ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

パーシングとパイオニア、レーガンとゴルバチョフ〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-30 | 歴史

わたしが国立宇宙航空博物館、通称スミソニアン博物館を見学したのは、
まだこの世にCOVID19が存在していない頃でした。



これまで紹介してきた歴史的な航空宇宙化学の結集が一堂に。
この様子も壮観ですが、フロアに溢れる人々が誰もマスクしていません。

街ではほとんどマスクを着用しなくなったアメリカですが、
3月11日より見学者のマスクは不要となっています。
ただし、

「訪問中にフェイスマスクを着用した方が快適だと感じる訪問者は
全員、着用することが推奨されます。」


と「マスク派」についても気を遣っています。
ワクチン接種の証明も必要ありませんが、
可能な限りソーシャルディスタンスを保ち、
できるだけ平日の空いた時間に訪問することを推奨しています。


さて、このフロアに立つと、案外目を引くものは
実は地味に奥にある中距離弾道ミサイルだったりします。



特に、表面に升目と文字が描かれたソ連製のミサイルは
その一種異様さで目立っている気がしました。

 ソ連のSS-20と米国のパーシングII

1987年の

中距離核戦力(INF)条約

で禁止された2,600発以上の核ミサイルのうちの2つです。
弾道ミサイルを禁止した条約は、核戦争からの後退の一歩であり、
冷戦終結の前触れとなりました。



ここになぜその二つのミサイルが並んでいるかというと、条約によって、
いずれかの博物館的なところに展示することを指定されたからなのです。

もちろん不活性化してあります。

今日は、そのソ連製SSー20ミサイルと、横に並べられた
アメリカ製のパーシングーIIミサイルについてお話しします。

■パーシングII



  パーシングIIは、1983年から西ドイツの米軍基地に配備された
移動式の中距離弾道ミサイルです。

マーティン・マリエッタが設計・製造した固体燃料式2段式で、
1973年、パーシングの改良型として開発が開始されました。

パーシング1aはかなりの過剰威力だったため、
精度を向上させるという目的でIIを生産することになりました。

攻撃目標はソビエト連邦西部です。

各パーシングIIは、TNT5〜50キロトンに相当する爆発力を持つ
可変収量の熱核弾頭を1つずつ搭載していました。

これに対抗し、ソ連がRSD-10パイオニア(SS-20セイバー)を配備。
こちらが4,300kmの射程と二つの弾頭を持っていたので、パーシングは
東ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア到達する仕様に変更されました。

つまり、この2基のミサイルは、かつて米ソにあって
互いに向けて攻撃するために「睨み合っていた」一対なのです。


■ RSD-10パイオニア SS-20セイバー

RSD-10パイオニア(ракетасреднейдальности(РСД)は、
1976年から1988年にかけてソ連によって配備された弾道ミサイルです。

SS-20セイバーはNAT Oによるコードネームになります。

本体に書かれた「CCCP」表記はキリル文字によるUSSR、つまり
ソビエト社会主義共和国連邦の意味であることはご存じですね。

かつてオリンピックなどで見るソ連選手のユニフォームには
必ずこの4文字が書かれていたものです。



パーシングと比べてもかなり大型で、高さ16.5m、直径が1.9mとなります。

弾頭部分を見ていただくとそのデザインの異様さでお分かりのとおり、
核弾頭を三個搭載することができます。

このミサイルは液体燃料でなく固体燃料を搭載しており、
そのため液体燃料を注入する危険な作業を必要とせず、
命令が出ればすぐさま発射できるというものでした。

ソ連がSS-20を開発した理由については、いろいろな説があります。

1、ソ連のグローバルパワーへに対する挑戦の一環であった

2、SALT条約(米ソ第一時戦略兵器制限交渉)で、
長距離ミサイルが量的制限を受けたため、中距離ミサイルに注力した

3、失敗したSS−16ICMBミサイルプロジェクトのリベンジ企画
あるいはSS16のための技術と部品のリサイクルが目的

4、ソ連がそれまで欠いていた
第二次攻撃力の強化
(第三次世界大戦に向けた洗練された核戦略のため)



4の第二次攻撃能力について少し解説しておくと、これは核戦略用語です。

相手国から第一撃が先制的に打込まれたのちに、
残存している核ミサイル、核搭載有人機などを用いて、
相手国にただちに報復攻撃を加えられる能力を言います。

戦略的にはこの能力をしてそのまま核抑止力とするという考え方ですが、
1960年代国防長官だったアンドレイ・グレチコ元帥は、
第一撃を選択する、つまりし第三次世界大戦が始まったら、
ソ連はNATO諸国に対しすぐさま核攻撃を行う
という考えを持っていました。


グレチコ元帥(映画化の際には配役リアム・ニーソンの予定)

つまり、最初の核先制攻撃で相手の核報復力を破壊するということです。
しかし、これはあくまでグレチコ個人の意見ですよね?(ひろゆき構文)

この意見にソ連内部で反発する意見ももちろんあって、

「洗練された第二次攻撃能力で抑止力を目指すべき」

というものでした。

ちなみにグレチコ元帥は在職中に(いうて72歳でしたが)急死しています。
死因は動脈硬化と冠状動脈不全だったとか。


ともあれ、RSD-10は、ソ連にそれまで欠けていた戦域内での
「選択的」標的能力を提供することになりました。

それはすべてのNATOの基地と施設を破壊する能力を持ち、
ソ連の望む抑止力として十分機能する、とされたのです。

こうしてソ連は、サージカル・ストライク(正当な軍事目標にのみ損害を与え、
周囲の建造物、車両、建物、一般民衆のインフラや公共施設には全く、
あるいは最小限の付随的損害を与えることを目標とした軍事攻撃)
によってNATOの戦術核戦力を無力化する能力を獲得したのでした。




■冷戦における核配備競争への懸念


パーシングIIが飛翔する写真を表紙にしたタイムズ紙。
タイトルは、

「核ポーカー」
掛け金はどんどん高くなる


核の装備が、常に相手を上回ることを目標にしているうちに、
どんどんリスクが高くなっていくことを懸念する内容です。

冷戦下で激化した軍拡競争は、世界中に武器の配備が進みました。

万が一使用すれば、たった1発でも壊滅的な被害をもたらす武器が
世界中を埋め尽くしていくかのような勢いでした。



中距離弾道ミサイルの配備をめぐって、1980年代は
抗議の動きに火がついていくことになります。


■ レーガンとゴルバチョフ




アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンとソビエト連邦書記長、
ミハイル・ゴルバチョフ
の間の相互尊重関係がなかったら、
INF条約の調印はうまくいかなかったかもしれません。

1986年10月11日、12日に開催されたレイキャビク・サミットは、
レーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連書記長の2度目の会談でした。

前年のジュネーブ首脳会談に続き、核兵器削減の可能性について議論し
合意を進めた両首脳は合意に至らなかったものの、
多くの外交官や専門家はこのサミットを冷戦の転換点と考えています。

1985年のジュネーブ・サミットで、両首脳は
攻撃型兵器削減の重要性では一致していたのですが、
レーガンが提案した戦略防衛構想(SDI)をめぐる意見の相違が、
交渉の大きな障害となりました。

ゴルバチョフは、もし米国がSDIを効果的に開発すれば、
核の先制攻撃でソ連は不利になるという懸念を持っており、
レーガンの、SDIをソ連と共有するという申し出を信用しなかったのです。

とはいえ、両者はそれまでの米ソの指導者に比べて
はるかに友好的な関係を築くことができていたのは有名です。

その効果もあって、核兵器削減の協力をうたう共同声明が作成され、
米ソ双方に前進への希望を与えることができました。

首脳会談後、レーガンはゴルバチョフに手書きの書簡を送っています。
核兵器廃絶の希望と、ゴルバチョフの協力を確認しようとしたのです。

ほぼ同じ時期に、ゴルバチョフもレーガンに手紙を送っており、
米国がソ連の核実験モラトリアムに自発的に参加することを求めました。

ただ、モラトリアムに同意するということは、
アメリカの SDI 開発を停止することを意味します。
結局レーガンはこの要請に応じることはありませんでした。

ゴルバチョフはレーガンの最初の書簡への返信で、

「宇宙攻撃兵器は、防御と攻撃いずれもの能力を持っており、
極めて危険な攻撃的潜在力の蓄積をもたらす技術です。
これが軍拡競争を激化させることは避けられないでしょう」

と、繰り返し懸念を表明しています。
つまりSDIが交渉の障害になっているのは確かでした。

ゴルバチョフが提案したのは、2000年までに
「核兵器を完全に廃絶する前例のないプログラム」
でした。

その内容は、3つのステージから成っていました。

第1段階
5年から8年で、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の50%削減、
宇宙兵器実験の相互放棄、ヨーロッパからのすべての核兵器の撤去

第2段階
5〜7年で、すべての核実験を中止し、中距離核兵器を整理。
この段階には、他の核保有国(イギリス、フランス、中国)も含む

最終第3段階
残りの核兵器をすべて廃棄し、
「1999年末までに地球上から核兵器を根絶する」


ゴルバチョフはまた、

「これらの兵器が再び復活することのないよう、世界的な合意をすること」

を強く求めました。
(BGM ジョン・レノン『イマジン』で)


彼は、ソ連の核実験に対する自主的なモラトリアムを更新し、
再び米国に参加を呼びかけ、もし米国がこれに応じるならば、ソ連は
以前から争点となっていた相互立入検査に同意する、と書いています。


当然ながら、ゴルバチョフが目指した核兵器廃絶に、
ソ連指導部のすべてが賛成していたわけではありません。

特に軍部が反対していました。

軍部は核軍縮案を提出しましたが、これはソ連が完全な軍縮を支持していると
世界に示すプロパガンダの役割を果たすものにすぎず、
アメリカがこの提案に同意しないであろうことも折り込み済みでした。

レイキャビク会談で、レーガン、ゴルバチョフ両首脳は、
この会談が大きな賭けであることを認識しました。

レーガンは、

「世界に戦争と平和のどちらを残すかを決めるまたとない機会だ」

ゴルバチョフも、

「軍備交渉で行き詰まった外交を解決するのが目的だ」

と同意しました。

この最終会談でのアメリカの提案は、次のようなもので下。

「双方、5年間に戦略的攻撃兵器の50%削減を達成する。
残りのすべての攻撃型弾道ミサイルについて削減のペースを維持し、
2回目の5年間の終わりまでにすべての攻撃型弾道ミサイルを全廃する。
10年後に攻撃型弾道ミサイルが全廃されれば、
どちらかが防衛策を導入する自由を有する」


対してソ連の提案は

「ABM条約の非撤回期間を5年ではなく10年とし、
「対弾道ミサイル防衛のすべての宇宙構成要素」を研究所に限定する。
戦略兵器を5年で50%削減し、10年で全廃する」

というものです。

そこでレーガンとゴルバチョフは、2つの異なる提案のうち、
どの兵器を対象とするかについて具体的に話し合いました。

レーガンは、すべての核兵器を廃絶してもかまわないと言ったそうですが、
この「核兵器のグローバルゼロ」といわれる提案は、
米ソ関係においてかつて前例のないものとなりました。

ゴルバチョフもレーガンに同意し、国務長官だったシュルツも

 "Let's do it."(やりましょう)

と言ったそうです。

やってます


そしてゴルバチョフとレーガンは中距離核戦力全廃条約・INF条約に調印。
1987年12月、ワシントンD.Cでのことです。



今更ですが、INFとはIntermediate-range Nuclear Forcesのことです。

これを受けて米ソ両国は配備していたミサイルを退役させ、撤去しました。

撤去されたミサイルは解体、ないしは破壊されましたが、15基のみ、
博物館への展示を目的に使用不能の状態で保有することが許されたので、
退役したミサイルの一部は博物館に寄贈されました。

というわけで、ここスミソニアン博物館とモスクワの航空博物館には
米ソ双方の政府から、退役したミサイルが寄贈され、
どちらの国立博物館にもパーシングIIとSS-20が並んで展示されています。



スミソニアンのSS-20とパーシングIIミサイル。
SS-20がパーシングIIに比べて太く長いのは、
SS-20の方がペイロードが多く、また射程がより長いためです。


条約の定めるところにより以下に示すミサイルは退役しました。
その後ミサイルは廃棄され解体、または破壊されましたが、
作業は検証の対象となり、ソビエトでの爆破によるミサイル破壊作業は
マスコミにも公開されたそうです。

アメリカ合衆国
  • MGM-31A パーシングIb
  • MGM-31B パーシングII
  • BGM-109 地上発射巡航ミサイル

    ソビエト連邦
    • R-12(SS-4 Sandal)
    • R-14(SS-5 Skean)
    • OTR-22(SS-12 スケールボード)
    • OTR-23 Oka(SS-23 スパイダー)
    • RSD-10 Pioner(SS-20 セイバー)
    • SSC-X-4 Slingshot - Kh-55(AS-15 Kent)
      空中発射巡航ミサイルの地上配備型

OKA(スパイダー)



最後のオカー廃棄に関する報告書に署名する米ソ担当者の図



また、スミソニアンでは、このような部品を見ることができます。

パーシングIIのロケットケーシングから排除された部分で、
楕円形のアクセスプレートには八つのネジ穴があります。



写真を失敗してよくわからないのですが、右側がその部品、



これはSS-20を破棄のため爆破した際残った部分です。


本条約はソビエト連邦が崩壊した後はロシア連邦に引き継がれましたが、
2010年代、ロシアは巡航ミサイルの開発を進めていたため、
アメリカは、これが条約違反に当たると指摘しています。

世界が感動したレーガンとゴルビーの努力も、喉元過ぎればというのか、
時間が経つとどちらの側にも条約違反がみられ、
条約を守らないことが対立の火種になるというスパイラルに陥りました。

さらにややこしいことに、この条約に参加していない中国が
ミサイル開発を推し進め始めたため、アメリカは2019年、
トランプ大統領政権下で本条約の破棄を表明することになりました。

ロシア連邦もこれを受けて条約の定める義務履行を停止し、
本条約は2019年に失効しました。



スミソニアンのこのコーナーには、ロナルド・レーガンの言葉、

「私とゴルバチョフの間の最初の手紙は、
我々の国の間のより良い関係だけでなく、
二人の人間同士の友情の基礎となるものの両側で
慎重に始まりを示したことを私は理解しています」


そして、ミハイル・ゴルバチョフのソ連政治局会議での言葉、

「世論で外の世界に印象を与える最大のステップは、
私たちがパッケージを解き、私たちの最も強力なミサイルを
1000発削減することに同意するかどうかにかかっている」


という言葉が並べられています。


続く。


ムーンレースの終焉〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-28 | 博物館・資料館・テーマパーク

当ブログでは、スミソニアン博物館の展示に沿って
アメリカとソ連の間の宇宙開発競争について書いてきました。

そしてその一隅に展示された月着陸スーツの横には、

「月競争の終焉・ MOON RACE ENDS」

というコーナーがあります。

その競争に終止符が打たれるイベントが何だったかというと、
これはもうアメリカの月着陸に他ならないわけです。

今日はその「競争の終焉」についてです。



1969年7月20日、世界中の何百万の人々がテレビで見守る中、
二人のアメリカ人が初めて別の世界に足を踏み入れました。

アメリカはついに月への着陸に成功し、宇宙飛行士たちは
無事に帰還するという快挙を成し遂げました。

これはこの少し前にケネディ大統領が打ち上げたビジョン、
1960年代に有人宇宙飛行を可能にするという目標の達成でした。

月面着陸は、壮大な技術力の結集とその成果、
人類の精神力の勝利として広く祝われることになります。

人類は、その生存中にライト兄弟の成し遂げた
地球上での最初の動力飛行から、月への最初の第一歩を記すという
大きな飛躍を遂げることができたのです。



ニューヨークタイムズのヘッドラインです。

「人類月を歩く」

宇宙飛行士が飛行船を着陸させ、
岩を採集、旗を立てる

大見出しはともかく、小見出しがイマイチな気がしますが、
とにかくこの3行で全てを言い切ろうとした結果かもしれません。



ライフ誌の表紙は月面上に残された足跡だけ。

ON THE MOON
Footprints and photographs
by Neil Armstrong and Edwin Aldrin

月面
ニール・アームストロングとエドウィン・オルドリンによる
足跡と写真

エドウィンというのはオルドリン飛行士の本名で、
皆がよく知っている「バズ」というのは自称&愛称です。

小さな時に彼の姉が彼のことを「brother」と言おうとして、
「バザー」になったことからBuzzが通り名となってしまいました。

最終的にオルドリンはこちらを法的な名前にしていますが、
月着陸の頃はまだ本名が採用されていたのです。

バズ・オルドリンについてはまた別の機会にお話しするかもしれません。


■ ネック・アンド・ネック(互角の戦い)

スミソニアンでは、アメリカとソ連の開発競争を、
Neck and Neckと表現しています。

これはレースやコンテストで結果が僅差であること、あるいは、
ほとんど互角の戦いを表現する時に使う熟語です。

アメリカとソ連の月への競走のペースは、1968年加速しました。
互いに月着陸の「一番乗り」を目指して奮闘努力したからです。

ここで、その進捗状況について年表がありますので挙げておきます。

1968年
9月
ソ連の無人機ゾンド5号が月の周りを周回し、帰還


ゾンド5
リクガメ・ショウジョウバエ・ミールワーム・植物・種子・細菌、
放射線検出器を取り付けた等身大の人形を搭載
生物は全て生存

10月
アメリカアポロ7号有人テスト飛行
コマンドおよびサービスモジュールの実験




笑ってるけど実は大変だったミッション。
原因は船長のウォルター・シラーが風邪をひいて鼻詰まりで
意見の違いで管制官とミッションの間中喧嘩をしていたこと。
また、全員が宇宙酔いで酷い目に遭っています。

ソ連、ゾンド6号の月周回飛行。
有人月接近飛行計画(ソユーズL1計画)に使用する
7K-L1宇宙船の3回目のリハーサル飛行として。

12月

ソ連、ゾンド6号の次に有人飛行を行う予定だったが、
安全性が確保されていないという理由で延期される。

アメリカ、アポロ8号で月周回のち帰還。
ラヴェル船長デザインによる徽章

左から:ジム・ラヴェル、ウィリアム・アンダース、フランク・ボーマン

ゾンド6号の次に有人飛行を見合わせたことで、
ソ連は初めてアメリカに先を越されることになります。

1969年

2月

ソ連、N-1(エーヌ・アヂーン)ムーンロケット
の打ち上げに失敗
N-1
アメリカが月へ人類を送ると宣言した後、ソ連は
セルゲイ・コロリョフの指導で月計画を提案しました。

N-1は有人月面探査のために開発されたロケットでしたが、
技術的にもそれを克服するための資金にも不足があり、
4回の試験打ち上げに失敗して計画は破棄されています。

3月

アメリカ、アポロ9号打ち上げ試験

初めての3機同時打ち上げとランデブー、ドッキングを表現


左から:ジェームズ・マクディビット、デイビッド・スコット、
ラッセル・シュワイカート

初めてのアポロ司令・機械船と月着陸船同時打ち上げ。
史上2番目となる有人宇宙船同士のランデブーとドッキングに成功し、
月着陸船の安全性の証明と、アポロ計画の究極の目的である
月面着陸への準備が整いました。

5月 

アメリカ、アポロ10号で月着陸船のテスト飛行で
月の軌道から月面への低高度への降下を確かめる。


右側に着陸しようとする宇宙船を表現


左から:ユージン・サーナン、トーマス・スタフォード、ジョン・ヤング

この飛行で、アメリカはいよいよ月にリーチをかけました。
着陸船を月面に再接近させることに成功したのです。

ちなみに彼らの司令船の名前は「チャーリー・ブラウン」、
着陸船の名前は「スヌーピー」
だったそうです。

当ブログの「トイレ事情」ログでお伝えしたところの、
「想像力の足りないNASAの理系野郎たちのせいで」
船内が汚物でパニック状態になったことでも有名なミッションですが、
まあそれはアメリカの場合このミッションに限ったことでもないので、
そちらのエピソードは是非水に流し、忘れて差し上げてください。


7月

ソ連、二度目のN-1ロケットの失敗。

ソ連、ルナ15号着陸船を打ち上げる。

ソ連はアメリカのアポロ11号に先駆けて月の石を回収し、
地球に送ることを目的とし、最後にこれをダメもとで打ち上げましたが、
プロトンロケットにより打ち上げられた探査機は月面に衝突しました。

アメリカ、アポロ11号の乗組員が月面着陸に成功。

ルナ15号が月面に墜落したわずか数時間後、
アポロ11号は世界初の有人月面着陸に成功しました。



■ いつムーンレースの勝敗が見えたか

ムーンレースの終わりが見えてきたのは、この表から見ても
アメリカのアポロ8号とアポロ10号の成功の頃ではないかと思われます。

1968年12月、アポロ8号の乗組員は、
スリルとサスペンスに満ちた最初の飛行で月の周りを周回しました。

ラヴェル、ボーマン、アンダースの3人の宇宙飛行士は、
日の出ならぬ「地球の出」(Earthrise)
人類で最初に見たメンバーになりました。

5ヶ月後、アポロ10号の乗組員は月周回軌道から、
月への部分的なモジュールの降下をテストしました。

これらの任務は、アメリカが月面着陸に王手をかけ、
すでに準備が整っているという確信を築くことになりました。

その頃ソ連が何をしていたかということは大きな疑問です。

■ファイナル・ソビエト・ギャンビット



1968年12月に発行されたタイム誌の表紙のイラストは、
「月へのレース」として、激化する米ソのムーンレースを表現しています。

ソ連は、2回目のN-1ロケットの打ち上げに失敗した後、
今後ソ連がアメリカに先んじて月に人を送ることは不可能であろう、
とはっきり認識していたと思われます。

そして、せめて最初に月の石と土壌のサンプルを取ろうと、
宇宙飛行士の代わりにロボットを月に送りました。

このコーナーのタイトルである
Final Soviet Gambit
とは、ソ連の「最後の先手」とでも訳したらいいでしょうか。

チェスの打ち始めの手のことを「ギャンビット」と日本語でも言いますが、
この変わった言葉はイタリア語の足=「ガンバ」が語源となっています。


その「最後の初手」を取るため、ソビエトは、一か八かで
自動化されたサンプル採取船である
ルナ15号をアポロ11号打ち上げの何と2日前に打ち上げたのです。

もう、こうなったらタッチの差でも何とか先に、という必死さが見えますね。

しかし、アメリカの宇宙飛行士ニール・アームストロングと
バズ・オルドリンが最初に月に踏み入れたその直後、
ルナ15号は、よりによって月面に衝突着陸してしまったのです。

これはソ連にとって決定的でした。

歴史にもしもはありませんが、もしルナ15号が墜落しなかったら、
アポロ11号の乗組員のわずか数時間前にミッションを成功させ、
ソ連が「初めての月」を主張していたことでしょう。

ソ連はその可能性に最後の望みを託し、敗れました。
歴史はアメリカに微笑み、敗者のことは誰の記憶にも残っていません。


■アポロ月着陸用スーツ



スミソニアンには、このようにアポロ計画で月の上で飛行士が着た
宇宙スーツの実物が展示されています。

1971年7月31日に月面に降り立ったアポロ15号の船長、
デイビッド・ランドルフ・スコットが着用していたものです。



ヘルメットにはアポロ15号と書かれています。



スーツにはスコットの名前入り。

全体的に黒く埃が付着していますが、特に足の部分には
現在も月を歩いた時に付いた月の埃がまだ残っています。

スーツの胸部にはこれでもかとノズルの差し込み口がありますが、
宇宙服は飛行士の生命維持のニーズを全て満たすため、
バックパックから通信、データ表示システムに酸素、温度、湿度制御、
与圧システム、電力などが提供されていました。

素材は22層のあらゆる種類のレイヤーから成っており、
一番肌に近い部分に3層の下着を付けます。

この素材は、寒暖が極端な月の上の気温に対応するだけでなく、
微小隕石から体を保護する役目も果たしました。



着用していたデイビッド・スコット
この写真に写っている真っ白なパリッとしたのと同じものなんですね
(しみじみ)

スコットは二人乗りのジェミニ時代からメンバーに何度も選抜されており、
ジェミニ8号、アポロ9号、そして15号と、3回も宇宙に飛んでいます。

■栄光と悲劇



ムーンレースの影で、数えきれないほど悲劇も起こりました。
(人間以外の犠牲者も含めるとさらに)

宇宙開発に犠牲は当初から多くあったのですが、
スミソニアンでは、アポロ1号の3人のメンバーの火災による事故死と、
ソ連のソユーズで着陸に失敗したウラジーミル・コマロフの記事が
米ソ両国の忘れてはならない悲劇として紹介されています。

「勝利、そして悲劇」と題されたコーナーでは、こうあります。

宇宙飛行は危険と裏表です。
宇宙探査は人命の犠牲なしでは達成されませんでした。

1967年、最初のアポロミッションの訓練中に、
宇宙飛行士のヴァージル”ガス”グリソム、エドワード・ホワイト、
そしてロジャー・チャフィーが発射台の宇宙船の中にいるとき、
フラッシュファイアが発生し、内部で起こった火災で死亡しました。

アポロ宇宙船はこの後再設計されたため、
アメリカの有人飛行は実質2年間停止されることになりました。




「ライフ」の表紙の写真は、国家的犠牲となった飛行士たちを送る
国葬の葬列を写しています。


実際の宇宙船の中のチャフィー、ホワイト、グリソム飛行士。
運命の事故が起こる、わずか8日前の写真です。



火災後の宇宙船。



そしてソ連側の悲劇として、コマロフの事故が取り上げられています。

「1967年4月、ソユーズ1号の飛行は悲劇で終わりました。
カプセルの降下パラシュートが開かなかったため、カプセルは地面に激突、
炎上してウラジーミル・コマロフは死亡し、次のソユーズの有人飛行は
18ヶ月予定より遅れることになります」


ウラジーミル・コマロフはユーリ・ガガーリンと親しかったため、
映画「ガガーリン」でもその死が取り上げられています。

映画『ガガーリン 世界を変えた108分』予告編


彼が乗ったソユーズ宇宙船(7K-OK)は、無人での試験飛行に
まだ一度も成功していませんでした。

しかし、設計上の問題を差し置いて打ち上げを進めようとする
政治の圧力によって、無理を承知で計画は決行されたと言われています。

ガガーリンはこのことに気がついており、飛行を止めるため
ソユーズ1号ミッションに自分が乗ることを申し出ました。

どういうことかというと、彼はすでにこの時、
人類初の宇宙に飛んだ人間として国家的英雄になっていましたから、
自分が乗るとなれば、国も、確実に危険が予測されるミッションを
ゴリ押しで遂行することはあるまいと考えたのです。

しかし、このガガーリンの考えは甘かったと言わざるを得ません。

当のコマロフも、状況について非常に冷静な目で見ていました。

つまり、今の共産党が多少の理由で打ち上げをやめるわけがないので、
自分が搭乗を拒否すれば、きっとガガーリンが死ぬことになるだろうと。

ガガーリンは自分を国が死なせるはずはないと信じていましたが、
彼は共産党政権の非情さを見くびっていたのだろうと思います。

コマロフはそれらすべてを承知の上で死の任務に就いたと言われています。


ソユーズ1号の技術者達は、党指導部に、
ソユーズには200箇所の設計上の欠陥がある
ことを報告していたらしいのですが、

「宇宙開発における一連の快挙によってレーニンの誕生日を祝う」

という政治的圧力の前には、技術者の意見など無力でした。

つまり、ソユーズ1号の事故は起こるべくして起こったわけです。
検索すると、もはや人間だったとは思えない炭化した物体を前に、
(´・ω・`)となっている軍人たちを写した写真が出てきますが、
彼らは自分の忠誠を誓う国家が、一人の人間をこんな姿にしたことに
果たしてどのような気持ちを抱いていたのでしょうか。

そして、当時のソ連国民にとって、コマロフの惨死は、
凄まじいばかりの衝撃だったと言われています。

ソ連ではソユーズ1号の事故の後、ソユーズ計画を18ヶ月停止しました。


不思議なことにアポロ1号の事故はソユーズ1号の3ヶ月前に起きました。
アメリカもやはり宇宙計画そのものをしばらく停止し、
基本的方向性を大幅に見直すという、ソ連と同じ経緯を辿っています。

奇しくもわずか3ヶ月違いで起こった米ソの悲劇的な事故は、
人類がまだ到達したことがない峻厳な技術の高みを目指すとき、
そこに驕りはないか、競争に目が眩んで何かを見失っていまいかと、
宇宙、或いは神と呼ぶ絶対的な存在が自省を促すために人類に与えた、
あまりにも残酷な警告だったというべきなのかもしれません。


死ぬと分かっていながら宇宙へと旅立った男の話

この映像の解説では、もしコマロフが拒否しても
ガガーリンは搭乗させられることはなかっただろうと言われている、
としていますが、わたしはそうは思いません。

ガガーリンが宇宙飛行から遠ざけられたのは、事故が起こってからのことでした。
そもそも眼前に炭化したコマロフの遺体を突きつけられるまで、
ソ連国家は科学技術をあまりにも過信していたからです。

1967年4月26日、ウラジーミル・コマロフはモスクワで国葬で葬られ、
その遺灰は赤の広場にあるクレムリン壁墓所に埋葬されました。

アメリカの宇宙飛行士は、代表者をコマロフの葬儀に参列させてほしいと
要請しましたが、ソ連政府はこれを断っています。


続く。




ミニットマンIIIミサイル〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

前回まで、戦後のV-2から技術発展させた飛翔体ミサイルについて
歴史的に順を追い、さらにここスミソニアン航空宇宙博物館に
展示されているロケットの実物やレプリカの写真と共に語ってきました。

そして、あっという間に宇宙開発と並行して研究されてきた
ICBMの時代が幕を開けることになった、というところからです。


ソ連もアメリカも、戦後の冷戦の期間に競って研究してきたのは、
つまり「核兵器を運搬するための強力なミサイル」でした。

アメリカに限っていうと、陸上で運用する大陸間弾道ミサイルICBMとして、

アトラス、タイタン、ミニットマン、ピースキーパー(MX)

海上で運用するSLBM潜水艦弾道ミサイルとして、

ポラリス、ポセイドン、トライデント

を配備していました。

ちなみに冒頭写真の真ん中のペールグリーンのミサイルは、
今日ご紹介する「ミニットマン」です。


技術の進歩はミサイルの精度を格段に変えました。
短時間で発射でき、かつ複数の弾頭を搭載できるようになりました。

このように性能が向上したことで、ミサイルはより魅力的な武器となります。


■アトラスとタイタン:宇宙飛行に使われたミサイル

アメリカ初のICBMである「アトラス」と「タイタン」が、
宇宙船の打ち上げロケットとして民間宇宙開発にも使用されたことは、
今まで何度もマーキュリー計画を語る上で触れてきています。

【アトラス】

アトラスは1962年にジョン・グレン宇宙飛行士を乗せたマーキュリー宇宙船
「フレンドシップ7」を初めて軌道に乗せました。

その後、アトラスは

「エイブル」「アジェナ」「ケンタウルス」

などの上段と組み合わされ、
さまざまなアメリカの宇宙船を打ち上げる役割を果たします。

タイタンIIは、1965、66年にジェミニ計画全10ミッションを打ち上げ、
その後改良を加えつつ、大型の惑星探査機や軍事衛星の打ち上げに使用されました。


アトラスの打ち上げ

宇宙船を打ち上げるのみならず、元々ICBMであるS M-65アトラスは、
兵器として1959年から1965年まで現場に配備されることになりました。

しかし、完成まで長い準備期間を要した割に、
わずか6年で廃止になった理由はなんだったかというと、
雪崩のようにミサイル開発が進んで、たちまち陳腐化したことと、
迅速な発射ができない
という、兵器としては割と致命的な欠陥にあったといわれております。

しかし、宇宙ロケット打ち上げに関しては何の問題もないので、
アトラスは宇宙開発の方面で長らく活躍し、その歴史を刻みました。

あの「マーキュリー計画」では、結果的に
宇宙飛行士4名を軌道に乗せる働きをしています。

アトラスの派生形である、
アトラス「ジェナ」、アトラス「ケンタウルス」
ファミリーは宇宙開発の成功の礎を築いたと言っても過言ではありません。


アトラスの推進機構は、2基のブースターの間に1基の主エンジンを持つ、
「ステージ・アンド・ハーフ」方式といわれる液体燃料ロケットです。

Stage-and-a-Halfとは、アトラスロケットが、後に実用不可能となる
多段式ミサイルの製造というリスクを避けて採用した独自の方法で、
2基のブースターとサステインエンジンの3基のエンジンに、
同じ液体酸素/RP-1(ケロシン混合燃料)推進剤タンクを供給し、
発射時にすべて点火するシステム
です。

飛行開始後、軽量化の為ブースターを落下させ、燃焼を続けるというもので、
2基のブースター・エンジンLR-89は、ロケットダイン社が開発しました。


フロリダのNASAビジターセンターには、
このアトラスロケットが展示されているということですが、
わたしはアメリカに住んでいた頃、ここに見学に行っていながら、
当時はあまりに宇宙事業に対して基礎知識がなかったため、
アトラスロケットを現物を見たかどうか全く記憶にありません。

フロリダNASAビジターセンター

まあこういう感じで十ぱ一絡げにロケットが林立しているので、
当時のわたしに何らの記憶も残らなかったとしても無理はありません。

わたしが今も強烈に覚えているのは、発射センターを再現した空間で行われる
当時の発射までのカウントダウンの再現と、外にあった
任務中殉職した数々の宇宙飛行士たちの名前を刻んだメモリアルです。


【タイタン】

タイタンIはアメリカ発の多段式大陸間弾道ミサイルで、
同じく1959年から3年間だけ運用されました。

タイタンIは空軍のアトラスミサイルの「予備機」として設計されましたが、
最終的にはアトラスに負けた形であまりにも早い引退となりました。

最初からアトラスのバックアップということだったので、製造元が
プロジェクトに真剣に取り組まず、失敗が結構多くて空軍が不満を持ち、
その分タイタンIIに期待が集まった
という話もあります。

タイタンは、1962年にアメリカ戦略航空軍で運用が開始され、
万が一の攻撃から守るため、地下の硬化型サイロから発射されました。



1965年に配備された改良型のタイタンII打ち上げ。

サイロからの発射は、万が一、敵の核による先制攻撃があったとしても、
ここだけはそれを乗り切り、二次攻撃で報復することを意味します。

また、そのことを抑止力とする目的がありました。

タイタンIIはタイタンIの2倍のペイロード(搭載量)となり、
米軍のICBM中、最大の核弾頭を搭載することができました。

推力方式も変わったので、以前のようにサイロからいちいち機体を引き出して
燃料を添加しなおさないといけないという面倒は無くなりました。


【もし、大統領の発射命令が下されたら?】

今でもそうですが、核の使用権限は大統領に委ねられています。
当時もタイタンIIの発射命令は、アメリカ大統領が独占的に有していました。

「核のボタンを持っている」

とはそのことを指しています。

この当時、明文化されていた、発射命令までの手続について、
その「手順」は次のようなものになります。

発射命令が出される

SAC本部やカリフォルニアのバックアップからサイロに発射コードが送られる
この信号は、音声で35文字の暗号となって伝えられる

2人のミサイル・オペレーターが、その暗号をノートに記録する

オペレーターは、ノートにコードを記録し、そのコードを照合
もし一致すれば、ミサイル発射の書類が入った赤い金庫に向かう

金庫の鍵はオペレーターごとに分かれており、
オペレーターは自分だけが知っている組み合わせでそれを解錠

金庫の中には、表に2つの文字が書かれた紙の封筒が何枚も入っているので、
その中から、本部から送られてくる35文字の暗号に埋め込まれた

7文字のサブコードの最初の2文字が書かれた封筒を選んで開ける

封筒の中には、5文字が書かれたプラスチックのクッキー?
が入っており、
それがサブコードの残り5桁と一致すれば、初めて打上げ命令が認証される

このメッセージには、ミサイルのロックを解除するための

6文字のコードも含まれ、このコードは、さらに
ミサイルエンジンの酸化剤ラインのひとつにある

バタフライバルブを開くため、別システムで入力される

ロックが解除されると、そこで初めてミサイルは発射可能な状態になる

メッセージの他の部分には、発射時刻が書かれている
それは即時かもしれないし、将来かもしれない

二人のオペレーターはそれぞれのコントロールパネルにキーを差し込み、
それを回して発射させる
キーは2秒以内に回し、5秒間は押し続けなければならない

それは同時に行われなければならないが、1人で2つのキーを回すには、
コンソールの間隔が広すぎるので、二人で行う

うまく回せると、ミサイル発射のシークエンスが開始

タイタンIIのバッテリーが完全に充電され、サイロの電源から切り離される
サイロの扉が開き、制御室内に
「SILO SOFT」の警報が鳴り響く

タイタンIIの誘導システムがミサイルの制御を行い、
ミサイルを目標に誘導するためのデータを取り込むように設定される

メインエンジンの点火開始

数秒間推力を蓄積させた後、サイロ内でミサイルを固定していた支柱を
火工品ボルトで解放し、ミサイルを離陸させる


1980年代半ばになると、アトラスミサイルの改修品の在庫が
品薄?になっていたので、空軍は
退役したタイタンIIを宇宙打上げ用に再利用することを決定し、
1988年最初のタイタン23G宇宙用ロケットの打ち上げに成功しています。

1962年から2003年の間に、282機のタイタン IIが打ち上げられましたが、
そのうち宇宙打上げに使用されたのは(たったの)25機でした。

■ミニットマンIII

ミニットマン(Minuteman)というと、わたしは条件反射で、飲料、
「ミニッツメイド」を思い出してしまうわけですが、
何と今回、ミサイルのミニットマンも飲料のミニッツメイドも、
その語源は独立戦争の時パトリオットと共闘した
民兵=ミニッツのことだったと思い出しました。

昔、ボストンのアーリントンという街に住んでいたことがあるのですが、
隣の街が空母の名前にもなっている「レキシントン」で、
家の前を通る幹線道路を車で15分行くと、この像が立っていました。


ミニットマンの像

ミニット=1分、つまり1分で出撃OKな人たちのことです。

さて、そこでここスミソニアンでその実物が拝めるミニットマンですが、
やはりこちらも1分で発射OK、ということでこの名前になったようです。

Launch With A Minte’s Notice

ということですね。


ミニットマン・イン・ザ・サイロ!
いうてサイロというより井戸の中って感じです。

3段式のミニットマンミサイルは、アメリカの標準的なICBMとなりました。

初期のサイロ発射式ICBMは、発射準備に時間がかかるのが難点でしたが、
ミニットマンはさすが1分でOKマン、それはもう即応性のあるミサイルです。

これは燃料を固体燃料にしたから、ということのようです。

液体だと発射直前にいちいち燃料の酸化剤を注入しなければならず、
しかもロケットをサイロから出すので時間がかかってしまっていたんですね。

初代ミニットマンは1962年から西部・中西部のミサイル基地に配備され、
各ミサイルには核弾頭が1つずつ搭載されていました。

その後、改良された「ミニットマンII」と「ミニットマンIII」が登場します。

1970年に配備された固体推進剤使用の3段式ミサイル、ミニットマンIII。
長年にわたって最大3基の独立した標的を攻撃できる核弾頭を搭載しました。


スミソニアンに展示されているのはミニットマンIIIです。

ミニットマンIIIは、独立した標的の核弾頭を3つ搭載することができます。
1970年以降、実に約550基のミニットマンIIIが米国に配備され、
現在も国内に残っている唯一運用可能なICBMです。

Arms Control agreements(軍備管理協定)

では、現在ではそれぞれを単一の核弾頭に制限することに決まっています。
これはおそらく、当初は軍備管理協定の中の1972年に締結された

弾道弾迎撃ミサイル制限条約
Anti-Ballistic Missile Treaty ABM条約


のことだったと思われますが、このアメリカ合衆国とソビエト連邦間における
弾道弾迎撃ミサイルの配備を制限した条約は、2002年にアメリカが脱退し、
無効化されているので、「Now」がどうなっているのかは分かりません。

最初に締結された条約の内容は、米ソともABM配備基地を
首都とミサイル基地一つの2箇所に、のちに1箇所に制限するもので、
これに基づき、ソ連はモスクワ近郊、アメリカはノースダコタ州の
グランドフォークス空軍基地にミサイルを配備していました。

1990年代に入り、中小国も弾道ミサイルが装備されるようになると、
アメリカはそれに対抗するためにミサイル防衛に乗り出すのですが、
結論としてこのミサイル防衛がABM条約に抵触することから脱退しています。

現在はブッシュ-プーチンの時に結ばれたモスクワ条約が有効のようですが、
それによると、アメリカではワイオミング、ノースダコタ、
そしてモンタナの空軍基地が所有するミサイルサイロに装備されています。

ここに展示されているミニットマンIIIミサイルは、
訓練と展示のためのもので、推進剤も弾頭も含まれておりません。


ファーストステージ(第一段)の下部ケーシングと呼ばれる部分には
コルクの剥離層が挿入されており、サイロから発射される際の熱、
大気中を上昇する際の猛熱から本体を保護します。

ただ、コルクはカビや腐敗に弱い有機物であるため、劣化を防ぐために
防カビ剤処理をしてあり、そのためこの緑色をしているということです。


現地に展示されていた「LIFT」と書かれた黒い板。
これはミニットマン・ミサイラー、ミサイル担当者
技術指令パッケージです。

打ち上げのための手順や関連する重要知識の説明、そして
長時間の勤務のため、カードのデッキ?を収納するためのものです。



開けたところ。


左上にあるのは空軍が1962年から採用した、当時未開発だった新技術、
集積回路(シリコン「チップ」)です。
迅速に目標を再設定することを目標にデータが入力されていました。

このチップは、その後ミニットマン製造契約により、
消費者市場へ導入されることになります。



ミサイルサイロでの長時間の勤務に備えたトランプもあります。
もしスマホがある時代でも持ち込み禁止だろうな。



真ん中に見えるのがこの「シニアミサイルマン」の記章です。



wiki

ミニットマンIIIの弾頭部分です。
左上が核弾頭を搭載する「バス」
右側のコーンが弾頭を待機の衝突から守る「シュラウド」という部分です。

ちなみに知らなくても全く困らない知識ではありますが、
ミニットマンIIIがどのように打ち上げられるかを書いておきます。

Minuteman-III MIRVの打ち上げシーケンス

1. 第1段ブーストモーターを発射し、サイロから発射される

2. 発射から約60秒後に第1段が落下し、第2段モータが点火
ミサイルシュラウドが射出される

3. 打ち上げから約120秒後、第3段モータが点火し、第2段から分離

4. 打ち上げから約180秒後、第3段モータが点火、第2段モータから分離

5. 再突入ロケット(RV)の展開に備え、機体の姿勢制御を行う
 
6. 後方離脱中にRV、デコイ、チャフを展開

7. 高速で大気圏に再突入し、飛行中に武装

8.核弾頭は空中炸裂または地上炸裂で始動

2019年9月現在の情報によると、アメリカ空軍はミニットマンIIIを
2030年まで運用する予定であるということです。



今も緑なのね

運用中のミニットマンミサイルは、年に3回ほどテストが行われます。

空軍は無作為にミサイルを選び、弾頭を取り外し、
カリフォルニア州のバンデンバーグ空軍基地に輸送され、そこから
約7,700km離れたマーシャル諸島にある試験目標に向けて発射されます。

この試験は、ミニットマン構成部品の精度や信頼性、
固体推進剤の経年劣化の影響に関するデータを収集するためのものです。


続く。





最終兵器を求めて スカウトD〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-24 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館の展示より、今日もまた
宇宙開発(という名の兵器開発)の過程で建造されたロケットを紹介します。

■最終兵器

冷戦が始まると同時に、米ソの戦略家と国家指導者たちは、
いかに敵の心臓部を素早く攻撃できるかという方法を模索し始め、
その答えは終戦と同時にドイツから持ってきた
「フライングボム」=飛行爆弾にあると考えられました。

つまり、のちの巡航ミサイルです。

しかし、ドイツから召し上げた初代巡航ミサイルのV-1は低速で精度が低く、
さらにそれを発展させたV-2も、ミサイルの原型としてはともかく、
この時代に使うには、あまりに精度も射程も不十分でした。

なにしろ冷戦時代の米ソは、ドイツがV-2で相手にしていた国との距離など
問題にならない遠方の敵にダメージを与えないといけないのですから、
それだけに状況に合った性能を持っていなければ話になりません。

そこで両国の技術者たちは、これらドイツの技術を発展させ、

V-1は長距離巡航ミサイル( long-range cruise missile )
V-2は大陸間弾道ミサイル(intercontinental ballistic missile ICBM)

へと改良されていきます。

【ナバホとトマホーク〜長距離ミサイル】



1946年に開発が始まったナバホミサイル(SM -64 NAVAHO)は、
ラムジェットエンジンを搭載し、長距離を飛翔する
大陸間巡航ミサイルを目指していました。

アメリカが戦後最初に取り組んだプロジェクトで、
V-2ロケットのエンジン研究から、より効率の良い新しい設計が試みられました。

1950年代には、無人による長距離飛翔体爆弾は、
まだ技術的に射程距離や精度が不十分で、
簡単に撃ち落とされてしまうという問題がありました。

1958年までの間、ナバホの研究は継続されていましたが、
そうこうしているうちに
長距離弾道ミサイル(ICBM)が実用化される見通しとなり、
開発の必要がなくなり中止されました。


【巡航ミサイルの分類】

1970年代に入ると、推進装置、電子機器、誘導装置の小型化が進み、
さらに偵察衛星によって詳細な地形図の情報が得られるようになってくると、
巡航ミサイルはいよいよ通常兵器や核兵器を搭載して実用可能となります。

巡航ミサイルの定義は、

「翼を持ち、推進力を伴って長距離を飛行し目標を攻撃するミサイル」

ですが、サイズ、速度、射程距離、発射される設備によって名称が違うので、
一応全部書いておきます。

ALCM( air launched cruise missile、空中発射巡航ミサイル)

GLCM(ground launched cruise missile、陸上発射巡航ミサイル)

SLCM(surface ship launched cruise missile、水上艦発射巡航ミサイル)

SLCM(submarine launched cruise missile、潜水艦発射巡航ミサイル)


水上艦と潜水艦の略字が同じですが、これはどちらでも通じるってことかな。
ちなみに空中や潜水艦から発射されるものは、運用の関係から
陸や艦から発射されるものより小型化されていました。

また、何を攻撃するかによっても名称が違います。

対艦攻撃:ASCM(anti-ship cruise missile、対艦巡航ミサイル

対地攻撃:LACM( land-attack cruise missile、対地巡航ミサイル)

また、巡航速度によっても二種類に分けられます。

亜音速巡航ミサイル(subsonic-speed cruise missile)

超音速巡航ミサイル( supersonic-speed cruise missile)

また誘導装置もミサイルによって異なり様々でした。

慣性航法、TERCOM、衛星航法など。

さまざまな航法システムを何種類も搭載できるミサイルもありました。

大型の巡航ミサイルは通常弾頭と核弾頭のどちらかを搭載することができ、
小型のものは通常弾頭のみを搭載することができます。

【トマホーク】


トマホーク

トマホークは、上記の分類に入っていませんが、分類としては
陸地攻撃ミサイル(ランドアタックミサイル・TLAM)です。

トマホークも分類分けしてみると、

海軍開発、艦船・潜水艦ベースの(SLCM)

陸上攻撃作戦に使用する(LACM)、


長距離、全天候型、ジェットエンジン搭載の

亜音速巡航ミサイル(Subsonic)

などがあります。

潜水艦から発射!

トマホークは、直近では2018年のシリアに対するミサイル攻撃で
米海軍が使用し、この時には66発のミサイルが
シリアの化学兵器施設をターゲットに発射されています。


【大陸間弾道ミサイル  ICBM】

ドイツのV−2から始まった長距離弾道ミサイル。

音速の5倍の速さ(極超音速)で移動することができ、
地上からの信号にも依存しないICBMは、当時にして
「究極の兵器」「最終兵器」と思われました。


1950年代後半から1960年代初頭の冷戦の最盛期には、
アメリカ軍はB-52ストラトフォートレス爆撃機
戦略的抑止力の主役にしていたというのは何度もお話ししてきました。

しかし、冷戦時代、ソ連が国力を上げてV-2の技術を改良しているとき、
相変わらず戦略爆撃機に重点を置いていたことは、宇宙開発の初期に
アメリカがソ連に引き離された原因の一つとなります。

なぜかというと、アメリカは最初、軍民宇宙計画に明確な区別をつけず、
ヴァンガード計画も表向き純粋な科学研究のためとしていた上、
科学衛星計画は非軍事という認識(というか建前)があったからです。

しかも、宇宙計画の責任や打ち上げ計画は、
実質軍部に任されていたというのに、肝心の空軍が
有人戦略爆撃機至上主義から一歩も出ていませんでした。

一方、ソ連はなまじ長距離爆撃機の戦力がアメリカに劣っていたため、
最初からV2を発展させて利用することに前向きでした。

そして国家の総力を挙げて開発したのが、
スプートニクを飛ばしたR-7ロケットです。


【ミサイルギャップ】

ミサイル「ギャップ」と打ったら、すかさず「ギャップ萌え」と変換される
わたしのPCですが、萌えている場合ではありません。

アメリカは、世界一の座にあぐらをかいていたのでしょう。

各種核兵器を現地に送り込む最も確実な方法は戦略爆撃機であり、
その方法ならソ連に負けるはずがない、と思いこんでいたのです。

しかし、同じドイツから技術と技術者を引っ張ってきておきながら、
ほとんど彼らを飼い殺しにしていたアメリカと違い、
ソ連はV-2技術を発展させ、世界初のICBM、R-7を作り、
そしてスプートニク1号を打ち上げてしまったのは歴史の示す通り。

アメリカの自尊心と自信をぶち壊したこの「スプートニク・ショック」は、
核の運搬方法において戦略爆撃機を上回る方法を敵に先に開発された
ということに対する恐怖を伴っていました。


【究極の武器とICBMの決定】

技術の進歩により、初期のミサイルはさらに強力な
「最終兵器」へと近づいていきます。

小型の熱核弾頭の開発は、広島と長崎に投下された原子爆弾よりも
遥かに強力な破壊力をミサイルに与えました。

1954年初め、アメリカ空軍にある極秘報告書が提出されました。

この極秘文書の内容は、最近の核兵器技術の進歩を踏まえた上で、
弾道ミサイルの効果を再評価する内容となっていました。

ミサイルギャップの時に議論されたことですが、この時戦略ミサイル評価委員会は、
長距離弾道ミサイルでロシアが米国に先行する可能性を懸念し、
空軍にミサイル開発を "極めて高い優先順位 "で扱う指令を下したのです。



■ポラリスミサイル 〜テクニカル・ブレークスルー

アメリカは、1953年までに水素爆弾を小型・軽量化することに成功しました。
つまり、ICBMの本体を大きく作る必要がなくなったのです。



1954年に南太平洋で行われたキャッスル作戦の「ブラボー」実験で、
小型化した新しい水素爆弾の実用性が確認されました。

ICBMの時代が到来したのです。

ちなみに、日本の漁船「第五福竜丸」が被爆したのはこの実験でのことです。


その後貯蔵可能な液体および個体推進剤により、ICBMS(大陸間弾道ミサイル)
地下サイロや、SLBM(submarine-launched ballistic missile)
つまり潜水艦から発射することができるようになります。
また誘導システムの改善により、精度が劇的に向上しました。



1960年にテストされたポラリスA-1アメリカ初のSLBMでした。

潜水艦という検出され難い装備から放たれるSLBMは当時
最も有効な戦略核兵器システムとして評価され、
米ソ両陣営で1960年〜65年ごろ配備されました。

ソ連側はSLBMと潜水艦をセットで開発して運用しています。

ちなみに、映画「K-19」で原子炉事故を起こした話が描かれた
「カ-19」は、ソ連海軍最初のSLBMを搭載した原子力潜水艦でした。


また、1970年代初頭には、

MIRVS Multiple independently targetable reentry vehicle
マーヴ、複数個別誘導再突入体

ひとつの弾道ミサイルに複数の弾頭(一般的に核弾頭)を装備し
それぞれが違う目標に攻撃ができる弾道ミサイルも現れます。


分かりやすいマーヴの弾道軌道イメージ

■スカウト:NASAの’ワークハウス’(主力製品)



この写真では右の、「UNITED」の文字が見えるのがスカウトです。

細長い円筒形で、ロケットの約半分まで徐々に細くなり、
直径の小さい第2段、直径の大きい第3段、第4段、
ペイロードセクションが熱シールドフェアリングに収納されています。

第1段の底部には4枚の固定式三角形空力フィンがあり、
フィンの外側は可動式で、方向制御と安定性を補助しています。

インジャンV(エクスプローラー40)とエクスプローラー39の
バックアップ衛星の2つのペイロードが見えるように、
この標本は上部が切り取られています。

1968年8月8日、スカウトDはオリジナルのペイロードを打ち上げました。



NASAが結成されて最初のタスクとなったのは、小型衛星と探査機を
宇宙に打ち上げるための信頼性の高いロケットの開発でした。

その結果NASAが開発したのはその歴史で最も小さかった

スカウト(SCOUT Solid Controlled Orbital Utility Test system)

です。
NASAは新しいロケットをできるだけ早く稼働させたかったので、
既存の固体推進剤ロケットのコンポーネントを使用して、
つまり既製品を使ってロケットを製造しました。

1段目は海軍のポラリスミサイル
2段目は陸軍のサージャントミサイル
そして上2段は海軍のヴァンガードからと言った風に。


短距離弾道ミサイル MGM-29 サージェント(Sergeant)

カリフォルニア工科大学と陸軍が開発したサージャントについては
少し前にもお話ししています。

スカウトに陸海ロケットを混ぜて使ったのは、忖度か内部事情か、
あるいは本当に科学的な理由によるものかは分かりません。


スカウトは「全米で最も成功した信頼性の高いロケット」と言われます。

Solid Controlled Orbital Utility Test system
(個体制御軌道汎用テストシステム)


の頭文字から取られた名称で、これまで打ち上げは118回行われ、
その成功率なんと96%を誇ります。

おそらく、スミソニアンに一緒に並んでいる各種ロケットの中で
最も評価が高く完成度も高い「優等生」に違いありません。

スカウトが打ち上げたのは、欧州宇宙機関のためにドイツ、オランダ、
フランス、イタリア、イギリスの衛星などを含み、
94の軌道ミッション(海軍の航法衛星27基、科学衛星67基)、
7つの探査機ミッション、12の再突入ミッションに関わりました。

スカウト計画に携わることによって、技術者たちは
米国の宇宙開発計画に独自の貢献をしたことになります。



当然ですが、開発当初から、スカウトの構成は進化し続けています。
各モーターは少なくとも2回改良され、ロケットエンジンの設計の改良により、
より大きなペイロードを搭載できるようになっています。

しかし、現在のスカウトG-1の形状は、開発当初とほとんど変わっていません。


確かに

これは取りも直さず、初期の設計の完成度の高さを証明していると言えます。


ロケットの各段には名前がつけられています。
「アルゴル」「キャスター」「アンタレス」「アルタイル」と。

ロケット1段目は「アルゴル」(Algol)

長さ9,144m、直径114cm。
このモーターは平均82秒燃焼し、最大推力は140,000ポンドです。
下部には、1段目の高度制御用ジェットベーンとフィンの先端があり、
最初の打ち上げ時に機体を操縦します。

第2段目の「キャスター」Castorは、長さ約6m、直径76cmの大きさです。
この段は41秒間燃焼し、6万ポンドの推力を発生させます。



第3段めのロケットモーター「アンタレス」Antaresは、
長さ3m、直径76cm。
第2段と第3段の制御は過酸化水素の噴射で行います。

第4段「アルタイル」Altairは、長さ152cm、直径50cmの小さなものです。
燃焼時間は34秒で、6000ポンドの推力を発生します。
その制御にはスピン安定装置が用いられています。


第4段とペイロードセクションを覆う熱シールドは、
コルクとグラスファイバーのラミネートでできています。

打ち上げ場は、バージニア州ワロップス島のNASAワロップス飛行施設
(ワロップスってネットスラングっぽい?)
カリフォルニア州バンデンバーグ空軍基地の西部試験場
それからアフリカのケニアにあります。



最初のスカウトは1960年に打ち上げられ、その後、モーターを改良し、
進化を続け、1972年に展示されているD型スカウトが登場します。

最後のスカウトが打ち上げられたのは1994年。

このロケットは1977年にNASAのバージニア州ワロップス島の施設より
スミソニアン博物館に寄贈されたものです。


続く。


映画「潜航決死隊」Crash Dive〜戦時下の三角関係

2022-06-22 | 映画

第二次世界大戦中の戦争映画「クラッシュダイブ」続きです。



副長として乗艦した最初の哨戒を無事成功させたワード・スチュアート大尉。

艦長コナーズの彼に対する第一印象は、決してよくなかったものの、
勝てば官軍終わりよければすべてよし、ということなのか、
ニューロンドンに帰港する艦橋で機嫌良さそうに、

「そのうち(君の乗りたくなるような)潜水式の魚雷艇が誕生するかもな」

とPTボート大好きマンのワードへのリップサービスをします。

これに対しワードは、50ノットの潜水艦なんていいですね、と言いますが、
2022年、つまり映画からサクッと70年後の現在では、
原子力潜水艦なら45ノット近くまで速度を出せるものがあるようです。

彼らの頃には高速駆逐艦でも最高時速40ノットちょっとが限界でした。
ワードは夢のような速さのたとえとして50ノットと言いましたが、
流石に潜水艦の50ノットは、今後も不可能かと思われます。

この時二人は初めて互いをファーストネームで呼び合い、
ポケットをまさぐるデューイにワードが煙草を薦めます。

二度目の共に喫煙シーンです。





彼らの潜水艦「コルセア」は帰還しました。
司令塔の潜望鏡にお約束のほうきをくくりつけて入港です。

これは特に潜水艦が「Clean Sweep」=海から敵を一掃したとして、
哨戒を成功させて帰港する際行う慣習です。

この慣習は1650年代オランダが発祥と言われていますが、
第二次世界大戦中の米国潜水艦部隊で盛んになりました。
箒を立てる基準は「すべての標的を沈めた場合」でしたが、
どの程度が「全て」なのかは判断の難しいところだったかもしれません。

哨戒とそれに伴う掃討作戦という潜水艦の出撃形態がなくなった今では、
せいぜい海上公試全てに合格した軍艦が箒を立てて入港するくらいで、
伝統は細々と意味合いを変えて継承されています。



それにしてもこのシーンには驚きました。
当時のアメリカには潜水艦士官用の日光浴サロンなんてのがあったんですね。

「あー、パームビーチを思い出すなあ」

「最初から魚雷艇に乗っていたらこんなことする必要ないんですけどね」


まだこいつ魚雷艇の話をするか。
パームビーチはフロリダ半島の左っ側のリゾート海岸です。




それから二人は将校クラブで「豪遊」開始。

「豪遊」とは、テーブルに着くなりセロリに歓声を上げてまず丸齧りし、
次々と生野菜、新鮮な牛乳とバター、果物を貪り食うこと。

哨戒帰りでビタミン不足の身体が求めているってことなんですね。

バターが来るなり歓声を上げて、1センチの厚切りにし、
二つ折りにしたパンに挟んでそのまま齧り付くってどんだけ。



給仕のリーさん(中国系)が運んできたのは特製野菜と果物の盛り合わせ。


牛乳ゴクゴクー

「sea cow(ジュゴン)からは牛乳取れませんからねー」

中国人リーさん精一杯の英語ジョークです。



その時デューイに電話が取り継がれました。
てっきり恋人のジーン・ヒューリットが折り返してきたのだと思い、

「ハローダーリン、アイラブユー💓」



「・・それはどうもご丁寧にありがとう、デューイ」

ブライソン司令は、今回の哨戒成功に対し功労賞が与えられるので
代表として艦長にワシントンに出張するよう命じてきたのです。



「コルセア」のチーフ、マックにも昇任の話が持ち上がりますが、
彼は健康を理由に、それを辞退しようとしています。

なぜか彼のことが好きでたまらない黒人スチュワードの
オリバー・クロムウェル・ジョーンズ水兵は、
退役後の年金が上がるから、辞めるにしても話を受ければ?と心配します。

しかしマックの昇進辞退の理由は実は他にありました。

彼は、先の大戦で、潜水艦配置を健康を理由に拒否していました。
しかし、本当の理由は潜水艦に乗るのがどうしても怖かったからでした。

その後、彼は自分が乗るはずだった潜水艦が哨戒で撃沈され、
乗員全員が戦死したことを知ります。
以来彼はずっと、潜水艦から逃げた弱い自分を許せずにきたのでした。

そんな自分にこれ以上の昇進など許されないというマックに、
息子のような歳のオリバーは、こういうのが精一杯でした。

「人間は誰だって完璧じゃありませんよ」



さて、ここはジーン・ヒューイットが先生を務めるなんちゃら女学校。
アーチェリーの授業が行なわれています。

女学校でアーチェリーの授業なんかやるか?と思われるかもしれませんが、
アメリカ、特に東部の学校は、小中高を問わず敷地が広いので、
寄宿制のプライベートスクールならばありだと思われます。

例えば昔MKをサマースクールで参加させていたボストン郊外の小学校は、
プールはもちろん、広大な芝生の専用サッカー場が何面も完備、
なんなら夏にはボストンレッドソックスの選手をコーチに迎えて
ベースボールキャンプをするくらいのグラウンドがありましたから。

それにしても、このジル・ヒューイットとかいう先生の服装がすごい。
白のミニスカートに真っ赤なウェッジソールのサンダルでアーチェリーって。
体育の授業を行う格好にしては、非実用的で派手すぎないかい。


そこに、1941年型のマーキュリーコンバーチブルを学校内に乗り入れ、
迷いなくこちらに向かってやってくる男がいました。

イケメンストーカー、ワード・スチュアートです。



まーた始まった。

乱入男のために授業を中止し、生徒を追っ払って二人きりになる教師、
夕食の約束をしないとここから出て行かないとまたしても脅迫する男。

どっちもおかしいよ?



その夜のデート、しっかり着飾って車に乗ったジーンを隣に乗せ、
ワードは行き先を言わず、かれこれ3時間も車を走らせています。
すでに州境を越え、車はマサチューセッツに来ていました。

普通なら一体どこの山の中に連れて行くつもり?とか心配になりませんかね。



彼が連れてきたのは自分の実家でした。
豪邸から執事が出てきてお出迎え。
なるほど、これが見せたかったのか。

騙されて自宅に連れ込まれた!ととりあえず女が怒って見せていると、



自称サバサバ系の金持ちばーさんが出てきて、

「新しい娘(こ)?」「ふーん、今度のはよさそうね」

などと謎の上から目線で品定めされ、
いつの間にかペースに巻き込まれて居座る羽目になりました。

この孫にしてこの婆あり。




婆さん、タバコをスパスパしながらアルバム紹介。



そろそろ帰らねば、というジーンにワードはタバコを勧め、その際、
ケースに挟んであったジルの写真(新聞からの切り抜き)をチラ見せ。

「最初に見た時衝撃を受けた」

「航海中も君のことばかり考えていた」


と懸命に口説くのでした。



ニューロンドンに着いたときには、すっかり朝になっていました。

ワードは自分の海軍兵学校のクラスリングを彼女の指にはめて口説き、
(今まで同じ手を何度使ったんだろう)
やっぱり最後はこうなってしまうのでした。

彼氏がいるのに、男が強引なのをいいことに、
案の定なるようになってしまう女性に対し、ほとんどの赤の他人は
(これが現実ならば)嫌悪感のようなものを持つのかもしれません。

しかし、もし現実にタイロン・パワー並みのイケメン海軍士官、
高級車と豪邸に執事付き、ボストンの名家御曹司がぐいぐい迫ってきたら、
もうこれは白馬に乗った王子様がネギ背負ってやってきたみたいなものです。

今カレの小市民ぶりにうんざりしているジーンのような上昇志向の強い女、
自己評価が無駄に高い女ほど簡単にこうなってしまうのかもしれない。

映画「サブマリン爆撃隊」も、金持ちの御曹司が海軍に入る話でしたが、
その財力にものを言わせて、リッツやホテルのディナーで女性を口説き、
女性も案外あっさりとその気になっていましたっけ。

つまり映画は、それに共感する層をターゲットにしているのです。
映画は大衆の望みを再現しようとしますから。

ワードは美貌と財力、家柄能力を兼ね備えた完全な男として描かれます。
そんな男に自分が熱烈に求められることを夢みる女性たちのために。



翌日、ニューロンドンの潜水艦基地には、
ワシントンに出張に行っていたデューイを乗せた連絡機が帰ってきました。

海軍はワシントンとの往復も水上機で行なっていたのでしょうか。



二人で牛乳をがぶ飲みしながら次の任務の打ち合わせ中、
中佐に昇進したデューイは、これで結婚するつもりだ、と言い出します。



おめでとうございます、と言った途端、ワードは寝室に飾ってある写真が
今朝別れ際に熱く抱擁した女性と同一人物であることに気づきました。



ショックを受けたワードは、将校クラブにいるというジーンに会いに行き、
どんなつもりで二股しているんだ、と相手を問い詰めます。
女の言い訳は以下の通り。

1、最初は関係ないと思った
2、でも違った
3、あなたとは会わないように努力したけどあまりに強引だった
4、デューイのプロポーズは断る
5、あなたの言葉に私は心を打たれた
6、デューイを愛していない
7、あなたが現れなければ彼と結婚していた
8、今からデューイに正直にいうべきだと思う




その時。

「その(正直に話す)必要はない!」

たった今、全部聞いてしまったからですねわかります。
デューイ、君怒っていいよ。



USS「コルセア」は、気まずい二人を乗せて出航してしまいました。

おずおず声をかけるワードを、デューイはミスター・スチュアートと呼び、
その話は帰国するまで一切するな!と冷たく釘を刺すのでした。



まあここからは仕事だから切り替えていこう。

今回の任務は、ドイツ軍のUボート基地を見つけ、破壊することです。
しかし映画評ではこのシーケンスの評判もめっぽう悪い。

「北大西洋にあるドイツ軍のUボート基地?それはどこにある?
第二次大戦中の潜水艦の性能を考えると、
その基地はブロック島(カナダ)かマーサズ・ヴィンヤード、最悪でも
ニューファンドランドのグランドバンクでなければならないだろう」

「映画は、ナチスが大西洋の神話上の小島のどこかに
秘密の潜水艦基地を建設したなんてことを信じろというのか。

彼らはニューロンドンからほんの短い航海
で基地に到着するが、
さて、ナチスは一体どこで活動していたのだろう」


マーサズ・ビンヤードはボストン沖のケネディの別荘地がある島です。

たしかに映画にの表現(帰港時乗員の髭が全く伸びてない)を見る限り、
これ絶対近場しか行ってないよね、と思われても仕方ありません。

もっと辛辣な批評者は、

「実際に軍隊に入り、戦地を知っているタイロン・パワーは
後年これを見てその馬鹿馬鹿しさを笑っていたに違いない」


とまで書いています。

しかし、実際のところ、第二次世界大戦中の米国の潜水艦は、
真珠湾から日本の本拠地に行き、数週間パトロールし、
ディーゼル燃料の単一のタンクで真珠湾に戻っていました。

ガトー級潜水艦なら給油なしで11,000マイルをカバーできるため、
グロトンからドイツの本拠地をパトロールし、
帰ってくることができたと考えられます。

ナチスの基地はきっとグリーンランドにあったんじゃないかな(適当)


それから、前にも一度書きましたが、アメリカの潜水艦は、
大西洋側にはほとんど哨戒にも出なかったと言われています。

連合軍は基本的に大西洋にいる潜水艦=ドイツ軍のUボートだと考え、
有無を言わさずその場で攻撃される可能性が高かったためです。

実際、あるアメリカの潜水艦は、この映画の舞台であるニューロンドンから
大西洋を通ってパナマ運河に向かいましたが、その後消息不明になりました。
いずれの側からかはわかりませんが、攻撃され喪失したとされています。

それでも映画で大西洋で戦う米潜水艦の話がなぜ後を絶たないかと言うと、
前にも言ったように、そこには「Uボートがいたから」に違いありません。





哨戒中、副長ワードは油槽船を見つけ、撃沈しようとしますが、
艦長は即座にその提案を拒否します。

てっきり私情を交えたイジメか?と思ったらそうではなく、艦長の考えは、
油槽船をつけていって、敵基地を発見することにありました。

防潜網も一瞬開くので、一緒に潜り込めば良いと。
しかもタンカーのプロペラの後方をついて行けば機雷を避けられます。

そんなうまい話があるのかと思いますが、そう言うことにしておきます。



目論見通りタンカーはナチスの基地に潜水艦を連れて行ってくれました。
向こうに見えているのはアルプス山脈だと思います(適当)



機雷原の長いトンネルを抜けるとナチス海軍基地であった。by川端康成
だからそれはどこにあるんだよう!


艦長は、早速志願者からなる陸戦隊を派遣して爆破作戦を決行します。
急襲部隊を率いるのは副長のスチュアートです。



上陸部隊は夜陰に乗じるため顔に墨を塗って黒くしますが、
黒一点のオリバーは自分は必要ない、とおどけます。

オリジナルは
”I'm the only born commando here!”
で、コマンドーは水陸両用奇襲部隊のことですから、
『ここで俺だけが生まれながらのコマンドーだ』
となります。

普通に人種差別ネタですが、今ならポリコレがあって
こう言う基本的なギャグも言えなくなっています。

本当ポリコレって(略)



ワードは、生きて戻れなかった時のために一言だけ、と断ってデューイに

「私のことはどうでもいいが、ジーンを責めないで欲しいんです
自分はあなたとジーンの関係を知らなかった。
知っていたらあんなことにはなっていませんでした」


言いたいことはわかるが、出会った途端ガンガン口説き始めて
彼氏の有無も知ろうともせず、相手に考える隙も与えなかったのは誰?

それに、その理屈なら、悪いのは自分ではなくジーンだって言ってない?
実際この件で誰が一番悪いかというと、二股した彼女なんだし。



まあそれはどうでもよろしい。実際どうでもいいし。


8人の上陸部隊は浮上して舟艇に乗り込み、30分の間に
敵をなんとかしてこいというミッションを与えられました。

上陸後、タンク、弾薬庫など、どこに何があるかわからないのに
彼らはチームに分かれて爆破活動を開始します。



歩哨の隙を見てタンクに爆発物をテープで貼り付けて仕掛け、爆破。



ピースオブケーキ=あっさりと成功です。



チーフのマックとオリバーのチームも爆薬倉庫の爆破に成功。
ドイツ軍、ちょっと油断しすぎじゃないかい?



地上が混乱している隙に、潜水艦の魚雷が港湾の艦船を襲います。

このシーンで、燃える海に人が飛び込んでいるのですが、
どうやって制作したのか、合成映像となっています。

この時代にしてはすごい技術で、後から知ったところによると
本作品はこの襲撃シーンの特殊効果でオスカーを取っているのだとか。



「ファイア・ファイブ・・・ファイア・シックス」



容赦無く畳み掛けるように船を攻撃する潜水艦。
弾薬は勿論きっと燃料もぎりぎりまで使い果たしたに違いありません。



ここで実行部隊に犠牲者が出ました。
撤退の際、チーフのマックが銃弾に斃れたのです。

瀕死のマックは泳いで逃げるオリバーとワードを掩護するため、
最後の力を振り絞って立ち上がり、敵を掃射して海に落ちて行きました。


燃え盛る海面を潜水艦まで戻るため、二人は息を止めて
海中を泳ぎ切りました。



潜水艦は先ほどからの攻撃で潜望鏡が破損し潜水することができません。

艦長は海上航走で退避することを決定しますが、その方法がすごい。
自分が艦橋に残り、潜水艦の目となって操舵の指示を行うというのです。



この状態である。

潜水艦が9メートル沈降して、その深度を保ったまま進むと
自動的に上に立っている人は胸まで海水に浸かることになります。

詳しい方も多いのでマジでお聞きしたいんですが、
これは現実的には可能なんですか?

胸まで海水に浸かっていたら流されないかとか、中と外で、
しかも外の人は肩まで水に浸かっているのに交信できるのかとか。

周りでは流出した油で火が燃え盛ってるし、どう考えても無理ゲーですよ。

しかも艦長、この状態で外から指示して、湾内に停泊したドイツ船を狙い、
魚雷攻撃で撃沈させたりしております。



潜水艦はその状態でようやく湾口に辿り着きました。

少し安心した艦長が深度を7メートルまで上げさせます。
胸まで浸かっていた状態からちょっとマシになるかと思ったのですが、



ちょうど沿岸の砲撃隊からの攻撃があり、運悪く艦長負傷。



皆が慌てて艦長を艦内に引きずり入れました。
床に倒れたままの艦長、なんとここで煙草を所望するではありませんか。



すかさずワードがポケットからシガレットケースを差し出すと、
(この人さっき海中を潜って泳いできたばかりじゃなかったっけ)
中からジーンの写真がこれみよがしに落ちました。

な、なんてことするだー!

今にも死にかけてる人に、その仕打ちは酷すぎませんか。

しかし、艦長はそれを見ても眉ひとつ動かさず、

「(落ちないように)貼り付けておけ。失くすぞ」

と一言。
これは自分は身を引くから二股女とよろしくやれという意味でよろしいか。



次の瞬間「コルセア」は無事にニューロンドンに帰還しました。
潜望鏡が壊れて潜水できない状態でよく無事に帰ってきたものです。

この映像は本物の潜水艦ですが、



次の映像からセット撮影になりました。
折れた潜望鏡の間には「お掃除完了」の箒もちゃんと立ってます。



艦長、死にかけてたと思ったけど、軽傷だったみたいでよかったですね。



そして次の瞬間ジーンとワードは早々と結婚を済ませているのでした。

ボストンの実家を訪ねるジーンは、早速ミンクのコートを着込んでいます。
女学校の先生をやめてクラスがアップしたって感じでしょうか(嫌味)



実家で叔父のスチュアート提督と二人になった甥スチュアートは、
まだ潜水艦より魚雷艇がいいか、と質問され、こう答えます。



「魚雷艇は最高です!」



しかし、とつづけて、



「潜水艦は七つの海を股にかけ大活躍している」


「航空母艦は敵艦を沈める爆撃機を乗せており」


「巡洋艦はそんな航空母艦の護衛を行う」



「そして、弩級戦艦、超弩級戦艦」

ドレッドノート、スーパードレッドノートと言っています。



「そこから放たれる砲弾の威力は計り知れない。
各々が役割を果たし、一丸となって戦っているんです」



「任務に優劣などなありません」



「兵士たちは高速魚雷艇、潜水艦、沿岸警備艇、
機雷敷設艦、補給艦、軍隊輸送艦、強襲揚陸艦、油槽艦に乗る。
それらを動かし、戦地に赴くのです」


海軍だけでなく沿岸警備隊にも気を遣っていますね。



「それが海軍です。アメリカ合衆国海軍なんです!!!」

音楽はいつの間にか「錨を揚げて」になっています。

甘ったるいラブストーリーを冗長に展開していたと思ったら
いきなり早回しで都合良いところに落としこんでからの、
このゴリゴリジンゴイスティックなエンディング。

そうか、ただの国威発揚映画(ロマンスのおまけ付き)だったのか。



終わり。




映画「潜航決死隊」Crash Dive〜魚雷艇から潜水艦へ

2022-06-20 | 映画

今回の映画は1943年、第二次世界大戦真っ只中にリリースされた
潜水艦&恋愛映画、「クラッシュ・ダイブ」です。

例によって邦題は無難な「潜航決死隊」となっていますが、
原題のCrash Diveとは、潜水艦の急速潜航の時の号令そのままです。

時期的にバリバリの海軍プロパガンダ映画でもあるのですが、
そこはアメリカ、当時大人気だった美男俳優タイロン・パワーと、
これも美人女優で人気絶頂だったアン・バクスターを絡ませ、
男性にも女性にも、全方位に受ける作りを目指しています。

なお、パワーと美女バクスターを取り合うことになる潜水艦の上官役に、
「我らの生涯の最良の年」で成功を収めた演技派のダナ・アンドリュースと、
当時としては最強の布陣で撮られたといっても過言ではない戦争映画です。

ただし、わたし個人の評価はあくまでもB級戦争映画に留まります。

その理由は戦争映画なのにロマンス要素を盛り込みすぎ。
あちこちに受けようとして、どちらからも嫌がられるタイプですね。

さらには、恋愛部分はあまりにも都合が良すぎて嘘くさいし、
肝心の戦争部分は、あまりにスリリングすぎてこれも現実味がゼロです。

戦争中のプロパガンダ映画ですから、当然ながら海軍も
これで入隊者が増えたらいいな的な意図で協力しているはずですが、
この映画を見て潜水艦に乗ろうと思う人が果たしていただろうか、
といらぬ心配までしてしまいます。


それではとっとと始めましょう。

潜水艦隊の徽章をバックに、監督のアーチー・メイヨーの名前が出たあと、
コネチカット州ニューロンドンの潜水艦隊の士官・下士官兵の皆さんに
映画制作協力についての厚い御礼が掲げられます。

ニューロンドンにある潜水艦博物館については、
当ブログで訪問の上、色々ここでお伝えしたことがあります。

この映画には、そのとき博物館で名前を見た当時の潜水艦の実物と、
それに乗り組んでいた実際の軍人たちの在りし日の姿が映し出されています。


劇中音楽担当はエミール・ニューマン。

テーマソングはマーチのリズムで「錨を揚げて」に代わり終わる、という
この頃の海軍協賛映画にはよく見られる技法によるものですが、
正直、フレーズの解決一つとっても音楽的にあまりいい出来とは思えません。

作曲者は有名だった「作曲一家」ニューマン・ファミリーの一員で、
ほとんどが低予算からなる200本以上の映画音楽を手がけた人です。


映画は撃沈された船の救命ボートが、トルピードボート、通称PTボート、
アメリカ海軍の高速魚雷艇部隊に発見されるところから始まります。



魚雷艇部隊指揮官はタイロン・パワー演じるワード・スチュアート大尉。

映画の配役には「タイロン・パワー U.S.M.C.Rとして」とありますが、
これはタイロン・パワーが映画撮影時点で現役軍人だったからです。

彼が海兵隊に入隊したのは1942年8月。
サンディエゴの海兵隊新兵訓練所(ブートキャンプ)での新兵訓練、
クアンティコ海兵隊基地での士官候補生学校に参加し、
1943年6月2日に少尉に任命されるというガチの軍人コースを辿りました。

職種は航空で、入隊前すでに180時間の単独飛行を済ませていたため、
短期間の集中飛行訓練によってウィングマークを手に入れ、
同時に中尉に昇格しています。

しかしながら、彼は当時30歳で戦闘飛行の年齢制限を越えていたため、
戦闘地域での貨物機の操縦士しかさせてもらえませんでした。

年齢さえ許せば、戦闘機で戦うつもりだったのでしょう。

1944年、パワーは副操縦士として海兵隊輸送飛行隊に配属され、
1945年2月にマーシャル諸島のクェゼリン環礁、
硫黄島(1945年2月~3月)と沖縄(1945年4月~6月)で、
貨物輸送と負傷した海兵隊員を搬送するミッションに参加しています。

そして、後年この時の任務により、三つの勲章を授与されました。

1945年11月に帰国したパワーは、現役を解かれた後も軍籍に留まり、
1951年予備役大尉、1957年に予備役少佐にまで昇進しています。

翌年に急死しなければ、おそらくその先もあったでしょう。

パイロットとしてのパワーの評判はよく、海兵隊航空隊の飛行教官は、

「彼は優れた生徒で、一度教えた手順や話したことを決して忘れなかった」

と激賞していますし、また、軍人としても優秀だったらしく、
軍隊の中からも、彼が尊敬されていたという話しか出て来ないそうです。

パワーが44歳という若さで心臓発作のため撮影中倒れて急死したとき、
(死因は劇症型狭心症)葬儀は現役軍人に対する栄誉をもって行われました。

先日ここで紹介した「緯度ゼロ大作戦」に悪役で出たシーザー・ロメロ
パワーの大親友だったため、葬儀で弔辞を読んでいます。

検索すると、撮影現場で衣装を着たまま倒れている写真も出てきますが、
彼はその目をしっかりと見開き、信じられないと言った表情で、
まさか自分がこの後すぐ世を去るとは夢にも思っていない様子です。

正直今でもタイロン・パワーの顔は華美すぎて好きではありませんが、
今回初めてこの俳優について知った一連の軍エピソードで、
現金にも個人に対する好感度は爆上がりしたことを告白しておきます。




さて、話に戻ります。

ボートの人員を魚雷艇に移そうとしていたら、潜水艦が現れました。
スチュアート大尉は一旦救助を中止し、潜水艦の攻撃を命じます。


魚雷艇というくらいですから、もちろん魚雷も搭載しておりますが、
潜水艦に対しては、爆雷を手動で落として攻撃しています。

この爆雷で、潜水艦は駆逐されました。



早速魚雷艇の功績を讃える記事が新聞の一面を飾ります。



パワー以外は本物の魚雷艇乗組員だと思われます。
(撃沈シーンで本当に操縦や通信、爆雷の投下も行っていることから推察)

パワーはこの時もう入隊していたので、写真に写っているのは
全員が軍人ということになりますね。



場面は変わり、ここはコネチカット州ニューロンドンの潜水艦基地です。


本物の潜水艦の甲板、本物の潜水艦員が写っています。
水兵さんたちはカードゲームをしているようですね。

向こうを通過していくのはUSS AG Sommes「ソムズ」という
「クレムソン」級ソナーテスト型駆逐艦です。

ソナーテスト型の駆逐艦があるということを初めて知りました。



多分本物、なぜか潜水艦のてっぺんで手旗信号している水兵。
係留中の潜水艦の上から、一体どこに何を通信しているのか。


乗艦のために岸壁を行進していく水兵たちの列の後ろから、
魚雷を搭載した運搬車が付いて行きます。



映画ではサービスとして潜水艦の魚雷搭載も見せてくれます。



さて、ここはそんなニューロンドンの潜水艦隊司令部。

司令部に呼ばれた魚雷艇長のワード・スチュアート大尉を迎えたのは、
彼の叔父であるところのスチュアート提督でした。

スチュアート家は代々海軍軍人を輩出してきた海軍一族です。

叔父スチュアートが甥スチュアートをわざわざ個人的に呼び出して、
何をいうかと思ったら、それは潜水艦への職種変換、転勤でした。

「せ、潜水艦・・・・?」(スチュアート大尉)

「潜水艦は人手がない・・・特に士官が足りんのだよ」

事情はわかりますが、PTボート乗りとしてPTボートに誇りを持ち、
他のどんな軍艦より強いPTボート最高、何ならPTボートと結婚してもいい、
ってくらいPTボートを愛しているワードに、これはあまりにもご無体です。



案の定、どんよりと暗い顔になるスチュアート大尉。

「昔経験しましたが、潜水艦は人が生活できる場所じゃないと思います」

汚くて狭くて暗くて怖くてキツくて厳しい潜水艦、
これからの人生で乗りたいとは決して思わない、とまでいうワードに、
提督はニコニコしながら有無を言わさず決定を言い渡すのでした。

軍人に配置拒否の権利なし。


ワードが不承不承頷いたそのとき、岸壁では
ちょうど潜水艦隊が出航していきました。
それを司令官室の窓(1階)から(見えるわけないのに)見送る二人。

これは2隻ともガトー級でよろしいでしょうか。



ところが、この出撃を複雑な思いで見送っている二人の軍人があります。

出航する潜水艦を羨ましげに見送る潜水艦「コルセア」艦長、コナーズ少佐と
先任下士官、チーフのマクドナルド(通称マック)です。

彼らは一日も早く戦列に加わりたいのですが、
副長のポジションが不在のままなので、出航できずにいるのです。


「出航できないので乗組員は太り、艦体にフジツボがついて・・」

やってきた潜水艦隊司令に、早速出撃できない愚痴を言い始めますが、
艦長、ご心配なく。



司令があなた方待望の副長を連れてきましたよ。

しかし、この副長とやら、どうも態度が悪い。
ニコニコしながら開口一番、前職のPTボートをやめたくなかった、
潜水艦には来たくなかった、などと余計なことを言い、
艦長をイラッとさせにかかります。

軍人には無駄にイケメンすぎるのもなんだか腹立たしい。(よね)

艦長、むかつきを抑えるためタバコを吸おうとするも、切れていたので、
目の前のニヤケ男に一本もらう羽目になりました。


反発し合う軍人が、嫌々?煙草をやりとりするというシーケンスが
先日ご紹介したジョン・フォードの駆潜艇ものにもありましたね。

この映画もそうですが、煙草は男同士の関係性を表す重要なツールです。

後半、この二人は戦いを経てのち、再びタバコをやりとりしますが、
互いへの感情は、全く最初とは違うものになっているという仕組みです。

これは「厭戦的なドイツ人将校が戦場でピアノを弾くシーン」と共に、
ある時期まで戦争映画のあるあるパターンだったようです。

戦時平時を問わず兵士たちの必携だった煙草ですが、(多分現在も)
映画の画面上では煙草そのものがタブーになってしまったので、
これからこのようなシーンが描かれることはないかもしれません。

煙草に限らず、最近のポリコレはっきり言ってうんざりっす(独り言です)


ここはニューロンドン駅です。



パリッとした制服に着替えた潜水艦長デューイ・コナーズ少佐は、
ベタ惚れの恋人、教師のジル・ヒューイットが、ワシントンに
優秀な生徒を見学旅行に引率するのを見送りに来ていました。

ジルを演じるのはアン・バクスターです。

この名前を見た途端、ネガティブな感情が湧いてきたのにふと気づき、
それはなぜだろうとよく考えたところ、バクスターが演じた
映画「イブの総て」のイブ・ハリントンという役柄のせいでした。

自分を売り込むために嘘をつき、人を陥れ、枕営業も厭わず、
一流スターの座を手に入れるためには何でもする美人だが「汚い」女、
というあのキャラクターがあまりに強烈な印象だったため、
わたしは彼女が他に何に出ていたかの記憶すらありません。

そういえばこの映画で彼女が演じるジル・ヒューイットというヒロインも、
特に女性から見るとかなり反感を持たれそうな役です。



のみならず、結構非常識な女性の役で、バクスターが気の毒になります。

まず、見送りにきた恋人に、寂しいから次の列車で一緒に来て💖と懇願。

あの、あなたは教師で生徒を引率してるんですよね?
無理です。いくら美人の恋人が頼んだところで、今は戦時中。
恋人は潜水艦乗り、もうすぐ出撃を控えてます。
なんだろう、もう少し公私の区別をつけませんか(ひろゆき構文)

そして、このワガママが聞き入れられないことが、
彼女にとって、のちの浮気やら心変わりやら実は愛していなかったやら、
そういう疾しさに対するエクスキューズとなる予定です。

あーやっぱりやな女だ。


彼らが遠足で向かうのは首都ワシントンD.C.です。
今ならコネチカットーワシントン間は飛行機であっという間ですが、
当時は夜行列車で一晩という長旅だったようですね。

ということで、ここで事件が起こってしまうのです。



列車にはちょうどDCに向かうワード・スチュアート大尉が乗っていました。

そして、ジル・ヒューイットが乗り込んだ自分の寝台に、
上下を間違えて、パジャマを着てすでに収まっていたのです。

しかし彼女、先客に気づかずガウンを脱いでシルクのネグリジェになり、
(昔は寝台車でこんなの着てたんだ)枕を整えて横になって、
初めて他人が横に寝ているのに気づいて叫び声を上げるのでした。

気付くのが遅すぎ。

これは、

「予期せぬ気恥ずかしい出会い、女が男に(理由を問わず)激怒」

という現在のドラマでも嫌というほどよくあるパターンで、
もちろんこの後二人は恋に落ちるという予定です。

ただ、この映画の見かけタイロン・パワー並みのイケメンですが、
これはこれでかなり問題のある男でした。



陽キャでやたら厚かましく、押しが強いんだこれが。
翌日の食堂車で生徒たちの目も構わず、グイグイ自己紹介。



彼女らのホテルの予約がキャンセルされて困っているのを見るや、
軍人枠の自分の部屋をチェックアウトして彼女らに部屋を譲り、

・・と見せかけて、彼女らの部屋に鍵を使って堂々と入っていきます。
そして、あなたはストーカーなの?と詰る教師に向かって居丈高に、

「いいか、ここは僕の部屋だぞ!」

「あなたはチェックアウトしたはずよ」


その通り。
チェックアウトした部屋に鍵を使って侵入、これは立派な犯罪です。

しかし、逆ギレしてお前が部屋を奪ったんだろうと相手を犯罪者呼ばわり。
僕は軍人だから、もし揉めても追い出されるのはそちらだと脅迫するので、
世間知らずの女性はすっかり相手に気圧されてしまいます。

「・・・ねえ、キャプテン」

「大尉だ!」

「どうか寛大な対応を」

「宥和政策には反対だが平和交渉には応じる」


つまり、部屋を出ていってやるから、その代わり夕食を一緒にしろ、
何なら朝まで自分と一緒に過ごせと。

なんだ、ただの女好きの卑怯者か。

ジルもそう思ったらしく、

「That isn't gold on your uniform - it's brass!」
(あなたの制服についてるのは金じゃなくて真鍮ね!)


言ってやれ言ってやれ。

案の定この部分は、ほとんどの評論家や鑑賞者に不評です。

戦争コメディ?ならこれもありだと思いますけど、戦闘部分が
戦時中ということもあって、シリアスなだけに皆違和感を感じるようです。


その後、大使館のパーティに彼女を連れ出したワードは、
(なぜかパーティの時だけ夏用の第二種軍服を着込むあざとさ)
すっかり浮かれた彼女にここまでやってしまい、彼女も拒否しません。

おいおい、あんた彼氏がいるんじゃなかったのか。

男はこれはいける!と次の日の夕食の約束も取り付けますが、
ジルは「ワシントンより家の方が安全」という置き手紙を残し
生徒を連れてニューロンドンに逃げ帰ってしまいました。

たった一泊で旅行を切り上げさせられる生徒もいい迷惑だ。



めげないワード・スチュアート、今度は学校まで追いかけてきました。


「君、約束を破ったね。チャンスをあげよう。今夜夕食を一緒に」

立派な変質者ですありがとうございま(略)


珍しく彼女がワードの誘いをキッパリと断ることができたのは、
今カレとのデートの予定が既に入っていたからでした。

将校クラブでのディナーの席で、何を思ったか彼女は、
いきなりデューイ・コナーズに逆プロポーズをかまします。

「結婚して」

あなたが繋ぎ止めてくれなくちゃ、あの男を好きになりそう、ってか?

デューイだって結婚したいのは山々ですが、現実的な彼は、
戦時中である今だからこそ生活に安定が必要なので、給料や家のこと、
子供の教育費のことなんかを考えると、中佐に昇進するまで待ってほしい、
と熱くなっている恋人に水を浴びせるようなことをいうのでした。
堅実か。

しかしながら、恋に恋する乙女には、堅実も度を過ぎると
しらけてしまうんだよな。知らんけど。



お互い知る由もないことながら、同じ女性を好きになった艦長と副長を乗せ、
潜水艦「コルセア」がいよいよ哨戒に出航することになりました。

ちなみにこの撮影で使用されたのはUSS 「マーリン」Marlin (SS-205)で、
司令塔は姉妹艦USS 「マックレル」Mackerel (SS-204)に似せてあります。



"Takin' 2 and 3. Takin' 4. Takin' 1."

潜水艦初乗艦のはずのスチュアート大尉、ちゃんと任務をこなしています。
舫を外す順番なんて、いきなり来た魚雷艇の人にはわからんのとちゃう?

「右舷3分の2後退。左舷3分の1後退。舵中央」

これもお試しで乗ったことあるくらいでは多分無理な指示じゃないかしら。
でも普通にやってしまえるスチュアート大尉、なぜならこれは映画だから。



「コルセア」チーフのマックが、出港後も何やら具合が悪そうで、
薬を飲んでいるのを、コックのオリバーが心配そうに見ています。

オリバーはこの時代、調理係として乗り組むこともあった黒人兵の一人です。
海軍は陸軍のようにセグレゲート(人種分離)システムを持たず、
一つの船に普通にアフリカ系が勤務していました。

船を分離するわけにいかないからですね。

オリバーはマック先任が飲んでいるのがニトログリセリンで、
心臓が悪いらしいことまで突き止めますが、マックはこの黒人兵を
まるで犬でもあるかのように、うるさそうに追い払うのでした。


哨戒24日目、「コルセア」はスウェーデン船籍の貨物船を発見しました。


敵ではないので臨検を行うべく浮上し、船尾旗を掲げました。



「ブンダバー!」

あ、わかった。これドイツ人の船や。



艦長は臨検のためスチュワート副長を送ることにしました。
ゴムボートに乗る彼に「PTボートほど速くないがね」と嫌味を言いながら。

ワード、潜水艦上でもPTの素晴らしさを語りすぎて嫌われてる、と_φ(・_・


ゴムボートが近づくと、貨物船はメインマストにナチスの旗を揚げました。

このように、映画でアメリカ軍が貨物船など一般船を攻撃するときには
相手は必ず「卑怯な偽装」をしているものです。

なぜなら、戦争中であっても、アメリカ軍が軍艦ではなく
一般人殺害をするためには、理由(言い訳ともいう)が必要だからです。



船の横っ腹がどうなってるんだというくらい大きくパカっと開くと、
なんと!アメリカ製のブローニング銃がこちらを撃ってくるのでした。

副長はゴムボートをUターンさせ、潜水艦に飛び乗って急速潜航。
題名通りの「クラッシュダイブ」ですな。

「クラッシュダイブ」についてのネット情報を集めたところ、以下の通り。

通常の潜航では、潜水艦がバラストタンクで沈むため、
潜水面は最小の下降角度に設定され、ゆっくりと水没します。

しかし、クラッシュダイブを行うとき、つまり緊急に潜航するには、
タンクは浸水し、潜水面は極端な下降角度に設定され、
プロペラは実際に潜水艦を潜らせるために使われます。

緊急時とそうでない時の降下角度の違いは20〜25度もあるのだとか。


潜航後鎮座した「コルセア」に、ドイツ船は爆雷を落としてきました。
貨物船のふりをして、一体どこにY字型爆雷なんて積んでたの?


一連の爆雷に耐えた後、艦長は余裕で10分間喫煙休憩などと言い出します。

あほですかこの艦長は。
こんなもので済むわけない&潜水艦内でタバコ吸うな。

案の定この後、しつこいドイツ軍に強かに攻撃を受けるんですけどね。

再々ここで書いていますが、第二次世界大戦時代の潜水艦には
空気浄化装置が搭載されておらず、
供給された限られた空気をすぐに使い果たしてしまうため、
海中での喫煙は決して許可されませんでした。

喫煙は浮上している間のみ許可され、乗員は船体の外、甲板上、
または「タバコ甲板」として知られる司令塔の後部の特定の部分、
いずれかで喫煙することになっていたはずです。

戦時中の映画なのになぜこうなるかというと、繰り返しますが、
喫煙という行為が各所で象徴的に扱われているからだと思います。

この時も最初の出会いと同じく、艦長は煙草を切らしていて、
副長スチュアートが分け与えるということになります。


ドイツ船がしつこいのと、艦体に破損も出たということで、
艦長はおなじみ「潜水艦死んだふり作戦」を命じました。

これは後年潜水艦映画で多用されすぎて、しまいには
女性下着を放出するというネタまで(ペチコート作戦)生んだほどで、
潜水艦好きなら知らない人がないくらい有名なネタとなりましたが、
この頃はまだ情報として新鮮だったのかもしれません。



救命胴衣、服、空箱を油と一緒に海面に放出した「死んだふり」に
疑うことを知らないドイツ人たちはあっさりと騙されてくれました。

「ブンダバー」また言ってますね。


しかし副長、ここで逃げるのではなく、反撃を行うことにしました。


チーフに魚雷の装填が命じられました。

これってチーフが行うことなんかな?と素人は思いますが、
まあ人手不足ってこういうことなのかもしれません(適当)



日頃魚雷発射係をしているらしいチーフは、魚雷発射管の上に
金色の布袋さんの像を飾っていて、いざという時には
そのお腹を撫でると射撃が成功するというジンクスを持っています。

どこから来たのか布袋さん。



そして、羨望鏡を覗きながら発射指令を行う副長も、面白いことに、
両手の指を発射の瞬間鉤型にぎゅっと組む動作をしています。
アメリカ人が話しながらよくやるお馴染みのやつ。

一般に、人から聞いた言葉が実際には本当ではないと思ってるときに使うので、
何故魚雷発射でこれをするのか検討もつきませんが、
現役の潜水艦乗りから取材して採用された動作かもしれません。

そして副長、魚雷が命中したのを見届けると、鉤を解き、にっこりと笑います。
このこなれっぷり、とても今回が潜水艦初勤務とは思えません。

っていうか、昨日今日PTボートから来た奴には、ぜってー無理だよね。
当時もし本物の潜水艦乗りがこの映画を観たとしたら、
んなわけあるかい!ときっと呆れてたと思うんだ。


続く。




初期の観測用ロケットと「スペースモンキー」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、前回「ロケット三兄弟」という言葉を紹介しついでに、
スミソニアンに乱雑に?立ててある各種ロケットについて
ちょっとだけご紹介してみた訳ですが、続きとまいります。

WACコーポラルロケットなどと同じ、観測用ロケットです。

■アエロビー AEROBEE 150
〜海軍初の打ち上げ観測ロケット


機体中央部の模様が中華丼風というかギリシャ風なのはなぜ。

アエロビー150ロケットは初期の観測ロケットで、
その期限を遡れば、酢電位1947年には打ち上げられています。

アエロビーシリーズもやはり、ナチスドイツのV-2ロケットの
技術転用による開発で生まれました。

こうやって見ていくと、本当にアメリカのロケット技術者は
ナチスドイツとフォン・ブラウンに足を向けて寝られないくらいです。

それはいいのですが、アメリカ、せっかく乱獲してきたV-2ロケットを
たくさんあるからと気を大きくして、惜しげもなく
宇宙線の性質や太陽スペクトル、大気中のオゾン分布など、
各種データ収集にふんだんに使いまくって消費してきたため、
だんだん数が足りなくなってきました。

そもそもV -2の組み立てと打ち上げには結構な費用がかかったのですが、
まあ基本的に、戦後のアメリカという国は、宵越しのV-2は持たねえ、
なくなりゃなんとかならあなくらいの感じだったんだと思います。

そして前回ご紹介したWACコーポラルは小さすぎて
積載量が少ないことから、新たに科学研究に使うための
安価で大型の観測ロケットを開発することになったのです。

建造の中心となったジェームズ・ヴァン・アレン応用物理研究所は、
エアロジェット社にその条件に合うロケットを発注し、
同社とダグラス・エンジニアリングの共同で開発が始まります。

ところでこの「エアロビー」の「ビー」ですが、ご想像の通り蜂のことです。

エンジン製造元の「エアロジェット」の「エアロ」
海軍の誘導ミサイル計画の「バンブルビー計画」「ビー」を合体させて、
「エアロビー」というわけです。

何度も言いますが、この頃はロケット開発を陸海空別々に行っていたので、
ネーミングまで別々となり、
海軍ではRTV-N-10(a)、空軍ではRTV-A-1と命名されています。

その後空軍はが949年12月に打ち上げた最初のロケットは、
宇宙からの写真を撮るのに成功しましたが、本体を翌年まで回収できず、
見つかった時には中身は無くなっていました。

しかし、その後打ち上げた32機のエアロビーはほとんどが成功し、
1951年にはを乗せて打ち上げたりしています。

今回は打ち上げられた猿についてお話ししようと思います。

■ エアロビーと「スペースモンキー」

あ、あんた俺が見えるのかい?ってそら見えるわ

Animals in Space - Aerobee 3 Sounding Rocket Documentary
お猿さん、アルバートVIヨリック生還の瞬間は12:33〜
エアロビーの説明は3:48〜

あまり話題になったことはありませんが、
アメリカはドイツから取ってきたV-2で猿を打ち上げているのです。

そのお猿さんたちの悲惨な運命について書いておくと、
初代は飛行中に窒息死、二匹目はパラシュートが開かず激突死、
三匹目は空中爆発死、四匹目はパラシュートが開かず激突死。

V-2に載せられた4匹の猿の名前は順番に
アルバート I、II、III、IVでした。

便宜上振り分けた名前なのに1世、2世って・・・。

それにアルバートだったらヨーロッパの王族に同じ名前の人がいるでしょ?
アルブレヒト6世とか、アルベール2世とか。
6世と2世がいるくらいだからきっと他にも実在してたはず。

アメリカ人には全く関係ないからって失礼じゃないの。

さて、エアロビーに載せられたのはアルバートのVからです。
彼は激突死しましたが、その次のアルバートVIは宇宙から生還しました。


生還したアルバート6世

アルバートという名前が失敗続きだったので、縁起を担いだのか、
アルバートVIにヨリックという「別名」(愛称かな)
をつけたのがよかったのかもしれません。

だがしかし。
宇宙から生還した初の霊長類に、アルバートVI、akaヨリックは、
着陸してから2時間後に死亡しました。

彼は高温のカプセルの中で、救出まで2時間の間に脱水症になったようです。
この時のアエロビーには、ヨリックの他にネズミも載せていましたが、
もちろん彼らも全員が生きてはいませんでした。

関係者は彼の功績を称え、デスマスクを製作しています。

アルバート6世デスマスク

エアロビーによる打ち上げでは、この後アルバートという名前は廃止され、
代わりにパトリシアとマイクという名前のつがいを乗せたところ、
彼らは生還した上、着陸後も長生きしたということです。

やっぱりアルバートがまずかったのでしょうか。


エアロビーはその後40年にわたって天文学、物理学、航空学、生物医学など
膨大なデータを収集するという役割を果たし続けました。

■スペース・モンキーズ

さて、アエロビーに乗せた猿の話が出たついでに、
今日はアメリカの実験で宇宙に打ち上げられた霊長類について、
お話をさせていただこうと思います。

ロケットに生命体を乗せることは、先ほどのビデオにもあったように
早くから試みられてきましたが、ソ連は犬を最初に取り上げたのに対し、
アメリカはネズミの次にいきなり霊長類を打ち上げようとしました。

もちろん最初は小さな猿からです。

V-2ロケットに最初に乗せたアルバート1世と2世、4世はアカゲザル、
アルバート3世はカニクイザルという種類で、
カップルのパトリシアとマイクもカニクイザルでした。

【ゴード Gordo】



1958年、ジュピターA M-13で打ち上げられたリスザルのゴード、
別名オールド・リライアブル(信頼くん?)は、
15分間の弾道飛行に成功しました。

しかもカプセルは着水予測の1m以内にどんぴしゃりで着水したのに、
その後カプセルごと行方不明になってしまいました。

つまり回収できなくて助からなかったということです。
衝突の瞬間までゴードが生きていたということはわかったため、
計画は成功🙌とされたようですが。

生きて帰ってくるまでが遠足、じゃなくて計画ってもんじゃないのか。

【エイブルAbleとミス・ベイカー】


わたしが行った時には貸出でもされていたのか、メンテ中だったのか、
見ることはできませんでしたが、スミソニアン博物館には、
ジュピターA M-18に搭乗したエイブルの実物があります。

実物、つまりご遺体の剥製です。

1959年、アカゲザルのエイブルリスザルのミス・ベイカーは、
宇宙旅行の生物医学的影響を調べるために計画された陸軍の実験で、
ジュピターに乗せられて、ケープカナベラルから打ち上げられました。

Space Monkeys Able and Baker

彼らの宇宙船は最高高度482kmから時速16,000kmで下降して
大気圏に再突入し、海軍艦船に回収されることに成功しました。
映像によると、彼らを回収したのは海軍のタグ「カイオワ」です。

コーンから艦上で引き出されているエイブルの姿がまさにこれ。


彼らはミッション成功後、記者会見まで行ったようです。
猿なのに。

しかし、エイブルは飛行後手術を受けることになりました。
おそらく体組成などを調べるための当人にはなんの必要もない手術で、
麻酔から覚めることなく死亡してしまいました。

陸軍が1960年にエイブル(の剥製)をNASM(スミソニアン)に譲渡し、
国立自然史博物館が保存することになったので、
宇宙博物館は宇宙開発関係の展示の一環として
時々ご遺体を「借りてくる」のかもしれません。

エイブルの剥製は宇宙に打ち上げられた時の姿をそのまま再現しています。

猿も打ち上げ中、身動きできないのは死ぬほど苦しかっただろうに、
死してなおこのような状態のままというのは本猿的にどうなんだろう。

ちなみに彼らの名前は、アメリカ式フォネティックコードのAとBで
エイブルとベイカーと付けられたそうですが、
この名前は(どちらもメスなのに)女の子っぽくないので
どちらも常に「ミス」をつけて呼ぶことになっていました。

自衛隊のフォネティックコード、アルファ・ブラボーではなく、
こちらは、

エイブル・ベイカー・チャーリー・ドッグ・イージー・フォックス・ジョージ

となります。

ついでにベイカー嬢のビデオもどうぞ。

彼女はあまりに賢くて可愛いかったため、
「親切に思いやりを持って世話をする」という意味の
「Tender Loving Care」からTLCと医師から呼ばれていたと言ってます。

アメリカにTLCというネットワークがあったけどそういう意味だったのか。

The Story of Miss Baker


そして彼女は、アストロノーならぬ「モンキーノー」(Monkeynaut)として
「正しい資質」The Right Stuff ザ・ライト・スタッフ
を持っていたと激賞されています。

ミス・ベイカーは帰還後ファンレターが殺到し、専用の秘書が付き、
死後は宇宙基地内に立派なお墓を作ってもらって、
連れ合いの隣に静かに眠っています。

お墓には、今も訪れる人がバナナ🍌を供えていくそうです。


【サムとミス・サム】


猿権なし

1959年12月、アカゲザルのサム
マーキュリー計画のリトルジョー2号機で、
1ヶ月後にミス・サムリトル・ジョー1Bに乗せられました。


ミス・サム(流し目美人)

ミス・サムは8分35秒の飛行に耐え、宇宙に行った猿の一頭になりました。
名前のSamは、テキサス州サンアントニオにあるブルックス空軍基地の
航空宇宙医学部 the School of Aerospace Medicine 
から取られています。

【ハム】



そういえば、昔アメリカにいた夏、MKが観たいというので
「スペース・チンプス」という映画を見に行ったことがあります。

Space Chimps - JoinMii.net Wii Trailer


実験ではなく、ちゃんと宇宙飛行士扱いされている猿たちが主人公で、
実験動物として乗せられていた実態とは全く別世界の話ですが、
主人公?のチンパンジーの名前は「ハム3世」だったのを覚えています。

これは誰でも知っている、マーキュリー計画で打ち上げられた
チンパンジーのハムの子孫という設定だったのでしょう。

Hamという名前も、ホロマン空軍基地の、

ホロマン航空宇宙医学部
Holloman Aerospace Medicine 

から取られています。

ハムは2歳からその名前の元となった、
ホロマン空軍基地航空医療フィールド研究所で
青い光の点滅を見てから5秒以内にレバーを押す訓練を受けました。

正しい反応をすればバナナペレットがもらえますが、
逆に失敗すると足の裏に軽い電気ショックがかかる飴と鞭作戦です。


1961年、ハムはマーキュリー計画のミッションの一環として
フロリダ州ケープカナベラルから軌道下飛行で打ち上げられました。

その生命反応と行動を、地球上のセンサーとコンピュータによって
常に監視されながら飛行を終え、カプセルは大西洋に落下し、
その日のうちにUSS「ドナー」によって回収されました。

ハムの身体的損傷は鼻の打撲だけ。
飛行時間は16分39秒でした。



回収されたLSD-20「ドナー」の甲板で、艦長の歓迎の握手を受けるハム。

ちなみに、ハムは帰還後ワシントンDCの国立動物園に移され、
その後17年を動物園で過ごし、1983年に亡くなりました。

死後、ハムの遺体は軍隊病理学研究所に送られ、剖検されています。
ハムの遺体も剥製にしてスミソニアンに展示する予定だったようですが、
この計画は、世論が否定的だったせいなのか、中止になりました。

しかし、結局最終的に骨格が残されて、そのほかは埋葬されているので、
「剥製が残酷だったから」とかそういう理由には当たらなさそうです。


ハムのお墓(立派)

ハムの骨以外の部分は、ニューメキシコ州にある国際宇宙殿堂に、
ちゃんとした正式の追悼式の後、埋葬されたそうですが、
その骨格は国立保健医療博物館が所蔵しているのだそうです。

ハムの骨格・国立保健医療博物館

思ったよりバラバラだった。

ハムのテスト飛行の結果は、1961年、アラン・シェパード
フリーダム7で行ったミッションに直接つながる貴重なデータとなりました。

もちろんハムの結果だけが役に立ったというわけではありません。

歴代の実験動物たちが命と引き換えに残したデータの積み重ねが、
人類を宇宙に送ることを可能にしたのです。

アメリカの宇宙開発実験で犠牲になった霊長類は以下の通りです。

 アルバートI 1948/6/11 V2ロケット内で窒息死

アルバートII 1949/6/14 V2パラシュートの故障で激突死

アルバートIII 1949/9/16 V2爆発で死亡

アルバートIV 1949/12/8 V2パラシュート事故で衝突死

アルバートV 1951/4/18 エアロビーパラシュート故障で衝突死

アルバートVI(ヨリック)1951/9/20 エアロビーで打ち上げ成功、着陸後死亡

ゴード 1958/12/13 ジュピターA M-13打上げ後パラシュート故障で死亡

エイブル 1959/5/28 ジュピターA M-18打上げ、帰国後麻酔で死亡

リスザル 
ゴライアス 1961/11/10 アトラスロケット爆発で死亡

赤毛猿 スキャットバック 1961/12/20 軌道飛行後着水後行方不明

ブタオザル ボニー 1969/7/8 バイオサテライト3号着陸後死亡

スペース・モンキーノーたちの尊い犠牲に、敬礼。∠( ̄^ ̄)

続く。



海軍のヴァイキングと陸軍のジュピターC〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-15 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている
ロケット群から、年代を追ってご紹介していきましょう。

さて、最先端を行っていたドイツのV-2ロケットの技術は、
その後究極の兵器を求める米ソ両国に受け継がれました。

しかしアメリカでは、1950年代後半から1960年代初頭の冷戦の最盛期には、
B-52ストラトフォートレス爆撃機が戦略的抑止力の主役だったのです。

V-2の技術の直系の継承にソ連の方が熱心だったのはなぜか。
それはソ連が長距離戦略爆撃機戦力で劣っていると自覚していたからです。
最初から不利な技術で勝負せず、相手のまだ手をつけてない技術で
優位に立とうとしたという訳ですね。


しかし米ソ共に、ロケット技術が未熟であった初期には、
遠方の敵を攻撃する方法として、ある技術に目をつけ始めるのです。

それが、こんにち巡航ミサイルと呼ばれる無軌道の飛行爆弾でした。

巡航ミサイルは、翼と空気で動くエンジンを持って飛びます。
つまりロケットと違って大気圏外では活動できないのですが、
さらに航空機と決定的に異なるのが、無人で操縦され、
自動航行装置によって目標まで誘導されるという、
当時として画期的な仕組みを持っていました。


そしてスプートニク1号の打ち上げに使われたソ連のR-7ロケット
世界最初のICBM(大陸間弾道ミサイル)でした。
両国はその技術を宇宙開発の名の下に昇華してゆき、
それはついに音速の5倍以上の速さ(極超音速)で移動し、
地上からの信号にも依存しないICBMに結集します。

これこそが人類に生み出せる「究極の兵器」とも思われました。


■ミサイル・観測ロケット・打ち上げロケット

というわけで、次のコーナータイトルが、いずれも同じ技術から発展し、
アメリカとソ連がその開発競争を長い間行ってきたロケット技術の結果、
ミサイル、観測ロケット、打ち上げロケットの「ロケット三兄弟」です。

三者の違いを簡単に言うと、

ミサイルロケット
爆発性の弾頭をもち目標に打ち込む兵器

観測用ロケット
大気圏上層部に科学観測機器を打ち上げる

ランチ・ビークル(打ち上げロケット)
宇宙船を地球周回軌道などに運ぶ

これらのロケット三兄弟は、ロケット工学の研究、国防、
そして宇宙開発の分野において重要な役割を持ちます。



スミソニアンにはこれらの歴代ロケットが、
まるでペン立てのボールペンのようにまとまって林立しており、
その眺めは壮観です。

今日はこれらをご紹介していきましょう。
まずは、この中の手前に見える、ほっそーいロケットからです。

■ WAC CORPORAL (ワック・コーポラル ロケット)
〜V2時代のアメリカのロケット技術(の限界)



TRYING CATCH UP WITH THE V-2

というのがWACコーポラルロケットの説明のタイトルです。
「V-2の背中を追って」「追いつくために」
みたいなイメージでしょうか。
いずれにしても、「トライ」のまま終わった感じダダ漏れです。

ドイツのV-2が第二次世界大戦中、ヨーロッパの各地を攻撃していた頃、
アメリカでは、まだ長距離ミサイルの研究は緒についたばかりでした。

V-2ロケットとこのWACコーポラルの見かけの違い、
それは大きさ太さだけでもスリコギとシャープペンくらいの違いですが、
それはそのまま、1945年現在における両国のロケット技術の違いでした。



WACという意味は、誰もが
「Women’s Army Corps」陸軍女子隊
の意味であり、さらにコーポラルは普通に伍長の意味だと思うでしょう。

ではワック・コーポラルとはなんぞや。


カリフォルニア工科大学、通称CAL-Techの中のジェット推進研究所
が開発したことから、こんな名前が付けられたという説もありますし、
例によって、アメリカ人の悪い癖で、自虐的に

"Without Attitude Control"(態勢コントロールなし)

という意味から取られたWACだったという説もあるようです。


カルテックというところは、もちろんアメリカの名門工科大学ですが、
規模としては(アメリカにしては)小さく、MKの大学選びのために
見学に行ったときには、なんかわからんが変人が多そうな印象があって
(印象ですよ)ドームも随分荒んだ様子が感じられ、
願書も出さずに終わり、わたしの中ではあまり良い印象がありません。

というのとは関係があるのかないのか(もちろんない)、この研究所は
1930年代にカルテックの中にできたロケット愛好団体が発祥で、
当初は団体名が「Suicide squadron」(自殺部隊)だったそうです。

ちなみにワック・コーポラルの前は
「プライベート・コーポラル」
という名前だったらしいのですが、これもいつの間にか昇進させています。

つまり、この団体のネーミングセンスはヘン、ということだけはわかります。



推進は海軍飛行艇のために開発された液体燃料エンジンが使われ、
フィンはなぜか革新的な3枚(黒1枚、白2枚)というものでした。

最初から大気圏観測ロケットとして構想されたもので、
実験では高度72キロメートルまで達したようです。

BUMPER WAC(バンパーワック)

BUMPER WAC

このWACをドイツ開発のV-2と組み合わせるという
画期的な実験が行われたことがあります。

世界初の2段式液体燃料ロケットとなる
「バンパー計画」として実験が行われました。

1949年、5回目の飛行で高度390kmを達成し、
この記録は1957年まで破られることはありませんでした。

WACコーポラルは、アメリカ発の観測ロケットでありましたが、
その最終目標は軍事弾道ミサイルであったのはいうまでもありません。

■ 海軍のヴァイキング〜V2の発展形



第二次世界大戦後、アメリカはドイツで大量に鹵獲してきた
ドイツのV-2ロケット超高層大気圏の研究に使用していましたが、
ほぼ使い捨てだったので、そのうち数が減少してきました。

そこでV -2の後継機として、アメリカ海軍研究所(NRL)による
大型液体推進観測ロケット、ヴァイキングVikingが開発されました。

これも最初から科学観測用とされていましたが、暗黙の了解として、
当時観測用ロケットは将来的に兵器になることを前提に設計されました。

元々兵器であるV-2の後継ですから、それを参考に開発されたロケットは
「根っこは同じ」であり、宇宙開発もすなわち潜在的な兵器開発となります。

バイキングに搭載された推力2万ポンドのXLR-10液体燃料ロケットエンジンは、
リアクション・モーターズ社が開発しました。

円筒形で先端が鋭く尖り、基部に4枚の十字型三角形のフィンがあります。
全体は白で塗装され、フィンのすぐ上に黒い帯のような塗装がなされました。

4枚のフィンはそれぞれSE、NE、NW、NWと名称がついていて、
各フィンは、飛行中のロケットを視認するために配色が少しずつ違います。

SEとNEは白と黒の半々、NWは黒、SWフィンは白、といった具合です。



1949年から1957年にかけて、14機のバイキングが製造・飛行され、
さまざまな機能のテストや、より大きな観測機器の搭載が行われました。

バイキングの設計には、制御、構造、推進力において
重要な革新が導入され、12基製作されましたが、
2つとして同じものはありません。

それらは主に長距離無線通信に影響を与える
上層大気の領域を研究するために使用されました。

しかし、海軍研究所が「戦術的弾道ミサイル」の可能性を調査するための
研究と試験発射を兼ねていたのは当然のことでしょう。




エンジン部品などはプレキシグラスを通して見えるのだそうです
(が見えません)
ロケットの機首に配置されている機器などは以下の通り。

航空機用カメラ(フォルマー・グラフレックス社製)
映画用カメラ、木製モックアップカメラ、太陽面カメラ、ラジオドップラー
20チャンネルテレメーター送信機、電離層用送信機など

ヴァイキングは1号の1949年初打ち上げ後、12号まで打ち上げられ、
一連の実験に成功を収めた海軍研究所の科学者たちは、
より強力なロケットを開発すれば人工衛星の打ち上げが可能と自信を持ち、
それがヴァンガード計画へと繋がっていくのです。

スミソニアン展示のヴァイキング12号は、オリジナルのロケットから
回収された部品をもとに復元されたものとなります。

形はバイキング8号機以降によく見られるもので、
主要メーカーであるグレン・L・マーチン社によって製作されました。


その後、ヴァンガード計画がどうなったかについては何度も書いていますので
ご存知のことかとは思いますが、もう少し後で述べます。


■ジュピターC
大気圏突入のための”ノーズコーン”実験



UEと書かれたロケットがジュピターCの実物大模型です。

ヴェルナー・フォン・ブラウン率いるアメリカ陸軍弾道ミサイル機関(ABMA)
クライスラー社製造によるサウンディングロケット=観測ロケットで、
「A」をベースに開発されたので「C」(なぜかBなし)と命名されました。

ジュピターC
ケープカナベラルでの初打上げ日 1956年9月20日
最終打上げ日 1957年8月8日
打上げ回数 3



レッドストーンMRBMを採用したジュピターCロケットは、
先ほども書いたようにジュピターAの後継機です。

ジュピターCは、1956年から3回の無人の準軌道宇宙飛行に使用されました。
観測ロケットと言いながらその任務の中でメインだったのは、ジュピター計画で
宇宙船が大気圏に再突入する際のノーズコーンをテストすることでした。

何度か書いていますが、1958年にNASAが設立されるまでは、
ロケット開発は陸海空がそれぞれ別に請け負っていたので、
中には協力的なプロジェクトもありましたが、ほとんどはご想像通り
互いに先んじようと激しく競争していた(特に陸海)というのが実態です。

ジュピターCが打ち上げられたハンツビルのレッドストーン工廠
元々1950年に陸軍のミサイル開発センターとして開設されました。

レッドストーン開発グループの中心は、戦後にドイツから渡米した
フォン・ブラウンを中心とするドイツのロケット技術者チームです。

彼らはドイツのV-2ロケットの技術をベースにロケット開発プロジェクト、
すなわちレッドストーンロケットの開発を行います。
それは射程100マイルの地対空ミサイルとして構想されました。

レッドストーンには、フォン・ブラウンがドイツで開発した(つまりV2)技術と、
ノース・アメリカン・アビエーション社がアメリカ空軍の
ナバホ(NAVAHO)巡航ミサイル計画
のために開発したエンジンの改良型が使用されました。

ナバホ

ナバホは1946年に開発された大陸間ラムジェット巡航ミサイルです。
これもV-2ロケットエンジンの研究から生まれた技術でした。

そしてロケットの設計が始まるわけですが、当時のアメリカでは
朝鮮戦争のため国防資金が限られており、グループは創意工夫を強いられました。

ロケットを試験するための「試験台」を作るために75,000ドルの入札を受けた後、
チームはわずか1,000ドルの材料でそのモデルを作り上げ、
自らそれを「プアマンズ・テストスタンド」と自嘲していたくらいです。

現在もハンツビルのマーシャル宇宙飛行センターには、
「貧乏人の試験台」が歴史的な建造物として展示されています。


■陸軍までがヴァイキングを選んだわけ

さて、これでヴァイキングが海軍、レッドストーンが陸軍によって
制作されたロケットであることがお分かりいただけたかと思います。
この頃、空軍もアトラスミサイル計画を立てていました。

以上を頭に置いて次に進みましょう。

1955年、アメリカは地球の軌道を周回する
工衛星の打ち上げ計画を開始します。


これに、陸軍のレッドストーン、海軍のヴァイキング、そして
空軍のアトラス
が三つ巴となって競争することになりました。

ところが、です。

陸軍と業界と委員会がなぜか海軍のヴァイキングを選択し、
海軍がヴァンガード(衛星)計画を請け負うことになったのです。

陸軍がなぜ海軍のヴァイキングを選んだかというと・・あれですか?
レッドストーンの中心人物がドイツ人だったからかな?

そうだな?そういうことなんだな?

海軍のヴァイキングも、もちろん陸軍のレッドストーンも、
なんなら空軍のアトラスも、その出発点はドイツのV-2ミサイルです。

ならば、その開発者であるフォン・ブラウンを獲得した陸軍が
三軍の中で断然有利だったのでは、という気がするのですが、
そこはそう単純なものではなかったようです。

実はアメリカとしては、やはり国家初の宇宙事業の中核に、
ドイツ人を据えたくなかったというか、純国産でやりたかったのではないか、

と今では言われているようですね。

まあ仕方ないかもしれん。

その後、カリスマ的なリーダーであるエンジニアの
フォン・ブラウン率いる組織は、陸軍弾道ミサイル局と名称を変えて、
行政的な制約に縛られることなく、
ジュピターの開発を継続することになります。


そして、1957年10月4日、アメリカ(と海軍)にとって屈辱の日が訪れます。

ソ連がこの日世界初の人工衛星スプートニク1の打ち上げに成功し、
「スプートニク・クライシス」
とまで言われるショックを国民に与えたのに続き、
期待された海軍のヴァンガード計画は失敗してしまうのです。

Vanguard (Flopnik)

打ち上げ時間は2秒で終了。

発射台から飛び立つことなく木っ端みじんこになってしまったというね。
Flopnikはスプートニクのもじりで「バタンとニク」みたいな意味があります。

この失敗を受けて、フォン・ブラウンが喝采したかどうかはわかりません。
わかりませんが、これで彼とレッドストーンの「出番」になったのは事実です。

・・・やっぱり喝采したんだろうな。
現にこんな話があるのですからね。

当時、次期国防長官が決まってたニール・マッケロイは、
「偶然」レッドストーン工廠を訪問しているその最中、
スプートニク打ち上げを知りました。

その夜、関係者によるマッケロイ歓迎のディナーが催されたのですが、
その席でレッドストーン工廠のジョン・メダリス司令官と、
ヴェルナー・フォン・ブラウンがしっかりとマッケロイの脇を固めて、
「閣下、人工衛星うちにやらせてください💏」
と両側からガンガン売り込んできたそうです。

なんとこの二人、ヴァンガード失敗以前から、
レッドストーン工廠なら4ヶ月以内にジュピター打ち上げできる!
と関係者に売り込んでいたのでした。

思うに、フォン・ブラウンは、ヴァンガードの欠点を知っていて、
失敗することも予測していたんではないでしょうかね。

その後11月3日、
ソ連がスプートニク2号で犬のライカを打ち上げに成功します。
これですっかり焦った国防省が、陸軍の申し入れを承諾した直後、
フォン・ブラウンの予想通り、ヴァンガード計画は見事失敗。

ほれ見たことか、と1月31日に満を持して打ち上げた
ジュノーI、レッドストーンロケット、ジュピターCに
衛星軌道用のブースターを追加した陸軍のミサイルは、
アメリカの期待を一身に担うことになったというわけ。

この計画を、軌道に乗せた衛星の名前をとって

エクスプローラー1号(Exporer I)

と言います。

エクスプローラーI型衛星はジェット推進研究所(JPL)が開発し、
JPLとレッドストーン工廠チームが固体燃料の上段ロケットを考案しました。



1958年1月31日、予定よりわずか2日遅れはしましたが、
ジュピターC(正式にはジュノーI)は、
エクスプローラーIを軌道に乗せることに成功したのです。


ばんざーい
エクスプローラー1実物大を持って万歳するフォンブラウン(右)

この衛星には、宇宙線、温度、微小隕石の衝突を測定する科学機器が搭載され、
地球周辺のヴァン・アレン放射線帯の存在を検出したことで知られています。

前にも書きましたが、この真ん中にいるのがヴァン・アレンです。
放射線帯に自分の名前をつけてしまうなんてラッキーな学者ですよね。

(ちなみに、ヴァン・アレン帯については、うちにあった手塚治虫全集
『鉄腕アトム』にその名前が出ていたことから、わたしは物心ついた時には
ヴァン・アレン帯という言葉だけは知っていたのですが、
もしかしたら手塚治虫先生は存在検出のニュースを受けてすぐ
この作品にこれを取り入れたのかも、と今にして思います)

このロケットは、エクスプローラーIII、IVの打ち上げにも成功しましたが、
エクスプローラーII、Vを軌道に乗せることには失敗しています。

その後もジュピターは陸軍の主力ロケットとして、
空軍のトールロケット、そしてアトラスロケットと競合する存在でした。
(え、ヴァイキングは?ヴァイキングはもうダメってことになったの?)

この3つのロケットはいずれも第1段ロケットとして使用されましたが、
レッドストーンロケットは、その後アメリカ人を初めて宇宙へ運ぶ
マーキュリー・レッドストーンシリーズのロケットとなりました。

その後、NASAが設立され、陸軍弾道ミサイル局・ABMAは
レッドストーン工廠の敷地内に新設された
NASAのジョージ・C・マーシャル宇宙飛行センターへ移管されました。

そして、フォン・ブラウンを中心としたABMAのジュピター開発チームは、
アポロ計画の推進システムであり、アメリカの宇宙飛行士を月に運んだ
あのサターンVロケットの開発にも携わることになります。


■ ジュピターCのノーズコーンの謎



宇宙に打ち上げ、回収された本物のノーズコーンです。

ノーズコーンは核弾頭を運ぶための中距離弾道ミサイル実験の、
文字通り、マイルストーンでもあります。

地球の大気圏への再突入中に経験する途方もない高温から保護するために、
セラミックで作られた熱シールドを備えた設計になっています。

陸軍弾道ミサイル局が1957年8月8日、ケープカナベラルから打ち上げた
ジュピターCロケットの先端に、このノーズコーンは装着されていました。

再突入時、温度は1100℃にまで達したと言われています。
その後、ノーズコーンは海上に着水し、海軍艦艇によって回収されました。


コーンはステンレス製の円錐形が白く塗られた素材で覆われています。
見る限り、表面の素材は滑らかで、炭化した形跡は一切ありません。

ここでちょっと不思議な話があります。
ここにあるのはジュピターCのノーズコーンには違いないのですが、
ある高官レベルの軍関係者の日誌によると、打上げ後の1957年11月、
ノーズコーンをホワイトハウスに運ぶ前に、
剥離材が「剥がされた」
というのです。

これがオリジナルのロッキードのコーティングの下地であるか、
1957年8月の飛行後に付けられたものであるかについては、
資料も残っていないのだそうです。

しかし、2006年に検査した応用物理学研究所の2人の科学者は、
そこにセンサーパスが見られたことから、
おそらくこの表面は「下地」であろうと述べています。

しかも後端部にはステンレス製の板が溶接され、ボルトで固定されており、
これがオリジナルの装備かどうかすら不明です。

内部には計器類は全く残されておらず、
熱電対などのセンサーに使われたと思われる継ぎ手があるのみ。



苦労して外側を削った後、みたいな?



1957年11月7日、ホワイトハウスで、
ジュピターCミサイルのノーズコーン模型を横に演説する
ドワイト・D・アイゼンハワー大統領。

ノーズコーンの「模型」・・・?。

大統領はこれが本物だと信じて疑っていませんが、
なぜ本物を大統領の横に置いてあげなかったのでしょうか。

何のためにホワイトハウスに運ぶ前に
本物のノーズコーンから外側を剥離したのか。
何か本物を見られては都合が悪い事情があったのか。


宇宙は謎に満ちています。


続く。



ソ連のムーンショットは成功する可能性があったのか〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-12 | 歴史

「宇宙開発戦争」(Space Race)というテーマであるスミソニアン展示から、
これまで、まずは先んじたソ連のボストーク計画、
そして追いつけ追い越せのアメリカがマーキュリーとジェミニ計画で
着実にソ連の後を追ってきたところまで紹介しました。

今日は、ソ連の最後の頑張り?となった月探索計画についてです。


1958年から1976年まで、ソビエト連邦は、宇宙に自動探査機を送り込み、
月を周回、着陸させ、探査機を実際に歩かせることができました。

3機の探査機が月の土サンプルを採取し、地球に持ち帰ったこともあります。
しかし、ソ連は宇宙飛行士を月面に着陸させる、とは表明しませんでした。

アメリカが、ジョン・F・ケネディの目標で月に人を送る、と宣言しても、
ソ連はそれまでわかりやすくアメリカに勝つことに挑戦してきながら、
それでもその目標を言明することがなかったのです。

これはなぜだったのでしょうか。

徹底した秘密政策のため、それらがわかったのは冷戦終結後となりました。
そのとき、ソ連の月探査計画の実態もまた明らかになったのです。

新たに公開された日記、技術文書、宇宙機器などから、後世の人々は
ソ連の野心的な有人月探査計画の一端を垣間見ることになりました。

人類の月着陸を言明しなかったにもかかわらず、その資料の中には
月着陸のための宇宙服のプロトタイプなどが見つかったのです。

これは、ソビエト連邦が月着陸に本気で取り組んでいたことを意味します。

■ ミーシン日記



ソ連のトップ技術者だったセルゲイ・コロリョフが急死した後、
後任となったのは、実験設計局でコロリョフの副官であるロケット科学者、

ヴァシリー・パブロビッチ・ミーシン 
Vasily Pavlovich Mishin
 Васи́лий Па́влович Ми́шин (1917 – 2001)

でした。

コロリョフの下で彼は多くの宇宙プロジェクトを共に手掛けていたので、
1966年に彼が亡くなると、ところてん式に主任設計者に就任し、
ソ連の有人月探査計画の責任を引き継ぐことになったのです。

ミーシンは第二次世界大戦末期に、やはり
ナチスドイツのV-2施設を視察しています。

そして、コロリョフの副主任時代、ソ連初のICBMやスプートニク計画、
ボストーク計画にももちろん参加しています。

主任としてL1、N1-L3有人月探査計画、ソユーズ有人宇宙船、
サリュート宇宙ステーション、さらにMKBS軌道基地をはじめとする
いくつかの無名の計画の飛行試験段階において、同局を率いました。


コロリョフが大腸癌摘出手術中に死亡、つまり急死したので、
ミーシンがコロリョフ主導でやりかけていた開発を引き継いだのですが、
これは全体的に、ソ連の、とにかく世界初ならあとはどうでもいい的な、
拙速で人命を軽視した計画であったと言われています。

ソ連は、1961年にケネディの人類月着陸宣言が行われる前から、
アメリカに先んじることだけを目標に、人類の月着陸計画を進めました。

しかし、そのN1ロケットプログラムとは、
主に資金不足からなる致命的な欠陥をはらむものであり、
ミーシンはその負の遺産を引き継ぐ形で責任者となったのです。

全てに失敗したN1(エーヌ・アヂーン)計画

(横に倒してお見せしております)

N1の開発はミシンが指揮を執る10年前の1956年から始まっていました。
そのミッション目的は月着陸

しかし、コロリョフの下では、資金不足で適切な設備にお金が回らないため、
そして試験飛行を少しでも早く行うという目的のため、
通常の地上試験の多くを省くという、
どう考えても拙いんでないかい的な前例が始まっていました。

ミーシンはそんな状態のプロジェクトを引き継いだのですから、就任後、
技術的失敗に直面したとしても、必ずしも彼のせいではないともいえます。

ミーシンの名誉のために付け加えておくと、
彼が非常に優秀な技術者であったことに間違いはなく、
例えばエンジンの故障に対処するため、KORDシステムといって、
もしモーターが故障した場合、自動的に反対側のモーターを
ロケット基部で停止させて(バランスのため?)
自動計算によって欠けたモーターを補うと言う装置を導入したりしています。

このシステムは、1969年の最初のテスト飛行で早速正常に作動し、
配管が原因で火災が起きたにもかかわらず、大ごとになることを抑えました。

しかし、N-1ロケットは結局4回の試験打ち上げ全てに失敗しました。

その失敗は、全て引き継ぎが行われた段階で、ミーシンがもし
さらなる試験を行っていれば、回避できたかもしれないものでした。

ミーシン日記

さて、ここスミソニアンには、そのミーシンが
多忙な仕事の合間に残した日記が展示されています。

日記と言ってもこれらは1960年から1974年までにミーシンが残した
ソ連の宇宙開発における日々の動きと、決定されたことなどのメモ、
会議のメモ、To-Doリスト、プレゼンテーションのアウトライン、
そして技術的な計算メモなどで、完全な文章はほとんどありません。

メモなので略語も多く、原文はロシア語が読めても理解不能だそうですが、
略語の専門家による解釈が入った「完全版」が2015年に発行されています。

ちなみに解読チームはここまで漕ぎ着けるのに何年もかかっています。


それによると、ミーシン日記は、ソ連の宇宙開発をめぐる
多くの謎と論争に洞察を与えてくれるものだそうです。

また、これにより、ソユーズ有人軌道シリーズ、
ソユーズ・コンタクト・ドッキングシステム実験、月着陸船Ye-8、
ソユーズ-Sなど、不可解なプログラムの根拠が明らかになりました。

ここに経年劣化で破損しそうな手帳のページのコピーが展示されています。


この、1965年の記述で、ミーシンは、今後のソ連の宇宙活動は
設計局が主導的な役割を果たすであろう
とその根拠を要約しています。

そして、軍事衛星、宇宙ステーション、宇宙飛行機、
月での様々な活動について言及し、また、月への有人着陸に必要な道具、
地図、宇宙服などの品目、そしてそこで行う作業も数多く列挙しています。

ナンバーが項目ごとに振られていますね。


1967年、ボルシェビキ革命50周年記念のために計画された
宇宙開発の概要、月周回有人飛行とN-1の実験がリストアップされています。


1968年の日記で、ミーシンは3つの主要な宇宙飛行計画のため、
宇宙飛行士候補の名前をリストアップしています。

地球軌道、周回軌道、月着陸の3つの宇宙飛行計画の候補者には、
アレクセイ・レオーノフ、コンスタンチン・フェオクティストフ、
その他エンジニアやソビエト空軍のパイロットの名前が書かれていました。


このページは他のと違い、日記の体をなしているように見えます。
この1960年の時点で、ミーシンはこんな爆弾発言をしています。

「コロリョフは、月や火星への有人飛行を含む
長期的な科学的宇宙探査の基本計画を採択するための議論と、
政府の遅れに非常に
失望していた」

結局、ソ連が有人月探査を決定したのは、
アメリカが宇宙開発競争の究極の目標である月面着陸を実現した後でした。

その他、ミーシン日記にはこのようなことが書かれていました。

「我々はもはや、ソ連の有人周回飛行では、乗組員を着陸船と切り離して
別に打ち上げなければならなかったことは間違い無いだろう」

「ソ連の有人月面着陸は、N1スーパーブースターを2回打ち上げ、
2回目の打ち上げでホーミングビーコンを月面に着陸させ、
バックアップの月面着陸船も一緒に打ち上げるというものであっただろう」

果たしてその方法が可能だったのかどうか。

アメリカに初の月面着陸を奪われて以降、ソ連はその研究を中止したので、
それは永遠の謎となってしまいました。

ミーシンに対する評価

ミシンはロケット工学者としては優秀な人物でしたが、行政官、
リーダーとしては有能とはいえず、月面着陸計画の失敗の責任者とされます。

仕事のストレスのせいか、元々そうだったのかはわかりませんが、
アルコールを大量に摂取したため、それも非難される原因となりました。

ついにはソビエト首相のニキータ・フルシチョフが

「(彼は)彼の肩にかかっている何千人もの人々もの管理に対処する方法、
かけがえのない巨大な政府の機械(ロケットのこと?)を
なんとかして働かせるための方法を全く考えていない」

と詰るまでになります。

非難の声は現場からも上がりました。

1967年5月、ユーリ・ガガーリンとアレクセイ・レオノフは、
ミーシンの

「ソユーズ宇宙船とその運用の詳細に関する知識の低さ、
飛行や訓練活動において宇宙飛行士と協力することの欠如」


を批判し、ガガーリンにとってはこれが一番の理由だと思いますが、
確実に失敗すると分かっていたのに決行して、

ウラジーミル・コマロフが亡くなったソユーズ1号の事故

に関する公式報告書に彼の責任を書くべきだと言いました。


ソユーズ1号とその事故現場、そしてコマロフ

また、 レオーノフはミーシンについてこうも断罪しました。

「いつもためらっていて、やる気がなく、決断力に欠け、
リスクを取ることを過度に嫌がり、宇宙飛行士の管理が下手」

うーん、これは決定的にリーダーシップに欠けるってことですかね。

彼の任期中の失敗は、ソユーズ11号のコマロフの事故死以外には、
3つの宇宙ステーションの損失、
火星に送った4つの探査機のコンピュータ障害などがあります。


4回のN1テスト打ち上げがすべて失敗し、その責任を取らされる形で、
1974年5月15日、おりしも入院中だったミーシンは主任を解雇されました。
後任となったのは彼のライバルだったヴァレンティン・グルーシコでした。

その後、ミーシンはモスクワ航空研究所のロケット部長として
教育・研究を続け、宇宙開発における功績により、
社会主義労働英雄の称号を授与されています。

そして、2001年10月10日、モスクワで死去、享年84歳でした。



■ソ連の月着陸計画

さて、話をまだミーシンが主任だった頃に戻します。

コロリョフは在任中月面着陸のための宇宙船の設計にも着手していたので、
ミーシンが指揮をとるようになってからハードウエアの製作が引き継がれました。

ソ連は数種類の異なるプログラムを月探索のために立ち上げていました。
以下それを列記します。

【ルナ】 1959〜1976
各種自動軌道周回機、着陸機、土壌サンプルリターンカプセル


Luna2



【L-1/Zond】1965~1970
自動周回飛行、『有人月周回飛行』の試運転



2人の宇宙飛行士を乗せて月面を1周する有人宇宙船L-1は、
度重なる機器の故障により、クルーを乗せずに飛行しました。



しかし、有人月探査に必要な宇宙船と操縦方法をテストするため、
L-1の無人宇宙船がZond(プローブ)という名前で5回月面に飛んでいます。
1968年9月、ゾンド5号は初めて月を周回し、地球に帰還しました。

【ソユーズとコスモス】1966〜1969
月探査機とマヌーバをテストするための

地球軌道上での有人および自動ミッション

ソユーズ1号のコマロフ、ソユーズ11号では宇宙飛行士3名が酸欠で死亡

【ルノホード Lunokhod】1970~1973
 自動月探査機



1970年と1973年の2回のルナ・ミッションでは、
着陸地点周辺を歩き回るロボット探査機「ルノホード」が搭載されました。

乳母車じゃないよ

ルノホードは、写真撮影や岩石・土壌サンプルの分析など、
宇宙飛行士が月で行うのと同じような作業を行うことができました。

このようにソ連のロボット探査機は成功を収めていたのにもかかわらず、
アメリカの有人探査の影に隠れてしまいました。

【L3 】1968年末予定
「マン・オン・ザ・ムーン」実行されず


アメリカのに似ているような

有人月面着陸計画(L-3)は、軌道船と着陸船で構成されていました。
(ミーシン日記に書かれていた通り)
月着陸船のプロトタイプは、1970年と1971年に3回、コスモスという名前で、
乗員を乗せずに地球周回軌道上で実験に成功しています。




ソ連の月着陸船は、アポロ月着陸船の半分の大きさ、重さは3分の1でした。

月面に降り立つ宇宙飛行士は一名、
もう1人は月周回軌道に留まることを想定していたそうです。

しかし、度重なるロケットの不具合により、
有人飛行に至らず計画は中止されることになりました。



スミソニアンには、ソ連が開発していた月探査用の宇宙服があります。

「クレシェット(黄金の鷹)」と呼ばれるこの宇宙服は、
アポロの宇宙服とはいくつかの点で異なっています。

まず、バックパックの生命維持装置がドアのようにヒンジ式になっていて、
宇宙飛行士がスーツに足を踏み入れて着用する仕組みです。


展示されていない後ろから見たスーツ。
宇宙服というよりもはや人体用カプセル。

手足は柔軟に動かすことができますが、胴体は半剛体のシェルとなっており、
胸部のコントロールパネルは、使用しない時は折りたたんで収納できます。
そしてブーツは柔軟なレザー製。

ヘルメットはアポロのものと同じような感じで、
ゴールドコーティングされたアウターバイザーは、
明るい日差しから身を守ります。

生命維持装置のバックパックも同様で、酸素供給、スーツ内圧、
温度・湿度調整、通信のためのシステムが搭載されています。

同様の宇宙服を、ロシアの宇宙ステーション「ミール」で
外部活動する宇宙飛行士が使用しました。


しかし、ソ連が人類を月に打ち上げる日は来ませんでした。
月着陸船、月探査船、そしてこんな高性能な宇宙服まで持っていたのに。

それはなぜか。

彼らに欠落していた重要な部分は、ただ一つ。
有人宇宙船を月に送るのに十分協力で信頼性に足るロケットの存在
でした。

コロリョフが死なず、ミーシンが上に立たなければ、
あるいは共産党政府が資金をふんだんに出し、
目先の「初」にとらわれず、人命を重視した宇宙開発をしていれば、
結果はあるいは逆転していたのかもしれません。

誰もが考えずにいられませんが、所詮歴史に「もし」はないのです。


ちなみに1959年から1976年までにソビエトが打ち上げた
約60機の月探査機のうち、成功したのはわずか20機だったということです。



続く。


宇宙のトイレ事情(大変)〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-10 | 歴史

さて、当ブログ的にも画期的なシリーズとなった「宇宙のトイレ事情」。

前半では発射台でお漏らしをさせられたアラン・シェパードから、
NASAから渡されたラテックスの筒に行ったジョン・グレン、
そしてそれを踏襲したアポロ11号の月面着陸メンバーに至るまで、
歴代宇宙飛行士の「小事情」を「小編」としてお送りしました。

というわけで今日は「大編」となるのですが、
タイトルの「大変」は決して変換ミスではありません。

その実態を知ると、あえてこのように言い換えずにいられなくなったのです。

■ アメリカ宇宙飛行士と”袋”の関係



それまで見て見ぬふりをしていたNASAが、初めてその問題に取り組んだのは、
1960年台のジェミニ計画が始まってからのことです。

しかし、取り組んだと言っても、そのために最初に作られたのは、
宇宙飛行士のお尻に貼り付けるだけの「袋」でした。

そう、またしても袋です。

NASAというところは、この問題についてどうしてこう投げやりなのでしょうか。
もしかしたら君ら、エンジンの機能とかを考える人の方が、
快適なトイレを設計する人より偉いとか考えてないか?

そんなNASAが宇宙飛行士に課したミッションとは次のようなものでした。

「排便後、クルーは袋を密封し、液体の殺菌剤を中身に混ぜて練り、
望ましい程度の固形の安定化を図る必要がありました」

「望ましい安定状態」ってどんなのだよ!
「混ぜて練る」って宇宙飛行士に一体何させるんだよ!

これってあれですよね。
通常なら見るのもアレな自分の●を袋ごしにねるねるねるねろと。

しかしさすがのNASAも、これを当たり前と思ったわけではなかったらしく、

「この作業は著しく不快であり、膨大な時間を必要とするため、
低残渣食品と下剤が一般的に打ち上げ前に宇宙飛行士には使用されました。」

低残渣食品とは、泊まりがけのドックを経験した人ならご存知、
検査前日の夜に食べさせられるアレです。

流動食のように腸に長時間とどまらない食べ物で、
人間ドックで大腸の内視鏡を行う前の日は、昼夜食べさせられます。
その上で腸を空っぽにして搭乗するように推奨していたというあたりからも
いかにこのミッションが恥辱に満ち、不評だったかがわかります。
(まあ好評なわけないんですけど)

でも、・・・あれ?
マーキュリー計画時代、アラン・シェパードが打ち上げの日取った朝食は、

オレンジジュース、フィレステーキのベーコン巻き、スクランブルエッグ

というガッツリ高残渣が予想されるもので、ミッションが成功したため、
その後しばらく、宇宙飛行士たちは、飛行前にステーキと卵を取るのが
一種の「伝統」になっていたと聞きましたよ?

証拠写真。シェパードとジョン・グレン朝ご飯。



証拠写真もう一つ。奥、ガス・グリソム。
ジェミニ3の打ち上げ前です。
これもステーキとスクランブルドエッグがテーブルに並んでいます。



もう一つ。「伝統食」を前に、アポロ11号付き着陸メンバー。
左からニール・アームストロング、コリンズ、バズ・オルドリン。
(手前の人は知らん)

もしかしたら、歴代飛行士、袋を揉むという作業の不快さを甘く見て、
というか考えもせず、そんなことより出発前のステーキウエーイ!
って感じだったのか。

そして、案の定、
写真でステーキやら卵やらを平気で食っているアポロ11号のクルーには、
他のすべてのアポロミッションと同様に、
悪臭を放つ袋と格闘する運命が待っていたのです。

その過程はこうでした。

NASAの報告書によると、

「体内からあれを除去するための積極的な手段を提供するシステムがないため、
機内でのあれ収集は、極めて基本的なシステムに頼らざるを得なかった」

「使用された装置は、あれを捕らえるために
臀部にテープで固定されたビニール袋であった」



左下にあるのがその「袋」となります。
「Facial bag」と書かれているものですね。

この袋には、トイレットペーパーを入れるスペースがあり、
指をかけるカバーが内蔵されているので、
お尻に袋を乗せても清潔に保つことができました。(意味不明)

使用時にはどうするか。

その時は宇宙服の背中にある小さなフラップの中に袋をセットするのですが、
この作業は決して簡単ではありませんでした。
あるアポロの宇宙飛行士は、その準備に約45分かかったと推定しています。

それでも、このトイレ袋の仕掛けは完璧ではなく、事故も起こりました。


1969年5月のアポロ10号のミッション中、
宇宙飛行士のトム・スタッフォードがアラートを発声しました。

そのログは、NASAの公式記録に残されています。

「ナプキンを・・早く持ってきて!
空中にあれが浮いてる!」


左より:ユージン・サーナン、スタッフォード、ヤング

「それ」が誰のものだったかは今に至るまでわかっていないそうです。
ジョン・ヤング飛行士(右)は、

”I didn't do it. It ain't one of mine."
「俺じゃない。俺のものじゃない!」

と否定したとNASAの記録にはあるそうですが、のみならず、
この時3人とも全員が自分のじゃないとシラを切り続けました。

NASAのために言い訳するつもりは全くありませんが、どうしてNASAが
頑なに袋にこだわったかというと、それは検査のためでした。

人体の宇宙における生理的いろいろのデータを取るために、NASAは
宇宙飛行士がすべての排泄物を持ち帰ることを主張したのです。

そこでアポロ宇宙飛行士は用を足した後、報告書の詳細にあるように、
袋を密閉して「練り」、排泄物を安全に地球に戻すため、
殺菌剤を混ぜて、終わったら
よりによって食料品を入れる箱に入れて持ち帰りました。

しかし、もし、その練るという工程で少しでも手を抜くと、
袋の中でガスが発生し、袋が破裂して中身が漏れ出す
という大惨事が起こるのでした。

ジェミニ7号には、あの「アポロ13号」の船長も務めた
ジム・ラヴェルとフランク・ボーマンが乗っていましたが、
この事故で船内には復路の中身が飛び散りました。

しかし、どうしようもないので帰還まで1週間の間、
ただ我慢していたそうです。
ドライブと違って、そのくらいの事故では帰るわけにいきませんしね。

ちなみにこのラヴェル-ボーマンはアポロ8号でも悲劇に見舞われています。

ボーマンが宇宙酔と下痢で、上からも下からも液状のものを排出したため、
乗員3人は(特にやらかした本人のボーマンは)泣きながら掃除をしました。

この時、ラヴェルは、NASAの連中の「気の利かなさ」について、

「NASAの理系野郎たちは、
No.2に液体が存在しないと思っていたんじゃないか」

と皮肉っています。
ナンバーツーとはそれを婉曲に言うための隠語です。

さて、薬を混ぜて練られた後、袋は
「できるだけ小さく丸められて」保管されることはお話ししました。
そのやり方は、バックパッカーの掟、
「詰め込んで、詰め込む」という、マントラに忠実に。

現在、アポロ11号ミッションにおける5つの宇宙での
排泄物の完全なログが残されているそうですが、
この「完全なログ」の状態がどんなものかはどこにも記されていません。

しかし、当然のことながら、アポロ計画の最終トイレ報告書には、
「臭いの問題が絶えず存在した」と当然の結果が記されることになりました。

そして、このように結論づけられています。

「アポロの廃棄物管理システムは、
工学的見地からは満足のいくものであった。
しかし、クルーの受容性の観点からは、

システムには悪い評価を下さざるを得ない」

NASAの理系野郎たちにとってたとえ問題がなくとも、
現場の人たちには我慢できないものだった、と言っているわけですな。

宇宙で排泄することは、非常に気持ち悪く、時間もかかり、
済んだら済んだで臭いも耐え難く、何と言っても精神にきます。

そこで宇宙飛行士は打ち上げ前に下剤を服用したり、
腸の動きを遅くする薬に頼る人までいました。

早めるか遅めるか、という選択で、できるだけ現地での運用を避けたのです。
それだけこれは嫌な「仕事」だったということです。


■アポロ11号の場合

さて、打ち上げ前にガッツリステーキやら卵やらベーコン食ってた
アポロ11号のメンバーはどうだったでしょうか。
彼らは他のミッションと違い、月着陸を目標としています。

アポロ計画でそれまでは「袋」を着用していたと述べました。
が、月面で宇宙服を着たままでは、流石に
この袋で排泄物を受け止めることができません。

そこで、アポロの宇宙飛行士は、宇宙船を離れるときに

「fecal containment(封じ込め) system」

という、基本的にはおむつのようなものを身につけました。
これはNASAの誇る技術の粋を集めたもので、
吸収素材を何層にも重ねたアンダーショーツで構成されていました。

今なら高分子ポリマーとか、なんなといい素材ができていますが、
この頃の吸収素材がどの程度だったかはわかりません。

月面着陸をしたバズ・オルドリンとニール・アームストロングが
21時間36分の月滞在中にこの「システム」をフル活用したかどうかは
NASAの記録はわかりませんが、公式にははっきりしていません。

しかしバズは他の天体でNo.1をした最初の人間であると主張しています。
なんでも、月着陸40周年記念の講演会か何かで、彼は、

「外は地獄のように寂しかった」

といった後、こう付け加えたのだそうです。

「私は宇宙服の中でPをしたんです」

なぜそのセリフの後にそれが来る。


バズ・オルドリン(オムツ着用中)


1975年にアポロ計画が終了した後、無重力状態で「する」ための仕掛けは、
それ以来、少しずつではありますが、快適になっていきました。

少なくとも宇宙飛行士は、排泄物が周囲に浮かないように
「する」のが上手になりました。

そんなこと上手になってどうする。

■ 女性宇宙飛行士の場合

NASAで665日という記録的な宇宙滞在をした女性宇宙飛行士、
ペギー・ウィットソンは、
宇宙でのトイレは無重力空間中の行動で最も嫌いだと言っています。


最初のPキャッチャーをNASAはロールオンカフと呼んでいましたが、
この器具は、そもそも女性が使うようには設計されていませんでした。

いわゆる「袋の時代」を経て、1973年にNASAが
最初の宇宙ステーションであるスカイラブを建設したとき、
何カ月も宇宙で生活することになる宇宙飛行士のためには
いよいよ本当のトイレが必要になってきました。

スカイラブは1973年と1974年に3回の有人宇宙飛行を支援し、
最後の最長ミッションは84日間にものぼりました。

スカイラブの宇宙飛行士の「トイレ」は、基本的に壁に穴が開いていて、
扇風機と袋が接続されているというものです。

スカイラブに搭乗した男性は、排泄した後、排泄物を熱で真空乾燥させ、
廃棄物タンクに捨てたり、研究したりしなければなりませんでした。

そして、スペースシャトル時代の到来とともに、
宇宙での女性(とトイレ!)の活躍も始まったのです。

女性宇宙飛行士が打ち上げ時や宇宙遊泳時にトイレができるように、
NASAは使い捨て吸収式コンテナトランクを作りました。

開口部の幅は4インチ以下で、通常のトイレの穴の4分の1程度の大きさです。
そのため、宇宙飛行士はまず地上でトイレの訓練を受けなければならず、
また、特殊なシート下カメラを使って狙いを定める試験も行われました。

トイレに紙を入れることは許されず、それは別に捨てなければなりません。

マイク・マシミーノ宇宙飛行士は、宇宙トイレに座るときを
このように表現しています。

「まるでチョッパーバイクに乗っているような姿勢になるので、
地上では大腿部の拘束具を使って壁に貼りつきました。
宇宙で『イージー・ライダー』のピーター・フォンダになった気分です」

と。

いつしか時代は変わりました。
宇宙飛行士は袋を揉むミッションから解放されました。

宇宙飛行士が用を足した後廃棄物は、ビニール袋に入れられ、
最終的には地球に向かって疾走する間に燃え尽きてしまうのです。

しかも、それはサステイナブルなリサイクルまで可能となりました。

現在、ISSのトイレはかなり効率的に尿を回収することができ、
約80~85%がリサイクルされて宇宙飛行士の飲み水になります。

自給自足というわけです。

また、宇宙飛行士は、宇宙遊泳時や打ち上げ・着陸時、
また男女の宇宙飛行士が同空間?で宇宙遊泳をする場合には
吸水速乾性ガーメント(オムツですね)を使用し、配慮します。

■これからの宇宙トイレ問題

2017年、NASAは宇宙飛行士が(例えば火星へのミッションのように)
何日も宇宙服に拘束された場合に起こりうる問題を解決するために
「Space Poop Challenge」を立ち上げました。

NASAは民間に問題を丸投げする作戦に出たのです。

最優秀賞の15,000ドルを獲得したサッチャー・カードン博士のシステムは、
宇宙服や衣服の股間にある小さなアクセスポートを使い、
そこに付けた沢山のバッグやチューブから排泄物を逐一回収するもの。

この発明は、飛行士が宇宙服を脱がずに下着を交換するのにも役立つでしょう。

サッチャー・カードン博士は空軍将校、家庭医、航空外科医でもあり、
同じ設計コンセプトで、体の他の部位にも緊急手術が可能だと述べています。

「へその真上にこのようなポートをつければ、
腹部の手術ができるようになるかもしれません。

宇宙飛行士が宇宙で小惑星の採掘のような外傷を伴う状況になった場合、
そのポートが命を救うという場面もあるはずです。」

■ ミールの宇宙トイレ

ミール宇宙ステーション、女性型汚物処理装置

さて、そこでスミソニアンの展示です。



アルミニウム製の大型タンクにキャップを取り付け、
ゴム製とプラスチック製の2本のホースを、
グレーのラッカー仕上げの台座に取り付けています。


1986年から2001年までの地球軌道で、ミールは
長らく運用されていた宇宙ステーションでした。

ミールユニットには、宇宙ステーションの
主調な廃棄物処理タンクに接続するチューブがあります。

このトイレには女性用アタッチメントが取り付けられています。


つい最近、日本の富豪が宇宙飛行を経験していましたが、
そこでの生活は、少なくともトイレとかお風呂に関する限り、
リッツ・カールトンのように快適とではなかったことは想像できます。

時代を経て進化したとはいえ、最後はオムツ頼み。
これが現在の限界なのです。

1975年にNASAがぼやいたように、その問題は
宇宙と関わる人間にとって、最後まで完璧には解決できないかもしれません。

もうこれは仕方がないかな。


続く。



宇宙でのトイレ事情(小編)〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

宇宙飛行に対して、声に出して言わないまでも誰もが持つ疑問があります。

"宇宙ではどうやってトイレをするのだろう?"

アメリカ国立航空宇宙博物館における一般公開においても、
そのことは見学者の多くが質問するしないに関わらず考えることです。

そんな疑問に少しでも答える展示がスミソニアンにあります。

さて、今日は宇宙でのトイレ事情についてお話しするつもりですが、
宇宙開発が始まって以来、そこには笑いあり涙ありの、
トイレ事情の歴史とその発展、工夫がありました。
(そしていまだにある意味解決されていないという)

それをお話ししていく都合上、直截に表し難い言葉もあり、また
そのものをズバリ表現するには、途方もない羞恥心の克服を要します。

てなわけで、論文とか正式の文献ではない当ブログとしては、
そこんところをできるだけ穏便に、かつ婉曲しつつ、
マイルドに、遠回しに表していることをどうかご了解ください。

とはいえ、念には念を入れて、食事をしながらお読みになることは
厳に慎むことをお願いする次第です。



スミソニアンには、なぜか、ソ連のソユーズが搭載していた

Human Waste Disposal Unit
「人類用廃棄物処理ユニット」

の実物がロケットや宇宙船の谷間にひっそりと展示されています。
Male Configuration=「男性用(構成)」
ということでご理解いただけましょう。

ソユーズは、有人宇宙飛行船の中で最も長い運用期間を誇ります。
ガガーリンが有人飛行を行った時から、現在も国際宇宙ステーションへの
人々の輸送に使用されて、バリバリ現役なのは皆さんご存知ですね。

今回のロシア侵攻以来、宇宙の開発事情にも大きく関わるのではないか、
というのは誰しもが懸念するところだと思いますが、その話はまた別に。

さて、そのソユーズですが、ソ連らしく実に合理的なことに、
最初から「自己完結型」を目指していたため、トイレも完備でした。

アメリカの宇宙船トイレ事情一般があまりに悲惨だったことを考えると、
宇宙のトイレ事情に関しては、一貫してソ連の圧勝だったと言えます。

アメリカがソ連に追いつき、追い抜いた後も。



これがソユーズの「人類用廃棄物処理装置」
収集タンクが取り外し可能です。


そしてこれがどうやら男性専用のアタッチメントである模様。


説明がなかったのですが、取り付けられている位置関係から考えて
こちらも「廃棄物処理用」であることは確かです。

JSC Zvezda

という文字が見えますが、これはロシア連邦の企業である
NPPズヴェズダのことです。

ズヴェズダとはロシア語で「星」を意味し、宇宙飛行士の生命維持装置、
宇宙服(与圧服)、月面用宇宙服、射出座席などを製造しています。


■悲惨だったアメリカの宇宙トイレ事情

もうこの際はっきり言ってしまいます。

アメリカという国が、宇宙開発事業において
世界一の科学技術先進国でありながら、
どうして宇宙飛行士の生理というものにこれだけ無情でいられたのか、
わたしにはさっぱりわかりません。

いや、わかる気もしますが、わかりたくありません。

宇宙飛行士。

勇敢で、知的で、常に冷静で、目も眩むような秀でた能力を評価され、
数多の優秀な候補者の中から選ばれた一握りの・・超エリートです。

つい最近、ディズニープラスのナショジオ制作による
「The Real Stuff」(マーキュリーセブン」を少しずつ観出したのですが、
改めて7人の選考過程を見て、こいつら只者じゃねえ、と感嘆しました。

(ちなみにジョン・グレンを演じているのが『スーツ』のマイク・ロス役で、
これは全然違うだろう!と画面に出てくるたびに全力で不平を言うわたし)

「マーキュリーセブン」は、秀でた人間の人間らしい弱さや個人事情、
家庭の事情などに今のところ焦点を当てている様ですが、それは逆に、
今まで彼らがスーパーマンとして描かれてきたと言うことでもあります。

しかしパイロットとしての能力はともかく、彼らも人間である以上、
人間的な弱さはもちろんのこと、物を食べ、それを外に排泄するという
ごく当たり前の、しかし本人にとってはプライベートであるべき、
かつ、切実な本能を有しています。

ところが、1960年代に宇宙飛行士を月に送り込むための競争を始めたとき、
NASAは「人類が宇宙で膀胱と腸を空にする方法」にほぼ無関心でした。

無関心というか、よく言われるのが、NASAの技術者は、
ロケットを飛ばし、人を乗せて生きて帰らせることのみに注力しすぎて、
排泄の問題を(ロケットを飛ばすことに比べれば)
「ほんの些末な問題」と考えていたか、あるいは全く考えていなかった
(専門の対策もしなかった)ということです。

思い出してください。

アメリカ人として最初に宇宙に行った宇宙飛行士、
海軍一のパイロットと自他ともに認めるところのアラン・シェパードが、
1961年、ロケット発射台でどんな恥ずかしい目にあったかを。

【アラン・シェパード飛行士の場合】

ライトスタッフ・シェパード出発シーン

アランが尿意を訴え、スタッフが慌て始めるのが3:15~。

アランが「ゴードン」と呼びかけているのはマーキュリーセブンの同僚、
ゴードン・クーパーのことで、打ち上げのCAPCONには必ず飛行士が交代で入り、
連絡を行ったり対策を一緒に考えたりしました。

「スーツの中でやれ」

とスタッフのチーフが許可するのが4:50。
ほっとするアラン、次いで液体の移動がセンサーに反応。
心臓と呼吸のモニターの電子センサーがショートする。
そしてそれとは全く関係なく打ち上げは成功!

・・・してしまったので、この問題は、些末なこととして
(むしろ緊張の中のちょっと和む逸話として)
その成功の喜びにかき消された、と言ったらいいかもしれません。


1961年5月5日のシェパードの飛行時間は15分程度と想定されていたため、
NASAがトイレについて考えなかったのは当然といえば当然かもしれません。
が、
それは彼らが、概念上でしかその問題を捉えていなかった、
ということの表れと言えましょう。

確かに飛行時間は15分程度でしたが、シェパードが最初に宇宙服を着て、
カプセルに入り込み、待機する時間は何時間にも及ぶことを
おそらくスタッフの誰一人考えたこともなかったに違いありません。

映画のシーンを観た方ならお分かりのように、
アランが搭乗前皆に拍手で迎えられている時、周りは真っ暗です。
この直後からはおそらく彼はトイレに行く環境にはなかったはず。
そりゃ途中で行きたくなっても時間的に当然というものでしょう。

何時間もノーズコーン内に座っていたシェパードは、そのうち
膀胱が我慢できないほどいっぱいになっていることに気づき、訴えましたが、
宇宙服を脱ぎ着している時間はもうありませんでした。

最初は漏電の可能性を考えて拒否していたNASAも(てか拒否してどうする)
アラン・シェパードがもう我慢できない〜と再度訴えたため、
自分の座席で「逝く」ことを許可しました。


アラン・・・(-人-)

彼は後にこう語っています。

「もちろん、その時綿の下着を着用していたので、すぐに染み込んでしまいました。
打ち上げの時には完全に乾いていました

しかしこれって、国家の英雄に語らせるようなことじゃないよね。
ソ連ならきっと同じことがあっても「グラスノスチ」はなかったでしょう。


マーキュリーカプセルが回収された後のアラン・シェパード宇宙飛行士
この時には宇宙服内部はすっかり乾いていた

次のマーキュリー計画4号の時、ガス・グリソム飛行士は、
打ち上げの1日前に急遽作ったという、
二重のゴムパンツに、採尿設備が埋め込まれたもの
を穿かされています。

どんなものかはわかりませんが、さぞかし気持ち悪かったことでしょう。
宇宙船の中は結構温度が上がって暑くなることもあったそうですから、
そんなところでゴムのパンツを履くなど、考えただけで汗疹ができそうです。


その後、反省した(のかどうかわかりませんが)NASAは、
ジェミニ計画の後に続く宇宙飛行士に排「尿」設備を与えるようになりました。

繰り返します。排「尿」設備です。

それがこれ。

スミソニアン国立航空宇宙博物館所蔵

NASAの命名したところのロール・オン・カフ」
という男性用のラテックス製カフは、プラスチック製のチューブ、
バルブ、クランプ、回収袋に接続されていました。

これは見て想像できる通り、あまりいいシステムとは言えませんでした。
時々漏れることもありました。

って当たり前みたいにいうなっての。

しかしながら、この後に及んでも、NASAは
宇宙飛行士の排泄の問題を真面目に取り組もうとせず、それどころか、
NASAのアポロ宇宙ミッションに関する公式報告書(1975)には、

「有人宇宙飛行の初期から、排便と排尿は
宇宙旅行の煩わしい側面であった」

とあくまで他人事のように書かれています。

煩わしい、という言葉からは、どうにかせんといかんことはわかっているが、
本人でない技術者には煩わしいことでしかない、
という他人事感がダダ漏れに溢れ出ています。

これって、全く関係ないようですが、
「犬や猫は可愛いけど糞尿の始末をするのは煩わしい」
みたいな話と同列に思えてきますね。


【ジョン・グレンとジェミニ宇宙飛行士の場合】



この「カフ」を初めて使用したのが、ジョン・グレン飛行士です。
マーキュリーアトラス6「フレンドシップ7」のミッションでのことでした。

(しつこいですが、エド・ハリスのジョン・グレンがあまりに良かったので、
ナショジオの「マーキュリー7」におけるジョン・グレン役
パトリック・J・アダムズが全く受け入れられないわたしです)

このミッションで、彼はアメリカ人として初めて軌道に乗ったのですが、
飛行時間は4時間55分ということもあり、準備から回収までの間に
食事もするしトイレもするであろうということが最初から予想されたのです。

というか、このミッションでは、
生理的な実験データを取るというのもプログラムの一つでした。


ここで改めて考えてみると、宇宙でのこの手の問題が複雑になるのは、
無重力という特殊な状況が関わってきます。

地上では可能なことでも、無重力下だとダメなことはいくつもありますが、
この排尿という事案では、スーツ内に圧力を高めるバルブを導入しなければ、
尿というものを排出することすらできないという問題がありました。

その結果生み出されたこのガジェットですが、
結論から言うとそこそこうまく機能したようです。

それは具体的にこういうものでした。


ジョン・グレンが使用した装置(というか袋)

地球上に生存している人間は、膀胱の隙間が半分以下になると、
神経センサーが脳に信号を送り始め、トイレに行きたくなるものなのですが、
微小重力下での尿は膀胱の底に溜まらず、膀胱内で浮く
状態になるため、ジョン・グレンは飛行中、
膀胱がほぼ満杯になるまで自然の欲求を感じることはありませんでした。

その後、彼は尿バッグに約800mlの液体を入れて帰還しました。

ジョン・グレンの採尿バッグは、1976年から
アメリカのスミソニアン国立航空宇宙博物館で展示されています。


■ アポロ計画と”人体廃棄物”問題

そして時代はジェミニ、次いでアポロ計画へと進んでいきます。

しかしNASAの技術者たちは、相変わらず
宇宙飛行士を月に送り届ける方法を考えるのに忙しく、
1960年代と70年代のアポロミッションの時代になっても、
頑なにトイレを設計しようとはしませんでした。

実際、1980年代にスペースシャトルにトイレが搭載されるまで、
アメリカの宇宙船にそれが設置されることはなかったのです。

ソ連の宇宙飛行士が、当初から座席の下にトイレを組み込み、
座席に座ったまま用をたしていたということを考えると、
この非人道的かつ非科学的な態度にはどうにも首を傾げざるを得ません。

欲しがりません勝つまでは、ってやつかしら。
それとも贅沢は敵だ、的な?
心頭滅却すれば火もまた涼し・・いやこれも違うな。

さらに時代は下り、1970年代のスカイラブ宇宙ステーションには
一応技術的にトイレと呼べるものがあるにはありましたが、
それは壁に穴が開いたような原始的かつ無残なもので、
宇宙飛行士は特別な区画で排泄物を乾かしたり?していました。

どうしてNASAは専門家、それもズバリ、トイレの専門家の意見を
もう少し積極的に取り入れなかったのか、と不思議に思わずにいられません。

もし依頼してくれていれば、当時のTOTOがNASAに
何らかの画期的な提案ができたかもしれないのに。


【だがしかしアポロ計画でもトイレはなかった】

NASAが初めて本格的な宇宙トイレを設置したのは、
1970年代初頭に打ち上げられたスカイラブ宇宙ステーションからで、
本格的なトイレが設置されたのは、
1980年代のシャトルミッションのときです。

そして人類初の月着陸を可能にしたアポロ11号には
トイレはありませんでした。

宇宙飛行士のニール・アームストロングバズ・オルドリンは、
50年前の1969年7月20日にアポロ11号が月面に着陸したとき、
月面に降り立った最初の人間になったかもしれませんが、
彼らが月面着陸をやり遂げるために払った犠牲は、こと排泄という
根本的な生理的快不快の点で言うと、あまりに大きかったと思われます。

トイレがなければ、袋にすれば良いじゃない。

・・とNASAの中の人が言ったかどうかは知りませんが、
トイレを作ることをすっかり放棄したNASAが選択したのが「袋」でした。

小をするときは、先程のカフに行うのですが、
それは短いホースで袋につながれています。
ただ、カフは毎日取り替えることができました。

そしてアポロの宇宙飛行士は当たり前のように全員男性だったので、
女性が使うためのシステムについては検討されたこともありませんでした。

ソ連は早いうちに女性飛行士テレシコワの打ち上げを行いましたが、
驚くべきことに彼の国はそっち方面の問題もちゃんと解決していました。

対してアメリカは、男性のトイレ問題にすら苦労していたわけですから、
女性宇宙飛行士を打ち上げるなどまず物理的に不可能だったのです。

しかも男性専用とされたこの装備も、決して素晴らしいというものではなく、
よく外に溢れたと言いますから、女性用など夢のまた夢?でした。


さて。

しかしながらこれまで語ってきたことは、排泄という問題の
ごく限られた、あくまでもライトな部分に過ぎません。

宇宙計画が進むということは、滞在時間が長くなるということで、
最初のうちそんなことは考慮すらされなかった状態から、
いよいよNASAは「その問題」に対峙しなければならなくなってくるのです。
(意味は・・・わかるね?)

その解決方法は、あまりにも情けなく(宇宙飛行士にとって)
苦痛と、何とも言えない一抹の悲しみを伴ったものとなりました。

次回は、あくまでもその問題を避け続けたNASAのせいで、
代々宇宙飛行士たちが直面せざるを得なかった、
プライドさえもズタズタになるような、恥辱に満ちた宇宙飛行についてです。

引き続き飲食をしながらの閲覧はご遠慮ください。


続く。



映画「グラマ島の誘惑」〜それぞれの戦後

2022-06-05 | 映画

戦後の価値逆転映画、「グラマ島の誘惑」、最終回です。

■ 帰国



アメリカ軍に投降し、日本に帰国するその船上で皇族為永が見た新聞には、
グラマ島からあいと出奔した兄為久が生きていたことが書かれていました。

6年間の島生活の後島を出たカヌーはどこかに流れ着き、生還した、
とニュースでは大々的に報じられています。

しかし、一緒だったあいのことはどこにも書かれていませんでした。


女たちがこの新聞記事を目にして驚いたことは、
香椎兄弟が本当の皇族だったいうことでした。

あまりに島の生活で人間らしすぎるその実像を見たものだから、
これまで殿上人だった皇族がこんな俗物な訳がない、
と全く信じられなくなっていたということです。

しかしながら、これは単に庶民の思い込みであり、皇族といえど人の子、
欲望もあれば俗っぽい価値観もあるはずで、
そういう血筋に生まれたからといって、どんな環境下にあっても
(特に無人島に流されるなどという)それでも高貴な精神を堅持できるか、
などと問うのはあまりにも残酷な仮定だろうと思います。


船上で為永は宮内庁から来たという皇族廃止の通知を見せながら、
女たちに向かってこんなことを朗らかに宣言します。

「もう日本には皇族は無くなるんだ。
みんな、内地に帰ったらあの島の民主的な経験を役に立てましょう」



それじゃ天子様もいなくなるのか、と不安そうな女たち。
しかし、為永はこう女たちに太鼓判を押すのでした。

「天皇陛下はおいでになる!」



その言葉はもちろん正しかったのです。

戦争が終わって貴族制度は廃止になり、皇族家は野に降りました。

しかし皇室は残り、天皇陛下は戦後も象徴として
「おいでになる」ことが決まったのは歴史の示すとおりです。

ついでながら、皇族が平民に降りることが決まったときも、
いつ何時元に戻るようなことがあってもいいように、
常にその心でいて欲しい、と言葉があったと聞きます。


そして、グラマ島から彼らが帰国して間もなくのこと。
日本中が皇太子殿下と民間人正田美智子さんとの婚約で沸くことになります。



本作撮影中、ちょうど皇太子殿下のご婚約が発表になりました。

旧皇族の男性を主人公としていた当作は、脚本を変更して
すかさずこれをストーリーに取り入れました。

まずは、書店のウィンドウに、お二人の写真とミッチー本。
その一隅に報道班員坪井すみ子が書いた「グラマ島の悲劇」新刊書が
ベストセラーとして飾られているといった具合です。



折しもクリスマスの街角。
その前を、サンタクロースの格好をしたサンドイッチマンや、
新しく創設された警備隊(後の自衛隊)の制服を着た一団が通り過ぎます。

よく見ると、電柱には「原水爆実験反対」のビラが貼られています。

■ それぞれの戦後



グラマ島の人々も、それぞれのもといた場所に戻って行きました。
とはいえ、価値観の変わった日本では、彼らの生き方も、
戦前と同じというわけにはいきません。

ここ銀座にあるマッサージ付き温泉施設の前に停まった
運転手付きの黒塗りの車からは、兄の香椎為久が姿を現しました。

リュウとした粋な仕立てのスーツに白手袋という装いです。


こちらは慰安婦たちの引率だった女将、佐々木しげ。

坪井すみ子の「グラマ島の悲劇」が世間を騒がせ、話題になって
マスコミはグラマ島の関係者のもとに詰めかけていました。

外から野次馬が覗く中、ブリブリしながらインタビューに答える彼女。
慰安所を経営していた彼女の夫は赤線廃止がショックで亡くなってしまい、
仕方なく残された店を流行りのトリスバーとして経営しています。

しかしどうにも昨今のご時世では、経営もなかなか苦しい模様。



さて、「大銀座温泉」に入って行った香椎為久は、
そこで『背番号21』をつけた娘にマッサージを受けていました。

実はこの背番号21、縁故採用なのでしょうか、
あの兵藤惣五郎中佐の娘(市原悦子)だったりします。
桂小金治の娘が市原悦子って、なんか納得してしまうんですけど。

彼女は為久の御身を激しくマッサージしながら、ぷんぷん怒っています。

「痛い痛い痛い」

為久は叫びますが、手加減せず、

「『グラマ島の悲劇』での父兵藤中佐の描かれ様があまりに酷い。
もう坪井すみ子を訴えようと思っている」


と忿懣やる方ありません。

彼女は為久になんとか父がそんな人間でなかったと証言させたいのですが、
為久はあんな島のことは思い出したくもない、とそれを拒むのみ。

それに、酷く描かれていることにおいては、
兵藤より為久の方がずっと赤裸々だったりするわけですしね。

為久に断られた兵藤の娘は泣きながら部屋を飛び出してしまいました。
(市原悦子の出番これで終わり)



そこにやってきたのは、為永の一男一女、為成とより子でした。
為成はシルクハットにタキシード、より子はロングドレスという装いで、
これでどちらも高校生というからびっくりです。

実は、大銀座温泉を経営しているのは為久の妻、彼らの母親です。
一家の主がいなくなった戦後を生き抜くために、彼女は
杉山という男性と温泉施設を共同経営してきたのでした。

杉山たる人物は登場しませんが、当然男性であり、
為久の長い不在中、彼女の実質的なパートナーだったようです。


兄妹は「グラマ島」を読んだといって父親を揶揄ったりします。
父親に対する尊敬とか同情はあまりなさそうです。



そこに激しく怒りながら入ってきて、子供たちを追っ払ったのは
羽付の帽子のガウンというものすごい格好をした為久の妻であり、
「大銀座温泉」の副社長、香椎智子。

智子を演じる久慈あさみは26本の社長シリーズで森繁の夫人役だった人。
この二人のコンビを見て安心?した観客は多かったのではないでしょうか。

ただし、今回、夫人は留守中パートナーができてしまったため、
死んだと思われていた夫が帰ってきても嬉しくないという役回り。



奥方にとって都合よく、坪井すみ子が孤島での夫の行状を
あからさまに公開する暴露本を書いてくれたということになります。

烈火の如く怒って見せ、

「誇りを傷つけられたからもう殿下とは離婚させていただきます!」

とヒステリックに言い立てるのでした。



さて、弟の為永の方も、帰国後、なんとか働き方を考えていましたが、
とりあえず趣味の雑誌を創刊しようとして失敗。

家も抵当に入り、職もない旧宮家の兄弟は、
平民として戦後の日本をどうやって生きていけばいいのでしょうか。



そこで為永は、心機一転、食品会社を起こすことにしました。
おりしも戦後でアメリカとの文化交流も盛んになる中、
スキヤキの割下を瓶詰めソースにして、輸出するというアイデアです。

そこで、トリスバーで苦戦しているおしげ婆さんに協力してもらい、
彼女の店をそのまま会社にすることになりました。

吉原にある店なので、為久が商品名を「ヨシワラソース」と名づけました。



その夜、為久は為永を沖縄料理店に誘いました。
為永は、兄に兼ねてから気になっていた、あい子のことを尋ねます。

知的障碍があるけれど心優しく、為久の子供を身籠った女。
カヌーで一緒に島を出て行ってからどうなったのかと。

坪井すみ子の書いた「グラマ島の悲劇」には、
二人のカヌーがサイパンに流れ着いた時、皇族の体面を考えた為久が、
まるで愛子を殺したように書かれていたというのです。

為永がそのことを兄に伝えると、為久はため息をついて

「あの坪井という女はよっぽど私が嫌いだったんだな」

と言ってから、

「あの子はね、死んだよ」

「ああ・・・やっぱり死んだんでございますか・・」

「・・・・だろうと思うんだ」




「え?」


為久は悲痛な表情で、しかし淡々と続けました。

「あの子は私に何か食べさせようと思って、海に潜っていったんだ。
それっきり上がって来ないんだ」


自分はいつまでも、その辺が真っ暗になるまで彼女を待ったが、
水の中でフカにやられたか、シャコ貝に挟まれて溺れてしまったか、
ついに帰ってくることはなかった、としみじみ語りました。


その時です。

為永は、あいが生前歌っていた曲が舞台から流れているのに気がつきました。
襖を開けてステージを見ると、そこには彼女に生写しの女がいます。

息を呑む為永に、為久は彼女があいの妹であると説明しました。
彼女は「かな子」と言い、「グラマ島」を見て為永を訪ねてきたのです。




さて、為永の興した割下スープ、「ヨシワラ」の事業は、
それを使用したレストラン、スキヤキハウスに発展するなど、
なかなか波に乗って為永もしげも忙しくなりました。



「殿下〜〜〜あ」

そんなある日、茶髪に染めた髪に羽をつけ、ザーマス風の眼鏡をかけた、
詩人の報道班員、香坂よし子(淡路恵子)がやってきました。

彼女もまた「グラマ島」で書かれた自分のことに不満を持っており、
為永と為久の力で本を発禁にして欲しいと泣きつきに来たのです。



そこに運悪く、「グラマ島」の作者本人、坪井すみ子がやってきました。

金銀に光る着物にまるで獅子舞のような白いロングのカツラと意味不明。
一体何をしていたらこんな衣装を着ることになるのでしょうか。



二人はたちまちキャットファイトを始め、
エキセントリックな香坂は、為永に、

「アタシと香坂さんとどっちがお好きなんですか殿下!」

と訳のわからないことを言って掴みかかるのでした。



その頃、為久殿下のロールスロイスに便乗して、銀座まできたあいの妹、
かな子は、おそらく為久に買わせたのであろう最新流行のドレスに身を包み、
ボーイフレンドとの待ち合わせ場所に送らせて、さっさと降りて行きます。



彼女を映画館の前で待っていたのは、大学生風の青年でした。
トレンチコートに肩からカメラを下げ、いかにも良家の出に見えます。

振り返って車の為久に手を振る彼女は、
顔形はそっくりでも、あの「あい子」とは別の人種のようでした。

っていうかさ、かな子さん、一体なんのために為久のところに来たの?
姉のグラマ島でのことをネタに、ソフトに恐喝でもしてるのかしら。



為久は何か鼻しらんだ様子で彼女を見送るのでした。
彼も、なんでかな子の面倒を俺が見るんだ、と思っているのでしょう。

皇族は廃止寸前、自分自身は離婚寸前。
人の面倒を見ている場合ではないのですが。



さて、坪井すみ子が為久の元にやってきた理由は意外なものでした。

彼女が示した新聞には、わずか二日後、
他ならぬグラマ島で行われる水爆実験が報じられていたからです。

米軍に投降したとき、坪井は二人は死んでいたと嘘を言ってしまいましたが、
彼らだけは、そこに未亡人とウルメルがいることを知っています。

それに、と、坪井すみ子は「グラマ島の悲劇」に書かなかった
ある秘密を打ち明けました。

あのウルメルと名乗る男はカナカ族でもなんでもなく、
実は城山という名前の脱走兵だったのだと。

つまり、グラマ島に残っているのは二人の日本人なのです。



同じ新聞の別の欄には、グラマ島の慰安婦たちが
沖縄で買春容疑で捕まったというニュースが報じられていました。

しげはだから言わんこっちゃない!と叫びますが、
しかしとりあえず、今はそれどころではありません。

このままでは二人の日本人が水爆に巻き込まれるかもしれないのです。



居ても立っても居られない彼らは立ち上がり、
たまたま家の外に停まっていた霊柩車を拝借して出かけることにしました。

なぜ霊柩車が?などと言ってはいけません。
これはきっと何かの暗喩なのです。知らんけど。


お茂は霊柩車から顔を出して呟くのでした。

「まあまあ、どこの国の人か知らないけど、
水爆みたいなおっかないもの、やらなきゃ良いのに」




為永はとみ子とウルメルの写真を掴み、霊柩車に乗り込んでいきます。
こんな時に彼女をストーカーしていたことが役に立つとは。

しかし、一体どこに行って、何をすれば、二人を助けられるのでしょうか。



そして、二日後の朝。(おいおい)
為久を乗せた黒塗りの車は、皇居に向かって走っていました。



後部座席で新聞を読む香椎為久。
新聞にはグラマ島の水爆実験が本日行われるということが書かれていますが、
彼にとっては特にこの件に関する思い入れはないようです。

グラマ島にいたときもそうであったように、彼の脳には
身の丈とその周りの自分のことしか関心を持たないような
特殊なプログラムでもされているような感じです。



「この車とももうすぐお別れだな」

運転手の秋山は僅かに表情を動かしますが、無言です。



「秋山」

「はい」

「お前タバコ持ってない?」

「はい、しんせいでございますが」

「ああ、結構」




タバコもないのかよ、とはもちろん秋山は言いません。
尻ポケットからくしゃくしゃのタバコを差し出してやります。

為久がそのタバコに火をつけた途端。


グラマ島に水爆が投下されました。

原作の「ヤシと女」では、ビキニ環礁の核実験で被害に遭った
第五福竜丸の記事を見ながら、ふたりも巻き込まれたのでは、
と心配するにとどまっているのだそうですが、映画では本当に炸裂します。



水爆実験によるキノコ雲の周りに、いくつもの十字架が重なります。
しかし、この演出には正直かなり興醒めしました。

グラマ島の四つの墓標が砕け散るなどの演出の方が良かった気がします。

このキノコ雲は、例によって、水にインクを落としたものを
逆さまに撮影する、この頃多用された手法の賜物だと思われます。



本作は、荒唐無稽なくだらない喜劇仕立てと言いながら、
そのシュールな舞台設定と衝撃の展開が心に残り、妙に後をひく作品です。

特に、誰も悪人として描かかず、皇族の兄弟の「普通さ」と、
彼らがその身分を失う「悲しみ」にまで言及されている点を評価します。

ただ、創作物ながら、島に残された二人のその後の運命については、
あまりの残酷さに、想像すると心の底が冷えるのを感じずにいられません。

笑いが片頬で引き攣るブラックな喜劇だと思いました。







映画「グラマ島の誘惑」〜クーデターと投降

2022-06-03 | 映画

戦前の価値観崩壊の上に制作された怪作、
「グラマ島の誘惑」中編です。

ミクロネシアあたりの小さな島、グラマ島に流れ着いた
宮様二人と御付き軍人という男3人に9人の女の生活は、
当初平時のヒエラルキーそのままに恙無く運んでいましたが、
そこはそれ、モデルとなったアナタハン島でもそうであったように
日を経るに従い、そこで生まれる人間関係が秩序を崩壊させていくのでした。

■下剋上発生


為永殿下の未亡人上山とみ子への思いは募るばかりです。
ある晩「お話ししようと」部屋に忍んでいき、すっかり嫌われる羽目に。



こちらはグループから離れて丘の上に移住した報道班員二人。

残された女たちの間では、彼女らがなぜか綺麗な白い服を着込み、
食べ物や薬を持っているらしい、という噂が立っていました。

そんな折、慰安婦が二人マラリアにかかったので、
助けを求めるため女将が彼女らの居住区を訪ねてみると、
報道班員たちは噂通りの生活をしており、チョコレートに缶詰、
キニーネを気前よく分け与えてくれました。

種明かしをすると、彼女らは、コロニーを去った後、島の反対側で
アメリカ軍の飛行機の残骸を発見したのです。
搭載されていた潤沢な物資で生き延び、落下傘で服を作って着ていました。

そして、様子を見にきた慰安婦たちに「蜂起」を扇動し始めるのでした。
それがなかなかに過激です。

「あんたたち、あれが本物の宮様だと思ってるの?
国民のことをいつも考えてくださってるお優しい天皇陛下の親戚が、
あんな食べることと女のことしか考えない下品な連中なわけないじゃない!」




そしてなぜか行きがかり上ウルメルを先頭に立て、
下克上のクーデターが起こりました。

プラカードを持ち、皇族兄弟と兵藤を追いかけ回して縛り上げ、
自分達のコミュニティから追放して、

「もう威張る奴はいないわ。皆平等なのよ!」



追放されてトボトボと歩いて行く二人の宮様と一人の軍人。

「革命だね。しかし女の革命だから命は取られずに済んだ」

兵藤は怒り心頭ですが、為久殿下は案外のんびりと達観しています。



その頃女たちは宮様の住居を占拠し、賑やかに飲んで踊って歌っていました。


さて、島を歩いていた3人は、報道班員たちが既に発見していた
撃墜されたB29の残骸を見つけました。

この機体の残骸には、ちょっとしたいわくがあります。

実はこれ本物のB29の残骸で、川島監督がどうしてもこだわって
本物をセットに持ち込むことを主張し、実現したものなのです。

その頃はまだ戦争中の名残が国内で手付かずになっていたのかもしれません。

スタッフは機体を手に入れるため、まず防衛庁と航空会社に交渉しましたが、
全く成果はなく(というか相手にされなかったんだと思う)
ついに最後の手段、脚本を英訳して米軍立川基地に持ち込み、交渉しました。

米軍は持ち込まれた脚本をつぶさにチェックした結果、
全くこの内容に政治的な問題はない、と返答した上、
その筋に協力させて、B29の機体残骸を入手して提供してくれました。

二つに輪切りにされたB 29は、半分づつ、トレーラーで
ロケ地のあった千葉に運ばれた・・・ということです。

特に当時の日本では、残骸とはいえ、もしそこで誰かが亡くなっていたら、
それだけでダメになりそうな話ですが、アメリカ人にとっては
全くその辺に対するタブーはないのが幸いしたということかもしれません。



機体の中に恐る恐る踏み込んだ3人が見たものは、
ノーズペイントを描くための見本なのか、肌も顕わな女性の写真でした。

男たちが生唾を飲み込んでいると、機体の奥に人影が動きました。



物資を漁りにきていたカナカの男、ウルメルでした。
兵藤は機内にあった銃で迷わず彼を撃ち、その姿は崖下に落ちていきます。



「殺さなくたっていいのに」

得意になってそれを報告する兵藤に、為久はかなり引き気味。

しかも兵藤が、この銃で脅かして、女たちを軍事裁判にかけて処刑してやる、
とまで息巻き始めると、為久はため息をつき、

「連中が死んだら誰が私たちのために働くんだ」

兵藤は軍人の固定概念に縛られたドグマに忠実で残忍な男ですが、
殿下にとって平民の命は自分達の生活のための労働力に過ぎません。

いい悪いではなく、そのことに疑問も持っていない、
殿上世界に生きてきた人間特有の傲慢さがここに垣間見えます。

しかし、兵藤が、革命の首謀者である坪井すみ子だけでも殺してはというと、
命令だからあの女だけは殺してはいかん、と珍しく強く言います。

兵藤は不満げな様子を隠しません。


■兵藤中佐の死



墜落機から写真の現像液を手に入れた為永は、
早速マイアルバムを作成しております。

木で作ったアルバムのページには、未亡人の姿が多数貼られることに。

この写真が、のちにとんでもない事情で使われることになるのですが、
この時の為永はそんなことなど知る由もありません。


ついでに米軍の残していったノーズアート見本写真が大量に現像されて、
そこここに飾られるようになりました。



銃を手に入れたことで権力を取り戻した兵藤。
なぜか’たつ’はお払い箱となり、お相手は詩人の香坂に代わりました。



その時です。
兵藤が殺したと思われたウルメルが皆の前に姿を表しました。

兵藤が銃を持って追いかけ回しますが、派手な立ち回りの末、
(家をぐるぐる同じ方向に回り、背中を向けた相手に気づかないなど
いかにもベタな喜劇展開)銃声が1発響きました。

そして皆の前に姿を表したのはウルメルだけ。

全てを見ていた未亡人と坪井すみ子が皆の前に現れ、
兵藤は追いかけっこの末、「心臓発作で」死んだと言います。

「えええ〜!」


本当に心臓発作だったか解き明かされぬまま、兵藤の出番はここで終わり。

今やウルメルは武器を手に入れた島の実力者となりましたが、
しかし、権力を得た彼が欲したのは、ただ一つのこと、いや女性でした。



彼は上山とみ子未亡人を連れて島のどこかに姿を消し、
2度と人々の前に姿を現すことはなかったのです。


グラマ島の構成員は、いつの間にか男二人、宮様兄弟だけになりました。
女性は未亡人の上山とみ子がウルメルに連れていかれたので8人です。

■水爆実験



島での生活も月日が重なっていくと、そのうち
委員長を香椎為永とするグラマ島自治運営員会も創立されました。

ちなみに香椎為久の役割は「宴会委員」となっています。

階級社会は一旦クーデターによって破壊されたという建前上、
この島で皇族は身分を主張しないことと決まりました。

自由平等の民主制度がここグラマ島に生まれることになったのです。


全員で椰子の木を削って作った待望のカヌーもようやく出来上がり、
いよいよ進水式というある日のことでした。



進水前のカヌー「あほうどり」号上に、香椎宮為久殿下、
もとい、香椎為久と慰安婦のあいの姿がありました。

彼らは、誰も見ていない間に、何を思ったのか沖に漕ぎ出してしまいます。



二人がいないのに気づいた全員が進水式会場に来てみると、



「めんそーれ〜!」「さらば〜!」

既に沖に向かいつつあるあほうどり号。
二人はその後、島から姿を消してしまいました。
(音楽はハワイアン調)


「あいちゃーん」「お兄様ああ〜〜!」

それっきり二人は島には二度と帰ってきませんでした。


それからまた月日が巡り、一年が経ったという設定。



島の四つの墓標の前で、香椎宮為久王殿下、兵藤惣五郎陸軍中佐、
名護あい及びその娘の1年記念法要が行われております。

今や島でたった一人の男性となった為永が、
USAFの印のついたトイレットペーパーを巻き紙に、
法要の弔辞を読み上げて儀式は終わりました。


彼らが最後の一枚のフィルムで記念写真を撮ろうとしていると、



轟音と共に沖でキノコ雲が発生!



「あんたあれ見てなんか変なこと想像してない?」

「まあやーだあ、オホホホ」

彼女らは終戦前に島に流れ着いたので誰も原爆のなんたるかを知りません。

■ 投降


そこに米軍機がやってきて、投降勧告ビラを撒いていきました。
それによると、もう戦争は6年前に終わっているではありませんか。



早速米軍に投稿した彼らを出迎えたのは、通訳とサイパンの民生部長、
G.P.ジョンソン少佐、連絡将校のハガティ中佐でした。

ジョンソン中佐を演じるのは、当ブログでもおなじみハロルド・コンウェイ
そしてハガティ中佐役はアレキサンダー・ヤコブ

「ワタシ通訳の赤井八郎座右衛門でいらっしゃいます。
彼方連絡将校のハガティ中佐でござります」

という日本語が達者なようなそうでもないような2世役は、加藤武
香椎為永に質問します。

「アンタ、宮様でござりまするか?」

「はい」



「ヒー・イズ・プリンス」と聞いてジョンソン司令は畏まり、
握手と敬礼を求め、ハガティ中佐も最敬礼で挨拶します。

ちなみにこのハガティ中佐の英語は、

「アイム・コマンダル・ハガティ、ハピトゥミーチュー」

とあんまり「ハガティ」っぽくない発音です。
この役者、フィリピンかヒスパニック系の人なんじゃないかしら。

逆に加藤武の英語の発音が恐ろしく上手なので、あらためて経歴を見ると、
早稲田大学英文科を卒業した人でした。

奇しくも為永役のフランキー堺とは麻布中学の同級生だったそうです。



その頃、報道班員坪井すみ子は、ウルメルに拉致?された未亡人に、
皆と一緒に日本に帰ることを熱心に説得していました。

しかしどういうわけか、彼女はウルメルとここで暮らすことを選びます。



島の女たちがいわゆる「玄人」でノリが良かったせいか、
尋問の合間にすっかり米兵たちは女性たちと仲良くなっていました。

いつの間にかダンスパーティが開催されております。



すみ子がウルメルととみ子を連れてくると言いながら、
一向に帰ってこないので、ジョンソン司令官は困惑します。

赤井八郎座右衛門通訳を通じて、

「その二人ねー、今日我々が迎えにいらっしゃいますことを
知っていたでしょうかしら〜?」

「あと十分お待ちたてまつるのでございます」


などと伝えていると、そこに坪井すみ子が帰ってきて衝撃の一言を・・・。

「(二人とも)死んでました」


死んだとあらば仕方ない。
一人の男と7人の女を乗せた船はグラマ島を出港し日本に向かいました。

っていうか、これどう見てもアメリカ海軍の船じゃないよね?



島の先端には、その船を見送るウルメルととみ子の姿がありました。
二人は死んだわけではなく、島に残ることを選んだだけだったのです。

ちなみにウルメルが着ているのは米軍第13爆撃隊のステンシル入りシャツで、
テントか何かを拾ってきて、とみ子が仕立て直したものだと思われます。

たった二人でこの島で生きていくつもりなのでしょうか。



続く。



映画「グラマ島の誘惑」〜宮様と軍人と9人の女(とカナカ族の男)

2022-06-01 | 映画

敗戦直前の昭和20年。

米軍に乗っていた船を撃沈され、南海の孤島グラマ島に流れ着いた
皇族軍人兄弟とお付きの武官、そして慰安婦と従軍記者、未亡人ら
3人の男と9人の女がそこでどうなって戦後どうなったかを描い作品、
それがこの

「グラマ島の誘惑」

です。

これが果たして戦争映画というジャンルなのかというと大いに疑問ですが、
東宝・新東宝の戦争映画コレクションに入っていたのでそうなんでしょう。

■ アナタハン島事件

本作は、飯沢匡作「ヤシと女」という戯曲が下敷きになっています。

大東亜戦争では実際にノブリス・オブリージュの意味で
士官学校・海軍兵学校を経た高級将校として皇族が勤務したのですが、
この戯曲の主人公はなんとその「宮様軍人」なのです。

よりによって無人島に慰安婦軍団を主とする女性と流れ着くのが
宮様軍人兄弟(森繁久彌とフランキー堺)とその御付き(桂小金治)だった、
という着想が、当時世間を騒がせた「アナタハン島事件」だった、
というのも、異色中の異色と言っていいでしょう。

アナタハン事件というのは、戦争末期、北マリアナ諸島アナタハンで、
一人の女性と32名の男性が共同生活を送った結果、
男たちの間に女一人をめぐる諍いが起こり、
終戦後6年経って全員が救出されたときには、全体の半分弱に当たる13名が
死亡・行方不明となっていたというショッキングな出来事でした。

センセーショナルで好奇心を煽らずにいられないシチュエーションに
世間は沸き立ち、「アナタハン」は一大ブームとなりました。
たった一人の女性というのが、決して美人でもなんでもなかった、
ということも、世間にかなりの衝撃を与えたようです。

世の、特に大衆娯楽ではこれにインスパイアされた創作物も生まれました。
この戯曲もブームを受けての便乗ものと言えなくはありません。

この事件を取り扱った創作者中、最も大物だったのは、間違いなく
「モロッコ」、ディートリッヒ主演の「間諜X27」「嘆きの天使」を監督した
ジョセフ・フォン・スタインバーグ監督でしょう。

その作品とは題名もズバリ「アナタハン」The Saga Of Anatahan。

YouTubeではフルバージョンも鑑賞できます。
まさかとは思いますが、観たいという方がいた時のために貼っておきます。

Ana-ta-han (1953)


戯曲「ヤシと女」は、スタインバーグのこの映画があまりに酷いので、
もう少しマシな「アナタハンもの」を世に出したいと
脚本家飯沢匡が負けん気を出して創作した作品となります。

しかし、「ヤシと女」は史実を喜劇・パロディ化するため、
女性と男性の比率を逆にして、「逆アナタハン」を作り上げました。

のみならず、制作当時の時事を盛り込むため、
皇族を主人公として当時の皇太子殿下ご成婚ブームを取り入れたり、
「ビキニ諸島」を想起させる名前である本作舞台の「グラマ島」で、
戦後水爆の実験が行われたりと、今なら絶対に
どこかからストップがかかりそうなギリギリのネタが登場します。

■ 宮様と軍人と9人の女



それでは始めましょう。
ここは復興を遂げつつある現代(昭和34年)の東京。



書店のショーウィンドに並ぶのは3週間連続ベストセラー、
坪井すみ子著「グラマ島の悲劇」。

映画はこの本の映像に重ねてタイトルロールが始まります。

黛敏郎先生が手がけたタイトル音楽は沖縄風のメロディに始まり、
ドラムの連打に続き、「葬送行進曲」が紛れ込むうち、
飛行機のエンジン音、機銃の音、爆発音に非常ブザー、叫び声が加わります。

タイトル音楽だけでお話の発端となる輸送船の沈没を表しており、
これだけでもなかなか画期的なアイデアだと思われます。



撃沈された船には皇族軍人、航空隊司令香椎宮為久海軍大佐と、
その弟宮の為永陸軍大尉が乗っていました。

「為永、タバコ持ってない?」

「あ、お兄様、ございます」

「濡れてるね・・・これ乾かしておいて」

無人島らしき島に漂着し、とりあえずなんとか
何日かを過ごしたばかりといった様子です。



この島は太平洋のグラマ島。(のつもり)

ロケは当初沖縄になる予定でしたが、スターを大量に集めたため
全員のスケジュールが合わず、結局千葉県安房郡太海海岸で行いました。

撮影は現鴨川シーワールドの近くの国定公園、仁右衛門島で行われました。

しかし千葉の海を南洋に見せることは至難の業です。
そこでスタッフは椰子の木を持ち込んで植え、小石川植物園に行って
南洋の植物の勉強をし、ベニヤや紙で熱帯植物を作って画面に配しました。

海面を近景に入れるときには、カメラのフレームに入る部分にだけ
青い泥絵の具を大量に流しているのだそうです。

なんでも画像を弄ってできてしまう現代の映像作家には考えもつかない
当時の映画関係者の苦労が偲ばれます。



森繁久彌演じる香椎宮為久殿下は、いかにも皇族らしく、おっとりと鷹揚。
悪く言えば現状に対し楽観的すぎます。

御付き武官の兵藤大佐(桂小金治)が、慌てて
漂流してきた兵隊たちが見えない、と言いにきても、

「どこか安全なところに(船を)移したんだろう。
ところで今朝の朝飯はどうなってるの?」




為永は漂流物に自分のトランクを見つけました。

「何か口に入るものはないの?」

「ああ・・ハーモニカが入ってございます」



3人の男たちはとりあえず漂着した女性たちを呼び集めてみました。



彼ら二人が皇族と聞いて俄に緊張する女たち。
女たちのほとんどは慰安婦です。

ちなみに為久と為永は軍任務から内地に帰還するため
揃って乗っていた民間船が撃沈されたというわけです。

夫の遺骨を持った未亡人の八千草薫は、
技師だった夫をサイパン島で亡くし、内地に帰る途中でしたが、
夫婦で以前ここに住んでいたため、島の様子を知っています。

それによると島の反対側に畑があり、飼っていた豚がいたはずだと。
食べ物に困っていた一同は一日がかりで行ってみることにしました。

かつての村落跡地に到着したところで、
兵藤大佐が仕切って全員に「官姓名申告」を行わせました。



9人の女のうち6名は、引率の女将(浪花千栄子)筆頭に、
海軍からの依頼で派遣された、公式には「特要員」と呼ばれる慰安婦です。



「お前も特要員だな」

「アタクシ詩人でございますわ。報道班員を拝命いたしまして」

「詩人が報道班員になって何をやるんだ」

「戦意高揚ですわ」

報道班員は、詩人の報道班員、香坂よし子(淡路恵子)と
画家の坪井すみ子(岸田今日子)の二人です。

従軍詩人、(というのがいたのかどうか知りませんが)
従軍画家などが、報道班員として戦地に従軍していましたが、
特に日中戦争以降は、多くの有名無名の画家が従軍しました。

有名なところでは小磯良平、藤田嗣治も従軍画家として作品を残しており、
藤田などは、戦後このため戦争協力者の誹りを受けて、
(戦後共産主義化した同業者にやっかみ半分で告発されたらしい)
このためすっかり日本に嫌気がさし、フランスに帰化してしまいました。

なまじ教養のあらせられる為久殿下は坪井すみ子に興味を持ったらしく、

「あ、会はどこ?二科?結婚してるの?
今度わたしの絵を描いてもらおうかな」



慰安婦の年齢は下は18歳から上は34歳(轟夕起子)まで様々です。

兵藤「18歳?騙されてきたのか?」

「お国のために来たんですう〜」

慰安婦の一人を演じた春川ますみは、浅草ロック座のヌードダンサーでしたが
この映画がきっかけで女優に転身しました。

スタンバーグ監督の「アナタハン」でダンサー根岸明美が起用されたので
それを意識したキャスティングと言われており、
世間ではこの抜擢はかなり話題になったものでした。

演技やセリフは多くありませんが、身体の線を出す衣装やポーズに、
彼女の職業を想起させずにいられない過剰な露出が窺えます。


沖縄出身の慰安婦名護あい(宮城まり子)がふらっとどこかに行ってしまい
帰ってきたと思ったらバナナを持っていました。

女将が頭の前で指をクルクルと回し、

「この子はここがちょっとアレでして」

と今では誰もやらない動作と説明をします。

原作の「ヤシと女」で、彼女は「金田あい」という朝鮮人慰安婦でしたが、
本作では、「アナタハンの女王」実物が沖縄出身だったこともあり、
全体的に沖縄色を出すために改変されました。



あい子にバナナをどこで見つけたか尋ねると、
カナカ族が食べていた、と言います。



一同が行ってみると、カタコトの日本語を喋るカナカ族の男
(三橋達也)が漁をしていました。

カナカはパラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島の住民を指す俗称です。
厳密にそういう民族がいるわけでなく、サイパンやロタに住むカロリンや
チャモロ族のことを日本人はカナカ族と呼んでいました。



そのとき、カナカの男が沖を指差しました。
船が出航していきます。

攻撃を避けて島に上陸していた船の乗員と兵隊が、
彼らを置いて勝手に修理をしたであろう船を出港させてしまったのです。

仮にも皇族を乗せていた船が生存を確かめもせず出航はないと思いますが。


唖然として彼らが自分達を置いて出ていく船を眺めていると、
そこに米軍機が飛来し、そして・・・



沖の船を爆撃しコッパミジンコにしてしまいました。



みんな色を失って茫然と海を見つめた。
外の世界との連絡はこれで完全に断たれたのだ。
誰も石のように動かなかった。




宮様も、軍人も、



報道班員も、戦争未亡人も、そして慰安婦たちも。
こうしてグラマ島の悲劇が始まった。


ナレーターは岸田今日子、じゃなくて戦後作家となった坪井すみ子です。
これは彼女が戦後書いた本の一節という設定です。

この場面、映像は皆がストップモーション風にじっとしているだけで、
全員が髪を風に靡かせ、グラグラ動いているのが斬新です。


■島での人間関係



こうして島での閉ざされた生活が始まりました。
暇があれば未亡人の家に来て写真を撮る為永。



カメラを向けられるとついポーズを取ってしまう未亡人。



カナカのウルメルも未亡人が気に入った様子。
獲った魚を貢いで彼女の気をひこうとしています。


為久殿下は坪井に肖像画を描かせながら、話しかけずにいられません。

「君はブラマンクは好き?」

「嫌いです。造形が甘いと思います」


「そう?甘いかね?でも」

「今口を描いているので(黙れという意味)」



為久は彼女の絵を評価していませんし、内心馬鹿にさえしているのですが、
彼女の気が強く、小賢しいところがなぜかお気に召している模様。
 弟宮にそのことを指摘されると、

『まさかここで慰安婦を相手にできないから』

これが全くの口だけだったことは後に判明します。

弟宮の為永はというと、あの未亡人を慰めてあげなさいと兄に揶揄われ、

「ワタクシはそんなことは致しません!」

「京都の菊子姫に気兼ねをしているのか」


平民である兵藤大佐は身分については何の障害もないので、
いつの間にか年増女のたつ(轟夕起子)と懇ろになっていました。

それというのも権力者に媚びて得をしようと考えるたつが
兵藤に擦り寄ったからで、すっかりこので頃では女房気取りです。


島のヒエラルキーは、兄殿下を頂点とする厳然たるものでした。
慰安婦グループが僕(しもべ)として殿下にかしずく毎日です。

殿下の食事を皆で隊列を組んで運び、殿下のために
藁で編んだ食事用前掛けやフィンガーボールまで用意され、
食事中は肩を揉み、団扇で仰ぎ、配膳をし、毒見役も務めます。

慰安婦たちは、この島で皇族に仕えることはチャンスで、
我慢していれば、戦後褒美がもらえるかもしれないと考えているのです。


しかし、皇族や軍人に媚びることを潔しとしない報道班員二人は孤立し、
兵藤大佐にも露骨に嫌われてコロニーを去っていきました。

そんなある日、島に大事件が起こります。
慰安婦の一人、あいが妊娠していたのでした。

たつは、

「宮様がわたしらのような女を相手にするわけがない」

ゆえに父親は兵藤だと決めてかかって大騒ぎ。



身に覚えのない兵藤は、カナカのウルメルを問い詰めようとしますが、
肝心なところで言葉の壁が邪魔をします。



そこで、妊娠したあいちゃん本人に聞きました。
最初からそうすればよかったのにと思うのはわたしだけ?



真相はかうでした。
しかもこの二人、結構満更でもなさそう。
あいちゃんはもちろん、殿下は皆にそれが露見しても悠然としています。



しかし、月満ちて生まれた子供(女の子)は、
生まれて間も無く栄養失調でこの世を去ってしまいました。
(赤ちゃんの運命を表すシャボン玉画像)



海を見下ろす小高い丘に建てた「泡雲夢幻童女」の墓標の前で、
あいは一人、故郷の沖縄の歌を歌っていました。


続く。