために爆弾を抱えたフィリックスをデザインし、
これが彼らのインシニア(シンボル)となります。

彼らの乗っていたのが「ワイルドキャット」であることも
少しは関係していたかもしれません。

 

エドワード・ヘンリー・”ブッチ”・オヘアが生まれたのは1913年3月13日。
31歳になる寸前、1942年2月20日の爆撃機5機撃墜に対し名誉メダルが授与されました。

1942年、ホワイトハウスでのメダル授与式でFDRと握手をするオヘア。
彼の首にメダルを掛けている美人は彼の妻リタ・オヘアです。

彼女はこのわずか2年後に愛する夫を失い、未亡人となる運命です。

その時のメダルのレプリカがここに展示してありました。

1日の戦闘において一気にエースの一員に名を連ね、アメリカでは
今でも飛行場に名前を残すほどの英雄となりました。

オヘアの所属していた第3航空隊の編隊飛行。

1940年から1943年までの間に、グラマンF4Fワイルドキャットは、
その翼を畳むことができないにも関わらず、艦載機として300機弱生産されました。

第二次世界大戦が始まってすぐ、アメリカの当面の脅威は
東海岸とカリブ海近海に出没する潜水艦だったため、
まずアメリカ海軍は空母艦載機の訓練をミシガン湖で行っています。

蒸気船を改造して空母の形にした「ウルヴァリン」と「セーブル」の二隻で
海軍パイロットは空母での離発着の訓練を行いました。

訓練中の事故で飛行機のいくつかが失われ、それらは
戦後ずっとミシガン湖の湖底に沈んでいました。

1990年、そのうちの一機を引き揚げようというプロジェクトが立ち上がりました。

ダイバーによって湖底から発見された後は、AT&Tの提供したソナーによって
正確な鎮座地点が特定され、海軍が主体となって引き上げ作業を行なった結果、
45年ぶりに一機の機体が冷たいミシガン湖の底から陽の目をみることになったのです。

湖底でバラバラになっていた部品も一緒に引き上げられ、
その後、ボランティアの尽力によって復元されたものが・・・・、

今オヘア空港で見ることができるこの機体がそれである、
と現地の復元プロジェクトにはあったので、わたしも最初はそう思っていたのですが、
読者の方が「絶対に違う」とコメントで指摘してこられました。

引き揚げられた機体はF6Fヘルキャットだそうです。

もう一度現地の説明を読み直したのですが、

「これは現存する貴重なF4F3のうちのひとつである」

なんて書いてあるんですよね・・・。
一体どうなっているのでしょうか。



所有者はペンサコーラにある国立海軍博物館となっていますが、
オヘア少佐をトリビュートする展示が空港内に設置されることが決まり、
空港が借受けるという形で展示されているというわけです。

胴体には引き込み足がぴったりとはまる格納場所があります。
オリジナルの部分はほとんどないのではないかというくらい綺麗に復元されていますね。

5機撃墜後、一夜にしてエースとなったブッチ・オヘアですが、1944年11月27日、
ギルバート諸島のタラワ環礁で日本軍と交戦中、未帰還になりました。

パブリック・ロー(公法)490項第5条の定めるところにより、
11月27日にオヘア少佐の死亡が認定されています。

ギルバート諸島のアベママ島にある「オヘア・フィールド」
海軍の駆逐艦USS「オヘア」DD899、そして彼の出身地であるシカゴの
オーチャード・フィールド飛行場は、ここ、

「シカゴ・オヘア・インターナショナル・エアポート」

となって英雄だった彼の名前を後世に伝えています。

ところで余談です。

わたしがここを発見した時飛行機の周りには誰もいなかったのに、
写真を撮っていたら、たちまち通行人が足を止めはじめてご覧の状態に。

誰もいない店舗に一人でふらりと入っていくと、いつの間にか
人が次々と入ってきて大混雑になっているという「招き猫体質」は
わたしにとって実は決して珍しいことではないのですが、

「何もこんなところで発動しなくても・・・・」

TOに笑い混じりに言われてしまいました。

もし、シカゴ空港第1ターミナルに立ち寄ることがありましたら、
ぜひこのコーナーを一目見られることをおすすめしておきます。


終わり



潜訓の桜〜潜水艦訓練教育隊資料館

2018-04-11 | 軍艦

呉地方隊の観桜会の日、開始までの時間に潜水艦教育訓練隊、
略称「潜訓」の見学をさせていただき、「そうりゅう」型の
訓練用シミュレータに座るという体験をしたわたしです。

 

シミュレータ体験の後、わたしたちが案内されたのは
ここでサブマリナーになるための技術を学ぶ幹部曹士が、
潜水艦乗員としての精神訓練を行うための施設、資料館でした。

ここに一枚ずつ掲示してある信号旗は、まさに

「ご安航を祈る」

の意味です。
この年季が入った旗の「素性」ですが、その説明はありませんでした。

それから「航海の安全祈る!」の後の「SNAT」
これはどうやら

潜水艦用航海術科訓練装置

のことらしいのですが、もしそうだとするとこ言葉は少し意味不明です。

訓練施設ですから、いたるところに標語的なものがあります。
「後がない」という意味もあるZ旗の下にあるのは

「百般のこと 〇〇を持って基準とすべし」

ああっ、肝心なところが光ってしまって全く意味のわからない言葉に。
超拡大して字の端っこから類推するに、それはどうやら

「百般のこと 戦闘を持って基準とすべし」

のようなのです。
海自の最前線の一角とも言える潜水艦隊における訓示と思ってみると、
この「戦闘を以って」という言葉にただならぬ重みを感じませんか。

資料館に入る前の廊下には、歴代潜水艦ネームシップの写真が掲示されていました。
アメリカから貸与され「自衛隊潜水艦第一号」となった「くろしお」
戦後初の国産潜水艦となった「おやしお」

下段の「うずしお」は、「うずしお」型のネームシップで1971年就役。

ここの説明には

「排水量はこれまでで最大となったがずんぐりした形になり」

という一文があります。
潜水艦の人たちはシルエットを見ただけで何型かわかるようになるんでしょうか。

「なつしお」(1963)「おおしお」(1965)
そして「あさしお」(1966)

「あさしお」は訓練中潜望鏡を護衛艦「なつぐも」のスクリューと接触するという
事故を起こしたことがありますが、幸い双方軽傷で済んでいます。

艦体は除籍となってスクラップと消えても、艦名を刻んだ盾はずっと残ります。

てつのくじら館で展示されている「あきしお」に始まって、

「たけしお」「ゆきしお」「さちしお」「なつしお」「はやしお」・・・

「そうりゅう」型と違って、「しお」型は名前のバリエーションが多くていいなあ、
とこれらを見ているとつい考えてしまいました。


ちなみにこの金型を作っている会社をわたしは知っていて、
以前この工場の金型倉庫を見学し、ここでご紹介したことがあります。

ある自衛艦の金型を作るとき、一部が少し凹んでしまったが見た目差し支えないので、
一応自衛隊に「構いませんか?」と了解を取ろうとしたところ、
担当者が血相変えて、

「海上自衛隊は験を担ぐので、”凹んだ”は絶対にダメです」

と言われて作り直しを余儀なくされた、などという話を聞いたものです。

「こういうのも時代によって流行りがあるんですよね」

「ふゆしお」「わかしお」「みちしお」の頃、どうやら
潜水艦隊では陶器のプレートが流行っていた模様。

「このデザインはどうやって決めるんですか」

これは(わたしよりは現場の事情に詳しくない)TOの質問。

「乗員がデザインするんです」

「ほーーー」

日本では一つのクラスがあれば、必ずその中に絵の上手い人、音楽ができる人、
スポーツのできる人などがいるものですが、
潜水艦という少人数の単位であっても同じ。
その中に一人は下手したらプロ並みに絵が上手い人がいたりします。

(わたしは海外でいろんな飛行機のノーズペイント等を見てきた経験から、
アメリカ人はあれだけ人間がいる割にその割合が少ないと思っています)

このイワトビペンギンが魚雷に乗っている「みちしお」のデザイン、
これなんかもう完全にプロの仕事ですよ。

「じんりゅう」の盾は刀を抜く侍と桜、これもなかなかすごい。

さて、資料室に入るとき、案内の自衛官は一礼を行いました。
彼らの先輩の遺品や写真があるのですから、ここは聖域でもあります。
わたしたちももちろんそれに倣いました。

寄贈のあった海軍の制服や揮毫などがガラスケースに収められています。

ここでも時間がないので案内の方はいくつかの展示を抜粋して選び、
それについての説明をしてくれました。

この写真は説明を受けたものではありませんが、少し気になって写真だけ撮り、
後で調べたところ、今まで知らなかった潜水艦事故のことがわかりました。

第43潜水艦沈没事故です。


大正13年3月19日、「佐世保鎮守府第一回基本演習」参加中の
第43号潜水艦は、佐世保湾を潜望鏡深度にて航行中の8時53分、
巡洋艦「龍田」と衝突して深度36mの海底に沈没しました。

演習はすぐに中止され、全艦艇が救助に当たりました。
沈没潜水艦の位置は浮標ブイが浮上してすぐに特定され、
電話機も備わっていて沈没艦と地上と交信する事もできたと言います。

海軍はすぐさまクレーン船を派遣しましたが、引き揚げは困難を極め、
同日の19時30分には電話から万歳三唱が聞こえ、数名を残して死亡。

20時には

「あと二、三人しか残っていない」

とまだ生存していた兵曹長から連絡がありましたが、

その兵曹長の言葉も

「ただ天命を待つ」

を最後に、20時38分、途絶しました。


潜水艦が引き揚げられたのは、沈没から一ヶ月が経過した4月19日で、
翌日には遺体の収容が行われたということです。

このケースは帝国海軍潜水艦隊の資料など。

潜水艇の青写真や第1潜水艇が竣工した時の記念写真や、
海軍潜水艇の生みの親でもある海軍大将井出謙治についてです。

井出謙治大将は兵学校ではなく海軍機関学校卒で、
アメリカに私費留学した際潜水艦に興味を持ち、
帰国後も潜水艦の必要性を訴え、その獲得に尽力した人物です。

時間がない見学時間で、案内の方がまず説明されたのがこの伊53潜の模型です。

甲板には6基の「人間魚雷」回天が搭載されています。

これを製作し、寄贈したのは伊53潜の元乗組員である会社社長。
潜水艦で使用する潜望鏡の内筒部分で製作したものです。

潜望鏡の外側は、現在呉市上長迫にある呉海軍墓地に、
呉鎮守府戦没潜水艦合同慰霊碑とともに展示されているそうです。

次に説明を受けたのは、伊47潜乗組だった軍人が、
甲板で航空機の攻撃を受け、戦死した時に持っていた手帳。

胸のポケットに入れていた手帳には、銃弾の跡が残ります。

手帳の記述には

2日 1904 伊47

2日0915 駆逐艦1、大型輸送艦1発見

0945 1号艇発進 惜別 駆逐艦1発見 1010轟爆音2、
10252号艇発進 1118轟爆音1

回天戦用意

戦訓

などと読み取れます。

伊47はあの仁科関男中尉が乗った回天を搭載し回天戦を行った潜水艦ですが、
この記述によると、手帳に書かれているのは1945年5月2日
沖大東島での回天戦の様子であると推察されます。

手帳には「パレンバン空挺降下(十七)」と印刷されており、
手帳の持ち主はどうやら空挺部隊の隊員ではないかと思われます。

「こういうのを見ると今のわたしたちと変わりないと思いますね」

説明の方が指差したのは

邦子「ハシカ」ラシイ

という手帳の一文でした。

このケースには真珠湾の軍神の写真、テレビの放映に使われた
真珠湾突入の際特殊潜航艇を搭載していた伊号の模型などがありました。

軍艦旗は「 咬龍」が使用していたもの、その横にあるのは
特殊潜航艇「海龍」の四式時期羅針儀二型そのものです。

「わかしお」の潜望鏡接眼部、 ネームプレート、銘板など。

除籍になって形を壊された潜水艦たちの、「遺品」がここにあります。

広角レンズでも全部入りきらなかった(笑)潜水艦模型は、あの!
映画「真夏のオリオン」で撮影に使われたものだそうです。

最後に案内の方が立ち止まったのは、このおなじみの(わたし的に)写真の前でした。

戦後、海上自衛隊が最初にアメリカから貸与された潜水艦第1号、
それが潜水艦「くろしお」です。

ここには、ニューロンドンのグロトンで訓練を受け、
サンディエゴでガトー級の「ミンゴ」という戦時中は日本と戦っていた
年代物の潜水艦を受け取った時の写真とともに、その時の証書、
マニュアルらしきブックレット、諸元表などが展示してあります。

「ミンゴ」いや「くろしお」の甲板に日米海軍軍人が乗るの図。

以前もこの経緯を書いたことがありますが、日本側はスノーケルすらない
モスボール化していた潜水艦を、体良く「押し付けられた」といったところです。

「大戦中は日本と戦っていた潜水艦ですものね」

わたしがいうと、

「そうです。日本の船を何隻も沈めています」

日本軍と戦って実際に何人もの日本人を殺戮している潜水艦を
その日本に与えるのですから、日本人ならあからさまな悪意を感じるでしょうが、
アメリカ人というものを少しは知っているわたしにいわせると、案外、
というか例によって

「アメリカ人はそこまで深く考えていない」

というのが正解のような気がします。

「しかし、これを見てください」

案内の自衛官が指差したのは「くろしお」の潜航実績回数でした。

米海軍時代 1,423回

海上自衛隊 3,630回

海自が使用していたのは15年、アメリカ海軍は12年。
比率は5:4、しかし潜航回数は2.5倍も海上自衛隊が多かったのです。

ここで彼は、わたしも知らなかったこんなエピソードを教えてくれました。

モスボール化していた「ミンゴ」を「くろしお」として受け取り、
サンディエゴから祖国にこれを回航していくことになった時、
アメリカ海軍の誰かが「くろしお」艦長にこう聞いたそうです。

「君たちは潜水艦をどうやって持って帰るのか」

同じように潜水艦を貸与されたカナダ海軍は

「海上を航走して帰る」

やはり同じくアメリカから潜水艦を受け取った韓国海軍は

「間違って潜らないように(どこかに何らかの)設定した上、海上航走して帰る」

しかし、海軍兵学校卒で、戦時中は伊号潜水艦乗りだった艦長は

「我々は潜水艦乗りだ。
どうやって帰るかなどと聞かれるのは心外だ。
いうまでもなく、我々は日本まで潜航して帰る」

ときっぱり言い放ったということです。

この回航には、監視のため?米軍軍人が乗り込んでいましたが、
日本までの航海中、当然のように毎日訓練を行う様子を見て
その熱心さに驚嘆したという話も残されています。


しかしわたしがそれより感動したのは、その話を語る自衛官の口調でした。

初代「くろしお」の乗員たちが守ってきた気概と志を受け継ぐ者、
日本国海上自衛隊潜水艦隊の一員であることに心から誇りを感じている様子が、
その熱い話ぶりから手に取るように伝わってきたからです。

かつて海軍の潜水艦隊があったここ潜訓には、敷地内にいくつもの桜木があります。

入り口で車を待つ間、向かいのアレイからすこじまの潜水艦基地を見ていると、
ちょうど潜水艦が一隻、帰投して来るのが見えました。

二隻の押しぶねを従え、今から岸壁に向かいます。

少し離れた呉地方総監部に咲く桜は、昔から観桜会で多くの人々に賞賛される一方、
潜訓の桜は、昔から潜水艦を住処とする武人たちのためにのみ咲き、
彼らの眼を慰め、そして散ることを繰り返してきたに違いない。
わたしはこの満開の桜を仰ぎ見ながら思いました。

 

呉観桜会シリーズ終わり。

 


残る桜と散る桜〜岡山玉島 散り花見旅行

2018-04-10 | 軍艦

呉の観桜会では満開の桜を楽しんだわたしですが、
実はその翌週に「予備のお花見旅行」の予定を立てておりました。
(厳密にはわたしではなくTOがほとんど勝手に立てた計画ですが)

一年も前から予約していたその宿は、ここ備後屋。
岡山県玉島に大正年間から営業している老舗旅館です。

大正三年創業、この洋風の建物部分は当時燃料会社のオフィスだったとかで、
レトロな雰囲気です。

備後屋といいつつ、ここは備前岡山に位置します。

神戸出身で関東在住のわたしたち夫婦が、震災後くらいから
何かと足を向けることが増えたこの土地ですが、つい最近、
なんと、我が家の先祖が備前岡山出身であったことが判明しました。

児玉源太郎の陸軍時代の同僚で、退役後某地方の群長になり、
ワシントンに桜を寄贈することについても尽力したというこの先祖を
さらに辿ると、その本流は備前岡山だったらしいのです。

我々が山陽地方に行くようになったのも先祖の縁のなせる技だったのか、と
若干不思議な思いを感じずにはいられません。

その話はともかく、ここは備前藩の屋敷跡として史跡指定されています。

これが備後屋創業以来変わらない正面玄関。
この内部は燃料会社だったビルと内部で繋がっています。

チェックアウトするときに中からショパンのピアノ曲が聴こえていました。
伺ってみると、弾いているのは当家のご令嬢であるということでした。

ロビーに当たる部屋には雛人形が2セット並べて飾ってありました。
関西では旧節句(4月3日)まで仕舞わないことが多々あります。

ここは庭園の中に戸建ての部屋が点在するという稀な形状の宿で、
「庭園旅館」と銘打っています。

チェックインすると、黒いスーツ姿の若い女性がトランクを持って
坂をスタスタと上って部屋まで案内してくれました。

予約したのは敷地の一番奥の二階建ての棟です。

この二階が居室、一階でお食事をいただきます。
上にいる間に、いつの間にか一階に食事が用意されているので、
中居さんが来るたびに居住まいを正したりする必要はありません。

布団の上げ下ろしも食事をしている間にいつの間にか済んでいます。

床の間の花は季節の菜の花と木蓮。
北海道土産のような熊の木彫りが少々謎です。

昭和初期ごろ設置されたと思われる洗面台。
蛇口は取り替えてあり、トイレもちゃんと暖房付きの最新型でした。

庭の敷石はよく見たらところどころ石臼が埋め込んであります。

怖い顔のカエルさんが睨みをきかせる小さな池が玄関先の
茶室の前設えてあり、桜の花びらで表面が埋め尽くされていました。

池には金魚が二匹だけ生息しています。

晩御飯は軽い懐石コースを頼みました。
これは固形燃料で熱し熱々をいただく、自分で卵汁を投入して作る卵とじ。

食前酒には岡山なので桃のワインが出されました。
あまりに香りが良いので、つい飲めないのに二口飲み、無事泥酔いたしました。

鰆の蒸し物、鶏の治部煮など、季節の旬をあしらったお椀が続きます。

メインはなんとチーズを載せた白身魚。ソースはバターとジェノベーゼです。

わたしたちの部屋の入り口には、

「夏炉冬扇」(かろとうせん)

という書板があるのですが、はて・・・・・。

夏炉冬扇=時期はずれで役に立たない物事のたとえ。
夏の囲炉裏や冬の扇は、時期がはずれていて役に立たないことから。

なぜこんな(変な)言葉をわざわざ揮毫し、しかもそれを飾ってあるのか。
何かの間違いでなければ、皮肉とか洒落とか・・・?

この旅館には岡山県出身の政治家犬養毅が泊まったこともあるそうです。

「どの部屋だったんだろうね」

茶室に近く、一番奥まったところにあるこの日泊まった部屋は、
もし犬養木堂翁が泊まるならば一番可能性は高いと思いますが・・。

本旅館開業の大正3年頃の旅館から見た前の河川風景。
右手が瀬戸内海で、三井造船書のある玉野より広島側に位置します。

朝食は茶碗蒸しに湯豆腐の鍋といった和食。
納豆は西日本のせいか付いてきませんでした。

二階は寝るときに昔ながらの雨戸を引いて真っ暗にしてしまいます。
朝自分たちで開けようとしたのですが、どうしても仕組みがわかりませんでした。
戸袋の内側の障子を開けて、戸を一枚ずつ引き入れて奥に押し込んでいくのが正解。

昔のうちはみんなこうしていたんですね。

それからこの天井。
昔の日本家屋のほとんどはこんな天井だったですよね。
鴨居の装飾にはめ込んであるのは刀の鍔を模した木彫です。

関東では花びら一枚残っていませんでしたが、ここではまだ
桜の散るのを楽しむことができます。

TOは満開の時にここから桜を眺めたらさぞ美しかろうと一年前から予約していたそうです。
一週間、もしかしたら三、四日遅かった・・。

しかし、桜吹雪と地面に散った桜もまた風情のあるものです。
開けた窓からはひっきりなしに花びらが舞い込んできました。

家を出てすぐのところに祠がありましたが、ご神体はなさそうです。

茶室があったので戸を開けて見ました。
にじり口はこの反対側にあります。

 

茶釜は電気コンロで沸かす方式というのが風情としてはイマイチですが。

別棟の裏口は。これはもしかしたら大正モダニズム?

倉敷は戦争中アメリカ軍の空爆を免れました。
高梁川を軸として反対側に位置する水島は、当時三菱航空機製作所があったため
(今は三菱自動車)
爆撃を受けて犠牲者二人を出しています。

しかし、倉敷が爆撃目標から外されていたわけではなく、戦後の調べによると
終戦にならなければ8月22日に米軍は倉敷を攻撃する予定であったそうですし、
その2日後には岡山が目標の予定だったそうです。

何れにしてもここ玉島には当時も目標となるような施設は何もなかったので、
大正年間操業の建築物を今日でも目にすることができるのです。

旅館の部屋である棟を結ぶつづら折りの石段を登っていくと、
最後の部屋の近くにライトアップされた桜のある小さな広場があり、
かなり年季の入ったらしい石のガーデンチェアとテーブルがありました。

水道が完備していなかった頃は、ここから水を汲んで使ったのでしょう。

使われなくなって久しいようで、井戸はすっかり枯渇していました。

旅館は山の斜面をつづら折りに登っていくと
そこに各々の部屋となる棟が点在しているのですが、
さらにそれをどんどんと登っていくと、頂上と思しきところに
倉敷市が戦後建立した英霊の招魂碑があります。

公園は倉敷市の管理ですが、ここにあるのは玉島市の慰霊碑です。

高額寄付者は昭和27年当時の35万円。
今の300万円くらいの価値でしょうか。

この遺族会の方のお名前の中に「柚木」とあります。
そういえば希望の党の比例当選議員でそういう名前の人がいましたが、
岡山県に多い姓みたいですね。

一言余計なことを言わせてもらえばこの柚木とかいう代議士、
政治家としての信念も全くなく、恫喝と揚げ足取りしかしていない人、
というイメージしかなく、わたしは政治家として全く評価しておりません。

同じ広場の敷地内には「魚霊」を慰める碑も。
漁業で生計を立てている人が多く住んでいる地域だったようです。

しかし、鶏や牛馬の慰霊碑はソーセージ工場の入り口で見たことはありますが、
魚の慰霊碑は初めてです。

広場の横に、素敵(!)な廃屋がありました。

廃屋マニアには垂涎の物件ですが、残念なことに内部が
全くうかがい知れなかったので、わたし判定ではその点失格です。
(人がいたという痕跡が残っていなければだめ)

むしろ、その向こう側のいかにも100年ビンテージものが興味をそそります。

この公園の桜は、まだ十分花びらを残していました。

満開の桜もいいものですが、その後、樹に残る桜と地面に散る桜が、
同時に楽しめる時が、これもほんのひととき
やってきます。

まさにこの日の玉島がその瞬間でした。

二週続けて桜の咲き誇る姿と散りゆく姿を満喫することができました。

こういう旅館のチェックアウトは10時と大変早いので、
お天気がよければ倉敷観光でもしようと思っていたのですが、
この日は寒波が戻ってきて大変な寒さだったので、まっすぐ帰ることにしました。

新倉敷からは岡山までこだまで10分で到着します。
ただし新倉敷に止まるこだまは1時間に1本しかありません(T_T)

おまけ:新倉敷駅で目撃したマナー啓蒙用ファイルホルダー。

もう一つおまけ。

新幹線の岡山駅で見た人材派遣会社ポスターです。
これ「桃太郎の」という言葉はなくても理解できたと思う。