ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

チャーチルのお気に入り〜イギリス特殊作戦執行部の女性エージェントたち

2020-05-30 | 歴史

ボストンの第二次世界大戦は博物館について調べたとき、
ナチス占領下のフランスにおけるレジスタンス活動について、
連合国が組織的にレジスタンスグループと連携して
活動を幇助し内側から切り崩しを図っていたということ、
そしてそのために使われていた無線機などの道具を紹介しました。

その流れで、当時イギリス政府には、

特殊部隊作戦執行部 Social  Operative Executive=SOE

という枢軸国下で諜報、偵察および不正規戦の展開、
現地レジスタンス運動の支援を行う組織があったことを知り、
その女性エージェントについて書いてみることにしました。

 

SOEは1940年結成当時はごく一握りの関係者しか知ることのない存在で、

「ベイカー街遊撃隊」(The Baker Street Irregulars)

「チャーチル秘密軍」(Churchill's Secret Army)

「非紳士的戦争省」(Ministry of Ungentlemanly Warfare)

と内輪では呼ばれ、また、保安上の理由から、SOEの各部局は

「合同技術委員会」(Joint Technical Board)

「相互勤務調査局」(Inter-Service Research Bureau)

といった曖昧な秘匿名称が与えられていました。
直接雇用されていた職員は13,000名、そのうち女性は3,200名です。

ElianePlewman.jpgÉliane Sophie Plewman 

わたしがこのSOEのエージェントについて知ったのは、
占領下フランスに忍び込ませていたこのイギリス人女性エージェント、
エリアーヌ・ソフィー・プルマン(1917−1944)が、
ゲシュタポに逮捕され、銃殺刑になったという話を目にしたのがきっかけです。

 

旧ダッハウ強制収容所の火葬場のひとつの焼却炉の横に、
彼女、プルマン少尉を含む、イギリスのSOEエージェント、
いずれも女性である4名を称える額が飾られています。

その碑文には、

1944年9月12日、ここダッハウで特殊作戦に所属する
4人の若いイギリス軍女性将校は残酷にも殺害され、
その遺体はここで火葬された
彼女らはフランスでレジスタンス活動に従事し、
自由のために戦って勇敢に死んだ

と書かれています。

プルーマンは1943年に特別作戦執行部に加わり、戦闘や武器の扱い、
生存技術や無線通信、爆破装置の使用法について習得した後、
ハリファックス爆撃機から空挺降下によってフランスに潜入、
宅配便業者を装ってレジスタンスが使用する無線機器の輸送を手伝いました。

ゲシュタポに捕らえられた後は拷問を受け、
他の三人の女性SOEエージェントとともに(英国人2、仏人2)
ダッハウまで輸送されて銃殺刑に処せられています.

イギリスのSOEエージェントは連合国から見れば英雄でしたが、
ドイツ人にとって「テロリスト」であり、フランスのレジスタンスの
破壊活動などを助けるために不法に活動した犯罪者という扱いでした。

 

Special Operations Executive(SOE)は、
フランスがドイツと休戦協定を結んだ直後の1940年7月、
チャーチルとヒュー・ダルトンによって設立された秘密組織です。

その目的は、第二次世界大戦中にドイツに占領されていた
フランスおよび他の征服された国のパルチザンと連携し
レジスタンス活動を支援することでした。

 

SOEの最大のスパイグループは、フランスで活動する通称
「Fセクション」でした。
ダッハウで殺害されたとされる4人のエージェントを含む
女性エージェントの大半はフランス担当に属していました。

 

もともと1942年4月まで女性エージェントはSOEに採用されませんでした。
イギリス陸軍、海軍、およびイギリス空軍の法律によって
女性は武力戦闘から除外されており、ゲリラ戦を含むエージェントの任務に
従事できる法的根拠がなかったからです。

しかも、武装勢力として活動するSOEエージェントは、
国際法に基づく捕虜と同じ保護を受けておらず、捕まった場合、
合法的にスパイとして処刑される可能性がありました。

1929年のジュネーブ条約と1907年のハーグ陸戦条約では、
女性は戦闘員として想定されておらずなんの安全保障もない存在です。

これらのルールを回避するために、女性エージェントは、活動している間、
応急処置看護Yeomanry(FANY)と呼ばれる民間組織に所属していました。
つまり国内でも医療従事者を表向き名乗っていたのです。

こういう回避策を設けてまで女性のSOE配置を密かに承認したのが
他ならぬ首相のウィンストン ・チャーチルでした。

軍は女性をスパイ活動に投入することを決して歓迎していませんでしたが、
SOE上層部は、疑いを持たれずに自由に動き回ることができる女性は
理想的であると考えたのです。

万が一ゲリラに女性を投入していることが漏洩した時にはどうするか、
そこまではあまり詰めて考えていなかったようですが、
事柄の性質がそもそも「スパイ」なのでなんでもありだったのでしょう。


YolandeBeekman.jpg

Yolande Elsa Maria Beekma

ヨランダ・ビークマンの任務は、無線オペレーターでした。
彼女は1943年9月18日にRAFのライサンダー(連絡機)でフランスに潜入、
4ヶ月活動後、逮捕されました。

コードネーム 「マリエッテ」である彼女の活動は、
ロンドンに重要な情報を無線で送信することであり、なかでも
連合国の飛行機から投下された物資の配布を担当し、
その仕事ぶりは高く評価されていたと言います。

ある日打ち合わせのために立ち寄ったカフェで、彼女は
ゲシュタポに踏み込まれ、逮捕されました。

パリ郊外の刑務所に移送された彼女は尋問と拷問を受け、そして突然、
他のエージェント、前述のプルマンとマドレーヌ・ダマーメント、
ヌーア・イナヤット・カーンと共にダッハウ強制収容所に移送され、
翌朝の夜明け9月13日、処刑されたのでした。

 

処刑の朝、4人の囚人は、夜を過ごしたキャンプの兵舎から連れ出され、
銃殺が行われる庭で死刑判決を受けました。

立ち会ったのは収容所司令と2人のSS隊員だけです。
目撃者(隊員?)の証言によると、彼女らは蒼白な顔色をして泣いており、
彼女らのうち一人が、ドイツ語で判決に抗議できるかどうか尋ねると、
司令はそれを却下し、続いて司祭を呼んで欲しいとう要請も、
収容所に司祭がいないことを理由に拒否しました。

4人の囚人は頭を小さな土の山に向けてひざまずかされ、
2名のSSに首の後ろを撃たれて絶命しました。

発砲の直前、イギリス人女性二人が互いの手を握り、
フランス人女性二人も同様に手を取り合って、そのまま撃たれました。

3人は最初の発砲で死に至りましたが、司令に交渉を行った女性は
最初の発砲後も絶命せず、再び発砲を行わなければなりませんでした。

処刑終了後、収容所司令はSSの2人の男性に、彼女らがつけていた
宝飾品に興味を示し、外して彼の執務室に持ってくるように命じたそうです。

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Noor-un-Nissa Inayat Khan
ヌーア・ニッサ・イヤナット・カーン

彼女はインド人の父親とアメリカ人の母親を持つイギリス人です。

1958年、ダッハウの元囚人が、ダッハウで彼女、
ヌーア・イナヤット・カーンの処刑を目撃したと主張しました。

彼の話によると、SS将校が彼女の服を脱がせ、
その後、彼女が「血まみれの物体」になるまで彼女を殴打し、
頭彼女を撃った、というのです。

SSは彼女の服を脱がせ、体全体に暴行を加えました。
彼女は泣きませんでしたし、一言も発しませんでした。
ルパートが殴るのに疲れて止めたとき、彼女はが血まみれでした。
彼は彼女に撃つと言いました。
ルパートが後ろから彼女の後頭部を撃つ前に彼女が言った
唯一の言葉は「リベルテ(自由)」でした。
彼女は30歳でした。

 

ダッハウの処刑場所は野営地の外にあり、木々や茂みに隠れた場所で、
この囚人は、死ぬ直前彼女が「自由を!」と叫ぶのが聞こえるまで
十分に近づくことができた、というのですが、これだと
先ほどの記録とは全く状況が違ってきてしまうのが不思議です。

これは、彼女らの処刑について正式な記録が残されていないためです。
もし残されていたとしても、SSは退却時に収容所の文書を
全て破棄していった可能性があります。

 

イヤナット・カーンもまた無線オペレーターでした。
彼女は1943年6月16日の夜にフランス入りし、
1943年10月1日、またはその頃に捕らえられました。

ダッハウで処刑されたとされる4人の英国SOEエージェントの中で、
彼女が最も有名になり、抵抗のヒロインとして歴史にその名を残しています。

 

彼女はフランスに派遣された最初の女性でした。

SOE訓練の評価によると、エージェントとしては多感にすぎ、
模擬尋問もうまく切り抜けられる方ではなく、
体も小さく恐怖に打ち勝つこともままならない様子で、
総合評価は「脳に過度の負担をかけられないタイプ」。
決して優秀なスパイの資質を持っていたわけではなかったようです。

さらに、エキゾチックな美貌が目を引くのも諜報員として問題でした。
その美貌が災いして間接的に彼女は命を失ったともいえます。

フランス潜入後、彼女は現地のまとめ役のもとで仕事をしていましたが、
まとめ役の妹が好きだった別の男性SOEエージェントが、
ヌーアに興味を持っていたか好きだったかで、嫉妬に狂った妹は
彼女の居場所をゲシュタポに密告してしまったのです。

しかし女の嫉妬って怖いですね。

彼女はフランス占領下の敵に潜入した最初の女性エージェントでした。
そのころパリで大量のレジスタンスが逮捕されましたが、
彼女は警告とイギリスに戻る機会が与えられたにもかかわらず、
フランスで主要かつ最も危険な職を放棄することを拒否し、
その後も止まって任務を続けました。

ゲシュタポは彼女の情報をつかんではいましたが、
コード名「マドレーヌ」ということしかわかっていませんでした。
密告されたとき、当局は彼女を捕まえるために捜査中だったのです。

ゲシュタポは命と引き換えに情報を売ることを要請しますが、
彼女は拒否し、それどころか投獄中脱出を試み、2回失敗しています。

彼女については1944年9月12日に他の3人と一緒にダッハウに連行され、
到着すると、彼女は火葬場に連行されすぐさま射殺された、つまり
一晩も収監されなかった、とか、3か月間収監され、その間
ゲシュタポが彼女の無線を使用してロンドンのSOEと通信し、
武器と身代金を要求していた、という噂もあるようです。

 

あるジャーナリストによれば、捕らえられたエージェントは、
男性も女性も、自分が同国人に裏切られていたと知らされると、
あっさり自白して情報を漏らす傾向にあったと戦後明らかになったそうですが、
イヤナット・カーンはそうではありませんでした。

任務そのものについてが極秘だったため、ヌーアの家族は
ダッハウでの彼女の死を知らされていませんでした。
1948年になって書かれたものを読んで初めて、彼らは
娘の運命を知ったのです。

 

 

フランスに派遣された女性SOEエージェントは39名、
そのうち13名は二度と戻ってきませんでした。

13名の女性SOEエージェントのうち、4名はナッツヴァイラーで、
4名はダッハウで、4名は女性収容所である
レーベンスブルックで処刑されたとされています。

レーベンスブルックに送られた8人の女性SOEエージェントのうち
4人がそこで処刑されました。

彼女らの名前はデニス・ブロック、リリアン・ロルフェ、
セシリー・ルフォート、そしてヴィオレット・サボーです。

Category:第二次世界大戦の人物 (page 1) - JapaneseClass.jpViolette Szabo

全体として、フランスには470人のエージェントがおり、
そのうち39人は女性、全体の8%でした。
女性の3分の1は監禁中または処刑中に死亡しました。

処刑されたの男性エージェントは81人、全体の18%です。

12人の女性SOEエージェントが密かに処刑され、戦後
これらの処刑の記録は結局見つかりませんでした。
彼女らの死についてのすべての情報は、目撃証言または加害者の自白によるものです。

 

イヤナット・カーンについては、一説によると、SOEは、
彼女をヒロインにするために、物語を作り上げた部分もあるそうです。
彼女が民間人に与えられるジョージメダルを受賞したとき、

「フランスで撃墜された30人の連合軍航空兵の脱出」

が彼女のおかげで可能になったとされましたが、
そのような脱出劇は戦史のどこにも実在していないそうです。

MadeleineDamerment.jpg

Madeleine Zoe Damermen

マドレーヌ・ゾー・ダマーマンは輸送の任務を負って
1944年2月28日の夜フランスにパラシュート降下しましたが、
着陸した瞬間にゲシュタポによって逮捕されました。

この写真に見られる地面の石碑は、ダッハウの焼却棟の裏で、
4人の英国SOEエージェントの処刑場所を示しています。
彼女らが後ろから首を撃たれた後、血が流れたことを表すために
設計された「血の溝」(Blood Dich)があります。

Sue 🇪🇺 on Twitter:

1944年7月6日には同様の4人の女性SOEエージェントが処刑されました。
ヴェラ・レイ(Vera Leigh)ディアナ・ローデン(Diana Rowden)
アンドレ・ボレ(AndréeBorrel)ソニア・オルスチャンスキー(Sonia Olschanezky)
の4名は致死注射で殺害され、焼却炉で焼かれました。

ボレルは刑執行の際抵抗し、死刑執行人の顔に生涯残る傷を負わせたため、
その報復として生きたまま焼かれたという噂も残されています。

Christine Granville | HistoryofSpies.com - Your Resource for ...Maria Krystyna Janina Skarbek

別名:Christine Granville

抵抗運動が盛んだったポーランドに送り込まれたポーランド人エージェント、
クリスティン・グランヴィル、本名マリア・クリスティナ・スカーベク

フレミングの「007シリーズ」、「カジノロワイヤル」における
ヴェスパー・リンド、「ロシアから愛を込めて」のタチアナ・ロマノワの
モデルになったといわれる伝説の女性エージェントです。

彼女は大戦中ゲシュタポに捕まることはありませんでしたが、
その奔放な男性関係と自由を愛する激しさ、エキセントリックさが
あだになったとでもいうのか、1952年、求婚者に刺殺され生涯を終えました。

ナチスと勇猛果敢に闘った6人の女性たちNancy Wake

ニュージーランド生まれのSOEエージェント、ナンシー・ウェイク
ある意味、最も「実力のあったスパイ」だったかもしれません。

フランスレジスタンス組織のリーダー的な人物で、
連合国から最も勲章を授与された婦人軍人の1人でもありました。
レジスタンスの「運び屋」としても優秀で、1943年まで、
ドイツ秘密国家警察ゲシュタポの最重要指名手配者となっており、
その首には5百万フランの賞金がかけられていたといいます。

2003年に98歳で亡くなった後、彼女の遺灰は遺言により
エージェント時代に滞在していた場所に撒かれました。

 

 

SOEの女性の名前は、大戦後まで公に知られていませんでした。
1948年、ダッハウで処刑になった四人のうち、イヤナット・カーンを除く
3名の名前だけがセントポール教会の戦死した52人の女性の碑に書かれ、
そのとき初めて明らかにされることになります。

イナヤット・カーンの名前は、1949年に
ジョージクロス勲章を受賞するまで公には知られていませんでした。

英国は何年もの間、SOEの存在そのものを秘密にしてきました。
1946年までに、SOEは閉鎖され、すべてのファイルは封印されました。
しかも、同年に起きた不思議な火災により、書類の多くが消失し、
生き残ったエージェントも、彼らの戦時中の経験について
決して話さないように指示されていたのです。

SOEの文書は、1998年まで、一般に公開されませんでした。
書類が公開されるようになったのは2003〜2006年の間です。

 

ダッハウでの4人の女性エージェントの処刑に関する事実は
2003年にようやく一般に公開され、それ以来、イギリス政府は
これらのエージェント、特にヌーア・イナヤット・カーンを
第二次大戦中の最大の英雄にするために広報を行っています。

 

それにしても不思議なのは、ダッハウには男性のSOEエージェントもいたのに、
処刑にならなかったどころか、彼らは工場や農場で働く必要もなく、
代わりにキャンプ内で簡単な仕事を与えられていたことです。

たとえば戦後ヴォーグ誌の​​イラストレーターになった
エージェント出身のブライアン・ストーンハウスは、

当初こそ拷問をうけたものの、その後4年半もの間絵を描きながら
穏やかな収監生活を送っていました。

「セルフポートレート」強制収容所ブライアンストーンハウス..jpg収監中の自画像

彼は前述のヴェラ・リーら4名を収容所で目撃しており、
戦後の裁判で証言を行っています。

 

女性の処刑については、ヒトラーから直接カルテンブルンナー、
あるいはヒムラーへと直下で実行命令が下されていたという説があります。

そういう事情からか、囚人の死刑が公にされていたダッハウでも
戦争捕虜、秘密諜報員、レジスタンスのメンバー、
著名な囚人の死刑はすべて厳格に秘匿されていました。

そのうえ、ダッハウの4名は非ユダヤ人女性だったこともあって、
執行者たちはその事実を(特にドイツの敗戦が確定した後は)
隠し、証拠も残さないようにしたのでしょう。

イギリス本国側だけでなく、ドイツ側にも彼女らに関する資料が
残されていないのはそのためです。

 

終わり

 

 

 


ナチス占領下のレジスタンスと「赤いポスター」〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

2020-05-28 | 歴史

ボストンに2019年9月まで存在した第二次世界大戦国際博物館の展示紹介、
今日で最後となります。

前回、連合軍がドイツMCR-1というラジオをビスケット缶に忍ばせて
普及させ、BBCの放送から暗号を送っていた話をしましたが、
冒頭のこのベビーカーは、そこが二重になっていて、このMCRラジオを
こっそり隠しておく収納場所になっていました。

今のように赤外線で外から検査することができない時代ならでは。
バイオリンケースにレジスタンス道具一式を収納し持ち歩いていたのは
フランスマルセル・ヴァンデンベルーエというレジスタンスでした。

前回紹介したイギリス製のMCRラジオのほかに、フランスでも
通信用の短波ラジオが作られてレジスタンスに密かに持ち歩かれていました。

この短波ラジオは皮のスーツケースに隠されて持ち運ばれ、
1944年6月のノルマンディー侵攻の前とその最中に、
随時メッセージを受信して​​レジスタンスグループに情報を伝えたものです。

レジスタンスグループは、連合軍が上陸作戦でビーチに着陸すると同時に、
通信による妨害活動によってドイツ占領軍に混乱を起こし上陸を支援しました。

レジスタンスに命を賭けた人々を顕彰するためのプレート。

この三人の女性は名前もわかっておらず、伝えられていません。
ただわかっていることは、彼女らは1943年6月にフランス北部のリールで、
レジスタンスのメンバーとして射殺されたということだけです。

彼女らの死を示す大理石のプラークの文字、
Reconnaissance「偵察」とは「認識」を意味しますが、
同時に謝辞や感謝という意味を含んでいます。

 

いわゆる「赤いポスター」としてヨーロッパでは有名な
ナチスドイツが制作したレジスタンス23名と、
彼らの処刑後の遺体写真が掲載された宣伝ポスターです。

「解放者?犯罪集団による開放だ」

という赤い文字が踊っています。

首魁とされるミサック・マヌシャンはフランスのレジスタンスの英雄でした。

赤いポスターの写真

生まれはオスマン帝国で、アルメニアの移民です。
アルメニア人虐殺(1915〜6)の生き残りである彼は
ドイツ支配下のフランスで抵抗運動に身を投じました。

彼は仲間と一緒に、1943年にSSのユリウス・リッター将軍の暗殺を含め、
パリのナチス将校とその根拠地に対してほぼ30回の攻撃を行いました。

しかしながら、彼は1943年11月、フランスのヴィシー警察によって
パリ南部の郊外で捕らえられ、拷問と結果が最初から決まっていた裁判の後、
1944年2月21日に、22名のグループメンバーととも処刑されました。

「赤いポスター」のメンバー写真は、いずれも背景が採石場のような同じ場所で、
全員が悲痛な表情をしていることから、処刑直前に撮られたのでしょう。

彼らの死後、ナチスはパリ周辺でこのポスターを貼りました。
マヌシャンは中央の赤い三角形の先端に描かれています。

このポスターが強調しているのは、マヌシャンはじめ抵抗グループが
フランスへの移民で構成されていたことです。

このことを、ナチスはフランス人の嫌悪を掻き立てる材料にしましたが、
パリの人々はこっそり誰も見ていない時を見計って、
ポスターの下に花を置き、またはフランス国旗を貼り付けました。

フランス人レジスタンスのジョルジュ・ブランの模擬処刑風景です。

レジスタンスとして捕らえられ、逮捕後はダッハウに移送されて、
情報を提供するように何回もこのような「模擬処刑」で脅かされましたが、
がんとして供述を拒み続けました。

彼の表情をアップにすると明らかにニコニコ笑っているのですが、
これは覚悟ができていたのか、それともこれが「模擬」であることを
何回めかの経験でわかっていたからでしょうか。

この写真は彼が微笑んでいることから有名になり、模擬処刑の現場は
今でもそのままの形でみることができるそうです。

フランスで発行された「アンチ・ナチス」ポスター。

「彼に仕える裏切り者」

と書かれています。
彼とはもちろん、アドルフ・ヒトラーのことでしょう。

この紙片は、「1789年の革命家にふさわしい自分を示せ」そして
ドイツのフランス占領を妨害することを人々に求めています。
1789年7月14日はバスティーユ襲撃が起きた日です。
フランスでは7月14日を革命記念日としています。

こちらは、1792年、プロイセン相手に戦い勝利した『ヴァルミーの戦い』を
思い出して立ち上がれ、という檄文が書かれています。

いずれも人々の手から手へ、こっそりと渡されるために印刷されたのでしょう。

Eliane Plewman - Wikipedia

イギリスは軍直下の特殊作戦執行部隊(SOE)のエージェントを
占領下フランスに忍び込ませてレジスタンス活動を行わせていました。

この、まるで女優のような美しい女性もその一人で、彼女、
エリアーヌ・ソフィー・プルマン少尉(1917ー1944)は、
占領下のフランスに潜入し活動を行なっていました。

彼女は1943年に特別作戦執行部に加わり、戦闘や武器の扱い、
生存技術や無線通信、爆破装置の使用法について習得した後、
ハリファックス爆撃機から空挺降下によってフランスに潜入、
宅配便業者を装ってレジスタンスが使用する無線機器の輸送を手伝いました。

ゲシュタポに捕らえられた後は拷問を受け、
他の三人の女性SOEエージェントとともに(英国人2、仏人2)
ダッハウまで輸送されて銃殺刑に処せられています。

 

これはエニグマでもスパイ機器でもありません。
第二次世界大戦中のテレタイプ端末です。

印刷電信機、テレプリンタ(英語: Teleprinter)、TTYともいい、
今日ではほとんど使われなくなった電動機械式タイプライターで、
簡単な有線・無線通信を通じて2地点間の印字電文による
電信(電気通信)に用いられてきました。

メインフレームやミニコンピュータのユーザインタフェース用端末としても使われ、
いわゆるパソコン通信も、TTYによる通信方法を応用したものです。

さて、ここからはナチスドイツの戦時下ポスターです。

「SCHWEIG!」とは「沈黙!」という意味で、もちろん
スパイに聞かれるようなことを喋ってはいけないという意味です。

カフェで楽しそうにドイツ軍の軍人が一般人とおしゃべり。
その横で新聞を読むふりして聴いている人が・・・・。

「スパイに注意!会話をする時には気をつけて!」

スペイン語で

「イギリス、自由の擁護者」

と書いてありますが、どうも状況がよくわかりません<(_ _)>
艦船を狙っている爆撃機がRAFのものであることはわかりますが.

アメリカで戦時中発行された戦時国債原本(一番下)、
架空の主婦キャラクター「ベティ・クロッカー」が呼びかける
戦時中の美味しくてヘルシーな料理の作り方、そして
一番上はアメリカでもあった戦時中の配給チケットです。

「ロージー・ザ・リベッター」現象で、戦地に行ってしまった男性の職場に
女性が進出してきた頃の写真です。

ワシントンでは三人の女性がアメリカ初の女性の郵便配達人になりました。

日本では隣組で竹槍を突く練習をしたものですが(って知りませんけど)
アメリカでは女性でもちゃんと本物の銃で訓練を受けていました。

写真はコネチカットのブリッジポートで、地元警察から
サブマシンガンの撃ち方講習を受ける女性たち。

占領された北ヨーロッパで撃墜された連合軍の航空兵の約5000人が、
地元住民の助けを借りて無事に無事に祖国に帰ってきました。

最大12000人のフランス人が彼らを隠し、傷を治療し、
場所から場所へと渡し、ピレネー山脈を越えて中立的なスペインへと導きました。

写真の女性、26歳のバベット・ロシェもこの「地下鉄道」の一人でした。

英語で「Underground Railrord」というと、単に地下鉄のことではなく、
もとも19世紀アメリカの黒人奴隷たちが、奴隷制が認められていた南部諸州から、
奴隷制の廃止されていた北部諸州、ときにはカナダまで亡命することを手助けした
奴隷制廃止論者や北部諸州の市民たちの組織、また、その逃亡路を指します。

第二次世界大戦時の連合国の逃亡網をこれをとって
「地下鉄道フランスバージョン」と呼びますが、アメリカ人ならわかる言い回しです。

さて、というわけで、これでとった写真の分だけはご紹介を終わったわけですが、
最後にこの閉館してしまった博物館について書いておきましょう。

ボストン空港からマサチューセッツターンパイクで20分くらい走ると、
ボストンのベッドタウンでもあるネイティックという街があります。

1999年にオープンし、第二次世界大戦にまつわる七千点以上の所蔵物、
その中には完全な形で保存された103体のマネキン、ルーズベルトの手書きの手紙、
そして日本の軍艦の旗やドイツ軍のドローン「ゴリアテ」を含み、
それこそ国際的なコレクションにおいては世界一とも言われた、

第二次世界大戦国際博物館(THE INTERNATIONAL MUSEUM OFWORLD WAR II)

は、2019年9月1日、予告なく閉鎖されました。

2017年、つまりわたしが訪問する少し前には、ネイティックの展示場の三倍の面積の
新館に移るための準備をしていたということでだったのですが。

貴重なコレクションの多くは、エスティ・ローダーの後継者であり、
世界ユダヤ議会のプレジデントでもある、

ロナルド・ローダー

にすでに売却されていたというのが闇の深そうな一件です。

この件を報じるボストングローブ紙の記事を抜粋しておきます。

 

第二次世界大戦国際博物館は、億万長者のロナルドS.ローダーとの
法的係争中、ある週末に突然閉鎖されました。

「これは突然で非常に予想外でした」

と20年前に博物館を設立したケネス・W・レンデル館長は月曜日に声明を発表しました。

「私は非常に失望し、当惑している。」

コレクションの将来は現在不明です。

2017年、レンデルは、現在の展示スペースの3倍の広さを持つ
新しい建物を調達する計画に失敗しています。

 

2018年末ローダーはコレクションを購入し、それを博物館側に
貸している形で展示を許すという契約を結んでいたのですが、
どういうわけか急にそれを別のところに移すことを決めたらしいのです。

展示品のほとんどは、レンデル氏とその妻が長年かけて買い集めたもので、
それを富豪でありユダヤ人社会で力を持つローダーに召し上げられた、
ということになり、安定した展示とボストンでの博物館オープンを目指すレンデル側は
約束が違う、として裁判で争っていたのですが、その決着がつかないまま、
ローダー側はニューヨークの第三者に移管すると決めてしまったようなのです。


結局どちらにしても見学者の多くが社会科見学の生徒だった状況で、
寄付によって新しい箱が作れなかったことがこの結末につながったということでしょう。

これらの充実した展示物の行方が気になります。
なんらかの形で公開がされることになるのを祈りましょう。

 

 

第二次世界大戦国際博物館シリーズ 終わり


「秋の日のヴィオロンの」 エニグマとMCRラジオ〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

2020-05-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

新しい戦争形態である「ブリッツクリーク」への準備段階で、
ドイツ軍は陸軍部隊があまりにも速く前進するのに対し、
ケーブル式通信では間に合わず、その結果として、
短波の無線に頼らざるを得ないことを認識し始めました。

しかしその形では誰もが短波で送信されたモールス符号を聞くことができるため、
今度は情報の漏洩が懸念されるようになります。
そのため新しく完璧なコードシステムと送信する暗号機が開発されました。

それがエニグマ(Enigma)です。

1918年に特許が申請されて以来、軍が軍用エニグマを完成させ、
運用を
開始したのが10年後の1926年のことです。

ドイツはエニグマ暗号機のシステムに絶対の自信を持っており、
それが決して破られることはないと終戦まで信じていました。

血の滲むような努力によって解読に成功したあとも、
連合国側は解読した事実をドイツ側に悟られないように、
ときには自軍の犠牲をもみて見ぬふりをするという徹底した方針をとり、
ドイツ側を安心させて使い続けさせていたのです。

基本的に、陸軍版エニグマには3つのローター(暗号円盤)があり、
これらのローターの順序は指示シートに従って毎日変更されました。

写真のエニグマは、ドイツ海軍で使用されていた4ローター式のエニグマで、
1942年まで使われていたタイプです。

ローターは奥に見えている4つのスロットに収まった歯車状のもので、
手前がキーボード、本体手前もまたキーボードです。

パソコンの単体キーボードのように使っていたのかもしれません。

これは予備の持ち運び用ケースに入ったローターです。
蓋についているコードについては後述します。

 

キーボードとローターの間にあるのが「ランプボード」で、
キーボードで平文の一文字を打ち込むと、ランプボードの一つが点灯し、
それが暗号文字として表示されます。

逆に暗号文を受け取った時も、キーボードで暗号文を打ち込むと、
あら不思議、ランプボードには平文の方が出てくるという仕組みです。

これさえあれば、全く頭を使わずに暗号の発信と受け取りができるというわけ。

一つのローターで、アルファベットの数26!の多表が得られるので、
3つのローターエニグマで可能な設定の数は、2 x 10から145の累乗となります。

エニグママシンは、極秘の指示シートに従って最初にセットアップする必要がありました。

この指示シートがエニグママシンと一緒敵の手に渡るとコードが危険にさらされるため、
(実際に撃沈したUボートの乗員のポケットからこれが見つかったことがある)
各メッセージに独自のコードが含まれるように、間違いのないシステムが考案されました。

 

それでは、エニグマの暗号の送り方を簡単に説明しておきましょう。

1、送信オペレーターはランダムな3つの文字を選択します。

2、続いてローターをそれらの文字に設定し、これらをモールス符号で
受信する側のエニグマオペレーターに送信します。

3、受け取ったオペレーターはローターをこれらの3文字に設定します。

4、送信者は先ほどと違う3つの新しいランダムな文字を選択し、
それらを自分のエニグマに入力して、3つのエンコードされた文字を得ます。

5、彼はこれらをもう一度無線で送信し、受信側のエニグマオペレーターは、
これらの3つのエンコードされた文字を自分のマシンに入力します。

6、受信側のエニグマオペレーターは、3つのローターを設定し、
送信側と受信側の両方で、マシンを同期させます。

 

これも後述しますが、このオペレーターが人間であるのが災い?し、
「癖」とか「手間省き」という慣れから来る運用の雑さがでることで、
連合国は解読の手がかりをつかんだという面もありました。

ドイツ軍人は、エニグマの機械が敵の手に落ちることを
決して許さないように厳しく指導されていました。
オペレーターは、敵軍に囲まれた場合、または艦艇や潜水艦の乗組員は、
艦が沈没することになれば、必ずエニグマを破壊して脱出しました。
(うっかりポケットに入れたままつかまってしまった人もいますが)

このエニグマは、どういう状況かまではわかりませんが、
ドイツ軍の手によって破壊されたものです。
ローター部分は持ち出して別に破壊したらしくその部分は空洞になっています。

 

このエニグマの前面には数字の打たれたプラグ穴がたくさん開いていますが、
この部分を「プラグボード」といい、後から追加されたシステムです。

プラグボードは野戦で使用される暗号機が盗まれたり鹵獲されたりする事態に備え
後期型に追加されたシステムで、ご覧のようにアルファベット26個分の
入出力端子がついていて、こんな使い方をします。

wiki

任意の二組のアルファベットを、ケーブルで繋ぐと、
文字を入れ替えることができる仕組みで、たとえばこれは
「A」と「J」、「S」と「O」を入れ替えている図です。

戦争中、エニグマのローターに対するオーダーとプラグボードの基本設定は、
8時間ごとに、その後1時間ごとに変更され、また、
ローター設定、個​​々の文字は、すべてのメッセージごとに変更されました。

これは展示されていたエニグマ。
プラグボードにあらん限りのコードを突っ込んでみましたの例。


ちなみにエニグマ本体の上に乗っているのは専用プリンターです。
このプリンターを載せることで、ダイレクトに紙テープにコードがプリントされました。

現存しているエニグマ用プリンターは世界でたった3機で、
ここにはそのうちの一つがあるというわけです。

 

関係各位の努力の結果、エニグマは初期型からすでに解読と、それを知った
ドイツ側がプラグボードなどの追加で暗号を強固にしていくという
いたちごっこと、波状攻撃の繰り返しが延々と行われました。

冒頭に挙げたこのエニグマ暗号機は、なんと10ローター式。
T-52というタイプで、ジーメンス社が制作を請け負いました。
使用者も軍の最高司令部とスウェーデン・スイスの大使館に限られていました。

ここにあるのは、世界で現存する5機の同タイプのうちの一つです。

ローターが3つ、及び4つのマシンで送信されたメッセージを
デコードするのにかかる平均時間は1時間でしたが、
このマシンで送られたメッセージのデコードには4日かかったそうです。

左は3ローターのエニグママシン。右は4ローター式です。
右の4ローター式は海軍で使用されていたものです。

 

さて、繰り返しますが、ナチスの絶対的な自信にもかかわらず、
イギリスは1941年にメッセージを解読することに成功しました。

これは、1932年に初期のエニグマ解読を行った若干27歳のポーランド人
数学者、マリアン・レイエフスキの貢献が大でした。

マリアン・レイェフスキ - Wikipediaマリアンだけど男です

連合軍の指導者たちは、最終的にはイギリスのブレッチリーパークにあった
政府暗号学校(特にアラン・チューリング)の解読が
二次世界大戦の勝利に貢献したと信じています。

ドワイト・アイゼンハワー司令官は、エニグマ解読が勝利を決定づけたとし、
ウィンストン・チャーチルは、イギリスのシークレット・インテリジェンスサービス
SIS、またはMI6)の責任者であるスチュワート・メンジーズを、
国王であるジョージ6世を紹介したとき、彼を自分の「秘密兵器」を紹介し、
エニグマ解読チームが「戦争に勝つためのツールだった」として賞賛しました。

ヒンズリー(左)

ブレッチリーパークでチューリングとともにコードブレークを行った
ハリー・ヒンズリー卿は、彼と自分の同僚が、戦争を
「2年以上、おそらく4年」短縮したと主張しています。

彼は、第二次世界大戦後、イギリスの諜報活動の歴史の専門家になりました。

 


戦争が終わったとき、連合軍が最も恐れたのは、ソ連がこちらより早く
エニグマの機械を捕獲し、中身を改良して利用することでした。

ですから彼らは、エニグマのマシン提供に7500ドルの報奨金を提供し、
博物館に寄贈される予定にないマシンのすべてを破壊したとされます。

 

ところで、エニグマが解読された理由やきっかけはいくつもありましたが、
その一つが先ほども述べたように

「エニグマ運用の際の心理」

を追求することによって突破口が開いた例でした。

特にドイツ側ではエニグマが決して破られることはないと安心していたため、
送信オペレーターは、ついつい油断して、これらすべてのランダムな文字を
毎回新しく設定する必要はないと考える傾向にありました。

彼らは、自分にとって日常的なルーチンをこなしているこの瞬間にも
暗号解読は試みられていることに気づいていなかったのです。

というわけで、ドイツの送信オペレーターが無意識に選んでいた
最も一般的な
「ランダム」な6文字ベスト3はというと、

HITLER

BERLIN

LONDON

だったそうです。
全然ランダムじゃねーじゃん!
とおそらく連合国のコードブレーカーは心の中でツッコんだことでしょう。

ある「怠け者の」オペレーターなど、よっぽど変えるのが面倒だったのか、
戦争中ずっと「TOMMIX」の六文字を一度も変えずにを使用していたそうです。

これ自分の名前からとった(トーマスとか)とかだったら笑うな。

クレジットカードは取得された時に備えて、暗証番号に
推測されやすい誕生日などを使っちゃダメ、
と今でもいいますが、
こういうことなんですよね。

さて、話題を変えて、こんどは連合国軍側の暗号についてです。

ナチスに征服された国の一部の市民はその支配を受け入れましたが、
受け入れがたいとした人々は、占領者に抵抗するために
レジスタンスとなって大きな個人的リスクに身を置きました。

同盟国はさまざまな方法でこれらのレジスタンスグループと連携し、
彼らを外からサポートしようとしました。

イギリスの特殊作戦執行部(SOEやアメリカの
戦略サービス局(OSS)などの諜報機関は、
秘密裏に支援をおこないつつ、敵に関する情報を密かに収集しました。

第二次世界大戦で戦った両陣営は互いに心理戦を行いましたが、
特にこの手の技術に優れていたのイギリスだったそうです。

彼らはあたかも本物のようなドイツの新聞、配給カードや文書を制作し、
敵を撹乱し騙すことにかけてはヨーロッパ一ともいわれていました。

さすがのちのスパイの本場です。
ところでこんな話をしていたらふと、

「ジェームスボンドになりたかった男・イアンフレミング」

をまた観たくなりました。

ヨーロッパ全土のレジスタンスグループは、BCRブロードキャストと
それらに含まれることがあるコード化されたメッセージを聞くために
MCR-1ラジオなるものを利用しました。

MCRラジオは特殊作戦執行部隊(SOE)のジョン・ブラウン大佐が開発した
秘密受信機です。

SOEと特殊部隊による使用を目的としており、水密に密封された
缶詰スチールビスケット缶で配布されたため、
「ビスケット缶レシーバー」というニックネームが付けられました。

信頼できる定期的なコミュニケーションを確立することは、
ドイツの占領に対するレジスタンス活動にとって不可欠だったので、
第二次世界大戦中、MCR-1は多くのヨーロッパ諸国で、
レジスタンスグループに非常に人気のある受信機になりました。

BBC放送の受信、英国首相のスピーチ、およびその他の国の首脳の言葉。
多くが占領下のヨーロッパに向けて密かに発信されました、

レジスタンスのためにメッセージをコード化して
放送中に紛れ込ませて伝えるということもありました。

たとえばVIPの到着や次の爆撃の確認などです。

有名な話では、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の際
SOEがフランス各地のレジスタンスに工作命令を出すための暗号放送として、
ヴェルレーヌの「秋の歌」の冒頭が使われたというのがあります。

具体的には「秋の日の・・・」が何かの形で朗読されれば
「近いうちに連合軍の大規模な上陸作戦がある」

後半の「身にしみて・・・」なら、
「放送された瞬間から
48時間以内に上陸作戦が行われる」

そのことは前もってこのMCRラジオを通じて連絡されていました。

「秋の日の」は6月1日・2日・3日、それぞれ午後9時のBBCニュースの中で
「リスナーのおたより」として流され、「身にしみて」は
6月5日午後9時15分から
数回にわたって放送されました。

こんなに何度も同じ詩のフレーズを短期間に紹介すれば気づかれるのでは?
しかも秋の日でもなんでもない6月に。

と思ったのはわたしだけではなく、もちろんドイツ側は暗号を解読しており、
ラジオをチェックしていた軍は上陸作戦の暗号だと察知しました。

しかし、詰めが甘いというのか、いくつかの部隊に連絡がついたものの、
肝心の
ノルマンディー地方にいた第7軍に連絡がつかず、
一番大事な警報が伝えられるべきところに伝えられなかったそうです。

・・・・・ドンマイ。

 

続く。

 

 

 


ヒトラーヘイトグッズとホロコースト〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

2020-05-25 | 歴史

ボストン西部のネイティックにあった第二次世界大戦博物館から、
今日はナチスとヒトラーディスカウントに関する展示をご紹介します。

まず冒頭の写真は、アメリカで第二次世界大戦中出回っていた
ヒットラー関連グッズのうち、トイレットペーパーホルダーで、

Wipe Out Hitler

とヒトラーの似顔絵が最初にだけ印刷されたトイレットペーパー付き。
ワイプアウト、というのはそのまま壊滅させるという意味ですが、
ワイプ=拭く、とかけているというわけです。

チョビ髭を生やし、黒い髪を横分けにしておけば
とりあえず全然似ていなくてもヒトラーだと思ってもらえることから、
当時のアメリカではこういう愚にもつかないヒトラーグッズが
次々と生まれたり、盛んにカリカチュアが描かれたりしたようですね。

上のスカンクの木彫りの人形は、顔だけがヒトラー。
いったいこんなもの誰が買うと思って作ったのか。

左の絵はがきは、米中ソ英の軍隊が旗を立てて祝う日、
それはヒトラーが絞首刑になり、枢軸国の首脳が牢屋に入るとき・・・、
という図です。

前にも書きましたしこの絵を見ても思うのですが、
ヒトラーとムッソリーニはそうと分かるとして、それでは
日本の首脳って・・・・・これ誰ですか?

眼鏡をかけつり目で出っ歯、というステロタイプの日本人は
アメリカ人が独裁者呼ばわりしていた東條英機にも、ましてや
わが天皇陛下にも金輪際似ていません。

そもそも日本はドイツやイタリアと違い、独裁政治の国ではないので、
こういうときにヒトラーやムッソリーニと一緒に出てくるのは国民感情抜きにして
「解せぬ」って思うんですけど・・・まあアメリカ人にはどうでもいいのか。

ヒトラー総統、そうかと思えばロバにもなってしまいます。
Jackass、ジャッカスとは「間抜け」とかいう意味なのですが、
このゲームは、

「アドルフのお尻に尻尾を打とう」

って、全く意味がわかりません。
ヒトラーを馬鹿にしたい気持ちだけは大いに伝わってきますが。

その上のカードは、ヒトラーが便器から顔を出して、
「BENITO!」(ベニート、ムッソリーニのファーストネーム)
と枢軸国の中間を呼んでいます。

臭いもの同士一緒に入りましょう、ってか?

何かと下ネタを絡めてくる傾向は、アメリカ人の子供っぽさを表しています。

ヒトラーがお尻を突き出している人形、これはどうもピンクッションらしいですね。
ここに針を打つたびに「このヒトラー野郎!」とか罵ってやると一層効果的です。

上の金属プレートはもしかしたら車のフロントに掛けるものかもしれません。

「ヒット・ヒットラー 、ボイコット・ドイツ」

さしずめ日本語ではヒットラーをひっとらえろ、みたいなノリですかね。

左下はヒットラーの肖像画に「殺人罪で手配中」と添えてあります。
もしかしたらバッジかもしれません。(誰がつけるんだこんなもの)
ちょっと注意していただきたいのは、このバッジにさりげなく

アドルフ・シックルグルーバー、通称「ヒトラー」

とありますが、この「シックルグルーバー通称ヒトラー」は訳ありで、
というのは、ヒトラーの父アロイスは、もともと
シックルグルーバーという姓の未婚女性の私生児でしたが、
その名前を嫌って母の再婚相手の「ヒードラー」を名乗り、
それがいつのまにか「ヒトラー」になったという経緯があるのです。

つまりヒトラーというのはいきなり彼の父が創作し名乗った「通名」で、
ヒトラーの法律的な本名はシックルグルーバーだったということを、
当時のアメリカ人が
知っていたということになります。

このなんとも言えない響きの本名を揶揄しているというわけですが、
わたしも昔読んだナチス本のなかに、

「このこと(父親がヒトラー性を”創作”したこと)は、
将来のドイツ国民にとって
幸福だったと言えるだろう。

国民が手を挙げて『ハイル・シックルグルーバー!』と叫ぶ様を想像してみるが良い」

というようなことが書いてあった覚えがあり、大いに同感したものです。

思うんですが、もし仮に彼の名前がシックルグルーバーだったなら、
あそこまでカリスマ的指導者となり強大な権力を掌握できたでしょうか。

 

ちなみに、手塚治虫の「アドルフに告ぐ」のテーマになったり巷間囁かれていた
ヒトラーが実はユダヤ人だった、という説は今日では否定されています。

アンクル・サム(米)熊(笑・ソ連)英国紳士が、
ヒトラー著、「我が闘争」(MEIN KAMPF) のページに
枢軸国首脳を挟んで
押し潰してしまおうとしております。

ここにも眼鏡つり目出っ歯の謎の日本人が登場します。
だからこれ誰なんだよ!

しかし、この絵の中で戦後アメリカの敵となるのは熊だけだなんて、
このときは何人たりとも思っていなかったでしょう。

当博物館閉館のローカルニュースを見ると、そこには
いわゆるホロコーストを生き延びた94歳の生存者から
当時の話を聞く社会科見学の生徒たち、という記事がありました。

ここには、大変充実したユダヤ人絶滅収容所などホロコースト関係の展示があるからです。

当博物館の展示品を実業家にしてユダヤ人議会の大物、ロナルド・ローダー
(エスティローダーのトップ)
が買い取ったというのも、
この所蔵品が目当てだったのかもしれないという気がします。

 

まず、壁にかかっているのが囚人を打った鞭各種。

右側の囚人服を着ていたのは、ヨーゼフ・ヴォルスキーというポーランドの人で、
彼はアウシュビッツ、マウトハウゼン、ブーフェンヴァルトにいた、とあるのですが、
三つの収容所はそれぞれポーランド、オーストリア、ドイツに存在するもので、
本人が嘘をついていたのでなければきっと何かの間違いではないかと思われます。

Nur für Arier!
Juden unerwünscht!

(アーリア人専用!ユダヤ人禁止)

という看板は第三帝国では公園、遊園地、劇場、あらゆるところにありました。

ナチス国家にとって、ユダヤ人の隔離政策は不可欠とされました。
ナチスの反ユダヤ主義の最も重要な側面の一つは、彼らを
肉体的にも排除していこうとする徹底した政策を実現したことです。

1937年から38年にかけては、ユダヤ人と非ユダヤ人の間で
物理的な接触が起こらないようにする措置が奨励されました。

アメリカの政治家にはユダヤ人が入り込んでいる、というプロパガンダ。

左、バーナード・バルークはルーズベルト政権の顧問として力を持っていた政治家で、
メリルリンチの共同経営者、「影の大統領」とも呼ばれた政界の黒幕です。
「冷戦」という言葉の生みの親であり、またマンハッタン計画にもかかわり、
京都への原子爆弾投下を強く主張していた人物でもあります。

中、ヘンリー・モーゲンソーはルーズベルト政権の財務長官を務めました。
戦後、ドイツから農業以外の全ての産業を奪うという「モーゲンソープラン」
あまりにユダヤ人としての私怨が絡んでいて実現性にも欠け、却下されています。

右、フェリックス・フランクフルターは法律家で、
アメリカ合衆国連邦最高裁判所陪席判事を務めました。
民間人でありながら、ドイツに対する攻撃的な姿勢が買われて
陸軍航空軍の長官を務めたスティムソンのもとで弁護士を務めました。

スティムソンは日本に対しても強硬派で日系人の強制収容を推進し、
また、原子爆弾の製造と使用の決断を管理する立場にありました。


このほかにも、ドイツのジャーナリズムは一斉に反ユダヤ的な
キャンペーンを行い、政権を後押ししました。
戦後ドイツはその責任の全てをナチスに押し付けていますが、
あそこまで徹底的なことができた背景には、もともと国民のなかに
根深いユダヤ人嫌いの傾向があったのは否定できません。

たとえばミュンヘンで発行された新聞、「デア・シュテュルマー」は、

「ユダヤ人は我々の不幸である」

という反ユダヤのスローガンを掲げました。

「ドイツの女性よ、少女たちよ!
ユダヤ人はあなたたちを破壊する」

この過激なキャンペーンは、すぐさまドイツ国内のみならず、
世界中で有名になり、新聞のコピーは瞬く間にアメリカ、ブラジル、
カナダ、その他のドイツ移民集団に行き渡りました。

もちろんそれはキャンペーンを非難するうねりとなって帰ってきました。
主に猟奇的な性犯罪を論って激烈で下品な煽動をおこなったため、
他の党幹部や国防軍の将校達、ナチス支持者の財界人などからさえ
批判の声が上がっていたといわれています。

Bundesarchiv Bild 146-1997-011-24, Julius Streicher.jpgムッソリーニリスペクト?

このキャンペーンを張った「デア・シュトルマー」紙の発行者、
ユリウス・シュトライヒャー(1885-1946)は、戦後捕らえられ、
ニュールンベルク裁判で
ユダヤ人迫害の煽動をした罪で絞首刑に処せられました。

シュトライヒャーが処刑されたのは、彼が単に新聞発行者ではなく、
ナチス党員の指導者的な立場でもあったからです。

昨年夏、アメリカで借りていた部屋で無料の映画などを見まくったのですが、
その中にアメリカのテレビが制作した

「ヒトラーの子供たち」Hitler's Children

という番組がありました。

Hitler's Children - Education Episode 3 of 5

動画の26:24と27:12に、この器具でSSの医師に
頭蓋骨の形を計測されている
ドイツの子供の映像が出てきます。

ナチスのアーリア人至上主義に始まる人種政策は、
身体的特徴が人種を示すという概念を含む「疑似科学理論」に基づいており、
こういった道具や、映像にも出てくる瞳の色を調べるチャートなどを使い、
人種のカテゴリーを分類するためのテストを行いました。

彼らの思うところのアーリア人種的要素が多ければ多いほど、
優秀なドイツ人であるとされたのです。

このことはアーリア系の選民意識をくすぐると同時に、そうでない人種を蔑み、
彼らを排除する政策になんの疑いももたない子供が育っていきます。

戦後の戦犯裁判で、ユダヤ人収容所での殺害で起訴されたドイツ人は、
かなり上の位の将校クラスであっても、口を揃えて

「ユダヤ人を絶滅させることはいいことだと信じていた」

と証言しています。
全てがこういった似非科学に基づく教育と宣伝の賜物でした。

左の木の看板は劣化している上亀の甲文字で読めなかったのですが、
「ユダヤ人と、ここなんとか」
と書いてあります。

その下の絵は収容所から自由になった囚人たちが描かれていて、
オランダ語で、

ハッセルトの元戦士の団結した戦線、都市の政治犯に感謝
(直訳)

とあります。
なんかようわからんが自由になったオランダ人囚人が描いたと見た。

 

ちなみに、所蔵品のリストを見る限り、こういったホロコースト関係の
囚人服や遺品などの展示物は全部展示できないくらいたくさんあるようで、
わたしが見たのも全体のごく一部のようです。

1933年、ナチスが政権を握ったとき、彼らは

「ユダヤ人は人間以下であり、社会から完全に排除されなければならない」

という信念に基づいて、一連の法律と社会的措置を実行に移しました。

まず、法律の適用を外し、経済的に、そして社会生活から
徐々にユダヤ人を排除していくという方法が取られます。

そして、ドイツの侵攻と東ヨーロッパとソビエト連邦の占領をきっかけに、
大量処刑が行われた後、大規模な最終解決のための強制収容所が設立されました。

戦争の陰で、600万人のユダヤ人の男女、子供たちが、
ドイツ国家の意図的な行為によって組織的に殺害されたとされます。

チクロンBのラベルも当博物館の展示の一つです。
チクロンはドイツ語発音に近く、英語では「ザイクロン」と発音しているようです。

もともとチクロンBは1920年代に開発されたシアン化合物ベースの農薬でした。
1941年8月、アウシュビッツでソ連の捕虜を部屋に閉じ込め、化学物質を注入し、
処刑したのが、捕虜を殺す方法として用いられるようになったのです。

そしてアウシュビッツービルケナウ、マイダネック収容所などに
特別なガス室が建設され、
いわばより効率的な殺害プロセスが可能になりました。

戦時中にはユダヤ人を含む約100万人がチクロンBで殺害されたとされます。

 

続きます。

 

 

 


ノルマンジー上陸作戦〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

2020-05-23 | 歴史

昨年惜しくも閉館してしまったボストンの軍事博物館、
第二次世界大戦国際博物館の展示から、今日は
ノルマンジー上陸作戦に関する展示物をご紹介していきます。

まず、冒頭のわかりやすい形の戦車はシャーマンです。

シャーマン戦車は北アフリカに遠征したパットン軍で最初に使用されました。
1945年の段階でアメリカは日本への本土侵攻を計画していたため、
それに備えて、幅広のトレッドが装備され、火炎放射器が付加されました。

アーミーナイフが三本見えますが、いずれもノルマンディ上陸作戦の時に
参加した兵士が携えていたものです。
下は、南北戦争の時に誂えられたもので、由来はわかりませんが、おそらく
祖父の遺品などではないかと思われます。

上はハチェット(hatchet)ナイフで、空挺部隊が電線や電話線を切断するために
身に付けていたものです。

右写真は、Dデイでめざましい働きをした397大隊のリチャード・バイエル
(ドイツ系ですね)の功績を称えて
勲章が与えられているところです。

マネキンがきているのはアメリカ軍のレンジャー部隊の軍服です。
間話梯子やロープなど、全て実際にDデイでレンジャーが使用したものです。

鍵のついた道具を「グラップリング(ひっかけ)・フック」といいます。
アメリカ軍のレンジャーは、上陸作戦のひとつPointe du Hoc、つまり
「オック岬の戦い」で海際にそびえる30mの崖を登るのにこれを使いました。

こんな崖

ノルマンディ上陸作戦のことを多少でもご存知の方は、

「オマハビーチ作戦」

という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。
オック岬は、オマハビーチ侵攻の際、アメリカ軍のレンジャー部隊8個中隊が
崖を登ってその上のドイツ軍要塞を攻略したポイントです。

Call of Duty 2 (日本語化)オック岬の戦い

ゲームの映像ですが、この崖が想像しやすいのでぜひご覧ください。
このとき、「ブラッディ・オマハ」と言われたほど米軍は多くの犠牲を出しました。

崖の上で防衛をしていたドイツ軍は精強部隊だったのに対し、米軍は
海岸線から5キロも手前で戦車の進軍を開始するというミスを犯したため、
シャーマン戦車32台のうち27台は2mの波をかぶってしまい、
水陸両用であるのにもかかわらず、上陸に大変な困難をきたしたこと、
また、上陸する兵士の多くが船酔いと緊張、疲労、そして濡れた戦闘服のため
砂浜を走って移動することもできなかったといわれます。

このことについてアメリカ軍の公式記録には、

「上陸用舟艇のタラップがおりた瞬間、先導の中隊は活動不能、
指揮官不在、任務遂行不能となった。
指揮をとる全ての士官と下士官はほぼ死亡もしくは負傷した。
部隊は、生存と救出のためもがいていた」

と記されています。

ここに投入された第二レンジャー大隊の攻撃目標は、崖上のコンクリート要塞でした。
彼らは敵の熾烈な砲火の飛び交う中、ロープと梯子を用いて高さ約30mの崖を登り、
ユタとオマハを射程とした要塞内の砲を破壊せんとしました。

この戦いで精強で鳴らした225名のレンジャーのうち半分以上が戦死し、
作戦終了後に生き残ったのはわずか90名でした。

最終的にレンジャー部隊は到達に成功し、敵の砲を破壊することに成功しました。

 

また、この戦闘で、現地のフランス人がドイツ軍の補助を行ったとして、
戦闘後、アメリカ軍は彼らを民間人にもかかわらず処刑しています。

ちなみにこれが現在のポワン・デュ・オック
上から敵が狙いを定めているのに、よくこんなところから
攻めようと思ったなとおもうレベル。

General of the Army Omar Bradley.jpg

この戦いの指揮官はあのオマー・ブラッドレー将軍です。

ヨーロッパ戦線参加国兵士たちの軍服一覧。壮観です。

右、英国軍空挺隊員軍装

イギリス陸軍第16空中強襲旅団隷下の空挺部隊で、パラシュート連隊とも。

左、英国軍グライダー操縦士

英国軍は、一箇所にまとめて兵力を着地させられることから、落下傘よりも
強襲揚陸にはグライダーを有用としていたようです。

マーケット・ガーデン作戦中にアーネムに着陸したハミルカー

戦車も持ち運べる大型のグライダー、ハミルカー
ゼネラルエアクラフト社の製品で、これはマーケットガーデン作戦で
畑に着陸したハミルカーを別の航空機から撮ったものです。

ノルマンディ上陸作戦にもハミルカーは投入されました。

どちらも第82空挺部隊降下兵

恐れを知らない精強部隊を謳うこの師団のあだ名は
「オール・アメリカン」🇺🇸
師団創設時、出身者が全州に及んだことからこの名前がつきました。

「スクリーミング・イーグルス」というあだ名の
第101空挺師団とともに
ノルマンディ上陸作戦、マーケットガーデン作戦に参加しました。

アメリカ軍空挺隊が使った落下傘からは、ダミーの降下兵がぶら下がっています。
このダミーも実際に降下を行いました。

ノルマンディ作戦の嚆矢はトンガ作戦と名付けられた空挺でした。

まず上陸部隊の開始に先立って、「オールアメリカン」「スクリーミングイーグル」
の米空挺部隊、
そしてイギリス第6空挺師団が、降下を開始。

英軍第6師団は第一波パラシュート、第二波グライダーで強行着陸を試み、
内陸侵攻に必要な橋を確保したものの、砲台の攻略は困難を極めました。

米軍空挺師団はコタンタン半島に降下しましたが、こちらもまた、
パイロットの経験不足で部隊は広い範囲に散らばってしまいました。

前もって連合国軍の侵攻を予期していたドイツ軍は、空挺部隊の行動を阻むため
川を堰き止め一帯を沼状にしていたため、多くの兵士が沼に落下して溺死
輸送機から降下するのが遅れたものは海に降下して溺死していきました。

 

輸送機は西から東へ進んだのだが、半島を横切るのに12分しかかからず、
降下が遅すぎた者は英仏海峡へ落ち、早すぎた者は西海岸から冠水地帯の間に落下した。

…ある者は飛び降りるのがおそすぎ、下の闇をノルマンディだと思いながら
英仏海峡へ落ちて溺死した…

いっしょに降下した兵士たちはほとんど重なりあうようにして沼に突っこみ、
そのまま沈んだきり上がってこない者もあった。
         

— コーネリアス・ライアン「史上最大の作戦」

 

真ん中、イギリス海軍のコマンドー(奇襲特殊部隊)、ブリティッシュ・コマンドス
右はフランス軍特殊部隊です。
フランス軍第1海兵歩兵落下傘連隊がノルマンディに参加しています。

Men wading ashore from a landing craft

この写真はノルマンディ上陸作戦を行うブリティッシュ・コマンドス。
緑のベレーを被った隊員たちが舟艇を降りて海岸に向かっています。

イギリス陸軍歩兵

横に自転車がありますが、自転車部隊は主に枢軸国の専門だったようです。
我が日本の自転車部隊は「銀輪部隊」と呼ばれていたとか。
自転車部隊じゃあまりかっこよくないから付けられたような名前ですね。

ちなみにこれが自転車に乗ったドイツ軍の伝令兵。
自転車の前にある柄の長いマラカスみたいなのは(笑)
パンツァーファウストといって、携帯対戦車擲弾発射機です。

後ろにあるのは上陸を報じる新聞などですが、
後ろのポスターはオランダ語で、

「侵略 連合国の墓地」

と書かれています。
オランダはもちろん当時連合国側だったわけですが、
(交戦勢力を見ると、12カ国対ドイツでひでー、って思います)
オランダ国内に向けてドイツが行っていたプロパガンダだと思われます。

Dデイ以前、ドイツは大西洋沿岸「大西洋の壁」は連合軍を防ぐための
強力な防御施設であるとして、

「ドイツの背後を突こうとする連合軍を大西洋に突き返す」

と内外にプロパガンダしていました。

上陸作戦で使われた武器のいろいろ。
マシンガン、手榴弾からナイフ、何に使うのか黄色い「危険」の旗。

地雷を埋めたところに目標にしたのでしょうか。

上は無反動砲の祖先みたいな感じですね。
対戦車砲ロケットランチャーかなんかでしょうか。
細かい説明は現地にありませんでした。

右下は、第377師団のエドワード・ボール一等兵がイタリア戦線で
戦死したことを、ケンタッキーのハニービーに住む母親、ローラに向けて
通知をした戦死告知で、タイプされた部分は消えてしまっているものの、
手書きの部分だけが残っていて、そこから

「Instant Death」(即死)

「By Bomb Fragments In Stmach.」

「Killed By Fragment 」「duties well」

という文字が微かに読み取れます。

左は第18歩兵のリチャード・コンリー中尉が、「勇敢に」
「敵のストロングポイントを破壊し敵を排除しながら進んでいったが」
「レジスタンスの抵抗に遭い、重傷を負った」ことに対して叙勲されたときの
表彰状とシルバースター勲章です。

イギリス軍の空挺団が上陸作戦に携行していた手榴弾など。

さて、ここからはドイツのノルマンディ上陸作戦までのプロパガンダポスターです。

映画をもじって

「紳士はブロンドがお好き・・・でも」

「ブロンドが好きなのは強くて健康な男。
決してcripples (不具)ではありません」

「あなたは本当に幸福になれると思いますか?
それはそのことはたくさんの不具者たちがそうなるまで考えていたことです」

これらのポスターは上陸した連合国兵士にばらまかれたものです。
「あなた」とは、今のところ五体満足な兵士たちで、戦争に行けば
ブロンド娘に好かれることなどなくなるよ、と脅しているのです。

「あなたのヨーロッパでの最初の冬」

厳しい寒さの中鎌を持って迫ってくる死神。嫌な予感しかしません。

Dデイにひっかけて、「D(EATH)マーチ」は死の行進・・。

「あなたをお待ちしています」

待たれたくない・・・。

「お父さん、おうちに帰ってきて・・・・・」

こんな年頃の女の子でもいれば、思わず国に帰りたくなってしまうこと請け合いです。

WAITING IN VAIN - FRONT

故郷で帰りを待つ愛しい女性。
戦地で彼女を置いて死んでいくことの虚しさ・・・。

情報の極端に少ない状況でこのようなプロパガンダビラは
絶対と言わないまでもネガティブな心理的効果を与えるのに
そこそこ効果的であったと考えられます。


ドイツ軍は侵攻後の連合国軍兵士の戦力を少しでも削ぐために
情報戦としてこういうことまでしていたということなんですね。

なぜこんなポスターがここにたくさんあるかというと、
それはアメリカ兵が向こうで取得したのを持ち帰ってきたからです。

歴史的資料というか、戦地「土産」にするつもりの人もいたでしょう。

 

続く。

 


「太平洋の翼」 第二次世界大戦航空史〜スミソニアン博物館

2020-05-22 | 歴史

スミソニアン博物館プレゼンツ、「第二次世界大戦における航空史」
二日目です。

太平洋の空の戦争

1942年の終わり、アメリカ軍は反撃に出ました。
海軍と海兵隊の兵力をガダルカナル島とソロモン諸島に上陸をさせ、
日本軍を防戦一方に追い込む作戦です。

1943年には、アメリカ軍の対日本オペレーションは
総稼働状態といってもよく、ダグラス・マッカーサー率いる米陸軍は
オーストラリアの同盟軍とともに日本軍が占領していた
ニューギニアの北海岸を占領し、後にフィリピンを開放した。

一方、チェスター・ニミッツ提督は、それと並行して、ギルバート、マーシャル、
マリアナ、キャロライン諸島を経由し、太平洋中央部への進出を推し進めた。

いわゆるHoppingーisland(飛び石)作戦ですねわかります。

航空戦における圧倒的な勝利は、1944年の夏、マリアナ海沖海戦での

「マリアナ海の七面鳥撃ち」

で、これ以降アメリカ軍は制空権を得ることになりました。

1944年以降、マリアナ諸島のテニアン島から出撃した
B-29スーパーフォートレスによる戦略爆撃は、
1945年8月の広島と長崎への原子爆弾投下をもってその頂点に達した。

 

太平洋戦線(パシフィックシアター)に出撃した、陸海空海兵隊の
代表的な航空機が紹介されています。

まず、ノースアメリカン、B-25ミッチェル

水煙が立っていますが、下に見える駆逐艦は日本軍のものでしょうか。

ヴォート F4Uー1Dコルセア

スミソニアン所蔵のコルセアはまるで空を飛んでいるようです。

グラマンF6F−3ヘルキャット

ヘルキャットもここでは空を飛んでいます。

ロッキードP-38ライトニング

わたしはスミソニアンでライトニングの実物を始めて見ました。

広島に原子爆弾を落としたB-29「エノラ・ゲイ」の下に、
まるで寄り添うように置かれていたのがP-38です。

太平洋戦線ではめざましい活躍をみせたP-38の、いわゆる
「大金星」は、1943年4月18日、

「真珠湾攻撃を計画した山本五十六元帥の乗った三菱G4M
『ベティ』(一式陸攻)を撃墜した」

ことでした。

アメリカ側は山本長官の乗った機の飛行予定を暗号解読していましたが、
ブーゲンビルを飛び立った山本長官機を捉えるためには
秒単位のタイミングが必要でした。

この攻撃を可能にしたのは、何事も時間通りに計画を遂行する
日本軍の「慣習」であり、アメリカがそれを信頼していたことです。

 

P-38は日本軍の搭乗員に「ペロハチ」とあだ名をつけられていました。

「P」を「ぺ」、「3」を「ろ」とあえて読んだこの名前は、
日本軍の搭乗員がベテラン揃いだった最初こそ

「ぺろっと食える(撃墜できる)」

という意味だったのですが、激しい空中戦で徐々にベテランが倒されるうち
主客逆転し、「ぺろっと食われる」側となってしまいました。

したたかなP-38は太平洋で他のどの戦闘機よりも多く日本機を撃墜し、
リチャード・ボングらのエースを輩出しています。

スミソニアン別館のP-3Cの近くには、やはり同じ双胴の

ノースロップP-61 ブラックウィドウ

も展示されています。

ロンドンへの夜間爆撃を受けて対抗するために開発された夜間戦闘機、
ブラックウィドウは、終戦間際に日本への攻撃を行ったことがあります。

現存する機体は3機であり、これはそのうちのひとつです。

コンソリデーテッド PBYカタリナ

飛行艇PBYは、雷撃や救難艇として太平洋で活躍しました。

PBYはスミソニアンにはありませんが、同時代の水上艇、
ヴォート-シコルスキー OS2U-3キングフィッシャー
なら見ることができます。

キングフィッシャーはアメリカ海軍の初期の艦搭載型水上艇で、
第二次世界大戦中は偵察機として運用されていました。

太平洋では多くの搭乗員を海から救出しましたが、その中の一人に
第一次世界大戦時のアメリカのエース、

RickenbackerUSAF.jpg

エディー・リッケンバッカー(1890〜1973)

と彼が乗っていたB-17の搭乗員がいます。
リッケンバッカーは機が撃墜されて海を漂流しているところを
23日目にキングフィッシャーに救出されました。

リッケンバッカーはのちにイースタン航空の社長になっています。

ここにヘリコプターの写真が出てきてちょっとびっくりです。
第二次世界大戦中はヘリコプターの運用はなかったと思っていたので。

シコルスキーR-6A ホーバーフライ

は、1944年に陸軍に納入され、砲兵部隊の着弾観測任務、
そして連絡用に使用されていたということです。

 

ヨーロッパにおける空の戦争

 

ドイツ空軍、ルフトバッフェはヒトラーのヨーロッパ、北アフリカ、
ロシア征服の野望のために重要な役割を演じた。

しかしそのルフトバッフェは、1940年夏と秋のドラマティックな
「バトル・オブ・ブリテン」で最初の大きな逆転に苦しめられることになる。

ロイヤル・エアフォースの戦闘機は、ヒトラーのイギリス侵略のための
いかなる計画をも阻止し、ドイツ軍を駆逐した。

ホーカー・ハリケーンとスーパーマリン・スピットファイアーは、
イギリス製の最新兵器早期警戒レーダーの助けを借りることで、
1940年のバトル・オブ・ブリテンにおいて
ドイツの爆撃機に対抗することが可能になったのでした。

 

1943年、イギリスとアメリカはドイツの産業および
都市の中心地に対する複合爆撃攻撃を開始した。

写真は、1943年8月、B-24爆撃機がロマーニャの
ポロースキーにある油田を攻撃しているところです。
大変費用のかかったといわれるこの攻撃は、ドイツの戦時工業から
主要な製油所の一つを奪うことを目的に戦略的に行われました。

 

ボーイングB-17フライングフォートレスコンソリデーテッド
B−24リベレーターは、ヨーロッパにおける日中高高度からの
爆撃作戦に最も多く運用された航空機です。

そのうち航続距離の長い戦闘機が爆撃機をエスコートすることで
攻撃の効果が高まり、さらには搭乗員の生還率も大きく上がりました。

ドイツ上空で爆撃を行うB-17。

爆撃機は常に対空砲の脅威にさらされていました。
何百機ものB-17、B-24、そして何万人もの航空機乗員が、
ヨーロッパにおける戦略爆撃の任務中に失われています。

 

第二次世界大戦中の戦略的航空力

このように、戦略的爆撃は敵の軍事的、戦時的、および経済的基盤に
強力な打撃を与えることができました。

加えて空軍は、戦略的に敵の軍事通信線に対し、
直接(近接支援)
および間接(妨害)となる攻撃を実行しました。

「ポスト・ノルマンディ」としてヨーロッパを超えて
その掃討がドイツに及んだとき、アメリカの戦術航空機、
とくにリパブリックP-47サンダーボルトは、アメリカ軍の
空中優位性を獲得する上で重要な役割を果たし、
同盟国の勝利への道を開きました。

中型爆撃機マーチンB-26マローダーは、同盟国陸軍の進攻を
近接支援するのに非常に集中的に投入されました。

最強の連合軍司令官と言われた
ドワイト・D・アイゼンハワー元帥(左から二番目)が
ノルマンディを視察しているところ。

左からハップ・アーノルド将軍、ジョージ・マーシャル将軍、
オマー・ブラッドリー将軍、そしてアーネスト・キング提督です。

カール・”トゥーイ”・スパーツ将軍(左)は
ヘンリー・アーノルド将軍からもっとも信頼された指揮官でした。

ノルマンジー進攻、Dデイでは航空攻撃の指揮を取り、
アイゼンハワーからの直接の信頼を受けた知将です。

ちなみに彼は戦後創設されたアメリカ空軍の初代参謀総長に指名されました。

ちょっと手抜き?ハーケンクロイツの写真。

1945年の4月30日、ヒトラーは自殺前に、
カール・デーニッツを首相に指名しましたが、
5月7日に、彼はドイツの全面降伏をアイゼンハワーに宣言します。

翌日、5月8日が「V-Eデイ」対ヨーロッパ勝利の日とされました。

最後の日々(THE FIINAL BLOWS)

1944年後期、日本に対する戦略爆撃は、降伏を早めるための
非常に効率的なツールとされた。

ヨーロッパでの高高度日中攻撃の象徴となったB-29スーパーフォートレスが
日本の主要ターゲットを爆撃するのに投入されるようになるのである。

しかしながら、強力なジェット気流は、彼らのノルデン照準器の効果に
妥協を生むことになり、1945年3月、カーティス・ルメイ将軍は
夜間の低空からによる無差別爆撃を行うことを決定した。

何百機ものB-29が日本本土の上空を覆い尽くした。

おお、そうだったんですか!
東京空襲などの大々的な民間人殺害は、B-29のジェット機流のせいで
爆撃の照準器がうまく作動しなかったから仕方なく行われたと。

そうですか。それは知りませんでした。(棒)

鬼畜ルメイ

 

そして1945年8月6日朝9時、第509航空群の
特別仕様のB-29が、この戦争における最後の戦略爆撃を行った。

広島に一発、ついで長崎に一発の原子爆弾が投下され、
その数日後日本は降伏することになる。

これが広島に落とされた「リトルボーイ」(使用前)です。

「リトルボーイ」のアーミング・プラグ実物は、ここスミソニアンに
展示されています。

原子爆弾を搭載した直後、帰投してきたばかりの「エノラ・ゲイ」の乗員たち。

クルーはパイロットで隊長のポール・チベッツ以下、
士官4名(副操縦士、爆撃、ナビゲーター)、そして
銃撃手、フライトエンジニア、アシスタントエンジニア、
レーダーマン、通信士の合計9名でした。

全員激しい緊張の後といった様子が隠せません。

カミカゼ

日米戦におけるアメリカの優位が動かしようもなくなり、
自暴自棄となった日本はその最後の日、
カミカゼと呼ばれる自殺攻撃ユニットを投入した。
カミカゼ攻撃は1945年4月に集中して行われ、
そのころのアメリカの艦隊に深刻な打撃を与えることになる。

沈没した艦船は21、ダメージを受けた数は217を上回った。

また、当博物館にも展示されているジェット推進の「バカ」は、
カミカゼのミッションを航空機で行うために設計されたものだった。

「桜花」を「バカ」とだけ呼ばわるセンス、何でもかんでも
「カミカゼ」でくくってしまう大雑把さはさすがアメリカです。(投げやり)

第二次世界大戦の終了

日本は1945年9月2日に東京湾に浮かんだ戦艦「ミズーリ」艦上で降伏した。

ダグラス・マッカーサー将軍は式典で指揮をとり、
チェスター・ニミッツ提督がアメリカ合衆国を代表して
降伏調書に署名したのであった。

 

さて、というところでシリーズ終わりです。
あえて私自身の感想は最低限に抑えましたが、みなさんは
スミソニアン史観による第二次世界大戦の航空史を
どのようにご覧になったでしょうか。

 

次回からはまたボストンの第二次世界大戦博物館の展示に戻ります。

 

 


「ドーリトル空襲とミッドウェイ海戦」 第二次世界大戦航空史〜スミソニアン博物館

2020-05-20 | 歴史

前回までのスミソニアンシリーズでは、博物館別館に展示されている、
第二次世界大戦時の貴重な日独の軍用機をご紹介してきました。

それに続き、当ブログでは、スミソニアン博物館キュレーターの手による
「ドイツ空軍史」つまりドイツ空軍の敗戦までの歴史年表をご紹介したのですが、
今回は同じ方法で、真珠湾攻撃から終戦に至る主に日米戦を中心とした
第二次大戦航空史をご紹介していきます。

ドイツ軍航空史のときとと同じように、それはこのような、
大きなパネル
三面にわたって、まとめてありました。

 

第二次世界大戦航空史

 

昨日、1941年12月7日―この日は汚名と共に記憶されることであろう。
アメリカ合衆国は、大日本帝国の海軍の航空部隊によって
意図的な奇襲攻撃を受けた。

パネルはルーズベルトの「汚名演説」(Infamy Speech)から始まっています。

 

そのずっと前から中国にはシェンノートのフライングタイガースがいたとか、
そもそもルーズベルトは日本軍の動きを知っていたのに情報を握り潰した話は、
東京裁判の段階でも弁護側からつっこまれていたくらいで、戦後もアメリカの内部から
色々と黒い噂も出てきていますし(フーバーの回想録、
ヴェノナ文書)
ルーズベルトとアメリカにはいろいろいわせてもらいたいことはありますが、

はっきりしているのは真珠湾攻撃によって日米戦争が始まったということです。

この事実は動かしようがありません。

 

さて、本稿では、スミソニアン博物館の資料をできるだけ
そのまま翻訳しておつたえすることにします。 

それによると・・・・、

1941年の真珠湾攻撃によって第二次世界大戦の幕は開けられた。
太平洋と欧州という二箇所での戦争に直面し、アメリカは勝利を得るために
人的、産業的リソースを広く動員させることを余儀なくされる。

そしてその勝利には航空力の組織的な活用が不可欠とされ、
そのための戦略が打ち立てられることになった。

この戦争が契機となって大きく飛躍した航空機設計と性能改善の技術は、
航空戦の性質を根本から変えたと言っても過言ではない。

たとえばノースアメリカンのP-51ムスタングのような
金属製の戦闘機の導入は、第一次世界大戦で主流だった
木材と布の複葉機とは際立った対照をなすものであった。

第二次世界大戦は「三次元」での戦いにおいていかに空中を制御するか、
壮大な追求をおこなう世界的規模の広大なアリーナとなったといえよう。

ヨーロッパの「戦略爆撃」はナチスドイツを叩くための強力な手段となり、
太平洋ではたとえば「アイランド・ホッピング」(飛び石)戦略のように、
米陸軍、海軍、そして海兵隊が点在する日本軍に対抗するために
「機動部隊」(タスクフォース)を編成することになった。
機動部隊の戦略思想は、空母に搭載した艦載機の戦力を柱としている。

1944年6月、ドワイト・アイゼンハワー将軍がD-デイを経て
ノルマンジーに達した時、このように述べている。

「空軍がなかりせば、わたしは今ここにいることはなかったであろう」

 

「国家は全面戦争に動員された」

つまり国家総動員です。
兵士が歩いているポスターに入っているロゴは

「AAFに入って航空を学ぼう」

AAFとU.S. Army Air Forcesの略です。
下のポスターはワーナーブラザーズのプロパガンダ映画、

「Wings Of The Navy」(海軍の翼)。

 

主人公は、偉大な父と優秀な航空士官の兄に劣等感を持つ潜水艦士官。

彼ら兄弟は一人の女性を巡って三角関係にあります。
このヒロインを演じるのが当時の人気女優オリビア・デハビランド。
ある日、パイロットの兄は航空事故で体が不自由になり、
海軍を引退せざるを得なくなったので、いろいろあったけど
彼は航空士官として海軍に入隊、なぜか兄が設計した新型の飛行機に
テストパイロットとして乗ることになるが・・・・という話。

残念ながら日本でDVD化はされていないようです。

イケメンパイロットとその恋、パイロットの事故。

この映画制作から47年後、アメリカ海軍は「入隊ツール」として
このようなエレメンツを組み合わせた海軍プロパガンダ映画、
「トップガン」を世に放ち、それは絶大な効果をあげました。

 

真珠湾と「汚名演説」はたちまちアメリカ人の心を一つにしました。
官民一体、挙国一致で、
基礎体力の余った成金の新興国が
戦争という目標に全力をあげたのですから、
怖いものなしの状態です。

ドイツの智将ロンメルもこう言いました。

「米国の圧倒的な産業能力が戦場を席巻するようになってからは、
たとえその戦場で『究極の勝利』があったとしても、
それはもうもはや戦況をくつがえすきっかけ
にはなり得なかった」

 

ルーズベルトは、真珠湾攻撃をいかにも寝耳に水のように驚いて見せましたが、
枢軸国への正式な宣戦布告がおこなわれるより何ヶ月も前から、
アメリカ国内の産業は、さまざまな航空機を製造する用意を始めていました。

1940年に開始された法改正によって軍の人員数は拡大され、
この時点で男女合わせて1600万人を上回っていました。
これはどういうことかというと、ハワイに爆弾が落とされた時点で
すでにアメリカは戦闘準備を整えつつあったということなのです。

現に戦争前夜、ルーズベルト大統領は、陸海海兵隊のために
1年に五万機もの航空機の生産を
大号令で要求しています。

ちなみに、これらの記述は、全てスミソニアンによるものです。

 

この並外れた目標によって、1943年一年間だけで、米国の航空工場は
約9万6千機を上回る航空機を軍に納入することになりました。

自国の軍で使う航空機だけではなく、アメリカは
「レンドリース援助プログラム」を通じて、米国は英国に2万9千機、
ソビエト連邦に1万1千機以上を供給しています。

このことを、スミソニアン博物館ではこのように記していなす。

「アメリカは民主主義の兵器庫になった」

特にとりあげようと思ったことはないのに、いつの間にか
何度もこのブログで名前を扱うことになってしまった、

ヘンリー・H・”ハップ”・アーノルド元帥(最終)

は、1938年から引退する1946年まで、陸軍航空隊を指揮しました。
彼の戦時におけるリーダーシップは、特に航空技術の発展に発揮され、
その後のアメリカ空軍の基礎を築いたといえましょう。

左の写真は、テキサスのランドルフ航空基地で、航空士官候補生に
訓示をしているアーノルドです。

このアーノルド中将(当時)のもとで、補助部隊として
女子航空隊が設立されることになった経緯についても
このブログで何度もお話ししてきました。

いわゆる「ロージー・ザ・リベッター」(リベット打ちロージー)
に象徴される、「働く戦時下の女性たち」です。

たとえば、平時なら男性が行っていた電柱の電球取り替え(左上)
や工場での労働も、男性が戦場に行ってしまってからは
女性が進出することになりました。

左下はB-17 の胴体がずらっと並んだ航空工場ですが、
男の職場だった船舶、航空機工場にも女性の姿が見られるようになります。

「勤労動員」「女子挺身隊」は日本だけではなかったのです。

 

オープニング・ラウンド

ラウンド開始、というタイトルがついています。

■ドーリトル空襲

パールハーバー以降のアメリカにとって「暗い」数ヶ月間、
日本はアジアと太平洋における
領土の拡大をさらに推し進めていました。

 そこで防戦一方だったアメリカは、日本の太平洋でにおける
プレゼンスに挑むべく、
大胆な対抗戦略を採用したのです。

それが、「ドーリトル空襲」でした。
写真は、「ホーネット」艦上の離艦前のB-25です。

 

1942年4月18日、ジェームズ・H・”ジミー”・ドーリトル中佐は、
海軍の空母「ホーネット」から離艦した16機の中型爆撃機、
B-25ミッチェルで東京を爆撃する作戦を指揮しました。

スミソニアンはこう記述します。

ドーリトル爆撃隊は東京とその周辺都市に存在する
いくつかの軍事基地と軍需工場を攻撃した。

・・・・ちょっといいですかー?

映画「パールハーバー」でもそういうことになっているみたいだけど、
いまだにアメリカはこのときの戦果についてどこか正直になれないようなので、
ちょっとたいへんでしたが、彼らが攻撃したものを一覧表にしておきます。

1、民間家屋50棟、学生含む民間人二人死亡(隊長機)

2、西那須野駅舎 阿賀野川橋梁

3、香取海軍飛行場(爆撃)

4、横須賀軍港(改装中の『大鯨』火災)

5、民間人をかたっぱしから機銃掃射(手を振った子供含む)

6、漁船多数

軍事施設と呼べるのは赤字だけ。
なのに、アメリカでは民間人の犠牲には昔から、
スミソニアンですら、(いやスミソニアンだからか)
頑としてなかったことにしようとしているようです。

たとえ突っ込まれても、真珠湾では民間人も犠牲になったんだから
おあいこ、くらいの口答えをするつもりかも
しれません(棒)

 

しかし、日本にとって、空襲の被害そのものは

「ドゥー・リトル(ちょっとだけ)、ドーリトルだけに」

と陸軍が発表したように大したことはなくとも、
いきなり本土空襲されたことは衝撃的なできごとであり、
そのショックと比例して高まったのがアメリカ人の士気でした。

ちなみに、この「ドゥリトル」を聞いていた真珠湾攻撃の航空隊長、
淵田美津雄は、

「陸軍にしては洒落たことをいうなと感心した」

とそこにだけ食いついています。

 

それはそうと、この空襲について、あの映画「パールハーバー」で、

「この時を境にアメリカ人は進み、日本は退いた」

と言っていましたが、あながち間違いでもなかったということです。
(あのときは重箱の隅をつついて揚げ足を取ってごめんなさい)

 

ドーリトル爆撃隊は、日本空爆後は、友好国であった
中国大陸に着陸することを
目標にしており、
ドーリトル中佐本人を含む乗員たちのほとんどは成功しましたが、
1機はウラジオストックに緊急着陸し、メンバーのうち3人は
中国上空でベイルアウトしたのち捕らえられました。

この3人は軍事法廷において有罪となり処刑されています。
有罪の理由は、一般人への意図的な機銃掃射による殺害でした。

日本で捕らえられたのは全部で8名で、3名は脱出の際死亡し、
4名が捕虜として生き残り戦後生還しました。

 

 

■ミッドウェイ海戦

 

1942年6月4〜7日、アメリカ海軍航空隊は、
ミッドウェイで帝国海軍航空隊と対峙しました。

冒頭の絵画は、ミッドウェイ上空で日本の空母を攻撃する
SBDドーントレスの姿を描いたものです。

日本海軍の艦隊は、ミッドウェイ海戦に臨むにあたり、
連合国に暗号を解読されていることに気づいていなかった。

ダグラスSBD ドーントレス艦上爆撃機は日本の空母に襲いかかった。

ミッドウェイ海戦を勝利に導いたのは、チェスター・ニミッツ提督の
卓越したリーダーシップによるところが大きい。

太平洋地域における総司令官として、彼はガダルカナル島、
タラワ、クェゼリン、エニウェトク、サイパン、テニアン、
グアム、ペルルイ、硫黄島、そして沖縄などの
海軍と海兵隊による「アイランド・ホッピング」を主導した。

このことをスミソニアン博物館は「日米のターニングポイント」としています。

写真は、沈没直前炎上する空母「飛龍」。

日本は四隻の空母をこの「運命の海」で失い、アメリカは
これ以降太平洋における攻勢を強めていくことになります。

部隊の全員が一人を残して全滅してしまった隊もありました。
写真は、パールハーバーの海軍病院に入院するジョージ・ゲイ少尉。

この人は映画「ミッドウェイ」でも特に名前付きで登場していました。

「日本ミッドウェイで殲滅」

というタイトルのミッドウェイ海戦を報じる新聞を読んでいる彼は
全滅した第7航空隊の唯一の生存者でした。

当ブログでは映画「ミッドウェイ」1976年版を近々取り上げる予定ですので
どうぞお楽しみに。

日本軍兵士の寄せ書き実物は、各地の軍事博物館で見ることができます。

この寄せ書きが、出征に際して家族や知り合いがメッセージを記し、
お守りとして戦地に携行する、ということが説明されています。

このパネルの近くのガラスケースには、戦地で手に入れたものらしい
日本軍兵士の持ち物が展示されていました。

まず、木箱に入った塗りの杯。
説明には「ライスボウル」と書かれています。
これを酒
杯だと理解するのはアメリカ人には難易度高かったかな。

右側は、日本軍の携帯風速計のようです。
日本人はこのような装置を使用して、気球上昇中に測定値を取りました、
とあるので、陸軍が気球を使用していた頃のものだと思われます。

透明のケースの中に太陽光から温度を測ることができ、
たいていは気球の天井に取り付けて使いました。

ガラスケースにはジミー・ドーリトルのユニフォームもありました。

空襲直後、ドーリトル中佐は攻撃がうまくいったとは思えず、
悲観していたのを部下に慰められたという話があります。

帰国してアメリカ国民が空襲に勇気づけられ鼓舞されただけでなく、
自分がとんでもない英雄として称賛の的になっていると知った時、
彼は心底驚いたのではなかったでしょうか。

 

続く。


チャーリー・アルファ(ヘリボーン強襲)〜ウェストポイント軍事博物館

2020-05-19 | 歴史

さて、しばらくご紹介してきたウェストポイント軍事博物館シリーズ、
最終回は、今までご紹介に漏れた展示を挙げていきます。

シッティング・ブルのライフマスク

シッティング・ブルことタタンカ・イヨタケ(1831ー1890)は、
ネイティブアメリカンのスー族の戦士であり呪術師です

イヨタケさん

アメリカ大陸の先住民族であるインディアン部族は、白人の西進に伴って
開拓の障害として駆除され、隔離され、その領土が強奪されていきました。

戦士であったシッティング・ブルの部族は彼らを皆殺しにすることを
政策に掲げる合衆国の侵略に立ち向かい、そのため一族は
絶滅対象部族
の指定を受けることになります。

しかし、先頭に立って戦う勇士シッティング・ブルの姿は、部族員だけでなく
いつの間にか白人たちからも一目置かれるようになっていきました。

白人との戦いの中でカナダに亡命するも、寒さと飢えに耐えきれず、
アメリカ合衆国に投降し、保留地で捕虜になってからは、
有名人ゆえに興行師に騙されて見せ物になるなどの辱めを受け、
最終的には保留地で難癖をつけられて射殺されました。

享年59歳。

ライフマスクが取られたのはシッティング・ブル49歳の時です。

ベトナム戦争

ベトナム戦争のコーナーより。

黒丸が(ほとんど沿岸沿い)アメリカ軍のベースだったところ、
赤丸が北ベトナム軍基地、薄赤で塗られたのがベトコンの潜んでいた地域で、
赤い線は敵(アメリカの)の補給ルートとなっていました。

M21スナイパー・ウェポンシステムです。
精度を考慮して作られたライフルで、ベトナム戦争中は陸軍のスナイパーのために
昼用スコープ、夜用ナイトビジョンのスコープがついていました。

ステン短機関銃MkII

なぜここ(ベトナム戦争コーナー)にあるのかわかりませんが、
この「ステン・ガン」は、第二次世界大戦中のイギリスで生産されました。

銃床が極力省略されたデザインが目を引きます。
低コストで大量生産されたMkIIは、その軽さ、組み立て式であることから
粗製濫造ともなりました。
英軍将兵からは「ステンチ(悪臭)ガン」とか「パイプガン」と呼ばれたそうです。

ウェストポイント1965年卒のロバート・ジョーンズ大佐が
ベトナムで捕虜になっていたときに着用していたシャツ。
囚人にストライプの衣装を着せるという習慣がここにも。

なんだかラグビーのユニフォームみたいですね。

ヘリ部隊が夕暮れのベトナム上空を飛行している写真には、
「チャーリー・アルファ」という題が付いています。

チャーリー=C、アルファ=Aというフォネティックコードですが、
CAつまりCombat Assault、強襲攻撃と訳せばいいでしょうか。

ベトナム戦争の間、第1機甲部隊(空中機動部隊)は、ヒューイ、
HU-1ヘリコプターを使って様々な任務に当たったことで有名になりました。
その任務の一つが「チャーリーアルファ」、空挺強襲でした

Charlie Alpha:  A Helicopter-borne Combat Assault in Vietnam


武器兵器展示場

歴史的資料のケース展示を見終わったところに、武器兵器だけを集めた
アメリカ最古の武器展示コーナーがあります。

当軍事博物館の創始は、ウェストポイント開校とほぼ同時に
収集されてきた「トロフィー」やこれらの武器の展示が元になっています。

もちろん、ここもじっくり見れば大変興味深い軍事資料の宝庫なのですが、
いかんせん、わたしたちが参加した学内ツァーはその日の最終出発で、
閉館の時間が迫っていた上、体力を使い果たしてヘロヘロだったため、
一番最後のパートであったこの部分はほぼ駆け足で通り過ぎてしまいました。

今にして思えば残念ですが、また次の機会があることを祈りましょう。

その中からかろうじて撮ったごく一部の写真をご紹介します。
右から;

第二次世界大戦中のドイツ軍士官用サーベル

ヨーロッパのアーヘンで降参したドイツ軍部隊の司令官、
ゲルハルト・ヴィルック少佐佩用のもので、戦利品として
アメリカ軍が持ち帰ったものです。

真ん中二振りの刀;

1900年、中国で採取されたもの。

左;

オスマントルコ帝国、ヤタガン(Yataghan)

この形の刀はフランス軍、イギリス軍を始めとして全世界に広がリ、
銃剣の他に砲兵刀(砲兵が装備した、近接戦闘用の大型の戦闘用ナイフ)
として用いられるほど影響力がありました。

幕末の日本にも各種の小銃と共に伝来し、明治期初期の日本陸軍でも、
“ヤタガン形銃剣”、“ヤタガン式銃剣”等として使用されていました。

下;

1810年、ハノーヴァーで使われていた将官用軍刀

速射兵器を設計する試みは16世紀に始まりましたが、
ジェームズ・パックル(James Packle)が1718年に発明した

パックルガン(Puckle Gun)

銃がおそらく初めてではないかとされています。

この英国の世界初マシンガンは完全な手動式で、シリンダーはロックを解除し、
回転させ、それから再びロックし、撃った後はその度リロードしなければなりませんでした。

そのため、熟練の射手が銃弾を装填する機構のマスケット銃を使用するのと比べ、
銃撃の密度が大きく違ってくるということはありませんでした。

実用的な、迅速な射撃が行える銃が登場したのは、
1850年代から1860年代初頭に製造されたボレー銃以降のことです。

1890年までに、ほとんどの高速銃をを生産していたのは二つの企業です。

コルト・ファイアアームズは、リチャード・ジョーダン・ガトリング
が設計した回転式のマルチ・バレル型を製作しました。
これは、人間がクランクを回せる速度で発砲することができますが、
通常は1分間に300発未満です。

イギリスのマキシム-ノルデンフェルト社は、
マルチバレルのボレー銃、ノルデンフェルト機銃を製造しました。

一度に1つのバレルを発射するガトリングシステムとは異なり、
ノルデンフェルト製ははすべてのバレルを同時に発射するように調整でき、
10バレルモデルでは、毎分1000発の発砲が可能でした。

カルロス・ゴーンもびっくり、オレンジと緑のカラフルな戦車はルノー製。
FT軽戦車は、アメリカが最初に導入した戦車でした。

中身はこうなっています。
人類の戦争に初めて戦車が投入されたのは第一次世界大戦でしたが、
このルノーFT戦車も1918年に完成し、実用化されました。

終戦後は世界に輸出されていますが、我が帝国陸軍でも
二個戦車隊の数(はっきりとした数は不明)を輸入して運用していました。

満州事変でも投入され、兵士からは「頼れる戦車」として人気があったそうです。

第二次世界大戦時に活躍した軍用ジープ。

装飾入りの曰くありげなピストルは、金メッキされており、
ナチ党のメンバーからヒトラーにプレゼントされたものです。

銃身には文字が刻まれています。

「共産党を赤い戦線からこちらに入れないように。
そしてわたしたちのヒトラー総統を護るために」

ただし、ヒトラーが自決したのはこのピストルではありません。

さて、これで残らず撮ってきた写真をご紹介し終わりました。
開館時間ギリギリまでいて、外に出るとこのようなベンチあり。

「WEST POINT MUSEUM」

と字が透かし彫りしてあります。

駐車場でカンカンに熱された車に乗り込み、わたしたちは
とりあえず何か食べようということになったのですが、
まず思い出したのは、この日学内ツァーで案内してくれたボランティアの男性が、

ウェストポイントの候補生は(多分先生も)これがないと生きていけない

と言っていた、学校の校門後近くに(本当に近い)ある
マクドナルドに行ってみることにしました。

どこにあるかというと・・・・ここです(笑)
まさに陸軍士官学校御用達の名誉あるマクドナルド。

学校の校門近くにあるのは日本では駄菓子兼文房具屋と決まっていますが、
アメリカではそれがマックなのです。
彼らはこっそりマックを夜にデリバリーして「人間らしさを取り戻す」
らしいのですが、そもそも軍学校にそんな宅配していいのか?
と心配になってしまいますよね。

でも、聞いているとマックの配達はどうもお目こぼしにあっているというか、
陸軍士官学校御用達マックとして、堂々とやっている節もあり。

今時のアメリカのマックですから、注文は入り口にあるモニターで行い、
(写真付きのメニューになっており外国人などと口頭でごちゃごちゃしなくていいので
従業員にとってもストレスフリーなシステム)番号をもらって待っていると、
カウンターに用意されているというわけ。

日本であろうがアメリカであろうが、マクドナルドでバーガーを食べること自体
何年に一回というレベルであるわたしですが、ここで注文した
バッファローランチベーコン(チーズトッピング)はマジで美味しかったです。

アメリカのハンバーガーって、不思議にどこで食べても美味しいと感じます。
伊達に国民食を標榜していないなあと実感。

さて、食べ終わったところで家路に向かうことにしましょう。
ウェストポイントはほとんど山の中にあるので、
フリーウェイにたどり着くまでは延々とこんな景色が続きます。

ギリシャ神殿のような立派な学校ですが、これはニューヨークの
ニューバーグという街にあるブロードウェイスクールという
ミュージカル系の仕事を目指す本格的な学校らしいです。

ウェイトリミットは5トンです。(意味なし)

 

というわけでアメリカ合衆国陸軍士官学校ウェストポイントについて
見学してきたものを全てお伝えしました。

見学に予約は不要、その日に申し込めば学内ツァーに参加可能です。
わたしたちはショートツァーしか選択の余地がなかったのですが、
1日費やすつもりならばロングツァーに参加して、さらには
博物館も隅から隅まで見学するのがよいでしょう。

今はこんな時期で閉館しているようですが、もし事態が好転して、
前と同じ形ではないにしてももう一度公開されることになれば、
人生に一度は訪れることをおすすめしたい見学ツァーです。

そうそう、帰りにはカデット御用達のマクドナルドに行くのをお忘れなく!

 

シリーズ終わり


ウェストポイントの体力錬成〜ウェストポイント軍事博物館

2020-05-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

ウェストポイント軍事博物館の展示より、今日もウェストポイントの歴史に関わるものをご紹介していきます。

現在も残る校舎、「セントラルバラック」前に整列するカデットたち。
1900年撮影。

同じ頃、砲術の訓練ですが、指揮官が馬の上にいることに注意。

わたしが撮った写真に写っているバトルモニュメントが遠くに見えています。

ウェストポイントには、ハドソン川の流れを望む高台があり、
大砲や記念碑などが展示してあるトロフィーポイントという一角があります。
映画「長い灰色の線」でもしょっちゅう出てきたところですが、
そこで1870年に撮られた写真です。

南北戦争真っ只中といった時期ですが、ご存知の通り
この戦争は、同じアメリカ人の間で起こった戦争であるので、
その間ウェストポイントの候補生たちがどのようになっていたのか、
日本人のわたしがどれだけ検索してもインターネットではわかりません。

かなり古い時代(1800年ごろ?)点呼を取っているところでしょうか。
後ろの人があくびしています。

1873年、サマーキャンプの一コマ。

今はコロナでそれどころではなくなっているのですが、
平常であればアメリカの学制は9月から6月までです。
この3ヶ月もの間が
夏休みということになるのですが、その間学生が
何もせずに遊んでいられるわけではありません。

子供は子供でサマーキャンプに通わされますし、大学生になれば
夏は大学の主催する集中講義やあるいはインターンシップで
企業に就職して実地経験を積み、それが大学の成績にも反映されます。

夏の間のキャンプや講座は「別腹」なので、当然費用も別にかかり、
日本のように1ヶ月だけ休みになる方が親にとっては楽だといえます。

話がそれましたが、陸軍士官学校でももちろん夏の間
遊ばせてくれるわけではないということですね。

ところで、この写真の後列一番左に写っている候補生をよく見てください。
不鮮明ながら彼がアフリカ系であることがわかるでしょう。

Cadet Henry O. Flipper in his West Point cadet uniform. It has three larger round brass buttons left, middle and right showing five rows. The buttons are interconnected left to right and vice versa by decorative thread. He is wearing a starched white collar and no tie. He is a lighter-colored African American with plated corn rows of neatly done hair. He is facing the camera and looking to the left of the viewer.

ヘンリー・オシアン・フリッパー
Henry O. Flipper1856-1940(1877年卒)

は、以前も
バッファロー大隊(黒人ばかりの陸軍部隊)の件で紹介したことがあります。
彼はアフリカ系としては史上初めてウェストポイントを卒業し、士官になりました。

ただし、不当な差別の連続でついには不名誉な解雇をされており、
彼の名誉が回復されたのはクリントン政権下でのことです。

 

1800年後期、候補生ジャケット。

右側、候補生フル・ドレスコート。
日本では「肋骨服」と呼んでいたもので、現在のフルドレスも
基本的にはこの頃と変わっていません。

1896年ごろの士官用バヨネット、つまり銃剣の先です。

MModel 1896、鞘付き。
士官候補生用ライフルが導入されると同時に同数の特別な銃剣も作られました。

これらの長い銃剣は、審美的な理由と、パレード使用のためのサイズと重量
といより実用的な理由でから、1963年まで使用され続けました。

この長期間にわたる光沢のある鋼の連続研磨は、
銃剣に有害であったため、最終的にクロムメッキされました。

 

フルドレスで捧げ銃する候補生。1905年撮影。

左から右に

フルドレスのcadet First classmen、1923年。

海軍兵学校では最上級生の4年生を「1号」といいましたが、
ウェストポイントでも最上級生を「ファーストクラスメン」とします。

1899年ごろの野外戦闘服、cadet private。

cadet first sergeant

陸軍には陸軍候補生隊という学生部隊がありますが、
リクルートに始まって9段階のランクのうち
ファーストサージャント(軍曹)は下から五番目です。

Cadet Officer のサマードレス(インディアホワイト)1875年。

Cadet Corporal夏用フルドレス、1875年。

「アーミー」のAを刺繍したカデットのフットボール用セーター。
ガラスに映っているのは陸軍候補生隊の制服ファッションショーです。

野外の砲撃訓練中。おそらく第一次世界大戦ごろ。

同じく銃撃訓練。

1870年ごろの候補生用「ドレッシングガウン」。
左袖のB・O・ベイカーは所有者の名前。
ローブの裾には陸軍士官学校と海軍兵学校の間で行われる伝統のゲーム、
アーミー・ネイビー・ゲームの1930〜33年のスコアがプリントされています。

 

文武両道の陸軍士官学校ですから、体力錬成は大事な日課。
説明には Calisthenics(徒手体操)とあります。
全員が今のアメリカ人より痩せている気がします。
っていうか絶対に皆痩せてるよね。

「おいっちにーさんしー」という声が聴こえてきます(嘘)

写真が撮られたのは1904年のこと。
日本は日露戦争真っ最中のころです。

冬なのか、地面が凍り付いているように見えますね。

ウェストポイントにフットボールが導入されたのは1891年でした。
彼らは初めて結成されたフットボールチームのメンバーです。

1896年に行われた校内フットボール大会で優勝した
1898年クラスに授与された記念のトロフィーボールです。

候補生フェンシングチーム、1900年。
軍隊なので、偉い人は座っています。
髭が顧問の先生で、左はキャプテンかな。

フェンシングチーム使用のフェンシングジャケットもありました。
1908年ごろ使用されていたもので、寄贈した持ち主は
アルバート・スニード准将(1908年卒)です。

 

ところで、ウェストポイントとアナポリスの間には因縁のライバル関係があり、
とくにフットボールは「アーミー・ネービー・ゲーム」として有名である、
ということについて、当ブログではかつて熱く語ってみました。

Go Army! Beat Navy!〜アメリカ陸軍士官学校ウェストポイント

歴史を遡れば、史上初のアーミーネイビーゲームが行われたのは
1891年の11月29日のことです。
最初の試合は海軍のボロ勝ちで、24対0。陸軍は手も足も出ませんでした。

この年に一度の試合は、そのうち二つの軍事アカデミーの間の
ライバル関係を象徴する最も知られたイベントとなって今日に至ります。

今年はできるのかなあ・・・・。

「ジェームズ・ホイッスラー」の画像検索結果ホイッスラー画

昔、ジェームス・ホイッスラーというのちに有名な画家になる生徒が
ウェストポイントに何かの間違いで入ってしまい、
すぐに退校になった話をしたことがあるかと思いますが、彼は 
このアーミー・ネイビー・ゲームにしばしば起こる「場外乱闘」について、

「士官候補生たるもの、フィールドの外で蹴られたボールのために
他の大学などと争いが起きるなどということは厳に慎まなくてはならず、
それらは常にアメリカ合衆国の将校の尊厳の下に行われねばならない」
キリッ(AA略)

などと言っていたようです。

途中で候補生不適合のためやめてしまったホイッスラーですが、
こういうことについては不寛容でいられないほどには
軍将校に対してはっきりとした理想を掲げていたらしいことがわかります。

こちら、同じ画家によるアナポリスのプレーヤー。
背景がなぜか帆船です

フットボールのみならず、全てのスポーツ試合において、
アナポリスとウェストポイントは昔から、そして未来永劫ライバル関係にあります。

ライバル関係が拗れて(というかおそらくそういうことにした方が盛り上がるから)
試合前に相手のマスコットの動物を盗み出すという暴挙に出たり、
試合前に一人ずつ捕虜を交換して牽制し合うなどといった慣習については、
当ブログでも書きましたので、ご興味のある方は是非そちらをご覧ください。

この一角にあった凛々しい女性士官候補生の肖像画。
1996年に卒業したクリスティン・ベイカーは、史上初の女性士官候補生です。

彼女は候補生隊で4,400名からなる旅団を率いていました。
女性だから大目にみてもらっていたのではなく、マジで優秀だったようです。

「Kristin Baker USMA Wiki」の画像検索結果

現在、彼女のランクは陸軍大佐、カーネル・ベーカーです。
部下には、

「イエス、マム!」

とか言われてるんだろうなあ。

「女性か男性かはあまり関係がないと思います。
軍服を着て任務に当たる限り、ストレスに順応し、
対処する能力に男女の差はなく、もしあるとしたら個人差です」

と彼女はインタビューで語っています。

続く。

 


ロング・グレイ・ラインと「フライドエッグ」〜ウェストポイント軍事博物館

2020-05-16 | 歴史

今日は最後に近づいたので、ウェストポイント軍事博物館の展示から
ウェストポイントそのものの歴史に関する資料をご紹介します。

あらためて博物館エントランスを入ったところから。
博物館のオープンは1854年、世界で最も古い軍事博物館です。

入ったところには伝統のグレーの肋骨服を着た
カデット(士官候補生)のマネキンが立っています。

1800年代前半ごろの制服。
どう見てもブルーですが、陸軍的にはこれもグレイなのかもしれません。
世界の海軍が黒の軍服を「ネイビー」と言っているように。

最初にウェストポイントに軍隊を置いたのは、イギリス植民地支配に
対する反乱軍である「大陸軍」でした。
ジョージ・ワシントンは大陸軍の軍の最高司令官です。

冒頭写真に、ここウェストポイントの前を流れるハドソン川の
S字にカーブした部分をイギリス海軍の遡上を防ぐのを物理的に阻止した、
「ザ・チェーン」の一部が写っています。

陸軍士官になるための初級訓練は1794年からここで行われ、
その主な訓練は砲撃ともっぱら工学の研究でした。

 

最初に軍事アカデミーを成立する法案を通したのは、
あのアレクサンダー・ハミルトンであり、設立を指示したのは
時の大統領、トマス・ジェファーソンです。

ヨーロッパで、ナポレオン率いるフランスとイギリスの間に
次第に戦雲が立ち込めてくるような状況になってくると、
そこにアメリカが巻き込まれる可能性が濃くなってきました。

そこでジェファーソンは大統領として、アカデミーの初期の開発を
慎重に指図し、民主的価値と国家の基礎を築くために不可欠な原則に
献身することができる入学候補者を厳選したのです。

これらの選ばれた若者たちは陸士を卒業後、国家の軍事指導者としての
階級を与えられ、より貴族的で保守的なメンバーとして他の将校の上に立ちました。

ジェファーソン個人は科学に並ならぬ関心を持っていたため、
新しい共和国における科学事業の発展を奨励するという観点から、
1802年3月16日、アメリカ合衆国初の工兵隊を成立させました。

7人の司令官と10人の士官候補生で構成された工兵隊は、そのまま
ウェストポイントに配置されて、最初の軍事アカデミーの祖となったのです。

あー、本当にこんな人だったんだろうなあ、と思う肖像画ってありますよね。

ジョセフ・ガードナー・スィフトJoseph Gardner Swift
(1783−1865)1802年卒

は最初のウェストポイント卒業生10名のうちの一人です。
士官学校成立が間近というとき、ジョン・アダムスはこの優秀な若者を
工兵隊にスカウトし、彼は初めてのウェストポイントの卒業生になりました。

10名の中でおそらく一番優秀だったようで、彼は25歳で少佐、
29歳で陸軍最高技術者、30歳で陸軍士官学校の学長にまでなっています。

開校した頃の陸軍士官学校。

右は、最初の陸軍士官学校最高責任者、
ジョナサン・ウィリアムズ大佐(1751−1815)

この人が、最初のウェストポイントの十人を育てた教授の一人です。

 

この真ん中の肖像もスィフトです。
左は、オルデン・パートリッジ(Alden Partridge)1806年卒。
この人も初期の卒業生で、卒業するなりウェストポイントの教授になりました。

パートリッジは士官候補生のユニフォームを最初にグレーのものに、
そして
レザーのドレスキャップを制定した人です。

陸軍士官学校の「ロング・グレイ・ライン(長い灰色の列)」
という言葉はこのときに生まれることになったのです。

ここに展示してあるプレートは、新しく制定された
シャコー帽と言われる庇のある円筒形の帽子の飾りに使われました。

この時代から、帽子につけるプレートを、アメリカ陸軍では

「フライド・エッグ」🍳

と呼ぶ習慣が生まれたということです。


海上自衛隊では正帽の庇の金の刺繍を「カレー」と呼びますが、
この習慣もたどっていくとこのあたりから始まっているのかもしれません。

真ん中のがシャコー帽、金のプレートはフライドエッグです。
左は南北戦争の頃の帽子に見えます。
右の軍帽は、世界的に1900年代初頭まで使用されたタイプですね。

当時アカデミーで使われていた実験道具などなど。
左から:

プリズム投射機、顕微鏡、ダニエル湿度計

ガラスの提灯のようなものは、フランスで買ってきた発光装置。
一番右は物理の授業で実験に使われた「ダブルコーンと傾斜面」と言う機器。

Double Cone and Plane

ダブルコーンを傾斜面に置くとあら不思議、登っていくではないですかという実験ですね。

実験道具の上の額に入っているのは、1923年卒業生の卒業証書(ディプロマ)です。
こんなでかいものどうやって受け取ったんだ・・・。

1827年に描かれたウェストポイントの様子です。
画家ジョージ・カトリン(1796-1872)は1827年にハドソン川沿いに
ウエストポイントにやってきてアカデミーのこの絵画を制作しました。

上は北向きの方向で、訓練する士官候補生が描かれています。
下は南を見たところで、砲撃の訓練が行われているところです。

 

画面右に見えるオベリスクは、1812年独立戦争の戦闘で戦死した
エリエイザ・D・ウッド大佐(1806年卒)を顕彰するために建てられました。

 

写真が一部欠けてしまいましたが、ギルバート屈折潜望鏡です。

どうやってつかうかというと、これですよ。

「ギルバート屈折潜望鏡」の画像検索結果

特に塹壕戦でお役立ちだったんですね。

アカデミーの形成期には、多くの科学機器や教科書を
パリやロンドンから取得する必要がありました。
理由は単純で、この国ではまだそれらは入手できなかったからです。

この屈折望遠鏡は、1816年頃にロンドンの会社から
自然および科学実験クラスのために購入されました。

「westpoint diploma」の画像検索結果

上に写っている卒業証書のちゃんとした画像をどうぞ。
この屈折望遠鏡は、現在もウェストポイントの卒業証書の

デザインにあしらわれています。(右側太鼓の上)

ここからはカデット生活をご紹介していきます。
1900年、絵画クラス。
陸軍士官学校に美術のクラスがあったとは驚きです。
当時は絵を描けると作戦立案にいいことでもあったのでしょうか。

1905年、エンジニアリングの授業。

測量のクラス、1907年。
陸軍の場合砲撃に測量は大変重要な技術です。

1905年、実験中。
みんな授業中でもやけに姿勢がいい。

いきなり時代は遡って1869年の小クラス授業中。

カデットが在学中に描いた「オールドノースバラック」校舎
ペンと水彩で紙に直接描いたものです。

これを描いたアルバート・ニスカーン候補生(1886年卒)
最終的に准将にまで昇進しました。

「albert decator kniskern」の画像検索結果准将になったニスカーン

「ラリー・オン・ザ・カラーズ」(結集された色)

というタイトルの、写真をもとに描かれたイラストです。
ルーファス・ゾグバウム Rufus F. Zogbaum(1849−1925)
アート・スチューデント・リーグという、
現在もニューヨークにある
名門美術学校で勉強しました。

この学校に学んだそうそうたるアーティストにはイサム・ノグチ、
ベン・シャーン、ノーマン・ロックウェル、ジョージア・オキーフ、
ジャクソン・ポロック、ロイ・リキテンスタイン、ピーター・マックス、
そして高村光太郎、葉祥明などがいます。

ゾグバウムは特に陸軍、海軍などを題材に描いた画家でした。
このイラストは、1887年、ハーパース・ニュー・月刊マガジンのために描かれました。

「Rufus F. Zogbaum」の画像検索結果

ゾグバウムの作品、ハーパースに掲載されたもの。
後ろに見える戦艦は第一次世界大戦ごろの艦影ですね。

「Rufus F. Zogbaum」の画像検索結果

これもルーファスの作品。
南北戦争の一シーンを描いたものです。(´;ω;`)

「westpoint army cadets uniform」の画像検索結果

ついでに?今回検索していて見つけたお宝?写真。
これ、だーれだ。

今アメリカの政治家である意味最もホットな🔥(熱い)男、
マイク・ポンペイオ国務長官のウェストポイント時代のお姿です。

ウェストポイント卒業時の成績はトップで、卒業後は機甲部隊に所属、
その後ハーバード大学ロースクールで博士号を取得しています。

ちなみにポンペイオの名前の発音について、ある議員が、
「ぱんぴーお」でないと誰のことかわからない!と
なぜか激怒していましたが、どっからどう聞いてもポンペイオです。

Mike Pompeoの発音

ポンペイオ長官、今ではご存知の通り、
金書記長と似たり寄ったりの体型になっておられますが、
さすがにウェストポイント時代はスマートですね。

 

続く。

 


日独の占領制作と戦後の核、冷戦問題〜ウェストポイント軍事博物館

2020-05-14 | 歴史

ウェストポイント併設の軍事博物館より、今日は
戦後世界について、敗戦国の占領と戦後の核に関する展示をご紹介します。

冒頭写真は、連合国最高指揮官ダグラス・マッカーサー
第一生命ビルを接収して置いたGHQ指令本部から出てくるところです。

第一生命ビルはGHQに接収され、返還後、再開発プロジェクトで
第一生命ビルのオリジナル部分を一部残して建て替えられ、現在は
DNタワー21という名称のビルに代わっています。

DNのDは第一生命、Nは同居している農林中金の頭文字から取られました。

 

ドイツの占領

第二次世界大戦が終了してから、アメリカ陸軍関係者の大半は、
ドイツと日本の占領に何らかのかたちで関与することになりました。

まず、ドイツですが、連合国は1945年のヤルタ会談ポツダム会談
すでにドイツに対する共通の占領政策を打ち出していました。

特にヤルタ会談は、まだ戦争の勝敗が決まっていない2月に行われながら、
その内容は、戦勝国における利害調整会議であったことでも知られます。

その結果、ドイツはアメリカ、イギリス、ソビエト、フランスの軍隊によって
占領されていくつかのゾーンに分けられ、軍政統治されることになりました。

ドイツの位置ドイツ全土占領地図

Occupied Berlin.svgベルリン市占領地図

 

連合軍司令官アレキサンダー・M・パッチ将軍の指揮下にあるアメリカ領土で、
陸軍がまず行ったのは、ドイツ軍の武装勢力の動員解除です。

Alexander Patch portrait.jpg パッチ将軍

その占領区で、アメリカ軍は軍事政府のシステムを確立。
そして、地方政府と国政からとにかくナチの影響を根絶しました。

軍政は恒久的ではなく一時的なものであることが決定しているので、
占領側は、ドイツ政府が将来自治を行うことができるように再教育し、
戦争でズタズタにされた経済の回復を支援しました。
(展示説明ママ)

さらに、アメリカ陸軍はその一部の野戦部隊を、そのまま
特別な米国警察に再編成しなおしました。
これは、アメリカ軍地帯でのみ移動可能な警察部隊として活動しました。

「コンスタンブラリー(Constabulary)」

という珍しい響きの単語は、このとき編成された
巡査で構成されるアメリカ警察部隊のことを指し、
同時にアメリカ陸軍が第二次世界大戦後、西ドイツで
組織した陸軍軍人からなる警察組織の固有名詞でもあります。

写真は占領下の西ドイツ人にはおなじみとなった、
コンスタンブラリーの独特の制服です。

1952年に合衆国警察隊、コンスタンブラリーは歴史の幕を閉じました。

近代アメリカ陸軍の歴史でもで最も多彩で、効果的な役割を果たした、
とここの説明には書かれています。

その組織は、最初の司令官であるアーネスト・N・ハーモン少将
装甲師団のエネルギッシュで短気な元司令長官が作り上げた努力の産物でした。

「ernest harmon general」の画像検索結果ハーモン大将(最終)

その歴史は5年にも満たないものでしたが、コンスタブラリーは
西ドイツの人々をある時には恐れさせ、この世代の人々に
決して忘れられることのない強い印象を残しました。

コンスタブラリー戦隊は、1946年、第1および第4装甲師団から
退役軍人部隊を引き抜き、その後ドイツで占領任務にあった
複数の騎兵隊と統合して編成されました。

そしてここに残されている独特のユニフォームが与えられました。
黄色・青・黄色のトリプル・ストライプのヘルメットライナー、
「サンダーボルト」記章付きの肩当て、および黄色いナイロンスカーフ。

「constabulary insignia US army」の画像検索結果サンダーボルト

彼らのジープ、戦車、その他の乗り物には、全て独特の
黄・青・黄色の縞模様が付けられていました。

このため、コンスタブラリーにはドイツの村人から
カルトフェルカファー(kartoffelkäfer、ジャガイモカブト虫、
あるいはコロラドハムシ)という愛称を付けられました。

「kartoffelkäfer」の画像検索結果似てるかも

重武装をし、カラフルな制服を着た騎兵はすぐにドイツ国民の注目を集めました。

3人乗りのパトロールジープはすべて口径30の機関銃を搭載し、
各警察部隊は37ミリの大砲と口径50の機関銃を搭載した装甲車を装備。
軽戦車部隊と騎馬小隊が各政権本部に配置されました。

コンスタブラリーのヘルメット(左)。
右は第511空挺部隊の「ファティーグ・キャップ」です。

コンスタブラリーのモットーは「機動性、警戒、正義」

選り抜きの隊員によって構成され、起こりうるいかなる状況下にあっても
民間人と兵士を問わず対応できるような訓練をされていました。

部隊組織はニューヨーク州警察をお手本にモデル化され、
隊員は可能な限り困った人々に対し、親切にするように教えられており、
実際に彼らは常に義務の遂行をしようと努めていました。

このように、新世代のドイツ人に希望と安心感を与え、
民主主義の理想についての感覚を植え付けることができたコンスタブラリーでした。

 

・・・・というのは、アメリカ陸軍のテキストブックから抜粋した文ですが、
それではドイツ人に恐れられていたというさっきのはいったい・・・。

まあ、物事には良い面ばかりではないのは皆さんもご存知の通りです。

警察組織であったコンスタブラリーはむしろそれを取り締まる側だったと
信じたいですが、軍政下のドイツで無秩序なアメリカ兵との間に
望まぬ子供が多く生まれて社会問題になっています。

しかも子の認知およびその生活費の支払いを請求する訴訟は禁止されており、
西ドイツ法廷ではアメリカ軍兵士を裁くことはほとんど不可能でした。

占領下で父をアメリカ軍兵士として生まれてきた子供のうち約3パーセントが
アフリカ系アメリカ兵との子供であったといわれていますが、この場合、
たとえ男性に責任を取るつもりがあっても、アメリカ軍の規則で

異人種間婚姻が禁止されていたため認められず、俗に
「Negermischlinge」ニーガーミシュリンゲ
(黒人混血児)
と呼ばれた彼らは特に悲惨な人生を辿ることになりました。

 

これはドイツに限らず、日本でも起こったことですし、ドイツを占領した
各国の中ではアメリカはまだマシな方で、
こういった規制は他の国では
全く顧みられていなかったので、結果は推して知るべしでした。

 

日本の占領

日本の占領はドイツの占領とは大きく異なる線をたどりました。

日本と戦った11か国を代表する極東諮問委員会がワシントン州に設立されましたが、
戦後政策を実施する真の力は、東京にその司令部を持つGHQの最高司令官、
ダグラス・マッカーサー将軍がほぼ一手に握っていました。

ここにあった説明をそのまま翻訳しておきます。

「占領下でのアメリカの軍隊は、主に警察の役割を果たしていましたが、
占領軍は、主に戦後におけるの日本の復興をを支援しました。

1947年半ばまでに、新しい国会が自由選挙により選出され、
急速に憲法上の君主制、実質民主主義に変えるための措置が講じられ、
その結果、現在の日本は世界の経済大国の1つとなっています。」


占領の綺麗な面だけ見るとこうなるんですねわかります。
日本が経済大国になったのは、国民的資質の賜物というだけでなく、

かなりの部分アメリカのおかげ(日米同盟で保障を依存していたから)
という意味ならばその通りだと思いますが。

ここの展示で存在感を特に放っていたのは、この看板です。

 The High Commisioner Of The Ryukyu Isrands
琉球列島高等弁務官

1945年、アメリカ軍が沖縄に上陸すると同時に、アメリカはここに
米国政府を置きました。
USCAR(ユースカー)と呼ばれた琉球列島米国民政府です。

琉球列島高等弁務官は、陸軍中将の高等弁務官をトップとし、
その権限は強大で、しばしば下部組織である琉球政府の政策に介入しましたが、
このことが沖縄住民の反発を買い、復帰運動が激化したということがあります。

琉球米国民政府が沖縄返還と同時に閉庁し、高等弁務官も
六人の高等弁務官の施政を経て1972年に廃止されることになりました。

このマークは、鷲が右足に月桂樹?を、左足に矢を持っており、
おそらく武力と平和の均衡を意味しているのではと思われます。

六枚の絹を重ねた琉球着物を着た琉球人形がありました。
琉球政府の”与良Chobyo”という人物が、最後の高等弁務官を務めた
(第6代)ジェームズ・ランバート陸軍中将に贈ったものです。


病院を視察するランパート中将。
陸軍士官学校の校長を務めたこともあります。

 

戦後の核抑止力

「第二次世界大戦の終わりに最初の原子爆弾が爆発し、
戦争の新しい時代が到来しました。」

と書いてあります。この他人事感ぱねえ。

戦争後の4年間、米国は原子兵器を世界で唯一有する国でした。
これに対し、ソビエト連邦は同等の能力を確保しようと国力を投じました。

当時、原子力兵器の存在というのは、いうなれば
従来の戦争の可能性を排除した新しい国力のバランスを生みました。

第二次世界大戦が終わろうとしている頃、すでに2つの主要な大国であった
米国とソ連は、互いの幅広い国際問題に関する対立に気付いていました。

その決して和解できない両国の齟齬の原因は、対立する国益とイデオロギーです。
この対立は「冷戦」として知られるようになりました。

 

ソビエト連邦は1949年の実験を成功させ独自の原子爆弾を所有するようになり、
世界には二大大国による軍事的均衡(緊張)が生まれることになります。

両国の戦略的思想家は、この変化した世界における新しい解決策を模索していました。

(左、ファットマン)

彼らの出した結論は、最終的に抑止力と呼ばれる均衡状態の支える平和です。

西洋の思想家は、従来の軍隊の運用しながら、かつ
核保有を拡大していくという計画を打ち立てました。

1945年に国連が創設されましたが、これが多くの人々が期待するような
安心感を世界に提供することにはならず、むしろ失敗だったと言えましょう。

その結果、北大西洋条約機構(NATO)ワルシャワ協定など、
いくつかの地域安全保障協定が確立されていくことになります。

 

しかし国際機関も地域の安全保障協定も、第三世界の多くの地域において
戦前から勃興していた民族主義運動共産主義運動の再発を防ぐことはできませんでした。

 

中国では、日本との戦争終結後である1926年、
民族主義者と共産主義者の間に内戦が起こっていました。

1949年までに、毛沢東の共産党は、蒋介石の中国民族主義軍を破り、
フォルモサ島(台湾)に強制的に撤退させました。

軍事的、政治的、心理的な原理と技術を組み合わせた革命戦争。
毛沢東の「文化大革命」は、20世紀後半の他の革命戦争のモデルになりました。

中国での共産党の勝利は、1950年に中国がソビエト連邦と結んだ
友好と同盟の条約と相まって、共産主義があたかも一枚岩であるように思わせました。

中国での共産党の勝利と東ヨーロッパ諸国におけるソ連の傀儡政権の創設により、
西側は、彼らの考えるところの
世界共産主義の拡張を封じ込める、
という問題に対処することを余儀なくされていったのです。

これらの認識は、朝鮮半島とインドシナの出来事に対して
西側諸国がとった軍事的対応に生かされたということができるでしょう。

 

原子爆弾の投下スイッチ

 

続く。

 

 

 


映画「撃墜王 アフリカの星」〜ハンス=ヨアヒム・マルセイユ物語 後編

2020-05-12 | 歴史

                            

ルフトバッフェの撃墜王、ハンス=ヨアヒム・マルセイユの伝記映画、
「アフリカの星」、最終回です。

冒頭画像は映画のシーンでも、主演俳優でもなく、またしても
マルセイユ本人の写真を参考に描きました。

ほとんど影をつけなくてもいい彼のシワひとつない顔から
22歳というあまりにも早い死をあらためて思うとともに、なぜか、

「一人のモーツァルトの影には百人のモーツァルトが死んでいることを忘れるな」

という、昔読んだ原口統三の「二十歳のエチュード」の一節が、彼の時代
若くして死んだ無数の名も無きパイロットの存在を思い起こさせるのです。

 

さて、ムッソリーニから勲章を受賞されることが決まり、
ローマに向かうことになったマルセイユ。

ベルリン駅まで見送りに来た彼女のブリギッテの手をとり、
強引にローマ行きの列車に乗せてしまいました。

相変わらず強引な壁ドン男っぷりです。

「でも学校が・・・」

「おばさん、彼女の学校に休むと伝えておいて」

もちろん彼女は旅行の準備はもちろん、旅券も持っていないのですが、
胸に憲兵を表すプレート、「フェルドゲン・ダルメリー」をかけた
野戦憲兵が英雄マルセイユを知っていたのをいいことに、
見逃すようにちゃっかり頼むという俺様ルールで押し切ってしまいます。

有名人の特権濫用ガー!

二人が投宿したのはエクセルシオール・ホテル。
現在はウェスティンホテルの傘下になっている老舗高級ホテルです。

何も持ってこなかった彼女に、靴やドレス一切合切をプレゼントしますが、
いくら英雄でも給料は皆と同じだったと思うのよね。

 

マルセイユが実際にムッソリーニから軍事賞を授与されるために
ローマに行ったのは、死の直前である
1942年8月のことでした。
北アフリカに戻る旅に、ローマまで
彼が婚約者を同行していたのは事実です。

映画では二人の恋人たちのロマンチックな姿が描かれるのでした。
というか、後半のほとんどがこの恋愛を語るのに費やされています。

ところで、マルセイユ役の俳優ヨアヒム・ハンセンは27歳、
マリアンネ・コッホは26歳です。

実際のマルセイユの恋人ハンネも年上っぽいので、女性はいいとして、
最後までマルセイユの老けぶりが気になって仕方ありませんでした。
これ22歳に見えないよね。

ちなみに補助教師であるブリギッテを演じたコッホは、医大在学中
俳優になるためにキャリアを中断したのですが、その後キャリアを積み
グレゴリー・ペックやクリント・イーストウッドと共演するという
西ドイツを代表する女優となりながらも、もう一度大学に戻り、
44歳にして博士号を取得して医師となりました。

ホテルにお迎えに来た現地エスコート係の黒シャツの皆さん。
入ってくる時、ちゃんと手を上げてファシスト党の挨拶しています。

このときマルセイユが授与されたのは、イタリアで最高の軍事賞、
軍事的勇気の金メダル(Medaglia d'oro al valor militare )でした。

毎日式典と歓迎会、公式行事の毎日にうんざりしたマルセイユは
軍が取ったホテルをこっそり逃げ出し、彼女とローマ観光を楽しみます。

ここはトレビの泉かな?

コモ湖畔では彼女が飛行服のマフラーにするシルクのスカーフをプレゼント。

「お守りにするよ!」←フラグ

生バンド付きのディナーの最中、ブリギッテの顔はどんどん曇っていき、
ついには席を立ってしまいました。

彼がアフリカに帰ってまた飛行機に乗るのが彼女は耐えられないのです。
それは何ヶ月か以内に確実に死ぬということと同義だからでした。

ついに彼女は、ローマから二人で逃げて亡命しようとまでいいだすのですが、
これは実際の経緯を知っていると、「ああ」と察するラインです。

実際マルセイユがローマでやらかした?ことは以下の通り。

「彼はローマで行方不明になり、当局はローマ警察署長だった
ゲシュタポのヘルベルト・カプラーに、捜索と報告を行わせた。

噂によると、彼はこのとき一人のイタリア人女性と逃走するも、発見され、
説得されて部隊に戻ったのだが、このことは例外的にどこからも叱責されず、
その軽率さに対し罪を問われることはなく不問にされた」

なんとマルセイユ、ゲシュタポのカプラーの手で確保されなければ、このとき
婚約者のハンネではなく、現地の女の子と脱柵?していた可能性もあったのです。

 

彼が北アフリカで死亡したのはこの事件から1ヶ月後です。

映画でも主人公が次は自分が死ぬ番だと苦悩を告白していましたが、
この時のマルセイユが、目も眩むような栄光と我が身に迫った死の間で
今の自分も婚約者も放棄し、どこかに行ってしまうことを考えたとしても、
彼の前科を考えれば、決してありえないことではなかったかもしれません。

ただ、常人と違うのは、彼がそれを実行したことです。
そして彼が常人ではなかったからこそ、逃走はなかったことにされたのです。

この映画の不思議なところは、このロベルトをここでまた出してくるところです。

「ちょっと旅行で寄ったんだ」

この人も北アフリカに帰らなくてはいけないのに、なかなか呑気なことです。
ロベルトが現れたことでブリギッテは逃げようとまで迸らせた激情に
いわば水をかけられた形となり、観念したように

「行くのね」

と呟くのでした。

実際マルセイユはローマから直接北アフリカに戻り、婚約者は
ローマで彼を見送っています。

マルセイユが自分を放置して行方不明になったこともさながら、
見つかったときに女の子と一緒だったことを知らされた彼女が、
彼を相手にどんな修羅場を演じたか、他人事ながらちょっと心配になります。

ただし、彼は前線に戻ってから、ハンネと結婚するためという理由で
クリスマス
休暇を申し出ているので、二人の仲が破綻したわけではなかったようです。

アフリカに戻ったマルセイユは、8月23日から戦闘に復帰しました。
映画でも描かれていますが、帰ってからの彼は絶好調で、
9月1日には連合軍機を17機撃墜という新記録を打ち立てています。

空戦で、マルセイユの当初のライバルだった
ヘルデンライヒ中尉が撃墜され、重傷を負い死亡しました。

「僕は君を羨んでいた」「でも好きだった」

部隊に戻ると、見慣れない男が同僚の中に混じっていました。

「彼は誰だ」

「ブラウン大尉だ」

「彼を落としたやつだ」

同僚のヘルデンライヒを落とした敵が確保されていたのです。

それにしても驚くのが、敵のパイロットだというのに、このときも
テントの中でイギリス軍が
みんなに混じってタバコなんぞ吸っていることです。

パイロットの捕虜の扱いって第二次大戦中でもこんなだったんですかね。
彼は彼で、マルセイユに

「君はマルセイユだな。君が僕を落としたんだ」

 

実際にはマルセイユは9月3日、かつて自分を一度撃墜した
カナダ王立空軍のエース、ジェームズ・フランシス・エドワーズ
再び撃墜されています。

エドワーズはマルセイユの親友の一人を撃墜しており、もう一人も
この頃行方不明になったことから、人生最後の数週間、彼は
ほとんど誰とも話をせず、いつも陰鬱な様子で、戦闘の緊張から
夢遊病やPTSDのいくつかの症状を併発していましたが、
本人はそのことを全く自覚せず、自分の行動を覚えていなかったそうです。

 

もともと圧倒的な物量差の中でドイツ軍はかなりの劣勢でしたが、
その中でマルセイユというスーパースターの超人的な勝利は、
部隊の精神的な支えだけでなく、彼がいる限り負けないというくらいの
根拠のない自信にまでなっていため、部隊は
彼の死後、
「マルセイユ・ロス」
士気が極端に落ち、1ヶ月アフリカから撤退しています。

マルセイユの個人技量は優れていましたが、指導者ではなかったため、
他のパイロットは生前の彼を
補助するだけの役割に甘んじ、ゆえに
後継者もあらわれず、その死は大きな空洞を組織に開ける結果になったのでした。

そして、映画でも彼の最後の日が描かれます。
1942年9月30日の護衛任務です。

当時指揮所から任務を支持していたエドワルド・ノイマンはこう証言しています。

「わたしは指揮所にいてパイロット間の無線通信を聞いていました。
すぐに深刻なことが起こったことに気づきました。

飛行中の彼らがマルセイユを領土内に誘導していること、
そして彼の飛行機が大量の煙を放出しているということです」

 

基地に戻る間、彼の新しいメッサーシュミットBf 109 のコックピットは
煙で満たされ始め、視界を失った彼はウィングマンに誘導されて
ドイツ領空内に到着しましたが、すぐに機体はパワーを失い、流されて行きました。

彼は仲間に、

「脱出する。もう我慢できない」

という最後の言葉を残し、急降下する機体からベイルアウトしましたが、
後流に巻き込まれ、脱出時に左胸を垂直尾翼に強打し、
おそらくそれで死亡したか、
あるいは意識を完全に失ったと考えられています。

彼はそのためパラシュートに手もかけない状態で地面に落下しました。

マルセイユ の遺体の検死を行った医師の報告書にはこのように記されました。

「パイロットはまるで眠っているようにうつ伏せに横たわっていた。
彼の腕は彼の体の下に隠されていた。
近づくと、彼の押しつぶされた頭蓋骨の側面から血の塊が見え脳が露出していた。

また、腰の部分のひどい傷が目に入った。
これは落下によって生じた傷ではないことは確実だった。
脱出時にパイロットが機体に激突したことは確かである。

死んだパイロットを慎重に仰向けにしフライトジャケットのジッパーを開けると、
柏葉と剣の騎士の十字架が現れ、すぐにこれが誰であるかがわかった。
死んだ男の時計を見ると、それは11:42で止まっていた」

そしてラストシーン。
音楽の授業中、校長先生がやってきてドアを開けます。
校長は無言ですが、ブリギッテはその顔を見ただけで全てを察しました。

そして彼女も一言も発することなく、教壇に突っ伏しました。

歌うのをやめ、けげんそうに彼女の泣く様を見ている子供たち。

マルセイユ の100機撃墜の記念に入れた数字と、100機以降の撃墜数を表す
58の線がペイントされているメッサーシュミットの尾翼が、
砂漠の風に吹かれているカットで映画は幕を閉じます。

 

 

ところで、後世の人々、マルセイユを称賛する伝記作家は、
彼がナチス嫌いだったことを
なんとか証明しようと、あたかも
証言をかき集めているようにみえます。

たとえば、ヒトラーと謁見したマルセイユが、

「総統は相当変わったタイプだ」

といったという話。

まあ、20歳のヤンチャ坊主がヒトラーと会った後、
そういう軽口を叩いたとしても、それはよくある話でしょう。

また、授賞式の席でナチに入党するつもりはないかと聞かれた彼が、
よりによってヒトラーの前で声も憚らず

「魅力的な女の子がたくさんいるなら入ってもいいっすよ」

といったとかいう話も。

これも彼のように、上から怒られることをなんとも思っておらず、
自分がエースでいるのをいいことにやりたい放題ならあるあるでしょう。

また、ユダヤ人迫害について、ある人物は、パーティでその噂をしていると、
マルセイユが横で聞いていたので彼は知っていたはずだ、と述べました。

マルセイユは、たとえば自分を取り上げたかかりつけの医者を含め、
自分の周りのユダヤ人が一体
どこに行ってしまったのか、
ということを人に尋ねたこともあったそうですが、知人
の一人は、
彼がエースとして有名になり、持て囃されて上に近づくのと反比例して
国の大義に対する態度は微妙に
変わっていき、いつのころからか
その話題を一切口にしなくなったのに気がついた、
と証言しています。

 

学校を出たらすぐに飛行学校に入り、飛ぶことだけを考えてきた彼は
政治的なことに関しては全く定見というものを持たぬまま、
国の英雄としての立場を自然に受け入れていたようにわたしには思えます。

人種差別を嫌い、黒人であるマテアスと友達のように付き合ったのは
ナチス嫌いの彼の反発のあらわれだった、などというのは

後世の「ある」人々がそうであって欲しいと願っただけの後付けの考察に過ぎず、
奇しくもパリのビリヤード爺さんが喝破していたように、彼は
自分がそこに生きて存在することを始め、全てをあるがままにただ眺めながら、
そこで認められることを願う、無邪気な理想主義者にすぎなかったのではないでしょうか。



終わり

 


映画「撃墜王 アフリカの星」〜ハンス=ヨアヒム・マルセイユ物語 中編

2020-05-11 | 映画

 

「撃墜王 アフリカの星」は、映画としての評価は高くありません。

これが他のパイロットの話だとしても普通に通じるような、いわば
みんなの考えるところのドイツ空軍エースの生涯、という感じに収まっています。

これは前編でもわたしが言い切ったように、映画の脚本が凡庸で
彼の陰の部分を魅力として描くことを放棄し、ロマンスを柱に
女性客を釣ろうとした作戦の失敗と言えるでしょう。

 

ところで、空戦中心のバトル・オブ・ブリテンの期間が長かったこともあって、
生涯撃墜数352機というハルトマンをトップに、ドイツ軍には
100機レベルのエースが多く、マルセイユのランキングは30位に過ぎません。

しかし超のつく美貌を持った彼は、生前から今でいうセレブリティの扱いで、
マスコミは彼を追いかけ、彼の写真は世の女性をときめかせ、
結婚の申し込みをしてくる手紙は引きもきらなかったといいます。

神様というのは時折神々しいほどの美形を生み出したもうものですが、
加えて、稀に秀でた才能までを惜しげもなく与えることもあり、
ハンス=ヨアヒム・マルセイユはそういう祝福された一人でした。

しかし、世の中には奇跡の一枚が評価されている例もあることだし、
(陸奥宗光夫人とか有名な鼓を打つ芸妓さんもそうらしい)
多少写真うつりがいいだけかとと思って探したら、冒頭動画がでてきました。
時間のある方はご覧くだされば、彼の実力?がお分かりいただけるでしょう。

しかも相当自分に自信もあったようで、残された写真の多いこと(笑)
(ちなみに今観たら、一枚この映画のスチールが混入しています)

加えて彼の、ドイツ人なのにマルセイユというフランス系の姓は、
彼の雰囲気作りに一役買っていたのではないでしょうか。

ちなみにマルセイユ姓は彼の父方の先祖がルイ十四世の迫害から亡命してきた
フランス系だからだそうで、学生時代は母親の再婚相手の姓、
ロイターと名乗っていましたが、のちにマルセイユ姓に変更しています。

カーチャンにピアノを聴かせているマルセイユ。

何を弾いているのかわかりませんが、ピアノを弾くドイツ軍将校、
しかもこの男前・・・・・カーチャンも見るからにうっとりですわ。

マルセイユの母は、戦後、映画「アフリカの星」を鑑賞したそうですが、

「息子の方がずっとショーン(美男)だったわ」

とかマジで思ったかもしれません。

ところで、彼のピアノの腕は相当なものだったらしく、あの
ウィリー・メッサーシュミットの家で演奏したこともあります。

ヒトラー、ボルマン、ゲーリング、ヒムラー、ゲッベルスの前で
「エリーゼの為に」を始め1時間くらい弾きまくったマルセイユは、
驚いたことに彼らの前でよりによってジャズを演奏し始めました。

すると、ヒトラーはおもむろに手をあげて、

「もう十分聴かせてもらった」

と言って出て行きました。(大人だねえ)

マグダ・ゲッベルスはこの悪戯を大いに楽しみ、また別の列席者の一人は
ラグタイムが流れた瞬間、「血が凍った」とのちに語ったそうです。

ドイツ軍人でありながらジャズを愛し、自堕落で権威を恐れず反抗的な美青年。
マルセイユは女性はもちろん、男性からみても

「彼には抵抗できない魅力があった」

ちなみに彼の飛行隊長はこんな風に彼を評しています。

「彼の髪の毛は長すぎたし、腕の太さほどもある軍規違反履歴書を持ってきた。
それに何より、彼はベルリンっ子だったため、イメージを作ろうとして、
ベッドを共にした多くの女性について語ることを厭わなかった。

その中には有名な女優もいた。
彼は気性が荒く神経質で御しにくかった。
30年後だったら、彼はプレイボーイと呼ばれただろう」

さて、映画の続きです。
新入りのクライン伍長が戦死した日、
基地に帰ってきたマルセイユは、
クラインの遺品から彼の好きな曲
(本作テーマの『アフリカの星』)
のレコードをかけます。

この映画の戦争映画らしくないのが軍歌の類が出てこないところで、
このテーマ曲も日本では「アフリカの星のボレロ」としてヒットしました。

生前のマルセイユは「Rumba del sol」(太陽のルンバ)という曲を好んでおり、
これを使うことも検討されましたが、版権の関係で新しく作曲されました。

冒頭動画のBGMに流れているのがこの太陽のルンバですので、
似ているかどうか聞き比べてみてください。

マルセイユが到着した北アフリカの基地には「洞穴バー」がありました。
この映画のカットには、写真に残るシーンを再現しているものが多いので、
このバーも本当に同じようなものが存在したのでしょう。

踊っているアフリカ人は実在の人物で、南アフリカ軍の捕虜でした。
ドイツ人は彼にマテアスと名付け、何かと用事をさせていましたが、
ある日マルセイユに目をつけられ?従兵として彼に仕えていました。

映画では周りが彼に叙勲祝いに「プレゼント」したことになっていますが、
これもなんというか普通に人種差別的な表現ですよね。

本物

それはともかく、マテアスはマルセイユの話し相手になり、
音楽を聴き、一緒に酒を飲んで、普通に友人付き合いをしていた、
という証言が残されています。

今後映画化するなら、メッサーシュミット家でのピアノのエピソードと含めて
この辺りをもう少し深化させてほしいものです。
(映画では踊って見せているだけ)

まるでユダヤ人の囚人服のようなパジャマのまま遊撃に出て
1日に8機撃墜し、大歓声で迎えられ胴上げされるマルセイユ。

撃墜記録54機で最初の鉄十字章を授与されました。

物資不足に多くの敵、苦しい戦いの中で厳しい訓練を自らに課し、
独特な戦法で相手に挑むマルセイユの撃墜数は大きく新聞にも報じられました。

基地にも報道陣がやってきて彼の周りを取り囲む毎日です。
彼はカメラマンにとっても格好の絵になる被写体でした。

そんな日々のうちにも、仲間は次々と戦死していきます。
黒い犬を飼っていた搭乗員もまた・・・(やっぱり)

マルセイユと撃墜数を争っていた(最初のうち)搭乗員。
虚無的なタイプで、こういうときに何かわけのわからないことを
つぶやいてみせるというキャラ設定です。

「その先(僕らは皆いずれ死ぬ)を言えるか?いいさ、構わない。
僕らはみんな・・・君も僕もロベルトもその言えぬ言葉なんだ。
神様でも口籠るほどのね」

翻訳がかなり変ですが、ドイツ語なので
英語みたいに検証できないのが辛いところです<(_ _)>

明日をもしれない戦いの中で、ある日マルセイユは
飛行隊長のクルーセンベルグ大尉に語りかけます。

自分が撃墜した航空機の数、それとほぼ同じ人数が
自分の行為によって亡くなったこと。
そして彼自身もいつそうなってもおかしくないこと。

「突然死んだらそこに自意識はあるのでしょうか」

そんなことを聞かれても隊長だって死んだことがないので困ります。
適当なことを言ってはぐらかそうとすると、マルセイユが

「答えられませんか?」

と絡んでくるので、仕方なく

「どんな国の人間でも理性のある人は戦争を憎む。
しかし何一つできないのだ」

答えになっておらず、マルセイユは不満げに帰って行きました。

休暇でドイツに戻ったマルセイユは実家で機嫌よく目覚めました。
十字勲章はネクタイのあとに着用するんですね。

故郷でも彼は話題の人として大忙し。
まずは新聞協会でドイツ青年の輝かしい手本として褒められ、

続いて母校での講演会に出席。

生徒たちは英雄を憧れの眼差しで見つめています。
しかしマルセイユの担任だった先生は、学生時代の彼について聞かれ、

「彼は・・・あの・・・その・・・
いつでも元気いっぱいの少年だったので・・」

よほど目立たないか、困った生徒だったに違いありません。

彼は校長から「冒険談」を求められましたが、訥々と、
アフリカの部隊の同僚飛行士たちについて話し始めました。

実際の彼も弁舌が達者なタイプではなかったようですね。

そんな彼の稚拙なスピーチを暗い顔で聞いている女教師がいました。

自分の教室を訪れ、懐かしげに座ってみるマルセイユ。
一番前の席にいたということは、彼は学生時代から
小柄な少年だったに違いありません。

すると先ほどの女教師がやってきます。

「まだ学生ですが教師が不足しているので教壇に立っています」

マルセイユはまだこの頃22歳、女教師が相手だと
確実にとかなりの年上になってしまうからこそのこの設定でしょう。

ベルリンで女優を含めいろんな女性と関係していたという
彼の行状は一切描かないのは、彼を聖人化するというより、
本作をラブロマンス仕立てにしたかったからだと思われます。

Hans Joachim Marseille and Hanne-Lies Küpper | マルセイユ ...

それに実際のマルセイユも案外素朴で、本命の女性に対しては
外見より内面を重視していたのかな、と考えさせられるのが
彼が婚約者のハンネと一緒に撮ったこの写真なんですよね。

ハンネ嬢には失礼な言い方かもしれませんが、美男というのは案外
恋愛相手の容貌に拘らないのかもしれないと思ったり。(失礼だな)

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右側がハンネさんですよね。
もしかしたらハンネも女教師だったのかもしれません。

それにしてもマルセイユの水着姿、いけてな〜い(笑)

彼女にすっかりお熱のマルセイユ、戸惑う彼女に
畳み掛けるようにアプローチし、自分のペースに巻き込んでおります。

後ろは有名人のマルセイユに気がついたガキンチョの群れ。

壁ドンならぬ木ドンで迫ってみたり。
ポイントはデートにいつも制服を着ていることでしょうか。

水着姿を見る限り実物も「制服マジック」で底上げしてたと思うがどうか。



さっそく自分の友人であるロベルトの嫁に紹介します。
これもわたしに言わせると全く無駄なシーン。

ロベルトの嫁マリアンネと二人きりになると、ブリギッテは

「時間がないのに彼がグイグイくるんで困っちゃうけど
そんなこといってたらだめよねー」(意訳)

と「マルセイユを夢中にさせたいけないワタシ」をアピり、
マリアンネは

「時間は後で作れるわ。あなた心配じゃないの」

などとこちらもマウントを取りにきます。
男の預かり知らぬところで女の戦いが始まっていました。(´・ω・`)

とわたしが思ったのは決して深読みしすぎでもなく、
この後マリアンネと二人になったマルセイユが

彼女どう?」「君にわかるかな?」

と感想を聞いているのに彼女はそれに答えず、

「馬鹿な話だが僕今幸福なんだ。わかる?」

と聞かれて初めて

「ヤー」

と一言だけ答えるということから、彼女が
夫の友人であるマルセイユを取られそうで
面白くないと思っているのを隠している感満点です。

電話から帰ってきてマリアンネが去るのを見届けた二人は・・。
お嬢さん、ついさっき

「彼を好きだけどわたしには時間がないの」

とか言っていましたが。

「明日はローマだ。
ムッソリーニ首相が金牌を授与することになった」

マルセイユは撃墜王として勲章をもらった後は、それこそ
ナチ上層部の前でピアノを弾いたり、講演をしたり、
宣伝映画に出たりと最大限プロパガンダに協力をしたようです

マルセイユは1942年7月、ヒトラーの手からオークの葉を持つ騎士の十字架の剣を受け取ります

1942年7月、死の2ヶ月前ヒトラーから勲章を受け取り握手するマルセイユ。

プロパガンダの一環、ヒトラーユーゲントに囲まれるマルセイユ。

ほのぼのドイツ軍 on Twitter: サインするときもカメラ目線

1942年9月16日、ロンメルはドイツ空軍で最年少のハウプトマンになったことをマルセイユに祝福します

ロンメルと握手するマルセイユ。
1942年9月16日、死のちょうど2週間前に撮られた動画です。

 

続く。


映画「撃墜王 アフリカの星」〜ハンス=ヨアヒム・マルセイユ物語 前編

2020-05-09 | 映画

 

第二次世界大戦博物館シリーズで、バトル・オブ・ブリテン関連の
展示をご紹介しているとき、ドイツの国民的英雄となったエースパイロット、

ハンス=ヨアヒム・ヴァルター・ルドルフ・ジークフリート・マルセイ
Hans-Joachim "Jochen" Walter Rudolf Siegfried Marseille(1919−1942)

の名前を知り、さらにこの人のことを調べてみると、
その伝記映画までが戦後になって制作されていたことを知りました。

マルセイユという名前はあのフランスの地名と同じスペリングです。
日本語の媒体では彼の名前を「マルセイユ」と読み書きしているのですが、

ドイツ語では最後に「ユ」はつかず、映画でも彼の名前の発音は
「マルセイ」であったことをお断りしておきます。

まあただ、マルセイというとどうも日本ではバターサンドのイメージなので、
本稿も日本的慣習に倣ってマルセイユとします。

ドイツ映画を注文して2日で観られるなんて、便利な世の中になったものです。
昔だったらそもそもこの映画が存在することまで知ることができたかどうか。

タイトルの Der Stern Von Africa、「アフリカの星」
それがアフリカ戦線でエースとなった彼に与えられたタイトルでした。
ちなみにこの名前は彼がまだ現役中、ドイツで英雄として有名になる段階で

メディアなどによって名付けられたものだということです。

彼は機体の墜落によって22歳の生涯を終えるまでの2年間で、
連合国空軍機を158機撃墜し、エースとなりました。

さて、それでは始めます。
映画制作は1957年ということで、その頃のベルリンの風景が見られます。

ベルリンのルフトバッフェの戦闘機訓学校のシーンから映画は始まります。
実際に彼が戦闘機搭乗員の訓練を受けたのはウィーンだったそうです。

銃撃訓練で目標をことごとく撃破するマルセイユ候補生
しかし指導官は彼のやり方がお気に召さない様子で、

「誰だあのバカは!」

機体の高度を下げすぎて危険だ、と叱られてしまいました。
マルセイユがしょっちゅういろんな軍紀違反で叱られていたことは、
当時の同期(エースのヴェルナー・シュレーア)が証言しています。

「また怒られたよ・・君まで叱るのか」(´・ω・`)

「これ以上の違反は退学だぞ」(`・ω・´)

上官のロベルト・フランケ中尉は彼の幼なじみで友人でもあります。

と言われた端から方位飛行の訓練で場所が分からなくなり、
自動車道に着陸して道を尋ねるというお茶目ぶり。
これが実話だっていうんですから驚きますね。

たまたま後ろの車にいてこの様子を見ていた指導官、激おこですが、
ロベルトがまたもかばってくれたため、本来退学になるところを、
4週間の飛行停止で許してもらえました。

場面は代わり、休暇で実家に帰ってきたマルセイユ。

実際のマルセイユはあまりの素行の悪さに、たびたび海軍でいうところの
上陸禁止措置を受けましたが、全く無視していたそうです。

飛行技術がずば抜けていなければ早くに退学だったでしょう。

マルセイユの父は第一次世界大戦で戦死し、母ギゼラは再婚していました。
後年映画「アフリカの星」が完成した際、彼女は招待されて
息子を主人公にしたこの映画を鑑賞しています。

「お花、高かったでしょう」

と聞かれた彼が、

「花屋に彼女がいるのさ」

とさりげなく答えていますが、この人の場合決して冗談ではなく、
それこそあちらこちらにガールフレンドがいて、休みごとに会うのに忙しく、
搭乗員に必要な休息もろくに取っていなかったというあっぱれな噂もあります。

上官で幼なじみのロベルトも休暇で帰ってきていました。
彼はマルセイユ家と同じアパートで新婚生活をしているのです。

さっそくダブルデートでヨットにでかける彼らですが
(マルセイユの相手は適当な金髪美女)

休暇で遊びにやってきた他の航空学生のヨットから、

「戦争が始まった」

というニュースを知らされます。
ついにドイツがポーランドに侵攻したのでした。

戦争の始まりを示すシーンは世界中の戦争映画と同じく、
実写映像を交えて語られます。

ポーランド侵攻が語られているパートなので、流れで言うとこれは
戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」ということになりますが、
わたしには確定できませんでした。

よろしければどなたかご指南ください<(_ _)>

市街戦で燃え盛る民家も実写映像です。

戦車の影に隠れながら一緒に移動する歩兵。

JU87シュトゥーカ急降下爆撃機でしょうか。
解説ではここからバトル・オブ・ブリテンまでを10秒で済ませてしまいます。

そしてマルセイユ初陣の日がついにやってきました。

1940年8月24日、イギリス上空で、彼は熟練した敵と
4分間のドッグファイトの末、これを撃墜しています。

彼が母親に対し、

「今日、私は最初の敵を撃墜しました。
私はそれが受け入れられません。

私は、この若者の母親が息子の死のニュースを受けたとき、
どう感じるに違いないかを考え続けています。
そしてこの死の責任は私にあります。
私は最初の勝利に満足するどころか、悲しんでいます」

と書き送ったのはこのときです。

ここで事件発生。
この時の空戦で一緒に出撃したロベルトが撃墜されたのです。

そして映画では彼が海に落ちて救出されたということになっていますが、
これは映画上の創作で、実際にそうなったのは実はマルセイユ本人でした。

初撃墜から1ヶ月後の爆撃機護衛任務の帰りに、英軍機と交戦した彼は
被弾した機からベイルアウトし、3時間海を漂ったのち救出されています。

低体温症になりながらも生還できたのは20歳と若くて体力があったからでしょう。

映画ではマルセイユがロベルトを病院まで迎えに行き、慰めています。
この生還劇を、史実通り本人のストーリーにしなかったのはなぜなのか、
わたしには全く制作側の意図が図りかねます。

マルセイユを完璧な英雄として描きたいあまり、彼がこのとき中隊長を守れず
戦死させる結果になって部隊からハブられたことや、その一匹狼的性格が
災いし、嫌われて他の部隊に回されたと言う話をスルーしたのでしょうか。

こういう作り物的な伝記映画だったためか、興行収入はともかく、
映画としての評価は当時からあまり高くなかったということです。

マルセイユの部隊が、アフリカに赴任前パリに立ち寄るという
不思議な設定ももちろん創作です。

実際はマルセイユの部隊は、ユーゴスラビア侵攻で戦闘に参加したり、
前線に移動する際にマルセイユ 自身が機体のエンジントラブルで不時着し、
ヒッチハイクで基地にたどり着こうとしたり、それが無理とわかると
手近な空軍基地に飛び込んで

「明日から作戦に参加しなければいけない」

とちょっとフカし、車で送らせたりと大忙しでパリどころではありませんでした。

ちなみにこの時の手近な空軍基地司令は、
運転手付きの車を彼のために出してやり、別れの際に

「このお返しとしてぜひ50機撃墜を頼むぞ!」

と言ったらしいのですが、このエピソードの方が映画的で
彼のキャラクターも浮かび上がったんじゃないのかなあ。

 

本作のようなパイロットの伝記映画で、実物の方が映画俳優よりイケメン、
という例もあまりないですが、実際の人生の方が波乱万丈で映画的、
というのは創作としていかがなものでしょうか。

こうなったら?心あるドイツの映画関係者に(ハリウッド映画など、
ユダヤ資本が絡むとドイツ軍の描き方が一方的になるのでこれはダメ、絶対)
改めて彼を映画化して欲しいとわたしは今強く思っています。

占領下のパリに新婚旅行気分で嫁を連れてくるロベルト(´・ω・`)

この映画の脚本家の胸ぐらを掴んで問い詰めたい。
どうしてこの映画にロベルトの妻とのロマンスが必要なのか。

実際はプレイボーイだったというマルセイユのその部分を隠すため
ロベルトの恋愛が利用されているだけとしかわたしには思えません。

しかもこの嫁がこんなところに来て

「本当は嫌なんでしょ?戦争」

などと夫の心をかき乱すようなことを言い出します。
いやに決まってるのにこんなことをこの状況で妻が言いますかね。
どこかで見た雰囲気だなあと思ったら、同時代の日本映画ですよ。

ドイツ映画よお前もか。

実を言うとこの映画の制作された1950年代は、ドイツにおいても
(世界中から非難されたせいで)戦争嫌悪の空気が特に強く、
この映画からは
極力ナチスを感じさせる表現は省くという配慮がされたそうで、
「ハイル・ヒットラー」といいながら手を上げる軍人などは出てきません。

映画ではパリ市民も妙に友好的で、この爺さんは、マルセイユにドイツ語で
ビリヤードのコツを教えてくれたりします。

実際のところ、占領後のフランスでは国旗の掲揚が禁じられ、
市民の胸中には軍や対独協力者に対する恐れと怒りが渦巻き、
パリ市民とドイツ軍の間には、

「屈辱感を伴った名状しがたい一種の」

「何等共感を伴わない」

「連帯関係」があった、とあのジャン・ポール・サルトルが語っています。

この映画ではドイツ語を喋るこのフランス爺さんが、

「あなたは理想主義者かね。お気の毒に。
理想主義者は善でもあり悪でもある。
理想主義者は価値のはっきりしていない自然演劇の一種だ」

などといいますが、案の定マルセイユは全く理解できない様子です。
実際の彼もこんなことを理解する人物ではなかったに1マルク。

爺さんはなぜか相手が戦闘機パイロットであることを知っているかのように、

「この仕事(撞球家)なら自分も満足し相手を傷つけずに済む」

といったり、彼らが去った後、

「なんと恐ろしい。年老いた私の方ここにいる若者たちよりも長生きするとは」

とドイツ軍将校に独り言のように言ってのけますが、
これは、深読みすれば、フランス人である爺さんの、「
名状しがたい、
一種の
何等共感を伴わない」「共存関係に甘んじる」屈辱感の現れともいえます。

というわけで本当は色々あったマルセイユの部隊は北アフリカに到着。

映画的にはこれはフラグ。
部隊で犬を飼っている人はのちのち必ず戦死する・・・はず。

北アフリカに着いた直後の4月23日、マルセイユは
Bf109Eメッサーシュミットで初撃墜をあげました。

映画で使われた機体はスペイン空軍が使っていたライセンス生産の
イスパノHA1112だそうです。

実際の写真にも、彼のこのアフリカ仕様半ズボン姿が残されています。

マルセイユ役の俳優(ヨアヒム・ハンセン・ハンス)は長身ですが、
実際のマルセイユは背はあまり高くなく、水着姿を見る限り
どちらかといえば体型はドイツ人としては貧弱な感じです。

清潔好きなドイツ軍の部隊ですから、砂漠の中の基地でも
ちゃんとシャワーが完備しています。

そんな部隊に新しく若い下士官が着任してきました。

「少年部かい?」「小さな飛行機持ってきた?」

ウブなクライン伍長はスレた搭乗員連中の格好のからかいの的に。

その晩、マルセイユは呼び出しをくらい、昼間上官を無視したことや、
彼の戦闘スタイル(敵の編隊の中に単身突っ込んでいく)
に対し、命を大切にしろなどとやんわりと注意を受けます。

しかしこれは司令官の「親心」というやつでした。

「君を少尉に任命する」

ご機嫌です

少尉に任官した翌日、爆撃機の援護任務に出るマルセイユ。

新人のクライン伍長は、撃墜王マルセイユと飛べることに
感激しながらも緊張が隠せず、こわばった笑いを浮かべています。

はい、みなさんもうお気づきのように、これもフラグです。

この護衛任務で敵機と遭遇し交戦中、マルセイユ機は撃墜されて不時着しました。

実際に彼は三度撃墜されており、その都度生還していますが、この時
撃墜したのは英空軍第73飛行隊に加わっていた自由フランス軍のパイロット、

ジェームズ・デニス少尉(8.5機撃墜)のホーカー ハリケーンとわかっています。

マルセイユの機は操縦席付近に約30発の弾丸を受けましたが、
キャノピーを破壊した弾は彼が前屈みになったので数インチでそれました。

マルセイユはこのとき何とか胴体着陸し、救出されました。

ちなみに1ヶ月後の5月21日、デニスは再びマルセイユを撃墜しています。
よっぽどマルセイユにとって相性の悪い相手だったのでしょう。

このときも彼は生還していますが、その後2ヶ月間一機も撃墜できず、
いわゆるスランプに陥ることになりました。

救出されたあと、マルセイユを乗せた飛行機が次に向かったのは、
クライン伍長が撃墜された場所でした。

エースと呼ばれる戦果をあげることができたのはもちろん一握りで、
大半の未熟な若いパイロットは初陣で戦死するのが現実でした。

バトル・オブ・ブリテンでの搭乗員の平均寿命は4~6週間というものです。

クラインの遺体を抱き抱えて基地に戻るマルセイユ。

実際の彼がアフリカでこういう体験をしたかどうかはわかりませんが、
彼は時々、自分が撃墜した連合軍航空機の撃墜地点まで車で出かけて
生存を確認したり、ある時は敵基地まで飛んで撃墜の状況を知らせています。

撃墜したホーカー・ハリケーンの墜落現場に立つマルセイユ少尉、1942年3月30日。


ゲーリングがそれに類する行為を禁止したあとも、案の定通達を無視して、
彼は自分が死ぬまでそれを続けていたということです。

自分が撃墜記録を上げるたびに誰かが死ぬという現実に対する思いは、
100機を越す撃墜後も、彼の中で一切変わることはなかったのでしょう。

 

続く。

 


ドイツ軍の軍装備〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

2020-05-08 | 歴史

さて、今日はボストンに昨年秋まであった第二次世界大戦国際博物館の
膨大な展示の中から、ナチス・ドイツ軍のものをご紹介していきます。

ドイツ軍コレクションはこの博物館のなかでも多くのボリュームを占め、
まるまる一つの部屋にぎっしりと詰め込まれている感じでした。
そこここに立っているナチス軍人のマネキンは、歴史的にも
間違いのない着こなしがなされているそうです。

この部屋の真ん中を占めている砲はなんなのでしょうか。

パッと見た時これが何かすぐに分からなかったのは、現地に説明がなく、
砲身がなかったからなのですが、小さな砲であるらしいと検討をつけ、
ドイツ軍の装備をかたっぱしから探してやっと見つけたのがこれ。

7.5 cm leichtes Infanteriegeschütz 18

読み方はライヒテス・インファンテリーゲシュツ、でいいと思います。
ドイツ語で「簡易歩兵銃」なんですが、ドイツ語だとなんだか難しそうなイメージ。

で、ドイツ軍のお兄ちゃんたちが海水浴みたいな格好で操作していますが、
これを見て、砲身が前に出ていないのが正しい姿だったのだと知りました。

組み立て式で大変軽く、戦地で二人の戦士がバラバラにして
持ち運べる簡易式(だからライヒテス=簡単なのね)の歩兵銃です。

それにしてもなんでこんなものに測距儀が付属しているんだろう、
とかなり不思議だったのですが、よくよく写真を見たら、
これ、ただ測距儀を適当に上に置いただけではないの。

このタイプの測距儀は陸軍より海軍で使われていたはずなので、
(と思っているだけです違ってたらすみません)展示する人が
あまりわかっていない状態でひょいと上に置いただけの可能性ありです。

歩兵銃の後ろに立っているのはドイツ国防軍の制服で、
普通野戦服と呼ばれ、ナチスが政権をとってすぐに制定されたタイプです。

左の制服は、フィールドグレーと呼ばれる濃い灰色で、
襟の部分だけがダークグリーンになっています。
左だけが初期の制服だとわかるのは、上着とズボンの色が違うこと。

最初はフィールドグレーの上着に少し色が違う(ストーングレーという)
ズボンを合わせていたのですが、これはのちに廃止され、その後は
右側のように上下とも同じ色に変わりました。

ナチスドイツは将校だけがブーツを着用しましたが、
こちらは全員にごらんのような黒いブーツが支給されていました。

乗馬ズボンは将校専用でしたが、戦争も後期になると
それどころではなくなり、将校も普通のズボンへと変わっていきます。

素材もウール100%だったのがだんだん混紡が多くなり、
ヨーロッパの厳しい寒さにはこれが地道に辛かったということです。

我が帝国海軍の純白の第二種軍服もそういえば最後の頃は
「それどころではなくなって」カーキ色の第三種になっていましたっけね。

上着はセンターに裾ベントが入っていました。
それにしても、この、パリ占領後絵を描いているドイツ軍将校の写真、
何か色々と背後のストーリーを感じずにはいられませんね。

進駐してきたドイツ人が「芸術の都」を描くためイーゼルを立てている様子を、
パリの人たちはどんな思いで見ていたのでしょうか。
また、このナチス将校の来し方行く末についても思いを馳せてしまいます。

 

さて、写真で二人の後ろのラックにたくさん積まれているのはマラカス、
ではなくて、持ち手のついたタイプの手榴弾です。

ドイツが発明した20世紀の歩兵用武器ともいうべきもので、
M24型を基本とする取手付きの手榴弾は、イギリス軍からは
「ポテトマッシャー」と呼ばれていました。

ポテトマッシャー投擲中。
ヘアブラシ型という言い方もあったそうです。

蓋を外し、紐を引っ張ると3〜4秒で爆発する仕組みでした。

これは、2番目の写真の後ろに写っている迷彩柄車両の後部。
フロント部分にスペアタイヤを乗せている独特の形から、
これは、

キューベルヴァーゲン(Kübelwagen)

と呼ばれる、フォルクスワーゲンの原型かと思われます。
設計したのはあのフェルディナンド・ポルシェで、
おなじみフォルクスワーゲンは、これにセダンを乗っけたものです。

メッサーシュミット
MESSERSCHMITT BF 109 PLANE

メッサーシュミットbf109は、第二次世界大戦中の
もっとも先進的な航空機だったと言っても過言ではありません。

最初に登場したのはスペイン市民戦争のころですが、
歴史上最もたくさん生産された戦闘機の一つで、フォッケウルフFw 190とともに、
ドイツ空軍の戦闘機のバックボーンとなる名機でした。

最初に登場したとき、それはすでにオールメタルのモノコック構造、
密閉式のキャノピー、格納式の降着装置を備えていました。

Me109という名称は正式なものではなく、連合軍の搭乗員と
一部のドイツのエースがこう呼んでいたということです。

アイアンクロスの形をしたネックオーダーを着て、左を見下ろす軍服を着た若い男性の白黒写真。ベビーフェイス・ハルトマン

空戦史上最も成功したと言われる伝説の戦闘機エース、
エーリッヒ・アルフレート・ハルトマンが乗ったのもMe109です。

他にも、「アフリカの星」ハンス・ヨアヒム・マルセイ、

Star of Africa Hans-Joachim Marseille - Storia‐異人列伝男前かよ

などは連合軍相手にMe109でエースとなりました。
ちなみにこのマルセイさんについてはあまりにもキャラが立っているので
「アフリカの星」という映画が制作されています。

観てみたら突っ込みどころ満載だったので、
マルセイの生涯をご紹介するついでに映画を紹介することにしました。
次回をお楽しみに。

ユンカース爆撃機 Ju188

ドイツのユンカースが開発した爆撃機です。

コクピットと通信手、銃撃手の部分を拡大してみました。
銃撃手はずっとこの姿勢で大変かも・・・。

メッサーシュミットME-262
の操縦パネルです。

何度もこのブログで取り上げてきたドイツ初の軍用ジェット機ですが、
1944年半ば以降に投入されたため、最後の頃には燃料が枯渇して
ろくに飛ばすこともできなかったというのが実情です。

しかし、その画期的なその設計はアメリカの航空機に影響を与えました。
ヒトラーは戦闘機ではなく爆撃機として使用することを主張していたそうです。

ルフトバッフェのパイロットユニフォーム。
膝のポケットに地図がたくさん入るという機能的すぎるデザインです。


前回、バトル・オブ・ブリテンについてお話ししましたが、このナチスマークの
Me-109戦闘機は、1940年、ケント州のチャーリングで撃墜されました。

 

前述のマルセイユ(ドイツ読みではマルセイだと思いますが、wikiでこうなっている)
が初撃墜を記録したのはバトル・オブ・ブリテンの戦闘においてでした。

最初の空中戦で、マルセイユは熟練した敵と4分間の戦いを繰り広げ、
英軍戦闘機はエンジンを射抜かれてイギリス海峡に墜落していきました。
同日付の母親へ宛てた手紙に、マルセイユは、

今日、私は最初の敵を撃墜しました。
私はそれが受け入れられません。
私は、この若者の母親が息子の死のニュースを受けたとき、
どう感じるに違いないかを考え続けています。
そしてこの死の責任は私にあります。
私は最初の勝利に満足するどころか、悲しんでいます。

としたためています。

彼の最終的な撃墜数は158機だったそうですが、その頃には
撃墜した搭乗員の母親のことはすでに考えなくなっていたのでしょうか。
それとも考えるのをどこかでやめたのでしょうか。

さて、それでは次にドイツ軍の武器装備展示からUボート(ドイツ語ではブート)を。
模型の下に置いてあるのはおそらく青少年用の図解ムック本といったところでしょうか。

このマネキンがきているのは戦車の通信手なのだそうですが、
その後ろいあるのは、Uボートが使用した専門のチャートです。

アメリカ東海岸の地図なんですねこれが。

ドイツは、アメリカ東海岸の都市に対してUボートからV-1飛行爆弾
V-2ミサイルを発射する、という計画を盛んにプロパガンダしていました。

これでアメリカ国民は、西海岸は日本の襲来に怯え、東はドイツに怯え、
という状態だったわけですが、実際に西海岸を潜水艦で攻撃した日本と違い、
ドイツ軍がこれらの武器をUボートに搭載したことは一度もなかったらしいと
戦後の調査でわかったそうです。

まあただ、実際にUボートがこんな地図を持っていたということは
なんらかの攻撃を意図していたということではないのかと思ったり。

V-2ミサイルはUボートに載せるのは物理的に無理だったとは思いますが。

U-219の艦内で使われていた潮汐調和定数のアトラスチャート。
潮汐調和定数という言葉の意味は船乗りにしか分かりません(投げやり)

Uボート使用のチャートと徽章。

いずれもUボートで使用されていた遺品。
下の

U boot Flottille (Unterseebootflottille)

は、ドイツ海軍第1潜水隊群のインシニアです。
カール・デーニッツ中佐の下に1939年結成され、
初代司令もデーニッツでした。

カール・デーニッツ(1891−1980)は、第一次世界大戦に潜水艦長として参戦。
1918年、乗艦が潜航中に航行不能となり、急浮上をしたところを
イギリス軍に捕らわれて捕虜になったという経験を持ちます。

Uボートの艦長は絞首刑になるという噂を聞いたデーニッツは、
発狂したふりをして1919年、本国送還となるのですが、
皮肉なことに最もチャーチルを苦しめた「群狼作戦」を彼が思いついたのは
捕虜になっていた間(つまり牢獄の中)だったということです。

群狼作戦とは、潜水艦を一斉に使用して輸送船団を狩り、攻撃するもので、
これは「Wolfpack」(「Rudeltaktik」)
として知られるようになり、大西洋の戦いで大成功を収めました。

第二次世界大戦中、デーニッツは海軍の上級潜水艦士官であり、
1943年からは提督を務め、レーダーの後任として最高司令官を務めました。
デーニッツは、1945年5月に降伏に署名した将軍の1人です。

最後まで「ドイツは負けたが我々は負けていない」とか思ってただろうな。

右上の「ロリアン」というのはフランス海軍の基地のあった港湾都市です。

右の旗の上にあるカジキ?の可愛らしいマークは、やはり映画「Uボート」で
潜水艦のセイルに描かれていたものと同じです。

 

手前のがUボート517であることだけはっきりしました。
二度といけないと知っていたら、一つ残らず丁寧に写真を撮ったのですが・・。

ステルス駆逐艦のような近代的なラインですが、1940年のタイプです。
これと比べると同時代のアメリカの潜水艦はかなり旧式っぽいですね。

ドイツ海軍の寒冷地仕様皮の上下という珍しい軍装。
おそらく胸元にはマフラーをしていたのでしょう。

Uボートの艦長専門の軍装です。

ふと思い立ってあらためて映画「Uボート」を観たら、
艦長が艦上で着ていたのがまさにこのタイプでした。

中尉時代のカール・デーニッツが同じような(昔なのでデザインは違いますが)
革製らしいコートを着て甲板に立っているところ。

いやーなんか・・・よろしいですねえ(意味なし)

こちらはUボートの乗員(水兵)の基本的なスタイルです。
こちらも上下皮という贅沢仕様。

首からかけているのは救命ベストです。

考えたら皮の軍服というのをみたのは初めてです。
ドイツ軍の軍服も、こんなに多種多様なものが集められているところは
記憶する限りここだけでした。

つくづく惜しい博物館を失くしたものだと思います。

 

続く。