goo blog サービス終了のお知らせ 

ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

空路にしますか?それとも線路?1927年以降の航空〜スミソニアン航空博物館

2025-06-24 | 航空機

郵便輸送によってアメリカに航空事業が誕生し、
それが民間の手に渡って発展してきたところで、スミソニアン航空の
航空運輸の歴史、フェイズ2に入ります。

1927年から始まるこの時代とそれまでを分けるのは、
飛行機が運ぶものがものから人へと変わったことです。



世界大恐慌にもかかわらず、第二次世界大戦前の1920年代後半から
1930年代にかけて、米国の航空輸送は驚異的な成長と変化を遂げました。

技術の進歩に伴い、航空機は第一次世界大戦当時の複葉機から、
洗練された高性能の現代的な旅客機へと進化しました。

政府の指導の下、郵便局と商務省を通じて強固なインフラが整備され、
規制改革により業界の形も変わりました。

旅客サービスは定着し、成長を遂げ、航空路は全国に広がりました。

しかし、航空旅行は非常に高価であったため、
富裕層や出張者だけが利用していました。

加えて、飛行機の快適さは日に日に改善されつつあったとはいえ、
依然として不快さを我慢しなければならない場面が多かったのも事実です。

■ バミューダ?それともカリフォルニア?


1930年代には、飛行機を利用できるのは、
超エリートビジネスマンや、裕福な層の旅行者だけでした。

しかし、彼らの多くでさえ、この新しい旅行形態に不安を抱いていました。
航空会社の広告では、スピード、快適さ、
そして何よりも安全性が強調されていました。

しかし、これらの魅力的な広告は、信用できるものだったのでしょうか。

今日と同様に、旅行者は、旅行オプションのメリットとデメリットを
吟味し、比較検討する必要がありました。



「広告が信用できなくとも、私を信用してください」(キリッ)

■ 飛行機ですか?汽車にしますか?


あなたが今、シカゴから太陽の光が降り注ぐカリフォルニアまで
旅行したいと考えていたとします。
あなたはこれまで列車での優雅な旅を何度も体験してきました。

しかし、今回、友人たちが飛行機での旅を熱心に勧めてきたので、
この新しい乗り物に興味が出て、検討してみることにしました。

飛行機と列車の広告を見てみましょう。

• どちらが速いですか?
• より快適ですか?
• より高価ですか?

【列車】


「酋長はやっぱり酋長」

・・・は?

って感じのコピーですが、この酋長(チーフ)とは、
「チーフ」という名前の長距離客車とかけているのです。


チーフは、イリノイ州シカゴとカリフォルニア州ロサンゼルス間を走っていた
アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道の長距離客車列車です。

サンタフェ鉄道は1926年チーフを始動させ、
サンタフェの標準列車として徐々に増やしていきました。


「そして、機関車は今でも輸送手段の王者です。
大きさ、速度、運行の安全性において、機関車に匹敵するものはありません。

THE CHIEFがアメリカ西部の大平原を颯爽と走り抜ける力は、
サンタフェシステムの選りすぐりのエンジニアたちによって制御されます。

THE CHIEFの乗客の喜び、快適さ、安全性に必要な
完璧なレスポンスを得ることに精通したエンジニアたちです。」

エンジニアの匠に焦点を当てた広告です。
今日でも即採用されそうなコピーですね。


チーフは完全にリクライニングする座席を備えた豪華な列車であり、
すべての乗客が利用できるラウンジとプレジャードームなど、
すべての設備が整っていて、旅行客に人気でした。

しかし、1960年代半ば、チーフの高級バージョン、
スーパーチーフが高級路線を打ち出し、一部の特別客を優遇し、
一般客を排除する方向に舵を切ったこともあり、その高いコスト、
航空会社との競争、郵便局との契約 の喪失により、
1968 年に廃止されたのでした。



こちらは夜行列車で安く、快適に旅しましょうという広告。
シカゴ&ノースウェスタン・ユニオンパシフィックでは、
「ストリームライナー」という清潔で快適、エアコン完備の夜行、
特別料金39ドル50(40とは絶対に言わない)で、
シカゴからサンフランシスコまで39時間と45分
(四捨五入すると40時間ですが)で行けますよ、と言っています。

料金はおそらく必要な時間と同じになるように設定したのでしょう。

不思議なことに、シカゴからなら、サンフランシスコとLAに
全く同じ時間で行けると宣伝しています。

日本の鉄道会社じゃないので、おそらく時間はアバウトで、
誤差は何十分単位であったのではないかと想像されます。

【空路】


こちらはTWA(トランスコンチネンタル&ウェスタンエア)の広告です。

「TWAは、通常の鉄道運賃に比べ最もお得な低運賃を提供いたします」

飛行機と汽車を比べると、価格的に汽車が安いと思われがちですが、
この広告では、当社の特別航空運賃と、列車の普通の運賃を比べると、
期間限定ではあるけれど、ほとんど同じくらいなら
早くて快適な飛行機がいいでしょう?と宣伝をしています。

コピーの頭に「リンドバーグライン」という言葉を入れるのも忘れません。


今!カリフォルニア州への最速アクセス

途中経由2空港のみ
唯一の乗り越しサービス

シカゴ発(CT東海岸時間)8:25 P.M.
カンサスシティ着(CT)11:00 P.M.
アルバカーキ着(MT中部時間)3:20 A.M.
ロスアンジェルス到着(PT西海岸時間)7:00 A.M.

TWAダグラスラグジュアリーエアライン

最も快適・・最速・・超静粛性・・空調完備

ニューヨーク路線4本、たった4時間25分!

東西海岸を結ぶ最速最短ルート

とにかく、「速い」ということを全面的に謳っています。


リンドバーグラインとチーフが手を組んだ姿です。
列車のチーフのトレードマークでもある部族の酋長が、
飛行機にに手を振っていて、この試みが
「スカイチーフ」であるということがポスターに書かれています。

スカイチーフは、DC-2で運行されていた路線で、大陸間を定期運行し、
ニューアークからロスアンジェルスまで、17時間39分で移動しました。
途中でシカゴ、カンザスシティ(給油)、アルバカーキ、
そしてロスアンジェルスのグレンデールに到着します。

確実に、静かに、速く

夜通し、そして毎晩、この空の君主はアメリカを横断します。

TWAの他の豪華スカイライナーは、カリフォルニア、シカゴ、
ニューヨーク間の昼間のフライトを双方向で運航しています。

また、全機が3つの無線受信セットとトランスミッターを装備しており、
4つの周波数(昼用2つ、夜用2つ)で運用されています。

TWAは、スムーズで安定した飛行を保証する
スペリー・ジャイロパイロットと自動安定装置を完全に装備した
世界で唯一の航空会社です。
ジャイロ・パイロットのおかげで、人間のパイロットは
飛行監視や科学的ナビゲーションに十分な時間を割くことができます。

指向性無線ビームは、パイロットを安全かつ確実に
次の目的地へ導く広いハイウェイを提供します。
さらにTWAは、米国の航空会社の中で
最も完全な天気予報サービスと気象ストールを維持しています。

より多くの乗客がTWAを選ぶのも不思議ではありません。
あなたも最高の快適さと信頼性を求めるのであれば、
TWAの各事務所、または一流ホテルや旅行会社でお問い合わせください。

ダグラス・スカイライナー
すべての高さで(ON EVERY HIGHT)

最後の「オン・エブリ・ハイト」はキャッチロゴだと思われます。

この広告では、懸念されがちな安全対策をこれでもかと謳っています。
当時TWAが発行した「スカイチーフ横断フライトガイド」には
このようなことが書かれていました。

空港ターミナルでは、活気あふれるざわめきが聞こえ、
制服を着た係員が待機し、手荷物検査が行われ、
電報が送られ、雑誌が購入される。

そして、胸を躍らせる「全員搭乗」のアナウンスが流れる。

2基のエンジンが完璧なタイミングで轟音を立てる。
都市から都市へ、そして海岸から海岸へとメッセージが流れる。

「スカイ・チーフは定刻に出発しました」

17人の乗客と1000ポンドの郵便物が空の旅路へと舞い上がる。
巨大な飛行機は高度を上げ、ニューヨークとカリフォルニア間の、
5つの寄港地のうち最初の寄港地に向けて航路を進む。

前方では、2人の熟練したパイロットが並んで座り、
地図を調べ、計器に注意深く目を光らせている。

710馬力のエンジン2基を搭載し、ジャイロパイロットで操縦される機体は、
設定された航路から決して外れない。

「シカゴより、ファースト・スカイ・チーフより。
現在、プリマスの西10マイル、高度8,000フィートを飛行中です。
高度制限なし、視程10マイル。
シカゴには25分で着陸予定です。
風と天候はいかがですか?」

「シカゴより、ファースト・スカイ・チーフより。
こちらは南西の風、時速10マイル。気圧計300。
天候は晴れ、視界制限なし」

雲の上でのディナーは実に魅力的で、食欲をそそります。
上空の清潔で新鮮な空気を吸うだけで、
美味しいフライドチキンでしか満たせない食欲が刺激されます。

前方に街の明かりが見え、ビーコンが点滅。
スカイライナーは別の都市の空港に向けてゆっくりと降下を開始します。

スカイライナーは大量のガソリンを消費します。
510ガロン。給油なしで1,000マイル以上飛行できる量です。

10分後、飛行機は新たなスタートを切ります。
次の目的地はカンザスシティ。大陸の半分を横断しました。

空気は静かで穏やかです。
目立った動きはなく、機内は静まり返っています。
用心深い客室係は、乗客の頷きに気づき、より快適な姿勢を提案し、
椅子の位置を調整し、完璧な寝心地のために、
枕を一つか二つ追加し、カーテンを閉めてまわります。

乗客はいつの間にか眠りに落ち、何百マイルもの旅が過ぎ去っていきます。

機内の別の場所では、ブリッジゲームが行われています。
二つの椅子を逆さまにして、互いに向き合わせています。

旅も終わりに近づくと、リフレッシュしてリラックスし、
新たなエネルギーを得た乗客は、しぶしぶスカイライナーから降ります。

静かで豪華なパーラーキャビン、埃や塵からの解放、
そしてスムーズで迅速なフライトにより、
TWA は他の旅行手段の追随を許さない存在となっています。

開拓者たちは長時間の旅を強いられたものですが、
今日の乗客はエネルギーと時間を節約し、
経済的な航空輸送を楽し無ことができるようになったのです。

これが語り継がれるべき物語。スカイチーフの物語です。

ちなみに冒頭のビューローの男子の後ろには、
「飛行機か船か」という選択もあります。

船と飛行機を比べても、そもそもいろんな意味で全く違うものなのですが、
当時の旅行者は、各自が、自分の経済力と、時間的余裕と、
安全性に対する信頼度を秤にかけて移動手段を選んでいました。

そういう時代だったのです。

続く。


大陸横断空陸路線の誕生〜スミソニアン航空博物館

2025-06-21 | 航空機


■航空と列車で大陸を横断



1929年、TranscontinentalAir Transport (T.A.T.) は、
昼間は飛行機、夜間は列車に乗り継ぐという形式による
ニューヨークとロサンゼルス間の旅客サービスを開始しました。

郵便航空のとき、実験的に夜間飛行は行われていましたが、
生身の人間を乗せるようになると、夜間飛行は流石に敬遠されたため、
会社が考案したのがこの「陸空乗り継ぎ作戦」です。

一気に西海岸に行きたい乗客は、まずニューヨーク発の夜行列車に乗ります。
ペンシルバニア鉄道の夜行でオハイオ州ポートコロンバスまで行き、
そこで彼らはフォード・トライモーター機に乗り込み、
オクラホマ州ウェイノカまで数名が乗り換え、
そこからサンタフェ鉄道の夜行列車に乗り換えます。

ニューメキシコ州アルバカーキ駅で、最終区間を空路で進むため、
ロサンゼルス行きトライモーターに乗り込むというわけです。


こちらはニューヨーク-サンフランシスコ路線

このT.A.T.の空陸便は、列車のみの場合よりも1日早く着きますが、
片道切符の料金はなんと338ドルでした。
現在の7,700ドル、2025年現在、113万2,000円となります。

ちなみにこの時代、車のフォード・モデルAは525ドル、
シボレー・コーチは595ドルでした。

車は一般市民には縁がなく、限られた富裕層のものでした。



Clement Keys

T.A.T.を設立したのは、先見の明のある投資銀行家であり、
カーチス飛行機自動車会社社長のクレメント・キーズです。

それは、人を運ぶ旅客機の運航が現実的なものとなったことを表しました。

それ以前には、ニューヨークとシカゴ間の郵便輸送を目的とした
ナショナル・エア・トランスポート社を設立し、その後、
ノース・アメリカン・アビエーションという持株会社を設立し、
イースタン・エア・トランスポート社とT.A.T.社を傘下に収めました。

また、1929年には、カーチス・エアクラフト社と
ライト・エアロノーティカル社の資産を、
カーチス・ライト・コーポレーションという別の持株会社に統合しました。


T.A.T.、トランスコンチネンタル航空輸送は、大西洋横断飛行の英雄、
チャールズ・リンドバーグを技術顧問として採用しました。

リンドバーグは航空機を選定し、T.A.T.の横断ルートを選定・計画し、
必要なすべての飛行場や施設の建設を監督する任務を請け負いました。

T.A.T.とその後継会社、トランスコンチネンタル・アンド・ウェスタン航空
(T.W.A.)は、「リンドバーグ・ライン」として知られるようになります。


ポスターでも「リンドバーグ・ライン」を謳っているのに注目。


ニューヨーク-ロスアンジェルス-サンフランシスコの路線は、
リンドバーグが実際に飛んで確かめ、決定した航路です。


リンドバーグ夫人、アン・モローも飛行家で、
夫と共に航路を開拓したという実績の持ち主ですが、
彼女はこんな言葉を残しています。

「このTATラインに費やされた細部にただただ驚くばかりだ。
快適さと贅沢さに大変気を配っている。
そして、飛行機から列車に乗り換えて夜の線路旅行を楽しむこともできる。
また、乗客一人一人に地図が配られ、その国について学ぶことができる。」


しかし、残念ながら、T.A.Tのこの商売はあまりうまく行きませんでした。
敗因は・・・郵便でした。

T.A.T.は路線で航空郵便を運ぶという契約を結ばなかったため、
当然、収入は乗客輸送によるものに依存せざるを得ませんでした。
(繰り返しますが片道料金は現在価格で113万円です)

経営はうまくいっていたのにも関わらず、すぐに深刻な財政状況に陥ったのです。

■ 航空はビッグビジネスになった

チャールズ・リンドバーグによる1927年の歴史的な大西洋横断飛行、
当時の株式市場の活況により、投資家の航空業界への関心が高まり、
その後、業界全体で合併や統合が相次ぐ激動の時代がやってきました。


航空写真のパイオニア、フェアチャイルド(カメラを持ってる)

間もなく、4つの大手航空機持ち株会社が誕生しました。

ウィリアム・ボーイングとフレデリック・レンシュラーは、
まず、プラット・アンド・ホイットニー社を設立し、
最初の、そして最大の航空機持ち株会社である
ユナイテッド・エアクラフト・アンド・トランスポート社を設立。

クレメント・キーズは、ノースアメリカン航空社とカーチスライト社を設立。

航空写真のパイオニアであるシャーマン・フェアチャイルド、
アヴリル・ハリマン、ロバート・リーマン
(ブラザーズではない)は、
AVCO社(The Aviation Corporation)を設立しました。

これらの統合により効率性は向上したものの、各航空会社は、
政府の支援なしには依然として利益を上げることができませんでした。


ウィリアム・ボーイング(左)、フィリップ・ジョンソン(右)、
クレア・エグトベット、エディ・ハバード
は、1927年に、
シカゴからサンフランシスコまで郵便を運ぶ航空便を運航するために
ボーイング航空輸送(B.A.T.)を設立しました。

B.A.T.は成功を収め、パシフィック航空輸送を買収しました。
1931年までに、これら2つの航空会社は、バーニー航空および
ナショナル航空輸送とともにユナイテッド航空として運航していました。



■ 航空+汽車による大陸横断ラインポスター



T.A.Tの飛行機+夜行列車移動プランポスター



「沿岸から沿岸へ」を謳ったT.A.T.ポスター



マダックス航空のポスター

車のディーラーだったジャック・マダックスが1927年に設立した会社です。
最初のフライトで、サンディエゴからロスアンジェルスまで飛んだ機体は、
のちにLA空港ができる小さな未舗装の滑走路に着陸しました。

著名人を招待し、宣伝するということを積極的に行い、
リンドバーグ、イヤハート、有名俳優などが乗客として紹介されました。



しかし、マダックス航空のトライモーターが、サンディエゴ近郊で
米陸軍の複葉機と空中衝突し、乗員乗客全員が死亡する事故が起こります。

衝突した陸軍機に乗っていた中尉は、機外への脱出を試みましたが、
パラシュートが絡まり、機体と共に墜落し、やはり死亡しました。

この事故は、史上初めての旅客機墜落として記録されることになります。

のみならず、翌年の1930年、同じくトライモーター機が、悪天候下、
高度を誤って判断するミスで左翼を地面に激突させ、機体炎上。
パイロット2名と乗客14名全員が死亡する事故となってしまいます。

マダックス航空はその前にすでにT.A.T.に買収されていましたが、
事故当時、まだ機体にはマダックスのロゴが残されていました。


スタウト・エアサービスのポスター

スタウト・エアは、デトロイト-クリーブランド間を飛んだ飛行機会社です。
1931年には吸収され切って?ユナイテッドの一部門になりました。


ジェネラル・エア・エクスプレスのポスター

ジェネラル エア エクスプレスは、ウェスタン・エア・エクスプレスが
使用していた名前で、同社は5年後、
トランスコンチネンタルに強制合併され、
1941年にウエスタン航空 (WAL) となりました。 

当時の航空専門誌の記事にはこんな一文があります。

「米国は広大な面積をカバーしなくては移動できないので、
最も有効なルートが大企業によって管理されることは避けられない。」

このように、小さな航空会社が大手との合併吸収を逃れることは
実質不可能だったということになります。

続く。




「エアメール・スキャンダル」航空便から旅客機へ〜スミソニアン航空博物館

2025-06-14 | 航空機

スミソニアン博物館プレゼンツ、郵便航空の発展と歴史シリーズ最終回です。



このポスターは、ナショナルエアトランスポート社の
エアメール便の広告で、「エアメールは時短」というキャッチコピーで
最初の1オンス5セント、追加1オンスにつき10セント追加、
という料金システムが簡単に書いてあります。

同社はのちにユナイテッド航空になった航空会社で、以前ここでお話しした、
名物パイロット「ワイルド・ビル」ことウィリアム・ホプソンが、
命を失うことになった事故の際、所属していたのはこの会社でした。

■ 航空業界に変革をもたらした先見の明


米国の旅客航空業界の最も重要な立役者と言われるのが
このウォルター・ブラウン郵政長官です。

郵便の輸送によって始まった航空輸送ですが、最初の失敗を見るまでもなく、
もし、航空というものが、最初から人員輸送だけをターゲットにしていたら、
おそらくこのシステムはすぐに立ち行かなくなっていたでしょう。

郵便路線によるルートの開発と、同時に機体が進化したことで、
小さな航空会社が路線ごとに点在する状態から、次第に
会社同士の合併によって大規模な持ち株会社が生まれていったわけです。

ブラウン郵政長官は、こういった波が業界を発展させ、旅客輸送を促進し、
政府補助金を削減するための経済的影響力を提供できると読みました。

そこで彼は、航空会社への支払い方法を変更し、
補助金制度をより公平なものに変え、国の航空路を合理化し、
航空会社が乗客を運ぶことを奨励する経済的インセンティブを提供した
1930年のマクナリー・ウォーターズ法の草案作成に貢献しました。

この草案は、航空会社の成長と革新を促進することを目標としていました。

■航空郵便システムの改革

ウォルター・ブラウンは航空郵便システムを4つの方法で改革しました。

• 4年間の航空郵便契約を独占的な10年間の路線認可と交換すること。
契約期間10年と長くすることで、航空会社は長期的な安定性が保証されます。
これで郵便局は毎年支払い料金を引き下げることができます。

• 支払い料金を引き下げながら路線網を拡大すること。
納税者の負担を増やすことなく航空路の距離を3倍にしました。

・旅客機技術向上に対するボーナスを支給すること。
より大きく、より速く、より安全で効率的な旅客機の開発を促進しました。

・航空機に搭載可能なスペース単位に応じて支払いを行うこと。
郵便局は航空郵便の全輸送業者に対して
より公平に支払いを分配することが可能となりました。

■ 大陸横断航空郵便ルート

乗客の旅行を促進し、複数の航空会社の倒産を救済するために、
ウォルター・ブラウンは2つの大陸横断航空郵便ルートをさらに追加しました。



サウスウェストエア航空高速エクスプレスと、



ロバートソン航空が南ルートを獲得しました。
あのチャールズ・リンドバーグは、ここで飛行教官を務めたことがあり、
ルートを最初に飛ぶ初飛行を行っています。



チャールズ・リンドバーグは、1927年、
ライアンNYPスピリット・オブ・セントルイス号で
ニューヨークからパリまで単独無着陸飛行を初めて成功させた人物として、
一躍時の人となりました。

彼は当時のヒーローであり、
国内の子供たちは誰もが彼の名を知っていました。

航空業界では「リンドバーグ・ブーム」が起こり、
航空機産業の株価が上昇し、空を飛ぶことへの関心が急上昇しました。

リンドバーグはその後の米国での広報活動で、
飛行機が安全で信頼性の高い輸送手段であることを示しました。

リンドバーグは自身の名声を商業航空の拡大に利用しました。
トランスコンチネンタル航空輸送は、T.A.T.の航空機、路線、システム、
設備の選定を支援してもらうために彼を雇いました。

また、パンアメリカン航空にも助言を行い、その拡大に貢献しました。

そんな彼が有名になる2年前には郵便航空パイロットであったことは、
アメリカにおける飛行機輸送の象徴的な事実に思えます。



先ほどのサウスウェスト航空とロバートソン航空は合併し、
アメリカン航空に合併しました。

このマークは、1934年従業員のグッドリッチ・マーフィーが考案したもので
アメリカンエアラインを表すAAは2013年まで使われました。


アメリカン航空のロゴの変遷。

ワシの意匠は年を経るごとに小さく、かつ抽象的になっていき、
現在バージョンではついに原型もなくなってしまっています。

というか、ワシは2013年、羽を広げてやっと飛び立ったってことでおk?

それにしても現在のロゴ、シンプルといえばシンプルなんだけど、
なんというかこのスカスカした感じ・・・断捨離的な?


ウォルター・ブラウンは経済規制を通じて民間航空の成長を導こうとしました。

彼の航空システム管理は、その後の航空規制のモデルとなりました。
今日の航空輸送システム、および補助金、規制、規制緩和によるその進化は、
まさにブラウンが何十年も前に思い描いていたことを反映しています。

■ エアメール・スキャンダルとは

別名「航空郵便大失敗」として知られる政治的事件です。

サクッと述べると、特定の航空会社が航空郵便業務を契約したことを受け、
議会がこれを調査した結果、政府はこの契約を取り消し、
郵便配達を陸軍航空隊にさせることで問題は激化したというものです。

まず、こんなことが例のブラウンの元で行われます。

ウォルター・ブラウンの「略奪品会議」(Spoils Conferences)



当時の郵政長官であったウォルター・ブラウンは、1930年5月、
航空会社の幹部たちと会合を開き、新たに制定された航空郵便法、
マクナリー・ウォーターズ法の実施を宣言したのですが、そこで

「大手航空会社が路線を分割し、小規模航空会社は排除する」

そしてその路線に関してはブラウンが決定するというものでした。
ただ、これは、ブラウンにすれば十分理由のあることでした。

事実、経営状態の良い旅客航空会社の存続を確実にするために、
航空会社に航空郵便会社と合併をさせたことで、
大恐慌の最中に多くの航空会社が消滅を免れているのです。

また彼はこの会議で小規模で経営状態の悪い航空会社を排除しましたが、
それは他の航空会社との合併によって効率性を高めるためでした。


その合併の一例を挙げると、新しいセントラル航空路線を運航するために、
トランスコンチネンタル航空輸送とウェスタン航空エクスプレスが合併し、
トランスコンチネンタル・アンド・ウェスタン航空(T.W.A.)ができました。


また、アメリカン航空TW.A.は、ボーイング航空輸送
ナショナル航空輸送を吸収合併して1930年に大陸横断サービスを開始し、
後にユナイテッド航空として知られるようになりました。



■ エアメール・スキャンダル

この会議以降、ほとんどの路線と航空郵便契約が、
大手航空会社の持ち株会社に与えられることになります。

小規模な独立系航空会社の多くは、この措置が不公平であると訴えますが、
その大半は自社の契約を売却しており、また、法律が可決された時には
すでに存在していなかった(存続できなかった)会社もありました。

そこで独立系航空会社は、大手と郵政省に対して戦いを挑むことにしました。

座して死を待つよりはと航空会社持ち株会社の力を弱めるために戦った結果、
彼らの努力は、議会公聴会につながり、
例の会議参加者汚職や航空郵便独占の共謀容疑がかけられました。

それは決して根拠のあることではなかったのですが、
会議の詳細が世間に明らかにされ、スキャンダルに成長したのです。

これは小規模航空会社の窮鼠猫を噛む作戦であり、その勝利でした。


そして行われた上院議会による調査の結果、当時の航空担当商務次官、
ウィリアム・マクラッケンJr.が議会侮辱罪で告発されるのですが、旧政権
(フーバー)の時の役人だったので、それ以上の措置は取られませんでした。

ちなみにこの「侮辱罪」が具体的になんだったかというと、
ブラウンに押し付けられた形でこの略奪会議を開かされたので、
思うところあってか、上院での証言を拒否したこと、だったそうです。

トランプ政権に政権交代してから起こったことを見てもわかるように、
(共和党と民主党の間で政権交代が起こった場合は特に)
前政権で決められたあれこれが一夜にしてなかったことになったり、
有罪の人が無罪になったり、無罪の人が有罪の人になったりというのは
アメリカでは昔からあるあるです。(フーバー共和党、ルーズベルト民主党)

この汚職疑惑を受けて、新しく選出されたルーズベルト大統領は、
1934年2月19日にすべての航空郵便契約をキャンセルします。

ここまでは良かったのですが、ここからが
ルーズベルト政権の大失態だったといわれております。

まさか戦った当の小規模航空会社も、新政権がこのような、
斜め上の政策を取るとは思っていなかったに違いありません。

なんと、政府は、取り上げた郵便の輸送を(今さら)、
陸軍航空輸送隊に業務委託してしまったのです。

これは大失敗でした。


冒頭のポスターは、

ルーズベルトの「忘れられた男」12人の死者 - 航空便のパイロット

という風刺画です。
まず、先頭の男はルーズベルト政権の郵政長官、

ジェームズ・ファーリー James Farley

であり、彼の足元で顔を背けてこそこそと逃げているのは、FDR大統領。
ファーリーに恨み骨髄(文字通り)とばかり付きまとうのは、
彼らの命令によって命を落とした12人の陸軍パイロットなのです。

どうしてこうなった。

1934年2月、政府の命を受け、陸軍航空隊は再び郵便の輸送を開始しました。

しかし、装備の不十分だった陸軍の航空機で、厳しい冬の天候下という
最悪の状態で飛行されられた陸軍航空隊のパイロットたちは、
最初の数日のうちに墜落事故を頻発し、結果13名が殉職したのです。

これを受けてリンドバーグは「不当であり原則に反する」とお気持ち表明し、
リッケンバッカーは「合法的な殺人」とこのシステムを非難しました。


これはひどい
アメリカ陸軍航空隊のキーストーンB-6双発航空郵便機

陸軍がなんの準備もしなかったわけではないのですが、採用された
パイロット262人のうち、悪天候での飛行時間が足りていたのは48人、
夜間飛行経験者が31人、計器飛行時間50時間は二人だけという、
まあ要するに肝心のパイロットの人材が不足していたのです。

陸軍が郵便業務に関わっていないブランクに起こった機体の進化に
急拵えでは全く対応できなかったこと、装備不足のままの施行も災いでした。

もちろん世間からは大反発を受け、メディアはこぞって大失敗を報じました。

ルーズベルト大統領は即座にサービスを航空会社に返還させ、
郵政長官ファーレイは、当初の略奪品会議に似た手続きを行なって、
暫定契約を発行し、航空会社は即刻郵便飛行機の運行を再開しました。

■ 裁判なしの処罰〜ジョンソン社長の災難



1934年の航空郵便法により、大手航空会社持ち株会社は解体され、
航空郵便の独占を企てたとして告発された航空会社幹部は、
不条理にも解雇を余儀なくされることになります。

その一人が、ユナイテッド航空のフィリップ・G・ジョンソン(上)でした。

ジョンソンは他の多くの人々と同様に、
1930年にブラウンが主催した例の会議に出席していたわけですが、
皮肉なことに、ユナイテッド航空は、この「戦利品会議」で、
なんの利益も得ず、契約を獲得したわけでもありませんでした。

ユナイテッド航空は元々ボーイングとプラット・アンド・ホイットニー、
その他の会社が合併してできた

ユナイテッド・エアクラフト・アンド・トランスポート・コーポレーション

という巨大複合企業の持株会社がスキャンダルの余波で解体され、
再編で生まれた会社で、フィリップ・ジョンソンはこれを率いていました。

しかしながら、ジョンソンは4年前の会議に出席していたことで
スキャンダルの責任を遡求され、他の多くの航空幹部とともに、
数年間航空業界から公式に締め出されることになってしまったのです。

後日、ジョンソンと他の航空業界の重役たちの潔白は証明されますが、
マスコミによって着せられた汚名の代償は大きなものでした。

当時、米国の航空業界に参入することができなかったジョンソンは、
1937年に米国を離れ、カナダに活動の場を求め、そこで
トランスカナダ航空の副社長として設立に携わりました。

優れたビジネスマンであったジョンソンは、1937年から亡くなるまで
トラック製造会社ケンワース・トラック・カンパニーの社長も務めています。

1939年、ジョンソンをボーイングから追い出した連邦法が撤回され、
社長として復帰した彼は、第二次世界大戦のための軍需生産に携わりました。


続く。



航空郵便サービス機から商業航空機まで〜スミソニアン航空博物館

2025-06-08 | 航空機

スミソニアン航空博物館の展示より、
アメリカの航空便の元祖は郵便飛行機であった、ということと、
その黎明期に果敢に危険な任務に挑んだ人々のことなどをご紹介しています。

ところで、わたしは過去アメリカ滞在時に持って帰れない荷物を
段ボールで日本に送るということを繰り返してきました。

昔はそれを安く上げるために船便で送っていたのですが、
ある夏、突然USPS(アメリカの郵便局)の窓口で、

「船便で荷物は送れなくなりました」


と言いわたされたのです。
ええ?シッピングなのにシップがダメとはこれいかに?

それは、今にして思えば1995年のことでした。
この年、USPSはすべての国際ファーストクラス郵便を
追加料金なしで航空便による配送をすることを定め、
同時に船で輸送するサーフェス(シー)サービスを廃止したのです。

実質全ての便は航空便となったため、同時に
航空便という言葉も区別のために使われることがなくなり、
要するに公的には死語となったということです。

1918年に開始され、生まれた「エアメール」という言葉は、
2006年になってAir Mail (AとMは大文字)で商標登録されました。



写真の模型は、以前ご紹介したプラット&ホイットニーの
ワスプエンジンを搭載した

ボーイング40B 

です。


複葉機は搭載量が多く、運用コストが低かったため、
ボーイング航空輸送は1927年、定員2名のボーイング40Aを生産し、
シカゴとサンフランシスコ間の航空郵便路線を運行しました。

ボーイングは、この航空機の大型バージョンであるボーイング40Bを開発。

4,400キログラムの郵便物と4人の乗客を輸送することができました。
写真を見ていただければわかりますが、客席はコクピット内にあり、
パイロットはコクピットの後ろ側のオープンコクピットで操縦しました。

この頃の航空機は、オープンでないと視界が確保できなかったのです。



以下、淡々と郵便サービスに使用された飛行機を紹介していきます。
中には導入される前に実験段階でポシャったもの、
使ってみたけどあまり具合が良くなかったものなどもあります。

■郵便輸送に活躍した(orしなかった)航空機

○カーチスJN-4D
1918-1921


郵便サービスを最初に行ったのは陸軍パイロットでしたが、
1918年に郵政省のパイロットに任務が移管されてからは、
このカーチスJN-4Dのエアメール便仕様が仕様されました。

×スタンダードJR-1B
1918~

航空郵便を念頭に設計された最初の飛行機です。
6機製造され、短期間使用されました。

×カーチスR-4LM
1918

最初の年に郵政省が導入した飛行機です。
これも使用は短期間に終わりました。

◎デ・ハビランドDH-4B
1918-1927

エアメール開始記念の記念切手にも描かれたデハビランドDH-4は、
第一次世界大戦にも参加した軍用機でしたが、
郵政省は郵便サービスを始めるにあたり、100機の余剰分を
陸軍から購入し、回収して4Bと名付けて運用しました。

評価が安定している割に戦争が終わって余っているため、
安い値段で機体が購入できたのが導入の大きな理由だったそうです。

×マーティンMB-1爆撃機
1919


郵便システムの推進者だったオットー・プレジャー
大量に郵便物を運ぶことができる爆撃機を導入してみたものの、
航続距離と搭載力は良くともいかんせん値段が高く、
しかも早々に死亡墜落事故を起こしてケチがついたので試用のみ。

×ツインDH
1920



これもプレジャーの「一度にたくさん運べる飛行機」という希望のため、
デハビランドのDH-4Bにエンジンを換装してみたものの、いかんせん、
振動がひどくすぐ不時着し、これも死亡事故が起きてしまいます。

事故を受けてプレジャーは改装をやめさせました。

×××ユンカース・ラーセンJL-6
1920-1921


プレジャーが懲りずに導入しようとした3機目は、ユンカース。
アメリカに持ち込んだのがジョン・ラーソン・エアクラフト社でした。

BMWのエンジンを積んだ高速の飛行機でしたが、いかんせん、
航空郵便サービス史上最大の失敗、黒歴史となってしまいます。

テストでは9回も不時着したのに、プレジャーは無理くり路線を飛ばせ、
その結果、

墜落、パイロット火傷の重症
燃料漏れで空中爆発、パイロット死亡
空中で機体炎上、パイロット2名と整備士1名死亡


だから言わんこっちゃない(I told you so.)
張本人

JL-6はその後永久に飛行停止となりました。

○ダグラスM-1
1926-1927


DH-4Bが老朽化したため、郵政省が発注した最後の郵便機。
この発注後、ケリー法が成立して、それ以降郵便業務は
政府から民間請負業社に引き継がれることになったため。

○カーティスキャリアピジョン(伝書鳩)
1926-1929


夜間飛行を念頭に造られた航空郵便サービス専用機。

◎ フォード5-AT
1926-1928



ヘンリーフォードが飛行機産業に参入するに当たって送り出した、
金属製の波型外板を搭載、(あだ名はブリキのガチョウ)
定員6名で搭載量も優れた機体は、大変評価が高く、
この派生型機はトランスワールド、アメリカン、ユナイテッド、
フォード自身のパンアメリカン航空などで使用されることになりました。

○ウェイコ9
1925-1934


90馬力のカーチスOX-5モーターを積んでいて、パワー不足のため
しばしば横転することで知られていたにも関わらず売れた飛行機。

△スワローOX-5
1926-



小型で積んでいるのもOX-5ということで積載量は小さく、
航続距離も短かったのですが、バーニー航空が使用していました。


?トラベルエア 5000
1927-1930



14機しか生産されず、無名の飛行機でしたが、
なぜか驚異的な航続距離を誇る隠れた名機でした。
郵便航空のために5機が購入され、業務を行いました。

?ピトケアンPA-7S メールウィング
1930


郵便航空機の代名詞でもあったピトケアンの改良版。
さぞ素晴らしいものになると思いきや、8機作ったところで
新しいPA-8が製造されることになり、製造中止になりました。

現場でどんな働きをしたのかはわかっていません。

?ボーイング221モノメール
1930−1933



ボーイングがこの時代生み出した近未来的シェイプの傑作。
時代を先取りした胴体下部の翼、滑らかな流線型の機体、
そして、画期的だった格納式の着陸装置は、おそらく
当時のパイロットをさぞ興奮させたことでしょう。

郵便輸送サービスのためだけに2機製造されたと言いますが、
郵便業務より、大陸横断旅客サービスのために改造されたことが
この飛行機の大きな意義であったと思われます。

○シコルスキーS-42
1934-


郵便輸送のためというより、最初に成功した水上飛行機として、
36名の乗客を乗せ、貨物には郵便も乗せることができたというもの。

4 基の 750 馬力のプラット アンド ホイットニー モーターを搭載、
シコルスキー S-42は、定員36名、2,000 ポンドの郵便物を運びました。

○ ダグラスDC-3
1935-



アメリカの輸送航空は郵便輸送から始まりました。

しかし、機体が進化するにつれて、航空機の輸送の主体は
郵便物ではなく人になっていき、航空会社もその収益を郵便物輸送ではなく
人員の輸送から得る方へとシフトさせていきます。

そして、その転換の最終形を象徴するのがこの飛行機です。

ダグラスDC-3は1935 年に初飛行するや否や、全米に普及しました。
この飛行機は、ダグラスが初期のM-2 以来どれだけ進歩したか、
そして 10 年間で航空機技術がどれだけ急速に進化したかを実証しました。

時速 83マイルで乗客28名と2083ポンドの郵便物搭載可能なこの飛行機を、
アメリカン航空は、象徴的な「フラッグシップ フリート」の基礎として
1937年に37 機導入して運用を開始します。

また、パンアメリカン航空は、北米路線に DC-3 を使用し、
ユナイテッド航空は1956 年まで6 機の DC-3 を所有していました。

1938年までに商業航空機の 95% が DC-3 だったというほどです。

1936 年までに、ケリー法の目的はついに実現しました。

1918 年、国内郵便のより早い配送を目的に政府が始めた取り組みは、
1920 年代後半から 1930 年代前半にかけて、郵便局を通じて政府に移行し、
民間企業を支援して、安定した幅広い商業航空サービスを確立したのです。

設立当初はかろうじて生き延びていた航空会社は、
航空郵便契約によって生き延びただけでなく、より大きく、
より優れた飛行機を研究する資金を得ることができ、最終的に
収益の大半を乗客に負う飛行機を所有する未来を手に入れました。

当初、郵便局とその郵便契約がなければ、
国の商業航空システムと航空機メーカーは、
今日のようなアメリカ産業の巨人にはなれなかったでしょう。

■ エアメールゲーム


スミソニアンに展示されていたカードゲームについて最後に説明します。



「アビエーション:エアメールゲーム」

1883年に16歳のジョージ・パーカーが初めてゲームを発売して以来、
パーカー家の三人兄弟が経営してきたパーカーブラザーズは、
モノポリーの初代発売元として知られるアメリカの玩具・ゲーム会社です。

同社はアラスカのゴールドラッシュや、米西戦争を扱うなど、
歴史的なできごとを取り上げたゲームを発売してきましたが、1929年、
民間航空への関心の高まりを利用しようと、
この「アビエーション:エアメールゲーム」を発売しました。

このゲームは、2人から4人のプレイヤーで遊ぶもので、
ボストン-サンフランシスコ間の12都市に郵便物を届けるという設定でした。



表が赤いカードが目的地を、青いカードが飛行条件を決定します。



目的地は「ワシントン」「クリーブランド」「デトロイト」「ボストン」
ディレイカードには「コンパスのトラブル」「濃い霧」「不時着」
順番を飛ばされるカードとして「パラシュートで脱出」
ラッキーカードには「好天」「超高速」などがあります。

つまり、天気が良ければ郵便は速く届き、悪天候やエンジンの故障があれば
遅れるという条件の中、早く目的地に着けば勝ち、というゲームです。

当時英雄になったチャールズ・リンドバーグ人気に便乗して、
カードの飛行機は彼が操縦したスピリット・オブ・セントルイス号でしたが、
ただし、スピリット号は郵便を運んだことは一度もありません。


続く。


ワイルド・ビル〜命を賭けた郵便航空〜スミソニアン航空博物館

2025-06-02 | 航空機

当時の航空郵便配達員は、アメリカで最も危険な仕事の一つでした。

まだ人類が乗り出してから間もない飛行機で、
足に縛りつけた地図か、あるいは「線路に沿って進む」とか、
「南から少し西に約10マイル、だいたい7分飛ぶ」とか書かれた紙を
航法の補助装置?として、今にして思えばですが、
たかが手紙を運ぶために一つしかない命を賭けて飛んでいたのですから。

陸軍飛行隊による最初の郵便飛行実験にて、実験隊隊長のフリート少佐が、
パイロットのボイル中尉の足に地図を縛り付けている
ちなみにボイル中尉はこの実験でミスし、少佐からクビにされる模様

■ 自殺クラブ

最初のアメリカ航空郵便パイロットたちは、
その困難な仕事の中で実際しばしば命を落としました。

当初の郵便路線はニューヨーク、ワシントン DC、フィラデルフィア間で、
翌年にはクリーブランドとシカゴにまで拡大しました。

郵便に限らず、パイロットのリスクは史上最高だったこの頃、
1918 年から 1926 年にかけて、任務中に亡くなったパイロットは 35 名で、
1919 年には飛行距離約 115,000 マイルごとに 1 名が亡くなり、
1920 年だけでも 15 名が亡くなっています。

パイロットが死亡するまでの平均飛行時間は、わずか約 900 時間程度
(毎日2時間飛んだとしても1年半弱の寿命)と推定されていました。 

ある日、パイロットの一人がブラックユーモアのつもりで言いました。

「ほら、僕たちは自殺クラブ(The Suicide Club)にすぎないからさ」

世界で最も危険な仕事の一つであることはパイロットも承知の上で、
だからこそ自らを「自殺クラブ」と自称していたのです。

そして命をかけて仕事をしていることを
パイロットたちは誇りの証にしていました。


左より
ジャック・ナイト Jack Knight、クラレンス・ラングClarence Lange
ローレンス・ギャリソンLawrence Garrison、
’ワイルド・ビル’ ホプソン “Wild Bill” Hopson
オマハ郵便飛行場管理者 アンドリュー・ダンフィ Andrew Dumphy

ジャック・ナイトは郵便飛行の可能性実験で、
天候のため同僚が脱落する中、たった一人存続を賭けて飛び、
夜間の飛行が可能であることを証明した英雄的人物です。

■ 郵便飛行の非情な推進者


オットー・プレジャー(Oklahoma Preager)

戦争などにも言えることですが、生死を賭けていたのは現場であり、
上に立って安全圏から号令を出す人は、得てして危険性に無頓着でした。

オットー・プレジャーという郵政省第二次長を務めた人物は、
その危険性について認識していなかったか、或いは無関心で、

「ワシントンD.C.の管制塔から見える範囲に限定された世界観」

しか持っておらず、天気が良ければパイロットは飛ぶべき、
くらいのことを言ってのけるような無神経なパワハラ上司だったようです。

たしかに彼は航空郵便サービスを支える原動力とも言える働きをし、
独創的な会計処理とロビー活動で政治の世界にこの分野を切り拓きました。

しかしながら、彼の存在は現場にとっては悩みの種でした。

彼の労働政策では、パイロットは危険な状況下でも飛行しなければならず、
これを拒否すれば解雇されることになっていました。

彼は現場に信頼性と高い配達実績を求めるあまり、
スケジュールを守ることを何よりも優先する考えであり、
そしてそれを、国中のあらゆる部門の監督官たちに徹底させました。

彼の口癖はこうでした。

『スケジュールを守れ!スケジュールを守れ!』

確かに彼の政策は郵便航空の基礎を政治的に推し進めたかもしれませんが、
いかんせん、パイロットの安全をほとんど考慮していませんでした。

たとえ飛行を危ぶまれるような天候や、機体の不調であっても、
クビになりたくなければ飛ぶしかなかったのです。

しかもパイロットたちは、飛行機に乗ったことのないプレジャーや関係者に
飛行の危険性を納得させる手立てを持ちませんでした。

だから彼らは、『いや、それはできません』と言うより、ただ、
黙って飛行機に乗り込んで粛々と飛ぶしかなかったのです。

プレジャーとその政策の下、航空郵便サービスは拡大の一途を辿りました。

彼は航空郵便の未来とその発展を信じており、
そして航空郵便がもたらす大幅な損失(命含む)も厭いませんでした。

彼は、このまま全てが稼働し始めれば、航空郵便は
郵便物を輸送する現実的で実行可能な手段になると信じていたのです。

■ 郵便パイロットたちのストライキ

しかし、その後も航空郵便サービスで死亡者が続出すると、
パイロットたちは何かを変えなければならないと決意し、
1919年、ストライキという形で抗議を行うという手段を取りました。

これに対し、プレジャーは容赦なくパイロットたちを解雇したのですが、
マスコミはパイロットたちを断固として支持し、世論を動かしたので、
安全が懸念されるような天候化での飛行については管理者が判断し、
最終決定を下すという決まりを認めざるを得なくなりました。

何人かのパイロットは解雇を取り消されて現場に戻りました。

しかし、悪天候を避けてもすべての問題が解決するわけではありません。
当時の航空業界は新興ゆえに文字通り試行錯誤のプロセスにあり、
それを試行し錯誤するのは他でもない、現場のパイロットです。

郵便物を飛行機で運ぶという仕事を行いながら、彼らはまさに
毎日航空実験を行っているような環境に置かれていて、体験上、
これはうまくいかない、あれはまずい、などと実感しながら飛ぶのですが、
それらは決して些細なことばかりではなく、むしろ、
命の危険に関わるような重要な気づきがしばしば含まれていました。

時にはその代償として命が奪われることもあったのです。

あるとき、飛行機が地上500フィートで火災に見舞われ、
パイロットが上空から飛び降りて亡くなったことがありました。

郵便配達の飛行機にパラシュートが積まれるようになったのはこの後です。

■ マックス・ミラーの悲劇

マックス・ミラー

マックス・ミラーとエディ・ガードナーはスターパイロットで、
同時にエアメイルパイロットとして活動を始めました。

プロペラの上:エディ・ガードナー

ガードナーは何度も飛行機事故を起こし、その都度生き延びました。
その中には、1918年9月15日、オハイオ州クリーブランドで
シカゴに向けて離陸しようとして高度が上がらず、
不時着しようとして周辺の家を2軒燃やした事故も含まれます。


もはや居住は不可能

この事故では誰も負傷せず、人的被害はありませんでした。
郵便サービスでは不死身だったガードナーは、例のストライキに参加し、
プレジャーにクビにされたのですが、それが撤回されなかったため、
その後曲技飛行のバーンストーマーに転職しました。

彼は郡のフェスティバルでのアクロバット飛行中に操縦桿が動かなくなり、
その時借りていたゴーグルが目の上に滑り落ちて不慮の死を遂げました。

死亡事故の際着用していたゴーグル

もう一人のマックス・ミラーは郵政省の航空便サービスのために
1918年、最初に採用されたエアメイルパイロットでした。
エディ・ガードナーとは、都市間を結ぶ最適ルート開拓の段階で競い合い、
お互いライバルとして認め合った仲でした。

1920年まで無事に飛行を続け、結婚もしています。

彼の亡くなった9月1日、ミラーは整備士のグスタフ・レイエルソンと、
600ポンドの郵便物を乗せ、ユンカース・ラーセン機
朝5時30分、クリーブランドに向けて飛び立ちました。

2時間後、不可解なことに、飛行機はわずか20マイルしか飛んでいないのに
エンジンが停止し、逆噴射した状態で低空飛行をしていました。

そして機体前方から出火し、レイエルソンは郵便袋を投げ捨てました。
(これは積荷を守るための行動だったと思われる)
炎は機体前方を包み込み、飛行機は機首を上げて地面に急降下しました。

地面への激突でガスタンクが爆発し、翼が吹き飛ばされました。
2人ともこの爆発で死亡しました。

■ ワイルド・ビル 


冒頭の写真は、スミソニアンの航空郵便コーナーにある、
当時の郵便局を模して作った小屋の裏手にあったもので、
「ミートビル!」(ビルに会おう!)というキャプション付きです。

ワイルド・ビルことビル・ホプソンについてです。

ワイルド・ビル

1920年代に8年間、郵便輸送機の操縦をしていました。

彼はしばしば速度記録を破り、飛行機を損傷させるので
そのあだ名を獲得しました。

他のパイロットからは人気がありましたが、
上司からは定期的に叱られていました!

彼は1928年にニューヨークからシカゴに向けて飛行中、
飛行機が墜落して亡くなりました。

その時彼が運んでいたのは1000ポンドの郵便物でしたが、
その中には大量のダイヤモンドが含まれていました。
事故跡から回収された郵便物はわずか10ポンドでしかなく、
もちろんというか、ダイヤモンドは一つ残らず消えていました。


このお馴染みの?写真には、

「あなたはこのエアメールパイロットたちの中から
『ワイルド・ビル』を見つけることができますか?」

とあります。

先ほど赤字で記した通り、ビルは右から2番目です。
皆かっこいいですが、彼は特にモテ男のオーラがありますね。

実際にも彼は人とは違う行動と女好きで知られ、
「たくさんの街にたくさんのガールフレンドがいた」ということです。

やっぱり「港々に女あり」タイプだったか・・・。

彼は郵便航空史上最も愛され、最も個性的なパイロットでした。


「ミートビル!」コーナーの横にはこのような展示。

まず、茶色のボードには、D. B. コリアー監督官が、
ワイルド・ビルのワイルドなやり方を叱責した時の文言があります。

「私は、貴社の郵便飛行機に関する多数の報告を耳にしています。
これは明らかに規則違反であり、
この種の行為がさらに続いた場合は、懲戒処分に値します!!」


同僚パイロットや経営陣からの人気も手伝って、
彼は他のパイロットであれば叱責や減点の対象となっていたであろう、
数十回の不時着を何とか切り抜けました。

1926年だけでも、少なくとも13回の不時着を余儀なくされましたが、
そのすべてが経営陣によって容認されたといいます。

その大半は、天候の回復待ちだったり、視界の悪い中、
着陸方法を模索せざるを得ないような短時間の着陸だったせいでしょう。

その下の写真付きキャプションはというと・・。

おしゃれなパイロットウィリアム・ホプソン


ウィリアム・ホプソンは「ワイルド・ビル」の愛称で親しまれた、
初期の航空郵便パイロットでした。
彼が操縦した飛行機は、上の写真のようなオープンコックピットでした。

ビルは夏でもおそらくこの服装だったでしょう。
地上が暑くても、上空はより寒く風も強いものです。
現在ではほとんどの飛行機が密閉されていますので、
パイロットは気温をそれほど心配する必要がなくなりました。

子供向けの教育的展示なので、このような語り口になっています。
このコーナーでは、当時のパイロットの適切な装備を学びます。

彼の服装から、仕事環境について何が分かりますか?
ビル本人の等身大写真と下のフリップパネルを使って、
ビルを天候から守る服装の要素を見つけましょう。


⚫︎ レザーと毛皮、これで体温を暖かく保つ。
⚫︎これらはしっかりと留める必要があります。
⚫︎顎紐がこれを固定します。
⚫︎これらは風や天候から目を保護します。
⚫︎何かが欠けていませんか?

大体何のことを言っているかはわかりますが、
何が欠けているのかはフリップを確認しなかったので、謎のままです。

ハーネスのことかな。

ワイルド・ビルについてのwikiの記述は下の通り。

ウィリアム・C・ホプソン
「ワイルド・ビル」ホプソン

生誕 1887年頃 没年 1928年10月18日(41歳没)
米国イリノイ州ロックアイランド
別名 「ワイルド・ビル」
職業 航空郵便パイロット
知られていること 米国郵便公社で航空郵便を運航
配偶者 ジネット・F(離婚)
子供 1人

ウィリアム・C・ホプソンはイリノイ州ディケーターの高校を卒業し、
ディケーター・ヘラルドで郵便配達と勤務を行っていた。

ホプソンは第一次世界大戦中、アメリカ海軍に所属した。
戦後はニューヨーク市でタクシー運転手として働いた。

1920年4月14日から航空郵便が民間企業に移管された1927年9月3日まで、
米国郵便公社で航空郵便のパイロットを務めた。
当初はニュージャージー州で飛行し、
後にネブラスカ州オマハからシカゴまでの路線を担当した。

在職中、彼は4,000時間以上、413,000マイル以上を飛行した。

不時着の常習犯として知られていたが、その人気のおかげで許されていた。
1926年だけでも、少なくとも13回の不時着を報告されており、
彼のマネージャーはそれを容認しそれを公言していた。

民間企業が航空便サービスを引き継いだ後、
ホプソンはナショナル・エア・トランスポート社に勤務し、
ニューヨーク市とシカゴ間の契約航空便路線を運航した。

墜落事故と死

1928年10月18日、ニューヨーク-シカゴ間の契約航空郵便路線を飛行中、
ペンシルベニア州ポーク近郊で飛行機事故に遭い、41歳で即死した。

ホプソンの飛行機には10万ドル相当のダイヤモンドが積まれていた。
ダイヤモンドのうち回収されたのは約6万5000ドル分だけだった。

イリノイ州ロックアイランドのメモリアルパーク墓地に埋葬された。

ダイヤモンドについては別の記述にこんなのを見つけました。

ペンシルバニア州ポーク近郊で彼の飛行機は
丘の斜面に機首から激突し、38歳のホプソンは即死した。

その夜彼が運んだ郵便物には、10万ドル相当のダイヤモンドが入っており、
墜落現場から彼の遺体が収容されたとき、その一部も発見された。

噂が広まると、その地域一帯のハンターたちが残骸の中で財宝を探し回った。
郵便局の検査官がすぐに現場に派遣され、ダイヤモンドを回収した。

宝石の値段の付け方がわからなかったため、
回収されたダイヤモンドはほとんど二束三文で売り捌かれたという。

検査官は、ナショナルエアトランスポーテーションのスタッフの助けを借り
現場を徹底的に捜索した。
この動きが伝わると、窃盗で逮捕されることを恐れた一部の人々は、
回収したダイヤモンドを周辺の町の郵便局長に渡し始めた。

結果、10 月25日までに、6 万 5 千ドル以上の宝石が回収されたが、
回収されなかったり、引き渡されなかった宝石もいくつかあった。

今も現場で必死で探せば一つか二つくらいダイヤが見つかるかもしれない。


続く。




「NACAと航空郵便飛行機」当時の航空技術〜スミソニアン航空博物館

2025-05-30 | 航空機

スミソニアン航空博物館の初期の航空セクションから、
今日は当時の航空技術についてお話しします。

■初期の航空技術

1918年に航空郵便サービスが開始されたとき、
驚くべきことに飛行機は誕生してからまだ15年しか経っていませんでした。
それは依然として、木材と布を加工して作られ、ほとんどが複葉機でした。


ツェッペリンE.4/20

かたやヨーロッパはというと、
第一次世界大戦後、航空技術で世界をリードしまくっていました。

彼らはコクピットのモノコック(単一の殻)構造を開発し、
機体に空力負荷を担わせ、構造重量を軽減する技術を手に入れていました。

特にドイツでは、ヒューゴ・ユンカースが、
内部支柱付き片持ち翼の特許を取得していましたし、
アドルフ・ロルバッハは、このツェッペリンE.4/20を含む
一連の先進的な全金属製航空機を製造していたのです。


米国の航空技術は当時ヨーロッパにかなり遅れをとっており、
しかもその差が開いていく事態を懸念したアメリカ議会は、1915年、

米国航空技術委員会
The National Advisory Committee for Aeronautics
(NACA)


を設立し、米国の航空研究を監督・指導することになります。
その成果は1920年代の終わりまでに現れ、実を結びました。

スミソニアン学芸部長のチャールズ・D・ウォルコットの働きかけにより、
NACAはすぐに米国屈指の航空研究機関となり、その結果、
米国で最も創造的なエンジニアの何人かが集結してくることになります。

NACAとその後継機関である

米国航空宇宙局
The National Aeronautics and Space Administration
(NASA)

の先駆的な研究により、飛行に関する最も困難な問題の多くが解決され、
すべての航空機の性能と安全性が大幅に改善されました。

NACA/NASAは、航空輸送において最も重要な技術を開発し、
この重要な研究は現在も継続されているのです。


スミソニアンの3人目の事務局長、サミュエル・P・ラングレーにちなんで
名付けられたNACAのラングレー記念研究所は、1917年に開設されました。

この飛行試験施設には、初の与圧(可変密度)風洞が設置されました。
風洞は、翼の形状に関する精密なデータを収集するためのものです。

そうそう、このラングレー。

この名前にあまりいいイメージがなかったので記憶を辿ったところ、
自分の開発したエアロドームという飛行機の実験に失敗したので、
ライト兄弟の世界初飛行の功績を潰そうとしたやつじゃないですか。

このように、初のNACA研究所に名前を残し、のみならず
アメリカ海軍最初の空母、「ラングレー」CV-1にも名前を残したんだから、
そんなに欲張らなくてもよかったんじゃないかって気はしますが。



NACAは、飛行特性をテストし、新たな設計パラメータを作成するために、
19機の航空機を入手して研究に取り掛かります。

翼の空気圧分布を測定する機器を設計し、エンジンの研究も開始したのです。

この結果完成したのが、水冷式エンジン、リバティV-12でした。

■ 水冷式エンジン



1920年代のほとんどの飛行機は、水冷エンジンを使用していました。
水冷エンジンは大きさの割に強力ではあったのですが、問題は重量。
その上、信頼性もイマイチでした。
それでも、当時空冷エンジンは小さなものが作れなかったことと、
パワーもなかったため、ほとんどの飛行機は水冷式エンジンを搭載しました。

写真は、第一次世界大戦の軽爆撃機用に設計された

リバティV-12 水冷式エンジン

で、1920年代に広く使用されていました。
リバティ・エンジンは、郵便局のデ・ハビランドDH-4や、
初期の航空会社が使用したほとんどの郵便機に搭載されていました。

しかし、1920年代後半にライト社やプラット&ホイットニー社が導入した
新世代の空冷式エンジンと比較すると、性能は明らかに劣るものでした。

しかし、この欠点の多い水冷式も、第一次世界大戦時には
アメリカが貢献した最も重要な貢献の一つと評価されています。


1921年、デハビランドDH-4の郵便飛行機

次に、その後登場したライトの空冷式エンジンをご紹介します。

■ 空冷式エンジン ライト J-5 ワールウィンド


ライトJ-5 ワールウィンド。
世界最初の近代的な航空機エンジンと考えられています。

ライト・エアロノーティカル・コーポレーションが、
ローレンスJ-1エンジンを基に開発したJ-5は、220馬力、
ナトリウム冷却式排気バルブと自己潤滑式エンジン初めて搭載しました。

これらの革新により、信頼性が大幅に向上し、
J-5は1927年の名高いコリアー賞を受賞しました。

チャールズ・リンドバーグが大西洋横断のとき乗った、
「スピリット・オブ・セントルイス」にも搭載されていました。

また、初期の輸送機であるフォード4-ATトライモーター
ピトケアンPA-5メールウィングフェアチャイルドFC-2など、
多くの航空機にも搭載されていました。

■ ピトケアンPA-5 メールウィング


スミソニアンには、このコーナーのほとんど真上に、
ライトJ-5を搭載した郵便飛行機PA-5「メールウィング」を展示しています。



上のデッキからも写真を撮りました。



20年代半ばに製造された航空機の多くは、第一次世界大戦が終わり、
用済みになって全米の田舎の飛行場を飛び回っていた練習機と似ていました。
ある意味デザインはそこから離れられなかったというところです。

そこで、進取の気性に富んだ飛行機愛好家は、トップデザイナーを雇い、
「新しい」「今までになかった」タイプの飛行機を製造しました。


1925年、一連の複葉機の設計を開始し、
1927年ピトケアンPA-5「メールウィング」を世に送り出したのは、
アグニュー・ラーセンという技術者です。


ピトケアン、ワシントンDCにて

機体名、ピトケアンとは、のちのイースタン航空となった、
ピトケアン・エアクラフト・カンパニーのことで、
設立したのはオートジャイロの父というべき航空設計の奇才、

ハロルド・フレデリック・ピトケアン(1897-1960)

の名前から取られています。
(死因は公式には自殺だったと言われていますが、拳銃事故説もあり)

彼はPA-5メールウィングスの開発にも関わっていました。


このトリム式、オープンコックピットの複葉機は高い評価を得て、
100機を超える派生機が生産されることになりました。

PA-5の優れた性能は、3つの要因に由来するものでした。
それは、

クリーンで軽量な機体、
信頼性の高いライト・ワールウィンドエンジン、
ピトケアン開発のオリジナル翼型


で、時速136マイルの比較的高速な最高速度、そして何より
航空便に求められる優れた積載能力を実現していたことでした。

開発にあたり、ラーセンと彼のチームは、初期の航空郵便路線において、
小さな荷物を運べる航空機という目標の元に、
創造的なエンジニアリング技術を駆使しました。

航空便の需要が高まった数年後には、他の航空機設計者が陥った落とし穴を、
この、先を読んだ設計だけは避けることができたのです。

構造は基本的に従来と大きく変わるものではありませんでしたが、
胴体に簡単に製造できる角形鋼管を使用したり、
エンジンの取り付けが簡単に素早くできる仕掛けなど、
いくつかの革新的な特徴がありました。



PA-5は、米国民間航空局の認可が出たわずか4か月後の1927年11月27日、
テキサス航空輸送の契約航空郵便路線21で初めて使用されました。

しかし、この飛行機の評判が確かなものになったのは、
ニューヨーク-アトランタ間のCAM #19便でのサービスです。

1928年5月1日に運航開始。

夜間飛行を行う小型のピトケアン機は、新たに照明が設置された
ニューヨークからフィラデルフィア、ボルチモア、ワシントン、
リッチモンド、アトランタまでの760マイルの航路を就航しました。



この飛行にかかるのは7時間、鉄道の所要時間のわずか3分の1でした。

先見の明のある同社は、1928年、アトランタ - マイアミ路線を引き継ぎ、
その後継企業イースタン・エア・トランスポートの基本構造を築きました。

新たな路線は595マイルが追加され、16機のメイルウィングの改造によって
ニューヨーク-マイアミ間の15時間運航が可能になりました。

他の航空会社もPA-5、および後続のPA-6、PA-7、PA-8を購入しました。

その一部には、コロニアル航空輸送コロニアル・ウェスタン航空
ユニバーサル・ディビジョン・オブ・アメリカン航空が含まれています。

■空冷式エンジン プラット&ホイットニー ワスプ



ライト航空は成功したJ-5エンジンのさらなる開発を要求されましたが、
これに反旗を翻した社長のフレデリック・レンチュラー、チーフデザイナー
ジョージ・ミード、チーフエンジニアのアンドリュー・ウィルグースの3人は
独自の空冷星型ラジアルエンジンを開発する計画を海軍に伝え、
ライトを去って、プラット&ホイットニー航空機会社を設立しました。


レンチュラーとミード

信頼性と効率性に優れた425馬力の9気筒空冷ワスプは、
フォード5-ATトライモーターやボーイング40Aなど、
多くの軍用機や民間機に採用されるエンジンとなり、
アメリカ機械学会から歴史的工学ランドマークに指定されています。


続く。


ジャック・ナイトのナイトフライト〜スミソニアン航空博物館

2025-05-17 | 航空機

スミソニアン航空博物館プレゼンツ、黎明期のエアメール便シリーズです。

■ 安全航行システム構築の功労者

新しい米国航空郵便サービスは人々が待ち望んでいたものでした。

初期のいくつかの挫折にもかかわらず、
航空郵便は約90パーセントの便を完了することができました。

1918年の大統領を迎えての実験飛行、それに続くサービス開始。
当初、郵便配達業務を行っていたのは陸軍でしたが、
軌道に乗ったと思われた数ヶ月後には陸軍は撤退し、
郵便局が雇ったパイロットが航空機を担当することになりました。


1920年までに、大陸横断航空郵便サービスが開始されました。

1919年9月、ニューヨークとシカゴ間の航空郵便サービスが開始され、
翌年5月にはネブラスカ州オマハまでサービスが拡大し、
1920年9月にはサンフランシスコまで到達します。


格納庫と標識塔のそばに駐機されたデ・ハビランド DH-4。
格納庫に描かれた航空便のロゴマークに注目。

オマハ郵便局内部

鉄道と比較すると、航空機でアメリカ大陸横断にかかる時間は約1日早く、
1924年に航空郵便の翌日配達サービスが開始されると、
輸送時間は29時間に短縮され、鉄道よりも3日近く速くなりました。



1924年には、郵便局が全米に整備した照明付きの航空路のおかげで、
夜間にも郵便が運航されるようになりました。


そしてまず、夜間飛行機は飛ばせるのか?
ということを実証するため、大胆な実験が行われたのです。


1921年2月22日、4機の航空郵便便が、東海岸を飛び立ちました。
昼夜を問わず飛行することで、郵便物を大陸の端から端まで
記録的な速さで輸送できるかどうかを証明するために。

しかし、その道のりは険しいものでした。
パイロットの1人が墜落事故で死亡。
また、危険な天候により2機は立ち往生を余儀なくされます。

しかし、かろうじて1機が、サンフランシスコからニューヨークまで、
33時間20分で飛行することに成功しました。

これは、鉄道では4日半、航空機と鉄道を併用した場合は3日間
(昼間は飛行機で、夜は列車で輸送)かかっていた距離です。



このとき、夜間大陸横断に成功したパイロット、
ジャック・ナイト(James "Jack "Knight)

彼は英雄になりましたが、この実験で彼一人が頑張ったわけではありません。

実は、この実験を成功させるまで、当時のハーディング政権は、
航空便に補助金を打ち切る算段をしていました。

確かに飛行機は列車より早く目的地に着きますが、
まず安全性についての懸念、さらに夜間稼働しないなど、
わざわざ予算を割くにはリスクが多いと思われていたのです。



事実、発足してからわずか3年の間に、すでに17人のパイロットが
機体の問題あるいは天候関連の原因による墜落で命を失っていました。

それも当然で、当時のパイロットは事実上、勘に頼って飛行していました。
彼らが頼りにしていた計器というのも時期コンパスだけで、
それは悪天候時には針は北から南に揺れ、全く役に立たなくなるものでした。

したがって彼らは悪天候時にはギリギリ低空を飛行し、
目標を文字通り触るように飛んで目視して位置を把握していたのです。


そのため、事故は容易く起こり、パイロットの命を奪いました。


初期のパイロット(左ジャック・ナイト)が、自らを
「自殺志願クラブ」と自嘲していたのも当然の状況でした。

しかしながら、そんな中、航空郵便の存続を支持する郵政長官、
航空郵便局長は、その可能性を実証する実験を行うことにしたのです。

たとえ人命の危険があったとしても、飛行機による輸送が
現実的に大陸の端から端までを短時間に結ぶことができるものなら、
それは十分に存続させる理由になる、ということを証明するために。

そしてジョージ・ワシントンの誕生日である1921年2月22日(猫の日ですな)、
全空路によるアメリカ大陸横断テストが行われることが決まります。

この実験は壮大で、サンフランシスコとニューヨーク、両端から
同時に逆方向に向かって2機ずつ飛行機を向かわせるというものでした。
もちろん飛びっぱなしではなく、中継地で飛行機を交代するリレー式です。


まず、東から西向きの2機について。

オレンジの1号機は、
「激しい着氷によりパイロットは不時着を余儀なくされ、
尾翼と車軸に損傷、飛行中止」


2号機は
「同じ条件下、なんとかシカゴに到着。
しかし雨、雪、霧のためシカゴで飛行中止」

どちらも天候のため早々に飛行を断念しました。


サンフランシスコから朝0430に出発した2機です。

3号機は、
「エルコから離陸直後、飛行機が失速し墜落、パイロット死亡」


「その後、待機機が後を受け継ぐが、オマハで交代したパイロットは
悪天候のため飛行を拒否したのでフライトはここで終了」

そして、唯一成功した4号機は。


「ロウリンズでオイル漏れを修理」

イエーガー

「シャイアンからノースプラットまで、フランク・イェーガーが担当」

「オイル漏れの修理をロウリンズで行った後、無事にノースプラット着。
ここでパイロットをジャック・ナイトが引き継ぐ

21日午後10時44分に出発」

「オマハで3号機がフライトを拒否する。
ナイト、翌午前1時過ぎにオマハに到着。
本来ここまでで、別の機と交代するはずだったが、
交代パイロットが吹雪で足止めされて来なかったので
自分がシカゴまで飛ぶことを決断

ナイト、1時間後の22日午前2時にシカゴに向かって出発」


アイオワシティ「言葉で言い尽くせない孤独感の中、給油のため着陸。
午前6時30分シカゴに向けて出発

シカゴ「眠気と闘いながら22日午前8時40分に無事到着。

別のパイロットと交代」

ニューヨーク「最後のパイロットが1650到着。郵便局大歓喜」

つまり、4号機を成功させたパイロットは3人だったのですが、
なぜナイトが英雄になったかというと、一番苦労したからです。



ジャック・ナイトがこのとき送った電報です。

彼はノースプラットで飛行機が来るのを待って交代し、
オマハまで飛ぶことが決まっていましたが、前述の通り、
交代要員は天候が悪く、オマハに到着できませんでした。

しかも3号機の交代パイロットは、天候を理由に飛行を拒否。

ナイトがここで交代要員の代わりに飛び続けることを決意したのが、
「航空郵便の存続」がこの成功にかかっていたからだったのか?
それは今となっては分かりませんが、彼はそれをしました。

電報の内容はこのようなものです。

1921年2月23日、イリノイ州メイウィード、5MD H
ワシントン州プラガー
ノースプラットを10時50分に出発、曇り空。
雲層の後ろから断続的に蒸留酒のような月明かりが差し込むが、
特に問題はなく、コンパスを使用し、時折地上や川をちらっと見ながら、
オマハに115時に到着し、出発した。


オマハで2時間遅延。
オマハ・シカゴ間のルートを検討していたため。
視界はデモインまで良好だったが、霧と雪がアイオワシティまで続いた。

アイオワシティで町と飛行場を見つけるのに10分を失い、
シカゴからの天気予報を聞くまでそこに留まる。天気は悪かった。

ナイト1145am

しかもこのとき、アイオワシティでは、天候が悪かったため、
どうせ誰も来ないだろうと判断して飛行場の職員は全員が帰宅していました。

彼は、一度エンジンを切ると再稼働しないのではと恐れ、
エンジンをかけたままでコーヒーを飲み、ハムサンドイッチを食べ、
燃料を補給して、そこから一晩中飛行を続けました。

煙草が美味い

極め付けは、この夜間飛行中、彼は鼻を骨折していました。
このことが、夜間の視界の悪さ、天候、眠気と共に
彼の飛行をどれだけ困難なものにしたかは、はかり知れません。

結局彼は午後10時44分から夜の闇をついて翌朝9時近くまで
ほとんど無休で飛び続けたことになります。

この快挙を受け、新聞は、

「ジャック・ナイトのナイトフライト」
Jack Knight's night flight

について大々的に報道し、これ以降、彼は
リンドバーグ以前の時代の最も有名なパイロットとなりました。

もちろんこの偉業は彼一人が成し遂げたものではないのですが、
それでも人々は、最も苦労した彼を英雄と讃えたのです。

大陸横断飛行には合計7人のパイロットが参加し、
33時間20分かけて3,652キロメートルの距離の飛行に成功。

この偉業と大衆の称賛に感銘を受けた議会は、
苦境に立たされていた航空郵便サービスにようやく予算を割り当てました。

そして、この実験から3年以内には、郵便物は昼夜を問わず、
わずか29時間で全米を飛行するようになっていました。

これは消費者にとっては望んでいたことでしたが、
夜間便はパイロットにとっては危険な任務だったことに変わりはありません。

■かがり火からライトへ


ニュージャージー州ハドレー飛行場にて、シカゴ行きの郵便袋を
デ・ハビランド DH-4 に積み替える米国航空郵便局の職員です。

夜間飛行は機体の位置を把握しにくく、ルートから外れる危険が大です。
当初は、夜間、航空路に沿ってかがり火が焚かれていました。



航空標識用篝火装置。
内部に火を灯します。



もう少し後に登場した強力な移動式投光器。
オマハのフォートクルック滑走路で使用中。

■ビーコンの登場

1920年代になると、米国郵便局は、強力な回転式ビーコンで標識された、
照明航路のシステムを確立しました。

郵便局、陸軍、商務省が協力し、より優れた航空技術、
特に航空路の照明システムの開発に取り組んだ結果、1923年の夏には、
航空郵便のパイロットは289のビーコンと39の照明付き着陸場を頼りに、
シカゴからワイオミング州シャイアンまで飛行することが可能になります。

ニューヨークとサンフランシスコ間の照明は1925年に完成し、
このシステムはすぐに他の路線にも拡張されていきました。



冒頭写真は、スミソニアン博物館の輸送飛行ギャラリー全景ですが、
その中に立つ赤い鉄塔にご注目ください。

夜間飛行を行う飛行機のために、フレア、照明機器、航法、
および着陸灯などが次々発明されていきますが、これは

エアルート・ビーコン(航空路標識)

回転式で、開発したのはゼネラル・エレクトリック社。

航空郵便の航路に沿って16キロメートル間隔で設置されました。 
10秒に1回回転し、その強力な光は60km離れた場所からも確認できました。

日没時に飛行するためにこれらのシステムが導入されたのは
パイオニアの命懸けの実験あっての成果だったのです。


以前も当ブログではこの頃の英雄的なエアメールパイロットを主人公にした
映画について取り上げたことがありますが、これはその一つ、
その名もズバリ『エアメール』という映画です。

航空路に沿って一定の間隔で設置されたビーコンは、
暗闇の中で飛行機が遭難するのを防ぐのに一役買いました。

しかし、当時のパイロットにとって霧や嵐の中を飛行することは、
どんなフィクションドラマよりもスリリングな体験であったことでしょう。


■  エアラインが郵便物の輸送を引き継ぐ

郵便局が信頼性が高く実用的な航空郵便システムを確立すると、
航空郵便の配達は民間航空会社に引き継がれていきました。

まず、民間航空の強固な経済基盤が確立されたことを受け、
1925年には郵便局が民間航空会社と契約を結び、郵便輸送を開始します。

1927年夏には、効率的な民間航空システムが確立され、
信頼性の高い航空郵便サービスが提供されるようになりました。

連邦政府は、この産業の形成に対する支援として、航空路の規制、
航空業界の成長の指導、安全性と技術の促進を継続して行いました。


この時に誕生したバーニー航空(Verney Airlines)は、
後にユナイテッド航空となった航空会社です。

写真は、1926年4月6日、ネバダ州エルコ-ワシントン州パスコ間を、
契約航空郵便としては最初に運んだバーニー航空の機体とパイロットです。。

バーニーエアラインズのシール

■立法府財団設立



1925年の契約航空郵便法により、
郵便局は民間航空会社に郵便配達料を支払うことが認められました。
支払いは運送された郵便物の重量に基づいて行われました。

写真は、郵便法の契約書にクーリッジ大統領がサインした時のペンです。


M・クライド・ケリー M.Clyde Kelly

このとき妥結された契約航空郵便法は、
別名「ケリー法」(Kelly Act)といい、立法の中心となった
この進歩的なペンシルバニア州出身の共和党議員の名前から取られました。

郵便局はその後、航空機の効率的な開発が進まない場合に
航空会社の営業損失を補填するための助成金を追加しました。

この新しい産業の発展を促すため、1926年連邦議会は航空商業法を可決し、
今日の連邦航空局の前身である商務省航空局を設立しました。


ウィリアム・P・マックラーケンJr. 
William P. MacCraken Jr.

1926 年、連邦議会は、商業航空という新しい産業の発展を導くために、
航空商取引法を可決し、この法律により商務省の航空部門が設立されました。

この部門は、今日の連邦航空局の前身です。

航空法の専門家であるウィリアム・ P・マックラーケンJr.が
航空商取引法を起草し、航空に強固な法的基盤を与えました。

彼は商務省の初代航空担当次官としてのリーダーシップのもと、
商務省は安全規制の先駆者となり、
パイロットの免許取得と航空機の認証を義務付け、
航行支援装置の開発を奨励しました。

エアメールパイロットの身分証明書

続く。


初期エアメールパイロットの苦難〜スミソニアン航空博物館

2025-05-11 | 航空機

冒頭の写真を当ブログで以前一度紹介したことがあります。

この頃航空界のスターだった郵便配達便のパイロットが
いかに当時の機体で危険を犯して飛んでいたかを表す、象徴的な写真です。


ここには、当時の郵便局を模した建物がほぼ実物大で再現されています。



建物内部はこんなふうになっていました。
デスクの上部には「クリーブ(ランド)」「アイオワシティ」「オマハ」
など、配達先の都市名が書かれていて、ここに仕分けする仕組みです。

郵便物の中身は?
航空郵便は、高額な料金を支払いさえすれば、迅速な配達が可能でした。
1920年代には、航空郵便による配達には通常の4倍以上の料金が必要でした。
郵便バッグには、航空便で送られた典型的な品物が詰まっています。

なぜ航空便が高かったかというと、単純に配達が大変だったからです。

飛行機の初期の時代には、パイロット(時折乗客も)は、
風雨にさらされるオープンコックピットに座っていました。

同時期ヨーロッパでは、比較的大きな輸送機が
乗客を比較的贅沢に運んでいましたが、(当時技術力はヨーロッパが上)
その乗り心地は粗く、うるさく、居住性も極度に不快なものでした。

当時の飛行機搭乗体験は、現在の宇宙旅行のようなもので、
小説のように非現実的なそれは想像するだけで人々をワクワクさせましたが、
それを体験する機会を得る人は滅多におらず、したがって
それに対し、感想を述べる人もほとんどなかったということになります。


それだけに「まれな一握り」であるパイロットの誇りは並々ならぬもので、
彼らに対しては世間から大変な敬意が払われました。

写真の展示は、航空郵便パイロットのウィングマークバッジ。
パイロットは制服ではなく重厚なフライトスーツを着用していましたが、
パイロットであることを示すバッジや翼が支給されていました。

写真は、ウィルフレッド・A・「トニー」・ヤッキーパイロットのものです。
ノースウエスト航空は現在でも同様の翼をパイロットに支給しています。


多少改変あり


この時代のパイロットが頼りにしていたのは紙の地図でした。

彼らは「ニーボード」(膝板)と呼ばれるこれを脚に取り付けて、
飛行中ルートを確認するときにはノブを回して地図をスクロールします。

両手が使えないのでは折りたたんだ紙を広げることもできませんから。

この地図は、エアメイルパイロットだったジョセフ・モートンセン
博物館に寄付したもので、彼は、ユタ州ソルトレイクシティから
ネバダ州裏のまでの航空郵便ルートを航行し郵便物を運びました。


もう少し構造がわかりやすいのがこちらの写真。
ちょうど腿に乗るのにいい大きさとなっています。
左の皮バンドは脚に縛り付けるためのもの。


この写真は、前回お話しした実験飛行のとき登場し、
ワシントンから飛んだフリート少佐です。


出発前ウィルソン大統領と話すフリート少佐。
(結構イケメンでモテたっぽい雰囲気)


この出発直前の写真からお分かりのように、右腿に紙が縛ってあります。

この時は初めての実験フライトだったので、こんな風にしていましたが、
おそらくこの後、フリート少佐らの提言で、腿に縛り付け、
回すとスクロールできる地図が開発されたのだろうと思います。

必要は発明の母。

■ 航空便パイロットはいかにして目的地を見つけたか

「地面から30フィートか40フィート上空を飛び続けましたが、
それでも線路を見つけることができませんでした。
自分がどこにいるのか教えてくれるような目印を
ただ一つでも見つけようと探し続けました」


これは、最初の民間航空郵便サービスのために雇われたパイロット、
ボブ・シャンクが霧の中飛行したことを語った言葉です。


William Shank

彼は最初の 4 人の民間航空郵便パイロットのうち、
1922年まで「生き残った」唯一のパイロットでした。

彼は、この霧の中の飛行を結果的に拒否したため、
1918年11月には航空郵便サービスから解雇されましたが、
この慎重な態度こそが、彼を長生きさせた理由です。

彼はそのほかのパイロットと違い、無茶をせず、時には上に逆らってでも
危険なことは避け続け、ゆえに事故で死ぬこともなかったのです。

引退後、彼は自分の名前を冠したボブ・シャンク空港を運営し、
エアメール・パイオニアの活動を支援し、空港の運営と管理を行い、
1968 年に76歳で亡くなる直前まで元気に飛行を続けていました。



さて、当時の航空便パイロットはどうやって目的地に辿り着いたのでしょうか。

彼らは、地上の馴染みのある目印となるもの、つまり町、
川、鉄道、競馬場、大きな建物、湖などを目印にする方法、
「コンタクト・フライ」
を使って飛んでいました。


今日では、最新の機器によって、パイロットは自分の位置を認識し、
機位は第三者からも正確に特定することができるようになりましたが、
多くのパイロットは今でも基本コンタクト・フライで飛行しています。



写真のパイロット、ジェームズ・P・マレーは、1920年、
ロッキー山脈越えという歴史的な大陸横断飛行で郵便物を運びました。

そして、危うく命を失うような大事故も経験しています。

その日彼は標高12000フィート飛行中、吹雪に遭い機体は墜落しました。
夕刻だったので、彼は夕日を目印に2インチの雪の中をひたすら歩き、
木下で夜を過ごし、8時間後にようやく道と人を発見したのです。

その後、マレーは、自分の体験を活かして下の地図を作成しました。



これは、マレーの自作の地図で、郵便局のコンテストに応募されたものです。

マレーが応募して入賞したこの地図は、1921年に

『パイロット用航路案内:ニューヨーク-サンフランシスコ航路』

として出版され、彼にはこの功績に対し50ドルの賞金が授与されました。


これらはパイロットがコンタクトフライの際目印にしたものです。

「サンバリーの南側の川は南側よりも川幅が広く、小さな島がたくさんある」

「競技場に併設した芝生は南西の方角」

「エッグヒルという山が見える方角は南」

「ニューベルリンは、ペン・クリークにかかる橋があるところ」

「ペンシルバニア鉄道は、南西から登ってくる山脈の終点にある」


こんな知識を叩き込んで確認しながら操縦を行うわけです。


ちなみに彼は、郵便サービスのキャリアを終えた後、法律家になりました。
ワイオミング州弁護士会に登録して、最終的にはワシントンD.C.で
ボーイング社のロビイストとなり、社会的にも高い地位を得て退職しました。

■ 『自殺志願クラブ』郵便パイロットの悲劇


郵便配達仕様 デ・ハビランド DH-4

1921年に改良されたデ・ハビランド DH-4 軽爆撃機。
この機体は米国航空郵便サービスの象徴となりました。 


1918年から1926年までに郵便局に採用されたパイロット、
200人のうち35人が、エアメールフライトの任務中に死亡しました。



吹雪により航行できなくなって緊急着陸したカーチスR-4型機。

冬場の飛行はより一層危険を伴います。
何しろパイロットはオープンのコクピットで外気に曝されて飛ぶのですから。



死亡事故は最初の数年で減少したとはいえ、郵便飛行機を飛ばすことは
依然として危険で、時には命にかかわる仕事でした。

この頃のパイロットたちが、自らを

「自殺志願者クラブ」

と自嘲していたのも宜なるかなというところです。


郵便局の建物の裏手にはベンチがあって、
エアメイルパイロットらしい二人が、携帯用の地図を見ながら
何やら談笑していました。(普通に横に人が座れるベンチ)

さて、というところで、次回はその「自殺志願者クラブ」について
もう少し深掘りしていきたいと思います。

今日では、特に日本人の我々にはピンときませんが、この時代、
空中郵便配達人は時代の最先端であり、そしてヒーローでもあったのです。


続く。



航空郵便輸送の始まり〜スミソニアン航空博物館

2025-05-08 | 航空機

前回お話ししたのは、初期の商業航空定期便が、
ほとんどは資金不足のために長続きしなかったという例ですが、今日は、
米国政府がどうやってその後の輸送システムを支援したかについて話します。

■郵便局は航空便を始めた

航空輸送という新しい分野はリスクの高いビジネスでした。
初期の航空会社は採算が取れず撤退し、そして解散していきます。
航空業界は軌道に乗ることができませんでした。

そこで政府は、航空輸送システムを確立するために、
飛行機を使った郵便物の運搬を開始しました。

従来の駅馬車、蒸気船、鉄道に加わる新しい交通システムの育成のために
連邦政府は、郵便を空輸することを米国郵便局に許可したのです。

そして1918年、アルバート・バールソン郵便局長と
オットー・プレーガー第二郵便局長補の構想は、
アメリカ航空郵便サービスの創設によって現実のものとなったのでした。

■ システムのテスト

航空による郵便輸送の可能性を示すため、郵政局は、
1911 年 9 月 23 日にニューヨーク州ロングアイランドで開催された
国際航空大会の祝賀行事の一環として、特別航空郵便飛行を承認しました。 

Earl Ovington

パイロットのアール・オヴィントンは、1911 年に
クイーン機でこの短い、しかし歴史初の航空郵便飛行を行いました。
クイーンは、人気のあったブレリオの単葉機の設計をベースとしていました。

オヴィントンは、両足の間にいっぱいの郵便袋を挟んで離陸し、
数マイル離れたミネオラに向かいました。
彼は飛行機を傾けて、袋を船外に押し出しました。
袋は地面に落ち、地元の郵便局長が回収しました。 



この時のオヴィントンのフライトは記念飛行でしたが、
歴史上これが初めてのUSPOD後援による郵便空輸となりました。

距離にしてわずか6マイルで、所要時間は6分。
地面に投下したせいで、バッグは地面で破損してしまいましたが、
この時の手紙640通とハガキ1,280枚は、無事に配達されました。

翼に13 Ovington U.S.Mail Aeroplane と書かれた世界初の郵便輸送機
ブレリオ・クイーントラクター型単葉機ドラゴンフライ


郵政長官から公式郵便パイロットを任命されたオヴィントンの宣誓書

■ 定期航空便サービスの開始

1918年、ニューヨークからフィラデルフィアを経由し、
ワシントンD.C.への郵便輸送が始まりました。
このサービスのスタートは困難に満ちていました。

1918年5月15日の朝。

2機のカーチス・ジェニーがどちらも郵便物を搭載し、
1機はワシントンD.C.から、もう1機はニューヨークのロングアイランドから、
ほぼ同時刻に離陸を行いフィラデルフィアを目指しました。



ワシントンから離陸したのは、ルーベン・H・フリート陸軍少佐(左)と、
操縦を担当したジョージ・ボイル中尉でした。


ニューヨークから出発したのは、トーリー・H・ウェッブ大尉
ジェームズ・C・エドガートン大尉。(写真はウェッブ大尉)

彼らの目的地はフィラデルフィアのエドガータウンで、
2機の飛行機は、ここで郵便袋を交換して飛び立ち、帰路に着きます。

そう、そしてこれがワシントン-フィラデルフィア-ニューヨークの
双方向航空郵便サービスという夢のような計画でした。

計画段階ではそれはうまくいくかに思われました。



この国家的大行事のために、ウッドロー・ウィルソン大統領は、
ワシントンのウエスト・ポトマック・パークでの開会式を司会しました。

写真は、陸軍航空局から必要な航空機とパイロットを集めて
最初の航空郵便サービスを組織したフリート少佐と話す大統領です。


ワシントンのポログラウンドを離陸するボイル機。
両翼端を人が押しているのに注意。


こちらは出発前ポーズを取るフリート少佐。

■’フィリー’はどっち?

しかし定期航空便の初日は、なかなか予定通りにはいかなかったのです。

午前 11 時 47 分に離陸した直後、ボイル中尉は方向感覚を失い、
目標にしていた線路の方角を間違えて南へ飛んで行ってしまいます。
(コンパスが故障していたという話もあり)

道に迷ったことに気づいたボイルは、わずか 18 分後の午後 12 時 5 分、
とりあえず着陸して、地上で自分の位置を確認しようとしました。

しかし、不運なことに、着陸時に飛行機がひっくり返ってプロペラが壊れ、
再び飛び立てなくなり、任務の継続が困難になりました。

とりあえず、相手のあることなので、運んでいた 郵便物を
トラックでワシントンまで運ぶことにします。

ボイル中尉とフリート少佐はルートについて打ち合わせていましたし、
フリート少佐は正しい方向を指示したのにも関わらず、
何を思ったか、ボイル中尉がそれに逆らって方向を失ったとされます。

悪いことは言わん。一応上官なんだから言うことを聞いておけ。

それではウェッブ中尉-エドガートン中尉組はどうだったかというと、
144ポンドの郵便物を積んでロングアイランドのベルモント競馬場を出発し、
1時間後にフィラデルフィアに到着しました。

そしてその日のうちにニューヨークに帰還しましたが、
持って帰るべきワシントンからの郵便物は間に合いませんでした。

うーん・・・・これって要するにボイル中尉一人のミスなんじゃね?

そう思ったのはもちろんわたしだけではなく、ボイル中尉は
ミスの責任を取らされ、フリート少佐に飛行隊のクビを言い渡されました。

まあでも、飛行学校を出たての彼にはちょっと荷が重かったのかな。
だったら尚更上官の言う通りにしろって話ですが。

■ エドガートン大尉グッズ



冒頭の写真は、ほとんどがこの時エドガートン大尉が着用していたものです。

エドガートン大尉は191年に陸軍を退役し、その代わり、
アメリカ航空郵便サービスの飛行部長を務めるようになりました。


初期の航空郵便は厚手のキャンバス地の袋に入れられ、
パイロットの足元の特別なコンパートメントに積まれて運ばれました。


画面右下の手紙は、史上初のエアメイルフライトで運ばれたもの。

「今日開通したニューヨーク、フィラデルフィア、
ワシントンを結ぶ航空便があなたへのメッセージを配達しました。
これは11万1000人規模のネットワークの先駆けとなるでしょう」


と始まるこの手紙の差し出し主は、どこにも説明がないのですが、
ワシントンにいる「プレジデント」のようです。(ウィルソンではない)


これは、1918年5月14日と15日の飛行記録が記された、
ジェームズ・ エドガートン大尉の飛行日誌です。

パイロットは、他のパイロットに残すため自分の経験を書き留めます。

どんな問題を抱えて飛んだのか、バストルトンフィールドからワシントンまで
どんなことがあったのかがきっとここには克明に記されているのでしょう。

■ カーチス「ジェニー」



同じスミソニアンと言ってもここではなく、空港近くの
ウドバーヘイジー国立航空博物館展示の「ジェニー」です。
ワシントンのこちらにもかつてはあったようですが、この訪問時、
ジェニーは保存のため撤去されていて現地にはありませんでした。

ジェニーJN-4Dはカーチスの名機で、この頃のパイロットの一人は、

「私はいつも、それはとても安全な飛行機だと思っていた。
なぜなら、キャブレターがひどく飛行機を振動させるので、
翼の氷を振るわせるほどだったからだ。」


と言っています。
キャブレターが振動すればなぜ安全と感じるのかよくわかりませんが。

米陸軍航空隊の練習機として設計されたカーチスJN-4は、1916年に初飛行。
一般に「ジェニー」として知られ、第一次世界大戦中、
何千もの連合国パイロットに飛行を教える優れた練習機でした。

ジェニーはニックネームで、機体名の「JN」を、アメリカ人はどうしても
「ジェイエン」とか「ジェン」と発音してしまうので、
それならいっそ名前にしてしまおうと「ジェニー」になりました。

戦後、余剰となったジェニーは「バーンストーム(遊覧飛行)」や
巡回航空ショーに広く使用され、定期航空郵便サービスを開始しました。


1934年に行われたマックロバートソン・レースで、
クライド・パンボーンが自動車からジェニーのランディングギアに
飛び移って飛行機に乗ろうとしているところ。

パンボーンはのちにボーイング247-Dの副操縦士になりました。



JN-4Dは、90馬力のカーチスOX-5エンジンを搭載していました。
陸軍はカーチス社に、より大型の150馬力のイスパノ・スイザエンジンと
郵便箱を搭載した米国航空郵便サービス用に、
6機のJN-4Dの改造を依頼しました。

これらの航空機はJN-4Hに再指定されました。
スミソニアン博物館がこの機体を手に入れたのは1918年と早い時期です。


■逆さまの切手



昔一度この逆さま切手についてお話ししたことがありますが、
郵便フライトが始まった時、郵便局は記念切手を発行しました。

ジェニーが郵便物を輸送している絵柄だったのですが、
印刷所のミスで逆さまに曲芸飛行している飛行機になってしまいました。



アクロバット飛行にも使用される大変に操作性に優れた飛行機ですが、
流石に郵便物を積んだ飛行機でこれはない。と言うことで、
正しい向きの切手が後日再発行されることになりました。

しかしこの「逆さまジェニー」、希少価値ゆえ大変な高値がついており、
まさにマニアの間では高嶺の花となっているのだそうです。

今ちょっと調べたところ、オークションでは2ミリオンドル、
日本円に換算すると今日のレートでなんと2億9千9百19万円だそうです。

ちなみに切手の世界というのは相当変動があるようで、
あるサイトによると3億はちょっと大袈裟で8,400万円が相場だそうですが、
状態が悪いものでも1〜2千万円なので、高価であることに違いはありません。

ところで先日、本を整理していたら、中からTOが少年時代に集めた切手帳
(保存状態かなりよし)が出てきたのですが、これ、
希少切手が何かの間違いで紛れ込んでいたりしないかな。

続く。


ベノイスト14とエアロマリン航空〜航空運輸の黎明期〜スミソニアン航空博物館

2025-05-05 | 航空機

スミソニアン航空博物館の展示から、シリーズとして
ジェット飛行機の歴史についての展示をご紹介していこうと思います。


この、ジェット機のエンジンを模した入り口をくぐると展示が始まります。


L'age du jet (フランス語)「ジェットの時代」
Aviación a Reacción (スペイン語)「ジェット飛行機」
Düsenflug(ドイツ語)」「ジェット機フライト」
ジェット飛行(日本語)


と、四カ国語でジェット機コーナーであることが書かれています。

スミソニアン博物館の展示は、このように日本語が多いのですが、
それは、日本に関する展示(軍用機など)が多いのと、
この頃は今のように中国人が押しかけることもなかったからでしょう。

これはまだコロナ前なので、今この表示がどうなっているかわかりません。


エントランスには、大きなエアバスのノーズが転がっており、
その横に展示コーナー全体の説明があります。

20世紀初頭、飛行は大胆かつ新しいものでした。
人々にとって、飛行機での旅行はまれでした。
まだ航空会社、旅客機、空港、航空路線など、どれも存在しませんでした。

しかし、世紀末には、アメリカ国内のほとんどどこへでも
飛行機で数時間以内に旅行できるようになりました。

この革命的な変化はどのようにして起こったのでしょうか?

このギャラリーでは、アメリカにおける航空輸送の歴史について、
以下三つのストーリーを元に紹介しています。

1、 連邦政府が航空業界をどのように管理し、その発展を導いてきたか

2、技術の進歩が航空旅行にどのような革命をもたらしたか

3、 飛行体験が、良い面も悪い面も含めて、どのように変化してきたか



今これを見ている人が立っているのは右下の点の場所です。
タイムラインは4つに分けられており、最初は
1914年から1927年までの歴史について探っていくことになります。

■ 航空輸送の黎明期 1914−1927


ライト兄弟が初めて飛行を行ったのは1903年のことでしたが、
それからわずか11年後、最初の航空会社が運航を開始ししました。

つまりこの年表の始まりの年「1914年」です。

しかし、期待と創設者の意図に反して、それはすぐに経営難に陥りました。
航空会社は利益があげられず、生き残ることができなかったのです。

そこで米国政府は、航空輸送網の構築を支援するため、
郵便物を航空輸送することを開始しました。

まず信頼性の高いサービスが確立されると、それに続いて郵便局は
航空郵便の配達を民間企業に委託するようになります。

ということで、1927年までに、民間の航空会社が誕生しました。

初めての動力機付き飛行機で人類が飛ぶようになってまだ23年です。
この頃航空技術は眼を見張るスピードで向上していたものの、
まだまだ未熟で危険を伴うものであったことは否定できません。

そして航空路のシステムは、まさに開発が始まったばかりでした。
飛行体験は刺激的でしたが、決して安全で快適なものではなく、
そして、飛行機を利用する乗客は基本高額の対価を必要としました。

その頃、どんな人が飛行機に乗ったかというとほとんどがパイロットです。
初期の飛行機は、乗客を1人だけしか乗せることができませんでした。

旅客機を運航する航空会社はほとんど存在せず、
後に説明するように長期間存続した航空会社は皆無でした。

旅客機は高額な航空券の料金を支払うことのできる富裕層が対象で、
時折、曲技飛行を行うカーチス・ジェニーの予備の座席に、
イベントなどで飛び入りで乗ることはあっても、
乗客として飛行機に乗ることのできるアメリカ人はほとんどいませんでした。


■ ベノイスト XIV 



ベノイストXIV飛行艇




世界で初めて定期航空便として運行されたのが、
このベノイスト14(Benoist XIV)でした。
おそらくアメリカ人はこれをべヌーストと読むと思われます。


パイロットが手を振っている様に見える

この高度で目的地まで飛びます

フロリダにセントピーターズバーグという都市があります。

St. Petersburg、ロシアには「サンクトペテルスブルグ」がありますが、
これは偶然ではなく、1875年に土地を購入したウィリアムズと、
鉄道の終点地を建設するのに尽力したデメンズという人が、
コイントスでどちらが名前をつけるかを決め、これで勝ったデメンズが
若いときに住んでいたサンクトペテルスブルグを地名にしました。

市として法人化されたのは1903年と、歴史的に比較的若い街ですが、
1914年、こことフロリダのタンパ間を往復する飛行機サービスが開始され、
セント・ピータースバーグ市はそのために、セントルイスの航空機メーカー、
トーマス・ベヌイスト社からこのベノイスト14型機を購入しました。
Antony Harbersack Jannus(1889-1916)

ベノイスト14の操縦を行なったのは、トニー・ジャナスという操縦士です。
彼は1914年1月1日、「セントピーターズバーグ-タンパエアボートライン」
の初飛行を成功させ、これは

「空気より重い航空機を使用した世界初の定期商業航空飛行」

として記録されています。



実際に残されているベノイスト14の写真をご覧ください。
右側がパイロットのジャナスで、左に乗っているのは乗客です。

この飛行機は定員一名、そう、一人しか乗せられません。
乗客はオープンコックピットで操縦士の隣に座り目的地に運んでもらいます。
こんなものにお金を払って乗るのはどんな人?って感じですね。

しかし、1914年以前、もしフロリダ州タンパから、
当時孤立していた半島であるセントピータースバーグまで旅行するには、
蒸気船でなければ鉄道で遠回りして5時間が必要でした。
自動車やバスで行くにも、道はほぼ舗装されていないでこぼこです。

鉄道の路線とベノイスト14の航路

それが、この水上艇なら35キロの距離をわずか23分で移動が可能なのです。

タンパとセントピーターズバーグの位置関係。
東京湾アクアラインの川崎と木更津みたいなもんですね。

最初にジャナスがセントピータースバーグを飛び立った日、
この歴史的な離陸を見ようと、不当には3,000人の観衆が集まりました。



そして誰が史上初の乗客になったかというと、
セントピータースバーグの元市長、エイブラハム・C・フェイルという人で、
(写真左)わざわざ自らオークションでチケットを落札しました。
ちなみに値段は当時の400ドル(2024年の価値で7,500ドル、約113万)。


模型のパイロットと乗客もこの二人?

ベヌイスト機は、ロバーツ製の75馬力、6気筒、水冷エンジン搭載、
この時の飛行は、水面の15メートルの高さを最高時速121キロで飛び、
無事にタンパに到着すると、そこにも2,000人が待っていて、
ジャナスとフェイル氏は、彼らに頭を下げて微笑んだということです。


製作者はトーマス・ベノイスト(Thomas W. Benoist)。

同社はセントピータースバーク市と$2,400で契約し、
この定期便を発足させました。
定期便発足の発起人の一人、パーシバル・ファンスラーは、

「セントピーターズバーグのウォーターフロントは、
出発と着陸に理想的な場所です。

タンパへの往復の旅は国内で最も美しいものの一つとなるでしょう。

水面から数フィート上を滑走する75馬力のエンジンのゴロゴロ音、
1分間に数百回回転するプロペラの回転音。

冷たい潮風が吹き抜け、タンパ湾のきらめく太陽の光を浴びながら飛ぶ。
これ以上に楽しい旅はありません。」


と新聞のインタビューに答えています。



確かに、水面からわずか15メートルの高さで飛ぶ20分のフライトは、
ちょっと遊園地のアトラクションみたいです。
写真ではボートが後をついて行っているという・・・。

フライトは日曜休日、1000セントピータースバーグ発、1100タンパ発、
1400セントピータースバーグ初、1500タンパ発の1日2往復でした。

定期便を宣伝するポスター


写真の女性乗客は、飛行用のつなぎを着てやたら気合いが入っています。
彼女は取材されているらしく、カメラマンがいます。


華々しくスタートしたこの定期路線?は、4ヶ月間に1,200人を運びましたが、
1914年3月31日におそらく採算が合わなくなって終了しました。

最初の乗客はオークションで手に入れたので高額な運賃でしたが、
普通運賃は一人5ドルだったので、1日に20ドルしか儲けがありません。
現在の貨幣価値に直しても、せいぜい1日6万円であり、
これではとても採算が合わないので3ヶ月で終了したというわけです。

まあこうやって航空史に残ったわけだから、ドンマイ。


■ 初期のエアライン〜エアロマリン航空

当時の乗客にとって航空での旅行は夢のような体験でした。

「昨日、私は11人乗りの飛行リムジン『バッキ―』で
昼食のためにクリーブランドまで飛んだ。
それは魔法のようだった!まるで天国にいるようだった。」


1922年にエアロマリン航空でデトロイトからクリーブランドまで飛んだ
ミス”ピギー”マクリーンの感動の言葉です。

泡沫のように消えていった、いくつかの航空会社をご紹介します。


ロスアンジェルスとカタリナ島間を往復していた
チャップリン航空(Chaplin Air lines)の裕福な女性乗客。
同航空はカリフォルニアの最初の定期便でした。


パシフィックエアウェイズは、1920年から8年間、
ロスアンジェルスとカタリナ島間を運航しました。

航路は長いので、乗客と乗組員は時々この写真のように
海上に降りて休憩し、マグロ釣りをして楽しんだということです。


1923年、ガルフコースト航空(The Gulf Cast Air Line)は、
ニューオーリンズからミシシッピデルタの先端にある
パイロットタウンを結び、キューバ、カリブ海、
中南米から来る蒸気船と連携して郵便輸送を行なっていました。



写真は、1922年に始まったクリーブランド-シカゴ間に就航し、
乗客を乗せて飛んでいたエアロマリン航空の水上艇です。


同じくエアロマリンのモデル75飛行艇「ピンタ」号と「サンタマリア」号。
ニューヨークからマイアミまで飛ぶ飛行艇が今出発準備中。1920年。


エアロマリン航空の3人のマイアミ在住パイロットと2人の整備士。
エアロマリン75飛行艇の機体に並んでポーズを取っています。



それから冒頭の水着女性軍団の写真ですが、
エアロマリンの乗員と水着の女性たちという説明しかありません。

なんかわからんが乗組員は嬉しかったと思うぞ。


同社はアメリカで初めて定期州間旅客航空路線を開発しました。



エアロマリン航空の水上艇の旅客ゲート。
富裕層が相手だったというだけあって、ゴージャスな飾り付けですね。

同社は最終的にサザン、ニューヨーク、グレート レイクスと、
3 つのブランチを設立しました。

ビミニ(フロリダ)ナッソー(バハマ)
キーウェスト(フロリダ)ハヴァナ(キューバ)


と、ここから出発する飛行艇の渡航先が書かれています。

エアロマリン航空は1920年から4年間、水上飛行機で
マイアミからバハマのナッソー、キューバのハバナまで富裕層を運びました。

海外への渡航が特に富裕層に人気となったのは禁酒法のおかげでした。
つまり、海外に行けば、合法的に飲酒ができたからですね。


ファッショナブルな衣装をまとったエアロマリン75型機の乗客たち。
この航空会社のエリート顧客たちは、密閉されたキャビン内で
当時にしては大変贅沢なフライトを楽しみました。

彼らもこれからハヴァナでお酒とシガーを楽しむつもりかもしれません。


いでたちから溢れ出ずにいられない乗客の富裕



客席を後ろから見たところ。
飛行機の座席は重量を軽くするため籐でできていました。

オフシーズンには、エアロマリン航空は
クリーブランドとデトロイトの間だけを運航していました。



「デトロイト-クリーブランドを90分」と書いてあります。
これは同社航空ラインのオリジナルシールで、
現代のタグのように、乗客のスーツケースに貼りつけるものです。


乗客の前に置かれたスーツケースにこのシールが貼ってあるのがわかります。



少しのアクシデントでもこの頃の便はすぐ欠航になりました。

写真は、この日の便が欠航したので、運ぶつもりだった
積荷のアイスクリームを従業員一同揃って桟橋で消費している
ところ。

せっかくのアイスだというのに、皆苦虫を噛み潰したような顔です。


第一次世界大戦後、多くの人々が航空会社の運営にチャレンジしましたが、
初期の試みはすべて、高い運営コストのために失敗に終わりました。

航空会社は、その特殊性もあって元手が莫大に必要だったため、
いくら乗客や貨物を運んでも十分な利益を上げることができず、
多少の営業では全く採算が取れない状態でした。

技術的および組織的な改善により、航空会社が自立して
利益を上げられるようになるまで、補助金などの財政的支援が必要でした。

エアロマリン航空は成功を収めたものの、最終的には資金が底をつきました。
1924年、17,000人の乗客を最後まで安全に運んだ末の終焉でした。

■ トニー・ジャナス賞


ところで、3ヶ月で定期便の仕事がなくなったトニー・ジャナスですが、
その後カーチス飛行機会社のテストパイロットになりました。
定期便をやめた翌年の1915年、彼は

カーチスJN-3試作機、後のJN-4「ジェニー」

の飛行に成功します。
これは、第一次世界大戦で登場し、有名になりました。

しかし、この頃のテストパイロットの多くと同じく、
彼の人生も突然の事故によって絶たれることになります。

カーチス所属のパイロットとして、彼はロシアに派遣され、
第一次世界大戦に送られるパイロットの訓練をしていましたが、
1916年10月12日、訓練中に乗っていたカーチスH-7がエンジントラブルで、
彼と訓練を受けていたロシア人乗組員二人は黒海に墜落し、
その後遺体は回収されないまま死亡が認定されました。

若干27歳でそのキャリアを終わらせた彼の功績を讃え、
1963年に設立されたトニー・ジャナス記念航空協会は、
史上初の定期便航空輸送パイロットだった彼の名前を冠した
「トニー・ジャナス賞」を設け、航空業界に影響を与えるような
実績を残したパイロットにこれを贈ることを決めました。

この受賞者の名簿には、

エディ・リッケンバッカー
ドナルド・ダグラス
ジミー・ドーリットル
サイラス”C.R." スミス(アメリカン航空の創設者)
ウィリアム・A・パターソン(ユナイテッド航空の社長1934-1966)
チャック・イェーガー
サリー・サレンバーガー(ハドソン川の奇跡のパイロット)

などの錚々たる航空人の名前が並んでいます。

ちなみに、日系アメリカ人初の閣僚となったノーマン・ミネタは、
ロッキード・マーティンの副社長を経て、ブッシュ政権で運輸長官を務め、
2001年の同時多発テロ事件の際にはアメリカ史上初めて
全ての民間機の緊急着陸を命令したことが知られています。

同賞がミネタに贈られたのは2004年のことなので、
この時の働きに対して与えられたと考えられます。


続く。






「メイクアメリカファースト」1913年の欧米航空事情〜スミソニアン航空宇宙博物館

2025-04-22 | 航空機

スミソニアン航空博物館の黎明期の航空機のコーナーに、
「Military Aviation」と書かれたパネルを発見しました。

■ アメリカの航空産業が立ち止まったわけ



Military Aviation
Make America First in the Air

航空機が発明されると同時に、欧米先進国の軍関係者は
それを軍事利用できないかと考えだしました。
このパネルは、その当時の各国の状況を表しています。

ライトフライヤーの飛行が1907年であったことを念頭に置いてどうぞ。

1911年、トリポリの領有をめぐってトルコと交戦中だったイタリアは、
偵察と軽爆撃の任務に、フランスとドイツ製の航空機を使用した。

バルカン半島の交戦国は、バルカン戦争で軍用機を限定的に使用している。

大国の軍幹部の多くは、飛行機を物珍しさ程度にしか見なしていなかったが、
その中の一部である先見の明のある将校たちは、
国防における飛行機の重要性の認識を高めるよう迫った。

気持ちオリジナルよりイケメンで若いアンクルサム(=US)

アメリカでは、このような航空意識への欲求から、
1907年8月1日に陸軍の信号軍団に航空部が創設され、
1910年から11年にかけてアメリカ海軍航空が誕生した。

イラストと共にある航空機の数は、1913年現在の所有数となります。
アメリカは23機を保有していました。
これを念頭に置いてお読みください。

 ヴァージニア州フォートマイヤーで行われた
オーヴィル・ライトの飛行試験(1908-09年)の結果、
陸軍は航空機という新兵器を入手し、
マサチューセッツ州カレッジパークに飛行場を設置した。


カーティス・プッシャー

その後、1909年にユージン・イーリーが
巡洋艦「バーミンガム」の甲板からカーチス・プッシャーを飛行させ、
別の日にU.S.S.「ペンシルバニア」の甲板に
同じくカーチス・プッシャーを着陸させた先駆的な飛行は、
飛行機の柔軟性と蒸気タービン駆動の軍艦との融合を望む人々を勇気づけた。

しかし1910年以降、アメリカの航空は
ヨーロッパの技術開発に遅れをとった。

その理由はというと、まず、ライト兄弟の最初の飛行実験そのものが
アメリカのライバルと軍に嘘扱いされたということに始まります。

今と違って動画があるわけではないので、写真だけでは
成功だったかどうかを認定することは難しく、
いろんな難癖をつけられてしまったということかもしれません。

事実、ドイツ移民のグスタフ・ヴァイスコップ=米名ホワイトヘッド
(この名前ドイツ語の英語直訳)という技術者は、1901年、
電動飛行機械で飛行を成功させていたという話から、
実はライト兄弟は世界初ではなかったという説は現在もあります。

このホワイトヘッドは、写真という証拠を残さなかったせいで、
写真を残していたライト兄弟が有利だったということもできます。


ライト兄弟はどこからも文句が出ないように自作機の改良を進めるのですが、
その間に、カーティスと、ライト嫌いのスミソニアンの会長ウォルコットが、
彼らの最初の飛行そのものを無かったことにしようと動きました。

そこで、ウィルバー亡き後、オーヴィルがたった一人で
法的に訴えるという戦いを始めたのです。

幾度か行われた裁判では全てライト兄弟が勝訴しました。

しかし、世間に刷り込まれた「ライト兄弟は嘘松」という印象は、
その頃には払拭することはできず、そのためオーヴィル・ライトは、
名誉のためにと次々と起こした裁判で特許侵害を訴えまくったので、
国内の飛行機技術者は、身動きのできない状態に追い込まれました。

しかしその間も音を立てて進歩していく航空技術。

オーヴィルの特許侵害訴訟とは無関係だったヨーロッパは、
アメリカ国内で動きが停滞している間も、特許の制限を受けず、
自由に開発ができたため、各国がその技術を発展させていきました。

■ロシア


というわけで、アメリカが23機の飛行機所有に甘んじていた同じ時期、
1913年に、ロシアは800機を所有していました!

ご存知のように、ロシアのシンボルはクマさんです。

ロシア帝国では1908年に始まり、以前当ブログでご紹介した
スミソニアンの爆撃機イリヤー・ムーロメツの開発は1913年でした。

言うてロシアの航空機開発は決して進んでいたわけではありません。
その理由は、部品、特にエンジンを国内で作ることができず、
国外からの輸入に頼っていたからなのですが、それでも800機です。

アメリカがいかに訴訟問題に足止めされていたかがわかります。

■ ドイツ



1913年現在のドイツ航空所有数は1000機でした。



何を隠そう、ドイツは人類初の飛行をグライダーで行った、
オットー・リリエンタールを生んだ国です。
彼は端翼グライダーで事故死するまでに2000回飛行を成功させました。

初飛行の1894という年が表されたスミソニアンの彼の展示コーナーには、

「実際の飛行実験によってのみ、
飛行の実戦において適切な洞察をうることができる」


という彼自身の言葉があります。


1913年ごろドイツが所有していた航空機ですが、
主にオランダ人のフォッカーがドイツで設立したフォッカー
アルバトロスやゴータなどが製造したタウべが主でしょう。


エトリッヒ・タウべ

タウベといえば当ブログでも扱った第一次世界大戦もの、
映画「青島要塞爆撃命令」を思い出すなー。
あの時青島のドイツ空軍が乗っていたのはルンプラー・タウべといい、
「エトリッヒ」「ルンプラー」は制作した会社の名前です。

エトリッヒ・タウベ

「タウべ」は世界で初めて爆撃を行った、つまり初の「爆撃機」でした。


■ フランス



何度もお話ししているように、アメリカが内紛で足踏みしている間、
最も航空技術を先に進めたのは、フランスでした。

1400機と、ヨーロッパ1の保有機数を誇っております。



スミソニアンには、この頃のフランスの航空を表すこのようなパネルがあり、
当時開発された飛行機、設計者、飛行家たちの写真が紹介されています。

この写真から当ブログでは、女流飛行家、レモンド・ド・ラローシュ男爵夫人
(本名ルイーザ・デローシュ、スミソニアン博物館の当コーナーでは
ド・ラ・ローシュ男爵夫人と表記)と女性初の飛行者テレーズ・ペルティエ
設計者ヴォアザン兄弟、レオン・ドグランジュなどを取り上げてきました。


フランス航空コーナーには当時の飛行機の模型も展示されています。
これも「青島要塞」に登場した「アンリ・ファルマンIII」
フランスでブラジルの飛行家デュモンが製作した「サントス・デュモン」。

No2 サントス・デュモン14bis

さりげにヨーロッパで初めて動力飛行に成功したのが、この14bisです。

動画を見ていただくとわかりますが、彼はライト兄弟と違い?
自分の技術を全てオープンにして誰でも設計図が使えるようにしていました。
しかし、自分の発明品たる飛行機が兵器として使用されたのに絶望し、
ブラジルに帰ってから失意の自殺をしています。

その名前はカルティエによって時計の「サントス」に遺されました。



史上初めての航空展示会が行われたのも、フランスのパリでした。

1908年12月に開催された第一回サロンド・エアロノーティックでは、
ルイ・ブレリオ、ガブリエル・ヴォワザン、
シャルル・ヴォワザン、アルベルト・サントス=デュモン、
ライト兄弟
など、航空界の大物たちが素晴らしい飛行機を展示し、
一般大衆が初めてこれらの飛行作品を間近で見ることになったのです。

展示されたのは、ごく初期のブレリオXIモノプレーンと、
ライト・タイプAバイプレーンなどでした。

この展示会はまさに航空ブームに火が付くための文字通り点火となり、
航空学という新しい分野への多大な関心を呼び起こし、
次々と新しい航空産業を生み出すきっかけとなりました。

フランス政府がこのようなイベントを積極的に導入したことが、
フランス航空が先進になった理由の一つでもあります。

■ ブレリオⅪ(11)



そこで冒頭写真のブレリオです。

Blériot Aéronautique社で製造されました。
1909年にルイ・ブレリオが同様の機体で英仏海峡横断に成功して以来、
トリムブレリオ単葉機は世界で最も人気のある飛行機のひとつです。

展示されている単座モデルは、最長3時間滞空でき、
5分で1640フィートまで上昇できる性能を誇ります。



飛行機の横に立っている実物大のこの人は、
ルイ・ブレリオだと思われます。



飛行家としても有名なブレリオは1909年7月25日、
人類史上初めて飛行機で英仏海峡を横断するのに成功しました。

ブレリオⅪ

この動画によると、英仏海峡横断は、イギリスの新聞社、
「デイリーメール」の宣伝のため公募された挑戦だったようです。
このとき使用された機材はVIII、8ということで、
ここにあるXIの3代前バージョンだったということになります。

100年前のブレリオⅪが実際に空を飛ぶビデオ
100 Year Old Blériot XI by Mikael Carlson - Hahnweide 2019

■イギリス


露、仏、独はシンボルの動物がいますが、英米はそうではないので、
擬人化された国「アンクルサム」とこの「ジョンブル」が登場です。
まあ、オリジナルのジョンブルは衣料商人なので、違うかもしれませんが。

同じコーナーに女性版もありました

というわけで1913年当時の大英帝国の保有航空機数は400

イギリスは1862年という早い時期に偵察を目的とした
軍用気球の試験に乗り出し、1899年のボーア戦争に投入しています。

また、軍用凧、そして内燃機関が開発されると飛行船も開発します。
本格的に軍が航空に乗り出したのは1911年でしたが、その頃
ヨーロッパ主要国の緊張が高まると、イギリス政府は他国、
特にフランスとの現状の違いを懸念するようになります。

「フランスはすでに約 250 機の高性能軍用航空機、
150 名の軍人および 80 名の民間飛行士、
さらに数隻の飛行船を所有しています。

ドイツは 20 機から 30 機の軍用航空機を所有しており、
さらに国内には民間人が所有する航空機が100〜120 機あります。
さらに約 20 隻の飛行船があります。

イタリアは約 22 機の軍用航空機を所有しています。

これとは対照的に、イギリスは
戦時における海軍と陸軍の複合的な要求を満たすのに、
高性能航空機は12機のみ、 2 隻の小型飛行船しか所有していません


これは、当時の帝国防衛委員会による報告です。

1913年の軍民合わせて400機という数は、この報告の1年後、
王立航空隊ロイヤルエアフォースが創設され、
さらにその1年後の数字ということで、飛躍的に伸びていますが、
それでもフランスと比べると少なかったのです。

■ メイク・アメリカ・ファースト


さて、なんでも世界一でないと気が済まないアメリカですから、
「Make America First in the Air!」
を掛け声に、まずはこんな呼びかけを行いました。

「アメリカンイーグルが自由な空に飛翔させ続けよう!
公共の航空マインドと国家的航空事業への努力を支援しましょう」

具体的にどうしろとは書かれていません。
まず、ここには二つの写真が並べられています。

ライトフライヤーの飛行と、


ユージン・イーリーの航空機離艦。
そして、

A PROUD PAST... BUT WHAT OF THE FUTURE?
「誇り高き過去・・・しかし未来は?」

という文章が続きます。
この二つの「世界一」はアメリカの「過去の栄光」です。
そして、ポスターの横には、こう書かれていました。

AMERICAN AVIATION MUST TAKE SECOND PLACE TO NONE!
「アメリカの航空はどこにも負けない」

”second place to none”は、「none(無)」に次いで2番目という意味で、
「誰にも屈しない」「譲らない」「引けを取らない」と訳します。

このように、世界におけるアメリカの航空が遅れをとっていることに対し、
アメリカ国内の国防計画家や航空愛好家の間で懸念が高まっていき、
タフト大統領の政権で設立が検討され、ウィルソン大統領に承認されたのが
全米航空諮問委員会(NACAエヌシーエーエー)で設立は1915年でした。

ウィルソン大統領がオーヴィル・ライトをNACAの委員に指名し、
研究の応用を通じて、軍事及び民間の航空を推進することを目的に
国家の後押しによる軍民一丸となったミッションを通じ、
アメリカは「航空のファースト」を取るべく動き出すことになります。


続く。






空軍WAC/翼を持った天使~国立アメリカ空軍博物館

2024-10-16 | 航空機

第二次世界大戦時、ヨーロッパ戦線に空軍として派遣された
陸軍航空隊のWACについて今日は取り上げます。

冒頭写真は、1943年7月にヨーロッパに到着し、
イギリスを行進する第8空軍所属の最初のWAC。

映画「陸軍の美人トリオ」では、フォート・デモインでの訓練を経て
最終的に任官を果たした美人三人娘が、ヘルメットに戦闘服、
という写真のWACと同じ服装で戦地に向かうところで終わります。

彼女らは士官ですが後列の皆さんと同じ装備をしていました。
この写真では、先頭の士官がおそらく隊長で、
この部隊はWACの陸軍看護師部隊(Army Nurse Corps)と思われます。


航空管制はWACに割り当てられた任務の一つでした。

写真のWACは、管制装置を搭載した移動式(トラック)管制室から
航路を外れて迷った爆撃機を基地に誘導しています。

という設定ですが、全員がニコニコしているので、おそらく
撮影用にポーズをとったのだと思われます。

後ろの若い男性軍人の目が心なしか死んでいますが、
彼はおそらくこの中の誰より階級は上です。
真ん中のおばちゃん(マニキュアが赤)は貫禄はありますが、
階級はプライベート、つまり一等兵となります。

右上にあるのは彼女らを称賛するカール・スパーツ将軍のお言葉。

「WACの価値ははかりしれないものだった。

メンバーは誰もが献身的に働き、しばしば、
並外れたパフォーマンスを要求される困難な任務をこなした」



ジミー・ドーリトル中将と握手する
オヴィータ・カルプ・ホビー大佐
Col. Oveta Culp Hobby

ホビー大佐については以前もWACについて扱った時にお話ししています。

空で、海で、陸で〜ミリタリー・ウィメン

女性初となる陸軍の女性隊 WACの初代司令。
テキサス州知事夫人という身分から軍人として大佐にまで昇進、
女性初の戦中功労賞を授与された人物。


戦後にはアイゼンハワー大統領のもとで
保健福祉省の最初の事務官となり、キャッチフレーズは

Trendsetting Texan(テキサスの流行仕掛け人)

写真は当時第8空軍司令官だったドーリトル中将と会談した時のもの。
陸軍では女性部隊の発足を全軍で最も早く実行に移した時、
彼女が「顔」として選ばれ、その後司令にも任じられたというわけです。

当時は補助部隊を意味するAuxiliaryが付随したWAACでしたが、
翌年にはもう「補助」は外されてWACとなりました。

発足時のWAACからWACになるまでの3年間同隊を率いたのが彼女です。

それにしても後ろのWAC、こういう状況でポケットハンドってどうなの。



第8空軍の「スウィッチボード・オペレーター」(交換手)。
陸軍のWACの約40%は航空隊で勤務し、
彼女らは「エアWACs」と呼ばれていました。

■「プリティ・リーグ」女子プロ野球リーグ



このエアWACの軍服は、

テレサ・コブシェウスキー軍曹
SSgt Theresa Kobuszewski

が着用していた実物です。
この人の名前で検索すると、野球人としてカテゴライズされて出てきます。



彼女は1944年5月から1945年11月まで、
第8空軍のWACとしてイギリスで従軍していました。

写真は戦時中から戦後(1954年)まで存在した
女子プロ野球リーグ、「フォート・ウェイン・デイジーズ」
でプレイしていた頃のコブシェウスキー。

女子プロ野球というと、映画「プリティ・リーグ」

『A League of Their Own』が有名ですが、
正確には
「オールアメリカンガールズプロフェッショナルベースボールリーグ」
(全米女子プロ野球リーグ)

と称します。



移動の関係でチームはほとんどがシカゴのミシガン湖沿いにありました。
(『マスキーゴン・ベルズ』というのもあった模様)

あの映画では、姉の所属する「ロックフォード・ピーチズ」と
妹の「ラシーン・ベルズ」がリーグ優勝を競う設定でしたが、
このチームはどちらも実在します。

また、ドラマ「デスパレートな妻たち」には、猫を心の支えに生きていた
孤独な老女が、街を襲った竜巻で亡くなった後、
遺品の中からピーチズのと思われるユニフォームが出てきて、
彼女がかつて女子リーグの剛腕ピッチャーだったことを知った主人公の一人は、
老女を弔うため、遺灰をこっそり掃除機のゴミと取り替えて遺族に渡し、
本物を無人の野球場のマウンドに撒いて捕まる、というエピソードがありました。

映画でも描かれていましたが、彼女たちは「商品」だったので、
女性として好ましい振る舞いと装いを求められました。

ヘレナ・ルビンスタインのチャーム・スクールのクラスに通い、
適切なエチケット、個人の衛生、マナー、ドレスコードなどが決められ、
各選手には美容セットとその使い方の説明書が配られるといったように。

禁止事項も多く、まず短髪にすることは許されず、
公共の場での喫煙や飲酒は禁止され、ズボンも禁止、
常に口紅を塗ることが義務づけられ、反則した場合は罰金、
3回目で出場停止という厳しいものでした。

1944年には、ジョセフィーヌ・"ジョジョ"・ダンジェロが
髪を短く切ったことで解雇されたほどです。


真ん中の男性はコーチで、大抵は大リーグの元選手が務めました。
戦後になるとリーグ出身の女子監督も現れます。

テレサ・コブシェウスキーのデータは以下の通り。

プロ活動期間:1946年から1947年まで

アンダースロー投手としてソフトボールチームでプレー

1942年にWAC入隊
陸軍対海軍チームの優勝決定戦で勝利投手となる

女子リーグにアンダーハンド投手として入隊、
1946年から「ケノーシャ・コメッツ」で1年半プレーした後、
1947年「フォートウェイン・デイジーズ」に移籍

ルーキーイヤー:21試合123イニング 3勝9敗、防御率2.71
1947年:11勝15敗、防御率2.42
208イニングで47奪三振

投手通算成績:51試合登板、14勝24敗
打者通算成績:52試合打率.242(30打数124安打)打点6、得点15

1948年にリーグが厳格なオーバーハンド・ピッチングに切り替えられ、
アンダーハンドの彼女はこれに適応できず、引退

1988年野球殿堂入り

ミシガン州トレントンで84歳で死去


■ウィングド・エンジェル

 USAAFフライトナース



第二次世界大戦まで、米軍は負傷者を後方に避難させるための方法について
あまり考えが及んでいないといった状況でしたが、戦争の規模が拡大すると、
米陸軍航空部隊は、航空避難(後に航空医療避難として知られる)、
そして航空看護師を現場に投入して行くことになります。



米空軍の航空輸送ルートが世界中に急速に拡大したことは、
前線から遠く離れた設備の整った病院に、
傷病兵士たちを迅速に運ぶことが可能になりました。

この「革命」によって多くの負傷兵の命が救われ、
フライトナースの導入がそれを可能にしました。

1942年初頭、アラスカ、ビルマ、ニューギニアの空輸部隊は、
前線に人員と物資を運んだのと同じ輸送機で患者を後送しました。

ヨーロッパでは、差し迫った必要性から、米空軍は医療空輸飛行隊を創設し、
飛行外科医、下士官医療技術者、フライトナースを対象とした
「急行訓練プログラム」を開始します。

危急の必要性から、アメリカ空軍は1942年のクリスマスに、
まだ訓練を終えていない女性たちを北アフリカに送りました。

1943年2月18日、最初にウィングマークを受け取ったのは、
名誉卒業生であるジェラルディン・ディッシュルーン中尉をはじめとする
米陸軍看護隊のフライトナース第一期生たちでした。

ディシュルーン中尉は、Dデイ侵攻後、オマハ・ビーチに上陸した
最初の航空避難チームに参加しています。

しかし、危険は付きまといました。

負傷者搬送に使われた航空機は軍需物資も輸送していたため、
赤十字を表示することはできず、敵の攻撃を受けることになります。

このため、フライトナースと医療技術者は志願制となりました。

あらゆる緊急事態に備えるため、フライトナースは墜落手順を学び、
サバイバル訓練を受け、高高度が患者に及ぼす影響を熟知しなければならず、
さらに、彼女ら自身がこのような過酷な飛行中に患者のケアをするために、
最高の体調でなければならなかったのは言うまでもありません。

最終的に、約500人の陸軍航空看護師が、
全世界に所属する31の医療航空避難輸送飛行隊に所属しました。

戦争中、空輸された1,176,048人の患者のうち、
途中で死亡したのはわずか46人であったことは、
彼らの技術の高さを証明する数字と言えるでしょう。

そして戦争中に命を落としたフライトナースは17名でした。


フライトナースたち @イギリス


上空で患者をチェックする第803航空避難輸送中隊のC-47航空避難チーム、
ポーリン・カリー中尉とルイス・メーカー軍曹



通常、フライトナース1名と医療技術者1名で、
10分以内に避難機を出発させることができるとされました。

飛行外科医が離陸前に各患者の状態について看護師に説明し、
飛行中看護師は患者の安全と快適さを受け持ちました。

1943年7月、シチリア島からアフリカに避難する患者をチェックする
ケイト・スウォープ中尉。

こういう任務に5cmヒールの白いパンプスを履いているのが
さすがは当時の女性という感じです。



C-54の機内で患者の手当てをする医療技術者(奥)
とフライトナース(右下)。
C-54は、より多くの国民を空輸することを可能にしました。


エルシー・S・オット中尉

初の大陸間航空避難飛行のフライトナース。
1943年1月、飛行機に乗ったことも、訓練も受けていなかった彼女は
インドからワシントンD.C.までの5人の重病患者の輸送に成功。

彼女は女性に贈られた初の航空勲章を受章し、
その後正式なフライトナースの訓練も受けました。

スエラ・バーナード大尉

1945年3月22日、ドイツ・レマゲンの橋頭堡近くの空き地で
重傷の米独戦死者25名を2機のグライダーに収容した際、
C-47が曳航したグライダー内で看護にあたったバーナード大尉は、
大戦中にグライダーによる戦闘任務に参加した唯一の看護師となりました。


C-47に曳航されようとするCG-4Aグライダー。
コックピット右手席に座っているのスエラ・バーナード中尉。


アレダ・E・ルッツ中尉

第二次世界大戦中196のミッションに参加し、
3,500人以上の負傷者を救出したことで最も有名な航空看護師。

1944年11月、フランスのリヨン近郊の前線からの避難飛行中、
彼女の搭乗したC-47は墜落し、乗員全員が死亡しました。


負傷者の横で屈んでいるアレダ・E・ルッツ大尉。

彼女は
オークリーフ・クラスター4個付きの航空勲章、
そして死後に殊勲十字章を受章しました。


陸軍の病院船と退役軍人局の医療センターに彼女の名が冠されています。


ルース・M・ガーディナー中尉

1943年7月、アラスカで患者を避難させる途中、
航空機の墜落事故で死亡。
彼女は米空軍で初めて戦闘地域で死亡したフライトナースとなりました。

続く。




VE DAY!ヨーロッパにおける犠牲と勝利〜国立アメリカ空軍博物館

2024-10-08 | 航空機

アメリカ空軍博物館の展示より、第二次世界大戦中ヨーロッパにおける
アメリカ空軍の爆撃作戦について語ってきました。

その最終章は「犠牲と勝利」と称してこう始まります。

未経験の事態に対する乏しい理論と不十分な装備でスタートした米空軍は、

戦いの初期では壊滅的な損失を伴う手痛い損失に直面しました。

それでも、重爆撃機の乗組員たちは、何度も何度も、
敵の防御をかいくぐって目標を爆撃するために戦いに赴きました。

米空軍は彼らの勇気と尊い犠牲を礎に、経験値を積み重ね、
強大で実力のある爆撃機部隊を構築するに至ります。

最終的にはアメリカ空軍は敵を無力化し、
ナチス・ドイツを打ち負かす決定的な役割を果たしたのでした。

アメリカ人墓地に最初に埋葬される搭乗員たちの棺


1944年11月20日。
ドイツのブレッヒハンマーにある合成油工場を攻撃中、
対空砲火が命中し、発火したリベレーターB-24爆撃機。

奇跡的に乗員のうち5人が生き残り、捕虜になりましたが、
半数に当たる5名は当然ながら戦死しました。


イギリスのケンブリッジ・アメリカ人墓地には、
ヨーロッパ戦線で命を落とした4,000人近いアメリカ人が埋葬されています。


全景。野球のグラウンドを思い起こすのはわたしだけ?

Cambridge American Cemetery

総埋葬者数は3,812名。

「行方不明者の壁」には5,127人の名前が記されており、
海上を輸送中の飛行機を撃墜されて行方不明となった
アルトン・ミラー中佐の名前もあります。

Maj. Alton Miller ではわかる人はあまりいないと思いますが、
つまりトロンボーン奏者でバンドリーダー、グレン・ミラーのことですね。

彼はファーストネームの「アルトン」が気に入らなかったのか、
ミドルネームの「グレン」を芸名にしていました。
ここは軍による公式施設なので、ファーストネームで記名されているのです。

ミラー中佐については当博物館のコーナーがありますので
そのうち取り上げてご紹介する日もあるかと思います。

また、JFKの兄で、ハーバードロースクール出の優秀な海軍パイロットだった
ジョセフ・P・ケネディJr.も、海軍大尉として任務中の飛行機が爆発し、
行方不明となってこの壁に名前が刻まれています。

z

戦死者に航空搭乗員が多いことから、
天井には天使と航空機のモザイク画があしらわれています。
喪われた航空機たちが天使に守られてどこかに向かうシーンです。

■ 捕虜



このログを作成時、現在進行形でApple TV +の

「マスター・オブ・ザ・エアー」を観ていたのですが、
このときちょうど、第5回で主人公の一人イーガン少佐の機が撃墜され、
第6回では逃走の末どうやら捕虜になりそうなところで、

その後、案の定、彼の捕虜収容所での様子が描写されることになりました。

イーガン少佐の機のように、爆撃機は、撃墜されてから

状況によっては脱出できる可能性が(戦闘機と比べると)高かったせいで、
たくさんの搭乗員が捕虜として終戦まで収容されていました。

捕虜になった爆撃機クルーの数は、3万人以上とされています。

 戦略爆撃キャンペーンの功績

ドイツ空軍を撃破し、ヨーロッパ上空の制空権を獲得

ドイツ空軍に、戦闘機と対空砲を戦線から移動させ、
爆撃機の攻撃から自国を守るように誘導した


ハンブルグのドック爆撃で沈んだUボート。

ハンブルグって海に面していたっけ?と一瞬考え込みましたが、
北海から流れ込むエルベ川の川畔にUボートを係留していたんですね。

現在でもその関係なのか、同じと思われる場所に
U-434が係留されて潜水艦博物館になっています。

U-434ライブカメラ

潜水艦「シルバーサイズ」のように、ライブカメラで
現在の状況を見ることができるのですが、ちょっと驚いたのは
その下の干潮満潮の浮き沈み(というか潜水艦が固定されているので
浮き沈みしているように見えるだけだけど)が見られること。

なんと満潮の時には見学者用の通路まで冠水してしまいます。

■ レジスタンスの情報


アウグスブルグのメッサーシュミット工場。

メッサーシュミットはレーゲンスブルグにあった1943年8月17日、
連合軍の爆撃機部隊から初めて攻撃を受けたため、
1944年からは、分散化して隠れた工場に移転させる計画を立てました。

しかし、少なくとも1943年秋までには、連合国側は
諜報活動によって生産施設の正確な位置計画を知らされていたのです。

ハインリヒ・マイヤー牧師率いるオーストリアのレジスタンスグループが、
アメリカの戦略局とイギリスの秘密情報部SOEに情報を送り、
連合軍の爆撃機は、その情報を元に記されたスケッチの通り、
生産施設に正確な空爆を行うことができたのでした。


逮捕後のマイヤー牧師 拷問の傷が認められる

マイヤー牧師のグループの活動は、主にナチスの軍需工場の場所、
生産しているものについての情報を連合国に流すことで、
スイスを経由させて英米に情報を送っていました。

Bf109の他にもティーガー戦車、V-2ロケットの情報を流し、
ペーネミュンデの秘密工場の爆撃を成功させています。

マイヤーのグループは、同志同士の意見の違いから裏切られ、
ゲシュタポに捕えられ、裁判の結果、死刑に処されました。

判決が出た後もマイヤーは拷問を受け、不発弾処理をさせられましたが、
最後の瞬間まで、周りを感動させるほど穏やかだったということです。

斬首による処刑をされた時、マイヤー牧師は37歳の若さでした。


斬首刑されたマイヤー牧師の慰霊像

ここで首がない銅像を作るというセンスについていけない


もっとも、ドイツもこれに対し、主にリンツ近郊のグーゼンII強制収容所で
「B8ベルククリスタール」という迷彩名のもと、
大規模かつ極秘の組立ライン生産が実現させ、1945年、
生産された最後のMe 262がミュンヘンに空輸されています。


野外で組み立てられていたMe262。
敗戦が決定したため、完成前に計画的に破壊されました。



爆撃による損害の修復と生産の分散に莫大な資源を投入させた


爆撃によって壊滅的被害を受けたハノーヴァーの戦車プラント

同じ場所 別の写真

石油と輸送部門への攻撃でドイツの軍事活動を麻痺させた


爆撃で破壊されたマグデブルグ近郊のオイルプラント。

マグデブルグには、クルップ社の製鉄所もあったため、
この地方は工業が盛んになっていましたが、連合軍の空爆で破壊され、
東側にあったため戦後はソ連の援助で一時復興し、
その後東西統一されてすでに旧式となった製鉄所は閉鎖されました。

ニュールンベルグの操車場
貨車の上に爆撃で捻じ曲がった線路が乗っかっている


ドルベルゲンの合成油工場の残骸に佇む二人は、
米兵と元収容所労働者。

この日の第303爆撃群の記録によると、

453機のB-17の主目標はブルンスウィックのウィルケ(53機)、
ブラッシング(77機)による石油工場とMIAG軍需工場(61)、
ドルベルゲン(37機)、デデンハウゼン(53)、ニエンハーゲン(56)による
石油精製工場で、(略)ほとんどの攻撃は目視。
5機のB-17が喪失、53機が損傷、飛行士1名がWIA、41名がMIAとなる。

掩護に当たった180機のP-51のうち2機が失われ
(パイロットはMIA)、1機が修復不可能な損傷を受けた。


WIAは戦闘中負傷を意味します。

■ ドイツ敗北

ナチスの敗北を象徴する写真
破壊されたMe109が重機で押しのけられている上空には
かつてのドイツ空軍の飛行場に着陸しようとするAAFの戦闘機が


1945年4月、ドイツ軍は敗北しました。

4月25日、米ソ両軍がエルベ川で激突。
その5日後、アドルフ・ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺します。

後任のカール・デーニッツ海軍提督は、
アルフレッド・ヨードル元帥をランスのSHAEF
(連合国遠征軍最高司令官総司令部)分遣隊に派遣し、
戦争終結の条件を模索し始めました。

5月7日午前2時41分、全戦線におけるドイツ軍の無条件降伏が調印され、
それは5月8日午後11時1分に発効しました。

6年の歳月と数百万人の尊い命が失われた後、
ヨーロッパにおける戦争はついに終結することになりました。

 勝利の代償

最後にヨーロッパでの戦争で勝利と引き換えに払った

アメリカ軍航空隊の、あまりに高かった代償の数字を挙げておきます。

戦死者 34,362人
負傷者 13,708人
行方不明、捕虜、抑留 43,035人

重爆撃機8,314機
中・軽爆撃機1,623機
戦闘機8,481機

計27,694機


国立空軍博物館爆撃機シリーズ終わり





「ジークフリート線に洗濯物を干す日」連合軍ドイツ侵攻〜国立米空軍博物館

2024-09-30 | 航空機

1945年までにドイツ空軍は事実上壊滅しました。

今日は、制空権を得た連合国の空軍がやりたい放題の攻撃によって
近接支援を行い、その結果、連合軍地上部隊が進攻を果たし、
ドイツを降伏に至らしめるまでを博物館の展示を元にお話しします。


■ ”ジークフリート線” に洗濯物を干す日


ジークフリート線に爆撃を行うB-26

ジークフリートライン( Siegfried-Linie)は、

西方の壁(Westwall)とも呼ばれ、1930年代後半に構築された
ドイツの対フランス要塞線のことです。

🟥 ジークフリートライン
🟦マジノライン
ー青線ーライン川

伝説上の英雄ジークフリートの名を冠したこともあって、
ドイツはこれを国家防衛の象徴としてプロパガンダに利用し、
彼らが作った「不落の要塞」というイメージは敵側の心理に功を奏し、
ドイツのチェコスロバキアとポーランド侵攻を成功させました。

連合国もその実態よりジークフリート線の防御力を過大評価していたことは
こんな英語の歌ができたことにも表れています。

We're Going to Hang out the Washing on the Siegfried Line - British World War II Era Song

ジークフリート・ラインで洗濯物を干そう
汚れた洗濯物はないか、母さん?
ジークフリート・ラインで洗濯物を干すぞ
洗濯の日がやってきたから
天気が雨だろうが晴れだろうが
気にせずやるだけさ
ジークフリート・ラインで洗濯物を干すつもりだ
ジークフリート・ラインがまだそこにあったら

ラインは「洗濯ロープ」の意味もあることからできた歌詞は、
フランス語バージョンもあり、

小柄なトミー(英兵)が軽快に歌う
キャンプに着くと
幸せなポワル(仏兵)たちは皆、このリフレインを覚えた
やがて連隊は陽気に歌った:

ジークフリート線に洗濯物を干そう
洗濯物を干そう 今がその時だ
ジークフリート線に 洗濯物を干そう
白いリネンの時間だ
古いハンカチもパパのセーターも
家族みんなで洗おう
ジークフリード線に洗濯物を干そう
まだそれがそこにあるのなら 

英仏の歌詞はどちらも、


「僕らはジークフリート線に洗濯物を干しにゆく
まだジークフリート線があるのなら」

という「オチ」で終わっています。

しかし、連合軍が戦況不利になってくると、今度はドイツ軍が
こんな「アンサーソング」を作るのでした。


宣伝中隊のうた

„Lied der Kampfgruppen“ • DDR-Marschlied [+Liedtext]

そうとも坊や、君がごく軽く考えた通り
ドイツのライン川沿いは素晴らしい洗濯日和だ
もし諸君がズボンを濡らして困っていても
悲しむ必要はないのだ!
我々がすぐ徹底的に洗ってやろう
上から下までしっかりと
ドイツの洗濯日和が終わったなら、
諸君には洗濯物などもう必要ないのだ!

これが本当の歌合戦。

両曲を比べると、いかにもアメリカンな調子の前者、
あくまでもドイツ風な曲調の後者と、わかりやすくて面白いですね。

しかし、ジークフリート線で実際に衝突が起こり、
ヒュトゲンバルトで双方に大きな犠牲が出た後、
バルジの戦いでドイツが攻勢をかけるも失敗に終わり、
1945年春に最後のジークフリート線上の掩体壕が陥落します。


そして実際にジークフリート線に洗濯物を干すの図

彼が洗濯「ライン」をかけている鉄条網を縛っているコンクリートは
その名も「竜の歯」という対戦車用障害物です。

ジークフリート線の衝突の際には、航空軍の近接支援が大きく関与しました。



■ ドイツ国内への進攻

ルフトバッフェ壊滅後、第9空軍の航空機はドイツ上空を自由に闊歩し、
隙あらば目標を攻撃し、連合軍部隊に近接支援を提供しました。

そして、ジークフリート線を突破したのち、完全な航空優勢という傘の下、
連合軍は3月下旬にライン川を渡り、ドイツに迅速に進攻します。



アルテンキルヒェン(Altenkirchen)近郊で、
航空爆撃によって破壊されたドイツ軍の戦車。
遠景にも道路の反対側に破壊された車両が写り込んでいます。

アルテンキルヒェンはライン川を超えたところにあるボンの東側の都市です。


ケムニッツ近郊で、連合軍の戦闘爆撃機の攻撃を受けるドイツ車両。

ケムニッツ(Chemnitz)はドイツの東寄りで、チェコとの国境に割と近く、
ライプツィヒ、ドレスデンが近郊にあるところです。


ライン進攻後の1945年4月、 A-20のナビゲーター兼爆撃手である
ジェームズ・ニコルズ大尉からドイツ軍兵器庫空襲後の報告を受ける
第9空軍の軽・中爆撃機部隊司令官、サミュエル・アンダーソン少将


同じ頃、第9空軍がデッゲンドルフの貯油場に爆撃している

■ ドイツ軍の最後の反撃 対空砲



ドイツ空軍が敗北したといっても、対空砲火は依然として脅威でした。

1945年3月、ホイト・ベンジ大尉(Hoyt Benge)はドイツ上空で
P-47による急降下爆撃任務中に88ミリ砲弾に被弾しましたが、
なんとか基地まで飛ばして胴体着陸し、生還しました。

ちなみにベンジ大尉は第二次世界大戦中はP-51、P-38のパイロットで、
戦後は州兵として RF-101(ヴードゥー)に乗り、中佐まで昇進しました。

ギターやバイオリンでカントリーミュージックを演奏すること、
ゴルフを愛し、たくさんの子孫に囲まれて、
2012年に90歳の人生を閉じています。

アーカンサスでのホイト中佐告別式のお知らせ


爆撃によって破壊し尽くされた港湾

そして、1945年5月8日、ドイツは降伏しました。



第9空軍司令部
本日の命令
1945年5月9日

全ドイツ軍の無条件降伏は、欧州における我々の目標の達成を意味する。

これは、陸海空における敵の完全な敗北に続くものである。
敵味方双方から、この歴史的な成功を達成する上で

航空戦力が果たした役割の大きさを示す多くの証拠が寄せられている。

誇りを胸に、全能の神が私たちの大義に与えてくださった信念と力に

謙虚な感謝を捧げ、また戦いで失われた人々が
神の恩寵を祈ることができますように祈りを捧げようではないか。

戦って死んだ者は、戦って生きた者と切っても切れない関係にある。

信仰の強さと決意を抱き、諸君は何千マイルも上空から

強大な敵を追い払うためにやってきた。
地上の敵に武器を向け、抵抗する力を破壊するために。

諸君の一人ひとりに、この功績がある。
一人ひとりのたゆまぬ努力なしには、わが軍は戦うことができなかった。

我々は、最終的な成功の幻想を抱いてはならない。
残された敵を打ち負かすだけでなく、戦争の原因に対する

将来の警戒も怠らないようにしなければならない。

世界が再び冷酷な征服者に苦しめられることがないように。

 この究極の成功の中に、我々は、亡くなった者や生き残った者が

成し遂げた業績に対する正当性を見出すべきなのである。

アメリカ軍司令 ホイト・ヴァンデンバーグ少将



続く。

「戦後日本空軍の父」だったウェイランド大将〜国立アメリカ空軍博物館

2024-09-24 | 航空機

今日は、国立空軍博物館展示より、ヨーロッパの侵攻作戦に関与した
航空団の有名な指揮官二人をご紹介しようと思います。


■エルウッド・"ピート"・ケサダ将軍

Maj. Gen. Elwood "Pete" Quesada

エルウッド・ケサダ大将については、以前当ブログで
陸軍航空のパイオニアの一人として紹介したことがあります。


航空機がまだ対空記録を伸ばすことが史上問題だった頃、
その最長記録に挑戦したのが、若き日のケサダでした。

このプロジェクトに関わったカール・スパーツ、アイラ・イーカー、
ケサダの陸軍航空隊の若い搭乗員はいずれも後の空軍の指導者となりました。

この項で、ケサダ大将のことを、
「戦術の革新者」
というタイトルでご紹介していますが、それは彼が
第九戦術航空軍団(第九空軍)の司令官として、
「装甲列カバー」システム
"armored column cover" system
を開発したという実績からきています。

どのような戦術かというと、

武装した戦闘爆撃機の小編隊が装甲部隊の前方を飛行する
隊列の戦車の1台には米空軍の飛行士官が乗り、航空隊と交信する

この手順により、戦闘爆撃機は上空からの偵察によって
敵戦車をいち早く発見し、脅威になる前に撃破することができます。

同作戦中
赤丸で囲まれたところはアメリカ軍装甲車の隊列
その上空を飛ぶP-47


エルウッド・ケサダ大将(左)と作戦部長のギルバート・マイヤーズ大佐
バルジの戦いで戦闘爆撃機に撃破されたドイツ軍戦車を調査している

左から、ケサダ少将、第12空軍ゴードン・サビール准将
第9空軍指揮官ホイト・ヴァンデンバーグ少将
南フランス侵攻作戦「オペレーション・ドラグーン」にて

ドラグーン作戦とは、プロヴァンス地方への上陸作戦のことで、
ノルマンディ侵攻作戦のあと、8月15日に実施されました。

ノルマンディに比べると配備されていたドイツ軍は二線級だったこともあって
ほとんど楽勝という感じで空挺と上陸を成功させ、
北部から上陸したパットンの第3軍とディジョン(マスタードで有名)
で合流し、これでフランス国内の南北戦線がつながりました。


■ オットー・ウェイランド空軍大将

”日本空軍の父”??


Maj. Gen. Otto Paul Weyland

第IX戦術航空軍団(第9空軍)の指揮官として、
ジョージ・パットン中将率いる第3軍と緊密に連携し、
効果をあげたのがオットー・ウェイランド陸軍大将(最終)でした。

ノルマンディー上陸作戦中、敵の攻撃を受けやすい第3軍の
装甲部隊の右翼を防御したのがウェイランドの戦闘爆撃機隊でした。

第9空軍と連携することによって、第3軍は1944年8月のフランス縦断と
1945年春のドイツ縦断を成功させ、ウェイランドは少将になり、
ジョージ・パットン将軍は

「ウェイランドを "航空隊最高のD⭐︎⭐︎⭐︎将軍 "と呼んだ。」

なぜここで伏字が?
と思ったら、案の定ここに入るのは「教育上いっちゃだめな言葉」で、
実際に何をいったかというと、なんのこたあない、

"the best damn general in the Air Corps."

だったというわけです。

ジョージ・パットンという人は、新興貴族の大金持ちの出で、



おぼっちゃまとして育ちましたが、軍人一族でもあったせいか、
いつしか根っからの野心的な軍人らしく振る舞いだし、

自慢が激しく、人に傲慢に思われることを楽しむような人物で、
ふてぶてしく、嘘がうまく、勝手で、悪口を頻繁に口にする


という傾向があったくらいですから、軍人を褒めるのに
これくらいのラフな言葉遣いは普通だったのかもしれません。

方や言われたウェイランドはというと、写真を見る限りそんなことは
決して公的に口に出すことはなさそうな・・。
(ウェイランドは予備士官で、テキサスA&M大学では
機械工学の理学士号を取得して航空隊入隊している)


左肩に第9空軍のパッチ。
誰かは知りませんが、フランス軍の大将に叙勲されているウェイランド。


ところで、ウェイランドという将軍の名前は、
我々日本人にとってほぼ無名と言っても差し支えないと思うのですが、
この人のwiki(ちなみに日本語翻訳はない)の最後に
見逃せないこんな言葉を見つけてしまいました。

 the "father of the new Japanese air force."

日本空軍の父だと・・・・?

■ 朝鮮戦争後のウェイランド


写真は、沖縄の嘉手納基地に駐留していた313航空師団とウェイランド大将。

第二次世界大戦後、米空軍が独立すると計画作戦部に勤務し、その後
ワシントンの国立陸軍大学校の副司令官を務めていたウェイランド少将は、
朝鮮戦争が始まると、一ヶ月だけ東京の極東空軍司令部(FEAF)で
作戦担当副司令官として赴任していました。

帰国して中将に昇進したのですが、ちょうどその時、FEAFの司令官だった
ジョージ・ストラテマイヤー中将が心臓発作を起こしたため、
FEAFと国際連合空軍の司令官として東京に戻り、後任を務めます。

第二次世界大戦で得たウェイランドの戦術戦における能力と経験は
パットンのお墨付きもあってこの時も期待されていましたが、
朝鮮半島における10回の主要作戦ではそれが実証される形となり、
彼は1952年についに四つ星大将に昇進することとなります。



そして、その経歴の最後がこのように締めくくられます。

彼は日本に留まり、防空部隊と航空機産業の再編成を支援し、
"新日本空軍の父 "として知られるようになった。


いや・・・少なくともわたしは初めて知りますが。
どなたかこの人が「空軍の父」であるという記述を、
本人のwiki以外で見たという方、おられますか?

検索したところ、沖縄の歴史資料として、上の閲兵中写真が出てきました。
おそらく、朝鮮戦争中、嘉手納から航空作戦に多くの隊が参加したことで
ウェイランドが313航空師団の視察に来たということでしょう。

註:この件についてはお節介船屋さんが当時の航空自衛隊設立までの経緯に
将軍が関わったことをコメントに書いてくださっていますのでご覧ください。


もう一つの写真がこれ。

真ん中の空軍制服がウェイランド将軍で、周りにいるのは海軍軍人。
嘉手納での歓迎レセプションだと写真説明にはあります。

文章では日本語はもちろん、英語でも、
ウェイランド大将と日本、ましてや自衛隊との関係を示す資料は
一切見つかりませんでした。



最後に有名な写真を。
第二次世界大戦中、ヨーロッパ戦線に赴いた米陸軍司令官クラス。

前列左から:
ウィリアム・H・シンプソン中将(第2軍司令官)
ジョージ・S・パットン中将(第3軍司令官)
カール・A・スパーツ中将(在欧アメリカ戦略空軍司令官)
ドワイト・D・アイゼンハワー元帥(連合国遠征軍最高司令官)
オマール・S・ブレッドレー大将(第21軍集団司令官)
コートニー・H・ホッジス中将(第1軍司令官)
レオナード・T・ジェロウ少将(第5軍団司令官)

後列左から:
ラルフ・S・スターリー准将(第9戦術航空軍団司令官)
ホイト・S・ヴァンデンバーグ中将(第9空軍司令官)
ウォルター・B・スミス中将(連合国遠征軍最高司令部参謀長)
オットー・P・ウェイランド少将(第19戦術航空軍団司令官)
リチャード・E・ヌージェント准将(第29戦術航空軍団司令官)

前列真ん中が一番偉く、その横に従って階級が下がり、
同じ中将でも空軍関係は後列、というのがアメリカ陸軍の写真の撮り方。

やっぱりどこの組織も軍隊の序列並び方は似ていますね。

続く。