「女性で史上初めて航空免許を取った」ことで歴史に名を残した、
ド・ラローシュ男爵夫人ことエリザ・デローシュの記事で、
「アメリカの飛行家ルース・ロウの建てた女性記録を破った」
と書いたのですが、今日はそのルース・ロウRuth Law Oliverについてです。
ルース・ロウ、本名ルース・ロウ・オリバーは、1910年台の女流飛行家で、
アメリカの航空界におけるパイオニアの一人です。
ところで、ちょっと寄り道になるのですが、黎明期、
飛行機を競って開発していた当時の先進国フランスについてお話しします。
動力飛行の歴史が、グライダーの研究を積み重ね、開発した
「最初の動力付きで、パイロットが搭乗して断続的に飛行し、
機体を操縦することに成功した」
ライト兄弟の「ライトフライヤー号」の飛行から始まるとすると、
それは1903年12月17日のことです。
アメリカの航空界におけるパイオニアの一人です。
ところで、ちょっと寄り道になるのですが、黎明期、
飛行機を競って開発していた当時の先進国フランスについてお話しします。
動力飛行の歴史が、グライダーの研究を積み重ね、開発した
「最初の動力付きで、パイロットが搭乗して断続的に飛行し、
機体を操縦することに成功した」
ライト兄弟の「ライトフライヤー号」の飛行から始まるとすると、
それは1903年12月17日のことです。
つまり動力付き飛行機を発明したのはアメリカ人であり、
アメリカが「元祖」だったということになるのですが、そのアメリカで、
先駆者ライト兄弟は、その偉業にふさわしい扱いを受けませんでした。
アメリカが「元祖」だったということになるのですが、そのアメリカで、
先駆者ライト兄弟は、その偉業にふさわしい扱いを受けませんでした。
彼ら(主にウィルバー)は、成功した後も、
最後まで妬みやその他思惑からの妨害や争いに悩まされました。
一例が、昔ここで書いたこともある、スミソニアン協会会長との相克ですが、
(ウォルコットは最後までライトフライヤーを同館に展示しなかった)
最後まで妬みやその他思惑からの妨害や争いに悩まされました。
一例が、昔ここで書いたこともある、スミソニアン協会会長との相克ですが、
(ウォルコットは最後までライトフライヤーを同館に展示しなかった)
ライバルであったグレン・カーチスとの間の特許に関する係争もありました。
特許管理の問題でライト兄弟が法廷闘争を選んだことは、
黎明期のアメリカにおける航空産業の歩みを足止めする結果になります。
反面、訴訟の影響を受けなかったヨーロッパの設計者たちは、
独自の開発を進めることができ、そのおかげで、群雄割拠状態にあった
ヨーロッパ諸国における航空技術は、怒涛の勢いで進化していきました。
優れた航空技術者と命知らずのヒコーキ野郎たちが次々と現れ、
飛行機という「新兵器」を生み出しては記録を立て、改良していったのです。
特にその勢いが目立ったのがフランスでした。
黎明期のアメリカにおける航空産業の歩みを足止めする結果になります。
反面、訴訟の影響を受けなかったヨーロッパの設計者たちは、
独自の開発を進めることができ、そのおかげで、群雄割拠状態にあった
ヨーロッパ諸国における航空技術は、怒涛の勢いで進化していきました。
優れた航空技術者と命知らずのヒコーキ野郎たちが次々と現れ、
飛行機という「新兵器」を生み出しては記録を立て、改良していったのです。
特にその勢いが目立ったのがフランスでした。

ライト兄弟が初飛行したのと同年、エンジン搭載の複葉機を製作し、
初めてドーバー海峡横断成功したブレリオXIを作った、ルイ・ブレリオ。
初めてドーバー海峡横断成功したブレリオXIを作った、ルイ・ブレリオ。

1906年から航空機製造を始め、推進式の飛行機を製作、
第一次世界大戦でフランス軍に使用された「ヴォアザン」などを生産した
ガブリエルとシャルル・ヴォアザンのイケメン兄弟。
第一次世界大戦でフランス軍に使用された「ヴォアザン」などを生産した
ガブリエルとシャルル・ヴォアザンのイケメン兄弟。

第一次世界大戦の爆撃・偵察機「ブレゲ14」を生産したルイ・ブレゲ。

1911年、ブレゲG3

パイロットの弟のアンリとファルマン社を立ち上げたモーリス・ファルマン。
ちなみにファルマンは飛行機の操縦をせず、免許もとっていません。
この写真は「俺が作った飛行機のコクピットに座ってみた」的な?
ちなみにファルマンは飛行機の操縦をせず、免許もとっていません。
この写真は「俺が作った飛行機のコクピットに座ってみた」的な?

大日本帝国海軍水上機母艦「若宮」所属ファルマン水上機
フランスはこういったパイオニアを輩出していたのです。
■ 「史上初」の女性
そして特筆すべきは、航空界における女性の活躍です。

以前ご紹介した紫のスーツの飛行家、ハリエット・クィンビーは、
「アメリカで初めて航空免許を取った女性」となりました。
1911年のことです。
「アメリカで初めて航空免許を取った女性」となりました。
1911年のことです。
しかも、アメリカで操縦免許制度ができたのは第一次世界大戦後で、
このときの免許は私設の「アメリカ航空クラブ」の発行によるものでした。
世界で最初に免許を取った女性、なんなら世界で最初に飛行機で飛んだ女性も
当時の航空先進国、フランスから現れました。
このときの免許は私設の「アメリカ航空クラブ」の発行によるものでした。
世界で最初に免許を取った女性、なんなら世界で最初に飛行機で飛んだ女性も
当時の航空先進国、フランスから現れました。

世界で初めて飛行機に乗った(同乗した)のは、有名な飛行家、
レオン・ドラグランジュの友人で本業の版画家の同僚、
テレーズ・ペルティエというこの女性で、1908年のことです。
さらに彼女は同年9月に飛行機を操縦し、単独で
レオン・ドラグランジュの友人で本業の版画家の同僚、
テレーズ・ペルティエというこの女性で、1908年のことです。
さらに彼女は同年9月に飛行機を操縦し、単独で
「2.5mの高度で200mの飛行を行った」
ということで「史上初めて航空機を操縦した女性」となりました。
ということで「史上初めて航空機を操縦した女性」となりました。

世界で初めて航空免許を取ったのは、このデ・ラローシュ男爵夫人こと、
ルイーザ・デローシュで、1910年の3月のことでした。
ちなみに当ブログでもお話ししましたが、彼女は
先ほどペルティエを乗せて飛んだドラグランジュの愛人で、
その関係で航空の世界にのめり込んだという共通のきっかけがあります。
当時の「史上初」をフランス女性が独占したのは、
たまたまドラグランジュというこの男が、自分の恋人や友人を
気前よくコクピットに座らせたから、ということがわかりましたね。
ルイーザ・デローシュで、1910年の3月のことでした。
ちなみに当ブログでもお話ししましたが、彼女は
先ほどペルティエを乗せて飛んだドラグランジュの愛人で、
その関係で航空の世界にのめり込んだという共通のきっかけがあります。
当時の「史上初」をフランス女性が独占したのは、
たまたまドラグランジュというこの男が、自分の恋人や友人を
気前よくコクピットに座らせたから、ということがわかりましたね。

レオン・ドラグランジュ
逆に、「動力飛行機の生みの親」を生んだアメリカの女性が、
「史上初」を悉くフランス女性に奪われる結果になったのは、
先駆者たる男性が女性の能力を認めようとしなかったからかもしれません。
今日の主人公、ルース・ロウは、女性であるということで、
二人のアメリカ人航空先駆者に存在を否定、あるいは拒否されています。
一人はオーヴィル・ライト、そしてもう一人はグレン・カーティスでした。
「史上初」を悉くフランス女性に奪われる結果になったのは、
先駆者たる男性が女性の能力を認めようとしなかったからかもしれません。
今日の主人公、ルース・ロウは、女性であるということで、
二人のアメリカ人航空先駆者に存在を否定、あるいは拒否されています。
一人はオーヴィル・ライト、そしてもう一人はグレン・カーティスでした。
■ ルース・バンクロフト

ルース・ロウが航空の世界に進んだのは、彼女の兄、ロッドマンが
パラシューターでビルディングクライマー、スタントマンの先駆けという、
「高いところ好き」が高じてそれを仕事にしていたからでした。

パラシューターでビルディングクライマー、スタントマンの先駆けという、
「高いところ好き」が高じてそれを仕事にしていたからでした。

ロッドマンの飛行機に同乗するルース
彼女が航空のレッスンを受け、免許を取得したのは1912年。
ハリエット・クィンビーの免許取得の翌年のことです。
彼女が航空のレッスンを受け、免許を取得したのは1912年。
ハリエット・クィンビーの免許取得の翌年のことです。
彼女は21歳になる1908年にオーヴィル・ライトから飛行機を購入し、
作った本人に指導をお願いしたのですが、訓練は拒否されます。
なぜなら、オーヴィル・ライトは、
「女性には飛行機の機械に対する適性がない」
という考えの持ち主だったのです。
作った本人に指導をお願いしたのですが、訓練は拒否されます。
なぜなら、オーヴィル・ライトは、
「女性には飛行機の機械に対する適性がない」
という考えの持ち主だったのです。
たっかい飛行機を買ったのにアフターサービスを受けられなかった彼女は、
購入後4年も経ってから、飛行学校に入学することになったのでした。
当時の飛行家は、自分が「世界初」になれるタイトルありきで
あらゆる挑戦を打ち立てましたが、彼女の場合は、まず高度記録に挑戦、
1915年には「ループ・ザ・ループ」(宙返り)の曲技飛行をマスターし、
おそらく女性として初めてこれを観衆に披露しています。
このとき「一回だけ」という約束を破って2回も宙返りした彼女に、
夫であったチャールズ・オリバーは困惑するばかりでした。(これ伏線)
■「 グレープフルーツリーグ」
メジャーリーグのお好きな方は、「🌵カクタスリーグ」そして
「🍊グループフルーツリーグ」という言葉をご存知かもしれません。
メジャーリーグではシーズン開幕前にオープン戦を行うのが恒例で、
フロリダを春季キャンプ地にする「グループフルーツリーグ」、
アリゾナをキャンプ地にする「カクタスリーグ」に分かれ、試合します。
ちなみに前者にはレッドソックス、ヤンキース、メッツ、
そしてピッツバーグパイレーツなどがおり、後者には大谷選手のドジャース、
ジャイアンツ、マリナーズ、カブスなどが含まれます。
なぜ唐突に野球の話をしているのかというと、
本日の主人公ルース・ロウが、1915年に
「グレープフルーツリーグの宣伝活動に飛行機で参加した」
という歴史的事実があるからなのです。
メジャーリーグのスプリングキャンプの歴史は1886年に遡ります。
1913年になってシカゴ・カブスが本格的にフロリダで春季キャンプを始め、
フロリダに集結するチームを「グレープフルーツ」と呼びはじめました
なお、カクタスリーグが誕生したのは第二次世界大戦後です。
当時、ルース・ロウはすでに飛行家としてちょっと有名で、
「ゴルフ場に飛行機からゴルフボールを落とす」
という、今日の感覚では何が面白いの的なスタントもやっていたのですが、
当時のドジャースの監督だったウィルバート・ロビンソンらが、
これにヒントを得て、グレープフルーツリーグの宣伝のため、
「飛行機から野球のボールを落として、それをロビンソンがキャッチする」
という素敵なイベントを思いついたのです。
リーグ開催日の1915年3月13日、ルース・ロウの操縦する飛行機が
スタジアムの上空に飛来し、グラウンドではなぜか監督のロビンソンが
ミットを持ってボールが落ちてくるのを待ち構えていました。
ここから先は、ウィルバート・ロビンソンのwikiの通りに書きます。
ロビンソンは、上空を飛ぶ飛行機から落とされたボールをキャッチして、
ある種の記録を樹立しようと決心した。
ロビンソンは、上空を飛ぶ飛行機から落とされたボールをキャッチして、
ある種の記録を樹立しようと決心した。
これは、飛行士ルース・ロウが飛行機からゴルフ場にゴルフボールを落とす、
というスタントをしていたことに触発されたものである。
これより7年前、ワシントン記念塔のてっぺんから落とされたボールを
15回目にキャッチした、当時ワシントン・セネターズの捕手、
ギャビー・ストリートが、高所からの捕球成功記録を立てていた。
というスタントをしていたことに触発されたものである。
これより7年前、ワシントン記念塔のてっぺんから落とされたボールを
15回目にキャッチした、当時ワシントン・セネターズの捕手、
ギャビー・ストリートが、高所からの捕球成功記録を立てていた。
しかし、どういうわけかロウは野球ボールを積むのを忘れて、
代わりにグレープフルーツを落としたため、果肉が飛び散り、
血のような色の酸っぱい液体が目に入って見えなくなったロビンソンは
叫び声を上げ始めたが、グレープフルーツまみれの自分を見て
チームメイトが笑っているのに気づき、初めて冗談だと気づいた。
叫び声を上げ始めたが、グレープフルーツまみれの自分を見て
チームメイトが笑っているのに気づき、初めて冗談だと気づいた。
以降、ロビンソンは飛行機を「フルーツフライ(ミバエ)」と呼んだ。
これが春季トレーニング「グレープフルーツリーグ」の
ニックネームの由来となったという俗説もある。
「グレープフルーツリーグ」のあだ名はこのときすでにありましたから、
最後の一節は単なる「噂」に過ぎません。
これが春季トレーニング「グレープフルーツリーグ」の
ニックネームの由来となったという俗説もある。
「グレープフルーツリーグ」のあだ名はこのときすでにありましたから、
最後の一節は単なる「噂」に過ぎません。
それに、ルース・ロウが野球のボールを積むのを忘れたとか、
なのになぜか果物はあったとかあり得ないので、
最初から誰かがロビンソンを揶揄うために仕込んでいたのでしょう。
なのになぜか果物はあったとかあり得ないので、
最初から誰かがロビンソンを揶揄うために仕込んでいたのでしょう。
■ カーティスの「ノー」と挑戦への準備
ルース・ロウの偉業、それは、1916年、
シカゴからニューヨーク州までの950kmを無着陸で飛行し、
ビクター・カールストロームの記録、727kmを破ったことでした。
女性初どころか、これで彼女はアメリカ記録保持者となります。
シカゴからニューヨーク州までの950kmを無着陸で飛行し、
ビクター・カールストロームの記録、727kmを破ったことでした。
女性初どころか、これで彼女はアメリカ記録保持者となります。
しかし、この記録挑戦の計画を発表した途端、この過酷な挑戦は
女性にはとても耐えられないだろうと非難が巻き起こりました。
女性にはとても耐えられないだろうと非難が巻き起こりました。
その過酷さは彼女も重々わかっていたので、この計画のために、
燃料容量のより大きな飛行機を使用することにして、
改めてグレン・カーティスに大型機の購入を申し入れましたが、
当時戦争前夜だったこともあり、飛行機を作るのに忙しかった彼は、
そのような飛行機を用意することはできないと彼女を突っぱねました。
「あなたが欲しがっている大きな飛行機は女の子には扱いにくい」
手紙か直接かはわかりませんが、カーティスはこう言い放ったそうです。
そこでロウが挑戦に使うことにしたのは、誰が見ても無理ゲーな、
そのような飛行機を用意することはできないと彼女を突っぱねました。
「あなたが欲しがっている大きな飛行機は女の子には扱いにくい」
手紙か直接かはわかりませんが、カーティスはこう言い放ったそうです。
そこでロウが挑戦に使うことにしたのは、誰が見ても無理ゲーな、
「時代遅れのエンジンを搭載した小型の旧式機」
でした。
でした。
8気筒、100馬力のモーターを搭載したカーティス複葉機です。
「プッシャー」とも呼ばれる12フィートの木製プロペラは飛行機後部にあり、
「怪物」と呼ばれるほど飛行機全体に比べると大きな代物でした。

これで飛びましたから
飛行機の翼端は28フィート、エンジンは露出した操縦席の後ろに搭載され、
その操縦席は、「小さな椅子で、背もたれ付きのクッションがあるだけ」。
エンジンの前に座る操縦士は、天候から身を守る手段はなく、
ただただ、吹き曝しの高高度に根性で耐えるしかありません。
飛行機の翼端は28フィート、エンジンは露出した操縦席の後ろに搭載され、
その操縦席は、「小さな椅子で、背もたれ付きのクッションがあるだけ」。
エンジンの前に座る操縦士は、天候から身を守る手段はなく、
ただただ、吹き曝しの高高度に根性で耐えるしかありません。
この、保護されていない操縦席の尋常でない寒さと湿気は、
「このタイプの飛行機を操縦したことがある人だけが
遭遇するコクピット露出の問題を理解することができる」
と言われるほど、地上では想像もできない過酷なものだったのです。
「このタイプの飛行機を操縦したことがある人だけが
遭遇するコクピット露出の問題を理解することができる」
と言われるほど、地上では想像もできない過酷なものだったのです。
操縦士の身体は頑丈なシートベルトで固定されており、
飛行中、身体は二、三センチしか動かすことはできません。
飛行中、身体は二、三センチしか動かすことはできません。
舵と操縦は操縦席の両側にある二つのレバーで行いますが、それは
長時間の飛行中、操縦士の腕に極度に負担をかけました。
長時間の飛行中、操縦士の腕に極度に負担をかけました。
着陸時の操作も煩雑で、片足でスロットルを操作し、
同時にもう片方の足でブレーキを操作しなければなりません。
機体には何百本ものピアノ線があらゆる方向に交差しており、
これを見たある記者は、
「このスティックアンドワイヤー飛行機は、
彼女が要求する作業に対して全く不十分に見える」
と感想を述べています。
同時にもう片方の足でブレーキを操作しなければなりません。
機体には何百本ものピアノ線があらゆる方向に交差しており、
これを見たある記者は、
「このスティックアンドワイヤー飛行機は、
彼女が要求する作業に対して全く不十分に見える」
と感想を述べています。
そして、操縦している間、装置から手を離すことができなかったので、
彼女は航法のために独自の方法を考え出さなければなりませんでした。
彼女は航法のために独自の方法を考え出さなければなりませんでした。
航路計画の方向を表すコンパス目盛りをまとめた上で、
革製の長手袋の長い袖口に目盛りを記すことにしたのです。
さらに予定の飛行経路を地図に描き、ローラーに取り付けた巻物の地図を、
ベルトと座席のガードに縛り付けたケースに入れ、見たい時には
膝を使って右の操縦装置を固定し、その間に素早く
地図ケースのノブを巻き上げて現在位置を確認しながら操縦したのです。
革製の長手袋の長い袖口に目盛りを記すことにしたのです。
さらに予定の飛行経路を地図に描き、ローラーに取り付けた巻物の地図を、
ベルトと座席のガードに縛り付けたケースに入れ、見たい時には
膝を使って右の操縦装置を固定し、その間に素早く
地図ケースのノブを巻き上げて現在位置を確認しながら操縦したのです。
(写真で左横に立っている男性が持っているのがそれ)
そして、大きな飛行機をカーティスの意地悪で買えなかった彼女は、
従来16ガロンしか積めなかった機体に、タンクを追加して
容量を53ガロンに増やし、重量を減らすために照明まで取り除きました。
しかし、彼女が物凄かったのは実はここからです。
過酷な高高度飛行で遭遇する環境に耐えられる体を作るため、毎日
シカゴのモリソンホテルの屋上でテントを張って寝ていたというのです。
(わたしは冬のシカゴをトランジットでしか知りませんが、
飛行機から降りる時、外気温がマイナス20℃だったのでびびったものです)
そして、飛行服として、ウールのスーツ2 着と革のスーツ 2 着、
革とウールのヘルメットにウールのフェイス マスク、ゴーグルを装着。
これらを全部着込むと腕を動かすのが難しくなり、
操縦桿の操作に支障をきたしかねませんでしたが、背に腹は変えられません。
1916年当時、公の場で女性がスカートを履かないのはあり得ないので、
彼女は人前ではこの上にスカートを重ねていましたが、
飛行機に乗ると、飛行の現実がファッションに勝るので、
スカートは座席の後ろにしまっておいていざという時のみ着用しました。
彼女の唯一の「荷物」は、ニューヨークの人々に宛てた手紙一式でした。
過酷な高高度飛行で遭遇する環境に耐えられる体を作るため、毎日
シカゴのモリソンホテルの屋上でテントを張って寝ていたというのです。
(わたしは冬のシカゴをトランジットでしか知りませんが、
飛行機から降りる時、外気温がマイナス20℃だったのでびびったものです)
そして、飛行服として、ウールのスーツ2 着と革のスーツ 2 着、
革とウールのヘルメットにウールのフェイス マスク、ゴーグルを装着。
これらを全部着込むと腕を動かすのが難しくなり、
操縦桿の操作に支障をきたしかねませんでしたが、背に腹は変えられません。
1916年当時、公の場で女性がスカートを履かないのはあり得ないので、
彼女は人前ではこの上にスカートを重ねていましたが、
飛行機に乗ると、飛行の現実がファッションに勝るので、
スカートは座席の後ろにしまっておいていざという時のみ着用しました。
彼女の唯一の「荷物」は、ニューヨークの人々に宛てた手紙一式でした。
■ 無着陸飛行記録樹立
彼女の挑戦は最初から問題が頻発しました。
シカゴから出発する時、あまりの寒さと強風でエンジンが始動せず、
整備士の一人が「ルースは絶対に死ぬ」と泣き出しました。
ようやく予定より遅れて離陸した途端、高層ビルの上でビル風が吹き、
シカゴから出発する時、あまりの寒さと強風でエンジンが始動せず、
整備士の一人が「ルースは絶対に死ぬ」と泣き出しました。
ようやく予定より遅れて離陸した途端、高層ビルの上でビル風が吹き、
不規則な気流の「変化する突風」に見舞われ、見物人の誰しもが
大惨事を予測して震え上がる中、ロウは毅然と巧みにそれを切り抜けました。
大惨事を予測して震え上がる中、ロウは毅然と巧みにそれを切り抜けました。
飛行が始まると、前方の操縦席の彼女は風雨にさらされ、
寒さと湿気は、重ね着した衣服を簡単に突き抜けて体温を奪いました。
何時間も身も凍るような操縦席で操縦桿を握り続けていなければならず、
一瞬たりとも休んだりリラックスしたりする余裕はありません。
しかし、彼女の精神は、空中にいて挑戦できることに満足していました。
寒さと湿気は、重ね着した衣服を簡単に突き抜けて体温を奪いました。
何時間も身も凍るような操縦席で操縦桿を握り続けていなければならず、
一瞬たりとも休んだりリラックスしたりする余裕はありません。
しかし、彼女の精神は、空中にいて挑戦できることに満足していました。
彼女の挑戦がニュースに流れると、何百人もの人々が
彼女と飛行機が自分の街を通過するのを一目見ようと集まりました。
彼女はもうほとんど目標を達成しようとしていたのです。
しかし、ここで計算が狂いました。
目的地に着くまでに期待していた追い風が吹かなかったため、
目的地から2マイルというところで燃料が尽きてしまったのです。
いよいよエンジンが止まると、支援者が集まっている着陸地点まで
最後の 2 マイルを滑空しながら飛んだ彼女は、
驚きと感嘆で息を呑む観衆の前で、無事着陸を果たしたのでした。
このとき飛行機から降りたロウは寒さで体が麻痺しており、
待機している自動車にたどり着くのに自力で歩くこともできませんでした。
しかし、彼女の記録挑戦はまだ終わっていませんでした。
ホテルで食事を摂った彼女は、すぐに給油を終えた飛行機に戻り、
同日のうちにニューヨーク市目指して出発しました。
(この時、丘の斜面の木々に機体を擦って危うく衝突しかけています)
同日のうちにニューヨーク市目指して出発しました。
(この時、丘の斜面の木々に機体を擦って危うく衝突しかけています)
次の到着地まで無灯火の暗いコクピットで機体を操って飛び、
次の朝、ニューヨーク市に向かって再び飛び始めますが、
今度は霧が立ち込め、またもや燃料が不足してきます。
彼女はその度に機体を傾けて燃料の流れを調整しながら進みました。
次の朝、ニューヨーク市に向かって再び飛び始めますが、
今度は霧が立ち込め、またもや燃料が不足してきます。
彼女はその度に機体を傾けて燃料の流れを調整しながら進みました。
そして午前9時37分35秒にガバナーズ島の航空競技場に無事着陸し、
これをもって、
これをもって、
「シカゴからニューヨークまでの884マイル長距離飛行
飛行時間合計8時間55分35秒」
飛行時間合計8時間55分35秒」
という新たな記録を打ち立てたのです。
ちなみに、この時ガバナーズで彼女のカーティス・プッシャーに
スパークプラグの交換を行った陸軍航空隊大尉は、後に
アメリカ陸軍航空総司令官となるヘンリー・ハップ・アーノルドでした。
彼女は数人の高官と歓声を上げる群衆に迎えられ、
バンドの演奏とパレードの中、彼女の記録破りの飛行は
「アメリカのクロスカントリーおよびノンストップの記録」と
「女性パイロットの連続飛行の世界記録」を破ったとして讃えられます。
ウッドロー・ウィルソン大統領も祝福のコメントを出し、
アメリカ航空クラブも彼女をアメリカの
ノンストップクロスカントリー飛行の記録保持者に指名したのです。
記者会見で、
バンドの演奏とパレードの中、彼女の記録破りの飛行は
「アメリカのクロスカントリーおよびノンストップの記録」と
「女性パイロットの連続飛行の世界記録」を破ったとして讃えられます。
ウッドロー・ウィルソン大統領も祝福のコメントを出し、
アメリカ航空クラブも彼女をアメリカの
ノンストップクロスカントリー飛行の記録保持者に指名したのです。
記者会見で、
「あなたは女性として史上最長の飛行をしましたね」
と質問されたロウは、
「私はアメリカ人として史上最長の飛行をしました」
と質問されたロウは、
「私はアメリカ人として史上最長の飛行をしました」
と言い換えました。
この記者会見、グレン・カーティスは見てどう思ったでしょうか。
この記者会見、グレン・カーティスは見てどう思ったでしょうか。
RR Ruth Law Thrills a Nation 300k
絵本による彼女の記録挑戦の様子は2:46から8:24まで。
ホテルの屋上でテントを張ったことも描かれています。
英雄となった彼女はその後も国民を魅了しました。
自由の女神像を初めてライトアップする式典では、
彼女は炎の飛行機に乗って自由の女神像のトーチの周りを飛び、
何千人ものファンの前で「リバティ=自由」という文字を描きました。
自由の女神像を初めてライトアップする式典では、
彼女は炎の飛行機に乗って自由の女神像のトーチの周りを飛び、
何千人ものファンの前で「リバティ=自由」という文字を描きました。

第一次世界大戦が始まると、彼女は軍の正規の制服を着用することを許され、
「アンクル・サムの唯一の女性飛行士」
として、飛行機からリバティ・ローンの「爆弾」を投下して
戦争への協力を人々に宣伝しました。
しかし、彼女が軍に女性飛行士を登用することを提案すると、
これは体よく?はねつけられて終わり、彼女を失望させました。
■ 戦後とのちの人生
戦後、彼女は記録に挑戦し続けました。
フランスのレモンド・ド・ラローシュことデローシュが1919年6月7日に
4,000mの女性高度記録を樹立すると、彼女はその三日後の6月10日に
デローシュの記録を破り、記録を4,500mに更新しています。
しかし、彼女の引退はある日突然訪れました。
フランスのレモンド・ド・ラローシュことデローシュが1919年6月7日に
4,000mの女性高度記録を樹立すると、彼女はその三日後の6月10日に
デローシュの記録を破り、記録を4,500mに更新しています。
しかし、彼女の引退はある日突然訪れました。
1922年のある朝、ロウは目を覚まし、新聞を見ると、そこに
自分の引退の告知が掲載されていて驚愕します。
自分の引退の告知が掲載されていて驚愕します。
犯人は彼女の夫でした。
かねてから妻のあまりに危険な仕事に嫌気がさしていた彼は、
独自の判断で彼女の飛行キャリアに勝手に終止符を打ったのでした。
本人に相談もなしによくもこんなことを、と思いますが、
おそらく相談しても彼女は首を縦に振らなかったでしょうし、
それなら引退してしまったと発表してしまえばこっちのもの、
彼女ももう無駄と諦めるだろう、と判断したのでしょう。
今ならとんでもない騒ぎになりますが、彼女はそれを受け入れました。
よほど夫の権限が強く、逆らえない関係だったのか、
当時のアメリカは離婚が一般的ではなかったからか、
ワンチャン彼女は夫をそれだけ愛していたという可能性もあるかな。
(夫の行動は彼女への愛と考えられなくもないし)
意にそまない突然の引退で、彼女は一時「飛行ロス」に陥って精神を病み、
ロスアンゼルスに住んで一日ガーデニングをしていたそうです。
独自の判断で彼女の飛行キャリアに勝手に終止符を打ったのでした。
本人に相談もなしによくもこんなことを、と思いますが、
おそらく相談しても彼女は首を縦に振らなかったでしょうし、
それなら引退してしまったと発表してしまえばこっちのもの、
彼女ももう無駄と諦めるだろう、と判断したのでしょう。
今ならとんでもない騒ぎになりますが、彼女はそれを受け入れました。
よほど夫の権限が強く、逆らえない関係だったのか、
当時のアメリカは離婚が一般的ではなかったからか、
ワンチャン彼女は夫をそれだけ愛していたという可能性もあるかな。
(夫の行動は彼女への愛と考えられなくもないし)
意にそまない突然の引退で、彼女は一時「飛行ロス」に陥って精神を病み、
ロスアンゼルスに住んで一日ガーデニングをしていたそうです。
1948年、ルース・ロウが53歳の時のことです。
ライト兄弟のキティ・ホークがスミソニアン博物館に帰ってくることになり、
彼女は著名飛行家の一人として、その式典に招待されていました。
ロスアンゼルスからワシントンD.C.までの大陸横断に、
彼女は空路ではなく、列車で移動することを選んでいます。
思えば、オーヴィル・ライトも、女性であることを理由に、
彼女を否定し、拒否した男性の一人でした。
ライト兄弟のキティ・ホークがスミソニアン博物館に帰ってくることになり、
彼女は著名飛行家の一人として、その式典に招待されていました。
ロスアンゼルスからワシントンD.C.までの大陸横断に、
彼女は空路ではなく、列車で移動することを選んでいます。
思えば、オーヴィル・ライトも、女性であることを理由に、
彼女を否定し、拒否した男性の一人でした。
彼女はその飛行人生の最初から最後まで、
夫を含む男たちに否定され続けたことになります。
彼女が最初の段階でライトに受け入れられていたら、そして、
カーティスが彼女の飛行機購入を拒否しなかったら、
彼女のキャリアは全く別のものになっていたかもしれません。
(それは歴史に残る現実より輝かしいものになったとは限りませんが)
しかし、成功後の彼女が、この二人の航空界の巨人二人に対し、
どんな感情を持っていたのかは今では知るべくもありません。
しかし、成功後の彼女が、この二人の航空界の巨人二人に対し、
どんな感情を持っていたのかは今では知るべくもありません。
ルース・ロウ・オリバーは1970年12月1日、サンフランシスコで死去し、
マサチューセッツ州リンのパイン・グローブ墓地に眠っています。
マサチューセッツ州リンのパイン・グローブ墓地に眠っています。
死後の彼女が西海岸から東海岸までどうやって移動したのか、
最後にジェット機で空を飛ぶことができたかをぜひ知りたいところです。
続く。
最後にジェット機で空を飛ぶことができたかをぜひ知りたいところです。
続く。