ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

元海幕長の語る「漁船衝突事件」衝撃の真実

2012-08-31 | 日本のこと

    

元海幕長の講演と、それから感じたこと、考えたことを中心にお送りしています。
中国と言う国全体の覇権主義的な海洋進出の実態を、マクロな視点からお話しましたが、
今日はもう少し具体的に、どのような段階を踏んで中国が活動を深めているかから説明します。



クロノロジーとはこの場合、中国が海洋進出を近年になって急激に先鋭化させてきた様子を、
時系列で表わしたものです。
それにしても海監漁政?なんのことやらさっぱり、と言う方のために解説しておきます。

海監も漁政も、中国の公船で、海監は「国家海洋局」の傘下にある海監総体の船をいいます。
つまり日本で言いますと海保の位置づけですね。
漁制は農業部に属し、本来は読んでその通り、漁船の監視を行うのが元々の仕事です。
日本で言うと水産庁のようなものでしょうか。



この海監の方はかなり早くから監視と言う形で周辺に現われていたのですが、遂に2008年、
領海内に侵入してきています。



クロノロジーにもあるように、海覧は測量船の妨害から始めました。
そのさい、「ここは中国の領海である」と宣言しています。

海艦も漁政も、取りあえずは軍ではありませんが、それはあくまでも建前で実質は武装していますし、
「水産庁の傘下のフネなら魚を取るのが仕事だろう」
とアマく見てしまいそうな漁政というのがまたクセモノで、実は海軍と非常に近い関係です。
海軍の軍艦を譲り受け改装して使っているという穏やかでないフネもあるのです。

このクロノロジーをご覧になればわかるかと思いますが、中国は進出にあたり
自国に正当性が無い場合、さすがに最初から軍を出すわけにいかないので、つまり
ことをいきなり荒立てずに粛々と実効支配に持ち込むためにこれらの公船を活動させているのです。
漁政はいわば「海軍の代行」と考えていただいてもいいかと思います。

尖閣付近はあの漁船衝突事件以来、なぜか日本の漁船が漁をできなくなり、かわって中国、
台湾の漁船が出没し漁をするようになった、と言われています。
このような場合、中国の漁船は勿論民間人ですが、その航行や漁の安全を確保するため、
というのが名目上の役目であるこの漁政、実質は「侵略の先兵」と称すべき役割を担っています。

つまり、この表には、尖閣を手に入れ実効支配するため、中国が海監の巡視から、
漁政によって実際に海保の活動を妨害するなどの段階へと着々とステージを上げてきているのが
はっきりと示されているというわけです。



そして公船に、このようないわば「実効支配のための露払い」をさせている間、
人民軍が何もしていないわけはありません。
これは潜水艦の活動ですから、「活動海域は全てイメージ」という文があるように、
あくまでも「状況推理」。
「であろうといわれている」活動で、分かったものだけでこれだけあります。
潜水艦の特性である隠密行動をフルに活用して、
見えない部分での活動を活発化させていることは間違いありません。

中国は、これからの軍隊は「情報化軍隊」であると位置づけ、
「三歩で歩む発展戦略」、つまり

2010年 基礎を築き

2020年 機械化を実現し、情報化建設を発展

21世紀中葉 軍隊の近代化の目標を達成

という段階を設定しています。
今はまだ基礎の段階である、というわけですが、これと同時に

2010年 経済水域を含む島嶼への進出と実効支配を進め

2020年 軍事力と情報戦と政治によって島嶼からまず合法支配にこぎつけ

21世紀中葉 日本を中国の省に組み込み国ごと支配

なんてことを実は企んでいるのではあるまいな、と考えずにはいられないのは
おそらくわたしだけではありますまい。


さて、そのような中国に対し、我が国、というか我が海上自衛隊は、
ただ手をこまねいて見ているわけではありません。

軍隊としての実力を常に維持するための訓練の実施。
有事の際の即応体制の維持。
そして、情報収集。
警戒監視。

この最後の警戒監視が最も重要で、海自は排他的経済水域を毎日巡回しています。
この「自衛隊に監視されている」ということは、それだけで中国側にとって非常に
「いやなこと」であるわけです。
これだけで両国間のパワーバランスは維持され、野心的な行動や意図に対する抑止力となります。

これらの対応を「硬の対応」とすれば、

人道支援、災害救援での協調
海賊対処活動における協力

などは「軟の対応」です。
くしくも「世界の国々が連合を組んで共通の敵と戦うことによって国家間の争いは無くなる」
とわたくしエリス中尉が海賊退治のあの構図を評したことがあります。

つまり、海賊には悪いけど、ここはちょっと悪者になってもらって(悪者だけど)
中国には「正義の側にいるって、いいことだろ?え?」とばかりに
国際社会での法の順守の重要性を自覚させ、こちらの世界へ取りこんでしまう、という作戦です。
「いじめっ子が町の不良と戦って他の子供を救う」図ですね。
童話「きつねのおきゃくさま」におけるきつねの立場だとも言えます。(マイナーなネタすみません)

そして冒頭の写真をご覧いただきたいのですが、これはこの日お話を伺った海幕長と、
中国海軍の呉勝利上将。
なぜか両手をクロスして握手をしておられます。
この呉上将は、もう70歳にはなる海軍切っての俊秀だそうです。

このように海自と中国海軍は決して「にらみ合っている」わけではなく、防衛交流を、
例えば艦艇訪問や、人的交流などを通じて推し進めているのです。

・・・・ちょっと、ほっとしますね。

ただ、海軍同士が共感を持つのは、これ全世界基準、ワールドスタンダード。
その共感を持った海軍同士もお互いを敵として戦わなければならないのが戦争であるわけで。


現在、国会で紛糾している魚釣島への上陸問題。
相変わらずビデオ映像を見せろ見せないをやっています。
結局以前の中国船衝突のビデオも全部公開されていないまま、今回のことが起こったわけですが、

みなさん、この席で、元海幕長はびっくりすることをおっしゃっていましたよ。

本日タイトルの「漁船衝突事件の真実」です。
映像が全部公開されないことで、当時いろんな噂が乱れ飛びました。

「海保の職員が海に突き落とされた」
「実は怪我をして死亡したが、隠匿されている」
「あれは漁船だが、乗っていたのは人民軍の兵士だ」

隠されれば隠されるほど、人々が最悪の事態を想像するのは当然です。
講演会の後、食事のテーブルで、その話が出ました。

「あれはですね」

元海幕長がこの話を始めたとき、テーブルの全員が(エリス中尉の息子除く)
息を飲むようにして注目しました。

「ただの漁民だったんです」

いやだから、ただの漁民が中国政府の意を受けて領海侵犯したんでしょ?
漁政がそういった漁民に領海内で漁をさせて、実効支配化につなげるため、保護している、
そういった船のひとつってことじゃなかったんですか?

ところが、次の元海幕長の言葉は、衝撃的でした。

「わたしは海保の人間から直接聞きましたが、あの船長は、
酔っぱらっていたんです

酔っぱらってね。はいはい・・・・・って、そ、そうだったんですか?

「船に乗り込んだとき、船長は酔っぱらって立てない状態だったそうです」

酔っ払い運転ですか。そりゃ一発で免許停止ですね。って話じゃないのか。
しかし、だとすると、中国が日本と密約まで結んでビデオを公開させなかった理由は、
我々が思っていたのとまったく逆の意味になってはしまいませんかね?

政治的、戦略的な意を受けた、いわば特攻作戦であったからそれが知られたらまずい、ではなく、
単に酔っぱらって領海に入りこみ、漁をしているうちに海保に見つかり、
テンパって操舵しているうちにぶつかっていってしまった、と。

これは、かっこ悪い。

面子というのが中国語であることからもわかるように、中国人は面子を重んじます。

「中国側としても真相を知られたくなかったのでしょう」

それなら、Vサインで帰国したものの、現在船長は軟禁状態で、人との接触を禁じられている
その理由もよくわかります。

「いろいろしゃべられると、中国は困ってしまうからでしょう・・・・体面的に」


なんだかひざの裏を後ろからカックンされたような気分になるオチですが、
ともあれ、海保の職員が海に落とされたり怪我をしたり、これは全くのデマであったということで、
よかったよかった(棒)


続きます。





元海幕長の語る「中国の海洋進出」

2012-08-30 | 日本のこと

              

さて、花火大会のことばかり書きましたが、先週元海上自衛隊幕僚長のお話を聞いてきて、
その内容について報告するという非常に時を得た内容でお送りします。

・・・・正直、花火の話をでれでれと書いている方がアタマも使わないし気が楽なのですが、
もうここに至って事態はのっぴきならぬ状態に来ていますのでここは一つ気力を振り絞って。


ところで、現在進行形で開催されている国会。
あの香港活動家の魚釣島上陸について行われている質疑の政府答弁、お聞きになりました?
あまりにも幼稚でお粗末で嘘丸出しで・・・。
こんな子供政府に、今この日本のかじ取りを任せていては国の将来は無い、と再認識しました。

そして、政府の対応のお粗末さを国民が看過しているのも、これ全て現状認識のための情報が
あまりにもこの国の「反日メディア」によって隠ぺいされているからだと確認しました。

と言うわけで、メディアがはっきりと警告として伝えない防衛の最前線を知っていた海幕長の話を
少しでも皆様の認識の一助にしていただき、考えていただきたく思います。

まずは、読者の方にいただいたコメントからどうぞ。

(`・´)ゞエリス中尉殿、元海幕長との懇談会、羨ましい限りです。
中国の海洋進出は、卑兵も10年ほど前から、気にしていた重要案件です。
記事、楽しみ にしております。

私の理解では、北海道から本州、九州、トカラ、奄美、沖縄、石垣、台湾、フィリピンと繋がる
海の防波堤が、中国軍の太平洋への出口を閉ざ しています。
これは、日米安全保障条約で守らなくてはいけない両国の重要な使命。
尖閣諸島問題も、本件、避けては通れない問題ですし、
台湾の中国併合も、 当然あり得ません。
その場合、アメリカが黙ってはいませんから。

しかし、ここ数年、アメリカの弱り具合は、大変情けない状態です。
たしか、3~4年前、米 海軍幹部が北京を訪問、中国解放軍海軍幹部と懇談した時、
中国側が提案した事、
「アメリカは、世界中に兵を派遣し、平和維持しなくてはならない、お金が掛かるでしょ。
極東アジアの平和維持は、中国にお任せください。
アメリカはハワイまで担当して、ハワイより西側の太平洋は、我々がカバーします」です。
米海 軍幹部は、「・・・・・・」と無言で、帰国したとの事。

一方、解放軍は、旧ソ連製空母ワリャーク(満載排水量5万9千トン)が、試験航海中。
純国産大型原 子力空母二隻を建造中であり、海南島に、2015年までに配備の予定。
米国は、なんとしても中国軍機動部隊を、
南シナ海~インド洋に閉じ込めておかなく てはなりません。


この新さんのコメントにある件についても関連事項がありますので、合わせてご覧ください。

出席者に配られた資料。

この下半分に書かれている地図は「中国から見た尖閣海域、ならびに列島線」
我々にはピンときませんが、中国は日本を見るときにはこのような形で見ているのです。

講演の骨子は

「中国の巨大な人民海軍」
「中国の海洋進出」
「それに対する我が国の対応」

の三点から成っていました。

中国と言う国の立場で考えれば、ご存じのように、国内外を問わず不安定で不確定要素が、
混在しているというのが現状です。
そして、遅れてきた大国主義、覇権主義の台頭と共に外へ外へと力を伸ばしつつある実情で、
要地、資源をめぐる対立をあちらこちらに起こして現在に至ります。

そういった中国と言う国の戦略方針を一言で申し上げると、それは

「積極防御」

これに尽きるそうです。
国防費はこの五年で倍増。20年で見ると実に18倍にまでなっています。
しかも、この国防費にはかなり「不可視な部分」、例えば研究費などがあるため、
実際には、この数字の2倍から3倍であろうと言われているそうです。

積極防御とはつまり「被攻撃時の積極反撃」。
簡単に言うと攻撃こそ最大の防御、つまり「侵略も防御」と考えているともいえます。



現在の人民解放軍の軍事力を表にしたものです。
例えば、中国海軍は約60隻の潜水艦を保有していますが、我が国の海上自衛隊は16隻。
しかし、これに関しては海幕長自身の口から、
「我が国の潜水艦は非常に優れている」という頼もしい言葉をいただいております。
さらに原子力潜水艦と通常の電池式の戦力差はほとんど無い、ということもおっしゃっていました。

しかし、何と言っても保有数にして1対4。
そして、中国はその通常型潜水艦をもさらに大量に導入しています。
大型駆逐艦、原子力潜水艦、2万トン級ドック型揚陸艦の配備などを着々と進め、
この4~5年で遠洋展開のための能力を急激につけつつあるのです。



左は2002年に中国が購入したクズネツォフ級空母、「ワリヤーグ」。
昨年改修が済み、2011年8月にはすでに洋上航行試験が行われています。

「永遠に空母を持たないわけにはいけない」

という発言が、日中防衛省会談席上における中国国防部長からなされましたが、
中国は現在、空母の取得に強い意欲を示しており、
おそらく数年以内に2~3隻の空母を持つのではないかと言われています。
さらに、J-15と呼ばれる艦載機タイプの新型飛行機が登場し、
このための模擬訓練施設が建設されているということです。



しかし、空母よりむしろ中国が力を入れているのが潜水艦。
潜水艦の隠密性を必要とする海洋戦略を重く見ていると認識していいでしょうか。

そもそも、どうして中国が海洋進出に力を入れているかと言うと、その理由はシンプル。
まずは一にも二にも経済発展のための海洋権益の確保です。

尖閣にしても、中国が所有を主張し出したのは1968年、海底調査でそこに石油や天然ガスなど、
資源があることが分かってからのことなのは皆さんもご存じでしょう。

大正9年(1920)中華民国、福建省の漁民が遭難したとき、魚釣島の日本人住民が救助にあたり、
それに対して「帝国日本、沖縄県の魚釣島の住民に対する感謝状」が中華民国から出され、
それが資料として残っているのですが、これなども
当時は中国は尖閣諸島が日本の領土だと認識していたという証拠です。




ちなみにここの石油埋蔵量は240億トン、中国全体の年間消費量の100倍。
天然ガスは14兆m3でd、やはり年間消費量の約500倍と言われています。
これだけの資源が中国にとって喉から出るほど欲しいものであるのは明白です。

資源だけでなく、大陸棚、FEZ(排他的経済水域)の管轄権を確保し、
また、海上交通の安全を確保するために中国は自らを「海洋大国」と位置づけました。

ところが実際のところ、中国のFEZ、領海の面積は世界で15位に過ぎません。
対して日本は世界第6位
国土との割合で行くと、中国とは比べ物にならないくらいの海洋大国です。
(1、アメリカ 2、フランス、3、オーストラリア、4、ロシア、5、カナダに次ぐ)

昨年5月、中国が強引な手でフィリピンの島に標識を立ててしまうという事件がありました。
フィリピンは軍を派遣して標識を撤去したのですが、これが日本だったら
「遺憾砲の発動」だけで終わってしまったのではないかと思われます。

陸地面積のわりに領有海域が少なすぎることが、中国が外へ外へと覇権を伸ばしつつあることの
根本的な理由となっていると言えましょう。
中国は他にもベトナム、ブルネイ、インドネシア、シンガポールとの間にも衝突があります。



また、台湾問題ですが、新さんのコメントにもあるように、中国にとって台湾に独立されることは、
中華民族の根本的利益にかかわってきますから、絶対に阻止しなくてはいけません。
ですから、中国は人民海軍の強大化をよりいっそう推し進め、それによって、
台湾の分裂勢力を威嚇、牽制し、震え上がらせて統一を確保する必要があると言うわけです。



中国は、南沙、西沙、中沙の三つをまとめて「三沙市」という都市を国内法で制定しています。
人の領土に入り込んで勝手に標識を立てる、勝手に市に決めてしまう。
威風堂々、もうはっきり言ってヤクザ国家です。

元海幕長はこういったことについて、批判めいたことや個人的感情的な意見は一切述べません。
ただ淡々と、中国のジャイアニズムの現状を資料で示して解説するのみ。
しかしながら、その事実を披歴するだけで、中国と言う国の恐ろしさ、タチの悪さが
否が応でも証明されるという結果となっていました。

ベトナムに対して、対日本のように、南シナ海の領有の主張を始めたのが51年のことです。
そして、73年に米軍がベトナムから撤退したとたん海洋調査に入り、
軍事衝突を繰り返した末、92年に在比米軍が撤退したとたん
94年にはついにミスチーフ礁を占拠してしまいました。
そして現在では全域の支配権の確立を進めているというわけです。

皆さん。
赤字に注目して下さい。
現在、沖縄の基地問題をめぐってアメリカとの関係はぎくしゃくしたままと言えます。

誰が、どの政権が、そのような事態にしたのかはご存知ですね?
誰の、どういう発言が日米関係を劣化させたのか、覚えておられるでしょうか?

この政権の少なくない人数が、政権交代するや否や、真っ先に「中国詣で」をし、
全員が中国の元首と写真を撮り、そして何やら接待されて帰ってくると言う、
とんでもない朝貢外交をしたのは、記憶に新しいところです。

彼らは、アメリカを切り、そこに中国が当然のように入ってくることを、
むしろ中国の要請によって積極的に推し進めているかのように見えます。

何やかやと理屈をつけて防衛費を削れるだけ削り、日本の防衛力を縮小し、
このうえさらにアメリカとの関係が悪くなっていったとき、最終的に
どの国が得をするのか。

上の赤字部分を見れば、それが何を意味するのかは火を見るより明らかです。

さて、このような情勢を、元海幕長の説明によって新たに整理し直すことができ、
講演は非常に有益なものでした。
先ほども言ったように、元海幕長はそれによってナショナリズムをアジテーションするような
言辞は勿論、その脅威についてのネガティブな意見も全く述べることは無く、
ただ我々の認識に、全て判断をゆだねる形で講演会は終わりました。

ただ、そのなかで、非常に興味深かったのが、台湾と言う国について、
「台湾と言う国は、国も民間も日本に本当の好意を持っていてくれる国です」
と言ったこと、そしてベトナムについて、

「したたかと言うか、実に優秀で、文化レベルも民度も非常に高い国だと思います。
フランスにも勝った、アメリカにも勝った国です。
いくら実効支配をされても、やられてもやられても、
決してあきらめないで向かっていくような
気概があります。
ベトナムはロシアから潜水艦を6隻購入しています。
ベトナム海軍のトップと話をしたとき、そのことについて『どう思う?』と聞かれました。
わたしは『素晴らしい。潜水艦が6隻あれば、かなりのことができる』と答えました」

と言う発言でした。



8月15日、現政府は、魚釣島に現われた香港の民間活動家に対し上陸を許し
(海保に行動の制限をつけたものと思われる)報道陣にヒーロー・インタビューをさせ、
飛行機で無事にお送り申し上げるという、何に配慮したのか腰砕けもいいところの対応をし、
さらに海保のビデオを公開しないという、二年前と全く同じ対応で現在国会を紛糾させています。

直後のインタビューで、活動家たちは
「今回、上陸などとてもできないと思っていたのに、海保が全然何もしてこないから上陸できた」
と語ったそうです。
さらに、
「活動家たちはレンガを投げてきたが、当たらなかったから公務執行妨害にもあたらない」
という判断で日本政府は彼らを(表向き)強制送還、実は凱旋帰国させました。

しかも、テロ対策上入れてはいけない場所、そして驚くことに
海保の巡視船の上で
わざわざメディア(30社)を入れたうえでのインタビュー
を許したというのです。
当初、日本の関係者は誰ひとりこれを阻止することをせず、自民党の宇都隆史議員が
「これはおかしい」と文句を言って、初めて制止がなされたということです。

先日の予算員会、自民の山谷えり子議員の
「上陸を許したのは野田総理の意図でもあったのか」
と言う質問に対し、逆切れして

「暴言じゃないですか!そんなことをするはず無いじゃないですか!」

と激昂してみせた総理ですが、

「海保は『上陸させるな』と言われれば必ず阻止する力を持っているはず。
政府の基本方針の中に『上陸を何が何でもさせるな』と無かったから上陸を許したのです」

と切り返され、沈黙しました。

どこまで中国の足を舐めるのか、とおそらく国民の心ある有権者は同じことを思っているでしょう。
竹島の件に対し、政府は若干強く出ましたが、それが人気取りになると判断したからに過ぎません。
(しかも、それが人気取りになると判断してからなので、非常に対応が遅かった)
中国にはこうやって相変わらず不可解な配慮を続け、それを突っ込まれると逆切れ、居直り、
それが現政権の外交であるわけです。

山谷議員の
「フィリピンも、ベトナムもインドネシア、ブルネイ、シンガポール、インド、皆困っているんです。
中国が覇権主義的で国際ルールを守らない。
日本は平和主義でアジアのお兄ちゃんとして尊敬されている国であります。
シーレーンの安全を皆で守ろうじゃないかと日本がむしろリーダーシップを取っていくべきです」

と言う発言に対する玄葉外相の「我々はそれをやっている」と言う言葉も空虚に響きました。

今、日本は間違いなく歴史の分岐点に立っていると思います。
今後一年、いや数か月の個々の判断のそれぞれが、
日本の将来の姿を決めると言っても、過言ではないのではないでしょうか。
そのような非常時にこのような政権でいいのか。
このとき、海幕長のお話を聞いた人々の中にも、このような不安が新たに生まれたことでしょう。

昨日参議院で野田総理の問責決議が可決しましたが、賛成の立場で川口順子議員は
「今こんな時に政権が交代するのは望ましくないという意見があるが、それは違う。
今こんな時だからこそ、一刻も早く与党能力の無い政権は去るべきである」と述べました。

わたしも全く同意見です。


さて、この講演で浮き彫りにされた、(ぶっちゃけ)「皆が困っている中国の覇権主義」。
それに対して現状でどのような対応を日本が取っているのか、さらに日米同盟についても、
少し踏み込んだお話が聞けたので、また次回にその話をしたいと思います。








ドラマ「お父さんの花火」(仮題)

2012-08-29 | お出かけ

・・・・などというタイトルをつけてしまいましたが、
ここで創作小話を展開するつもりではありませんので念のため。

先週土曜日の夜、大曲の花火大会を観覧し、色々と思ったことを書いています。

「面白うてやがて哀しき花火かな」

と誰かが詠んだわけではありませんが、この花火大会ほど観るのに苦労を要するイベントは
そうないのではないかと思われます。
会場までたどり着くのにいかに大変な思いをしたかはすでにお話しましたが、
終わってからがまた大変。
70万人の人間が一斉に移動するのですから、河原から一般道に出るまで、
人がまるで団子のようになりながら進んでいきます。
ときどき警察官によって人の波は堰き止められ、オーバーフローになりすぎないように調節
されるのですが、それが絶妙のタイミング。
何度も毎年繰り返すうちに、警備体制や事故防止のためのマニュアルが何度も改善され、
すでに芸術の域にまで達していると言った感がありました。(大げさ)

そのせいなのかどうかはわかりませんが、TOや現地の方に言わせると、今年の終了後移動は
「信じられないくらい楽だった」とのこと。
去年は河原から出るのに40分くらい、駅までの道は時々前が詰まって歩けなくなるくらいで、
今年のようにとりあえず普通の速さで歩けるなどということはなかったそうです。

ところで冒頭の写真は、我々の団体が「帰りはここで集合」と決めた、花火会館の展示。
普段は何に使われているのかは知りませんが、この日は遅くまで開けて、
カルピスかコーラという究極の選択ではありますが、飲み物も頼むことができます。
いかにも近所のおばちゃんという感じの人たちが忙しく立ち働いていました。

このように花火玉がどのようなものか展示してあったり、疲れきっていて見ませんでしたが、
大曲の花火大会の歴史などもパネル展示していたようです(笑)

 日時を決めたら花火をプライベートに上げてくれるサービス。

これはプロポーズに使えませんか?
彼女に内緒で注文して、デートで河原に誘い、そこでいきなりスターマインの大きな花火を上げ、
「これは指輪の代わりだよ。結婚しよう」とキメ台詞。

「指輪は無いの?花火だけ?信じられない!」

と実利的な彼女にキレられ、花火のように関係も終わってしまった、
というようなことになりさえしなければ。
(注:花火とは別にちゃんと指輪も準備しましょう)

どうでもいい話ですが、エリス中尉はプロポーズのときも婚約指輪をもらっていません。
理由??
「どうせ結婚指輪も要るんだし、指輪キョーミないから要らない」
と、くれると言うのを断ってしまいました。
後から考えると興味のあるなしの問題ではなかったような気もしますが。

指輪と花火なら花火がいいなあ、と思うこんなわたしは少数派でしょうか。



誰かが外で買ってきてくださったシャーベット。
花火アイスというそうです。

ここで約1時間時間をつぶしました。
なぜかというと、新幹線の時間の少し前まで、ホームに人は入れないからです。
大曲の駅前の広場には、看板があり、「11時40分の秋田行きこまち」などと書いてあるので、
そこで列を作って駅員が誘導するまで待たなくてはいけません。
夜とはいえ外で待つのは大変なので、この冷房の利いた室内で待機していたのでした。
このあたりも、毎年来ていて事情をよく知る方の立てた計画ならではです。


さて、花火そのものにもう一度話を戻して。
競技は「規定」と自由演技である「創造花火」の二本立てで行われます。
規定は、これこれこういう大きさで、と決められており、創造花火の方はフリーです。
創造ですから音楽が必ず付けられ、そのタイトルと共に、いかにその花火が芸術的であるかが
競われるのです。

使用された音楽にも定番があるらしく、オペラのアリア、「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」
や、リベラの「彼方の光」、NHKの朝ドラのテーマなどが常連なのだそう。
音楽が鳴りだしたとたん「あ、これ知ってる」と息子が言ったのが、「カーネーション」。
ちなみにタイトルは
「海より深き母の愛~カーネーションに想いを込めて~」
なんですが・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・。


しかし、本当にカーネーションに見えますね。


 野の風に吹かれる可憐な花一輪。

花火というくらいなので、まさに花を模しており、ちゃんと花弁だけでなく茎も表現していますね。



ところで、花火師という仕事には、一流の芸術家に感じるような畏敬を持ってしまうわたしです。
火薬の配合と詰め方によっていかようにもなる花火。
火をつけて打ち上げるまで、どのようなものができたか知るすべはありません。
技術もさることながら、プログラムの構成、アイデア、選曲のセンスを始め、
曲にいかにぴたりと合わせた絶妙の打ち上げができるかのコンピュータ入力のセンスも必要です。
このようなあらゆる芸術的センスを要する総合的なものでありながら、
現場はあくまでも地味で、火薬にまみれて行う危険なものですらある。

しかも精魂こめて作りあげた花火の数々は、人々を感動させながらもあっという間に
夜空に消えていってしまうのです。
音楽であれば残された録音を芸術作品として楽しむ人はいても、花火は、それっきりです。
誰もが打ち上げられた瞬間はひどく感動しても、作品としてそれは評価されるわけではありません。
音と光の魔術に酔いしれる人々も、それを芸術作品として観ているわけではないからです。
花火職人とは言っても、かれらは花火芸術家とかアーティストとか呼ばれることはありません。
キャンドル・ジュンですら「アーティスト」と自ら名乗っているのに・・・(←)

なんと潔い、功を顧みられない、しかしだからこそ英雄的な芸術なのでしょうか。
従って、男の仕事として、ヒロイックで、こんなに絵になる仕事はない、と個人的には思うのです。

ヨーロッパのとある一流ホテル、花火の行われた盛大なイベントの後、
着飾った人々でにぎわうロビーに、一人の日本人が現われた。
すすけて汚れた男の様子に、人々は一瞬眉をしかめたが、ホテルの支配人が
「この方は本日のあの素晴らしい花火を上げた芸術家です」
と日本人を紹介すると、皆一斉に盛大な拍手を送った・・・。

という話が好きです。



帰りの羽田行きの飛行機。
隣の席にいかにもマスコミ、しかもテレビ関係の仕事をしている、という雰囲気の男性がいました。
わたしはこの人の履いていた7センチは底があるのではないかと思われるシークレットシューズ
(スニーカータイプ・白・合皮・中国製・19800円)
をぼーっと見ながら「カツラとかシークレットシューズって、やはり分かってしまうものだなあ」
などと、感心していたのですが、そのうち彼がおもむろにノートを広げだしたので、
彼がどうやら脚本家であるらしいと見当をつけました。

「なぜこんな花火帰りの客の中でこの人は仕事をしているのか」

などと考えていて、こんなことが思い浮かびました。

男性は「お父さんの花火」(仮題)という、テレビドラマの脚本を任されていて、
それはシノプシスまですでに出来上がっているのではないだろうか。

(内容)
ドラマの舞台は秋田で、一家の父は花火師。
大曲の花火大会に、弱小花火工房を率いて、少ない予算で挑む。
もう仕事も無く、つぶれる寸前の花火会社。
花火師は、総理大臣賞を取れば、次の年の栄達が約束されるこの大会に勝てなければ
会社をたたみ花火師をやめるという決意をする。
「しかし、優勝できたら、帰ってきてくれるか」
花火師は別居中の妻にも懇願する。
夢ばかり追って一流会社の就職を蹴り、花火職人になった夫を、妻は理解しようと努めるが、
子供(男の子)を連れて実家に帰ってしまったのだった。
妻は答える。
「あなたが花火師をやめてもっと堅実な仕事についてくれるならもう一回やり直しましょう」

彼の工房は優勝を逃す。

男は花火師をやめる決意をし、最後に、工房に残った全ての火薬を使って一世一代の花火を、
家族だけのために上げるのだった。
彼の息子はそれを見て叫ぶ。

「お父さん、カッコいいよ!僕、大きくなったら花火師になる!」

狼狽する妻の顔を、夜空の花火が照らし出す。

そのころ、日本の大曲からシリコンバレーに帰ったばかりの世界的IT企業の大物が、
彼に連絡を取ろうとしていた。
「マップル・ソフト」の創始者スティーブ・ゲイツは彼に打つメールの内容を秘書に告げる。

「わが社の新機軸となる新作製品の発表イベントにあなたの花火をフューチャーしたい。
至急連絡が欲しい」

そんなこととは夢にも知らない男は、家族のためだけに彼の最後の仕事にになるはずの
花火を打ち上げ、火薬にまみれた手で妻子を抱きしめるのだった。



・・・うわー、おもしろくなさそう。
しかし、実際に大曲の花火を見ないと、ディティールが全く書けないんだよ俺は!
ということで、この脚本家は製作費から大曲行きのチケットを手に入れ、ついでに、
中継をしているNHKのクルー席からちゃっかり花火を見物した帰りなのではないでしょうか。


さて、花火が全終了して打ち止めになったとき、去年は無かった趣向として、
対岸にいる全花火師が、赤いライトを振って観客に「カーテンコール」をしました。
対岸に切れ目なく並ぶライトの数は、あらためてこれだけたくさんの花火師が、
今日の宴を演出していたのだと驚かされるほどでした。

「花火師たちに拍手をお願いします!」
「それではお手持ちのライトを花火師たちに振って健闘を讃えていただければと思います!」

いちいちアナウンス通り、素直に行動する観客たち。

 携帯やペンライトを振る観客。

運営委員会によってこういうアイディアが毎年協議され、毎年いろんなイベントが添加されて、
大曲の花火大会はどんどん巨大な『ショー』になりつつあるようです。
花火師たちに敬意を払うような演出、勿論大賛成ですが、

「菊作り 菊見るときは ただの人」

この句に見えるような「職人の精神」もまた、日本らしくて粋だと思うんですけどね。





花火大会で名刺交換する人達

2012-08-28 | お出かけ

大曲花火大会観覧記、第二弾です。
夢の話と花火の映像画像ほど、実際見ていない者にとってどうでもいい物事は
世の中にあるまいと思いますが、カール・ツァイスレンズ搭載のカメラで撮った花火の写真を
淡々とあげつつ、語ってみようと思います。

ところで、花火の写真って難しいですよね。
先代のカメラでは「花火モード」にしてもなお、花火らしきものすら撮れた記憶がございません。
なんでも、花火を撮るモードというのはシャッターが4秒前後開く設定になっているそうで、
三脚も使わずに手で構えて写真を撮ること自体かなり「無謀」なのだとか。
この事実を、花火大会から帰ってきて知った時の脱力感は大変なものでした。
何と言ってもカール・ツァイスのレンズですから、何もしなくてもちゃんとした写真が撮れるはず、
だったのですが、何百枚と撮ったうち、手ぶれのないのはごくわずか。
そりゃそうだ、あまりにも花火が近すぎて、上を見上げていたら首が痛くなったため、
早い時点で升席のシートに寝たままシャッターを切ったりしていたのですから。

 

その中でも「まあまあこれは許せる」という画像も、煙がかかってしまったものが多数。
実はご招待下さった地元の方によると、今年は「風が無さ過ぎた」ということです。
勿論風が強いと駄目ですが、花火は打ち上げた後、煙が風で消えてくれないとダメなんですね。
この大会は競技会でもあるので、参加者にとっては大変な問題です。

特に、スポンサー花火はこれでもかと派手な玉が上げられますから、終わった後空は煙で真っ白。
その中地味な競技の規定花火を上げる花火師さんはなかなか辛いものがあります。
この順番はくじで決まるそうですが、「スポンサーの後は秋田の花火師」と決まっているのだとか。

 (これも煙で残念)

さて、この日の70万人の見物客、そのうち、最前列の灰かぶりならぬ、言わば
「消しズミ被り席」の、さらにど真ん中。
それがエリス中尉の見学した升席でした。
そして、それが花火大会に大口スポンサーとして出資している某企業の関係者席であることも、
昨日説明させていただきました。

何らかの形で出資している企業団体個人は数あれど、文句なしに最前列の升席を陣取れるのは、
つまり何百万というお金を「スポンサー花火」に出資した企業団体だけです。

 なんかルドンの絵みたいですね。

スポンサー花火は全部で9部。
納豆のヤマダフーズ、NTTドコモ、秋田魁新聞社、コカコーラボトリング、JA、東北電力などなど。

いずれも地場の、力を持つ企業ばかりです。
それらがだいたい二社で一つのプログラムをスポンサードするのですが、
コンテスト参加の制限ありの花火と違ってスポンサー花火は何しろ豪勢です。

エリス中尉のチーム?である団体は、その中でも特別のプログラムに出資しており、
去年の最優秀賞である内閣総理大臣賞を受賞した花火師が手掛けました。
無粋ではありますが、興味がある方のためにこっそりお教えすると、
このお値段は二団体が各々300万円ずつ、合計600万円也のプログラムだそうです。
おそらく、スポンサー花火のなかでも最も高額の出資だったのではないでしょうか。



わずか数分で消しズミとなる花火に600万円。
もったいないと言えばもったいないですが、粋と言えばこんな粋なお金使い方もないわけで。
一瞬にして夜空に咲く花は皆の感動と賞賛を集め、何も残さず消えてしまうのですから。

      

せっかくまともな写真が撮れても、わたしの座っていた席の上空には一本の太い線が貼られ、
時々画像にそれが入ってきてしまっています。

我々の隣の升席に、三々五々人が集まりだしました。
「どうもどうも」が始まったのでそちらをみると、升席の中で皆立ち上がり、名刺交換しています。

「日本だなあ~」

花火大会の升席で初対面の同じ会社の社員同士が名刺交換。
あまりにも日本的な光景に、思わず目頭が熱くなりました。(←嘘)




さて、隣で盛んに名刺交換をしていた団体ですが、やはりスポンサー花火をあげた大企業で、
アナウンスがその会社の名前を読んだとたん

「うおおおおおおー!」

と皆が大盛り上がり。
またそこの花火が無茶苦茶派手なんだ。
コンテスト参加チームの中には「あまりお金がかけられなかったのかなあ」
と思わず台所事情までを心配してしまうような節約したものがありましたが、
これが大東亜戦争における我が日本とすれば、この企業のそれはまるでアメリカ軍。
(喩えが悪いかな)
これでもかと大型花火の連続で、クライマックスには花火が多すぎて何が何だか、
みたいなことになってしまっていました。
しかし、何はともあれ圧倒的な物量作戦に観衆は大うけ。
そして、隣の升席はもう興奮のるつぼ。
終わってからもう一度会社名をコールするのですが、皆で

「ド・○・モ!ド・○・モ!ド・○・モ!ド・○・モ!」

我々もそちらに向かってエールを送り、我々のスポンサー花火のときには

「いえええ~ぃ!」

因みに我々の団体は三文字の名前でもコールするほど有名でもなかったので、これだけです。
さすればそれを聞いた隣の席からこっちに向かって

「いえーぃ!」

と拍手とエールが送られ、ちょっとした親睦的な交歓会の様相を呈しています。
ジャパニーズ・ビジネスマンたちの所属団体への帰属意識と忠誠のアツさは、
2012年現在も健在である、と胸が熱くなりました。(←わりと本当)



これなど、手ブレだけが問題の「惜しい写真」なのですが、意匠としてイケてません?
花火の写真としてはダメですが。
まるでデュエル・マスターズのカードの
「地獄の邪眼ゴーゴン」(仮名)みたいです。

さて、戦いすんで夜が明けて。
我々のホテルはJRの秋田に近いシティホテルだったのですが、朝食を取りに現われた人々、
どの人もこの人も互いに仕事モードでお互いに挨拶を交わしています。

うーむ。
日本では花火大会は「仕事」なんですね。

例えばリオのカーニバル、リオの人々はどんな貧しい人々もその一日のために晴れ着を作り、
後は「死んで暮らす」(という歌の歌詞があった)というほどの文字通り「ハレ」の祭なのだそうですが、
この祭りにブラジルの大企業が公にも私にもかかわって、スポンサーには特別待遇があり、
会社ぐるみでお得意を接待したりするなんて話はあるのでしょうか。

ブラジル人に聞いたわけではないので断言はしませんが、無いのではないでしょうか。

この大曲の花火大会が始まったのは、前回も言いましたが明治20年。
当然のことながら最初は競技会などではなく、地元の花火師だけの間で打ち上げは行われ、
せいぜい歩いていける距離の村民が楽しみにしていたくらいの規模だったでしょう。
回を重ねるにつれだんだん評判が評判を呼んで観客が増えてきたのでしょうが、
それでも今日のような企業団体の宣伝や接待に使われるような形とはほど遠かったはず。

勿論、花火師に払われる報酬は寄付などで賄われたからには、それなりの
「特権階級」もいたのでしょうが、升席に座れたり、前列に陣取ったり、ということが
「個人では不可能」というような弱肉強食の現状とまではいかなかったのではないでしょうか。

誤解の無いように申し上げておきますが、わたしはこのような日本の体質、風潮に対し、
苦言を呈したり、嘆息したりするつもりは全くございません。
その大企業のご威光の恩恵に溺れるくらい浴して特等席で見物したエリス中尉には勿論、
そんなことを言う資格もありはしません。

ただ、昔々、近所の人々が浴衣姿でうちわを片手に三々五々集まってきて、
適当にそのあたりの草むらに座って見物したような花火大会は、
もう今後この国では行われないのかなあと思うと、何やら少し残念な気がするだけでございます。





大曲花火大会に行った

2012-08-27 | お出かけ

アメリカから帰ってきてその足で元海上幕僚長に会うために西日本へ日帰りし、
その週末の飛行機で秋田空港まで飛ぶという、遊説中の政治家のようなハードスケジュールです。

大曲(おおまがり)の花火大会に行ってまいりました。

ご存じの方はご存じだと思いますが、この花火大会は国内最大級の規模で行われる花火師達の
「競技会」で、正式名は「全国花火競技大会」と言います。
褒章は内閣総理大臣賞の最優勝賞はじめ、秋田県知事賞、官公庁長官賞など14あります。

この大会で賞を取ることは、次の年の仕事の受注、いかに大きな花火大会からのオファーがくるか、
そういった「営業」にかかわってきますから、花火師たちは皆真剣です。

この季節は全国各地で花火大会が行われるのですが、例えば隅田川の花火大会、
こういう有名な大会とバッティングした場合、花火師さんはどうするか。

何と、弟子が隅田川に行き、親方がこちらを手掛けるのだそうです。

去年、わたしと息子がアメリカにいる間、TOがご招待でこの花火大会に行ってまいりました。
あまりのすごさに感激し、是非愛する妻子に一目これを見せてやりたい!ということで、
このたびの参加と相成ったわけでございます。

海外から帰ってきて荷ほどきもまだ全く進んでいない先週末、我々は羽田に向かいました。
いつもそうするように、一泊空港駐車場に車を停めるつもりで・・・・・。

と こ ろ が !

これも先週末羽田を利用した方ならご存知でしょうが、どういうわけか駐車場が、
第一第二ターミナル、周辺民間駐車場、

全て満車であるうえ、順番待ちの車の列が

それぞれの駐車場に120分の待ち時間

でできていたのでございます。

飛行機の搭乗ゲート締め切りまで一時間。
迷ったり考えている時間はすでにありません。
わたしはきっぱりと二人にこう告げました。

「急いで二人とも降りて、予約の便に乗って!
わたしは家に車を置いて、タクシーで空港まで来るから、その間に秋田行きの便を押さえて」

元々の便に乗ることはあきらめ、この混乱で必ず出るはずの空席を押さえてしまう作戦です。

ことを起こしたのが早かったのが幸いし、わたしが家に向かっている途中に一時間遅れの便が
取れたという連絡が入りました。

そして往復して帰って来た時には搭乗締め切り5分前。
まさに綱渡りのスリルで、何とか秋田に到着することができたのです。



「花火大会の6時にさえ間に合えば何時でもよかったんじゃないの」
とわたしも最初はそう思っていました。
しかし、もしこの便が取れなければ、わたしは大曲に近づくことすらできなかった、ということが
後になって分かったのでした。

 

この日の秋田便は満席。
秋田の人らしいカップルが
「どうしてこんなに今日混んでるの」「花火」「ああ~」という会話を機内でしていましたが、
この花火を見るために全国から七十万人の見物客が訪れるのですから。
JRは秋田から臨時新幹線を何本か出し、改札省略などの配慮をするなどの対応に努めます。

つまり、飛行機が遅れることによって予約していたこの「こまち」に乗ることができなくなり、
しかも人口九万人の小さな町に七十万人以上が押し掛けるのですから、
当然秋田自動車道も早朝から大渋滞、周辺は通行止め。
「新幹線が駄目ならタクシーで」などという代替法が無いため、現地に辿りつくことすらできません。

というわけで、間一髪、家族の中でわたし一人が秋田のホテルでテレビの中継を観るという
悲劇は防がれたのですが、あの日実は駐車場の混雑で羽田はパニックが起こっていたようです。

帰りのタクシーで運転手さんから聞いたのですが、空港から離れて高速を降りたところで、
駅前のタクシーに声を掛け、先導してもらってコインパーキングまで行き、
車からタクシーに乗り換えて空港まで行った人がいたそうです。

一泊後羽田に帰ってきて、空港からそのパーキングまで運転手さんのタクシーに乗ったその人は
「(そこのパーキングは)一日最大料金が無いので、おそらく駐車料金は数万かかると思う」
と言いながらこわごわ車を取りに行ったとか。

運転手さんは切羽詰まって路上に乗り捨てられた車も見たそうです。
たとえ駐車禁止を貼られて車をレッカー移動されたとしても、何万円かで済めば恩の字、
と思ったのでしょうか。
しかし、その車に貼られていたのは駐車禁止ではなく「放置車両」の警告だったそうです。
多分わたしはすることもないと思うので調べていませんが、罰金も点数も高いはず。
そして「多分交通裁判所行きになると思う」(運転手さん談)

しかし、わたしも何度となく駐車場を利用してきましたが、このような事態を見たのは初めて。
もしかしてこの大曲の花火大会に主な原因があったのでは?とも思ったのですが、
どうでしょうか。

というほど民族大移動レベルの人の移動があることでも有名なのです。
何しろ、一年のこの一日のためにこの街には「花火の街」という呼称が与えられているそうで、
はっきり言って普段他には「何もない」町なのですから、現地も狂乱状態です。



花火会場の河原に向かって群れをなす人の波。
言うほどじゃないじゃないか、って?
いえいえ、道はここだけではありませんし、河原に近付くにつれて普通の速さで歩けなくなります。
駅前には、ビジネスホテルが一軒あるのですが、この花火大会の夜、一室の料金は
なんと10万円に跳ね上がるそうです。
(普段はおそらく1万円とかでしょう)
そして、来年の予約はもうほぼ満室なのだとか。
これはこの大曲のホテルだけではなく、秋田のホテルは軒並み旅行代理店と例年訪れる
熱心なファン、関係者によって1年前から押さえられてしまうのです。



そしてこの日の暑かったこと!
秋田県というのは東北で雪も積もるのに、夏は関東並みに暑いのです。
夏の間湿度の低い地域で楽な想いをしてきただけに、応えました。



しかし、河原にはすでにこれだけの人々が。
この、地面にシートを敷いている見物客は、早い人で一週間くらい前からテントを張り、
(そういう人達向けにテントを張らせてくれるスペースがある)泊りこみで場所を取ります。
前日深夜は勿論、2,3日前でないとこれくらい前列には場所が取れないのです。

 

観覧席前列、この板の敷いてある「升席」は有料です。
興味を持った方のためにお知らせしておくと、一マスの値段が六万円。
一マスに付き6人しか座ることはできません。

 升席客の証明カード。

このカードが首から下げられていないと、途中にある検問所を通ることができません。
しかし、この升席証明書は「プラチナ・カード」なのです。
6万円の席はまず大型スポンサーの企業優先で売れていき、残りは抽選です。
しかも、このAの11006は最前列のど真ん中。
前には誰もいない席。

なぜエリス中尉ごときがこんな特等席で花火見学をすることになったかというと、
それはひとえにご招待下さった方のお力。
というか、ご招待下さったかたが常務取締役をしている会社が、大スポンサーで、
特別花火のために巨額の出資をしていたための大優遇だったというわけです。



早くから席についている人に向けて、日没前の5時から昼花火が行われます。
昼に花火、確かにあまり見ていて面白いものではありませんが、このような感じです。



「彩色煙流の舞」「昇煙竜ドラゴン変革の舞」
こういう、何と言うか「デュエルマスターズのカードに書いているような(息子談)文句」のような、
ある意味ヤンキーっぽいタイトルが付けられています。

 「夕空に水墨画アート」。

昼なのでいっそ開き直って?黒煙で勝負する花火師さんもいました。

 ようやく山の向こうに陽が沈みます。

山のふもとに光を反射しているのは、これ全て川向うの花火師さん達のトラックの背中。
この頃もずっと大音響でBGMが流されていたのですが、「誰の選曲?」と思ったのが、
ベンチャーズ。
ベンチャーズですよ。2012年現在において。
勿論、マイケルジャクソンなんかも流れてはいましたし、このために作られた

「まいあがれ~ おおまがり~」

というテーマソング(覚えてしまって帰ってから歌ったら『人間録音機』と言われた・・・・)もあり、
演歌歌手の「秋田の名産をすべて盛り込んだらしいご当地ソング」もあり。
そしてようやく6時、大会開始。




勿論大会委員長やら商工会議所挨拶はがまんしますが、
大音響で花火と花火の間に「どこそこに座るな」「ゴミは分別して」「トイレはどこ」
などの小うるさい注意事項を何度も何度も繰り返すのにはさすがにうんざりしました。
日本人って、「ブランク・フォビア」だなあって思うのがこんなとき。

どうして煙が消えるのを待つ間くらい音を無くして余韻を味あわせてくれないのか。
周りの人々も「また同じ注意」「もうわかったって」
と笑いの種にしているんですが、きっと100年後の大曲でも同じようなことやってるんだろうな。
なぜって、それが日本人だから(笑)




この花火大会、明治20年から行われています。
勿論戦争、災害のあった年を除き毎年行われ、今大会が86回目。

去年の震災後、わずか半年後でしたが、大会は行われました。
前年この花火を観に来て、震災で被災し、それが最後になってしまった東北の人々は
おそらく千人単位でおられたのではないかと察せられます。

勿論一部自粛という意見もあったでしょうが、その一日に向かって邁進する花火師たち、
その日のために動いている数え切れない関係企業や団体にとって中止はあり得ないことですし、
大会はいつもと変わらず、むしろいつもより思い入れを込めてに決行されたものと思われます。

テーマは「鎮魂」であったそうです。


スタンフォードのITキャンプ

2012-08-26 | アメリカ

例年サンフランシスコに滞在して、一カ息子を現地サマーキャンプに参加させてきたのですが、
今年は、ここ何年か利用してきた「レゴ・マインドストーム・キャンプ」がなぜか縮小になり、
上手く一カ月が埋まりませんでした。

いつもは三週間レゴキャンプ、一週間だけ科学博物館「エクスプロラトリウム」のサイエンスキャンプ、
という感じで割り振ってきたのですが、今年は思い切って別のキャンプを探すことに。

そして見つけたのが、スタンフォード大学の構内で行われているITキャンプ。
何もかも初めてのところではありますが、内容も充実しています。
因みに息子の選択したコースは

一週目・・・・・Programming in Java
二週目・・・・・FPS Game Design-Unreal development Kit
三週目・・・・・Autodesk Maya 3D-Modeling & Animation
四週目・・・・・3D Game Moddeling -Portal 2 & Half-life


何のことやらわたしにはさっぱりわかりませんが、息子とTOが一緒に決めたもので、
ボストンにいるときから息子は「早く始まらないかなあ」と首を長くして待っていました。

スタンフォード構内は広大なので、どこでキャンプが行われるか、どこでドロップオフ(車で落とす)
かについては前の週にメールが来ていたのですが、前日に現地に行って確かめておきました。



車が停められるところがサイン・アップ会場です。
左のデスクで名前を確認し、右にいって自分の名前の書かれたIDカードを受け取ります。
到着したキャンパーが数人たまるたびにカウンセラー(指導係)が、教室に連れていきます。



ネームの他に付いている小さいタグは、スタンフォード大学の学食での食事用。
ランチ代金は申し込んであるので、カフェテリアでこれを「ぴっ」とすれば好きなだけ食べられます。
初日、帰ってきて「ランチ、すごくおいしかった!」と感激していました。
うーん、さすがはスタンフォード。
カルテックと並ぶ西海岸の雄。って、なにが?

 フーバータワー。

ハーバードとはまた違う色合いですが、キャンパスには名門校の風格があります。



この向こうはカフェテリアですが、パンダエクスプレス、スターバックス、サブウェイなど、
おなじみのチェーン店が入っています。
学生より、もしかしたら外部からの人間の方が多いのではないかという賑わいです。


キャンプは4時ごろ終了し、4時半から5時の間にピックアップが始まります。
車でパーキングの入り口に行くと、名簿を持ったカウンセラーが名前を確認。
このとき、迎えに行く者は、あらかじめ決めておいたパスワードを言わなくてはいけません。

お迎えを待つキャンパーたち。

ボストンのキャンプでは、前もって学校から配られた紙にキャンパーの名前を書き、
それを車のダッシュボードに置いたまま進むと、カウンセラーが外から名前を読んで、
インカムかあるいは大声で該当者を呼び出してくれると言うシステム。

いずれも「誘拐」ということが起こる可能性についての対策であるわけです。
迎えに来たものが車から降りることは厳に禁じられていますが、
時々車から降りて勝手に迎えに行く親がいるんですよねー。

さて、キャンプは月曜日に始まって金曜日に終わりますが、金曜日は
「Showcase」という発表会が行われます。
と言っても、いつも4時に終わるキャンプが1時に終わり、保護者が迎えに行くついでに、
その週彼らがどんなことをしたのか、本人の説明を聞いて、ディプロマを授与され、終了。

 

車を誘導されて停めたら、受付に行きます。



受付でこのようなタグと色のついた紙をもらいます。
タグは車のダッシュボードに置く駐車許可票。
オレンジの紙は、キャンパーがどこで発表会を行うかの道案内になります。

 

このように道端にいろんな色の旗が立っているので、自分の持っているカードの色の旗を
辿っていくと、息子の発表教室に行けるという仕組み。



キャンパスを歩いていくわけですから、そこには大学ならでの光景も。



担当教授につかまって熱弁を聞かされている学生A。
いかにも「早く終わらないかなあ」みたいな空気が見ているこちらにも伝わってくるのですが、



教授は身ぶり手ぶりも熱心に、学生に語り続けます。
「ああ、こんな先生、いたなあ・・・・」
ふと教授の一方的な独演に相槌を打つのが大変だった学生時代を思い出しました。



さて、そんなキャンパスを抜けていくと、キャンパーとカウンセラーが集合しています。



これは、セッション最後の日のセレモニー。
この人がこのキャンプのディレクターです。
話の間はみな適当な態度で聴いています。



寝ている人もあり。
日本と違ってここではお行儀の悪いのは普通です。
いろいろと無意味に健闘をたたえたあと、セレモニーの一環として、

 

恒例の「下剋上タイム」があります。
アメリカ人はこういうのが好きで、TOのいた東部の大学でも、ビンゴ大会の賞品の一つが
「教授の顔にパイを投げる権利」
というのがあり、人気だったという話を聞いて驚いたことがあります。



この日はキャンパーが、なんだかんだと理由をつけてカウンセラーに「仕返し」する日。
やはりこのキャンプもビンゴ大会の賞品としてこういうことができるそうです。
上のように「ムース塗りたくり」の刑もあれば



お約束、頭からバケツの水ぶっかけの刑も。

それから教室に入り、キャンパーの発表を聞きます。



うちのようにわたしだけが見学者というのもあれば、ここのように、
おばあちゃん、お父さん、お母さん、弟、妹総出で見学する家族もあり。
なんか全然分かっていなさそうなのにいちばん熱心そうなおばあちゃんがかわいい・・・。



息子のプログラミングしたものを見学。
あまりちゃんと説明してくれないので、何がどうなっているのかさっぱり分からず。
まあこういうゲームであることだけはわかりました。

 

それが終わると、ディプロマ授与式。
その週のカウンセラーの周りに皆で外に出て集まり、一人一人賞状授与。
賞状にはカウンセラーの一人一人に対する評価と激励が数行くらい書かれています。

「今週のクラスで君は素晴らしい成果を出したね!
君の作ったランドスケープをちょっと見ただけで、僕にはすぐさま君が植林や地形の製作に
大変な時間と労力をかけたことがわかったよ。
だって、その効果はすごかった。息をのむような世界を作り上げることができたんだからね!
これからもこの調子でやれば、君はUDKエディターとして素晴らしいレベルをキープできるよ!
じゃ、よい夏を! アレックス」

こんな感じです。

そして解散となるのですが、画像をご覧のように、夏の昼間、スタンフォードは暑い。

 何となくサービス画像。
暑いので噴水に入っちゃった人。

そこでみんな、構内のジュース専門店「ジャンバ・ジュース」につい立ち寄ります。



キャンプの黒いTシャツは、毎週金曜日にもらえます。
つまり同じシャツが4枚たまってしまう予定。
同じキャンプの人がなだれ込むようにジュース屋さんに並び、遂に外にまで列が。
中は勿論芋の子洗う状態で大混雑です。



スイカのジュースがとても美味しかった!



なんと、ジャズのキャンプもあります。
先週は一週間だけ、スズキ・メソッドのキャンプもあったようで、
そこここに小さなチェロやバイオリンを抱えた子供や、先生らしき人を見かけました。

アメリカのキャンプはそれ自体が「商売」なので、いろんな業者がいろんな専門を打ち立て、
いろんなところで開催しています。
だいたい単位は一週間(5日間)なので、旅行ついでに参加することも可能。

英語が少ししゃべれる子供なら、野球やバスケットボール、音楽のキャンプも。
お子さんの得意な分野で現地のキャンプに参加させるというのも、いいかもしれません。

因みに、息子によると週一回、必ずキャンプでは地震の避難訓練をするそうです。
カウンセラーがいきなりジャンプしたり暴れまわったりして
「じしんだー!」
と叫ぶと、地震が来た、ということなので、皆避難経路を退出するのですが、
息子によるとノリノリのカウンセラーとは対照的に、キャンパーたちは
「皆、あー、はいはい、めんどくせーなって感じ」なのだそうです。

ITキャンプに来るようなお子たちは皆こんななんでしょうか・・・・。









 


元海幕長とお会いした

2012-08-25 | 自衛隊

海上自衛隊4万5千人のトップに立つ16人の海将、さらにその頂点に立つのが海将たる幕僚長。
帝国海軍で申し上げると海軍大将です。
その海幕長に拝謁を受け談笑をしさらに隣の席でお食事をするという光栄に恵まれたエリス中尉です。

求めよさらば与えられん。引き寄せの法則。あんなこといいなできたらいいな。
色々申しますが、「そうなればいいな」と思っていることはあまり度はずれなものでない限り、
必ず叶うものだと今回またもや実感いたしました。

写真の元海幕長は、つい最近までその職にあられた方で、退職後は製鉄会社の顧問として、
また、元海自トップとして社会に講演等を通じて発信をするなどの活躍をなさっている方です。

今回、たくさんの方の繋がりから信じられないほどのご縁をいただき、この方のお話を伺い、
さらに親しく懇談するという栄誉に浴して参りました。

これをここでお話せずにはいられましょうか。

 

サンフランシスコを発った日、空港の太平洋側は厚い雲で覆われていました。
上空で撮った雲海の写真。
本題とは全く関係ないのですが、まるで波のような雲をお見せしたくて。



そしてお盆の海外旅行ラッシュもまだまだ続く羽田空港に降り立ったエリス中尉です。
飛行機から一歩外に出るなりまといつくような湿気を含む空気にげんなりし、
さらにカートでエレベーターに乗るのも列を作らなければならない人の多さにうんざり。
(しかし、あんな状況でも皆譲り合ったりする民度。日本に帰ってきたことを二重に実感しました)

一日でも長く快適なロスアルトスで、リスを撮りながら暮らしていたいのは山々でしたが、
どうしても帰らなければならない用事というものが日本でわたしを待っていたのでございます。
それがこの元提督との懇談会。
帰国の翌日、新幹線で西日本のとある地方都市に向かいました。
新幹線駅にあるホテルがその会場です。

実は休職中と言いながらエリス中尉、ときどき仕事をしています。
といっても昔の仕事関係や知り合いからの依頼といった特殊な場合に限りですが。
今回のクライアントは元々TOの知り合いです。
その方が提督を囲む会の企画立案をされていたわけですが、
それになぜエリス中尉が参加することになったのか。

きっかけはTOの携帯を偶然その方が見たことでした。
先日わたしはは3度目、TOは最初となる、江田島の術科学校、旧兵学校見学訪問のとき、
かねてから「五省」の文言に感服していたTOは、売店でお土産にこのシールを購入して、
それを携帯電話に貼っていたのです。

その方は目ざとく「五省」を見つけました。
なぜかというに、その方も大変な海軍、海自ファンだったのです。

「どうしてそのようなものを携帯に貼っておられるのですか?」

何も知らなければ目にも留めない五省、もし知り合ったばかりの人の携帯にこれが貼ってあったら、
わたしでも同じことを聴くでしょう。

「いや実は私の連れ合い(←エリス中尉)がですね」

海軍ファンのその方はとたんにTOに向かって熱心に色々と話をなさったのですが、
驚いたことにTOは、
「いやー、話がはずみますね!」
と向こう様が感激するくらいには話を合わせることができた、というのです。

「こういうのも門前の小僧、ってやつかなあ」
「・・・ふっ」
「え、何?なんか可笑しい?」
「日本軍に空軍は無かったのかとか聞いていたのにね~、昔は」
「あ、あれは」

とはいえわたしだって威張る相手はせいぜいTOくらい、というレベルの賎学の身であることは
いつも自覚しております。
下には下がいる、つまりそういうことでございます。

何しろそのような「同好の志」のよしみでお仕事をいただき、さらに「興味がおありでしたら」
と、ご自分が企画された元海幕長の講演会に誘ってくださったのです。
深夜帰国して次の日新幹線で西日本まで日帰り、深夜帰宅。
こんなハードなスケジュール、もしこれが元は元でも
「菅元総理のお話を聞いてお食事」とかであったら、
「何か一言言ってやるために出席してやってもいいけど、やっぱりしんどいからパス」
と言下に言い放つでしょう。


というわけで、ホテルの宴会場に早く到着し、その方と仕事の打ち合わせを行い、
それがすんだ頃、まず元海幕長の講演会が始まりました。



演題は「中国の海洋進出と我が国の対応」。
主催の方が「まさに今、時を得た演題であろうかと思われます」と挨拶されました。

内容についてはまたこれ以降くわしくアップしたいと思っていますので、割愛します。
まずお話したいのが、海上幕僚長という職にあった方についての印象です。

海幕長ともなると公人ですから、ウィキペディアに経歴は勿論顔写真も掲載されています。
この方は2008年から2010年の夏までの二年間、海上幕僚長の職にあられました。
以前、護衛艦「さざなみ」に乗艦したとき、その感想の中で、海自の出世について書いたことを
ここに今一度掲載いたします。

二佐には幹部自衛官は全員昇進しますが、一佐になれるのは同期のうち半分弱。
すでにここで半分がふるい落とされます。
そして、海将補、旧軍の少将になれるのはクラスの数人のみ。
つまり旧軍で言うところの「恩賜の短剣組」くらいしか海将補になれない、ということです。

そして海将、旧軍の中将も、昔と同じくここまでいけるのはその中でも一握り。
何しろ海上自衛隊全体(4万5千人)の中で海将は16人しかいないのです。

そして、海幕長たる海将はその中のたった一人。
これほどの激戦を勝ち抜いてきてその座についた人物です。
きっと武人としての気迫、将器を体現するようなただならぬ威容を湛えているに違いない。

・・・とまで大仰なことを思ったわけではありませんが(おい)、普通の方でないことだけは確実。
興味深々です。


元提督は皆の拍手の中演壇に上がりました。
背広のせいか、写真に見るよりソフトで柔和な雰囲気です。
しかし、おそらく要請も多く、このような演題で何度か講演をしておられるであろうとはいえ、
途中、主催者が「席にお座りになってください」と声を掛けたのに、最後まで立ったまま、
自分でプロジェクタの映像を変えながら、ポインタを使って現在の国際情勢、
ことに中国との関係について明快で分かりやすい解説で現状を紐解いていかれました。

講演終了後、お食事会へと突入。
何と、主催者の方が、くじ引きで同じテーブルにして下さったうえ(つまりインチキ?)
「いっちゃえいっちゃえ!」とけしかけて真横に座らせて下さったのです。

御挨拶の上、名刺もいただきましたよ! 


検索にかからないように、本文中にはご氏名を書くのを控えておりますが、この方です。
ウィキペディアには、米海軍のアドミラルと共に写っている写真が載っています。
この写真でてっきり小柄な方かと思っていたのですが、大変長身でいらっしゃいました。



JAVAの具合が悪く「お絵かきツール」の顔ぼかし機能が使えないので写真をそのまま使用。
何分小心者なので顔バレしない程度に小さくしておりますが、左、元提督、右、エリス中尉。
携帯の待ち受けに入れておきたいツーショット写真です。(入れませんが)
因みにエリス中尉は身長160センチで、この時は8センチのヒールを履いていますから、
それでこの身長差ということは、提督は180センチ以上ありますね。
ウィキの写真の米海軍組は、いったいどんな巨漢なのだろう・・・・・。

因みにこの写真をご覧になった方はお分かりになると思いますが、2010年当時、提督は60歳。
にも拘わらず、全く緩みのない胴周りのスマートさを見よ!

先日呉で、掃海艇の艦長であった元自衛官の方とお会いしたのですが、その方が
80歳超えでありながらお腹が出ているどころか毎日朝から肉OK、毎日朝からテニスをこなし、
無茶苦茶パワフルな毎日を送っておられたように、自衛官というのは若い時からの鍛錬で
体を動かすのが当然という意識なのでしょうか。
それとも貫録の年齢になってもお腹を出してはいけない決まりでもあるのかしら。

おまけに、元提督はこの年代の方なのに(と言っては失礼ですが)、脚が長い!そして細い!
茶色の背広を着ておられますが、これ、日本人で似合う人は少ないと思います。私見ですが。
すらりとした長身で姿勢が良く銀髪であるので着こなしておられるように思いました。

隣の席でしたからお話もかなりさせていただきましたし、
この方の一挙手一足をさりげなく(というかガン見状態で)観察していたのですが、
感じたことはなんといっても謙虚さを感じさせる控えめなその雰囲気。

幕僚長という役職はいろんな意味で八方を注意深く防御するような慎重さが必要と思われます。
マスコミが手ぐすね引いて自衛隊の落ち度を待っているような我が国において、
平時有事にかかわらず指示発言行動その全てをそつなくこなすだけでも大変な能力が
要求されるような気がします。

この海幕長が就任の初会見で、こんなことがありました。

海幕長は就任の前に起きた不祥事、事故が
「(海自が)新しく生まれ変わるための試金石と言ってもいい」
という発言をしたのですが、記者が「それはイージス艦『あたご』と漁船の衝突事故も含むのか」
と聞き、それに対して「そうだ」と答えたことに、海自の広報室が敏感に反応したのです。
そして「死者の出ている事故が『試金石』だ」というのは問題発言だとし自ら教訓と訂正したのです。
この図式は、どう見ても「叩かれる前に身内がいち早く動いた、ということでしょう。
マスコミのバッシングは押さえられたかもしれませんが、幕僚長の発言を直後に訂正するという
非常に「よろしくない」事態になったことは確かです。

「試金石」はこの場合「事件事故をいかに処理するかが今後の自衛隊のあり方の試金石になる」
という解釈をするならば全く矛盾のない言葉の選択であると思うのですが、
自衛隊自身が、マスコミの「鵜の目鷹の目の言葉狩り」に委縮し、
先んじて新幕僚長をないがしろにするようなことになってしまったとは言えないでしょうか。

思うにこの件の全ての問題は自衛隊というものを取り巻くメディアのあり方からきています。

ついでにいつもの繰りごとになってしまいますが、マスメディアという名の「恣意な権力」を監視し、
指導する公的な第三者機関がこの国には一刻も早く必要なのではないでしょうか。


とにかく、つまりそういうことのあった海幕長、その方が、この方なのでございます。

エリス中尉に一挙手一投足をアツーく監視されたとしてもそれは単なるブログネタ探しの
ミーハー行為に過ぎませんから(たぶん)、全く気にされることは無いでしょうが、
このようなマスコミに一挙手一投足を監視されるのは実に二年の任期中、
終始緊張を強いられることでもあっただろうと、お察し申し上げた次第です。

世が世なら海軍大将と呼ばれる方ですが、軍人というよりむしろ静の面を湛えた物腰、
控えめなもの言い、そしてわたしごときの話にすら深く肯き理解しようとする様子は、
二年間の重責を担う間、防御として身についた職業的なものというよりは、
むしろこの方が生まれ持った本質的なものからきているのではないか、という気がしました。

提督はパイロット出身です。
成績優秀な「大将候補」はフネを勧められる、というのは昔だけの話だったのでしょうか。

「海上自衛隊に入ったのに、フネに弱かったので飛行機乗りになりました」

これが空に進んだ理由ですが、どんなにフネに弱くても、一週間船酔いしまくって、
体の中から何も無くなってしまうような地獄を経験すれば、どんな人間も慣れてしまうもの。
提督もそのようにおっしゃっていましたし、「それだけではありませんが」と断ってもおられました。

「あれは講演用の、言わば掴みというものだと思う」
TOに言うと、
「じゃ本当の理由はなんだったんだろう」

そりゃあ勿論、空に憧れたからに決まってるじゃないですか。



この日講演で提督から聞いた中国の海洋進出の現実問題について、
また別の日にまとめてお話したいと思います。







ナチス映画あれこれ~映画「9日目」

2012-08-24 | 映画

             

最近、イタリアとドイツのナチスものを続けて観ました。
「ゲシュタポ・地獄の追跡 ホロコーストの子供たち」と、
「九日目 ヒトラーに捧げる祈り」です。

本題に入る前にいつもの愚痴ですが、
日本の映画配給会社はもう少し広報のセンスを何とかしていただきたい。

・・・もう・・・お願いしますよ本当に。
「ゲシュタポ地獄の追跡ホロコーストの子供たち」←Hidden Children(隠された子供たち)
「九日目 ヒトラーに捧げる祈り」←Der Neunte Tag(九日目)

「エリート養成機関ナポラ」←Napora Before The Fall(秋になる前)
「マイ・ファーザー 死の天使 アウシュビッツ収容所人体実験医師」
My Father, Rua Alguem 5555(わが父 アルゲム通り5555番地)


「デパ地下の女スペシャル・女王に強力ライバル帝王現る!
畳の下に埋められる三人目の犠牲者?
死んだ子の齢を数える南蛮漬け女と大理石の女神像」

「四重奏・ウェディングドレスは知っていた!
恋人の裏切りに震えるチェロと復讐に涙するヴァイオリンの
不協和音が暴く河口湖の秘密」

「緊急救命病院3・敏腕ナースの昼と夜の顔!
呼吸器切断で露呈した院内犯罪と親友の不倫!
象牙の塔に秘められた白衣の天使の嫉妬心」


先日、「人間魚雷出撃す」でも少しやってみましたが、ご存じ火曜サスペンスのタイトルには、
この三行でストーリーと見どころの全てを語るという崇高な使命とある種の様式美がありますが、
なにも映画でこれをやらなくてもいいと思うんですよ。

「ホロコースト」「収容所」「ナチ」とタイトルと付けないと、内容が一目でわからないので、
苦渋の策としてどれもこれもこんなB級ホラー映画みたいなタイトルをつけてしまうのでしょうが、
それなら、現地ではなぜ「わが父」「九日目」で公開されているの?


この、イタリア映画「地獄の追跡」ですが、
収容所に送り込まれそうな子供たちを大人たちが皆で協力してスイスに逃がした、
という実話ベースの話。
山中でドンパチやっているパルチザンとドイツ軍の間を子供たちの集団が
「ちょっと通りますよ~」と横切り、その間戦闘はどちらからともなくストップ、
最後の一人が行くのを見届けたら、またおもむろに撃ち合いが始まる、というシーンがあるように、
これは決して追跡してくるゲシュタポの非道が描かれているわけでも、
子供たちがメンゲレの犠牲になる地獄の話でもありません。

わたしは戦争映画ウォッチャーを自ら勝手に認じているので、
戦争アクション、戦争ドラマはレジスタンスものやホロコーストもの、みな含めて何でも観ますが、
もしこの映画に、タイトルから想像されるとてつもなく悲惨なものや残酷シーンを期待して
観るような人々にとっては、全くアテ外れの内容ということになります。
公共広告機構に訴えるレベルですね。


ここに一冊の本があります。
この永年傍らにある座右の書のひとつ、岩崎昶著「ヒトラーと映画」(朝日新聞社)は、
アドルフ・ヒトラーという独裁指導者を国の頂点に戴いたそのとき、ドイツの映画人はどうしたか、
そしてドイツ映画そのものがどうなっていったかを歴史の時系列に照らして語ったものです。

それによると―。

ゲッベルスの登場によって、それまでユダヤ人が支配していたドイツ映画界は
曰く「統制ではなく同調」としながらも、労組を解散され、映画法でスタッフの思想調査をされ、
次第に不穏分子を取り除かれて、いつの間にかナチスの統制下に置かれることになります。

ユダヤ人、あるいはユダヤ人とかかわっている映画人はゲッベルスの命で迫害を受けました。
ユダヤ人の連れ合いとの離婚を強制されて自殺した俳優、
夫がユダヤ人ゆえ目をつけられ、ヒトラーへの人身御供にされることを拒んで暗殺された女優。
そしてユダヤ系の監督やプロデューサー、俳優たちの多くが多くがアメリカに亡命しました。

「M」「メトロポリス」フリッツ・ラングもその一人で、この本にはゲッベルスに
「名誉アーリア人として扱うからナチスに協力を」と要請された日、
銀行の閉店に間に合わず、着の身着のままで亡命した様子がスリルたっぷりに描かれています。

しかし、最近の研究によると、ラングが戦後そう言っているだけで、実は彼がゲッベルスに、
映画人として延命の便宜を図ってくれるようにすり寄っていた、という説もあるそうです。

まあ、この出版元がどこであるかを考えれば、ところどころにさりげなく挟まれた

「日本が中国に戦火を注ぎこんでから」
「陛下のおん為にという言葉の呪縛」
「ファシズムの心理的基盤としてもっとも警戒すべきコンフォーミズムが
この日独二つの民族において共通しているのである」

といった、今ならちょっと突っ込まずにはいられない文章も、しごく納得いくものです。
ラングの件もつまりは「ナチスのやることなんでもかんでも悪」という大前提ありきで伝播された
本人の戦後のアリバイ的回想を、英雄的に描写してしまっているだけなのかもしれません。


・・・が、永年読んできた愛着のよしみで、それにもかかわらずこの著者(映画評論家)
の文章は、論旨明晰で読みやすく、実に目にも脳にも快であり、さらに
当時の歴史について実に深く、映画という側面史から述べて秀逸である、と言っておきます。


ところで冒頭画像に描いておきながら全く説明していなかった映画「9日間」について。

これは、ダッハウの収容所に収監されていたルクセンブルグの一司祭が、
ルクセンブルグ大司教に影響を持つことから、九日だけ釈放され、
その間に、司教がナチスへのレジスタンスとして行っている
「ダメ!絶対!ストップ・ザ・ホロコースト!教会の鐘鳴らしません運動」
を何とかやめさせてくれ、とナチ側から橋渡しの依頼を受ける話です。
それを企画立案したSSの若き少尉と、司祭の9日間。
駆け引きと相克、苦悩のこの九日の間に、この二人がお互いを見る目が変遷していく。
そして九日目、何が起きるのか・・。

戦後、あらゆるナチス関連の映画が生まれています。
しかし意外に思われるでしょうが、ドイツ単独で制作されナチスの弾圧について描かれたのは、
先日感想を書いた「白バラの祈り」とこの「九日目」くらいしか見当たらないのです。

「ヒトラー最後の12日間」「ヒトラーの贋札」「エリート容積機関ナポラ」
このうち「ヒトラーの贋札」は弾圧下のて抵抗を描くものですが、他国(墺)との合作です。

ユダヤ人迫害というテーマそのものを扱うことについて何かドイツ国内にも色々あるのか、
ポーランドやオランダ、そして勿論、大量のユダヤ人が今日牛耳っているアメリカ映画が
それを取りあげるばかりです。
(ハリウッド映画で必ずナチが悪者なのも、ユダヤ系映画人が仕切っているためです)


ところで、国内外問わず全てのナチス映画全般に共通する傾向が、SS将校の描き方です。


金髪碧眼長身が重んじられた親衛隊ですから、レベルが高かったのは周知のことと思いますが、
本家ドイツ映画は勿論、やたら男前の親衛隊将校が出てくるのです。
シンドラーのリスト、地獄に堕ちた勇者ども、愛の嵐etc)
重要な役はいわずもがな、チョイ役ならいくらでも観客にサービス、って感じで、この映画も、
画像のSS少尉(アウグスト・ディール)は勿論、最初に出てくる収容所監督のSS将校も、
痩せこけて貧相な囚人の司祭たちと比べて、まるで皮肉のように容姿端麗。

いかにも背徳的な美男が、りゅうとした制服、そしてセクシーな長靴に身を固め、
サディスティックにユダヤ人の生殺与奪を行うわけです。

これは、なんというか・・・・ナチスものの一つのお約束?

「ヒトラーと映画」ではこのあたりについてこのように述べられています。

制服の持つ不可抗的魅惑を知るためには彼がドイツ人でさえあれば十分なのである。

第一次大戦中、ブカブカの伍長勤務上等兵の制服を着せられていたヒトラーが権力を手にし、
突撃隊を組織したとき、まず最初に、しかも最高の熱情をこめてしたことは、制服の制定でした。
後に親衛隊ができると、その制服の「性的魅力」にドイツの女性の多くが夢中になります。

この制服フェチズムのドイツ人の心理を、ヒトラーは自らもそうであるゆえに知りつくしており、
この完璧な制服と、選びに選んだ優れた容姿のアーリア系青年たちへの熱狂は、
そのままナチズムの勃興への熱心な許容にすらなった、と言われています。

ところで「9日目」は、ドキドキハラハラのハリウッド映画や、子供にも分かる安直なテーマを
4畳半の中で展開しているような話の多い日本映画を観た目には、そのオチの無いラストに
がっかりさせられ、かつ宗教をテーマにしているゆえに分かりにくいと感じるでしょう。

しかし、精神的な幼稚さを、最近より一層悪化させているらしい我が日本の映画界と違って、
ドイツ映画界は、自国の負の歴史ですら、より心理的に内省的に描くことに挑んでいます。

ここに描かれたような、異常事態の中に置かれた宗教家の葛藤というテーマの映画など、
おそらく今後も日本では生まれるべくもないでしょう。

ユダヤ人神父クレーマーと、絶滅収容所勤務の経験のあるSS少尉ゲプハルトが、
ユダは裏切り者なのか、或いはイエスが予言を達成することをを実現させた神の協力者なのか、
というテーマについて論争します。
「世界を自分の手で変えるために」司祭になるよりSS隊員になることをを選んだ少尉の、
心の中から拭えない「神への畏れ」を、神父ははこの9日間のうちに見、
また、水一滴のために友を裏切った自分の中にユダをも見るのです。

薄っぺらな善悪の視点からしか、戦争という極限を描くことのできない日本映画関係者は、
この地味な、しかしいぶし銀のような映画の爪の垢でも煎じて飲んでいただきたい。


ドイツは戦後「全ての戦争責任はナチスにあり、我々は騙された被害者である」
という立場を明確にしています。

これは、映画「シンドラーのリスト」で、
鶏泥棒を摘発する為に、並んだ囚人が一人ずつ撃ち殺されていく中、
賢い少年が一歩進み出て「僕は犯人を知っています・・・・彼です!」
と撃たれて死んだ男を指さす、という話を彷彿とさせます。

ナチスを支持したのも、SSの制服に憧れたのも、ヒトラーに熱狂したのも、
そしてユダヤ人に対して持っていた民族的な嫌悪から、実は排斥を歓迎していたのも、
他ならぬドイツ人であったはずなのですが。

岩崎氏の言葉を借りれば同じコンフォーミズム(画一主義)を共通する資質として持ちながら、
ドイツ人と日本人の大きな違いは、こういう理論を打ち立てられる合理性かもしれません。

ドイツが先の「賢い少年」であるならば、日本はさしずめ
「皆が殺されていく罪悪感に耐えかねて一人手を挙げ、隣の男の罪も引き受けてやる気弱な男」
でしょうか。

因みに、ドイツはユダヤ人に対する「人道的な罪」に対し、
それを許容していた立場からの遺憾の意を表しましたが、
戦争をしたことそのものについて謝罪したことは一度たりともありません。



どうやら、そのものずばりのナチス弾圧映画はあまり作りたくない(らしい)ドイツ。
我々には関係ないときっぱり言いつつも、それを選んだのも自分たちであるという自責から、
ナチスはやはりドイツ人にとって「脛に傷」のような扱いなのでしょうか。

にもかかわらず、彼らの描いたものを観る限り、
ドイツ人の「制服愛好」DNAは、実はいまだ健在なりという気がしてなりません。

もっとも、大声では言えませんが、ナチスのビジュアル的な魅力は、
観る者全て(ユダヤ系除く)にとっても、なかなか抗いがたいくらいですから、
それもまたむべなるかなと言ったところでしょう。








リススレ

2012-08-23 | アメリカ

カメラを新しく購入して、毎日の楽しみがまた増えました。
特に今、自然動物の保護区の真っただ中に住んでいるわけですから。
どんな動物に出会えるのか、どんな姿を見せてくれるのか。

最初にスタンフォードのディッシュ・トレイルでリスの可愛らしさに悩殺されたエリス中尉です。
歩いていても、変わったところにいるリスを見つけるとパチリ。
面白い恰好をしているリスを見るとパチリ。

今のカメラになって気が付いたのですが、ズームがかなりできるカメラだと、
被写体を狙うのに、わずか数ミリの手のブレでフレームから外れてしまうんですね。
画像がぐらぐらしてまん中に収まらないので、仕方なく?脇を締めて脚を開いたりしています。
こういうカメラで普通に撮るのにも、いろいろ奥義がありそうだなあ。

それにしても、思いっきりズームして冒頭のような写真が取れると、嬉しいものです。
リスの愛情表現。
勿論撮っているときは分からなかったのですが、リス、なめてますね。顔を。
で、左のリスは小柄で、なんとなく美人って感じがするの。
もしかしてこちらがメス?

今日は、今までに撮ったリスフォルダーを一気に放出。



その前に、ディッシュトレイルをパノラマモードで撮ったものを。
舗装されたトレイルの両側の草地を走り回っています。



リスたちはいつも忙しそうに土を掘っては何かを取ってむしゃむしゃしています。
この写真のリスはこの辺独特の枯れた干し草のような植物を食べていますね。
この草に囲まれた道を歩いていると、本当に干し草の匂いがします。

サンフランシスコからロスアンジェルスに向かう海岸と反対側は、ずっと山が連なるのですが、
この山がどれもこの枯れ草色をしているので、最初は「山が禿げている」と勘違いしていました。
実は山々を覆っているのは、夏でも冬でも、こういう色の植物なのです。



このリスはときどき生えている黄色い花のついた緑の草を食べています。
ちなみにこれは古いカメラのズームですが、歴然と画質が違いますね。

このあたりは、海沿い、山の中、いたるところに自然公園があります。
ゴルフ場、テント型のコンサート会場などを作っても、まだまだ余裕がある土地。
ほとんど自然のままの湖では、子供たちがカヌーやセイリングの夏休みキャンプをしています。

 

「ダック・ポンド」という池があり、文字通りアヒルを始め鳥が何種類も遊んでいるのですが、
(そのせいでかなりここは鳥小屋臭かった)
ここにリスがいて、鳥たちと共存共栄の生活をしていました。



どうも、鳥に与えるえさを一緒になって食べている模様。

 

ニューヨークのネズミのように肥え太っています。
ディッシュ・トレイルのリスとは同じ種類と思えないくらいです。
餌を楽にもらえる生活だとこうなる、という見本のようなリス。



おまけにここは、ディッシュ・トレイルの天敵、タカやワシなどに狙われにくいのです。
ここは他の鳥もいますし、柵や木の根もとに巣穴を掘っておけば、逃げ込むこともできます。

 リス穴に飛びこむ直前のリス。

ディッシュ・トレイルを歩いていたとき、いきなり目の前ハヤブサが舞い降りました。
そして、地上のリスをひとつかみ。
あっという間に上空へ・・・・、と思ったら、リスが暴れたのか、掴み方が悪かったのか、
10mくらい上がったところでリスはするりと逃げてしまいました。



「一日に何匹くらいああいう犠牲になるんだろうね」
「まあ、鳥も生きていかないといけないからね」
興奮覚めやらぬままTOと話し合ったのですが、
このマウンテン・ショア・パークでは、上空にやってきた自分よりはるかに大きな猛禽類を
カモメがものすごい声をあげてで追い払う感動的なシーンを目撃しました。
ここならリスも、少なくとも空から脅威からは安心していられそうです。

ところで、冒頭のラブラブ・リスのように、仲良しぶりを見せてくれる画像を。



これは一度ご紹介しましたが、





下写真の二匹は、実は直前まで喧嘩していたのですが、左のリスが何か食べ出すと、
「何食べてるの?ねえねえ」
って感じでまた近寄っていっていました。
そこにリスがいれば、リスの数だけリス模様もあると・・・・。



全く相似形でくつろぐリス。なぜ同じ格好をするのか。

 リスその一。

 リスその二。

二枚の写真には間違いが10あります。(たぶん)

写真に撮ってみたら面白かったリスもあります。
たとえば・・・

 波目のリス。



「どうか神さまお願いします!」って感じです。

 

ちょうど日影にすっぽり収まって長細~くなって休んでいたリス。

 哀愁の後姿。

種類は皆一緒なのですが、住む場所によって生態もかなり違います。
ディッシュトレイルのリスは、人が違くにいても平気そうですが、土の平原のようなところのリスは、
隠れるところが全く無いので、とにかく人影があるとかなり遠くから穴に飛びこんで逃げたり。

体型も違うし、生まれた場所が性質や一生の幸福度を決めるのは人間だけではないようです。







1948年、ロンドンオリンピックとレパルス撃沈

2012-08-22 | 海軍

オリンピックの政治利用という五輪憲章に違反して問題になっている韓国サッカーチーム。
最初こそ韓国国内世論は「よくやった」「金メダルより価値がある」
と、竹島について領有権を主張するプラカードを掲げた選手を英雄扱いしていたものの、
とたんにIOCから「待った」が入り、五輪憲章違反でメダルはく奪の危険性が出てくると、

「あの選手が嬉しさのあまり度を失った」
(その後チーム全員がそのカードを国旗に乗せて行進)

「会場に投げ込まれたプラカードを拾った」
(客席から用意されたプラカードを受け取っている写真あり)

という苦しい言い訳を始め、果ては全ての原因は日本にある、日本が苦情を申し立てたせいだ、
という「全ての原因は日本」というおきまりのコースを突き進んでいるようです。

さらには、沙汰を待つ状態でありながらIOCに、アポイントなしで押しかけ、

日本がこれまでしてきた数々の悪行と、ドクト(竹島)は我が国のものであるという
歴史的正当性を縷々説明しようとした」

が、誰もいなかったため受付の人間に説明して帰って来たといいますから、
事情を知った世界中のまともな国はこぞって、

「いや、どちらに正当性があるかが問題なのではなく、
そういう領土問題があるということをオリンピックで主張することに問題があるんだが」

と首をかしげていると思われます。



究極の「オリンピックの政治利用」は、ご存じ1936年のベルリン・オリンピックで、
これは完全なヒトラーとナチスの国威発揚政治ショーと成り果てたわけですが、
それに続くはずの1940年の東京オリンピックは、日中戦争の影響から日本政府自らの判断で
返上され、幻の大会となりました。

冒頭画像はこのときに作られていた東京大会のポスターです。
埴輪のモチーフが、何か暗さに満ちているように見えるのは結果を知っているからでしょうか。

さて、今回オリンピックはロンドンで行われましたが、ご存じのようにこれは初めてではありません。
1948年、世界大戦が終わってその記憶も生々しい三年後、ロンドン大会が開催されました。


その大会に、敗戦国である日本とドイツは参加を拒否されていたのをご存知でしょうか。


モスクワ大会のときや、ロスアンゼルス大会のときのような「ボイコット」ではありません。
開催側からの、拒否です。

その理由は、日本については

1937年、戦争を理由に自国開催を返上した

ドイツについては

1939年にポーランド侵攻し、東京大会の代替地であるヘルシンキ大会を開催不可能にした


ということになっているわけですが、ちょっと待った(笑)

ポーランドに侵攻したのはドイツだけですか?違いますね?
いつも機に乗じてこういうときには強気に出てくるソ連だって、やってますね?

それに、敗戦国だから、と言うならイタリアはどうなんですか?
ムッソリーニがガソリンスタンドにぶら下げられたから、もう「反省済み」ってことですか?


全く、この大国のジャイアニズムと自国に都合のいい「マイルール」ぶりには、呆れますわ。
東京裁判が
「同じ戦争中のルール違反も、連合国は戦争だからOK,日本がやると戦犯」
という「マイルール」に貫かれていたように、ここでも大国イギリスの恣意な判断基準が
丸見えであることは皆さんにももうおわかりですね?

つまり、ドイツに対しては「ベルリンオリンピックの政治ショー」の懲罰としての参加禁止だったのです。
では日本は?

表向きの理由は「自国での開催返上」ですが、これもどうなんでしょうか。

念願の東京大会をヘルシンキと争って勝ち取ったものの、日本国内では中国戦線の長期化から、
「もしオリンピックをすることになったら、満州の選手は参加させるのか」
などといった問題から、陸軍の「陸軍内から選手を出すことへの懸念」など、反対意見が噴出し、
最終的には国内の足並みが揃わないまま大会辞退を決めました。

しかし、それだけが理由ではなく、このとき中国に大きな利権を持っていたアメリカのIOC委員が、
東京大会のボイコットを強く訴えたうえ辞任すると言う騒ぎを起こしているのです。

つまり、日本が東京大会を返上したから、というのは全く理由の根本ではなかったということです。

実は、このとき日本の参加を拒否したのはIOCではなくイギリスそのもので、その理由が
帝国海軍がマレー沖海戦で撃沈したプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの遺恨であったという説があるのです。


1941年12月10日、開戦直後のマレー半島東方沖で、我が海軍航空部隊とイギリス海軍が
戦闘を行い、制海権確保のために派遣した英海軍の戦艦二隻を日本海軍航空部隊が沈めたうえ、
英国東洋艦隊を二時間で壊滅させました。

このことは、戦史のうえで「大鑑巨砲主義の終焉」を示す出来事とされているのですが、
それだけではなく、このことは
「黄色い猿と侮っていた日本人が、ヨーロッパ人の科学の粋を集めた戦艦を沈めてしまった」
ということにより大きな意味合いを持っていました。

プリンス・オブ・ウェールズに特別の愛着を持っていたらしいウィンストン・チャーチルの

「戦争全体を通してあのような衝撃を自分に与えたことはほかにない」

という回顧録の言葉は有名です。

しかも、「敵兵を救助せよ!」の著者である惠隆之介氏によると・・・・、

ところが英国海軍東洋艦隊将兵を感動させることが起こる。
帝国海軍航空隊は戦いの雌雄が決するや、指揮官機の信号で一切の攻撃を中止、
英国護衛駆逐艦による救助活動を一切妨害しなかったばかりか、
母港シンガポールへ残存部隊が帰還するまで上空より護衛したのである。

確かに、駆逐艦「エレクトラ」が571名、「ヴァンパイア」がテナント艦長と従軍記者を含む
225名を救助されたのは、英海軍が日本海軍をこれ以降「偉大な海軍」と認めるようになった、
実に大きなできごとであったようです。

さすがは武士道の継承者である帝国海軍。と言いたいところですが、

ちょっと待った(笑)

鹿島航空隊所属、レパルスを雷撃した一式陸攻乗り組みの須藤朔著の「マレー沖海戦」によると、
このとき海軍が何もしなかったのは英軍による美しい誤解とは少し事情が異なり、
実は日本軍はこの時すでに魚雷や爆弾を使いはたしており、さらに燃料が少なかったからだ、
ということで、それを聞いた元ウェールズ乗り組みの機関長をがっかりさせたらしいのですが、

・・・・じゃ、燃料が少ないのになぜ護衛をしたのか?

不思議なのはそれなのですが、
その真偽については本題ではないので今は脇に置きます。


問題は、この戦艦の撃沈を根に持って、
イギリスは日本のロンドンオリンピックの参加を拒否した、という「裏の理由」の真偽です。

戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は両艦の沈没した海域に飛び、
機上から海面に花束を投下して英海軍将兵の敢闘に対し敬意を表しました。

このようなエピソードと、皆が理由はどうあれ賞賛した海軍の「武士道」のおかげで、
イギリス海軍は、ショックではあったがそれを以て真珠湾のように遺恨をもったというわけでも
なかったと、全体的には言えるかと思います。

その遺恨は果たしてオリンピックの日本拒否の理由なのか。

わたしは、全く個人的な意見ながら、この理由もまた「裏の表向きの理由」だと思っています。

マレー海沖海戦の結果がもたらしたのは大鑑巨砲主義の終焉だけではありません。
なんといっても、歴史家アーノルド・トインビーのいうところの

「(その結果は)特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。
それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。
何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、
この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。
1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。
この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、
1967年のヴェトナムに明らかである。」
(ウィキペディア)

に尽きるでしょう。

つまり、大きな声では言えないものの「欧米諸国の絶対的権力が支配する世界の終了」
それが、人道的理由から自分たちの側より自発的になされたものではなく、
日本という本来被支配側の有色人種の代表によって、しかも武力によってもたらされたということが、
権力を奪われた当の大国イギリスにとって許しがたかったからではないのでしょうか。

政治的、歴史的遺恨を、一見このような公正に見えなくもない理由を被せて
堂々と晴らしてみせるというあたりが、長年弱肉強食の大国主義で揉まれた「Great Britain」。
伊達に自分で「偉大な」などと名乗っているわけではありません。
同じ「大」を自分で国名に付けてしまう恥ずかしい国でも、
あまりにも馬鹿馬鹿しく単純ですぐに底が割れ、突っ込みどころ満載の今回の韓国の件などとは、

「所詮黒さの桁が違うわい」

って思ってしまうのはわたしだけでしょうか。

もちろん今回の韓国の行為に何の抒情酌量の余地もなく、もしIOCが何の罰も与えなけれは、
オリンピックは領土問題を抱えている国が次々と確信犯的アピールをする場になることは確実。
ここはきっちりと落とし前をつけて、再発防止に努めていただきたいものです。


イギリスがかつてオリンピックの日本参加を拒否したのだって、表向きは
「世界平和を乱した国への懲罰」だったのですから。






グーグルの総本山

2012-08-21 | アメリカ

グーグルという会社を知らない人は、おそらくコンピュータをしている限りありえないでしょう。
・・・・まあ、アメリカにはバラク・オバマを知らない人もいるそうですから、言い切ることはできませんが。

そのグーグルの本社がこの近くにあります。
先日、朝の散歩のために新しい自然公園を開拓しようと、マウンテンビューへ行きました。
ここはまさに、広大に広がる公園に近接した、グーグルの総本山。

ロス・アルトスに到着してすぐのこと。
サンフランシスコまで買い物に出かけ、息子のお迎えのためフリーウェイ280を走っていました。
すると、前に奇妙な車が走っているのを発見。



天井にコップのようなものが付いていて、よく見るとそれが激しく回転しています。
「・・・・・ん?これは・・・・!」

 グー車(グーグルマ)だ!

グーグルマップのために撮影する車の真後ろを走っていたのです。
激しく回転しているように見えたのはカメラで、この写真ではレンズ部分がこちらに向いています。
(これを撮ったときはカメラをまだ買い変えていなくて残念)

「うむ。今、このグー車が映像を記録しているとすれば、わたしのメルセデスがマップに」

息子の「ゲーム友達」の家は、グーグルマップにおばあちゃんが家から出て行くところを撮られて
そのままそれが掲載されているんだそうです。

「じゃおばあちゃん写ったままなんだ」
「うん、でもすぐまた更新するしね、グーグルマップって」
「更新しないと『もうおばあちゃんはいないのにマップにはまだ写っている』ってことになるしね」
「そういう意味じゃない」

道で倒れている人間や、どうみても殺人事件の証拠、はては霊現象まで、
さまざまな「不思議画像」が発見されているグーグルマップですが、
そんな話のネタがインターネットの世界をにぎわすせいか、皆興味深々。

わたしがスタンフォードで降りたとき、同じスピードでぴったり並走して行く車があり、
明らかに「グーグルマップに写りたい」という意志が伝わってきて笑ってしまいました。



グーグル本社。
といっても、あまりに広大なため、ビルがいくつにも分かれています。
因みに、ここから先に横切る道は、その通りの名も「google」。(冒頭画像)

そして、このポイントをグーグルマップで検索すると、

このようにポイントされるというわけ。

全てにおいてシャレが効いています。
グーグルで働いている人の話によると、ここは

「大人の遊び場」

お給料もかなりいいようですが、何と言ってもその他の「福利厚生」にグーグル流のエッセンスが
ふんだんに振りかけられているのですから、面白くないわけがありません。

ここ、マウンテンビューは冒頭にもお話したとおり自然公園があるほどの土地ですが、
そこを望むグーグル本社の庭にはなんとヤギが雑草を抑えるためにいるのだそうです。
ヤギが勝手に来るのか、グーグルの力で無理やりヤギに来させているのかは分かりませんが。

TOの知り合いの日本グーグル勤務の方によると、会社にはマッサージ師が4人常駐し、
いつでもパソコンを見すぎて疲れた視神経にバッチリ効くマッサージをしてくれるそうです。

どこのグーグルでも「昼寝」が推奨されていて、「お昼寝ポッド」という専用の椅子で寝たり、
リクライニングチェアで寝たりするそうですし、仕事の合間にジョギングも推奨されています。

アメリカのグーグルでは巨大テレビは勿論、Wii、Xbox360で気晴らしをする部屋、
大音響で音楽を鳴らせるオーディオルームなどもあり、至れり尽くせりなのだとか。

 待機中のグー車。

普通のとはペイントが違いますね。
赤、黄色、緑、青の「グーグル・カラーに塗り分けられた車。
カメラも目立っています。
高速を走る車とは役割分担が違うのかな?
「付いて来られると困るところでは模様なし」とか?



グーグルの前から出てきたグー車。
「わーい」
と接近して付いていっていたら、ガソリンスタンドに入ってしまいました。
車種はレクサスですね。

そして、今回最も感動した「グーグル仕様」大賞。



一応ロゴと並べてみました。
これがなぜグーグルの自転車だと分かったかというと、この写真を撮る前に見かけたこの自転車、
グーグルの中に入っていったからです。

広大な会社なので、ビルからビルへの移動、ちょっとそこまで、という場合、日本と違って
徒歩ではさすがに時間もかかり過ぎるので、この自転車が出番となるようです。
休みの日にはこの自転車が社屋の前にたくさん停められているのが遠目にも分かります。

今回自転車に乗るにはあまりに短いスカートのオフィス・スーツのお姉さんが、太股もあらわに、
この自転車を漕いでいる写真もあるのですが、残念ながら公表は控えさせていただきました。


TOの留学時代のクラスメート(アメリカ人)が、M・Lからグーグルに転職したそうです。
実際のところ中はどんな職場かは入ってみないと分かりませんが、
M・Lならばグーグルの方が仕事を楽しめるのではないかと誰しも思うのかもしれません。



ここアメリカでは、毎日5時を一分でも過ぎたとたん、その辺一帯がものすごい交通渋滞になります。
みんなが5時きっかりに仕事を終了して家に向かうからです。
ナイトライフを楽しむ人は、家に一度帰り、シャワーを浴び、デートならちゃんと着替えます。
さらに金曜日ともなると3時過ぎくらいから渋滞は始まります。

サンフランシスコに住んでいたときは、金曜日の夜から車でどこかに行こうと思えば、
二つしかない橋を渡って外に出ようとする車が高速の乗り口の周りにも混雑を作り、
それに耐えに耐えて街を抜け出さないといけませんでした。
金曜日の夜からアメリカ人は一斉にいろんなところに遊びに行くからです。

このように仕事と私生活を切り替える時間が皆ほとんど同時なので、
「アメリカ人の方が日本人よりよっぽど判で押したような生活をしているじゃないか」
と、その律義さと几帳面さにいつも感心したり呆れたりしたものです。

普通のアメリカ人ですらこうなのですから、グーグルに勤めている人達はどんなのでしょうか。
グーグルの中の人によると、仕事はとにかくメール、会議への出席、面接をこなして、
残りはコーディングや他の人のコーディングを見直したり、ジムに行ったり、走りに行ったり、
掲示板を見たり、というような毎日だそうです。

こんな仕事ぶりだと、金曜日になって一目散にバケーションに向かう、というような、
普通のアメリカ人のような解放感はあまりないかもしれないと思うのですがどんなもんでしょう。

でも、仕事が楽しくて仕方がない、というのはいずれにしても羨ましいことですね。


因みに、グーグルの入社試験をネットで拾ってまいりました。

ある国では人々は生まれてくる子には男の子だけを欲しがりました。
そのため、どの家族も男の子を産むまで子供を作り続けました。
この国では男の子と女の子の人口比率はどうなりますか?


答え 1対1

皆さまはこの答えと理由がお分かりですか?





特攻とフランス人の拍手

2012-08-20 | 日本のこと


フランス革命記念日に「困ったフランス人」というような視点でかれらを語ってしまいました。
しかし、あれは決してフランス人を非難しているわけではございません。
どこの民族にもある「民族特性」を、淡々とお話しただけで、勿論その美点や優秀性は、
今さら述べるまでもなく、歴史に刻まれた彼らの業績に輝かしく証明されているのですから。

かつて多数の偉大な思想家を生み出してきたフランス。
一般のフランス人がひねくれ者で意地悪で、というのも、裏を返せば、
「深く思索する」ことが批判精神となり他人に対する距離の取り方となって、
このような性質として現われている、という解釈もできるわけです。

日本とフランスには歴史的な共通点、しかも重要な共通点があります。

それは、フランス革命と明治維新によって、この両国は国民国家になったということです。
フランス革命が搾取階級の打倒であったのに対し、明治維新によって消滅した武士階級は、
決して搾取する階級ではなかったという違いこそありますが。

国民国家ならではの文化の形成を為してきた日本とフランスですが、文化は勿論、
思想的にも、特に近年お互い影響を与えあってきたといってもいいでしょう。


昔、フランス人女性が書いた、「写真で見た特攻隊の青年が彼女の心の中に住みついて、
彼女はそのまなざしから逃れることのできない心理的圧迫を感じる」という、
いかにもフランス文学らしい小説を読んだことがあります。

もうその小説の作者も題名も忘れてしまったのですが、日本の特攻がフランス人に与えた
感銘の、いかに強烈であったかが覗えるような小説でした。

以前、ブログを始めたころに書いたアニメ「アイアン・ジャイアント」についての項で、
「アイアン・ジャイアントの自己犠牲に見られる、特攻精神」についてお話しました。
このときに、思想家アンドレ・マルローが特攻について語った言葉を挙げたのですが、
これをもう一度お読みください。

日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにも変え難いものを得た。
これは、世界のどんな国も 真似のできない特別特攻隊である。
ス夕-リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、
結局は権力を手に入れるための行動であった。
日本の特別特攻隊員たちは ファナチックだったろうか。断じて違う。
彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかっ た。
祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。
代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、
逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。
人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。


フランス人で日本文化の研究者、モーリス・パンゲ著、「自死の日本史」を読みました。
原題は La mort volontaire au Japon、つまり「日本の自発的な死」です。

この本は、万葉集に見られる殉死のような自死に始まるこの国の
「自発的な選びとる死」が如何なる精神風土のうえに形成されてきたのか、
切腹、心中、殉死の歴史をひもとき、日本人の選びとる死について解き明かさんとする書です。


そのなかでもパンゲは大東亜戦争時、特攻によって命を失った日本の若者たちを、
このように語っています。

彼らは強制され、誘惑され、洗脳されたのでもなかった。
彼らの自由は少しも損なわれてはいない。
彼らは国が死に瀕しているのを見、そして心を決めたのだ。
この死は なるほど国家の手で組織されたものではあったが、
しかし それを選んだのは彼らであり、
選んだ以上、彼らは日一日と その死を意志し、それを誇りとし、
そこに結局は自分の生のすべての意味を見出し続けるのだ。


いかがでしょうか。
内容において、マルローの言葉と全く重なります。

さらにマルローは

フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。
フランス人のなかには、特別特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、
こんなにすくない撃沈数なのになぜ若い命をと、疑問を抱く者もいる。
そういう人たちに、私はいつも言ってやる。

《母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、
自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。
愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?》と。


これは、世界に普遍的な考え方とは言えないでしょうか。
フランス人が一般的に特攻をどう考えるかをこう語っているのに対し、
パンゲは

われわれには不可解な行為に見えたのだ。
強制、誘導、報酬、妄想、麻薬、洗脳、というような理由づけを
われわれは行なった。

しかし、これは一般的な見方というよりは、むしろ逆説から入る強い肯定への布石に思われます。
(スイカに塩をふるようなもんでしょうか)

しかし実際には、無と同じほどに透明であるがゆえに人の眼には見えない、
水晶のごとき自己放棄の精神を そこに見るべきであったのだ。
心をひき裂くばかりに悲しいのは この透明さだ。

生きていることが美しかるべき年頃に、
立派に死ぬことに これらの若者たちは皆、心を用いた。
そのために彼らは人に誤解された。

マルローもパンゲも、この「自死」を、ただ無私の死、尊い行為としての死と捉え、
その精神性を高く評価しているという点では同じ視点を持っていると思われます。

またパンゲは、世界の歴史に、例えば以前書いた「橋の上のホラティウス」の如く、

自分の命を投げ出して国を、仲間を救うという勇者は数多く存在すれど、
日本の特攻隊のように、命令を受けてからそのために、ときには何カ月もそのための訓練を受け、
その死に向かって歩んで行く、というようなものは歴史的にも類をみない、とも書いています。

それはつまり国から命じられた組織的な死だったからさ、と戦後自虐派日本人は言うでしょう。
しかしこれもパンゲに言わせると、その死が狂信的でも衝動的でもない、
選びとられた「自死」であることの証左のひとつとして数えられるのだそうです。

特攻の発案者と言われた大西瀧次郎の真意は、側近に漏らされた大西本人の言葉によると、
「彼らの死によって未来に日本人を生かすこと」であったそうです。(草柳大蔵『特攻の思想』)

知覧に遺された彼らの遺書、遺墨には決して書かれることはありませんでしたが、
彼らのうち少なくない人数、ことに予備学生たちは、己の死は日本の勝利に寄与しない、
つまり日本は負けるかもしれない、ということを知りながらも、死ぬことを受け入れて往きました。

なぜか。
それは、日本のアイデンティティを、自らの死によって後世に伝えるためでした。
たとえ戦争に負けることがあっても、自分たちの死が語り継がれる限り、日本は滅亡しない。
大西長官が期した「自死」の意味を、つまり彼らは言われずとも、自らで見出していたのかもしれません。

「自分の愛する人のため、と考えることによって自らの死を受け入れる」
先日コメントで頂いた、この特攻隊員の遺書における決意は、まごうことなき真実でありましょう。
しかしそれは、ひいては、自分の見たこともない後世の日本人のためであったともいえるのです。


再びマルローとパンゲに戻りましょう。
よって、彼らは特攻を、特攻による「自死」を、賞賛するのです。
彼らがその自死によって遺してくれた、絶対的な愛。
その中に生きることができる、現代のわれわれ日本人よりも、もっと高らかに。



彼らにふさわしい賞賛と共感を彼らに与えようではないか。

彼らは確かに日本のために死んだ。
だが彼らを理解するのに日本人である必要はない。
死を背負った人間であるだけでよい。
(パンゲ)

私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、
いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに
男の崇高な美学を見るのである。(マルロー)



フランス文学の篠澤秀夫氏がどこかで語っていたことですが、1959年頃、留学中の
パリの映画館で、特攻隊の実写フィルムをフランス人に混じって観たことがあるそうです。
敵艦に向かって突っ込む日本機、そのほとんどが撃ち落とされて海に墜ちていく。
そのうちその中の一機が見事機体を命中させたとき、
驚くことに観ていたフランス人からは揃って拍手が沸き起こった、というのです。

フランス人は、特攻隊員たちの自死の意味を、「愛」だと理解してくれたのでしょうか。
「メルシー、メルシー」
篠沢氏が思わず呟いたのは、彼らへの感謝の言葉であったそうです。








大日本帝国海軍の優れた光学技術

2012-08-19 | 海軍

今日は実はお休みをいただくはずだったのですが、カメラを買ったことから話題が広がりを見せ、
何人かの方からわたしの全く知らなかったカール・ツァイス(アメリカではカール・ザイス)の
レンズについて色々教えていただきました。

検索の過程で「戦争とカメラ」などという面白そうな本の題名を知り、ますます興味を持ったところ、
以前海軍搭乗員とカメラについて記事を書いたときにコメントをいただいた秋山さんから、
くわしい説明をいただきましたので、それを紹介します。

コメント欄でご覧になっているとは思いますが、この件について頂いた他の方のコメントを
初めてご覧になる方のために挙げて最後に秋山さんのを掲載します。


リュウTさん

司令長官が使用されていたツァイスの双眼鏡は三笠に実物があります。
(今も展示されているか不明ですが、多分今も展示されていると思います)

ソニーの高級カメラ(ビデオカメラ含む)は大方ツァイス製のレンズを採用してます。
ツァイスの光学機器(双眼鏡とか顕微鏡とか)は悔しいことに
日本製(ニコン等)よりも優れているそうで。

ツァイスの東西分裂物語とか興味深い話を知ると、ますます愛着が(ry

ただ、ここまで書いてナニですが、メイド・イン・ジャーマニーとは限りません。
ライセンス生産という物がありまして。
規格に則って管理・生産された物なので、本国生産と何ら変わらないのですが。
ただ、さすがにチャイナではないはず。
相応の設備と技術と人間の信頼性(コレ重要)が無ければ規格に合格しない(はず)。
多分、日本製。コシナが製造していると思われますが、確証ありません。

「いいお買い物ですね!」mizukiさん

とてもいいカメラです。
リュウTさまのおっしゃる通り、ソニーのツァイスレンズは、
ソニーミノルタとカールツァイスがデザインし、日本のCOSINA社が作っております。
日本の技術の結晶ですね!
セカンドライフでも写真を嗜む方が多く、こちらでは手振れとピンボケがおこりません。
お友達の作品をご紹介いたします。
http://www.koinup.com/Hiroko/



「大日本海軍の優れた光学技術」Akiyanさん

ツァイスレンズの話題から「三笠艦橋の図」にみる光学兵器の話題に思わず
コメントしたくなりました。
いぜん「海軍パイロットとカメラ」でコメントさせていただいた、秋山と申します。

すでにご承知の通り、東城鉦太郎作画の「三笠艦橋の図」は、
中央に長官の東郷平八郎大将(後に元帥海軍大将)、その後ろに測距儀(レンジファインダー)
を覗く測的係長谷川清少尉候補生(後に海軍大将)が描かれています。
その長谷川清少尉候補生が覗いていた英国バーアンドストラウド社製の測距儀と
ほぼ同じ時代のモデルを調査研究しました。
http://akiroom.com/redbook/kenkyukai11/kenkyukai201105.html

さて本題の、ドイツのツァイス社製と、日本の製品、例えば日本光学工業製(現在のニコン)
を比べてどちらが優れているかですが、当時の実物を揃えて検証してみました。

結果は、専門家によるレストアが正確に行われているものは、
どちらも素晴らしい性能を有していることが複数の人間による目視官能試験で実証されまし
た。
いずれも、70年以上前の製品の話です。
本日アップしましたので、ご確認ください。

http://akiroom.com/redbook/kenkyukai12/kenkyukai201206.html

ツァイスの光学製品は私も大好きで、ルーペ1つとっても、明らかに使い勝手、
光学性能が優れているため、持っているだけで豊かな気分になれます。



以上です。

頂いた記事の中の5番、

「しかしこの双眼望遠鏡の機種の多さを含めた異常な発達は、
発展途上の電探に対するあだ花でもあり、
また日本における電探発展の足を引っ張った可能性も感じられる。」

という考察と、

最末期の極度の物資不足の中でも主目的である光学性能には
妥協をしない設計を貫き通した姿勢


という一文に感動しました。

今回検索していて「戦争とカメラ」という本が発行されているのを知り、帰国したら読んでみようと
思っていたのですが、このような観点から戦争を語った本を出していただきたいですね。


それにしても、エリス中尉が店頭で「カール・ツァイス」という名前を見て、
全く知らないなりに何か「これはきっといいものに違いない」と思ったのは、
実に正しい嗅覚であったということではないですか!

実は単に権威とイメージに弱いだけなのだけど、結果が良かったので自画自賛。


本日のタイトルは秋山さんのコメントに付けられていたものをそのまま拝借しました。

秋山さんのコメントに貼られていた研究会の様子は、
全くその世界に造詣のないわたしものめり込むように読んでしまいました。
なんといってもこういう研究にかける人々の情熱が伝わってきます。

日本の技術力、あらゆるモノづくりを支える力ということを、このように表わす言葉があります。

「ただ、自分の考えたことを研究し、発明し、
それを自分のコミュニティの中で面白がるためだけに発表する。
コミュニティの中ではその技術は磨かれ、完成されていくが、本人たちは
その中で楽しんでいるにすぎない。
ある日、そこで展開する世界を他の国の人間が見てその技術に驚愕する」

草の根でこのような「こだわる人々」が全ての分野にいる、というのが日本なんですねえ。
そのこだわりがモノづくりの国を生んで来たのだとあらためて知ることになり感無量です。


ハーフ・ムーン・ベイでお昼を

2012-08-18 | お出かけ

我々がサンフランシスコに住んでいるとき、リッツ・カールトンのHPで見つけた開業したてのホテル、
それがこのリッツ・カールトン・ハーフ・ムーン・ベイです。

ハーフ・ムーン・ベイ。

サンフランシスコとサンノゼのほぼ中央、太平洋沿いを走る国道1号線沿いに位置する、
この美しい名前を持つ湾は、また 独特の天候を持つ屈指の美しい場所として有名です。
その名前は、湾の形からつけられたそうです。
そこに、リッツ・カールトンができたと知って、我々は折りに触れここを訪ねてきました。

御覧のような霧の中荒い波が岸壁に打ちつける、まるでイギリスのような景色ですが、
この無骨な天候と美しいゴルフコースを構えたホテルの佇まいが、醸し出す雰囲気、
都心にあるリッツには無い暖かさを持つホスピタリティに魅せられ、よく食事に訪れたものです。
何と言ってもここのレストランは、アメリカにしては?味が非常に洗練されているのです。
日本に帰国して、毎夏渡米する習慣になってから、TOが来ると必ず一度は食事に行くのですが、
今年も行ってまいりましたので、写真を淡々と挙げていきたいと思います。



フリーウェイ280で北上。
隣を走っていたキャンピング・カー。
こんな風に平たい(立って入れない)キャンピング・カーを見たのは初めてだったので、
運転しながら左手だけでそちらを碌に見ずシャッターを切りました。

TOが「危ないから撮ってあげる」と言うのでカメラを渡したのですが、
「あっ!ここきれいだから写真撮って!今!」
という指示でTOの撮った「きれいな景色」の写真が、これ。



なぜよりによって柵とゴミを写す。
なんか、いつもこの人はシャッターを切るのが異様にヘタです。
それにしても、走る車から撮ったとは思えないですね。
さすがカール・ツァイス。
買ったときは誰だか知らなかったけど、コメント欄で教えていただいたので今なら分かる。

この時息子が、どこで仕入れてきたのか
「戦争のときドイツのスナイパーが優れていたのはレンズのせいだったからだって」
などという話を披露し、盛り上がったりしていたのですが、その後教えていただいたところによると、
製品は日本製だったんですねー。
あらためて日本の町工場の技術力に畏れいったしだいです。




可愛らしい樅の木の畑。
これは「クリスマスツリー工場」です。
12月ごろに、ここの木は全部ツリー用に売られる運命。

高速を降りたら、ハーフ・ムーン・ベイに続く道は山中の一本道なので、休日は渋滞します。
やっと渋滞を抜け、ホテルに近づいてくると・・・・

 なにやら雲が。

 ハーフ・ムーン・ベイは霧です。

サンフランシスコもそうですが、この辺もパーシャルな気候で、何十メートルか進むと、
いきなり晴れたり曇ったりが変化するのです。



ホテルが近づいてきました。
手前にある小さな検問所のようなところで、係の人に要件を告げると、車のワイパーに、
ドアマンたちに分かる札をつけてくれます。

「ナビオにランチの予約を入れているのですが」と言うと、
「それはようこそ!どうぞランチをお楽しみ下さい」という言葉をかけてくれます。

わたしはこの英語圏で言われる「Enjoy!」が大好きです。
お皿を持ってきて「Enjoy!」
買い物したら包みをわたしながら「Enjoy!」
英語のこの「Enjoy!」は、いまから何か楽しいことをしようとしているときにかけられると、
喜びが倍加する素敵な呪文だと思っています。



ここでは当然のようにエントランスでバレーが車を受け取ってくれます。
「ベンツ借りて良かったかも」とちらっと思ったりしました。
他の車もメルセデス、BMW、ポルシェにレクサスばかり。

 これがバレー係。

ホテルの顔なので、必要以上にハンサムな男性が配置されている気がします。
ところで、前に来たときと制服が違うので、彼に
「制服。変わりました?」と聞くと
「変わったんですよ」と言ってから「良いですか?これ?」と可愛いことを聞くので、
「すごく素敵ですよ。写真撮ってもいいですか?」

 男前である・・・・。

ゴルフコースが売り物のホテルなので、古い時代のゴルファーのイメージなんですね。

 ほらこれも。

しかし、これ、アメリカ人(しかも白人)だからこんなにピタッとくるんだろうなあ。
まるでセピア色の写真から抜け出してきたようです。



夏なのにドアマンたちがベストやジャケットを着ていることからもお分かりのように、
このあたりは決して暑くなりません。
今日もこのようにロビーの暖炉には薪が焚かれていました。



ここがレストラン、ナビオ。
ロビーのレストランは比較的カジュアルなハンバーガーやサンドイッチを出し、ここでは
コースのお料理を出していたのですが・・・・、



なんだかメニューがカジュアル化している・・・・。
コースが無くなってしまったんですね。
アメリカ人にお昼のコースはあまり受けなかったのかしら。


 

レストランから見える景色。そう、この前は、ゴルフコースなのです。

 

このホールでの様子は、レストランや外にずらりと並んだ椅子から注目の的。

 

ここで楽しみにしていたのが、お料理の写真を撮ることです。
先日買った新しいカール・ツァイスレンズ搭載の(強調)カメラ。
なんと「グルメ・モード」というのがあり、お料理を美味しそうに撮ってくれるのだとか。
まずはパンとアイスティー。
なかなか良い感じの画像でしょ?
このパンは、見かけよりずっと「実力のある」味がしました。
そしてバターの美味しさときたら!

 

オーガニック・グリーンのサラダとジンジャー&キャロットのスープ。
サラダはわたしが、スープはTOが頼みました。
サラダはバルサミコ風のドレッシングが葉に程よく絡められておりました。



息子が頼んだ、フレンチ・フライ。



わたしと息子が二人でシェアした、チキンのオレンジソース、マッシュドポテト添え。
チキンの淡白さとソースが絶妙でした。
お皿が来てすぐ写真を撮るのを忘れてしまって、しばらく食べてから撮った画像です。
ポテトはクリーミーでなめらか。コクのあるこってりした味で、美味しかったのですが、
やはり二人でも食べきることはできませんでした。



TOが頼んだのはポルタベーラのハンバーガー。
ポルタベーラはものすごく大きなキノコで、肉厚で食べ応えがあるため、アメリカではよく
ビーガンやベジタリアンの人たちがメインにする食材です。
ポテトは「普通」でした。

ところで、このカメラの「グルメ・モード」はどうですか?
特にポテトなど、実に美味しそうに写っている気がしますが。

そして、お待ちかね、デザートです。



チョコレートアイスクリームを、これもチョコレートのパフでサンドしたもの。
これはまあ、普通でしたが、



これが異常に美味しかった!
このパイ状の部分は、パリパリしているのではなく、なにかしっとりしていて、
パイケースの中に詰められたコンポートは甘すぎず、風味豊か。
チョコレートのたこ焼き?は三人で食べても一つ残りましたが、これはきれいに無くなりました。

わたしがこれに舌鼓を打っていると、ウェイトレスのお姉さん(美人)が
「デザートはどうですか?」
とご機嫌伺いに来ました。
アメリカでは、このように何度も給仕人が「美味しいですか?」などと聞きに来ます。
美味しくなくても「グッド」と言ってしまうのが日本人というものですが、
これに関しては「グレイト!」と心から言うと、お姉さんは嬉しそうに、
「そうでしょう。クリーミーでしっとりしていて、わたしも大好きです」

お勘定のとき、
TO「チップいくらにする?」
わたし「お姉さん可愛いからはずんであげて」
「言ってることがおじさんみたい」
「いいの、可愛いは正義だから」



レストランから見える焚火のまわりは人が一杯。
皆ここに座って何時間でもずっとくつろいでいます。
寒いので火のそばでないと無理ですが。

 

子供たちは寒くても平気。
芝生を転がったり、兄弟げんかしたり。

 

このガルボは、ここで結婚式が行われるときに祭壇?になります。
一度見たことがありますが、この芝の部分に白い布を掛けた椅子を並べ、
まん中を新郎新婦が歩きます。



崖の形が、なんとも趣があります。
この崖はゴルフコースの地続きですが、決して無粋な柵など作らないんですね・・。



語らう人々。
この日は土曜だったのですが、今まで見たことないほどの人出でした。
泊っている人が多いのだとするとアメリカの不況は、まだまだそんなに深刻ではないのかな。
それとも、アメリカだから「あるところにはある」ってことかも。



去年の「鳥スレ」で紹介した「目つきの悪い鳥さん」。
よく見ると、羽の付け根が青いですね。



こんな風に生垣の上で頑張っています。
何か食べ物がこぼれるのを待っているのでしょうか。





バレーに車を持ってきてもらいました。
感心したのが、ホテルマンが運転しても、シートポジションが変わっていなかったこと。
日本ではありえないですが、アメリカでバレーを頼むと、女性のわたしのポジションでは狭いのか、
シートが思いっきり後ろに下げられていていつも少しイヤな気分がするのです。
こういうところも、リッツらしいなあと感心しました。
車を持ってきてくれた人には、チップを渡すのが礼儀。
車の控え札と一緒に5ドル札を渡すと、
「ありがとうございます。楽しい時を過ごしていただけましたでしょうか?」
最後までこういう風に「特別なとき」を演出してくれるのがリッツのサービスです。

というわけで、ハーフムーンベイを後にした我々です。
帰りに、TOにカメラを持たせて「いい景色があったら撮っておいて」と頼むと、
湖のところで彼が撮った写真が、これ。

湖が写っていない。



なぜわざわざ柵を写す。



ところで、冒頭の写真、この細長いパノラマ機能も、新しいカメラに付いているの。
これは息子が撮ったので、よその人が映ってしまいましたが、アメリカ人だからいいよね。
いやはや、10年経つとカメラもすごい進歩だなあ。
まあ、お値段もだいぶ違うんですが。

というわけで、久しぶりのハーフムーンベイと、カメラの機能を楽しんだ一日でした。










潜水艦ろ号未だ浮上せず

2012-08-17 | 映画

潜水艦映画、というのは他の戦争ものにはない面白さがあります。
「ローレライ」「真夏のオリオン」など、近年日本映画が相次いで潜水艦をテーマにした
戦争映画を作ったのも、このあたりが理由ではないかと思うのですが、
それは、先日「どんがめ下剋上」という稿で熱く語らせていただいたように、
潜水艦乗員が「一蓮托生のチーム」であること。

「死ぬ時は皆一緒」。
この、生死を共にする連帯感と、乗員同士の結束は最も強固ではないかと思われます。

これまでの潜水艦ものは、そのほとんどが「艦長が主人公」として扱われています。
それは、この「どんがめファミリー」の家長であり、その命令が総員全ての運命を左右する
潜水艦艦長という男の仕事が、実にヒロイックだからではないでしょうか。


この映画の珍しいのは「ろ号潜水艦」が題材であること。
一般に伊号は散々あちらこちらで語られていますが、呂号についてはあまり話題を聞きません。
戦後潜水艦乗りがいくつか回想録をだしても、それは必ず伊号の生存者です。

ガト―級の伊潜がヘタしたら150人くらい乗れるのに対し、呂号はほとんどが45人前後、
多めの一クラスくらいの規模ですから、生存者が少ないというのもあるでしょう。

単純に、伊号>呂号>波型
という順番で潜水艦のサイズは小さくなっていくのですが、
この映画が、伊号ではなく呂潜乗りを描いた意味はどの辺にあったのでしょうか。

そんなことを考えながら、この1954年度作品「潜水艦ろ号未だ浮上せず」を鑑賞しました。


激しい戦いを終えて、基地に帰投し、上陸が行われるところからドラマは始まります。
艦長の佐々木少佐(藤田進)
インコをペットにしている特務少尉の岩城砲術長
クールな堀田先任将校。(丹波哲郎
そして、料亭のエス、梅さんとインチの関係である、立花看護長

丹波哲郎はこの頃32歳。
大尉の役にはちょうどいい年齢ですが、もの凄く痩せています。

堀田先任は艦長にも「一人の命のために判断を間違ってはいけません!」と意見具申する、
やたらかっこいい大尉です。
どうもスタイルに強いこだわりがあるらしく、最後に全員が「轟沈」と書かれた鉢巻きをしているのに、
この人だけは軍帽のままです。

さて、皆が上陸した料亭では、皆がしんみりと「同期の桜」を(しかも二番まで)歌ったりします。

「カタブツの真面目」ということになっている調音長の永田大尉
隣にイマイチのエスが来ているときは勿論のこと、、美人の幸子さんが、
吸い物の蓋を取るのに苦労している大尉に「やりましょうか」といっても、つれなくあしらいます。
真面目というより、レスに来ているのに空気読め、って感じの朴念仁です。

永田大尉、何を意地張っているのか、「自分のことは自分でします」と言い張り、
案の定ぶちまけた吸い物で幸子さんの着物を汚してしまいます。

しかし、幸子さんが美人なのですぐに謝ります。
二人はすぐに仲良くなり、上陸時の下宿(おばあちゃんが浦辺粂子)を紹介してもらうまでに。

それはそうと、海軍兵学校の「礼法集成」の中の「和食を食べる際のマナー集」に、
「吸い物の蓋を取るときは少し縁を押さえて」ってちゃんと書いてあるんですよ、永田大尉。


こうやって二人の間には、なぜかあっという間に愛が芽生えます。
しかしこの永田大尉も、看護長立花大尉も、そろいもそろってエスに本気になるとは何ごとか。
いや、本気になったって別にいいんですが、問題は立花大尉。
芸者梅に、なんと結婚を申し込みます。
梅さんが「でも、あたしこんな商売なのに」というと、
「うん、それも話してあるんだ。どうしても、連れてくよ」(ニコニコ)

いや、両親が良くても、きっと海軍大臣の許可が下りないんじゃないかなあ・・・。


艦長佐々木少佐は、どう見ても40を下らなさそうですが、4歳くらいの一人息子がいます。
夫人もかなりの年配のようで、この息子、マサ坊は、
「夫婦があきらめていたときにひょっこりできた子供で、目の中に入れても痛くない」一粒種、
という設定のようです。

この子役の男の子、もし健在なら、現在もう62歳か・・・・・・・。


頼もしい艦長の下にチームワークで、これまでの戦闘を勝ち抜いてきた呂潜。
しかし、海軍本部に、性能のいい電探をつけてくれと頼むもすげなくされ、しかも、
南洋の、兵站が底をついた島の守備隊に救援物資を届けるという任務を命じられます。

この任務、防水袋に入れた物資を海中に投入し、一人が一つずつ持って島まで泳ぎ、
また再び艦まで泳いで戻ってくるという、過酷なもの。
呂潜が少人数ゆえ、「使い勝手がよく」無茶な下命をされた、という設定でしょうか。

それにしてもこんな実話、ないですよね?
このあたりの海って、フカがうようよいそうだし。
なかったと言ってくれ。

そして、案の定、島にいる兵の看護のため、一人帰還の遅れた立花看護長が
まだ泳ぎ着いていないのに、ああ無情の敵航空機襲来。
泣きながら急速潜航を命じる佐々木艦長。

合掌。

満身創痍で帰ってきた呂潜に対し、矢継ぎ早に次の命が下ります。
今度こそおそらく生きて帰れまいと覚悟をした各乗員は、彼らなりの「用意」をします。

水雷長はインコにお嫁さんをあてがってやり、艦長は病気の息子を医者に託し、
永田大尉は幸子に母の形見の指輪を預けて去る、という風に。



そうやって出撃した呂潜は、行動海域で原子爆弾を運搬している「インディアナ・ポリス」を発見。
最後に残された魚雷でこれを轟沈することに成功します。

実在の重巡洋艦インディアナポリスは、1945年7月30日、
日本軍の放った三発の酸素魚雷を受け、沈没していますが、これ呂潜ではなく伊五八潜で、
しかもそれは、ご存じのように、インディアナポリスがテニアンに原子爆弾を届けた後のことでした。

この映画中、なぜか呂潜の航海長が、暗号を解読して
「インディアナポリスは原子爆弾を運んで航行中」などと言ったりします。
しかし、こりゃー無茶なセリフでしょう。
そもそも、7月30日時点で、「原子爆弾」と言う名称が、いくら暗号解読したからって、
当時の日本人の口からスラっと出てくるはずはありません。

しかも、呂潜はインディアナポリスを原子爆弾と共に沈めた、って?

・・・ということは、この後日本に原子爆弾が落とされることはなかった、ということですかい。


というわけでこの映画、ちょっとしたSF仕立てになってしまっているのです。
「IFもの」とでもいいましょうか。

IFと言えば、歴史に「たられば」は無いとは知りつつも、ついつい考えてしまうのですが、
伊55潜がもう少し早く、つまりインディアナポリスをテニアンに着く前に沈めていたら、
もしかしたら今ある世界の形は変わっていたのでしょうか。


ところで、この映画、ところどころに挿入された実写フィルムも興味深く、
細かいところでは、たとえばちゃんと砲術長のインコについても、丁寧にエピソードが語られ、
全体的になかなかよくできた話なのですが、
いかんせん、役者がヘタぞろい。
主役級の永田大尉、立花大尉、岩城砲術長が総員(棒)。
どれくらい酷いかと言うと、藤田進のセリフが上手く聞こえる、というレベル。

でもまあ、エリス中尉がこういう話に点が甘いのは、いつものことです。
面白かった、といっておこう。



その中でも、特に一番面白かった、というかウケたシーンを。
置き屋のおかみにイケズされて、出撃前の永田大尉に逢うことができなかった芸者、幸子。
女将が預かった永田大尉の母の形見の指輪を見たとたん、病気の体をおして、
港まで全力疾走するのですが、これが、速い!

おそらくものすごく運動神経の良い女優さんだったのでしょうが、着物に下駄のまま、
通りをものすごいスピードで駆け抜けます。
その走り方が、決して両手を動かさず、下半身だけで高速移動しているかのごときで・・。

この幸子さんの走りっぷり見るためにだけでも、この映画を借りる価値ありです。(下図)