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スミソニアンの選ぶ第二次大戦のエース(西沢広義編)〜スミソニアン航空博物館

2021-10-11 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の「第二次世界大戦のエース」シリーズ、
紆余曲折を経てついに最終回です。

スミソニアンに限らず、これまでアメリカの軍事博物館で
航空についての展示を見てきた経験から言うと、アメリカ人、そして
世界にとっての認識は、西沢広義をトップエースとしており、
岩本徹三はそうではないらしいと言う話を前回しました。

いずれにしても、日本軍が個人撃墜記録を公式に残さなかったことが、
岩本がトップエースと認められない原因であり、いまだに
世界のエースの残した記録という歴史的資料の上に、日本の記録が
正式に刻まれない理由でもあります。

部隊全体での戦果を重要視した結果、個人成績を記録しない、
というのは、その「精神」としては非常に日本的ですが、
どんなことでも書類に残す「記録魔」の日本人らしくなくもあります。

 

今日は前回に続いて日本のトップエース、西沢広義についてですが、
本稿で扱う情報は、あくまで英語サイトの翻訳ですので、
日本語での資料とはかなり違う点があるかと思います。

どうかそれを踏まえた上でお読みください。

 

【死の舞踏〜敵地上空宙返り事件】

さて、ここで、以前も当ブログで扱った、
実話かどうかわからない「あの」逸話についてです。
ぜひ眉に唾をつけながらご覧ください。

5月16日の夜。
西沢、坂井、太田が娯楽室でオーストラリアのラジオ番組を聴いていると、
フランスの作曲家、ピアニスト、オルガン奏者である
カミーユ・サン=サーンスの「ダンス・マカーブル」(死の舞踏)が流れた。
この不思議な骸骨の踊りのことを考えていた西沢は、

「いいことを思いついたぞ!」

と興奮気味に言った。

「明日のミッションはモレスビーへの空爆だよね?
俺たちも『死の舞踏』をやってみようじゃないか」

太田は西沢の提案をくだらないと一笑に附したが、西沢は粘った。

「帰投後、3人でモレスビーに戻り、敵さんの飛行場の真上で
宙返り(デモンストレーション・ループ)をするんだ。
地上の敵に一泡吹かせてやろうじゃないか」

太田は言った。

「面白いかもしれないけど、上はどうするんだ。
絶対に許してくれないよ」

西沢はニヤリと笑った。


決行日と決めた5月17日の任務終了後、坂井は一旦着陸したが、
中島司令に敵機を追うと合図して再び離陸した。

そして西沢、太田と上空で落ち合うと、ポートモレスビーに飛び、
緊密な編隊で3回の宙返りをやってのけたのだった。

西沢は大喜びで「もう一度やりたい」と言った。

零戦は高度6,000フィートまで降下し、さらに3回ループしたが、
地上からの攻撃を受けることはなかった。
その後、彼らは他の部隊から20分遅れて基地到着した。

午後9時頃、酒井、太田、西沢の3人は笹井中尉の部屋に呼ばれた。
彼らが到着すると、笹井中尉は一枚の手紙を差し出した。

「これをどこで手に入れたと思う?」

と彼は叫んだ。

「わからん?馬鹿者どもが!教えてやろう。
数分前に、敵の航空機がこの基地に落としていった」

英語で書かれた手紙には「ラエ司令官へ」とあった。

「本日基地上空に来訪した3人のパイロットに、
我々はとても感銘を受けております。

基地一同、我が上空で行ってくれたあの宙返りを大変気に入りました。
また同じ皆様が、今度はそれぞれ首に緑色のマフラーをつけて、
もう一度訪問してくれればこれに勝る喜びはありません。

前回はまったくお構いもできず大変申し訳ありませんでしたが、
次回は全力で歓迎することを約束いたします」

3人は固まって笑いをこらえていたが、笹井は彼らの馬鹿げた行動を叱責し、
今後敵地での曲芸飛行を禁止したのである。
しかし、台南空の3人のエースは、西沢の「ダンス・マカブル」の
空中デモンストレーションには価値があったと密かに納得していた。

ところで、英語の西沢のWikiには、この写真に写る手前が西沢とその零戦で、
後は彼の僚機であるという説明があります。

この情報も不確かですが、敵基地宙返りに関しては
そもそも台南空の行動調書にも、肝心の連合軍基地の記録にも、
そのようなことは全く残されていません。
(少なくとも台南空の行動調書はわたしも確認済み)

わたしに言わせれば、「死の舞踏」というサンサーンスの曲を
西沢広義が知っていたという可能性はもっと低く、さらにこの曲から
三回宙返りを思いつくということ自体日本人のメンタルに思えません。

これは後世の、日本人ではない作家の「創作」と考えるのが妥当でしょう。

 

【特攻掩護と西沢の死の予感】

この頃絶好調だった台南空ですが、勿論そのまますむわけはありません。
次第に疲弊を強め、薄皮を剥ぐように戦力は落ちていきます。

15勝のエースだった吉野俐(さとし)飛曹長を空戦で失い、
西沢は僚機である本吉義男1等飛兵を撃墜され失います。

「このとき着陸した西沢は、地上スタッフの彼のに対する歓声を無視し、
飛行機に燃料を補給し、銃を装填しろと命令して、
たった一人で行方不明のウィングマンを探しに行った。
2時間後に戻ってきた彼の顔には悲壮感が漂っていた」

 

この頃、西沢と対戦したVF-5のハーバート・S・ブラウン中尉は、
自分の機体に銃撃で損傷を負わせ、その後近づいてきた零戦の操縦席から、
搭乗員が彼に向かってニヤリと笑って手を振って去った、と証言しています。

なぜこの証言が残されたかというと、ブラウン中尉はその後、
F4Fを空母「サラトガ 」に帰還させ生きて帰ることに成功したからです。

西沢は相手に致命傷を負わせたわけではないことを知りながら、
あえてとどめを刺さず去ったということになります。

 

その後、坂井三郎はドーントレスの銃撃で負傷して帰国。

笹井醇一中尉は海兵隊戦闘機隊VMF-223の
マリオン・E・カール大尉に撃墜され戦死。
PO3C羽藤 一志(19勝)、WOC高塚寅一(16勝)、
PO2C松木進(9勝)が戦死。

太田敏雄34回目の勝利を収めた直後に
フランク・C・ドーリー大尉に撃墜され戦死。

1943年2月7日、ガダルカナルから最後の日本軍が退去し、
西沢は帰国して教官職を経たのち、第251空隊に編入され、
再びラバウルに戻ることになりました。

西沢は6月中旬までに6機の連合軍機を撃墜しましたが、その後、
日本の海軍航空隊は個人の勝利を記録することを完全に放棄したため、
西沢の正確な記録を把握することはこの時点で不可能になっています。

しかし、この頃、西沢の功績を称え、第11航空艦隊司令官から
 Buko Batsugun (=For Conspicuous Military Valor)
(武功抜群=卓越した軍事的勇気を称えて)と書かれた軍刀が贈られました。

西沢は9月に第253空に転属し、その後准尉に昇格しました。

アメリカのフィリピン侵攻の脅威が高まり、日本は
特攻という最後の手段を取らなくてはならなくなります。

関行男中尉ら爆弾を搭載した零戦を操縦する志願者たちは、
遭遇したアメリカの軍艦、特に空母に意図的に機体を衝突させるという、
「神風」と呼ばれる自殺行為の最初の公式任務を遂行することになっていた。


特攻機が突入した「セント・ロー」

西沢はこの護衛に付き、20機のグラマンF6Fヘルキャットと交戦、
彼の個人撃墜はは87に達した。
この時5機の神風のうち4機が目標に命中し、護衛艦セント・ローを沈めた。


1944年10月25日、護衛艦USS「ホワイトプレーンズ」に激突する直前の
関行男中尉の三菱A6M2

 

西沢はこの飛行中に自分の死を幻視した。
それは予感となった。

西沢は帰投後、中島中佐に出撃の成功を報告し、
翌日の神風特攻隊への参加を志願した。

中島は後に坂井三郎に「不思議なことだ」と言っている。
このとき西沢が抱いた予感とは、
自分はあと数日しか生きられないという確信めいた思いである。

中島は、しかし彼を手放さなかった。

「あれほど優秀なパイロットは、空母に飛び込むよりも、
戦闘機の操縦桿を握っている方が、国のために貢献できるからだ」

西沢の零戦には250キロの爆弾が搭載されたが、それに乗ってスリガオ沖で
護衛空母「スワンニー」に飛び込んだのは経験の浅い勝俣富作少尉だった。

「スワンニー」

沈没はしなかったものの、数時間にわたって炎上し、
乗組員85名が死亡、58名が行方不明、102名が負傷した。


【最後の瞬間】

自分の零戦が勝俣の特攻によって破壊された翌日、
西沢をはじめとする第201航空隊の搭乗員5名は、
中島キ49呑龍(「ヘレン」)輸送機に乗り込みました。

セブ島の飛行場で代替の零戦を受け取るため、
マバラカットのクラーク飛行場に向けて出発したのでした。

ミンドロ島のカラパン上空で、キ49輸送機は、空母USS「ワスプ」の
VF-14飛行隊のF6Fヘルキャット2機から攻撃を受けて撃墜され、
西沢は操縦者ではなく乗員の一人として死亡しました。

空中戦では絶対に撃墜されないと公言していた西沢は、ヘルキャットの
ハロルド・P・ニューウェル中尉の攻撃の犠牲になったのです。

最後の瞬間、彼が何を思ったか、その気持ちは容易に想像がつきます。

 

西沢の死に対し、連合艦隊司令官の豊田副武は、全軍布告で
その戦死を広報し、死後二階級特進となる中尉に昇進をさせました。

その頃の終戦時の混乱のため、
日本最高の戦闘機パイロットの葬儀が行われたのは
戦争の終結した2年後となる1947年12月2日のことでした。


英語の資料だと、西沢の戒名はこうなっています。

Bukai-in Kohan Giko Kyoshi

「武海院」

は間違いないと思うのですが、あとは力及ばず見つけられませんでした。
Gikoは「技巧」Kyoshiは「教士」かな。

最後に、あるアメリカ人ジャーナリストの、
彼についてのエッセイの最後の言葉を引用します。

Nishizawa was also given the posthumous name 
Bukai-in Kohan Giko Kyoshi, 
a Zen Buddhist phrase that translates: 
‘In the ocean of the military, reflective of all distinguished pilots, 
an honored Buddhist person.’

It was not a bad epitaph for a man once known as the Devil.

 

また、西沢にはBukai-in Kohan Giko Kyoshiという戒名が与えられた。
これは禅宗の言葉である。

「海洋の軍隊におけるすべての優れたパイロットの反映であり、
かつ名誉ある仏教徒であった男」

かつて "悪魔 "と呼ばれた男の墓碑銘としては悪くない。

 

続く。

 

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スミソニアンの選んだエースと選ばなかったエース(日本編)〜スミソニアン航空博物館

2021-10-09 | 飛行家列伝

さて、最後まで引っ張ってしまいましたが、
「スミソニアンの選んだ第二次大戦のエース」シリーズ、
我が帝国海軍の二人のエースを紹介するときがやってきました。

言わずと知れた西沢広義と杉田庄一ですが、この二人については
今更わたしがブログに書くような情報はみなさんご存知のはずですので、
まずは、スミソニアンが選ばなかったエースから回り道します。

 

■ スミソニアンの選ばなかった日本人エース

スミソニアンが選んだ西沢、杉田は両者ともに海軍です。

西沢広義は名実ともに日本のトップエースとしてアメリカでも有名で、
日本の記録だと撃墜数143機、単独87機か36機とされており、
スミソニアンによるとこれが104victorysとなりますが、
数字だけならそれより上とされている、

Tetsuzo Iwamoto.jpg 

岩本徹三海軍中尉(自称202機、確実141機、記録80機)

が影も形もありません。
西沢の記録も曖昧なのは、海軍が1942年から撃墜記録を
公式に残すことをやめたからだとされています。

そして、西沢と杉田(70機撃墜)の間に、本来ならば
海軍エースの3位、日本人エースでは4位として、

福本繁夫

という搭乗員がいるのですが、どこにも資料が残っていません。
日本人ですら知らないのですから、スミソニアンが知ってるはずないですね。

そして、もう一人の「スミソニアンが選ばなかったエース」は、

上坊 良太郎(じょうぼうりょうたろう)陸軍大尉 

76機撃墜

となります。
福本さんはともかく、スミソニアンはどうしてこの人を無視したのか。
数字の上では、杉田庄一より上となるはずなんですが。

というわたしも、実は初めて聞く名前で初めて見る写真なので、
ざっとバイオグラフィーを要約してみます。

上坊 良太郎 1916(大正5)年 - 2012(平成24)年

陸軍少年飛行兵第1期出身。
20歳で明野陸軍飛行学校の戦闘機訓練課程を受ける。

翌年1937年日中戦争に出征し、九五式戦闘機で中国空軍のI-15を初撃墜。
1939年ノモンハン事件で18機のソ連戦闘機を撃墜。

帰国後陸軍航空士官学校に入校し少尉に任官。

南支の広東と武昌でアメリカ陸軍航空隊のPー40 と交戦。

その後太平洋方面でB-29を2機撃墜。

撃墜数については、公式記録が76機とされており、
さらに同期生などもその数を肯定していたものの、本人が
謙虚な性格のためそういったことを全く語ろうとせず、
回想記によれば、ノモンハンでの18機、中国でのP-40・2機、
シンガポールでのB-29・2機を含めて30機、というのが
どうやら「正確な数字」かもしれない、みたいな話になっており、
要するにスミソニアンとしても公式記録じゃないなら仕方ない、
ということだったのではないかと思われます。

もう一つ、上坊さんは戦闘機乗りらしい写真が全く残されておらず、
唯一見つかったのがこれだけ⇧だったので、やっぱりいかにもな
面魂を感じさせる杉田庄一にしておこう、となったのではないでしょうか。


日本のエースについては、いつの頃からか個人撃墜を記録することを
日本人らしい謙虚さに欠けるという理由で(知らんけど)
やめてしまったので、ワールドワイドなレベルでは
客観的な数字が出てこないという研究者泣かせの事態を生んでおります。

岩本徹三の名前が出なかったのも、おそらく信憑性の点で、
いくら多くても、酔っ払って本人が吹聴していた数字じゃどうも、
ということだったのではないかと思われます。

杉田庄一(すぎたしょういち)帝国海軍飛曹長

 C.W.O  Shyouichi Sugita

80機撃墜

杉田庄一の最終階級は海軍少尉なのですが、
スミソニアンでは「チーフ・ウォラント・オフィサー」を意味する
CWOがタイトルになっているので、飛曹長としておきました。

ただし、杉田飛曹長については英語の資料がほぼ皆無なので、
残りの紙幅を西沢広義情報で埋めます。

西沢広義(にしざわひろよし)帝国海軍飛曹長

 C.W.O. Hiroyoshi Nishzawa

1920年1月27日生まれ
日本、長野県
1944年10月26日没(24歳)
フィリピン、ミンドロ

104機撃墜

西沢広義については普通に日本語のWikiを見ればわかることばかりなので、
英語による記述を拾ってきて翻訳することにします。

西沢広義も最終階級は少尉ですが、スミソニアンでは
チーフ・ウォラント・オフィサー、兵曹長となっているので
それに準じました。 

日本のエースがどう海外で捉えられているかの理解の一助になれば幸いです。
ネイティブネーム 
西沢広義

ニックネーム  ラバウルの魔物
桜の暗殺者(まじかよ)

西沢は、その息を呑むような華麗で予測不可能な曲技と、
戦闘中の見事な機体制御により、同僚から「悪魔」と呼ばれていた。 

1944年、フィリピン攻略戦で日本海軍の輸送機に搭乗中戦死した。

戦時中、最も成功した日本の戦闘機のエースであった可能性があり、
86または87の空中戦での勝利を達成したと伝えられている。

【初期の人生】

西澤は、1920年1月27日、長野県の山村で、
カンジ・ミヨシ夫妻の五男として生まれた。
父は酒造会社の経営者であった。
広義は高等小学校を卒業した後、織物工場に就職した。

1936年6月、西沢は「予科練」への志願者を募集のポスターに目を止め、
応募して、日本海軍航空隊の乙種第7飛行隊の学生パイロットの資格を得た。

1939年3月、71人中16番目の成績で飛行訓練を修了した。
戦前は、大分、大村、鈴鹿の各航空隊に所属した。
1941年10月、千歳航空隊に転属し、階級は一等兵曹となった。

【西沢広義という人物】

西沢広義は、痩せこけて病弱のような顔をしていたが、
零戦のコックピットに座ると「悪魔」と化した。

ドイツのエーリッヒ・ハルトマン、ロシアのイワン・コジェドゥブ、
アメリカのリチャード・ボングなど、
第二次世界大戦時の戦闘機パイロットの多くは、
生まれながらにこの名誉を背負っているような雰囲気を持っていたが、
日本のトップエース、西沢広義は決してそうではなかった。

戦友の一人、坂井三郎は、西沢のことを、

「病院のベッドにいてもおかしくないタイプだった」

と書いている。

日本人にしては背が高く、5フィート8インチ近く(177cm)あったが、
体重は140ポンド(63kg)しかなく、肋骨が皮膚から大きく突き出ていた。

柔道と相撲に長けていたが、坂井はまた、西沢が常に
マラリアと熱帯性皮膚病に悩まされていたことを指摘している。

「いつも顔色が悪かった」

坂井は西沢の数少ない友人の一人だったが、

「普段は冷たく控えめで寡黙、
人望を集めるタイプではなく、どこか哀愁を帯びた一匹狼的人物」

と表現している。
(ここは考えられる限り穏便に翻訳してみました)

しかし、西沢は信頼するごく一部の人たちに対しては、非常に誠実であった。こんな西沢は、三菱A6M零戦のコックピットの中で、驚くべき変貌を遂げた。
坂井は、

「一緒に飛んだすべての人にとって、彼は "悪魔 "だった」

と書いている。

「西沢が零戦でやったようなことを、他の人がやったのをみたことがない。
その操縦は息を呑むほど見事で、まったく先の予想がつかず、
見ていて心が揺さぶられるようなものだった」

彼はまた、誰よりも早く敵機を発見できるハンターの目を持っていた。

新世代の米軍機が日本軍から太平洋の空を奪い取った時でさえ、
零戦を操縦している限り、彼に敵はないと皆が確信していた。


【ラバウルの悪魔】

1941年12月7日の開戦後、西沢を含む千歳グループの飛行隊は、
ニューブリテン島に到着し、台南航空隊に参加してラバウルに展開する。

彼の初撃墜はポートモレスビーで遭遇した
オーストラリア空軍のカタリナI型飛行艇である。

3月14日、アメリカ陸軍航空隊のP-40の撃墜を部隊として主張したが、
これらはいわゆる個人の公式記録とはなっていない。

日本軍は、個人の成績を集計することを奨励せず、
部隊のチームワークを重視していた。
フランスやイタリアと同様に、撃墜は個人ではなく
航空隊の勝利として公式にカウントされるのが常だった。

したがって、日本の飛行士の個人的な撃墜記録は、
戦後になってからの本人の手紙や日記、あるいは
仲間の手紙などをもとに確認するしかないのが現状である。

西沢もまた、スピットファイアを撃墜したと主張しているが、
当時のオーストラリア軍にはスピットファイアは存在していない。


その後日本軍はラエとサラモアを占領し、西沢を含む戦闘機中隊は
斉藤正久大尉の指揮する台南空に編入された。

台南空の笹井醇一中尉率いる台南空の零戦隊は、4月11日、
ポートモレスビー上空で4機のエアコブラと遭遇した。

笹井は、本田PO3Cと米川ケイサク1飛兵の2人の翼手に守られながら、
最後尾の2機のP-39に飛び込み、即座に2機を撃墜している。

この時の空戦で、坂井が零戦を横滑りさせて
先頭の2機の真後ろにつけようとすると、
戦いはすでに2機によって終わらされていた。

「2機のP-39は、真っ赤な炎と濃い煙を上げながら、
狂ったように地球に向かって突っ込んでいった。

私は、急降下から抜け出したばかりの零戦の1機に、
新人パイロットの西沢博義が乗っているのを確認した。
一発で命中させた2機目の零戦(太田敏雄操縦)も、
急降下しながら編隊に戻ってきた」

この時から、西沢と22歳の太田は、台南空の際立った存在となる。
坂井は

「よく一緒に飛んでいたので、他のパイロットからは
 "クリーンナップ・トリオ "と呼ばれていた」

と書いている。

太田は外向的で陽気で愛想が良かった。
坂井は、太田のことを

「辺鄙なラエなんかよりも、ナイトクラブの方がしっくりくるような」

と評していた。

しばらく勝ちのなかった西沢が、3機のP-39とP-40を撃墜し、
帰投してきた時の様子を坂井はこう書いている。

「零戦が止まったとき、西沢がコックピットから飛び出してきた。
いつもはゆっくりと降りてくるのに、今日はゆったりと伸びをして、
両手を頭上に上げて『イエーイ!』と叫び、 ニヤリと笑って去っていった。

その理由は、笑顔のメカニックが語ってくれた。
彼は戦闘機の前に立ち、指を3本立てたのだった。

西沢が復活した!

 

ナイトクラブは謎だわ。

続く。

 

 

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スミソニアンが選ばなかった第二次世界大戦のエース〜スミソニアン航空博物館

2021-09-29 | 飛行家列伝


スミソニアンが選んだ21名の第二次世界大戦のエース。
我が大日本帝国から選ばれたのは、海軍搭乗員の二人です。

勿体をつけるまでもなく、それは西沢博義杉田庄一であるわけですが、
ここであらためてその21名のエースの名前を列挙しておくことにします。

【スミソニアンが選んだ21名のエース】

ルフトバッフェ編で書いたように、撃墜数というのはあくまでも
その時代の、その国の装備で、相手があってのことであるので、
必ずしもその数が戦闘機乗りとしての技量を評価するものではないのですが、
ここではその21名を撃墜数順に列記していきます。


1、エーリッヒ・ハルトマンナチス・ドイツの旗352

2、ゲルハルト・バルクホルンナチス・ドイツの旗301

3、西沢広義104

4、エイノ・イルマリ・ユーティライネン🇫🇮 93

5、杉田庄一80

6、ハンス・ウィンド🇫🇮78

7、イヴァン・コジェドゥーブ62

8、アレクサンドル・ポクルィシュキン59

9、マーマデューク・パトル南アフリカ連邦の旗🇬🇧51+

10、リチャード・ボング🇺🇸 40

11、トーマス・マクガイア🇺🇸 38

11、”ジョニー”ジェームズ・ジョンソン🇬🇧38

13、デビッド・マッキャンベル🇺🇸34

14、ピエール・クロステルマン🇫🇷 33

15、フランシス・スタンリー・ガブレスキー🇺🇸 28

15、グレゴリー・ボイントン🇺🇸28

17、アドリアーノ・ヴィスコンティ🇮🇹26

18、フランコ・ボルドーリ-ビシュレッリ🇮🇹 24

19、マルセル・アルベール🇫🇷 23

20、スタニスワフ・スカルスキ🇵🇱22+

21、ヴィトルト・ウルバノヴィッチ🇵🇱18


1位と2位が「対ソ連機チート」のハルトマンとバルクホルン。
3位に我が西沢広義中尉が入ってきています。
つまり西沢は連合国相手に最も多い撃墜数を挙げたことになります。

しかし、たとえばアメリカ航空隊は、ある程度以上の数字をあげたら
人的リソースの確保というか、褒賞の意味合いで、
エースを後方に配置し、ボングのように教官職に付ける制度だったので、
死ぬまでこき使われた(?)帝国陸海軍の搭乗員より
数字が低くてもこれはあたりまえのことです。

それからこのランキングを見ていて気付くことがもう一つ。
スミソニアンは同じ国から2名ずつ(アメリカ以外)を選んでいますが、
その二人の撃墜数が、国によってほぼ拮抗していることです。

つまり、撃墜数というのは環境(期間)と与えられた装備、
相手のレベルによってある程度上限が決まってくると言えるでしょう。


そういう細かいファクターも絡んでくるとなれば、
単純に各国エースの撃墜数を順位にすることには、
ほとんど意味がないということもおわかりいただけるでしょう。
(やってしまってますけど)

【スミソニアンが選ばなかったドイツのエース】

300機以上の撃墜数をあげたエースがいる一方、
9機の撃墜にもかかわらず、超有名なルフトバッフェのエース、それが、

ナチス・ドイツの旗ハンス=ウルリッヒ・ルーデル大佐
Hans-Ulrich Rudel (2 July 1916 – 18 December 1982) 

です。
ハルトマンがヒットラーに勲章を授与されたとき、

「君とルーデルみたいなのがもっといればよかったのに」

とまで言わせたドイツの空の英雄。

彼は急降下爆撃機のパイロットであり、戦闘機ではないのに
なまじ9機撃墜というエースの要件を満たしているため、
一応エース名鑑にはその名前がありますが、その真の功績は
ユンカースJu87シュトゥーカで東部戦線のソ連戦車を500両以上、
列車を800両以上撃破したことにあります。

【スミソニアンが選ばなかった国のエース】

米英独日仏伊波芬露。

スミソニアンは以上9カ国からしかエースを選ばなかったので、
その他の国が輩出したエースをご紹介しておきます。

Mato Dukovac with aircraft.jpg

クロアチア独立国の国旗マト・デュコバク大大尉

Cap. Mato Dukovac(23 September 1918 – 6 June 1990)

クロアチア独立国空軍

44機撃墜

クロアチアは第二次世界大戦中ドイツとイタリアの支援を受けて
クロアチア独立国となっていました。
両国の傀儡国家なので、つまり枢軸側ということになります。

日独伊が三国同盟を結ぶとこれと軍事同盟を結び、
日本とも国交がありました。

デュコバク大尉が空戦を行った相手は赤色空軍となります。
数が多めなのはそのせい・・・?

ちなみに彼は当時ドイツ空軍元帥でありリヒトホーフェンの従兄弟、
ヴォルフラム・フライヘア(男爵)・フォン・リヒトホーフェン
からドイツ十字章を手渡されております。

 

Bazu cantacuzino.jpg

ルーマニア王国の旗 「バズー」コンスタンティン・カンタクジノ予備中尉

Constantin Cantacuzino  Bâzu;(11 November 1905 – 26 May 1958) 

ルーマニア王立空軍

44機撃墜

ルーマニアもまたソ連に土地を割譲されていたため、
ドイツ側につき枢軸国として第二次大戦に参加しました。

彼はルーマニア王立空軍の予備士官としてBf109Gに乗り、
RAFのスピットファイアやソ連赤色軍のエアコブラやYak-7、
そしてさらにはアメリカ陸軍P51マスタング、B-24、
P-38ライトニングを撃墜のリストに加えました。

この人の特異な点は、ルーマニアが1944年に連合国側に寝返ったため、
その後彼はルフトバッフェのHe111H、Fw190と撃墜している件です。

調べたわけではありませんが、連合国、ソ連、枢軸国と戦い、
計4カ国の空軍機を落としているのはこの人だけじゃないでしょうか。

ヤン・レズナク曹長

Ján Režňák(14 April 1919– 19 September 2007)

スロバキア空軍

32機撃墜

 

スロバキア空軍で戦闘機パイロットの訓練をうけ、兵長として
アヴィア Bk-534を装備し、東部戦線でウクライナに出撃を行います。

その後デンマークでBF 109Eへ機種転換を行い、
ソ連空軍との制空権争いでLaGG-3、I-16、I-153、MiG-3、
DB-3、Pw-2、Yak-1などを撃墜し、第二次世界大戦における
スロバキア空軍のトップ・エースとなりました。

Josef František.png

🇨🇿ヨゼフ・フランチシェク軍曹

Josef František (7 October 1914 – 8 October 1940) 

チェコスロバキア空軍

17機撃墜

この人の顔を見た途端、ガールフレンドにアクロバット飛行を見せていて
事故死してしまったというその最後を思い出しました。

本人は死んじゃったからともかく、目の前で墜落死されたガールフレンドは
その後のトラウマ半端なかったんじゃないかということも書いたかな。

まあ、なんだ。ドンマイ。

Liu Cuigang.jpg

中華民国の旗 #劉粋剛(りゅう すいこう)空軍上尉

Liu Cuigang(1913年-1937年)

中華民国空軍

11機撃墜

試用機 カーチスホークIII, 日中戦争

日中戦争は第二次世界大戦か?という説もありますが、
一応戦史的には第二次世界大戦の一部であるとされていますし、
当コーナーにはフライングタイガースの資料もありますので、
彼を「第二次世界大戦のエース」とみなします。

日中戦争開始後、劉は
九六式陸上攻撃機、空母「加賀」「鳳翔」の艦上戦闘機隊
(複葉機[と九六艦戦)などと交戦、
9月22日の南京防空戦、続く南京空戦で11機を数え、
事実上のトップエースとなりました。
その勇猛ぶりから「空軍五虎将の一人」「空の趙子龍」と呼ばれています。

加藤隼戦闘機隊と戦うため、派遣されることになった劉は、
ホークⅢ4機を率いて現地に飛びますが、途中で日没となり、
僚機と離れ離れとなってしまいました。

ある村の上空に飛来した劉の飛行機の音を連絡機と錯覚した町長は、
誘導のため三階建ての楼閣の傍で火をたいたところ、
燃料不足で火を目印に降下してきた劉は暗闇の中楼閣に衝突、死亡しました。
享年24。死後少校に特進しています。


その他、スミソニアンが選ばなかったエースは、

クリブ・コードウェル 28機1/2  オーストラリア空軍

レイモンド・ヘスリン 21機1/2 ニュージーランド空軍

セントジェルジ・デジェー 30機1/2 ハンガリー空軍

アンドレアス・アントニオウ 6機 ギリシア空軍

カルロス・ファウスティノス 6機 メキシコ空軍

などがいます。

 

続く。

 

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スミソニアンの選ぶ第二次世界大戦のエース(バルクホルン編)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-27 | 飛行家列伝

スミソニアンの「第二次世界大戦のエース」、ついつい
エーリッヒ・ハルトマンに一項を割いてしまいましたが、
今日はスミソニアンの選んだもう一人のドイツ空軍のエースです。

 

ナチス・ドイツ

Barkhorn33.jpg戦後の貫禄よ

ゲルハルト・”ゲルト”・バルクホルン少佐(最終少将)

Gerhard Barkhorn (20 March 1919 – 11 January 1983) 

301機撃墜

 

【初期の人生とその後のキャリア】

バルクホルンはハルトマンに次ぐ成績を上げた戦闘機パイロットです。

1919年、現在はロシアのカリーニングラードとなっている、
当時ワイマール共和国のケーニヒスベルクに、

土木関係の公務員の父を持つ4人兄弟の3番目として生まれた彼は、
兄弟と共にドイツ青年運動のグループに参加しており、
青年期には帝国労働奉仕に加わったりしています。

その後ナチス・ドイツの空軍学校に
ファーネンユンカー(士官候補生)として入隊し、
ハインケルHe72複葉練習機で飛行訓練を受けますが、
当時の飛行教官は彼のことを当初ヘタクソだと評価していたといいます。


彼が少尉に昇進した1939年の9月、ドイツ軍のポーランド侵攻によって
ヨーロッパに第二次世界大戦が始まりました。

バルクホルンは戦闘機パイロット学校に配属され、訓練機を経て
メッサーシュミットBf109に初搭乗することになります。

最初の頃、彼の空中射撃訓練の結果はむしろ平凡以下でした。
飛行学校でもそうだったように、彼はスロースターターで、
何事も最初はうまくいかず、むしろ不器用なタイプでした。

【第二次世界大戦】

歯並び良し!

バルクホルンは訓練終了後、第一次世界大戦の戦闘機パイロット、
マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンにちなんで命名された
リヒトホーフェン戦闘機隊に配属されました。

戦後、トップエースだったハルトマンがこの戦闘機隊の司令官になり、
スターファイターの導入をめぐって解任されたという話をしたばかりです。

かつてこの分隊はフランクフルトにあり、Bf109 Eを装備して、
第二次世界大戦の「偽装戦争」の時期に国境の哨戒を行っていました。

「偽装戦争」=Phony War、フランス語:Drôle de guerre(奇妙な戦争)
ドイツ語:Sitzkrieg(座り込み戦争)は、日本語では、

「まやかし戦争」「いかさま戦争」

などと言われており、ドイツがポーランド侵攻してから8ヶ月間を指します。

ナチス・ドイツは1939年9月1日にポーランド侵攻を行い、
2日後に英仏はナチス・ドイツへの宣戦布告を行うわけですが、
それでドンパチが始まったわけではなく、実質翌年の1940年5月10日、
ドイツによるフランスへの侵攻があるまで何も起こりませんでした。

これはイギリスとフランスが大規模な軍事行動は行わなかったからですが、
もちろんこの両国は全く何もしなかったわけではありません。
海上封鎖を中心とした経済戦を展開し、ドイツの戦力を低下させるために、
数々の大規模な作戦を綿密に計画していたのです。

作戦の中には

ノルウェーに侵攻してドイツへの鉄鉱石の供給源を確保する
バルカン半島に英仏軍の戦線を展開する
ソ連を攻撃してドイツへの石油の供給を断つ

などがありました。

こういうのを見ると、イギリスという国の狡猾さというか、
国家としての老練さというのは鉄板だなと思いますよね。
着々と裏側から手を回していく老獪さが。

 

この頃もバルクホルンには戦闘機エースとしての目立った動きはありません。
偽装戦争では交戦のしようがなかったのでしょう。
それどころか、猩紅熱にかかって1ヶ月入院したりしています。

彼が初めて敵と接触することになるのは、バトル・オブ・ブリテン、
英仏海峡を越えた戦闘哨戒中でした。

何度か爆撃機を援護する任務をこなし、ここですでに勲章を授与されますが、
初交戦はその後、英仏海峡上空で遭遇したスピットファイアでした。

しかし、このときの彼は散々で、何度も被弾し、
英仏海峡に墜落するありさま。
非常用ディンギーで2時間漂流中、ドイツの救助隊に発見されました。


つまり、バルクホルンは「偽装戦争」「バトル・オブ・ブリテン」で
1機も撃墜していないと言うことです。

これは彼がスロースターターだったからではなく相手がRAFだったからです。

彼はハルトマンに次ぐ撃墜数を挙げましたが、
それはすべて対ソ戦によるものでした。

前回のハルトマン編でも書きましたが、
この頃のソ連空軍というのは全くお粗末な装備で戦わされていたのです。

これもその一環というべきか、当時他の国が決してやらなかった
「戦闘機に女性を乗せる」のも、ソ連だけがやっていましたし。

逆にそんなソ連軍でエースになった人は真の実力者だったといえましょう。

 

【バルバロッサ作戦】

Unternehmen Barbarossa ウンターネーメン・バルバロッサとは、
1941年6月22日に始まったドイツによるソ連奇襲作戦の名称です。

バルバロッサとは神聖ローマ帝国のフリードリヒ一世のあだ名で、
barba「あごひげ」+rossa「赤い」=赤ひげ。
フリードリッヒ一世が救国の英雄であることからあだ名を拝借したようです。

バルクホルンの戦闘機隊、JG52は、バルバロッサ作戦発動の準備のため、
独ソ境界線付近の飛行場に出動を命じられました。

6月22日、ドイツがソ連への攻撃を開始した日、彼は侵攻支援のため
空戦を行い、これが最初の撃墜を彼にもたらします。

相手はイリューシンDB-3爆撃機でした。
続けざまにポリカルポフのI-16戦闘機、翌日にはDB-3爆撃機を撃破し、
彼は一気に3度目の空中戦勝利を収めました。

また、この頃彼はミコヤン・グレヴィッチ社のMiG-1戦闘機
ドイツでの初期の呼称であるI-18戦闘機の破壊を主張しています。

MiG-1

その間にもバルクホルンはオーバーロイトナント(中尉)に昇進。
撃墜数は10機となっていました。

案の定、ソ連空軍を相手にするようになってから、彼は急激に
撃墜数を伸ばして行ったわけです。

【飛行隊長】

バルクホルンは1942年3月1日にJG52の第4戦闘機隊長に任命されました。

6月22日、にドイツ軍が行った「フリデリクスII」作戦の支援で
ラヴォーチキン・ゴルブノフ・グドコフのLaGG-3戦闘機を5機撃墜し、
「1日エース」(エースの条件が5機撃墜であることから)になりました。

駐機中のLaGG-3 66シリーズ (第88戦闘機連隊所属、1943年夏撮影)

LaGG-3、ラググ3は、空中分解を起こすこともあるという代物で、
ソ連兵たちはその木製部分を持つ飛行機をして、

保証付きの塗装済棺桶(Lakirovanniy Garantirovanni Grob =LaGG)

と呼んでいましたから(パイロットはなかなかの皮肉屋が多い)
技量の低いパイロットが操縦するラググ3を1日5機撃墜するのは
RAFや米航空隊を相手にするよりはよほどイージーだったのは否めません。

彼は不時着によって下肢に重傷を負ったことがありますが、
相手はソ連機ではなく、高射砲の命中でした。

 1942年12月19日、バルクホルンは勝利数を101に伸ばしましたが、
これはドイツ空軍における「大台」を達成した32番目となります。

【ハンス・ヨアヒム・マルセイユの実力】

ここで、ご存じない方は、是非Wikiでもいいですから、
「第二次世界大戦のエース」「独軍のエース」のランキングを見てください。

対ソ連戦でルフトバッフェのパイロットがいかにイージーモードだったか、
「大台」が数えるのも面倒になるほど多いのに驚かれることでしょう。

352機のハルトマン、301機のバルクホルンに次いで、
200機台が13人、162機〜199機までが13人。

どうして162機からにしたかというと、158機撃墜した
ハンス・ヨアヒム・マルセイユは、対ソ戦ではなく、
全て対連合国機の撃墜でこの数字を上げているからです。

「アフリカの星」マルセイユ

対ソ連機の撃墜数はある意味「チート」で、メッサーシュミットなら
誰でもある程度数字を挙げることができる一方、
同じパイロットでも相手が連合国ならこんなにうまくいくはずない、
とわたしは常々言っています。

こう言ったことを勘案すると、ルフトバッフェで真に実力があったのは、
ハンス・ヨアヒム・マルセイユだった、ともう一度言っておきます。

彼は自他共に認める射撃の名手であり、相手にしていた敵機も、
欠陥だらけのソ連機ではなく、スピットファイアやハリケーンでした。

 

とはいえ、少なくともバルクホルンは
ソ連軍のパイロットを舐めていたわけではなく、
必ずしも常にイージーモードだったわけではないことを告白しています。

ある日、彼は「飛ぶ棺桶」であるはずのLaGG-3と会敵し、
40分間のドッグファイトを行い、

「まるでシャワーから出てきたかのように汗が噴き出してきた」

にもかかわらず、この相手を捉えることができませんでした。
明らかに劣る機体を駆るこのパイロットの技量がいかに優れていたかを思い、
バルクホルンは相手に崇敬の念を抱いたと回想しています。

 1943年 2月27日、バルクホルンは120回目の空中戦勝利を挙げ、
騎士十字勲章に加えて柏葉勲章を授与され、
その休暇にクリスティーン・ティシャー(通称クリストル)と結婚しました。

彼らはその後ウルスラ、エヴァ、ドロテアと3人の娘を授かっています。

ズラっぽい髪型・・


【隊司令】

バルクホルンは1943年9月1日、
JG52のII.グルッペのグルッペンコムマンデゥール
(隊指揮官)に任命されました。

順調に撃墜記録を伸ばし、1943年11月30日に200回の大台に乗ります。
そして戦闘任務1000回を達成した最初のドイツ人パイロットとなりました。

Bf 109のコックピットにて(1943年秋)

さて、ここで「ハルトマン編」でお伝えした、
「エース車中泥酔勲章受賞事件」の話をもう一度お伝えします。

というのは、このときハルトマンと一緒に柏葉付鉄十字騎士章を
ヒトラーから受賞されることになり、総統の別荘に招待されたエースの中に、
バルクホルンもいたからです。


ついでに、他の二人は

ヴァルター・クルピンスキーWalter Krupinski(197機撃墜)

ヨハネス・ヴィーゼ Johannes Wiese(133機撃墜)

というメンバーでした。

このとき勲章を受けるために総統の「狼の巣」に招待されていたのは
戦闘機エースだけではなく、爆撃機部隊や対空砲士などもいたそうですが、
列車の中で酔っ払ったのはこの4人だけです。

互いの成功と健闘を称え合い、コニャックやシャンパンで乾杯した結果、
互いに支え合わないと立っていられない状態で駅に到着しました。

ヒトラーが地下壕で最後に自決したのち、カイテルに当てた書簡を持って
脱出したことで歴史に名前を残しているドイツ空軍の副官、
ニコラウス・フォン・ベロー少佐は、彼らを見てショックを受けました。

気の毒だった副官ベロー少佐

授賞式が終わっても彼らはまだ酔っており、エーリッヒ・ハルトマンが、
帽子台から自分のと間違えてヒトラーの軍帽を取り、被ったものの、

「あれー、これ大きすぎね?」

とかヘラヘラしているのを見たフォン・ベロー少佐は、

「それは総統閣下のものだ。元に戻しなさい」(震え声)

と動揺しながら言わなければなりませんでした。
このとき4人のエースはまとめてベロー少佐に叱責されています。

ついでに、このベロー少佐は戦後連合国軍の裁判にかけられましたが、
1948年には釈放されて1980年には回想録を出版しています。


【被撃墜】

彼を撃墜したのもまたソ連機ではなく、P-39戦闘機でした。

USAAF P-39F-1BE 41-7224号機(撮影年不詳)
エアコブラ

右腕と足に重傷を負った彼は、 強制着陸して病院に搬送されました。

ちなみにハルトマンは、バルクホルンがこの負傷で欠場している間に
彼の通算勝利数を超える301回の空中戦勝利を記録しましたが、
二人の関係が気まずくなることは決してなく、
このときハルトマンが挙げた結婚式で
バルクホルンはベストマン(結婚式の介添え人)を務めました。

ハルトマンはバルクホルンをして、

「指揮官として、友人として、仲間として、そして父親として、
彼は私が出会った最高の人間」

と評しています。

しかし、この頃バルクホルンの精神は少しずつ変調をきたし始めました。
コックピットに座ると襲ってくる強い不安、
後ろに味方の飛行機がいるときでさえ拭えない恐怖。

この状態から彼は数週間かけて立ち直り、その後、
1945年の1月5日の301勝目までの3ヶ月間に26機を追加しています。

その後彼の部隊はフォッケウルフFw 190 D-9を配備しましたが、
この機体を戦闘で飛ばしたかどうかは不明のまま、バルクホルンは
健康上の理由で指揮を解かれました。

当時の彼は、4年間の戦闘で心身ともに大きなダメージを負っていたのです。
彼が1,104回目となる最後の飛行を行ったのは1945年4月21日でした。

バルクホルンはクルピンスキー、カール・ハインツ・シュネル、
エーリッヒ・ホーゲンらとともに連合軍の捕虜となりました。


【戦後の人生から死まで】

1945年9月3日、バルクホルンは釈放され、家族と再会します。
しばらく公職追放されていましたが、1949年フォルクスワーゲンに入社し、
施設・サービス管理の責任者を務めました。

1955年末、新たに創設されたドイツ空軍に入隊した彼は、
少佐に昇進し、イギリスに渡ってRAFで訓練を受けます。

チェンバレン空軍副司令官からRAFの航空機乗務員章を授与され、
ドイツに帰国後、
リパブリックF-84Fサンダーストリークを装備した部隊の指揮官となり、
続いてロッキードF-104スターファイターの操縦訓練も受けました。

彼の部隊は戦闘爆撃機F-104 Gへの移行を完了した最初の部隊です。

1964年からバークホルンはホーカー・シドレー・ハリアーV/STOL機の前身、
V/STOLケストレルの軍事的能力を評価する部隊にいました。

この飛行隊は、英米独の3カ国の軍人と地上スタッフで構成され、
彼は飛行隊のパイロットであると同時に、2人の副隊長の1人でした。

この任務で彼は機の推力を失速させて不時着させる事故を起こしましたが、
助け出されるとき、

「Drei hundert und zwei [302]!」

と言ったとされます。
ちょっと意味不明ですが、彼の撃墜数が301機であったことと関係あるかな。
知らんけど。


彼はその後少将まで昇進しました。
「指揮に必要なタフネスとプレッシャーの下で働く能力が欠けていた」
ことがそれ以上出世できなかった理由だとされます。

 

1983年1月6日、バルクホルンは妻のクリステルと友人を乗せて運転中、
自動車事故で帰らぬ人となりました。

完全な貰い事故で、妻は車から投げ出されて即死、
バルクホルンと友人は病院で意識不明のまま死亡しました。

連邦空軍の多くの上級士官が参列した軍葬では、
多くの勲章が彼の棺を彩り、空軍大将が弔辞を述べました。

 

続く。

  

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スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(ハルトマン編)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-25 | 飛行家列伝

スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」展示の一隅にある
「第二次世界大戦のエース」でこれだけ楽しめてしまったわけですが、
お待たせしました。

エンディングをラスボス枢軸国日独で締めさせていただきます。
まずは皆さん大好きな(え?わたしだけ?)ドイツのエースハルトマンから。

ドイツ

 

エーリッヒ・アルフレート・ハルトマン少佐

Erich Hartmann (19 April 1922 – 20 September 1993) 

Luftwaffe(Wehrmacht) 、 Luftwaffe (Bundeswehr)

352機撃墜
ニックネーム「Baby(Bubi)」(ベビー)「Der Schwarze Teufel」(黒い悪魔)

ルフトバッフェ、という言葉をこのシリーズでナチス人民空軍に使っているので
勘違いされないように改めて書いておくと、この言葉は空中兵器を意味し、
ドイツ空軍を表すドイツ語であるので、現在のドイツ空軍のことも
ルフトバッフェと称します。

ハルトマンが第二次世界大戦時に所属した「Wehmacht=ヴェアマハト」
1935年から1945年まで存在したドイツ国防軍で、

  • 陸軍- Reichsheer(ライヒスヘーア)→ Heer(ヘーア)
  • 海軍- Reichsmarine(ライヒスマリーネ)→ Kriegsmarine(クリークスマリーネ)
  • 空軍- Luftwaffe(ルフトヴァッフェ)

から成るというわけです。
戦後ドイツ軍はドイツ連邦軍(Bundeswehr=ブンデスヴェア)になりましたが、
空軍という言葉そのものは変える必要は全くないのでそのままです。

ライヒはナチスの「ドイツ第三帝国」という意味なので、戦後は変更されています。

童顔だったハルトマンのニックネームの一つに、「Bubi」というのがあって、
それは「kid」という意味である、と英語で検索すると出てくるのですが、
実はキッドをドイツ語でいうと「キント」になるんですよね。

これ、ドイツ人が「Baby」を発音すると「ブビ」になりますので、
英語圏の人がわかりやすいように、あえて発音表記にしたのに違いありません。

それはともかく、写真でもお分かりのように、ハルトマン君、本当に童顔です。
第二次世界大戦ベビーフェイスパイロットコンテストがあったら、
こちらもダントツで(あるいは川戸正治郎と僅差で)優勝でしょう。

 

さて、エーリッヒ・ハルトマンについて検索すると、不思議なことに
ドイツ語より英語となんなら日本語の資料の方が情報が多量に出てきます。

第二次世界大戦期、人類史上最強の戦闘機エースであったハルトマンについては、
戦後自粛に萎縮してきたドイツ人より、他の民族の方が素直に?彼の功績を
(すなわちそれは連合国航空機の撃墜ということになりますが)賞賛できるのかもしれません。

【幼少期から空軍入隊まで】

ハルトマンは、医師であるアルフレッド・ハルトマンとその妻エリザベートの
2人の息子の長男として生まれました。
経済的理由で移住した中国で彼は幼年期の一時を過ごしています。
(本人は小さ過ぎて覚えていないと思いますが)

ドイツでギムナジウムを卒業するといきなりパイロット資格を取ります。
ちなみに、ハルトマンはギムナジウム時代、のちに妻になる
ウルスラ "ウシュ "ペッチと出会っています。

ウルスラさんと

彼は301回目の勝利を得た後、10日間の休みをとって
幼なじみであった彼女と市民結婚式を挙げています。

 

母親がドイツ初のグライダーパイロットという家庭に育ち、
彼女から直接飛行訓練を受けたハルトマンは、14歳という年齢ですでに
ヒトラーユーゲントでグライダーの教官を務めていました。

そんな彼が18歳でドイツ空軍の将校候補生として志願したのは当然のことでしょう。


飛行訓練生時代の彼にはこんな逸話が残されています。

入隊して2年目の砲撃訓練飛行中、規則を無視して
飛行場の上空でBf109で曲芸飛行を行い、1週間の宿舎への監禁と、
給料の3分の2の罰金という処罰を受けたのです。

しかし、そういえばこれに似た話(腕利きパイロットのいわゆるヤンチャ)
って、結構あちこちの「撃墜王物語」で聞きませんかね?
兵学校の訓練で複葉機の宙返りをして怒られたあの人とか、
戦争中わざわざ敵航空基地までいって宙返りしてきたあの人たちとか。

これらの話がもしかしたらハルトマンの伝記にインスパイアされた
ライターの創作かもしれない、と思うようになってしまっている今日この頃です。

それはともかく、ハルトマンは後に、この出来事が自分の命を救ったと回想しています。

「自室待機をしていなければ、僕は死んでいたかもしれません。
自室待機処分を受けていた週のある午後、砲撃演習が行われました。
ルームメイトが、僕の乗る予定だった機で飛行したのですが、
離陸した直後、機体は砲撃場に向かう途中でエンジントラブルを起こし、
不時着しましたが、彼はこの事故で亡くなったのです」

Featured image


その後、ハルトマンはいっそう熱心に練習に励み、自分の飛行体験から
他の若いパイロットたちに伝えるための新しい「ディクテ」を編纂しました。

【第二次世界大戦の対ソ連戦】

ハルトマンは1940年から、ドイツ空軍のさまざまな訓練所で基本的な飛行訓練、
続いてメッサーシュミットBf109の操縦を学び、戦闘機隊デビューすると
すぐに初撃墜(イリューシンIl-2)の記録を挙げます。

ただし、最初の出撃は散々でした。
ウィングマンとして最初の戦闘任務に就いた彼は、10機の敵機に遭遇すると、
焦ってスロットルを全開にして隊長機から離れ、交戦しますが、
ヒットしないどころか危うく衝突しそうになり、その後、
低層雲の中に逃げ込み、燃料切れで不時着すると言った具合です。

この初陣で彼は空対空戦のほぼすべての規則に違反していたため、
彼は3日間の地上勤務を命じられることになりました。

彼が初撃墜をしたのはその22日後でしたが、しばらく記録はこれだけにとどまりました。

 

彼のあだ名「Baby=ブビ」はこの頃上官から与えられました。
しかしそのベビーフェイスはすでに戦隊長を務めるようになっていました。

彼は赤軍から「黒い悪魔」デア・シュワルツ・トイフェルと呼ばれました。
Bf109の先端を黒いギザギザ模様に塗っていたことからついた渾名です。

1944年3月2日には、彼は202回目の、そしてその5ヶ月後には
301回目の空中戦勝利を達成して鉄十字章を受賞されました。

最後の撃墜は終戦まであと数時間となった1945年5月8日正午、
ソ連のヤコブレフを撃墜したのが352回目の空中戦勝利となり、
同日、上官から少佐に昇進を告げられますが、終戦のドサクサで
その情報は人事部まで届いておらず、のちにトラブルになります。

 

彼の行った戦闘任務は 1,404回、空中戦は825回。
ソ連機345機、アメリカ機7機、合計352機の連合軍機を撃墜しました。

彼は任務上16回機体を不時着させていますが、
敵の直接攻撃によって撃墜されたことは一度もありません。

 

ドイツ軍パイロットに次ぐ撃墜記録を挙げたフィンランドのエース、
ユーティライネンについて書いたとき、おずおずと、

「もし相手がソ連軍でなければこんなに撃墜数は伸びなかったのではないか」

と言ってみたわたしですが、驚くことに(驚くほどでもない?)
ハルトマンも同じようなことを言っております。

作戦に参加した最初の年から、ハルトマンは、いうなれば

「ソ連の『パイロットに対する敬意の欠如』」

というべき機体と装備のいい加減さをはっきりと感じていました。

ほとんどの戦闘機には有効なガンサイトさえなく、パイロットは当初
フロントガラスに手で照準を描いていたこともあったというのです。

「信じられないかもしれませんが、最初の頃は、
ロシアの戦闘機が後ろにいても全く恐怖を感じませんでした。
手描きの照準では、適切に引鉄を引くことができず(偏向射撃)、
命中するわけがないからです」

ハルトマンはまた、ベルP-39エアコブラ、カーチスP-40ウォーホーク、
ホーカー・ハリケーンは、ソビエトに貴重なガンサイト技術を提供したものの、
それでもフォッケ・ウルフFw190やBf109には劣ると感じていました。

のちにイギリスのテストパイロットがハルトマンに
どうやってその記録を達成したのかを尋ねたとき、ハルトマンは
至近距離での射撃に加えて、ソ連の(貧弱な)防御武装と操縦戦術のおかげだ、
と正直に答えています。

 

しかし彼は、捕虜のソ連軍パイロットから、極寒地で
エンジンオイルが凍らないようにする方法などを教えてもらったりしています。

【ハルトマンの戦法】

 ハルトマンの戦術はは最終的に「見る→決める→攻める→壊す」というものです。 
一旦「立ち止まる」ことで状況を判断し、そののち、
回避行動をとらない目標を選んで近距離で破壊するというものでした。

射撃手であり偏向射撃の名手だったハンス・ヨアヒム・マルセイユとは対照的に、
ハルトマンはドッグファイトよりも近距離での待ち伏せや射撃を好みました。

しかし、空戦の研究家に言わせると、明らかに「名人」の域だった
マルセイユと違い、彼には卓越した才能があったわけではなく、
知的な戦術革新者ではなかったようです。

成功の秘訣は彼が自分の飛行能力、視力の良さ、攻撃性を自覚した上で
決してリスクを取らず、優位な位置、主に後方の至近距離から攻撃し、
すぐに離脱後すると冷静に状況を再評価して次の行動をとったことでした。

彼は本能的に「落としやすい相手」「簡単な標的」を見抜く直感を持っていたのです。


しかしこの大量撃墜という結果が、あまりに「非現実的」な数字だったため、
ドイツ空軍の最高司令部にもこれを疑う者が何人もいました。
ようするに、嘘をついているのではないかと思われたわけです。

彼の主張は二重三重にチェックされ、彼の編隊のオブザーバーは
彼のパフォーマンスを注意深く監視するというおかしな状態になりました。

もちろん敵にもその名前は鳴り響いていて、彼のコールサインは共有され、
その首には1万ルーブルの賞金がかけられましたが(軍隊なのに)、
肝心のソ連パイロットたちが彼と直接対戦することを避けたため、
これで彼の「キルレート」は下がったとまでいわれています。

 

【ヒトラーから勲章を】



1944年3月、ハルトマンには他のルフトバッフェエースとともに、
アドルフ・ヒトラーから柏葉鉄十字騎士章が授与されました。

彼らはドイツに戻る汽車で全員コニャックやシャンパンをしこたま飲み、
ハルトマンなどは帽子掛けから間違えてヒトラーの帽子をとって被ってしまうほど酔っていました。
ヒトラーは酒嫌いだったので、副官は真っ青になって彼らを叱責しました(´・ω・`)

また、ダイヤモンド勲章受賞の時には、ヒトラー暗殺未遂事件直後だったため
セキュリティ対策のためにピストルの持ち込みを禁じられると、彼は、
そんなことをするなら勲章などいらぬと突っぱねています。

このとき、ヒトラーはハルトマンと長時間話し込み、

「ドイツは軍事的にはもう戦争に負けている」

ことを訴え、君とルーデルのような人物がもっといればいいのに、
といったとか。(お酒の件は不問だった模様)

 

彼は少なくとも一回、敵によって命を救われています。

アメリカ軍と交戦しているとき、燃料切れになったメッサーシュミットから、
パラシュートで脱出したハルトマンに、第308戦闘機隊の
ロバート・J・ゲーベル中尉が操縦するP-51マスタングが真っ直ぐ近づきました。

ハルトマンはこのとき覚悟を決め、自分の運命を受入れようとしていましたが、
ゲーベル中尉は、ただハルトマンの離脱とパラシュート降下をカメラパスで記録し、

通り過ぎる最後の瞬間彼にバンクをし、ハルトマンに手を振って去りました。

Captain Robert Goebel
11 Victory Ace
31st Fighter Group - 308th Fighter Squadron - 15th AF
(11機撃墜のエース、ゲーベル中尉
戦後は物理学の専門家としてジェミニ計画に参加した)

 

【最後の戦闘任務】

 1945年3月、空中戦勝利数が337となったハルトマンは、
新型ジェット戦闘機Me262部隊への参加を2度目に要請されました。

ハルトマンとジェット戦闘機。

鬼に金棒の具体例のようなマッチングで、これが実現していたら
彼の撃墜記録はどうなっていたんだろうと考えずにいられませんが、
彼は実質この要請を断っています。

そして彼の最後の空中勝利は、ヨーロッパでの戦争の最終日である5月8日、
チェコスロバキアのブルノ上空で、相手はYak-9でした。

これが停戦となる何時間か前のことです。

着陸すると戦争は終わっていたというわけですが、
ハルトマンはJG 52の司令官として、部下をソ連軍ではなく、

アメリカの第90歩兵師団に降伏させることを選択しました。

この時彼は上から自分とウィングマンだけイギリスに飛んで降伏し、
部下はソ連軍に降伏させろと密かに命令を受けていましたが、
彼は部下を置いていくことを拒否したことになります。

結局米軍はハルトマンらをソ連に引き渡すことなるわけですが。
米軍兵士はドイツ兵の脱走を見てみぬふりをするものもいました。
その後に起こった捕虜に対するソ連軍の残虐な行為(特に女性に対する)
は夜通し続いた、とハルトマンは書き遺しています。

 

ソ連側はさっそく彼にスパイとして協力することを打診してきます。
当然彼はそれを拒否したため、10日間コンクリートの床で寝て、
パンと水しか与えられないという独房生活を余儀なくされました。

このとき、妻を誘拐して殺すと脅迫され、ついには
Me262の情報について尋問を受けた際、ソ連軍の将校に杖で殴られたので、
ハルトマンは座っていた椅子で将校を殴って相手を気絶させています。

しかし彼は射殺されませんでした。
ソ連と言えどもこの英雄を殺害することのリスクを重々わかっていたのでしょう。

彼はこの時のソ連の脅しにも甘言にも一切首を縦に振ることなく、
彼を共産主義に染めようというソ連当局の試みにも、
さらには東ドイツ空軍への入隊要請も拒否し続けました。

【戦争犯罪の容疑者として】

ハルトマンはその後逮捕され、20年の懲役刑を宣告されます。

罪状は、

ソ連市民に対する残虐行為

軍事施設への攻撃

ソ連の航空機の破壊

その結果、ソ連経済に大きな損害を与えた

などの、つまり「戦争犯罪」でした。
彼は自己弁護を(弁護士がつかなかったので)行いましたが、
裁判長はこれを時間の無駄だと退けました。

判決として言い渡された25年の重労働を拒否し、独房に入れられると、
仲間の拘置者たちが暴動を起こし、看守を制圧して一時的に彼を解放しますが、
彼は公使館に再審を求め、最後まで決して諦めませんでした。

その結果、1955年末、ついにその甲斐あって釈放されます。
ハルトマン、33歳でした。


【戦後】

翌年1956年、ハルトマンはドイツ連邦軍に新設された西ドイツ空軍に入隊し、
第71 戦闘機中隊"リヒトホーフェン "の初代司令官となりました。

よかったよかった、と言いたいところですが、彼は、
F-104の調達に反対したことが下との軋轢を生み引退することになります。
この部隊は、当初はカナダエアー・セイバーを保持しており、
後にロッキードF-104スターファイターの装備を決めています。

ハルトマンはF-104を根本的に欠陥のある安全でない航空機と考え、
それが空軍が採用することに強く反対した理由でした。

彼の反対は決して根拠のないことではなく、F-104の非戦闘任務での
269機の墜落と116人のドイツ人パイロットが死亡したこと、
ロッキード・スキャンダルにまで発展した賄賂疑惑など、
彼の低い評価を裏付ける出来事に基づいていましたが、
つまりこういった率直な批判は上層部にとって邪魔だったということです。

 

彼のこの時の態度は、危険な状態での空戦は決して行わない、という、
戦闘機乗り時代の戦闘姿勢を彷彿とさせますし、ソ連の拷問にも

一瞬たりとも自分の正義を曲げることのなかった強い意志が窺えます。

同時にこんな人物が組織にとって目の上のコブでしかなかったのも当然でしょう。

 

 

ハルトマンがソ連に拘留されている間、1945年に生まれた彼の息子、
エーリヒ=ペーターは、父親の不在中生まれ、彼が帰ってくるまでに
亡くなり、ついに父はこの世で息子の顔を見ることはありませんでした。

ドイツに帰国したハルトマンは1957年に娘のウルスラ・イザベルをもうけました。

Erich Hartmann, his wife Ursula and his daughter Ursula Isabel looking at his Knights Cross and Pilot’s badge.
“I think if I had not written to my wife everyday I would have surrendered my soul to the war, and returned home a different man than my...
「これが鉄十字章だよー」

軍人としてのキャリアを終えた後、彼は民間の飛行教官になり、
1993年9月20日に71歳で亡くなりました。

死後、ロシア政府は彼の「有罪」は間違いであったとして、
ハルトマンの戦争犯罪は無罪の判決を下しています。

【金髪のドイツ騎士】

アメリカの作家であるコンスタブルとトリバーによって、
『The Blond Knight of Germany』というタイトルで伝記が書かれています。

The Blond Knight of Germany: A Biography Of...Erich ...

ドイツでのタイトルは
『Holt Hartmann vom Himmel! (「ハルトマンを撃ち落とせ!」)

この著作は、商業的に大変成功し、本は売れましたが、歴史的には
史実とは異なる部分が多く、ハルトマンを称賛することによって
ナチスのプロパガンダの無批判な引用や、ソ連に対するステレオタイプなど、
事実を「歪める」ものとして評価されていない、とされています。

あれ・・・・?

「そんな」本が一時我が日本でも競って出版された時期がありましたよね。

あの一連の「零戦ブーム」を作った著作ラッシュって、
まさにこの本がブームになったのと同じ頃じゃなかったですか?

あれって、もしかしたらハルトマンが「元祖」だったのか・・・。

続く。

 

 

 

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スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(枢軸国編1)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-23 | 飛行家列伝

英米に始まり、スミソニアンが選んだ第二次大戦の戦闘機エースを
連合国からご紹介してきましたが、ようやく枢軸国側に参ります。

今更説明するまでもないことですが、枢軸国=アクシスは、
第二次大戦前から戦時中にかけて、米・英・仏等の連合国に対立した諸国家、
つまりドイツ、イタリア、日本を中心とする国家のことです。

語源は、1936年、ムッソリーニが

「ローマとベルリンを結ぶ垂直線を枢軸として国際関係は転回する」

と演説したことに由来します。

おいおい、日本はその線にどうかかわるんだ、という説もありますが、
ムッソリーニもヒトラーも、日本などは枢軸の「軸」とは思っていないので、
つまり枢軸国以外のアルバニア、ブルガリア、フィンランド、ハンガリー、
ルーマニア、スロバキア、スペイン、タイと同様、

「枢軸の周りを転回している国の一つ」

程度に認識していたに過ぎないんだなと思われます。

ところで今回、わたしは今まで考えたこともなかった、

「フィンランドは第二次世界大戦で連合国枢軸側どちら側だったのか」

について、驚くべきことを(わたしだけ?)知りました。
しかも、調べてみるとこの区分けが非常に曖昧です。

連合国だったのか?というと、そうでもない。
ちなみにウィキでは、

枢軸国側に宣戦・戦闘行為を行ったが、連合国とは認められていない国

これではまるでコウモリみたいです。

それでは説明しよう。

フィンランドは開戦3ヶ月後、連合国側であるソ連に本土侵攻されました。
そして「冬戦争」で闘ったので、この時点では「反連合国」です。

しかし、1944年9月にソ連および英国と休戦協定締結することになりました。
その休戦協定には

「フィンランド領内からドイツ軍を追放するか武装解除して人員を抑留せよ」

と要求した条項があったのです。

ドイツ軍の撤退はフィンランドと戦争していたわけではなく、後述するように
ソ連との戦争で航空機を供与するなど共闘関係だったため平和的でしたが、
一旦何かのきっかけでフィンランド軍とドイツ軍の間に戦闘が発生すると、

以降、ドイツ軍は、徹底した焦土戦術を伴い、
これによってほどなく両国間に正式な戦争、
ラップランド戦争が始まってしまいます。

そういう流れでフィンランドは対独宣戦布告を行いますが、
なんとそれは1945年3月3日という終戦間際のことでした。

ですから、文献によってフィンランドは枢軸国側となったり連合国となったりします。

フィンランドからは、枢軸国側ならドイツに次ぐ、

そして連合国側ならダントツトップとなる
戦闘機のトップエースを排出していますが、彼らの撃墜記録は
そのほとんどが対ソ連戦の、ソ連空軍機に対してのものであることを、

まずご理解いただけるといいかと思います。

🇫🇮 フィンランド

エイノ・イルマリ・"イッル”・ユーティライネン空軍准尉

W. O. Eino Ilmari Ill Juutilainen

FAF(Finnish Air Force)

93機撃墜 

 "The Terror of Morocco"『モロッコの恐怖』『無敵の帝王』

93機撃墜というのはあくまでも「公式記録」であり、実はもっと多かった、
という説が今でも有力なトップエースが、アメリカでもドイツでもなく、
フィンランド人であることを知っていたら、
あなたはよほど「この世界」に通じている人でしょう。

実際彼はドイツ人パイロット以外では最多撃墜数をあげました。
スミソニアンでは93機となっていますが、英語のWikiでは94機、さらに
本人は126機と主張しており、これはかなり信憑性のある数字とされます。

 

彼が使用したのは、フォッカーD.XXI、ブリュースター・バッファロー、
そしてメッサーシュミットBf109の戦闘機で、
敵戦闘機からの攻撃を一度も受けず、(被弾はわずか1発だけ)
戦闘中に僚機を失うこともありませんでした。

(英語Wikiでは『日本の戦闘機エース、坂井三郎のように』とある)

撃墜したのは、
ポリカルポフI-153「チャイカ」
I-16、ツポレフSB爆撃機
です。

ユーティライネンのブリュースターにはハーケンクロイツが付いています。

彼の偉大な記録にケチをつける気は毛頭ありませんが、
相手がソ連機でなければ、こんなに撃墜できたのかな。

いや、ふと思っただけですが。

 

戦後、ユーティライネンは1947年まで空軍に所属し、辞めてからは
1956年までプロのパイロットとして活動したといいますが、
それはデ・ハビランド・モスに観光客を乗せて飛ぶ遊覧飛行の操縦でした。

とにかく飛行機で飛ぶのが大好き、という人だったのでしょうか。

 

1997年、彼はフィンランド空軍の2人乗りF-18ホーネットに乗り、
人生最後のフライトを行いました。
このとき83歳。亡くなる2年前のことです。

 

ハンス・ヘンリック・”ハッセ”・ウィンド空軍大尉

Hans Henrik "Hasse" Wind (30 July 1919,– 24 July 1995)

FAF

78機撃墜

Hans Henrik Wind in Suulajärvi 1943.png

ウインドは1938年、パイロット養成コースに志願して参加し、
パイロットとしてのキャリアをスタートさせました。

ソ連との冬戦争(1939-1940)では予備役として参加したものの、
飛行機がなく出撃する機会はありませんでした。

フィンランドとソ連の第二次戦争ともいえる「継続戦争」
初めて戦闘機に乗って参戦したウィンドは、ブリュースターB239
ソ連軍相手に撃墜数39の勝利を収めるというスタートを切りました。

その後I-15で連合国のハリケーン、I-16、スピットファイア、Yak-1を撃墜。
その後機種をメッサーシュミットBf109Gに変更しています。

彼はフィンランド空軍で最も巧みな空中戦術家の一人とされており、
教官として執筆した「戦闘機戦術講義」は、その後何十年にもわたって
フィンランド空軍の新人パイロットの訓練に使用されていました。

彼は「無傷の帝王」と言われたユーティライネンとは違い、
空中戦で重傷を負っています。
なんとか生還したものの、その後2度と戦闘任務に就くことはありませんでした。

彼の戦時中の302回の出撃、75機撃墜は
フィンランドのエースで2位にランクされています。

戦後はすぐに空軍を退役し、結婚してビジネススクールで勉強をし、
あらたな第二の人生を歩み出しました。

1995年に75歳で亡くなったとき、彼は妻と5人の子供、
たくさんの孫に囲まれていたということです。
 

🇮🇹イタリア

さて、というわけで枢軸国の中の枢軸、枢軸の元祖、イタリアです。

元祖のわりに三国同盟の中でとっとと連合国側に寝返ってしまうあたり、
「ヘタリア」の異名は伊達ではないと思ってしまうわけですが、
全部が全部ヘタリアだったわけではなく、強かった部隊もありましたし、
(知らんけど)もちろん戦闘機のエースも輩出しています。

アドリアーノ・ヴィスコンティ空軍少佐

Mag. Adriano Visconti di Lampugnano (11 November 1915 – 29 April 1945)

RA(Regia Aeronautica= Italian Royal Air Force)
ANR(Aeronautica Nazionale Repubblicana= National Republican Air Force)

26機撃墜


この人の「少佐」」メージャーのイタリア語が
「マッジョーレ」であるのにはちょっとだけウケました。
それから、イタリア系の名前の出身出自をを表す言葉、
「ダ・ヴィンチ」(ヴィンチ村出身)
「ディ・カプリオ」(カプリオ家出身)
の前置詞『ディ』が、この人の名前にもついているのですが、

「ディ・ランプグナーノ」

という響きが長過ぎ、あるいは「音楽的でない」という理由か、
彼はその名前からdi以降をすっぱりないことにしてしまっています。

 

Visconti.jpgマリオじゃないよ

【イタリアの降伏】

彼は航空アカデミーのコースで免許を取り、その後軍飛行士になりました。

戦闘機パイロットとしてマッキM.C.200戦闘機の操縦訓練を受けた後、
マッキM.C.202でマルタ島やアフリカの空で作戦行動を行い、
中尉時代には、スピットファイアVを初撃墜します。

そして大尉に昇進した彼が航空偵察を専門とする戦闘機隊の司令官となった
1943年9月12日、ヘタリアがヘタれてしまい、無条件降伏してしまうのです。

ヴィスコンティ大尉とその部下はその知らせに完全に驚かされます。
(そらそうだ)
他のイタリア軍司令官と同じように、彼もまた
上層部と連絡を取ろうとしましたが、全く無駄に終わりました。

そこで彼はイタリア社会共和国空軍の設立に積極的に参加し、
マッキC.205戦闘機を装備した戦闘機隊中隊長に任命されることになります。

無条件降伏後も北イタリアを爆撃しにくる英米の爆撃機を撃退するため、
ヴィスコンティの部隊はメッサーシュミットBf109G-10に乗って戦いました。

同隊が最終的に降伏するまでの間、彼はP-38ライトニング2機、
P-47サンダーボルト2機の計4機を撃墜しています。

■ 殺害されたヴィスコンティ

彼の死亡年は1945年。
撃墜による戦死ではありません。

1945年4月29日、彼の所属する第1戦闘機グループは降伏しました。
隊員は生命の安全を保障された上で捕虜となり、
イタリアまたは同盟国の軍当局に引き渡されることになっていました。

ところが、収監された兵舎からパルチザンがヴィスコンティを連れ出し、
副官のヴァレリオ・ステファニーニとともに
後頭部をなんの予告もなしに撃って射殺したのです。

ステファニーニ副官

降伏条項を無視して行われたアドリアーノ・ヴィスコンティと
副官の殺害の真の原因は、今日に至るまで解明されていません。


フランコ・”ルボール”・ボルドーニ-ビスレリ中尉

Ten. Franco ’Rubor'  Bordoni-Bisleri (10 January 1913 – 15 September 1975)

RA

24機撃墜

Ten.というのはTenenteの略称のことで中尉です。
ついでにイタリア軍の士官の呼び方を一部書いておきます。

将官 Generale ジェネラーレ 

大佐 Colonnello コロネッロ

中佐 Tenente colonnello テネンテ・コロネッロ

少佐 Maggiore マッジョーレ

大尉 Capitano カピターノ

中尉 Tenente テネンテ

少尉 Sottotenente ソットテネンテ

音楽用語でSotto voce(音量を抑えて)というのがありますが、
ソット、というのは「それ以下」という意味なので、
少尉は「中尉以下」、中佐は「大佐以下」という意味になります。

 

ミラノの名家に生まれたフランコ・ボルドニ・ビスレリは、若い頃
レーシングカーのドライバーとして結構有名な存在でした。

パイロット志望でしたが、鼻腔狭窄症のため健康診断ではねられます。
しかし、さすがは上級国民(知らんけど)、軍当局から特別許可を得て、
爆撃学校に配属されるというチートで入隊を果たしました。

【北アフリカ】

彼の初撃墜はブリストル・ブレニムでした。
ビスレリはこれを迎撃するために100キロ以上の追跡しています。

Fiat CR.42 - Aegean Islands.jpg

ビスレリはこのフィアットC.R.42ファルコを操縦して、
ホーカー・ハリケーンMk.1、ブリストル・ブレニムを撃墜したそうですが、

ハリケーンMk1

飛行するブレニム Mk.I L1295号機 (1938年撮影)ブレニム

複葉機でこういうのを撃墜できるものなの?

1941年当時、ファルコは操縦しやすく頑丈な機体で、
グラディエーター、ブレンハイム、ウェリントンとは戦えた、
ということらしいですが、ハリケーンを撃墜というのは
操縦者がビスレリだったから・・・・?

その後彼はマッキM.C.202の初号機で撃墜数を伸ばしました。
彼が撃墜したのはカーチスP-40キティホークなどです。

度重なる空戦で全く銃弾を受けず無傷だったビスレリですが、
皮肉なことにこの期間1自動車事故で負傷し、病院船で国内に送られました。

【イタリア】

イタリアで彼はマッキM.C.205「ヴェルトロ」を手に入れました。


ローマ上空でP-38ライトニングに護衛されたB-17の編隊を迎撃した彼は
1機の爆撃機を撃墜することに成功しました。
彼はこの戦争で合計5機のB-17を撃墜しています。


【戦後と事故死】

終戦直後、ボルドニ=ビスレリは家業を継いで社長となり、
ミラノ・エアロ・クラブの会長に就任しました。

昔取った杵柄でレースに復帰し、マセラティを駆って、
ヨーロッパで最も評価の高いアマチュアドライバーの一人となり、
1953年にはイタリアのスポーツカー選手権で優勝を果たしました。

しかし、1975年9月15日、ビスレリが62歳の時です。

自身が会長を務めるミラノ・エアロ・クラブが主催した
落下傘部隊の記念式典に出席し、
ローマで教皇パウロ6世との会談を終えて帰国した際、操縦していた
SIAIマルケッティF.260は悪天候で山中に墜落し、死亡しました。

飛行機には10歳の息子と、友人も乗っていたそうです。

当時、彼の死は新聞で大きく報道されましたが、
彼が英国空軍のエースだった過去については
ほとんど報じられることはありませんでした。

 

続く。

 

 

 

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スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(連合国フランス編)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-21 | 飛行家列伝

スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
世界の戦闘機のエースを紹介しています。

このコーナーでスミソニアンが選んだトップエースは21名。
アメリカ人パイロットが5名というのは自国なので仕方がありませんが、
あとは8カ国から2名ずつという内訳です。

米英につづき、ソ連、ポーランドまできましたので、今日は
残りの連合国であるフランスのエースを紹介しましょう。

🇫🇷フランス

当ブログで第一次世界大戦について取り上げたとき、
「ソンムの戦い」「ヴェルダン攻防戦」などでは
「肉挽き機」というくらい壮絶な死者数を出したことについてお話ししました。

フランスは第一次世界大戦でドイツと戦って勝ったわけですが、
その人的被害はあまりに凄まじかったため、報復感情もあって、
戦後フランスはドイツに対し莫大な損害賠償を請求します。

そしてそのことがドイツを追い詰め、ヒトラー率いる国粋主義的政党、
ナチス労働党が生まれるきっかけを生むことになります。

1939年にドイツがポーランド侵攻を行い、第二次世界大戦が始まると、
フランスはイギリスとともにドイツに対し宣戦布告を行いますが、
フランスは第一次世界大戦の成功体験から、「マジノ線」という防衛ラインを置くと
それで安心し、近代装備を備えたドイツ軍にしてやられ、降伏してしまうのです。

フランスがなぜこうもあっさりとドイツ軍に凱旋門を明け渡したかというと、
第一次世界大戦の被害が大きすぎて、
国民の戦意(モラルですね)が低かった、ということのようですが、
もちろんそうではない人もいて、パルチザンとなってゲリラ活動を行いました。

というわけで、フランス空軍の第二次世界大戦における戦闘というのは、
どのように行われたのか、あまり人々に語られることはないわけですが、
航空隊の戦闘機エースはもちろん存在します。

 

ピエール・アンリ・クロステルマン空軍中佐

WC Pierre Henri Clostermann DSO DFC&Bar
( 28 February 1921 – 22 March 2006)

FAFL RAF AAEF

33機撃墜

まず、彼が所属した最初の軍の略語FAFLについて説明します。

Forces Françaises Libres(自由フランス軍)

はフランスがドイツに占領され、仏独戦が休戦となってから以降に
枢軸国軍と戦ったフランスの個人あるいは集団を表します。

自由フランス海軍はイギリス海軍の補助的任務を行い、
自由フランス空軍(FAFL、Les Forces aériennes françaises libres )は
フランスから逃れたパイロットや、南アメリカ諸国からの志願者から成り、
バトル・オブ・ブリテンにも参加しました。

しかし、クロステルマンが本格的に戦闘機乗りとしてデビューしたのは、
自由フランス軍という身分のまま、王立空軍RAFでのことになります。

彼のWCというタイトルは、Wing Commander、RAFの中佐という意味です。

 

ピエール・クロステルマンは、アルザス-ロレーヌ地方出身の外交官の息子で、
父親の赴任地であるブラジルが出身地です。

外交官令息という恵まれた環境に育ち、14歳で水上機の操縦を始めており、
その後はアメリカに留学して航空工学の学士号と免許を取得しています。

自由フランス軍に入隊したときには、
彼の飛行時間はすでに315時間になっていました。

祖国フランスのために空軍パイロットとして奉仕する決心をし、
彼はイギリスに渡り、RAFの士官候補生コースを優秀な成績で卒業します。

彼のRAFでの初飛行は、スーパーマリン・スピットファイアでした。


指輪とかブレスレットとかお洒落な感じがさすがおフランス人

写真は、フランス人ばかりの第341戦闘機部隊「アルザス」に配置された
クロステルマン軍曹(当時)。

ちなみにこの「クロステルマン」という名前は、
彼の家系がドイツ系であることを表しています。
ドイツ軍の伝説のエース、マルセイユの家がフランス系だったように、
ヨーロッパでは他国の血筋を表す名前を持つ人が普通にいるものです。

RAFという組織は、リベラルというのか、外国人パイロットを取り入れ、
その民族グループごとにまとめる組織を作って任務をまかせるという、
実に合理的なやり方で枢軸国と戦っていたわけですが、それは、
同じ連合国同士協力してもらうが、文化風習が違う異質な存在を
我々の中には決して混入させない、というあの民族独特の排他主義のもとに
きっちりと運営されていたという感があります。

その現れが「アルザス」などの民族部隊です。
このフランス人部隊の役割は、「元リビア・シリア」そして
「RAF内で孤立したフランス人」を再統合することでした。

アルザス航空隊はRAFの組織でしたが、彼らの身分は自由フランス軍人のままです。


【RAFの自由フランス軍部隊】

クロステルマン軍曹が他の三人のフランス系軍曹と到着したとき、
部隊にはまだ飛行機がなく、しばらくすると9機が届けられました。

パイロット30人に対し9機の飛行機で訓練は開始されます。
飛行隊長はある意味完璧主義で、空対地、空対空、空対海戦について

「自分たちの態勢を完璧に、油を塗った歯車を持つ美しい機械のように仕上げる」

という姿勢で訓練を行いました。

クロステルマンの部隊は主にフランス上空での爆撃機の護衛で、
彼はよく隊長のウィングマンを務めていました。

そして90機のルフトバッフェを24機で迎え撃つことになったある日の任務で、
彼はウィングマンを務めた隊長、ルネ・ムショットを失います。

René Mouchotteムショット(左)

ムショットは初めて英連邦以外の国の士官としてRAFの飛行隊長となった人で、
フランスでは至る所にその名前がレガシーとして残されています。
華々しい功績を挙げたとかいう話は残っていませんが、どうもその人格が
誰をも敬服させずにはおかないほどの立派な指揮官であったようです。

 

ムショットの遺体は数日後にベルギーの海岸で発見されました。

国際的に評価の高く尊敬されていたリーダーをむざむざ失ったことを、
彼の過失とする人々もいたようですが、後の調査によると、撃墜されたのではなく、
体調不良による操縦ミスで飛行機を墜落させたのではないかということになっています。
(と少なくともクロステルマンは語っているそうです)

しかし、ムショットの後任の隊長はクロステルマンを編隊から外しました。

 

そのことがきっかけで、クロステルマンはフランス人部隊を出て、今度は
602飛行隊「シティ・オブ・グラスゴー」15への配属を希望しました。

ここで彼は、イギリス人の友人と「気楽で楽しい生活を送った」とされます。
どうもフランス人パイロットの社会には馴染めなかったようですが、これは、
ブラジル生まれでアメリカに留学し、フランス本土でほとんど生活をしてこなかった、
という彼の育ちが多少なりとも関係しているような気がします。


イギリス人の方が俺なんか気楽に付き合えるんだよな(左)ってか


そしてノルマンディ上陸作戦では5回の空戦成功を収め、

RAFの基準で11回の勝利を追加しました。

ところで、彼自身が身をもって経験し、恐れていたことに、ドイツ軍の対空砲がありました。

クロステルマンの部隊はルフトバッフェのMe262ジェットを封じ込め、
さらに敵の鉄道網と対空砲を攻撃するという任務を負っていましたが、
ドイツ軍の対空砲は恐ろしいくらい正確で、何人もの同僚を失うことになりました。

しかし、彼はMe262と交戦し、破損した機体を胴体着陸させたり、
次にフォッケウルフ・コンドルに撃墜されるも無傷で生還するなど、
強運に徹頭徹尾恵まれたパイロットでした。

「僕に任せておけば楽勝さ」

生還するたび、彼は楽天的にこんなことを嘯いていたそうです。

彼が危うく難を逃れたのはこれだけにとどまらず、戦闘ではない
デモンストレーション飛行で、一度はチームメイトの機と空中衝突し、
墜落していく機のコクピットからパラシュートで脱出していますし、
また別のデモンストレーション(デンマーク国王天覧)では
ランディングギアの故障で着陸に失敗するも、命に別状はありませんでした。

しかし前者の事故では彼は3人のチームメイトを喪い、これらの事故は
彼をRAFとの関わりから「足を洗う」きっかけになりました。

 

第二次世界大戦中あげた33機撃墜記録はフランス人パイロットのトップであり、
その後はフランス空軍(Armée de l'Air et de l'Espace FrançaiseAAEF)に移籍して
予備中尉に任官し、予備役大佐という階級で軍人としてのキャリアを終えました。

戦後は政治家となり、著作を行なって、2006年、85歳の生涯を終えています。

 

ついでに、彼は戦後RAFが所有していた(というかドイツから召し上げた)
Me262を操縦し、初めてジェット機を操縦したフランス人パイロットになりました。

 

マルセル・アルベール 空軍大尉

Cap. Marcel Albert(25 November 1917 – 23 August 2010)

FAFL RAF

23機撃墜

Marcel Albert.jpg

ピエール・クロステルマンに次ぐ撃墜記録を挙げたフランス人エース。

アルベールの父親は第一次世界大戦に出征し捕虜となったり、
マスタードガス後遺症で苦しんだという人物です。
学齢期に父親を失った彼は国からの奨学金で中等教育を受け、
パイロットの資格も取りました。

下士官から始めて戦闘機部隊配属された彼は、当時のフランス最高の戦闘機、

ドゥボワティーヌ Dewoitine D.520

に乗って30ものミッションをこなし、ドルニエ17とハインケル111、
2機に対し勝利を挙げました。

【ヴィシー空軍から自由フランス軍へ】

ドイツに祖国が占領されたことについて、フランス人パイロットは
遺恨に持ち、前線では絶え間なく存在感を確保するため神経を尖らせていました。

しかし、彼らはフランス敗北の原因の大部分が空軍にあったということを
おそらく理解していなかったのではと思われます。

彼らは、なぜ何百機もの新型機が倉庫に放置されているのか、
作戦部隊の装備が大幅に不足しているのかを知りませんでした。


アルベール軍曹は他の2名の軍曹仲間とともにフランス軍を「辞め」、
自由フランス軍に逃れることを決意します。

自由フランス軍、それはつまりRAFの「フランス人部隊」ということでもあります。

彼はそこでスーパーマリン・スピットファイアによるミッションをこなし、
少尉に任官するに至りました。

【ノルマンディ戦闘機群】

ドゴール将軍がフランスの戦闘機部隊をロシア戦線に派遣することが決まり、
アルベール少尉は志願してロシアに赴き、そこで
「ノルマンディ戦闘機群」に配備されてYak-9戦闘機に乗ることになります。

飛行するYak-9M (1944年撮影)

彼はここでフランス人同僚を全員失い、唯一の生存者となりました。
ロシアで挙げた撃墜数は21機となり、彼は大尉に昇進して、ソ連政府から
最高賞である「ソ連の英雄」のゴールドスター賞を授与されました。


1944年12月23日、彼はグループの元メンバー数人とともに、
フランスに帰郷&休暇に出かけ、帰ってきたら戦争は終わっていました。

その後彼はパリに戻り、凱旋式典で迎えられると同時に腸チフスで入院しています(´・ω・`)


戦後彼はプラハのフランス大使館に軍属として赴任しますが、
新しい職場に馴染めず、そこで知り合ったアメリカ人女性と結婚して
ニューヨークに渡り、紙コップを作る会社を起こして成功しました。

そして92歳、テキサス州の老人ホームで人生を終えました。

 

フランス人のツートップエースがどちらも祖国でなく、アメリカで
第二の人生を選んで結構幸せな一生を送ったことは、たんなる偶然かもしれませんが、
何かフランス人の超個人主義の現れかもしれないなどと思ってみたりします。

 

続く。

 

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スミソニアンが選ぶ第二次世界大戦のエース(連合国編)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-19 | 飛行家列伝

スミソニアンの「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
当博物館がセレクトした戦闘機エースのその頂点となるトップエースを
ご紹介していますが、前回英米編をお送りしたので、今日はその流れで
連合国軍のエースと参りたいと思います。   

ソビエト連邦(ソ連)国歌 歌詞の意味・和訳ソビエト連邦

戦後冷戦でアメリカ世界の勢力図を二分したソ連が、
第二次世界大戦の時には連合国側だったというのが不思議な気がします。

ソ連が連合国側に加わったのは、1941年のソ連侵攻、つまり
独ソ戦が始まったときということになります。

というわけで、最初に紹介する冒頭の目が怖い搭乗員は、ソビエト空軍のみならず、
連合国軍全ての戦闘機搭乗員のトップに君臨するエースであるこの人です。

【連合空軍のトップエース】

イヴァン・ミキートヴィッチ・コジェドゥーブ ソ連人民空軍元帥

Msl. Ivan Nikitovich Kozhedub  Иван Hикитович Кожедуб
( 8 June 1920 – 8 August 1991)

BBC CCCP(ソ連空軍)

62機撃墜

飛行クラブで航空への第一歩を踏み出した彼は、1940年初頭に赤軍に入隊し、
軍パイロットとしてのキャリアを始めます。

戦闘機パイロットとしての初陣で彼は メッサーシュミット109と交戦しますが、
機体を損傷し、なんとか帰還したものの彼にとって完全な敗北戦となりました。

その後、ユンカースJu-87爆撃機2機とBf-109戦闘機2機を皮切りに、
たちどころに20機を撃墜し、トップエースに躍り出ます。

終戦まで彼はLa-7による330回の出撃、120回の空戦で62機の敵機を撃墜しました。

その内訳は、

Ju-87→17機、
爆撃機Ju-88→2機
He-111→2機
Bf-109→16機
Fw-190→21機、
攻撃機Hs-129→3機、
ジェット戦闘機Me-262→1機

というものです。
Me-262を撃墜したのはソ連空軍では初めてですが、史上3番目
(前年にアメリカ軍のクロイとマイヤーズが1機ずつ撃墜)です。

彼は機体を撃破されても必ず機体を帰還させ、生還しました。
28歳の時にはMiG-15ジェットの操縦もマスターしています。

戦時中は下士官だった彼は、1956年に36歳で陸軍士官学校を卒業し、
最終的には空軍元帥にまで昇り詰めました。

【味方を撃墜した理由】

アレクサンドル・イワノビッチ・ポクリシュキン ソ連空軍元帥

Gds. Col. A. I. Pokrysyhkin(21 February 1913 – 13 November 1985)

BBC CCCP

59機〜90機撃墜

Маршал авиации А. И. Покрышкин最終型。勲章塗れ

ポクリシュキンは、連合国軍中、前述のコジェドゥーブに続く
2番目の撃墜数をあげて成功した戦闘機パイロットです。

12歳の時に初めて飛行機が飛ぶのを見て、航空に興味を持った彼は、
赤軍入隊後、こっそり民間人パイロットクラブに通ってプログラムを終了し、
軍航空学校を卒業してパイロットになる夢を叶えます。

第二次世界大戦の参加のことをロシアでは「大祖国戦争」といいますが、
その大祖国戦争に少尉として参加したポクリーシュキンは、
早々に大失敗をしてしまいます。

邀撃戦でいきなり間違えて同僚、しかも爆撃隊飛行隊長機を撃墜したのです。

彼の言い訳?によると、空中に見たことのないタイプの航空機を見つけ、
攻撃して撃墜してしまってから、翼にソ連の赤い星が付いていることに気がついたと。
しかもそのSu-2軽爆撃機にはソ連の第211爆撃機航空連隊長の乗っていました。
なぜ彼が誤解したかというと、ソ連軍内にも秘密にされていた新型機だったからです。

深く反省した(たぶん)彼は、翌日Bf109を撃墜しました。

のちにこの味方撃墜が国民的英雄である彼の仕業と聞いた同僚が、彼に

「冗談だろ、サーシャ」

というと、彼はこういいました。

「冗談じゃない、戦争が始まった頃、本当にSu-2を撃墜したんだ。
スホーイは戦争直前に登場したんだが、とても珍しい形をしていたので、
てっきりぼくはファシスト(の機)だと思ってしまったんだよ」

その後彼は190回の出撃を行い、公式には59機、非公式には
90機とも言われるドイツ機を撃墜し、連合国第二位のエースになりました。

🇵🇱 ポーランド

1939年のドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まったのですから、
当然ですがポーランドは「最初の連合国」?ということになります。

【祖国からの告発ー死刑囚から准将へ】

スタニスワフ・スカルスキ 空軍准将

BG Stanisław Skalski DSO DFC & Two Bars
 (27 November 1915 – 12 November 2004)

PAF・ RAF

22機撃墜 

この人のことについて以前当ブログで取り上げたことがあります。

第二次世界大戦中、ポーランド空軍とイギリス空軍に所属し、
戦争が始まってまもなく、一回の出撃で6機のドイツ機を撃墜したことから、
第二次大戦最初の連合国側の戦闘機エースということになります。

彼はその後他のポーランド人パイロットとともにルーマニア亡命し、
イギリス王立空軍に加わってバトル・オブ・ブリテンに参戦しています。

その後RAFでHe 111爆撃機、メッサーシュミットBf 109などを撃墜し、
RAFのNo.317(ポーランド)飛行隊の指揮官を務めました。

彼の指揮した部隊は「Cyrk Skalskiego」(スカルスキー・サーカス)と呼ばれていた、
ということもこのブログに以前書いたかと思います。

その後彼はRAFのNo.133ポーランド戦闘機航空団の司令官に任命され、
マスタングMkIIIを使用していました。


🇺🇸製マスタング、🇬🇧空軍仕様に乗る🇵🇱人の図

順調だった彼のキャリアは戦後暗転することになります。
帰国した彼を待っていたのは、共産党当局によるイギリスのスパイという汚名でした。

逮捕勾留中には拷問を受け、1950年、見せしめの裁判で死刑を宣告されるのです。

心労が髪に・・・

死刑判決を受けてから3年間を牢屋で過ごす間、彼の母親は必死で運動し、
大統領にまで働きかけた結果、まず無期懲役に減刑されました。

それからさらに3年後、1956年に裁判所は前回の判決を覆しました。

「ポーランドの10月」でスターリン主義が終焉を迎えた後、
1956年、8年ぶりに解放された彼はポーランド軍に復帰し、
そしてポーランドの共産主義崩壊を目前にした1988年、准将に昇格しました。


【三カ国空軍で戦った男】

ヴィトルト・ウルバノヴィッチ空軍大将

Witold Urbanowicz (30 March 1908 – 17 August 1996)

LWP RAF  USAAF 

20機撃墜

彼が88歳でその生涯を終えたのはニューヨークでした。
ポーランドの農家に生まれ、イギリス軍で少佐になり、中国大陸で日本軍と戦った男は、
その余生をアメリカで過ごしたということになります。

ポーランドの空軍士官候補生学校に入学し、24歳で少尉任官した彼は、
夜間爆撃隊を経て戦闘機乗りの道を歩み始めます。

教官となった彼は、どういう理由でか「コブラ」というあだ名をつけられました。
第二次世界大戦で活躍した多くのパイロットが、彼の指導のもとで最初の訓練を受けています。

航空学校の演習が行われていた時、ドイツ機が襲来し、これが彼にとって
最初の空戦の実戦となったわけですが、1機も撃墜することはできませんでした。

それどころか地上の愛機が撃破され、次の飛行機も到着しなかったため、
彼は自国軍に見切りをつけたのか、王立飛行隊の招待を受けて英国に移りました。

このときRAFはポーランド軍の搭乗員全般をスカウトしており、
ウルバノヴィッチの他にもそれに応じたパイロットは何人もいたのです。

のちにRAFに「ポーランド飛行隊」が結成されたのもこういう下地があったからです。

ウルバノビッチはRAF145戦闘機隊のパイロットとして、
8月4日にバトル・オブ・ブリテンに参加し、このとき
メッサーシュミットBf109を2機撃墜していますが、公式統計には含まれていません。

9月15日はバトル・オブ・ブリテンの勝敗が決まったと言われる日ですが、
この日、彼はドイツ軍の60機の爆撃機を援護する戦闘機隊との交戦を指揮し、
バトル・オブ・ブリテンの間だけで、

Do-17 3機
ハインケルHe111 1機
Ju88 2機、
Bf109 4機
Bf110 1機

という撃墜記録を残しています。

その後彼はポーランド軍戦闘機隊の指揮官になったのですが、
どういう理由かポーランドでは彼は評判が悪く、任務から外されてしまいました。

そもそも、この人は最初から何かと物議を醸すたちだったようで、
「妥協しない」(融通が効かない)「非外交的」などと言われていました。

ポーランド語による彼のバイオグラフィによると、かれは

「ポーランド軍の格納庫付近でスパイ活動をしていた
ヴィリー・メッサーシュミットへの厳しい仕打ちを行った」

つまり「そういう(酷い)人だった」とされているようですが、
そもそもメッサーシュミットがポーランドでスパイ活動をしていた、
という話は他に聞いたことも見たこともありません。

彼の人望のなさはわかりましたが、メッサーシュミットのスパイの件、
本当だったのかどうか。
どなたかご存知でしたらぜひ教えていただきたく存じます。

アメリカへ

ポーランド軍の指揮官を外された彼は、アメリカに渡りました。
アメリカのポーランド系コミュニティに向けて、軍の志願者を募るため、
講演会を開くという名目でした。

その後、駐在武官としてワシントンにとどまっていたウルバノビッチは、
1943年、中国戦線で戦うアメリカの第14空挺部隊に(ゲストとして)志願します。

そして「フライングタイガース」として有名な、第23航空群第75戦闘飛行隊に配属されました。

(おそらく)シェンノートと話すウルヴァノビッチ。

この部隊のパイロットとしてP-40Nキティホークに乗り、
彼は爆撃機や輸送機を護衛しながら、12月11日、南昌飛行場上空で、
日本軍機2機(公式記録)]おそらく中島キ44型機を撃墜しています。

これにより、彼は三ヶ国の空軍のために飛んだパイロットとなり、
史上たった一人、日本軍と交戦したポーランド人パイロットになりました。

 

除隊後はアメリカに残り、航空関係の会社の統計担当者として、
その後はニューヨークのキリスト教男子青年同盟の理事会事務局長として働きました。

彼はYMCAの代表として、ポーランドに滞在した際、公安省の職員に
4回も拘束されながら、なんとか刑務所を免れて海外に逃れたと告白しています。

運が悪ければ祖国の裏切り者として、スカルスキのような目に遭ったのかもしれませんが、
その後ポーランド政府からは亡命中にも関わらず大佐に任命され、さらにその後、
レフ・ワレサ大統領は彼に准将の階級を与えました。

かつて日本を敵として戦った彼ですが、航空業界のコンサルタントであった1991年6月、
彼はオファーを受けて、初めての来日を果たしています。

バブル時代のきらびやかな日本の姿に、彼は目を見張ったかもしれません。

 

 

続く。

 

 

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スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(英米編)〜スミソニアン航空博物館

2021-09-17 | 飛行家列伝

スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーには
世界各国の「エース」と言われた戦闘機搭乗員の紹介があります。

まず「エースとはなんぞや」から始まる説明をどうぞ。

空対空戦闘で、5機以上の敵機を撃墜したパイロットをエースと呼びます。
第一次世界大戦時、フランスによって最初に使用されたこの称号は、
公式ではないことが多かったにもかかわらず、すぐに、全ての戦闘員
(世界各国の)に採用される「基準」となりました。

もともとは、エースの資格には10機撃墜が最低条件でしたが、
第一次世界大戦の最後の年までには、5勝が基準となりました。

第一次世界大戦からベトナム戦争までの戦争に従事した約5万人の
アメリカ軍戦闘機パイロットのうち、エースになり得たのはそのうちの3%未満です。

ここに紹介されているのは、第二次世界大戦時の各国のトップエースです。

スミソニアンが選んだエースは、全部で21名です。
もちろん「5機以上」ならここに収まりきれる数ではありませんから、この21名は
その中のトップエース、文字通り「エース・オブ・エーセズ」ということになります。

■ アメリカ合衆国

リチャード・アイラ・ボング陸軍少佐 

Maj. Richard Ira Bong (September 24, 1920 – August 6, 1945)USAAF 

40機撃墜 愛機:マージ号

USAAFはUnited States Army Air Forces(アメリカ合衆国陸軍航空隊)のこと。
ボングについては当ブログでも何度かご紹介しています。

南西太平洋戦線で日本軍機とP-38で戦い、1944年に第一次世界大戦中、
リッケンバッカーの記録26機を上回り、アメリカ軍のトップ・エースとなりました。

その後は本国でP-80シューティングスターのテストパイロットに回されましたが、
終戦直前の1945年8月6日、テスト飛行で墜落死しました。

トーマス・ブキャナン・マクガイア・ジュニア陸軍少佐 

Thomas Buchanan McGuire Jr. (August 1, 1920 – January 7, 1945) USAAF

38機撃墜 愛機:パジーV世号

ジョージア工科大学という超難関校の学籍を捨ててパイロットになったマクガイアJr.は、
南太平洋でやはりP-38ライトニングでボングと撃墜数を争うエースでした。

 

1945年1月7日、ネグロス島上空の哨戒任務中に帝国陸軍航空隊の
杉本明准尉操縦の一式戦「隼」、福田瑞則軍曹操縦の四式戦闘機「疾風」と交戦、
戦死しました。

David McCampbell.jpg

デイビッド・マッキャンベル海軍大佐 

Cap. David McCampbell  USN (January 16, 1910〜June 30, 1996 )aged 86

34機撃墜

偶然ですが、マッキャンベル大佐もジョージア工科大学から海軍兵学校に進んでいます。

F6Fヘルキャットのトップエース。
第二次世界大戦のアメリカ人のエースの中で3番目に高い得点を記録し、
戦時中に生き残ったアメリカ人のエースの中で最も高い得点を記録しました。

また、1944年10月24日、フィリピンのレイテ湾の戦いの開始時に、
1回のミッションで9機の敵機を撃墜するという空中戦記録を樹立しています。

ちなみに彼は信号士官時代、日本の潜水艦が撃沈した空母「ワスプ」に乗っていて
生還し、そこから搭乗員となったという経歴の持ち主です。

現在のスミソニアン国立博物館に展示されているF6F-5ヘルキャットは
彼の乗っていた空中戦の勝利の数だけ旭日旗が描かれたものを再現しています。

Francis Gabreski color photo in pilot suit.jpg

”ギャビー”・ガブレスキー陸軍大佐

Col. Francis Stanley "Gabby" Gabreski (January 28, 1919 – January 31, 2002) 

USAAF

31機撃墜

ポーランド系アメリカ人。
第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるアメリカ陸軍航空隊の戦闘機エースであり、
朝鮮戦争におけるアメリカ空軍のジェット戦闘機のエースでもあります。

2つの戦争でエースになったアメリカ人搭乗員は7人いますが、その一人。

ポーランド語が話せたことからRAFでの戦闘機デビューをした彼は、
リパブリックP-47サンダーボルトに乗ってルフトバッフェと戦い、
ヨーロッパ作戦地域のトップ・エースとなりました。

28回の撃墜スコアは、太平洋戦域のアメリカのトップ・エースであった
リチャード・ボングの撃墜数合計に匹敵します。

この対ドイツ軍成績は他のアメリカ人パイロットの誰にも破られていません。

グレゴリー・”パピー”・ボイントン海兵隊中佐

Lt. Col. Gregory ”Pappy" Boyington  (December 4, 1912 – January 11, 1988)

USMC

23機撃墜

中華民国空軍の「フライング・タイガース」(第1アメリカ義勇軍)出身。
海兵隊エースとしては彼がトップとなります。

海兵隊に再入隊後は南太平洋に配備され、F4Uコルセア戦闘機で戦闘任務を行います。
南太平洋では零戦に対し劣勢で一機も撃墜できなかった彼ですが、
自身が日本機に撃墜され、潜水艦に捕獲されて捕虜になる直前の32日間で
急激に記録を伸ばし、リッケンバッカーの25機を抜く26機撃墜を行いました。

このときボイントン撃墜を自分が行ったと主張したのが、帝国海軍の川戸正治郎上飛曹です。

この主張は英語wikiによると最終的に反証(つまり否定)されていて、しかも

「川戸は反証にもかかわらず、死ぬまでその話を繰り返した」

と彼の主張に疑義を呈する書き方がされています。
(日本語Wikiでは”推定されている”とのみ記述)

■ イギリス

マーマデューク・トーマス・セントジョン”パット”パトル王立空軍少佐

Sq. Ldr. Marmaduke Thomas St. Jhon ”Pat "Pattle(3 July 1914 – 20 April 1941)

RAF

51機以上撃墜

Squadron Leader Pattle of 33 Squadron RAF Greece IWM ME(RAF) 1260.jpg左・パット

Marmaduke Thomas St. John Pattle, DFC & Bar。
これが人の名前とタイトルだということすらピンとこなかったわけですが、
本人も自覚していたらしく、自分の愛称を家名から取った「パット」にしています。

マーマデュークなる名前はお祖父様のミドルネームから取られています。
このファーストネームで特に学齢期、彼はなかなか苦労したかもしれません。

彼は南アフリカ生まれで、18歳で南アフリカ空軍に志願したものの却下されたので、
イギリスに渡り、短期で王立空軍のパイロットになりました。

イタリア侵攻後、彼の飛行隊はギリシャでイタリア軍と戦い、
彼の撃墜記録はほとんどがそこで達成され、RAFのトップエースになります。

最後の日、彼は前日からの高熱にもかかわらずハリケーンで出撃し、
ルフトバッフェのメッサーシュミットBf110重戦闘機に撃墜され戦死しました。

ジェームズ・エドガー・”ジョニー”・ジョンソン王立空軍少将

Air Vice Marshal James Edgar Johnson, CB, CBE, DSO & Two Bars, DFC & Bar, DL 
(9 March 1915 – 30 January 2001)

RAF

38機撃墜

この人も自分の愛称を本名には全く含まれない「ジョニー」にしています。

ところでイギリス人の名前(偉くなった人)には、このように
ずらずらとタイトルがくっついてくるのが常ですが、
この際簡単に説明を加えておくと、

CB=バス勲章(騎士団)
CBE=大英帝国勲章 (騎士団)&DSO=メダルリボン
DFC=殊勝飛行十字章(戦功章&DSO
DL=副統監職

となります。

Wing Commander James E 'johnny' Johnson at Bazenville Landing Ground, Normandy, 31 July 1944 TR2145.jpg愛犬(ラブラドール)はサリーちゃん

ジョンソンはエンジニアからパイロットに転身しました。
ラグビーで骨折した鎖骨の手術のため、バトル・オブ・ブリテンには参加できませんでしたが、
その後の対独掃討作戦に、ほとんど休むことなく参加し、撃墜記録を上げました。

彼が参加した作戦には、ノルマンディーの戦い、マーケットガーデン作戦、
バルジの戦い、西部連合軍のドイツ侵攻などがあります。

スミソニアンの記述だと38Victoryとなっていますが、Wikiなどでは、

個人勝利34、共同撃墜7、共同未確認3、損壊10、地上機撃破1

という記録になっています。 

個人勝利ではメッサーシュミットBf109を14機、フォッケウルフFw190を20機破壊であり、
対ルフトバッフェにおける西側連合軍の戦闘機エースとしては、トップに君臨します。

 

続く。

 

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「クェスチョンマーク号の挑戦」 戦術の革新者 エルウッド・ケサダ中将〜陸軍航空のパイオニア

2021-01-31 | 飛行家列伝

スミソニアンの陸軍航空のパイオニアシリーズで名前が上がっていた中で
わたしが唯一知らなかったのがこの人です。

エルウッド”ピート”リチャード・ケサダ中将
Elwood ’Pete' Richard Quesada 1904-1993

 

Elwood Richard Quesada - Wikipedia

1891年生まれのカール・スパーツ、1896年生まれのアイラ・イーカーより
ケサダはそれぞれ13歳、7歳若いわけですが、軍事航空黎明期において
彼らはほぼ同時期に飛行機に乗っていたことになります。

ちなみにスパーツがパイロットになったのは1916年25歳、イーカーは1919年23歳、
ケサダはいつかわかりませんが、もっと早かったと思われます。

そして、あの「クェスチョンマーク号」による滞空記録達成で
彼らがチームを組んだとき、ケサダは若干25歳でした。

「ケサダ」というファミリーネームはご想像の通りヒスパニック系で、
彼はスペイン人の父親とアイルランド系アメリカ人の両親のもとに生まれました。

黎明期の航空部隊では士官学校出が少なく、たまにいたとしても
ここだけの話決して成績上位ではない者が進路に選ぶ、という印象ですが、
彼もまたアナポリスではなく、一般大卒の予備士官です。

 

■ 航空戦術の先駆として

ケサダはのちに戦術航空司令部の指揮官に任命されますが、初級士官の頃、
すでに地上部隊の近接航空支援の概念に興味を持つようになりました。

ヨーロッパのキャンペーン中に戦術空中戦の開発のアイデアを得て
行った
革新には、マイクロ波早期警戒レーダー(MEW)の採用、および
VHF航空機無線機を装備し航空管制官を兼ねるパイロットを配置することが含まれます。

後者の技術は、戦闘爆撃機との直接地上通信を可能にし、その結果
フレンドリーファイアー(味方への誤攻撃)を減らすことに加えて、
敵地上部隊への攻撃、つまり近接航空支援
の精度と速度が上がりました。

その結果、機甲部隊が迅速に前進し砲兵支援を行うことができるようになり、
これらの戦術改善は、西部戦線において連合国側に多大な貢献をもたらしました。

■ 戦後空軍におけるケサダ 

1946年、ケサダは戦術航空司令部(TAC)の最初の指揮官に任命され、
その後、新たに独立した米空軍の大将に昇進しました。

しかし、ケサダは、空軍においてTACが無視されており、資金調達やプロモーションが
主に戦略航空司令部に偏っているのを見て、すぐに幻滅することになります。

1948年、空軍参謀本部は、TACから航空機とパイロットを排除しその地位を引き下げました。
これは、戦後のアメリカが日本への原子爆弾投下の成果、空軍の主力を戦略爆撃に据え、
空戦能力の向上を疎かにしようとしたということでもあります。

ケサダはその流れに不満を持ちなんとかしようとしますが、

鈍くてせっかちな性格のため(wiki)

現場に論争を巻き起こしただけに終わり、就任してわずか2か月後に解任されてしまいます。
彼は結局1951年、47歳で空軍から早期引退することになりました。

 

■ クェスチョンマーク号の挑戦

さて、ケサダがその前半の軍歴において急激に出世したのは
ほかでもない、クェスチョンマーク号による記録達成に成功したおかげですが、
今日は、スパーツ、イーカーの紹介の時には簡単にご紹介した
そのクェスチョンマーク号の挑戦についてちょっと詳し目に触れておきたいと思います。

クェスチョンマーク号( 以下”? ")は、米陸軍航空隊の
アトランティック・フォッカー C-2A輸送機です。

1929年、カール・スパーツ少佐の指揮で、空中給油の実験を兼ね、
飛行耐久記録達成を目指して飛び立ち、その結果、
150時間以上というノンストップ滞空世界記録を樹立しました。

それを可能にしたのはもちろん空中給油という技術の発明です。

空中給油が最初に行われたのは1923年のことで、サンディエゴで
陸軍パイロットがさっそく9回の空中給油を行い37時間滞空記録を確立、
その後1928年、やはり陸軍航空隊が 61時間と記録を伸ばしています。

今回の挑戦はその61時間を上回ることを目標に行われました。

 

きっかけは本日の主人公、米陸軍航空隊のエンジニアだったエルウッド・ケサダ中尉
1928年、任務飛行中、燃料不足から墜落しそうになるという経験をしたことでした。
かれはもっと空中給油の技術を身近なものにしなければいけない、として、
実験方々これまでの滞空記録を破る計画を考案したのです。

ケサダ中尉がその計画を上司だったアイラ・イーカー大尉に提出したところ、
イーカーは大変乗り気になり、結果、実験を単なる宣伝目的にせず、
あくまでも軍事利用を実証することという条件
でプロジェクトが承認されました。

そしてプロジェクト全体の指揮が、カール・スパーツ少佐に任されたというわけです。


早速使用機にアトランティック・フォッカーC-2Aトランスポートが選ばれ、
プロジェクトのためにタンクが貨物室に2基増設するなど改造がなされました。
また翼にキャットウォークが構築され、整備士が緊急メンテナンスのために
エンジンにアクセスできるようにもなっています。

プロジェクトの噂が広まるにつれ、メンバーは何度となくインタビューを受けますが、
その際には必ずと言っていいほど達成する予定の滞空時間を尋ねられるので、

彼らはいつも同じ答えをするのが常でした。

「That's the question. (それが問題です)」

そのうち彼らはメディアの質問への答えとして胴体の両側に大きな疑問符をペイントしました。
それが話題を呼ぶとともに耐久飛行への関心を呼び起こし、

いつの間にか飛行機のニックネームそのものになったというわけです。


プロジェクトのスケジュールは1929年1月1日、ロサンゼルスを出発し、
パサデナで行われるローズボウル(フットボール)の上空で給油するなど、
どう見ても「宣伝目的だろう」といわれそうな派手な内容となっていました。

当時は無線機の信頼性が低く、「?」号は重量を極力制限しなければならなかったので、
すべての通信は、手旗、発光信号、懐中電灯、メッセージバッグ、
供給ラインに結び付けられたメモ、または随伴機の機体胴体にチョークで書いて行いました。

そのため随伴機のニックネームは「黒板飛行機」になったということです。

Pictured is the crew of the

「?」号の乗組員は、写真左から

ハリー・ハルバーソン大尉、アイラ・イーカー少佐、
ロイ・フー軍曹、カール・スパーツ中佐(隊長)、
エルウッド・ケサダ大尉

の総勢5名。
(一番右に写っているのは誰だかわかっていないそうです)
待機する給油機は2機で、それぞれに2名が搭乗していました。

そして「黒板機」には4名が乗っていました。

 


1929 年の元旦、午前7時26分に「?」号はイーカー大尉の操縦で、重量を節約するために
380 リットルの燃料だけを運んで、離陸しました。

巡航中はハルバーソン中尉かケサダ中尉のいずれかが操縦を行い、
イーカー大尉は効率的なエコ飛行のためスロットルを監視する役目です。
ログは副操縦士によって記録され、毎日地上に向けて投下されました。

A Fokker C-2A is refueled in flight by a modified Douglas C-1 transport aircraft during a refueling operation dubbed 給油中

離陸1時間も経たないうちに、最初の給油が行われました。
給油中、イーカーとハルバーソンがスロットルを制御、スパーツとケサダが燃料交換を監督し、
フーはポンプを作動させる係を務めました。

両機が時速130kmで安定してから給油機 は上から?号に近づきホースを繰り出します。
スパーツはプラットフォームに登り、雨具とゴーグルを着用し、
ホースを受け取って上部胴体に取り付けられた「レセプタクル」に入れます。

バケツから作られたレセプタクルは、燃料タンクにつながっていて、
バルブを開くと燃料は重力により毎分280 リットルがバケツを通じてタンクに流入し、
そこでフー軍曹がポンプを手作業で動かし翼タンクに入れるのです。

食料、郵便、工具、スペアパーツ、その他の供給品も同じ方法で渡されました。

(ところでどこにもかいていないのですが、トイレはどうしていたのでしょうか)

Flight of the Question Mark?号内のケサダ

「?」号の5人の男性は、飛行前に健康診断を受けて体調は万全の状態。
騎乗での彼らの食事のために航空医は特別食を用意しました。

しかし、重量の節約と安全上食品を加熱するための電気ストーブは廃止されたので、
彼らのために元旦の七面鳥を含む温かい食事が送られました。

クルーは燃料タンクの上の二段ベッドで寝ることもでき、トランプ、読書、
手紙を書くことによって退屈を紛らわせていました。
(手紙は書くたびに地上に投下すればすぐに拾ってもらえます)

1月3日の夜には新記録達成したので、サポートクルーはお祝いに
チーズ、イチジク、オリーブ、キャビアの瓶詰め5つを送りました。

しかし、給油が失敗したこともあります。
燃料容器から引き出す際、山岳地で気流が乱れ、揺れでホースを取り落としたスパーズは
高オクタン価ガソリンを体中に浴びることになってしまいました。

ケサダは安定した飛行のために海上に進路を取りましたが、スパーツは
ガソリンの化学やけど?を懸念し、パラシュート降下がいつでもできるよう、
イーカーに地上の飛行を続けるように命じました。

(さすがのスパーツもちょっとパニクっていたのかもしれません)

しかし結局スパーツは衣服をすべて脱ぎ捨て、油をつけた雑巾で体を拭き、
そのままの姿(服を脱いだ状態?)でもう一度給油を行っています。
「化学やけど」は大丈夫らしいと判断したのでしょう。

衣服については交換品がすぐに配達されました。
しかしトイレの件とともにわたしなどどうしても気になってしまうのですが、
1週間機上で限界の生活をした彼ら5人は、その間着の身着のままだったわけですから、
地上に降りた時にきっとものすごい状態だったんだろうなあ・・・・。

 

ケサダも同じ事故に見舞われましたし、スパーツの燃料流出は一度に止まらず、
あと二回でしたが、怪我はありませんでした。

その都度油を使用して皮膚を拭き、酸化亜鉛を使用して目を保護してしのいでいます。

霧、乱気流、暗闇のため、給油はスケジュール通りになかなか行えず、
給油中にエアポケットに遭遇すると、たいてい悲惨なことになりました。


乗組員はエンジンを保護するために低速の巡航速度で飛びましたが、
エンジンにかかったストレスは目に見えて馬力を失わせていきました。

そして1月7日午後、ついに左翼エンジンが停止。

フー軍曹はキャットウォークにいって修理を試み、プロペラをゴム製のフックで固定しました。
残りのエンジンも目に見えて疲弊していきます。

限界でした。

「?」号は離陸後150時間40分14秒ぶりにメトロポリタン空港に着陸しました。

燃料補給37回。
この飛行は、持続飛行、燃料補給飛行、
および距離に関する既存の世界記録を破りました。

そして乗組員5人全員に殊勲飛行十字章が授与されたのです。

 

この壮挙の影響は大きなもので、クエスチョンマーク号の記録達成以降、
わずか1年以内に民間人によって40回の滞空記録滞在挑戦が試みられ、
そのうち9回は「?」号を超えるという結果になりました。

 

このプロジェクトに関与した16人の陸軍飛行士のうち6人は後に将軍になり、
スパーツ・イーカー、ケサダはこのブログでもお話ししたように、
第二次世界大戦中に米陸軍空軍で重要な役割を果たす重職を務めることになりました。

カール・スパーツは陸軍空軍の司令官に昇格し、米空軍の初代参謀本部長となり、
アイラ・イーカーは第8地中海地中海連合軍を指揮しました。
そしてエルウッド・ケサダはフランスのIX戦術航空司令部の指揮官になっています。

残りの将校、ストリックランド、ホイト、およびホプキンスは米国空軍の准将になり、
ハルバーソンは陸軍大佐にまで昇格してB-24リベレーターを率いる第10空軍の
最初の指揮官となって第二次世界大戦に参戦しました。

 

クェスチョンマーク号機体のその後についても書いておきましょう。

輸送飛行機としての耐用年数を果たした「?」号は、1932年11月3日、皮肉なことに
飛行中に燃料がなくなって着陸を試みるも、深刻な損傷を受け、廃棄されました。

 

1948年1月、クエスチョンマークプロジェクトを指揮してから19年後、USAFの首席補佐官、
カール・スパーツは空軍の戦略上の最優先事項ー空中給油システムーを決めました。

その結果、すべての第一線のB-50爆撃機に空中給油装置を改造することが決定され、
世界で最初に結成された専用空中給油ユニットである第43と第509の空中給油飛行隊は、
1949年1月から運用を開始しました。

そして1948年、「フライング・ブーム」による供給システムが開発され、
その後1949年に
「プローブ・アンド・ドローグ」システムが、そして
シングルポイント受信装置を使用した
戦闘機の機内給油も実用化され、この時点で
USAFは未来の空中給油に関する大部分のコンセプトにコミットすることになったのです。



最後に、その扱いにケサダが激怒して辞めるきっかけになったTACですが、
その後朝鮮戦争が始まり、
航空戦術の独立を必要としたアメリカ空軍は、
これを機会にTACを再編成する決定をしました。

再結成されたTAC司令官には、第二次世界大戦中にXIX TACを率いたケサダの友人、
オットー・ウェイランド将軍が指名されたということです。

Weyland op.jpg

ケサダが辞めていなければ、彼がこの地位にあったかもしれません。
ドンマイ。

 

続く。

 

 

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独立空軍創設の悲願 ”ハップ”・アーノルド〜陸軍航空のパイオニア

2021-01-25 | 飛行家列伝

                                     

アメリカ軍の航空を語っていると、いつのまにかおなじみになってしまうのが、
「ハップ・アーノルド」という名前です。
つまり陸軍航空ではそれほど重要人物なんだろうと思っていましたが、
スミソニアン博物館の陸軍航空コーナーにこの人の似顔絵があったので、
この際その経歴とバイオグラフィーを取り上げてみることにしました。

 

ハップ・アーノルド

爆撃機戦略の父

1934年 アメリカ郵便パイロット

とキャッチフレーズがあります。
パイオニアシリーズはほぼ全員が何かの「父」なのですが、
この超有名人が爆撃機戦略の父だったとはちょっと意外でした。
続いては

1911年ライト兄弟より航空を学ぶ

マーチン爆撃機による記録飛行を指揮
ワシントンDCとアラスカの往復 1934

と書かれていますが、これは彼の功績のほんの一部にすぎません。

スマイリング・ハップ

ヘンリー・ハーレー「ハップ」アーノルド
Henry Harley 'Hap' Arnold(1886ー1950)

は、陸軍と空軍の将軍の階級を保持している数少ない軍人です。

航空のパイオニア。

アメリカ陸軍航空局長(1938ー1941)。

五つ星ランクを保持する唯一の米空軍将軍。

二つの異なる軍隊で五つ星ランクを持つ唯一の将校。

これでは有名なのは当たり前といったところです。
たまたま彼がその道に足を踏み入れたのが、ぴったりと
航空の時代がちょうど開けたところであったという意味で、
航空人として彼ほど幸運な男はいなかったということでしょう。

もちろん、そのチャンスに十分波に乗れるだけの実力を
持っていたということが前提条件としてありますが。

彼の通称である「ハップ」ですが、なんと「ハッピー」からきています。
彼の写真はどれを見てもいかにもその名に相応しくほほえんでいるのですが、
これは彼が1911年、つまり飛行機の免許をとってすぐ、
スタントパイロットを務めたときのサイレント映画のスタッフが名付けたもので、
彼の妻も手紙で彼をこう呼んでいたということです。

親と妻は彼を「Sunny」と呼ぶこともあったそうですが、
ハップと言いサニーと言い、つまり彼はそういう雰囲気を持っていたのでしょう。

【初期の人生】

「ハップ」アーノルドは1886年、ペンシルバニア州の外科医の息子として生まれました。
母親はいつも楽しげに笑っているような女性で、彼は母親の影響を受けたのかもしれません。

父親は彼の兄を軍人にするつもりだったのですが、反抗されたため、
全くその気がなかったアーノルドが代わりにウェストポイントの試験を受けました。

試験の結果は補欠。
ところが、合格者が結婚するつもりであることが明らかになり、
妻帯者は入学できないという士官学校の掟により、
彼は失格になり、代わりにアーノルドが繰り上げ合格者となったのでした。

ウェストポイントでの彼の成績は、特に優秀というわけではありませんでしたが、
数学と科学系が優れていため、中間と最下位を行ったり来たりしていました。
いたずら者のグループ「ブラックハンド」のリーダーになったり、
ポロで活躍したりと、なかなか楽しい候補生生活を送ったようです。

本人は騎兵隊への割り当てを強く望んでいましたが、
成績に一貫性がなく、最終的に111名のうち66番という席次だったため、
希望通りに行かず、歩兵に任命されてしまいます。

とにかく歩兵の任務が嫌いでしょうがなかったらしい彼は、
配置に抗議するなど無駄な努力をしていましたが、説得されて
いったん歩兵任務についてチャンスを伺っていたところ、
陸軍武器科(戦闘後方支援)なら今だけ少尉に即時任官、
という条件を提示されたので、異動を申請することにしました。

しかし、その試験の結果を待っているあいだに、彼はいつからか
自分が航空に興味を持っていたということに気づくのです。

自分の努力不足とは言え、兵学校時代のぱっとしない成績のせいで
行きたい配置にもつけず、かといってここで武器科に異動したとしても
出世できるかというとどうもそうではなさそうだ。
それならば、発足したばかりでまだ誰も経験していない航空分野で
一か八かやってみようか・・・。

きっとアーノルドはそんなふうに考えたに違いありません。
そして、その「賭け」は彼の将来に最良の結果をもたらすことになります。

 

【軍事航空のパイオニアとなって】

アーノルドは信号隊への移動を要求する手紙を送り、1911年、
オハイオ州にあるライト兄弟の飛行学校で修学する命令を受け取ります。

「わーい♫」

アーノルドは他の陸軍、海軍軍人(ペリーのひ孫にあたるジョン・ロジャーズ中尉
民間人3名とともに28回のレッスンを受け、1911年5月、
初めての単独飛行を行うことに成功しました。(写真はそのころのハップ)

そして連邦航空局のパイロット証明書第29号証明書、さらに
一年後、軍用飛行士証明書第2号を受け取り、
1913年に新しく制定された軍飛行士のバッジ着用を許可された
最初の24人のうちのひとりになりました。

その後単独飛行を数週間経験したアーノルドは、新しく設立された
航空隊信号部隊で陸軍の最初の飛行教官となって後進を指導しました。

この頃の航空に人が少なかった理由は単純でした。
要は飛行機という乗り物そのものに安定性がなく、ともすれば
死にあまりにも近い、トゥー・デンジャラスな職種であったからです。

その危険を承知の上で、自らパイオニアになることを選んだ飛行士たちの多くは
自分のミスではない事故で、しばしば命を落としていきました。

 

アーノルドと一緒にパイロットの資格をとったペリーの曾孫ジョン・ロジャーズも
45歳の若さで機体が川に墜落して亡くなっていますし、彼の兵学校の同級生、
またライト航空スクールのパイロットも立て続けに墜落事故で死亡し、
彼自身も不時着事故を起こしたこともあって、この頃からアーノルドは
激しいPTSDを発症し始めています。

そしてついに訓練中海に墜落し、顎に裂傷を負うという大事故を起こしました。

きっと、もうダメ俺限界、という状態だったに違いない彼に、
陸軍から無情にも「その年の最も優れた軍事パイロット」を決める
マッケイ・トロフィーというコンテストに参加せよという命令が下ります。

命令とあっては拒否するわけにもいかず、出場した彼は見事優勝しました。

しかしその1ヶ月後、飛行中激しい乱気流に巻き込まれ、スピンに陥るも
機体をリカバーして立ち直り、死を免れるという経験をした彼は
着地するなり休暇を申請しています。

これはいわばマイルドな任務拒否というものでしたが、当時パイロットが
死と隣り合わせの危険な任務というのは共通認識だったため、
その点理解のあるアメリカ軍での申請は
あっさりと認められ、
その任務拒否を咎められることもありませんでした。

このあと彼は約3年間飛行任務に就かず、結婚して子供を設け、
大隊長の副官という任務でフィリピンに駐在していましたが、帰国後、
元同僚からの励ましを受け、4年間の間に急激発展した
シンプルな飛行制御システムを持つ安全なカーティスJNトレーナーで
1日15〜20分だけ空に上がり、結果、恐怖を克服し、2ヶ月後、
彼は再びJMA(ジュニア・ミリタリー・アビエイター)の資格を得ています。

 

1917年、第一次世界大戦にアメリカが参戦した時、彼は
フランスへの派遣を希望しましたが、航空セクションは
ヘッドクウォーターとしての彼は資格なしと判断したので、
その要請は聞き入れられませんでした。

彼の昇進は全体的に無茶苦茶で、1917年6月少佐に昇格、
2ヶ月後の8月に大佐に昇格したとおもったら1920年6月大尉に降格。
と思えば翌月7月にまた少佐に昇格という具合でした。

自分の階級がなんだったかわからなくなることもあったのでは、
というくらい上下動を繰り返しています。

1918年、やっぱりスマイリング

【ビリー・ミッチェル裁判】

ここでまた再び、あの独り十字軍、ビリー・ミッチェルのことを語らなくてはなりません。

陸海軍から航空を独立させようとするミッチェルの野望は、
当時の航空関係者を巻き込み、ある意味踏み絵を踏ませることになりました。

1918年5月20日、航空部隊は信号隊から分離されることがになりましたが、
あくまでも地上部隊の統制下にありました。

当時の戦争省参謀、野戦砲の将軍であったチャールズT.メノヘール少佐

「軍事航空は単に(軍隊)の武力以外の何物にもなり得ない」

という立場だったからです。
そしてメノヘールの後任になったのが「あの」メイソン・M・パトリックでした。

パトリックが59歳であるにもかかわらずパイロットの資格を取ったこともあって、
空軍の擁護者であり、独立空軍の支持者であったというのは前述の通りですが、
彼は単一の統一空軍を創立する(ついでに海軍を廃止する)という急進的な
航空サービス副局長のビリー・ミッチェルと頻繁に衝突せざるを得ませんでした。

アーノルドはというと、こちらは完璧にミッチェル支持派だったため、そのせいで
パトリックとの関係は最悪のものになり相互に嫌悪し合うことになります。

その後彼は、わたしがいつもサンフランシスコに滞在中散歩する(笑)
クリッシーフィールド飛行基地の司令となりますが、私生活では胃潰瘍、
左手の3本の指先の切断などの深刻な病気と事故を経験したうえ、
妻と息子にも深刻な健康問題が起こります。

息子ブルースを猩紅熱、4人目の子供ジョンを急性虫垂炎で亡くし、
アーノルドと妻のビーは喪失の痛みから立ち直るのにほぼ1年を要しました。

1924年、パトリックは犬猿の仲であるはずのアーノルドをなぜか抜擢し、
航空サービスの情報部門でミッチェルの補助につけました。

その後、ミッチェルが「シェナンドー」の事故について海軍を激しく非難し、
それが理由で軍法会議にかけられたとき、アーノルドはミッチェルを擁護すると
昇進に響くと警告されたにも関わらず、カール・スパーツ、アイラ・イーカーと共に
ミッチェルのために証言を行っています。

結局裁判でミッチェルは有罪判決を受けたわけですが、アーノルドらは
情報部のリソースを引き続き使用して、理解のある国会議員や航空部門各所に
ミッチェルに成り代わって航空群設立のための運動を行いました。

その報告を受けた戦争省がパトリックに犯人を見つけて懲戒するよう命じ、
すでにアーノルドらの活動について
知っていたパトリックは
代表(見せしめ?)としてアーノルドを呼び出しました。

「君たちのやっていることは上に筒抜けだ。
辞任するか、軍法会議で裁かれるかどちらかを選べ」

「それじゃ軍法会議で」(あっさり)

パトリックはその答えにたじろぎます。

一般世論ではミッチェルの裁判で彼を擁護する声が圧倒的に多く、
海軍上層部が裁判で負ける可能性もあると危惧したからです。

仕方がないのでパトリックはアーノルドを航空の主流からはずし、
第16観測飛行隊の指揮官に「左遷」することにしました。

報告書には

「アーノルドは陸軍の一般秩序に違反したとして懲戒処分を受けた」

と書かれていたようですが、すぐに彼はその評判を挽回しました。

彼自身の努力というより、時代がミッチェルの正しさを証明したからです。

 

 

このころ、一人息子を設けたばかりの彼は、少年向け小説を出版しています。

「ビル・ブルースシリーズ」

と名付けられた6冊の本は、少年たちに航空に興味を持たせる内容でした。

 

アーノルドの昇進はミッチェル事件があってしばらく止まっていましたが、
1931年に中佐となったあと、2度目のマッケイ・トロフィーを受賞したこともあり、
1935年には二階級特進していきなり准将、3年後に少将へと順調に出世しています。

航空分野で彼の世代に他にほとんど人がいなかったからという理由もあるでしょう。

 

【民間人虐殺の汚名〜第二次世界大戦】

1941年6月、日米開戦前に中将に昇進したアーノルドは、開戦後
1942年に組織されたアメリカ陸軍航空群の司令官に就任し、またもや
1年を待たずに大将に、1944年に陸軍元帥に昇進しました。

人がいないせいか、戦時ゆえに特進もありだったのかわかりませんが、
一つ確実なことは、空軍力が戦争遂行において最も重要なものになるという
ミッチェルの予言は間違っていなかったということであり、
アーノルドの出世によってミッチェルの無念も晴らされたということでもあります。


さて、日本の民間人居住地域を狙った米軍の都市空襲は、日本人にとって
カーチス・ルメイの名前と共に最悪の戦時記憶として残っているわけですが、
元々この大規模で継続的な空爆ならびに焼夷弾の使用を最初に言い出したのは、
ルメイではなくこのハップ・アーノルドでした。

彼は科学者から

「焼夷弾の使用についての人道的側面について勘案すると
その使用の決定は高レベルで行われなくてはならない」

という提言を受けていましたが、上層部に判断を問うことをせず、

「トワイライト計画」「マッターホルン作戦」

として立案し実行に移しています。

そして、ヘイウッド・ハンセル准将から実行指揮官をカーチス・ルメイに変えました。
ハンセルは戦後、自分の罷免は精密攻撃から無差別爆撃に変えるためだった、
と語っていますが、それが真実だったかはともかく、アーノルドは
ドレスデン爆撃についても

「ソフトになってはいけない。
戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」

と言い切り、また、東京空襲を行う部隊を前に、

「君たちが日本を攻撃する時に日本人に伝えてほしいメッセージがある。
そのメッセージを爆弾の腹に書いてほしい。
”日本の兵士たちめ。
私たちはパールハーバーを忘れはしない。
B29はそれを何度もお前たちに思い知らせるだろう。何度も何度も覚悟しろ”と」

と演説し、日記には

「アメリカでは日本人の蛮行が全く知られていない」

「ジャップを生かしておく気など全くない。
男だろうが女だろうがたとえ子供であろうともだ。
ガスを使ってでも火を使ってでも日本人という民族が
完全に駆除されるのであれば何を使ってもいいのだ」

などと書いています。
つまりバリバリの「タカ派」であり「差別主義者」であり「非人道主義者」です。

英語のwikiにさえ、

「彼は民間人を無差別に虐殺した汚名を後世に残すことになった。」

と書かれるほどの潔い「鬼畜」ぶりだったわけです。

 

「鬼畜ルメイ」はいわばアーノルドからの指令を受けて忠実にこれを実行しただけであり、
無差別爆撃そのものもルメイ就任前から計画されていたのに、なぜか日本では
アーノルドの鬼畜ぶりは実行指揮官のルメイほど有名にはなりませんでした。

いずれにせよこれらの発言が誰からも非難されることがなかったのは、
彼が
戦勝国の軍隊指揮官であったからにほかなりません。


そして、彼自身はこれだけ日本人への憎しみを顕にしながら、空襲をむしろ

「人道的な攻撃」

と言い張っていたという説があります。

これも原爆投下と同じ、第一次世界大戦時に生まれたロジックで
徹底的な継続した破壊を与えることによって終戦が早まる、という理屈です。

東京空襲自体、ましてや日本人の命について人道的に配慮するなどということは
彼の思考には一切なく、つまるところ関心事はただひとつ、
戦争を空爆の力で終わらせて、

「独立した空軍の設立という悲願を達成する」

ことしかなかったのではないかと思われます。

彼は1946年、兼ねてから心臓発作で体の調子を崩していたこともあって、
陸軍元帥として退役しましたが、翌年、陸軍航空軍は独立して
アメリカ空軍となったため、アーノルドは議会によって最初にして唯一の
空軍元帥に昇格という名誉を与えられました。

 

コロラドスプリングスにある空軍士官学校の広場中央には、
地球儀を持ち、日本を指差しているアーノルドの像があります。

後編~空軍士官学校コロラドスプリングスでの学び(アメリカ南西部 ...

「女子供でも日本人なら全て殺せ」

というときでさえ、穏やかに微笑んでいる「ハップ」アーノルド元帥。

空軍元帥になって3年後、彼は63歳で他界しましたが、おそらくは
ミッチェルから引き継いだ空軍創設の悲願を達成し、心から満足しつつ、
その名の通り「
ハッピーに」微笑みながら逝ったのではないかと思われます。

 

 

続く。

 

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第一次世界大戦 ”初めて”のパイロットたち(おまけ:ラフベリーとライオン) 〜スミソニアン航空博物館

2020-11-04 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の第一次世界大戦当時の軍用機、
ことにエースに焦点を当てた展示から、リヒトホーフェン以外の
当時の飛行家、マックス・インメルマンやことにオスヴァルト・ベルケという
航空史において創始者となった人物の名前を知ることになりました。

今日は、当時アメリカから参加した戦闘機隊や、
ヨーロッパの航空隊に参加したアメリカ人飛行士たちをご紹介します。

■ ”初めて”のパイロットたち

ステファン・トンプソン
Stephern W. Thompson 1894-1977

がミズーリ大学を卒業後、
アメリカ陸軍沿岸砲兵隊U.S. Coast Artillery Corps
に参加したのは1917年のことでした。
すぐに陸軍航空隊の通信部門に転属した彼は、偵察員として
フランスの第一航空部隊で訓練を受けます。

1918年、フランスの爆撃隊の飛行場を訪問していたトンプソンは
病気で休んでいたフランス人の偵察員兼射手の代わりに
爆撃機に乗ってくれないかと誘われて搭乗。

任務から帰投する途中、ドイツ軍の戦闘機が現れ、トンプソンは
そのうち1機を撃墜し、アメリカ軍の制服を着たアメリカ軍人として
初めて公式に「航空勝利」が公式にクレジットされることになりました。

その年の7月の空戦で、彼のサルムソン2A2は、
「リヒトホーフェン・サーカス」フォッカー eD.VIIに攻撃されました。

トンプソンは機を撃墜しましたが、3機目の弾丸が彼の機関銃を破壊し、
彼の脚に当たりました。
彼の機のパイロットは胃に弾丸を受けましたが、
亡くなる前になんとか飛行機を墜落させ、トンプソンは命を救われました。

 彼らを撃墜したパイロットは有名なドイツのエース、
エーリッヒ・レーヴェンハートErich Loewenhardt ( 1897 – 1918) です 。

絶対ナル入ってる

トンプソンがアルバトロスD.IIIを撃墜したときに着用していた飛行服と
彼の脚から取り出された弾丸は、米国空軍国立博物館に展示されています。 


Fallen World War I Aviator Gets Posthumous Distinguished Flying ...

ジェームズ・ミラー大尉   James Miller 

ジェームズ・ミラー大尉は、米軍の最初の飛行士であり、
第一次世界大戦で最初の米航空の犠牲者となった人物です。

イエール大学卒で成功したニューヨークの投資家だったミラーは、
(道理で着ている服がゴーヂャスだと思った)
1300におよぶ著名な事業に参入していたプロフェッショナルで、
新聞に「ミリオネアー・ルーキー」などと書かれながら、
1915年、軍事科学の勉強をニューヨークのプラッツバーグキャンプで開始し、
その年の後半にはやはり飛行士だった米国鉄鋼社のエグゼクティブ、で弁護士、
レイナル・ボリング (Raynal Bolling )とともに、ニューヨーク州兵の
初の航空製造会社の立ち上げを行っています。

1918年2月、ミラー大尉は最初のアメリカ人戦闘機パイロットを組織した
第95航空団に配属されて前線に赴きますが、翌3月、
彼は空戦に巻き込まれ、アメリカ人飛行士として初めて戦死しました。

ボリング大佐

ちなみに、レイナル・ボリングもハーヴァードロースクール出身の弁護士で、
また裕福な出の実業家でありながら飛行士となった人物です。
ヨーロッパ戦線に赴き、車で移動中ドイツ軍と遭遇し、射殺されました。

ボリングの死はミラーの1ヶ月後で、奇しくもこの二人の実業家は
アメリカ人として初めて空と地上で戦死したということになります。

 

■ラファイエット航空隊とラフベリー軍曹

ジェルヴェ・ラウル・ヴィクター・ラフベリー
Gervais Raoul  Victor Lufbery(1885-1918)

 

この人の写真を当ブログであげるのは3回目となります。
次のコーナーでは

ラファイエット航空隊

の紹介がされているので、フレンチーアメリカンの飛行士である
このラフベリー軍曹の写真が登場しているのです。

この写真で彼は軍服にフランス政府から授与されたレジオンドヌール勲章、
軍事メダル、そしてクロワ・ド・ゲール、十字勲章を付けています。

ラフベリー軍曹はパリのチョコレート工場で働いていたアメリカ人化学者の父と、
フランス人の女性の間に生まれましたが、1歳で母を亡くし、
フランスで母方の祖母に育てられました。

17歳になると彼は放浪の旅を経て父の国アメリカに辿り着き、
陸軍に在籍した後はインド、日本、中国に任務で赴任しています。

フランスの航空会社の整備士として働いていた彼は、
知人がパイロットとして戦死したのをきっかけに訓練を始めます。

訓練中、彼は同僚のパイロットから整備士上がりであることを理由に
ずいぶんいじめを受けたようですが、整備士ならではの忍耐と
機体を熟知し、細部にまで注意を払いそれを飛行に生かすというスタイルで
エースパイロットになることができました。

1916年、アメリカの有志が、フランスの対ドイツ戦を支援するために

「エスカドリーユ・アメリカ」(アメリカ戦隊)

という派遣部隊を結成することを決めました。
この名前は、ドイツから「中立性の違反にあたる」と激しい抗議を受け、
すぐに

「エスカドリーユ・ラファイエット」(ラファイエット戦闘機隊)

と改名されています。
戦隊は、ほとんど飛行経験のない上流階級のアメリカ人で構成されていました。

ここで思い出していただきたいのが、当ブログで以前ご紹介した

フライボーイズ(FLYBOYS)

という映画です。

主人公はジャン・フランコ。

フランス人大佐にジャン・レノという一点豪華主義配役の映画でしたが、



これ、ラファイエット航空隊がモデルなんですね。

で、ドイツ軍の通称ブラックファルコンといういかにも悪そうな奴と
空戦してやられてしまうエースのキャシディ大尉は、
ラフベリー大尉をモデルにしていると考えられます。

主人公のフランコも落ちこぼれっぽい青年でしたし、
銀行強盗したこともあるやつが混じっているあたり、
「上流階級から選ばれていた」という史実に反しますが。

ラフベリーは航空経験を持つアメリカ市民として採用されましたが、
ユニットメンバーとの出会いは決してスムーズだったとは言えませんでした。

労働階級出身の彼の英語には強いフランスなまりがあり、さらに仲間のほとんどは
裕福な家の出身で、全員がアイビーリーグで教育を受けたエリートばかり。
共通点は何ひとつありません。

しかし、戦闘に入ると、たちまち彼は仲間の尊敬と称賛を受けるようになります。

 ある日仲間のパイロットがライオンの仔を購入しました。
ウィスキーを皿に入れて飲むのが好きだったとかで、(!)
「ウィスキー」と名付けられたこのライオンを、ラフベリーは数年間育てました。

 ウィスキーがガールフレンドを必要としていると思われた頃、
たまたま「ソーダ」という名前のメスライオンがやってきました。

(彼は追加でライオンを買ったわけですが、当時のフランスというのは
アフリカからの船で野生動物なんかをバンバン輸入していたようです。

今でもフランスの動物園に行くとその名残が見られます。
決して大きくない動物園にキリンが1ダースいたりとか、ゾウガメがたくさんいたりとか。
当時はさぞや掴み取り取り放題で動物を獲ってたんでしょう)

ソーダはウイスキーよりもはるかに野性的で、人に慣れず、それどころか
隙あらば人に襲いかかる気満々だったのですが、ラフベリーにだけは懐いていました。

最後までウィスキーはペットの犬のようにラフベリーの後をついて回っていましたが、
 彼が亡き後、ペアは自動的にパリ動物園に連れて行かれたということです。

ラファイエット航空隊のメンバーが集合写真を撮ろうとしていたところ、
ウィスキーがやってきてラフベリーにすりすりを始めてしまったので、
写真が撮れないだけでなく、みんなちょっと引いているの図。

 

ラフベリーはラファイエット航空隊で17機の撃墜記録を立て、
エースになりました。

1918年5月19日、ニューポール28で出撃した彼が
攻撃のため敵機に近づいたとき、ドイツの砲手が発砲しました。

 高度が200から600フィートの間を下降している時、
ラフベリーは飛行機から飛び出し、落下した彼の体は、民家の庭の
金属製のピケットフェンスに突き刺さったと言われています。

ラフベリーはフランスにある飛行士墓地に軍の名誉をもって葬られ、
後にパリのラファイエット・メモリアルに運ばれあらためて埋葬されました。

彼の公式撃墜数は17機ですが、彼の仲間のパイロットは、
25機から60機は未確認撃墜をしている、と証言しています。

彼もまた、フランス系アメリカ人として初めてのエースとなりました。

ラファイエット航空隊のパイロット、
エドウィン・パーソンズが着用していた「ケピ」という
フランス軍独特の帽子。

金糸のブレード飾りがフランスらしく粋です。

冒頭の航空機は、ウドヴァー・ヘイジー(別館)にある

ニューポール Nieuport 28C.

です。

著名なフランスの航空機メーカー、

ソシエテ・アノニム・デ・エスタブリセメンツ・ニューポート

は1909年に設立され、第一次世界大戦前に
一連のエレガントな単葉機のデザインで有名になりました。

会社の同名のエドゥアール・ド・ニューポールと彼の弟シャルルは、
どちらも戦前に飛行機事故で死亡しています。

才能のある設計者のギュスターヴ・ドラージュは1914年に会社に加わり、
セスキプラン・Vストラット単座偵察機の非常に成功し、戦時に
ニューポール11とニューポール17は最も有名な飛行機となりました。

ニューポール28C.1は1917年半ばに開発されました。

ニューポールが製造した最初の複葉戦闘機の設計で、上下翼の弦がほぼ同じです。
スパッドVIIとそのころ発表されたスパッドXIIIの優れた性能と競合するために、
セスキプランシリーズで採用されているタイプよりも強力なモーターの使用を検討しました。

より強力で重い160馬力のGnôme製ロータリーエンジンが利用可能になったことで、
下翼の表面積を増やして新しいエンジンのより大きな重量を補うという決定が促され、
典型的なニューポートセスキプレーンVストラット仕様は廃止されました。

1918年の初めごろのフランスの航空界は、より新しい、より先進的な
スパッドXIIIを愛好する派が多かったため、彼らは新しいニューポールデザインを
最前線の戦闘機として使用することを実質拒否していました。

しかし、ニューポール28は新しい「居場所」を得たのです。
それは大西洋の向こうから到着したアメリカの飛行隊でした。

自国に独自の適切な戦闘機がなかったため、米国は、
需要の多いスパッド XIIIをフランスから入手できるようになる前に、
一時的措置としてニューポール28を採用しました。

ニューポール28は、
アメリカ遠征軍=「駆け出しのUSエアサービス」
の最初の運用機として、信じられないほどの性能を発揮することになります。

全米航空コレクションにおけるニューポール28の主な重要性とは、
アメリカの指揮下にあり、米軍を支援するアメリカの戦闘機と一緒に戦う
最初の戦闘機であったということでしょう。

また、アメリカ軍部隊で空中勝利を収めた最初のタイプでもありました。

1918年4月14日、ニューポール28を操縦する第94航空飛行隊の
アラン・ウィンスロー中尉とダグラス・キャンベルは、
それぞれゲンゴール飛行場で直接行われた空戦で敵機を撃墜しています。



続く。

 

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「航空戦術の父」第一次世界大戦のエース・オスヴァルト・ベルケ

2020-11-02 | 飛行家列伝

            

スミソニアン博物館の「第一次世界大戦のエース」のコーナーで
ドイツ空軍に最初に登場したエースの一人、
オスヴァルト・ベルケ ( Oswald Boelcke 1891-1916)について書きましたが、
エースとしてではなく、その後の空中戦術の基礎を築いた戦術家であり、
教育者としての面を持つ彼に興味を持ったので、あらためて語りたいと思います。

■ 幼少期

オスヴァルト・ベルケは、ザクセン州の学校長の息子として生まれました。
彼の姓はもともと「Bölcke」という綴りですが、彼はウムラウトを省略し、
ラテン語式の綴りを採用していました。

ベルケは3歳のときに百日咳にかかったせいで終生喘息体質でしたが、
運動神経はよく、成長すると陸上競技に目を向けました。

ベルケの家族は保守的な考えを持っており、 軍の経歴が
いわゆる上級国民への近道だと信じていたということもあって、
ベルケは若い頃から熱烈な軍人志望でした。

結局士官学校にはいきませんでしたが、ギムナジウムに通っていた17歳のとき、
彼は「ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト将軍の軍事改革」
「フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵の航空実験前の人生」
そして「初の飛行船の飛行」という3つの科目を選んでいます。

 

■ 空への興味と個人的特性

ベルケの身長は170センチくらいで、ドイツ人としては短身でしたが、
肩幅が広くバランスの良い体格をしており、
なにより敏捷性と「無尽蔵の強さ」を備えていました。 

学校での彼は級友などとはもちろん、教師ともうまく付き合い、
率直で親しみやすい態度のため人から好かれる生徒だったようです。

ブロンドの髪、濃い青い目の彼は、誰にとっても印象的な少年でした。
当時を知る者は、運動能力もさることながら、彼が数学と物理学に
大変熱心で優れていたと述べています。

彼はサッカーやテニスに興じ、スケートをしたり、踊るのも好き。
とにかく運動にかけては何をやらせても群を抜いていて、
学校一の運動神経の持ち主だった彼ですが、水泳とダイビングは
大会での受賞歴を持っており、17歳のときにはアルピニストにもなっています。

カリスマ性のある彼は競技場で人気のリーダーでした。

しかし、決して脳筋などではなく、読書にも親しみ、
民族主義作家のハインリッヒ・フォン・トライチュケを愛読していました。

トライチュケは反ユダヤ主義の論陣を張る思想の旗頭だったので、
ベルケも当然同じ考えだった可能性は大いにあります。

後世の歴史家が、彼はナチスとかかわらずに死んだことを
強調しているようですが、もし彼がもう少し長生きしていたら
ナチスの思想に傾倒していた可能性はあるのではないかと思います。


人生の早くからベルケはこんなことを言っています。

「自然に振る舞い、尊大な上司を演じたりしなければ、
部下たちの信頼を勝ち取ることができる」 



彼はマンフレッド・フォン・リヒトホーフェンの師でもありました。
彼はベルケについて次のようにコメントしています。

「ベルケには個人的な敵はいませんでした。
誰にでも礼儀正しく、人によって態度を変えることをしませんでした」

その謙虚な姿勢は、生涯変わることはなく、戦闘パイロットとして
成功の秘訣を尋ねられた彼は

「対戦相手のヘルメットにゴーグルストラップが見えたときだけ発砲します」

と述べています。

■ 兵役への参入

学校卒業後の1911年、ベルケは電信大隊に士官候補生として加わり、
翌年彼はクリーグシューレ (陸軍士官学校)に通い始めました。

学生時代の彼は、クラスの休みを利用して空いた時間を
いつも近くの飛行場で飛行機を見て過ごしていました。

陸士の彼の卒業時の成績はおおむね良で、とくに
リーダーシップスキルは「優秀」と見なされていました。 

1912年7月に彼は卒業し、同時に任官するわけですが、
電信兵を訓練する毎日のルーチンをこなしながら、このころの生活は

「素敵で、陽気で、活発な生活」

に費やされ、青春を謳歌したようです。

そのころ、彼はフランスの曲べき飛行の先駆者である
アドルフ・ペグードによるパフォーマンスを目撃しています。

1914年、彼は将校だけで行われるスポーツ大会で五種競技選手として
三位を獲得し、1916年に行われる予定だったベルリンオリンピックの出場権を得ています。

この年のオリンピックは第一次世界大戦勃発のため中止になりました。

 

■ 第一次世界大戦

1914年、彼は家族に何も知らせずに空挺部隊への移動を申請しましたが、
なぜかパイロット過程に受け入れられることになり、資格試験に合格しました。

そして第一次世界大戦が8月4日に始まります。

出陣を待ち望んでいたベルケは、兄のヴィルヘルムと一緒の飛行隊に入り、
兄弟で出撃しまくって、他の搭乗員よりも頻繁に長い飛行時間を記録したため、
それは部隊内にいくらかの恨みを引き起こしていたといいます。

天候が悪化し、対抗する軍隊の活動が塹壕戦に停滞し始めたときでさえ、
二人のベルケは全くお構いなしに出撃して飛びまくりました。

その後着任した指揮官は、兄弟を別の航空隊に引き離そうとしますが、
彼らは別々に飛ぶことを拒否し、上に直訴したりして大騒ぎしました(笑)
しかし最終的にそれを承諾し、離れ離れになっています。

兄と別れた弟ベルケはフランスに派遣されました。 
新しいユニットで彼はすでに最も経験豊富なパイロットでした。

この任務は彼にマックス・インメルマンとの友情をもたらすことになります。

 

このころ、フランスのギルベール、ペグードなどの戦闘機パイロットが
「ラズ」またはエースと称賛されるようになってきます。
聴衆にとって、孤独な空の英雄のシンプルな物語は大きな魅力を持っていました。

戦争が進むにつれて、各国政府はそれを大いに利用するようになります。
彼らは新聞や雑誌にプレスリリースを提供し、
人気のある飛行士の写真がプロマイドや葉書になりました。

Oswald Boelcke - Wikipediaベルケの葉書

ベルケとインメルマンはこのころしばしば一緒に飛行しています。
それは 古典的なウィングマンの動きで、互いに補完し合うチーム戦術が
このときに完成を見たと考えられます。


■ エース競争

1915年9月、 ベルケとインメルマンはそれぞれ2機撃墜しました。
不世出のパイロット二人の間に「撃墜競争」が始まります。

 

このころ、フランスの地元の人々が運河に突き出した橋で
釣りをしているのをベルケが飛行中の機上から見ていると、

10代の少年が桟橋から落水しました。

彼はすぐに急降下し、飛び込んで子供を溺死から救っています。
観ていたフランス人たちが皆で彼の勇気をたたえましたが、彼は
ただ濡れた制服のままで恥ずかしそうにしていました。

1915年の終わりまでに、インメルマンは7回、 ベルケは6回勝利を上げました。

 

1916年1月5日、ベルケはイギリス王立航空機BE.2を撃墜。

このとき墜落した機の近くに着陸すると、パイロット二人は生きていて、
彼らはドイツ語を話せる上、ベルケのことを知っていたので、
ベルケは偵察飛行士たちを病院に連れて行ってやっています。

その後、彼は読み物などを持って病院に彼らを見舞いましたが、
彼はすでに当時有名人だったので、このことは新聞の一面で報じられました。


1月12日、ベルケとインメルマンは同じ日に8機目を撃墜し、
ドイツ帝国で最も権威のあるプール・ル・メリテが受賞されることになりました。
インメルマンが受賞したことから「ブルーマックス」と呼ばれるようになった
勲章です。

ベルケは今や国内外で有名になり、うっかり繁華街を歩いたり
オペラを観ることもできなくなりました。


将軍や貴族まで若い中尉と知己を得るのに夢中になり、
皇太子の友人までができました。

1916年、ベルケはフォッカーアインデッカー試作機の評価を任されました。
彼は、銃の取り付けが不正確であり、エンジンにも限界がある、
と客観的に欠点を指摘し、これを ドイツの空軍が使用するのは
「惨め」なことだと痛烈に批判した覚書を提出しています。

3月12日、ベルケは10勝目を挙げました。
次の日、インメルマンが11勝目を上げて デッドヒートは一週間続きましたが、
結局勝利数12でベルケが上回っています。

 ベルケが1916年5月21日に2機の敵機を撃墜したとき、
皇帝は大尉への昇進は30歳以上とする軍の規制を無視して
25歳と10日のベルケを昇進させました。
彼はドイツで最年少の大尉となっています。

■ エース競争の終焉

エース競争は1916年6月18日終止符が打たれました。
ライバル、インメルマンが17回目の勝利の後に戦死したのです。

当時18勝していたベルケは、たった一人のエースになりました。

立て続けにエースを失うことを懸念した皇帝ヴィルヘルム2世は、
ベルケに1か月間待機するように命じました。
自粛の通達が出る前に、ベルケは19機目を撃墜しています。 

ベルケは飛行停止に大いに不満でしたが、この期間を利用して
彼は経験から有効な戦術と作戦を明文化することにしました。

いわゆるDicta Boelcke(ディクタ・ベルケ)です。

 以前このディクタを当ブログに掲載したときお読みになった方は
その8つの格言は当たり前すぎて当然であるように思われたかもしれませんが、
 ベルケが言葉にする前には全く未知の理論だったのです。

ディクタは、その後戦闘機の戦術に関するオリジナルのト訓練マニュアルとして
広くパンフレットで公開されました。

 

■ リヒトホーフェン

中央、リヒトホーフェンとベルケ。

1916年、ベルケは新しく編成された航空隊の指揮官に任命されました。
自らパイロットの人選を行い、2人のパイロットを採用しましたが、
その一人が若い騎兵士官、 マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンでした。

    

ベルケのFokker D.III戦闘機です。
彼はこの飛行機で1916年8回勝利を納めました。

 9月2日、 ベルケは20勝利目となるR・E・ウィルソン大尉機を撃墜しました。
翌日彼はウィルソンが捕虜になる前に、彼を客としてもてなしています。

 

新基地では施設が建設され、パイロットの訓練が始まりました。
ベルケが指導者としての資質をはっきりと表したのはこのときです。
機関銃の発射とトラブル回避などの地上訓練、また、航空機の認識、
敵国航空機の強みと欠陥について、生徒たちはベルケから講義を受けました。 

ベルケは彼の生徒たち自分が得た戦術をもとに訓練しました。
リーダーとウィングマンをペアリングすること、
部隊でフォーメーションを作り飛行することなどです。

空戦になると彼らはペアに分かれましたが、隊長機は戦闘を控え、
全体を俯瞰することなどもベルケの教えでした。

■ 戦闘

部隊に新しい戦闘機が到着しました。
ベルケのためのアルバトロスD.IIと、5機のアルバトロスD.Iです。

この新型機は以前のドイツ機や敵の航空機よりも優れていました。
強力なエンジンによりより速く、より高速で上昇できるうえ、
機銃を二丁搭載していました。

新型機による初めての空戦で ベルケは27機目を撃ち落とし、
彼の部下たちも4機を撃墜するなど絶好調でした。

出撃前にブリーフィングを綿密に行い、その結果出撃命令が出され、
帰投後は飛行報告をするのもベルケから始まった航空隊の慣習です。

このころのベルケは出撃ごとに必ず撃墜数を伸ばしていましたが、
小さい時に肺を患って以降持病の喘息に悩まされていました。
天候が悪くなると彼の喘息は悪化し、時として飛行もできないほどでした。

 

■ 最後の任務

10月27日の夜、ベルケは見るからに疲れて意気消沈した様子でした。

彼は食堂での大騒ぎについて従兵(batman)に不平を言い、
それから暖炉の前に座って火を見つめていたといいます。

ウィングマンの一人ベームが彼に話しかけ、
二人はその後長い間いろいろなことを語り合っていました。

翌日は霧がかかっていましたが、中隊は午前中に4つのミッションをこなし、
午後にも飛行任務に出撃しました。

この日6回目のミッションで、ベルケと5人のパイロットが、
第24飛行隊RFCの編隊と交戦になり、 ベルケとベームは
アーサー・ジェラルド・ナイト大尉エアコDH.2を追いかけ、
一方、リヒトホーフェンはアルフレッド・エドウィン・マッケイ大尉
DH.2を追いかけていました。

マッケイはナイトの後ろを横断し、ベルケとベームを間において
リヒトホーフェンを回避する策をとったため、彼らは二人とも
マッケイとの衝突を避けるために飛行機を上昇させました。

不幸だったのは、そのとき航空機の翼によって互いが見えず、
どちらも相手の存在に気がついていなかったことです。

ベームとベルケの機体は接触し、ベルケのアルバトロスの翼の生地が裂け、
揚力を失った機は螺旋を描きながら墜落していきました。

墜落直後の彼はまだ生きているかのように見えたそうですが、
彼はヘルメットを着用しておらず、安全ベルトも締めていなかったため、
頭蓋骨を骨折しており、まもなく死亡しました。

基地に戻った時のベームは恐怖と後悔で半狂乱になるほど取り乱しており、
着陸に失敗して機体を横転させて負傷しました。

彼はのちに

「運命というのは大抵最悪の馬鹿げた結論が選択されるものだ」

と嘆いています。
公式の調査では、ベルケの墜落は彼の過失による事故ではないとされました。

ベームの着陸の失敗については、負傷の苦痛で心の傷を覆い隠し、
また、自らを罰しようとする気持ちが働いたのではとも言われました。

 

■ 追悼

中隊の搭乗員たちは、ベルケがまだ生きていることを期待して
機体が墜落した陸軍砲兵の駐留地に急ぎましたが、
砲手たちはすでに冷たくなったもの言わぬベルケの体を彼らに手渡しました。

ベルケはプロテスタントでしたが、現地での追悼式は二日後の10月31日に
カトリックのカンブレ大聖堂で行われました。

届けられた多くの花輪の中に、彼と交戦したウィルソン大尉と
捕虜となっていた搭乗員の3人からのものがあり、そのリボンには

「私たちが高く評価し尊敬している対戦相手に」

と記されていました。

また、特別な許可によって、告別式の最中、王立飛行隊が
空中から花輪を墓地に投下していきました。
その花輪には

「勇敢な英雄である対戦相手、ベルケ大尉の記憶に」

と書いてあったといいます。


葬列が大聖堂を離れると、リヒトホーフェンは棺に先行し、
黒いベルベットのクッションにベルケの勲章を飾りました。

棺桶が銃を運ぶための砲車の上に置かれた瞬間、太陽の光が雲を突き抜け、
英雄の死を顕彰する飛行機が墓地の上空を通過しました。

特別に用意された汽車まで運ばれる棺はカラーガードに守られ、
弔銃発射と敬礼の中、賛美歌が響き渡るのでした。

翌日、棺は彼の母教会であるセントジョンズに運ばれました。
そこで祭壇の前の彼の棺にはオナーガードが付き添っっていました。

ヨーロッパ中の王室や後続からからお悔やみ、オナーメダルが殺到しました。
11月2日の午後の葬儀に出席したのはほとんどが王族、将軍、貴族ででした。


■ レガシー

ベルケは空対空戦闘戦術、戦闘飛行隊編成、早期警戒システムを発明した
ドイツ空軍の先駆者と見なされ、 「空戦の父」と呼ばれています。

彼の最初の勝利以降、その成功のニュースは国中の模範でした。
帝国ドイツ空軍が空中戦術を教えるためのスタシューレ (戦闘学校)
を設立したのは彼の提言によるものですし、

「ディクタベルケ」の公布は、ドイツの戦闘機の戦術を基礎付けました。

西部戦線で当初ドイツの航空権を獲得したのは彼の功績によるものと言われます。

第二航空中隊は 、「ヤークトシュタッフェル・ベルケJagdstaffel Boelcke」
と改名され、彼の死後もドイツの最高の戦闘飛行隊の1つであり続けました。

 

ベルケが面接して隊員にした最初の15人のパイロットのうち、
8人がエースになり、全員が戦闘指揮官になり、
そのうち4名のエースは第二次世界大戦中に将軍になっています。

ベルケの最初の「パイロット名簿」で最も成功した、レッドバロン、
マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンは、ベルケに倣って
「リヒトホーフェン・ディクタ」を制作しました。

彼の作戦戦術マニュアルの冒頭の文章は、ベルケに捧げられています。

 

「ベルケは、ナチスが設立される前に戦死したため、
ナチの大義との関係によって傷つけられなかった
第一次世界大戦の数少ないドイツの英雄の1人だった」

と言われます。
しかし彼の愛読書から推察して、早くに死んだことは彼にとって
幸いなことだったとわたしには思われます。(意味深)

ただ、第三帝国は死後の彼の名声を放っておいてはくれず、
ドイツ空軍の中型爆撃機部隊に彼の名前が付けられました。

彼にちなんで名付けられたドイツ空軍の兵舎は、皮肉にも
後に ミッテルバウ・ドーラ強制収容所の予備キャンプになっています。

■ 今に生きるベルケ

彼の名前は、現在のドイツ空軍の第31戦闘爆撃航空団の紋章に記載されています。
隊員は毎年命日にベルケの墓への参拝を行っています。

Taktisches Luftwaffengeschwader 31 - Wikipedia

ネルフェニッヒ空軍基地飛行場でも彼の名は記念されています。

基地建物の壁画、ホールに肖像写真、そして本部入口に胸像があります。
隊内雑誌の名前は「ベルケ」。

飛行機尾部には、彼の名前とフォッカーの絵が描かれています。

ディクタ・ベルケは、時間の経過しても決して廃れず、
世界中の空軍向けの戦術、技法、およびマニュアルなど広く応用されてきました。

米国合同参謀本部 (JCS)、米国海軍(USN)、米国空軍(USAF)には、
ディクタ・ベルケをベースにしたそれぞれ独自の航空戦術マニュアルがあり、
北大西洋条約機構 (NATO)の後援組織であるUSAFには、
ディクタ・ベルケの末裔となる航空戦術マニュアルが存在します。

そこではドイツ、オランダ、ノルウェー、トルコ、イタリア、
ギリシャの戦闘パイロットが今日もそのディクタを受け継いでいるのです。

 

 

 

 

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ヘイゼル・イン・リー〜航空名誉殿堂入りした中国系女性

2019-01-29 | 飛行家列伝

メア・アイランド海軍工廠跡にある博物館の展示を見ていて、
海軍工廠に関係のある女性について紹介するコーナーに、

マギー・ジー(Maggie Gee )

という中国系女性パイロットの写真を見つけました。

大戦中、女性ばかりのパイロットサービス部隊、WASPがありました。
WASPの設立については、

ジャクリーヌ・コクランナンシー・ハークネス・ラブ

という二人の女性パイロットが立ち上げに関わった、ということを
このブログでもお話したことがあります。

そのWASPには二人の中国系女性パイロットがいました。

その一人がここで紹介されているマギー・ジーです。

ここに書いてあることをご紹介すると、彼女はカリフォルニア生まれ。
カリフォルニア大学バークレー校を卒業し、物理学者として
ローレンス・リバモア国立研究所に勤め、晩年は政治にも関わったようです。

バークレー大学在籍中にここメア・アイランドで製図を手伝っていた彼女は、
さらなる刺激をWASPに求めた、とあります。

製図課にいた二人の同僚と一緒にお金を貯めて飛行機のレッスンを受け、
ラスベガスに送られてからは、戦地から帰ってきた男性に
計器飛行証明(Instrumental Rating)を取らせるための教官をしていました。

計器飛行とはご存知のように計器だけを頼りに操縦することです。

「力が与えられた、という気がしました。
女性が自分自身で生きていける自身が与えられたというか」

彼女は戦争についてこう語っています。

「男性に依存する必要がないんですから。
もちろん主婦になるというのも立派な仕事ですが。
社会に出た女性も男性の補助に過ぎないと感じずにすんだのよ」

WW II WASP Pilot Maggie Gee

彼女の亡くなる前のインタビューがありました。

ちなみに右側の写真の女性二人ですが、マギーとは関係ありません。

これはメア・アイランドでの進水式の一コマ。

ミセス・エマ・ヤムは「出資者」。
ミセス・リリー・チンは「マトロン・オブ・オナー」、すなわち、
進水式でシャンパンを破る光栄を担ったということになります。


そして、WASPにはもう一人、中国系アメリカ人女性がいました。
マギー・ジーと同じくアメリカ生まれの

ヘイゼル・イン・リー(李月英)

で、本日冒頭イラストに描いたパイロットです。

彼女はオレゴン州ポートランドで、移民の家庭に生まれ、
広東省からきたという父親はアメリカで商売をしていました。

当時は中国人に対する人種差別も公然と行われていましたが、
彼女は7人の兄妹と共に、幸せな子供時代を送ったようです。

活発だった彼女は水泳やハンドボールに興じ、10代ですでに運転ができました。
おそらく、彼女の父の商売はうまくいっていて、裕福だったのでしょう。

1929年に、彼女は高校を卒業し、ポートランドのダウンタウンにあるデパート、
リーベスでエレベーターガールの仕事を始めました。
エレベーターガールは、この時代中国系アメリカ人の女性が持つことのできる
数少ない仕事の一つだったのです。

1932年、彼女は友人と行った航空ショーで初めて飛行機に乗り、
それ以来空を飛ぶことの魅力に取り憑かれるようになります。

当時、パイロットそのものが少なく、さらにその中の女性となると
わずか1%未満、有色人種となると一人いるかいないかでした。

ポートランドには中国系が経営していた飛行クラブがあったので、
彼女はそこに入会して、有名な男性飛行士に訓練を受けました。

彼女の母親はもちろん娘が飛行機に乗ることに大反対でしたが、
彼女の妹、フランシスによると

「姉は飛ばなければならなかったのです。
それは、彼女が何よりも好きになったことだったから。
中国系女子が誰もやったことのない危険を楽しんでいたのです」

そして1932年10月、ヘイゼルはパイロットの免許を取得した
初めての中国系アメリカ人女性の一人になりました。

飛行機の操縦という大胆なスポーツに参加することで、
彼女や他の中国系女性は、大人しく受け身という自らのステレオタイプを壊し、
男性優位の分野で競争するだけの能力があることをを証明したのです。

彼女はポートランドで、将来の夫である "クリフォード"・イム・クンに会いました。

 

マギー・ジーはアメリカ生まれですが、二世によくあるように、
父母の祖国である中国には当初帰属意識はなかったようです。

彼女の中国に対する愛国心が燃え上がったのはウィキによると1933年、

「日本が中国に侵攻した」

というニュースを知ったから、となっていますが、
満州国の成立を指しているのでしょうか。

とにかく彼女は、いてもたってもいられなくなり(たぶん)
パイロットとして中国空軍に加わるため、中国に向かいました。

しかしもちろん当時女性操縦士が入隊することは不可能。
挫折した彼女は広東に住んで、数年間は民間航空会社の操縦士をしていました。
もちろん当時、彼女は中国における非常に少数の女性パイロットの1人でした。

1937年に、盧溝橋事件が起き、日中戦争が激化します。

(彼女についてのWikipediaを製作しているのは
まず間違いなく中華系アメリカ人などであろうと思われるのですが、
日中戦争について『日本が侵略』『日本人に人々が殺され』など、
感情的な書き方がされているので、正直あまり気分が良くありません。

中国空軍の空爆によって民間人に多大な犠牲者が出たこと、通州事件、
蒋介石の漢奸狩り、大山事件、そんなことをいちいち書けとは言いませんが、
戦争なのでお互い色々あったということを少しは考えて欲しいです)

 

さらに、彼女はここで友人たちのために避難所を探し、おかげで
彼女の知人は全て爆撃から生き残った、などと言う友人の証言が
あったりして、そりゃ本当によかったねって感じです。(投げやり)

彼女はもう一度中国空軍に参加する努力をするのですが、失敗します。

ってかもう諦めろよ。女は載せない戦闘機って歌もあっただろうが。

なので香港経由でニューヨークに逃れ、中国政府のために
軍需資材(ウォー・マテリアル)の買い付けを行い祖国に奉仕?しました。

 

そうこうしているうちに真珠湾攻撃が起こりました。

ここでも「それによってアメリカは第二次世界大戦に引き込まれた」
と被害者目線で書いてありますが、相変わらず中国戦線の
フライングタイガースのことには全く触れておりません。

最近のアメリカの博物館は極めて中立な視点から、真珠湾攻撃についても
両国が利益を求めてぶつかった、というような描き方の元に、
特攻についてもリスペクトした紹介を行なっているところが多いと感じますが、
もちろんそうでない考え方のアメリカ人もいるってことです。

特に最近は、どうでもいいような博物館展示にも、よくよく見ると
中国系の入れ知恵的解釈が加えられ、日本を貶め、中国をアメリカの
同胞として讃える、という工作がじわじわ進んでいるのを肌で感じます。

つい最近、サンフランシスコにも日本を糾弾することを目的にした
戦争博物館が中華街に出来たばかりです。

 

さて、戦争が始まって男たちが戦場に出てしまうとどうなるかというと、
国内で業務を行う飛行士が圧倒的に足りなくなってきます。

そこで陸軍司令官ハップ・アーノルドの提唱のもと、
女性サービスパイロット、
つまり "WASP"が、あの女性パイロット、
ジャクリーン・コクランを司令として1943年に創設されました。

熟練した女性のパイロットがこぞってWASPへの参加を熱望し、
続々と集まってきました。

WASPのメンバーは、テキサス州のアベンジャー・フィールドで6ヶ月間、
トレーニングプログラムを履修します。
ヘイゼルはアメリカ軍のために飛行する初めての中国系女性となりました。


訓練中、彼女は一度九死に一生を得る事故に遭いました。
教官が、彼女を乗せて飛行中、いきなり予想外のループを行なったため、
ちゃんとシートベルトを装着していなかった彼女は機外に放り出されたのです。

しかし彼女はパラシュートで野原に着陸することに成功し、
その後はパラシュートを引きずって部隊に帰りました。

(というかこの教官いろんな意味で酷すぎね?)


当時、WASPの女性操縦士は(軍に飛行指導されていたのに)軍人ではなく、
民間人として分類され、給与体系も公務員として扱われていました。

それを言うなら、憲法にその存在を記されていない現在の
日本国自衛隊の自衛官がまさにその通りの扱いなわけですが、

これは日本という国が異常だからこれを当たり前とするのであって、
この頃の女性飛行士の扱いは、後世の世界基準による評価でいうと

「非常に差別的なものであった」

となります。

差別的とはどういうことかというと、まず、彼女らに対しては

いかなる軍事的な利益も、提供されません。

例えば・・・・これは実はしばしばあったことなのですが、
WASPのメンバーが職務中に死亡、つまり殉職した場合にも、
軍人が受けられる軍の「オナー」を伴う葬式は行われません。

儀仗隊による 弔銃発射も、国旗を棺に掛けてもらうことも、
もちろん特進も、勲章もありませんでした。

その割に、WASPには、しばしば、風通しのいい操縦室の飛行機で
冬のフライトを行うなど、あまり望ましくない任務が割り当てられたり、
また男性の部隊指揮官が航空機を運送する役目を女性がすることを
あからさまに嫌って嫌がらせをするというケースもあったそうです。

 

さて、トレーニングプログラムを終了し、彼女はミシガン州にあった基地の
第3輸送グループに派遣されました。

そこでは戦線のために自動車工場で大量に製造されていた航空機を積み込み、
必要な地点まで空輸するのが彼女らの役目で、航空機はそこから
ヨーロッパと太平洋の戦線に送られていきました。

ここでの仕事は大変過酷だったようです。
彼女は妹への手紙の中で「休業時間の少ない週7日制」と説明していますが、
アメリカでも月月火水木金金だったんですね。

この頃の彼女についてWASPのメンバーが何か聞かれたら、
彼女らはヘイゼルの口癖を必ず付け加えるでしょう。

「わたしはなんだって運んで見せるわよ」

パイロット仲間は、彼女の操縦はいつも冷静で、たとえ強行着陸の際も
恐れを知らず大胆に行う、と高く評価していました。

彼女の初めての緊急着陸はカンザス州のコムギ畑へのそれでした。
着陸してくる飛行機のパイロットを見た農夫は、彼女を日本人だと思い込み、
干し草用のピッチフォークで武装して、叫びました。

「日本人がカンザスにせめてきただ!」

そして、飛行機から降りた彼女をフォークを構えて追いかけ回し、
彼女は農夫の攻撃を回避しながら必死で自分の身分を訴え、
自分が日本人ではないことを説明しなくてはならなかったそうです。

 

この逸話そのものがまるで漫画のようですが、彼女自身も、
いたずら好きな一面を持っていたようです。

彼女は自分の口紅を使って、自分の飛行機や同僚の飛行機に
漢字でいたずら書きをすることがあったそうですが、
ある太ったパイロットの飛行機に、彼にはわからないように
「ファット・アス」を意味する漢字を書いたという話があります。

「アス」はもちろん英語で言うところのあの「アス」ですが、
フランス語でエースパイロットのことを「AS」と言うのと
引っ掛けた「ちょっと小洒落たジョーク」のつもりだったようです。

ただ、いずれにせよどちらかと言うとこの話は悪質で、そもそも
本人の身体的特徴をからかって何が面白いのかと言う気もします。

彼女は 『RON』(Remaining Overnight)といわれる任務にも
満遍なく出動していましたが、大都市でも小さな町でも、
どこに行こうが、彼女は中国人のやっているレストランを探しては
厨房に入り込んで「監督」し、自分でやおら料理を始めるのが常でした。

それほど料理が好きだったのでしょうけど、いきなりズカズカ入ってきて
あれこれ言いながら厨房を乗っ取る客なんて迷惑以外の何ものでもありません。

彼女のWASP仲間のうち一人は

「ヘイゼルは、何も知らないわたしに
異文化を学ぶ機会を与えてくれました」

と語っていますが、こりゃかなり間違った文化が伝達された可能性もあるな。


1944年9月、彼女は選抜されて戦闘機を操縦する訓練を受け、
P-63 KingcobraP-51ムスタング、そしてP-39 Airacobra
米軍のために操縦することができる最初の女性になりました。

しかし、この誇らしい任務に選ばれたことが、彼女の人生を
わずか32年で終わらせることになります。

 

1944年11月10日、ニューヨーク州のベル・エアクラフト工場から
モンタナ州グレートフォールズに P-63 「キングコブラ」を輸送すべし、
と言う命令が降りました。

これは、実はレンド・リース計画に基づく計画の一つで、
当時アメリカは同法を制定して以来、連合国に(ギブアンドテイクで)
膨大な量の軍需物資を供給していたのですが、この戦闘機は
ソ連軍が受け取りに来るアラスカまで輸送することになっていました。

東から西海岸の端までの輸送なので、補給のため中間地点まで機を空輸し、
そこからは男性飛行士がアラスカまで回航、アラスカからは
ソ連軍の搭乗員が操縦して自国に持ち帰るのです。


それはサンクスギビングの朝でした。

彼女の機が、目的地のグレートフォールズに着陸を試みたとき、
同時に同じP-63の大編隊が空港に近づいてきました。

このとき、運悪く管制室と彼女の機の間での通信の混乱が起こり、
次の一瞬、編隊のうちの一機と彼女のP-63が空中で衝突しました。

墜落して瞬時にして航空機は炎で包み込まれ、救急隊が燃える飛行機の残骸から
彼女の身体を引っ張り出したとき、着用している飛行ジャケットは
まだくすぶっていたといわれています。

その2日後、1944年11月25日に、彼女は全身火傷により死亡しました。

 

彼女の家族にとって不幸はこれで終わらず、彼女の死のわずか3日後、
陸軍の戦車隊の一員としてフランス戦線に出征していた彼女の兄、
ビクターが
戦死したという公報を続けざまに受け取ります。

家族はポートランドに彼らの墓地を購入したのですが、
墓地側は、そこが「白人区画」であるという墓地の規則を楯に、
家族が選択した場所に兄妹を埋葬することを拒否しました。

遺族は墓地側と裁判で争い、長年の闘争の末結果として勝利を収めましたが、
その間兄妹の遺体はどこに仮埋葬されていたのでしょうか。

彼女は今、ウィラメット川を見下ろすリバービュー墓地の丘の上の
「非軍人」すなわち一般人の区域に兄と共に眠っています。

 

その後30年以上にわたり、戦争が終わった後も、WASPのメンバーと支持者は、
女性パイロットの軍事的地位を確保するための運動を行い、
ついに1977年3月、連邦議会の公法95-202の承認に基づいて、
女性空軍パイロットの功績と、その軍事的地位が認められました。

WASPのパイロットとして大戦中の困難な時期、自国のために奉仕し、
殉職した女性は全部で38名であり、彼女はその最後の一人です。

2004年、ヘイゼル・イン・リーは、オレゴンの
エバーグリーン航空宇宙博物館内にある「名誉航空殿堂」入りしています。

ここにはガダルカナルで台南航空隊と戦ったことでも日本人には有名な、
マリオン・カール大将(上段左から2番目)も殿堂入りしています。

ヘイゼルは中段の左から4番目。
この中で彼女はただ一人の女性であり、そして唯一のアジア系です。

 

 

 

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スピットファイアー・ガール〜メアリー・エリス

2018-08-03 | 飛行家列伝

先日、久しぶりに婆娑羅大将からコメント欄に通信をいただきました。

ご無沙汰しております。
こんな記事と写真が流れてました。


Spitfire Short@SpitfireShort

I am sad to report the death of ATA Association Commodore
& First Officer 'Spitfire Girl' Mary Wilkins Ellis. Aged 101,
she flew 400 Spitfires and 76 different types of aircraft during WW2,
died this morning at her home on the Isle if Wight. 

第二次世界大戦中、イギリス空軍の飛行機を工場から前線基地まで運んだのは
輸補助部隊(ATA)のパイロットたちでした。

彼らが操縦したのは戦闘機から爆撃機、輸送機などあらゆる種類の軍用機、
 
ハーバードハリケーンスピットファイア , ウェリントン爆撃機

などですが、ATTAの女性パイロットはその中の一機の名前を取って

「スピットファイア・ガールズ」

と呼ばれていました。
スピットファイアーガールズの最後の一人で、
先日7月24日101歳で亡くなったその人の名はメアリー・エリス

婆娑羅大将はこのエリスという名前に反応?して情報を下さったようです。
アメリカの女性航空士官について調べたことがあるわたしも、
イギリス空軍の輸送部隊に女性がいたことまでは全く知りませんでした。

ところで、このエリスさんが93歳の時に後席とはいえ、
スピットファイアの操縦席に乗る様子がyoutubeに残されています。

Spitfire Girl

前席の女性パイロット、キャロリンは1:48のところでメアリーに操縦桿を任せます。

"You have control, you have control !"

再びコントロールを取ったキャロリンはメアリーのために空中で回転を行い、
メアリーはわっはっは、と豪快に笑っております。
彼女も乗る前に「65年ぶり」と言っていたはず。
一般の93歳の女性ではこうはいかないでしょう。

 

メアリー・ウィルキンス、のちのエリスは1917年農家に生まれ、
幼い時から飛行機に憧れていました。
彼女の実家の隣にはロイヤル・エアフォースの基地があったのです。

11歳の時、両親に連れていかれたサーカスで、複葉機での
「ジョイ・ライド」を体験し、すっかり飛行機に夢中になった彼女は、
操縦を学び自分で操縦して空を飛びたいと熱望するようになりました。

16歳になった時、飛行クラブでレッスンを始め、免許を取得し、
世界大戦が始まるまでは民間でパイロットとして仕事をしていました。

そして1941年、彼女はATA (Air Transport Auxiliary、補助航空輸送部隊)
に熱望の末めでたく入隊しました。
冒頭に描いたメアリー・エリスの左胸の徽章に「T」が見えますが、
これは同部隊のウィングマークです。

軍組織に所属しているエリスさん、ということは、もしかしたら
「エリス中尉」が実在したのか?と期待しますよね。
(わたしだけだと思いますが)

しかし残念ながら、ATAはあくまでもシビリアン・オーガニゼーション、
民間組織なので、パイロットに軍の階級は与えられておりません。

ただ、冒頭の死亡記事では彼女の階級を

「ファースト・オフィサー」(First Officer)

としていますが、これはRAF(王立空軍)でいうと、
ファースト・ルテナント(大尉)相当ですから、こちらは
「エリス大尉」(もちろん中尉相当だったこともあるはず)です。

 

ところで前述の通りATAのパイロットは男性だけではありませんでした。

男性の場合、資格が「正規軍のパイロットになれない人」だったので、
元パイロット、つまり片手片足、あるいは片目を失った、
というような人材で部隊は構成されることになりました。

そのため、彼らを

ATA="Ancient and Tattered Airmen"(老&害航空隊?)

と揶揄する向きもあったそうです。

昔、当ブログでは空港での暗号を間違えたためにイギリス軍によって
機を撃墜され死亡した女性パイロットについて書いたことがあります。
彼女、

エイミー・ジョンソン

もATAのファーストオフィサーでした。

ATAにおいてメアリー・エリスは大戦中、76種類の飛行機、
のべ1000機を、生産工場から航空隊に輸送しています。

 

アメリカでもそうでしたが、イギリスでも、女性パイロットは
国内の輸送だけを担当し、危険な前線への輸送は男性飛行士が行いました。

さらに、ジュネーブ条約に則って、一般市民と女性からなるATTAが輸送する機には
武器は搭載できないことになっていたのですが、一度輸送中の機体が
ドイツ軍に撃墜されたあと、王立空軍輸送隊に限り銃が積まれました。

それでも前線への航空機輸送は敵に狙い撃ちされることも多く、
戦時中には174名もの男性パイロットがドイツ軍に撃墜され戦死しています。


さてところで、ATAの女性パイロットは「ATAガールズ」と呼ばれていました。
(スピットファイアーガールズはその派生系ではないかと思います)

 

中でも有名になったATAガールズを何人かご紹介しましょう。

ポーリン・ゴアー司令(Pauline Mary de Peauly Gower Fahie 1910-1947)

ATAを組織し、自らその司令になったゴアー司令が集めた最初のメンバー8名には
エイミー・ジョンソンのほか、オリンピックのスキー選手ルイス・バトラー
アイスホッケーの選手、貴族で政治家の娘、元バレエダンサーなどがいました。

マリオン・ウィルバーフォース( Marion Wilberforce 1902-1995)

彼女もゴアー司令が選んだ最初の8人の一人で、副司令でした。
インテリで投資家、柔道をしていたという一面もある彼女は、
80歳まで空を飛び続けました。

撃墜されたエイミー・ジョンソンは彼女の同僚だったので、彼女は
エイミーの死後何かとコメントを求められましたが、実は彼女、
エイミーについては実力の割に有名すぎじゃないの?と思っていたようです。

よくあることですが、エイミーは若くして非業の死を遂げたので、
ただでさえ高かった
名声は不動のものになってしまい、
実力派を任ずる彼女にとってはこのことが面白くなかったのでしょう。

モーリン・アデール・チェイス・ダンロップ・デ・ポップ
Maureen Adele Chase Dunlop de Popp
 (1920-2012)

いわゆる美人枠?

というわけではなく、ATAは同盟国から国籍を問わず搭乗員を募集し、
いわば「外人部隊」の一面もあったのです。
モーリーン・ダンロップもブエノスアイレス出身です。

この写真はモデルを依頼されてポーズをつけたものではありません。
彼女がフェアリー・バラクーダ艦上雷撃機を輸送し終わってコクピットから降り、
ギアを外して髪をかきあげた瞬間をカメラマンが撮ったのです。

この瞬間彼女はカバーガールとしても有名になりました。

彼女のような存在は、女性パイロットの存在を世間に広く知らしめました。
その美しさで彼女らもまた参戦したのです。

ディアナ・バーナート・ウォーカー
Diana Barnato Walker MBE FRAeS (1918−2008)

名前の後ろにずらずらとついているのは彼女のタイトルで、
MBEは大英帝国勲章の受賞者であること、FRAeS は
王立宇宙航空学会のフェローシップを持っていることを意味します。

外国人がいるかと思えば、とんでもない富豪の令嬢もいたのがATA。

ディアナ・ウォーカーは18歳の時、エドワード8世国王の主催する舞踏会で
デビュタントとして社交界デビューを行なっています。

父親はベントレーの会長、祖父はヨハネスブルグでダイヤモンドを発掘していた
デビアスの創始者で、母方の祖父母は有名な株式仲買人。
両親は結婚式をリッツ・カールトンで挙げています。
また、恋多き父親の再婚相手は炭鉱の所有者一族の出といった具合。

戦争が始まって、彼女は看護士の資格を取ります。
そして、さらにATAの訓練を受け、輸送パイロットになり、

スピットファイアハリケーンムスタングテンペスト

などの戦闘機を運ぶだけの技量を身につけました。

特に彼女が輸送したスピットファイアは260機に上るといいますから、
彼女こそが「スピットファイア・ガール」と言うべきかもしれません。

ちなみに彼女は戦後もテストパイロットを続け、

イングリッシュ・エレクトリックライトニング戦闘機

でイギリス女性として初めて音速を超えたパイロットとなりました。

これらの経歴を見ると順風満帆の栄光ある人生を送ったように見えますが、
実は彼女はその連れ合いを一度ならず2度までも航空機事故で失っています。

婚約者だった部隊長のハンフリー・ギルバートは乗っていたスピットファイアが
農場に墜落して殉職、2年後に彼女は今度は王立空軍の輸送隊司令官、
デレク・ウォーカーと結婚するのですが、デレクも程なくムスタング輸送中、
撃墜されてこちらは戦死してしまいます。

わたしと結婚しようとする男は飛行機で死んでしまうんだわ!

と思ったからかどうか知りませんが、彼女はその後の人生、
結婚しないことを誓い、(と言うことになっています。
本人がそういったのでしょうか)次の恋人、レーシングパイロットの
ホイットニー・ストレートはなんと妻帯者でした。

男の方も伯爵の娘である妻と離婚する気など全くなかったようですが、
愛人であるディアナとの関係は結構おおっぴらにしていたようで、
二人の間には子供もあったということです。

「わたしは完璧に満たされていた」

とご本人は言っておられますが、さてストレートの奥さんの立場は?

ヘレン・ケリー Helen Kerly (1916–1992年)

この人も美人枠かしら。
というか、美人だから名前が残っているとも言えますね。

彼女は輸送隊で主に戦闘機スピットファイアを輸送し、
戦時中に叙勲された二人の女性パイロットのうちの一人になりました。


ところで、最後に。

ATAの女性パイロットが日本のTV番組(NHKBS)で紹介されたそうですが、
その番宣記事というのが、なんというか、ひどいです。

差別を乗り越え、危険を承知で飛び続けた女性たちのうち、
10人に一人が命を落としたという。

プライド高き空軍の男性パイロットたちが女性の実力を認めたがらなかった反面、
多くの軍人をボーイフレンドにして浮き名を流したパイロットもいたという。

まあ、色々といいたいことはあるけど、まず「差別」が真っ先に来るのはどうなのよ。
それから二番目の構文、前段に対する後段が全く「反面」になってないんですが。

観てもいないので、この番組のいう差別というのが具体的に何かはわかりませんが、
どうせ何か男性パイロットから嫌がらせを受けたとかいうことだと思います。

しかしね。

言わせてもらえば、女子航空隊そのものが、国内の輸送に任務を制限されていて、
その大前提として差別(というより区別)の上に成り立っていたわけですよ。

だから、「差別を乗り越えて」なんて構図はそもそも存在しないのよ。
もう、頼むからスイカに塩の手法でお手盛りの紹介するのやめてくれんかな。

しかも賃金について、こんな事実もあります。

ATAに所属したアメリカのジャクリーン・コクランは帰国後、
女子航空隊WASPを創立することに尽力しましたが、そのWASPでは
女性パイロットの給料は男性の65パーセントに留まったのに、
ATAでは男性と全く同等の給料が支払われていたというのです。

ますます乗り越えるべき差別(感情的なものでなく公的な)が
本当にあったのか、と問いたくなりますね。

まあ、昨今のテレビなど、オールドメディア界隈では

「自分が差別だと思えば差別」

らしいので、弱者強者の二元論で言う所の「弱者の側」は差別されていた、
と括ってしまう方が(ドラマとして)美味しいのかもしれませんけど。

さらに文中「10人に一人が命を失った」とあり、実際にも
ATAは全体で15名の女性パイロットの殉職者をだしています。

女性パイロットの総数が168名だったわけですから、10人に一人、
というのはまあ間違ってはいないわけですが、これもなんだかね。

 ちなみにATAの男性パイロットの総数は1152名、先ほども書いたように
そのうち亡くなったのが174名ですから、こちらは6.6人に一人となります。

差別だなんだいう前に、ちゃんとこちらも報じて欲しいですね。


と最後は案の定NHK批判になりましたが、今回RAFの女性パイロットについて
知るきっかけを頂きました
婆娑羅大将に御礼申し上げてこの項を終わります。

 

 

 

 

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