ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ある海兵隊パイロット夫妻の結婚式(とその犬)

2015-04-30 | アメリカ




一通りの見学を終わって、ブラッドが「飛行機の時間までうちでコーヒー飲んでけば?」
と提案してくれたので、お言葉に甘えることにしました。
日本人らしくわたしたちがえ?そんなのいいんですか?お邪魔じゃないですか?
と気を遣ったのに対し、ブラッドは軽~く

「House is just a house」

と言ったのがなんかおかしかったです。
彼らの家は、基地からわずか5分くらい車で行った高台の住宅街の、
いわば「普通の日本家屋」でした。

玄関を開けたら上がり框があって、入ってすぐ廊下があって、応接間の横に和室があって・・、
というあのお馴染みのタイプの家屋です。

もちろん基地の中にドミトリーがあるのだけど、職場と家は切り替えたい、
という二人の考えで、外に住むことになったそうです。
こういう風に考える軍人は結構多いものらしく、この家も前の借主は
やはり海兵隊の軍人家族だったということを言っていました。


わたしたちがとまどったのは、日本家屋の玄関のたたき、普通ならそこで靴を脱ぐところを
ひょいと階段のように上がって靴のまま入ってしまうことで、全員がそこでえ?と
立ち止まってしまい、二人にそのままでいいよ~と促されて中に入りました。

そして、お留守番していた彼らの愛犬が上がり框までお迎えしてくれました。



和室にダイニングテーブルを置いてそこで食事、日本人がダイニングテーブルを
置きそうなスペースには何も置かず、その分ソファーのスペースが広くとっています。

同じ間取りなのに、アメリカ人が住むとこうなるのか、とちょっとした驚きでした。
そして畳のダイニングのところも靴で歩いてしまうというあたりも。
日本人ならスリッパすら憚られる(畳が傷むから)ところですよね。



ブラッドはいかにもイヌ好きなタイプだなと思っていたのですが、やはり。
この犬(時間が経ったので名前を忘れてしまいました)はもともとブラッドの飼い犬だそうです。

わたしたちのためにキッチンに立ってコーヒーを入れてくれているブラッドを
期待の眼差しで見つめる犬。

耳が垂れているのに短毛で精悍な体型のこの犬、なんていう種類でしょうかね。

とにかく、彼はアメリカ生まれで、子犬の時日本に連れてきたのだそうです。



ところでキャリーさんはブラッドがシミュレーターに入っている間車であちらこちら
基地を案内してくれていたのですが、そのときにブラッドとの結婚式について

「サーベルのトンネルをくぐっている写真があるから後で見せてあげる」

と言ってくれていました。
もしかしたら、家に呼ぶことは最初から二人の間で決まっていたのかもしれません。
ほとんど初対面の人間を家に招じるくらい信用するというのは、ひとえにTOと
大学のアルムナイ同士であったということに他ならないと思います。

それはともかく、その二人の結婚アルバムを見せていただきました。
写真を撮ることも許可済みです。

ブログにアップするとは断っていないので顔隠しで。

この表紙らしい写真の飛行機、何でしょう?




出た、アメリカ人の好きな写真ポーズ。
ジェシカさんはアメリカ女性の中でも少数派に属する「ものすごくスマートな人」で、
体型的にはジョン・F・ケネディの息子の奥さん(ファッション関係者だった)の
キャロラインという人に雰囲気が似ているタイプ。
つまり美人です。

ある集まりで偶然出会ってブラッドが一目惚れしたとのこと。



そうそう、これが見たかったのよ。
教会から出てくる二人をサーベルのトンネルが・・・・・
・・・・まあ、飛行中隊なのでずらりとというわけにはいかなかったようだけど、
いや本当にかっこよろしいなあ。

自衛隊員と結婚した人も、メスジャケットなどをお召しになった新郎が
かっこいいので新婦はもちろん新婦の友人大感激、というものらしいですが、
このときのブライドメイド(花束を持っている新婦の友人、左のブルーのドレス)
たちは新郎友人にときめいたりしたのではないかと勝手に思ってみたり。

ちなみにこのブライドメイドの衣装も、結婚式の雰囲気を決する重要なファクターなので、
新婦と友人たちはこれにこだわりまくります。
これを決める様子を毎回三組ずつカメラで追う番組がアメリカにはあるくらいで。

さすがに彼女の友人は美人さんが多いようで、このような難ありスタイルの人には
難しそうなデザインと色も、綺麗に着こなしています。
ブルーはやはり海兵隊のブルードレス?と思ったのですが、ブライドメイドのドレスは
「サムシングブルー」で圧倒的に青が多いのです。



結婚式会場の上空をおめでとう飛行するF-18ホーネット。
すごいですよね。
一回の飛行にとんでもなくお金がかかるらしいということはわかりますが、
それを(さすがに編隊飛行ではないにせよ)出してくれるとはさすがアメリカ。

それぐらいせんでなんのアメリカ軍か、というわけでしょう。



皆に祝福を受ける二人。
ブラッドの左胸にはウィングマークがありますね。
ちなみに彼は軍人になろうとは全く考えておらず、エンジニアになりたかったそうです。



棚の上に飛行機の模型が(笑)

彼らは結婚して3年目でしたが、まだ子供を作る時期ではないということで、
日本では犬との三人暮らしでした。
もしかしたら日本に赴任している間は色々と大変なので(彼女の不便とか)、
アメリカに帰るときまで我慢するつもりなのかもしれないと思われました。


また、キャロラインさんの親族には軍関係の人物は一人もいなかったため、

「軍人の妻」の立場に未だに慣れていないという部分があり、特に夫が危険な仕事をしていることについては

「考えないようにしている」

とのことでした。 



時間が来てお宅を辞する時、ブラッドがわたしたちにくれたお土産の一つ。
ペナントやコップのカバー、メダルなど、マーク入りの品ばかりです。
Tシャツは2枚あって、わざわざ基地でわたしたちのために買い求めてくれたのだと思うと感激でした。 



ところでこのわんちゃんなんですが(笑)
カメラ目線でしょ?
このあとなぜかわたしのところにまっしぐらにやってきて、熱烈歓迎。

昔から犬猫に妙になつかれるという体質を自負するわたしですが、

ここでもまたものすごく好かれてしまい、もう舐めなさる舐めなさる(笑)
とりあえず外に出ている部分、肘から先は満遍なく彼の唾液まみれです。

舐めるって、本当に犬の歓迎のしるしなんでしょうね?
と疑わしくなるくらい、わたし一人が集中して「舐刑」(舐めの刑)にあいました。

TOも息子も普通に犬好きなんですが、わたしほどではないので、
動物ってそういうのがわかるのかな、と度重なる彼らの歓迎にあらためて思った次第です。



ブラッドはさようならのとき、わたしに向かって敬意溢れる態度で、

「ハグさせて」

といい、ハグ(息子とTOは握手だけ)をして別れの挨拶をしました。


優しく、かっこよくていかにもパイロットらしい精悍な男性と

やはり知性溢れる美人の(しかもブロンド)カップル。
まるでアメリカのドラマに出てくるような絵になる二人です。


「もし息子ができて自分と同じ道を選ぶといったらどうする?」

という質問には、知的な人たちらしく

「彼がそうしたいと言うならそれは彼の意思なので尊重する」

と答えていましたが、とりあえずそれについてはこだわらないそうです。 

ブラッドの部隊はこの後すぐ外地に行く予定になっており、そのあとも
二人が一緒に居られる時間はあまり多くない、ということでしたが、
この美しい夫婦と、将来彼らの間に生まれてくる子供達ががこれからも幸せでいられるように、
アメリカと彼らの上に何事も起こらないでほしいと、心から今も祈らずにいられません。





 

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ある海兵隊パイロットとその妻の話(前半)

2015-04-29 | アメリカ

2013年というともう何年も前のことのような気がしますが、
1年半前なのでやっぱり気のせいではなく随分前のことになります。
当ブログでもご報告した岩国の海兵隊基地訪問記で、彼らのうちに遊びに行ったことだけ
なんとなくそのときに書き残したまま日にちが経ってしまいました。

海兵隊の話題になるたびになんとなく思い出していたのですが、
今日ふとお話しする気になったので、お付き合いください。


うちのTOがアメリカで留学した大学には、日本にもいわゆる同門会があり、
日本に仕事で立ち寄ったりあるいは縁あって住むことになったアラムナイ
(alumuni・学校のOB、OGのこと)のために定期的に会合を持っています。

アメリカ人を始め外国から来たアラムナイと日本の卒業生の懇親会のようなもので、
いわゆる「外人受け」するような催し、築地市場を見に行ったり、花火大会に行ったり、
というようなイベントが企画されることが多いのですが、そこで出会ったのが、
海兵隊のホーネットドライバーを夫に持つ女性、レイラさんでした。

・・・・え?

たしかそのときはアンジーとか言ってなかったかって?
はい、ブラッドというのがドライバーの名前だったので、つい実在のカップルの名前から
拝借してきたのですが、その後アンジェリーナ・ジョリーの方が嫌箱入りしてしまったので(笑)
というか男性は本名だったのか、と気づかれた方は速やかにスルーしてください。
軍機ですから。

というわけで、一度上げた写真で、今日はおさらいをしておきます。
レイチェルさんがTOと話をしていて、

「わたしの夫はマリーンでF-18のパイロットをしているの。
息子さんがいるのなら家族で基地にぜひ遊びに来てちょうだい」

とお誘いを受けたTOは、

「その件については息子より妻の方が興味を持つだろうと思う」

と、わたしのために海兵隊基地訪問を実現させてくれたのでした。
上の写真は、彼の飛行隊のスコードロンマークで、もともとのキャラクターである
コウモリの意匠を、在日部隊の典型的な象徴である旭日と絡ませたもの。

これは木のテーブルに彫り込んだものですが、基地にはかつてここに駐在した
飛行中隊のマークが数多く飾られていて見ることができ、その約35%に
日本駐在の印として旭日があしらわれているのにわたしは気づきました。
全く、旭日旭日と大騒ぎする何処かの国の人に、在日米軍に一度文句をつけてみろ、
といってやりたいですね。

何処かの国と違ってアメリカ軍というのはかつて日本と戦争していた当の相手で、
その相手が今や「イケてること」至上たるスコードロンマークに使いまくってる、
これは一体どういうことなんですか?
どうしても文句を言いたいのなら在日米軍にも言うべきでは?と。



廊下に剥製が飾られているなんてまるで学校みたいですが、
スコードロンマークがコウモリなのでコウモリの剥製。
なんかこういうセンスが日本人とはちょっと違うなと思ってしまったりするのですが。



ロッカールームを見学した時、息子に耐圧スーツを着せてくれているブラッド。

わたしなど民間人で、自衛隊の方々ほど在日米軍との付き合いがないせいか、
こういう光景を見ると、というかアメリカ軍の軍人と一緒にご飯を食べたりして
親しく付き合うと、わたしなどふとその間も、70年前のアメリカ人と日本人が
こんな未来をもし知ったらどれほど驚くだろうか、などという他愛もないことを
ついつい想像せずにいられません。

もしお互い70年前に生まれていたら、間違いなく殺し殺される国民同士だったのに、
今、ここ日本でこんな風に友好している・・。

当時の若者たちはよく「悪い時代に生まれた」と自嘲するように言ったようですが、
今の我々と何が違うかというと、ただ生まれた時代だけなのです。

生まれた時代が不幸だった、生まれた場所が不幸だった。

よくぞ当時でなく現代に、政情不安でテロの続発する場所はなく平和な日本で
子を為したものだとただ、自分の幸運を喜ぶとともに

これからも息子を戦地にやる母親が日本に生まれるようなことが決してないようにと
心から祈らずにいられません。



ロッカールームでは他の人の耐圧スーツやヘルメットも興味深く見学。
この真ん中のヘルメットですが、どう見ても日本の面ですよね?
フォークみたいなのが突き出しているのが謎ですが。



飛行隊の作戦会議室にデカデカとかけられていたポスター。
こういうのを面白がって飾ってしまうのがアメリカ人らしいというか。
ブラッドに意味を知っているかと聞いてみたらなんと知らないと言ったので、お節介にも
中国語でアメリカの侵略者はきっと負けるって書いてあるよ~と教えてあげました。
きっとブラッドは仲間に教えてあげて、彼の飛行隊は中国人に対して一層印象を悪くしたでしょう。

どう見てもベトナム戦争時代のポスターであることを言い忘れたけどまあいいや。



こんな風に本ちゃんの軍人さんが航空模型を操っているのを目の当たりにすることができて感激です。

ところでブラッドのしているかっこいい時計、軍支給でしょうか。

やっぱり耐圧の専用時計があったりするんだろうか。



アメリカ人の悪趣味というか悪ノリ好きが遺憾なく現れている会議室のドア。
ここは彼らのブリーフィングルームの後ろにある小さな二つの小部屋のうちの一つで、
それぞれのドアには中国国旗とこのイラン国旗がペインティングされており、
先ほどのベトナムのポスターは「中国の間」に飾ってありました。

議題によって部屋の使い分けをするのかどうか聞きそびれました。



部屋を出たところにあった各自の「マイカップ」掛けボード。

汚い~!
リリアンさんが呆れたように「ボーイズ・・・」とつぶやくと、

「わたしはちゃんと洗ってますよ?」

とブラッドが一生懸命言い訳していたのが可愛かったです。




それから、基地内にある零戦の格納庫を見学させてもらいました。

昔海軍の飛行基地だった頃の掩体壕が銃痕の痕も生々しくそのまま保存されています。

ここには航空基地の他に終戦間際には海軍兵学校が分校として間借りしていたそうです。




中には映画「零戦燃ゆ」のために作られた零戦52型がこのように格納されています。
空いたスペースには日の丸に書かれた寄せ書きや写真など、日本海軍についての資料がありました。

ところでここの鍵を開けてもらうために下士官の到着を待っている間、ここにも懲りずにやってくるらしい
基地反対派の『市民団体」の話になったときTOが、


「ああいう人たちのバックには中国共産党がいる、というのが彼女(わたし)の説で」

とふともらしたところ(もらすな)、ブラッドが妙に真剣な顔をして「そうなの?」と
聞いてきたという話をしたことを覚えておられる方もいらっしゃるかもしれませんね。
その後、ここの海兵隊基地の偉い人が全く同じ発言をして、案の定基地の外の人とマスゴミが大騒ぎ、
という事件があったのは記憶に新しいかと思います。

このニュースを見た時、まさかとは思うけどこの時の会話が発端になったりしてないよね?
と思わずドキドキしてしまった小心者のわたしでございました。



この後格納庫のホーネットF-18を実際に見せてもらいました。
ブラッドがここは撮らないようにね、と言ったところでは、
ホーネットのエンジンがむき出しで置かれていました。

そして、絶対撮影禁止のホーネットのシミュレーターを体験。
たしたちの中で一番まともに操縦できたのは息子でした。
ブラッドは飛行機に乗らない日も必ずトレーニングとしてシミュレーターに入るそうで、
この日も午前中はずっとここにいたというくらいで、いかにこのシミュレータが
本物のホーネットのコクピット通りに作られているかということだと思うのですが、

わたしたちが全員墜落死した後、みんなで頼んでブラッドの操縦を見せてもらいました。

皆でワイワイやっていたらシミュレータのエンジニアが監視所から出てきて、

「キンタイキョウブリッジの下をくぐれ」

とリクエストするではありませんか。
普通のトレーニングでシミュレータを使うときにはそんなおふざけはできないのだが、
お客さんと一緒に遊んでいる時なら構わないだろう、といったところです。

わたしたちがわあと囃し立て、ブラッドは錦帯橋の下にトライしてくれました。

さしもの現役パイロットもようやく3回目にくぐることができたのですが、
実際は橋桁がもっと低いのでおそらく絶対無理だよね、と皆で笑いあったものです。


さて、というわけで、基地見学が終わったわたしたちを、ブラッドは飛行機の時間まで
家でコーヒーでも飲んでいかないか?と誘いました。

というか、前もここで終わったんでしたね・・。


続く。


 

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ヒラー航空博物館・HU-16アルバトロス~飛行艇の時代

2015-04-28 | 航空機

ヒラー航空博物館は、数多あるアメリカの航空博物館の中でも
なんというか資金が非常に潤沢なのではないかと思わせるものがあります。

去年の夏は合計三つの航空博物館に行ったのですが、オークランド空港にある
オークランド航空博物館は、レストアがなかなか進まず、何年も希少な機体を
敷地内に放置している様子がありましたし、軍用機が中心のキャッスルミュージアムも、
常に寄付を募り、維持していくための努力が機体の保存状態に反映されていない風でした。

しかしここはいついっても展示物のメンテナンスがちゃんとされているし、
そもそも展示の仕方に演出が加えられてドラマチックになっていたり、 
航空に興味を持つ子供たちにサマースクールや定期的な航空教室を開催し、
リピーターを増やす工夫を常に行っていて、盛況です。

残り二つの航空博物館が、わたし以外の客の姿すらほとんどなく、
平日の閑古鳥が鳴いている状態だったのに比べ、ヒラーには必ず一定数の客がいました。

しかし、改めて調べたところ、ヒラー航空博物館のオープンは1998年。
カリフォルニアの非営利団体が母体です。
メンバーシップ制度で、年会費を下は40ドルから上は1万ドル(100万円)まで払い、
ベネフィットを受けたり、常時寄付金を募ったりして維持しているほか、
労働力(レストアに必要なメカニック)などもボランティアを採用しているようです。

ここには個人機用の飛行場が併設されていますから、飛行場の利用客には
大口のスポンサーもいるのではないかと思われます。

さて、冒頭写真は今日お話しするつもりの展示機、

HU−15 アルバトロス。

ヒラーのHPにはこれにamphibian(水陸両用)、さらに
Circumnavigated the world.(世界一周バージョン)と説明があります。

この「アホウドリ」の愛称を持つ飛行艇は、グラマンが開発したレシプロ双発。
ごらんのように、飛行艇独特の船底型下部を持っています。 

飛行艇ですね。

宮崎駿監督の「紅の豚」は、登場人物の全員が飛行艇に乗っていました。
ポルコ・ロッソの飛行機のモデルはマッキM・33、ライバルのカーチスはカーチスR33−2
他にもサヴォイア・マルケッティS・55ハンザ・ブランデンブルグCC・・・・・。

ずれも1900年代、第一次世界大戦後に登場した飛行艇で、この頃は飛行艇に取って
黄金時代とも言うべき反映期、「飛行艇の時代」でもありました。

具体的な時代や国ですら分からないことが多い宮崎作品の中では珍しく、
第一次大戦後の世界大恐慌の不安と混沌の世界、と時軸をはっきり限定してありますが、
それは宮崎監督がこの飛行艇を作品で描きたかったからでしょう。

テーマのコアは主人公が第一次世界大戦でエースと呼ばれた戦闘機乗りで、
つまり「人を殺すのがいやで自分に魔法をかけて豚になった男」であること。
第一次世界大戦から人類は飛行機という武器で殺し合うことを始めましたが、
それでもこの時代は作品でも描かれる「騎士道的な名のある人間同士の戦い」が
航空戦に許された最後の時代であったとも言え、この時代設定には必然性を感じます。

主人公は人間であったとき、戦闘機マッキM・5に乗っていましたが、
豚となってからは飛行艇にその乗機を替えます。

このころ、高揚力装置が未発達だったため、滑走距離に制限がある陸上機と比較して
滑走距離に制限のない水上機は高出力化が行いやすく、いくつかの戦闘飛行艇が生まれました。

この映画にはいくつかそれらをモデルにした飛行艇が登場します。

しかし、技術の発達により陸上機でも高出力化が行えるようになったため、
水上艇は戦闘のためでなく、輸送に目的をシフトして製造されるようになりました。


つまり、飛行艇が歴史的に悲惨なイメージを背負っていないことが作者の用途にぴったりで、
かつこの頃の空気をノスタルジックに表現するツールとして得難い題材だったのでしょう。


というわけで今日は、ヒラー航空博物館の飛行艇関連の展示をご紹介します。



グラマンは大戦中、G−21「グース」という、
名は体を表すというか、いかにも「グース面」をしたこの飛行艇を既に作っていました。
この水陸両用艇はグラマンが最初に民間用に作ったもので、
米軍や沿岸警備隊などでも輸送任務等で活用されました。

もともとロングアイランドに住む富豪がニューヨークに飛ぶための飛行機を
グラマンに依頼したというのが開発のきっかけです。

この「グース」の後継タイプが、冒頭写真の「アルバトロス」です。

戦後すぐ、アメリカ空軍と海軍の両方から「墜落したパイロットの救出」
という用途のため発注されたので、
陸上でも外洋でも運用できるように、
その胴体には深くて長いV字断面を持ち、波浪状態の海面に降りることを可能にしていました。


ところで皆さん、飛行艇と言えば!
我らが海上自衛隊には名機US−2がありますね。





戦後、川西航空機と海上自衛隊はあくまでも飛行艇にこだわり、
PS-1救難艇US-1、そして現在のUS-2につながる名作水上艇を生み出してきました。

それがあの「エミリー」、二式大艇に始まる日本の飛行艇の系譜です。

グラマンは戦争中「フォーミダブル・エミリー」(手強いエミリー)と米軍に恐れられた
名機二式大艇の性能に興味を示し、川西の技術を自社へ移転しようと考えました。
そこでUF-1救難飛行艇、つまりこのグラマンHU-16「アルバトロス」飛行艇1機を
川西航空機に提供し、川西はそれを基に実験飛行艇UF-XSを製作しました。


UF-XSは昭和37年12月の初飛行から昭和41年まで実験と調査を行い、
十分な基礎データを取得したうえでPS−1の制作に取りかかっています。

アルバトロスの制作は戦後すぐに始まり、初飛行は1947年。
ここにあるアルバトロスはもっと新しいものですが、この胴体、



戦後捕獲した二式大艇の波消し装置そっくりに思えるのですが、どう思いますか?



ほら、このシェイプも二式そっくりです。

さて、ここにあるアルバトロスですが、1997年3月にここベイエリアのオークランドを発ち、
5月29日までの73日間で世界一周飛行をしています。

このスポンサーであったらしいアップル社の昔のロゴが鮮やかに描かれていますね。



この赤道を縫うようなコースで、フロリダをアメリカ本土の最後に、そのあとは南米の
ベネズエラからブラジルまで行き、アフリカ大陸にはダカール、セネガルから入り、
スペイン、アテネ、ギリシャ・エジプト、インド洋ではパキスタン・カルカッタに寄り、
タイ、シンガポール、インドネシアから下に降りてオーストラリアへ。
ポートモレスビーなどという、戦記好きにはおなじみの名前もあります。
太平洋ではクリスマス諸島やハワイなどを点々と経由し、ホノルルからオークランドに帰還。 

オークランドから出発して東周りで世界一周する。
このコースを見て、アメリア・イアハートの名前を思い出した方はいませんか?

そう、この企画は、かつて女流飛行家イアハートが、最後の挑戦となった世界一周飛行、
残念ながらそれはニューギニアのラエ、(ポートモレスビー近く)を出発したのを最後に
永遠に消息を経った、あの挑戦をそのまま再現しているのだそうです。

操縦したのはここベイエリア在住の二人の飛行家で、この飛行機は、たった一つの
「世界一周」という目的のためだけに飛んだ、初めてのアルバトロスとなりました。



それでは皆様を機内へご案内いたします。



コクピットとフライトアテンダント?のジャンプシート。



そして客室でございます。
こんなに豪華なシートならば、世界一周旅行もどんなに楽だったでしょう。

この周囲には、かつて全盛期だった頃の飛行艇の資料もあります。



マーチンM−130、クリッパー

このクリッパーあたりは船底がただ丸いだけであるのに注意。

パンアメリカン航空が1935年から1941年まで運用していました。
クリッパーはここに描かれているように全部で三機制作されました。



ボーイングB−314

人員輸送用に12機制作され、全盛期には大統領機となったこともありますが、

飛行機の発達によってその存在意義も薄くなり、
1946年に戦争が終わると全て退役しました。

写真は1939年、パールハーバーで翼を休めているB−314。



飛行艇に艀(はしけ)から人々が乗り込む様子が書かれたリトグラフ。
下のエアメールは、この飛行艇でハワイに旅行をした人が国内に宛てて出したもので、
1940年7月12日の消印があります。
 


表記がなかったので自分で調べるしかなく時間がかかりましたが(笑)
おそらく

シコルスキー S42B 旅客飛行艇

ではないかと思われます。
建設途中の橋が写っていますが、マイアミのキー諸島を結ぶセブンブリッジマイルかな?

 

マーチンM−130もまた旅客機で、広い機内にはベッドやラウンジを設けてあり、
ゆったりと空の旅を楽しめる仕様になっていたそうです。
そして"チャイナ・クリッバー"の名が与えられ、ハワイ経由で東アジアへの航路に使われました。
シコルスキーと同時期の飛行艇ですが、大きさも航続距離もこちらが上回っていました。

この頃の旅行は「移動することが旅行」なので、乗る方も「ちょっと早い船旅」位の感覚です。
実際チャイナクリッパーは巡航速度時速252kmというものでした。



元々の写真がボケていたのでさらにボケていて何が書いてあるのか分かりませんが、
これはチャイナクリッパーのクルーです。
 


ところでこのヒラー航空博物館の正面にこのような慰霊碑があることを
去年エントリでお話ししましたが、これは、M−130の三番機である
フィリピンクリッパーが、まさにここ、ヒラー博物館のあるこの地に墜落し、
その際死亡した人々の魂を悼むために建てられたものです。

M−130は全部で三機作られました。
チャイナクリッパー、グアム近海で行方不明になったハワイ・クリッパー、
そしてこのフィリピンクリッパーです。



このときはM−130は海軍に徴用されていたため、乗っていたのは大半が海軍軍人でした。
クルー9人、乗客10人。
碑銘の一番最後に見えるのは女性名で、看護士の大尉です。

そして、チャイナクリッパーも1945年1月に着水に失敗し、喪失しました。

オークランドにあったショート・ソレント(インディアナジョーンズの撮影に使われた)
についてお話ししたときにも思いましたが、低速で港港を、
しかも明るい時間だけ飛んでゆっくりと移動する、そんな交通手段は
ジェット旅客機が世界の都市を瞬く間につなぎ、地上ではアメリカですら
リニアモーターカーを日本から技術輸入しようかという今日、(笑)
よほどの物好きか乗り物そのものを楽しむ目的でもなければだれも必要としなくなりました。
航空の発達に伴い、飛行艇の時代が終わりを告げるのは自然の淘汰でもあったのです。


しかし、我が国では、例えば小さな諸島だけでできているモルジブ共和国が
移動手段を全て飛行艇に頼っているように、海洋国家ならではの必要性から
救難艇という分野で独自の道を歩み、その技術をUS−2という飛行艇に結集させました。

ヒラー航空博物館にあるアルバトロスが世界一周のためだけに作られたように、
かつての「飛行艇の時代」を懐古するためのものではなく、
今ここにいる我々国民をいざというときには救難するという存在意義を持って。

そこで、自衛を除く戦争という手段を放棄した日本の軍隊である自衛隊が、
かつて敵を畏怖させた二式大艇をUS−2に乗り換えたことは 、ポルコロッソが戦闘機を降り、
飛行艇に乗り換えたこととなんだか繋がるなあ、などと思ってしまったのですが、
こういう考え方は宮崎駿監督の思うつぼでしょうか(笑) 

 



 

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空母フランクリン「我が艦は死なず」

2015-04-26 | 軍艦

空母「ホーネット」博物館の展示から、今日は空母「フランクリン」についてです。

空母「フランクリン」(USS Franklin, CV/CVA/CVS-13, AVT-8)

はエセックス型空母の5番艦で、アメリカ建国の父であるベンジャミン・フランクリンの
名を取った艦としても5番目にあたります。
バージニア州ニューポートで、1942年12月7日、つまり「真珠湾攻撃一周年記念」に
起工し、翌年命名、1944年、就役しました。



空母「ホーネット」の内部は、このように区画ごとにテーマを決めて、

軍艦をトリビュートするメモリアルルームという形で展示があります。
フランクリンのネームの下に

「フランクリンは死なず」(意訳)

とあるのは、この空母が日本軍の攻撃に傷つきながらも、
何とかかんとか無事に本国にたどり着いて命長らえたことを表します。 
このドラマチックな帰還は、ゲイリークーパー主演で映画にもなりました。 




また皆さんは一度くらいどこかで、従軍神父が瀕死の乗組員に最後の告解を受け、
祈りを与えているこの映像を見たことはないでしょうか。 
これがまさしく、日本軍の爆撃によって大破したときのフランクリン甲板上なのです。


さて、就役したフランクリンに話を戻しましょう。

時あたかも戦争真っ最中だったため、彼女はは早速戦線に投入され、

まずは小笠原諸島攻略部隊として、昭和19年7月4日、硫黄島、父島、母島の攻撃を行いました。
艦載機は大型輸送艦を撃沈、三隻の小型船舶を破壊しています。
硫黄島の日本軍は3月終わりに行われた万歳突撃で、組織的戦闘は終結しましたが、

残存兵力によって局地的戦闘やゲリラによる遊撃戦が終戦まで続いていました。
終戦後も地下陣地に潜伏したまま終戦4年後に発見された日本兵もいます。


その後7月6日にグアムとロタ、
8月4日以降は再び小笠原諸島、
9月にはペリリュー島攻略作戦に参加。

10月12日夕方、この地にあった「フランクリン」は4機の日本軍爆撃機の攻撃を受けました。
「台湾沖航空戦」と呼ばれている戦闘で、このとき「フランクリン」は2本の魚雷を
辛うじて回避したものの、日本軍爆撃機が後部デッキに衝突し、
艦橋と飛行甲板を横切り、船体右舷の海上に落下しています。
しかしこれはこれに続く損傷とさらに半年後の大破を思えば軽微な、擦り傷のようなものでした。


ところで最近戦艦「武蔵」が発見されたというニュースが大変な話題となっていましたね。
これは、米マイクロソフトの共同創業者であるポール・アレン氏が、「武蔵」の艦体を
フィリピン中部シブヤン海での潜水調査で発見したと、ツィッターで明らかにしたものです。

「武蔵」は昭和19年10月24日の午前におけるシブヤン海の戦いで戦没しましたが、
このとき「フランクリン」は栗田中将率いる第一遊撃部隊を迎え撃つ第4群攻撃部隊として、
ルソン南方で「武蔵」の撃沈に加わっています。
戦闘開始から約5時間後の14時15分、「フランクリン」から発進した第4次攻撃隊65機は
まず「大和」に爆弾1発が命中させ、一連の攻撃で、攻撃隊長のジョー・キービー中佐は
「武蔵」に爆弾4発、魚雷を1~3本命中させたと主張しました。

ちなみに「エンタープライズ」の攻撃隊も自分の攻撃が致命傷だった!と主張していますが、
あれだけの巨艦に一攻撃隊が「致命傷」の主張をするのは少し無理があるかなと・・。

キーピー中佐はまた軽巡洋艦1隻撃沈を主張しており、これは
「扶桑」「山城」いずれかのことであったと考えられます。

「フランクリン」はまた同日「初春」型駆逐艦「若葉」を撃沈していますが、
「若葉」は戦闘に参加していたわけではなく少し離れたスールー海を航行しており、
運悪く攻撃隊に発見されてしまったということのようです。

しかし今回、あらためてシブヤン海を地図で確認しましたが、
海というよりフィリピンの島に周りを囲まれたところで、
「こんな狭そうなところで『大和』『武蔵』が戦ったのか」と不思議な気がしました。



(米国時間)10月30日、「フランクリン」はレイテ島に上陸した米軍支援作戦任務遂行中、
ルソン島の海軍航空基地から出撃した第一特別攻撃隊「葉桜隊」の攻撃を受けました。
「葉桜隊」は6名からなる特攻隊で、この時の直掩には、戦後「修羅の翼」の著者となった
角田和男氏がいました。
彼らの出撃前夜の様子がここではこう述べられています。

特攻隊員の真情~海軍中尉角田和男氏の回想


「葉桜隊」は太陽を背にして「フランクリン」に襲いかかりました。
1機目、2機目はレーダー管制射撃で撃墜され、3機目は被弾し右舷至近海面に激突。
そして続く4機目が空母甲板に突入しました。
さらに5機目は艦首至近海面に激突してフランクリンは大火災を発生させて大破しました。
戦死者は56名、艦載機33機が破壊されて戦場を離脱する結果となりました。



ちなみに6機目は護衛空母「べロー・ウッド」の後部飛行甲板に激突。
二つ上の写真の左が「べロー・ウッド」、右が「フランクリン」です。

また、「フランクリン」攻撃隊は25日のエンガノ岬沖海戦で、
「千代田」「瑞鳳」(甲板で総員が万歳している写真がある)の沈没にも寄与した、
と主張しているそうです。
そのように、この一連のアクトで大変な戦果を挙げたとされる「フランクリン」攻撃隊ですが、



搭乗員の戦闘時間がこのように表にされていました。
搭乗した時間をなぜ事細かく表に表さなければならないのかわかりませんが、
もしかしたら給料の関係・・・・・とか?
左に名前、日付ごとに時間が書かれ、一番右に合計時間があります。
所々に×が続くので、何かと思ったら




大きすぎてすみません。
×の人は、その日から搭乗できなくなったということで、その理由が

CRUSHED AT SEA(海に突入)
SHOT DOWN OVER MANILA(マニラ上空で撃墜)

など。
海に落ちた人のうち一人はRESCUEDと書かれていますので救助されたようですが、
飛行機がなくなればもう母艦にいるわけにいかないので、帰還するようです。
まあ、五体満足で無事だったかどうかはわかりませんし・・。

こういうのを見ると、アメリカといえども決して楽な戦争をしていたわけではないし、

飛行隊のメンバーも皆がいつ死んでもおかしくないと思いながら毎日出撃していたのは
日本と全く同じであったのだろうと思わされます。
もちろん、角田氏の手記にもあったように、死ぬことを確実に決められた特攻隊とは
その死の捉え方においても随分と違いがあったものと思われますが。

そして3月19日がやってきました。


夜が明ける前、高知県沖、日本本土から80キロの地点にに到着していました。

他の空母より近接していたのは、本州の攻撃、特に神戸湾に停泊している貨物船を攻撃するためでした。
「フランクリン」の搭乗員たちは6時間ほどの間に12回出撃体制を取らされており、
警戒警報レベルもステイタス3に引き下げられていたため、皆が自由に睡眠をとったり食事をしたりし、
それだけでなく銃撃手や砲員もその多くがステーションにいました。

その隙を見透かしたように突然、一機の「彗星」(ジュディ)が(銀河・ヴァルとする説も)、
雲を切って降下し、低空飛行して二発の徹甲爆弾を投下したのです。
映画「真珠湾攻撃」のセリフを借りるならば、

「地獄が始まった。日本製の(Made In Japan.)」



投下された爆弾のうち一つはフライトデッキの中心線にあるハンガーデッキから内部を突き破り、
そこから第2、第3デッキに火災を誘発し、戦闘司令所及び飛行司令所にダメージを与えました。
2発目の爆弾は飛行甲板後部を貫通し格納庫で炸裂し、階下で弾薬・火薬の引火を誘発しました。

「フランクリン」にとってさらに運の悪いことに、飛行甲板上には爆弾やロケット弾、
機銃弾や燃料を満載した多数の艦上機が並んで出撃待機していたため、これらが次々と誘爆しました。


のちの損傷解析によると、投下された爆弾は250kgのもので、これらの爆弾が

二基搭載でき、水平爆撃ができる搭載ポイントを備えた日本機は他に存在しないため、
「彗星」か「銀河」であるとアメリカ側が推定したのですが、
攻撃した日本機はその後「フランクリン」の対空砲で撃墜され、(ヘルキャットの迎撃説もあり)
機体の残骸が「フランクリン」 甲板上に四散するのみでこれ以上の特定はできなかったようです。


 
この状態から生還したのですから、キャッチフレーズが

「The Ship That Woldn't die 」

であるのも当然でした。
被害は甚大で、この火災によって爆撃で死傷しなかった乗員の多くが死亡しています。
艦体は浸水し、右舷に13°傾斜し、さらに消火活動の放水により艦尾が沈下しました。
無線通信が不能となり、火災によって高熱が発生し、艦首を除く上部構造物はほぼ全損状態となります。

しかし、「フランクリン」がその後讃えられたのは、爆発や火災で船外に多くが逃れざるを得ない
この甲板上で(この煙を見ればそれも当然かと)数百名もの士官や下士官兵が艦を捨てず、
「フランクリン」を救うために必死の努力を続けたためでした。
1945年時点での海軍の公式発表によると死者は724人、負傷者は265名でしたが、
その後も数字は書き換えられ、フランクリン研究家によると(いるんですねそういう人が)
もっとも最近の統計はは死者807名、負傷者487名となっています。
一連の航海で戦没した「フランクリン」乗員の数は924名となり、この数字は
米海軍史上、もっとも犠牲者の多かった戦艦「アリゾナ」に次ぐものとなっています。

先に従軍神父のオカラハン大佐の写真をあげましたが、あの最後の祈りのシーンは、
オカラハン大佐が業火の渦巻く甲板上で消防及び救助作業を指揮し、
誘爆の危険があった弾薬を処理するなど、従軍神父の役職を超えて獅子奮迅し、
「一仕事終わった」後に本来の職務に立ち返ったときのものだったのです。

オカラハン神父、いや大佐には、この時の功績に対して後に名誉勲章が与えられています。

ドナルド・ゲイリー中尉もまたこのときのヒーローとなりました。
火災で真っ黒になった区画に300名が閉じ込められているのを発見したゲイリー中尉は、
出口を見つけ、彼らを誘導して何度も通路を往復したうえ、消火隊を組織して、
ハンガーデッキの火災を消し止めるために彼らを誘導しています。
さらに、艦の出力を復帰させるためにボイラー室に自ら入り危険な作業を行いました。



丸で囲まれた部分に取り残された生存者。
彼らが最終的に救助されたかどうかは不明だそうです。

その後「フランクリン」は重巡「ピッツバーグ」に牽引されて時速26キロの速さで
なんとかウルシー環礁にたどり着き、生還しました。

しかし、危険な「フランクリン」にとどまって危険を顧みず作業に当たった者がいた一方で、

普通に艦を捨てて避難した乗員もいたことが、長く続くことになる論議を引き起こしました。
「フランクリン」艦長ゲーレス中佐はとどまって艦を救った乗員が当時704名とされていたことから

「ビッグベン704クラブ」(ビッグベンは「ベンジャミン」から来たフランクリンのニックネーム)

のメンバーであると称える一方で、火災の時に海に飛び込んで火を逃れた乗員を
激しく非難したのでした。
そうしなければ死は確実であったとされる者に対しても、そして
”abandon ship"の命令が出されたと信じ、そのように行動しただけの者に対しても・・。


 しかもこの704というのがどこから来た数字かは判然としておらず、実際には
それよりもっと少ない400名であったというのがのちの研究で明らかになっています。
当初、艦を捨てたものに対し告訴するという話すらあがったのですが、
実態が明らかになりその話はすぐに沙汰止みになりました。
 
これほどに深刻な損傷であったにもかかわらず、米海軍の意地とでも言うのか、
「フランクリン」は最終的に良好な状態にまで回復しました。
当時、西海岸の修理造船所の全てが、日本軍によって損壊された艦船で手いっぱいで、
彼女はわざわざ東海岸まで曳航されそこで修理するしかなかったということです。

修理が必要な艦船のほとんど全ての損壊理由が、日本軍の特攻隊の攻撃によるものだとは、
特に戦後日本の戦史ではあまり語られてきたことはありませんが、これが現実だったのです。 
 




このときの「フランクリン」甲板上でなんとカメラを回し続けた乗員が居ました。
オカラハン神父もゲイリー中尉も英雄だったかもしれませんが、
映像を見ると、この状況で映写機を持ってレンズを覗き続けたこのカメラマンには
わたしとしてはぜひ勲章を上げていただきたかったと思わずにいられません。 


 

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海軍兵学校同期会ふたたび~石坂浩二氏と「長門」の関係

2015-04-25 | 海軍

水交会で行われた海軍兵学校同期会にまたもや関係者でもないのに
お誘いを受けてほいほいと出席してきたエリス中尉でございます。


当日の会は参加者90名と盛会でした。
配られた名簿を見たところほとんどが神奈川と東京からですが、遠くは鹿児島県、
また兵庫、長野、新潟、広島と、遠隔地からしかも付き添いなしでやってきた生徒もあり。

舞鶴分校、つまり機関学校からの参加は11名、「兵学校外」と書かれている方が一人。

「兵学校外ってなんですか」

「海軍経理学校卒です」

「ああ、あれは一系化されなかったんですね」

井上成美大将は兵学校で一系化問題をやればいい、と説得されて校長になったそうですよ、
などと例によって聞き齧りを披露してしまうわたし。

「経理学校は兵学校に行きたいけど視力が悪い者が行くことが多かった」

そうそう、兵学校は眼鏡不可だったんですね。
今は視力の矯正さえすれば空自のパイロットにすらなれるという時代ですが、
眼鏡をしていては、たとえば武道や棒倒しなどとても無理なイベントも多く、
視力がいいことは絶対だったようです。

「経理学校は築地にあったんですね」

「僕は兵学校の試験は築地に行って受けたな」

「合格が決まって初めて江田島に行ったわけですか」

「そう、その時には身体測定をして軍服のサイズを測りました。
入校の日、帽子のサイズまできっちりと測ってつくられたのが用意されてるんです」

Sさんの学年は4千人弱の大量採用の学年だったわけですが、その頃でさえ、
未来の海軍士官にいい加減なものは着せない、という海軍の矜持みたいなのを感じます。

それにしても、兵学校というのは、学力のみならず身体条件も厳しくチェックされたわけで、
ペーパーテストさえクリアできれば大学に入学できる、戦後の「エリート」とは
エリート度が高いというか、少しレベルが違っているように思われます。


当時は陸軍も、そして今でもアナポリスやウェストポイントはそうだと思うのですが、
軍の指揮官に求められるものは能力だけでなく、それを遂行する上で人心掌握する人間力。
となると、とりあえずわかりやすくそれをふるいに分けるとすれば判断基準の一つとして
「容姿」も考慮されるとなってくるわけです。


本当にどうだったかはもちろんわかりませんが、あまりにも容姿が異形である場合、
その受験生はどんなに優秀でも不合格となったということです。

そして身長も最低ラインがありました。

ただし、調べてみるとそれは152㎝ということなので、17~8の中学生であれば
ほとんどがクリアしていたとは思われます。

Sさんは会場にいるあの元生徒がどんな知り合いだったとか、兵学校時代どうだったか、
戦後何をしていたか、などという思い出話をしてくださっていたのですが、あるとき

「さっき遅れて入ってきた奴いたでしょう、あれは入学試験の時身長が足りなくて、
最初の年に試験官に”来年また来い”と言われてね」

と言いました。
ということは152㎝に足りなかったということですね。
一年間で伸びるかもしれない、と試験官は判断したということだったんでしょうか。

ちなみに現在、自衛隊の入隊資格は身長155㎝以上、となっています。
この3センチの差は、時代の差と考えていいでしょうかね。

その受験生はこの日そこにいたわけですから、とにかく1年で身長をクリアしたことになります。

「伸びたのかもしれないし、もしかしたら頭にコブでも作っていったかもしれない」



ロビーで待機していた一同に開場が告げられ、皆部屋に入りました。
受付のテーブルを通る時、わたしは去年江田島で撮った写真が、B5サイズの
艶紙に印刷されて積まれているのに気がつき、自分の分を一枚取ってから、Sさんに

「江田島の写真できてるみたいですよ」

と告げたのですが、Sさん、手に取ろうともしません。

「僕、いらない」

Sさんの、こういったことには徹底的に関知しないといった、
”もしかしたら中二病ですか?”ともう少し親しかったら思わず聞いてしまいそうな
斜に構えた反応は、何度かお会いするうちわたしにとって意外なものではなくなっていましたが、
「中二」とまでは言えないまでも、最近は相当軽口を叩けるようになっているので、

「そうでしょうね~(写真赤矢印)。
もしかしたら、Sさん、ちゃんと写ろうって気まったくないでしょう」

「あなたは写ってるの」

「はい、Sさんの近くに」


今でも長身の背中はまったく曲がっていないし、お腹も出てないし、
米寿を迎えていながらわたしが「イケメンツートップの1」と評したくらいで、
そのお歳の男性の理想を絵に描いたようなSさんなのですが、やはり本人的には
どこかに「老い」を引け目に思う忸怩とした気分がそうさせるのかもしれません。

若い時にあまりにもイケているというのも、自己イメージのハードルが上がりすぎることになり、
良し悪しなのかもしれないなどとふと考えてしまいました。 



ところで、このSさんとの会話で、わたしはちょっとした天の配剤とでも言うのか、

わたし自身のことではありませんが「縁」を感じたことがありました。

行きの車中でSさんが、昨日はゴルフでどこそこ(名門カントリークラブ)に行ってね、
と話し出しました。

「一緒に回った人が、どこかで見た覚えがあるんだけど思い出せないんですよ。
名前は”武藤です”というんだが、どこで会ったのか聞くのも失礼で、
一緒に回っているうちに、慶応大学の関係であることがわかり、もう少ししてから
石坂浩二だったことがわかった」

「あー、たしか武藤兵衛さんとか兵吉さんとかいう本名なんですよね」

俳優の石坂浩二氏のあだなは「兵ちゃん」だそうです。

「それにしても石坂浩二を見てわかりませんでしたか」

「 名前が出てこないんだよ。武藤なんて言うから」

「あー、固有名詞でてきませんよねー。
わたしも最近ハリソンフォードを思い出せなかったことが」


88歳とボケのタメを張るなエリス中尉。

とにかくその場はそこで話を終わり、家に帰ってSさんにお礼のメールをしようとして

ふと石坂浩二、という名詞と「長門」が結びつきました。

案の定すっかりそのときは忘れていたのですが、ここでお話ししたこともあるように、

戦艦「長門」の軍艦旗、代将旗、少将旗の三種類の旗が石坂氏が司会をしている
「なんでも鑑定団」に出されたとき、氏はこれを1000万円で購入して、
呉の大和ミュージアムに寄付しているのです。

このことを是非「長門」艦長の息子であるSさんに言っておくべきだろうと
メールに「長門」のユーチューブ画像を添付してその旨書いて送りました。

すると、

「一応PCも携帯電話もあるがメールは見るだけ、絶対に返事はしない」

と豪語していたSさんから、なんと数時間以内にメールの返信が来たのです。
なんだー、メール打てないとかじゃなくって、単に面倒だっただけなんじゃん。

というか、そんなSさんが苦手なメールを打たずにはいられないほど、
このことはSさんにとっても奇縁を感じさせる出来事だったということなのでしょう。



石坂氏がなぜ自分の司会する番組で遭遇したからとはいえ「長門」の軍艦旗を買ったかですが、

この理由は、石坂氏が筋金入りの「モデラー」であることと大いに関係ありとわたしは見ます。

17歳の時から始めた趣味で、今でも1日かならず1時間半は作っているのだとか。
「日本プラモデル工業協同組合」の特別顧問も務めているとのことなので、もしかしたら
このあいだの模型ショーにも行かれたかもしれません。


ホビーに首ったけ 石坂浩二さんがプラモデル同好会「ろうがんず」結成

このページでは、石坂さんがフォッケウルフを作った、みたいなことも書かれています。
「ろうがんず」では横浜周辺の模型愛好家をメンバー募集しているようですが、
当ブログ読者にも何人かおられる模型小僧(ただし老眼世代)さんたちは、
もしご興味がおありでしたら覗いてみてください。


石坂氏のモデラー歴を類推するに、何度となく軍艦の模型も当然手がけているはずで、
「長門」の軍艦旗を寄付するためだけにポンと購入したという情熱は、
きっとその辺とつながっているのではないかと思う次第です。




ところで、みんなと写真に写りたくないとかいうのはおそらく自意識からくる「偏屈」ですが、
Sさんが近代機器を億劫がるのには、やはり人生のほとんどがアナログ時代だった人ならではの、
「手仕事礼賛主義」からくる反発であるらしいことがわかってきました。

「たとえばナビゲーションなどに頼ると、地図が見られなくなり人間は馬鹿になる」

などというのがSさんの口癖のようで、わたしがタブレットは便利だという話をしていて

「たとえばお店の電話番号なんかも、こうやって調べると電話番号だけでなく地図も出てきて、
これがiPhoneならタッチするだけで相手につながるんですよ」

というと、案の定「そんなものに頼ると人間は馬鹿になる」と来たので、ここぞとわたしは

「いえっ!違います」

と声を励まし、88歳の元兵学校生徒で建築家だった人物
にこう反論しました。


「昔の人が電話帳をひいて、電話をし、住所を聞いてメモしてそれを見て地図を探している間に、
今はもっと先の、いろんなことができるようになったと考えられませんか?
昔の人が一つのことをやっている間に、今はこういうもののおかげで3つのことができるんです。
馬鹿になんかなりませんよ。時間の節約ができるだけです」


このときのSさんの表情にちょっと優勢を確信したわたしは、さらに自分のiPadを出し、

「いいですか、たとえばここにS中将(Sさんの父上)の名前を入れますよ?
すると・・・ほら、これがウィキペディアで軍歴と、Sさんのお母様とお兄さんの名前まで出てきます。
さらに、画像検索すると、S中将と関連のあった人たちの写真も・・・」


それがどの程度説得力を持ったのか、その時にはわかりませんでしたが、
Sさんが送ってきた短いメールには、こう書かれていました。

「メールありがとう。
石坂氏のこと、びっくりし、長門のこともパソコンで調べました」

パソコンで・・・・調べた・・・だと?(笑)




続きます。

 

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海軍兵学校同期会再び~水交会と水交社

2015-04-24 | 海軍

昨年の秋、海軍兵学校の最後の在校生となった某期の同期会解散会に出席し、
ここで色々とご報告させていただいたことを覚えておられるかとおもいます。
この写真はそのとき教育参考館前で撮られた参加者の記念写真です。
海軍墓地の前での団体写真のときには、お墓の間を駆け回って写真を撮っていたわたしも
ここにはちゃんと(といっても人の影に隠れるようにですが)写ることができました。



当同期会は既定方針に則り、去年を以って活動終結をした、と聞いていたのでわたしは
文字通りこの時が最後の顔合わせだと思っていたのですが、実はそうではなかったのです。

解散の理由というのは、やはり会の世話人が幽冥境を異にしてしまったり、
高齢のため、運営を行うことが体力的に困難になってきたからだったのですが、
そんな理由では執行本部以外の生徒さんたちは納得せず(笑)

「なんらかの形で会を継続してほしい」

という要望が解散前から出されたため、解散と同時に「クラス会」という別組織が創設されました。
仕事をリタイアしているほとんどの方々にとって(現役のお医者様もいることはいますが)、
生活のハリにもなっている同期会がなくなってしまったら、やっぱり困るんですね。

というわけで、先日、江田島邂逅以来初めてのクラス会が水交会で行われたのですが、
どういうわけか、わたしもまた参加をすることになったのでした~!

江田島以来ご交誼を結んでいただいている例の「長門」艦長の息子、Sさんが、

「今度水交会で(仮名)元海幕長の講演会がありますがいかがですか」

とお声をかけてくださったのです。
氏の講演は3年前に聴講させていただいたことがあり、氏ご自身にも
練習艦隊壮行会や「いずも」就役の日にご挨拶させていただいていますが、 
3年前と今とでは同じ「中国の海洋戦略」であっても多少の変化があるはずですし、
場所が水交会で主催が兵学校クラス会となれば、ためらう理由がありません。

二つ返事で参加を承諾し、当日は車でSさんをお迎えにあがることになりました。



水交会とは海軍省の外郭団体として「水交社」という名前で明治9年に発足しました。
終戦とともに解散したのですが、昭和27年に有志により、

「海軍の任務に関連し戦傷病者となった者および戦没者の遺族の援護」

を主目的にする任意団体として発足し、主に帝国海軍士官の社交と親睦に利用されてきました。
近年は旧海軍関係者が激減したため、実質海上自衛隊の活動に対する協力支援をメインに、
会員相互扶助等も行っています。

ここ原宿の水交会は、東郷神社と同じ敷地内にあり、築山と渡り廊下のある
実に風情のある大きな池を臨む建物にあります。

「昔、水交社は六本木あたりにあったんですよ。確かソ連大使館になったと思う」

とSさん。
現在のロシア大使館は麻布なので、多分ここのことをおっしゃっているのだと思いますが、
Sさんは海軍士官だった父親に連れられて、ここでフランス料理を食べたことがあるそうです。
以前お話ししたことがありますが、Sさんは4歳の時、戦艦「長門」で水兵さんに給仕されて
フルコースのフランス料理を食べたこともある、という方。

戦前、海軍兵学校に入学し海軍士官にになるというと、周囲の者は、

「白いクロスのかかったテーブルでフォークとナイフを使ってフランス料理を食べるの?」

と羨望の口調で尋ねたものだそうですが、印象だけでなく、海軍は実際に
料理というとなにかとフランス料理を共していたのですね。 

余談ですが、海軍といえば上野の精養軒、というのも一般に膾炙したイメージです。
以前精養軒について調べた時、帝都在住の海軍士官には

「マナー向上のためすべからく月に何度か精養軒で洋食を食すべし」

みたいなおふれが出されていただけでなく、給料から精養軒にいくら支払われていたか
ちゃんとわかるしくみになっていたらしいことが何かのはずみで判明し、
わたしはひそかに海軍と精養軒の癒着を疑ったものですが、その話はさておき。

「この庭が好きなんですよ」

水交会に到着し、受付を済ませて会が始まるまでの間、庭の散歩に誘われました。



中国の庭園の池にありそうな池の上の回廊を渡りました。



自然池か人工池かはわかりませんが、周りの草木も手入れが行き届いています。
枝垂れている遅咲きの桜はわずかに花を残して風情があります。
池に向かって枝を伸ばしているのは遠くて分かりませんが染井吉野でしょうか。

「桜が満開の時に来たかったですねえ」



「あっ、カメがいる!」

10年以上は生きていると思しき大きなミドリガメ?発見。



さらに周囲を探索すると、このような状態のカメ一家が・・。
親・子・孫ガメと集まって文字通り甲羅干ししています。
この日は前半とてもお天気が良く、日差しが降り注ぐ好天気でした。



回廊から向こうは東郷神社の境内になるため、ここに鳥居があります。
鳥居は人間界と神の居所を分ける境に置かれるので、ここからが東郷神社ですよという印ですね。

昔「水交社」は築地の海軍用地(今の築地卸売市場)にありました。
その敷地内に「水交神社」というのがあって、日清戦争の戦勝祈願する護符を奉安し、
また戦没社員の霊を合祀するために創建されたのだそうです。

当初の鳥居は日清戦争の戦利品である魚雷を利用して作ったもので、
さすがにあまり趣味がよろしくないという意見でも出たのか、明治44年、
この鳥居に建て替えられたのだそうです。

昭和3年に「水交社」は芝区(東京タワー北西となり)に移転した時、
この鳥居もそちらに移転されて長らくそこにありましたが、社殿は
昭和20年3月の東京大空襲で焼失してしまいました。
銅製のため空襲にも焼失を免れたこの鳥居は、戦後の進駐軍の「水交社」建物接収の時にも
毀損を免れ、(さすがの進駐軍も鳥居を壊すことは畏れからできかねたのかと)
いまの「水交会」ビルが昭和56年建て替えられることになった時に返還され、
東郷神社に奉納されることになったというわけです。

現地の看板にはこのように書かれています。

”この鳥居は、半世紀もの間、変転する日本海軍を見つめ続け、
二度の大災禍にも堪えてきたものであります。
そして皇族方は海軍大臣以下多くの武官文官、また水交神社で結婚式を挙げた方など、
この鳥居をくぐった人々は数え切れません。”




水交会のロビーの一隅には、海軍を象徴するこんな展示がありました。



山本五十六元帥の筆による「常在戦場」の書。
そして、山梨勝之進大将のブロンズ胸像です。

これが書かれた昭和10年というと、軍縮会議予備交渉に出席した山本は帰国したばかり、
本番の軍縮会議には参加を辞退しています。
同年海軍航空本部長に任命された山本が、このころの心境を「常在戦場」と表したことは、
このころの激動の情勢を思うと、それも宜なるかなと頷かずにはいられません。

このころ、横山大観が絵の寄贈を申し出たということがあったそうですが、

全力で勤務にあたるため芸術にひたる余裕なし」

と山本五十六は述べて、これを断りました。



山梨勝之進は水交会の初代会長でした。

先ほどの軍縮条約会議ではいわゆる「条約派」として締結に奔走した山梨ですが、
1933年にはその影響で予備役に追いやられる形となり、実質退職に至っています。

水交会が昭和27年にできたとき、山梨は初代会長として立ち上げに寄与し、
また軍人恩給の復活に尽力し、なんといっても海上自衛隊の創建にあたっては
政界とのパイプ役として影の大きな推進力を担っています。

5年間水交会の会長を務め、その後は終身顧問を務めました。



このロビーでは会合が始まる前、ほとんどの皆さんが立っていられずに座りこむため、
床面積がほとんどないくらいぎっしりとソファー椅子が置かれています。


ところで、なぜか海軍軍人には喫煙する人が多いような気がするのですが、
海軍軍人のために作られたこの施設のロビーでは、普通に皆タバコを吸っています。

海軍兵学校の生徒だったということは、どんなに若くても87歳のはずですが、
こんなお歳でピンピンしている人たちの多くが紫煙を燻らすのを見ていると、
もしかしたら喫煙と寿命ってあまり関係ないのかも、といつも思います。

そんなみなさんの様子を映し出しているガラスケースの中に収められているのは
軍艦「摩耶」の模型。
この模型を寄贈した福富喜太郎さんという方は、船舶研究家の肩書きをお持ちで、
検索したところ、名護市のホテル「ブセナテラス」に、学童疎開船で
米潜水艦の攻撃を受けて沈没した「対馬丸」の寄贈をしたという記事が見つかりました。

この時、

「模型を作るのに数百枚の図面が必要なのに、対馬丸の資料はほとんどなく困った」

という裏話をされているところを見ると、既製品を買って組み立てたのではなく 
これも部品から自分で作り上げた模型のようです。



その隣にあったのは、海軍兵学校の遠洋航海に使われた

「出雲」「磐手」「八雲」

の練習艦隊トリオ。
これは兵学校77期の生徒(分隊番号オー308)が作ったらしく、

「77期呉における乗艦実習時の携帯を復元した」

と説明があります。
先日、67期の遠洋航海について何日かかけてお話ししましたが、
あの時の最後の遠洋航海に使用されたのは「八雲」と「 磐手」でした。

最後にさりげなくこんなことが書かれています。

「乗艦実習経験者は、マスト登り、ハンモック吊り、艦内旅行、
その他のシゴきを思い出してください。」



ガラスケースの中には購入できる書籍、CD、海軍カレーなどがありました。



思わず見入ってしまった戦艦「大和」の絵画、

「如何に強風吹きまくも」。

「大和ミュージアム」で生存者の証言にもあったように、「大和」乗員は
全員が甲板でこの軍歌を涙を流しながら歌い、出撃していきました。

大和の向こう側に見えるのは「初霜」でしょうか。



わたしはなぜかこの手前に見える渦が気になってしまいました(笑)
なぜ画家がここにこんな渦を描いたのかが・・。



続きます。

 

 

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海軍陸戦隊「ブーゲンビル島の旭日旗」

2015-04-22 | 海軍

こ呉海軍墓地には「大和」「伊勢」「青葉」のように
多くの関係者の尽力があったとみられる
大変大きく壮麗で立派な慰霊碑があれば、
小さくても揮毫に源田実や嶋田繁太郎などの大物?が関わったもの、

潜水艦慰霊碑の潜望鏡などの部品を実際に使ったものなど、趣向も様々な大小の碑があります。

そのなかでもこの

呉鎮守府第17防空隊慰霊碑

は、あたかも海軍墓地における陸戦隊の位置付けを表すかのように
慎ましやかで、
かつひっそりとそこにあるのですが、よくよく見ると、
関係者によるものらしい朴訥な字体の揮毫といい、

恐らく「海軍防空隊」を波の形と真球で表しているデザインといい、
心のこもった手作り感が溢れているような慰霊碑です。

呉鎮守府第17防空隊は、昭和18年、4月20日に呉で結成され、その18日後には
第8艦隊第7連合特別陸戦隊に編入されラバウルに進出することになった部隊でした。

防空隊とは読んで字のごとく基地、根拠地の防空をする高射砲部隊です。


はて、前回、

「海軍は高射砲ではなく高角砲と呼んでいた」

と最後に書いてあったがと思った方、その通り。

でも部隊の名称は陸軍に準じるので高射砲部隊となっていたようです。ごめんね海軍。
ところで前回ふと、「海軍における陸戦隊の位置ってどうなんだろう」と思ったことがありました。

サマワケット越えを敢行した第51師団に随伴していた海軍の善本高射砲中隊の隊長が
(あ、今気づいたけどこの部隊名も高射砲だ)特務中尉であったと知った時です。
特務士官とは海軍にだけ存在した階級で、実務に熟達している下士官に与えた士官の階級です。
つまり善本中尉は年配で叩き上げの優秀なエキスパートであったと想像されるのですが、
「特務士官」は「将校」ではなく、あくまで将校たる「士官」より下位とされていました。

何百名規模の中隊長を特務士官が務めたということは、この陸戦隊そのものが
もしかしたら海軍的に兵科のヒエラルキー下層であることを意味していたのではないか。
その想像は次のwikiの記述によって正しかったことがわかりました。

ー海軍内で陸戦隊はあくまで二義的な任務として捉えられ、一般的な海軍士官にとって
根拠地隊などの常設的性格の陸戦隊への配置は左遷に近い扱いであったー




さて、この第17防空隊は、ラバウル進出後、 コロンバンガラ、チョイセル島を経て、
ブーゲンビル島のブインに転進しました。
そしてここブインを根拠地としてブーゲンビル島の南にあるモノ島まで出撃
(海軍だから多分大発で?)して戦っていたそうです。

ブインというところは、日本軍が昭和17年に占領してから飛行場を建設し、
(瑞鶴飛行隊なども寄港していた)

根拠としていたブーゲンビル島南端にある町で、彼らは最終的にここで終戦を迎えています。

日本軍のブーゲンビルにおける兵力は陸軍が4万人、海軍からはこの陸戦隊と設営隊など
2万人が配備されていましたが、砲火力が低く対戦車装備も不足しており、
結成時に285名だった隊員は、終戦時には80名ほどになっていました。
海軍墓地の慰霊碑に合祀されているのは3分の2強だった南洋での戦死者の霊です。

ブーゲンビルでの戦闘は、米軍の孤立作戦による飢えと蚊の媒介するマラリアで凄惨なものとなりました。
ガナルカナル島が「飢島」、そしてここブ(ボ)ーゲンビル島が「墓島」と言われた所以です。

このときアメリカ軍は、投降する日本兵を捕虜にせずその場で射殺せよという命令を出していますが、

こんな連中が負けた日本を「人道に対する罪」で裁いて有罪とか言ってみたり、
BC級戦犯を即日死刑にしたってんですからまったく笑わせてくれますよね。

アメリカ軍はフィリピンに集中するため、ここブーゲンビルの日本軍は孤立させて

飢させればそれでおk、と考えており、事実日本軍にとって飢餓が最大の敵となっていました。
しかし、なぜかこの島、ことにブカやブインに駐留した海軍は餓死者を出さずに済みました。

なぜだったと思いますか?

先日「米海軍アイスクリーム事情」というログで少し触れたのですが、
その陰に海軍の短期現役主計士官たちの活躍があったからでした。


ここでの日本軍の占領統治そのものは、大抵の南洋の進出先と同じく、
大変うまくいったと言われています。

もともとここにいたのは、原住民の他にはドイツ系の移民で、金の採掘が目的でした。
原住民はピジン・イングリッシュと呼ばれる片言の英語を喋ることができたため、
意思の疎通を図ることがまず容易だったことが幸いしました。

そこで、短現主計中尉たちは、現地住民との宥和策を図ったり自給自足によって
まず食料の安定した補給を確保する作戦を立てます。
なかでも、ブカの部隊の主計中尉であり、一橋大学では植民地政策について学んだことのある
小西小太郎海軍主計大尉は、大学での講義の内容を実地に生かしてこんな宣撫工作を立案しました。

  • 兵が原住民のものを略奪することを厳禁する
  • 先住民に日本式農園の作り方、塩、魚の取り方を教える
  • ドラム缶からスコップやナイフを作る方法を教える
  • その代わり余った食料を日本軍に上納してもらう
  • 労働力を提供してもらうことで原住民を後方支援部隊として育成する
  • 先住民のための学校を設置し、青年たちに教育を施す



つまり、日本軍が根拠地とし占領した地でやってきたのと同じことを、ここでもやったのです。
さて、という話が出てきたらどうしてもこういう風に持っていかないわけにはいきますまい。


戦後、日本が戦争をしたことを一部の例や一部の国民の国民感情を元に

「日本は悪いことをしたから謝らなくてはならない」

などと戦後70年経とうとしている現代の日本で当事者でもないのに謝ろうとする人たちがいますね。

その手の人たちがどういう思想の元に主張を展開しているかは、先般の例では
ISISに息子を拉致された!といって出てきた怪しげな母親が(だってそうでしょー?)
「地球を守りたい」「原発が」「九条が」と毒電波を飛ばした挙句、会見の最後に

「日本は謝らなければいけない」

といったことで、より一層ある形がはっきりと見えてきたような気がするわけですが(笑)
あの「マザーアース」のような特殊例今は差し置き、マイルドな自虐派はわたしの周りにも結構います。

「日本は悪いことした」

というのが彼らの決まり文句なんですが、どんな国の軍隊だって
相手を殺すのが仕事なんですから悪いことをして当たり前だし、
原住民に対してどうだったかというと、そもそも欧米の国はそういう人たちを
人間扱いすらしていなかったわけでね。(ここ伏線)

本当に、そういうマイルド自虐派の皆さん方には、自分の見たいものだけ見ないで、
起こった物事をもう少し公平に見ていただきたいとお願いする次第です。
それこそ某国のしょっちゅう言うところの「歴史を直視せよ」ですよ。

日本が「多大な迷惑をかけた」とかつて首脳がなんども謝ってきたアジアの国で起こったことです。
ここに来られる方々でしたらおそらく周知のことばかりだとは思いますが、
まとめて列記しておきましょう。

例えば台湾では、

  ●戦後、大陸から共産党に追われて逃げてきた国民党が白色テロによって国民を惨殺したとき、
   台湾人は「軍艦行進曲」をラジオで流し、日本軍の軍服を着て戦おうと呼びかけた

例えばインドネシアでは、

  ●独立軍であったPETA祖国防衛義勇軍の軍歌には
  「古きアジア 不幸に苦しむ列しき圧政に 幾世紀も忍ぶ 大日本 雄々しく立てり」
   という歌詞がある

  ●インドネシアの国立英雄墓地には、インドネシア独立戦争に協力し命を落とした

   33名もの日本人が英雄として埋葬されている

例えばインドでは、

  ●首都デリーに立つスバス・チャンドラ・ボースの銅像の傍には日本兵が共に銃を持って立っている

  ●インドのある村では代々こんな歌が今も歌い継がれている

「日本兵士を讃える歌」

 1 祖父の時代より 今日の日までん 美しきマパオの村よ 
   いい知れぬ喜びと平和 永遠に忘れまじ

   美しきマパオの丘に 日本兵来たり 戦えり 
   インパールの街目指して 願い果たせず 空しく去れり

 2 日本兵 マパオの丘に来る それは4日の火曜日 1944年のことなりき
   我は忘れじ4月のあの日

(略)
 4 広島の悲報 勇者の胸を貫き 涙して去れる
   日本の兵士よ なべて無事なる帰国を われ祈りてやまず

  ●インドの国会では毎年8月6日に広島と長崎の犠牲者に対して黙祷を捧げている

そして先日天皇皇后両陛下がご行幸されたパラオでは、


  ●日本軍が住民を避難させたためペリリュー島では犠牲者は一人もいなかった
  戦闘が終わった後、住民は島に戻り、日本人の亡骸を涙を流しながら埋葬した

  ●戦後日本に代わってアメリカが統治し、住民に反日教育がほどこされ、
  日本人による「パラオ人虐殺事件」などが教え込まれそうになったが、
  パラオの年長者が
「そんな話はない」と否定したため、反日は浸透しなかった

  ●パラオの国旗について、選定に携わったパラオ人がこのように言っている

  「この国旗に決まったのは日本の国旗に似ていたからだ。
  日の丸の部分を黄色にしたのは月をあらわしているが、月は太陽がなければ輝かない。
  太陽とは日本のことである。
  我々はまた戦争中に、日の丸を掲げて強大な米軍と戦った日本軍将兵の強さと純粋さに
  心から尊敬を捧げている。」


 ここブーゲンビルにおいても、現地の人々に日本軍は学校を作りました。

 

ペリリューにあった小学校です。

青年教師は、いかなる理想と希望を持ってここにやってきて子供達を教えていたのでしょうか。
ひらがなの掛け軸、黒板には九九の勉強をした跡が残っていて、
子供達は腰蓑の民族衣装?のままで授業を受けています。

褌着用の子供もいますが、これは日本人にもらったのかもしれません。



これもペリリューの写真です。
陸軍軍人と現地の人々が一緒に写真を撮っていますが、
皆スーツに帽子といった当時の文明国に通用する装いです。
皆若いので、技術者教育をほどこされた現地のエリートたちだったかもしれません。



こちらは海軍と住民の記念写真。
どうやら一つの村の男達全てと一緒に撮ったもののようで、
中央で腰に手を当てている白髪白髭の老人が村の長老のようです。

パラオでは天皇皇后両陛下がご訪問された日を祝日にすると発表しましたね。




さて、ブーゲンビルに話を戻しましょう。
ブカ、ブインでは海軍と原住民の仲は至極うまくいっていたようです。


戦争が終わり、進出した外地にいた日本軍はそのまま連合国による軍事裁判にかけられました。
だいたいどこの根拠地の軍事裁判もろくに審理もせず報復として即決死刑というような
ひどい裁判で多くの将兵が命を落として行きました。
日本軍が捕虜にしていた人物が裁判長となって死刑判決を出した、
という暗黒裁判もあったと言います。



ところがここブーゲンビルでは、連合国軍側が旧日本軍側に対して
恣意的な判決を出すことはできませんでした。
なぜなら多くの現地住民が証言して日本軍将兵を擁護しようとしたからです。

また、過酷な捕虜生活に於いて、困窮している日本軍将兵には原住民が助けの手を差し伸べたため、
多くの日本軍将兵の命がこれによって救われる結果となりました。

終戦直後、この事実を知ったオーストラリア軍司令部は

「金も物もない日本軍に、原住民は何故こうも協力的なのだ」

と不思議がったそうですが、当事者である新川海軍主計中尉はこう語っています。

「結局は誠意の問題である。
白人は彼らを人間として扱わなかったが、私達は彼らを人間として扱った」



戦争が終わり、ブーゲンビルはオーストラリア政府によって暫定統治されました。
その統治は1975年まで続きましたが、独立後、ブーゲンビル住民たちは
搾取されていた頃の補償を求める運動が激化して武装蜂起し、約10年の間、
パプアニューギニア政府の支援を受けた軍と独立を求める武装組織の間で内戦が続いていたそうです。
ようやく1989年に内戦は収まったものの、停戦合意後もブイン周辺の治安は悪く、
反政府武装勢力と武装化した自衛集団との小競り合いが発生しているそうです。


2006年10月、ジョセフ・カブイ大統領ら4名がブーゲンビル自治政府として初来日しました。
彼らはこの来日中、浅草観光やトヨタ工場見学などを行いました。

当然報道されなかったのですが、このとき大統領一行は、靖国神社の参拝を行っています。








 


 

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女流飛行家列伝~ジーン・ティンズリー「ウィリー・ガール」

2015-04-21 | 飛行家列伝

1937年のセント・パトリック・デイ、つまり3月17日。

その日、10歳のジーン・ティンズリーは、オークランド飛行場の空を見つめていました。
有名なあの女性飛行家、アメリア・イアハートが、このオークランドから、
愛機ロッキード・エレクトラの「フレンドシップ号」に乗って、
赤道上世界一周飛行に旅立つのを幼い彼女は見ていたのです。

68年後、78歳のジーンは、その歴史的な日のことをこう語りました。

「わたしはあの日のことをいまだにはっきり覚えているわ。
でも、それが大したことだとは全く思っていなかった。
彼女、アメリア・イアハートがわたしのヒーローだったことも特にないし」

アメリア・イアハートは、その歴史的な飛行の途上遭難し、
永久に人々の前から姿を消してしまいます。
10歳の少女にとってもその最後の姿を目撃したという事実は
衝撃であったと思われるのですが、
彼女、ジーン・ケイ・ティングレーが
後年パイロットを目指したのは
あくまでも誰かの後追いではなく、
自分自身で選び取った結果だったということなのでしょう。


その日からわずか8年後の1945年、それは日本との戦争が終結してからですが、
18歳のジーンは、他でもない彼女自身の意思で、雲を切って空に羽ばたいていきました。

そしてそれからまもなく、彼女は自分の情熱と一生を掛けるべき対象となる
ヘリコプターと出会うことになります。

飛行を始めて6年後、彼女は気球とヘリコプターの免許を取り、
それからというもの
数えきれないほどのタイトルを獲得してきました。
南カリフォルニアの”エアロクラブ”は、こう書いています。

「この、『空飛ぶお婆ちゃん』は、同世代のパイロットの中では最も多くの開拓者としての
『初めての』というタイトルを持っているが、
実は彼女が公表していないものも多い」

1976年。
彼女は低速プロペラ機ジャイロプレーンの初の資格を取った女性となります。


このジャイロプレーンというのはオートジャイロとも呼ばれる回転翼機です。
ヘリコプターと似ていますが、構造的には全く違う乗り物で、
ヘリが動力によって回転翼を直接回転させますが、
こちらは回転翼は駆動されておらず、
飛行は他の動力によって前進します。
前進によって起こる気流を受けた回転翼がそこで初めて回転し、揚力を生むという仕組みです。

現在ではほとんどの実用的な役目はヘリコプターが請け負っているので、
ジャイロプレーンは今ではスポーツ用として存在を残すのみになっているようです。
まあ、ホバリングもできないのですから、あまり実用的とは言えませんよね。

ちなみに日本では戦時中、陸軍が萱場製作所(現KYB)に造らせた
唯一のオートジャイロを「カ号観測機」として採用しております。

カ号観測機


彼女は、アメリカのヘリコプタークラブ初の女性会長で、最近では、
ロンドンのパイロット・ナビゲーター組合でも最初の女性会長に選出されています。

しかし、そういった「名誉職」を得ても彼女は決して現役から退くことをせず、
それどころか限界にに挑戦するだけの向上心と気力をいつまでも持ち続けていました。

70代後半にもなると、人間、普通に体のあちこちに、ガタが来るものです。
ジーンもまた例外ではなく、78歳の時に彼女は股関節置換手術を行いました。
しかし彼女が並の老人でないところは、退院わずか6週間後に航空ショーに出演してしまったことです。

アサートンにある快適な住まいの、花の咲き乱れるバックヤードののデッキチェアで、
退院した78歳のお婆ちゃんが空を見ながら考えていたのは、
翌週サンカルロスの
ヒラー航空博物館で行われる「ヴァーチカル・チャレンジ・エア・ショー」
で乗る、
「スカイクレーン」、シコルスキーS−64のことでした。

「空飛ぶクレーン」の名を持つこの ヘリコプターは

全長21,41m、搭載量9,072kg


平均的なヘリコプターが大きなものでも全長12メートルであることを考えると、

このスカイクレーンは、まるで巨獣のようなものです。

「最初にこれを飛ばしたのは、1968年、ラスベガスだったわ」

ジーンは回顧するようにこういうのでした。

「小さい家なら、一軒丸ごと持ち上げられるのよ」

そして陽気に手術の後の懸念を笑い飛ばしました。

「飛べるわよ。
医者だって、”よじ登ることさえできれば操縦くらいわけないだろう”って言ってたわ」


”just-try-and-stop-me"

「止められるものなら止めてみろ」というニュアンスだと思うのですが、
まだ女性の操縦するのは、せいぜいHoover(アメリカの掃除機会社)
であった時代に、
飛行家のキャリアを始めることを決心したことそのものが、
just-try-and-stop-meでした。


サンフランシスコの子供時代、彼女の部屋はモデルプレーンで埋め尽くされ、
そして少し大きくなると、4人の仲間でバイパー・コマンチを所有していました。
そんなTシャツの胸には

”Love me, love my airplane"

と書かれていたそうです。
しかし、当時においても社会の、口紅をつけたパイロットに対する扱いはひどいものでした。
彼女の最初のヘリコプターの教官は、彼女に向かってこういったそうです。

「コクピットなどで一体何をやっているんですか?台所に戻りなさい」

言うまでもなく、彼女がその教官と一緒に飛んだのはそれが最初で最後でした。



1951年に彼女はパンナムのパイロットに応募しますが、採用面接で彼女は

スチュワーデスになることを勧められます。

「そんなこと考えてみたこともありません」

それが彼女の答えでした。
そういうわけで、飛ぶことは彼女にとって「高くつく趣味」にならざるを得ず、
仕方なく彼女は週一回カリフォルニアの飛行場の周りを飛ぶしかなかったのです。

テクニカルライター兼エディターとして彼女は忙しく働き、その合間に結婚もします(笑)

32歳のとき彼女は5人の子供を持ったやもめ男のティンズリーと結婚し、

本来の「ケイ」姓にティンズリーを名乗るようになります。

「夫は私が飛ぶことを嫌っていたけど、やめろと言われたことが1度もないわ」

彼女は商業パイロットではなかったのですが、航空界で「同好の士」を見つけます。
彼女が活動していたグループはいくつかありましたが、そのうちの1つが
「ウィリー・ガールズ」で、

1955年に結成された女性ばかりのヘリコプターパイロットによる国際組織でした。 

ウィリーガールズの会員メダルは、ハワード・ヒューズによってデザインされました。
ジーンの会員番号は118。
会員番号は150までしかなく、その理由は、ハワードヒューズ自身が、

「150人以上の女性ヘリコプターパイロットが存在するなどありえない」

と思っていたからだそうです。


現在グループに存在する会員数は1348までとなっています。



彼女が最初に飛行機に乗ったのは、アメリアの出発を見送った二年後、12歳の時でした。
その時の気持ちを聞かれて彼女は腕を大きく広げ、そして少しかすれた声で

「それがどんな風だったか書き表すことできる人なんていると思う?」

とインタビュアーに逆に問いかけています。
空を飛びたいという気持ちの源泉には

「誰も到達したことのないところに行ってみたい」

という人間の根源的な欲求ががいつも内在しているのです。

ウィリー・ガールズのメダルだけではなく、彼女がその飛行歴の証として

携えている小さなペンダントは、Xの形をした金色のものです。
これは、彼女が試験パイロットであるということを示しています。

NASAのプレスリリースによると、1990年、彼女は

世界で女性初の
ティルトローター機のパイロット

となっています。

90年というと、ジーン・ティングレー64歳。

その前年には典型的なティルトローターシステムを備えたあのオスプレイが初飛行しています。
ごく一部の方々が猛烈に反対しているオスプレイ、もう運用開始からこんなに経っているんですね。

さらにNASAのリリースによると、VTOLローター機であるベルXV−15も、
同様に世界で初めて女性として操縦しています。


堂々たる経歴を長年にわたって積み重ねてきた彼女は、
世界中で行われる世界のヘリコプター選手権ではいつも審査員をつとめ、
「グローブ・トロッター」として走り回っています。
航空界で彼女を知らぬものはなく、顔の広いことでも有名です。
世界中の空港に現れる彼女を、仲間は愛情込めて

「エアポート・グルーピー」

と呼んでいるのだそうです。


彼女があるときカウアイ島からオアフの病院まで救急輸送をしたとき、
二人のパイロットはどちらも女性で、看護師は二人とも男でした。


しかし今日も、デモンストレーションでいつものようにコクピットに座る彼女に、
レポーターが驚きを隠せないといった様子で訊ねます。

「こんなたくさんのスイッチやレバーを、どうやって理解し操作するのですか?

彼女は肩をすくめて、

「自動操縦よ」

「女性なのに」という逆説から彼女が解放されることは一生ないのかもしれません。





 

 

 

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掃海隊群司令の追悼の詞

2015-04-20 | 自衛隊

先日、呉海軍墓地の伊号潜水艦363号についてお話しした時、
この伊363が、終戦まで生き残ったのにもかかわらず、
回航のために航行中、米軍が「飢餓作戦」で日本近海に撒いた魚雷に触雷し、
沈没して乗員がほぼ全員殉死してしまったと書いたのですが、
今日はその機雷を掃海した掃海艇についてお話ししたいと思います。

大東亜戦争末期に、アメリカ海軍は日本周辺に機雷封鎖作戦を仕掛けました。
これが、 Operation Starvation、「飢餓作戦」と言われるものです。
通商破壊と呼ばれる物流の海路を攻撃する作戦はそれまで潜水艦で行われましたが、
沿岸での潜水艦の活動は限られてくるため、アメリカ軍はB-29にMk25などの機雷に
パラシュートをつけて夜間撒くという方法に切り替えました。

飢餓作戦で出撃したB-29爆撃機は延べ1529機で、投下された機雷の総数は12239個。
作戦期間中に機雷で沈没した日本商船は約30万総トン、損傷船も約40万総トンに達したのに対し、
アメリカ軍の損害はわずか15機喪失(損耗率1%未満)でした。(wiki)

戦争が終わって日本が降伏した後に、残っていた機雷は6万7千個に及びます。
終戦後初めて触雷し多数の死者を出したのは「浮島丸」でした。
「浮島丸」は旧海軍の運送艦で、乗っていたのは朝鮮人労働者3725人。
このうち乗員25名、乗客524名が死亡しています。
このとき近隣の漁民たちは自分の船を出し、救助に当たりました。

しかし、遭難したほとんどがが朝鮮人であったというので、朝鮮側ではこの事故を

「日帝が大東亜共栄圏の野望を実現できなかった敗北の憂さ晴らし、
もしくは自分たちが犯したあらゆる犯罪的行為を永遠に葬り去ろうとするための、
故意に行った事故に見せかけたテロ」

であるといまだに主張しているそうです。
また、1992年には韓国人遺族が日本政府のへの賠償を請求する裁判を起こしていますが、
このときの判決は


旧海軍の絶大な好意に基づく便乗被許可者の、まったくの不可抗力に起因する災難」
「旧海軍の責任を追及するがごとき賠償要求等はこれを容認することができない」

として、被害者への賠償はおこなわないというものでした。
原告側は強制的に日本に連れてこられたと主張したそうですが、もちろん事実はそうではなく、
自分の意思で徴用に応じた労働者ばかりだったため、彼らが帰国する際、
海軍が復員のために船を出したのは主文にもある通り「好意」であったのだし、
その航路触雷したのは日本政府のせいではなく責任を問うべきであればそれは
機雷を撒いたアメリカである(だからそっちに言え)という判決ですね。

日本政府相手であれば自分の意思で労働に来たことも「強制だった」と言い張り、
企業から賠償金を取ろうとする裁判が韓国人によって幾つか起こされていますが、
この時の原告が、この後アメリカ政府を訴えたという話はないようです。
アメリカ相手なら言えないことも日本相手ならやってしまうというのは、
やはり日本という国の優しさというか弱さにつけこめばなんとかなると思っているんでしょう。

ちなみにこのときに殉職した海軍軍人は戦死扱いになっています。

その後も、同年10月の「室戸丸」(死者475名)昭和21年1月の「女王丸」(195名)
などの大型船、そして伊363のような小型の船が触雷のため沈没しました。

「女王丸」は関西汽船の船ですが、幾つかの資料を検索すると、関西汽船の当時の社員が

亡くなった事務長と事故の前日に会話をしていました。
遺体収容に参加した会社の先輩達から、遺族から浴びせられた憎悪の言葉は終生忘れられない、
と遭難事故の悲惨さを聞かされました」

と回顧している文章が見つかったりします。 
家族を失ったばかりの当時の遺族にしてみればその原因を作ったアメリカより、
目の前の船会社の社員を詰らずにはいられなかったのでしょうが、
船会社も被害者なのですから理不尽には違いありません。

日本政府も敗戦国という当時の立場では、アメリカに責任を問うことなど全くできない状態だったのです。
 


そこで日本側は、海軍兵学校卒で横須賀工廠での機雷実験に携わっていたこともある
田村久三海軍大佐を責任者に、旧海軍の艦艇を使っての機雷の掃海を開始しました。

掃海部隊はこれらの膨大な機雷の掃海に従事して、風浪と戦い、寒暑を克服して、

危険な作業に挺身しましたが、不幸にも79名の方が職に殉じて亡くなりました。

海上自衛隊では、これら掃海で殉職した方々を顕彰しその慰霊をすべく、掃海殉職者慰霊式を行っています。



さて、わたしが昨年秋に江ノ島の第一術科学校を訪れた時、

懇親会の席、そして音楽会に先立ち、自衛隊側の最高位者として
ご挨拶をされたのは、第一術科学校校長の徳丸伸一海将補でした。

いずれの挨拶も大変心に残るものであった、とこのブログでも何気なく感想を書いたのですが、
その後、名刺交換させていただいたお礼状を差し上げたところ、
徳丸校長からは直筆の丁寧なお葉書をいただきました。

 

これがいただいたハガキ。ホログラム?というか、昔からある立体的に見えるあれです。

後から知ったのですが、徳丸海将補は掃海隊群司令で、 掃海隊慰霊祭には
弔辞を述べる立場であられました。
平成25年度に金比羅宮境内で行われた追悼式での徳丸司令の弔辞は素晴らしいものだったと
評判だったということです。
徳丸海将補のお話の上手さは、わたしだけが感じたことではないのだなと思いました。

この時の弔辞の全文を送ってくださった方がいたのですが、
徳丸海将補のご尊父が掃海隊に参加していたということを知りました。 
海将補が語るお父上の掃海活動の部分を抜き書きしてみましたので
最後に掲載しておきます。 

 




私の父も戦後掃海に参加し、今年で八四歳になります。
私は、この追悼式に参加するに当 たり、父からこれまで幾度となく聞いてきた、
同僚が志し半ばで職に殉じられた情景につい て思いを致しております。

私の父は昭和二十年十二月から昭和二十七年五月の海上警備隊入隊までの間、
佐世保掃 海部、下関掃海部そして神戸海上保安部航路啓開部においてディーゼル員として勤務して おりました。
その間、昭和二十五年十月の韓国元山沖の掃海業務にも従事しております。
そして、三度危険と隣り合わせとなり、今考えても生き残れたのが幸運であったと申しております。

一度目は玄界灘で掃海作業に従事している時でした。

中学を中退し、十五歳で 予科練に入り二 ヶ月で終戦を迎えた父は、

幼い頃に病で父を亡くし母子家庭であったこ ともあり、
針生にある第二復員省の地方局で職を探しておりました。

その時、掃海艇乗組 員の募集があったため、父は直ちにこれに応募しました。
今回この追悼式に参加しております掃海母艦うらが艦長、触井園二佐の御尊父も
予科練を経て戦後掃海の道に入り、定年 まで掃海部隊において勤務されています。
航路啓開開始当時の掃海艇には、元パイロットが 養成途上の者も含め多く乗り組んでいたとのことです。

第二次大戦後、それまで船乗りであった者は復員船等の、
比較的安全でかつ待遇の良い業務に従事することが出来ましたが、
掃海については、危険でかつ厳しい業務であることから志願者が少なく、
乗船経歴が無くとも従事することができる職務であったため、
予科練出身者等が多く乗挺していたそうで あります。

危険に果敢に挑むDNAの萌芽がここにも有るような気がします。


さて、最初の危険との遭遇の話に戻りますが、戦後掃海の始まりにおいては、
まだ復員省も組織だった 業務を実施するには至らなかったようで、
父が掃海艇乗組員に志願した際には、志願者は 2列に並ばされ、
前列は駆潜特務艇248 号に、後列は250 号に乗り組むように指示されたそうです。

一度前列に並んだ父は、友人の顔を後列に認めたため、そこに移動しました。
その後、掃海作業中に、前列が乗船した248号が触雷し、沈むこととなりました。

二度目 の危険は下関の満珠島付近での磁気掃海作業中の出来事です。

父が乗り組んでいた駆潜特務艇は、当日は母船を支援する脇船として掃海作業に従事する予定でしたが、

母船が出すべき電らんを作業員が誤って繰り出してしまいました。
これを揚収するにはまた手間がかかるため、父の乗る艇はそのまま母船として電らんを曳航することとなりました。

母船になると発電機により電らんに電気を供給しなければならないため、

ディーゼル員として の作業はきつくなります。
父はついていないと思ったそうでありますが、共に作業をしている掃海艇3 隻で回頭している最中に
脇船が触雷し沈みました。


三度目は韓国の元山においてであります。

まず、掃海開始前に陸から射撃を受けたそうです。
それに対し米国は駆逐艦による艦砲射撃を行い、この攻撃を阻止しました。
その後、 4隻で掃海作業を開始しました。

父の乗艇する掃海艇には機雷敷設に詳しい者がおりまして、その者が、
元山にある大きな木とそこから離れた岩を見て

「これを結ぶラインは 危険だから避けた方が良い」

と艇長にリコメンドし、そのとおりにしたそうです。
後続してくる掃海艇はそのラインの方向に向かい、その後、触雷しました。
皆様ご存知のとおり、この時、作業のため艇内に入った1 名の方が殉職しておられます。

もし、父がこのいずれかの機会で殉職していたならば、

私はここで追悼の言葉を述べることはできておりません。

ここで眠られている79 柱のご英霊も、本来であるならばご家族と、

そして 新しく引き継ぐ命と共に幸せな家庭を築けたところ、
その職に殉ぜられましたことは、 痛恨の極みでありましょう。
輝かしい航路啓開の偉業と共に、途半ばにして壮烈な殉職を遂げられた皆様のあったことは、
我々掃海部隊の末裔のみならず、すべての日本国民 の心にとどめられ、
その誇りは長く語り継がれることでありましょう。


翻って、現在の我が国を巡る国際環境は厳しく、権力基盤が脆弱な若い国家指導者が 

理不尽な要求を掲げミサイル発射をちらつかせ西側各国を脅す国、(北朝鮮のことですね)
また、海洋権益の 確保のため外洋への進出を活発化するとともに、
公船を我が国領海に平然と進入させる国(勿論中国です)等、情勢は緊迫すれども緩まる気配はありません。
そして、中東に目を転ずれば、核開発を巡る力の駆け引きが行われており、
その結果としてホルムズ海峡の安定に懸念が持たれています。


そのような中思い起こせば、今から二十年余り前、掃海部隊が湾岸戦争後のペルシャ湾に派遣され、
危険かつ困難な業務を安全かつ適切に遂行し、先輩から受け継いだその実力が世界から認められることとなりました。

そのペルシャ湾においてはここ三年連続して多国間掃海訓練が実施されており、

海上自衛隊掃海部隊も毎年同訓練 に掃海艦艇や水中処分員等を送り、
現地においてその実力を遺憾なく発揮することにより、参加各国から高い評価を得ております。
そして、我が国の生命線、すなわち日本が 輸入する約85%の原油が通過しているペルシャ湾の
海上交通の安全の維持に貢献すると共に、グローバルな安全保障環境の改善にも寄与しています。

また、一昨年の東日本大震災においては、掃海部隊の艦艇及び水中処分員が直ちに出動し、
小型艦艇及び潜水員というその特性を活かし、入り組んだ沿岸部において瓦礫をかき分け、
汚濁した海中に潜り、捜索救難の任にあたりました。

また、同時に半島僻地や島に孤立する住民に対し救援物資を輸送する任務にも従事しました。

劣悪な環境の中でも黙々と任務を遂行する隊員たちは、皆様の掃海魂をしっかりと受け継いでおります。



こうした中、航路啓開以来の掃海の伝統を受け継ぐ我々は、平時・有事を問わず、
いついかなる任務が与えられようとも、これを整斉と遂行し、以て国民の負託に応えるべく、
日々精進し、即応態勢を維持する覚悟であります。

本日ここに、改めて、身命を賭してその使命を完遂されました皆様の偉業を忍びつつ
御霊の安らかならんことをお祈りすると共に、我が国の行く末と海上自衛隊の諸活動に
一層のご加護を賜らんことを祈念して追悼の詞といたします。 






 

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空母「ベニントン」~”彼の顔には死が見えた”(直訳)

2015-04-19 | 軍艦

空母「ホーネット」のキャビンごとに展示テーマを変えた「ホーネット博物館」の展示から、
今日は空母「ベニントン」CV-20 について
お話ししていこうと思います。

ベニントン(Bennington)とはまた面妖な響き、と思ってしまったのですが、
これはヴァーモント州のベニントンから来ています。
独立戦争の時に「ベニントンの戦い」で愛国者軍民兵がイギリス軍に圧勝したので名前が取られたようです。 

面妖といえば最も変な響きの米軍艦艇名は「タイコンデロガ」だと思うのですが、
このタイコンデロガも元々は地名。
「タイコンデロガ砦包囲戦」ではイギリス軍と大陸(アメリカ)軍が戦って、
イギリス軍が勝ったという戦いです。
さらにその20年ほど前に「タイコンデロガの戦い」というのが英仏軍の間で起こっていますが、
こちらも勝ったのはどうやらイギリス軍で、なぜアメリカ海軍がこの地名を採用したのか、
謎といえば謎ですが、独立戦争そのものが「勝ち」だったということで、
負け戦も栄光への一里塚みたいな捉え方をしたのかと推測されます。

独立戦争の時の戦闘地を艦名にした例ではもう一つ「レキシントン」があります。
わたしはボストン在住の時にレキシントンには車で行ける距離に住んでいたので、
何度かピクニックや紅葉を見に行ったものです。
7月4日には昔の民兵の衣装を着た人々とイギリス兵に扮した人々が
「レキシントンの戦い」の最初のシーンを街角の広場で演じているのを見たことがあります。

他には「サラトガの戦い」にちなんだ空母「サラトガ」なんてのもありましたね。

ベニントン(USS Bennington, CV-20)

はエセックス級空母の9番艦です。
第二次世界対戦のときに就役し、1944年12月、ニューヨークを出港し、
パナマ運河を通過して真珠湾経由でウルシー環礁に進出しました。
タスクグループ58,1、空母機動部隊に合流し、ウルシーから
昭和20年2月16~7日、そして25日の日本本土空襲に出撃しています。

これはどういうことかというと、ルメイ司令官立案の無差別攻撃で
東京都内を焦土にしたあの「東京大空襲」に参加したということです。

2月16日には 大森、渋谷、中野、杉並、蒲田、板橋、世田谷、葛飾、牛込、目黒区、八丈島
2月17日には 赤坂、大森、淀橋、中野、杉並、蒲田、城東、深川区その他東京郊外

をベニントンの艦載機は攻撃しているということになります。

さらに25日の空爆は「ミーティングハウス1号作戦」と呼ばれるもので、
 離陸前から目標を市街地へ変更し、従来と同じ日中の高々度爆撃ではあったものの、
使用弾種の9割を焼夷弾とする新戦術が導入されたため、神田駅を中心とした都内は
これまでより広範囲で文字通りの焦土となり、沿道は屍体で埋め尽くされました。
爆撃と並行して機銃掃射も行われています。


わたしは一度テレビで

「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、
中心に包囲された市民を焼き殺した」

という資料がアメリカから出てきたということを報じているのを見たことがありますが、
現在の時点でそのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できないそうです。

アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、
風下の東側から順に攻撃する指示が出されていたということなので、
体験者の印象による誤解と考えられるというのがwikiの解説です。


それはともかく、東京空襲と並行して小笠原諸島、そして沖縄と攻撃に加わったベニントンは、

4月7日、天一号作戦として出撃した東シナ海の帝国海軍艦隊を艦載機で攻撃する任務を負います。 

この時沈没したのは戦艦「大和」、そして駆逐艦「矢矧」「浜風」など4隻。
米海軍側から参加したのはベニントンを含む空母だけで7隻、軽空母4隻、戦艦6隻でした。
この数だけ見ても勝てるはずがないと思いますが、日本側は「雪風」を筆頭に案外帰ってきた艦が多いのです。
逆に言うとこれだけの総力で寄ってたかってやっと「大和」は沈められたということでもあります。

ベニントンはその後7月1日、そして15日から終戦の8月15日に至るまで、日本本土攻撃に参加しています。 

 

ベニントンの乗員が着用していた制服と作業服、度数尺にお金。
WE CAN HACK ITとあるジャケットはどうやら通信員のもののようですね。

 

お金の部分を思わず大アップしてしまいました。
これ、ほとんど日本円ですよね。 20円、10円と10銭札。



かつての乗組員が着ていた制服を寄付しています。

おそらく奥に写真のある一等水兵?でしょうか。
白っぽく漂白するのにブルーの蛍光塗料を入れた洗剤を使ったのか、
制帽が真っ青に着色されてしまっています。



そして艦載機に乗ったいかにも人の良さそうなパイロット(笑)と、そのジャケット。
松本零士の戦場シリーズ「ゼロ」という章で「ホワイトヘア」と呼ばれていた敵みたい、
「丸ぽちゃであまり憎たらしい顔じゃないなあ」と言われてましたね。



ボケていてすみません
日本が降伏し、戦艦「ミズーリ」で降伏調印式が行われた時、ベニントンは艦載機を
ミズーリ上空に飛ばしていました。
警備のためか、示威行為か・・。いずれにしてもそんなことをしていたとは知らなんだ。

10月まで占領政策を支援したベニントンは11月にサンフランシスコに帰港しています。
写真のワッペンは1966~7年に太平洋艦隊として極東クルーズを行った時のもの。



終戦後10月まで占領政策支援で日本にいた後、ベニントンはハワイ経由で帰国しました。

真珠湾ではまだ「博物館」になる前の戦艦「アリゾナ」の前を航行するとき、
甲板に人文字で「ARIZONA」と描いて敬意と弔意を示しました。




 下の3カ国は一番左がフィリピン(独立前)のようですが、右二つはこれも独立前でわかりません。



単なるスペック表かと思ってよく見たら、ずらりと人の名前。
ベニントンの絵の下にはこう書いてあります。

1954年5月26日、ロードアイランドでの任務中起こった爆発事故で
我々ベニントンが失った戦友(船友?)その他の人々の思い出に

日本語のウィキペディアには載っていないので、わたしもこの展示室の写真がなければ
一生知ることのなかった事件ですが、ベニントンはこのとき、
カタパルトの一方から漏れ出した燃料に航空機のジェットが引火し、フライトデッキ前面が大爆発を起こし、
当初の爆発で103名が死亡、201名が重軽傷という大惨事となりました。

事故後彼女は自力でロードアイランド州の海軍航空基地にたどり着き、負傷者を上陸させています。



爆発の凄まじさを物語る直後のベニントン。
抱き合って喜んでいるのはもちろん死ななかった乗員とその家族です。

100人以上死んでいるのに喜んでいる人たちを写すのは如何なものか、
とつい日本人であるわたしなど思ってしまうのですが、よく考えれば
これも彼我の報道の慣習の違いといったもので、日本のマスコミのように
家族を失って悲痛な顔をしている人にマイクを突きつけ「今のお気持ちは」
と聞かなくてもわかってることを聞くよりはいいような気がします。

電話で家族の無事を知って涙を拭う人もいますね、
気を失った女の人が運ばれていますが、キャプションを苦労して読んだところ()
彼女の夫である海軍中尉の安否を知るために待っていたところ、極度の緊張で倒れてしまった、とあります。
彼女の夫が生存していたのかどうかは書かれていないのですが・・・。




こんな大事件でスクープ写真っぽいのがトップにデカデカとあるのに、見出しが

「ヤンキースとドジャースは負けた」???

何か事故の比喩かと思ったのですが、これはマジでスポーツ欄の見出しのようです。
たとえどんな驚天動地の大事故が巷で起ころうと、野球の結果が気になる、
という多数のアメリカンやきうファンのために、タイトルを第一面に出すのです。

気になって調べてみたところ、1954年度のメジャーリーグではアメリカンリーグは
クリーブランド・インディアンス、ナショナルリーグはニューヨーク・ドジャースが、
それぞれニューヨーク・ヤンキースとブルックリン・ドジャースを下して優勝していました。
これだけ大きな見出しになるというのは、やきうファンにとって驚天動地の結果だったと・・。

まあそれはよろしい。

日本だって、阪神大震災の時に悲痛な顔で現場の様子を伝えていた徳光アナウンサーが、
「次はキャンプ地入りした巨人軍のニュースです」
と瞬時にニコニコ顔に変わって顰蹙を買ったなんてこともありましたしね。
(ちなみにこの年巨人は3位だった)
自分の身内でもいない限り、災害<贔屓チームの勝敗or動向は仕方ありますまい。

オイルに汚れた顔でその時の状況と恐怖を語る乗組員。

「彼の顔には死が見えた」(直訳)

という、こちらは紛れもなく事故記事のタイトルです。

 

やけどを負ったものの九死に一生を得た生存者たち。
顔中やけどを負って目と鼻と口以外に包帯を巻かれた者。両手だけに激しいやけどを負った者。
しかし生きていることが嬉しくて思わず微笑む者・・・。

下左でベッドに手をかけているのは駆けつけた血液のドナー。
右側の水兵さんたちは、とりあえず自宅に無事を知らせる電報を打っています。

そして上写真の真ん中が艦長のウィリアム・ラボーン大尉
左がベニントン付軍医です。(右は・・・記者?)
ラボーン艦長は、

「私が艦橋に立って、ちょうど18ジェットファイターが発射されるのを見ていると、
ほぼ最後の機のころになって爆発が起こった。左舷前部の部分だった。 
すぐさま大事故だと思い、残りの航空機を全て発進させ甲板を空けた。
こうした作業を冷静にやってくれた乗組員を大変誇りに思っている。
彼らは驚くほど英雄的な偉業を成し遂げたよ」

と語ったそうです。

この事故は、アメリカ海軍はカタパルトのシステムを油圧式から蒸気式に
移行するきっかけとなったと言われ、現在では艦艇推進機関のボイラーからの
高圧水蒸気
を圧力タンクに貯めておき、航空機の発進時に一気にシリンダー内に導いて、
その圧力で内部のピストンを動かす方式が主流となっています。


ロードアイランドのニューポート湾を望むフォートアダムス州立公園には
この事故で殉職した103名の乗組員のために慰霊碑が建てられました。

日本にも立ち寄る極東クルーズの後、ベニントンはシドニーに寄港しました。

コーラルシー・デイの記念行事のためです。
コーラルシーデイってなんぞや?と調べてみてびっくり、なんのことはない
(ってことはないか)珊瑚海海戦のことじゃーないですか。

他人事ではないのよこれは。


開戦初頭の1942年、連合軍と帝国海軍がこの海でバトルを繰り広げ、
アメリカは空母「レキシントン」沈没、「ヨークタウン」中破、
日本側は空母「祥鳳」沈没、「翔鶴」中破という結果でどちらもが戦果を誤認していたし、
マッカーサーは味方を攻撃したのを隠すしで、
まあ色々とあった海戦なのですが、
アメリカ軍はそのときは記念行事をやっていたようです。


 

1957年のコーラルシー・デイ式典のことです。


当日の朝、10人のシドニー大学の学生が海賊の衣装に身を包み、こっそりベニントンに侵入しました。

何人かは当初の目的通り、地元の慈善団体の寄付を乗組員に募るという本来の仕事を始めたのですが、
何人かはいたずら半分で艦橋に入り込んだのです。
そのつもりではなかったけど、たまたま入り込むことができたので魔がさしたのかもしれませんが、
拡声装置を見つけたポール・レノン医学生がそれを作動させ、艦内に

「USS ベニントンはたった今シドニー大学の海賊によって捕獲された!」

と叫んだのです。
とたんに原子爆弾や化学兵器の強襲を警告するアラームが鳴り響き
寝ていたものは全て寝台から跳ね起き、学生たちは海兵隊によってつまみ出されました。
彼らへのお咎めはなぜかなかったそうです。

相手が学生で、珊瑚海海戦の時の連合国であるオーストラリア人だったということもあったでしょうが、
先日、エリザベス女王の寝室に日本人観光客を侵入させてしまったバッキンガム衛兵と同じで、
わざわざ大事にして警備の甘さが
ヤブヘビになるのを避けたかったのに違いありません。

とにかくわたしとしては、このビートルズみたいな名前の医学生が、
卒業後無事に医者になれたことを祈るばかりです。




ベニントンはその後アポロ計画でアポロ4の宇宙船を回収する任務を経て、

1970年に退役し、1994年にスクラップにされてその生涯を閉じました。




 

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ある海軍大佐の戦後~朝鮮戦争と東京オリンピック

2015-04-17 | 海軍人物伝

もと海軍軍人を中心にPF艇の管理を行うYBグループに職を得た元海軍大佐。
ここでの仕事は”カンカン虫”と言われた汚れ仕事でも深夜や悪天候での見張りでも、
皆が粛々とその任を果たし、要領よくサボったり人を出し抜いたりといった
「兵隊根性」とは無縁の職場であり、それはご当人曰く

自他尊重、ミューチュアルアドバンテージ(相互利益?)

のうえに貫かれたもので、同僚の老兵の中には

「海軍独特の民主的な集合体における肌の触れ合い」

などと自画自賛するものも現れるくらい、うまくいっていたようです。

発足当初は生涯労務機関に駆り出された軍労務者たちが、
米兵からまるで俘虜のごとく追い回されたり小突き回されたり、
あるいは中国系アメリカ兵から顔に青痰を吐きかけられたりなどという
屈辱的なことも起こったそうですが、朝鮮動乱の開始とともに雰囲気は変わりました。

元海軍軍人たちは、夜の闇に乗じて来襲する泥棒警戒のために
ライフル銃を貸与されてリバティ船の見張りを行うまでになったと言います。


もっともこの銃はコケ嚇かしのため空包(音だけが出るようにした儀礼用または演習用の弾薬)
でしたが、空包の発火をやらせてみると、かつて戦争中にさんざん大砲をぶっ放した

海軍さんも、普通のおじさんになっていて、おっかなびっくりのへっぴり腰です。

戦後4年経って、すっかり戦争放棄の民のお手本と成り果てたと嘆息しつつ、
所詮は戦後生きる糧を得るためのやむなき職であったと自ら認めることになりました。


ここでちょっと寄り道をして、朝鮮戦争への日本の「寄与」についてお話ししておきたいと思います。
 「日本軍」と耳にした途端、血がのぼって荒れ狂う韓国人にぜひ知っておいてほしい話。
それは、日本軍がなければ現代の韓国軍はなく、今の韓国もないという史実。
ジャーナリストの井上和彦氏のコラムからです
 

朝鮮戦争・釜山橋頭堡(きょうとうほ)の戦いにはこんなエピソードがあります。

韓国軍の金錫源(キム・ソクウォン)准将率いる韓国第3師団約1万の将兵は、
北朝鮮第5師団との戦闘で、東海岸の長沙洞(チャンサドン)付近に追い詰められました。

壊滅の危機だった同年8月17日、国連軍の戦車揚陸艦4隻が救助にやってきました。
金准将は驚愕しました。
米海軍の戦車揚陸艇に乗っていたのは、旧日本海軍将兵だったからです。



金准将は、日本の陸軍士官学校を卒業(27期)し、支那事変では連隊長として大活躍し、
金鵄勲章まで受章した元日本陸軍大佐で、「半島の英雄」として、日本でも広く名が知られていました。

その英雄が、朝鮮戦争勃発と同時に、韓国陸軍准将として再び戦場に登場したことは
韓国軍の士気高揚に貢献しただけでなく、日本軍時代の名声と人柄が知れ渡っていたため
韓国人の”元日本兵”らが先を競って集まってきたといいます。

首都ソウルの防衛を担った第1師団長時代から、金准将はカイザー髭を蓄え、
「軍刀は武人の魂である」としていつも日本刀を携えていました。

そして米軍事顧問団の制止も聞き入れず、常に最前線で陣頭指揮を執り、
日本刀を振りかざして部下を奮起させ・・・つまり骨の髄まで“日本軍人”だったのです。

金准将は先の海上撤退で艦艇に収容された後、それまで作戦指導中に片時も放さなかった日本刀を、
南少尉に手渡しました。

それは戦場における最後の日本刀だったということです。


金准将のほか、後の韓国空軍参謀総長となる金貞烈(キム・ジョンニョル)将軍は、
大東亜戦争緒戦のフィリピン攻略戦で武勲を上げた元日本陸軍大尉で、
南方戦線では戦隊長として三式戦闘機「飛燕」で大活躍しました。

北朝鮮軍戦車に体当たり攻撃を敢行した飛行団長、李根晢(イ・グンギ)大佐も、
加藤隼戦闘隊の撃墜王の1人であり、

後の韓国空軍参謀長となるチャン・ソンファン中将や、キム・ソンヨン大将、
韓国陸軍砲兵隊を育てたシン・ウンギュン中将なども、日本陸軍の将校でした。


戦後韓国軍を立ち上げた首脳部の多くは、日本の陸軍士官学校か満州軍官学校の出身者です。
このため朝鮮戦争での韓国軍は「米軍装備の日本軍」といわれ、
戦争自体も「第2次日露戦争」の様相を呈していたという指摘があるくらいなのです。

例えば韓国陸軍のキム・ソグォン少将(1893~1978年)は朝鮮戦争時、
マッカーサー元帥が国連軍総司令官就任にした直後のの軍議で、本人を目の前に愉快そうに

「日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。よろしい。
日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、存分にみせつけてやりましょう」


といい放ち、その腰に佩した日本刀を仕込んだ軍刀の柄を叩いて見せたといいます。


かし、彼ら朝鮮戦争での救国の士に対する日本嫌いの李承晩(イスンマン)の
戦後韓国の仕打ちは酷いものでした。
「親日」を理由にブラックリストに載せ、
予備役編入後に理事長を務めた高校の敷地に在った金将軍の像まで撤去しています。

井上氏はこのコラムの最後をこういう言葉で結んでいます。


韓国の方々に言いたい。歴史を直視できない民族に未来はない。 





さて、朝鮮動乱に出動を要請されたYBグループのメンバーはいずれも20歳代の若者ばかりで、
彼らは海上トラックや上陸用船艇に配備され、気軽な調子で出動していったのですが、
残された老兵たちはふとあることに気がついて愕然としました。


臨戦地境の海域でもしその身に何かあったとしても、今の彼らには
なんの保証や手当の裏付けもないのです。

海軍軍人であれば、戦死傷病があっても軍人年金や叙勲の名誉が与えられましょうが、

今の彼らは軍人でもなく、かといって米軍や韓国軍から保証されている立場でもありません。

かつての司令官や艦長たちは今更ながらに若者たちの身を案じ、
帰還を今か今かと密かに心痛めながら待っていたそうですが、
彼らの心配は杞憂に終わり、ほどなく彼らは無事に帰ってくることができました。

彼らのうちのリーダーは、その後自衛隊の要職にまで上り詰めたそうです。



その後海上警備隊が創設され、YBグループにあったかつての将校も、

また予備学生出身者も、年齢が42歳未満の者は全員、警備隊幹部となりました。


その中に、海軍の再建を固く信じて飛び込んできた青年がいたそうです。
九州の名門の出である彼は父子三人で大東亜戦争の戦列に在りましたが、
将官だった父も、少佐であった兄も還ることはありませんでした。
彼自身、2度も3度も乗艦の沈没で、その都度南洋を泳ぎ回って生還しています。 

こんな人物が、その後自衛隊の幹部となり、「ベタ金」の海将となっていったのです。
(と書けば誰のことかわかってしまう方もおられるでしょうか)


YSグループと言われる「海軍軍人の吹き溜まり」が出来た当初から、
海軍の復活を洞察した元海軍軍人は決して少なくありませんでした。
この九州から海軍再建を信じて出てきた青年将校のスマートな背広姿を見たとき、
もしかしたら、それは3年くらいで実現するかもしれないと希望を抱く者もいました。

実際は予想より少し早い2年半後、吉田・リッジウェイ会談によってそれは正夢となりました。


警備隊創設の朝、その旗の下に「戻っていく」青年たちは、
まるで借り着のような妙な色の正服を着ており、

身分は文官でも軍人でもない”特別職の公務員”というものでした。

彼ら自身海軍の復活を喜びながらも『新憲法第9条』が喉につかえたような、
忸怩たる気持ちをどこかに持ちながらの船出ではありましたが、

彼らにはどうにもならぬ仕儀と合点せざるを得なかったのです。

自衛隊発足のために政府が集めたY委員会のメンバーは金モールの袖章を飾る

高級幹部ととなり、元大佐らのYBグループは、ネストから去っていく
自分たちの手にかけたPF艇とその甲板の若者たちを心静かに見送りました。

自衛官の採用には年齢制限があったため、特務士官、准士官、下士官は
優秀な人物が多かったにもかかわらず、YBグループに残ることになります。

ところでこの名称のYとかBとかですが、これはおそらくですが、一般日本人に
わかりにくい名称で活動することで、外部からいらない雑音が入ってくるのを防ぐためでしょう。

自衛隊発足後もYBグループは非就役船舶の保管業務のほか、海上トラック、
交通艇の保管、港湾防備作業、見張り監視、信号通信など、
およそ海自関係の雑役はなんでもやるようになりました。

自衛隊が軌道に乗るまでの便利屋さんといったところです。

どんな仕事もかつての海軍さんが中心になっている組織ですからお手の物で、
動乱景気のオーバータイムもここが稼ぎどきとばかりに引き受け、
アメリカ人将官にさすがにここまでは、と心配されてしまうほどでした。

しかし食糧事情も国内ではまだまだ良くなかったので、 米軍専用のレーションが
貯蔵品で変質したものとはいえ、出されるのは結構ありがたいことだったのです。

最初にYSグループが発足してから16年が経過していました。

往時のメンバーは人員整理と定年退職で次々と基地を去り、
敗軍の兵を語らず黙々として一人の名もない海の男となって働いた
アドミラルもキャプテンも、多くが墓の向こうへと去ってしまっていました。

ここで元大佐ご本人について少し補足しておきましょう。


元大佐は海軍兵学校48期。
海軍省の報道部に勤務したあと、航空母艦「瑞鳳」副長を経て、
以降ずっと航空隊司令を歴任し、終戦時には釜山の海軍航空隊司令でした。

昭和15年、この元大佐が報道部に勤務中作詞した、軍事歌謡の名曲
「艦隊勤務」は、現在でも歌い継がれています。


そして1964年。
神武以来の好景気に沸く日本で東京オリンピックが開催されました。
開会式の代々木の空を、航空自衛隊の5機のブルーインパルスが5つの輪を描いたのは、
敗戦後24年で、日本が復興を高らかに世界に宣言した歴史的瞬間でした。 

そのヨットレースの競技場となった江ノ島ヨットハーバーに、
かつて食うや食わずの困窮生活から横須賀に転がりこみ、自衛隊の復活をその目で見た
老大佐の姿がありました。

老大佐の眼前には江ノ島、鎌倉、葉山沖一帯に錨泊する海上自衛隊の支援隊が
列線を隈なく張り、老大佐はその光景に思わず目を見張りました。
そこには懐かしいPF艇の改装型の姿さえあるではないですか。
まるで我が子が立派に育ったのを見るような思いです。


 晴れ渡る秋空のもと、光る海に帆をなびかせるヨットの帆走に見とれながら、
老大佐はこの海を再び激動させてはならないと改めて思うのでした。





 

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ある海軍大佐の戦後~「大日本幽霊艦隊健在なり」

2015-04-16 | 海軍人物伝


昭和27年4月26日。
この日海上保安庁の外局として隊員6000名の海上警備隊が組織されました。
それこそ世間の目をはばかるようにごくひっそりと・・・。

海軍の再建ともいうべき海上自衛隊の前身の誕生した瞬間でした。

戦争を放棄し、軍備を否定した新憲法下に置いてまるで隠し子のような発足とはいえ、
横須賀基地港内の岸壁に係留されたPF艇の艦尾には、星条旗に変わって
軍艦旗(この時には警備隊旗だった)が翻りました。

音楽隊は「われは海の子」を吹奏し、
どういうわけかアメリカ海軍の軍楽隊が威勢良く行進曲「軍艦」を吹きならしたそうです。

ここにかつて世界三大海軍の一であった帝国海軍の一員として、「われは海の子」と
アメリカ人の奏でる「軍艦マーチ」の音の渦の中、涙をこらえつつ立つ一団がありました。
雨の日も風の日も、厳寒の冬も酷暑の夏も、PF艇のキーパーをやってきたYSグループの老兵たちです。

この前年の昭和26年、吉田首相はリッジウェイ対象と会見を行い、
この時にアメリカからPF艇(フリゲート艦)18隻、上陸支援艇60隻を貸与のうえ
日本海軍創設を要請しました。

その後、旧海軍軍人を交えた「Y委員会」がその構想を練るために発足しましたが、
これに先んじて、すでに横須賀に係留されている貸与予定の艦船を保管する業務を
任されていた日本人グループは、「YSグループ」と呼ばれました。

「武蔵」艦長経験者であり、「大和」特攻にも「矢矧」艦長として参加した
古村啓蔵少将がアメリカ軍に特に招かれていた他、横須賀という土地柄もあって、
ほとんどが大東亜戦争の生き残り、百戦錬磨の老兵ばかりでした。

誰言うともなく自らを「幻の艦隊」と称するようになったこの集団は、
くたびれた復員服に身を包んでいても、気骨稜々のさむらい揃いでもあったのです。


この中の一人にある元海軍大佐がいました。


元大佐は、戦争中は12の航空部隊を遍歴し、軍人冥利に生きた時世も今は過去、
復員の際、終戦で解放された連合軍捕虜が結成した強盗に
列車の中で腰の長刀を奪われて「丸腰」の姿で帰郷をしてきました。

再開した妻子は給料の支払いが途絶えて明日の生活さえ憂う困窮状態。
生糧品の放出を騎兵連隊の主計士官が村役場に陳情に行ったところ、
富農でもある農協の責任者は、椅子にふんぞり帰ったまま

「もう戦争は済んだで、負けた兵隊に食わせるものはあらせん」

と嘯き、しぶしぶと供出した配給の薯はまるで鼠の尻尾のような屑ばかりでした。

東京で再起を誓った元大佐は、小さな新聞社に拾われますが、
公職追放に該当する履歴がたたって2ヶ月で解職、次に顧問名義で就職した映画会社は
赤色争議による重役総退陣に遭いこれも退職。
この後職を点々としている間に息子を結核で失い、妻も感染してしまいます。

芯が出た畳の上に海軍毛布一枚を敷いてそこで寝起きする窮乏生活に進退極まったとき、
教会の口添えで米海軍基地の労務者として糊口をしのぐつてを得ることができました。

ここで元大佐は司令官の秘書をしていた日本人女性からこんな情報を耳打ちされます。

「近くソ連からアメリカ海軍の貸与船舶が返還される。
これは横須賀で保管し、いずれ日本海軍が復活するとき、そっくり貸与するものらしい。
その管理の仕事で旧海軍さんを差し当たり200名ほと募集するそうだ。
行く行くはPF艇27隻、その他の船舶50隻となって、雇用人数は1,000名を超える。
そのマネージメントなら昔取った杵柄でちょうどいい仕事なのではないか」

月給は1万5千円、職種は顧問。
妻の看病をしている身には定収入が得られるのはありがたい話でした。

昭和24年8月の末に

未就役船舶管理部隊

というこの駐留軍労務者のグループが発足し、「海の老兵」の吹き溜まりとなりました。
朝鮮戦争のときには一部の人員が揚陸作戦に派遣されたりしたそうですが、
秘匿されたためうるさい世間の噂になることもありませんでした。

海軍が滅びた日本に、軍艦旗が再び翻る自衛艦隊の創設されるその日まで、米軍基地で
供与された船舶の子守をしていたのが、彼らYSグループのもと海軍軍人たちだったのです。


警務隊の旗が揚がった時、老兵たちの中には郷愁に誘われて涙したものもありましたが、
大方の新しい組織のメンバーはそのように捉えたわけではありませんでした。

彼らにとっては新生日本の新しい海軍の創設であり、懐古するものではなかったのです。



PF艇は昭和24年、ソ連から横須賀に回航され、返還と同時に警備隊に貸与されました。
回航員は港内の係留作業がすむとただちに退艦して母船に収容され横須賀を去ります。
数次にわたる回航にはいつも同じ顔ぶれが見られました。

ヤンキーの水兵さんはスマートなのに対して、ソ連水兵さんは明治時代の日本の兵隊さんのようで、
どこかで見たことのあるような懐かしくも泥臭い雰囲気を漂わせていたそうです。

回航員が退艦したばかりのPF艇には、およそ消耗品と名のつくものは一物もありません。
燃料タンクは舐めたように空っぽ。
時折巻きタバコが落ちていることもありましたが、大変不味いものでした。

PF艇が到着するにあたって、保管業務に備えて日本人従業員の緊急募集が行われ、
地方にスカウトが人材確保のために飛びましたが、馳せ参ずるものは全員が元海軍軍人です。
敗戦の荒廃の中生活に困窮していた彼らにとって、船に因縁のある仕事は魅力でした。

蓋を開けてみれば集まったのは中将級から海軍の飯も食いそめぬ終戦一等兵まで雑多、
アドミラルクラスは十指に余り、佐官級は赤穂義士もかくやと思われる豪勢な顔ぶれ、
旧華族の御曹司、いわゆる皇室の藩屏 (はんぺい)と思しき御仁さえもいたそうです。

思えば戦前戦後にかけての有為転変により、かつての陛下の股肱も
今や職業軍人という代名詞で蔑まれる怒りの失業者軍団。
200名のうち半数以上が准士官以上という陣容です。

司令官、艦長、司令の経歴を持つ将官や大佐級、作戦の帷幕にあった参謀、
かつて恩師の短剣をいただいた英才に太平洋で武功抜群を称えられた将兵。
特務士官、准士官、下士官のかつての精兵が雁首を並べたこの集団の存在を
ある日共産紙がデカデカとすっぱ抜いたつもりで書き立てました。

「大日本幽霊艦隊健在なり」 

と・・・。 


YSグループには職を求めて終戦時穴ばかり掘っていた穴掘り兵や、召集されたこともない
ただのおっさん、そして陸軍軍人もデタラメの履歴で潜り込んでいました。
もっとも面接係の海軍の古狸は「来るものは拒まず」のいい加減、もとい寛容さを備えていました。
業務中に海に落ちられては困るので泳げない者に手を上げさせ 、
そのなかでもいかにも陸軍面の風格を持った求職者に


「船は何に乗ったか」

「ハイ、関釜連絡船に乗りました」

「それでどこへ行ったか」

「ハイ、北支であります」

「・・・・・やっぱり陸軍だな・・・」

「ハ、もとい、憲兵は陸軍でも海軍でも受け持ちでした」

「よし採用決定」

 
軍歴の立派な海軍軍人も怪しげな軍歴のおっさんも、皆等しく
戦後の困窮生活で食い詰めていたことに間違いはなく、
来るべくしてこの「老兵の吹き溜まり」 に流れてきた同志となりました。

 

保管船舶の係留場を「ネスト」と呼びました。
彼らはそれぞれのネストに分かれ、さらに個々の船に分乗して保安監視と
保存整備の労務に従事しました。
ここでは昼夜交代の見張り当直も、日常の手入れ作業も皆が平等に行います。
提督も佐官尉官も、上等兵曹も国民兵ももちろん元陸軍さんも・・。

それはまさにデモクラシーを絵に描いたような理想の平等社会でありました(笑)

それから足掛け4年間、元船乗りの老兵たちは、PF艇群をまるで愛撫するかのように
丹精込めてネストに繋がれた愛娘を手塩にかけて育てあげ、
それは、彼女らが自衛艦となるその日まで続きました。


そのうちPF艇のほかに、LSSL、上陸支援艇60隻が横須賀に配備され、
YBグループと名称の変わった旧YSグループの従事者は、総員850名を越し、
こうなると海軍経験者だけを採用するわけにもいかなくなってきました。

帝大出身の秀才、映画会社の技師、アメリカ帰り、戦犯釈放者、
倒産した自営の社長も縁故を頼ったりしてやってきました。
吹き溜まりには違いないのですが、中には「ある事情で」一時しのぎに職を求め、
そのうち大学に進学して将来を約束される地位に就いた青年もいました。

彼らのほとんどは戦死した海軍軍人の子弟であったということです。 


1950年(昭和25年)、朝鮮動乱が勃発しました。
韓国海軍に転身する船を急速に整備するため、YBグループは
半狂乱とも言える動乱体制に否応もなく巻き込まれることになります。
観戦修理廠の造船作業に伴って、嫁入り仕度のおめかし(サビ落としと総塗粧)

が彼らの日課となりました。

YBグループの組織は役職が全て英語となり、軍ではありませんから
マネージャー、サブマネージャー、技術者はスタッフ、エンジニア、
そしてボイラーマンと呼称されていましたが、先般の共産紙はわざわざ
この組織図に

鎮守府参謀長=トップマネージャー

などという解説をつけてその欺瞞を暴いたつもりになっていたようです(笑)

とにかく、動乱体制ではマネージャーとサブマネ、人事担当以外は、
総員がカンカン虫と旧軍で称したところの、船底から重油タンクの中を
油と汗とペンキまみれで這いずり回る重労働に甘んじました。

そしてそれも終え、韓国兵が乗り込んでくると、エンジニアの経験者は
米海軍士官の指示を受けて、彼らの指導にあたりました。
みずからが造修を手がけたPF艇試運転の際には、マネージャーやスタッフたちも
弁当を持って便乗しました。

マネージャーはかつて世界最大の戦艦「陸奥」に艦長として座乗した人物でした。
黒潮のたぎる東京湾頭に艇が出たとき、彼は「陸奥」とは大違いの狭苦しいPF艇の艦橋で、
冬の冷たい西風から
いささかも顔を背けることなく、昂然と海を眺めていました。

寒さのあまり鼻水が出ていても、露ほどの関心も払うことなく立つ元艦長に向かって、
アメリカ軍のチーフが無言のままそっと真新しいハンカチーフを差し出すと、
彼はさりげなく受け取って鼻の下を横一文字に拭い、一言

「サンキュー」

といってそれを自分のポケットに突っ込みました。
その日、東京湾は富士山が裾まで捲れて白波が走る快晴でした。


このマネージャーが「誰」であったか、元大佐の記述には明らかにされていません。
本人の経歴にも戦後YBグループで警備隊に関わったことは一切触れられていないのですが、
わたしはこの人物が二代目「武蔵」艦長であった古村敬三少将だったのではないかと思います。



続く。
 

 

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海軍陸戦隊~「敵国陸軍」「敵国海軍」

2015-04-15 | 海軍

「呉海軍墓地」シリーズもそろそろ終わりに近づいてきました。
海軍墓地にある慰霊碑をきっかけに、慰霊されている軍艦や部隊などを調べることで
また少しですが海軍と大東亜戦争についての知識が広がったような気がします。
(こんなきっかけでもないと、「サラワケット越え」なんて一生知らないままだったかも) 


前回から陸上部隊の碑を中心にお話ししているのですが、
本日冒頭画像墓石は個人墓となります。
どうも戦前からあるもののようですが、どんな海軍軍人の墓かというと、

 

「海軍陸戦重砲隊」 。

海軍陸戦隊とは元来艦船の乗組員に武装させたものを言いましたが、1930年からは常設部隊となりました。
明治時代には一時強行移乗を目的とした「海兵隊」と称する揚陸部隊があったのですが、
(砲撃戦の時代なのだから)時代遅れだということで1876年には廃止になっています。
「海外陸戦隊規則」で陸戦隊が明文化されたのはその10年後のことでした。


ところで墓石に刻まれた文字を見ると、なんとここに見える全てが

明治37年(1904)8月~9月

にかけての戦死者の墓であることが判明しました。
1904年、皆さんはこの年何が起こったかよくご存知ですね?
そう、この年の2月8日に、 旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍の駆逐艦による
奇襲攻撃によって、日露戦争が始まったのです。

ちなみに日本政府が最後通牒を発令してから最初の攻撃までなんと2日も間があります。
これでも奇襲っていうことになったんですね。悠長というか。

この時第一次攻撃をした駆逐隊は「白雲」(平仮名にするとまずいので自衛艦にならなかったあれ)
「霞」「朝潮」「暁」の第一艦隊を始め駆逐艦10隻でした。

「杉野は何処」で知られる広瀬中佐「旅順港閉塞作戦」は開戦後一ヶ月以内に行われ、
「鴨緑江(おうりょくこう)会戦」は5月1日。
このときはロシア軍は日本軍の力を舐めまくって兵力を分散したので、
十分な準備をした日本にフルボッコにされてしまいました。

8月に入って、あの黄海海戦が起こると程なく旅順攻撃も始まるわけですが、
海軍陸戦隊の重砲部隊はこの一連の旅順包囲戦に参加しています。


ここの墓石の立ち並ぶ戦死者は、この時の攻撃で戦死した海軍軍人で、
艦隊の乗組員から構成されており、武器の重砲は陸揚げした艦載砲でした。

写真では全ての日付は読み取れないのですが、手前の墓石は

「8月21日」「8月24日」

旅順の第一回総攻撃は8月19日に始まっており、この二人は
8月24日までの激しかった戦闘のうちに亡くなったらしいことがわかります。
そしてもう一基、確認できる墓石の戦死年月日は

「9月19日」

この日はまさに第二次総攻撃前哨戦の始まった日にあたります。
こういう風に実際に見たものと歴史的資料が合致した時、
なんとも言えない達成感をつい感じてしまうのですがそれはともかく()

この日の17時頃から、南山披山と203高地へ4,000名による攻撃が行われています。

しかし、その晩は月夜でロシア軍の攻撃は正確を極め前進することができず
翌20日に突撃は延期された、ということですから、この戦死者はその正確なロシアの攻撃に
斃れてしまったということなのでしょう。


ここに小さいとはいえ個人墓があるということは、隊の指揮官であったと思われます。


ところで、いきなりですが「敵国海軍」「敵国陸軍」という言葉をご存知ですね?
このブログでも一度ネタ扱いしたことがありますが、それほど我が皇軍の陸海は
仲が悪かったということを端的に表している言葉です。

戦後よく言われることであり、負けたのはこのせいだという説もあり、
(わたしも仲が良かったら勝ちはしないまでもかなり展開は変わっていたと思います)
また、この轍を踏まないために、自衛隊では初級教育を一括してすることになったというくらい、
諸悪の根源とされていた事案でした。

しかし、これはあくまでも組織としての問題で、国民にすれば同じ皇軍。
どちらがどうと評価されていたわけでは決してないと思います。
もちろん世間では海軍の方がスマートでモテたとかいう傾向もあったようですが、

それを言うなら陸軍のマントやブーツに萌える戦時下女子だって一定数いたわけで。

2・26事件で首魁として処刑された磯部浅一にも現役時代そんなファンがいたそうですし、
中橋基明中尉に至っては美男子の上に洒落者で、マントの裏を総緋色にし、マニキュアまでして
香水の匂いを振りまきながらダンスホールでイケイケだったそうですから、
まあその辺に関してはわたしは「人による」としか言いようがありません。



話がそれてしまいましたが、同じ兄弟で陸士と兵学校に行ったという例はいくらでもありますし、
要はお役所的な縄張り争いというものが対立を生んでいたということなんではないでしょうか。


では、なにゆえ陸海軍の仲が悪くなったか。

その理由を知ろうとすれば、明治維新以前まで遡らねばなりません。

昔、日本では、ほとんど陸軍しかその必要性が認められていませんでした。
たとえば戊辰戦争では、新政府軍にも旧幕府軍にも海軍力はほぼゼロだったくらいで、
国内の戦いでは、滅多に海戦も起こらないのですから当然です。

というわけで当時の軍予算は陸海で10対1といったところでした。

その後、西南戦争が起こり、陸海間の対立は決定的になります。
というのは西南戦争とは一口で言うと薩摩藩の反乱だったわけですから、
その後の新政府樹立後も、同じく維新の立役者となった長州藩出身との関係は最悪。

その後、陸海軍が独立して出来た時に、両者はそれぞれ一緒にやることを嫌い、

それだけの理由で「陸の長州・海の薩摩」

に分かれてしまうのです。
もうこの時点で不仲は確定ですね。

しかも、当初10対1の力であった陸海間の力関係は、海軍が当初陸軍の隷下であったため、
独立することになってからも、それが尾を引きしこりとなって残ってしまいました。
さらに予算の食い合い、人材の取り合い、国への貢献度のアピールetc・・・・・。

利益が競合するのですから対立しないほうがおかしいというものです。


て、以上のことを心に留めて、
日露戦争の経過を見てみましょう。

どう見ても、この戦争中、陸軍と海軍が「張りあっていた」もっと言えば
「いがみ合っていた」証拠をここにありありと見ることができます。

わかりやすくするために(またかよ)会話形式でやります。



陸「旅順は監視だけで十分・・・・・と思ってたけど、
 北上する軍の後方にロシア軍がいたらやばいから攻城軍作るわ」

「陸軍の後援は必要無し!」

「あ?海だけでやるってのかコラ」 

=4月6日に行われた会議=

出席者 陸軍:大山巌参謀総長、児玉源太郎次長

    海軍:軍令部次長伊集院五郎

海「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」


陸「なこと言って、旅順港閉塞作戦失敗だっただろ?今どんな気持ち?ねえどんな気持ち?」

海「くっ・・・・機雷で封鎖作戦したる!」失敗

陸「ほーら言わんこっちゃないw今どんな気持ち?ねえどんな気持ち?」

=バルチック艦隊の極東回航がほぼ確定=

陸「ほらほら、バルチック艦隊来ちゃうよ?
 旅順どうすんのよ。陸軍の助け欲しい?欲しいなら言ってごらん?」

「ほ・・・・・欲しい」

陸「最初から素直にそう言えばいいんだよ可愛く無い奴だな」

海「・・・・おのれ陸軍ギリギリギリ」

旅順攻略・開城\(^o^)/\(^o^)/



ふーむ。

これどういうことですかね。
旅順艦隊は海軍がやっつけるから、陸軍は手出しするな、と言っていた割に
旅順港閉塞やら失敗してしまったので、陸軍が業を煮やして陸から参戦、でおk?


そういえば「伝説の男」というエントリで、海軍の有名人、都留雄三大佐の少尉時代、
ちょうどこの旅順攻略の連絡係で偉そうにしていた(陸軍側は少尉と知らずに上官扱い)
という話をしたことがあったのですが、その一文に、

旅順攻城作戦が遅々としてはかどらず、見るに見かねた帝国海軍は
陸戦隊を編成し、乃木軍に協力させることになりました。

なんて書いてあるんですね。いや書いたのはわたしですが。
まあ確かに旅順開城までの戦闘は難航し「遅々として捗らなかった」のは事実ですが、まるで

「海軍が見るに見かねて陸軍を手伝ったから旅順は攻略できた」

みたいな言い方じゃありませんか。

この元文を
書いたのはもと海軍軍人だったので(源内先生だったっけ)
このような海軍目線の記述となったようですが、いくら
物は言いようとはいえ、
やはり歴史は公平な目で見なければいけないと思いました。



しかしこのころは、ロシアという共通の敵にそれでも一丸となって当たっていたわけで、
まだこれでも仲良くやっている方だったみたいですね。後々に比べれば。

この後陸軍は農村の疲弊を巡って皇道派と統制派、海軍は軍縮会議を巡って艦隊派と条約派に分かれ、
また陸海の垣根を越えて皇道派と艦隊派が接近するなど、(例:東条と嶋田)
後々の日本社会の問題点ともなる「お家芸:組織における派閥争い」が生まれてきてしまい、

「うちの軍隊がそんなに強いわけがない。」

とこれだけ見ても思う状態になりました。
こんなことで戦争に勝てるわけがありましょうか。

まあ実際勝てなかったんですけど。


しかし、勝ったアメリカにしても、陸海間の仲が悪かったことにおいてはある意味日本以上で、
日本の陸海間に禍根を残した戊辰戦争に当たるのが南北戦争というのも似た構造。
加えてこちらは、日本における天皇陛下のような絶対の存在がなかったのでトップ争い、すなわち
陸海どちらの出身者が大統領の椅子を取るかで大変な争いがありました。

ニミッツとマッカーサーが犬猿の仲だったのは有名ですが、マッカーサー(陸)とルーズベルト(海)、
ルーズベルトとアイゼンハワー(陸)、アイゼンハワーとマッカーサー(陸同士)・・・、
と不仲のエンドレスサークルが形成されていたのが実情。
あの戦争で日本軍が勝利したとされる戦闘の多くは、この齟齬の賜物だという説もあるくらいです。
(一例:重巡インディアナポリス轟沈)


こちらはよくこんなんで勝てたなと思うのですが、日本が国力において遥か下だったことが幸いしました。
日本が陸海内で同じようなことをやっていなかったら、かなりやばかったかもしれません。

ちなみに戦後すっかり仲良くなって現在に至る日米の両海軍もとい海軍と自衛隊。
少し前までは日米の元海軍軍人同士で集まると、会の最後には必ず皆で


「Beat Army!」

と気勢を上げて親睦を深めるというのがデフォだったそうです。




後世の我々は日露戦争を「陸の旅順攻略」、「海の日本海海戦」で

各々得意の分野で力を発揮し、勝ち取ったという綺麗な面だけに目が行きがちですが、
(日露戦争大ファンの司馬遼太郎先生がそう思わせたせい)
淡々と述べられている歴史だけを見ても、さぞいろいろあったんだろうと思わせる不穏さに満ちています。
ここにお墓のある陸戦隊重砲部隊は、陸軍とどのように連携したのでしょうか。
一体となって外敵と当たるべき戦場において

「海のモンに陸で大砲扱えるのかよ」

なんて言われていなかったことを祈るばかりです。
何しろ同じ武器なのに陸「高射砲」海「高角砲」と呼び方まで違ったのですが、なぜかというと

「向こうと同じ呼び方をするのは気に入らないから」

というだけの理由だったそうですし(呆)




 

 

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地方総監部訪問記~自衛官の結婚と「約束の海」

2015-04-14 | 自衛隊


もうすっかり昔のことになってしまいましたが、
わたしが地球防衛協会の顧問に就任して、地方総監部に表敬訪問を行い、
地方総監とお会いするところから続きです。

一体平成何年の話をしているのか、って?

実際にあったことをここで報告する場合、直後だと各方面に人物特定されてしまう
という危険性を少し考慮して、あえて日にちをぼかすということをよくやるのですが、
これもその一環とご理解くだされば幸いです。

(でもこのエントリ、間違えて一度アップしてしまったんですね。
読むのが二度目だという方、あれは間違いで今日が本番ですのでよろしく)



さて、少し前に庁舎に案内され、二佐や幕僚長と話をしていたところ、
明るい第一声とともに部屋に入って来られたのは
9月付けで新地方総監に着任した海将でした。

「初めまして、本日はわざわざよくお越し下さいました」


ところでわたしは三月の「ふゆづき」引渡式の祝賀パーティで、
前総監であったM海将ににご挨拶させていただいたのですが、
そのM海将にこの日あらためて総監部でお会いするものだと前日まで勘違いしていました。

今回地球防衛協会(仮称)は、新総監に、やはり就任したばかりのわたしを紹介するために
ここに派遣してくれた、という形だったのですが、
残念ながら本人があまりその構図を理解していなかったということですorz




さて、海将が正面に座り、会談開始。
ところで、このときの配置を図で示すと、

◎ 海曹長              
                   
◎ 幕僚長              
           ◎ エリス中尉    
◎ 海将               
           ◎ TO              
◎ 管理部長1佐

◎ 人事部長2佐


前にずらりと自衛官が並んだだけではありません。
ふと気づくと管理部長の1佐は、会談の内容をなにやら専門のノートに逐一筆記しているではありませんか。



これはうかつなことは言えない。
ここでしゃべった一言隻句が、すべて防衛省の記録として未来永劫残るのだわ。(たぶん違う)

とにかく、思ったよりはるかにおおごとになっているのにビビりまくるエリス中尉。



しかしながら、海将がそのお人柄らしい、明るく磊落な調子で話し始めると、
すっかりそのことはわたしの
頭から抜け落ちて、いつもの通りしゃべっていました。



海将との会話は意外なことに?自衛隊の「婚活問題」から始まりました。

実はその伏線として、海将がお見えになるまで、2佐や海曹長との間に
自衛官には出会いの場がない、という話題が交わされていたことからです。


ちょうどその日、わたしはたまたま、

「自衛隊には外国籍の妻を持つ隊員が
800人いて、その7割にあたる600人が中国人である」

というニュースを目にし、あらためて衝撃を受けていたのですが、その記事には理由として、

「自衛隊の基地はたいてい田舎か郊外にあり、女性自衛官が増えたといってもまだまだ男ばかり。
日常のなかに男女の出会いなんてほとんどない。
それで、斡旋業者を介して外国人女性と結婚したり、
盛り場の飲み屋で知り合った外国人女性と結婚するケースが増えているのです」(陸上自衛隊関係者)


という声を紹介していました。

以前コメント欄で「飲み屋のお姉さんと結婚する自衛官は実に多い」という現状を伺ったことがありますが、
その相手が日本人ですらないという例が急増しているらしいですね。

特に海上自衛官の場合、長期の航海などで日本を離れる機会も多く、
さらには2年ごとに転勤という勤務状況が、
結婚相手を探すのに障害となっているのが実情です。

ちなみに現在の日本に於ける一般の外国籍女性との結婚率と、
自衛隊内での外国籍妻を持つ隊員の割合はほとんど一緒です。

いつも言う通り、自衛隊もまた社会の縮図ということにすぎないのですが、

国防という職務の性質上、それは決して好ましいこととは言えません。

実際に、自衛官の中国人妻が絡んだ機密漏洩事件が起こっている以上、
自衛隊上層部としても、この問題を非常に重く見ているらしいのが、
2佐の話しぶりからも、海将がその話題から始めたことから窺えました。

まあ、単に「ツカミ」にしやすい話題だったからという説もありますが。



しかし、現実に自衛隊側としても何も対策をしていないというわけではなく、

このときに同席しておられた海曹長は、定期的に基地で婚活パーティを開いて
自衛官と一般女性の出会いの機会を設けているとのことですし、
基地・駐屯地主宰によるそういった催しも結構な頻度で行われているのだそうです。


ところで、海将は最近婚活市場で自衛官が注目されている、という傾向をご存知なのでしょうか。


「テレビ
で取り上げられたりして、最近はずいぶん変わってきましたが、

わたしたちの頃は、世間はバブル景気でね。
ああいう時代に自衛官なんて職業全く相手にされなかったですよ」


大災害での活動によって世間がその存在を認知したこと、
国際情勢がいやでも国防に注目せずにはいられない事態であること、
そしてバブル時とは対極の経済不安。
そして何と言っても大災害において国民に広がりつつある物質重視社会への倦厭感。

こういった事象が、公務員である自衛官という職を、あらゆる面
(婚活含む)でクローズアップしているというのが昨今の構図です。

つまり、社会が不安定になるときには世間は自衛隊に注目する、
という吉田茂の言葉そのままの現象が起こっているのです。



話は少し変わります。

前任のM海将もまた潜水艦隊司令でしたが、新総監も潜水艦出身です。
潜水艦、といえばわたしにはどうしても山崎豊子の小説

「約束の海」

を思い浮かべます。
海将のご感想などお聞きすべく、さりげなく?話題に乗せてみました。

「ああ、あれはね」

打てば響くような返事。

「読んだとたん思いました。俺が疑われるって(笑)」

山崎氏は、晩年の体の不自由な中、取材リストを編集スタッフに依頼し、
その様子を撮影させたDVDは200枚に上ったということですが、
小説の主眼が「なだしお」と釣り船の衝突事件であったということで、
海上自衛隊からはかなりの人数がその取材に協力しています。

ちなみに取材協力者は「海上自衛隊」として

沖縄基地隊、海上幕僚監部広報室、幹部学校、
幹部候補生学校、呉地方総監部、潜水艦おやしお、
潜水艦教育訓練隊、潜水艦隊、第1術科学校、
第5航空群、
第46掃海隊、米太平洋艦隊司令部連絡官

という各部隊の名が本書巻末に記載されています。




海将はこのときに取材を受けていないということですが、
小説を読んだときにまず、その内容があまりにリアルで、現場の状況と
当時の人物像などについても新に迫った部分が散見されたため、

「これほどのことを知っているとなると真っ先に
その直前まで実際に乗っていた人間が疑われるでしょう」

海将はまさに疑われるべき経緯の持ち主だったということです。

別の自衛官から聞いた話ですが、あの小説発表後、事故に近かった自衛官の間では、
ちょっとした「犯人探し」の雰囲気があったそうで、なんとならば、
小説に書かれた「くにしお」艦長の性格などや現場の様子が
まさに当事者しか知り得ぬことであったりしたからなのだそうです。

しばらく疑心暗鬼の微妙な空気が現場に立ち込めだしたため、
「うちには取材に応じた人間はいない」と発表する隊も現れるなど、
とにかくあの小説は、自衛隊内部にその当時、ちょっとした波紋を呼んだようです。

ここでもう一度取材協力者のリストを見ると、モデルになった「なだしお」の名だけがないのに気づきます。



ここでその「なだしお」事件について聞いてみました。

「あの事件でのマスコミ報道はどのように思われましたか」
「憤りましたね。なんて報道をするのかと」


あの頃、溺れる人を艦の上に立って平然と見殺しにしているかに
「たまたま」見える写真が大きく新聞を飾りました。

その様子がまさに糾弾の意図を持ってテレビでも新聞でも繰り返され、
世間はまんまとその情報操作に乗らされて、それこそ一億が総出で
「非人間的な自衛隊」をバッシングしたのです。


ところが、何の因果か、海将はその後、潜水隊司令を経て、
海幕総務部総務課広報室長となり、自衛隊の広報として
マスコミと直に接触する部門を経験することになります。

「なだしお」のときに怒り心頭というくらいであったマスコミへの印象も、そのときには、

「実際に(マスコミの人間と)付き合うとね・・・
特に個人的には、
気のいい人物ばかりなんですよね」

と変わっていったそうです。
海将、わかります。
わたしもNHK職員の個人的な知り合いが二人(以下略)


海将の話はまだまだ続きました。
わたしは最初に海将が、

「わたしたちの(婚活)時代は・・」

とおっしゃったことから、主人公が海将と同年代である「約束の海」の記述をいくつか思いめぐらせました。

潜水艦乗りの身辺調査は,厳しい。
機密保持にシビアな分、徹底的に調べられる。
本人や親兄弟はもとより、親密に交際している友人にも調査は及び、
外国人と抜き差しならない関係にある場合などは、
潜水艦乗りから外される。


また、主人公の花巻が、フルーティストの頼子に職業を聞かれたとき、
過去、自衛官だといったことで何度か女性に拒否されたことを思い出し、
一瞬忸怩たる思いになるというシーンなどは、


自衛官と口にしただけで、身を引かれてしまった経験が
一度ならずあった。
一年近く付き合った女性の家に、挨拶に訪れた際、母親からは冷たい視線を浴び、
都庁に勤務するという父親からは

「君らがまた戦争をおっぱじめたい連中の予備軍か!
懲りない税金泥棒!」と面罵されたこともある。
そう言う思いは、もうしたくない。



いずれにしても海将は現在の自衛官が持て囃されている風潮を「昔からは考えられない」と語りました。


しかし、わたしなど思うのですが、メディアで取り上げられることの功罪でいうと、
自衛官という「記号」に過剰な夢を見たり期待をする女性が増え、
それゆえ勝手に失望したりトラブルの元となるという面も出てきます。


自衛官が婚活相手として何をおいても人気の職業であるかというと、
まだまだ世間全般で考えると、そこまでは言えないというのが実情ですし、
そもそもこういう時期、

「何が何でも自衛官と結婚したい。自衛官なら誰でもいい!!」

と意気込む女性には、当の自衛官たちも嬉しいどころか、身構えたり、
引いてしまうのではないかという気がします。



出会いがない自衛官が、近づいて来る外国人と何となく結婚してしまう。

これは依然として解決すべき深刻な問題ではありますが、

反面、婚活市場が「氷河期」であるときほど、自衛官の身分ではなく、
その人個人を見て結婚してくれる相手と巡り会うことができるとも言えます。

だいたい自衛官を夫にしている女性は、


「気がついたら夫は自衛官だった」

という人が大多数なのではないでしょうか。
それこそ他の職業の夫を持つ妻とほとんど変わりない割合で。

メディアの過剰な持ち上げは時として本末転倒の婚活を生み、

自衛官の嫁不足そのものを解決することにならないのでは?
・・とわたしは実のところ少しばかり憂慮しないでもありません。


ただ、自衛官たちは世間と隔絶している分、自分たちがどんな形でも「評価されていて」、
さらに「応援してくれる人がいる」ということを知るのは無条件で嬉しいというのも事実です。

そのあたりの需要と供給のバランスが自然に落ち着くことになって初めて、
自衛官の結婚問題は解決したといっていいのかもしれません。




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栄光マラソン部隊~”あゝうつくしい にほんのはたは”

2015-04-12 | 陸軍

昨年、2014年1月に小野田寛郎さんが91歳で亡くなりました。
戦後30年フィリピンのルバング島で「諜報活動」を続け、

地元の警察などと「戦闘をしながら」戦い続けていた最後の日本兵です。

小野田さんと行動をともにしていたのは3人の陸軍兵(一等兵、伍長、上等兵)で、
昭和25年に一等兵が逃亡し投降し、小野田さんたちの存在が明らかになりますが、
現地に撒かれた勧告ビラを読んでいながらも三人は投降せず、昭和29年、そして昭和47年に
小野田さんを除く二人が現地警察との交戦で射殺されています。




栄光マラソン部隊、北本工作隊が活躍したここ東部ニューギニアでも、
昭和31年、終戦から11年経って日本人残留兵が見つかっています。


この残留兵も小野田さんのグループと同じく敗戦を信じていたなかったためか、
(小野田さんは終戦は知っていたが現在の日本の施政は傀儡政権によるものと信じていた)
オーストラリア官警が投降をすすめても聞き入いれず、逮捕に向かったところ
撃ってきたので射殺したということでしたが、投降したら殺されると信じていれば
旧帝国軍人がこのような行動を取っても致し方ないことであったでしょう。


北本中尉にはこんな出来事がありました。
健脚を武器にサラワケット越えを果たした北本隊長はカナカ族の腹心、
ラボを使って原住民の間にネットワークを張り巡らせていました。
豪州兵を射殺したことを感謝している部落の酋長などは日本軍さまさまで、
全面的な協力を他の部落の酋長にも表明したため、それは非常にスムーズでした。

各酋長に「北本斥候隊長」の肩書きを与え、敵の侵入をいち早く知らせてもらう、
というネットワークを構築し、物資の調達も今や困る事は無くなり、
一時は戦争を忘れた楽園のような生活が続いていたと言います。

日本側からは軍医を派遣して各部落の医療にあたり、部落からは
若者たちを選抜して土民兵として供出してくれるようになりました。

そのとき日本軍にはあの「高砂義勇兵」が含まれていました。
台湾の山岳民族である高砂族だけで編成され、
東部ニューギニアに適合するという判断で加えられた部隊です。

ニューギニア土民の彼ら高砂義勇兵に対する興味と関心は大変なもので、
はだしでジャングルや山道を音もなく歩く彼らに親近感を持ったらしく、
酋長たちはしょっちゅう彼らを小屋に呼んでは話し込んでいたそうです。

そうやって現地民との信頼関係のうちに築かれた情報網から、ある日ニュースが飛び込んできました。
 土民斥候がもたらしたのは敵が侵入しているとのこと。
北本隊長はラボと選りすぐった高砂義勇兵5名、そして土民兵10名で現地まで

「マラソン攻撃」

を開始しました。
走り出したら止まることのない「ランニング突撃」です。
全員が驚異的な身体能力を持っているのでピッチは全く落ちません。
彼らは50キロの行程をなんと3時間で走破し、目的地に到着しました。

平均時速17キロ、計算してみると1キロを走るのに3分半のペースです。
現在平地をひた走るフルマラソン(42,195キロ)世界記録が2時間10分であることを考えると、
小銃を持ってこれはまさに世界新記録だったのではないでしょうか。



情報通り、小屋には二十歳そこそこの大男がいびきをかいていました。



「ノー、ノー」

まだ二十歳を出たばかりの、そばかすの多い顔が引きつっていた。
捕虜となった以上、日本軍には保護する義務があると言っているのだろう。
早口でまくしたてる言葉のなかに、「デューティ」「レスポンシビリティ」
が飛び出した。

わたしは忘れかけた英語を搾り出しながら尋問を始めた。

彼、ウィルバート空軍中尉は縛られないとわかると馴れ馴れしく、
私のそばにやってきて何か食い物をよこせといった。

日本の兵隊なら舌を噛み切ってでも話さない軍の秘密をウィルバートは平気でしゃべった。
話によるとサラモアを包囲するために、近く背後の草原に
落下傘部隊を降下させる計画だという。


直ちに今きたコースを走って引き返したのですが、真っ先にウィルバートがアゴを出しました。
大事な情報主を置いてけぼりにするわけにもいかず、土人たちに代わる代わる担がせて
ともかくも最寄りの部落にとびこみ、電話を入れて敵攻撃の一報を入れました。

翌日、ラエの憲兵隊がウィルバートを引き取りに来ました。

「殺さないようあなたからよく頼んでくれ」

手錠をかけられたウィルバートは後ろを向きながら何度も懇願しました。


搬送されていく車の鉄格子にしがみついて泣き叫ぶウィルバートの顔は、
24年たったいまもときどきわたしの夢の中の
登場人物となって現れる。
後の転進のさい、彼は憲兵に射殺された。
苦しみもだえながら、ニューギニアの大地にうずくまるウィルバートが、夢の中でわたしに叫ぶ。

「お前は、男の約束を破った」


さて、転進に次ぐ転進の後もマッカーサーの「飛び石作戦」に阻まれ、
進退窮まった日本軍は、ついにここで戦って玉砕することを決心しました。
攻撃のための前進が始まって、北本中尉は大尉に昇進したことを無線で知ります。

前回中尉に昇進してからわずか6ヶ月後、陸士出の現役将校を追い越す特進でしたが、
ジャングルの中を疾走している北本隊長には、もはや何の感慨も呼び起こしませんでした。

このとき、小隊を持って大部隊を装う陽動作戦は敵のレーダー網に敗れ、
今度こそ軍司令官安達二十三中将は本当の玉砕を決意しました。

「健兵は三敵と戦い、重患者はその場で戦い、
動き得ざる者は刺し違え、各員絶対に捕虜となるなかれ」

北本大尉は最期の命令を受けます。

「安達閣下の切腹場所となる場所を探して欲しい」

北本大尉が付近を踏査して”ここなら2~3年は踏みとどまれるであろう”
絶好の条件に恵まれた場所を見つけ、喜び勇んだとき、上空からはたくさんビラが降ってきました。

「日本は8月15日、連合軍に無条件降伏しました。無駄な抵抗はやめなさい」

もしろんそんなビラを信じるものは誰一人いませんでしたが、
上空を旋回するグラマンが一向に攻撃してこないので、
次第に皆それは本当のことだと信じずにはいられなくなりました。

自決場所を北本中尉に命じて探させた安達中将ですが、その後、
東部ニューギニア日本軍の全責任を負って、ラバウルで一人自決を遂げています。


終戦を悟った北本大尉が滂沱の涙を流していると、ラボが、



「キャプテン、どうしたの?何かあったか?」


日本の勝利を信じ、その暁にはニューギニアの大酋長になれると楽しみにしているラボに
いまさら「日本は負けた」と告白するわけにはいかない。
わたしはとうとうしどろもどろの”終戦告白”を顔を背けるようにしていった。

「ラボ、よく聞いてくれ。戦争は引き分けに終わった。
神様が殺しあうのはよくないから、お互いに手を引けとおっしゃったんだ」

子供だましの様な話を、わたしはもっともらしく伝えた。
ラボは正直に頷きながら聞いていた。
しらじらしい嘘をつかねばならない自分が情けなかった。

「ラボ、今晩は一緒に寝よう。もう敵の弾も飛んでこない」

崩れかけた小屋の片隅で、二人は肩を並べて横になった。
ラボはピクッとも動かず、目を開いたままで何かを考え込んでいた。
沈黙が続いた。ラボが思い余ったようにポツンといった。

「キャプテン、日本へ帰るのか。なら俺も一緒に連れて行ってくれ」


しかし、それができないどころか、彼が日本軍に協力してきたことが
進駐してきた米軍に知れると彼の命も危なくなります。
北本大尉は断腸の思いでラボに別れを告げました。


「今日でさようならだ。これは取っておいてくれ」

ラボは首を振った。

「こんな品物をくれるよりオレを日本に連れて行ってくれ」

「それはいかん。日本は遠い遠いところだ。
オレはきっとニューギニアに戻ってくるからそれまでお互いに辛抱しよう」

ラボは泣き崩れた。子供が駄々をこねるように、首を横に振ってわめいた。

「いやだ。キャリに帰るのは嫌だ。日本に連れて行ってくれ」

わたしは同じことを何度も言ってなだめた。
ラボもとうとうを諦めた。
いくら頼んでも聞き入れてもらえないと悟ったのだろう。
悲しそうな目をあげて、ぽつりと言った。

「キャプテン、何もいらないから”神様のしるし”の旗をくれ。
毎朝拝むから」

日の丸の旗など持っていたら怪しまれるぞ、とはどうしても言えなかった。
わたしはサラワケット越えに使用した日章旗を手渡した。
ラボはボロボロになったその日の丸の旗を押しいただくと、
右肩から袈裟懸けに巻き、川の方にトボトボと歩き出した。

「キャプテン、さようなら」

ラボはカヌーに飛び乗ると、振り向きもしないで水面を漕いだ。
舟底の浅い、丸木作りのカヌーは、ひとかきで大きく岸を離れた。

「しろじに あかく ひのまる そめて・・・」

「ゆるしてくれ、ラボ・・・」

心の中で手を合わせ、ラボの姿が見えなくなるまで見送った。
涙がこみ上げてきた。しまいには嗚咽に変わった。
信頼しきってきた男を、最後に裏切らなければならない自分が情けなかった。
心の張り裂ける思いだった。






昭和38年、テレビ番組「それはわたしです」に、北本工作隊隊長として
出演した北本正路氏です。

戦後は大阪で鉄鋼業を経営しておられたようですが、
それ以外の軌跡はインターネットで探し当てることはできませんでした。

戦後、北本氏は豪州大使館に連絡を取って日本にラボを招待することを思いつきます。


「なんとかラボとの再会の約束を果たしたいと思う。
彼と一緒に靖国神社の亡き戦友の冥福を祈ることが実現したら、どんなに素晴らしいだろう。
二人で平和を満喫しながら都会のビルのジャングルを思い切り歩いてみたい」

このようにあとがきに記した北本氏でしたが、その後それらしいニュースもなく、
どうやらその望みが叶えられることはなかったようです。


しかし、あのときに東部ニューギニアの日本軍を救った一人の現地人と、
驚くべき健脚と精神力ででそれを可能にした一人のアスリートの存在は、
それによって命存え日本に帰国してきた者たちが、
子へ孫へと繋いでいく血潮の中に、これからも脈々と刻まれていくでしょう。



ところで、北本大尉がラボに与えた日章旗はその後どうなったのでしょうか。


ラボは、毎日この「神様のしるし」に向かって手を合わせ、「日の丸の旗」を歌いながら、
いつか北本隊長が迎えに来てくれる日を、楽しみに待っていたのでしょうか。



 


 

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