ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

至上任務 「ある砲手の死」〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-29 | 航空機

国立空軍博物館の爆撃機シリーズ、今日は
重爆撃機のガンナーについて取り上げます。
その前に、伝説の爆撃機「メンフィス・ベル」の「マーキング」について
そのコーナーから紹介します。

■「メンフィス・ベル」パブリシティ・マーキング



ヨーロッパでの25回の任務を終え、アメリカに帰国後、
全米をツァーして「国際販促ツァー」をおこなった「ベル」。

行く先々で、民衆の好き勝手な「マーキング」、
国民の熱い思いが生んだ各種落書きが機体にに残されました。

もちろん現在展示されているメンフィス・ベルの機体には
そのような痕跡は一切なく、全てが修復されています。


ツァーで歓迎されたベル

乗員には、彼らを色々と利用したい人や追っかけの女性が群がり、
ヨーロッパ上空を飛んだ機体には、その姿を一眼見ようとする人、
近づいて触ろうとする人、なんなら落書きしたい人が群がりました。

上の写真には

「F.J. De GRASSE BANGOR, MAINE」

メイン州バンゴーのド・グラッセさんの名前が見えます。



もうやりたい放題。

後ろには手型を残そうとする人たちの集団が。



ツァー当時、モーガン機長の爆撃ミッションは、
わかりやすくこんなふうに機体左側にペイントされていました。



各種落書きに紛れて誰かがシュワスティカ(鉤十字)を一つ増やし、

さらにこいつは「S」に文字を付け足して「Sally」にしてしまいました。

窓の下には

S/St C.E. Winchell

という「メンフィス・ベル」メンバーの名前がありますが、

これも正式なペイントではなく落書きされたもので、
ペンキの色から推測するに、「Sally」と同一人物の犯行だと思われます。

おそらく、メンバーの身内か航空隊関係の人物でしょう。


民衆の落書きはほとんどが自分の名前。



「マサチューセッツ、誰それ」
「なんとか技術軍曹」
「カール・デロース、ウィルミントン デラウェア」


とどれも名前と出身地など。
ちなみにこの写真の白い部分は、機左側の星マークペイントです。

その後、機体は展示のために修復され、すべての落書きは消されました。



しかし、時はすぎ、2000年代になって当博物館が修復をしたとき、
このカール・デロースさんのサインも修復の過程で浮き上がってきました。

博物館は、彼や他の落書きの名前もちゃんと公式文書に記録したそうです。
歴史的な機体だから、落書きといえども歴史資料。

ご本人たちも本望なのではないでしょうか。

■ ガンナー



第二次世界大戦の銃爆撃機、B-17フライング・フォートレスや、
B-24リベレーターに乗り組んだアメリカ陸軍航空隊のガンナーは、
手動で狙いを定める機関銃(「フレキシブル・ガン」)と
電動式の銃座を駆使して機を敵戦闘機の攻撃から守りました。

爆撃機乗組員の半分が砲手として乗り組んでおり、
彼らの持ち場は、上部砲塔(1名)、ボール砲塔(1名)、
2基の腰部砲(2名)そして尾部砲塔(1名)です。

他の乗組員は、副次的な任務として状況によって防御砲を適宜操作しました。


B-17機首

初期の重爆撃機は、機首に手動で操作できる
フレキシブル・ガンを装備していただけで、
敵戦闘機からの正面攻撃に対して大変脆弱でした。


B-24機首

B-17B-24どちらも後期型で、強力な二連装機首砲塔を装備しています。


くわえタバコ

尾部砲塔。B-17は射界が限られた手動式でしたが・・・、



B-24は広範囲をカバーする自動式の尾部砲塔を備えていました。

■ B-17スペリー砲塔



博物館に展示されているこの上部砲塔は、

アメリカ初のフルパワー機銃砲塔設計の一つです。

電気油圧システムにより、砲塔の2.50口径M2ブローニング機関銃と、
Traverse and Elevation Mechanism T&E M2の両方を駆動しました。
2門の発射速度は合わせて毎分1,400~1,600発。

前にも描きましたが、砲塔上部の砲手はフライトエンジニアでもあります。


その理由は、上空からの攻撃を防ぐだけでなく、
配置的に機体のすべてのシステムを把握し、
飛行中のエンジンや燃料を監視することが要求されたからです。

この砲塔は、エマソン・マニュファクチャリング社によって製造、

スペリー・ジャイロスコープ社によって設計されました。
名称の「スペリー砲塔」は設計社名から取られています。


対空砲でダメージを受けた上部砲塔脇。
砲手はおそらく無傷ではいられなかったでしょう。


B-17インベイジョンII(通称ヘルザポッピンHellzapoppin
の上部砲塔砲手TSgtハリー・ゴールドスタイン

この機は当初、戦争債券ツァーの候補となっていましたが、
25回の任務を終える前、1943年4月に撃墜されてしまったため、
代わりにメンフィス・ベルが選ばれたという経緯があります。

「ヘルザポッピン」は対空砲火でコクピットと主翼が炎上し、
機体はブレーメン近郊に墜落、乗員全員が行方不明となりました。

■ Duty Above All 「至上任務」


サトゥ”サンディ”サンチェス軍曹 TSgt Sator "Sandy" Sanchez

は、三機目となる爆撃機の、
自身66回目の任務で戦死した航空砲手でした。

彼にとって2回目の任務の最後に、敬意をこめてB-17に彼の似顔絵が描かれ、
それは "Smilin' Sandy Sanchez "と呼ばれました。


本人とのツーショット

第8空軍の第95爆撃群において25回目の戦闘任務を終えた後、

彼は戦地に残ることを志願し、合計44回のミッションに参加しました。

1944年の夏には半ば強制的にアメリカに送り返されましたが、
23歳の彼は3度目の戦闘任務に志願し、
イタリアの第15空軍第301爆撃集団に配属されます。

1945年3月15日、ヨーロッパでの戦争が終結する2カ月も前に、

サンチェスはドイツのルールランドの石油工場を爆撃する任務に志願。

 爆撃中、彼の乗った機体は対空砲火で大破のち爆発しました。
サンチェス以外の乗員は全員ベイルアウトしましたが、
 サンチェスの遺体は発見されることはありませんでした。

サンチェスが戦死して6週間後、ヨーロッパでの戦争は終結しました。



彼に与えられたメダル各種


サンチェスが66回目の任務で墜落した
B-17G(S/N 42-97683)の垂直尾翼の左側。

 この尾翼部分は1993年に発見されたとき、
ドイツの墜落現場近くの農家の小屋の一部として使われていました。



第52装備整備飛行隊が1996年に博物館のために回収しています。

サンチェスは技術軍曹、つまり上部砲塔砲手でした。

被弾後、機長のデール・ソーントン大尉は乗組員に脱出を命じましたが、
乗員のうち9人がベイルアウトしたところで、
バランスを崩したB-17「スマイリン・サンデー・サンチェス」は、
よりによってサンチェスだけを道連れに爆発し墜落していきました。

生存者は捕虜となり、シュターラーク・ルフトに収容されました。



最後に、繰り返しになりますが、
「ボールターレットガンナーの死」という詩を原文とともに書いておきます。

The Death of the Ball Turret Gunner
 
From my mother’s sleep I fell into the State,
And I hunched in its belly till my wet fur froze.
Six miles from earth, loosed from its dream of life,
I woke to black flak and the nightmare fighters.
When I died they washed me out of the turret with a hose.

砲塔砲手の死

母の眠りから、私は州の中に落ちた

濡れた毛皮が凍りつくまで、その腹の中でうずくまった

地上から6マイル、人生の夢から解き放たれた

黒い対空砲と悪夢の戦闘機で目が覚めた

私が死ぬと、彼らはホースで砲塔から私を洗い流した



続く。


「50クラッシュキャップ」爆撃機のコミュニケーション〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-23 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示から、今日は
爆撃機の通信についての展示をご紹介します。



まずこのパネルの『COMMUNICATION』の文字の下のモールス信号、
-.-. --- -- -- ..- -. .. -.-. .- - .. --- -.

これはそのまんま「COMMUNICATION」です。

これがなぜわかったかというと、インターネッツというのは便利なもので、
文字を打ち込むと、即座にトンツー(英語はディット・ダー)
に翻訳してくれるツールがあるのです。
これで、
-.-. c --- o -- m
  ..- u  -. n ..  i  .- a  - t

であることがわかりましたね。とりあえず何の役にも立たんけど。
ちなみに日本語のトンツー翻訳機は見つかりませんでした。

まずここに書かれているのは、

何百機もの航空機と何千人もの飛行士が任務に就いているため、
航空機内や航空機間のコミュニケーションは困難を極める。

特に重要なのは、攻撃してくる戦闘機の方向を
乗員間で共有するためのコミュニケーションであった。

多くの異なるシステムや方法が情報交換を可能にした。

ということです。

たとえばこのトンツー、電信キーですが、無線オペレーターの装備には、
モールス信号を長距離で送信するための電信キーが含まれており、
モールス信号は、長短の信号
(dots「ドット」とdashes「ダッシュ」)
の組み合わせで文字を表します。

念のため、短音がドットでディット、長音がダッシュでダーです。

日替わり信号指示表


1942年11月4〜5日に爆撃機に指定された信号表です。
信号は6時間ごとに指示通り変えないと、敵認定?されます。

照明弾カートリッジの色 GG RR YY GY RR GG

モールス信号でどの文字を点滅させるか(航空機から) H J I L B C

夜間信号灯に使用するカラーフィルター White

地上or海上の艦船から返される文字 B O G W D S

というわけで、例えば11月4日0600に採用される信号は

照明弾カートリッジ色 RR
モールス信号 J
夜間信号灯の色 白
地上&艦船からの信号 O


ということになります。
これらを管理運用するのは通信士です。


これがその通信関係グッズの展示コーナー。

■ 50ミッション・クラッシュ帽



まず、飛行要員独特の潰れた士官用軍帽のことを
“50-mission crush cap”
といいます。

この名称は、陸軍航空隊の飛行士官がラフに使用した結果、
補強リングが取り外され、ボロボロになった状態の帽子を指します。

もちろん軍が推奨する正しい軍帽の規格からいうと「規則違反」ですが、
それは「ベテランクルー」の証として非公式に認められ、
駆け出しと戦闘慣れした飛行要員を区別する印となっていました。

通常の陸軍軍帽は、型崩れを防ぐためにスティフナー(補強金具)
が付いているのですが、パイロットは、飛行中、
軍帽の上にヘッドセットを装着するのがデフォでした。



しかし、スティフナーがあると、どうもこれと相性がよろしくない。

というわけで、彼らは快適にするためにワイヤーを外し、
そのため帽子の側面がぺちゃんこになってしまうわけです。

しかしながらその潰れた帽子は、パイロットにベテランの風格を与え、
これを着用するものは経験豊富な「プロ」と識別されるようになります。

昔日本の大学生(今から考えられないくらい大学生が特権階級だった頃)が、
バンカラを気取って弊衣破帽、高下駄で闊歩したのも、
 実用から派生した自己表現法だったのに似ているかもしれません。


1984年になって、「50ミッション・クラッシュ」というタイトルの
コンピュータゲームが発売されました。

第二次世界大戦のB-17爆撃機をシミュレーションする
ロールプレイングゲームで、登場する部隊も

「ロンドンのすぐ北にあるRAFサーリー基地を拠点とする第8空軍」

と史実をなぞってリアルです。

どうロールプレイングするかというと、爆撃機の10の持ち場に
プレイヤーが指名したキャラクターを配置し、
搭載する燃料の量、爆弾の種類を選び、ミッションに出るわけです。

爆撃機は目標上空で爆弾を投下するため、雲がなくなるまで待ちますが、
雲がなくなると今度は敵の対空砲火が襲ってきます。

時には機体が破損し、乗員が戦死します。
爆撃機の高度が低いほど、対空砲火は激しくなります。

また、フォッケウルフFw190、メッサーシュミットBf109、
メッサーシュミットBf110などの敵の戦闘機が攻撃してきます。

まあこれだけ聞くとちょっと面白そうですが、
ゲームとしての評価は5点中2点くらいの感じで、

「リアルだが退屈で、プレイヤーの能力を発揮する余地がほとんどない」

と評価する声もあったとか。



当時のゲームですので、こんな感じ。
今リメイクしたら面白いのができるんじゃないかな。知らんけど。



今度はマネキンの首をご覧ください。
これがスロート(咽頭)マイクロフォンです。

首筋に装着するシングルまたはデュアルセンサーによって、
装着者の咽喉から直接振動を吸収するコンタクトマイクの一種で、
トランスデューサーと呼ばれるセンサーのおかげで、飛行中の航空機内等、
騒がしい環境や風の強い環境でも音声を拾うことができます。

第一次世界大戦時にイギリスで開発されたのが最初で、
第二次世界大戦中、ドイツ軍でパイロットと戦車乗員が使用し始め、

のちに連合国空軍で採用されるようになりました。

この写真の咽頭マイクはおそらく導入最初の頃のタイプで、
大戦後期は酸素マスクにマイクを装着していました。

仕組みは、咽頭下の頸部に固定された接触式マイクが、気管内の音
(声門の閉鎖と圧力の変化)等振動をキャッチし信号化するというものです。

ちなみにこのメカニズムはその後も研究が重ねられて、
現在ではモバイル機器用のスロートマイクもあるそうです。

モバイル機器のアプリによって、カスタマイズでき、
オートバイの乗車用など、消費者向けの用途がますます普及しており、
COVID-19以降、フェイスマスクの使用下でも通信を円滑にするために
一般用の咽喉マイクも商品化されているということです。


シグナル・ランプ(アルディスAldis・ランプ)

シグナル・ランプは、爆撃機の乗組員が無線機を使わずに
モールス信号を使って航空機間で交信することを可能にするものです。
カラーフィルターを取り付けて、あらかじめ用意された信号を送ります。

かートリッジの色は上から赤、黄、緑です。


M8フレアガン(照明弾)

緊急着陸の宣言、機内に負傷者がいることを知らせる、

友軍機かどうかの識別など、様々な色の照明弾で信号を送ります。

■ 通信士席


「ラジオコントロールボックス」はクルーステーションに設置され、
通信を制御するためのボックスで以下が搭載されています。

1. COMP:ラジオコンパス受信機(ナビゲーション用)

2. LIAISON:VHF(超短波)で編隊内の他機と交信する

3. COMMAND:MF(中周波)での空対地通信用

4. INTER:機内通信用

5. CALL:INTERへの切り替えを機内のクルーに知らせる

 これが使用されると、他の通信はすべて打ち消される

続く。


「砲手の夢」 第8空軍と第12空軍〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-10 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の爆撃機関連展示より、
ヨーロッパに展開した爆撃作戦についてお話ししています。

ところでピンク・フロイドの「ガンナーズ・ドリーム」をご存知でしょうか。

Pink Floyd - The Gunner's Dream

海軍軍人の息子を戦争で失った老夫婦が描かれていますが、
歌詞の内容は以下の通り。(拙訳注意)

砲手の夢

雲の中を漂っていると
今思い出が駆け上がってくる

でも、天と天の間の空間で
異国の野原の片隅で
夢を見た
夢を見た

さようなら、マックス
さようなら、ママ

礼拝の後、車までゆっくり歩いていると
彼女の銀髪が11月の冷たい空気の中で輝いている

君は鐘の音を聞く
襟の絹に触れる
涙のしずくが楽隊の心地よさで生まれるとき
君は彼女のか弱い手を取り
夢にしがみつく!

(オーイ!)
居場所
(「こっちだ、モリス!」)
十分な食事
(「下がれ、下がれ、ジョン!」)

どこか、年老いた英雄が通りに安全に溶け込める場所
疑問や恐れを大声で話せて
それ以上、誰もいなくなることはない場所
彼らが当然のようにドアを蹴破る音も聞こえない

トラックの両側でリラックスできて
遠隔操作でバンドマンに穴を開ける狂人もいない


誰もが法律のもとにあり
もう誰も子供を殺さない
もう誰も子供を殺さない


毎夜毎夜 脳内をぐるぐる回っているもの
彼の夢が僕を狂わせる

異国の野原の片隅で
砲手は今夜も眠る
すんでしまったことは仕方ない
僕たちには彼の最後の瞬間をなかったことにできない
彼の夢を心に留めろ
心に留めるんだ



エモーショナルな老夫婦の姿を描いたこのバージョンの後に、

ぜひ次の同じ曲の別バージョンをご覧ください。
曲ではなく、第8航空隊の映像を紹介するものです。
本来はこちらの映像によりフィットする歌詞だと思われます。

US 8th Air Force - Pink Floyd - The Gunner's Dream - World War II

第8空軍の撃墜され落ちていく爆撃機が次々登場します。
地面で砕け散った機体の側には、搭乗員の遺体が横たわっています。

■初期の作戦 イギリスにおける第8空軍


1942年から1943年初頭にかけて、
イギリス空軍(RAF)は夜間に飽和爆撃を実施する一方、
アメリカ空軍はイギリスの小規模な爆撃機部隊で
白昼における精密爆撃の有効性を証明しようとしていました。

開戦から最初の1年間、第8空軍の重爆撃機は、
ドイツ占領下のフランスの工業・軍事目標とともに、
潜水艦基地や生産施設を攻撃し続けました。

しかし残念ながら、どれほどUボートの基地や造船所を爆撃しても、
大西洋におけるドイツ潜水艦の脅威を阻止する効果はありませんでした。

それでもアメリカ軍爆撃機の指導者や乗組員は、
さまざまな戦術や技術を試しながら貴重な経験を積んでいきます。

ロリアンのドイツ軍潜水艦基地を攻撃中

この頃(1943年6月9日)ミッション中のご存じメンフィス・ベル

【投下された爆弾のエイミング・ワイヤタグ】

博物館所蔵。
1942年8月17日、
ナチス占領下のヨーロッパで第8空軍が行った最初の重爆撃の際、
フランスのルーアン=ソットヴィル鉄道敷地に投下した
爆弾の1つについていた arming wire tag


【爆弾信管のピン&タグコレクション】

爆弾信管のピンとタグ
第303爆撃航空団副隊長ラルフ・ウォルダー軍曹のコレクション 
左より:

ドイツ・ブレーメン 1943年4月17日 1000ポンド爆弾[1982-79-2]

フランス・ロリアン 1943年5月17日 1,000ポンド爆弾[1982-79-1]

フランス・サンナゼール 1943年5月1日 2,000ポンド爆弾[1982-79-3]

ドイツ・キール 1943年5月14日 500ポンド爆弾[1982-79-12]

ドイツ・キール 1943年5月19日 500ポンド爆弾[1982-79-4]

ドイツ・ハルス 1943年6月22日 500ポンド爆弾[1982-79-5]

ドイツ・ブレーメン 1943年6月25日 500ポンド爆弾[1982-79-6]

ノルウェー・ヘロヤ、1943年7月24日、500ポンド爆弾[1982-79-8]

ドイツ・ハンブルク 1943年7月26日 500ポンド爆弾[1982-79-7]

ドイツ・キール 1943年7月29日 500ポンド爆弾[1982-79-9]

25回ミッション達成記念

1943年5月14日、イギリスのバシングボーンで、
飛行場を "buzzing”(ブンブン )させながら、意気揚々と、
第8空軍のパイロット、ローレンス・ドワイヤー少佐は
ハンカチに結びつけたこの50口径の弾丸を投下しました。

 敵地上空での25回目の最後の任務を完了した記念でした。

冒頭の第8空軍バージョンの「砲手の夢」ビデオには、
途中、ヨーロッパでの真の25回爆撃任務達成機である、
「ヘルズ・エンジェルス」の姿を見ることができます。

【爆撃士官マティス兄弟の物語】



1943年3月18日、21歳の爆撃手ジャック・W・マティス中尉は、
ドイツのヴェゲザックにあるUボート基地空襲の任務において、
飛行隊長兼爆撃手を務めていました。

ヴェゲザックに到着する直前、爆弾を投下してから数分後、彼の乗機
「ザ・ダッチェス」(愛称ウルヴァリン)の前部で高射砲弾が炸裂します。

その瞬間、重爆撃機の機首が粉々に砕け、
爆撃手とナビゲーターの区画に、燃え盛る高温の破片が飛び散りました。

エポキシグラスが破損したザ・ダッチェス(AKA”ウルヴァリン”)

この爆発でマティス中尉はコンパートメントの後方に投げ出され、
右腕は肘のところでほぼ切断され、右側腹部を大きく抉られる傷を負います。

大量に出血し、瀕死の重傷を負ったマティス中尉は、
しかし、這うようにして自分の配置に戻り、ほんの数秒の余裕をもって
標的を十字線に合わせ、おそるべき精度で爆弾を投下
しました。

マティス中尉はその後、爆弾の照準の上にうつ伏せになったまま、
出血多量で死亡しました。



その非凡な功績により、マティス中尉は第8空軍搭乗員として
初めて名誉勲章を受章されることになりました。



基地では、マティス中尉の兄、25歳の爆撃手、マーク・マティス中尉が、
「公爵夫人」の帰りを辛抱強く待っていました。

彼はその朝、弟を見送り、その帰りを心待ちにしていました。
兄弟は弟の任務終了後、ロンドンでの3日間の休暇を予定していたのです。


しかし、午後になって基地に帰還した「ダッチェス」の機首部分が

完全に破壊されているのを見た瞬間、彼は本能的に弟の死を確信しました。

二人の兄弟は、アメリカが第二次世界大戦に参戦した直後、
ともに陸軍航空隊に転属し、飛行訓練後、爆撃手に配置されていました。

実はその日、ジャックはヴェゲサックへの同行を兄に頼んでいました。
しかし、上から許可が降りず、マークは飛行ラインから弟を見送りました。

上がこのとき許可しなかったのは、慣例的に
兄弟の同時戦死のリスクを懸念した結果だと推測されます。

マークは弟の死後も彼は第303部隊に残り、乗務の継続を希望した結果、
 1943年5月13日、B-17F


 FDR's Potato Peeler Kids
(ルーズベルトの芋剥きキッズ)

の爆撃手として、キールのクルップ潜水艦工場爆撃に参加しました。

工場は対空砲火と100機以上の戦闘機によって厳重に守られていました。
爆撃を成功させたものの、”FDRのポテトピーラーキッズ”は損傷し、
北海のどこかにマーク・マティスと乗組員を乗せて消えていきました。

わずか2カ月足らずの間に、2人の兄弟は
祖国のため、同じヨーロッパで命を捧げたのです。

■第12空軍 B-17「オール・アメリカン」の奇跡

1943年半ばまで、地中海における米空軍の小規模な重爆撃機部隊は、
主に敵の港、飛行場、船舶を攻撃、並びに北アフリカの敵地上軍を撃破し、
シチリア侵攻への布石を作るべく作戦を展開していました。



第12空軍のB-17「オールアメリカン」は、
北アフリカの敵補給線を爆撃中にドイツ軍の戦闘機に突っ込まれ、
写真のように胴体を斜めに切り裂かれそうになりながら、
 驚くべきことに、基地に帰還した伝説の爆撃機です。

B17 All American ~ (Rev. 2a) (720p HD)

ミッションはいつもどおり始まりました。


激しい戦闘機と対空砲火の波をかいくぐり、編隊は目標上空に到達し、
オール・アメリカンは何事もなく爆撃任務を終えました。

基地に戻ろうとしたとき、2機のメッサーシュミットが迎撃を試みましたが、
砲手がこれを防ぎ、この戦闘機は引き返していきました。

しかしこの後も、2機のメッサーシュミットが飛来しました。

それは二手に分かれ、1機は編隊長機に、
もう1機はオール・アメリカンに飛びかかりました。
両爆撃機の砲手によってドイツ機は2機とも撃破されます。

先頭機を攻撃していた戦闘機は、黒煙をたなびかせながら墜落しましたが、
もう1機は、最後の瞬間、爆撃機に体当たりしてきました。

戦闘機はB-17コックピットの真上を、耳をつんざくような
「フーッ」という音とともに撃ち抜き、尾翼部分に突っ込みました。



衝突で機体後部に大きな穴が開き、左の水平安定板がなくなりました。
衝撃に震えている尾翼は今にも剥落しそうになりました。

茫然自失のクルー全員の点呼をとってみると、
驚くべきことに誰も怪我をしていませんでした。

いつ機体がバラバラになってもおかしくない状態を悟った彼らは、
各自がパラシュートをつかみ、脱出できるように準備を始めました。

そんな状態にも関わらず機体は飛び続けていたので、
パイロットは1マイル1マイルを慎重にコースを維持し続けました。

彼らはサハラ砂漠の上空に差し掛かっていました。

アルジェリアの目的地に到着するまで、
機体が持ちこたえられるとは誰も思っていませんでしたが、
オール・アメリカンはそのまま巡航を続けました。

編隊の僚機が、恐る恐る故障した機体に近づいていきました。
(そして上の写真を撮影した乗組員がいたのです)

僚機は全機でオールアメリカンの周りを固め、
射線が重なり合うように編隊を組んで、
戦闘機が近づくのを阻止しながら飛び続けました。

そのうちアメリカ軍の戦闘機もやってきて周囲を護衛し始めます。

それでもオール・アメリカンはまだ飛んでいました。
尾翼を風に揺らして、人間が足を引き摺るようにしながら。

機内の兵士たちには、その旅は10年かかるように思えたでしょう。
ほんの小さな揺れや振動が尾翼を揺るがし、彼らの心臓も縮みあがりました。

しかし、頑丈な設計と機長の”ソニー”ブラッグの繊細な操縦のおかげで、
なんとか持ちこたえることができたのです。

Kendrick Robertson "Sonny” Bragg
デューク大卒、ROTC
戦後プリンストン大に進学、建築家

そして、オール・アメリカンは無事に着陸しました。

尾翼が機能していなかったので、優雅にというわけにはいかず、
最後の100ヤードは文字通り機体を地面に滑らせてのランディングです。

凄惨な内部の状況が予測されたので、救助隊が駆けつけましたが、
彼らには救急車は必要ありませんでした。
乗組員は誰ひとり負傷しておらず、全員普通に歩いて出てきたのです。


この奇跡の生還劇こそが機体と乗組員の能力の生きた証拠となり、
オール・アメリカンは当時最も写真に撮られた機体となりました。



写真の証拠がなければ、誰も信じないようなこの状態は、
当時から現代まで奇跡の生還として讃えられ、語り継がれてきました。

神話となりすぎて?ありえない尾鰭がつけくわえられ、
最近ですら本当の話ではないことがSNSで広められているそうですが、
オール・アメリカンに起こったことはこれ以上でも以下でもありません。


続く。






「レディ・ビー・グッドの九人」駐イタリア第15空軍〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-08 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示より、第二次世界大戦中
ヨーロッパに展開した陸軍爆撃隊をご紹介しています。

ところで、当ブログシリーズとまるでリンクするように公開された、
スピルバーグの「マスター・オブ・ザ・エアー」が完結しました。

このシリーズを鑑賞する際、偶然にせよ放映に先んじて
ヨーロッパ戦線におけるアメリカ空軍爆撃隊の情報を得ていたことは、
まるで「答え合わせ」か、パズルのピースがはまるような快感がありました。

当ブログには時々こんな「奇跡」が起こります。

誰のためにもならず、なんの自慢にもならず、要はただの偶然にすぎませんが、
この世の全ての出来事の中で、わたしの無意識がたまたま捉えたものが
不思議と他所の誰かの意志と合致する、というささやかすぎる奇跡。

なんとなく引き寄せの法則はあると感じる今日この頃です。

■ イタリアに展開した第15空軍



「長きにわたって我々は南からの攻撃に対して無力だった」

これは、かつての戦闘機エースでドイツ軍最年少将官となった、
アドルフ・ガーランド少将がアメリカ軍について語った言葉です。

1943年9月、アメリカ陸軍航空隊は第15空軍を編成し、
地中海の重爆撃機部隊を南イタリアの基地に集結させました。

南イタリアを根拠地にしたことで、アメリカ空軍は、
南東ヨーロッパで大規模な戦略的空襲を行うことができるようになり、
ドイツ空軍の防衛にさらなる圧力をかけていくことになります。

上の写真は、第15空軍の爆撃機が南イタリアの基地を離陸する様子。
激しい雨の後で、滑走路が一面雨水に覆われ波ができています。

余談:アドルフ・ガーランド少将



ちなみにこう語ったところのガーランド少将ですが、この風貌とか、
バトル・オブ・ブリテンでゲーリングに『何か要望はないか』と聞かれて、

「スピットファイアが欲しい❤️」

と言い放ったったり、爆撃機への体当たり攻撃をやめさせたり、
ジェット機ハインケルHe162のパイロットに少年兵を使うのをやめさせたり、
トレードマークがミッキーマウスだったり(部隊名にしていたらしい)。

なんとなくドイツ軍人ぽくなくね?と思っていたら、やっぱりというか、
フランス系のユグノー教徒(フランス改革派教会)の家系でした。

その動かぬ証拠。操縦席の下にミッキーマウス発見

でっていう話ですが、なんかこの人好きだわ〜。



オーストリアのウィーナー・ノイシュタットにある

メッサーシュミット戦闘機工場を攻撃する途中の一連の爆弾。



第15空軍の爆撃機がイタリア・ミラノのブレッソ航空機工場に爆弾を投下




オーストリア、シュタイアーのボールベアリング工場へ爆撃任務終了後、

死亡したナビゲーターの遺体を爆撃機ノーズから下ろす医療関係者。


空飛ぶ爆撃「列車」?

B-24爆撃手ロバート・ヘンベストRobert Henbest中尉が着用していた

第15空軍と第727爆撃飛行隊のパッチです。


1944年2月、爆撃手ハロルド・クックHarold Cookeが、
レーゲンスブルク上空で撃墜され、捕虜になった後、
投獄中に暇に任せて制作したアイテムその1。

実際のバッジに錫箔を巻いて作ったエアクルー・バッジ飾り。
フレームはベッドのすのこ、フレームを包むパッドは陸軍の制服、
ガラスは窓ガラスを拝借して作ってあるそうです。

そんなにしてまで作りたかったのがこれって・・。



捕虜生活の暇に任せて作ってみたシリーズその2。
木製ベッドのスラットから彫り出されたボンバルディアの翼

・・・・ですが、つまりベッドの一部ですよね?

壊したのか?壊して作ったのか?



テーブルナイフで椅子の座面を彫刻して作った第15空軍のエンブレム。



上の背面にはヨーロッパの地図上空を飛ぶB-24の姿が。



第15空軍の "トグリアー "ジェームス・ウォルシュ軍曹着用アイクジャケット。

 重爆撃機では、「togglierトグリアー?」と呼ばれる下士官が
先導機からの合図で爆弾を投下することになっていました。

トグリアーとは、目標上空で爆弾のスイッチを「トグル」する係です。



ロバート・クラッツ中佐(第455爆撃群B-24爆撃兵、52回の戦闘任務に従事)

着用の帽子には破片が通過したときの破口が残っています。

■ 「レディ・ビー・グッド」とその乗員の物語



「レディ・ビー・グッド」と聞くと、わたしなどは
ジョージ・ガーシュインの曲「Oh, Lady be Good!」が
エラ・フィッツジェラルドの歌で思い出されるわけですが、


この「お嬢さん、わたしに良くしてください」というタイトルを
機体の愛称にした、陸軍のB-24爆撃機の喪失の物語をします。

1943年4月4日、レディ・ビー・グッドは、最初で最後の任務に向けて

リビアのベンガジ近郊にある滑走路、ソルチを離陸しました。




乗員はウィリアム・ジョセフ・ハットン中尉を機長とする総員9名。

手前から:
ハットン、トナー、ヘイズ、ウォラフカ、
リップスリンガー、ラモット、シェリー、ムーア、アダムス

その日の作戦計画では、爆撃隊は時間差でソルクを出発して、
後発の航空機が合流したのち、ナポリを攻撃することになっていました。

ところがその日、サハラ砂漠の強風のために砂嵐が発生し、
視界が全く確保できなくなったため、多くの航空機は
最終的にミッションを中止し、ソルチにUターンしました。

レディ・ビー・グッドは最後に離陸した爆撃機で、
編隊を追いかけましたが、最後まで追いつくことはなく、
目標到達寸前で先発隊がいないのに気づき、帰還を試みました。

しかしレディはハットン中尉の、

「機体の自動方向探知機が正常に作動しないので誘導が必要だ」

という救援を要請する無線を最後に消息を断ち、
捜索救助隊が出動したにもかかわらず、その所在はつかめませんでした。


捜索終了後、レディ・ビー・グッドとその乗組員は
地中海上空で行方不明になったと報告されました。

そしてそのまま第二次世界大戦は終戦を迎えます。

レディ・ビー・グッドと乗員たちは、戦争中に行方不明になった

多くの航空機と乗組員のひとつとして、そのままになっていました。

■ 墜落地点発見




1958年11月、ダーシー・オイル・カンパニー
イギリ人地質学者が、
リビア砂漠上空を飛行中、墜落した飛行機を発見しました。

ダーシー石油会社の派遣した地上チームが調査を行ったところ、
それが墜落したレディ・ビー・グッドであることが明らかになります。

墜落してから16年後のことでした。




軍当局によるレディ・ビー・グッド墜落現場の初期調査は

1959年5月に始まり、三か月で終了しました。

この間、米軍は航空捜索に加え、大規模な地上捜索を行いましたが
数カ月に及ぶ捜索にもかかわらず、
乗組員の遺体を発見することはできませんでした。



その後、パイロットの名前の入ったショルダーハーネス、サングラス、
パラシュート、フライトブーツ、アローヘッドマーカーなどが
現地の人によって発見され、その近くにあった5人の遺体が
レディ・ビー・グッドのクルーであるとする手がかりとなりました。

5人の乗組員の遺骨が発見されたのは、

最初の捜索終了から6ヶ月後の1960年2月のことです。

さらに陸空軍共同での捜索により、五人の位置から21マイル離れたところで
二人の遺骨が発見され、さらに1960年8月、
上空でベイルアウトした後グループと合流できなかった一人、
ジョン・ウォラフカ中尉の遺体を最後に発見しました。

彼はパラシュートが開かず墜落したのではないかと言われています。

九人目のムーア軍曹は最後まで見つからないままでしたが、1953年に
英軍のパトロール隊が発見し埋葬したのが彼ではないかとされています。

■ 彼らに何が起こったか

レディ・ビー・グッドは帰還中燃料不足に陥りましたが、

不時着を試みなかったのは、帰還時は暗く視界が悪かったことに加え、
方向探知機が故障していたことから、
自分たちがすでに基地上空を通り過ぎていたことに気づかず、
地中海上空を飛行していると思い込んでいたせいだと考えられています。

乗組員は全員ミッションの1週間前にリビアに到着したばかりの新人した。

いよいよ燃料が尽きた時、9人全員が飛行機から脱出し、
乗組員のうち少なくとも8人が地上に生きて降り立ちました。

海上にダイブすると思っていた彼らは、砂漠だったと知って
航空機を維持すればよかったと悔やんだかもしれません。
(砂漠であればあるいは不時着が可能だからです)

彼らが着地したのは機体から約15マイル離れた場所だったので、
水筒半分の水しか持っていなかった8人は、
機体に戻るため、砂漠を85マイル歩き続けました。

機体には食料や水を始め、サバイバルグッズが搭載されており、
さらにはまだ無線機も生きている可能性を考えたのです。

後に機体は墜落後も機関銃、無線機は破損しておらず、
食料も水も完璧に残っていたことがわかっています。
魔法瓶入りのお茶は16年経ったにもかかわらずまだ飲める状態だったとか。
ですから、もし飛行機まで戻れていたら、彼らは助かったでしょう。

しかし、ハットン、トナー、ヘイズ、ラモット、アダムズの5人は
疲労困憊しその場から動けなくなり、残りの3人、シェリー、
リップスリンガー、ムーアは歩き続けるも彼らも砂漠の中で倒れ、
最終的には全員が砂漠の真ん中で命を落としました。

■ ロバート・トナー中尉の日記

トナー中尉の遺体のポケットから手帳型の日記が発見されました。



1943年4月4日、日曜日: ナポリ 28機
-戻っている途中で道に迷い、ガス欠で飛び降り、朝の2時に砂漠に着陸した。
ジョンが見つからない。

4月5日(月):北西に歩き始める。
わずかな食料、水筒1/2本分の水、1日1杯の水。
夜はとても寒く、眠れなかった。
休んで歩いた。

4月6日(火):11:30に休息、
太陽は非常に暖かく、風はなく、午後は地獄だった。
15分歩いて5分休む。

4月7日(水):事態は変わらない。
みんな弱ってきている。あまり歩けない。
いつも祈っている。午後はまたとても暖かく、地獄。眠れない。
みんな地面が痛い。(意味不明)

木曜日、4月8日:砂丘にぶつかり、とても惨めだ。
風は良いが砂が吹き続ける。サムとムーアはもうダメだと思う。
ラモットの目が悪くなった。さらに北西に進む。

4月9日(金):シェリー、リップ、ムーアは別行動で助けを呼びに行く。
目が酷い。歩くどころではない。水はほとんどない。
北風が吹いて少しはマシだがシェルターなし、
パラシュートは1つ残っている。


4月10日(土):まだ助けを求めて祈り続けている。
北からの良い風。今は本当に疲労困憊して歩けない。体中が痛い。
みんな死にたがっている。夜はとても寒い。眠れない。

4月11日(日):まだ助けを待っている、まだ祈っている、目が辛い。
体重が減り、体中が痛い。水さえあればなんとかなる。
すぐに助けが来ることを願っている。まだ同じ場所で休めない。

4月12日(月):まだ助けはない。とても寒い夜だ。


おそらくこの夜、日記の主は眠りに落ちて二度と目覚めなかったと思われます。


リビアのウィールス基地の礼拝堂にあるこのステンドグラスは、
B-24「レディ・ビー・グッド」の乗組員に捧げられました。

LORD GUARD AND GUIDE THE MEN WHO FLY
(主は飛行した男たちを守り導き給う)

「IN MEMORY OF NINE WHO MADE THE DESERT A HIGHWAY
 FOR OUR GOD」

(砂漠を神の身元への道とした九名を偲んで)


とあり、以下9名を顕彰しています。

機長:ウィリアム・J・ハットン少尉
副機長: ロバート・F・トナー少尉
ナビゲーター:DP・ヘイズ少尉
爆撃士:ジョン・S・ウォラフカ少尉
フライトエンジニア:ハロルド・J・リップスリンガー技術曹長
無線士:ロバート・E・ラモット技術曹長
砲手/副フライトエンジニア:ガイ・E・シェリー二等軍曹
砲手/無線技師補:バーノン・L・ムーア二等軍曹
砲手:サミュエル・E・アダムス二等軍曹


A Lost Bomber Found In The Desert – The "Lady Be Good"


続く。

"彼らを飛ばすために": 整備士と爆撃指揮官〜国立アメリカ空軍博物艦

2024-03-30 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦時の爆撃機に焦点を絞って紹介しています。
今日は爆撃機の本領である爆撃についての色々です。

■ Keep Them Flying


爆撃機乗組員の生死は、地上作業員の技量と勤勉さに依存していました。

 彼らは大型で複雑な爆撃機を常に完璧に整備し、戦闘による損傷を修理し、
航空機をより効果的に飛ばすための改造を担いました。


兵器課の爆弾装填手は、爆撃機の致命的なペイロード(爆薬搭載)

爆弾を組み立て、運搬し、機体に搭載するという危険な任務を担いました。 



ダンプから1,000ポンドの薬莢を取り出す爆弾装填手。 



薬莢には尾翼を付け、機首と尾翼の信管を付けてから航空機に積み込みます。


B-17の爆弾倉に吊り上げる前に、
500ポンド爆弾の尾翼とアーミングワイヤーを装着する兵器兵たち。

下士官技術専門職のパッチ
左から:
気象、エンジニアリング、通信、兵器、写真

爆撃作戦の成功は、何万人もの高度な技術を持った専門職に依存しています。

 1943年から、航空兵は自分の専門を示すパッチをつけるようになりました。



イギリスの第8空軍基地で、雪の中でB-24のエンジンを交換する地上作業員。 

季節や天候に関係なく、ほとんどの整備は屋外で行われました。



足を泥から守るために缶の上に立ち、B-17エンジンの整備をする整備兵。
イタリアの第15空軍基地にて。


泥にめり込んでしまうんでしょうか



作業ではしばしば事故が起こり、大惨事となっています。

■メットフィールドの「デッドリー」(致命的)アクシデント

1944年7月15日、イギリスのメットフィールド飛行場で、

米軍兵器担当者が高火力爆弾を運搬車から下ろしていたとき、
爆弾が誤爆発し、それが1,200トンの爆弾を誘発させました。



この大爆発で5人が死亡し、20機以上のB-24が破壊され回収不可能になり、
数機が損傷するという大惨事になりました。

爆発音は40マイルにわたって聞こえたといい、
数マイル離れた村の窓ガラスを粉々にするほどの威力でした。



博物館に展示されている爆発の際出た金属片は、かつて薬莢だったものです。
1970年、歴史家のロジャー・フリーマンが、
メットフィールドを訪れた際にこのねじれた薬きょうを発見しました。

薬莢の端には、靴底らしきものが巻き込まれています。
それを履いていた人は、おそらく亡くなったでしょう。


一番下に、この「メットフィールド爆発事件」と書かれていますが、
この石碑、三つの全く違うものを記念してあります。
まず、

「第353戦闘機群」

メットフィールドに最初に駐留したアメリカ軍、第353戦闘機群は、

リパブリックP-47Dサンダーボルトを装備する部隊で、
1943年8月12日にヨーロッパで作戦を展開開始しました。

メットフィールドを根拠地として、対空任務、
西ヨーロッパに展開する爆撃機の護衛、
フランスと低地諸国上空での対空掃討作戦、
フランスの標的を急降下爆撃しました。

そして石碑中央は、

The Carpetbaggers
(カーペットバッガー)

Carpetbaggerとは、もともと南北戦争後に南部諸州にやってきた、
日和見主義的(お花畑ともいう)な北部の人々、と意味を持ちます。

カーペットでできたバッグを持った人たち、という意味があり、

「その土地に縁がないにもかかわらず、
純粋に経済的または政治的な理由で新しい地域に移り住む人々」

という意味の名称になっています。


南北戦争後の北部人でいうと、かわいそうな黒人たちに知識を授け、
貧しい南部を栄えさせ活性化できると信じてやってくる人々。

いずれにしても、褒め言葉としては使われていない感じです。

「The Carpetbaggers」というと、ハワード・ヒューズをモデルにした
邦題「大いなる野望」なる映画がありますが、
こちらは1964年作品なので、この時代には全く関係ありません。

この石碑で記念されているのは、

「Operation Carpetbagger」
カーペットバッガー作戦

に参加した人たち「The Carpetbaggers」ということになります。

コードネーム「Operation CARPETBAGGER」は、
パルチザンの戦闘員たちに夜間に物資を密かに空輸する作戦でした。

1944年8月に第492爆撃群と改称されたこの特殊部隊は、

The Carpetbaggers として知られるようになります。

彼らはB-24リベレーターに、"レベッカ "と名付けられた
指向性空地装置を受け、 "ユーレカ "と呼ばれる送信装置を使って
ナビゲーターを地上のオペレーターに誘導します。

射程距離に入ると、「Sフォン」と呼ばれる特殊な双方向無線機で

地上のパルチザンに連絡し、最終的な降下指示を受け、
地上部隊がドイツ軍ではなくパルチザンであることを確認します。

B-24のボール砲塔が本来設置されている場所をハッチにし、その通称
「ジョー・ホール」からパラシュート降下兵「ジョー」が効果していくのです。
(ジョーが出てくるからジョーホール、ってそのまんま)


サーチライトを避けるため、光沢のある黒に塗装されたB-24で、

カーペットバガーズはイギリスからフランスへの最初の任務を決行。

パルチザンへの物資調達は、間近に迫ったDデイ侵攻への準備でした。

彼らの最も多忙だった月は1944年7月で、少なくとも4,680個のコンテナ、
2,909個の小包、1,378束のビラ(真の目的を偽装するため)、
そして62名の「ジョー」を投下しています。

いうまでもありませんが、彼らの任務は常に危険に曝されていました。

ドイツ軍の夜間戦闘機や対空砲火による危険に加え、

カーペットバガーズは、低空からレジスタンス軍に降下する際、
常に丘の斜面に墜落する危険もありました。

1944年1月から1945年5月までに、最終的には
1,000人以上のジョーがB-24のジョー・ホールから敵地に降下しました。

損害は25機のB-24、さらに8機が修理不可能、
人員損失は当初、行方不明と死亡が208名、軽傷が1名とされましたが、
行方不明者の多くはレジスタンス部隊の助けを借りて帰還しています。





爆撃機が戻ってこないときの地上勤務員の心情を表現した戦時中の詩が

爆弾の写真の上に貼ってありました。


『帰還』
ベール・マイルズ

今朝、21機が出撃した
そして太陽は私の目の前にあった
私が見ていると彼らは弧を描いた
空の中に消えていく前に

今朝、21機が出撃した
陽光が彼らの翼をとらえ
彼らは小さな雑木林を横切っていった
ブラックバードがいつものように囀っているところを

鳥のように朝に向かって
彼らは飛んだ どこへかはわからない
でも私の心にはその日一日小さく
そして微かな祈りがあった

今朝は21機が飛び立った
空を華麗に駆け抜けた
でもまだ彼らの姿は見えない
もうすぐ日が暮れるのに

そして突然、時空を超えて
翼の上に陽の光がある
私の心臓の鼓動の上に
エンジンのうなりが聞こえる

太陽はまだ輝き続けている
しかし私の世界は恐れで暗くなっていく
今朝、21機が飛び立った
しかし帰ってきたのは17機だけ


続く。




プロイェシュチ爆撃の殊勲者たち〜国立アメリカ空軍博物館

2024-03-18 | 航空機

タイダルウェーブ(潮流)作戦を報じるフィルムです。

The Ploiesti Raid 1943 [Operation Tidal Wave]

画像悪すぎ。


■ タイダルウェーブ作戦における名誉勲章受賞者


左上から時計回りに:
ベイカー、ケイン、ジョンソン、ヒューズ、ジャースタッド

1943年に行われたプロイェシュチ製油所への大々的な爆撃は、
アメリカ側に多大な犠牲をもたらしました。

その時わかっているだけで500名もの乗員が未帰還になり、
死者は310名に上ったこともお伝えしましたが、
今日はその作戦遂行において名誉勲章を叙勲された人々を紹介します。

まずは生還した指揮官から。

第44爆撃群司令官 
レオン・ジョンソン大佐
Col Leon Johnson



ジョンソン大佐は、警戒態勢にある敵の防衛線と灼熱の火災、
遅発爆弾の爆発をくぐり抜け、第2波を指揮した堅実さと勇気が評価され、
名誉勲章を受章しました。



博物館に展示されている飛行服とゴーグルは、
ジョンソン大佐が8月1日のプロイェシュチ空襲で着用したもの。
パッチは戦前の第3攻撃群のものがそのまま付いています。

ジョンソンは最終的には将軍として1965年に退役しました。

第98爆撃群司令官
ジョン・"キラー"・ケイン大佐
Col John ”Killer'”Kane


この日、山岳地帯の密雲状態を回避している間に、
彼の部隊は集団編隊の先頭部分とはぐれてしまいましたが、
遅れても目標に向かうことを選択しました。

完全な警戒防御、集中的な対空砲火、敵戦闘機、
先の部隊が投下した遅延爆弾による危険、油火災、
目標地域上空の濃い煙にもかかわらず、
彼は石油精製所に対して編隊を率いて攻撃を続行。

ケインの爆撃機「コロンビア万歳」は、エンジンを失い、
対空砲火を20回以上受け、予備燃料を使い果たし、
北アフリカの基地に到着する前にキプロスに不時着しています。

後3人は作戦で戦死した人たちです。

ロイド・ヒューズ中尉(死後)
2nd Lt. Lloyd Herbert "Pete" Hugues



編隊の最後尾を飛ぶB-24のパイロットだった彼は、
激しく正確な対空砲火と密集して配置された弾幕風船をかいくぐり、
低い高度で目標に接近させましたが、爆撃前に機体は高射砲を受けます。

彼は機長として損傷した機体を不時着させるより
作戦の続行を選択して爆撃を完了させました。

その後川に機体を着陸させようと試みますが、
被弾して燃えていた左翼が飛び、機体は地面に落ちて
彼を含む5人が死亡、2人は重傷で死亡、残りは捕虜になりました。

戦死時彼は少尉任官してまだ半年目の21歳で、
前年には結婚したばかりでした。



遺体は現地の人々の手で埋葬されていましたが、
1950年には身元が判明して故郷に帰されています。

アディソン・ベイカー中佐(死後)
Lt. Col. Addison Baker




アディソン・ベイカー陸軍中佐は、当作戦で
「地獄のレンチ」(Hell's Wrench)と名付けられたB-24に搭乗し、
5つのうちの2番目の編隊の先頭機として飛びました。

彼の機を含む何機かは、先頭機が間違った地点で旋回したため、
目的地ではなくブカレストに向かっていることに気づき、
通信を試みましたが、先頭機が警告する電話にも応じなかったため、
ベイカーは編隊を崩し、残りを率いて正しいコースに復帰しました。 

ベイカーの機は最初にプロイエシュチに到着し、
敵のレーダーを避けるため低空飛行をしていましたが、
対空砲に被弾し、火災を含む深刻な損害を受けます。

しかし彼もまた、機を不時着させるより任務を完遂させるため、
爆弾を目標に投下することを優先しました。



爆弾投下後、ベイカーは低空を飛行していた「地獄のレンチ」を、
乗員がパラシュートで降下可能な高度まで上昇させようとしましたが、
被弾していた機体はその途中で炎上し、乗員全員が死亡しました。


空軍博物館展示:ベイカー中佐に授与された勲功賞等

ベイカー中佐の遺体はその後行方不明のままでしたが、
作戦から80年後の2017年、関係機関が遺骨を掘り起こし、人類学的分析、
状況証拠、ミトコンドリアDNAとY染色体DNA分析により、
遺骨を正確に特定し、あらためてアーリントン墓地に埋葬されました。

彼は当時36歳で、作戦に参加したメンバーの中では最年長だったため、
特定が比較的早くできたということがあるそうです。

ちなみに、最新の鑑定法を使った今回の特定作業で、
今まで身元のわからなかった80名の乗員のうち、36名が特定されました。

 ジョン・ジャースタッド陸軍少佐(死後)
Maj. John Jerstad



シカゴの名門大学ノースウェスタンを卒業後任官した彼は、
ヨーロッパで出撃を重ね、1943年には25歳で少佐に昇進していました。

当時彼は93爆撃群とは関係がなかったにも関わらず、
プロイェシュチ爆撃の潮流作戦に自ら志願し参加しています。

彼はベイカー機長操縦の「ヘルズ・ウィンチ」の副機長を務め、
爆撃終了後、低空飛行から炎上しつつある機体の高度を上げ、
乗員がパラシュートで脱出できるように機長と共に試みましたが、
前述の通り、機体は墜落し、乗員全員と運命を共にしました。

ジェルスタッド少佐は作戦後行方不明とされていましたが、
死後7年目に発見され、死亡が確定しました。


冒頭写真左から
ベイカー、ジャースタッド、ジョンソン、ヒューズ
(ケインは写っていないと思う)


博物館には、ナビゲーターだった
レイモンド・ポール ・"ジャック"・ワーナー中尉が、
8月1日の空襲で着用していたシャツも展示されています。

ワーナー中尉は対空砲火で左腕を切断されそうになりながら、
被災した機体からパラシュートで脱出し、
パラシュートが開いた瞬間に地面に激突し、死を免れました。

彼は1944年の秋に釈放されるまでルーマニアで捕虜になっていましたが、
現地の病院の看護婦が彼の破れたシャツを修理してくれたので、
ずっとこれを着ていたということです。

このワーナー中尉についての経歴はあまりありませんが、
死亡を伝えるサイトのHPに、陸軍少佐として紹介されていました。

帰国してからは軍役から引退していますが、
捕虜になっていたことを考慮されて昇進したようです。

死後2階級特進というのは日本で耳にしますが、
アメリカではむしろ引退後の年金補償の点などを考慮して、
慰労の意味でこういう特進があるのかなと思いました。

余談ですが、ワーナーの本名は「レイモンド・ポール」であり、
あだ名の「ジャック」の要素がどこにもありません。
これは、姓が「ワーナー」であったことから、当時の有名人、
ジャック・ワーナーの名前で周りからも呼ばれていたのだと思われます。


Operation Tidal Wave - 178 B-24 Bombers vs. Hitler's Gas Station

こちらは非常にわかりやすいタイダルウェーブ作戦の説明です。
編隊離陸直後から1機が墜落、低空飛行に入った途端、
グループが分かれて進路を間違え、混乱したと言っています。

そして、このやりとりをドイツ軍が傍受し接近に気がついたと。

そして、結論としてアメリカの爆撃作戦は失敗で、
製油所は、結局終戦まで
「ヒットラーのガソリンスタンド」
として機能し続けたことを強調しています。

次回は、当作戦に参加した唯一の日系アメリカ人、
ベン・クロキについてお話しします。


続く。






「暗黒の木曜日」初期爆撃戦略の欠陥 〜国立アメリカ空軍博物館

2024-03-12 | 航空機

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の重爆撃機は、

フォーメーションを組んで飛行しました。

フォーメーションは戦闘機の攻撃から重爆撃機を守り、
爆弾パターンを目標に集中させるために設計されています。

これらのフォーメーションは、敵の戦術に対抗するため、
また重爆撃機の数の増加に対応するため、時代とともに進化していきました。

■ コンバット・ボックス Combat Box

アメリカ空軍のフォーメーションタクティクスには、
「コンバット・ボックス」(戦闘箱)なる言葉があります。

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の重爆撃機(戦略爆撃機)が使用した
戦術編隊のことを「コンバット・ボックス」と称しました。

まずなぜこれが「ボックス」なのかというと、


このような図式にあてはめて編隊を組織したからです。

集中編隊を「ボックス」と呼ぶ習慣は、平面図、側面図、
正面仰角図で編隊を図式化し、個々の爆撃機を
目に見えない箱状の領域に配置したことから生まれました。

別名として、「時間をずらす」という意味の
「スタッガード・フォーメーション」とも呼ばれたこの思想の目的は、
まず、防御の点からいうと爆撃機の火砲の火力を集中させることであり、
攻撃的には目標に爆弾の放出を集中させることにありました。

■ ドイツ軍の防御システム

映画「メンフィス・ベル」では、爆撃目標に近づいた頃、
それまで護衛についていたアメリカ軍の戦闘機が、
翼を振って別れを告げ、帰っていくのを見て、乗組員が
ため息混じりにそれを皮肉るシーンがありました。

ギリギリまで掩護してドイツ機と交戦するまでいるのかと思ったら、
相手が出てくる前に帰ってくるのですから、皮肉も言いたくなるでしょう。


日中の精密爆撃にこだわったアメリカ空軍を迎え撃つドイツ軍は、
地上のレーダーで迎撃機を誘導する強力な統合防空システムを構築しました。

占領下のヨーロッパ上空に侵入した連合軍機を
ME-109、FW-190、ME-110、JU-88戦闘機が迎え撃ち、
さらに、通称「フルークfluk(高射砲)」と呼ばれる
「フルガブヴェールカノン(flugabwehrkanone)」
が地上から連合軍の爆撃機を標的にしました。


ボフォース40ミリ

双方の衝突が重なるにつれ、空戦は回復力を試す試練となり、
両陣営の乗組員たちは高高度の消耗戦に閉じ込められていきます。

この空中戦の熾烈さを象徴するのが、通称

「暗黒の木曜日」
として知られる1943年10月14日の爆撃ミッションでした。

この任務は、アメリカ陸軍第8空軍の第1航空師団と第3航空師団が
イースト・アングリアの基地から飛び立ち、
ドイツのボールベアリング工場を攻撃するものでした、

ドイツの戦闘機械の多くは低摩擦ボール ベアリングに依存していたため、
アメリカ軍は、ボール・ベアリングの生産を破壊すれば、
ナチスの戦争遂行能力に連鎖的な影響を与えると考えたのです。

■ 1943年8月17日の同時2箇所空襲




この作戦は実は二度目で、最初8月に行われた、第8空軍による
レーゲンスブルクのメッサーシュミット戦闘機工場
シュバインフルトのボールベアリング工場への空襲がありました。



同時二箇所の攻撃は、敵の防衛力を分断させることが目的でしたが、
シュバインフルト攻撃隊の離陸が遅れてしまうという、
起こってはいけないアクシデントのせいで、ドイツ軍に、

第一波隊を余裕で迎撃してから着陸し、
再武装してタプーリ給油し、
ついでにコーヒーを飲んでから出撃しても(嘘)
まだシュバインフルト迎撃に間に合う


という余裕を与えてしまいます。

しかもアメリカ爆撃隊は前述の事情で終始全くの援護なしだったため、
単独で次から次へとドイツ戦闘機の波と戦うことになりました。

アメリカ軍が採用していた爆撃機編隊間の相互支援による防御射撃は、
ルフトバッフェの、「コンバットボックス」単位に攻撃をかけ、

編隊を撹乱するという作戦でまず無力化され、編隊を離れた落伍機は
ドイツ機の集中攻撃を受けて1機ずつ確実に仕留められていきました。



それでもこの時の空襲はそれでも両工場に甚大な被害をもたらしました。


最初から損失を計算して大編隊が組織されたこと、
そして爆撃手が優秀だったせいです。


左:爆撃中 右:爆撃後の偵察機による撮影(穴だらけ)

しかしながらこの時アメリカ軍は、攻撃兵力の20パーセントに相当する
60機の爆撃機を失い、600人以が死傷、行方不明、捕虜となりました。


攻撃後満身創痍で北アフリカに向かうレーゲンスブルク攻撃隊

そして、その後ドイツがボールベアリングの生産量を回復したため、
連合軍側は再び同じところを叩こうと考えたのです。



■ 1943年10月14日、暗黒の木曜日

さあ、もうおわかりですね。
「暗黒」とは誰にとってのものだったのか。

爆弾を落とされる工場の人々にとってもそうだったでしょうが、
それ以上に困難に直面したのは、実はアメリカ爆撃隊だったのです。


アメリカ軍の戦前の航空隊のドクトリンでは、

「航空編隊は、爆撃機を集団化することで、
戦闘機の護衛なしに
昼間でも目標を攻撃し破壊することができる」

とされ、爆撃機自身が装備する防御機銃
「軽砲身」ブローニングAN/M2 .50口径(12.7mm)砲
の連動射撃さえあれば、
先頭機の護衛なしで爆撃機を敵領土に飛ばすことができる、
と信じていました。

「メンフィス・ベル」の1942年ごろはまさにその通りで、
護衛してきた戦闘機がある地点で翼を振って帰っていくと、
とたんにルフトバッフェの戦闘機が湧いて出てくるという状態でした。

当時の爆撃機は最大10門の機関銃を備えていたにもかかわらず、
損害は増大し始めていました。

「メンフィス・ベル」が25回のミッションを終えたとき、
アメリカは国をあげてこれを讃え宣伝しましたが、それは逆にいうと
ほとんどが25回の任務を生き延びることができなかったということです。

しかし戦闘機が途中で帰ってしまうのは、仕方ないことでした。
当時の戦闘機の航続距離では、海岸線を越えることもできなかったのです。

「暗黒の木曜日」のミッションで、291機のB-17爆撃機は
掩護を伴った「コンバットボックス」編隊を組んでアーヘンに接近すると、

作戦範囲の限界に達したUSAAFのP-47戦闘機は、
翼を振って爆撃隊に別れを告げ、離脱していきました。

結局全行程のうち護衛が付いていたのはアーヘンまでの300マイル、
残りの200マイルの間、爆撃機は戦闘機の掩護なしということになります。


掩護機が離脱すると、すぐにルフトバッフェの戦闘機がやってきましたが、
このタイミングは決して偶然ではありませんでした。

ドイツ軍は、レーダー管制がP-47が編隊を離脱する瞬間を把握しており、
戦闘機をレーダー誘導して向かわせていました。

ルフトバッフェの単発戦闘機は、まず第一波攻撃として
3×4のフォーメーションを組み、アメリカ軍爆撃編隊に正面から接近し、
至近距離で20mm砲を発射してきました。

続いて双発戦闘機 JU-88 からなる第二波が続きます。
大型戦闘機は重口径砲に加え、翼の下から21cmロケット弾を撃ってきます。

ロケット弾はかなりの爆発力を備えているため、
たった 1 回の一斉射撃で爆撃機を簡単に破壊できました。


しかも彼らは 爆撃機の防御砲の有効射程、

1,000 ヤードから決してこちらに近づくことはありませんでした。


JU-88はまず先頭の爆撃機にロケット弾を撃ち込み、
各B-17が回避行動を始めると、撹乱して編隊をバラバラにしてしまいます。



迎撃機の攻撃をかわし、なんとか爆撃目標上空に到達できたとしましょう。
次に爆撃隊は激しい対空砲火に直面します。

爆撃機の砲手は追撃してくる戦闘機に撃ち返すことはできても、
高射砲に対しては何もすることができず、それを逃れるには
ただ弾幕を何事もなく通過することを祈ることしかできません。


さらに撃墜されずミッションを終えても、中央ヨーロッパを横断する帰路で
待ち受けている敵と戦わなければなりませんでした。

シュヴァインフルトに接近するまでに、爆撃隊はすでに28機を失いました。

「暗黒の木曜日」で出撃した全291機の爆撃機のうち、60機が撃墜され、
約600人の飛行士が敵地上空で命を落としました。

帰還した爆撃機のうち17機は英国で墜落または廃棄され、
121機が修理しなければもう飛べない状態で、
その多くが負傷したり、死んだ搭乗員を乗せていました。

10月14日爆撃の最初の一投が地上で炸裂する

打撃を受けながら爆撃隊が投下した爆弾は、
このときもボールベアリング複合体に正確に命中しました。

第40爆撃群の生き残った飛行機は、驚くべき正確さで
目標地点から1,000フィート以内に爆弾の53%を投下しています。

内訳は高性能榴弾1122発のうち、143発が工場地帯に着弾、
さらにそのうちの88発が直撃弾となりました。

煙の上がるシュバインフルトを離脱し帰投する爆撃機



この日、搭乗員は出撃前に最後になるかもしれない写真を撮りました。
笑ったりおどけた様子の者は一人もいません。

303爆撃群のこのクルーは、生還することに成功しています。


冒頭のボマージャケットと手袋は、第91爆撃グループの
「Chennaults Pappy」(シェンノートの子犬)の胴部銃撃手、

フィリップ・R・テイラー軍曹
SSgt Phillip R. Taylor

が「ブラック・サーズデー」任務で着用していたものです。


ケースの足元には、軍曹がフォッケウルフ190を撃墜した
50口径機関銃のファイアリング・ピン(撃針)と、
「ダルトンの悪魔たち」と刺繍された布のケースが展示されています。

■ブラック・サーズデイの教訓

アメリカ空軍の指導者たちは一連の爆撃作戦の戦果を賞賛し、
高い損失率にも関わらず勝利を主張していました。


第8空軍司令官アイラ・イーカー中将は
「我々は今やフン空軍(でたフン族笑)の首に牙をむいている!」

といいましたが、これは実情を知っているものには虚しいハッタリでした。

公的には成功を宣言したものの、非公式には(というか実際は)
第8空軍の士気の低下に伴う損失に深い懸念を覚えていたのです。

「暗黒の木曜日」を含む一連のミッションに対する現実的な評価は、
戦闘機の護衛なしでは費用対効果が悪すぎるということでした。

これ以降、第8空軍は攻撃をフランス、ヨーロッパの海岸線、
戦闘機の護衛が可能なルール渓谷に限定しています。

そしてこの後、航続距離が長く、優れた機動性と十分な武装を備えた
 P-51「マスタング」戦闘機が導入されるまで、
ドイツ深部への同様の襲撃を行うことはありませんでした。

米軍はこれ以降、昼間戦略爆撃の理論を再考することになります。
航空戦に勝つには新しいドクトリンと装備が必要であると知ったのです。

さらに、多大な犠牲を払って「成功させた」と上層部が自賛したところの
一連のミッションでしたが、爆撃隊の正確な爆撃にもかかわらず、
その後の分析により、最終的にドイツのボールベアリングの生産は
わずか10パーセント減少しただけだったことが判明しています。


続く。


高度25000フィートの戦い〜B-17酸素供給システム 国立アメリカ空軍博物館

2024-02-23 | 航空機

「メンフィス・ベル」の搭乗員を紹介し終わったところから、
博物館の展示はB-17爆撃機についての説明が始まります。



冒頭のB-17ガンナー(おそらく胴部砲撃手)の上にあったこのパネル、
華氏マイナス50度は-45°C、高度25,000フィートは7620mです。

一応自分で単純計算したら、高度が7500mで気圧は400hPa超え、
気温は-20℃となるはずですが、どこかで計算間違ってますかねわたし。

ヨーロッパにおける米陸軍航空隊の重爆撃機は、
対空砲火に対する脆弱性を軽減するため、
通常2万フィートから3万フィートで飛行していた。
しかし、与圧されていない機体で高高度を何時間も飛行することは、
乗組員にとって別の危険をもたらすことになった。

冒頭の写真の胴部砲塔のガンナーは、クルーの中でも最も過酷な状態で
その高度と温度の外気にさらされていたことになります。



最低気温は華氏零下50度(摂氏マイナス45度)。
高高度では、厳しい寒さによる凍傷が常に危険であった。
B-17の暖房システムはコックピットこそ暖かく保ったが、

他の乗組員配置では、全く効果がなかった。
B-24の暖房システムも同様だった。


というわけで、このコーナーは搭乗員の防寒装備各種です。
三体のスーツが紹介されていますが、


初期の爆撃機搭乗員用



アメリカ陸軍の爆撃機乗り、というと思い浮かぶのがこのスタイル。
分厚い羊の皮(ムートン)でできています。


ブーツの中も毛皮付き

メンフィス・ベル搭乗員、ターレットガンナー、セシル・スコット着用


中:「ブルーバニー」電熱スーツ

電気式温暖装置搭載のスーツや手袋もありました。
内部に電気コードを通して温めるパッドが仕込んであります。


袖にもソケット差し込み口が

この初期タイプ「F-1スーツ」の愛称は「ブルーバニー」。
深い意味はなく、青いから、誰ともなくそう呼ばれるようになりました。

「青いうさぎ」って・・なんかそんな感じの歌が昔あったな。

現代でこそダウンに温め装置がついている服が誰でも安く買えますが、
この頃は何しろ原始的な仕組み(単一回路)だったので、
電線が使用中に断線するのはしょっちゅうだったということです。

熱が切れるだけならまだしも、その際着用者に衝撃を与え、
しばしば発火することもあったため、乗組員はこれを嫌がって、
わざわざ装置を外して着用するにようになりました。

横腹部分に昔々のこたつについてたみたいな布巻きのコードが見えますが、
この先が何につながっているかというと・・・、

エレクトリックスーツ用手袋とコントロールボックス

上の小さな機械が各ステーションに置いてあり、これにつながっていました。

これってさ・・・ボックスが固定されていてもいなくても、
体からワイヤが直接どこかにつながっていたらそりゃ切れますがな。


エレクトリック・ブーツ

しかも、ブーツにも右左一本ずつワイヤが仕込んであるという・・・。
こんなの小さなボックスに繋いでたら歩けないよね多分。

機内持ち込みなので、小さく軽いものを、と思ったんでしょうが、
さすがのアメリカの技術でも当時は意余って力足りずだったわけだ。

そういえば、メンフィス・ベルの上部砲手が窓の外に手を出して、
砲身に被せてあったカバーを外したわずか2分間で凍傷にかかり、
あやうく右手切断になりそうになったという話がありましたが、
彼はヒート式といかずとも、普通の手袋すらしてなかったんですかね。

左:対戦後期の爆撃機搭乗員用フライトスーツ

しかし、そんな不具合のあるものをいつまでも陸軍が放置するわけもなく、
爆撃機乗組員の服装は戦時中に劇的に改善されることになりました。
より軽量でアルパカの裏地が付いたもの、
改良された電気ヒーター付きの下着により、
より快適でより機動性の高いものへと進化を遂げていきます。


大戦後期のB-17搭乗員

後期には機内の暖房システムも向上します。
B-17の左舷内エンジンから発生する熱を
機体中央と前方の乗員ステーションに送ることでスーツも薄くなりました。

この頃は、スーツにではなく、内部に電熱式下着を着るまでになりました。

■ 酸素(オキシジェン)



高度25,000フィートでは、人は補助酸素を用いなければ、
3~5分で気を失い、その後すぐに死亡に至ります。

実際にも、ホースの詰まりや酸素マスクの凍結などの不具合で
何人かの飛行士が死亡しています。


オキシジェンマスクとレギュレータ



展示されている酸素マスクは1944年に使用された典型的なタイプで、
当時はマイクも内蔵されていました。

一緒に展示されているのはオキシジェン・レギュレーターで、
各乗員ステーションに設置されており、
マスクを航空機の酸素システムに接続するためのものです。


ウォークアラウンド・ボトル(Walkaround bottle)


ウォークアラウンド=歩き回るという意味そのままで、
乗組員は酸素マスクをこの「ウォークアラウンドボトル」に差し込んで、
酸素を必要な時にはこれを携帯して移動していました。

基本いざというときのためのものなので、
ボトルに入っている酸素はわずか12分間分だけです。


ポータブルシリンダー、通称「ウォークアラウンド」

ポータブル・ユニットは、1回の充電で
6~12分の酸素供給が可能な小型シリンダーで構成されています。
デマンドレギュレーターが装備され、サスペンションクランプ、
リチャージバルブ、圧力ゲージ、
マスクホースのカップリングが取り付けられています。

左には「再装填口に油を近づけないこと」とあります。

装着方法

遅れるな
圧力計の指針が赤い部分に達したら、シリンダーを再充填せよ
このシリンダーを再充填するには、エアプレーンにある供給ホースの

フィラーバルブに再充填口を接続する


ポータブルユニットを使用するには
第1に、ポータブル・ユニットの圧力計をチェックする;
第2に、息を深く吸い込んだ後、
レギュレータホースからマスクを外し、

素早くレギュレータ接続のネジカバーを外し、
マスクホースの端の雄金具をはめ込み、
携帯用クランプユニットを衣服に固定する

5分ごとに、波形のチューブを絞って息を吸い込み、
マスクに漏れがないかを確認すること

ベイルアウトボトル(Bailout Bottle)
ベイルアウトの際使用するもので、
パラシュートのハーネスに取り付けるか、足に括り付ける
安全な高度まで達するまで十分な酸素を供給する

 ■ 航空機用酸素タンク



航空機用酸素タンク

重爆撃機には、機体システムに酸素を供給するため、

複数の酸素タンクが搭載されていました。



ボンベの配置図です。

ちょっと見えにくいですが、黄色が酸素ボンベ、
緑色がウォークアラウンドボンベです。

各配置に置かれているわけですが、上の図を見ると、
コクピット両側に5個ずつ、中央にまとめて置かれたボンベは
後方の砲手たちに供給できるようになっています。

供給口は各ポジションにひとつずつあるほか、
通信室に予備が2口、ボムベイ近くに1口置かれています。

一つの酸素ボンベは一人が使用して4時間分ですが、
ボール・ターレットの酸素タンクだけは小さく、2時間分しかありません。

タンクはボールの床上(つまりボールの外)に設置されているのですが、
なぜ狭くもないのに半分の大きさなのかわかりません。

高高度を飛行する爆撃機には必須の酸素ボンベですが、
破損した場合、放出される加圧酸素は深刻な火災を引き起こしました。

メンフィス・ベルの実際のミッションでもこんなことがありました。

テール・ガンナーがボンベ被弾による火災発生を知らせました。
機内に走る極度の緊張。
しかししばらくしてインターコムが「消えた」と伝えてきました。
モーガン機長は、その時の気持ちを、

「その報告はどんな音楽よりも美しく聞こえた」

と後に語っています。


続く。




「幸運の蹄鉄」という名の尾翼銃手〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍航空博物館

2024-02-07 | 航空機

第二次世界大戦中、ヨーロッパで爆撃任務を行ったB-17で
戦後最も有名になったメンフィス・ベルのコーナーから、
戦債ツァーに参加したメンバーを順番に紹介してきました。

今日は戦闘配置の一番最後の後部砲塔砲手についてです。



まず後部銃手の戦闘態勢。


後部銃手シート。
ニーパッドに膝を乗せ、前部に防護板のついたシートに座ります。


座ったところ。
あまり大きな人は配置に就けないかもしれません。

What was it like being a Tail Gunner on B17 Flying Fortress?




■ テール・ガンナー、 ジョン・クィンラン


(幸運の)蹄鉄を持って撃墜した敵機マークを指差すクィンラン


メンフィス・ベルの機長ボブ・モーガン大尉は、ジョン・クインランに
 "Our Lucky Horseshoe"(俺らのラッキー蹄鉄)
とあだ名をつけ、他のクルーは 彼を"The Chief "と呼んでいました。

ちなみに爆撃機では乗組員は機長のことを「チーフ」と呼びますが、
彼の場合はそれにTheがついているというわけです。

世には、その人物がいると悪いことが起こらなさそうな、
運の強そうな人物というのがいるものですが、彼の場合それに加えて
いかにもチーフ然とした貫禄があったのかもしれません。



ジョン・クインランは1919年、ニューヨーク州ヨンカーズ生まれ。
父親は衛生局に勤め、母親は養鶏場を営んでいましたが、
彼が子供の頃に父親が他界してしまいます。

公立高校を卒業し、軍隊に入隊を決めた彼が
バッファローのリクルート事務所に並んだのは、真珠湾攻撃の次の日でした。

「どんなことでも参加したかったんだ」

いくつかのテストを受けて、航空隊に入ることになった彼は、
基礎訓練のためにセントルイスに送られましたが、
次から次へとやってくる若い男たちの数に圧倒され、
自分が入隊するまでに戦争は終わってしまうのではないかと心配したそうです。

戦争は終わりませんでしたが、セントルイスのキャンプで
恐ろしい髄膜炎が流行し、新兵たちは避難することになります。

マクディル・フィールド送られた彼は爆撃機乗組員を任命されご機嫌でした。

「地獄から抜け出して天国に行ったような気分だったよ。
太陽の光、白くて美しい砂浜。
セントルイスでの寒くて雨の多い冬、病気ばかりしていたのに、
フロリダにはおいしい食事もあった」。

その後航空整備士の資格を取り、砲術の研修を受けた彼は
最終訓練のためワシントン州ワラワラへ移動しました。

指導軍曹は、嫌がらせなのかなんなのか、
どんなに短くしてもクィンランの髪が長いと口うるさくいうので、
彼は髪を全部剃ってツルツルにしてしまったこともあります。

「それから彼のところに行き、敬礼して帽子を脱いだ。
僕の頭はピカピカで、彼の目が見えなくなるほどだった」。

彼が当時乗っていたのはウィリアム・ヒル中尉の爆撃機でした。
この名前を覚えているでしょうか。
訓練で彼の機が山の斜面に墜落し、中尉含む乗員全員が死亡したことを。

1942年7月15日、ヒルはクインランに言いました。

『この飛行では砲手は必要ない。
副操縦士、ナビゲーター、爆撃手、無線手だけだ。
今日は休んでいい』。

その日の夕方、事故のことを知らなかった彼が基地を歩いていると、
別の飛行機の仲間が彼の姿を見て目を見開いて言いました。

なんてこった、おまえ死んだんじゃなかったのか」

乗機を失った彼は、ロバート・K・モーガンという
別の若いパイロットのクルーと飛行機に再指定され、尾翼砲手になります。

「尾翼からはなんでも見えるんです。

編隊から脱落した仲間が被弾する。
するとドイツ軍の戦闘機が狼の群れのように襲いかかるのを。
彼らはいつも、弱った飛行機に間違いなく群がるんだ。

爆撃機に乗っていた連中には知り合いも多かったから、
彼らを助けられないのは本当に悔しかった。

その後、彼らが襲ってくると撃ちたくなる。

仲間を殺されたから殺したくなる。
撃っても撃ってもくるのを止められないからイライラするんだ。

僕は打ち続けた。すべて正しいことをしていると信じて。
正しく誘導し、正しく銃を撃ったつもりだ。
でも、奴らは来るんだ。次から次へと来続けた。

頭を撃ち抜かれたと思ったこともあった。

銃を撃つには、前屈みになって照準器に顔を当てなければならないんだが、
ある瞬間、発砲を止め、背もたれにもたれかかった瞬間、
弾丸が僕の前の空間を通過したんだ。

次に顔に何か湿ったものが伝うのを感じた。
手を伸ばすと、血がついていた。

おかしなことなんだけど、頭の反対側に血がついてないか、
手を伸ばして触ってみた。

弾は私に当たっていなかった。
プレキシグラスの破片が当たって血がついたんだ。
かすり傷一つ負っていなかった。

もしあの瞬間まだ前傾姿勢で射撃していたら、
弾丸はまっすぐ頭を貫通していただろう』。

乗るはずだった飛行機の墜落を免れ、一瞬の動きで弾を避け、
これはかれがいかに強運だったかというエピソードです。


■ イギリスに(勝手に)宣戦布告した夜

クィンランという名前は、典型的なアイリッシュネームです。

イギリスとアイルランドは、併合以来独立をめぐって対立しており、
(我々日本人にはピンときませんが)問題はまだ解決していません。

わたしの知人の夫は、全くそっち問題とは関係ないカナダ出身なのに、
たまたまIRAの重要人物だかテロリストだかと同姓同名であるため、
(といっても、日本人名なら山田正男みたいなありがちな名前)
イギリスに入国する時には毎回えらい大変なことになるそうで、
現在進行形で大変なんだなーと思ったことがあります。

このときイギリスに駐屯していた航空部隊にもう一人アイルランド系がいて、
そのマクドナルドという男は、まさにその
アイルランド共和国軍(IRA)のシンパだったのですが、ある晩、
ロンドンで酔っ払い、路上で汚い四文字熟語を叫びまくって、
二人でイギリスと国王陛下に「宣戦布告」したのでした。

「出てきて戦え!」

気持ちよく「一人宣戦布告」していると?肩に手を置かれた気がしました。

「見上げたら、見たこともないような大きなボビー(英国警察官)だった。
たとえどんな大きな奴だったとしても、その時の僕は、
相手の出方次第では構わず殴りかかっていたと思う。

でも、その人はとても優しくて、まるで父親のようにこう言った。、
『お前たち・・・もう十分だろ?』

ぼくたちはまるで子犬のように素直に彼について行った・・・・」。


B-17「メンフィス・ベル」の尾部砲手として、
クインラン軍曹は空中戦で2機の敵機を撃墜したと記録されており、
さらに宣戦布告した当の国王陛下の謁見も受けています。

25回のミッション終了後、英国王夫妻の謁見を受けるクィンラン
(映画「メンフィス・ベル:フライングフォートレスの物語」より9


■ B-29で日本本土攻撃

その後、彼は帰国後の戦争債券ツアーを完了し、
B-29スーパーフォートレスの尾部銃手として訓練を開始します。

B-29での空中戦でさらに彼は3機の敵機を破壊し、
第二次世界大戦中に合計5機の敵機撃破に貢献しました。

そして1944年12月7日、彼のB-29は満州上空で撃墜されました。

彼はベイルアウトして一旦捕虜になりそうになったあと、脱出し、
中国ゲリラと行動を共にして日本兵と直接戦闘することになりました。

空中戦ではなく、相手の見える地上での銃撃戦です。

「ライフルを支給されたので、何度か日本兵を撃ちました。

向こうでは、思い出したくないようなことをたくさん見ましたよ。

一つ言っておくと、ゲリラたちは皆’人殺し’でした。

中にはまだ15歳の子もいたが、彼らは命をなんとも思っていなかったな。
僕はガリガリに痩せ細り、犬を食べることもありました」

行軍の途中、中国人の村に連れて行かれ、
そこで愛国的なスピーチをさせられたこともありました。

「ただただ無意味なことを適当に、汚い言葉を並べ立てて喋る。
通訳が群衆に何かを伝えると
、滑稽にもみんなが歓声を上げるんだ」

彼のスピーチ以上に、通訳もおそらくはデタラメであり、
村人たちはさらに何もわかっていなかったのでしょう。


ある日、B-25が着陸し、クインランを乗せてインドの米軍基地まで運び、
彼を基地に下ろすとまたすぐ飛び立って行きました。

彼を始めアメリカ軍兵士たちは中国人にもらったゲリラの制服を着て、
そこにぼーっと立っていたら、アメリカ人将校が近づいてきて、

「炭を買ってきてくれ」

と中国語で用事を言いつけるのです。
彼が英語で自分はアメリカ軍パイロットだというと、
将校は驚いてその時初めて彼の顔をまともに見ました。

彼はその後アメリカまで送還されることになります。

■ 戦後

1945年に名誉除隊したクインランは、故郷に帰って、
彼のことをずっと待っていた同級生の女の子ジュリアと結婚しました。

戦後彼は建設業者として働き、6人の子供と甥を育て、
1980年に引退した彼は、生涯を通じて
メンフィス・ベルのクルーの中で最も色彩豊かなメンバーと言われました。



映画「メンフィス・ベル」で後部銃手役を務めたハリー・コニックJr.
この写真では後列でサングラスをして一人で立っています。
当時クィンランは生存していましたが、撮影現場には行かなかったようです。

ジョン・クインランは2000年12月18日に亡くなり、
3年後に後を追うように亡くなった妻と一緒の墓地で眠っています。



「敵機の撃った弾丸がわたしのいた小さな区画を通過した。
もしわたしがまだ前傾姿勢だったら弾丸は頭を貫通していただろう」

ジョン・クィンラン
テイル・ガンナー


続く。



上部砲塔砲手兼フライトエンジニア〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2024-01-31 | 航空機

メンフィス・ベルの搭乗員とその配置についてお話ししてきましたが、
最近appleTVでスピルバーグのこんなドラマが始まったのを知りました。
なんたる偶然、なんたるタイミング。
まさにわたしがこのシリーズで取り上げていく米陸軍爆撃隊、
そしてヨーロッパにおける爆撃任務がテーマです。

第二次世界大戦が題材 スピルバーグ&トム・ハンクス製作総指揮 
「マスターズ・オブ・ザ・エアー」予告 


ドラマシリーズ『マスターズ・オブ・ザ・エア Masters of The Air』
海外版予告編

始まったばかりで今第二話までしか見られませんが、
appleTVを契約している方、ぜひご覧ください。

当ブログがこれからこのシリーズで取り上げるミッション、
そして武器なども、実にリアルな映像で登場して一見の価値ありです。


さて、今日は、メンフィス・ベルに、トップ・ターレットガンナー、

フライトエンジニアとして乗り組んだ軍曹についてお話しします。

冒頭写真はメンフィス・ベルのトップ・ターレットです。
トップターレットはボールターレットの反対で、飛行機上部の砲座です。





戦闘配置の時にだけそこに立てばいいので、
飛行時はパイロット二人の後ろにいる感じです。

万が一、上部砲塔の砲手が機外に脱出しなければならなくなった場合は、
爆弾倉のドアから脱出することになります。

それが可能ならば、パラシュートをつけてここから飛び出したでしょう。



ターレット単体はこのようなもので、砲手は足置き場に登り、
エポキシガラスのドームに頭を入れて、発射桿を握り、
自分の足場ごと回転してターゲットを狙います。

空軍博物館所蔵の実物

装備されているのは二連装のブローニングM2 50口径機関砲で、
それぞれが1秒に14発発射します。



上部砲塔からに限ったことではありませんが、
銃撃するターゲットが航空機の場合、対象の速度を計算し、
さらに砲弾が自重で落下する位置と相手の飛行機がくるように撃ちます。



これは実際のB-17の操縦席ですが、こんな感じに
二人の間から顔を出して、指令を受けます。




こちらは映画「メンフィス・ベル」の一シーン。
上部砲手兼技術軍曹のバージ(リード・ダイアモンド)は、
操縦席の後ろから指令を受けたり、話しかけたりしています。

上の「マスター・オブ・ザ・エアー」ももちろんこのシーン満載でした。

■ 上部砲手/ 技術軍曹の任務と責任

重爆撃機プログラムの様々な段階における訓練は、
各搭乗員がそれぞれの職務に適するように設計されているのですが、
機関曹/上部砲塔砲手は空軍の専門技術学校で高度な訓練を受けます。

上部砲塔の位置がコクピットのすぐ後ろということから、
砲手でありながら高度な訓練を受けることによって
パイロットや副操縦士と密接に協力し、エンジンの作動、燃料消費、
すべての装備品の作動をチェックするという重要な役目をこなし、
かつ砲手としても技術を持つ人材がここに配置されることになりました、

この図で、ノーズの先端から下を見ているのが爆撃手です。
上部砲手はこの爆撃手と連携して爆弾投下を補助する役割を負うので、
爆弾倉のコック、ロック、装填の方法を熟知していなければなりません。

それから、爆撃手のすぐ後ろにいるナビゲーターとも連携します。
無線機器に関する一般的な知識を持ち、
送信機と受信機のチューニングを補助できること、
燃料のマネージメントにも責任を持ちます。

そして、他の配置に増して航空機識別には専門的な知識が問われます。
パイロットや副操縦士を含め、乗組員の誰よりも
飛行機について詳しくなければならない。
それが技術軍曹たる上部砲手が持つべき資質なのです。

そして、砲手でもある彼は、当然ですが、兵装、
特にブローニング機銃に精通していなければなりません。

ただ撃てればいいというのではなく、銃の取り外し、清掃、
再組み立ての方法、銃の整備方法、ジャム(つまり)や停止の除去方法、
銃と照準器の合わせ方を誰よりもよく知っていること。

兵装だけでなく、エンジンについても熟知していることが求められます。
これには乗員全員の命、装備の安全、任務の成功がかかっていますから、
上部砲手がその鍵を握っていると言っても過言ではありません。

■ 上部砲塔砲手ハロルド・ロッホ


左端:ハロルド・ロッホ

ハロルド・ロッホは1919年11月29日、ウィスコンシン州生まれ。

ハロルド・ロッホは12人兄弟の一人でした。
父ジョセフはウィスコンシン州デンマークで居酒屋を経営していましたが、
禁酒法が施行されてしまったので、海洋建設会社に就職しています。

ハロルドは1937年に高校を卒業してから、時給75セントで
パルプ、セメント、砂糖の船に荷を積む労働をしていましたが、
1941年12月、第二次世界大戦が始まると、陸軍航空隊に入隊。

若い二等兵は基礎訓練終了後マクディル飛行場に向かい、
航空砲手、無線技師、航空機技師になるための訓練を受けました。

1942年5月16日、航空機関士兼航空砲手として戦闘任務に就く許可を得て
伍長に昇進し、8月1日には軍曹になっていました。

メンフィス・ベルには最初第2機関手として配属され、後に砲塔砲手に転換。

ロッホは戦闘地域に入る前に殉職しそうになったことがあります。
しかも、究極のフレンドリー・ファイアーで。

ある日彼がテクニカルサージャントとしての任務として
翼の上でガスタンクをチェックしていたら、
尾部砲手のジョン・クインランが(写真の前列飛行眼鏡、フライトスーツ)、
本来のロッホの職場であるトップ・ターレットにもぐりこんで、
ふざけて銃座に着き、翼の上にいるロッホを狙って撃つ真似を始めたのです。

トップ・ターレットの銃にはそのとき実弾が1発残っていました。
 クインランが引き金を引くと、弾丸はロッホの頭をかすめました。

「クインランはこの一件で地獄を見たよ」

当たっていたら軍法会議行きだったかな・・・。

■ ヨーロッパ戦線へ

メンフィス・ベルはその後大西洋横断をしてヨーロッパ戦線に就くのですが、

途中、補給のためスコットランドのプレストウィックに立ち寄りました。

そのとき給油を手伝っていたスコットランド人のかわいい女の子が、
彼に名前を尋ねてきました。

「ロッホLOCHだよ」

「ロッホ・ローモンド」というスコットランド民謡をご存知でしょうか。

スコットランドはアイルランドの一部、アルスター地方とともに
スコットランド語を話す地方です。

英語とは近い関係ですが、分類としてはゲルマン語派に属する言語で、
「ロッホ」Lochは湖とか入江という意味になります。

余談の余談ですが、「蛍の光」も原曲はスコットランド語の歌詞で、
タイトルの「Auld Lang Syne」から、海軍兵学校ではこの曲を
「ロングサイン」と呼んでいました。(発音的にはラングサインが正解)

ただし、英語に変換すると「Old long Since」なので、
もう一つの日本語題「久しき昔」が意味としてはより正確です。

余談の余談ついでに、ロングサインこと蛍の光の曲は、五音音階による旋律で、
固定ドでいうファとシがない「ヨナ抜き音階」の曲となります。

ヨナ抜き音階は明治時代特に軍歌(嗚呼玉杯に花うけて)や
童謡(どじょっこふなっこ)民謡(木曽節)に多用されました。

その流れから現代の演歌はほとんどがヨナ抜き音階でできており、
現代のポップスも「千本桜」「恋」(星野源)などヨナ抜き多数です。

閑話休題、話を戻して。

ロッホという名前がスコッチ由来だったので、スコットランド人の女の子が、

「スコットランドの名前のアメリカ人飛行士に会ったことを喜んでくれた」

ため、彼はとても楽しい気分になったということです。

そのとき、飛行場の周りには、小さな子供たちが遊んでいたので、

ロッホは、乗組員が食べなかったサンドイッチの箱があったことを思い出し、
それが古くなって廃棄するくらいなら、と小さな子供たちに見せると、

子供たちは大喜びで、

『白パンだ!白いパン!』

どうも彼らは白いパンを見たことがないようでした。

アメリカ人の目から見たら、白いパンは豊かさの象徴で、
スコットランド人は白いパンを知らない=貧しい、だったのかもしれません。

言わせてもらえばアメリカの白パン、砂糖などの白い食べ物至上主義、
安易な加工品を便利で先進とする大企業優先のコマーシャリズムは、
現在のアメリカに肥満人口世界一という不名誉なタイトルを与えていますが、
このころのアメリカ人には知るべくもないことでした。

ただし、ここで金持ち国のエリート搭乗員という選民意識から、
貧しい子供に施しをしてちょっといい気分になっていたロッホには
のちに手痛いしっぺ返しが待っているのです。

■ Cレーション窃盗〜イギリスでの生活

とにかく、彼はそのとき「かわいそうな子供たちに」
サンドイッチを分け与えてしまったわけですが、
その後イギリスに上陸し、配給として与えられる食料の多くが
野菜(キャベツと芽キャベツ多め)であることをもし知っていたら、
決してそれをしなかったでしょう。

アメリカ人の芽キャベツ嫌いは異常。

お腹が空いているなら大人しく芽キャベツ食っていればいいものを、
ロッホや仲間たちは空腹に耐えかねて、ついに倉庫に忍び込み、
非常用に保管されていたCレーションのケースを盗むに至りました。

その箱を隠し持ち、誰もいないときにこっそり食べていたら、

盗まれたのが発覚し、大がかりな捜査に発展してしまいます。

捜査のためにMPが数人出てきて、ベルのメンバーも取り調べられましたが、
結局最後まで犯人だとはバレずにやり過ごすことができました。

バレずにすんだのはよかったけど、戦時中の窃盗は重罪だぞ。
しかもその理由が「芽キャベツ嫌いだから」て。


また、イギリスは寒く、宿舎を暖める石炭は全く足りませんでした。
おまけに支給された「まるで馬の毛でできたような」英国製の毛布で寝ると

「多くが"兵士の呪い "にかかった」

兵士の呪い、それは疥癬に冒されるという恐ろしいものでした。
そこでロッホは毛布を使わず、フライトスーツで寝ることにしました。
フライトスーツはムートンで裏打ちされていたので、
快眠とはいえないまでも、少なくとも疥癬の痒みからは逃れられたのです。


給料日には、飛行場のあちこちでポーカー大会が繰り広げられました。

給料のほとんどは数人のギャンブラーの懐に入っていきました。

ハロルドはそういうゲームには参加しようとしませんでした。
両親がトラクターを買うため、給料のほとんどを家に送っていたからです。

■ 結婚と戦後の人生

最初から最後までのベルのメンバーとして任務を完遂し、
帰国して国債ツァーに参加した、というところまで他のメンバーと一緒です。


そのように仕組まれたので当然とはいえ、ベルのメンバーは
士官から下士官まで全員がツァー中絶賛モテ期到来だったため、
調子に乗って女性に手を出しすぎた人がいるかと思えば、逆に
昔からのガールフレンド以外目をくれず生涯添い遂げた人もいました。


彼の場合はそのどちらでもなく、ツァー中に知り合った女性と結婚しました。


戦時国債でテキサスに出会ったのはエグジー・アン・ミラー。
二人は1944年に結婚し、8人の子供と15人の孫に恵まれました。

仕事は戦後住宅建設業、H P Loch & Sons Construction社を立ち上げ、
そのかたわらブラウン郡登記官を連続14期務めました。

1974年にリタイアしてからは、鹿や鳥の猟を楽しみ、毎週カジノに通い、
2004年11月12日、愛する人々に囲まれ、豊かな生涯を閉じました。



 映画「メンフィス・ベル」のキャストと

後列右から3番目
前列右から2番目が上部砲塔砲手、TSを演じたリード・ダイヤモンド


”敵の領土に入る時には張り詰めた一種の期待感がある。
そこで何が起こるかは誰にもわからない”

ハロルド・ロッホ


続く。


”Dit-Dit-Dit-Dah-Dit-Dah”最後の通信士〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2024-01-29 | 航空機

2005年10月1日、第二次世界大戦中、ヨーロッパで
25回の爆撃任務を遂行したメンフィス・ベルの最後のメンバー、
ロバート・ハンソンが、心不全のためアルバカーキで死去しました。

享年85歳。

のちに有名な爆撃機の無線オペレーターになったハンソンが
陸軍に入隊したのは1941年、真珠湾攻撃の起こる3ヵ月前のことでした。



通信士として、ワシントン州ワラワラでの訓練を経て、
彼はメンフィス・ベルに配属されることになります。

フライング・フォートレスと呼ばれたこの巨大爆撃機と10人の乗組員は、
1942年9月に戦時中の拠点であったイギリスへ飛びました。

そして、11月7日から1943年5月17日の間、148時間飛行し、
ドイツとフランス上空に60トン以上の爆弾を投下しました。


■ 軍で給料をたくさんもらうための”裏技”

メンフィス・ベルの10人は、映画でも描かれたように、
その出生や育ってきた環境は様々です。

基本的に社会の上流階級?しかなれない士官は、その多くが
裕福な会社経営者の息子だったり、アイビーリーグを出ていたりしますが、
(メンフィス・ベルに兵学校卒士官はいなかった)
下士官兵には家が貧しいので入隊したという若者も多々いました。

映画「メンフィス・ベル」にも、シカゴ出身のチンピラ、
ジャック・ボッチ(イタリア系)と腰部砲手としてコンビを組むのが
よりによって信心深いアイリッシュのユージーン・マクヴェイで、
二人は何かと最初おりが悪く衝突しますが、戦いを経て和解するという設定。

左ジャック(ニール・ジェントリ)、右ユージーン(コートニー・ゲインズ)

メンフィス・ベルの通信士、ロバート・ハンソンもまた、
兄弟とともに孤児院に預けられていました。

ロバート・J・ボブ・ハンソンは1920年5月25日、
モンタナ州ヘレナで生まれました。

3人の息子と1人の娘を持つボブの父親は建設労働者であったため、
大恐慌に見舞われると、わずかな仕事を追い求めるようになりました。

ここで、伝記作者?としては情報が錯綜することになります。

子供たちが孤児院に入っていたのは幼い頃に母親が死亡したから、という説と、
両親が離婚し、ボブは弟のセシルとハロルド、妹のバイオレットとともに、
ワシントン州ガーフィールドに住む叔父に引き取られた、という説があります。

どちらかはもう確かめようがありませんが、
彼が実の両親ではなく叔父に育てられたのは事実であり、
その叔父の家で彼は豊かでないながらもちゃんと育てられたのは確かです。

彼は実際高校生の時には陸上競技のスターだったというくらいですから。

子供を引き取って育てたといっても、叔父の家も裕福とはいえず、
高校卒業後、彼はすぐに就職して父親と同じ建設労働者となりました。

その後、彼は徴兵も始まったことだしと軍入隊を考えました。

「1941年5月、戦争に行くことが分かっていたので、志願することにした。
でも、募集の軍曹のところに行って、入隊したいと言ったら、
『お前はどうかしている。まず徴兵されろ。
それから、引き返して再入隊するんだ。
そうすれば月給30ドルになる』と言われた。


これはシアトルのリクルート事務所の軍曹から聞いた、

「陸軍からもっと給料をもらうためのちょっとした方法」

つまり陸軍の一等兵の月給の21ドルが30ドルになって
 (゚д゚)ウマー
な裏技だったわけです。

数ヵ月後、彼は徴兵され、ワシントン州タコマ郊外のキャンプに送られます。
そして軍曹の助言を素直に実行すべく、3日間だけそこで過ごし、
除隊しました。

(なんか昔、郵便局に毎日預け入れと降ろしを繰り返したら
預金が増える、と言っていた人がいたけどそれを思い出した。)

3日間の兵役給として2ドル10セントを受け取った彼は、
即座に空軍(航空隊のこと)に再入隊。(ここで歩兵は諦める)

基礎訓練のためにミズーリ州ジェファーソン兵舎に送られました。


■ 軍隊生活〜いきなりキッチンポリス

初日、軍曹が入隊者を整列させ、怒鳴りました。

「兵役経験のある者は外に出ろ!」

出ましたよ。彼は外に出ていきましたともさ。

他の下士官兵が外で行進し、汗を流している間、ハンソンは兵舎に戻り、
のんびりし、食べ、眠り、楽しい生活を送っていました。

彼のそんな生活が終わりを告げたのは、基礎訓練が終わったときでした。
パレードの行進に出ることになり、軍曹の一人がハンソンに向かって


「おい、ハンソン、分隊の指揮を執れ」

と命じ、そこですべてが明らかになったのです。

新任の "リーダー "が、隊員をどう率いるべきか、
これっぽっちも知らないことがばれたのですから、
さあ大変、上から下への大騒ぎになってしまいました。

上層部は、彼が基礎訓練を避けるためにズルをしたと判断し、
軍法会議にかけるところまで話は進んでしまいました。

しかし、実際、彼は嘘をついたわけではありませんでした。
「兵役経験がある者」という軍曹の呼びかけに素直に答えたまでです。
たとえ三日でも、兵役経験には違いないのですから。

・・・・という言い訳をされてぐうの音もでなくなった上層部は、
(こういうとき”問答無用”という言葉のない国の軍隊は不便)
軍法会議にかけるような事案ではないと結論づけましたが、勿論のこと、
何のお咎めもなしでこのふざけた男を放免するつもりもありません。

そこで彼は「落とし所」的にキッチンポリスに回されました。
要は炊事当番兵のことで、KPデューティともいいます。

なぜポリスなのかですが、米軍では"police "という単語を
"秩序を回復する "から"掃除する "という意味で使うことがあるので、
キッチンポリスは、厨房の秩序を回復する、厨房を掃除する、
という意味が含まれているのではないかと言われているようです。

とにかく、そのポリス仕事は、週6日、毎週毎週、
来る日も来る日もジャガイモの皮むき(これがKPの象徴)をし、
その間に基礎訓練もこなすという素晴らしく面白くない任務です。

しかし、この男は最初から最後まで、何とついていたのでしょうか。

キッチンポリスとなってわずか2日目、彼は皮剥きから解放されました。
2日目というのでまだ基礎訓練は一度も受けていません。

イリノイ州スコット・フィールドの無線学校への転勤命令を受けたのです。

■ 無線学校

しかし、こんな男が、無線学校で何も起こさずにいられるでしょうか。

案の定スコット・フィールドで彼はまた問題を起こしました。
動機は『ルーティンが簡単すぎて退屈になったから』。

その日、訓練生は、モールス信号を受け取り、
それをタイプライターで打ち出すという訓練を行なっていました。

要領のいい彼は1分間に30ワードを打つことができましたが、
他の訓練生はせいぜい1分間に5、6ワードのペースです。
彼はすっかりいい気になって、新聞を読みながらコードを打っていました。

何日か経ったある日、教官はイヤフォン越しにメッセージを送ってきました。


「ハンソン、新聞を読むのをやめろ」

しかし彼は新聞に夢中で(というか、どうせすぐ打てると思い甘くみて)
教官の送ってきた電文をしばらく見ませんでした。

お断りしておきたいのは、このメッセージは彼だけではなく、
訓練生全員に送信されたものだったということです。

当然クラスの全員の目が彼に注がれます。

部屋中のタイプライターの音が止まって、彼が気づいた時には、
全員が彼に注目していました。



■ 拘束された父ちゃん

無線訓練を終えたハンソンは、マクディル・フィールドに行き、
そこで初めて飛行を体験し、1942年5月16日、
無線オペレーター兼エアガンナーとして戦闘任務に就くことになります。

グループが1942年6月にワシントン州ワラワラへ移ったとき、
彼も一緒に転勤しましたが、当時はまだ空軍基地がまだ完成しておらず、
滑走路のコンクリートの打設工事の真っ最中でした。

そして驚くことに、空港のコンクリートの一部を打設していたのは、
建築現場で働く彼の父だったのですが、勿論彼は知る由もありません。

しかし父親の方は、自分の工事現場に息子の部隊がやってくることを知り、
フロリダからの一行が到着したとき、息子がどの飛行機かまで突き止めて
一目会うために、ピックアップトラックをエプロンに走らせたのでした。

轟音を立てて走る父ちゃんのトラック。


トラックはすぐ後ろにMPを乗せたジープを何台も従えていました。
そしてMPはすぐにピックアップトラックをを取り囲み、
あっという間に運転手を拘束して連れ去ってしまいました。


当時は開戦したこともあって、軍設備での警戒警備はマックスでした。
今でもそうでしょうが、そんなときに無許可の民間人が
爆撃機の近くまで押しかけることが許されるはずはありません。

結局父はそのまま息子には会えずに終わりました。
その後、彼はそのことを聞かされて知りますが、
息子は父の非常識を責めることは生涯一言も言わなかったそうです。

「父さんはただ息子に会いたかっただけだったんだ」

いい息子を持ったな、トーチャン・・・。

■ メンフィス・ベル

ワラワラで彼はメンフィス・ベル乗組が決定し、
1942年9月、戦時中のイギリスまで飛行するベルに乗り込みました。

そこから1942年11月7日から1943年5月17日の間、
彼はメンフィス・ベルの爆撃ミッションに通信士として参加。

ベルが行ったミッションの飛行時間は148時間にのぼり、
投下された爆弾の量は60トンを超えます。

前にも書きましたが、ベルはロリアンの潜水艦基地攻撃中、
機体の尾翼が戦闘機によって撃ち落とされたことがあります。

この時のことをハンソンはこう語りました。


「尾翼を撃ち落とされた時、モーガン少佐は機をすごい急降下させ、
2、3千フィートも落ちて頭を天井にぶつけた。
このまま墜落するならベイルアウトすべきかどうか悩んだ。

その後、機長は再び機を引き上げたので、私は仰向けに床に叩きつけられ、
上から弾薬箱と周波数計が落ちてきた。
何が起こっているのかわからなかった」


このとき機が立て直せたのは、運もありましたが、
ロバート・モーガンの操縦技術によるところが大きかったかもしれません。

映画「メンフィス・ベル」の腰部砲撃手の二人は、
ジャック(シカゴの不良)が相手ジーンのお守りを拾ったのに隠して、
それにジーン(信心深い)がパニックを起こすのに、
通信士のダニーが手に巻いていたゴムバンドをお守りだ、
といって渡し、納得するシーンがありましたが、
ハンソンもまた「ウサギの足」のお守りを携帯していました。



映画で通信士のダニーを演じるのは、エリック・シュトルツです。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で最初にマーティ役に抜擢され、
撮影も進んでいたのにマイケル・J・フォックスに交代されてしまった、
という話が有名ですが、その後の俳優活動は輝かしいものでした。

映画では、おそらくベルの乗組員一のインテリであり、
詩人でもあるダニーを演じており、このダニーから映画では
「ダニー・ボーイ」がテーマソング的に使われています。

最後のミッションで重傷を負う唯一のメンバーという設定でしたが、
実際の通信士、ハンソンは、そのお守りのおかげだったのか、
日誌を書きながらくしゃみをしたところ、その瞬間、
弾丸がそれまで彼の頭部が占めていた空間を通り抜け、
日誌を直撃した、という命拾いをしています。

ちなみに「メンフィス・ベル」は最初から最後まで誰も傷つかず、
無傷だったというわけではありません。

実際にメンバーが時々変わっているのは、彼らがミッション中の
大砲や機銃掃射で戦死しているからです。
現に最初の乗組員のうち4人は戦死し、補充されたメンバーが
25回ミッション達成者としてツァーに参加したというだけのことでした。

ハンソン軍曹の無線オペレーター席の窓の横には、
恋人のアイリーンの名前が書かれていました。
万が一、彼が戦闘中に死亡した場合、真っ先に連絡すべき人物として。


アイリーンとは、帰国してツァーを行った後すぐ結婚し、
63年間、死が二人を分つまで添い遂げました。

■ 戦後の生活と映画「メンフィス・ベル」

戦後、ハンソンは基地のあったワラワラに住むことになりました。
ナリー・ファイン・フーズのセールスマンとなり、
後に地域マネージャーに昇進、
また、スポケーンのキャンディー会社で働いた後、
アリゾナ州メサに引退し、最後はアルバカーキで余生を送りました。

1989年、映画「メンフィス・ベル」が制作されることになり、
ハンソンはパイロットのロバート・モーガンをはじめとする乗組員たちと
イギリスに渡り、ビンブルック空軍基地で撮影中の現場を訪ね、
そこで出演していた俳優たちと記念写真を撮りました。



真ん中近くの水色のシャツ=ハンソン シュトルツの肩に手を置いている

ハンソンは、このとき感想を聞かれて冗談混じりに答えました。


「彼らはかつての私たちほどハンサムではないけれど、
若くて熱狂的で、まさに私たちそっくりだよ」

映画が公開された後、孫の高校のクラスでスピーチをしたハンソンは、
映画に描かれたのは実際に起こったことなのかと質問されて、

こう答えています。

「すべてがメンフィス・ベルで起こったことではないが、
映画の中のことはすべて、どこかのB-17で起こったことだ」



■"dit, dit, dit, dah, dit, dah "

彼が2005年にこの世を去った時、彼の昔からの友人が、
「最後のメンフィス・ベル乗員」の彼を、良き友人であり、
良き夫、良き家庭人でアメリカの英雄だったと褒め称える弔辞の最後に、
このようなことを付け加えました。

「無線通信士がモールス信号を終了する際、
次のようにキーを打ってサインオフします。

Dit-Dit-Dit-Dah-Dit-Dah。

そして、ロバートは電話をこれで終わらせるのが常でした」

▄ ▄ ▄ ▄▄▄ ▄ ▄▄▄ 

これはSK(上バー)であり、意味はOUT(終了)です。

その良き人生の終了に敬意を表し、彼を愛した人たちは、
皆でこのプロシージャをもって彼を見送ったのでした。


続く。


最初の徴兵制入隊砲手〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-12-18 | 航空機

メンフィス・ベルのクルーの紹介、士官を終えて下士官、
ウェスト・ガンナーであるルイス・ミラーを前回ご紹介しました。

今日はもう一人の腰部砲撃手、ビル・ウィンチェルからです。

■ ビル・ウィンチェル 腰部砲手

【徴兵制で入隊

クラレンス・E ”ビル”・ウィンチェル
はマサチューセッツケンブリッジ生まれ。

彼が軍隊入りしたのは、これまでの搭乗員のように
飛行機に乗りたいので自ら志願して、というものではなく、
1940年に始まったばかりの徴兵制くじで彼の番号が引かれたからでした。


1940年9月、民主党郵政のアメリカ上下院議会で、選抜訓練徴兵法
(Selective Training and Service Act of 1940)が可決され、
当時のルーズベルト大統領(民主党)が署名して成立しました。

このときの徴兵法は、連邦選抜徴兵登録庁
(Federal Selective Service System Agency)を設立し、
21〜30歳の男性に選抜徴兵登録をさせ、
徴兵された者に12月の兵役を義務付けるというものでした。

ウィンチェルが被徴兵者となったのはこのアメリカ最初の選抜によります。

その後、アメリカは第二次世界大戦に参戦することになり、
18歳〜45歳の全ての男性に徴兵登録が義務付けられ、
45歳〜65歳の全ての男性には徴兵登録が奨励されるについで、
兵役期間はそれまでの12ヶ月から19ヶ月に延長されることになりました。

1940年10月29日。

その日、何百万人ものアメリカ人が息を呑んでラジオを聴いていました。

何百万人もの若者の番号が、巨大なガラスの「金魚鉢」に入れられ、
誰が最初に徴兵されるかをくじ引きし、それが実況放送されたのです。



その日選ばれた何百万人の中の一人に、ビル・ウィンチェルもいました。

「私の番号は、そのボウルから52番目に引き出された名前だった。
何百万という番号の中で、自分の番号を覚えていない人がいるだろうか?」

このとき自分の番号を引き当てられた者は、特典として?
自分の行きたい兵科を選ぶチャンスが残されていました。
いずれにせよ、若きウィンチェルは決断を迫られることになります。

彼の仲間の一人が、有名な
イリノイ州第107騎兵隊、ブラックホース部隊
に入ったこと、自身馬が大好きで、なにより歩くのが嫌という理由で、
彼は騎兵隊に入隊しに行きました。

ところが彼が応募に行くと、騎兵隊は定員に達し締め切られていました。
(歩くのが嫌という人が多かったってことですかね)

そこで彼は、馬を使う野砲隊に入隊を決めますが、
(なぜ彼がここまで馬にこだわったのかは謎)
彼が入隊して1週間後、馬は使わないことに決まってしまいました。

そして、テネシーのよくわからんキャンプに送られて、
荒地を切り開いて駐屯地を作るような場所で、
いわゆる「KP仕事」(キッチンポリス、本来は厨房の仕事だが
実際は軍隊における下士官の雑務をさす)ばかりさせられました。

「便所掃除。汚い仕事ばかり。
空軍の勧誘が来たとき、私はそのチャンスをつかみました。
今の服装にはとても耐えられなかったのです。

大尉は私に昇進の可能性があることを告げ、
もし空軍に入隊すれば、二等兵として再出発し、
戦争中は格納庫の掃除に明け暮れることになると言い、
私はチャンスに賭けると答えました」。


最初の勤務地はミズーリ州セントルイス。


ここで彼は基礎訓練のやり直しを強いられ、その後、
フロリダのマクディル・フィールドに転勤となりますが、
彼がメンフィス・ベルの一員となる歴史がここから幕を開けます。

【視力検査表をカンニング】

マクディル・フィールドで彼が最初に驚いたのは、
下士官兵が将校と同じように飛行していることでした。

そして陸軍兵にも航空機に乗るチャンスがあるということ、
つまり4発動力の大型爆撃機には空軍のパイロットだけでなく、
陸軍の砲兵が必要とされていることを知ります。

彼の目標は砲手として爆撃機に乗ることになりました。

しかし、ウィンチェルはそのために視力という
もう一つの厳しいハードルを越えなければなりませんでした。

砲兵としての訓練を受けてきたものの、彼は生まれつき左目が乱視で、
それでなくても「片目のガンナー」といわれていたのです。

とても厳しい航空の視力検査に合格できそうにありません。

というわけで、切羽詰まった彼のとった最後の手段は、
視力表のコピーを手に入れてそれを記憶する
というものでした。

あー他にもいたなあ、視力表を覚えるチートでウィングマーク取った人。
海軍最初の飛行士、セオドア「スパッズ」エリソンだったかしら。
違ったらごめん。


というわけで彼はそのファイルを常備し、チャートを片っ端から暗記し、
テストを受けに行くときは、どのチャートを使っているのかを調べ、
一番下の行に来たら、覚えたチャートを読み上げているふりをしました。

記憶力がよかったから、それで20-20の結果になった」

20−20とはアメリカの視力を表す数値です。

アメリカの視力表は日本のと違い、アルファベットを読むもので、
(スネレン視標という)6m(20フィート)離れて検査し、
20フィートから見えるべき指標が20フィートの距離で見えれば20/20。

これは日本の数字に直すと20割る20で=1.0となります。

つまり彼は記憶はしたものの100%正解ではなかったんですね。
いや、もしかしたら怪しまれるので手加減したのか?

日本で航空兵がこういうズルをしたという話は聞きませんが、
日本式のCの空いた部分を指で刺すタイプだと、記憶力に自信があっても
何種類ものチャートを覚えるのは難しかったかもしれません。


【航空砲術学校】

マックディルに到着して間もなく、彼は掲示板の告知を目にしました。
『 航空砲術学校の志願者募集』

キタ〜♪───O(≧∇≦)O────♪

徴兵された砲兵でありながら、彼はこれに志願しました。

結果、ネバダ州ラスベガスの航空砲術学校で6週間学び、
彼は晴れて航空法術学校でウィングマークを取得、伍長に昇進。

砲兵隊にいたら決してありえなかったことです。

このラスベガスの航空砲術学校時代の鮮烈な記憶のひとつに、
彼はある軍曹の言葉をあげています。

彼はこう言ったのでした。

「航空射撃手の平均寿命は6分だ」

爆撃機の任務そのものの危険さを端的に表す言葉でした。
これを聴いてそのことに心を悩まされなかったかというと嘘になります。

だからというわけかどうかはわかりませんが、マックディルに戻った後、
ウィンチェルは無線学校にもトライしています。

同じ爆撃機に乗っている限り、射撃手と無線士の寿命が
そんなに違うとは思えませんが、ここは素直に、彼が
どんな手段でも航空機に乗りたいと思ったと考えることにしましょう。

しかしながら、彼には無線の才能が全くありませんでした。
『ダーとディット』をうまく使い分けることができなかったのです。

ダーとディットは、日本の「トンとツー」に相当します。
ダーはツー、ディットはトンなので前後が逆ですが。

その頃になると、軍は航空に爆撃兵を徴兵するようになっており、
彼は航空スクリーンの小さなバグを追跡する機器担当になり、
それが得意だったので、すぐに爆撃手として定期的に飛ぶようになりました。

結果として彼は25回のベルの任務を終えるまで生き残り、
「爆撃手の平均寿命は6分」という軍曹の予言を大きく裏切って
特別な存在だったと証明することになりました。

(彼が『長生き』しただけ、短命となる射撃手がたくさんいたわけですが)

【俺が将校に銃を向けた件ーノルデン照準器】

当ブログでは、アメリカ各地の軍事博物館で何度となく
このノルデン照準器実物の写真を紹介してきました。

そのコレクションをご覧ください。


ピッツバーグ、ソルジャーアンドセイラー軍事博物館所蔵


カリフォルニア、パシフィックコースト航空博物館所蔵


カリフォルニア、オークランド航空博物館所蔵

これらを紹介したときにも散々説明したように、
ノルデン照準器は当時のアメリカ軍の超機密品扱いでした。

そしてそれを扱うのは・・・そう、爆撃手です。
ノルデン照準器を取り扱う爆撃手は、45口径の拳銃で武装し、

誰にも触らせない、見せないように命じられていました。

ある日、ウィンチェル伍長が乗り組んだ爆撃機が
ヒューストン基地への訓練飛行の後、一晩そこに滞在することになりました。

機内にこの機密機器を置いたままにして置けないので、
彼がそれを基地の保管庫に運んで施錠管理してもらうために
機外に持ち出し、運んでいると、若い中尉が近づいてきました。

「何を持っているんだ」

「ノルデンの爆撃照準器です」

中尉は珍しい言葉を聞いたので好奇心にかられたと見え、
ウィンチェルの方に向かってやってきました。

「ちょっと見せてくれないか」

しかし、彼はノルデン照準器の扱いに関しては、
何人たりとも他者に見せてはならぬ、と命令されていたので、

「それ以上近づかないでください」

しかし、彼の言い方がまだ静かだったせいか、それとも
相手が下士官だったせいか、中尉は平気で近づいてきました。

やむなく彼はピストルを抜いて鋭く叫びました。

「あと一歩でも踏み込んだら死ぬぞ!」

とたんに中尉はシーツのように真っ白になりました。


下士官の将校に対する態度としては常識的にあり得ませんが、
だからこそ中尉はこれがいかに重要な機密であるかを悟ったのでしょう。

彼はそのまま黙ってその場を去りました。


 【メンフィス・ベルの腰部砲手として】

ここまで順調に爆撃手としてのキャリアを積んできたウィンチェルですが、
みなさん、ここでちょっと思い出してください。

メンフィス・ベルの爆撃手、チャールズ・レイトンが士官だったことを。
そう、爆撃手の配置は一般的に士官担当です。

ウィンチェルは1942年5月16日、爆撃手兼航空砲手として

戦闘任務に就くことになり、軍曹に昇進しました。
それからしばらくして、メンフィス・ベルの所属する第91爆撃隊は
出撃前の最終訓練のためにワラワラに向かいます。

彼はワラワラで爆撃手として爆撃機に乗れると思っていましたが、
その直後、空軍上層部は爆撃手は将校でなければならないと決定したため、
ここでウィンチェルは職を失うことになってしまいました。

空軍としては爆撃手として訓練を受けた下士官の使い道に苦慮したようです。

そこで彼がどうなったかというと、スコット・ミラー軍曹とともに、
ミネアポリスのハネウェル社に転勤させられ、
自動飛行制御装置の整備と保守を学ばされることになりました。

ミラー軍曹もそうでしたが、爆撃手の仕事がなくなった今、
飛行機に乗り込む「クルーではなく、メカニック」となったわけです。



ここでもう一度この図をご覧ください。
中央部には飛行機の両サイドに砲が装備されているのですが、
この頃までのB-17では、乗組員の定員は9名で、
両側の銃を一人で担当することになっていました。

攻撃はいつもどちらか片側からしかやってこないだろうと言う判断です。

しかし、実戦に入るとそれは机上の空論であることがわかり、
実際は左右に一人ずつ、二人の腰部砲手が必要だと結論づけられました。

そこで彼は上からこう言われたのです。

「もし腰部砲手で良ければ、君を採用する」

前回のミラー軍曹は自分から配置を申し出てこの配置になりましたが、
もう一人の腰部砲手が決まったのはこういう経緯でした。


そうして、全米で52番目に徴兵され、騎兵隊に入隊しようとして締め出され

次に野砲隊に入隊しようとし、無線訓練で不適格と烙印を押され、
飛行機に乗りたいがために視力検査でチーティングをし、
目の前だった航空爆撃兵の配置を軍の都合でキャンセルされた若い兵士は、
最後に得た配置で腰部銃手となったのでした。


写真の下に展示されていたウィンチェルのフライトスーツと階級章、
ウィングマークなど。

彼の死亡を示すサイトにはこのように記されています。

出生 マサチューセッツ, USA
1994年死亡(年齢 77)
没地  米国イリノイ州クック郡バリントン

TSgt. 技術軍曹- 左腰部砲手

メンフィス・ベルの8番目で最後となるドイツ戦闘機を撃墜したのは
彼の銃撃でした。

また、彼が毎日つけていた綿密な日記によって、後世に
メンフィス・ベルの正確な行動記録が残されることになりました。

化学技術者として引退。


続く。


メンフィス・ベル搭乗員の肖像/モーガン機長〜アメリカ国立空軍博物館

2023-11-13 | 航空機

さて、いよいよメンフィス・ベルの搭乗員を紹介していきます。

メンフィス・ベルに配属された若者たちは、
第 8 空軍重爆撃機乗組員の一般的な構成でした。

ワシントン州、インディアナ州、テキサス州、コネチカット州など
米国全土の州から集まった19歳から26歳までです。

第8空軍と同じように、そして一般的な俗説に反して、
彼らは任務のほとんど(すべてではありませんが)を一緒に飛びました。

固定メンバー以外にも上部砲塔砲手兼技師 3名、
 腰部砲手3名、副操縦士は数名がベルで任務を行っています。

【戦時国債ツァーメンバー】

メンフィス・ベルの戦時債券ツアーのクルー。
このうち初期のメンバーは9人です。

カシマー "トニー" ナスタル SSgt(スタッフサージャント) (右下) は、
25回ミッションを終了しており、帰国の資格を持っていましたが、
実際にメンフィス・ベルに乗ったのは1回だけでした。
何か事情があって戦時公債ツアーに追加されたメンバーです。

黒いスコッチテリアのシュトゥーカくんもツァーに参加したようで、
メンバーの「公式マスコット」として左上に抱っこされて写っています。

【初期コンバットツァーメンバー】

こちらは爆撃ミッションツァー初期メンバーです。

日本なら前方で椅子に座り、中央に機長と副機長、
その周りに士官が配置されるところですが、
アメリカ陸軍の規則はあまり厳密ではないらしく、
機長と副機長、航法士と爆撃手が後ろで立っています。

こんな写真もありますし

機長が後ろから顔をだすという帝国海軍にはあるまじき構図

ちなみに写真の名前の横に説明がある4名が士官となります。

下段左下のボールタレット砲手(丸いボール状の下部砲塔)、
セシル・タレットがここぞとばかりにウィンクしています。

【アメリカに帰国前のメンバー】


アメリカに帰国する前にジェイコブ・デバース元帥
(ヨーロッパ遠征部隊指揮官)と握手するモーガン機長。

【機長としてのヴェリニス大尉】


メンフィス・ベルの副機長として名前を残す、ジェームズ・ヴェリニス大尉
(上段左)は、実際に行ったベルでのミッションは5回だけで、
その後は機長として別のB-17を指揮していました。

これは彼が指揮した「コネチカット・ヤンキー」クルーとの写真です。

なぜ帰国メンバーとして5回しか飛んでいないヴェリニス大尉が選ばれたか、
その後のベルの副機長はどうなったのか、一切わかりませんが、
選定については陸軍的に何か「基準」があったんじゃないかと思います。

ところで余談ですが、ベルのメンバーと撮った写真では
背が低いように見えるヴェリニス大尉、この写真だとむしろ大きい方です。

つまりベルにはモーガン機長始め、やたら背が高い人が揃っていたようです。

■ ロバート・ナイト・モーガン
Robert Knight Morgan 機長 指揮官


"どうやって地獄のヨーロッパ遠征を25回もくぐり抜けて
故郷に帰ることができたのかを一言で言うならば・・・
それは『チームワーク』です。

ロバート”ボブ”モーガンについては、メンフィス・ベルのノーズアートの件で
マーガレット・ポーク嬢のことを取り上げながら少し話しました。


似すぎか

1990年の映画では、マシュー・モディーンが演じました。
「フルメタル・ジャケット」でインテリ新兵のジョーカーを演じ、
「ダークナイト・ライジング」では確かジョーカーにやられていましたよね。

ちなみに、映画では機長の名前はデニス・ディアボーンとなっています。

映画で最後のミッションの時、もし帰国できたらそれぞれ何をしたいか、
わいわいと機内無線で盛り上がっていたら、
「実家が家具会社をやっているんだが、手伝わないか」
と機長自らがいきなり言い出すシーンがあります。

ところが、それに対して、今みたいに命令されるなんて真平だ、
と全員が本音をぶちまけだし、彼は傷つくという苦い展開を、

映画を観た方なら覚えておられるのではないでしょうか。

まさかとは思いましたが、彼の父親は、実際にも
家具製造会社を3つも所有する裕福な実業家でした。

彼はハーバードやスタンフォードと共に世界最高峰のビジネススクール、
アイビーリーグのひとつであるペンシルバニア大学ウォートン校に学び、
卒業後、予備士官として飛行訓練を受け、B-17のパイロットになりました。

彼は車が好きで地元では有名な「走り屋」だったため、
戦闘機を選ぶのではないかと思われていたようですが、
一人でやるよりチームで何かを成し遂げる職種を好み、
結局9人のクルーと組んで任務を行う爆撃機の操縦を選びました。

ただし、彼の爆撃機の操縦は「まるで戦闘機を扱うよう」だと言われたとか。



メンフィス・ベル帰国後叙勲されるモーガン機長。



左上から:
大尉の階級章
少佐階級章
シニアパイロット航空章
コマンドパイロット航空章


■ 東京大空襲〜B-29の機長として



ツァーの途中、ボーイングの工場に立ち寄った時、モーガンはそこで
アメリカ空軍が新しい航空機を開発したことを知りました。

B-17よりも、B-24よりもはるかに大きく、強力で、高く速く飛ぶ飛行機、
そう、ボーイングB−29スーパーフォートレスです。

すっかり魅せられたモーガンは、志願して日本本土攻撃部隊に加わります。
ちなみに「ベル」のクルーで彼と一緒の進路を選んだのは
爆撃手のヴィンス・エヴァンスだけでした。
(爆撃オリジナルメンバーで機長の左で肩を抱かれている人)

エヴァンスがモーガンについてきたのには実はちょっとした
「訳」(というかエヴァンスにとっての利得的理由)があったのですが、
そのことについてはエヴァンス大尉の項でお話しします。



左:第8航空隊のパッチ
左:第20航空群B-29部隊のパッチ



このアメリカ人は中国の味方です
中国軍民で救護してください 
航空委員会

と刺繍された太平洋戦域で携帯されたモーガンの「救護要請章」。

英語の説明には、これが血液型を知らせるものであり、かつ
助けた人には褒賞が出ると書かれている、とありますが、
少なくともこの面にはそういった情報は見られません。

彼の指揮するB-29「ドーントレス・ドッティ」は、
1942年4月18日のドーリットル空襲以降、
日本の首都への初めての爆撃となる東京空襲を指揮しました。

モーガンが指揮する爆撃群が日本本土に最初の空襲を行ったのは
1944年11月24日のことです。

そのとき「ドッティ」に同乗していたのは「ベル」時代の爆撃手、
ヴィンス・エバンスと爆撃総司令官エメット・オドネルJr.准将でした。

モーガンはサイパンから東京に出撃し、
日本上空で26回のミッションを完了しています。
彼の自伝から、そのうち一回のミッションに関する記述によると、

「マリアナ諸島から1,500マイルも離れていた。
ドーントレス・ドッティを駆るエメット・オドネル准将は、
111機のB-29を率いて武蔵島エンジン工場に向かった。

飛行機は30,000フィートから爆弾を投下し、
精度という多くの問題の最初のものに出くわした。
B-29は優れた爆弾照準器(ノルデン)を装備していたが、
低い雲を通して目標を確認することができなかった。

また、30,000フィートで飛行するということは、
時速100〜200マイルのジェット気流の中を飛行するということであり、

爆弾の照準はさらに複雑になった。
空襲に参加した111機のうち、目標を発見したのはわずか24機だった」


ドッティはまた、1945年3月9日、10日の東京大空襲にも参加し、
初の夜間低空火器爆撃(ミーティングハウス作戦)を行っています。

この空襲は第二次世界大戦における単一の空襲で最も死者の多いものであり、
単一の軍事攻撃としては、ドレスデン、広島、長崎を上回るものでした。

■ ドーントレス・ドッティの謎の墜落

東京空襲の後、ドーントレス・ドッティは帰国することになりました。
このときのドッティはモーガンではなく別の機長が操縦していました。

1945年6月7日、フェリーに乗るためにクェゼリンから離陸したのですが、
離陸してわずか40秒後、機体は太平洋に墜落、沈没しました。

これにより、乗員13名のうち10名が即死し、
残骸から投げ出された3名は、その後救助艇によって救出されましたが、
ドッティの残骸は現在に至るまで発見されていません。

残骸は、機内に閉じ込められた10名の乗員の遺体とともに
水深約6,000フィートにあると考えられています。

機体が見つからないのでこのときなぜ墜落したのかも解明していません。

ボブ・モーガンは8月15日の終戦を受けて中佐で現役を引退し、
予備役に留まって最終的に陸軍大佐のランクを得ています。

 死去


モーガン 1990年代

モーガンは2004年4月22日、彼が85歳の時、フロリダ州レイクランドの
レイクランド・リンダー国際空港で開催されたエアショーに出演して帰宅中、
アッシュビル・リージョナル空港の外で転倒し、首の椎骨を骨折して入院。

2004年5月15日、肺炎を含む怪我による合併症のため死去しました。

■受賞と勲章

殊勲飛行十字章第3位
航空勲章第11章 
空軍大統領部隊賞 
アメリカ国防功労章
アメリカ・キャンペーン・メダル 
アジア太平洋キャンペーン・メダル 3
欧州・アフリカ・中東キャンペーン・メダル 5
第 2 次世界大戦勝利勲章 
空軍永年勤続勲章 第 4 勲章 
陸軍予備役勲章 10 年分




続く。



25回の爆撃ミッション〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-11-10 | 航空機

アメリカ国立空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦中爆撃機のアイコンとなったB-17、
メンフィス・ベルについてお話ししています。

今日は、ベルが実際に完遂したミッションについて取り上げます。

1943年1月23日。

フランス占領下のドイツ軍Uボート基地上空の対空砲火が飛び交う空で、
メンフィス・ベルは命がけで戦っていました。

史上最も有名なフライング・フォートレスとなる運命にあった
この米陸軍航空隊のボーイングB-17Fは、
潜水艦檻を標的とした4つの爆撃機群のうちの1つに混じって、
編隊を組んで目標であるロリアンの潜水艦基地に近づいていました。

ゴールに達するために、ロバート・K・モーガン大尉と乗組員は、
ドイツ軍戦闘機の防護バリアーを突破し、
基地周辺を覆う厚い対空砲火をくぐり抜けなければなりません。

彼らの任務は至極単純明快なことでした。

降下を複雑にする回避行動をとらず、安定した状態を保ち、
最後に "Bombs away "(爆弾投下)と言う。
その後はイギリスのバシングボーンにある第8空軍基地に帰るだけです。

しかし、そこに辿り着くまでに、戦闘機の執拗な攻撃が待っています。

「22分間、彼らは私たちに地獄を見せた。」

あるとき、ベルはフォッケウルフFw-190に正面から攻撃されました。

「通常ならダイブして逃げるのだが、
私たちの下には別のグループがいたから、それはできなかった。
そのとき機首を狙った砲弾が尻尾に当たったんだ」

尾部砲手であるジョン・クインラン軍曹が、

「機長、尾翼がやられました。機長、尾翼がやられました!
尾翼が燃えている!尾翼全体が機体から離脱している!」


息を呑んで沈黙していると、

「機長、まだ燃えています。機長、まだ燃えています!」

さらに一瞬の静寂の後、尾翼の砲手が今度は落ち着いた声で。

「機長、火は消えました」

モーガン機長はは後に、

「今まで聞いた中で最も甘美な”音楽”だった 」

と語りました。
その後パイロットが確認すると、尾翼がないようにみえました。
実際にエレベーターが損傷して、コントロールが難しく、
飛ぶのはもちろん、着陸はもっと大変でしたが、それでも
モーガン機長は優れた操縦技術でベルを基地に連れ戻すことに成功しました。


破損した垂直安定板

■124485

これまでお伝えしたように、メンフィス・ベルとその乗組員は、
ナチスドイツの打倒に貢献した重爆撃機の乗組員として、さらに
後方支援要員の奉仕と犠牲を象徴する時代を超越したシンボルとなりました。

彼らはヨーロッパ上空で25回の任務を完了し、
米国に帰還した最初の米陸軍航空隊の重爆撃機として有名になりましたが、
それが陸軍によって調整された「初めて」であったことは、
前回の「メンフィスベルになれなかった爆撃機」の項で説明しましたが、
今日は実際のメンフィス・ベルの実績について掘り下げてみます。


メンフィス・ベルは、USAAFの戦略爆撃作戦の初期段階で、
イギリスのバシングボーンの第91爆撃グループ、
第 324 爆撃飛行隊に配属された B-17F 重爆撃機です。

1942年11月から1943年5月まで、メンフィス・ベルと乗組員は、
ドイツ、フランス、ベルギーなどへの25 回の爆撃任務を実施しました。

つまりたった半年の間に25回の任務を完遂したことになります。


しかし、「たった半年」と言っても、その半年間、
無事に任務を継続できる爆撃機は現実には稀でしたし、
25回の任務まで何も起こらない方が稀というものでした。

現実に、メンフィス・ベルのヨーロッパ遠征中、
第8空軍は平均して18回の出撃ごとに1機の爆撃機を失っていました。

そしてバシングボーンから出撃した最初の3ヵ月間で、
ベルが所属した爆撃機群の80%が撃墜されました。

モーガン機長がそのことをこんなふうに説明しています。

「朝食を10人で一緒に取る。
その日の夕食には自分以外に一人しかいない。

そういうことだ」

1990年の映画「メンフィス・ベル」でも、目の前で
一緒に出撃した爆撃機を撃墜され、無線から落ちていく彼らの
断末魔の絶叫が聞こえてくるという壮絶なシーンや、

出撃前の壮行会の行われる中、ベルの搭乗員一人が彷徨い出て
「死にたくない!」と泣くシーンがあったのを思い出します。


そんな中、メンフィス ベルはいくつかの戦闘任務で損傷しつつも、
その度生還し、1943年5月17日に 25 回目の任務を完了しました。

25回目の任務を終えて機を降りてきたクルー

そしてその後彼らははアメリカ全土の戦時公債ツアーのため帰国しました。 

124485というのはメンフィス・ベルの機体番号です。


■メンフィス・ベル戦闘ミッション内訳


ミッションを行った場所と落とした爆弾数がペイントされたパネル。
25回ミッションの割に目的地が少ないのは、いくつかの都市
(特にフランスのサン・ナゼール)が重複しているからです。

25回の爆撃目的地内訳は、フランス18回、ドイツ6回、オランダ1回。

また、爆弾の上に描かれた星は、赤がグループリーダーとして7回、
黄色がウィングリーダーとして8回飛行したという意味を持ちます。

1)1942年11月7日 - フランス、ブレスト

2)1942年11月9日 - フランス、サンナゼール

3)1942年11月17日 - フランス、サンナゼール

4)1942年12月6日 - フランス、リール

5)1942年12月20日 - フランス、ロミリー・シュル・セーヌ

6)1942年12月30日 - フランス、ロリアン
(機長:ジェームズ・A・ベリニス中尉)

7)1943年1月3日 - フランス、サン・ナゼール

8)1943年1月13日 - フランス、リール

9)1943年1月23日 - フランス、ロリアン

10)1943年2月14日 - ドイツ、ハム

11)1943年2月16日 - フランス、サンナゼール

12)1943年2月27日 - フランス、ブレスト

13)1943年3月6日 - フランス、ロリアン

14)1943年3月12日 - フランス、ルーアン

15)1943年3月13日 - フランス、アベヴィル

16)1943年3月22日 - ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン

17)1943年3月28日 - フランス、ルーアン

18)1943年3月31日 - オランダ、ロッテルダム

19)1943年4月16日 - フランス、ロリアン

20)1943年4月17日 - ドイツ、ブレーメン

21)1943年5月1日 - フランス、サン・ナゼール

22)1943年5月13日 - フランス、メオー
(機長:C.L.アンダーソン中尉)

23)1943年5月14日 - ドイツ、キール
(ジョン・H・ミラー中尉搭乗)

24、25)
1943年5月15日 - ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン
1943年5月17日 - フランス、ロリアン
1943年5月19日 - キール、ドイツ
(機長:アンダーソン中尉)

24回目、25回目任務が、上記3つのどれであったかは
情報源によって意見が分かれていて決定できないのだそうです。

しかも、5月17日の「ベル搭乗員にとっての25回目ミッション」は、
メンフィス・ベル機体にとっては実際は24回目の出撃でした。


爆撃ミッションというのはいつも同じメンバーでなく、
ときには機長が変わったりしました。
全ての乗員がベルで25回の任務を完遂したわけではありません。

機長のロバート・モーガン大尉がメンフィス・ベルで出撃したのは20回、
副機長ヴェリニス大尉に至っては、ベルに乗ったのは機長を務めた一回だけ、
25回というのは他の爆撃機で挙げた回数だという話もあります。

メンフィス・ベルの乗組員として名前を挙げられているのは、
日本版ウィキでは定員の10名ですが、英語版では15人いるのも
いつも固定のメンバーではなかったということを表しています。

また、モーガン機長以下クルーは、ベル以外のB-17で数回出撃しており、
それは

1943年2月4日 - ドイツ、エムデン ”Jersey Bounce”

1943年2月26日 - ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン ”41-24515”

1943年4月5日 - アントワープ、ベルギー ”Bad Penny”

1943年5月4日 - ベルギー、アントワープ ”
The Great Speckled Bird”


に後一回を足した5回の任務であることがわかっています。
また、メンフィス・ベルに乗るメンバーも同様で、
全く別の搭乗員を乗せて5回任務を行っています。

半年の間、メンフィス・ベルに搭乗したクルーは50名に上りました。
機体の整備や配車ならぬ配機の都合でこういうこともあったんですね。



わたし個人は、爆撃地のほとんどがフランスであったのも意外でした。

確か映画の爆撃シーンで、目標の向上が雲で見えないのを、副機長が、
適当に落として帰ろう、どうせみんなナチなんだというのを機長が拒否、
視界が晴れるまで粘って待っていましたが、実際はそうでも、
映画ではわかりやすくドイツに落とすということにしたのでしょう。

まあ、フランスに落とすときでも、当時の状況を考えると、
「どうせみんなナチ」という言葉が出ても間違いではありませんが。


25回の戦闘任務中、ベルの公式記録は8機の敵戦闘機撃破となっていますが、

実際にはその他5機撃破、少なくとも12機に損傷を与えたとされます。

爆撃手ビンセント・B・エヴァンスの見事な働きもあって、
ベルは驚くべき正確さで、ブレーメンのフォッケ・ウルフ工場、
サン・ナゼールとブレストの閘門、
ヴィルヘルムスハーフェンの埠頭と造船施設、
ルーアンの鉄道操車場、ロリアンの潜水艦格納庫と動力施設、
アントワープの航空機工場の爆撃を行いました。


ところで、「ロリアンの潜水艦基地」というので、瞬時に
映画「Uボート」Das Boot のラストシーンを思い出してしまいました。





25回ミッション完遂で帰国の権利を得たベルの搭乗員は、
イギリスで国王も出席する式典に参列しました。



式典で、ベルのメンバーは、ジョージ6世夫妻の謁見を受けました。
(妻はエリザベス妃、字幕のクィーンは『王妃』の意)
機体の向こう側にいるのは整備クルーです。

ちなみにジョージ6世は海軍兵学校を卒業し、士官候補生時代は
「ジョンソン」の通名で戦艦「コリンウッド」に乗り組んでいますし、
ユトランド沖海戦には砲塔担当の士官として参加しています。


このときジョージ6世が着用しているのは空軍の制服ですが、
おそらく王族特権?で海軍航空隊から空軍にスライドし、
所属を空軍に転籍したためだと思われます。

王は、対戦終結間際には戦略爆撃隊に所属していたというだけあって、
メンフィス・ベルのメンバーにはぜひ会っておきたかったのでしょう。


ベルは、ドイツ空軍がまだ戦闘機で圧倒的な優位を保ち、

ナチス政権の防衛が強固であったこの戦争で、
最も危険な空襲に参加した爆撃機のひとつです。

彼女はメッサーシュミットやフォッケ・ウルフと激突し、銃弾を浴び、
対空砲火を受け、5度にわたってエンジンの1つが撃ち抜かれ、
それでもそのたびに帰ってきました。

この伝説的な爆撃機が最も長く前線から遠かったのは、
輸送の問題で主翼の交換が遅れた5日間だけでした。


当時を振り返って、モーガン機長は、その25回の中には


「簡単な任務もミルクランもなかった」

と断言します。
そして、B-17のミッションを成功させた秘訣があるとすれば、

「タイトなフォーメーションで編隊を組むこと。
そうすれば驚くほどの火力を出すことができた。
それと、ノルデン爆撃照準器のおかげで高高度から精密爆撃ができました。
また、乗組員にはちょっとした神の介入もあったように思います」

「公の場でしばしば "死ぬほど怖かったでしょう?"と尋ねられる。
不安と心配はあった。とても忙しかった。
10人それぞれに仕事があった。怖がっている暇はなかったよ」


そして彼はこう付け加えるのでした。

「ヨーロッパ上空の地獄を25回もくぐり抜け、
死傷者を出さずに戻ってこられた理由を一言で言うなら、
それはチームワークだ。
フライング・フォートレスで戦闘したことのない人には
おそらくそれがどれほど重要なことかわからないだろうと思う」


動画を検索していたら、空軍博物館に
リニューアルされたメンフィス・ベルがお披露目されたのは、
わたしが見学するわずか2年前だったことがわかりました。

Memphis Belle Unveiling

動画途中で、機長モーガン大尉の息子さん(そっくり)という人や、
他のメンバーのご子息が何人か登場し、
ベルがあらたに生まれ変わって展示された感激を語っています。

動画では、修復にどれほどの技術と年月、熱意が注がれたかも
写真を共に説明されていますので、感動的な音楽と共にお楽しみください。



続く。





メンフィス・ベルになれなかった重爆撃機たち〜 国立アメリカ空軍博物館

2023-10-21 | 航空機

第二次世界大戦中の爆撃機のアイコンだったB-17、「メンフィス・ベル」。
このスーパーフォートレスにまつわるいろんなことを、
国立アメリカ空軍博物館の展示からご紹介するシリーズです。

■ 引退から空軍博物館展示までの道のり



25回の爆撃ミッションを終え、アメリカに帰ってきてから
全米津々浦々を公債ツァーで引き回しされていたメンフィス・ベルですが、
ツァー終了後、訓練機として使用するために、
フロリダのマクディル陸軍飛行場へ向かいました。

人のみならず引退した飛行機にも悠々自適の退役生活が待っているとは、
さすがアメリカという感じです。

戦争末期、飛行機がなくて2枚羽の練習機で特攻させたり、
航空燃料がなくて、代替の松根油を取るため、
予科練の訓練生に松の根っこを掘らせたりという話もある我が国とは
そもそも国力からして雲泥の差であることを思い知らされますね。

マクディル基地で訓練用のプラスティック爆弾を搭載中のベル


戦争が終わると、メンフィス・ベルはは他の余剰爆撃機とともに
オクラホマ州の陸軍飛行場に保管され、1946年に破棄される予定でしたが、
テネシー州メンフィス市が「名前のよしみで」この機体を入手し、
その後、ナショナルガードの兵器庫で雨ざらしのまま展示されていました。

1977 年、数十年にわたる天候や外部衝撃による経年劣化後、
メンフィス・ベルは修復され、米空軍から、新しくできた
メンフィス ベル・メモリアルアソシエーション(MBMA)に貸与されました。

 
MBMAの絵葉書、搭乗員のサイン入り

これを見る限り、天蓋といってもほとんどは外に置かれているようです。

1987年から2002年まで、MBMA は、メンフィス・ベルを
メンフィス市マッド島に天蓋をしつらえて展示していました。

しかし、MBMAはメンテのためのリソースに不足してきたこともあり、
2005年に機体をアメリカ空軍国立博物館USAFに貸与することを決定します。

2005年から13年の年月を費やし、博物館の修復スタッフは、腐食処理、
欠落した機器の交換、正確な化粧直しなど機体の修復を完成させました。

博物館で修復を受けているメンフィス・ベル

2018年5月17日、メンフィス・ベルが25回目の爆撃任務を成功させて
ちょうど75年目にあたるこの日、その機体は
国立アメリカ空軍博物館の公式展示品となりました。

■実は25回任務を終えていた爆撃機たち



メンフィス・ベルは 25回の任務を完了した
最初の USAAF 重爆撃機ではありませんでした。

アメリカ軍が宣伝のために選んだのが、たまたまこの機体だったというだけで、
少数の重爆撃機がこれ以前に25回目の任務を完了していたのです。

ここでは、25回任務を達成していながらも、タイミングのせいで
「メンフィス・ベルになれなかった」重爆撃機たちに光を当てています。

【スージーQ / Suzy-Q B-17E】 



 フライング・フォートレスB-17E、愛称Suzy-Q 。

25回の任務を完了して米国に帰還した最初のUSAAF重爆撃機です。
1942 年 2月から 10 月まで太平洋戦争初期に戦闘任務を遂行し、
戦時公債ツアーのため米国に帰国しました。 

ちなみにこのスージーQという名前ですが、オリジナルは
歌手のスージー・クワトロではなく、(そう思っていた人多いと思う)
「デスパレートな妻たち」のスーザン・メイヤーの元旦那が
彼女を呼ぶときに使う名前でもありません。

「スージーQ」は一般的に「ケイクウォーク」「チャールストン」

「ツイスト」「ロコモーション」のような流行したダンスの一つです。

それは1936年と限定的な短期間の流行でしたが、語呂がいいので
スージー・クアトロが自分の愛称にしたり、ドラマに使われるわけです。

B-17の名前の由来はわかりませんが、おそらく
乗組員の誰かの恋人の名前が「スージー」だったんじゃないでしょうか。

【ヘルズ・エンジェルス/HELL'S ANGELS B-17F】


1943 年 5 月 13 日、第 303爆撃群の B-17F ヘルズ・エンジェルスは、
メンフィス ベルの乗組員より 4 日前に、
ヨーロッパ上空で 25 回の戦闘任務を完了した重爆撃機となりました。

しかし、25回を大きく超える48 回の戦闘任務を飛行した後、
戦時公債ツアーのため米国に戻ったのは 1944 年になってからでした。

名実ともに25回任務を果たした最初の爆撃機だったのに、
途中で第303から第358爆撃飛行隊への転勤があり、
結局長い間任務を重ねることになったわけです。

25回目の任務を終えた後、「ヘルズ・エンジェルズ」は
1944年まで戦地に留まり、合計48回の任務の間、
搭乗員の負傷や事故もなく飛行していました。

 1944年1月にようやく米国に戻ることができ、彼らも
「ベル」のようにさまざまな戦争工場を視察しましたが、
当然のことながらそれほど騒がれることもありませんでした。

戦争が終わるとすぐ、1945年8月に「地獄の天使」は
(どうにも厨二病な名前ですね)スクラップとして売却されました。

4日も早く任務を達成していたヘルズ・エンジェルスの搭乗員たちは、
ヨーロッパで粛々と出撃を重ねながら、ベルの国内における
熱狂的な歓迎報道をどのように見聞きしていたのでしょうか。

【ホット・スタッフ/ HOT STUFF B-24
アイスランドに消えた悲劇の爆撃機】


第 93 爆撃群のB-24 「ホット・スタッフ」は、1943年2月7日、
第二次世界大戦のヨーロッパで多くの飛行機が撃墜される不利な状況の中、
25回目のミッションを終了した第8空軍初の重爆撃機と搭乗員、
そして初めての任務達成B-24となりました。

この達成日も、メンフィス・ベルより3ヶ月も前でした。


そして25回を終えてもしばらく出撃を続け、
結局約30回の戦闘任務のうち約半分はヨーロッパ上空を飛行し、
半分はアフリカでの攻撃と地中海での哨戒任務をこなしました。

陸軍は、ホット・スタッフを31回目の任務を完了させ次第帰国させ、
戦時国債の宣伝ツァーを大々的に行う予定をしていました。


つまり最初の「爆撃機のアイコン候補」だったわけです。

ところがここで、彼らをさっさと帰国させておけばよかった、
と陸軍関係者が歯噛みするような事故が起こってしまうのです。

アイスランドでの墜落

ホット・スタッフの帰国が具体的になったころ、
ヨーロッパ作戦地域の司令官であり、空軍の父として知られていた
フランク・M・アンドリュース中将はワシントンD.C.に戻るため、
かねてより知己であったパイロット、シャノン大尉の爆撃機、
ホットスタッフに同乗し、一緒にアメリカへ戻りたいと考えました。


チャーチルと握手するアンドリュース元帥

この元帥の思いつきは、ホットスタッフのクルーにとっては
ある意味「いい迷惑」だった可能性があります。

実はホットスタッフは、何もなければあと一回、潮流作戦、
=プロスティ襲撃に参加するために南に行くはずだったとも言われています。

しかし、ペンタゴンで4つ星大将に昇進をするため、
急ぎで帰国したかったアンドリュースにゴリ押しされたようで、
アイスランドを経由して帰国することが決まりました。

しかし、給油のためアイスランドを経由したホットスタッフは、
1943年5月3日、悪天候の中、ファグラダルスフィヤル山に墜落し、
アンドリュース元帥を含む乗員14名が死亡してしまいます。




墜落した機体から乗員の遺体を回収する

このとき、尾部砲手のジョージ・アイゼルだけが生き残りました。



博物館にはホットスタッフの機体の一部が展示されています。


アンドリュース元帥の事故死は、その後の歴史を変えたかもしれません。


7ヵ月後の1943年12月に連合国最高司令官に指名されたのは
あのドワイト・アイゼンハワー元帥、つまり、もしこの事故がなければ
彼が戦後大統領になる未来もなかった可能性は高いからです。

運命が変えられたのはアイゼンハワーだけではありませんでした。

「ホットスタッフ」を事故で失った陸軍は、士気の低下を懸念し、
25回帰国をこの際大々的に宣伝することを決めた(にちがいない)のです。

任務達成後速やかに帰国させて戦債ツァーを回らせる役目は
こうしてメンフィス・ベルに回ってくることになり、
25回ミッションに到達した最初の爆撃機として、
彼らを事故や被撃墜で失う前になんとか無事に帰還させ、
英雄として讃え、大いにこれを祝うことにしたのです。



陸軍省が急遽ヨーロッパにウィリアム・ワイラーを派遣し、
ドキュメンタリー映画『メンフィス・ベル:空飛ぶ要塞の物語
(Memphis Belle: A Story of a Flying Fortress)』
が彼らの宣伝のために撮影されたのは前述のとおりです。


■ なぜ「ベル」だったのか


さて、ご紹介してきた3機の爆撃機は、それぞれ「ベル」よりも先に
25回任務を終え、帰国の権利を持っていたにもかかわらず、
結局主役になることはありませんでした。

その理由は単純に「タイミングが合わなかった」というものです。

このほかにも、25回任務達成の一番乗りは、4機のどれでもなく、
「デルタ・レベル2」だったという話もありますが、
とりあえず墜落してしまった「ホットスタッフ」を除く2機についていうと、
まず、「スージーQ」は、

任務達成がメンフィス・ベルより半年早かった

ので、陸軍省が宣伝目的でこれを持ち上げようとした頃には
すでに帰国して国内の戦債ツァーを終えていました。

事故で墜落したホットスタッフはいうまでもありませんが、
ある意味最も気の毒だったのは「ヘルズ・エンジェルス」かもしれません。
なんと、

ワイラーら映画スタッフが撮影準備している間に
25回任務を達成してしまった

という理由でベルにお株を奪われて主役になり損ねたばかりか、
彼らは25回で帰国というルールすら執行を先延ばしされてしまったのです。

メンフィスベルを一目見るために集まった人々

完全に陸軍の宣伝の都合ありきで、それにちょうどタイミングが合ったのが
たまたまメンフィス・ベルだった、ということになりますが、
いかに戦争中のこととはいえ、当事者同士にとっては
この苦々しい真実はかなり戦後も尾を引いたのではないかと思われます。

ことに、英雄は一機だけでいいと言わんばかりに、25回任務を終えても
いつまでも帰国させてもらえなかった「ヘルズ・エンジェルス」の
搭乗員たちの心中は、果たしていかなるものだったでしょうか。



続く。