goo blog サービス終了のお知らせ 

ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

NACAと空飛ぶ大統領夫人〜スミソニアン航空博物館

2025-08-20 | 航空機

■ NACAと近代航空路

アメリカが国内訴訟問題で航空技術を停滞させていた頃、
アメリカ国内の国防計画家や航空愛好家の間で懸念が高まっていき、
タフト大統領の政権で設立が検討され、ウィルソン大統領に承認されたのが
全米航空諮問委員会(NACAエヌシーエーエー)で、設立は1915年だった、
ということを「メイク・アメリカ・ファースト」の項でお話ししました。

そのNACA(航空国家諮問委員会)は、近代的な旅客機の誕生につながる
多くの技術開発に大きな責任を負っていました。

画期的な新世代の旅客機が登場したのは、1930年代初頭のことで、
技術の開発を担ったのは、軍、民間企業そしてこのNACAでした。

この頃、その技術をもとに、全金属製、モノコック構造、
応力皮膜構造、片持ち梁翼、格納式着陸装置、カウル付き空冷エンジン、
可変ピッチプロペラ
などが続々と生み出されていきました。


これらの近代的技術を集めて作った最初の旅客機が、ボーイング247型機です。

ジョン・K・「ジャック」・ノースロップ

1928年にロッキード・エアクラフトを退社したノースロップは、
金属製航空機を製造する会社を立ち上げました。

強靭で軽量な片持ち梁応力皮膜翼と金属製モノコック胴体を組み合わせた、
ノースロップ・アルファが彼の最初の設計でした。


スミソニアンのノースロップアルファ

アルファはボーイングの設立者ウィリアム・ボーイングに感銘を与え、
彼はノースロップの会社を買収することになります。

ジャック・ノースロップが熱烈に主張したオールメタルのモノコック機体は、
その後のアメリカの航空機設計に永続的な影響を与えたのでした。

■NACAの風洞(ウィンドトンネル)

1927年から1939年まで、航空エンジニアの主要な研究手段である風洞を、
NACAはバージニア州のラングレー航空研究所に4つ建設し、
この核心は、航空機設計のブレークスルーをもたらします。


1939年に開通した NACAの高圧トンネル

このトンネルは、大型と高圧を1つの施設で実現した最初のものとなります。
後ろに見える大きなNACAの看板はこのトンネルのものです。

よく見ると、トンネルチューブの上に人が3人保守のためか登っていますね。


プロペラ研究用トンネル

この坑道は、幅6メートル(20フィート)のスロートを持ち、
プロペラを取り付けた実物大の航空機の機体をテストすることができました。

この装置で研究した大きな成果としては、

「固定降着装置と露出したエンジンシリンダーが膨大な抗力を引き起こす」

「エンジンが翼のかなり前方に配置されている方が航空機の性能が向上する」

このようなことがわかりました。

実物大トンネル

この巨大な風洞内の試験スペースは2階建ての小さな家ほどの大きさで、
エンジニアは実物大の航空機を試験することができるものです。

この装置で発見されたことは、

「外付けの支柱、スクープ、アンテナが航空機の性能を損なう」

という、現代人なら誰でも知っているようなことでした。
(コロンブスの卵ってやつですね)

第二次世界大戦中に使用されたほぼすべての高性能米軍機は、
このトンネルでテストされてデビューしています。

高速風洞

この風洞では、時速925キロメートルの風速を出すことができました。

そして、ほとんどの航空機は、その3分の1程度の速度しか出ないのに、
プロペラの先端は音速に達していることがわかったのです。

このことから、リベットの頭部やその他の表面の凹凸が
大きな抗力を生む
ことが実証されたのです。

今の航空技術の基礎となっている「当たり前のこと」が、
この風洞によって実証され、今日の発展につながっているということです。

■ 機内サービスの向上と競争による変化

アメリカの航空産業は急速に拡大しました。

1930年にはわずか6,000人だった旅客数は、1934年には45万人を超え、
1938年には120万人に達するほどに増大していきます。

それでも、飛行機を利用したのは旅行者のごく一部にすぎませんでした。
当時飛行機は非常に高価な交通手段だったからです。

飛行機を利用できるのは、ビジネス旅行者と富裕層だけ。
ほとんどの人々は都市間の移動にはまだ電車やバスを利用していました。

その頃の沿岸から沿岸への航空往復運賃は約260ドルでした。
当時の新車価格の約半額といったところです。


これが飛行機の中?と思わず見直してしまいます。
二段ベッドの上と下に子供がいて、親は別のところで寝るのかな?

きっとファーストクラスのサービスなのでしょう。


ユナイテッドの夜間発に乗り込む人々。
階段の紳士が右手に持っているのはアメニティのオーバーナイトバッグです。
乗客はこの頃入り口で名簿の照合を行ってタラップを登りました。


機内食は昔も今も楽しみの一つです。

テーブルを囲む椅子が向かい合っていますが、これは食事のために
前向きの椅子をひっくり返してセットしたのではないでしょうか。

この頃のプロペラ機でよくこんな安定の悪いグラスを使っていたなあ。


パンアメリカン航空の到着便から降りてくる乗客たち。
遠目にも乗客の女性の美人率が高いのが見て取れます。

これも彼らが富裕層であることを物語っているのかもしれません。



双子らしい姉妹とその父親らしき人。
パパがお金持ちだと、小さい頃からこんな体験ができます。

帽子から靴まで寸分たりとも違わない衣装を揃えているあたり、
(しかも革製の手袋まで)かなりのお金持ち家庭みたいですね。


先ほどの食事風景より少し時代が後になります。

現在の機内食用のテーブルとほとんど同じ様子に見えます。
引き出し式のテーブルに白いナプキンをかけ、
トレイに一食分?を乗せてサーブするやり方です。

ちなみに世界で初めて機内食をサーブしたのはイギリスでした。

ハンドリーページ トランスポート(現ブリティッシュ・エアウェイズ)
1919年にサンドイッチと果物を乗客に提供したのが最初の機内食です。

パンナムの初期の便では、色々と食事どころではなかったので、
乗客にはチューインガムだけが提供されていました。

この1930年代、飛行機の内部はますます広くなり、乗客は食事をしながら
自由に動き回ったり交流したりすることができたため、
航空旅行の「最もロマンチックな」時代と呼ばれることもあったようです。

ラウンジには高級な陶磁器や白いテーブルクロスが備え付けられていました。

ユナイテッド航空は、世界初の機内ケータリング専用キッチンを設置しました。
乗客は、カリフォルニア州オークランドから搭乗するにあたり、
スクランブルエッグかフライドチキンのメインコースを選択できました。

しかし航空技術の進歩が、機内でのサービスに意外な問題をもたらします。
高高度飛行での卵の調理は時間がかかる、パンはすぐに腐ってしまうなど。

パンナム航空は、シコルスキーS-42機内で機内食を温めた最初の会社でした。
ボーイング247やダグラスDC-3といった大型機には、
機内にホットストーブや冷蔵庫を設置するためのスペースが確保されました。

このようなフライトサービスの向上は、競合他社との差別化を図る手段でした。

■ 空飛ぶ政治家たち


冒頭の写真は、大統領夫人、エレノア・ルーズベルトと、
彼女が乗ったユナイテッド航空の客室乗務員のツーショット。
ところでルーズベルト夫人って、むちゃくちゃ背が高くないか?



写真は、テキサス州ダラスからカリフォルニア州ロサンゼルスへ向かう途中、
アメリカン航空の飛行機の外に立っているエレノアさんです。

この写真では特に、彼女の背の高さが普通でないとわかりますね。
調べてみたらアメリカ人女性としても珍しく180センチだったそうですよ。
ついでに夫のフランクリン・デラノは188センチだったようですね。


これは美男美女

1930年代に空の旅が一般的になると、多くの政治家が飛行機を利用しました。

1932年、当時ニューヨーク州知事だったルーズベルトは、
アルバニー-シカゴをアメリカン航空のフォード・トライモーターで移動し、
そこで民主党の大統領候補指名を受け「ニューディール」演説を行いました。



第二次世界大戦中、ルーズベルト大統領は
カサブランカとヤルタで連合国首脳に会うために海外へ飛び、
ファーストレディのエレノア・ルーズベルトは、
大統領に代わってしばしば国内を飛び回りました。

上の、アメリカン航空の飛行機の前に立っているエレノアの写真は、
1933年6月5日に撮影されたもので、彼女はすでにファーストレディでした。

当時、多くのアメリカ人が新しい交通手段に懐疑的だったにもかかわらず、
ルーズベルト夫人は飛行機旅行を積極的に受け入れたことから、
「空飛ぶファーストレディ」として知られていました。

そういえば、黒人パイロットを擁するタスキーギ航空隊の基地視察で、
彼女はなんの根回しもなく、いきなり基地の教官だったルイス・ジャクソン
「あなたの操縦する飛行機に乗ってみたい」と言い出し、
何事もなかったように降りてきて「なんだ飛べるじゃないの」といった、
という話がありましたが、この人どこにいってもこんな感じだったんですね。


おばちゃんニッコニコ


しかし、彼女のような例は当時あまりなく、それというのも
民間航空機の旅にはまだリスクがあって、怖がる人も多かったのです。



そして、彼女の夫であるところのフランクリン・ルーズベルトは、
在任中に飛行した最初の大統領の称号を得ることになりました。

1943年のモロッコで開催されたカサブランカ会議に出席し、
第二次世界大戦における連合国の欧州戦略を策定するため飛行したのです。

この会議では潜水艦の脅威に対し、
航空機を主要な輸送手段にすることが決定されました。


人々が飛行機の安全性に懐疑的になったのは、
1935年5月6日、ニューメキシコ州上院議員の
ブロンソン・カッティングが死亡したT.W.A.ダグラスDC-2の墜落事故など、
有名人・政治家が犠牲になる事故もしばしば起こったからです。

とはいえ、高速移動の利点が、現実の危険や認識されている危険を上回り、
政治家たちは好むと好まざるにかかわらず、それを選択したのも事実です。

続く。








「ATC」大手航空会社の戦時協力〜スミソニアン航空博物館

2025-08-17 | 航空機
スミソニアン航空博物館プレゼンツ「旅客機輸送の歴史」、
今日から1941年〜1958年のゾーンへと進みます。

■ 第二次世界大戦と航空会社

第二次世界大戦中と戦後、航空輸送は劇的に変化しました。
新技術がピストン・エンジン機を進歩させ、
航法と航空交通管制の問題に新たな解決策をもたらしたのです。

業界は連邦政府によって規制され、少数の大手航空会社の支配が続きます。
所要時間と運賃の低下により多くの人々が空の旅を楽しめるようになり、
航空機の乗り心地も改善され続けたため、航空輸送量は着実に増加しました。

しかしその頃世界は第二次世界大戦に突入します。

戦争が始まると、航空会社は軍と密接に協力し、
人員や物資を輸送することで軍事作戦に全面協力しました。

もともと、航空機メーカーは第一次世界大戦中から
アメリカの整備施設へ航空機の補給品や資材を輸送を行っていました。

鉄道と海上輸送で、機器や航空機をフランスの戦場へと輸送していたのです。
今回も航空会社は戦争努力の一翼を担う準備を十分に整えていました。

戦時動員計画は、1937年には航空輸送協会によって立案されていましたし、
その4年後、米国が第2次世界大戦に参戦すると、
計画はスムーズに施行され、航空会社は直ちに軍との緊密な連携を開始。

1942年に航空輸送司令部(ATC The Air Transport Cを結成し、
国内および世界各地での航空機、貨物、人員の輸送の調整を請け負いました。

航空輸送司令部は、第二次世界大戦中における
アメリカ陸軍航空隊の戦略的空輸部隊として位置付けられます。



TWAは、保有していた5機のボーイング307型機とその乗務員を
全て航空輸送司令部(ATC)に移管しました。
同航空会社は1942年に大西洋横断定期便を開設しました。

この頃、国の保有する360機の旅客機のうち200機、
特に最高級のダグラス DC-3が戦争のために徴用され、
航空輸送司令部(ATC)の管理下に置かれました。

ATCは、民間と軍の航空輸送業務の統合を企画したアメリカ陸軍航空隊の
ヘンリー・H・「ハップ」・アーノルド大将の命令で、1942年創立します。

航空機のパイロットと搭乗員(その多くは予備役将校)もATCに召集され、
軍の同僚たちと合流して任務にあたりました。
彼らは長距離の定期便運航における知識と経験を持つベテランでした。



冒頭のスミソニアン展示は、上の写真で航空司令輸送部、
ATCの飛行乗組員が身につけているのと同じ、カーキ制服です。

それまでの「豪華客船のクルー風」からミリタリー調に変わり、
優秀な四発機パイロット、ならびに航法士やその他の乗組員が、
大西洋横断輸送シャトルの操縦任務に就きました。



そうしてATC は、世界中で戦闘機を輸送するフェリーコマンドと、
貨物や人員を輸送する航空サービスコマンドの力を統合して、
巨大な国際航空会社として機能し始めました。

航空管制局の輸送部門は、女性空軍サービスパイロット(WASP)を擁し、
陸軍航空軍輸送司令部に代わって、新造航空機を
工場から訓練基地や乗船港へ輸送し、そこから航空機は
戦地を含む海外の目的地へと飛行によって輸送されていきます。

ATCの航空輸送部門は、広大な国内外の路線網を迅速に構築しました。
ATCは世界中にコンクリート滑走路を備えた飛行場を建設し、
重量輸送機がどこでも運航できるようにしました。

ATCの主力機となったダグラスC-54
最大約4,500kgの積載可能重量はダグラスC-47の2.5倍に相当


最初の主要路線は1942年にブラジル、
そして南大西洋を越えてアフリカ、中東へと開通し、
ドイツアフリカ軍団と戦っていたイギリス軍をはじめとする連合軍に、
切望されていた武器、弾薬、物資を輸送しました。
 
1943年、航空管制局(ATC)は、厳しい気象条件にもかかわらず、
北大西洋を横断する定期便を開設し、第8空軍の作戦と、
1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦を支援しました。

上陸後、ATCは西ヨーロッパとイタリアにおける連合軍の進撃を支援し、
物資の輸送と重傷者の搬送を行いました。

フランス解放時には、負傷兵の治療のため、
約3,600ポンドの輸血用血液をパリに運んでいます。

太平洋戦線における連合軍に対して、航空輸送司令部は、
作戦を直接支援し、オーストラリアの増強を図りながら、
アメリカ軍の中央太平洋および南西太平洋への進撃を支援し、
特に1944年後半に第20空軍が日本本土への壊滅的な爆撃を開始すると、
マリアナ諸島のボーイングB-29に補給を行いこれを支援しました。


1942年、ATCのロゴをジャケットに付けたパイロットと乗組員が、
ロッキードL-18 ロードスターの横を通り、自機の搭乗口へ向かっています。

こちらは民間ではなく陸軍パイロットです。




「あなたのその旅行は今必要ですか?」
不要な移動は戦争努力を妨げる

とあからさまに自粛を促す戦争キャンペーンポスター。
満員ぎゅうぎゅうづめの飛行機内には、通路の補助席に軍人が
仕方ねえなあ、みたいな様子で乗っています。

しかしこの頃の飛行機って、シートベルトなしで大丈夫だったんですかね。

この頃アメリカでは、カジュアルな航空旅行はほぼ完全に禁止となりました。
厳格な優先順位リストにより、戦争支援に従事する者だけが飛行を許可され、
その結果、航空機の搭乗率は80%を超え、戦前比で20%増加しました。

軍は国内の360機の航空機のうち200機を徴用し、
民間航空会社の職員も戦時動員されました。



ATCは、アメリカ軍兵士を慰問するために、
世界中を旅するスターたちを輸送しました。

この写真は、フランク・シナトラが地中海戦線での慰問公演を終え、
帰国のためATCのC-47に搭乗しているところです。

航空輸送司令部は、アメリカ空軍創設後の1948年6月1日まで存続しました。
その後、規模は縮小したものの同等の海軍航空輸送隊と統合され、
軍用航空輸送隊が発足しました。

■ 戦後を見据えて
 

L. ウェルチ・ポーグ
L. Welch Pogue

1944年のシカゴ会議で連合国は戦後の民間航空に関する計画を策定します。

彼らは「空の五つの自由」を確立し、国際航空会社に対して
相互の飛行権と着陸権を認める措置を講じるとともに、
国際連合の一機関として国際民間航空機関(ICAO)を設立し、
国際航空の安全規制と基準の設定を目的としました。

民間航空局(Civil Aeronautics Board)議長、L. ウェルチ・ポーグは、
これらの協定の策定に重要な役割を果たしました。

また、1946年の米英二カ国間のバミューダ協定の策定にも携わり、
米国とイギリス間の航路、運賃、航空権に関する詳細を定めました。

ポーグは第一次世界大戦の退役軍人で、ハーバード大法学部を卒業、
ウォール街で著名な弁護士として名を馳せていたところ、
ルーズベルト大統領によって米国民間航空委員会の委員長に任命され、
国際民間航空システムの発展に重要な役割を果たした人です。

ちなみにこの会議では、以下の規制が定められました。

「航空管制言語を英語とする」
「国際便の規則設定」
「国際民間航空路線を確立するための世界的な多国間条約の採択」
「運航条件」「料金」「輸送能力」

1946年、ポーグ氏は政府の仕事から離れてワシントンD.C.に
自身の法律事務所を設立し、複数の大手航空会社の代理を務めました。
顧客にはベル・エアクラフトやロッキード・マーティンなどがいました。

1981年に法律事務所を退職後、執筆活動と旅行を精力的に行いながら
博物館の案内員として勤務し、
2003年に103歳で死去するまでその職を務めたといいます。

亡くなる最後の週まで車を運転しており、
101歳でワシントンD.C.からフロリダまでを往復していますから、
最後まで頭脳は明晰なままだったのだろうと思います。

■ パンナムの失望

左より;
メキシコ便 パンアメリカン ワールド エアウェイズ
南アメリカ便 ブラニフ エア ウェイズ
ハワイ便 ユナイテッド エア ラインズ
トランスコンチネンタル エア トランスポートTWA

ATCは航空会社と契約し、必要な場所にはどこへでも就航させました。
パンアメリカンの豊富な海外経験は、特に貴重な財産となったのですが、
パンアメリカンにとって計算違いというか、失望させられたことは、
他の航空会社も同じように海外路線を獲得したことでした。

ノースウエスト航空はアラスカと太平洋、
ユナイテッド航空はハワイと太平洋、
イースタン航空とブラニフ航空は中南米、TWAは大西洋、
アメリカン航空はアフリカ、インド、中国に就航、など。

ブラニフ航空(Braniff International Airways)は、
ブラニフ兄弟によって1928年創業した航空会社で、
戦後は広告戦略に力を入れ、機体をポップな色に塗装して、
「ジェリービーンズ・フリート」と謳ったり、イタリアのデザイナー、
エミリオ・プッチやホルストンに制服をデザインさせたり、
またウォーホルを広告に使ったりと尖ったキャンペーンを行いました。

経営不振に湾岸戦争が追い打ちをかけ、1990年に運行を停止。
ブラニフ航空の制服については、またいずれご紹介します。

続く。




「フライング・スターズ」初期航空の乗客〜スミソニアン航空博物館

2025-07-30 | 航空機

1941年までのアメリカの航空輸送の進歩について、
前回は各航空会社が、当初の男性客室乗務員「スチュワード」から、
女性客室乗務員「スチュワーデス」を採用し始めた、
というところまでお話ししました。

■スチュワーデスの資格要件

ところで皆さんは「スチュワード」と聞くとどんな職業を思い浮かべますか?

おそらく、それはレストランや客船の男性従業員でしょう。
そして「スチュワーデス」は、というと、これはもう100%、
客室乗務員の名称であると誰もが答えるに違いありません。

元々スチュワードというのは船舶の司厨員のことであり、
イギリスの海運用語の「チーフスチュワード」が元になっています。

パンナムが航空界にその言葉を持ち込んだということは前回述べましたが、
女性の客室乗務員が初めて航空の世界に登場したとき、
それを女性形にした「スチュワーデス」という言葉が生まれたのです。

ただ、その言葉が生まれた頃は名称が統一されていなかったので、
「エアホステス」を採用していた会社もありました。

「空中の女主人(客を招きもてなす人)」

という位置付けによる名称です。


1930年代、スチュワーデスの求人には多くの女性が応募しました。
ただでさえ大恐慌のご時世、客室乗務員は女性が就くことの出来る
チャレンジングで魅力のある数少ない仕事の一つだったのです。

この頃TWAが行った43名の求人に対し、2000人の応募がありました。

この流れで女性の客室乗務員は急速に男性乗務員にとって変わり、
1936年の女性の割合はほぼ全員というくらいにまでなっていました。

そんな狭き門となったスチュワーデスの応募資格とは次のようなものです。

小柄、体重約45~50kg、身長150~160cm
年齢20 ~ 26歳

なぜ小柄?と思いますよね。
これは、機内が狭かったことと、体重制限をかける必要があったからです。
これは暗に「痩せている」=容姿の良さを意味していました。

なお、合格した後は、年に4回の厳格な健康診断を受けなければならず、
完璧な健康状態とそれに伴う美しさを持続することが求められました。

この傾向はその後も続き、たとえば1966年のイースタン航空の要件は、

高校卒業者
独身(未亡人や離婚者でもいいが子供はいないこと)
20歳(19歳半から選考対象とする)

身長157.5cm以上175cm以下
体重47.6kgから61.2kg
身長に比例した体型
眼鏡なしで20/40の視力(0.5)

一番厳しいのが年齢です。
20歳しかダメ、ってことですよねこれ。やばいな。
その歳の離婚者や未亡人って(理屈上は存在するのかもしれんけど)。

身長がいきなり175cmまで緩和されたのは、この間に飛行機が大きくなり、
客席上の棚に背が低くては手が届かないと困るようになったからです。

相変わらず体重に制限がありますが、いくら規格内だと言い張っても、
身長158センチで61キロの人は見た目の問題でまずアウトです。

なぜなら、スチュワーデスになるための最も重要な要素の一つは、
ここでも誰もはっきり言わないけれど容姿と考えられていたからです。

当時、航空会社は女性の性的魅力が利益を増やすと単純に考えていました。

そのため、制服は動きやすさよりも女性らしさをアピールするもの、
体にピッタリフィットする制服や、白手袋、ハイヒールとなりました。

当時の社会がどうして既婚者を忌避したのかは、
まあ色々な理由が考えられるわけですが、ここでは置いておいて、
当時のアメリカで、既婚女性は労働から締め出されており、
そんなことが一切関係なさそうな看護師ですら未婚が条件で、
結婚すればそれは解雇される(退職する)のが常だったのは、
今にして思えば隔世の感があります。

そして、未婚であっても年齢が32歳を超えたら解雇、
体重規定を超えれば解雇、もちろん結婚すれば解雇だったのです。

この婚姻禁止規則が撤廃されたのは、1980年代でした。

余談ですが、体重制限といえば、亡くなった女流ピアニストのN氏が、
搭乗した航空機の客室乗務員の太った体型に激怒し、

「あなたのようなプロ意識のない人にサービスされたくない!」

とサービスを拒否したという内部告発?を読んだことがあります。

実はそのとき、N氏が体重コントロールに苦しんでいたという噂もあるので、
太った乗務員に対し感情的にキレたんじゃないかと勘繰っているのですが、
それはともかく、どうして客室乗務員が太っていてはいけないのか、
それが「見た目」の問題以外にどういった不都合があるのか、
当時は誰もそのような感覚に違和感をもたなかったということなんですね。

今でこそポリコレやらなんやらで、ルッキズムは悪が主流となり、
年齢制限も体重制限も、航空会社の要件から外されました。

ただし、身長制限と視力はいまだに残されています。
先ほども言ったように、どちらもあまりに低いと仕事に支障が出るからです。

■ 空飛ぶスターたち



冒頭写真は、当時颯爽と飛行機に乗り、降り立つスターの姿です。
中でも一番目立っているのは、「アイ ラブ ルーシー」で知られる
ルシル・ボール(Lucille Ball)

ウェスタンエア エクスプレスの補助台に足をかけ、
なんと片手にタバコで降りてきたようですね。

この時代、航空会社が盛んに宣伝に使ったのがスターの乗客です。

航空旅行はハリウッドの有名人たちに人気でしたが、
彼らの雇用主はそもそも飛行機を安全だと考えていませんでした。

映画スタジオは、俳優の契約書に飛行を禁止する条項を頻繁に盛り込み、
特に映画撮影中は飛行を禁止していたくらいです。

しかし、1930年代半ばまでに、この強制は不可能だと気づき、むしろ、
スターを飛行機に乗せることの経済的価値を認識し始めました。
彼らのフライト写真は映画のプロモーションに使えることを知ったのです。

航空会社も、有名人が登場することで利益を得ました。
有名人の到着が写真に収められた際、必ず航空会社の名前が写りましたが。
それは決して偶然などではありませんでした。


ユナイテッドエアラインのスチュワーデスとウィル・ロジャース

ウィル・ロジャースは俳優、コメディアンその他多才な芸人で、
当時絶大な人気を誇り、ハリウッドでも最高のギャラを取っていました。

おそらくこの写真は、美人のスチュワーデスと一緒に、
国内1の人気者が写真を撮れば色々と捗ると周りが判断したのでしょう。

ちなみに彼は、1925年ごろからアメリカ国内を講演して回ったため、
その移動手段に初期の航空郵便機(大変危険だった頃)を使い、
初めてこの飛行機で東西海岸を横断した市民となりました。

そして、若くして(55歳)飛行機事故で他界しています。

友人が2機を合成して製作した飛行機にコラムのネタ探しのため同乗した際、
その飛行機が悪天候のため着陸に失敗して、二人とも即死しました。

彼の名前は出身地のオクラホマを中身に多くの場所に残されていますが、
オクラホマシティにはその名もウィル・ロジャース空港があるそうです。



キャサリン・ヘプバーンというと、スコセッシの映画「アビエイター」で
主役のレオナルド・ディ・カプリオが演じたハワード・ヒューズの相手役で、
ケイト・ブランシェットが演じたことを思い出します。

The Aviator (2004) Official Trailer #1 - Leonardo DiCaprio

わたしが印象的だったのは、初めて彼女が操縦桿を握り、
ヒューズの指示で障害物を超えた時に彼女が言ったこのセリフ。

Golly! - the Aviator

この後で、ヒューズはケイト(ヘプバーン)に、

「Gollyなんていう女は初めて見た」

というんですね。


この映画には現在お話ししている航空界の有名人、
パンナムのフアン・トリップ(アレック・ボールドウィン)、
TWAのジャック・フライなども登場します。


ユナイテッド航空から降りて同じポーズを決めるザ・マルクス・ブラザーズ

マルクス兄弟が何人いるかということについて、
わたしは今の今まで考えたこともなかったのですが、
オリジナルはなんと5人兄弟なんだそうですね。


3人でポーズをとっていますが、実はこのとき、
ユナイテッドのボーイング247には彼らの夫人たちも乗っていました。

・・ん?女性が4人いるけど、どういうこと?
右側3人が奥方連中で、タラップにいるのは女優かな?


一人の乗客がスチュワーデスにこう言っています。

「もし有名人が乗っていたら教えてもらえますか?」

しかし、実は彼以外は全員セレブリティだという・・。

この似顔絵は、アメリカ人ならわかるのだと思いますが、わたしには

ベーブ・ルース(左席2列目)
シャーリー・テンプル(左席3列目)
マルクス・ブラザーズ(右席3列目の3人)
ウィル・ロジャース(右席4列目)


くらいしか自信がありません。

右席一列目の女性はメエ・ウェスト(これは少し自信ある)
その後ろは「でかっ鼻」のジミー・デュランテかな?

■ スタジオから見たスターと飛行機の関係



青丸の中の文章です。

新聞が「空飛ぶスター」についてどう報じたか見てみましょう。
飛行以外に、スタジオはスターたちにどのような制限を課したのでしょうか?


そして記事のヘッドラインは以下の通り。

(右)「スタジオはスターの首を守ろうとするのをやめる」

英語でないとなんとも収まりのつかないタイトルですが、
つまり、スターが「首を壊しそうなアクティビティ」
飛行機、ポロ競技、ハンティングなど危険なスポーツ、果ては
喧嘩や乱闘が起きそうなナイトクラブ通いを今まで制限していたのを諦め、
彼らの裁量に任せるようになったというニュースです。

喧嘩が起こるからナイトクラブ禁止?

とちょっと不思議ですが、先ほどの映画「アビエイター」でも、
招待客ばかりのプレミアで、タキシードなど着こんだ客同士が
つまらない理由で殴り合いをするシーンが描かれていたと記憶します。

俳優の飛行機搭乗を制限しただけでなく、スタジオは
スターたちに数々の制限を課していました。

個人的な関係、個人的な露出、さらには俳優の言論の自由までも。

これらの制限はスタジオ契約を通じて強制され、契約には、
俳優がしていいことと悪いことを規定する条項が含まれるのが常でした。

ですから、俳優や女優は飛行機に乗るのも人目につかないようにこっそりと、
自分たちのスキャンダルに対しては、エージェントに多額の報酬を支払い、
マスコミにバレないように、噂が広がらないように腐心しました。

しかし時代は変わりました。

これらの写真が撮られた頃、映画界の半数は空路で全国を駆け巡り、
残りの半数はおそらく自分の船に船を調達していました。

ポロに興じたければ自己責任だし、クラーク・ゲーブルやウォレス・ビリー、
彼らのような「マンリー」なスターは、少しでも機会があれば
山岳地帯の奥地へ赴いて、幻の野生動物を追い求めるようになりました。

セレブリティのほとんど全員が、週に一度は「危険」な状況に身を置き、
お気に入りの夜の「スポット」では、しばしば拳が乱れ飛び・・。

いずれもハリウッドが強大化して、スターたちの力と影響が高くなり、
あまりにも大金を稼ぐ彼らを抑えることができなくなったからです。

スターとスタジオは、道徳的堕落条項に関する契約こそしていましたが、
はっきり言ってこれもほとんど意味を成していませんでした。

一応紳士協定を結ぶお行儀のいいスターもいて、例えば、
ジョージ・ブレントは、大の飛行機&ポロ好きですが、
映画撮影中は両方を控えることにしており、ディック・パウエルも、
自身のキャリアが確立されると、やはりこの両方をやめました。

ちなみに、当時映画会社がスターと交わした「約束」には
次のような項目があったといいます。

個人的な関係:
スターとしてのイメージを損なったり、世間の論争を巻き起こさぬよう、
許可なく結婚するのは禁止

個人的な出演:
特定の公的イメージを維持するために、服装や髪型、社交活動を制限

言論の制限:
特に政治や社会問題に関して公の場で発言することを制限

その他の契約上の義務:
収入、旅行、休暇などをスタジオが管理できる

飛行機やスポーツは、徐々に緩和されていったようですが、
発言などに関しては相変わらず暗黙の了解以上の制限があったようです。

しかし、このことが、100年経った後も、当時のスターたちを
今よりスターたらしめていたような気がするのはわたしだけでしょうか。

最近の例として、やめておけばいいのにSNSで政治発言を繰り返し、
自分が支持しない側に対してケンカを売った映画の主役女優が、
アメリカの半分から嫌われて映画の収入が悲惨なことになりましたよね。
(まあ、失敗は彼女だけのせいではないとは思いますが)

もし「ウィアード、ウィアード」のあの女優が、当時のとまで行かずとも、
紳士協定的にSNSでの発言を控えるように会社から釘を刺されていたら、
そしてそれを破らなかったら、あの歴史的悲惨は避けられた気がします。

アメリカは、むしろ積極的に自分の政治思想を語るスターが多いですが、
自分の影響力で政治も動かしてやろう、という考えは、
あまりに短絡的で、アメリカ国民の知性を見くびっていると思うんだな。


続く。



「フアン・トリップの地球儀」テクノロジーの勝利 〜スミソニアン航空博物館

2025-07-21 | 航空機

■ パンアメリカン航空の隆盛

フアン・T・トリップの指揮の下、パンアメリカン航空は
米国の国際航空会社として優位を占めるようになっていきます。

同社の有名な「クリッパー」は、中南米に就航し、
大西洋や太平洋を無尽に横断しました。

1939年には、いよいよボーイング314飛行艇による
定期大西洋横断サービスを開始しました。



前回、空の豪華客船、ボーイング314についてお話ししましたが、
そのジオラマの上にあった模型について触れておきます。



314の上に3機がありますが、まず、


シコルスキーS-40 アメリカン・クリッパー


パンアメリカン航空発の大型飛行艇で、同航空のクリッパー機群の
いわば旗艦と位置付けられ、「アメリカン・クリッパー」として
3機生産され、主にワシントン周辺を飛行していました。




38の座席と6名の乗務員を擁するシコルスキーS-40飛行艇は、
当時、米国最大の旅客機でした。
製造されたのはわずか3機でしたが、
その後のパンアメリカン航空の航空機すべてに付けられた
「クリッパーズ」という名称の最初の機体として、
今もなおその名を残しています。



前々回にご紹介した、マーティンM-130 「チャイナクリッパー」です。

1927年に設立されたパンアメリカン航空は、飛行艇と陸上機を使用して、
ラテンアメリカ全域に定期商業サービスを開始しました。

1935年に、フアン・トリップはこれで
初の定期太平洋横断サービスを開始しました。

ちなみに、パンナムの「クリッパー」は、
1860年代の中国茶貿易のクリッパー船に敬意を表して名付けられました。

クリッパー船が当時最も速い船だったことを受けています。


ハワイ行き一泊の旅が278ドル。


シコルスキー S-42 

S-42型機により、パンナムの乗客はマイアミとブエノスアイレス間の
移動時間を大きく短縮することができました。



さらに、パンナムは1935年に太平洋、
1937年に大西洋を横断する予定のルートを調査するために
改良型のS-42型機を使用しました。

ただ、パンナムは国際線の独占権と引き換えに国内線から締め出されます。
海外独占は第二次世界大戦まで続き、国内線制限は1978年まで続きました。

■ トライアンフ・オブ・テクノロジー


航空機と航空技術の向上は、
低迷していた航空業界の活性化に重要な役割を果たしました。

1930年代半ばは航空会社にとって困難な時期でした。
連邦政府あ航空業界を支配していた大企業を解体し、
航空会社への補助金を削減したため、航空輸送規制は混乱状態だったのです。

この困難な時代に生き残るために、航空会社はより大きく、
より良く、より速い飛行機を求めました。

安全性と効率を高めるために、新しい航法・通信機器も必要です。

そして航空業界はこれに応えました。
1930年代後半までには、最初の近代的な高性能旅客機が登場します。

上の写真はボーイング247。
「近代初の旅客機」という名に相応しいこの機体は、
1933年にユナイテッド航空で就航を開始後、
航空輸送に革命をもたらしました。


このDC-2はボーイング247に対抗するために作られました。

ダグラス・エアクラフト社は、B247の競合機としてまずDC-1を開発。
DC-1は、B247よりも大きく、快適で、12人乗りでした。
さらに座席を14席に増やし、DC-2と改名したこの飛行機は、
競合機(つまりボーイング247)を簡単に凌駕しました。

その後、ダグラス社は、ジェット機時代が到来するまで、
アメリカ国内の航空機製造を独占することになります。

■ 航空交通管制の始まり

航空旅行の普及に伴い、国内の航空路、
特に空港周辺における航空交通管制の必要性も高まりました。

航空会社は最初に自社の航空交通を管理するシステムを開発しました。
しかし、1930年代半ばに発生した一連の重大な事故、特に
ニューメキシコ州上院議員ブロンソン・カッティングが死亡した、
DC-2の墜落事故
は、航空交通管理システムの必要性を浮き彫りにしました。

事故現場

1935年5月6日、アルバカーキからワシントンD.C.へ向かう途中、
ミズーリ州アトランタ近郊の悪天候により、
TWA6便(ダグラスDC-2 )は墜落し、操縦士2名と乗客3名が死亡しました。
搭乗者数は8名で、3名が救助されたことになります。

この事故の直接的な原因は、霧と暗闇の中で飛行機が低高度で飛び、
視界を失った結果地面に衝突したことでしたが、
まず、天気予報が気象の変化を予測できていなかったこと、
飛行機の双方向無線が夜間周波数で機能しておらず、不通だったのに
地上職員が飛行機を呼び戻差なかったこと、そして
通信ができないのにパイロットが飛行を続けたことなど、
いくつもの要因が重なった結果だと調査の結果わかりました。

カッティング上院議員の死は全国的に衝撃を与え、このことから
議会は航空交通安全に関する委員会の報告書の提出を求めます。

連邦政府はこれに対応し、1936年に商務省が
航空交通管理の全国的な責任を引き受けました。


これが、事故後建てられたアメリカ初の管制塔です。

地上と空中、および空中と地上の無線通信を初めて採用した管制塔は、
1930年にクリーブランド空港に建設されました。


1929年にエアクラフト・ラジオ・コーポレーションによって設計された
ARCモデルDは、最初の商用ナビゲーション受信機でした。


航空機用に開発された最初の軽量無線送信機(トランスミッター)です。

ループアンテナを搭載しており、なんとこれを
信号の方向を特定するために回転させることができました。

この送信機は、従来の視覚的死角航法方法から置き換えられました。

パナマ・アメリカンのヒューゴ・レウテリッツが設計・製造し、
1928年にフロリダ州キーウェストとキューバのハバナを結ぶ
パナマ・アメリカンの最初の航路に導入され、安全性に寄与しました。


中央に飛行機の機体が描かれています。
スパーリー・ジャイロスコープ社によって開発された

自動方向探知機(ADF)

は、1930年代半ばに航空機に初めて搭載されました。

これらは既存の4コース無線測距システムに置き換えられました。
ここに展示されているのは、制御ユニットと表示器、
および流線型の筐体に収められたループアンテナです。

ADFは既知の固定無線送信機を検出し、
その位置を航空機に対する相対位置として表示します。

このシステムは、従来の4コース制システムに比べ柔軟で正確でした。
また、計器着陸法の開発にもつながり、パイロットは夜間や悪天候時も
滑走路を特定するための大きな助けになります。



1930年代後半から1940年代に製造されたほとんどの航空機、
ダグラスDC-3などを含むものは、特徴的な「フットボール」形状の
アンテナハウジングを備えたADFを搭載していました。

■ ボードゲーム「フライング・ザ・ビーム」



「フライング・ザ・ビーム」ボードゲーム

航空旅行の人気に便乗して、パーカー・ブラザーズは
航空界の新しい無線航法システムを分かりやすく説明するため、
1941年に「フライング・ザ・ビーム」を発売しました。

ゲームは、最初に無線航法システムを使用して空港に安全に着陸すれば勝ち。
ゲームピース(コマ)はゴム製のDC-3機でした。


ゲームボードはシステムの仕組みを視覚的に示しています:

- 無線ビーコンは、モールス信号の「A」(ドット・ダッシュ)と
「N」(ダッシュ・ドット)のパターンで信号を送信します。

- 信号が交差する点で、信号が結合して連続した音を生成し、
パイロットはこれを追跡して無線ビーコンの方向を特定できます。

- 航空機がビームの中心から外れると、「A」または「N」の信号が
パイロットにコースから外れたことを警告します。

- 範囲ビーコンの正確な位置は
「サイレンス・コーン」によって特定されます。


これを見る限り、むしろ青少年〜大人向けのゲームですね。

■ ファン・トリップの地球儀



スミソニアンに展示されている大きな地球儀は、パンアメリカン航空の社長、
フアン・トリップがニューヨークのオフィスで使っていたものです。

今回、ハワード・ヒューズの映画「アビエーター」を観直してみたところ、
アレック・ボールドウィン演じるフアン・トリップが、
この地球儀を見つめるシーンは2回出てきます。(扉絵は映画より)

確か2回目はトランス・ワールド航空をヒューズに売ることを迫り、
それが結果として失敗したと悟った時だったと思います。

彼はこれで自社の世界展開を計画していました。
トリップはよく地球儀上の2点間に紐を張り、
自社の旅客機がその間を飛行する距離と時間を計算したといいます。



1800年代後半に作られたこの地球儀は、
トリップの多くの宣伝写真で大きく取り上げられ、
パンアメリカン航空とトリップのパブリックイメージの一部となりました。

航空界の巨人というのは何人も存在しますが、
もしフアン・テリー・トリップがいなかったら、
現在私たちが当然のことと思っている航空輸送システムの進化は
まったく違ったものになっていたとまで言われています。

例えば、1950年代半ば、事実上すべての航空会社は、ピストン駆動機から、
タービンエンジン機へとに移行することを検討していました。

しかし、彼だけが、ジェット機の未来を見ていたのです。
しかもその未来がわずか2、3年先にあると予見できたのは彼だけでした。

1960年代の「ジェット時代」は、
この航空界の巨人なしにはあり得なかったといえます。

続く。


「ザ・314」空の豪華客船〜スミソニアン航空博物館

2025-07-18 | 航空機

前回、パン・アメリカン航空が太平洋に切り拓いた、
水上艇マーチンM-130クリッパーを使った郵便航路が、
旅客航路としてその戦略の足がかりになった話をしました。

前回の最後にご紹介したパンナムの社長、フアン・トリップは、
クリッパーに続き、ボーイングに後継機を注文し、
1936年にボーイングは「ボーイング314」をリリースします。

スミソニアンにはこの314の内部を余すことなく見せる
実に魅力的なジオラマが展示されていて、人目を惹いています。

この時代、多くの航空会社がこぞって水上飛行機を使いました。
前にも説明したように、空港インフラがまだ整っていない時代で、
世界最大の滑走路が使える飛行艇は実に理にかなっていたのです。

飛行艇(フライング・ボート)という名前は、これらの水上飛行機が
水上艦の竜骨に似た胴体下部を持っていることから名付けられました。

そして、飛行艇は第二次世界大戦前まで、太平洋横断飛行の主流でした。
アメリカから南米、ヨーロッパ、太平洋諸島、アジア、
そしてさらに遠くまで、他の飛行機が行けない場所に人々を運びました。

当時のほとんどの飛行機では不可能だった、
遠く離れた異国情緒あふれる場所に到達する航続距離、
積載量、そして何より優れた能力を備えていました。

世界の軍隊も同様に、この飛行機の能力を、
海域の哨戒や墜落した飛行士の救助のために使いました。

■ 贅沢さの極み、飛行艇の旅


全盛期には、商業飛行艇での旅はまるで
「クイーン・メリー2世」での航海に匹敵するものでした。

個室の寝室、銀食器のダイニングサービス、シェフが調理する食事、
白い手袋をはめたウェイターなど・・・、これらはすべて、
空の豪華客船で乗客が享受できる高級なもてなしの一部でした。

当然ながら費用も大変高額なものです。

1940年当時、サンフランシスコから香港までの片道航空券は760ドル、
現在の約1万5000ドル(日本円だと200万円くらい)でした。

豪華客船と違うのは、こちらが数週間かかるのに対し、
飛行艇では数日で目的地に到着できることでした。

飛行艇がもたらす空の贅沢さの象徴となったのはパンアメリカン航空でした。
19世紀の大海原を往来した壮麗な帆船をオマージュし、
同社の最初の飛行艇は帆船を意味する「クリッパー」と名付けられました。



パンナムの創設者、フアン・トリップは、自社の顧客を
高級蒸気船のファーストクラスの乗客と同じクラスであると位置付け、
スチュワードとパーサーによる最高のサービスを提供しました。

飛行艇は「キャプテン」と「ナビゲーター」によって運航されていましたが、
この名称は、あえて海軍と同じものを採用しています。

なぜなら飛行艇は豪華客船になぞらえられ、模倣されたからで、
船を操るクルーを海軍と同じ呼び方をすることはこの時代に始まりました。



これは、パンナムのクルーと本物の?海軍軍人が写っている写真ですが、
パンナムのクルーは海軍の冬服のような制服を着ています。

これは、わざと海軍に似せてデザインされていました。
時代が降ると、袖の階級章はまさに海軍と同じだったりします。


ボーイングが発注したボーイング314飛行艇は、
最大航続距離5,700キロメートル(3,500マイル)、
短距離のフライトでは乗客74名と乗員10名を乗せることができました。

元々大型爆撃機として製作されながら、実用化に至らなかった
XB-15試作機(ボーイング294)を叩き台にして設計されました。

XB-15はもちろん航空機であり飛行艇要素は元々全くありません。



スミソニアンの模型が大変素晴らしいので、
細部までここで紹介させていただこうと思います。

まず、コクピットから。
キャプテンとコーパイロットが席についています。


コクピットは客席の上階にあるのですが、このクルーは
飛行艇のノーズ部分の梯子を登ってコクピットに行こうとしています。
何か伝達があるのでしょうか。


コクピットの後ろにはフライトコントロールデッキがあります。
デスクに向かっているのは航法士(ナビゲーター)。


通信士が向こう向きに通信機器に向かっています。

314の成功において非常に重要視されたのは、クルーの熟練度でした。
長距離の水上飛行の操縦と航法に非常に長け、
最も優秀で経験豊富な乗組員だけがクルーと呼ばれました。

また人材育成のため、多くの太平洋横断便には
訓練中のパイロットを必ず載せていたといいます。
この写真で航法士の後ろに座っている人がそれではないでしょうか。

パンナムの機長、副操縦士(ファースト&セカンドオフィサー)は、
入社前に他の水上機や飛行艇で数千時間の飛行経験を積んでいます。

推測航法、時間計測による旋回、海流によるドリフトの判断、
天測航行、無線航法に関する厳しい訓練を経てきたクルーの腕は確かで、
霧に覆われ、視界が全く効かない状況下で、パイロットが着水を決行し、
その後機体を滑走させて港に無事たどり着いたという例もありました。

314の乗員は通常10名となっていましたが、
長距離洋上飛行における疲労を考慮し、
2交代制で最大16名まで増員することがありました。

シフトはパイロット、副操縦士2名、航法士、無線技師、
航空機関士、当直士官(『マスター』と呼ばれることもあった)、
および2名のスチュワードで構成されていました。



スチュワードの一人は、フライトコントロールセンターの下にある
ギャレーでカクテルの用意をしています。
後ろに人の姿が見えますが、これは、何か飲み物を取りに来た客でしょう。

スチュワードの制服の裾が短いのは、サーブの時に
裾が長いとテーブルに当たったりして邪魔だからです。


もう一人のスチュワードは、客室で注文を聞いているようです。
真ん中に棒立ちになっている女性はスチュワーデス?
と思われるかもしれませんが、この人は客です。

なんか手前のおっさんに指差しされて怒られているように見えますね。

彼女が乗務員でないと言い切る理由は、当時の飛行艇では
客室乗務員は常に男性でなければならなかったからです。

その理由は、夜間飛行の際にはベッドを準備する必要があり、
また緊急時には大型の救命いかだを扱う必要があるため、
女性には過酷な仕事であると考えられていたからです。

いかだはともかく、ベッドの用意がそんなに大変か?と思いますが、
おそらくかなりの力仕事だったのでしょう。


この315には定員以上のスチュワードがいるようです。
この人はまさにベッドをメイキングしているところですが、
カーテンを設置したりして、やっぱりかなり大変なのかもしれませんね。

この第5コンパートメントの上部は荷物置き場となっています。


現在の飛行機もファーストクラスは一番前にありますが、
314の一番前のコンパートメントも「ファースト」です。
しかし、ここがファーストクラスに相当するようには見えません。
なぜなら、このコンパートメントは8人掛けで、



ギャレーを挟んで後ろにあるセカンドコンーパートメントと
全く変わりはないからです。
(セカンドコンパートメントを表す説明のプレートが破損している)

むしろ、この狭いコンパートメントで向かい合って、
ほとんど膝がくっつきそうな椅子で長時間過ごすのが
いわゆるプレミアムクラスとはとても思えません。


そして、その後ろにあるコンパートメント。
ここは広いですが、実はメインラウンジです。

実は314、1から5までのコンパートメントは全て普通クラス。

これに乗ることができる段階で金持ち客であることは決定なので、
客席は皆平等に、普通クラスが並んでいるということなのです。


第4コンパートメントもご覧の通り。
こんな空間で1週間過ごすのもなかなか大変だっただろうな。
退屈してもうろうろしたりできないし、
人目があるからうっかりくつろぐこともできない・・。

この第4コンパートメントは、全室より高いところに設置されています。
飛行艇の機体の構造上後ろが上がっていくからですね。



で、この第5コンパートメント、たまたまここだけ
ベッドの用意がされているので勘違いしそうになりますが、
どのコンパートメントも、椅子の間にマットを渡し、
ベッドを作ることができる仕組みになっております。

でも、これを見る限り、一部屋に4人分しかベッドないですよね?
この飛行艇が満席になることは最初から考えてないってことでおk?


ここで314の客席階配置図をご覧ください。
1から5までのコンパートメントは全く同じ作りです。
そして、第6コンパートメントには、


椅子が二人分(=寝台一人分)奥に女性用化粧室があります。



もう一度先ほどの配置図を見ていただくと、
最後尾には「スイートデラックス」が設置してあるのがわかります。


スイートは、お金持ちばかりが乗るこの314の中でも、
さらに特別扱いされたい?超富豪用に用意してございます。

ゆったりと大きな4つの椅子とテーブル、
そして奥には専用の洗面台もございます。
流石にトイレは隣に行かなくてはなりませんが。

ちなみに男性用洗面所は、ギャレーの向こう側に用意されています。


絵による断面図。


模型よりこの実際の写真の方が広々していますね。
これはラウンジだと思いますが、ちゃんとテーブルが備えられています。

これは、1940年ごろの314の様子です。

1920年〜30年代にかけて、様々な形や大きさの飛行艇が開発されました。
数人乗りの小型機から、数十人の乗客を乗せられる巨大な飛行機まで。

さらに、当時の商業航空にとって、航空郵便は欠かせないものでした。
連邦政府と有利な郵便契約を結び、航空会社は
この発展期に十分な収益性を確保し、カリブ海、南米、
そして世界各地への路線を拡大することができました。

飛行艇は独特なスタイルの船です。

フロートプレーンは基本的にポンツーンに搭載された普通の飛行機ですが、
飛行艇は本質的に船と飛行機のハイブリッドです。

強風や荒波にも耐えられる丈夫な翼、そして、
荒波への着陸の過酷な条件にも耐えられるよう、
通常はボートのようなV字型の頑丈な船体を備えています。

このような「珍しい乗り物」の設計には、
全く異なる2つの分野の正確なバランスが求められました。

飛行艇は、陸上機に求められる性能、効率、強度、信頼性に加え、
水上艇の特性と飛行艇自体に特有の特性が求められます。


耐航性
操縦性
水上での安定性
水と空気に対する抵抗力の低さ
船体の構造強度


特に最後の構造強度は、離着陸だけでなく、航走時に
荒れた海面からかかる荷重に耐えられるよう設計されねばなりません。

つまり滑らかさと頑丈さを兼ね備えていなければなりませんでした。

これらの条件を踏まえた設計を成功させるには、
これら相反する性能の適切なバランスを見つけることが不可欠でしたが、
どちらかの分野で計算を誤れば、悲惨な結果を招く恐れがありました。

パン・アメリカン航空は、大洋横断路線の開設準備を進める中で、
まさにこうした課題に直面していたといえましょう。

続く。



水上艇チャイナ・クリッパー〜スミソニアン航空博物館

2025-07-15 | 航空機

今日は、1927年から始まった飛行機輸送の歴史の中から、
旅客機として活躍したある水上艇についてお話しします。

■ チャイナ・クリッパー


「チャイナ・クリッパー」とは、パンナム航空のために製造された
マーチンM-130飛行艇3機のうちの最初の1機に与えられた名称で、
他の2機は「ハワイ・クリッパー」「フィリピン・クリッパー」です。

クリッパー(Clipper)というのは「クリップ」にerをつけた、
「刈る人」「ハサミ」という意味ももちろんありますが、
19世紀の3本マストの快速帆船を意味するこの名前が、
グレン・L・マーチン製造のこの長距離飛行艇に付けられたというわけです。

マーチンM-130は、サンフランシスコーハワイのホノルル間の3,840kmを、
緊急着陸用の滑走路なしでノンストップ飛行できる世界初の旅客機でした。

■ 最初の太平洋横断郵便輸送

元々は、1935年にサンフランシスコからマニラに、
太平洋を横断する初の航空郵便航路のために開発され、
初飛行としてサンフランシスコのアラメダを離陸しました。


このときの真偽不明の噂に、ベイブリッジを越えられず仕方なく下を潜った、
というものがあり、確かにこういう飛行中の写真を見ると、
こいつは高いところは飛べないのではないか?と思われたのでしょうが、
これは都市伝説の類であるとわたしは断言します。


「エアメール」と書かれ、チャイナ・クリッパーが最初に搭載し、
太平洋を横断して運んだ郵便物。

まず、不思議なことに宛先はニューヨークのジョン・ソマーという人ですが、
スタンプはサンフランシスコとなっています。

さらに、左上には

「トランスパシフィックフライトのファーストコンタクト」

とあり、この手紙がその第一便であったことが書かれています。

機長と副操縦士など乗り組んだ全クルーのサインが書かれていますが、
下から2番目に、フレッド・ヌーナンという名前が見えます。

アメリア・イヤハートが行方不明となった最後のフライトに
ナビゲーターとして同乗して、一緒に遭難し消息を絶った人物です。

ヌーナンは商船隊で海事経験があるパイロットで、
クリッパーを最初にサンフランシスコ湾に着水させたのもこの人です。

チャイナ・クリッパーの初飛行の際、ヌーナンは
やはりパイロットとして乗り組んでおり、実際に操縦も担当しました。

ナビゲーターとしては先駆的な人物で、パンナムでも働き、
キャリアをアップさせようというとき、イヤハートに出会いました。


ベイブリッジを潜ったという噂が嘘であることを証明する写真。

ベイブリッジではなく、ゴールデンゲートブリッジを下に見ながら、
軽々と飛翔するチャイナ・クリッパー。

1935年11月22日、太平洋を横断する郵便輸送飛行に出発する姿です。
この出航式典はラジオで全米放送されていたそうです。


「クリッパー」は6日間に合計60時間の飛行を行い、
当初実質無人島だったミッドウェイ島とウェーク島に寄港しました。

これは、クリッパーの航続距離があまり長くなかったためで、
そのため、パンナムはこれらの島にホテル、ケータリング、ドック、
修理、道路、無線設備を整備する必要がありました。

クリッパーの航路はアラメダ離陸後、ホノルル、ミッドウェー、ウェーキ、
グアムを経由してマニラまで1週間かかるルートでした。

実際の飛行時間は59時間48分。
最速の蒸気船で同じルートを航海したら、2週間以上かかるところです。

これは香港までの航路を宣伝するもの

最初の航空郵便飛行には乗客はおらず、乗務員のみが搭乗していました。
積載物は11万1千枚の封筒で重さ約900キロ。
航空機に搭載された郵便物としては過去最大の量でした。

郵便局は、国中から届く当初の予想の3倍の量の郵便物に驚きました。
サンフランシスコの郵便局では、約100人の郵便局員が
クリッパーに積み込む数万通の手紙の準備に追われることになります。

積載された郵便物はほとんどが切手収集家のスタンプ目当てか、
「最初の飛行」で運ばれた郵便物を欲しがる人々が投函したものでした。

しかし、これが予想外の量になってしまったため、クリッパーから
もともと設置してあった乗客用の機内設備は取り外され、
数十個の郵便袋に郵便物を収納するスペースにせざるを得なくなります。


こうやってチャイナ・クリッパーが太平洋上を初飛行すると、
姉妹船のフィリピン&ハワイ・クリッパーも同じ航路を飛ぶようになります。

そしてその初飛行から1年後、クリッパーは旅客サービスを開始しました。

■ なぜ飛行艇(フライングボート)だったのか?



パンナムは、最初に航路の停泊地となったこれらの島や、他にグアム島にも
独自のホテルや施設を建設しており、観光客を誘致していました。

ところで、この時代、なぜこの飛行艇が選択されたのでしょうか。

まず、滑走路のコンディションに悩まされる必要がないためです。

この時代はまだインフラ設備が追いついておらず、
飛行場があったとしても整備が行き届いていないことが多かったのです。

また、緊急時には水上に着陸することも可能であるということが、
長距離の洋上飛行に対する乗客の不安を和らげました。

モルジブに旅行に行った方はご存知と思いますが、
あそこは小さな島に一つのホテルが建っていたりして、
島と島を結ぶ交通手段は、観光客の場合100%飛行艇です。

ここに旅行することになり、飛行艇で移動というプランを聞いた時、
わたしはなぜかすごく安心したのですが、
その理由は、まさにこの時の人々と同じだったと思います。

逆にグランドキャニオンの観光は、現地まで皆小型飛行機に乗りますが、
こちらは乗る前も、乗ってからもとにかく恐怖しかありませんでした。
(時々気流のせいで落っこちてるということを知っていたから尚更)

やはり、山間部を飛ぶのと、海上というのは全く気分が違います。


それから、このチャイナ・クリッパーを見て何か思いませんか?
そう、やたら機体が大きいでしょう。

冒頭のプロペラはチャイナ・クリッパーのものですが、
とにかくこれだけでもでかい。無茶苦茶でかい。

飛行機が重量制限しなければならない理由は、もちろん飛行するからですが、
それより、あまり重いと滑走路の長さで制限を受けることになります。

しかし、着陸ではなく海に着水するのですから、他の航空機よりも
大型で重量のある機体
を作ることができたというわけです。

パンアメリカン航空のラテンアメリカ路線のほとんどは
海岸沿いにあったため(というか飛行艇だから海岸沿いを選んだわけですが)
飛行艇は理にかなった選択だったといえます。

■ パンナム、大西洋横断の野望潰える


パンナムは航空便を手始めに、太平洋旅客路線を開拓しましたが、
実は太平洋横断は彼らの最終目標ではありませんでした。

同社の最終的な野望は、収益性の高い大西洋路線に乗り出し、
アメリカとヨーロッパを結ぶ航路を開くことだったのです。

マーティンM-130飛行艇は最初からそのために開発されたものであり、
実際、技術的にもそれは容易なことと思われていました。

太平洋飛行の最長距離 (サンフランシスコとホノルル間) は、386km、
大西洋横断の最長距離(ニューファンドランド-アイルランド間) は
それより60キロも短い322kmと楽勝の短さだったからです。

ドイツのツェッペリンの2倍の速さで飛ぶ飛行艇が誕生したとき、
この飛行船の時代は終わった、と誰もが思ったでしょうし、パンナムは
大西洋は我らのもの、とガッツポーズしたに違いありません。

しかし、パンナムが大西洋路線に乗り込んで、
ツェッペリンの乗客をやすやすと奪う未来は訪れませんでした。
(飛行船は全く別の理由で自滅する運命にありましたが)

パンナムの飛行艇を阻んだのは、技術ではなく🇬🇧イギリスの存在でした。

イギリスは、アメリカごときが大西洋横断航空路線を独占したり、
ましてや大英帝国に先んじることを心から望まなかったので(そらそうだ)、
イギリス本土や、大西洋を越えたイギリスが支配する飛び地
(大西洋岸カナダとバミューダ)への陸権を与えることを拒否しました。

イギリスがアメリカに大西洋横断路線の開設を認めるのは、アメリカが
大西洋をノンストップで運航できる航空機を開発してからのことです。

クリッパー飛行艇のラウンジ

ヒンデンブルグほど快適ではありませんでしたが、(快適だったんだ・・)
クリッパーはツェッペリン飛行船の2倍以上の速度を誇り、
当時の他のどの固定翼機よりも贅沢な空間を楽しむことができました。


寝台と洗面所なども完備していました。

しかし、当時799ドルの片道運賃を支払える人は滅多にいなかったため、
乗客は8人以上になることはなく、むしろ、ほとんどそれ以下でした。

こんなんじゃとても採算など取れなさそうですよね。


このハミルトン・スタンダード可変ピッチプロペラは、
マーチンM-130飛行艇チャイニーズ・クリッパーに搭載されていました。

ブレードの角度は、離陸時と巡航時の最適性能に合わせて調整が可能で、
これにより航空機の効率が大幅に向上しました。

エンジンは、

プラット・アンド・ホイットニー製、ツインワスプ 

1930年に設計された14気筒、800馬力のツインワスプエンジンは、
マーティンM-130チャイナ・クリッパーに初めて搭載され、
1935年にパンアメリカン航空の太平洋横断定期便の運航を開始しました。

ユナイテッド航空は、1937年に就航したダグラス DC-3Aに
1,000馬力のツインワスプエンジンを搭載しました。

ここに展示されているのは、DC-3シリーズで最も広く使用された
ツインワスプエンジンである、1,200馬力のR-1830-92軍用バージョンです。

ツインワスプエンジンは、大型航空機用エンジンとしては
最多となる17万3000台以上が製造されました。


■(宣伝)映画「チャイナ・クリッパー」

China Clipper - Theatrical Trailer (Warner Brothers, 1936)

なんと、そのものズバリのタイトルを持つ映画が見つかってしまいました。
トレーラーにどこかで見たことのある人が出ていると思ったら、
なんとハンフリー・ボガートでした。(但し彼の出演歴にこの作品名なし)

このいかにも宣伝くさい映画のプロットですが、簡単にまとめると、
リンドバーグの大西洋無着陸飛行に感銘を受けた主人公が、
新しい外洋飛行艇の建造と飛行に奮闘し、成功するまでの話。

妻と上司がなぜか当初反対するんですが、主人公は航空会社を設立し、
それを倒産させても怯まず、何度もチャレンジをします。

ハンフリー・ボガートは、主人公がカリブ海で郵便配達業務を始めたとき、
彼の仕事に参入する凄腕パイロットを演じているのですが、
主人公が夢中になりすぎて利己的な野望に執着し出すと、
彼の妻同様、彼の元を去っていくことになります。
(しかし、のちに太平洋路線が開始されると戻ってきて和解する)

そもそもチャイナ・クリッパーという名前は、
裕福で冒険心あふれる人々が太平洋を越えて東洋へ向かう豪華な空の旅、
というロマンをイメージして付けられたもので、
当時のアメリカ人にとってチャイナとは、どこか遠いエキゾチックな国、
というイメージの言葉に過ぎませんでした。

スタンダードナンバーに

「Slow Boat to China」

というのがありますが、この曲も、中国に行くスローボートに乗ったら
時間がたっぷりあるから、その間に君のことを口説けるだろう的内容で、
全く現実味のない地名として「チャイナ」が取り入れられています。

Peggy Lee & Bing Crosby - Slow boat to China


パンナム路線は当時イギリス植民地だった香港には寄港したものの、
実際中国への路線は開拓もしなかったわけですが、この映画では
「チャイナ」にちなんで、中国に行くような設定になっています。

で、映画では、クリッパーが中国沖に飛行中、激しい台風に遭遇し、
主人公が諦めかけた時、これをボガートが無事に着陸させるというわけ。

彼は多くを失いながらもついに大手との契約を勝ち取り、
ついでに最後に奥さんも帰ってきてめでたしめでたし、という内容です。

このストーリーは、クリッパーの開発者、フアン・トリップの伝記として、
パンアメリカン設立期に焦点を当てたもので、
パンアメリカン航空の協力のもとに、史実に割と忠実に描かれたそうです。

Juan Trippe(1899-1981)

チャイナ・クリッパーの飛行シーンは、あの有名な
スタント・パイロットのポール・マンツが行っています。

映画作品としての評価はいまいちみたいで、航空映画史家によると、

「かつて世界有数の航空会社であった同社の隠された広告」

という位置付けだそうです。

・・・「広告」。
やっぱり映画「作品」とは思ってもらえないクォリティってことですか。

続く。



「苦行のフライト」初期の旅客機〜スミソニアン航空博物館

2025-07-06 | 航空機
1927年〜1941年のアメリカの航空について、
スミソニアン航空博物館の展示をもとにお話ししています。

今日は旅客機となってからの客室目線で語っていきます。

■ コクピット剥き出し時代


スミソニアンのノースロップ「アルファ」です。

新旧の航空機技術を融合させた過渡期の航空輸送機設計を代表する機体です。
6人の乗客を客室に収容できましたが、パイロット席は剥き出しでした。

機体は全金属製で流線型でしたが、着陸装置は固定式でエンジンは1基のみ。

ジョン・K・「ジャック」・ノースロップによって設計され、
金属製航空機の大きな進歩でした。

その多くの特徴、特に多セルラー翼設計は、
後にダグラスDC-2およびDC-3に採用されました。

より強力な双発機の登場により、旅客機としては時代遅れとなりましたが、
高速貨物機としては引き続き活躍しました。


ちなみに、1920年代、パイロットがオープンコクピットにいた頃、
できてすぐに潰れたエアロマリン航空の機内はこのようなものです。

注目して欲しいのは、彼らの座っている椅子。
重量を抑えるため、なんと籐の椅子(もちろんシートベルトなどなし)
が客席として使われていました。


みんな笑ってますが・・・。

■ フォード・トライモーター


1926年に初飛行したフォード・トライモーターです。


トライモーターはこのコーナーの上部に展示されています。


博物館資料より。
航空機が一般に普及する上で最も重要な出来事の一つは、
ヘンリー・フォードが航空機製造に参入したことでした。

当時、フォードの自動車は信頼性の象徴であり、人々は
フォードが手がけるならば航空機も安全なものだろうと考えたのです。

そして、その通り、フォード・トライモーターは頑丈で信頼性が高く、
航空史に永遠に名前を残すことになりました。


コクピットにはパイロットの姿が見えます。
客席より高い位置にコクピットがありました。


まるで汽車の客室のような客席。
コクピットと客席の間は階段三段くらいの高さの差があります。




当たり前ですが、当時の飛行機料金は非常に高価でした。

ビジネス旅行者と富裕層しか飛行機に乗ることができず、
庶民は都市間の移動に電車やバスを利用するしかありません。

飛行機での東海岸から西海岸までの往復旅行は約260ドル、
これは当時の新車の半額(今の日本円で200万くらい)でした。

しかし、高額で不便&不快な旅にもかかわらず、
商業航空は毎年何千人もの新たな乗客を惹きつけ、
基本的に冒険を好む彼らは飛行機の利点と未知の体験に飛びつきました。

アメリカの航空業界は急速に成長しました。
1929年にはわずか6,000人だった乗客数は、1934年には45万人を超え、
1938年には120万人に達しました。

それでも、広大なアメリカで、飛行機を利用するのは
一般の旅行者のごく一部に過ぎませんでした。

その理由を次に説明します。

■ 快適とは程遠かった飛行機の旅



1927年以降旅客機として飛んでいたTATの飛行機、
フォードのトライモーターです。

パイロットは少なくとも外に剥き出しの席で操縦する必要はなくなり、
客席は備え付けのスチール製になり、進化を遂げたわけですが、
パネルの右下の、当時のパイロットの懐古談を見てみましょう。

当時の飛行機というものがどんなだったかが明かされています。

「飛行機は熱い油と煮えたぎるアルミニウム、消毒液、
排泄物、革製品、そして嘔吐物の臭いが充満している……。
短気な客室乗務員たちは、嘔吐物の臭いを放ちながら、
比較的新鮮な空気を吸おうと、できるだけ頻繁に前に出ようとする」


えー、そうだったんだ・・・・。

どんな写真も映像も伝えられないもの、それが臭い。

今のように空調システムで何分かおきに機内の空気が入れ替わるなど、
そんな技術は微塵もなかったこの時代、人が狭い機内に
何時間も滞在して、そこで食べたり飲んだり出したり吐いたり、
そんなことが行われれば、まあそうなるのが自然の理。

飛行機の利点はとにかく速く移動できることで、
その旅は決して快適ではなかったことをこの言葉が証明しています。


航空会社は宣伝のために有名人、俳優などを乗せ、
その度に宣伝しましたが、こういう写真を見る限り、
その不快な臭いは全く感じ取ることができません。

彼ら彼女らも、これも仕事の一環、と割り切って、
にっこり笑いながらその不快感に耐えていたのですね。


「短気なスチュワーデスが嘔吐物の匂いを振り撒きながら」
飲み物サービスを行うの図。

しかも、この飛行機、狭くて通路をカニ歩きしなくては通れなさそう。


これは当時革新的だったボーイング247型機の機内ですが、
この機体、フォード・トライモーターよりもはるかに速く、
騒音も少ないという利点はあったものの、機内は窮屈で、
翼のスパー(翼桁)が通路に入り込んでいたため、移動は大変でした。

いずれも富裕さを感じさせる服装に身を包んだ乗客たちが、
心なしか顔を曇らせているのは、主に写真に映らない生理的なことに対し、
避け難い不快感を我慢しているからに違いありません。



こちらがスミソニアンのボーイング247型
ピトケインの「メールウィング」の看板が覆い被さってしまっていますが、
ピトケインはその上の黒と黄色の機体です。

ボーイング247は、それまでの航空機で最も近代的なシェイプでした。
実際、「最初の近代的旅客機」と呼ばれています。

1933年、ユナイテッド航空で就航し、航空輸送に革命をもたらしました。
競合機の2倍の速度を出すことができるこの設計は、
新世代の民間航空機の先駆けとなったのです。

フォード・トライモーターの客室機内で乗客が食事をしているところ。

夜間の撮影らしく、窓の外は暗く、室内灯が灯されています。
しかし、この写真は宣材のために撮られたものなので、
もしかしたら飛行機は飛んでおらず、外の景色を映さないように
(フォトショなんて当時ありませんから)
夜、飛行場で撮影したのではないでしょうか。

ちなみに通路はやはり狭く、こちらもカニ歩き推奨です。


さて、というわけで、航空会社の懸命の宣伝にもかかわらず、
初期の航空旅行の実態は、およそ快適とは程遠いことがお分かりでしょう。

しかも、費用がありえんくらい超高額でした。 

飛行中、機内は騒音と寒さ、不安から乗客は極度に緊張を強いられ、
当時の与圧されていないため低高度を飛行する機体は
遠慮なく気象の影響を受け、激しく揺れることも度々。

当然、何人かは必ず乗り物酔いに見舞われることになります。

冒頭のパイロットのいう吐瀉物は、当時の飛行機につきものだったのです。
そこでずっと勤務し、必ず何人か現れる乗り物酔いの乗客の世話を焼く
客室乗務員が、その臭いに塗れても・・これは仕方がありません。

航空会社は乗客のストレスを軽減するために、あれやこれやと
多くのアメニティを提供しましたが、1940年代に入っても、
その環境は変わらず、空の旅は相も変わらず過酷であり続けました。 

■ 機内放送(メガホン)



スミソニアン博物館には、この時代の旅客機で、
フライト中に客室乗務員と乗客がコミニュケーションを取るための
「メガホン」が展示されています。

当時の機内はエンジン音と機体が風を切る音で、
人の声を聞き取ることが不可能だったのです。

フォード・トライモーターの場合、離陸時の騒音は120dBに達し、
それがずっと続けば永久的な聴力障害をきたすほどでした。

ちなみに、通常の会話が60dB、交通量の多い道路は70dB、
掃除機(アメリカ製)80dB、ロックコンサートの最前列が110dBです。

聴力が受ける痛みの閾値は130dBであり、
160dBの音で鼓膜は瞬間穿孔を起こします。


ここで閑話休題、豆知識です。

なぜ高いところに上ると耳が痛くなるのか?

それは、耳と喉を繋ぐ空気で満たされた小さな管が、
上昇or下降中の気圧の変化によって頭の中に生じた圧力差のせいで
詰まってしまうからです。

あくびをしたり唾を飲むこむと、この管が開いて、
圧力が均等になり、耳は元通りになるというわけです。

高層ビルへのエレベーターに乗ったこともない当時の人のほとんどは、
この初めて体験する症状にかなり驚かされたことでしょう。


そこで航空会社が乗客のために配ったのが、ガムでした。
離陸&着陸時の気圧の変化のために、客室乗務員は
この洗練されたステンレスのディスペンサーを乗客に差し出し、
離陸&着陸前に噛むことを推奨していたのです。


流石に、ケースは乗客に配られたものではなく、中身だけとなります。
これは1938年、イースタン航空の機内で使用されていたものです。



ケースの後ろにはCHASEとありますが、
アメリカでチェイスといえば銀行しか思いつきません。

■ ダグラスDC-3〜航空旅行のさらなる拡大



1935年に初飛行したダグラスDC-3は、
航空輸送の黎明期に最も成功した旅客機となり、
政府の補助金なしに収益を上げて飛行した最初の航空機となりました。

民間用と軍用、米国製と外国製を合わせ、
13,000機以上が製造され、現在も多くの機体が飛行しています。



人気のあった14席のDC-2の大型化型である21席のDC-3は、
当時の基準では快適で、強固な多桁翼と全金属製の構造により
非常に安全という評価を受けていました。

航空会社は、信頼性が高く、運航コストが低く、
ひいては収益性が高いことからDC-3を高く評価しました。
パイロットは、その安定性、操縦性、
そして優れた単発エンジン性能を高く評価しました。

博物館に展示されているこの飛行機は、
イースタン航空で56,700時間以上飛行しました。
1952年に退役後、イースタン航空の社長、
エドワード・V・リッケンバッカー氏から博物館に寄贈されました。



1936年に撮影された旅客機内部です。

「嘔吐物まみれ」の頃からは随分進化しているように見えますが、
先ほどの文章を思い出してください。

「1940年代に入っても飛行機の旅は過酷であり続けた」


とはいえ、飛行機のシートもシートベルトこそないものの、
現在の形にいきなり近づいてきているようで、席は3列配置です。

飛行中は足元に十分なスペースがあったものの、
頭上の荷物置き場は現在の電車並みで、これは揺れが酷いと
上から落ちてくることもあったのではないでしょうか。

また、搭乗時には適切な服装が求められ、服装規定もありました。
乗客にノブレスオブリージュ的なものが求められていたなんて、
現在の飛行機の乗客から見ればなんのこっちゃって感じですが。

この1930年代は航空旅行が爆発的に成長した10年間でした。
乗客数は1930年の6,000人から1934年には45万人を超え、
1938年には120万人へと、10年間で驚異的な増加を見せました。

しかしながら、インフレ調整後の 航空運賃は2万ドルにも達し、
多くの人にとって航空旅行はやはり手の届かないものでした。

ですから、この写真に見える客室乗務員以外の乗客は、
いずれも社会のごく一握りの「上級国民」だったということです。


続く。


空路にしますか?それとも線路?1927年以降の航空〜スミソニアン航空博物館

2025-06-24 | 航空機

郵便輸送によってアメリカに航空事業が誕生し、
それが民間の手に渡って発展してきたところで、スミソニアン航空の
航空運輸の歴史、フェイズ2に入ります。

1927年から始まるこの時代とそれまでを分けるのは、
飛行機が運ぶものがものから人へと変わったことです。



世界大恐慌にもかかわらず、第二次世界大戦前の1920年代後半から
1930年代にかけて、米国の航空輸送は驚異的な成長と変化を遂げました。

技術の進歩に伴い、航空機は第一次世界大戦当時の複葉機から、
洗練された高性能の現代的な旅客機へと進化しました。

政府の指導の下、郵便局と商務省を通じて強固なインフラが整備され、
規制改革により業界の形も変わりました。

旅客サービスは定着し、成長を遂げ、航空路は全国に広がりました。

しかし、航空旅行は非常に高価であったため、
富裕層や出張者だけが利用していました。

加えて、飛行機の快適さは日に日に改善されつつあったとはいえ、
依然として不快さを我慢しなければならない場面が多かったのも事実です。

■ バミューダ?それともカリフォルニア?


1930年代には、飛行機を利用できるのは、
超エリートビジネスマンや、裕福な層の旅行者だけでした。

しかし、彼らの多くでさえ、この新しい旅行形態に不安を抱いていました。
航空会社の広告では、スピード、快適さ、
そして何よりも安全性が強調されていました。

しかし、これらの魅力的な広告は、信用できるものだったのでしょうか。

今日と同様に、旅行者は、旅行オプションのメリットとデメリットを
吟味し、比較検討する必要がありました。



「広告が信用できなくとも、私を信用してください」(キリッ)

■ 飛行機ですか?汽車にしますか?


あなたが今、シカゴから太陽の光が降り注ぐカリフォルニアまで
旅行したいと考えていたとします。
あなたはこれまで列車での優雅な旅を何度も体験してきました。

しかし、今回、友人たちが飛行機での旅を熱心に勧めてきたので、
この新しい乗り物に興味が出て、検討してみることにしました。

飛行機と列車の広告を見てみましょう。

• どちらが速いですか?
• より快適ですか?
• より高価ですか?

【列車】


「酋長はやっぱり酋長」

・・・は?

って感じのコピーですが、この酋長(チーフ)とは、
「チーフ」という名前の長距離客車とかけているのです。


チーフは、イリノイ州シカゴとカリフォルニア州ロサンゼルス間を走っていた
アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道の長距離客車列車です。

サンタフェ鉄道は1926年チーフを始動させ、
サンタフェの標準列車として徐々に増やしていきました。


「そして、機関車は今でも輸送手段の王者です。
大きさ、速度、運行の安全性において、機関車に匹敵するものはありません。

THE CHIEFがアメリカ西部の大平原を颯爽と走り抜ける力は、
サンタフェシステムの選りすぐりのエンジニアたちによって制御されます。

THE CHIEFの乗客の喜び、快適さ、安全性に必要な
完璧なレスポンスを得ることに精通したエンジニアたちです。」

エンジニアの匠に焦点を当てた広告です。
今日でも即採用されそうなコピーですね。


チーフは完全にリクライニングする座席を備えた豪華な列車であり、
すべての乗客が利用できるラウンジとプレジャードームなど、
すべての設備が整っていて、旅行客に人気でした。

しかし、1960年代半ば、チーフの高級バージョン、
スーパーチーフが高級路線を打ち出し、一部の特別客を優遇し、
一般客を排除する方向に舵を切ったこともあり、その高いコスト、
航空会社との競争、郵便局との契約 の喪失により、
1968 年に廃止されたのでした。



こちらは夜行列車で安く、快適に旅しましょうという広告。
シカゴ&ノースウェスタン・ユニオンパシフィックでは、
「ストリームライナー」という清潔で快適、エアコン完備の夜行、
特別料金39ドル50(40とは絶対に言わない)で、
シカゴからサンフランシスコまで39時間と45分
(四捨五入すると40時間ですが)で行けますよ、と言っています。

料金はおそらく必要な時間と同じになるように設定したのでしょう。

不思議なことに、シカゴからなら、サンフランシスコとLAに
全く同じ時間で行けると宣伝しています。

日本の鉄道会社じゃないので、おそらく時間はアバウトで、
誤差は何十分単位であったのではないかと想像されます。

【空路】


こちらはTWA(トランスコンチネンタル&ウェスタンエア)の広告です。

「TWAは、通常の鉄道運賃に比べ最もお得な低運賃を提供いたします」

飛行機と汽車を比べると、価格的に汽車が安いと思われがちですが、
この広告では、当社の特別航空運賃と、列車の普通の運賃を比べると、
期間限定ではあるけれど、ほとんど同じくらいなら
早くて快適な飛行機がいいでしょう?と宣伝をしています。

コピーの頭に「リンドバーグライン」という言葉を入れるのも忘れません。


今!カリフォルニア州への最速アクセス

途中経由2空港のみ
唯一の乗り越しサービス

シカゴ発(CT東海岸時間)8:25 P.M.
カンサスシティ着(CT)11:00 P.M.
アルバカーキ着(MT中部時間)3:20 A.M.
ロスアンジェルス到着(PT西海岸時間)7:00 A.M.

TWAダグラスラグジュアリーエアライン

最も快適・・最速・・超静粛性・・空調完備

ニューヨーク路線4本、たった4時間25分!

東西海岸を結ぶ最速最短ルート

とにかく、「速い」ということを全面的に謳っています。


リンドバーグラインとチーフが手を組んだ姿です。
列車のチーフのトレードマークでもある部族の酋長が、
飛行機にに手を振っていて、この試みが
「スカイチーフ」であるということがポスターに書かれています。

スカイチーフは、DC-2で運行されていた路線で、大陸間を定期運行し、
ニューアークからロスアンジェルスまで、17時間39分で移動しました。
途中でシカゴ、カンザスシティ(給油)、アルバカーキ、
そしてロスアンジェルスのグレンデールに到着します。

確実に、静かに、速く

夜通し、そして毎晩、この空の君主はアメリカを横断します。

TWAの他の豪華スカイライナーは、カリフォルニア、シカゴ、
ニューヨーク間の昼間のフライトを双方向で運航しています。

また、全機が3つの無線受信セットとトランスミッターを装備しており、
4つの周波数(昼用2つ、夜用2つ)で運用されています。

TWAは、スムーズで安定した飛行を保証する
スペリー・ジャイロパイロットと自動安定装置を完全に装備した
世界で唯一の航空会社です。
ジャイロ・パイロットのおかげで、人間のパイロットは
飛行監視や科学的ナビゲーションに十分な時間を割くことができます。

指向性無線ビームは、パイロットを安全かつ確実に
次の目的地へ導く広いハイウェイを提供します。
さらにTWAは、米国の航空会社の中で
最も完全な天気予報サービスと気象ストールを維持しています。

より多くの乗客がTWAを選ぶのも不思議ではありません。
あなたも最高の快適さと信頼性を求めるのであれば、
TWAの各事務所、または一流ホテルや旅行会社でお問い合わせください。

ダグラス・スカイライナー
すべての高さで(ON EVERY HIGHT)

最後の「オン・エブリ・ハイト」はキャッチロゴだと思われます。

この広告では、懸念されがちな安全対策をこれでもかと謳っています。
当時TWAが発行した「スカイチーフ横断フライトガイド」には
このようなことが書かれていました。

空港ターミナルでは、活気あふれるざわめきが聞こえ、
制服を着た係員が待機し、手荷物検査が行われ、
電報が送られ、雑誌が購入される。

そして、胸を躍らせる「全員搭乗」のアナウンスが流れる。

2基のエンジンが完璧なタイミングで轟音を立てる。
都市から都市へ、そして海岸から海岸へとメッセージが流れる。

「スカイ・チーフは定刻に出発しました」

17人の乗客と1000ポンドの郵便物が空の旅路へと舞い上がる。
巨大な飛行機は高度を上げ、ニューヨークとカリフォルニア間の、
5つの寄港地のうち最初の寄港地に向けて航路を進む。

前方では、2人の熟練したパイロットが並んで座り、
地図を調べ、計器に注意深く目を光らせている。

710馬力のエンジン2基を搭載し、ジャイロパイロットで操縦される機体は、
設定された航路から決して外れない。

「シカゴより、ファースト・スカイ・チーフより。
現在、プリマスの西10マイル、高度8,000フィートを飛行中です。
高度制限なし、視程10マイル。
シカゴには25分で着陸予定です。
風と天候はいかがですか?」

「シカゴより、ファースト・スカイ・チーフより。
こちらは南西の風、時速10マイル。気圧計300。
天候は晴れ、視界制限なし」

雲の上でのディナーは実に魅力的で、食欲をそそります。
上空の清潔で新鮮な空気を吸うだけで、
美味しいフライドチキンでしか満たせない食欲が刺激されます。

前方に街の明かりが見え、ビーコンが点滅。
スカイライナーは別の都市の空港に向けてゆっくりと降下を開始します。

スカイライナーは大量のガソリンを消費します。
510ガロン。給油なしで1,000マイル以上飛行できる量です。

10分後、飛行機は新たなスタートを切ります。
次の目的地はカンザスシティ。大陸の半分を横断しました。

空気は静かで穏やかです。
目立った動きはなく、機内は静まり返っています。
用心深い客室係は、乗客の頷きに気づき、より快適な姿勢を提案し、
椅子の位置を調整し、完璧な寝心地のために、
枕を一つか二つ追加し、カーテンを閉めてまわります。

乗客はいつの間にか眠りに落ち、何百マイルもの旅が過ぎ去っていきます。

機内の別の場所では、ブリッジゲームが行われています。
二つの椅子を逆さまにして、互いに向き合わせています。

旅も終わりに近づくと、リフレッシュしてリラックスし、
新たなエネルギーを得た乗客は、しぶしぶスカイライナーから降ります。

静かで豪華なパーラーキャビン、埃や塵からの解放、
そしてスムーズで迅速なフライトにより、
TWA は他の旅行手段の追随を許さない存在となっています。

開拓者たちは長時間の旅を強いられたものですが、
今日の乗客はエネルギーと時間を節約し、
経済的な航空輸送を楽し無ことができるようになったのです。

これが語り継がれるべき物語。スカイチーフの物語です。

ちなみに冒頭のビューローの男子の後ろには、
「飛行機か船か」という選択もあります。

船と飛行機を比べても、そもそもいろんな意味で全く違うものなのですが、
当時の旅行者は、各自が、自分の経済力と、時間的余裕と、
安全性に対する信頼度を秤にかけて移動手段を選んでいました。

そういう時代だったのです。

続く。


大陸横断空陸路線の誕生〜スミソニアン航空博物館

2025-06-21 | 航空機


■航空と列車で大陸を横断



1929年、TranscontinentalAir Transport (T.A.T.) は、
昼間は飛行機、夜間は列車に乗り継ぐという形式による
ニューヨークとロサンゼルス間の旅客サービスを開始しました。

郵便航空のとき、実験的に夜間飛行は行われていましたが、
生身の人間を乗せるようになると、夜間飛行は流石に敬遠されたため、
会社が考案したのがこの「陸空乗り継ぎ作戦」です。

一気に西海岸に行きたい乗客は、まずニューヨーク発の夜行列車に乗ります。
ペンシルバニア鉄道の夜行でオハイオ州ポートコロンバスまで行き、
そこで彼らはフォード・トライモーター機に乗り込み、
オクラホマ州ウェイノカまで数名が乗り換え、
そこからサンタフェ鉄道の夜行列車に乗り換えます。

ニューメキシコ州アルバカーキ駅で、最終区間を空路で進むため、
ロサンゼルス行きトライモーターに乗り込むというわけです。


こちらはニューヨーク-サンフランシスコ路線

このT.A.T.の空陸便は、列車のみの場合よりも1日早く着きますが、
片道切符の料金はなんと338ドルでした。
現在の7,700ドル、2025年現在、113万2,000円となります。

ちなみにこの時代、車のフォード・モデルAは525ドル、
シボレー・コーチは595ドルでした。

車は一般市民には縁がなく、限られた富裕層のものでした。



Clement Keys

T.A.T.を設立したのは、先見の明のある投資銀行家であり、
カーチス飛行機自動車会社社長のクレメント・キーズです。

それは、人を運ぶ旅客機の運航が現実的なものとなったことを表しました。

それ以前には、ニューヨークとシカゴ間の郵便輸送を目的とした
ナショナル・エア・トランスポート社を設立し、その後、
ノース・アメリカン・アビエーションという持株会社を設立し、
イースタン・エア・トランスポート社とT.A.T.社を傘下に収めました。

また、1929年には、カーチス・エアクラフト社と
ライト・エアロノーティカル社の資産を、
カーチス・ライト・コーポレーションという別の持株会社に統合しました。


T.A.T.、トランスコンチネンタル航空輸送は、大西洋横断飛行の英雄、
チャールズ・リンドバーグを技術顧問として採用しました。

リンドバーグは航空機を選定し、T.A.T.の横断ルートを選定・計画し、
必要なすべての飛行場や施設の建設を監督する任務を請け負いました。

T.A.T.とその後継会社、トランスコンチネンタル・アンド・ウェスタン航空
(T.W.A.)は、「リンドバーグ・ライン」として知られるようになります。


ポスターでも「リンドバーグ・ライン」を謳っているのに注目。


ニューヨーク-ロスアンジェルス-サンフランシスコの路線は、
リンドバーグが実際に飛んで確かめ、決定した航路です。


リンドバーグ夫人、アン・モローも飛行家で、
夫と共に航路を開拓したという実績の持ち主ですが、
彼女はこんな言葉を残しています。

「このTATラインに費やされた細部にただただ驚くばかりだ。
快適さと贅沢さに大変気を配っている。
そして、飛行機から列車に乗り換えて夜の線路旅行を楽しむこともできる。
また、乗客一人一人に地図が配られ、その国について学ぶことができる。」


しかし、残念ながら、T.A.Tのこの商売はあまりうまく行きませんでした。
敗因は・・・郵便でした。

T.A.T.は路線で航空郵便を運ぶという契約を結ばなかったため、
当然、収入は乗客輸送によるものに依存せざるを得ませんでした。
(繰り返しますが片道料金は現在価格で113万円です)

経営はうまくいっていたのにも関わらず、すぐに深刻な財政状況に陥ったのです。

■ 航空はビッグビジネスになった

チャールズ・リンドバーグによる1927年の歴史的な大西洋横断飛行、
当時の株式市場の活況により、投資家の航空業界への関心が高まり、
その後、業界全体で合併や統合が相次ぐ激動の時代がやってきました。


航空写真のパイオニア、フェアチャイルド(カメラを持ってる)

間もなく、4つの大手航空機持ち株会社が誕生しました。

ウィリアム・ボーイングとフレデリック・レンシュラーは、
まず、プラット・アンド・ホイットニー社を設立し、
最初の、そして最大の航空機持ち株会社である
ユナイテッド・エアクラフト・アンド・トランスポート社を設立。

クレメント・キーズは、ノースアメリカン航空社とカーチスライト社を設立。

航空写真のパイオニアであるシャーマン・フェアチャイルド、
アヴリル・ハリマン、ロバート・リーマン
(ブラザーズではない)は、
AVCO社(The Aviation Corporation)を設立しました。

これらの統合により効率性は向上したものの、各航空会社は、
政府の支援なしには依然として利益を上げることができませんでした。


ウィリアム・ボーイング(左)、フィリップ・ジョンソン(右)、
クレア・エグトベット、エディ・ハバード
は、1927年に、
シカゴからサンフランシスコまで郵便を運ぶ航空便を運航するために
ボーイング航空輸送(B.A.T.)を設立しました。

B.A.T.は成功を収め、パシフィック航空輸送を買収しました。
1931年までに、これら2つの航空会社は、バーニー航空および
ナショナル航空輸送とともにユナイテッド航空として運航していました。



■ 航空+汽車による大陸横断ラインポスター



T.A.Tの飛行機+夜行列車移動プランポスター



「沿岸から沿岸へ」を謳ったT.A.T.ポスター



マダックス航空のポスター

車のディーラーだったジャック・マダックスが1927年に設立した会社です。
最初のフライトで、サンディエゴからロスアンジェルスまで飛んだ機体は、
のちにLA空港ができる小さな未舗装の滑走路に着陸しました。

著名人を招待し、宣伝するということを積極的に行い、
リンドバーグ、イヤハート、有名俳優などが乗客として紹介されました。



しかし、マダックス航空のトライモーターが、サンディエゴ近郊で
米陸軍の複葉機と空中衝突し、乗員乗客全員が死亡する事故が起こります。

衝突した陸軍機に乗っていた中尉は、機外への脱出を試みましたが、
パラシュートが絡まり、機体と共に墜落し、やはり死亡しました。

この事故は、史上初めての旅客機墜落として記録されることになります。

のみならず、翌年の1930年、同じくトライモーター機が、悪天候下、
高度を誤って判断するミスで左翼を地面に激突させ、機体炎上。
パイロット2名と乗客14名全員が死亡する事故となってしまいます。

マダックス航空はその前にすでにT.A.T.に買収されていましたが、
事故当時、まだ機体にはマダックスのロゴが残されていました。


スタウト・エアサービスのポスター

スタウト・エアは、デトロイト-クリーブランド間を飛んだ飛行機会社です。
1931年には吸収され切って?ユナイテッドの一部門になりました。


ジェネラル・エア・エクスプレスのポスター

ジェネラル エア エクスプレスは、ウェスタン・エア・エクスプレスが
使用していた名前で、同社は5年後、
トランスコンチネンタルに強制合併され、
1941年にウエスタン航空 (WAL) となりました。 

当時の航空専門誌の記事にはこんな一文があります。

「米国は広大な面積をカバーしなくては移動できないので、
最も有効なルートが大企業によって管理されることは避けられない。」

このように、小さな航空会社が大手との合併吸収を逃れることは
実質不可能だったということになります。

続く。




「エアメール・スキャンダル」航空便から旅客機へ〜スミソニアン航空博物館

2025-06-14 | 航空機

スミソニアン博物館プレゼンツ、郵便航空の発展と歴史シリーズ最終回です。



このポスターは、ナショナルエアトランスポート社の
エアメール便の広告で、「エアメールは時短」というキャッチコピーで
最初の1オンス5セント、追加1オンスにつき10セント追加、
という料金システムが簡単に書いてあります。

同社はのちにユナイテッド航空になった航空会社で、以前ここでお話しした、
名物パイロット「ワイルド・ビル」ことウィリアム・ホプソンが、
命を失うことになった事故の際、所属していたのはこの会社でした。

■ 航空業界に変革をもたらした先見の明


米国の旅客航空業界の最も重要な立役者と言われるのが
このウォルター・ブラウン郵政長官です。

郵便の輸送によって始まった航空輸送ですが、最初の失敗を見るまでもなく、
もし、航空というものが、最初から人員輸送だけをターゲットにしていたら、
おそらくこのシステムはすぐに立ち行かなくなっていたでしょう。

郵便路線によるルートの開発と、同時に機体が進化したことで、
小さな航空会社が路線ごとに点在する状態から、次第に
会社同士の合併によって大規模な持ち株会社が生まれていったわけです。

ブラウン郵政長官は、こういった波が業界を発展させ、旅客輸送を促進し、
政府補助金を削減するための経済的影響力を提供できると読みました。

そこで彼は、航空会社への支払い方法を変更し、
補助金制度をより公平なものに変え、国の航空路を合理化し、
航空会社が乗客を運ぶことを奨励する経済的インセンティブを提供した
1930年のマクナリー・ウォーターズ法の草案作成に貢献しました。

この草案は、航空会社の成長と革新を促進することを目標としていました。

■航空郵便システムの改革

ウォルター・ブラウンは航空郵便システムを4つの方法で改革しました。

• 4年間の航空郵便契約を独占的な10年間の路線認可と交換すること。
契約期間10年と長くすることで、航空会社は長期的な安定性が保証されます。
これで郵便局は毎年支払い料金を引き下げることができます。

• 支払い料金を引き下げながら路線網を拡大すること。
納税者の負担を増やすことなく航空路の距離を3倍にしました。

・旅客機技術向上に対するボーナスを支給すること。
より大きく、より速く、より安全で効率的な旅客機の開発を促進しました。

・航空機に搭載可能なスペース単位に応じて支払いを行うこと。
郵便局は航空郵便の全輸送業者に対して
より公平に支払いを分配することが可能となりました。

■ 大陸横断航空郵便ルート

乗客の旅行を促進し、複数の航空会社の倒産を救済するために、
ウォルター・ブラウンは2つの大陸横断航空郵便ルートをさらに追加しました。



サウスウェストエア航空高速エクスプレスと、



ロバートソン航空が南ルートを獲得しました。
あのチャールズ・リンドバーグは、ここで飛行教官を務めたことがあり、
ルートを最初に飛ぶ初飛行を行っています。



チャールズ・リンドバーグは、1927年、
ライアンNYPスピリット・オブ・セントルイス号で
ニューヨークからパリまで単独無着陸飛行を初めて成功させた人物として、
一躍時の人となりました。

彼は当時のヒーローであり、
国内の子供たちは誰もが彼の名を知っていました。

航空業界では「リンドバーグ・ブーム」が起こり、
航空機産業の株価が上昇し、空を飛ぶことへの関心が急上昇しました。

リンドバーグはその後の米国での広報活動で、
飛行機が安全で信頼性の高い輸送手段であることを示しました。

リンドバーグは自身の名声を商業航空の拡大に利用しました。
トランスコンチネンタル航空輸送は、T.A.T.の航空機、路線、システム、
設備の選定を支援してもらうために彼を雇いました。

また、パンアメリカン航空にも助言を行い、その拡大に貢献しました。

そんな彼が有名になる2年前には郵便航空パイロットであったことは、
アメリカにおける飛行機輸送の象徴的な事実に思えます。



先ほどのサウスウェスト航空とロバートソン航空は合併し、
アメリカン航空に合併しました。

このマークは、1934年従業員のグッドリッチ・マーフィーが考案したもので
アメリカンエアラインを表すAAは2013年まで使われました。


アメリカン航空のロゴの変遷。

ワシの意匠は年を経るごとに小さく、かつ抽象的になっていき、
現在バージョンではついに原型もなくなってしまっています。

というか、ワシは2013年、羽を広げてやっと飛び立ったってことでおk?

それにしても現在のロゴ、シンプルといえばシンプルなんだけど、
なんというかこのスカスカした感じ・・・断捨離的な?


ウォルター・ブラウンは経済規制を通じて民間航空の成長を導こうとしました。

彼の航空システム管理は、その後の航空規制のモデルとなりました。
今日の航空輸送システム、および補助金、規制、規制緩和によるその進化は、
まさにブラウンが何十年も前に思い描いていたことを反映しています。

■ エアメール・スキャンダルとは

別名「航空郵便大失敗」として知られる政治的事件です。

サクッと述べると、特定の航空会社が航空郵便業務を契約したことを受け、
議会がこれを調査した結果、政府はこの契約を取り消し、
郵便配達を陸軍航空隊にさせることで問題は激化したというものです。

まず、こんなことが例のブラウンの元で行われます。

ウォルター・ブラウンの「略奪品会議」(Spoils Conferences)



当時の郵政長官であったウォルター・ブラウンは、1930年5月、
航空会社の幹部たちと会合を開き、新たに制定された航空郵便法、
マクナリー・ウォーターズ法の実施を宣言したのですが、そこで

「大手航空会社が路線を分割し、小規模航空会社は排除する」

そしてその路線に関してはブラウンが決定するというものでした。
ただ、これは、ブラウンにすれば十分理由のあることでした。

事実、経営状態の良い旅客航空会社の存続を確実にするために、
航空会社に航空郵便会社と合併をさせたことで、
大恐慌の最中に多くの航空会社が消滅を免れているのです。

また彼はこの会議で小規模で経営状態の悪い航空会社を排除しましたが、
それは他の航空会社との合併によって効率性を高めるためでした。


その合併の一例を挙げると、新しいセントラル航空路線を運航するために、
トランスコンチネンタル航空輸送とウェスタン航空エクスプレスが合併し、
トランスコンチネンタル・アンド・ウェスタン航空(T.W.A.)ができました。


また、アメリカン航空TW.A.は、ボーイング航空輸送
ナショナル航空輸送を吸収合併して1930年に大陸横断サービスを開始し、
後にユナイテッド航空として知られるようになりました。



■ エアメール・スキャンダル

この会議以降、ほとんどの路線と航空郵便契約が、
大手航空会社の持ち株会社に与えられることになります。

小規模な独立系航空会社の多くは、この措置が不公平であると訴えますが、
その大半は自社の契約を売却しており、また、法律が可決された時には
すでに存在していなかった(存続できなかった)会社もありました。

そこで独立系航空会社は、大手と郵政省に対して戦いを挑むことにしました。

座して死を待つよりはと航空会社持ち株会社の力を弱めるために戦った結果、
彼らの努力は、議会公聴会につながり、
例の会議参加者汚職や航空郵便独占の共謀容疑がかけられました。

それは決して根拠のあることではなかったのですが、
会議の詳細が世間に明らかにされ、スキャンダルに成長したのです。

これは小規模航空会社の窮鼠猫を噛む作戦であり、その勝利でした。


そして行われた上院議会による調査の結果、当時の航空担当商務次官、
ウィリアム・マクラッケンJr.が議会侮辱罪で告発されるのですが、旧政権
(フーバー)の時の役人だったので、それ以上の措置は取られませんでした。

ちなみにこの「侮辱罪」が具体的になんだったかというと、
ブラウンに押し付けられた形でこの略奪会議を開かされたので、
思うところあってか、上院での証言を拒否したこと、だったそうです。

トランプ政権に政権交代してから起こったことを見てもわかるように、
(共和党と民主党の間で政権交代が起こった場合は特に)
前政権で決められたあれこれが一夜にしてなかったことになったり、
有罪の人が無罪になったり、無罪の人が有罪の人になったりというのは
アメリカでは昔からあるあるです。(フーバー共和党、ルーズベルト民主党)

この汚職疑惑を受けて、新しく選出されたルーズベルト大統領は、
1934年2月19日にすべての航空郵便契約をキャンセルします。

ここまでは良かったのですが、ここからが
ルーズベルト政権の大失態だったといわれております。

まさか戦った当の小規模航空会社も、新政権がこのような、
斜め上の政策を取るとは思っていなかったに違いありません。

なんと、政府は、取り上げた郵便の輸送を(今さら)、
陸軍航空輸送隊に業務委託してしまったのです。

これは大失敗でした。


冒頭のポスターは、

ルーズベルトの「忘れられた男」12人の死者 - 航空便のパイロット

という風刺画です。
まず、先頭の男はルーズベルト政権の郵政長官、

ジェームズ・ファーリー James Farley

であり、彼の足元で顔を背けてこそこそと逃げているのは、FDR大統領。
ファーリーに恨み骨髄(文字通り)とばかり付きまとうのは、
彼らの命令によって命を落とした12人の陸軍パイロットなのです。

どうしてこうなった。

1934年2月、政府の命を受け、陸軍航空隊は再び郵便の輸送を開始しました。

しかし、装備の不十分だった陸軍の航空機で、厳しい冬の天候下という
最悪の状態で飛行されられた陸軍航空隊のパイロットたちは、
最初の数日のうちに墜落事故を頻発し、結果13名が殉職したのです。

これを受けてリンドバーグは「不当であり原則に反する」とお気持ち表明し、
リッケンバッカーは「合法的な殺人」とこのシステムを非難しました。


これはひどい
アメリカ陸軍航空隊のキーストーンB-6双発航空郵便機

陸軍がなんの準備もしなかったわけではないのですが、採用された
パイロット262人のうち、悪天候での飛行時間が足りていたのは48人、
夜間飛行経験者が31人、計器飛行時間50時間は二人だけという、
まあ要するに肝心のパイロットの人材が不足していたのです。

陸軍が郵便業務に関わっていないブランクに起こった機体の進化に
急拵えでは全く対応できなかったこと、装備不足のままの施行も災いでした。

もちろん世間からは大反発を受け、メディアはこぞって大失敗を報じました。

ルーズベルト大統領は即座にサービスを航空会社に返還させ、
郵政長官ファーレイは、当初の略奪品会議に似た手続きを行なって、
暫定契約を発行し、航空会社は即刻郵便飛行機の運行を再開しました。

■ 裁判なしの処罰〜ジョンソン社長の災難



1934年の航空郵便法により、大手航空会社持ち株会社は解体され、
航空郵便の独占を企てたとして告発された航空会社幹部は、
不条理にも解雇を余儀なくされることになります。

その一人が、ユナイテッド航空のフィリップ・G・ジョンソン(上)でした。

ジョンソンは他の多くの人々と同様に、
1930年にブラウンが主催した例の会議に出席していたわけですが、
皮肉なことに、ユナイテッド航空は、この「戦利品会議」で、
なんの利益も得ず、契約を獲得したわけでもありませんでした。

ユナイテッド航空は元々ボーイングとプラット・アンド・ホイットニー、
その他の会社が合併してできた

ユナイテッド・エアクラフト・アンド・トランスポート・コーポレーション

という巨大複合企業の持株会社がスキャンダルの余波で解体され、
再編で生まれた会社で、フィリップ・ジョンソンはこれを率いていました。

しかしながら、ジョンソンは4年前の会議に出席していたことで
スキャンダルの責任を遡求され、他の多くの航空幹部とともに、
数年間航空業界から公式に締め出されることになってしまったのです。

後日、ジョンソンと他の航空業界の重役たちの潔白は証明されますが、
マスコミによって着せられた汚名の代償は大きなものでした。

当時、米国の航空業界に参入することができなかったジョンソンは、
1937年に米国を離れ、カナダに活動の場を求め、そこで
トランスカナダ航空の副社長として設立に携わりました。

優れたビジネスマンであったジョンソンは、1937年から亡くなるまで
トラック製造会社ケンワース・トラック・カンパニーの社長も務めています。

1939年、ジョンソンをボーイングから追い出した連邦法が撤回され、
社長として復帰した彼は、第二次世界大戦のための軍需生産に携わりました。


続く。



航空郵便サービス機から商業航空機まで〜スミソニアン航空博物館

2025-06-08 | 航空機

スミソニアン航空博物館の展示より、
アメリカの航空便の元祖は郵便飛行機であった、ということと、
その黎明期に果敢に危険な任務に挑んだ人々のことなどをご紹介しています。

ところで、わたしは過去アメリカ滞在時に持って帰れない荷物を
段ボールで日本に送るということを繰り返してきました。

昔はそれを安く上げるために船便で送っていたのですが、
ある夏、突然USPS(アメリカの郵便局)の窓口で、

「船便で荷物は送れなくなりました」


と言いわたされたのです。
ええ?シッピングなのにシップがダメとはこれいかに?

それは、今にして思えば1995年のことでした。
この年、USPSはすべての国際ファーストクラス郵便を
追加料金なしで航空便による配送をすることを定め、
同時に船で輸送するサーフェス(シー)サービスを廃止したのです。

実質全ての便は航空便となったため、同時に
航空便という言葉も区別のために使われることがなくなり、
要するに公的には死語となったということです。

1918年に開始され、生まれた「エアメール」という言葉は、
2006年になってAir Mail (AとMは大文字)で商標登録されました。



写真の模型は、以前ご紹介したプラット&ホイットニーの
ワスプエンジンを搭載した

ボーイング40B 

です。


複葉機は搭載量が多く、運用コストが低かったため、
ボーイング航空輸送は1927年、定員2名のボーイング40Aを生産し、
シカゴとサンフランシスコ間の航空郵便路線を運行しました。

ボーイングは、この航空機の大型バージョンであるボーイング40Bを開発。

4,400キログラムの郵便物と4人の乗客を輸送することができました。
写真を見ていただければわかりますが、客席はコクピット内にあり、
パイロットはコクピットの後ろ側のオープンコクピットで操縦しました。

この頃の航空機は、オープンでないと視界が確保できなかったのです。



以下、淡々と郵便サービスに使用された飛行機を紹介していきます。
中には導入される前に実験段階でポシャったもの、
使ってみたけどあまり具合が良くなかったものなどもあります。

■郵便輸送に活躍した(orしなかった)航空機

○カーチスJN-4D
1918-1921


郵便サービスを最初に行ったのは陸軍パイロットでしたが、
1918年に郵政省のパイロットに任務が移管されてからは、
このカーチスJN-4Dのエアメール便仕様が仕様されました。

×スタンダードJR-1B
1918~

航空郵便を念頭に設計された最初の飛行機です。
6機製造され、短期間使用されました。

×カーチスR-4LM
1918

最初の年に郵政省が導入した飛行機です。
これも使用は短期間に終わりました。

◎デ・ハビランドDH-4B
1918-1927

エアメール開始記念の記念切手にも描かれたデハビランドDH-4は、
第一次世界大戦にも参加した軍用機でしたが、
郵政省は郵便サービスを始めるにあたり、100機の余剰分を
陸軍から購入し、回収して4Bと名付けて運用しました。

評価が安定している割に戦争が終わって余っているため、
安い値段で機体が購入できたのが導入の大きな理由だったそうです。

×マーティンMB-1爆撃機
1919


郵便システムの推進者だったオットー・プレジャー
大量に郵便物を運ぶことができる爆撃機を導入してみたものの、
航続距離と搭載力は良くともいかんせん値段が高く、
しかも早々に死亡墜落事故を起こしてケチがついたので試用のみ。

×ツインDH
1920



これもプレジャーの「一度にたくさん運べる飛行機」という希望のため、
デハビランドのDH-4Bにエンジンを換装してみたものの、いかんせん、
振動がひどくすぐ不時着し、これも死亡事故が起きてしまいます。

事故を受けてプレジャーは改装をやめさせました。

×××ユンカース・ラーセンJL-6
1920-1921


プレジャーが懲りずに導入しようとした3機目は、ユンカース。
アメリカに持ち込んだのがジョン・ラーソン・エアクラフト社でした。

BMWのエンジンを積んだ高速の飛行機でしたが、いかんせん、
航空郵便サービス史上最大の失敗、黒歴史となってしまいます。

テストでは9回も不時着したのに、プレジャーは無理くり路線を飛ばせ、
その結果、

墜落、パイロット火傷の重症
燃料漏れで空中爆発、パイロット死亡
空中で機体炎上、パイロット2名と整備士1名死亡


だから言わんこっちゃない(I told you so.)
張本人

JL-6はその後永久に飛行停止となりました。

○ダグラスM-1
1926-1927


DH-4Bが老朽化したため、郵政省が発注した最後の郵便機。
この発注後、ケリー法が成立して、それ以降郵便業務は
政府から民間請負業社に引き継がれることになったため。

○カーティスキャリアピジョン(伝書鳩)
1926-1929


夜間飛行を念頭に造られた航空郵便サービス専用機。

◎ フォード5-AT
1926-1928



ヘンリーフォードが飛行機産業に参入するに当たって送り出した、
金属製の波型外板を搭載、(あだ名はブリキのガチョウ)
定員6名で搭載量も優れた機体は、大変評価が高く、
この派生型機はトランスワールド、アメリカン、ユナイテッド、
フォード自身のパンアメリカン航空などで使用されることになりました。

○ウェイコ9
1925-1934


90馬力のカーチスOX-5モーターを積んでいて、パワー不足のため
しばしば横転することで知られていたにも関わらず売れた飛行機。

△スワローOX-5
1926-



小型で積んでいるのもOX-5ということで積載量は小さく、
航続距離も短かったのですが、バーニー航空が使用していました。


?トラベルエア 5000
1927-1930



14機しか生産されず、無名の飛行機でしたが、
なぜか驚異的な航続距離を誇る隠れた名機でした。
郵便航空のために5機が購入され、業務を行いました。

?ピトケアンPA-7S メールウィング
1930


郵便航空機の代名詞でもあったピトケアンの改良版。
さぞ素晴らしいものになると思いきや、8機作ったところで
新しいPA-8が製造されることになり、製造中止になりました。

現場でどんな働きをしたのかはわかっていません。

?ボーイング221モノメール
1930−1933



ボーイングがこの時代生み出した近未来的シェイプの傑作。
時代を先取りした胴体下部の翼、滑らかな流線型の機体、
そして、画期的だった格納式の着陸装置は、おそらく
当時のパイロットをさぞ興奮させたことでしょう。

郵便輸送サービスのためだけに2機製造されたと言いますが、
郵便業務より、大陸横断旅客サービスのために改造されたことが
この飛行機の大きな意義であったと思われます。

○シコルスキーS-42
1934-


郵便輸送のためというより、最初に成功した水上飛行機として、
36名の乗客を乗せ、貨物には郵便も乗せることができたというもの。

4 基の 750 馬力のプラット アンド ホイットニー モーターを搭載、
シコルスキー S-42は、定員36名、2,000 ポンドの郵便物を運びました。

○ ダグラスDC-3
1935-



アメリカの輸送航空は郵便輸送から始まりました。

しかし、機体が進化するにつれて、航空機の輸送の主体は
郵便物ではなく人になっていき、航空会社もその収益を郵便物輸送ではなく
人員の輸送から得る方へとシフトさせていきます。

そして、その転換の最終形を象徴するのがこの飛行機です。

ダグラスDC-3は1935 年に初飛行するや否や、全米に普及しました。
この飛行機は、ダグラスが初期のM-2 以来どれだけ進歩したか、
そして 10 年間で航空機技術がどれだけ急速に進化したかを実証しました。

時速 83マイルで乗客28名と2083ポンドの郵便物搭載可能なこの飛行機を、
アメリカン航空は、象徴的な「フラッグシップ フリート」の基礎として
1937年に37 機導入して運用を開始します。

また、パンアメリカン航空は、北米路線に DC-3 を使用し、
ユナイテッド航空は1956 年まで6 機の DC-3 を所有していました。

1938年までに商業航空機の 95% が DC-3 だったというほどです。

1936 年までに、ケリー法の目的はついに実現しました。

1918 年、国内郵便のより早い配送を目的に政府が始めた取り組みは、
1920 年代後半から 1930 年代前半にかけて、郵便局を通じて政府に移行し、
民間企業を支援して、安定した幅広い商業航空サービスを確立したのです。

設立当初はかろうじて生き延びていた航空会社は、
航空郵便契約によって生き延びただけでなく、より大きく、
より優れた飛行機を研究する資金を得ることができ、最終的に
収益の大半を乗客に負う飛行機を所有する未来を手に入れました。

当初、郵便局とその郵便契約がなければ、
国の商業航空システムと航空機メーカーは、
今日のようなアメリカ産業の巨人にはなれなかったでしょう。

■ エアメールゲーム


スミソニアンに展示されていたカードゲームについて最後に説明します。



「アビエーション:エアメールゲーム」

1883年に16歳のジョージ・パーカーが初めてゲームを発売して以来、
パーカー家の三人兄弟が経営してきたパーカーブラザーズは、
モノポリーの初代発売元として知られるアメリカの玩具・ゲーム会社です。

同社はアラスカのゴールドラッシュや、米西戦争を扱うなど、
歴史的なできごとを取り上げたゲームを発売してきましたが、1929年、
民間航空への関心の高まりを利用しようと、
この「アビエーション:エアメールゲーム」を発売しました。

このゲームは、2人から4人のプレイヤーで遊ぶもので、
ボストン-サンフランシスコ間の12都市に郵便物を届けるという設定でした。



表が赤いカードが目的地を、青いカードが飛行条件を決定します。



目的地は「ワシントン」「クリーブランド」「デトロイト」「ボストン」
ディレイカードには「コンパスのトラブル」「濃い霧」「不時着」
順番を飛ばされるカードとして「パラシュートで脱出」
ラッキーカードには「好天」「超高速」などがあります。

つまり、天気が良ければ郵便は速く届き、悪天候やエンジンの故障があれば
遅れるという条件の中、早く目的地に着けば勝ち、というゲームです。

当時英雄になったチャールズ・リンドバーグ人気に便乗して、
カードの飛行機は彼が操縦したスピリット・オブ・セントルイス号でしたが、
ただし、スピリット号は郵便を運んだことは一度もありません。


続く。


ワイルド・ビル〜命を賭けた郵便航空〜スミソニアン航空博物館

2025-06-02 | 航空機

当時の航空郵便配達員は、アメリカで最も危険な仕事の一つでした。

まだ人類が乗り出してから間もない飛行機で、
足に縛りつけた地図か、あるいは「線路に沿って進む」とか、
「南から少し西に約10マイル、だいたい7分飛ぶ」とか書かれた紙を
航法の補助装置?として、今にして思えばですが、
たかが手紙を運ぶために一つしかない命を賭けて飛んでいたのですから。

陸軍飛行隊による最初の郵便飛行実験にて、実験隊隊長のフリート少佐が、
パイロットのボイル中尉の足に地図を縛り付けている
ちなみにボイル中尉はこの実験でミスし、少佐からクビにされる模様

■ 自殺クラブ

最初のアメリカ航空郵便パイロットたちは、
その困難な仕事の中で実際しばしば命を落としました。

当初の郵便路線はニューヨーク、ワシントン DC、フィラデルフィア間で、
翌年にはクリーブランドとシカゴにまで拡大しました。

郵便に限らず、パイロットのリスクは史上最高だったこの頃、
1918 年から 1926 年にかけて、任務中に亡くなったパイロットは 35 名で、
1919 年には飛行距離約 115,000 マイルごとに 1 名が亡くなり、
1920 年だけでも 15 名が亡くなっています。

パイロットが死亡するまでの平均飛行時間は、わずか約 900 時間程度
(毎日2時間飛んだとしても1年半弱の寿命)と推定されていました。 

ある日、パイロットの一人がブラックユーモアのつもりで言いました。

「ほら、僕たちは自殺クラブ(The Suicide Club)にすぎないからさ」

世界で最も危険な仕事の一つであることはパイロットも承知の上で、
だからこそ自らを「自殺クラブ」と自称していたのです。

そして命をかけて仕事をしていることを
パイロットたちは誇りの証にしていました。


左より
ジャック・ナイト Jack Knight、クラレンス・ラングClarence Lange
ローレンス・ギャリソンLawrence Garrison、
’ワイルド・ビル’ ホプソン “Wild Bill” Hopson
オマハ郵便飛行場管理者 アンドリュー・ダンフィ Andrew Dumphy

ジャック・ナイトは郵便飛行の可能性実験で、
天候のため同僚が脱落する中、たった一人存続を賭けて飛び、
夜間の飛行が可能であることを証明した英雄的人物です。

■ 郵便飛行の非情な推進者


オットー・プレジャー(Oklahoma Preager)

戦争などにも言えることですが、生死を賭けていたのは現場であり、
上に立って安全圏から号令を出す人は、得てして危険性に無頓着でした。

オットー・プレジャーという郵政省第二次長を務めた人物は、
その危険性について認識していなかったか、或いは無関心で、

「ワシントンD.C.の管制塔から見える範囲に限定された世界観」

しか持っておらず、天気が良ければパイロットは飛ぶべき、
くらいのことを言ってのけるような無神経なパワハラ上司だったようです。

たしかに彼は航空郵便サービスを支える原動力とも言える働きをし、
独創的な会計処理とロビー活動で政治の世界にこの分野を切り拓きました。

しかしながら、彼の存在は現場にとっては悩みの種でした。

彼の労働政策では、パイロットは危険な状況下でも飛行しなければならず、
これを拒否すれば解雇されることになっていました。

彼は現場に信頼性と高い配達実績を求めるあまり、
スケジュールを守ることを何よりも優先する考えであり、
そしてそれを、国中のあらゆる部門の監督官たちに徹底させました。

彼の口癖はこうでした。

『スケジュールを守れ!スケジュールを守れ!』

確かに彼の政策は郵便航空の基礎を政治的に推し進めたかもしれませんが、
いかんせん、パイロットの安全をほとんど考慮していませんでした。

たとえ飛行を危ぶまれるような天候や、機体の不調であっても、
クビになりたくなければ飛ぶしかなかったのです。

しかもパイロットたちは、飛行機に乗ったことのないプレジャーや関係者に
飛行の危険性を納得させる手立てを持ちませんでした。

だから彼らは、『いや、それはできません』と言うより、ただ、
黙って飛行機に乗り込んで粛々と飛ぶしかなかったのです。

プレジャーとその政策の下、航空郵便サービスは拡大の一途を辿りました。

彼は航空郵便の未来とその発展を信じており、
そして航空郵便がもたらす大幅な損失(命含む)も厭いませんでした。

彼は、このまま全てが稼働し始めれば、航空郵便は
郵便物を輸送する現実的で実行可能な手段になると信じていたのです。

■ 郵便パイロットたちのストライキ

しかし、その後も航空郵便サービスで死亡者が続出すると、
パイロットたちは何かを変えなければならないと決意し、
1919年、ストライキという形で抗議を行うという手段を取りました。

これに対し、プレジャーは容赦なくパイロットたちを解雇したのですが、
マスコミはパイロットたちを断固として支持し、世論を動かしたので、
安全が懸念されるような天候化での飛行については管理者が判断し、
最終決定を下すという決まりを認めざるを得なくなりました。

何人かのパイロットは解雇を取り消されて現場に戻りました。

しかし、悪天候を避けてもすべての問題が解決するわけではありません。
当時の航空業界は新興ゆえに文字通り試行錯誤のプロセスにあり、
それを試行し錯誤するのは他でもない、現場のパイロットです。

郵便物を飛行機で運ぶという仕事を行いながら、彼らはまさに
毎日航空実験を行っているような環境に置かれていて、体験上、
これはうまくいかない、あれはまずい、などと実感しながら飛ぶのですが、
それらは決して些細なことばかりではなく、むしろ、
命の危険に関わるような重要な気づきがしばしば含まれていました。

時にはその代償として命が奪われることもあったのです。

あるとき、飛行機が地上500フィートで火災に見舞われ、
パイロットが上空から飛び降りて亡くなったことがありました。

郵便配達の飛行機にパラシュートが積まれるようになったのはこの後です。

■ マックス・ミラーの悲劇

マックス・ミラー

マックス・ミラーとエディ・ガードナーはスターパイロットで、
同時にエアメイルパイロットとして活動を始めました。

プロペラの上:エディ・ガードナー

ガードナーは何度も飛行機事故を起こし、その都度生き延びました。
その中には、1918年9月15日、オハイオ州クリーブランドで
シカゴに向けて離陸しようとして高度が上がらず、
不時着しようとして周辺の家を2軒燃やした事故も含まれます。


もはや居住は不可能

この事故では誰も負傷せず、人的被害はありませんでした。
郵便サービスでは不死身だったガードナーは、例のストライキに参加し、
プレジャーにクビにされたのですが、それが撤回されなかったため、
その後曲技飛行のバーンストーマーに転職しました。

彼は郡のフェスティバルでのアクロバット飛行中に操縦桿が動かなくなり、
その時借りていたゴーグルが目の上に滑り落ちて不慮の死を遂げました。

死亡事故の際着用していたゴーグル

もう一人のマックス・ミラーは郵政省の航空便サービスのために
1918年、最初に採用されたエアメイルパイロットでした。
エディ・ガードナーとは、都市間を結ぶ最適ルート開拓の段階で競い合い、
お互いライバルとして認め合った仲でした。

1920年まで無事に飛行を続け、結婚もしています。

彼の亡くなった9月1日、ミラーは整備士のグスタフ・レイエルソンと、
600ポンドの郵便物を乗せ、ユンカース・ラーセン機
朝5時30分、クリーブランドに向けて飛び立ちました。

2時間後、不可解なことに、飛行機はわずか20マイルしか飛んでいないのに
エンジンが停止し、逆噴射した状態で低空飛行をしていました。

そして機体前方から出火し、レイエルソンは郵便袋を投げ捨てました。
(これは積荷を守るための行動だったと思われる)
炎は機体前方を包み込み、飛行機は機首を上げて地面に急降下しました。

地面への激突でガスタンクが爆発し、翼が吹き飛ばされました。
2人ともこの爆発で死亡しました。

■ ワイルド・ビル 


冒頭の写真は、スミソニアンの航空郵便コーナーにある、
当時の郵便局を模して作った小屋の裏手にあったもので、
「ミートビル!」(ビルに会おう!)というキャプション付きです。

ワイルド・ビルことビル・ホプソンについてです。

ワイルド・ビル

1920年代に8年間、郵便輸送機の操縦をしていました。

彼はしばしば速度記録を破り、飛行機を損傷させるので
そのあだ名を獲得しました。

他のパイロットからは人気がありましたが、
上司からは定期的に叱られていました!

彼は1928年にニューヨークからシカゴに向けて飛行中、
飛行機が墜落して亡くなりました。

その時彼が運んでいたのは1000ポンドの郵便物でしたが、
その中には大量のダイヤモンドが含まれていました。
事故跡から回収された郵便物はわずか10ポンドでしかなく、
もちろんというか、ダイヤモンドは一つ残らず消えていました。


このお馴染みの?写真には、

「あなたはこのエアメールパイロットたちの中から
『ワイルド・ビル』を見つけることができますか?」

とあります。

先ほど赤字で記した通り、ビルは右から2番目です。
皆かっこいいですが、彼は特にモテ男のオーラがありますね。

実際にも彼は人とは違う行動と女好きで知られ、
「たくさんの街にたくさんのガールフレンドがいた」ということです。

やっぱり「港々に女あり」タイプだったか・・・。

彼は郵便航空史上最も愛され、最も個性的なパイロットでした。


「ミートビル!」コーナーの横にはこのような展示。

まず、茶色のボードには、D. B. コリアー監督官が、
ワイルド・ビルのワイルドなやり方を叱責した時の文言があります。

「私は、貴社の郵便飛行機に関する多数の報告を耳にしています。
これは明らかに規則違反であり、
この種の行為がさらに続いた場合は、懲戒処分に値します!!」


同僚パイロットや経営陣からの人気も手伝って、
彼は他のパイロットであれば叱責や減点の対象となっていたであろう、
数十回の不時着を何とか切り抜けました。

1926年だけでも、少なくとも13回の不時着を余儀なくされましたが、
そのすべてが経営陣によって容認されたといいます。

その大半は、天候の回復待ちだったり、視界の悪い中、
着陸方法を模索せざるを得ないような短時間の着陸だったせいでしょう。

その下の写真付きキャプションはというと・・。

おしゃれなパイロットウィリアム・ホプソン


ウィリアム・ホプソンは「ワイルド・ビル」の愛称で親しまれた、
初期の航空郵便パイロットでした。
彼が操縦した飛行機は、上の写真のようなオープンコックピットでした。

ビルは夏でもおそらくこの服装だったでしょう。
地上が暑くても、上空はより寒く風も強いものです。
現在ではほとんどの飛行機が密閉されていますので、
パイロットは気温をそれほど心配する必要がなくなりました。

子供向けの教育的展示なので、このような語り口になっています。
このコーナーでは、当時のパイロットの適切な装備を学びます。

彼の服装から、仕事環境について何が分かりますか?
ビル本人の等身大写真と下のフリップパネルを使って、
ビルを天候から守る服装の要素を見つけましょう。


⚫︎ レザーと毛皮、これで体温を暖かく保つ。
⚫︎これらはしっかりと留める必要があります。
⚫︎顎紐がこれを固定します。
⚫︎これらは風や天候から目を保護します。
⚫︎何かが欠けていませんか?

大体何のことを言っているかはわかりますが、
何が欠けているのかはフリップを確認しなかったので、謎のままです。

ハーネスのことかな。

ワイルド・ビルについてのwikiの記述は下の通り。

ウィリアム・C・ホプソン
「ワイルド・ビル」ホプソン

生誕 1887年頃 没年 1928年10月18日(41歳没)
米国イリノイ州ロックアイランド
別名 「ワイルド・ビル」
職業 航空郵便パイロット
知られていること 米国郵便公社で航空郵便を運航
配偶者 ジネット・F(離婚)
子供 1人

ウィリアム・C・ホプソンはイリノイ州ディケーターの高校を卒業し、
ディケーター・ヘラルドで郵便配達と勤務を行っていた。

ホプソンは第一次世界大戦中、アメリカ海軍に所属した。
戦後はニューヨーク市でタクシー運転手として働いた。

1920年4月14日から航空郵便が民間企業に移管された1927年9月3日まで、
米国郵便公社で航空郵便のパイロットを務めた。
当初はニュージャージー州で飛行し、
後にネブラスカ州オマハからシカゴまでの路線を担当した。

在職中、彼は4,000時間以上、413,000マイル以上を飛行した。

不時着の常習犯として知られていたが、その人気のおかげで許されていた。
1926年だけでも、少なくとも13回の不時着を報告されており、
彼のマネージャーはそれを容認しそれを公言していた。

民間企業が航空便サービスを引き継いだ後、
ホプソンはナショナル・エア・トランスポート社に勤務し、
ニューヨーク市とシカゴ間の契約航空便路線を運航した。

墜落事故と死

1928年10月18日、ニューヨーク-シカゴ間の契約航空郵便路線を飛行中、
ペンシルベニア州ポーク近郊で飛行機事故に遭い、41歳で即死した。

ホプソンの飛行機には10万ドル相当のダイヤモンドが積まれていた。
ダイヤモンドのうち回収されたのは約6万5000ドル分だけだった。

イリノイ州ロックアイランドのメモリアルパーク墓地に埋葬された。

ダイヤモンドについては別の記述にこんなのを見つけました。

ペンシルバニア州ポーク近郊で彼の飛行機は
丘の斜面に機首から激突し、38歳のホプソンは即死した。

その夜彼が運んだ郵便物には、10万ドル相当のダイヤモンドが入っており、
墜落現場から彼の遺体が収容されたとき、その一部も発見された。

噂が広まると、その地域一帯のハンターたちが残骸の中で財宝を探し回った。
郵便局の検査官がすぐに現場に派遣され、ダイヤモンドを回収した。

宝石の値段の付け方がわからなかったため、
回収されたダイヤモンドはほとんど二束三文で売り捌かれたという。

検査官は、ナショナルエアトランスポーテーションのスタッフの助けを借り
現場を徹底的に捜索した。
この動きが伝わると、窃盗で逮捕されることを恐れた一部の人々は、
回収したダイヤモンドを周辺の町の郵便局長に渡し始めた。

結果、10 月25日までに、6 万 5 千ドル以上の宝石が回収されたが、
回収されなかったり、引き渡されなかった宝石もいくつかあった。

今も現場で必死で探せば一つか二つくらいダイヤが見つかるかもしれない。


続く。




「NACAと航空郵便飛行機」当時の航空技術〜スミソニアン航空博物館

2025-05-30 | 航空機

スミソニアン航空博物館の初期の航空セクションから、
今日は当時の航空技術についてお話しします。

■初期の航空技術

1918年に航空郵便サービスが開始されたとき、
驚くべきことに飛行機は誕生してからまだ15年しか経っていませんでした。
それは依然として、木材と布を加工して作られ、ほとんどが複葉機でした。


ツェッペリンE.4/20

かたやヨーロッパはというと、
第一次世界大戦後、航空技術で世界をリードしまくっていました。

彼らはコクピットのモノコック(単一の殻)構造を開発し、
機体に空力負荷を担わせ、構造重量を軽減する技術を手に入れていました。

特にドイツでは、ヒューゴ・ユンカースが、
内部支柱付き片持ち翼の特許を取得していましたし、
アドルフ・ロルバッハは、このツェッペリンE.4/20を含む
一連の先進的な全金属製航空機を製造していたのです。


米国の航空技術は当時ヨーロッパにかなり遅れをとっており、
しかもその差が開いていく事態を懸念したアメリカ議会は、1915年、

米国航空技術委員会
The National Advisory Committee for Aeronautics
(NACA)


を設立し、米国の航空研究を監督・指導することになります。
その成果は1920年代の終わりまでに現れ、実を結びました。

スミソニアン学芸部長のチャールズ・D・ウォルコットの働きかけにより、
NACAはすぐに米国屈指の航空研究機関となり、その結果、
米国で最も創造的なエンジニアの何人かが集結してくることになります。

NACAとその後継機関である

米国航空宇宙局
The National Aeronautics and Space Administration
(NASA)

の先駆的な研究により、飛行に関する最も困難な問題の多くが解決され、
すべての航空機の性能と安全性が大幅に改善されました。

NACA/NASAは、航空輸送において最も重要な技術を開発し、
この重要な研究は現在も継続されているのです。


スミソニアンの3人目の事務局長、サミュエル・P・ラングレーにちなんで
名付けられたNACAのラングレー記念研究所は、1917年に開設されました。

この飛行試験施設には、初の与圧(可変密度)風洞が設置されました。
風洞は、翼の形状に関する精密なデータを収集するためのものです。

そうそう、このラングレー。

この名前にあまりいいイメージがなかったので記憶を辿ったところ、
自分の開発したエアロドームという飛行機の実験に失敗したので、
ライト兄弟の世界初飛行の功績を潰そうとしたやつじゃないですか。

このように、初のNACA研究所に名前を残し、のみならず
アメリカ海軍最初の空母、「ラングレー」CV-1にも名前を残したんだから、
そんなに欲張らなくてもよかったんじゃないかって気はしますが。



NACAは、飛行特性をテストし、新たな設計パラメータを作成するために、
19機の航空機を入手して研究に取り掛かります。

翼の空気圧分布を測定する機器を設計し、エンジンの研究も開始したのです。

この結果完成したのが、水冷式エンジン、リバティV-12でした。

■ 水冷式エンジン



1920年代のほとんどの飛行機は、水冷エンジンを使用していました。
水冷エンジンは大きさの割に強力ではあったのですが、問題は重量。
その上、信頼性もイマイチでした。
それでも、当時空冷エンジンは小さなものが作れなかったことと、
パワーもなかったため、ほとんどの飛行機は水冷式エンジンを搭載しました。

写真は、第一次世界大戦の軽爆撃機用に設計された

リバティV-12 水冷式エンジン

で、1920年代に広く使用されていました。
リバティ・エンジンは、郵便局のデ・ハビランドDH-4や、
初期の航空会社が使用したほとんどの郵便機に搭載されていました。

しかし、1920年代後半にライト社やプラット&ホイットニー社が導入した
新世代の空冷式エンジンと比較すると、性能は明らかに劣るものでした。

しかし、この欠点の多い水冷式も、第一次世界大戦時には
アメリカが貢献した最も重要な貢献の一つと評価されています。


1921年、デハビランドDH-4の郵便飛行機

次に、その後登場したライトの空冷式エンジンをご紹介します。

■ 空冷式エンジン ライト J-5 ワールウィンド


ライトJ-5 ワールウィンド。
世界最初の近代的な航空機エンジンと考えられています。

ライト・エアロノーティカル・コーポレーションが、
ローレンスJ-1エンジンを基に開発したJ-5は、220馬力、
ナトリウム冷却式排気バルブと自己潤滑式エンジン初めて搭載しました。

これらの革新により、信頼性が大幅に向上し、
J-5は1927年の名高いコリアー賞を受賞しました。

チャールズ・リンドバーグが大西洋横断のとき乗った、
「スピリット・オブ・セントルイス」にも搭載されていました。

また、初期の輸送機であるフォード4-ATトライモーター
ピトケアンPA-5メールウィングフェアチャイルドFC-2など、
多くの航空機にも搭載されていました。

■ ピトケアンPA-5 メールウィング


スミソニアンには、このコーナーのほとんど真上に、
ライトJ-5を搭載した郵便飛行機PA-5「メールウィング」を展示しています。



上のデッキからも写真を撮りました。



20年代半ばに製造された航空機の多くは、第一次世界大戦が終わり、
用済みになって全米の田舎の飛行場を飛び回っていた練習機と似ていました。
ある意味デザインはそこから離れられなかったというところです。

そこで、進取の気性に富んだ飛行機愛好家は、トップデザイナーを雇い、
「新しい」「今までになかった」タイプの飛行機を製造しました。


1925年、一連の複葉機の設計を開始し、
1927年ピトケアンPA-5「メールウィング」を世に送り出したのは、
アグニュー・ラーセンという技術者です。


ピトケアン、ワシントンDCにて

機体名、ピトケアンとは、のちのイースタン航空となった、
ピトケアン・エアクラフト・カンパニーのことで、
設立したのはオートジャイロの父というべき航空設計の奇才、

ハロルド・フレデリック・ピトケアン(1897-1960)

の名前から取られています。
(死因は公式には自殺だったと言われていますが、拳銃事故説もあり)

彼はPA-5メールウィングスの開発にも関わっていました。


このトリム式、オープンコックピットの複葉機は高い評価を得て、
100機を超える派生機が生産されることになりました。

PA-5の優れた性能は、3つの要因に由来するものでした。
それは、

クリーンで軽量な機体、
信頼性の高いライト・ワールウィンドエンジン、
ピトケアン開発のオリジナル翼型


で、時速136マイルの比較的高速な最高速度、そして何より
航空便に求められる優れた積載能力を実現していたことでした。

開発にあたり、ラーセンと彼のチームは、初期の航空郵便路線において、
小さな荷物を運べる航空機という目標の元に、
創造的なエンジニアリング技術を駆使しました。

航空便の需要が高まった数年後には、他の航空機設計者が陥った落とし穴を、
この、先を読んだ設計だけは避けることができたのです。

構造は基本的に従来と大きく変わるものではありませんでしたが、
胴体に簡単に製造できる角形鋼管を使用したり、
エンジンの取り付けが簡単に素早くできる仕掛けなど、
いくつかの革新的な特徴がありました。



PA-5は、米国民間航空局の認可が出たわずか4か月後の1927年11月27日、
テキサス航空輸送の契約航空郵便路線21で初めて使用されました。

しかし、この飛行機の評判が確かなものになったのは、
ニューヨーク-アトランタ間のCAM #19便でのサービスです。

1928年5月1日に運航開始。

夜間飛行を行う小型のピトケアン機は、新たに照明が設置された
ニューヨークからフィラデルフィア、ボルチモア、ワシントン、
リッチモンド、アトランタまでの760マイルの航路を就航しました。



この飛行にかかるのは7時間、鉄道の所要時間のわずか3分の1でした。

先見の明のある同社は、1928年、アトランタ - マイアミ路線を引き継ぎ、
その後継企業イースタン・エア・トランスポートの基本構造を築きました。

新たな路線は595マイルが追加され、16機のメイルウィングの改造によって
ニューヨーク-マイアミ間の15時間運航が可能になりました。

他の航空会社もPA-5、および後続のPA-6、PA-7、PA-8を購入しました。

その一部には、コロニアル航空輸送コロニアル・ウェスタン航空
ユニバーサル・ディビジョン・オブ・アメリカン航空が含まれています。

■空冷式エンジン プラット&ホイットニー ワスプ



ライト航空は成功したJ-5エンジンのさらなる開発を要求されましたが、
これに反旗を翻した社長のフレデリック・レンチュラー、チーフデザイナー
ジョージ・ミード、チーフエンジニアのアンドリュー・ウィルグースの3人は
独自の空冷星型ラジアルエンジンを開発する計画を海軍に伝え、
ライトを去って、プラット&ホイットニー航空機会社を設立しました。


レンチュラーとミード

信頼性と効率性に優れた425馬力の9気筒空冷ワスプは、
フォード5-ATトライモーターやボーイング40Aなど、
多くの軍用機や民間機に採用されるエンジンとなり、
アメリカ機械学会から歴史的工学ランドマークに指定されています。


続く。


ジャック・ナイトのナイトフライト〜スミソニアン航空博物館

2025-05-17 | 航空機

スミソニアン航空博物館プレゼンツ、黎明期のエアメール便シリーズです。

■ 安全航行システム構築の功労者

新しい米国航空郵便サービスは人々が待ち望んでいたものでした。

初期のいくつかの挫折にもかかわらず、
航空郵便は約90パーセントの便を完了することができました。

1918年の大統領を迎えての実験飛行、それに続くサービス開始。
当初、郵便配達業務を行っていたのは陸軍でしたが、
軌道に乗ったと思われた数ヶ月後には陸軍は撤退し、
郵便局が雇ったパイロットが航空機を担当することになりました。


1920年までに、大陸横断航空郵便サービスが開始されました。

1919年9月、ニューヨークとシカゴ間の航空郵便サービスが開始され、
翌年5月にはネブラスカ州オマハまでサービスが拡大し、
1920年9月にはサンフランシスコまで到達します。


格納庫と標識塔のそばに駐機されたデ・ハビランド DH-4。
格納庫に描かれた航空便のロゴマークに注目。

オマハ郵便局内部

鉄道と比較すると、航空機でアメリカ大陸横断にかかる時間は約1日早く、
1924年に航空郵便の翌日配達サービスが開始されると、
輸送時間は29時間に短縮され、鉄道よりも3日近く速くなりました。



1924年には、郵便局が全米に整備した照明付きの航空路のおかげで、
夜間にも郵便が運航されるようになりました。


そしてまず、夜間飛行機は飛ばせるのか?
ということを実証するため、大胆な実験が行われたのです。


1921年2月22日、4機の航空郵便便が、東海岸を飛び立ちました。
昼夜を問わず飛行することで、郵便物を大陸の端から端まで
記録的な速さで輸送できるかどうかを証明するために。

しかし、その道のりは険しいものでした。
パイロットの1人が墜落事故で死亡。
また、危険な天候により2機は立ち往生を余儀なくされます。

しかし、かろうじて1機が、サンフランシスコからニューヨークまで、
33時間20分で飛行することに成功しました。

これは、鉄道では4日半、航空機と鉄道を併用した場合は3日間
(昼間は飛行機で、夜は列車で輸送)かかっていた距離です。



このとき、夜間大陸横断に成功したパイロット、
ジャック・ナイト(James "Jack "Knight)

彼は英雄になりましたが、この実験で彼一人が頑張ったわけではありません。

実は、この実験を成功させるまで、当時のハーディング政権は、
航空便に補助金を打ち切る算段をしていました。

確かに飛行機は列車より早く目的地に着きますが、
まず安全性についての懸念、さらに夜間稼働しないなど、
わざわざ予算を割くにはリスクが多いと思われていたのです。



事実、発足してからわずか3年の間に、すでに17人のパイロットが
機体の問題あるいは天候関連の原因による墜落で命を失っていました。

それも当然で、当時のパイロットは事実上、勘に頼って飛行していました。
彼らが頼りにしていた計器というのも時期コンパスだけで、
それは悪天候時には針は北から南に揺れ、全く役に立たなくなるものでした。

したがって彼らは悪天候時にはギリギリ低空を飛行し、
目標を文字通り触るように飛んで目視して位置を把握していたのです。


そのため、事故は容易く起こり、パイロットの命を奪いました。


初期のパイロット(左ジャック・ナイト)が、自らを
「自殺志願クラブ」と自嘲していたのも当然の状況でした。

しかしながら、そんな中、航空郵便の存続を支持する郵政長官、
航空郵便局長は、その可能性を実証する実験を行うことにしたのです。

たとえ人命の危険があったとしても、飛行機による輸送が
現実的に大陸の端から端までを短時間に結ぶことができるものなら、
それは十分に存続させる理由になる、ということを証明するために。

そしてジョージ・ワシントンの誕生日である1921年2月22日(猫の日ですな)、
全空路によるアメリカ大陸横断テストが行われることが決まります。

この実験は壮大で、サンフランシスコとニューヨーク、両端から
同時に逆方向に向かって2機ずつ飛行機を向かわせるというものでした。
もちろん飛びっぱなしではなく、中継地で飛行機を交代するリレー式です。


まず、東から西向きの2機について。

オレンジの1号機は、
「激しい着氷によりパイロットは不時着を余儀なくされ、
尾翼と車軸に損傷、飛行中止」


2号機は
「同じ条件下、なんとかシカゴに到着。
しかし雨、雪、霧のためシカゴで飛行中止」

どちらも天候のため早々に飛行を断念しました。


サンフランシスコから朝0430に出発した2機です。

3号機は、
「エルコから離陸直後、飛行機が失速し墜落、パイロット死亡」


「その後、待機機が後を受け継ぐが、オマハで交代したパイロットは
悪天候のため飛行を拒否したのでフライトはここで終了」

そして、唯一成功した4号機は。


「ロウリンズでオイル漏れを修理」

イエーガー

「シャイアンからノースプラットまで、フランク・イェーガーが担当」

「オイル漏れの修理をロウリンズで行った後、無事にノースプラット着。
ここでパイロットをジャック・ナイトが引き継ぐ

21日午後10時44分に出発」

「オマハで3号機がフライトを拒否する。
ナイト、翌午前1時過ぎにオマハに到着。
本来ここまでで、別の機と交代するはずだったが、
交代パイロットが吹雪で足止めされて来なかったので
自分がシカゴまで飛ぶことを決断

ナイト、1時間後の22日午前2時にシカゴに向かって出発」


アイオワシティ「言葉で言い尽くせない孤独感の中、給油のため着陸。
午前6時30分シカゴに向けて出発

シカゴ「眠気と闘いながら22日午前8時40分に無事到着。

別のパイロットと交代」

ニューヨーク「最後のパイロットが1650到着。郵便局大歓喜」

つまり、4号機を成功させたパイロットは3人だったのですが、
なぜナイトが英雄になったかというと、一番苦労したからです。



ジャック・ナイトがこのとき送った電報です。

彼はノースプラットで飛行機が来るのを待って交代し、
オマハまで飛ぶことが決まっていましたが、前述の通り、
交代要員は天候が悪く、オマハに到着できませんでした。

しかも3号機の交代パイロットは、天候を理由に飛行を拒否。

ナイトがここで交代要員の代わりに飛び続けることを決意したのが、
「航空郵便の存続」がこの成功にかかっていたからだったのか?
それは今となっては分かりませんが、彼はそれをしました。

電報の内容はこのようなものです。

1921年2月23日、イリノイ州メイウィード、5MD H
ワシントン州プラガー
ノースプラットを10時50分に出発、曇り空。
雲層の後ろから断続的に蒸留酒のような月明かりが差し込むが、
特に問題はなく、コンパスを使用し、時折地上や川をちらっと見ながら、
オマハに115時に到着し、出発した。


オマハで2時間遅延。
オマハ・シカゴ間のルートを検討していたため。
視界はデモインまで良好だったが、霧と雪がアイオワシティまで続いた。

アイオワシティで町と飛行場を見つけるのに10分を失い、
シカゴからの天気予報を聞くまでそこに留まる。天気は悪かった。

ナイト1145am

しかもこのとき、アイオワシティでは、天候が悪かったため、
どうせ誰も来ないだろうと判断して飛行場の職員は全員が帰宅していました。

彼は、一度エンジンを切ると再稼働しないのではと恐れ、
エンジンをかけたままでコーヒーを飲み、ハムサンドイッチを食べ、
燃料を補給して、そこから一晩中飛行を続けました。

煙草が美味い

極め付けは、この夜間飛行中、彼は鼻を骨折していました。
このことが、夜間の視界の悪さ、天候、眠気と共に
彼の飛行をどれだけ困難なものにしたかは、はかり知れません。

結局彼は午後10時44分から夜の闇をついて翌朝9時近くまで
ほとんど無休で飛び続けたことになります。

この快挙を受け、新聞は、

「ジャック・ナイトのナイトフライト」
Jack Knight's night flight

について大々的に報道し、これ以降、彼は
リンドバーグ以前の時代の最も有名なパイロットとなりました。

もちろんこの偉業は彼一人が成し遂げたものではないのですが、
それでも人々は、最も苦労した彼を英雄と讃えたのです。

大陸横断飛行には合計7人のパイロットが参加し、
33時間20分かけて3,652キロメートルの距離の飛行に成功。

この偉業と大衆の称賛に感銘を受けた議会は、
苦境に立たされていた航空郵便サービスにようやく予算を割り当てました。

そして、この実験から3年以内には、郵便物は昼夜を問わず、
わずか29時間で全米を飛行するようになっていました。

これは消費者にとっては望んでいたことでしたが、
夜間便はパイロットにとっては危険な任務だったことに変わりはありません。

■かがり火からライトへ


ニュージャージー州ハドレー飛行場にて、シカゴ行きの郵便袋を
デ・ハビランド DH-4 に積み替える米国航空郵便局の職員です。

夜間飛行は機体の位置を把握しにくく、ルートから外れる危険が大です。
当初は、夜間、航空路に沿ってかがり火が焚かれていました。



航空標識用篝火装置。
内部に火を灯します。



もう少し後に登場した強力な移動式投光器。
オマハのフォートクルック滑走路で使用中。

■ビーコンの登場

1920年代になると、米国郵便局は、強力な回転式ビーコンで標識された、
照明航路のシステムを確立しました。

郵便局、陸軍、商務省が協力し、より優れた航空技術、
特に航空路の照明システムの開発に取り組んだ結果、1923年の夏には、
航空郵便のパイロットは289のビーコンと39の照明付き着陸場を頼りに、
シカゴからワイオミング州シャイアンまで飛行することが可能になります。

ニューヨークとサンフランシスコ間の照明は1925年に完成し、
このシステムはすぐに他の路線にも拡張されていきました。



冒頭写真は、スミソニアン博物館の輸送飛行ギャラリー全景ですが、
その中に立つ赤い鉄塔にご注目ください。

夜間飛行を行う飛行機のために、フレア、照明機器、航法、
および着陸灯などが次々発明されていきますが、これは

エアルート・ビーコン(航空路標識)

回転式で、開発したのはゼネラル・エレクトリック社。

航空郵便の航路に沿って16キロメートル間隔で設置されました。 
10秒に1回回転し、その強力な光は60km離れた場所からも確認できました。

日没時に飛行するためにこれらのシステムが導入されたのは
パイオニアの命懸けの実験あっての成果だったのです。


以前も当ブログではこの頃の英雄的なエアメールパイロットを主人公にした
映画について取り上げたことがありますが、これはその一つ、
その名もズバリ『エアメール』という映画です。

航空路に沿って一定の間隔で設置されたビーコンは、
暗闇の中で飛行機が遭難するのを防ぐのに一役買いました。

しかし、当時のパイロットにとって霧や嵐の中を飛行することは、
どんなフィクションドラマよりもスリリングな体験であったことでしょう。


■  エアラインが郵便物の輸送を引き継ぐ

郵便局が信頼性が高く実用的な航空郵便システムを確立すると、
航空郵便の配達は民間航空会社に引き継がれていきました。

まず、民間航空の強固な経済基盤が確立されたことを受け、
1925年には郵便局が民間航空会社と契約を結び、郵便輸送を開始します。

1927年夏には、効率的な民間航空システムが確立され、
信頼性の高い航空郵便サービスが提供されるようになりました。

連邦政府は、この産業の形成に対する支援として、航空路の規制、
航空業界の成長の指導、安全性と技術の促進を継続して行いました。


この時に誕生したバーニー航空(Verney Airlines)は、
後にユナイテッド航空となった航空会社です。

写真は、1926年4月6日、ネバダ州エルコ-ワシントン州パスコ間を、
契約航空郵便としては最初に運んだバーニー航空の機体とパイロットです。。

バーニーエアラインズのシール

■立法府財団設立



1925年の契約航空郵便法により、
郵便局は民間航空会社に郵便配達料を支払うことが認められました。
支払いは運送された郵便物の重量に基づいて行われました。

写真は、郵便法の契約書にクーリッジ大統領がサインした時のペンです。


M・クライド・ケリー M.Clyde Kelly

このとき妥結された契約航空郵便法は、
別名「ケリー法」(Kelly Act)といい、立法の中心となった
この進歩的なペンシルバニア州出身の共和党議員の名前から取られました。

郵便局はその後、航空機の効率的な開発が進まない場合に
航空会社の営業損失を補填するための助成金を追加しました。

この新しい産業の発展を促すため、1926年連邦議会は航空商業法を可決し、
今日の連邦航空局の前身である商務省航空局を設立しました。


ウィリアム・P・マックラーケンJr. 
William P. MacCraken Jr.

1926 年、連邦議会は、商業航空という新しい産業の発展を導くために、
航空商取引法を可決し、この法律により商務省の航空部門が設立されました。

この部門は、今日の連邦航空局の前身です。

航空法の専門家であるウィリアム・ P・マックラーケンJr.が
航空商取引法を起草し、航空に強固な法的基盤を与えました。

彼は商務省の初代航空担当次官としてのリーダーシップのもと、
商務省は安全規制の先駆者となり、
パイロットの免許取得と航空機の認証を義務付け、
航行支援装置の開発を奨励しました。

エアメールパイロットの身分証明書

続く。


初期エアメールパイロットの苦難〜スミソニアン航空博物館

2025-05-11 | 航空機

冒頭の写真を当ブログで以前一度紹介したことがあります。

この頃航空界のスターだった郵便配達便のパイロットが
いかに当時の機体で危険を犯して飛んでいたかを表す、象徴的な写真です。


ここには、当時の郵便局を模した建物がほぼ実物大で再現されています。



建物内部はこんなふうになっていました。
デスクの上部には「クリーブ(ランド)」「アイオワシティ」「オマハ」
など、配達先の都市名が書かれていて、ここに仕分けする仕組みです。

郵便物の中身は?
航空郵便は、高額な料金を支払いさえすれば、迅速な配達が可能でした。
1920年代には、航空郵便による配達には通常の4倍以上の料金が必要でした。
郵便バッグには、航空便で送られた典型的な品物が詰まっています。

なぜ航空便が高かったかというと、単純に配達が大変だったからです。

飛行機の初期の時代には、パイロット(時折乗客も)は、
風雨にさらされるオープンコックピットに座っていました。

同時期ヨーロッパでは、比較的大きな輸送機が
乗客を比較的贅沢に運んでいましたが、(当時技術力はヨーロッパが上)
その乗り心地は粗く、うるさく、居住性も極度に不快なものでした。

当時の飛行機搭乗体験は、現在の宇宙旅行のようなもので、
小説のように非現実的なそれは想像するだけで人々をワクワクさせましたが、
それを体験する機会を得る人は滅多におらず、したがって
それに対し、感想を述べる人もほとんどなかったということになります。


それだけに「まれな一握り」であるパイロットの誇りは並々ならぬもので、
彼らに対しては世間から大変な敬意が払われました。

写真の展示は、航空郵便パイロットのウィングマークバッジ。
パイロットは制服ではなく重厚なフライトスーツを着用していましたが、
パイロットであることを示すバッジや翼が支給されていました。

写真は、ウィルフレッド・A・「トニー」・ヤッキーパイロットのものです。
ノースウエスト航空は現在でも同様の翼をパイロットに支給しています。


多少改変あり


この時代のパイロットが頼りにしていたのは紙の地図でした。

彼らは「ニーボード」(膝板)と呼ばれるこれを脚に取り付けて、
飛行中ルートを確認するときにはノブを回して地図をスクロールします。

両手が使えないのでは折りたたんだ紙を広げることもできませんから。

この地図は、エアメイルパイロットだったジョセフ・モートンセン
博物館に寄付したもので、彼は、ユタ州ソルトレイクシティから
ネバダ州裏のまでの航空郵便ルートを航行し郵便物を運びました。


もう少し構造がわかりやすいのがこちらの写真。
ちょうど腿に乗るのにいい大きさとなっています。
左の皮バンドは脚に縛り付けるためのもの。


この写真は、前回お話しした実験飛行のとき登場し、
ワシントンから飛んだフリート少佐です。


出発前ウィルソン大統領と話すフリート少佐。
(結構イケメンでモテたっぽい雰囲気)


この出発直前の写真からお分かりのように、右腿に紙が縛ってあります。

この時は初めての実験フライトだったので、こんな風にしていましたが、
おそらくこの後、フリート少佐らの提言で、腿に縛り付け、
回すとスクロールできる地図が開発されたのだろうと思います。

必要は発明の母。

■ 航空便パイロットはいかにして目的地を見つけたか

「地面から30フィートか40フィート上空を飛び続けましたが、
それでも線路を見つけることができませんでした。
自分がどこにいるのか教えてくれるような目印を
ただ一つでも見つけようと探し続けました」


これは、最初の民間航空郵便サービスのために雇われたパイロット、
ボブ・シャンクが霧の中飛行したことを語った言葉です。


William Shank

彼は最初の 4 人の民間航空郵便パイロットのうち、
1922年まで「生き残った」唯一のパイロットでした。

彼は、この霧の中の飛行を結果的に拒否したため、
1918年11月には航空郵便サービスから解雇されましたが、
この慎重な態度こそが、彼を長生きさせた理由です。

彼はそのほかのパイロットと違い、無茶をせず、時には上に逆らってでも
危険なことは避け続け、ゆえに事故で死ぬこともなかったのです。

引退後、彼は自分の名前を冠したボブ・シャンク空港を運営し、
エアメール・パイオニアの活動を支援し、空港の運営と管理を行い、
1968 年に76歳で亡くなる直前まで元気に飛行を続けていました。



さて、当時の航空便パイロットはどうやって目的地に辿り着いたのでしょうか。

彼らは、地上の馴染みのある目印となるもの、つまり町、
川、鉄道、競馬場、大きな建物、湖などを目印にする方法、
「コンタクト・フライ」
を使って飛んでいました。


今日では、最新の機器によって、パイロットは自分の位置を認識し、
機位は第三者からも正確に特定することができるようになりましたが、
多くのパイロットは今でも基本コンタクト・フライで飛行しています。



写真のパイロット、ジェームズ・P・マレーは、1920年、
ロッキー山脈越えという歴史的な大陸横断飛行で郵便物を運びました。

そして、危うく命を失うような大事故も経験しています。

その日彼は標高12000フィート飛行中、吹雪に遭い機体は墜落しました。
夕刻だったので、彼は夕日を目印に2インチの雪の中をひたすら歩き、
木下で夜を過ごし、8時間後にようやく道と人を発見したのです。

その後、マレーは、自分の体験を活かして下の地図を作成しました。



これは、マレーの自作の地図で、郵便局のコンテストに応募されたものです。

マレーが応募して入賞したこの地図は、1921年に

『パイロット用航路案内:ニューヨーク-サンフランシスコ航路』

として出版され、彼にはこの功績に対し50ドルの賞金が授与されました。


これらはパイロットがコンタクトフライの際目印にしたものです。

「サンバリーの南側の川は南側よりも川幅が広く、小さな島がたくさんある」

「競技場に併設した芝生は南西の方角」

「エッグヒルという山が見える方角は南」

「ニューベルリンは、ペン・クリークにかかる橋があるところ」

「ペンシルバニア鉄道は、南西から登ってくる山脈の終点にある」


こんな知識を叩き込んで確認しながら操縦を行うわけです。


ちなみに彼は、郵便サービスのキャリアを終えた後、法律家になりました。
ワイオミング州弁護士会に登録して、最終的にはワシントンD.C.で
ボーイング社のロビイストとなり、社会的にも高い地位を得て退職しました。

■ 『自殺志願クラブ』郵便パイロットの悲劇


郵便配達仕様 デ・ハビランド DH-4

1921年に改良されたデ・ハビランド DH-4 軽爆撃機。
この機体は米国航空郵便サービスの象徴となりました。 


1918年から1926年までに郵便局に採用されたパイロット、
200人のうち35人が、エアメールフライトの任務中に死亡しました。



吹雪により航行できなくなって緊急着陸したカーチスR-4型機。

冬場の飛行はより一層危険を伴います。
何しろパイロットはオープンのコクピットで外気に曝されて飛ぶのですから。



死亡事故は最初の数年で減少したとはいえ、郵便飛行機を飛ばすことは
依然として危険で、時には命にかかわる仕事でした。

この頃のパイロットたちが、自らを

「自殺志願者クラブ」

と自嘲していたのも宜なるかなというところです。


郵便局の建物の裏手にはベンチがあって、
エアメイルパイロットらしい二人が、携帯用の地図を見ながら
何やら談笑していました。(普通に横に人が座れるベンチ)

さて、というところで、次回はその「自殺志願者クラブ」について
もう少し深掘りしていきたいと思います。

今日では、特に日本人の我々にはピンときませんが、この時代、
空中郵便配達人は時代の最先端であり、そしてヒーローでもあったのです。


続く。