ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

リヒトホーフェン映画「レッド・バロン」再び

2011-05-26 | 映画

先日読者の方から教えていただき、銀座に「レッド・バロン」を観に行きました。

大画面で久しぶりに映画を観てそれが刺激になったのか、無性に絵が描きたくなり、
震災以来封印していたツールを取り冒頭画像を描き上げました。
久しぶりにアップしてみて思うのは、つくづくわたしは「男」を描くのが好きだなあってこと。
特にこのマティアス・シュバイクホーファー君のような「リヒトホーフェン瓜二つの男前」なんて、
これが描かずにいられようか、くらいの熱意と勢いで一気呵成に仕上げてしまいました。

このマティアス君ですが、監督のミューラー・ショーンが彼に初めて会った時、
「彼があの有名なパイロットにあまりに似ていたので、
自分が本物のリヒトホーフェン男爵の向かいに座っているのではないかと一瞬錯覚した」
というくらい、この役が完璧なはまり役です。


さて、去年の夏、ボストン滞在中にホテルの小さなテレビでこの映画を観た、
という記事をアップしました。
わたしに銀座の上映のことを教えてくださった方は、
まさにその記事を読まれたということです。
本当に観てよかった。この場を借りてお礼を申し上げます。

その記事中、
「衣裳だけは良かったという映画評あり」とか、
「リヒトホーフェンがかっこいいので許す」とか、
やたら投げやりな感想に終始してしまったことを、ここに懺悔とともに訂正したいと思います。

すみませんでした。<(_ _)>
映画館で観たら、そして字幕付きで観たら、すごくいい映画でした。
テレビではほとんど聴こえてこなかった音楽も素晴らしくて、感動倍増。
やはり映画は映画館で観るのが一番です。
(関東圏の皆さん、今丸の内ルーブルで上映中です。
わずか10日ほどの貴重な劇場上映。今度の日曜までです。
ぜひ観に行って下さいね)

あらためて、
英語の字幕すらなくしたがって細部もろくに聞きとれないのにテキトーに解釈してんじゃねー。
と、過去の自分を厳しく断罪。

えー、まず、
「やたらぼそぼそした英語で分かりづらかった」
と書いたのですが、ドイツ映画の英語吹き替えだと思っていたこの映画、実は

ドイツ映画であるがもともと英語の映画で、俳優は(ドイツ人も)英語で演技していた

ことが判明。
エンドロールにはやたら東欧系の名前が並んでいましたが、
どうもスタッフがあらゆる国の混合部隊ゆえ、英語に統一されたもののようです。
監督は名前から見てもお分かりのようにドイツ人。

この「ドイツ人がドイツ人らしく英語で演技する」
という映画、我々には一生分からない感覚だと思いますが、俳優は
「ドイツ語でしゃべっているような英語で演技している」らしいのです。
マティアス君も、このあたりに非常に神経を注いでいたとのこと。

どおりで分かりにくかったはずだ・・・・・何ちゃって。

そして、弟ロタールとのトラブルについて
「弟も技術的に優れそれを誇ることから同じ部隊の中でチームワークが乱れた」
みたいな展開だと思い込んでいたのですが、実は
「功に逸るロタールが、撃墜した相手にさらに攻撃を加えたので兄が激怒した」
だったことが判明。

そう、やはり細部が理解できているからこそ感動というものは深くなるのだと思いました。
そしてこれからは、ちゃんと劇場で観ずしてけなしたりするのはやめよう、
と反省いたしました次第でございます。

ところで大画面で観てあらためて思ったのは、
ちゃちな画面で見てさえ迫力満点だった空戦シーンが、
大画面だと、迫力を通り越して「怖い」。

個人的な意見ですが、この、木でできた複葉機の空戦って、
ある意味ステルスやらファルコンやらのそれより怖いです。
昔びわ湖沿いにあった遊園地で乗ったガタガタのジェットコースターを思い出します。
錆びて継ぎ目の隙間の空いた線路が重力でたわみ、枕木がしなっているのを見て、
ある意味どんな絶叫ライドより怖ろしく、
主に「線路がはずれるかも、木が腐っていて折れるかも」
という不安から思わず絶叫してしまいました。
コース自体は短くてしょぼかったんですけどね。

そう、このころ戦闘機はあえて言えば空飛ぶ棺桶みたいなもの。

リヒトホーフェンは80機撃墜し26歳を目前に戦死しましたが、
これがいかに非凡な才能の賜であったかというと、
第一次世界大戦に参加したほとんどの若いパイロットが
初空戦を生き残ることさえできなかったという事実をみてもわかります。

かれの部隊の搭乗員は弟のロタールもそうですが、幾度となく生還し
「フライング・サーカス」と謳われ敵から恐れられたたそうです。
しかし一般的に不安定で天候や気流にいとも簡単に翻弄されてしまう当時の戦闘機は、
たとえ当時最新鋭のアルバトロス、ファルツ、そしてフォッカーといえども、
そもそもそれで宙返りしたり、機銃を撃ち合ったり、
などの過酷なミッションに耐えられるようなものではなかったはず。

ライト兄弟が人類史上初の有人動力飛行に成功したのは1903年。
第一次世界大戦勃発はそのわずか11年後。
できて10年そこそこのマシンで空中戦、つまり「殺し合い」をしていたのです。
はっきりいって無茶もいいところです。

しかし、人類の技術の進歩はまず欲望のあるところにあり。

武器というものならばこそ、
「乗員が死なないように」「そして相手を多く殺傷せしめるように」
という国家最大の欲望たる戦争の最終目的に向けて、
その技術はその後短期間に驚くべき進歩を遂げるのです。

さて、英語で聴いたときは「ふーん」としか思わなかったのに、
映画館の大画面で観たら何と涙ぐんでしまった、というのが何とも情けないのですが、
リヒトホ―フェンが最後の出撃前に看護師のケイトにこのようなことを言います。

「僕は今まで皆の神になり、士気を鼓舞する偶像に祭り上げられていた。
だからこそ、責任がある。僕は最後まで皆と一緒に飛ばなくちゃならない」

出撃ごとに死を覚悟し、戦争という非人道的な目的のために飛ぶのであっても、

「想像してごらん。空を自由に飛ぶこと・・・・そして空戦を」

熱い目で、空を駆け戦う素晴らしさをケイトに説くリヒトホーフェン。
しかし、女であるケイトには決して分からないのです。

何故命と引き換えにしてまで飛ぶのか。
何故愛するものを地上に残しても飛ばなくてはならないのか。

おそらく、一度でも戦闘機に乗ったことのあるパイロットなら、
彼らの裡でのみ、それに対する明確な答えが出せるのかもしれません。
鳥が何故自分が飛ぶかを言葉にできないように、
彼らもまたそれを語るすべを知らないまでも。





川真田中尉の短ジャケット 

2011-05-19 | 海軍

川真田、という名前を検索すると、そのほとんどが四国の徳島に関係する人物であることに気がつきます。
明らかにこの川真田中尉の出身地に多いのです。
もしかしたら、徳島の川真田さんはほとんどが川真田中尉の血縁関係なのでしょうか。


少尉候補生の川真田中尉の写真を見つけました。
すらりとした身体に短ジャケットがおそろしく似合っています。

ここで少し軍服の話をします。
この候補生時代だけが「短ジャケットに抱き茗荷」という、兵学校と士官の間のような恰好です。
これは少尉候補生は兵学校を卒業してもまだ立場は学生だからです。

映画「連合艦隊」について書いた日、兵学校を卒業してきたばかりの息子に準士官の父親が敬礼し
「少尉候補生の方が階級は上や」
というシーンを画像にしました。
少尉候補生は学生でありながらすでにそれほど高い階級を与えられていたのです。

この少尉候補生姿で記念写真を残している軍人は多いのですが、以前ある軍事雑誌の特集記事中、
ある軍人のこの候補生姿の写真キャプションに
「兵学校の休暇であろう」
と書かれているのを見てしまったことが・・・・。
抱き茗荷と兵学校の錨マークの違いもわかっとらんのかこの解説者は!
と呆れつつ名前を見ると有名な航空作家だったりして・・・。

余談ですがこの「抱き茗荷」は通称です。
この準士官以上の軍帽前章の意匠に見られる葉っぱは、茗荷ではなく桜の葉なのです。
なぜ桜葉を茗荷と称するのか?
正確な理由は分かっていませんが、一説では、初期の海軍で力を持っていたのが佐賀藩士であったため、
その主家であった鍋島家の家紋の茗荷に呼称を因んでいるとも言われています。



ちなみに、この解説者は他にも明らかに少尉任官時に無帽で撮られた写真説明に
「兵学校の制服に身を包んだ」
と書いており、こちらにも
「少尉の襟章と兵学校の錨マークの区別もつかんのかこの解説者は!」
と呆れつつ、なぜこの解説者にわざわざこの原稿を書かせたんだ!読者をなめたらいかんぜよ○編集部!
と思わず突っ込んでしまったのですが、武士の情けでその解説者の名前は出しません。



ところでこの短ジャケットです。
これはもう何と言うか、川真田中尉のようにスマートで、
脚がすらりと長いスタイル良しには怖ろしく似合ってしまうのですが、
多少スタイルに難アリの学生には非常に着こなすのが難しいデザインといえます。

実によく考えられていると思うのは、この過酷なデザインを着用するのは、
いわばぴちぴちのヤングマン少尉候補生まで。
そう、若くないと似合わないデザインなんですね。
お腹も出てきて押し出しもよくなってくる将来に備えて、少尉任官後は長いジャケットになります。

しかし、そこは気合と言うんでしょうか、
きりりと姿勢の良い若者が着ているだけでみなそれなりに恰好よく、
おそらく着ている者の気分もさぞ高揚したのではないでしょうか。


ちなみに川真田中尉は級友の某氏に向かって一緒に写真を撮るとき
「貴様は短足でスタイルが悪いからしゃがめ。オレが立つ」
と言い放ったなかなかの・・・えー、はっきりモノをいう人物ですが、
自分でそういうだけあって、腰までしか写っていないこの写真でも、
その胴短足長体型は窺い知ることができます。
よくしたもので言われた方は

「自分がちょっと脚が長いからってそこまで言わんでもいいだろう!」

と気色ばむような性格ではなく、それどころか
「そう言ってかれは庇ってくれた」
と感謝するようなおっとりとした人物でした。
この二人は親友だったそうで、いつもそんな調子のいいコンビだったのでしょうね。

その「短ジャケットの似合う男」川真田少尉、学生のときを知る友人は
「黙っていても海軍の戦闘機乗りという感じのするスマートな敢闘精神横溢した搭乗員」
とかれをして評しています。
ふーむ、海軍の戦闘機乗りは、海軍内の人間にさえスマートなイメージを持たれていたのですね。


以前川真田中尉について書いたとき「顔が濃いので真っ先に分かってしまう」
と書きましたが、アップのこの眉毛の濃さから想像できるように、非常に髭も濃く、何とあだ名は

「ヒ ゲ マ タ」

四号のときから毎日髭をそらなくてはならないほどだったそうです。
そういえばどこにも書かれているのを見たことがありませんが、
兵学校の生徒は髭をいつ剃っていたのでしょう。
朝の忙しい時間に電気カミソリも無い時代、カミソリで悠長に剃っている余裕があったのでしょうか。


この、見るからに戦闘機乗りタイプだったという川真田中尉、
案の定というか見かけどおりというか、スポーツ万能選手。
水泳は入学時から三級、剣道も器械体操も堪能だったということですが、それだけにあらず、
実は川真田中尉のもっとも得意なジャンルは
「歌と踊り」であったそうです。


少しの酒にすぐ赤くなって山の座敷で器用な手つき、豊かな声量で踊り歌った彼だった。

山、とは海軍隠語で佐世保にある万松楼のこと。山手にあったからだそうです。
川筋にあったいろは楼は「川」と言いました。
またまた寄り道しますが、この海軍隠語における料亭の名称を少し。

横須賀のパイン(小松)が有名ですが、他にも
フィッシュ(うお勝)
グッド(吉川)
ロック(岩越)
フラワー(崋山)
ゴーイング(いくよ)
ホワイト(白糸)

などなど。
山、川以外はストレートに英訳、というのが当時の「流行り」のようです。

 


話がそれました。
このように同級生の回想する川真田中尉の姿からは、故郷では文武両道、
オールラウンドプレイヤーの神童としてスターのような存在だったであろう、
華やかで自信に満ちた若者が想像されます。


しかし・・・。
わたしは川真田中尉のことを考えると、
いつもその他多くの散華した方たちにもそうせずにはいられないように、
その最後のときに思いを馳せずにはいられないのです。

「ガダルカナル島よりショートランドに向かう輸送船団上空哨戒中、
チョイセル島北東30浬において悪天候のため雲中にて行方不明、戦死認定」



豪雨の中たったひとりで迎えたその瞬間、かれは自らの死とどう向き合ったのか。
誰のことを考えたのか。
無念ではなかったか。
怖ろしかったか。悲しかったか。
それとも傲然と、あるいは泰然と軍人としての最後を自ら選んだのか。


川真田中尉が迎えなければならなかったそのときを、なんどもなんども粛然と心に描いては
その魂の安らかならんことを心から祈るのです。









再開

2011-05-16 | 日本のこと

あの日から60日。

読んで下さっている皆様も、もはや震災前までと同じ生活を続けてはおられないのではないでしょうか。
幸いにして災害に遭わず生活そのものは変わらないという方であっても。
あの災害は私たちのあらゆる価値観を、未来への信頼を、根本から覆してしまいました。

奇しくも一月十七日にわたしが遭遇した阪神大震災について書きましたが、
まだしもあの震災には、起こってしまった後は復興に向かって突き進んでいけばよい、といった
「明日への希望」がありました。

ブログ記事中何度か書きましたが、わたしの居住地は関東地域にあり、今回、災害の被害は軽微でした。
自宅は長い揺れを感じたものの安定の悪い置物が棚から一つ落ちただけ、入れたばかりの紅茶が揺れたカップからこぼれただけで、何の被害も蒙ることはありませんでした。

しかし、その後の原発事故です。
自宅は関東地域の中では放射線の影響は少ないと言われる地域ですが、それでも前代未聞の事態にどう対処していいか分からず、事故発生直後から関西に子供を連れて避難していました。

最寄駅からチケットを購入し、新幹線駅のコンコースに到着するとそこは凄まじいばかりの人。
皆チケットを買うために窓口に並ぶ人です。
そのときすでに指定席は満席。
通路には立っている人もあり、車内には外国人の駐在社員とその家族、そして中国人の観光客が目立ちました。
息子のクラスメートのお母さんに連絡を取ってみると、何家族かは京都や大阪に避難していたようです。
自国に帰った駐在家庭もありましたし、関空から台湾やハワイに避難したクラスメートもいました。

後から分かったように、政府は情報を全く公開していませんでしたので、それこそ海外まで脱出するべきなのか、
などと悩んだのですが、米軍基地内に知人がおり、彼が
「アメリカ政府はいざとなったら退避命令を出す。
しかし今のところ(三月時点で)『家族は退出させたほうがよい』という退避勧告程度のものなので、
まだ大丈夫ではないか。もし命令が出れば真っ先に連絡する」
と言ってくれていたので、それを信頼して子供とともに関西の親戚に身を寄せていました。
四月第二週になり、学校が再開したので関東に帰ってきたというわけです。
それでもしばらくは恥ずかしながら怖くて週末ごとに関東から離れていました。

当初驚いたのですが、こちらに帰ってくると、皆全く普通の生活をしています。
しかし、先の見えない原発事故の収束を気に病むよりはと関西に移住を決める人が多いことも分かってきました。
実家のある関西の某市には、被災地東北ではなく、東京を中心とした関東からの転居者が一時なだれ込み、
役所が大忙しになったという話も聞きました。

この事故以来、わたしたちが安全と安心を現実の生活とどのように折り合わせていくのかが、
一つの重い課題として関東一円に住む一人一人に突きつけられている気がします。

関東から逃げるのか。
家族だけでも逃がすのか。
何が起こっても仕方ないと割りきり住み続けるのか。
現実に阻まれて逃げられないならば諦観するのか。
安全であるという政府東電の発表を信じるのか。

いまや選択が全くの自己責任に委ねられています。
こうしなさいと言われて従うのに慣れてきた、快適な社会生活に浸かりきった私たち日本人に
いきなり突きつけられた初めての難題と言えるのかもしれません。

実は我が家は実家が関西にあるため、現在移転も視野の範囲に入れて様子を見ながら検討中です。
もし成長期の子供がいなければまた違った判断をすることもあるのでしょうが・・。
さらに今二か月目を迎えて問題になってきているのは内部被曝の問題。
すでに狭い日本では西日本であろうと流通や、あるいは「被災地の牛を引き受ける」「がれきの焼却を負担する」
などという動きの下に、どこにいっても安心安全とは言えなくなってきました。

加えて地震後囁かれるようになった今後の地震や火山噴火などの恐怖。
知人の一人は「あなたも来週にでも日本から離れた方がいい」と空港から電話をしたきり、
突然夫君の祖国であるケープタウンに行ってしまいました。
今日本は、のみならず世界中の海岸沿いの都市は先日の地震の影響で地盤が不安定になっているので、
何処にいても大津波に襲われる可能性があり、なかでも日本は近々連動して大地震が起こり得るので
非常に危険であると彼女は言うのです。

すぐにでもボストン内陸に行こうかと思ったくらい怖かったのですが、今となってはどこにいても危険ならば、
何もよりにもよって犯罪率の異常に高い都市に行かなくても、なんて思っています。
そもそもケープタウンで万が一大災害に遭遇してしまったとしたら?
そのとき先日の地震後の日本のような秩序の中にいられるとは到底思えません。

放射線や放射物質の被害についてですが、妊婦、幼児、成長期の子供のそれは神経質になるべきでしょう。
しかし、今まで添加物や保存料、エアスプレーや殺虫剤、芳香剤、染毛料などの化学物質、
喫煙や電子レンジ使用も含める生活上の有害物質をさんざん吸収をしてきた人たちにとっては、
はっきりいって「なにをいまさら」というものではないかと思います。

ケミカルをたっぷり含んだ中国の毒野菜やコンビニ弁当、カップラーメンの常食の方がよっぽど
「ただちに影響はないが確実に将来健康に影響を及ぼす」のです。
無製白米やみそなどという日本古来の質素な食伝統を重んじ、甘いものを控え水に気をつけていれば、
つまり正しい食生活さえしていればもともと発がんの危険性はかなり抑えられるのです。
あと、身体は勿論、居住空間を清潔に保つこと(拭き掃除はかなり有効という話です)。

つまり、いままで健康であるためにしてきたことを、防御のためにより強固に実践すれば、
あてもないのに慌てて移転するほどのことはないのではないでしょうか。
勿論今より状態が悪化しなければ、というただし付きです。

実際問題として問題解決に何の糸口も見えず、土壌や海水が物凄いレベルで汚染されていきつつある現状では、
明日もこのままで無事でいられるか、そして生きていられるかすらわかりません。
ただ、まさに未曾有の国難に今立ち会っているという事実におののくばかりです。


さて、今回の災害後、私も個人的に海外からのお見舞いを受けました。
夫が留学していたアメリカの大学からは
「我々はわが校の卒業生が世界のどこにいようと、いつも見守っている」
というメッセージ。
メキシコシティの息子の同級生のお父さんからは何度か「大丈夫か」というメールチャット。
「何かあったらうちに来ていいよ」
というアメリカ在住の友人。

皆、一様に「日本は強い国だから必ず立ち直れる」と言う一文を添えてくれていました。
中でもサンフランシスコで毎年お世話になるアパート管理会社の社長のメッセージはこのようなものでした。

「我々は報じられる日本人の災害に対しても冷静でお互いを助け合う態度に心から感嘆しています。
大変残念なことながら、もしアメリカでこのような災害があったとしても、
我々が日本人のように振る舞えるとはとても思えません」

大東亜戦争中、海軍で特攻を命じられながらも生き残った方たちのことを聞きました。
彼らは今回の災害に際し、事故収束のため身の危険を顧みず任務を志願した自衛隊員、消防士、
そして原発作業員たちに自らを重ね合わせ、より強い結束の気持ちを持っておられるそうです。

危険の可能性を知りながら関東全域で「いつものように」働き続ける人たちも、理由はそれぞれであっても
「私より公」をまず第一にする日本人であると思わされます。
恐怖に浮足立ってすわ移転か?移住か?とばかりに全てを放り出して逃げてしまうことを潔しとしない、
というのもまた日本人の気高いメンタリティであろうと思います。

しかし、そういった国民を信頼せずパニックを恐れて情報を隠蔽した政府の対応は許されるべきではありません。
さらに児童の放射線被ばく許容量の限界値を引きあげる、などと言う政府の対処からは、
直ちにに影響が出ない事象であるのをいいことにできるだけ責任を回避し問題を先送りしようという魂胆が見え、
暗澹たる思いになります。
及ばずながら私もこの基準値を撤回させるための運動に署名しました。
該当する地域の住民、特に子供を持つ親がなぜ暴動を起こさないのかが不思議なくらいです。

東電がメルトダウンをようやく認めました。
国民への情報の隠蔽と問題解決への後手に回る対処は、まるであの戦争を見ているがごときです。
初期段階から疑われていたメルトダウンと言う言葉をあくまでも避けていたのは、国からの支援体制が整うまでそれを認めたくなかったということで、それはあたかも旧軍が全滅を「玉砕」と言い換えるがごとし。
政府、東電の情報の隠蔽ぶりはあたかも大本営発表そのもの。
欲しがりません勝つまでは、ぜいたくは敵だ!とばかりに計画停電や節電強要。

ただし学童を疎開させただけ現政府よりは旧軍の方が人道的、と言えるかもしれませんが。



さて、今日久しぶりにブログを覗いてみました。

あまりの災害の大きさと、わたし自身の状況が
「それどころではなかった」のと、まずページを開けるような精神状態ではなかったせいで、
自分のブログでありながらほぼ二カ月放置していたのですが・・。
さぞ過疎していると思ったのですが、何故か毎日アップしていた頃と読者数がほぼ一緒で驚きました。
過去ログを見てくださる方も毎日一定数おられると知り、なんだかしみじみしてしまった次第です。

二ヶ月経ち、地に足をつけた生活を営むことこそ復興への近道、と自分に言い聞かせるべく、
また再開させていただくことにしました。
震災までに書きためていた海軍記事を、毎日ではありませんがときおりアップしていきます。

五月一五日現在、少なくとも状況は全く良くなっているとは言えませんし、いまだ「非常事態」であることは紛れもない事実なのですが、今のところこれ以上の「不測の事態」になる可能性はないと信じて。

・・・いや、もうとっくに最悪のの事態は起こっていたということを知った、というべきなのでしょうが。



今年もまたマンション敷地内の桜がみごとに咲いてくれました。
この木の横にある部屋はこの季節花の色で夜でも明るく感じられるのです。
来年もこの桜に照らされた部屋で目覚められることを願うばかりです。