ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

令和三年度年忘れお絵かきギャラリー その2

2021-12-31 | 映画

今年一年にアップした映画の扉絵と共に内容を振り返るシリーズ、
年忘れお絵かきギャラリー2日目です。

グリーンベレー The Green Berets
物議を醸したジョン・ウェインのベトナム戦争肯定映画



当時ハインツ歴史センターのベトナム戦争シリーズが続いていたため、
ベトナム戦争ものをと思って選んだため、短期間の間に
ジョン・ウェイン晩年の戦争ものを2本も扱うことになりました。
しかも本作は、ジョン・ウェインの監督作品でもあります。

61歳で空挺隊の司令官役という誰が見ても無茶な役を演じてまで、
ウェインが映画を世に送り出したかった理由というのは、
当時国内に蔓延していたベトナム戦争反戦の動きに危機感を抱き、
映画によって国民の世論を動かすことだったと言われています。

つまり、ウェインはベトナム戦争の「共産主義との戦い」という
政府の理念に全面的な共感を持っていたということになります。

ウェイン演じるマイク・カービー大佐率いる米陸軍特殊部隊「グリーンベレー」が、
ダナンで繰り広げる死闘が、ストーリー全体を支配します。

「反戦の声」を象徴するのは、デビッド・ジャンセン演じる新聞記者で、
彼は彼はその実態を見極めるために従軍記者となって同行します。

カービーの部隊の死闘と、ベトナム人民の悲惨を目の当たりにし、
彼の考えが変わっていく、という手法によって、
映画はメッセージ性を持って戦うことの正当性を訴えようとします。



カービーの部隊と共に行動する政府軍の若い司令官を演じるのは、
当時「スター・トレック」で人気だったジョージ・タケイでした。

晩年のドラマでの姿しか知らないわたしは、この時代の
精悍でセクシーな容姿の彼の姿にちょっと驚いてしまったものです。

ちなみに右下の子供は、戦災で家族を失い、隊員の一人に懐くという設定で、
犬を可愛がっていることや、懐かれた方の隊員が戦死を遂げる、という
戦争映画にありがちな境遇を背負った存在ですが、
同時にこの子供こそが「大国アメリカに庇護される南ベトナム」を象徴している、
とわたしは最後に位置付けてみました。

ちなみにデビッド・ジャンセン演じる新聞記者は、それまでの反戦意識を改め、
最後には自分も従軍記者として部隊に加わることになるのですが、
その大きな理由は親しくなった村長の娘がベトコンに惨殺されたことでした。

彼がアメリカが庇護すべきは何かを認識するようになったという意味で、
村長の娘もまた映画の目指す理念にとって象徴的な存在です。



映画で描かれた「最大の作戦」とは、北ベトナム軍の将軍を、
ハニートラップで油断させておいて誘拐し、それをネタに交渉して
南ベトナムに有利な条件での終戦交渉に持っていくことでした。

こんな芝居じみた(芝居なんですけどね)作戦であの戦争が終わるくらいなら、
実際何年間にもわたって泥沼の戦いが続くわけねえ、と誰もが思ったでしょう。

その発想は、ほとんど西部劇の舞台になる街レベルのスケールの小ささ。
この映画が特にベトナム兵士たちには嫌悪感すら与えたという理由もわかります。

ただ、それらのことどもはあの戦争の結末を知っている後世の人なら
誰でもしたり顔で言えることにすぎません。

ベトナム戦争がまだ緒についた頃、ウェインがそうであったように、
少なくないアメリカ国民は、アメリカの正義を信じ、
決してアメリカは戦争に負けることはないと信じていました。

ちなみに最終日のブログタイトルは、
ウェインがベトナム人孤児の手を引いて歩いていくこの映画のラストシーンで、
劇中ダナンとされている彼らのいる地域からは、
決して見えないはずの「西に沈む夕日」(ダナン海岸は東にしかない)
であったという「グーフ」から来ています。

映画の興行成績は、作品そのものが激しい議論の対象になったこともあって、
皮肉なことに、彼の映画の中でも最大のヒットとなりました。


シン・レッド・ライン Thin Red Line
静かなる哲学ポエマー総出演戦争映画


ブログに取り上げていて何作に一つは他の作品の数倍気力が必要な作品があります。
おそらく本年度におけるその最たるものがこの「シン・レッド・ライン」でした。

当ブログでは、初日の多くを割いて、いかに出演を希望した俳優が多かったか、
またその際のキャスティング秘話をご紹介しましたが、この作品はそれほどに
関係者にとって特別のキャリアとなると制作前から見做されていたようです。

作品そのものに対する専門家の評価もやたら高く、まるで
この作品を評価しない者は頭が悪いというような空気さえあります。

しかし、一般大衆の「ウケ」は決して良くありません。

特に英語がネイティブでない国の鑑賞者にとっては、翻訳の介在がネックとなり、
戦争ものと言うだけで選んだ人は、ネイチャー系ポエムに早々に退屈し、
そうでなくてもサラッと聞いただけでは解釈しにくい内容となっているからです。


わたしも解釈を試みたのですが、従来の戦争映画と違い、この作品の目指したのは
人間を形作る「肉体」という、地上での「魂の容れ物」が遭遇する出来事より、
その肉体を支配する精神世界を優先して表現することだったような気がします。

戦争という、大量の肉体がいとも簡単に破壊され無になる空間で、
この映画は殺戮をまるで傍観しているかのような視座を見せているからです。

当ブログでは、「シン・レッド・ライン」というタイトルの意味を、
歴史的事実から紐解き、解釈するという、
自分で言うのもなんですが、意欲的な作業をゼロから試みました。



こういうふうにタイトル画の中心に据えてみると、まるで主人公みたいですが、
天下のジョージ・クルーニをちょい役で使い捨てしたのがこの映画の剛毅なところ。

あまりにもキャストが多すぎて、ちゃんと契約してギャラももらい、撮影もしたのに
登場場面が削られて、結果的に出演しないで終わった俳優すらいました。

第二次世界大戦のガダルカナル島での戦闘を描いているので、
映画には日本軍の将兵が登場するのですが、
彼ら敵役の表現法においても、この映画は画期的だったと思います。

そんなことについても考察してみました。

彼は何故撃たれたか



最初から最後まで、戦場にいる兵士たちが頭の中で、あるいは会話で
「分裂症的な」哲学ポエムを繰り返して止まない当作品。

全てのことが、戦闘行為ですら、何かの暗喩なのではないかと
最後の頃には懐疑的になってしまうくらいです。

ウィットが何故撃たれたかについても、彼が最後に浮かべるこの表情も、
部隊から脱走して原住民の村に隠れていたという彼の前歴を考えると、
何かしらの意図あってのことなのだろうか、と深読みしてしまいます。

戦争を素材に哲学と真理を追求しようと試みた作品、
とブログでは一応最後に恐る恐るまとめてみましたが、シニカルな見方をすれば、
「哲学」「真理」は、雰囲気をただ纏わせているだけかもしれませんし、
もしそうならば「真理の追求」などと大上段から振りかぶるのは、
口幅ったいようですが、買い被りすぎだったかなと思わないでもありません。

受け手がどう解釈するか、あるいは受け手の能力、感受性で如様にも価値が変わる
まるで映し鏡のような作品、というのが今の本作に対する評価です。



海軍特別少年兵
国策映画「水兵さん」の昭和焼き直しバージョン

「艦船勤務」



最近、戦時中海軍省の後援によって水兵募集の宣伝用に作られた国策映画
「水兵さん」を観てその紹介ブログを制作しました。

もちろんそんなことがなければ一生観ることのない映画ですが、
びっくりしたのは、この「水兵さん」で描かれた海兵団の様子がほとんどそのまま、
この「海軍特別少年兵」では再現されていたことです。

「少年兵」の舞台が横須賀第二海兵団、「武山海兵団」というのも、
「水兵さん」の舞台とぴったり同じです。

「水兵さん」は、海軍が全面的に協力したため、実際に海兵団の施設で撮影され、
実際の訓練生の訓練風景などがそのまま劇中に再現されるのですが、
この映画は、その訓練の様子だけでなく、演芸会の最中に訓練生の姉が訪ねてくる、
陸戦訓練で民宿に宿泊して久しぶりに畳の上に寝るなどというディティールを
もはやパクリといってもいいくらい、そのまま流用していたことが判明しました。

とはいえ、もちろんこちらは、あの戦後の「東宝8・15シリーズ」ですから、
「水兵さん」の登場人物のような純粋で真っ直ぐな少年ばかりでなく、
不幸な家庭状況によって拗ねていたり、家族と縁がなかったり、
銃剣を無くして怒られるのが怖くて自殺してしまったり、と
思いつく限りの不幸なバックグラウンドを背負わされているだけでなく、
最後には全員同じ部隊に配属されて、一挙に死んでしまったりするのです。

「水兵さん」は来年アップする予定なのでその時に読んでいただけますが、
こちらは分隊長が出征して戦果を上げるニュースを聞き、
自分もまた海軍軍人となって国の為に戦地に赴く、というところで終わります。
海軍兵募集の宣伝映画ですから、もちろん誰も死にません。

彼らの行く末に待ち受ける運命については、あくまでも
「戦争なのだからそういうこともあるかもしれないが、自己責任で」
という感じで具体的には語られることもありません。




主人公となる少年たちを演じる俳優が、皆未成年で無名なので、
その分、彼らの家族や教範長などに有名俳優を使いまくっております。
さすがは当時の「8・15」シリーズです。

この映画の少年兵のうち、かろうじて最も有名になったのは、
銃剣を紛失して自責の念から自決してしまう林を演じた中村梅雀でした。


ところでわたしは、映画紹介ログの扉に使う絵は、通常、
映画がカラーならカラーで描くことにしていますが、
この映画はカラー映画なのに色なしの絵を描いています。

理由は特になく、まさに「なんとなく」そうしたにすぎず、もちろんそのとき、
この映画がベースにしたモノクロ映画、
「水兵さん」があることは夢にも知リませんでした。

「水兵さん」を見て、この映画がそれをベースにしていることを知ってから、
改めて「画面に色を感じられなかった理由」に納得がいったと共に、
自分の直感のようなものをちょっと見直す気になりました。

なお、ブログのタイトルは、両日とも、劇中少年たちが歌う軍歌から取っています。


続く。








令和三年度 年忘れお絵かきギャラリー その1

2021-12-29 | 映画


早いもので、令和三年も残すところ後数日となりました。
というわけで年末恒例のお絵かきギャラリーをやります。

今年は何と言ってもコロナ禍でイベント等参加の機会が無くなったため、
(そして今後もおそらく無いだろうという)ブログのコンテンツが
軍事博物館の解説と戦争映画の二本立てになってしまいました。

そして記事のボリュームが大き過ぎて(内容が濃いとは誰も言っていない)
一日一本の記事制作が負担になってきたこともあり、
いつの間にか二日に一本のアップが限度になってしまいました。

特に映画記事となると、記事のための画面キャプチャと
その中からタイトルがを選んで描いてレイアウトして効果をかけ、と、
決してそうは見えないけど本人的には大変な作業なので、
1日分の記事を2日で仕上げるのもやっとという有り様です。

しかし、今後もできるだけこのペースを死守しつつ続けていきたいと思いますので、
来年もどうかよろしくお付き合い願います。

危険な道 In Harm Way
ドロドロ人間模様系戦争映画



2020年の12月掲載です。
最近、ジョン・ウェインの戦争映画ばかり紹介している気がするのですが、
それだけ彼が多くの戦争映画に出演しているということでしょう。

タイトルの「In Harm's Way」は、アメリカ海軍の英雄、
ジョン・ポール・ジョーンズの、
「私は危険を承知で行くのだから」という言葉からとられています。

映画の舞台は第二次世界大戦の真珠湾海軍部隊。
主人公のウェインが演ずるのは重巡の艦長です。

最後の白黒映画となった当作品における彼は、
体調の悪さが画面を通じてもわかるほど老いが目立ちます。

映画は真珠湾事件に始まり、大和撃沈で幕を閉じますが、
その間登場人物はどちらかというと妻に浮気されたり、
生き別れの息子と再会したり、嫌いな男の息子の婚約者を寝取ったり、
その婚約者が自殺したり、それを苦にして自殺的攻撃をしたりと、
なかなか波乱バンジョーでドロドロした人間模様を繰り広げます。


ウェインの相手役、看護師のマギーを演じたパトリシア・ニールとは
すでに映画「太平洋機動作戦」で共演済みです。

わたしはこのパトリシア・ニールという女優、全く魅力を感じないのですが、
ウェインとの共演を2回もしているということは、
アメリカではそれなりの評価をされていたようですね。

軍人として出ている映画なのでウェインは無理やり?
ラブシーンを演じさせられていますが、この時58歳で、
海軍大将を演じるべき年齢の彼のそれは、
見てはいけないものを見せられた気になること請け合いです。
あんまり登場人物同士の人間関係がゴチャゴチャしているので、
三日目にはついに人物相関図を書かざるを得なくなりました。

「田舎出の純朴な娘」と言われていたはずの息子の婚約者、
ドーン少尉はなかなかの小悪魔ビッチで、それがアダとなり、
自分の嫁が浮気相手と事故死してしまってすっかり拗らせた
カーク・ダグラス演じるエディントン中佐に乱暴され、
子供ができてしまったので自殺するというショッキング展開。

わたしが最近作業をしながら初めてアマプラで観たドラマ「高校教師」は、
ゴールデンタイム放映作品でありながら衝撃的な性のタブーを描いており、
当時の日本社会を騒然とさせたそうですが、それより20年も前、
アメリカではこんな衝撃的な内容をしかも戦争映画に盛り込んでいたのです。

ウェインの息子を演じた俳優は映画「シェーン」の子役でした。
この後若くして事故死してしまいました。

カーク・ダグラスが演じたエディントン大佐は、自分が手篭めにした女が
自殺してしまったので、自責の念に駆られて単機出撃し(おい)
その途中に偶然大和艦隊を発見しますが、直後に撃墜されて戦死を遂げます。

なお、このときカーク・ダグラスがどうしてこんな役を引き受けたかというと、
「スパルタカス」など、その頃の一連の仕事の評判が悪く、
意に染まない役でも大作、しかもウェインと共演ということでOKしたようです。
この際「寄らば大樹の陰」という感じだったんでしょうか。

戦争映画としては骨組みがしっかりしており、機動部隊、
空挺部隊、PTボート、航空と現場が登場する意欲作で、
模型による海戦だけが残念だったという評価もあるようです。

登場人物たちのドロドロ愛憎劇を楽しむ余裕のある方ならおすすめです。


「大東亜戦争と国際裁判」
東京裁判史観に敢然と立ち向かった反骨映画

令和三年度最初に選んだ映画は、極東国際軍事裁判、通称東京裁判を
記録に残された裁判の様子をできるだけ忠実に再現しようとした意欲作です。
タイトル画は、裁判の「登場人物」の中から、
主役と言っても差し支えないであろう四人を独断で選びました。

まず初日は嵐寛寿郎演じる東條英機陸軍大将&元総理。

映画を4日に分けましたが、初日では日本が国内不況に困窮し、
満州に新天地を求めて進出したのに対し、ここに権益を持つ欧米が
ABCDラインを引いて日本を追い詰めるところから、ハル四原則、
日米交渉決裂という厳しい状況に置かれた政府の舵取りを
東條が引き受けるという過程が描かれます。

ついでに、朝日新聞がこの映画の内容に大騒ぎして火付けし、
その煙をアメリカが嗅ぎつけてGHQが問題にした、という
制作の裏で起こったいつもの騒動についてもご紹介しました。



二日目はA級戦犯として処刑された文官の広田弘毅元外相です。

この俳優は本物の広田弘毅にはあまり似ていないのですが、
広田が絞首刑の判決を受け、イヤフォンを外してから
傍聴席の娘に微笑んだという出来事が取り上げられていたので描きました。


二日目は、開戦後、勝った勝った、また勝ったったでイケイケだった日本が、
ドーリットル空襲、ミッドウェイ海戦を経て、転換点を迎え、
海軍甲事件で山本五十六大将を失い、特攻という最悪の手段を選択し、
(大西瀧治郎が丹波哲郎という無茶苦茶な配役ですが)
回天、大和特攻、(大和副長役に天知茂)サイパングアム陥落、
そして原子爆弾投下がサクサクと紙芝居調に経過説明されます。

本作のメインはどちらかというと東京裁判なので、
ここからが本題というところになります。


三日目はサー・ウィリアム・ウェッブKBE裁判長の俳優を描きました。

この俳優は本物よりスマートであまり似ていないのですが、
似てさえいれば描きたかった清瀬弁護人とブレイクニー少佐が
どちらも絶望的に似ていないので断念し、代わりに選んだ次第です。

ここからは罪状認否と裁判の経緯が実に忠実に述べられます。
わたしはブログで、映画で語られたことへの補足と、
改変されたところがあれば、その理由などについて語りましたが、
その際資料としたのは児島譲の「東京裁判」、清瀬一郎の著書などです。

3日目は、インド代表判事、ラダビノッド・パール博士を描きました。
パール判事は東京裁判の裁判官の中でたった一人の国際法の専門家です。
(というのも何だか不思議な話ですよね。国際裁判なのに)

今でこそ、東京裁判が戦勝国による敗戦国への報復であり、
法律的にはなんの正当性もないということが人々に知れ渡りましたが、
例えば小林正樹監督の「東京裁判」などでは、ドキュメンタリーと言いながら
監督本人が「東京裁判史観」に見事に染まっていたりしたものです。

その点本作品は、朝日新聞の火付けとGHQとの戦いを経て、
妥協を余儀なくされながらも、東京裁判史観の矛盾と問題点を、
なぜ日本が大東亜戦争に突入していったかを丹念に描くことで
世に問おうとした、実に勇気あるものだったとわたしは思っています。

もっと評価されても良い映画ではないでしょうか。
(決して面白くはないですが)


「シュタイナー・鉄十字賞」(戦争のはらわた)
タイトル暴走結果よければ全てよし映画

ドイツ万歳



この映画が戦争映画として有名な理由は、「戦争のはらわた」という邦題にある、
と決めつけた上で、解説を行いました。

原題は「Steiner - Das Eiserne Kreuz」シュタイナー・アイアンクロス
「戦争のはらわた」とは何の関係もありませんが、
この耳目を集めるタイトルのせいで人の記憶には残る作品になったのです。

本作は英独による合同作品ですが、主人公のシュタイナーは
どうみてもドイツ人ぽくないジェームズ・コバーンです。

舞台は1943年、ロシア戦線。
できる男ロルフ・シュタイナーは、再度任務を成功させ軍曹に昇進し、
鉄十字も授与されていますが、彼はそんな栄達に無関心です。

彼の宿敵として登場するのは、指揮官として赴任してきた
上流階級の傲慢なプロイセン人大尉シュトランスキー。

シュタイナー隊がロシア軍と血みどろの戦いでこれを制圧した後、
シュトランスキーはそれを自分の功績だと主張し、
戦闘中逃げ隠れしていたくせに鉄十字賞を欲しがります。

そして、同性愛者であるトライビヒ中尉を脅迫して、
功績の証人にさせることに成功しますが、シュタイナーの方は
昇進をちらつかされても全くそれに食いつこうとしません。

シュトランスキーは、報復として、ブラント大佐の前線撤退の命令を
シュタイナー隊に伝達しなかったため、彼らは取り残され、
敵に囲まれ生存のための戦いを余儀なくされるのでした。

シュトランスキーに弱みを握られて味方を攻撃させられ殺されたトリービヒ中尉、
ドイツ軍に拾われて「羽を休めた」ものの、戦死するロシア軍の少年兵、
最後の最後まで男前だったブラント大佐、屈折した複雑なキャラキーゼル大尉。

そういった脇役の一人一人の描き方が際立っていて、個人的には
ペキンパー監督の画期的なスローモーションによる戦闘シーンの衝撃よりも、
映画を支えるストーリーラインに深みを与えていると感じます。

戦争映画ファンならずとも鑑賞しごたえのある佳作です。
ただ、もう少し主人公はドイツ人らしい人にして欲しかったかな。



「アイアンクロス ヒトラー親衛隊《SS》装甲師団」
パッケージに偽りありのネイチャーポエム系ナチス映画



昨今は誰でも簡単に写真が加工できるため、
SNSの自撮りは絶対に信用してはいけないというのがネットの世界の常識です。

一生SNSの中だけで生きていくつもりならともかく、マッチングアプリなどで
SNOW加工しまくった写真を挙げる人は一体何を考えているのでしょうか。

加工写真で期待値を上げられまくった相手が、実物を見てドン引きするとか、
そもそも本人だと思ってもらえないことを問題だと思わないのでしょうか。

なぜこんなことを書いているかというと、この映画のタイトルとパッケージが
明らかにそれを期待して購入する人を裏切っており、
パッケージと全然中身が違うじゃないかー!と堪え性のない人なら怒り心頭、
という加工詐欺に通じるものがあると思うからです。

タイトル「アイアンクロス ヒトラー親衛隊《SS》装甲師団」
パッケージには大きな鉄十字をバックに疾走する戦車、
「ナチス最強の部隊 最後の戦い」
「”悪魔”と恐れられたナチス親衛隊の視点から
戦場の恐怖と真実を暴く衝撃の戦争大作!!」

こんな「加工」に興味を持って映画を見た人のほとんどは、
自然をバックに朗読されるネイチャー系ポエムや、兵士たちのつぶやきに
がっかりし、ついでイライラしてくること請け合いです。

繰り返しますが、原題は、アイアンクロスとも悪魔ともあまり関係なさそうな、

My Honor Was Loyalty「我が誇りは忠誠心」
LEIBSTANDORTE「ライプシュタンダルテ」

であり、ライプシュタンダルテは、

「第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ・SSアドルフ・ヒトラー
1. SS-Panzer-Division"Leibstandarte SS Adolf Hitler"


という師団名のことです。
さらに原題は、

My Honor Was Loyalty「我が誇りは忠誠心」

これは、ライプシュタンダルテのモットーであるドイツ語の

Meine Ehre heißt Treue「忠誠こそ我が名誉」

を、過去形にしたものとなります。
そしてその内容はというと。

主人公のルードヴィッヒ・ヘルケル軍曹は、エリート第1SS装甲師団
LeibstandarteSS AdolfHitlerの献身的で愛国的な兵士。

彼はそのほかのほとんどの兵士と同じく、国に愛する妻がいて、
ナチスのドグマに共鳴し、国のために入隊を決めました。

行動が始まると、彼とその小隊はソビエト軍との戦闘で、
経験豊富な歩兵の小グループと交戦しますが、爆発に巻き込まれたヘルケルが
ぼんやりと森をさまよううち、たまたま同じ故郷出身の別の兵士に出会います。

休暇で帰郷した時、彼は兵士の妻がユダヤ人であるということで
虐殺されるのを目の当たりにし、自分の信奉する教義への疑問が芽生えます。

西部戦線に戻った彼は、疲弊していく自軍の力、戦友や尊敬していた上官の喪失、
敵味方両軍における捕虜への戦争犯罪行為を目撃するのでした。


この後当ブログはあのネイチャー系ポエム戦争映画の嚆矢となった
「シン・レッド・ライン」を手掛けるわけですが、今にして思えば、
このイタリア映画(!)は、それをロシア戦線でやろうとしたのです。

わたしがこの映画で評価したのは、ドイツ人によるドイツの映画でないため、
親衛隊の兵士を他の国の、あの戦争に参加した全ての兵士と同じく
「顔のある」普通の人間として登場させたという点に尽きるでしょう。

戦後、ナチスを絶対悪としてしか描くことを許されない世界観の中で、
これを試みたことは、ある意味大変挑戦的だったということができます。

パッケージにつられて買った人はおそらく失望したと思いますが、
わたしはこの点から高評価を与えたいと思います。


続く。

"Give me a HUS"マリーン・ワン第1号〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-12-27 | 航空機

フライング・レザーネックの展示機を紹介してきましたが、
今日はその中の回転翼、ヘリコプターを取り上げます。

ヘリコプターという乗りものが軍事に導入されるようになったのは
第二次世界大戦後で、特にベトナム戦争では
ヘリコプターはその象徴のようになっていました。

年代の古い順に機体を紹介していくことにすると、
やはりこの機体からということになります。


■ シコルスキー HUS-1(UH-34D)シーホース


シーホース(タツノオトシゴ)というよりおにぎりだよなあ、
とわたしはいつもこれを見ると思うのですが、
独特な形をしているのでほぼ間違えようがないのはありがたいところです。



【攻撃ヘリコプターとは】

H-34は、1962年から海兵隊の突撃ヘリとしてベトナム戦争で活躍しました。
ほとんどのヘリと同じく、デビューは「ポストウォー」と言われる朝鮮戦争後です。

「突撃ヘリ」は英語だと「アサルト・ヘリコプター」となります。
「アタックヘリ」ということもありますが、そもそも
「攻撃ヘリコプター」とは何かということを考えてみましょう。

そもそもヘリコプターは、非常に特殊な飛行機械です。
飛行機と同じように、当初ヘリコプターはマルチロール機、
複数の役割を果たすように設計されました。

具体的には外部の荷物を運んだり、負傷者を避難させたり、
銃やミサイル、兵器を搭載したガンシップとして運用されたりといったところです。

しかし、「ガンシップヘリ」は「攻撃ヘリ」とは別物になり、
決してイコールではありません。

攻撃ヘリとは本来、戦闘機として設計されたものを言います。
低空を定速度で飛ぶという飛行特性を生かして、
歩兵、軍用車両、要塞などを主な目標とし、搭載される標準的な武装は、
機関銃、ロケット弾、対戦車ミサイルなどです。

現代の攻撃ヘリには、大まかに言って2つの主要な任務があります。
ひとつは、当たり前のようですが、敵の戦車や車両、地上施設を破壊すること
2つ目は、地上部隊のための近接航空支援を行うことです。

もちろん場合によっては、輸送ヘリの護衛を行うこともあります。

【戦闘ヘリの開発と歴史】

攻撃用ヘリコプターの歴史は、第二次世界大戦の初期、ロシアとアメリカが
低速の固定翼機を使って夜間のステルス攻撃を試みたことに遡ります。

もちろんのこと、この時はまだ回転翼ではないのですが、
攻撃用ヘリの運用を戦略と捉えた場合の歴史とお考えください。

有名なのは、アメリカの使用したパイパーJ-3カブを改造した機体です。



陸軍は有名な練習機L-4グラスホッパーを改造し、
バズーカのロケットランチャーを3〜4本、支柱に外付けし、
ドイツの戦車や大砲を見事にやっつけてしまったことがあります。




ロシア移民の技術者、イーゴリ・シコルスキはヘリコプターを設計し、
シコルスキーR-4を最初のモデルとして発表しました。


シコルスキーR-4は、世界初の量産ヘリコプターであり、
アメリカ空軍に就役した最初のヘリコプターでとなりました。

最初にアメリカ陸軍でヘリを実戦に運用したのは1944年5月のことです。
陸軍航空隊の司令官だったフィリップ・コクラン大佐は、このことを手紙に

「本日、'卵泡立て器(egg-beater)'が実戦任務に就き、
このいまいましいヤツは理性を持つかのように動いた。」


と書いて知らせています。
泡立て器・・・誰が上手いこと言えと。

陸軍はすぐにこのデザインの有用性を認め、戦闘用に改造し始めました。
ただし第二次戦時中に使用されたのはほんのわずかで、
その使用方法は、戦闘地域からの救助や避難にとどまりました。

1944年には戦闘飛行も行いましたが、これは攻撃ヘリと呼ぶものではありません。

ともあれR-4は成功し、第二次世界大戦後の技術開発に多大な影響を与えました。
滑走路を必要とせず、過酷な地形でも活動でき、
固定翼機では危険な場所でも低空でゆっくりと飛行することができ、
どこにでも着陸して、人員をせたり降ろしたりすることができます。

今では当たり前のこととして周知されているこれらヘリの実用性は、
他のどんな固定翼機にも持てない利点となりました。

1950年代がヘリコプターの全盛期となったのも当然のことだったでしょう。

朝鮮戦争やベトナム戦争を舞台にした映画や物語で、
ヘリコプターが出てこないものはないと100%断言できるくらいです。

その他、シコルスキーの設計で最も成功したものの1つがS-55です。
S-55はここにある海軍用のHUS-1シーホースになりました。
このほか、やはり海軍用にHSS-1シーバットというのもありました。
シーバットは赤いアンコウ科の魚です。

そして、陸軍と空軍用はH-19 チカソーとなりました。




■ シコルスキHRS-3(H-19)チカソーChickasaw

実はこのH-19の開発は、政府の支援を受けずに
シコルスキー社が個人的に始めたものでした。

なぜなら、このヘリコプターは当初、いくつかの斬新な設計コンセプトの
「テストベッド」(実験用機体)として設計されたからでした。
1年足らずでモックアップが設計・製作されています。

最初に納入したのはアメリカ空軍で、評価のために5機のYH-19を発注し、
プログラム開始から1年も経たない1949年に初飛行させ、
1950年には海軍に初号機が納入されています。

海兵隊に1号機が納入されたのは翌年の1951年でした。

朝鮮戦争では、全軍がH-19を貨物輸送、兵員輸送、死傷者の避難、
撃墜されたパイロットや航空機の回収などに使用しました。

H-19は、8人または10人の乗員、1,000ポンド以上の貨物、
または6台の担架を運ぶことができました。

また、エンジンを機首に搭載することで、船倉内のスペースを確保し、
メンテナンス時のエンジンへのアクセスを容易にしたのもユニークな点です。

海兵隊のHRS-1は、戦時中の2つの軍事作戦で重要な役割を果たしています。

まず、1951年9月のウィンドミルI作戦
HRS-1が74名の海兵隊員と18,848ポンドの装備を運搬した作戦で、
1953年のヘイリフトII作戦では、同じ部隊が
160万ポンドの貨物を輸送し、2つの連隊に補給を行いました。

ところで「ヘイリフト作戦」で検索しているとこんな映画を見つけました。


知っている俳優がひとりもいないという

ただし、こちらはネバダの旱魃に対処するため、空軍が出動して
上空から干し草を落として住民を救った、という実話をベースにしています。

米軍はなんでも「作戦」にしてしまいますが、
この作戦によって命を救われたのは、人ではなく牧場の牛と馬だった、
(まあ間接的に人命も救えた事になるわけですが)というストーリーです。
使用されているのはフェアチャイルド社のC-82のようです。


ヘリコプターは、負傷者を野戦病院に迅速に運ぶことができたため、
朝鮮戦争では死亡した負傷者の数を史上最少に抑えることができたと言われますが、
ヘリがもっと投入されたベトナム戦争でなぜ効果が取り沙汰されないかというと、
おそらヘリくらいでは『焼け石に水』状態だったってことなんでしょう。


H-19以降、ヘリコプターは現代の戦争には欠かせないものとなっていきます。

海兵隊はヘリコプターを突撃輸送機として使用する先駆者となり、
自ら編み出した垂直突撃包囲戦術を実践しました。

また海兵隊のヘリコプターは、敵陣の背後にある、
アクセスできない場所(たいていは山の上)に兵員を輸送しています。

しかし、朝鮮戦争でヘリコプターを使った攻撃が一貫して行われなかったため、
ヘリコプターは敵からの攻撃を受けるという経験をしないまま終戦を迎えます。

これは、ヘリコプターにとって不幸なことでした。

ヘリコプターは地上からの攻撃に弱い、という致命的な弱点に
誰も気づかずにベトナム戦争に投入されて、すぐにそれを敵に見抜かれ、
甚大な人的被害を被るという最悪の結果を招くことになったのです。

海兵隊は最終的に89機のHRS-3を購入していました。
これは海軍のより強力な、700馬力のライトR-1300-3を搭載していました。

【FLAMのHRSー3】

HRS-3のBuNo.130252は、1953年3月31日に
コネチカットのシコルスキー工場で海兵隊に受け入れられました。

HMR-162の "ゴールデンイーグルス "に譲渡され、
1953年8月19日にUSS 「バターン」(CVL-29)に搭載されて日本に到着し、
その後、改修されるまで日本に駐在していたそうです。

1957年1月4日には、MCASサンタアナのヘリコプター輸送部隊
「フライングタイガース」に送られました。

1958年2月ハードタック核実験作戦を支援するため、
USS「ボクサー」(CVS-21)に搭載されてビキニ環礁に向けて出発。

その後1964年10月には、MCAS岩国の海兵隊航空機整備隊17に所属。
1966年に空軍軍用機保管処分センターに移され、引退しました。

総飛行時間は3,608時間でした。


【ソ連の回転翼機】

ところでポストウォーの時代、それではソ連はどうしていたかというと、
やっぱりこちらも同様に、回転翼機の技術を開発していたのです。

最初に成功した輸送用ヘリコプターはMil Mi-4で、
シコルスキーとほぼ同様の性能を持っていたそうです。


ミル・ミィ4 気のせいかHUSにそっくり

すぐに武装したシコルスキーH-34ミルMi-4が戦闘行為を行います。

その後、次世代のヘリコプターが開発されるにつれ、
各モデルに武装オプションが追加されていきました。
ベトナム戦争におけるベルUH-1ヒューイミルMi-8のように。


本当の意味の攻撃ヘリは、ベトナム戦争の真っ最中に、
アメリカ陸軍の切実なニーズから生まれました。

基本的な設計要件は、輸送用ヘリよりも高速で機動性が高く、
かつ重装甲で火力が強いことです。

その要望に応え、ロッキード社の「AH-56シャイアン」始め、
シコルスキー、カマン、ベルからも続々と試作品が提出されました。

シャイアンは設計が複雑すぎて、予算もスケジュールも大幅にオーバーし、
採用に至ることはありませんでしたが、
代わりに出てきたHSS-1は、海軍の対潜戦用ヘリとして1952年に就役しました。


【H-34シーホース】

話をシコルスキーH-34に戻しましょう。

H-34はアメリカ海軍の対潜水艦戦(ASW)機として設計された
ピストンエンジン搭載のヘリコプターで、対潜哨戒機以外にも
実用機、捜索救難機、VIP輸送機などの役割を担いました。

輸送機としては12〜16人の兵員を、医療救護のためには
8つの担架を運ぶことができ、VIP輸送機としても乗り心地は良かったようです。

その後、UH-1ヒューイCH-46シーナイトなど、
タービンエンジンを搭載した機種に置き換えられていったので、
これがアメリカ海兵隊で運用された最後のピストンエンジン搭載機になりました。

H-34は1953年から1970年までに2,108機が製造されました。
シンプルであるがゆえに信頼性が高く、ベトナム戦争で
海兵隊員たちはこれを名指しで要求したとされます。

いかに彼らに必要とされていたかは、海兵隊独特のスラングとして、
同機がもう使われなくなって久しい現在でも、

"Give me a HUS!" 
"Get me a HUS!" 
"Cut me a HUS! "

というフレーズが、
「助けてくれ!」
という意味で使われていることからも窺い知れるというものです。

H-34は、最初に戦場に投入されたヘリコプター・ガンシップの一つでもあり、
M60C機関銃2挺とロケット弾ポッド2個からなる
TK-1(Temporary Kit-1)でゴリゴリに武装されていましたが、
「スティンガー」という武装したH-34は賛否両論あり、すぐに廃止されました。


【マリーン・ワン第1号機】

1957年9月7日、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は、
ロードアイランド州ニューポートの別荘で休暇を過ごしていましたが、
ある出来事が起こり、ホワイトハウスで彼の身柄が早急に必要となりました。

そこで、マリーン・ヘリコプター・スクワッドロン・ワン(HMX-1)
バージル・D・オルソン大佐らは、HUS-1に乗ってナラガンセット湾を渡り、
待機しているエアフォース・ワンまで大統領を飛ばすよう命じられました。

これがアメリカ合衆国大統領がヘリコプターにより輸送された最初の出来事であり、
HMX-1は1962年にVH-3Aシーキングに切り替わるまで、
HUS-1で大統領を輸送し続けました。

ただしこの頃はまだ、大統領のヘリコプター輸送は
アメリカ陸軍とアメリカ海兵隊の共同運行管理であったため、
この時期の専用ヘリコプターのコールサイン・名称には
「アーミー・ワン」が用いられていました。

現在の「マリーン・ワン」のコールサイン・名称となるのは、
運行管理がアメリカ海兵隊単独となった1976年以降のことになります。


「FLAMのシーホース」

UH-34D(BuNo 150219)は、1962年12月21日、
やはりコネチカットのシコルスキー工場で海兵隊に納入され、
HMM-364の「パープルフォックス」に配属されました。

1963年9月、HMM-364機として沖縄のMCAS普天間基地に配備されています。
1963年12月にはHMM-361の「フライング・タイガース」に移され、
ベトナム沖での戦闘活動のためにUSS「バレーフォージ」(LPH-8)に乗組。

その後USS 「イオージマ」(LPH-2)でベトナムでの戦闘活動を続けました。
1964年12月にはHMM-163「リッジランナー」に移され、
もういちどMCAS普天間に戻されました。

その後、日本のNAS厚木のデポでメンテナンスを受け、
1964年12月、「リッジランナー」とともに普天間基地に戻り、
ベトナムのダナンに派遣され、HMM-162(ゴールデンイーグルス)
HMM-365(ブルーナイツ)、HMM-161(グレイホーク)と一緒に活動しました。

何度もNAS厚木での整備期間を経て、1968年5月、
ベトナムのフーバイが最後の戦闘任務となりました。

帰国してからはサンフランシスコのアラメダ基地の倉庫にいましたが、
1972年2月に退役しました。

当機は6年半の間に12の飛行隊で合計4,124時間飛行し、
その生涯のほとんどが戦闘状態にありました。



続く。



映画「Uボート 最後の決断」〜”In Enemy Hands ”

2021-12-25 | 映画
     
「Uボート最後の決断」後編です。

原題の”In Enemy Hands"は、「敵の手(で)」と訳せばいいでしょうか。
今までのところ話を4文字熟語で表すならば、「呉越同舟」だと思いますが。

さて、ヘルト艦長がトラヴァース先任を呼んで依頼したこと。

それこそがタイトルの「猫の手も借りたい」(意訳)そのもの、
つまり敵である君らの手を借りて操艦したい、ということでした。

「アメリカ沿岸で艦を始末してから投降する。君らは帰国しろ。
その代わり、我々を寛大に扱い帰国させるよう取り計らえ」

なんと思い切った決断をしたものです。
ヘルト艦長は乗員の命と引き換えにアメリカ軍に投降することにしたのでした。

しかし、彼らの乗っているのは他でもないUボート。
東海岸に到着するまでに米艦艇と出会ったらどうするの?
相手を攻撃する?
そんなことが「敵の手を借りて」できるとでも?

わたしですら、すぐさまここまで考えるのに、艦長もチーフも、
全くそのことを想定しないし、考えのすり合わせもしないんですよ。



もちろんこの案に対しては、アメリカ側乗員も拒否反応しかないのですが、
生きて帰ろうとすればそれしかない、とチーフは彼らを説得します。



というわけで話はあっさりとまとまりましたが(まとまるなよ)、
米独の乗員たちはキャビンの右と左に分かれて睨み合い。



そこにチーフと艦長がやってきて、それぞれの「対番」を選びました。
まず、ミラーが組むのはクレマー副長。



機関のオックス(牡牛の意)にはUボートの機関兵曹ハンス。
この二人、見事に雰囲気がそっくりで笑えます。
彼らに与えられたのは残された1基のエンジンで究極の省エネ航行をする任務です。



記念すべき彼らの初の共同作業、それは遺体を艦から出すことでした。
布に包まれた遺体はとても軽そうで、中身はまるでダンボールのようです。



さあ、そして艦長とチーフが二重に発令する指示を受け、敵と肩を寄せ合い、
あるいは狭い機関室で向かい合っての操艦作業が始まりました。



そしてそれぞれの場所では「生還する」という一つの目的のために働く敵同士が
その専門作業を通じて互いを次第に理解し合う姿が・・・。




作業がうまくいくとサムズアップしたり、
身振り手振りで意思疎通したりとだんだん調子が出てきました。


( ;∀;)イイシーンダナー



クレマー副長は吸わないといっているチーフにタバコを勧め、
アメリカ人乗員の優秀さを言葉少なに褒めます。
艦内は禁煙が普通だったというのに、相変わらずこの映画は
みんながタバコを吸いまくります。

そして「計画は成功するだろう」「多分」と言い合います。
しつこいようですが、どうして米艦に攻撃された時の話が全く出ないんでしょうか。



しかしヘルト艦長はふとチーフにこんな本音を漏らすのでした。

「部下の尊敬を失った」

まあ、生きて帰るためとはいえ、降伏する決定をした艦長に
Uボート乗員が失望するのは当たり前というものでしょう。

もし自分が艦長だったらどうしたか、と問われ、チーフは
「1隻潜水艦が抜けたからといって大した問題ではない」
と、間接的に艦長の決断を肯定する返事をします。


この映画における米潜水艦の呉越同舟の相手が、日本の潜水艦でなかったのは、
もちろん英語で会話するという設定が使いにくいこともあったでしょうが、
この頃の日本軍人のメンタルがあまりにもアメリカ人と違いすぎて、
(決して敵に降伏せず、そうなったら迷わず死を選ぶという)
本作品の意図する流れに結びつけにくかったからに違いありません。
 
「1隻抜けたからと言って大した問題ではない」という考えについては、
どこの国も海軍軍人ならちょっとないかなという気がしますが。

そして、この時、二人は初めて(!)
互いの国の艦船と出会ったらどうするかを話し合うんですよ。
しかもその会話というのが、

ヘルト「もしドイツの船と出会ったら計画を捨て、
君たちを逮捕して突き出すとでも思っているのか?」

トラヴァース「それはあるかもしれないと思った」

ヘルト「こちらこそアメリカの船と出会った時、我々を殺すか心配だ」

これで終わり。全く具体的な話に至りません(´・ω・`)

そしてヘルト艦長は、ここでついに核心に迫ってきました。

「なぜ君らを助けたと思う?」

そうそう、それ、わたしたちもぜひ知りたいところですよね。
ところが驚くことに、こんなことを言い出します。

「潜水艦の艦長は、敵艦を沈めたら艦長と副長だけ救えと
ヒトラーが決めた

これが前回お話しした「ラコニア令」のことであるのはもうおわかりですね。
なんだー、ラコニア令のこと、映画製作は知ってたのか。
てっきり知らないで脚本書いていたのかと思った。

だとしたら、ラコニア令を発令したのはカール・デーニッツなのに、
なぜここで「ヒトラーが」とわざわざ言い換えたのでしょうか。

わたしはこのセリフに、アメリカ制作の映画にありがちな
「悪いことは皆ヒトラーのせい」というあの法則を見ます。

前回の解説でお分かりになったと思いますが、
ラコニア令発令の原因となったのは、アメリカ側の一般人殺害事件でした。
現在の米軍にとってもあまり触れられたくはないであろう「黒い過去」です。

これは想像ですが、制作側は、軍と当局者の機嫌を悪くしてまで
この事件にスポットライトを当てたくなかったのでしょう。
(ニュールンベルグ裁判では『恥をかく』結果だったわけですから)

だからここで「艦長と副長以外は助けるなとヒトラーが非情な命令を出した」
という嘘情報をサラリと流したのです。

しかもこの後艦長が説明する、なぜ助けたかという肝心の理由ですが、

「今回君たちを助けて、その強さを知った。
艦長は強くあるべきだと思っている。
命を奪うのではなく、助けることが強さだ」


これ、変じゃないですか?

そもそも捕虜にした=Uボートに収容し助けた段階では
「君たちの強さ」なんてこれっぽっちもわかってませんよね?

知りたいのは、どうして沈没した潜水艦乗員全員を助けたかなんですよ。
これでは全く理由になっていません。
まさかこの説明で全てを終わらすつもりなのか?

さらに、もし呉越ならぬ米独同船のこのUボートがアメリカ軍艦に会ったら?
ドイツ軍艦に会ったら?という仮定についても驚くことにこんな調子です。

「ドイツの船と会ったらどうするんだ」
「みんなが生還することを一番に考えよう」


だから具体的にどうするんだよおおお!



しかしそのとき、クラウズなどの不満分子が暴発し、いきなりあちこちで
殴り合いが始まってしまいました。

最初にやられたのはエンジン室のオックスでしたが、
なんと!彼を助けたのは「Uボートのオックス」、機関のハンスでした。
どうもハンス、前々からその男を嫌っていた模様。

無骨な男同士に、敵味方を超えた不思議な連帯が生まれた瞬間です。


 
しかしクラウズの勢いは止まらず、魚雷を装填させてから味方に銃を突きつけ

「降伏なんかさせないぞ!」

魚雷を暴発させ、艦もろとも自爆するつもりです。



そしてついにもみ合いになって、倒れた艦長の背中に
ナイフをぐりぐりぐりーっと・・!



詳細は省きますが、クラウズはチーフが後ろから鎖をぶつけ、
何と首の骨を折ってあっさりと片付けました。

しかしもうすでに艦長は瀕死です。

「ヨナス!」



クレマー副長は、艦長命令が下された時には多少の皮肉も込めて、
「ヤボール・ヘア・カピタン」などと答えていましたが、
もともとヘルト艦長と同期であり、友人でもあったのです。

「ヨナス」(ヘルト)は「友人ルードウィッヒ」(クレマー)に苦しい息の下から、

「艦を頼む・・・皆を祖国へ」



この瞬間、クレマーが艦を率いることになりました。
「本来艦長になるべき」という前半の伏線が回収されたのです。

艦長代理となったクレマーが最初に発した命令は「潜望鏡深度」でした。
潜望鏡で外が確認できる深度、12mといったところです。



そのとき距離2,300メートルにアメリカの駆逐艦を認めました。
トラヴァースチーフは、ここで「手を上げる」ことを提案しました。
つまり、本艦はアメリカ人が制圧したUボートである、と知らせるのです。



無線通信でトラヴァースが呼びかけを行います。
相手はなんという偶然、まさかのUSS「ローガン」アゲインでした。

さすがにもう一隻駆逐艦を用意する制作予算はなかったようです。

「合衆国海軍のトラヴァースだといってます」

しかし、通信士が艦長にヘッドフォンを渡した途端電波障害に。
艦長は通信士が聞き取った情報をなぜか無視して切り捨ててしまいました。



そこに第3のUボート、U−1221が現れました。

U-429の現状、現在位置と降伏しようとしていること、
クラウズの一味である通信士が混乱に乗じて発信したこれらの情報を受け取り、
裏切り者を殲滅するためにやってきたのです。


艦長がUー821の艦長と同じ人に見える



この展開に驚いたのは駆逐艦艦長。
Uボートがもう一隻現れたと思ったら、同士撃ちが始まったのですから。

「魚雷が発射されました!」
「誰が誰を撃ったんだ!」




なんかわからんけど、とりあえずこっちも総員配置。



U-429が撃ち返してこないのをいいことに、U-1221 は
いかにもドイツ人らしい律儀さで魚雷を撃ち込んできます。

ちなみにこれらも当時使用されていない近接起爆式です。



USS「ローガン」、高みの見物。



クレマー艦長代理は必死で無線を通じてUボートに

「撃つな!味方が乗ってる」

と呼びかけ、U-1221はその無線を受け取るのですが、
艦長は裏切り者め、とばかり通信のラインを引きちぎってしまいます。

おいおい。機材を壊すなよ。

ただしこの時代、潜水艦は海中からは無線の送受信できませんでした。
いちいち浮上か潜望鏡深度で行っていたといいますから、
この潜水艦同士の無線も、軍事考証的にアウトです。



この状況から逃れるには反撃するしかありません。
今度はUボート乗員たちが艦長代理に攻撃を嘆願し始めました。



決断できない艦長代理に、アメリカ軍乗員代表としてエイバースが説得を試みます。



「向こうはこっちを攻撃してるじゃないか!」

DD理論ですねわかります。



チーフは、

「決断しろ。君が艦長だ」

絶対これ、自分が判断する立場じゃなくてよかったとか思ってるよね。



そして艦長代理は決心しました。
一度だけ反撃することを。

その理由は簡単で、後一発しか魚雷が残っていなかったからです。



相手の上部をすれ違い通過、そして後部魚雷を発射。



しかし、その魚雷は艦体を斜めにかすっただけでした。
言っちゃーなんだが、当たり前です。

「潜水艦同士の水中での一騎討ちは当時あり得なかった」

ということを初回に書きましたが、すれ違った潜水艦の後尾に目視もせず
魚雷を当てるのは、二階から目薬をさすより難しいと思います。

しかもこんな時だけ史実通りで、魚雷は近接爆破方式ではなく、
接触起爆式なので、艦体に斜めに当たっても爆発しません。



そのとき、空気読まない海上の駆逐艦「ローガン」が高射砲を撃ってきました。



U-1221、裏切り者より先に、米駆逐艦をなんとかするべきだったと思うがどうか。
魚雷発射とほぼ同時に爆雷の爆発で轟沈を遂げました。(-人-)

ちなみに爆雷は深度爆弾なので、設定した深度に達すると爆発します。



向かってきたUボートからの魚雷はまたしても近接起爆装置搭載タイプ。

爆発のダメージを総員必死でダメコンしていると、
駆逐艦が発するソナーの反響音が聞こえてきました。
このままだと駆逐艦が次の攻撃を仕掛けてきます。



その瞬間、都合よく通信が駆逐艦とつながりました。
(だから海底からの通信は当時できなかったと何度言ったら)

すかさずチーフがUボートには自分たちが乗っていると通信します。



艦長リトルマンは、トラヴァースにエニグマ暗号機と書類の確保を命じました。
そして今から駆逐艦の乗員をそちらに乗り込ませる、と息まきます。
するとチーフはしれっと聞こえないふりして、

「本艦は浸水が激しくもう沈没寸前です。総員退艦します!」

それを聞いていた乗員一同、「へ?」



「ほらー、あっちこっち亀裂が入ってるからもう沈むぞおお」(棒)

唖然としているクレマー艦長代理に、チーフは男前な一言を決めるのでした。

「Promise is promise.(約束は約束だ)」


そして一致協力して吸気口を全開し、退艦してしまいましたとさ。
艦長代理は、Uボートの中を一瞥し、一番最後にラッタルをのぼっていきます。



さて、無事に陸に上がったトラヴァースは、ドイツ人捕虜の扱いについて
冒頭に出てきた提督に直接請願していました。
我々6人の命を救った彼らは、国に帰されるべきであると。

しかし提督は、今は戦争中で、彼らはドイツ人だからどうしようもない、
と苦々しげに繰り返します。

「ただ、彼らがいい待遇を受けられるように計らう」

ようやくトラヴァースの顔が和らぎました。



そしてお約束。
妄想ではない、現実の妻に苦しかった思い出を涙ながらに語ります。

この映画にトラヴァースの妻はうんざりするほど出てきますが、
はっきりいってこれらは戦争映画の「セーム・クリシェ」以外の何ものでもなく、
画面にちょっと華やかさが欲しい程度の理由でこの女優を出すなら、
もう少しヘルト艦長の娘との思い出とか、クレマーと艦長の若い頃の逸話とか、
機関室のオックスとハンスのその後とかに費やして欲しいものだと思います。

ローレン・ホリーが悪いとは思いませんが、口の悪い批評者は
「馬鹿げたヴェロニカ・レイクヘアはロジャーラビットのジェシカみたいだ」
などと痛烈です><
これね

メイシー・H・ウィリアムズの演技もなかなか軍事的には不評で、

「彼はファーゴではなく海軍のチーフである必要がある」

などと英語のサイトでは言われておりました。
まあ、アメリカ人の目にも軍人らしくないってことなんだと思います。



そして車の中でいちゃいちゃしながら着いたのはドイツ人捕虜収容所。



金網越しに捕虜と面会できるものなのでしょうか。
チーフはクレマー艦長代理を呼び出しました。



そして別嬪の妻を、囚われの身となっている男に見せびらかすのでした。



妻はクレマーに夫が生きて帰れたことのお礼を言いたかったようです。
チーフは彼にドイツのタバコをこっそりわたし、
クレマーはそれを嬉しそうに受け取るのでした。

そして、収監生活の待遇の良さに部下たちは皆満足しており、
投降を決断した艦長もここまでは予想していなかっただろう、
生きて帰ることが目的ならば、艦長はそれをやり遂げた、と語ります。

そして、

「もしあのとき撃った魚雷が(味方のUボートに)当たっていたら
今どんな気持ちだっただろう」

と付け加えます。
重い選択でしたが、結果として運命は彼に十字架を負わせることなく終わりました。




金網越しに相手の手に自分の手を重ね(なるほど、ここにもタイトルの暗喩が)、
それから去っていくチーフを見送りながら、
クレマーは柔らかい表情でタバコを取り出して咥えるのでした。



皆さん、いかがだったでしょうか。
わたしがこの映画に冠したい評価は、ただ一言。

「エンターテイメントとしては最高、
しかし歴史的価値はなし」

戦争映画、潜水艦映画としてはともかく、やたら後味のいい作品です。


終わり。





映画「Uボート 最後の決断」〜”Laconia-Order"

2021-12-23 | 映画

映画「Uボート 最後の決断」In Enemy Hands、続きです。
前回タイトルの”Meningitis”は、「髄膜炎」のドイツ語です。

伝染性の死病である髄膜炎に罹患した副長が、
よりによって潜水艦に乗り込んでいたという設定が、
これまでの戦争映画にはなかった新機軸であるわけですが、
その副長はすでに戦闘のどさくさに亡くなってしまいました。

その後、Uボートの攻撃により「ソードフィッシュ」は海の藻屑に。
というのが前回までの話です。

爆発シーンの後闇が訪れ、それから急に画面が妙に明るくなりました。



画面は明るくなり、チーフが妻と過ごすサンクスギビングの映像が現れます。
おそらくこれは彼の妄想なのだろうと誰もが思うでしょう。

現実はこうでした。


彼らはU-821に捕獲され、捕虜になってしまったのです。
服を脱がされ、その格好で乗員の中を歩かされるという恥辱。

本日のタイトルは、その時の彼らの顔を描きました。
映画解説によると捕虜は8人ということでしたが、なぜか
写真が7枚しかなく、誰か一人書き損なってしまいました。
どちらにしても超脇役なので、まあいいや。


ともあれ、オハイオ級潜水艦でもどうかと思われる人数(8人)の捕虜を
Uボートに収容する、というこのシチュエーションが、
この映画の最も大きなツッコミどころです。


Uボート乗員もむろん全員がそう思っていて、艦長の決断を訝しんでいます。

まだ食料はあるから捕虜は補給船に移送する、と艦長は答えますが、
全く捕虜獲得の理由の説明になってません。
クレマーがダイレクトに「なぜ」と聞いても、返事は
「黙って君は補佐をしていろ」で話にならず。

艦長、大丈夫か?


ところで、Uボートの艦長室にはカール・デーニッツの写真が飾られています。

そのデーニッツはラコニア令(Laconia-Befehl)によって、
連合軍の生存者の救助を禁じる命令を出しています。

ここで映画からは外れますが、このラコニア令発令の原因となった
「ラコニア事件」について説明しておきます。

従来ドイツ海軍の艦艇は連合軍の沈没船の生存者を救出するのが通例でした。
しかし、1942年9月、大西洋西アフリカ沖で、沈没したRMSラコニア号の生存者を
救出したドイツ軍のU-156、U-506、U-507は、
連合軍兵士と多くの女性や子供が乗っていることを事前に伝え、
赤十字の旗を立てていたにもかかわらず、
米軍のBー24リベレーターの爆撃を受けたのです。

Uボートが救助した生存者は1,619名、攻撃で死亡したのは1,113名でした。

安導権を破った米軍のパイロットも指揮官も処罰や調査を受けず、
それどころか、B-24のパイロットたちは、U-156を撃沈したと誤って報告し、
その戦功に対し勲章を授与され、事件はなかったことにされました。

この事件後、デーニッツは「ラコニア令」を発令したのです。

沈没した船の生存者を救うために、救命ボートに乗せることや、
横倒しになった救命ボートを直すこと、食料や水を渡すことなど、
すべての努力を禁止する。

救助は、敵船と乗組員の破壊という戦争の

最も基本的な要求に反するものである。
船長と機関長の連行に関する命令は有効である。
生存者は、彼らの発言が船にとって重要である場合にのみ

救出されるべきである。

厳しくあれ。
我が都市を爆撃するとき、敵は
女性や子供を顧みないことを忘れてはならない。

戦後、ニュルンベルク裁判で、検察側はデーニッツを戦争犯罪に問うため
このラコニア命令を証拠にしようとしました。
しかし、そのために米軍の国際法無視の一般人殺害が明るみに出て、
アメリカは大恥をかくことになったとされています。

さらに、この映画の舞台は1943年の後半ということになっていまあす。
ということは、前年にデーニッツのラコニアオーダーは発令されており、
艦長のこの決定はその命令に背くことになるのです。

・・・アウトですね。





不思議なことはまだまだあって、捕虜は見張りなしで機関室に入れられ、
そこで見張りなしで自由に会話しているのです。

このとき一人の水兵が
「やつらはおれたちをユダヤ人みたいガス室に入れて殺すんだ!」
とパニクるのですが、これも大間違い。
ユダヤ人強制収容所のことが明らかになったのはすべて戦後のことで、
戦時中、ましてや一兵隊がこんなことを知っているはずがありません。



さらに、チーフが無理やり引っ張ってきた艦長の様子がおかしい。
キリッとして、チーフに頓珍漢な命令したかと思ったら倒れこんでしまいます。



これは・・・助けたチーフを恨んでいると見た。
これ以降、生存者は艦長はもうダメと見てチーフを最先任とみなし始めました。


敵を助けるつもりで引き入れたのだとしたら許さない、
という「反対派」最先鋒はクラウズ水兵です。

クレマー副長も全く納得していませんが、こちらもまたこちらで、
副長として兵を宥めなくてはならない中間管理職の辛い立場なのです。


捕虜だけにしてくれたのみならず、彼らにはちゃんとした食器に入った
ちゃんとした食事が出されました。
食事を持ってきたUボート乗員に、喧嘩っ早い機関兵曹が、
「失せろこのクラウト!」
(アメリカ人がドイツ人を罵るときの言葉。ザワークラウトから)
などと挑発しますが、彼らは命令されているので無視。

落ち着いて食べられるようにドアも閉めてくれるという気遣いぶりです。


艦長はチーフだけにそっと腕の内側の発疹を見せました。
なんと艦長も髄膜炎に罹患していたのです。
(それにもかかわらず、隣にくっついてご飯を食べるチーフ)


そこにクレマー副長がやってきて、最先任と話したい、と
完璧な発音の英語で言います。

まず、艦長はどうなった、という質問には、
「死んだ」
「艦とともに沈んだのか」
「そうだ」

実際は助かってそこにいるわけですが、
チーフは助からなかったことにして存在を隠しました。

艦長なら他の乗員より命の保障はされるはずですが、
何よりドイツ側に捕虜になったときに、
兵には分からないレベルの機密を尋問されることになります。

それに、「かつての艦長」はすでにここにはいない、というのは、
ある意味嘘ではないと言えないこともありませんし。

 

捕虜は二つのグループに分けられ、手錠で手を天井に拘束されます。
これも現実には馬鹿馬鹿しい設定としか言いようがありません。

二つに分けられたグループのうち、艦長のいるメンバーが
艦長の髄膜炎に気がつき、怯え出します。
排気パイプかなにかに鎖で縛って立ったまま捕虜が3昼夜過ごすうち、
隣に縛られた水兵の腕に発疹が現れました。

 
Uボート乗員もバタバタと倒れていきます。
艦内のあちこちから咳が聞こえてきます。
髄膜炎の怖いのは、頭痛などの症状が出てからすぐ死んでしまうことです。


しかも、補給を行う予定海域には船が来ていません。


そこにいるのはアメリカの駆逐艦だけ。


この今の状況で・・・・。
攻撃を躊躇う艦長に乗員の目が集中しました。
全員の命が彼の命令にかかっています。



艦長が選択したのは攻撃でした。


艦内の空気から、さすがは同業者、捕虜たちは魚雷攻撃が行われると察します。
「攻撃を何とかして止めなければ!」


この映画の「穴」は至るところにありますが、大人がぶら下がったら
簡単に折れる排水パイプに4人を縛っていること、
そんな彼らの近くで魚雷発射作業をすることなどはその最たるものです。


ほらね、あっという間に自由になった。
あとは看守を倒して鍵を奪うだけです。

しかも、艦内を知り尽くしているかのように、魚雷発射ボタンを勝手に押して、
(ペチコート作戦かよ)魚雷を無駄にしてしまうのです。


魚雷の爆発した飛沫でUSS「ローガン」はUボートに気づきました。
ちなみに「ローガン」は実在しますが、APA196の攻撃型輸送船です。
画面の駆逐艦は486の艦番号をつけていますが、この番号は
潜水艦のもので、USS「アイレット」SS-486のものです。

急速潜航をするUボート、乗員は
「人間バラストになるために全員が艦首に向かって走っていく」
というのを再現します。

これも「Uボート」リスペクトかな?



怒り心頭の副長はついついチーフに銃を突きつけてしまいますが、
チーフは冷静に、
「今撃ったら艦体に穴が開くぞ」
あー・・。水圧がね・・・。


駆逐艦から落とされる爆雷を待つ間、落ち着き払っている艦長。


かたやサリバン艦長は、爆雷のどさくさに起こった混乱で
部下を守って自分が銃弾を受けてしまいました。


「艦長が死んだ・・・」


Uボート乗員も、アメリカ軍が伝染病を持ち込んだことに気づきました。
チーフを呼びつけ、それが髄膜炎であると知ります。

身動きできない海底で、広がっていく恐ろしい伝染病。
米独サブマリナーたちは奇しくも「一つのボート」に乗り合わせ、
同じ運命を享受することになったのです。


アメリカ人捕虜が持ち込んだ伝染病が髄膜炎だと知り、
ヘルト艦長は、捕虜を含め生き残ったものに吸入器を使わせる決定をします。
海面では駆逐艦がいつまでも居座ってしつこく爆雷を落としてきます。
(いくら駆逐艦でもそんな暇じゃないと思うけど)


拘束されていた機関員のロマノが亡くなります。
しかし残念ながらこの俳優、ツヤッツヤの肌をしていて、
とても健康そうで、全然髄膜炎で亡くなるように見えません。

せめてもう少しメイクを頑張って欲しかった。



Uボート乗員も次々死んでいきます。
全滅したバンクの前で艦長は頭を抱えます。
頭抱えてんじゃねーよ。おめーのせいだ。


そこにまたしてもチーフの妄想上の妻が登場。
わたしはこの映画を面白かったとは言いましたが、秀作とは一言も言っていません。
こういう、妻を妄想するシーンなどは何もかも陳腐でうんざりしました。


いよいよ空気が乏しくなってきて、艦長は浮上を決断しました。
「下で死ぬか上で死ぬかだ。上ならまだ希望がある」


次の瞬間、Uボートはまるでワープしたかのように浮上しており、
ハッチの下で乗員が貪るように空気を吸っております。(手抜き)
このシーンも『Das Boot』リスペクトといえないこともありません。


さあ、伝染病にかかったアメリカ軍潜水艦乗員捕虜を乗せた結果、
病気はばらまかれるわ反乱を起こされて攻撃失敗するわ、
それこそだからいわんこっちゃないという状態になったUボート。

デーニッツの「人命救助禁止令」をご紹介してまで、
この艦長の決定は現実には1000%起こりえなかったことを説明しました。

映画としても、なぜそこまでして艦長が捕虜を乗せたのか、
それを観客に納得させる義務があるとすら思いますが、
今のところ、それは全く語られておりません。

なにか事件があったかというと、それは「ソードフィッシュ」攻撃前に
艦長の娘が爆撃によって死んだという知らせを受けたことですが、
そこまでショックなことがあったなら、むしろ逆に、
娘の命を奪った連合国の敵への復讐として海上の敵を掃射しそうなものです。

と、深く考えれば考えるほどこの艦長の決定はおかしい、
という結論にしかたどり着かないのですが・・・・・・。



捕虜に食事を運んできたUボート乗員(軍医)が、手元の写真を見て
「家族か?」と話しかけてきます。


互いに息子の名前まで披露しあって敵味方同士和んだのですが、


そこにクラウズがやってきて、写真を破り捨てました。
彼は艦長命令でトラヴァースを呼びにきたのです。



「君の部下は上の命令に忠実か?」
「そうだ」
「なら、もし私が上に立ったとしたら?」
「・・・・・・・?」

ヘルト艦長はトラヴァースチーフに何を提案しようとしているのでしょうか。

続く。


映画「Uボート 最後の決断」〜”Meningitis"

2021-12-21 | 映画

本年最後の紹介となる映画は、やはり潜水艦ものになってしまいました。

戦争映画というジャンルの中でその評価の良し悪しを問うことなく、
時には「悪食」というレベルの駄作も紹介し世に残すのが
当ブログ映画部の使命と心得てきたわけですが、
こうやって取り上げる以上、作品が面白いにこしたことはありません。


正直ここのところ、ニュース映像の繋ぎだけでできた作品とか、
明らかなプロパガンダ映画とか、意余って力もあまり過ぎたあれとか、
映画会社の社長の愛人を主役に映画を撮ることだけが目的だったあれとか、
ジョン・ウェインものとか、映画の出来以前に面白くない作品が続きました。

ですから、最後まで手を止めず「ながら見」もせず、
画面を凝視しているうちに映画が終わったことに驚き、
そして久しぶりに映画らしい?映画を楽しんだ、という気分になったものです。

その面白かった作品とは、2004年度作品
「Uボート 最後の決断」、原題「In Enemy Hands」

最初にお断りしておきますが、この映画に潜水艦映画として、
つまり軍事的リアリティに対し評価を下すのは大間違い。
それほど戦争や潜水艦に詳しくない人でも常識を働かせれば、
あり得ないことや非現実的な展開が嫌でも目に付くというレベルです。


しかしそれをおいても、この映画が観るものを決して退屈させずに
最後まで引き込んでいくということは、このわたしが保証します。
おまえに保証されてもな、という向きもありましょうが。

そして、あるあるパターンというか、容易に着地点の見当がついてしまう
従来の戦争映画とは全く違い、この映画の展開は予測不可能で、
「画面から目が離せない」というアオリ文句が誇大ではないということを、
是非申し添えておきたいと思います。

というわけで、この映画はいつもより「ネタバレ」が憚られます。

映画を見る前に決して前情報はいらない、という主義ならずとも、
ここまで読んで少しでも興味をお持ちになった方は、
必ず映画を観てから本稿に目を通されるか、
あるいは以降をスルーしていただくことをお勧めしたうえで始めます。





Uボートが進水を行っているモノクロフィルムから映画は始まります。



Uボートの進水は造船台から真横に滑り込む方法です。
ナレーションはこのようなものです。



ドイツはUボートの生産を1,000%増やし、月に17隻を大量生産した。



ヒトラーは、ヨーロッパでの戦争に勝つための鍵は
大西洋を支配することだと考えており、
その狙いは的中した。






1942年までに、ウルフパックと呼ばれた潜水艦群は、
1,000隻以上の連合国の船を沈めた。



彼らの成功はドイツに決定的なアドバンテージを与えることになる。



ドイツは戦争に勝ちつつあった。
そして、そのままいけば、ヨーロッパ全体が敗北したであろう。



しかし、チャーチルとルーズベルトは、会談において
Uボートの殲滅を誓い合い、技術を結晶して反撃にでたため、
それからUボートの「没落」が始まった、と続きます。

最初の2分間で「Uボートの栄枯盛衰」がさっくりと説明されるわけです。




1943年6月3日、大平洋艦隊司令部で、潜水艦長として志願し、
来週出航することが決まったランドール・サリバン少佐
ケンツ提督と会談しています。

提督は軍人だったカーン少佐の父親の知己であったようで、
「父上のことを思ってこれまで君を後方に配置していた」

と特別扱いしていたことを直球で言い出すのですが、そんなことってあり?

提督は、彼の艦の先任伍長がネイサン・トラヴァーズであると聞くと、
「彼は頼りになる男だ」
と太鼓判を押します。



この映画のちょっと変わっているところは、艦長ではなく先任伍長、
アメリカ海軍の「チーフ」が主人公であることです。
そのチーフ、ネイサン・トラヴァーズを演じるのはウィリアム・H・メイシー

バイプレーヤーとして(もしアメリカに同名のドラマがあれば絶対出ている)
誰でも顔は見おぼえがあるという俳優ですが、
いかにも本当にいそうな先任伍長役のこの人が主役ということが
まずこの映画の普通と違うポイントです。



そしてこのおじさんに不釣り合いなくらいの美人妻がいるという設定・・・。
あれ?この人どこかでみたことないですか?



ほら、これですよ。エミリー・レイク大尉
そういえばあれも潜水艦ものだった・・・
「イン・ザ・ネイビー」(ダウン・ペリスコープ)
の紅一点サブマリナーを演じた、ローレン・ホリー



しかも、この映画の夫であるメイシー・ウィリアムズは、
同じ映画で主人公と模擬戦をする原潜の艦長役でした。

これ絶対わざとキャスティングしてるだろ。



2ヶ月後の大西洋。
そこには、ヨナス・ヘルト(Jonas Herdt)艦長が率いる
U-429が、敵との攻防を繰り広げていました。
U-429は実在したUボートですが、この映画との関連性は全くなく、
実際は米軍の空襲で係留中無人のまま45年3月に撃沈されています。



駆逐艦から雨霰と落とされる爆雷をじっとやりすごし、その後反撃に出て
逆に相手を撃沈するという老練な戦いをする艦長の下には、
ファースト・ウォッチ・オフィサー(副長)のルードヴィッヒ・クレマーがいます。
(タイトル画の右側は実はこの人だったりする)



こちらは同じく大西洋。
これも実在した潜水艦USS「スウォードフィッシュ」が登場します。
しかし、史実的にこの映画の大前提はアウトです。
第二次大戦中、大西洋に展開したアメリカの潜水艦はほとんどなかったからです。

実際の「ソードフィッシュ」も太平洋で日本船を沈め、最後は
日本海軍に撃沈されて消息を絶ったといわれています。

近年の映画でアメリカの潜水艦はよく大西洋上のUボートと対決しますが、
もはやこれはSFと言ってもいいくらい「無い話」なのです。

そもそも「潜水艦対潜水艦」というシチュエーションが、場所を問わず
第二次世界大戦には起きなかったということを、
特にハリウッドの潜水艦映画は全く無視していると言えましょう。

潜水艦同士しかも米潜とUボートの対決、これらはいかにも
戦争アクションとして「美味しい」シチュエーションなので、
ハリウッドがやたらこのパターンにこだわるのもわからないではないですが。



「ソードフィッシュ」では出航以来3ヶ月、新米艦長が張り切って
何度も訓練を行うので、嫌気が蔓延していました。


新米の艦長がベテランチーフに対して持ちがちな気遅れを
持っているがゆえに、自信のなさから訓練を無闇に繰り返す。
それに対し乗員は不満を持つ。
さらにそれを敏感に感じ取り、チーフが彼らを抑えられないことに苛立つ。

サリバン艦長はこんな拙いスパイラルに陥りかけていました。

苛立ちと焦りから、艦長はチーフのトラヴァースを呼びつけて、
訓練のタイムが上がらないと叱責しますが、
チーフからは、もう少し皆にゆとりを持たせてはどうか、
と逆に具申されてしまいます。

ここでまた艦長はチーフの面従腹背を敏感に感じ取るのでした。


こちらはU-429。
こちらは実際にドイツで建造された本物のUボートを使用しています。
ただし、建造してすぐイタリア海軍に譲渡され、
イタリア降伏後はドイツに戻って訓練艦となっていました。
もちろんイタリア海軍のもとで戦闘を行なったことは一度もありません。

それが喪失を免れた理由となったようです。


Uボートの艦長室では、艦長と副長がチェスをしながら会話をしています。
この会話が、2度目に見ると伏線のオンパレードでした。
お節介ですが箇条書きにしておきます。

1、お前(副長)は本来ならとっくに艦長になっているはずだと艦長が説教
2、こちらの魚雷は半分が不発である
3、戦局が好転すれば「生きて祖国に帰れる」


4、エニグマ暗号機による通信



そのエニグマで送られてきた通信には、
「艦長の娘の学校が爆撃され、生存者はいなかった」
というニュースが書かれていました。

敵側にあえて「同情ポイント」をあたえる、という手法は
最近の戦争ものでは珍しいことではありませんが、
この映画では互いの個人的事情については敵味方問わず公平に描かれます。

というのは、この映画の立ち位置が「戦争は善対悪の戦いではない」という、
多くの戦争映画が意識的にしろ無意識にしろ、見てみないふりをしている
この一点の上にあるからだとわたしは思います。


ちなみにこのシーンで、通信士が艦長に「ヘア・ヘルト、ヘア・クレマー」
と呼びかけますが、ドイツ海軍では「Herr」の後には階級がくるので、
正しくは「ヘア・カピタン」とか「ヘア・カーロイ」となるはずです。



こちら「ソードフィッシュ」では、27回目の演習に乗員たちが不平たらたら。


中間管理職の任務として、チーフはそんな彼らをたしなめます。
たとえ艦長のやり方に個人的に疑問があったとしても、艦長と乗員の間を取り持ち、
艦を円滑に運営するのが彼の仕事だからです。


とのとき、彼我双方の潜水艦の乗員の運命を変える出来事は
「ソードフィッシュ」のトイレで起こりつつありました。
「ソードフィッシュ」副長が昏倒していたのです。

軍医は念のため彼の隔離を命令しました。

「髄膜炎の疑いがある」

髄膜炎がどんな恐ろしい病気かは、調べていただけるとお分かりでしょう。
「狭い密室」「濃厚接触」「劣悪な生活環境」「ただちに専門的なケアができない」
このような条件下そのものである潜水艦内に感染者がいたら?
考えただけでぞっとするシチュエーションですね。

しかし、艦長は危険海域に入ったという理由で、
副長を「生きている限り」現場に立たせるように命令しました。
副長の病気を知っているはずなのに・・。

((((;゚Д゚)))))))


その2日後、同じ海域に別のUボート、U-821がいました。
通信士がグレン・ミラーのジャズの放送をキャッチすると、
艦長は何を思ったか、それを艦内に流すよう命令します。

実際のU-821は、1945年3月、イギリス空軍機4機とと海面で交戦し、
モスキート1機撃墜と引き換えにロケット弾と爆雷を受けて轟沈しています。


その音楽を聞きつけたのは「ソードフィッシュ」のソナーマンでした。
艦長はすぐさま攻撃を命じます。

危険海域でジャズを鳴らす艦長も大概ですが、ジャズが聞こえただけで
相手がUボートだと判断したというこの設定もすごいですね。


しかもここでこの映画は、それ以前の大きなミスを二つしています。

まず、「ソードフィッシュ」の撃った魚雷は、Uボートの近くで爆発しますが、
近接起爆装置を備えた魚雷でないとこのようなことにはなりません。

確かにアメリカ、イギリス、ドイツは、いずれも大戦初期ごろ
磁気近接起爆装置の研究を行っていましたが、問題が非常に大きいため、
すぐに使用をやめ、戦争の残りの期間、接触起爆装置を採用していたのです。

それから、本作で当たり前のように行われている潜水艦同士の撃ち合いですが、
当時の魚雷は誘導式ではなく、一旦発射すれば直進するのみ。
しかも探知は多くを聴覚に頼っていました。
目視できない潜水艦に魚雷が命中する可能性はほぼゼロだったといえます。

従って、第二次世界大戦当時、潜水艦による潜水艦への魚雷攻撃は不可能でした。

しかるに、潜水艦同士でドンパチやりあうこの映画を
「全く価値のないゴミ戦争映画」と一刀両断する評価が後を断たないのです。

だが待ってほしい。

あなたはスーパーマンや猿の惑星に科学的根拠を求めますか?
この映画も「戦争SF」というジャンルだと思って観ればいいのです。

「もし大西洋でアメリカの潜水艦とUボートが対決したら?」

というお題の「仮想空想科学映画」だと思えばいいのです。

というわけで、この映画では、あたかも西部のガンマンの撃ち合いのように、
2隻の潜水艦からほぼ同時に相手に向かって魚雷が放たれ、中央ですれ違います。


そんな息詰まる潜水艦対潜水艦の対決の場から4千m離れたところに
状況を見守っているU-429がいました。

「ソードフィッシュ」の魚雷はU-821に命中し、爆破させ、
その知らせを聞いた乗員は一瞬沸き立ちます。

中にはとたんにタバコを咥えて火をつける水兵がいますが、これもアウトで、
当時のディーゼルボートの内部は油分を含む蒸気と
バッテリーからくる水素が充満していたため、火気厳禁とされていました。
喫煙は浮上して甲板ですることになっていたはずです。

「撃沈なんか簡単さ!」

つい艦長が調子こいてこんなことを言った途端、
倒れたままの副長の様子を見たチーフが一言。



「死んでます」

えええええ!
それは打ちどころが悪かったとかではなくて?



次の瞬間、「ソードフィッシュ」を狙いすましたU-821の魚雷が襲いました。

炎上する機関室、即死する機関員。
エンジンが停止し、たちまち前部魚雷発射室から浸水が始まりました。



サリバン艦長は艦を浮上させ、チーフに促されて
わかってるよ!と言いながら「総員退艦」を命じました。

今やろうと思っていたことを人に言われるのって嫌なもんですよね。


ところが艦長、全員が退出した後、ふらふらと艦内に戻っていくではありませんか。

「部下が先だ」

残りはもう全員亡くなっているというのに?
しかも、チーフに向かって、自分は艦と運命を共にする、などと言い出します。

この言動には、艦長だけが心に止めているある重大な秘密が関わっています。


そんな艦長を無理やりチーフが艦から引きずりだした後、
(潜水艦から人事不正の人を引き摺り出すのは物理的に至難の技だと思いますが)
文字通り「棺」となった「ソードフィッシュ」は爆発大炎上しました。


続く!



京都紅葉のライトアップ(おまけ 国際空港のコロナ水際対策の現状)

2021-12-20 | 歴史

昨日MKがアメリカから帰国してきました。

成田に迎えに行ったのですが、結論としては連れて帰ることができませんでした。
今、海外からの入国状況がえらいことになっています。

迎えに行く前日、厚労省のHPに
「到着から検査が終わって外に出てくるまでの所要時間は1〜3時間」
と書かれていたので、自分の経験から、到着時間2時間後に
空港に着くように家を出たわけですが、駐車場に到着してから
MKからきたテキストを見てびっくり。

「着いた でも3日間ホテルで待機」

えええ〜!

オミクロン株の感染者が急激に増えたことを受け、水際対策が強化されて、
対象地域から入国した人は有無を言わさず3日ホテルで隔離され、
その後PCR検査で陰性なら空港に戻されるということになったのです。


いきなりの変更だったため、航空会社からの連絡などが全くなく、
わざわざ成田までいったのに連れて帰ることはもちろんできず、
(拒否したら『検疫法に基づく停留の措置を取る』とのこと)
ゲートから出てきてバスに乗せられるMKを見て帰ってきました。

帰ってSkypeで聞いたところによると、彼が連れていかれたのは水戸でした。

「水戸?なんで水戸」

空港から水戸まではバスで1時間半。
検疫所が棟ごと確保できるホテルが、成田&羽田周辺では足りなくなり、
急遽遠隔地のホテルを待機用にしているらしいのです。

ホテルに着いたMKによると、ベッドはメイクされておらず、
シーツも3日分積み重ねてあり、(ハウスキーピングが入れないから)
食事は時間になればドアのノブにかけてあるという拘置所並みの待遇だとか。

「こんな目に遭うとわかってたら絶対帰ってきてない」

まあそうだよね。


後から分かったところによると、水戸くらいならまだマシで、
便によっては、入国後そのまま飛行機に乗せられて福岡や名古屋に飛ばされ、
現地のビジホで3日待機して、また国内便で戻ってきているのだとか。

どんなイカゲームだよ。イカゲーム知らんけど。




さて、気を取り直して、今日はこの秋唯一の行楽となった
京都の紅葉見物旅行のご報告です。

旅行といってもTOは定期的に京都に仕事で行っており、秋からは
それまでリモートで行っていた各種作業が自粛明けにより
対面に変わったので、それに着いていったという程度ですが。

宿泊は前回もお世話になった祇園白河の料理旅館です。


今回は三年前に町屋を改築した別館の方に泊まりました。
暗証番号で鍵が開く方式で、一階と二階に一室ずつがあります。


寝室と座敷別、トイレと風呂は二箇所あって外国人もOK。
この日はもともとスイスからの家族連れが一棟全部予約していたのを
キャンセルして空きが出たので泊まることができました。


次の朝、表通りから人の声が聞こえてきました。



この近くには結婚式プランナーの事務所も多く、吉日の朝になると
この通りで町屋をバックに写真を撮る新郎新婦が何組も現れます。

「過激な愛情表現はご遠慮ください」
「大声での撮影指示などはご遠慮ください」

そんなポスターが街角に貼られるくらい、ここは結婚写真撮影の名所で、
人通りの少ない朝の時間帯にフォトセッションがいくつも行われるのですが、
ポーズをつける人が笑ったりする声が、案外家の中に響いてきます。

まあ、中国人観光客が京都中にあふれていた頃は、
聞こえてくる声の大きさはこんなものではなかったわけで、
今回の京都は人出の多さの割に街は静かな印象でした。

また、着物を着付けて街中を歩く女性は何人も目にしましたが、
皆日本人のせいか、とんでもない着付け(服の上に着物を着て靴はブーツとか)の
思わず目を背けたくなる集団がいなくなったのにはほっとしました。


関西ではCMにも出ているらしい女将は、元CAで英語も堪能。
泊まるたびに毛筆の心のこもった手紙を下さるのですが、
この日、チェックアウトの日に置かれていたのは
鳥獣戯画にさりげなく筆を加えた傑作でした。


マスク未着用のうさぎ、密そのもののお相撲を撮るウサギとカエル。


こちらのウサギさんはマスク着用です。


この後、非常事態宣言は解除されました。


ここでちょっと不思議な話を。

前回姉と妹が一緒にこの旅館にきてこの部屋に泊まったのですが、
妹がスマホで撮ったこの庭の写真には、半分透けた男性が写っていました。

「板前さんだ」「板前さんにしか見えないね」

男性は角刈りで、10人に見せたら10人が板前だというような容姿をしていました。
昔から同じこの場所で歴史を重ねてきた料理旅館ですから、
板前さんの想念が留まって居ても不思議ではないという気がします。

そのことを思い出しながら、今回何枚か撮りましたが、
わたしの写真にはその気配もありませんでした。


ここで鱧鍋をいただきました。
松茸が香りを添えます。


柿をくりぬいた中にぬたっぽいものが入った前菜。


別の日にはキノコたっぷりの「猪鍋」をいただきました。
薄切りにした猪肉は京都の名物で、あっさりした味わいです。


京都に来るとつい行きたくなるのが、鶏料理の八起庵。
TOは京都に行くたびに必ずといっていいほどここでお昼を食べ、
それから仕事に行っているので大将とも顔馴染みです。


この日は前もって予約して鴨鍋をいただきました。
先日東京の蕎麦屋で食べた鴨つけ蒸籠の鴨は固くてパサパサで、
まるでレバーのような味がしましたが、ここのはそんなのとは違い、
噛み締めるとじわっと旨味が感じられます。
「カモがネギ背負って」といわれるくらい、ネギとの相性は絶妙。
京都に行くことがあれば一度はお試しいただきたい、滋味なる一品です


タクシーに案内してもらって比叡山延暦寺に行きました。
延暦寺の根本中堂は現在大改装工事中です。

屋根を解体して葺き替えするのですが、作業のために
中堂全部を建物で覆ってそこで作業をしているのです。


逆に滅多に見られない葺き替え過程を見るチャンスです。
梁などには、前の改築のときの大工が残した署名が出てきたりするそうです。
100年に200年後の人々に見せるために自分の名前を書くのは
宮大工に与えられた密かな喜びだったに違いありません。


新し物好き&コーヒー好きの京都ですので、
やっぱりブルーボトルコーヒーが進出しているのでした。


さすが京都、古民家の壁をそのまま残して。
昔は料理屋だったのかもしれません。



わたしはノンデイリー(牛乳断ち)派なので、代わりに
オーツを使ったラテを楽しみますが、オーツと一言で言ってもいろいろあって、
一番美味しいと思うのがイギリス製のマイナーフィギュアズのオーツドリンク。

アメリカでは3ドルで買えるのに、日本ではお高いのが困りものですが、
ブルーボトルコーヒーでは、このオーツで作ったラテが飲めます。



いよいよ紅葉の季節到来です。
まずは旅館から歩いていける南禅寺に行ってみました。



なぜここから撮るのにこれだけ人が集中するのか。



ゆるキャラ風仏様。


南禅寺から哲学の道まで歩くことにしました。



哲学の道沿いでは、左耳を避妊済みとしてカットされたメスの「地域猫」が、
毎日餌をやりに来る近所の「猫おじさん」の出待ちをしていました。


紅葉の名所のひとつである永観堂では、この季節
夜間のライトアップを公開していました。
基本的に京都というところは夜になると神社仏閣は明かりを消して
その周辺すら真っ暗になるというイメージですが、
LEDの登場以来いろいろと変わってきたということです。

自粛が明けたばかりで、昼間の永観堂の参拝(っていうのかな)者も
大変な人出だったそうですが、夜の部のために一旦全員を追い出し、
改めて入場料を取って人を入れるということをしていました。


チケットの購買だけでなく、検温も行うので、
中に入るのにとてつもなく時間がかかりそうです。


わたしたちはこの1ヶ月前に一度京都に来ており、
誰も居ない状態の永観堂を拝観していたので、諦めて帰りました。


この日の夕ご飯は、四条の有名なニシンそばを食べに行きました。
お店の地下は地元のライオンズかロータリーの会合が行われており、
その談笑が1階に居ても聞こえてくるというくらい盛会の模様。

女将によると、自粛が明けてから集まってくる方々は
皆嬉しさのせいか、はしゃいで飲みすぎる傾向にあり、
女将の旅館でも酔っ払って旅館を出た途端転んで怪我をしたり、
ハメを外しすぎてハラハラさせられたりするのだとか。

またこれも女将によると、自粛中は、舞妓・芸妓の同伴も
時間制限が設けられており、8時以降お店にいると「自粛警察」の指導を受けます。

自粛警察は祇園の「中の人」が自主的に行うもので、これは、
舞妓ちゃんや芸妓ちゃんがいる席が感染源にでもなったら「えらいこと」で、
花街が「あかんようになってしまう」という危機感から行われていたとのことです。

そのときは自粛が明けた直後で、女将もこのような話を
思い出のように語っておられましたが、はてさて、
今回のオミクロン株、果たして事態はこのまま何事もなく収まるものでしょうか。

今回MKの入国でわかったのは、政府が必死で水際対策を行っていることですが、
人の流れを完全に止めるわけにはいかない現状ではどうなっていくことやら。




アドバーザリー部隊のアグレッサーF/A-18A ホーネット〜フライング・レザーネック博物館

2021-12-18 | 航空機

フライング・レザーネック航空博物館は、現在アクティブではありませんが、
スタッフは常にすでにここにある航空機を次世代に残すべく、
様々な広報活動や資金集めなどを積極的に行っているようです。

わたしがたまたまHPを見に行った日に、その前日の投稿として、
ポッドキャストによる航空機の説明を行った、という記事があり、
運営する予算が引っ張ってこれずに閉館していく航空博物館の例を
いくつか見てきた経験から、なぜかほっと胸を撫で下ろしました。



展示ヤードを歩いていて初めて気がついた
当博物館の大きな看板。
描かれているのはA-4MスカイホークIIに違いありません。
(尾翼にそう書いてあるのでさすがのわたしも間違えようがないという)

さて、今日取り上げるのは冒頭の赤い星のついた機体です。
赤い星・・・ってことはあちらのもの?と思ってしまいがちですが、
機体を見て機種を見分けられる方は、この飛行機が外でもない
アメリカ産の戦闘機であることがおわかりでしょう。

そう、これは「アグレッサー」機なのです。

■ マクドネル・ダグラス
F/A-18A Hornet – VMFAT-101:

マクドネル・ダグラス社のF/A-18ホーネットは、
双発、超音速、全天候型、空母対応のマルチロールコンバットジェットで、
戦闘機と攻撃機の両方として設計されています。

名称のF/Aは、ファイターとアタックのFとAという意味です。

マクドネル・ダグラス(現ボーイング)とノースロップ
(現ノースロップ・グラマン)によって設計され、
アメリカ海軍および海兵隊で使用されています。

何カ国かの外国の空軍でも使用されており、かつては
アメリカ海軍のブルーエンジェルスでも使用されていました。


F/A-18は、汎用性が高く、戦闘機の護衛、艦隊防空、
敵防空の制圧、航空阻止、近接航空支援、空中偵察を行うことができます。


【F/A-18ホーネットの誕生まで】

アメリカ海軍は、A-4スカイホーク、A-7コルセアII、
F-4ファントムII
の後継機として、プログラムを開始しました。


空軍でテスト中のYF16とYF-17

1973年、米国議会は、海軍にF-14に代わる低コストの航空機の開発を要求し、
その後行われたコンペでGMのYF-16ファルコンが優勝したのですが、
海軍は空母運用における適性を理由に採用を拒否しました。

そして、コンペで選ばれなかったノースロップのYF-17コブラを採用し、
マクドネル・ダグラスとノースロップに
これを叩き台にした新しい航空機の開発を依頼したのでした。

海軍長官はF-18の名称を「ホーネット」とすることを発表します。

F-18の製作にあたっては、両社は部品製造を均等に分担し、
最終的な組み立てはマクドネル・ダグラス社が行うことで合意しました。
具体的にはマクドネル・ダグラス社は主翼、スタビライザー、前部胴体を、
ノースロップ社は中央部と後部胴体、垂直安定板を担当します。

また、海軍用はマクドネル・ダグラス、陸軍用はノースロップと分担されました。



F-18はYF-17から大幅に改良されました。

空母運用のために、機体、足回り、テールフックが強化され、
折り畳み式の主翼とカタパルトアタッチメントが追加され、
ランディングギアが広げらると言った具合に。

また、海軍での運用に必要な航続距離を確保するために、
マクドネル社は背骨を大きくし、両翼に燃料タンクを追加。

主翼とスタビレーターは大型化され、後部胴体は10センチほど拡大され、
また、制御システムは、量産戦闘機では初となる
完全デジタルのフライ・バイ・ワイヤ・システムに変更されました。


1978年10月、初の試作機F-18A


ここまで一緒にやってきたマクドネル・ダグラスとノースロップですが、
そのパートナーシップは、ここにいたっていきなり悪化することになります。

まずノースロップが、F-18L用に開発した技術を、マクドネルが
契約に反してF/A-18の海外販売に使用しているとして訴訟を起こし、
マクドネルも、ノ社がF-20タイガーシャークにF/A-18の技術を使用した、

と反訴して、一時は泥沼状態になりかかったのです。

最終的に、マクドネル・ダグラスを主契約者とし、
ノースロップを主下請けとすることで合意が結ばれ、
F/A-18Aの最初の生産機は1980年4月12日に飛行することができました。

【改良と設計変更】

F/A-18E/Fスーパーホーネットの開発計画は、1990年代になって、老朽化した
A-6イントルーダーA-7コルセアIIの後継機の必要から生まれました。

スーパーホーネットはF/A-18ホーネットの単なるアップグレードではなく、
ホーネットの設計思想を用いた新しい大型機体となりました。

ホーネットとスーパーホーネットは、
F-35CライトニングIIに完全に置き換わるまでの間、
アメリカ海軍の空母艦隊で補完的な役割を果たす予定です。


F/A-18Cホーネット
高い迎え角のため、前縁の延長線上に渦が発生している

【運用履歴】

マクドネル・ダグラス社が1978年に発表したF/A-18Aの初号機は、
カラーは青と白で、左に「Navy」、右に「Marines」と記されていました。

その理由は、海軍がF/A-18運用にあたり、伝統にとらわれない
「プリンシパルサイト・コンセプト」(Principalsite consept)
を提唱したからで、その結果、開発初期には民間人ではなく
海軍と海兵隊のテストパイロットを起用
することになりました。

このことが異例ということすら知らなかったわたしですが、要は
海軍パイロットに「最初の操縦」をさせるのが目的だったのでしょうか。


1985年、新しい機体の初の配備はUSS「コンステレーション」となりました。
当初の報告では、ホーネットの信頼性は非常に高く、
前任のF-4Jから大きく変化したと激賞されました。

【ブルーエンジェルス】



アメリカ海軍のブルーエンジェルス飛行デモンストレーション飛行隊は、
1986年にA-4スカイホークからF/A-18ホーネットに切り替えました。

その後、2020年後半にF/A-18E/Fスーパーホーネットに移行するまで、
F/A-18モデルでパフォーマンスを行っていました。

わたしはアメリカ在住中、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ公園で
ブルーエンジェルスのパフォーマンスを見たことがあるのですが、
今にして思えば、そのときの機体はホーネットであったことになります。


【実戦】

F/A-18が初めて戦闘に参加したのは1986年4月のことです。

USS「コーラルシー」艦載のホーネット部隊が
「プレーリーファイア作戦」(Operation Prairie Fire)でリビアの防空を、
「エルドラドキャニオン作戦」(Operation El Dorado Canyon)
でベンガジを攻撃したときになります。

湾岸戦争では、海軍は106機、海兵隊は84機のF/A-18ホーネットを配備し、
 F/A-18のパイロットはMiG-21の2機撃墜を主張しました。


「砂漠の砂嵐作戦」におけるフォックス大佐
一回のドッグファイトで2機をほぼ同時に撃墜したとの本人談


この戦争では、両エンジンに被弾した一機のホーネットが、
約200km飛行して基地に帰還するという出来事があり
生存能力の高さが証明されました。

しかも、その機体は数日後には修理され、再び任務に戻っています。

F/A-18は4,551回出撃し、3機の損失を含む10機が損害を受けていますが、
はっきりと敵の攻撃で失われたのは1機だけでした。

その1機はイラク空軍の航空機のミサイルによって撃墜されたらしく、
おそらく相手はMiG-25であったとされています。

また、2発の敵ミサイルを回避しようとした際に、
パトリオットミサイルによるフレンドリーファイアで誤って撃墜され、
墜落したところ友軍機と衝突し、2機とも失われたという例もあります。


【今後の運用】

海兵隊では2030年代までF/A-18を運用する予定ですが、
米海軍では、USS「カールビンソン」に搭載されたのを最後の運用として、
2018年3月12日にすでに終了しています。
その後、2019年2月、海軍の現役から退役しました。


■アグレッサー飛行隊

さて、それではここFLAMに展示されたホーネット、
アグレッサー塗装のF/A-18Aについてお話します。

その前に今更ですが、アグレッサー部隊についてお話ししておきます。


アグレッサー機-迷彩のスキームはソ連のマーキングを模している

アグレッサー中隊、またはアドバーザリー中隊は、
アメリカ海軍と海兵隊に存在する部隊で、軍事ウォーゲーム、模擬戦で
敵対勢力として行動するよう訓練された中隊を指します。

正規の部隊の中で「適役」のふりをするのではなく、塗装も完璧に、
尾翼には赤い星までつけてマジで敵になりきった部隊を作るわけです。

アグレッサー飛行隊は、情報によって得た敵の戦術、技術、手順を使用して、
リアルな空戦のシミュレーションを行いますが、
さすがに実際の敵機や装備を使用することは現実的ではないため、
潜在的な敵を模したサロゲート機で気分を出すわけです。

アグレッサー部隊というと、「トップガン」を思い出す方もいるでしょう。

1968年に海軍戦闘機兵器学校、通称「TOPGUN」が、
A-4スカイホークを使ってMiG-17の性能をシミュレートしたのが、
異種機を正式に訓練に使用した最初の例です。

この異種空戦訓練(DACT)が一定の成功を見たので、
空軍も負けじとT-38タロンを装備した初のアグレッサー飛行隊を設立しました。


【ドイツのアグレッサー部隊”ロザリウスのサーカス”】

いきなり話が遡りますが、第二次世界大戦時代は、
鹵獲した敵航空機を使ってこの手の模擬空戦が行われました。

たとえばドイツ軍には、捕獲したP-51やP-47などで構成された
「Zirkus Rosarius 」(ロザリウスのサーカス)と呼ばれる部隊がありました。


なんたる違和感

サンダーボルトもこの有様

これは発案者のテオドア・ロザリウスという人の名を取っており、
鹵獲した米軍機にはルフトバッフェの塗装を施されていました。
この部隊はこの飛行機を各戦闘機基地に持ち回り、
上級パイロットに敵機を操縦させたり、模擬空戦を行ったりしていました。

ロザリウスのサーカス所属機一覧

イギリス王立空軍RAFでも、ドイツ空軍の戦闘機(Bf-109、FW-190)を
アメリカ空軍やRAFの基地に連れて行き、慣熟訓練を行った例があります。

【アメリカのアグレッサー飛行隊】

アメリカのアグレッサー飛行隊は、仮想敵国機を表現するために、
小型で低翼の戦闘機を飛行させることになっています。

アグレッサー機になったのは、ダグラスのA-4(米海軍)、
ノースロップF-5(米海軍、海兵隊、空軍)

すぐに入手できるT-38タロンなどでしたが、
新型のF-5E/FタイガーII機が導入されるとこれに替わりました。

海軍と海兵隊は、最終的に、初期モデルのF/A-18A(米海軍)と、
特別に作られたF-16N(米海軍用)およびF-16Aモデル(空軍用)
アドバーザリー部隊を形成しました。

アメリカ空軍は現在F-16Cが唯一のアグレッサー専用機です。

【外国機アグレッサー】

第二次世界大戦時のように「鹵獲機」ではありませんが、
外国機がアメリカでアグレッサーとして使用されたことがあります。

イスラエルのKfir戦闘機、ソ連のMiG-17、21、23の実物です。

また陸軍は、Mi-24 Hinds、Mi-8 Hips、Mi-2 Hoplites、An-2 Coltsなど、
11機のソ連・ロシア製航空機を訓練のために運用しています。
ちなみにMiは全部ヘリコプターとなります。


【アグレッサーの性能】

アグレッサーとして使用される航空機は通常、旧式のジェット戦闘機ですが、
1980年代半ば、アメリカ海軍はトップガンのA-4やF-5では、
MiG-29やSu-27のシミュレーションには力不足だと考え、
アグレッサー機コンペを開催しました。

このコンペでノースロップのタイガーシャークに勝ったのが
ゼネラル・ダイナミクス社のF-16Cファルコンでした。

海軍仕様のF-16Nは1987年から海軍戦闘機兵器学校で使用されましたが、
空中戦での連続的な高G負荷のため、わずか数年で主翼に亀裂が発見され、
1994年にはF-16Nは完全に退役しています。


米国のアグレッサー機は、一般的にカラフルな迷彩スキームで塗装されており、
米国のほとんどの運用戦闘機で使用されているグレーとは対照的です。
青(スホーイ戦闘機に使用されているものと同じ)、または
緑と大部分が明るい茶色(中東諸国の戦闘機と同様)で構成されています。


アメリカのアグレッサー部隊はカラフルな集団です。

半世紀近くの歴史を持つこれらの部隊の航空機は、
空戦で直面する可能性のあるものも含めて、様々な迷彩をまとってきました。
海軍のアグレッサー部隊のひとつ、バージニア州のVFC-12「オマーズ」は、
近年、敵の最新の塗装を模倣することで先導的な役割を果たしています。


オマーズの「スプリンター」ホーネットの一つ
VFC-12のジェット機の多くは青と白のフランカー・スキームを採用していた

アグレッサー部隊はスーパーホーネットに移行中という話もありますが、
オマーズはいまだにレガシー機であるF/A-18 A-Cホーネットを使っており、
海軍予備軍のVFC-12飛行隊、VFA-204の「River Rattlers」、
米海軍テストパイロット学校(TPS)、海軍戦闘機兵器学校(トップガン)も
いまだにレガシー派です。

【航空自衛隊のアグレッサー部隊】

空自の戦術戦闘機訓練グループ、正確には飛行教導群は1981年に設立されました。

1981年に設立してすぐは攻撃機として三菱T-2を使用していましたが、
空中分解するなどの重大事故が発生したことから、
1990年からは三菱F-15J/DJ機に置き換えられました。
石川県の小松基地を拠点としています。

空自のアグレッサー部隊も、各基地を周り、2週間滞在して
そこで基地パイロットに「教導」を行うわけです。

F-15の精鋭部隊アグレッサー

独特の派手な塗装は識別塗装といい、一つとして同じものはありません。
しかし当たり前ですが、どんな塗装にも、翼には日の丸が描かれています。

「適役」なので、アグレッサー部隊のパイロットのフライトスーツにも
憎まれ役に相応しく、コブラやドクロ(額に赤い星)が描かれています。

ちなみに、連合国の「仮想的」になりがちなソ連空軍ですが、
当事者である彼らはアグレッサー機をどうしているのかというと、
F-15イーグルのように塗装されたMiG-29などを使っていたようです。


【民間のアグレッサー部隊】

アグレッサーミッションの中には、ドッグファイトなどではなく、
レーダーやミサイル、航空機の目標捕捉・追跡能力をテストするものがあります。

このような任務の一部は、元軍用ジェット機や小型ビジネスジェット機を
アグレッサーの役割で運用する民間企業に委託されており、
使用される機体は、

L39、アルファジェット、ホーカーハンター、サーブドラケン、
BD-5J、IAIクフィール、A-4スカイホーク、MiG-21、リアジェット

などとなります。

会社に所属するパイロットのほぼ全員が、退役軍人か、
予備役や空軍州兵などを兼務している軍人で、戦闘機の操縦経験があります。


【FLAMのF/A-18A ホーネット - VMFAT-101】

海兵隊戦闘機攻撃訓練飛行隊(VMFAT)101のペイントスキームを採用しています。

この部隊は現在、MCASミラマーを拠点としており、その任務は
F/A-18ホーネットの交換用エアクルー(RAC)を訓練することです。

44週間の訓練プログラムで、新人パイロットに様々な戦闘シナリオでの
F/A-18の使い方を教えますが、それは4つのフェーズに分かれています。

フェーズ1 "過渡期Transitionトランジション "
NATOPS(Naval Air Training and Operating Procedures Standardization)

航空機の戦闘システム、ナビゲーション、
夜間飛行、編隊飛行、基本的なレーダーインターセプトなど、
航空機の基本的な手順に焦点を当てています。

フェーズ2 "攻撃 Strike "

基本的な急降下爆撃、低高度戦術、高高度目標攻撃、
統合直接攻撃弾(JDAM)の使用、近接航空支援、暗視ゴーグル飛行など。
つまり、このフェーズでは、地上攻撃ミッションの方法を学びます。

フェーズ3 "空対空 Air to Air "

F/A-18での基本的な戦闘機操縦(BFM)でのドッグファイトの方法を学びます。

フェーズ4 "空母適性 Carrier Qualification "

空母着艦の練習をする、パイロットにとって最も厳しい期間です。
この段階での最終テストを終えたパイロットは、艦隊の飛行隊に配属されます。




このF/A-18Aは、1987年、MCASエルトロの
海兵隊打撃戦闘機群314飛行隊(VMFA-314)に初めて納入されました。
続いて海軍の打撃戦闘機群125(VFA-125)の「ラフレイダー」、
再び海兵隊に戻り、VMFA-531の「グレイ・ゴースト」に所属。

2005年に退役してこの博物館にやってきました。

続く。


垂直離着陸機とAV-8ハリアー〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-12-16 | 航空機

サンディエゴのフライング・レザーネック航空博物館に、
アメリカ軍塗装をしたこの機体を見つけ、ちょっとわたしは驚きました。

ホーカー-シドレー ハリアー AV-8 Harrier

今日はこのハリアーを中心に、VTOL機についてもお話しします。

■ 垂直離着陸機

何十年もの間、技術者たちはヘリコプターと飛行機の長所を組み合わせて、
ホバリングできる飛行機を作ろうとしてきました。
その結果、さまざまなタイプの垂直離着陸機が生まれ、
その中には成功したものもありました。


【飛行機がホバリングする仕組み】

飛行機とヘリコプターはどちらも素晴らしい性能を持っていますが、
どちらかにしかない能力があります。

ヘリコプターは垂直離着陸(VTOL)と空中でのホバリングができます。
つまり、空港から離れたほとんどの場所で活動できるのです。
飛行機は滑走路を必要とするため、それはできませんが、
ヘリコプターよりも荷物の積載力が高く、速度も比べ物になりません。

この2つのカテゴリーの能力を組み合わせた航空機。
遡れば少なくとも1950年代から、航空宇宙技術者たちは
この乗り物を生み出すためチャレンジしてきていますが、
今日まで、それを実現したものはほんの一握りしかありません。

まずは、飛行機が地面から垂直に離陸し、
空中でホバリングするために何が必要かを見てみましょう。
これまでに4機の飛行機がそれに成功していますが、
それぞれが異なる技術的問題に取り組んでいます。


【飛行機がホバリングする仕組み】

ホバリングを実現する技術は、実はとても複雑です。
飛行の定義では、固定された翼の上に空気が流れることで揚力が得られますが、
ホバリング中の飛行機には前進速度がないため、翼は揚力を得ることができません。

では、どうすれば飛行機をホバリングさせることができるのでしょうか?
設計者やメーカーは、何十年も前からさまざまな技術を試してきました。

その点、ヘリコプターは明らかにそれを解決していました。
ヘリコプターは、固定翼ではなく、回転するローターから揚力を得ることで
垂直離着陸(VTOL)と空中ホバリングを可能にしています。

しかし、ヘリコプターは先ほども書いたように、
多くの荷物を積むことはできませんし、速く飛ぶこともできません。
実際のところ、最新のヘリコプターの最高速度は200ノット程度が限界で、
戦闘機や迎撃機としては決して十分な速度とはいえません。


航空宇宙設計者たちの課題は、最新の戦闘機に匹敵する性能と速度を持ちながら、
垂直方向に離着陸できる実用性を備えた航空機をいかにして作るかでした。



【VTOL vs STOL vs CTOL】

これらの略語は航空機の着陸方法をいいます。
「TOL」というのは「 take-off and landing」離着陸ですから、
頭についている頭文字でその違いを表しています。

C(conventional)TOL - 従来の離着陸方法で、一般的な飛行機として機能する
S(Short)TOL - 短距離離着陸 一般的な飛行機よりもはるかに少ない滑走路で離着陸できる
V(Vertical)TOL - 垂直離着陸


【垂直上昇(バーチカル・リフト)を実現する方法】

飛行機(少なくとも飛行機のようなもの)をホバリングさせるために、
いくつかの方法が試みられてきました。

基本的な考え方は、エンジンの力を使って地面から垂直に離陸し、
安全な高度に達したら、エンジンで前方に推力を、翼で揚力を得る
方法です。
これにより、巡航飛行では飛行機の速度で飛行しながら、
垂直離着陸が可能になることでしょう。


ライアン・エアクラフト社
「テールシッター」(tail-sitter)と呼ばれる実験を行いました。
飛行機が垂直に座ったような位置から(テイルシット)離陸するもので、
パイロットは出発前、ロケットのように空に向いて座っていました。

ライアン社もテールシッターも今はもうありません。


エドワーズ空軍基地で飛行中(離陸直後?)のライアンX13

垂直方向の揚力を得るためのより良い方法は、
エンジンの排気と推力を制御可能な方法で排出することでした。
エンジンがフルパワーで作動し、機体の全重量を上回る推力を発生させれば、
それだけで離陸できるはずです。


この方法の問題点は、作るのにお金がかかることと、
そしてなんと言っても飛ばすのが難しいことです。
しかし、これまでに成功した「ジャンプ・ジェット」もないわけではありません。

現代のジャンプジェット(ハリアーのことをジャンプジェットという)は、
ジェット機に垂直方向のリフティングファンをつけて、
推力を下に向けたもの
というのが基準となっています。

ダクト付きの排気装置と組み合わせることで、
地上から離陸するために必要な揚力を、少し簡略化した形で得ることができます。

エンジン全体が回転し、離着陸時には垂直になるような設計もあります。
通常の飛行を行う際には、エンジンは水平方向に回転します。


■ 垂直離着陸を成し遂げた4つの飛行機

このような技術的な偉業を成し遂げた飛行機の例をいくつか見てみましょう。

【ベル・ボーイングV-22オスプレイ(Bell Boeing V-22 Osprey)】



我々日本人にはすっかりおなじみ、オスプレイ。

最近とんと活動の噂を聞きませんが、オスプレイに親でも殺されたのか、
「あちら側」の人たちはさかんにオスプレイを悪者にしております。

どうしてそんなにオスプレイを嫌うのか。というと、
やっぱりこれはどう考えても日本の敵にとっての脅威なんでしょう。
特に空母運用できるというあたりが、嫌なんでしょうね。

まあ、某党首のように、オスプレイ嫌いすぎて、ヘリコプターなら何でも
オスプレイに見えて困っちゃう〜な人もいるみたいですが。


さて、飛行機を垂直に離陸させる一つの方法は、
エンジン全体を可動式にして、用途に応じて排出の向きを変えることです。
それを可能にしたのがV-22オスプレイのティルトローターです。
オスプレイは飛行機でもないし、ヘリコプターでもありません。

人類が自力で空を飛んで以来、多くの航空機が計画されてきましたが、
オスプレイは世界で初めて運用されたティルトローター機となります。

FAAは、この技術がいつか民間でも使用されることを想定して、
オスプレイのために新たに、
「パワードリフト」(powered lift)
という航空機のカテゴリーを設けました。

わたしは初めて知ったような気がしますが、というのも
今のところオスプレイはオスプレイとしか呼ばれていないからでしょう。

そのうち民間にパワードリフトというジャンルの別の乗り物が現れるのでしょうか。


しかしながら、これが残念ながら反対派の攻撃理由ともなっていたわけですが、
1989年に初飛行したオスプレイは、技術的・設計的な問題が多く、
ようやく運用が開始されたのは2007年のことでした。

ヘリコプターのVTOL性能、そして
強力なターボプロップ機の巡航速度性能を両立させたオスプレイは
現在までに約400機が納入されており、
アメリカ海兵隊、空軍、海軍が運用してきました。

そしていつの間にかさりげなく陸上自衛隊でも運用されています。

陸自V-22(オスプレイ)の教育訓練の状況

アメリカ軍の軍人さんに教育訓練を受けています。
それにしても、不思議なのは陸自なのになぜにこの色・・。

アメリカ海軍は現在、CMV-22Bを空母で運用することを計画しています。
オスプレイの航続距離は約1550km、飛行速度は約300ノットです。
後部ランプ(ドア)は飛行中に開くことができ、懸垂下降や吊り上げが可能です。


現在開発中の最新型ティルトローターはベルBell V-280 ヴァローValorで、
米国陸軍の攻撃ヘリの後継機として設計が進んでいます。

【ヤコブレフYakovlev Yak-38フォージャー Forger】



ソ連がハリアーに対抗するために作ったのがYakovlev Yak-38です。
1971年に初飛行、1976年に就役し、その後は引退してしまいました。

これは、より性能の高いYak-41の前身であり、
タイミングが悪くキャンセルされたものの、より優れた設計と言われています。


231機が製造され、ソビエト海軍のキエフ級航空母艦に搭載されて
1991年まで使用されていました。

YAK-38のデザインはハリアーによく似ていますが、
機体の運用理論は大きく異なっています。

ハリアーはひとつのエンジンに4つの独立した推力偏向ノズルを備えてますが、

(シーハリアーの排気ノズル。
後方 (0°) から真下 (90°) を超えて斜め前方にまで角度変更が可能)

これに対し、Yakでは1つの大きなメインエンジンと、
離着陸専用に垂直に取り付けられた2つの小さなエンジンを使用しています。


【ロッキード・マーチン F 35B 22ライトニングII22】



「ジョイント・ストライク・ファイター Joint Strike Fighter Program」
統合打撃戦投機計画」

は、アメリカ、イギリス、カナダその他同盟国における
戦闘機を置き換えるための最新の開発取得計画です。

その計画の一環として、STOVLのバリエーションが設計されました。
STOVLとは、short takeoff/vertical landing、つまり
短距離離陸(STO)と垂直着陸(VL)を組み合わせた
垂直/短距離離着陸機という意味です。

F-35Bは、ベクターノズルを備えたシングルタービンエンジンと、
離着陸時に揚力を得るためのパワードファンを搭載しています。

F-35BのV/STOLシステムに使われた技術の多くは、
ロッキード・コーポレーションとヤコブレフ社の提携によるものです。
後にキャンセルされたYak-41となる実験機Yak-141に搭載されたシステムが、
F-35Bへの道を切り開いたということができます。

F-35プログラムは、各兵科のニーズに合わせてカスタマイズされた
各種バージョンが用意されていることから、
「ジョイントストライク・ファイター」と呼ばれています。
その中でV/STOL機能を持っているのはF-35Bだけとなります。
以下の通り。

F-35A - 空軍の通常離着陸型戦闘機/迎撃機
F-35B - V/STOLバージョン(海兵隊用)
F-35C - 海軍用の空母艦載型戦闘機



【ボーイング Harrier ハリアー】


BAe Harrier GR9


ハリアーシリーズは、前述の通り通称「ジャンプジェット」と呼ばれる航空機です。

この分野におけるハリアーの存在を過小評価するのは簡単ですが、
もしハリアーがなかったら、後続の航空機は存在しなかったとも考えられます。

航空史上、技術者たちが考え出した大胆で一見無謀な発明の中で、
ハリアーは最も現実にその足跡を残したとも言えるのです。

ハリアーは1969年の初就役以来、現在でもアメリカ海兵隊や、
海外の一部などで限定的に運用されています。
しかし、主要な使用者である英国空軍と英国海軍は、
老朽化したハリアーをすでに退役させています。

1966年、イギリスで誕生したハリアーは、ヘリコプターのように
垂直に着地・離陸できるという特性から、海兵隊に注目されました。

前線近くの仮設飛行場や小型甲板の水陸両用強襲揚陸艦という
海兵隊ならではの運用に最適と考えられたからです。

ハリアーの運用は、海兵隊地上部隊の迅速な近接航空支援を可能にし、
ホーマー・ヒル海兵隊少将は次のようにハリアーを絶賛しました。

「ヘリコプターのように簡単に配備でき、
通常の攻撃機のようなパンチ力を持つ航空機は、
軍事航空に大きな影響を与えるだろう」

海兵隊は102機のAV-8Aハリアーと8機の訓練機(TAV-8A)を発注しました。
機体は基本的に英国空軍のハリアーと同じ、
アビオニクス、飛行制御、武器システムはアメリカ製でした。

【ハリアーの飛行システム】

ハリアーの飛行は他のジェット機とは異なり、繰り返しますが、
「ベクトード・スラスト」Vectored Thrust=推力偏向
という概念を採用しています。



タービンのバイパスエアは翼根にある2対のノズルのうちの1つに送られ、
ジェットの排気は2つ目のノズルから送られます。
ノズルは縦軸に沿って一体的に回転させることができ、
前方飛行のためには真後ろから、ホバリングのためには
真下より少し前まで回転させることができます。

ノズルの位置は、スロットルの近くにある1本のレバーで操作を行います。
エレベーターやラダーが使えないほど速度が遅いホバリングモードでは、
リアクションコントロールシステムが働き、
翼端、機首、尾翼の「パファー」または「パフパイプ」と呼ばれる排気ダクトに
高圧のブリードエアを送ることができるのです。

操縦桿を前に動かすと、尾翼の下にあるパファーが空気を放出して機首が下がり、
後ろに引くと、機首の下にあるパファーが空気を放出して機首が上がります。

同様に、操縦桿を左右に動かすと、翼端のパファーが作動して飛行機がロールし、
ラダーペダルで操作する尾翼のパファーが空気を横に吹き出して
 "ヨー "をコントロールします。

【ハリアーII】


ジェット機の底面図
武器を搭載するための多数の翼下パイロンが見える
胴体下面には2本のフェンスが配置されている
AV-8BハリアーIIの胴体下面


AV-8BハリアーIIは、ホーカー・シドレー・ハリアーの
基本的なレイアウトを踏襲した亜音速の攻撃機です。

ロールスロイス社製ペガサス・ターボファンエンジンを1基搭載しており、
タービンの近くに2つの吸気口と4つの同期式ベクタブルノズルを備えています。

胴体の下側には、マクドネル・ダグラス社が開発した揚力向上装置があり、
地面に近づいたときに反射するエンジンの排気をとらえ、
最大で1,200ポンド(544kg)相当の揚力を得ることができます。


初代ハリアーと比較すると、ハリアーIIの操縦については
パイロットの負担が大幅に軽減されました。
技術革新による安定性の向上で、基本的に操縦しやすくなったのです。

安全面においても、「UPC/Stencel 10Bゼロゼロ射出座席」の搭載により、
パイロットはに静止した航空機から高度ゼロで射出できるようになりました。

最も徹底的に再設計されたのは主翼で、技術者は
新しい一体型の超臨界主翼によって巡航性能を向上させることに成功しました。

積載量が増加し、 主翼はほとんど複合材でできているため、
AV-8Aの小型の主翼よりも150kgも軽くなりました。

ハリアーIIは、炭素繊維複合材を広範囲に採用した最初の戦闘機です。
機体構造の26%が複合材でできており、従来の金属構造に比べて
217kgもの軽量化を実現しています。


英国のハリアーは1982年のフォークランド諸島戦争で戦闘任務に就き、
42機が地上支援、防空、艦船攻撃、偵察に投入されました。

少なくとも20機のアルゼンチン航空機を空対空の損失なしに撃墜しています。

海兵隊の航空機が初めて戦場に出たのは、それから約20年後のことで、
砂漠の嵐作戦では、86機のハリアーが艦上と陸上の両方から戦闘任務に就き、
3,380回、4,038時間の出撃を行い、595万ポンド以上の武器を輸送しました。

また、1999年にNATOがコソボに対して行った持続的な航空作戦
「アライドフォース作戦」でも戦闘任務を遂行し、
現在も「テロとの戦い」の作戦支援のために飛行しています。

【ハリアーII誕生までの経緯】

1960年代後半から1970年代前半にかけて、第1世代のハリアーは
英国空軍と米国海兵隊に就役したものの、
航続距離と積載量がいまいちという評価がありました。

 この問題に対処するため、ホーカー・シドレーとマクドネル・ダグラスは
英米合同で1ハリアーの、より高性能なバージョンの共同開発を開始します。

初期の取り組みでは、ブリストル・シドレーがテストしていた
ペガサスエンジンの改良型、ペガサス15を搭載することになっていましたが、
強力になったただけに、エンジンの直径が2.75インチ(70mm)と、
大きすぎてハリアーに収まらなかったのでした。

おまけに、英国政府は1975年、国防費の減少、コストの上昇、
RAFの60機の必要数の不足を理由にプロジェクトから撤退してしまいます。
いろいろ言っていますが、要するにお金がなかったということです。

イギリスに辞められた後、アメリカはすっかりやる気をなくして、
単独での開発費を負担する気になれず、同年末にプロジェクトを終了しました。



おもしろいのがここからです。

国単位でのプロジェクトが終了したにもかかわらず、英米の2社は
ハリアーの強化に向けて異なる道を決して諦めなかったのでした。
国家予算の段階でストップがかかっても、現場の技術者たちは
英米ともに非常に諦めが悪かったということのようです。

ホーカー・シドレー社は、既存の運用機に後付け可能な新型の大型主翼に注力し、
マクドネル・ダグラス社は、米軍のニーズに応えるために、
その高価であまり野心的ではないプロジェクトを独自に進めていきます。

その結果、マクドネル・ダグラスはAV-16から得た知識を用いて、
AV-8Aハリアーを大幅に設計変更し、AV-8Bを開発させました。

AV-8Bは1981年に初飛行し、1985年には米海兵隊に就役しました。
その後、夜間攻撃機AV-8B(NA)、レーダー搭載型ハリアーIIプラスが誕生。

個人的に大変残念に思うのは、ハリアーIIIなる大型化された機種が
検討段階でポシャって
実現には至らなかったということです。

かたや英国はというと、1990年代にBAEシステムズ社がボーイングと合併し
共同でプログラムをサポートすることになりました。

最終的に2003年に終了した22年間の生産計画で、約340機が生産されました。


【アメリカ海兵隊での運用履歴】

AV-8Bは、1984年にアメリカ海兵隊運用評価テストを受けました。

4人のパイロットと整備・支援担当者が戦闘状態でテストを行い、
指定された航続距離と積載量の範囲内で、航続距離、目標物の捕捉、武器搭載、
敵の行動からの回避・生存などの任務遂行能力が評価されました。

テストでは他の近接支援機と連携して深層および近接航空支援任務を遂行し、
さらに戦場での妨害活動や武装偵察任務を行うことが求められました。

第2フェーズでは、戦闘機の護衛、戦闘空中哨戒、
甲板発射による迎撃任務が課せられ、設計上の欠点が指摘されたものの
のちに修正され、テストは成功したとみなされました。


AV-8Bは1990-91年の湾岸戦争でも活躍しました。
USS「ナッソー」や「タラワ」、そして陸上基地に配備された機体は、
当初は訓練や支援出撃、連合軍との共同訓練などを行っていました。

AV-8Bは「砂漠の嵐」作戦で当初は予備機となっていましたが、
イラク軍の製油所砲撃が起こり、あのOV-10ブロンコの前方航空管制官が
航空支援を要請してきたので、戦闘に投入されることになりました。

 翌日、米海兵隊のAV-8Bはクウェート南部のイラク軍陣地を攻撃。
戦争中、武力偵察を行い、連合軍と協力して目標を破壊しました。


「砂漠の盾」「砂漠の嵐」作戦において、86機のAV-8Bは
任務遂行率90%以上という実績を上げています。 

そのうち5機のAV-8Bが敵の地対空ミサイルによって失われ、
2人の米軍パイロットが死亡しました。
AV-8Bの消耗率は1,000回出撃するごとに1.5機でした。

後にノーマン・シュワルツコフ陸軍大将は、
F-117ナイトホーク、AH-64アパッチとともに、
この戦争で重要な役割を果たした7つの兵器のひとつにAV-8Bを挙げています。

戦後の1992年8月27日から2003年まで、米海兵隊のAV-8Bなどが
「サザンウォッチ作戦」を支援してイラクの空をパトロールしました。


1999年、AV-8Bは「アライドフォース」(同盟国軍)作戦における
NATOのユーゴスラビア空爆に参加。
12機のハリアーが戦闘に投入され、コソボで戦闘航空支援任務を遂行しました。

米海兵隊のAV-8Bは2001年からアフガニスタンで行われた
「不朽の自由作戦」に参加、4機のAV-8Bが攻撃任務を行いました。
また夜間戦闘機6機のナイトアタックAV-8Bが
主に夜間に攻撃などの任務とともに偵察任務を遂行しています。


イラク戦争開戦から1ヶ月後、
水陸両用強襲揚陸艦USS「バターン」上にホバリングする米海兵隊のAV-8B

2003年のイラク戦争では、主に米海兵隊の地上部隊を支援するために参加。
初動時には60機のAV-8BがUSS「ボノムリシャール」や「バターン」など
艦船に配備され、戦争中はそこから1,000回以上の出撃が行われました。

このとき、「ボノム・リシャール」からの1回の出撃で、ハリアーは
共和国軍の戦車大隊に大きなダメージを与えています。



ハリアーは高い評価を得ていたものの、なにしろ
1機あたりの滞空時間が15~20分程度と限られていたため、
米海兵隊内では6時間の滞空が可能で、重装備の近接航空支援能力を持つ
AC-130ガンシップの調達を求める声が上がっていました。


AV-8Bは、2012年に就航が予定されていたロッキード・マーチン社の
F-35ライトニングIIのF-35Bバージョンに置き換えられることになっていますが、
米海兵隊は2025年までハリアーを運用する予定です。


【FLAMのハリアーII】

1974年に就役し、海兵隊攻撃隊(VMA)513に所属したのち、
VMA-231装備として水陸両用攻撃艦「ナッソー」(LHA4)に配備されました。
その後、VMA513と水陸両用強襲揚陸艦「ガダルカナル」(LPH7)に。
水陸両用強襲揚陸艦タラワ(LHA 1)にも乗り組みました。

多くの一般市民がジェット機のホバリングを初めて目にしたのは、
1994年に公開されたアーノルド・シュワルツェネッガー
アクション・コメディの代表作である映画「トゥルー・ライズ」でした。
映画でアーノルドがAV-8Bハリアーを操縦してテロリストから娘を救出する姿が
描かれていたのを覚えておられる方もいるかもしれません。

ハリアーは何十年もの間、現役の戦闘機の中で
最も機動性の高い航空機の一つであり続けました。


続く。


「最後のガンファイター」F8Uクルセイダー〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-12-14 | 航空機

ヴォートF8Uクルセイダー(1962年にF-8と改称)は、
ヴォート社がアメリカ海軍および海兵隊のために製造した
単発の超音速空母艦載用ジェット機です。

先日、偵察バージョンのフォトクルセイダーについて取り上げました。
順序としてはこちらが先のはずですが、写真が先に出てきた関係で後になりました。



ヴォートF7Uカットラスの後継機、F-8は主にベトナム戦争で活躍しました。
銃を主武器とした最後のアメリカの戦闘機であり、
"The Last of the Gunfighters "とも呼ばれています。

ヴォートF8Uクルセイダーは、海軍および海兵隊で初めての超音速機であり、
水平飛行で時速1000マイルを超えることができる初めての戦闘機でした。

サンディエゴの海兵隊航空博物館、フライング・レザーネックには、
基本的に海兵隊が運用していた航空機が展示されています。


■ リング-テムコ-ヴォート・エアロスペース
ヴォートF8U-2NE(F-8E、J)クルセイダー
Vought Crusader

製造会社のLing-Temco-Voughtは、かつてアメリカに存在した
巨大複合企業体(コングロマリット)の名称です。

1947年テキサス州で個人が起こした電気工事業、
リン・エレクトリック・カンパニーが販売戦略を成功させて巨大化し、
ミサイル製造で知られるテムコ・エアクラフトと合併し、
続いて敵対的買収によりチャンス・ヴォート航空宇宙を買収してできました。

手掛けた航空機は以下の通り。

LTV A-7 コルセアCorsair II
ヴォートVought YA-7F
LTV XC-142
LTV L450F
Vought Model 1600

LTVとはリン・テムコ・ヴォートから取られた社名です。
1999年に破産しましたが、この破産については
「アメリカ史上最も長く最も複雑な破産のひとつ」
と言われているそうです。

何があった。

【最後のガンファイター】

ヴォートF8Uクルセイダー(1962年にF-8と改称)は、
ヴォート社がアメリカ海軍および海兵隊のために製造した
単発・超音速の空母艦載用制空ジェット機です。

前にも書きましたが、あまり現場のパイロットに評判が芳しくなく、
「ガッツレス」(根性なしという意味)と呼ばれたこともある
同じヴォートF7Uカットラスの後継機として登場しました。

カットラスと違い、滅法出来がいいので、クルセイダーは文字通り
チャンス・ヴォート社の「十字軍」となった、などという
誰もそんなことは言っていない的洒落をつぶやいた記憶があります。

登場時期からして、F-8の主戦場は主にベトナムとなりました。

「最後のガンファイター」The Last of the Gunfighter
と言うネーミングの由来はというと、
クルセイダーは搭載銃を主要武器とした最後のアメリカの戦闘機であり、
それ以降は戦闘機はマルチロール機となっていくからです。

それではマルチロール機とはなんぞや、というと、英語では

MRCA(Multirole Combat Aircraft)

空対空戦闘、空爆、偵察、電子戦、防空など、
戦闘中にさまざまな役割を果たすことを目的とした戦闘機のことです。

「マルチロール」という言葉は、本来、

「ひとつの基本的な機体を複数の異なる役割に適応させ、
共通の機体を複数のタスクに使用することを目的として設計された航空機」


に与えられた名称で、目的はコスト削減にあります。

攻撃任務として、航空阻止、敵の防空阻止(SEAD)、近接航空支援(CAS)を
全てこなすことができ、さらに空中偵察、前方航空管制、
電子戦などの能力を持たせることによって莫大な節約ができます。

歴史的にはたまたま複数の役割をこなす機体はいくつかありましたが、
マルチロール機の定義に当てはまる一番古い機体はF-4ファントムであり、
この言葉が最初に使われたのは1968年の
「マルチロール戦闘機計画」からで、このプロジェクトは最終的に
F-15の派生型にまで発展しました。

「ラスト・ガンファイター」といいながら、クルセイダーの運用開始は1967年で、
マルチロールプロジェクトが緒についたのとほぼ同時期です。

航空機の発展が一筋ではなく多層的な流れの中にあったからといえましょう。


ちなみにジョニー・キャッシュの曲に「ラスト・ガンファイター・バラード」
という曲がありますが、こちらは西部の荒くれ者的な、
老いた元「デスペラード」を歌ったものだと思われます。

"The Last Gunfighter Ballad".. Johnny Cash and Cheyenne Bodie

つい全部見てしまった・・

クルセイダーは全部で1261機が製造されました。
F8Uクルセーダーは、海兵隊の戦闘機部隊で
ノースアメリカンFJフューリーに代わって使用された機体となります。


いかにも終戦直後っぽいデザインのFJフューリー

F8Uクルセイダーの特徴は、なんと言っても2ポジションの可変入射翼です。

これは、離着陸時に翼を胴体から7°回転させる仕組みで、
そうすることで離着艦の際の機首上げ角を抑えると言う効果があります。

当時主翼を油圧で上下に動かすことで迎角を調整できる唯一のシステムでした。

このシステムによって運用時の低速での安定性が大幅に向上します。
迎え角が大きくなると何がよくなるかというと、
前方視界を損なうことなく揚力を高めることができるのです。

これはチャンスボート社の前作F7Uカットラスの致命的な欠点だった、
視界不良を克服することから生まれた技術でした。



アメリカ海軍の最後の「新生産」クルセイダーは、
1961年6月末に初飛行したF8U 2NEでした。
それはまさにここフライング・レザーネックにある機体そのものです。



この機種は、ズーニーZUNIロケット弾


AGM-12ブルパップ空対地ミサイル

爆弾などを搭載するために、取り外し可能な2つの翼下パイロンを追加し、
攻撃機としての役割を強化しました。


このアップグレードには、全天候型運用のために改良された、
捜索および火器管制レーダーも含まれています。
F8U-2NEは全部で286機が製造された。

17の米海兵隊飛行隊がクルセーダーを使用し、
そのうち4つの飛行隊がベトナムで戦闘に参加しました。

装備した航空隊は、

USS「オリスカニー」(CVA-34)のVMF(AW)-212
「カウボーイズ」Cowboys

Active

VMF(AW)-232「デス・ラトラーズ」 Death Rattlers

Active
rattlerはガラガラなるもの(赤ちゃんのガラガラでもある)

VMF(AW)-235「デス・エンジェルス」 Death Angels

1943-1996

VMF(AW)-312 「チェッカーボーズ」 Checkerboards


などはダナンの陸上基地から任務を遂行しました。

クルセイダーは、1957年12月にVMF-122で海兵隊に初飛行しました。VMF(AW)-235は、1968年クルセイダーからF-4ファントムIIに移行しました。

クルセイダーはアメリカ海軍、海兵隊、フランス海軍でも使用され、
アメリカで最初に戦地に赴いた航空機の一つとなりました。


クルセイダーのベトナムにおける初空戦は1965年4月、
米海軍とベトナム人民空軍の間で行われました。

戦時中に失われたクルセイダーは約166機(なぜ『約』なのか謎)。
そのうち76機は事故によるものだったので、半数以上が戦没となります。

喪失機の中でも地対空ミサイルによる戦闘喪失は
MiGとのドッグファイトによる損失よりも多かったということですので、
戦闘能力は高かったと判断できると言って差し支えないでしょう。

搭載エンジンはプラット・アンド・ホイットニー社製のJ57-P-20A


全軸9段LP7段HPコンプレッサー、8本のフレームチューブキャニュラー燃焼器、
全軸1段HP2段LPタービンを備えたアフターバーナー式
(ジェットエンジンの排気に対してもう一度燃料を吹きつけて燃焼させ、
高推力を得るしくみ)ターボジェットエンジンです。

クルセイダーは、航続距離2.558km。
胴体下部に20mmのコルトMk12キャノンを4門搭載可能で、
胴体側面のY字型パイロンにはAIM-9サイドワインダー
ズーニーロケットを搭載するためのハードポイントが2つ、
翼下のパイロンにはLAU-10ロケットポッドを2基搭載できました。

ちなみに例のサイトによると、ベトナム戦争期間における
アメリカ軍のベスト戦闘機10の中に当然ですが入っています。
ちなみにその順位は、

1.スカイホーク Douglas A-4 Skyhawk 
2. コルセアLTV A-7 Corsair II 
3. ファントム2McDonnell Douglas F-4 Phantom II
4.サンダーチーフ Republic F-105 Thunderchief
5. クルセイダーVought F-8 Crusader
6. タイガー2Northrop F-5 Tiger II
7. Mikoyan-Gurevich MiG-15
8. Mikoyan-Gurevich MiG-17
9. Mikoyan-Gurevich MiG-19
10. Mikoyan-Gurevich MiG-21

評価の高い順番だとすれば、クルセイダーはちょうど中程となります。
まあ、前にも検証した通り、これはこのサイト主の個人の感想というものですが、
スカイホークがあの時代のナンバーワンという考え方にはわたしも賛成です。


【FLAMのクルセイダー】

海兵隊予備軍は1976年までクルセイダーを使用しました。
F-8E BuNo.150920は、1964年7月16日にアメリカ海軍に受け入れられ、
VF-201「ザ・ハンターズ」に納入されました。


1970-1999

1965年4月、USS「オリスカニー」 Oriskany (CVA-34)に搭載されて
ベトナムに向けて出航し、1965年12月にNASミラマーに帰還しました。

1966年5月には、VF-162と共に再び「オリスカニー」に搭載され、
ベトナムに派遣されました。

しかし、1966年8月2日、大規模な修理のために
日本の厚木基地に陸揚げされたことで、その活動は中断されます。

修理は1966年10月末に完了し、

厚木の戦闘作戦支援活動(COSA)に移され
新しい任務に就くことになりました。

1967年1月3日には、USS「タイコンデロガ」(CV-14)
「サタンの子猫」Satan's Kittensに代替機として送られ、
再びベトナム沖に出撃して北ベトナムとの戦闘任務に就きました。


1943-1978
(自衛隊の猫好き艦長が無理やり変更した某護衛艦のマークを思い出します)

1967年5月29日、「タイコンデロガ」が日本からサンディエゴに戻ってくると、
当機920は降ろされて、NARF(Naval Air Rework Facility)のある
ノースアイランドに移されます。

1967年10月には、ダラスのヴォート社の工場に戻され、
「J」バージョンにアップグレードされました。
改良の内容は、スラットとフラップのデフレクションを大きくして
翼の揚力を大幅に増加させることと、境界層制御システムの追加でした。

また、外部燃料タンク用の "ウェット "パイロン、
J57-P-20Aエンジン、AN/APQ-124レーダーも搭載されています。
このとき、合計136機の航空機がこの規格に基づいて改造されました。

1973年、VF-211の「ファイティング・チェックメイツ」とともにミラマーに帰還。
1975年、同隊がF-14Aトムキャットに移行したため、VF-191に戻されます。
同年、VF-191と共にUSS「オリスカニー」の最後のWESTPAC巡航に参加。

その1週間後、VF-191がF-4JファントムIIに移行したため、
デービス・モンサン基地の倉庫、通称骨董品置き場に飛ばされ
ゲートガードとして最後のご奉公をして引退しました。

この機体の塗装はVMF(AW)-321のチェッカーボーズの仕様が再現されています。


続く。



前方航空管制機  QV-10ブロンコ〜フライング・レザーネック航空博物館 (おまけあり)

2021-12-12 | 航空機

サンディエゴのフライング・レザーネック航空博物館には
ほとんどが有名でどこかで見たことのある航空機ばかりですが、
たまーに、ここにしかないようなレアな機体が展示されています。
そのひとつがこれ。

■ ノースアメリカン・ロックウェル
OV-10ブロンコ Bronco

そもそもノースアメリカン・ロックウェルという会社名を聞くのも初めてです><
前半はあのノースアメリカンで間違いありませんが、
後半のロックウェルというと、おそらく
ロックウェル・インターナショナルのことではないかと思われます。

OV-10ブロンコは、ここにあってそのフワフワした
パステル調のペイントである意味異質な外貌が目立っています。

運用は1969年から1995年の間で、デビュー時期を考えると
ベトナム戦争のために設計されたことは明らかです。
現地の説明には「ミッション」として、
「Light Armed Reconnaissance」(軽武装偵察)
とあります。

OV-10ブロンコは、対反乱戦に特化して設計されており、
ベトナムでの戦闘条件に最適の飛行機とされていました。

空軍と海兵隊は、武力偵察、ヘリコプターの護衛、近接航空支援、
前方航空管制、死傷者の救出、落下傘降下
などの任務に運用しました。

双発のプロペラ機で小型なので、位置づけは
ヘリコプターとジェット機の間のギャップを埋めるいいとこ取りの存在?

つまりどちらの役割も果たす、多機能性を備えた機体でした。

着陸が簡易なので、ヘリコプターのように遠隔地で複数の任務をこなす一方、
多種多様な武器や装備を搭載でき、活動場所を選ばない設計。

着陸が簡単な理由は、ジェット機とは異なり、
「ジョインテッドな」着陸装置を備えているためだと書いてあるのですが、
おそらくこれは固定式「引き込み式ではない」という意味でしょう。

格納式の膠着装置は、格納するための機構に重量がかかるうえ、
メインテナンスの作業も必要になってきます。

ときとして故障や出し忘れなどの操作ミスで事故となる可能性もあるため、
空気抵抗にある程度目を瞑るならば、固定式のギアの方が
軽量で頑丈で、荒れた土地や軟弱な土地でも
短時間で離着陸(STOL)することができるというメリットがあります。

その点ブロンコはスキッドを出しっぱなしのヘリに近いわけですが、
ヘリコプターよりも速く、ジェット機よりも小回りが効くと言う利点があります。


引き込み脚がないというだけでもメンテナンスは簡単になりますが、
特にブロンコの場合、メンテナンスそのものが驚くほど簡単です。

たとえば燃料など、なんなら自動車用でも機能するといいますし、
修理も普通のハンドツールでできてしまうというくらい単純なのだとか。

航空戦術に前方航空管制というものがあります。

Forward Air Control(FAC)は、戦線付近で行われる航空管制のことで、
近接航空支援や航空阻止など、戦術爆撃作戦の一環として用いられます。

【前方航空管制機としてのOV-10ブロンコ】

目的は攻撃機を適切に統制することで誤爆を防ぎ、
最前線で活動する味方地上部隊の安全を確保することです。

前線航空管制官が航空機に搭乗して活動するのですが、
ブロンコは、ベトナム戦争時代、前方航空管制機(FAC)用に設計された
最初の航空機であり、その開発の重要な一歩となりました。

ただし、一般的なFAC任務は、ほぼ非武装で敵の上空を低空飛行するため、
常に撃墜の危険性にさらされる任務であり、現実にベトナム戦争では
FAC任務による多数の犠牲者が出ており、多くの機体が失われました。


それでは具体的な前方航空管制機の任務について説明しておきます。

FACは地上攻撃機のために攻撃目標を見つけてマーキングし、
周辺の友軍と間違えず確実に攻撃するよう地上攻撃機を誘導します。
そのため前方航空管制官は、敵陣の上を低空でゆっくりと飛行します。

先ほど言ったように、この時が地上から攻撃され、
実際も犠牲を生むことになった、最大の危険な時間でした。


ブロンコ以前にFACと呼ばれる任務を行なったのは
セスナL-19バードドッグという民間機ベースの機体でしたが、
民間機であったため、武装も防御もありませんでした。

O-1バードドッグ

どう見てもセスナですが、ちゃんと陸軍マークが入っています。

こちらは一応全金属製にして安全性と防御に気を遣っています。
「バードドッグ」は「鳥撃ち猟の猟犬」の意味です。

戦後生まれて朝鮮戦争に投入され、FACと偵察に使われましたが、
エンジン出力が弱く武装が搭載できなかったうえ、
防弾装備が一切ないというご無体な仕様
だったため、
空軍178機、海兵隊7機、陸軍その他で284機、計469機もが喪失しました。

こういう機体ですから、おそらく失われた人命も多かったのではないでしょうか。

我が日本国でも陸自が使っていたこともあります。
こちらは連絡機程度の使用だったのと、
わずか22機ライセンス製産しただけだったので、
目立った事故は起こさず、喪失数の記録も残されていません。


ブロンコは、武器のハードポイント(牽引設備)を備えているだけでなく、
セルフシール式の燃料タンク、高視認性のキャノピーも備えていました。

多くのバリエーションを持ち、ドイツ、タイ、ベネズエラ、インドネシアなど、
輸出用としていくつかのバリエーションが生産されました。
これらの仕様はOV-10Aと同じです。

次にアメリカで作られたのが、ここに展示してあるOV-10Dでした。

OV-10Dは、チャフ対策と赤外線抑制機能を搭載し、
OV-10Aの敵対者や対空砲火に脆弱という弱点を改善することができました。

さらに、エンジンの大型化、機首の延長、暗視装置、
プロペラの大型化、カメラの搭載などが行われます。

ここにあるブロンコは、ペイントのせいかずいぶんのどかな雰囲気です。

軽とはいえ、武装ヘリとしては「これ大丈夫か」感がうっすら漂うのですが、
この下のサイトに見えるまだ現役らしい機体は、なぜか鉄十字をつけていたり、
現役のUSAF仕様だったりで、ずいぶん猛々しい面持ちです。



ところで偶然見つけたこのサイト、どういう人がやっているのか
なかなか面白いのでつい見入ってしまいました。
全くの寄り道ですが、先を急がないブログなので、ちょっと紹介しておきます。

記事の中では独自の視点で航空機を評価しています。


1.メッサーシュミット Messerschmitt Bf 109
2.フォッケウルフ Focke-Wulf Fw 190
3. ドルニエDornier Do 17
4. メッサーシュミットMesserschmitt Me 410
5. Messerschmitt Bf 110
6.ハインケル Heinkel He 162
7. Messerschmitt Me 262
8. Messerschmitt Me 163

まあ、これは順当というやつでしょう。
一番面白かったのが、


7. モラーヌ・ソルニエMorane-Saulnier M.S.406 フランス
6. ハインケルHeinkel He162 ドイツ
5.ラググ・トゥリー Lavochkin-Gorbunov-Gudkov LaGG-3 ソ連
4.メッサーシュミットコメット Messerschmitt Me 163 Komet ドイツ
3. メッサーシュミットMesserschmitt Me 210 ドイツ
2. ブリュースターBrewster F2A Buffalo アメリカ
1.ブラックバーン Blackburn Roc イギリス

やっぱりコメットと樽(ブリュースター)が入賞したか・・・。(納得感)

ちなみに、輝かしいワーストワンに選ばれたブラックバーンですが、
爆撃機や攻撃機を援護する艦隊防衛戦闘機として設計されたため、

4連装機銃塔をパイロットの後ろに設置し、
前部の銃を一切撤去した。

つい最近書いたばかりですが、前方が攻撃できないこの戦闘機、
このサイトでもそれが原因でワースト扱いされております。

おまけに速度が遅く、また機銃は
飛行機が直線的に飛行していないと正しく発射されない
という、前代未聞かつ不便なものになってしまったことが
史上最悪の戦闘機と呼ばれることになった原因、と厳しく断罪しています。

どんな素人でもこれくらいのことに気づきそうなものですが、
どうしてこんなものを導入してしまったのか、ロイヤルエアフォース。

というわけで、この機体、戦闘に参加することなく、第一線から退き、
曳航機や練習機に改造されたのですが、
セカンドラインとはいえ、戦闘群に配属された機体が、

1機撃墜を主張🎉

しており、さらにダンケルク脱出の際に
ノルウェー沖を飛行した機体もあったそうです。

よっぽど運のいいパイロットだったのか、というか
撃墜されたドイツ機はよっぽど運が悪かったんでしょう。


あと、わたしたち的に興味がある記事としては、

第二次世界大戦の優秀な日本の戦闘機

1.「 隼 」Nakajima Ki-43 Hayabusa
2.「九七式」 Nakajima Ki-27
3.「雷電」 Mitsubishi J2M
4. 「月光」 Nakajima J1N1 Gekko
5. 「秋水」 Mitsubishi J8M1
6. 「零戦」 Mitsubishi A6M “Zero”
7. 「疾風」Nakajima Ki-84
8. 「飛燕」Kawasaki Ki-61

はて、「秋水」って完成してましたっけね。
いったいどういう基準で「優秀」枠に選ばれたのか。

ちょっと説明文を見てみましょう。

「三菱J8M1は、日本海軍航空局と日本陸軍航空局の
共同プロジェクトとして開発された。
エンジンはヴァルターHWK509Aに若干の改良を加えたものを搭載していた。
三菱J8M1のもう一つの特徴は、その軽量な機体である。
400kgしかなく、驚くべきステルス性を発揮して任務を遂行することができた。

この未来的なグライダーの主柱は合板で作られており、
これがJ8M1という驚異的な機体の総重量の大幅な削減に貢献している。
垂直尾翼も同様の理由で木で作られている。
コックピットには防弾ガラスが採用された。
これは、J8M1をさらに軽量化するための工夫である。


また、燃料や弾薬の搭載量も少なくて済むように設計された。
J8M1は1944年から1945年の間に7機しか製造されず、
プロジェクトは正式に終了した。

しかし、J8M1にはMXY-9、MXY-8、Ku-13、Ki-13など、
少なくとも60種類の練習機が存在したのである。
これらの練習機は、前田、横須賀、横井などで開発された。
日本海軍航空隊は、この極めて獰猛な迎撃機を主に使用した

え・・・・?(思考停止状態)
そ、そうだったんですか?(特に最後の一文な)

同じサイトで秋水の兄弟分であるコメットがワースト7に入っているのに?
だいたい、秋水があるのになんで紫電改がないのとか、
素人にもちょっとこのセレクトは不思議だったりしますよね。

まあいいや。

とにかくこのサイト、そういう意味でも(どういう意味だ)おすすめです。
飛行機好きの方、怖いもの見たさじゃなくて時間潰しにぜひどうぞ。


【FLAMのOV-10ブロンコ】

フライング・レザーネックのOV-10(BuNo.155494)は、
1969年1月16日に海兵隊に受け入れられ、18機のうちの1機として、
海軍の軽攻撃飛行隊(VAL-4)に貸与されました。

この飛行隊は、河川の巡視船を支援するための監視および攻撃活動を行うとともに、シールズや米陸海軍と南ベトナムの統合作戦のための航空支援を行い、
HA(L)-3ヒューイの活動を補完することを目的として設立されました。

1972年4月、VAL-4は解散し、帰国しています。
1972年9月、当機は海兵隊に戻され、ペンドルトンのVMO-2に配属され、
その後アトランタの海兵隊予備軍に送られます。

1990年8月、VMO-2は「砂漠の盾」作戦を支援するため、
6台のOV-10をサウジアラビアに向けて10,000マイルの旅に送りました。
このことは航空界のニュースとして報じられました。

1991年1月から始まった「砂漠の嵐」作戦では、
合計286の戦闘任務、900飛行時間をこなしました。
任務は紛争期間中、24時間体制で行われ、主に米軍と連合軍の大砲、
多数の攻撃機、海軍の砲撃をコントロールすることに集中し、
USS「ウィスコンシン」が朝鮮戦争以来初めて戦闘射撃を行うことになり、
その際の「スポッティング」も行いました。

この飛行隊は、94回以上もイラクの地対空ミサイル砲手に狙われ、
高射砲の大規模な集中を避けようとしながらも、
これらの厳しい重要な任務を遂行しました。


1991年5月、494号機はVMO-2とVMO-1の他のOV-10と共に
USS「ジュノー」Juneau (LPD 10)に搭載されて、サンディエゴに帰港。

1993年5月20日、VMO-2は解隊され、その4日後には所属機は
MCAS エルトロのFlying Leatherneck Aviation Museumに送られました。


続く。




ジョン・グレン少佐の弾丸機 F8U-1Pフォトクルセイダー〜フライングレザーネック航空博物館

2021-12-10 | 航空機

フライング・レザーネック航空博物館の展示から、
朝鮮戦争以降、ベトナム戦争前の、いわゆる冷戦期に生まれた
航空機をご紹介します。

■  ヴォート F8U-1P (RF-8Z, G)クルセイダー  Crusader

ヴォート・クルセイダーについては、最初にアラメダ旧海軍基地の
USS「ホーネット」の甲板で見て以来、あちらこちらでお目にかかり、
その度ごとにお話ししてきています。

ここにあるクルセイダーは写真偵察隊の偵察機となります。

【 F8U-1Pクルセイダーの機体史】

F8U-1Pは、F8U-1戦闘機の非武装写真偵察バージョンです。
F8U-1PはF8U-1と異なり、前部胴体の下半分を四角くして、
3つの3次元地形カメラと、2つの垂直カメラを設置できるようにしてあります。



カメラ関係を搭載する関係で、内部の大砲、ロケットパック、
火器管制レーダーはすべて取り外されています。
ただし、防御のために、水平尾翼を縮小して速度を向上させています。

エンジンはF8U-1と同じ、プラットアンドホイットニーのJ57-P-4Aを搭載。
F8U-1Pの初号機は1956年12月17日に飛行しました。

【ジョン・グレン少佐の『弾丸プロジェクト』】


ジョン・ハーシェル・グレン少佐

1957年7月、カリフォルニアからニューヨークまで、
西海岸線から東海岸線までの速度記録を破る試みが計画されました。

海兵隊のジョン・H・グレン少佐(当時)が操縦するF8U-1Pが、
カメラを使ってルート上の地形を撮影しながらアメリカを横断するというもので、
この飛行は「プロジェクト・ブレット」と名付けられ、
AJ-2サベージの空中給油機が支援することになっていました。

わたしはエド・ハリス似のこの海兵隊パイロット、
後の宇宙飛行士、上院議員のライトなファンですので、
このときのプロジェクトについてもここでその経緯を書いておきます。


1950年代半ばから1960年代初めにかけて、航空・宇宙分野での
重要な成果は、大きなニュースとして扱われる傾向にありました。

1957年7月16日、ジョン・グレン上院議員(当時は海兵隊少佐)が
大陸横断航空速度の新記録を樹立し、国民的英雄となった時もそうでした。

この日、グレン少佐はF8U-1Pクルセイダー(BuNo.144608)で、
カリフォルニア州からニューヨーク州までノンストップで飛行し、
725.55mphの記録を達成しました。
飛行時間は3時間23分8.4秒で、それまでの記録保持者
(F-100Fスーパーセイバー)に15分の差をつけました。

1957年には、合計4人のパイロットが大陸横断航空速度記録を更新しており、
ジョン・グレン少佐もその一人となったのです。

しかし、グレン少佐の記録達成は、決して宣伝のためのものではありません。
「プロジェクト・ブレット・フライト」(弾丸飛行計画)は、
「プラット・アンド・ホイットニー社のJ-57エンジンが、
戦闘出力、つまりアフターバーナーをフルに使っても
ダメージを受けないことを証明すること」が
目的でした。

飛行後、すぐさまプラット・アンド・ホイットニー社のエンジニアは
J-57を分解し、その検査結果に基づいて、
このエンジンは長時間の戦闘状態でも機能すると判断し、
その結果、J-57の出力制限はこの日から解除され、
実験はみごとな成果を得ることができたのでした。

宣伝や名声のためでなかったとはいえ、1957年7月16日、
グレン少佐は航空史にその名を刻むとともに、
米国の何千人もの若者にインスピレーションを与える存在となりました。

プロジェクト・ブレットにより、結果的にグレン少佐は
アメリカ最高のテストパイロットの一人としての名声を得たのです。
グレン少佐は5度目の殊勲十字章を授与され、その後まもなく、
NASAの第一期宇宙飛行士に選ばれたのは周知の通り。

つまり、この時の成功が、彼を宇宙飛行士にし、ひいては
上院議員としての地位を約束したということになります。

【失われたジョン・グレンのクルセイダー】

ジョン・グレンという人は航空史の中でも特別な存在で、
彼のような記録更新・樹立の機会に恵まれたパイロットは稀です。

しかし、そんなパイロットは、歴史に名を残すきっかけとなった航空機に
誰しも「特別な思い」を抱いていることは間違いないでしょう。

グレン少佐もおそらく。

ジョン・グレンが海兵隊飛行士として1957年の記録達成時に搭乗したあとの、
クルセイダーの歴史はこのようなものです。

グレン少佐の乗ったF8U-1Pクルセイダーは現役で使用するため
RF-8Gとして再指定されました。
そして、グレン少佐が建てた偉業を表す、小さな真鍮製の記念プレートが
機体の左舷に取り付けられたのです。

それから数年間、グレン(おそらく宇宙飛行士)のもとには、
この機体に乗った飛行士たちからのメモが届けられていました。
メモに書かれていたのは、おそらく、
「あなたが歴史的な飛行をしたクルセイダーに乗れて光栄です」
とか、そんな感じだったのでしょうか。

その後、ベトナム戦争が始まると、グレンはあのクルセイダーが
ベトナム上空で撃墜されたとか、また、インド洋での空母着艦の際に
損傷して横倒しになったなどという「噂」を耳にするようになりました。

ジョン・グレン少佐のクルセイダーに最後に搭乗したトム・スコット中佐は、
この歴史的な航空機の終焉について次のように語っています。

スコット中佐は、1972年、中尉として写真偵察隊に配備された頃、
空軍基地の航空機ボーンヤードからグレンのクルセイダーを入手し、
すぐに整備させて、現役復帰させ、
ここミラマー基地でこの機体を初飛行させたあと、
USS「オリスカニー」(CVA-34)に搭載させました。

USS「オリスカニー」がトンキン湾に到着し、作戦開始となったある日のこと。

スコット中尉は着艦を試みましたが、悪天候と荒れた海のために、
フライトデッキのアレスティングワイヤーに引っかけることができません。

飛行甲板が一定の周期で上下する中、スコットは2度目の着艦を試みました。
しかし、艦尾の上を通過したとき、艦のうねりが予想外に逆転し、
スコット機は飛行甲板の丸みを帯びた腹部に最初にぶつかり、
それから右メインランディングギアが引きちぎられました。

機体は跳ね上がって機首から落下し、再び空中に舞い上がると、
スコットは片手で操縦桿を握り、機体をコントロールしようとしました。

飛行タワーからの
「イジェクト!イジェクト!イジェクト!」
という声がヘルメットの中で鳴り響く中、
スコットはイジェクトハンドルを渾身の力で引きましたが、
最初はハンドルの抵抗に耐えられず、もう一度、力を込めてイジェクトを試み、
スコットはついにコックピットからの脱出に成功しました。

パラシュートが開き、スコット中尉の脳裏には
「運が良ければ甲板に着地できるかもしれない」
という考えが掠めましたが、同時に常識も働きました。

甲板に着地できなければ、他の甲板設備や飛行甲板上の
他のジェット機に衝突する可能性があることに。

スコット中尉はパラシュートを空母から遠ざけながら、
トンキン湾への着水に備えて浮力装置を膨らませました。
その後彼はコッチ(Koch)の金具から両手を離したため、
水中で顔を下にしてパラシュートに引っ張られた状態になってしまいました。

艦体に巻き込まれていくパラシュートから
必死でもがいて体を外すことができたスコットが上空を見ると、
艦の救助ヘリコプターが自分の救出にやってきていました。

ヘリはホバリングしてスコットの近くに救助隊員を降ろしました。
若くて泳ぎが得意そうな救難員はすぐにスコットのところにたどり着きましたが、
驚いたことに彼は浮き輪を持ってくるのを忘れていました。

後で聞いたら、彼が海上救助を行ったのはこの日が初めてで、
経験の浅さからすぐに疲労し、スコットにしがみついて浮いていました。
不幸なことですが、パイロット用のカポックでは
大人二人を水面に浮かせることはできません。

スコット中尉と救助者が、誰が誰を救助するか海上で話し合っている間、
ヘリコプターの乗員は乗員で、自分たちの問題に対面していました。

救難ヘリのパイロットと、ドアの前にいる
ホイスト・オペレーターとの間のインカムが機能しておらず、
パイロットは、操縦している機体をどうするのか、そもそも
要救助者がヘリに乗っているのかどうかさえわからない状態だったのです。

しかし、苦労の末に意思疎通してなんとか救助用ハーネスを降ろし、
スコットと救助員の上を何度か通り過ぎているうちに、
二人ともハーネスを掴んでヘリに吊り上げられたのでした。


スコットは、この歴史的な機体を失ったことを残念に思いましたが、
しかし、一方で機体と一緒に死なずに済んだことに感謝していました。

事故調査の結果、脱出時にイジェクションハンドルが引けなかったのは、
通常20ポンドの力で調整されているべきハンドルが、
「オリスカニー」の搭載したクルセイダーに限り、
100ポンドに誤って設定していたのではないかということがわかったのです。

ジョン・グレン少佐の記録を打ち立てたクルセイダーは失われましたが、
このインシデントが明らかになったことは
F-8に乗った他の飛行士にとっては幸運であり、
潜在的に何人かの命が救われたということもできるかもしれません。


【偵察型クルセイダーの活躍】

RF-8Aがその真価を発揮するのは、
1962年10月のキューバ・ミサイル危機の時でした。

フロリダを拠点とするVFP-62のRF-8Aは、
キューバ島に準備されていたソ連のミサイル基地の上空を繰り返し飛行し、
相手に対し、その存在を証明するとともに、
クルーの運用状況を監視することになっていました、

「ブルームーン」と名付けられたこの飛行作戦はは、10月23日に開始されました。
NASキーウェストから1日2回のフライトが行われ、
キューバ上空で低空高速ダッシュを行い、帰ってきます。

帰ってくるとすぐNASジャクソンビルに戻り、フィルムの現像を行います。
その後、セシル・フィールドに戻ってメンテナンスを行い、
キーウェストに戻って次のミッションに臨む、この繰り返しです。

VFP-62は、ブルームーンの厳しい飛行スケジュールをこなすための
十分なRF-8Aを持っていなかったため、
VMCJ-2を4機増強することを要求しました。

第2海兵隊航空団の司令官は、海軍に4機のRF-8Aを用意しましたが、
護衛に海兵隊員のパイロットをつけるようにと進言しています。

4機のVMCJ-2 RF-8Aは、キーウェストのVFP-62に合流する数日前に、
整備チームによって、画像の動きを補正する最新の
シカゴ・エアリアル製前方照射型パノラマカメラを新たに搭載しました。

キューバ・ミサイル危機で最も記憶に残る瞬間は、
10月25日に国連大使が、稼働中のミサイルサイト付近の低レベルの写真を
ソビエトや世界に向けてテレビで公開した時でしょう。

海兵隊パイロットのE.J.ラブ、ジョン・ハドソン、
ディック・コンウェイ、フレッド・キャロランの4人は、
海軍パイロットと同様に、その任務に対して殊勲十字章を授与されました。

【FLAMのクルセイダー】



F8U-1P BuNo.144617は、チャンス・ヴォート社が製造した
12機目のフォト・クルセイダーです。
1957年12月17日にテキサス州ダラスの工場で米海軍に受け入れられ、
ミラマー基地でVFP-61として引き渡されました。

1958年8月、VFP-61 DET Aと共にUSS「ミッドウェイ」  (CV-41)に搭載され、
クルセイダー最初の空母派遣に参加しました。
帰国後、工場に戻され、3ヶ月間のデポレベルのメンテナンスが行われました。

1959年10月、海兵隊に譲渡され、MCAS エル・トロのVMCJ-3となりました。
約1,100時間の飛行時間を経て、1965年11月、ダラスのヴォート社の工場に戻され、
「G」モデルに改造されました。
改造部分はエンジンで、その他、後期クルセイダーズの腹面フィンを装備し、
ナビゲーションや電子機器も改良されています。
さらに、ドロップタンク用の翼下ハードポイントや、
胴体の偵察ベイに取り付けられた4台のカメラを装備していました。

1966年4から4年半、海軍航空開発センターの
テストプロジェクト用追撃機として活躍し、
「ホークアイズ」での3年半の任期中には、
USS「ジョン・F・ケネディ」(CV-67)に配備されました。

1973年から、先ほどのグレン機と同じく、空軍で保管されていましたが、
やはり同じように、5年半後、倉庫から引き出され、
改修を行った後、USS「コンステレーション」 Constellation (CV-64)
USS「コーラル・シー」 Coral Sea (CV-43)に搭載され、
忙しい2年間を過ごしました。

その後、ワシントン基地の倉庫に戻されていましたが、1986年1月10日、
オハイオ州コロンバスの研究・試験・開発・評価プログラムによって
保管場所から引き出され、カリフォルニア州エドワーズ基地で行われた
X-31強化戦闘機操縦プログラムの飛行段階で追撃機(アグレッサー)
として使用するために、貸し出されました。

このプログラムは1992年に終了しました。
ここにあるのが、最後のフォトクルセイダーとなります。

続く。





日本を攻撃させた日本軍士官 ワダ・ミノル〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-12-08 | 歴史

フライング・レザーネック海兵隊航空博物館のHPを検索していて
一人の帝国陸軍軍人にまつわる資料を見つけ、わたしは強い衝撃を受けました。

彼は、フィリピンにおける日本軍の侵攻を阻止する
アメリカ海兵隊の航空機に乗っていました。
捕虜として捕らえられたこの日本軍の士官は、
アメリカ軍に日本軍の位置と状況を語り、攻撃に協力していたのです。


1945年8月9日、長崎に第2の原爆が投下された日、
海兵隊爆撃隊VMB-611のPBJ-1Dミッチェル爆撃機と
海兵隊戦闘隊VMF-115のF4Uコルセア戦闘機は、
ミンダナオ島ザンボアンガのモレット飛行場から
帝国陸軍原田中将の司令部への攻撃に向けて離陸準備をしました。

先頭機のパイロットは3人の変わった乗客の名前を
フライトマニフェストに追加しなければなりませんでした。
陸軍の地上連絡将校兼攻撃調整官のモーティマー・ジョーダン少佐、
通訳のチャールズ・イマイ軍曹、そして一人の日本軍将校の名前を。

将校は日本軍の軍服を着たまま、無線機のガンナーの位置に座り、
見覚えのある目印を探していました。
彼はかつて自分が所属した軍の司令部に爆撃機を誘導し、
2万2千ポンドの爆弾と5インチのロケット弾を投下させたのです。

彼の名前はワダ・ミノル。

実なのか稔なのか穣なのか、その名前も正確にわからないのは、
日本語での彼についての資料が一切残されていないからです。
ついでに言えば、媒体によって彼のランクは
「Lieutenant」「Junior officer」「2nd Lieutenant」と様々です。


英語のwikiはありますが、そもそも彼が作戦に参加したこと自体
アメリカでも戦後ずっと機密扱いされてきました。
そしていまだに全容が公開されていないという状態です。

まずは英語のWikiを翻訳しておきます。

和田ミノルは、日本で教育を受けた米国人である。
日本軍ではジュニア・オフィサーであり、1945年にミンダナオ島で
米軍の捕虜となった「KIBEI」である。

「キベイ」はもちろん帰米から来た英語で、1940年代によく使われました。
アメリカで生まれた日系アメリカ人が日本で教育を受けた後、
アメリカに戻ることを意味しています。

日系人の中には、日本語や日本の文化を学ばせるため、
二重国籍の子供たちに日本に帰国させて教育を受けさせる人がいて、
彼らが帰ってくると「キベイ」と呼ばれました。

和田はアメリカに生まれた日系アメリカ人で、日本に渡りました。
何事もなく帰米していれば文字通りの「キベイ」だったのですが、
そこで戦争が始まってしまったのです。


彼は1945年にフィリピンで捕虜になった。

彼は海兵隊の爆撃機に重要な情報を提供し、爆撃機を率いて
日本の第100師団の司令部を攻撃して大成功を収めた。
和田の動機は、太平洋戦争の早期終結に貢献して
犠牲者を最小限にしたいというものであった。

戦後しか知らないこんにちの我々にとっても、
和田という士官のとった行動は実に奇異に感じられます。

当時の日本人、しかも軍人が、敵に自軍の情報を流し、
あまつさえ攻撃の指揮に参加したというのですから。

百歩譲って、その理由が金のためとか、命惜しさなら
まだわからなくはないですが、その理由が

「戦争を早く終わらせたいと思ったから」

現代の日本における護憲派や国が武器を持つことに拒否を示す人々は、

「敵が侵略してきたら抵抗せずに降参すれば良い」

などと言いますが、この和田の言い分は
それと同じベクトルの独善的な理想論です。

共通点は、それ(自分の理想とする結論)に到達する過程で起きる
第三者の生き死についてはあえて「見てみないフリをする」ということです。

そしてわたしは、次の一文を読んで、さらなる衝撃を受けました。

捕虜になった際、和田は英語を話せないことが判明した。

■ 米海兵隊航空隊ミンダナオ攻撃

1945年8月10日、日本の降伏を間近に控えたフィリピン・ミンダナオ島で、
海兵隊の飛行機が空を飛び、日本軍の進駐を阻止しました。

先頭の飛行機で海兵隊を指揮していたのは、捕虜となった日本軍将校の
和田ミノル中尉であり、密林の中の攻撃目標の位置を案内していました。


米軍PBJミッチェルの無線オペレーター席に座り
日本軍第100歩兵師団の本部施設の位置となる目印を探している
捕虜、和田ミノル中尉(1945年8月9日、フィリピン・ミンダナオ島)


これは戦時中、日本軍将校がアメリカ軍航空機に搭乗員し、
米軍の攻撃に協力した、最初で唯一の出来事となりました。

なぜミンダナオ島で空中戦を展開する米海兵隊に和田中尉が協力するに至ったか。
この特異な出来事に至るまでに、太平洋でそれまでに起きた
いくつかの背景を理解する必要があります。



●1942年4月18日、南西太平洋地域(SWPA)の最高司令官に
ダグラス・マッカーサー元帥が任命されました。
SWPAには、オーストラリア、ニューギニア・パプア、フィリピン、
そしてソロモン諸島の一部が含まれており、マッカーサーの連合軍司令部は、
主にアメリカ軍とオーストラリア軍で構成されていました。

●1945年6月までに、マッカーサー司令部は長期にわたる作戦を成功させ、
ニューギニア・パプア地域から日本軍を排除し、
オーストラリアは日本軍侵攻の可能性から解放されます。

●次に奪還すべきだったのはフィリピン諸島でした。
それを踏まえてマッカーサーがマニラに司令部を移してまもなく、
1945年6月21日、沖縄戦は終了します。

●8月までに、ジョージ・C・ケニー大将の指揮下にある
マッカーサーのアメリカ空軍部隊は、すでに沖縄に司令部を移し、
日本本土への爆撃に専念することになりました。


ジョージ・チャーチル・ケニー将軍


●1945年8月9日、アメリカは第二次世界大戦中における
2回目の原子爆弾投下を長崎に行い、日本に壊滅的な打撃を与えました。

チャールズ・W・スウィーニー少佐が操縦する
B-29スーパーフォートレス「ボックスカー」による攻撃は、
日本だけでなく世界の運命を変えたといえるかもしれません。

フィリピンの日本軍

SWPAで日本軍を打ち破ったといっても、マッカーサー将軍の陸軍は
日本の防衛上のいくつかの「強力なポイント」をスルーしており、
アメリカ海軍もラバウルの日本海軍基地を実質無視していました。

マッカーサーはここに至ってフィリピンの日本軍に対峙する決心をしました。
この地の日本軍のほとんどは、自分たちの戦況の不利と
兵站の窮状などで陥った苦境にもかかわらず、降伏を拒否していました。

原田次郎陸軍中将が率いる日本陸軍第100師団は、
大幅に戦力を落としてミンダナオ島に駐留していました。
原田軍に対抗するのは、ロバート・L・アイケルバーガー将軍が指揮する
アメリカ第8軍と連合軍でした。


アイケルバーガー大将

アイケルバーガーは、日本軍の残存兵力をすべて破壊し、
ミンダナオ島の解放を成し遂げることを任命され、
残存兵力に対処するため、第1海兵隊航空団(第1MAW)の支援を受けました。

第1MAWは、1942年8月にガダルカナルに最初に到着した海兵隊航空部隊で、
カクタス航空隊を生んだ航空隊として有名です。

1945年、第1MAWの活動の中心はソロモン諸島の防衛になっていました。
1943年4月から1945年6月まで第1MAWの司令官を務めた
ラルフ・J・ミッチェル少将は、日本軍の駐屯地を迂回して
しれっと帰投してくるだけの部下に嫌気がさし、
一部の飛行隊をフィリピン攻略に参加させるよう上層部に圧力をかけていました。


ミッチェル少将

西太平洋での作戦の中心はフィリピンに移りました。
第1MAWを含む地上の海兵隊航空部隊は、マッカーサーの第5空軍に移されます。


その頃、ウィリアム・F・ハルゼー提督は、
第1MAWの4つのコルセア飛行隊(MAG-12)が

「その能力をはるかに下回る役不足の任務に就いている」

と感じていました。
また、南西太平洋地域を担当していたトーマス・C・キンケイド提督
ここでは「航空援護が不十分」と訴えていたことにも気付いていました。

そこでハルゼーはマッカーサーと連絡を取って、
たとえば第32海兵航空群の海兵隊爆撃隊611(VMB-611)を
PBJミッチェル爆撃機を装備したフィリピンで唯一のPBJ飛行隊にしたり、
1945年4月までに、VMB-611とMAG-12コルセア飛行隊を
再編成してフィリピンに移動させるなどして強化しました。

ちなみに、先日ここで扱ったジョー・フォス少佐
VMF-115("Joe's Jokers")F4Uコルセア飛行隊の指揮官として
フィリピンに赴く予定でしたが、マラリアに苦しめられていたため、
フィリピン派遣直前にアメリカに帰国しています。

■日本軍捕虜 ワダミノル中尉

和田ミノルという人物については、1945年8月の一瞬をのぞいて、
ほとんど全てが謎に包まれたまま今日に至ります。

わかっていることは、先ほどまでの経緯を経てミンダナオに進駐した米軍が
日本軍部隊の排除を進めていく過程で多くの日本兵を捕虜にしていく中、
その捕虜の中に和田ミノル少尉がいたということです。

和田は第100師団に1年以上所属して輸送担当を務めており、
そのため、島や地形のことをよく知っていました。


和田はアメリカで生まれ、日系の「帰米」の習慣に従って、
日本に渡り教育を受けて東京帝国大学に入学しました。

英語の記述では、彼がその後陸軍士官学校に入学したとなっていますが、
厳密には、和田が入学したのは久留米にあった陸軍予備士官学校でした。

これは徴兵した兵の中から旧制中学以上の教育を受けた者を選抜し、
「甲種幹部候補生」として入校させ、
下級幹部指揮官に養成するための組織です。

戦争が始まって徴収された和田は帝大生であったことから
このシステムによって見習士官として原隊に復帰後、
予備役少尉に任官して戦争に参加していたのだと思われます。

望むと望まないにかかわらず、日本の大学生は
皆が同じ道を辿り、指揮官としてアメリカとの戦争に投入されました。

和田は陸軍の輸送課に配属され、1945年には原田次中将が指揮する
フィリピン南部ミンダナオ島の日本軍第100歩兵師団にいました。

ここからは、和田自身が捕虜になった後、通訳を通して
アメリカ軍に対して語ったこととなります。

「戦争が進むにつれ、殺戮を嫌悪する気持ちが高まりました。
戦争の本質に強い幻滅を覚えるようになっていったのです。
私は日本と軍が声高に叫ぶ戦意高揚に対し冷淡でした。

戦争を目の当たりにすると、何よりも私は
日本列島と日本人に平和が戻ってくることを望みました。

戦争が(というのはつまりアメリカ軍の攻撃ということになるのですが)
フィリピンを過ぎ、硫黄島を過ぎ、沖縄を過ぎようとしている時、
私の中の反戦感情はますます高まりました。

ミンダナオ島では、目の前で行われている戦いと死が
ますます無意味なものに感じられるようになっていきました」



そして、1945年8月の最初の週、和田はアメリカ軍に捕らえられました。
投降したという説もありますが、今となっては真実はわかりません。
いずれにしても彼は生きて捕虜となったのでした。


日本軍捕虜和田稔中尉の調書書類作成をするL・F・マイバッハ中佐
(1945年8月7日、フィリピン・ミンダナオ島ダバオのリビー・フィールド)


日本人の捕虜は諜報将校に尋問されるのが常でした。
和田が捕まった後、海兵隊の情報将校は和田を徹底的に尋問しました。
尋問担当が珍しく同情的な人物だったせいか、和田は

「日本はこのような世界規模の紛争を起こすべきではなかった。
それは間違っている。
戦争に幻滅し、戦争を終わらせたいと強く願っていた。
戦争を止め、日本国民に究極の平和をもたらすためなら、
自分の命を犠牲にしても何でもする」

「将軍や提督、昔ながらの軍隊が国民にこの戦争を強要した。
一般の日本人は戦争を望んでいない」


と語りました。

もちろん、アメリカ側も最初から和田を信用したわけではなく、
疑念を持つものもいましたが、最終的に彼は嘘をついていないようだ、
と尋問官は納得しました。

そして、おそらくこの日本人は使える、と思ったのでしょう。
言葉巧みにアメリカがアメリカがミンダナオ島で
戦争を1日も早く終わらせるのを手伝うように、
つまり情報を彼が自発的に渡すように仕向けて行きました。

もちろん彼は最初それを拒否しました。
しかし、米軍にとって和田のような「良心的日本人」は
願ってもない得難い人材でした。

末端の兵ではなく、地理に詳しい指揮官・下級将校であり、
その「良心」を利用すれば嘘の情報を教えられるなど、
造反のリスクもないに違いありません。

結局彼は米軍に協力することを承諾しました。

それは、ほんの数日前、トルーマン大統領が、原爆投下を決断したのと
不気味なほど似た思考プロセスを経てたどり着いた結論でした。

つまり、トルーマンが原爆投下を決断したのは
日本への侵攻による損失の拡大を避けるためであり、
和田にとっては、アメリカ軍に協力して日本軍司令部施設を破壊することは、
長期にわたる無意味な戦闘による損失の拡大を防ぐという意味があります。


つまり、繰り返しになりますが、大局の目的のためには、
その過程で失われる人命の価値にはこの際目を瞑る、という論法は、
「トロッコ理論」と言われる究極の選択で、人数の少ない方に
トロッコの線を切り替えて多人数を救うというのに類似しています。

誰がどのように誘導したかはわかりませんが、このときのアメリカ軍情報部には、
よほど心理戦に長けた人物がいたのでしょう。
彼は和田の良心をうまくくすぐり、おそらくおだてて、
拷問することなく捕虜の完全なコントロールに成功したのです。

 大日本帝国第35軍の第100歩兵師団は、
1944年初頭、ミンダナオ島で活動を開始していました。
戦闘経験の豊富な日本軍の精鋭部隊で構成されており、
アメリカ軍の侵攻を「何としても」撃退することを任務としていました。

そんな精鋭部隊の抵抗を打ち破る方法を探していた海兵隊にとって、
和田の情報は、非常に歓迎されるべきものでした。


第1海兵航空団の戦闘機・爆撃機のパイロットにブリーフィングを行う
米陸軍地上連絡将校モーティマー・H・ジョーダン氏(左)
日本軍捕虜の和田稔中尉(中央)
通訳のチャールズ・T・イマイ軍曹(1945年8月9日)


こうして和田中尉のアメリカ軍への協力が決まりましたが、
ミンダナオ島のキバウェ-タロモ・トレイル地域は
起伏に富んだ地形と密林に覆われており、
アメリカ軍が日本軍の司令部を発見するためには、
和田本人が米軍を率いてそこに連れて行くしかありませんでした。

このようにして、第二次世界大戦中に限らず、前代未聞となる
「敵将校に率いられて行う空襲」の舞台が用意されたのでした。


ブリーフィングで和田の指し示す地図の場所を英語に通訳して
爆撃隊のパイロットに説明しているイマイ軍曹
和田は英語が喋れないのでイマイがすべて通訳を行った


飛行前のブリーフィングで、和田は地図上の日本軍の位置を指摘し、
爆撃目標となりそうな場所を指摘しました。
そしてその後、シドニー・グロフ少佐が操縦する先頭のPBJに搭乗しました。


ミンダナオ島ダバオのリビーフィールドで、
日本人捕虜和田ミノルの名前をフライトマニフェストに追加する
米海兵隊のPBJミッチェルパイロット、シドニー・グロフ(右)


先頭機の無線兼銃手の席に座った和田は、空爆の様子を見続けました。
和田は英語がほとんど話せなかったので、チャールズ・イマイ軍曹が
指示を聞いてフライトクルーに伝える役割を担っていました。

イマイ軍曹が和田の指示を翻訳し、同じ爆撃機の機首に乗っている
空爆調整官のモーティマー・H・ジョーダン少佐に伝えます。
イマイはさらにその情報を無線で爆撃機に伝えるという流れです。


米軍のPBJミッチェルの無線オペレーターの位置から
日本軍の第100歩兵師団の本部施設を見つけるために目印を探す
日本軍捕虜の和田中尉



自らが率いた爆撃機が日本の第100歩兵師団本部に
爆弾を投下しているのを見る和田稔中尉
さぞ複雑な心境であったことと思われる
(1945年8月9日、フィリピン・ミンダナオ島)

ジョーダン少佐によると、和田はいくつかの重要なターゲットを特定し、
そのターゲットへのナビゲーションも非常に正確でした。
和田の助けを借りて、海兵隊はナパーム弾、破片爆弾、
ロケット弾、重機関銃の射撃で目標地域を叩きました。

ジョーダンは攻撃後このように言っています。

「日本軍の将校が我々を目標地点まで連れて行ってくれたので、
あとは爆弾を思う存分落とすだけだった。
やりすぎたといってもいいくらいだった

和田中尉が指定した場所に数トンの爆弾が投下された後、
戦災査定では第100師団の指揮能力が破壊されたと結論づけられました。
その結果、ミンダナオ島での戦闘は一夜にして終結したのでした。


アメリカ軍のPBJミッチェル爆撃機に乗って帰路につく和田
アメリカ軍に協力して行われた空襲について何を思う


任務終了後、和田は当然のことながら憂鬱そうに見えましたが、
自分の行動に後悔の念はないらしい、と周りは判断したそうです。

海兵隊の空襲を見ていた和田が、VMB-611の飛行技術について、
"You clazy six er-reven Malines pletty good fryers. "
(日本人英語に多いLとRがごっちゃになった発音)
とお世辞めいたことを言ったからだというのですが・・。

これを卑屈と思うのはわたしが日本人だからでしょうか。


■ なぜアメリカ軍に協力したのか

「戦争を早く終わらせたい」という建前はともかく、
なぜ彼は尋問官の協力要請に素直に応じたのでしょうか。

彼はアメリカで生まれた日系アメリカ人でありながら、
「キベイ」の慣習によって幼い頃日本に送られたようです。

日本での生活は、おそらくアメリカ生まれであることを隠さねばならず、
アイデンティティに苦悩しながら成長したのかもしれません。

学生、しかも東大の学生でありながら英語が全く話せなかったというのは、
日本人のインテリには今日でも全く珍しいことではありませんが、
彼がアメリカ生まれであることを考えると異様です。

これを彼の屈折した自我と結びつけるのは穿ち過ぎでしょうか。

これも想像ですが、自分が生を受けた国のことは、戦争が始まってからも
周りの日本人のように敵視することはできず、ましてや、
お国のために命を捧げるに足る愛国心などさらさら持たないまま学徒動員され、
入隊後は表面を取り繕って軍隊生活を送ってきたのではという気がします。

しかし、あの8月10日、任務を終えて帰ってきた和田中尉は、
海兵隊員の目には、自分のやったことにむしろ満足しているように見えた、
と報告されており、それは、彼の人生において、終戦に貢献するという
重要なことを成し遂げた達成感からだろうとアメリカ人たちは考えました。


1945年8月10日の作戦終了後、和田は「国を持たない人間」になりました。
報復から守るために過去を消し、新しい身分と姿を与えられたのでした。

それ以降、和田の消息は不明となりました。

この日の記録は35年以上も機密扱いとなっており、
現在でもアメリカ海兵隊の公式史料には掲載されていません。


フライング・レザーネック航空博物館シリーズ続く




映画「大平洋機動作戦」〜”Fire! Fire! Fire!”

2021-12-06 | 映画
「オペレーション・パシフィック」、大平洋機動作戦最終日です。


「サンダー」は偽装船との衝突で通信装置が壊れてしまい、
そのため消息が絶たれてしまいました。

ハワイの艦隊司令部には、その知らせを聞きつけて
元妻というだけで今は無関係の関係であるMSがやってきました。



この4年間、別れた夫の艦がどこにいても関心も持たず、
他の男とデートとかしてたのに、急にどうしたというんでしょうか(棒)

そもそも副長の別れた妻というだけの、しかも一介の看護師中尉が
司令部のプロッティングルームに入るなど普通は許されるはずがありません。


しかし「サンダー」は無事に真珠湾に到着しました。
士官室では一連の破損などについての事情聴取が行われ、
艦長の死など、原因の全てが魚雷の不調にあるという結論に達します。



下艦した乗員たちは誰いうともなく教会に集まりました。
哨戒中に失った艦長始め戦死者の霊に祈りを捧げるためです。



ギフォード少佐は水葬の際に捧げられる海軍の祈りの言葉を唱えました。

「私たちは、その魂を神に委ね、その身体を深みに委ねます。
それは、イエス・キリストによる永遠のいのちへの復活を、
こころより、そして確実に願ってのことですが、
そのイエス・キリストが世を裁くために再びよみがえるとき、
海はその死者を放棄するでしょう」


ペリー艦長の弟、ボブは兄の死の責任がギフォードにあると考えます。
戦闘ではなく、副長の潜水命令が彼を死に至らしめたというのです。


副長として乗員全員の命に責任を持っていたから潜航した、と彼を庇うMSに、
ボブは、それならなぜ緊急潜水してすぐ戦うために浮上したのか、と反撃します。

「かばうのはよせ、彼は英雄になりたかっただけなんだ」


そこに現れたデュークに、ボブは冷たく
「あなたは兄を見殺しにした」
と言い捨て、去っていきました。



どちらにもいい顔をしたいMSは、デュークに
「彼もいつかはあなたを恨まなくなるわ」

辛ければわたしを頼って、などというのですが、
デュークは冷たく、

「潜航は自分ではなく艦長が自らを犠牲にして下した命令だ。
誰にも恨まれる筋合いはない」

正論ですが、自分を無視されてカチンときた彼女は、スティール師長中佐に、

「自分の立場がよくわかった気がします!」

といい、荒々しく部屋をあとにします。
わかったなら、今後はあまり出しゃばらない方がいいと思うね。


さて、このへんでどうしても書いておかなくてはならないことがあります。

当作品制作にあたり、朝鮮戦争の関係で日本人侮蔑表現はやめよう、
ということに決まったといいながら、
透けて見えるこの映画の拭い難い差別表現についてです。

当たり前の話ですが、潜水艦というのは、
基本的に敵の船に奇襲をかけて彼らを殺すのが仕事です。
それは戦争であるから仕方がないことでもあるのに、あえて
映画はアメリカ側の殺戮の正当性をサブリミナル的に盛り込んできます。

この映画の戦闘相手は軍艦のみならず、民間船のこともあり、
そこには当然生きた人間が乗っているわけです。

しかるに、この映画で日本人が乗った船が破壊されて沈められる時、
画面にはただ「記号のような」撃沈シーンが繰り返されます。
魚雷で吹き飛び、沈んでいく船には人っ子ひとり乗っていないような描き方です。

ところが、今回の戦闘シーンのように、撃沈しようとした民間船が武器をとり、
反撃してきたというシチュエーションにおいて、彼ら日本人は卑怯にも
白旗の偽装をし武器を偽装し、艦長を撃ち殺すという「色付け」がされます。

つまりこのことによって、見ている方は意識するしないにかかわらず、

「こんな卑怯なことをされたら殺しても仕方ない(構わない)」

という我が方の民間人殺戮に対する「言い訳」を植え付けられることになります。

この人種差別的な「死の分類」により、この映画による戦争では
二種類の死しか起こらなかったように見えます。

一つは、「悪い日本人が奇襲攻撃をしたことによるアメリカ人の死」

そしてもう一つは、

「善良なアメリカ人が奇襲攻撃に対して自衛的に対処したことによる日本人の死」



さて、本国での休暇命令をあえて断り、ギフォード少佐は、
ペリー艦長が行うはずだった魚雷の不具合の原因究明に乗り出しました。

信管の問題なのに、技術者でもない彼に何ができるのかという気もしますが。


これらの映像は海軍工廠の魚雷組み立て中の本物です。


こちらは海軍工廠でロケさせてもらったらしい映像。


工廠で仕上がった魚雷には信管に問題はないのに、なぜ?



というわけで落下実験が行われることになりました。


魚雷目線で見た地面の図。
クレーンの先にカメラをつけたんですね。



しかし10回にわたる実験を繰り返しその度に部品を変えてもダメ。
ちなみに映像は三回同じ実験を使い回ししています。



そこで撃針を軽いものから交換してみようということになり、
ようやく問題は解決されました。

ちなみに魚雷は設計や製品に不備があると、グッドヒット
(魚雷が目標の側面に対して垂直から約45度以内に当たること)
で誤作動するというのは本当ですが、同じ魚雷でもちゃんとしたものなら
下手な当たり方(船体側面に対して鋭角に当たる)でも確実に爆発します。

この問題は映画のように潜水艦の乗組員によるものではありませんが、
米海軍では実際に同じような経緯を経てで発見され、解決されています。


魚雷の不具合も判明し、正式に「サンダーフィッシュ」の艦長になったデュークは
ご機嫌でMSをデートに誘いにきますが、こっぴどくはねつけられます。
彼女は自分がせっかく慰めているのに拒否されたことを怒っておるわけです。

「あの時もそうだった。夫婦は慰め合うものなのに、
あの子が死んだ時、あなたは自分の殻にとじこもるだけだったわ」

なるほどー、そこにもっていきますか。


その話を盗み聞きして一言言わずにはいられないのが
もはや単なるおせっかいおばさん、スティール中佐、

「自分以外を必要としていないなんて、あなたが彼によく言えたわね。
あんなことを言ったら彼は二度と帰ってこないわよ!

(´・ω・`)



同時刻、「サンダー」が次の哨戒に出た太平洋のどこかの空母には、


ペリー弟のボブが、艦載パイロットとして乗り組んでいました。


どうやらこれから日本軍がレイテ島を奪還に来るようです。
(いいかげん情報)

実写

その頃「サンダー」は他の駆逐艦に洋上補給をおこないました。

故障したエンジンギアを送ったついでに、
こちらの見終わった映画「ジョージワシントンがここに泊まった」(コメディ)と、
向こうの持っていた「エキサイティングな潜水艦映画」を交換します。


早速その夜は映画上映会。

ケリー・グラントの潜水艦映画・・ということは、間違いなく
「デスティネーション・トーキョー」でしょう。

Destination Tokyo - Trailer


しかし本職にはやっぱりあまり受けないようで、チーフは居眠りするし、
このナビゲーター士官ラリー中尉は、映画どうだったと聞かれて、

「まあ、ハリウッドの連中が潜水艦でなんかやってるってかんじですかね(笑)」
(Oh, all right I guess, sir... the things those Hollywood guys can do with a submarine.)

それはそうだがお前がいうな。

「あいつらはワシントンの映画、楽しんでるかな」



しかし次の日、彼らは海面の油膜の間に残骸とともに漂う
「ワシントン・・・」のリールボックスを見つけてしまいました。

そして彼らを撃沈したと思われる潜水艦の存在を感知します。


「艦影早見表」で彼らが見ているのは伊121〜124のデータです。
潜望鏡で敵潜を確認しながら、あそこで何をしているんだろうと副長が呟くと、
ギフォード艦長は、こういいます。

「太陽で艦位を確認しているか、舌舐めずりしてるんだろう」


「ファイア!」

この時魚雷は水面をポーポイズ運動しながら進みますが、
潜水艦の発射した魚雷は決してこのような動きをしません。

魚雷は見事ヒット。
コールドウェル少尉が、潜水艦の撃沈を初めて見た!とついはしゃぐと、
いきなり音楽が止まり、艦長が無言で彼を睨み付けていました。



「・・・・・・」

はしゃぐなよ、といったところでしょうか。
失われた命に対する最低限の敬意ってもんがあるだろ、的な?



続いて大船団をレーダーで見つけた「サンダー」は、それが船団ではなく
聯合艦隊であり、しかも周りを360度包囲されていることに気づきました。
空母、戦艦、巡洋艦などが勢ぞろいです。
(音楽はラソラ〜ラソラ〜ラソラドラソラ〜♪みたいなアジアンテイスト)



先ほどのラリー中尉は、思わず呟きます。

「今後ハリウッドの戦争映画ぜってー馬鹿にしないわ、おれ」



ギフォード艦長は、爆雷に耐え、ありったけの魚雷をぶっ放し、
混乱させてここから脱出すると指令を下しました。

「ファイア!」「ファイア!」「ファイア!」

連続して放った6本の魚雷は敵艦に大当たり。(画像省略)


そしてその後雨霰のように爆雷が降ってきます。
レギュレーターや排気管なども各種破損し発射管室も浸水。



駆逐艦を撃破し、他の艦隊も去った海域に、空母が残っています。
しかもよく見ると航行しています。なぜに?

実際は故障した程度の空母を駆逐艦が護衛しないというのはあり得ません。
もし損傷が酷かったとすれば、艦隊は自らの手で撃沈してから海域を去るはずです。

しかしまあこれは映画なので、艦長は当然この空母の攻撃を命じます。
空母一隻撃沈をスコアに加えるため、そして「艦長の仇を取るため」に。



その頃、ルソン沖に達した先ほどの艦隊を攻撃するために、
ボブ・ペリーの所属する航空隊が空母から出撃していました。

実写映像

「サンダー」はパイロットの海域での救助を命じられ、急行します。
そして航空機から連絡を受け(これは技術的にあり得ない)救助に向かうと


なんと要救助者はボブ・ペリー中尉その人でした。
イッツアスモールワールド。


そこに日の丸をつけたT-6テキサンが例のアジアンメロディとともにやってきます。
8機撃墜した零戦の「エース」という設定です。



機銃でボートが転覆し乗員が投げ出されたのを見て、
艦長は自ら海に飛び込みました。

生存者二人(ボブとコールドウェル少尉)を収容した時、機銃で艦長は負傷。
先任伍長とアラバマ出身の海軍ファミリー出身水兵は亡くなりました。



しかし、零戦は機関銃で海に叩き込んでやりました。(ストック映像による)


艦長は下っ端の少尉に対してもちゃんと労をねぎらいます。

「ミスター・コールドウェル、ありがとう」


そして救助した恋敵、ペリー中尉の枕元でタバコを吸いながら、
(そういう時代です)

「どうだ様子は」
「礼を言わなくてはいけませんね」
「私たちは7人搭乗員を助けた。君はその一人さ」

「この間はひどいことを言ってすみません」
「身内を亡くしたら誰でもああいうさ」
「広い太平洋であなたの近くに落ちて、またあなたを英雄にしてしまった」


そのときヘリがやってきて、ペリー中尉は搬送されることになりました。
その頭をぽんぽん(というかどう見てもバシバシ)叩くデューク。

「・・・なんです?」
「なんでもない」

なんでもないじゃないだろ?
ボブが動けない&立場上怒れないのをいいことに子供扱いって・・。

しかもボブは、別に助けてもらったからって、MSを諦めたなんて
一言も言ってないよね?



無事帰国すると、埠頭にはメアリー・スチュアートが待ち構えていました。


そして二人は駆け寄り、出撃前の問題が何も解決しておらず、
ボブ・ペリーとの関係も何も変わっていないというのに、
何もなかったかのように熱い抱擁をかわすのでした。

それから二人で一緒に手を取り合って歩いて行きます。
彼らの行き先は病院。

ジャングルから連れ帰った赤ちゃん「ブッチ」を彼らの養子に迎えるためです。
潜水艦と陸で連絡が取れなかったはずなのにいつの間にこんな話になっているのか。

それに、そもそも二人の問題の根源だった「夫の不在」という点で言うなら、
ギフォードが潜水艦艦長となった今後の方が、いろいろと見通し暗くない?

時間的にも、生存率の点でも。


最後に、わたしの感想に最も近いと思われたレビューを一つ紹介します。

第二次世界大戦中やその直後に作られた映画には、50年以上経った今となっては、
時代遅れのステレオタイプとしか思えないようなものも多いが、それでも、
国民全体(その世代の人々)をそのように行動させ、
感じさせた理想や価値観が反映されている。

戦時中、海軍に所属していた私の父は、ジョン・ウェインの大ファンだった。

ウェインは、父が少年時代や軍人時代に受け入れた価値観と
同じものを体現していたのだろう。

このことは、私にとっていくつかの妥当性と展望を与えてくれる。

この映画がウェインの最高の戦争映画とはみなされていないことは承知しているが、
彼の戦争映画がなぜ人気があったのか、

そして今もあるのかを示す良い例だと確信している。


終わり。


映画「太平洋機動作戦」〜”Take Her Down! "

2021-12-04 | 映画
ジョン・ウェイン主演の戦争映画、「太平洋機動作戦」2日目です。

ここは真珠湾の海軍病院。

看護師でギフォードの元妻、メアリー・スチュアート中尉は、
上司のスティール中佐から「サンダー」を迎えに行くよう命令されました。

ペリー艦長が友人のギフォードのために気を利かせて
元妻に会わせてやろうという企み、艦長特権で 指名してきたのです。

なんのためにペリーがこんなことを画策するのかわかりませんが、
おそらく、彼らが元鞘に収まった方がいいと考えたのでしょう。

その理由は後で明らかになります。

しかし、MSはそれをやんわりと断ります。

「会うならわたしのホームグラウンドがいいんです」

亀の甲より年の功、すぐに女心を察したスティール中佐ですが、
これは一応上官からの命令でもあります。

「でも向こうからの名指しなのでね〜。
・・・あーそうそう、頭痛の具合はどう?」

「酷いです」(きっぱり)

「それでは許可します」(`・ω・´)

メアリーを演じているのはパトリシア・ニール

皆さん当ブログでこの名前と顔に見覚えがありませんか?
この14年後、この二人は「危険な道」(In harm's way)で共演しました。

ニールはまだこのとき24歳でウェインと19歳の年齢差があったため、
ウェインは彼女の起用に反対し、そのせいもあったのでしょう。
彼らは結局撮影が終わるまで打ち解けることはありませんでした。

ニールの方もウェインに全く魅力を感じなかったばかりか、
(それでもキスしたり抱擁したりしなければならない俳優って大変)
彼のゲイの広報担当に酷い扱いを受けた、などと告白しています。

今回この「ゲイの広報担当」と言う言葉に「ん?」と思い、
英語のいわゆる4channelのようなところまで読んでみたら、
ジョン・ウェインにはかなり濃厚な「ゲイ疑惑」があるんだそうです。

彼はアメリカの男らしいヒーローを演じ、大衆には愛されましたが、
ラブシーンがことごとく見るに耐えないのはなぜなのか、ということは
わたしがかねがね気になっていたことの一つです。

まあ、なんでもありのハリウッドなので、よしんばそれが本当だったとしても
あまり驚きませんし、ウェインの女性に対する一種隔壁を感じさせる演技も、
もしそうなら納得というか合点がいくというものです。

パールハーバーへの帰還シーンはどの潜水艦のものか、実写映像です。

着いた途端セットになります。
真珠湾の潜水艦隊司令が乗艦してきて乗員を労います。

コワモテの先任伍長は、子供がいなくなって大慌て。
なんとこんなところから(ボイラーみたいな)出てきて皆大笑い。

艦長以下幹部は基地司令と魚雷の問題について話し合います。
それは磁気式信管に問題があるので、着発信管に戻すつもりだ、と司令。

艦を降りる尼僧たちにお別れの挨拶。

「しかし変だな・・」

デュークに会わせるため、艦長命令で指名した看護師のメアリーはどこ?

あ、いたいた、と後ろからトントンしたら別人でした。

「すっすみません人違いで」

艦長の企みなど夢にも知らないデュークは、
一人で新生児室の「ブッチ」に面会に来ていました。

さっそく怖い婦長少佐が飛んできて、やれ赤ん坊を泣かすなの、
マスクしろのとやいやい怒られてしまいます。

「あなた父親なの?」
「いや僕はあの子をジャングルから連れてかえ」
「ここはジャングルじゃありません!ご機嫌よう」
「ブッチに会いに来ただけなのに・・・」(独り言)

「・・・ブッチですって?」

「・・・そう呼んでる・・君は嫌がるかもしれんが」

「いい名前ね・・・あの子と同じだわ」

ん?

んんんんん〜〜〜?

この二人、離婚したんですよね?
どうしてこうなる!


潜水艦「サンダーフィッシュ」の副長、デューク・ギフォード少佐と、
看護師メアリー・スチュアート中尉はかつて夫婦でした。


二人の最初の息子「ブッチ」が生まれてすぐ亡くなった時、
夫の激務で一緒にいられなかったことが齟齬を生み、二人は離婚に至ります。


しかし互いへの愛情がなくなって離婚したわけではないので、
今回再会するなりつい熱い抱擁をしてしまったようです。

この時の二人の会話によると、メアリースチュアート、MSは
Penance、つまり懺悔の意味もあって、離婚後、
看護師の資格を取り海軍に奉職しました。

「ブッチ」とあだ名をつけた赤ちゃん。
彼女との4年ぶりの再会。
これは運命すぎる!

デュークは勢いついでにその場で復縁を切り出し、
その夜のパーティーに誘いますが、彼女の口からショックなことを聞きます。

「今夜はボブ・ペリーとデートなの」
「・・・艦長の弟か?小さい時よく頭をポンポンしてやったもんだ」


相手が若造だと知ってすっかり安心したデューク、
ダメ押しで押し倒そうとしたら師長に見つかってしまいます。



「ここをどこだと・・・」
その瞬間、MSが

「中佐、見てください!これがわたしの”頭痛の種”なんです」


あのガキなら勝てる、と余裕こいたものの、そこは慎重な潜水艦乗り。
兄であるところの艦長ペリーに、
君には小さい弟がいたけどどうしている、と探りを入れると、

「もう一人前の男になっておまけにイケメン、女の子にMMさ」


(そ、そうなの?)



そこにMSと一緒にご本人ボブ・ペリーが登場。
こりゃ確かにイケメンだし明らかにデュークよりお似合い。
階級も中尉同士で同じだし、おまけに潜水艦乗りの天敵、パイロットだと?

うーむ、これはますます許せん。

しかも、「サンダー」が魚雷の不具合で逃した艦隊は、
僕の航空隊が片付けてしまいましたよ〜とかいうではありませんか。

「ピッグボート・ボーイ(潜水艦乗り)にはこんなことできないっすよね。ふふっ」


カチンときたデューク、MSと踊ろうとするボブに割り込み、
僕と踊ろう、いや拙者が、と女の取り合いが始まりました。
するとMSは二人の間からするりと抜け出して、


「わたしはポップと踊りたいわ」

POP=「親父」「お父さん」だけあって避難所扱いなわけですな。
しかしこの女、どちらも選べないというよりどちらにもいい顔をしたいのね。
そんな狡い女心もお見通し、亀の甲より年の功(アゲイン)。
ポップは彼女にズバッと釘を挿します。

「自分の本当の気持ちをごまかすために弟を利用するのは感心しないな」(正論)



こちら野郎二人のテーブルでは、もうガキじゃないボブがデュークに、

「僕は確かに昔文武両道でスターだったあなたに憧れました。
でも、今ではあなたが彼女を不幸にしたのが許せない。
僕は必ず彼女と結婚します!

と宣戦布告します。
そして、もうプロポーズもしたもんね、という言葉を聞くなり
デュークは席を蹴立てて立ち、


ポップの腕からMSをもぎ取るように奪い、

「奴にプロポーズされたのか?」

幼稚で子供っぽく性急な元夫に呆れた風で、MSは、
今来たばかりだというのにボブを連れてさっさと帰ってしまいます。



女が自分と張り合っていた元夫を振り払って自分に家まで送らせたら、
男なら誰だってこれはオレに脈ありだと思いますよね。

なのにMSはボブのキスを今更拒否するじゃありませんの。

「彼のことどう思ってるの?」
「別れた夫と会えば色々と考えてしまうのよ」


なんとその会話をこっそり物陰で聞いているデューク。
ボブが去るなり飛び出して、



「あいつ(kid)にプロポーズされたのか!」
「海軍と全く関係のないところで暮らそうって言われたのよ」
「あんな子供とキスして感じるのか(zing)!」←おっさん・・

子供子供ってあんたね。
自分が勝ってるところが歳しかないって言ってるのと同じだよねこれ。


彼がいつも君のことを考えていた、もう一度チャンスをくれ、
と熱心に口説いていると、またしても「仕事」が彼の邪魔をしました。


彼の乗員たちが門限を過ぎて外出許可区域外で女の子を読んで馬鹿騒ぎをし、
住民の器物を破損して警衛を殴ったカドで憲兵隊本部に連行されたのでした。



しかも全く反省の色がなく、収監中の檻で歌ったり踊ったり。



なんとか穏便に、と懇願するデュークに憲兵隊中佐は、

「もう我慢できん!毎日うちの部下がボーリングのピンみたいに殴られてるんだ。
『サンダー』だけじゃない。
『タング』『シルバーサイド』『ワフー』
『グラウラー』の連中にな」

はいずれも実在の潜水艦です。

このとき日本語字幕が「グラウラー」だけを翻訳しませんが、
これは翻訳者が「グラウラー」とその艦長の逸話を知らず、この名前が
伏線として出てきたということに気がつかなかったせいでしょう。

デュークは、憲兵隊長に今回の任務で子供や尼僧を助けたから大目に見ろと言い、
さらに被害を訴えていた酒場の親父が密造酒を提供していたのを逆手にとって
全員の無罪釈放に漕ぎ着けます。


そして次の哨戒の出撃の日がやってきました。
この映像では昼ですが、次の瞬間場面は夜になります。



出航する艦長のポップの弟であり恋人のボブと一緒の車に乗り、
見送りに駆けつけたメアリーに、これみよがしのキスするデューク。
後ろで固まるボブ。

この後ボブとMSの二人は喧嘩にならなかったのかしら。


「サンダー」は出航するなり3隻もの船舶を魚雷で葬りました。


しかし、そのうちまたしても魚雷の不調に脚を救われはじめます。
命中したのに爆発しない不発が続いて士気下がりまくり。

艦長は、弾頭が直角に当たった魚雷がいずれも不発だったことから、
その原因を突き止める必要があると断定します。

連絡を取った本部はペリー艦長にその任のために艦を降りることを命令し、
ペリーは後任としてギフォードを艦長に推薦しました。
つまりこの哨戒がポップの「サンダー」艦長としての最後の航海となるわけです。


そして次のターゲットである民間船が現れ、魚雷が発射されました。


撃たれた民間船は魚雷に気がつきました。
しかし、最後の魚雷はまたしても命中したのに不発です。



そのとき、不思議なことが起こりました。
日本の船が国籍旗を降し、代わりに白旗を揚げたのです。

相手に無線でコンタクトを取ろうとしますが応答なし。
そしてなぜかこの貨物船は救命ボートを降し始めました。



浮上して機銃を構えながら近づいていくと、



軽快な中華風のBGMとともに中国人ぽい船員たちが飛び出してきて、
高射砲やブラウニング機銃(日本にねーよそんなもん)をむき出しにしました。

奴らはこれらの武器に風呂敷をかけて航行していたようです。
なんて卑怯なジャップなのでしょうか。

ここでちょっと解説しておきますと、このような武装民間船は、
第一次世界大戦でUボートに対抗するためにイギリス海軍が始めたもので、
Qシップ(Q Ship)といいます。

正直Uボートに対してはあまり実用効果はなく、これにならって
アメリカが運用した5隻のQシップも全く成果はなかったそうです。

日本には「でりい丸」という偽装船が実在しましたが、初出撃の次の日、
この映画のように「正体を表す前に」潜水艦「ソードフィッシュ」にやられました。

「武装商船」Qシップはなにも日本の専売特許でも卑怯な技でもないですが、
白旗を揚げておびき寄せておいて攻撃する、というのは
明らかに創作であり、ついでに悪質な印象操作です。


そして、偽装船の攻撃で艦上にいたペリー艦長が銃弾に倒れました。
彼は叫びます。

「Take her down! Take her down!」

どこかで聞いた言葉だとこのブログをお読みいただいている方は思うでしょう。
そう、彼と同じように特務艦「早埼」の機銃に斃れるも自分を残したまま
艦の潜航を命じたUSS「グラウラー」のハワード・ギルモア艦長の言葉です。

史実によるとギルモア艦長は外からハッチを閉めましたが、この映画では
ペリー艦長はすぐに死んでしまったので、ハッチは中から閉められます。

今や自動的に艦長となったギフォード少佐は、潜航を命じ、その後
貨物船の後方(そっちには武器がないらしい)に浮上をし体当たり
(つまり昔でいうところの衝角攻撃ってやつですね)を決断しました。


艦橋から叫び、自ら斃れた者の銃をとってぶっ放すウェインの姿は
そのまま西部劇の悪漢を倒すガンマンのようです。



「相手への突撃」も、「グラウラー」と「早埼」の間で実際に起こりました。

「グラウラー」と「早埼」はどちらもが体当たりを企図して接近しましたが、
全速力で体当たりしてきたのは「早埼」の方で、それを取舵で避けた結果、
「グラウラー」が「早埼」の艦体中央部に激突したというのが事実です。


実写映像

この映画では卑怯な貨物船は体当たりによって轟沈します。

「グラウラー」は相手を撃沈したと思い込み、記録もそうなっていましたが
実際は「早埼」は日本に無事帰還して終戦を迎えています。

戦後は復員輸送艦となって働き、その後賠償艦としてソ連に引き渡されました。



続く。