スミソニアン航空博物館の黎明期の航空機のコーナーに、
「Military Aviation」と書かれたパネルを発見しました。
■ アメリカの航空産業が立ち止まったわけ

Military Aviation
Make America First in the Air
Make America First in the Air
航空機が発明されると同時に、欧米先進国の軍関係者は
それを軍事利用できないかと考えだしました。
このパネルは、その当時の各国の状況を表しています。
それを軍事利用できないかと考えだしました。
このパネルは、その当時の各国の状況を表しています。
ライトフライヤーの飛行が1907年であったことを念頭に置いてどうぞ。
1911年、トリポリの領有をめぐってトルコと交戦中だったイタリアは、
偵察と軽爆撃の任務に、フランスとドイツ製の航空機を使用した。
1911年、トリポリの領有をめぐってトルコと交戦中だったイタリアは、
偵察と軽爆撃の任務に、フランスとドイツ製の航空機を使用した。
バルカン半島の交戦国は、バルカン戦争で軍用機を限定的に使用している。
大国の軍幹部の多くは、飛行機を物珍しさ程度にしか見なしていなかったが、
その中の一部である先見の明のある将校たちは、
国防における飛行機の重要性の認識を高めるよう迫った。
その中の一部である先見の明のある将校たちは、
国防における飛行機の重要性の認識を高めるよう迫った。

気持ちオリジナルよりイケメンで若いアンクルサム(=US)
アメリカでは、このような航空意識への欲求から、
1907年8月1日に陸軍の信号軍団に航空部が創設され、
1910年から11年にかけてアメリカ海軍航空が誕生した。
イラストと共にある航空機の数は、1913年現在の所有数となります。
アメリカは23機を保有していました。
これを念頭に置いてお読みください。
これを念頭に置いてお読みください。
ヴァージニア州フォートマイヤーで行われた
オーヴィル・ライトの飛行試験(1908-09年)の結果、
陸軍は航空機という新兵器を入手し、
マサチューセッツ州カレッジパークに飛行場を設置した。

オーヴィル・ライトの飛行試験(1908-09年)の結果、
陸軍は航空機という新兵器を入手し、
マサチューセッツ州カレッジパークに飛行場を設置した。

カーティス・プッシャー
その後、1909年にユージン・イーリーが
巡洋艦「バーミンガム」の甲板からカーチス・プッシャーを飛行させ、
別の日にU.S.S.「ペンシルバニア」の甲板に
同じくカーチス・プッシャーを着陸させた先駆的な飛行は、
飛行機の柔軟性と蒸気タービン駆動の軍艦との融合を望む人々を勇気づけた。
その後、1909年にユージン・イーリーが
巡洋艦「バーミンガム」の甲板からカーチス・プッシャーを飛行させ、
別の日にU.S.S.「ペンシルバニア」の甲板に
同じくカーチス・プッシャーを着陸させた先駆的な飛行は、
飛行機の柔軟性と蒸気タービン駆動の軍艦との融合を望む人々を勇気づけた。
しかし1910年以降、アメリカの航空は
ヨーロッパの技術開発に遅れをとった。
その理由はというと、まず、ライト兄弟の最初の飛行実験そのものが
アメリカのライバルと軍に嘘扱いされたということに始まります。
今と違って動画があるわけではないので、写真だけでは
成功だったかどうかを認定することは難しく、
いろんな難癖をつけられてしまったということかもしれません。
アメリカのライバルと軍に嘘扱いされたということに始まります。
今と違って動画があるわけではないので、写真だけでは
成功だったかどうかを認定することは難しく、
いろんな難癖をつけられてしまったということかもしれません。
事実、ドイツ移民のグスタフ・ヴァイスコップ=米名ホワイトヘッド
(この名前ドイツ語の英語直訳)という技術者は、1901年、
電動飛行機械で飛行を成功させていたという話から、
実はライト兄弟は世界初ではなかったという説は現在もあります。
このホワイトヘッドは、写真という証拠を残さなかったせいで、
写真を残していたライト兄弟が有利だったということもできます。
ライト兄弟はどこからも文句が出ないように自作機の改良を進めるのですが、
その間に、カーティスと、ライト嫌いのスミソニアンの会長ウォルコットが、
彼らの最初の飛行そのものを無かったことにしようと動きました。
そこで、ウィルバー亡き後、オーヴィルがたった一人で
法的に訴えるという戦いを始めたのです。
幾度か行われた裁判では全てライト兄弟が勝訴しました。
しかし、世間に刷り込まれた「ライト兄弟は嘘松」という印象は、
その頃には払拭することはできず、そのためオーヴィル・ライトは、
名誉のためにと次々と起こした裁判で特許侵害を訴えまくったので、
国内の飛行機技術者は、身動きのできない状態に追い込まれました。
しかしその間も音を立てて進歩していく航空技術。
オーヴィルの特許侵害訴訟とは無関係だったヨーロッパは、
アメリカ国内で動きが停滞している間も、特許の制限を受けず、
自由に開発ができたため、各国がその技術を発展させていきました。
(この名前ドイツ語の英語直訳)という技術者は、1901年、
電動飛行機械で飛行を成功させていたという話から、
実はライト兄弟は世界初ではなかったという説は現在もあります。
このホワイトヘッドは、写真という証拠を残さなかったせいで、
写真を残していたライト兄弟が有利だったということもできます。
ライト兄弟はどこからも文句が出ないように自作機の改良を進めるのですが、
その間に、カーティスと、ライト嫌いのスミソニアンの会長ウォルコットが、
彼らの最初の飛行そのものを無かったことにしようと動きました。
そこで、ウィルバー亡き後、オーヴィルがたった一人で
法的に訴えるという戦いを始めたのです。
幾度か行われた裁判では全てライト兄弟が勝訴しました。
しかし、世間に刷り込まれた「ライト兄弟は嘘松」という印象は、
その頃には払拭することはできず、そのためオーヴィル・ライトは、
名誉のためにと次々と起こした裁判で特許侵害を訴えまくったので、
国内の飛行機技術者は、身動きのできない状態に追い込まれました。
しかしその間も音を立てて進歩していく航空技術。
オーヴィルの特許侵害訴訟とは無関係だったヨーロッパは、
アメリカ国内で動きが停滞している間も、特許の制限を受けず、
自由に開発ができたため、各国がその技術を発展させていきました。
■ロシア


というわけで、アメリカが23機の飛行機所有に甘んじていた同じ時期、
1913年に、ロシアは800機を所有していました!
ご存知のように、ロシアのシンボルはクマさんです。
ロシア帝国では1908年に始まり、以前当ブログでご紹介した
スミソニアンの爆撃機イリヤー・ムーロメツの開発は1913年でした。
言うてロシアの航空機開発は決して進んでいたわけではありません。
その理由は、部品、特にエンジンを国内で作ることができず、
国外からの輸入に頼っていたからなのですが、それでも800機です。
アメリカがいかに訴訟問題に足止めされていたかがわかります。
■ ドイツ

1913年現在のドイツ航空所有数は1000機でした。

何を隠そう、ドイツは人類初の飛行をグライダーで行った、
オットー・リリエンタールを生んだ国です。
彼は端翼グライダーで事故死するまでに2000回飛行を成功させました。
初飛行の1894という年が表されたスミソニアンの彼の展示コーナーには、
「実際の飛行実験によってのみ、
飛行の実戦において適切な洞察をうることができる」
という彼自身の言葉があります。
1913年に、ロシアは800機を所有していました!
ご存知のように、ロシアのシンボルはクマさんです。
ロシア帝国では1908年に始まり、以前当ブログでご紹介した
スミソニアンの爆撃機イリヤー・ムーロメツの開発は1913年でした。
言うてロシアの航空機開発は決して進んでいたわけではありません。
その理由は、部品、特にエンジンを国内で作ることができず、
国外からの輸入に頼っていたからなのですが、それでも800機です。
アメリカがいかに訴訟問題に足止めされていたかがわかります。
■ ドイツ

1913年現在のドイツ航空所有数は1000機でした。

何を隠そう、ドイツは人類初の飛行をグライダーで行った、
オットー・リリエンタールを生んだ国です。
彼は端翼グライダーで事故死するまでに2000回飛行を成功させました。
初飛行の1894という年が表されたスミソニアンの彼の展示コーナーには、
「実際の飛行実験によってのみ、
飛行の実戦において適切な洞察をうることができる」
という彼自身の言葉があります。
1913年ごろドイツが所有していた航空機ですが、
主にオランダ人のフォッカーがドイツで設立したフォッカー、
アルバトロスやゴータなどが製造したタウべが主でしょう。

エトリッヒ・タウべ
タウベといえば当ブログでも扱った第一次世界大戦もの、
映画「青島要塞爆撃命令」を思い出すなー。
あの時青島のドイツ空軍が乗っていたのはルンプラー・タウべといい、
「エトリッヒ」「ルンプラー」は制作した会社の名前です。
エトリッヒ・タウベ
「タウべ」は世界で初めて爆撃を行った、つまり初の「爆撃機」でした。
■ フランス

何度もお話ししているように、アメリカが内紛で足踏みしている間、
最も航空技術を先に進めたのは、フランスでした。
1400機と、ヨーロッパ1の保有機数を誇っております。
最も航空技術を先に進めたのは、フランスでした。
1400機と、ヨーロッパ1の保有機数を誇っております。

スミソニアンには、この頃のフランスの航空を表すこのようなパネルがあり、
当時開発された飛行機、設計者、飛行家たちの写真が紹介されています。
この写真から当ブログでは、女流飛行家、レモンド・ド・ラローシュ男爵夫人
(本名ルイーザ・デローシュ、スミソニアン博物館の当コーナーでは
この写真から当ブログでは、女流飛行家、レモンド・ド・ラローシュ男爵夫人
(本名ルイーザ・デローシュ、スミソニアン博物館の当コーナーでは
ド・ラ・ローシュ男爵夫人と表記)と女性初の飛行者テレーズ・ペルティエ、
設計者ヴォアザン兄弟、レオン・ドグランジュなどを取り上げてきました。

設計者ヴォアザン兄弟、レオン・ドグランジュなどを取り上げてきました。

フランス航空コーナーには当時の飛行機の模型も展示されています。
上から、「アントワネットVII」、
これも「青島要塞」に登場した「アンリ・ファルマンIII」、
フランスでブラジルの飛行家デュモンが製作した「サントス・デュモン」。
No2 サントス・デュモン14bis
さりげにヨーロッパで初めて動力飛行に成功したのが、この14bisです。
動画を見ていただくとわかりますが、彼はライト兄弟と違い?
自分の技術を全てオープンにして誰でも設計図が使えるようにしていました。
しかし、自分の発明品たる飛行機が兵器として使用されたのに絶望し、
ブラジルに帰ってから失意の自殺をしています。
自分の技術を全てオープンにして誰でも設計図が使えるようにしていました。
しかし、自分の発明品たる飛行機が兵器として使用されたのに絶望し、
ブラジルに帰ってから失意の自殺をしています。
その名前はカルティエによって時計の「サントス」に遺されました。

史上初めての航空展示会が行われたのも、フランスのパリでした。
1908年12月に開催された第一回サロンド・エアロノーティックでは、
ルイ・ブレリオ、ガブリエル・ヴォワザン、
シャルル・ヴォワザン、アルベルト・サントス=デュモン、
ライト兄弟など、航空界の大物たちが素晴らしい飛行機を展示し、
一般大衆が初めてこれらの飛行作品を間近で見ることになったのです。
展示されたのは、ごく初期のブレリオXIモノプレーンと、
ライト・タイプAバイプレーンなどでした。
この展示会はまさに航空ブームに火が付くための文字通り点火となり、
航空学という新しい分野への多大な関心を呼び起こし、
次々と新しい航空産業を生み出すきっかけとなりました。
1908年12月に開催された第一回サロンド・エアロノーティックでは、
ルイ・ブレリオ、ガブリエル・ヴォワザン、
シャルル・ヴォワザン、アルベルト・サントス=デュモン、
ライト兄弟など、航空界の大物たちが素晴らしい飛行機を展示し、
一般大衆が初めてこれらの飛行作品を間近で見ることになったのです。
展示されたのは、ごく初期のブレリオXIモノプレーンと、
ライト・タイプAバイプレーンなどでした。
この展示会はまさに航空ブームに火が付くための文字通り点火となり、
航空学という新しい分野への多大な関心を呼び起こし、
次々と新しい航空産業を生み出すきっかけとなりました。
フランス政府がこのようなイベントを積極的に導入したことが、
フランス航空が先進になった理由の一つでもあります。
フランス航空が先進になった理由の一つでもあります。
■ ブレリオⅪ(11)

そこで冒頭写真のブレリオです。
Blériot Aéronautique社で製造されました。
1909年にルイ・ブレリオが同様の機体で英仏海峡横断に成功して以来、
1909年にルイ・ブレリオが同様の機体で英仏海峡横断に成功して以来、
トリムブレリオ単葉機は世界で最も人気のある飛行機のひとつです。
展示されている単座モデルは、最長3時間滞空でき、
5分で1640フィートまで上昇できる性能を誇ります。

展示されている単座モデルは、最長3時間滞空でき、
5分で1640フィートまで上昇できる性能を誇ります。

飛行機の横に立っている実物大のこの人は、
ルイ・ブレリオだと思われます。

飛行家としても有名なブレリオは1909年7月25日、
人類史上初めて飛行機で英仏海峡を横断するのに成功しました。
ブレリオⅪ
この動画によると、英仏海峡横断は、イギリスの新聞社、
「デイリーメール」の宣伝のため公募された挑戦だったようです。
「デイリーメール」の宣伝のため公募された挑戦だったようです。
このとき使用された機材はVIII、8ということで、
ここにあるXIの3代前バージョンだったということになります。
ここにあるXIの3代前バージョンだったということになります。
100年前のブレリオⅪが実際に空を飛ぶビデオ
100 Year Old Blériot XI by Mikael Carlson - Hahnweide 2019
■イギリス

露、仏、独はシンボルの動物がいますが、英米はそうではないので、
擬人化された国「アンクルサム」とこの「ジョンブル」が登場です。
まあ、オリジナルのジョンブルは衣料商人なので、違うかもしれませんが。
擬人化された国「アンクルサム」とこの「ジョンブル」が登場です。
まあ、オリジナルのジョンブルは衣料商人なので、違うかもしれませんが。

同じコーナーに女性版もありました
というわけで1913年当時の大英帝国の保有航空機数は400。
イギリスは1862年という早い時期に偵察を目的とした
軍用気球の試験に乗り出し、1899年のボーア戦争に投入しています。
また、軍用凧、そして内燃機関が開発されると飛行船も開発します。
本格的に軍が航空に乗り出したのは1911年でしたが、その頃
ヨーロッパ主要国の緊張が高まると、イギリス政府は他国、
特にフランスとの現状の違いを懸念するようになります。
「フランスはすでに約 250 機の高性能軍用航空機、
150 名の軍人および 80 名の民間飛行士、
さらに数隻の飛行船を所有しています。
ドイツは 20 機から 30 機の軍用航空機を所有しており、
さらに国内には民間人が所有する航空機が100〜120 機あります。
さらに約 20 隻の飛行船があります。
イタリアは約 22 機の軍用航空機を所有しています。
これとは対照的に、イギリスは
戦時における海軍と陸軍の複合的な要求を満たすのに、
高性能航空機は12機のみ、 2 隻の小型飛行船しか所有していません」
これは、当時の帝国防衛委員会による報告です。
というわけで1913年当時の大英帝国の保有航空機数は400。
イギリスは1862年という早い時期に偵察を目的とした
軍用気球の試験に乗り出し、1899年のボーア戦争に投入しています。
また、軍用凧、そして内燃機関が開発されると飛行船も開発します。
本格的に軍が航空に乗り出したのは1911年でしたが、その頃
ヨーロッパ主要国の緊張が高まると、イギリス政府は他国、
特にフランスとの現状の違いを懸念するようになります。
「フランスはすでに約 250 機の高性能軍用航空機、
150 名の軍人および 80 名の民間飛行士、
さらに数隻の飛行船を所有しています。
ドイツは 20 機から 30 機の軍用航空機を所有しており、
さらに国内には民間人が所有する航空機が100〜120 機あります。
さらに約 20 隻の飛行船があります。
イタリアは約 22 機の軍用航空機を所有しています。
これとは対照的に、イギリスは
戦時における海軍と陸軍の複合的な要求を満たすのに、
高性能航空機は12機のみ、 2 隻の小型飛行船しか所有していません」
これは、当時の帝国防衛委員会による報告です。
1913年の軍民合わせて400機という数は、この報告の1年後、
王立航空隊ロイヤルエアフォースが創設され、
さらにその1年後の数字ということで、飛躍的に伸びていますが、
それでもフランスと比べると少なかったのです。
王立航空隊ロイヤルエアフォースが創設され、
さらにその1年後の数字ということで、飛躍的に伸びていますが、
それでもフランスと比べると少なかったのです。
■ メイク・アメリカ・ファースト


さて、なんでも世界一でないと気が済まないアメリカですから、
「Make America First in the Air!」
を掛け声に、まずはこんな呼びかけを行いました。
「アメリカンイーグルが自由な空に飛翔させ続けよう!
公共の航空マインドと国家的航空事業への努力を支援しましょう」
具体的にどうしろとは書かれていません。
まず、ここには二つの写真が並べられています。

「Make America First in the Air!」
を掛け声に、まずはこんな呼びかけを行いました。
「アメリカンイーグルが自由な空に飛翔させ続けよう!
公共の航空マインドと国家的航空事業への努力を支援しましょう」
具体的にどうしろとは書かれていません。
まず、ここには二つの写真が並べられています。

ライトフライヤーの飛行と、

ユージン・イーリーの航空機離艦。
そして、
A PROUD PAST... BUT WHAT OF THE FUTURE?
「誇り高き過去・・・しかし未来は?」

ユージン・イーリーの航空機離艦。
そして、
A PROUD PAST... BUT WHAT OF THE FUTURE?
「誇り高き過去・・・しかし未来は?」
という文章が続きます。
この二つの「世界一」はアメリカの「過去の栄光」です。
そして、ポスターの横には、こう書かれていました。
この二つの「世界一」はアメリカの「過去の栄光」です。
そして、ポスターの横には、こう書かれていました。
AMERICAN AVIATION MUST TAKE SECOND PLACE TO NONE!
「アメリカの航空はどこにも負けない」
”second place to none”は、「none(無)」に次いで2番目という意味で、
「誰にも屈しない」「譲らない」「引けを取らない」と訳します。
このように、世界におけるアメリカの航空が遅れをとっていることに対し、
アメリカ国内の国防計画家や航空愛好家の間で懸念が高まっていき、
タフト大統領の政権で設立が検討され、ウィルソン大統領に承認されたのが
全米航空諮問委員会(NACAエヌシーエーエー)で設立は1915年でした。
ウィルソン大統領がオーヴィル・ライトをNACAの委員に指名し、
研究の応用を通じて、軍事及び民間の航空を推進することを目的に
国家の後押しによる軍民一丸となったミッションを通じ、
アメリカは「航空のファースト」を取るべく動き出すことになります。
続く。
”second place to none”は、「none(無)」に次いで2番目という意味で、
「誰にも屈しない」「譲らない」「引けを取らない」と訳します。
このように、世界におけるアメリカの航空が遅れをとっていることに対し、
アメリカ国内の国防計画家や航空愛好家の間で懸念が高まっていき、
タフト大統領の政権で設立が検討され、ウィルソン大統領に承認されたのが
全米航空諮問委員会(NACAエヌシーエーエー)で設立は1915年でした。
ウィルソン大統領がオーヴィル・ライトをNACAの委員に指名し、
研究の応用を通じて、軍事及び民間の航空を推進することを目的に
国家の後押しによる軍民一丸となったミッションを通じ、
アメリカは「航空のファースト」を取るべく動き出すことになります。
続く。