ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

小野田少尉の終戦~小野田・酒巻会談より

2016-08-14 | 陸軍

引き続き、「遥かに故郷を語る 小野田寛郎・酒巻和男会談」
からお話ししていこうと思います。

このタイトルの「遥かに」とは、会談が行われたのが昭和52年で、
場所がブラジルであることからきたタイトルです。
小野田氏は帰国後、日本の喧騒を避けるようにブラジルに移住しており、
酒巻和男氏は戦後、ブラジル・トヨタの輸出業務を経て社長だったころです。


酒巻氏は戦後復員してきた時、しばらく久里浜にある収容所にいてから
故郷(徳島)に帰り、翌年にはトヨタに入社しています。
トヨタを選んだのは、

「自動車産業は将来伸ばさなくてはいけないし、伸びるべきものである」

その中で自分が役にたてばということだったようです。
その頃トヨタは「賠償指定工場」でした。
これは戦後、操業を認める代わりに、工場の重機や工作機械などを、
戦勝国や戦争で被害を受けた国に賠償金代わりに渡すよう
GHQから指定された工場のことで、トヨタの愛知工場がそうでした。

「シナに(工場を)取られるかもしれない」

という状況も覚悟していただったの
ですが、戦後5年で指定は解除となったそうです。


戦後の日本は酒巻少尉にとって戦争の爪痕で「惨憺たる有様」でした。
久里浜の収容所では、サイパンで軍属として働いていた朝鮮人の団体と
アメリカから復員してきた酒巻少尉らのグループが一緒になったのですが、
その晩、彼らは「我々は戦勝国だ」と言い出し、収容所に対して
要求を通すために騒いであわや暴動という事態にまで発展しました。

その収容所の司令官は、アメリカ人で酒巻少尉と旧知でした。
そこで、どうしたらいいかを話し合って解決したそうです。
その後、横須賀線で東京まで行き、そこから郷里に帰ったのですが、
そこでもまた朝鮮人が自らを戦勝国民だとして肩で風を切っており、
日本人の男とみると見境なく殴ったりひっぱたいたりしており、
酒巻氏も彼らに不愉快な目に遭わされた、ということを控えめに語っています。

●靖国神社に二度入った男

小野田氏はご存知の通り、終戦を30年間知りませんでした。
ちなみに小野田少尉は死んだことになっていたので、昭和20年8月20日、
戦争が終わって5日後に中尉に昇進していました。
胸部貫通銃創で戦死、ということにされて一旦靖国神社に入りました。


終戦時、小野田少尉がルバング島で率いていたのは、3名の部下でした。
昭和25年、部下のうち一人が投降し、その情報で3人が生きていることがわかり、
もう一度少尉に戻して靖国神社を「出されて」います。

その4年後、フィリピンの士官学校の卒業課題で「討伐実習」が行われ、
それに「引っかかって」部下の島田庄一伍長が「やられました」。
射殺された島田伍長は「戦死」扱いになっていますが、このときに
小野田少尉もきっと自決したんだろうということになり、
島田伍長と一緒にまた中尉になって靖国神社に入ったのだそうです。

小野田少尉が発見されたのは昭和49年のことですが、20年間、
ずっと靖国神社に「いた」ということになります。

その2年前、最後までルバング島での「諜報活動」を共にしていた
もう一人の部下、小塚金七上等兵が、こんどは現地の警察隊に射殺されます。
小塚上等兵も戦死扱いとなり、「最後の戦死者」と呼ばれました。

長年の密林生活を共にした部下であり戦友であり親友が戦死した時、
小野田少尉は

「復讐心が高まった。
目の前で30年もの戦友を殺された時の口惜しさなんてものはない」

と後年語ったそうです。(wiki)
酒巻氏との対談では、30年間ルバングで生き抜いてきたことは

「任務を、つまり自分が『うん』といったものを途中で投げるのは
男がすたるようなそういう意地が自分の性質としてありますね。
だけども、とにかく日本がもう一度この島を占領したら、そのときには
いわゆる先遺の諜者として立派に連絡を取りたい。

あの小さな島はいわば飛行機地で、それを秘密裏に取るのが任務ですから。

それまで生きて、島の情報をよく掴んでおくこと。
それまで生きておれ、という任務をもらったことが、努力して
生きながらえた一つの条件ですね。

それからもう一つは、それを持ち続けるために自分が健康だったこと。

もう一つ。
子供の頃は授業は聞かずによそ見して何にでも首をつっこむ、
知識欲の塊みたいでした。
その結果、初歩的、基礎的、原理的なことだけは幅広く知識を持っていたことが、
難関を切り抜けられた頭の方の部分かもしれません」

と語っています。


●なぜ終戦を「知らなかった」か

小野田少尉はルバング島で日本で起こっていることをラジオで聞いて知っていた、
皇太子のご成婚も、東京オリンピックも、新幹線開通も・・・、
しかし終戦だけは知らなかった、というのが帰国後話題になりました。
小野田さん自身、「情報将校として落第だ」と言われたこともあったそうです。

小野田さんがそれを知らなかった理由は、ベトナム戦争にありました。
ルバング島はグアムとベトナムをつなぐ一直線上に位置する島です。
北爆のために、戦略爆撃機B-52がグアムから多い時には17編隊、
すなわち51機も、島の上を飛んでいくのです。

島には南シナ海を500キロにわたって警戒するフィリピン空軍の
レーダー基地もあり、クラークフィールドの空軍基地の防衛を受け持っていました。
そこから出される電波の誘導でB-52がまずグアムからルバングに飛び、
そのあとベトナムに一直線に飛んでいくわけです。

こういうのを日常的に見ていると、戦争は終わっているなどとは
とても思えなかったということと、日本の繁栄は傀儡政権のもので、
満州に亡命政権があると考えていた(wiki)というのがその理由です。

昔、日本政府は満州に愛新覚羅溥儀を皇帝とする傀儡政権を置いていましたが、
小野田少尉の考えたその頃の日本は、そこに戦況不利になった政府が
亡命して「身を寄せていた」というものだったらしいのです。


さて、そんなこんなで靖国神社入りしてしまった小野田少尉、いや中尉。
日本ではもう日本兵はここにはいない、ということになってしまいましたが、
現地の住民は子供ですらその存在を知っていました。

なぜなら、一年に一度あえて姿を現して存在をアピールしていたからで、
その理由は「いることを教えなければゲリラの意味がない」からでした。

投稿のビラが撒かれたこともあったそうですが、それを信じるには
旧陸軍の軍人である小野田少尉には

「戦闘停止の命令が下りたかどうか」

にかかっていました。
なぜなら、小野田少尉は上から「戦争が一時状況不利になっても
三年でも五年でも待て」と命令されていたため、何を見ても聞いても
否定するしかなかったのでした。 

●終戦を知ったとき
 

日本が負けたと知ったとき、小野田少尉の思ったのは
「なんだ、だらしない」でした。

たとえばドゴールのフランスは、ドイツ軍にパッと手を上げて、
お手柔らかに、と頭を下げておきながら実はいろいろと抵抗運動をしていました。
日本だって、敗戦のときにも50万80万人もの軍隊をまだシナ大陸や
南方派遣軍として持っていたのだから、再編すればまだなんとかなる。
もう少し頭を使ってくれてもいいのに、と思ったそうです。

そこで、俺は30年間何をやってきたのか、と拍子抜けした気持ちで、
大統領と会う(亡くなった時NYTがサムライのようだったと評した
から、のんびりと川で髭を剃りながら、


「じゃあもうおれの知っているのは南方の気候と牛のことくらいだな」 

仕方がないから兄貴の子供を頼ってブラジルでかぼちゃでも作って食おう、
このように思ったのが、その小野田氏がブラジルに渡ったきっかけでした。 

日本に帰ることは、なまじそれまで日本の現在の様子を知っていたため、
もはや自分のいるところはないだろうから、
いわゆるもう少し原始的なところに行くしかない、と思ったのです。


● 酒巻少尉の終戦


その点、酒巻少尉の迎えた「終戦」は、少し違いました。
いわば戦争が始まったとたんに酒巻少尉にとっては戦争は終わったも同然。
このことを酒巻氏は「我々(捕虜)は4年間先行している」と感じました。

つまり、日本は敗戦後、マッカーサー司令部の指令によって全てが処理され、
いわば日本人全部が捕虜、日本は巨大な捕虜収容所になったような状態になり、
酒巻氏はそれをすでに「シミュレーションしていた」と見たのです。

自分たちが4年前に感じたり、反省したり、止揚(aufheben、アウフヘーベン。
ヘーゲルが弁証法の中で提唱した概念。揚棄(ようき)ともいい、
違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方とは異なる
新しい考え方を統合させてゆくこと)してきたことと全く同じことが
日本では行われている、それではたとえ及ぼす範囲が狭くても、
わたしの知る限りのことをなして、日本を再建・復興させていこう。

まずは衣食住から、そして個人から、グループから。
そうすることが数百万の親友、先輩に対する我々の義務であると。


●なぜ将校になったのか

本日画像の元にした写真には、左手に小野田少尉の弟滋郎が写っています。
写真撮影当時小野田氏は曹長で、陸軍経理学校に進んだ弟は少尉と、
兄よりも階級が上となっています。

小野田少尉の長兄敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校、
(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)、
次兄・格郎は陸軍経理学校卒の経理将校(最終階級陸軍主計大尉)。

 小野田氏が徴兵で二等兵となり「星一つ」つけたとき、次兄に

「おまえ兵隊好きなのか嫌いなのか」

と聞かれたので、

「好きじゃないですよ、好きじゃないけど行かなきゃしょうがないだろう」

というと、幹部候補生の制度で将校になる気はないかと聞かれます。
他の兄弟が全員将校なのでそれもやむなしか、と思う小野田二等兵に兄は
畳み掛けるように、

「なったら軍服を着ている間は本官の将校と同じことをしなければならないよ。
それが嫌だと言うんなら、おまえ、今ここで死ね。軍隊は絶対逃げられん。
またそんなことがあったら親兄弟の面目型立たない。嫌なら死ぬしかない」

つまり、星一つついたときに、やる気があるもないもやる気を起こすしかないので
幹部候補生を志願し、ここでも優秀だったので選抜されて
陸軍中野学校の二俣分校に入学したという経緯でした。

●小野田少尉の見た帝国陸軍

ここで少し言い訳です。
酒巻少尉の語った海軍のいろいろについては

知らないことは一つもなかったのですが、どうも小野田少尉が
陸軍の戦法について語っていることがいまいちピンときません。
なので、ただ抜粋でお茶を濁します。


「当時の陸軍の戦車の基本は、歩兵が正面でぶつかっているときに
本来使うべき騎兵の代わりに戦車が側背攻撃をするというのが主流だった。
当時の日本の戦車は、日本人が小さいから小さく速かったから、
側面から攻撃するようにということでより機動性ばかりを追求して、
正面突破や戦車戦のできない捜索連隊型の戦車しかなかった。
これは軽装甲で薄い。」

(あれ・・?これって、ヒトマル式のこと?)

「こんなだから歩兵の正面突破、とくに鉄条網の突破に苦労する。
砲兵がないから上海事変の肉弾三勇士みたいな犠牲がでる。
ただ、日本の戦車はディーゼルだったから外国軍に比して成功していた。
ソ連でもアメリカでも火炎瓶放られると燃えてしまう。」

もしかしたら日本の作る戦車はわりとよかったという話でしょうか。
ちなみにこのとき、自動車は当時全然ダメだったのに、飛行機は
結構いいものを作れたのはなぜだろうという問いに、二人は
出発点が同じ頃だったからだろう、と答えています。

ここで司会者が

「末期にソ連のT34とかドイツのティーゲルとか出てきたら、
もう比較になりませんでしょう」

うーん、司会者がなんかすごく水を得た魚のよう。

小野田「大型戦車でしょう。
日本は明治時代にイギリスから払い下げの狭軌(狭いレール)を安く買ったため、
東京の工場で大型戦車を作っても汽車で運ぶことができない。
トンネルや橋梁も通れない、だから大型戦車は(作るのを)あきらめてしまった。」

「第一次大戦の火力戦を見ていて、陸軍大学の教科書には
その戦訓で満ち満ちているのに、陸軍は基本兵制を日露戦争以来
全く変えていない。
傘型散開といって、軽機関銃を中心に狙撃手を二人つけ、10名は置いておいて、
向こうと撃ち合いながらいって、300mまでいったところで突撃という形。」

これも、予算がなくて重火器を後方において損害を少なくする、
というやり方だったそうです。
小野田少尉のおじさんという人は陸軍の技術将校で、
92歩兵砲とか、戦車、対戦車の車載戦車砲を作っていたそうですが、

「おじさんがせっかく研究してもね、今軍隊の予算には砲を作るお金がないんだよ」

といっていたそうです。

陸軍の砲兵火力がないんから昼間の戦争ができないんですね。
見えているから歩兵はやられてしまうので、夜襲しかないんですが、
向敵警戒機で見えないはずなのに機関銃を撃ってくる。

当時、陣地の前に小型マイクを埋めてあるんじゃないかと思って、
夜襲に成功して周りを探してみればその機械を取れるんじゃないかとか
考えたりしました。

それで予備士官の成績のいいのに将校斥候を命じたりするんです。
同じ教育を受けた連隊の一番優秀なのを使っていくしかないんです。


●小野田少尉の「見ていた」日本

小野田少尉はルバング島で新聞もラジオも手に入れていました。
しかし、終戦直後はフィリピンも不景気なので手がかりになるものがなく、
それもまた終戦を知らずに5年過ごす原因になったと言います。
5年すぎると、新聞紙などが落ちているようになり、日本語、英語、
そして中国語の(中野学校に推薦されたのはこの2ヶ国語が堪能だったから)
新聞から情報を断片的に得ては組み合わせて情報を整理するわけです。

これはまさに陸軍中野学校で諜報将校として勉強したことそのものでした。
ただ情報のなかった空白の5年間は、自分の思うようにストーリーを
組み立て、つじつまを合わせてしまったので、その結果
「敗戦」だけがその結論からこぼれ落ちてしまったようです。

小野田少尉はまた、東京オリンピックのときも経過を知っており、
金メダルが少ないとか、水泳が振るわなかったのを
悲しく思ったりしていたそうです(笑)

三島由紀夫の自殺も断片的な情報をつなぎ合わせて、
リアルタイムではありませんが知ったようで、

「どうしてかなあ、これが時代なのかな」

と不思議に感じていました。
興味深いのは横井庄一さんが出てきたときで、

”兵器がないからってあんなに人間ばかりばらまいていっちゃ、
(戦地に兵隊が)残っているのも当たり前だな、
現にわれわれが残っているんだし、まだ方々にいるんだろう、
それなら心強い。しかし下手やったな”



つまり、小野田少尉から見ると横井さんはやりそこなった、
捕まってしまった、と思ったということです。

このころは、小野田少尉に見せるために日本からの捜索隊がわざと
日本の新聞や週刊誌を置いていっていたのですが、それも
小野田少尉は、

「自分に見せるため(つまりおびき寄せて捕まえるために)
操作した情報を印刷したものを用意している」

と警戒していたので、すべての情報を鵜呑みにしていたわけではなかったのです。

●命令解除・投降

小野田少尉が日本が戦争に負けたことを知り、
日本に帰る決心をした経緯は、おそらくみなさんのご存知の通りです。 

直属の上官の命令解除があれば、任務を離れることを了承する、
と言ったため、かつての上官である谷口義美元陸軍少佐が、
文語文による山下奉文陸軍大将名の「尚武集団作戦命令」と、
口達による「参謀部別班命令」で任務解除・帰国命令を受諾しました。



左が谷口元少佐。 

翌日、小野田少尉は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をしています。
このあとマラカニアン宮殿でフィリピンに「投降する」という形で
軍刀をわたし、(すぐにそれは返還された) フィリピン政府からは
潜伏期間の「殺人」は戦闘行為であったという恩赦を受けました。 

小野田少尉にとっての大東亜戦争はこのとき終わったのです。


続く。 



舩坂弘陸軍軍曹の戦い 四月十七日の再会

2016-04-17 | 陸軍















 

 

 




舩坂弘超人伝説を制作していて、4月17日が近いことに気づきました。
奇しくも漫画中の羽田での二人の出会いは4月17日だったそうです。

舩坂氏の経営する大盛堂書店の名をアメリカに紹介するという意図のもとに

発足させたクレンショー氏の貿易会社「タイセイドー・インターナショナル」
の船出も4月17日であったということで、この日は生前の舩坂氏にとって、
もちろんクレンショー氏にとってもー「特別な日」だったということです。

舩坂弘の「超人伝説」を読んだとき、これは漫画にしてみたいなあと
思ったのですが、氏の著書、「英雄の絶叫」においても、最も氏が
その著書によって後世に残したかったのは決して自分の不死身ぶりではなく、
あの地で死んでいった戦友たちの姿であることは明白です。

不死身伝説は氏の遺志を慮ると少々不謹慎になるやもしれぬ、
と考えたこともあって、代わりに米海兵隊伍長で通訳をしていたクレンショー氏と
舩坂氏の数奇な友誼をテーマに描いてみました。



船坂軍曹の「不死身伝説」の前半は、主に彼の驚異的な体力と

運の強さの賜物でしたが、米軍機地に単独突入して銃撃を受け、
三日三晩経ってから奇跡的に復活した後、もし舩坂軍曹が
クレンショーと知り合わなければ、伝説が残らなかった可能性があります。


舩坂軍曹は二度捕虜収容所を脱走し、飛行機を爆破して自分も死のうと試み、
いずれもクレンショー伍長に(彼は舩坂の”見張り役”だった)阻止されました。

このときもし相手がクレンショーでなければその場で射殺されていたでしょうし、
漫画に描いた「ピアノ線が仕掛けられた罠」でいうと、
その少し前に脱出した
日本兵の捕虜は、実際にそこで射殺されたということです。




ちなみに舩坂氏が戦後実業家となって起こした「大盛堂書店」は、
昨今の書店の不振で規模が縮小したものの、まだ渋谷駅前で営業を続けています。

クレンショー氏は舩坂と再会した時には運送会社の副社長でした。

本屋を開業していた舩坂氏は、クレンショーに会うために昭和23年から
毎年問い合わせの手紙を各方面に配り、米国陸海軍省、外務省、
国防長官、参謀総長に至るまでくまなく連絡を取り続けました。

ちょうど手紙を110通書いたとき、米海軍の「ネイビータイムズ」が、
舩坂氏を取り上げたのがきっかけで、クレンショー氏の行方がわかったのです。


かつて、米軍基地で敵同士として出会った二人。
海兵隊に入ってから「人を殺したくなくて」通訳になろうと思い
日本語を勉強したというクレンショー伍長は、
まず自分の命を惜しまず突入してきた日本人に個人的な興味を持ち、
船坂軍曹に近づいてきました。

二人は生と死について語り、船坂軍曹はクレンショー伍長に、
「花は桜木、人は武士」つまり「桜の花のように散ることを侍は尊ぶ」
という精神を伝えようと試みたのですが、最後までこのことは
クリスチャンであるクレンショーには理解できなかったようです。


「その考えは勇ましいが、やっぱりそれでもなぜ死にたがるのかわからない」

舩坂氏がクレンショー氏を4月17日に日本に呼んだのは、
桜の散り際を彼に見せてやりたいと思ったからでした。
かつてどうしても理解できなかった「武士と桜木」
の思想を、その片鱗でも感じ取って欲しかったのでしょう。

彼は捕虜収容所で私に「神と平和」について教え、
私は彼に「大和魂の闘魂」を身を以て示したのである。


武士道についての研究は、今や世界で行われており、名著が数多くあります。

クレンショー氏は戦後、そういう武士道について書かれたものを読み、
「ユーカンナ フナサカ」が言っていたことを理解しようと
試みたことがあったでしょうか。

わたしは「あった」と断言してもいいと思います。
クレンショー氏が舩坂氏と再会してから5年後、彼は貿易会社を始め、
その傍らアメリカの子供達に日本語を教えていました。
彼が舩坂氏にしばしばこう語っていたそうです。

「これからの世界をリードするのはアメリカと日本である、
日本にはアメリカにない精神的な『もの』がある。
それを手本にしなければならない」

その「もの」とは間違いなく、武士道の精神でもあったはずだからです。
 

 


舩坂弘陸軍軍曹の戦い その「超人伝説」

2016-04-15 | 陸軍

市ヶ谷の記念館には何振りかの軍刀が展示されています。
出処不明の青龍刀などもあるのですが、このように



誰の所蔵品であったかはっきりと素性の分かるものもあります。
荒木貞夫大将の「日露戦争記念の関孫六」。
おそらくは何十年も手入れしていないと思われるのですが、
それでもこの不気味なくらいの光は・・・・。

またご報告しますが、先日島根県でたたらを見学してきました。
そこで日本刀になるための鉄が、最初の段階から

どれほど手をかけ精神を込めて作られているかを知った今となっては
この輝きも決して不思議なものには思えませんが・・。

この記念館展示を見るのはわたしにとって二度目なのですが、
前回は全く意識に上らなかった、(もしかしたらなかったのかも)
冒頭写真の日本刀。
今回はその所蔵者を見て、思わずあっと心の中で叫びました。

この3年の間に戦史を読んだり調べたりするなかで、
「超人」としてその名を記憶していた軍人の名前が記されていたのです。

それが、舩坂弘陸軍軍曹でした。

いつの頃からか、その名前のイメージは「不死身」「超人」という
ズバ抜けた身体能力と恐るべき運、の象徴のように伝播しています。

白い悪魔と恐れられた狙撃手シモ・ヘイへ、安定の悪い黎明期の飛行機で
何百機も敵機を撃墜したエーリッヒ・ハルトマン、
戦車やなんか壊しまくったハンス・ウルリッヒ・ルーデルらとともに、
「サイボーグ」とか「チート」と呼ばれる舩坂軍曹とは何をしたのか。

というわけで、ご本人の著書、「英雄の絶叫 玉砕島アンガウル戦記」
から、その超人ぶりを探ってみました。

まず、舩坂弘軍曹が戦っていたアンガウルというのは、パラオ群島の一つで、
周囲わずか4kmの小さな島でした。
カナカ族が数百人住み着いていて、鉱石の産地でもありました。

もともと太平洋の要地というわけではなかったのですが、
昭和19年になり、戦況が日本に不利となると、防衛ラインがじりじりと
後退してきて、パラオ諸島まで追い詰められてきたのでした。

ペリリュー島に米軍が上陸したのが昭和19年9月、そして11月24日玉砕。
アンガウル島への上陸も9月17日のことです。

舩坂軍曹のいた宇都宮歩兵第14師団は、それまで満州に司令部を置いて
ノモンハン一帯の国境警備隊を務めていましたが、3月に南方への
動員命令が出されると、船坂軍曹もまた皆と同じように死を覚悟しました。

アンガウル島を守備したのは精鋭と言われた第一大隊を始めとする1382名。
この人数で迎え撃つアメリカ軍は2万人。
帝国陸軍がこの島で闘ったその日から舩坂弘の超人神話が始まったのでした。


●9月17日、13名の擲弾筒部隊が空襲と艦砲の嵐で10名戦死

舩坂、かぶっていた鉄帽が砕けるも無傷
この後舩坂隊3名は退却して反撃 

この後至近弾が足元で炸裂し大腿部を負傷
破片が大腿部の肉を25センチ切り取る重症だった
壊疽の予防をしてもらおうと軍医を呼んでもらったら、
黙って凝視しながら手榴弾を置いて行かれた

このままでは死ねないと思い、気が咎めたが持っていた日章旗を
傷口に当てゲートルで巻き止血をする 血が止まる


アメリカ側も決して楽な戦争をしていたわけではありません。
コウモリと蟹の気配が夜間も兵士の心をかき乱し、精神的に
異常をきたす者が続出していますし、指揮官がやられて撤退した
という局面もあったそうです。
それはたいてい日本軍からの「斬り込み隊」「肉攻」の成果でした。

「そこにひらひらと揚がった日の丸の旗を、私はわすれることができない」

●9月28日、擲弾筒を当てまくって敵を倒しまくっていたところ、
眼前で真っ赤に焼けた重迫撃弾が 炸裂
左腕上関節に破片が入り、またしても負傷、退却

米軍側の記録によると、このとき船坂軍曹の臼砲攻撃によって
一個小隊60名の将兵が全滅していました。
ちなみにこの間、舩坂軍曹は怪我をしていたはずの左足も使って戦闘しており、
終わった途端ばったりと倒れてしまいます。

●擲弾筒の弾を投げ続けたため、右肩捻挫していた
しかしそのまま9月末まで闘い続ける

戦闘の合間に船坂軍曹はゲリラに出て米軍兵の屍体から
食べ物を取って帰るも、それまで一緒に戦ってきた部下を失います。

やがて彼は微笑をすら浮かべて水筒を指差した。
<うんと飲めよ。松島!>
私の差し出す水筒の水を、彼はゴクゴクと音を出して実に美味そうに飲んだ。
その幸せそうな顔ーそれは私の一生が終わるまで忘れられないものである。
松島上等兵は水を飲んで間も無く息を引き取った。


●10月6日、敵に斬り込んで死ぬことを決意
屍体の間に横たわって近づいてきた米兵を三八式で射殺
その後銃剣で突入し、一人を刺す
左頭部に衝撃を受けて失神したが、6時間後
気がついたら
周りで米兵が全員(3名)死んでいた

ちなみに一人は舩坂の頭に銃剣を突き刺したままの姿だった


このころ、日本軍はもはや飢えと戦闘ショックで全員が幽鬼のようでした。
いきなり自決してしまったり、自分の血を飲み肉を食べるように
言い残して自分で引き金を引いて死んでいくのです。
しかし、舩坂軍曹始め日本兵たちは涙を流すだけで肉を食べようとはしませんでした。


●水を汲みに夜海岸線に行ったら目の前に潜水艦が浮上、
迫撃砲の集中砲火を浴び、左腹部に盲管銃創を受ける
次の日気がついたのでジャングルに這って逃げ込む
潜水艦乗員が捜索に来るが近くの茂みをつつかれるも見つかることなく無事

持っていた千人針を傷口に当て、雑嚢をかぶせて結び止血し、
尺取り虫のように這って陣地に帰還


陣地の兵隊は舩坂班長が生きて帰ってきたのを見て喜びましたが、
水を汲みに行ったのに手ぶらだったため皆そっぽを向きました。
傷からは蛆虫がわいて、うずうずと動くたび苦痛を与えます。

●痛くてたまらないので、小銃弾から火薬を抜き取って、
傷口に振りまいて消毒の代わりとする
焼け付くような痛みに襲われたが、
翌日になると蛆虫は減って
痛みも少なくなっていた



しかしそれでも苦しいのでついに舩坂軍曹は手榴弾を抜いて自決しようとします。
逡巡しながらも平穏な気持ちで右手に手榴弾を取り、安全栓をとり、
黒く突き出した右側の岩角にコツンと叩いて胸に抱いたのでした。

●信管が砕ける程力を込めて手榴弾を打ち付けたが、不発だった

どちらにしても盲管銃創で助かった兵隊を見たことがないので、
自分もすぐ死ぬだろうと思っていたら、手榴弾6個を発見。
自分が手榴弾で自決しようとしていたことなど忘れて大喜びし
これで米軍に一泡吹かせてやろうと意欲に燃える舩坂軍曹でした。

手榴弾全部を体に結びつけ、100メートル13秒くらいの速度で
司令部テントに走り、高級将校を巻き添えにして自爆することにし、
敵陣に近づき、丸一日茂みに潜んでチャンスを待ちます。

「南無八幡菩薩!我を守りたまえ!」
私は叢を飛び出すと、傷だらけの体に鞭打ってもう無我夢中で突っ走った。
(略)そのうち一人の米兵が、何気なく背後を振り返ったのである。

「ジャップ、ジャップ!オブゼアー、ジャップ!」

彼にとって何より幸いだったことは、その日本の斬りこみ兵は、
自分では疾走しているつもりであったろうが、実際には傷だらけで、
かろうじてよろよろと進んでいることであった。

<あとわずかだ!>

司令部は目前である。
(略)私が右手に握った手榴弾の信管を叩くべく固く握り直した瞬間、
左頚部の付け根に重いハンマーの一撃を受けたような、
真っ赤に焼けた火箸を首筋に突っ込まれたような暑さと激痛を
覚えると同時に、すうっと意識を失ってゆくのがわかった。

●10月4日、左頚部盲管銃創を受けて一旦”戦死”するが野戦病院で回復する

「屍体」となった舩坂軍曹の周りには米兵が群れをなして集まり、
ある者は唾を吐きかけ、ある者は蹴飛ばし、また砂を叩きつけたりしました。

駆けつけてきた米軍の軍医は、「屍体」の微弱な心音を聞き取り、
「99%無駄だろうが」と言いながら野戦病院に運ばせます。
そのときに軍医は、舩坂軍曹が握り締めたままの手榴弾と拳銃にかかった
指を一本ずつ外しながら、

「これがハラキリだ。
日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」

「日本人は皆、このように最後には狂人となって我々を殺そうとするのだ」

と語り、アンガウルにいた米全軍は、突撃してきた日本兵の
最後を語り合って「勇敢な兵士」という伝説を作り上げたのです。
このことを舩坂軍曹は、戦後、当時将校としてアンガウルにいた
マサチューセッツ大学の教授という人から手紙で知らされています。

「あなたのあのときの勇敢な行動を私たちは忘れられません。
あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ります」

元駐日アメリカ大使館のオズボーン代理大使も、そのとき情報将校として
アンガウルにいてその話を耳にした一人でした。

「あのように戦って生き還られた奇跡的行為には驚きました・・」


このときまでに受けていた舩坂軍曹の身体の傷は

左大腿部裂傷

左上博部貫通銃創二箇所

頭部打撲傷

右肩捻挫

左腹部盲管銃創

火傷・擦過傷無数

左頚部盲管銃創

という壮烈なものでした。
このうち一つでも死んでいて不思議ではない重傷もあります。
なぜこれだけの傷を受けながら生きていられたのか。

たとえば左腹部を潜水艦にやられたとき、
彼は「死ぬもんか。死ぬもんか。死ぬもんか」とリズムをつけて
実際に口に出しながら這って茂みまで移動したといいます。

自決しようとした手榴弾が不発だったのは間違いなく彼の運ですが、
この生への意欲と、仲間の仇を取るために生きるという激しい気力が
その生をつないだとも言えましょう。

ただ、本人に言わせると、これは

「どんな傷でも1日寝ればよくなる”体質だったから”」

ということになります。体質かよ。
さて、というわけで死んだと思ったら野戦病院で3日目に蘇生した
驚異の日本兵舩坂軍曹ですが、その奇跡はここで終わらなかったのです。


ここから先は、捕虜収容所で舩坂軍曹が出会った一人のアメリカ兵が、
その「不死身伝説」に大いに関わりを持つことになります。


続く。


参考:「英霊の絶叫 玉砕島アンガウル戦記」舩坂弘著 光人社
 


栄光マラソン部隊~”あゝうつくしい にほんのはたは”

2015-04-12 | 陸軍

昨年、2014年1月に小野田寛郎さんが91歳で亡くなりました。
戦後30年フィリピンのルバング島で「諜報活動」を続け、

地元の警察などと「戦闘をしながら」戦い続けていた最後の日本兵です。

小野田さんと行動をともにしていたのは3人の陸軍兵(一等兵、伍長、上等兵)で、
昭和25年に一等兵が逃亡し投降し、小野田さんたちの存在が明らかになりますが、
現地に撒かれた勧告ビラを読んでいながらも三人は投降せず、昭和29年、そして昭和47年に
小野田さんを除く二人が現地警察との交戦で射殺されています。




栄光マラソン部隊、北本工作隊が活躍したここ東部ニューギニアでも、
昭和31年、終戦から11年経って日本人残留兵が見つかっています。


この残留兵も小野田さんのグループと同じく敗戦を信じていたなかったためか、
(小野田さんは終戦は知っていたが現在の日本の施政は傀儡政権によるものと信じていた)
オーストラリア官警が投降をすすめても聞き入いれず、逮捕に向かったところ
撃ってきたので射殺したということでしたが、投降したら殺されると信じていれば
旧帝国軍人がこのような行動を取っても致し方ないことであったでしょう。


北本中尉にはこんな出来事がありました。
健脚を武器にサラワケット越えを果たした北本隊長はカナカ族の腹心、
ラボを使って原住民の間にネットワークを張り巡らせていました。
豪州兵を射殺したことを感謝しているの酋長などは日本軍さまさまで、
全面的な協力を他のの酋長にも表明したため、それは非常にスムーズでした。

各酋長に「北本斥候隊長」の肩書きを与え、敵の侵入をいち早く知らせてもらう、
というネットワークを構築し、物資の調達も今や困る事は無くなり、
一時は戦争を忘れた楽園のような生活が続いていたと言います。

日本側からは軍医を派遣して各の医療にあたり、からは
若者たちを選抜して土民兵として供出してくれるようになりました。

そのとき日本軍にはあの「高砂義勇兵」が含まれていました。
台湾の山岳民族である高砂族だけで編成され、
東部ニューギニアに適合するという判断で加えられた部隊です。

ニューギニア土民の彼ら高砂義勇兵に対する興味と関心は大変なもので、
はだしでジャングルや山道を音もなく歩く彼らに親近感を持ったらしく、
酋長たちはしょっちゅう彼らを小屋に呼んでは話し込んでいたそうです。

そうやって現地民との信頼関係のうちに築かれた情報網から、ある日ニュースが飛び込んできました。
 土民斥候がもたらしたのは敵が侵入しているとのこと。
北本隊長はラボと選りすぐった高砂義勇兵5名、そして土民兵10名で現地まで

「マラソン攻撃」

を開始しました。
走り出したら止まることのない「ランニング突撃」です。
全員が驚異的な身体能力を持っているのでピッチは全く落ちません。
彼らは50キロの行程をなんと3時間で走破し、目的地に到着しました。

平均時速17キロ、計算してみると1キロを走るのに3分半のペースです。
現在平地をひた走るフルマラソン(42,195キロ)世界記録が2時間10分であることを考えると、
小銃を持ってこれはまさに世界新記録だったのではないでしょうか。



情報通り、小屋には二十歳そこそこの大男がいびきをかいていました。



「ノー、ノー」

まだ二十歳を出たばかりの、そばかすの多い顔が引きつっていた。
捕虜となった以上、日本軍には保護する義務があると言っているのだろう。
早口でまくしたてる言葉のなかに、「デューティ」「レスポンシビリティ」
が飛び出した。

わたしは忘れかけた英語を搾り出しながら尋問を始めた。

彼、ウィルバート空軍中尉は縛られないとわかると馴れ馴れしく、
私のそばにやってきて何か食い物をよこせといった。

日本の兵隊なら舌を噛み切ってでも話さない軍の秘密をウィルバートは平気でしゃべった。
話によるとサラモアを包囲するために、近く背後の草原に
落下傘部隊を降下させる計画だという。


直ちに今きたコースを走って引き返したのですが、真っ先にウィルバートがアゴを出しました。
大事な情報主を置いてけぼりにするわけにもいかず、土人たちに代わる代わる担がせて
ともかくも最寄りのにとびこみ、電話を入れて敵攻撃の一報を入れました。

翌日、ラエの憲兵隊がウィルバートを引き取りに来ました。

「殺さないようあなたからよく頼んでくれ」

手錠をかけられたウィルバートは後ろを向きながら何度も懇願しました。


搬送されていく車の鉄格子にしがみついて泣き叫ぶウィルバートの顔は、
24年たったいまもときどきわたしの夢の中の
登場人物となって現れる。
後の転進のさい、彼は憲兵に射殺された。
苦しみもだえながら、ニューギニアの大地にうずくまるウィルバートが、夢の中でわたしに叫ぶ。

「お前は、男の約束を破った」


さて、転進に次ぐ転進の後もマッカーサーの「飛び石作戦」に阻まれ、
進退窮まった日本軍は、ついにここで戦って玉砕することを決心しました。
攻撃のための前進が始まって、北本中尉は大尉に昇進したことを無線で知ります。

前回中尉に昇進してからわずか6ヶ月後、陸士出の現役将校を追い越す特進でしたが、
ジャングルの中を疾走している北本隊長には、もはや何の感慨も呼び起こしませんでした。

このとき、小隊を持って大部隊を装う陽動作戦は敵のレーダー網に敗れ、
今度こそ軍司令官安達二十三中将は本当の玉砕を決意しました。

「健兵は三敵と戦い、重患者はその場で戦い、
動き得ざる者は刺し違え、各員絶対に捕虜となるなかれ」

北本大尉は最期の命令を受けます。

「安達閣下の切腹場所となる場所を探して欲しい」

北本大尉が付近を踏査して”ここなら2~3年は踏みとどまれるであろう”
絶好の条件に恵まれた場所を見つけ、喜び勇んだとき、上空からはたくさんビラが降ってきました。

「日本は8月15日、連合軍に無条件降伏しました。無駄な抵抗はやめなさい」

もしろんそんなビラを信じるものは誰一人いませんでしたが、
上空を旋回するグラマンが一向に攻撃してこないので、
次第に皆それは本当のことだと信じずにはいられなくなりました。

自決場所を北本中尉に命じて探させた安達中将ですが、その後、
東部ニューギニア日本軍の全責任を負って、ラバウルで一人自決を遂げています。


終戦を悟った北本大尉が滂沱の涙を流していると、ラボが、



「キャプテン、どうしたの?何かあったか?」


日本の勝利を信じ、その暁にはニューギニアの大酋長になれると楽しみにしているラボに
いまさら「日本は負けた」と告白するわけにはいかない。
わたしはとうとうしどろもどろの”終戦告白”を顔を背けるようにしていった。

「ラボ、よく聞いてくれ。戦争は引き分けに終わった。
神様が殺しあうのはよくないから、お互いに手を引けとおっしゃったんだ」

子供だましの様な話を、わたしはもっともらしく伝えた。
ラボは正直に頷きながら聞いていた。
しらじらしい嘘をつかねばならない自分が情けなかった。

「ラボ、今晩は一緒に寝よう。もう敵の弾も飛んでこない」

崩れかけた小屋の片隅で、二人は肩を並べて横になった。
ラボはピクッとも動かず、目を開いたままで何かを考え込んでいた。
沈黙が続いた。ラボが思い余ったようにポツンといった。

「キャプテン、日本へ帰るのか。なら俺も一緒に連れて行ってくれ」


しかし、それができないどころか、彼が日本軍に協力してきたことが
進駐してきた米軍に知れると彼の命も危なくなります。
北本大尉は断腸の思いでラボに別れを告げました。


「今日でさようならだ。これは取っておいてくれ」

ラボは首を振った。

「こんな品物をくれるよりオレを日本に連れて行ってくれ」

「それはいかん。日本は遠い遠いところだ。
オレはきっとニューギニアに戻ってくるからそれまでお互いに辛抱しよう」

ラボは泣き崩れた。子供が駄々をこねるように、首を横に振ってわめいた。

「いやだ。キャリに帰るのは嫌だ。日本に連れて行ってくれ」

わたしは同じことを何度も言ってなだめた。
ラボもとうとうを諦めた。
いくら頼んでも聞き入れてもらえないと悟ったのだろう。
悲しそうな目をあげて、ぽつりと言った。

「キャプテン、何もいらないから”神様のしるし”の旗をくれ。
毎朝拝むから」

日の丸の旗など持っていたら怪しまれるぞ、とはどうしても言えなかった。
わたしはサラワケット越えに使用した日章旗を手渡した。
ラボはボロボロになったその日の丸の旗を押しいただくと、
右肩から袈裟懸けに巻き、川の方にトボトボと歩き出した。

「キャプテン、さようなら」

ラボはカヌーに飛び乗ると、振り向きもしないで水面を漕いだ。
舟底の浅い、丸木作りのカヌーは、ひとかきで大きく岸を離れた。

「しろじに あかく ひのまる そめて・・・」

「ゆるしてくれ、ラボ・・・」

心の中で手を合わせ、ラボの姿が見えなくなるまで見送った。
涙がこみ上げてきた。しまいには嗚咽に変わった。
信頼しきってきた男を、最後に裏切らなければならない自分が情けなかった。
心の張り裂ける思いだった。






昭和38年、テレビ番組「それはわたしです」に、北本工作隊隊長として
出演した北本正路氏です。

戦後は大阪で鉄鋼業を経営しておられたようですが、
それ以外の軌跡はインターネットで探し当てることはできませんでした。

戦後、北本氏は豪州大使館に連絡を取って日本にラボを招待することを思いつきます。


「なんとかラボとの再会の約束を果たしたいと思う。
彼と一緒に靖国神社の亡き戦友の冥福を祈ることが実現したら、どんなに素晴らしいだろう。
二人で平和を満喫しながら都会のビルのジャングルを思い切り歩いてみたい」

このようにあとがきに記した北本氏でしたが、その後それらしいニュースもなく、
どうやらその望みが叶えられることはなかったようです。


しかし、あのときに東部ニューギニアの日本軍を救った一人の現地人と、
驚くべき健脚と精神力ででそれを可能にした一人のアスリートの存在は、
それによって命存え日本に帰国してきた者たちが、
子へ孫へと繋いでいく血潮の中に、これからも脈々と刻まれていくでしょう。



ところで、北本大尉がラボに与えた日章旗はその後どうなったのでしょうか。


ラボは、毎日この「神様のしるし」に向かって手を合わせ、「日の丸の旗」を歌いながら、
いつか北本隊長が迎えに来てくれる日を、楽しみに待っていたのでしょうか。



 


 


栄光マラソン部隊~”北本隊長の苦悩”

2015-04-11 | 陸軍

陸軍第51連隊のニューギニア、サラワケット山登頂作戦において
途中でどれだけの死者がでたかという図が本に掲載されていました。

 

出発地点のラエですでに100人死んでいますが、これは、ラエの
野戦病院での死者であろうと思われます。

健兵でさえ危ぶまれる山越えには連れて行けない、寝たきりの患者が
出発前には500名もいて、搬送が危ぶまれていたのですが、

「どのみち死ぬのなら他人に迷惑をかけぬ」

と覚悟の自殺を遂げた人が何人もいたのです。
工作隊を率いる戦闘の北本中尉にはどうすることもできないながら、そのことを
気にかけていたところ、寺村貞一大尉率いる船舶工兵部隊が名乗り出ました。
ダイハツ3隻に患者を積み、敵艦船群の後方を回って脱出する決死行です。

転進の際飢えに苦しんで戦友を食べるという鬼畜の行為があれば、
自分の命を敢えて危険にさらしても一人でも多くの人間を救おうとする、
このような崇高な行為もまた生まれるのが、戦場というものなのです。 

このとき、サラモアで戦闘していてダイハツから置き去りにされた13名の将兵がいました。
彼らは着るものもなく、褌一つで何日も待ちましたが、自分たちが置き去りにされたと知った時、
絶望して軍をうらみ、舌を噛み切って死のうとしました。
しかし生への執着は彼らの意に反してどうしてもそれをすることができません。
諦めて歩いていると、一人の兵に会いました。
しばらく一緒に行動していたのですが、高崎工業出だというその兵は

「あなたたちと一緒にいたらこちらまで死んでしまう。
私はまだ日本に帰ってたくさんやりたいことがあるので別れさせてもらいます」

と言って彼らの元から去っていってしまいました。

この言葉を聞いた途端、13人の間に俄然生きようという気持ちが高まり、

自暴自棄だった態度を捨てて全力を振り絞った結果、遂には本隊に追いつくことができました。

「あの兵隊に会っていなかったら、われわれは死んでいたかもしれません」

このときの13名は全員戦後まで生き延び、祖国の土を踏むことができたのでした。



北本工作隊は行軍のための先導を任され、これによって多くの日本将兵が救われましたが、

その作戦の過程で、何度となく敵と交戦しています。

第一次偵察で最初にサラワケット山を「マラソン部隊」で越え、
ラエに到着してからの偵察任務において、豪州兵6人があるにいるという情報を得ました。
豪州兵は飛行場整備に必要な労働力を調達するために来ていたのですが、
そのの酋長に偵察のラボをやったところ、

「物を略奪したり民を無理やり引っ張っていくので皆怒っている」

さらに酋長は、あいつらを殺してくれとまで日本軍に頼みました。
同じ協力を募るのにもあくまでも説得し、彼ら自身の判断に委ねた日本軍と、
彼ら原住民を徹頭徹尾人間扱いすることがなかった豪州軍との差がここで出たのです。

北本隊長は攻撃にあたり、まずラボを斥候に行かせて住民を退避させました。
交戦の巻き添えにすることを避けるためです。
そうしておいて、駐留している小屋を三方からじりじりと囲んでいきます。
午前2時。
夜遅くまでウィスキーを飲んで騒いでいた彼らはぐっすりと寝込んでいました。
威嚇射撃の号令を時間ぴったりに出し軽機が火を噴くと、中からわめき声が聞こえました。

「ホールドアップ、ゲラウト!」

生け捕りにして捕虜にするつもりだったので降伏を呼びかけたのですが、
敵は自動小銃で応戦してきました。
放っておくと味方に死傷者が出るので、北本隊長は遂に三方からの攻撃を命じ、
撃ち合いはわずか20分で終了しました。
小屋の中にはオーストラリア兵一人と、残りは全員土民の憲兵の6名の屍体がありました。




相手が交戦に出たわけが飲み込めた。

征服者というものは敵への恐怖におののきながらも、
絶えず強がりを言い、虚勢を張っていなければならない。
この豪州兵も、土人たちの手前、手をあげることができなかったのだろう。
青ざめた屍体の顔に、苦悶の心中が覗いていて、あわれでならなかった。

彼らにも妻があり子供がいるだろうと思うと、罪悪感にこころが痛む。
わたしは兵隊に穴を掘らせ六人の死体を埋葬した。

「戦争なんだ。許してくれよ」

土に埋まっていく射殺屍体の側で手を合わせて冥福を祈っていると、
ラボが訝しそうにたずねた。

「キャプテン。なんでこんな悪い奴に手を合わせて拝むのだ。
こいつらは悪魔だよ」

返答に窮した。
自分で殺しておいてあとで拝むくらいなら、はじめから殺さなければ良いのだ。
わたしは苦し紛れに

「神様はな・・・・」

といってグッと考え、口から出まかせにその場を繕った。

「神様は罪を憎んでも人を憎まないのだ。
彼らには悪魔が乗り移っただけで、死んでしまうと我々と同じただの人間なのだ」




ラエで形ばかりの正月を迎えた日、北本正路中尉は第51師団司令部付から

もう一段上の軍参謀部付に命ぜられました。
そしてさらに迫り来る敵から逃れて、51師団、そして転進の経験のない
第21師団と共にキャリからマダンまで転進することが決まります。
 
このとき中野学校卒の本職の特殊将校が指揮する謀略隊も加わったのですが、 
その理由というのが「今度は北本隊だけでは心細い」というものだったせいで(笑)
北本中尉は彼らにたぎるような敵愾心を覚えます。 

こんなところで、という気もしますが、どんな状況でも人間というものは
プライドと競争心などという俗世間の煩悩を捨てきれないようです。

「くそッ、いくら相手が中野学校出だからといって負けてたまるか。
ニューギニアではオレの方が先輩なんだ。
こちらにはラボという百万の味方に匹敵する部下がいる。」

まるで箱根駅伝のアンカーを務めた時のような激しいファイトを燃やし、
北本中尉は独りごちました。

「必ず、勝ってみせる」

 

今度の転進はサラワケット以上にそそり立った断崖絶壁で、
ツタを命綱にロッククライミングで登ったと思ったら、
次には渓流の鉄砲水で水にさらわれ溺死する兵が相次ぎました。

しかし、一ヶ月かけてマダンに到着した後、今回も北本隊はこの道を取って返し、

単独では降りられなくなって山中に残されていた「遅留兵」を回収に行きました。
食料と医薬品を担いで山中に戻り、さらに一ヶ月をかけて捜索したのです。

鉄砲水に恐れおののきながらただ死の訪れるのを待っていた遅留兵たちは、

「仏の北本隊が来た」と手を合わせて彼らを拝みました。
この捜索によって700名が捨てるはずの命を救われました。

しかし、北本隊長にとって、生涯の痛恨事となる出来事も起こります。
最初の「北本マラソン部隊」のメンバーだった杉本衛生兵は、
この転進で遅留兵となってしまい、捜索に来た北本中尉に発見された時にはすでに
ボーイング(死臭を嗅いで飛来するハエ)に集られている状態でした。

「隊長殿、私はもうダメです。
まだ元気のありそうな兵を助けてやってください」

「バカ言え、貴様と俺は苦労を分かち合った仲じゃないか。
元気を出せ。俺の肩に掴まれ。マダンまで行こう、皆待ってるぞ」

薬を飲ませ担ぎ起こした杉本衛生兵の目には涙が光っていました。

「バカだなあ貴様は・・・しっかりせんか。もう安心だぞ」

「すまんです」

そのとき北本中尉は急に小用を催しました。
杉本衛生兵に待つように言いのこし岩陰で用を足していると、

「パーン」

小銃の音がしました。

「しまった」

駆け戻るとそこには息の絶えた杉本衛生兵の骸が、小銃を手にして横たわっていました。
すでに冷たくなった顔に頬ずりしながら、北本隊長はさめざめと泣きました。

 
そして4月。
師団はさらに第三の転進を迫られます。
このときの日本軍の転進を日本国内で例えるなら、

『東京から京都、大阪方面に戦闘に出かけ、敗退、歩行にて帰り、
東京も危ないので仙台から盛岡まで歩いて移動するようなもの』

だったことになります。
今回の転進も300キロの距離になんなんとしていました。
しかもその道は行けども行けども乾いた土がなく野営すらできない湿地帯。
 
そんな中でも北本隊は物質の調達をし、情報の収集、橋作り、落伍者の収容という
余分な仕事まで手掛けて八面六臂の活躍でした。

北本隊なくしてこの作戦の成功はあり得ませんでしたが、
結果的に常識では不可能とされた行軍が成功したのは、なんといっても
何度も難関の険を越えてきたと言う自信が、将兵たちに希望を与えていたからだと北本氏は言います。


そして次の転進先では中野学校出の特殊将校を差し置いて、偵察・斥候の白羽の矢が立ち、
その下命に、

「男子の本懐これにすぐるものなし」

と欣喜雀躍とするのでした。
きっとこのときは中野学校卒に勝った!と思ったに違いありません。



しかし、そんな北本隊長も、このとき日本が急激に敗戦に向かって
歩みを進めていっているとは、夢にも思っていなかったのです。


最終回に続く。





栄光マラソン部隊~「北本工作隊かく翔けり」

2015-04-10 | 陸軍

海軍第12防空隊のことを調べた時に知った、「魔のサラワケット越え」。

(前回までのあらすじ)
ニューギニアの高度4000m級の高山を一個師団がこっそり踏破するなどという、
この世で帝国日本軍以外どこの軍隊が考え出すだろうかという無謀な作戦は、
ひとえにオリンピック選手であり、箱根駅伝で母校を優勝に導いた、
驚異的な健脚の持ち主、北本正路少尉の存在あってこそのものであった。

というわけで今日はこの時部隊を率いてサラワケット越えを果たした
「北本工作隊」隊長、北本正路大尉とその偉業についてお話しします。
北本大尉は予備役少尉で開戦を迎えたのですが、戦地で一階級ずつ二回、
2年以内に立て続けに昇進しており、その活躍がいかに評価されたかということでもあります。



昭和45年に出版された彼の追想録の前書きには

わたしは北本君に救われた」「自衛隊幹部諸君は是非一読を」

などという題で現地にいた元陸軍中将、陸軍大佐らが推薦文を寄せています。
それぞれがニューギニアでの苦難とサラワケット越えを成功させたのは
北本少尉の驚異的な脚と勇気、知力の賜物であると激賞しているのです。


北本正路は1909(明治4)年、和歌山県伊都郡に生まれ、幼い頃から
走るのが大好きな父の影響で中学時代から長距離選手として名を馳せました。
慶応大学に進学してからは、1500、2000、3000、5000、1万メートルの5種目で
日本記録を作り、ロスアンゼルスオリンピックにも出場したアスリートでした。

写真は慶応大学在学中の昭和6年の関東学生駅伝で慶応のアンカーを務める北本選手。

このときトップの日大、15分後に来た2位の早大、さらに20分遅れて3位で
タスキを受け取った北本選手は、28キロの区間で両者を捉えるという驚異的な走りで、
この年慶応に優勝旗をもたらしました。

今でも箱根駅伝のホームページを検索すると北本の名前が出てきます。




1932年、西竹一(馬術)、鶴田義行(水泳)、南部忠平(三段跳び)らが
金メダルを取ったロスアンゼルスオリンピックに5000、1万mで出場した北本。(左)

国内では人の背中を見ながら走ることのなかった北本にとって世界の壁は厚く、
「相手が強すぎ」、その夜はホテルのベッドで惨敗に男泣きしたそうです。

前にかがんでいるのは棒高跳びで金メダルを取った西田修平です。


この日から11年後、34歳の北本正路は予備役将校となってニューブリテンのツルブ島にいました。


今やニューギニアでは制空権も制海権も奪われ、敵の空襲に毎日が防空壕通いという状態。

この戦況を打開するために、偵察隊をニューギニアに送ることになったとき、
北本少尉は自慢の脚をを生かして工作隊を率いる隊長に自ら名乗りを上げ、
ここに「栄光マラソン部隊」が生まれることとなったのです。

連隊長がその申し出を受け、決死行が決まるや否や、北本少尉は工作隊を編成しました。

健脚であること
配偶者や子供など扶養家族の少ない者

この条件で軍医と看護兵を含む50人が選ばれ、彼らは「北本工作隊」として
深夜、三隻のダイハツに乗ってニューギニアに到着します。

ここで北本隊長は原住民(北本言う所の”土人”)を味方に引き入れます。
「ラボ」という名の30歳くらいのカナカ族の酋長で、英語がしゃべれました。
北本少尉は「神様の印」といって日の丸を見せ、「俺は日本で一番足が速い」と豪語して
彼らの心をつかみ、案内を供出するなどの協力を得ることに成功しました。

以降、彼らは日本軍を”日出ずる国の神の使者”と信じ、小屋の入り口に立ててある
日章旗の前にやってきては、朝晩、手を合わせておがむようになったそうです。
日本軍の飛行機が上空に認められたりすると、彼らは大喜びで空を仰いで手を合わせました。



◯印で囲んであるのが北本隊長、矢印がラボ。
団体写真でも北本少尉の後ろに寄り添うように立っています。
北本とその右腕となったラボの間には強い絆が生まれました。
彼の献身的な働きなくしてこの大作戦の成功はありえなかった、と北本は書いています。

ラボはまず現地のドイツ人神父の宅に一行を案内し、神父は食べ物や簡易テント、
サワラケット越えに必要な登山用具などを彼らに供出してくれました。

そして、ごとにポーターがリレー式で代わる代わる荷物を運び、
次のまで案内をしてくれるという方法で進んでいきます。

切り立った岩かべ、ジャングル、道無き道。
大工出身の隊員によって作られた縄ばしごをかけ、
野営のためハンモックを作ったりしながら、工作隊は進んでいきました。

いよいよサラワケット山に立ち向かうというとき、登頂のために必要な
現地のポーターを出してもらうのに役立ったのはまたしても日の丸でした。
白地に赤が染められた布が彼らには珍しかったという説もありますが(笑)
それを見せて「神の使い」の口上を述べると、なぜか土民は言うことを聞いてくれるのです。

こうして50名の現地人ポーターを得た北本工作隊50名は、
雪を頂く海抜4500メートルのサラワケット山越えに挑んでいきました。



以前も見ていただいたサラワケット越えのルート。

後に北本工作隊に率いられたラエの部隊がサラワケット越えをした時のもので、
このときの工作隊は矢印を逆行して進んだことになります。

一行は荷物を背負ったままコケで滑る足元を一歩一歩慎重に、
雨に打たれ寒さに震えながら延々と続く斜面を登っていきました。
さしもの健脚部隊にも過酷な道でしたが、かといって弱みを見せれば
「神の使者」の化けの皮が剥がれ、 ポーターたちに逃げられてしまうので、辛い様子は出せません。
隊員たちは軍歌を歌い、励ましあいながら進んでいきました。

そして、ついに山頂へー。


頂上は一面白銀の世界でしたが、辛さや今までの苦労は吹き飛び、
ただ征服者の歓喜だけが熱い涙とともにこみ上げてきます。

「バンザーイ」「バンザーイ」

たすきがけにしてきた日の丸を一番高いところに立て、
隊員たちはそれを囲んで泣きじゃくりました。
土人たちも踊りで歓喜を表しています。
通信兵は目を真っ赤に泣きはらしながら本隊に成功を打電しました。


その後斜面を降りていくと、人食い土人のを通過しました。

怖がってストライキを起こすポーターたちをおだてたりなだめたりして連れてくると、
山間部族のせいか小柄で大人しそうなので案ずるより産むが易しでしたが、
北本隊長といつも行動を共にしているラボは、


初めて人種の違うに来て心細そうにしている。
わたしが兵隊を集めて作戦会議を始めると、「日の丸」の旗のそばに寄って、
小声で歌い始めた。
「白地に赤く、日の丸染めて・・・」

すっかり日本語も上手くなった。

ラボにとって”日の丸の歌”は賛美歌であり、念仏なのだ。
作戦会議の邪魔にならないように、小声で歌っているのがいじらしかった。

わたしに会いさえしなければ、いまごろ酋長であぐらをかいて居れたものを

・・・・と思うとふびんでならない。

「ラボ、こっちへおいで、お前も兵隊と同じなのだから話を聞きなさい」

わたしは、この瞬間からラボを兵卒と同等の扱いにしようと決心した。
ラボは嬉しそうに寄ってきた。


のちに北本少尉がマラリアにかかった時、ラボはベッドの縁にしがみついて
心配そうに顔を覗き込み、徹夜で看病をし、偵察行の際は背中に背負って歩きました。



その後、無事にラエに到着した北本工作隊は、新聞記者のインタビューを受け、
「登山家でもない兵隊ばかり50人で4500メートル登頂成功」という記事が書かれたため、
この快挙は山岳史上にも類を見ないものとして有名になりました。
 
功績を挙げた北本隊はその後偵察に頻繁に出されることになりますが、
ある日捕虜にした米兵から、ラエを総攻撃するという敵の情報を手に入れます。

三方を敵に包囲された第51師団は、ここにきて完全に孤立してしまいました。
疲弊した1万たらずの将兵を近代装備の3万の敵にぶつけても結果はわかりきっています。
そこで撤退が決定されました。
あの、大東亜戦史に悪夢として刻まれた”サラワケット死の大転進”が。
今や8650名の将兵が生きるも死ぬも、一人の予備役少尉の働きにかかっていました。


転進はまず海軍、次いで陸軍の順序でラエを撤退しました。

もちろん船頭に立つのは北本工作隊です。

しかし、健脚の精鋭部隊とは違って、1日の行軍予定は予定の半分の10キロが精一杯。
先頭が2、3時間でいく道のりを、渋滞もあって最後尾の陸軍は1日がかりでやっと進む有様です。
ラエに駐屯して自給自足していた海軍と、サラモアで戦闘に明け暮れていた陸軍とでは
疲労の度合いも歩幅も違い、その差は開く一方でした。



先導隊が道路標示や補修工事を行った後を、8650人が一本の線となって続きます。

まだ標高500m、六甲山くらいの高さにすぎないのに、落伍者や死亡者が200名出ました。

重さに耐えかねて皆が道中捨てていく銃を拾うのは、
山岳での動きに慣れた高砂義勇兵(台湾の高砂族)の役目でした。

拾った銃の遊底に刻まれた菊の御紋を削り落として、また捨て、一行は進みます。

手が届きそうな眼前の岩に丸一日費やしてたどり着く。
屍を積み重ねて踏み台にし、苔むした岩肌にしがみついてよじ登っていく。
軍靴に踏みつけられた戦友の屍体は口から鮮血を流しながら白い目を剥いている・・。

 そして携行食料も尽きた一行は、木の根、葉、昆虫を貪り食うようになり、
ついには土人での略奪や、ついには食人の禁忌も侵す者も現れました。


サラワケットの頂上を目前にして、わたしは異様な光景を目撃した。

岩陰に倒れている息も絶え絶えの一人の兵隊を三人の兵隊が囲み、
ゴボウ帯剣を抜くなり心臓をブスッとやった。
三人はこときれた兵隊の太ももを切り裂くと、脇目もふらずに口へ頬張った。

わたしは愕然とした。吐き気がした。
世界の帝国陸軍が戦友を殺してその肉を喰らう__信じられないことだった。

「貴様それでも日本人か。帝国陸軍の軍人か」

後ろを振り返った三人の顔には”ボーイング”といって、死臭を嗅いで飛来するハエが群がっていた。
彼らにはそのハエを追う元気すら失われていた。飢えと疲労で発狂したのだ。


しかしその後、食人を犯した兵たちは、ヤシの木の根元で昼寝していた時
突然倒れてきた木の幹の下敷きになって、三人枕を並べて死んでいました。

「このソルジャー、ダメね。友達の肉を食べた。神様が罰を与えたね。」

ラボはペッと唾を吐いて顔を背けた。彼も知っていたのだ。
わたしは背筋に冷たいものを覚えた。


 その後、51師団は全軍でサラワケット越えを果たし、目的地のキャリに到着しました。
しかし工作隊は休む間も無く、その後もう一度サラワケットの頂上近くまで引き返し、
戦死者の埋葬、遺棄兵器の焼却を済ませ、まだ生きているものは土人たちに担送させて、
後尾から落伍者を収容しつつ山を下っていったのです。

工作隊が目的地に到着したのが10月5日。
最後の一兵が担架で担がれて野戦病院に到着し、
全軍のサラワケット越えを完了したのは40日後の11月15日。

ラエを出発してからなんと2ヶ月が経っていました。

51師団8,650名の将兵のうち、2,200人がサラワケットを越えられず死にました。
残る6,450名も、栄養失調とマラリアで幽鬼のようになって到着したのです。

北本少尉はその功績にたいし中尉への特進が任ぜられました。


しかし戦況はやっとのことでサラワケットを越えた第51師団に、
わずかの休息も許さなかったのです。
 爆撃は日増しに激しくなり、偵察機の飛来が敵の上陸を表していました。
そしてまた果てしなき転進が始まったのでした。

 

明日に続く。 


空挺館~義烈空挺隊と奥山道郎大尉

2014-05-24 | 陸軍

練習艦隊出航行事の続きを見るために来られた方、すみません。
今日は5月24日、義烈空挺隊が作戦決行した日からちょうど69年目にあたります。

ですので空挺館で見た義烈の資料についてのお話をさせてください。



陸上自衛隊の習志野駐屯地にある空挺館は年に何度か公開されます。

わたしは今年1月の降下始めを観に行ったときにここを見学したのですが、
4月6日の桜祭りにも行って、写真を取り直したいと考えていました。

ところが当日は天候が不順で雨が時々降ったりいきなり晴れたり。
わたしの住んでいるところと千葉県習志野市の天気は違うかもしれませんが、
何しろ手首の怪我もまだ完治していないので家族に反対されあきらめたのです。

今HPを見に行ったら、3500人の観客が訪れたということで、この数字が
例年と比べて多いのか少ないのかわかりませんが、降下始めの4分の1の数字。
おそらくお天気のせいで出足が悪かったのでしょう。 


さて、わたしは2年前、
義烈空挺隊強行着陸せ、そして彼らが迎えたその日
というエントリで、帝国日本軍で成功した空挺強襲作戦である義烈空挺隊について書きました。
わたしが義烈という名前を初めて知ったのは、その少し前に訪れた知覧にある特攻資料館です。

航空機特攻や特殊潜航艇による特攻はある程度の人が知っていても、義烈空挺隊や、
あるいは薫空挺隊などの空挺特攻についてあまり知る人はいません。
しかもここでの写真によるパネルだけの説明では、資料館に訪れる人の関心を引くことに
成功しているとはとても見えませんでした。

そのときのわたしには、義烈空挺隊の数少ない資料のすべてがここ、
第一空挺団が所属する習志野駐屯地の空挺館にあるとはつゆ知らなかったのです。





出撃前各々自分の故郷の方角に黙祷する写真から製作されたものです。

エントリでも書いたように、彼らは特攻隊として組織され(志願では有りません)
そのための訓練を受け、何度も実際に突入の命令が下されながら、
その都度中止になるということが何回も繰り返されていました。

こうなったら一思いにさっさと往かせてくれ、というのがおそらく
全ての隊員の悲願でもあっただろう、とわたしは半ば想像でこのように書いたのですが、
やはり生存者の証言によるとその焦燥感はともすれば自らを

「愚劣食う放題」

と自嘲するような風潮にまでなったということです。



 義烈空挺隊の装備。

彼らは自分たちの任務のために制服のポケットを増やし、
このような装備を体につけた状態で突入することを考え、用具入れを考案しました。

ここにあるいずれの写真も鮮明でないのでわかりませんが、
ネットで時々見る比較的はっきりした彼らの軍副姿を見ると、
ところどころにシミのような汚れのような部分があります。
これは彼らが自分たちなりに迷彩柄を墨や草木の汁で施したものだそうです。

全部写っていないのですが、まるでプランジャーのような棒は、
使い方も本来のプランジャーのようなもので、先に炸薬を付けており、
突入後、敵機の翼の根元にこの棒を押し付けると、先の吸盤で吸着する、
吸着したら点火装置を作動させ柄を抜いて避退する、というものでした。

何にでも工夫をこらすのが日本人ですが、こういう武器も日本人ならではで、
アメリカ人なら考えもつかなかい次元の話だったのではないでしょうか。

 

空挺館にはこのようなモニターから、多くの義烈空挺隊員の遺墨が
次々に写し出されていました。
このような個人名の遺墨の現本は元々遺族が所持しているのでしょうが、

 

このような寄せ書きになると、生き残った戦友が保存し、
その方が亡くなれば遺族が寄贈するのかもしれません。



ここに寄贈された遺書もあります。
この頃の軍人ですから筆は使い慣れていますし、実際
いろんな遺書を見ても皆達筆なのに驚きますが、勿論「そうでもない」
字も、失礼ながらあります。

つまり、今と同じで上手な人もいるけどそうでもない人がいるということで
逆にこういうのを見るとリアリティが有るというか、現代の
我々の隣にいるような若い男の子がこうやって覚悟をしたため、
そして死んでいったのだという現実を見る気がします。

まるで小学校の書道の課題のように二文字ずつ並べられた

「正直 元気」

衒いのないあまりに素直すぎる言葉からは、おそらくその言葉の表すように
元気で素直な、明るい笑顔が浮かんできそうです。

「先輩に続く」

というのも、たとえば「我は往く」などという決意の書に比べると
皆で揃って往くなら心強い、というような仲間意識が感じられます。
一緒に死のうと誓って過ごして来た仲間と一緒なら怖くない、
という風にも取れるのですが、これを弱さと言い切るには
あまりにも彼らの最後は壮絶なものでした。

先ほどの書もそうですが、「普通の男の子」が、その時代に生まれ
そうして国を護るという決意の元に死んでいったということです。

「必仇討」

彼には敵を討たねばならない誰か身近な戦死者がいたのでしょうか。
それとも、ここ沖縄で連日連夜アメリカ軍の攻撃によって死んでいく
民間人の敵でしょうか。
いや、彼らを守るために出撃していく特攻隊の仇でしょうか。




出撃に際し私物の整理をする義烈空挺隊員。
寝転んで遺書をしたためているように見えます。
几帳面な性格なのか、きっちりと並べられたものの上に、
一つ一つ封筒が付けられています。

その遺品を託す人にあてて一人一人に手紙を書いているのでしょう。



義烈空挺隊の隊長、奥山道郎大尉の遺墨です。

挺進殉國

読んで字のごとく挺進によって国に殉じた奥山大尉。
わたしは見なかったのですが、知覧には奥山大尉の数学のノートが展示してあるそうです。
なぜ数学のノートが展示してあるのか分かりませんが、おそらくそれが
奥山道郎の学生時代の怜悧さや性格を表しているものだからでしょう。



陸士に入った時点で秀才であることは疑うべくもないことですが、
この人物を見て感じるのは、その造作から導きだされるような
「明朗」とか「温厚な」という雰囲気に加え、そのロイド眼鏡の奥は
実に聡明かつ怜悧な光をもつまなざしをしているということです。

もし同じ人物が平和な時代に生まれていたら、この写真に漂う
一種悲壮なまでの緊張はその表情から失せ、明朗なこの若者はあるいは学者となって
研究をしていたかもしれない、というようにも見えます。

実際の奥山大尉は典型的な「空挺タイプ」で豪放磊落、
明るく剛直な隊長だったということです。


遺書は作戦実行日の2日前に書かれました。
第一挺進団の押印がなされたその巻き紙には、こう書かれています。

遺書

 「昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります」




只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 道郎
御母上様」


この遺書を見て思うのは、義烈空挺隊の出撃が何度も中止になり、
その都度かれらが自分の遺品をまとめては預けることを繰り返したことで、
つまりそれは彼らがその都度遺書を書き換えて来たということです。

奥山大尉のこの遺書が、最初から最後まで同じ文言だったのか、それとも
出撃のたびにその心境から少し変化していったのか、今となっては
知るすべも有りません。

ただ、この5月22日に書かれた遺書の中の言葉、

「道郎は喜び勇んで往きます」

と同じ言葉を、奥山隊長は出撃の際

「全員が喜び勇んで往きます」

と言い換えて使用しました。
これはわたしが前エントリでも書いたように、何度もその出撃を阻まれ、
忸怩たる思いで待機し訓練を続けて来た彼らの偽らざる心境で、
この言葉こそ、最終的な出撃に際しての彼らの万感の思いを語るものだったでしょう。




隊容検査前の義烈空挺隊員たちの様子です。

襟元を直しているとも、襟の階級章を外しているとも言われている写真です。
左の、襟を直されている隊員は柄付き吸着機雷を持っています。
手を伸ばしている隊員の背嚢には、予備の吸着機雷が括り付けられています。



奥山大尉も最後の瞬間、襟の階級章を外していきました。
これには、第一挺進団の隊長である中村大佐が、奥山大尉の襟章を見て

「その階級章はもう要るまい」

と言ったところ奥山大尉はそれを笑いながら外し、大佐に渡したという話が残っています。

「要るまい」つまり階級章が不要になるとはどういうことかと云うと、
この作戦によって戦死、すなわちもう大尉ではなくなるという意味です。

奥山大尉は戦死後、全軍でも異例の三階級特進をして大佐になっています。

厳密にはまず、 作戦成功の功に対し少佐に昇進、その後戦死が判明し、
それに対して二階級特進となったので、一度に三階級昇進したということです。
 

階級章の横に印鑑がありますが、これは中村大佐が最後に

「お母さんに何かないか」

と言いかけたところ(奥山大尉は父親がおらず母一人)、奥山大尉は
胸ポケットからこの印鑑を出して大佐に渡したということです。




奥山大尉が書いた母親への遺書の表封筒。
郵送するものではないのにちゃんと住所をかいています。


義烈空挺隊の宿舎の近くに「極楽湯」という銭湯が有りました。
空挺隊の弊社の風呂が手狭だったため、陸軍は近くの銭湯を彼らのために
借り上げていて、 訓練が終わると隊員たちはそこでいつも風呂を使っていました。
その銭湯の経営者である堤はつさんを、隊員は親しげに「小母さん」「小母さん」と呼び、
はつさんもお茶を出してやったり、縫い物を引き受けてやったりして、
その最後のわずかな時間だけでも家に帰ったように世話を焼いてやったのだそうです。

出撃の早朝、常連の隊員たちが別れの挨拶に来ました。
彼らが出撃することを告げ、有り金を全部彼女に差し出したとき、はつさんは
畳の上に泣き伏したと言います。

彼らのひとりがはつさんに宛てた遺書が残されています。

「おばさん 毎度御無理申し上げ誠に有難く厚く御礼申し上げます。
待機中の私達も、愈々最後の任務に向い突進致します。

私達にいつも御親切に慰めて下さったおばさんの気持ちには感謝の他ありません。

私達も笑って嵐に向い、笑って元気一杯に戦い、笑って国に殉じ、
笑って皆様の御期待に報ゆる覚悟です。


どうぞ元気に皇国護持のため、東亜防衛のため頑張ってください。

最後に御親切に対し感謝と御礼を申し上げ、御一同様の健康を祈り上げます。

愛機南へ飛ぶ。


乱筆にてさようなら」 


「愛機南へ飛ぶ」というのは1943年に公開された佐分利信主演の映画です。
映画の題名にちょっと引っ掛けて、洒落てみたのかもしれません。

その後、義烈空挺隊が玉砕したと聞いたはつさんは

「なんとかあの兵隊さんたちの霊を慰めてあげよう」

と、彼らが置いていった金75円(今の10万少しくらい)を基金に、
自宅横の道に面したところに普賢菩薩像を建て彼らの霊を祀り、
その後も毎日の参拝を決して欠かさなかったということです。



ところで、このブログのある読者に奥山大尉の縁戚に当たる方がおられます。
勿論その方も防衛や軍事に興味を持っておられるのですが、お話によると、
奥山大尉の親族には昔は軍人が、そして戦後は自衛官もおられるとのこと。

「防人の家系」なのですね。






 

 


映画「銃殺 2・26の反乱」~処刑

2014-03-03 | 陸軍

2・26事件の映画は数多くあれど、彼らを裁いた法廷シーンを描いているものは皆無です。
なぜかというと、当時の軍法会議はマスコミには公開されず、
しかもその公判記録は戦後逸失して長らく詳細が不明になっていたからです。

しかし、当時からはっきりしていたことは、軍人15名に北一輝と西田税の二人を加えた
この17名が反乱罪における「首魁、あるいは群衆煽動の罪」を問われ死刑に処されたこと、
そしてその裁判が弁護人をつけず、審理は全て非公開、一審即決、上告を通さずの
暗黒裁判であったということです。

それにしてもこの異常な人数の処刑は一体何なのでしょうか。


安藤、そして栗原は死刑になる人数があまりに多いことに衝撃を受け、
磯部は最後までこの判決を恨んでいたといいますが、これは彼らに限ったことではありません。
事件が歴史の一ページとして語られるようになった今日の目で見ても、
その量刑の厳しさには、尋常でない、何か大きな力が働いていたらしいと窺い知れます。

この裁判には、まず民間人である北と西田は事件への直接の関与がないとして、
不起訴または執行猶予付きの刑が妥当だとされていたのを、陸軍大臣の寺内寿一

「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」

と主張したため死刑に決まっています。
この公判で無期禁固となった元歩兵少尉の池田俊彦は、調査起訴した乞坂(さきさか)春平

「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、
人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、

全く事実に反する事項を書き連ねた論告書を作製し、
我々一同はもとより、
どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税までも
不当に極刑に追い込んだ張本人であり、

二・二六事件の裁判で功績があったからこそ関東軍法務部長に栄転した
(もう一つの理由は匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任と思われる)」(wiki)

と戦後厳しく糾弾しています。
池田は首魁とされた中でただ一人死刑を逃れた人物であり、
処刑された蹶起将校たちの遺志を伝えるべく戦後数々の著書を残し、
2002年に88歳で亡くなりました。

確かに彼らが革命成立後、総理大臣、陸軍大臣として真崎や荒木を立擁立して
新政府を立てることまで計画していたのだとしたら、この二人が全く法的に責任を問われず、
思想指導をしたという西田や北が処刑されたというのは、バランスからいっても全く不明瞭で
かつ不公平であったと言うしかありません。




映画に戻ります。

山王ホテルで拳銃自殺を図った安藤大尉が回復し、
他の将校たちが収監されている獄房に帰ってきました。



房への通路を歩く安藤に栗原、磯部が声をかけます。

このときに彼らは襲撃の際傷を負って入院していた病院で
兄に差し入れさせた果物ナイフで割腹し、頸動脈を突いて自殺した
所沢の航空兵大尉であった天野(河野)のことを讃え合い、

「さあ、これで皆そろった。公判で頑張ろうぜ!」

と檄を飛ばし合うのですが、その結果は前述の通りです。



磯野大尉は監獄で「行動記」という手記を記しました。
面会のたびに夫人に持ち出させて、それが後世に残されることになります。

「何にヲッー、殺されてたまるか、死ぬものか、
千万発射つとも死せじ、
断じて死せじ、死ぬことは負けることだ、
成仏することは譲歩することだ、
死ぬものか、成仏するものか、

余は祈りが日日に激しくなりつつある、余の祈りは成仏しない祈りだ」

「余は極楽にゆかぬ。断然地ゴクにゆく、
・・・ザン忍猛烈な鬼になるのだ、涙も血も一滴ない悪鬼になるぞ」

(『妻たちの二・二六事件』澤地久枝著)

佐藤慶の演技には、最後までこのような勁烈たる執念と怨念を吐き続けた
磯部浅一がまるで乗り移ったかのような鬼気迫るものが感じられます。

映画では公判の様子をまったくすっ飛ばして、厳しい量刑がでたことを字幕ですませ、
安藤大尉が判決に憤る彼らの声を聞きます。

「暗黒裁判だ!」
「俺たちの声を国民に知らせろ!」
「畜生、俺は地獄から舞い戻って軍首脳を皆殺しにしてやるぞ!」
「俺は銃殺された血みどろの姿で陛下のおそばに行って
 洗いざらい申し上げるんだ!」


最後の言葉は、一年後に処刑となった磯部が、7月12日にまず15名が処刑になるとき
その銃声をかき消す為に朝から隣の代々木練兵場で行なわれていた空砲による訓練と、
同じく音を消す為に朝から低空飛行を続けていた飛行機二機の爆音、そして
ときおり聴こえる「万歳」の声の合間に混じる実弾の音を鋭く聞き分けて(澤地)

「やられていますよ」

と悲痛な声をあげたあとに絞り出した怨嗟の言です。
自分たちの至誠を受けいれることを拒まれた天皇陛下に対し、彼がどのような思いでいたのか、
何よりもこの言葉が多くを語っています。



精一杯の心づくしの弁当を持って面会に訪れる安藤の妻房子。

蹶起将校は殆どが結婚してまもない若い妻たちを後に残して行きました。
許された僅かな面会時間にせめて自分の美しい姿を夫に見てもらおうと、
彼女たちは「毎日お祭りのように綺麗に着飾って」夫との逢瀬にやってきたそうです。

そして、雨の降るある日、おそらく6月という設定だと思いますが、
今日の面会が最後になる、と看守に言い渡され愕然とする房子でした。



実際に行なわれた7月12日の処刑第一組は、
安藤、栗原、香田清貞、竹嶌(しま)継夫、対馬勝雄でした。
処刑用の刑架は5つで、この日の受刑者は5人ずつ、朝7時から8時半までの間に
三回に分けて銃殺されました。



処刑執行のあいだ、刑務所の一室では家族が来て遺体の引き取り待っている、
という設定で映画では喪服姿の集団が映し出されますが、
実際では家族はこの日、

「御遺骸引取ノ為 本十二時×時
 東京衛戌刑務所に出頭相成度」

という通達を前日夕方に受けて駆けつけています。
報せを聴いてから徹夜で喪服を縫い上げた妻も、間に合わなかった家族もいました。

前にも言ったようにこの日刑場から聴こえる銃声を隠す為に、
陸軍は隣の練兵場で空砲による訓練を行ない、飛行機を上空に飛ばせていた程で、
ましてや遺族に銃声を聴かせるようなことはしなかったはずですが、
この映画では夫の命が奪われた瞬間を妻が銃声によって知る、
というシーンがラストとなっているため、あえてこのようにしたのでしょう。

 

あらゆる226の映画で何度もお目にかかった処刑場の刑架。
意識せずとも記憶に残ってしまうほど特殊な形状をしています。
刑架からわずか10メートルの位置に銃架があり、そこには
二挺の三八式歩兵銃が固定され、照準は前頂部に合わせられていました。



最初に眉間を狙って撃ち、その一発で絶命しなければ心臓部を狙います。
頭に巻かれた白い布の真ん中の赤い(白黒映画ですが多分)丸は 、
日の丸ではなく、刑執行者の為の照準なのです。

このとき、彼らがこのように陸軍の軍服で刑に服したというのは
おそらくこのときには既に全員が軍籍を返上した身であったことから
実際にはありえないと思うのですが、これは映画的な演出であろうと思われます。

家族に引き渡された遺体はいずれも白装束を着ていたといいます。
確か映画「大日本帝国」ではすでに死に装束のような着物を着て刑架にかけられていましたが、
家族が見た遺骸は時間を経て既に死後の処置を施され、せめてもの配慮か
血痕や銃痕を遺族が目にすることはなかったといいますから、
刑執行後処置とともに着替えを行なったというのが本当のところでしょう。
銃痕を隠す為には、遺体の額に白い布が巻かれていたそうです。 



最も急進的な首魁とされた栗原中尉。

香田が音頭をとり、天皇陛下万歳、大日本帝国万歳を
のども裂けんばかりに叫びました。
香田は

「撃たれたら直ぐ陛下の身許に集まろう。
事後の行動はそれから決めよう」

と言い、叫びの間には誰かの笑い声すら風に混じって聴こえたと言われます。





実際には磯部浅一の処刑は一年後に行なわれているのですが、
そこは映画ですので、安藤と一緒に処刑されたことになっています。
磯部は事件発生の時点ですでに一般人となり軍服を脱いでいましたから、
このように軍服のまま処刑をうけることはさらにありえません。

天皇陛下への恨みを最後まで隠さなかった磯部は、
やはり民間人である西田、北、自分と同じく軍を追われた村中と、
4人で死刑になっています。

この4人は刑に際して誰も天皇陛下万歳を叫びませんでした。

15名が処刑されてからの約一年の間に磯部が書いた手記には

今の私は怒髪天を衝くの怒にもえています。
私は今は陛下を御叱り申し上げるところに迄精神が高まりました。
だから毎日朝から晩迄、陛下をお叱り申しております」

「天皇陛下 何と言う失敗でありますか 何と言うザマです、

皇祖皇宗におやまりなされませ」

「こんなことをたびたびなさりますと、
日本住民は陛下を御恨み申す様になりますぞ」


などという凄烈ともいえる天皇への怨嗟が書き綴られています。

このとき、真偽のほどは確かではなく、誰だったかも曖昧なことながら、
最後の瞬間、

「秩父宮陛下万歳」

と叫んだ将校がいたとされます。

秩父宮の存在とが226事件の関わりについてはかいつまんでお話しましたが、
最後の瞬間天皇陛下の御名ではなく、秩父宮を讃えて逝った将校には、
非常に消極的ながらも、自分たちと自分たちの行為を徹頭徹尾拒否なさったその方への
恨と怨嗟の気持ちがあったと考えられはしないでしょうか。


そして、もともと天皇親政は御自らのご意向ではなかったとはいえ、どうして天皇陛下は、
最終的には若者たちが見放された絶望感で「御恨み申し上げる」ほどに彼らを処され、
異例とも云える激しい御怒りをこの事件の関係者に向けられたのか。

このような考え方があります。

事件発生後、弟の秩父宮はすぐさま宮中に参内されましたが、そのときのことを

「(天皇に)叱られたよ」

と後日仰っておられたというのです。

元々この兄弟の間には親政の是否を巡って激しい議論があったこともあるといい、
実際にも蹶起将校たちが頼みにしていたのがまず秩父宮だったと言われます。

 「維新のあかつきにはいざとなれば秩父宮を立てるつもりだった」

という風評は
火の無いところに煙は立たないの譬えどおりであり、
さらに資質的に豪放で外交的、リーダーに向いているという性質の弟と、
内向的で学者タイプの兄との間には齟齬のようなものが根本にあったとも云われます。


つまり、他ならぬ身内である弟宮の存在が事件の影にあったことが、
天皇陛下の異例とも云える激怒の根本の理由であったとは考えられないでしょうか。

 



蝉の声の中、刑の執行を待ち続ける家族の部屋から
その重苦しい空気にたまりかねたのかついと廊下に出る安藤の妻。
折しも刑場で菊の御紋のついた銃から夫の体に銃弾が放たれ、
その銃声があたかも自分の体を貫いたように、彼女はよろめきます。




ところで、この苛烈な死刑執行の判決を出した裁判においては、
全てが

「血気に逸った青年将校たちが不逞思想家に騙されて暴走した事件」

であるという前提の下に審理が進められましたから、
たとえば決起将校が革命成立後の新政府の首班に立てようとしていた
真崎仁三郎も、荒木貞夫も、誰一人としてその責任を問われることはありませんでした。

ただ、陸軍の皇道派はこれをもって一掃され、対立していた統制派の
東条英機らがこれ以降一層発言力を持つようになっていきます。
武藤章もその一人で、2月28日の段階で陸軍に東京陸軍軍法会議を設立し、
事件にはすべからく厳罰主義で臨むべしということを表明しました。

2・26裁判における異常なほどの死刑執行の多さはここから来ています。

青年将校たちの蹶起は、統制派の立場から見ると皇道派を一掃する
「カウンター・クーデター」(wiki)のありがたい奇貨であったともいえます。
真崎ら皇道派は彼らを利用する為に煽ったと言う面はあるものの、実際のところ
その制御に苦しみ、最終的にに暴走した彼らの行動は自分たちの首を絞めることになりました。

つまり蹶起によって最終的に利したのは、統制派の軍部であったということになります。
青年の純粋な熱と侠気だけでは、老獪な陸軍首脳部の黒さには
到底太刀打ちできなかったともいえましょうか。


この裁判で判決を下した匂坂春平はのちに

「私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。
その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、
それは二・二六事件の将校たちである。

検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。
死なせた当人はもとよりその家族の人たちに合わせる顔がない」

と語り、ひたすら謹慎と懺悔の余生を送ったとされます。




安藤大尉が処刑を言い渡されたのは執行前日の夕方のことでした。
最後の夜、安藤大尉は家族への遺書、所感を書き綴り、それから
このような最後の句を残しています。


国体を護ろうとして逆賊の名

万斛(こく)の恨 涙も涸れぬあゝ天は  鬼神輝三


 

 


 

 


映画「銃殺 2・26の反乱」~鎮圧

2014-03-01 | 陸軍

関東地方一帯に珍らしい大雪が降った。
その日に、二・二六事件というものが起った。
私は、ムッとした。どうしようと言うんだ。何をしようと言うんだ。

実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。
激怒に似た気持であった。

プランがあるのか。組織があるのか。何も無かった。
狂人の発作に近かった。
組織の無いテロリズムは、最も悪質の犯罪である。
馬鹿とも何とも言いようがない。


「苦悩の年鑑」太宰治


わたしは太宰治という作家を今日に至るまで好きと思ったことはないのですが、
「苦悩の年鑑」で太宰が糾弾するところの2・26事件についての論評は
この、一人で死ぬことも出来ずその度にキャフェーの女給だの愛人を道連れにするような、つまり

「自分の人生は自分のためにのみ浪費する、ましてや他人の人生をや」

とばかり清々しいほど利己的で人生ロックで、ナルシズムの塊である小説家であれば、
おそらくこのようにいうのが当然かもしれないと妙に感心してしまったものです。

特に「プランがあるのか。組織があるのか」という彼の誹りは
ある意味この事件の本質を突いており、それこそがこの事件について
大方の感じる初歩的な疑問でもあるかもしれません。

しかし太宰はあくまでも結果だけを見てこう言っているわけで、
実際のところ、青年将校たちは無策と言い捨てるほどでもなく、
彼らとて決して何の公算もなく始めたわけではなかったのです。
少なくともそこには一定の期待値が当初はあった事は確かです。


それが何だったのか、少しこのことについて思ったことをお話ししてみます。



映画の出だしが実はこの菊の御紋であったことは、
この事件の大きなキーワードが「皇室」であることを象徴している、
と前々回書いたのを覚えておられますでしょうか。

天皇陛下の周りに巣食う奸臣軍閥を排除し、天皇親政を実現する。
彼らの目指したのはここであり、それがために事を起こしたわけですが、
肝心の天皇はこれに激怒され彼らを逆賊と御呼びになった・・・。
このことは決定的な彼らの誤算でした。

事さえ起こせば維新は成功し、それが必ず天皇陛下の御意に適うと信じ込んで
この挙に及んだオプティミズムというべき信念は何に支えられていたのか。

太宰が言うところの「何も無かった」はあくまでも結果であり、
「結果として何も無かった」と書き換えられるべきで、
それでは彼らの目算とはどこに根拠を置いたものであったのか。

ここに、秩父宮、つまり天皇陛下の弟宮の存在が大きく関わってくるのです。

検索していただければお分かりですが、

『秩父宮と二・二六』『秩父宮と青年将校』

このようなタイトルの本を始め、世には秩父宮と事件の関わりを記した文が
あまりにも多いのにお気づきでしょう。

 陸軍において宮の存在が政府や海軍への牽制となっていたことなどから2・26
の際、
反乱軍将校が秩父宮
擁立を画策していたとする風評が生まれた(wiki)

このような噂の元となったのは、秩父宮が

●陸軍歩三におられたころ、国家改造に理解を示され、決起将校のひとり坂井中尉に
「蹶起の際は一中隊を引率して迎えにこい」と仰せになった (中橋中尉の遺書)

●陸士の同期生であった首魁の一人西田税が改造の断行を力説したところ、
それに対して理解を示された(西田の自伝)

といったことだとされます。
2・26への宮の関与は勿論ありませんでしたが、つまり青年将校たちは行動に際し、
秩父宮を通じて天皇に自分たちの真意至誠
が必ず伝わる、と信じていた節があるのです。




彼らが世を憂い、いざ立つべきとそのときを窺っていたとき、相沢事件が起こりました。

士官学校事件を契機に行なわれた「統帥権干犯の波及」として起こったこの事件。
青年将校たちは公判を熱心に公聴し、「中佐一人にそれをさせておくわけにはいかない」
といった義憤から彼らの中に蹶起への気運が高まります。

そのとき、第一師団(安藤中尉始め多くが所属する)は満州への派遣を
三月に控えているという状態でした。
これも、若手将校たちの動きを察知した軍首脳部が画策した
「島流し」的措置であったことは明らかです。
つまり彼らのなかに

「今しかない」

という焦燥が瞬間風速的に高まり、行動を現実にしてしまったのでしょう。


「巨悪を排除し新しい世界秩序を打ち立てる昭和維新」


という題目は、彼らの中では何人たりとも非難する余地のない理想であり、
若く一途でいわば世の汚れを知らない彼らは、これが正義であるならば
必ず全ての人々にに受け入れられると信じていた節があります。。

事実、世間では彼らの無謀さを非難する声と同じく、
その意図に一定の理解を示す擁護論が当時の社会にも起こりました。
彼らの挙が私利私欲に基づくものではなく、世を憂えてのことであり、
人々はそこに信念と殉教を見い出したからでしょう。

しかし、その行為を

「それは只だ私利私欲の為にせんとするものにあらずと云い得るのみ」

と一言に断罪した人物がいます。
他ならぬ、昭和天皇その方でした。



困った困ったと鳩首会談する陸軍首脳部。

困るのは当然、青年将校たちは自分たちの挙が「天聴に達した」と聞いただけで
自分たちが義軍だと認められたと勘違いしている(させたのはこの人たちですが)
のにも関わらず、陛下は彼らを「逆賊」と御呼びになっておられたからです。

この御怒りの凄まじさは、本庄武官長が陛下に

彼ら将校としてはそのようにすることが国家のためであると考えたのだと思う」

と彼らをかばうようなことを奏上すると、

 「それはただ私利私欲の為にせんとするものにあらずと云い得るのみ」

という、まるでピシャリと鞭で打つような非情の一言が返って来たというくらいでした。
因みに事後、この本庄武官長は反乱軍を弁護したという理由で職を解かれています。



「矢崎(真崎)さん、あんたは彼らの尊敬を集めているのだからその責任を」
「責任?わたしは今は一参議官にすぎん!」

はい、お偉いさんたち、全員で責任の押し付け合いモード入りましたー。



しぶしぶ蹶起部隊の前に現れた真崎は(もう本名でいいよね)、
彼らに取りあえず原隊復帰を勧めます。

史実によればこれは27日の2時のことで、

真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ原隊復帰をすすめた。
相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った。
(wiki)


となっています。
それにしても、この映画では荒木や真崎を必要以上に矮小化して描くことで

「実はそそのかした本人のくせに、全く責任を取らなかった」

という説を強調しているように見えます。

彼らを利用したのは真崎であり荒木である、ということをこのような演出で補強するやり方は
やはり所詮は映画であるという気がします。
そういうことにしておけば、非常に分かり易い「構図」に事実を収めることが出来る、
このような意図をも感じないでもありません。



日本人は「忠臣蔵」が好きです。
赤穂浪士が大石内蔵助を討ったのは法律的には犯罪であるが、
身を呈して主君の仇討ちをするというその行動の義はあっぱれであるという理由からです。
実際はそう悪人でもなかった大石内蔵助を必要以上に「悪」とすることによって、
さらにこの物語は典型的な日本人の判官贔屓のメンタルにフィットしたといえます。

それと同じく、2・26事件において、

「蹶起部隊が行なったことは犯罪には違いないが、
この若い純粋な青年たちを四十七士に対するように理解してやりたい」

という心情からそこに分かり易い悪の存在を求めたとき、それが真崎であり荒木であったといえます。

わたしが幼い頃読んだ「まんが日本の歴史」で、通りすがりのおじさんが言った

「彼らは利用されたのではなかったか」

の一言にも、こういった日本人の性向が表れているような気がするのですが、
これはわたしだけの考えでしょうか。

ちなみに、わたし個人は、彼らを太宰のように馬鹿と切り捨てることはもちろん、
私利私欲や名誉欲の為に事をしでかした犯罪人であると罵倒することは到底できません。

そして彼らを「利用した」のは皇道派だけではなかったとも思うのですが、
それについては最後の項でお話ししようと思います。




この日から安藤隊は山王ホテルに宿舎を移すことになります。

「西洋料理食ったことあるか。
ハンバーグステーキ、ビーフステーキ、今にこんなもの毎日食えるようになる」

下士官と兵が食い物の話題で盛り上がっていると、妙にハイテンションのウェイトレスが
支配人の差し入れとしてキャラメルとおせんべいを差し入れてきます。

実際の山王ホテルの従業員の証言によると、彼らの雰囲気は暗いもので、
広間に置かれていた酒を飲み、歌を歌い続けていましたが、なかには
「こんなことになって」と泣き出す兵もいたそうです。



このころから戒厳令の御勅を受けて、戒厳司令部が組織され、
首都東京に蹶起部隊を鎮圧する為の兵力が集結を始めました。



海軍は東京湾に第二艦隊を集め、「長門」始め各艦はその砲を
全て反乱部隊の駐留地に定め、築地には陸戦隊が上陸しました。

しかし、これ本当に戦闘になっていたらどうなっていたんでしょう。
都内に戦艦の主砲がドンパチ撃ち込まれ、その破片が降り注ぎ・・・。
いかに「脅し」のためであったとはいえ、どこまで海軍は「やる気」だったのか・・・。



山王ホテルも囲まれております。

反乱部隊を鎮圧すべし、との奉勅命令が出されたのでした。
そのことが青年将校たちに伝わるシーンですが、

「今朝我々に対して奉勅命令が出されたそうです」
「奉勅命令?なんだそれあ」
(姿勢を正す)「陛下から」
(全員姿勢を正す)「我々を鎮圧せよとのご命令が下ったんです」

この、「陛下」「畏れ多くも」のあと、全員がバネ仕掛けの人形のように
姿勢を正して言葉を継ぐ、ということをこの映画は逐一几帳面にやっています。
戦後の映画では天皇の御名を口にしながらふんぞり返ったままのものがありますが、
ここではテーマがテーマなので、神経質なくらいその表現にはこだわっているようです。

その直後山下奉文が詰め所を訪れ、奉勅命令をあらためて彼らに伝えます。
そして隣のドアをいきなり開けたら、そこには・・・・



じゃ~ん。(BGMもこんなかんじ)

なんとびっくり、人数分取り揃えられた自決セット一式が。
おいおい、いつのまにこんなものホテル側が用意したって云うのよ。

この自決セットのようなものが手回しよく揃えられていたというのは本当で、
それは事件が集結を見て彼らが武装を解かれ、捕縄がかけられたとき、
白木の棺、白木綿などの用意がされているのを彼らも見たと言うことです。

「死んでもらうのが一番好都合だったのである」(澤地)

ということでしょうか。

この映画は28日の正午と29日の山下訪問での出来事ををあえて混同しています。
28日、栗原中尉は

「反乱部隊将校は自決するから、その代わり自決の場に
天皇陛下から勅使を派遣してもらいたい」

と提案しています。
しかしこれを伝えた武官長は、またしても陛下の峻烈な怒りの御言葉に息を飲むことになります。

「(彼らに)勅使を賜り死出の栄光を賜りたく」

こう伝えた武官長に、陛下は

「自殺するなら勝手に為すべく、この如き者に勅使など以ての外なり」

と切り捨てられたというのです。。
それにしてもなぜ天皇陛下は「余人の誰も見たことが無いほど感情を露にして」
この事件の首謀者を憎まなくてはならなかったのでしょうか。

理由の一つとされているのが、鈴木侍従長が襲われたということで、実は
鈴木の安否を確かめる為に陛下は受話器を取られ、事情を知る所轄交番の
一警官に御自ら容態をお尋ねになっておられるのです。
その警官は最初に電話をかけて来た人物に
「これから日本で一番偉い方がお話しになる」とだけ云われ、その後、自分のことを
『朕』と呼ぶ人物が侍従長の容態を尋ねたので体が震え気が動転したということです。
鈴木の妻が皇室の養育係であったことも、鈴木を特別に気をかけられた要因でしょう。

しかし、このときの御怒りはそれだけの理由にしては畏れながらいささか異常ともいえます。
ここに、秩父宮の存在、つまり「天皇家の兄弟同士の相剋」を見る説があるのです。

このことについて、次回少しお話ししてみたいと思います。

 


さて、映画に戻りましょう。
まず原隊復帰を受け入れた野中四郎大尉が訪れ、

「引き上げようと思う。兵隊がかわいそうだ」

と決心を告げますが、安藤大尉は断固それを拒否します。
安藤大尉は最後まで蹶起には消極的でしたが、一旦事を起こした後は
誰よりも強行に事を完遂することを主張しました。



こんな写真、確か教科書に載っていましたよね?
アドバルーンと言うのが今にして思うと当時の最も分かり易い
メッセージの伝達法であった、ということです。

このとき、戒厳司令部発表の「兵に告ぐ」という放送が流され、
さらに「下士官兵に告ぐ」というビラがまかれました。

下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ニ歸レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
    二月二十九日   戒嚴司令部



蹶起部隊の将校たちにも動揺と憔悴が見えてきました。



そんな折り、野中四郎大尉が自決したとの報が入ります。
磯部がそれを受けて「兵を帰そう」と言い出しますが、

「俺は最後まで兵と行動を共にする!
維新革命はどうなったんですか!」

と安藤大尉はあくまでも反発します。
実際安藤はこのとき磯部に向かって

「僕は僕自身の意志を貫徹する」

と答えたそうです。
そんな中も戒厳本部からは矢の催促のように

「自決するか、投降するか二つに一つしかない」

などと言ってきます。



ここにいきなり新キャラ登場。

新キャラ「皇軍相打つことだけは避けねばならん」
安藤「陛下は我々に死ねと仰るのですか」
新キャラ「そうだ。今帰れば下士官兵は咎められん」

このとき安藤大尉は「そんなの信用ならん」と言うのですが、
実際その言葉は正しかったのです。

2・26に参加した下士官兵たちはその後もれなく前線に送られ、上からは

「軍機を汚したのだから白骨となって帰国せよ」

などと云われ、満州での戦役そのものが懲罰となっていたという事実があります。
特に安藤隊にいた下士官兵はその殆どが最前線で戦死させられているのです。


この「君一人は死なせはせん。俺も死ぬ」と言っている人物は
おそらく第3連隊付の天野武輔少佐であるという設定かと思われます。
天野少佐もまた、説得失敗の責任をとり、29日未明に拳銃自殺しています。




そしてついに安藤大尉が第六中隊の下士官兵を集めます。



「皆はこの中隊長を信じてよく付いて来てくれた。
満州に行っても体を大切にしてしっかりご奉公してくれ」

安藤は大勢が決したと知ったとき、一度自決を図っていますが、
そのときは磯部に羽交い締めにされて止められています。
磯部は安藤を「部下にこんなに慕われている人間が死んではならない」と説得し、
その間にも上層部は何とか安藤と兵たちを引き離そうとしますが、第6中隊の結束は固く、
全員が安藤大尉と一緒に死ぬつもりであったということです。

しかしその安藤大尉がついに決断したのです。



安藤大尉は最後の訓示を与えた後、皆で「吾等の六中隊」の歌を合唱するよう命じました。
この映画では、彼らのテーマソングでもあった「昭和維新の歌」が歌われます。





映画では歌が続く中、一人ホテルの部屋に入り、ピストルを発射、
おかしいと思い付いてきた久米兵曹に抱きかかえられ瀕死の状態で遺書を遺す、
となっていますが、実際の安藤大尉は歌の終了と同時に発砲しています。




続く
 





 


映画「銃殺 2・26の反乱」~襲撃

2014-02-27 | 陸軍

この映画は最初に言ったように、登場人物が実在の人物とすぐわかる
劇中名をつけられており、安藤大尉は「安東」となっています。
映画を観ているだけでは漢字の違いなどわからないので、

「なぜ安藤大尉だけが本名なのだろう」

と不思議に思った人もいたかもしれません。
人物を仮名にすることで、劇中のフィクション部分を強調する意図もあったでしょうか。
いずれにしても「あんどう」始め、どの人物も事件を少し知っている者には
わかってしまうことなので、あまり意味はないという気がしないでもありません。

そして安藤大尉を演ずる鶴田浩二ですが・・・。

造形的にもイメージ的にも、あまり安藤大尉らしくないのが困りものです。
いろんな軍人役の鶴田浩二をスクリーンの上に観てきましたが、
実在の人物を演じる場合、この人の場合はやはり海軍軍人の方がしっくりくるというか。

バブル時代に巨費を投入して創られた映画「226」で安藤大尉を演じたのは
三浦友和でしたが、こちらは納得させられるキャスティングと個人的には思えます。

実際の安藤大尉は、痩躯で端正な好男子であったといわれ、決して鶴田浩二が正反対のタイプ、
というわけではありませんが、決定的なのが「安東大尉」が眼鏡をかけていなかったこと。
確かに鶴田に眼鏡はしっくり来ず、 このキャスティングを仮名にしたのには 
案外こんなところにもあるのではないかという気がしました。




さて、安東が決起を決意した日、この映画ではこんな家族の食卓を映し出します。
なんと誕生日をお祝いするバースデーディナー。
2月25日。
決行の一日前ですが、この日は安藤輝三の31歳の誕生日でした。
ただし安藤夫妻がこの映画のように誕生日の膳を囲んだという話は創作です。

というのは、安藤大尉は2月22日の朝、真意を確かめに来た磯部浅三に

「磯部安心して呉れ、俺はヤル、本当に安心して呉れ」
(『磯部浅三 行動記』)

と答え、そのまま週番勤務の歩三に出勤していったからです。

ともかくこの家族にとって(映画的には)最後の夕餉となった夜、
外には雪が降り出したのでした。



次の日、つまり誕生日の翌日なら2月26日当日ってことになってしまいますが、
安東大尉、悠長に庭で雪だるまを作っております。

前半の硬派な展開を全く無駄にするかのごとき創作ですが、
まあ、映画ですからこれくらいは良しとしましょう。
さすがに226の当日であったという設定は無理があるので、
誕生日を早く祝ったということにしたようです。



出来た雪だるまに自分の軍帽を被せ、息子を抱いて

「マサキ、これはお父さんだぞ」

実際には安藤大尉は、決行を表明する前の1月20日ころには
家庭でも深く考え込むような様子を見せるようになったといいます。

ある晩、房子夫人に向かって冗談のように

「これをやろうか」

といって、テーブルに三本線を書き、4本目を途中で止めて
「三行半」を匂わせたり、あるいは12月に安藤大尉らの第一聯隊は
満州への転勤を命ぜられていたのにもかかわらず、夫人の

「極寒の地なのだから用意しなければ」

という心配に対しては「いい、いい」と答えるといった風に。

さて、この夜(映画的には2月24日)、蹶起将校たちの作戦会議が持たれます。
各襲撃場所の確認のため紙を読み上げていた栗本(栗原)中尉。
最後に

「豊橋(陸軍教導学校)の梅島(竹嶌)、相馬(対馬)への連絡も頼むぞ」

と言われ、

「任して下さい。約束の実砲に千発ももう用意してあります。
偽装のため女を連れて行きます」

と答えたところ

「恋女房と言えよ!」

とからかわれ、頭を掻くシーンがあるのですが、ここでわたしは
はっとしました。

平成になって制作された2・26映画、「226」でベースになったのが
何度か引用している澤地久枝著「妻たちの二・二六事件」であるわけですが、
これに、ここだけ仮名の「A中尉」のこととして、この話の真実が書かれていたのです。

獄中から妻に狂おしいほどの熱情をこめた手紙をおくっていたその人は、
蹶起前、弾薬の運搬の仕事をかねて打ち合わせに偽装のための女を連れていましたが、
それは実は結婚前から関係のあった愛人だった、ということが。

A中尉自身が彼女とのことを「焼け木杭に火がついた」と仲間に語っていたそうで、
夫人は、夫の死後そのことを本人の日記で知ってしまったのでした。

澤地がこの作品を書いたのは1975年。
この映画「銃殺」はそれよりも11年も前の制作ですから、
このとき銃弾を運んだのが栗原中尉であることを隠していません。

しかし、関係者の間では連れていたのが妻ではなかったことは周知のはずなのに、
あえて「恋女房」と言わせたあたりに、映画制作側の配慮が感じられます。

それがたとえそれが妻に不穏な部分を悟られたくない、あるいは
危険な目に遭わせたくないという配慮からであったとしても、
夫が元の愛人と事件前に一緒であったという事実に妻が、
しかもその夫を失ってから知り、打ちのめされたことは想像に難くありません。


本を読んだときにわたしも人並みの好奇心から、A中尉は誰なのか考えを巡らせてみたのですが、
何とこの映画であっさりと分かってしまったという・・・・。



その晩、安東家に従兵が安東の新しい長靴を取りに訪れます。
封を切られた給料袋を託され、代わりに・・



神棚からお守りをわたす夫人。
安藤輝三は、処刑のとき「家族の者が安心しますから」と言って
松陰神社のお守りを身につけて撃たれた、と記録にはあります。




2月26日払暁4時。
喇叭とともに雪の闇の中、男たちが行動を起こしました。
安東大尉率いる歩三連隊は、麹町の鈴木貫太郎邸を襲撃します。



整列した兵たちの敬礼を受ける安東。

それはともかく、この映画の安東大尉の軍帽が・・・。
あまりにも細長く屹立していて、他の軍人の軍帽とも違い、
なんだかわたしは気になって仕方がありませんでした。
なんというか・・・まるでボートみたいにみえるのです。

鶴田浩二の好みでもあったのでしょうか。

蹶起部隊は、総理官邸(岡田総理)、陸軍大臣官邸(に突入を始めます。



そして大蔵大臣官邸・・・・えっ、これが高橋是清
全然似てなくない?



教育総監は渡辺錠太郎
次女をかばって撃たれましたが、憲兵は二階に行ったきりで渡辺を護らず、
ここで犠牲になったのは一人で応戦した渡辺総監だけだったそうです、



内大臣官邸。
斎藤三郎内大臣は殆ど蜂の巣という状態になるまで銃弾を体に撃ち込まれましたが、
斎藤の妻はそれを見るや前に立ちふさがり

「撃つなら私を撃ちなさい!」

と夫をかばいました。
銃口を掴んで引き寄せたため腕に銃弾が貫通したそうです。
彼女はその後回復し、昭和46年、98歳まで生きました。




そして鈴木侍従長邸。

去年、巷間伝えられる鈴木貫太郎襲撃の様子と、実際に鈴木が
夫人から聞き回復後に話した様子には若干の食い違いがあり、
それについて去年エントリにしてみましたので、
もしまだならぜひお読み下さい。

鈴木貫太郎と安藤大尉

とにかくこの映画では、一般的に伝わっている通りの描写がされています。



しかし、鈴木が「お前たちはどこの部隊の者か」
と尋ねるのに対し、下士官が

「時間がありません。撃ちます」

と引き金を引く部分は同じです。
それにしてもこのときに鈴木の横にいる妻のたかを演じる女優(桧侑子)に
全く緊張感がなく、ほぼ平然としているように見えるのが残念。



撃たれた鈴木に安東がとどめをさそうと軍刀を抜いたところ、
たかは

「お許し下さい。どうせ助からぬ命です」

と命乞いをします。

このときとどめをさすかどうかを下士官では決めかねて安藤大尉に伺ったところ、
安藤大尉自身が

「とどめは残酷だからやめよ」

と言った、という話を鈴木自身が後日語っています。



たかが鈴木の体に覆い被さる、という構図は戦後の映画で
ほぼ定番のように使用されてきましたが、実はたかは次の間で、
別の下士官に体を押さえられた状態で、

「とどめ云々」

の会話があったときに声を上げて命乞いしたというのが真実だそうです。
しかし、事件後たか夫人は夫を救った妻の鑑として世間に讃えられたので、
いつの間にかこのドラマチックな構図が好まれる形で一般に膾炙したのでしょう。





たかの捨て身の命乞いに心動かされた(という設定の)安東大尉。
実際の状況は安藤大尉は女中部屋にいたので、命乞いを聞いていたかすら
疑わしいと思われるのですが、もちろんそれではドラマになりません。



「侍従長閣下に捧げ~銃!」

鈴木に対して捧げ銃をしたのは事実ですが、実際は立ってでなく
膝を片方立てた折り敷きの姿勢を全員が取ったということです。
何が違うのか、と思われるでしょうが、日本人の感覚では
横たわっている人物に少しでも近い姿勢を取る方が礼に適う、
ということでそうしたのかもしれません。

このあと、たかが

「お差し支えなかったらお名前を」

というのに対し、安東は

「歩兵第三連隊、第6中隊長、安東大尉です」

と答えますが、ここの成り行きは鈴木自身の言によると
安藤大尉が

「我々は閣下に対し毫も恨みを持つものではありませんが、
躍進日本に対して意見を異に
するため余儀ない次第であります」

と言ったのに対し、たかが

「それはまことに残念に存じます。なにとぞお名前を伺わしてください」

と問うと、かれは容(かたち)を改めて

「安藤輝三」

と名前だけを称し、整列して引き揚げて行ったということです。


実際のこのときの安藤大尉の様子の方が、ずっと映画の演出より
緊張と切迫と、何よりも安藤大尉の決意のようなものを映し出している
と思うのはわたしだけでしょうか。

 

こちらは陸軍大臣官邸。
矢崎大将(真崎仁三郎)が事件を受けて陸軍大臣に対処を相談に来たのです。
実際は真崎はこのとき加藤寛治海軍大将を伴っていたと言われます。



陸軍大臣官邸で待機中の将校たちは、伯爵牧野伸顕を襲撃して巡査に撃たれた
病院の天野(河野)と話し、

「こちらはうまくいっていますから気を大きくして早く治って下さい。
天野さんが退院する頃には世の中は一変していますよ」

などと和やかにお茶を飲んだりしています。
牧野伯爵が襲撃の目標とされたのは、天皇の側近にありながら
欧米との協調主義を唱えていたからでした。 
牧野は旅館逗留中に襲われ、宿の主人の背に負われて逃げ、助かっています。

河野は事件失敗を悟った3月6日、入院先の病院で自殺しました。



こちらは川島陸相からの

「蹶起の主旨においては天聴(てんちょう)に達せられあり」

という告示を山下奉文から
受け、盛り上がる青年将校たち。


ここで告示を読み上げた山下は、青年たちの行動について言明を避け、
さらに自分の意見を問われても

「俺の意見は陸軍大臣告示通りだ」 

とキョドりながら逃げるように去っていきます。



皆で清酒「雄叫び」を飲みつつ、

「てーんに代わりて不義を討つ~♪」

と気勢をあげる下士官兵たち。
世間では将校らを指示する声も盛んであり、この時点で将校たちが
自分たちの革命は成功したかに思えていたとしても不思議ではありません。

ちなみにこの「雄叫び」は、実際に蹶起部隊に差し入れられ、
皆がこれを口にしたと言われています。



さて、こちらはこれらの対応に頭を痛める陸軍のお偉いさんたち。

彼らが頭を痛めるのももっともで、このとき既に陛下は青年将校たちに対し
激烈な怒りを表明され、彼らを逆賊とまで御呼びになっていたからです。

こりゃー山下奉文が挙動不審になるのも無理はありますまい。

本庄武官長の記した日記によると、
事をお聞きになり軍服に御着替えあそばされた天皇陛下は、

「朕自ら近衛師団を率いて現地に臨まん」

とまで激しい怒りをお隠しにならかったということで、

「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、
真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり」

とまで仰せだったのです。

とにかく、ここに集まった陸軍関係者はただおろおろと、
責任の押し付け合いをするのみ。
ここには荒木貞夫陸軍大将もいます。
荒木は一時

皇道派のシンボル

として青年将校たちに絶大な人気がありました。
真崎が更迭されたときには武藤彰の引き立てでそれを免れ、
逆に栄転となって東京駅に帰って来たときには青年将校の出迎えで溢れ、
さながら凱旋将軍のようであったと言われます。

そもそも荒木と真崎のまわりに集まって来た者たちをして
「皇道派」と呼びならわすことになったのですから、
核心的人物であることは勿論、創始者といってもいいでしょう。


しかし、 荒木自身が陸相の座を自分の息のかかった者で固め、
その専横ぶりが「統制派」との対立を深めるにつれ、
自ら青年将校たちを
保身のためもあって押さえにかかったあたりから、 
一時は絶大な信奉者であった青年将校たちはその元を去ることになります。

つまり、 荒木は自分で育てた皇道派の若手を制御できなくなったといえます。

 
天皇の御勅を受けて翌日戒厳令が発令されました。
蹶起将校たちが、天皇の下に新しい、公明な社会を作ろうとして起こした革命は、
外でもない、その陛下の御言葉によって「反乱」と転じ、
彼らは以降「逆賊」と呼ばれることになります。



続く 

 


映画「銃殺 2・26の反乱」~蹶起

2014-02-26 | 陸軍

先日の大雪の日、腕を骨折したわたしは家でおとなしく映画を観ていました。
そのときに観た映画リストにこの「銃殺」があったわけですが、
(おっと“Sex & The City"については何も聴かないでやってくれたまえ)
たまたまその日、226当日を思わせる大雪が降っていたことから、
やはり今年の2月26日にもこのことを書こうと思いました。

226事件と言えば、わたしが最初にそれを知ったのは、我が家にあった
「まんが 日本の歴史」 でした。
事件の後、通りすがりのおじさんが

「青年将校たちは結局上に利用されたのではなかったのか」

というようなことをつぶやくシーンが子供心に強烈な印象を残したものです。

このまんがの初版発行は今調べたところ1968年のことで、監修は和歌森太郎。
80年代まで版を重ねたというもので「まんがで学ぶ」の先駆的名作です。

内容については神孫降臨に始まり古代史にウェイトが置かれていたように思いますが、
南京大虐殺もこのころは歴史にまだ登場していませんでしたし(笑)、
東京裁判についても比較的淡々と述べているに留まり、以前にも書いた
与謝野晶子の「君死に給うことなかれ」でかなり左っぽいところが垣間見えるものの、
今にして思えば、子供に与える歴史まんがとしては
まあニュートラルなほうだったのではないかと言う気がします。

そのまんが日本の歴史で226が「青年将校が利用された事件」とされていたことは、
とりも直さずその一言が後世の、この事件に対する総括でもあったからではなかったか、
とわたしはあれから幾星霜たっても信じていました。

そして去年、事件の首謀格の一人であった安藤輝三大尉と、
彼が襲撃した海軍軍人である鈴木貫太郎侍従長の関わりを語った
鈴木自身の講演記録を見つけ、それについてエントリを書いたのをきっかけに
この事件をあらためて見たとき、その思いは確信に変わりました。


そのときに鈴木の語った安藤大尉のみならず、歴史の史料に垣間見る事件の首魁将校は、
いずれも私利私欲とはいずれも無縁の高邁な理想の上に革命を夢見て決起したと思われ、
彼らの純粋さを、それでは利用したのは誰だったのか、ということを
わたしなりに確かめておきたいと思い、今回、数ある226映画の中でも
「比較的人間ドラマに流されていない」
ように思われたこの映画を観ながら考えることにしました。



1964年、東映。

偶然ですが、前回お話ししたパレンバン奇襲作戦と同じ小林恒夫監督です。
小林監督、丹波哲郎を気に入っていたのか、この映画でもしょっぱなから
丹波を「相川中尉」として起用しています。

菊の御紋をここに使ったのは、天皇、そして皇室(秩父宮)の存在が
この事件には実に大きな意味を占めているという暗示でしょう。
決起を起こす動機、そして決起後、天皇がこの事件に対しどう対処されたか。
それによって実はこの事件の方向性が決定づけられることになったと言えるからです。



昭和10年、8月12日に起きた「相沢事件」から映画は始まります。
ついかっこいいブーツに見とれてしまいますが、これが丹波哲郎。



劇中では「相川中佐」となっています。
この映画は、登場人物たる反乱将校始め登場人物の名を、

相沢→相川 安藤→安東 栗原→栗林 野中→野田 丹生→新木 

といった具合にわざわざ誰だかわかるような偽名を使っているのが不思議です。
もしかしたら当時は殆どが生存してたこれら若い将校たちが残していった
妻や彼らの子供たちに対する配慮のつもりだったのでしょうか。



さて、映画の相沢中佐事件に戻ります。
小林監督は「パレンバン」でも使った丹波をお気に召していたためこの採用となったようですが、
基本的に面倒なことの大嫌いだった丹波、最初にかっこよく登場して、
一言もセリフを言わずにすむ役だから引き受けたのかなどと勘ぐってしまいます。
(さすがに一シーンだけ、法廷での供述をしているところがありますけど)

本来ならちょい役でいいのに、わざわざ丹波。
相変わらず無駄ににかっこいいので、ファンとしては()嬉しいですが。



相沢事件を冒頭に持って来たのは、彼相沢三郎陸軍中佐が、陸軍省で統制派である
永田鉄山軍務局長を殺害したことが、その後の皇道派青年将校たちの決起の呼び水となった、
ということを端的に説明しています。


満州事変勃発後、


●軍閥が実権を握った政界では、皇道派と統制派の主導権争いが起こった

●その一方で農村が疲弊し農民は凶作に苦しんでいた

●政界、財界には疑獄事件が相次いで起こった

これらを憂えた青年将校たちの動きを察知した陸軍上層部の統制派は
最初は懐柔していたものの、そのうち士官学校事件をでっち上げて青年将校たちを弾圧し、
さらに皇道派の真崎甚三郎を追放してしまいます。

その張本人であるとして、相沢少佐は
「天誅を加え昭和維新を達成するために」永田を殺害したとされます。

このとき永田に免官された村中孝次、磯辺浅一らもと陸軍軍人は、
半年後2・26で中心的な役割を果たしました。

「相沢中佐に続け!」

を合い言葉に青年将校たちの決起への気運が高まっていったことを思えば、
この映画のイントロは非常にツボを得たものであるといえましょう。



安東(安藤)大尉、右。鶴田浩二が扮します。
青年将校たちが、相川(相沢)中佐の公判について語り合い、
今後の決起を決議していくシーン。



「まず我々が決起して維新革命を断行、
国体破壊の元凶である元老、衷心、腐敗する政治家、財閥を排除する!」

磯野浅二(磯部)は元陸軍主計。眼鏡を掛けています。
殺害した永田軍務局長に免官され、現在は民間人となっています。
演じるのは佐藤慶


そして小林監督お気に入りの江原真二郎がまたしても。

江原の役どころは、栗林(栗原)中尉
若い頃の江原はどちらかというと美青年で、実際に

「女性のように整った顔」

と言われていた美少年風味の栗原とは少しタイプを異にするのですが、
本作品出演俳優の中では最もそれを意識した配役です。

226の関係者の画像を検索すると、必ず「腐女子」の描いたと思しき
かなり変な萌え絵やマンガが多々引っかかってくるのですが(すみませんなんて言うもんか)
それもこれも、この事件に関わった青年将校にはこの栗原中尉、そして
中橋基明、坂井直などなど、耽美派がネタにせずにはいられない美形、
美青年が多かったということなのだと思います。

で、実際には陸軍マントの裏を緋色に仕立て、「赤マントの中橋」
と呼ばれていた中橋基明中尉などは映画のキャラクターとしては
最も重要視されそうなのですが、この映画には出てきません。

わたしの予想ですが、美形キャラが被るため、より主導的な役割だった
栗原中尉だけを取り上げることにし、江原一人にイメージを負わせたのでしょう。

さて、安藤大尉は実際には最後まで決起に積極的ではなかったということですが、
その理由として

「時期尚早だから」

とここで言わせています。



「したい放題の特権階級がある一方、労働者や農民は
いくら働いてもその日の飯さえ食えない!」

まるでセリフだけ聴いていると、戦後の労働者集会みたいですが、
このとき、皇道派である青年将校たちは事実そう考えており、
その原因は腐敗した上層部と政財界にあると信じていました。

これを取り除き、天皇陛下の下に新しい秩序を打ち立てる、
戦後労働者と違うのがこの点だっただけで、「革命」は彼らの悲願であったのです。

磯部の後ろにはドラクロアがフランス7月革命のために描いた

「民衆を率いる自由の女神」

が掛けられていることにご注意下さい。
 



「軍主流部の考えは、戦時体制を強化し、国内政策の行き詰まりを
対外戦争によってすり替えようとしている」

青年将校たちの中でも、急進派と陛下の軍隊を犠牲にする危険を憂う反対派との間に
激しい議論が起こります。

煮詰まった空気の中、とっとと座を立つ安藤大尉。
と思ったら店を出るなり山上閣下(山下奉文)のところに行き
またもや話し合いシーンが始まります。


うーん・・・。

随分硬派な作りの映画だけど、おそらくここまでも難しすぎて、
開始10分で退屈してしまった観客はかなり多かったと思われます。
226について全く知識がない人はそもそもまず見ないとは思いますが、
かといって生半可では、なかなか話に付いていけないというか。

・・・も、もちろんわたしは大丈夫でしたよ。
でも226について知りたいという意欲と関係なく、純粋に映画を楽しむためだったら、
きっとこの映画は観なかったと思うな。


さて、ここで山下奉文は将校たちに向かって

「事が先に起こったらその方が早くていい。
岡部(岡田)総理?岡部なんぞぶった切るんだ!」

などと乱暴なことを言ってけしかけ、皆をその気にさせます(笑)
おいおい。
しかし、どうもこれは本当にこう言ったらしいです。
おそるべし山下。




こちらは矢崎(真崎甚三郎)もと教育総監邸で茶を点ててもらいつつ
真崎少将の意向を確かめる青年将校たち。

殺害された永山に更迭された人間ですから、そりゃ

「まず何か起こらねば片付かんし起これば手っ取り早い」

などと言うでしょうさ。
まあ遠回しな煽動ってやつですな。
しかし、山下少将と同じく、決して具体的にはっきりとは言わないのがミソです。

実際の真崎は、意向を問う 磯部に対し、

「このままでおいたら血を見る。
しかしオレがそれを言うと真崎が扇動していると言われる」

と語ったそうで・・・これも煽動ですよね。



しかし安藤はなかなか決心に至ることが出来ません。
その理由の最も大きなものが、「兵隊を巻き込みたくない」というものでした。



そんな安藤の決心を促すべく、お宅訪問で安藤の弓の稽古を邪魔する栗原。
弓と的の間に立ちふさがって決起を迫ったりします。

しかしこのころの江原真二郎って、超イケメンだわ。



お茶を持って来て固まる安藤の妻、文子
安藤夫人の本名は房子です。

226の首謀者17人が全員処刑という判決を下され、
いよいよ明日が処刑という夜、安藤大尉は房子さんに宛てて

「我が妻よ 思はつきず 永遠に永遠に私は護らん
良き妻よ 良き母たれ 
幸多く永き世を    汝の輝三」

「我が妻よ 我には過ぎたり 美しく優しき妻よ あゝさらば」

(『妻たちの二・二六事件』澤地久枝著より)

という遺書を書いています。

この映画における房子役の岸田今日子は実に清楚で愛らしく、
安藤大尉のこのまっすぐな愛情を受ける妻を清冽な印象で演じています。

わたしは今まで観たどの映画に出ている岸田今日子より、
この映画の彼女が美しく見えると思いました。



そんなある日、安藤大尉の歩兵第三連隊で、盗難事件が起こります。
困窮する田舎の家族に仕送りするために同僚から5円盗んだ兵。
安藤大尉は取り戻した金をこっそり返させ、かわりに
自分のポケットマネーを同封して封を元通りにして送ってやりました。

またある別の兵隊が脱柵してまで病気の母のために家に帰ろうとしていたのを知り、
安藤大尉はまたしてもポケットマネーを出し、彼の帰郷を公用待遇で許します。



ところが帰郷した彼は母と妹を絞殺し、自ら首を吊って死んでしまいます。
妹が吉原に身売りされることを苦にしての心中でした。
そのとき

「なまじ帰ってこなければ妹の身売りも知らずにすんだのに」

とそこにいた女がいらんことを言ったので安藤大尉ショック。
俺のせいかよ!とそこを飛び出します。


「農村の貧困が招いた悲劇」が部下の身に相次いで起こったことによって、
迷っていた安藤大尉が決起に加わる、という動機付けです。


安藤大尉は平生から部下を大変可愛がる隊長だったと
言われています。

「憂国の士」というよりはどちらかというと文学青年のタイプであった彼は、
将校室にいるよりは兵隊と接し彼らと話すことを好み、
たとえば家に相談に訪れた除隊後の兵隊には帰りの切符を買ってやったり、
あるいは演習のあと部下を富士五湖巡りに自費で連れて行ったりはしょっちゅうで、
いつも妻には半額分しかない給料をすまなそうな顔でわたすのが常でした。


それほど部下思いであった安藤大尉に、もしこんなことが実際に起こっていれば
それは間違いなく決起参加への強い動機となりえたでしょうが、
残念ながら今回これが本当にあったことかどうか確かめることは出来ませんでした。

磯部浅一が獄中でしたためた手記によると
安藤大尉が実行の決心を問いただされるのは2月10日夜のことです。
それに対する答えが安藤の決起参加表明となります。

「いよいよ準備するかなあ」 



兵の自殺現場から出て外に呆然とたたずむ安藤大尉に久米曹長(井川比佐志)は、

「個人の力には限りがあります。
たとえ中隊長が一生懸命やっても何千万もの兵を救うことは出来ません。
今の政治ではそれが当たり前だと思います」

などと、今現在の安藤大尉の苦悩を見透かしたようなことを言います。
ていうか、曹長が大尉に向かってこんなこと言いますかね実際。

ともあれそれがだめ押しとなり、安藤大尉は皆の前に姿を現し、

「皆に心配かけたが、俺は決心した。
やるよ!兵隊のために俺はやる」


と決然と宣言するのでした。



続く









 


空挺館~レイテ・ブラウエン降下作戦「桜剛特攻隊」

2014-02-17 | 陸軍

レイテ島におけるブラウエン降下作戦に投入された高千穂部隊の隊員たちです。

おそらく猛訓練の後、あるいは映画か写真撮影のついでに撮られた記念写真で、

隊長である竹本中尉を真ん中に囲んでいます。

若々しい筋肉の付いた身体、引き締まった表情、
まるでスポーツ合宿の合間に撮られたかのような全員の快活な微笑みの表情。
全員が神々しいくらいの美男に見えるのはわたしだけの思い込みではありますまい。 


彼らはこの直後この作戦でブラウエンに落下傘降下し、
全員が生きて戻ることはありませんでした。


前回、海軍に続いてパレンバンに降下を行い、
精油所を奪取した陸軍の「パレンバン空挺作戦についてお話ししました。
今日は、1944年から終戦までに行なわれた空挺作戦を取り上げます。

その前に、ここ習志野駐屯基地の資料館「空挺館」には、
海軍落下傘部隊の資料がほとんど無い(『もう一つの』扱い)ので、
少しだけ海軍落下傘部隊について触れておきます。

【海軍特別陸戦隊】

海軍の落下傘部隊は、1940年11月に実験部隊が設置され、一度お話ししたように
翌年1月15日には実際の人間で落下傘の降下実験に成功します。
陸軍もそうですが、このころの落下傘は緊急脱出用のものを使用しました。

海軍では慣例的に編成地となった基地の名前が部隊に付けられます。
(ex.上海陸戦隊、台南航空隊)
よって、海軍落下傘部隊の名称は

「横須賀鎮守府第一特別陸戦隊」

というものになりました。

2年以上の軍務経験を有する30歳未満の志願者1500名を隊員とし、
1941年の6月から始められ11月末までに 訓練完了を目標に、
こちらもハードなスケジュールが組まれます。

いずれの訓練生も、一週間から二週間の準備期間、
体操2時間、ブランコと跳び出しの練習1時間、落下傘の整備3時間、
そして降下に関する理論実習を1時間、という訓練を行ない、いきなり実際の降下訓練。 

陸軍第一部隊の18日には到底及ばぬものの、どう考えても無茶な促成ぶりです。

自分で折り畳んだ傘にダミー人形をつけて降下させ、不安を払拭する、
という最低限のケアが あったのは救いと言えば救いだったでしょうか。

この訓練は、現在海上自衛隊館山基地のある千葉県館山で行なわれましたが、
海に面し、風が強い地形のため、数名の訓練生が強風にあおられて墜落したり、
あるいは海に墜ちるなどして殉職しています。 




【滑空歩兵連隊】

さて、陸軍に話を戻しましょう。
陸軍は滑空機を使用した空輸部隊を持っていたことがあります。



日本国際航空クー七真鶴試作輸送滑空機

Gunder、雄のガチョウ転じて間抜け、とアメリカ軍にコードネームをつけられた
このグライダーは、双胴型を採用したことにより大きな四角い貨物室を確保することができ、
これにより32名の兵員か7,600 kgの貨物、又は軽戦車
さえ搭載することができたそうです。


見かけによらないですね。



ク-7は強力な曳航機を必要とし、これには
百式重爆撃機四式重爆撃機が充てられましたが
じっさいにはこれらの機体は配備数が少なく、エンジンを装着した
「キ-105 『鳳』」
が二機だけ製造されました。


陸軍は、敵陣への強襲作戦のために、兵員と軽戦車を搭載したクー7を目的地まで曳航し、
ワイヤを切り離した後、滑空機だけが目的地に強行着陸する、
という方法を模索していたようですが、実現には至りませんでした。




【昭和19年11月26日 薫空挺隊】

以前、台湾の先住民族「高砂族」からなる遊撃隊、

「薫空挺隊」(かおるくうていたい)

についてお話ししたことがあります。
落下傘を使った空挺作戦ではありませんが、これについても少し述べます。 

薫空挺隊は、勇猛果敢なことで知られ野外での行動術に長けた
高砂族の志願者に、陸軍中野学校卒の隊長を冠したゲリラ部隊で、
1944年、昭和19年の11月にレイテ島のブラウエン飛行場強襲に投入されました。

上の写真は、疾走する高砂兵。
彼らは、やはり作戦に投入された高千穂部隊の精鋭がとても及ばぬ程、
とくにジャングルでの動きが俊敏であったと言われています。



もともとの写真が白黒で大変分かりづらいのですが、これは、
日本軍の兵士の切り込みを描いた油絵です。

なんと、作者は藤田嗣治、レオナール・フジタ

ご存知かもしれませんが、藤田は陸軍美術協会の会長でもあり、
戦争中は中国戦線にその任務で取材に行くなどし、多くの戦争画を描いています。
戦後、これがため戦犯呼ばわりする世間と画壇、何より
GHQの執拗な追求に嫌気がさした藤田は日本を捨て、フランスに行ってしまいます。

つまり、戦後日本社会のバッシングゆえに、世界的な画家、
「レオナール・フジタ」は生まれたと言えないこともありませんが、
結果的に藤田はこれがため日本を捨て、フランス人になってしまったのですから、
本当に左翼の軍パージってつまりろくなもんじゃないなあとしか言いようがありません。


それはともかく、この分かり難い絵ですが、真ん中で敵を突き刺している人物は
白たすきを胸前でバッテンにかけており、これは薫部隊の将校であること、
そして右側の兵が持っているのは高砂族特有の蛮刀、義勇刀であることから、
このときの作戦の様子を描いたものだと言われているそうです。


しかしながらこの作戦は、彼らを運んだ零式輸送機4機のパイロットが
おそらく
機位を失い目標とは違う場所に着陸してしまったことから、
まとまった作戦行動がとれず失敗に終わったとされています。

このとき日本軍がレイテを強襲することになったのは、その一ヶ月前の
10月26日、レイテにアメリカ軍が上陸したのを受けてのことです。
薫空挺隊の失敗にもかかわらず、なんとしてでもレイテを制圧したい日本軍は、
再び飛行場の奪取を計画します。




【昭和19年12月6日 ブラウエン・和号、テ号作戦】




搭乗直前の高千穂部隊降下隊員。

カメラのレンズに気づく様子もなく、あらぬ方を放心したように見やる隊員。
確実に迫り来る死の運命を悟り、すでに彼の心はこの世にないかに見えます。

彼の背負っているのは最新式の四式落下傘。
パレンバン降下作戦のとき、人員降下と物料の投下を別にしたため、
武器を手にすることが出来ず拳銃と手榴弾だけで突入した隊もあったことから、
この作戦では人員が武器と物料とともに降下するということになりました。

彼の足許に見える長い袋の包みは2式テラ銃といって、分離可能になっており、
この写真でもわかるように彼らは

二つに分け包んだ銃を両足に縛り付けて降下しました。

携行する装備の重さは50キロに及び、一人では輸送機にも乗れなかったそうです。
装備には爆薬や、防毒マスクも加えたため、予備傘も無しでかれらは降下したのです。



物料降下用のパラシュート。
パレンバンで用いられたタイプであろうと思われます。 

落下地が背の高い草地だったため、この回収ができず蒲生小隊は苦戦を強いられました。


 

出撃直前、内地に帰る新聞記者に託す手紙をしたためる高千穂部隊の兵士。
向こうの三人の前にはビールらしき瓶が見えます。

前回「空の神兵」というタグで空挺館についてお話ししたとき、
空挺館の階段踊り場にある



この「神兵」の像があまりにも静謐な様子を湛えているので
いったいこのブロンズ像はいかなる経緯で製作されたのか、と書いたのですが、
あのエントリを制作してからすぐ、遊就館に立ち寄った際、
わたしはこれより少し大きめの、全く同じ造形の作品を見つけました。
像に付された作品名は

「特別攻撃隊空挺隊員の像」。

寄贈は竹田恒徳氏、となっており、これは恒徳王であった竹田宮のことでしょう。
竹田氏は、特別攻撃隊慰霊顕彰会の会長であったので、
おそらくその関係でこの像を所持していたのかと思われます。

「特別攻撃隊」となっていますが、空挺作戦の特攻というのは作戦としては存在しません。
しかし、パレンバンやメナドはともかく、このレイテにおけるブラウエン降下作戦は、
隊員たちに取って実質特攻であったといえます。

この彫塑は、まさしく高千穂部隊隊員の姿を表したものと見て間違いないでしょう。

この像の「仏像のような穏やかな表情」は、
すでに彼の魂が現世を離れ幽界に彷徨い出していることを表すのでしょうか。
そして全く同じ「無」とでも呼ぶべき一種の解脱を、
上の写真の輸送機に乗り込む直前の降下兵にも見ることが出来ます。



ブラウエンで守備に当たる米軍第11空挺師団の頭上に、テ号(挺進の”テ”)作戦の
日本軍の輸送機が姿をあらわしたのは12月6日の1800のことでした。

飛行場の上空で次々と落下傘が開花し、彼らは滑走路の連絡機に到達して
手榴弾を投擲し、物資集積所に火を放ちました。

しかしこのとき降下して戦ったのが空挺を専門とする第11師団であったことは、
高千穂部隊にとって相手が悪かったとしか言いようがありません。
一時的に飛行場を制圧したものの、米側の援軍が到着し、ここで半数の兵力は失われます。



このときブラウエンに60名を率いて降下した白井恒春隊長。(中央)
最終的に残った10人の隊員とともにカンキボット山中の軍司令部にたどり着きますが、
1月末、黄疸を発症していた白井少佐はそこで病死しました。

右側にいるのは副官の河野大尉。
降下後も白井隊長と行動を共にしていましたが、
他の高千穂隊員を捜しに5名の部下を連れて出たまま不明となります。

このときの戦闘の様子は戦時中には不明となっていましたが、白井少佐は
戦闘行動の合間に手記をしたためていたため、戦後それが明らかになりました。


カンキポットには、薫部隊の生き残りや落伍兵などを加え、
挺進兵は1月の時点で400名はいたということが伝えられていますが、
その後セブに大発で移った司令部を除き、高千穂部隊の隊員は100名が
レイテに残ることになり、誰一人として戦争を生き延びることはありませんでした。

セブには56名が渡り、生きて終戦を迎えたのはそのうち17名です。






高千穂部隊の竹本中尉による遺書。
冒頭写真の真ん中で腕を組んでいる人物です。



23歳とは信じられないくらいの鮮やかな達筆で、家名を汚さないように戦う覚悟や、
姉の結婚相手に誰がいいとか、祖母にはこのことは言わないで欲しいとか、
あるいは「自分は死んでも時計は残るから」と遺品について述べたりしています。

さらにこれを具(つぶさ)に見ると、

 「有り難くも特攻隊滑空部隊の桜剛隊と言ふ隊名を戴いて出ます」

という文言が目につきます。
特攻隊全史などをあたったり、この言葉を検索しても、
この遺書にある隊名は特攻隊としてどこにも見当たりません。
おそらく、公式なものではなく(公式にも特攻ではないのですから)、
作戦関係者の中から彼らへの激励と慰撫の意味を込めて生まれた
名称であるのかとも思われます。

「新聞ラジオが報道するだけの戦功を立てねばなりませんから」

あるいは

「新聞ラジオで見た人に(私が?)桜剛隊ということを言って見るよう頼んでおきなさい」

という文には、彼が自分の死後、自分の名とともにこの特攻隊の名が
「新聞ラジオで」華々しく伝えられることを夢見ているらしい様子が窺えます。
 死に往く彼ら
に取って、それが大いなる慰めと励ましになったのでしょうか。





高千穂部隊が出撃していった後、彼らの駐留していたレイテ島
サンフェルナンドの宿舎の壁には、このような句が書かれていたそうです。

花負いて 空射ち征かん 雲染めん

       屍はなく 我等散るなり





 


空挺館~パレンバン降下作戦

2014-02-14 | 陸軍

ところで、大東亜戦争中日本軍が行なった空挺作戦のうちでも
落下傘を使用した急襲作戦は何回行われたかご存知ですか?

メナド、クーパン、パレンバン、レイテ

陸海軍ともに二回ずつ合計4回です。

ここ空挺館は陸軍の空挺隊が前身となっている陸自が管理しているため、
海軍落下傘部隊については誠に残念ながら申し訳程度にしか触れられていません。
戦前戦中ならともかく今は陸海の垣根を越えて、同じ落下傘部隊の
海軍の二つの降下作戦に付いても展示するべきだと思うのですが・・・。

それはともかくここでは、陸軍の降下作戦、ひいては空挺作戦についてが、
作戦に携わった将兵の遺品も含めて展示説明されています。


それではここの展示写真とともに、陸軍の落下傘降下作戦である
パレンバン降下作戦からお話ししましょう。
今日2月14日は、この降下作戦が実地された日でもあります。



そもそもどうして陸海軍ともに降下作戦を選択するに至ったのか。

パレンバン作戦は、陸軍参謀本部が、まだ落下傘部隊が出来る前から
ここにある大規模な精油所を確保することを目標に計画されていました。

川をさかのぼる方法でオランダ軍に侵攻を察知されれば
精油所は破壊されてしまう怖れがあったため、ここで落下傘を使った
降下作戦が模索されたのでした。

前回、藤倉航空工業という会社が24時間態勢で女子挺身隊による作業を行い、
空挺作戦に間に合わせるために落下傘を製作した、という話をしましたが、
参謀本部にとっての第一の懸念は、作戦発動までにいかに早く準備が整うか、
ということだったということが、この件からも窺えます。

映画「空の神兵」は、1941年の12月に撮影されたものであることが分かっていますが、
驚くことに、陸軍が第一挺進団を動員したのが12月1日付け。
12月19日には、第一挺進団から挺進第一連隊が輸送船で日本を発っているのです。

つまり第一連隊はわずか18日の訓練後、実戦に投入されようとしていたことになります。

しかし、彼らの乗った船は航行中火災を起こし、沈没してしまいます。
このとき、護衛には海軍の駆逐艦が就いており、全員を救出したのですが、
肝心の落下傘、そして武器などの必要品は全て失われてしまいました。
そこで、まだ編成作業中であった第二連隊をすぐさま派遣することが決められます。

陸軍はこれらの作戦準備の段階から後の宣伝のことまでちゃんと計画していたらしく、
映画「空の神兵」は第一連隊の開隊の訓示から始まっています。

わたしはこの映画について書いたエントリの最後を

”このとき初降下を果たし、喜びに顔を輝かせた兵たちが、
その後過酷な訓練に耐え、
1943年2月14日のパレンバンの空を
「純白の花負いて」舞い降りたのでしょうか。”

とかっこよくキメてみたのですが、どうやら違ったみたいですね~。

残念ながら降下作戦参加の栄誉を第2連隊に譲ったかれらは、
パレンバン降下作戦が戦果をあげたのち、彼らに湧きおこった国民の賞賛の声を、
もしかしたら悔し涙で枕を濡らしながら聴いたのかもしれません。

第一部隊の無念についてはいかなる関係資料も触れてはいませんが、
こういうことに拘る当ブログとしては、彼らに測隠の情を覚えずにはいられません。


 





さて、1942年1月15日、挺進第二連隊は門司港を出航しました。
このとき降下作戦に参加した飛行隊は飛行九十八戦隊、第12輸送飛行中隊。
空挺作戦の成功は、落下傘降下した人員に、いかにタイミングよく
武器を航空機が投下し、使用させることができるかにかかっています。

降下部隊だけでなく、飛行部隊に取っても任務は重大でした。

プノンペン到着から作戦発動までの日々、彼らは落下傘の折りたたみ、
そして投下する装備品の梱包に明け暮れ、
明日はマレー半島に移動になるという日には、全員に
「最後の晩餐」
として、寿司と酒が振る舞われました。



100式輸送機に乗り込む空挺隊員たち。
背負っているのは一式という最初の型の落下傘であることから、
パレンバン作戦のときの写真ではないかといわれています。 


このときの攻撃計画は、飛行場とムシ河ほとりにある精油所の二カ所。
もともと南方作戦の目標は石油資源にあったので、
ここでも精油所の奪取が最重要目標とされました。



「もろともに死なんといさむつわものは
どくろの朽つまでつとめつくすと」

これはこのときパレンバンの精油所を攻撃することを命じられた
長谷部少尉の詠んだ辞世の句です。
「どくろ」は冒頭写真の空挺隊に与えられた旗の意匠で、
「髑髏旗」は、もともと陸軍近衛兵第5連隊、第3大隊、第12中隊に対し、
連隊長より授与されたものです。

彼らの目標である精油所はオランダの民間会社による経営でした。
しかし飛行場にも精油所にも、 オランダ軍、イギリス軍砲兵隊。
そしてオーストラリア空軍が常駐しています。

日本軍は飛行場と精油所、二回に分けて5カ所に降下し、

飛行場、240名(第二次部隊90名)
精油所、99名

による降下作戦が実地されました。

上の句を書いた長谷部少尉は、冒頭の旗に髑髏の絵を描き、
全員に寄せ書きをさせました。
この絵を見る限り、長谷部少尉はかなり絵が得意だったようです。
義烈空挺隊の同姓の飛行隊長、長谷部大尉も大変達者な絵を残していますが、
日本人というのは一定数いれば必ずそのなかに一芸に秀でた人物がいますね。

アメリカの航空機のノーズアートの殆どが落書きレベルなのをみると、
もしかしたら民衆の平均レベルは日本人って高い?
とつい自画自賛してしまいます。
それはともかく、長谷部少尉は部下にこう言いました。

「よいか。降下したらこの旗の下に集まれ。
死んでも戦うぞ!」

パレンバンの石油の生成量は、当時の日本が年間必要量の60%です。
ここを奪取することは日本に取って命綱を得ることともなりましたが、
そこを長谷部少尉以下たった39名で奪取しようというのですから、
長谷部少尉がこのように奮い立ったのも当然のことでしょう。

長谷部少尉は作戦にあたって、当番兵の山下一等兵にこう言いました。

「この旗のように髑髏をムシ河畔に晒す覚悟だ。
もしお前が生きていたら、片腕を切り落とし、郷里別府の墓に納めてくれ。
郷里に帰るのは片腕だけで良い」

長谷部小隊が降下したのは精油所の南側で、深い沼地でした。
しかも彼らのうち2名は、いきなり敵の防御陣地の前面に降下してしまいます。
彼らは銃撃を受けながらも2人で敵8人を倒し精油所を目指しますが、
その後一人が銃撃を受け負傷したので引き返しました。


長谷部少尉の降下した地点は直線道路で遮蔽物もなく、
彼らは道路沿いに進撃するしかありません。
何とかして小隊が精油所100メートル手前のところまで進み、
長谷部少尉が突入の機会をうかがおうと身を乗り出したところ、銃弾が彼の頭を貫きました。

「小隊長どのお~!」

走り寄った山下一等兵も銃弾を受け、その場に倒れました。

精油所奪取がなった後、戦死者を荼毘に付すことになりましたが、
山下一等兵は同僚に体を支えられながらやってきて、

「長谷部少尉殿の腕を切って自分にいただきたくあります! 
少尉殿は自分に言われました。
腕を故郷に持って帰ってくれと・・・・!
この山下に!突入前にお頼みになったのであります!」

「うーん・・・しかし、今から荼毘に付すわけだから」

「お願いします中隊長どの!
少尉殿は・・・少尉殿は
故郷の墓に腕を葬ってくれと自分に仰ったのであります!」
自分はなんとしてでも少尉殿とのお約束を果たさねばなりません!」

「腕を切ってそれをどうやって持って帰るつもりなのか」

「しかし少尉殿は故郷に帰るのは腕だけで良いと・・・!」

「腕一本だけより、全身の骨を持って帰る方がいいのではないか」

「あっ・・・」(納得)


(たぶん)こんな具合に、山下一等兵を説得するのは大変だったそうです。
なんだか少しシュールな話なんですけど、健気な部下の一途さに打たれますね。
中隊長に説得された山下一等兵は、涙を流しながら病院に運ばれていったのでした。



ここには、飛行場に降下した蒲生中尉の遺品もあります。
蒲生中尉の小隊は草原地帯に降下すると聞かされていましたが、
実際にはそこは草丈が2メートル近い葦の密生地で、見通しが効かず、
降下後の兵の集結も、物料箱の回収も不可能となり、
拳銃と手榴弾のみで進撃をするしかなくなってしまいました。

蒲生中尉は16人の部下を集め進むうちに敵の対空砲陣地に行き当たります。

「突撃!」

号令と同時に手榴弾を手に走り出した蒲生中尉は、機関銃の銃撃を多数受け、
戦死を遂げました。



ここにある遺品は、蒲生中尉が最後に身につけていた軍服、時計、拳銃ホルスター、
そして、家族に当てて自分の死を嘆かぬよう慰めるハガキです。

この後飛行場に侵攻した空挺隊を驚かせたのは、
午後2時にはまだ350人のオランダ兵がいたはずなのに、その3時間後、
もう一度偵察に行ったら今度はもぬけの殻になっていたことです。

よほど慌てて逃げたと見え、料理用のストーブには鍋がかかっている状態で、
これまで最低限の圧搾口糧(爆弾アラレと呼ぶ膨張玄米を主食とし、副食として 
乾燥した鰹節
 乾燥梅干 、砂糖を別々に圧搾して缶詰にしたもの。昭和13年に制定)
しか口にしてこなかった挺進兵たちは驚喜したということです。

これは「陸軍落下傘の神兵」と題された子供向けの絵本です。
漢字が少なく送り仮名がついているのでおそらく小学生用でしょう。

精油所を急襲した第一中隊と精油所の敵とは、50メートルの距離を挟んで
接近戦となり、銃弾がパイプに開けた孔から出た石油に引火、
戦闘は夜通し続きました。

このとき最後尾で降下した鴨志田軍曹は道に迷って戦友と合流することが出来なかったので
精油所社宅区域にたどり着き、拳銃で敵を倒しながらたった一人で事務所に突入しました。
機銃弾を受けながらなおも戦い続け、最後の手榴弾を敵に投げた後、
拳銃で自分の頭を撃って自決します。

この挿絵はその鴨志田軍曹の最後の姿です。

作戦終了後、中隊は行方不明の鴨志田軍曹を捜索していましたが、
軍曹が死闘を繰り広げた事務所で働いていた華僑が日本兵を埋葬した、
という情報を聞きつけ、新しい盛り土を見つけて掘り起こしたところ、
鴨志田軍曹が体に18発の銃弾を受けながら戦っていたことがわかりました。


それにしてもこの華僑は、急襲された精油所の人間でありながら、
散乱するオランダ兵の遺体を差し置いて、どうしてこの日本人の亡骸だけを埋葬したのでしょうか。



その少し前、降下してから1時間40分後の1310時、
徳永小隊の徳永中尉が敵を引きつけている間、徳永中尉の指示で
10名の兵隊が施設内に侵入して、常圧蒸留設備(トッピング)を確保し、
中央のトッピング塔に日章旗を掲げることに成功しました。

このときに旗を立てたのは、この絵本によると(笑)
小川軍曹勝俣伍長の2人であったようです。

オランダ軍は退却に際して遅延信管つきの爆薬を仕掛けていき、それが
翌朝0600時に爆発し、続く火災によって、精油所施設の約8割が消失しましたが、
より大規模なもう一方の精油所は無傷で残り、この作戦は成功裡に終わりました。




じつはこの後、パレンバンを制圧した挺進第二連隊は、船の火災によって
装備を失い涙をのんだ第一連隊と合流し、ビルマのラシオにおいて
合同で空挺作戦を展開しようとしていたそうです。

しかし、4月29日の決行日、付近上空の天候が悪化したため、
これは「幻の空挺作戦」のままで終わってしまいました。


開戦前、防諜上の理由から彼ら空挺隊の存在は秘匿され、彼ら自身、
自分の所属を家族にも言うことを禁じられていました。
しかし、作戦に成功し、南方資源地域を獲得した彼ら挺進隊は、
「空の神兵」としてマスコミにもてはやされ、国民は熱狂しました。


それにしても、皆さん、こんな疑問を感じたことはありませんか?
どうしてこんな成功を収めた空挺作戦が、戦争中たった4回しか行なわれなかったのか。

事実「空の神兵」以降、挺進部隊はその成功を受けて増設されるはずだったのですが、
この年の末あたりから日本は防戦一方になったため、
落下傘部隊を投入する機会すらない状態に追い込まれた、というのがその理由です。

もっとも1944年、昭和19年のレイテにおいて、日本軍は米軍を排除するために
多大な犠牲を払って高千穂空挺隊の投入による侵攻作戦を行ないますが、
これも敵勢力を脅かすには至りませんでした。

つまり簡単に言えば、オランダ軍と違ってアメリカ軍は手強かったと、そういうことでしょうか。
(簡単すぎ?)


パレンバン空挺作戦において、連合軍側の犠牲は飛行場530名、精油所550名。
対して挺進部隊の損害は、戦死29名、重傷37名。
これは作戦に投入された全隊員の12%にあたります。

29名の死者のうち2人は、落下傘の不開傘による墜落死でした。

 

次回は陸軍が行なった降下作戦、レイテ空挺作戦についてお送りします。



 



 

 


空挺館~バロン西と「愛馬の別れ」

2014-02-03 | 陸軍

靖国神社の遊就館には、戦争で亡くなったスポーツ選手のコーナーがあります。
その一番最初の部分に、西竹一陸軍中佐の展示があり、
ガラスケースの中には、愛用の乗馬用鞭、ベルリンオリンピックで贈られた
ドイツ馬術最高徽章のメダル、そして愛馬ウラヌスの蹄鉄が2本飾られています。

乗馬用鞭は、戦車隊長だった西中佐が硫黄島での最後の日々、
エルメスのブーツを履き、必ず手には乗馬用の鞭を持っていた、
という話を思い出すのですが、この鞭は取っ手のところが僅かに亅状になっていて、
滑り落ちない工夫がしてあり、しかもその部分は象牙でできていて、
彼が常に贅沢な乗馬用具を使っていたという逸話をあらためて思い出します。


以前「高貴なる不良・バロン西の血中海軍度」というエントリで、

一度は書きたかった伝説の馬術家、西竹一中佐のことを語ったことがあります。

その頃のわたしはつゆ知らなかったのですが、ここ空挺館、
つまり昔
陸軍騎兵学校の「御馬見所」であった建物を利用した展示には、
バロン西についての資料があることがわかり、感激した次第です。

西竹一陸軍中佐

騎兵師団の将校であり、ロスアンジェルスオリンピックの優勝者でありながら、
騎兵隊廃止後、編入された戦車連隊の隊長として硫黄島で戦死。



その悲劇的な死から、常日頃軍人らしくなく、奔放だった西中佐を疎んだ陸軍が、
懲罰的人事として硫黄島に、つまり死地に追いやった、とか、酷いものでは
LAの次のベルリンオリンピックで落馬したことに対する懲罰であったとか、
いずれにしてもバロン西の物語で語られる陸軍の役どころはろくなものではありません。

しかしわたしはこれも、戦後の「軍叩き」の一環みたいなものではないかと思っています。

硫黄島を死守するのは要地防御の観点からも日本の悲願であり、いくらなんでも陸軍が

「どうせこの島は取られるのだから、死んでもいいような奴を追いやってしまえ」

という島流しのような配置をしたはずはないからです。
指揮官の栗林中将も、それまで指揮官としての知名度があったわけではなく、
硫黄島の指揮官になり、米軍を感嘆させたからこそ有名になった軍人ですが、

軍部は本土防衛の最前線としての司令部を父島に置こうとしていたわけですから、
決して「左遷」人事であろうはずはないと思います。


確かに今日の感覚では

「オリンピックの功労者、しかもメダリストを激戦地に配置するなんて」

ということになりますが、これは繰り返しますが「今日の感覚」にすぎません。

だいたい帝国日本軍というところは、中国戦線で水泳のオリンピック入賞者を、
武器を帯びたまま泳いで敵地まで偵察に行かせようとしたこともあるくらいで、
むしろ

「メダリストだからこそ戦功をも立てるべきである」

って考えなんですよね。



この写真、説明がなかったのですが、どれがバロンかお分かりですか?

後列右から三番目が中尉時代の西竹一であろうと思われます。
小学生にして男爵を継ぎ、有り余る財産をカメラやオートバイにつぎ込み、
このころもアメ車を取っ替えひっかえ乗り回していたバロン。

当然ですが、この軍服も特別誂えでございます。

そこんところを考慮した上で写真を今一度見ていただくと、まず、
他の中尉クラスよりは遥かに仕立ての良さそうな、
変なところにしわの全くない、ドレープすらエレガントな
上質生地を使っていそうな軍服を着ているのにお気づきかと思います。

さらに帽子をご覧下さい。

前にも一度説明しましたが、西中尉の軍帽だけがまわりの軍人より大きく、
横に張り出している形をしています。
これを「西式軍帽」と言いました。

因みに、この前列真ん中の皇族軍人にも注目。

確信はありませんが、この方は21歳の

北白川宮永久王(きたしらかわのみや ながひさおう)

ではないかと思われます。
バロンより8歳年下ですが、この宮様が陸軍砲兵少尉に任官されたとき、
つまり1931年にはバロンは29歳で中尉でしたから計算が合います。
バロンがかなり童顔で若作りだったみたいですね。

永久王であるとしてお話ししますが、王のスタイルにも注目して下さい。
西中尉のと殆ど同じ割合というくらいに軍帽が大きいのがお分かりでしょうか。

従兵と(略)していたというスキャンダルのあった閑院宮春仁王もそうでしたが、
当時の若い皇族軍人たちは皆一様に伊達男ぞろいで、さらに特別仕立ての、
瀟洒で工夫を凝らした粋な軍服を身につけていました。



帝国陸軍の青年将校文化の中でも特に瀟洒なスタイルであり、
軍帽(チェッコ式)の襠前部や襟は極めて高く、
襟章・肩章・雨蓋の造形美には凝り、ウエストは強く括れた細見でタイトな仕立て
wiki


「西式軍帽」はつまりもともと「チェッコ式」だったんですね。
チェッコ、とはチェコスロバキアのことで、当事のチェコ軍が
このような軍帽であったのかもしれません。
帽子の大きさは、ナチスドイツのものに酷似しているように見えますが、
チェコ軍がナチス風を真似たのが間接的に日本に伝播したのでしょうか。

いずれにせよそれはトップを大きく、高くしたもので、
この頃の若い軍人にとってはそういうのがイケてる、と思われてたんですね。
西中尉のような男爵や、中々の好男子ぞろいでもあった陸軍在籍の「若様連」が
こぞってこのような軍服で身を飾ったため、流行というのが作られたのでしょう。

そしてこれが大正末期から昭和初期にかけて、陸軍の青年将校の間で大流行。
皇族の若様やバロンは軍人の「ファッションリーダー」でもありました。

(この部分ファッションタグ)


話のついでに北白川宮永久王のその後について触れておきましょう。

王は任官後砲兵連隊の中隊長を経て陸軍大学に学び、
卒業後は参謀部附としてモンゴルに赴任しておられましたが、
演習中に不時着してきた戦闘機の右翼先端に接触し、重傷を負われ、
病院に運ばれたものの8時間後に薨去するという悲劇的な死を遂げられました。

事故による殉職ですが、世間的には「戦死」とされ、世には
王の死を悼むこんな歌も、二葉百合子によって歌われています。

嗚呼 北白川宮殿下   ニ荒芳徳 作詞  古関裕而 作曲 

一 明るくアジヤの大空を護る銀翼はげまして 大御光を天地に 
輝かさんと征でましし  嗚呼若き参謀の宮殿下

ニ 日本男児の意気高く超低空の射撃すと 命を的に急降下 
莞爾と笑みて統べませる  若き参謀の宮殿下


北白川宮家は初代智也親王がわずか17歳で薨去し、2代能久親王は台湾で戦病死。
三代成久親王は自動車事故で薨去されたりしたため、悲劇の宮家と言われることもあります。 

永久王も、わずか31歳の生涯でした。

やはり遊就館には、順路の中程に巨大な白い北白川宮の彫塑があり、
元近衛野砲隊の部下が、隊長であった永久王を慕って製作したという説明があります。



さて、空挺館一隅には、騎兵学校時代に使われていた馬具などもあります。
乗馬を少々嗜むわたしとしては、この鞍の形状にも注目してしまいますが、
鞍って、基本的には全く変遷しないものなんですね。
あぶみの長さの調節方法も、今と全く同じのようです。

サドルの先端に付いている突起が謎ですが、今の鞍には、
ここにはハンドルが付いているものが殆どです。
キャンター(駈歩)の練習のときに、時々このハンドルを持たされますが、
このヘラみたいなものは一体何に使うのか・・・・?



この鞍の上にあった騎兵連隊の写真。
こういうところでも最近はつい馬の方に注目してしまいます。
手綱が”はみ”から二本ずつ出ていますが、これは馬に頭を「上げ下げさせない」ため。

それにしても、乗馬をする前と今では、こういう写真に対する感想もまるで違ってきます。
映画「戦火の馬」も、今観ればきっと泣いてしまうんだろうな・・・。



今でこそ馬は競走馬、趣味としての騎乗馬、農耕馬、
あとはお肉になるくらいですが、
1900年初頭までは、馬は戦争には欠かせない兵器でした。

その頃の日本にも「馬政」と言う言葉があり、国の調査委員会を持ち、
そこからの発令で戦争に必要な馬の生産数を計画したり、
また品種の改良なども業界への奨励と言う形で行なわれたのです。

「罵声」じゃなくって「馬政」として出されたおふれとしては

一、100万頭の5歳~17歳馬を内地に保有する
一、馬の質を上げ、軍用馬の鍛錬に耐えられるように、競技会を実地する
一、競馬法による公認競馬は、馬の改良に必要な種馬の能力を検定するために実地する

こんな感じです。



学芸会で馬の役をする人が被りそうな感じですが、これは、馬用の「防毒覆」。
毒薬が敵によって散布されたときを想定したマントです。

目の部分が大きいのは、馬によって目の位置が多少違うからでしょうか。



どうも目の部分だけ革のお椀状のものを付けている模様。



そして実験中。
わざわざこんな高い脚立を用意して、

「空から毒物が振って来たという想定」

で、訓練用の薬を撒いています。
馬上の人物も防毒衣を付けていますね。
それにしても思うのは、こんなもの被せられ、目隠しまでされて、
よくこの馬さんはじっとして立っているなってこと。
騎手との信頼関係ができていないと、まず無理なことに思われます。

騎乗していて、馬がちゃんと動いてくれたときに乗り手が
「よくやった」と首をぽんぽんしてやることを、乗馬用語で
「愛撫」というのですが(時々コーチから指示が出るくらい大切なケア)
きっとこのあと騎手はこの子を愛撫しまくってやったんじゃないでしょうか。



さて、バロン西です。
かれがこのようにクルマを跳躍している写真は二つあり、
一つはwikiに載っている、ロスアンジェルスオリンピックの「ウラヌス」、
こちらはわたしの記憶に間違いがなければ「福東号」という馬です。

乗馬をするようになってあらためてこういう写真を見ると、その凄さがわかります。
ウラヌスもこの福東号も非常に大きな馬で、おそらく普通に駈歩しただけで
乗っている方はかなりダイナミックな躍動感があるとおもうのですが、
その大きな馬で車を飛び越すと言うのは、もうほとんど空を飛ぶ感覚でしょう。

それにしても車の横に立っている人、怖いもの知らずなのか、
超高級車が心配な運転手なのか。



このアスコツトと書かれた馬ですが、この名で検索すると
ちゃんとページで紹介されているので驚いてしまいました。

アスコツト

オグリキャップかディープインパクトか、というくらい強かった競走馬で、
馬術競技に転向し、西が乗ることでさらに有名になった名馬、となっています。
最初に「ベルリンでは失敗」と書いたのですが、このとき実際は、
初日に西が落馬したものの、続く耐久と障害で順位を上げ、
最終的には50頭中12位の成績を納めています。

さらに「バロン西懲罰人事説」は可能性が無くなります。
西以外の騎兵隊から参加した4人の選手は、入賞にかすりもしなかったのですから。



これは写真を撮ったものの誰か分かりませんでした。
上の写真で北白川宮の右隣に居るのと同一人物であるように見えますが。

 

馬が三頭こっちを見ている、なんだかシュールな写真ですが、
謡曲か浪曲か・・・、
いずれにしても内容は、習志野騎兵隊で愛馬と別れるという内容です。
そんなこと言われんでも分かる、って?

戦争の形態が代わり、騎兵による戦いは過去のものとなり騎兵隊が廃止になったときに、
機甲となり馬の代わりに戦車に乗ることになった彼らは、それまで自分の愛馬だった馬と
別れなければいけなくなったはずです。

おそらく浪曲か謡曲かは知りませんが、この曲は、
そんな愛馬との別れの辛さを歌っているのだろうと思われます。

バロン西の愛馬であるウラヌスは、東京の馬事公苑の厩舎で
メダリストの功労者としての余生を送ることを許されましたが、
「普通の馬」は習志野から一体どこにやられてしまったのでしょうか。
世の中は競馬どころではなく、さりとて農耕馬にもなれず、時節柄、
愛玩動物として馬を養う場所もあろうはずがありません。

やはり、別れた後の馬たちは・・・・・。

写真の馬たちの運命を考えただけで、今のわたしは涙さえ浮かべてしまうのですが、
騎兵隊の将兵たちの哀しみはそれどころのものではなかったでしょう。


西竹一中佐は、機甲師団の隊長として転戦中、
乗っていた船が米国の潜水艦に撃沈され、戦車が沈んでしまったため、
補充のために一度東京に戻った際にウラヌスに会いにいったそうです。

厩舎につながれていたウラヌスは、バロン西の足音を聞きつけただけで狂喜し、
首を摺り寄せ、愛咬をしてきたということです。
これは、馬にとって最大限の愛情の表現です。

この出会いは彼らにとって今生での最後の邂逅となりました。
7ヶ月後、バロンは硫黄島で 戦死しましたが、
ウラヌスはその一週間後、彼の主人の後を追うように静かに息を引き取りました。
 

西竹一は、生前、

 「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」

と言っていたそうです。

これも、馬と言う動物を少し知っていれば、深く頷くことの出来る話です。
言葉が通じないのに、ではなく、言葉が通じないからこそ感じる「何か」が
互いを理解させてくれる瞬間を、わたしのような初心者ですら感じるときがあるのです。



人間が馬を乗りこなそうとすれば、そこに馬との「人間的なふれあい」が生まれます。

また、そうでないと馬と言うのは中々思うように動いてくれないのです。

騎兵隊という軍隊であっても、人と馬の間には我々が思うよりずっと緊密な交流があり、

そういう馬を兵器として戦地に投入することに何の痛痒も感じないなど、
まともな情の持ち主であればありえません。
 
だからこそ人はたかが畜生であるはずの軍馬の魂を悼んでやるのです。

靖国神社やここににある軍馬の慰霊碑は、
戦火に斃れた馬たちを愛すればこそ、その犠牲に心を痛め、
さらに彼らに感謝する心から建てられました。

今となっては、これらの慰霊碑に込められた馬を愛する人々の気持ちが、
わたしは痛いほどわかります。




 


 
 

 


空挺館~陸軍騎兵学校と秋山好古(と閑院宮)

2014-02-02 | 陸軍


「騎兵学校の資料もあるから、乗馬をするエリス中尉には興味深いのではないか」

という理由で空挺館の見学をおすすめされたわけですが、
なぜここが騎兵学校に関するものを所蔵しているのかを全く知らず、
行ってみて初めて空挺館そのものが騎兵学校の訓練を鑑賞するための

「御馬見所」(ごばけんしょ)

であることを知りました。
考えればもともとここには先に陸軍騎兵学校が出来ていたんですね。

当時の名称は「陸軍乗馬学校」あるいは「習志野騎兵学校」であり、
ここ習志野は「騎兵の町」であった歴史があるのです。



陸軍騎兵学校が出来たのが1988年。
陸軍乗馬学校として目黒に設立されましたが、その後習志野に移転しました。
写真は目黒に創設されたころの騎兵学校門です。


その移転に関しては街道の宿場町だったこの辺りが鉄道の開設によって
立ち寄る客が減少したため、いわば「町おこし」として、

「習志野を騎兵の町にしよう!」

と周辺住民が誘致した、といういきさつがありました。

習志野駐屯地付近住民の方々、ご存知でした?
あなたがたの先住者が陸軍をわざわざここに誘致したのですよ。

騎兵の必要性が薄れたたため昭和16年には、機甲師団となって馬に乗っていた陸軍将兵は
そのままどういうわけか殆どが戦車に乗ることになってしまいました。
そしてその戦車学校は千葉県穴川に移転してしまったため、ここ習志野には
昭和16年から空挺作戦に投入するための落下傘部隊が駐屯し、
それが第一空挺団の前身となって現在に至るというわけです。

つまりここに現在第一空挺団があるのも、元はと言えばこの辺りの当時の市民による請願、
ということなのですけど、そういう歴史を知らずとも、自分が生まれる前から
とっくにあった基地や駐屯地に対して、今更のように文句をつけるのが左翼の常套ってやつです。

今回、「赤旗」のサイト?でこんな微笑ましい記事を見つけました。

(解説)

ある日、空挺団の訓練のとき落下傘が近隣の高校に流されて降下してしまいました。

そのことを受けて地元の共産党員が第一空挺団に

「 グラウンドに人がおらず人的被害はなかったが、重大事態になりかねなかったと指摘。

面積も狭く住宅密集地で幹線道路も通るため、
降下訓練に最もふさわしくない演習場としてこれまで訓練中止を求めてきたにもかかわらず、
事故が起こったことに対し、「絶対に許すことができない」と抗議しました。
今年3月にも場外への降着事故が起こり、2004、06、08年と事故が繰り返されたことを批判。
原因と責任を明らかにし、パラシュート降下訓練の中止を」と強く要求しました。

第1空挺団の広報は、事故の原因について隊員が風向きなど状況判断を誤ったこと、
上昇気流の回避行動が不十分だったこと、降着地域に降りることを優先しなかったことをあげ
「このようなことがないよう対策を講じていく」
としましたが、訓練は今後も行う考えを示しましたむ(←原文の間違いをわざと放置)

要請参加者は
「十数回も降下している隊員でも、演習場外へ降着してしまうことがある以上、訓練は中止すべきだ」
と改めて求めました」

というものです。


これまで述べたような歴史的経緯を鑑みても、いやたとえ鑑みずとも、
今更共産党が「やめろ」と言ったところで陸自が訓練をやめるとは到底思えんのだが。

だいたい「訓練」ですからね「訓練」。

皆が一発で思ったように降下できるくらい簡単なことなら、そもそも訓練いらないっつの。 

もう一つ突っ込んでおくと、空挺隊員が降りてくるって
・・・・この人たちが言うほど危険かなあ。 
わたしなど、日大グラウンドに降下してしまった隊員がパラシュートを抱え、
キャンパスをダッシュして脱出、などという時折あるらしいこの「事故」など、
ほのぼのニュースくらいに思っていたんですけどね。

降下始めのコメントに読者の方から頂いた

「そのころ駐屯地には柵がなく、子供たちは敷地内の原っぱで寝転びながら空を眺め、
落下傘が落ちてくるところに駈けてゆき、傘を畳むのを手伝った」

なんて昔の話を思うと、さらに嫌な世の中になったものだと嘆息せずにいられません。


いたい、共産党の人たちだって自分たちが「訓練やめろ」といったら
陸自が本当に訓練やめるなんてまさか思ってないよね?

・・・・・・ないよね?




さて、習志野駐屯地に入っていくと、見事な松林と、妙に古い建物が目につきます。
正門から向かって成田街道沿いにならんだスレート葺きの建物は、
昭和16年(1941年)、戦車格納庫として急造されたものだそうです。

じつは駐屯地内にはこのような古い建物が他にもいくつかあるのだそうですが、
建物が新しく相次いで建てられ、保存が危ぶまれているのだそうです。
前回懸念した「趣のないプレハブ調の建物」に、これらが取って変わられるかもしれないと。

ただでさえそんな資金など逆さに振っても出てこない防衛省ゆえ、
歴史的な建築物を仕方なく壊してしまう、ということは避けられないことなのでしょうか。



空挺館の近くにこのような碑があります。
50周年記念。
何の50周年記念かと言うと、

「軍人勅諭下賜50周年記念」。

この形は紛れもなく砲弾を模しているものと思われます。
軍人勅諭が下賜されたのは明治15年のこと。
この碑は、それから50年後の昭和7年に騎兵学校によって建立されました。

このときは全国の軍隊で記念行事が行われ、各地に碑が建てられたそうです。

そして、この砲弾型碑の奥にあるのが、これ。



軍馬慰霊の碑。
この字は、日本騎兵の父であった秋山好古の揮毫によるものです。
言わずと知れた「坂の上の雲」の主人公で、秋山真之の兄。
秋山は第二代騎兵学校校長でもあります。

この碑は元からここに在ったのではなく、騎兵学校西側柵の、
小庭園に設置されていたものを移設したのだそうです。

道理で「砲弾の碑」が前を塞ぐ感じで、変な配置だと思った(笑)



その秋山好古、晩年時代。
最後の日々、秋山は故郷松山の中学の校長をしていた、ということは
映画「坂の上の雲」でもラストシーンとして描かれていました。


かつての陸軍大将が、除隊後校長先生をする・・。
当時の教職は「聖職」と言われ、名門中学の校長ともなると

生徒からの畏敬もかなりのものだったと思われますが、
今の教育界を考えるとまるで別の国のことのように思えます。

もっとも、これは当時としても異例のもので、
予備陸軍大将でかつて教育総監まで(陸軍三長官の一)務めた人物が
中学の校長になるということは、「格下人事」でもありました。

大将として予備役に編入されるにあたり、元帥位への昇進の話もありましたが、
なんと本人はこれを断っています。

このことだけを見ても、秋山好古が無欲で功名心のない、
高潔な人物であったかが窺えようと言うものです。



自己を必要以上に大きく見せることをしないその大物ぶりは、
たとえばかれが若き日、色白で目鼻立ちのはっきりした長身の好男子で、
故郷松山や留学先のフランスでは女性に騒がれるほどであったにもかかわらず、
本人は「男は容姿の美醜などに拘泥するものではない」という考えで、
そのことを意識する様子もなかった、というエピソードにも現れています。

ここに見える写真の「大尉時代」が、フランス留学の頃だということです。



フランス留学で騎馬戦術を学び、それを日本に持ち帰って騎兵学校の礎を築き
「日本騎兵の父」となった秋山ですが、その生涯で最も大きな功績は、
日露戦争で騎兵第1旅団長として出征し、
沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦ったことです。

このときの秋山の功績については、騎兵学校に来校したフランス軍人による

「秋山好古の生涯の意味は、
満州の野で世界最強の騎兵
集団を破るというただ一点に尽きている」

という賞賛にこれも尽きるでしょう。



冒頭に挙げたこの写真は、彼らの軍服から察するに明治時代の、
近衛騎兵連隊の写真。

皆凛々しいですが、特に「旗手の今村」が実にしゅっとした好青年ですね。

昨年秋の音楽まつりの際、会場となった武道館のある敷地に、
近衛第一歩兵連隊の碑があったのをご紹介しましたが、
この師団の特別なことは、東宮即ち将来の大元帥(天皇)となるべき皇太子は
必ずこの近衛第一歩兵連隊附になることが決まっていたということです。



右、皇太子時代の昭和天皇、左は・・・・
閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)かな?(未確認)


ある読者の方とのご縁により海兵67期の越山清尭大尉のエントリをアップしたとき、
越山大尉の祖父がもともと西郷隆盛の近衛兵で、第一歩兵連隊となったこと、
そしてその歩兵連隊は全国でも特に選りすぐり俊秀であったことを書きました。

「禁闕守護」(きんけつしゅご・禁闕とは皇居の門のこと)の使命を帯び、
任務が東京であったこの近衛騎兵ですが、司令本部はここ習志野にありました。




陸軍騎兵学校の出身者には、この後お話しするオリンピックのメダリスト、
西竹一大佐・バロン西、そして玉砕した硫黄島の守備隊指揮官であった栗林忠道大将、
そして蒋介石などがいます。

写真は騎兵連隊附であった閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう)。
飛行服に身を固め、なかなかのイケメン若様です。

ここで超余談です。

この宮様は、戦後皇籍離脱後事業を起こし、元皇族の中でもかなり経済的に成功し、
余生も穏やかなものであったということなのですが、
戦後になって離婚した元夫人が、彼が軍隊時代男色家であった、とリークして、
マスコミの好餌となりスキャンダルになった、ということがありました。

夫人によると、陸軍の官舎は狭く、ベッドは二つであったのですが、
王は高級将校に必ず付いていた従兵と一つのベッドに寝ていました。
井上大将にも艦隊勤務時、そんな話がありましたが、これはその話と違い、
両者合意の上での同衾であったようです。

戦後になってもその従兵と夫妻は同居生活を続け、言い争いになると
元従兵が彼女を殴ったりする異常さに耐えかね、離婚に至ったとか・・・。




高級将校の従兵、特に宮様の従兵ともなると、人物は勿論、
容姿もかなり厳選考慮されたものだと思われますが、それゆえ
元々そういう性癖のお方としてはその色香に抗えず(?)そうなってしまわれたのでしょうか。

だとすれば秋山閣下とは対極に、宮様は

「男の美醜は(勿論)こだわる!(好みもあるけど)」

というポリシーをお持ちであったかもしれません。