ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

自衛隊記念日〜感謝状贈呈(おまけ:呉の屋台村)

2017-10-31 | 自衛隊

午前中に殉職隊員の追悼式がすむとその日の用事は終わってしまったので、
誘われて、地元防衛団体の方の車でお昼を食べに行きました。

 

連れの方が車庫入れをしている間、せっせとてつくじの写真を撮るわたし。
実はこの駐車場からのてつのくじらが一番全体を写真に撮りやすいのです。

お任せしたら昔最初に呉にきた時に息子ときたことのある
大和ミュージアムの隣の「ビーコン」でカレーを食べることに。

その時大和ミュージアムもてつのくじら館も閉まっていて、
仕方なくこの公園の大和実物大コーナー?で時間をつぶしたものです。

向こうの埠頭からは港めぐりの船が出航しようとしています。
遠くから見ただけですが、満員御礼な感じの乗客数でした。

ビーコンも海自カレーラリーに参加していて、
「さみだれ」カレーを提供しています。

「さみだれ」といえばわたしが初めて呉で見学した護衛艦です。
艦長室で桜と錨マークのカップに淹れたコーヒーに感激したあの日も
もう数年前のことになってしまいました。 

海自カレーはレシピを提供店に渡し、ちゃんとその通りの作り方で作った
同じ味のものを出すことを大変重視しているようです。

ビーコンはもともと「士官カレー」「水兵カレー」という2種類の
海軍カレーを提供していたので、今回のラリー参加で3種類選べることになったわけです。

いくつか海自カレーを提供しているお店に行きましたが、ここが一番
提供カレーのフネの紹介を熱心にやってくれていると思いました。

店内には「さみだれ」の写真が五月雨式に点在します(意味不明)

「(額が)歪んどる!」

同行のおぢさまはこういうのが我慢ならないらしく、一生懸命
これを水平に直していましたが、写真がそもそも歪んでいるので
額を水平に直すと写真が水平にならないというジレンマに陥り(笑)
途中で諦めてしまわれました。 

というわけでこちらが「さみだれ」カレーでございます。

海自のカレーにゆで卵がなぜか付いてくるというのは、「あきづき」の
体験航海でも経験済みですが、ここのはソーセージが付いてきます。

しかも驚いたことにご飯ではなく何だ?
ナンだ。

その度に焼いているのか、フワフワモチモチのおいしいナンでした。

カレーはガツンと芯のある辛味に少しコクのある苦味が加わったお味。
「あきづき」のカレーに似ている気がしました。

サラダはセットには含まれず、単品をオーダーしました。

レシピ通りに忠実に味が再現されていると認定されたら、
提供店には艦長の名前で認定証が授与されます。

写真、アスロック発射中の姿がプリントされた絵皿と、
店内は「さみだれ」グッズのさみだれ打ち状態(意味不明)

しゃもじは広島県内18市町のご当地グルメナンバー1を競う、

「OC(おしい)―1(わん)選手権」

2014年に呉市の「海軍グルメ」が1位に輝いた時のものと思われます。

しゃもじにも「おしい!」と書いてあるのですが、おいしいならともかく
そもそもおしいって何、と思ったら、

「食べなきゃおしい!」

がこの選手権のキャッチフレーズなんだとか。

しかし「食べなきゃおしい」ってなんだよ。日本語になってねーよ。
でもまあ海軍グルメを優勝させたことに免じて許す。(何様?)

「さみだれ」さんはわたしが見学した後、第17次派遣海賊対処行動水上部隊として
「さざなみ」と共にソマリア沖に行ってるんですね。

また2014年3月2日には、エンジン故障で漂流中のイエメン船を救助しています。

その後ホテルにチェックインし、やっとゆっくりできると思ったら、
お昼をご一緒した方々が、

「呉にね、屋台村があるそうなんですよ」

「はあ」

「・・・で、行きませんか」

屋台なんて大学の学祭以来一度も行ってないかもしれない。
いや、広島に泊まり仕事に行った時、仕事相手に連れて行かれたきりか。

別に屋台に行かずとも今まで何の不自由もなく生きてきたけど、
しかし、何事もお付き合い、 誘われたからには断るわけにもいかぬ。

というわけで7時にホテルのロビーで集合し、屋台村へ。
お酒をがっつり飲むつもりの車の方は、運転手の奥様を帯同です。 

屋台村は呉市内の川沿い、蔵本通りに固まっています。
電気と上下水道が整備されている屋台は全国でも珍しいのだとか。

屋台のお店は昔から呉の市内に点在していたのですが、1987(昭和62)年、
蔵本通りの整備に併せてそれらが集められた 赤ちょうちん通りが誕生しました。

 

平成14年になってに新規屋台を公募で募集したところ47軒の応募があり、
その中から8軒のイタリアンやアジア料理、創作料理など、
今までにないジャンルの店が選ばれ、現在11店舗が営業しています。


ラーメン、おでん、豚足などの屋台の定番はもちろん、
イタリアンや創作料理の店もあるのだとか。

格子のガラス戸を合わせて壁にしてしまったお店。
屋台とは思えない完成度(笑)

同行者が最初からおでんを食べると決めていたため、おでん屋へ。

わたしと車を運転する奥様はノンアルコールビールをいただきましたが、
あら不思議、しばらくすると何やらほんのりと酔いを感じ出しました。

「これって・・・本当にアルコール全く入ってません?
なんか少し酔っ払ったような気がすんですけど」

「気のせいだよ〜」

「気のせい!気のせい!」

本当にそうかなあ・・・。

メンバーが同じ地球防衛協会の会員ということで、昼間に続き
選挙結果を肴に、国際・政治ネタで散々盛り上がったのですが、

「あー、こういう話ができる人たちと飲むとお酒がよく回る」

一人がおっしゃっていたので、もしかしたらわたしもそれ・・?

開けて翌日。
昨日まであんなにいいお天気だったのに、雨です。

そしてまたこの時に気がついてしまったのでした。
わたしが呉に来ると雨が降る。
しかしその中でも、

「呉教育隊に来た時には100パーセント雨が降っている」

ことに。
そういえば最初に教育隊に来た時、去年の自衛隊記念日、

そして忘れもしない観桜会、全て雨です。
この確率の異常な高さに今回気が付き呆然としてしまいました。

写真は車の中から撮った教育隊の敷地内にある機銃?
昔の護衛艦が載せていたものでしょうか。

 

 

この後、自衛隊記念日式典が執り行われました。

呉地方総監池海将が挨拶と訓示を行い、いつものように

「愚直さを追求していく所存である」

とご自身のモットーである「愚直たれ」を組み込んだお話をされた後は
国会議員の先生方が順番にスピーチを行います。

その間、自衛官たちは立ち上がって敬礼を行い、スピーチをする人が

「休んで下さい」

というまで直立不動でたち続けます。

ところで、今回自衛官の敬礼について一つ発見がありました。


自衛隊記念日には地本の方や警備区の師団からの方など、
陸自からも何人かが出席するのですが、前日の慰霊式で
後ろから見ていると、海自の人たちと陸自の隊員とでは
明らかに敬礼の角度が違っているのに気がついたのです。

陸自の方のそれはまるで絵に描いたような「陸式敬礼」で、
前から見るより後ろから見るとその違いがはっきりわかりました。

自衛隊は昔の軍とは違って防衛大学校という共通の士官養成学校で
その基礎訓練を行っているはずなのに、ここまで違うとは・・。

部隊に入ってから違ってくるのか、それとも防大時代に
海自要員、陸自要員となった瞬間に変わってくるのか、
何れにしても大変興味深いところではあります。

あ、それから空自の敬礼がどちらに近いのかも気になります。
 

で、この記念式典の時にはわたしは自衛官の前方に座っていたため、
一人だけいた陸自の方の敬礼を見るともなく見ていたのですが、
自衛官たちは全員が肩を触れ合わんばかりに並ばされていたせいか、
その陸自隊員は気をつけで立つ時にも、両手を前に出すようにして
いかにも窮屈そうな様子に見えました。

隣の人との間隔は他の海自隊員も一緒なのに、どうしてこの方だけ?
とちょっと不思議だったのですが、これはつまり海自の隊員は
狭いところで気をつけや敬礼をし慣れているってことだったのでしょうか。


さて、この後は表彰式が行われました。


例年通り、記念日には地方総監の名前で、自衛隊に協力、
あるいは防衛思想の普及に努めた民間人が表彰を受けます。

今年はいつものようにIHIの人事の係とか制服製造会社、
自衛官と一般人のお見合いを企画した方、そして
呉地方総監部の地下壕の整備をする際に必要な資料を
自衛隊に提供した方個人などが表彰されました。

表彰式が終わった後、去年はなかった試みとして、
呉音楽隊の演奏が演奏場所を中央に移して行われました。

曲は去年呉文化会館で聞いた曲です。  

■「オマージュ」〜 海の守り詩/八木澤教司 作曲
 

しかしこの曲について懇親会の後、野沢隊長に伺ったところ、

「あの曲をやるかどうかについては随分考えまして・・」

という答えが返ってきました。


確かに誰でも知っている曲ではないというか、むしろ誰も知らない曲ですが、
youtubeを聞いていただくとお分かりのように、喇叭の音や
カンカンという音から始まる描写的な音によって、
出航の様子や訓練の緊迫した場面、もしかしたらアスロックか魚雷発射?
などを次々と思い浮かべていると、突如としてその混沌の中から
「海のさきもり」が決然と、かつ壮大に立ち上がり、クライマックスへと続きます。

この海上自衛隊儀礼曲に思い入れを持つものとして、最初に聴いた時には
鳥肌が立つほど感動したものですが、今回呉音楽隊が一曲だけ選んだのが
よりによってこの曲であったことは、わたしにとって驚きであり喜びでした。

隊長にはこの曲を選んでいただいたことに心からお礼を申し上げた次第です。

 

続く。

 

 


自衛隊記念日〜殉職隊員追悼式典

2017-10-30 | 自衛隊

自衛隊は毎年11月1日を自衛隊記念日と定めています。

自衛隊創立に基づき1966年(昭和41年)から行われているのですが、
実際に自衛隊が発足したのは「防衛庁設置法」「自衛隊法」が施行された
1954年(昭和29年)7月1日であるのにも関わらず、11月1日になったのは
本来の7月にすると季節的に自然災害の発生とかち合う可能性があるからだそうで。

つくづく自衛隊というのは気を遣う組織だなあと改めて思うのですが、
わざわざこのように時期を災害の起こりにくい秋にするのは、
自衛隊記念日に伴う行事というのがいくつか予定されるからです。

まず最も大きな行事が三自衛隊で交代に行う中央観閲式。
そのほかには航空基地で行われる体験搭乗、感謝状贈呈、

みんなが大好きな音楽まつりも記念日の一環行事として行われます。

今年は航空自衛隊が百里基地で航空観閲式を行う予定でした。
1週間前に行われる予行が台風で前日から中止になったものの、
本番はよもや大丈夫だろうと思っていたら、まさかの中止。

何を隠そう、わたくしも今年は駐車券付お弁当付、
他ならぬ小野寺五典閣下のお名前入り角なし招待状をいただいていたというのに・・。

航空祭の前、わたしは本日お話しする追悼式典、そして翌日の自衛隊記念日式典と
呉におり、羽田から直接茨城県の石岡などという、普通に生きていたら
一生行くこともなかったであろうところにある駅近くのホテルに前夜泊しました。
当日朝5時というイベントにしてはゆるい時間に起きて、現地に着いたのは
6時28分。(もちろん朝のね)

もちろんこんな早く行く必要もないし、雨も降っているので

「なんなら車の中で仮眠でもして待とう」

くらいの気持ちだったのですが、現地に着くとまず、招待券に付随している
車のダッシュボードに置く駐車証明書を最初見せることを求められました。

「ということは今日は決行するんだな」

そう思いながら車を走らせて行くと、制服の自衛官が現れ、車を止めて

「本日の航空祭は天候不良のため中止になりました」

( ̄◇ ̄;)「えっ・・・・・・・・・」

陸自の観閲式は、観閲されるのが風雨にも平気な生身の自衛官、
大変な雨天の中決行されたこともあり、わたしも経験していますし、
暴風雨でない限り海の上の船で行う海自もOK。
しかし飛行機というのは雨が降ると基本飛ばないわけだよ。

今日はアメリカ軍が出血大サービスというか北への威嚇を兼ねて、
B1、B2爆撃機を飛ばせてくれる予定でしたが、せっかく飛んでくれても
雲の上じゃ音しか聞こえねえ!ってことで全く意味がありません。


ところで、実はわたくし、この直線でできたエイのような爆撃機を見たことがあります。

2001年の同時多発テロ事件発生の時、
直後からローガン空港は全面的に飛行停止となりました。

いつもはローガンから飛び立った飛行機が遠くに見えていた空に、
異様な速さで縦横無尽に飛び回る奇妙な機影。
外国人のわたしにも何かとんでもないことが起こっているという
恐怖と不安をその雰囲気から感じずにはいられませんでした。

ともかく、この爆撃機を見るのを楽しみにしていたファンも多かったでしょう。


わたしは選挙大勝直後の安倍総理を人々がどう迎えるかに興味があり、

ぜひ至近距離でお顔を拝見したいと思っていたので残念でした。

やはり当日招待券(お弁当付)をお持ちだった知人は、

「私は赤券の御弁当は食べたかったですね。
きっと入間のC2や木更津のチヌークに載せ今晩は皆で食べたんでしょうね」

という、その考えはなかったわ的な感想とともに、
新聞の当日首相動静欄を送ってくださいました。

「安倍首相の一日 29日

終日、東京、富ヶ谷の私邸で過ごす。」

選挙で大変お疲れのところ、雨の航空観閲式なんかに出たとしたら、
また三年前のようにフェイク
メディアが、

「座ろうとした時によろめいて周りが騒然とした」

「重篤な病気を隠しているのではないか

などと、おなじみ嘘八百ニュースを印象操作のために流したかもしれません。

今年は米軍からの飛行機が参加し、日米連携を目の敵にする(だってそうだよね)
マスコミとしては、おそらく目を皿のようにして首相の粗探しをしたでしょう。

というわけで、その方もわたしも、1日の雨の骨休めをすることができたのは
安倍首相に取ってはよろしかったのではないかという意見が一致しました。

ちなみにその方によると
 
「帰りの電車で浜松から来て土浦に前泊した方がいらして、
あまりに傷心されていたのでビールを一缶差し上げました
 
ということでした。

ニュースによると、航空観閲式が中止になったのは初めてだそうです。
予行も本番もなかったのはさらに初めてでしょう。

今朝、金正恩がまた

「アメリカの手先になって軽率に振る舞えば、日本列島が丸ごと海に葬られる

みたいな声明を出したそうですが、北朝鮮の団体は

「政治的な危機に陥るたびに反北朝鮮の騒動を起こし、
権力を維持するのは日本の常套手段だ

などと、不思議なことに日本の一部マスコミや野党、言論人と
全く同じことを言っているので笑いました。

もしかしたら中の人は同じ?(皮肉)


まあとにかく、アメリカと一緒になって北朝鮮に毅然とした態度をとることを
非難する論調の新聞があったり、ただでさえ鵜の目鷹の目で失策を狙う、
「打倒安倍」が社是の新聞社には格好の敵失の機会でもある観閲式が
中止となったのは、
考えようによっては「天の配剤」といえないでしょうか。

わたしはこんな風に考えることで、観閲式が中止になった無念さを慰めることにしました。

さて、呉地方総監部における殉職自衛官の追悼式に出席するのは二度目です。
全国で同じ時期に一斉に開催するので、安倍首相が彼らをして

「国の誇り」

と弔辞で述べたことをニュースで知った方もおられるでしょう。

開式前、車で式の行われる呉地方総監部の海側の門から入りましたが、
入り口にと列を作っている自衛官からいっせいに敬礼をいただき、恐縮しました。

式開始前からずっと参列部隊?が立って待っていました。
立って待つのが仕事のうちとはいえ、いつも大変だなと思います。

後ろ側の方々は幹部候補生の諸君ですか?

呉音楽隊のメンバーも正装で待機中。

彼らの後ろには旧鎮守府庁舎時代の地下壕入り口が見えます。
本年度、この内部を調査して市民に公開した呉地方総監部ですが、
先日ちゃんとした地下壕マップが自宅に送られてきて、
彼らの本気を見た気がしました。

今まで放置されていたところをこうやって整備し、公開し、
さらに後世に残していってくれるのは、その資格のない一般人からは
ありがたいの一言に尽きます。

式典には参議院のの宇都隆史議員が出席されていて、終了後
どこからともなく帰って来られたので聞いてみると、

「地下壕を見せてもらった

とのことです。
なるほど、国会議員の先生にもお見せしているんですね。

「自民党完全勝利おめでとうございます」

とまずは選挙についてお祝いを申し上げると、

「いや、まあ・・・今回は敵失と言いますか」

と自民党議員らしく?謙遜しておっしゃるので

「マスコミが何と言おうと選挙の結果は民意ですよ」

と力強く申し上げておきました。

海軍時代から、呉鎮守府庁舎の正門はこの海に続く門のことです。
広いグラウンドはこの日来場者の駐車場にもなっており、
グラウンドの向こうに立つ自衛官たちはその誘導を行なっています。

「正門」から出航する時、かつての呉鎮守府長官たちは皆
向こうに見える建物で出航を待ちました。

わたしは開式まで顔見知りの防衛団体幹部たちと雑談をして過ごしましたが、
話題は何と言っても自民圧勝に終わった衆議院選挙の内容でした。

そして追悼式開始。
呉地方総監たる海将池太郎氏によって霊名簿が奉納されます。

本年度の殉職者はわたしも数字を知って驚いたのですが、昨年9月以降、
公務による死亡が認定された隊員は25人(陸自14人、海自11人)です。

海自はヘリの墜落と艦艇からの転落などいくつかはニュースで知りましたが、
純粋にこんなに殉職者が、とただ衝撃を受けました。

池海将はまず、呉地方総監部だけで182柱の殉職隊員がいることを述べましたが、
この呉警備区での殉職者には US-2に至るまでの飛行艇の事故による犠牲者が含まれ、
その数が特に多いのだと聞いたことがあります。

「職に殉じられた御霊はご家庭にあっては家族から信頼され、
また敬愛されいてたかけがえのない方々でありました」

「最愛の肉親を突然失われたことは、家族の方々にとりましては
光明を失うがごときご心中であったことと拝察いたします。

今ここに、御霊の在りし日のお姿を偲ぶとともに、そのご功績を語り継ぎ、
顕彰してまいりますことをお誓い申し上げます」


(この間、国旗掲揚、儀仗隊による弔銃発射などが式次第に則って行われましたが、
その様子を逐一スマホで撮影し、あまつさえそれを式典の途中にもかかわらず
一生懸命携帯を弄って SNSにリアルタイムでアップしているらしい人がいました。

一度など、動画の再現された音声が携帯から漏れておりました(怒)

他の式典ならともかく、よりによって殉職者の慰霊式に物見遊山で出席するのは
本当にいろんな意味で失礼だからやめてほしい、と心から思います。)


続いて献花。
一人一人役職と所属、名前が読み上げられ、霊前に進んで
白菊をたむけます。
この場に出席していた堵列部隊以外の全員が献花を行いました。

最後に、殉職隊員のご家族代表がご挨拶をされました。
まず追悼式が執り行われたことに対する感謝に続き、

「私ども家族にとりまして、何者にも変えがたい大切な肉親を失った悲しみは、
崇高な指名のためとはいえ、言葉に尽くせないものがございました。
その深い悲しみを乗り越え、今日まで頑張ってくることができましたのも、
歴代の呉地方総監を始め、隊員の皆様方の暖かい励ましや
親身な支えがあったたからこそと心から感謝しております」

「私たち遺族はこれからも互いに手を取り合い、故人、そして
遺されたもののためにも、明るく、さらに力強く生きていことを
ここに改めてお誓い申し上げます」

「隊員の皆様方は健康や事故に留意され、私たちの夫や子供、
父や兄弟が果たせなかった国防の国防の任務を果たしてくださるとともに、
私どもをこれからも末長く見守っていただきますようお願い申し上げます


遺族代表の方が最後に年月日とお名前を読み上げていたその時突然、
ご遺族席の、母親に連れて来られた幼い女の子が、パパ、と叫びました。


彼女の声はわたしがカバンの中で録音していた音声記録に残っています。
そちらを振り向くと、女の子は母親の手から離れて正面の祭壇に向かって
椅子の後ろからそう言ったらしいことがわかりました。

あとでその話を防衛団体の知人に話すと、

「お父さんが来てたのかもしれないですね」

わたしも実はそう思い、こんな可愛い娘を遺して逝かなくてはならなかった
若い隊員の無念さを思うと、それだけで涙が溢れてきました。

「国の誇り」

安倍首相が追悼の辞で述べたこの言葉はまさに彼らが捧げられるべきものであり、
その霊のお名前が尊い遺志とともに未来永劫語り継がれることを祈ってやみません。 

続く。


モスキート・フリート〜アメリカ海軍PTボート船隊

2017-10-29 | 軍艦

 

バトルシップコーブに展示されているPTボートについてお話しした後ですが、
現地の説明についてもう一度だけ触れておきたいと思います。

まず、パネルには大きく「モスキート・フリート」とありました。

哨戒用でありながら攻撃力を持ち、船団に戦隊を組んで襲いかかってくる
PTボートの船隊を、日本軍は「蚊船隊」と読んで恐れたということからです。

それはまた「海の騎士」とも呼ばれました。
小さな船体に積めるだけの重武装を施し、第二次世界大戦中、
世界中で敵に恐れられた木製ボート。

それがPTボート、モータートルピードボートです。

遡ること大昔。
早くから英仏伊などの安価な魚雷システムが登場していましたが、
アメリカは主流艦にも疾風のように近づき、打撃を与えるという使命のもとに
魚雷搭載のこの最強のボートを造り上げたのでした。

この「小さい悪魔」に対する恐怖が、世界の海軍にこれらの戦術から
身を守る
新しい種類の船を開発させ、「魚雷搭載型駆逐艦」が生まれました。

それは現在シンプルに「駆逐艦」と呼ばれています。

 

薄暮のころ、彼女の危険な貌はすでに影を潜めています。
その滑らかなマホガニーの外殻が
波のない海を切り裂いていくとき、
彼女が搭載している強力なパッカードエンジンがかき回す
蛍光虫の光は不気味なくらいの美しさです。

しかしながら夜も深まる頃、再び耳もつんざけんばかりの轟音が立ち上り、
彼女がただの高速ボートではないことを証明するのでした。

若い血気盛んな水兵たちにとって、ごく少数しか選ばれない

「精強の海の騎士

の一員としてこのPTボートのサービスに就くことは、
実のところ大変エキサイティングなことだったといいます。

PTボートが配備されていた太平洋や地中海、アラスカといった任地に
彼らがエキゾチックな冒険心をくすぐられたということもあったでしょう。

また、若い士官にとっては、自分が指揮官となって、少人数の
緊密な関係のクルーを率いる権利を与えられるのは腕の鳴る機会でした。

しかも指揮官と部下との関係は他のフネと違い、永続的な絆となったそうです。

「小さなボートによる大きな任務」

写真の吹き出しには

「お前、爆雷をなくしたって?今夜は便所磨きだな・・・」


彼らの当初のミッションは、海上の艦船を攻撃することでしたが、
次第に煙幕、機雷、そして爆雷、時には海面の搭乗員の救出、
そして諜報員や通信員を運部など、今で言うところの
ネイビーシールズが行うようなことを任されるようになりました。

俳優のダグラス・フェアバンクス・ジュニアは海軍士官だったことで有名で、
現役中に行ったPTボートでの勤務でシルバースターを授与していますが、
その内容はネイビーシルズ的な秘密任務であったため、
勤務についていたことを戦後長らく明らかにしませんでした。

彼らのあだ名となった中世の騎士がそうであったように、
PTボートに対する「海の騎士」というロマンチックな妄想などは
実際の近接戦闘を知ればその恐怖の前に吹き飛んでしまうことでしょう。

ガソリンと銃撃による爆発によって、PTボートはしばしば従兄弟に当たる
ドイツ製「Sボート」や、日本の艦船と「角を突き合わせ」、
猛烈な小銃砲火を駆使して、あたかもかつての帆船時代のような戦闘を行いました。

しかし、スペインのガレオン船や英国の

「マン・オブ・ウォー」(昔の軍艦

がそうであったような、国家権力の象徴となるような価値は
PTボートには与えられていませんでした。

1945年の12月、ハリウッドは、戦争中はほとんど顧みられることのなかった
PTボート乗りのことを世界に知らしめるために、映画

「THEY WERE EXPENDABLE」(邦題『コレヒドール戦記』)

を制作しています。

「あうち!」

とかいっているのは(あとは読めませんでした)

ジョン・D・バルクリー(1911−1996

PTボートの性能改善や運用方法、戦術の考案などに深くかかわった人で、
マッカーサーのフィリピン脱出の時に乗ったPTボート船長をつとめ、
その功績により名誉勲章を授与されました。

ロバート・モンゴメリーが演じたジョン・フォード監督作品
「コレヒドール戦記」の主人公は、バルクリーをモデルにしています。

よくわからない写真ですみません。

第二次世界大戦後、海軍は用済みになったけれども新しい艦艇や、
例えば「マサチューセッツ」のように「価値のある」軍艦などは保存したり
モスボール化して残しましたが、木製の哨戒艇などはすでに冷戦時代に突入していた
海軍の戦後の戦略に則さず、ほとんどが無残にも廃棄されて行きました。

戦争中建造された519隻のボートのうち、99隻は戦没や事故等で失われ、
外地にあるものは輸送と保持にお金がかかるので現地で廃棄することになり、
121隻はフィリピンやサマワで焼却処分にされたことがわかっています。

レンドリースでイギリスに貸与された船も同じ運命でした。

破棄を免れたのは、海軍から民間に払い下げられたものがほとんどで、
博物館の展示となる以外は観光船、ディナークルーズ船(!)フェリー、
そして釣り船などとなって余生を送りました。

「モスキートフリート」とPTボートに関する年表をまたご紹介していきます。

1866年:イギリス人ロバート・ホワイトヘッドが最初に自走式魚雷を発明する 
    圧縮空気を動力とするもので、米海軍はこの5年後設計を受け継いだ

1898年:米西戦争中、米海軍は蒸気動力による魚雷艇の試験を行った  
 USS「カッシング』(写真)は有名なヨットメーカー、ヘレショフの制作

1900年:ガソリンエンジンのモーターボートが、パリで行われた国際レースで優勝
 武器を搭載するための「プラットフォーム」候補として海軍がその能力に注目

1917年:イタリア製のモーター式魚雷艇がオーストリア=ハンガリー帝国海軍の
    21,600トンの戦艦「セント・イシュトバン」を撃沈

註*Wikipediaでは1918年の出来事とされている

1918年:米海軍、魚雷艇のプログラムを開始 
   1941年までに3つの魚雷艇部隊が英海軍のそれを真似て作られた

1941年:PTボートが真珠湾攻撃の際初戦闘を行う  
    4,000回を超える銃撃により、2機の日本機を撃墜した

 

あまり表舞台に出ないPTボートのことなので、知らなかったことも多いですが、
ことに真珠湾攻撃の際に日本機を撃ち落としていたとは初耳です。

「バージ・バスターズ」というのは「船やっつけ隊」とでも言いますか。

様々な用途に活用されたPTボートですが、最も有効だったのは舟艇攻撃でした。

この頃日本は多くの船を失い、次第に昼間を避けて、夜間、
海深の浅いところを航行するという作戦を取りました。

浅いということは、駆逐艦は航行することはできません。
その上で、日本の船は陸からの砲撃に守られていました。

PTボートはその点、浅い海域でも平気で舟艇の後ろに付き、
そして攻撃し、沈没させてきました。

浅いところでは効果のない魚雷ではなく重砲を用いました。
捕虜にした日本兵の日記にはこう書かれていたといいます。

「唸りを上げながら羽ばたく怪物のごとく、あらゆる方向から撃ってきた

 日本語ではどう書かれていたのか気になるところですが、
これを解読した
PTボーターたちはさぞ小躍りして喜んだと思われます。

 航空用として設計されたMk13魚雷ですが、PTボートに搭載されました。
およそ1万7千発以上が第二次世界大戦中に製造されています。

1942年:ガダルカナルのヘンダーソン基地にて、2隻のPTボートが日本海軍の   
    爆撃隊を駆逐するのに成功

1943年:夜に稼働する日本軍に対抗し、ソロモンにはPTボートが追加配備された  
    JFKが船長を務めるPT109を日本海軍の駆逐艦が撃沈する 
    

1944年:Dデイでノルマンジー上陸作戦が行われる
    PTボートは救助、掃海などでこの作戦に参加した



PTボートシリーズ 続く。


PTボート617 「ドラゴン・レディ」〜バトルシップ・コーブ

2017-10-28 | 軍艦

 

 

バトルシップコーブの『クォンセット』というかまぼこ型ドームに掲示されている、
第二次世界大戦中の哨戒魚雷艇、PTボートについてもう少しご紹介していていきます。

高速で哨戒を行い、敵を見つけるや魚雷や重武装で戦闘を行ったPTボート。
小さい木造の船なのに自己完結していて、もうこれだけでおk?
みたいなワンマンネイビーぶりに加え、あのJFKが乗っていたこともあって
本国では結構コアなファンがいたりするのではないかという気がします。

しかしまた、それだけに犠牲も多かったようです。

ここにはPTボートに乗っていて戦死した「PTボーター」の名前が掲げられています。

建造された531隻のPTボートのうち、喪失したのは99隻。
その理由別に数字を挙げておきますと、

事故、フレンドリーファイア、海の状態 - 32
自沈 - 27
敵の襲撃 - 8
特攻機のヒット - 2
触雷 - 9
沿岸からの砲撃 - 6
機銃掃射による - 8
砲撃 - 7

フレンドリーファイア(味方からの攻撃)が気になりますね。
これによると3分の2が純粋な戦没ということになります。

戦没者名簿の横の絵に描かれているのは帆船、戦艦、潜水艦、そしてPTボートの霊?

「老いた水兵は最後の哨戒を終え、
雲の上を永遠に航行し続ける」

というセンチメンタルな言葉とともに。

全米と南方、そしてなぜか日本にもあったというPTボート基地のマーク。

真珠湾攻撃の行われた1941年12月、アメリカ海軍は29隻のPTボートを持っていましたが、
「ベニヤ板の驚異」「レジャーヨット部隊」と言われ馬鹿にされていました。

実際に海軍上層部はPTボートを補給艇程度にしか考えていなかったのですが、
フィリピン防衛の指揮官であったマッカーサーがフィリピンから脱出する際
同隊のPTボートを使用したことでその有用性を認められたという面もあります。


また日本軍がソロモン諸島・ニューギニア・レイテ島などの各方面で行った、
「蟻輸送」と呼ばれる大発動艇などの舟艇を利用した物資輸送にとって、
PTボートは天敵とも言える存在であり、「夜の悪魔」と呼んで恐れたということです。

日本軍も武装した大発動艇や装甲艇などで対抗を図りましたが、機動性、
パワフルすぎる武装を持つPTボートにはかないませんでした。

77'エルコ 78’ヒギンズ

などとあるのは、いずれもエルコ社製かヒギンズ製かという意味です。
'77などは型番で、エルコには他に70、80、ヒギンズは78だけです。

哨戒艇といいながらも重武装だったPTボート。

「モスキート・フリート」を任じていた彼らは、13隻もの日本船を沈めたことを
誇らしげにマークに描き込んでいます。

地中海、ソロモン、そしてニューギニア。
マークに挙動不審のうさぎさんを使用した部隊もあります(笑)

狼や鷲など、強い動物をシンボルにすることが多いPT部隊ですが、
第33部隊は「33」を使った魚雷運搬中の水兵さんがシンボル。

かつてPTボートに乗っていたベテランのジェームス・”ボート”・ニューベリー。

彼は戦後PTボートインクを設立。
同社はPTボート乗りの同窓会のような組織で、7,500人いるという
元PTボーターの足跡を残し、顕彰を行い、絆を堅くするための活動を行なっています。

時速70キロで海面を爆走するPTボートの勇姿。
航走中は、11人から17人のクルーは中にいなければなりません。
艇長らしい士官がコクピットから頭を出しているのがみえます。

さて、ここには2隻のPTボートの現物が展示されています。

その一つが前回お話ししたPT796「テールエンダー」。
もう一つがこのPT719「ドラゴン・レディ」です。

彼女はずっと耐水性のある建物の内部にあったため保存状態は大変よく、
その修復のクォリティは大変高いものとなっています。

フロリダにあった彼女を買い、ここに持ってきたのが、
先ほどご紹介したジェームス”ボート”ニューベリーさんでした。

彼は1984年から5年かけて100万ドルを投入して「レディ」を修復し、
ここに展示するという偉業を成し遂げたのです。

まあ、銅像の一つぐらい建ててもらっても当然かもしれません。 

「ドラゴンレディ」の展示も、側面をくり抜き中を見せるために
船の周囲に足場を作るという方法であるため、甲板のものは見にくくなります。

甲板に搭載されていた魚雷は、このように地面に展示します。

Packard 4M-2500、スーパーチャージドV-12ガソリンマリンエンジン。

本来内部で見学するエンジンも、外して外で見られるようになっていますが、
このエンジンもピカピカで、現在稼働していると言われても信じてしまいそう。

 

船の外郭のカーブに沿って木のデッキを作り付け。
いかにこの展示にお金と気合が入っているかがこの写真からわかります。

デッキからみるPTボート甲板。
手前が艦首で、こちらを向いているのは20ミリ銃。
ここには40ミリがマウントされることもありました。

護衛艦のインマルサットアンテナのドームみたいなのはレーダーです。

ついでにクォンセットと呼ばれるこの建物の天井をみてください。
屋根をあえて互い違いに組むことによって自然光を取り入れるデザインです。

艦尾の後部に設置されている左右3つづつの長いものは何でしょうか。

ここからは、デッキから内部を見ていきます。

もう一つのヒギンズ型よりは内部に余裕があるように見えます。
こちらのベッドにはセーラー服が見えるように展示してあります。

兵員用ベッドは船体の両舷寄りに設けられていました。
ベッドから転落しないためのベッドガードが向こうにも見えます。

キッチンですね。
わが自衛隊の掃海隊「カルガモ艦隊」にはキッチンはありませんでしたが、
「蚊艦隊」にはちゃんと料理を作る一角が設けられていました。

こちらに向けて「スパム」が飾ってあります。

一度だけ怖いもの見たさで買ってみたことがありますが、
あくまでも代用食とか非常食のイメージでしたね。

士官用食堂もちゃんと兵用とは別にされていました。

何人かで囲むテーブルの上にはPT617のマニュアルが。
全兵員12人に対し、士官の数は艦長を入れて2人でした。

魚雷発射管には展示用に

Mk VII TORPEDO TUBE

と書かれています。

横長の窓はオリジナルで、窓越しにピンナップが見えます。
四角と丸のプラーク(銘板)には、この船が歴史的艦船であることを
協会から認定されたことが記されています。

エンジンルーム。

向こう側舷側に人影発見。
ヘルメットにカポック、戦闘態勢です。

何がどうなっているのか全くわかりませんが、階段が大幅に傾いています。

さりげなくカポックがかけてある甲板の戦闘ゾーン。

弾薬置き場の両端には伝声管。

木目がわかりやすいように詳細度を上げてみました。
PTボートの船体は、マホガニーの集成材でできています。

JFKが艇長をしていたPT−109は駆逐艦「天霧」と衝突し、
船体が真っ二つになってもかなりの間沈まず浮いていたと言いますが、
それもこの船体が木材であったからこそでした。

先ほど後ろから見たPTボート乗員を下から見上げることに。

ファッションマネキン出身らしく、かなりのイケメンです。

 

 

ところで冒頭写真ですが、南方(おそらくフィリピン)で活動していた
PTボートのいる風景をジオラマにしたものです。

藁葺きの日よけの右隣には、小型のクォンセットが見えます。
モスキート・フリートが今帰還してきた様子でしょうか。

前甲板で記念写真を撮る3人組、甲板に指揮椅子を出してくつろぐ士官、
陸上では両手を上げて無事の帰還を喜ぶ地乗員などが表現されています。

PTボートの前線での基地の様子がよくわかりますね。

先日ロバート・モンゴメリーの映画「コレヒドール戦記」を見ましたが、
まさにこういう感じでした。

モンゴメリーはこの戦争で実際にPTボートに乗っていたことから
この映画に抜擢された俳優です。 

「ドラゴン・レディ」の船首部分下にあったのはPT103の模型でした。

喪失したPTを偲んで、その姿を残したいと望んだ元クルーの作品かもしれません。

 

続く。

 

 


ラザロの復活場所とノーベルの恋愛遍歴〜PTボート 哨戒魚雷艇

2017-10-26 | 軍艦

「あきづき」での体験航海に参加させていただいたとき、佐世保を出てすぐ
「あきづき」の周りを2隻のミサイル艇が周回し、そのスピードを見せてくれました。

ミサイル艇というのはそれにしても速いものだと驚かされたわけですが、
その名前の由来はミサイルを装備しているからで、決して
ミサイルのように速いから(わたしはそう思っていました)ではないのです。

このミサイル艇は、第二次世界大戦中に各国で使用されていた
高速魚雷艇をベースとし、魚雷の代わりに艦対艦ミサイルを搭載しています。

開発国はソ連。
日本では「はやぶさ」型ミサイル艇が平成11年から導入され、6隻ずつが
佐世保、舞鶴、大湊各地方隊(つまり対外的な最前線?)に配備されています。

 

ミサイル艇の構想の元となった、魚雷艇(モーター・トルピード・ボート)というのは
名の通り魚雷を搭載しており、日本では水雷艇と魚雷艇は別物とされていました。

水雷というのは魚雷も含む爆雷、機雷などの総称なので、日本では分けていたようですが、
その境目が曖昧になっている国もあるようです。

 

さて、本日ご紹介するのはPTボート、すなわち哨戒魚雷艇です。
PTのPはパトロールのP、TはトルピードのT。

高速の魚雷艇をアメリカ海軍では哨戒艇として運用していました。

 

戦艦「マサチューセッツ」、駆逐艦「ジョセフ・P・ケネディJr.」、
潜水艦「ライオンフィッシュ」、コルベット艦「ヒデンゼー」と、
マサチューセッツはフォールリバーにある「バトルシップコーブ」の
展示艦についてとりあえず全部お話ししてきましたが、まだ
バトルシップコーブには小艦艇を展示している一角がありまして、
そこで見ることができるのが、このPTボートなのです。

 

格納庫の中に足台を作り、内部と下部を全周囲から見学することができる仕組み。

周囲にはいくつかのPTボートの戦歴がパネルになって飾ってあります。

「アコンティウス」AGP-12

「オレステス」AGP−10

「ジェームズタウン」AGP-3

「オイスター・ベイ」AGP-6

「ポーツヌス」AGP-4

などですが、どれも戦果をあげ、バトルスターを獲得した「エリート艇」ばかり。

例えばこの「オレステス」ですが、特攻の攻撃によりダメージを受けるも
生き残ったということが特に強調されています。

1944年の4月25日の特攻とは、下に並んだ戦闘参加区域でいうと、
フィリピンのレイテやミンドロでのことだったでしょうか。

ここに展示してあるPTボートはPT−796。

ほぼ完全な状態で残され、ここバトルシップコーブにおいても
室内で保存されているため、最上のコンディションを維持しています。
展示に当たって、あえて艇内に人を立ち入らせず、
外から中の様子がわかるように側面をくり抜くなどして、
後世に、できるだけかつてのままの姿で残すことを意図しているそうです。

 

「速い船があれば如何なる状況も切り抜けられる」

とは海軍の父であるジョン・ポール・ジョーンズの言葉ですが、
まさに最大戦速時速70キロの魚雷艇がそれでした。

高速魚雷艇はヨーロッパで生まれ、第一次世界大戦では
その真価を認められていましたが、アメリカの場合は海といっても広すぎ、
どこで使うの?ということで、最初は導入には熱心ではありませんでした。

アメリカ海軍が高速艇に目を向けるようになったきっかけは、日本です。

1931年、日本が満州に進出してから、アメリカはフィリピン諸島周辺を中心とする
太平洋での湾岸の防備の必要性を考慮しだし、1914年ごろから存在していた
魚雷艇をさらに高速にしたものをエルコ社とヒギンズ社に製作させました。


ここにあるPT-796はヒギンズ社製です。
船体は厚さ25mmのマホガニーの2枚の板でできていて、
その間には接着剤を含浸させた層を挟んでいました。

三つの層を組み立てるためには何千もの青銅のネジと銅リベットが必要でしたが、
この構造のおかげで、PTボートが最前線で損傷を受けるようなことがあっても、
乗員の手による容易な修復が可能とされました。

妙な画角ですが、PTボートの外壁を取り払った状態で中を覗き込んでいます。

水平帽が転がった兵員用のベッドは外壁に接していて、
楕円の窓から向こうが居室だと考えてください。

居室の向こう壁にも楕円の窓があり、向こう壁に接してベッドがあります。

デスクの横には甲板?に上がる梯子段がありますが、どうも木製のようです。
スピードのために軽量化を図った結果、素材を木にしたのでしょうか。

そういえば佐世保でみたアメリカ軍の哨戒艇にもこんな銃が供えてありましたっけ。
ブローニングM2重機関銃だと思われます。

魚雷艇というくらいで、やっぱり魚雷を乗せているのだった。

Mk.13 魚雷は基本的に航空魚雷として雷撃機が搭載していた対艦攻撃用で、
PTボートではこれを落射機とのセットで搭載していました。

魚雷がラックのように乗っかっているのが落射機で、海に向かって投擲します。

導入当時PTボートはMk.8、Mk.18を搭載していましたが、
1943年ごろ、Mk.13に替えられました。

 

PTボートが特に効果をあげたのが通商破壊作戦で、
日本側は高速で魚雷を放つPTボートの集団を

「モスキート・フリート」(蚊艦隊)

「悪魔の船」

と呼んで恐れた、とアメリカ側の記述にはあります。
(日本側の記述にはありませんが、まあこれもありがちってことで)

中に人を入れず、あくまでも外から覗き込む形の見学なので、
いまいちどうなっているのかわからないのも事実であります。

この、構造物のV越しに見えるものは何かしら。

潜水艦や戦艦などの扉に比べると水密性はほぼゼロという感じです。
そもそも、木製なので水密もへったくれもないという見方もできますが。

「LAZARETTE」

レイザレットと読むのでしょうが、ボートの操縦席の後ろ部分にあり、
デッキの周りに使用するギアや機器にを収納するための保管ロッカーです。

これは通常、船尾の天候デッキ(屋外にある)の下にあり、スペアライン、セイル、
セイル修理、ラインとケーブル修理機器、フェンダー、ボースンチェア、
スペアのブロック、
工具、およびその他の機器の収納を行います。

 

この名前は聖書に出てくるラザロ(LAZARO)話に由来しています

ラザロというのは死んで4日目にイエス・キリストの力で復活した、
というエピソードから、「ラザロ・エフェクト」などのように
復活と蘇生に関連する用語によくその名前が用いられるのですが、
船についてはこういう少しぞっとしない起源があるのです。

 

かつて、帆船では、舳先の部分に長距離航海中に死亡した重要な乗客、
または幹部乗組員の遺体を保管する大きな収納場所が設けられていました。
(そうでない客や普通の船員は死んだら海に投棄されるのが通例でした)

舳先の部分にあったわけは、遺体の腐敗する匂いがデッキを横断せず、
吹き飛ばされることからだったそうですが、これって停泊中は((((;゚Д゚))))

要するに、遺体入れと称するよりは「ラザロの復活場所」みたいな方が、
言霊的にも差し障りがないということでこうなったのでしょう。

近代の船舶では、ラザレットは船舶用ステアリングギヤ装置の置き場所です。
操舵室の後ろ側というのは、悪天候でも浸水などの問題がない場所とされます。

いたるところにあるバッテン型の素材や、丸く孔を穿ってあるのは、
速度を確保するための艇の軽量化だと思われます。

PTボートは最速全長20m、排水量50t程度の木製の船体に
航空機用エンジンをデチューンして搭載し、最大で40ノット(約74km/h)以上、
海上自衛隊所有の「はやぶさ」型ミサイル艇(81km/h)と比べても
当時としては尋常でない高速を誇っていました。

 

ところで、ここの展示方法は、確かにPTボートがどんな船かはわかるのですが、
どうしても船殻ぞいから写真を撮ることになり、その結果
皆様には隔靴掻痒の画像ばかりになってしまいます。

そこでwikiから引っ張ってきた再現PTボートPT−658の勇姿をご覧ください。

現存する艇長78フィート(24 m)のヒギンズ社製で、復元され操作可能な
米海軍PTボートの2隻のうちの一つです。
1995年から2005年まで行われた船体修復後、ボランティアによって稼働維持されているとか。

この船尾側船上にある武器を後ろから見ると・・・・・・、

こんなです。

ここにあるのはボフォース40mm機関砲
ボフォース社はスェーデンの兵器メーカーで、この40ミリ砲や
37mm対戦車砲など、世界的にヒットとなった武器を送り出しています。

当社は1800年代末期に鐵工所としてスタートしたのですが、
これを買収し、兵器製造業に方向転換させたのは、あのアルフレッド・ノーベルです。

超余談ですが、武器製作で身を立てたノーベルが、ノーベル平和賞を設立したのは、
彼が生涯二番目にプロポーズした女性が徹底した平和主義であったからだそうです。

その女性とは、自身がマルチリンガルだったノーベルが、
五カ国語で女性秘書を募集する広告を出し、それに
五ヶ国語で応募してきた才媛でした。
内心秘書探しついでに結婚相手もゲットお!という下心満々だった彼は
上から目線で(見たわけではありませんがおそらく)

「君のような知的な女性こそ天才の私にふさわしい!」

と(多分)求婚したのですが、彼女には婚約者がいて相手にされませんでした。

嫁には仕損なったものの、よっぽど影響力のある女性だったと見えて、
その思想に影響を受けたのが「平和賞」の設立につながったようです。

まあ、これも金や政治のまつわる今日となってはなんの権威もなく、
存在自体に意味があるのかどうかという微妙な賞になってしまいましたが。

 

ついでに書いておくと、彼は最初の恋人にはこっぴどくふられており、
二番目のまともそうな女性にはそもそも恋人にもしてもらえませんでした。
そして三番目の恋人とは、
彼女が20歳の時から18年も付き合っておきながら、
結局彼女が
他の男の子供を妊娠したことで破局を迎えています。

今2ちゃんねるで、

(悲報)18年付き合った彼女が他の男の子を妊娠したんだがwww

というスレッドをもし彼が立てたら、

「20歳から18年も付き合って結婚もしないお前がカス」

「こんなクズ男から逃げられてよかったね彼女さん」

と「報告者がキチ」カテゴリでかつフルボッコ間違いなしのパターンです。

結局彼はそんなこんなで生涯独身を通す羽目になりました。

しかも踏んだり蹴ったりというのか、三番目の恋人はノーベルの死後、
ノーベル財団に
この経緯が記された手紙を売り、巨万の富を得るというオチ。

まーこれは他の男の子供を産むという方法でこっぴどい仕返しをしても
まだ相手に対する怒りが治らないという、世間によくある女の恨みが
欲得と合致したってことなんでしょうが、これによってアルフレッド・ノーベルは
恋愛弱者の烙印を押されたばかりでなく、

(悲報)本人がクズ

カテゴリに後世で分類されることになったわけです。

合掌(-人-)

PT-796の愛称は「テールエンダー」といいました。
戦争が終わった後、彼女は実験の目的でマイアミのキーウェストで使用されていましたが、
1950年に退役し、大事に保存されていました。

彼女は、若い頃PTボートの艇長だったジョン・F・ケネディが大統領になった時、
艇番号をJFKの乗っていた「109」に塗り直し、PT−109の数人の生存者を乗せて
水上での就任パレードに参加するという栄誉を得たということです。

 

現在彼女は、ここバトルシップコーブのクォンセット・ハット型(かまぼこ型)
の建物に、天候から遮断された保存に最適の環境で静かに余生を送っています。

 

続く。

 

 



婦人自衛官と和文タイプライター〜タイプライター博物館

2017-10-25 | アメリカ

 

今年のアメリカ滞在中には、国内移動を二回行いました。
まずボストンからサンフランシスコ、東海岸から西への移動です。

上空から見ると、街の様子が都市によって全く違います。
広大な土地を持つ土地を持つアメリカならではで、その点日本はどこに行っても
上から見ても下から見ても良くも悪くも同じ景色ばかりです。

まあ、日本全体がカリフォルニア州にすっぽり入るわけですから
それも当然かもしれませんが。

というわけでこれはボストンの西部、わたしがいつも滞在している地域ですが、
一軒家と緑が連なっていると上からこう見えます。

ちなみにこれは離陸直後にトイカメラモードで撮った写真です。

これはサンフランシスコからロスに向かう飛行機に乗った時。
窓から外を見ていたら、荷物の積み込みが窓の下で始まりました。
飛行機が小さいのでこんなシーンも間近に見ることができます。

「あ、うちの荷物積み込んでる!」

ちゃんと機械でプライオリティタグのチェックをしている模様。
カウンターで預けた自分の荷物が積み込まれているのを初めて見ました。

アメリカの荷物の扱いは荒っぽいものと思い込んでいましたが、
この時見ていた限りでは大変丁寧でした。

一つ一つ番号をスキャンしてチェックしていました。

ロスアンジェルス空港に降りるために高度を下げています。
さすがはロス、全体的に緑が少なく殺伐とした感じです。

そこでもう一度ボストン空港上空。

左側に空港ホテルのヒルトンが見えています。
やっぱりわたしはボストンが好きです。

サンフランシスコ空港で「タイプライター展」をやっていました。
移動のための広大なスペースを利用して、空港ではよくこのような

ニッチなジャンルのミニ・ミュージアムが企画されており、以前にも
ここで日本の民芸品展覧会を目撃しご紹介したことがあります。

これはアメリカのタイプライター会社が会社の資料を空港で展示していたようです。

「ザ・シカゴ」とあるのが1905年製、赤いのが1927年製。
一番左はもっとも古く、1875年の製品です。

世界で初めて特許をとったタイプライターは1800年初頭には世に出ていたそうです。

こちらは1890年の製品。

タイプライターは誰か一人が発明したというものではなく、原型から
様々な人が改良を重ねて形にして行ったものなのですが、とりあえず

「タイプライター」

という名称を最初につけたのはアメリカ人で、1873年に、ミシン会社だった
E・レミントン・アンド・サンズ社が作った機械、

ショールズ・アンド・グリデン・タイプライター

という商品名にその名称が組み込まれました。

これらも全て1890年製。

この頃にはイタリアのオリベッティ社もタイプライター生産を行なっていました。

資料を置くのかタイピングする紙を置くのかわかりませんが、
その部分がとても装飾的に作られたタイプライター。

1989年に発売された、最初のダブルキーボード(上が大文字)だそうです。

わたしがこの展示に立ち止まり、写真を撮ったのはこれがあったからでした。
なんと、日本で発売された日本語タイプライターです。

とても古いように見えますが、戦後の1951年製。
マツダタイプライターという商品名だそうです。
販売元は

Tokyo Shibaura Kabusshiki kaisya (TOSHIBA)

とあります。
電気製品でもないのに、東芝が生産していたんですね。

日本語のタイプライターなので、漢字が含まれることになり、
ご覧のように膨大なキーが必要となるので、習熟も難しく、
プロのタイピストが使うくらいで一般には普及しませんでした。

和文タイプライターは1915年に日本では杉本京太によって発明されました。

邦文タイプライターのマニュアルは本一冊文だったようです。

タイプの活字は漢字を含み、ひらかな、カタカナで最低でも1000、
小型汎用機種でも大抵は2000を越える漢字を含む活字の中から、
適切な文字を探して一文字ずつ打ち込んで行くため、かなりの技能が必要で、
英文ライターのようにブラインドで打ち込んでいくことなどまず不可能でした。

このロール式のタイプが日本で使用されている様子。

世にワードプロセッサーというものが登場するまで、和文タイプライターは
日本の官公庁における書類の作成や印刷業界の版下制作を支えていました。

特に書類作成では、学校などの公共機関、企業が内外の関係者に配布する書類、
そして連絡文章の作成に威力を発揮し、1970年代まで手書きによる謄写版と並行して、
普通に活用されていたのです。

もちろん自衛隊でも使われていたそうですが、和文タイプライターの活字配列は、
検定に使用する場合も含め、一般的に五十音順なのに、どういうわけか
自衛隊ではいろは順の並びの機種を採用していたのだそうです。

当時の婦人自衛官には和文タイピストという職務があったということになりますが、
自衛隊が「いろは順タイプ」を採用していたため、入隊して隊内の検定で得た
タイピストの資格が、退職後全く役に立たないという弊害が生まれたそうです。

一般の和文タイプの検定試験は商工会議所など、いくつかの団体が行なっていました。

日本語でこうなんだから中国語はどうなる?って話ですが、
例えばこの「shuangge」製のタイプライターのキイは
2450個あるということです。

配列を覚えるだけで何年もかかりそう。

しかし毛沢東先生のために大躍進しながらタイプする中国人(適当)。

有名人が実際に使用していたタイプライターが展示されていました。

インペリアルのタイプライターはジョン・レノンの所有していたもので、
彼がというより、彼が住んでいた叔母のミミのうちにあったものです。
ポール・マッカートニー

「ジョンのうちに行くと彼はタイプの前に座っていたけど、
リバプールにはタイプライターがあるうちなんてなかったし、
友達のうち誰もそもそもタイプライターが何かさえ知らなかったよ。
誰もそんなもの持ってなかったからね」

と言っています。

レイ・ブラッドベリとその愛用のタイプライター。

『R is for Rocket 』ウは宇宙船のウ、『The Octorer Country 』
十月はたそがれの国、また『Fahrenhei451』華氏451などの小説を
読んだことがなくとも、彼が何作かを手がけた「トワイライトゾーン」
を観たことがあるという人もいるかもしれません。

初期の作品、「華氏451」は、図書館にあるコイン式の
タイプライターで執筆されたということがわかっているそうです。

テネシー・ウィリアムス

「焼けたトタン屋根の上の猫」「欲望という名の電車」「ガラスの動物園」
などを遺した偉大な劇作家です。

彼は執筆するときいつもタイプを打ちながらセリフを大声で朗読するのが常でした。

アーネスト・ヘミングウェイと「ローヤル」というメーカーのタイプライター。

オーソン・ウェルズのタイプライター。

ケースには名前と住居にしていたと思われるパリのホテル、
オテル・ドゥ・ラ・トレモワイユの名前が刻まれています。

手直ししまくった原稿らしきものの実物も見ることができました。
下半分ほとんどボツになってますね(´・ω・`)

うちにもオリベッティのタイプライターがあった記憶がありますが、
おもちゃにするだけでちゃんと使うことなくいつのまにかなくなっていました。

もちろん和文タイプライターなどというものがあったのも、そしてそれが
当時文書製作の主流となっていたことも初めて知ったわけですが、
一番気になったのは、

なぜ自衛隊だけが普及型ではないいろは順のタイプを導入したのか、
そこに何があったのか

ということです。

今更ですし、そもそも何があったとしてももうとっくに時効なんですがね。


ちなみに冒頭画像はいろは順のタイプライターの文字列です。
ちょっと見ただけでもう無理ゲーな漢字、いや感じ(笑)



シーボードを買いに〜 カリフォルニア雑景

2017-10-24 | アメリカ

今年の夏のアメリカ滞在で、サンフランシスコとロスアンジェルスを往復しました。
その時の写真をサンディエゴとシリコンバレー滞在時のも含め淡々と貼って行きます。

まず冒頭写真はシリコンバレーのマウンテンビューにあったファストフード、
「ウィングストップ」というお店の内装です。

単なるチキン専門店なのですが、なぜかコンセプトが航空。
壁一面にボマー(B-17?)の写真があるかと思えば、

テーブルはこの通り。

「彼らを飛ばせよ!」

というポスターに描かれているのはBー24リベレイターですかね。

壁にはいたるところに航空関連の額。
こちらダグラスDC3の設計図。

コクピットの陸軍パイロット。

なぜチキン屋さんがここまで?という謎なのですが、メインの商品が

「チキン・ウィング」→「ウィング」→「飛行機」→\(^o^)/

らしく、チキンが飛べないことはこの際無視している模様。

サンディエゴ空港の通路になぜか折り紙モチーフ。
サンディエゴの日本人会というのは大変しっかりした組織だそうですが、
関係あるのでしょうか。

紙飛行機と折り鶴があしらってあります。
これを普通に外国人は「オリガミ」と呼びます。

サンディエゴ空港ならでは?
見るからに初々しい感じの海軍軍人がグループで飛行機を待っていました。

同じ飛行機だったと見えて、その中で一番階級が上の人(中佐)が比較的前に座り、
若い人たちは全員遥か後ろの方に・・・。

ところで、中佐の前に座っている人たちのガタイが皆異様にでかいのですが、
彼らはこの日サンディエゴで試合を済ませたジャイアンツの選手団です。

わたしたちは試合があったこともその結果も知らなかったのですが、
機内で機長がわざわざジャイアンツのメンバーが乗っていること、
ついでに試合は今日は負けた、とアナウンスしていました(´・ω・`)

いやそこはわざわざ触れてやるなよ。

小型飛行機のタラップはキャリーも使えるこんなタイプ。
あくまでもバリアフリーです。

ジャイアンツの皆さん、気のせいかあまり元気がありません。
まあ、プロですからいちいち一喜一憂しないんでしょうが。

さて、そのロスアンジェルス空港に到着後、車でホテルまで移動中、
前を走っていた楽譜付バス。

なぜ「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン」?

予約したホテルを探してうろうろしていたら、なんとすぐ近くに
ノースロップ・グラマンを発見。

本社はバージニア州らしいので、ここは工場だと思われ。

航空機会社なので管制塔があるんでしょうか。

ちょっと迷ってホテルに到着。

キッチン付なのでいつも選ぶマリオットのレジデンスインです。

マリオットだけでなく、ここには3つもホテルが並んでいました。
その理由は、おそらくこの巨大な送電線。

空港ホテルにするくらいしか土地の使いようがないのでしょう。

アメリカではどんなところにあるホテルでも必ずと言っていいほどプールがあり、
夏場は必ず人が泳いでいます。
このプールも朝から晩まで大盛況でした。

ここからビバリーヒルズ。
ビバリーヒルズにもホームレス(しかも女性)はいます。

ジャパニーズレストラン「ボス・スシ」。
この名前は絶対日本人の経営ではない、に太巻き一本。

アメリカでも犬がいなくなるということがあるんですね。
なんだろう・・・散歩中に逃げたとか?

 


 

この日の外出の目的は、この楽器屋さんにキーボード「Seaboard」を買いに来ること。
カード会社に探してもらったら、西海岸ではこの店にしか現物がなかったのです。

 

 

アメリカの楽器屋というのはいつもそのスケールに驚かされます。
ギターコーナーだけでこの有様。
ミュージシャンには天国みたいなところでしょう。

 

ロス中のミュージシャンが、ジャンルを問わずここにやって来るに違いありません。

 

 

早速「Seaboard」を見つけて触ってみる息子。
息子はピアノは弾けませんが、作曲のためにこれが欲しいそうです。

 

Seaboardは映画「ララランド」で主人公が弾いていたので有名になりましたが、
そういえば「LA LA Land」って、ここロスアンジェルスのこと・・・。

 

 

お店のお姉さんがとても親切でかつ知識豊富なプロでした。
というわけでSeaboardを手に入れてにっこり、の息子。

ところでなんでシーボードという名前なのか。
息子に聞いてみると

「音がフローするから?・・シラネ」

だそうです。

 

 

後ろに飾っているウクレレに北斎柄が!
しかしこの違和感の無さは一体・・・?

ウクレレ→ハワイ→日系→北斎

と自然につながっていく気がする。

 

 

そのあと近くで食事をしましたが、横にこんな看板がありました。

 

「マシュマロって何?」

 

「有名なDJだよ。いつもマスクを被ってて正体がわからないの」

 

Adele - HeLLo (marshmello Remix) 

 

このリミックスは悪くないと思うのですが、息子は「嫌い」だそうです(笑)

たった今、なんで嫌いなのかもう一度聞いて見たら

「何聞いても同じだから」

うーん、それをオリジナリティって言わないかな。

「オリジナリティじゃなくて単なるワンパターンなんだよ」

なるほどね。それならわかる気がする。


 

おまけ*

ロスアンジェルス空港近くを走っていて見かけた大きなドーナッツ、
「ランディズ・ドーナッツ」の看板。
息子が

「スパイダーマンが映画で飛び乗ったところだ」

というのですが、本当でしょうか。
写真を撮る場所を考えれば、飛行機がドーナッツの輪を
潜っているところも撮れるかもしれません。

 

 

 

 

 

 



「ラングレー」と「ジェラルド・フォード」〜空母「ミッドウェイ」博物館

2017-10-23 | 軍艦


しばらくお話しして来た「ミッドウェイ」シリーズ2016年編も最終回です。

こちらはハンガーデッキにあった全面アクリルで半透明の「ミッドウェイ」模型。
全て半透明で艦内の各部が可視化できる大変な労作です。(模型的に)

2017年は一人で見学できたのですが、この時には推定年齢67歳のジョアンナはじめ
連れがいたので、あまり細かく写真を撮ることができませんでした。

次に行くことがあったら、もう少し詳しくご紹介できればと思います。

ハンガーデッキの最後尾に「ファンテイル」という名前のカフェがあります。
スタンドで買った飲食物を持ち込んでサンディエゴの海を見ながら過ごすことができます。

最終的に「ミッドウェイ」は甲板拡張に伴い艦載機用のエレベーターを
合計3基備えていましたが、ここはなんと!左舷後方のエレベーターのスペースです。
上にフライトデッキの階が見えてますね。

海に張り出すような屋根のない部分がお休み処にぴったり。

ここでは A-4「スカイホーク」を見ながらお茶を飲めます。

しかしこういう光景を見るといつも思うのですが、皆自撮りが好きですね。
艦載機であろうが展示物であろうが、自分を入れて撮りまくっているのを見ると、

「一体なんのために・・・・」

と思ってしまうわたしは少数派ですか。


さて、ダグラスの「スカイホーク」は艦上攻撃機として開発されました。
「ファントムII」や「クルセイダーズ」より小型なので、小型艦船に搭載され、
「ミッドウェイ」級空母にも「コルセアII」の登場まで就役していました。

アクロバット航空隊「ブルーエンジェルス」の使用機にもなっています。

ちなみにこのA-4 の大きさですが、

艦載機の話題の時、モデラーさんに送ってもらった貴重な画像。
左からA-4、F-4、F-14です。
こんなに大きさに違いがあるとは改めて驚きますね。

A-4、ほとんど F-14の半分くらいしかないじゃないの。


さて本題。
この模型を見て途端ににっこりしてしまったあなたは、相当アメリカの軍艦に詳しい。

左はアメリカ海軍の次世代空母「ジェラルド・フォード」ですが、右側、
これはアメリカに最初に導入された航空母艦、

「ラングレー」CV−1

なのです。
昔、「タスクフォース」(邦題”機動部隊”)という映画について書きましたが、
主人公はこのアメリカ海軍初の空母艦載機のパイロットという設定でした。


「ラングレー」がデビューしたのは1922年。

給炭艦「ジュピター」を改装したもので、1922年10月17日に初発艦、9日後、
最初の着艦、11月18日にカタパルトで初めて発艦が行われています。

そういう「初めて」だらけの空母ですが、「ミッドウェイ」と比べると
これほど小さいんだよということがよくわかる模型展示です。

もちろん両者は同じ時期に存在していませんのであくまでも「夢の(中の)共演」です。

ところで、あまりアメリカでは大きく報じられない(報じたくない?)ことかもしれませんが、
「ラングレー」を沈没させたのは、我が帝国海軍の飛行隊であることがわかっています。


1941年12月7日の真珠湾攻撃発生時、「ラングレー」はフィリピンにおり、
その後日本軍に対抗してオランダ領東インドに配属されました。

その頃の南方作戦での日本軍の進撃は留まる事を知らず、
やがてジャワ島に対しても空襲が行われるようになりました。
連合軍は「ホーカー ハリケーン」「ブリュスター バッファロー」で対抗しますが、
はっきり言ってこの頃イケイケだった日本軍の敵ではありません。

連合軍は零戦に対抗するため「カーチス P-40」を採用することにし、
貨物船と「ラングレー」に
機体の輸送を命じます。

その前後、すでにバリ島に進出していた高雄航空隊の一式陸攻が「ラングレー」と
一緒に航行していた
「ホイップル」「エドサル」の3隻に襲いかかりました。
3隻は爆撃を受けると同時に各方向に分離して回避運動を行いますが、
攻撃隊の陸上用爆弾6発が命中、ラングレーは大破し、操舵が困難となります。

不運なことに艦上に輸送のため搭載していたP-40の燃料に火がつき
次々炎上し、折からの強風で消火が困難となりました。

さらには機関室も浸水し、ついに総員退艦が命じられるに至ります。

そして「ラングレー」は「ホイップル」が処分のために放った魚雷によって沈没。

「ラングレー」の乗組員は救出され、給油艦「ペコス」に移乗しましたが、
その後すぐ3月1日に「ペコス」も南雲忠一中将率いる機動部隊の空襲により
撃沈されたため、そのほとんどが助かることはなかったということです。


一方、ラングレーを攻撃した高雄航空隊では不思議なことが起きています。

上層部はこの大戦果を「空母一隻撃破」としか評価しなかったというのです。
直接「ラングレー」を葬ったのは確かに味方の「ホイップル」なのは間違いありませんが、
攻撃隊指揮官がそれを見届け、撃沈報告をしているのにもかかわらず・・・・。

このカラクリはこうでした。

その少し前に大本営が”伊25潜水艦が「ラングレー」を撃沈した”
発表してしまっていたのです。

その後になって「ラングレー」を沈めたのが高雄航空隊だったのが
電文によってわかったのですが、大本営発表が出てしまった後なので、
航空隊上層部は上に忖度して

「高雄航空隊は”特設空母”を撃破」

とかなんとかうやむやな報告をあげたらしいことがわかっています。

おいおいおいおい。
さすが忖度体質の縦割り国家日本、軍隊まで、いや軍隊だからこその忖度。

これは航空隊現場の士気だだ下がり間違いなしの事案ですが、
残念ながら忖度「された方」はずっと気づかないままなんだよな・・。

 

というわけで、ハンガーデッキから退出口に出てきました。
右舷の後方に出口があり、前方の入り口の外付け階段が見えています。

この立派なお髭のお爺ちゃん、よく見たら歩行器付きですが、
自分の「ミッドウェイ」での体験を語り継ぐため、
こうして体の動く限り毎週ここに足を運んできているのでしょう。

「お元気で」

と心の中で声をかけながら通り過ぎましたが、今年(2017年)は
まだ元気でおられたかなあ・・。

外側の作業に使うらしい真っ赤なボートが牽引されていました。

そもそもこれは現役なのか、それともただの展示なのか。

階段を下りながら後方の艦載機エレベーターを臨む。

下にエレクトリックハウスらしきものが見えます。
このエレベーターは
物資をここから上げ下ろししているに違いありません。

青いプラスチックのものはリサイクルのゴミ箱です。
「ミッドウェイ」では一般見学時間を終えて閉館したあと、ディナーパーティを行ったり、
お泊まりイベントを開催したりするので、それだけゴミも大量に出ることになります。

「アメリカの生ける自由のシンボル」

とバナーには書いてあります。

岸壁に降りて、艦尾を見ながら歩いて行きました。
写り込んでしまった手前の親子孫(東南アジア系)がシュール。

こうして下から眺めると、空母とは誠に巨大な構造物であると圧倒されます。

艦尾の旗竿はなぜか4本あって、現役時代はいろんな旗を揚げたのでしょうが、
今揚げていいのは星条旗だけ。

画面右のハンガーデッキ階ウィングに人影が見えますが、ここは立ち入り禁止。
この時は気づかなかったのですが、今年の訪問で二体の人形であることがわかりました。

・・・・え?もう一人、デッキのドア部分に人影が見えるって?

そ、そんなはずは・・・・・・・((((;゚Д゚)))))))

 

2017年編に続く。

 

 

 

 


ダム・バスターズ〜空母「ミッドウェイ」博物艦

2017-10-22 | 航空機

行くつもりをしていた方ならご存知ですが、
今日は本来なら航空観閲式の予行が行われていたはずでした。

しかし、中止になってしまったのです。

台風が来ているという予報があったので、わたしが知り合いに

「中止になることなんてあるんですか」

と聞くと、その返事は

「よほどのことがないと中止になりません」

そこでわたしはNIKOND810専用のレインコートを買って(笑)
苦行に耐える心の準備をしていたのですが、なんと防衛省の方から
なぜか直々に電話がかかって来て、中止になったと知ったのが金曜日。

やはり台風直撃が予想されるというのは「よほどのこと」だったのでしょう。

もしかしたら百里基地でファントムさんが炎上したこともちょっと
中止になった原因だったかもしれないなあなどと思ったり。

それにしても、今回のチケットを闇で買った人、泣くに泣けませんね。
来週は晴れますように。



さて、博物艦「ミッドウェイ」のハンガーデッキは、見学者がここからツァーに出発する
スタート地点として、ターミナルのようになっています。

飛行甲板、船首上甲板、各甲板、艦橋、機関室

わたしはこの2016年の訪問で船首上甲板とCAGエリアを見学し、
今年の訪問で飛行甲板と居住区でもある第2、第3甲板を見ました。

しかし、まだ肝心の艦橋と機械室は見られないまま終わりましたので、
最低でもあと一回は行かねば全制覇できません。

いつになるかはわかりませんが、必ずみなさんにディティールを
ここでご報告することをここで一人勝手に誓いたいと思います。

さて、今日はハンガーデッキの展示をご紹介していきます。

ちゃんとした丸ごとの航空機の他には、このように操縦席だけ
切り取って、コクピットに座ることのできる展示もあります。
これは

A-7コルセアII

ノーズを切り落として丸いドームに変え、特徴的なインテイクは
塞いでしまっているので、5年くらい前のわたしなら

これが何か特定することは不可能だったと思われます。

「ミッドウェイ」には1970年代から1985年まで、
ヴォートのFー8
「クルセイダー」とともに配備されていました。

ヘリコプターH2「シースプライト」のコクピット部分。

「ミッドウェイ」など空母に搭載される汎用ヘリとしてデビューしましたが、
多目的戦闘システムを組み込むことで対潜、対地戦闘、対艦ミサイルからの防衛、
監視の他、救難、輸送、援護、訓練支援など幅広く活用されることになりました。

アメリカでは「スーパーシースプライト」を最終形として2001年に除籍になりましたが、
他国海軍ではまだまだ現役でその姿を見ることができます。

ハンガーデッキは人の往来が激しく、人が写り込まない写真はまず撮れません。

この黄色い機体を見たとたん、「テキサン」とわかってしまったのは、

Tー6 SNJ ノースアメリカン社

が歴代の戦争映画に「零戦役」で数多く出演し、それについて語ってきたからです。
空母着艦の練習をするために、着艦フックをつけたものも存在しました。

「テキサン」というあだ名は大量に作るための工場がテキサスにあったからで、
アメリカ海軍ではここの案内板にも書いてあるように「SNJ」、陸軍ではAT-6、
イギリス連邦諸国では「ハーバード」の名称で認識されていました。

静浜基地のTー6を見学した時、操縦資格のある隊員が少なくなっていくにもかかわらず、
エンジンにはオイルを入れて年に何回か稼働させ、飛べる状態を保っている、と聞いて
空自のロマンみたいなのを感じたものですが、今でもそうなのかしら。

かつて艦載機部隊として所属した航空隊のマークが入った航空魚雷も、
天井からつった状態でこのように展示してあります。

紫ジャケットの航空燃料係が立っている上にある

「FREELANCERS」とは、VF(戦闘飛行隊)21

のニックネームです。
飛行機が三つ描かれていますが、これは撃墜マーク。
同航空隊はベトナム戦争中にMiG17を3機撃墜した、と
パイロット名が刻まれているというわけです。

白い眉毛付き目玉マークの魚雷は、

VMFP-3 (Marine  Tactical Reconnaissance Squadron 3 )

つまり偵察舞台の所有です。

偵察部隊→見張り→目玉→\( ˆoˆ )/

というわかりやすいマーク。

手前こちらの魚雷のマークの部隊、

VFA-195 「ダムバスターズ」

は今厚木にいる第5空母航空集団で「ロナルド・レーガン」に乗ってます。

ところで、陸自音楽隊のCDに、調子のいい出だしにかっこいい中間部を持つ
「ダムバスターズ・マーチ」というのがあって、てっきりわたしは
この航空隊の讃歌だと思っていたのですが、こちらではなく、第二次世界大戦時
ドイツのルール地方の貯水池(つまりダム)を破壊した(つまりバスター)

英国空軍第617中隊、通常ダムバスターズ

のことだったと知りました。

ダム・バスターズ・マーチ(The Dam Busters)

同盟国にあやかったのかなと思ったのですが、アメリカ海軍のは
朝鮮戦争中に北朝鮮のダムを壊した部隊という意味の「ダムバスター」です。

ぜひこの勇ましいマーチを一度聞いて見てください。


1965年といいますから、「ダムバスターズ」戦闘機隊がMiGを撃墜していた頃の
空母「ミッドウェイ」ハンガーデッキの写真。

「あなたはここにいます」というところに飾ってあります。

ハンガーデッキの床がほとんど見えないくらいの航空弾薬、
扱う水兵たちはTシャツか上半身裸で作業しています。

画面右奥には大きな扇風機が回っていますが、ベトナム湾の
「ヤンキーステーション」における艦内の気温はさぞものすごかったことと思われます。


続く。




V.J-DAYの勝利のキス@タイムズスクエア〜空母「ミッドウェイ」博物館

2017-10-20 | アメリカ

空母「ミッドウェイ」博物館のハンガーデッキは、皆が最初に足を踏み入れるところなので、
案内所があったり、ショップがあったり、いろんな情報が掲示されています。

ボランティア募集の看板。

「メイク・ザ・ミッドウェイ・マジック

とありますが、ミッドウェイマジックとは彼女のあだ名?です。

艦内にはウィングを利用したカフェがあり、スターバックスが参入しています。

売店では「チョコレートアーモ」という商品名の弾薬型チョコを売っていました。
陸自の知人にお土産にしようと買って帰ったのですが、嫌な予感がして食べてみると、
チョコレートが壮絶にまずかったので、あげなくてよかったと胸をなでおろしました。

 
さて、冒頭写真です。

空母「ミッドウェイ」が展示されている岸壁の向こうには、隣の岸壁にある
「ツナ・ハーバーパーク」に立つ巨大な「勝利のキス」像があり、
「ミッドウェイ」の甲板からよく見えます。

このモニュメントは言わずと知れた、アルフレッド・アイゼンスタットの写真、

V-J Day in Times Square

を表したもので、現地では

”Embracing Peace" Statue

と呼ばれています。

割と最近だった記憶がありますが、このキスされている女性、
イーディス・シェインさんが91歳で亡くなったというニュースが流れたとき、
あのキスは恋人同士のものではなく、通りすがり同士だったということを知り
ちょっと驚いたのはわたしだけではなかったのではないでしょうか。

日本との戦争が終わり、喜びに沸くタイムズスクエアに友人と共に向かった彼女は
地下鉄を出たところで、いきなり見知らぬ水兵に抱きしめられ、キスされます。

この水兵は、グレン・マクダフィであるという説が現在最も有力です。

ガールフレンドに会うためにタイムズスクエアにきていた彼は、
戦争終結の報に接し、捕虜になっている兄弟が解放されることに喜び興奮し、
近くにいる看護師を
抱き寄せてあの歴史に残るキスをしたといわれます。

その時に、それもたまたま近くにいて民衆の様子を撮っていた写真家が、
すかさず二人を撮りだしました。

その写真が有名なアルフレッド・アイゼンシュタットのものです。

この二人を撮ったカメラマンはもう一人いて、違うアングルの写真が残されています。

ただし、同じ人物の同じキスの瞬間でありながら、撮る場所の違いで、
ヴィクター・ヨルゲンセン(海軍写真班)のこの写真は、残念ながら
ドラマチックさや構図においてアイゼンシュタットのに見劣りします。

この二人の写真を比べてみると、いかに写真は撮る場所と構図であるかがわかり、
自衛隊イベントで場所取りに躍起になって我を忘れる
大人気ないおじさんの気持ちが
理解できるような気がしますね。

共感はしませんが。

ここで注目すべきはアイゼンシュタットがプロのフォトジャーナリストであり、
ヨルゲンセンは、プロといっても海軍所属カメラマンであったことです。

この写真の違いは、偶然ではなく、実はプロとセミプロの違いであった、
とわたしは思わずにいられないのですが、いかがでしょうか。

ちなみに、この写真で後ろにいる驚いた顔のおばちゃんも特定されていて、
ユタ州のケイ・ヒュージス・ドリウスさんというそうです。

 

さて、この時のアイゼンシュタットの追想は次のようなものです。

「V-Jデイにタイムズスクエアで、わたしは一人の水兵が通りに沿って走ってきて
片っ端から女性という女性を抱き寄せてキスしている光景を目にした。
お婆さん、太ったの、痩せてるの、若かろうが年食ってようがおかまいなし。
わたしはチャンスとばかりライカを持ったまま走って彼に近づき、振り返って
後ろを見回したんだが、
他にはわたしを喜ばせるような絵になる被写体がいなくてね」

失礼なやつだな(笑)

「その時だ。突然わたしの視界に飛び込んできた白い塊が彼に捕まえられた。
わたしは振り向くと同時に水兵と看護師にシャッターを切った。
もし彼女がダークな色のドレスを着ていたら、わたしはシャッターを押さなかったよ。
逆に、もし水兵が白いユニフォームを着ていても同じだ。撮らなかったと思う」

ほうほう、ネイビー×ホワイトの二人であるから撮ったのだと。
白×白、ダーク×ダークでは絵にならないから撮らなかったというわけね。

面白いことに、別の媒体ではアイゼンシュタット氏、こういっています。

「VJ-デイの日、わたしは撮るものを探しながら群衆の中を歩いていた。
水兵がこちらに歩いてくるのをみた。
彼は手当たり次第に老若構わず女性をひっつかんでみんなにキスしていた。

その時わたしは群衆の中に看護師が立っているのに気がついた。
わたしは彼女に意識をフォーカスしながら、水兵が彼女に近づいて、
体を曲げてキスすることを期待した。

今にして思えば、もし彼女が看護師でなければ、さらにダークな色の服を着ていたら、
わたしは写真を撮っていなかったかもしれない。

彼女の白いユニフォームと水兵のダークな軍服の色のコントラストが、
写真に特別なインパクトを与えたのだ」

気がついた時には白いものが目に入ったのでシャッターを切った、というのと
看護師に気がついて水兵がキスすることを期待していた、というのでは
全く状況が違いますが、どちらも本人の記憶によるものです。

あまりにも有名な写真の作者として、いろんなところで何回も喋っているうちに、
当人の記憶でありながら、微妙に書き換えがおこなわれてきたのかもしれません。

 

さて、この時、水兵のグレン・マクダフィは、自分たちが撮られていることを察知して、
カメラマンが何枚もシャッターを切るまでずっとキスを続け、
方やイーディスの方は、キスされながら

「彼ら(水兵)は自分たちのために戦ってくれたのだから
(好きなだけ)キスさせてあげよう」

と思っていた、と述べているそうです。

アイゼンシュタットの写真の背景には、イーディスが一緒に来たという
看護師の同僚の姿が写っていますし、水兵の姿も多数見えます。

 

ところで、こういう話にはありがちなことなのかもしれませんが、
彼らの素性が明らかになる過程がなかなか面白かったので、書いておきます。


ながらく特定されずにきたこの二人の素性がわかるきっかけになったのは、
イーディス本人が写真家にあの看護師は自分であると連絡したことからです。

見知らぬ水兵にキスされたとき、花も恥じらう乙女であった彼女は、
(自分がタイムズの紙面を飾ったのを見てびっくりしたものの)
それが自分であることを
長らく口外しなかったのですが、70年代後半、
「若い日の思い出」としてそれを人に何気なく話をしたところ、相手に
写真をもらっておけば?といわれ、ついその気になったのでした。

アイゼンシュタット氏は彼女を見るなり、まずその脚を見て

「あの時の看護師だ!」

と叫んだのだそうですが、その連絡を氏から受けたタイムズ紙は、
彼女が本物であるかどうかを確かめるために、紙面で情報提供を呼びかけました。

ところが驚いたことに、それに対して、なんと

11人の男性と3人の女性が

わたしがあの当事者である、と名乗りを上げたというのです。

ジョン・エドモンソン、ウォレス・ファウラー、クラレンス・ハーディング、
ウォーカー・アーヴィング、ジェームズ・カーニー、マービン・キングズバーグ、
アーサー・リークス、ジョージ・メンドーサ、ジャック・ラッセル、ビル・スウィースグッド。

マクダフィ以外の10名、彼らは全員が元水兵で、全員が自分があの写真の人物だ、
と名乗り出たと言いますからちょっとしたホラーです。

写真でもわかるように、水兵はタイムズスクエアにたくさんいたわけですし、
看護師とキスした覚えのある人も本当に何人かはいたのかもしれません。

そうでない人は一体何を目的に?と少し暗澹たる気持ちになってしまいますが、
あの水兵であるということになれば、老後はイージーモード、
注目を集め有名人となり、下手したら財産を残せるかも、と
虫のいいことを考え、何十年も前の出来事で裏が取りにくいのをいいことに、
ちゃっかり名乗りを上げた不届きな男もいたのかも・・・・・

とここは控えめに勘ぐっておきます。

 

というわけで、「自称水兵イレブン」からの特定は困難を極め、
写真の男の
正体は、長らくわからないままでした。

 

その後2005年になって、11人のうち一人、ジョージ・メンドーサが、
海軍の写真解析によって、キスする水兵といったん認定されました。

当時メンドーサは駆逐艦「サリバン」勤務の水兵でした。
休暇で一緒に映画を見ていたフィアンセと外に出た時、終戦の知らせを聞きました。
そのあと戦勝を祝う人波を歩いていた彼は、

「酔っ払っていたので通りがかりの看護婦にキスした。
写真の後ろには許嫁のリタも写っている」

と主張したのです。
そうだとすれば、もしかしたらこれが原因で彼女が機嫌を悪くし、
それを記憶していたため、彼は水兵は自分だと確信したのではないでしょうか。

しかし、フィアンセがいるのに他の女性にキスするかねえ。

ところが、この説には科学的な見地から物言いがつきました。
テキサス州立大学の学者の説で、(学者がこんなことを真面目に検証)

「メンドーサの説明によると、キスをしたのは午後2時ごろだったが、
写真の影の位置は、午後5時以降に撮影されたものである。

ヨルゲンセンの写真に写っている時計(どこにあるかわかりませんでしたが)
は分針が10時近く、時針がほぼ垂直に下向きに向いており、約5:50を指している。

∴ 水兵はメンドーサではない


名乗りを上げたべつの一人、カール・マスカレッロさんの

「俺が自分をあの水兵であると思う理由」は?

「あの時たくさんの女性とキスした覚えがあり、水兵には自分と同じ手に傷がある。
母親も写真を見て自分だといっている。
ただ、酔っ払っていてその時の正確な記憶はない」

うーん・・・メンドーサさんもそうですが、酔ってて記憶がないので、
自分じゃないかと思うってことですか・・・。

さて、それから時は過ぎ、2007年になって、グレン・マクダフィは

「自分があのキスの水兵である」

ということを訴える裁判を起こします。
おそらくですが、こうすれば科学的に検査をしてもらえると思ったのでしょう。
そしてそれだけ自分だということに自信があったのではないかと思われます。

法医学的分析によって水兵の写真ととマクダーフィの現在の写真とが比較され、
そしてマクダーフィはポリグラフ検査を5回受けて全てパスしました。

(はっきりいって数十年後で自分が堅くそう思い込んでいる場合、
ポリグラフの結果というのはまっったくあてにならないと思いますが)

彼の場合、当初の問題は年齢でした。
1928年生まれの彼は、あのキスの時まだ18歳だったことになり、
海軍では当時水兵への応募資格が18歳と決まっていたことから、
彼が駆逐艦に勤務していたという経歴は辻褄が合わないとされたのです。

これは本人が、15歳の時に18歳だと偽って入隊した、と説明したそうですが、
いくら何でも15歳が18歳だといって受け入れられるってのはおかしくないか?

まあ、海軍としても戦争中だったし来るものは拒まずウェルカム、ということで、
明らかに嘘を言っていると思っても見て見ないふりをしたのかもしれませんが。

本人は、

「普通にあの写真の水兵は自分だ、と言えますよ。あれは私です。
他の(名乗り出た)皆さんには、自分こそがあのポーズを再現することができる!
とお伝えしたいですね」

「あの日、わたしがキスをしようと彼女に近づいた時、
男が猛然と走ってこちらに来るのが見えました。

目の端で彼を見ながら、嫉妬深い彼女の夫か彼氏が殴りに来るのかな、
と思っていたんですが、次にキスしながらちらっと見たら、
彼はわたしたちの写真を熱心に撮っていました」

と述べています。

それにしても18歳で誰彼構わず女性にキスって、おませさんだったのか、
それともこの年代の若者にありがちなお調子ものだったのか・・・。


というわけで、女性も男性もめでたく特定できた

・・・・・・・と思いきや、ありがちな話ですが、未だに彼らにも疑義
(イーディスの身長は低く、グレンと抱き合った時にああはならないといった)
が未だ百出している状態で、必ずしも「最終決定」ではないそうです。

しかし、本人たち(水兵イレブンも含め)が死んでしまった以上、これ以上
真実に近づくことはもはやできなくなり、疑義は残るがここで打ち止め、
となっているというのが現状です。

キスのカップルと一応最終認定された彼らは、それぞれ91歳と86歳で亡くなるまで、
様々な媒体に露出し、
各種の追悼イベントやパレードに引っ張りだこの余生を送りました。

本人たちも、自分たちが”本物”だと認められたことで満足しながら、
あの世に旅立ったのではないでしょうか。


「ミッドウェイ」のスーベニアショップで見つけた「勝利のキス」
ポパイとオリーブバージョン。

そう言えばポパイって海軍の水兵さんだったんですよね。

最後に。

写真は、1995年8月23日、マーサスビンヤードに浮かべた船の上における
写真家アイゼンシュタット氏の姿です。

被写体と違って、彼がこの写真を撮ったのは動かしようのない事実なので、
彼はその後も「V.J-DAYのキス写真を取ったフォトグラファー」として生き、
事実一生それにまつわる仕事で過ごしたようです。

この時も、来客に所望されたのか、サイン会でもあったのか、
彼の人生そのものとなった作品にサインをしようとしているところです。

おそらくその人生で最後のサインを。

この8時間後、彼は終生愛したこの島のコテージのベッドで眠りにつき、
そのまま2度と目覚めませんでした。

96歳の穏やかな最後でした。

合掌。

 

ところで、最後に念のために説明しておきますと、「V.J-DAY」とは
「ヴィクトリー」「ジャパン」「デイ」で、つまり「対日戦争勝利の日」です。

 

 

 

 


ヒーローたちの肖像〜空母「ミッドウェイ」博物館

2017-10-19 | 軍艦

「ミッドウェイ」のヘリコプター歴史コーナーに、メダルオブオナー、
名誉勲章を受賞した二人の海軍軍人が紹介されていました。

彼らの写真の下にそれぞれの乗機の写真があることでもおわかりのように、
彼らは名誉勲章をもらったヘリコプター操縦士です。

それぞれの写真の横には、彼らに授与された感状のコピーがあり、
その功績が記されています。

ジョン・ケルビン・ケルシュ中尉は、名誉勲章を授与された史上初めての
ヘリコプターパイロットです。

ヘリ部隊 HU-1のパイロットとして USS「プリンストン」乗組になったケルシュ中尉は、
元山で墜落した飛行機の搭乗員を海上から救助する任務に就いていました。

1951年、元山の偵察任務中撃墜されたコルセアのパイロット、ウィルキンズ大尉ら
乗組員3名を救助するために武装を持たないヘリで現地に向かったケルシュ中尉は、
霧の中単独山地に降り、まず捜索を開始。

程なく彼らを見つけ、負傷者をロープで引き上げている間に敵の放火をあび、
乗って来たヘリは墜落してしまいました。
9日間山中を逃げた末敵の捕虜になった彼らは虐待され、尋問されましたが、
ケルシュ中尉は拷問にあってもこちらの情報を自白せず、他の捕虜をかばいました。

その強さ、誇り高い様子は他の捕虜たちに強い艦名と勇気を与えましたが、
捕虜になって3ヶ月後、ケルシュ中尉は栄養失調と赤痢のため亡くなりました。

クライド・エヴァン・ラッセン中尉が功績を挙げたのは
ベトナム戦争中のことです。

1968年、撃墜された USS「アメリカ」の艦載機F-4Jのパイロットを
救出するためUSS「プレブル」から「シースプライト」で向かったラッセン大尉は
鬱蒼としたジャングル、敵の対空砲火の中、捜索のために
機体を極限まで低空飛行させ、無事パイロットを揚収することに成功しました。

ギリギリまで捜索を続けたため、帰還したときに彼のヘリには
燃料があと5分しか残っていなかったと言います。

ラッセン中尉はベトナム戦争で名誉勲章を受けた最初の海軍航空士官となり、
ペンサコーラ基地の司令官まで昇進しましたが、がんのため引退し、
その2年後、わずか52歳の若さで亡くなりました。

彼の名前はUSS「ラッセン」に残されました。
「ラッセン」は第7艦隊に配備中、横須賀でその姿を我々に見せてくれ、
2015年の海上自衛隊観艦式には外国海軍部隊として観閲を受けました。

2016年1月「ラッセン」はUSS「バリー」と配備を交代し横須賀を去りました。

 

通路には甲板の上で仕事をする人たちのパネル人形が立っていたりします。
白のジャケットですので、彼の仕事はエアウイングの品質管理要員、飛行機検査員、
安全管理などですが、最もよく知られている白いシャツの着用者は

着陸信号役員(LSO)です。

何かイヤーカバーのようなものを持っているので彼もLSOかもしれません。
LSOは「Landing Signal Man Officer」のことで、フライト・デッキ左舷後方にある
LSOプラットフォームに立ち、着艦するためアプローチしてくる艦載機の
高度・スピードなどをパイロットに無線で指示する係。
パイロットでないとできない仕事とみなされていて、
それぞれの艦載機部隊から順番に任務を行うのです。

LSOはフライトデッキで唯一ヘルメットを着用しない係なのですが、
彼はせめて帽子はかぶった方がいいと思います。

 

また、白シャツはすべての郵便物、貨物および乗客の取り扱いと運搬をする係、
また航空機および医療従事者に液体酸素を供給する乗組員であったりします。

 

ここまで見終わると、またハンガーデッキに戻って来ます。
2機の大東亜戦争時の戦闘機を見てから、その向こうの
「ミッドウェイ海戦」コーナーに入り、一つ上の階から出て来たことになります。

再びハンガーデッキの展示を見ていきましょう。

「カクタス・コリジョン」(サボテン衝突)
とありますが、1980年5月横須賀勤務を終えた「ミッドウェイ」は

7月29日、フィリピン北部のパラワン島付近を航行中、
パナマ船籍の商船「サボテン」と衝突しました。

衝突は液体酸素プラントの近くで起こったため、不幸にして
ちょうどプラント内で作業していた2名の乗組員が死亡し、
3名が負傷するという大事故になってしまいました。

「ミッドウェイ」艦体も軽微なダメージを受け、飛行甲板にあった
F-4「ファントム」のうち3機も破損したということです。

航空機がぐしゃぐしゃ・・・・。

さぼてんくんはもっとぐしゃぐしゃです(´・ω・`)

フィリピンで修理を受ける「ミッドウェイ」。

ここには「グリーンマン」がいます。

「トラブル・シューター」と呼ばれており艦載機部隊の整備です。
整備が緑、なんとなく納得の色ですね。

飛行作業が始まると、エンジン整備、電気系統、機体、武器、エレクトロニクス、
安全装置の係がそれぞれの部隊から各一人ずつフライト・デッキに待機していて、
万が一機体にトラブルが発生するとすぐに対応するのです。

また、

●カタパルトとアレスティングギアのクルー

●貨物取り扱い

●フックランナー

●写真係

●ヘリ着艦の際の信号員

などもグリーンシャツです。

O2N2プラントと液体酸素コンバーターのある通路。
中国人の観光客多し。

さて、以上を見学すると、もう一度ハンガーデッキに戻ってくることになります。

ハンガーデッキには何機もの退役機が展示されていますが、
どれも大変手入れが行き届いています。
割と近年塗装をやり直したのではないかと思われるこの機体は、

F4U-4 コルセア戦闘機

今初めて知ったような気がしますが、コルセア”CORSAIR"という単語を辞書で引くと
古語で「海賊船」という意味が出てきます。

冒頭の写真を見ていただけると一目瞭然ですが、その特徴は逆ガル翼。
プロペラを大きくする代わりに、逆ガル翼によって重量のある主脚を短することで
艦載機に必要な着陸時の衝撃に対処するという思想のもとに設計されたものです。

連載中の「アルキメデスの大戦」でも、逆ガル翼は

「飛行中の直進安定性の高さ、中翼配置は空気力学的に優れ、
限られた翼端長でより大きな翼面積が得られ旋回性能が高められる。
胴体と地面の余裕幅が大きく取れるので推進効率がよく、
大口径プロペラが装着できる。
さらにはW型の主翼は通常翼より前下方視界が良い」

と櫂少佐が絶賛しておりましたですね。

ただし櫂少佐はこの後三菱の堀越次郎氏に

「空母着艦時の大迎え角時の姿勢安定に不安がある」

というわけですが、このシーケンスのアイデアはコルセアの失敗から
取ったのではないかとわたしは思います。

実際コルセアは当初

「失速挙動を起こす」「前方視界が不十分」
「プロペラブレードが長く、着艦時に甲板にプロペラを打ち破損する可能性」

を懸念され、空母艦載機としては通用しないという評価を与えられたため
初期精算機は全て海軍ではなく海兵隊に引き渡され、陸上で運用されることになりました。

ここにあるコルセアは、翼の下をご覧になればわかりますが海兵隊機です。

コルセアの横に、胸に航空バッジと海軍の防衛徽章(ってアメリカでもいうの?)
をつけたやる気満々のベテランがいて、立ち寄る人に説明をしていました。

「第二次世界大戦のベテランと語ろう」という企画で、
本日のベテランは

ドン・ハバード海軍少佐(元パイロット)

です! ( ̄∇ ̄ノノ"パチパチパチ

いやー、若い時のハバード少佐、超イケメンじゃないですかー。

もう一度、若い時の写真と並べてみる。
こちらのハーレーダビッドソン乗りのいかついおっちゃんが話を聞きながら

「はえ〜」

って感じになっているのを見ても、アメリカ人から見てかっこいい爺さんなんだろうな。

ちなみに調べてみたところ、彼が海軍に入隊したのは1943年。
ウィングマークを取ったのは終戦後の1947年ですから、煽り文句の
「第二次世界大戦のベテラン」とは正確には違います。

しかし、戦争中にもかかわらず飛行士の訓練にこれだけ時間をかけるのは
アメリカの信念というか、余裕があったのだと感じずにはいられません。

それだけに一人のパイロットにはお金と時間をかけた価値があると考え、
人命重視の装備を開発し、さらには救出に力を入れ、搭乗員を死なせまいとする。

日本軍とは根本的に考え方が違っており、ましてやこんな軍隊からは
搭乗員の一つしかない命で、最大限うまくいったとしても敵艦一隻しか沈めることのできない
特攻などという非効率的で非科学的な外道の作戦は生まれるべくもないと思いました。

残念ながらわたしたちはこの後の予定があり、脚を止めていられなかったので、
ハバード少佐のお話は聞けなかったのですが、彼の経歴で特筆すべきは、
朝鮮戦争中、

AJ-2「サベージ」

に乗って、命令がくだれば

中国と朝鮮に原子爆弾を落とす

という任務を負っていたことでしょう。
原子爆弾は長崎のファットマン型で、中国に2発、
そして朝鮮半島に1発が割り当てられていました。

しかもホームページによるとこのおっさん、

” Nice to think about killing 10,000 people with one bomb!”

(少し差し障りのある内容なので翻訳は自己責任で)
なんて嬉々として書いてるんですよね・・・・。

いやはや、勝った国の軍人ってのは全く言いたい放題ですな。

これを知っていたら世界唯一の核被爆国の日本人代表として
本当にあんたそれを知っていても原爆を落としてみたかったのかい?
って聞いてみたかったなー(棒)

こちらは別の日にゲストで来ておられたらしいヴェテラン、
スタン・アベール司令のお写真。

アベール司令もコルセアに乗っていたようですね。

スタンさんは、現在94歳です。

毎週ここ「ミッドウェイ」にやってきては、かつて現役時代に
海軍で体験したこと、ことにパイロットとして乗り組んでいた

「空母バンカーヒルで体験したカミカゼ2機の突入」

について皆に生き証人として語っているのだそうです。

それによると、特攻機が突入してきた時、彼は日本機を自軍の機だと思いこみ、
それが撃墜されてしまうと!心配していたのだそうです。
それが間違いで、「ジャップだ!」と気付いた時にはすでに特攻機は激突していました。

キャットウォークに逃れたアベールは、爆発の引き起こす猛烈な火と煙から逃れ、
他のメカニックらと共に海に飛び込んで救助を待ち、そして助かりました。

甲板に引き上げられた時、炎は消えていたものの、そこに並んでいたのは
無数にも思えるキャンバスバッグで包まれた仲間の遺体でした。

 

この日アベールさんは「ミッドウェイ」にはきていなかったようですが、
この方の話も、日本人としてはぜひ直に聞いてみたかったと思いました。

その後、コルセアは後期型になって着艦に向かないという欠点を克服し、
「バンカーヒル」にも配備されることになります。
 
ドン・ハバードがウィングマークを取って乗ったのも、
スタン・アベールが「バンカーヒル」で乗っていたのも、コルセアでした。
 
註:
 
ちなみにこの上の写真はアベンジャーですが、当初コルセアだと勘違いして書いてしまい、
皆様から色が一緒ならおめーは皆同じに見えるのか!と突っ込まれてしまいました。
本文を訂正するのがもちろんいいのですが、面倒臭いので自戒のためにこのままにしておきます。
 
ガル翼がコルセア、折りたたみ翼がアベンジャー、と_φ( ̄ー ̄ ))
 
 
ミッドウェイシリーズ、続く。
 
 

四月のホワイトクリスマス〜空母「ミッドウェイ」と「頻繁な風」作戦

2017-10-17 | 軍艦

空母「ミッドウェイ」博物館の見学記、続きです。

 

ところでいきなりですが、皆さんは「ミス・サイゴン」のストーリーをご存知ですか。

一言でいうとベトナム版「蝶々夫人」で、「蝶々夫人」のアメリカの海軍士官と芸者を
ベトナム戦争時の海兵隊軍属(元兵隊)と売春宿で働くベトナム女性に置き換えています。

【吹奏楽】ミュージカル「ミスサイゴン」より "Miss Saigon"

4:00くらいから打楽器でヘリの音を表現しているのですが、本日のテーマでもありますし、
ぜひよかったらここだけでも聴いてみてください。

さて、「ミス・サイゴン」。
現地の女性とアメリカ軍人が恋をして、軍人が恋人を残して本国に帰ったことに
絶望した女性が自ら命を絶つと言う悲劇ですが、この背景はベトナム戦争末期、
「フリークェント・ウィンド作戦」とそれに至るまでの時期でした。

ベトナム戦争末期の1975年4月、陥落寸前の南ベトナムの首都サイゴンから、
艦載航空機で在留アメリカ人、南ベトナム難民などを救出してしまおうというのが
本作戦の内容です。

アメリカ政府はこれに先立ち、C-5、C-130などの固定翼機で、在留米人に
国外脱出させて、救出作戦相当の人員数を減らすことから行いました。

そして、決行に当たっては海軍艦艇を上図のような配置で待機させます。
空母である「ミッドウェイ」と「ハンコック」は、人員を搭載したヘリを受け入れるため
陣形の外側近くに配置されていました。

作戦前、待機中の「ミッドウェイ」甲板ではシコルスキMH-53が並んでいました。

ところで、この時の参加艦艇名簿を眺めていたわたしは、「タグボート」の欄に

「 CHITOSE-MARU」「 HARUMA」「 SHIBAURA-MARU」

という日本の船の名前を発見しました。

当時日本政府がベトナム戦争を支援していたというのは、今でも共産党が
集団的自衛権についていちゃもんをつけるときに引っ張り出してくる事例ですが、
このとき、日本政府は公船が出せないので、民間船を現地に派遣していたらしいのです。

本作戦の意義とその内容について知った今では、日本人としてわたしは
このことを大変誇りに思うものですが、もしこれが当時何かのきっかけで
国内に報道されていたら、おそらく左派とマスコミが大騒ぎしたに違いありません。

救出作戦は開始されました。
警護のため銃を抱えた陸軍軍人の見守る中、
「ミッドウェイ」の甲板に向かってくるヘリコプター「シースタリオン」。

甲板には「チヌーク」、向こうから続々とこちらを目指しているのは「ヒューイ」。

ヒューイが乗せてきたベトナム難民たちの表情は明るく、
何人かの顔には微笑みすら見えます。

ところが、ここで混乱が起こります。

あまりにも多くのヘリが飛来し着艦したため、たちまちスペースがなくなりました。
乗っているのが軍人ならばホバリングしてラペリング降下させるところですが、
ご覧のように乗せてくるのは女子供を含む難民と一般人です。

そして、後述する理由で何が何でも甲板を空けねばならなくなった
「ミッドウェイ」の甲板からは・・・

「せ〜〜のぉ!」・・・・ぼちゃん!

なんとアメリカ海軍、ヘリコプターを海に投棄して場所を空ける作戦に出ました。
ヘリより難民の人命、惜しげもなく億単位の機体を海に放り込むその決断、
さすがは人命重視のアメリカさんやでえ。

おっと、彼ら(海軍軍人)が放り込んでるのは陸軍機だというのは言いっこなしだ。

というのはもちろん冗談として、このとき結果的に45機のヒューイ、
1機のチヌークが南シナ海の藻屑にされたといいますから、驚きます。

しかも、そのうちの何機かは、甲板に人員を降ろし終わった後、
再び離艦し、空母の比較的近くで搭乗員が空中から脱出して機体を海に墜落させ、
自分は待機しているタグボートに拾ってもらうという、
考えただけでゾッとするような危険な方法で投棄されたというのです。

いろんな意味で「綺麗なアメリカ」の真骨頂を表す作戦だったと言えましょう。

ところで、最初に搭載していたヘリが帰艦し、その他のヘリも増えるとはいえ、
幾ら何でも一応「作戦」なのだから、最初からそれくらい計算しとけよ、
と思う方もおられるかと思います。

もちろんアメリカ海軍、最初から計画はバッチリ、
できるだけ短期間にたくさんの人数を輸送し、ギリ甲板に収まるだけの
参加ヘリの機数は計算しつくしていたはず・・・と言いたいところですが、
投棄されたヘリの数を見ると、案外適当だったのではないかという気もします。

これもある意味アメリカさんらしい、大局のためには些事にこだわらない
いい意味でのいい加減さが発揮されていたと言えるのではないでしょうか。

そして、だめ押しで突発的なこのような事件も起きました。

「ミッドウェイ」で艦載機関連施設の見学を終えて階段上の出口から降りてくると、
そこにはこのような飛行機が展示してあります。

O-1セスナです。


この一連の「頻繁な風」作戦実施中、「ミッドウェイ」上空に一機のセスナが飛来しました。
セスナを操縦していたのはベトナム共和国空軍のパイロット、ブワン軍曹
セスナは「ミッドウェイ」甲板に一枚のメモを落としていきました。

「当機は貴艦への着艦を希望する。
当機は後一時間燃料が保つが、その間に甲板のヘリを脇にどけてほしい。
どうか助けてくれ。

ブワン軍曹と妻、そして五人の子供たちより

「ミッドウェイ」の指揮官、ラリー・チェンバース艦長は、すぐさま
飛行甲板乗務員に甲板を空けさせるように命令を下し、その結果、
1000万ドルのヒューイが南シナ海に投棄されることになりました。

さすがは人道重視のアメリカ軍!そこに痺れ(略)

と言いたいところですが、その時点で、すでに甲板を空けるために
何機もヘリを海に捨てていたことを思い出してください。

こんだけ捨ててるんだから、ヒューイ1機くらい今更なんてことないよね、
と艦長は考えたに違いありません。(知らんけど)

 

その後、ブワン軍曹の操縦するセスナは「ミッドウェイ」甲板にアプローチし、
一度バウンドして見事に余裕の着艦を決めました。

これによってブワン軍曹は

「空母に着艦した史上初の艦載機でない固定翼機パイロット」

となりました。

空母着艦は何時間もの訓練のすえ身につける技術で、おそらくは軽飛行機といえど
経験のないパイロットにとっては薄氷を踏む思いであったと思われるのですが、
妻と子を生きて脱出させたいという火事場の馬鹿力が彼にそれを可能とさせたのでしょう。

セスナの着艦を誘導する「ミッドウェイ」の誘導員たち。

甲板に無事着艦したブワン軍曹とその家族(丸で囲まれた部分)の周りには
甲板で着艦を見守っていたパイロットたちがたちまち詰めかけました。

ほとんどがその勇気と快挙を讃えているものと思われます。

しかしほとんどが子供だったとはいえ、よく全部で7人も
この小さなセスナに乗れたものだと感心します。


さて、余談ですが、当時脱出作戦をひかえ、アメリカ大使館は
在留米人対象に、安全のための手引き書を配っていました。

それは避難発令が出た時のためのもので、

「ヘリコプターにピックアップしてもらう集合場所」

「アメリカ軍ネットワークラジオで避難の合図が発令されること」

「このことを決して人に話さぬこと」

と書かれていました。
そしてその合図とは次のようなものでした。

「サイゴンの気温は105度でなお上昇中」

〜これに続いて、「ホワイトクリスマス」が流される〜

ジャーナリストのフランク・スネップは到着を待ちながら
ラジオから季節外れのホワイトクリスマスが流れていたことを

「奇妙で実にシュールな(kafkaesque、カフカの小説じみた)時間だった」

と回想しています。
さらに余談の余談ながら、この脱出作戦の合図が配布されたあと、
現地にいた日本人ジャーナリストたちが

「どんな曲か間違えたらいけないから、メロディを歌ってみてくれ」

とアメリカ人たちに頼んでいたという話があります。

なにぶん命がかかっていることなので、彼らも念には念を入れて
確認をしたということだと思うのですが、
どんなに音楽に疎くてもこれだけは間違えないだろう、ということで
わざわざこの曲が選択されたことを知っているアメリカ人たちは

「日本はキリスト教国じゃないのでホワイトクリスマスは有名じゃないんだ」

と彼らのせいで思い込んだに違いありません(笑)


ミッドウェイシリーズ 続く。

 


艦載航空機部隊〜空母「ミッドウェイ」博物館

2017-10-16 | 軍艦

 

空母「ミッドウェイ」には就役時に

F4U-4/F4U-1D (FG-1D) コルセア 96機
SBW-4E (SB2C-4E) ヘルダイバー 46機

で編成されたCVBG-74が配備されていました。

「ロナルド・レーガン」など「ニミッツ級」の艦載機が66機であることを考えると
この142機は随分多い気がします。

そう思って歴代空母の艦載機数を調べてみると、

「ラングレー」 55

「レキシントン」級 78−90

「レンジャー」 76−86

「ヨークタウン」級 80−96

「ワスプ」 76

「エセックス」級 100−123

「フォレスタル」級 78

「キティホーク」級 90

「エンタープライズ」 84

「ジェラルド・フォード」級 74

 

「エセックス」級とこの「エンタープライズ」級の艦載機数が図抜けています。
たくさん航空機を積めるというのは、甲板の広さとハンガーデッキの大きさもですが、

「ジェット燃料」「航空用ガソリン」「航空用弾薬」

などの物資を搭載することができて初めて可能になります。
しかし、「ニミッツ」「ジェラルド・フォード」などの搭載機が少ないのは
一つの航空機のスペックが昔より高くなったということなのでしょうか。

ちなみに「ミッドウェイ」ベトナム戦争時の搭載機群は以下の通り。

F-4B(ファントムII)戦闘飛行隊
F-8C/D(クルセイダー)戦闘飛行隊
A-4C/D(スカイホーク)軽攻撃飛行隊×2個
A-1H/J(スカイレイダー)中攻撃飛行隊
A-3B(スカイウォーリアー)重攻撃飛行隊
E-1B(トレーサー)早期警戒分遣隊
RF-8A(クルセイダー)写真偵察分遣隊
UH-2A(シースプライト)汎用ヘリコプター分遣隊

さらに、除籍寸前、1990年はどうだったかというと、

F/A-18(ホーネット)戦闘攻撃機×36機
A-6(イントルーダー)攻撃機×18機
EA-6B(プラウラー)電子戦機×4機
E-2C(ホークアイ)早期警戒機×4機
SH-3H(シーキング)ヘリコプター×6機

これを見てもおわかりのように、「ミッドウェイ」は戦後、
アメリカ海軍史にその名を残してきた艦載機を全て載せてきた、
といっても過言ではないでしょう。

 

さて、その「ミッドウェイ」の航空関連部門がある区画を見学しています。

空母の中にはこのような、なんなのか全くわからないながらたいそうな
パイプ的構造物があちらこちらにあります。
管内の各部屋には必ず「ベントサプライ」などの文字と方向が書かれたダクトがあります。

次に見た部屋では机に向かうヨーマンと、その横に仁王立ちになるパイロット。

ヘルメットの中に耳あてや手袋などを詰めて運ぶのはスタンダード?
「太平洋の翼」「加藤隼戦闘機隊」に出ていた佐藤充(まこと)に似てません?

パイロットは今からここでブリーフィングを行うというわけです。
「CO」「XO」「MANT」(メインテナンスのことかな)など、
座る椅子がその地位によって決まっているようですね。

このモニターでは飛行業務の色々について映像が流されていました。
ボマージャケットのイケメンは写真ですので念のため。

右に三人親子が写っていますが、おそらくこの年齢の子供は
ツァーガイドを聞いても何もわからないはずなんですよね・・。

ダディとマミーがどちらもつけているのを見て僕も持ちたい〜!
と駄々をこねたと想像。

結構ハンディホン重たいので、彼が自分で持てなくなり、
ぐずりだすのは時間の問題と思われます。

っていうかもうすでにその状態?

「HELANTISUBRON」

何かギリシャ神話とかラテン語と関係あるのかな?と思ったら、
なんのことはない、

HELICOPTER ANTI SUBMARINE SQUADRON

のことでした。
対潜ヘリコプター部隊ですね。
そう思ってよく見ると、龍のようなタツノオトシゴのような生物が、
矢印の形の尾っぽで潜水艦をぐるぐる巻きにしてやっつけています。

VFA-151、部隊通称「ビジランテ」、正式名は

「ストライク・ファイター・スコードロン・ワン・ファイブ・ワン」

です。
サンダーバードなんかが好きだった元男子なら、口にするだけで
そのかっこよさについ陶酔して
しまいそうな響きですね。


マスコットは「オールドアグリー」というナイフを口に咥えた骸骨、
とこの辺りも中二病的なかほりがそこはかとなく漂ってきますが、
その歴史を遡れば、1948年から今日まで第一線の名門部隊です、

「ミッドウェイ」が就役した最初に「コルセア」で乗り組んでいたビジランテは
「ハンコック」やミラマー基地の配属を経て、1970年代になると再び
古巣の「ミッドウェイ」に帰ってきて、ベトナム戦争に参加しました。
乗機は「ファントムII」でしたが、彼らは1986年に、この「ファントム II」が
空母から最後に飛び立つ歴史的瞬間に参加しています。
(日本ではまだ現役だってことは感興を削ぐのでこの際言いっこなしね)

この後、彼らは「ホーネット」に使用機を取り替えました。

各パイロットの割り当てとミッションを記したホワイトボードには
1983年8月13日という日付が見えます。

まだ彼らが「ファントムII」に乗っていた頃の記載です。

ここにも「セイフティ」「アドミニストレーター」?だけが場所指定。
彼らは一番前に座っていないといけないものなのでしょうか。

「GO UGLY EARLY! 」

「オールドアグリー」は日頃「アグリー」と呼ばれていた模様。

ちなみにこれがアグリーくん。
火のついたナイフを加えているけど、なかなか目が可愛い。

これがビジランテパイロットの出撃前のお姿である。
うーん、他のマネキンが色々と微妙なのに、これはまた思いっきりイケメン。

 

岩国の海兵隊基地でホーネットドライバーに案内してもらって
中を見学した時、こんなラックにかかっていたカップが
ことごとく
ろくに洗っておらずコーヒーまみれだったのを思い出します。

彼の愛妻は初めてそれを見たらしく

「ボーイズ・・・」(男ってこれだから・・)

と呆れていましたが、彼はそれに対して、

「ぼ、僕はちゃんと洗ってますよ?」

と言い訳していたのが可愛らしかったなあ。
その時もそうでしたが、カップにはタックネームをプリントしています。

「スプーク」(幽霊?)「ル・ドゥシェ」(フランス語で水)「イッチー」(かゆい)
「スネーク」「ドラゴン」「ボトルロケット」「ポニーボーイ」「マグー」・・・。

その時の海兵隊航空隊にも、このようなロッカー室がありました。
息子はここで耐圧スーツを身につけさせてもらったものですよ。


あー、こんな人いそう。

胸に旭日入りの部隊パッチをつけた、

VFA-192 「ワールド・フェイマス・ゴールデンドラゴン」

のマーク・マーレー司令。(多分)
「ワールドフェイマス」は煽り文句かと思ったら、これも含めて部隊名だそうです(笑)

手前に鳥居がありますが、これぞ横須賀勤務の証ですね。

 

ところで少し前、旭日模様を社旗としている某新聞社が

「日本軍が使った旭日旗を揚げると、悲惨な戦争の記憶が蘇り問題視される」

という記事を書いてお前がいうな!と世間の笑い者になっておりましたが、
ぜひこの新聞社や旭日旗を問題視する国の方々は、積極的に(できるものなら)
旭日を使っている全ての在日米軍部隊に文句をつけていただきたいと思います。

VFA-192 World Famous Golden Dragons

ホーネットでの離発着シーン(パイロット目線)と空中給油、攻撃、
模擬戦などの様子が見られる
ドラゴンのかっこいい映像があったので貼っておきます。

1:40あたりで本当に艦船を爆破しております。

ちょっと、これ一人の控え室?
パイロットってこんなに優遇されるってことかしら。

彼もワールドフェイマス(以下略)のパイロットですが、クローゼットには
パジャマの上に着るガウンまで装備されていますね。

隊長とパイロットの気さくなひととき。
(でもないか、地図見てるし)

注目すべきは指令官の後ろの派手なアロハシャツ。
後ろに耐圧スーツもヘルメットもあることから、まだこの司令は現役です。

それにしても壁の息子らしい写真は一体・・・。

廊下が赤いランプになっているので、夜という設定だと思いますが、
ある士官寝室では・・・・・・。

あらら、随分と消耗しておられる様子。
航空作業に必要な一切合切を持ってロッカーの前に立つパイロットですが・・・、

落ち込んでるむっちゃ落ち込んでる。
肩を落とし目は虚ろ。
訓練でチョンボして思いっきり怒られてしまったかなー?

横から見ると明らかにがっくしと首を落としております。

何があったかは知らんが、今日の失敗が明日の精強なパイロットを作るのだ!
頑張れ!(適当)

 

 続く。

 

 


アメリカ海軍ヘリコプター史〜ミッドウェイ博物館

2017-10-15 | 航空機

 

サンディエゴにある「ミッドウェイ」博物館、空母艦載機の整備や
指令をだす部署の見学の見学が終わりました。

ここに、空母艦載機の一つである米海軍ヘリコプターの歴史コーナーがありました。

 

人類最初のヘリコプターが空を飛んだのは1940年5月24日。
この時には不安定で振動も多く、パイロットがテスト飛行で
縄をつないだヘリをかろうじて「持ち上げた」というものですが、
その後、技術は急速に進化していきました。

この技術進歩の歴史の中には、多くの勇敢な勇者たちの、
理想を追求した技術者たちの、そして計り知れない危険を承知で
戦いに挑んだセイラーの物語があります。

この展示では、過去七十年間にわたりアメリカ海軍のミッションの可能性を
大きく広げてきたヘリコプターの歴史についてを紹介しています。

ところで、皆さんは「ヘリコプター」というものを誰が発明したかご存知ですか?
去年の夏、ボストン郊外にある「シコルスキー」本社の写真を高速から撮ろうとして
失敗したということがありましたが、シコルスキー社を作った

イーゴリ・イヴァノビッチ・シコルスキー(1889−1972)

です。

自らが操縦することもでき、フランスで航空機の研究を重ねた彼は、
ロシアで飛行機開発に携わり、当時すでにのちのヘリコプターとなる
機体のアイデアを持っていたといいます。

ロシア革命の後アメリカに亡命したシコルスキーは、まず
商業空輸の会社

「シコルスキー・エアロ・エンジニアリング・コーポレーション」

を設立。

その後会社はのちにユナイテッド航空となったユナイテッド・エアクラフト
ヴォート・シコルスキ部門として吸収され、そこの部長であった彼は
自らがパイロットとして飛びながら開発を行い、
1939年9月、ほんの数フィートではありましたがVS−300なるヘリで
空を飛ぶことに成功しました。

操縦しているのはシコルスキー本人。
これにカバーをつけて?操縦者の体を保護したバージョンも
その後開発されています。

機体の下にフロートが三つついており、史上初にして水陸両用が可能でした。

このいかにも危なっかしく見える機体をよく自分でテストしたものだと思うのですが、
自身がパイロットであったシコルスキーにしてみれば、
危険なテスト飛行だからこそ自分で行う方が気が楽だったのかもしれません。

余談ですが、シコルスキー社の前を通り過ぎた時、息子が

「最近(2015年)ここロッキード・マーティンに買収されたんだよね

というので、なぜそんなことを軍事オタクでもないのに知っている?
と非常に不思議だったということがありました。
ネット時代の子供って・・・・・。

シコルスキーHSS。
海軍の対潜哨戒機の必要性から開発され、その後のSー58、
シーキングの原型となりました。

HO4S。
朝鮮戦争で活躍した乗員搬送ヘリの海軍用です。

MHー53。
海兵隊海軍バージョンは「スーパースタリオン」と呼ばれます。

海上自衛隊でも使用されていましたが、順次退役し、最後の1機は
今年2017年の3月に除籍となって運用が終了しました。

ちなみに後継機は アグスタウェストランドのMCH-101。
掃海隊でおなじみですが、「しらせ」にも搭載されています。

 

シコルスキー本人は、

「私の行った個々の仕事は人類を進歩させるための火花を未だに放っている

とおそらく晩年に豪語していたそうですが、これが決して
高すぎる自己評価でないことは皆さんも納得されるでしょう。

確か浜松の空自の資料館にパイアセッキのヘリが展示されていて、
それをここでご紹介するのに、

「パイアセッキとはさても面妖な名前であることよ

と感じいったのですが(いつの時代の人だよ)、その後これが
ポーランド人にはよくある人名であることがわかりました。

フランク・パイアセッキ(1919-2008)

はポーランドから移民してきたテイラーを父に持つフィラデルフィア生まれ。
本人はペンシルバニア大学とニューヨーク大学で工学を学んでいます。

ちなみにこれも同一人物らしいのですが、どうして
「これ」が「あのように」なるのか理解できません。

外国人の歳の取り方って謎だわ。

小さい頃から飛行機模型を作るのが好きだった彼は、10代のうちに
ローターを上に付けた固定翼機

「オートジャイロ」

を開発するという一種のオタク天才でした。
シコルスキーとほぼ同時に友人と共同でシングルローターのヘリ、
PV-2(Pはパイアセッキ、Vは共同開発社のヴェンジー)を開発。

この時の貴重な実験の様子が残されていました。

Piasecki PV-2 first flight, April 1943

うーん、これで飛んだってことにするのか?それでいいのか?
という怪しい動きではありますが、一応宙には浮いています。
ヘリの足はどっかに飛んでいかないようにロープが付けられていますね。

1945年3月7日、パイアセッキは初めて「ちゃんと飛ぶ」タンデムローターのヘリ、
P-V エンジニアリングフォーラムXHRP-Xの開発に成功します。

P-V Engineering Forum XHRP-X, 1945

有名な「フライング・バナナ」の形をすでに備えていますね。
ってかあれが完成系というのも如何なものかって気もしますが、(個人的感想)
バナナに似ている度だけでいうと、こちらの方がかなり完成度は高いです。

パイアセッキの実験は記録が残っているものが多いらしく、
楽しい音楽とともにまとめた映像があったのでご紹介しておきます。

Straight Up: Frank Piasecki’s Flying Machine


さて、ヘリコプターを開発した人物は同時期に三人いました。
もう一人が、ローレンス・デイル・ベル(1894−1956)です。

 

どうしてヘリの開発者は皆全体的に似ているというか安定の良さそうな容姿なのか、
と少し不思議な気がするのですが、それはともかく、”ラリー”・ベルは
グレン・L・マーチンカンパニー(のちのロッキードマーチン)
でマネージャー、コンソリデーテッドでは副社長にまで登りつめたあと、

ベル・エアクラフト・コーポレーション

を立ち上げます。
1941年からヘリコプターの開発に着手したベルは、1943年、
伝説のヘリ、

BELL 30

の初飛行を成功させます。

Bell Model 30 Crash

実験ではものすごい失敗をしていますね。
地面に機体が叩きつけられると同時にパイロットは放り出され、
その瞬間ローターに激突しているように見えるのですが、
怪我は手首の骨折だけで済んだということです。

その後この事故を教訓として(多分)スタビライザーを開発、
1947年には「ベル47」を完成させました。

アメリカの人気戦争ドラマ「M*A*S*H」のオープニングクレジットでは
負傷者を搬送する朝鮮戦争のシーンがベル47を有名にしたそうです。

「スイサイド・イズ・ペインレス」(自殺は痛みなし)

というテーマソングとともに記憶しておられる方もいるでしょうか。

金魚鉢のようなユニークなキャノピーはオールラウンドビジョンが可能で、
スキッドの形は、荒れた地形に着陸することができ、
2つのエクステンション・ポッドが装備されているため、
重症者を搬送するのに活用されました。

ニクソンか?と思ってしまったこの悪役っぽいおじさん、
わたしが今回初めてその名を知った

チャールズ・カマン(1919ー2011)

は、26歳の時に発明したサーボフラップ制御式ローターを提げ、
友人二人と三人で立ち上げた会社、

カマン・エアクラフト・カンパニー

で1947年に初めてのヘリK−125を開発します。

海軍のために開発されたH43ハスキー。

カマンはその後艦載用対潜ヘリコプター、
Hー2シースプライトを産みました。

スタンリー・ヒラー・ジュニアについては、
サンフランシスコ空港近くの「ヒラー航空博物館」を見学した後、
一項を費やしてその作品群について語ってみました。

早熟の天才 スタンリー・ヒラー・Jr.

この項でも触れているように、ヒラーの発明歴は10歳前に始まっており、
12歳に動力付きミニチュアカーを売る会社の社長になりました。

最初にヘリコプターの発明をしたのは15歳のとき。

1944年には

XH-44 "Hiller-copter"(ヒラコプター)

を開発することに成功。
ヒラー・エアクラフト社は朝鮮戦争で規模を拡大し、
軍からの発注を受けるようになりますが、その中でも

 Hiller OHー23(レイブン)

はヒラー社でもっとも有名な機種となりました。
また、彼は「フライング・プラットホーム」という垂直一人用のヘリを発明。

「早熟の天才」のページでも説明した「ホーネット」というヘリは、
ティルトウィングで史上初の高速垂直離着陸を可能にした画期的なものでした。

ヒラー自身がこれに乗っている動画が見つかりました。
驚いてしまったのは、後付けしたローターの先が回る時にボーボー燃えてること。

Hiller YH-32 Hornet Helicopter (1951)

ヒラー氏、サングラスをかけて瀟洒なスーツのまま優雅にこれに乗り、
空中でサングラスを外してこちらにカメラ目線で声をかけております。

彼の案外なナルシーぶりが楽しめるお得な映像となっておりますので、
みなさまこれだけはぜひご覧ください(笑)

最後に。

ヒラーは自分がちびっこ社長だった頃、主力商品(ミニカー)の素材だった
金属を使ってままごとセットやハンガーも売っていますが、

チャールズ・カマンは自分がギタリストだったこともあり、
ヘリコプターで財をなしてからは、趣味の音楽事業の会社も作ってしまいました。
「オベーション」ブランドのギターは、今でもギタリストに評価を受けています。

続く。

 

 

 

 


映画「人間魚雷 回天」〜散華

2017-10-13 | 映画

映画「人間魚雷 回天」最終回です。

伊36号の中で、乗組員からすでに軍神として扱われる回天搭乗員たち。

しかし、相変わらずの玉井少尉は、体調を気遣う乗組の軍医長に対し

「我々みたいなのが病人になっても治し甲斐がないんじゃありませんか?
結局死んでしまうんだし」

と自虐して、またしても座を気まずくさせます。

言葉を慎め、と玉井少尉を諌める良識派、関谷中尉。

ソロモン諸島付近に進出したところで、彼らは同じ回天隊を乗せた伊90が
回天を発進することなく
敵に撃沈されたことを知り、意気消沈します。

「あの人だけは空母か戦艦に体当たりさせてあげたかったな・・・」

あの人ってだれー!

その時、「魚雷戦用意!」の声がかかりました。
南方に来て初めて敵と遭遇したのです。

「発射用意よし!」「発射用意よし!」

「ヨーイ・・・・撃(テー)ッ!」

「大型輸送船轟沈!」「大型輸送船轟沈!」

特撮は武士の情けでここには上げません。(というくらいチャチ)

一息つく間も無く、今度は敵の駆逐艦が現れます。
艦長は潜行を命じるのですが、この時の内部から撮った映像と、これに続き
敵が落とした魚雷が爆発するシーンが、どう見ても本物のフィルム。

回天が潰れるのを気遣って深度を取らない艦長に向かって、
関谷中尉は自分が出撃して敵艦を沈める、と申し出ます。

「たかが駆逐艦に回天が使用できるか。
そのうち大物に出くわすから艦長に任しとけ」

と親心を出す艦長(井沢一郎)に向かって関谷は

「空母や戦艦を轟沈するのも進んで潜水艦を防御するのも私には同じことです!」

その言葉に艦長の目が深く頷き、

1号艇、回天戦用意!搭乗員乗艇!」

「関谷中尉、往きます!」

一人先に行くことを決心した関谷中尉。

不意に先を越され、呆然とする三人。

実際の回天搭乗員もこうだったのでしょうか。
艇に乗り込むために艦内を昂然と歩む関谷中尉は、すでに軍神となり、
乗組員は最大の敬意をもってその最後の搭乗を見守ります。

回天には潜水艦内部と回天下部に穿たれたハッチを結ぶ筒を潜って搭乗し、
潜水艦側からハッチを閉めます。

回天と潜水艦を固定していた鎖が外れると、
搭乗員が母艦に戻ってくることは決してありません。

その瞬間、彼に残されたこの世での時間は数分単位となります。

艦内とは電話でつながっていますが、この電話の用途は二つ。
一つは出撃が中止になったことを伝えるため。
もう一つは最後の言葉を艦長と交わすためです。

ほとんどの搭乗員が最後に残していったとされるこの言葉を、関谷中尉も艦長に告げます。

「今までお世話になりました」

「関谷中尉、頼むぞ」

関谷中尉が一足先に出撃していくのを万感の思いとともにただ見ている三人。

そしてすぐに爆発音と振動が伊36を震わせます。
関谷中尉の命の火が消えたその瞬間でした。

そしてそのおかげで、伊36は、当初の目的であったアドミラルティ泊地での
回天戦を行うことができるようになったのです。

泊地での回天戦なら、空母だろうが戦艦だろうが、もう目標は選び放題です。

ところが、艦長が最大の苦心を払って湾口まで潜水艦をつけ、
回天戦の成果を最大限に上げてやろうとしている最中、司令部から無電が。

(本当は作戦中に司令部からの連絡があるなどとは考えにくいのですが、
そこはそれ、映画ということで)

なんの理由かはわかりませんが、ここで帰投命令がくだったのです。

呆然とする三人。
この刹那の命の猶予、出撃の延期がいかに残酷なことであるかを、
朝倉少尉は自分も知ることになったのでした。

「村瀬・・・貴様はこんな気持ちを二度まで耐えてきて・・」

玉井少尉だけは、その瞬間、恋人の幸子のことを考えていました。
写真を見、しばし彼女のいる世界に自分が生きていることに安堵を感じます。

幸子が自決してもうすでにこの世の人ではないことなど、知る由もありません。

しかしそれも一瞬のことでした。

そのとき、アドミラルティ敵泊地に敵の大艦隊が帰還してきたのです。
艦長は決断しました。

帰投命令に背いても、回天搭乗員に「死に花」を咲かせてやるため、
あえて回天戦を行うことを。

「昭和19年12月12日、伊号36潜水艦、
会敵の機会に接し、
艦長は今は敢えて諸君に往けと命ずる」

「搭乗員乗艇!」

つい何時間か前、関谷中尉が受けた乗組員の畏敬の眼差しと敬礼を受けながら、
三人は回天に乗り込む、あまりに短い花道を歩いていくのでした。

ハッチの下には軍医長が待っていました。
軍医は搭乗員に自決用の青酸カリを渡すように言われていましたが、
彼らへの敬意からそれをせず、今はただ出撃を見送ります。

乗り込む最後の瞬間、手を握り合う三人。

村瀬には、従兵がなぜか近寄ってきて、

「い、い、い、生きとります」

なんと、乗り込もうとする村瀬にネズミの仔を渡そうとします。

「かわいいなあ。ありがとう」

「ありがとう。でも俺はいい。内地に連れて帰ってやれ」

嗚咽をこらえるのに必死な従兵でした。

朝倉少尉は帝大の先輩だった従兵から貰ったお守りを潜望鏡にかけ・・、

玉井少尉は幸子の写真を目の前に貼り付けます。

そして三基全部が潜水艦から解き放たれました。

海上に浮上し、突入目標を定めた玉井少尉。

「幸子さん、さよなら」

「大型空母、轟沈!」

えーと、戦艦・・・・「マサチューセッツ」?

機銃掃射(きっとボフォース機関砲)を受けながら、突入していく村瀬少尉。
監督は突入の最後の瞬間、目をつぶってしまう演技をどちらにも要求しました。

戦艦、スクリュー音消えた、轟沈!」

艦長は総員に向かってアナウンスします。

「伊号36潜水艦は回天攻撃により大型艦2隻、駆逐艦1隻轟沈の成果をあげたり。
回天の勇士散華して今はなし。
我ら伊号36潜水艦乗組員は謹んで回天の勇士の冥福を祈り、これより帰途につく」

さて、ところでもう一人の搭乗員、朝倉少尉はどうなったのでしょうか。

実は発進時から水漏れを起こしていた朝倉少尉の艇、操縦不能になって
海底に鎮座した上、もうすでに腰まで海水が迫っていたのでした。

落ち着き払った様子で泰然と短剣を取り出し、潜望鏡に文字を刻み始めます。

十九年十二月十二日 一五三〇

我未ダ生存セリ

朝倉少尉の薄れゆく意識の中に、かつて聞いた子供の歌声が響いていました。

「夕焼け小焼で日が暮れて 山のお寺の鐘がなる」

・・・・・・・・・・

予備学生が主人公の戦争ものは、えてして戦争とそれによって学問の道半ばで
命を断たれることの不条理を強調して訴える傾向にあります。

しかしこの映画は1955年作品で、戦争の記憶の生々しい頃に
元予備士官の監督のもと、軍隊や戦争を知るスタッフによって制作されたため、
その後の、厭戦気分だけをお涙頂戴で綴る作品とは異なり、その時代に生まれ、
そうせざるを得なかった若者たちの公と私の両面を描くことに成功していると思います。

特に、伊号36の艦長と回天搭乗員たちの、命令を下し、それに従う関係の中に、
この時代に生きた者にしかおそらくわからない「愛」が描かれていたのは
個人的に大変評価できる部分でした。

 


終わり