ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「日系二世ヒーロー 」ベン・クロキの選択

2024-03-21 | 飛行家列伝

今回アメリカ陸軍航空隊が枢軸国の資源供給を断つべく、
ルーマニアのプロイェシュチ貯油所に対して行った爆撃、
タイダルウェーブ作戦についてお話ししてきましたが、資料を見るうち、

本作戦に日系アメリカ人の搭乗員が参加していたことを知りました。

国立アメリカ空軍博物館の展示には、このベン・クロキという
日系二世の存在については触れられていなかったので、
今日は少し寄り道ということで、日系アメリカ人として生まれ、

アメリカを祖国として戦ったこの人物についてお話ししたいと思います。

■ 陸軍入隊まで


ベン・クロキ(1917年5月16日 - 2015年9月1日)は、
第二次世界大戦の太平洋戦域での戦闘作戦に従軍した
アメリカ陸軍航空隊唯一の日系アメリカ人でした。



ベンは日本人移民の黒木庄助とナカ(旧姓横山)の間に生まれました。

黒木一家はネブラスカ州ハーシーで農場を経営しており、
地元のハーシー高校で成績優秀な彼は副委員長を務めています。

多分左から2番目がベン

1941年12月7日に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃した後、
ベンの父親は彼と弟のフレッドに米軍に入隊するよう勧めました。

日本との開戦後、日系人への反発と差別が起こるのを見据えた彼は、
たとえ自分の祖国に矛を向けることになっても、
息子たちは自分が骨を埋める国に忠誠を示すべきと考えたのです。

さっそく陸軍の募集事務所に赴いた兄弟二人。
日系人ということで門前払いになるかもという懸念もありましたが、
意外なことに、担当者は国籍は問題ないとあっさり採用許可を出しました。

担当者も、今アメリカ人が地球上で一番敵視している人種が軍隊に入ったら、
大変な目に遭うであろうことは想像がついていたはずですが、
なにしろリクルーターにはノルマもあるし、事務所の成績も上げたいわけ。

目の前の二人は日系人ですが、それでも志願者には違いありません。
まあ、はっきり言って入隊を許して彼らがどうなろうと、
彼個人にはどうでもいいことですから、問題ないZE!
(確かに彼らにとっては)として入隊者二人ゲット、という流れでしょう。

このとき担当者が「Kuroki」という名前をポーランド系だと勘違いした、
というまことしやかなエピソードもあるそうですが、
いくらなんでも彼らがポーランド系に見えるはずはありません。

彼には後二人弟がいましたが、そのビルとヘンリーも
従軍を許可されていることからも、その話は後日出たネタだと思います。

 爆撃隊に配属

彼はフロリダ州フォートマイヤーズの第93爆撃群に配属されますが、

そこで日系アメリカ人の海外勤務は許可されないと告げられます。

しかし彼は指揮官に嘆願し、とりあえず事務官として
イギリスの基地に転勤することを許されました。

そこで彼は当時需要のあった航空砲手に志願します。

航空隊の爆撃任務は消耗率も多かったので、彼の志願は聞き入れられ、
すぐさま砲術学校に送られてわずか2週間の研修を終えて、
B-24リベレーターの胴部砲塔砲手になりました。



ある日の任務で彼のB-24はスペイン領モロッコに不時着し、
スペイン当局に捕らえられて3ヶ月後に解放され、
再びイギリスに戻って所属していた飛行隊に復帰しています。


もしかして人気者?



1943年8月1日、

彼はルーマニアのプロイエシュチにある石油精製所破壊作戦、
「オペレーション・タイダルウェーブ」に参加。

健康診断の結果、クロキは入隊規定より5回多く飛ぶことが許されますが、
彼本人は、それを、国内にいる弟のフレッドのためだったと言っています。

30回目の任務で、彼は対空砲火による軽傷を一度負っただけでした。

■ 帰国後与えられた勧誘任務


米国での休養と回復の間、クロキは陸軍から、
健常な日系アメリカ人男性に米軍への入隊を奨励するため、
多くの日系人収容所を訪問するよう指示されました。

そこで彼は二世の志願者を募るリクルーターと共に、

日系人強制収容所、トパーズ、ハートマウンテン、ミニドカを訪問し、
講演活動をして入隊を啓蒙してまわりました。

強制収容所ができる前に入隊していたクロキは強制収容所の実態を知らず、
日系であるというだけで、同じアメリカ市民が、
武装警備と鉄条網に囲まれた収容生活をしているのを目の当たりにし、
一生忘れられない衝撃を受けることになります。

その活動は『タイム』誌を含むニュース記事によって取り上げられました。

■ 「二つの祖国」

帰国後の彼は、もう戦線に赴く義務も果たしていたので、
ベテランとして軍服を脱いで退役生活を設計し直しても良かったはずですが、
彼は自分の信念のため、それを選びませんでした。

クロキが選択したのは、父母の祖国、日本を敵として戦うため、
太平洋戦線に爆撃手として参加するという道だったのです。



このレターは、一旦却下されたクロキの転属願いを
陸軍長官ヘンリー・スチムソンの名の下に許可するものです。

クロキ軍曹については、その素晴らしい戦績を鑑み、
私が先に言及した方針の規定から除外することを決定し、

これを謹んでお知らせすることといたします。

という文章が読めます。


その後、クロキはテニアン島を拠点とする
第20アメリカ陸軍航空隊第505爆撃群第484飛行隊の
B-29スーパーフォートレス「サッド・サキ」の搭乗員となります。



「Sad Saki」(悲しいサキちゃん)とは、もちろん、
日系人であるクロキと攻撃先の日本に因んだ名前でした。

また、乗組員たちは彼のことを

「Most Honorable Son」

と呼びました。
彼はサッド・サキの尾部砲手として、
日本本土上空など28回の爆撃任務に参加します。


B-29から見た東京空襲

当然ですが、彼は太平洋作戦地域、それも日本本土攻撃において
空戦任務に参加した唯一の日系アメリカ人となりました。

終戦までに、彼は58回の戦闘任務を完了し、技術曹長に昇進しています。



ニューヨーク・タイムズ紙は、真珠湾攻撃から50周年にあたる

1991年12月7日の社説で、

「ジョージ・マーシャル元帥はクロキに会いたいと言った。
ブラッドリー、スパーツ、ウェインライト、
ジミー・ドーリトル各大将も彼に
会いたいと言った」

と書いています。



■ 従軍後の戦いとキャリア

彼は見た目こそ日本人でしたが、心は純粋にアメリカ国民でした。

有色人種ゆえに耐えなければならなかった偏見や差別、
不平等ゆえにより熱烈な愛国者になったのか、
愛国者ゆえにそのハンディに立ち向かえたのか、それはわかりません。

偏見を跳ね除けるために敢えて父母の国と直接戦うことを選び、
祖国への忠誠心を戦争という手段で証明しようとしたことが、
あるいはアメリカ人からも評価されない可能性もあったのです。

驚くべき強い意志でアメリカ人であることを証明した彼でしたが、
戦後も人種的平等の必要性と人種的偏見に対する反対を訴え続けるため、
これらの問題を論じる一連の講演ツアーを行いました。


その資金は彼自身の私財、ラルフ・G・マーティンが彼について書いた伝記
『ネブラスカから来た少年』
 The Story of Ben Kuroki』
からの収益金から捻出されました。

この講演で彼は、

「私は自分の国のために戦地に赴く権利を求めて

地獄のように戦わなければならなかった」

と述べたそうです。


戦後、彼はネブラスカ大学に進学し、

1950年に33歳でジャーナリズムの学士号を取得しました。

そして新聞社で記者や編集者を務め、1984年に退職しました。
2005年8月13日にはネブラスカ大学から名誉博士号を授与されています。

2015年9月1日、カリフォルニア州カマリロのホスピスケアにて死去。
98歳でした。



AVC Tribute Videos: Ben Kuroki

YouTubeの自動翻訳ができないので、ざっと日本語訳しておきました。
途中、省略している箇所がありますので念のため。


1941年12月、西ネブラスカのベントン。
「アメリカンドリーム」を求めて日本からの移住し、
農業に従事していた両親のもとにベンと兄フレッドは生まれた。

彼の両親は日の出から陽が沈むまで、1日の休みもなく
重労働をしながら彼らを育てた。

1941年12月7日の真珠湾攻撃が起こったとき、父親は息子たちに、
軍隊に志願して国への忠誠を証明するべきだと言った。

彼とフレッドは150マイル離れた航空隊の募集事務所に赴き、
おそらく日系アメリカ人として最初の志願兵となった。

彼とフレッドはテキサスのシェパードフィールドに送られ、
2週間の試用訓練を受けたが、実情は悲惨で、フレッドは
すぐさま航空隊から追い出されて塹壕掘り部隊へ移動させられ、
ベンは連日連夜KP(残飯処理などの厨房の下働き)をしていた。

彼はそんな仕事も文句一つ言わずに耐えた。

一歩間違えれば、あるいは一度でも疑わしいことがあれば、
忠誠を証明するチャンスが危うくなることを恐れて、
彼は卵の殻の上を歩いていた。

彼は祖国のために戦う権利を逃すまいと一人必死に戦っていた。

彼に初めての任務が与えられたのは1942年12月13日。
B-24の銃手の配置であった。
彼はのちに、最初に遭遇した高射砲は恐ろしかったが、

しかし、不思議なことに彼は、そこで
入隊以来初めて平和な気持ちを感じた、と言っている。

「誰もわたしの国籍を問わず、皆が家族として一緒に戦っていた」

B24搭乗員の平均寿命は10回だったヨーロッパで、
彼の24回目となるミッションは、
「ヒトラーのガスステーション」と呼ばれた、
ルーマニアのプロイェシュチ製油所への爆撃だった。

低空飛行によるプロイェシュチは、アメリカの軍史上でも、
最も多い5人の戦功賞受賞者を出している。

陸軍は、ベンに25回任務を達成したら帰国していいと言ったが、
ベンは彼の愛国心を証明するためにも留まることを望み、
さらに5回を加えた総計30回のミッションに志願した。

陸軍は彼に帰国命令を下し、その後、
日系人強制収容所で演説をさせている。

彼に命じられたのは、収容所の若者に、当時組織されたばかりだった
日系人部隊442部隊への入隊を説得することだった。

(そのことについて)彼は甚だ居心地悪く戸惑っているようだった。

自責の念に駆られる、といい、なぜなら、
このとき彼がおそらくそのうちの誰かに影響を与えたがゆえに、
彼らはリストに乗り、その後究極の犠牲を払うことになったからだった。


その後収容所から出た日系二世兵士たちは、アメリカ軍の中でも
最も過酷だと言われたヨーロッパの地域で陸戦に参加することになる。

ベンはコロラド州デンバーでタクシーを拾おうとしたことがある。

陸軍のフルドレスユニフォームを着ていたにも関わらず、
後ろのシートに乗っていた(乗合タクシー?)民間人がドアを閉め、

「最低のジャップと一緒なんてごめんだ!」

と彼に言った。

ベンは自らと彼の国の権利ために戦うべきだった。
そして30回のミッションを終えた今、彼はもう十分に

自分の愛国心をアメリカ合衆国に証明したと思っていたのだが、

(現実はそのようなものだった)。

彼は日本と戦うための任務に就きたいと志願した。

陸軍の規則で、日系アメリカ人は航空攻撃のために
日本上空に飛ぶことを禁じていた。

一旦断られた彼は、ヘンリー・スティムソンに直訴までして、
ついにはテニアンに飛ぶB-29「オナラブル・サッドサキII」の搭乗員として
彼の祖父母と叔父叔母、姪と従兄弟が住む国の上空を28回、

爆撃するミッションのために飛んだ。

彼のもっとも印象的だったミッションは、
200機のB-29の編隊で東京上空から焼夷弾を落としたときのものだ。

ベンは尾部砲手としてB-29に乗っており、
目的地上空から離れた後、空は1時間は炎で真っ赤だったと言った。

その夜、8万人の日本人が死んだ。

いうまでもないが、彼は女子供も残虐に絶滅させる作戦に疑問を抱いていた。
しかし彼はアメリカ人であり、アメリカは彼の父親の祖国と戦争をしていた。

結局彼は58回の任務をほとんどかすり傷一つ負わずに達成し、

戦後、差別と偏見との戦いという59番目のミッションに着手した。

彼がどこで語ろうと、人々は今や耳を傾ける。


ある年、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙が主催する
年次フォーラムでスピーチするため、ジョージ・マーシャル、
ジョナサン・ウェインライト、クレア・シェンノート将軍が出席した。

そのときウェインライトとマーシャルの間に誰が座っていたか。
技術軍曹、ベン・クロキだった。



■ 叙勲



【二等軍曹として】

殊勲飛行十字章(×3)

オークリーフ・クラスター付航空勲章(×5)
第二次世界大戦従軍記章

【技術曹長として】

殊勲飛行十字章

オークリーフ・クラスター(×5)付航空勲章
第二次世界大戦従軍記章


続く。



別れの戦費国債ツァー〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍航空博物館

2024-02-13 | 飛行家列伝

国立アメリカ空軍航空博物館の展示より、
再びB−17メンフィス・ベルについてお話ししていますが、
一応主要クルーについての紹介を終わったところで、
正直わたし自身あまり興味がないのですが、
博物館にあった爆撃群司令官について触れておきます。




■ 爆撃隊司令官、スタンリー・レイ大佐



スタンリー・T・レイ少将
Stanley Wray

陸軍士官学校を2位で卒業したレイ少将は、少尉時代に建設に関わり、
コーネル大学で土木工学の修士をとったり、バスケと野球の指導で
体育将校としても勤務していたり、工兵学校終了後、
マサチューセッツ工科大学で軍事科学・戦術の助教授に任命されるなど、
何かと多才な軍人として、飛行訓練も受け、爆撃群の指揮官になります。

1942年、マクディルの第91爆撃群司令官に任命され、
パイロットと地上要員の組織編成を行った後、
グループの第一部隊を率いてイギリスに渡り、この間に銀星章、
オークリーフ・クラスター付き航空勲章、パープルハート、数々の表彰を受け、
B-17による有名なサン・ナゼール上空での低空飛行のリーダーとして、
英国空軍の殊勲十字章を授与されました。



1958年初めに少将に昇進。
指揮官パイロットおよび技術オブザーバーとして活躍。



■ 任務達成ウォーボンドツァー

25回任務を達成した機体は国内に呼び戻し、
メンバーに国債を売るための全国巡業をさせる、というのが
アメリカ陸軍の一石三鳥作戦でした。

まず、目標をクリアすれば生きて帰れる、という希望をクルーに与えること。
彼らをヒーローとして称賛し、航空志願者を増やすこと。
そして、彼らを客寄せにして戦費を集めること、の三つです。

いかに金持ちの国であっても、
国民からお金が集まってこないと戦争は継続できません。

そんな思惑の元に、25回ルールを設定し、
たまたまそのころリーチがかかっていたベルが対象に指定されました。

博物館の一角にある

メンフィス・ベル 25回任務達成国債ツァー

の展示には、こうあります。

USAAF (アメリカ陸軍航空隊)は、
メンフィス・ベルとその乗組員を戦略爆撃の代表として選び、
戦意高揚と士気高揚のため、全国30ヵ所以上を巡って
戦費購入を促進するための宣伝ツアーを大々的に行いました。

メンフィス・ベルとその乗組員は 新聞で賞賛され、
大勢の観衆から英雄として迎えられて国民的有名人となり、
戦争継続努力に対する国民の決意を高めました。


パターソン空軍基地(現在のライト-パターソン空軍基地)
に着陸したメンフィス・ベル
木材のゴミに乗ってちょっとでも高いところから見ようとする人たちも



ボンドツァーで最初に立ち寄ったワシントンDCでの記念写真。
1943年6月16日。

後列左から:

セシル・スコット軍曹(ボール・ターレット)
ジェームズ・ヴェリニス副機長
ロバート・パターソン陸軍次官
チャック・レイトン航法士官

ロバート・モーガン機長
ヴィンス・エヴァンス爆撃士
USAAF司令官 ヘンリー ’ハップ’ アーノルド将軍
ボブ・ハンソン(通信士)

前列左から:


トニー・ナスタル(胴部砲手)
ビル・ウィンチェル(胴部砲手)
ハロルド・ロッホ(上部砲手)
シュトゥーカ(マスコット犬)
ジョン・クィンラン(尾部砲手)


ちなみに、ナスタルはレギュラーメンバーではなく、

ベルでの任務は一回だけでしたが、25回任務は達成していたので
ボンドツァーに参加することになりました。

ベルのメンバーにはあまり馴染みのない戦友だったかもしれません。 



副機長ヴェリニス大尉の犬、シュトゥーカは11番目のメンバーでした。
写真で彼らが乗っているのはベルではなく、ヴェリニス大尉の別の機です。

ちなみによく見ると、ドイツ機撃墜マークの横にあるのは
トニー(本名はキャシミールなのでCA)ナスタルの名前。

ナスタル軍曹が25回のミッションを遂行したうちの一つ、
「バージニア」に、ヴェリニス大尉も乗っていたことがわかります。

前にも触れましたが、ボンドツァーでのシュトゥーカの人気は絶大でした。
カメラマンは皆犬を撮りたがって、後を追いかけ回していたそうです。


ハッチに「シュトゥーカ」の名前
身動きできない状態で繋がれていてちょっとかわいそう

映画「メンフィス・ベル」では、尾部砲手のところにこっそり行って、
銃を撃たせてくれと副機長(テイト・ドノバン)が頼むのですが、そのとき

「ただし犬はやらんぞ」

と先手を打ち、砲手のハリー・コニックJr.が、

「あんなノミだらけのいりませんよ」

と軽く受け流すシーンがあります。
お風呂に入れていたかどうかはわかりませんが、少なくとも
ペットショップで購入した犬なのでノミはいなかったかと。



この博物館のあるオハイオ州デイトンにも訪れました。

モーガン機長、ヴェリニス副機長、
オーヴィル・ライト
エドワード・ディーズ。


彼らがいるのはここはNCR、ナショナル・キャッシュ・レジスター社
当時は名前の通りお店にあるレジスターを製造する会社でしたが、
現在は、それから進化したATMやバーコードシステムを扱う情報会社です。

それにしても、レジの発明者はともかく、
人類初の飛行機を創造した偉人を目の前にしているというのに、
この二人の人事感、さらに全員のよそよそしさはいったいどういうことなのか。

機長と副機長腰に手を当ててるし。
どちらもよっぽど話がかみあわなかったのかな。

■ ウォーボンドツァーと共に終わったロマンス

さて、明日はバレンタインデー。

ということで、しつこいですが我らがメンフィスベルの女好き機長、
ロバート・モーガンとマーガレットの恋が
実際どのように終わったかについて、検証します。(意味不明)

The Memphis Belle, Cleveland, Ohio, & The Romance That Ended On The War Bond Tour 1943.

このビデオでは、なぜマーガレットとモーガンが結婚せず、
しかも国債ツァーの終了と同時に別れたかを説明しています。

0:00~:38 タイトル
0:38~うp主の自慢
1:30~メンフィス・ベルの名前の由来、元になった映画のこと、
ノーズアート、マーガレット・ポークのこと
3:00~戦費国債ツァーについて
4:00~クリーブランド
5:49~マスコット犬シュトゥーカについて
7:29~モーガン機長、マーガレットとの再会の瞬間


ここの部分では、お別れの理由をこのように説明しています。

「モーガンはマーガレットにウェディングドレスを贈りたがったが、
マーガレットはこんなに慌ただしい時ではなく、
もう少し落ち着いてから挙式をしたいと考えていた」




それに、彼女はモーガンに会うためにクリーブランドに向かったものの、
毎日のように目に飛び込んでくる新聞記事を気にせずにいられなかった」




「そこにはモーガンから写真やサインをもらおうと、
彼の周りにひしめき合う女性たちの写真が掲載されていた」

再会した後も、彼女は、モーガンの異様なモテっぷり、
公認の婚約者を物ともせずお構いなしに群がる女性たちに、
嫌な思いをさせることになります。

「彼女はモーガン大尉とツァーで同行していたため、
彼を探す女性たちからじゃんじゃんかかってくる電話を
ホテルの部屋で取り次ぐ羽目になった」


しかもこの男、やっぱり自分が結婚歴があることを言ってませんでした。

「ロバートが以前に少なくとも2〜3回結婚していたのを知ったのも、
この頃だった」

というか、相手のことを何も知らなかったのね。
知る暇もなかったとはいえ、そんな大事な情報を、本人からでなく、

新聞や雑誌のゴシップ記事で知る婚約者の気持ちやいかに。

彼女も大統領の血筋を引く良家の令嬢という育ちのよさゆえ、
こういう恋愛に戸惑い、疲弊して、すぐに気持ちが醒めたってことですね。



当ブログでは二人の「お別れの理由」は周りに騒がれすぎたのが原因では、

と最初予想しましたが、それはほんの一部分に過ぎなかったようです。

要するにモーガン本人がとんでもないクズ男だったことはもちろん、
よく知りもしないのに周りに騒がれて婚約までしてしまったと。

もっとも、そういう男だと知って近付く女性も一定数いますが、
賢明な彼女は、ある出来事をきっかけに、すっぱり彼に見切りをつけます。

9:10~破局の原因になった出来事

次のツァー先、デンバーにマーガレットは同行しなかったので、
彼が宿泊しているブラウンパレスホテルのスウィートルームに電話すると、
なんと電話に出たのは女でした。
(モーガン、なぜ自分で電話を取らないのか)

怒り狂ったマーガレットはその場で婚約を破棄し、
婚約指輪をボブの父親(なぜ父親)に手紙で送りつけ、
この「戦時に咲いたパイロットとノーズアートガールの恋」は、

あっけなく終わりました。

マーガレットは、すぐさま陸軍関係者に電話をして、

婚約破棄のことを伝えています。

彼らの結婚を宣伝してイベントを盛り上げたかった陸軍関係者は慌て、
彼女になんと思いとどまるように懇願しますが、時すでに遅し。

彼女の気持ちが変わらないと知った関係者は往生際悪く、

別れるならそれでいいが、せめて内密にしてもらえないかと頼みますが、
どこから漏れたのか、8月3日に新聞にすっぱ抜かれてしまい、
彼らのウェディングベルは永遠に鳴らないことが世間に知れ渡りました。




10:30~すぐさま別の女性と結婚するボブ・モーガン
B-29「ドーントレス・ドッティ」とモーガン

あー、またモーガンネタで終わってしまった。


続く。



トーキョータンクと上部砲手の関係〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍航空博物館

2024-02-10 | 飛行家列伝

オハイオにある国立空軍博物館の展示より、
B-十七爆撃機メンフィス・ベルにまつわることをご紹介するシリーズ、
メンフィス・ベルに関わった人々を紹介してきましたが、
いきなり興味深い単語を見つけたので余談に突入します。

■余談・トーキョータンク

上部砲塔砲手は技術軍曹が兼ねる、と言う話をしたことがありますが、
飛行中の燃料のマネージメントも技術軍曹が責任者となります。



これはB-17の燃料タンクの配置図となります。
翼の片側にエンジンが2基ある訳ですが、それぞれがタンクを持ちます。
(212と213のグレーとブルーのタンク)

そのタンクに充填するには翼端のトーキョータンクからフィーダータンクへ、
そしてエンジンタンクに送られるのですが、まあそういう操作をするのも
技術軍曹の責任という訳です。

この「トーキョータンク」が日本人としては気になってしまうでしょ?
というわけで、余談としてこれを説明します。

Tokyo Tanks、それは、ボーイングB-17スーパーフォートレスと、
コンソリデーテッドB-24リベレーター爆撃機が搭載していた
自己密閉式の燃料タンクの名称です。

なぜ東京なのかですが、要はB-17の航続距離(戦闘錘で約40%増)が
東京まで飛べるほど長い、ということをいいたかったのだと思われます。

実際は第二次世界大戦中、日本を爆撃できる航続距離を持つB-17は
(少なくとも米軍の基地からは)存在しなかったという点では誇張でした。



トーキョータンクは、セルと呼ばれるゴム状の化合物でできた
18個の取り外し可能な容器で構成されており、
飛行機の翼の内側に片側9個ずつ設置されていました。
(図のオレンジ5と黄色4のセル)

タンクは、2つの翼の接合部(荷重を支える部分)の両側に設置されており、
合計容量270USガロン(1,000L)の5つのセルは、翼に並んで置かれ、
エンジンに燃料を供給するメインタンクと燃料ラインでつながっています。

トーキョータンクは、すでに6つの通常翼タンクに搭載された
1,700米ガロン(6,400 L)と、爆弾倉に搭載可能な補助タンクに搭載可能な
820米ガロン(3,100 L)に加え、1,080米ガロン(4,100 L)の燃料を追加し、
合計で3,600米ガロン(14,000 L)の搭載を可能にしました。

タンクは取り外し可能でしたが、主翼パネルを取り外さなければならないので
日頃は取り外したり点検することはありませんでした。

燃料をセルからエンジンタンクに移すには、爆弾倉内の制御弁を開き、
燃料が重力で排出されるようにしますが、これが技術軍曹の仕事です。

タンクの欠点は、セル内の燃料残量を測定する手段がなかったことです。
「だいたいどれくらい残っているか」を把握するのも、
おそらくは技術軍曹のカンに頼っていたかもしれません。


さて、というわけで、皆が専門性のある配置で課せられた任務に邁進する中、
技術軍曹はその全てを把握して全体の調整ができる能力が問われます。

オールラウンドな調整役、トラブルシューターといったところでしょうか。



以前、上部銃手兼フライトエンジニアとして乗り組んだ二人に触れました。

実は上部銃手として一定期間乗り込んだのは3人いて、
前回の二人は「すぐに(怪我で)リタイアした人」と、
帰国後の国債ツァーに参加した人、ということになります。

もう一人の上部銃手は、メンフィス・ベルの最初のメンバーです。

■ 最初の上部銃手、レヴィ・ディロン


例によって少し老け気味の写真しかこの人には残っていません。

レヴィティカス・ディロンLeviticus 'Levi' Dillon は1919年7月15日、
ヴァージニア州フランクリン郡ギルズ・クリークで生まれました。

「レヴィクティカス」という本名は通名「レヴィ」となり、
これからお気づきのようにディロン家はユダヤ系だったことがわかります。

日本語では「レビ記」といったりするヘブライ聖書の言語が
まさにこの「レヴィティカス」なのです。

彼の両親、ギリアムとジュディには、レヴィの他に
アヴィ、アイダ、ジョン、ルビーの兄妹がいました。
高校を卒業後、陸軍航空隊に入隊したディロンは、
一等兵としてマクディルの第91爆撃グループでB-17の訓練を受け、
1942年航空機関士兼航空砲手として戦闘任務に就くことを許可され、
同時に二等軍曹に昇進し、メンフィス・ベルに乗り組みました。

つまり彼はベルの最初の上部砲手として、
最初の5回の戦闘任務のうち4回を飛行したということになります。

一回抜けているのは、彼がサン・ナゼールを爆撃する
3回目のミッションで負傷したからで、
それは公式記録には残りませんでしたが、
彼はこのことでメンフィス・ベルで最初に負傷した乗組員となります。

■ベル初の負傷者

それではその怪我について、ご本人に語っていただきましょう。

「敵機の機関銃の弾丸が私のいた砲塔上部を貫通し、右大腿部に命中した。
熱い火かき棒のような感触で、私の飛行服に火がついた。

ヴェリニス大尉(副機長)がやってきて、火を消してくれた。
それから救急箱を持ってきて、私のスーツを切り開き、
傷口に包帯を巻いて止血してくれた。
深い傷ではないように見えたし、ちょっとした怪我だと思っていた。

基地に着陸したとき、病院に行って手当てをするように言われたけど、
リバティバス(乗員のシャトルバス)に乗り込んでいるのが見えたから、
リバティに乗り遅れたくなくて何も考えずに飛び乗ったんだ。」

上部砲塔はエポキシガラスなので、狙われた場合、
最も簡単に銃弾を通してしまいます。

弾丸が命中して火がついたのがわかっていて、病院に行かないっていうのは
ちょっと感覚が麻痺しすぎていないかと思うのですが・・。

続きです。

「その日の夜、バーでビールを飲んでいたら」

弾が当たったのにビール飲むな。

「誰かが私の足を見て『おい、血が出てるぞ!』と言った。
見ると、案の定、血が足を伝っていた

さすがの彼もケンブリッジにある赤十字の救護所に行きました。
そこで彼は忘れられない体験をします。

救護所で彼の傷の手当てをしてくれたのは、フレッド・アステア
(ハリウッドの映画スター)の姉のアデル・アステアだったのです。

■ アデル・アステア


アデル・アステア

フレッド・アステアについては説明するまでもないでしょう。(ないよね?)
人類史上で最も燕尾服の似合うラッキョウ系ダンサー&俳優&歌手です。

彼女は9歳でダンサー、ボードビル芸人としてデビューし、
3歳下の弟のフレッド・アステアとともに舞台で成功を収めていました。


ブロードウェイ時代、弟とのペア、アデル21歳、フレッド18歳

ブロードウェイや映画で27年活動をした後、彼女は
芸能活動を通して知り合ったイギリスの貴族
チャールズ・アーサー・フランシス・キャベンディッシュ卿と結婚し、
芸能活動から惜しまれながらもあっさりと引退してしまいました。

キャベンディッシュ卿がニューヨークのJ.P.モルガン社に就職した時
再会したのが縁だったそうです。


外交的で美しく、機知に富みエレガントな立ち居振る舞いの彼女は、
イギリス紳士に大人気で、プリンス・オブ・ウェールズや
ウィンストン・チャーチルとも交友を持っていました。

結婚後はチャールズがアルコール依存症となり、
アデルはその介護のため自分も鬱を発症したりしています。

1942年、戦争が始まって、アデルがノブレスオブリージュとして
国に貢献する方法を探していたとき、ロンドンに駐在していた
アメリカ空軍情報部長のキングマン・ダグラス大佐に出会いました。


ダグラス大佐(ちなイエール大学卒)

ダグラス大佐は、はアデルに、ピカデリー・サーカス近くにある
アメリカ赤十字の「レインボー・コーナー」食堂で働くことを提案します。

彼女はそこで兵士のために、1週間に130通もの手紙の代筆をしてやったり、
兵士たちのコンシェルジュのような係を務めたり、時には彼らとダンスを踊り、
ロンドン滞在中は兵士たちの必需品の買い物を手伝ったりしました。

ブリッツ(ロンドン電撃戦)が始まると、彼女は勤務時間を増やし、
週7日レインボー・コーナーで奉仕をしました。

レヴィ・ディロンの傷の手当てを行ったのも、この頃のことだと思われます。

救護所にいたというのはディロンの勘違いで、
医師免許がなくてもできる程度の傷の手当ては
レインボー・コーナーでも行われていたのではないでしょうか。

彼女は多くの兵士たちから感謝されましたが、そのことは
彼女自身に新たな目的と充実感を与えるものとなり、
個人的な困難に対処する助けとなったのは間違いありません。

1944年3月、チャールズは長期にわたるアルコール中毒の結果、
わずか38歳で亡くなり、アデルは3年後、ダグラスと再婚します。

ダグラスは最終的には少佐で退役しますが、
陸軍の情報将校だったことから戦後の新しいCIA創設に尽力しました。


1950年からはCIA次長を務めたほどの「大物」です。


■濡れ衣で降格処分

ベル5回目、ディロンにとって4回目のミッションの後、
彼の名前はクルーリストから消えることになります。

何が起こったのでしょうか。

大勢が自由行動に出ていて、基地に戻る途中のこと、
ゲートでちょっとした騒ぎがありました。

一人の中尉が下士官の腕を掴んで、こいつに上着を破かれたと言いましてね。


彼らが我々のうち何人かを身元確認のため呼び戻した時、
中尉はなんでか僕を指差して、
「こいつがやった」
と言ったので驚きました。

そもそも僕は彼とは知り合いでもなんでもなかったし。
後から犯人は判明したのですが、僕は黙っていました。」

ディロンは降格させられ、第306爆撃グループに移動しました。

その後の彼の軍歴などはわかりません。


■ 最初の上部砲塔砲手 ユージーン・アドキンス


老けてないか?と思ったけど実は少佐の時

ユージーン・アドキンスは基礎訓練の後マクディルに配属され、
学生士官候補生の訓練プログラムに参加して、その後幹部候補生になりました。

そこではベルの機長ボブ・モーガンと何度も一緒に飛行しています。

その後彼はドナルド・W・ガラット中尉の操縦する
「パンドラの箱 Pandra's Box」に配属されてイギリスに渡りますが、
たまたま彼が搭乗しなかった日、パンドラは撃墜されます。

その日B-17にはハロルド・スメルザー少佐が機長として乗っていましたが、
墜落しながら少佐は他の機に手を振っていたそうです。

パンドラの箱の10名の搭乗員は全員が戦死しました。


その後配属が決まらず「浮遊搭乗員」状態だったアドキンスですが、
メンフィス・ベルに乗り組むことが決まります。

しかし、彼の任務は長く続きませんでした。

2月4日のミッションで、銃からカバーを外すために、2分、
たった2分、手袋を外して窓の外に出しただけで、
彼は
凍傷にかかってしまったのです。

apple TVの「マスター・オブ・ザ・エアー」でも、最初の方に
機内で手袋を外してあっというまに凍傷になったというシーンがあります。

ましてや機外。
彼は機外が
零下50度であることを知りませんでした。
知っていたら、離陸前にカバーを外していたことでしょう。
これまでの任務ではそこまで高高度ではなかったのでしょうか。

しかもそれはこれから敵と戦わなくてはならなくなってからのことだったので、
彼は持ち場を動くことができず、凍傷にかかった手で7時間そこに立って
次々とやってくるドイツ軍機相手に弾丸を撃ち続けました。

攻撃の切れ間には、少しでも暖かい(と思われた)無線室に潜り込んで
ジンジンと痛む手を温めようと、両足の間に手を挟んでいました。

それでも、彼は自分がどれだけ酷い状態かわかっていませんでした。
着陸するなりすぐさま彼はオックスフォードの病院に運ばれましたが、
入院を要する重症で、切断するかどうかという瀬戸際だったそうです。

しかし医師たちの懸命な治療により、なんとか手を失わずにすみました。

メンフィス・ベルにはそれ以来、次の搭乗員が乗ることになります。

アドキンスはその後B-29、B-50、B-36、B-52に搭乗し、
最終的には1961年に少佐の階級で退役しました。

ところで上部砲塔砲手の任務は、士官と下士官どちらでもOKだったんですね。


続く。



「腹部砲手の死」〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2024-01-27 | 飛行家列伝

映画「メンフィス・ベル」で心に残った戦闘シーンといえば、
ガラスドームに囲まれた銃座を敵の弾が破壊し、
他のクルーがそこに入るためのハッチを開けたら、
ドームがなくなって銃手がぶら下がっていたというものです。

Ball Turret Scene - Memphis Belle
今日はそのボール・ターレットとそこに配置されていた搭乗員、
セシル・スコット軍曹についてのお話です。

まず、B-17のボール・ターレットの説明から始めましょう。




機体中央下部のDFのペイントの下側のレドーム、これがボールターレット。
いかにもとってつけたような部分ですね。
機体のお腹部分にあることから「ベリーガン」と呼ぶこともあります。



こちらでもどうぞ。
飛行中の銃口は後ろ向きが基本位置の模様。



これは国立空軍博物館のメンフィス・ベルを前から見た場合。
タイヤの向こうに見えているのがボール・ターレットです。
これも銃口は後ろ向きに固定されています。



外から見ると結構な大きさに見えますが、
決してそんなことはありません。
左下のハンガーみたいなのが気になりますが、なんでしょうか。


内部がどうなっているかはこれが一番わかりやすいかもしれません。
ボールに入り込んでハッチを閉めると、全体が360度回転し、
下方と水平位置の敵機に狙いをつけます。

爆撃機を下から攻撃してくる戦闘機を機銃で追尾すると、
砲塔と一緒に回転する状態でした。

遊園地のアトラクションなら楽しそうですが、
高高度の空中でガラスボウルに閉じ込められて逃げ場はなく、
時には敵機がこちらを狙って撃ってくるわけです。

まず恐怖心を克服することから始めなければならなかったでしょう。

B-17 Ball Turret Gunner (Dangerous Jobs in History)
「第二次世界大戦の最も危険な仕事の一つ」

このビデオでは、ターレットの中にどうやって入るか、
銃手がどんな姿勢をとるかに始まり、
アルミニウムとプレキシガラス製のボールは容易に銃弾が貫通し、
銃手は命を落とすことが多かったこと、
また、もし機の機械系統が破壊されて、強制着陸を余儀なくされた場合、
ボールは中から開けられなくなり、
銃手は脱出できないまま着陸で押し潰されて生存できなかった、
などということが説明されています。

WW2 Ball Turret with Twin .50 Cals at the Big Sandy Shoot 実物で銃撃してみた

Ball Turrets - In The Movies
映画に出てくるボールターレットシーン。
「メンフィス・ベル」では、ターレットに入るラスカルが、

「前のミッションのことでただ神経質になってるわけじゃないよ。
だって俺ってこんなネズミ捕りみたいなところに座る配置だからさ」

それに対してヴァージが、

「隅々までちゃんとチェックするから安心しろよ」

みたいなことを言っています。
これは伏線で、実際には冒頭のシーンのようになるわけで、
いくら不備がないかチェックしていても攻撃されれば終わりというわけです。


映画といえば、こちらはワイラー監督のドキュメンタリー映画のポスター。
なんと、ポスター図柄のメインがボールターレットガンナーです。

「最も危険」であるからこそ、このようにクローズアップされるわけですね。

■ セシル・スコット



映画「メンフィス・ベル」でボールターレットガンナー、
リチャード「ラスカル」ムーア軍曹を演じるのはショーン・アスティン
映画出演時は19歳だったはずです。



これがメンフィス・ベルの「最も危険な配置」にいた男、セシル・スコット。

Cecil Harmon Scott は、身長の低い青年でした。
俳優のショーン・アスティンがそうであったように

世界で一番危険な仕事、といわれたボールターレットの砲手だった彼は、
実に穏やかな表情の好青年で、実際に肝も座っていたとみえて、

"攻撃される前は、たいてい恐怖を感じるものだが、
飛行機が近づいてきて攻撃し始めると、もう大丈夫だ"

などという言葉を残しています。

セシルが軍隊に入る決心をし、募集事務所で手続きをしたとき、
入隊基準となる最低身長に1/4インチ足りなかった彼は、リクルーターに

「君の身長は兵隊として小さすぎるし、体重も軽すぎる」

と言われて最初は受け付けてもらえませんでした。
そこで彼は少しでも身長を伸ばすために毎日鉄棒にぶら下がり、
また、体重を増やすためにバナナを食べまくりました。

4分の1インチなんてせいぜい6ミリですから、
当時のアナログな身長計では誤差範囲でなんとかなったのかもしれません。
体重も、食べまくって増やしてなんとななる程度だったのでしょう。

意気揚々とペンシルベニア州ハリスバーグの事務所に戻り再検査を受けて
めでたく数字をクリアした彼は、空軍の二等兵として受け入れられました。

しかも、突然彼は陸軍航空隊から指名を受けます。

陸軍は、突如小柄な航空搭乗員の必要性に気がついたのでした。
B-17爆撃機の砲塔の中で丸くなっている砲手。
こればっかりは、小さくて体重の軽い者にしか務まらないということを。

航空隊の求める人材の条件を、今度こそドンピシャでクリアした彼は、
熱烈に望まれてB-17のボールターレットガンナーに就職。
そして出征。

ついには1942年8月1日にワラワラで軍曹に昇進することになりました。


彼はイギリスに行ってからメンバーに「スコッティ」と呼ばれていました。
いかにも背丈の小さな彼にふさわしいあだ名です。

後年、副機長のヴェリニス軍曹がロンドンで犬のスコッティ(テリア)
を買ってきましたが、彼がその名前をすでに持っていたため、
犬の方は名前を「シュトゥーカ」と付けられたに違いありません。

ちなみにスコットは左から2番目

メンフィス・ベルの乗組員の多くがそうであったように、

セシル・ハーモン・スコットの家庭も大恐慌の影響を受けています。

彼の父ロスはペンシルベニア州の木材伐採会社の経営者でしたが、
やはり厳しい時代をそれなりに経験していました。

夫婦には子供が7人いましたから、彼らは育ち盛りの子供たちのために
十分な食料を家庭の食卓に並べるのにかなり苦労をしたそうです。

セシルの身長が人より小さかったのはそのせい・・・?
いや、単に遺伝だよね。たぶん。

セシルの妹、メアリーは、幼い頃の思い出として、
雪を食べたことを語っています。

「メープルシロップときれいな雪を混ぜると、本当においしかった・・」

メープルシロップは地産なので我々が思うより安かったと思います。

セシルの学歴については、色々とサーチしましたが、

たとえば物故者のデータを集めたサイトなどでも、近しかった人が

「とても静かな人でした」

と思い出を書いているくらいで、メンフィス・ベル以外のことは
第二次世界大戦が始まるまでゴム会社で働いていたこと、
戦後はフォードで働いていたことくらいしか情報がありません。

戦争が始まった時、彼は25歳くらいだったと思われます。

イギリスではスコッティと呼ばれた彼は、危険な配置に就き、

ドイツの戦闘機からメンフィス・ベルを守るボールターレットの砲手として
他の乗組員から頼りにされていました。

彼はその時のことを戦後このように語ります。

「砲塔の中で7時間過ごしたことがあるけど、悪くなかったよ。
あそこからならすべてが見渡せたしね。
敵の戦闘機の位置がこちらから見て高すぎて狙いにくかったら、
チーフ(パイロットのボブ・モーガン)に高度を少し上げるように言って、
そいつを狙うんだ」

彼の証言には、どう訳すのか悩んでしまったこんな文章がありました。

時々スコットは、その「ベリーガン」の位置から、
ドイツ軍のパイロットがプロペラにぶら下がって、
機を失速させて下からこちらを撃とうとしているのを見た。


これは原文のままだと「hanging on their propeller」となるのですが、
いくらなんでもパイロットがプロペラにぶら下がるわけがないので、
わざとストールさせるため(trick)、迎角を大きくして、
という意味ではないかとわたしは解釈します。

「そうやって彼らはこちらの爆ボムベイの爆弾に当てて爆発させ、
飛行機ごと吹き飛ばそうとしていたんだと思います。」


その後、彼らがその失速状態から抜け出せず、
墜落していくのを見届けるのも、ターレット内のスコッティの役目でした。

いずれにしても凄惨な話です。


ターレットに彼の名前が書かれている

第8空軍の他の多くの砲手と同様、スコットは多くの敵機を銃撃しましたが、
公式には彼の成績となったのはたった1機の「損傷」だけでした。

なぜなら、彼自身が自分の銃撃で相手の飛行機を撃墜したと認識しても、
彼のような配置の砲手が「撃墜」のクレジットを得るには、
第三者の確認が必要で、実際にはそのようなことは不可能だったからです。

上の説明動画は、のちの詩人、第二次世界大戦中腹部砲手だった
ランダール・ジャレルの詩の一節で終わっています。

ボールターレットガンナーの死

母の眠りの中から僕は国に落とされた
そして濡れた毛皮が凍りつくまで、その「腹」の中で蹲っていた
地上から6マイルも離れ、人生の夢から解き放たれた
僕は真っ黒な対空砲火と悪夢のような戦闘機で目を覚ました
僕が死んだとき、彼らはホースで砲塔から僕を洗い流した


ジャレルは次のように解説しています。

「小さな球体の中で逆さまになっている砲手は、
まるで子宮の中の胎児のように見えるのです。
戦闘機は炸裂弾を発射する大砲でこちらを攻撃してくるのです。

最後のホースというのは蒸気ホースでした」




セシル・スコットは戦後 フォード・モーター・カンパニーに就職し、
そこで定年まで30年間勤務。
1979年、ニュージャージーで63歳の生涯を閉じました。



続く。


一度だけのミッション トニー・ナスタル〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-12-21 | 飛行家列伝

前回まで、二人の腰部砲手、ウェストガンナー、
右のスコット・ミラーと左のビル・ウィンチェルを紹介してきました。

途中から参加したため、25回の回数に達していなかったミラーは
国債ツァーに加わらなかった、ということを覚えておられるかと思います。

今日はそのミラーの代わりにツァーに参加したもう一人の右腰部砲手、
19歳のトニー・ナスタルの話をしようと思います。


一度だけなので彼をメンフィス・ベルの乗組員としていない媒体も多く、
例えばwikiには載っていても、メンフィスベル・メモリアルアソシエーションの
HPでは乗組員として数えられていないのが彼の存在です。

メンフィス・ベルに一度だけ乗ったメンバーは彼だけではなく、
特に機長は25回のうち4回はモーガン大尉以外で、
C・L・アンダーソン大尉は2度、ジョン・ミラー大尉は1度、
メンフィス・ベルの指揮を執っていますが、彼らとナスタルの違いは
つまり公債ツァーに参加したかしなかったかということでした。

1度のミッション➕ツァーに参加してスポットライトを浴びたことで、
その後の彼の人生には常に注目されるものになります。


■ キャシマー・アントニー”トニー”・ナスタル
Casimer Anthoniy Nastal

写真を見てもお分かりの通り、彼は当時19歳と大変若い軍曹でした。

ナスタル軍曹は 1941 年に兵役に入り、447BG、8AF など、
このときすでにさまざまな爆撃機での実績を重ねていました。

彼は先にメンフィス・ベル同じ飛行隊に所属していたB-17爆撃機、
ジャージー・バウンスに搭乗し、6回ミッションを行っています。



ところで「ジャージー・バウンス」と言う言葉でピンときた人いますかね。
ここで盛大に余談に突入しますが、「バウンス」はジャズ用語です。

この頃の爆撃機には、乗組員たちの気分を表す愛称がつけられましたが、
機長が全権的に自分の妻や愛称をゴリ押しするわけでもなく、
流行っていたジャズのタイトルが選ばれる例もありました。

「ジャージー・バウンス」はご存知ベニー・グッドマン楽団のヒット曲で、
1942年ごろ、4週間連続でチャート一位となり、そののちも
グレン・ミラーやエラ・フィッツジェラルドなどがカバーしました。

映画「ミッドウェイ」のサントラにも収録されています。

Jersey Bounce

この名前がつけられた爆撃機はアメリカに3機、イギリスにも何機かあり、
「ジャージーバウンス3」は撃墜されたことがわかっています。

余談ついでに、ジャズの曲名をつけた爆撃機を紹介しましょう。

B-17G「Ain't Miss Bea Heaven」
「Ain't Misbeheavin'」(『浮気はやめた』のもじり)

Fats Waller - Ain't Misbehえavin' - Stormy Weather (1943)

B-17F「Baltimore Bounce」(ボルチモア・バウンス)

B-17G「Blues in the Night」(ブルース・イン・ザ・ナイト)

B-17G「Mairzy Doats」

B-17F「Memphis Blues」(メンフィス・ブルース)

B-17G「Minnie the Moocher」(ミニー・ザ・ムーチェ)
Cab Calloway - Minnie the Moocher ( Remastered 720p )
麻薬中毒の少女の話

B-17F「Mr. Five-by-Five」

B-17G「Old Black Magic」(オールド・ブラック・マジック)
"That Old Black Magic"から取られた
Marilyn Monroe - That Old Black Magic (Bus Stop)

B-17G 「 Paper Dollie」(ペーパー・ドーリー)
「Paper Doll」から
The Mills Brothers - Paper Doll

B-17G 「 Pistol Packin Mama 」

B-17G 「 Shoo Shoo Baby 」


B-17G 「Shoo Shoo Baby aka Silver Fox 」

B-17F 「Star Dust 」(スターダスト)
スター・ダスト(Stardust) - ザ・ピーナッツ (The Peanuts)

スターダスト  (耳コピ英語なのに発音がすごい)

B-17G 「 Sweet Adeline 」(スィート・アデライン)
Sweet Adeline - The Mills Brothers (1939)

B-17F「Yankee Doodle Dandy」


閑話休題、話を元に戻します。
ナスタルがジャージー・バウンスに搭乗してミッションを行ったのは
6回でしたが、かなり過酷な任務となったようです。


ジャージー・バウンス時代のナスタル:おそらく前列左

最終的に、彼がスコット・E・ミラーの後任として、

ベルの右腰部砲手に配属されたときには19歳、同機の最年少乗組員でした。

ナスタルが搭乗したのは、ベルが25回目にリーチをかけていたときです。
彼はベルが第二次世界大戦中のヨーロッパ戦域で必要とされた
25回目の任務にここで偶然立ち合うことになりました。

彼はこの1回で国内に帰還し、ツァーに参加することを要請されます。

それは彼が、ジャージー・バウンスを含むいくつかの爆撃機で
ミッションを重ねてきた結果、これが彼にとっても
25回目の任務完遂となったことが考慮されたからです。

ベルのメンバーの中には、帰国後戦闘に復帰ことはなく、
退役して市民生活に戻った人もいましたが、若い彼は、
ほんの短い間ツァーに参加すると、すぐに前線に復帰し、
最終的に55 回のミッションに参加し、生き残りました。

■ 戦後の生活

終戦後、民間人として彼は堅実な人生を始めました。
イリノイ州でハーリー・マシン社の「Thor」(ソー)という洗濯機

のセールスマンをしていたナスタルと、同じスペースで
ユーレカ掃除機の宣伝をしていたドリスが出会ったのは、
コモンウェルス・エジソンという商業施設でした。
それ以来彼らは51年間の人生を共に歩んできました。

トニーはジュエル・フードストア(イリノイに展開するスーパーマーケット)
の店舗を回ったあと、アーチウェイクッキーのセールスマンとして働き、
子供を二人設けて、引退後はアリゾナに夫婦で移り住みました。



ごくごく平凡な、一市井人の穏やかな人生です。

しかし、彼の人生には、ヨーロッパで一度だけ任務で乗り込んだ
メンフィス・ベルの名前が最後まで賞賛と共について回りました。

妻のドリスはいいます。

「トニーの飛行機の歴史について尋ねる電話や、
サインをして送り返してくれという写真が届かない週はありませんでした」

「でも彼に会ったとき、わたしは彼が
戦争の英雄であることさえ知らなかったんです」

結婚して、彼は妻に当時のことを話しました。
メンフィス・ベルの一員として、沿岸から沿岸までの防衛工場を訪問した
1943年の戦時国債ツアーは、特に楽しかったということ。

「デトロイトで乗組員は、タイガー・スタジアムで行われた
デトロイト・タイガース対ニューヨーク・ヤンキースのダブルヘッダーを、
ジョー・ディマジオといっしょに見に行ったんだ」

「僕はデトロイト出身だったから、その試合の合間に
5万人の観客に向かって戦争公債について話すことになったんだ。
何を話したかはまったく覚えていないけど、そのとき
タイガースのチーム全員のサインボールをもらったことは覚えてる」

西海岸に向かう途中、クルーはハリウッドに1週間滞在しています。


その時の仕事は、ウィリアム・ワイラー監督が1943年に制作した
ドキュメンタリー「メンフィス・ベル」のナレーションの録音でした。

「ハリウッドにあるウィリアム・ワイラーの邸宅で開かれたパーティにも
何度か参加させてもらったよ」

この間女優と知り合ってあっという間に深い関係になり、
自分が結婚したのも忘れて結婚しようとした搭乗員もいましたが、
もちろん彼にとって、そんなのは別世界の話でした。(たぶん)

当時、ワイラー監督は、グリア・ガーソン主演の1942年の

『ミニヴァー夫人』でアカデミー監督賞と作品賞を受賞しており、
ハリウッドに豪邸を構えていたのですが、その家の
トロフィー・ルームには、ワイラーが撮影のために

メンフィス・ベルに乗り込んで5回ミッションに同行したことに対し、
軍人に与えられる航空勲章が飾られていたそうです。


コスプレじゃないよ

戦争中、戦闘任務に5回成功した者には航空勲章が授与される決まりでした。
撮影に同行というのも、陸軍軍人としてのワイラー少佐にとっては
「ミッション」とする旨陸軍が取り計らったんですね。

それから約半世紀後の1989年、ワーナー・ブラザースの最新作

『メンフィス・ベル』の撮影がイギリスで開始され、
ナスタル夫妻と他のクルーがアドバイザーとして招かれました。

この撮影の補助?監督は、ワイラーの娘、キャサリン・ワイラーでした。

この撮影の時、現場に参加した何人かの元クルーは、助言に呼ばれたはずが、
実際は映画フタッフがその助言を聞き入れなかったことを
かなり不満に思ったと書き残していますが、彼らの妻たちは
監督の一人が同世代の女性であったことで、頼みやすかったのか、

「私たち妻たちグループでキャシー・ワイラーに、
撮影で使っていたB-17の中に入ってみたいと頼んだの」

そしてどうやら彼女らはその願いを聞き届けてもらったようです。

「実際入ってみないと、その狭さと窮屈さは想像できないわ」

ただ一度だけ乗ったメンフィス・ベルのおかげで、
彼とその妻はほかの人が一生出会えない出来事に出会い、
その「特別」を心から楽しんだようです。


続く。




ハイ・フライト〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-12-15 | 飛行家列伝

国立空軍博物館展示のメンフィスベルについて、
乗組員をさらっと紹介するつもりが、機長副機長爆撃担当と、
いきなりトップ3人の女性関係が派手すぎて時間を取られてしまいました。

 チャック・レイトン 航法士



本日ご紹介するナヴィゲーター、チャック・レイトン
見るからに純朴そうな青年なので、おそらくここからは
あっさりと進めていくことができると信じたい・・


・・・・とここまで書いてから、実際にレイトン大尉について調べたのですが、
写真の印象が、本当にその人となりを表す例であることがわかりました。



たとえばこの団体写真なんですが、メンバー(部下)の後ろから
半分だけ顔を出している彼の様子からはいい人の雰囲気しかしません。
少なくとも真面目そうです。

他の士官3人がどいつもこいつも女性関係とんでもなかった?せいで、
わたしは彼にも品行素行その他一切全く期待していなかったのですが、
実際の経歴とその後の人生を知ると、少しでも彼を疑ったことを
すまんかったと土下座して謝りたいほどの好青年であることがわかりました。

チャールズ「チャック」レイトンは1919年5月22日、
インディアナ州生まれ、ミシガン州育ち。

オハイオ・ウェズリアン大学で化学を学んだ後、
1942年1月20日にナビゲーター訓練のため、
米陸軍航空士官候補生プログラムに入隊し、その後
1942年に中尉任官、ナビゲーターのウィングマークを取得しました。

その後、B-17フライング・フォートレスの訓練を修了し、
B-17「メンフィス・ベル」のナビゲーターとしての任務を完遂。

ナビとしての彼の力量については一般に言及されていませんが、
メンフィス・ベルに最初から最後まで乗務し、機をその度無事に
任務先から基地に戻したのですから、相当な技量を持っていたことでしょう。

写真のキャプションで彼はこう語っています。

「リード・ナヴィゲーター(編隊の先頭機のナヴィゲーター)には
フォーメーション全体の全責任がかかってくる。
ときどき、その責任の重さが怖くなりました」

メンフィス・ベルは編隊のトップを任されることが多かったのですが、
さすがはそのナヴィゲーターであった彼ならではの言葉です。

25回の任務を完遂したメンフィス・ベルの航法士として、
見事任務を果たした彼は、その後、1943年6月から9月まで、
乗員とともにアメリカ全土を回る戦時国債ツアーを行いました。

戦争債券ツアーの後、レイトンは少佐に昇任し、
1945年11月27日に終戦を受けて名誉除隊しました。


彼の経歴には15歳での駆け落ち経験も、出撃二日前に結婚したことを忘れて
他の女と結婚することも、犬を餌に女の子を部屋に連れ込むとかもなし。
おそらく結婚相手も普通に出会い普通に恋愛して選んだのでしょう。

彼の訃報記事を探して読んでみましたが、さらにこんなことがわかりました。

現役を退いた後、チャールズはミシガン州立大学に入り直し、
改めて学士号と修士号を取得して教職に就き、
数学と科学の教師、指導カウンセラーとして働いていたと。

他の3人の士官と比べたら神々しいくらい清潔で実直な青年ですね。
いや、決してその3人を悪くいうわけではありませんが。

彼が教鞭をとったイーストランシング高校の同僚は彼を、

「彼は真の『ピースメーカー』でした。
特別な思いやりを誰に対して持っており、
決して敵を作らない穏やかな人物でした。

とても謙虚で、第二次世界大戦での任務には誇りを持っていましたが、
世間の注目を浴びることは好まない様子でした」

と語っています。
その言葉を裏付けるように、彼の訃報記事の出だしはこのようなものでした。

「イースト・ランシング高校の何百人もの出身者、学生にとって、
チャールズ・レイトンは友人でありカウンセラーだった。
しかし彼が第二次世界大戦の英雄であることを知る人はあまりいない」


彼は実生活で、戦時中の任務について自慢話をするどころか、
ほとんど語らなかったのだということがうかがい知れます。

そんな彼ですから、帰国後、英雄として騒がれ、注目され、
派手な場所に出たりすることを内心嫌がっていたに違いありません。

彼の人生の唯一の妻であるジェーン・レイトンは、
彼が1991年に亡くなったとき、亡夫から聞いていたであろう話として、

「帰国してからの国債ツァー、そしてヨーロッパでワイラー監督が
5回『ベル』に同乗して撮ったドキュメンタリーが
オスカーを取ったことが彼らを全米で有名にしましたが、

彼らはそれを『26回目のミッション』と呼んでいました」

と言っています。
これはどういうことかというと、乗組員の誰もが、
撮影されることを苦痛に感じていたという意味です。

メンフィス・ベルの搭乗員たちは、ワイラー少佐の映画撮影に際し、
必要な考証と助言のためにわざわざイギリスまで飛んだにもかかわらず、
映画スタッフは彼らに対し全く配慮をせず、多くの助言は無視され、
映画の登場人物や事件はすべて、何人もの人物や行動を合成したつぎはぎで、
何一つ本当のものはなかったことに失望していました。

レイトンもまた、映画の中での自分のキャラクターの描かれ方に
最後まで不満を持っていたと言います。

しかも、それから数十年後、彼らは同じような経験を繰り返すことになります。

彼が亡くなる前年に公開された映画「メンフィス・ベル」で、
おそらく彼は強い失望と不満をふたたび感じたに違いありません。


1990年作品の「ベル」の航法士、フィルは、小説によると、

「誰よりも自分の運の悪さを信じており、
何かあって死ぬのは絶対に自分だと思い込んでいる」


陰キャというか屈折した青年で、D・B・スウィーニーが演じています。

壮行パーティでハリー・コニックJr.が「ダニーボーイ」を歌っている時、
酔っ払って外で「死にたくねーーー!」と叫んでいたのはこの人です。

あまりにも死にたくなくて(?)最後のミッションで
「ベル」の脚部が片方手動でしか動かせなくなった時、
「死ぬもんか!死ぬもんか!」
といいながら降着装置のハンドルを回す、という役回りでした。


いずれにしても、実在のレイトンと似た要素はゼロのキャラクターです。

レイトンはこれを見て、ワイラー監督とそのチームに対して感じた
「全くこちらのことを配慮していない」
というネガティブな感情を数十年ぶりに蘇らせたにちがいありません。

■ スコット・ミラー 右腰部銃手



ウェストガンナー、というのがどこの配置のことか、
文面ではピンとこないと思いますので、
とりあえずこの図を見てください。


飛行機の胴体(ウェスト)に左右に一人ずつ銃手が配置されます。
これがウェストガンナーです。

この図は、映画「メンフィス・ベル」の登場人物配置の説明ですが、
映画の腰部砲手にはシカゴ出身で粗暴な荒くれ者のジャック(下)、
アイルランド出身、赤毛で信心深いジーン・マクベイが配置されています。

スコット・ミラーの配置はチンピラジャックと同じ右腰部でしたが、
写真を見る限り、ミラーも二人のどちらにも当てはまる要素がありません。

さて、このスコット・ミラーですが、本当の名前は
エマーソン・スコット・ミラー

エマーソンが気に入らなかったと見え、上から注意されたのにもかかわらず、
ファーストネームではなくミドルネームのスコットを名乗っていました。

彼はメンフィス・ベルの国内国債ツァーには参加せず、それどころか
帰国すらさせてもらえずにイギリスに取り残された何人かの一人でした。

理由は、以下の理由でベルの任務に途中から参加した結果、
彼個人の搭乗数が「マジック25」に達していなかったからです。

彼の代わりにツァーに参加したのは、同じ配置のトニー・ナスタル軍曹でした。


ミラーは1942年5月16日に航空砲手として戦闘任務につく資格を得ました。

一旦ワラワラでリチャード・ヒル中尉のB-17に配属されたのですが、
どういうわけか、ハネウェル社で自動パイロット制御メンテナンスを行う
技術者としての訓練を受けるため、ミネアポリスに転勤させられました。

彼が転勤してすぐ、ヒル中尉の機は定期訓練飛行で山に墜落し、
乗員全員が死亡しています。(その後片付けをさせられたのがモーガン)

彼は戦闘配置のない技術者としてイギリスに送られましたが、
自分には向いていないと感じ、飛行中隊の司令官のところに行って、
戦闘飛行機に乗りたいと申し出ました。

司令官はむしろその言葉を聞いて嬉しそうにしていたそうです。

というわけで、彼は凍傷を負った銃手の後任としてベルに配置されますが、
そのときベルはすでに10回ミッションを行った後だったというわけです。

ミラーがメンフィス・ベルに乗って行った任務は16回でした。

モーガン機長はミラーも帰国してツァーに参加させてほしいと言いましたが、
回数が足りていないということでそれは却下されたそうです。



この制服はスコット・ミラーの遺族の寄贈による展示です。



ミラーの遺族は軍グッズ一切合切を博物館に寄付しました。

ミラーは1943年7月4日に別のB-17に乗って25回目の任務を終えましたが、
帰国後のパレードも記者会見も映画スターに会うこともありませんでした。

メンフィス・ベルのコーナーが創設されることになった時、
博物館がスコット・ミラーの家族と連絡を取ったところ、

「彼らはトランク一杯の遺品を寄贈してくれた」

博物館スタッフは語ります。

「彼は自分の命を危険にさらし、そして一旦は忘れ去られていました。
しかし、この寄贈品によって、彼の名前は
何世代にもわたって記憶されることになるでしょう」



最後に、チャック・レイトンの死亡通知に添えられていた
カナダ空軍のパイロット、ジョン・ギレスビー・マギーJr.の詩を、
当ブログ的には2回目になりますが紹介しておきます。

当ブログで坂井三郎の「大空のサムライ」の英語版を紹介した時、
序文としてこの詩が掲げられていたのを翻訳したものでした。

マギーJr.は訓練中空中衝突の事故で殉職し、
戦闘を一度も経験せぬまま亡くなったパイロットでした。

この詩は彼が高高度のテスト飛行の経験から着想を得たものです。

 High Flight 高高度飛行

ああ、僕は地上の不遜な束縛から逃れ
笑いに包まれた翼で大空を舞った;
太陽に向かって登った
そして百のことをした
君が夢にも思わないようなことを

太陽に照らされた静寂の中で
そこでホバリングし
叫ぶ風を追いかけ、足跡のないホールの中を
僕の熱心な船は、足のない空気のホールを通り抜けた

上へ、上へ、長く譫妄のように燃える青を、
風の吹きすさぶ高台を、いともたやすく駆け上ってきた
ヒバリも鷲さえも飛んだことのない場所を

そして、静かな高揚した心で
そして、静かな高揚した心で、僕は宇宙の高みへと足を踏み入れた
そして手を差し伸べ、神の御顔に触れるのだ

続く。



爆撃士官「キッド・ワンダー」〜メンフィス・ベル アメリカ国立空軍博物館

2023-11-28 | 飛行家列伝

B-17爆撃機、メンフィス・ベルのメンバーから、今日は
パイロット以外の士官のうち一人を紹介します。

「アメリカ軍の爆撃スキルと装備は私の知る限り世界一だ。
このことに疑いを挟む余地はない」

と自らの強さを力強く断言したのは、ヴィンス・エバンス大尉、
メンフィス・ビルの爆撃士です。

船なら「砲雷長」に相当する爆撃機爆撃担当の士官を日本でなんと呼ぶのか、
ちょっとわからなかったのですが爆撃士とここでは書きます。

英語では、爆撃担当の下士官兵のことも、
爆撃機から爆弾をリリースする士官も、Bombbardier、
ボンバルディアというフランス語源の言葉になります。

さらにこの単語の読み方ですが、フランス語ならボンバルディエ。
しかし、ピッツバーグでよく散歩したオハイオ川のほとりにあった会社、
カナダの「Bombardier」はボンバルディアと読むらしいです。

さて、メンフィスベルのボンバルディアである、
Vinson ‘Vince’ Evans ヴィンソン「ヴィンス」エヴァンス 

メンフィス・ベルの写真を見ても、動画を見ても、
この人物の特徴的な顔は、一目で他の人との見分けがつきます。



映画「メンフィス・ベル」で爆撃手を演じたのはビリー・ゼインでした。

あの「タイタニック」のローズの金持ちの婚約者役、
あの見るからにキレやすくDV亭主になりそうな(というか実際殴ってたし)
冷酷かつ完璧にエレガントな男っぷりが印象的な俳優です。

「メンフィス〜」では、医学生であるとついた軽い嘘に自分が苦しめられる、
内心に葛藤を抱えた複雑な育ちの青年士官という役どころ。

最後のミッションでメンバーの一人が重傷を負った時、
医学生なら助けられるだろ?と皆に詰め寄られて
医学部は1週間でやめたんだ〜!とぶっちゃけるシーンが忘れられません。

■ 生い立ち

人は彼を「キッド・ワンダー」と呼びました。
それは、彼が次に何をするつもりなのか誰にも予想がつかなかったからです。

妹のペギーによると、こんな逸話がありました。

「11歳くらいのとき、父の車でダウンタウンに来ていた彼が、
こっそり自分で運転して家まで帰ってしまったことがありました。
父親はダウンタウンで置き去りにされ、立ち往生です。

家にいた母親は車が帰ってきたのを見ましたが、
11歳の彼は運転席に座るとほとんど外から姿が見えなかったので、
母親は無人の車が帰ってきたように思ったそうです。

彼がどうやって古いウィペットのクラッチとブレーキペダルを踏めたのか、
わたしたちにも誰にも全く想像がつきません」

彼は1920年にテキサス州フォースワースで生まれ、
高校を卒業後、ノース テキサス教育大学に通いました。

その後若くして起業し、伐採会社を経営して成功していましたが、
ヨーロッパで戦争が激化すると、実業に興味を失った彼は、
血気盛んな青年らしくスリルと興奮を求めて
真珠湾攻撃の直前にパイロットを目指して空軍に入隊しました。

ただ、ソロに十分な資格が得られず、爆撃機に転向することになりました。
つまり操縦の技術は今ひとつだったってことでしょうか。
しかし、配置されたところで、彼は才能を発揮しました。

彼は爆撃手として必要な素質を持っていたのです。


■ 派手だった女性関係

モーガンもそうでしたが、二十歳そこそこの搭乗員を色々と掘り下げても、
英雄的な話なんぞ滅多にあるものではなく、
だいたい出てくる話は女関係くらいのものです。

ということで、なまじメンフィス・ベルで有名になってしまったため、
他の男子ならまーそういうこともあったよねー程度で忘れられる話が、
彼の場合もこうして歴史に残ってしまうのだった。🙏

それでは彼の「ザ・クズ」エピソードの数々をどうぞ。

大学卒業後すぐに事業を始めていたヴィンスは、
航空隊に入りワラワラに着任する頃には、すでにバツイチとなっていました。
(モーガンはそのころバツ3ですが、この人は特殊だと思います)

そして第91爆撃隊の一員としてイギリスに向かう二日前、
ディニー・ケリーという女性と結婚しました。
つまり彼らは二日間だけの甘い新婚生活を送ったわけですが、
この二日が彼らの結婚のピークであり最後でもありました。

なぜなら彼はそれっきり彼女のもとに戻ってこなかったからです。

イギリスに到着するなり、彼は基地近くの農家の娘と仲良くなり、
彼女に会うために毎晩基地からこっそり抜け出し、朝になると
彼女にもらった新鮮な卵と牛乳を持って戻ってくるようになりました。

そのおかげで、彼はしばらく「エッグ・オフィサー」と呼ばれていました。
そしてその農家の娘というのは、モーガンに言わせると

「彼女『も』本当に可愛かったよ」

「も」ってなんなんだ「も」って。

それはモーガンに言わせると、エヴァンスが狙った女の子たちは
例外なくほとんど可愛かったからという意味だそうです。

また他の乗組員の証言によると、エヴァンスは、イギリスツァー中、
農家の娘の他に少なくとも 2 人の女性となんかあったそうです。

一人は、エヴァンスがロンドンで出会ったケイというナイトクラブの歌手。
農家の娘、ナイトクラブの歌手って本当に好みのレンジが広いな。

このケイという歌手とは割と本気だったようで、
戦後は彼女とイギリスで結婚するつもりだという噂もあったほどです。

そして彼女と任務以外の時間をずっと一緒に過ごすためにロンドンに滞在し、
早朝にモーガンや友人に電話して「試合」の予定があるかどうかを確認し、
そうでない場合はそのまま彼女の部屋にいたそうです。

すでに「ゲーム」が始まりかけていて、慌てて基地に戻った彼が
爆撃機の出発ぎりぎりに滑り込む、ということもありました。

「機がすでに離陸線に向けてタキシングしていたところに、
遅れた彼は走ってきて、飛行機に”スクランブル”をかけてきました。」

戦地にいる士官で、しかも航空だからおおごとにならなかったみたいだけど、
海軍ならこれ懲戒(下手すれば軍事裁判)だよなあ・・・。

まあ、我が帝国海軍でも、中尉が呉から出航する軍艦に乗り遅れ、
早船をチャーターして追いつき、なんとか乗り込むも新聞沙汰、
という事件があったといいますが・・。

【ゆっくり解説】悲報・帝国海軍中尉、遅刻して置いてかれる。

この海軍中尉もクラブの歌手、じゃなくてレスのエス(エスはシンガーのS)
つまり置屋の芸者と後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しんでいたのかしら。


そして帰国してからの彼のお相手ですが、これがなんとハリウッド女優でした。

メンバーはアメリカに帰国した時、ヨーロッパでワイラーが撮影した
陸軍省の映画の背景音声を吹き込む仕事のため、
ハリウッドに立ち寄るということがあったのですが、そこで彼は
魅力的なスターレット、ジーン・エイムズに出会ってしまいました。



二人の間に新たな火花が飛び交い、アメリカに帰国した途端、
彼はイギリスの彼女、ケイの記憶を失ってしまいました。

戦後、彼は脚本家としてハリウッドで仕事をするようになりますが、
そのきっかけとなったのは、このときウィリアム・ワイラーが彼を
メンフィス・ベルの映画の一種の「技術顧問」扱いしたことでした。

そのため彼は他の乗組員よりもハリウッドとカリフォルニアで
多くの時間を過ごし、女優と浮き名を流すことにもなったわけです。

それにしても可哀想なケイ。そしてディニー。
・・・・あれ?・・・ディニー?DINNY?



彼が爆撃手として配置されるノーズの下の文字、見えますかね?
DINNY・・・これって・・二日間結婚していた人。

エヴァンスはこのことについて新聞記者に問われ、こう言い放ちました。

だって仕方ないじゃないですか。
僕たちは結婚する数日前に知り合ったばかりだったんだし」

そう、そして二日後ヨーロッパに行っちゃったんですよね。
なら結婚なんかするなっつーの#

メンフィス・ベルのマーガレットも、ディニーもそうでしたが、
男たちがヨーロッパに戦いに行ってからの半年、
彼女たちは婚約者と夫の無事だけを祈り、彼らのことだけを考えて
帰ってくる日を指折り数えて待っていたのです。(そのはずです)

しかし、ああしかし、若い男、ことに明日の命を知れない
有り余るエネルギーを持て余す男たちにとって、半年は長すぎました。

帰ってくるなり女優と派手に付き合い出したことは、
いやでも彼女の耳に入り、(新聞記者の口から聞かされたりする)
彼の不実さに激怒した彼女は、

「彼が自分のところに戻ってきて、ちゃんと説明しない限り
わたしは絶対に離婚しない!

と宣言し、彼の妹も彼女に味方して兄を責め立てました。
彼の妹ペギーは、兄について後年しみじみとこう語っています。

「私の兄は真の’スカートチェイサー’でした。」

スカートチェイサー、意味はお分かりですね。
しかも彼は、ほとんど目先のことしか考えない短慮な男でもありました。

「ある日、エヴァンスから電話がありました」

ボブ・モーガンはインタビューで回想しています。

「絶望的な様子で彼は言いました。
『ボブ、僕を国外に出られるようにしてもらえないか?』と」

前にも書きましたが、当時モーガンはB-29に乗るための訓練中でした。

この新型爆撃機に魅せられた彼は、メンフィス・ベルの後も軍に残り、
B-29に乗って日本への攻撃に加わるわけですが、ベルのメンバーで
たった一人、彼についてきたのがこのヴィンス・エヴァンスでした。

その理由は、モーガンのように新型機に魅せられたからでも、
モーガンを慕っていたからでも、ましてや国を思ってのことなんかでもなく、
とりあえずディニーから逃げるためだったのです。

「なぜ彼がそんなに切羽詰まっていたかですか?
それはですね、ヴィンスはジーンと結婚したみたいなんですけど、
自分がまだディニーと結婚していたことを忘れていたらしいんです」

んなわけあるかーい(笑)

B-29に乗るのも命の危険があることは彼も百も承知だったでしょうが、
ことをうやむやにできるなら死も覚悟して、ってことだったんでしょうか。


エヴァンスと女優のジーンは1944年の9月17日に結婚しましたが、
一児(ヴァレリー)を設けたあと、すぐに離婚しています。

その子供については何もわかっていません。

■ 航空搭乗員としてのヴィンス・エヴァンス

機長、ボブ・モーガンは彼についてこう言っています。

「彼は乗組員にとって点火プラグみたいなもので、
他にあんな人材はいませんでした。
第 8 空軍で最高の爆撃手の一人でもありました」

メンフィス・ベルが爆撃任務の多くで先頭機に選ばれたのには
彼の爆撃スキルがその理由だったと言われています。

また25回の任務を遂行する戦闘航空乗組員の心理について、
エヴァンスはこんな洞察を提供しています。

「面白いことですが、何回爆撃任務を行っても、
恐怖から完全に抜け出すことはできません。
最初の 5 ~ 6 回の襲撃では、かなり緊張し、そのとき、あなたは
『私は生きてこの任務を終えることはできないだろう』と思います。

それについてちょっと運命論者となってしまうわけです。

そして20回目くらいになると、あれ、もしかしたら、
自分にはチャンスがあるかもしれないと考え始めるんですが、そうなると
自分で自分の心をバイオリンの弦を張り直すように締め変えます。

そして最後の 5 つのミッションに緊張して臨むんです


ボンバルディア、爆撃手の配置は、エポキシガラスのノーズの先端です。
戦闘中ここにいることがどんな危険なことかおわかりでしょうか。

ワイラー監督の「メンフィス・ベル」では、ここを攻撃されて負傷したり、
破損した先端から落下したナビゲーターがいたことが描かれています。


■ 戦後

戦後、人々はこの爆撃機エースが作家としても才能があることに気づきました。

実際彼は子供の頃から物語を書いており、素晴らしい想像力を持ち、
大学時代、彼は短編小説を書いて多くの注目を集めたこともありました。

ハリウッドに関わったことをきっかけに、彼は脚本を書きました。
ハンフリー・ボガート主演の「大空への挑戦(チェイン・ライトニング)」
ロック・ハドソン主演の「大空の凱歌(Battle Hymn)」
などの作品に彼の名前が残されています。

彼はエネルギッシュな人物で、執筆活動以外にも、
メキシコでボートを操縦し、ロサンゼルスでレストランを経営し、
カリフォルニア州ポモナでレースカーを運転したりしていました。

しかし、彼がこんなお金のかかる道楽にのめりこめたのは、
裕福な資産家、マージェリー・ウィンクラーと逆玉結婚したからでした。

彼はその潤沢な資産を元に牧場経営、レストラン経営をはじめ、
なかでもえんどう豆のスープのレストランは大成功し、
エヴァンス夫妻はロナルド・レーガンとも親しいセレブとなりました。

1979 年、ヴィンスはロンドンで100 年以上の歴史のある
イングリッシュ パブを購入して事業拡大しています。

■ 空に散ったボンバルディア

1980年4月20日、エヴァンスは妻、23歳の娘ベニシアとともに、
24歳のパイロット、ナンシー・マインケンの操縦する
エヴァンスの専用機でパロアルト空港を離陸しました。

エヴァンスが操縦士免許は持っていたものの計器の資格がなかったこと、
そしてその日曇っていたことが事故につながりました。

彼らの飛行機は、計器着陸の指示を求める無線を最後にレーダーから姿を消し、
その日は悪天候と暗闇のため2時間で捜索は打ち切られました。

翌日早朝、飛行機の残骸と彼ら全員の遺体が丘の中腹で発見されました。

事故を報じる新聞記事

息子のピーターは、飛行機に乗っておらず命拾いしています。
妹のペギーによると、事故の前、彼は病気の母親を見舞い、

「お母さん、早く良くなってね。
元気になったらメンフィス・ベルを見に連れて行ってあげたい」

といったそうです。

エース爆撃手であり、ロマンティックでエネルギッシュな実業家、
「キッド・ワンダー」の旅が終わりを告げたのは、その10日後でした。

妹のペギーは、

彼は残りの人生においてその名前に忠実に生きたのだと思います。」

と語っています。


続く。


ヴェリニス大尉と愛犬シュトゥーカの物語〜メンフィス・ベル 国立アメリカ空軍博物館

2023-11-25 | 飛行家列伝

メンフィス・ベルの搭乗員について、国立空軍博物館の展示をもとに
順番にお話ししていこうと、機長のボブ・モーガンから始めたところ、
この人のパーソナルライフ(というか女性関係)がぶっ飛んでいたので、
つい一項を割いて、彼の6人の妻と恋人について語ってしまいました。

なんというか、モーガンの天然さと、ベルのノーズアートのモデル、
マーガレット・ポークの品格が際立つ話でしたね。

今日もベルのクルーの紹介をしていこうと思います。
ということで、副機長のジム・ヴェリニス大尉です。

■ ジェームズ・ヴェリニス大尉 副機長

"今、クルーは、任務終了まで25回しかないことを知っている。
士気は上々だ。”


ジム・アンジェロ・ヴェリニス

任務終了まで25回、ということは、これから任務開始ってことですね。

前にも書きましたが、メンフィス・ベルの副機長として帰国し、
国債ツァーに参加したヴェリニス大尉が実際にベルの副機長として飛んだのは
一度だけで、後2度、機長としてベルを率いました。

彼が選ばれたのは、ベルの前に彼自身が率いるB-17で任務を行い、
通算25回に相当する実績を上げていたからだと思われます。

博物館には彼がツァーのため渡欧していた6ヶ月のうち、
2ヶ月しか埋められていない「1日1ページ日記」が展示されており、
上の言葉はそこに書き記されたある日(任務開始前)の記述です。

しかし、任務が始まってから2ヶ月目、ヴェリニス大尉は
同じ日記にこのように書き記しています。



”コンバットの影響は着実に出ている。
みんな家に戻ることばかり考えている。
現在までに隊員の約3分の1を失ったわけだが、

まだ任務の半分も完了していない。
なんて危険な毎日なんだ!!!!


ヴェリニス(Verinis)という姓はギリシャ系です。
ギリシャから移民してきた両親はアイスクリーム店を営んでいました。

彼はコネチカット州ニューヘブンで育ち、大学卒業後、
航空士官候補生として1941年 7月に陸軍航空隊に入隊します。

航空訓練で最初の単独飛行となったとき、
彼は着陸の際水平飛行にできず機体を失速させてクラッシュしています。

そのとき彼は全身にガソリンをかぶったまま機内に閉じ込められ、
火が出る前にコクピットから引きずりだされて出され、
命は助かったものの、顔と頭を何針も縫う怪我を負いました。

結局ソロで飛ぶ戦闘機には「飽きた」として、ヴェリニスは、
B-17のファーストパイロットの資格を取りました。

ヴェリニスを含む搭乗員たちはヨーロッパに送られたものの、
しばらくは編隊飛行の練習などで出撃させてもらえませんでした。
彼は、そのむしゃくしゃする思いを日記にこのように綴っています。

10月13日
「まだ何もさせてもらえない」

10月15日
「アンクルサムはいったい何をしていることやら」

10月17日
「最近はよくポーカーをやっている」

10月23日
「誕生日おめでとう、俺!
ケンブリッジのアメリカンバーでちょっとしたパーティーを開いた。
魅力的な英国の女の子が集まるレックス ボールルームに行ってきた!」

そしてこの1週間の間に、事態は動きました。
機長として彼が率いるB-17が決まったのです。

10月31日
「今日、航空団本部は我々を引き継いだ。
これで戦闘の準備が整った。
もう出撃までそう長くはかからないだろう。」

1月12日
「私には新しい飛行機が割り当てられた。
”コネチカット・ヤンキー”と名付けることにした。
彼女の”歪み”を直すのに忙しい」



「コネチカット・ヤンキー」の指揮を取ることになったヴェリニス大尉
(後列左)

ヴェリニスの個人認識用ブレスレット

BBCのインタビューに答えるヴェリニス大尉


映画で副機長のルークを演じたのは、テイト・ドノバン
上層部との話し合いでシャッターにポーズするルークは、
このとき「女の子が目当てでプールの監視員をした」などと言っています。

女の子が好きで陽キャラという彼の映画での描かれ方は、
キャラ付けというやつで、実際そうだったかどうかはわかりません。

この俳優テイト・ドノバンですが、ディズニーのアニメ、

「ヘラクレス」で主人公ヘラクレスの声優を務めています。

(さらに余談中の余談ですが、ヘラクレスのテーマソングを歌っていたのは、
『デスペレートな妻たち』でブリーに言いよる不気味キャラの薬剤師、
ジョージを演じるロジャー・バートだと知った時は衝撃でした)

ところで、実際の写真でも、映画でも、マスコット犬を抱いているのは
この副機長ということになっています。

今日はメンフィス・ベルのマスコット犬についても話します。


■ マスコット犬 シュトゥーカ


マスコット犬シュトゥーカはヴェリニス大尉の飼い犬でした。

シュトゥーカはドイツの急降下爆撃機、ユンカース 87 の名称です。
Sturzkampf-flugzeug (シュトゥルツカンプ-フルークツァウク)
という単語の短縮形で、英語に訳すとそのまま「急降下戦闘機」という意味。

1943年の春、メンフィス・ベルの副操縦士であるジム・ヴェリニスは、
元気いっぱいのスコティッシュテリアの雌の子犬にこう名付けました。

シュトゥーカの物語は、1943年の2月か3月頃から始まりました。
ヴェリニスは、メンフィス・ベルのナビゲーターであるレイトンとともに、
ある日リラックスするためにロンドンに小旅行に出かけました。

彼らが通りを歩いていてペットショップの前を通りかかったとき、
窓を通して小さな子犬が目につきました。
小さな犬は覗き込んだ彼に強くアピールしたので、
彼は店に入ってすぐに彼女を買い求めたのです。

「正確な値段は覚えていませんが、アメリカドルで50だったと思います。」

この「急降下爆撃機」がアメリカ軍に与えた最大の攻撃はというと、
兵舎の寝室の床に置かれた主人の靴下を噛み砕くことでした。

帰国後、副機長の連れていた犬はすぐに話題になり、

「実際に酸素供給装置を備えた小さな箱に入れられて
メンフィス・ベルの爆撃任務に参加した」

という噂がまことしやかに新聞記事になったこともありますが、
ヴェリニスはそれを否定しています。

「どこからそんな話がでてきたのかわかりませんね。
誰かがでっち上げたんだと思います。
もし爆撃機が高度 10,000 フィート以下しか飛ばないなら、
シュトゥーカを乗せて飛ぶこともあるかもしれませんが、

そもそもミッションの時はそんな低空で飛行しませんから

映画メンフィス・ベルでは、最後のミッションからベルが帰ってきたとき、
地面に寝そべっていた犬(黒のスコッチテリアではない)が、
機影も見えず爆音も聞こえないのに、ぴくんと耳を立てて頭をもたげ、
エプロンに向かって一目散に走り出すシーンがありました。






ミッションに参加しなかったシュトゥーカはもちろんですが、
実際にも彼の飼い主は25回のミッションを生き残り、
彼らは一緒にアメリカに行くためB-17に乗り込みました。

「そのときが彼女にとって初めての飛行機搭乗体験だったと思います。
エンジンがかかり、飛行機が動き始めると、彼女は緊張して、
前後に走りまわりましたが、吠えたり叫んだりはしませんでした。」

これまでにも書いたように、機長のボブ・モーガンは腕のいい操縦士で、
それゆえ特に公衆の面前では、ここぞとスタントを行うのが常でしたが、
彼女は最初こそ少しびっくりしていたものの、すぐに慣れて、
新しい都市に到着するたびに飛行機の中で振り回されても全く平気どころか、
あらゆるワイルドな事態を楽しんでいるかのように見えたそうです。

どこにいってもシュトゥーカは群衆に大好評でした。
人々はこの可愛らしい犬に熱狂し、彼女はというと、
自分が注目を集めることを楽しんでいるようだったそうです。

各都市に到着するたびにメンバーは地元でパレードを行いましたが、
シュトゥーカはまるで女王様のように見物人に迎えられました。

メンフィス・ベルを報じるマスメディアのカメラマンは、
こぞって「空飛ぶ犬」の画像を求めて彼女を追いました。

そして今でも良くある話ですが、犬は、女の子を誘うための餌、
じゃなくて、格好の口実にもなってくれます。

「でさ、今泊まってる部屋にその犬がいるんだけど、見にこない?」

「え〜?犬なら見たいわー」

彼女らはホテルのドアを開けるとそこにシュトゥーカがいるのを見ると、
例外なく驚いて、こう言ったそうです。

「へえ、本当に犬を飼っていたのね」

ちょっと待て。
「彼女”ら”」?

どうもこの言い方だと、ヴェリニス大尉、ツァーの間中、
犬の話で女の子を誘って何人も部屋まで連れ込んでいた模様。

そして女の子たちも彼の犬話を単なる口実だと思っていた模様。
口実とわかっていてあえて連れ込まれてあげる的な。

あっ!

今気がついたんだけど、マーガレットとモーガンがツァー後別れたのは、
モテモテの搭乗員たちが、このように各地で遊びまくっているのに、
公式な「婚約者」同伴のモーガンにはそのチャンスがなかったからか?

それとも、彼女がいるのに同じように羽目を外したからか?


■ シュトゥーカの ”ショートスノーター”

その頃、シュトゥーカがウィスキーが好き、という噂が広まりました。

何人かが面白がって犬にソーサーいっぱいのウィスキーを渡すと、
驚いたことに彼女はそれを本当に飲んでいたそうです。

「彼女は少しよろめき、おどけた様子でどこかへ行って
横になって眠っていました。」

これ普通に動物虐待でしょう。
犬はアルコールを体内で分解することができないので、お酒は絶対ダメ。
シュトゥーカのその後って、どこにも書いていないけど、
天寿を全うできた気がしない・・・。


ところでお酒といえば、「混合酒一杯(少なめ)」を語源とする、
「ショートスノーターshort Snorter
というものをこ存じでしょうか。

大西洋を飛行機で横断する搭乗員が「お守り」にしたもので、
1ドル札にいろんな人のサインを書き込んで、それを携帯します。



上はヴァンデンバーグ将軍が1942年に作ったショートスノーター。

ハップ・アーノルド、アイゼンハワー、ルイス・マウントバッテン提督、
共和党のジョン・タワー
(当時海軍にいた)など有名人のサインがあります。
(ちなみにタワーは後年航空機の墜落事故で死亡している)

名前を書くスペースがなくなったら、新しい1ドル札でまたそれを始めます。
これを大量にコレクションしている搭乗員もいたそうです。

戦闘の無事ではなく、あくまで「太平洋横断の無事」を祈るものなので、
ヨーロッパからアメリカに帰国する搭乗員は皆これを持つのですが、
シュトゥーカも犬の分際で自分のショートスノーターを持っていたそうです。

さすがの有名犬、彼女のショートスノーターには

「クラーク・ゲーブル、バージェス・メレディス、
映画『ベル』を作ったウィリアム・ワイラーなどのサインがあった」

ということです。

挨拶するメンフィス・ベルのメンバーとシュトゥーカ

5:54で彼女がヴェリニス大尉によって一瞬紹介されています。


続く。



モーガン大尉の6人の妻〜メンフィス・ベル アメリカ国立空軍博物館

2023-11-23 | 飛行家列伝

さて、国立博物館のメンフィス・ベル展示から、
25回ミッションを達成して帰国後ツァーを行ったメンバーについて
さらっとお話ししていくつもりだったのですが、
機長のロバート・モーガン大佐(最終)という人について
「メンフィス・ベル」のモデル、マーガレット嬢との関係を始め
色々とすごかったので、彼の功績とかメンフィスベルの戦歴とは
全く関係ないことですが、余談としてお話ししておくことにします。

【生涯に6度の結婚】

ベルのミッション25回終了後、帰国して戦債ツァーに参加した彼は、
その後も軍に残り、少佐に昇進して太平洋戦線に赴きました。

彼はサイパンから発進する
B-29スーパーフォートレス「ドーントレス・ドッティ」
の機長として日本本土への爆撃任務を行い、
その年の終戦を受けて現役を引退し予備役にとどまりました。



ちなみにこのB-29の愛称、「ドーントレス・ドッティ」は、
彼の4番目の妻
ドロシー・ジョンソン・モーガンにちなんでいました。

4番目!とわたしも最初は驚きましたが、よくよく読むと、
彼は生涯に結婚した相手だけで6人、お付き合いした人は数知れず。

「(自分の人生には)酒と女と歌が多すぎた」

と自ら豪語する、派手な女性遍歴の持ち主だったのです。


いわゆるMMK

■最初の結婚 ドリス

最初の結婚はなんと彼15歳のとき、公立高校の13歳の下級生、
ドリス・ニューマンと駆け落ちしたときにさかのぼります。

駆け落ちながら、正式に婚姻届を出したらしく(出せたんですね)、
結婚日は1931年6月6日、そして9日後の6月15日に離婚。
(見つかって連れ戻され、怒られて諦めたパターン)

このことは公式にはなかったことにされていたのですが、
彼がなまじ有名人になってしまったことでジャーナリストに掘られ、
ゴシップとしてすっぱ抜かれたという形です。

ですから、今でもこの結婚歴は媒体によってはなかったことになっています。


この頃から、彼の実家モーガン家には次々と不幸が連続しています。
まるで息子の15歳駆け落ち事件がきっかけだったかのように。

まず、回復不可能なガンにかかった妻が悲観して拳銃自殺。
まだ若い母を失ったボブは、これに打ちのめされます。
そしてほどなく大恐慌が起こり、父が経営していた家具製造会社は
ほとんど倒産に追い込まれ、父は家を売る羽目になり、
しばらくは自分の会社の倉庫で警備をしながら暮らしていたほどです。

しかし、よほどガッツのある実業家だったのか、モーガン父はその後
頑張って会社を立て直し、復帰どころかなんなら前より事業を拡大し、
息子をアイビーリーグに入れられるほどの生活水準に戻しました。

実業家の鑑(かがみ)、まさに尊敬すべき父親です。

ところが息子ときたら(学業の方はちゃんとやっていたようですが)
またもや、女性関係でやらかしてしまうのです。

■第二、第三の結婚 アリス、マーサ

やらかしというのは、大学在学中となる彼20歳の夏に
アリス・レーン・ラザフォードという女性とまたしてもノリで結婚。
本人の証言によると、

「結婚生活は秋まで続いたが、また離婚になってしまった」

ひと夏の恋ならぬ結婚だったわけですね。


そしてその次の結婚はこのときから3年後、23歳のときです。
少尉に任官したときに、ウィングマークを彼の制服の襟に留めた女性、
ペンシルバニア大学の同級生、マーサ・リリアン・ストーン嬢

3度目の結婚をしました。

彼がウィングマークを取得したのは真珠湾攻撃の6日後で、
結婚はその2週間後だったということなので、
1941年の12月年末に結婚式を行ったと考えられます。

しかしながら、その結婚は予想に違わず、彼が
第91爆撃隊に配置転換された翌年5月にはもう終わっていたようです。

つまり半年も保たなかったということです。
せめて半年くらい付き合っていれば、戸籍に傷をつけずに別れられたのに。

まあ、アメリカ人に「戸籍に傷」なんて概念ありませんかね。

そんな早く離婚するならなんで結婚する?と問いただしたくなりますが、
当時の男女は「お付き合いイコール結婚」でしたし、なによりこの頃、
ボブはとにかく仕事で怒られっぱなしで、かなりの心労が重なり、
与えられた任務をこなすだけでいっぱいいっぱいの状態でした。

その上、彼は仕事でもやらかしが多かったようです。

「マクディルに駐留している間、よく湾内の対潜哨戒に駆り出された。
潜水艦を見つけたことは一度もないけれど、ある日曜日、
きれいな芝生のある大きな家でパーティーをやっていたので、
僕は飛行機をパンチボウルに落とすくらい低空飛行させてみた。

後からパーティーをしていたのが司令官の家だったと知った。

翌朝、指揮官に呼び出され、散々叱られて、
"あの提督の指揮下にいる限り、昇進はないと思え"と言われた。」


その後、モーガンはワラワラに転勤しますが、そこでも彼は
軍の規則で義務付けられている制帽の着用を拒否し、
裸で飛び回っていたため、ウェストポイント出身で
予備航空士官を毛嫌いしていた士官に連日叱責され、
あらゆる汚れ仕事を押し付けられるという目に遭っています。

「訓練中の飛行機が山中に墜落し、搭乗員全員が死亡したとき、
彼は遺体を回収しに行く仕事を私に命じた。」


士官学校卒が「本チャン」ではない大学出の士官、
正規軍と対等に飛行できるようになったパイロットを虐める、
というのはアメリカでもあったことなんですね。

その頃、彼は「メンフィス・べル」マーガレット・ポークと出会いました。

彼女とは婚約指輪を贈るところまで行ったはずなのに
どういうわけか、結婚には至らなかったのはお伝えした通りです。

これまでの3回、ほとんど脊髄反射で付き合うと同時に結婚してきた彼が、
なぜマーガレットとはあれだけ騒がれていたのに結婚しなかったのでしょうか。

写真を見てもわかるように、モーガンはMMでした。

背が高く(おそらく185cmくらい)すらっとして端正な顔立ちにブルーの瞳、
育ちの良さそうな物腰にアイビーリーグ出身の学歴。
しかも今一番ホットな職業であるミリタリーパイロットです。

こんな優良物件、女の子が放っておくはずがありません。

彼自身が言うように、彼の周りには常に女の子が群がりよりどりみどり。
おそらくマーガレットは、そのうちの一人として
たまたまつきあっていただけの女性だったのではないでしょうか。



映画でも到着後機長がコクピットの写真を手に取るシーンがあります。
任務の間、彼がマーガレットを思っていたのは嘘ではなかったでしょう。

帰国したモーガンは迎えにきていたマーガレットにキスし、
その写真は翌日新聞の第一面を飾りました。


後ろの士官の無関心なこと(笑)

そして、その後、彼女は6月から始まった戦時公債ツァーに同行しましたが、
わずか2ヶ月後には彼らの恋愛は終わっていたといいます。

まあなんだ、勢いで結婚しなくてよかったね、としか・・・。

■第四の結婚 ドロシー

モーガンは、帰国後のツァー途中でボーイングの工場を見学し、
そこでB-29に魅せられてこの爆撃機に乗るキャリアを選択しました。

彼が4度目の結婚をしたのはB-29指揮官となる頃のことです。
相手は、彼のB-29の名前となったドロシー・ジョンソンでした。

ドロシーとは1979年に離婚していますが、彼女との間には
ロバート・ナイト・モーガンJr.という男児始め、
4人の二男二女を設けています。

ドロシー・ジョンソン・モーガン逝去のお知らせ

彼がB-29でサイパンから出撃した回数は26回で、
1944年の11月から1945年の3月にかけてのことです。

そして戦争が終わると、予備役に籍を置いたままかれは
一般人としての生活に戻りました。
飛行時間は2,355時間、引退の正式な日は1945年9月9日でした。

マーガレットとの再会

父の遺した家具会社を経営しながら民間パイロットを目指しました。
B-29についてきてくれた爆撃手のヴィンス・エバンスは
ウィリアム・ワイラーの伝手で映画の脚本家になっていたため、
彼の人脈からTWAのパイロットの仕事を紹介されたのですが、
どう言う理由か、就職にはつながらなかったようです。

そこで実家の家具会社を存続させつつ、VWビートルの販売をしていました。
ドイツの工場に爆撃を落として英雄になった男がドイツ車を売るというのは
なにやら皮肉に思えますが、本人的にはなんともなかったのでしょうか。


そしてドロシーとの結婚生活ですが、専業主婦の彼女とのあいだに子をなし
生活に追われるうちに、モーガンの悪い癖が頭をもたげてしまいました。

ドロシーはモーガンが初めて半年以上結婚生活を持続させた相手ですが、
それは彼女を特に愛していたからとかではなく、子供も生まれたこと、
そして彼がその頃すでに「制服マジック」が解けたただの男となり、
以前ほど女性が群がってこなくなったからだったんだろうと思います。

現に、50年代、彼らの夫婦仲は崩壊と修復の繰り返しだったそうですし。

そんなとき、かつてのパイロット時代の栄光の残渣というか、
残光が、彼の男心?に火をつけてしまうのです。

あるとき、出張でボブはメンフィスに行き、
モーガン・マニュファクチャリング社の関連工場を訪れました。

その際、下心満載でボブはマーガレットに電話をかけて連絡をとり、
独身だった彼女もそれに応じ、
二人は再会してしまいました。

それではご本人の自伝から、このときのことを語っていただきましょう。

『束の間の悲しい時間、

私たちのロマンスは再び燃え上がった。
私たちは何度か会った。
いろいろな場所で会う約束をした。
手紙を書き、愛し合い、議論した。
それはすぐに終わった』。


・・・まあそうなるでしょうな。

言うてこの頃はまだどちらも30代ってところですから、
焼け木杭に比較的火もつきやすかったんでしょうけど、
ボブ、これ不倫ですよ?

一つ言えることは、あのとき結婚しなかったことが
このときの焼け木杭に火をつけたということでしょうか。




■ 第五の結婚ーエリザベス

ドロシーと1979年5月24日に離婚したモーガンは、
6月には5番目の妻エリザベス・スラッシュと結婚していました。

これエリザベスと不倫してたってことだよね?

ときにボブ・モーガン60歳。
彼らのハネムーンは、航空アーティストのロバート・テイラーが描いた
メンフィス・ベルの版画にサインをしに行くことでした。

エリザベスとの結婚は、彼女が1991年肺がんで他界するまで続きました。

彼女の死のおよそ1年前、彼らは1990年公開の映画
「メンフィス・ベル」の撮影を見学に行き、宣伝活動もしました。

そのとき出席していた8人の元クルーとともに、モーガンは
映画スタッフに本物の台詞やディテールに関する提案をしたにもかかわらず、
監督のマイケル・ケイトン・ジョーンズは彼らの協力を断っています。

その結果、映画はボブ・モーガンが見事に控えめに言ったように、
『歴史的に不正確な』ものになってしまいました。

このことは元クルーたちにとっては苦い記憶となったことでしょう。

■ 第六の結婚ーリンダ

エリザベスが亡くなってわずか3ヶ月弱後の4月、モーガンは
航空講演会の広報担当だった47歳のリンダ・ディッカーソンと知り合い、
4ヶ月後には25歳の歳の差結婚式を挙げていました。

相変わらず切り替えと結婚に至るまでの時間が短か過ぎ。



このとき二人は、よりによってメンフィス・ベルの前で結婚式を挙げました。
エノラ・ゲイの機長だったポール・ティベッツ准将が司祭役となり、
副機長だったジム・ヴェリニスがベストマンを務めるという演出です。

しかし、この企画には批判も多くありました。

「有名な爆撃機の翼の下で開催されるこの結婚式は、
今は亡きマーガレット・ポークの記憶への侮辱であると強く感じる。
モーガン大佐の宣伝のための安価な策略であり、極めて悪趣味だ。
ましてやマーガレットがそのアイデアを喜ぶなどと誰が思うだろうか。」

彼らの結婚を報じるシカゴ・トリビューンの記者に、モーガン自身が

「ポークさんとは結婚しませんでしたが、
戦時中のロマンスを共有した間柄ですので、自分がモデルの
グラマー・ガールを描いた爆撃機の機首の下で行われる結婚式を
認めてくれるでしょうし、喜んでくれると思います」

ぬけぬけと?こう語ったのが反発を呼んだようです。
マーガレット・ポークは1990年に68歳でがんのため亡くなっていました。


■ マーガレット・ポークとメンフィス・ベルの銅像

冒頭の写真は、メンフィス、オーバートン・パークの退役軍人プラザにある
マーガレット・ポークと「メンフィス ベル」の乗組員の記念碑です。

ポークとモーガンは結局結婚することなく終わりましたが、
だからこそ?彼女が死ぬまで二人は良い友人だったそうです。

戦時ツァーの終了とともに別れた後、彼女は航空会社の客室乗務員になり、
28 歳で結婚して数年後離婚しています。

弁護士だった父親の財産を相続した彼女は、その後結婚せず、
さまざまな慈善団体、特にアルコール乱用に対処する団体を支援し、
「メンフィス・ベル」の存続のためにも寄付を惜しみませんでした。

退役軍人プラザの記念碑は、ベルというより彼女を称えるためのもので、
それはあたかも彼女の名を冠した爆撃機が飛ぶのを見上げているかのように、
頭を空に向けて傾け、右手で目を太陽から守っている彼女の姿です。



像の石灰岩の台座の裏側には、彼女の「愛の物語」を伝える銘板があります。


続く。

”デアデビル”オマー・ロックリアとジェニーJN−4〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-21 | 飛行家列伝

潜水艦内部ツァーまでの時間潰しとして観た、
シカゴ科学産業博物館、MSIの展示から、
今日は「飛ぶもの」=飛行体をお送りします。

■ カーチスJN-4D ”ジェニー”と
命知らずのバーンストーマー



このパートは「スモーラー・エアクラフト」と言って、
文字通り小さめの航空機がドームの天井を飛翔しているように
生き生きと展示されています。

この「ジェニー」も、よくよく見れば、ループを描いて
上下逆さまになった瞬間が再現されているのです。

1917年のカーチスJN-4D、通称「ジェニー」は、
軍事、レクリエーション、商業航空に大きな影響を与えた飛行機です。

何千人ものアメリカ人に初めて飛行機を見せることで、
航空の魅力を広く伝える働きをしました。


ジェニーのパイロットは、人々の目を引くために
飛行機をドラマチックな体勢に宙返りさせています。

まさに、バレルロールで逆さまになっている真っ最中。



よく見ると翼の上でスタントしている人がいます。


はい、これが実際の写真。
本当にこんなことやってたんですね。

写真に写っている人は
「デアデビル・オマー・ロックリア」
(命知らずのオマー・ロックリア)

という伝説のエアリアル・スタントマンで、
ジェニーの翼に脚だけでぶら下がって手を離すスタントを行なっています。


右上の筆記体は、

I'm all smashed up from doing stunts.
(わたしはスタントに完璧に打ちのめされた)

エアリアルスタンドのブームがきていたのでしょうか。
「フライング・デアデビルズ」というポピュラーソングの一節だそうです。

ちなみに「daredevils」というのは「向こう見ずな人」という意味です。

Free Stock Footage Flying Daredevil

どんな歌か調べましたがYouTubeにはありませんでした。

あと、この映像で翼にぶら下がっている人なんですが、
体重をもう10キロ減らした方が安全の面でいいのではないかと思います。


【スタントパイロットとバーンストーマーの登場】

 第一次世界大戦後、多くの元戦闘機パイロットが、
戦争が終わって使わなくなった余剰のジェニーを軍から購入し、
スタント・パイロットとして新たなキャリアをスタートさせました。



当ブログ的には繰り返しになりますが、
初めてアフリカ系アメリカ人女性としてプロのパイロットとなった
ベッシー・コールマンも、飛行技術をN-4ジェニーで習得しています。

彼女はテキサスに生まれ、フランスで飛行機の修行を積み、
シカゴに住んでいましたが、その場所は偶然
MSIからほんの1キロ離れたところだったそうです。



「バーンストーマー」
という存在について以前ここでも説明しましたが、
バーン=納屋という語源からおわかりのように、
スタントで人を集めつつ、農家の畑に飛行機を着陸させて、
集まった人々からお金を取り飛行機のライドを体験させる、
(基本的にどさ回り)というようなことを生業にしていた人です。

アメリア・イヤハートの最初の飛行体験も、
街にやってきたバーンストーマーに乗せてもらった飛行機でした。

ちなみにアメリカのディズニーワールドには、
「グーフィーのバーンストーマー」
なるジェットコースターライドがあるそうです。

Barnstorming

ジェニーを使ったバーンストームを紹介する番組です。

バーンストーマーは農家と契約して、
農家にも売上の一部を渡すことで場所を借り、
宣伝を行って人を集めるようです。
現代でもやっている人がいるんですね。

田舎では地域のちょっと刺激的な出し物として定着していて、
おそらくこれを楽しみにしている人も多いのでしょう。


【ジェニー・ストーリー】 

工場で大量生産されたアメリカ発の飛行機として、
カーチス JN-4D "ジェニー" は飛行を一般に公開しました。

なぜ愛称が「ジェニー」になったかというと、それは間違いなく、
JNという機体番号からと思われます。(調べてませんが)

ジェニーは、多くのアメリカ人にとって最初にその目で見た飛行機となり、
たくさんの飛行機の撮影現場で使われることになりました。

ジェニーは頑丈で機動性に優れていたので、
空中アクロバットが盛んに行われる一方、
初心者パイロットに最適の単純で信頼のおける操作性を保ちました。



1)後部のメインコクピットにはパイロットが搭乗

2)前部コクピットには乗客のための席

3)機体を牽引するプロペラ

4)ダブルデッカー(バイプレーン・複葉機)の翼は
一つの大きな翼を持つ飛行機より軽量でかつ強度に優れていた

5)フラップの補助翼(エルロン)のタイプにより、
飛行機は旋回、バンクをすることができた
このためバレルロールのようなスタントが可能となった




上の24セント切手は、アメリカ政府が
ジェニーを使用した航空便サービスを開始した記念に発行されました。

デザインで機体が逆さまになっているのは、
決してアクロバットをしているところを再現しているのではなく、
単に印刷した人が「間違えた」結果で、何枚かしか存在しないため、
これがレア切手になっているのだそうです。

まあ、郵便配達ではまず逆さまに飛行することはありませんから、
これを見たアメリカ人も「?」となっていたかもしれません。


当博物館に展示されているジェニーの現役時代の姿です。
今からフライトを行うところで、離陸の順番を待っているのだとか。

ジョン・L・ブラウンという人がかつてこのジェニーを購入し、
輸送パイロット兼バーンストーマーとして生計を立てていました。

彼のジェニーの尾翼には、価格表が記されています。



3分3ドル、5分5ドルで、宣伝をするためのバナーをつけたら
2航過飛行2ドル、3航過3ドル、5航過5ドルと明朗会計です。

1933年、彼はシカゴの A Century of Progress World's Fair で
このジェニーを使用した後、その飛行機を博物館に寄贈しました。


【命知らずのオマー・ロックリア】

MSIの模型でスタントをしている姿を再現された、
オマー・ロックリアについて最後にご紹介しておきます。



オマー・レスリー・"ロック"・ロックリア
Ormer Leslie "Lock" Locklear
(1891年10月28日 - 1920年8月2日)


は、アメリカのデアデビル・スタントパイロット、そして映画俳優でした。

彼のイケてる容姿と飛行サーカスはハリウッドの目に留まり、
航空郵便機が空中で悪者と戦うアクション映画、

『The Great Air Robbery』(1919年)

で主演を務めるまでに出世します。

20歳のころ、故郷フォートワースで有名なバーンストーマー、
カルブレイス・ペリー・ロジャース(当ブログでは紹介済み)
と出会った彼は、航空機に魅了されるようになりました。

そして1917年、アメリカ陸軍航空局に入隊し、
陸軍で訓練を受け、飛行教官として仕事をしていました。

第一次世界大戦末期、少尉だったロックリアは、
軍に人を集めるための広報部門に所属していましたが、
その頃実際に見たバーンストーミングショーより、
自分の普段の飛行活動の方がはるかに素晴らしい!と感じたことから、
陸軍の二人の同僚を誘って退役して、

「ロックリア・フライング・サーカス」

を結成し、活動を始めました。


でこういうことをやっていたと

彼のスタントグループは大成功で、マネージャーともども大金を稼ぎ、
そのお金で豪奢でモダンな生活ができていたといいます。

彼のトレードマークであるスタントは、
飛行機から別の飛行機に飛び移るという危険極まりないもので、
さらにその後、その技を発展させた「死の舞踏」という技は、
2機の飛行機に乗った2人のパイロットが空中で場所を入れ替わるという
文字通り命知らずのパフォーマンスでした。

彼のスタントが有名になると、ハリウッドでは
彼は映画のスタントマンとして引っ張りだこになります。

そして今や「世界一の航空スタントマン」と言われ、
自身が映画界に進出する道が開かれることになりました。



そしてロックリアは、パイロットたちが航空便を飛ばす様子を描いた映画
『The Great Air Robbery』の主演に契約することになりました。

撮影ではロックリアがカーチスJN-4「ジェニー」で、
飛行機から別の飛行機に乗り換え、地球上数千フィート(おそらく)で
飛行機の尾翼に立つ空中スタントを披露します。

映画はスタントパイロットの活躍を扱った戦後映画の第一弾として、
おおむね好意的に評価されました。

『The Great Air Robbery 』は商業的にかなりの成功を収め、
これに気をよくした彼はハリウッドでのキャリアを続けたいと思いました。

というか、航空ショーでのバーンストーマー生活は結構過酷なので、
もうこれから足を洗おうと考えたのかもしれません。

そして1920年4月、『スカイウェイ・マン』に出演する契約をしました。



しかし、この映画でのスタント飛行の場面は多くなく、
ロックリアの航空機が教会の尖塔を倒すとか、
航空機から電車に飛び移るという二つのスタントはいずれも問題が多く、
ほとんど失敗と酷評されることになりました。

パーソナルライフも、こういう人にありがちな不幸な結果となりました。

最初の結婚はあまりにも二人の性格が違いすぎて早々に別居となりましたが、
相手のルビー・グレイブスは離婚をあくまでも認めず、
二人はロックリアが亡くなるまで法的には夫婦のままでした。



グレイブスと別居中、ロックリアは未亡人のサイレント映画女優、
ヴィオラ・ダナと交際を始め、ロックリアが死ぬまで付き合っていました。

ゆえに彼女は目の前で恋人の死を目撃することになりました。

【事故死】

『スカイウェイマン』の撮影のころ、ロックリアは、
家庭生活が乱れていただけでなく、映画会社に契約の意思がないことを知って
大きなプレッシャーを感じていました。

撮影予定最後となるスタントは最初昼間に行われましたが、
彼は夜間飛行を許可するよう要求して、スタジオはこれを許可しました。

珍しい夜間飛行によるスタントということで、大々的に宣伝されたため、
現地には撮影を目撃するために大勢の人々が集まっていました。

フィールドにはカーチス「ジェニー」を照らすため、
大きなスタジオのアークライトが設置され、
機体が最後のスピンに入るとライトには水がかけられました。

飛行機が油井のそばで墜落したように見せるために、
油井の桟橋に向かって飛び込むというシナリオでした。

この撮影の前に、ロックリアは照明係に、

「ライトを消しても、僕は自分のいる場所がわかっているから大丈夫」

として、デリックに近づいたらライトを消すように言っていました。
一連の空中操縦を終えたロックリアは、降下の合図を出しました。

そして、観客や撮影クルーが見守る中、
彼と長年のフライトパートナー、エリオットの操縦するジェニーは、
スピンの初期状態から抜け出せないまま、油井のプールに墜落し、
大爆発と火災を引き起こして二人は死亡しました。

事故後の調査で、5つのアークライトが完全に点灯したままであったため、
パイロットはそれで目が眩んだのではないかとの憶測が流れました。

普通ならそこで映画はおじゃんになるところですが、
この頃の映画界のモラルはいい加減というか、商魂たくましく、
夜のシーンを除く全編がすでに完成していたため、
フォックスは『スカイウェイマン』の公開を急ぎました。

致命的な事故を利用することを決定したのです。

「ロックリアの壮絶(そして致命的)な
最後のフライトを映し出すフィルムの全貌」

センセーショナルな事故の報道と合わせて広告キャンペーンを打ち、
映画の内容は急遽、彼の以前の功績に焦点を当てるものに変わり、
模型展示と展示飛行を組み合わせたドキュメンタリー作品になったのです。

映画の公開時に、フォックス映画社は利益の10%を
ロックリアとエリオットの家族に寄付することを発表しました。

ロックリアの家族って・・・別居していた元妻ってこと?

それでは故人はおそらく納得しないと思うがどうか。



ロックリアの死亡診断書です。

配偶者はルビー・ロックリアのまま。

死亡日時1920年8月2日、
死亡原因、飛行機事故による全身粉砕と火傷、
埋葬地はテキサスとあります。

死亡時年齢27歳、職業飛行家。



続く。



マクリーディ&ケリー陸軍中尉の北米大陸初横断飛行〜スミソニアン航空博物館

2023-04-10 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の「ミリタリー・エア」のコーナーには、
古色騒然とした単葉機が展示されています。

胴体に

「ARMY SERVICE NON STOP
COAST TO COAST」

と書かれた飛行機は、実はオランダのフォッカー社製です。
フォッカーT-2は、北米大陸を初めて無着陸で横断した飛行機になりました。



フォッカーT-2の下には大陸横断を成し遂げた
二人のパイロットの姿がパネルとなって立っていて、
その前で写真を撮っている少年と老年がいました。

ちなみにこの二人は全く無関係の間柄です。

うっかりパネルの文字を写真に撮ることを忘れたのですが、この二人が

ジョン・マクリーディ大尉 Lt. John MacReady
オークリー・ケリー大尉 Lt.Oakley Kelly


であり、大陸横断を成し遂げたパイロットであることはわかります。


このパネルの中段左から三番目にケリー、
上段右端がマクリーディとなります。

これで下段の海兵隊パイロット、クリスチャン・シルト将軍(最終)
以外は全員紹介しましたが、シルトについては以前取り上げたので、
今回は書くことがなくなったらにします。

■ 北米大陸横断飛行

1923年5月2日。

オークリー・G・ケリー中尉とジョン・A・マクリーディ中尉は
ニューヨーク州ロングアイランドを離陸し、
26時間50分余り後の5月3日、カリフォルニア州サンディエゴの
ロックウェル・フィールドに着陸するという快挙を達成しました。

Lieutenants Oakley G. Kelley and John A. Macready land in San Diego, California (1923)


ガソリンを入れるところから始まって、二人が飛行服を着て乗り込み、
ニューヨークの上空を飛び、航路が示されたビデオです。

T-2の前に立つマクリーディとケリー

ケリーが離陸、マクリーディが着陸を担当し、
飛行中に5回ほど操縦を交代しています。

ケリーとマクリーディが操縦した初の大陸横断無着陸飛行のルート

■ フォッカーT-2



大陸横断飛行の成功は、航空局の準備と技術だけでなく、
機体の設計にも大いに関係がありました。

1922年、オランダのフォッカー社とその主任設計者、
ラインホルト・プラッツの手によって、オランダの現地で
大陸横断用の飛行機が製造されました。

この飛行機は、フォッカー社の商業輸送機シリーズの第4弾で、

「エア・サービス・トランスポート2」(T-2)

と名付けられ、簡単にT-2というのが名称となります。
生産されたT-2、2機は1922年6月にアメリカ陸軍航空局に売却され、
当初はF-IVと呼ばれていました。

それまでのフォッカー機の中で最大の機体であるT-2は、
全長25m近い片持ち式の木製単葉主翼と、15m弱の胴体が特徴です。

アメリカ製の420馬力のリバティV型12気筒エンジンを搭載し、
標準仕様はエンジンの左側にある前方開放型のコックピットに
パイロット一人が乗るようになっており、
機内には8~10人の乗客と手荷物を乗せることができました。

陸軍航空局によって早速初期の受け入れテストが始まり、
T-2は重量を搭載することができ、彼らの目標である、
東海岸から西海岸までの長距離飛行に適応できることがわかりました。

しかし、そのためには改造する必要がありました。

航続距離を伸ばすために搭載燃料タンクを大きくすると、
重量に耐えられるように主翼の中央部分を補強する必要があります。

主翼前縁にある標準的な492リットルの燃料タンクに加え、
主翼中央部に1552リットルのタンク、さらに胴体キャビン部には
700リットルのタンクがこれでもかと搭載されることになりました。

また、機内には、2人のクルーが操縦を交代する際、
機体を安定し易くするための第2コントロール・セットも設置されました。

1924年、陸軍航空局はT-2をスミソニアン博物館に寄贈し、
1962年から1964年にかけて完全修復が行われ、現在の姿は
1973年に改装をおこなった時のものとなります。


【2回の挑戦失敗】

最初の2回の出発地にサンディエゴが選ばれたのは、二つ理由があって、
一つは偏西風を利用するため、そして、西海岸からなら、
カリフォルニア産のオクタン価が高い精製燃料が使えるから
というものでした。


1回目の飛行では、サンディエゴの東80kmの峠に霧が発生し、
ケリーとマクリーディは引き返さざるを得なくなりました。

しかし、この時、彼らは可能な限りの時間上空に止まって、
機体の性能をあれこれと試すことで、次に備えました。

2度目もサンディエゴから出発しましたが、インディアナポリス近郊で、
冷却水タンクのひび割れが原因でエンジンが焼き付いたため、
この挑戦も失敗に終わりました。

この西東横断の準備と2回の失敗の間に、新しいエンジンが数台搭載され、
T-2にさらに多くの小さな改造が繰り返されることになります。

これらのこの作業はすべて、オハイオ州デイトンの
マクックフィールドにある陸軍航空局の施設で行われました。

【三度目の正直】

3度目の挑戦は、東から西への飛行と決まりました。

大陸横断飛行は、5月2日午後2時36分、
T-2がルーズベルト・フィールドを離陸した時に始まりました。

離陸時の機体総重量は4,932kgで、T-2の限界である4,990kgより
わずか68kg少ないだけ、つまり限界まで燃料を積んでいました。

飛行機が高度を上げるまで20分かかったくらいでした。

ケリー中尉が最初に操縦し、インディアナ州リッチモンドまで飛行。
その後ケリー中尉はマクリーディ中尉と交代し、深夜まで飛行。

パイロットは基本的に6時間交代です。
コックピットはオープンで、うるさいリバティエンジンのすぐ後ろ。
上空で二人はおそらく互いの声が聞こえなかったに違いありません。

夜間飛行では激しい嵐や雨に見舞われ、コクピットはほぼ吹き曝し。
アーカンソー川に差し掛かったところで飛行を終了しました。

「横断飛行」の定義としては、乗員が二人いても寝る時間は別で、
一応は着陸してもいいというルールになっていたようですね。
おそらく陸軍の「俺ルール」だったんだと思いますが。

(だからこそ、大西洋をたった一人で無着陸横断飛行したリンドバーグは
世紀の英雄とされたのだと思います。
ちなみにリンドバーグの大西洋無着陸横断はこの5年後でした。)

翌朝6時、ニューメキシコ州サンタローザで再び操縦を交代し、
さらに高度3,110kmで再び交代。

この結果、T-2は現地時間5月3日午後12時26分にサンディエゴに着陸し、
26時間50分38秒5という公式タイムで
(寝ている時間以外)ノンストップの大陸横断飛行を完了しました。

この時のT-2は3,950kmを平均地上速度147kphで飛行しています。



この時の飛行のことをマクリーディは、

「大陸無着陸断では、暗闇の中を13Vk時間飛行し、
非常に悪い天候を経験し、
一睡もせずに飛行した」


と述べています。

「限られた燃料の中で、コースを外れると西海岸にたどり着けなくなる。
鉄道はもちろん、航空路も郵便路も確立されていない。
嵐と暗闇から抜け出したとき、コンパスだけでコースを確認し、
サンディエゴに到着するのに十分な燃料があることを知った。
私たちは、この航法に大きな誇りを感じています」

と。


サンディエゴのロックウェルフィールドに着陸するT-2

T-2がサンディエゴ上空に到着すると、多くの航空機が
マクリーディとケリーという2人の勇敢な飛行士を出迎えるために
空へ飛び立ちました。(危なくないのかと思ったのはわたしだけ?)

5月3日12時26分、T-2がカリフォルニア州コロナドの
ロックウェル・フィールドに着陸すると、大勢の人が詰めかけました。

このフライトは、全米、全世界の注目を集め、
ニューヨーク・タイムズ紙をはじめ、一面の見出しを飾りました。




■ ジョン・マクリーディ中尉

マクリーディらはこの挑戦のために、何度かテスト的に
条件を加えた飛行を行なって機体を試しています。


1921年9月28日の高高度飛行に先立ち、ルペール複葉機の右翼の前で
ヘルメット、マスク、ゴーグル、パラシュートとフル装備の
高高度飛行服を着て立っているジョン・A・マクリーディ中尉。

当時の飛行機はオープンコクピットですから、
全身をこうやって皮で包み、さらには顔周り、
風を受ける手首周りに毛皮があしらわれています。



ジョン・アーサー・マクリーディ中尉
John Arthur Macready 1887-1979


は、第一次世界大戦後の数年間、陸軍最高のパイロットの一人であり、
マッケイ・トロフィーを3度受賞した唯一のパイロットです。

カリフォルニア州サンディエゴ生まれで、
スタンフォード大学を1912年(25歳で?)卒業しています。

1918年にアメリカ空軍に入隊し、サンディエゴの
ロックウェル・フィールドでパイロットのウィングマークを取得しました。

テキサス州ブルックス飛行場の陸軍飛行学校で教官をしていた時に書いた本は
米軍航空初期の飛行学生の基本マニュアルになりました。

戦後は、オハイオ州マクック飛行場の航空局実験試験センターに配属され、
チーフテストパイロットとして活躍しています。

大陸横断飛行の前年である1922年、マクリーディ中尉は
のちに横断飛行のパートナーになる同僚のオークリー・ケリー中尉とともに、
サンディエゴ上空で35時間18分半という世界飛行耐久記録を樹立。

この耐久飛行をきっかけに、初の空中給油装置の実験が行われました。

そして1923年5月、マクレーディ中尉とケリー中尉は
フォッカーT-2で米国初の無着陸大陸横断飛行を達成するのですが、
マクリーディは、高高度飛行でも、ルペールLUSAC-11複葉機
(オープン・コックピット)で40,800フィートの高度記録を達成しています。

そのほかにも、

初の夜間パラシュートジャンプ
初の飛行士用メガネの発明
世界初のクロップダスター(農薬散布機)実験
初の日食写真撮影
アメリカ初の航空写真測量
初の与圧式コックピット試験


などの実験的飛行を成功させており、
優れた航空功績に与えられるマッケイ・トロフィーを
最初で唯一3度も獲得したなどの偉業を成し遂げました。

これが世界初の農薬散布機だ




試験飛行で使用した高所作業用機器と共に

彼は、オハイオ州デイトンの航空殿堂と、
サンディエゴの国際航空宇宙殿堂にその名前が刻まれています。

■ オークリー・ケリー中尉


マクリーディ中尉があまりにも凄すぎるパイロットだったせいで、
一緒に記録達成をしたにもかかわらず、ほとんどその資料がない
ちょっと気の毒な同僚のケリー中尉です。

オークリー・ジョージ・ケリー中尉
Oakley George Kelly(1891-1966)


彼が凡庸というより、たまたまレジェンドと一緒に記録を立てたので
それで歴史に名前が残されることになったというべきかもしれません。

オークリー・ケリー中尉は、ペンシルベニア州で生まれ、
1916年から1919年まで、カリフォルニア州の
陸軍ロックウェル・フィールドで教官を務めていました。

この時同僚にいたのがマクリーディ中尉です。
そして二人は横断記録を打ち立てるわけですが、その後の彼の人生は、
記録を打ち立てたのと同じ飛行機(フォッカーT-2)を使って、
歴史的山林ルートの保全と保存のための支援を呼びかけをした他は、
観測飛行隊の飛行隊長を務めていたくらいしか記述がありません。

■ のちの評価

時の大統領、ウォーレン・ハーディング

「あなたたちのの記録破りのノンストップ飛行、
海岸から海岸への飛行の成功に心からの祝意を表します。
あなたがたはアメリカ航空界の勝利の新しい章を書きました。」


そしてアーノルド "ハップ "将軍は、

「不可能が可能になった」

フォッカー航空社長でT-2型機の開発者、アンソニー・フォッカーは、

「あなたの偉業に心からの祝福を。
あなたの飛行は、民間航空の発展における画期的な出来事です。
10年後には、あなたが征服し飛行したルートを
多くの旅客と貨物便がたどることでしょう」

そして飛行家マクリーディ自身は、

「栄誉はそれ自体で報われる。
この飛行には多くの栄光が約束されていた。
兵士としての義務を果たし、
多くの人が不可能と考える偉業を成し遂げることに大きな満足がある」

とそれぞれ語っています。

■ マクリーディとケリーの晩年

ケリーは1948年大佐として軍務を退き、
1966年にカリフォルニア州サンディエゴで74歳で死去しました。

マクリーディは第二次世界大戦で現役に戻り、
大佐として陸軍航空隊のグループを指揮したほか、
監察官として北アフリカに派遣されました。

1948年に現役を退いてからは活動の記録はなく、
1968年に全米航空殿堂、そして1976年には国債航空宇宙殿堂入りしました。

1979年、91歳で亡くなっています。


オーヴィル・ライト(中央)と歩くマクリーディ(左)とケリー
今では考えられない歩きタバコに注目

続く。


来日していた米陸軍航空・世界一周飛行隊〜スミソニアン航空博物館

2023-04-08 | 飛行家列伝

2回続けてスミソニアン博物館から、1920年〜30年代の
海軍航空の歩みに関する展示を中心に紹介してきました。

というところで、今日は陸軍航空の挑戦についてです。




「ミリタリー・エア」のコーナーには、ダグラスの航空機の下に
二人の陸軍パイロットのパネルがあり、このように書かれています。

ローウェル・スミス大尉とレスリー・アーノルド大尉と
ダグラス ワールド・クルーザー「シカゴ」

1924年、スミスとアーノルドの操縦する
アメリカ陸軍航空サービスの1機である「シカゴ」号は
世界初の「完全な世界一飛行」を175日で終えました。

スミスとアーノルドってどんな人?

●世界一周するために出発したアーミー・ワールド・クルーザー、
4機のうちの一つの乗組員

●スミスは37時間の耐久飛行記録を打ち立てました

●アーノルドは陸軍の追跡パイロットであり、
バーンストーマー(アクロバット飛行などもするパイロット)でした

●彼らは世界飛行という脅威的な偉業を達成するために、
広大なグローバルネットワークによるサポートに支えられました

ダグラス・ワールド・クルーザー「シカゴ」
The Douglas World Cruiser Chicago

「シカゴ」とその仲間である「ワールドクルーザー」は、
世界一周の挑戦の過酷で変化に富んだ状況に耐えるのに
十分なくらい頑丈で、かつ信頼できるものではなければなりませんでした。

彼らは航続距離を確保するために追加の燃料タンクを採用し、
ホイールとフロート、どちらも選択することができました。


胴体に書かれた地球に二羽の鷲のイラストは、
世界を巡る陸軍パイロット二人を象徴しています(たぶん)


1924年、アメリカ空軍の前身であるアメリカ陸軍航空局所属の飛行士が、
「世界初」=(着水なし)の空中周航を達成しました。

全行程175日間の旅は、航行距離42,398km以上。
その航路は、環太平洋を東から西に回り、
南アジア、ヨーロッパを経て米国に戻るというものでした。

冒頭で紹介されているのは、そのメンバー4人、

ローウェル・H・スミス  Lowell H. Smith

レスリー・P・アーノルド  Leslie P. Arnold

エリック・H・ネルソン Erik H. Nelson

ジョン・ハーディング・ジュニア John Harding Jr.

のうちの上二人です。

彼らは単発オープンコックピットで水上機仕様の
ダグラス・ワールドクルーザー(DWC)2機を挑戦に用いました。

実はこの2機の他にDWC2機、乗員合計4人が同じルートに挑み、
いずれも途中で脱落しましたが、飛行士は全員無事でした。

■ 世界一周への挑戦


1920年代初頭、当時の世界の航空界におけるトレンドは、
「飛行機による世界一周一番乗り」
だったかもしれません。

イギリスは1922年、真っ先に世界一周飛行にチャレンジし、失敗しました。

1923年春、アメリカ陸軍航空局は

「軍用機飛行隊による初の世界一周飛行」

を試みました。

この陸軍のハイレベルな試みは、最終的にパトリック将軍の指揮の下、
海軍、外交団、漁業局、沿岸警備隊の支援も受けることになります。

【使用機の選定】

まずは使用する飛行機の選定です。

陸軍省は、フォッカーT-2輸送機とデイヴィス・ダグラス・クラウドスター
どちらが適しているかを検討し、試験用の実機を入手するよう
航空省に指示しするところから始めました。

陸軍省はこのどちらにもそこそこ満足しましたが、
計画グループは、車輪と着水用のフロートを交換できる専用設計にしたい、
と考え、現役および生産中の他のアメリカ航空局軍用機を、
全て検討するように要請しました。

デイビス・ダグラス社が、デイビス・ダグラス・クラウドスターについて
ふたたび打診された時、創始者のドナルド・ダグラス
1921年と1922年にアメリカ海軍のために製造した
魚雷爆撃機DT-2の改造機のデータを代わりに提出しました。

DT-2は車輪式とポンツーン式の着陸装置を交換可能であり、
さらに頑丈な機体であることが証明されていたからです。

ダグラスは、この既存機をもとにして、
ダグラス・ワールドクルーザー(DWC)に改造し、
契約後45日以内に納入することになりました。

ダグラスはジャック・ノースロップの協力を得て、
DT-2を世界一周挑戦用に改造する作業に取り掛かりました。

主な改造部分は航続距離を確保するための容量を増やした燃料タンクでした。
内部の爆弾搭載構造をすべて取り除き、主翼に燃料タンクを追加。
機体の燃料タンクも拡大された結果、総燃料容量は
435リットルから2,438リットルへととんでもなく増えました。

ダグラス案はワシントンに持ち込まれ、航空局長、
メイソン・M・パトリック少将がこれを承認し、本格的に動き出します。

まず試作機が発注され、試験の結果さらに4機が納入されました。
予備部品には15基のリバティエンジン、14セットのポンツーン、
さらに2機分の機体交換部品が含まれていたました。

これらの予備部品は、航空機が辿る予定となっていた
世界一周ルート上の場所に先に送られました。

航空機は無線機もアビオニクスも一切備えておらず、
乗組員は冒険の間中、完全に推測航法技術に頼ることになりました。

大丈夫なのか。

そこで重要となってくるのが参加する乗員の人選です。

【選ばれたパイロット】



スミソニアンに展示してある飛行機は「シカゴ」ですが、
実は他の3機も、アメリカの都市名が付けられていました。

写真は、この世界一周に挑戦したエリートパイロットたちで、
各飛行機のメンバーは次の通りです。

シアトル(No.1)失敗

フレデリック・L・マーティン少佐(1882-1956) 機長兼飛行指揮官
アルヴァ・L・ハーヴェイ軍曹(1900-1992) 飛行整備士

シカゴ(No.2)


ローエル・H・スミス中尉(1892〜1945)機長、飛行隊長
レスリー・P・アーノルド少尉(1893〜1961)副操縦士

ボストン(No.3)/ボストンII(試作機)
失敗

リー・P・ウェイド少尉(1897~1991)機長
ヘンリー・H・オグデン2等軍曹(1900~1986)整備士

ニューオーリンズ(No.4)

エリック・H・ネルソン中尉(1888-1970)機長
ジョン・ハーディング・ジュニア中尉(1896-1968)副操縦士


写真には7人写っていますが、おそらくこれは、
士官パイロットだけで撮ったもので、真ん中の一人が
この作戦の総指揮を執った偉い人なのだと思われます。

参加パイロットは全軍から集められた腕利きの飛行家ばかりでした。
世界一周飛行を成功させた後、有名になった二人の経歴を記します。

【ローウェル・スミス中尉】




スミスは、大学在学中に、モハーヴェ砂漠のポンプ工場で働き、
その後自動車修理工場で整備士、 ネバダの鉱山で飛行機の操縦を習った、
という変わった経歴の持ち主です。

メキシコのパンチョ・ビラの革命軍に参加して、
飛行担当として偵察操縦をしていたこともあります。

第一次世界大戦をきっかけに陸軍航空隊に入隊したスミスは、
出征はしませんでしたが、飛行教官、技術官を務めた後、
太平洋岸で火災哨戒を行う飛行隊の指揮官を務めていました。

操縦の腕を買われ、彼は1919年、陸軍代表として、大陸横断速度、
耐久性コンテストに参加することになります。

ところが、コンテスト直前に整備士の灯火が翼に引火し、機体は焼失
スミスは現地を訪れていたあの『陸軍航空の父』の一人、
カール・スパッツ少佐の乗っていた飛行機を直々に譲り受け、
コンテストで史上初めてサンフランシスコからシカゴまで飛行を成功させ、
さらに往復によって記録を作ることになります。

その後、1923年、スミスはポール・リヒター中尉とともに、
デ・ハビランド・エアコDH.4Bのペアで史上初の空中給油を成功させます。

この飛行でスミスは飛行距離、速度、飛行時間の16の世界記録を更新し、
37時間15分の滞空記録と次々に挑戦を成功させてきました。

その時すでにスミスの飛行時間は2000時間以上。
世界一周飛行に挑戦するのに選ばれて当然のキャリアと実力でした。

ただし、中尉だった彼は最初から隊長に選ばれていたわけではなく、
当初予定されていたフレデリック・マーチン少佐の飛行機が
アラスカで墜落してしまったため、急遽指揮官を任されたのです。

【レスリー・アーノルド少尉】


イケメソ

「シカゴ」の副操縦士を務めたレスリー・P・アーノルド少尉は、
追跡パイロットとして訓練を受けた飛行士です。

第一次世界大戦の戦闘には間に合わず、軍のバーンストーマーとして
アメリカの田舎を旅し、人々に感銘を与えたパイロットの一人となりました。

アーノルドは、ウィリアム・"ビリー"・ミッチェル准将が率いる
陸軍の特別臨時航空旅団の一員となり、ここでもお話ししたことのある、
1921年のミッチェルの戦艦爆破実験に参加しています。

もともと世界一周飛行の企画段階では予備パイロットでしたが、
出発のわずか4日前にアーサー・ターナー軍曹が病気になったため、
「シカゴ」でスミスに合流しました。

追跡パイロット出身、さらに陸軍のバーンストーマーと、
こちらもその操縦技術と経験は十分だったといえるでしょう。

■ 世界一周

パイロットたちはバージニア州のラングレー飛行場で
気象学と航法の訓練を受け、試作機での練習、ついで
ダグラス社とサンディエゴで量産機での練習も行っています。


アメリカ・ワシントン州シアトル

「シアトル」「シカゴ」「ボストン」「ニューオーリンズ」の4機は、
1924年3月17日にカリフォルニア州サンタモニカを出発、
ワシントン州シアトルを発ってこの日が正式の出発日となりました。

各機はシアトル出発前に、それぞれの名前の由来となった都市から
わざわざ持ってきた水をボトルに入れて機体で割る儀式を経て
正式に命名され、車輪はポンツーンフロートに交換されました。

1924年4月6日、彼らはアラスカに向け出発しますが、
9日後に早速トラブルが見舞います。


カナダ・プリンスルバート

4月15日にプリンスルパート島を出発した直後、先頭機「シアトル」は
クランクケースに穴が空いて着水せざるを得なくなったため、
エンジンを交換して3機を追いかけますが、

アラスカ準州・シトカ、スワード、チグニク・ポートモラー
で濃霧の中、アラスカ半島の山腹に墜落して「シアトル」は損壊します。

しかし乗員二人は山腹を歩いて6日間を過酷な環境の中で生き延び、
缶詰工場にたどり着いて助かりました。



1番機が脱落したので、スミスとアーノルドの「シカゴ」が
1番機を務めながら北太平洋を横断しました。


ソ連・ニコルスコエ
ソ連とは国交がなかったので上空の航行は認められていませんでしたが、
「シカゴ」はなんとなくソ連領土にも着陸してしまっています。

この頃はのんびりしていたのね。

日本
そして5月25日、この時チームは東京にたどり着いています。


霞ヶ浦到着 旗を振る人々



一行は日本では千島列島はじめ6カ所に着陸しました。
6月2日には鹿児島に到着したとあります。

説明によると、陸軍航空隊の皆様は、特に日本の滞在には興奮したとのこと。


「日本で皇室の歓迎を受ける」

と見出しに書かれていますね。
日本は官民あげての大歓迎をしたようで、特に帝國陸海軍は
総出で彼らのアシストをおこなったと新聞記事にも書かれています。

「バンザイ!」

霞ヶ浦に到着した時には海軍士官が特に出迎え、
海軍施設で心温まる歓迎をしてくれたとか、
集まった人々は皆手に日米の国旗を打ち振っていたとか、
子供たちが400人も集まって歓迎してくれたとか、
到着した時人々の間から「バンザイ!」という声が上がったとか、
日本の航空機が歓迎のための航空デモをしてくれたとか、
最終日には上野公園で「帝国航空協会」?から花束をもらったとか、
陸軍高官に茶を振る舞われ、政府主催の公式晩餐会があったとか、
「ガールズ」が花束贈呈をしたとか(それがどうした)
乾燥した栗とsake、日本の酒が出され、これが美味かったとか。



海軍の施設でメインテナンスされている「シカゴ」を見る二人。
メダルは串本町?町長から贈呈されたものです。

ただし、

スミソニアンの説明は、

「日本は航空機の到着そのものには大歓迎をしていたが、
操縦者が軍人であることから軍の関与を疑っており、
軍事機密を保護するため、国内の移動には曲がりくねった航路を指示した」

と、まあ近代国家なら普通にするであろうことを
なんとなく意味ありげに書いています。

その後航空機は比較的順調に朝鮮半島(これも日本)を経由し、


中華民国 上海


中国沿岸を下って・・・・、


フランス領インドシナ(現ベトナム)
へと。

【『シカゴ』のトラブル】

トンキン湾を出発した後、「シカゴ」のエンジンの一部が破損し、
フエ近くのラグーンに着陸したところ、飛行機を珍しがった現地の人が
わらわらと飛行機に近づいてきて乗ろうとするので困ったそうです。

他の三機の救助ボートが、「シカゴ」の翼の上に座っている二人を見つけ
3台のパドル式サンパンで10時間、かけてフエまで牽引し、
そこでサイゴンから緊急輸送されたスペアエンジンと交換さました。

怪我の功名とでもいうのか、この時交換したエンジンは性能が良く、
もしかしたら「シカゴ」が成功したのはこのおかげだったかもしれません。

しかしながら、「シカゴ」のトラブルはまだ続きました。


タイ・バンコク


イギリス領インド・カルカッタ、カラチなど

6月29日の夜、カルカッタで足回りの整備を済ませた日、
夕食を食べ終わったスミスが暗闇で滑って肋骨を折ってしまいました。
しかしそれでも彼は作戦を遅らせることなく続行することを主張。

「ニューオリンズ」壊滅的なエンジン故障に見舞われ、
足を引きずるようにカラチにたどり着き、全機がエンジン交換を行いました。

その後、中東、そしてヨーロッパへと向かいました。

シリア・アレッポ

トルコ・コンスタンチノープル

ルーマニア王国・ブカレスト

ハンガリー王国・ブダペスト

オーストリア・ウィーン

フランス・パリ・ストラスブール
7月14日のバスティーユ・デイにパリに到着。


イギリス・ロンドン、ブラフ、スカパ・フロー
ロンドン、イギリス北部へと飛行し、
ポンツーンの再設置やエンジンの交換など、
大西洋横断の準備を行います。

【『ボストン』号脱落】


アイスランド・レイキャビク

1924年8月3日、アイスランドに向かう途中、「ボストン」は
オイルポンプの故障により、で無人の海に墜落しました。

「シカゴ」はフェロー諸島まで飛行し、支援のため待機していた
アメリカ海軍軽巡洋艦USS「リッチモンド」にメモを投函し、
乗員は無事救助されたのですが、曳航されていた「ボストン」は
フェロー諸島到着直前に転覆して海の藻屑と消えてしまいました。

残った「シカゴ」と「ニューオリンズ」は
アイスランドのレイキャビクに長期滞在し、そこで偶然にも
同じ周航を試みていたイタリアのアントニオ・ロカテッリ
その乗組員に出会っています。

その時世界一周に航空機で挑戦していたのは、
何カ国もありました。(ブームだったんですね)


グリーンランド・タラーシクなど
「シカゴ」と「ニューオーリンズ」は、今や
5隻の海軍艦艇とその船員2500人を伴って、
グリーンランドのフレドリクスダルに向け前進を続けていました。

これは、その5隻の船がルート上に連なる、
全旅程の中で最も長い行程となりました。
グリーンランドで2機はまたエンジンを取り替えています。


カナダ・ラブラドール
に到着。

最初に脱落していた「ボストン」の乗員二人ですが、
彼らはなんと、「ボストンII」というオリジナルの試作機に乗り換えて
ここからちゃっかりまた合流しています。


アメリカ・メイン州カスコ湾、マサチューセッツボストン
ニューヨークミッチェル空港、ワシントンD.C.など


首都での英雄的歓迎の後、3機のダグラス・ワールド・クルーザーは
西海岸へ飛び、複数の都市を巡り歓迎されました。

全行程363時間7分、175日以上、42,398 km。

同時期に挑戦したイギリス、ポルトガル、フランス、イタリア、
アルゼンチンは全チーム失敗しましたが、彼らだけが成功させています。

それもそのはず、全チームでアメリカだけが、

●複数の航空機を使用した

●燃料や予備部品などの支援機器を
ルート上に大量に事前配置していた

●海軍の駆逐艦数隻を応援に配備していた

●事前に手配された中継地点で
5回のエンジン交換、2回の翼の交換をした

のですから。
まーこれはチートってやつですよね。他の国から見たら。

その後ダグラス・エアクラフト社は、

「ファースト・アラウンド・ザ・ワールド
 - First the World Around」

というモットーを採用するようになりました。
めでたしめでたし。

続く。





アメリカ海軍の航空パイオニア〜スミソニアン航空博物館

2023-04-06 | 飛行家列伝

前回は、実は史上初の大西洋横断を成し遂げていたのが
アメリカ海軍だったという衝撃の史実についてお話ししました。

行く先々に海軍艦艇を首飾り状に配置したり、もしもに備えて
3機のチームで臨んだり、さらには途中の島で修理やら何やらで23日費やし、
というのが「横断」というにはチートすぎて記録として残されていない、
ということも、ついでにご理解いただけたかと思います。

今日は、その頃の海軍航空のパイオニアを何名かご紹介しますが、
まずその前に、前回ご紹介するのを忘れていたスミソニアンの展示、
海軍大西洋横断チームの私物を挙げておきます。

■海軍大西洋横断チームの私物


●メダル・オブ・コングレス



ウッドロウ・ウィルソン大統領が議会を代表して、
大西洋横断初飛行のNC-4の乗組員と計画者に贈ったメダルです。

●コース&ポジションプロッター



直径7.3/8インチ、1/4インチセルロイド製グラフ、2本の目盛付きアーム。

「このコース&方位インディケーターは、最初に大西洋横断の際
通信オペレーターのロッド少尉がNC-4で使ったものである」

とこの裏には鉛筆の手書きで書き込まれています。


「TEC.」「Made in Germany」と書かれたステンレス製のプロッター。
1919年5月、A.C.リード中佐がNC-4の大西洋横断飛行で使用したもの。

司令官だったリード中佐から、NC-4の整備士であった
チャールズ・J・ボイドに作戦終了後プレゼントされたそうです。

●スイス製8日時計



「8日時計」とは日本の「8日巻き時計」のことだと思われます。

大西洋横断を水上機で行うというこのチャレンジにおいて、
正確な時間を知るための時計はナビゲーションのためにも必須でした。

やはりスイス製の時計はブランドとして信頼されていたんですね。

●『ウォブル』Wobble



「ウォブル」が何かはわかりませんでしたが、(ぐらつきとか揺らぎの意味)
わかっていることは、これは船のポンプとハンドルであり、
横断に失敗したNC-3が搭載していたものだということです。

NC-3のクルーは機関が不調になったとき、水分を排出するために
このポンプを使用しました。

●航空用眼鏡



グラス部分の劣化が凄まじいですが、本当にガラスなんでしょうか。
NC-4の司令官、アルフレッド・リード中佐が着用していたゴーグルです。

アルミフレーム、綿のアイカップ、フリースパッド、ガラスレンズ、
変色したキシロナイト飛散防止コーティング、ゴム紐も破損。

● 海上用フレア


八角形、蝋のようなもので満たされ、端に重りが付いています。
灰色で、上部に溝があるこの物体は、
海上に不時着を余儀なくされたNC-3の乗員が、
救助者に自分の位置を知らせるために焚いたものです。

●ケネス・ホワイティング提督の士官用儀礼刀


このコーナーには、NC-4とは関係ない海軍グッズも展示してあります。
この士官用儀礼刀は、ケネス・ホワイティングが所有していたもので、
真鍮製ハンドガード、キヨン(鍔の片側)にドルフィンが描かれ、
革製ハンドル、真鍮製ポメル(柄頭)には
星に囲まれた鷲のレリーフが施されています。

ケネス・ホワイティング中佐は海軍兵学校卒業時にこの剣を受け取り、
1922年3月の空母ラングレー(CV-1)の就役式で使用しました。



ホワイティングは1914年にオーヴィル・ライトに操縦を習い、
第一次世界大戦では初の海軍航空隊を率いました。

米海軍の初代空母「ラングレー」の建造にも携わったほか、
甲板からのカタパルト発進を初めて成功させたパイロットでもあります。

その後、空母「サラトガ」を指揮し、1940年に退役するまで
海軍航空部門の指揮官や指導的立場にありました。


再掲ですが

当ブログでも何度か「空母の父」としてご紹介してきましたが、
ゲイリー・クーパーが演じた映画「機動部隊」の主人公は
この人をモデルにしています。(確かにちょっとクーパーに似てますよね)

● 航空ヘルメット


頭のてっぺんの二重丸は何の意味が?
という不思議なデザインの航空ヘルメット。
こんなものをつけたところで事故にはあまり効果はなさそうですが。

茶色の革製飛行用ヘルメット、フットボールスタイル、耳あて付き、
裏地は茶色のフリース、上部に白い雄牛の目(bull eye)が描かれています。

このヘルメットは、やはり「ラングレー」のパイロットだった
アルフレッド.M.プライド提督が着用していたものです。

なんかこんな人自衛隊にいそう

アルフレッド・プライドについては、以前も当ブログで取り上げました。
海軍兵学校を出ずに提督になった人でもあります。

この人ですね

■ 「空母の父」ジョセフ”ブル”リーブス提督



「軍人飛行家」ばかり(コールマン以外)集めたこのパネルのうち、
海軍軍人は中段のリーブスとその右側のロジャースだけです。

ジョセフ・メイソン『ブル』リーブス提督
Joseph Mason ”Bull” Reeves(1872−1948)


もまた、初期の航空母艦の発展に寄与した海軍軍人の一人です。
前にも書いたことがありますが、彼の実体験から得た教訓は、
1930年代を通して海軍のドクトリンに大いに影響を与えました。

彼が艦長を務めたこともある海軍初の電気推進船であるコリアー船、
USS「ジュピター」(AC-3)が、1922年に
航空母艦USS「ラングレー」(CV-1)として再就役したことから
彼のキャリアは大きく変わることになります。

「ラングレー」はご存知のようにアメリカ海軍はつの航空母艦ですが、
既存の甲板の上に二階建てのように設置されており、
海軍軍人たちはこれを「幌馬車」と呼んでいました。

第一次世界大戦が済んでから海軍航空隊で教育を受け、大尉の時に
戦艦航空隊司令に就任し、「ラングレー」を旗艦として乗り組んだ彼は、
司令部在任中、空母航空戦術の発展に努め、
出撃率の向上と急降下爆撃の利用を模索し続けました。

彼はこれらのコンセプトを、海軍の年次艦隊演習(通称「艦隊問題」)
でのパイロットと航空機乗組員の成功によって証明することになります。

ちなみに「空母の父」多すぎかよ、と思われるかもしれませんが、
空母発展期に司令官だったのがこの人だったので、
この人が「空母の父の父」みたいな位置づけとされているようです。

雄牛というより山羊系男子だよね

あだ名の「ブル」に違和感を感じた人はわたしだけではないと思いますが、
こう見えて兵学校時代からフットボールで鳴らしており、
コーチとしてもアーミーネイビーゲームで6勝している凄腕なので、
それで付いたあだ名だったんじゃないかと思います。想像ですが。

■ ハワイ「無着陸」到達飛行?
ジョン・ロジャース中佐


リーブス提督の右側の写真の海軍軍人は、

ジョン・ロジャース中佐
 Commander John Rodgers (1881 – 1926) 

時代が遡りますが、最後にご紹介しておきます。
有名なジョン・ロジャース提督と黒船来航のマシュー・ペリー提督の曾孫で、
つまり「海軍一家の海軍軍人」ですが、ならばなぜ航空に?

それは中尉であった1911年、発足したばかりのアメリカ海軍航空計画で
たまたま人力凧を使った実験に参加させられたのがきっかけでした。

上官の命令でUSS「ペンシルバニア」(ACR-4)の甲板から
凧で400フィートの高さまで釣り上げられ、ケーブルに吊られた状態で
航行する船に引っ張られ、15分間、観測と写真撮影を行うという実験です。

「仮面の忍者赤影」状態と考えればいいのか。


参考画像

そしてなし崩し的にその後ライト兄弟から航空訓練を受け、
(ちなみにライト兄弟が訓練をした最初の人物となる)
海軍飛行士第2号となりました。

この頃彼は、ライト兄弟飛行場にあったライトフライヤー号を無断で借りて
こっそり飛んでいたところ、着陸の際に翼を壊してしまい、
ライト兄弟にめちゃくちゃ怒られたという逸話が残されています。

しかしその後、海軍が受け入れたライトフライヤーを、
アナポリスからワシントンD.C.のホワイトハウスまで飛ばし、
海軍としては最も長時間飛行をおこなったパイロットの称号を得ました。

ロジャースはこの成功に気を良くして、飛行機で両親を訪ねることを思い付き
連絡せずにいきなり自宅近くの野原に着陸して、

「アメリカで初めて飛行機で両親を訪ねた男」🎉

というタイトルも手に入れました。

でっていう。

第一次世界大戦が始まると、飛行機で遊んでいるわけにもいかないので、
潜水艦部隊の指揮官となり、コネチカットの潜水基地から出撃し、
北海での掃海作戦で功績を挙げて勲章を授与されました。

【ハワイへの初の無着陸飛行挑戦】

「ラングレー」で戦闘艦隊の航空機飛行隊を指揮していた1925年、
彼はカリフォルニアからハワイへの無着陸飛行の挑戦を指揮しました。

当時の技術を考えると、これは航空機の航続距離と航空航法の精度、
両方の限界を試すものでした。

海軍は同じ理由で大西洋横断飛行の挑戦もしていますが、
この遠征でもその時と同じ3機の航空機が参加することになっていました。

結局1基が間に合わず、2機での挑戦となり、
ロジャースは飛行艇PN-9 1号機を指揮することになりました。

そしてまたしても海軍は、(NC-4大西洋無着陸飛行編参照)
カリフォルニアとハワイの間に200マイル間隔で10隻の護衛艦を配置し、
給油や回収などを行う過保護体制でこれを支援しました。


2機のPN-9はサンフランシスコ近郊からを出港しましたが、
2号機は早々にエンジントラブルとなり、脱落。

ロジャースの1号機は機嫌よく飛行していましたが、予想以上の燃料消費、
予想以上の追い風のため、洋上給油が必要となります。

しかし、航法技術の限界と船員の誤った航法情報により、
給油船と会うことができず、飛行船は海で浮いているしかなくなります。

空中にいる間は機体の位置が分からず、
水上に浮いているときは機体の無線が送信できない。

こんな状態なので、海軍が総力を上げて数日間大規模な捜索を行うも、
ロジャース機は発見されず時間だけが過ぎていきました。
海は広いな大きいな。月が上るし日が沈む。

そしてロジャース一行は夜が明けると生還のために行動開始。
翼の布を使って帆を作り、数百マイル離れたハワイに向けて漕ぎ出しました。

うーんさすが船乗り。って感心してる場合じゃないか。

さらに彼らは、金属製の床材を使ってリーボード
(揚力翼、船が風下に向かないようにする装備)を作り、
航行中の飛行艇の操縦能力を向上させたりしています。

いや、冗談抜きでさすがは船乗りである。

そして9日後。

カウアイ島まで後15マイルというところで、ロジャースの1号飛行艇は
潜水艦 USS R-4に発見され、曳航されて島まで無事辿り着きました。


潜水艦に発見されるまでに、ロジャースと彼の乗組員は、
9日もの間、食料もなく、限られた水で生き延びていました。


でも、あれ・・皆なんかツヤツヤしてないか?

ロジャースは、9日間の漂流生活を経ても乗員の健康には問題がなく、
しかも『完全に自分たちの面倒を見ることができた』と言っていますが、
飛行艇が海軍組織で、命令系統が日頃の訓練から非常に潤滑だったこと、
おそらく指揮官の采配が良かったのと、全員が若い軍人で鍛えており、
また海軍だったので海に強く、体力があったことが功を奏したのでしょう。

これがもし民間あるいは陸軍の飛行機だったら、
おそらく飛行艇の操舵を改造するなどということも不可能だったし、
生きて帰ることはできなかったかもしれません。

帰還後、ロジャースと彼の乗組員はちょっとした英雄となりました。


全米が泣いたため映画化決定・・・映画「ハワイ・コールズ」

そして、ここからはちょっと、と思うのですが、
彼らのこの度の飛行は、空路でハワイに到着しなかったにもかかわらず、

「3206km水上飛行機の無着陸飛行距離新記録」

として正式にカウントされることになりました。

いやいやいや、それはない。
これ、飛行・・・してませんよね?
確かに着「陸」はしてない=無着陸だけど。


その後ロジャース中佐は、航空局の次長として勤務していましたが、
1926年、任務中の飛行機がデラウェア川に墜落して死亡しました。

享年45でした。

飛行機が不調に見舞われたとき、彼はもしかしたら一か八か、
かつて水上機でやった方法で、川への着水を試みたのかもしれません。

そして、やっぱりうまくいかなかったと・・・(-人-)



続く。


アメリカ海軍の大西洋発横断飛行(史上初)〜スミソニアン航空博物館

2023-03-04 | 飛行家列伝

「大西洋横断飛行」

大西洋とは縁もゆかりもない我々日本人にはピンときませんが、
欧米の国々にとって大西洋は「横断すべきもの」でした。

少なくとも、航空機というものが発明されて以降、欧米の人々は
ヨーロッパ、アフリカ、南アジア、中東から北米、中米、南米へ、
またはその逆方向へ大西洋を横断することに夢中になりました。

大西洋を横断する=トランスアトランティックという「造語」ができ、
達成のためのコンテストが行われ、実業家は賞金を出し、
野心のある飛行家たちが名を挙げようと次々とこの課題に挑戦しました。

太平洋横断飛行には、固定翼機、飛行船、気球などが用いられたわけですが、
初期の航空機のエンジンは信頼性に乏しく、無給油で何千キロも続く
特徴のない海域を航行するのは困難を極めました。
特に北大西洋の天候は予測不可能で危険でもありましたが、
科学技術の発展と何人かの勇気あるパイオニアたちのおかげで、
20世紀中頃から、商業、軍事、外交などの目的で
大西洋横断飛行が日常的に行われるようになりました。


さて、スミソニアン博物館の、ミリタリーエアのコーナーを飾る
黎明期の軍パイロットたちの写真を今一度見てみましょう。

ベッシー・コールマンを除く全員が軍人であるわけですが、
(というかなぜここにコールマンがいるのか謎)
上の段の真ん中の6人のパイロットたちは陸軍航空隊メンバーで、
彼らは1923年に大西洋横断を成し遂げたということで有名です。

が、軍で言うと、大西洋横断を先に達成したのは海軍なのです。

なのになぜ、世界初の太平洋横断飛行を行った海軍ではなく、
陸軍の写真なのかはよくわかりませんが、
このパネルに収める軍人の陸海の数のバランスの関係でしょうか。



■ 大西洋初横断

リンドバーグが大西洋単独無着陸横断に成功する8年前に、
海軍は水上機による大西洋横断飛行を史上初めて成功させていました。

その二週間後、イギリスのジョン・アルコックとアーサー・ブラウンが、
今度は航空機による史上初大西洋ノンストップ横断に成功しました。


アルコックとブラウンの像

ちなみにアルコックはこの年1919年の12月に参加した航空ショーで
飛行機が墜落し、若くして死去しています。

命の危険を重々承知で飛んでいたとはいえ、
世界記録を出した直後に死ぬというのは何とも気の毒です。

ともかく史上初めて航空機と名のつくもの、水上機で大西洋横断したのは、
アルバート・クッシング・リード中佐率いる3機のNC-4海軍チームで、
ニューヨークからプリマスまで23日で到達しているのですが、
かかった時間と横断に複数の飛行機を使用したということで、
「大西洋横断」と言う公式記録にはカウントされませんでした。

しかし、このときの海軍は、記録を作ると言うよりは、
大洋横断兵器としての飛行機の性能と技術を証明するため、
軍を挙げて大西洋横断に挑戦したのだといわれています。


という意気込みの割に驚くほどのんびりとした出撃風景なんですが・・・。

1919年5月8日、ロングアイランドのロッカウェイビーチ。
(どこから撮った写真なんでしょうか)

この挑戦は6名の乗員を乗せたカーチス飛行艇3機で行われました。
使用されたのはNC-1、NC-3、NC-4でと番号が振られた
カーティスNCと言う最新式の水上飛行機でした。




大西洋横断メンバー

当時の海軍の軍服が全く陸軍風なのに驚かされます。
長靴に乗馬のジョッパーパンツなんて海軍要素ゼロですよね。

NC-4艇のメンバー、左から右に向かって:

操縦士;エルマー・ストーン中尉Lt. Elmer F. Stone, 沿岸警備隊

機関士;ユージーン・ローズ上等兵曹Eugene S. Rhodes


機関長;ウォルター・ヒントン大尉Lt. Walter Hinton

副操縦士;ハーバート・ロッド少尉 Ensign Herbert C. Rodd

通信&機関長;ジェイムズ・ブレッセ大尉 Lt. James L. Breese,

司令官;アルバート・リード 中佐Lt. Cmdr. Albert C. Read

アゾレス諸島海軍司令官;リチャード・ジャクソン少佐
Capt. Richard E. Jackson, Commander U.S. Naval Forces Azores

アゾレス諸島は、彼らが大西洋横断の際に中継点として離陸した
大西洋の島であり、ジャクソン少佐は現地司令官です。

先にフライトエンジニアとしてE・H・ハワードというメンバーがいましたが、
5月2日、ハワードは回転するプロペラとの距離を見誤り、
手を失ったため、ローズ上等兵曹が代理で乗り込むことになりました。

超余談ですが、この中の唯一の沿岸警備隊からの参加者、
ストーン中尉(左端)は、のちに海軍の飛行船「アクロン」の沈没事件の時、
沿岸警備隊の飛行艇のベテランとして、嵐の中、外洋に着水し、
果敢にも救助活動を行ない、賞賛されることになります。

この時の「アクロン」の生存者は76名の乗員のうちたった3人でした。



このときのリード隊のコースが図になっています。

ニューヨーク・ロングアイランド
マサチューセッツ・チャタム(アメリカ)
ハリファックス、セントジョンズ・ニューファンドランド(カナダ)
ホータ、
ポンタ・デルガーダ(アゾレス諸島)
リスボン、フィゲイラ(ポルトガル)
フェロル(スペイン)
プリマス(イングランド)


(赤字は予定外の緊急着陸地)

水上艇での横断というのが記録として公認されなかったのは、
固定翼機と違い、墜落による命の危険がない乗り物だったからでしょう。

おまけにこのとき、海軍は作戦成功のためにルート上に駆逐艦を配備して、
逐一カーチス飛行艇を誘導していたと言いますから、
のちのリンドバーグやイヤハートと違い、言うては何ですが
比較的イージーモードな挑戦だったから、と言えるかもしれません。


1919年5月8日、アメリカ海軍の大西洋横断飛行探検が始まりました。

参加したカーチスはNC-4はNC-1とNC-3と言いましたが、
なぜ2がないかというと、この出発前、NC-2は、NC-1を修理するため
重要なスペアパーツを取られて飛べなくなったからです。

3機はロッカウェイ海軍航空基地から出発し、一週間後となる
5月15日には、ニューファンドランドのトレパシーに到着しました。

カーチスNCの航行支援と万が一の際の乗員救出のため、
アメリカ海軍の軍艦8隻がアメリカ東海岸北部と大西洋カナダに配備され、
全軍挙げて成功させる気満々です。

USS「アルーストック」

支援のための全艦艇の旗艦である「ベース・シップ」は、
カーチスNCの飛行直前に海軍が水上機テンダー(補給船)に改造した
旧機雷掃海艦USS「アルーストック」でした。

「アルーストック」は排水量3,000トン強で、
大西洋横断飛行支援に配備された海軍のどの駆逐艦よりも大型です。

「アルーストック」は、カーチスNCがニューヨークを離陸するより前に、
ニューファンドランドのトレパシーに待機していました。

NC-1、NC-3、NC-4が到着すると、給油、再潤滑、整備作業を行い、
のみならずその後、大西洋を横断してカーチス隊を追いかけ、
イギリスに到着した一行と合流して至れり尽くせりの援護を行いました。

海軍全面支援ならではのゴーヂャスなバックアップ体制です。


5月16日、3隻のカーチスNCは、ニューファンドランドを出発しました。
大西洋中部のアゾレス諸島までは今回最も長い距離飛ばなくてはなりません。

しかし、ご安心ください。

先ほども言いましたように、この航路には、主に駆逐艦からなる
22隻の海軍艦艇が約50マイル(80km)間隔で配備されていました。

この過保護っぷりよ

この駆逐艦配置をして「真珠の首飾りのよう」と評されたと言います。

配置されたすべての駆逐艦は「ステーションシップ」として機能するべく、
夜間には煌々と光を放って、迷える飛行艇を導きました。

乗員はサーチライトを空に向けて照らし、また、
飛行士が予定した飛行経路を外れないように、星空弾を発射しました。


NC-4の乗員

が、

ここまでやったのに、やはりアクシデントは起こり、
三機全部、というわけにはいかなかったのです。

NC-4は、翌日の午後にアゾレス諸島のファイアル島のオルタに到着し、
約1,200マイル(1,900km)の飛行を無事に終えることができましたが、
この、15時間18分の夜間飛行の間、一行は濃い霧に遭遇し、
水平線を見失う状態に見舞われたため、危険回避のために
NC-1とNC-3は大西洋に着陸せざるを得なくなりました。

飛行艇だからよかったものの、飛行機なら墜落ですね。

しかもNC-1は荒波にもまれ、再飛行が不可能となり、
NC-3はメカニカルトラブル(操縦線断裂)で棄権を余儀なくされます。

このNC-1には、後に提督となるマーク『ピート』ミッチャーが乗っており、
ミッチャーら乗員6名は、配備された駆逐艦ではなく、
通りすがりのギリシャの貨物船SS「イオニア」号によって救助されました。

NC-1には「ナンシー」と言う愛称がつけられていましたが、
「イオニア」に発見されるまで、ミッチャーらは波に揺られる
「ナンシー」の翼の上にずっと座っていたということです。


当ブログではおなじみ、ミッチャー

若き日、イケイケの飛行機野郎だった頃のミッチャー

「イオニア」号は、乗員を「アルーストック」に移乗させた後、
NC-1を曳航していたらしいのですが、気の毒に、3日後に沈没し、
深海で行方不明となってしまいました。

もし飛行艇の曳航などしなければ、というか、たまたま
駆逐艦より先に遭難した飛行艇を見つけていなければ、
「イオニア」もきっとこんな目に遭わずに済んだと思われます。
(-人-)

さて、もう1機の遭難艇NC-3には、やはりのちに提督となる
ジャック・タワーズが乗っていました。

グレーの矢印(見にくくてごめん)というか
一人だけズボンに皺のないのがタワーズ

さて、タワーズを乗せたNC-3は、約200海里(370km)を航行して、
(つまり飛ばずに船のように海路を進んで)アゾレス諸島に到着し、
そこからアメリカ海軍の艦船に本国までドナドナされていきました。


NC-4はアゾレス諸島に到着して3日後の5月20日、
リスボンに向けて再び離陸しましたが、機械的な問題が発生し、
わずか240km飛んだところで、アゾレス諸島のサン・ミゲル島、
ポンタ・デルガダに着陸を余儀なくされました。

スペアパーツと修理のために数日滞在後、(これってセーフ?)
NC-4は5月27日に再び離陸しました。

そして、またしても海軍は、特に夜間の航行を助けるために
艦艇をみっちりと配備して備えました。
アゾレス諸島-リスボンのルート上には13隻の軍艦が配置されています。

当時は戦間期で、海軍も暇っちゃ暇だったのでしょう。


その後は大きなトラブルもなく、9時間43分でリスボン港に着岸成功!

この瞬間、NC-4は、「初めて大西洋を横断した航空機」
また、「初めて『海洋上』を横断飛行した航空機」となったのです。

また、マサチューセッツやハリファックスからリスボンまで飛んだことで、
NC-4は「北米やヨーロッパの本土から本土まで飛んだ初めての飛行機」
というタイトルを得ることにもなりました。

かかった日付のわりに、実際の飛行時間は26時間46分でした。

ついでに言えば、リスボンからスペインのフェロール、
そしてフェロールからプリマスという最後の飛行区間には、
さらに10隻のアメリカ海軍の軍艦が航路上に配置されていました。

結局、ニューヨークからプリマスまでのルートのために、
合計53隻のアメリカ海軍の艦船が配備されていたことになります。

やっぱり暇(略)

ヨーロッパ(のどこか)を意気揚々と滑走するNC-4


NC-4の乗員ははプリマスでNC-1、NC-3の乗組員と再会し、
成功組失敗組、一緒に列車でロンドンに向かい、そこで歓迎を受け、
次にフランスのパリを訪れ、そこでも熱烈に喝采を浴びました。



しかし、そのわずか二週間後、最初にも書いたように、
ジョン・アルコックとアーサー・ウィッテン・ブラウンが
ニューファンドランドからアイルランドまで
ヴィッカーズ・ヴィミー複葉機による初の大西洋無着陸横断飛行に成功。

所要時間も16時間27分と海軍の飛行艇の時間を大幅に上回り、
この壮挙にはちょっと曇りが生じることになります。

せめてこの何ヶ月か後ならもう少し勝利感に浸れたと思うのですが。


この成功によって、アルコックとブラウンは、
『デイリー・メール』紙がスポンサーとなって出した条件、

「アメリカ、カナダ、ニューファンドランドのいずれかの地点から、
イギリスまたはアイルランドのいずれかの地点まで、
飛行中の飛行機で72時間連続して初めて大西洋横断を行った飛行士。
各試行に1機のみを使用できる」

をクリアし、1万ポンドの賞金を獲得しましたが、そもそも海軍は
このコンペに参加して賞金を得ることには全く無関心でしたから、
時間制限とか、1機使用などというルールを守ろうなどとは
ハナから思っていませんでしたし、また守る必要もなかったのです。


アメリカに輸送するためプリマスで解体されるNC-4
この後機体は「アルーストック」に積み込まれた

しかしこの壮挙は賞金には変えられない栄光を海軍にもたらしました。
1929年2月9日、議会は公法を可決し、

「最初の大西洋横断飛行を考案し、組織し、指揮した」

ジョン・H・タワーズ中佐と、

「1919年5月にアメリカ海軍飛行艇NC-4に乗り、
最初の大西洋横断飛行に成功したという驚くべき業績」


を挙げた搭乗員の6名に連邦政府金メダルを授与し、
海軍は新たにNC-4勲章という軍事勲章を創設することになったのです。

これはミニチュア版の議会ゴールドメダルでしたが、
海軍や軍服への着用が許可されるメダルは非常に稀なものでした。


本作戦指揮官を務めたリード中佐は搭乗員番号25、
つまり海軍始まって以来25番目に資格を得たパイロットです。

1919年、挑戦を終え、アメリカに帰国したリードは、こう予言しました。

「まもなく人類は、高度6万フィート、時速1,000マイルの飛行機で
世界を一周することが可能になるだろう」


現代の我々には、そりゃそうなるよね、くらいにしか思えない発言ですが、
翌日のニューヨークタイムズ紙は、社説で真っ向から反発しています。

「飛行士の資格と預言者の資格は全く別物だ。
中佐の予測を裏付けるものは、今となっては何もない。
6万フィートの高さにある飛行機は、
真空の中でプロペラを回しているようなもので、
星間空間の凍てつくような寒さの中では、
どんな飛行家も長くは生きられないだろう 」

と。

NYT紙といえば、預言者となったロケット工学の父、
ロバート・ハッチングス・ゴダードに対する当時の暴言を
人類の月着陸の翌日誌面で大々的に謝罪したことで有名ですが、
この暴言に対しては誰をも責任をとっておらず、
少なくとも誰もリードに謝っていないように思われます。

アルフレッド・リードは1967年まで生きていましたから、ジェット機の登場も
音速超えの飛行機も、人類が宇宙に行ったことも当然知っていたわけです。

彼は自分の預言というより、実体験からの「予測」を貶したNYTに対し、
後年そらみたことかと思っていたに違いありません。

History of Naval Aviation - NC-4, Aircraft Carrier 21720 

前半はつまらないので8:00くらいからご覧になるとよろしいかと思います。
この時代の水蒸気カタパルトが結構すごいのに驚かされます。



NC-4は、帰還後に海軍からスミソニアン博物館に寄贈されたため、
スミソニアン博物館の所有物ということになっています。

しかし、この機体は大きすぎて、ワシントンD.C.にある
ここ旧スミソニアン芸術産業館にも、その後継で1976年に完成した
国立航空宇宙博物館本館にも収容することができません。

というわけでNC-4の小型模型は、
国立航空宇宙博物館のマイルストーン・ギャラリーに
1903年の初代ライトフライヤー、
1927年のチャールズ・リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス」
1947年のチャック・イエーガーのグラマラス・グレニスX-1ロケット機、
X-15ロケット機とともに、名誉ある機体として展示されています。

模型ですが。



1974年現在、組み立てられた本物のNC-4はスミソニアンから
フロリダ州ペンサコーラの国立海軍航空博物館へ貸し出されています。

このままスミソニアンに帰ってくることはなさそうです。


続く。



ジミー・ドーリトルとスマイリング・ジャック〜スミソニアン航空博物館

2023-02-23 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館のミリタリーエア、陸軍航空のコーナーには、
歴史的なカーティスの水上機R3 C-2が展示されています。

これは、かつてあのジェームズ”ジミー”・ドーリトル大尉が乗ったものです。



機体の下には当時のジミー・ドーリトルの飛行服姿が
パネルになってお出迎えしてくれます。

東京空襲=ドーリトル空襲で有名な彼ですが、若い時は
エアレース常連の航空パイロットとして名前を挙げました。

今日は、スミソニアン航空博物館の展示から、
若きドーリトル飛行士についてお話しします。

1925年、アメリカ陸軍航空隊のパイロット、ジミー・ドーリトルは、
このカーティスR 3C-2で、シュナイダー・トロフィー水上機レースに出場、
見事一位を獲得し、翌日には世界記録を打ち立てました。

パネルには、「ジミー・ドーリトルとは?」として、

1920年代、1930年代のアメリカ最高のレースパイロット

航空エンジニア

初めて「ブラインド」フライトを行った恐れ知らずのパイロット

第二次世界大戦の国際的英雄

とそのキャッチフレーズが書かれています。

■ シュナイダー・トロフィー・レース


ノーズがハシブトガラスそっくりな(笑)カーティスR -2C3。

1925年10月26日、アメリカ陸軍中尉ジェームス・H・ドーリトルが
このカーチスR3C-2で参加したシュナイダートロフィーレースの記録は、
平均時速374kmというものでした。

翌日に樹立した世界記録は、直線コースで時速395kmというものです。

R 3Cは純粋にスピードを追求するために設計されており、
水上飛行機から地上用に転換することが可能でした。

そのため、ドーリトルはのちに陸上機としてもレースで結果を出しています。

多くの革新的な機能を持った機体でしたが、
中でも翼に組み込まれたエンジン冷却のためのラジエーター、
そしてフロートに燃料タンクを組み込んだ点が特に先進でした。


これがコクピット。
まあよくぞこれで新幹線並みの速さに人体が耐えたなと。

ちなみにレースには他にも2機同じカーティスの機体が参加しましたが、
そのどちらもゴールラインに到達することもできなかったそうです。



レースの時のカーティスR 3C-2とドーリトル。
レースはメリーランド州のチェサピーク湾で行われました。

メリーランドの天候については詳しくありませんが、
11月のレースは気候的に上空は厳しかったのではないでしょうか。


大恐慌時代のアメリカ航空界のポピュリズムは、1930年代、
エアレースという目に見える形に集結されることになります。

資金さえあれば、容易に入手できる技術を利用し、エアレーサーを投入して、
それだけで名声と富を手に入れることができた時代でした。

国際レースはコンスタントにクリーブランドで行われましたが、
他の主要なアメリカの都市もこぞってレースをホストしています。




シュナイダー・トロフィーレースというのは、1913年から1931年まで
欧米各地を持ち回りで開催された水上機のスピードレースです。

主催者のフランスの富豪、シュナイダーの名前を取ったレースで、
彼自身が水上機の将来性を見込んで、航空技術を発達させるため
私費を投じてレースを始めることにしたようです。

第1回大会、第2会大会は1913年14年と連続して行われましたが、
第一次大戦が始まってしまい、その次は1919年と間が空いてしまいました。

この後の経過が、なんというか第一次世界大戦後の世界の航空界を
ある意味描写している部分もあると思うので書いておきます。

1919 開催地イギリス 優勝:イタリア
1920 開催地イタリア 優勝:イタリア
1921 開催地イタリア 優勝:イタリア

3回連続優勝すればトロフィーを永久獲得できるというルールだったが、
他の国の準備体制が不十分であったという事情を鑑み、
イタリアは紳士的にトロフィー永久保持の権利を放棄

1923 開催地アメリカ 優勝:アメリカ

アメリカ、陸軍の総力を挙げて参戦したため、他国から批判される
1924 開催地アメリカ(中止) 優勝:なし

アメリカの圧倒的な技術力に対抗出来ず、フランス、イタリアは欠場、
イギリス機も予選でクラッシュしてしまったため、
アメリカはスポーツマンシップに則って開催の延期を申し出る
1925 開催地アメリカ 優勝:アメリカ

イタリア、イギリス両国、満を持して臨むも、
ジミー・ドーリトルのカーチス R3C-2が圧勝
アメリカのトロフィーの永久保持の権利3勝まであと1勝と迫る

1926 開催地アメリカ 優勝:イタリア

アメリカは軍が手を引いたところ、イタリアが国民の盛り上がりと
ファシスト党のムッソリーニ自らがこれを国家プロジェクトとして
「いかなる困難にも打ち勝ってトロフィーを獲得せよ」

と大号令をかけたのが後押しをして、その結果、

空軍少佐のマリオ・デ・ベルナルディの操縦するマッキ M.39が優勝

この大会を最後にアメリカは不貞腐れて参加を取りやめ
以降はイギリスとイタリアの一騎討ちとなる

1927 開催地イタリア 優勝国イギリス

イギリスがレジナルド・ミッチェルの設計によるスーパーマリン S.5で優勝
これ以降
イタリアはイギリスに勝てなくなる

この間主催者であったシュナイダーは、戦争で資産を失い、
1928年、貧困のうちに死去していた


1929 開催国イギリス 優勝国:イギリス

1931 開催国イギリス 優勝国:イギリス

イギリスに勝てなくなったイタリア、
やる気をなくして
これ以降のシュナイダートロフィーは行われなくなる

っていうか、もうこの頃は水上機の時代は終わっていたのかもしれません。


1925年のシュナイダートロフィーレースで
カーチスR3C-2レーサーに乗るドーリトル



■ 戦間期


第一次世界大戦中、ドリトルは飛行教官として米国に留まり、
その後飛行隊に所属しましたが、大学で本格的に航空工学を学び始め、
1922年、カリフォルニア大学バークレー校で学士号を取得します。

翌年、テストパイロットと航空技師を務めた後、
ドーリトルはMITに入学して航空機の加速試験で修士論文を書き、
MITから航空学の修士号を、続いて博士号を取得しました。

彼はこれでアメリカで初めて航空工学の博士号を取りました。

卒業後、ドーリトルはワシントンD.C.の海軍航空基地
アナコスティアで高速水上機の特別訓練を受け、また、
ニューヨーク州ロングアイランドの海軍試験委員会に所属し、
ニューヨーク地区の航空速度記録挑戦でおなじみの存在でした。

また、1922年、初期のナビ計器を搭載したデ・ハビランドDH-4で、
フロリダからカリフォルニア州サンディエゴまで一度の給油で
21時間19分という初めての横断飛行を成功
させました。

この功績によりアメリカ陸軍は彼に殊勲十字章を授与しています。

当時の国際レースで最も注目度の高かったのは、
トンプソン・トロフィー(クローズコースのレース)と、
彼の出場した大陸横断レース、ベンデックストロフィーでした。


トンプソン・トロフィーは2つのシリーズに分かれていて、この写真は
国際陸上機フリー・フォー・オール」(無制限クラス)の様子です。
スピードを競うレースですが、

ドーリトルは1931年に、

Granville Gee Bee Model R Super Sportster

という飛行機で優勝しています。


犬は飼い主に似るというけれど、この飛行機も
なんとなくドーリトルに雰囲気がそっくりな気がします。



「ベンデックス・トロフィー」は実業家、
ヴィンセント・ベンデックスの名前を冠したレースで、
その第一回大会となる1931年のバーバンクークリーブランド間を、
少佐だったドーリトルはスーパーソリューションに乗って出場し、
優勝して賞金7500ドルを獲得しています。



ちなみにベンデックス・トロフィーは、その後、
何人かの有名な飛行家が出場しています。

それがここでも何度となく扱ったお馴染みのメンバー、
ルイーズ・セイデン、ジャクリーン・コクラン、
そしてアメリア・イヤハート

女性も男性と肩を並べて出場し、優勝できるレースだったんですね。


この後の1925年に行われたシュナイダーカップレース
ドーリトルは優勝することになります。


1926年、ドーリトルは陸軍から休暇をもらったので、
カーチス航空機のデモフライトを行うために南米に行ったところ、
チリでアクロバット飛行の実演中に両足首を骨折し、このことは
「ピスコ・サワーの夜」と呼ばれる事件にもなりました。

彼は両足首にギブスをつけてカーチスP-1ホークで空中飛行を披露し、
周りを驚かせましたが、帰国するなり入院を余儀なくされました。

アクロバットパイロットとしての彼の探究心は止まず、
その後1927年には、オハイオのライト・パターソン基地で
それまで不可能とされていたアウトサイドループを初めて成功させました。



この時の彼は、カーチス戦闘機を操縦し、高度1万フィートから
時速280マイルで急降下、逆さまに降下した後、上昇し、
ループを完成させています。

しかし、怖いもの知らずの無鉄砲ゆえ、

こんなこともありました。
ってかよく生きてたな。不死身か。

クリーブランドのナショナル・エアレースのデモで見事墜落。

パイロットとしての彼は、幾つものトロフィーを獲得し、
そして契機飛行を最初に行った「パスファインダー」というべき存在でした。

前列左から三番目、ドーリトル

1934年、ドーリトルはオハイオ州デイトンのマコックフィールドにあった
陸軍航空部のエンジニアリング部門に、テストパイロットとして加わります。

この写真は当時のテストパイロット仲間と撮った記念写真です。

彼らは実験用航空機で高高度、高速飛行を行い、
エンジンターボスーパーチャージャーや可変ピッチプロペラなど、
新しく生まれてくる技術を次々と評価しました。

彼らの前にあるアヒル🦢の正体は謎です。


■ スマイリング・ジャック



ドーリトルコーナーにあった、当時人気のカートゥーン、
「スマイリング・ジャックの冒険」をご覧ください。

「やあ、カート、レースで会えるとは嬉しいね」

「スマイリン・ジャック!ははは、君うちに帰れば?」

「僕の素晴らしい飛行テクとラッキーラビットにかかっちゃ
君のチャンスはないぜ?」

「それはどうかな?」

「最後のラップとダーツはリードしている・・
彼のラビットの足が役に立ってるな」

「彼は確実に勝つ・・いや、何か変だぞ。
彼は着陸しようとしている!」

Dart`s Dart号墜落「おおおっと」

「コントロールができなくなって・・・何が何だかわからない」

「なんだ?何かがポケットから滑り落ちて
コントロールジョイントを吹き飛ばしたぞ」

「君の『ウサギの足』だよ!」

「????」

はっきり言って何が面白いのかさっぱりわからんのですが、
40年間掲載され、最も長く続いた航空漫画と言われています。

この流れから、スマイリン・ジャックのモデルはドーリトルなのか?
と誰でも思うわけですが、そうではなく、モデルは
エアレースの有名スターだったロスコー・ターナーという人だそうです。


似てるかも

流石にドーリトルはバリバリの陸軍軍人だったので、
漫画のモデルにはしにくかった、に1ドーリトル。



なぜかこんな写真も残っています。
どれがドーリトルかわかりませんが。
左上の一番楽そうな人かな?



そして、若い頃はこんなにシュッとしていたドーリトル。
この後、第二次世界大戦初期に東京空襲を指揮し、


こんな貫禄たっぷりに・・・。

戦後彼はアメリカが宇宙開発時代に突入すると、
NACA (国家航空諮問委員会)の中の人というか委員長に就任し、
米国の宇宙計画への貢献の可能性と、NACAの人への教育を期待して、
陸軍弾道ミサイル局のヴェルナー・フォン・ブラウン博士、
ロケットダインのサム・ホフマン、海軍研究所のエイブラハット、
アメリカ空軍ミサイルプログラムのノーマン・アポルド大佐
など、
委員会メンバーの人選に携わっています。

そしてアメリカ軍の人種撤廃を提唱しました。
この時彼は、

「この状況の解決策は、彼らが有色人種であることを
忘れる
ことだと確信している 。
産業界は統合の過程にあり、それが軍にも押し寄せようとしているのだ。
あなた方は必然を先延ばしにしているだけに過ぎないのだから、
潔くそれを受け入れた方がいい」

と語っています。
ちなみに彼はフリーメイソンのメンバーでもありました。

彼の二人の息子はどちらも空軍パイロットになりましたが、
第524戦闘爆撃機飛行隊の司令官として、F-101ブードゥーを操縦していた
長男のジェームズJr.(少佐)は、わずか38歳で拳銃自殺しています。

調べてみましたが遺書などは見つかっておらず、
理由は明らかにされていません。


ジェームズ・H・"ジミー"・ドーリトルは1993年9月27日、
カリフォルニア州ペブルビーチで96歳で死去し、
アーリントン国立墓地に妻と共に眠っています。

ドーリトル将軍の葬儀では、彼の栄誉を讃え、
1機のB-25ミッチェルと、空軍の爆撃機がフライオーバーし、
墓前で死者に捧げる言葉が述べられると、ドーリトルの曾孫である
ポール・ディーン・クレーンJr.がタップスを演奏したそうです。


続く。